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大阪圭吉 作品小集

Since: 2024.12.29
1編追加: 2025.05.11
略年譜・作品・著書など(別ページ)

      目次

      【海軍小説】

  1. 「印度洋司令の帽子」 (風刺小説) 旧かな旧漢字 2024.12.29
     
  2. 「スエズ湾の軍艦旗」 (海戦小説) 旧かな旧漢字 2024.12.29
     
  3. 「ガダル島総攻撃」 (海戦小説) 旧かな旧漢字 2025.05.11
     
      【掌編】
     
  4. 「挺身」 (美談?掌編) 旧かな旧漢字 2024.12.29
     
      【見聞録】
     
  5. 「面舵一ぱい海軍航海学校」「海を征する少年兵」 (軍学校見聞録) 旧かな旧漢字 2024.12.29
     


(風刺小説)「印度洋司令の帽子」
「ユーモアクラブ」 1942.05. (昭和17年5月) より

(一)
 印度半島の尖端に近く、東西兩洋を睨むやうにしてデンとばかり海の中に横たはってゐるセイロン島――。
 印度洋防備の心臟ともいふべきそのセイロン島と、對岸本土のコロマンデル海岸との間のポーク海峽には、アダム橋と名づける珊瑚礁が、まるで大自然の飛石みたいに長々と點在して、その上に本土のデカン高原からセイロン島に通ずる鐡道橋が、ちゃうど、昭南島とマレー半島を結ぶジョホール橋を大規模にしたやうな、重要な役目を持ってかゝってゐるのであるが、そのアダム橋の上を、いましも一連の特別列車が、セイロン島へ向って轟々たる響をあげながら、驀進して行く。
 ――列車の中央部に連結された一等車の特別室には、車窓まどを全部明け放って、涼しい海風にふかれながら、三人の立派な男女がさっきからなにやらしきりに歡談しつゞけてゐる。
 窓際に腰を下ろして、葉卷を吹かしながら語らってゐる、軍装もいかめしい一番年配の男は、新任セイロン島總司令官であり、前英國東洋艦隊司令長官である海軍中將ジョフレー・レイトンで、その隣りにピッタリ甘えるやうに寄添ってゐる女性は、中將の一人娘ルース嬢。そのすぐ前で、やや堅くなりながら御相手をしてゐるもう一人の軍装の男は、レイトンの副官ストレイカ少佐だ。
 一行はいま、レイトンの着任にともなふ島内巡視で、最後のアダム橋の視察をすましてコロンボの司令部へ引揚げて行くところだった。
「なにしろこのセイロン島は、本國にとっては頭にも相當する表玄關であり、印度洋にとっては、心臓ともいふべき防備の中心地ぢゃからな。さう易々やすやすと日本軍に手渡すものではないテ」
「ほんとですわね。でも、お父様。油斷は禁物ですわ。日本軍は案外な強者したたかものですから、よほどしっかりなさらないと、いつ第二のシンガポールや、ジャバ島にならないとも限りませんわ」
「ハハハ‥‥それは、お前方御婦人の、取越苦勞といふものさ」
「だってお父様。もう日本海軍の潜水艦は、印度洋に現れて、大事な海上交通を破壊しはじめてゐるではありません?」
「なに、そ、それは、せいぜいラングーンの沖あたりのことさ。このセイロン島を中心とする、本物の印度洋へは、左様なものは絶對に近附けぬ。――陸にウエーベルさんが、そしてこのセイロン島に、このレイトンがゐる限り、印度は、印度洋は、英國のものぢゃテ」
 セイロン島の地位の重大化に伴って、今後この島における陸海行政の全支配權は、あげて司令官の一手に掌握されることになったのであるから、レイトンの鼻息は相當なものである。
「それに――」
 と彼は、葉卷の煙を深く吸込みながら、
「その、ラングーン沖あたりに出没して、我方の輸送船を撃沈しはじめた日本の潜水艦にしてもぢゃ、決して無事に歸還しはしない。精鋭なる我方の艦艇も、直ちに出動しとるのぢゃから、恐らく、もうその大部分は、今頃印度洋の藻屑となっとることぢゃらうテ‥‥な、ストレイカ君」
「ハッ。お言葉通りです。嚮導驅逐艦きょうどうくちくかんシエクスピヤ以下三艦が、直ちにその方面に出撃いたしまして、目下着々索敵中でありますから、いづれそのうち、快報が参ることゝ思ひます」
「さうぢゃテ。印度洋にはいって來る日本の潜水艦なぞは、一匹殘らずみつけ出して、片ッ端から撃沈さすのぢゃ。だいたい――」
 レイトンがひときは氣焔をあげようとした、その時だった。急に隣りの車室からあわたゞしい足音がして、参謀のジョンソン中佐が、顔色を變へながら飛込んで來た。
「閣下。申上げます。――只今、電信を以って至急情報が入りました」
「なに。ど、どうしたといふ?」
「ハッ。日本の潜水艦が、コロンボ西南方の海上に出現、油槽船タンカー二隻二萬トンを撃沈いたしました。尚その他にも、被害續出の見込み‥‥」
「な、なんだと。コロンボ西南? おい君。そりゃ何かの間違ひぢゃないか?」
「いえ。間違ひではございません」
「バ、バカな! 索敵艦隊はなにをしとる! 直ちに敵潜を追跡して、必ず捕捉撃沈するやう、打電したまへ!!」
「ハッ」
 ジョンソン中佐は、あわてて飛出して行った。
 閣下の顏は、みるみるカメレオンみたいに色を變へはじめた。そしてふるへる手で帽子をとって、額の汗を拭はうとした。と、その時。 向側の車窓まどから、絶えず激しく吹込んでゐた季節風ゲールを喰らって、アッといふ間に、金モールのついた閣下の帽子が窓から飛び出し、淙々そうそうと白い泡を立てて南へ流れるポーク海峽の急潮の上へ、キリキリと廻りながら舞ひ落ちて行った‥‥。

(二)
 英國嚮導驅逐艦きょうどうくちくかんシエクスピヤ號は、艦首にまッ白な飛沫をあげながら、二隻の僚艦をともなって、廣漠たる印度洋を西へ西へと疾走してゐた。
 イギリス流にいって一九二五年の建造であるから、その名と共に餘り新鋭艦とはいへないが、それでも中途で改装を施し、排水量一・五〇〇噸、大砲五門、高角砲二門、發射管六門を備へ、原速三六ノット。おまけに驅潜用の爆雷一〇〇發を積込んでゐやうといふ、我が海軍の昔の輕巡の一部にも相當する大型驅逐艦だ。
 つゞく二隻の僚艦は、シエクスピヤよりやゝ小型のアクチブ、アンバスケードの兩驅逐艦――いづれも、艦尾の發射砲の上には、すでに爆雷を装置し、いざといへばいつでも安全辨を調節して、海中へ放り込むばかりにしながら、廣正面の捜索列を張って、堂々と進撃を續けてゐる。
(日本潜水艦印度洋に現はる)
 との飛報を受けて、急遽コロンボの港を進發してから、もう十日餘り、ところが、ベンガル灣近くの現場げんじょう附近には、いくら、どんなに、夢中になって探し廻ったとて、はや日本潜水艦の姿は見えず、茫漠たる海面には、印度洋名物の二百米にも餘る大長濤うねりが、これ又名物の燦然たる夕燒に映えてギラリギラリと輝いてゐるばかり。
 その廣い洋上を、それでも、三日ばかりといふもの、大きくグルグルと游弋ゆうよくして、お役目の索敵をつゞけてゐるうち、今度は、なんと、自分達の根據地セイロン島コロンボの南西海上に、突如敵潜現るの飛電をうけたのだ。
「いや、これは忙しい。殘念ながら、どうも日本潜水艦に、いさゝかあしらはれたかたちぢゃね。ロバーツ君」
 シエクスピヤ號の艦橋に立って、双眼鏡から眼を離しながら、艦隊司令のハウ大佐が、ロバーツ艦長に、さう、苦り切って聲をかけた。艦長も、双眼鏡の手を引いて、
「いや、全く。しかし、どうもこれは、二隻や三隻の敵潜ではなく、恐ろしく多數の敵潜が、全印度洋に潜入してるんぢゃないかと思はれますね」
「いづれにしても、かう神出鬼没の隠密ぶりを發揮されたんぢゃ、少々薄氣味――いや、第一燃料ばかり要ってかなはんよ。そのくせ、爆雷と來たら、出港以來まだ一發も撃込んでゐないんだからね」
 二人は、そのまゝ苦りきって默ってしまふと、いらいらしたやうに、再び双眼鏡で、あたりの海面を睨みはじめた。
 ――かうして、やがて、シエクスピヤを嚮導とする印度洋索敵艦隊は、目指すセイロン島西南の洋上へやって來た。
 艦列には、一段と緊張が流れた。
 大きく捜索列を張りながら、ぱいふくんで肅々と索敵行動に移る。
 だが、日本潜水艦はとんとみつからない。現場げんじょうおぼしき附近の海面一帶に、おびたゞしい油が流れてゐるばかり。だんだん游弋の環を大きくしながら、二日三日と行動をつゞける。が、相變らず敵潜は沓としてみつからない。まるでクローディヤスの亡靈みたいに、サッパリ掴めないのだ。
 そのうちに、コロンポの總司令部から、暗號無電がはいった。
(マダ一隻モ發見セザルヤ。コノマヽ放置スル時ハ、單ニ物質的損害ノミナラズ、印度懐柔ノ政治的見地ヨリシテ甚ダ憂慮スベキ状態ニアリ。各員一層奮勵努力スベシ!)
「畜生! もうかうなったら、藁しべひと切でも見逃すな!」
 シエクスピヤの艦橋で、司令のハウ大佐は思はず呶鳴った。艦隊は全艦を眼にしながら、縹渺たる洋上を、氣狂みたいにいらいらと游弋しはじめた。
 が、相も變らず、日本潜水艦はみつからない。焦躁のあまり、或時なぞは、飛魚の飛沫を雷跡と間違へて、なにもない海中へ、あわてて爆雷を撃込うちこんだこともあるくらゐ。――たうとうハウ司令の眉宇には、ハムレットみたいな、懐疑と憂愁の色さへ漂ひはじめた。
「ね、ロバーツ君。もう仕方がない。この上は一應コロンボへ引揚げて、作戰計畫の建直しをして貰はう。だいたいこれでは、ふねも足らないんだ!」
 つひに司令は音をあげた。そして艦隊はコロンボ目指して、進路を東北にとりはじめた。
 と、その時である。
 海面を睨んでゐた當直將校が、不意に叫んだ。
「おや。司令殿。あそこに、妙な物が漂流ながれて來ますぞ。――右舷艦首バウ二點二百米の海面です」
「ム。な、なに。潜望鏡か?」
「違ひます」
「魚雷か?」
「いや。もっと小さな、なにか人間の屍體みたいなものです。いや、もっと小さいかな?」
「ど、どれどれ」
 ハウ司令は思はず身を乗り出した。

