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中村美与子 作品小集

Since: 2024.10.06
Last Update: 2024.10.06
略年譜・作品・著書など(別ページ)

      目次

      【略歴】

  1. 「略歴(「火祭」)」 (自己紹介) 旧かな旧漢字 2024.10.06
     
      【短篇小説】
     
  2. 「猟奇地界」 (探偵小説) 旧かな旧漢字 2024.10.06
     
  3. 「吉田御殿」 (探偵小説) 旧かな旧漢字 2024.10.06
     
  4. 「裸行進曲」 (探偵小説) 旧かな旧漢字 2024.10.06
     
  5. 「女体地獄」 (探偵小説) 旧かな旧漢字 2024.10.06
     
  6. 「極楽の門」 (探偵小説) 旧かな旧漢字 2024.10.06
     
      【長篇小説】
     
  7. 『百万弗の微笑』 (探偵小説) 旧かな旧漢字 2024.10.06
     



「略歴(「火祭」)」
「ぷろふいる」 1935.10. (昭和10年10月号) より

 函館市大森町に生る。學歴とて別になし。下手な横好とか申しませうか、少女時代から探偵小説がすきで、一時は戯曲のやうなものも書きましたが、また探偵小説へ舞戻りました。その初歩からまた勉強してゆくつもりです。

注)「火祭」と同時にコラムとして掲載。肖像写真も掲載されています。(『中村美与子探偵小説選』の著者写真元)


「猟奇地界」
「犯罪雑誌」 1948.07. (昭和23年7月号) より

◆無花果クラブ
 大川の濁流が燒跡の泥洲にせかれて、堀割の水もかれかれなH河岸の塵芥捨場で惨殺美人の屍体が發見された。所轄H署から既に係官が出張して、これから檢死が始まらうとしていた。その矢先―。捜査係長の甲伍警部はふと橋の彼方を見やると、新聞記者たちと一緒に、今しも、八角眼鏡のずんぐりした背廣の男が、遮二無二警戒網を突破して此方へやってくるではないか。私立探偵の兵六だ。彼は突立ったまゝで、その獨得の捜査行動を開始してゐるわけだ。 彼が信頼する處の唯一の科學的武器?は、平べったく擴がった鼻梁へかけ渡した八角眼鏡なのだが、それがまた彼の考案にかゝるもので、中央は素通し、上は擴大鏡、右端は望遠鏡、左端はバックミラーの代用をするという風で、八角の各稜角はそれぞれ細部に亘って種々な作用をなすシロモノなのである。彼の八角眼鏡は今、実に多事多端な場合に直面しているので、眼鏡のもつ各機能を總動員して驅使するに急だ。
 まず現場を一見したものは誰しも一度は顏を反らすほどの惨状を呈していた。次に瞳の中へ飛込んでくるのは、白い太股をはだけた間から、生々しい血の塊りが、どす黒くよどんでいる無氣味な光景なのだが、錦紗の紅色友禪の長襦袢が背中でよぢれ、柔らかな曲線を描いた胸から腹部へ、腿へかけて―べた一面に捺された血の痕…それは淫らというよりは悽惨な感じだ。 蒼白い貌は死相に歪んでいるが、年齢は三十前後らしい。檢死の結果醫師は兇行は昨夜の九時頃、死後約十二時間くらいと推定を下した。暴行は明白だが、多量の出血から各々の間に質疑が提出された。瀝期中の暴行? それも一應はうなずけたが、五十年輩の醫師は次のようにいった。
「僕は合意ぢゃないかと思うのだが…」
「これほど、痕跡が、歴然としてもかね…」と檢事が反駁した。
「いや、この場合は、始めての肉体交渉の結果ですよ、それに、死体の出血ってやつは往々にして間違ひがあるのです、それは合意の上であっても、男が女に怨みを抱いてるような場合や、或ひは變質者だったりすると、悽虐なことをしたり、計畫的な兇行をやらないとは限らんので、例へば鋭利な兇器で突刺したりして…まあ、この結果は解剖をまつんですな、然し暴行致死という邊が、動かぬ處でせう。この犯人は被害者が絶息した後まで弄んだようだし、この通り死体がひどく荒されてますからね…」
 次に被害者は何者かという點だがこれについては待ちかねていたように、R刑事がいった。
「絶對にパンパンではありませんね。錦紗の長襦袢もさうだし、大体、豊滿な肉体と色艶のある皮膚…恐らく生活苦をしらない階級でせう。有閑夫人か第二號というような…」
「然し塵芥捨場とはよく考えたもんだ。証據煙滅にはもって來いだからな…」とその時不意に、背後から兵六がつぶやいた。檢事はちぇッと低く舌打ちした。そしてR刑事にきいた。
「昨夜、その時刻に、警戒網に引掛ったものはないかな…」
「ほら、あの帝銀事件の毒殺魔に似た男ですよ、昨夜十一時頃W區役所の通りから左手へ入って…燒ビルの一劃に、K商事會社てのがあるでせう、あの邊をうろついてたんです。が、所持品を調べると別に怪しいものはないが、數枚の女名刺の中に無花果クラブというカードがあるんです。しかしですね當人は凡そ女には縁遠い風なんですが…」
「君は、それをどう想うね?」
「そのカードてのが一種の會員章で無花果の葉が書いてありましたよ、その葉っぱをとり去つたら結句裸体でせう。之は何か變ったクラブぢゃないでせうか…」
「ウム、そいつの口裏を、引いて見るんだな」
 R刑事は勢ひこんで署へ飛んで行った。一方、鑑識課の技師が、科學的捜査を進めてる背後で兵六が、何かぶつぶつつぶやいていたが、その時いきなり、
「その普通の指紋の他に、頸のあたりと胸と腿にも、鶏の脚みたいな痕がついてますね。そいつの指紋も必要ですな…」と聲を大きくした。
 擴大鏡を翳していた若い技師は吃驚して振返った。その頃H署ではR刑事が毒殺魔に似た容疑者を調べていた。最初容易に口を割らなかったが、それ自身が昨夜の惨殺死体の犯人としていよいよ大寫しされる處まで、追詰められると遂に悲鳴をあげた。無花果クラブはやはり奇怪な集合團体だった。彼は闇ブローカーの一人だが、類は友を呼ぶ同好者が集って、無花果クラブを組織した。 會長というのは永らく中國にゐた男で上海の魔窟にある、特殊なナイトクラブを眞似たものだが、會員は男女相半ばして、もしその夜の會合に奇數の場合は、籤を引いて當ったものが除かれる規則で、彼は昨夜籖引で除外されて、歸る途中警戒網へ引掛ったわけだ。
 かうして無花果クラブの内容が、明るみへ曝かれた結果、被害者は千賀滿知子という有閑マダムと判った。一方私立探偵の兵六はその先に無花果クラブを突止めて、彼獨得の捜査を開始していた。やがて捜査係長を始め、正私服の署員が乗込んできたが、先廻りをされているのに氣づくと、いやな顏をした。だが兵六はけろりとしていた。
「何ぁに、わけはないさ、あのH河岸の塵芥捨場は、場所がやゝっこしいので、通り一ぺんの人間には解りっこはない。そこで犯人は此邊の地理を心得た奴に決っているぢゃないか、次にナイトクラブのありさうな處、といへばこの燒ビルを補装した一劃ということになる、その中で商事會社の名目だけで、中味が空っぽで、地下室があって、そう云った連中の隠れん坊をやるのは此處以外には考へられませんからね…」
 警官達はぐっと詰った。無花果クラブの會員を血眼で洗ってゐる最中―なんだか兵六の方に勝味がありさうに思はれたからだ。例の闇ブローカーの男が、苦っぽい顏つきで説明していた。
 午後の八時、豫告のベルが鳴るとホールの中央の仕切りが取拂われる。男女の區別がやっと識別できる程度の薄闇の中で、兩側に別れた男女が足踏みを始める。やがて、第二のベルが鳴ると同時に官能的なヂャズのレコードが鳴りだして、甘酸っぱい情慾の雰圍氣の中でホールは暗黒と化してしまう。待ちかまへていた男性の側から、我れ勝ちにと、奇妙な突撃が起る。 そして對手をつかまへると、暫く踊り、やがて踊り疲かれると、それぞれに肩を組みあって、別室の方へ納るわけで、彼らは暗闇の中で、對手の容貌や服装や人柄などを模索し、想像し、密かな私語のうちに情熱を沸らせ、思い思いのうちに、やがて十時のベルが鳴ると、先に女の方から歸ってゆき、それからようやく男たちが歸るわけだ。かうして暗闇の中で密會し、暗黒裡に別れ去る―。そして明るみでは決して貌を合はせないのが、このクラブの嚴たる掟なのだ。 未亡人は、ひとしれずその樂みを解決して歸っててゆく。それは一々會長の指圖によるものだが、もし奇數の場合は、男の方が除かれるわけだ。會員にそれを傳えるのは、萬平という掃除夫の唖の男を使うことにしていた。
 ―と、照れくさそうに、その男が奇怪なクラブの内状を物語っていると、その時突然、カカカカァーと、鴉が戸惑ひしたような笑聲が、ひびいてきた。甲伍警部は憑かれたように其方へ驅けよった。地下室の北隅で、階段を昇ると萬平の室がある。兵六は小兒が樂書きしたような繪を萬平に見せてゐた。腕が四本あるグロな繪だ。見るまに彼の顏色は土氣色に變った。と、猛獸のような迅さで一足飛びに、石の階段を駈け昇った。その先に兵六の腕が伸びて、毛むくぢゃらの脚を引張り、到頭、地下室まで引摺り下して膝下へ組敷いてしまった。
「犯人は此奴だ、此奴を裸体にするんだ」
 兵六は、いきなり大聲でど鳴った。私服たちが寄ってたかって萬平を裸にすると、さすがの警官達も、アッと叫んで後へ退った。普通の二本の腕の他に、背中に蜘蛛の脚のような細い腕が二本生えてゝ、親指と二本づゝ固まった指とで丁度、鶏のような三本指に見えるのだ。その蒼黒く細い畸型な腕がシャツの胴の中へ隠されてゐたわけである。押へつけられて、ついに悲鳴をあげたところをみると、萬平は唖者ではなかった。
「此奴が滿知子に、密かに懸想していて、會長が會員との間に通信してゐたのを惡用して、此奴が故意に人數を減らして自分がその身代りを勤めたんだな、で、僕がどうして此奴に眼をつけたかといへば、唖者? さうきいた瞬間ぴんときたね、試みに天窓から覗いて見ると、彼女の血に彩った着物や肌着を猫みたいに弄んでいるんだ。しかも四本の手で…この畸型な手にこめた微妙な妖しい遊戯に到っては、恐らくどんな名優でも、眞似手があるまいよ。 此奴が兇行後何故逃げないかというと最初の成巧?に味をしめて、この次に同じ手口でやる肚だったらしい。滿知子は女性のデリケートな神經の作用で異様な手觸りや臭ひで、對手の獸ぢみた氣配に、氣がついた時は既に遅く、此奴の猛烈な襲撃にあって、その生命まで奪われ、多量の出血に依って意識を失ひ、遂に倒れたので、息の絶えた後まで、その肉体を玩弄されたわけだ」
「ヘッへ…あの女のむっちりした白い身体を、ぐっと抱きしめた時にゃ旦那。わっしは、もう死んでもよいと思いやしたよ。ヒッヒ…」
 万平(※ママ)は氣味惡い聲をだした。
「戀は闇こそよけれ―そんな神秘性は此處ではゼロだ。遊びがすぎてしまって、彼女をとうとう地獄のどん底へまで陥してしまったんだな。變な猟奇趣味に捉われて、とんでもないクラブに、面白半分に入っていたこれも天罰と云うもんだらう」
 兵六はさういひ終って、最後にカカカカカァと―例の鴉のような奇聲をあげて笑った。

注)行末の句読点欠けは追加しています。…は原文では一文字分に四点です。―は原文の通り一文字分としています。2文字のおどり字はひらいています。促音は原文では大文字ですが小文字としています。?の後は空白1文字を追加しています。新旧漢字の混在は原文のままです。
注)明かな誤字脱字は訂正しています。いきり→いきなり、わけだ。→わけだ」など
注)本作品はかつて論創社のWeb Siteで公開されていたものです。但し、新旧漢字混在など元版に準拠(グレードダウン?)しています。解説部分は「〈論創ミステリ叢書〉補遺」横井司 (アーカイブ)に残っていますので参照願います。


怪奇實話「吉田御殿」
「読物の泉(新自由)」 1948.10. (昭和23年10月号) より

 本郷の丸山福山町に大正館という下宿屋があった。女將はサワ子といって、四十過ぎの姥櫻だが、彼女は先夫と別れる際に貰った金を資本にこの下宿屋を始めたのだが、部屋の數は十二あって、いつも、滿員だった。女將は、止宿人をきめる時には、いつも決って直接面接して、まず首實驗をした。女中は近所の人を捕えてはそっと、こんな蔭口をきいた。 「うちのおかみさんには、レッテルがキレーでなきゃ駄目よ。その條件さへパスしたら、お金なんかどうだってかまやしないんだもの…」
 噂は出入の魚屋、八百屋、酒屋から次々と擴がっていった。止宿人はさまざまで學生、商人、勤人、相場師、保險屋、教員という風だった。夕飯が濟むと、彼らは先を爭ってみんな寝てしまった。
「まあ、呆れるぢゃないの、うちのおかみさんたら廻しを取って歩くだよ。本當なんだから、まったく呆れてしまうよ……」
 こうした噂をよくしていた女中はとうとうお女將に感ずかれて首になって、代りに山出しの女中がきた。この女は數日たつと、怪訝な顏をして、女將にきいた。
「何故ここの家はヨシダ御殿って云うんですかねぇ……」
 サワ子は丁度、引越して來たばかりの相場師と、長火鉢に向き合って坐っていたが、それを聞くと女將は青筋をたてて怒った。
「金原さんが、おかみさんに云えってそう云ったんですもの……」
 女中は女將につねられてベソをかいた。その金原というのは、下宿代も拂はずに昨日、引越した會社員だ。それは優男の相場師がきた次の日で、喧嘩になったのは、その前夜サワ子が金原の室へ廻りかねたのが事の起りらしかつた。それ迄は金原が、お女將の一番の気にいりだったが、相場師が來たので、それに見返られたのを、怒って出てしまったのだが、その相場師もやがて引越してしまった。 こんなことが繰り返されて二年經った。誰も下宿代を支拂うものはなかった。それにヨシダ御殿の噂が擴まると、下宿屋荒しの、たちの惡い連中が押しかけて來るようになった。
 下宿人は八人に減ったが、その中に眞に彼女の相談相手になってくれる男がそれでも一人だけいた。それは野島という藥劑師で、彼女より十三も年下の青年だった。彼は自分一人だけにするように云いふくめて、他の男と一切關係を斷つのを條件に、まず家中の整理をするため、サワ子を温泉場え(※ママ)やって、十日間のうちに、止宿人全部を追出してしまった。
 序に女中も入替えて、新規蒔直しで手堅い止宿人だけを置くことにした。これで大正館は面目を一新して立直ってきた。そこで野島は入籍して、サワ子と公然の夫婦となった。その年の暮にサワ子は女兒を分娩した。無論、誰の子かはっきりしない。その子はすぐ産院の世話で里子に出した。
 彼女はお産をして三日目にはもう起き出して、目まいもしない様子で長火鉢の前に坐り通していた。サワ子は野島と正式に結婚してからも、持前の性癖は決して改たまってはいなかった。だが野島は財産だけが目當だったので寛大だった。それに彼はある傳染病院の藥劑師だったので家にいることは殆んど稀れで、大抵は病院で暮していた。彼女の秘密の相手は度々よく變った。三年たってまた女兒が生れた。今度も里子のはずでいたが、折惡しく野島の母が田舎からきていたので、嬰兒を里子にやるのはやめて、乳母を抱えることにした。 丁度、乳離れしたばかりの若い女が見つかった。お目見得にきた時、險惡な顏つきなのでサワ子は斷わろうとしたが、野島の母が乗り氣なので、やむを得ず雇うことに決めた。彼女はお琴といった。二十五歳の若さなのに年齢は幾つか見當がつかぬくらい醜くかった。頬骨が高くて、額が禿げ上って頭髪が薄いときている。それに眼に怖ろしい蔭があって、白眼で見返されると、なんだか身震するようだった。だが顔は醜いけれど、体格がよくてお乳はとてもよく出た。 だが氣が荒くて、女將とよく衝突し、掴み合いの狂態まで演じた。その頃、女將が株屋の赤池と通じているのを、お琴は早くも感ず(※ママ)いていたがわざと知らぬ顏で默っていた。と云うのはお琴自身も赤池に氣があったからだ。赤池は女好きだったが、流石に、お琴え(※ママ)は手を出していなかった。その頃。(※ママ)
 野島は、毎晩、歸宅する度に、酒氣をすこしおびてるようになった。ある時、女からまた(※ママ)手紙がサワ子の眼にふれたから堪らない。彼女は、ひどいやきもち燒きなので、さんざん家中に鳴り渡るように毒づいた。
 裏梯子から、止宿人たちが足音を忍ばせ、目白押しに並んで甘酢っぱい貌つきで、そっと盗み聞をしていた。
 野島は武者振りつかれてもただ照れたように、笑顏であやまるばかりだ。サワ子は四十五で野島が十二下の三十二歳では、止宿人たちの同情は、どうしても野島の方え(※ママ)集まった。翌朝、どう解決したか女將はすっかり機嫌を直していた。野島はサワ子の胃が重たいというので、自分で調劑した藥を置いて出かけた。けろりとした顏つきで、サワ子はすぐ赤池の室へ入り込んでいた。お琴は、ひとりで、やきもきしていたが、すぐ二階へ行ってみんなの室々を、口惜しまぎれにふれて廻った。
「ちょっとさ、とんでもない恰好でおかみさんが赤池さんの室にいるわよ!」
 赤池が外出した后でお琴の惡口が女將の耳へ入ったから堪らない。よびつけると、お琴の頬っぺたを、ひとつ毆りつけると、お琴も負けてはいなかった。腕力にかけては若い方が強くて、サワ子はしまいには、壁際へ押しつけられてしまった。
「チョッ、くたばッちまへッ……」
 帶を握って武者振りついた途端、サワ子は、したゝか後頭部を壁に打って、そのまゝがっくりと、いってしまった。お琴は直ちに過失致死罪として取調べを受けた。だが、屍体解剖の結果女將の後頭部に刺ったピンは、急所を外れていて、死因は心臟麻痺と判明して、お琴は六日目に釋放された。
「彼女が死んで助かるのは、なんと云っても夫の野島さ。無一物の彼が十二も年上の千姫の處え(※ママ)入夫婚姻したのをどう見るかね? 彼が他の若い女を欲しがっていたのは、よく痴話爭いしてたのでも判るだろう。犯罪のキイは胃病の藥だ。服用後、幾時間後にどんな作用を起すか? しかも何らの痕跡を止めぬやつだ。それは藥劑師たる彼のお手のものぢゃないか……」
 赤池は、こう云い殘して、大正館をひき拂ったが、それから一年后の昭和四年の六月、井上サワ子殺しの犯人として、意外にも彼自身が檢擧された。惡女の深情けに弱った赤池が、ヴェロナール劑を使って殺害したのを、誰とも判らぬ、ひどい金釘流の女の投書によって、すっぱり、尻っぽをむかれたからである。 (了)

注)行末の句読点欠けは追加しています。2文字のおどり字はひらいています。促音は原文では大文字ですが小文字としています。?の後は空白1文字を追加しています。新旧漢字の混在は原文のままです。
注)明かな誤記脱字は訂正しています。引越してきた來た→引越して來た、で→て、が→か。「その頃。」は次の段落の冒頭が本来なのかもしれませんが原文のままとしています。
注)本作品はかつて論創社のWeb Siteで公開されていたものです。但し、新旧漢字混在など元版に準拠(グレードダウン?)しています。解説部分は「〈論創ミステリ叢書〉補遺」横井司 (アーカイブ)に残っていますので参照願います。


滑稽小説「裸行進曲」
「講談と小説」 1948.10. (昭和23年10月号) より

肉體の裏門
 銀座裏の茶房ランマンの前で、サブはふと足を停めた。ふゝん、ノッポのやつ、やってやあがら……。呆けた唄聲を背に、サブはそのまゝ行過ぎようとすると、窓のカーテンを掲げて、磨きをかけた馬面がぬっと突出た。やはりお洒落のノッポだった。
「おい、へいれッたら、おれの美音をきゝ捨てに素通りはどうかと思ふぜ……」
 サブは肘で杉皮の扉を押して入ってきた。つんと濟したウヱトレスが、コーヒーをサブの前に置いて立去ると、ノッポは、やに下った唇を歪めていった。
「いまね、銀座で素敵な催しがあるんだぜ。お前みてえな朴人参ぁ是非見ておく必要があらぁ、おい當てゝ見な――」
「なんだ? そいつぁ生物か?」
「うん……」
「家に棲んでるんか?」
「うんにゃ、青カンだ……」
「翼があるか?」
「翼? ねえわけでもねえな……」
「何を喰ってるんだ?」
「上等のギンシャリ(白米)だ」
「ぢゃ、人間だらう……」
「人間に翼があるかよッ……」
「天女?」
「ありゃ、空想的なシロモノで、ギンシャリなんて喰ひやしねえ、だが、もう少しだ」
「詰んねえ、おいら行くぜ……」
 サブが立上った途端、窓のカーテン越しに、ちらと女の影がさした。
「サブ、待ちな、お前にぜひ頼みてぇことがあるんだ……」
 ノッポは慌てゝ外へ跳出して行った。女の影は悄然とカーテンに映ってゐた。肩の線がどこかいかつい感じはするが、瞳が魅惑的でちょっと人目を惹く顏立ちだった。彼女は鼻へかゝる小聲で何か頻りにいってゐるらしい。ノッポは馬面を一層長くし、一々頷いてゐたが、不意に女のすすり泣きが洩れてきた。ノッポは女を宥めて、窓邊を離れたが暫く經つと引返へしてきた。
「彼女を何んだと思う――」
「無論、君のアレにきまってらぁ……」
「ところが、お手の筋は大違ぇだ」
 とノッポは卓子へ腰をかけ、サブの唇から喫ひさしのタバコを引ったくって、煙をふウッと吐きながら聲をひそめた。
「あれ、實ぁ、女ぢゃねえんだ…」
「こいつ、よくいろんなものを舐めあがる」
「ンでねぇ、ありゃカゲマだぜ」
「カゲマ?」
 と、サブは怪訝な顏つきだ。
「肉體の裏門取引をするやつよ」
「碌なことをぬかしやがんねえ、おい、眞晝間だぜ……」
 サブはネクタイを直して立上った。
「おっと待った。お前の、その氣風を見込んで頼みがあるんだ…」
「おだてとモッコにゃ乗らねえぜ……」
「まあ、きけッたら……」

貞女
「サブ、お互ぇに渡世人として商賣の患ひてやつがあるだろう。いつも千客萬來てわけにゃいかねえ。ドヂを踏むなぁまだいゝ方だ。運の惡い日にゃ、パクラレル(捕る)やうな目にも遭はぁな、あのカゲマもそれよ。彼女?は水木胡蝶といって元は新劇のドサ(田舎)廻りの女形なんだが、御難續きでカゲマに轉業したはいゝが、肝腎の裏門がよ、柘榴の先きっちょみてぇにジクザクになって、目下休業中なんだ。つまり商賣の患ひてんだな」
「商賣の患ぇをとんだ處へもって行ったぜ」
「まぁきけよ、水木にゃ戀女房があるんだ」
「カゲマに女房があるんか?」
 サブの耳には彼女?の泣聲が殘ってゐた。
「あるとも、カゲマてやつぁ男なんだぜ、萬事ソーメーなお前がよ、どうかするとノールスになるのがキズだぜ……」
「あゝ、おいらどうせノールスにきまってらあ、アバヨだ……」
「おい、ナマいうない。お前、偉ぇものになったな、大そうなものになったな、モサの地下鐵サブぁレッキとした男でござんすよ、御自慢さっせぇ、御自慢さっせぇだ。が、それぢゃ弱ぇものを見殺しにするてぇもんだ」
 扉の方へ行きかけたサブは引返へしてきて、ノッポの背をどしんとどやしつけた。
「野郎、ほざいたな、だがお前とゴロ(喧嘩)を卷いたって始まらねえ、それで、そのカゲマ氏の戀女房がどうしたてんだ……」
「ぢゃサブ、きいてくれるんだな有難ぇ、その、女房のチエ子てのが突然ドロンをきめやがった。だが浮氣沙汰ぢゃねえよ、サブ泣かせるぢゃねえか、彼女の心意氣がよ、お前さんは體が弱いんだからカゲマ稼業はやめておくれ、あたしが替りに働いて、身過ぎ世過ぎに不自用(※ママ)はさせませんてぇんだからな」
「で、彼女は何をしようてんだ?」
 ノッポは溜息と一緒に、聲を落した。
「いづれ、パンパンだらうよ。女が男一匹を立過さうてんだからな。一方、水木にしちゃチエ子にそんなことをやらせたんぢゃ、可愛想だ。女房は體が弱いんだから、是非思ひ止らせなきゃと、氣狂ひみたいに捜し廻ってるんだ。この銀座界隈て見當なんだが、お前に頼みてぇのはチエ子を捜し出すことなんだ……」
「それで女の方は本音なんだらうな、もしか他にいゝのが出來たんなら、あっさり諦らめた方がいゝぜ……」
「サブ、色事師の水木に女の肚ぁ判らねえ筈はねえ……それに水木は案外純情なやつなんだ。もしか間違ったら俺の首をやらぁな」
「いや、お前の首を貰ったって使ひ道がねえから、そいつは返上だ。然しそれに替る商賣を何か見つけなくちゃなるめぇ、それが先決問題だぜ……」
「うん、さすがはサブだ。水木は山の手の花柳地で女髪結を始めようてんだ。とても眞劍なんだが腕に自信があるそうだ……」
「よからう……」
「ぢゃ、きいてくれるか……」
「うん……」
 サブはチエ子の寫眞をポケットにねぢこみ、ノッポと手筈をきめて外へ出た。まっしぐらに大通りへ。日旺りなのに銀座の舗道を漫歩する女性のナント多いことか、サブは時々ポケットの寫眞を覗いて見る。チエ子の特徴は上の唇の左に豆粒大のホクロがあった。ふゝん、日頃、女に背を向けてゐたおれがよ、女を捜し出す仕事を背負込むなんて、こいつぁ、ちょっと難かしいやと、サブは目眩するほど女が氾濫してゐる街を泳ぎ廻つて、高島屋の前へ來かゝった時である。
 三人連れの洋装をした濃艶な化粧の女がくる。おやッ、ホクロがあるぜ? 摺れ違ったサブは人ごみを駈抜けて彼女たちの前へ廻って見る。右端の女の上唇に確かにホクロがある。顏立ちはどこかチエ子ににてゐるが、大柄で圖抜けて背丈が高い女だ。チェッだ。ノッポに詳しくきいておけばよかった。寫眞ぢゃ身長が判らねえからな。サブは彼女たちの後になり、先になってついて行くと、三人の瞳がチラリ、チラリ。何かくすくす笑ひ出した。
「この頃、エロマニアが横行してるさうよ、暑さのせゐね……」
 サブはダーとなって立往生の態だ。クソ忌々しいてありゃしねえ。彼はぶつぶついひながら尾張町の交叉點へやってきた。服部の時計は十一時を少し廻ってゐた。あゝこれだ。サブは自分と一緒に舗道を横切る洋装の女に、はっと息を呑んだ。此度こそ間違ひないぞ。チエ子にそっくりの女だ。あの唇の上のホクロも鮮やかだし、背丈も圖抜けて高くはない。女の方でもサブの顏をちらと見やった。そして三度目に瞳がぶつかるとにっと微笑った。
 しめた、この女に違ひない。確かに職業的な媚笑だ。彼女は誘うやうな眼差しで三原橋の方へそれた。サブはのこのこついてゆくと女はある建築場の前で立停った。そして媚態を示して合圖をするとその中へ入って行った。サブは一瞬、躊躇したが突嗟に彼女を追った。そこは補装工事中の燒ビルだが、あたりに人影も見えず、木材を積んだ蔭の方は薄暗くて、冷やりとした涼氣が漂ってゐた。
「到頭、きてくれたわね……」
 彼女は、にっと微笑って手提から細卷を出してくゆらした。サブは短刀直入と出た。
「君はチエ子さんだらう……」
女は默って笑ってゐる。
「水木君が心配してるぜ、早く歸らうよ」
 と、彼女は素早く彼の背後へ廻って犇と抱きついてきた。
「おい、惡さはよせよ、君の肉體を要求しに此處までついてきたんぢゃないぜ、サァ歸らう、水木君の處へ……」
彼女はサブの手を振切って向うの壁際へ馳せ寄ると、くるり此方へ振返った。手には小型のピストルが光ってゐた。サブはウームと呻った。
「なんだかわけが判んねえ、一體どうしようてんだ?」
 約四米を距てゝ銃口は彼の胸の邊を狙ってゐる。息詰る一瞬、ぶすッと鈍い音がした。サブはあっと眼を眸った。空間へふわりと赤い風船が浮んだではないか。續いて二發目、ピエロの人形だ。女はひきつッた聲で笑った。
「彈丸はこれっきりよ、あら、まだあるわ」
 と、唇の上からホクロを剥取ると丸めて抛ってよこした。サブは上衣の胸へ止ったのを、彈き飛ばした。
「氣狂いめ、とんだ道草を喰はしやがった」

裸体女軍
 サブはその足で、ノッポの連絡所へ電話して見たが、彼は今しがた出かけたといふ返事だ。チエ子はまだ見つからないのだらう。四丁目を中心として夥しい人出だ。サブは人群を掻分けて首を突込んで見ると賑やかな行進曲が響いてきた。群衆が沸立つのも無理はない。大胆極はまる裸婦行進團だ。
 婦人服の御用はK・X洋品店へ――人波にプラカードが揺れて、潮騒のやうなざわめきが街頭に溢れてゐるのだ。
 マネキンたちの膚は乳房と腹部が僅かに蔽はれてゐるに過ぎず、その代り肉體の露出面が、目立つわけだが、そこに挑發的な狙ひが感じられる。沸立つばかりの沿道の歡声に囃されて、リズミカルに躍動する肢體の美、焔と渦卷く陽射しに、豐滿な脂肪に熟れきった肉の香が、妖しく、惱ましく蒸れあがってくる。醉ひしれた群衆はその素肌に捺された奇異な刺青に気がついた。
 多くは男の名前がかいてある。中にはローマ字綴りもあるし、蛇や、男の性器を刺青したものもあった。だが肉體を白日の下に曝した彼女たちが、一様にセルロイドの日除眼鏡をかけてゐるのは何故だらう。ありゃパンパンだ。銀座のパンスケだ。刺青に刺戟された群衆は沸立ってきた……。サブは先刻ノッポがいった謎を憶出した。 翼がある? 違ぇねえ、ギンシャリを喰う街の天使か? サブは此時裸女の群像の中からホクロの女を發見した。すんなりした體つきで、日除眼鏡の下から現はれた顏の輪廓といひ、唇の上の褐色のホクロも自然の色艶がそのまゝ浮出してゐる。これだ! サブは直感的なものにうたれて、いきなり彼女へ近寄って行った。
「君は、チエ子さんだらう……」
 彼女は吃驚してサブをみつめたが、否定はしなかった。
「水木君が命がけで捜してるんだぜ……」
「だって、あたしたちは生きてゆかなきゃならないんですもの……」
 チエ子の悲痛な告白だった。
「いや、生活の問題なら水木君がしかと請合ってくれた。彼氏は自身のもってる手職をまじめに生かさうてんだ……」
 サブがチエ子を行列の中から引っこ抜いた時、女の姿をした水木胡蝶が群衆を押分けて駈け寄ってきた。
「おゝチエ子……」
 しかと抱き合ったふたりの眼に止度もない涙が沸上ってくる。人目には姉妹か、女友達のめぐり合ひのようにもとれる、不思議な夫婦の抱擁だった。サブは忙しく自分の上衣とズボンを脱いでチエ子へ着せた。
「さァ、君たちは速く此場を引揚げるんだ。ノッポも後でゆくだらうから」
 と、サブはいきなり背後から衿がみを掴まれた。吃驚して振返って見ると、太腿に太蛇の刺青をした大柄の女だった。野次がわっと囃したてた。
「よう待ってました、銀座パンパンの元祖、鐵火のおりき姐御しっかり頼むぜ……」
 サブはもはや退引きならぬ立場に臨んでゐた。
「おいッ、青二才、君ぁ誰に斷って、あたしの息のかゝった子供を引っこ抜いたんだい。何時、誰にローズ(挨拶)を通したのさ」
「濟まねえ、實ぁ、その……」
「濟まないぢゃ通らないよ、さあこのオトシマイ(解決)をどうしてくれるんだい」
 サブはそこへ體を投出す肚をきめた。幸なことに自分がモサなのを對手にしられてゐないことだ。
「勝手に料理して貰はうぢゃないか」
「いったね、ぢゃハダカにおなりよ……」
「だって男のハダカはエロぢゃない」
「へん、背負ってやがら、ハダカのエロは女に限るんだよ、野郎のエロなんかをかしくてだ。あッ、こいつ、先刻高島屋の前であたしたちをつけ廻したエロマニアだよ……」
 あゝ、あのつけホクロの女だ。サブもさう氣がついたが遅い。
「さァ、ハダカになって三遍廻ってワンワンワンと吠えて見な…」
 彼女が手をあげると、わあッと黄色い喚聲があがって、裸女が殺到した。サブは忽ちパンツ一枚のハダカにされてしまった。此態を見たお洒落のノッポが舗道の向側から十重二十重の人波を押切って駈けつけた。
「おやッ、君は何處かで見たことがある、あッ、あの方面の渡世人だね、面白ぇ、さァ一匹どっこいでゆかうよ……」
「すっとこどっこいと違うか?」
 野次が飛んできた。
「何にいってやがんだ。一匹どっこいてのは、一對一の勝負のことだよ、さァ君、一か八かだ、お控へなすって、お控へなすって…」
 おりき姐御は、ひどく鐵火な早口で挑んできた。慌てたノッポの背をサブが小突いた。
「ハッタリ仁義をかけられちゃ此方の身性が曝れちゃう。ヤバイ、逃げろッ」
 ノッポの素早い逃腰へ忽ち女たちの手が搦んできた。蚊細い體が天手古舞をしながら一枚づゝ剥取られて行った。八方から手が伸びてきて、上衣が宙に舞ひ上り、ワイシャツが引裂かれ、ズボンが引張り凧だ。折も折、先に、日本橋を出發した漫畫家主催の仮装彌次喜多五十三次、旅行の一隊が、追突したから堪らない。その邊は拾収しがたい混乱に陥ってしまった。

