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多々羅四郎作品


      多々羅四郎(たたらしろう)略年譜

    1885.11.03(明治18年) 仙台に生まれる。本名は大内兆
    19xx.xx. 仙台医学専門学校医学科卒業後、県立病院で小児科、日本赤十字社で内科を学ぶ
    1911.〜 北海道私立庄司病院、町立寿都病院、雨龍村医、中富良野にて開業
    19xx.〜 短歌、俳句、川柳、狂歌、都々逸などを各誌へ投稿
    19xx.〜 「ほとゝぎす」に唐淵名義、二木鮒三名義の句作などが掲載
    1922.〜1924.頃 古河鉱業の福島県好間鉱業所付属病院長、足尾鉱業所本山病院勤務
    1922,3年頃 新趣味の探偵小説の懸賞に当選(作品、名義不明)
    1925.08.頃 王子で医院を開業
    1926.11. 大衆文藝に「身替り」二木鮒三名義が推薦作として掲載
    1926.12. 大衆文藝に「朔の散歩」二木鮒三名義を掲載
    1928.06. 新鉄道唱歌の公募で一等入選、翌年鉄道省名義で刊行
    1930.03. 第6回「サンデー毎日」大衆文芸に「口火は燃える」が入選
    1936.03. 春秋社書き下ろし長編募集に『臨海荘事件』で2席入選、刊行
    1943.09.04(昭和18年) 脳出血にて死去

    筆名は、多々羅四郎、二木鮒三、大内兆、(大内生)、唐淵、(唐淵生)、大内唐淵、門前雀羅生、(多々羅義四郎)、ほか

      (夢現)は「おまけ」で公開しています


      小説

  1. 「(懸賞当選作)」 名義不明
    ( 新趣味 1922.or1923. )
     一作のみの候補は、「第三者は?」松下正昌、(「十二時一分」藤田操※新青年にも作品)、「田舎者の財布」小倉真美、「夜半の銃声」黙山人、「破獄囚の秘密」岡村一雄、「国宝盗難事件」沖田不二麿、「謎の化学方程式」貞岡五郎、「蛙の祟」雨宮二郎、「鼠小僧次郎吉」篠原幹太郎、「少年の行衛」伊藤渓水、「伯爵の苦悶」貞岡二郎、「重罪犯人」小野霊月。
     筆名からは 黙山人 が一番該当しそうだがどうだろうか。

  2. 「身替り」 二木鮒三
    大衆文藝 1926.11. (夢現)
     田口幾太郎さんはこちらでしょうか。老人は田口幾造といい、行方不明の息子を探しているのだという。私、戸籍上では死亡している遠山孝治は既に死亡している幾太郎の名を借りているのだ。炭山で働いていた時から。何か対策を考えなければ。
     炭山のようすなどリアル感がある。対策は平凡だが、結末のひねりは余韻を残して味わい深い。 (2004.11.15)

  3. 「朔の散歩(A刑事の打ち開け話)」 二木鮒三
    大衆文藝 1926.12. (夢現)
     昨年の十二月一日。雑司ヶ谷の墓守が殺された事件で怪しい男の跡をつけていきました。医者でした。月に一度の散歩とのことです。同じ日に文学青年の変死事件がありました。仮説をたてて検証していきます。怪しい男も関係があるようですが。
     見込み捜査は宜しくないのでは。淡々とした、私小説風探偵小説とでもいうべき作品か。開業医という職業がよく出ている。医薬分離問題も関係していたのかもしれない。 (2018.05.)

  4. 「口火は燃える」
    ( サンデー毎日 1930.04.06 )(夢現)
     加瀬は卒業論文原稿を盗まれた。家庭教師先の福田多喜子は戸崎と結婚させられるという。幸福から絶望へ。加瀬は坑夫になっていた。そこでは隠された宝の伝説と暗号があった。
     足尾銅山に勤めていた時の経験からの着想か。探偵味を帯びた新小説との事で解明していく過程はほとんど無い。偶然的要素が気になるものの展開は悪くはない。題名の付け方はうまい。 (2018.05.)

  5. 「臨海荘事件」
    ( 春秋社 1936.05.15 )
    幻影城 1977.07.〜08.
     臨海荘というアパートで殺人事件が起こった。鍵のかかった13号室で本野義高が頭を殴られた上、刺殺されていたのだ。死亡推定時刻あたりに義隆を訪れたのは、甥の義夫、声楽家の大枝登、映画女優の秋川澄江の順。市川警部は彼らを尋問し、容疑者はその3人とアパートの管理人の太田耕作、小使の仲居村二郎の5人に絞られてきた。中村刑事の手柄による検挙。単独調査をしていた長瀬老刑事はまだ嫌疑者にすぎないという。数々の謎が解明されずに残っているからだ。そして、新たな事件が発生して一旦捜査はうち切られる事になった。
     春秋社の書き下ろし長編募集2席になった本格長編。1席は蒼井雄の『船富家の惨劇』、同時2席は北町一郎の『白日夢』。犯人に対する伏線は見事。密室を構成した鍵の問題も一部後出しの感もあるが、なかなかよく出来ている。警察のようすや制度によるもの、トリックは時代を加味しなければならないが、古典として読む分には海外の本格黄金期のように今でも十分に通用する。物語的には淡々としており、面白みに欠けるのが難ではあるが、逆にいえば扇情的でなく、当時としては類を見ない本格のみに徹した作品ともいえる。 (2004.11.15)


      随筆

  1. 「公傷患者の憤怒 殺人奇譚(随筆特集)」 二木鮒三
    ( 大衆文藝 1927.06. )(夢現)

  2. 「赤城山行 旅の思ひ出(随筆特集)」 二木鮒三
    ( 大衆文藝 1927.07. )(夢現)

  3. 「作者の言葉」
    ( サンデー毎日 1930.04.06 )(夢現)

  4. ほか

      随筆・句・その他

  1. 「異常高熱ノ臨床的実験(ヒステリー性熱)」 吉本清太カ、大内兆
    ( 神経学雑誌 1910.07. )
  2. 「門前雀羅」 大内唐淵
    ( ホトトギス 1926.02. )(夢現)
  3. 「雀羅庵隨筆」 唐淵
    ( 日本医事新報 1926.05.23〜06.13 )(夢現)
  4. 「説苑 健康保険医療給付に於ける二剤主義を提唱す」 大内兆
    ( 治療薬報 1927.07.〜08. )
  5. 「食慾催進剤エデラ応用治験例」 大内兆
    ( 治療薬報 1927.09.15 )
  6. 「懸賞診断回答発表に対する意見」 大内生
    ( 日本医事新報 1927.12.17 )
  7. 「新鉄道唱歌 奥羽線」 大内兆(作詞)
    ( 大阪毎日新聞、東京日日新聞 入選者発表 1928.06.23 )
    『新鉄道唱歌 第九輯 奥羽線』鉄道省 大阪毎日新聞社、東京日日新聞社 1929.04.28 (夢現)
    ( 『新鉄道唱歌』鉄道省 国書刊行会 1987.06. )
    ( 『鉄道唱歌 増訂版』 野ばら社 2000.06. )
    『鉄道唱歌』 野ばら文庫 2010.10.14
    ほか
  8. 「誌上臨床新問題及解答」 大内
    ( 日本医事新報 1929.11.02,11.16 )
  9. 「説苑 生命保険診査に於ける囑託医の地位向上に就て」 多々羅義四カ
    ( 日本医事新報 1930.03.01〜03.08 )
  10. 「季重りについての考察」 唐淵
    ( 雲母 1932.03. )
  11. 「(?)」 大内唐淵
    ( 彩雲 1932.05.〜1935.08.?随時 )
  12. 「雲母の連作俳句について」 唐淵
    ( 雲母 1933.07. )
  13. 「俳人松村蒼石」 唐淵
    ( 雲母 1934.05.,06. )
  14. 「二等当選論文」 大内兆
    ( 日本医事新報増刊 1934.06. )
  15. 「懸賞論文執筆感想」 大内兆
    ( 日本医事新報増刊 1934.06. )(夢現)
  16. 「説苑 身辺噂話」 門前雀羅生
    ( 日本医事新報 1934.07.28 )
  17. 「趣味講座 俳句を語る」 大内兆
    ( 日本医事新報 1934.10.06 )(夢現)
  18. 「説苑 国民保険関心録」 大内兆
    ( 日本医事新報 1934.11.10〜11.17 )
  19. 「説苑 不思議な話」 門前雀羅生
    ( 日本医事新報 1935.03.02 )
  20. 「湯治日記 随筆」 唐淵
    ( 雲母 1935.09. )
  21. 「俳句の新興運動に関聯して表はれたる二三の問題と我らの進むべき道を闡明にす」 唐淵
    ( 雲母 1936.01.〜03. )
  22. 「苑説 健保漫談」 大内兆
    ( 日本医事新報 1936.02.15 )
  23. 「榴紅堂断想」 唐淵
    ( 雲母 1936.05.,06. )
  24. 「苑説 国民健康保険の実現性と開業医の覚悟」 大内兆
    ( 日本医事新報 1936.07.11 )
  25. 「先覚者は斯く云ふ」 大内兆
    ( 関西医界時報 1936.07.22 )
  26. 「国民健康保険に於ける事業代行機関の問題」 大内兆
    ( 健康保険医報 1937.01.25 )
  27. 「不正請求根本的矯正法として定額式報酬制と巡視員制度の提唱」 大内兆
    ( 健康保険医報 1937.02.15 )
  28. 「中陰雑記」 唐淵
    ( 雲母 1938.07. )
  29. 「石 随筆」 唐淵
    ( 雲母 1940.09. )
  30. 「随想 無医村談義」 大内兆
    ( 日本医師会雑誌 1941.03. )
  31. 「猫 随筆」 唐淵
    ( 雲母 1941.11. )
  32. 「山陵巡拝記」 唐淵
    ( 雲母 1942.01.〜09. )
  33. ほか

  1. 「(俳句)」 唐淵
    ( 層雲 1913.01.,03.,06ほか )
  2. 「湯別へ」 唐淵
    ( 層雲 1913.11. )(夢現)
  3. 「歌棄行」 唐淵
    ( 懸葵 1915.05. )(夢現)
  4. 「(俳句)」 唐淵
    ( 雲母 1929.09.,1931.06.,1936.07.,1940.12.,1941.xx.,1941.12.,1943.10.ほか )
  5. 「(俳句)」 唐淵
    ( 『生活歳時記』樋口清之監修 三宝出版 1978.01. )
  6. ほか

      著書

  1. 『新鉄道唱歌 第九輯 奥羽線』 鉄道省 ※応募曲とのみで大内兆(東京府)作詞の記載なし 大阪毎日新聞社、東京日日新聞社 1929.04.28
    「第1番〜第47番」

  2. 『医者のからくり』 大内兆 東京パンフレツト社 1936.02.10
    『医者のからくり』

  3. 『臨海荘事件』 春秋社 1936.05.15
    『臨海荘事件』/小冊子「探偵春秋3号」(△「『臨海荘事件』所感」江戸川乱歩)


      おまけ

  1. 「門前雀羅」 (随筆) 大内唐淵
     
  2. 「雀羅庵隨筆」 (随筆) 唐淵生
     
  3. 「『身替り』の作者について」 (作者紹介) 池内祥三
     
  4. 「編集後記」抜粋 池内祥三
     
  5. 「身替り」 (小説) 二木鮒三 旧かな旧漢字
     
  6. 「公傷患者の憤怒」 (随筆) 二木鮒三
     
  7. 「朔の散歩」 (小説) 二木鮒三 旧かな旧漢字
     
  8. 「赤城山行」 (随筆) 二木鮒三
     
  9. 「新鉄道唱歌」 (歌詞) 大内兆
     
  10. 「作者の言葉」 (「口火は燃える」) 多々羅四郎
     
  11. 「口火は燃える」 (小説) 多々羅四郎 旧かな旧漢字
     
  12. 「経歴 と 懸賞論文執筆感想」  大内兆
     
  13. 「『臨海荘事件』所感」  江戸川乱歩
     
  14. 「俳句を語る」  唐淵 大内兆
     
  15. 「湯別へ」  唐淵
     
  16. 「歌棄行」  唐淵
     
  17. 「釈 唐淵」抜粋  松沢昭 (句作多数引用)
     


    「門前雀羅」
    大内唐淵
    「ホトトギス」大正15年(1926年)2月号より
     東京の開業はどうにかなるまで三年は掛かる。尤も此処は東京と言っても府下だから、も少し早く患者がつくかも知れないが兎に角一年半か二年は喰ひこむ覚悟がいる。夫れ迄は石に齧りついても辛抱しやう。当初の決心が斯うなのだから開業第四ヶ月の今に於て例令へ患者が一人も来ないとしても何もそう悲観するにも当るまい。 だが夫れにしても此の閑散さはどうだ。往来では自動車が通る自転車人力車が通る、飴屋が鉦を叩いて来る。其の中を人が絶えず往き来する。併し俺の玄関を潜る者は一人もありはしない。とKは何時ものやうに考え込みながら午後の日の当る二階で大きな火鉢を抱えて、満州に居る軍人の弟から送って来た棗(なつめ)の砂糖漬をぽつりぽつりと噛んで居た。 甘い果肉を噛みしめると中から固い核(たね)が出て来る。その固い核を一時舌と上顎の間に預けて置いて果肉だけを奥歯の間に噛んで咽頭から食堂の方へ送り込み、それから預けて置いた核を今度は前歯の方へ持って来て付いて居る果肉の残部を一片の繊維をも残さない程にしゃぶり取って奇麗になった核を手の掌に出した。随分固い核だな。 そして両端の鋭さはどうだ。うっかり此の核を誤って嚥んだらどうなるだらう。胃から腸に行くまでは無事だとしても其の前途が大変だ。蠕動運動で下へ下へと送られて行く途中に粘膜に刺さらないものでもない。殊に盲腸の辺と肛門のあたりが危険だ。 之れは子供等に与へる時にはよくよく核を嚥まなないように注意しなければならぬ、などゝ取りとめのない事を考へて居ると下でチリチリン、ヂリヂリヂリヂリヂリヂリと電鈴が鳴る。何時までも鳴り止まないので彼はやおら腰を上げて下へ下りた。
     抑もこの電鈴は電話のベルでもなければ目覚まし時計でもない。Kの考案に成る来客報知器なのである。玄関の戸があまり辷りがいゝので時とすると戸の開いたのを知らずに居ることがある。之れでは困るから何とかしなければならぬ。然し戸を開けると頭の上でヂリヂリと鳴るのも気が利かないしそれに女の患者さんなどに脅威を感じさせる恐れがあるといふのでKが工夫したのが之れである。 玄関の戸の二枚に銅板を貼り着けそれから綿捲線を引いて電路を作り、其の中に乾電池を置き戸が開くと電路が閉ぢられて二階の階段の上り口にある電鈴が鳴るといふ仕掛けである。拵えた初めには戸が開けば奥の方でベルが鳴るので大変具合がよいので細君などはもっと早くお拵えになればよかった、などゝ言った程だったが、茲に具合の悪いことが起った。 その一つは戸を開けっ放しにされると何時までも鳴ってることで、も一つは近所の子供の悪戯だ。前者の方は稀にしかないのでどうにもなったが、後者の子供の悪戯には閉口した。といふのはKの玄関は通りの方には無くて横町の方に附いて居り、西南に面してるから頗る日当りが良い。十時頃から後に日没まで何時でも日が当るので玄関の前は子供等の日向ぼっこにお誂向になってる。 此処は自動車も馬車も通らず自転車もめったに来ない。それに加ふるに前に言った閑散で玄関に人の出入りがないから近所の子供等は楽天地を求め得た積りで集って来る。多きは七八人少きも三四人は始終来て居る。折角遊んでるのだ、邪魔にもならないからその儘にして置けと、Kは別に気にも掛けず、子供等の成すがまゝにして置いた。 処が子供等は何時の間にかKの戸口の電鈴の秘密を知ってしまった。そして一人づゝ遣って来ては戸口をそっと開ける。ベルが奥の方で鳴るので患者さんが来たのだらうと思って玄関に出て見ると誰も居ない。そして戸が少し開いてる。戸を閉めて奥へ入ると暫く経って又ベルがヂリヂリ鳴る。出て見ると誰も居ない。二三度此麼事があったので、ハハー子供の悪戯だ、と気が付いたのでKは玄関の隣の薬室の窓際に来て、窓を手に掛けて様子を窺って居た。 するとやがて玄関の戸がするすると開いて奥の方ではベルがけたゝましく鳴ってる。彼はいきなり薬室の窓を開けると果して二三人の子供が逃げ腰で戸口に居る。コラッ、悪戯をしちゃいかんぞ、と怒鳴ると子供はほうほうの体で逃げて行った。此事あって以来一時子供の悪戯が止んでベルは来客報知器としての役割だけを勤めて居たが二三日すると又此の悪戯が始まった。そして子供の遣り口が巧妙になって、戸口を開けて奥の方でベルが鳴るのを確めると急いで姿を隠すやうになった。 よし今度は子供を捕へて遣るぞ、どうも五月蠅さくて仕様がない。それに折角患者さんが来たらしいといふ期待を裏切られるのが厭だ、と彼は考へた。
     彼が二階で棗をしゃぶっては核を出し、しゃぶっては核を出して居たのは丁度此の場合であった。彼は鳴り止まないベルを聞き乍ら玄関の方に遣って来た。今日こそ捕へてやるぞ、例令へ隠れて居ても相手は子供だ。玄関の戸口を出て見れば直ぐ見付かる。一つ下駄を履いて出て捕へてやらう。さう思いながら勢ひ込んで奥と玄関を仕切る廊下の戸をガラリ開けて玄関に躍り出た。 すると其処に赤子を負った中年の女が立って居た。彼はその女に衝突しやうとして危ふく踏み止った。女の後ろには玄関の来客報知装置の戸が少し開いたまゝになってる。
    「先生はおいでゞございましょうか」
     彼は一寸どぎまぎしながら
    「さあ、どうぞ」
     とその患者さんを診察室に導いた。雀羅張る門前に患者さんの影、旱天に雲霓を望むといふほどでなくとも、子供の悪戯の事は忘れて、Kの心が満たされ居た。
    (大正一四、一二、二五)


    「雀羅庵隨筆」
    唐淵生
    「日本医事新報」大正15年(1926年)5月23日号、30日号、6月6日号、13日号より

    (一) 医者の常識

     種痘を接種するには局部の皮膚を緊張し相当量の痘苗を塗布したる後痘針を以て其部に浅き十字切若くは単切を施し更に痘針の平面を以て痘苗を擦入すべし、といふのは法規で定められて居る事で医者は常識として知って居なければならないのに今でも往々知らない事がある。痘苗を附けた痘針でいきなり、皮膚に十字を書いたり痘苗の附いてない針で十字を書いてから痘苗を擦付けたりするのを往々見受ける。又日本医事新報の調査欄には今でも死体検案書と死亡診断書の区別、死体検案書と死産証書との区別如何といふ質問がが出る。医者の常識と素人の常識は違ふ。医者には医者としての常識がある筈だ。 コレラ流行時には吐瀉といふ文字が盛んに新聞に出る、やれ車内で吐瀉した、やれ路上で吐瀉したと、元来吐瀉の吐は嘔吐で瀉は瀉下即下痢を意味するのに、新聞でいふ吐瀉とは多くは嘔吐を指すのである。こんな間違は素人には許せるが医者がこんな間違をすれば常識外れと云はずばなるまい。(茲までは序論で以下本文に入るが本文は序論より尚更詰らないといふ事をお断りして置く)
     A市にBといふ漢方の先生あり。一患者問ふて曰く、「先生私の病気は薬で癒りましょうか」「大丈夫癒る」「でも県立病院の診断では胃癌だから薬では到底癒らないといふのですが…………」先生稍あって曰く「胃癌には二通りある、胃の外に出来るのと胃の中に出来るのとある、お前のは胃の外に出来た胃癌だから大丈夫此の薬で癒る」
     C村にD先生といふ限地開業医あり。或る夏消化不良の患児を此の先生と対診したが、後数日再び会った時に「先達の消化不良の子供はどうなりました?」と訊くと先生曰く「あれはノウドク症を起しまして遂一昨日死亡しました」「えっ脳毒症ですって?」「はい、胃腸の毒が終ひに脳に上りましてな、脳症を起したので何とも仕様がありませんでした。つまり、脳毒症を起して死んだのですな」而かも其の態度に説き得て妙ならずや貴公以て如何となすといふ得々たる風の見えたのには我輩も唖然たらざるを得なかった。
     明治の末年サルバルサン注射の盛んになり出した頃EといふF公立病院の院長殿には此のサルバルサン注射が第一の苦手で、院長が遣ると静脈が少しも緊張しないので度々静脈を露出して注射したもんだ。院長の助手兼外科の受持のG氏偶室にあり「G君どうも寒い故か静脈が一向膨れないで困るんだが」G氏患者の上膊を見ると切断術を施す時のやうに固くゴム管で縛ってある「少し緊過ぎるやうですね」とゴム管を緩めると静脈は立どころに緊張して来た。此の院長先生静脈を怒張させるには動脈の血行を其の儘にして静脈の還流だけを止めるのだといふ事に気が附かないのだった。それで医学士なんだから驚く。

    (二) 怪我の功名

     これも明治の末年の頃ある田舎町の私立病院に勤めて居た時の事である。ある晩病院に宿直してると往診の依頼があった。即刻行って見ると患者は産婦で数時間前に破水したが児は中々分娩しないといふのである。元来内科の畑に育った自分でもあり、曾て自ら産婦を手掛けた事がないので頗る面喰ったが、ふと学校で習った事を思ひ出した。分娩に際しては先づ膀胱を空虚にしなければならぬと、其処でネラトンカテーテルを取り出して導尿に掛った。併し児頭は既に骨盤出口に近くあったのだから(恐らくさうだったらうと思ふ)児頭の圧迫のためにカテーテルは思ふ様に進行しない。一進一退挿入に苦心してるうちに強い陣痛が起って来て間もなく児頭娩出し続いて胸部以下之れに随った。患家では、我輩の施術効を奏してさしもの難産が苦もなく分娩を遂げたと思って頻りに我輩に向って感謝の辞を述べ、病院の払ひを別にして特に我輩に対して五圓を包んで呉れた。当時の五圓は今の十五圓にも匹敵するのだから嬉しかったね。同時に内心では冷汗淋漓だった。 児頭の圧迫のためにカテーテルは思ふ様に進行しない。一進一退挿入に苦心してるうちに強い陣痛が起って来て間もなく児頭娩出し続いて胸部以下之れに随った。患家では、我輩の施術効を奏してさしもの難産が苦もなく分娩を遂げたと思って頻りに我輩に向って感謝の辞を述べ、病院の払ひを別にして特に我輩に対して五圓を包んで呉れた。当時の五圓は今の十五圓にも匹敵するのだから嬉しかったね。同時に内心では冷汗淋漓だった。
     之れはつい近頃の事であるが或朝往診の依頼あり、行って診ると十一歳の男児で全身に激烈なる痙攣を起し、意識全く消失し其の状疫痢の痙攣期に似て一層烈しいものである。時は厳冬二月だし便は普通の便だしするから疫痢は全然否定出来るが、一寸病名が附かない。発病は前日の夕方で発病当初嘔吐一回あり、間もなく発熱と同時に痙攣を起し一時某医のクロラール注傷(?)により緩解したが夜半から又々激烈なる発作頻発したのだといふ。眼を見ると瞳孔散大反応遅鈍で一方にカタラクトを起してる痙攣のために起したものと思はれた。頂強直、ケルニッヒ徴候、腱反射亢進、四肢筋内強直あり脳膜炎の症状である。 僕が見る迄に三人の医者に診て貰ったが何れも病名は脳膜炎で殆んど絶望といふ診断である。其処で脊髄穿刺を奨めし直ちに施行すると透明の液が出た。其後急に症状寛解一二日よく眠って全治した。勿論カタラクトは残った。後から考へると流行性脳炎の脳炎型だったやうに思ふ。三人も見放したのを先生のお蔭で助かったといふて患家は大喜びで近所に吹聴して呉れるやら全快祝の赤飯を持って来て呉れるやら…兎に角医者はやる丈けの事はやらなければならんと思ったね。
     次は又田舎の事だが急患で慌てゝ行って見ると胃痛の発作だ。随分劇しいし患者の希望もあるのでモヒ注射を行はうと思ひ鞄を開けて見るとこは如何に、モヒの品切れとある。宅までは一里もあるので取りにやるも大変なので早速の機転にカンフル注射を行ったが、「先生今日の注射は痛い」と言はれたには冷汗を流したね、翌日家人に路上で会ったから病人はどうかねと訊いて見ると「御蔭で今日は起きてます」に更に冷汗を流した。