(三)
 艦は、急に速力を落しはじめた。端艇カッターが降ろされ、間もなく問題の漂流物は、水兵の手によって拾上げられた。
 ――それは、英國海軍將官用の、金モール金庇の立派な一箇の帽子だった。
 水兵は、とたんにシャンと身を正すと、うやうやしくそれを捧げて、艦のタラップを昇りはじめた。
 甲板の上に集ってゐた司令のハウ大佐も、艦長のロバーツ中佐も、その他の士官や下士達も、水兵が捧げて來た異様な漂流物を認めると、急にハッとしたやうに身を正した。
 やがて、ハウ大佐は、驚きと疑惑と怖れの色を滿面たたへながら、無言のまゝ進み出て、水兵の手から靜かにその立派な帽子を受取った。ロバーツ艦長も、その側へ進み寄った。
 大佐は、雫の滴りおちるその帽子を、捧げるやうにして艦長のはうへ見せながら、相手の顏へジッと視線をそゝいだ。二人は默ったまゝ暫く顏を見合せてゐた。と、やがて二人の顏には、世にも悲壯にして嚴肅な色が、まざまざと浮びはじめて來たのだった。
 ――こゝで、印度洋の、特にこの邊の、海流について、少し觸れなければならない。
 印度洋の中央部及び南方では、大東亞海の南方海域から、スンダ列島の幾つかの海峽を抜けて西南方へ流れ出て來るいはゆる南赤道流が、反對赤道流や西風流との間に年中不變の大渦を卷いてをり、赤道以北の、マレー、ビルマ、印度、アラビヤ等の大陸に沿った海域では、季節風の影響をうけて、夏は東に向ふが、秋から春へかけては西へ向って流れるといふ、特殊な海流が存在してゐるのだ。 ――つまり、簡單にいへば、いま、シエクスピヤ號以下の艦隊が、しきりに活躍してゐるこの季節には、印度洋の海流は、南北ともに、大東亞海にその端を發し、まづ西方へ向って流れる海流が、壓倒的に強くなってゐるのだ。
 そこで、當然、大東亞海の南方海面に浮んでゐる多くの漂流物といふものは、マラッカやスンダ列島の諸海峽を抜けて、まるでハキ溜に集るゴミのやうに、印度洋へ流れ込んで來るのであって、現にシエクスピヤは、いままで僚艦を伴って、印度洋の各方面に索敵行動を續けてゐる間にも、日本潜水艦は一隻も捕へることは出來なかったが、その代り、ジャワ海戰やバタビヤ、スラバヤ兩海戰や、その他さまざまの大東亞海に於ける敗戰の、みじめな敗殘漂流物が、はるばる流れ込んで來るのに、もう何度ぶつかったかも知れないのだった。
 で、いま、かうして金モールのついた、立派な提督の帽子を拾ひあげた時にも、マサカこれが、(日本潜艦印度洋に現る)の報にびっくりした吾らの提督レイトン閣下が、アダム橋を渡る急行列車の窓から吹き飛ばしたものだなぞとは、思ひも及ばぬことなので、當然、今までに出會った敗戰漂流物と同じ性質のものであると、ハウ大佐以下がテッキリめこんでしまったとて、あながち彼等を責めるわけにはいかないのてある。
 そこで、大佐も艦長も、とっさに、かのプリンス・オブ・ウエルズに坐乗して、マレー沖に恨みを呑んで戰死した卜ーマス・フィリップス提督をはじめ、その他幾多の大東亞海の花と散った名提督の名前を思ひ浮べると、正にこの帽子こそ、その提督の中のどなたかの着用されてゐた品に違ひないと斷定し、世にも悲痛にして嚴肅な顏つきになったといふ次第だった。
 さて――。
 いまや、印度洋索敵艦隊旗艦シエクスピヤ號の全乗組員には、いや、他の二隻の僚艦の乗組員にも、この帽子の何物なるかゞハッキリ(?)認識され、コロンボへ向って徐行を續けながらも、全艦隊は、深い悲しみと嚴肅な哀悼の氣に包まれはじめた。
 かの、立派な金モールの帽子は、ハウ大佐の手によって、前甲板の砲塔の上にうやうやしく飾られ、その前に乗員達がズラリと整列した。
 やがて、副長の號令がかゝると、全員不動の姿勢のうちに、嚠喨りゅうりょうたるラッパの響が、いと嚴かに哀悼の挽歌を奏で、折からマストの上には、悲しみの弔旗が、印度洋の風に飄々とはためきながら、靜かにのぼりはじめるのだった。
 その靜寂を破って、タン! タン!――數發の弔銃が、紺碧の空に淡い煙を投上げて響き渡ると、あとは再び、全員寂として聲なく、ただ舷側にくだける浪の音が、咽ぶがごとくいつまでもいつまでも、聞えつゞけるばかりだった‥‥。
 と、この時。
 艦橋の無電室に、突如としてけたゝましい(SOS)の救助信號がはいった。
 發信者は、テームスといふ英國の一萬噸級武装商船。場所は、はるか彼方、セイロン島北方の、マドラス沖の洋上。
(‥‥SOS‥‥SOS‥‥本船ハ只今、日本潜水艦ノ大膽ナル海上浮揚砲撃ヲ受ケ、應戰セルモソノ甲斐ナク沈没ニ瀕ス、至急手配ヲ乞フ‥‥SOS‥‥)
 この電文を、金モールの帽子の前で電信兵から受取ったハウ大佐はたちまち眞ッ蒼になりながら、叫んだ。
「畜生! マ、マ、マドラス沖とは小癪な奴。どうやら、また手遅れになりさうぢゃわい!」

(四)
 それから、數日の後――。
 シエクスピヤ、アクチブ、アンバスケードの三艦は、尾羽打枯らした散々な姿で、悄然とコロンボの港へ歸って來た。
 マドラス沖も、例によって大失敗。それどころか、途中で日本潜水艦の奇襲を受けて、シエクスピヤの艦首は吹飛ばされてしまひ、まるで撞木鮫しゅもくざめのやうな恰好で、水煙をザアザア立てながら歸って來た。つひに、敵潜は一隻も捕捉出來ず、その代り、たった一つだけの土産――例の立派な金モールの帽子だけを、後生大事に司令室の棚の上に鎮座させながら、よろめくやうな恰好で歸って來たのだ。
 この、異様にも惨憺たるありさまを、ゴルドン公園に近い總督府の、港に面した窓の中から、ぢかに見て取った總司令官ジュフレー・レイトンは、直ちに副官ストレイカ少佐や愛嬢のルースをはじめ、お氣に入りの側近數名を從へながら、帽子もかぶらず、急據ランチに乗ってシエクスピヤ號へ馳せつけた。(閣下の帽子は、あれから直ちに人を派して探させたがみつからず、目下關係の掛りへ註文中であるが、何分まだ日時がないので、出來上って來ないのだ)
 さて、すくなからず不機嫌な顔つきで、シエクスピヤの司令室へかけつけたレイトン閣下は、そこで、ハウ大佐やロバーツ艦長から、とりあへず一應の略式報告を聴取ききとると、やがて、顏をしかめながら立上ったが、ふとこの時、棚の上に飾ってある唯一の大事なお土産‥‥例の金モールの立派な帽子をみつけると、(アッ)とばかり聲をあげてけつけた。
 手にとって、つくづく打眺めたが、急に變った機嫌のよさで、
「やァ、ハウ君。こりゃ我輩の帽子ぢゃないか。我輩の帽子ぢゃ、我輩の帽子ぢゃ! よくみつけてくれたネ。ど、どの邊まで流されてゐたかな?」
「‥‥‥‥」
 ハウ大佐も艦長も、あまりのことに呆れはてゝ物もいへずにゐると、中將は續けた。
「いや、實は。こないだ視察の折、アダム橋の上から、ふとした拍子で風に吹き飛ばされてな、以來、もっぱら不自由しとったのぢゃが‥‥」
「あゝ、さうでしたか。いや實は‥‥」
 と、やうやく事情を呑み込みかけた艦長が、その帽子の曰く因縁を語り出さうとすると、大佐があわてて眼配せした。
(いくらなんでも。もう閣下の帽子は、お葬ひをすましましたなぞと、不吉なことが云へたものではない!)
「いや、なに」
 と大佐はさり氣なく引取って、
「――すぐこの、南の洋上でみつけたものですから、早速お拾ひして置いたわけです」
「あ、さうか。どうも有難う」
 レイトンは、帽子を頭にのせながら、
「うむ。水にぬれたせゐか、やゝ堅くなったやうぢゃが、やはり、かぶり馴れた帽子は氣持ちがいゝのう」
 さういって、滿足さうに笑った。
 と、この時。
 隣の無電室のはうで、急にたゞならぬ氣配が起り、どうやら又、どこからか(SOS)がはいって來たらしい様子。人々は、急にハッとなって、立ちあがった。
 ジョフレー・レイトンも、急に死人のやうな蒼い顏になると、既にお葬式の濟んだ帽子をシッカリとかぶって、人々の先に立ちながら、あわてた足取りで隣室のほうへ飛び出して行った‥‥。
(をはり)