彌次喜多道中
 あたりの混雜に乗じて、ノッポはサブの手を引張って、遮二無二人ごみを掻分けてゐた。が、逃げた筈のが、しらずしらず騒亂の渦中へ引戻されてゐた。沸騰する騒動の中でおりき姐御の金切聲が彈んでゐた。
「漫畫家だって? 笑はしやがら。君たちの描くパンパンてありゃなんだい? やたらに裸體になったり、お尻をひん捲ったり、股をはだけたりしてさ、ワイセツはパンパンそれ自身が創るんぢゃないんだよ。あたしたちが街頭宣傳のマネキンを買って出たのは、社會の欺瞞性に對する斷固たる抗議なのさ、何にいってんだい、小説家の方がもっと酷いって、どっちもどっちだよ。パンパンを材料にして君たちはさんざ儲けて、彌次喜多の漫畫旅行と洒落のめしたんだらう。クソ面白くもない、張子のチョン髷なんざすっ飛んぢゃえだ」
 人波を揺ってわぁッと歡聲が流れる。髷は宙を飛んで彼方へ逃げのびたサブの頭へ被さったのだ。
「サブ、お前の頭を見な、張子のチョン髷がのっかってるよ……」
「ほっとけよ、こいつを取ったら裸ン坊の納りがつかねえぢゃねえか……今日はどうせ彌次喜多ゴッコだ……」
 とサブは脚下から、ひしゃげたカンカン帽を拾ってノッポの頭へ載つけてやる。
「おい、サブ見ねぇ、M百貨店の前よ、閻魔様がサッカリンを舐めたみてえな御面相をしてござるぜ。ほらK署のお前の係りの倉徳旦那だぁな……」
「さういへばノッポ、傍に立ってるのはお前の高杉旦那だぜ、ほらまるで魔王様がキューバ糖を舐めたみてぇに笑ってござる」
「だがサッカリンよかキューバ糖の方が味がいゝぜ……」といって、
「この行列は新橋驛の方へ曲るんだ。おいらは芝口から眞直に行って……ほら向側にW・Cがあるだらう、あの横丁へ駈けこむんだ」
「なんでそんな臭ぇ處へ突っ入るんだ」
「水木の家があの先だからよ…」
「おいノッポ、カストリでもやらねえか」
「へぇ、下戸のお前がか?」
「だって、しらふぢゃ小ッ恥かしくてやりきれねえや、ハダカで道中なるものかだ」
「よういわんわ、カストリを呑んだつもりで、かうして肩を抱き合ってよ、あっちへゆらり、こっちへゆらり……」とノッポは歌ふ。
 あれまァ喜多さん
 そらきた彌次さん
 山は晴れても港はしぐれ
 照る日、曇る日、浮世のことよ
 時世時節を待たしゃんせ……

注)行末の句読点欠けは追加しています。2文字のおどり字はひらいています。促音は原文では大文字ですが小文字としています。新旧漢字やかな使いの混在は原文のままです。「…」と「……」の混在は行末の影響があるかもしれませんが統一していません。
注)明かな誤記脱字は訂正しています。また数文字ほぼ空白の文字は論創社Web公開版を参考にしています。「不自用」は誤植とも思われますが原文のままとしています。
注)本作品はかつて論創社のWeb Siteで公開されていたものです。但し、新旧漢字混在など元版に準拠(グレードダウン?)しています。解説部分は「〈論創ミステリ叢書〉補遺」横井司 (アーカイブ)に残っていますので参照願います。
注)論創社Web公開版では、[註:ノールス=脳留守]との注記があります。


猟奇小説「女体地獄」
「新自由」 1949.05. (昭和24年5月号) より

 その頃、私は、ある救濟機關に働いてゐた關係上、いろいろな方面に知己が多かった。K氏もその一人で學校出のインテリだけれど、何か感ずる所があるというので本所で木賃ホテルを經營してゐた。それは半ば慈善的なもので、その筋からいくらかの助成金が降りてゐたらしい。私は、上京したついでに、この木賃ホテルと關係のあるK養育園へ案内して貰った事がある。園内の敷地は廣くて、その中に幾つもの建物が分れてゐた。 先づ男子部の方から觀てゆくと、氏の姿を見ると瘠せさらばへた老人や、半病人や、不具者などが丁度救世主にでもあったように、狂喜の態で集ってきた。中には、おいおいと聲をあげて泣出す老人もあった。K氏は愛兒でも慰撫するように、ポケットからキャラメルを出して、みんなに分けてやっていた。彼らは本所の木賃ホテルに縁のあった人たちで、寄邊のない老人や、行路病者として此處へ送られてきたものだ。中には病氣が半ば快復して足腰が立つようになれば、また自活の途を求めて、本所の方へ歸るものがよくあるさうだ。とも聞かされた。 次は女の収容所だ。私はその中で、かなり年をとってゐるが、銀髪で小綺麗な顏立ちの老婆が眼に止った。白粉燒けのした皮膚は、若い頃、化粧に浮身をやつして磨きをかけたに違ひないと思われた。それに銀白色を呈した髪の眞中に、大きな赤禿が見えるのも、日本髪で責めつけられた證據だった。いづれ水商賣の果か? もう、よぼよぼだけれども、若い頃はさぞどんなに美しい人であったか、そぞろに昔が偲ばれてならない。年齢は? ときくと八十五……と澁い、味氣ない聲で答へた。
「おばさん、タバコ召上る……」
 とやさしく話かけると、彼女のどんよりした瞳が、ぽつりと灯が點ったように燃上った。うまそうに燻らす薄煙……そこから昔の幻影も蘇えるのだらう。歸途、事務所の人に尋ねると彼女は昔、吉原の大籬で鳴らした誰ヶ袖オイランの成れの果てださうだ。それにしても此種の荒稼ぎした人が、八十五歳の長壽を保ってゐるのは奇蹟だ。 その當座、私の空想の中へ、この誰ヶ袖オイランの全盛時代の華やかな幻影がつき纏っていたのだったが……それから約三月經って、いつとはなしに彼女の記憶も、私の慌しい生活の中から遠退いてゐたが、水泡のようにポカリと再び視界え(※ママ)現はれてきた。
 所はあの養育園ではなかった。その日、私は千住の百軒長屋を中心とした、細民窟の探訪に出かけていた。この人たちへ近寄るには、彼らと同じ服装をするに限る。魔窟の中へ飛込んでゆくあの呼吸だ。その歸途、私は昔から知合の秋田の小母さんを訪ねた。小母さんは例に依って、むっつり構えて、下町風の山の神に變装した私を、いやにじろじろ見ながら、肚の中では、いつものように笑ってゐるのだ。小母さんは私を變装の名人?だと折紙をつけてゐる。現に階下の髪結さんは此處へくるたんびに、別人とでも見てるようだった。
「あれをやらないの……」
 と、小母さんは男の身振りをして見せる。
「近頃、男装はやめたよ、髪を切らなきゃ感じが出ないぢゃないか……」
「その口先だけで結構頂けますよね……」
 小母さんは變に笑って、御自慢のおしんこを出してお茶をいれる。小母さんは秋田の人だからおしんこを漬けるのがとても巧い。私も用意してきたお菓子の包みをひらく。私の方は大福、小母さんは左利きだから塩せんべい。小母さんとは或る機會から知合いになったが、彼女もかつてオイランをした身の上だ。と物語った事があった。
 それも色氣や浮氣沙汰ではなく、新婚の夫と死別した當時、姙娠してゐたのを、養母とその情夫の旅役者の共謀で、彼女を手を替え品を替え脅かして、到頭某市の遊廓へ賣飛ばしてしまった。と云うのが話だった。
 今になって想へば、「とんだ親孝行さ、あの時はただ生れたばかりの子供が可愛いかったからね」と小母さんはしんみりと述懐する。その息子も二十歳に近く、今では川崎の工場で職工をしてゐる。彼女は自分の過去の惡い影響が、その子に及ぼすことを惧れて、此處へ別居して住んで、革草履の内職をしながら手堅い生活をしてゐるのだ。案外むっつりしてるけれど、涙ぐましい程氣のやさしいひとだ。 しかし、肚の底ではしっかりした考へをもってゐるらしく、如何なる場合でも、人怖ぢをしないし、思ひ切ったことをずばりとやってのけるという風で、そのくせ、氣がむけば平氣で猥談もやった。
「それ、何處で教はったの?」と、きくと小母さんは至極まじめだ。
「しったも無理か憂きふしは、夜毎チンツンツ、日毎に替る枕、心つくしの果は愚か、奥のとろくのお客にも、なれ親しんだ身の一徳……」と白石噺の宮城野のくどきで、どんなもんだいという顏。成程その方が近道に違ひない。「何か変った話がない……」と尋ねると、「あれ、また、このひとは商賣氣を出したよ……」
「何か変った話がない……」と尋ねると、
「あれ、また、このひとは商賣氣を出したよ……」
 小母さんは、さういひながら窓邊へ寄って往來を見てゐたが、何を見つけたのか、突然、指をさした。見ると路地のはづれの方から、とぼとぼと歩いてくる、お婆さんがある。私は一瞬どこかで見たような氣がした。が、すぐ記憶の中へ上ってきた。煙草を惠んだことのある、K養育園で見た誰ヶ袖オイランの成れの果、あのお婆さんではないか……。だが、どうした變り方、あの時は老齢でこそあれ、どこか小綺麗な……昔はさぞやと偲ばせたのが今はもう見る影もなく、うす汚くやつれ果ててゐた。
「あたしゃ、身につまされて、つくづくあのお婆さんが可哀想になるのさ……」
 小母さんは、いつになく溜息を洩らしながら語るのだった。人生行路の行く果まで行ったかに見えた彼女の境遇が、なぜ、急轉變したか? というと、それは小母さんの話によれば、ある日のこと。彼女へ意外な差入れ物があった。それは昔の誰ヶ袖オイランの不遇を傳えきいてある青樓の女隠居が、心づくしの贈物で澁好みの銘仙地で羽織と袷せの對の仕立であった。 それが却て身の仇になろうとは誰が知らう。その贈物に早くも眼をつけたのは、同じ収容所の男子部にゐる甘木という、相場の合百師くづれで、彼は一策を案じて隙を見て、お婆さんに近づいて行った。
「へゝゝ實実はねぇ、あっしの伜で、南洋へ出稼ぎして行衛不明でゐたやつが、ひょっこり居所がしれて、しかも一財産を築きあげたんだそうで、もう一週間もすれゃ、船が着くんですとさぁ、處で伜のやつめ、遅蒔きながら親孝行をしようてわけで、あっしゃ一兩日中に、此処をおさらばでさぁね、處で考へて見ると、自分一人だけ救はれたんぢゃ冥利が盡きる。 どうせ、だゝっ廣い隠居所なんだし、序に誰かを誘ってゆきたいと思うのが、人情というもの……お見受けするとお隠居さんはお人柄でもあり、こんな落目になられたのも、時世時節で本當に、ならうことならと、日頃から考へてたが、お氣を惡くなさらずに、どうです。あっしと一緒に此處を出て頂けたら、まことに有難いんだけれど、無論、あっしも六十そこそこ、色の戀のと、そんな浮いた沙汰ぢゃねえんで……」
 お婆さんに取っては藪から棒の話だけれど、甘木は繰返へし、繰返へし誠しやかに口説くのだった。彼女がもしも、小格子の女でもあったなら、無論、對手の心裡をたやすく看破するだらうがおうような大籬の出であるし、随って社會的にも疎く、それになにしろ八十五の老齢ではボケ過ぎてもゐた。溺れる者は藁をも掴むの譬えにもある通り、せめて氣輕にお茶でも呑み、タバコの一服でも喫えたらと、ふと、そんな氣になったのは、魔がさしたとでもいうのであらう。 規則づくめの、冷たい境遇では、自由というものに對して、狂的な憧れもあったのだ。その夜、お婆さんは、養育院裏の垣根の破目から、そっと抜け出した。花が散って、雨もよひの曇った空あひだった。銘仙の着物を包んだ風呂敷は甘木が大事に抱えてゐた。電車で千住へくるまで、彼は一言もいはなかった。暗い通りへ入ると小雨がしとしとと降り出してきた。そしてある木材小屋の前までくると、甘木は俄然、野獸の本性を現はして、白髪の老婆に躍りかゝって、とんでもない事を要求した。
「へん、お前ぇも、今じゃ婆さまだが昔ぁ、これを商賣にしてたって云うんぢゃねえか、年を取っても滿更、惡くあるめえ……おいッ、おれにばかり骨を折らしやぁがって、何んとかしな、權たい振った客振り、てやつぁな、男にゃ好かれねえぜ……」
 甘木は木乃伊のような老婆を、執拗に弄んでから、風呂敷包みと、御生大事にもっている小錢を掻っ拂って、さっさと逃げ失せてしまった。何十年ぶりかで老の身に受けた衝動で、お婆さんはとうとう其場から起上ることもできなかった。薄ら寒い小雨にうたれて、屍骸のように倒れてゐた。だがそのまゝ死の手に引き取られたら、まだその方がせめてもの幸ひだったかもしれない。だが夜明けと共に正氣づいてきた。同時に昨夜の出來事が、途切れ途切れに鈍い腦裡を掠めた。身内の疼くような傷手と、口惜しさに彼女はおいおいと、永いこと啜り泣いてゐた。
 やがてその邊の工場へ勤める職工たちが、幾人も通りかかって立ち止った。白髪を振り亂して、口をひろげられたまま疲れ果てた、極度にものに怯え、殆んど狂人に近い老婆を、彼らは不思議さうに見て通った。若い職工がポケットを探ってゐたが一圓紙幣を二枚取出して握らせた。すると彼の友達が傍からいった。
「動けないんぢゃないか? おい、警察へ引渡したらどうだ……」
 警察の聲をきくと、お婆さんは、殆どあり得ない程の力を振ひ起して、逃げ去らうとした。警察、拘留、また養育園送り……。あー、お婆さんは、また此處でも救ひの手を逸してしまった。それから後は物乞ひしながらさまよひ歩いた。貧しいものへ惠むのは決して裕福な階級ではない。同病相憐れむ――と、いうような貧しい人たちに限られてゐた。だがお婆さんがこの近くの鬼按摩の玄田の家へ引取られたのを識った近所の人たちは、いひ合せたように嘆息した。
「ちょいと可哀想うよ、あの年寄りは碌な目に遭はないよ…」
 その附近のおかみさんたちは、井戸端會議でさう噂し合った。そのお婆さんが今、路地の入口の方からとぼとぼと歸ってくる處なのである。枯木のような手に、味噌こし笊を抱えている寒々とした姿である。
 家は小母さんの二階から斜めに見える。その後から鬼按摩が歸ってきた。いかにも惡どい面構えだった。幸四郎扮する處の「盲長屋梅の加賀鳶」に登場する按摩玄澤以上だが、あれは芝居であるし、これは實際の惡黨だ。脂らぎった五十がらみの大坊主で、時々、女湯をのぞいて若い娘が裸體になるのを隙見してるそうだから田螺のように飛出した目玉のどっちかに薄い視力があるらしい。杖をステッキのように打ち振って、反りかへってぐんぐん歩いてくる。
「おいッ婆あッ、やいこら飯はまだかッ、今まで何にしてやがった。こいつ、また、晝寝でもしてやがったな……」
 門口から喚きちらして入ってゆく聲が、此處まで聞える。そして臺所のあたりで、いきなりどたん、ばたんという物音、續いて蟇蛙を踏み潰したような老婆の悲鳴……。小母さんは眉を顰めていう。
「これから酒が出て、飯を喰って、その後が大變なんだよ、あのクソ坊主、自分が按摩で勞れたからって、お婆さんに肩から腰を揉ませ……それから」
「大變なことってなあに……」
「腰のあたりを揉ませるうちに、つひ、むらむらと野心が起ってくるんだよ……。あんな恐しい顏ぢゃ、よその女ぢゃ相手にしまいし、それにあの野郎吝で、女に金を使うのはいやだから、あの婆さんをかまうのさ。恰度ドラ猫が鼠をなぶるみたいにね……」
 私は、それを見る處か、怖くなってきて早々に歸ってしまった。それから半月後、私は忘れてゐたが、その後日譚をきかされた。
「つひ三日前にね、あの鬼按摩のやつが殺されたのさ……」
「え、強盗でも入ったの……」
「いゝえさ、あのお婆さんにだよ……」
 私はへえッとばかり、自分の耳を疑はずにゐられなかった。
「あの鬼按摩がさ、酒に喰い醉って、腰を揉ませてるうちに、例のことを始めあ(※ママ)がってさ……。その日に限って、お婆さんの呻き聲が此處まで聴えたよ、あたしゃ口惜しくて、腹が立って、階下のかみさんと、二人して躍りこんで、あの鬼按摩の畜生を、ぶち踏んでやらうといきまいたがね、後で判ったが、あの呻き聲がお婆さんのか、それとも、あん畜生の斷末魔の聲か、ちょっと判斷がつかないんだよ……」
「それで、どんな方法で殺して?……」
 八十五歳の老婆の殺人。犯罪の手段? 私の識りたいのはそこだ。
「それがさ、お婆さんが、あの枯木みたいな體をさんざんなぶりものにされて、のたうち廻ってるうちに、ふと手に觸れたのが、あん畜生が商賣道具の針なのさ、その針でアレをずぶりと刺したんだよ。そしてお婆さんはね、その場で空室の引縄で首を吊って死んぢゃったのサ……」

注)行末の句読点欠けは追加しています。句点を読点に変更したところもあります。2文字のおどり字はひらいています。促音は原文では大文字ですが小文字としています。文の?の後は空白1文字を追加しています。新旧漢字やかなの混在は原文のままです。
注)明かな誤記脱字は訂正しています。
注)会話が同一段落で複数ある場合は改行しています。
注)本作品はかつて論創社のWeb Siteで公開されていたものです。但し、新旧漢字混在など元版に準拠(グレードダウン?)しています。解説部分は「〈論創ミステリ叢書〉補遺」横井司 (アーカイブ)に残っていますので参照願います。


猟奇小説「極樂の門」
「好奇読物」 1949.06. (昭和24年6月号) より

 青い波の白だつ港に沿う山陰に大徳寺という臨濟宗のお寺がある。禪宗でかなり由緒の古い寺で、その邊一帶は寺町で、他宗の寺も幾つかあって、お盆や彼岸には墓参りの盛装をこらした女たちで、大變な賑はひを呈しはするものの、平常は葬式や火葬場へゆく人以外には、滅多に誰も通らぬ寂しい處だ。前は海へ臨んで、背に切立った山端の墓地が續いて、そのまた横が海に面しているこの大徳寺は檀家の數も多く、毎日所化たちが廻りきれない程、法事や葬式があった。 葬式には龍頭や、白張提灯が、造花などと物々しく捧げられて、市中から行列を作ってやってき(※ママ)る。坊さんが車で行列の先頭へ立つ風習があった。が、皮肉なことにこの寺町から一丁ほど手前に遊廓があることだ。お寺と遊廓――この境目が問題なのだが、戀の港に寄る波の、入船あれば出船あり、あの世この世の別れ路は、あしたの鐘のきぬぎぬに生滅無情、寂滅爲樂を悟る……といへば何だか浪花節のマクラめくがそれはまったく地獄の門でもあり、また、極楽の門でもあった。 困ったことには坊さんたちは、どうしてもその遊廓の前を通らなければ寺へは行けないのだ。だから、ここの坊さんたちには、あまり、おおっぴらではないが、一人づつ各々馴染の女があった。客人としての坊さんは職業柄どちらかと云へばおとなしいので、何處の家でも歡迎された。どうせお經をあげての浄財だから、大したお金も使へないがこうした所にいる女たちに取って嬉しいのは、干菓子や、おまんぢうや精進料理の流しものなど、そっと廣い袂へ忍ばせて持ってきてくれるそんな細かい心遣いの實意のあることだ。 時には棺桶に掛ける白布や錦襴の打敷なんか持ってきて、下着にでもしたら、とか……なんかと云って置いてゆくのもあった。なにしろ喰物や、せんい製品には互いに豐でないので、女たちに取っては、待たれる客筋であった。晝、葬式が通ると、彼女たちは寝亂れ髪に、しどけないなりふりで、二階の欄干に凭れて、すっかり有頂天になってこれで今夜は葬い菓子や精進料理のおあまりが貰へるほか、白木綿も手に入ると、お祭氣分で噪やぎながら、見送るのだった。 だから行列の車に、自分の馴染でも見出そうものなら、朋輩同志つゝきあって、キャッキャッと含み笑ひをしたり、低い聲で冷かしあったりした。だが人力車の上ではまさか、それに手をふるわけにもゆかず、悟り顏で當惑しきった至極まじめな顏で錦襴の袈裟に、珠數をまさぐりながら半眼の態で苦しそうに揺られてゆく。事情を知った街の者は、おかしくて仕様がないがこんな場合、芝居見物の氣分で、うっかり半畳でも入れられたら、坊さんと女たちの両方から憎まれて、それこそ一大事である。
 だが、坊さん達の方でも、こう女たちに葬式の度びに、ひやかされるのは、世間ていも惡いので、いろいろ考へてはなにかと袖の下を使って、口止させようと骨折るのだが、さて、ここに、どうしても、この買収の手に、乗って來ない女があった。小雛……名前だけは、いかにもしほらしいけれど、實は地方廻りの女角力くづれで、桃色の筋肉が隆々と盛り上った健康型で、ヘタに暴れたりするお客は、アベコベに組しかれさうな姐さんである。 他の女は、別に他意なく、ただ喜んでキャッキャッと騒ぐだけだが、彼女はそうでなく夜の狂態ぶりを知ってるだけに、葬式の先頭へ立った聖僧ぶりをみると、急にむかむかして來るとみえて、待ってゐましたとばかり、二階の欄干へ乗出して大見得を切り――あの腥さ坊主、クソ坊主と呶鳴るのだった。勿論、それが自分のお客であらうと、他のであらうと、そんなことは、一向念頭にはない有様だった。それは坊さんたちに取っては青天のヘキレキ以上の脅威で、あんなことをされては、葬式の行列ができんと、彼女の處へ矢繼早やにいろんな袖の下が贈られた。 おまんぢうやお菓子ばかりでなく、より集って出しあったらしい金一封まで届けられた。だが小雛さんは、芋蟲みたいな丸っこい食指を動かして、おふせらしいピーンとした札を、にやにやしながら數へた。これでもう、この女は話がついたかと思うと、そうでもなく、算へ終って懐ろへしまいこむと、また前に戻って「あの腥さ坊主、クソ坊主」とやるのだ。まったく彼女の眼からは、高僧も、だらく坊主も區別がない。 ある時金襴づくめのロイド眼鏡をかけたまだ若い僧に向って、この腥さ坊主……を毒づいて溜飲をさげたまではよかったが、さて、それが名僧の譽れ高い大徳寺の京都の總本山の貫主と知れて、さすがの小雛姐さんも、これには照れてすっかり困ってしまった時に、巧い具合に助けてくれたのが、山本覺禪と云う若い僧で、これから妙な馴染になり、あんな、ジャラジャラ馬でも、好きな男ができるとこんなに變るものかしら、と朋輩が噂するくらい、すっかりおとなしくなって、あまり毒舌も振るわなくなった。
 さてこの廓は山のかげの新開地で、市中からは、ずーっと離れてゐたので、お天氣でも惡いと横なぐりに吹きつける雨風と、どろんこのぬかるみで、道が通れなくなって幾晩も彼女たちのお茶ひきが續いた。そんな晩が續くと、何處の家でも、やりきれなくなって女たちが二人、或ひは三人と連れだって、馴染の男たちを近くのお寺へ迎ひに行った。だが小雛姐さんは氣丈者だけに、朋輩を誘ふ必要がないから、自分ひとりで裾をぐっと腰までまくり上げて出かけた。片側は山、一方は海で海鳴りのひどい山背風が吹きまくっていた。 廣い本堂には二、三十名の坊さんが寝てゐた。小雛姐さんは大膽にも、この聖境へ踏込んで、蝋燭を灯したが、なんと云っても、廣さが廣いので迷う上に、どれもこれも出ているのは、同じ坊主頭では誰が誰やら、さっぱり區別もつかなかった。まるで夏の西瓜畑そっくりで、あっちにもこっちにも、丸い頭がコロリコロリ轉がってゐて足の踏場に迷う始末だ。小雛姐さんは灯を翳して一々首實驗である。デコボコの蟲蝕頭、瓜のように青白い頭、寸詰りのイガグリ頭、いびきや齒ぎしり、あられもないムニャムニャの寝言。 探す山本覺禪の頭には二錢銅貨ほどの禿がある。それが目印しだ。あれでもない、これでもないと、大兵肥滿の裾風をたてゝ、どしんと丸い頭を跨いだはずみに、蝋涙がたらりとこぼれた。――熱ッ、誰だッ……と、むっくりと跳む(※ママ)起きたのは、ナントここでは謹嚴で評判の、若僧のお目付けみたいな木乃伊とばれる(※ママ(いはれる?))老僧だった。
「おいッなんだ。この夜更けに……此處をどこだと思っているんだッ……」きびしい聲だった。
 しまったと思ったが、ここで、あやまってしまうのも、業腹だったので、
「あれまァ、色氣のない坊さんだこと……」と大きな聲でやり返してしまった。これがまずかった。この騒ぎで水瓜畑は、むくむくと活氣を呈してきた。山本覺禪はびっくりして、早やいとこ、本堂の撫で佛の本へ避難してゐた。だがこの事件のために、山本は火葬場の本堂の方へ左せんの憂き目をみた。丁度それは夏枯れで、廓がひまだった故もあったかもしれないが、彼女は大徳寺から、半里以上もある山の中の本堂まで、のこのこ、あやまりにやってきた。と云うと人聞きはよいが、彼女は、その若僧に嫌われるのがいやだったのである。 山本は執拗な女をほとほともて餘してしまった。それに彼はあの事件のために、京都の龍谷大學へ入る機會が一ヶ年延びてしまった。さて、それは初秋の頃で、あらしがやってきそうな夜更けであった。山本は毎晩、訪れる彼女の來るのを、その夜も待構えてゐた。小雛は枝折戸を跨いだとき、何かに蹴つまづいて倒れた。俵へ入った何か柔い感じのするものであった。はっと驚いて、部屋に入ってから尋ねると、「あれは人間の屍骸が入ってるんだよ」山本はそういって彼女の顏を窺ったが、脅しと思うので別に驚く風もなかった。
 夜が明けると、あらしは來なかったが、いやに生温い突風が吹き荒れてゐた。本堂から火葬場の高い煙突が見える。斷續的な煙が風に壓されて、ちぎれ雲のように飛んでゐた。それは昨夜俵へ入れて持込まれた行旅病者の屍體を燒く煙だ。山本は神経質な眼を光らして煙の行衛をじっと睨めてゐた。そして怯えたように時々時計を覗いた。 火葬場の煙が立昇ってから二時間は過ぎた。彼がほっと溜息を洩らした時である。海沿ひの山道を大型の自動車がやってくる。誰かゞ骨上げにやってきたらしい。車は經堂の崖下を通り過ぎてから停った。警官の影がちらとした。續いて背廣を着た三人の男。彼らは經堂目がけて登ってきた。
「山本覺禪は君かね、小雛殺しの犯人として君を逮捕する……」
「えっ……」
 山本は眼を白黒させて係官をみた。彼は、あくまでも自分の妨害をする小雛の馬鹿太い執拗さに、遂に殺意を懐いたわけだ。彼は小雛と同衾中に彼女を容易に縊め殺し、俵の死體を裏山へ埋めて、その代りに彼女の屍體を火葬竃の一つへ納めて火を入れた。だが山本のお爲めごかしを、隠亡は不滿に思った。 彼は日頃の習慣で、何か剥取るものはなな(※ママ)いかと火口を開けたのが、山本の運のつきで行旅病者の屍体が意外にも女に變ってゐた。しかも見覺えのある小雛だ。彼は女の屍體を引出して隣りの冷却した竃へ入れその代りに薪を抛込んで警察へ急報したのであった。
「悪女の深情け……って云いますが、あんな、しつこいのに見込れては、私もなんともなりませんでした。初めは、ロハで女遊びができると、とんだ色男ぶって喜んでいましたが、あれだけ追いまわされて、ここの火葬場まで日参されたんじゃ、私は勉強どころか、身體の方が續かなくなりました……」
若い僧侶は泪ぐんで告白した。

注)行末の句読点欠けは追加しています。2文字のおどり字はひらいています。促音は原文では大文字ですが小文字としています。?の後は空白1文字を追加しています。新旧漢字の混在は原文のままです。
注)明かな誤記脱字は訂正しています。
注)本作品はかつて論創社のWeb Siteで公開されていたものです。但し、新旧漢字混在など元版に準拠(グレードダウン?)しています。解説部分は「〈論創ミステリ叢書〉補遺」横井司 (アーカイブ)に残っていますので参照願います。


「筆者のことば(『百萬弗の微笑』)」
『百萬弗の微笑』 1946.10.25 (昭和21年10月) より

 吾人が、現在なほ白堊館の名に關聯して直ちに想起するものは故ルーズヴェルトであらう。 彼はブレーントラストやニューデールの政策のみに止まらず、アメリカ歴代の大統領中でも異色をもった派手な政治家であり、且つ天才的手腕家であった。 なほ第二次世界戰の大局に處した爲政者として、立役者として、幾世紀後までも彼の名は歴史上に銘記されるに違ひない。 ルーズヴェルトの訃報に接したのは確か昨年の六月十三日の頃と記憶するが、當時、日本では首都は殆ど廃墟と化し、戰禍は宛然燎原の火の迅さで地方へ移り、本土上陸説が専ら喧傳され、國民各自は身を以て戰禍の試練に直面しつゝあった時である。 筆者もその例に洩れず血縁の者を國家に捧げ、戰火に家は燒かれ、晝夜の別ちなく空襲の脅威に曝され、漸やく戰爭麻痺の症状を呈してゐたのである。 そこへルーズヴェルトの死である。 當時、明日をもしれぬ境遇ではあったが、敵將ながら惜しむべしの感を深くした。 (日本の敗戰はもはや避けがたい状態ながら)よかれ、あしかれ、この戰爭のカタがつくまで彼を死なせたくはなかった。 生きてゐて欲しかったのである。 そのため終戰に際して日本側に取って或ひはより以上不利な條件が課せられたかもしれないが……。
 其後自分はこの戰爭を紀念すべく筆を取るにあたって、敗戰日本の生々しい傷痕に觸れることは耐えがたいものがあるので、それ自體の悲劇は暫く措き、茲に俄然心機一轉して思ひついたのが白堊館秘録である。
 リンカーンは(アメリカ合衆國に於ける民主々義とは、人民のための政治であり、人民に依る政治を意味する)といったが、アメリカは事實デモクラシーの大本山であって、階級や規則に金縛りにされることなく、社會の與論は検討され、總じて即時實行主義の國柄であり、自由にして且つ明朗な洗練された民族性、豊穣なる土地、科學萬能の國、高度に發達した物質文明と算へ來るだけでも我等の憂鬱は吹き飛ばされ、明快な氣分にならざるを得ない。 これは一九四一年三月より同八月に亘る約半歳の記録であるが、同年の末には眞珠灣事件が勃發し遂に日米戰爭の端緒となったのである。 當時のアメリカ國内に於ける情勢は如何?  アメリカは何故戰はねばならなかったか?  だが、興味本位の讀物として戰爭談や政界行事の連續であっては困るので、筋の構成上多分の創意を用ひたことを諒とされたい。 さて、海の彼方、自由の國の王城を背景に大寫しされた百萬弗の微笑!  白堊館秘録は何を語るであらうか?

