Shift_JIS Page
著者別リストへ

井上良夫 作品小集

新設: 2025.07.20
Last Update: 2025.07.20
略年譜・作品・著書など(別ページ)

      目次

      【読物・随筆】

  1. 「上手と下手の岐れ路」 (随筆)旧かな旧漢字 2023.06.25
     
      【月評・時評】
     
  2. 「作品月評」 (月評)旧かな旧漢字 2025.07.20
     
  3. 「探偵小説時評」 (時評※第一回と四回のみ)旧かな旧漢字 2025.07.20
     
      【アンケート・雑文】
     
  4. 「神戸探偵倶楽部寄せ書」 (雑文)旧かな旧漢字 2023.02.05
     
  5. 「ハガキ回答(推薦の書と三面記事)」 (アンケート)旧かな旧漢字 2023.02.05
     
  6. 「ハガキ回答(昭和十一年度の探偵文壇に)」 (アンケート)旧かな旧漢字 2023.10.22
     
  7. 「A・K・グリーンに就いて」 (紹介)旧かな旧漢字 2025.07.20
     
  8. 「(海外探偵小説十傑)」 (アンケート)旧かな旧漢字 2024.06.23
     
  9. 「お問合せ(直木賞記念号の読後感と最近読んだ小説の感想)」 (アンケート)旧かな旧漢字 2023.10.22
     
  10. 「(昭和十二年度の気に入った探偵小説)」 (アンケート)旧かな旧漢字 2023.10.22
     
  11. 「探偵小説読書術(当世百戦術)」 (雑文)旧かな旧漢字 2024.01.07
     
  12. 「(名士メンタルテスト)」 (アンケート)旧かな旧漢字 2023.12.22
     



「上手と下手の岐れ路」
「キング」 1935.09. (昭和10年9月号) より

掛け違った電話
 左程大きいといふ程ではないが、こゝ數年間に異常な發展をしてゐる小間物店がある。別に品物が他店より格別安いのでもなく、といって鳴物入りの宣傳をする様子もない。何か商賣繁昌の秘訣でもあるのか、ありとすれば目下小賣商人が不況をかこちつゝある際、其の秘訣を世に知らせたいと思って居た。
 ある時ハンケチを忘れて外出したので、急に思ひついて其の店へ入った。すると店員の一人が今電話に掛って居る、きくともなしに其の店員の言葉を聴くと、
「あゝ、モシモシ手前共は三千二百三十九番で、昭和通の若松屋と申す小間物屋で御座います、只今のお電話はお間違ひでは御座いませんか」と。
 その言葉といひ、態度といひ實に慇懃を極めたものである。
「違ひますよ」ガチャーンといふのがよくあるやり方である。ところが此の店員は、實に叮嚀な言葉をもって、自分の店名から所在地まではっきり言って、その違ひをことわってゐる。
 電話の掛け違ひは、掛ける人の違ひもあらう、時には交換手の聴き違ひもないとはいへない。とに角忙しい商人の事である。只簡單に「違ひますよ」と言って事の濟むのに、これだけ叮嚀に言はれると、違った方でも氣まづい思ひもせず、却って「あゝ叮嚀な店だ」と、感ずると同時に、その店名は深く印象づけられるに違ひない。
 電話の掛け違ひを利用して、店の宣傳をするといへばそれ迄であるが、萬事が抜け目のない此の店員の言葉には一寸感心させられた。主人とは顏なじみであるので、早速主人に、
「仲々お店の店員は叮嚀ですね」といふと、
「いえ常にお客様には叮嚀と教へて居りますが、うまくいきません」と謙遜して語るのであった。
(井上良夫)




「作品月評」
「ぷろふいる」 1935.05.〜07.,09.〜12. (昭和10年5月〜12月) より

昭和10年5月
――四月號・新人三氏の作――
  「秋晴れ」 西島亮
 仲々樂しんで書いてあって、所々に見られる學生らしいユーモアもよく、着想の幾つかも面白い。とりわけ、初めの方で、自記圓(※土壽)とうといふものゝお蔭で、その晩の登場者の數が知れて來るところ、それまでノロノロして捗々しくなかった興味が、急に鋭く飛び上るのを感じる。(あとで段々下降して來るからいけないが。)着想と、全體をこれだけにアレンヂした作者の努力は充分に買ひたい。
 全體としては、恐ろしく退屈である。その退屈さは、クロスワード式探慎小説の持つ單調さの意味でなく、作者の不手際から來るところの退屈さである。作者西島君は、作者の言葉の中で、クロスワード式の探偵小説を云々し、自作も亦その型に陥ってゐることを歎いてゐられるやうであるが、この作は、決して西島君が考へてゐるやうにクロスワード式のものにはなってゐない。(外形だけはそれに近づいてゐるかも知れないが)クロスワード式探偵小説の面白味といふものは、勿論あの碁盤目の圖型と、キイの羅列だけではないのである。 その點の面白味は、一つづゝ與へられる正しいキイを辿って圖型を埋めて行く、縦のキイから横のキイを想像して行ったり、キイそのものゝ教へてゐる意味を取らうとして考へ抜いたり――挑戰を受けてゐながら、あの、先が見えてゐるやうで仲々掴めない、一種もどかしい氣持である。江戸川亂歩氏は、謎々探偵小説の特殊な持味を、「解け得るかの如き感」と云ってゐる。この、「解け得るかの如き感」が出て來ないとクロスワード式探偵小説はとりわけ少しも面白くないのである。 併もこの感を出すことは、仲々もって容易なことではなく、無味乾燥なクロスワード式探偵小説がうんざりする程に多いのは、主としてこの點に於て失敗してゐるからであって、本格的な謎の解決を取扱ふ探偵小説を書かうとする人は、どうしてもこのテクニックへの研究が必要である。(恐らくそれは、一朝一夕では達せられないだらう)西島君の作風より見て、案外本格的な探偵小説への愛を持ってゐるやうに考へられる。 同君の持つ折角の着想の面白さを強調するため、(西島君はまだ幾つかの面白い思ひつきを持ってゐる人であらう)クロスワード探偵小説の眞髄を研究せられんことを望んでやまない。(この作で、胴體を作ってゐる訊問部分がとかく成功的でないのも、あの種の作品では重要な個所の一つ故、いま少しの工夫が欲しい。この點で第二作を期待してゐる。)
 特にこの作のために述べておきたいが、概して云って、探偵小説の文章は(申賀氏の言葉を借りて)、「探偵的要素」の興味を高めるためのものであって欲しい。西島君の文章は、時折り、探偵的要素の興味を鈍らせる働きをしないでもないのは、注意していゝところではないかと思ふ。いま少し、探偵的興味を増すやう工夫されたら、一段と面白い作品になり得たことであらうと思ふ。(このことは結局前段テクニックの研究へ戻る)
 傑れたものを持つ作品故、敢へて苦言を提する。諒せられたい。
  「證憑湮滅」 加藤久明
 作者が見せてゐる法律上の知識は私共素人には相當面白く讀まされる。恐らく、今後、これがこの人の武器になって行くことであらう。この方面を大いに開拓してみて頂きたい。
 併し、作全體としては、別にこれといって、面白く感じられるところがない。(着想のことではない。)それといふのも、全體が、唯普通に順序を追って解決までの經路が記されてゐるだけで、作中には、實は個々の面白い思ひ附もあるのだが、その取扱ひ方のために、意外の感も稀薄なれば、早く眞相を知りたいといふ上で別にサスペンスも生れて來ない。探偵小説としての面白味を強調するためには、いま少し、組立、配列の上に工夫が加へられなければならないと思ふ。
 並べ方が極く普通、平几なので、各章の切れ目などもすべて普通に結ばれてゐる。この種のものは、新事實が發見されたり、新しい證據が提示されたりする經路に注意を配って、章節の切れ目ごとに、餘韻を殘すやう、サスペンスを生ませるやう、次の發展へすぐさまにくひつかせて行くやう、――などの點に、假令少しでも工夫を凝らして欲しいと思ふ。(これはこの作に限らず、一般への希望として述べておきたい。長くないものでも、この邊の用意は多少ともにあって欲しいと思ふ、ストーリイをより面白く讀ませるために。)
 作者の記述は、地味ではあるが、別にぎこちないところもないし、つまらぬ装飾などなく、作者の持物とピッタリしてゐる。全體として、無駄なく、大人らしく、うまく話が進められてゐる。(記述振りに、ポーストを思はせるものさへある。)要は全篇に光ってゐるこの作者の持つ特異な武器と、叡智の上に、「綾」の感じられる探偵小説のプロットを打立てゝ行くやう専念して欲しいことである。
  「墓穴を掘った男」 若松秀雄
 ごくあり來たりの謎々探偵小説である。併しこの作者は、この種の探偵小説が本質的に欠くべからぎる魅力、「考へさせる魅力」を或る程度まで發揮させてゐるのは偉とすべきであらう。テクニックなどへの理解もかなりあり、全體の構成の上にも力が認められる。終りに近く、會津警部が容疑者の一人土岐重四郎の目の蔽ひを取りのけさせてみるところなど、仲々うまい。(スカーレットの「白魔」からヒントを得たのらしいが、かなりよいところまで眞髄がとってある。)それからもう一つ、全體として、作者の狙ったところが混濁してゐないからいゝ。
 作者に一言云っておくと、この程度の枚數で、長篇物のやうに徹頭徹尾眞犯人への正體へ讀者の興味をかけさせて行くといふことは勞して得なき場合が多い。假令うまく行っても、(若松君のはかなりうまく行ってゐるが)この種の面白味は長篇物の上に出ることは難かしい。コースに自由な綾がつけにくいのだから。それで、いまの若松君の理解の上に、ワ゛ン・ダインやスカーレットの構想の縮圖でなく、それ自體で充分のびのびしたものを生み出すやう、研究を積んで行って欲しい。

