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川田功 作品小集2

Since: 2026.03.29
Last Update: 2026.03.29
略年譜・作品・著書など(別ページ)
作品小集1(別ページ)

      目次

      【その他の随筆・(逸話・私小説)など】

  1. 「支那革命戦中の一小話」 (随筆) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  2. 「支那革命小話」 (随筆) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  3. 「雪空」 (小説?) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  4. 「一泊行」 (随筆) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  5. 「苦味のある笑」 (小説?) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  6. 「裸にされた話」 (コント?) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  7. 「胃癌」 (随筆) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  8. 「伊東の一夜」 (随筆) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  9. 「ありまーす物語」 (小咄集) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  10. 「悪日」 (随筆) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  11. 「口悪」 (随筆) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  12. 「悪友」 (随筆) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  13. 「漫談」 (随筆) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  14. 「野外スケッチ」 (随筆) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  15. 「鶏の話」 (随筆) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  16. 「様々な幸福」 (小説?) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  17. 「宿酔」 (小説?) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  18. 「酒か泥水か」 (随筆) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
      【俳句評論】
     
  19. 「俳句の批判に関する新提唱」 (評論) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     
  20. 「句の新旧」 (評論) 旧かな旧漢字 2026.03.29
     



「支那革命戰中の一小話」
「桂月」 1925.12. (大正14年12月) より