    (三) 骨の折れる死体検案書

     病人が死んでから見せられる場合は随分あるもので、殊に不便な田舎に開業して居るとそれが殊に多い。僕は曾つて北海道の田舎に開業して居たことがあるが冬吹雪が四五日も続いて山間との交通が杜絶した後には必ず死んだ赤ん坊を背負って来る、甚だしい時には一日に三人もあることがある。此の死体検案の病名には何時も弱らせられるのだが、大抵は生前の症状を聴いて何とか推定が出来るものだ。処が時には全然見当がつかない事がある。それは今まで何等の異常がなくて突然死亡した場合である。それも老人なら脳溢血とか酒呑なら心臓麻痺とか推定するが、子供の場合には一寸困る。 僕の考では患者の家人が真実を有りの儘に精しく話して呉れゝば大抵の死体検案には病名の推定がつかないといふことは滅多になからう、と思はれるのであるが、実際に当って病名の断定、或は推定が困難なる場合の多いのは次の原因のためである。第一は生前一度も医者に見せなかったといふ事を恥ぢて発病から死亡まで相当の時間があったのを何等の異常がなくて突然死亡したのを偽る場合、第二は法規に暗いために医者に見せずに死亡したのを法の制裁があると思って余計な心配をし心にもない偽りをいふ場合、第三には殊に幼児の場合に死んだのを知らずに居たのを隠す為めに時刻を偽はる為め。 大体此の三つの原因のために可能なる推定を不可能ならしめるのである。既に死亡して数時間経過した屍体を見せ単に外表検査だけで病名を附けて見ろといふ註文を出し、生前の状態や死後の経過時間を問ふと嘘を以って答へるといふ有様ではどんな名医だって病名の附けやうがないに極ってる。仕方がないから死亡種別を病死として病名を不詳として死亡診断書を書いてやると役場では統計上困るから何とか病名を附けて貰ひたいと云ふ、病名が分らないのだから不詳とするより外ないと答へると然らば病名が分らなくて、何故病死としたか、病死と認めた上は病名が分らない筈はないなどゝ理屈を捏ねられる。 加之警視庁管轄下では病名不詳では警察が通らないといふ事になる。
     於茲、苦し紛れに案出されるのが心臓麻痺といふ重宝な病名である。此の場合心臓麻痺といふのは生よっり死に到る道程の必然の一現象であって之れを取って病名とするのは非科学的であるとか、大抵の病気は最後には心臓麻痺の下に死亡するものであるとか云ふ議論に耳を傾けて居る暇がない。溺れる者は藁をも把むで此の際には急場を凌げばいゝといふやうになる。兎に角医者も一つの商売である以上ある程度までの患家に対する迎合主義御機嫌取りは大目に見て貰はなければなるまい。根掘り葉掘り死体を前に置て検事が被告を訊問する態度に倣ふといふ事も一寸考へ物である。
     曾てこんな事があった。急病だといふので早朝往診して見ると田舎の豪家で病人は既に死んで床の中に居る。頭の下には枕があり敷布団掛蒲団丹前と形の如くで床の中で自然に往生したとしか思はれないが室が暗くてよく分らないので明るい所まで蒲団のまゝ引き出させて見ると頸部に明かな索溝がある。問ひ糾して見ると、実は縊死したのですが世間体が悪いから先生の御力で病死といふ事に取計って頂きたいと言ふ訳だ。縊死したのを勝手に下ろして床の中に寝かし其の上薄暗い処に置いて医者の眼を瞞着しやうと企てた行為が如何にも面憎いし、斯かる場合情誼の介在を許さないので、直ぐさま駐在所に届けたがうっかり先方を信用すると飛んでもない目に遭ふところだった。
     変死の検案も随分骨の折れるもので仮に茲に一個の漂着屍体があったとする。外表には特別の変化はないが、之れを溺死と判断するには一、病死でないこと、二、凍死でないこと、三、ショック死や脳震盪でないこと、四、毒殺して水に投げ込んだのでない事等々を除外しなければならぬ。帝大あたりの大家のやうに解剖しなければ分らぬと言って、法医学教室に運ばせれば何でもないく形づくが普通の開業医には一寸それが出来ない。警察の調べや周囲の関係に頼って大抵溺死位で押しつけるが、あれが若し他殺などであったらどうしやうと思ふと夜もおちおち寝られない事がある。此の場合解剖しなければ確実な事は分らないと警察に云ふと、警察ではいや大丈夫だから溺死として検案書を出して呉れといふ、それでも是非解剖しなければ分らんといふと外の医者を連れて来る、そして其の医者はどう云ふ見方をするのか分らないが器用に溺死か何かで形づけてしまう、勿論解剖なんかしやしない。その上前の解剖しなければ分らないと云った医者は始終警察から変な眼で睨まれるといふ事になる。何処へ行っても要領のいゝ奴には叶はない。
     某地で開業当時三軒目の某家から出火し母屋納屋厩の全部焼失した。処が厩と棟を同じくした、小屋に主人の伯父に当る精神病者を監禁して置いたのが夜中でもあり火が早かった為に出す暇がなく焼き殺してしまった。其の時には馬も二頭共焼死したので実際故意に焼殺したのでない事が想察された。其の検案を依頼されたが弱ったね、何しろ全身皮膚炭化し残ってるのは腹部陰部だけで頭部などは骨まで炭化し、四肢は焼失してるのだから何も分らない、そこで検案書に曰く(前略)上記外表検査の結果身体に病死又他殺の証跡を認めず、仍(よっ)て火傷死に陥りたるものと検案候也と、此の検案書などは要領のいゝ点では上乗のものであるがさて法医学的に論ずると三文の価値もない。而して自ら曲弁して曰く世の中は理屈だけでは通るものでないと。

    (四) 気転

     七八年も前のことサルバルサンはネオよりも舊を多く用ひて居た頃、一夕X町に開業して居るYを訪ふと、「今日は大失敗をやった」といふ話、「何だい?失敗といふのは」と訊くとYの曰く「或る患者にサルバルサンの注射をやったんだがね、前に一回やって今日は二回目なんだ。アルサミノールを溶解して静脈に注射してると暫く経ってから、患者が何だか変ですねといふんだ、何も変な事はないよと言って注射を続けて居ると、胸が苦しい、前の注射と違ふと言ふんだろ、ふと気が附くとナトロン液で中和するのを忘れたんだ」「それから何うした?」「何うしたと思ふ?」「ウム」僕は一寸返答に困った。「此麼時に慌てちゃいけないよ、言はゞ急性のアチドージスだらう、アチドージスにはアルカリだから傍に在ったナトロン液をイルリガートルの、サルバルサン溶液に少し多い位入れて注射を続けたさ」「それで何でもなかったのか」「何でもないさ、体の中で中和したのだから、結局同じだらうじゃないか」
     田舎で開業して一番困らせられる若手は何と言っても難産である。開業四年で皆無だった産科の経験も箝子分娩二三回、足位廻転二回位成功して幾らか自信の附きかけた頃、遷延性横位にぶつかった。上肢が脱出し肩胛が深く先進して押せども突けども少しも動かない。取りに遣った器械は中々来ない。何だか判らないが子宮破裂でも起しさうな気がするので不安でたまらない。於茲一策を案じて来合せた産婆から臍帯剪刀を借り苦心惨憺の末児の頸部を剪断して辛じて分娩を遂げしめた。其後母体には何の異常も起らなかった。これまでは断頭鈎といふものを使った事はなかったが、頭部を切断するには断頭鈎がなければならぬものと思って居た際であったから、此の処置は大に気転を利かしたものと私かに自負して居た。所が後に至って産科手術の本を読むと剪刀を以てするの断頭術といふのが立派に出てるのでギャフンと参ってしまった。
     ギャフンと言へば前に言った、X町のYだが或時僕に向ひ「血液の証明には過酸化水素水がいゝ、無機物では泡が出ないが、血液や痂皮だと泡が立つから予備試験には持って来いだ、過酸化水素水で泡が立たなければ血液でないと言へるから簡単で頗る便利だ」と云った事がある。其時には僕も感心したが其後法医学の本を読んでYの説の取るに足らない事が判ったので、次に会った時「君、此の間君の言った血液の予備試験法は落第だ」と言ふと「どうして?」「過酸化水素水を血液に滴下すると泡が立つので一寸予備試験法として便利のやうであるが、此方法では血液の成分を破壊するので、本試験を行ふ障害になる。それで現今では癒蒼木脂法を予備試験に用ひてゐる。矢張り専門家は我々の知らない事を知ってるだけ違ふね」と言ってやったらY「さうかな」でギャフン。


    「『身替り』の作者について」
    池内祥三
    「大衆文藝」大正15年(1926年)11月号より
      (写真掲載あり)
    東京市外王子町――。
     王子権現の裏通りの王子新道に医院を経営して居らるゝ医学士大内兆氏の探偵小説「身替り」が今回本誌の第二回新進作家推薦の栄を得られたのである。
     仙台に生れ仙台中学を卒業され同地の医学校を卒業されてから、北海道の病院に勤務せられ、先頃悲惨事を伝へられた十勝岳の麓にも勤務せられてゐたといふ。
     後古河鉱業の福島県好間炭山に勤務されてゐた。大正十二――十三年末にいたるまで。
     此の『身替り』は同氏が好間炭山勤務時代の目撃事実――勤怠表に記入されてゐなかった当時の一鉱夫が坑道中にて偶々大怪我を負うたのに起因して、飯場頭と経営側との論争がつゞけられた――を取材にしたもので、同氏は此の事件に興味を引かされてついに多忙な診療中の小閑を見て書きつゞられたものである。
    『全然素人の余技で、ともかくも書いて見ましたものゝ、自信も何もありません。書き度いと思ってゐた事を閑をぬすんで書いたまでの物です。』
    と謙遜して語られます。
     かつて博文館の「新趣味」の探偵小説の懸賞に当選せられた事があるさうです。
     俳誌「ほとゝぎす」の誌友で唐淵といふ雅号で句作をやって居られます。お年は四十二歳、然し打ち見た所三十七八歳位です。いかにも開業医らしいやさしい物馴れた応対で次から次とつめかけた患者を見て居られます。
    『この辺は坂があるので、一週間に一人位の割で怪我人があります。気の毒な事です』と云って居らるゝ間にも十二三の少女が頭に包帯して来ます。
    『この次に自信のある物が出来ましたら、又どうか同人の方々の御批評を伺って見て下さい』と何処までも謙遜的に而もやさしい調子で語られました。
     大内兆氏のペンネーム「二木鮒三」と云ふのは十年以前から親しんで居らるる俳句雑誌に用ひられた物で、本名では何となく気恥かしいから、是非、ペンネームでと云ふ事でした。


    「編集後記」抜粋
    池内祥三
    「大衆文藝」大正15年(1926年)11月号より
     尚、本号には二木鮒三氏の探偵小説『身替り』を推薦作品として発表した。これは同人一致推薦になったもので、特に江戸川乱歩氏は『最初の出が可成面白いのと、炭鉱生活が詳しく出て居る興味と文章も健実で危げのない所』等等と推称して居られます。
     作者二木鮒三氏に就ては別紙に紹介いたしておきましたから、同氏の力作「身替り」と共にどうか御覧下さい。


    「身替り」
    二木鮒三
    「大衆文藝」大正15年(1926年)11月号より


    「田口幾太郎さんといふのは此方でせうか?」
     と言ひながら私の店に這入って來たのは六十五六にもなるかと思はれる老人であった。私は田口幾太郎といふ自分の姓名を聞くと思はずぎょっとして老人の顔を注視した。此の恐ろしい田口幾太郎といふ名を指して訪ねて來た老人は何者だらう。見ると顔も手も日に焼けて黒く、旅から旅に歩いて居る人を想像させるが身には上布らしい單衣に錦紗の兵古帶を締め、裾を端折った下からは縮のズボン下が見えてる。紺の夏足袋を穿いた足には輕さうな駒下駄を着け、手には絹張りの大きな洋傘を持って居る。
    「田口幾太郎さんは此方でせうか?」
     老人は再び訊いた。黒く萎びた顔に眼だけは生々と輝いて居る。思ひなしか吐く息も荒く單衣の下では心臓が亂舞してるやうであるが態度だけは飽くまで冷静である。
     何となく、たゞ事でないといふ感じが頭の心から涌いて來る。重大な事變が起る前の短時間の静寂(しじま)といふやうなものが私の店を罩める。黒い大きな口を開いた擴聲器や銀色のとぐろを巻いたアンテナ線や赤うとぐろのバインド線やそれから置き並べられたラヂオのセットや電池や色々のラヂオ店としての品物も間もなく見納めとなるやうな豫感が何處からともなく涌いて來る。私は今更のやうに自分の店を見廻はした。そしてまた老人に眼を遣った。
    「此方は確田口幾太郎さんだと聴いて來ましたが、それとも間違でせうか」
     老人は三度訊いた。
    「いかにも手前は田口幾太郎商店でございます」
     私は田口幾太郎でございますと言はうとしたのを危ふく田口幾太郎商店と言ひなした。
    「折入って御願ひもしお訊ねも致したいので暫時お邪魔を願ひたい。ほんの暫時で宜しうございます」
     私は其老人を奥へ通した。いゝ按配に妻は朝から外出して居ないし、小僧は之れも使ひに出して家には自分一人である。
     老人は懐から名刺を出した。眞中に田口幾造と姓名を記しM縣K郡S村と傍に住所を刷りそれに當時本郷區森川町一番地――館止宿と鉛筆で書き添へてある。
    「お店は田口幾太郎商店と言はれましたが田口幾太郎さんと言ふのは不躾ながら貴方でせうか」
    「いや、此店は田口幾太郎君の店ですが只今田口君は商用で大阪に行ってまして、明日頃でないと歸りません。私は友人で同業の者ですが私の店は大勢居ますから二日や三日私が開けても差支ないので田口君の不在中留守番を頼まれて來て居るのです」
     私は田口幾太郎を名乗って居り、又此の店も私自身の店あるにも拘らず、老人に此のやうな嘘を言ったのは大に譯があるのだ。大に所ぢゃない、その譯のために私は瞬時として心を休めた事がない程重大な譯なのである。
    「私は田口幾太郎の父親です。幾太郎は私の只獨りの子ですが今から四年前に行方不明になりまして随分捜索したが見つからないので、一時は斷念しましたが其内に家内には死なれる兄弟も死ぬといふ具合に私も一人になったので一昨年財産全部を金に替へて旅に出掛け、忰の行方捜索に老先短い身を捧げる事になりました。それで目指すのは忰の中學時代に暮したM市ですが其處で重い腎臓病に罹り殆ど一年病院の厄介になり、全快の後再捜索に掛りましたが一向手掛りがないので此年の四月東京を目指して参りました。 警察へも捜索願を出しましたが到底ぢっとして居れないので自分で東京を片端いから捜すことにして毎日朝から晩まで歩き廻って居りました。今日はこちらの方面を捜して矢來の交番で訊ねますとラヂオ商で田口幾太郎といふのがある事が分り早速お宅、いや此方に参りましたのですが今まで田口幾太郎といふ人が二人もありそれが全然他人だったのだから宛にはなりません。それで此の家の田口といふのは年配は幾つ位ですか」
    「私と同じ三十三で確かM縣の人で丸顔の小造りな、眉目清麗と云った方です」
    「年は三十三でM縣、小造りの、容貌も醜くないて、ウム殊によると私の忰か知らんが、寫眞はありますまいか」
     老人は息を彈ませて訊いた。
    「寫眞は見た事がありませんね」
     老人は私が急に作り上げた田口幾太郎なる人物に就て色々と私に問ひ糺した。然し私にしては今其れに對して答へる處ではない。愈々此の老人が田口幾太郎の父親であるとすると何とか對策を考へなければならぬ。
     實を言ふと此の老人の忰の田口幾太郎は既に此世に存在しない人物であって、田口を名乗ってる此の私は其の身替なのである。いや身替りといふのは少し言ひ過ぎで、田口幾太郎といふ姓名を借りて居ると言った方が當って居るかも知れぬ。そればかりではい、此の私遠山幸治は戸籍上既に死亡して朱線で十文字に抹消されて居るのである。つまり田口幾太郎は戸籍面では生存しているが實際は死亡しており、私遠山幸治は實際此通り生存はしてるが戸籍面では死亡した事になってる。 それで止むを得ず田口幾太郎の名を借りて居るといふ譯である(眞實うを言ふと止むを得ず名を借りて居るのでなく進んで無斷借用と出掛けたのであるが)。そして此の様な成行きになったに就ては誰でもが想像するやうに恐ろしい罪惡が絡みついてるのである。此麼(こんな)譯であるから田口の父の出現は偉大なる脅威として私に蔽ひ被さって來る。一層の事田口幾太郎は自分であると言って終へばよかった。さうすれば此の老人も人違ひと思って其儘立ち去ったに違ひない。生中技巧を弄したために身動きならぬ溝渠(みぞ)に陥ってしまった。
     かうした不思議な對座のうちに老人は便所の所在を訊いて立って行ったので私は其の間に手提金庫の底に入れて置いた田口幾太郎の名刺を取り出して見た。それには本籍がペンで書いてある。老人の名刺と較べると全然附合してる。それに猶生年月日とW大學政治科何年卒業といふ簡單な經歴まで書いてある。――もう愈々疑ふ所がない。あの四年前にY炭鉱で死んだ彼と此の老人は確に父子なのである。何と恐ろしい巡り合せだろう。
     名刺を仕舞ふ間もなく老人は便所から歸って來たが五分と經たないうちに又立って便所に赴いた。それが歸ると又立った。かうして一時間のうちに五六回も便所に立つので、
    「何うかしましたか」
     と訊くと
    「食ひ物に中毒(あたっ)たらしいです」
    「何か藥を上げませう」
     私は壁に掛って居る富山の藥袋を外して中を調べる中に「はっ」と破天荒な考が浮んだ。そして思はず身慄ひした。
     

     茲で私は何故遠山幸治といふ本來の姓名を棄てゝ赤の他人の田口幾太郎といふ名を用ひなければならなくなったかといふ經緯を述べなければならぬ。
     私は世間の學生生活から世の中へ出た多くの人々と同じやうに故郷の中學を終へると、O市の工業學校に入り卒業後ある會社の技手になった。それから三年ばかりして東京工場に轉任を命ぜられた。其時は技師に昇進して帶妻して居た。郊外に小さいながら一家を持って女中も使って居り大した不自由もなく世間並の幸福を味って居た。それがほんの偶然から友人を傷害した爲に罪に問はれ三ヶ月の刑に處せられた。殺人未遂といふ罪名である。 刑期が満ちて出獄すると世人の私に對する視線がすっかり變って居た。何處にも前科者の私を使って呉れる人がない。こんな事は管々しく書く必要はあるまい。幸に妻は私の人格を信じて清く待って居て呉れたので二人は相携へてF縣の炭山に落ち延びた。
     私共の働いたF炭山は附近でも有數の炭山であり、恰度好景氣時代の餘波が炭界を潤して居た頃だったので素人の私も直ぐに礦夫として採用され、M飯場の長屋を貰って働く事になった。一口に礦夫と云っても採炭夫もあれば車夫もあり、支柱夫もあれば軌道夫もあり、それに機械夫、運轉夫、選炭夫、雑夫などがあってそれぞれ役目が異って居る。此内採炭夫と云ふのは別に坑夫と云って駈け出し者には一寸取り着けず、子飼からの者が多いので最も幅を利かしてるのである。 私の志願したのは車夫であった。車夫にも内車夫と外車夫とあって、内車夫と云ふのは坑内で働き外車夫は坑外(おか)で働くのである。私は少しでも世の中から遠ざかりたかったので坑内の車夫になった。
     いよいよ坑内で働くことになり、飯場の人繰(ひとくり)に連れられて初めて坑内に入った時の事は今でも忘れられない。坑口の見張の役員に自分の勤怠表を差出し安全燈を貰って竪坑のケージと云ふ釣瓶に乗った時は今更危險の身に迫るのを覺えた。鶴嘴を持った坑夫の先山(さきやま)、女の身で重いショーベルを持った後山(あとやま)、辨當一つと安全燈だけの車夫などが約十五人一かたまりになってケージに乗ってる。
    「皆いゝか」
     監視が聲を掛けると合圖のベルが鳴ってケージは急速力で下り初める。何しろ千二百尺を四五十秒で下るのであるから身體(からだ)はぐんぐんと地の底へ引かれるやうだ。それが中途に行くと今度は反對に身體が上へ上へと宙に釣りあげられる感じがする。そのうちに坑底の電燈が見えてケージは止まる。ケージを出ると其處は地表から千二百尺下の坑内で、竪坑から落下する水の雫が夕立の櫓端(のきば)のやうに降り注いで居る。 人繰は一寸坑内の見張りに立寄り係員と一言二言冗談を交した後私を引張って奥へ奥へと進む、周圍を見ると坑内はコンクリートで固められ高さは二間位もあり電燈は十間置き位に點ぜられ下には二條のレールが敷かれてある。
    「此處は人道で坑内の銀座通りだ。だんだん裏通りに入ると頭が危いよ」
     人繰は其麼(そんな)事を言ひながら先へ先へと進む。私は默って蹤いていく。道は分かれ分れて段々と細くなり、天井も追々と狹くなる。今まで乾いて居た道がじめじめと湿って來て、うっかりすると足を取られさうだ。所によると、踝以上まで水につかる所もある。周圍も岩石や炭層の自然の壁に變ってゐる。天井を見ると坑木を井桁に組み下から支柱を立てゝ危ふく天井の岩石を支へて居る。何時の間にか温氣が烈しくなる。 「自分の身體(からだ)を置くのは此の坑内より外にないんだ」と思ふと之れ等の驚異すべき光景を見てもさ程恐ろしく感じない。ケージに乗った時の恐怖は何時の間にか去って、却って此麼(こんな)初めての世界で力限り大聲を出しながらうんと働いて見たいといふ感じさへ起って來る。
    「君、君の働くのは此處だ」
     見ると四五臺のトロがレールの上に放り出されて三四人の人々がその傍に休んでる。
    「車夫っていふ仕事はね、レールの上をトロを押すだけなんだから坑内の仕事としては一番取っ附き易い仕事なんだが、之れで一寸呼吸ものだから少しは練習が要るんだ。おい大木君、君二三日此の人のコーチャーになって面倒を見てやって呉れ給へ」
    「いゝともいゝとも、君まあ少しは休み給へ、人繰さん引受けたよ」
     大木といふ男は親切に私を扱って、休む席を拵へて呉れた。其處には大木の外に尚二人の車夫が休んで居て次のやうな會話を交はしてるのが耳に入った。
    「兎に角ホトヽギスでは秋櫻古、花蓑あたりが目立って光ってるね」
    「七月號の君の入選句も悪くないよ」
     私は千二百尺の坑内で礦夫や人繰の口から野球の術話や俳誌ホトヽギスの評を聴くのを意外とした。そして之等の車夫も一度は學生として下宿屋の飯を食った人達だろと想像した。
     坑内の車夫の仕事は決して樂なものではなかった。それと同時に脱線や炭壁崩壊、天磐落下等ぼ危險が終始身に迫って居る。其日は大木や其仲間の俳人達のコーチを受けて一生懸命働いた。併し坑内の曲り屈った線路を重いトロを押しながら駈けるといふのは想像以上の困難事で寧ろ脱線させないのが一種の藝術であるとさへ思はれた。
     坑内を出ると日は西に傾いて目映い夕日が赤土の崖を照して居た。自分の長家に歸ると妻は隣り近所のかみさんの世話で米味噌や野菜物を買い調へて夕餉の支度をして居た。會社の技師の奥様から炭山の礦夫の娘に成り下った妻の憐れな姿を見ると涙がこぼれさうだ。元々私の傷害事件を引き起した原因は妻を侮辱された爲めであったとは言へ、よくも刑餘の夫に仕へて呉れると思ふと何物にも替へられず愛しくなるのであった。
     坑内の仕事も馴れるに從って困難でなくなった。収入も礦夫並の生活さへして居れば充分間に合って月々五圓位の貯金は不可能でない。五六ヶ月も過ぎる頃には仕事の熟練と共に収入も増して十圓位は殘るやうになった。若し私が此の位置に甘んじて居り周圍でもそれを許して呉れたら一生礦夫として幸福な生涯を送れたかも知れなかったが偶然の機會と前科者として額に捺された刻印とは再び私を放浪の旅に送り出して仕舞ふやうになった。