昭和10年6月
  「吸血鬼」 前田郁美
 私は作者が作中云ってゐる「曖血鬼」といふ翻譯小説を讀んだ記憶がないせゐか、列車中に現はれるかの畫家といふ男に少しも興味を覺えさせられない。そればかりか、いゝ若い者二人が、畫家の出現に大心配をするのがどうにもピッタリと來ない。後に、今度は、宿屋の便所の窓からこの畫家が首を吊ってゐるのを見て騒ぎ出す、この際でも、當事者の二人が騒ぐのは尤もとしても、讀んでゐる方では一向に騒ぐ氣なんぞにはなれない。 どうせ變態性を帶びた男のいたづらであらうぐらゐに思って讚んでゐると、果してその通りに終る。(尤も私は、つまらぬ意外感などを求めてゐるのではないが)
 そこで、またもや苦言になってよくないが、いくら探偵小説のファンにしても、さうさうなんでもない事柄に好奇心を起すものではあるまいから、この邊のところを作者に一考を乞ひ、今後への参考にして頂きたい。
  「幽靈横行」 マコ・鬼一
 この作品は、聊か「ぷろふいる」向でない。讀後感を記してみると、初めの方はとりわけ古臭く、事實譚めいて困ったが、段々面白味も加はって來て、あとは終りまで退屈もなく讀んだ。筋を追って讀んで行くのを、ハタき込むやうにして讀ませる通俗的スリラー風な探偵小説として、蓋し成功の部類に屬してゐよう。 主犯者此村と、山田の戀人慶子との繋がりが晴示してなかったやうであるし、容疑者達の時間の證言に矛盾があったことの説明があっけなかったりなどは、物足りないところでもあらうが、この種の探偵小説にはかうしたことをそれ程嚴しく要求することもない。面白く最後まで引張って行き得ればそれで充分成功といふべきである。作者はこの種のものには相當馴れてゐる人なのであらう。
 たゞ、冒頭の一章は、まるで三文雜誌の怪談めいた話で、わざわざこの作の頭へくっゝけておく程のものとも思へぬ、も少し氣の利いた話にして欲しかった。それと、全篇に新鮮味がない。不滿はこれだけ。あとは面白い。
  「癩鬼」 渡邊啓助
 品のある、感じのいゝ作品である。
 忘れられて行った植物の性質が知れると、題名と結びついて青年がレプラ患者であらうことが判るし、また亞美といふ女が突然湖畔で出くわす男が以前の青年であらうことも推測がつくし、それで却って先の面白さが想像されてゐると、この男が亞美に向ひ、以前のことをスッカリ話してきかすので、折角無邪氣な第三者を持って來て、話が面白く展開されさうに期待してゐたのに、これではたいして面白い結末も得られまいかとソロソロ心配して讀んで行ったが、流石に作者はうまい、いゝ感じに終ってゐる。 結局、亞美といふ女はごく有効に使ってあるのを感じた。そして、すべてにあくどくない扱ひ方がしてあるのがよかった。つまらぬ小細工がしてないのが全部の効果を強めてゐる。
  「八月十一日の夜」 山本禾太郎
 作者得意の壇上だけに、全篇纏まりもよく、迫力もあって、終始面白く讀まされた。讀後感からこの上の慾を云はせてもらふことにする。
 先づ、問題がかなり單純なためと、作者の書き方のために、案外に底が見え易いことである。特に鈴木實の證言で、被告蘭子はあの晩兇行の時刻頃、自分のために本を讀んでゐてくれた、といふことが判ると、何しろ御本人は盲同様である、盲人が聲を聞いたゞけでその人のアリバイを申立てゝみたところで、至極信頼するに足らない。 (況んや、證言の御當人は、最も被告を庇って當然な立場にある人である。)この鈴木が、眞向から正直に申立てゝゐるだけにトリックが見えすいて了ふ。どうせ大事なトリックであるから、いま少し、この點のカムフラーヂュに工夫が欲しかったと思ふ。
 次は、呼び出された證人二人が相共に事件と利害關係深く、彼等の證言がどちらも全的に信用が置けないことである。鈴木の證言が必ずしも眞實なりとは取れぬと同様、百合子といふ女の申立も亦甚だ信ずるに足らぬ。だから、共に彼等の一方のみを採用して我田引水の説を立てる檢事、辮護士の説明も、論理としての面白味ほ極めて薄い。 ましてや彼等二人の證言のうちいづれが正しきやを決し有罪無罪をきめやうとする陪審員各自の解釋たるや、最後になって陪審長が云ふやうに、どちらを正しいともとれぬのであるから、少しも面白くない。讀みながら、こんなことで判決が下されたのでは少しも面白くないがと思ってゐると、勿論作者に抜かりはなく、彼は最後の切札を出して、面白い芝居を見せてくれた。これで全篇がシャンとした探偵劇になって、幕がとざされた。
 いづれにしても、折角の證人の證言が、あまり面白くなくても損であらうから、いま一人二人ぐらゐは、局外着からの意外な證人でも引張って來てくれたらよくはなかったかと思ふ。
 トリックの底は見えるにしても、またそれ程に奇抜なものではないにもせよ、あの讀み手の入れ替はりは面白い。トリックそのものゝ性質によるは勿論、また作若が選んだ讀物の個所があの通りのものなので、この種のトリックに望ましい一種不氣味さゝへ感じられる。作者の附記通りに演じるのを見てゐたら、一層の凄みを覺えることであらう。女中の出入りのはげしかった事の説明もあゝなると面白い。
 全體として、ごく簡單な筋であるのにあの程度に讀ませるのは、一に作者の手腕であらう。