 支那革命第二回目の時であった。事急なりと云ふ譯で、朝鮮に居た我驅逐隊は急に派遣されることゝなった。南京を中心として其邊を警備して居たが、急に上海へ歸る用が出來た。其日が恰度舊暦八月十五日明月と云ふ時なのである。市民と云っても支那人丈けの事だが、朝から仕事を休み酒と賭博と爆竹で暮れるのである。私も艦内に居ても仕方がない。陽のある内に上陸した。棧橋に居る俥は朦朧俥丈許り。
「豐陽館か、乗って行かんかいやか」
 夫れが又如何にも人を莫迦にした云ひ振りだ。私は頭をポンと一つ毆った。而して其俥に乗って彼の云ふ通り豐陽館へ行った。今度の事件で海軍省から二人此處へ駐在して居るからであった。
 夕方に成ると艦の若い士官が二人尋ねて來た。私達は奥座敷へ行って月見の宴としゃれ込んだ。上海の月は又別物だ。平常小汚い町が銀色に光り出す。宴半ばにして私は窓に凭れた。理窟から云へば何でもないが、月と云ふ奴は物を思はせる事古歌にある通りだ。
 所が、同じく二階ではあるが洋館に比べて少し低く、十五六間も離れた目の先に、軒を並べた支那人長屋が一棟建ってゐる。其一軒が私の眼を惹いた。別に變った所もないが、窓が開いて居て裏二階の一室を明かに照して居り、中に一人の婦人が食事をして居った。窓の一方には支那式の簾子を垂れた寝臺の一端が見えて居て、女は窓の左側にある小さな食卓に向って居る。 支那人町を歩いて見れば別に不思議ではないが、其女が食ふも々々貪り食ふ。丼が空に成ったであらう。棚から幾個かの丼を卸して五六種の何物かを入れ、又しても夫れを口へ運ぶ。食ふのもかうなると一つの藝當である。
 と、彼女の後の扉が開いた。夫れは直ちに階段に成って居るらしい。ぐでぐでに成った男が纏よって來る。夫れの後押をして上ったのは若い女だ。前の女は男を助けて扉に接したソーファの上に寝かした。若い女は其後に立って手持無沙汰な恰好をして居た。と、老女と云っても四十五六位、即ち前の女が振向いて若い女の居るのを見ると、ぐいぐいと押しやって扉の外へ押しやった。
 一體支那人は如何に貧乏な勞働者でも第一夫人の外に一二、或は三の夫人を有して居る。併し只一室に寝起して居るも夫人同志の嫉妬喧嘩は滅多に無い。之は少々例外に屬すると思った。第一夫人は又しても營養分を攝取し始めた。健啖眞に驚くに堪へたりだ。
 事件は只夫れ丈けでは濟まなかった。暫くすると第二夫人が醉醒の水を持って上って來た。小笠原流の目八分と云ふ丁寧さである。處が第一夫人は猛り立って、二人の間に掴み合が始まった。水の這入った硝子は碎けた。コップは沖返りして床へ落ちた。日本人同志だらうと淺間しいと思うだらうが、支那人であって見ると面白かった。併し夫が贔屓したかった第二夫人は、温順であり、且つ繊弱であるらしい。忽ち其處を敗走した。
 其後の光景が又意外である。勿論何處の家庭でも有り勝の事と思ふが、支那人にしては餘りに不似合ひだ。
 活劇が終ると第一夫人は又も食慾の方へ忠實になった。
「何だ、艦長は月を見るなんて云っといて、あんなものを見て居るとはけしからん」中尉が云った。
「けしからんとは君の事だ。自分達も喜んで見たぢゃないか、只夫れ許りか、女中をきゃあきゃあ云はしたぢゃないか。惡戯者だなあ」
「本統よ、見る丈けは見て置いて、あんな惡口を云ってる」一人の女中が云った。「おまけに人に惡戯なんかしてさッ」
「だけど如何に支那人だってあんまりだわ、あんな莫迦々々しい事っちゃあるもんぢゃない」他の女中が云った。
 私に執ってそんな事は問題ぢゃない、月を見て酒を飲めば夫でいゝんだ。元來濁った事は餘り好きな方ぢゃない、と云ってかうなると二度と窓へ凭ると云ふ譯に行かなくなった。歸艦して水上からの月をゆるゆると賞して見たい氣持になった。夫れで潮時を計って豐陽館を出た。戸外の月は一入美しいものに見えた。而して直ちに歸るのが惜くなって、迂路々々と街を歩き出した。此夜は又しても縮尻をして了ったが、長くなるから此次にお話致します。