注)明かな誤字誤植は修正しています。
注)句読点は追加したところがあります。
注)風刺小説の角書は目次のみの記載です。


海戦小説「スエズ湾の軍艦旗」
「戦線文庫44号銃後読物版」 1942.06. (昭和17年6月) より

印度洋のシャーク
「――奥様。そいつは困りますよ。一應事務長パーサーにでもお話し下さって、船長の許可を取って頂きませんと‥‥」
「だからさ、いってるんぢゃありませか。事務長パーサーにだって、船長キャプテンにだって、あとからあたしが、責任を以って話をつけるんですからね。――たゞ、無事にスエズを發って航海中って、それだけ打電してくれゝばいゝんですからね。 あんたがそれだけのことをしてくれゝば、カラチへ着いたなら、夫の口を通じて、あんたが一等無電手ファーストワイヤレスに出世が出來るやう、はからってあげますよ。ね、いゝでしょ」
「あゝ奥様。御好意はありがたいんですが、ほんとにそれだけは私の一存では出來ないんですから。平常でもさうですけど、特に今は戰時中で、危險な航海をしてるんですから、みだりにそんな無電なぞすれば、それこそ、あの恐ろしい(印度洋のシャーク?)を呼び寄せるやうなものですから」
「まァ、印度洋のシャーク?」
「えゝ。あの恐ろしい、日本の潜水艦のことですよ」
「だって、こゝはまだ、スエズを出たばかりの、紅海のまん中ぢゃなくって? おまけに、精鋭な英帝國のスエズ艦隊が睨みを利かして、陰に陽にあたし達を護衛してゐてくれるんですからね。いくら日本の潜水艦だって、印度洋ならいざ知らず、一寸こゝまではねえ」
「いや、奥様。そいつが斷言出來ますやうなら、本船も、こんなヂグザグ航路コースはとらないですよ。武装はしてゐましても、警戒だけはしませんと‥‥」
「ずゐぶん強情ね。忠實すぎるわ‥‥ぢゃァ、事務長パーサーにでも、話しをつけよう」
 シムソン夫人は、さういって、ツンと鼻をとがらすと、無電室を出て行った。
 アラビヤ沙漠から吹き寄せる砂嵐シムーンのために、空は鈍重な灰色に曇り、浮遊微粒子プランクトンに染まった暗紅色の海面には、たてがみのやうな波頭が、白い泡をかんでざわめいてゐた。
 昨日の朝、スエズ運河の南端ポート・イブラヒムの港をあとにした、イギリス武装油槽船タンカーインダス號は、船橋ブリッジと機關部が遠く前後に切り離されたやうな不恰好な船穀に、六千噸の重油を積んで、船尾しりのはうから煙を吐きながら、印度西端のカラチへ向けて、重吃水のヂグザグ航走を續けてゐた。
 アラムは、そのインダス號の二等無電手セカンドワイヤレスだった。彼は、印度人だった。
 この船には、船長タンナーをはじめとする高級船員のほかに、特に乗込んだ砲術長以下三名の水兵と、西印度守備隊の指揮官である夫のもとへ歸るといふので、無理にも乗込んで來たお轉婆マダムのシムソン夫人――合計二十三人の英人に、アラム以下、食堂給仕メスボーイ、火夫なぞ、五人の印度人が乗ってゐた。
 インダス號は、元々、シリヤ沿岸から、紅海、アラビヤ海、ペルシャ灣なぞの、スエズと西印度を結ぶ洋上に就航してゐた油槽船タンカーで、太平洋が日本の海にならうと、地中海で獨伊が暴れようと、こゝばかりは安全地帶で、喜望峽迂回ケープタウンまわりの他の英船と同様、御隠居様みたいな結構な身分でゐられたのであるが、 それが、ひとたび印度洋が日本海軍の完全な制壓下にはいってからは、俄然險惡なものとなり、紅海やアデン灣あたりを游弋してゐるスエズ艦隊と一緒に、印度洋へも地中海へも出られないといふ、どうやら袋の中の鼠らしい、不安な形勢になりはじめたのだった。
 前檣フォアマストの後ろには、不細工なくらゐにでっかい十四サンチが、囮船然として救命艇の蔭に隠れてゐるのだし、こゝはまだスエズ灣を出たばかりの紅海のまん中で、 シムソン夫人の云ひ種ではないが、いくら(印度洋のシャーク)といへども、まだこゝまではやって來まいと思はれるのに、ひどく神經質なヂグザグ航走なぞはじめてゐるといふのも、畢竟、さうした底なしの不安が、しからしめてゐるのであったらう。
 ――ところが、なんとこの不安が、適中したのだ。
 スエズ彎をあとにしたインダス號が、かうして、左舷のはるか彼方、砂嵐シムーンに煙るアラビヤの空の下に、アデンに續く突兀とっこつたる赤褐色の禿げ晒された岩山を望みながら、マベルマンデブ海峽へ向けて航走をつゞけてゐる時だった。 突如、右舷の海上に、しお煙りに霞む茫漠たるアフリカ大陸を背景にして、鉛色の巨體をギラリと鈍く光らせながら、まさしく(印度洋のシャーク)日本潜水艦の一隻が、ポッカリと浮びあがったのだ。
 最初、インダス號の乗員達は、この日本潜水艦の出現に氣がつかなかった。が、轟然たる停戦命令の空砲一發が、紅海の處女空を截って響きあがるや、はじめて駭然となった。
 たちまち、インダス號は恐怖の坩堝るつぼと化した。甲板デッキの上を右往左往する船員達。あわてて身仕度する砲術長以下の水兵達。船室の中で金切聲をあげてゐるのはシムソン夫人だ。
 だが、流石は英人船長ウヰリアム・タンナー。船橋ブリッジに立ってジャイロを睨んでゐた一等運轉士チーフメートへ叫んだ。
停れストップ! 相手はたかゞ一隻だ。出來るだけ引寄せて、一發のもとに撃沈めろ!」

英國式人道主義
 ダダーン!
 物凄い砲聲だった。
 前甲板デッキの救命艇が不意に引降ろされると、その背後うしろから不氣味な姿を現はした十四サンチ搭載砲が、いきなり卑劣な反撃の火蓋を切ったのだ。
 だが、日本潜水艦には當らない。まるで見當違ひの水面に、物凄い飛沫を吹上げて落下する。
 と、その瞬間、潜水艦の砲塔が、一閃、火を吹くと見るや、ヅヅゥンとはげしく船穀をゆるがして、中甲板デッキのサムマー・タンクに命中、炸裂。續いて二彈三彈と、吹き出す重油の中に、正確無類の砲彈は、たちまち船腹を貫いて中央油槽にも轟然命中、みるみるインダス號は、閃く火焔と濛々たる黒煙に包まれはじめた。
 夢中の反撃を續けながらも、いまや、船の中には、深い狼狽と恐怖が訪れて來た。
 船長の命に從って、無電室では、アラムが必死でキーを叩いてゐた。この附近の海面に、游弋してゐるに違ひないスエズ警備の英艦隊に對する、SOSの求救信號だ。
 だが、それは、英船に對する忠實からといふよりは、アラム自身の、無我夢中の恐怖から生れた必死さであった。
 アラムといへども、他の多くの同胞たちと同じやうに、決して心から英人に服從してゐるのではなかった。あくなき威嚇と脅迫と懐柔に押しつけられて、本國の同胞達の上に起上ってゐるやうなニュースは殆んど聞かされず、かうして洋上の孤島のやうな船上で、半ば強ひられるやうにして勤務を續けてゐるのだった。
 ――ガン!!
 とつぜん、前甲板デッキ油密艙口オイルハッチをくだいて、日本潜水艦の一彈は、反撃を續けてゐた砲塔の眞後ろに炸裂し、あッといふまに砲術長以下水兵達の五體は、微塵になって海の中へ吹き飛ばされた。
 武器を失ったインダス號には、遂に最後がやって來た。右舷に傾きかゝった前檣フォアマストの上へ、
(我レ本船ヲ放棄セムト欲ス)
 絶望の信號が掲げられた。すると、潜水艦の砲撃は、ピッタリ中止された。
 ――なんといふ立派な潜水艦の態度であらう!
 恐怖に憑かれたやうになって、夢中で無電を續けてゐたアラムは、この様を見て、不意にハッと胸を突かれたやうに驚いた。いままで英人達から教へ込まれてゐた(日本軍)とは、まるで違った(日本軍)をそこに見たからだ。
 だが、もう愚圖々々ぐずぐずしてゐる時ではない。船は急速に傾きながら、火を吹いて船尾のほうから沈みはじめ、二艘の救命艇は波間に下ろされて、氣狂ひじみたシムソン夫人や船長をはじめとする英人達が、續々と飛び乗ってゐる。
 アラムは無電室を離れると、一旦救命艇のはうへ駈け出さうとしたが、見ればまだ、機關部のはうにゐる印度人の火夫や食堂給仕メスボーイが來てゐない。アラムには、同胞を見捨てることは出來なかった。燃え續ける中甲板デッキ油槽タンクの上を、船首から船尾へと渡されてゐる棧橋ピーアの根元まで戻ると、渦卷く黒煙の中へ向って大聲で叫びはじめた。
 間もなく、四人の同胞たちが、煙に卷き込まれるやうにしながら、危く駈けつけて來た。五人は手を引き合ふやうにしながら、激しく傾く甲板デッキの上を、最後に殘った救命艇の上までかけ寄った。
 と、その時である。
 ――舷側にかけ寄ったアラム始め五人の印度人船員達が、ロップをつたって、まだ空席のある救命艇の中へ飛び移らうとした時、なんといふことであらう! いきなり、英人達を乗っけた救命艇は、五人の者を見捨てたまゝ、冷然と、沈没しかけたインダス號を離れてしまったのだ。
 アラムは、愕然となった。叫んだ。絶叫した。けれど、英人達は、見向きもせずに、夢中で波間にオールを操りながら、みるみる船は遠去かって行く‥‥。

