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平林初之輔 作品小集

新設: 2023.04.30
Last Update: 2023.04.30
略年譜・作品・著書など(別ページ)
作品小集

      目次

  1. 「壊された幸福」 (探偵小説?) 旧かな旧漢字 2023.04.30
     
  2. 「或る日の紳士」 (ユーモア小説?) 旧かな旧漢字 2023.04.30
     
  3. 「十月十七日」 (史実小説?) 旧かな旧漢字 2023.04.30
     
  4. 「ランデヴウ」 (当時のモダン小説?) 旧かな旧漢字 2023.04.30
     
  5. 「(『エドガア・ポウ集』について)」 (コメント) 旧かな新漢字 2016.07.18
     



短篇「壊された幸福」
「台湾日日新報夕刊」 1929.12.17〜22 (昭和4年12月) より

(一)
 大澤文三には幸福と不幸とが一度にはじまった。しかも、廣い世間にも例の少い、妙なはじまりかただった。
 彼が今の夫人と結婚式をあげたのは、二年前の冬の晩だった。その晩がまたひどい吹雪で、宵のうちに雪が三寸もつもった位で、電車もとまってしまひ、さすがの銀座通りも、シベリアの雪野原のやうな荒涼たる眺めを呈してゐたことを私は今だにおぼえてゐる。
 式場は銀座三丁目の横丁にある教會で、夜の六時に式がはじまる豫定だった。ところが、雪のために案内状を出した顏觸が容易には揃はず、明るいうちから電車の不通になった方面もあったりして、式のはじまるのが一時間半ものびてしまった。
 それでも式がはじまった時には式場のベンチは七分通り塞がってゐた。
 そして、名前は忘れてしまったが東京でも有名な何とかいふ牧師によって式はおごそかにはじめられた。私は、教會の結婚式には、あとにも先にも、その時だけしか出たことがないので、式がどういふ順序で行はれたかは忘れてしまった。何でも、牧師が、祈祷をいったり、参會者が讃美歌をうたったりしたこと、新郎はモーニングか何かを着こみ、新婦は丸髷の紋服姿で、牧師の前に並んでたってゐたことなどを記憶してゐるだけである。 それに、私は實を云へばその時、式場の光景にはまるで注意を拂はずに、披露會に出やうか出まいかと考へたり、歸りには白山の鳥屋で一ぱい飲んで暖まって歸らうなどと考へたりしてゐたのであった。
 そのうちに、式がおはりに近附いて牧師が「この二人の結婚に異議のある人は云っていたゞきたい。」といふやうな意味のことを言った様におぼえてゐる。あとから知ったところによると、教會の結婚式には、必ず、牧師が参會者にさういう質問をするのださうである。これは全く形式的な質問で、式場で結婚に異議を唱へた人などは、まず日本はおろか、西洋にだってほとんど例がなからうといふことである。 それは、その筈で、異議のある様な人には案内状を出しもすまいし、又、案内状を受けとった本人も異議のある結婚式に出かけてくるわけもないわけだ。ところが、その晩には、この世にも珍しい出來事がおこったのであった。
「異議あり」といふ大聲が、誰も豫期してゐない時に、だしぬけにまるで學生の擬國會の様な粗暴なやりかたで、しかも第一列から起った。
 滿場の紳士淑女はあっけにとられてどよめきわたった。後列に立ってゐた人達は、爪先立ちをしたり、席をはなれてわざわざ前へ進み出たりして、この、思ひがけない發聲者が誰であるかを見定めやうとした。
 新郎新婦は、蝋燭の様に白くなって、あとをふりかへった。
 滿座の中で受けたこのひどい侮辱、一生取り返しのつかない此の不名譽の刻印、この上何を云ひ出されるかわからぬといふ立ってもゐてもゐられぬ恐怖、これらの激情か、二人を極度に狼狽さしたことは言ふまでもない。西洋の女には、これ位の打撃をうけて卒倒しない女は一人もなからうと、あとから、或人が言った。 それから、これもあとからきいたことだが、新郎の方はこの侮辱の言葉をきいた瞬間に「しまった」と低聲で言ったといふことである。もしそれがその人の聞き誤りでなかったとすれば男の方は、かねて期するところがあったのかも知れぬと私は思った。
 それは兎に角、場内で、一番ひどく驚いたのは牧師であった。彼は思ひもかけない言葉を聞くと、いきなりその場に棒立ちになってしまった。この前例のない出來事に對して彼は、どういふ處置をとってよいものか見當がつかなかったのである。誰だって、こんな妙な立場に置かれたら、途方にくれてしまふにきまってゐる。併し、さすがに場なれた牧師である。彼はすぐに、かういふ狂人には相手にならず、兎に角、大急ぎで式を終ってしまうに限ると決斷したらしい。
(二)
 ところが牧師が何か云ひ出さうとすると、再び「牧師さんに申し上げるが、この結婚には異議があります」とさきの男が今度は打って變って落つきはらって言った。
 前列の人々は發言者のそばへ集まって、彼をなだめてゐるらしかった。牧師はまた立ち往生をしてしまった。
 異議をはさんだ男は、あたりの人になだめられながら、前よりも更に落ちついた口調で言った。
「では、牧師さん、かまはず式を続行して下さい。貴方の立場として、私の異議をとりあげて、この場で、新婚者を前において、その人の不名誉をきゝとることもできんでせう。私もそんなことは申し上げるつもりはありません。たゞこの結婚には、新郎大澤文三の従弟であり、彼の生活を最もよく知ってゐる大澤行雄に異議があるといふことを申し上げておけばよいのです。かやうな席上で、新婚者のみうちにあたる私がこれ程のことを申し上げるにはよくよくの事情があるのだといふことさへ了解していたゞけばよいのです。」
 彼の言葉がをはると式場は急に騒がしくなった。新婦は母親のそばへはしりよって、わっと泣きくづれるといふ始末だった。たゞ驚くべきことは、新郎が、このひどい侮辱に對して一語も答へなかったことである。
 牧師はいくらいまいましくとも大澤行雄の言葉通り式を續行してこの不面目な場面を一刻も早く閉づるより外はなかった。
 大澤夫婦の生活の第一歩はかういふ場面ではじまったのである。
 その後、私は半年ばかりも大澤文三に會はなかった。あゝいふ事件のあとで本人と顏をあはせるのは氣まづいので、顏をあはせる様な機會はわざとはずしてゐたのである。しかし、色々なうはさは私の耳にもはいった。
 それによると、結婚式の晩の出來事は單にありふれた失戀事件で行雄が、あの場で失戀の餘憤を洩らして勝利者を中傷したのであるといふ人もあり、行雄といふ人は、決してそんなことをする様な人間ではないから、きっと失戀事件どころぢゃない深い事情があるに相違ないといふ人もあり、行雄は新婦の顏は結婚式の日まで知らなかったのだといふ人もあった。 けれども、あの事件で結婚は破談になる様なことはなく――尤も披露式は本人が病氣といふ理由でとりやめることになったさうであるが。無事にすんで二人は、少くも外観(よそめ)には幸福な生活を送ってゐるといふ事はたしからしかった。
(三)
 それから半年ばかりたってから――去年の夏のことである――彼が、突然訪れて來た。
 私は、あの晩の出來事の眞相がきゝたくてたまらなかったのであるが、それでゐて、あんなことは全く忘れてしまった様な顏つきをしてゐなければならぬと決心した。
 ところが、ちょっと久闊の辭をかはしたあとで、大澤は、驚くべき率直さで、私の度膽をぬいた。
「あの晩は君も驚いたらう。あゝいふ不名誉な、あゝいふ残酷なやりかたで新生涯の第一歩をはじめた人間は、世間にもあまり類がないからな。」彼はまるで第三者の様に平氣で語りはじめたので、こちらが面喰(くら)ってしまった。
「ところで、従弟の言ったことはみんなほんとうだよ。恐らく、あの時一番驚かなかったのは、攻撃された當人の僕だらう。僕は前もって豫期してゐたのだからな。まさか結婚式の現場で、あゝいふやりかたでやっつけられるとは考へてゐなかったが、おそかれ早かれ思ひがけないやりかたでひどい目にあふことは覺悟してゐたのだ。それは、従弟が僕に前もって、僕の様な「社會の公敵」は「最も残酷な方法」で葬ってやると面と向って言ったことがあるのだからねえ。」
 私はどう言ってよいかわからぬのでたゞ、だまって聞いてゐた。
「僕は、實はあの男の妹と婚約を交した間柄だったのだ。ところが、はじめから話さんとわからんが去年の九月の地震で、僕は少しばかり儲けたんだ。あの地震は、九月一日の午前十一時五十八分だったろ。それから、市内に方々で火が出た事は君の方がよく知ってゐる位だ。これはてっきり大火事になると思って、僕は、速座に決心してその日の二時頃には、もう自動車を雇って東京をたってゐたものだ。甲州の目的地へついたのは、その日の七時前だったね。停車場から四里●(を?)離れてゐるその町では、まだ東京の大地震のことは知らないのさ。 そこで、すぐに話しがついて、まあ小規模ではあるが材木の賈ひ締をやったのさ。併し、何しろ僕も、大火事になるとは思ったが、東京の目星しい町が半分以上も焼けてしまうとは思はなかったからねえ。さうと知っとれば、信州の方へも手をのばす筈だったんだがね。そんなわけで儲けたと云っても知れたものさ。世間ぢゃ僕のやりかたを大變悪く言っとる様だし、現に従弟などは口を極めて僕をのゝしったもんだが、僕はちっとも悪いとは思っとらんよ。河村瑞軒や紀國屋文左衛門の故智を學んだに過ぎんのだからね。正當な金儲ぢゃないか?」
 私は、かういふ儲けかたは、あまり芳しくないと思ったが、それでもたゞ「ふん」とか、「はあ」とか合槌を打ちながら、聞いてゐた。これは日頃から私の悪い癖の一つなのだ。
「そんなわけで僕はまあ家も焼かず、金は儲かるといふわけで」と大澤はつゞけて言った。
(四)