注)句読点は追加削除したところがあります。


「支那革命小話」
「桂月」 1926.02. (大正15年2月) より

 前々號に支那革命小話を書いて、前號に其續きを書く筈であったが、間誤々々として居る内に締切は過ぎた。本號で其責を塞ぎたいと思ふ。
 私は上海で醉った上の過失をし、印度人の巡査に追蒐けられて居る所迄書いた。今でもまだ私は追蒐られて居る所である。私は蹣跚めく足を踏み占めては、街頭の行人達を驚かさない様に併も大型の黒巡査に追付かれない様に走り續けて居るが、夢に追蒐けられて居る様で、今にも追付かれ相な近く迄巡査が追って居るのに、中々捉まらないので齒痒い様な擽ったい様な焦燥ったさであった。隠れやうとするのにも物蔭がない。かうなると滿月は有難いものでなかった。何處を歩いて居るかを確かめやうとするには、薄い白布の様な狹霧が邪魔であった。
 所が、露路の様な狹い横町から、からころと人車の音が近付くのを聞いた。此時許りは天の配劑が眞に公平で、神は仁者に與するものである事を悟った。實際日本の驅遂艦長が醉っ拂って、英國の警察署に投げ込まれて幾日も歸れないなどゝ云ふ事になると、立派な國辱であるからだ。
「港務部棧橋へ急げッ。」
 私は俥夫に號令した。勿論躯は驚いて居る支那俥夫を押除けて既う車上に飛乗って居るのであった。
「オールライ。」
 支那人は駈け出した。返事が莫迦に嬉しかった。後から黒ン坊君が、辨慶の薙刀を思ひ出させる様な樫の棒を小脇に掻込み、ドタ靴の音を立てゝ來るのも氣に入った。
 港務部棧橋迄は遠くて十分間位の距離しかない。其間を私は眠って居たのであらう。私は騒々しい人聲に因って夢を破られた。併も亡國の音と稱せられる疳高い支那人の聲だ。私は今の境遇を忘れて一寸面喰った。併し次の瞬間にはポケットから五十錢銀貸一枚を出して、俥夫の掌の上に載せて居た。如何に多分に與へても、より多くを強請るのは支那人の常だ。俥夫はもっと多く呉れと強要り始めた。
 私は平生の通り知らん顏して河岸の方へ艀船を求めやうと歩み出した。所が其所に居た十數人の俥夫は私の後ろに一度に超ち上った。口々に強要罵倒恐喝の雨を注ぎ掛けた。と云ふと私に支那語が判る様だが、幸か不幸か一つも判らない。只其語氣が普通の支那人俥夫等と大に趣を異にして居た。全く夫れは猛獸の吼え掛る勢であった。此邊で始めて思ひ出したのは、此邊に居るのは皆朦朧車夫であると云ふ事であった。 さも無ければ、成程支那勞働者が一日休む滿月の夜に、こんな遅く迄俥を挽いて居る筈はないのである。私はぎょっとした。間誤々々して居ると擲り殺されて、死體は揚子江へ永遠に浮ばず葬られて了ふだらうと思った。
 癪に觸る事は、人の弱味に乗じて來る支部人は頗る頑強である。私がひょろひょろのステッキ位振廻した所で、迚も此十數名には叶ひさうにもない。私は悠然として江岸へ逃げ、岸に繋がれた一隻の艀船へ飛乗った。
「日本の驅遂艦へッ。」
 私は敵が遠ざかったのに氣が強くなって、又しても威勢能く船頭に號令を發した。船頭は先の俥夫の様に色宣い返事をしないのみか、寝込みを起された不平をぶつぶつ續け様に云って居った。お客としてはこれでも又腹の立つもんである。私の號令は再び下った。
「急げッ。」
 英語の判らない船頭であらう。びくともしないで相替らず不平交りにこつこつと漕いで居る。江上は靜まり返って今頃舟を出して居る人など一人もない。月は只私一人の爲めに照して居るのであった。風雅を好む事色を好むより甚だしいと云ふと色も好い様だがさうではない……私は、かうして月明の夜醉ふて江に浮び、檣に自然を獨占する事を得た幸福を如何に滿足に思ったか!
 オヤオヤ船は進まない。否流に從って逆に進んで居る。櫓音は更に聞えない。私は振向様一つどやしつけた。
「どうしたのか流されるぢゃないかッ。」