注)本文に合わせて統一修正した人名表記などがあります。
注)「多分の創意」とありますが、歴史上の人物と出来事を援用した「想像と創意」が主ではないかと思われます。
参考)プリンス・オヴ・ウェールズ号は1941年1月19日就役、1941年3月31日竣工との事。試験航海か別目的でニューヨークに来た事があるかどうかは確認できませんでした。
参考)レンドリース法(武器貸与法)の成立は1941年3月11日との事です。
参考)チャーチルとルーズヴェルトの洋上会談は1941年8月9日以後で大西洋憲章の発表は8月14日との事です。
参考)日付と出来事のずれは当時としては仕方がないかもしれません。他の出来事も(簡単には)確認できずほぼ想像と創意ではないかと思われます。


『百萬弗の微笑』
『百萬弗の微笑』 1946.10.25 (昭和21年10月) より

プロローグ
 トム・ミックス! さう聞いただけでは識る人も少いと思ふ。が、國際デモクラシーのメッカたるアメリカの大統領、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトの護衛役――つまり用心棒なのさ。さう名乗りをあげたら、はゝあん、すると、あの、マンハッタン中央公園にゐる象クンみたいな愛嬌者、デプ公のミッキーだらうとくるに違ひない。ことほど左様に、おれの顏の廣さといったら、親方(ボッス)のアンクルサム(ルーズヴェル卜)さへ顏負けの氣味さ。諸君は毎週のニュース映畫ワシントンだよりで先刻御承知の筈だから……。
 茲で些か、その、用心棒氏の今昔物語を述べて見やう。抑も、初代アメリカの大統領ワシントンの護衛隊といふのは、十三州からの選抜兵で、總員百八十名で結成され、彼等はワシントンの身邊護衛から、書類の整理.荷物の運搬までしたといはれる。
 そして彼等の信條は征服にあらずんば死といふ風な熱誠ぶりであったが、彼等護衛兵の着用した制服は、今でも、アメリカ史上歴代の軍服と一緒に、陸軍参謀本部の廻廊に陳列してあるから、好事家は國會議事堂(キャピタル)の参觀に行った序に見てくるがいゝ。世は、移り變って、初代ワシントンから三十二代目の今日、自由の國、デモクラシーアメリカを代表する大統領ルーズヴぇルトの用心棒氏は、かくいふミッキー唯一人なのだが……。
 武器? そんな物騒なものは要らん。見給へ。腰へ一挺の短銃をぶらさげてるだけさ。それから制服なんて、金モールで肩の凝るやうなシロモノは、着んでもよろしいことになってゐる。 大統領が背廣だとおれも背廣、燕尾服を着ればおれも燕尾服だし、モーニングの場合は、同様のを一着に及んで議會、遊説、閲兵式、各會議の席上、それから水泳や魚釣のお供、放送、白堊館の爐邊談話から眞夜中の秘密會議に至るまで、大統領ルーズヴェルトのあるところ、必ず、この用心棒氏トム・ミックスありで、それは恰かも形に影の添ふ如く何處までも随いて廻るわけだ。 但し例外はある。それは自動車の場合、おれが運轉臺へ納ってゝ、大統領(アンクルサム)の方が後方へ控えてるんだが……。え? ルーズヴェルトは何故君を用心棒に選んだか? そいつを識らなくちゃ話にならんて……。
 斯う、シルクハットを斜に被った様子はシカゴあたりのアパッツュそっくりだらう。なに? 象みたいなミッキーのアパッシュは凄味が缺けてる? チェッ、勝手にしろッ、おれはかう見えたってコーネル大學出のインテリなのさ、しかも蹴球(フットボール)のチャンピオンなんだからな。え? 君のタックルはさぞ見事だらうて? ふゝん自慢ぢゃないが、ガール・フレンドの間にゃ、莫迦に人氣があったもんさ。 處が大學を卒てから蹴球のコーチャーをしたりして、のらりくらりしてたんだが、そんなんぢゃ碌なものにならん――と田舎の頑固親父が迎へにやッてきて、到頭、故郷のヴァジニアヘ歸ってきた。
 そこで、圖體の太いところから州警官(ステートポリス)を志願したと思ひ給へ。抑もおれの出世の端緒(いとぐち)たるや實に此處に發したのであって、ある日署から狩出されてストートンヘ往くことになった。この地方は故ウィルソンの生地として有名なのだが、當時、ウィルソンの紀念碑が建てられ、その除幕式へ参列するため、大統領ルーズヴェルトが幕僚を随へてワシントンからやってきたのさ。 その歸途だ。突如物蔭から暴漢が現はれて大統領を狙撃したが、あっ危機一髪、彈丸は外れた。と、州警官たるおれは、この時迅く、その暴漢を引捉えてしまった。そこまでは大手柄に違ひなかったが、さて、太い溜息をしたね。生來弱氣なおれは、蚊トンボみたいに痩せこけた勞働者風なその暗殺者を、手錠をかける先に半殺しにどやしつける氣になれないんだ。 と、いって一旦捉まえた以上、放してやるわけにもゆかずあの時はまったく弱ったなぁ。仕方がないからテレ隠しに、右手に引提げた警棒(クラブ)を、いつも退屈な際にやるあの術(て)で、くるくるくると振翳しながら、其奴を眼よりも高く差上げて――なんのことはない警棒と人間と、あの鼻端(はなづら)で、二つの物を使ひ分ける膃肭臍(オットセイ)の曲藝をやってのけたと思ひ給へ。そりゃ素晴しい拍手喝采さ。
 あたりは黒山のやうな人群りで、被害者のルーズヴェルトが音頭取りなのに、此方があべこべに面くらったね。
 デモクラシーの本尊たるルーズヴェルトは、その半面に於て、突飛で好事家(ものずき)で、おまけに稚氣滿々たる人氣取り百%の術を心得てる彼である。彼の老秘書ルイス・ハウの言草ではないが、この危なっかしい火遊びの好きなフランクリン坊やの御前で、大いに面目を施したおれは、途に州警官から元首の用心棒氏へ一足跳びに破格の出世をしたわけで、まったくデモクラシーアメリカのナンセンスさ。
 それから三年經って、かくいふミッキーは當年二十六歳、體量三十五貫の巨人(ジャイアント)、腕っ節の強さときたら、腦味噌の輕さと、およそ逆比例するんだが……え? そこに用心棒としての價値があるって? ルーズヴェルトの炯眼がなんでそれを見遁すものか……。はゝあん、さういへば、おれの親友たるスミスもそんなことをいってたぜ。 尤も例外はあるとして、元來、肥大漢てやつは、お人好しで鈍重で健啖家で、血の循りが緩慢で、頭腦が粗雜だってことは、生理上爭はれんことだし、おまけに政治嫌ひときてるから、密議の席上なんかに連る用心棒として、おれはもって來いのシロモノなのさ。
 え? 元來ものぐさの君が、ルーズヴェルトの身邊雜記なんか、どうして書く氣になったか? さう神經を尖らす必要はないぜ。これはミッキー自身の日記なんだし、だが同時に、ルーズヴェルトの身邊記事であることもおれは否定しない。何故なら前に云ったやうに四六時中、形に影の添ふ如く――だから、それ、自づとそんな風になっちまふぢゃないか。え? アメリカは参戰するか?
 さあ、大變なことになってきたぞ。おれは敢へていふ。識らんよ――と、唯一言だ。それだけはルーズヴェルト自身へ直接尋いて見るに限る。え? あの大野心家がなんで本音を吐くもんかって、ぢゃあ氣休めに水晶運命透視(クリスタル・ゲージー)で占って見な。だが硝子玉の氣泡を彈丸に見違へるなんざァ人騒がせだぜ。だから、幕が開くまでおとなしく待つんだな。

一、プリンス・オヴ・ウェールス號
 一九四一年三月二十日(※注:十七日の誤りか?)
 天候の激變はニューヨーク名物の一つなのだが、今日は朝から天變的な氣紛れな陽氣に見舞はれた。つひ數日前、北ダコタ州から襲來した物凄い吹雪と寒波に乗って、ハドソン河を降った流氷の破片も目瞬くまに影を消して、蒼黝い迂りへ揺らめく陽炎も燃ゆるばかり、はてな? 冬から一足跳びに夏がやってきたのかもしれんて? 肥大漢のおれは早くも茹り氣味で、そんな錯覺が起つてくるのだがそれは激變した氣温の故ばかりではなく、おれの身邊が、いや、大統領ルーズヴェルトの、そして白堊館の周邊は.ヨーロッパの戰火が反映してきたからであらう。 既にオランダは敗れ、パリは陥落した。次いでイタリアの参戰とギリシャヘの進撃、そこで對岸の怖ろしい劫火が、何時此方へ飛火するか判らぬ状態にある。いや、斯うしてゐるうちにも脚下へ火が廻ってきさうな氣持ちで、臆病者のおれを脅かすこと夥しい。
「あッ、愕かすない、誰だ、頭の上で警鐘を亂打するやつは?」
 見ると、イギリス水兵が、哨戒塔の下でやけに警鐘を打ち鳴らしてゐる。呀ッ、ユニオンジャック! この艦はイギリス海軍御自慢の最新装備を凝らした三萬五千噸の戰艦、プリンス・オブ・ウエールス號だ。
 ま、まてよ。おれは大變な匿しものをしてたんだが、おれの行先は? あッやっと憶出した。水兵のやつら、おれが汗だくで駈出すのを見て笑ってやぁがる。此處だ、此處だ、上層甲板の後方で歩哨の控室だ。扉を排けた途端、白堊館政治聯盟記者の連中がわあッとばかり蝟ってきた。あゝ、これだから人氣男になりたくないんだ。 おれは親友のスミスだけのつもりなんだが、やぁ、ゐるわ、ゐるわ、ざっと見渡しただけでインター・ニュース、ニューヨーク・ポスト、ヘラルド・トリビューン、ニューヨーク・タイムス、スクリップス・ハワード、インター・ナショナル、デーリー・ニュース、クロニクル・エキザミナー。チェッ、敵性派のウイリヤム・ウォルターの奴まできてやがる。
「やあ、ミッキー御機嫌よう。君の顏を拜んだ途端僕たちは大いに安心したよ、君のあるところ必ず大統領ルーズヴェルトありだからね……」
とヘラルドのA記者。
「ミッキー、大統領と會見できるだらう。君頼むよ……」
次はインター・ナショナルのBだ。
「ところが生憎この艦にゃ大統領(アンクルサム)はゐないんだぜ。實は、このおれでさへ瞞されたんだ。今朝一番でユニオン驛(ワシントン)から駈けつけたんだが、どうも訝しいなぁ」おれは呆けて見せる。みんなの背後でスミスがくすくす笑ってゐる。
「ミッキー、大統領(プレジデント)は前週の週末休暇(ウイークエンド)でポトマック河から快走艇(ヨット)のウイリントン號で魚釣りに出かけたきり杏として行衛不明だなんて、何か、あらしの前の靜けさぢゃないのかな? ハイドパーク(ニューヨーク)の自邸にもゐないし、君、本統のことといへよ」
タイムスのCは少し強硬に出る。
「ミッキー、さあ本統のことをいへよ……」デーリー・ニュースのDは遠慮がない。おれの腕を揺ぶってしつこく喰ひさがってくる。
 D「ミッキー、デブ公白状しろッ……」
 B「さぁ素直に白状するんだ……」
「チェッ、事態が斯う惡化しちゃ三十五貫のこのミッキーも、衆寡敵せずか、かう質より量で來られちゃ敵はんて……」
 H「さあ、白旗を掲げて降伏するかッ……」 
「うゝん」
 おれは無念の表情たっぷりで、胸の白ハンカチをさっと擴げて、奴等の頭上で振翳し、埃をはたいてやる。それから徐ろに、先週、大統領が白堊館から、全アメリカへ向けて放送したメッセイジの口吻を眞似る。
「アメリカは歐洲の戰爭から完全に孤立してゐる。余は戰爭を嫌惡する。余は戰爭といふものを全世界から絶滅することを痛切に希ふ――かゝるが故に、余はアメリカの行動に於て戰爭を惹起したり、また助長したりするやうな行動は斷じて避けんとするものである」天井の低い歩哨室いっぱい破れるやうな拍手が反響する。ハワードのM記者はすかさず突込んでくる。
「ミッキー、今君がやったその中立宣言は昨年の五月ルーズヴェルトが放送したらう。それを、また七日前に放送で再宣言したのは何か意味があるのかな?」
「意味なし。中立宣言なんか余はもはや責任をもたん……」
 M「おい、いやだぜ。ミッキーの態度が訝しいぞ。よく的中するからな……」
 B「さては愈々参戰するらしいぞ。あッ、スミス君、ミッキーの本音は君へ尋くに限る。アメリカは果して参戰か、中立かどっちなんだ……」
 今迄、默ってゐたスミスが、おれの方へニヤリ片眼をつむって見せ、さて取濟して口を切る途端、不意に横合から出酒張った奴がある。カレント・トビックスのウォルターだ。
「諸君、戰爭の跫音てやつは、あの、もの静かなワシントンでは、彼奴は忍び足で歩き廻ってるから聴き取れぬし、と、いってもブロードウェーの喧噪な坩堝の中では騒音に紛れて到底聴けっこはない。だが敵は近きにありだ。聴けッ、諸君、アメリカは既に戰爭の狂熱の唯中へ捲込まれてるのだ。そして今時分、参戰か中立かなどゝ寝言を並べてゐるのは、君たちのニュース神經が、戰爭不感症に罹ってる證據なんだ。 諸君は今や世界を蔽はんとする戰火の惡夢の中で、遡行性健忘症に罹って、今時分やっと眠が醒めたらしいが、諸君、このデモクラシー諸國を、危殆に瀕せしめつゝあるものゝ何たるかを識るならば、アメリカは斷乎武装して起つべきではないか……」
 スミスは笑ひながら酬ひる。
「あっ尊敬すべき敵(オーラブル・エネミー)よ。君、ウォルター君、安心するがいゝ。そこらの暗躍が効を奏して、政府は結局デモクラシー諸國への武器援助のため、莫大な豫算案を通過さすだらうし、同時にアメリカは大國防計畫へ向って眞劍に邁進するのも、また已むを得まい……」
 ウォルターが突込んできた。
「なら、何故、君は堂々と自己の意見をニュースの上で發表しないんだ。戰爭から劃然とした所謂孤立派の君の、口とペンとはおよそウラハラぢゃないのか?」
 スミスが應じる。
「いや、我々は言論の自由を標榜してゐるとはいへ、デモクラシー的社會指導、そして最高言論機關たるニュース上で、自己の思ふまゝを、否その一端をすら論ずることは許されてはゐないんだ。何處かの代辯者たるウォルター君、君がもしさうでなかったら、今日限り君は、政治記者の職にアデューしなくちゃなるまい。唯、我々の立場としていひ得ることは、極力、政府の行動を監視し、社會の正しき與論と相俟って、ベストをつくすべきだと思ふ……」
 ウォルターは何か反駁を試みやうとしたが、記者たちの大勢は彼に取って不利な方へ傾いてゐたので、彼はもじもじしてゐたが、今度は、このミッキーが默ってゐない。
「おい、みんな聴けよ。君たちが各黨派の政策に踊らされてるロボットなら、好戰派もまた黒幕に隠されてる國際戰爭業者のロボットさ。だが、その黒幕はそっとして開けない方がいゝぜ。もし曝かれた正體が、好戰、反戰兩派を同時に操ってる一つ眼の化物であった場合、引込みがつかんわけだからなぁ……」
 M「いや、その戰爭煽動者は曝いた方がよかあないか――元兇の正體だ……」
「おいおい。おれは敵性國の第五列ぢゃないんだぜ……」
 だがMの耳に入らばこそ、おれの、べんべんたる腹を目蒐けて、奮撃突進、いやといふほど體當りしてくる。
「さあアメリカを一路戰爭へかりたてるやつだ、さあ其奴だ……」
「あゝ救けてくれッ……」
 途端に殷々たる砲聲が轟き出した。カヴァナの砲臺からプリンス・オヴ・ウェールス號へ送る禮砲である。あゝその砲聲を聴いた瞬間、おれは腹が空いちゃった。
「みんなランチにしやうぜ。戰爭が始まらうと、天地が逆立ちしやうと、浮世のことは、とかく飢ゑと戀とで行はれてゆく――と、詩人シェレーは吐かしをったが、飢ゑと戀、即ち食慾と性慾だ。どうせ戀にゃ縁遠い君たちのことだ。さうむきになって憤るなよ。人生は何をさて措いても喰ふことが先決問題さ。おれはよく啖べて、よく眠るからよく肥る。 君たちはニュース神經を尖らして、年中いきり立って、駈廻ってるから、こけ猿みたいに痩せこけちまふんだ。さあ一切をあげて喰ふための突貫だ。食堂めがけて、このミッキーへ續いて來いッ。但し、突撃の喚聲をあげるなよ。今日のところ、君たちはおれの隠匿物に屬するんだからな……」

注)次章の三月十八日部分に前日の事らしく書かれているので二十日は十七日の誤りだと思われます。

二、波濤の曲
 ニューヨークはいつ見てもいゝや。世界のワンダーシテーを控えた、このハドソン河の壯觀はどうだ。數萬噸級の巨船が幾艘も幾艘も内港(アッパーバー)の奥深く樂々と入れるし、此處からざっと見渡したところ、マンハッタンを中心としたスカイラインの素晴しさ。 あの金銀の星を鏤めた豪華な砂糖菓子みたいに盛上った、無数の摩天楼(スカイクレーパー)の偉觀――あの中に、キングコングが暴れ廻った一〇二階のエンパイア・ステートビルも見えるだらう。あゝ今日は少し靄がかゝってらぁ。ありゃ大都會の濛氣といふやつで都市繁榮の度合を示すバロメーターさ。
 折からプリンス・オヴ・ウェールス號の巨體は、徐々に内港を辷り出してゐた。船舶の輻輳した水域を挾んで、右も左も高臺が續き、山麓の人家や兵營、砲臺も指呼のうちに過ぎて、南へ南へ――自由の女神像を左舷に望んでハドソン河は愈々廣く、大ニューヨークの全貌を新たに展開する。大厦高樓の塔影を蜃氣樓の如く波上へ浮べて……。
 突如、甲板の何處かで奏樂の音が起った。食後のシガーを喫らしてゐた記者たちはめづらしく默りこくってゐる。
 ゴツド・セーヴ・ザ・キングはスペイン曲のゴイヱスカスに變った。前世界大戰當時、メトロポリタンで名聲を博して、ニューヨーク兒の血を沸かしたその作者グラナドスが、歸途ドウバー海峡で、ドイツの水雷にやられたその憶出を聴かさうといふのか? それも暫時、狂燥的なザルズヱラに變った。と、その浮立つやうな樂の音につれてダンスが始まったらしい氣配だ。記者たちは腰を浮かして汽とう(※竹甬)(セリンダー)の蔭から覗いて見る。
 どうれ、おれも覗いてやらう。と、その光景を一眼見た途端、呀ッとたまげてしまった。大統領は彼方の上甲板で奏でる音樂に合せて踊り狂ってるではないか。このデモクラシーの立役者は、手の舞ひ、足の踏みどころもわきまへぬほどの有頂天さで、甲板も狹しとばかり跳ね廻ってゐる。次に我々の眼に映ったのは大統領を取卷く周圍の顏ぶれだ。 が、案に相違して、チャーチル英首相の影は見えず、此場のイギリス側の首腦者といふのは駐米大使のハリハックス卿であった。それに艦長のクラーク、一方、白堊館の側からは大統領の懐刀たるハリー・ホープの姿は見えず、海軍副官のビタール、それから前駐英大使ジョー・ケネデーの快活な顏が見える。
 ザルズヱラは愈々昂まってくる。踊るルーズヴェルト? 何が彼を、さうした忘我の歡喜へ驅りたてたか? 遉がの記者たちも呆氣に取られて唯見戌るばかりだ。穏やかな波濤のまにまに、巨大な戰艦プリンス・オヴ・ウェールス號は辷ってゆく。光と水の彼方へ眸をやった途端、おれは踊るルーズヴェルトの氣持ちが解るやうな氣がした。それは湧上る雲澳の如く、百千のオベリスクの如く、無數の直線を描いた摩天都市の偉觀である。その雄大さ、比ひなき黄金都市(ゴールドシテー)の素晴しさ、かくも驚異的なコスモポリタン・シテー、おゝ汝ニューヨークよ。 だが海の彼方には、戰車が轟き、新鋭機は羽搏き、重火器は火を吹き、魔の戰艦は逢かな戰雲を臨んで荒波を蹴りつゝあるのだ。あゝ、この魔天都市の上空へ何時敵機がやって來ないと、誰が斷言し得るだらう。おれは、あの一世紀前にテニスンが謳った幻想詩、ロックスレー・ホールを憶出さずにはゐられない。
 われ、幻しに見つ
 末つ世の……
 天空(そら)おほふ魔の艨艟(ふね)
 ………………………
 同時に、おれの超現實な夢は、黄金都市ニューヨークの上を涯なくさまよふのだ。高さに統一のない建物や、眞四角な大倉庫みたいな趣きのない建物に、アフガスの眼(希臘紳話にある百の眼をもつ怪物)みたいな澤山の眼? 否、窓をもった無數に聳り立つ建物の亂立――おゝ神よ、この物質文明の都市の上に永久に幸あれだ。艦は既に外港(ローワーベー)へ出てニュージャージー州の岬の突端をかはすところだ。いつか奏樂の音も歇んで、ルーズヴェルトを中心に、彼等はシャンパンの杯をあげる。 記者連は汽とう(※竹甬)の蔭に頑張り、息を顰めて彼方の會談の成行如何と窺ってゐるけれど、主客の間には、およそ焦點(ピント)の外れた談話が彈むばかりだ。大體チャーチル英首相のゐない處に會談はあり得ないだらうし、はて? その間、喋べりたい記者たちが默ってゐる筈はない。彼等の話題に上ったのは、踊る? 或ひは踊らされた? ルーズヴェルトについてだ。そこで記者たちは、ルーズヴェルトの初選時代から百%支持のニューヨーク・ポスト紙の、N記者に感想を叩いて見る。
「僕の意見をいふならば、自發的な、踊る方のルーズヴェルトだね。獨善的で倨傲、また決斷力に富んだ彼には明朗快活な半面がある。彼の所謂百萬弗の微笑だが、それも悧巧な彼の人氣取政策の一つで、實際彼は、この利器を使ふ場面のコツをよく心得てる。だが笑ふルーズヴェルトにも秘められた悲哀がある。僕たちはアンクルサムの愛稱で呼んでゐるけれども、彼は所謂、純粋のヤンキーではない。オランダ貴族とイギリス系の血を引く彼は、どうかした彈みに、ふと遠い郷愁の血に目醒めることがあるらしいんだ。 それは海と船だ。彼は海が好き、同時に船も好きときてゐる。とりわけ彼は巨大な戰艦や大聯合艦隊の行進なんか見ると、今のやうに狂喜して踊り出す騒ぎで、この新装備を凝らした大戰艦の甲板から、蜃氣樓のやうな魔天都市を望んだ瞬間、全身を揺ぶる歡喜を、それ自身防ぐすべがなかったらしい。だからフランクリン坊やには大戰艦か、大聯合艦隊の行進を見せるに限る………」
 途端に彼方から、例のかッかッかッといふ百萬弗の微笑が響いてきた。おれは、またしても汽とう(※竹甬)(セリンダー)の蔭から顏を覗けて見る。つと大統領の指があがった。あッ、いけねえ、到頭見つかっちゃった。このミッキーへ御用と仰有る。おれは、べんべんたる腹を突出し、氣取った歩調で進み出た。大統領は例の長い腮をしゃくると、心得たニグロの少年がおれの前へ杯を運ぶ。シャンパンのコルクが爽やかな海氣の中へポーンと韻く。煙波はるけき水や空、大西洋の波濤は穏やかだ。
「乾杯、閣下の御健康を祝して…… 」
と、ハリハックス卿はモーニングの肩を窶めるやうな恰好で杯を捧げる。艦長クラーク、アメリカ側からはケネデー、海軍次官のビタール、それから、かくいふミッキー。
「はッはッはッ、デブ公ミッキーの健康を祈る……」
ルーズヴェルトは朗らかに微笑ふ。
×
 三月十八日――白堊館の東側に當る表玄關を入ると、すぐ地階の降口へ立つ。その階段下でスミスとばったり出會った。彼は慌てた面持ちでいふ。
「ミッキー、大統領(プレジデント)は、今朝はまだ見えはせんのだらう……」
「うむ、おれは、いつもの通り十時かっきり、二階のアンクルサムの室をノックして大統領お早ふと挨拶したが返事がない。官房の方もまだ誰も出てゐないし、だが君はどうしてそれを識ってんだ」
 折から白堊館の参觀にやってきた一團體およそ數十名が、地下の大廣間を出て、これから東の間へ出る大階段を昇ってゆくところだ。スミスは右手の地下廊から控室へおれを誘ひこんだ。彼は聲をひそめていふ。
「昨日、僕たち記者連は、プリンス・オヴ・ウェールス號から、モンロー要塞へ上陸して、今朝列車でニューヨークから此方へやってきたが、君は何處から上陸したか?」
「あれから二時間後、ポトマック河(ワシントン郊外)を遡って海軍工廠の棧橋へ揚った。そして終電でアレキサンドリアから、オンタリオ街のアパートヘ歸ってきた」
「で、大統領はどうしたんだ……」 
「うむ、それが、どうも變だぜ、大統領(アンクルサム)は中甲板の船室(キャビン)へ入ったきり姿を見せないし、ジョー・ケネデーが出てきておれへ先に歸れといふんだ」 
 スミスは室の中を半圓を描くやうに歩いてから、腕椅子へ戻ってきた。
「ミッキー、僕たちは擔がれたんだ。先週ロンドンからチャーチル首相が、ハリー・ホープと同伴で海軍副官のバード大佐共々、メーン州のロックランドへ上陸した形跡があるんだが、一行が乗ってゐたのはアメリカの巡洋艦ヴァジニア號だ。どうだミッキー、ルーズヴェルト、チャーチル兩巨頭の會談が北大西洋のロックランドの洋上で行はれたと見るのが至當ぢゃないか……」
「變だぜ、するとプリンス・オヴ.ウェールス號のルーズヴェルトといふのは?」
「無論、同日、同時刻に北大西洋のロックランドと、ニューヨーク沖で二人のルーズヴェルトが出現する筈はあり得ないから、一方は僞者といふわけだが、そこまできたら血の循りの鈍い君にも合點がゆくだらう……」
「おいおい、おれの頭腦明晰なことが、今始めて判ったんか、ルーズヴェルトの懐刀たるホープが随いてるだけで、ロックランドの方が眞物に極ってらあ、どうも昨日のアンクルサムのダンスが巧過ぎると思ったら、あの替玉先生、ホリーウッドあたりの俳優らしいぜ」
「ウム、我々はまんまとしてやられたんだ」
「で大統領は何んだってそんな念入りな演劇をやらかしたんだ」
「事態は愈々重大と觀ねばなるまい……」
「それでアメリカは参戰するんか……」
「………………」
「すると、スミス、君の参戰、反戰兩派から劃然とした孤立主義は此後どうなるんだ……」
 スミスは喫ひさしの細卷(パピコス)を大理石の床へぱっと叩きつけ、自棄に踏みにぢりながら、
「そいつを尋かないでくれ、アメリカは何處へゆく? それは我々には判らん、デモクラシー民衆には尚更判りっこはない。それを識るものは唯一人ルーズヴェルトあるのみだ。
 さて、運命の骰子は今や彼の手を離れやうとしてゐる。が、ミッキー、茲が問題なんだぜ、アメリカが参戰したからと云って、國際戰爭業者や、國内に潜む敵性國人の思ふやうには決してゆかないといふことなんだ。それはルーズヴェルトの参戰の狙ひは、彼等の上をゆくもっと深遠なところに、焦點が措かれてあるからだ――。
 時にミッキー、あのウイリヤム・ウォルターの奴に注意しろよ。大體カレント・トピックス紙そのものが敵性國の秘密情報部なんだし、彼奴等はブロードウェーのロックフェラーセンターの一劃を占め、數十名の記者を使って、アメリカのあらゆる機關へ呼びかけてるが、お目出たいアメリカ人は彼奴等のため、自腹を切って宣傳してやってる始末なんだ……」
「ぢゃ、何故彼奴等をやっつけてやらないんだ……」
「ところがミッキー、アメリカが彼奴等の繁殖に都合のいゝ温床を提供したのが始まりで、まあ考へても見ろ、ニューヨークだけでも三十五種のモザイク人種がうようよしてるんだし、誰が愛國者で誰がスパイか? およそ見當もつかんだらう。だが天網恢々いつかは彼等の化の皮を引剥いてやるんだ……」
「うゝん、さうだとも……」
「時にミッキー、もう正午に近いし、散歩がてらランチにゆかうよ……」
 スミスは慌てゝ立上った。白堊館から議事堂(キャピタル)を結ぶペンシルバニアの大通りを、スミスとおれは、東西へ通じる放射線路の方へ歩いて行った。もの靜かな街の兩側には若芽を吹いた篠懸(プラタナス)の並木が、美しい例をつくって何處までも續いてゐる。鏡のやうなアスファルトの道は、坦々として人影も三三伍々、めっきり曖かになった春の麗ら陽を浴びて、そこには戰爭の跫音も韻きはしない。唯、平和な樂園そのものゝやうな爽やかさ、靜けさが、充ち溢れてゐるのみだ。スミスは蒼穹へ聳えた篠懸の梢を仰いでいふ。
「あの淺緑の若葉が、やがて欝蒼とした影をつくって、兩側の街路を蔽ふ頃には僕等の報道陣も、愈々強化されて、忙しくなるだらう」
「同時におれも汗だくで大統領(アンクルサム)の護衛に随いて廻らなきゃなるまい。だがデモクラシーの看板におれ一人だけ公認の用心棒に押立てゝ、涼しい貌をしてるのはどうかと思ふな」
「そりゃ君は大締領の用心棒として、またとない適任者だからさ、自由の國の王城たる白堊館の元首には、親衛隊なんかいふ嚴めしいものは必要はない。各國のそれに比較して、デモクラシーの明朗さを代表するには、君はもって來いのシロモノなんだ……」
「ところが、頗るアヤフヤなんだぜ、ひょっこり暗殺者でも現はれて見ろ、眞先に逃出すのは誰だと思ふ?」
「無論ミッキーさ」
 さういふスミスの瞳は、向側の街路樹の方へ注がれてゐた。そこはコロンビア區の十三丁目、右側の小公園の角だ。ワシントン見物の遊覧車、それから赤星バス、その後からくる瀟洒なロードスターがある。運轉臺からちらり覗いたピンク色のコート。あッ、ミス・カザリン! スミスが慌てゝ白堊館を飛出したのは彼女の故だった。と、スミスは、スタートを切ったマラソン選手のやうな迅さで、街路を彼方へ駈け抜ける。そして彼と彼女と手を取り合って、彈んだ鞠のやうに跳上るのを、おれは唯一人、此方側の歩道から呆氣に取られて見とれてゐた。
 ふと、スミスの手があがった。彼女もおれの存在を見つけてハンカチを振ってゐる。おれはふたりの好意だけを嬉しく受けて左様ならしやう。何故なら、ふたりせいぜいのロードスターへ、三十五貫のデブ公は禁物さ、この巨人(ジャイアント)がお召し遊ばすお車といふのは、あのニューヨークの摩天閣(スカイスクレーパー)を直線に見上げる天井筒抜けの、スカイ・バスでなくちゃ居心地がよくないや。
「おれは空腹だ。これれからニュー・ウヰラートヘ廻って飯をたらふく喰って歸る……」
 その意味を、おれ獨得の身振り信號で送ると、彼等もにッと笑顏でかへして、ロードスターへ仲よく納って車をカーヴさせた。これでいゝ。戀人同志はふたりきりに限る。おれは犬に喰はれたくないからな。だが? と、おれは十四丁目の方へ歩きながら眞劍に考へて見る。彼女は、元首の寵を一身に集め、世にときめく權威者ハリー・ホープのたった一人の愛娘だからである。その對手のスミスはといへば一介の無産青年記者、それも勞働黨のニュー・ナショナル紙だ。それは軈てくるふたりの前途に暗影を想はせるものがある。