昭和10年7月
  「就眠儀式」 木々高太郎
 木々氏の作品は、どれにしても相當に面白く讀まされる。全篇がスラスラと讀めて、事件も平易だし、扱ひ方もやま氣がなく、全體の感じそのものもごくアッサリしてゐるのだが、それでゐて少しも子供臭さとか莫迦らしいとかいった感じを覺えさせられない。(「死固」のやうなまづい作品になると、これは大いに莫迦々々しいと思ふが、)叙述から扱ひ方から、すべてが充分に大人である。それともう一つは、程よい威嚴がある。木々氏のこの種の作品は、大心地先生がソックリにその作風を表はしてゐると思ふ。
 木々氏のものを讀んでゐると、非常に馴れ切った、相手を呑んでかゝってゐるやうな、ごく自信に滿ちた作者の側の落着き振りを感じさせられずにをれない。それは恰度、診察窒で患者に對してゐる豐富な經驗を積んだ醫師の態度の感じである。これは探偵小説に對しての作者の自信といふよりも、材料への自信から來てゐるのらしいが、いづれにせよ木々氏の大變によい持味であると思ふ。
 さて「就眠儀式」だが、木々氏の作に接して必ず思ふことだが、尤も私はまだ幾つも讀んではゐないけれど、この作も亦興味の度合ひが物足りない。事件の方はクライマックスに達しても、讀者の側の興味はこれに伴って昂められることが尠ない。これも亦やま氣の少ない木々氏の作の特色ではあるが、(つまり、他の多くの人の作品と違ひあくどさのないことである)だが一方ではまた、木々氏が探偵小説を書くにまだ卓抜な手腕を備へ切ってゐない證據でもあらうと思ふ。
 木々氏の作風に就いての感想を、恰度他の原稿に書いたので、こゝで重複させるのを避けるが、私は氏の處女作「網膜脈視症」を初めて讀んだ時、ソーンダイク博士物語の感じがひどく頭にこびりついた。ところがこの「就眠儀式」では、讚んで行くうちに今度は奇妙に半七捕物帖が思ひ出されて仕方がなかった。それは殆んど前半だけの感じであったが、その個所では、まるで實際に半七物語を讀んでゐるやうな氣さへした。前のソーンダイク博士物語の印象の據って來るところはすぐさまに判ったが、この半七先生の印象は一寸判斷がつきかねた。 これこそ大心地先生にみて頂かねばならないかなと思ってみたりしたが、結局これは提出される問題の奇妙な性質(つまり水尾子といふ娘の不思議な症状)とその記述振りや、その提出のしかた(半七が家の若い者から事件の大體の報告をそれからそれと受けてゐるやうな――これが第一番の原因だと思ふ。)それから、これは木々氏のものゝ特色を作ってゐるのだが、大心地先生の至極物に馴れ切った態度の、立ち所に見當をつけて行くあたりが、あの岡っ引の半七の職掌柄に鋭い直感の感じと、大變に似通ってゐるのである。 (半七の直感の原因してゐるところが讀者に仲々判りかねると同じやうに、大心地先生の下す解釋も、その因ってゐるところが私共門外漢には見當がつきかねる。)そんなやうなわけで、私がフトあの半七捕物帖の懐しい氣分をさながらに思ひ浮べたものであらうと思ふ。(全體の扱ひ振りも似てゐないではない。)
 處女作ではソーンダイク、この作では半七老人――私は木々氏の作からは取材の新奇さなどよりも、作品の香りにひどく懐しい古めかしさを感じさせられて了ふ。
 これは私だけが殊に強く感じてゐることであるかも知れないが、この機會に敢へて木々氏に申上げてみたい。それは、大心地先生といふ主人公には私は大變魅力を覺えさせられてゐるのだが、その大心地先生の精神分析による探慎法はとなると、私にはどうも魅力が薄い。それは云ってみれば、或る一定の公式により、難解な問題の答へを造作なく得るやうな、または既製の機械にかけて、バンバンとわけもなく目的物を切り出してゞも行くといったやうな、探偵小説の論理的な興味とは、一見ひどく似てゐるやうで、その實甚だ遠いやうにさへ思はれるのである。 學説に當てはめ、學理から割り出すのでは、私には物足りない。それなれば假令マンネリズムに陥ってはゐても、シャーロック・ホームズの推理と觀察の方にまだしもより多くの深みを覺える。勿論私は精紳分析の並々でない面白味に魅力を感じないものでは決してない。が、それよりも私は、木々氏を通じて我が尊敬する大心地先生に望むのであるが、大心地先生の卓抜な學識と洞察力とを以てしても、もっと軌道の上ばかりを走らない心理探偵といふものは出來ないものであらうか。
  「打球棒殺人事件」 西尾正
 かうした作品が私は一番よくないと思ふ。これはたゞ作者の遊戯である。ストーリイに就いて云へば、殆んどこぢつけにひっくり返すばかりがこの作での作者の仕事としか思はれないし、文章に就いて云っても、自分の好きな所では腕にまかせて幾らでも長々と書きっぱなして行くといった感じである。すべてが作着だけの遊戯としか思はれない。でなければ眞面目さを欠いてゐるのであらう。ともかくも、讀んでゐて絶對に好感は覺えない。
 ストーリイに就いては、具體的に批評を加へるまでもない、一と昔前のごくつまらぬ而も不愉快な型のものである。(それも先きの見通しが半分以上もつくのだから餘計困る)また西尾氏の叙述は、何んでもかでも一から十まで語り盡くされるの感じであるが。もっと暗示的な引きしまったものにしてほしい。 豐富な同氏の語彙文章力も、まるで遊戯のやうに不經濟に、蟲乾しのやうにこれみよがしなありったけを並べられてゐたのでは、面白味を覺える遥か手前でうんざりして了ふ。一つ一つに最大の効果を持たせるやう、西尾氏はもっと出しおしみをしてくれた方がよからうと思ふ。
 私は西尾氏が時折發表する感情丈には人一倍の敬意を表してゐるものだが、西尾氏が事實かうした風なストーリイに興味を持ってゐたり、探偵小説的な魅力を覺えさせられてゐるのだとしたら、それは私の知ってゐる同氏の一と通りでない理解から考へて、全く不可思議と云はなければならない。
 併し恐らく、かうした探偵小説風なものは西尾氏の本領ではないことであらう。それなれば私もこの作一つを通して氏の全體を嚴しく忖度することは避けておきたい。これからの作品を待ってみよう。
  「棒紅殺人事件」 星庭俊一
 よく謎が組立てられてゐて敬意を表するが、讀んで面白いとは云へない。もっと切りつめて短くした方がいゝ。それから、この機會に訊問のことで云っておきたいのだが、成程實際の捜査の上では誰彼となく取調べて廻る必要もあるであらうが、小説の上でまでこの義務的な(或はさういふ感じのする)取調べを持って來られては迷惑であるし退屈である。殺人のあった家の中の十人を十人ながら、別になんといふわけもなしに女中小使の端々まで一應取調べて行くのが、本格探偵小説の退屈感の源であり、失敗のもとである。 「この證人の取調べこそは必ず面白いに違びない」とそんな風に讀者に期待させるだけのものを設けておき、そんな風に期待させてゐるのをうまく取調べてこそ面白いものであらう。うまくさへやれば、探偵小説の訊問部分といふものは、火花の散る、智的な、心理的な面白味があるはづのものである。何によらずきまり切った手順を一應は義務的に踏んで行くのは、出來るだけ廃止するやうにしなければ面白い探偵小説などそれだけでも生れないだらうと思ふ。 尚、本格探偵小説に就いては毎度云ってゐるのだが、いくら複難な謎を無難に組立てゝ尤もらしく解いてみせてくれたところで、その謎そのものがこちらへ働きかけて來ない以上は、決して面白くはならないものだ。(實際はまだそれだけでも甚だ足りないのだが)
 星庭氏はワ゛ン・ダインなどの愛好者でゝもあらうか、いかめしい前置きから主人公の臺詞までがワ゛ン・ダイン型で、讀んでゐるとドクター・ドレマスまでが飛び出して來さうな氣配を感じる。併しうまく取って來てあるのは形骸だけであって、ワ゛ン・ダイン流が面白く讀まれる肝腎の魅力の方はスッカリ置きざりになってゐる。本格探偵小説の脱殻であると酷評せられても仕方がない。
 新入としての星庭氏のこの作にはもっと讃辭を呈すべきであるが、毎度のやうにかうした本格作品が本誌に現はれるので、敢へて苦言だけにして止めておく。
  「愛慾禍」(朝刊朝日特別號)大下宇陀兒
 今月はこれでともかくも小説らしい探慎小説を讀み得たやうな気がした。肩も凝らなければ無味乾燥でもない。謎々でもなければ公式のやうな感じもない。やれやれと思ふ。
 「愛慾禍」と題してあるが、その愛慾禍がいかにも附けたりのやうで、殆どど描けてゐないのは物足りない。「……私はそれまで、さうした彼女の神秘さには、殆ど無關心の状態だった。彼女の性格は、實に複雑なものである。いはゞ一種の二重人格者である。誰かこの眩怪不可思議な彼女の全性格を、私より以前に、よく洞察し看破し得てゐたものは有ったであらうか」、と書かれてゐるが、 讀者の目には露子といふ女がさうした複雜な性格の持主であるといふことが感じられない。すべて作着がひとりで肯定し表面的にさうであると説明してゐるだけのことで、その説明からは深い魅力のありさうな面白さうなところは讀者は味はうことが許されてゐない。披女が異常な性格の女で、狂的な守銭奴であるといふ點の面白味は、このストーリイの推移だけでは甚だ物足りないではあるまいか。 讀者の目の前に見る女と、私といふ主人公が説明してゐる女とは、どうも隔りが大きい。(從って主人公の「……憎んでも愛は減らないし、愛しても憎しみの念が消えはしない。理解し難く愚なヂレンマのうちに閉ぢ寵められてしまった私を、世界一の馬鹿者だと罵る人もあらうけれど、……」といふ惱みも、表面だけの話のやうにしか感じられない。)
 作中面白いのは、古臭くはあるけれど、あの寫眞の役割である。甥の勇吉君が何氣なく引伸してみた寫眞が、圖らずも恐ろしい秘密を語り出すのである。「無邪氣な、一見何んでもないものとばかり思はれてゐたものゝ中から、急に思ひがけない、恐ろしい奥深い恐怖が顏を出す、」――大下氏の初期の傑作「山野先生の死」や「死の倒影」が、こゝでチラリと顏を出すのを感じて、私は一としほの興味と懐しみとを覺えた。
 この作から別に私は新鮮味は感じない。また愛慾禍の點は前に云った通りだし、自分を殺さうと計畫してゐる妻に對して、己れの死後妻をも必ず死に至らしめるであらう種々な證據を密かに取揃へておくといふ點も格別に面白いとも思はぬ。(たゞこれが「無理情死」といふ言葉と結びつくと面白い。)
 ともかくも「ぷろふいる」誌讀後、この作は假令僅かではあったにせよ、私を喜ばせてくれる所のあったのは有難い。
 この他探偵小説で今月私の讀んだものにもう一つ「新青年」所載、大下氏の「烙印」がある。全篇だけであるから纏まった感想は次回を待たなければならないが、作者の意氣込みも落着き振りも感じられて、中に案外安っぽい平凡な細工もありはするが、全體としては面白くいゝものになりさうに期待される。 殊にこの回の終りのあたりの面白味から推して、後篇に於てこの作は少しは風變りな興味を提出してくれるかも知れない。尚、農學士倉戸といふ男の、由比祐吉の計畫的な犯罪に對する態度は、さながら「愛慾禍」の勇吉君と寫眞の役割をつとめてゐるやうに思はれて面白い。
 前篇を讀んで思ったのだが、「愛慾禍」とくらべて、作者が熱心に書いてゐるらしく感じられるだけに、この文章はどうも大人げないところがあると思ふ。後篇の成功を待って詳論したい。