「僕にとっちゃ、地震は福の神だったのだが、従弟の方ぢゃ大違さ。家は丸焼になるし、おまけに妹が――「例の僕と婚約の間柄だった妹だね」――怪我をしてね。なに、ちょっと足の指を二本ばかりくぢいたといふだけなんだがね。それ丈なら何でもないのだが元來僕は従弟とは性があはん上に、指二本といへども娘にとってはもうきず物だからねえ。それにその頃僕には別に女ができてゐたので、あれやこれやでその男の妹との縁談を破約にして貰ひたいと云ってやったのさ。 不具者といふことを口實にしてね。しかも葉書一本でね。今になって考へて見ると、僕のやり方がひどかったよ、何と云はれても仕方がないと思っとる。しかし、それだけならまだいゝのさ。その妹といふのが、生れもつかぬ不具者になって、その實、不具といふ程ぢゃないがね、女心によい加減心配してたところへ僕の破約の葉書がいったのだろ。あの女が自殺したのは、そのために相違ないと君だって事情を知って見りゃさう思ふだらう……ところがあのいとこはえらい人間だよ。 僕はあの日の新聞をのこらず賈って見たが僕と婚約があったことなどはどの新聞にもちっとも書いてなかったからね。あの男は僕から送った葉書などは焼いてしまっただらうと思ふよ。「死因は不具を悲観したものらしい。」とゞの新聞にもたゞそれだけ書いてあったよ。しかも、實兄の談としてねえ、まったくあの男にはえらいところがある。僕はあの男を感謝こそしてをれ、うらみに思ふわけはないのだよ。」
 彼の口調にはいくらか面目なささうなところもあったが、べつだん後悔してゐる様な様子もなかったので、私は心から彼を圖々しい奴だと思った。彼は平氣でサイダーのコップを飲みほしながら語りつゞけた。
「それから、あの男は僕に對しても一言もうらみを言ったことはないのだ。おそらく僕はあの従弟との外には、このことを知ってゐるものは今でもないだらうと思ふよ。あの男は、決してさういふことを人に口外する人間ぢゃないからねえ。ところが僕が今の妻と結婚するといふ噂がひろまると、ある日従弟が血相かへてやって來たことがある。 僕を社会の公敵と罵ったり最も残酷な方法で葬ってやると言ったのもその時なんだ。無論僕は一言もなくだまって聞いてゐたよ。それに、それは従弟が一時かっとなったからのことで、翌(あく)る日には、「昨日はつい取亂して暴言を吐いてすまなかったといって、手紙で丁寧に詫て來たので、僕の方が恐縮した位だよ。」
「ふん」と私は少なからぬ興味を感じながら、それには不釣合な輕い返事をしながらきいてゐた。彼はつゞけて言った。
(五)
「あの晩にも、きっと従弟はあんなことを言ふつもりはなかったらしいね。それが僕たちの幸福さうな姿を見たり死んだ妹のことを考へたりしたもんだから、ついかっとなってしまったんだよ。僕には、それがよくわかってゐたし、それに、翌日すぐにまた手紙でわびて來たよ「つい失禮なことを云って、二人の幸福のかどでを少しでも汚したことは申わけない。あれには何の意味もないのだから、奥さんに惡からず詫びていたゞきたい」といふ様な文句だった。 そのために、妻も妻の母も、疑惑を晴して、あの場の出來ごとは無事にをさまったのさ。妻は、今だに従弟のことを。事業に失敗して氣が變になったのだと信じとるよ。僕がさう言ってきかしたのだからねえ。従弟があゝいふ性格だからこのことは、ばれる気遣はないと安心してね、まあ、従弟の善良さを利用したやうなものさ。」
 かう云って、彼は、輕くではあったが笑ひさへした。
 大澤の話しを聞いてゐるうちにだんだん募って來た彼に對する憎惡は、たうとう爆發した。
「君は、それで今幸福に暮してゐるといふわけなんだね?」
 と私はできるだけ皮肉にきこえる様にいった。
「幸福と人には思はれるかも知れん。又幸福といふものは元來かういふものかも知れん」と大澤はべつだん皮肉に應酬する様子もみせずにいった。
「何しろ、僕は結婚の第一日に汚され幸福を回復するために、並々ならぬ努力を拂ったよ。先(まづ)幸福の第一要件たる二人の愛は申分なかった。僕は妻を愛してゐたし今も愛してゐる。妻も僕も愛してゐることはたしかだと思ふからね。第二は財産だ。財産といっても多寡がしれてゐるがね。僕が地震で儲けた金って三四十萬だからね。併し、この金を最も確實に保存するにはどうしたらよいかと、ずい分苦心したものだよ。 昔の人が床下へ小判を埋めておいた心理はよく僕にも分ったね。しかし今日では、家にしまっておくのは一番危險だし、それに、少しでも利子がはいるに越したことはないからね。それで僕は、市内の第一流の銀行四つへ、この金をわけて預金したんだ。一つの銀行ぢゃどんなかたい銀行でも安心できないと思ってね。」
 私は職業柄――云ひ忘れてゐたが私は醫者なのだ――彼の行爲が少し常規を逸して病的性質を帶びてゐることを感じながら聞いてゐた。
「その次は健康だが、僕も妻も身體は至って健康な方なのだが、それでも安心がならんので、毎週一度づつ醫師から健康診斷を受けることにし、體温や體重や、血壓は毎日自分ではかって見てゐる。それから冷水摩擦、靜座法、自彊術なども色々試みて見た。酒や煙草をすっかり●(や)めてしまったことは云ふまでもない。三度の食事は、榮養やカロリイを充分しらべた合理的食餌法を忠實に實行したんだ。かうして、僕たちの生活へ不幸といふものが入り込むすきをなくしやうと思ったんだよ。」
「そりゃ結構だね。」
 と私は殆んどつっけんどんな調子で言った。
「ところが不幸といふやつは空氣の様なもんだね。どんな隙間からでもはいって來る。
近頃、僕は、僕の努力の根底からくつがへされさうな氣がしてしょうがないんだ。妻はどうも最近僕と死んだ従妹との關係をどっからかきゝ知って來たらしいんだよ。それに妻が外出して歸った時など僕がしつこく廻りくどい質問をするのだね――僕としては不安心でさうせずにはをられんのだ、相手がうるさがることなどはよくわかってゐるのだがね――それを妻の方では、また變な意味にもとって、二人の間が近頃妙にもつれてしまったのだよ。」
 正直に白状すれば、私はこの告白をきいて痛快味を感じた。そして、それは當然だと今でも思ってゐる。
「それから財産の方も心配で、しょうがないのさ。通帳を盗まれはしないか、小切手を僞造されやしまいか。銀行が焼けて帳簿がなくなってしまひはしまいか、そんなことはなくとも何かの間違ひで帳簿にあやまってつけ込まれて、をりはしまいか、などと、あり得ることも、あり得ないことも一緒になって僕を不安にするのだ。」
 彼の顏を見ると、ほんとうに今不安を感じてゐるらしかった。
(六)
「しかし、一番不安でしやうがないのは、健康の方だよ。靜座法などは、不自然で却て肺を惡くするっていふようなことを何かで讀んでから、僕はぴったりと靜座方はやめてしまったもんだ、それから厄介なのは、ヴィタミンといふやつでね、あれのことを聞くと、合理的食餌法なんてものは三文の價値もなくなってしまふんだからね。 それにやれ生水がよいとか、果物は皮をむかないで食べるのがよいとか、牛肉よりもさつまいもや菜葉の方がよいとか、まるで反對の説があるので、僕のとってゐた健康法にもすっかり自信がなくなってしまったわけなんだ。おまけにこの頃は體重が四百匁もへったのでね、もうすっかりだめだといふ様な氣がするんだ。いろいろの醫者にみて貰ふと一人一人ちがったことを云ふので、僕はもう誰のいふことも信じられなくなってしまったんだよ。」
 彼は、この時、眼をあげて私の顏を見ながら言った。
「その時に君を思ひ出したんだ。君の腹蔵のない意見をきかうかと思ってね、そして、せめて健康だけになりと充分の自信がもちたいと思ってね。」
 私は、彼が相當強度の神經衰弱にかゝってゐることに氣がついたけれども、この男はもっと苦しめてやる値打があるとも感じた。と言っても醫師として、わざとまちがった意見を言ふわけにもいかない。私はちょっと躊躇したあとで云った。
「身體(からだ)のためには、心にわだかまりのあるのが一番いかんね。心に心配やおそれや疑をもってゐてどんなにそとから養生して見たって徒勞だよ。人間に一番必要なのは心の平和だ。君が幸福をのぞむなら財産や健康よりも何よりも先(まづ)心の心配をなくすることだね。君は、過去の罪惡を奥さんに打ち明けたかね。暗い過去を包んでおいて、幸福を求めようってのは矛盾だよ。」
 彼●(が?)過去を細君に打ちあけるといふことは、彼等の夫婦關係をたちきることにほかならんだらう。少くも彼にはさう思はれるだらう。從って、彼はそれを打ちあける氣使はない。さうすれば彼の神經衰弱は益々ひどくなる一方だ――と私は考へながらかう云った。
 彼は悲痛な表情をしてだまってゐた。私はひそかに快心の笑みを洩したのであった。
× × × ×
 それから最近まで、私は、大澤のことをすっかり忘れてゐた。
 こないだ、彼が狂死したといふことを新聞で讀んだときは、さすがに喫驚(びっくり)したが、それは前もって約束された結末だと思ふ。何でも彼は五六箇月前に郷里の福島へ歸って、神經衰弱の養生をしてゐたのであるが病氣はおもる一方で、とうとう家人の監視のすきを見て西洋剃刀で頸動脈を切って即死したものらしい。
 彼の私に告白した話がほんとうだとすれば、さぞ従妹の亡霊や、生きてゐる従弟に對する恐怖に惱まされたことだらう。妻君に對する病的な猜疑も、さぞかし氣味のわるい程猛烈になっていったらうと思はれる。何も知らずに大三の様な男と結婚した細君――私は結婚式の晩に見たゞけであるが――はいづれにしても同情に値する。 私は彼が従妹との關係を死ぬまで細君に秘してゐたかどうかといふ點に非常に興味をもってゐるが、それは未だにわからぬ。細君にあてた遺書があったといふことであるが、それが公表されたのかどうか、東京の新聞には詳しいことは出てゐなかった。
 ついでに云っておくが、私は死亡の通知も受けとらず、たゞ新聞で彼の變死を見●(た?)。
「ゴフコオアイトウニタヘズ、トウキヨウ、クリノ」といふ電報をうっただけだった。それには向ふから返事もなかった。僕の居所を誰も知なかったせいだらう。(完)