三、積亂雲
 三月二十日
 ルーズヴェルトはフロリグ沖にゐる? と、いっても遭難したわけではない。先週末の休暇靜養と稱して、ポトマック河からウイリントン號で魚釣りに出かけたまゝ、杏として行衛を晦まし、全世界に大きな謎を投げかけたが、彼の消息は今日やっと判明した。彼氏の用心棒たるおれは内命に依ってポトマックの海軍工廠から海軍機で現地へ飛んだ。 アメリカ東海岸の端から、大西洋とメキシコ灣ヘ突出したフロリダ半島は、メキシコと同じ緯度なので、突然、北方からやってきたおれにはかなりの暑さだ。大統領は、もう魚釣にも飽きたのか、彼はバームビーチのホテル、ニュー・オルリーンスのテラスから、フロリダ海峡に躍る銀波金波を眺め、めっきり陽灼のした元氣さうな貌をしてゐた。
「閣下。御機嫌よう」
「やあ.ミッキーのデブ公、いつも元氣だなぁ……」
と大統領は例の百萬弗の微笑を惜氣もなく振撒いてくれる。無論微笑といっても、女性のやうににッと溶ろけるやうな――あれではない。何か、かう、ずぱりとくる刹那に閃めく白刄に似た感觸で、時に依っては思はず恟ッと身慄ひがくるくらゐ。まして荒海狂ふ北大西洋の唯中で、老雄チャーチルを對手に、全世界を俎上へ載せた會談の後では、まったく物凄いといふ他はない。この貌、この微笑こそ眞のルーズヴェルトを表徴するものであって、あの踊るルーズヴェルトなんかと譯が違ふ。 あの時たとへ一刻たりとも瞞されたあの錯覺は、今、思ひめぐらしても判らない。だが待てよ、このデブ公を此處まで呼よせた内命? といふのは、もともと年俸五千弗を頂戴してゐるおれの任務たるや、用心棒といふ職務に對してであるから――、はてな? すると、これから暴漢でも現はれるのかもしれんて。おれは思はず腰の短銃へ手をやって見る。それから大統領の身邊を見廻すと海軍次官のラルフ、陸軍長官スチムソン、それから内務長官イックス等の腹心の面々――それにこのミツキーだ。チェッ慌てるない。
 ふと隣室の方を見るとハリー・ホープとばったり顏を合せてしまった。その途端、おれを此處へ呼寄せたのは、大統領よりは彼だなと感づく。血の循りの惡いおれが何も閣僚連の顏色を窺ふわけではないが、それには譯があるのだ。ホープの對手を見ると下院議長のバンクヘッドだ。そこへ、ルーズヴェルトがやってきたので、おれものこのこ随いて行って、テレ隠しに窓から海の方を覗いて見る。ルーズヴェルトが先の室にゐたのは、ホープとバンクヘッドの協議が、ある程度機の熟するのを待ってゐたらしい。
 いつもならルーズヴェルトの意志が、云はず語らずのうちにホープに依って、すらすらと運ばれてゆくのにはて? 今日のは餘程の難題と見える。ふたりの協議は行惱みの態で、どっちも無言でやけにシガーを燻らすばかりだ。ルーズヴェルトは、そのまゝ室を素通りして、悠っくりと廊下へ出て行ったが、ちょっと立停っただけで向側の室へ入ってしまった。が、すぐ戻ってくるかもしれないのでおれは、この室にゐることに決めてテラスへ出て見る。
「そりゃ大統領(プレジデント)は對手の心理を捉えることにかけたら恐らくぬかりはあるまい。そして此度も必ずやり了せるだらう。が、自分はルーズヴェルト陣營の協力者の一人として、此度ばかりは樂觀はゆるされないと考へるが……」
バンクヘッドは溜息をつく。ホープは苦笑してゐるらしい。
「それは議長たる君の心構えと出やう一つさ。いや今一押し強引に押出すに限る。反對派を始め、上院下院の外交委員の連中と、かなり激烈な論爭もせにゃならんし、彼等もまた相當喰ひ下ってくるだらう。だが大勢の政敵を向ふへ廻して、巧みに個々の機微を捉え、遂に敵の死命を制する君の偉さに自分は滿腔の期待をかけて歇まない。あたりが怒氣に燃えて、沸き立ってくる時こそ、君の獨壇上なんだから……」
「此度はさうはゆくまい。唯こっちの狙ひは自分の掌中に納めた多數の力を藉りて、壓倒的に土壇場で跳ねかへすことだが、その、のるか反るかゞ萬一外れたら……」
 あゝ、そんなのを聴くんぢゃなかったっけ。おれは唖者で聾者でゐなくちゃいかん。風がばったり絶えて、蒸暑い海氣でむんむんする。沖は眞珠色に煙って、赤いブイが唯一つと、汀に近く棒杭が三本立ってゐて、その合間に水泳者の頭が水泡のやうに浮上っては消える。そこへ、ルーズヴェルトが戻ってきた。
「まだ協議が濟まんのかな……」
と、彼はホープの側の籐椅子へ倚る。
「このバームビーチ一帶が、今、恰度、無風状態へ入って茹り氣味なので……」
ホープは苦笑しながら、例の村夫子然たる上衣のポケットからハンカチを取出す。
「はッはッはッ君たちが何もそれほど苦心せんでも……」
 おれは茹った體をもてあまして、テラスヘ出てしまった。風はまったく絶えて、水平線の彼方へ積亂雲が沸上ってゐた。ふと振返って見るとバンクヘッドは夙うに立去って、ルーズヴェルトは横顏の線を此方へ見せ、籐椅子へ寛いでシガーを燻らしてゐた。ホープは隣室へ去る途中、指をあげておれの方へ合圖をした。途端に胸へドキンときた。そうらおいでなすったぞ、おれは何んといふオッチョコチョイなんだらう。そっちを見なけれゃよかったのに……。
 ホープは陽の蔭った東側の室へ入って籐椅子をすゝめる。おれは、あの、放膽なルーズヴェルトの前へ出ると、解放された氣安さを感じるけれども、このホープときては何となく鬱陶しくて、煙たくて、やりきれない氣持ちにさせられる。政界無宿の野良猫共の噂では、このホープと國務省のハル長官は古靴のやうに近寄りやすいといふけれども、おれに取ってはどっちも苦手だ。 殊にホープはすべてに對して觀察眼が鋭く、ヒステリー女みたいに神經が繊細(デリケート)で、さうかと思ふと一國を左右する程度の斷案を平氣で下すやうな、何とも形容しがたい人物である。彼はおれの出っ腹をほゝゑましく瞠めていふ。
「ミッキー、實は君の親友ターナー・スミスのことなんだが、彼はどんな性格かね……」
そうらきたぞ、おれは體を硬くし、ヘドモドしながら應える。
「スミスのことなら閣下の方がよく御存じぢゃないですか……」
「ミッキー、僕に判る筈はないよ。形式的に時々會見することはあるが、スミスはニュー・ナショナル紙の花形記者だと聞いてるだけだし、それにニュー・ナショナル紙そのものがあんまり芳ばしくないんでな……」
 おれは一瞬叩きのめされたやうな氣がした。今日まで密かに惧れてゐたことが到頭やってきたのだ。スミスは、今この才氣煥發な權威者の前でその輕重を問はれてゐる。ホープは默りこんだまゝ、それ以上いひ出さうとはしなかった。彼の瞳は沖の方へ凝乎と注がれてるた。地位もない資産もない一介の無産青年スミスと、世にときめく顕官のひとり娘カザリンとの縁組みは、その前途が暗雲に閉されてゐることは最早確かだといっていゝ。
 或時はバッキンガムへ、或ひはクレムリンへ使ひして、縦横の外交手腕を振ふホープも、愛娘の一身上に關しては、相當惱んでゐるらしい。ホープは現在、國防經濟長官の位置にあり、一方ではブレーントラストの蔭の顧問として、彼ほどルーズヴェルトの寵を蒙ってゐるものは他にあるまい。 彼はワイオミングの生れでグリンネル大學を了るとニューヨークへ出て、ある慈善病院の理事を勤めたのが、今日の位置を築きあげだ第一歩で、その慈善病院といふ社會事業の、周圍からうけた貧富の差は、青春時のホープをひどく感傷的なものにし、貧しいものゝ味方として立った彼は、一時は社會主義的な情熱を燃やしたけれども彼の冷やかな理性は單に研究に止めただけで、經濟方面へ轉換したが父祖の代から民主黨なところから、遂にルーズヴェルトに見出され、例のニューデールの政策に参じておよそアメリカならでは見ぬぼどの黄金時代がやってきた。
 かうして名實共にデモクラシー王国の宰相格たるホープの半面には、いひしれぬ悲哀がある。彼には何故か政界を通じて一人の支持者もなく、また民主黨内にも一人の乾兒もないことだ。この父ひとり、娘ひとりの寂しい境遇にある彼は今、いひしれぬ苦惱の底に呻いてゐる。それは何ものにも替えがたい最愛のカザリンの心が、既に父を離れて他へ傾いてゐることだ。沖の方を瞠めてゐたホープの瞳は此方へかへってきた。
「ミッキー、君は夙うに識ってるだらうが、實は娘のカザリンが、あのスミスと婚約したといふんだ…‥」
「はぁ……」
 おれは茄り氣味な體をもてあまし、肩で太息をしながら、そんなそっけない返事をする。
「ミッキー、スミスは、イデオロギー的傾向はどうなんだな?」
 ホープのいひ澁ってゐたことが、やっと唇の堰を切ったのだ。ふと、おれはスミスのために茲で跳上るほど歡びを感じたが、はっと叱りつけた。民主黨と反對の勞働黨であり、そして孤立派のニュー・ナショナル紙の建前を識りつくしてゐるホープが、スミスのそれが判らぬ筈はない。そこに萬一の光明を見出さうとしたのだが? それは、あの見解も、立場も黨派も喰ひ違ったことなんか、てんで念頭に置かず、その人物の利用價値に眼をつけるルーズヴェルトの戰法だ。が、その術はホープには果してどうか?
 然しこれは政治問題とはわけが違ふ。そして最愛の我子に對する盲目愛は賢者をも愚にかへらせる。それに對手は娘を奪った敵なのだ。さあ解らないぞ。おれはなんで歡んだのかな? この場合、スミスがホープを理解し、共鳴するより他はない。さうなればホープだって或ひは我儘娘のいひなりに………。 いやいやあべこべに民主黨たるホープを屈服させやうとしてゐるスミスであり、否彼は民主黨の親玉たるルーズヴェルトへすら、敢然と刄向ひかねぬ叛逆兒だ。あゝ、おれは、もうやりきれないぞ。この縁組はやはり悲劇的な運命の下に描かれてるのだ。おれみたいな肥大漢の樂天坊には、この悲劇てやつはひどく苦手なんだが、途方もない嘘は吐けないし、
「スミスは、その……何んでも僕と同じなんです。故郷も同じヴァジニア、學校もコーネル大學、唯、僕の方は經濟でしたがスミスは法律でした……」
 と、おれはてんで方角違ひな挨拶をする。ホープは隙かさす迫究してきた。
「スミスの黨派は?」
「その……勞働黨なんです」
チェッ、判ってるくせに、と、おれはそのまゝテラスへ躍り出て、命からがら砂濱さしてスタコラ逃出してしまった。
 きた、きた、救け船? ではない。ワシントンから記者團の一行がやってきた。
「あッ、スミス待ってた。救けてくれッ」
 デブ公のおれとスミスはいきなり兩手を取り合ったまゝぐるぐる跳廻ったものだ。後の方から、わあッと笑聲が起る。記者たちは砂の中へづぶりづぶり埋ったおれの足跡を見て笑ってるのだ。チェッ勝手に笑へだ。
「スミス、君のおかげで、おれはひどい目に遭ったぞッ……」
「あの、ホープだらう……」
 スミスの頭へもすぐそれがきたらしい。あゝ日頃決活(※ママ)な彼の貌に、なんと憔悴のあとがありありと刻まれてゐることか。戀といふやつは、斯うも人間を苛むものかな? 彼の暗い顏を見てゐると、つひおれの鼻の下が間伸びがしてきて、いきなり手放しでわあッと泣出したくなってくる。
「スミス、苦しいのは君ばかりぢゃない。ホープも惱んでゐるんだ……」
「え?」
「君、ホープは苦勞人だぜ。彼が往時慈善病院に働いてゝ、プロレタリアの味方だっただけに、苦悶も人一倍大きいんだ……」
「ふん、ホープがなんで苦しむんだ。僕には何等社會的位置もないし、それに素寒貧だから娘はやれないといふんだらう……」
「うゝん、君、新聞記者てやつは無冠の帝王であり、布衣の宰相なんだぜ。それだけで堂々たるもんぢゃないか。だからミス・カザリンが、うんとこさ持ってきた持参金を、片っ端から湯水のやうに使ってやる、どうせ、そのまともの金ぢゃないんだから……」
「おいおいミッキー、僕がもしホープだったら、君へは絶對に娘はやらんぜ……」
「此方も眞平御免だ。何しろ親父と對坐にたっただけで、あんなに冷汗を流したんぢゃ、これから先が思ひやられらぁ」
「君も減らないなぁ……」
「うむ三十五貫以下には絶對に減らん……」
「體量ぢゃない、それで親父の惱みといふ點は、僕が社會的地位がないことゝ、素寒貧なことが」
「だからホープは苦勞人だといってるぢゃないか、地位や、貧富に拘はるのはデモクラシーの恥辱だ。君、ホープはやはり偉い。彼は幾日か惱んだ末に到頭それを克服したんだ。おれは確かにさう睨んだ。が、後にもう一つの問題がある。あゝ運命は君のために、かくも殘酷なんだらう。ホープは君の傾向てやつを氣にやんでゐるんだ。おゝホープのやつ死んぢまへばいゝのに……」
「無論、僕は勞働黨だ、民主黨や共和黨には斷じて變節しない……」
「さあ、スミス、そこだ。改黨か結婚か、君の行くべき道は唯一つだ……」
「………………」
「君はあんまりお悧巧さんぢゃないぜ。理屈はヌキにして、ミス・カザリンと結婚しちまへ……」
「君はどうしてさう無恥なんだらう……」
 記者團の一行は夙うに砂丘の向ふへ行ってしまって、一人殘ったのが此方へ何かどなってゐる。
「ミッキー、話は後だ」
スミスはやけに駈出して行った。

四、非常時宣言
 ルーズヴェルト大統領の重大聲明發表を期待するその一刻、記者たちは南側の苑へ集ってゐた。そこへ武器商人のヤコブ・アプネルがやってきた。一名戰爭屋で通ってゐる男だ。あゝ此奴が立廻る先に碌なことはない。アプネルはロンドンの旅からワシントンへ、ダグラス機から降りるが早いか、大統領の御機嫌伺ひに、このフロリダへ飛んできたに違ひない。アプネルを素早く發見したのはカレント・トピックス紙のウイリヤム・ウォルターだ。彼等の氣狂ひぢみた抱擁ときたら、まるで敵國の中で同志がめぐり逢ったやうな騒ぎだ。
「ウォルター君、他の記者諸君も聴き給へ。イギリス軍はユーゴースラビアからも迫はれるし、作戰開始からセルビアの降伏まで十日、アテネの陥落が二十一日目だ。斯うして、イギリスは暴君ドイツのために、最後の一兵までバルカンから姿を消すことになるだらう。そして首都ロンドンは今、ドイツ軍に依って怖ろしい空襲の脅威下に曝されてゐる。だが市民はよく恐怖と苦難に耐え忍び、孤立無援でよく戰ってゐる。 この饑餓と資材難に喘えいでゐる彼等の無言の苦患に對して、諸君は同情の限りをつくし、出來得るだけの物資と武器援助をしなければならぬ。そして、今すぐ、少くとも毎月一ダースづゝの驅逐艦を譲り渡してやるべきだ……」
 アプネルの氣狂ひぢみたイギリス援助に對して記者の中から誰かゞ酬ひる。
「すると、アメリカの國防はどうなるんだ」
だがアプネルの耳へ入らばこそだ。
「諸君これはイギリスのみではなく、アメリカそれ自身の重大危機であることを僕は警告する次第だが、諸君そこだ、かの勞働組合長のシドニー・ヒルマンですら、アメリカは自國防衛のためにも、何故イギリスヘ百萬噸ぐらゐの船艦を譲渡せんのかと叫んでゐるくらゐだ……」
 ウォルターの他に、記者たちはもうアプネルを對手にしなかった。イギリスとドイツの和平説を流布して、暗にアメリカを脅かし、参戰へ捲込む術を打ってゐるのは或ひはこの輩に違ひない。此奴がそれ自身の祖國チェッコを減したといふ事實は、あまりにも明白なことだし、彼は元武器製造コンツェルン大スコダ會社の支配人で、チェッコの解體後、彼は公然と國際武器闇取引の支配者となり、各國政府間に不思議な潜勢力をもつやうになり、戰爭屋で通ってゐる男だ。
「此奴がアメリカに取って、何んの關はりがあるのかな?」
「彼奴を抓み出しちまへ……」
 その先ウォルターは當のアプネルを誘って、何處かへ姿を消してゐた。まもなく、大統領ルーズヴェルト對、白堊館聯盟記者團の會見は、ニュー・オルリーンスの大廣間で行はれた。潮風ですっかり陽灼けのした大統領は、例の百萬弗の微笑を湛えて記者たちに對してゐる。大統領の傍には秘書のステヴン・アーリーを始め、助手のマクレーンとミラーが控えてゐる。なんのことはない。このバームビーチが白堊館のチェーンストアの觀がある。
 ホープは少し遅れてこの席へ現はれたが、途端に記者席のスミスとばったり顏を見合せて、眸を反らしてしまった。重大宣言? やをら立上ったルーズヴェルトは、さて何をいひ出すであらうか? 彼の澁味をおびた熱辯は劈頭第一、堰を切った奔流の如くに迸り出た。
「諸君、かのウッドロー.ウィルソンは、かつて我がアメリカ合衆國は、過去に於てはデモクラシーの信念のために戰ってきた。然るに今や再びデモクラシーの存立のために戰はねばならぬ時がきた。
 そのウィルソンの言葉は世界情勢の逼迫した現時のアメリカの上に、適切に當箝ることは論を俟たぬのであるが、この世界の戰局へ臨んだアメリカの立場として、他の侵略に備へ、而して國防のため斷乎武装して起つべきことを餘儀なくされたのである……」
 記者席は靜まりかへって聲がない。主客の間は宛然(さながら)無人境の靜けさである。ルーズヴェルトの切々たる言句は續く。
「諸君、わがアメリカは歐洲戰爭に介入せざるため今日まで最善の努力をつくしてきた。だが歐羅巴の獨裁者は、單に歐羅巴の征服を企てゝゐるのではなく、西半球の征服をも狙ひつゝある事實を識らねばならぬ。否アメリカは今祖國の防衛と生存のため、茲に擧國一致してナチスの攻勢から、實力そして武力を以って護らねばならぬ非常時に直面したのだ。故に此際、わがデモクラシー諸國が確固たる決意を缺いたならば、アメリカは悲惨な敗北戰爭を避けがたい結果に陥ることを想はねばならぬ。 諸君、かくて非戰論者といへども、武力行動の不可避を覺るべき秋はきた。而してデモクラシー諸國への全面的援助、補給、アメリカ海軍に依る兩大洋に於ける商船護衛(コンボイ)と哨海(パトロール)の速刻實施こそ急務であって、我等はデモクラシー諸國のみならず、アメリカの敵性國たるドイツ、イタリー、日本と戰ふ何れの國へ對しても、全面的の援助補給を約束するものであって、アメリカはかくて全世界から飢餓と恐怖と失業を抹殺し、茲にデモクラシー的、そして理想的な平和境を建設しなければならぬのだ…」
 ルーズヴェルトの力強いゼスチゥアと激しい口調が最高潮に達し、重大宣言が了りをつげると、記者席から破れるやうな拍手が起った。そして記者團一行がウエストビーチの飛行場からワシントンへ向った直後、南側の室でシドニー・ヒルマンが、ルーズヴェルトとの會見を待ってゐた。
 アメリカの二大勞働組合の一つCIOを代表するヒルマンは、また、その創始者たるジョン・ルイスの下に勢力を張る彼である。ルーズヴェルトはこのヒルマンに依って、アメリカ全州に亘る宿命的な癌であるところのストライキを防止し、そして非當時局と共に各種軍需工場から、造船所、船舶乗組員、港灣勞働者方面へその意義を徹底させやうといふのだ。だがヒルマンは迎合的なことはいはないし對手が誰であらうと、感情に拘はるやうな彼ではない。 ヒルマンは此度、イギリス援助の目的の下に創設したアメリカ國防委員會の嘱託といふ肩書の下に大寫しされたのだ。ルーズヴェルトは、親友ヒルマンの名で呼びかけるけれども、協議は遂に難航に終った。アメリカの國防と勞働問題とは、てんで一つ軌道へ乗る性質のものではなく、この大難關を解決しない限りアメリカはこれから、ドイツが既に完成しただけの準備へ追ひつかうとするには、此後少くとも四ヶ年を要する――それはヒルマンの最後の言葉であった。
 だが、その後に、まだ一つ、船腹不足といふ難問題が待ち構えてるのだ。その當事者は船舶に精通した前駐英大使のジョー・ケネデーである。彼は此度政府の要請に依って外交官を後進へ譲り、アメリカ合衆國海事委員會の議長として、船舶事業を緊急に建直すべく乗出してきたのだ。そこへホープがやってきたので、ルーズヴェルトは臆劫な協議の肩替りをする。先づホープとイギリスの代辯者ケネデーとの協議は、此間イギリスの航海大臣クロス卿から、國務省に手交された文書を基礎として始まる。 ルーズヴェルトが立去ったので、テラスの隅っこで茹ってゐたおれも、欠伸をしながら立上った。砂濱へ出て見る。もう夕方だ。ホテルの附近は遽かに活氣を呈し、兩側の室では、何か大掛りな機械を取付ける物々工作が始ってゐた。テラスの外には厚い帷を下した大型セダンが三臺、そこからさまざまな機械が室内へ搬びこまれる。ハウ老秘書官長のいひ草ではないが、フランクリン坊やが、何かまたど偉いオイタを始めるらしい。 
 黄金色に燃えたフロリダ沖の凝雲は、いつしか紅へ、そして朱を混へ、次第に黄をおびてきて、暗紫色に陰った水平線の彼方へ流れ去り、やがて、熱風に溶ろけたやうな星影が波上へ影を映して、あたりは完く夜の帷に蔽はれてしまった。おれは冷たい飲料に晝の熱氣を醒し、シガーを喫かしながらバームビーチの夜風に涼を取る。海峡の彼方、遠くキューバ島のあたりから、吹き送ってくるオゾーンの香が堪らなく嬉しい。
 此時既に、白堊館の延長たるこのホテルで、デモクラシーアメリカの歴史的な幕が切って落されやうとしてゐた。大統領を始め閣僚の面々、一段と緊張した貌を集めて密議に餘念がない。國務省きっての才人で名文章家の、バーリー次官補が拵らへあげた草案を、ルーズヴェルトは鉛筆を手にしながら讀みかへし讀みかへし、修正を加える個所を檢る。明るい灯の下で煽風機が懶さうに唸ってゐる。
 ルーズヴェルトはプレインソーダに唇を潤ほしながら何か口授する。そのたんびにバーリーの明るい貌が火の中へ泛上る。晝の非常時宣言に相次いで、今夜は、より以上の重大宣言が發表されるらしい。
 ホープとケネデーはテラスの隅っこへ椅子を寄せて、低聲に何か語り合ってゐたし、右側のテラスでシガーを喫らしながら聲高に話してゐるのは、陸軍長官スチムソン、内務長官のイックス、それから海軍次官のラルフ等だ。西側の室ではテレビジョン其他の装置を終り、係りの技術者たちは各々その部署へつく。最初受像面へ現はれたのは、首都ワシントンに於ける議事堂の夜景である。
 自由の女神像を頂く莊麗無比な丸屋根の下、夜間開會の際點火される直徑十五呎、無數の電飾からなる大燈明は、宛ら巨大な一團の焔と輝き渡り、折から提出された非常時豫算案を繞って各派入亂れ、賛否囂々たる論爭に沸立った院内の光景が、目のあたり映し出されたのだ。次はメトロポリタン・シテー、ニューヨークの夜景である。
 マンハッタンの中心ブロードウェーの盛場は、不夜城さながらのネオンに映え、無數の寶玉に飾られた夜の摩天街は、宛かも幻想的な深海の魔城の如く、際涯なき光波に揺れて眩ゆいばかりの耀りはよどみに漂ふおきくらげのやう。光芒の泡沫の中に點滅し、遠潮の如く、轟く海鳴の如く、無數の音響の渦卷く歡樂境の韻きは、遠く、或ひは近く、遂に嬌やかな歌聲となって間近に消え去った。
 次はニューヨーク・タイムス十四階の屋上へ現はれたトーキングサインである。
 アメリカ合衆國は過去に於てはデモクラシーの信念のために戰った。然るに今や再びデモクラシーの存立のために戰はねばならぬ時がきた……。
 無數の銀星を綴り出した電飾の文字は百千滿の視線を集めて、摩天閣の空を横切りつゝ去來する。場面はまたもブロードウェイの雜閙へかへってきた。瞬間、歡樂境の聲は消えて、祖國の危急を識らんとする人波は、新たに昂まりつゝある。二十三時半、今が人の出盛りの絶頂であった。受像が消えると同時にラヂオを通じて議會内の騒音が奔流の如く迸り出た。 對英援助豫算百億弗、三百二十億弗の大國防費は果してどうケリがつくか? 賛否囂々たる騒音裡に、場内を貫くものは反對派に揚る喚聲のみである。が最期の土壇場がきた。勝利は遂に多數黨を引提げて、必死的敢闘を續けつゝあるバンクヘッド下院議長へ揚った。耳を聾するばかりの喝采が、ばったり途絶えた瞬間、此方のマイクを通じてラヂオ解説者は叫ぶ。
 それはC・B・Sコロンビア・ブロードキャスチング・システム中繼で、全アメリカ四十八州へ送るルーズヴェルトの非常時宣言の前提である。
「わがアメリカ合衆國は過去に於ては、デモクラシーの信念のために戰った。然るに今や再び、デモクラシーの存立のために戰はねばならぬ時がきた――」
 それはマイクに立ったルーズヴェルトの力強い第一聲である。彼方のテレヴィにはブロードウェーの光景が遠く現はれてゐた。刻々に昂まり來る群衆の顏は、瞳は、祖國に危急へ臨んだ緊張に硬ばってゐる。對岸の火事視してゐた歐洲の戰火は遂に我等の頭上へ振りかゝってきたのだ。戰爭來、戰爭來――幾千萬の顏顏顏は、怒涛と打寄せる人波に揉まれ、街頭に流れるラヂオの叫びに馳せ集ってくる。
 街に氾濫したタクシーは備付のモーターロラ(自動車用ラヂオ)のスヰッチを入れる。電波へ乗ったルーズヴェルトの非常時宣言の叫びは最高潮に達した。それは全米一億三千萬のデモクラシー民衆に與へる戰爭不可避の宣言である。海洋の自由、國防の最大限強化を戰時體制、敵性國に對する積極的抵抗、デモクラシー國家群へ與へる全面的援助、アメリカ海軍に依る商船護衛、哨海と説き去り、説き來るルーズヴェルトの焔の如き烈々たる言句は、幾多の聴衆の心を捉らえずにはゐなかったであらう。
「諸君銘起せよ、現下のアメリカの状態は、かのドイツ軍が侵入した當時のフランスそのものであることを――。今やアメリカは怖るべき危機に瀕しつゝある。諸君よ、アメリカの武力行動の不可避を覺るべき時はきた。デモクラシー民衆よ! 故に我がアメリカは世界のデモクラシー諸國を救ふため軍需生産に全力を擧げねばならぬ。諸君、議會は茲に上下兩院を通じて、對イギリス武器援助百億弗、國防擴張費三百二十億弗の豫算案は、壓倒的多數決を以って通過した。斯くして我れに参戰の用意ありといひ得るのである……」
 あらしの如き宣言の終った時、彼の背後に破れるやうな拍手喝采が炸裂した。
 翌朝――大統領ルーズヴェルトは閣僚の慰勞と稱して、フロリダ沖で愛用の快走艇(ヨット)ウイリントン號を泛べて、魚釣に餘念がない。獲物は約一時間半で十數尾の戰果があがる。口が巨きく、くらげのやうに肉の柔らかなボンベイダック、大統領(アンクルサム)は晝食に好物のカレーライスが出來ると大はしゃぎだ。
 ホープはトクソテスといふ魚を釣った。なんだか希臘の哲學者みたいな名前だが、鯛に似た魚で、口から水を吹出して好物の蟲を落して喰べる曲藝家だ。別名を鐵砲魚(ガンフィッシュ)または消防夫(ファイヤーエクスティング)ともいふさうだ。
「鐵砲魚(ガンフィッシュ)! それは幸先がよい……」
 大統領はとても御機嫌だ。だが、黄色い地に黒い縞が光ってゐるのを見るとホープは眉を顰める。それから陸軍長官スチムソンは蝦魚(シウリングフィッシュ)といふ魚を釣った。
「ヘンリー(スチムソン)は氣骨があるから板骨のあるやつを釣りをった――」
大統領は例の百萬弗の微笑の連發である。このフランクリン坊やも、かうした遊びにかけては、可愛い坊やなのだが、かうして魚釣りを愉しむまも無駄に過してはゐない。今朝既に大西、太平兩洋域に亘って商船護衛、哨海が實施されたし、下の無電室では世界の各方面から頻々として情報が蒐ってくる。
 フランクリン坊や否ルーズヴェルトを中心にホープ、スチムソン、イックス、ネルソン、ラルフの幕僚の面々それに秘書のアーリーなど情報に額をあつめる。後から後からと助手(アッシュスタント)のメレットが情報を讀上げる。それに對して適確な斷行、速進的決斷力に富むフランクリン坊やの頭脳のよさに、おれは唯だ唖然たるばかりだ。却て傍で觀てゐる方が氣が疲れるくらゐ――。やれやれこの邊でちょっと一休みと、おれは太っかいお尻をどかりと甲板へ据える。肥大漢はどこまでも始末が惡い。
 そこへゆくと痩せた禿鷹みたいなアンクルサムは疲れるどころか、とても元氣旺盛で、いや、これからが一大事で最後の仕上げだ。それは正午に近い頃、ポトマック(ワシントン)の海軍工廠を發した海軍機に依って、はるばるフロリダ沖の快走艇へ、議會から重要書類が届けられたことだ。ルーズヴェルトの百萬弗の徴笑は最高潮へ達した。彼は、緊張した幕僚連に取圍まれて無雜作に署名を了る。
 沖は眞珠色に煙って、蒸暑い海氣で船も人も一緒に茹りさうだ。軈て、議會からの使者を乗せた海軍機が、銀色の波間に羽搏きながら舞上ったのを見ると、大統領はシガーを悠っくりと燻らすのであった。そして、彼は其場でホープを對英武器貸與長官に、ネルソンを軍需生産院長に任命した。