昭和10年9月
  「セントルイス・ブルース」(ぷろふいる)平塚白銀
 當選作に相應しく八十枚の本格物の筋を、ローマンスを匂はせながらスラスラと無難に運んでゐる。新人の作としてみれば相當なものである。これくらひに書ければ、あとはこの程度で滿足せず、レベルを一層高めることに努力すべき人だと思ふから、そのつもりで少し酷評になるが感想を述べさせて頂く。
 普通、探偵小説の面白味を分けると、ストーリイの面白味と論理の面白味との二つになる。論理の裏附けは薄いが組立てられたストーリイが主として面白いもの――フレッチャーの小説とか或はビーストンの短篇とかはこれにはいるだらう。ストーリイは簡單で面白くもないが、殆んど論理的興味だけで讀ませるもの――ポオの「盗まれた手紙」などがよい例である。大抵の場合探偵小説はこの兩要素を兼ね備へてゐて、どちらかゞより多いか少いかで興味が違って來るだけのことである。
 ところで、平塚氏の「セントルイス・ブルース」は、このどちらの要素もごく微量にしか持ってゐない。どちらかと云へばストーリイの面白味の方へ傾く作品のやうであるが、これも決して興味深いといふではなく、満足は覺えさせない。變轉が乏しい上に持って來て、最初からの道具立がごく陳腐だからである。ではもう一方の論理的興味はどうかといふに、純本格の甲冑を着てはゐるものゝ、この方は遺憾ながら皆無である。謂はゞこのどっちつかずの所が失敗であると云へよう。
(ストーリイの方は面白いのだが、それが探偵小説の常套的な調査經路に禍ひされてひどく損をしてゐると云ってもよい。)
 全體としてみて、作者は床も壁も拵へずに屋根をふいてゐるやうな感じがあって、一例を擧げると、殺人があって警察の販調べが始まり、やがて當夜の訪客達の到着順序などが表にして示されるが、かういふのは謎に充分な難解さがあり、その謎の難解さが讀者の頭によくしみ込んで來てからでないと興味は出ぬもので、「豆腐に鎹」といふ格言のやうに、あれでは少しも利いてゐない。折角の面白いものを一寸したことで割引されては甚だつまらぬ話であるから、この邊の所を研究して見て次作に備へて頂きたいと思ふ。
  「幽靈ベル」石澤十郎
 この作者の筆はまた一段と達者である。その達者振りは折々保篠龍緒を思はせる。作品がまた妙にルブラン臭い。博土、警察署長、司法主任はまるで保篠氏譯するルパン物から抜け出た人物のやうな口の利き方をする。
 プロットはよく考へられてゐる。その點の作者の苦心も窺はれる。脱走兵の死體發見や鈴井總裁暗殺計畫の介入も面白い。それから、成功的とは云へぬが、作者が個々の配列に意を注いでゐるのも好感がもてる。脱走兵の死體と奇妙な圖面の發見や、總裁暗殺未遂の出來事などを最初に獨立的に持って來るかして、も少しそれらが全體に濃い影を投げるやうに工夫してゐたら、もっと効果的な役目をつとめて、不可思議の興味も加へられてゐたかもしれぬ。 この作には、着想に面白いものが幾つかあり、プロットにも苦心がしてあるのに、前の「セントルイス・ブルース」以上のサスペンスは感じられない。冒頭が平凡であり、續く博士の陳述が少しも面白くなくて長たらしいことが特によくない。全體として、バタバタと忙がしくたゝみ込んでばかり行かずに、折角の個々の面白味を充分發揮させるやう心掛けることにしたら、もっと面自いものになってゐたらうと思ふ。この調子ではまだ面白くない。石澤氏の持ち物は光ってゐる。研究を希ひ次作を期待してゐる。
 概して本誌に紹介される作品は四角張りすぎて面白くない。(今月の石澤氏のものなど特に感じが固い。)構成力は相當なのだがすべて根本の着想をなしてゐるものが平凡で機智に乏しい。かうしてみるとドイル、ルブラン等の先人の作にまだまだ學ぶべきものがあるであらうし、さうした意味で甲賀氏の講話など大いに参考になる筈だと思ふ。構成だけで讀まさうとするのでなく、作の根本にもっと溌剌新鮮、ウイッティなものを書くやうにして頂きたいものだと希望したい。 この數ヶ月に紹介された本格的作品では、論理的興味の方は殆んどゼロであるといってもよい。それだけこの方の魅力を出すことは難事だからで、例へば簡單に推理々々と云っても、たゞ理窟が通ってゐるだけのことを勿體らしく云ってみたところで、これっぱかしも論理的な推理の面白味に出るものではない。それで、かうした論理的興味の乏しい本格作品はせめてストーリイが面白く運ばれてゐないでは助からぬ。 非常な力作ではあるが、論理的興味は皆無なれば、ストーリイも面白くないといふ作品が多いのは遺憾だと思ふ。以上、簡單な感想を挿入させて頂く。
  「藏の中」(新青年)横溝正史
 今月の作品ではやはり光ってゐる。讀みながら樂しめて、その間、あすこが惡いこゝがいやだといふやうなことほ暫く考へずに濟まされる。この作のよさは、大部を占めてゐる原稿「藏の中」に盡きる。そしてよくないところはまた「藏の中」といふ一篇のストーリイが單なる創作として現實の間に挾まれてゐる點であらう。あたら名畫たり得るものをつまらぬ細工の額縁に納めたの恨みに例へたい。
 原稿「藏の中」は美しく淋しい場面の幾つかを描き。青白く澄んだ物語を織り出して行って、やがて現實と創作とが交錯する異様な錯覺を起させて讀者を引き入れる。己れの死に至るさまを朗讀させながら、その通りにして自分を殺させて行く、まさに現實と夢との奇妙なクライマックスである。と、そこでパッと電燈がともり、映像がスクリーンから消えて月並な現實の中で拵へ物を見てゐた悲哀を感じさせられる。
 病後の横溝氏の筆には、いまゝでに見られなかった澄んだ美しさと淋しさとが漂ってゐる。創作「藏の中」の青白い繪巷物の中から、あらゆる物象に強い憧れを抱いて、弱々しく澄み切った作者の目が、美しく光ってゐるのを感じずにはゐられない。
 作品としては、あまりに趣味を追ひすぎるのあまり、統整の上に或る物足りなさを覺えさせられるところの有ることを附言しておきたい。
  「完全不在證明」(文藝)木々高太郎
 木々氏としては別によい出來榮の作といふ程のものではないのだらう。形式が陳腐で、出發が平凡、結末に熱が欠けてゐて面白くない。唯私には眞中どころが興味深く讀めた。つまり大心地先生が登場して暫くの間である。大心地先生が現はれるまでは木々氏としての冴えが見えないが、先生が登場すると忽ち引きしまって來る。作者の自信が強くなり、すぐさまに優者の位地に立って來るからだらう。大心地先生の前では、作の前年、即ち山川京太郎の犯罪はとるに足らなすぎるの感が強い。
 大心地先生のためには、もっともっと巧緻周到狡猾な犯罪の組立てが望ましい、これまでの事件は、先生にとっては少々ちっぽけすぎると思ふ。犯罪者が小さい。大心地先生を必死に追ひやる程の大犯罪者が創り出された時、木々氏の持味は高度に發揮せられて、得がたき傑作が生れるだらう。この意味からも、木々氏が洩らしてゐられる長篇物進出は是非とも實現してほしい。尚、この完全アリバイの形式は、私はよく大心地先生の活躍に適してゐると思ふ。
 木々氏の持物底力は、まだまだ發揮されてゐない。(それは讀んでゐて齒痒いばかりである。)が、さうした感が強いだけ私は木々氏には期待を持ってゐる。取るに足らぬちっぽけな犯罪者相手の仕事は早く打切らせて、一時も早く大心地先生を大きな犯罪の舞臺へ登場させてほしい。
 この他では「新青年」所載、甲賀三郎氏の「黄鳥の嘆き」第一回を讀んだ。作者が探偵小説のよき理解者であることは冒頭を讀んだゝけで知られる.すべて無駄なく、簡單平易に、而も、探偵小説の難解味が早くも行間に滲み出てゐるところ、流石といふべきである。第一回で紹介された人物が後段如何にかゝわりを持って來るかゞ考へられて發表が期待される。完結を待ち詳細に感想を述べてみたい。
(今日は多忙のため他の作品は未讀)