     此の炭礦では礦夫雇入の當時本籍地に身元を照會してから採用するといふ規則になっては居たが、恰度人の入用な時期とて其處まで手が届かずに居た。それが私の雇入から三四ヶ月經つと身元不明の者は一整に調査する事になり、私の身元も本籍地に照會になった。 所が私の礦夫採用願に書いた本籍地なるものは縣こそ同じだが郡も村も全然虚僞のものだったので一ヶ月ほどして照會の人物は當村になしと云って來た。私は古い事だから役場で忘れたのかも知れないから尚一度照會して下さいと申出た。今度は四五十日の經ってから、再調査の結果當村には照會の人物なしと言って來た。
    「お前は身元を僞ってるのだらう、兎に角身元不明の者は此際解雇する事になったから其積りで居て貰ひたい」
     係員から嚴重に言ひ渡されたので私は仕方なしに、
    「前のは間違でした。あれは以前の本籍で現在のはあれと別でした」
     と言って眞實(ほんとう)の本籍を告げてしまった。會社からは直に其處に向けて照會が發せられた。其の結果が何うなるかは分り切ってる。前科、といふ額の刻印が帽子の下から引き出されて炭山を追はれるのは眼に見えるやうだ。私は二人が悄然と山を下って行く姿を想像して暗然とした。私から此事を聞いた妻は私の膝に縋って潜々(さめざめ)と泣いた。前科者の刻印が斯くまで世路の障碍にならうとは今まで思はなかった。私は此の世の制度が呪はしくさえなった。
     其の翌日は前夜の懊悩と睡眠不足から頭が割れるやうに痛いので初めて仕事を休む事にした。午後になると幾分頭もよくなったので長屋を出て飯場に遊びに行った。五六人の飯場ゴロ(獨身で飯場に起臥してるもの)が爐を取り巻いて下らない話をして居た。
     ァーァ――、竪坑三千尺ゥ下れば地獄よ
      末は癈坑のよォーォー、ドンと地となるよ
                      ヤロヤッタナッ
     飯場の外をぐれた聲で炭坑節を唄って行くものがある。思はず唄聲に聴き耳を立てゝ居ると、見なれない男がのっそりと入口から這入って來た。
    「御免下さい、M飯場といふのはこちら様でせうか」
     ゴロ連は侵入者に一瞥を呉れただけで返事一つせず無關心に雑談を續けて居るので私は氣の毒になって、
    「M飯場は此處ですが、何ぞ用があるんですか」と訊きながら帳場の方を見ると誰も居ない。
    「帳場さ――ん、御客さんだよ」とどなっても返事一つないので已むを得ず此の男に應對した。男は二十八九の小作りな一寸好男子で書生風をしてゐる。
    「初めてお目にかゝります。私は斯う云ふ者ですが」と名刺を出して「T町で車夫募集の廣告ビラを見て一つ使って頂かうと思って参ったのですが何分宜しく」
    「少し掛けて待って下さい。今に帳場から人繰が來ますから」
     私はその男に席を與へてから名刺を見ると田口幾太郎としてあって本籍年齢學歴がペンで記入してある。それを何の氣もなく袂に入れて待って居ると帳場が來たので帳場に早速その男の來意を傳へて長屋に歸った。
     其の翌日も頭が痛むので休むことにして居ると入坑時間近くなってから人繰がやって來た。
    「遠山君今日も休むといふ話だがどうしたんだ」
    「どうも頭が痛くって仕様がないんでね」
    「困るね、何とか我慢して入坑だけでもして呉れ給へな。今日から一區と二區の出炭競爭なんで、うちの頭役(飯場頭)も一生懸命なんだ。入坑率が惡いと頭も礦業所に對して顔が惡いものだから今朝から自分で入坑督励をやって居る位だ、少々の事なら入って呉れ給へ。頼むよ」
     私は頭が痛むばかりでなく何となく氣が進まなかったので人繰の頼みを氣の毒ながら斷った。
    「ぢゃ仕方がない。それではね、君の勤怠表だけ貸して呉れ給へ。昨日來た男ね、まだ雇用の手續きをしてないが君の勤怠表を持たせて入坑てやらうと思ふんだ。さうすれあ俺の頭に對する顔もいゝし、頭役も礦業所へ面目が立つからね」
     他人の勤怠表で入坑すると云ふ事は嚴重に禁ぜられて居るのであるが、坑夫の入坑率が惡い時には人繰の手でよく此の方法の行はれるのは殆ど公然の秘密となって居た。
    「大丈夫かね、そんな事をして」
    「見張の役員だって一々礦夫の顔を知ってる譯ぢゃなし、よし分ったって俺が居れあ何でもないさ。何か事故さへ起らなければね」
     實際雇入手續の濟んで居ない新米の礦夫を、有り合せの、解雇の手續を經ないで逃亡したりなんかした勤怠表(勤怠表は鑑札を兼ねて居り入坑の際役員に渡し入坑の證明を受けて出坑の際受取る制度になって居る)で、つまり替玉で入坑し、生憎負傷したりして厄介な問題を引き起す場合がない譯でもない。斯うなると會社としては自分の使用人でない赤の他人が入坑したのであるから、負傷しようが死亡しようが、夫れに對して扶助料を出すとか治療してやるとかの責任は全然負へないと主張する。 それのみならず、規則に叛いたという件で飯場の頭役を嚴重に責める。頭は元々自分の横着から仕出來した事であるから、會社に對しては謝罪する、場合によっては始末書を提出する。その上負傷者の治療費や癈疾になった場合の手當まで全部負擔するといふ散々な目に遭ふのであるが、裏には裏があって會社としては其の事が外へ洩れると工合が惡いので頭役に全部の責任を負はせるといふのは表面上で、實は半分以上の費用は會社で持ってやるといふ事になるのである。 「ぢゃ、人繰さん貴方のいゝやうにして下さい。併し事故が起きたって私は知りませんよ」
    「大丈夫だよ、何も心配することはないよ。まあ折角大事にし給へ」
     飯場の人繰は斯う云って、私の勤怠表を持って出て行った。
     毎日坑内に入って團炭(たどん)のやうに黒くなって働き、出坑すれば共同風呂で粉炭と汗を流して、飯を食へば寝てしまふと云う生活をして居れば世の中は割合に暢氣で苦勞がない。生中身體に暇があると餘計な取越苦勞をして却って世の中をつまらないものにして仕舞ふ。今までの私の生活中、炭山に於ける五ヶ月は一番平和で、限りない健康に惠まれ怠けることも、僞ることも、陥れることも其外凡ての惡といふものを知らず眞に善良なる礦夫として暮して居た。 それに迸る情熱こそなけれ、静かな山清水のやうに澄んだ、汲めども盡きない妻との間の愛は恒に生活の潤ひとなって言はゞ消極的の幸福ではあったが六畳一間の私の長屋を聖い殿堂に浄めた。
    「坑夫々々って云ふと恐ろしい鬼か惡魔のやうな人間を想像して居りましたが、中へ入って見ると左程でもありませんね。妾は東京邊で騒々しい生活をしてるよりは一層氣樂で山の方がいゝと思ひますよ」
     妻も礦夫の生活に馴れるに從ってこんな事をよく口にした。
    「どうだお前も坑内で後山稼ぎでもするか」
    「でも坑内だけは恐しいやうね」
    「尤もだ、俺でさへ坑内の恐しいといふ事をあまり感じなくなったのはつい近頃だからね。それに十年二十年坑夫をして居ても斜坑で稼いだ奴は竪穴だと恐ろしがって入れないさうだよ」
     所が身元證明の問題が起ってからは又々暗い憂鬱が二人を包むやうになった。二人はあまり物を言はなくなった。絶望の大きな岩壁が前途に聳えて私共の道を塞いでるやうに見える。私は日の經つのが恐ろしかった。


     其の日飯場の人繰を歸してから、私は頭が重いのと身元調査の問題が氣に懸るのとで、氣がむしゃくしゃして仕方がないから一層寝て仕舞へと思って、壁の隅にある蒲團を出して引っ被った。
     何時間經ったか分らない。午頃のやうな氣がする。遠くで大砲のやうな音が聞えた。ワーッといふ人聲がする。近所が騒がしくなる。ガタガタと戸を開ける音、人の走る音、喚く聲が耳元に起る。私は「何か起ったな」と思ひながら頭を擧げた。「大事件が起って身元調査をぶち毀せ」「俺の身體を大事件の中に叩き込んで呉れ」と腹の中で何物かゞ叫んで居る。その中に妻が蒼い顔で飛び込んで來た。
    「坑内で瓦斯の爆發ですって、一坑に入って居た百二十人の人は全滅ですって、あゝ恐ろしい、どうしませう」
    「飯場の人繰はどうしたらう」
    「人繰さんもやられたらうって言ってました、今、おかみさんが跣足で坑口の方へ駈けて行きました」
    「おれも今日入坑るとやられるんだったな」
    「さうでしたね、よござんしたわね」
    「可愛想にあの新米も木破微塵かな。さうだ、俺の勤怠表が掛ってるぞ、會社ぢゃ俺が死んだ事にするだらう」
     妻と私は顔を見合せて默り込んだ。此の時に私は飛でもない事を考へた。自分で善良と信じて居た此の身體に何時からか侵入して居った惡魔が働き出したのだ。
    「俺はね今夜東京へ逃げるからね、跡で俺の扶助料が下ったらそれを持って東京に來るんだ、上野驛の三等待合に毎日午後の二時から三時まで出掛けるから、其の時間に來るんだ。驚くことはない。之れで俺の戸籍が消えてさっぱりとなるんだ。俺はかういう日を待って居たんだ」
    「でも……」
     妻は容易に私の計畫に同意しなかった。
    「俺達の生きて行く道は之れより外にないんだ。戸籍が消えなければ前科者といふ肩書は何處までも附いて廻って、一生何も出來ない。此際に死んだ事になれば戸籍は消える。金は貰へる。一石二鳥ぢゃないか」
     妻は善良と信じて居た私の口から斯麼(こんな)言葉の出たのを、聴くべからざるものを聴いたやうな表情で俯きながら耳にして漸く頷いた。
     私は其夜暗に紛れてF炭坑を脱け出し、東京に出て來た。十日後には妻が私の死亡した遺族扶助料を懐にして上京した。私の脱出後妻がどんな芝居を演じ、社葬に列して遭難者の弔詞の中の私の名をどんな顔で聞いたか、寡言な妻は私に語らなかったが兎に角私は完全に戸籍から抹消されてしまった。
     私は上京して下谷の木賃宿に泊ったが、其時宿帳を出されてハッとした。そして咄嗟に私の身替に入坑した田口幾太郎の名を記した。其後所有主のない此の姓名は私の者となったが此の恐ろしい名は已むを得ぬ場合の外は口にせず、殊に牛込にラヂオ屋を開いた後は出來るだけ良聲堂といふ店名を用ゐるやうにした。
    ×
     F炭礦爆發後の四年の月日は流れた。私共夫婦は其間色々な商賈をやった。震災當時には二人ですひとんを賣った。それからラヂオが出來てからは私の専門的に學んだ電氣の知識に便ってラヂオの製造販賣を始めた。それで今日では不自由なく暮せるやうになった。
    ×
     話は第一回を承ける。
     私は田口幾太郎の父の來訪を受けて驚愕した。そして「私は田口君の友人で留守居に來た者だが、田口君も明日は歸るでせう」と口を辷らして仕舞った。併し炭山の爆發で吹き飛ばされたものが歸る筈はない。「何とかしなければならない」と思ってるうちに老人は急に烈しい下痢を催して切りに便所に立つのであった。


     田口幾太郎の父田口幾造の急病で私の「教養」は壁に掛けてあった富山の藥袋を取り下さしめた。ところが藥袋の中を覗いた時に私の體内の惡魔は私に又々世間の道徳に馳背したある計畫を私語(ささや)いた。私は惡魔の計畫を肯じなかったが私の手はその命令通りに動いた。そして下痢止めの代りに下劑を取った。二三回分の下劑は老人の口に運ばれた。私は直ちに隣の電話口に駈けつけて醫者を呼んだ。そして隣の人には、
    「國から父親が突然やって來ましたんですが、家に入るか入らないかに急病を起して困ってるんです」
     と明かに告げた。之れが計畫の第一部なのである。
     間もなく醫者が來た。
    「急性の腸加答兒(カタル)で格別の質の惡い種類とも思はれないから左程心配はないでせう」
     醫者は二三の注意をして歸った。其後で下痢は益々劇しくなった。藥が利いたのである。老人は急に衰弱して顔貌は別人の如く憔悴する、手足は厥冷して腓腸痙攣を起す、誰が見ても生命の危險を感ずる様になった。私は再び隣家の電話を借りて前の醫者を呼んだ。そして隣人には、
    「どうも病人の容態が惡くて困りました、事によると不可(いけな)いかも知れません」
     と言った。之れが計畫の第二部である。
     二三十分して醫者が來た時には電燈が灯って居た。その前に私は歸って來た妻の手を借りて病人を二階に運んだ。もう便所に通ふ元氣がなくなったので臀の下に脱脂綿や襤褸を當てがった。
     醫者は來ると直ぐにカンフルを注射し、車夫に食鹽水を取寄せさせて注射した。
    「老人の事でもあるし警戒を要します。今夜一晩非常に大事です」
     醫者も今度は重大視して歸った。
     妻には田口幾太郎の父が突然尋ねて急病を起したといふ事を明かに告げた。しかし私の秘密の計畫は話さずに置いた。
    「兎に角俺の實父なんだからね(ウフゝ)お前には舅といふ譯だ。出來るだけの手當はしなけれぁならんがあの容態では到底駄目だらう。ウフゝ」
     妻は妙な顔をした。
    「まあ」
     病人は醫者の手當で幾分快くなったが極度の衰弱で眼を開く力さへない。妻と私は代る代る容態を見に二階に上った。
     十一時を打った時私は、
    「俺は暫く附いて居るからお前は下で構はず寝るがいゝ、或は夜中に代って貰ふかも知れないがそれまでは悠り休むがいゝ」
     と妻に言って二階に上った。そっと脈を觸れて見ると餘程強くなって居る。私は暫く下の様子を覗って居たが、其のうちに妻が寝床に入った氣配がした。私は病人に掛けてあった薄い掻巻を刎ね除けて、枕を項の下に深く押し込んだ。それから思ひ切って病人の胸の邊に跨って、臀で兩手の抵抗を防ぎながら兩手の拇指に力を込めて咽喉部を夢中になって壓しつけた。それで萬事は終った。
     枕の位置を元通りに直し掻巻を襟深く掛けた後、私は跫音を立てゝ下に下りた。
    「おい、到頭駄目だった」
     妻は静かに眼を開いた、恐らく眠って居なかったのかも知れない。
    「さう、お氣の毒にね」
     と答へながら起き上った。
     私は三度隣の電話を借りた。
    「どうも度々御無理を願って申譯ありません。病人が遂々いけなくなったものですから夜中で恐入ますが一寸お電話を拝借さして頂きます。醫者へさう申して置く必要があると存じますから」
    「それは何ともお氣の毒様でございます、折角田舎から訪ねて入らしったのに、何れ明日更めて伺ひます」
     隣人の挨拶を聞き乍ら醫者に電話で次のやうに言った。
    「病人が只今眼を落しました。何れ明朝診断書を頂きに参ります」
     暫くしてから返事があった。
    「先生もお疲れですし改めて診る必要もないから明日診断書を上げます。どうもお氣の毒さまでございました」
     之れで第三部に属する計畫が筋書通りに運んだ譯である。
     私は家に歸って死人の枕元に小机を据ゑて有り合せの蚊遣線香を供へた。
    ×
     翌朝は店に形の如く簾垂れを掛け忌中の札を貼った。隣近所の人々は逸早く悔みに來て呉れた。そのどさくさの中で私は前夜死人の懐ろから抜き取った包みをそっと開けて見た。包みの中には五萬圓の定期預金證と二千圓餘りの當座の通帳、五六十圓の現金、それに實印と戸籍謄本とがあった。之れ等は戸籍上當然田口幾太郎の相續すべきもので会った。醫者の診斷書を貰ふ事や役場の届出は隣の人に依頼した。
     計畫は八九分通り進行した。葬式さへ濟ませばもうそれでいゝのだ。五萬圓の現金は利息さへ損すれば明日にも受取れる。
     私は火葬認許證の來るのを待った。そのうちに隣の人が來て、私に電話と云ふことであった。私は身の措き場に困って居た際とて直ぐ飛んで行って受話器を取りあげた。電話は届を頼んだ人からであった。
    「モシモシ良聲堂さんですか、山本ですがね、あれから加藤さんに行って診斷書を貰ひましてね、代書人に届を書かせまして警察へ判を捺して貰ひに行きますとね、モシモシ、警察ではあまり病氣が急だから一應検視の必要があるといふんです、モシモシ、モシモシそれでね、これから直ぐ警察醫が出掛けるからその積りで居て呉れとのことです」
     此の電話を聞いてるうちに私の頭はガンガンと鳴り出した。心臓の鼓動は一瞬間止って直ぐにすりばんを打ち始めた。(警察醫が検視に來るとは思はなかった。さうだ、忘れて居た。傳染病の疑があれば調べに來るといふ事を聞いたことがある。警察醫が検視に來れば扼殺がすぐ露顕(あら)はれるに極ってる。もうお終ひだ。とうとうどんづまりに來て仕舞った。駄目だ駄目だ。今度こそ逃れやうがない。)
     私は受話器をどう掛けたかも知れない。空虚になった頭を辛うじて頸の上に支へながら、それでも孜(つと)めて平生の態度を失はないやうにして家へ歸ると若干の紙幣(さつ)を掴み出し、誰にも告げずに風のやうに速かに、裏口傳ひに外へ出た。二三丁歩いてるうちにタキシーが來たので、
    「上野驛へ」
     と言って飛び乗ると、ぐったりクッションに身を沈めた。
     上野へ着くと恰度東北本線の一ノ關行が出る所だったので急いでそれに乗った。さして途中一回乗り替へて昨夜遅く此のN温泉に着いたのである。
     私の體内に何時からとなく侵入した惡魔はとうとう私を此處まで追って來た。私はしかし此の惡魔を咀(のろ)ふ氣になれない。むしろ私の弱い心を憐れむのみだ。
     之れだけ書き記せば充分だ。今はもう死の道を急ぐばかりだ。只心殘りなのは愛する妻の身の上だけである。彼女も惡のために心の蕊まで深く蝕まれたこんな男と一緒に暮すよりは一層自由な身に開放された方がいゝかも知れない。(さうだ彼女(あれ)にだけは俺の死んだ事を知らして置かう。あれは秘密を他人に打開けるやうなことがないから。)
     彼女には天賦の才能と身を持するだけの教養とまだ衰へない容姿の美がある。これだけは私も心強い。どうぞ、彼女の上に幸福あれ。

    後記

     以上は遠山幸治の自殺に際しての手記である。死體は死後一ヶ月を經てN温泉の山中で發見され身元不明として村の共同墓地に葬られた。
     父の死を前に葬式も行はないうちに失踪した牛込のラヂオ商田口幾太郎の事件は不可解なる謎として二三日帝都の新聞を賑はしたが、外の重大事件や怪事件と同じやうに何時の間にか忘れられて仕舞った。
     田口幾造の葬式は嫁の手で立派に執り行はれた。警察では主治醫の加藤醫師に電話で照會の結果、全然傳染病の疑ひがない事が判明したので検視を見合せ、普通の病死として火葬に附せられたとか云ふ事である。自殺者の自負した妻の教養と才能とが働いたための結果であるかどうか、そこまでは分らない。 (終り)


    「公傷患者の憤怒 殺人奇譚」
    二木鮒三
    「大衆文藝」昭和2年(1927年)6月号より
     僕が鉱山医の足を洗って東京の郊外に開業して半年と経たない時分だから、遂一昨年の末か昨年の初め頃だったと思ふ。ある日新聞を見るとA鉱山の鉱夫人事係を刺殺すと云ったやうな標題で殺人記事が載ってる。A鉱山といふのは先達まで勤めて居た所でもあり殊に人事係といふのはよく知ってる人なのではっと思って読むと斯うだ。A鉱山の鉱夫赤澤謙次郎が解雇されたのを恨んで人事係仁藤節夫が朝出勤する途中を擁し躍り掛って仁藤の脇腹を短刀で刺し即死せしめたといふのであった。
     僕は此の記事を読んで全身の血液が頭の中に逆流するやうに思った。そして到頭遣っつけたな。危い危い。早く鉱山を切り上げてよかった。居たら或はどんな目に逢って居らないものでもなかった。といふような、考が逆流する血に浮んで頭の中をぐるぐると渦巻いた。
     赤澤といふのはA鉱山元山病院で最有名な公傷患者であった。一寸した業務上の負傷で足を傷めたのが一月経っても二月経っても痛みが去らないといふので仕事を仕ようとしない。医者の眼から見ると痛みは既に去って疾うに仕事に掛れる状態になってる。無論外部から見える傷もなし、機能障害がある訳ではなし、不働性の萎縮があるのでもなし、何処から見ても就業に堪へないとは思はれない。併し本人が痛くて仕事が出来ないといふのを医者だからと言って痛くないとは言へない。まあも少し休んで療治したらよからうと色々と治療の方法を講じても痛みは依然として去らない、二月が三月となり半年となっても赤澤は足が痛くて働けないと言ひ相変らず休んでる。 元々公傷だから仕事を休んでも一日の賃金の半額に相当する休業日当を貰ってるので食ふだけには困らない。それに普通のやうに仕事してる者には月に二回の公休があり又時に二日三日と休むことがあって、一と月働いても三十日分の給料が手に入るといふ訳に行かず大抵二十五六日分しか貰へないのが相場になってゐるのに、公傷手当の休日日当は一日も欠けないのだから大の月は三十一日分そっくり貰へるといふ訳で、差引仕事に出てるのと大差がなくなる。だから怠け者には之れ程うまい事はない。公傷三日すればやめられないといふ鉱山の合言葉は此辺の消息を語ってるのだ。此麼(こんな)ふうだから元来仕事が嫌で遊ぶのが好きな赤澤には打って附けの役割を買って出たやうなものである。
     併しいくら本人が足の痛みが去らないので仕事が出来ないと言った所で医者の眼から見て全治してるのを金を呉れて遊ばせて置く訳には行かないから、人事係と病院側とでは働きに出るやうに色々と勧めたり、脅かしたり随分骨を折った。
    「ねい君、君が痛いと云ふのを外から痛くないと言って押しつける訳には行かないが、その位の程度なら我慢して仕事をすれば大丈夫出来ると思ふ。そうして軽い仕事から初めて馴らして行けば恢復も早いのだからぜひさうして呉れ給へ」
     此麼ふうに云ふと赤澤も素直に
    「へい、ぢゃあと二三日で仕事に出ます」
     と云ふのだが、二三日が五日になり七日になっても仕事に出ない。
    「どうも足に頼りがなくて駄目です」
     そして何時の間にか一と月位は過ぎて了う。
     そのくせ人の居ない所では跛も引かなければ高足駄で大股に歩いてる。夜は活動に行く、喧嘩はする、料理屋を荒す、で始末に終へない。僕なども丁度外科の受持が休んで居たので其人の代りに出て随分赤澤の説得に声を嗄らしたものだ。時には亢奮して「ぢゃ勝手にするさ、君のやうな分らん奴は此方の見込通り全治にして報告する」などと言ったものだ。
     人事係でも病院側でも殆々(ほとほと)持て余まして、結局公傷患者を解雇する訳には行かないから仕事に就き次第解雇することに決めて、百方赤澤を説得し就業するやうに仕向けることにした。そして軽うじてそれが成効して赤澤は渋々ながら仕事をする事になった。所が彼は何処から聞き込んだか仕事に出次第解雇される事を知り、先手を打って就業三日目に梯子から落ちたと言って公傷になり病院に治療を受けに来た。病院ではあきれて仕舞った。赤澤は再び公傷患者として休日日当を貰う身になった。怪我は医者が見ても分らない程度のものであるのに何ヶ月でも休んでゐる。そして僕等が就業を勧めると解雇しないといふ保証を要求する。
    「然し首にでもしたら人事の奴等も病院の奴等も皆殺しにしてやる」
     此麼事を言はれるとまさか遣るまいとは思ってもいゝ気持はしなかった。
     僕が鉱山を退いた時には赤澤は依然として痛くない足を引きずって病院に通って居たが、察するに其後彼の就業するのを待って断然解雇したものと見える。そして矢面に立って解雇を申渡した仁藤君が赤澤の憤怒を買って犠牲になったものと見える。
     鉱山に於ける殺人はS鉱山で二件Y炭山で一件遭遇して死体検案や解剖に携はったこともあるが別に大したショックは受けなかった。所がA鉱山の人事係殺しだけは加害者の性格を知り交渉が深かったゞけ新聞で見ても恐ろしいと思った。
     痩せて豹のやうに精悍な赤澤と象のやうに大きな体格を持った仁藤君の風貌は今も眼に残って殺人の事を思ふたびに浮び出る。