注)●部分の平仮名はほぼ空文字で推測を記しています。不明漢字はルビを記しています。
注)句読点を一部追加(特に新聞の行末)しています。明らかな誤植は変更しています。


「或る日の紳士」
「週刊朝日」付録 1930.01.01 (昭和5年1月1日号付録) より

 ――君はゴルフってものを知ってるかい?
 ――いゝえ、でもずゐぶん近ごろ盛んですってね。こなひだもお客さんがゴルフからお歸りだっていらっしゃったわ。玉突きのやうなものなんでせう?
 肥った報ら顏の紳士は不機嫌な顏をした。女の無知に對してよりも、玉突きのやうな下等な學生の遊戯と、ゴルフのやうな紳士の遊戯とを混同されたことが不快だったのだ。
 ――わたし、野球ならすきですけれど。
 女は話題を轉換させるつもりで、見たことはないのだけれど、ラヂオの放送で耳にはさんでゐる野球のことをいひ出した。
 ――話せんね君は、野球といふものは、魚屋の用きゝや、球突のボーイや、書生っぽが一圓だして見て喜ぶ遊びぢゃないか。ゴルフは紳士の運動なんだ。ちゃんと倶樂部ができてゐてな、そこへはいるには高い金をとられるんだぜ。
 紳士は自分がたゞの人間ではなくて、七つもの大會社の重役をしてゐる大實業家であることを、相手の女が知らないことを、何かその女の途方もない手落ちででもあるかのやうに感じてゐるらしい。そしてゴルフといふ遊びは、匹夫野人の遊びではなくて、貴顕紳士の高尚な遊戯であることを知らせることによって、搦め手から、自分が並大抵の人間ではないことをさとらせようとしてゐるのだ。
 女は内心で反感を起した。紳士はそれに氣がつかずに、脂肪過多で肥滿した身體(からだ)をゆすりながら話しつゞける。
 ――わし等は、どうも運動が足りんのでな、あゝいふ遊びでもせんと、肥りすぎてこまるんだ。東京からわざわざやって來るんだから考へて見りゃぜいたくな遊びさ。こゝのリンクは東洋一なんだよ……
 ――お誂へは何になさいます? お見計らひでよろしうございますか?
 女は明かに反感をあらはにして、紳士の言葉のおはらぬうちに、さっさと自分の仕事に取りかかった。そんな話はきゝたかありませんよ、とでもいふやうに。悲しいかな、紳士にはその皮肉は徹底しないで、女の無知をあはれみながら答へた。
 ――あゝ見計らひでいゝよ。
× × × ×
 ――うちの料理は相當食へるな。
 ――さようでございますか、どうも有難うございます。
 ――何といっても海岸は魚が新しいからな。東京の料理屋にゃかなわんさ。しかし、わし等は却って、たまにはかういふ田舎料理の方がいゝよ。うまいものでもしょっちゅう食べると、たまには變ったもんが食って見たくなるもんだなあ。
 ――さようでございませうね?
 女はむしづが走るのをこらへて、やっと、笑ひながらそれだけ答へた。善良な紳士は、自分の話の効果を百パーセントまで信じきって話つゞける。
 ――酒もやっぱり、却って、かういふ田舎の方がいゝよ、灘の生一本だって、今ぢゃみんな田舎から來るんだからね。
 ――これは失禮ですが白鷹なんですけれど……
 ――それは失禮、いや白鷹も樽によって出來不出來があってな、これなんざ、中々いゝ方だよ。
 紳士は自分の鑑賞眼がまちがったことをはぢながらいひつくろった。女は腹の中でをかしいのをかくすのに骨を折った。無論それは白鷹ではなかったのだから。
 ――誰かきれいなのをよびませうか?
 ――さうさね、誰でもいゝから、よびたまへ。
 勿論女は、その土地きってのすれっからしの藝者を選擇することを忘れなかった。
× × × ×
 中々うまいね君は、東京の藝者はだしだ。
 ――御冗戯(じょうだん)ばっかり、一つ出しなさいよ、東京のかたの咽喉がきかしてほしいわ。
 ――わしは、唄はできん、きく方が専門でな。
 女は一眼で、紳士の言葉が謙遜ではなくて本音であることを見ぬいてしまった。そして爪びきで簡單な歌を二つばかりひいて、ばちを糸の間にはさんで、三味線を下においてしまった。
 ――一ついたゞきませうか? 旦那東京はどちらでございます? 下町? 山の手?
 ――麹町だよ。
 紳士は、自分がこの藝者に十把一からげの人間にあつかはれてゐることが、無論不平なのだ。
 ――旦那の御職業あてゝ見ませうか?
 東京の實業界で二十人のうちには大丈夫はいるこの紳士に向って、これはまた、あまりに亂暴な質問であった。紳士は度膽をぬかれて苦笑ひするより外はなかった。
 ――あてゝ御覧よ。
 苦笑ひはとまらなかった。
「さうね、兜町? 會社ぢゃないわね、いきだから。わたしこなひだ總理大臣に、ご職業あてゝ見ませうかなんて笑はれちゃったのよ。」
 相手が總理大臣を知ってゐて、しかもそれ程尊敬してゐないのを知ると、さすがの紳士も弱った。政治家なんかは實業家がつかってゐるんで、結局、政治家よりも實業家の方がえらいんだなんて説明したって、この無感覺な下等動物にはきゝめがないにきまってゐる。紳士は、かういふ相手には遂に自分のえらさを知らせるすべはないと斷念してしまった。
 ――このごろはえらい人が惡いことばかりしてゐるんで、えらい人の相場がさがって來ましたわね。勲章でもお金で賈へるんですもの。
 ――さうさ、金の世の中だよ、金さへありゃ何でもできる。
 とはいひながらも、紳士は、自分の勲四等を内心でかへりみて不快になった。そして藝妓(げいしゃ)風情に不快にさせられたことに氣がついて、なほ更不快になった。
 ――でもつまんないわね。金さへありゃ何でもできるやうな世の中は……
 こんな田舎へ來ちゃわしのはゞはちっともきかんわいと紳士は思った。彼のはゞのきくのは、彼のとりまき連と、直接彼によって生活してゐる者とだけだなんてことを知るべく、紳士はあまりに善良であったのだ。
× × × ×
「どうだね、近ごろ君たちの景氣は?」
「だめよ。何しろ緊縮でせう。」
「わしどもゝ不景氣でこまるよ。」
「御冗戯ばっかり、旦那方は不景氣なんて御存じないでせう。」
 勿論、女はこんなきまりきった會話には千遍一律のきまり文句で答へるのだ。
「ところが、景氣のよいことは知らんが、不景氣は年中知ってるんだよ。」
 紳士は彼の事業の内容や範圍をこの女に知らせたくてうづうづしてゐるのだ。
 女はそんな話しはきゝあきてゐるので、たゞうるさいだけなのだ。
「何かうかゞひませう。」
 女は機械的に三味線をとりあげた。善良な紳士の話にあきて來たからだ。彼女は職業的な巧さをもって、欠呻(あくび)をかみ殺した。だが偶然、紳士はそれを發見したのである。勿論この紳士にも、自分の不幸を自覺するだけの神經はあった。
× × × ×
 ――七時五十分の上りはまだ間にあふだらうな?
 ――えゝ大丈夫です。
 俥夫は元氣よくいって梶棒をもち上げた。
 停車場までは約三分の道のりだった。
 發車には五分しかなかった。
「いくらだい? 二十錢だね。」
「三十錢いたゞきたいんです、何しろ急いでまゐりましたから。」
「急ぐと急がんとは君の勝手ぢゃないか、俥夫が道を急ぐのはあたりまへだ。いつでもあそこからこゝまでは二十錢で來るぢゃないか?」
 一分過ぎた。
「雨も降りますし、兎に角●●●●●●●●●●●●●●(14文字程度ほぼ空白で読めず)旦那三十錢やって下さい。」
「いやだよ、こゝは二十錢にきまってゐるんだ。」
「急いだもんですから、時間におまにあふやうにと思って。」
 又一分たった。
「それはわかってゐるが、わしは理由のない金は拂はんのだ。こゝはいつでも二十錢ときまってゐるんだから。」
「たった十錢のことですから、それにお待ちしたんですから。」
 また一分。
「けしからんね君は、ぢゃ交番へ來たまへ。」
「参りますとも、お待ちした時間に對してはちゃんと料金をいたゞいてゐるんですから。」
 俥夫は車をかたよせて、ほんとうに交番の方へ歩きかけた。
 紳士も、乗りかけた舟で、仕方がないので雨の中を交番の方へ歩いて行った。プラットホームでは驛夫の呼鈴が鳴ってゐた。
 ――わしはかういふものぢゃが。といひながら紳士が三號活字の名刺を出しても、交番の巡査が、待時間に對する料金を當然と認めて、紳士のいひ分を却下したのは、それから十分もかゝってからだった。 (完)