五、フランクリン坊や
 四月十九日
 昨夜、ニューヨークから訪ねてきたスミスと遅くまで話して、今朝一緒にオンタリオ街のアパートを出た。スミスはこれからマウント・ヴァノンへ、ミス・カザリンへ逢ひにゆくのだ。彼は對英援助豫算案が議會を通過してから、すっかり腐ってゐた。アメリカの参戰が愈々動かしがたい形勢を見せてきたからである。それから彼の心を暗くしたのは、カザリンとの仲が、父ホープの介入に依って何んとなく、よそよそしくなってきたことだ。
「いや、どうにかなる? いやいや、どうにかして見せる……」
 おれは、昨夜からさう云ってスミスを慰めてきたのだが、さて、これから先がどうしたものか?
「だから、いはんことか、戀てやつは人間の過失の中で最も大なるものなんだ。君は復讐の女紳の怒りに觸れたんだぜ……」
「莫迦いへ、お互ひ、自分の身に降りかゝって來なくちゃ解りっこはないんだ……」
 スミスは減らず口を叩いて憂欝に默りこんでしまふ。
「いや、解るとも、あれほど快活で、はきはきしてゐた君がさ、まったく別人みたいになっちまったぢゃないか、まあ、聴け、なすな戀! ありゃ失戀者が後者のみせしめに、苦惱の呻きの底から呟やいた金言さ、だから、おれは一生涯、戀なんかしないんだ……」
 と、おれは肩を思ひきり聳やかして見せる。
「おい、ミッキー、君は戀をする柄か?」
 スミスは到頭ふき出してしまふ。
「まあ、いゝから文句をいはずに、アメリカが参戰したら、君は報道班員になってどしどし前線へゆくんだ。すると、おれがカザリンの代筆をして、飛切り無類の名文章を書いて、君の行く先々へ煩さいほど送ってやる……」
「よせよ、君が、そんな名文章を書けるかでんだ……」
「書けるとも……」
「いや、デブ公のミッキーとシラノ・ド・ベルジュラックが入替るなんか舊いぜ……」
「あッ、さうか……」
「おい、ミッキー、あっちを見ろッ……」
 戀の惱みはあっても日頃から訓練された職業意識は怖いもんだ。素早く何か發見するのはいつも彼の方が先だ。が、ひょいと其方を見ると、ホテル・ニューウヰラートの方から大勢の人影が此方へやってくる。よくよく見ると各々何か宣傳ビラを翳した婦人の一隊だ。
「あっ、大變な彌次馬だぞ、おれも飛入りするか……」
「莫迦いへ、ミッキーの象が飛込んだら、とんだサーカスの町廻りだ……」
「うゝん……」
 おれはスミスに叱られて悄然とする。何しろ騒ぎは大きい。彌次馬がデモを取圍んでジクザクに駈け廻る。女たちが、わあッと喚聲をあげて縦横に走る。かうなると鼠が先か猫が先か判らない。宣傳ビラが走る。ぱっと跳退いては、また、わあッと駈け寄ってくる。
 呀ッ、シルクハットの紳士が轉げるやうに、宣傳ビラの圍ひの中から跳出すといふ騒ぎだ。スミスの眼は敏捷だ。
「ミッキー、あのシルクハットはヤコブ・アプネルだぜ、彼奴は、今朝ヴァモンド街のノックス海軍長官の私邸を訪問したらしいんだ……」
「うむ、彼奴は戰爭屋のアプネルだ。肝っ玉の太いくせに、痩せこけた蜂みたいな奴」
「はッはッは、ミッキーは痩せこけた奴はどうも御意に召さないんだな……」
「さうだとも、あッ、モーニングへ玉子の礫だ、あッ、銀のステッキを抱えて逃出したぞ、走れ、走れ、雌猫は大勢だ。あッ、見ちゃゐられない、シルクハットが玉子の黄身だらけだ。なんだって純白の手套なんか穿きやがるんだ、柄になく伊達男(ダンデー)を氣取ったりして、態ぁ見ろッ、とんだ恥さらしだ」
 彌次馬の混った、もの擾がしい行列は此方へ近づくにつれて、騒ぎは増々大きくなるばかりだ。彼女たちの宣傳ビラにはこんなことが書いてある。
 アプネルは戰爭屋…………
 私たちの息子を戰爭へかりたてるな
 戰爭屋をワシントンから追拂へ……
 敵性國の宣傳機關を閉鎖せよ………
 各々手にした其等のスローガンは、人波を泳いで一段高く掲げられ、騒ぎはいよいよ擴大してゆくばかりだ。
 すると並樹の向側からバラバラと現はれた人影がある。彼等は呀ッといふまに行列の先へ立って駈出した。カメラマンと報道の記者たちだ。カメラマンは入亂れた亂軍の中へカメラを向けて位置を圖る。跳ね飛ばされてまた先の方へ馳る。モーニングを追廻す雌猫群へ突當ってまた位置を替える。横合から彌次馬が飛出す。宣傳ビラに衝っかかる。
「アプネルは戰爭屋ぁ……」
「彼奴をワシントンから追拂へ……」
「僕ぁアプネルぢゃないぜ……」
 記者は彼女たちの包圍陣を生命がけで突破する。カメラマンはカメラを抱えて逃廻る。後から來る記者がまた捉まる。
「チェッ、なってやいない。迅くにげろッ。あッああ、アプネルの奴、そいつを捉まえて袋叩きにしちまへ。世界中へ戰爭を捲起す奴だ。さうだモーニングへ玉子の礫だ。やれやれッ、あッ、また逃がしたぢゃないか、彌次馬め、なだれを打って道を遮ったりして……大體道幅が狹いや……
 おい、ピエール・ランファン(フランス人、ワシントン市の設計者、彼はフランス革命當時に於ける暴徒の政府襲撃を考慮し、當市の設計に當り、辻々に小公園を設け、放射線型の市街を造った)道幅をもっと廣くすりゃいゝのに、せめて一哩くらゐになぁ、君は約一世紀後に、君の設計したこの街で、アメリカの逞ましい雌猫群が、戰爭屋の痩鼠を追廻す光景を、およそ、想像もしなかったらうよ。
 それからあの、市の中央から、八方睨みの掃射に備へたキャピタル・ヒルでは、つひ昨日まで、自由の女神像を頂いた丸屋根の下で、政界無宿の野良猫共が、参戰、反戰の悲鳴をあげて啀み合ったんだぜ……」
不意にスミスがおれの肩をどやしつける。
「おい、何いってんだ。みんな君の顏を見て笑ってるぢゃないか。ミッキー、僕は此處で失敬するぜ……」
 スミスは仲間の記者たちへ何か云ってから、ペンシルバニア街の角まで歩いてゆき、そこから赤星バスでマウント・ヴァノンへ向った。生暖かい雨もよひの空、篠懸(プラタナス)の並樹は暗い。
 五月六日
 非常時宣言以來、わがルーズヴェルト大統領の身邊は愈々多事多端だ。彼の否アメリカの政治機構は、刻々に移りつゝある轉變極りない情勢下にある全世界を向ふに廻して、四六時中不眠不休の活躍を續けつゝあるのだ。その多事多端な最中、皮肉にも、おれは二時間ほど體が空いたので、ぶらりと廊下へ出て見る。折から二階東側の政務官房で秘書長官のリース・ハウと、白堊館政治聯盟記者との會談が懇談會の形式で開かれるところだ。ハウ秘書長官は、ルーズヴェルトがニューヨーク州オールバニーの知事時代からの執事で、謂はゞ彼の股肱の臣でもある。
 ハウは風采からして乾からびてゐて、潤ひのない性格者だけれども、冷徹、骨を刺す程度の皮肉をルーズヴェルトの面前でも平然とやって退ける硬骨漢だ。が、ルーズヴェルトは忠誠無二な執事として、ブレーントラストの連中よりは、或時はハウの意見を尊重したし、また、ハウはルーズヴェルトの以前からの友交關係や、政界人士や、其間の事情にも精通してゐたと同様、政界からも絶大な信頼を寄せられてもゐたし、その點ハウはルーズヴェルト陣營の至寶である。
 豪放活撻なルーズベルトに引かへ、このハウ老と相對すると、何か、かう重苦しい壓倒的なものを感じるが、彼の皮肉には何處か牽きつけられるやうな親しさを覺えるから妙だ。懇談會といふ形式なので、記者たちは椅子を寄せて圍陣をつくる。だが、おれは記者ではないし、それに皮肉屋のハウの眼が怖いから敬遠して廊下へ出た。出しなに、後列にゐるスミスの眸がちらと此方へ走った。晝飯を一緒に喰ひに行かうといふ合圖だ。よし、おれは會議が果てるまで、廊下をぶらついて此處へやってくる連中を觀てやらう。
 やあ、きた、きた、カレント・トピックスのウォルターの奴、戰爭屋アプネルと同類のスパイめ、フーフーいひながら額に大汁をかいてやぁがる。やあ、今日はどうした風の吹廻しだらう。稀らしくブレーントラストのサミエル・ローゼンマンとレーモンド・モーリーがやってきたぞ。途端に、ハウ秘書官長の皮肉なキンキン聲が韻いてきた。
「はゝぁ、僕はニューヨークにゐられる元老方へ案内状は差上げん筈だったが……」
 ローゼンマンの冷徹な瞳は助手(アッシュスタント)のヤングが卓上へ積んだ調書へ注がれたが、扉は既に締ってゐた。ローゼンマンはルーズヴェルトが、オールバニーの知事時代からの友人であるし、少壯法曹家の中でも、特に頭腦の明晰を以て知られ、ルーズヴェルトは彼をサミー・ザ・ローズの愛稱で呼び、十三年間も無冠の宰相として難局處理に衝らせたほどで、彼は黒幕の總帥でもあった。それにローゼンマンは他の連中のやうに榮達を希ひはしなかったし、何處までも學者肌の彼は、後年ニューヨークの高等法院長に甘んじてゐたほどだ。
 が、何んの因果かハウ老とローゼンマンとはルーズヴェルトを繞って、宿命的に事々に對立し續け遂に妥協の道がなかったのだ。
 スミスが歸るまで――おれは窓際へ行つて、ぼんやり白堊館の苑を眺めてゐた。泣出しさうな空間から垂直にくる銀線の雫が、音もたてすに花壇の水盤へ輪を描いてゐた。窓から顏を出して見ると、しめやかな空気に乗って政務官房の話聲が傳はってくる。
 今日の懇談會は突然元老株の登場したことに依って、意外な方面へ轉換したらしいのだ。もともと二元老が今日白堊館へ出現したのは大統領に會ふためではなく、ハウ老の失言を詰問すべく、計畫的にやってきたのである。ローゼンマンはいふ。
「ハウ君、君は相變らず頑迷なんだな。大國防費の豫算案は夙うに議會を通過してゐるぢゃないか。それを何處かの敗北主義者の唱へる、アメリカ財政破産の夢物語なんかをでっちあげたりして、そんな愚説を構へるものは君以外にありはしない。君は恐らく正氣でいったんではあるまい。 我々は君の名を惜むと同様、ルーズヴェルト閣下に於かせられても甚だ遺憾に思召されるに違ひない。閣下は我々以上に君を信頼されてもゐたし、だから君は此場で、前言を取消して謝意を表するか、でなければ我々はブレーントラストの名に於て、リース・ハウその人の自決を求めることになるだらう……」
 ローゼンマンの語気は低く靜かだが、嚴とした冷たい韻きを放ってゐた。次にハウ老の皮肉な嗤ひが爆發した。
「はッはッは、僕は自決を迫られなくとも、結核で餘命いくばくもないんだから、今日限りこの白堊館を隠退するつもりだ……」
「結核? それで、君は我々に最後の復讐をしたわけか。いや、ハウ老の復讐はまったく酷かった」
モーリーは快活に笑ってのけた。が、彼は對手の皮肉が飛ぶ先に懐柔策に出た。
「ハウ老、まあ聴くさ。我々は舊知の間柄で、謂はゞ内輪同志ぢゃないか。閣下のオールパユー(知事時代)の頃を想起するんだな。我々は、あの、もの靜かな官邸で晩餐を共にしながら會議が行詰った際など、話頭を轉じて、未來の行政や、政治政策に關して大いに討論したこともあったし、當時の憶出は我々に深い感銘を與へずにはゐない。 いつか、君は半ば揶揄の口吻で「閣下のお集めになった頭腦信託(ブレーントラスト)の顏觸れは實にわが陣營の至寶ですな!」君の、あの一言が御大の御意に召して、その頭腦信託(ブレーントラスト)なる語が世界的なものとなったぢゃないか……」
 それに對してハウ老は酬ひる。
「さういへばモーリー教授、あの共和黨のハーディング、クーリッヂ、フーバーと、三代打續いた經濟恐慌(パニック)時代に取って替り、ニューデールの旗印を引提げ、鳴物入りで登場したルーズヴェルト政權の、あの當時の憶出は、實に印象的なものだが、そのニューデールの名づけ親は、確かコロンビア大學のモーリー教授だったと記憶するが……」
「ハウ老、政治政黨の功罪をあげるのは、その邊で止してほしいね……」
「左様、元老方が補佐するだけでもわが民主黨の陣營に陽の翳ることはあるまいから……」
「ハウ老安心するがいゝ。君は早く隠退して體の精養につくすさ。僕は敢ていふ。後顧の憂ひなく――と、此度の非常時宣言否世界の再建にルーズヴェルト閣下が乗出すといふのは、デモクラシー民衆を愛する――謂はゞ愛國心の發露であって、閣下のお心こそは天衣無縫的であり、救世主そのものであり、そして無垢な童心そのものなんだから……」
 ハウ老は皮肉な笑みを韻かして酬ひる。
「モーリー教授、その無邪氣な童心だよ、そして神童そのものたるフランクリン坊やを、機嫌よく元氣に遊ばせる方法を君たちは識ってるかね。このお悧巧な坊やは、毎日、新らしい珍奇な玩具が必要なのだが、そのお守役たちは、坊やの欲しがる玩具が自他を傷つけぬ性質のものかどうかを、嚴密に、慎重に検討して見るべきぢゃないか。然るに、そのお守役たちがあてがふ玩具といふのは……」
不意に助手のヤングが、槌で卓子を叩いた。もう正午である。
 六月八日
 スミスは報道陣の完璧を期するためニューヨークからお膝元の白堊館へ、徹底的に本腰を据えることになった。その準備や何かで、一時おれの室へ引越してきた。が彼は別個にそれ自身の計畫があるらしくひどく彈りきってゐた。それにミス・カザリンのゐるマウント・ヴァノンへ近いし、さういへば、この前にスミスが彼女を訪ねた際、死場所でも探しにゆくやうに鬱ぎこんでゐたが、戀といふやつは恰度晴雨計みたいなもので、その變化の速さときたら、七面鳥の顏色の如く、また猫の眼の如しだ。
 で、スミスは、多事多端な用事を割いて、これから彼女へ逢ひにゆくため顏へ剃刀をあてゝゐるところだ。
「スミス、アメリカは愈々参戰するんか」
「うむ、非常時宣言は着々と實現化されてゆくだらうよ。軍備は今すぐおいそれと出來なくとも、アメリカは實行主義第一の國なんだからな……」
「さうなると大統領は同時に、陸海軍總司令官として、大空中機隊の司令塔から指揮することになるだらうて、危險、危險、東洋の諭(※ママ)へに(君子は危きに近よらず)とあるから、おれは公認の用心棒を棒に振って、早速白堊館へアヂューしちゃう。さてそれから何處へゆく?」
「ミッキー、いゝ口があるぞ……」
「何んだ耳よりな話か……」
「ウム、中央公園のエチオピア産の象が非當措置に引っかゝってヅドンとやられるんだ、その體代りだ……」
「うゝん? 肉をうんと喰はせるか……」
「莫迦いへ、象はジャガ芋と馬糧のフスマだけだ……」
「詰んねえ、ぢゃ止めとかうぜ……」
おれは寝床でシガーを喫かしながら、ふと頭を擡げて見ると、顏を剃り了ったスミスが、カーテンの隙から隣の窓を窺ってゐる。
「おいッ、なんだ?」
「しッ……」
スミスはカーテンをそっと閉めてしまった。
「おい、やはり彼奴だ。赭毛のチェスター・ドワイド、彼奴が隣りのリーハウスにゐるんだ……」
「戰争屋のアプネルと同類か?」
「ウム、むろん、カレント・トピックスのウォルターとも連絡があるんだ……」
おれはシガーの火が消えたのも忘れて寝臺を降りた。
「ミッキー、そら、昨日、僕たちが出かけただらう。その後で向側からこの窓を跳ね越えた奴が赭毛のドワイドなんだ……」
「え、なんだって?」
スミスは聲をひそめる。
「彼奴は、此度、僕が始めた仕事へ喰ひ込んできたんだが、彼奴は僕が保管してゐる或る方面の機密書類を狙ってるんだ……」
「奪られたか?」
おれは低聾で尋く。
「實は僕の身邊には置いてないんだ。昨日どうも變だから試して見たんだ……」
と、スミスはポケットを探って、蜘蛛の糸よりもまだ細いゴムバンドを抽出して見せる。
「こいつを僕の鞄の底にある書類の束と、化粧筺へ掛けてをいたら、二つともゴムバンドが切れてゐるんだ……」
「う……む……」
おれは肩で太い息をする。
「で、ミッキーお互ひの不在中、君との通信なんだが、僕は君へ置手紙をすることは以後やめて、その代り隠し場所を拵へて置いた」
スミスは長椅子の後脚の方へ廻って、
「この左の脚をくり抜いて捩仕掛にしてをいたんだ。この中へ入れて措かうよ、それで、もし不在で置手紙をする場合は、あのカレンダーの端を少し切取ることにするから」

六、マダム・イリノア
 六月十八日
 多事多端な白堊館の様相は愈々表面化してきた。地下廊で副大統領のヘンリー・ウォレスは階段で國務次官サンナー・ウェルズのつるつる頭とすれ違った。二階の廊下ではブレーントラストのタマス・コーコランと、ベンジャミン・コーヘンにばったり出會った。ルーズヴェルトの周圍も、ローゼンマンやモーリー、フランク・フルターやトミー・コクラン、ロバート・ジャックソンなどの時代は既に過ぎ去ったかの觀がある。
 元來ルーズヴェルトは國務省の連中には重きを置かず、ブレーントラストなる身邊の特殊機關に依って、總てを處してゐるなどゝ、政界無宿の野良猫どもが姦ましく喚き立てるのだが、そのブレーントラストは頭腦から脚への推移を見せて、現在の連中は政界統制や、連絡機關たるに過ぎない觀がある。それだけルーズヴェルト陣營の基礎が強固づけられたといへるだらう。
 年少氣鋭のコーコランは、これから議會の各室を駈廻りに行くのだらうし、またコーヘンは、先輩のフランタ・フルター(聯邦最高裁判所判事)あたりへ電話で意見を叩かふといふところらしい。だが、今日はまたどうしたことだ? 日頃、朝寝坊の大統領は、夙うに起きてゐたが、但し寝床の中だ。そして、いつも午後でなければやって來ない國務長官コールデル・ハルと密談の最中である。それに國務省切っての悧巧者、バーリ次官補も一緒だ。それから南米の視察から歸ってきたブラウン少佐の顏も見える。
 この顏觸れから推すと、問題は主としてラテン・アメリカに對する善隣政策らしい。ジミな型であまり出洒張らない、だが素晴しい外交政策の術を打ってゆくハル長官である。ルーズヴェルトは物靜かなハルの言葉にじっと耳を傾けてゐる。大統領の枕邊から小卓子へかけて今朝の新聞が亂雜に散らばってゐる。その中にサンドヰッチの喰ひさしの皿や、カップが挟ったり、灰皿も食器もシガーの吸殻でいっぱいだ。
 ハルに替ってバーリーが調書の説明に移ると、ルーズヴェルトは體をよぢらせながら起上る。そして忍冬をモザイク風にしたタオル地の寝衣の前を掻合せ枕の下から鉛筆とメモを探り出す。彼は錦コブラのやうな寝衣の紐を弄ぐりながらバーリーの聡明な眸を瞠める。軈てブラウン少佐が退出すると、ルーズヴェルトを中心に、ハル、バーリーが三巴となって頭を寄せる。
 おれは例に依って肱掛椅子へ倚れてコクリコクリ居睡りを始める。但し本統に寝込んでしまってはいけないのださうだ。え? 物騒な話が……チェッ、餘計なことに聴耳を欹てたりしちゃいかんといふのに……。十一時少し廻った頃バーリーは國務省へ歸って行った。正午になると例に依って、女秘書のジャネット女史が扉を細目に開けて、
「此處でおやめになっては……」
と注意する。午後になっても、ハル長官はなだ白堊館に頑張ってゐる。折から内務長官イックス(一名石油判官)がやってくる。ははぁ、此度は石油の問題だなと感づく。
「ミッキー……」
 不意に大統領のお聲がゝりだ。薄眼を開けたおれは、狸寝入から、はっと慌てた風で立上る。
「君、これを奥へ持って行ってマダムにサインして貰ふのだ……」
 大統領は亂雜な書類の中から、一通を引抜いてよこす。マダムは今日、紅の間で、新聞、雜誌の經濟記者を集めて、やがてやってくる肉なしデーやパンなしデーを豫告し、非常時體制へ入った今後の日常物資、物價騰貴の見通しや、また代替品や、癈品回収などの諸問題について意嚮を發表する筈だが、紅の間へきて見ると、會議が了った後なのでおれは奥へ行く。マダムの日課は講演や各方面の會合、放送、視察ととても忙しいのだ。
 さて、この白堊館の古い記録に依ると大統領は官邸に於て政務を宰し、その家族も此處に棲む――と、ある通り、ルーズヴェルトの家族もこの白堊館の奥に住居してゐる。私邸は別にニューヨークのハイドパークにある。初代ワシントンはマウント・ヴァノンに私邸があったが、彼は官邸の建築中に逝去し、二代目のジョーン・アダムスが一八〇〇年に、最初に此處へ納った大統領である。當時マダム・アダムスが知人へ宛てた書信の一節として、「臺所、客間、寝室と、それぞれ灯を點けるのに一仕事でございます。 東の間は、まだ出來上らないので、洗濯物の乾場に使ったりしてをります……」と、あるが、當時の建築は一八一四年の八月二十四日、英米戰爭の際、ブランデンパークにアメリカ軍を破ったイギリス軍は、ワシントン附近に陣營をしき、中央政廰、大統領官邸、大藏省、海軍工廠其他の目抜きの建物を焼拂ったが、この時大統領官邸は壁だけ殘して全燒の厄に遭ったのを、後にヴァジェア産の石灰を以って舗装され、それから白堊館と稱ばれるやうになった。
 さて、おれは、官邸から私邸へ通じる廊下を曲って裏階段を昇って行った。すると明るい陽射しの廊下を、此方へやってくるスマートな青年がある。大統領の次男坊ジンミー・ルーズヴェルトだ。彼は今日海軍大佐の服装ではなく瀟洒なタキシードだ。
「やあ、ミッキー、相變らず膨れてるなぁ。おい、これからは非常時體制で肉なしデーがやってくるかもしれん。今に、君だってぐんぐん體量が減って好男子になりゃ、女の子に騒がれるぜ……」
「ふゝん、お生憎さま。伊達に肥ってるんぢゃあねえゃ……」
「はゝん、怒れる象なんか怖かぁないぜ」
ジンミー御曹子はどこまでも茶目だ。おれは肩を怒らしながらドシンドシン廊下を歩いてゆく。と、扉を排けると驚いた。マダムと向合ってゐるのはミス・カザリンではないか。すると、今朝、あんなに燥ゃぎ廻ってゐたスミスはどうした?
 彼は彼女とアレキサンドリア邊で行違ったか? 彼女はマダムの手前、眸で合圖をしたのでおれは知らん貌をする。
「サインは後にするわ。ミッキーもうお茶のお時間よ……」
 マダムは、その書類をよくも見ないで傍の小卓(サイドテーブル)へ載せ、黒奴の下婢へ云付てお茶の支度をさせる。おれは、ぎごちない素振で卓子へつく。カザリンが何しに此處へやってきたか解らないが、彼女も落付かぬ様子でそわそわしてゐる。マダムはまた彼女を、娘が訪ねてくれたやうに歡んでゐる。カザリンはルーズヴェルト夫妻の肖像畫へ眼をつける。
「あら小母きま、とてもよくできてよ……」
「でも、先のミレーの方がとてもあんたのお氣に入りだったぢゃないの、それから、あんたがパパと一緒にゐたお室のリンカーンの繪はまだあのまゝよ。憶出に觀てらっしゃらない……」
「えゝ、後程……」
 カザリンは氣乗りのしない返事をして、潤んだやうな眸をあげる。
「小父きま、とてもお忙しいでせう」
「えゝ、ルーズヴェルトは此頃大變忙しいの、それで週末休みにも、ハイドパークの私邸へゆきかねてますわ。それに私も毎日のやうに用事やら、訪問者やらで眼が廻りさうよ」
 おれは黒奴の下婢が運んできた珈琲も菓子もゼリーも、象が蝿を舐めたやうに、ペロリ平げてしまって濟してゐると、マダム・イリノアは新刊の書籍を貸してくれた。
「ミッキー、それ、今日のベスト・セラーよ。五十萬部賣りつくしたの……」
 それを機っかけに、おれは窓際のソファーへ移る。新刊書の表紙を見るとウィンストン・チャーチル著、米英合體論とある。チェッ、やめてくれッだ。今年六十七歳のチャーチルが、ブランデーを一瓶平げ、二十本の葉卷をふかし、五人の秘書を卓へ並べ、槌を叩いて急っついて代筆させたシロモノに違ひない。早くアメリカを参戰さすために……。
 おれは、その本をよくも見ずに窓外を眺めてゐるうちに、所嫌はず例の持前の居眠が起りかけてきた。だが習慣は怖いもので、マダムとカザリンとの會話に、聴くともなしに耳を傾けてゐた。
「それで、ホープは此頃どうして……」
「パパ、とても忙しさうよ。眞夜中の會議なんか二晩も續くと歸らないこともあるわ。それに、しょっちゅう機嫌が惡くて、碌に口も利かないこともあるし、さうかと思ふと、とても煩いほど世話を燒いたりして……」
「さう、ホープはとても微妙(デリケート)な神經の持主だから、然し彼ほど娘孝行のパパも少いわ。ほら、この白堊館にゐた時分なんか、あんたの帽子や沓下の選擇までやって氣を揉んでたぢゃないの。それもバーバラ夫人が喪くなってから、あんたが一層可愛くなったのよ。で、あんたに口も利かないこともあるって? ねえ、カザリン、あんた、どうかしたんぢゃないの。パパへ心配をかけるやうなこと……例へば結婚問題かなんか……」
「あら、小母さま」
 繊弱な彼女が、さっと頬を彩めた態がおれには見えるやうな氣がした。それにしても、大まかなマダム・イリノアがそんな繊細(デリケート)な點へ氣がつくといふことは、遉がに女性だと思った。ルーズヴェルトを今日の大政治家に仕上げた所謂女丈夫型の女性だ。
 彼女が政治向き方面へ交渉をもつようになったのは、オールバニーの知事時代、ルーズヴェルトが小兒麻痺に罹って、身體の自由を失った頃からである。彼女は夫に代って、政界のことや、黨の連絡に衛り、一個の闘士として活躍してきた。それに励まされたルーズヴェルトは、大人が小兒を克服できぬことはないと斷乎病牀を蹴って起上ったのも有名な話だ。彼のもつ政治への關心と、強靭な精神力はマダム・イリノアのそれと相俟って、遂に彼を起たせたのである。
「でも、カザリン、幾人子供や孫があっても、あんたが、もし娘だったら、あたしどんなに幸福だらうと此頃しみじみ思ふわ………」
 マダムはしんみりした聲でいふ。
「まあ嬉しい、小母さま。あたしもよ、小母さまがもしお母様だったらと……。あたし、パパと一緒にこの白堊館にお世話になってた頃が、どんなに懐しいかしれないわ……」
と、カザリンは溜息をつく。あゝ戀をしらぬ先が、彼女に取って幸福だったのだ。今、こゝで二人の女性は、互ひに理解し合った一つ悲哀のうちに融けこんでゐる。
 ホープはルーズヴェルト一家に取って因縁的なものがあったのだ。ルーズヴェルトは長男ジェームスを秘書として仕込み、大政治家として將來への希望をかけてゐたのが、ジェームスは中途から方向を轉換してしまった。そこへホープが現はれたのは不思議な運命のめぐり合せといへやう。
 呀ッ、おれの膝へはらりと紙片が落ちてきた。ミス・カザリンだ。マダムはフランス刺繍の皿敷を探しに次の室へ立ってゐた。
 私はマダムへお願ひがあってきたんだけど、今日スミスとの約束は已むを得ぬ事情のため果せなかったの、それで、明日の午前十時ユニオン驛でお待ちしてるわ。ニューヨークへドライブしませう。ぜひスミスをお誘ひしてきてください……。
 あゝさうか、彼女はスミスの問題をマダムへ打開けにやってきたに違ひない。すると、おれはとんだ邪魔をしたわけだ。おれは慌てゝチャーチルの英米合體論を返へして歸り支度をする。大統領がよこした書類といふのは、マダムへ宛てた防衛局次長の就任辭令で、彼女のサインを求めたのであった。