昭和10年10月
  「黄鳥の嘆き」(新青年)甲賀三郎
 前篇によって期待した風な發展を見ずに終ったのは少々殘念であったが、全體が手際よく纏められてゐるのが氣持がよい。重武が乗鞍岳登山を境にして性格を一變して來たといふところは面白い。またその變化を登山を境にしての二人の戀人の話から聞き知るのは更に面白い。 現在の重武が僞物であらうといふことは讀者には充分察しのつくことで、物語がこの秘密を肯定するところに中々行きつかず、愚圖々々進んで行くのは、普通なれば興味を殺ぐこと甚だしいのであるが、紙上探偵としてはあまり頭のパッとしない刑事の講演といふのが、これも亦恐ろしく間の抜けた大阪辯でのんびりと綴られてゐるのが、全體の気分によく合って、興を殺がぬ以上に甚だ効果的である。よく考へられてあると思ふ。
 最後の方の、顧問辯護士野村が犯人の奸計を看破しようと苦心するところからの調子は、一寸クロフツを思はせる。そのせゐか、この邊は甲賀氏らしくなく、氣分も幾らか違ってゐてピッタリしないやうに思ふ。
 前後篇を通じ、際立って頭のよい人物も出なければ、鋭い推理など微塵もなく、平易から平易への連結であるのに、よく讀者に思考を強ひるものがあって、適度の難解味があり、最近の甲賀氏のみが持つスッキリした、感じのよい探慎小説である。謎を少しも強調せず思はせぶりなく普通に書いて行って、よく効果をあげてゐるのが、甲賀氏のよさであり、この作に於て學ぶべきところであらう。 唯、私としては、冒頭に記した通り、雄大見事な胴體を晴示した頭へもって來て、すぐさま尻尾がくっついて來たやうな感じを受けてゐる。甲賀氏の現在ありったけの力を見せた作品を早く讀まして欲しい、それが私の念願である。
  「空間心中の顛末」(ぷろふいる)光石介太郎
 光石介太郎氏の作品を初めて讀んでみたが、これは確かに力作に違ひない。よく書いてある。「空間心中」なるものゝ意味が中々面白い。併し、かうして作中人物をペテンにかけたり、引いては讀者に一杯くわさうと計る式の探偵小説は私はもう古いと云ひたい。よし古くなくてもかうした傾向のものはあまり感心出來ない。これも亦一種遊戯の感じを受ける。而も、その遊戯向きなトリックを根本にして深刻なストーリイが克明に作り上げられてゐる場合には尚更感じがよくない。
(この作のやうにそれがうまく書けてをれば書けてをる程さうした感じを強く覺へる。)かういふ話は、いくら人を瞞しても罪がなく、後味が惡くならないやうなユーモア物に使った方が効果がありはしなからうかと思ふのだが。前の甲賀氏のものなど、どれ程やまが見えてゐても讀めるが、この作では雜誌の活宇による通信が信ずるに足らぬ、と考へ出すと忽ち話が冗長に感じられて來るものである。況んや、當の男女が少しもそれに思ひ到らぬに於ては尚のことではあるまいか。光石氏よ折角の筆力である、研鑽精進して頂きたい。
  「月光に乗るハミルトン」(ぷろふいる)水谷隼
 たったこれだけの話が面白く讀めるから皮肉である。おまけに、深偵小説風な面白味があっさり浮き出てゐるのまで見ると、所詮熱力でも筆力でも書けるものではない、「理解してゐる」といふことが何よりだと思ふ。最初の探偵小説への批評共々、全篇がよき教訓である。
  「人魚謎お岩殺し」(中央公論)小栗虫太郎
 「黒死館殺人事件」を熟讀して間もない私にとっては、この一篇は最早興味深い作品ではなかった。この作に盛られてゐる面白味は、「黒死館」に於てはもっと熾烈であり、豐富であるからだ。たゞ小栗氏の文字文章が發散するあくまでも探偵小説的な香りと、全體を包む小栗氏らしい濃厚な色彩とは、この作に於てもやはり充分に魅惑的であったし、今月では甲賀氏のものと竝んで最も讀み應えのある作品には違ひなかった。 事件の發端、つまり夷岐戸島での奇妙な出來事が記してあるあたり、殊に、月のない晴夜、海底から夜光蟲に飾られた女の屍體を引き上げるくだりなど、中々に美しく興味深い。それから後、探偵小説らしくなってからの感じは前記の通りである。また法水麟太郎その人は一段と興味が薄い。

昭和10年11月
  「南の幻」(ぷろふいる)戸田巽
 スッキリした空と海と空氣と、のんびりした氣分とが、「南の幻」を作り上げてゐるが、それがあとに殘った快い印象でもある。恐らく戸田氏のいゝ持ち物であるのだらう。刺身にまつはっての夢のところが少し拵へ物の感じがする。夢であったからまだいゝやうなものの、全體の感じにくらべ少し低調だと思ふ。前に讀んだ同氏の「相澤氏の不思議な宿望工作」にくらべるとストーリイの面白味は足りないが、こののんびりした氣分を私は快よく感じてゐる。
  「火祭」(ぷろふいる)中村美與
 大火の動乱が中々力強く描いてあって、全體としても筆の達者な人だと思ふ。それで、大火災の描寫と放火魔の跳梁のことには充分筆が行き届いてゐるのだが、それに伴ふべき戰慄が充分感じられず、讀みながら終始物足りなく思ふ。大事なものが落ちてゐる感じがする。
  「龍美夫人事件」宮城哲
 讀みながら.成程ゝ探偵小説のかういふ所が面白いのであらうと、作者のファン振りが想像された。そして、作者の好んでゐる所へ向けて實に丹念に、色んなテクニックを使って、書き進めらてれてゐる。その努力と色んな技巧をよく會得してゐるのとには充分の敬意を表したい。 しかし作者の今後のため敢て一言しておきたいが、作者の好む探偵小説の面白味は私共のみてゐるところとは大分に距たりがあることを痛感する。作者たるもの、もっと大きく目を開いて、探偵小説といふものを、探偵小説が持つ色んな面白味を、もっとよく見直し、見續けて行ってほしいと思ふ。
  「青い鴉」(新青年)西尾正
 「ぷろふいる」誌に發表した「打球棒殺人事件」なんかとは違ってこの作品には好感を覺える。「打球棒」はプロットもプロットであったが、西尾氏の文章が更に面白味を毀してゐた感じであった。が「青い鴉」では、さして引き立たぬストーリイを文章が讀ませてゐる。それだけこの方が西尾氏の本領のものだと思ふ。西尾氏の筆には確かに惹きつけるものがある。坦々と描寫がしてあるところなどは特によい。ストーリイの奇を捨てた雰圍氣的なものがきっと打てつけであらう。心理的な裏附けが深くなって來ればもっといゝことだらう。 さういふ方面に専念されたら西尾氏には今後私などの好きな探偵小説なども大いに書いてもらへることになるかもしれぬと思ふ。この作品では、出て來る人物、つまり菓子屋の若主人とか畫家の今井などといふ人がどうも子供っぽく描かれてゐる。云ふこともすることもあまり面白く思へない。極く他愛もない連中である。それが西尾氏の筆とはひどく喰ひ違ってレベルが低いといふ感じを與へる。
 「青い鴉」を讀んで、躍動してゐる作者のよさを強く感じ、早速以前に發表された「土藏」(ぷろふいる)と「骸骨」(新青年)とを探し出して續けざまに讀んでみた。「土藏」はどちらかと云へば「打球棒」と同傾向のもので、ストーリイも形式も二つながら一と頃日本だけに流行ったつまらぬ探偵小説型のそれである。いまさら西尾氏を煩はすべきものでもない。 「骸骨」は力作であり、作圖したところもよく、「陳情書」といふのを知らぬ私にはこれが一番西尾氏の方向のものであると思った。たゞ西尾氏の欠點で、饒舌を進めて行くうちに迫力が伴って行かず、往々饒舌が饒舌だけのものに終ることが多いし、大雷雨中の好ましきクライマックスも、様々な苦心の形容語が並べられてゐるが、七分通りまでは描けてゐてあとが伴はない。折角の壓倒的昂奮の大場面も意有り餘って筆足らずの憾みである。 いまの西尾氏が書き直してくれたらもっと迫力に富み零圍氣も一段強く感じられたことであらうと殘念に思ふ。それに「青い鴉」にくらべて結末がダラダラしてゐるから餘計に氣が抜けて了ふ。併しともかくも「骸骨」に西尾正の本領たるべきものが窺へる。西尾氏ばプロットの安價な綾などは斷然捨てて(西尾氏はこれが案外好きらしい)この方面へ邁進してほしいものである。奇を追はず一本道に克明な歩を運ぶことが望ましい。西尾氏の持ち物は大いに伸ばさるべきである。御自重を希ふ。
  「三人の双生兒」(新青年)海野十三
 何月號であったか、今年の「新青年」随筆欄で、海野氏は、探偵小説にミステリイの味を多く取り入れることによって、それが假令極めて低調で本格探慎小説としては完備してゐないものであっても、讀者を充分に惹きつけることが出來るものだと云って、探偵小説にミステリイの重要さを簡單に書いてゐられた。探偵小説の性質からしてこれは實に當然すぎる程當然な話で、ミステリイの少ない探偵小説などてんから面白くもなんともない筈である。 だが近頃はこの自明の理も等閑視されてゐる傾きがあると思ふ。理窟ばかりが多かったり、技巧ばかりが洗練されてゐたりで、ミステリイなどいつしか片隅へ押しやられてゐるやうな探偵小説が案外多いものである。海野氏もそれでことさらにミステリイのことを云々されたものであらう。 それでこの「三人の双生兒」であるが、これなどは計豊的犯罪の構成もなければ論理的科學的なデテクションもなく、どちらかといへばミステリイ・ストーリイ、或はカロリン・ウエルズが云ったリズル・ストーリイなどの領域に片足を入れてゐるものであるが、しかし探偵小説はこれで結構だと思ふ。下手に本格がって小説らしくないものよりもこの方が餘程上乗の探偵小説である。 私は實のところ久し振りに海野氏の作を讀んだので、果してこれが氏の作中上位におかるべきものなのか、それともこの程度のものならいつも書いてゐられるのか、殘念ながら判らないが、とにかくこの「三人の双生兒」は面白いと思ふ。かういふ探偵小説を書いてゐるのなら海野氏は何も本格嫌ひを標榜しなくてもいゝだらう、本格探偵小説と雖もこの式で行くべきだと思ふから。
 年の割にませた口をきくのが出て來たり、「新青年」胡鐵梅ペエパー・ナイフ氏に叱られさうな行儀のよくないことが平氣で書いてあったり、「妾」といふ女の性格が變てこだし、その他腑に落ちかねることや氣になることはあるが、ストーリイとしては終始面白く讀ませてもらったのであるから、この作品の性質からしても、さうあれこれ嚴しく云はなくてもいゝだらう。  一寸フレッチャーの面白味があると思ふ。面白く讚ませるにはやはりフレッチャー式な手法がいいナと不圖思った。また海野氏の短篇集「火葬國風景」を早く買って讀んでおけばよかったとも思った。
   ・   ・
「新青年」の二回連載の試みは探偵小説としては前の百枚讀切よりも餘程いゝ。これまでの所悉くがよい収獲である。そして今月は、未曾有の素晴らしいプロローグを持った「幽靈水兵」、本々高太郎の登場である。前篇を讀み終ってこれは大變な傑作になるかもしれぬと思った。後篇への強いサスペンスを持ってゐる。しかし、まかり間違ってこれがごく平凡に幕を閉じるやうなことになったとしても、木々氏は最早この前篇だけに於て大きな功績を樹てたと云ひたい。ともあれ、後篇の成功を祈る。