注)文字不明部分が別の雑誌で確認できるかどかは未調査。


「十月十七日」
「文学時代」 1930.11. (昭和5年11月号) より

 シベリア鐵道のモスコウ行き急行が、ウラル山脈の西側の勾配をゆるゆると、辷るやうに降(くだ)って行った。
 列車がタマラに着いたとき、イギリスの新聞記者が一等車の車室(コンパートメント)でソファから起(た)ち上って欠伸をしてゐるとパセドウ氏病患者みたいに眼球のとびだしたウクライナ生れのボーイが英字新聞をもって來た。

 ――どうしたんだ?
 パーリングは鼻眼鏡をはづして細い眼をしばたたいた。
 ――厄介なことが起ったらしいです。
 ――厄介なことっていふと?
 ――一揆ださうですよ、この鐵道の沿線で。

 列車の中には次第にがやがやした騒音がおこって來た。乗客の眼は一様に不安と好奇に光って來た。
 いろいろな流言蜚語が乗客の口から耳へ傳へられた。
 ――日本の軍隊がペテルブルグへ上陸したんださうだ。
 ――黒海艦隊が、また叛乱をおこしたんだって。
 ――モウコウに暴動が起ったんださうだよ。
 ――暴動ぢゃない内亂だ。
 ――なに内亂ぢゃない革命だよ。
 中には眼をつむって十字をきる者もゐた。また中には、ロシアの専制政治と宮中の腐敗とを滔々と辯じたてる者もゐた。
 だが、半信半疑の乗客は、まだ七分通りはお祭り騒ぎの氣持ちだった。
 列車は十月の半ばの午さがりの弱い日をあびてあへぐやうに進んでゆく。

 シラン驛をすぎて、クヅネツクといふ田舎町についた時、列車はとまったきり仲々發車しなかった。みすぼらしい停車場の構内には、三四人の驛員が一かたまりになって、暢気さうに煙草をふかしてゐた。車掌も下車してその仲間に加はった。

 ――おいはやく發車しないかッ。
 一等車の窓から、長い髭をのばした四十五六の男がいらいらした様子でどなった。
 驛員も乗務員も知らん顏して談笑してゐた。
 こん度は三人づれのアメリカ人がしびれをきらして、何かぷりぷり言ひながら驛長室の方へ歩いて行った。この三人づれのヤンキーは西伯利亞からの鑛山視察の歸りなのだが、旅のうさばらしに、ポーランドの音樂學校の學生を雇って、道々齒のうくやうな流行唄をひかせてゐたので、一行中の鼻つまみだった。しばらく驛長と押し問答してゐたが、結局要領を得なかったと見えて、彼等は行くときよりももっとぷりぷりしながら、赤い顏をしてひきかへして來た。
 三等車の中には不平の罵聲がだんだん高くなった。
 そのうちに、構内で煙草をすってゐた驛員たちが起ち上ってばらばらに分れた。
 やがて二人の驛員が掲示板をかついで、プラットホームへやって來た。
 乗客は皆窓から首を出したり、ホームへおりたりして、一斉にその方へ視線をそそいだ。掲示板には次のやうに露西亞語と佛蘭西語とで書いてあった。
 皆さま、この列車は、當驛から先へはまゐりません鐡道從業員組合本部からの指令で、本線の從業員も同盟罷業に参加することになりました。

 モスコウ大学の門前には過激な宣傳文を書いた貼紙がべたべたはりつけてあった。
「専制政府を倒せ!」「ツァーの政府を倒せ!」「言論集會の自由を與へよ!」 「民衆を欺瞞する参議院を解散しろ!」「憲法議會を召集しろ!」
 こんなのは生やさしい方であった。
 講堂は革命演説の會場にかはってしまってゐた。
 ――諸君、吾々は三月以來の同盟休校を中止した。だが記憶せよ、我々が盟休を中止したのは學問をするためではないのだ。講義をきくためではないのだ。大學自治を利用して、學校を××運動の本部にするためなのだ……
 嵐のやうな拍手が聴衆の間から起る。
 辯士は大學の制服をつけたやせぎすの男である。
 演説は簡単にすんで、次の辯士がきそって演壇へかけ上る。警官の臨檢もなければ、學校當局の監視もない。
 こんどは勞働服の青年が演壇に上った。
 ――諸君、ロシアは日本にまけた。ロゼストウエンスキー艦隊は、まるで玩具(おもちゃ)の船みたいに、東郷艦隊のために沈められた。クロパトキンの軍隊は大山の艦隊を見ると恐れて逃げてしまった。そして一ヶ月前、吾々はポーツマスの屈辱條約に調印したのである。……
 ――だが諸君、戰爭にまけたのはロシアではない。ロシアは日本と戰爭などしなかったのだ。日本と戰爭したのは、ツァーをとりまくバチルスどものしわざだ。このバチルスを驅逐しない限りロシアはもはや滅亡のほかはないのだ。然るに彼等はどうだ。満洲へ送るべき軍隊をモスコウへ、オデッサへ、ペテルブルグへ向けて、ほんたうにロシアを愛する吾々民衆に銃口を向けてゐるではないか、ツァーの軍隊は、敵の血で飾るべき銃劍を、國民の血で汚してゐるではないか……
 聴衆の中には、勞働者もをれば、官吏もゐる。陸軍の士官もゐる。中學生も女學生もゐる。上流社會の夫人すらもまじって、しかも一人一人の辯士に拍手を送ってゐる。
 あらゆる階級が、それぞれちがった立場から、専制政府反對といふ一點では共通してゐたのだ。
 警察も學校當局も、この騒ぎをどうすることもできなかった。それどころか兩方で責任のなすりあひをする始末だった。

 モスコウの勞働評議會(ソヴエト)本部の入口を、勞働服を着た連中が出たり入ったりしてゐた。彼等の顏はみな緊張してゐた。
 あたりには警官の影も見えなんだ。
 會議室には十二三人の勞働者が集まって何か相談してゐる。その中に、フィンランドから、國境をこえて巧みに潜入して來たポリシェヴキ黨員もゐた。一人の勞働者がせきこんで會議室へはひって來た。
 ――ワルソウでは、ポオランド獨立の示威運動が軍隊と衝突したさうだ。
 ――結果はどうだった?
 ――まだわからない、それから、西伯利亞鐡道も罷業に参加した。
 わあっと喚聲があがった。

 クズネツクで立往生したモスコウ行きの急行は、夜になってもまだ動かない。
 一等車の乗客が發起になって交通大臣に、列車をもっと先まで進めて貰ふやうに請願の電報を出すことにきまった。
 三人のアメリカ人が一番ひどく憤慨してゐた。
 ――ロシアには警察がないのか、ストライキだなんて、しかも鐡道のストライキだなんて、この汽車にはロシア人だけがのってるんじゃないぞ? ポーツマスを忘れたのか? ルーズベルトがゐなかったら、今ごろ日本のためにモスコウもペテルブルグも占領されてるんだぞ。
 鑛山技師のクリツフォードががみがみ同僚に向って鬱憤を洩らしてゐた。
 ――これだから日本の猿にまけるのさ、ムージックの國ぢゃ何といってもしやうがないよ。
 頭の禿たヘイウッドが、四邊(あたり)へ聞えよがしの毒舌で答へた。
 翌日になっても列車は相變らず動かない。交通大臣からは何の返事もない。その頃はもう電信技士も罷業に参加してゐたのだ。

 乗客には辨當の引換券が交附されて、罷業中、この券と引き換へに辨當を渡すことになった。だが、三等の乗客は、食堂車の窓を破って、ありったけの食料品は残らずわけどられてしまった。
 二等車の一室にはこの騒ぎを全く知らぬ顔で、ボン大学のシュタインバーグ教授がメンデリスムの書物に讀みふけってゐた。彼は、三時間目に一度位の割合で、窓をあけて外の騒ぎを見て、十字をきっては、ものの一分とたたぬうちにまた讀書をはじめた。
 三等車の中には西伯利亞から送り返される囚徒の一團もゐた。
 彼等は列車がとまってから二日目には、プラットフォームへ出されて、色々な雑役をさせられてゐた。
 ――旦那、このあはれなものに一本おくんなさい。
 彼等は監視の眼をぬすんでは乗客に煙草をせがんでゐた。大抵の乗客はせがまれると、一本か二本卷煙草をやってゐた。
 そのうちに、普通の客車と、滿洲からの歸還兵をのせた軍用列車とがあとから來て、同じやうに立往生した。満洲で戰って來た歸還兵を見ても、誰も歡迎するものはなかった。兵隊の方でもきまりわるさうにして、なるべく車の外へ出ないやうにしてゐた。
 乗客は、退屈しのぎにぞろぞろ町の中を見物に出かけた。町といってもほんとの小さい田舎町で、七分どほりは、草ぶきの露西亞風の家で、下町のやっと三分通りが、ヨーロッパ風の商店になってゐた。
 道は埃っぽくて、汚い。朽葉の匂ひがそこらぢゅうにたちこめてゐる。