    「朔の散歩 (A刑事の打ち開け話)」
    二木鮒三
    「大衆文藝」大正15年(1926年)12月号より


     昨年の十二月、雑司ヶ谷〇〇寺の墓守が殺された事件の時です。同僚のBと私とが命令を受けて現場に張り込んで居ますと洋服を着た立派な紳士が墓地の方から遣って來て、様子ありげに兇行のあった墓守の小家の方に歩いて來るのです。私は急に緊張を覺えて其の紳士の行動に注意してると、小家の前まで行って戸口や四邊(あたり)の状態を見廻はして居る風でしたが、やがてさりげない様子で引っ返し、今度は墓地の方とは反對の鬼子母神の方へ歩いて行くのです。
     其の殺人事件と云ふのは其の前夜の十一時頃から朝の四時頃までの間に行はれたといふ推定で、被害者は墓守の六十二になる老人です。二三年前妻に死なれてから只一人で墓守の小家に起臥して居たといふ事で、そのために兇行も朝の六時頃に初めて發見されたといふ譯なんです。創は心臓部で鋭利な短刀様の兇器で只一と突にやられたらしく夜具から畳に掛けて夥しい凝血が漂って居ましたが、兇器は勿論犯跡といふものが一つも殘ってないのです。 被害者の老人は全くの獨者らしく、寺で訊いても親戚とか身内とかいふ者はないらしいといふので犯人の手掛が少しもなく、又犯罪の動機がよく分らないのです。只家財其他に手を着けた形跡がない點から考へて、多分何かの意趣で殺されたのだらうと多數の人の意見が其處へ集中しただけなんです。斯う云った譯ですから様子ありげな洋装紳士の行動は私として決して見逃がす譯に行かず、直に尾行する事にしたのです。
     紳士は私の尾行を少しも氣が付かない風で大様な足取りで〇〇寺の境内から鬼子母神の境内に入って行き、社殿の方には眼も呉れず茶屋の前を門の方へ進んで行きます。門を出ると右に曲って大きな欅を珍らしさうに見上げ見上げして矢張り悠(ゆった)りと歩いて行きます。其の態度から考へて尾行は決して覺られてないといふ安心を得ましたが同時に尾行は何の甲斐も齎(もた)らさないのではあるまいかといふ懸念を抱かずには居られませんでした。 その内に紳士は角を又曲って王子電車の終點の方に行き、電車が來ると直ぐに乗りました。私も最後の客の後に蹤(つ)いてそれに乗りました。大塚で乗客全部が下りて思ひ思ひの方向を通る中を私の目的の紳士は大塚の驛へずんずんと入って行き切符を買って改札口から中へ進んで、群衆と一所にホームへの階段を登って行きます。私は少し後からホームへ行って見ると彼は電車を待ちながらホームのコンクリートの上を行つ戻りつして懐中時計を見ながら何か思案してる風です。 その中に上野方面行の電車が來ると彼は自分から一番近い箱の戸口に進んで行くので私は姿を失はない様にして同じ箱の別の方の戸口から乗りました。午前十時を幾らも過ぎない時刻なので車内は割合に空いて居り彼の姿はすぐ見付かりました。玻璃(がらす)戸越の明るい光線で見ると彼は四十歳前後の鼻の高い聡明らしい男で風采も服装も立派な方でチョッキにはプラチナらしい鎖を昔風に垂らし、鎖の一端の提げ物に鏤(ちりば)めたダイヤからは冬の朝の和かな日光をチラチラと反射させて居ます。 帽子は薄鼠のソフトを被り外套は輕さうな薄地のラクダを纏ってます。只一寸異様に感じたのは靴で、極淺い、言はばスリッパに申譯だけの踵を附けたといふ風のを穿いて居ます。
    (平常自動車か車を用ゐて居るのだな。事によると醫者かな)
     と考へました。こんな風に品定めをやってるうちに電車は既に巣鴨を過ぎて駒込に入って居ります。居眠りしてる乗客を揺り起しでもするやうに一としゃくりしゃくって電車が急に速力を緩めたと思ふと、彼は勢よく扉を開けてまだ可なり惰力のついてる車から飛び居り、忽歩を返して後向きになるなり飛ぶやうに階段を駆け上って行くのです。私も無論つゞきました。驛を出て左右を見廻はすと紳士は陸橋を渡り終って市電の駒込橋終點の方へ急いで行きます。停留場の方を見ると線を替へた一臺の電車がポールの方向を變換してます。 やがて彼は電車に近づくとひらりと身を交はすようにして乗り込み忽ち車内に姿を隠しました。私は籠抜けを注意しながら足を速めて同じ電車に運轉臺の方から乗り彼の居る事を確めてから今度はその方を注意しない風を装ひ彼からずっと離れて腰掛け、懐から新聞を取り出して讀みながらそれとなく看視して居ました。乗客は段々に殖えて座席も半分ほど塞って來ました。電車はまだ出る氣色はありません。其中に彼は何か思ひ出したといふ風に立上り車掌に一言何か言って電車を下りて行きます。
    (どうするんだらう)
     と窓から行動を見てると停留場の前の本屋につかつかと入って行きます。
    (はゝあ、電車の中で讀む雑誌か何か買ふのだな)
     と思って店の入口を注意して居ましたが中々出て來ません。その中に車は車掌の合圖と共に動き出しました。私は慌てゝ車掌の制止を振り振(はら)って飛び下りましたがその時には電車は停留場から二十間も離れて居ました。
    (油断してるうちに遂々(とうとう)やられた)
     急いで本屋まで戻って中を覗いて見たがそれらしい影さへありません。車道へ出て周圍を見廻はしてると、陸橋の向ふに彼らしい姿が見えます。今下りた電車の方とは正反對の方の先刻(さっき)出て來た駒込の驛の前の邊にです。
    (何構ふもんか分られたらそれ迄だ)
     と思って彼の影を目當に全速力で駆け出しました。丁度飛鳥山行の電車が出たばかりでしたが辛じて追ひついて飛び乗ってホッとしました。車掌臺から覗いて見ると獲物は豫想通り居て吊革にぶら下ってます。尾行といふ奴はあれで氣骨の折れるものでしてとても容易なもんぢゃありません。それに氣がつかれたかなと思ひ出すと尚更焦躁(あせ)りましてねそのために飛んでもない仕損(しくじ)りを出來(でか)す事があるんです。此の時の尾行などは樂な方でしたが一時は全く慌てましたよ。 併し茲まで來れば大丈夫です。私は車掌臺を離れずに中を注意してましたが奴(やっこ)さん何處まで行くのか中々下りません。霜降橋、役場前、蠶絲學校前と來ても下りやうとせず、何時の間にか空いた座席に悠々と腰掛けて居るんです。次の一里塚に來て車掌が聲を掛け車の速力が弱った所で初めて腰を上げて餘裕綽々と下りて行きます。
    (大分此邊の電車に明るいな。多分此の近所に住宅(うち)を持って居るのだろう)
     彼は停留場から二三十間飛鳥山の方へ歩いて横町に入り一丁程進むと忽然と姿が消えました。確この邊だらうと思って來て見ると其處は黒塀の一と構へで、塀にはあまり眼につかない潜(くぐ)りが附いて居ます。その塀について細道を一廻りすると丁度先刻の紳士の消えた所と反對の邊に門構への家があって北島醫院といふ看板が出て居り、傍に醫學士北島清一とした標札が掛ってます。
    (矢張り醫者だったな。それにしてもあれが北島清一といふ人だらうか)
     と思ったので玄關に行って案内を乞ひ
    (先生は御在宅でしょうか)
     と訊くと書生らしいのが
    (はい、どうぞお上り下さい)
     といふ返事
    (おいでならば直ぐ患者を連れて参ります。――今裏からお歸りになったのが先生でしょうか)
    (左様でございます。それではお早く連れていらしって下さい)
     と中々要領がいゝ。此如事を話しながらそれとなく家の中を見ると控室の向ふの扉の半分空いた所から廊下の壁に掛ってる外套と帽子が見えて、それが紛れもなく私の尾行して來た紳士のものなんです。
     私は其處を出ると近所の交番から電話で簡單に報告をして、其結果早速北島醫師の召喚といふ事になったのです。


     訊問は私の詳細の報告に基いて行はれました。私は立會はないのであとから聞いたのですが此麼風だったさうです。
    「貴方は今日雑司ヶ谷に行かれたさうだが何の用事で行かれたのですか」
    「別に用事があった譯ぢゃありません、言はゞ散歩ですな」
    「散歩――ウム、しかし電車で散歩も妙なもんぢゃありませんか、それに雑司ヶ谷あたりを選ぶなんて――」
    「私は東京に前後十五六年も住んで居りますがまだ雑司ヶ谷といふ所に行った事がありませんので、今度王子電車が鬼子母神まで開通したのを機會に散歩旁々鬼子母神に参詣して來たのです」
    「散歩々々と言はれるが、貴方は開業醫で中々流行ってると云ふ事を聞いた、其の多忙な開業醫が朝から家を明けて午前一杯遊んで歩くといふのには相當の理由がなければならんと思はれるですが其點の説明は如何です?」
    「今日は十二月の一日ですが、十二月に限らず一日には患者が一向來ないのです。外は知りませんが私の附近の家では一日早々醫者通ひでもあるまいといふ事をよく言ひますので自然一日には患者が一向ありません。殊に午前中は別けて暇です。それで私は二三ヶ月前から毎月一日には午前中だけ遊びに出る事にしまして、十月には上野の展覽會を見に行き、十一月には久し振りで明治神宮を参拝して來ました。職務上定休といふものがないからせめて斯うして月に一回半日だけ休養しようといふ譯です。それで今日は近くの鬼子母神参詣といふ事にしたのです」
    「それでは〇〇寺の墓地に行き、昨夜殺人の兇行が演ぜられた墓番の小家に立ち入らんとした理由はどうですか」
    「私は今朝九時少し前に家を出まして王子電車で鬼子母神前まで参り直ぐ参詣をしましたのですが参詣を終へて時計を見ると九時二十分です。家を出てから三十分經ってません。之れでは早過ぎて家に歸れないと思ったのであの邊をぶらぶらしてると何處かの墓地に入って仕舞ひました。見るともなしに墓標を見て歩くと沼田秀山博士の墓標が眼につきました。有名な産科の泰斗で私の先生の佐藤博士の先生なのです。 私は此の偶然を喜んで親しく墓前に額きたい、又墓の裏面にある墓誌銘を讀みたいと思ひましたが鐵柵は嚴重であり戸の錠は固く鎖されてるために入る事が出來ません。さうだ墓地の案内所といふのが眼につきましたのでその小家の前まで行って見ると戸は締って居り、それに何となく物々しいと言ひましょうか、鬼氣人に迫るといふと少し大げさですが、たゞならないやうな氣配がしたので、急に墓地に居るのが厭になり其儘引っ返して電車の終點の方へ出て來ました。 前夜殺人があったとか、あの墓地案内所の小家が兇行の場所だったとかそんなことは今、貴方の御話を聞く迄少しも知りませんでした」
    「それで貴方はそれから直ぐお宅へ歸りましたか」
    「王子電車の終點まで來て見ましたがさて何處へ行かうと云ふ所もないから丁度其所へ來た電車に乗って大塚まで参り、省線で駒込まで來ました」
    「お話中だが大塚からお宅へ歸るには王子電車に乗り繼いで飛鳥山邊で下りた方が時間的にも經濟的にも便利ぢゃないですか」
    「無論さうです。しかし私のは出來るだけ長く煩しい職業の雰圍氣から離れて居て何か變った刺戟に遇ひたい、一分でも遅く診察室に歸りたいと云ふ、道草を食ってるうちには一ヶ月間仕事に没頭して藥の匂ひにふやけた頭を引き緊めて呉れるやうな事件にぶつかるかも知れないといふ妙な念願から出發した散歩なのですから世間的の便不便などは問題ぢゃないのです。 それで駒込の驛まで來てしまったのですが、電車の中で、ふと、本郷の器械屋へ行ってみようと云ひ氣になりました。尤も大塚で電車を待ってる時からまだ時間があるから大學の中でもぶらつかうか、それとも器械屋でも素見(ひや)かさうかといふ考はありましたのですがいよいよ器械屋行と決めたのは省線の電車の中でゞす」
    「それで貴方は本郷へ行きましたか」
    「いや行きませんでした。駒込橋の停留所前で電車の中で讀む雑誌を買はうと思って店に入った際に大變な事を思ひ出したのです。いや何でもない事なんですが、私としては大變なのです。大事なカナリヤに水をやるのを忘れて家を出たのを思ひ出したのです。幸、誰か氣がついて呉れゝばいゝがさもないと可哀想にカナリヤは水を求めて籠の中を飛び狂って居るだらう、と思ったのでそのまゝ本郷行を中止して急いで家に歸りました」
    「よく分りました。最後に昨夜十時から今朝六時までの貴方の行動をお尋ねします」
    「十時から十一時までは西ヶ原の紅白軒で球突きをやってました。十一時に難産の迎ひを受けて直ぐに往診をし十二時半まで患家に居って、直ぐ歸宅しました。患家は瀧野川――番地のD氏方、往復共車でした。一時に床に就て八時まで寝ましたがその間二時に電話に出ましたし、三時過には病用で書生に起され患者に與へる藥の處方を口授しました。兎に角、お尋ねの時間中に外出したのは紅白軒とD氏の宅へ行ったゞけで之れは電話で聞いて下されば分ります。又其外の時間は宅に居た事は書生、看護婦が證明して呉れるだらうと思ひます」
     まあこんな風で訊問は一向たあいなく終ったのです。元々北島醫師を有力な嫌疑者として拘引した譯ぢゃなし、あまり犯行があざやかで、被害者の經歴其他が一向分らないために、溺れる者は藁をも掴むと云ったやうに、單に北島醫師の行動が一寸奇怪に見えたゝめに参考人として召喚訊問したゞけの事なので係長としてはあまり重きを置いてなかったらしいのです。案の定、係長の訊問は悉く明解な答辯で解決され、掴んだ藁はするりするりと根元から抜けてしまうと云った譯で一向手應へがないのです。 念のために調べた紅白軒やD氏や書生看護婦車夫の言は北島氏の言と全然一致してるし、北島氏に對する参考人としての訊問は結局何の参考にもならずに終り、(御苦勞様でした)の一言でお別れになったのです。所が私としてはですね、どうも其日の北島醫師の行動が係長の訊問に答へた以外にもっと深い意味があるやうに思へてならなかったのです。 係長の推定通り無論犯人ではあるまいが何か重大な關係があるやうな氣がしたのです。理由を聞かれると困りますが、何となくさう思へたのですね。それで翌朝は、私にだけ自由行動を許されたのを幸に自分で北島醫師を訪問して腹の中を探って見ようと思ったのです。それが思ひがけない事件が突發したために翌朝の北島醫師訪問の豫定が後れて、やうやく夜になって實行出來たのです。


     その突發の事件といふのは永井徳三郎といふ文學青年の變死なんです。此の男は三十一にもなって居ながら定った家もなければ妻もなし、何といふきまった職業もなく年中下宿屋かr下宿屋を渡って歩いてるといふよくある型の人種で、原稿料でも偶に入れば二三日で遣ってしまってあとは湯錢にも困るといふ生活をして居たのです。近頃は東京中の下宿屋を殘らず食い詰めた譯でもないでしょうが間借生活を始めて、死んだのは柏木の奥の新井といふ家の離れなのです。何でも四十日ほど前から其處に居て、さほど窮しても居なかったと云ふのです。
     屍體の發見されたのは十二月の一日午後七時頃で私が調査に行ったのは二日の午前八時頃です。私は屍體を見る前に新井のかみさんに會って訊いてみると斯うなんです。
     永井は前日即十一月三十日の午頃に宿を出て其の日は遂々歸らなかったが、こんな事は度々あるので怪しまなかった。翌朝九時頃に行って見ると何時の間に歸ったのか布團を被って寝て居た。一時頃になると起き出してビールを二本買って來た。それから間もなく近所の洋食屋の出前持が何か届けに來た。其後自分は外出したから何も分らない。 主人は出張中だし子供は大阪に居るし、あとは誰も居ないのだから何時どうして永井が死んだのか分らない。七時頃に歸って離れに行って見ると様子がをかしい、よく見ると死んで居るやうだから半丁ほど先の醫者を呼んで來た。醫者は一目見て直ぐ交番に届け、それから大騒ぎとなった。
     之れ丈けの事を聞いてから死體のある離れを見せて貰ったのですが、離れと云っても一戸建ての獨立した住宅で六畳に二畳に一坪の臺所といふ、家としては随分小さなもので、それが新井の母屋から五六間離れて居るのです。死體のあるのは六畳間で、室の眞中に机を置きその上にライスカレー一皿、カツレツ一皿、ソースや藥味の瓶架一具、ナイフ、ホーク、スプーン各一提、生ビールを呑むやうな大きなビールコップが三個置かれてあるのです。 ライスカレーにはソースがざぶざぶという程注けられ、加之(おまけ)にその上に胡椒が振りかけられて、それが半分ほど平らけてあり、三つのビールコップには底にいくらかのビールが殘って居るだけ、カツレツには手がつけられて居ません。机の傍にはビール瓶が二本あって何れも空らになってます。永井はその机の前に晝寝でも貧ってるやうな恰好で長くなったまま倒れて居るのです。
     警察醫は中毒の疑を抱いて飲食物を全部分析のために持って行きましたが、さて中毒としても自殺か他殺か誰にも推定出來ません。室内も平常の通り亂雑で別に整理した跡もなし、何處を捜しても遺書らしいものも見つかりませんので自殺と推定も出來ない。又他殺としても何も根處がないのです。
    「コップの三つあるといふのは怪しいぢゃないか、一人で飲むには一つあれば澤山だ」
    「永井が一人で飲んでる處へ別に二人の友人か何かゞ來たのぢゃあるまいか」
    「それにしても洋食屋までコップ丈けを借りに行ったと考へるのも變なものだ」
    「初めから二人の客のあるのを知って居てコップを餘分に借りたのぢゃあるまいか」
    「それなら料理の一二品は餘分に取って置きさうなものだ」
     こんな話が集った人々の口から勝手に吐き出されんですが一向纏りがつかないのです。結局死體は解剖に附する。机の上の器物からは指紋を取るといふ月並な方法で解決の道に進むといふ事になりました。
     實を言ふと其當時私の頭は雑司ヶ谷の墓番殺しの事件で一杯になって居て、他の事件に關係する餘裕なんかなかったのです。此の柏木の文學青年變死の現場へ行ったのも別に命令を受けた譯でなくって、若しや雑司ヶ谷事件と何か關係があるのぢゃなからうか、或は此の自殺者が殺人の犯人などではあるまいかと都合のいゝ空想を描いて、空想に牽かれながら行って見たやうなものです。
     所が現場へ行って見ると以上のやうな有様で中毒の恐れがあるが自殺か他殺か分らないと言ふのです。中毒といふ事を解決するだけでも分析と解剖で何日か掛ってしまう、其結果藥物の中毒と決定してもおれが自殺か他殺かを決定するのは容易であるまい。私は到底それまで待ってる譯に行かない。それで私は永井の死は自殺である。そして永井は雑司ヶ谷事件の犯人であるといふ前提を設けて捜査を進める事にしたのです。 随分突飛な考ですが、何、私は當の責任者でも何でもなし、責任と言へば、單に雑司ヶ谷事件に就て何でもいゝから心當りを探って見ろと云ふ命令を受けて居るだけなのですから、どんな考の下に捜査の土臺を据ゑやうと勝手なんです。若し此空想が文字通り空想に終ったとしても一日の空想が現實の連鎖を見付ける繪さがしの遊戯に費したと思へば何でもない、などと思ひましてね、それで兎に角私のは一つの仕事であって、決して夢ではないのですから、第一に段取りを定め、それから實行に移りました。
     一、苟(いや)しくも學問のある青年が自殺するに何も書き遺さないといふ事は考へられない。家の中に何もないとすると郵便で出してるかも知れない。
     二、毒藥自殺をしたと假定すると藥の容器がなければならぬ、之れも家の中に何もないとすると屋外にある筈だ。
     三、永井が雑司ヶ谷事件の犯人であるとすると兇器及び血痕附着の衣類の始末はどうしたか、之れを捜がす必要がある。
     四、一人前の料理並に食器に對してコップが三つある理由を探明すること。
     之れが私のプログラムなのです。
     私は第一に洋食屋に行って出前持に會ひました。出前持は外の人々に色々と訊ねられたと見えて、又かといふ顔をしてました。出前持は昨日永井さんに註文を持って行った際、歸りに一封の郵便と油紙の小包の發送を頼まれた、又コップは御註文で三ッ貸して上げたと言ってました。出前持の話で私は
    (その郵便で出した封書は遺書に相違ない。それから小包といふのは犯行の證據物件だらう)
     と解釈しました。之れで私の立てたプログラムの第一と第三が終り、しかも前提に對してある程度の可能性を附與した事になりました。私の空想は之で滿足しなければなりません。
     次に第二のプログラムに移りました。室内に毒藥の容器のないのは捜査に從事した他の人々によって明かにされてあるので、私は屋外を捜査する事にしたのです。室の母屋側には小庭があって綺麗に掃除され陰といふものが幾らもありませんがそれでも丁寧に探しました。それから塵箱、便所とも探しました。幸なことに便所は掃除屋が二三日前に來たばかりだといふ事で別に穢い思ひをせずに濟みました。次は縁の下、それから往來の下水と云ふ順序ですが私の空想では其の邊には無い事になって居たので外へ移りました。 それは裏の空地の草原のことです。室には腰高の窓が一つあって丁度草原に面してるのです。家の中から果物の皮とか紙屑を投り棄てるには誂へ向きに出來てます。私はその草原を克明に探しました。蜜柑の皮、敷島の空袋、インキの空瓶、原稿用紙の彈丸、アンパンの食ひかけ、丁寧に新聞に包んだ古猿股、斯う云った物があとからあとからと半ば枯れ伏した草の間から發見されます。小春の日が澄んだ空氣を透して照り渡ってる中を、かさこそと枯草を掻き分け掻き分け中腰になって行きつ戻りつしてるのを見たら人は何と思ふだらう。 私は後から(蟋蟀なら死んでしまってもう居やしないよ)といふ人聲がするやうに思へました。實際私は蟋蟀の死骸が草の根に横はって居たら決して見逃さなかったらうと思ふほど綿密に捜し廻りました。數時間は過ぎました。冬だといふのに背中からは汗さへ流れて、疲れた體を枯草の中に投げ出したいと感じた頃漸く目的の獲物を探しあてました。間もなく第二の獲物まで發見しました。私は滿足して蟋蟀取りを止め、獲物を懐ろにして永井君の塵捨場を引き揚げました。
     大急ぎで家に歸った私は襖を締め切ってから机の上に草原から發見した二つの獲物を置き並べました。一つは三瓦(グラム)半入のモルヒネの空壜で、も一つは一オンス入の投藥瓶です。投藥瓶には一%コカイン液と書いたレッテルが貼ってありました。
     私の空想と現實の連鎖を發見すべく遊ばれてる繪捜しはプログラム通りに進行してあとは第四のコップの秘密さへ判ればいゝと云う所まで來ました。私の空想は机の上のモルヒネとコカインとの二つの空壜と、柏木の永井の室とを二つの中心として楕圓形にぐるぐると廻ります。
     ――永井は雑司ヶ谷の兇行から宿に歸ると兇器と證據品を一と纏めにして丈夫な小包を拵へ、誰かに宛てた遺書を書いてその二つを洋食屋の出前持に托して郵便で出した。それから洋食屋から借りたコップの一つに、恐らくは西ヶ原の北島醫院から貰ったか、それとも盗んだかしたモルヒネの超致死量を入れ、それにビールを注いで完全に溶解した。他の二つのコップには單にビールだけを注いだ。そして眼をつぶって三つのコップの位置を何度も何度も置き換へて、どれがモルヒネを入れたコップだか分らなくした。 それからライスカレーには胡椒を掛け、その上にソースを注いだ。モルヒネの苦味――ビールの苦味だけでは紛はせない――モルヒネの苦味を感じないやうに、胡椒とカレーとソースとで舌の味覺を混亂させるためである。凡ての準備が出來ると彼はコカインの適量を水に割って飲んだ。嘔吐を豫防せんがためである。折角飲んだモルヒネを胃が自分の本分を守って噴門から逆に食道へ送り返しては目的が達せられない事を彼は知って居たのである。
     ――彼は妙な調味料で味つけられたライスカレーを食べてはビールを呷った。何杯目のコップがモルヒネを胃に運んで呉れたか分らない。彼は陶然と酔った。アルコールに溶けたモルヒネは急速に胃から吸収された。睡くなった。横になった。モルヒネは胃から腸から盛んに吸収される。大脳が麻痺し、延髄が麻痺ひ、呼吸が止まり、心臓が永久に眠って、凡ての細胞が機能を絶止するまで盛んに盛んに吸収される――