昭和10年12月
  「幽靈水兵」(新青年)木々高太郎
 この探偵小説は大變感じがよく、何處を讀んでゐてもいつもスッキリしてゐる。だから一面甚だ物足りないとも云へやう。非常に面白さうな所がちょいちょい顏を出す。これは面白くなりさうだと、早くも期待しかけると、それがいつもそれ程でもなく終ってしまふ。部屋に蠅が集まって來ることからして一つの謎が解けかゝるところや、電燈の明減から新たな謎が顏を出すところ、ボート遊びの好きな靜子といふ娘の役割、澤山大佐のかかはりなどすべてがさうで、どれもこれもごくアッサリと扱はれてゐる。 それで終始あてが外れるやうで讀みながら何んとなく物足りないやうな氣がするのだが、それでゐてやめ難く面白い。一因は作者が非常に冷靜な態度で筆を進めてゐるところにあるのであらう。作風を通しての感じで、木々氏は決して創作の熟情に我を忘れるなどいふことはなささうに思はれる。論理に陶醉するところもなければ激情的場面を描いて熱するやうなこともない。書き終へて平然と椅子に煙草をくゆらしてでもゐさうな落着いた姿が想像されさうである。 いや、何處を讀んでゐてもいつも作者木々高太郎氏が目に見えてついて來る。私は氏の處女作以來いつも興味の度合ひに何んとない物足りなさを覺えさせられて來てゐたものであるが、併しこの一種物足りなさが實は木々氏の作風の特色であるばかりでなくまた作品の魅力にもなってゐるのであって、却ってそれを樂しむべきだといふことが、漸くに考へられて來た。
 志賀博士のやり口が多く直感的で、(博士自身は直感ではない場合でも讀んでゐる方ではさう感じられる。)事件の進展に五里霧中の感じがあり、最後に説明の一節が相當長々と續くなどは、フリーマン風な一と昔前の探慎小説めいてゐて、全體の手法が例によって古臭いけれども、それも獨特の叙述のお蔭で、事件、解決、の進行と、終りの説明の個所とのけじめが際立っては感じられず比較的退屈もなく讀み進められる。最後の方は就中面白い。水谷準氏の「司馬家崩壊」の印象がチラと頭に泛ぶ。
 讀後、靜子に宛てた手紙とあの遣書の子等への教訓を綴った笠原老醫師と、彼に結びついた靜子との二人の姿が、この作の土産のやうにして感じよく頭に殘る。プロローグの素晴らしさはもとよりとして、木々氏の探偵作家としての特異な手腕と、随所に窺はれる新方面への工夫と、今後の圓熟躍進振りとが知られるよき一篇であった。
  「鐘樓の怪人」(ぷろふいる)石澤十郎
 作者の好む探偵小説の傾向はこの作の如きものなのであらう。前に讀んだ「幽靈ベル」と矢張り似てゐる。面白さも出來榮もむしろ「幽靈ベル」の方を採る。この作には迫力が感じられない。また謎を投げかけて行ったり、それを發展させて行ったり、次第に結末へ向け引きしめて行ったりなど、さうしたこの種の探偵小説の面白味がよく出てゐないやうに思はれる。はじめから終りまで感じがごく散漫である。全體の興味がさうであるし、作中人物の氣持行動に對しての作者の注意も亦そのやうである。 相當に發展してゐる事件の一部をカットして結末をつけておいたといふやうな觀がないでもない。何處が面白くなるべき所なのか、何處を面白くするべきか、つまリセントラル・アイディアともいふべきものがしっかり掴まれてゐないのではあるまいか。筆力は相當なのであるからそんな風に考へてゐたくなる。焦點をよくきめること、それをこの作に希望したく思ふ。石澤氏への希望は「幽靈ベル」の折り簡單に記した。 好みも筆も、主として事件的に走ることに傾いてゐるやうであるから、別に雰圍氣を持つじっくりした味を出してほしいとは望まないけれども、それならそれで、事件の面白味を盛り上げて行くやう工夫を積んで欲しい。力強い、線の太い力作をやがては生むべき人であらう。
 以上石澤氏の努力と出來榮に對し、甚だ酷評に過ぎるのだが、「ぶろふいる」誌の新人諸家の創作に對しては毎號別に評價のレベルを下げることなく感想を記してゐる外に、或は故意に詮索じみてゐるかとも思ふ、どうかそのおつもりで月評は見て頂きたい。
  前篇「巡査辭職」(新青年)夢野久作
 日本の探偵作家中、作風に最も大人の感じのある作家の一人として夢野久作氏を擧げなければならない。スラスラと讀めて、而も充分な重みがあり、ねばりけもあって、話も面白く、こまかい所への注意もよく行き届いて、筋の運びの上にはまるで非のうちどころもなく思はれる。他の作家の持ってゐる面白味は殆んど集めて持ってゐるやうにさへ考へられる。そして、それ以上のものがまだまだ有ることであらう。 その中の或る一つがこの作品を貫く面白味になるのかもしれない。すれば後篇に於ての草川巡査は大いに私を喜ばしてくれることだらう。「ぶろふいる」十月號夢野氏の興味深き探偵小説觀も思ひ合はされて、この作品こそ眞實に後篇が待たれる。