七、ブロードウェー
 オンタリオ街のアパートへ歸って見るとスミスはまだ戻ってゐない。いや、おれより先へ歸って、すぐ出かけたらしい。その證據に例のカレンダーの端が少し切取ってある。カーテンの隙から隣のリーハウスを覗いて見ると、窓は閉ってはゐるが油斷がならぬ。おれはスミスから教はった通り、長椅子の後脚をもたげ栓を捩ぢ開けて見る。果して一通の紙片が出てきた。
 ミッキー、僕はこれから急用があってニューヨークヘゆく。當分君と逢へぬかもしれない。と、いふのは、社の方針が遽かに變って、僕は白堊館聯盟政治記者をやめて、本社附き社會部へ勤務替えになったからだ。僕は當分ワシントンへは往けぬだらうし、ニューヨークで若し僕を見かけることはあっても知らん貌をしてほしい。
 何故なら僕へ近寄ることは君の不利を招くことにもなるし、君へまで危險を及ぼすからだ。もう一つ、僕の頭上へは某方面の緊迫の手が伸べられてゐる。
 其邊のこともあるし、だから君は、僕のためにミス・カザリンと行動を共にすることは當分避けてほしい。僕は都合に依ればこれを機會に記者をやめて、例の黒幕の仕事へ全力を打込むことになるかもしれない。いづれそのうちにこの仕事に對し君の助力を乞ふわけだが、ミッキー、君へは當分逢へぬだらう。が、そっちの出來事は細大洩らさず例の指定の場所へ通信してほしい。
 スミスの手紙を讀了すると、おれは唯、眼先が晦むやうな氣がした。仕事の變替、それからカザリンと行動を共にするな、それは、いかにもホープの打ちさうな術だ。反對黨のニュー・ナショナル紙の買収? 噫、ホープは到底スミスの敵ではない。
 六月十九日
 樂天坊のおれが、昨夜は、いひやうのない憤りにかられて、つひ、まんじりともせず夜を明かしてしまった。おれはスミスの場合を考へると、耐らないほどの怒りがこみあげてくる。だが、食慾は旺盛だ。苦惱はあっても、おれの身體機構は、正確なこと恰かも標準時計の如しで、時がくれば分秒を違はず腹が空いてくる。 何はどうあらうと、おれは、これからニューヨークへ行って、スミスへ會ふ肚を極め、電話で警察本部の顏なぢみのジョーへ代役を頼んで、さてユニオン驛へ駈けつける。昨日のカザリンとの約束があるから、その先に彼女に會ふ必要がある。が、此頃の驛の乗降客の激増はどうだ。この分では、ペンシルヴァニア鐡道會社、バルチモア・エンド・オハヨー鐡道會社の株主連の懐中が更に膨らむだらうて……。
 と、シカゴから列車が到着した。アーチ型の建物から大量の旅客が吐出されてゆく。正面の高さ七六〇呎、白色花崗岩の建築、名に負ふ國會議事堂(キャピタル)を凌ぐ、世界一の大停車場だ。彼女は? ふと驛西側の車寄せを見やると、その先に、お化粧しをしたカザリンが、ロードスターから輕やかな脚どりで跳ね降りてきた。
「ミッキー、ひとりなの?」
 彼女は清しい眸をみは(※目爭)って、おれの身邊をきょろきょろ見廻す。噫、おれは辛い。
「スミスは昨日、夙うにニューヨークへ發っちまった。彼は當分このワシントンへ來ないさうだよ」
「だって、こちらへ引越してくる筈ぢゃなかった?」
「そいつがまた、遽かに本社の方針が變っちまったんださうだ。が、詳しいことは判らない。いづれスミスからたよりがあるだらうよ……」
「何んだか變ねえ、ミッキー一體どうしたの……」
慌てゝ引返すおれを彼女は止める。
「本統のことを聴かして、スミスどうかしたんぢゃないの……」
 彼女の眸に早くも不安の陰影がさす。おれは茲ぞと一生懸命、そっけない素振をして見せる。
「何も分らない、いづれ彼に會って………」
「ミッキー、あたしも一緒にニューヨークへ行くわ……」
「いや、おれはニューヨークへなんか行けやしない、他に急用があるから……」
 おれは辛い思ひで、さっさと踵を返へす。後で彼女はどうしたか? おれも同様、スミスのことで胸が張裂けさうだ。他のことなんか考へる餘地はない。次の列車、そんなもの待って耐るか、その足でタクシーを拾ってニューヨークまで一氣に伸すことに決める。車がカーヴした途端、視界をちらと横切った奴がある。赭毛のドワイドだ。彼奴は何處へゆく? チェッ、何奴も此奴も勝手にしろッ、おれはスミスへ會ひにゆくんだ。
 ホープの手が? いや、おれの頭上へ、何處からか危險が降ってくる? それも勝手だ。ニューヨークヘ着くが早いか、おれはすぐロックフェラーセンターのニュー・ナショナル社へ電話したが、生憎スミスは不在だ。次はマンハッタンの記者クラブ、それから、記者仲間で組織してゐる政治諷刺の寸劇を演るR・C・Aクラブにもゐない。仕方がないから、暫らく其邊をぶらついて來やう。それでマンハッタンの島めぐりと出かける。 バッテリー波止場から遊覧艇(ショーボート)を買切りにして、なんのことはない。西部からぽっと出のお上り氣分を味ふわけだ。が、今日はハドソン河から眺めたニューヨークのスカイラインも何んの感激も起りはしない。結句デッキチェアで居眠りをして、潮風がひやりとする頃桟橋から揚る。すぐ電話したがスミスの居所は依然として不明だ。
 チェッだ。仕方がないからバスに揺られてブロードウェーへ向ふ。失敗った。スカイバスなんかへ乗るんぢゃなかったっけ、方圖もない怪魔のやうに聳り立った摩天閣の下を通ると、おれは今にも頭上へ落ちかゝって來さうな錯覺に襲はれる。ふと眼を瞑ると、それらの驚異的な光景も、一瞬にして何んの刺戟もない虚無的なものとなる。
 おれは四十二番街の角でバスを降りてしまった。そして目的もなしにぶらついて見る。何方を觀ても軒並に贅澤品を並べた店舗が數限りもなく櫛比し、ちょっと覗いただけもアラビヤ、ペルシャの高價な絨毯や東洋の陶器、アラスカの毛皮類、何一つ觀ても、精巧な、また洗練された世界中のあらゆる逸品を總動員した財寶、珍什で充たされてゐる。だがはてしなく觀て廻ってゐるうちに、其等の贅澤品、貴重品に對する好奇心も、刺戟も、感興もいつのまにか麻痺の症状を呈してくる。
「やぁ、ミッキー」
 不意に聲をかけられて、はっと我れにかへる。あッ、あのウイリアム・ウォルターの奴。此奴の同類赭毛のドワイドは見えない。
「ミッキーが獨りで、しかも晝日中ブロードウェーを徒歩とは珍らしいね。あのスミスはどうしたんだえ……」
 彼奴の聲は笑ってゐるけれども、眼がピカピカといやに烱って油斷のならぬ奴、おれはそんなのは大嫌ひさ。それに隣のリーハウスへ同類を潜ませてゐることを思ふと、堪らなく肚が立つ。
「ミッキー好機到れりだ。え、何處かへお供しやうぢゃないか、まあ稀にゃこのウォルターにも附合へよ……」
「ふゝん、しらねえよ……」
 いやに狎々しい奴、おれは鼻端であしらいながら、ぐんぐん歩いてゆく。が、彼奴は何處までもといふ風に煩さく随いてくる。おれは此奴を捲く方法を考へながら、織るやうな人の往還を見廻す。何處の酒場もレストランもグリルも超滿員の盛況で、突嗟に飛込む餘地もない。かうした場合、おれのやうな肥大漢はどう工夫しても逃場がない。
 えゝ、まゝよ。おれは素早く、奔流のやうに人間を吸収してゐる中へ思ひ切って飛込んでやった。このメールストロームみたいな人間の渦卷なら確かだ。この急流へ紛れこんで……いや、どうも拙いぞ。彼奴め、眼の色を變えて人込みを掻分けてるぢゃないか。
 おれは汗だくで遮二無二逃場を探して泳ぎ廻る。あッ、失敗った、あゝ、こんな處へ飛込むんぢゃなかったっけ。各賣場の間に蠢動してゐる人間の物凄い顏、顏、顏は悉く女ばかりだ。それも道理、此處はワーナー百貨店(メーカー)だ。
「ミッキー、何を購ふんだ……」
あゝ此奴が此奴が、執拗な奴。おれは腮で賣場の札を指す。沓下賣場と書いてある。
「シルクの沓下、そいつぁ素的だ。彼女への贈物(プレゼント)は沓下に限るて……」
チェッ、とんだ奴、おれは、この沓下賣場へ押寄せた物凄い女たちに、すっかり度膽を抜かれちまったんだ。ウォルターは何處までも執拗についてくる。そして漸う出口へ近寄った時、街頭の光景に二度吃驚する。ふだんでも身動きも容易でない往還が、更にその中央が雜閙する人間の渦だ。
 この鳴物入りの非常時癈物回収運動の大行進は、恐らくワシントン公園のあたりから、五キロ先の中央公園までも達してゐるらしい。それはニューヨーク社交界のマダムたちで、イギリス模倣の國防服に身を固め大きな荷車を持出し、それに回収した癈品を滿載し、幾人もで曳きながら大いに愛國精神を發揮しやうといふのだ。あゝ、何といふ頼もしい行進、おれはウォルターのことなんか忘れて、そっちへたかる。
 その癈品の類は主としてアルミニューム、ゴム、各金屬、鑛物類である。それにアルミの鍋釜、ゴム製の玩具、古新聞雜誌等、其等の一組毎に樂隊がつき、大きな星條旗を掲げた在郷軍人、ラッパを吹奏するボーイスカウト、白いシルクハットに、金ビカの軍服の膝を丸出しにし、伊達の半長靴を穿いたアメリカ名物のマジョレット、彼女は派手に指揮棒を振りながら、燦びやかな笛や太鼓のチョコレー卜兵隊を引連れて行進する。
 それに續くのは癈品で假装した戰車や装甲車、南北戰爭に使った大砲を曳出す男たち、祖先傳來の四輸馬車など、それから、わが、ラ・ガテーア、ニューヨーク市長出品のワシントン時代のランプ蔽、マサチュウセッツ州知事出品の大時計、アルミの浴槽を快走艇(ヨット)に見立てた紳士、舊いラヂオセット、チョッキのポケットへ入りきれぬほど大きな懐中時計を、繩のやうな鎖で卷いた紳士、 ガラクタ入りの木箱を抱えて、オープン自動車へ乗込んだボストン市の某檢事、絨毯のお古をセニョリタ風に體へ卷いたマダム、頭へ錫製の燭臺を帽子代りに冠り、アルミの柄杓子を二つ胸飾りにしたマダムなど。
 それから眞鍮や鐵製の寝臺、臺所用具、電氣器具、冷藏庫の部分品、ゴム製品、庭園用具、パイプ及鎖類、自動車の部分品、電線類、金屬装飾品等々――非常時呼ばりをする一方に、斯うした明朗な民族性と、享樂化された餘裕のあるのは頼もしい限りだ。
 沿道へ溢れた幾百萬の市民は、奇技な趣向を凝らした一隊が通る毎に、熱誠こめた歡呼を浴びせる。揺れる人波、帽子を振る、手を振る。氣がつくとおれも周圍と一緒に聾を涸らし、體いっぱいでどなってゐた。第五番街(フィフスアベニュー)の交叉點ではラ・ガテーヤ市長が一段高い壇上に直立して、祖國愛に燃ゆる人々へ熱情こめて挨拶する有様だ。このお祭り騒ぎの大行進は何時果るとも見透しがつかぬほどだ。 昨夜は徹宵して悶え續け、今はまた興奮して呶鳴ったり叫んだり、おれの神經は強い刺戟にすっかり疲れてしまって、夢遊病者のやうにぐったりして、この人込みから遁れやうとしてゐた。(スミススミス早く電話しやう)と、背後からウォルターの聾だ。
「ミッキー……」
おれは彼奴の執拗さに呆れてしまった。
「ミッキー、此處へ入らうよ……」
 彼奴はおれの腕を引っ張って横丁のレストランを指す。おれは先刻からひどく咽喉が渇いてゐた。まゝよ飲物でも飲んでやれ、そして他愛もなくウォルターに引込まれてしまった。どの卓子も一杯だが彼奴は素早くふたりの席を發見する。先づ冷たいコカコラで乾からびた咽喉を潤ほし、それからビールだ。大通りからくる渤騒のやうな擾めきは大分遠退いてはゐたが、おれは氣疲れに疲れて、コカコラ、ビール、ウヰスキー、ソーダとやたらに飲物を貧る。もう夜だ。ウォルターは煩さく口説いて何か聴出さうとする.
「ミツキー、スミスは何故一緒ぢゃないんだい。彼と何處かで會ふ手筈なんだらう……」
「そんなこと知るもんか……」
 おれは素氣なく云ってトイレットへ立つ。その實、スミスへ電話をかける肚なのだが、ウォルターが見張ってゐるので、到頭目的を果さずぷいとそれてしまった。が、扉を開けて歸らうとすると、だしぬけに十四五の少年が紙片を掴ませた。
「この場ですぐ讀んでください……」
 粗末な服装をした、怖ろしく眼つきの敏捷な少年だ。おれは何か逼迫した危惧を感じながら慌てゝその紙片を展いて見る。スミスの手蹟だ。おれは途端に陶が躍るのを覺えた。
 ミッキー、ウォルターに油斷しちゃいかん。赭毛のドワイドと彼奴は同一人なんだ。この少年の持参したものを受取り給へ――。
「え、ウォルターと赭毛のドワイドは同一人?」
 おれは一瞬、息が窒った。背後の少年はあたりへ眼を配りながら手渡すものを見れば、それはナントおれの弗入ではないか。おれは跳上るほど吃驚した。
 ウォルターが君からせしめたものを、この少年を使って奪り返したが、その弗入には僕へよこす書き損じのレターが入ってゐたからだが、よく注意せよ。彼奴はまだ讀んではゐない。それから僕は弗入と一緒に赭毛のドワイドに希んでゐたものを手に入れた。ミッキー、今夜、君へ頼みがある。僕のため一つ冒險をやってくれ。假令どんな危險へ臨んでも音をあげたりしてはいかん。僕がついてるからウォルターの誘ふところへ怖れずに随いて行け……。
 讀了った紙片を少年へかへしてやる。スミスがついてゐる。途端におれは大磐石のやうに強くなった。もう、何奴にも敗けはしないぞ。おれは遽かに自信がついてきた。あの弗入は隠して、ポケットからバラ錢を取出し、カウンターで支拂ひを濟して席へ戻った。
「君、さあ行かう……」
おれは威勢よくウォルターを促した。

八、七日の集合(セブン・パーテー)
 晝のお祭騒さに次ぐブロードウェーは、宛然ネオンの海だ。無数の寶玉を鏤めた燦爛たる一大王冦のやうな耀きの街、夜の空中樓閣を飾る多彩なネオンは、享樂の男女を有頂天の境地へ誘はすにはゐない。輝の海を渡る華やかな擾めき、間近に臨むエンパイア・ステートビルは天界の魔城の如く空間へ浮び、ロックフェラー・センターの摩天街は印象的な光波の中へ聳り立ってゐる。四十三丁目の角から西へ反れた處で、ウォルターはタクシーを呼止めた。 さて、彼奴は何處へゆく。おれは、これから展開されやうとする未知の冒險に、遉がに胸がドキドキする。大道からそれて車は約二丁餘、サウス商會とある宏莊な店舗の前で停った。正面の大扉は下りてゐたが、右側のくゞりは仄明るい灯の彼方へ、奥深い莊美を極めた内部が窺はれた。サウス商會といふのは貴重な贅澤品を賣る店である。
 車寄せには夜目にも輝る華麗な天鵞絨(ビロード)も服を着た、氣品のあるイギリス仕込みの若者が、優雅な態度で、後から後からと乗りつける自動車の扉を開いてゐる。奢侈に慣れた鷹揚な淑女たち、燕尾服、モーニングで取濟した紳士の群、それらの男女の賓客たちは各々眼を隠す程度の假面(マスク)をつけてゐる。
 眞紅の絨毯(カーペット)へ、華麗な光澤のある靴のステップだ。その先に、おれはウォルターが渡した假面で目を蔽ひ隠し、眞紅の絨毯へ一歩踏み出した途端にはっとした。それは北印度邊の土侯國の王子でもあらうか、年の頃は十四五、頭部には金色の飾りをしたターバンを卷き、白繻子の輝くばかりの服装をした少年である。彼は虔ましやかな黒人の從者を随へてゐるが、その美少年は眼を隠してゐるけれども、顏の輪郭といひ、先刻レストランでスミスの手紙を届けたあの汚い服装の少年に違ひなかった。
 すると、この少年がスミスの手先? だが背後の頑丈な黒人の從者は、どう見てもスミスであらう筈はない。
 深紅の絨毯は白石大理石(マーブル)の階段から地下廊へ斜めに繰展べてあった。それは輝くばかりの豪華な大擴間で、燦びやかに着飾った覆面の淑女や紳士たちが大勢集ってゐた。それらの賓客の群は東洋風の絢爛な刺繍をした衝立や、熱帯植物の青い葉蔭に夢のやうな情緒を漂はしてゐる。ウォルターとおれは彼等から離れて、扉を斜めに見渡す長椅子(ソファー)へ着いてゐた。此時、廣間の正面にタキシードの司會者が現はれ來賓に對して一場の挨拶をする。眼にマスクをあて、前額の薄禿のその紳士はもの慣れたゼスチュアで話すのであった。
「今日は始めて出席された二三の方たちもをられますので、當會の主旨をちょっといはして頂きたいと存じます。さて毎度述べることではありますが、當七日の集合(セブン・パーテー)の意義について、ある向きからは秘密宗教の結社のやうな誤解を蒙ってゐるという噂も、屡々耳にしますが、當會は單に天地を創造された神様が、七日目を祝福して安息日と決められた―― 只、それだけのことに過ぎないのでありまして、この、神の聖めの安らかな日を卜して我々は自由に、有意義に、和やかに且つ興味深く過さうといふのであります。そして當、七日の集合(セブン・パーテー)の會員は何方に限らず入會は歡迎しますが、必ず正會員の御紹介であることを第一の條件としますので……。
 今宵、御招待申上げました皆様方は既にお知合の方々なので、別に御尊名をお名乗りになられる必要もなく、和やかな雰圍氣の中に互ひに理解して頂きたく、唯、當會の規則として皆様へ假装(覆面)をお勸めしますのは、彼氏は誰? 彼女は誰? といふ風に、お互ひが輕い模索の裡に、對手を識り合ふ趣向なのであります。 と――いふわけで中には附髭の紳士もおいでゝせうし、或ひは男装の麗人また淑女に變装された殿方もゐらっしゃるでせう。そして其等のお客様の皆様方が親しいお友達でありますし、この榮ある今宵を樂しくお過し下さるやう希ふ次第であります……」
 司會者が拍手喝采裡に退くと、次の間で晩餐會が開かれる。シャンパンが抜かれ、贅澤な調理を凝らした皿の數々が配られる。司會者が云ったやうに賓客の誰もが、各々輕い假装の下に隠されたその正體を識らうと努めてゐるのが窺はれた。
 他のことはどうだっていゝ。おれはスミスの正體を早く識りたい。さうだ先刻の印度の王子だ。スミスはその近邊にゐるに違ひない。だが殆ど千を算へるこの席で、果してスミスを探し出せるだらうか? ウォルターをそれとなく窺ふと、彼奴も熱心に模索に努めてゐる。だが、彼はスミスを捜し出す以外に何か計畫があるに違ひない。彼は到頭耐えきれなくなったらしい。
「ミッキー、君は誰を探してゐるんだ」
「うゝん……」
「スミスだらう。彼は確かにこの中にゐるんだらう……」
「なら、捜し出したらいゝぢゃないか……」
と、刎ねつける。さういふうちにも彼の眼に油斷がない。宴半ばにして前額の禿げたアメリカ型の紳士がスピーチを試みる。
「今脊の話題(トピック)は米英合體の交驩にありますが、それは御存じのやうに昨今論議された問題ではなくかの鋼鐵王アンドリュー・カーネギーは、その著書(勝利のデモグラシー)中、世界の合同と平和の章に於て、英國にとって唯一可能なる道は成人したる娘(アメリカ)と合同することにある――と、述べ、 また一昨年、英帝のワシントン訪問に先立って、アメリカの一著者クラレンス・ストライトは今日こそ米英は合同すべき機會(とき)であるといひ、またイギリスに於てもミルナー卿や、セシル・ローズがあり、またアメリカの著者ステートも平和と合同について述べてゐる。斯くして米英全體の與論が遂に具體化した次第であります……」
 次はイギリス型の紳士、
「自分は此處に、わが首相チャーチルが、アメリカインデアンの古歌を引用して――ミシシッピー河の流れる如く、流るゝまゝに、流れてやまず……それが他の強引な、また壓制に依らざることをその麗はしい詩歌の一句に巧みに表現されたのであります。そして元來半米英人たる首相は、今や兩アングロサクソンの合同は誰しも阻止し得ないであらうことを、胸奥から叫ばれたのであって、 十九世紀はイギリスの世紀であったが、この二十世紀の世界が、力強く運行するためには、總力を擧げてアメリカの世紀に轉換せざるを得ない――といふ事實を痛感するのであります……」
 次はアメリカ側、
「然り、アメリカは米英合體の理念に心から感激して、協力を惜しみはしない。そして、セシル・ローズ及ミルナー卿の後繼者であるところの卿等にして、始めて實現を見るべきである。しかもカーネギーにしろ、ローズの遺言にしろ、兩者の意企には期せずして相通じるものがあった。 そしてこの兩者の提案は何れの國にもせよ、抜くこと能はぬ根據が横はってゐて、このアメリカイギリスの關係はカインとアベルの如きものにあらずして、兩アングロサクソンの合體こそはカーネギー、ローズ以來の精華の現はれであり、結實のそれであることを、自分は信じて疑はぬのである。
 次もアメリカ型の紳士、
「諸君、難しい文句はヌキにしやう。米英兩アングロサクソンは、當然合體すべき機運にある。比際イギリスの諸君、早くアメリカへ引越して來給へ。カーネギーのいふところの成人した娘は、君たちイギリスの戀人がやってくるのを半坐を割けて、待ってるぢゃないか……」
 洒脱な紳士の口吻にひとしきり喝采が起る。テーブルスピーチは妥協的な、中、老紳士から懐疑的青年層へ移ってゆく。
「すると、アメリカの特殊階級は、ロード何々とか、或ひはカウント何々とかいふ風に貴族へ列せられるのかな?」
「君、竝に捷徑(ちかみち)がある。そのカーネギー説の成人した娘の億萬長者の親たちは、ロンドン貴族の空虚(から)の金庫を充たしてやるさ……」
 此時、既に彼方の廣間に華やかな樂の音が起ってゐた。話好きな一部の人たちを殘して、喫煙室へ去る一方、彼等は各々對手(パートナー)を擁して心も空へ、輕やかなステップで廣間へ辷りこむのだった。
「チェッ、勝手にしろッ……」
 おれはスミスを發見するのが先決問題だ。ウォルターは何處へ行ったのか其邊から姿を消してゐた。おれはノッポの一徳で舞踏場の連中を頭上から見渡してやる。いや、判らない。幾百組ともしれず、目隠しをした同じやうな服装をした男と女の群だ。この中からスミスをどうして捜し出せるだらう。が、ともかくも右手の隅の方から場内を廻ってやらう。ゐる、ゐる、あの印度の王子だ。黒人の從者は後方へ虔ましやかに控えてゐる。
 おれは其處に異様な光景を見た。鷹揚に長椅子へ倚った王子へ、優しくさゝやきかけてゐる美しい女性がある。黒い眼隠しをした下から覗いた氣高い鼻、愛らしい唇、古風な羽扇のやうに捲上った金髪、ダイヤを鏤めた黒地の夜會服は、彼女の氣品を一層引立たせる。彼女の私語に、王子の唇は否定とも肯定ともつかぬ微笑に綻ぶのであったが、結局、柔やかに引かれた彼女の腕へ、身を任せて立上った。あゝ、この得體の知れぬ少年はひとかどの踊り手であることだ。
 輝やかなシャンテリアの下に、甘美な夢を追ふ男女の幾群もが、おれの鼻端を目眩るしく旋回してゆく。燦びやかなイヴニングドレス、アポロの胸像のやうに均整のとれたタキシード、白色大理石のやうに艶やかな膚、甘い、匂やかな姿態――それらの咽ぶやうな香氣が、おれの鼻端へこそばゆく觸れてゆく。
 彼等の眼を覆ふた黒いマスクは、何か奇異な、幻想的なものを想はせる。おれは唯、ボーッとした夢心地で見惚れてゐた。ふと、肘へふわりと觸れてきたものに、おれは、はっと我れに復る。意外、紅い唇がにッと微笑ひかけてるではないか? 皓い眞珠のやうな齒並の奥にダイヤがきらりと輝る。稍、赭毛だけれども豐滿な胸の邊がとても魅惑的だ。 彼女の私語は、樂の音やフロアを辷るステップに消されて、判然り聴き取れぬけれども、おれの中指を握ったから、此方も、柔やかな食指を握りかへしてやった。何だか變な話だが、おれは別に何とも思はなかった。彼女の手が不意に絡みついてきた。
(チェッ、まゝよ、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損ぢゃ)
 おれは他愛もなく、踊の旋風へ捲込まれてしまった。あの印度の王子と金髪の女は、ステップのまにまに離れてはまた近寄ってくる。それから、もう一組? 青いイヴニングとモーニングだ。男は體が巨きく、がっしりした肩幅と猪首の特徴がある。
(はてな? 此奴、どこかおれに肖てやせんかな。何か油斷のならぬ奴!)
 ふと、あのスミスの機敏な眸が警告を與へるやうにピカリと限前を掠める。それに比處は得態のしれぬ輩の巣窟ではないか。あの、王子を誘った金髪の女といひ、また、おれの對手の彼女も、男の方へ圖々しく相手を求めてきた。それから、あの猪首の男? これは、ともかくも警戒を要することだ。
 だが、さう考へる一方、彼女の思はせぶりな姿態に、おれはつひ反省もなく引込まれてゐた。おれは柄にもなく茲に告白するけれども、彼女のそれは實に壓倒的な素晴らしさがあったのだ。そして曲目が幾度となく變るうちにおれはまったく有頂天なってゐた。

九、サタンの鍵
「おいッ君、待ち給へ……」
 不意に傍でどなられて、おれは、はっと我れに復った。聲の主は、あの猪首の肩幅の廣い巨漢だが、對手はおれではない。あの印度の王子だ。猪首の男は華奢な少年の腕を捉えてゐた。
「おい、今、僕のポケットから抜取ったものを返へし給へ……」
(やったな)おれの胸は早くも警鐘の亂打だ。この敏捷な少年はまさしく掏摸のそれだ。相手の金髪の女はずっと後方へ離れてゐた。王子は鷹揚な態度で酬ひる。
「君は何をいふんだ。今の言葉をもう一遍繰返して見給へ………」
「幾度でもいふ、僕の腰のポケットから奪ったものを返へせといってるんだ」
「失禮な、君誤解しちゃいかん……」
此時、周圍の踊りの環は潮が退くやうに遠退いてゐた。
「何をッ……」
 猪首の男は、つと、躍りかゝって少年の假面を剥取ってしまった。あッ、その貌、その機敏な眼差し……おれの豫想通り、彼はスミスの手先だった。が、この儘王子は自若として顏色も變えず、若年ながら王者の威厳を示して踏止まってゐる。猪首の男は肩で太い息をした。が彼の唇は忽ち勝誇った笑みに歪んだ。
「貴様、巧く化けたな」
 彼は肩を怒らし、彼方へ腮で合圖をすると賓客の中からタキシードの青年が駈けつける。が、途端に眼隠しが外れて慌てゝかけ直す。あゝ彼奴、私立探偵社のベネット・ヒルだ。するとヒルの親方たる猪首の巨漢は探偵局長のジョン・ファレーに違ひない。さあ大變だぞ。もう駄目だ。おれの全身は冷汗でびっしょりだ。ヒルは唇を歪めて、
「局長、此奴は金ピカでおどけた變装をしてゐるけれども、やはり、少年拘摸のジョージの奴に違ひありません……」
「君たちは僕をどうしやうといふんだ……」
王子は平然たるものだ。あの黒人の從者はどうした。それからスミスも……。
ヒルがファレーに替って訊く。
「ジョージ、貴様の黒幕は一體誰だ?」
「君たちのいふことは解らん……」
「君の黒幕の名をいへ……」
 ヒルは眞向からさうきめつける。
「はゝあ、僕の身元が怪しいといふんだらう。僕は北印度のクル國王、ツァランク三世の第二子シャルヽ・タリシューナだ」
「はゝぁん、クリシューナ殿下? あのロサンゼルスへ保養にきてゐるクル王が、白皙婦人との間にできた混血兒(メステイゾオ)?」
 ヒルはファレーと顏を見合せる。逆に王子の方から尋く。
「君は、一體、何を失くしたんだ……」
「一九一九號……」
 ファレーはさう口疾って慌てゝいひ替える。
「いや、番號なんかどうだっていゝ。ロッキード自動車會社の賣上票なんだ……」
王子の耳は早い。
「君、番號は肝腎さ。僕も同様ロッキード會社の賣上票を持合せてゐる。が、番號がちょっと違ふ。一一一九號だ――」
 ファレーの目配せに、ヒルは矢庭に王子の體を捜して見る。
「僕は持ってゐない……」
 王子の眸は彼方へ注がれた。あの金髪の女?
「彼女へ預けてあるんだが……」
 王子はさういふが早いか彼女の傍へやってきた。
「大變御迷惑をおかけしました。先刻お預けした、あれをお返しして頂きたいのです」
 その先に王子の指は彼女のドレスの内かくしから、一通の紙片を抽出してゐた。ファレーは引奪って見たが、彼の表情には、明らかに失望の色が窺はれる。それに賣上票の番號も金額も王子が云った通りらしい。それからアストリアホテル百三十五號室、シャルル・クリシューナ代理、執事、エフピアボントと書いた端がちらと見られた。それは明白にファレー側の敗北だ。
 おれはほっと胸を撫で下す。そこへ、アストリアホテルへ、電話で問合せに行ったファレーのもう一人の配下が悄然と歸ってきた。王子はその賣上票を悠揚迫らざる態度でポケットへ収める。が、一方、ファレーはどうする? たとへ顏は隠されてゐても、ニューヨークで私立探偵長として名を賣った彼だ。彼は一生懸命、混亂した自己の思索を纏めやうと焦ってゐるらしい。滿場の眸を一身に集めた目前の失態をファレーはどう解決する? だが案じることはない。そこへ救ひの手が現はれたからだ。
 此時、賓客の中から進み出た男女がある。同時に數名の紳士がその周圍を取圍んでしまった。目隠しを除った中年の紳士は何處かで見覺えのある奴だ。長身の高貴な風采? 呀ッ、おれは、やっと憶ひ出した。其紳士こそは先年モルガナチック・マリッヂで全世界に艶名を謳はれた××國のアラン太公ではないか。
 現に、おれは一昨年大統領のお供をしてシカゴへ行った際、太公は特におれのデブがお氣に召されお手づから白金のタイピンを下された程である。それは、おれの役徳とでもいはふか、各國の王侯、貴人からよくかうした拝領物があるのだ。アラン太公の同伴した女性は、いはずと知れたシンクレア夫人だ。元來アラン太公は皇太子時代から明朗、快活で、冒險を好まれ、世界各國を漫遊された際など義侠的な數々の逸話を殘されてゐる。だから社交的方面からも、此場の成行を傍觀されるわけにはゆかなかったらしい。
 美しい、そして如才のない夫人は、絶對絶命(※ママ)のファレーを優しく慰めて彼方へ連れ去ってしまった。アラン太公は例の洒脱な態度で王子へ微笑ひかける。
「王子(アナクラジャー)、僕は先刻、君の處へ使ひをやったんだがね――君と同じアストリアホテルだ」
王子の眸は懐かしげに輝く。
「殿下、先年カイロで御微行の由承りましたが、つひ御拜顏の機を失してしまひました」
 あゝどこまでも大膽な少年、だが太公は對手が僞者なのに却て興味をもたれたに違ひない。
「王子(アナクラジャー)、僕と一緒にホテルへ歸らう。そして石窟殿の話でも聴かうか……」
 太公は周圍の紳士たちへ輕い會釋を殘し、王子を伴って歸還の途についた。社交に長けた太公夫妻の機智と侠氣とで此場は無事に納ったわけだ。廣間は再び華やかな舞踏場と化した。だが王子の黒人の從者はどうした? 逞しい骨格から觀ても、彼はスミスの變装でないことは確かだ。するとあの王子は僞者ではなく、スミスとは何んの關はりもないのか。それからファーレが失くしたのは果して自動車の賣上票だらうか、それから金髪の女と赭毛の女?
 おれは思はずポケットへ手をやって見る。あッ、小さなカード様のものが手にふれた。あたりへ氣を配り、掌の中へ隠して覗くと銀の星が一つ記してあって、それに一九一九の記號があるではないか。
 あゝファレーが云ひ澁ったこの番號? 彼が失くしたのは自動車の賣上票ではなく、このカードに違ひない。あッ、先刻の赭毛の女がまた私語きかけてきた。
「サタンの鍵をおもちでゐらっしゃいます?……」
 おれは默ってポケットを叩いて見せた。今、思へば、何故そんなことをしたか自分にも分らない。が、彼女の導くまゝに随いてゆく。そして絢爛な花園のやうな踊りの環を遁れ、次の間へ辷り出て、高價な深紅の絨毯を敷きつめた長い廊下を幾つか曲ると、いつか樂の音も遠退いてしまった。その邊から先はゴシック風な玻璃のランプが、處々スミレ色の光を仄かに投げかけてゐるだけで、息窒まるやうな隧道の迷路が續く。 振返って見るともう彼女の影はない。ふと角を曲ると十字路へ出た。おれは恟として立停る。日隠をした古風な僧形の男が立塞がったからだ。彼は、いきなり手を伸しておれの中指を握った。おれは突嗟に、あの赭毛の女がしたことを憶ひ出し彼の食指を握りかへしてやった。
 同時に冷水を浴びたやうな身慄ひがきた。この奇妙な挨拶は、彼等秘密結社員の暗號に違ひない。
「汝、何處より來りしぞ……」
古典な服装をした僧形の男は、恰かも幽瞑の底から韻くやうな、陰欝な声で尋く。
「カルデアからきた」
 おれの出たら目にも呆れる。だが突嗟にさう應へたのは、彼の服装がカルデアの僧に似てゐたからだ。反響はあった。
「眞なるもの、今、汝のために不開の扉開かれん……」
 あッ、愕かすない。不意に眼前の鐵の扉が開いた。おれは大手を振ってその中へ入って行った。が胸がドキッとした。閉づれば開くことなきその扉は、音もなく閉った。正面を見ると、あの公判廷の被告席のやうな處に一種のターバンを卷いた長老が坐をしめ、一段低い左右に十數名の僧が控えてゐた。彼等は何れも目隠しのマスクをしてゐるが、その背後に蛇を圖化した半旗が掲げてある。さあ大變、おれは愈々サタンの會へ臨んだらしい。僧の着席した前には五人の先着者が控えてゐる。彼等も眼にマスクをしてゐる。おれで六人目だ。 此處では見るもの聴くもの總てが謎だ。これから何か怖ろしいテスト? 否、審判が始まりはしないかといふ不安が、刻々に昂まってくる。それに背後には閉づれば開くことのない不開の扉がある。あゝ、よせばよかった。おれはどうして斯うオッチョコチョイなんだらう。こんな得體の知れぬ場所へ飛込んだのを、頻りに後悔したがもう遅い。ヘタなことをすると、それこそ生命に關はるだらう。いや、おれにはスミスがついてゐる。どんな危機に直面しても怖れるな、と彼は警告をしてゐる。長老はアラビヤ語か、ヘブライ語かで呪文のやうなものを朗讀する。
「汝等、サタンの深きところを知るや。汝等、サタンの御座は何處にありや……」
 それに對して先着の五人は異口同音に歐ふ。それは如何にも悲痛をおびた聲だ。
「榮なし、榮なしみ榮(エカホテ)アララテの聖地を去りぬ。神の檻奪はれたればなり……」
 おれは慌てゝ彼等に倣ひ、口の裡で同じやうに呟やきながら、一歩退いて胸へ手を置く。長老は嚴かに宣告する。
「我れ、サタンの名に於て、七ッの星の使徒にいふ。(だが此處には六人しかゐない)我れ汝等の過去をしる。汝等は生くる名あれど既に死したるものなり。汝等、神の御諭に依りて茲に悔ひ改め智慧の眼開きたり。我れ汝等が有つものを護りて、今や全世界に來らんとする戰禍の試練より免かれしめん……。汝等安かれ。千年の間、底なき檻に繋がれたる鎖と鍵は解き放たれたればなり。之れ神の復活なり。 幸ひなるかな、聖なるかな、他の四方の民は御前に來りて惑はされん。汝等銘記せよ。如何なる國家も、帝王も、サタンの前に來り跪拜せしめよ。斯くして彼等の上に新らしき、聖なる神の都を築かしめよ。これ昔、奪はれたる我が諸民の國、アララテの聖地を奪ひ還へさんがためなり」
 おれは惡夢から醒めたやうに我れに還って、ホザナよ、ホザナよと周圍に唱和する。だがアララテなんて地名が世界のどの邊にあるのかな? あゝ、つひ迂濶してゐるうちにホザナよ、ホザナよだ。
「サタンよ、疾く走る蛇レビヤタン、曲り紆る蛇レビヤタンをつかはし給へ……」
 呀ッ、呀ッ、呀ッ、大變なことになったぞ。(汝腹匐ひて大地の塵を喰ふべし……)あのエホバの神に叱られた蛇の姿勢で、愍れむべき六人の男等は、長老の前へ、のた打ち廻って、生命の水を浴せかけて貰ふ騒ぎだ。
 サタンの御座定まりぬ……。
長老と衆僧は諸聲を合せて歌ふ。使徒たちはその後をつける。
 荒野は潤ひ、地は愉しみ
 沙漠はよろこびて……
 蕃紅(サフラン)の花咲き燿かん
 旺んに咲き燿かん……
 小鳥は歌ひつ、野花は微笑む
 アララテの榮華を今に………
 カルメルは呼び合へ
 シャロンの美はしき野は迎へん。
 長老は嚴かにいふ。
「あゝ斯くして汝等の富と、智慧と、勢威と、尊崇と、榮光と、權力は共に限りなくあらん」
 愍れむべき六ッの生物は、ホザナと讃へ、長老の前へひれ伏して拜す。
「汝等葡萄の房を刈集めよ。葡萄は既に熟したり――。見よ、ヘルモン山に陽は傾き、ヨブの流れ水涸るゝとも、聖にして眞なる神の生命の水は絶ゆることなし……」
「ホザナよ、ホザナよ……」
「汝等銘記せよ、七日の集合(セブン・パーテー)? そは、かの大アララテの崩壊を紀念せる日なり。汝等サタンの深きこゝろを知るや。七日の集合はまた七ッの星なり、光は闇より――軈て闇黒より曉の明星輝かん…」
 長老は改めて使徒を見廻す。
「汝等の中に、その、曉の明星たる金の星を有てる者ありや?」
 六人は互ひに窺ひながら無言だ。みんなのカードは銀の星だからである。
「その金の星はアララテの王ネブカデネザルの、王位を承繼ぐべきものぞ……」
借の一人がいふ。
「正の後胤(みずゑ)はやがて参られるでせう……」
 あゝ銀の星でよかったと、おれは思はず溜息をつく。六人の使は例の記號入りの銀の星のカードを差出して長老の檢閲を受ける。傍の僧は名簿と照し合せて印綬を添えて返へしてよこす。おれはカルデアから來たから今度はアンデバスだ。
 それからバラム、サルデス、メラリ、アヒカム、レバノン等だ。をれはサタンの教義を細胞組織的に扶植するための使徒の赴任地である。はてな? 世界の何處かに、そんな地名があるのかな? おれが行って來たといふカルデアが何處か、それ自身てんで見當もつきやしない。長老は最後の訓諭を與へる。
「汝等、そのサタンの鍵もて、開けば閉づるものなく、閉づれば開くことなき門を開けよ。我れ汝等の前に開きたる門を置く。最先(いかさき)なり、最後(いかはて)なり、昔在し、今在し、後來る聖るものゝために……サタンのかく定め給ひしは正しきことなり――。
 長老の言葉はどこまでも謎であり、神秘的である。面白いのは六人の使徒は互ひに顏もしらず、口を利くことすら許されないことだ。かくて、六人の使徒らは、否おれは、閉づれば開くことのない門から、奇蹟的に解放されたのである。あゝ、ニューヨークのブロードウェーの地下に、サタンの秘密結社があらうとは? 出口は、恐らく、外部からは再び開くことのない扉であらう。(其後、白晝その邊を捜して見たけれども、遂にそれらしい扉を發見することはできなかった。)