     其の夜私は北島醫師を訪問しました。自殺した永井と彼との關係を明瞭にするためです。
    「今夜は一つ腹蔵のない所を伺はなければなりません」
    「何ですね? 出し抜けに? 折角いゝ氣持で散歩してると變な眼付で睨んだり、跡を蹤(つ)け廻はしたり、おまけに直ぐ患者を連れて参りますなどと出まかせを言って、人に待ちぼうけを食はせたり、それで午後には一寸來いでしょう、眞實(まったく)、いやになりますよ」
    「いや申譯ありません」
     私は事實を有りの儘に告げました。
    「こんな譯で、實は永井の兇行や自殺と貴方との間に何か關係があるのだらうと思ひました。いや永井が雑司ヶ谷の犯人だといふのは私だけの想像ですが、事實恐らくは私の想像通りであって、貴方に伺へば此の邊の消息が全部判明するだらうと考へたのです」
    「すると何ですか、私が永井を教唆して雑司ヶ谷の墓守を殺させ、翌日何食はぬ顔で現場へ、果して永井が決行したかどうかを探りに行った、と斯う考へて居られるんですね」
    「教唆とまでは考へてませんが兎に角重大な關係がありはしないかと思ったのです」
    「飛んでもない」
     私は別に拘引の令状を持ってる譯ではありませんが都合によっては連行してもいゝと云ふ覺悟で來たのですから之れ位では引っ込んで居られません。
    「貴方は永井を知って居るでしょう」
    「知ってます」
     此の一言で私の想像は實際と一致したと思ひました。そして思はず氣色ばんだのでしょう。北島醫師は手で私を制しました。
    「まあ、茶でも飲みながら悠り話しましょう。昨日のお役人のやうに、然らば十一月三十日午後十時から十二月一日午前六時までの貴方の行動をお尋ねします。なんて出られる、知ってる事も言ひたく無くなって、只訊問に答へるだけに止め、お上の都合などはどうでもいゝと思ふやうのなりますからね」
     と彼は急に砕けて
    「昨日の尾行の御苦勞に酬(むく)ゆるために悉皆(すっかり)話して上げましょう。早まっちゃいけませんよ。終ひまで聞いて下さい」
     永井徳三郎といふ男は三四年前に私の家で藥局生をして居た事があるのでよく知ってるのです。尤も此の一二年少しも顔を見ませんがね、所が一昨晩、三十日の晩ですね、球突きに行ってると或る男が斯う云ふ事を云ふんです。(永井の奴今夜來て、今晩こそ愈々決行するんだとと云って行った)と斯うなんです。永井は私の家に居る時から雑司ヶ谷の〇〇寺の墓番は親の敵(かたき)だから其内にやっつけるんだとよく言って居たものです。尤も誰にも話した譯ではありませんが私には何度もさう言ひました。 ある時は之れでやるんだなどと短刀などを見せた事さへあるんです。それで私も氣味が惡くなったので出してやったのです。その事は其の男もよく知って居たので、之れ丈けの話で二人には何の意味かよく分ったのです。私はその時、又例の事かと別に氣にも留めませんでしたが、その翌日雑司ヶ谷を散歩して墓番の小家の前に行った時は此の事を思ひ出さない譯でもありませんでした。そして妙な、兇行でもあったやうな感じさへしたのでした。
     併し貴方から尾行された時にはあまりいゝ氣持はしませんでしたよ、巻かうかと思ったんだらうって? 決してそんな考なんか持つもんですか、私の行動は公明ですよ、昨日お役人に答へた通りで他意なんかあるもんですか、それを、(一つ尾行をからかってやれ、うまい工合に捲いて馬鹿面を見てやらう)なんていふ意味がある様にお取りにならうと夫れは貴方がたの御勝手ですが――」
    「お待ちなさい」私は思はず斯う言ひました「之はどう説明します。貴方は永井の顔を一二年も見ないと云ふが、それは僞りでせう。永井は三十日の夜貴方の家に來た筈だ。之れを見て下さい。どうです、之れでも永井は來ないと言ひ張りますか」
     私はモルヒネとコカインの瓶を北島に突きつけました。
     北島は私の興奮を又手で制して
    「だから終ひまで聞いて下さいと云ふのです。私が三十日の晩紅白軒で會ったといふのは高瀬といふ同業者で、永井は昨年までその家に藥局兼代診をして居たのです。此のモルヒネとコカインもその夜高瀬醫院から盗んで行ったものなのです。
    「高瀬君の處へは永井君から手紙が來て、首尾よく親の敵を取った事と、無斷で頂戴したモルヒネとコカインで自殺するといふ事、それから、敵討に用ゐた短刀は家重代の物であるから菩提寺へ送ったと言ふ事が書いてあったから早速警察へ届けたさうです。之れは夕方高瀬君から電話で知らせて寄こしました」
     北島氏はコカインの瓶を取りあげて
    「よく御覧なさい、此のレッテルは投藥瓶に貼るレッテルを裏返しに貼ったので、電燈に透かして見ると高瀬醫院と云うのが明かに分ります。
    ×
     之れで私の空想と現實との連鎖は完全に繋がった譯です。只終ひの方が北島醫師に對する見當違ひから鎖が細くなって終ひましたが、之れ位は大目に見て貰はなければなりません。少々の見當違ひは誰にもあるのですから。只正直に告白すると默って居るとの違ひだけなんです。 (終り)

     ※漢字の使い方やゆらぎは原文のままです。鍵括弧の終りの句点は省略で統一、促音は追加しています。


    「赤城山行 旅の思ひ出」
    二木鮒三
    「大衆文藝」昭和2年(1927年)7月号より
     句帳を繰ると七月四日となってる。大正十四年の事である。間藤を立ったのが午後一時二十分とあるから水沼に着いたのは三時頃だったらう。汽車を下りると直ぐ道を赤城にとる。照りつける陽が可なり暑かった。道には桑の実が赤に紫に熟れて居た。途中群馬県知事の一行だといふ物々しい乗馬の一隊に会ふ。同行のM君は随分足が早い。そして却々(なかなか)休まうと言はないので僕もそれに従った。二里あまり来て利平茶屋といふ峠の上り口に着いた時は二人は少し疲れて来たので二十分ほど休んだ。小流れの傍に建ってる休憩所には参社札といふのでもあるのか「東京山長」とか「日本ばし魚勘」などといった札がベタベタと貼ってある。僕も名刺に
       遅躑躅まづしく咲いて登山茶屋
     と即景と書いて貼りつけた。二十八丁の登りは随分骨が折れたが、樹林の中なのであまり暑くない。さらさどうたんと云ふのだらう。縞のある満天星(どうたん)が咲きこぼれてゐる。
       花苔に満天星散るや赤城道
     峠に辿りついて行手を見渡した景色は今も眼にある。遠く大沼が樹の間に見えて沼尻の小川が脚下まで及び、水辺には赤城特有のれんげつゝじが咲き誇ってる。つゝじは野にも丘にも一面に燃え立ってゐる。
     夜は湖畔の猪ヶ谷旅館といふのに泊った。この辺は海抜四千八百尺の高原なので七月といふのに湯上りの肌にシャツと単衣を纏っても寒い感じがする。夕立が一しきり月のある湖面を過ぎると天地は静まり返って太古といふ思ひがする。時鳥(ほととぎす)が鳴く。しばらくすると慈悲心鳥が鳴く。慈悲心鳥は足尾辺でも渡良瀬やあれから古峯ヶ原か中禅寺湖の方へ一寸入ると盛んに鳴くが、湖面に音を曳いて鳴く声は別な興趣がある。
       夕立晴慈悲心鳥の一しきり
     朝は早く起きて櫓を押して湖に出た。四囲の峰々には靄が罩めてその裾が湖面に揺曳してる。漁師の船の板子の音が水伝ひに響いて来る。早い朝食を済まして小沼の方に行くと朝靄の道に半面を見せて白樺がすくすくと立ってるのもいゝ。小沼のあたりのつゝじの集団は殊によかった。
     足尾鉱山の一本一草を見ない煙毒の地から来た僕は、せめて一週間も赤城湖畔で過して見たいと思った。併し湖から捕れるあいそといふ魚を朝も晩も食はされては終ひにあいそが尽きるといふ話だから一夜位の旅の方がいゝのかも知れない。僕等はその日の午後に山を下った。赤城つつじを見るのなら六月の末頃がいゝと思ふ。宿屋はもう一軒あるさうである。宿料の安かったのも思ひ出の一つである。
       眼に残るれんげつゝじの真っ盛り


    「新鉄道唱歌 奥羽線」
    大内兆 (作詞)
    『新鉄道唱歌 第九輯 奥羽線』鉄道省 大阪毎日新聞社、東京日日新聞社 昭和4年(1934年)4月28日より
    (1)
    影もかぼそき片割れの
     ゆふべの月を眺めつゝ
    上野の驛を離れゆく
     山形秋田の汽車の旅


    かげもかぼそき かたわれの
     ゆうべのつきを ながめつつ
    うえののえきを はなれゆく
     やまがた あきたの きしゃのたび

    (2)
    赤羽あとに荒川を
     渡ると見れば川口や
    浦和の驛もはやすぎて
     大宮驛もほど近し


    あかばねあとに あらかわを
     わたるとみれば かわぐちや
    うらわのえきも はやすぎて
     おおみやえきも ほどちかし

    (3)
    月影くだく大利根を
     渡ればやがて小山驛
    兩毛線や水戸線を
     よそに進めば宇都宮


    つきかげくだく おおとねを
     わたればやがて おやまえき
    りょうもうせんや みとせんを
     よそにすすめば うつのみや

    (4)
    日光線は乗換と
     呼ばるゝ聲に想ひ見る
    東照宮の壮麗や
     中禅寺湖の舟遊び


    にっこうせんは のりかえと
     よばるるこえに おもいみる
    とうしょうぐうの そうれいや
     ちゅうぜんじこの ふなあそび

    (5)
    しばしまどろむ夢の間に
     那須野ヶ原も那須岳も
    いつしかすぎて白河の
     夜風身にしむ關の址


    しばしまどろむ ゆめのまに
     なすのがはらも なすだけも
    いつしかすぎて しらかわの
     よかぜみにしむ せきのあと

    (6)
    牡丹に名ある須賀川を
     すぐればはやも郡山
    磐越線に乗りかへて
     旅の一日を越後路へ


    ぼたんになある すかがわを
     すぐればはやもこおりやま
    ばんえつせんに のりかへて
     たびのひとひを えちごじへ

    (7)
    右に聳ゆる磐梯の
     山の翠に照り映えて
    姿さやけし猪苗代
     スキー賑ふ沼尻や


    みぎにそびゆる ばんだいの
     やまのみどりに てりはえて
    すがたさやけし いなわしろ
     スキーにぎわう ぬまじりや

    (8)
    會津盆地の若松市
     戊申の昔偲びつゝ
    飯盛山や鶴ヶ城
     若人(わこうど)かなし白虎隊


    あいづぼんちの わかまつし
     ぼしんのむかし しのびつつ
    いいもりやまや つるがじょう
     わこうどかなし びゃっこたい

    (9)
    盛る温泉の東山
     只見の谿の虚空蔵や
    喜多方あたり仰ぎ見る
     名もそのまゝの飯豊山


    さかるいでゆの ひがしやま
     ただみのたにの こくぞうや
    きたかたあたり あおぎみる
     なもそのままの いいでやま

    (10)
    山都を後に上野尻
     そば立つ岩にたきつ瀬の
    水も緋にもゆ唐錦
     紅葉の秋の阿賀野川


    やまとをあとに かみのじり
     そばたついわに たきつせの
    みずもひにもゆ からにしき
     もみじのあきの あがのがわ

    (11)
    豊實すぐれば津川驛
     船をうかべて麒麟橋
    五泉の町もはやあとに
     程なく着くや新津町


    とよみすぐれば つがわえき
     ふねをうかべて きりんばし
    ごせんのまちも はやあとに
     ほどなくつくや にいつまち

    (12)
    また立ちかへる郡山
     本線行けば福島市
    西に進みて庭坂を
     すぐればこゝぞ板谷越え


    またたちかへる こおりやま
     ほんせんゆけば ふくしまし
    にしにすすみて にわさかを
     すぐればここぞ いたやこえ

    (13)
    吾妻に近きこのほとり
     スキーに名ある五色湯や
    高湯、姥湯と數しれず
     温泉郷と人はいふ


    あづまにちかき このほとり
     スキーになある ごしきゆや
    たかゆ、うばゆと かずしれず
     おんせんきょうと ひとはいう

    (14)
    汽車も喘ぎて上りゆく
     峠は海抜二千尺
    越えゆく山の深ければ
     秋は紅葉に谿あかし


    きしゃもあえぎて のぼりゆく
     とおげはかいばつ にせんじゃく
    こえゆくやまの ふかければ
     あきはもみじに たにあかし

    (15)
    一つ二つと數え來て
     いつか十四のトンネルも
    後ろになりてわが汽車の
     道も下りとなりにけり


    ひとつふたつと かぞえきて
     いつかじゅうしの トンネルも
    うしろになりて わがきしゃの
     みちもくだりと なりにけり

    (16)
    こゝは名高き米澤市
     もと上杉の城下にて
    絹織物や米や酒
     米澤牛の名も著し


    ここはなだかき よねざわし
     もとうえすぎの じょうかにて
    きぬおりものや こめやさけ
     よねざわぎゅうの なもしるし

    (17)
    米坂線をあとにして
     糠の目ゆけば赤湯驛
    櫻かざすか烏帽子山
     長井荒砥は乗換へて


    よねさかせんを あとにして
     ぬかのめゆけば あかゆえき
    さくらかざすか えぼしやま
     ながいあらとは のりかえて

    (18)
    聲をうしろに中川や
     温泉に名ある上の山
    越ゆればはやも山形市
     つらなる町の賑かさ


    こえをうしろに なかがわや
     いでゆになある かみのやま
    こゆればはやも やまがたし
     つらなるまちの にぎやかさ

    (19)
    岩おもしろき山寺の
     勝を探るも興なれや
    左に行けば左澤
     沼の浮島見に行かん


    いわおもしろき やまでらの
     しょうをさぐるも きょうなれや
    ひだりにゆけば あてらざわ
     ぬまのうきしま みにゆかん

    (20)
    山形出でゝ窓近く
     出羽三山を望みつゝ
    将棋の駒の産地なる
     天童あとに大石田


    やまがたいでて まどちかく
     でわさんざんを のぞみつつ
    しょうぎのこまの さんちなる
     てんどうあとに おおいしだ

    (21)
    新庄驛に乗換へて
     東にゆけば瀬見の湯や
    鳴子、川渡、中山湯
     やがて小牛田に至るべく


    しんじょうえきに のりかえて
     ひがしにゆけば せみのゆや
    なるこ、かわたび なかやまゆ
     やがてこごたに いたるべく

    (22)
    西にすゝめば庄内の
     米の平野はひらけゆく
    最上の川の岸傳ひ
     眺めは飽かぬ余目へ


    にしすすめば しょうないの
     こめのへいやは ひらけゆく
    もがみのかわの きしづたい
     ながめはあかぬ あまるめへ

    (23)
    朝日かゞやく鳥海山
     斑にのこる白雪を
    窓より見つゝ我汽車は
     北へ北へと進みゆく


    あさひかがやく ちょうかいさん
     まだらにのこる しらゆきを
    まどよりみつつ わがきしゃは
     きたへきたへと すすみゆく

    (24)
    昔聞えし銀産地
     院内あとに横堀や
    清酒に名ある湯沢町
     すぐればこゝぞ横手驛


    むかしきこえし ぎんさんち
     いんないあとに よこぼりや
    せいしゅになある ゆざわまち
     すぐればここぞ よこてえき

    (25)
    ひがし東北本線の
     黒澤尻につゞくなる
    横黒線にわかれつゝ
     ゆきつく驛は後三年


    ひがしとうほく ほんせんの
     くろさわじりに つづくなる
    よこぐろせんに わかれつつ
     ゆきつくえきは ごさんねん

    (26)
    八幡太郎義家が
     雁の亂れに伏兵を
    知りしと傳ふ金澤の
     柵の古跡もこのあたり


    はちまんたろう よしいえが
     かりのみだれに ふくへいを
    しりしとつたう かなざわの
     さくのこせきも このあたり

    (27)
    遠き昔を思ひ出に
     ふけりてゆけば大曲
    生保内線に乗換へて
     田澤の勝を訪ねなん


    とおきむかしを おもいでに
     ふけりてゆけば おおまがり
    おぼないせんに のりかえて
     たざわののしょうを たずねなん

    (28)
    水清らかに澄みわたる
     湖水は深さ日本一
    鏡に寫る山影の
     ひとり秀づる駒ヶ嶽


    みずきよらかに すみわたる
     こすいはふかさ にほんいち
    かがみにうつる やまかげの
     ひとりひいづる こまがだけ

    (29)
    秋田縣廰所在地の
     秋田は佐竹の舊城下
    金銀細工、秋田蕗
     千秋公園名も著し


    あきたけんちょう しょざいちの
     あきたはさたけの きゅうじょうか
    きんぎんざいく あきたぶき
     せんしゅうこうえん なもしるし

    (30)
    ここに岐るゝ羽越線
     酒田・鶴岡・村上と
    裏日本の海ぞひに
     遠く新津に走りゆく


    ここにわかるる うえつせん
     さかた つるおか むらかみと
    うらにっぽんの うみぞいに
     とおくにいつに はしりゆく

    (31)
    櫓は列ぶ石油の
     土崎すぎて追分や
    船川行に乗換へて
     心も躍る男鹿めぐり


    やぐらはならぶ せきゆうの
     つちざきすぎて おいわけや
    ふなかわゆきに のりかえて
     こころもおどる おがめぐり

    (32)
    潮にもまるゝ島合の
     巌面白き斷崖に
    日本海の浪怒る
     窩雀窟や阿字ヶ島


    しおにもまるる しまあいの
     いわおもしろき きりぎしに
    にっぽんかいの なみいかる
     こうじゃくくつや あじがしま

    (33)
    追分驛に立ちかへり
     北にすゝめば鹿渡の驛
    寒風山の影うつす
     八郎潟の波しづか


    おいわけえきに たちかえり
     きたにすすめば かどのえき
    かんぷうざんの かげうつす
     はちろうがたの なみしずか

    (34)
    機織驛に乗りかへて
     木材業や塗物に
    名ある能代の町をすぎ
     行けば椿の鑛山地


    はたおりえきに のりかえて
     もくざいぎょうや ぬりものに
    なあるのしろの まちをすぎ
     ゆ)ばつばきの こうざんち

    (35)
    機織たちて二ツ井や
     鷹ノ巣驛もはや過ぎぬ
    大館驛に汽車下りて
     あたりの名所探らなん


    はたおりたちて ふたついや
     たかのすえきも はやすぎぬ
    おおだてえきに きしゃおりて
     あたりのめいしょ さぐらなん

    (36)
    金、銀、銅の産地なる
     小坂の山のほとりには
    三大美林と呼ばれたる
     杉の林は今いづこ


    きんぎんどうの さんちなる
     こさかのやまの ほとりには
    さんだいびりんと よばれたる
     すぎのはやしは いまいずこ

    (37)
    花輪の途の毛馬内に
     秋田鐵道乗りすてゝ
    大湯の川の岸傳ひ
     十和田の道を進みゆく


    はなわのみちの けまないに
     あきたてつどう のりすてて
    おおゆのかわの きしづたい
     とわだのみちを すすみゆく

    (38)
    深山の樹々の影ひたす
     太古のごとき湖に
    浮ぶ島山繪の如く
     紅葉の秋ぞしのばるゝ


    みやまのきぎの かげひたす
     たいこのごとき みずうみに
    うかぶしまやま えのごとく
     もみじのあきぞ しのばるる

    (39)
    大館あとに陣場驛
     鐵路は陸奥に進みいり
    碇ヶ関や大鰐の
     湯の里すぎて弘前市


    おおだてあとに じんばえき
     てつろはむつに すすみいり
    いかりがせきや おおわにの
     ゆのさとすぎて ひろさきし

    (40)
    第八師團屯する
     こゝは津輕の舊城下
    城址に立ちて眺むれば
     目路もはるばる津輕野や


    だいはちしだん たむろする
     ここはつがるの きゅうじょうか
    じょうしにたちて ながむれば
     めじもはるばる つがるのや

    (41)
    姿美し岩木山
     流れは清き岩木川
    林檎や米に惠まれて
     わけて名物津輕塗


    すがたうつくし いわきやま
     ながれはきよき いわきがわ
    りんごやこめに めぐまれて
     わけてめいぶつ つがるぬり

    (42)
    弘前驛を離れきて
     川部は鐵路十文字
    右は黒石支線にて
     左に入れば五所川原


    ひろさきえきを はなれきて
     かわべはてつろ じゅうもんじ
    みぎはくろいし しせんにて
     ひだりにいれば ごしょがわら

    (43)
    道はこれより西に折れ
     津輕平野を横切りて
    鐵路のはては鯵ヶ澤
     千畳敷も訪ねみん


    みちはこれより にしにおれ
     つがるへいやを よこぎりて
    てつろのはては あじがさわ
     せんじょうじきも たずねみん

    (44)
    川部をたちて雪深き
     冬の夜長の藁細工
    つくるといへる浪岡の
     驛もうしろにいざさらば


    かわべをたちて ゆきふかき
     ふゆのよながの わらざいく
    つくるといえる なみおかの
     えきもうしろに いざさらば

    (45)
    一つ二つの驛すぎて
     窓邊に青き波の色
    映ると見ればわが汽車は
     はや青森につきにけり


    ふとつふたつの えきすぎて
     まどべにあおき なみのいろ
    うつるとみれば わがきしゃは
     はやあおもりに つきにけり

    (46)
    津輕の海の波静か
     港に集う船の數
    東北線と奥羽線
     こゝに續きて海は又


    つがるのうみの なみしずか
     みなとにつどう ふねのかず
    とうほくせんと おおうせん
     ここにつづきて うみはまた

    (47)
    北海道の連絡地
     ホームに續く岸壁に
    待つは何船何丸か
     やがて出で行く海の旅


    ほっかいどうの れんらくち
     ホームにつづく がんぺきに
    まつはなにせん なにまるか
     やがていでゆく うみのたび


    「作者の言葉」
    多々羅四郎
    「サンデー毎日」昭和5年(1930年)4月6日号より
      (写真掲載あり)
     一月の二十日過ぎ、日日新聞の募集広告を見て一週間ほどで書き上げたのですが入選とは意外です。探偵小説は今まで幾らか書いたことがありますが、活字になったのは三篇だけで実は匙を投げてゐたのです。今度のも探偵小説とすると失敗すると思ったので、いくらか探偵味を帯びた新小説といったものにしました。
     投書道楽という奴は随分やりました。短歌、俳句、それも舊派、ホトトギス派、新傾向と何でもやりましたし、それから川柳、狂歌、都々逸、問答、ものは附、沓、冠、と書くと際限ありませんが、一として上手なものはありません。近ごろは俳句と文章を二三の俳誌に出してるだけです。俳句も、しかし、駄目ですね、一句賞になったり脱賞して落選組に入ったりですから。
     もう二十年近くも前の事ですが、ある乞食易者に、あなたは筆に因んだ仕事をすると成功するといはれたんです。当時すでに学校を出て飯の種に有りついでゐたので、耳を傾けませんでしたが、あの時もし易者のいう通り片手間にでもペンを取って小説でも書き続けてゐたら、今ごろは相当の作家になってゐたかも知れないと、うぬぼれたりしてゐます。
     日日新聞はこの易者に冷やかされたころからのお馴染みですが、近頃は始終俳句を出したり、昨年は鉄道唱歌で一等にして頂いたり色々とお世話になってをります。この鉄道唱歌と今度の大衆小説は近来の私としての大収穫です。