 ここはスイスのジュネーヴの町。
 カールジュ街にはロシアの亡命客が澤山住んでゐる。その街角にある粗末な木造の三階建の家が、ロシア社會民衆勞働黨の機關誌『進め』の發行所で、かねてポリシェヴィキの本部にもなってゐる。
 入口は案外ひっそりしてゐる。大部分の同志は本國へ向って出發してしまったからだ。専制政府の威力がゆるんだ隙に乗じて、本國へしのび入り、プロレタリアの中へもぐりこんで、革命運動を指導しようといふのだ。そうした人々の中にはウリヤノフ(レーニン)もゐた。ルナチャルスキーもゐた。
 編輯室の古ぼけた安樂椅子に仰向けになってジュルナール紙を讀んでゐた一人の青年が、突然起ち上って言った。
 ――ペテルブルグにも勞働評議會ができたさうだぞ。
 事務机で帶封の宛名書に夢中になってゐた十九くらいの髪の黒い男が顏を上げもしないで、依然ペンを走らせながらきき返した。
 ――その、勞働評議會といふのは何をするとこなんだね?
 ――多分組合の代表者が集まって色んな行動の方針をたてるとこなんだろ。
 ――じれったいね君、ここにゐちゃ何が何だかわからんぢゃないか――たうとう髪の黒い青年はペンをおいて相手の方を振りむいた。
 ――吾々は一人のこらず、本國へ歸るべきぢゃないか? 本國のプロレタリアは起ってゐる、それだのに、こんなところで、ぐずぐずして帶封の上書を書いてるなんて……
 ――馬鹿ッ――相手の男はまた安樂椅子に腰をおろした。――君は、いま君が何をしてるかわからんのか、吾々のしてゐることが何一つ無駄な仕事ではないってことが。吾々はここでヨーロッパの同志とプロレタリアとに向って訴へねばならぬのだぞ。國境警備軍の眼をかすめて本國へ潜入するのも一つの任務だが、ここで黨の機關紙を編輯するのも一つの任務だ。黨員の部署には甲乙はないのだ。
 ――詭辯だ、それは。本國のプロレタリアはいま一人でも多くの同志を必要としてゐるんだよ。いいか。社會革命黨や、無政府主義者や、それにメンセヴィキの畜生どもの勢力が評議會の中へ入りこんだら、もうおしまひだ。それを防ぎとめるには、できるだけ多くの同志を國内に派遣するのが當然ぢゃないか?
 ――わかったよ、その公式は。勢力の集中ってんだろ。マキャヴェリ以來の戰術の要諦だね。それは、だが、をしむらくは君はプロレタリア××の性質を知らない。これは君のやうなヒロイズムで片附く性質のものぢゃないんだ、ヒロイズムよりも組織だよ。それに吾々にはもう一つの重大な任務が課せられてゐるんだぜ、第三回の黨大會といふ……
 ――本國の兄弟が起ってゐる時に、吾々はどっかの外國で暢氣な會合を開いておしゃべりをしろっていふのか……
 ――その通り、他分こん度の大會はロンドンで開くことになるだらうよ。ただし暢氣なおしゃべりをするんぢゃなくて、黨の行動方針を決定するのだ。ウリヤノフが、出てゆくときにあれ程懇々と言って出たのを君は忘れたのか? いま君が一人本國へ歸ったって何になるんだ。ツァーの飢ゑた機關銃がいい的を見つけて喜ぶくらゐなもんだよ……

 四日目になっても列車はまだ動き出さない。
 乗客も、兵士も、看護卒も、車掌も、機關手も、驛員も、町の住人も一緒になって、ぶらぶら遊んでゐる。
 プラットホームは、これ等の人々が噛んでは吐き出す向日葵の種で眞っ黒になってゐた。大部分の人々は、まる三晝夜の間、この何のへんてつもない田舎町においてきぼりを食ったために、神經をいらだたせて、病氣のやうになってゐた。例の三人のアメリカ人は、ひどく憤慨して、三日目にやっと自動車を雇って出て行った。何でも水路からモスコウまで行くのださうだ。
 そのうちに、乗客のなかに、一人電信の心得のある陸軍の大佐がゐて、ピエンザの驛まで電報で問ひあわせた。電信技手は罷業してはゐたのだが、受持場所にゐることはゐたと見えて、すぐに返事が來た。それによると、從業員は罷業してゐるけれども、誰か有志者があって機關車を操縦するなら、罷業團はそれに對して異議はないといふのであった。
 一人の素人運轉手によって、四日目の午後やっと列車は動き出した。

 ピエンザの町は、滿洲から歸還した軍隊が物々しく警備して、罷業團と對峙し、ちょっとでも罷業團側に不穏な形勢があると、すぐに駐屯本部へ引致されてひどい目にあふのであった。列車が着いた時にも、丁度、驛の前までノートブックを賈ひに來てゐた罷業工が、ろくろく取り調べも受けずに、酔っぱらひの兵士に銃の臺尻でなぐり殺されたところだった。
 乗客は、内國人と外國人との差別なく、女まで誰何して、一々「罷業團の味方か敵か?」と詰問され、少しでも返辭を躊躇すると、ぶったり蹴られたりした。

 その翌日、列車はまたのろのろとピエンザを發車した。
 列車にはもう一等車二等車三等車の區別はなく、誰でも早いもの勝によい席を占めた。一等乗客のパーリングはこの騒ぎの中で、やっと三等車の中に席を見つけた。一人のお婆さんが、兩腕に一ぱい包みをさげてパーリングの向う側へのって來た。すると一人の百姓が、席をあけてやって、その上お婆さんの荷物がころげ落ちないやうに、兩手でおさへてやってゐた。
 ――あんた、どっちから乗りました?
 パーリングはこの男の親切な態度に心をひかれて、ロシア語で話しかけた。
 ――イルクーツクの少し先の方から來たんですよ、十三年お上の御飯を食べさして貰ひましてね。わっしゃ罪人ですよ。
 どう見てもこの百姓は罪人らしくなかった。天使のやうに心から親切らしかった。
 ――どんな罪で、そんなとこへやられたんです?
 ――人殺しですよ。
 彼は平氣で答へた。あたりの乗客たちが好奇心にかられて、その男の方へ皆首をまはした。
 ――どうしたんでぃ、話して聞かしねえ。
 職人らしいのがかうたづねた。
 ――若い時分に酒に酔っぱらって火つけをやったんでさ。地主の家の納屋へね。すると地主の奴、ひどくわしを打ったり、蹴ったりしたんで、つい殺してしまったんでさ。
 百姓は人のよささうな顏をして、にこにこしながらこんなことを話した。
 一人の乗客が彼に卷煙草を一本やった。彼はそれを四分の一ほど吸って。あとを大事さうにズボンのポケットへしまった。
 ――まだあと百五十里も先まで行かにゃなりませんからな。
 列車がモスコウへついたのは、その日――露歴一九〇五年十月十六日の午後十一時だった。

 ――この際ロシアを救う手段は二つしかありません。斷乎たる獨裁政治か、でなければ立憲政治かです。ところで……
 ウイッテ伯は、列席者をじろりと見まはした。オポレンスキイ侯爵、フレデリック男爵、ニコライ・ニコラエウィッチ大公、侍從武官ニヒテル等が、頭を抱へたり、眉根に皺をよせたり、長い髭をしごいたりしながら聴いてゐる。最後にニコラス二世皇帝は、その場にゐるのがひどく窮屈さうに、しょっちゅう身體の方々を動かしたり、一度などは、今にも椅子から起ち上りさうな様子をしてゐた。
 ウイッテ伯は、莊重な語調でつづけた。
 ――ところで、今日の状態で、獨裁政治を布(し)くことができませうか? 一昨日の大臣會議で、私はペテルブルグ總督、ドレボフ將軍に、もしペテルブルグに、武装叛亂が起ったら、貴下はこれを鎮壓することができるかとたづねたら、それだけの兵力はどうにかあると、答へましたが、鐡道の交通を恢復することは、とてもむつかしいと言ふのです。 それに陸軍大臣の報告によりますと、目下現役の軍人は、まだ満洲の戰場から歸って來ないので、本國にゐるのは凡て豫備軍であるが、彼等は戰爭はすんだのにまだ除隊にならぬといふので、大分不平をもってゐるから、一揆の鎮壓に軍隊を出動させることは、危險至極であるといふのです。
 ウイッテ伯はまたじろりと一同の顏を見わたした。ニコライ・ニコラエウィッチ大公は腕組をしてゐた。ニコラス皇帝は眼をつぶってゐた。ウイッテ伯は一段と聲をはげましてつづけた。
 ――こんなに貧弱な、しかも信頼することのできない軍隊をもって、獨裁政治を行ふことができませうか? 今日の状態で政府が高壓手段に出ることは、薪に油をそそぐやうなものです。さやうなことをすれば、ペテルブルグ、モスコウをはじめ、全國各地に、武装一揆の起ることはまぬかれません。 しかも軍隊の士気は荒廃してゐて、頼みにならんとしたら、ロシアは滅亡のほかないではありませんか? この際殘された道は、ただ一つです。憲法政治あるのみです。陛下、ロシアを救う道は、今日憲法以外には絶對にないといふことを、臣ウイッテは、神明にちかって斷言します。
 ウイッテは皇帝に目禮して坐った。ニコラエウィッチ大公が怒氣を含んで起ち上った。
 ――ウイッテ伯はロシアとヨーロッパとをごっちゃにしてゐる。ロシアには憲法はいらない。ロシアの愚民を治めるには、憲法よりも劍が必要なのだ。この際斷固たる獨裁手段によって、暴徒を鎮壓しなければ、政府の威信を保つことはできない。人民が騒ぐからといって、いちいちそれに譲歩してゐたら、譲歩すべきものがなくなったときに、ウイッテ伯はどうされるつもりだ……
 ウイッテは相手の言葉が終らぬうちに起ち上った。
 ――大公、閣下がほんたうにロシアを愛されるなら、まあ靜かに國内の状勢を見て下さい。ペテルブルグの勞働者は、今殆ど全部、勞働評議會(ソヴエト)の決議に從ってをります。全市に無警察の状態です。學生は全部勞働者の味方をしてゐる。評議會の幹部には二人の大學教授もまじってゐる。ポーランド人は自治を要求して今にも起ち上らうとしてゐる。ユダヤ人は平等を要求して、多年の鬱憤を晴らさうとしてゐる。 農民は土地の不足を訴へてゐる。官吏は官界の腐敗の責任は、現在の政體であると言って憤慨してゐる。軍隊は日本との敗戰の責任を政府のせゐにして、政府の命令には從ふまいとしてゐる。閣下は戰闘艦ポチョムキンのことをお忘れになりましたか。ロシアの全國民は、どの階級もこぞって、専制政府に不平をもってをります。獨裁政治などとはもってのほかです……
 十月十五日の御前會議は、二時間たらずで終った。ニコラエウィッチ大公もたうとう我ををって、憲法政治に同意した。ニコラス皇帝も不承々々ウイッテの忠告に從った。いよいよ十七日に皇帝の詔勅と大臣會議々長ウイッテの上奏文とが發布されることになった。