注)明らかな誤字誤植は修正しています。一部の語句は統一(ストーリーをストーリイ)しています。
注)ネタバラシと思われる部分は背景色文字としています。


「探偵小説時評」
「ぷろふいる」 1937.01.〜04. (昭和12年1月〜4月) より

(一)
 木々高太郎氏の「二重殺人事件」(中央公論)を期待して讀んでみたが、遂に少くも面白くないといふ感想に終始してしまった。近頃は讀み漏らしてゐる作品が澤山あって、木々氏の最近のものも僅かに本誌に載った「盲いた月」を讀んだくらひ、他の木々氏の作品に就いては友人の話を聞かしてもらってそれで濟ましてゐた。 「盲いた月」は好評のやうなので讀んでみたがあまり面白くはなかった。あとで長々と説明がくっついてゐるのが殊更うんざりさせた。尤もあれは解決を護者から募るため書いた作品なので一層あのやうな形になってしまったのかもしれない。 今度力作らしい「二重殺人」が出たので大いに期待して讀んだ。木々氏の評論の方は探偵雜誌に載ってゐるのは大抵讀んでゐるから、氏の作品が果してどのやうな方向に、そしてどの程度に、氏の理想とするところを實現してゐるのであらうと、その點他の作家の創作を讀む時とちがって別種の大きな期待が掛けられたわけである。 しかし「二重殺人」を讀んでみると、さうした點の吟味よりも一向にこれでは面白くないなと感じることの方が先に立って、ともかくも通讀はしたものの豫期に反していゝものを讀んだといふ氣は私には起らなかった。以前氏の「死固」といふ本格作品を讀んで少しも面白くなかった時と似たやうな氣持であった。何にしてもこれまではまだ退屈ではないか。殺人事件にはいってからも尚ほ退屈であるが、それにはいるまではまだ恐ろしく退屈だと思った。 アメリカの探偵作家でストラハンといふ人の書く探偵小説は事件が始まるまでになんでもない日常茶飯事風な出來事を、その中に伏線を敷き敷き克明に長々と書き續ける癖があって、この作家のことであるから事件にはいれば面白いにちがひないのだがと思ってみても私には迚も冒頭から横たはるその難所を讀み越へることが容易に出來なかったものであった。木々氏の「二重殺人」の前半はこのストラハンを私に思ひ起させた。だが、ストラハンに限らず總體に探偵小説くらひ最初から讀みづらひ思ひをさせる小説は全く珍しいのではないか。 木々氏の「二重殺人」もおもむろに事件發生の芽生があるらしい事情を事細かに説き開かすことから始まって先づ相當にうんざりさせられてしまふ。この種類の退屈感は他の小説にはあまりないやうに思ふ。しかし「事件にはいってからのことなら誰にでも書ける、『二重殺人』に於て貴しとするのはその君が退屈がってゐる所だ、」と言ふ達眼の批評家がゐるかもしれぬ。私はさうした人の説明に出逢って成る程と肯くことが出來れば甚だ仕合せであると思ふ。
 さて、殺人事件にはいってからはどうであるかといふと、その事情状況にさしたる不可解事もなく、どうでも説明を知りたいものだと思ふ氣持は一向に頭を擡げて來ない。すぐにもいろんな説明がありさうであるし、よしまたそれらのどれが的中し登場人物の中の誰が犯人ときめられてしまふとするも聊かも差支へもないやうな、甚だ冷靜な氣持で納まってゐられるのを私は情けなく思った。 多く不滿に終始した私は唯あの犬に鼾をかかせて犯人の身代りをさせておくといふ、アリバイ構造の僅かのくだりを面白く思ったにすぎぬ。また全體のストーリイそのものは江戸川氏の探偵小説のやうに拵へ事の感じは尠いが、却ってあまりに普通のありふれた世間の出來事のやうに思はれて感興が乏しかったことも擧げておきたい。(この感じは作者の記述の科學者的冷靜さにも起因してゐよう)
 木々氏がこんな批評を讀んだらなんだこちらの苦心した所は少しも分ってゐないぢゃないかと立腹せらるるであらうと思ふ。が、敢えて私は平凡にして陳腐な物差で計りっぱなしにしておく。
 私が讀んだ木々氏の探偵小説藝術論は多く斷片的、そして抽象的に過ぎることが多かったが、呑み込み得た限りでは私も氏の理想とさるる所には大いに賛成であるが、そのやうな藝術探偵小説は私なども日頃憧れを持って來てゐる。出來るか出來ぬかの問題よりも、腕のある探偵作家が大文學の高峯を目指して努力してみようといふことは實に遣り甲斐ある仕事にちがひない。多くの同好者が聲援を送るのも尤もに思はれる。 もし純文學の傑作と同じやうに眞面目に身を入れて讀み耽り且つ樂しむことの出來るほどの探偵小説が創作されればそれは大きな喜びにちがいない。藝術性の有無なぞは兎も角、近頃では讀んで樂しまうと取上げるほどの創作探偵小説すらひどく乏しさうに思へてならない。たまに讀んでみるものが不運にも他愛もないものだから忽ちこりてしまふ。單に讀んで面白かったといふ點だけから言っても、つい最近讀んだ室生犀星氏の「戰へる女」なぞは片々たる創作探偵小説に比し數十倍も面白かった。
 しかし私は木々氏の理想とせらるる如き文學探偵小説を憧憬する一方、いま一つの考へを消滅せしめることは出來ない。探偵小説にはあきたらず思って、純文學作品の傑作を求め讀み耽ってゐると、元々私は探偵小説が好きであるからそのうちにまた探偵小説を取上げたい氣持が起る。しかしそのやうな時に木々氏の「二重殺人」が代表する如き退屈にして嚴粛、修身の課外讀本とでも言ひたいやうな感じのする探偵小説を、態々幸抱して讀むであらうとは思はれぬ。 また探偵小説の形式に書き變へられた「罪と罰」や「カラマーゾフ」やの類ひをそんな時喜んで讀み得るやも些か疑問である。「過勞といふのは腦の或る葉が過度に充血することで、それらの葉から血を抜き去るにはそれに隣った別の葉を刺戟しなければならぬ。田舎で靜養する一週間は諸君が自分の仕事をくよくよ思ふことに外ならない。探偵小説は護謨に對する沃度の働きをし、反對刺戟劑として役立つ」このやうに評した人があるといふ。 外国人の探偵小説趣味を説明してゐる言葉でもあるが、しかし探偵小説の存在價値は矢張りここにも立派にあるのだと思ふ。私は探偵小説のみを見るときには現在ある如き探偵小説に滿足を覺えることが出來ないけれども、他を眺めてからまたこれに目を移す時には矢張りこれでもいい、ヴァン・ダイン、チェスタトン、フレッチャー、ウォーレス、皆結構だと思ふ。甲賀氏の「誰が裁いたか」とか「黄鳥の嘆き」とかいったやうな作品、或は海野氏の「三人の双生兒」などといった種類出來榮の作品は、私にとって慰安と娯樂の用を先づ十分に近く果してくれよう。 「これなら探偵小説でも讀める、」といふ人と、他のものを求めるのではない探偵小説を讀みたいといふ人とでは探偵小説に求めるものも異ってゐるかもしれぬ。また探偵小説を讀みたいといふ人の中にも木々氏の理想とする如き藝術探偵小説を欲求する人と探偵小説はクリスチイで結構であるといふ人と當然ゐることであらうから、これらの人々を同一傾向の作品で一様に滿足させることは出來ることではない。 文學全體にも亦分業があらうではないか。探偵小説一つにしてもさうあるべきで、様々な傾向の探偵小説が益々澤山に書かれてくれることを讀者は希望するのだと思ふ。(私の疑念への解答)

(二)

 ※Web Site 藤原編集室「本棚の中の骸骨」の「読物と資料のページ」掲載の為割愛

(三)

 ※『探偵小説のプロフィル』収録の為割愛

(完)
 近頃しきりに文學的探偵小説が作圖されたり、それを中心にする論説が掲げられたりする中で、海野十三氏は探偵小説の通俗化を提唱する。本誌新年號の「明日の探偵小説を語る座談會」の中でも、また先月號「探偵小説の風下に立つ」と題した講演記事の中でも、氏は探偵小説では讀者が推理を働かせるもので、推理と最も縁の深い讀物であるが、生憎日本人は推理力を働かせることが下手であったり働かせることを面倒がる性質であるから、推理といふものに概して興味を持たない。 それで探偵小説の謎といふものをもっと平易なものにすれば一層大衆的になるだらう、と、大體さういったやうな御意見であると思はれた。だが探偵小説の通俗的なものなら江戸川亂歩氏の「黄金假面」なんかを筆頭に、我々の目からすれば相當うんざりするくらひ澤山作られてゐるやうだし、「キング」や「富士」の廣告を見れば大抵そんな種類のが一つや二つは目につく。これくらひ盛んなら何も事新らしく海野氏が主張し出すほどのこともあるまいと日頃から合點が行かなかった。 だが今度の座談會や「風下に立つ」といふ記事を讀むと、もっと謎を簡單にし、推理が平易に出來るやうにして、探偵小説の落語化とか講談化とかいふことを考へてゐる、といふやうなことが書いてある。なるほど探偵落語とか探偵講談なら「黄金假面」なんぞの類ひとはまたレッテルがちがって來るから、そこに新境地開拓の意義がないでもあるまい。 シャーロック・ホームズ先生の奥儀を借りて、長屋の八さん熊さんなどが見事な推理をやり、大家やおふくろをあッと言はせる、さういふ落語は或は面白いかもしれぬ。海野氏は「一にも二にも面白い、そして讀者から喜ばれる」「讀者に探偵小説を讀んでもらひ、浮世の苦勞を忘れてもらひたい」と言ってゐる。私も海野氏に劣らずルパン物が好きだが、しかしルパン物をいま讀み返したら析角永年の好印象がこわれてしまひはせぬかと稍々心配である。 それがルパンよりも明智小五郎よりももっと通俗的で平易であるとなれば、その通俗平易さ加減は一寸見當もつきかねるほどで、それはもう我々の興味の世界ではない。
 私は本格探偵小説を讀んで、その謎を樂しむけれども、自ら推理力を働かせそれを樂しむといふことが少ない。近頃は殊にさうである。作中の論理は樂しむが自分で論理を立てゝみるやうな骨折りは殆んどしない。だから私には犯人なんぞが中々わからぬし、そんな風だから解決募集などといふ探偵小説にあまり興味がない。謎そのものを有りのまゝ樂しんで行くのでこの謎がそんなに平易になってしまっては私には探偵小説はつまらなくなる。(謎は事件的な謎でも心理性格の謎でもいゝ)
「深夜の市長」といふ海野氏の長篇を讀んでゐないが、讀んでなぞみればもっとよく海野氏の行き方が分るかもしれぬ。「三人の双生兒」といふのは私には大變面白かった。(實は私は海野氏の最近數年間のものではあれ一つしか知らない)謎の通俗平易はあれくらひでよささうに思はれるのだが。
 如上のやうな興味や不審に加へて、探偵小説批評家の愚を列擧してゐられた「シュピオ」創刊號海野氏の一文に記憶もあって、本誌の「棺桶の花嫁」を興味をもって取上げた。ところがこれにはいまいった探偵小説としての謎らしいものが殆んどないので、探偵小説らしいなんの興味も受けることがなかった。勢ひ探偵小説以外の面白味を求め讀んでいったのだが、何をいふにも人物も物語も簡單平易單純すぎて何處にも力のはいるところがない。 關東大震災に舞臺がとってあるのだが、人物も情景もその雰圍氣を感じさせない。雰圍氣はともかくとして登場人物の物足りなさ、最後に社といふ男が、或る秘密物品が井戸の中に綱に石をつけて隠してあるから引きあげてくれ、と女に言はれ、やがて渡された綱の一端を引張り引張り歩き出すくだりなんかは、まるで馬鹿ばかりの寄り合ひのやうに思はれてならなかった。 まじめで讀んでゐるのがなんぞの間違ひなのではあるまいかと讀み終っても半信半疑で、自分の印象が心細い。柱の下敷になった女の手を引張り出してやると、手首の皮が手袋のやうにすりむける、それを今度は手袋をはめるやうに押しかぶせる、といふあの個所では飛んでもない不快不審な思ひをさせられてしまった。 それから本誌の月評欄で評者の言ってゐられた放尿のくだりなどにしてもさうで、海野氏が好んで描く事柄は私の興味の世界のものではないものゝやうに感じた。この月評欄は教へられるところ多く讀んだが、「棺桶の花嫁」を可成り買ってゐるらしい評者の文章には奇異な思ひをした。私は作中男女の愛慾のもつれを一向面白いとも思はなかったし、作者を筆達者だなんぞとは思はなかった。

注)明らかな誤字誤植と思われるところは修正しています。
注)句読点は追加したところがあります。
注)ネタバラシと思われる部分は背景色文字としています。


「神戸探偵倶樂部寄せ書」
「ぷろふいる」 1934.10. (昭和9年10月号) より

 どうせ探偵小説と銘うつからには、讀者に解決を考へさせる力を持ってゐて欲しいもの、それがなければ、陶醉出來る「味」が欲しい。二つながら有れば更に結構。




「ハガキ回答(推薦の書と三面記事)」
「ぷろふいる」 1935.12. (昭和10年12月号) より

I☆讀者、作家志望者に讀ませたき本、一、二册を御擧げ下さい。
II☆最近の興味ある新聞三面記事中、どんな事件を興味深く思はれましたか?