    「口火は燃える」
    多々羅四郎
    「サンデー毎日」昭和5年(1930年)4月6日号より


     上野の圖書館を出た加瀬は緩やかな歩みを鶯谷の驛の方へ移した。二月の太陽はまだ光も弱く、物蔭は底冷えを隠してゐたが、そこらの櫻の梢はうっすりと紅を含んで午後の青空に静かに呼吸してゐる。
    「もう春だな――」
     加瀬は歩きながら大きく胸を張り、持ってゐたステッキを大きく振った。ステッキはかすかな音を立てゝ空に輪を描いてゐたが、そのうちの帽子に當たり、それを地上に撥ね飛ばした。彼は帽子を拾って被りながら思った。
    「この帽子にも直ぐお別れだが、考えてみると長い學生生活であった。殆ど人生の半ばを學ぶことゝ試驗を受けることのみに費やして來たのだ。だがもう直ぐだ。今度は世の中といふ所へ試驗を受けに行くのだ。大いにやるさ、斷然やる――か。そして――」
     彼は彼女のことを思った。思ったといふよりは、いつでもどこでも決して忘れることをしない彼女のことを、明かに意識にのぼしたというほうが當たってるかも知れない。彼は急に幸福を感じ出して頬の邊のほてるのを覚えた。太陽はいよいよ輝き空はますます澄んだように思へた。そして遠くの方で小鳥が彼のために春の樂を囀ってゐるやうに思えた。上野の山超しに聞えて來る市内の騒音でさへも、ジャズか何ぞのやうに考へられる。
    「加瀬、おい加瀬」
     振り返って見ると五六歩後ろに戸崎が追い縋るやうに歩いて來る。
    「――――」
     加瀬は想像の世界から現實に引き戻されなが瀟洒な学生服に包まれた戸崎を見た。
    「加瀬、莫迦に幸福さうぢゃないか、どこへ行った?」
    「圖書館の帰りだ」
    「君ん所からは上野が一番近いわけだね、論文は出来たか」
    「清書さへすればいゝ」
    「僕はあと一ヶ月掛る。でもテーマは動かないし、二三實驗をやればいゝんだから間に合ふには間に合ふ積りだ。――だが卒業して學士になっても、お互いに坑稼ぎぢゃ日の眼も碌に見られないっていふ譯だね。採鑛など何の氣でやる積りになったか分らんね」
    「今更そんなことをいったって――」
    「君は幸福さ、首席は間違ひないし、口の心配はなし、論文は出来てるし――。僕も早く仕上げればよかったのだが、下らない暗號なんかに引っかゝってゐたものだから二、三週間すっかり棒に振っちゃった」
    「あの探偵小説の暗號か、しかしよくあきずにやってるね。井澤や瀧などのグループだらう?」
    「暗號の解きっこをやってゐるんだ」
     早春の午後は立ち話には少し寒すぎる。
    「暗號よりも論文の方を折角やり給へ。失敬する」
     加瀬は驛の方へ行く戸崎を殘して、橋の方へ行き掛けた。歩いたり止まったりしてそこまで來てゐたのだ。
    「加瀬、君は阪本だったね。多喜子さんによろしく」
    「えっ?」
    「しかし幸福に酔ひ過ぎないほうがいゝよ」
     戸崎の最後の言葉は余寒の空ら風の冷やかさと鋭さをもって彼の背ら(せびら)を打った。いやな豫感といったやうな不安な感じが全身に沁み渡った。彼は夕近い人通りの繁くなりそめた橋を渡って下宿のほうへ急いだ。


     阪本三丁目の鹽物屋の離れの四畳半が彼の淋しい住居であった。路地傳いに裏から這入ると鹽物屋の家族と顔を合わせることなしに濟むので、いつとはなしに、そうするようになっていた。
     机の前に座って瀬戸火鉢を埋み火を掻き分けながら彼は圖書館での調べ物をひろげた。それから本立ての中の論文のノートへ手をやった。それはこの半年間朝に夕に親しんできたノートである。
    「おやっ」
     ノートがない。本立ての書物やノートを全部調べても見えない。
    「圖書館へ持って行って、置き忘れたかな、――いやそんなことはない。今まで一度も持ち出したことがないんだ。決して持ち出さないことにきめているんだ」
     彼は本立てをなお一度見た。圖書館へ持って行った手提も見た。本棚も見た。押入れも見た。だが、どこにもない。しまった。眼の前に黒い帳が垂れ下って世界が急に暗くなった。心を落着けるために机の前に端座して静かに眼をつぶって考えた。
    「ここより外に有るべき場所がない」
     加瀬は静かに立ち上ると電灯のスイッチを捻った。夕暮の空は隅々まで明るくなった。彼はもう一度秩序を立てて捜索して見た。しかしないものはない。論文の原稿は盗まれたのだ。
    「蕃太郎君」
     障子を開けて呼んでみた。中学の入学試験を受けるために加瀬に特別の教えを受けている母屋の長男である。
    「お帰んなさい、蕃太郎はまだ学校から帰りませんが、何ぞ――そうそうお火が有りますかしら」
     こういいながら下駄を突っ掛けて来たのは鹽物屋の主婦であった。
    「おばさん、今日僕の留守中に誰も来なかったでしょうか」
    「どなたもお見えになりませんが――」
    「そうですか、誰か来たはずなんですが――」
    「そういえば一時頃に障子の開いた音がしたようでしたが、あなたがお歸りになったものと思って氣に留めずにいましたが――」
    「誰だか見なかったですか」
    「ええ、氣に留めなかったものだから――、縁側の沓脱ぎに靴が見えてましたが、あなたがお歸りになったのだとばかり思ってましたから――」
    「僕は朝出たきり歸らないんです。――靴はどんな靴でした?」
    「赤い編上げでした。まだ新しい、前に加瀬さんが履いていらしった、あれと同じ色の――そうそう、そういえばあなたの今の靴は黒でしたね、どうしてあの時気が付かなかったんだろう」
    「すると、あいつかな」
    「どうかしたんですか?」
    「いや、なんでもないんです。靴は前に僕が履いていたローダースと同じ色の編上げで、新しいのだといいましたね」
    「名は分りませんが、あれと同じ色でした」
     主婦が行ってしまふと彼はまた考へてみた。(どうしても盗まれたとより外思はれない。こんなもの、僕には命のつぎに大切だが、他人には何の價値もないものだから盗まれるなどゝ考へてみなかったのが不注意だったんだ。)彼は學友の瀧が、俺は寝る時や外出する時には論文を親父の金庫に入れるんだ、といった話を思ひ出し、その時には皆で小心を笑ったが、今から考へると、それでも用心し過ぎた譯ではなかったのだ、と思ったりした。
     それにしても何の目的で論文の原稿などを盗んで行ったのか、加瀬にはどう考へても分らなかった。
    「あいつかな」
     ふと、最前、圖書館の帰途御樂屋の前で會って道々話をしてきた戸崎の赤靴を思ひ出した。そうだ確にローダースの新しい編上げを穿いてゐたと思った。それから別れ際の妙な言葉を思ひ出した。
     じっとしてをれないので、彼は近くにいる瀧に自動電話から電話をかけて、ぜひ會ひたいといった。氣の輕い彼は直ぐ行くといって電話を切り、間もなく急いでやってきた。
    「どうしたんだ、大変心配さうぢゃないか」
    「卒業論文の原稿がなくなったんだ。どうも盗まれたらしい」
    「莫迦っ、だから大事にしろといふんだ。俺などは金庫へ入れて置くから盗難火難一向恐ろしくないんだ。それにしても盗むとは變ぢゃないか、講義のノートなら盗むことも借りることも當然あり得べきだが、論文という奴は一人一人テーマが違ってるはずだ。置き忘れたんだらう」
     加瀬は今までの經過を詳細に彼に話した。そして最後に戸崎の別れ際の言葉を付け加へた。
    「すると紛失といふことは絶對に間違ひないね。それから君の留守中の訪問者がローダースの新しい靴を穿いてゐたのもほゞぼ確だし、戸崎が今日新しいロータスの編上げを穿いてゐたのも、君の記憶が確ならば確實という譯だ。次に戸崎が君に會った時の言葉は平常と變りがなく、ただ別れ際に、あまり幸福に酔はない方がいゝよ、といったといふことは重大な意味があるかも知れん。だが、かうした言葉は始終我々の間に交されてゐるのだから、直にそれを特別の意味に解釋する譯にいかんね」
     瀧は広くもない室内を見廻してから、瀬戸火鉢の中を覗いた。
    「君は煙草を吸はなかったね」
    「吸はない」
    「この火鉢はいつ掃除した?」
    「昨日をばさんが掃除してくれたんで、今朝は奇麗になってゐた」
    「これは誰が吸ったんだらう? 俺が吸ったのはこれなんだが」
     瀧は火鉢の中から両切煙草の殻を拾ひ出した。吸口のない小さな斷片であった。その一端はパイプに詰めたやうに固く細まってゐた。瀧はそれを自分の象牙のパイプに挿して見た。煙草は何の抵抗もなく、また少しの隙間も殘さずにきっちりと填った。
    「見給え、この通りだ。これは今日の君の留守中の訪問者が置いて行った煙草の吸殻なんだが、この通り俺のパイプに緩くもなく、きつくもなく丁度合ふんだ。 ところでだね、君の留守中に鹽物屋の家人に姿を見られずに、裏口傳ひに入り得るのは、まあ、俺の外に三人しかないんだ。戸崎と伊澤と檜山ぐらいなもんだ。他はちょっと考へえられない。この三人は、俺もさうだが申合せたやうに皆喫煙者だ。そのうち伊澤と檜山は朝日の外吸はず、俺と戸崎はバットの外吸はないんだ。そして戸崎は俺と同じパイプを持ってゐるんだ。形も質も全く同じのを持ってゐるんだ」
    「分った。有り難う」
    「分ったって? 何が分ったんだ」
    「君の論理がさ」
    「それならいゝ。次に何の目的で持っていったかはこれから研究しよう。俺は論文も出来上ったんだし、時々學校へ行くより外に用がないのだから一つ研究するつもりだ。同時に今まで集めた状況證據に確實性を與へることに努力しよう」
     瀧はこの言葉を殘して歸って行った。


     砂を噛むやうな味のない夕餉を濟ますと、加瀬は半職業である家庭教師を勤めに櫻木町の福田という家に出掛けた。その仕事は彼の學費の大部分を生み出す資源だったから大事の上にも大事にほ殆ど献身的に勤めたので、福田家のすべての人から身分以上の厚遇を受けた。二人の令嬢は彼の準備教育で最も評判のよい高等女學校に入學し、姉の方は昨年すでに卒業し、今は中學を志してゐる福田家にはただ一人の男の子を教へてゐる。 彼が福田家に通ふ樂しみは外にもう一つあった。長女の多喜子とは固い約束さへなけれ相思の間であった。彼は多喜子と手を携へ得る日、いやもっと進んで彼女のすべてを自分の物にする日を心にゑがきつゝ家庭教師の勤めにいそしんだ。
     門を入る足音でそれが加瀬である事が家族の誰にも分ってゐた。足音を聞くといつも迎へに出るのが多喜子だった。彼女の笑顔を見ると彼はいかなる努力も厭ふまじと思ふのであった。
     所がその夜に限って迎へに出たのは女中であった。そして丁寧に應接室に通された。人違ひをしたのではあるまいかと思ってると、また同じ女中が茶を運んで來た。
    「太郎さんはゐるんだらう。いつもの通りお相手しようと思って來たんだが――」
    「只今奥様がお目にかゝりますとおっしゃってゞございます」
     女中は相手にならずに引っ込んだ。暫くすると、多喜子の母親が出て來た。
    「太郎さんおいでゞせう。早速初めませう。今が大事な時ですから――」
    「加瀬さん、まあお掛け下さい。少し申上げたいことがございますので――」
    「はあ」
     加瀬は仕方なしに椅子に腰を下ろした。すっかり空気が違ってる。家庭教師として通ひ始めてから六年になるんだから、お互に家の事情も性質も悉く知り合ってゐる。今までにこんな他人行儀に扱はれたことがない。加瀬は夫人の顔色から事情を酌み取らうとするやうにじっと見据ゑた。夫人の顔はいつもの顔ではない。強い決心を隠してゞもゐるやうな蒼白の氣が口のあたりに漂ってゐる。
    「加瀬さん、長い事子供等が御世話になりまして、お蔭で學校の方はいづれも思うやうに参りました。このことは心から深く御禮を申し上げます」
    「――」
    「つきまして、太郎のほうも引續きぜひお世話になりたいと私共はじめ本人もさう思ってゐるのでごいざいますが、御承知の通り、準備教育は全然いけないと學校のほうから厳重に申渡されましたので、今日限りお約束を解いて頂きたいと存じまして――これは福田から申上げる筋でございますが、生憎會社の都合で遅くなりますので私からお話いたす次第でございます」
     いつの間に用意したのか、夫人はかういひながら厚い紙包みを恭しく加瀬の前に出した。
    「これは長年のお禮の印でございます。それからこれは今月分の――」
    「――」
    「でもお遊びにだけはぜひいらしって下さい。太郎も喜びますから」
     加瀬は黙って頭を下げてから、顔を上げて夫人を見た。そして心の中でいった。
    「分らない。學校で準備教育を止めさしたゝめの断りなら、加瀬さん、困りました。學校がやかましくて。當分おさらへを休みませう、とこれで澤山ぢゃないか。分らない。體のいゝ門前拂ひだ」
    「御承知下さいますでせうか」
    「よく分りました。長々御世話様でございました。お蔭で私も一人前になれます。この御恩は一生忘れません。いずれ改めて御禮に上ります」
    「いえ、それには及びません」
     加瀬は月々の分だけを納めて歸らうとしたが夫人は無理に禮金をポケットに押し込んだので仕方なしに受け取った。
     外へ出ると寒い風が身にしみじみと迫ってくる。空には氣の早い朧月が薄絹に包まれてかゝって、コンクリートの舗道に家や人の影をぼんやりと落としてゐた。何も分らない霧に包まれた氣持で歩いて來た彼は、電車の響きで氣がつくと、いつの間にか寛永寺橋の上にゐる自分を見出した。
     橋の欄干に寄って眺めると、大東京の灯し火が果しなく續いてゐる。その向うは海なんだらう、薄暗い空の色と溶け合って、たゞ模糊としてゐるだけだ。今まで考へてゐた卒業のこともひそかに期待してた首席の栄誉のことも、多喜子と手を携へることも、樂しい幸福はあの模糊とした夜空の果ての、その向うへ飛び去って、幾らもがいても手が届かなくなったやうに思へた。
    「皆がぐるになって俺を陥れてゐるんだ。何、敗けるもんか、幾らでも來い。しかし分らない。どうも分らない。分ったらこの鐵腕を振って――」
     彼は腕を振り上げて歩き出した。彼の前に空らの円タクが止ったと思ふと、運轉手の助手が下りて來て、ドアを開け、彼を講じた。彼は運轉手の誤解を咎めもせずに講じられるまゝにその円タクに乗って腰を下した。
    「どちらへ参りませう」
    「東京の眞中だ」
    「――? 銀座ですか」
    「結構」
     車は動き出した。


     商店の明るい電燈が自動車の窓に映って忽ち後ろに消えたと思ふと、つゝましいカフェーの軒燈が見えてくる。果物店の青い灯、廣告塔の赤い灯が見えては消える。電車の横を通り、トラックを追い抜き車はひた走りに走る。時々交叉点のストップに會っても、そこがどこだか、乗ってゐる加瀬は考へようともしない。自動車は須田町から日本橋への雑踏を避けて、聖橋から神田橋を過ぎて日比谷公園に出る廣い道路を通った。 あたりがいつの間にかひらけたと思ふと、右側の窓から暗いお濠の水が見えるやうな氣がした。そのうちに右にも左にも黒い自動車の影が見えだした。ブーブー、ピーピーという警笛が四方から起こった。車はピッタリと止って、暫くは動く氣色がない。自動車の渦の中へ飛び込んだのだ。
    「どこだいっ、こゝは?」
    「帝劇の前です」
     曾てたゞ一度見たことのある華やかな舞台、夢の國のやうな廊下の人波、高價な煙草の香りに交った妙なる美粧料の匂ひが胸によみがへる。何でもいゝ、刺激だ、陶酔だ、そいつに没頭したい。うんと人波に揉まれたい。加瀬はじっとしてゐられないのだ。
    「こゝでいゝ、降ろして呉れ」

     加瀬は二階の食堂でウイスキーを舐めてゐた。どやどやと人が押し寄せて來て、ベルが鳴ると散っていく。話し聲がする。
    「すると何ですな、御縁談もほゞ纏まったといふ譯ですな、それはお目出度い。それで御安心です。えゝ、宜しうございます。どうせ、並び大名ですが、喜んで勤めさせて頂きませう。一生に三度は仲人になれといひますからな。――それで婿様はどういふご仁で?」
    「戸崎といひまして、本年帝大の工科を出る男です。身元も確實ですし、人物も一寸見所があるやうに思ひましてね」
     顔を見るまでもない、話している一人が多喜子の父の福田であることは聲だけで明かに分る。加瀬は兩手で顔を隠すやうにして動かずに聞入った。
    「いつかのお話では、お子様方の家庭教師をしてる秀才に眼を附けてゐられるとかいふことでしたが、その方は――」
    「そんな考へを持ったこともありましたが、あれは案外の喰はせ者でしてね、郷里の方の素性もよくありませんし――」
     聞いている加瀬は心の中で叫んだ(嘘だ、嘘だ、これでも地方では名家の流れを汲んでゐるんだ)
    「――それに近頃は妙な思想にかぶれて、社會主義とか共産主義とかの研究會に首を突っ込んでゐるさうで確な筋からの忠告で斷然寄せつけないやうにしました――」
     加瀬はまた心中で絶叫した(嘘だ嘘だ、皆嘘だ、作りごとだ、戸崎の策略だ)
    「――そんないきさつなので、早く事を運ばなければ行かんと思ひまして、娘にも無理に納得させ、披露だけでも早くしようと、實は急いでゐるのです」
     加瀬は福田の前に出て謬りを正してやらうかと思った。しかし場所が悪い、それから飲めない酒を飲んで醉ってゐる顔を見られるのも不利だと氣がついた。弁明は手紙で出來る。多喜子の父は事理に明るい聡明な頭の持主だから弁明すれば直ぐに分る。かう思って依然と前からの態度を續け、先方に氣取られないやうに努めた。そして福田の言葉にあった(娘にも無理に納得させて)といふ、無理といふ二字に縋った。彼の頼る所はこの多喜子の心だけである。
     その夜加瀬は銀座へ行ってセンタンといふカフェーに入り、強い酒を飲んだことまでは分ってゐるが、それからどうして宿に歸ったか全然分らない。

     眼を醒ますと電燈がついてゐる。頭がしんしんと痛んで、喉が非常に乾く。枕下を見ると薬罐とコップが備へてある。もしやと思って見廻はすと住み馴れた自分の室に間違ひない。二三杯水を飲んでから腕時計を見ると、七時を指してゐる。彼は制服を着たまゝ、床の中に寝てゐる自分を發見した。昨日のことが次から次へと思ひ出される。加瀬は思ひ切って床を蹴って立ち上り、ふらふらする體を坐り慣れた机の前に運んだ。
    「弱過ぎた。俺は弱過ぎた。卒業論文が何だ。あんなもの二三週間で出來るぢゃないか、優れたものを拵へようと思へばこそ、半年の心血を注いだのだ。通り一遍のものなら直ぐ出來る。戸崎は俺の原稿を盗んで卒業が出來なくする計畫だらうが、あいつらとは頭が違ふんだ。それから中傷か、うむ、それも何でもない。これから行って弁明すればすぐ理解してくれる。 俺の性質は六年間の交渉で福田家の誰にも分ってるはずだ。泣寝入りする場合ぢゃない。戦はう。戸崎などにあの清い多喜子を奪はれてたまるものか。あいつは將を得るために先づ馬を射た積りだらうが、俺は大將の心を掴んでゐるんだ。多喜子さんの心を掴んでるんだ」
     失はれた希望が輝き出して、加瀬の心は再び明るくなった。若さの力が全身に漲った。彼は前の日の身成でよれよれになった洋服を脱ぎ、和服に着代へて、顔を洗ひに外へ出ようとした。
    「加瀬さん、速達です」
     鹽物屋の子守が一通の速達便を持って來た。受取って裏を返すと多喜子からであった。再び机の前に戻って心を躍らせながら封を切ると細々と認めた數枚の手紙が現れた。


     多喜子の手紙は余程急いで書いたと見えて常に似ず字が亂れてゐた。

    「加瀬さま、あたくしは、昨夜あなたが母から、どんな取扱ひをお受けになったか、よく存じてをります。父も母も悪い人ではありませんが、ある事情のためにあなたを遠ざけようとしたのでございます。あなたから受けた私共同胞の長い長い恩義に對して、母の仕打ちが冷酷であったことは――いいえ、言葉の外であった事は、分りすぎるほど判ってをります。
    「急ぎますから簡単に申上げます。あとは御判斷下さい。父はあなたの素性が卑しい申します。それから主義者だと申します。私はそれが誰かの中傷だらうと思ったので、父に輕擧しないやうに申しましたが、世評といふものは案外公平なものだからといって中々聴いて呉れません。それで私はあなたに、直接父に會って、よくお話し下さるやうにお手紙を差し上げようと思ったのですが、機會が得られぬうちにこんなことになってしまひました。
    「私はあなたが昨夜帝劇にゐられたことも存じてをります。ある人がそれを知らせて呉れました。だから事情は御わかりのことゝと思ってをります。
    「あの人はあたくしに交際を求めました。母はそれを黙認しました。自分さへしっかりしてをれば大丈夫と思って、暫くあの人の望み通りになり、あの人を觀察すると同時に、父のあなたを見る眼の違ってゐることを證據立て、進んでは中傷の根源を探らうとしました。それがいけなかったのです。お許し下さい。あなたは私の手にも觸れることをなさいませんでしたのに、それでゐて私の心をしっかと握って下さいましたのに、あの人は私のすべてを要求しました。 私がある時期まで待って下さい、と一時逃れをいひますと、もう御兩親が許したのだといひまして、――あゝ、私はもう、あなたにお目にかゝれない身體になりました。このお手紙を差し上げるさへ、浄いあなたに對する冒涜だと思ってゐるのです。でも今までの私の心持を申上げないでは、たとへ死んでも死に切れませんので父母の眼をぬすんでペンを取りましたのです。あなたもお淋しからうと存じますが、こゝにも、世の中の希望から棄てられた哀れなものがゐることだけをお考へ下さい。そしてその上ですべてをお忘れ下さい。
    「許し合った人から忘れられるといふことは思っても頼りない、淋しいものでございますが、私はあなたのために今までのすべてを忘れるやうに努めます。どうぞ、あなたも、あなたの幸福のために、私を忘れて、もう決して思ひ出さないやうにして下さい。
    「もう申上げることがございません。ではお達者で勇ましい世の中への門出をなさるやうに、前途の御祝福を祈ります。
          淋しい多喜より
       淋しい加瀬様へ

     望みの星は再び消えた。折角振ひ起こした勇氣は影もなくなった。今までは、たとへ夜が暗くとも、蔽ひ込めた黒雲のかなたに光輝く明星のあるのを思って、雲の通り過ぎるのを待つ心持であったが、もう晴れることのない常闇に鎖ぢ込められたやうな絶望の外何もかも失はれてしまったのだ。
     加瀬は多喜子の手紙を握り締めて机に突っ伏したまま動かなかった。多喜子の清楚とした面影と、戸崎の醜い情熱に燃ゆる悪鬼のやうな姿とが卍となって頭の中をぐるぐると駆けめぐる。多喜子の姿はだんだんと厚さを減じ、しまひには紙のやうに薄くなって、一方に押しつけられ、廣くなった空間を戸崎の悪鬼だけが形相恐ろしく、何の憚り氣障に振舞ってゐる。
    「復讐だ」
     彼はかう心にいって立ち上った。洋服のポケットを探ぐると昨夜福田から貰った金の遣ひ殘りが少からずあった。
    「遣ひたくない金だが仕方がない、もう昨夜手を附けてしまったのだから――」
     有り金全部と多喜子の手紙だけを懐ろに入れ、他の物は本もノートもそのまゝにして外へ出た。
     その夜限り秀才加瀬の姿を東京で見たものは一人もない。


     加瀬の失踪は親切な鹽物屋を悲しませた。親友の瀧にだけは事情がほゞ推測されたので、悲劇はまだ幕を閉ぢないのだと思はせた。噂が福田家に傳はって、更に多喜子の胸を打った頃には、戸崎との縁談が全く熟してをり、間もなく式が擧げられた。だが、瀧も井澤もその他の學友も、加瀬と福田家との今までのいきさつを知ってゐる限りは招待の席に姿を見せなかった。
     輝かしい春がたけなはになって、彼等の一團も學校を出た。戸崎も瀧も井澤も學士になった。戸崎は福田からの傳手でA銅山の坑内係として赴任することになった。たゞ彼の新妻は結婚早々病氣になったので東京に殘ることになった。