 十月十七日の朝、パアリングは大きなロシア風の浴場を出て市中を徒歩で歩いた。モスコウの町には軒並みに國旗が飾られて、お祭氣分が全市にあふれてゐた。
 ――市民、新興ロシアのために、一杯やりませんか?
 通りがかりの制服をつけた大學生が、イギリス人に向ってかう言った。そこでパアリングはこの大學生と一緒に、大きなレストランへはいった。
 食堂はひっくりかへるやうな騒ぎだった。學生の群があちこちで、マルセーユの歌を唱ってゐる。老人等は、ウオッカの杯を汲みかはしながら、抱きあってはしゃいでゐる。市民、市民、といふ聲が耳ざはりな程方々で聞こえる。特別室では、金まはりのいい連中が、シャンパンを抜いてろれつの廻らない舌で、憲法のことやデモクラシーのことなどを話し合ってゐる。

 モスコウの劇場區域のまん中に、大きな噴水がある。その周圍は身動きもできない程の群衆の波だ。
 一人の男が、突然噴水の臺の上へ攀登った。割れるやうな拍手を浴びながら、彼は皇帝の詔勅を朗読しはじめた。
 ――余は政府に對し、斷乎として、余の意志の遂行を命令する。言論、結社、良心の自由、確固たる市民權……
 朗讀は群衆の騒音のために、大部分とぎれて聴きとれなかった。
 ――……全ロシアの忠良なる國民よ……余とともに、祖國の地に平和を確立せよ……
 大部分の群衆は、彼が熱心に憲法政治を祝福するものとばかり思ってゐた。ところが辯士は朗讀を終ると、群衆に向って、聲をはげまして言った。
 ――諸君、これは□□だ! これは官僚の常套手段だ。彼等に□□されてはいけない……
 群衆の間に、次第に怒號が高まって來た。
 ――官僚政府をやっつけろ。
 かう絶叫して彼が降壇すると、鸚鵡がへしに群衆が叫んだ。
 ――あの野郎をやっつけろ!
 するとまた別の群衆は叫んだ。
 ――默れ!

 モスコウ總督の官邸の門前へ、てんでに赤旗を持った學生の一團が、群衆の間を分けながらやって來た。一人の學生が、官邸の軒にかかげてあった國旗をひきおろして、赤旗ととり替へた。そして彼らは、一齊にマルセーユの歌を唱ひ出した。
 しばらくすると、總督がバルコニーに現はれて、學生等に向って、目下モスコウには、十分の警察力がないんだから、諸君は自ら秩序を維持して貰はなければ困る。あの赤旗は取りはづして、國旗と替へて貰ひたいと、頼んだ。
 一人の小柄な學生が猿のやうに軒へ上ってまた國旗をかけた。しかし赤旗もそのままにしておいた。總督が國歌を唱って貰ひたいと言ふと學生はその通りにしたが、國歌の文句がすむと、またマルセーユを唱ひ出した。
 その時突然、遠くの方から馬蹄の音が聞こえた。長い槍を持ったコサック騎兵の一隊が、事不穩と見て、官邸警固のために驅けつけて來たのだ。すると官邸から一人の士官が、あわてふためいて飛び出した。
 ――いや決して不穩な學生ぢゃないんだから、どうぞひき上げて貰ひたい。
 彼は、隊長にむかって、息を切らしながら言った。コサック騎兵の一隊は、拍子ぬけのしたやうな様子で踵をめぐらして、立ち去った。

 廣場の群衆の間に、急にどよめきが起った。
 ――勞働組合だ!
 ――金属工組合だ!
 ――罷業職工(ストライカー)だ!
 勞働組合の一團が、先頭に赤旗と、何かスローガンの書いた白地の旗二三本とを持って、群衆の間をねり歩いて來た。スローガンは、次のやうな文句だった。
 ――専制政府にだまされるな!
 ――□□の憲法を拒絶しろ!
 ――總同盟罷業を續行せよ!
 反對の方角にまたどよめきが起った。
 ――黒衛隊(ブラック・ガード)だ!
 ニコラエウィッチ大公の差し金で、市内の腕自慢のごろつきを狩り集めてつくられた暴力團が、親分ドブロヴィンを先頭に、同じやうにスローガンを記した旗をもって練り込んで來た。それにはこんな文句が書いてあった。
 ――祖國を愛する者は來れ!
 ――賣國奴ウイッテを葬れ!
 ――勞働組合を撲滅せよ!

 革命と反革命の渦の中にモスコウの町は暮れて行った。コサック兵も、黒衛隊も、學生も勞働者も、夜のとばりに包まれて行った。


注)人名は正確な表記ではないかもしれません。促音は元版には無く追加しています。また、パアリングとパーリングなどゆらぎがありますがそのままとしています。
注)□□は空白文字で、××と同じく伏字だと思われます。