十、クリシューナ王子
 彼方の摩天樓の一角に、恰かも曇り硝子のやうな缺けた月が懸ってゐた。おれは夜半の生温い空氣に觸れながら、夢遊病者のやうに彷徨ふてゐた。建物の一角を曲ると燦爛たるネオンの灯が焔炎と反映する。おれは、眼前へ展開されたプロードウェーの現實に、やっと我れに復った。目隠しを除った途端に立塞がった怪漢がある。失敗た。此奴、眼隠しをしてやぁがる。此奴は肘を脇腹へぴたりとつけたまゝ銃口を光らしてゐる。すぐ側を自動車が走ってるし、すぐ先が灯の街だ。
「おいッ、七ッ星のカード、あのサタンの鍵を渡してしまへ……」
怪漢は低く吠えた。そんなもの呉れてやらぁ――。だが待てよ、苟にもアメリカ元首の用心棒氏たるこのミッキーが、ホールダップにおめおめと物をせしめられたとあっては、沽券に關はるし、それこそ用心棒を棒に振らなきゃならん、此奴ぁ一體何者だ?
「おいッ、七ッ星のカード……」
「チェッ、ホールダップめ、このミッキーをしらんのかッ」
 その先に、象みたいなおれの脚は素早く此奴の横腹を蹴上げてゐた。
「貴様、おれが蹴球(フットボール)の選手だってこと識らねえんだな、脆い奴……」
十數歩ゆけば、ぱっとネオンの海だ。ブロードウェーの盛場は今が最高潮だ。おれは、いゝ氣持ちでネオンの洪水に揺れてる人波を泳ぎ廻ってゐたが、何となく頭が重い。昨日からの出來事を考へて見ると無理はない。肥大漢のおれには刺激があんまり強過ぎた。あのサウス商會の出來事だけでも耐らない氣がする。それから今のホールダップだ。 一體スミスはどうした? おれが、こんな目に遭ふのも彼がゐないからではないか。あたりの華やかな擾めきは、却っておれの心を空虚なものにする。それは突然、腹の底から揺ぶるやうな大音響が韻き渡った。チェッ脅かすない。だが、その凄まじい音響は、耳をつん裂くばかり慌ましく咆え續けてゐる。それは百萬の群狼どころの騒ぎではない。
 光の海を渡る群衆は暫し鳴りを鎮める。今時分、何んの警告? 餘韻を曳いた無氣味な音響は斷續的に吼えたてる。
 空襲! 空襲!! 空襲!!! 一人の叫びは忽ちにして萬波を喚び起した。非常時宣言、戰爭、そして空襲だ。空襲警報! 空襲警報!! アメリカは既に非常時宣言と共に、戰時體制へ入ったのだ。戰時體制と同時に空襲があるのに不思議はない。噫、對岸の火災視してゐたその戰禍が遂に頭上で炸裂したのだ。
 輝やかな享樂街は、一瞬にして、阿鼻叫喚の巷と化し、あらしを呼ぶ怒濤のそれとなって殺到した。擾立つ怒號の中に、サイレンは咆吼し續けてゐる。マンハッタンの地底から雲渙の如く湧き上って幾百千の摩天樓は、瞬時にして火焔の海の中へ倒壊し去るであらう。地上二五〇〇呎、周圍を抜く空中樓閣、エンパイア・ステートビルの頂上の灯は、恰かも人類の末期的象徴のやう。この摩天閣に巣喰ふ幾百萬の人間が、特急エレヴェターで、一分間一千呎の速力で下界へ吐出されるだらう。いや、その先に瞬時にして頭上へ倒壊する恐怖を感じるのだ。
 此時、既に、燦爛たる夜の王冠、ニューヨークの否ブロードウェーの灯の海は、眞の闇と化してゐた。唯、轟々たる海嘯(※口偏でなくサンズイ(以下同じ))の擾めき、この晦瞑の底に襲ひ來るものは、悲鳴と怒號と恐怖と混亂があるばかり、痴呆的な、狂燥的な享樂の一劃が、否あらゆる何ものも一瞬にして叩きのめし、暴虐と破壊と壊滅とが取って替り、そこにサタンの王座が君臨する。そこには地上より平和を奪ひ、人間相殺の惨劇が現出する。
 ――聖にして眞なるものよ、何時までか審かずして、地に棲むものに、我らの血の復讐をなさしめ給はぬか。富める、榮ある國土の上に、率直なる國民の上に、我等の世界の富を築かしめよ――。
 おれは今、あの謎めいた呪文の深遠な意味が、如實に解るやうな氣がした。サタンの呪咀? 否それは一種の世界制覇の宣言ではないか。その陰影には憎悪すべき敵性が潜む。鈍重なおれの腦裡をチラとサタンの陰が掠める。戰端は既に開かれたのだ。あのテニスンの――天空を蔽ふ魔の艨艟(ふね)、愈々あの恐怖が實現されたのだ。内港へ臨んだカヴァナの砲臺、ブルックリンとイースト河畔の高射砲は一齊に火蓋を切った。暗黒の大都市の上に空襲警報は危急を告げつゝ鳴りはためき、殷々たる砲聲は天空へ轟き渡り、摩天樓へ谺し、雨霰と落下する火華と破片――。
 おれは唯、無我夢中で遁れやうと焦ってゐた。一刻も速く安全地帶へ、遁れやう。救からう。目蒐すは唯それだけだ。が、氾濫する人波は大陸へ殺到した海嘯のそれだ。それは避けがたい呪咀の前に必死の足掻きを試みるものゝ心理だ。この名状しがたいメールストロームの渦は、果しなき堂々めぐりを續け、犇めき、吼り、哭き狂ひ、其等の沸騰した叫びは天を衝き、虚空を渡って反響する。
 唯、混亂と悲鳴と、砲聲にどよむ震天動地の眞唯中を、なだれの如き人波は第五番街を、四十三丁目から四十四丁目へ、地下鐵へと、暗黒を衝く怒濤の勢ひで殺到する。世界のメトロポリスの中心たるブロードウェーは今や修羅の巷であり、狂亂のそれだ。パラマウント劇場のあたりは、歡樂境かた吐出された人波が氾濫し、ナイトクラブの痴呆的なコンガ踊と、酒と、狂燥的なジャヅがそのまゝ暗黒裡にとぐろを捲き、混亂は混亂を呼び、狂燥から狂燥へ、押しかへし、寄せかへす人波は果しなく漂ふ狂亂の坩堝だ。
 さういふまも、息窒る瞬間が、恐怖の刹那が、絶えず頭上を脅かして去來する。間斷なき砲聲は谺し、サーチライトの光芒は虚空へ交叉し、大音聲は火煙を吐いて空間へ炸裂する。下界は今、逃避を阻まれ危殆に瀕し、なほ生きんと足掻く精神力を絶した人類の戰ひがあるのだ。そこに、恐怖の底に呻く人間の貪婪性がある。その一瞬が死であり、また生でもあるのだ。
 この不可抗的な暴威に直面して、消極的な、遁れがたい諦めに瞑目する、それは人類最大の惨禍へ臨んだ武装なきものゝ眞の相なのだらうか? 否、その生と死との瞬間にあって、遮二無二生きやうと藻掻(※足宛)いてゐるのが、このミッキーだ。おれは生きるために卒直に悲鳴をあげる。あッあッ、助けてくれッ、ウォッーと、動物的悲鳴をあげたその時だ。一すぢの藁でさへも、掴まふと狂ひ廻ってゐるおれの手を強く引いたものがある。それこそはまさに救ひの手だ。
 おれは、その栗鼠のやうな敏捷な手へ縋り、引かるゝまゝに其方へ泳いだ。何處までも、何處でも怒濤のやうな人波だ。否人間の海嘯だ。むくむくと海底から揺れ動いてくるあれだ。と、虚室の一角からビカッとくる。物凄い閃光と地軸を揺ぶる大音響だ。爆音、爆音、炸裂、閃光、唯、耳を聾する騒音の連續だ。これこそは、この世の終り、世界の終りだ。おゝ紳よ。おれは救ひの手へ縫って無我無中で泳いでゐた。
 怖ろしい人間の海嘯は、後から後からと果しもなく追越してくる。呼吸は喘むし、咽喉が灼けつくやうにひりひりする。足がしどろもどろだ。そして自動車へ一歩脚をかけると身動きもできなかった。が、その救ひの手が、おれを扶けて車へ乗せてくれたまでは識ってゐたが、それから先が判然りしない。喧騒な闇黒裡を行く車は激しく揺れ通してゐた。 おれが意識を回復したのは餘程後のことらしいが、眼はまだ瞑ったまゝだ。疲勞はいくらか恢復してゐたけれども、體中が叩きのめされたやうに痛い。其邊に子供等が集って何か遊戯をしてゐるらしい。が、その子供たちの言葉は恐ろしくブロークンな訛りのあるもので、支那語か印度語か判然しない。その斷片的な言葉から察すると、彼等は賭博をやってゐるらしい。
 毛布を引被らうとしたが、その端が見つからない。が、おれの寝てゐるベッドの硬さはどうだ。恰度石のやうな感じだ。そして寝返りを打った途端、がたがたときて、脚の方で、ぐらっと何か崩れる物音がした。と、吃驚して眼を開ける。あッ、枕元で新聞を讀んでるのはスミスではないか。彼はシガーを燻らしながら、おれが眼を醒ましたのを見ると眸で笑った。
「ミッキー、ベッドが柔なんだからな、そっと起きろよ、哭かなくともいゝぜ……」
 事實、おれはスミスの顏を見た途端、母親に逢った子供のやうに、ベソを掻く一歩手前だったのだ。そして何ともいひやうのないものが胸一杯溢れてくる。笑っていゝか、それとも哭いていゝか……。それにしても、此處は何んといふ汚い家だらう。今の物音は、ベッドの後脚へ繼足したパイナップルの空箱が崩れたのだ。おれはベッドから降りて、こっそり腰をかける。スミスは默って、今朝のニューヨーク・ポストを突きつける。昨夜の空襲騒ぎの眞相だ。三段抜きほどのトップニュースと思ひの外、これはまた普通欄の隅っこへ小さく片づけてあった。
 昨夜、二十三時五十二分、ニューヨーク・ボストン間の定期旅客機が通過した直後である。突如、ニュージャージー州一帶、ニューヨーク市に空襲警報が發令され、ブルックリン・イースト河、カヴァナの各高射砲が一齊に火蓋を切った。殷々たる砲聲は摩天閣に反響し、折からブロードウェーの繁華街は未曾有の混亂を呈し、夜の王座は一瞬にして阿鼻叫喚の修羅場と化し去った。 即ち騒擾の中心地はマンハッタンのバッテリー波止場から、ブロードウェー第五番街、第四十二丁目から四十五丁目に亘り、ウォール街、ロックフェラーセンター等で、中にも百二階のエンパイア・ステートビル、六十階のウールウアスビル、ブロードウェー、エクエタブルビル等々で、市の各街から消防隊、警防團が出動し、この突發的騒擾は約二時間に亘った。
 現場は宛然人間の洪水を現出し、氾濫した行人は各地下鐵へ殺到し、若干の重輕傷を出した。この空襲騒ぎの眞相は果して何か? といふと同時刻、国籍不明の二機がニューヨーク・ボストン間定期のコースを取り、しかも肉眼には見えぬ赤外光線の信號に依る地上連絡を取りたる事實は、我當局が間髪を容れず、市内某所にある敵性國スパイのアジトを襲ひしことに依って明白となりその際建物の一部に火災起りC・A團員二名は計畫的燒死を遂げたり。
 尚ほ事件の全貌は今暫らく明示し得ざるも敵性國人の操縦せる怪飛行機は、今回は偵察に止りて一發の投彈なかりしも、該機はアジト捜査の結果、その設計圖に依り消音装置なる事實を確かめ得たり――。
「ミッキー、これからは油斷はできないんだぜ……」
スミスは一言で打切ってしまったが、彼はもっと深いことを識ってゐるらしい。おれもそれ以上尋くのは業腹だから、その問題へはふれすに措かう。それよりか昨夜のサウス商會の方が興味が深い。
「スミス、昨夜、あの廣間にも何處にも君は見えなかったぢゃないか」
「だから、ミッキーはぼんやりだといふんだ、君のすぐ傍にゐたんだ」
「解んないな?」
「あのクリシューナ王子の黒人の從者だ」
「嘘だ。最初さう見當をつけたが、ありゃ違ふぞ……」
「ミッキーは表面ばかり觀てるから判らないんだ。あの怒つい肩には填物をしてたし、相貌を變えるため頬に含み綿をしたり、オブラートで眼のぐるりを細工したりしたんだが、結句、ウォルターと彼の一味の奴等に看破られちまった。彼奴め、突嗟にファレーに内通してあの騒ぎを惹起したが、王子があの一九一九の記號入りのカードを君のポケットへ入れたらう……」
「え? あの銀の星のカードか?」
「ファレーはカードを奪られたといへないものだから、一九一九の自動車の賣上番號にしちまったんだ。すると、ファレーは何故あの渦中へ飛込んできたかといふと、最初、あのカードの所有者はサタン會の會員でフェリックスといふシンシナチーの皮商人なのだが、野心家のファレーは、依頼された仕事の機會に乗じて秘密を嗅出し、あのカードを失敬して、サタンの會へ一役買って出たのがあの始末なんだ。そこで、ミッキー、フェリックスはファレーに肖てゐるし、ファレーはまたアウトラインが君にそっくりなんだぜ。無論、君の方が巨っかいけれど……」
「よせよ、いやだい、おれがファレーに肖てるなんか……」
 たが、あの猪首や怒つい肩など、昨夜から、おれ自身さう氣がついてゐたが。
「ミッキー、惡く思ふなよ、實はその相似點を利用したんだ。君にフェリックスの代役を勤めて貰ふために。さて、ファレーはあの場で完全に失敗した。王子(アナクラジャー)の賣上票は眞物だし、肝腎の一九一九のカードは君のボケットヘ移ってゐたし、だが、唯引退るやうなファレーではない。彼は確かに王子が臭いと睨んでゐたから、配下を先廻りさせて、アストリアホテルへ張込ませて置いた。僕は危險へ臨んだジョージを見ながら、その成行きを彼の機智に忖んで、單身ホテルへ取って返へし、次の準備に取りかゝってゐる處へ、アラン太公が王子を伴れて歸って來られた。
 幸ひ某國の高官が太公を待ってゐたし、もともと僞物なことを先刻御承知の太公へ、此上御迷惑をおかけするのは恐縮でもあるし、そこで我々はホテルから逃出せばいゝのだ。ジョージはシンクレア夫人の侍女に仕立て、僕は運轉手に成濟して、夫人のお迎ひにサウス商會へ、まんまとファレーの配下を出抜いてしまったんだ……」
 裏口から、ひょっこりジョージ少年が入ってきた。彼は、おれの顏を見るとニヤニヤ笑ってゐる。あの空襲騒ぎでおれが悲鳴をあげたのを思出したらしい。それからウォルターに弗入を失敬されたことも……。
「君、昨夜のサウス商會の經緯を、ミッキーへ聴かしてやれよ……」
スミスはシガーを燻らしながら話の端緒を引出す。
「王子は金髪の彼女から何を奪られたかな」
ジョージは少年らしい羞含みを見せて話す。
「スミス小父さんは、また僕を椰楡てらぁ、僕は彼女に何も奪られぁしないといってんのに……。ミッキー、自動車の賣上票は此方から預けて措いたんだよ。彼女へ無斷で……。後に金の星のカードを一緒に引出すのに都合がいゝから……」
 この手先の器容な少年は衆人環視の中であのカードを奪ひ取ったのだ。
「すると君は、アララテの王座へ坐る肚か」
おれは椰楡半分にこの大謄な少年を瞠める。傍からスミスが説明する。
「ミッキー、それは斯うだ。金髪の女の背後には、世界平和の攪亂者たる戰爭屋のアプネルが控えてるんだ。元來が陰謀家たる彼奴は、クル國ツァランタ王の第二兒で、家庭的に惠まれない混血兒のクリシューナ王子を唆かしてロサンゼルスの邸から家出をさせ、王子をまんまとアララテ王に祭りあげて、その黒幕にならうといふ大野心があるんだ。が、此方では彼奴の計畫の裏を缺いて、王子と從者とをホテルから逃がしちまったんだ。あの自動車の賣上票が眞物なわけが、これで判ったらう」
「うゝん、君が三枚の金銀のカードが必要なことも判った……」
「ミッキー、實は、あの七日の集合否サタンの會の内容を君に覗いて貰ひたかったが、最初から眞相を打明けたんでは、その潜在意識のため、君が失敗する懼れがあるからだ。
「それで、おれは、あんな冒險をやらされたんか、まったく偉い試錬だったぞ……」
「うん、あのホールダップも無論、ウォルターの一味だ」
「あッ、あの銀の星をおれはどうしたっけ」
「あれは、昨夜のうちに此方へ貰ってをいた……」
「やれやれ、それで、おれも安心した」
「だが、ミッキー、僕がアプネル以上の陰課家に見えるなんか光榮の至りだぜ。あのサタンの會なる秘密結社は、國際的に各階級層を通じて、複雑怪奇な潜勢力をもってゐて、その強靭な、巧妙な細胞組織ときたら、もはや無視することの不可能なところまできてゐるんだ。ミッキー、昨夜の空襲騒ぎだってサタンの會のある一部門の關連したことだぜ」
 スミスは、それ以上説明はしなかったが、彼は一旦、目的へ向った以上、ある域へ達しなければ、容易に眞相を洩らすやうなことはしない。だからおれも今は何も尋かずにをかう。さうした大それた計畫が彼一人の力で出來る筈もなし、なんでも彼の背後には大物が控えてるに違ひない。彼が一切を打開け得ないのは、その責任觀からきてゐることがおれにはよく判る。が、疑問がまだある。
「するとサタンの鍵(金の星)で、開かずの門をどういふ方法で叩いたんか?」
ジヨージが應える。
「僕とスミス小父さんとが最後の目的のため、再びサウス商會へ乗込んだのは午前二時半で、ミッキーをこの家へ送り込んだ後さ」
「え?」
「長老だの坊主だの煩さい奴等が引込むのを待ってたわけで、廣間ではフリーの賓客はみんな歸っちまひ、サタンの會の連中ばかりで暗中舞踏を始めるところだったよ」
スミスは微笑しながら附加える。
「互ひに愛せよ、放縦を愛せよ――といふサタンへの奉仕?だ」
次にジョージ、
「時刻がくると僕たちは、かねて見當をつけてた首腦部の密室へ眞直に突進したんだよ。廣間から左へ三ッ目の廊下を曲って更に地下室だ。スミス小父さんは黒人の從者に變装して外で見張ってたし」
「あの金髪の女は?」
と、おれが尋く。
「その直前スミス小父さんは、彼女を買牧したから世話ぁない。首腦者たちは案外熱心に王子を歡迎してくれたよ。緑の罪の裡はやはり緑色で、室内の調度一切がゴシック風な燈火まで紳秘的な緑色さ――」
ジョージ少年の觀察はなかなか細かい。
「彼等は空襲騒ぎの實現で祝杯をあげてる最中ときてゐる。そこがスミス小父さんの狙ひどころでもあったし、みんな黒いマスクで目隠しをしてたが、デコボコ頭のやつは、サウス商會の主人アナコンダ・ブルマンに違ひない。彼奴は至極鄭重な口吻で、王子へいひきかせたよ。アメリカ、イギリスの何れへも頼らぬこと、サタンの結社を絶對に信頼すること、世界の國々の不幸な王侯は、みんなサタンの結社へ縫ることなんか話した後で、火急に救ひを求めるやうな場合は、世界の如何なる土地でもこの秘密結社を利用すること。 それから、王子(アナクラジャー)は近い將來、最高の秘印の御座(みくら)が約束されてます――と、ブルマンの奴、まじめで祝福してくれたよ……」
 ジョージは、それからサタンの會で教はってきた合言葉を話したり、神歌を歌ったりしながら、おれの寝た硬いベッドへころり横になってしまった。彼は空腹なのだ。
「ニーナ、おいしいものができたら貰はふか……」
 スミスは裏口の方へ聲をかける。裏の積煉瓦の蔭から甘さうな燒ものゝ臭ひがしてゐた。その途端におれもひどく腹が空いてきた。ニーナといふのはジョージ少年の母親らしい。ニグロだけれども、しとやかで品のよい女性だ。此邊はニューヨーク西部地區の貧民窟で、特にこのハーレムの一割はニグロの住居として知られ、盲窓や陋屋のごたごたした赤煉瓦の建物で、彼等が棲み荒したその一つだ。
 ニーナが拵らへた燒パンや、ピーナッツ入りのチーズはとても美味い。おれは昨日からの冒險で非常に腹が空いてたし、目前へ並べた食物を唯だがつがつと貪り喰った。
「ミッキー、まだどっさり拵へてあるぜ」
 スミスは珈琲を啜りながら、大喰ひのおれを笑ってゐる。ジョージは食事を了ると外へ跳出して、ニグロの少年たちを集め、別人のやうなぞんざいな言葉で、暴っぽい遊戯に興じてゐた。スミスはこの運命の兒(チャイルド・オブ・デスチニー)たるジョージと、その母ニーナについて話した。彼女は他のニグロの若い女性同様その白人の主人のため蹂躙された結果が、この悲劇なのだが、この國の鐵則として一滴の黒人の血が混っても混血兒(メステイゾオ)として、運命の枠の中へ箝込まれ、死後までもジム・クロームの墓地へ葬られるのだ。 その運命の兒(チャイルド・オブ・デスチニー)たるジョージは、ニグロの腕白少年を集めて骰子賭博(クラップス)に餘念がない。この怜悧で手先の器容な少年…掏摸は、母の涙に動かされて、悔ひ改めたのださうだ。
「然るに彼の缺點を自己の目的のため利用するのは、決していゝことではない。だが、その結果に於て、社會は彼へ送る絶大な讃辭を惜しまぬだらうし、また僕は、自分の弟としてあくまでも彼の將來を看てやる肚だ……」
 スミスは卒直にさう語った。ジョージは骰子賭博(クラップス)をやめて屋内へ入ってきた。彼の眸は尨大なおれへ注がれてゐた。
「ミッキー、ボール投げして遊ばない?」
 さういふ運命の兒の貌に少年らしい明るさが彈りきってゐた。此奴、おれが蹴球の選手だってこと識らねえな……。
「うゝん。やるとも……」
 おれは、重い圖體をやっこらさと起して、バナナの皮や、木屑の撒らばった裏長屋を跳出し、中央公園の方へ駈けてゆく少年の後を追ふた。