     舞台はA銅山に移る。
     方一の岩山を南から北から、更に西から坑道を穿ち、地平坑から下へ千数百尺の竪坑を掘り、その間幾十の小地平坑を派出して、全山を蜂の巣のやうに穴だらけにして銅鑛を採取してゐるのがA銅山である。三千の坑夫が晝夜を分たない暗闇の中でカンテラ一つを命にして孜々と働いてゐる。ある者は鶴嘴を振って岩石を崩してゐる。ある者は濛々たる石の粉末に包まれながら、鑿岩機で堅い岩に穴をあけてゐる。穴にはダイナマイトが挿入され、やがて異様な爆音と共に岩石は飛散して跡に大きな穴があく。 岩は運ばれて廃坑に棄てられる。延長数十里の坑内には電氣が送られ、壓搾空気が送られ、排水のポンプが仕掛けられて科學の粋が行き渡ってゐる。しかし坑内の奥の奥はトロ道もない、電燈は無論、通風も行き渡らない。有るものは岩と暗闇と人だけである。坑内も大通りと稱すべき所には電車が通り、電燈が灯り、通氣が完全で少し慣れた者には坑内特有の臭氣も感じない。夏は涼しく冬は暖い。だが地下千数百尺の坑道の枝の枝の奥の奥は冬も夏もない、暑い暗い文字通りの地獄である。
     この坑内には一つの傳説ともいふべきものが殘ってゐた。大金が隠されてゐるといふのである。老坑夫にいはせるとかうだ。
     日清戰爭後の好景氣時代に一人の優れた技師がゐて長い間に少からぬ金を蓄へた。その外に唯一の道樂である株の賣賈で数十万の財産を作りあげた。それが突然、坑内の火場の際に煙に捲かれてへ頓死した。その技師は五十歳くらゐであったが全くの獨身であった。死後技師の寝宿りしてゐた合宿について所持品や何かを同僚や下僚が整理した際に、人々は大金の現れるのをひそかに期待して、その所有權がどこへ行くものだらうかと好奇の心を躍らしたものだったが、大金どころか僅に日々の小遣い錢が現れたのみで、金らしいものはどこにもなかった。 金ばかりでなく、一枚の有價證券も一通の預金の通帳もなかった。誰いふとなくその技師は人の氣の附かない廃坑に金を隠して置いたのだ、といふ説が傳はった。そして、死亡した際に携へてゐた手紙に記されてあった妙な記號がその場所の心覚えだとまことらしくいひ振らされた。記號は二三の人に寫し取られ、間もなくそれらの人々によって、ひめられたる坑内の寶探しが行はれた。だが無駄だった。第一その暗號を解き得たものさへなかった。
     暗號が解き得ないもので、金は探し得ないものだといふことにきまると、傳説は急にひろがって坑内で知らないものがなくなった。長い月日の經った今でも、どこかに金が隠されてゐるといふ傳説だけは殘って、時々嘲笑的な話題になった。しかしその記號は記憶のよい老坑夫の懐ろ深く隠され、誰も知るものがなくなった。
     所が近ごろになって、また夢のやうな寶探しに熱中する一人の男が現れた。それは東京から姿を消した秀才の加瀬であった。加瀬は前年見學としてA銅山の坑内に一夏を送った際に大金埋没の傳説と妙な符號のことを知り、巖窟王のエドモン・ダンテスの故智にならって、その秘密を解かうとした。坑内の事情を知ってる加瀬は佐藤飯場に入り込み、名を變へて坑内の雑役夫として使はれることになった。そして傳手を求めて、記號を知ってゐる老坑夫――それは越中といふ綽名で通ってゐた――老坑夫に交際を求めた。
    「越中さん、どう思ふ? ほんとうに大金がどこかに隠されてゐると思うふかね」
    「有るには有るが分りっこはないよ。第一見當がつきはしないし、古くなって坑の模様も變ってるからな――」
    「越中さんは隠し場所を書いた暗號の紙を持ってるさうだが、おれにそれを賣らないか」
    「駄目だよ、探したってどうせ骨折損だから――」
    「俺は大丈夫探して見せる。見付けたら山分けにするから、ぜひ賣って呉れ」
    「おらあ、金など入やしない。たゞ寶物を腐らかしにしまふのが勿體ないと思ってるだけなんだ。そんなにいふなら貸してやらう。一文も入りやしない。運よく見付けたらお前の物にしていゝんだ」
     暗號は妙なアルファベットや〇や△の羅列であった。加瀬はそれを解くのに何日かを費した。その結果場所が分ったやうな氣がしたので早速實地の探査にかかった。
     仕事の暇をぬすんでは秘密のある地點に駆けつけ、コツコツと仕事をした。時によると非番の際にも坑内に忍び込んでそれに没頭した。
    「書生さん(越中は加瀬をかう呼んでゐた)少し眼鼻がついたやうだな。だが、お前のやったやうなことは前に何人もしたのだから、あんまり當てにしないで根氣よくやるこったな」
     ある日越中は加瀬に話しかけた。
    「おらもお前の年ごろには金がほしくてな、それもお金さへあれば好きな女と一緒になれたのだから無理もなからう。今から考へると皆夢だが、若いうちは誰でもさうだ。今は金も何も入りはしない、この年になっても肺患にもならないのが有り難いといふものだ」
     かうして日は流れて行った。
     そのうちに戸崎の新任の日が來た。
    「まだ若い工學士が來るさうだ」
    「學士だなんていっても新米ぢゃ何も分らないんだからな」
    「分っても分らなくとも意地の悪くない奴が一番いゝな」
    「だが役員も新米の方がごまかしがきいていゝや、役員と澤庵の古手は齒が立たない」
    「澤庵の古手とはよくいった」
     こんな取沙汰の中で、戸崎は部署に着き、坑内の仕事をすることになった。加瀬には新米の工學士が戸崎であらうとは想像さへしなかったし、戸崎にしても、加瀬が坑夫に身を落して同じ坑内に苦しい仕事をしてゐようとは考へもおよばなかった。
     遅い櫻もすでに散って、山は青葉に包まれ、人はセルの袂輕くすがすがしい風に吹かれるころとなった。ある日、加瀬は日中の非番に、交代の混雑に紛れて坑内深く入り込んだ。カンテラを左手に鶴嘴を右手に持ち、坑内人特有の背を屈め、頭を四十五度に傾けた姿勢で、天井と足下を同時に注意しながら、いつもの秘密の場所へ急いでゐると、向うからもカンテラの灯が一つ見えて來る。 兩方から進むので、間の距離は見る見る短縮されて、やがて二つの灯は一緒になった。狹い坑道なので摺れ違ふ際には二人の距離は咫尺を余さない。向うの男は坑内服に鳥打を被ってゐるので直ぐ役員だと分った。それがちょっと立ち止ってカンテラの灯を差し附けて寄こした。加瀬はぎょっとした。
    「今日は、御苦労さま」
     役員に對する敬意をこめた挨拶をすると、急いで抜けた。その時にこちらでもカンテラの灯を差しつけて先方の顔を凝視した。加瀬は直ぐ氣が附いた。
    「戸崎だ」
     向うは帽子を被ったゞけであったが、こちらは手拭で鼻も口も包み、鳥打帽の下に眼ばかり出してゐたので先方には、摺れ違った坑夫が加瀬だとは気が附かなかった。


     戸崎が來てる。戸崎が來てる。新米の工學士といふのはあいつだったんだ。
     加瀬は例の仕事をしながら何度も何度もかう心の中で叫んだ。叫びながら仕事を續けた。加瀬は復讐には金が入るものと極めてゐたので、戸崎の姿を見てからはますます熱心に仕事を續けた。さうしてゐるうちに、ひとある計畫を思ひ附いた。
    「戸崎を誘い誘き寄せるんだ。これなら金も何も入らない」
     それから二三日秘密の仕事をしてゐるうちに、それが戸崎を誘き寄せるに屈竟の場所だと分った。やがて仕事は完成した。しかし大金は遂に發見出來なかった。
     その間にも戸崎の動静には絶えず眼を附けてゐたのであるが、ある日、急に東京へ行ってしまったことが分った。加瀬は直に跡を追った。そしてひそかに瀧を呼び出して、某カフェーで會った。瀧は大學に殘って研究を續ける傍ら、福田家にも時々は顔を出すので色々の事情に通じてゐた。
    「多喜子さんは君の名を呼び續けながらとうとう一昨日死んだ」
    「えっ」
    「これで戸崎の歸京した理由が判った。
    「福田の人々も、君を誤解したことをつくづく後悔してる。惡人のために娘を一人殺したといって、夫人などは氣違ひのやうになってる。かうなれば君もあきらめがつくさ。多喜子さんの病氣は淋毒性心臓内膜炎だったさうだ。戸崎の野郎が傳染さしたんだ。あれ程までの惡人とは思わなかったね。可哀想なことをしたものだ。同情するよ」
    「有り難う。君だけだ。かういってくれるのは――」
    「君は復讐する積りでゐるんだらう」
    「――」
     加瀬は答へない。
    「分ってるよ。僕は何もいはない」
    「新聞の社會欄を賑すことだけはしない積りだ」
    「君は福田へ行くか」
    「行かない」
    「多喜子さんの墓参りだけはしたらどうだ」
    「それも無駄だ。あのひとの墓はこゝにあるんだ」
     加瀬は静かに自分の胸を叩いて見せた。
    「それなら君にいゝ記念品を贈らう」と瀧は紙包みをほどいて「これは君の盗まれたノートの斷片だ。戸崎が盗んでストーヴにくべた燃え殘りを拾ったのだ。彼奴置場に困って教室のストーヴに投げ込んだのを僕に見附けられたものだから、急いで外へ出たんだ。僕はもしやと思ってストーヴの中から掻き出して見ると果してこれだった。あいつは、僕に燃え殘りを拾はれたとは夢にも思ってゐまい。これからこれはどうだ。これは君があるカフェーの女給と一緒に撮った寫眞で、君が多喜子さんを棄てゝ外の女に走った證據物件なんだ」
     加瀬にはよく呑み込めなかった。
    「だって君、僕はそんな女を知りもしない」
    「勿論トリックさ、どうだ。弄策もこゝまで來ると一種の藝術だね。これでは福田の人々が欺かれるのも仕方あるまい。君達は皆惡運に取り附かれたんだ。今になって見ると死んだ多喜子さんが、そのうちでも一番幸福だった。たゞ、君のこの手で、手を握って貰へなかったのだけは何よりの恨事だ」
     瀧はかういって加瀬の坑内の仕事にあれた手を握り締めた。加瀬もそれを強く握り返しながら、二つの手の上にはらはらと涙をこぼした。暫くの沈黙の後、加瀬は頭を上げた。
    「A銅山の坑夫の手は堅いだらう!」
    「A銅山にゐるのか、それで何もかも分ったやうな氣がする」
    「何が?」
     瀧は答へない。その代りに
    「加瀬、久し振りで銀座でも歩かうか」
     といった。
    「どこへでもお供する。その代りあいつの動静だけは探って知らして呉れ」

     戸崎が何日か滞京した後、A銅山へ立つと加瀬も直ぐに跡を追った。


     A銅山に戻った戸崎はさすがに淋しさうで、影が薄かった。毎日の坑内の仕事から合宿へ歸ると、何かに追はれるやうにそここゝと酒を飲み歩いた。その影には加瀬の鋭い眼が光ってゐた。彼は酒を飲んで歸って寝ることゝ、坑内で働くことゝの二つを毎日毎日繰り返してゐるのである。さうして何日か經ったある日、彼は坑内で妙な古ぼけた名刺位の紙切れを拾った。カンテラの明りで見るともなく見ると、細かい妙なものが書いてある。ポケットに入れて、坑内の見張所へ來て、明るい電燈の下で見直すと、それが何かの符號であることが分かった。
    b11.13  5.1.19.20  b0011  +18
    b0  11.  20.  ae  11.x↓
    「暗號だ。歸ってからよく研究しよう」
     曾て學生時代に瀧や井澤と暗號の解きっこをやったことのある戸崎には、それが何かを意味する暗號であること、暗號は鍵がなければ解釋が出來ないこと、鍵を發見するには色々の研究を要すること、などが十分判ってゐたので、急ぐことをせずにノートの間に仕舞ひ込んだ。
     その日合宿に歸ると、自分の室に閉じ籠り早速解釋にかゝった。そのためにその夜は酒を飲みにも出ずにしまった。翌日もその翌日もさうして暮した。暗號は分ったやうで腑に落ちない點があった。
     さうしてるうちに、ある日、戸崎は坑内で妙な噂を聞き込んだ。坑内のある掘り棄てた廃坑に大金が隠されてゐるといふ例の傳説である。地位が高いために、坑夫仲間の常識になってゐる例の傳説も彼の耳には一寸届かなかったのである。敏感な戸崎は直ぐにその噂を、毎日苦心して解かうとしてゐる暗號に結び付けた。そしてこれは坑内の古い者にきくのが早道だと氣がついた。
    「この方面で一番古くから坑内で仕事をしてるのは誰でせう」
     戸崎は部下の心易い一人にたづねた。
    「高山が一番古いんです。何せ日清戰爭ごろから坑内にゐるんですからね、四十三年も坑内で働いてるなんていふのは全國でも珍しいでせう」
    「一度會ってみたいみたいね、色々の感想があるだらうから――」
     氣取られないやうにそれとなくかういったが、相手には何のためだか直ぐ分った。
    「代々の區長が一度はやって見るやうに、新米先生寶探しをやらうといふ譯だな」
     部下の男は心の中で笑ったが
    「連れて來ませう。越中っていへば知らない者が者がないのですから――」
     といって間もなく越中老人を連れて來、自分は氣をきかして見廻りに出て行った。
     (話を少し飛ばして金のことに移る)
    「君の話では金が隠されてあるといふのは確かだといふのだね」
     戸崎は越中の話を大體聞いてから、かう念を押した。
    「確だと思ひますだ。誰も掘った者はないからね――」
    「君はその技師が帳面に書いて置いた符號を持ってゐるさうだね」
    「中村さんて人が名刺紙に寫したのを貰ひまして、長いこと持ってました」
    「それを僕に見せてくれないか」
    「もうありませんだ」
    「どうして」
    「ひとにやってしまった」
    「嘘だらう」
    「嘘でねい。先達ひとにやってしまった」
    「それは誰だ」
    「書生さんにだ」
    「書生さんとは?」
    「名は知らないが、坑夫だ」
     戸崎は自分の拾った紙が、書生さんなる者の落とした物に違ひないと思った。それから話題を變へた。
    「坑内の模様はその時と今とでは余程違ってるだらうね」
    「すっかり變りました。だが、この第二見張だけは元の所で少し、四五間かな、そこの物置の所だったから、――奥へ寄ったゞけで、まあ元の通りだね。第二坑内見張所っていふ大きな札がかゝってゐたもんだ」
     戸崎はこのくらゐにして越中を去らせた。それから暗號の紙をまた出して見た。紙へ數字やアルファベットを色々と書いたりした揚句
    「分った、何でもないんだ。零と十、Tと↓をそのままにして數字をローマ字に、ローマ字を數字に置き替れば良いのだ。1がaで2がbなんだ。つまりかうさ、最も簡単な、初歩の暗號ぢゃないか。
    2  K.M.  E.A.S.t  200K  +  R
    20  K.  T.  15  K.x↓
    「2 K.M. は一番頭を悩ましたが、二番目の坑内見張さ、EAStは東だ。第二坑内見張から東へ二百間行って、十文字から右、二十間進んで、T字形の坑道を左へ十五間行くとXといふのがある。そこへ行ったら下を探せ、これに違ひない。何たる簡単な事よ、だ。おれも大金持になるかな」
     口の中ではかう輕くいったが、心はわくわくと躍り、手がぶるぶると顫へた。戸崎は交代の時刻の來るのを身も心も空に待ち侘びた。そして次の人と代ると、急いで合宿へ飛んで行き色々と準備を整へてまた坑内に戻った。


     加瀬はこの數日間に人知れず坑内に色々の物を運んだ。水、食料、カーバイトの罐、毛布などである。それが、いつの間にか姿を隠してしまった。どこへ行ったのか誰も知らない。たゞ越中老人にだけは、寶探しも無駄だったし、近いうちに郷里に歸るといったとかいふことである。
     戸崎は見張に誰もゐない間を見て、物置に忍び込んだ。物置といっても炭や不要な机、腰掛ぐらゐを入れて置くだけで、左程廣くもなければ構造も元より堅固でない。むしろその反對で四方の板壁などはぼろぼろに腐ってゐた。戸崎は奥の方へ進んで試みに正面の、つまり物置としては後壁をなす所の羽目板をうんと押して見た。すると、めりめりといふ音を立てゝ一枚の板がはづれ、ばたんと向うへ倒れた。今の音を誰か聞きつけはしなかったらうかと思はれたので、板の隙間から覗いて見たが、見張には依然人影がない。 戸崎は今のうちだと思ってもう一枚の板をはづして、人の通れる隙を拵へた。それから懐中電燈をともして壁の今拵へた隙間に差しつけた。そこは單なる坑道の膨隆でなくって、奥の知れない洞穴であった。昔の坑道に違ひない、それを不用になったので塞いでしまったのだ、と戸崎は考へた。それから坑道はほゞ正確に東を指してゐることも見て取った。
     戸崎は思ひ切って舊坑に入らうと決心し、有り合せのスコップと鶴嘴を携へて、隙間から注意して身體を入れて、固い岩の上に立った。懐中電燈を便りに、はづした板を元の通りに押し附けると、あらためて坑道深く電燈の光を送って見た。だが光りは二三間先を照すのみでその奥は分らない。
     戸崎は勇を鼓して進んで見た。中は割合に乾いてをり天井も左程低くなかった。坑道は殆ど一直線であったので困難なくずんずんと歩けた。二三百間進むと坑道の交叉點に來た。十の字の記號がこれだ、と思ひながら右に曲った。道は可なり急な下りになり、高さも直立出來ない程に低くなった。少し進むと左の方に枝道のあるのを發見した。Tの字のところだと思って、それを進まうとすると、入口は非常に狭く、高さも低いので、這はなければ進めない。それで、前の十文字まで戻り、歩數を計り、確に約二十間あるのを確め、なほ少し先まで調べて外に入口のないのを見定めてから、思ひ切って四つ這ひになりその中へ入った。二間ほど進むと道は急に廣くなり、高さもほゞ立って歩けるやうになった。
     戸崎はもう少しだと思ひながら注意して歩いた。歩きながら四壁を懐中電燈で照しながら何か記してあるはずだと、探し求めた。十五六間進んだ時である。右側の岩壁に懐中電燈の光がおよぶと、そこに×といふ印のあるのを發見した。岩を槌か何かで掘った所へ白墨を刷り込んだ跡である。
    「とうとう來た」
     と思った。今までのすべてが暗號の通りだ。確に大金がこゝに隠されてあるのだ。今度はその印の下を掘りさへすればよいのだ。かう思うと全身が熱くなるのを覚え、手足はぶるぶると慄へ、世の中の歓樂といふ歓樂が頭の中を駈歩いた。それでも、もしなかった時の失望を考へて、心を落ちつけるために、そこへどっかと坐った。
     戸崎が色々の思ひに耽ってゐた時である。元來た道の方で、どさどさっといふ異様な物音がした。岩石の崩れた音である。音は十秒程で止んで再び元の静寂に返った。いひ知れない不安が戸崎の胸を襲った。そしてそれを見究めに立って行かうとした時
    「アハヽヽヽ」
     亡者の口からでも出たかと思はれる笑ひが闇の中から起こった。
    「とうとうやって來たね。僕は長いこと君を待ってゐたんだ」
    「――」
    「君が暗號をひろって、解釋すれば必ずこゝへ來ると確信してゐたんだ」
    「誰だ」
     戸崎は辛じて叫んだ。
    「考へて見ると坑内の傳説がよく出來てる。一度は探して見る氣になるからね。だがあれはあれだけの物さ。そこへ、あの暗號だ。俺が一寸考へた暗號だ。君になら直ぐ解釋が出來て、やって來ると思ってゐたら、果して來て呉れた」
    「誰だ」
     戸崎はまた叫んだ。
    「さう急がなくともよい。こゝには夜も晝もないのだから――」
    「誰だ、名をいへ」
    「僕の聲を忘れたか、それより顔を見せてやらう」
     戸崎は暗闇から出て來た男の顔に電燈の光を差し付けた。
    「加瀬だ」
     戸崎はかう叫ぶと、立ち上って逃げやうとした。
    「駄目だ、今の物音を聞かなかったか、もう入口も出口もないのだ。動けばピストルで打つばかりだ。それよりもゆっくり話さう」
     戸崎はへたへたと腰を下ろした。
    「戸崎、貴様は俺の――いや君は僕の卒業を妨げて福田家の信用を失はしめ、多喜子を奪はうと計畫した。その第一着手として僕の卒業論文の原稿を盗んだ」
    「嘘だ」
    「それから、僕が社會主義者であり、素性が卑しく、人格が下劣で、カフェーの女に深く交はってゐると福田家に思はせた。福田の人々に中傷するにはそれで充分だった」
    「嘘だ」
    「その次に多喜子と強ひて交際を求め、先方の意思に反して暴力的に――これはいふまい。君も分ってるし、僕も知ってゐるのだから、最後に君は多喜子に病氣を傳染さして、遂に殺してしまった。貴様は、貴様は、それでも人間か、いや君は皆僕のいったことを認めるね、認めれば澤山だ」
    「嘘だ」
    「嘘だといったね、君にこれを見せて上げやう。そら、これは僕の卒業論文のノートの焼け殘りで、君がストーヴにくべたのを瀧が取り出してくれたのだ。それからこっちのは僕がカフェーの女と一緒に寫した寫眞で君が福田の人々に見せたものだ。瀧はこのトリックを一つの藝術だといってほめてゐたっけ」
    「どうしてそれを」
    「僕は何でも知ってゐるんだ。初めには君に敗けたが、その後は決して敗けなかった。君がどこへ行っても僕は君の直ぐ後ろにゐたのだ。これでも君は僕の今までいったことを認めないのか」
    「認める」
     戸崎は力ない聲でいった。
    「じゃ、そろそろ火をつけよう」
    「えっ?」
     戸崎には意味が分らない。
    「この頭の上に強力なダイナマイトを五本仕掛け、口火を色々の長さにしてあるんだ。その皆に火をつけてどれが一番早く爆發するか、下から見物しやうといふ譯だ。爆發すればどのくらゐの岩石が落ちて來て、僕等の身體が、どれだけの細片になるか分ってるだらう。假に後で掘り起こすことが出來たにしても、顕微鏡で見なければ人間がゐることが分らないやうにしようといふのだ」
     これを聞いた戸崎は本能的に身をもがいた。
    「君は、君は氣が狂ったか」
    「普通の人間なら氣が狂ふだらう。だが僕はだんだん冷静になって來る。君に情熱を奪はれたのだ。――さあ、火をつけよう」
     加瀬はかういひながら、逃れようとする戸崎を組み敷き、片手で頭上のダイナマイトの口火に順々に火をつけた。それから戸崎を起こし、兩手をしっかと握って坐らせ、自分も相對して端坐した。
     ダイナマイトの口火は燃えて、見る見る短くなって行く――
     戸崎も加瀬も永久に姿を消した。誰もどうなったのか知らない。たゞ、越中老人だけは二人が廃坑の奥で寶を探し當て、それをお互いに爭ってゐるうちに、落盤して埋められたのだと思ってゐる。


    「経歴 と 懸賞論文執筆感想」
    大内兆
    「日本医事新報増刊」昭和9年(1934年)6月より
         経 歴  (写真掲載あり)
    明治十八年十一月三日仙台市に生る。
    宮城県立第二中学校を経て仙台医学専門学校医学科卒業、県立宮城病院にて内田守一先生に小児科を学び、後上京、日本赤十字社病院第二区に於て村田資光先生、吉本清太郎先生に就き内科を学ぶ。
    明治四十四年北海道に渡り私立庄司病院医員、町立寿都病院医員、雨龍村医、中富良野市街地開業を経て大正十一年本土に帰り、古河鉱業株式会社好間鉱業所付属病院長(福島県)後足尾鉱業所本山病院医員となる。
    大正十四年に職を辞して出京、王子区(当時王子町)に開業。