 I、純本格物ファンへ装飾論理の探偵小説バアナビイ・ロスの諸作。
 ピンからキリまで探偵小説を好かない人へ、ビガーズが遺した短篇集「ビガーズ短篇十話」を。これは人としてのビガーズが知られる感じのよい短篇集。
 新人作家諸氏に讀ませたいものといって特に書名を擧げるべきものを知りません。
 II、別に興味深く讀んだ記事なし(大毎に出ているといって過般人から聞いた熊本縣の僞貞女の殺人事件は一寸面白いと思いましたが。)




「ハガキ回答(昭和十一年度の探偵文壇に)」
「探偵文学」 1936.01. (昭和11年1月号) より

昭和十一年度の探偵文壇に
昭和十一年度の探偵文壇に
 一、貴下が最も望まれる事
 二、貴下が最も嘱望される新人の名

(一)はたから見て拵え物に見えないまでの勉強を積んで何もかもそれから――皆がさういふ氣持ちになってほしい、といふのが希望です。
(二)それ程多くの人を知ってゐませんが西尾正君を擧げます。




「A・K・グリーンに就いて」訳者
「ぷろふいる」 1937.02. (昭和12年2月号) より

 アンナ、キャサリン、グリーン女史の探偵小説としての第一作、そしてあの有名な、「リーブンスワース事件」が出たのは、一八七八年といふから、それは英國にコーナン・ドイルが現はれる約十年ばかり前である。だが米國の探偵小説界に於けるグリーン女史の存在は、恰度英のドイル卿のそれに似てゐる。コリンズなどを先駆者とした英國の探偵小説界がドイルの出現によって目覺ましい活況を呈したやうに、米國の探偵小説は、ポオからこのグリーンに來て俄かにその絢爛さを増した。 しかも今日に及んでもそのストーリイの面白さに於て、着想の新鮮さに於て、グリーン女史を抜き得た作家が、米國は勿論、英佛をも通じて、果して澤山ゐたかどうか、頗る疑はしいと思ふ。グリーンの作品の持味はコリンズやガボリオ、ボアゴベなどと共通し、物語は常に情趣豐かな面白味を持ってゐる。

注)「ラファイエット街の殺人」の翻訳時に付けられた紹介文。


「(海外探偵小説十傑)」
「新青年増刊」 1937.02. (昭和12年2月号) より

A、海外長篇探偵小説を傑作順に十篇
B、その第一位推賞作に對する寸感

一、バスカービルの犬 ドイル
二、白衣の女 コリンズ
三、矢の家 メースン
四、樽 クロフツ
五、黄色の部屋 ルルウ
六、赤毛のレドメイン一家 フィルポッツ
七、Yの悲劇 バーナビイ・ロス
八、グリーン家の惨劇 ヴァン・ダイン
九、ベラミイ事件の審判 ノイズ・ハート
十、闇からの聲 フィルポッツ
 二位以下の作は、一二の例外を除き、探偵小説獨自の味はひのうちの一つ或は二つを頭抜けて顕著に持ってゐるが、話が單調であったり、退屈であったり、または餘りに智的興味を追ひすぎるなどで、全體として纏った面白味を欠いてゐる傾きがある。「バスカービルの犬」は遺憾ながら稍結構の雄大さを欠くが、よく探偵小説的種々なる面白味を兼ね備へて、ストーリイの進展にも變化を持ち、先づ渾然たる趣向の作といっていい。




「お問合せ(直木賞記念號の讀後感と最近讀んだ小説の感想)」
「シュピオ」 1937.06. (昭和12年6月) より

一、シュピオ直木賞記念號の讀後感
二、最近お讀みになりました小説一篇につきての御感想

一、どの一篇もその當座の思ひ出や感銘を募らせ、更に新たな感想が加はって、記念號一卷についての讀後感は簡單には盡し得ません。
二、「人生の阿呆」單行本にて通讀。一面では方眼紙の上に圖が畫かれてゐる感あり。すべて明瞭に描かれてゐるのがよく、この作品の大きな價値の一つが發見されると共に、不利もそこにあり、且つ形のくづれた面白味が乏しいとも感じます。慾は盡きぬものです。




「(昭和十二年度の氣に入った探偵小説)」
「シュピオ」 1938.01. (昭和13年1月) より

昭和十二年度の氣に入った探偵小説二三とその感想

 非常に面白いと思った作品に久しく出くわしません。しかしそれは、一つには小生が、例へば小栗氏の「黒死館」のやうな、物々しい、重厚な力作を好くらしいのと、もう一つには、あまり廣く讀みあさってゐないからでもありませう。

注)明らかな誤字誤植は修正しています。


「探偵小説讀書術(当世百戰術)」
「新青年」 1938.03. (昭和13年3月号) より

 別に普通と異った讀み方を發見いたしません。しかし探偵小説については好みをハッキリ持ってゐるので、いい探偵小説か拙い探偵小説か、面白くなる可能性有りや否や、等を早く斷じます。




「(名士メンタルテスト)」
「新青年」 1938.08. (昭和13年8月号) より

(1)歴史上の人物で誰を現代に蘇生させ、何をやらせたいとお思ひですか?
(2)ライスカレー、パーマネント・ウエーブ、ファッショ、エスカレーター、カメレオンの漢字は?
(3)あなたが若し唯獨りで島流しにされるとしたら何を(品物一つ)持って行かれますか?
(4)旅行に出て、次の文句を留守宅に電報したいのですが、生憎十五字分のお金しかありません。何とかまとめて下さい。
 「臺所の戸棚の中に殺鼠劑入りの饅頭があるが子供たちが食べると危險故直ちに取り捨てよ」
(5)來るべきオリンピック大會にあなた獨特の新計畫がおありでしたら、何でも一つ御披露下さい。
(6)バナナ。赤。煙。金。ん。以上の語から何を聯想なさいますか?
(7)最も涼しい想像をお書き下さい。
(8)若しあなたが周圍から狂人扱ひを受けたらどうなさいますか?
(9)あなたの自畫像をお描き下さい。

(1)曾呂利新左衛門を蘇生させ、日本人の頓智教育に當らせる。しかし萬能奇才の彼のこと故、新時代の使い途いくらもあり、あちこちから引張凧。就中「新青年」では眞先に高給をもって彼を聘し、編輯部水谷準氏の相談相手とする。お蔭で我々は今回の如き難問題を課せらるゝこと屡々にて大いに難澁す。
(2)汁掛飯ライスカレー持久髪パーマネント・ウエーブ軍艦色ファッショ懶者階段エスカレーター變貌龜カメレオン
(3)布團はあるのかね、布團は。なければそいつをかついで行くよ。わしは寒がりなのでこれが一番氣にかゝる。
(4)トダナノモノクフナイサイアト
(5)番外競技として取っておきのやつがある。参加各國選出の掏摸の名人達を、競技中ひそかに場内にはなち、奇蹟の如き腕を競はしめるといふ掏摸競技。勿論これはプログラムにはのらぬ。たゞ、「新青年」愛讀者にだけは、地下鐵サムも参加するといふ關係からこの稀有の秘密競技鑑賞の特權が與へられる。
(6)バナナ 疫痢(子供を持ってからバナナはこわいものになってしまった)
  赤 「赤き拇指紋」「赤毛組合」「赤い家」「赤毛のレドメイン」懐しい探偵小説ばかり。
  煙 人生
  金 小説「金と銀」
  ん うどん(僕の好物)
(7)いっそのこと、「新青年」向きにこんなのは如何?
 マムシ、ハブ、コブラ、ガラガラヘビ等こわいやつの元氣のいゝのを集め、これらの尻尾を五六寸ばかりの糸でしばりこれが天井からぶら下はる。さうしておいてその眞下に大の字になって寝る。
(8)却って幸ひ、檻の中でねそべって本を讀んで暮らすさ、借金を返す心配もなくなって甚だよろしい。
(9)※ここでは画像の為割愛





入口へ  ←  著者別リストへ  ←  先頭へ
夢現半球