「ランデヴウ」
「文学時代」 1931.02. (昭和6年2月号) より

(一)
 ベルを押してから二秒、昇降機はぴたりと床と水平にとまる。眞鍮の節(?)のドアが自動的にあく。
 緑色のユニフォームを着たアメリカンスタイルのボーイの胸に細かくボタンが並んでゐる。
「下まで。」
 ボーイは極度に能率的に、沈默で答へる。身體が宙に浮いて一直線に落下する。
 彼はゴム鞠のやうに輕くホテルの正面入口へ飛んで出た。身體ぢゅうに彈力があるやうな、やたらに輕快な氣持ちがする。
 彼をのせたタキシイは十六分で、東京驛へついた。つばめの發車迄にまだ六分強ある。彼はタキシイを降りると同時に、正面改札口の柱の大時計と自分の腕の時計とを本能的に見較べる事は、數年來の事務的生活が齎(もたら)した彼の第二の天性だった。彼は七百五十法(フラン)出してチューリッヒで買った彼の時計をグリニッチの天文臺の時計よりも正確だと思ってゐたので、この場合にも、無論、自分の時計の正確さを確めて滿足したのではなくて、驛の時計の間違ってゐなかったことに滿足したのだ。 といふのは、世の中に不正確な時計が存在するといふことが、彼には一つの不愉快の種だったからだ。
 ありったけの種類の新聞と、ウエストミンスターの小箱を二つと賈って彼が神戸行列車の一つの座席に腰をかけたときは、フォームに發車の振鈴の鳴ってゐる最中だった。
(二)
 彼は新聞を手にもったまま、しばらく絶對沈默不動の姿勢をつけてゐた。
 彼の隣りには重役らしい男が腰をかけて、身體をむずむず動かしどほしに動かしてゐた。向きあったシートには二人のサラリーマンが、汽車が動き出すと同時に途方もない話をはじめてゐた。
「北極で發見されたマンモスの肉が食へたといふじゃないか――マンモスといふと君、地質時代の動物だぜ。地質時代といへば、少くも何萬年か前だろ、それが、そのまま氷の中に埋まってゐて食べられたといふんだからね、僕はかういふことを考へたよ、人間が、或る装置で、氷詰になるんだ、さうすると、生活機能が一時停止するだろ、それを何年もそのままにしてほっておくんだ。そして、十年とか二十年とかたってから、その装置から取り出すんだね。さうすると心臓や肺臓が活動をはじめて、生き返られるだらうと思ふんだ。」
「さうなったら、この不景氣な年の暮には氷詰で年を越さうちう志願者が澤山できて、人間冷凍會社は儲かるだらうね。」
 彼は相變らず、無表情で眼をつぶってゐた。ところが、彼の隣りにゐた紳士は、今までにやにや笑ひながら聞いてゐたが、此の時、ちょっと膝を乗り出した。この紳士が身體をむづむづさせてゐたのは、話がしたくてたまらなかったせゐらしい。五分間も話をせずにはゐられない人間がよくあるものだが、彼もその一人だったのだ。
「今のお話ですがねえ。」と彼は言った。「あれは失禮ですが、貴方がお考へになったんですか?」
「いま、こないだの新聞の記事を見て思ひ出したんですよ。」相手は面喰って答へた。
「不思議ですね、わたしは、その新聞の記事を見たことはないのですが、以前、いま貴方の仰有(おっしゃ)ったのと同じことを考へたことがあるんですよ。人間を氷漬にしとけば、何年でも生きたままで保存できやしないかといふことをですね。そして、醫者のとこへ相談に行ったことがありますよ、大眞面目でですよ。」
「へえ、醫者は何と言ひました?」若いサラリーマンは少し好奇心を動かして訊ねた。
「駄目だっていふんです。假死状態は一定の限られた時間しかもたないといふんです。成る程低温度では、腐敗はしないが、腐敗しなければ生活機能が無限につづくといふわけではないといふんです。それに温度の低下のための衝撃で、假死状態にはひるまでに、恐らくその人は生理的に死ぬだらうといふんですよ。がっかりしましたよ、わたしは。」
 二人のサラリーマンは輕く笑った。
(三)
「何故わたしががっかりしたかと申しますとですね。」紳士は一たん獲得した聴き手を逃すまいとして立てつづけに話しつづけた。「ところで、貴方方は赤の方ですか、それとも?」
 二人はよく相手の言葉の意味がのみこめないので、顏を見合せた。
「つまり、社會主義の方ですかどうですかと伺ったんですが……」
「こいつはマルキストなんですよ。プハリンや、オイゲン・ヴァグガの本なんかばかり讀んで、僕に宣傳しますからね、さうだろ、君。」
 年上の方が年下の方に向って笑ひながら言った。
「よせよ、馬鹿なことを言ふのは、君だって、選擧の時には、無産黨の候補者に投票してゐるくせに。」
「いいえ、決して惡い意味でお訊ねしたんぢゃありません。」紳士は滿足であるらしい。「わたしだって社會主義は認めますよ。社會主義の主張には眞理が含まれてゐるってことは認めてゐるですよ。だから恐ろしいんですね、あの××といふやつが、貴方がたは、日本に××が起るとお考へですか?」
 紳士はこの質問をこれまで何千回となく繰り返して來たのだ。殆んど會ふ人ごとにこの質問をしかけた位だった。二人は顏を見合はせた。
「さうですね。」年上の方が煮え切らない調子で言った。「日本はロシアなんかと國情がちがひますからね……國民の文化があの時分のロシアより進んでゐますからね……。」
「そんなことは日本に××の起らん理由にはならんさ。」若いマルキストが少し昂奮して相手の言葉尻をおさへた。「それにこの頃の深刻な不景氣ぢゃ、國民は、むしろ何か事の起るのを待ってるよ、ぢっとしてゐちゃ、にっちもさっちも動きがとれないからね。」
「その不景氣ですよ、恐ろしいのは。」紳士は相手の話のをはるのを待ちかねて言葉をはさんだ。「わたしもこの不景氣では個人として二十萬くらゐは損害を受けてゐるんですがね。」紳士がかう言ひながらポケットから出して二人に渡した名刺には姓名の肩に三つの會社の重役の名稱が記してあった。「そんなことはどうでもいいのですが、ただ恐ろしいのは××ですよ。わたしはきっと日本にも起ると思ひますね。 ××は……あれは大なり小なりの程度で、どの國にも避けがたいことですよ。わたしは社會主義の書物を、これで百冊位は讀みましたがね、眞理ですよ、あれは、殘念ながら眞理です。わたしは資本家だけれど、社會主義の眞理は認めるですよ。ところで貴方がたは日本に××が起ったらどうしますか?」
 紳士は相變らずにこにこしながら二人の顏を見較べた。二人はもぢもぢしてだまってゐた。若いマルキストの方は、こいつスパイぢゃないかな、と少し警戒をはじめた。
「わたしはね。」紳士は話をつづけた。「この眼で××を見るのが怖いんですよ。少しばかりの財産のなくなることなんかかまはないですが、ただ××が恐ろしいです。それで、その間氷漬になってゐて、生き返って來たときには、××はすんで、何もかもちゃんと片附いてゐる。かういふ寸法にしたいと思ったんです……。」
(四)
 彼はウエストミンスターをふかして瞑目しながら三人の話を聴いてゐた。聴くまいと思っても自然に耳へはひって來た。三人とも彼には馬鹿な男に見えた。そして馬鹿な男たちの馬鹿な話を聞いてゐる自分が癪にさはった。それでも自然に耳へはひって來る空氣の振動を防ぎとめる手段はなかった。
 つばめは平均四十二里の時速でいま小田原を發車したばかりだ。「京都までもう六時間だ。」と彼は思った。この六時間、馬鹿話を聞かされながら、ぼんやりしてゐることは考へて見るとたまらないことだった。
 一體彼は何のためにこの汽車に乗ったのだらう? 戀愛のためだ。彼は戀愛をしてゐたのだ。
 彼はそれをちっとも、不自然、不調和とも思ってゐなかった。まるで彼はこの戀愛をするために生れて來たのだとさへ彼には思はれた。
 彼は、彼の戀愛をすばらしい戀愛だと思ってゐた。こんな戀愛は、かつてこの世になかったし、現在では無論こんな高尚な、純潔な、熱烈な戀愛はないと考へてゐた。彼と彼女との間にのみこの奇蹟的な戀愛は成立し得たのだと考へてゐた。彼にとっては相手は是非彼女でなければならなかったし、彼女にとっては、相手は是非彼でなければならなかった。
 この戀愛をあづかり知らないといふだけの理由で、彼には、全世界の人々が、悉、あはれで、見すぼらしく、淺薄で、下等であるやうに見えた。
 不景氣が一體どうしたんだ? 戀人の心には不景氣なんかあり得ないのだ。彼は戀愛と不景氣とを比較したために、戀愛が汚れたやうな氣がした。××がどうしたんだ? ××といふのは何だらう? 要するにそんなものは戀愛に關係のないものぢゃないか? 社會主義だって? 氷漬だって? 彼は、彼と彼女とが、水族館の硝子箱のやうなものの中で、裸體で並べて氷漬にされてゐる光景を想像した。 氷漬にされたら手を動かすことも、首をまげることもできないぢゃないか。手を動かさずに戀愛ができるだらうか? おまけに見物人に見られながら戀愛ができるだらうか? それは困る。そんなことになったら實に困ってしまふ。彼は自分が現在氷漬にされてゐないのでまあよかったと思った。それと同時に、こんな馬鹿話にひきずられて、一々空想してゐる自分がいまいましくなった。彼は怒ったやうな顏をして立ちあがって食堂車へ行った。
(五)
 彼がひき返した時には、列車は沼津靜岡間の平坦な平野を走ってゐるらしかった。彼はこの二ヶ月の間、毎週土曜日のつばめで京都へ行って、日曜日のつばめで東京へ歸って來る習慣になってゐた。
 列車の進行中に、めったに窓の外を見たことはないのだが、それでも大體直覺で、列車がどの邊を通過してゐるといふことはわかった。それにニ十分おきくらゐに、時計を見てゐたので、彼の見當は間違ひっこはなかったのだ。
 紳士は、二人のサラリーマンに向って地震の話をしてゐた。多分、三島、沼津の邊を通過するあたりから、窓外の地震の被害の跡を見て話題が地震に轉じて行ったものらしい。彼は、地震の話にはもうあきあきしてゐた。もう七年にも八年にもなるのに、まだ世間の人は寄るとさはると關東大震災の話をする。そして同じ話を何べんも繰り返して飽きずにゐる。まるで彼等は一生のうちでたった一度しか語るに足るやうな經驗をもってゐないやうだ。 しかもそれは、何百萬の人間に共通の經驗なのだ。彼自身も、地震の時にはもう少しで死にかかった經驗をもってゐた。しかし彼はそんな話は一度しかしたことがない。彼は同じ話を二度することを恥ぢてゐた。世間の話ずきとか、話上手とかいふ人間は、みんな同じ話を臆面もなく二十度びも三十度びもする神經遅鈍な連中のことだ。彼は一度誰かに話したことは、二度と誰にも話す氣がしなかった。
 さういふ反覆は自分自身に堪へられなかったからだ。そのために自然彼は大部分の時間をだまってゐるといふことになるのだ。
「今度の地震を豫知したといふ男があるぢゃありませんか。」紳士は自分で自分の話をたのしみながらつづける。「日日新聞に寫眞がのってゐましたね。前の日に、アスアサ四ジイヅジシンといふ電報を京都大學の理學部長にあててうってゐますよ。わたしはよく消印をしらべて見ましたが、たしかに天之橋立局の二十五日のスタンプでしたよ。」
「その男はこれまでに、關東の地震も、但馬の地震も、奧丹後の地震もみんな豫知したといふことですね。」
 サラリーマンの一人が、少々聞きくたびれたのか氣のない調子で言った。
「何しろ不思議な男ですな、何でも、虹が見えるといふぢゃないですか、その男の實驗で獨特の虹が現はれて、それで時刻と方位と距離とが正確にわかるんださうですね。」
 何のことはない新聞の復習をしてゐるのだ。恐らくこの紳士は、退屈な復習を、これまでに何十回となく、まるではじめての、誰も知らない話でもするやうな大袈裟な表情をして繰り返して來たことだらう。彼は心の中で、こんな鈍感な紳士がゐるから、人類の知的進歩が一向捗どらないのだと思った。