海の武士道
 間もなく、武装油槽船タンカーインダス號の上に、急激な變化が起った。
 いままで波に洗はれてゐた船尾の船橋ブリッジが、グッと水面に潜ると、瞬間、船首を高く天に沖して、インダス號の巨體は電柱のやうに垂直になり、そのまゝ、まるで吸込まれるやうに、あッといふ間に海の底へ呑まれ去った。
 海面は、物凄く泡立ち、渦卷き、その中から、あの、沈没直後につきものの、夥しい木片が、凄じい勢ひで水中から飛上りはじめた。
 いちめんに流れる重油の海の間に間に、危なげな木片にとり縋りながら、五人の印度人たちは辛くも漂ってゐた。
 いまや彼等の胸の中には、烈しい火の玉のやうな激情が、一つになって煮えたぎってゐた。それは、目前に迫った死の恐怖ではなかった。死は、もう既に覺悟してゐた。彼等の胸の中にふつふつと煮えくり返ってゐるものは、たったいまマザマザと見せつけられた英人の、英國の、鬼畜も顏をそむけるやうなあからさまな正體に對する、死んでも忘れることの出來ない瞋恚しんいと憎しみの焔であった。
 だが、もうその、英人達のぬけぬけと乗込んだ二艘の救命艇も、遠くはなれて、浪間に漂ふアラムたちの眼からは、消え去ってしまった。アラムは、靜かに眼をつむった。その瞼の裏に、孟買ボンベイの街に殘して來た老いたる母親の、慈愛に滿ちた顏が映った。それから、遠い子供の頃の思ひ出が、次か次へと夢のやうに浮びはじめた‥‥。
 と、この時。不意に、ヒタヒタと聞え出した異様な波立ちの音に、アラムはふと氣づいて眼を開いた。と、愕然となった。
 ――見ればなんと、さっきの日本潜水艦が、自分達印度人の漂ふはうへ向って、靜かに近附いて來るではないか。しかもその甲板デッキの上には、士官や水兵達が立集って、こちらをヂッと見詰めてゐる。
 瞬間、アラムは、ハッとなって再び眼を閉ぢた。
(銃撃!)恐ろしい言葉が、ガンとばかり脳裡をかすめた。頭の先から足の爪先まで、デーンとしびれるやうな恐怖が走った。
 が、いつまでたっても、鐵砲彈てっぽうだまは飛んで來ない。鐵砲彈の代りに、ピチャリ――と柔らかな、不思議な水音が、すぐ眼の前の水面に起った。アラムは、恐る恐る眼を開いた。と彼は思はず眼をみはった。
 すぐ眼の前の水の上へ、もうずっと側まで近づいた潜水艦から、長い一本のロープにつけて投げられた救命袋が、輕々と浮んでゐるのではないか。しかも、茫然としてゐるアラムの耳へ、潜水艦の甲板デッキから、明瞭な英語で叫ぶ士官の聲が、ハッキリ響いて來たのだ。
「おい。みんな。早くつかまれ! 救けてやるぞッ!」
 ――なんのこだわりもない、まるで自艦から落ちた部下に呼びかけるやうな、明るい、氣輕な口調だった。アラムは、瞬間、われとわが眼を、わが耳を、疑った。四人の漂ふ仲間達を見返った。みんな同じ顏だった。――あゝ、これが日本人なのか! これが日本の軍人なのか! 漂流を放って置いてもいゝ筈の、武装敵船の乗組員である自分達を、わざわざ危險を冒してまでも救けてくれようといふ。あゝ、なんたる大慈、大悲!
 みるみる五人の顏には、底抜けに明るい歡喜と感激の光りが漲り、艦上の人々に神を仰ぐやうなまぶしさを覺えながらも、わッとばかり、救ひの綱へ飛び縋って行った。
 五人の印度人は、無事に救ひあげられた。潜水艦は、浮上したまゝ、走りだした。アラム達は、士官室に連込まれると、暖かなタオルと着換のシャツを渡された。士官や兵士達が、物靜かな擧措で、明るい微笑をたゝへながら、五人の周圍へやって來た。
 艦長らしい立派な士官が、ニコニコ微笑わらひながらはいって來ると ひどく氣輕な調子でアラムの横へ腰を下ろしながら、
「おい。早く着換へないか。風邪を引くぞ」と英語でいった。
 急に、アラムは、兩眼に大粒な涙を浮べた。
「おや。妙な先生だな。何が悲しいのだい?」
 アラムは、手の甲で涙を拭ふと、キッパリいった。
「艦長様。私達は今まで、英國の船の中で、船長や高級船員はむろんのこと、水夫といへども、英人である限り、私達印度人が、その隣りに腰を下ろすことは許されませんでした!」
「なあンだ。そんなことか、そんなことに泣いて悦ぶ奴があるか。日本人と印度人は、同じ有色人種ぢゃないか。當り前のことに遠慮をするな。――おい、野田兵曹。ビスケットがあったな? よし。この連中に、ビスケットと煙草をやってくれ。腹がへったことだらう‥‥」
 一人の下士官が、艦尾の賄室のはうへ出て行った。艦長は、氣さくにわらひながら、「さァ。これから暫く、つきあふんだぜ。ちと手狹で氣の毒ぢゃがな、まァ飯くらゐは、なんとかなる。顏は洗ふことは出來ないが、散髪くらゐはしてやれる。だいぶ伸びとるな――」
 やがてさっきの下士官が、ニコニコわらひながら、ビスケットと煙草を持って來た。
「煙草は、艦内ではやれんからな。甲板デッキへあがって吸ってくれ」
 その品々を手にしながら、五人の印度人達は、思はず熱い涙を、全印度人の熱い涙を、ポロポロと流すのだった。
 と、その時。急に、司令塔の眞下にあたる隣室の發令所のはうから、たゞならぬ氣配が起った。
「艦長殿。敵艦隊です! 左舷艦首前方洋上に、巡洋艦一隻、驅逐艦二隻よりなる敵艦隊出現、本艦めざして攻撃の態勢にあります!」

スエズ艦隊撃滅
「おう! いよいよおいでなすったか。それはそれは‥‥」
 艦長は、莞爾とわらって立上った。
 一瞬、艦内には、サッと緊張が流れた。
 五人の印度人達の顏は、蒼白に變った。わけてもアラムの顏はまッ蒼だった。それは、恐怖よりも、はげしい悔恨の色だった。
(あゝ。たうとう現れた。なんといふことだ! あの憎むべき英國の艦隊を、そもそもこゝへ呼び寄せたのは誰であったか! インダス號の無電手たる、この自分自身ではなかったか! この手、この指で以って、必死になってあの恐るべき英艦隊を呼び寄せたのてはなかったか! しかも、自分達インド人を救けてくれた、この、神の如き日本の潜水艦を撃つべく、自分を捨てた英人共の艦隊を呼び寄せたのではなかったか! あゝ、なんたる不覺! なんたる罰あたり!‥‥)
 アラムは、瞬間、死のやうな苦惱の底につき落された。悔恨と慚愧が心の中にのたうち廻った。
 遂に彼はたまらなくなると、莞爾とわらって立上って行く艦長の後ろへ、思はず駈け出し、取縋って、必死になって訴へた。
「艦長様。お許し下さい! この、たった一隻の、しかも、命の恩人であるこの日本の潜水艦を攻撃するために、あの恐ろしい英艦隊を呼び寄せたのは、私であります。インダス號の無電手であったこの私が、憎むべき船長の命をバカ正直に受けて、この手で以って、この指で以って呼び寄せたのであります! どうぞお許し下さい!」
 すると、艦長は、急に眼を光らせてアラムの顏を見据ゑながら、大きな手でドンと彼の肩を叩いた。
「それは、ほんとか!」
「はい。ほんとうであります。どうぞお許し下さい!」
「ウム。でかしたッ!!」と、いきなり艦長は大聲で叫んだ。
「でかしたぞ! よくぞ呼び寄せてくれた! 艦長、乗員に代って、厚く禮をいふぞ。――われわれは、奴等英艦隊を探しもとめて立ったのぢゃ。どうも奴等は、いつもコソコソと何處ぞに隠れをって、なかなか出て來よらんために、われわれは今まで、苦心サンタン、海の上を探し廻ってゐたのぢゃ! よし、奴等を呼び寄せてくれた禮に、いまからわれわれが、奴等をどのやうに料理するか見せてやらう。潜航にうつるから、なるべく躰を動かさないやう、靜かにしてをれ。貴重な空氣がよごれるからな」
 ――なんといふ意外なことであらう。思へば今日は、アラムの身邊には、意外なことばかりである。茫然としたまゝ、アラムが立すくんでゐるうちに、急に艦内が靜かになって來た。早くも潜航に移ったのであらう。たまらない蒸暑さがやって來た。が、その暑さも、やがて徐々にゆるみはじめた。ディーゼル機關から、二次電氣による電動機推進に代った艦内には、靜かなモーターの唸りが順調に響き續けてゐるばかり。乗員達も、狹い艦内に、それぞれ整然と部署について、しはぶき一つする者はない。
 と、やがてその靜寂しじまを破って、何處からかヅシンヅシンと異様な響きが傳はりはじめた。どうやら、敵艦隊が、盲滅法の爆雷攻撃をはじめたらしい。乗員たちの顏には、なんといふことなしに、不敵な微笑が浮びあがってゐる。
 ――かうして、異様な緊張が、一時間餘りも流れ去った時だった。
 とつぜん、なんと思ったのか潜水艦は、大膽にも靜かに浮上しはじめた。間もなく、水面下航走に移りながら、僅かに潜望鏡の尖端を海面に現はして、敵状を窺ふ。
 と、敵艦隊との距離は、いつの間にかかなり離れてゐる。驅逐艦は、二隻ともコドリントン級千五百トンの、比較的新らしいものらしいが、巡洋艦は、ヨーク級八千四百トンの、だいぶ御老體だ。 ――見れば、二隻の驅逐艦は、それぞれ、飛んでもない方角違ひのところをうろつき廻って、相變らずヤケじみた様子で、ドカンドカンと爆雷を投げ込んでゐるし、巡洋艦は、これはまた、どうやらインダス號の救命艇を二艘とも探しあて、タンナー船長やシムソン夫人を始めとする一味の連中の救助を完了して、これから驅逐艦と共に索敵行動にうつらうとしてゐるところらしい。
(よし。時こそござんなれ!)艦長の顏には再び莞爾たる微笑が浮び、潜水艦は、俄然攻勢に移った。たちまち、二發の魚雷が、鮮やかな雷跡を殘して、巡洋艦と驅逐艦の一隻めがけてつッ走る。
 と、見る。轟然たる水煙りが、前後して巡洋艦の胴中に吹き上った。適確無類の命中だ。巡洋艦は、どうやら損傷の程度であるらしいが、驅逐艦のはうは、物凄い火焔に包まれて、みるみる右舷に傾きながら沈みはじめた。正に轟沈だ。敵艦隊は、俄然うろたへはじめた。殘る一隻の驅逐艦は、素破とばかり、凄じい飛沫を上げながら艦首をめぐらして、小癪にもこちらへ向はうとする。そいつの横ッ腹へめがけて、おゝなんといふ不敵さ。 またしても一發、悠々として撃って放せば、敵艦は、眼もくらむやうな閃光と共に、艦尾のところからまッ二つに折れ、尻のはうから引きずり込まれるやうな恰好で、走りながら沈みはじめた。すると、己れ自身、艦腹から煙りを吹き出しながらも、先に轟沈された驅逐艦の乗員のりくみを収容に向はんとしてゐた巡洋艦は、この時、なんと思ったのか、いきなり艦首をめぐらして向ふむきになると、御老體をひどく左舷に傾けながら、スエズのかたをめざしてまっしぐらに遁走しはじめた‥‥。
 やがて、潜水艦は、不氣味な露頭を鮫のやうに鋭く光らせながら、波立ちさわぐ海上に悠々と浮き上った。燦然たる軍艦旗が、アラビヤ風を受けてへんぽんとひるがへる。