十一、デラウェア莊
 七月八日
 スミスがワシントンを去って以來、おれはまったく、別個の世界へ生れ替ったやうな寂寥を感じるやうになった。いやスミスは現にニューヨークにゐるのだけれども、何かかう永久に逢へぬやうな氣もする。それに三十五貫以下には絶對に減らないと大見得を切ったおれの體量も、めっきり減ったやうに感じる。だが、欝ぎこんでる場合ではない、やるべきことは多々ある。
 スミスが政治記者を左様なら(アヂュー)した代りに此方の出來事は細大洩らさず彼へ報告しなければならぬし非常時宣言、あの空襲騒ぎ、サタンの會、それから獨潜行艇のアメリカ巡洋艦ウイリントン號轟沈事件等々、今やアメリカの参戰は時の問題でしかない。そこでこの不肖デブのミッキーも祖國のため振ひ起たざるを得ないではないか。スミスもニューヨークで火の出るやうな活躍を續けてるに違ひない。
 隣のリーハウスにゐる赭毛のドワイド否ウォルターは.あれから一度も姿を見せないが、屹度スミスを附廻してゐることだらう。七月の聾をきくとワシントンの並樹道もめっきりと暑さが烈しくなった。ちょっと散歩に出かけてもデブのおれは、全身汗でびっしょりだ。それにスミスがゐないのは耐らなく寂しい。それから變ったことゝいへば、おれの身邊にも變化がきた。
 あのニューヨーク行きで二日間白堊館を留守にして(警察本部から顏なじみのジョンストンを代りに頼んだが)出勤して見ると驚いた。ルーズヴェルトの傍に代りの用心棒が控えてるぢゃないか。まあ、其奴の面ぁ見るがいゝ。ゴリラ? いや、キングコングそっくりの奴? 體中毛むくぢゃらで、此奴に人間の言葉が通じるのは不思議なくらいだ。
 そこで、自分の不在中に此奴が入替ったといふ事實は、取りも直さずおれの失職を意味する。さう考へるのが當然だらう。だから、お人よしで、樂天坊のおれも少々旋じ曲りにならざるを得んわけだらう。さあ、おれは氣が短いんだ。それは誰、かれといふよりは、ルーズヴェルト自身へ、直接尋いて見るに限る。午前中例に依って來訪者で寸暇もなかったが、午後、國務省のハル長官が歸った後、キングコングも姿が見えない。
(閣下、僕はクビなんですか)
 尖り聲で、さう衝っかってゆかうとした途端、ルーズヴェルトはシガーを燻らしながら、肘掛椅子を心持ち此方へ向けた。
「ミッキー、君へいはうと思ってゐたが、あのゴリラ君は、君の相棒だから、そのつもりで可愛がってやるさ。はッはッは、ゴリラと象と何方が強いかな? いや、ミッキー、今に虎や熊君もやってくるかもしれん。僕もこれから愈々多事多端になるからのう……」
ととても御機嫌だ。で、おれも、いきり立ってゐたのが、すっかり張合抜けがしてペシャンコになってしまった。だが、あのキングコング先生、どうも蟲が好かぬ奴、それに大統領の筆法でゆけば、相剋的なものを張合せて、統御してゆくのが御自慢なんだから困りものだ。
 八月三日
 わがルーズヴェルト大統領は海と船がお好き、随って重要なことは洋上會談に限る。で、此度のルーズヴェルト、英首相チャーチルとの會談も、大洋上のニューフォンドランド沖で行はれた。その際おれはお供の光榮に浴したが、キングコングは白堊館でぼやいでゐた。え? 會談の内容? そんなこと識るもんか。例に依って、おれは居眠りや、狸寝入りばかりしてたんだから、判りっこはない。それよか近頃のニュースを見れば早判りさ。でその會談の骨休めとあって、この週末休暇(ウイークエンド)を利用して大統領は閣僚を引伴れデュポン家の別邸、デラウェア莊へ招待された。
 抑もデュポン家といふのは、アメリカの所謂經濟貴族といはれる億萬長者のモルガン・ロックフェラー、アスター、ヴァンダァヴィルト、グリーン、カーネギー、シュワルプ、マッコーミック、メロン、ヴィンセント、セリグアン家、フォードの諸家と共に長者番附の最高位を占めてゐる家柄である。
 ルーズヴェルト大統領と當デラウェア莊の主人ヘンリー・デュポンとは、親友の間柄だ。この王者さながらの邸宅の門は、カザリン大帝の宮殿から移したものといはれ、もう一つはウイムブレドン莊園から移したさうだ。屋敷内には地下庭園があって、これはヴェルサイユとシェーヴランの棋倣で、世界中の最も莊美なものゝ一つださうな。このデュポン一族の官殿のやうな邸宅には、有名なヨーロッパの城や、宮殿から、そっくり移されたものが多いといはれてゐる。
 ルーズヴェルト大統領の一行は、世界の珍什、財寶で飾られた豪奢な水晶の間へ通された。陸軍長官イッグス、資源生産局長のネルソン、秘書のウィリアム・ハゼット、それからかくいふミッキーに相棒のキングコングの奴。だが週末体暇どころか、例に依って精力家のルーズヴェルトに取っては此處もまた白堊館の延長でしかない。大統領の微行を早くも嗅ぎつけた連中が、後から後からと乗込んでくる始末だ。 が、彼等の顏ぶれをざっと見渡しただけで、各々の用件が判るやうな氣がする。いつも來訪者を向ふへ廻して適材適所に交渉の術を打ってゆくルーズヴェルトは、まったく天才的な政治家といはざるを得ない。が、今日のは大統領自ら關與するやうな問題ではない。けれども各々角度の異った之等の來訪者たちが、一堂に會して腹藏なく語り合ふことなんか到底不可能だ。今、彼等が持寄った各々の機密は、やはり部分的に始末してゆかねばなるまい。 それには、このデラウェア莊の諸々の設備が、賓客同志が鉢合せをしたり、氣拙い思ひをしないやうに都合よく出來てゐる。宏い邸内には召使ひが大勢ゐて、逗留客でなくともその從者に至るまで各々に休息の室をあてがってくれる。
 主人のヘンリー・デュポン夫妻が出て豪華な午餐を濟した後は、各々、莊内の散策や、音樂室、骨董室、圖書室、畫廊、水泳プール、浴場、ヨット遊び、ゴルフ、テニス、撞球など思ひのまゝの娯樂場が提供されてゐることだ。喫煙室へ殘ったのはルーズヴェルトと軍需資源生産局長のネルソン、それからこのミッキー。 來訪者は武器商人否戰爭屋アプネルの代理人ヘミングだ。彼が提供したのは、最新科學兵器と銘打った、無電装置の爆撃機に要するテレヴィの照準器である。それはドイツの科學者レマルク・シュミット博士の發明にかゝるもので、設計圖の價格がナント二十萬弗だ。
「それは製作者自身の賣込みかね」
ネルソンがきく。
「或る方面から廻つてきたもので、ナチは貧乏國だから、自國へ提供するのはなんの利益にもならんし………そんなわけで、その……」
ヘミングは曖昧に言葉を濁してしまふ。
「今日は、生憎、その方面の専門家が來んものだから……」
 ネルソンはあまり氣乗りのしない様子だ。對岸の戰火へ向って非常時宣言はしても、目前へ並べた新鋭武器へ、おいそれと手を延すやうなアメリカではない。悠揚逼らぎる態度こそ實に頼もしい限りだ。ネルソンは、その設計圖を押返へしていふ。
「それからアプネルへ云ってくれ給へ。彼が仲介の勞を取ってくれたH・E・G鋼鐵(スチール)會社の資材がいけないと當局から駄目がでたんだがね。なんでも一隻の××艦について、四百噸の氣泡入りの不合格鋼板を發見したさうだ――」
 だがアプネルの番頭たるヘミングは平氣だ。次の會見は、元下院議員のチャーリー・ウエストだ。彼のは高性能強力の新火藥R・D・Tの處方賣込みだ。發明者はデトロイド市の無名青年とある。そこへ陸軍長官のイッグスがやってきたので、ウエストは口を喋んでしまった。金箔付きの政商ウエストに取ってイッグスは苦手であった。
 ヘミングとウエストが立去った後へアーレン・クーデルトが入替った。彼は元來、獨系のイギリス人なのだが、アメリカに永年定住して、殆ど半米人だけれど、果してアメリカ人として受國者であるかどうかは保證の限りでない。彼は先年、某國政府の秘密法律顧問をしたことがあって、數千萬弗の預金を世界各都市の銀行へ、分散貯蓄してゐるといふ抜目のない人物である。彼もやはり火藥の賣込みだ。發明者はイギリスのノルデンフェルドの火藥工場の職工ゼームス・メリックとある。ネルソンがいふ。
「そりゃ、クーデルト君、こっちへ廻すよりはイギリス政府へ提供すゃるのが本統ぢやないかね.幸ひ今日はロンドンから來られた軍需相のビーヴァ・ブルック卿も此處へ見えられてるし……」
「ところが發明者のメリックはアメリカ政府に限るといってますし、つまりマネーの點でせうなあ……」
 と、クーデルトは嘯く。これで武器の賣込みは、ヘミングのテレヴィ標準器を始め、ウエスト、次のクーデルトも火藥だ。さて四番目の提出する武器は何か? 果してどの武器が採用されるか? おれは些か興味の眼で觀てゐると、そこへ現はれたのは自稱科學技術者のチェッコ人、ジェック・フリースとある。但し四件のうちで、技術者自身が顏を現はしたのは彼だけだ。が、單身やってきた彼は實に有力な紹介状を持参した。
 それは元、巴里駐剳のアメリカ大使ウイリヤム・プリッドからである。今迄の交渉はネルソンへ任せて、悠然とシガーを燻らしてゐたルーズヴェルトは、フリースの提出した武器そのものよりは、巴里陥落後のプリッドの安否を先づ知りたかったのだ。元來プリッドはミズリー州の牧師の子で、少年時代から、白手套を穿き、服装にも議禮にも寸分の隙がなく、その上彼は怜悧で明朗で、アメリカ外交官中でも彼は特にルーズヴェルトの寵兒だった。大統領は、白堊館の二階の寝室で、就寝前巴里からはるばる電波へ乗ったプリッドの、グッド・ナイトの聲を聴かなくては寝つきがよくないとさへいはれたのが、巴里陥落後そのプリッドの消息がばったり途絶えてしまったのだ。
「フリース君、君がブリッドに會った最後の日は何日かね?」
ルーズヴェルトは第一にそれを聴かうとした。
「巴里陥落の數日前に、この紹介状を頂きましたが、プリッド大使は瑞西へ避難されたのは事實ですし、其後の噂に依っても御無事なことは想像されますが……」
 科學技術者といふよりは、むしろ勞働者型のフリースである。彼はアメリカの元首をまともに瞠めながらさう應える。彼が提出したのはやはり火藥で、五倍強炸裂の高性能を有するといふ自信たっぷりのB・A・Kだ。ネルソンはいふ。
「だがフリース君、君の發明がもう少し早かったら、祖國チェッコは或ひは解體せずに濟んだのぢゃないかな……」
「ところが、御存じの通り、チェッコは武器工場に依って榮えた國でした。首都プラーグには大飛行機製作所が幾ヶ所もあり、ブルノーには宏大な兵器廠が、大スコダはビルゼンに重砲、戰車の工場をもち、ポロヴェックには科學試驗工場がありました。然し、何んとした皮肉でせう。それらの兵器は、弱小國チェッコを防備するものではなく、大量生産の殆ど全部が海外へ販路を求めてゐたわけですから……」
 さういふフリースの口邊に不逞な嗤ひが翳ってゐた。
「スコダ兵器會社の毒ガスも有名だが、あッ、君はスコダにゐたんだね……」
ネルソンの眸は火藥の處方から、フリースの貌へ注がれた。
「それでチェッコの解體後のスコダは?」
「スコダの一切をあげてフランスのシュナイダーへ併合しました」
「フランスの陥落後は?」
「その先に密かにイギリスのヴィッカースへ移りました……」
「それがドイツの爆撃の厄に遭ったらう」
「それを見越して夙くにその主力は他へ併合しました」
「その主力は何處へ移ったのかね?」
ネルソンの追求も急だ。
「最新式の主要武器のパテントは、密かにオランダへ提供され、それからスエーデンへ移って次にヴィッセース・テルニとクルップへ提供されました」
「と――いふと?」
ネルソツが行詰ると傍からルーズヴェルトがいふ。
「そりゃ君、ヴィッセース・テルニはイタリア、クルップはドイツぢゃないか……」
 主客の問答はそこで一段落を告げたので、おれは、やれやれと重荷を下した氣持ちになる。
「採否は、いづれ専門家立會の上で決めるとして、この處方は一應そちらで預ってゝくれ給へ」
フリースが、のっそりと喫煙室を出てゆく。おれは彼の背姿を見送って窓邊へ立ったまゝ王宮のやうな庭園を飽かず眺める。そこへ、イギリス軍需相のピーヴァ・ブルック卿がやってくる。そこで圖らずもイッグス陸軍長官との間に火藥發明の元祖が問題になる。ブルック卿はロージア・ベーコンだといふし、イッグスはドイツのベルトルト・シュワルツが先だと主張する。ベーコンは哲學者であり同時に自然科學者であり錬金術師としても有名だ。シュワルツの方は僧侶だ。さて火藥發明の元祖はベーコンかシュワルツか? そこへ秘書のウイリヤム・ハゼットがきたのを機っかけにおれは、ふらりと喫煙室を出る。そして庭園へ下りて、彼方の野外劇場の方へ歩いて行った。
 が、スタヂオのあたりを見渡した途端、おれははっと立停った。彼方の太い石柱の蔭からチラリ見えたのは相棒のキングコングの奴、いや、彼奴だけなら何んでもないのだが、傍の石段にかけてるのがウォルターだ。それから半面を少し覗けてるのが、戰爭屋アプネルの番頭ヘミングだ。
 さては怪しいぞ? 彼奴ら何か謀らんでゐらに違ひない。だが、密謀を立聴くなんか、いかにも業腹だし、第一このミッキーの面子にかゝはる。チェッ、どうなと勝手にしろだ。おれは彼奴らへ尻を向けてすたこら歩き出した。

十二、火藥の陰謀
 あゝ、何んといふ壯觀! このデュポン邸内にあるすべてのものが、何一つ見ても驚異に値するものばかりだ。デラウェア河畔の涯しれぬ宏大な土地は周到に手入され、その中に硝子覆ひの熱帶植物園があり、柑橘類や、年中を通じて獲れる熱帶果樹園もある。邸内には幾百ともしれぬほどの室があるし、大勢の召使ひがゐる。そして當家の家族と賓客と、その伴廻り、接待役などの使用にあてるために七百二十五の浴室があることだ。その浴室は來賓の紳士、淑女たち、そして邸内の運轉手、飛行士、技師、小間使、家僕などすべてに備えたものである。
 それからこの莊内で眼を驚かすものは一萬のパイプをもつオルガンである。その室はこの装置をするために特別に構造されてゐる。樂器の附添人は、先のアントワープ大伽藍のオルガン手ファーミンスウイネンである。オルガンの下には七十馬力の大きな送風器があって、そのために特別の動力線が引込んであるさうだ。
 それからシェンナの旌旗の懸けてある大食堂、シャトウ・ヅュ・ユジールから移した宏大なゴシック風の爐棚、十六世紀の食事用大テーブル、フランダースの毛氈、十七世紀スペインの燭臺、イギリス往古の銀製の器具、五十七萬弗に値するゴブラン綴錦、甲冑の蒐集、それから大僧正リシリリュウの使用した寝臺。
 ふと、回廊を隔てた彼方を見ると、途端に視界を横切ったものがある。呀ッ、あの自稱チェッコ人のジェック・フリース? それに訝しいことには、今迄、彼と何か密議でもしてゐたらしい中年の給仕が、同時に傍の室へ素早く姿を消したことだ。あゝ、何んて蟲の好かん奴等なんだ。おれはそのまゝ天井の高いゴシック風の圖書室へ入る。と、夥しい書籍の數と種類とに、吃驚しながら背文字を見て廻る。そのうちに、ふと「火藥の陰謀」といふ文字が眼につく。何か好奇心が動いてそれを抽出して展いて見ると、奇抜な挿繪がついてゐた。
 その挿繪はイギリスのジェームス一世が講會に臨んである光景で、彼を取巷く老臣たちが古典的な服装で居流れてゐる。すると惡漢ガイが地下室へ忍込んで、火藥の樽へ點火しやうとして、火繩を持って待構えてるのだ。この計畫を發見したのは守衛で、彼の背後には天使がゐる。そしてこの守衛に依って議會開會直前にガイの惡計が露顕するといふ頗る示唆的な挿畫だ。 それは一六〇五年十一月五日、ジェームス一世と、議會を爆破しやうとしたカトリック数徒の大陰謀事件である。オフセット極彩色の奇抜な畫風が面白く感じたが、その挿畫がはらりと落ちてきたので、おれは何んといふことなしにその畫をポケットへ納めて圖書室を出た。そして甲冑室の廊下へさしかゝると、ウォルターの奴とばったり出會った。
「ミッキー先刻から捜してたんだ、君に少し頼みたいことがある……」
「判ってるよ。君の用事ならどうせろくな」
 おれはすぐ踵を返へさうとすると、ウォルターは執拗くついてくる。そして先廻りしてこの肥大漢のおれを窓際へ押しつけてしまった。
「ミッキー、君に限ることなんだ。何んにもいはずに五萬弗の報酬をやらう。實は、あの自稱チェッコ人、ジェック・フリースの有ってる五倍強炸裂火藥B・A・Kの處方を奪って欲しいんだ……」
「そんなの他の奴にやらせろよ……」
「まあ默ってきけよ。第一祖國のためだ。あのフリースの奴、チェッコ人の假面なんか被りやぁがって、その實ゲルマン同盟の第五列なんだぜ、おいミッキー、諾といへったら、君の年俸は五千弗だらう。それがどうだ唯あの處方を奪ってくれさへすれば五萬弗の報酬が貰へるんだぜ……」
 あゝ此奴、とんでもない奴、弗の力を以て、このミッキーの純潔の血を紊さうてんだな。(クソクラヘ)おれはさう怒鳴り返さうとしたが、まてよ、この時、思ひついたのが、先刻野外劇場でアプネルの番頭ヘミングと、此奴がキングコングを捉まえての密議だ。キングコングの奴め、おれ以上のいゝ仕事にありついたに違ひない。よし、面白いやって見せやう。どうせ事がグレハマにゆけば報酬なんか出しっこはないんだし。しめしめだ。ウォルターのやつ有頂天で跳んで行った。
 ルーズヴェルト大統領は海と船がお好きと仰有る――。だが今日は忙しくて、快走艇(ヨット)を愉しむ餘裕がないので、プールの水泳で氣分を出さうといふ趣向だ。邸内にはさまざまな創意を凝らしたプールが、幾つもあるのだが、中老大老連中には炎天下のプールは刺戟が強烈とあって、屋内プールで海の氣分を満喫しやうといふ嬉しい趣向である。 みんなの顏を見渡したところ、眞から喜々として愉しさうなのは何んといっても、ルーズヴェルト御大、それから閣僚の面々、それにブルック卿、他の輩は各々肚に魂膽があるので、眼つきからして油斷がない。さあ何んだか面白くなってきたぞ。
 そこで、各々、あてがはれた室へ入って水泳着に着替え、ケープを被って、イタリア大理石の廊下をプールへゆく。廣いプールの内側は銀色と緑を基調とし、それに天井から奇異な照明を浴せ、プールから上の壁面は、海底を覗いた感じを與へるのだが、大統領は至極滿悦の態で、例の百萬弗の微笑の連發だ。續いてブルック卿、それからイックスとネルソンは魚のやうにプールへ跳びこんでゆく。クーデルト、ウエスト、ヘミングは互ひにそっぽを向いて、やけに潜り込む。
 秘書のハゼットは廣間の方にひとり殘ってゐるのだが、キングコングめは、此時とばかり與へられた工作に取りかゝってゐるらしい。おれは水着を着たまゝ、廊下からプールの間を行きつ戻りつ、うろうろする。
「ミッキー、早く入らんか素的だぞ……」
「えゝ、そのうタオルが……」
 大統領はひとり御機嫌だ。あゝ、人間は陰謀家でありたくないものだ。おれ自身、肚にわだかまりがあるので、作り笑ひをしても朗かな笑聲が出てこないし、體中が硬ばってくる。來た、來た、キングコングめ、與へられた義務? を果してきたところだ。おれは彼奴がプールへ跳込むのを見究めてから、すたこら廊下を駈出す。十五分後には豫定の冒險?を果して慌てゝ戻ってくる。そして、こっそり隣のプールへ跳込んで、ほっと太息をする。そこへ濡鼠になったヘミングとクーデルトがやってくる。そしてばちゃばちゃさせながら海豚みたいに泳ぎ出す。
 おれは彼奴等をじっと睨み据えてやる。と、ルーズヴェルトは隣のプールから一と潜りしてひょっこり顏を出す。そして壁畫にあっと眼をみは(※目爭)る。その壁畫はナント棕櫚の樹から猿がぶら下り、俗惡華美な紅鶴や、欠伸をしてゐるおどけた鰐などが、極彩色で描いてある。プールの水層面は桃色で、黒と金色の縁が取ってある。
「はッはッは、これは、まさにミッキー好みのプールだわい……」
 大統領はどこまでも御機嫌だ。おれはもう一遍、ほっと太息をつく。それから各々の浴室へ入る。黒と白との大理石の床、硬玉の天井、浴槽の縁から上は黒硝子の額縁に箝った鏡だ。湯槽は床よりも低く、プールにも使用することが可能だ。それに體操用具の設備もあるし、扉の蝶番ひ、把手(ハンドル)、水道の蛇口など悉く純金だ。天井からは石英燈が仄かな光線を投げかけ、スヰッチを押せば、いろいろな好みの照明に變る。
 おれは思ふ存分薔薇の香を嗅ぎながら、ロマンチックな氣分を滿喫し微温湯に浸り、心から恍惚境(エクスタシー)の三昧に耽ってゐると、不意に扉をノックする奴がある。チェッ、犬に喰はれてしまへだ。ウォルターめッ、だが、ノックは愈々激しくなるばかりだ。
「誰だッ?」
扉を引いた途端、呀ッ? 意外、血相變えたスミスの顏だ。
「おいッ、どうした?」
「しッ……」
おれは無中で靴を穿いたまゝスミスを、浴槽内へ引摺りこんでしまった。慌てたスミスと素裸體のおれとが浴槽内での密談は、まさに珍風景だったに違ひない。が、今は一刻を爭ふ場合だ。
「ぢゃミッキーこの重大使命を屹度果してくれよ……」
「おれを信用しろッ」
「ぢゃ、しっかり頼んだ……」
おれは前室の脱衣所から廊下を窺ひながら、スミスを送り出してやると、全身汗みづくのまゝ慌てゝ服をつける。それから長い長い廊下を大股に飛んで、黄金の間へ駈けつけると控室で秘書のハゼットが、眞紅に興奮して電話へしがみついてゐた。ハゼットとおれは期せずして金色の大時計を見る。十五時五分だ。彼はガチャリ受話器を置くと廊下へ轉げ出てきた。
「ミッキー、早く、大統領は急に白堊館へ御歸還だ。君はよく護衛申上てきれッ」
 いふが早いかハゼットは脱兎のやうに駈出した。おれも息を切らして彼へ續く。
(國務省ハル長官からの電話、分秒を爭ふ一大事出來)ルーズヴェルトは上衣を着けるまもなく、庭園へ廻された自動車で莊内の飛行場へ、十五分後、大統領は落着拂ってクリッパー機へ納ってゐた。背後にはミッキーが控える。後から駈けつけたビーヴァ・ブルック卿を、大統領は例の百萬弗の微笑で、隣席へ迎へる。おれの隣は秘書のハゼットだ。 機が既に離陸せんとする刹那、キングコングを先頭に、印度神話の韋駄天(スカンダ)みたいに、ヘミングにウォルター、ウエスト、クーデルトの順で駈けつけるが、あっ遅かりし、彼等をおいてけぼりにして機は既に滑走し始め、ぐんと彈んだボールのやうに空間へ泛上った。ざまぁ見ろッ、おれの膨れた胸は一時にすっきりする。 王宮さながらのデュポン邸を繞る緑苑、花園、こんもりした森の像、劃然たる道路、その中に銀色の帶のやうに繰展べられたデラウェア河の流れ、それらが手に取るやうに眼下に展開する。おれは胸をどきどきさせて腕時計を覗く。十五時三十分だ。觀念の眼を瞑った瞬間、ぴかッ――と、眼を射た白光、續いてドカンといふ振動がおれの出ッ腹を突上げるやうに揺ぶる。
 體中は警鐘の亂打だ。次に下界に突發した異變が、いやでも眼の中へ飛込んでくる。沖天高く盛上った黒煙の頂點で、針のやうな火焔が飛交ひ、何かの物體が飛散する。後には唯濛々たる噴煙が、積亂雲のやうに視界を蔽ひつくしてゐた。
十五時三十分?
 それは恰度、デュポン家が、ルーズヴェルト大統領一行のために用意したお茶の時間で、爆破の厄に遭ったのは、前苑に面したテイルームの一劃なのだ。意外な下界の凶變に、ビーヴァ・ブルック卿は深く眉を顰める。ルーズヴェルトは秘書のハゼットを顧みていふ。
「あれは、今日の賣込火藥中での逸品らしいのゥ……」
「閣下、この結果ではネルソン、イックス兩長官の手配も、遂に水泡に歸したと觀るべきでせう。犯人の自稱チェッコ人フリース自身も、事前に露顕したので、或ひは爆死したんではないでせうか」
 ハゼットの顏も曇ってゐた。おれの目先に映ったのは、あの中年の給仕長の顏だ。あゝ危ねえ、危ねえ、スミスがニューヨークから駈けつけてくれなかったら、大統領始め、おれの圖體も粉微塵に吹飛んでゐたに違ひない。それにしても豪華なプテングや、香りの高いマンゴースチン、氷山の缺片みたいなのが入った冷たい飲料を、フイにしたのは如何にも惜しい。その替り面白いことがあるぞ。
 先づヘミングはウォルターを使っておれに問題のチェッコ人ジェック・フリースの、五倍強炸裂火藥B・A・Kの處方を偸ませ、(無論おれは實行しない)次にキングコングを使ってウエストが提供したR・D・Tをせしめた。そいつをおれは更にヘミングから捲上げ、その替りにヘミング自身が持込んだテレヴィ標準機の設計圖を返してやった。そんな子供騙しの科學兵器なんか、おかしくてだ。
 次にクーデルトとウエストの火藥を取替えっこをして置いたし前大戰でイギリスの使ひ殘りのペンスライトの氣の抜けたやつだ。この花火火藥の効果を識るものは、やはり火藥の提供者に限るからだ。
 これで愛國者の假面を被った三人三様の計畫が、フイになったのは何んともお氣の毒だけれども、そのため損害を免れたのはアメリカ政府だ。
「ミッキー、いゝものをやらう」
 ルーズヴェルトが後手によこしたのは、ナントあの火藥の陰謀の挿繪だ。視界には早くもワシントン郊外のポトマック河が銀盤のやうに展けてきた。積木細工を並べたやうな公園の並木、こんもりとした三角型の森、彼方の白い帶状のロードを走るのは赤星バスだ。マウント・ヴァノン行き、あゝミス・カザリンのゐるマウント・ヴァノン――。 かつて、スミスが青春の血を沸らせて幾度か通ったその往還、そして中斷されたふたりの戀。(いやどうにかなる、いやいやどうにかして見せる)スミスが絶望に陥った時、慰め顏に云ったその言葉を、おれは切なく口の裡で呟やいて見る。

十三、急流で馬を乗換えるな
 八月三十日
 相棒のキングコングは愈々元氣旺盛だ。此奴め百〇二階のエンパイア・ステートビルの頂點で暴れ廻らなきゃいゝが、いや、このキングコングばかりではない。おれの相棒が殖える、殖える。ライオンのヘンリー、ジャガーのターマス等々だ。これぢゃ白堊館はさしづめ中央動物園のチェンストーアみたい。守衛長のやつ、暢氣なものだ。
「こんなに揃ったらアンクルサムもさぞ氣強いだらう。ミッキー、誰が一番強いんだい? 象とキングコング、ライオンとジャガーと」
「馬鹿ぁ、決ってらぁ、象だ………」
「さうだとも、ミッキーは何んといっても先輩だし、第一、人間に近いや………」
「此奴めッ」
とたんにおれの肩を叩いたのは誰だ?
「ミッキーの偉さは無條件だよ……」
あッ、大統領だ。そして例の百萬弗の微笑! 今朝、政務官房で記者團との會見を了ったばかりの大統領は、秘書のスチヴァン・アーリーを随へて、これから東の間で開かれる國防臨時會議へゆくところだ。
 その後方では、政務官房から吐き出された白堊館聯盟記者の一行が、續々と地下廊へ通ずる大階段へ向ってゐた。その中に、遂に此方へ昇ってくる顏? あッ、彼はスミスだ。おれは何か、かう胸が逼って聲がたたない。と、いきなり、彼と手を取り合ったまゝ、まっしぐらに地下廊さして墜ちて行ったものである。そして、おれたちは記者連の爆笑や歡聲に取卷かれて、地階廣間の廊下を跳ね廻って、東側の階段を駈昇り、玄關から、自堊館の苑へ飛出してしまった。
「スミス、何處へゆくんだ……」
「國務省へ、ちょっと寄ってゆかう……」
苑を突切って通りを一つ隔てた國務省はすぐそこだ。此處も大變な活氣だ。古めかしい建物の中を、黒人メッセンジャーが忙しさうに行交ってゐる。スミスは眞直に近東局へ入って行った。おれは一人で其邊をぶらついて見る。西歐局、米州局、アフリカ局、比島局、東亜局、日本課、支部課、西南大洋課、どこも相當に賑はってゐる。
 日本課は最近、重要な役目を擔って大寫しされた觀がある。が、日本とは國交調整のため最善をつくしてゐるのは事實だ。
 やあ、東亞方面行きの記者連の顏が、大分見えてるぞ。それはアメリカの各新聞通信社が、東亞の報道陣の完壁を期するためとある。ニューヨークのヘラルド・トリビューン紙はヴェンセント・シーアンをバダビアへ、インター・ニュースはカール・ヴェガントを上海へ、ニューヨーク・タイムスはチルマン・ダーキーをシンガポールへ、シカゴのデーリー・ニュースはリーランド・ストウをビルマへといふ具合に、各社は競って知名の記者を派遣するに急だ。すると戰爭は何處で始まるんかな? いや西歐局も忙しさうだぞ。
 なに? 米獨開戰が一週間以内? その根據はといふと、アメリカ驅逐艦グーリア號撃沈事件、アメリカ貨物船スチール・シーフェアラー號が紅海で、更に昨夜、アメリカ驅逐艦ルーベン・ジェームス號がアイスランドでやられた。
 おれは階下へ引返してくる。どの課も午前中の打切仕事で汗だくの態だ。午後からはまた新たな情報が入ってくる。黒人メッセンジャーが通るわ、通るわ。あゝん、この眞黒な眞夜中野郎を一つ揶揄ってやらう。
「おいッ、マッキンレー、君ぁ白晝でも働くんか?」
「さうだとも、ミツキー、神様がさう決めて下すったからさ。僕たちが暗闇で働いたら見分けがつかんだらう……」
「チェッ、それぢゃ戰爭になんねえや……」
あッ、近東局からスミスが飛出してきた。
「ミッキー、今日の午餐はニュー・ウヰラートを奢るぜ……」
「ウム、君ぁ、クビになったら俄然豪勢になったぢゃないか? で、愈々近東方面へゆくんか。あのアララテの聖地へ……」
固い決意に引締まった彼の貌を瞠める。
「まだ當分ニューヨークにゐる、本格的冒險へ入る前に準備が肝腎だから……」
「で、このミッキーを、おいてけぼりにして君はあのジョージ少年を伴れて行っちまふんか……」
「いや、君は僕に代って、このワシントンで、重要な役割を果してくれなきゃ困るぢゃないか」
「うゝん……」
「ミッキー、眼前の敵を破るのはさほど困難ぢゃない。が、これから僕が單身で衝っかってゆく敵といふのは、地下へ潜って、強靭な細胞組織網で結成された手剛い奴なんだ。それとも、君は僕を氣狂ひ扱ひにするか?」
「スミス、やれッ、おれは、君の焔のやうな意氣を讃へやう。萬一君が倒れたら、このミッキーが敢然起って君の意企を引繼いでやる……」
「え? 君の何處にそんな勇氣が潜んでゐたんだ?」
スミスがこれほど吃驚したのは始めてだ。
「おれは君次第で膨れもすれば、伸びもするんだぜ……」
「ミッキー有難う、あのサタンの神諭(オラクル)ではないが、われ汝を善しと見る。わが骨の骨、肉の肉なるミッキー、われ今汝を英雄として讃へやう」
「よせったら、英雄てやつは終りが悲壯でなけれぁならんし、それでこそ始めて價値づけられるんだ。ナポレオンを見るがいゝ。おれはセントヘレナなんかへ流されたくないし、肥大漢の樂天家たるおれは、まだまだ生命が惜しいや……」
「はッはッ…………」
「はッはッはッはッ………」
「それもいゝ、さあ行かう……」
スミスもおれも、唯わけもなく興奮に醉ひしれて、ペンシルヴァニア大通りの並樹道を後になり先になりして歩いてゆく。
「スミス、すると、戰爭は太平洋と大西洋とどっちが先なんだ……」
「それは神のみぞしるだ。ミッキー、アメリカは今、戰ふも死、戰はざるもまた死といふ有史以來の難局へ臨んでゐるんだ。しかも、優秀なナチの軍備に對抗するには今後少くとも三年の準備を必要とする。此際、デモクラシーの擁護者たるルーズヴェルトが確固たる決斷力を缺いたならば、アメリカは悲惨な敗北戰爭をしひられ、遂に國運を賭する結果に陥るだらう。茲で、僕は昨日まで固持してきたものを斷然放擲する、そして今日から、ルーズヴェルトの支持に努めやう。但し僕それ自身は依然として勞働黨たることに變りはない」
 元來、勞働黨であり、また反戰、参戰兩派から劃然とした孤立主義者であったスミスが、俄然變節した理由がおれにやっと呑込めたわけだ。
「解った、解った、あのデラウェア莊で、政敵ルーズヴェルトの危急を救った君の氣持ちが……いづれ、その恩賞の沙汰が……」
と、スミスはカンカンに憤り出した。
「やめてくれッ、そ、そんな………」
「解るとも、君の精神たるや………」
「よせッたらよせよ、僕は、政敵に諛ふやうな眞似はしたくない。唯、この難局を乗り切る爲政者に對しては假令それが政敵であらうと、各人が私情を棄てゝ擁護するのが本統ぢゃないか。急流で馬を乗換えるな――ミッキー、僕の、この氣持ちを判ってくれるだらう……」
「うゝん……」
「そして、この非常時體制が解消されない限り、この次の選擧の年、即ちルーズヴェルトに取っては大切な四選に當る。僕は斷然、民主黨の彼へ清き一票を投ずる肚だ……」
「偉い、やはりは君偉い。そこでスミス、マダム・イリノアが、君に是非一度會って見たいといふんだが……、無論、おれは極力讃めてやった。あのデラウェア莊の一件も序に……」
 スミスは立停っておれを見据える。
「ミッキー、君は何んといふ……」
「オッチョコチョイか……。まあ聴け、ミス・カザリンが、夙うに君のことをマダムへ打明けたらしいんだ。だからこそ、彼女はじっとして時機のくるのを待ってゐるんだ……」
 スミスは自分の脚下を瞠めて、默々として歩いてゆく。おれは、鼻下を伸し、上唇を舐めつゝ流眄に彼の鼓動を打診する。彼の眸は燃え、肩は微かに顫えをおびてゐる。彼は身内に起った激しいショックを制しきれないのだ。(どうにかなる、いやいやどうにかして見せる)その、おれの愚痴も、今や實現の一歩手前まできてしまった。
(あの淺緑の篠懸(プラタナス)がやがて鬱蒼とした陰影をつくり、兩側の街路を蔽ふ頃には僕の報道陣も愈々強化されて忙しくなるだらう)この春スミスが話したのは、つひ昨日のやうに思はれたが、あれから約半歳は過去ってしまった。その先に彼の上に意外な變化がやってきた。あの頃若芽を吹いてた篠懸の並樹は濃緑の樹下闇をつくり、ワシントンの暑さも今が絶頂だ。 ペンシルヴァニア大街を東西へ結ぶ放射線路のアスファルトは、炎天下に氾濫した車の流れを熱く射返してゐる。焔と咽ぶいきれの中を大型の遊覧バスがゆく。シトロエン、ハドソン型、パッカード、オープンのセダン、それから……。
「おいッ、スミス見ろッ、赤星バス(レッドスター)がゆくぞ。憶出の赤星バスが、マウント・ヴァノン行きだ。彼女のゐるマウント・ヴァノンへ……。それとも、行きあたりばったりのモビルで、一氣にのしちゃふか」
「いや、僕は腹が空いた――」
「おい、君は今日、よっぽどどうかしてるぜ。腹が空った? そいつぁこのミッキーのおはこぢゃないか……」
「あッ、ニュー・ウヰラートを夙うに通り越しちゃった………」
 それは、近頃にないスミスの明るい表情だった。
――終――


注)明かな誤植誤字脱字は修正しています。行末の句読点は追加しているところがあります。
注)「」の前の一文字空けは詰めています。会話の前および次の文の頭の空文字の有無は基本的に原文通りですが一部変更しています。
注)カタカナ名は基本的に原文通りですが促音対応しています。現代と異なる場合も多々あります。統一修正しているところもあります。



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夢現半球