「實際不思議ですね。」
 サラリーマンの答へは相變らず氣乗りしない返事だった。
「不思議といへば貴方がたは、心靈學といふものを御存じですか? 心靈現象といふのを信じますか?」
「僕はさういふものは信じません。ああいふことをまことしやかに宣傳するのは、吾々を階級闘爭から逃避させるためのブルジョアの奸策です。」
 今まで、眠ったふりをしてゐた若い方のサラリーマンが突然眼を開いて、殆んど、うるささうに叫んだ。
 彼は、この青年を痛快だと思った、彼が、心靈現象を否定したからではなくて、話ずきな紳士のいつしまひになるとも知れない馬鹿話にとどめをさしてくれるだらうと思ったからだ。ところが紳士は、聴き手が熱心になったのを見て、相變らず微笑を浮べながら、一段と膝を乗り出した。
「わたしもはじめは信じなかったですよ、貴方と同じやうにね、貴方がマテリアリストであるやうに、わたしはポジティヴィストですからね。ああいふ科學では證明できない現象は信じなかったです。今でもまるまる信じちゃゐないんです。ところが、私はこの眼でいろいろな實驗を見たんですよ。それに、有名な科學者のクルックスだの、ウォレースだの、オリヴァー・ロッヂだのいふ大家が心靈學の信者になったでせう。だからわたし共が、あれを否定するのも僭越だと今では思ってゐるですよ。」
「何といっても僕等には、この物質的社會生活が一番重大問題です。それから吾々の眼をそむけさせようとするやうな説は、ブルジョアの御用學説です。それに、いいですか、人間は死ぬと、細胞は腐敗してしまふですよ。崩壊してしまふですよ。心臓の細胞も、腦髄の細胞も、貴方は腦細胞が崩壊しても精神だけが殘るといふんですか?」
「わたしもちやうど今貴方のおっしゃったやうな疑問をもったですよ。しかし貴方の仰有ることは、つまり今の科學者はさう説明してゐるといふのでせう。ところが、今の科學者は眞理を殘らず發見しつくしてゐるでせうか? どうして、まだまだ、ほんの眞理の大海で、手の掌に一ぱいの水をすくひあげた位のもんですよ。成る程細胞が崩壊すれば心理作用は停止するかも知れません。しかし心理作用と心靈作用とは別のものなんです。 心靈の世界は、ちやうど物理學者の四次元の世界のやうなもので、わたしども人間の感覺ではわからない世界なんです。それがわたし共の運命の大部分を支配してゐるわけなんです。心靈、つまりスピリットですな、スピリットが、進化の一段階として此の世に人間なり動物なりの姿をして試練に來るのです。そしてその試練をすまして、高級なスピリットに進化してゆくのです。 生れてすぐ死ぬ人があるでせう。あれは上等なスピリットで、現世の試練を長く受けなくてもいいものなんです。長生きする人のスピリット程、下等なスピリットだと、言ふことになりますね。それで、昔の行者や何かが斷食したり、苦行したりしたんです。それが、最近になって、靈媒によって、心靈界と現世の物質界とが、幾分交通出來るやうになったわけです。それを心靈現象と言ってるんですよ、つまり。」
「さういふ方面へ僕等の注意を向けさせて、現世の不公平や邪悪を忘れさせようといふのが支配階級の奸策なんですよ。」
 マルキストは仲々屈しなかった。紳士も仲々屈しなかった。
「貴方がたはさういふ風に歪めて物事を見るからいけないですね。心靈學は何も支配階級が發見したものぢゃありませんよ。ブルジョアがかつぎまはってゐる學説ぢゃありませんよ。わたしなど、現にブルジョアの一人と言ってもいいか知れませんが、心靈學に頭をつっこんでから、現世が、ほんたうに假の世だといふ考へが強くなって來ましたよ。 もっと高級なライフが未來にあるんだといふことをだんだん信じて來るやうになりましたよ。ブルジョアの安逸も、プロレタリアの迫害も、現世の戀愛も、歡樂も、貧乏も、苦痛も、みんな心靈界では清算されてしまふんですよ。要するに、そんなことはつまらんぢゃありませんか?」
「それがつまり支配階級の論理なんです。」
(六)
 彼は相變らず、ウエストミンスターをふかしながら、彫刻のやうにじっとしてゐた。
 地震の話や心霊靈學の話が、彼の頭の中をぐるぐる廻って、いつのまにか色々な空想をはたらかせてゐた。彼は耳で聞きながら、同時に頭で空想してゐた。そして時々それに氣がついて腹立たしくなった。
 若し地震が起ったら? 彼は、彼女の二つの腕を彼の首にしっかりまきつかせて、彼は、彼女の背中と胴のあたりとを、力一ぱい抱きしめてをれば、どんな地震が來たって、大丈夫のやうな氣がした。
 どうしてそんな馬鹿げた氣がしたんだらう。そんなことをしたって地殻の振動を緩和させることも、家屋の倒壊するのを防ぎとめることもできないのはわかりきってゐる。脚が四本になれば幾分立ってゐるのには安定が得られるかも知れないが、それだからって大きな梁の下敷きになったら一たまりもない。それだのに、一瞬間、さうしてをれば不思議に安全なやうな氣がした。しかし一瞬間たつと、どうしてそんな風に思ったのか全くわからなくなってしまった。
 まるでさめがけに見た夢がどうしても思ひ出せないやうな工合だった。
 心靈現象の話は彼にもっとひどいショックを與へた。彼は何だか自分たちの戀がつまらなくなったやうな氣さへした。成る程現世といふものは無窮の永遠の間にはさまれてゐる五十年か七十年だ。
 しかも戀を樂しむ時間と來たら、その五分の一か十分の一に過ぎない。そんなことに夢中になってゐるのは大間違ひのやうな氣がした。
 彼は、彼女が死んだ時の有様を想像した。皮膚も、肉體もだんだん糜爛して、腐敗して、臭氣を發散してゆく。そして烏か何かが腐肉をつついてゐる。いつのまにか、からからに乾燥した白骨になる。
 彼の戀はこの白骨を見ても燃えるだらう?
 彼は戀愛なんか全く重要でないやうな氣がした。そんなら一體何が重要なんだ? 仕事をして金をまうけることか? こいつはむしろ滑稽だ。
 彼は、急に、みじめになった。生きてゐるのが、つまらなくなった。
 しかし心靈界なんて多分ありゃしないだらう。そんなものがあるといふことを知る方法が一體ないぢゃないか?
 彼はまたしても馬鹿げた話にいつのまにかひきずりこまれてゐる自分を發見していやになった。
 列車は琵琶湖を右に見て、米原大津間を疾走してゐるらしかった。
 彼の意識は平常の通りに返ってゐた。
(七)
 彼は下りの一二等待合室をじろりと一わたり見まはした。彼女の姿は見えなかった。
 待合室の中は薄暗かった。彼は今度は隅から隅まで一人々々しらべて見た。
 彼女の星のやうな瞳はついに見當らなかった。
 彼は首をかしげた。
 走るやうにして上りの一二等待合室へ行って、同じやうにしらべた。やっぱり彼女はゐない。
 彼女は來なかったんだらうか? これまで一度も約束をちがへたことのない彼女が? 念のために三等待合室を一つづつしらべてまはった。無論見つからなかった。
 何か急用でもできたんだらうか? 病氣になったんだらうか?
 急に思ひ出して彼は掲示板を見に行った。何んにも書いてゐない。
 ことによると誰かに無理にひきとめられてゐるんぢゃあるまいか? そしてその誰かといふのは、ひょっとすると、彼女の何かぢゃあるまいか? 俺はいい氣な道化師の役割をつとめてゐたんぢゃあるまいか? はるばる東京から京都くんだりまでやって來て、それでだれも待ってゐないなんて。
 さうだ、行き違ひになったんだらう。彼の顏は急に明るくなった。きっと下りの待合室を俺が出たすぐあとへやって來て待ってるだらう。
 彼はてっきりさうだときめて、重い扉を押した。室の中の模様は先刻と少しも變ってゐなかった。落膽と憤怒とが一度に押し寄せて來た。
 畜生、俺を裏切ったにちがひない。ああいふ女にはありさうなことだ。
 一そもう、東京へ引き返してしまはう。そして、辛辣な愛想づかしの手紙を書いてやらう。だが、やっぱり、あきらめきれないのだ。
 ひょっとすると彼女の方でも探しまはってゐるのかも知れない。
 彼はまた上りの一二等待合室へ行って見た。それから三等待合室へ一つ一つ、矢っ張り駄目だ。こんな風に後から後から追ひかけっこをしてちゃだめだ。どっかにじっと立ってゐるのに限る。彼は下り一二等待合室の出口に立ってゐた。彼女はどこからも姿を現はさない。
 彼女の方でも丁度今、同じやうに考へて、どっかにじっと立ちつくしてゐるとしたらどうだらうと彼は考へた。頭がかっと上氣して來た。狹い驛の構内が、まるで無限な迷宮のやうに思はれて來た。
 不圖、彼の頭に一つの考へが浮んだ。きっとこれは彼女が待合室で待ってゐる間に、誰かに見つかったのにちがひない。俺に見つかってはならぬ人に見つかったんだ。そして、どっかへ行って今立ち話でもしてゐるに相違ない。俺にはこの見當は、はづれっこない正確なものであるやうな氣がした。全身の血が沸騰した。やっぱり俺が馬鹿を見てゐたんだ。阿呆のやうに信じすぎてゐたんだ。
 彼は知らず知らず兩手の拳を握りしめて、づかづか待合室の前の通路を東の方へ歩いて行った。
 行く手の薄暗い電氣の灯影に白い顏が見えた。笑ってゐる。彼女だ。
 彼は笑はなかった。また俺をだまさうとしてゐる。きっと相手をなだめ歸して何喰はん顏をして俺を待ってゐるんだな。彼は、苦りきって、つっけんどんに彼女の前へ進んで行った。
「どうして? そんなこはい顏をして?」
 彼女の顏は晴れやかだった。
「どこへ行ったんです?」彼は棒立ちのままで吐き出すやうに言った。
「どこへも行ってやしないぢゃないの。」
「さんざん待ちぼうけさして何してゐたんです?」
「まあ、だってまだ汽車がついてから八分にしきゃならないぢゃないの、あたしちょっとそこへ行ってただけよ。」
 彼は列車がとまると走るやうにして改札口へかけつけて、走るやうにして待合室を探しまはってゐた自分を思ひ出した。もう一時間もたったやうな氣がしてゐたのだ。ついうっかりして時計を見るのを忘れてゐたのだ。
 しかし八分にしろ、所定の場所にゐなかったといふことはあやしい。ちょっとそこへ行ったといふのがあやしい。彼は最初の權幕が急にくづれてゆくのを感じたが、それでもまだ顏の緊張をくづさずに言った。
「僕は知ってゐるんだ、貴女が何をしてゐたかといふことを、白状しなさい。」
「まあ、いやな人ね、知ってるなら問はなくたっていいぢゃないの、そんな眞面目な顏をして、あたし、昨夜からお腹がゆるんで、もう我慢できなくなっちゃったでしょ、汽車のついた音を耳にしながら、御不淨へはひっちゃたんぢゃないの……。」
 彼女は顏を赧くした。彼の顏の筋肉は一筋々々ほぐれて行っていつの間にかダグラス・フェアバンクスのやうな笑顔を構成してゐた。


注)明らかな誤植は変更しています。



「(『エドガア・ポウ集』について)」
『エドガア・ポウ集』 博文館世界探偵小説全集2 1929.12.30 (昭和4年12月) より

 「注」
 本集中平林氏の訳になるのは「マリイロージェ奇譚」「ウイリアム・ウイルスン」及び「お前は犯人だ」の三編にして、他は水戸高校教授吉田両耳氏を煩はす事とした。諒せられんことを。――編者識


 「「マリイ・ロオジェ奇譚」訳者曰く」
 本文の地名人物はすべてフランスのそれになってをり、それに該当するアメリカの地名人名が脚注として附けてあるのであるが、訳文では脚注を本文中に挟むのはわづらはしいと思ったからこゝには省略しておく。



注)平林初之輔訳となっているが、訳は三篇のみということで。






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夢現半球