注)明かな誤字誤植は修正しています。
注)句読点は追加したところがあります。


海戦小説「ガダル島總攻撃」
「戦線文庫54号銃後読物版」 1943.04. (昭和18年4月号) より

(一)
 ひがしの空には雲ひとつなくもう星が瞬きはじめてゐたが、西空には裂けちぎれたやうな巨大な層雲がわだかまって、その裂けめの奥のほうが夕燒けの餘映にひと刷毛サッと燃え立ち、大きなうねりのこね返す海面に、一方的な凄い光りを投げかけてゐた。
 その鋭い血のやうな光りを半舷に浴びて、空にむかって牙を鳴らす猛犬のやうなすさまじい形相を見せながら第○戰隊の艨艟もうどうに、舷々相つらねてまっしぐらに南下しつづけてゐた。
 檣索リギンが強風にひゅんひゅんと鳴り、艦首に斬り裂かれた浪のしぶきが、上甲板のハンドレールにざッざあッとかぶさって來る。
「たうとう、敵機は一機も顏を見せずにしまったな」
 夜が來て(燈火戰闘管制!)の號令と共に、丸い舷窓にぴったり鐵扉がしめられて、にはかに温度を高めた軍艦○○の士官室だった。
「うむ、どうやらこれでよし。あとは、斷行あるのみ。砲術長。たのみますぞ」
「その點は、ご心配なく。砲術に關する限り、おまかせ下さい」
「おゝ軍醫長、例の視力回復のビタミン劑を、一服願ひますかな」
 片手に冷却水のコップを持ち、立ったまゝビスケットを噛りながら、士官達が、齒切れのいゝキビキビした言葉を交し合ってゐた。
 みんな、昨日までの防暑服はどこへやら、折目も正しい純白の戰闘服に着かへてゐた。時折顏を見せる下士官や兵たちも、純白の作業衣に脚絆のかひがひしい姿で、なにか、ただならぬ、凛乎りんことした晴れがましさが、艦内いっぱいにみなぎってゐた。
 艦橋から、通信長が駈け下りて來た。壁にかけた黒板へ、
 先發ノ艦載機ヨリ無電接受
 (目的地附近ニ敵艦影ヲ認メズ)
 チョークで書きをへると、
「うむ。こりゃ手荒く暑い。おい、從兵。わしにも冷却水を一杯!」
 頼んで置いて、皆のほうへニッコリわらって見せた。
「うーム。敵艦影ヲ認メズ、か。どうやら戰隊の隠密行動は、完全に敵の目をあぎむきをはせましたな」
 機關長の栗本○佐が、黒板のはうを見ながら明るくうなづいた。
「これはいよいよ、ビールで祝杯といくべきだったな」
「いや、もうあと○時間で片附くのですから、まァそれまでひとつ、ご辛棒願ひませう」
「はは‥‥ぢゃァ、冷却水で祝杯といくかね」
 人々は、顏も言葉も、明るく何氣なげではあったけたれど、艦内にはなにか異様な目的に向って刻々と近づいて行く、抜きさしならぬやうな肅殺たる空氣が、時と共にひしひしと高まりつゝあった。
(敵艦影を認めずして奇襲に成功)なぞといふと、なんだか辻褄の合はぬ話のやうであるが、事實は決してさうでない。
 いま、肅々、枚をふくんで一路南下をつづける第○戰隊のめざす大敵は、數次の海戰に手痛い攻撃を受けて、おびただしい損耗にあへぐ敵艦隊ではなく、實に、敵が、西南太平洋に於ける唯一無二の反攻據點とたのむ、○○群島ガダル島の敵基地そのものにあったのだ。
「ドーモしかし、敵艦影を認めずぢゃ、サッパリ張合がありませぬな」
 いままで默ってゐた水雷長が、苦り切って口を入れた。ものをいふ度に、漆黒の鍾馗鬚が、モグモグとうごく。
「いや、張合ひは大ありですよ」とビタミン劑を口にふくみながら砲術長がいった。「なんしろ、今夜の相手は永久に沈まぬ島ですからな。さだめし陸上に並んだ要塞からは、手荒く撃って來ることでせう。それに飛行機はお手のものの敵基地だ。叩きのめすまでは、蜂の巣でもついたやうに、わぁンと‥‥」
「だから水雷長には、サッパリ面白くない」
「まァそんなに僻み給ふな」
「いや僻みますよ。マサカ、島にむかって、魚雷をぶっ放すわけにも行きませぬからな。‥‥砲術長ひとりで張切って、はなはだ怪しからんです」
 水雷長のまじめくさった放言に、室内には明るい徴笑ほほゑみが湧きあがる‥‥。

(二)
 前世紀の大爬蟲か、カンガルーが、前肢をあげて立ちあがったやうな恰好のニューギニア島。その尾端から東へ○○カイリ、米本土と濠洲を結ぶ直線上の洋上にある、○○群島ガダル島では、いま、戰爭といふものの常識をあたまからブチ破った、凄烈きはまりない死闘がたたかはれてゐた。
 過ぐる○月、敵最後の防衛線に、深く打込んだ楔の先端にあたるこの小島に、わが方の防備未完の隙をねらって、敗戰にあへぐ死物狂ひの敵軍は、とつじょ、大艦隊に守られて空巣狙ひのやうに取りついたのだ。
 敵アメリカがとっておきの最精鋭海兵隊マリンの大部隊と、彼等の物質力の最大限を注ぎ込んだ新鋭海軍設營隊からなる、あなどり難い大軍だった。
 わけてもこの、海軍設營隊なるしろものは、機械化土木部隊とも稱すべきバカバカしいまでに大仕掛な設營隊で、戰車をもすくひあげさうな巨大な蒸氣掘鑿機スチーム・ショベルや、二十トン餘りもある道路輾壓機ガソリン・ローラーをはじめ、電氣鑿岩機ロドリル壓搾空氣搗固機クムパー、 ダンプカー等々、ありとあらゆる精強な土木機械を装備し、夜闇に乗じて突如ガダル島の一角に上陸すると、わが盡忠なる防備の勇士が海兵隊マリンと激闘をはじめてゐる隙に密林ジャングルをなぎはらひ、岩山を切り取り、谷を、川を壓しならして、○夜にしてあッといふまに、頑強きはまる一大航空基地を作りあげてしまったのだ。
 もとより、皇軍が、この夜盗にひとしい敵軍をゆるしておく筈がない。時を經ずして精強無類の陸軍部隊が、海軍との緊密な協力のもとに、最惡の困難な條件を排除して斷乎上陸を敢行したのであるが、もうその時には、敵の陸上航空基地の周圍には、物々しい近代装備の要塞が築かれ、基地には、米本土から濠洲から、飛石傳ひに夥しい敵機が輸送されて、小癪にも我軍に向って死物狂ひの抵抗をしはじめたのだ。 あまつさへ、このガダル島は言語を絶した要害の地で、富士山よりも高い峻嶮あり谷あり、激流あり濕地あり、しかもそのうへを物凄い密林ジャングルが覆ってゐるのだ。
 おまけに、もともとこの地は、敵最後の防衛線深く打込んだ楔の最先端で、周圍は敵の制空圏内にあり、そのうへ島内に敵の陸上基地が出來たのであるから、なんのことはない、まるで敵の飛行場のまッ只中に突入してゐると同じだった。敵は、眞正面からガッチリ四つに組んだ皇軍部隊との白兵戰を極度におそれ避けて、もっぱら、高度の機械力を集中し、まるでアメリカ中の爆彈と機銃彈を一氣にこの島に注ぎ込まうとでもするほどの氣狂ひじみた抵抗をしはじめたのだ。 千古未踏の密林ジャングルは一夜にして燒野原と化し、丸坊主になった椰子の木の立並ぶ砂演は、たちまちスコールに打たれたやうに彈痕でささくれ立って來た。
 もはや軍隊ではない。血に飢えた動物的な復讐の惡鬼の群れと化した敵軍は、地理的な優勢をたのんで身動きも出來ないわが重傷者に機銃彈を打込んだり、○○や○○○で轢きつぶしたり‥‥ありとあらゆる暴虐のかぎりをつくして、――これはもう戰爭ではない。現實の鬼ヶ島。敗戦の胸をはらす鬼畜の修羅場。天人共にゆるさぎる惡魔の地獄圖繪だった。 しかも、そのやうな野獸の砦にむかって、はるかなる祖國への燃ゆる愛情と、撃ちてしやまむ一念不退轉のわが神兵は、兄は、伜は、弟は、草を噛み、夜露をすすり、クサった飯を食ひながらも、戰友の屍をのりこえて、刻一刻ジリジリとひた押しに敵を壓迫しつづけてゐるのだった。
 とはいへ、これは、容易ならぬ苦闘だった。
 絶對不利の地理的條件のうへに、敵は膝元に強力な陸上航空基地を持つに引替へ、わが空軍は、母艦または遠隔の陸上基地に據らなければならないのだ。一刻もゆるがせにすることの出來ない彈藥、部隊の輸送補給のためにも、陸海銃後びったり呼吸をあはせて、縦横無盡に強力無類の作戰を敢行しなければならないのだ。
 第○戰隊の艨艟が、舷々相つらねて敵地深く突入し、世界の海戰史上にかつて類例を見ない艦隊による敵基地そのものの直接攻撃といふ壯絶きはまりない大作戰を行ったのは、さういふ情勢下の或る時期に於てであった。
 ○日前には○○海上に、敵大輸送船團を全滅させ、昨日は○○島沖に敵艦隊を撃滅しをはせた歴戰必勝の海のつはもの達は、いままた、追ひつめられていよいよ阿修羅の形相を見せはじめた敵の本據へ、豪壯無類の燒打ちをかけようとしてゐるのだ。
「なるほどね、魚雷で以って島をしづめるわけにも行きませぬからな」
「さうですとも」と水雷長が、鍾馗髯をモグモグさせながらいきまいた。「――がまァ、今夜のところは、砲術長の平素の殊勲にめんじて勘辨しておきませう。‥‥てすが、その代りですな。もし萬一、退避の時になって、敵の驅逐でも現れたなら、そいつに手出しをされてはいけませぬぞ」
「はは‥‥たうとう折れましたな。では、殘念ながらそのはうは、水雷長におまかせしますか。――ま、せいぜい、尻のはうをしっかり睨んでゐて貰ひますかな」
 明るい何氣ない談笑のうちにも、刻々に迫って來る、今宵の容易ならぬ敵に對する異常な決意が、凛として人びとの眉宇に漲るのだった。
 かひがひしい戰闘服に身をかためた工作兵がやって來た。砲塔に近い士官室が砲撃の時に受ける衝撃にそなへて、扇風機や鏡をとりはづし、狹苦しい室内に幾つもの假設ベッドを押並べると、入口のところへ赤字で、
(第○戰時治療室)
 と書かれた木の札を掲げてかけ去って行った。