         懸 賞 論 文 執 筆 感 想
     此の五六年来医業難が深刻になりこのまゝ推移したならば何うなるだらうと云う不安が日夜脳裡を往来し暫くも安意する事が出来なかった。 この不安は刻々に深まり現在に於ても無論我々の夢を脅して安眠を許さないものがある。 我々は此の業難の原因本態を究め将来に対する方策を研究しなければならぬと考へて居たのであるが日々の業務に追はれ、思索を纏める暇なく一日一日と不安な明け暮れを送って居たのである。 所が本年一月日本医事新報社が医業難打開策に就ての論文を募集したので今度こそ考を纏めて見ようと思って執筆した。
     此の論文を草するに際して私は二つの見方をした。その一つは医業難の将来は今後如何に成り行くべきものだらうかと漫然静観すべき問題ではなく、我々は如何に医業の将来を導くべきかを研究する所に問題が懸ってゐると見た事である。 即ち対策は他力依存に非ずして自力更生にあるとした事である。 其の二は私は仮に自分を一段と高い所に置き其処から観察論及した事である。 即私自信を医業者の凡てを指導するの地位に置いて、その高い所から見て、斯くあるべし、斯くあらざるべからずと見及び考へた所を忌憚なく述べた事である。
     併し乍ら私は常に謙抑の心を以って筆を進めた。 それは自分に何等の指導力も実行力も無い事を自覚してゐるからである。 私は仮に身を司令官の位置に置いて論じたが、心はたゞの帷幄の一隅に蹲跼せる単なる一参謀に過ぎない積りであって言はゞ一つの献策をしたに止るのである。 之れを採用すると否とは軍の指揮に任ずる司令官の裁量にある。 幸に採用する処とならば勿論、他により善き策戦の用ふべきものが有って夫れが軍の指導精神となったにしても、之れが実行に移された場合には私は一兵卒として銃を執り軍の統率の下に忠実に戦ひに従事するのみである。


    「『臨海荘事件』所感」
    江戸川乱歩
    小冊子「探偵春秋3号」昭和11年(1936年)5月
    『日本探偵小説事典』新保博久、山前譲編 河出書房新社 1996.10.25 より
     この懸賞では、春秋社編輯部の下撰りをした七八編の長篇小説を読んだ。そして読後ハッキリと残像を残したのは「船富家の惨劇」と「臨界荘殺人事件」であった。共に筋がよく考えてある事と、文中本当の経験から描かれた部分があって、それが技巧的な文章などよりも強く私の心を捉えたからだと思う。巧まざる真実がほんの部分にではあるがチロチロと顔を出していたからだと思う。
    「臨海荘」は文章も、場面の組立ても、人物の感情も、壮士芝居の古さで、小説技巧としては問題にならないと思うが、筋丈けを考えると、殊に真犯人の欺瞞手段、それについての作者のトリック、クロフツ流にリアルに描かれた探偵経路、幕切れの小道具としての謡本の効果など、中々よく出来ていると思う。古めかしい文体に力を削がれているが、トリックは相当廻りくどく考えてもあるし、一方またズバッとした所もあるのだと思う。
     私は今、この作の小説技巧や文章をけなしたが、少しく見方を変えると、部分的には必ずしもそうではない。例えば刑事が田舎の温泉場へ出かける部分の、「捜査旅行日記」ともいうべき素朴な真実感、犯人の首実見(※ママ)の為に田舎者をつれ出して来て、序でに東京見物をさせてやるあたり、又刑事が酒の為に免職になる場面などの、ゆったりしたユーモラスな味いはなかなか捨て難いものがあると思う。
     作者は相当年配の人らしく、文章が現代小説の体を為していない代りには、その年齢からにじみ出す随筆風な甘味というようなものが、どことなく感じられ、青くさい嫌味なものが殆んど見えないという意味で、応募作品中最も大人らしい作品であった。随ってこの作者は新進作家として打って出るというような立場の人ではない。よい意味でも悪い意味でも大人だと思う。
    「船富家」も「臨海荘」も、筋がよく考えてある代りには、描写の不器用さが目ざわりになるのだが、その反対側の作品は「白日夢」や「幻の島」(蘭郁二郎君)などであった。これらの作には表現技法の上の才気とか器用さとかいうものが際立っている。だが、才気ある作家が我が表現技法に引きずられ、文章の走るがままに右往左往して、その奔馬の手綱を心理的必然の一定の方向にひきしめる力がない間は、そこに一貫したリアルが感じられない限りは(詩的幻想にもリアルはあるべきだ)その作品は本物だとは云えないと思う。 必ずしも筋を要求するのではない。作品全体の調和なり統一なりを求めるのだ。作品の中に余りに目立つ不協和音を厭わしく思うのだ。私は、それよりは、文章は未熟であっても、最初から主眼を文章の面白味に置かず、只管筋の組立てに汗をしぼり、それを克明に記述して行くというような作品により引きつけられるのがつねである。ただ文章の巧みさ、器用な挿話、気の利いた情景や会話などで読ませる小説は、それに特殊の際立った個性が盛られているか、又は描写力、叙述力そのものが、器用の域を脱して、水準以上に優れているかでない限り、私には感心出来ない場合が多いのである。


    「俳句を語る」
    唐淵 大内兆
    「日本医事新報」昭和9年(1934年)10月6日号より
     俳句なるものを作り始めてから二十余年、その間休んだり作ったりした事はあるが、一ヶ月として十句なり二十句なり作らない月はないと云ふふうになってからさへ十年になるから上手下手は別として俳句作りの仲間に入れて貰ってもよからうと自分では思ってゐる。が併しながら俳人として相当なもんだなどゝは毛頭考へてゐない。第一私は俳人とか詩人とか云ふ柄ではなく、誤って俳人の仲間入りをして色々な関係から仲間を脱出し得ず仕方なしに作句してゐるやうなものだから私には優れた句は一生掛っても一句も出来ないのだとさへ考へてゐる。
     それなら俳句が面白くてやめられないのだらうと云ふ人があるかも知れぬがさうでもないらしい。私は俳句を作る時には何時も苦しくて仕方がない。苦しいけれども毎月何年となしに続けて投句してゐるのだから我慢して作って出さう。さうしないとあとで言ひやうのない淋しさが来るに違ひないと考へる。そんなふうにして苦しみながら作句してゐるのだから熱心になり得ないだらうと云ふのが普通の考へのやうだが、それが俳句を作りにかゝると夢中になるのだから不思議である。さうして苦しみに苦しんで、やうやく何句なりが出来上るとやれやれと思ふ。 時には自分ながら善く詠んだと思ふ事がない訳ではないが、俳句を作る楽しみなどゝ云ふものは此の辺にあるのかも知れない。よく庭球などをやってゐる人を見るが、全身を汗まみれにし渋面を作ってふうふう言ひながら何とかして敵の攻撃を切り抜けよう何とかして敵を打ち込まうと苦しんでゐる。夫で苦しくないかと云ふと苦しくて仕方ないのだ。併しいくら苦しくとも翌日又やって来て強敵を相手に苦戦を繰り返す。碁でも将棋でも戦ってゐる間は苦しみ抜いてゐる。道楽とか趣味などは皆かうしたものらしい。苦しんでゐる所に面白味もあるものらしい。
     俳句と云ふ文字は行にして僅かに一行、活字にして幾ら長くしても十七字を出でないが、それでも一つの創作である以上、それを作り出し生み出すには「生みの苦しみ」なるものがある筈である。その苦しみを廻避する者に俳句を語るべからずと云ふ事になる。私のやうな者にでも時には「一つ俳句を作ってみたいと思ふのですが指導して呉れませんか」と言ってまあ弟子入りのやうな事をする気まぐれ者が何年に一人かはある。が、大抵は三年位で屁古たれる。折角頼んだ以上一月や二月では止められないと云ふので判らないながらも作ってゐるうち一年も作ってゐると相当な句を作れるやうになる。そこで面白くなってもうぢき大家になれる積りで修業をしてゐると、やがて第一の行詰りが来る。 幾ら作っても思ふやうに行かなくなる。そのうちどうやら道が開けて来たと思ふと第二の行詰りが来る。続いて第三の行詰りが来る。之れが作句を始めてから三年目位である。多くの人は此の辺で厭になって投げ出して了ふ。茲で投げ出したらもうおしまひである。三年も作ってゐると他人の句も解り講釈の一つも言へるやうになる。頭だけは相当に進むのである。併し腕の方は三年位ではどうも危いものである。頭だけ進んで腕が言ふ事を聴かなくっては再び俳句に手を出す気になれない。世に作らない俳人、描かない画家と云ふのが沢山あるが概ね此の類である。
     此の三年目位の行き詰りを打開すると今度は道も比較的平坦になる。行き詰りが来てもあゝまた行き詰った位で済ませるやうになる。作句と行き詰りは附き物であって何処まで行っても離れない。俳句ばかりでなく凡ての芸術には行き詰りが附き物らしい。極端に云ふと一作々々に行き詰ってゐるとも言へる。此の行き詰りを打開して五年七年と作句を続けてゐるともう大抵は一生俳句を棄てない事になる。時に一二年作らずに居ても何時か又俳句の故里に戻って来る。刀圭界には優れた俳人が沢山ゐる。それ等の優れた俳人はみな此の行詰りなる難関を打開して坦道に出た人であるが、それで居て始終行き詰りに逢着してゐるのである。俳句の道亦難いかなと云ふべしである。
     剪る花もなく神農を祀りけむ 
    (短冊写真) 筆者は毎年神農祭を行ひ俳句を作る。之は一昨年のもの

     醫祖祀る日の往診を五六軒 
    (短冊写真) 之は昨年の神農祭の句、医祖とは神農である。

     私は旅行が好きである。特に徒歩旅行が好きだ。が、貧弱なる開業医生活は経済的にも時間的にもそれを許さない。たまには二三泊の旅行をして見たいと思っても容易に実現出来ない。ところが学校医として二つほどの学校に関係するやうになってからは年に二三回は必ず旅行に出られるやうになり、私はそれを何よりの楽しみにしてゐる。一日だけの旅行もあれば二泊ぐらゐの旅行もあるが二泊ぐらゐが一ばん好い。 一体旅行には宿屋の茶代とか女中の心附とかゞ随分と煩らはしいもので、或る人は之れ等の心配で旅の面白さの半分を減殺されるとさへ言ってゐる。然るに学校医としての附添旅行には之等の心配は少しも入らない。汽車の切符は受持の先生がまとめて買って呉れるし時刻は後れないやうに考へて呉れる。宿泊料も茶代も好いやうにして呉れる。道に迷ふ恐れもない。我々は生徒の一ばん後に附いて景色を鑑賞しながら俳句を作りながら漫然と歩いてゐさへすれば好い。こんな時には長年俳句を作り慣れた自分を泌々幸福に思ふ。 古人が言ってゐる通り常住坐臥庭前の一草一木雲の去来屋後の秋風鳥声一として俳句にならないものはない筈であるが見なれ聞なれた物には刺戟がなくなり、庭先の梅や毎日見てゐる丘の立木では幾ら四季の変化があり日夕の移り変りがあっても容易に俳句にならないものである。が、足一たび都会を離れて異った風景に接すると句心そゞろに湧いて五六句はたちまち句帳に記される。俳句には何と言っても旅が一ばんである。
     旅の面白さにはもう一つ其の土地の俳友に会うの楽しさがある。常に雑誌の上で互に名を知り作句を知ってゐても会った事もなければ文通もした事がないと云ふ人でも遠方から訪ねて行って二三十分も話してうぃると一見旧知の如しで、初めて会った人のやうに思はれない。知らず識らず夜を更かして泊れと言へば遠慮なしに泊るやうになる。 私の所にも地方から出て来て此の調子で泊って行く人が年に一人や二人は必ずある。故郷に墓参などに行っても私は叔父の家に泊るよりは俳友の家に泊る方が遥かに遥に愉快である。若しそれ同好の俳友十数人も集って句会をなし、たまたま高点になったりすると飄々として己れを忘れそれこそ羽化して登仙する思ひがする。
     俳句には流派がある。ほんたうの俳句には流派などあるべき筈がないと云ふ人もあるが実際流派があるんだから仕方ない。大きく分けて月並派、ホトヽギス派、新傾向派、雑派と云ふ事になる。月並派と云ふのは何々庵何々宗匠と云ふ人々によって統率されてゐる一派で遊びとしては之れほど面白いものはないがインテリ階級からはあれは文学でないと侮られてゐる。 ホトヽギス系はホトヽギスから分れた分派で之れが一ばん俳句として幅を利かしてゐる。本尊のホトヽギスを始め之から分れた天の川、鹿火屋、雲母、馬酔木、鶏頭陣と数へると際限がなく、又分れるにも喧嘩して分れたのもあれば黙って出て行ったのもあり分れても縁の繋ってゐるのもあれば分家か支店のやうなのもある。 新傾向派と云ふのは例の長かったり、短かかったり季があったり無かったりの俳句であるが、或る人はあれは俳句でなくて俳句以外の短詩だと言ひ、作ってゐる人は名などは俳句だらうが短詩だらうが差支ないと言ったり、之でも立派な俳句なんだ、十七字でなければ俳句でないなどゝ云ふのは認識不足だと言ったりしてゐる。雑派と云ふのは月並でもなくホトヽギス系でもなく十七字と季題の約束を守ってゐる多数の流派を一とまとめにして私が仮にさう呼んだのでまあホトヽギス系以外の子規派とでも言ったらいゝのかも知れない。 何派に限らず自分たちの作ってゐる俳句が一ばん好いのだと言ってゐるのは皆同じだが、真底からさう思ってゐるのか或はさう言はなければ引っ込みがつかないのでさう言ってゐるのか一寸判らない。私の見る所では大概の流派に好いところがあるやうであるが、それは大局から見た場合である。恰も芝居でも映画でも浪花節でも演芸としてそれぞれ好いところがあると云ふやうに見るのと同じ様に――。
     だが、俳句の味と云ふ事から見ると矢張り好い所のあるのはホトヽギス系であるやうだ。俳句の味と云ふのは判り悪い言葉であるが、俳句を読んで感ずる味である。もっと外に言ひ現はす言葉があるかも知れないが味と言った方が一ばん当ってゐる。俳味などゝ云ふ言葉があるが俳味と云ってしまうと少し別なものになる。 俳句の味と云ふのは俳句でだけ現はせる味であり、俳句を読んで始めて味へる味である。川柳でゞも、小説でゞも、絵画でゞも、短歌でゞも言ひ現はせる味では俳句の味とは言へない。俳句の味は俳句以外では他の如何なる芸術でゞも表はせない味である。

     こもり音に啄木鳥たゝくまたたゝく   石鼎

     椽の実の山河まろぶひとつかな   蛇笏

    などの味はそれであると思ってゐる。俳句としては新しい、かゝる境地は今までどの俳人も詠んでゐないと云ふ俳句でも、その句の持つ味が、短歌でゞも油絵でゞも或は又小説でゞも現はせるものであれば夫れは俳句として上乗のものであるとは思はれない。之れは短歌などに就いても言へる言葉だと私は思ってゐる。そこに俳句なり短歌なりに生命を打ち込み内的生活の一生を捧げる価値があるのじゃないかと思ってゐる。
     私の仲間には起きるから寝るまで俳句の事ばかり考へてゐる男がある。勤め人で仕事に就ては人一倍熱心で精励恰勤してゐるが仕事をしながらも頭の奥の方では俳句の事を考へてゐる。併し私はさうでない。俳句を考へない日は何日も何日も続く。それでも夜遅くもう寝ようと思って厠に通ふ廊下の窓にふと月影が射してゐて何処やらに虫の声などが聞えると句心が起り一句位作って句帳に書きとめる。それからよく俳句の事を考へさせるのは往診それも夜の往診である。 私の附近にはまだ草原や田圃などがあるが雨の夜など歩いて往診に出ると春から夏は蛙が盛んに鳴き、秋は虫の声が聴える。空が晴れて大気が沍(さえ)て切って冬の夜の午前三時頃の往診に傾きかけたオリオン星座の三つ星を仰ぎながら身辺を包む霜の声を聞いてとぼとぼと歩くのも句心をそゝる。冬の夜の添景には夜番がある。別に珍らしいものでもないが感興を惹く一つである。 往診の途中に出来た句は患家で句帳に書き留められるのだが句帳を持って居ない時にはメモに書いたり時には携帯用の処方箋に書かれたりする。へんな話ではあるが株式相場の駆引を考へながら病人の脈を診るよりは罪が浅いだらう。
     私は商売柄めったに句会には出ない。句会に出たゝめに急患の一つでも逃がすとたちまちに米櫃に影響が来るからである。それでも好きな道だから年に二、三度は出掛ける。さう云ふ日は昼からとても愉快で往診なども早く済まして日の暮れるのが待遠しい思ひがする。 急患などがあるとよしよしと直ぐ飛び出して気軽に片付けるがいよいよ夜になり電車の走りも遅しと会場に駈けつけ句作に掛るとさて苦しい。苦吟呻吟数刻五句なり七句なり作ってやうやく桎梏から解放された心持になってやれやれと思ふ。句作には苦作でいつも苦しいものである。月に五句なり十句なりはどうしても作らなければならぬのかと思ふと時には情なくなるがそれでゐて止められないのだから道楽と云ふものは可笑しなものである。
     こんな思ひで半生俳句を作り続けても後生に一句も残らぬとなると随分淋しいことである。私は今後何年生きるか判らない。明日にも死ぬかそれとも二十年も三十年も生きるか判らない。兎に角一生俳句を作り通すことになるだらうから只一句でいゝ、後生に遺すものを作りたい。


    「(投句)」
    唐淵
    「層雲」より

    垂れ笹の霜浸す水浮寝鳥     大正2年(1913年)1月より

    工作作業休む昼児等が焚く落葉     大正2年(1913年)3月より

    恋猫の屋根月夜湖畔睡る町     大正2年(1913年)6月より

    釣幸なかり兄弟に菫野の夕日     大正2年(1913年)6月より


    「湯別へ」
    唐淵
    「層雲」大正2年(1913年)11月より
       昼餉の箸を措くより出立
    我を豆人と見る船ならん潮路(オショロ)指す

       樽岸海岸に出づ
    水泡とも浮く鴎藍のべし海

    祠前の畑三坪キャベツ玉包む

       小学校
    日曜を秋晴れて葵忘れ咲く

       湯別
    湯の旗を目映うす秋日稗招ぐ

       座敷なしとて浴後を主人と爐に対座す
    黍などを焼かせんものと思ひ来しに

       帰庵
    回想を窓に倚る船の夜長の灯


    「歌棄行」
    唐淵
    「懸葵」大正4年(1915年)5月より
       作開
    秣(まぐさ)散るまゝ積みまさる雪の馬車溜

       途上所見
    檐ずりの雪囲ひ高う海を遮ぎれる

       帰路浜中横断
    橇轍(そりがた)辿りて楢葉静れる広野行く


    「釈 唐淵」抜粋
    松沢昭
    「雲母」昭和34年(1959年)1月より
     大内唐淵の作品が「雲母」の春夏秋冬に登場するのは昭和四年九月号からである。

      初蝉や紫あさき馬鈴薯の華溜

      杜ぬけて遽に遠し蝉時雨

        十年住みし北海道の野を憶ふ
      亜麻畑に明るき雨や蝉遠し

    一見、 (略) 既に相当古くから「鹿火屋」「つるばみ」等によって其の道の修練を経て来た (略)  昭和四年には、蒼石・半春・鍬江・唐淵・弾丸という、雲母作家の一団が王子界隈に生れ――後日、北江戸句会と称した―― (略) 
     大内唐淵は明治十九年仙台に生れた。 (略) ノモンハン事件で戦死した大内陸軍少将が、唐淵の実弟 (略)  医学を学び、独立してから、先ず北海道に渡り十年ほど生活の辛酸を嘗め、遂に得るところなく、内地に戻り東京王子に医院を構えるまでは (略)  大正末に栃木県足尾の鉱業所の診察医となって約一年同地に住んだ (略) 

      ものの蔓焚きて冬めく埴生かな  (六年一月号)

      わだつ波稲村ちかく砕けけり

      奥津城や末の松山秋深み

      雀瓜引きこころみし展墓かな

      秋思ただ漂渺とあり旅戻り

     (略) 「雲母」に入った時はすでに四十五の令いを数へた。  (略) 昭和十一年春秋社より刊行した探偵小説「湖畔亭事件」(※原文のママ)は多々羅四郎というペンネームで新聞小説に応募入選した、実は大内唐淵の作によるもので、当時江戸川乱歩によって激賞されて、寧ろ探偵小説家として嘱望された向もあったのではないだろうか。しかし唐淵の探偵小説への愛着は直ぐ放棄された。昭和八年には動脈硬化の症状が現われた。  (略) もっとも唐淵のその後における文章活動は主に「雲母」の評論、随筆等に集中されて、 (略) 没する迄三十篇ほどの文章を発表しているが、主なものは次の通りであった。

      季重りについての考察  (七年三月)
      雲母の連作俳句について  (八年七月)
      俳人松村蒼石  (九年五・六月)
      湯治日記―随筆  (十年九月)
      俳句の新興運動に関聯して表はれたる二三の問題と我らの進むべき道を闡明にす  (十一年一・二・三月)
      榴紅堂断想  (十一年五・六月)
      中陰雑記  (十三年七月)
      石―随筆  (十五年九月)
      猫―随筆  (十六年十一月)
      山陵巡拝記  (十七年一月より九月まで)

     就中、随筆における筆致の軽妙さは、やはりある推理めいた魅惑をもって人を惹きつけている。「石」「猫」は傑作と言ってよい。しかしなんと言っても唐淵文章の最高峰は「山陵巡拝記」である。 (略) 失われてゆく健康の最後の情熱をかきたてて書かれたものであろうか。

      瑠璃盤に吹く痘奬の甘かりき  (十一年七月)

      禁苑に白象眠る余春かな

      甘茶仏壺形におはし古り給ふ

      貝掘るや立夏の雲の湧くところ

     唐淵は「雲母」の巻頭を三回、寒夜句三昧個人賞を一回獲得している。この作品は最初の巻頭句のものである。 (略) 
     唐淵が山廬にはじめて会ったのは、昭和六年八月北江戸句会 (略) 山廬訪問を企てた時である。六名とも山廬とは初対面であったらしい。都合で御岳昇仙峡に山廬と共に吟遊した (略) 
     昭和七年五月「彩雲」が北江戸句会の手によって創刊された。 (略) 三年三ヶ月で廃刊となった。 (略) 印刷、編集は一切唐淵が担当した。唐淵のゆたかな才智のしからしむるところであろう。
     また唐淵は、「雲母」の初学雑詠の選を昭和十四・十五年とまる二年担当した。 (略) 

      胼の手を潮に注ぎ漕ぎ競ふ

      冬草の豊かに泉湛へけり

      春潮に初凪の艫を濡らしけり

      初凪ぎの列嶋火山噴くもあり

      冬暖の黄楊の実黒き墓どころ

      玉檜葉の氷柱を[口金](噤)むスキー行

      夜をこめて磨きに磨くスキーかな

      風花のみだるる夜店たたみけり

      オリオン座風花やみに傾けり

      冬さうび一輪挿して伊豆のバス

     昭和十六年、寒夜句三昧個人賞作品である。この時は北江戸句会の松沢鍬江と共に受賞した。つづいて同年十二月号では巻頭となっている。

      河口の月あきらかに鱸落つ

      月のみち人影遠くあるごとし

      月しろく運河の常山木花を終ふ

      秋の風立居しづかに盲ひけり

    (略) この巻頭の後「山陵巡拝記」を書いて作家唐淵の実質的な仕事が終るのである。軽い卒中をおこしたのが昭和十七年の秋ごろではなかったか、 (略) 昭和十八年八月号に、松川藤邨歓迎会の記事を書いているのだが、 (略) この記事が最後の文章、この句莚が句友たちとの最後の別れではなかったろうか。――九月四日、脳出血で急逝した。五十九才であった。 (略) 

        死期近きを思ふ
      夜の秋竹林水のあるごとし

      夜の秋浄土を思ふ月の色

      生き耐へて水の音きく夜の秋

      月のいるやや秋近くなりにけり

      持ち重りして陋巷の盆供かな

    「春夏秋冬」に寄せた死直前の絶稿であり、十月号の巻頭をかざった。 (略) 

      秋の灯をみつむるばかり雲のこゑ  蛇笏

        石・月・風三氏と荒川なる火葬場迄慕ひ行くに
      荼毘了へて忽ち秋陽うごきけり  宋淵

      草の秋釈唐淵を弔ひぬ  鍬江

     唐淵追悼の声は多い。同年十一月号では、蒼石、鍬江、半春の追悼座談会、武石佐海、塩尻青茄の追悼文がそれぞれ掲げられた。また十二月号では山廬が (略) その死を悼んでいる。
     (略) 医師として奥多摩の日原にある無医村を巡回診察 (略) など、人間唐淵の裏側には (略) 充分にある筈だが昭和十五年十二月号に「秋雑詠」という特別作品を発表しているが、その中から数句抄録してその責めをふさぐこととしよう。

      鯊釣や夕べは汐のむらさきに

      鯊の洲や夕べは鳴いて鳰の鳥

      富士薊夕べの微光湖水より

      栗笑みて山のわらんべ日を讃ふ

      麻衣ひややかに山を下りけり

      迎火に丘の家々睦みたり

      桐一葉露重きまま落ちにけり

      野菊折るかそかなる香にたそがるる

      天上の星美しき芦火かな

      秋の蝉あるときは地に鳴くごとし

     (略) (三三・十二・四)


    「(不詳)」
    唐淵

      霜柱ざっくと梯子立てにけり


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