 が、其瞬間私は思った。「これはいけない。」と、船頭は操櫓の位置を捨てゝ私の後ろに迫って居る。月前に閃めくぴかっと光る物夫れは彼が坂手に持った氷の刄である。
「艀賃を此處でよこさなければ進めない。」
 船頭は云った。支那訛りの英語だから少しも凄味がない。私は少々安心した。
「幾許だい。」
 此間も平氣で遣る事が出來た。
「二兩だせッ。」
 此臺詞は一寸巧かった。併し夫れは私をほっと安心させたと同時に、吹出したい程可笑しさを伴って居た。私は少くも十圓位は吹掛けられる事を覺悟して居たからである。
「あゝ好いとも、だけど私は今俥夫に多くを與へ過ぎた。私の財布には今何もない、驅遂艦に行ってから私は夫れを支彿ふ事にしよう。」
 私はさう云って自分の財布を逆さにして振って見せた。現金な支那人は櫓に就いた。彼は慾心の爲めと、私が案外初心らしいのを信用したらしい。前よりは元氣を出して奔流に逆上って船を操った。船は四隻の驅逐艦が單縦陣に列んで碇泊して居る錨地へ近付いた。
「何船かッ。」
 最も近くに居る驅逐艦の當番が寝氣覺しに呶鳴付けた。
「××の艦長だ。當番に舷門へ出て居る様に傳えて呉れ。今朦朧船頭に強請られたから此船が着いたら強い繋で引寄せて水を打かけるんだッ。」
 私は他艦の當番にかう云って傳達を頼んだ。所がいけない。船頭には大凡此方の計畫が判斷出來たらしい。船の(※舟首)は忽ち横の方を向けられて驅逐艦の列から離れて行くのである。
 サア困った。あんな餘計な事を云ふんぢゃなかった。云はなくても艀が舷梯に横着けされた時、自分が敏捷に飛上ればそれでよかった。今ではもう自分も命懸けに成って居るから、醉も醒めて居るし足元も確かに成って居る筈だ。鳴呼々々、夫れにしてもこれからどうなるだらう。今夜程惨めな眼に逢ひ續けた事は嘗て無い事だ。
 私は月光も夜霧に暈けた兩岸の風景も既う眼に入らなかった。船頭の持って居た白刄のみが私の背筋を冷たく撫でゝ居る様な氣持がした。
 が、私は重ねて云ふ。天は決して仁者を見捨てるものではない。艀は迂回して又私の艦へ近付いた。後から考へて見ると、船頭は私が他艦の當番に頼んだ事を了解したのではないらしい。却て彼は、艀を舷梯に横付けする時、私の居る船首の方を着けないで自分の立って居る所に近い船尾を着けやうと試みたのである。さうすれば、私が如何に敏捷に舷梯を攀ぢ登らうとした所で彼の立って居る脇を通らずには行かれないからである。而して流の疾い揚子江に於て、船尾で繋を他艦に取り横着けして居る事は、頗る困難な事である。 船首が若し少しでも艦の舷側を離れたが最後、船尾を中心として艀は逆に後方に向って了ふからである。船頭が妙な迂回を試みたのはこれを避けて巧に船尾を舷梯に着けやうとするものであったらしい。實際彼はさうして横着したのであった。併も彼は左手で舷梯に添ふて垂れて居る手摺の索を握り、右手には側の白刄を逆手に提げて立って居る。私は艦の當番に艀賃を出して貫ひ、夫れを船頭に渡したのと引換でなければ艦に攀ぢ登る事が出來なくなった。
 併し此處は酷く流の急な所である。當番は横着する艀舟の爲めに船首へ索を投げる事を忘れない。索は常に船側に準備してある。當番は平生の通り其索をなげた。私は舟の前端に行って其端を掴んだ。足に力を籠めて艀の船首を蹴り乍ら、索を攀ぢて艦内へ轉げ込んだ。艀は物理學の法則に從って般首をくるっと下流に轉じた。船頭は船が離れるので舷梯索を持ち切れなくなった。船内に轉がり乍ら夫れを離した。 艦上から誰かゞドラバケツと稱して居るカンバスのバケツで河水を艀へ打掛けた。舷梯も索も曳揚げた。後には船頭が芝居懸りの大聲を上げて猛り狂って居たが、軈て夫れも諦めたと見えて聞かれなくなった。月は西に傾いたが夜は未だ靜かであった。
 私はこれを書き終った今、上海に居る一船頭に二圓の借金がある事を思ひ出した。
(了) 