(三)
 風が強い、海も空も艦橋もまッ暗だ。檣索リギンは強風にヒュンヒュンと鳴りつづけ、艦は第○戰速で、まっしぐらに南下をつづけてゐる。なにか、大聲で叫ぴたいやうな凄じさだ。
 まッ暗な艦上には、白い艦内帽がはしげに動きまはり、時どき、艦橋の上で、僚艦と交しあふ發光信號が、魔物のやうにキラリキラリと明滅する。
 栗本機關長は、艦橋にあって、ほかの首腦達と共に、しづかに前方の海上をみつめてゐた。
 ○時○分、○○島を左舷にかはして、
「お――もか――ぢ!」
 航海長の號令と共に、一路ガダル島の○○海峽へ突入しはじめた艦の前方には、模糊たる闇の海がハチ切れんばかりの戰機をはらんで、惻々とせまって來る。
 なにしろ、相手は動かざる陸上要塞であり、おびただしい空軍を擁してゐるのだ。その敵のまッ只中、わづか○○浬の海峽深く突入して敵本據に肉薄し、巨彈の雨を注いで適確無類の燒打ちをかけようとするのだ。ツラギ海峽毆込み作戰にも劣らぬ決死の大作戰だった。攻撃の主體は砲艦にあったが、艦は最大戰速を以って進行させられねばならなかった。水雷長の冗談ではないけれど、砲術長一人が張切ってゐるばかりではない。全艦員ぴったり一つになって、自己の持場に全力を打ち込んでゐるのだ。
 ○時○○分――
 どつじょ、吹き叫ぶ風のわめきをつんざくやうにして、嚠喨たるラッパが鳴りひびいた。
(配置につけ!)の戰闘命令だ。
 一瞬、艦内にはサッと無言の緊張が流れる。
 いよいよ來た。
 眼をこらせば、右舷の海上、暗澹たる夜空をバックにして、無氣味なガダル島の黒影が朦朧として浮きあがって來た。火光ひとつ、銃聲ひとつ起らない。死のやうな靜寂がむっちりと押包んでゐる。どうやら敵は、戰隊の突入にまだ氣づいてゐないらしい。だが、將士達は、瞬間こころに思ふのだった。
 ――いま、あの死の島の密林ジャングルの下では、息つく暇もない晝間の銃爆撃から解放されたわがはらからの勇士達が、敵の睡ってゐる隙に、激闘でクタクタになった體をやすめもせず起きいでて、銃劍を木の幹に突刺して流れる水をすゝり、互ひに體を重ね合ふやうにして忍びやかに飯盒の飯を――もうこれでいつになれば焚くことが出來るか判らない飯、明日の晝食べる時にはもうすっかり腐ってしまふその飯を、しづかに闇の中で焚いてゐるのだ。
(よし、撃つぞ。撃たずにをくものか!)
 海の勇士達の胸には、ふつふつとして抜きがたい米鬼へのにくしみが沸きたつのだった。
 と――、その時だった。
 突然、右舷に平行する闇の島の一角から、牡丹色の火の玉がスーッと空に上ったかと思ふと、艦列の頭上高くまで來てパッときらめく閃光に變った。
 はたして――やっとをかしいと氣づいた敵が、探りに打って放った○○彈だ。
 とたんに、グラグラグラッと天地もくずれる激動と共に、閃々、眼もくらむ火光を發してわが艦列が一齊射撃の火蓋を切った。
 ――物凄い艦砲戰がはじまった。
 グラッグラッと艦がゆれる度ごとに、無數の銀河を曳いたわが巨彈が、闇の島の彼方にパッパッと炸裂する。敵もまた撃ちだした。
 右舷眞正面の陸岸はおろか、意外なところからも、ギラギラッと眼もくらむ白熱の光茫を曳いて、シュルシュルとその彈が頭上を飛びこえ後ろの海中へはげしい水柱をあげて霰のやうに落ち込んで行く、不意をつかれた敵はめくら撃ちだ。わが砲撃はいよいよ激しさを増した。まるで島が棧橋なら、その棧橋とわが艦列が無數の白熱のテープで結ばれたやうだ。 しかもその無數の光りのテープは、床屋の廣告燈のやうにネヂれてゐて、光りはあとからあとから追ひこむやうに向ふの島へ送り込まれ、そのまた無數のテープの尖端が、巨大な黒い島の一角へギュッと絞られるやうに集中してゐるのだ。その集中點から、ポッと大きな火焔が立ちあがった。――まさしく、敵の航空基地が燃えあがったのだ。噴火山のやうなその火焔は、みるみる二つ三つと數をまして行く。
 敵の砲火もいちだんと激しくなった。牡丹色、桔梗色、バラ色、菊色、まるで秋の野の千草の花花をなげかはすやうに、視界を壓して閃々と入り亂れる。その無数の光茫の飛び交ふ中を、まるで火の粉を浴びながらくろがねの火事装束をまとった古武士のやうに悠々と驀進しながら、わが艦列は撃ちに撃った。耳を聾するいんいんたる砲聲の中に、苦しげな喚くやうな爆音が聞えはじめた。あわてふためいた燃え殘りの敵機がめちゃくちゃに舞上ったのであらう。
 とつぜん。
 ガアンと濁った、甘栗の鍋を燒砂ごと、艦橋の足元へ叩きつけたやうな音がした。
 艦橋にあって號令をかけつづけてゐた栗本機關長は、はっとなってすぐ眼の前にラッパを開いてゐる傳聲管へ向って叫んだ。
「おい、操艦室。袴田一曹! 異状はないかッ」

(四)
「はいッ。異状はありません!」
 低いが、しっかりした、幅のある聲が、傳聲管をあがって來た。
 艦橋のすぐ足元には操艦室があり、そこには袴田一等兵曹を長とする操艦員が、舵輪をつかんで、上からの命令に從って默々と重要な任務に從ってゐるのだ。白鉢卷のかひがひしい姿で、砲塔の影に活躍する砲員のやうな華やかさはなかったけれど、一刻も持場をはなれることの出來ない貴重な職務の一つであった。その操艦室のあたりに、敵彈らしきものの炸裂音を聞いたやうに思ったのだが。(異状なし)の袴田一曹の應へに、機關長は再び息つく暇もない號令の續發れんぱつにかかって行った。
 艦は、超々戰速を以っていよいよ敵基地の眞正面に突入し、飛び交ふ火光の余映をうけて、洪水のやうに舷側を流れ去る白泡の群れが、晝をあざむく鮮烈さで浮び上って、消え去った。
 砲戰は、つひに最高潮に達した。
 つるべ撃ちとはこのことをいふのであらうか。なにかめどをはづしたやうな底なしのおそろしさで、ドドドドドド‥‥と手を出せばつかめさうな白い太い火線をひきながら、巨彈は敵地にさいげんもなく注ぎ込まれ、敵基地の火焔は、いまや、横に裂け割れた噴火山のやうな巨大な幅をもって、炎々煌々として南海の空を焦がしはじめた。
(大成功だ)
 米鬼の巣窟ガダル島燒打ちは、ものの見事になしとげられたのだ。さだめしいま頃、あの島影の彼方の闇のなかでは、上陸部隊の勇士達が、歡呼の萬歳を叫んでゐてくれるに違ひない‥‥だが、
 ふと、栗本機關長は、顏をしかめた。
 すぐ眼の前の傳聲管からどうしたことか、なにか異様な熱氣が、はーッと吐き出されてゐるのに氣づいたからだ。
 機關長は、はっとなってみるみる顏を硬張らせると、再び傳聲管へ向って叫んだ。
「おい、操艦室。袴田一曹! 異常はないかッ」
 すると――
 一つ、二つ、三つ呼吸をするくらゐのあひを置いて、やはり前と同じやうな、低いが、じつにしっかりした、幅のある袴田一等兵曹の聲が、ハッキリと傳聲管をあがって來た。
「はいッ。操艦室、異状ありません!」

(五)
 いつのまに旋回したのか、海峽をへだてた○○島を右舷後方にして、艦列はもと來た進路を全速で退避しはじめてゐた。
 炎々と、燃えつづけるガダル島の劫火が、みるみる、後方へ遠去かって行く。「後續艦みな來てゐます。異状ありません」檣頭マストでは、見張員がしきりに叫んでゐる。後の方から、切り裂くやうな爆音が入り亂れて聞えて來た。執拗に喰下って來る殘存敵機だ。ダダダダダダ‥‥と僚艦の高角砲が鳴りはじめた。と、闇の空にパッと眞ッ赤な火の花が咲いたかと思ふと、そのまゝ、サッと一道の火柱となって、まっすぐ海の中へ消え去った。
「うむ。やりをるわい」
 いままで後方の海面を睨んでゐた髯の水雷長が、そのはうをチラリと見て、口惜しさうにニタリと呟くと、再び後方の海面を飢えたやうな眼差で、ジロリジロリと睨みはじめた。――離脱直後に警戒を要する敵驅逐艦の追跡出現を、ひそかに待ち望んでゐるらしい。だが敵は、必殺の奇襲に呆然として戰意もくじけたか、飛行機も艦も砲彈も、一向に姿を現はさない。
 栗本機關長は、しかし、ふたたび顔をしかめた。氣づいてみれば、傳聲管からは、まだ、あの異様な熱氣が、ハーッと吐き出されてゐるのだ。いらいらして、みたび叫んだ。
「袴田! おい、異状はないかッ」
 すると、今度は、少ししてから、
「はい。異、異じょうは、ありません‥‥」
 語尾が妙にかすれて、バッタリと途絶えてしまった。
 機關長は、はっと顏色をかへると、既に離脱を終った安心から、他の士官と共に、艦橋をけ下りて操艦室のドアをサッと開いた。
 ――人びとは、肅然となった。見れば、操艦室の後方に炸裂した敵彈のために、室内はリノリウムの床面に火災を起し、幸ひ火災は一室だけでとどまってゐたけれど、袴田一等兵曹は、下半身火達磨となり、人事不省におちいりながらも、なほかつその兩手はしっかと舵輪をつかんで艦を操縦しつづけてゐるではないか!
 兵曹の體は、直ちに戰時應急治療所の士官室へ運び込まれた。すると兵曹は、はっと正氣にかへって眼を見開くと、よろよろとベッドの上に立ちあがった。
「こらッ。動くでないッ。なにをするか。重傷の體だぞ!」
 軍醫長が、肩を押へて叱咤した。
「はッ。ですが‥‥」
「バカッ。命を粗末にするなッ。重傷ぢゃが、手當次第で助かるんぢゃ!」
 兵曹は、軍醫長の腕に爪を立て、齒を噛み鳴らし乍ら叫んだ。
「軍醫長、ですが‥‥敵をッ、敵の野郎をッ‥‥」
 栗本機關長が、この時、慈愛にあふれる眼差しで、莞爾とうなづいた。そして傍らの、丸い舷窓をひらいて、後方の空をさし示した。と、その指先を追求めながら、やがて兵曹の眼には、しづかな滿足の微笑ほほゑみがニッコリと浮びあがった。
 窓のむかうのはるか彼方には、まだ燃えつづけるガダル島の劫火が夜空をあかあかと焦してゐた‥‥。

注)明かな誤字誤植は修正しています。改行したところがあります。
注)当時としては戦意高揚作品であるのでしょうが、虚偽報告や前線と後方の状況把握の違いなど現代では反面教師となるような作品だと思われます。