注)句読点は追加したところがあります。
注)明らかな誤字誤植は訂正していますが故意の可能性のあるものはそのままとしています。
注)当時としては武勇伝のつもりなのかもそれません。


「雪空」
「桂月」 1926.03. (大正15年3月) より

「おっと待ったり、そいつはあぶねえ。」
 後ろに突然の聲があった。邊りに離も居ないと思って居た彼は、冷水を掛けられたやうに驚いた。勿綸、電氣の疾さで振り向いた。右手は材木程の腕筋で、絞り揚げられて居る事も確かに感じた。
「何をするんだッ。無禮者ッ。」
 血の出るやうな悲壯な叫び。彼は一層眞劍味が加はって來た。
「早まっちゃいけない。一度間違ったら取返しの付かない事なんだ。」後ろから云った。
 そんな事は判り切った話である。彼は今一度何とか怒鳴り付けたかったがそれをするのは面倒であったし、餘りの空腹と寒さで弱り過ぎて居た。
「見りゃあお前さんも、もう分別盛りを過ぎてるやうだが、量見違ひはよしなさい。それにしても、死なうと迄思ひ詰めたのは能く々々の事なんだらう。差支が無かったら私に一つ話して聞かして貰ひたいんだが、私もこんなけちな野郎だが、云ふなと云へば首が飛んだって云ふ事ぢゃない。又何だ、及ばず乍らお世話が出來ないものでもあるまいぢゃないか、かう見えたって人からは、規分だ子分だと呼ばれたり呼んだりして居るんだからねえ。」
 落語でも聞き覺えて來たかなんぞの様に、身投を救ふ文切型の言葉をすらすらと並べた。知ったか振りをする、傲慢ちきな性格は其言葉の端々に現はれて居った。其四十歳絡みの色黒で頑丈な男は幅廣で襟の詰った外套の下から、天鵞絨の半ズボンが長い靴下迄下って居た。總護謨靴で無い所を見ると幾分か金廻りの好い方かも知れないが高く見積っても土木の請負師、夫れも下請許り遣って居ながら土方達に親分がって見せたがる男としか見えなかった。
「人間てえ奴は七轉び八起で、何時も々々調子が好いと云ふ譯には行きゃしない。其處が辛棒と云ふ奴だあね。死ぬ位いの苦みを辛棒する氣に成りゃあ、何あに世の中に何だって出來ねえ事は在りゃしねえ。どうだあね。一つ思ひ直して働いて見ちゃあ。」
 石崖へ迫って上潮の寄せる海の岸、愚かしく立って居る一つの電燈の光が萎れ切った彼を般若の面の様に浮べて居る。默って慄えて居る彼は男の説教を聴いて居るのではない。こんな事は既に疾くの昔から人々が云ひ古した文句で、彼とても幾度かそんな事を云って人に教へたり励ます言葉にしたもんである。夫れを今こんな男から聞いて居るのが不思議な様な、可笑しい様な氣持なのである。こんな奴に限って、僅か許りの耳學問を妙に記憶して居る。總て自分に有利な様に受け入れて了解して居るからである。 彼等は何か話合か相談事がある毎に、出娑張って行って知つて居る丈けの事を何回でも喋り立てる。夫れが自分の主張と反對して居っても一向知らないのである。只結論丈けは利己的な解釋に早變りして居る。金の無い者、正直な者、温順な者、弱い者、此等はかうした男の前で勝手な議論に反抗する事が出來ない許りに色々な犠牲を拂はせられる。其癖こんな我儘者に限って影辨慶であり、煽動に乗って大きな事を云ったり自慢話許りするが、金の有る人の前では冷々する程意氣地がなく頭を垂れ、齒の浮く様なお世辞を臆面もなく撤き散らす。 勞働者と有産階級若くは知識階級との中間に挾まって、直接彼等の膏血を搾るのが彼等である。資産階級を横暴にさせるのも亦彼等である。即ち此奴等である。彼は獨で逆上した。僅かに通って居る血液は頭の方へ上って了った。師走の海を越えて渡って來る風は、單衣一枚の彼の躯を又一段と寒くした。背筋を這ひ歩く惡寒にわななきは一層大きく彼を揺す振った。 此社會のバチルス一匹でも道連れにして遣りたい。こんな奴に命を助けてやったなどと思はれる丈けでも腹が立つ。彼は今一度波の寄って居る海の面を透して見た。蒼く湛へて擴がった海の寒む氣なのを見ては、再び其處へ飛び込まうと云ふ氣は起らなかった。
「まあ今夜は私に跟いて來なさい。悪い様には取計らはないから。」