「挺身」大坂圭吉
『辻小説集』日本文学報国会編 八紘社杉山書店 1943.07.18 (昭和18年7月) より

 風がつよく波が高かったので上陸はひじょうに危險なものとなり、人びとは大きな不安に包まれた。緩衝材もないむき出しの岸壁で、このまま接岸したならば貴重な船腹はかならず破損をうけるにちがひない。けれど、上陸は一刻の躊躇もゆるされないのだ。人びとの呼びかはす注意や合圖の叫びがするどく闇の中を飛び交ひ、ロープが何本も投げられて、船は用心ぶかく岸壁へちかづいた。 岸にくだける波の音はますますはげしく、人びとの不安はいっそう高まった。はたして、急に大きなうねりが般を押しあげて、岸壁に叩きつけようとした。人びとは瞬間息をのんだ。すると、その時、とつぜん一人の水兵がロープにつかまったままいま正に激突せんとした船と岸壁のあひだに身ををどらして飛びこんだ。
 ――水兵の五體は骨まで砕けた。けれど、たふとい緩衝材によって、船は無事に着岸することが出來た。

注)当時としては美談的行為であったと思われるが、船の大きさや代替物の有無にもよるが現代ではナンセンス味を感じる一品。


「面舵一ぱい海軍航海學校」
――若人よ、海こそ君等の行くところ――
「戦線文庫58号銃後読物版」 1943.08. (昭和18年8月) より
(改竄短縮版)海軍諸學校めぐり「海を制する少年兵」海軍航海學校
「戦線文庫72-2号増刊海の少年兵」 1944.10. (昭和19年10月) より

男の世界
太平洋をにらみつゝ
 われわれの敵は海の向ふにゐる。大砲をうつにしても魚雷をはなつにしても、まづ海を越えなければならない。海軍といへば、われわれはすぐに、海上に於いて敵と戰ふ軍隊と簡單に考へてしまふが、その敵と戰ひ敵を撃滅するにも、まづこの海を越えるといふ絶對の先決問題がリッパに解決されてからのことなのだ。 つまりひとくちにいへば、海軍軍人は戰ふまへに、まづなによりも最も熟練せる船乗り――しかも軍人精神といふ筋金のピンと入った船乗りでなければならないのだ。
 われわれの敵は海の向うにゐる。怒濤逆卷さかまく海の彼方に、敵は戰機を狙って虎視眈々としてゐる。この敵、鬼畜米英を撃つ前に、われわれは先づ、海を征服しなければならぬ。――海軍といへば、われわれはすぐに、海の上で敵と闘ふ軍隊と簡單に考へ易いが、その敵と戰ひ敵を撃滅するには、この海を、太平洋を征服し、わがものとするといふことが絶對の先決問題となる。 いひかへれば、海軍軍人は、戰ふ前に、まづ何よりも最も熟練せる船乗り、しかも軍人精神といふ筋金のピンとはいった船乗りでなければならぬ。
 この、軍人精神のこもった海の技術者、海の強者つわものを養成するために、大は艦船構造の研究から操舵操縱、船體甲板の手入れ保存法、短艇索具の取扱ひ(この綱の結び方だけでもそれぞれ所要に應じて二十種近くもある)等々、そのほか百般の技術を獨特の躾教育を通じて實習せしめると共に、航海運用の根本精神を錬成するといふ世界に誇る海の道場が、わが海軍航海學校である。
 この、軍人精神のこもった海の技術者、海の強者つわものを養成する學校――艦船構造の基礎學から操舵操縱、船體甲板の手入れ、短艇索具の取扱ひ等々、その他あらゆる技術を習得せしめると共に、航海運用の根本精神を錬成するといふ、世界に誇る海の道場が、わが海軍航海學校である。
 迷彩を施した素晴らしい近代建築の校舎の中では、夥しい海の若人わこうどたちが――將來、操縱、航海計畫等をつかさどる航海長となるべき士官や船體短艇などの保存取扱ひや各種應急の作業に當る運用長となるべき士官や、それから、それらの士官のもとに配屬される航海科員や運用應急科員となるべき下士官兵たちが、 それぞれ普通科高等科の二段構へで、航海術、運用術、應急術、信號術、見張術、気象術等々の各科目を、校庭の彼方に蒼々あおあおと横たはる太平洋を睨みながら、輝かしい誇りを胸一杯に抱いて、眞劍に學びつづけてゐるのだ。
 迷彩を施したすばらしい近代建築の校舎の中では、夥しい海の若人わこうど達が眞劍に學びつゞけてゐる。將來、操縱、航海計畫等をつかさどる航海長たるべき士官や、船體短艇等の保存取扱ひや各種應急の作業にあたる運用長となるべき士官、さてはそれらの士官のもとに配屬される航海科員や運用應急科員たるべき下士官兵達が、 校庭の彼方に蒼々あおあおよこたはる太平洋をにらみつゝ、輝かしい誇りを胸一杯に抱いて必死にいそしんでゐる。
 私は、「戰線文庫」の委嘱をうけて、この海軍航海學校を訪問した。

地上の甲板
嚴肅な躾教育
 海軍の學校はどこでもキレイである。キチンと整頓されて塵一本落ちてはゐない。そんなわかり切ったことは書いてくれなくてもいい、と編輯者は私に命じたが、この航海學校を訪れて校内を見學さして貰ったとたんに、私は、なにがなんでもそのことに一言ふれざるを得ない氣持になってしまった。
 海軍の學校は、どこの學校でも綺麗である。きちんと整頓されて塵一本落ちてゐない。
「この學校は海軍の學校中でも、いちばんキレイである」と、教官がしづかに微笑されながらいはれた通り、校舎の中はいふもおろか廣い校庭の隅々までも、まったくキチンと整頓され、塵一本落ちてゐないのを見て私はおどろいてしまった。塵一本落ちてゐない、などといふ言葉が決して誇張や文飾でないが場合があり得るといふ事實をのあたりにして私はおどろいてしまったのだ。 しかもその美しさたるや、ひょっこり外部からやって來た人間どもに見せるための美しさなどではなく、ここに集ふ無數の海の若人たちが、自分の心を、魂を、磨きあげると同じ氣持ちで、整へ掃清め磨きたててゐる絶對の美しさなのだ、別嬪さんがじぶんの顏を丹念に磨きつづけるその美しさとは根本的にちがふのだ。眞の美しさとはこれだな、と私はひそかに教へられた。
 校庭などは隅から隅まで箒のあとがキチンとついてゐる。練習生達はこの校庭をみづから修養道場と呼んで、如何なる場合でもこの校庭を、一人、私用で、横斷することを絶對にしない。もしどうしても横斷しなければならなくなった時には、その一隅に埋石でズーっとしるしのつけてあるところを通って行くといふ。この氣持!
「この學校は、海軍の學校中でも一番綺麗ですよ」
 と、許されて参觀に來た筆者を顧みて教官がいはれた通り、校舎の中はいふもおろか、廣い校庭の隅々までも、きちんと整頓されて塵一つ落ちてゐないのを見て私は感嘆した。この清らかな美しさ、この美しさは、娑婆から参觀に來た人間どもに見せるためのものでは勿論ない。こゝに集ふ無數の海の若人たちが、自分の心を、魂を、磨きあげると同じ氣持で整へ、掃き清め、磨きたててゐる絶對の美しさなのだ。 校庭などは隅から隅まで美しい箒目がついてゐる。練習生たちはこの庭を自らの修養道場と呼んで、いかなる場合でもこの校庭を、一人、私用で、横斷することを絶對にしない。もしどうしても横斷しなければならなくなった時には、その一隅に埋石でしるしのつけてあるところを通って行くといふ。この氣持!  この嚴肅な躾教育を基礎としてこそ、世界に誇るわが海の技術者が、いやが上にも立派に錬成されて行くのではないか。
 ――あんまり何もかもキチンとしてキレイ過ぎるので、私はいささかくやしいやうな氣持ちになって、どこかにあらをさがしてみやうと、出たくもない小便が出さうなふりをして便所へはいってみた。ところがこれもまた完全に私の負けであった。同行の志村畫伯も私と同じ氣持ちがあるのか便所の中へはいって來たが、これまた徒らに眼を丸くしてうろうろしてゐるばかり。 尤も先生は私よりしっかりしてゐるとみえて、すぐに立ち直ると便所の中でまでしきりにスケッチしはじめた。どうも畫描えかきさんなどといふものは、うかつに拙宅などへは連れて來られないな、などと思ひながら廊下へ出る。
 とたんに、壁の掲示板に文字あり。その第一行に、
(躾とは軍紀の錬成である)
 私ははっとなった。私の考へてゐた絶對の美といふものに、もう一つ、いかめしい鐵の心棒が打ち込まれた感じだ。
 軍艦に乗った人は誰でもいふ。軍艦の中は隅から隅まで舐め取たやうにキレイだと。だが、航海學校は、その軍艦の甲板にも劣らず、隅から隅までキレイなのだ。いや、このやうに嚴格な、世界一の(躾教育)を基礎としてをればこそ、日本の軍艦は世界一キレイなのだといふべきかも知れない。海軍航海學校は、まさに地上に築かれた甲板なのだ。

御船のもとで
大洋に心馳せつゝ
 校内を一巡して課業の状況を見せて頂く。
 窓から濃藍の海の見える校舎の一角では、いまズラリと並んだ事業衣の若人たちが、眞劍な面持で○○信號の電鍵を打ちつづければ頭上の試驗電燈はせわしく點滅して、さながら第二のツラギ海峽毆り込みを夢みるやう。同じ校舎の屋上の一部では、三歩間隔四列縱隊の若人たちが、サンサンたる太陽に照らされながら手旗信號の基礎訓練だ。 分隊教員のピッピッと吹鳴らす合圖の笛につれて、赤と白の無數の手旗が、まさに一つになって一糸みだれず迅速確實に行動する。赤い旗白い旗、青い空緑の丘、そして濃藍の海。その沖を滑るが如く走って行く艨艟もうどうの姿! あゝ、なんたる美しさ、なんたる素晴らしさ。もしそれ日本中の乙女等がこの素晴らしき美しさを知ったなら、少女歌劇は一夜にしてその幕を閉ぢるであらう。
 校内を一巡して課業の状況を觀せて頂く。濃藍の海を窓外に見る校舎の一角では、いまズラリと並んで事業衣の若人たちが、眞劍な面持で○○信號の電鍵を打ちつゞければ、同じ校舎の屋上の一部では、三歩間隔四列縱隊の若人たちが、燦々たる太陽を全身に浴びつゝ手旗信號の基礎訓練だ。 分隊教員のピッピッと吹鳴らす合圖の笛につれて、赤と白の無數の手旗が、まさに一つになって一絲亂れず迅速縱横にはためき動く。そしてその背景をなすものは、青い空、緑の丘、濃藍の海、その沖をすべるが如く走って行く我がくろがねの雄々しき姿! あゝ、何たる美しさ、なんたる素晴らしさぞ!
 向ふの校舎の屋上から、桃色の氣球がフワリとばかり青空へ舞ひ上った。氣象術の練習生達が、測風氣球の放揚試驗だ。見るからに精度の高さうな複雜な機械にとりついた紅顏の美少年達は、みるみる青空に吸込まれて行く氣球をレンズの先で追ひながら、眞劍な面持ちで氣象測定に餘念がない。
 向ふの校舎の屋上から、桃色の大風船がフハリとばかり舞上った。氣象術の練習生達が、測風氣球の放揚試驗だ。見るからに精度の高さうな複雜な機械にとりついた紅顏の美少年達は、みるみる青空に吸込まれて行く氣球をレンズの先で追ひながら、眞劍な表情で氣象測定に餘念がない。
 階段を下りて再び教室に向ふ。
 轉輪講堂では、分隊教員を中心にした若人たちが、○○轉輪羅針儀の取扱ひにヂッと耳を傾け、帆布はんぷ講堂では、その構造使用法を説く教員の口もとに、無數の鋭い視線が一つになって集る。操舵講堂では、いましも面舵取の舵輪をしっかと掴んだ若者が、決意の唇を固く結んで、面舵一ぱいにして心中はやくも太平洋の怒涛に乗出してゐる。
 階段をくだって今度は轉輪講堂をのぞく。そこには分隊教官を中心に若人たちが○○轉輪羅針儀の動きに固唾をのみ、次の帆布はんぷ講堂では、その構造使用法を説く教官の口もとに無數の視線を鋭く集中してゐる。操舵講堂では、いましも面舵取の舵輪をしっかと掴んだ若者が、決意の唇を固く結んで面舵一杯、早くも大洋の怒涛の眞唯中に心を馳せてゐる。
 校庭の一隅から嚠喨りゅうりょうたるラッパのが聞えて來た。大きな圓陣を作った白服の若人たちが、滑らか分隊教員の指揮につれて青春の息吹を胸一杯にふくらせながら、勇ましいたたかひの勝鬨をあげてゐる。

逞しき行進
 岸壁では、短艇操法がはじまってゐた。
 短艇吊柱ダビットから海面に下ろされた幾艘もの短艇では、「かい立てえッ」教班長の號令で、サッと一齊に林立した櫂の群れが、「用意」で再びサッと水際に下りると、たちまち、水馬みずすましのやうに美しい波紋を殘しながら鮮やかに漕出して行く。 ところで、その海の水といふのが芝浦あたりの水の色とはどだい問題にならんのだ。いふならば、まるでサイダーを流したやうな海なのだ。その澄み切ったサイダーの底には、海藻の蔭から大きなヒトデが妖しくも美しい姿をうごめかしてゐる。
 岸壁では勇ましく短艇操法が始まってゐた。短艇吊柱ダビットから海面に下ろされた幾艘もの短艇では、「かい立てーッ!」と教班長の號令で、サッと一齊に林立した櫂が、次の「用意ッ!」の號令で再びサッと水面に沈んだと見ると、忽ち水馬みずすましのやうに美しい波紋を殘しながら鮮かに漕ぎ進んで行く。
 外海に面したはうの岸壁の沖には、教材用の軍艦「富士」が繋留されて、その舷側ではいましも汽艇の達着演習が行はれてゐる。 軍艦「富士」といへば、明治二十五年英國に注文して同三十年に完成廻着した我國最初の戰艦であるが、この建造がはじめられるや、その製造費の豫算案が第二帝國議會で否決の運命に邁ひ、ために畏れ多くも皇室より年額三十萬圓の御支出が仰出おうせいだされ、帝國官吏また全員揃って俸給の十分の一を醵出きょしゅつして建造を進めたと聞いてゐる。 思ふだに萬感胸に迫るゆかりの艦であるが、その畏れ多くも尊き御艦みふねのもとで、汽艇の船尾ともに白泡を立てながら、默々として達着の演習にいそしむ若人らの幸福さうな顏々を、私は、身内の顫へて來るやうな限りない羨望を以って見詰めつづけずにはゐられなかった。
 外海に面した方の岸壁の向うには、教材用の軍艦「富士」が繋留され、その舷側では、折から汽艇の達着演習が默々として行はれてゐる。艇尾に白波を立てつゝ自在に艇を操って達着の演習に精魂を打込んでゐる若人達の誇らしげな顏々を見て、私はいひやうのない頼もしさと感激に強く胸打たれたのである。

樂しき生活
 ひるの兵食を御馳走になりながら、班長ざんたちから練習生の生活ぶりを訊く。
 練習生達は、三日に一度くらゐの割で、校内の酒保から、うどん、おしるこ、菓子等のご馳走を貰ふといふ。聞きながら、おもはず志村畫伯と顏見合せて唾を呑む。
 さういへば、晝休みの廊下で行會ふ練習生達の顏は、みんな誰も彼も幸福さうに輝いてゐる。世界一規律正しい學校で、世界一の海軍々人になる教育を受けてゐるといふ、誇りと自負と歡びが、ひきしまった男らしい顏々にあふれてゐるのだ。ところで、練習生達の生活の中でわけても樂しいのは、毎週一回づつ許される半舷外出だ。この日、海の若人たちは颯爽としてそれぞれ市内の指定下宿におもむき、まづ、五十錢以内で鱈腹ご馳走にありつくのだ。 若人たちの師であり兄である教班長は、あらかじめひそかに下宿の小母さんのところへ出かけて、「どうも○○は眞劍すぎる。せめて下宿へ來た時くらゐは、勉強なぞはさせずにゆっくり遊ばしてやってください」と親身の親にも兄にも劣らぬ心づかひを見せて頼めば、 海軍氣質の小母さんまた、よし引受けたとばかり、「なんの、いまさらそんなこと。伊達や物好きで天子様の兵隊さんをお預りしてゐるんぢゃござんせん。あなたがたが、父親代り兄代りなら、わたしは眞の母親代りになって面倒を見ませう。さァさァ娘や。今に○○さんが來られるから、こないだの林檎を用意しときなさいよ」とばかり、折角の配給品まで家の者たちは食べずに練習生へサーヴィスする。練習生またこの美しき人情にほだされて、さて外出となってもまっすぐ下宿へは駈けつけず、 何處をウロウロしてゐるかと思へば、市内の下士官兵集會所(ここでは兵隊さん達はいつでもお菓子が買へる)その集會所の門前の長い長い行列の尻について、一時間も二時間も貴重な外出時間をつぶした揚句、やっと買求めた自分の分のその菓子を、自分では食べずに下宿の小母さんのところへ土産に持って行くといふ。 世界中の人情が地に墜ちて世の中がカサカサにならうとも、ここばかりは萬代よろずよかはらぬ麗はしき愛情の世界がなんともいへない和氣藹々わきあいあいたる雰圍氣が、コッテリとろげられてゐるのだった。
 和氣藹々といへば、學校の廊下のところどころに罰金箱といふ奇妙な大きな箱が、南京錠をかけられて置いてある。訊いてみると、なにかをやりっ放しにした人間があると、帽子だらうと靴だらうと片ッ端からこの中へ仕舞ひ込んで鍵をかけてしまふ。そして一週間毎に開封して、中から取出した品物に書いてある名前によって、やりっ放しの犯人? を呼出し、品物と引換へに罰金を取るといふ。そのまた罰金がふるってゐる。曰く、兵二錢、下士官五錢、准士官二十錢。――あゝ、なんといふ、親子のやうな愛情に滿ちた微笑ましい罰則であらうか。

黒潮に誓ふ
 晝休みが終って(課業始メ五分前)のラッパが鳴る。午後の課業がはじまるのだ。
「では最後に校庭の集合ぶりを見ますか?」
 教官に誘はれて表へ出る。とたんに私はあッとばかりおどろいてしまった。
 廣い廣いあの校庭が、白一色に塗りつぶされてゐるのだ。まるで無數のチョークの列を並べ立てたやうに夥しい若人たちの隊列が、微動だもせず整然と並び重なり、その眼もさめるやうな白一色の校庭の彼方には、濃藍の海が、ひと刷毛さッと鮮やかな對比を見せて横たはってゐるのだ。やがて、正面の壇上に立った教官からマイクを通じて(課業始メ)の號令がかかった。すると、いっさうおどろくべきことが私達の眼前で起きあがった。 ‥‥どこからともなく、まるで地の底から湧上って來るやうな、なんとも異様な足踏みの響きが、はじめ低く、やがて追々に重く大きくダッダッダッダッと地軸をゆるがすばかりにして轟きはじめたのだ。と、見る。眼の前に層々と並んだ白い隊列が、順次前方から一隊また一隊、歩調も高く整然として進みはじめたかと思ふと、右へ左へ、各隊列毎にクッキリと鮮やかな轉廻を見せて、校舎へ、岸壁へ、軍艦へ、それぞれの課業場めざして逞ましき分列前進がはじめられたのだ。 隊列はあとからあとからと限りもなく進み出ては、右へ左へ四方八方へ、一糸亂れぬ鮮やかな隊形を見せて進みわかれて行く。 歩調の響きはいよいよ高く、勇壯なるラッパに合せてアメリカまでも届けとばかり轟々と地軸をゆるがし、かたくひきしめられた若人たちの顏顏顏は、見よやいま、彼方に横たふ太平洋の、永劫に乾くことなき黒潮の波騒なみさいに賭けて、よし戰友の仇はかならず撃つぞと、誓ひのまなじりしっかと見ひらき、米英撃滅の決戰の海へ、歩武堂々と乗り出して行くのだ。あゝ、勇ましきかな、男の世界!
 やがて再び校舎へ引返し、最後に若人達の集合ぶりを見た。「課業始メ五分前」のラッパが鳴り、廣い廣い校庭が、唯白一色に塗りつぶされる。整然と並んで若人たちの隊列が、やがて「課業始メ」の號令と共に、順次前方から一隊又一隊、歩調も高く整然と進み始めたかと思ふと、右へ左へ、各隊列毎に鮮かな轉廻を見せて、校舎へ、岸壁へ、軍艦へと、それぞれの課業場めざして逞ましき分列行進が始められた。
 一絲亂れぬ鮮やかな隊列、堅く引緊ひきしめられた若人たちの元氣溌剌はつらつたる顏々々、歩調の響きはいよいよ高く、やがては米英撃滅の決戰の海へ、歩武堂々と乗出して行くのだ。

注)該当段落ごとに文字色を変えて初出と再録改竄版を全文併記しています。
注)句読点は補ったところがあります。



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夢現半球