 男は其有り餘る力を以て何の遠慮もなく、彼の腕を曳き乍ら街の方へ歩き出した。彼は及ばない事を知り乍らも反抗しない事を耻辱の様に思って避けようと藻掻いた。掴まれた邊りの腕は夫れが爲めに痛かった。世人に裏切られ欺かれて、善良な固有の性質をびりびりに破かれて了った彼は、世間と人間とを疑ひ怕れるのみか、今では全く咒詛するに至って居るのである。彼とても母の乳房を握った事もある。慈悲深い親の抱擁に甘ったれた事もある。 輝く希望の前に頬笑んだ事もある。更に、詩の様に美しい戀愛、夫れは如何なる人にも一度は遊戯的に神が授け給ふ所の戀愛も、彼の生涯の大き出來事として考へなければならなかった。彼は此處迄考へて來ると、どうしても珠の様に圓かであった生涯に對して一つの瑕を見出さずには居られない。其初めが餘りに多く幸福を以て滿されて居った代りに、今では此年齢に成っても猶、新らしい傷口に觸る様な氣持がせずには居られない。 彼は戀をしたが其戀は完結に至らずして破られた。彼の糊口の道を奪ひ彼を路頭に迷はせ、世人から犯罪者の様に扱はれる迄彼を虐げた。其等は皆彼が心の破れから得た収獲であった。而して今自らを死に急いで居るのが失戀の大團圓に外ならないのだ。
 彼は最早之れ以上に考へない事にした。考へる丈け考へて後の決心なのであった。只彼は神の遊戯の玩弄として破って捨てられたけれども、彼は人間として少しも疚しい行爲をしなかった事を誇る事が出來るのであった。夫れは飢えても他人の者を食はなかった。今や慈善顏して現はれた此請負師の様な行爲に對しても、媚びて從はうとは思っても見なかった事である。
「そう云っちゃなんだけど、お前さんは夕食は未だでしょう。」
 男は久しく默って歩いた後、急に言葉を改めて丁寧らしく彼に訊いた。之れは益々彼の感情を害しこそしたが、親しむ心にする事は出來なかった。
「餘計な事だッ。」
 と、彼の心は呼んで居った。併し彼は夫れを口に出す事を止めて男の氣持を讀み始めた。男が忸れもしない丁寧な言葉を使って居るからと云って、何も彼に尊敬の心を起したと云ふ譯ではない。只かうした事が、自分がなしつゝある親切味を、自分自身に向って見せびらかす爲めの自己虚榮に過ぎないものであった。彼はこんな事に騙されてうかうか返事をしようなどゝは毛頭考へなかった。假令夫れがかうした好い餌であったにしろ、猶更彼には出來なかった。
 街は次第に賑かになり明るくなった。其間を縫ふて居る風丈けは依然冷たく狂っては人の温度を掴み去った。空には眼覺めた星が覗いて居たが、之れとても何時雪に代って降り出さないとも限らない冷たさを光って居た。
「未だならどうです。一寸其邊まで附合って呉れませんか。なあに遠慮などする程の事もないんだから。」
 人の返事も訊かないで、男は獨合點して其邊にある小さな露路口の方へ彼を曳いて行った。
「まだには極って居る。死ぬ人が飯迄抱き込んで捨てると云ふ事があるもんか。」
 此機に於て彼は男の手から自由に成らうとした。思ひ切って云った言葉も荒かった。併し、空腹と寒氣とで全く弱らされて居る彼に執って、離れようとする事は全く無益であった。否、全く夫れは無謀な擧であった。
 男には彼の云った事の意味が判然歓み込めなかった。只親切な自分の申出でに對して、餘りに無愛懇な返事である事丈けが判った。男の憤怒は火と成って燃えた。其眼が明かに夫れを語って居た。後から又、男が急に氣を取り直した事も眼で知られた。半死の哀れな初老者としては、餘りに業腹であり且つ威嚴を存じて居っと爲めである。而して又其後からは、貧苦の爲めに僻み切ったかうした人を見る事は、少しも僻み根性を有って居ない自分と云ふ者を、貧者で無いと證據立てるに足る様な氣持も起ったからであった。
「だからさ、一寸其所迄附き合ひねえ。薩張と一ついこうぢゃねえか。」
 男は輕蔑心を剥出しにして大きな空笑ひをした。
「そんな事は此方からお斷りだ。手を離せ。俺は只自由でありさへすれば好いんだ。」
 再び彼は腕を引いた。
 憎惡の念は請負師の顏を颯と一變した。
「何ッ此くたばり損ひ奴ッ。命を助けた上にご馳走迄しようと云ってるんだ。お斷りだとはチェッ……くたばりやがれ此ッ恩、知ら、ず奴ッ。」
 突き飛ばして置いて手を離した。脆く倒れた上へ飛蒐った。ぴしッぴしッ、鐵拳の音は續け様に鳴った。
「人の死ぬ……死ぬのを……邪魔しやが……人穀しする奴の何處がしッ親切ッ……」
 毆られ乍ら絶々の聲。請負師は一寸考へさせられた。世の中に、之れ程迄に深く死を希ふ者が又とあらうか。男は凝乎と彼の躯を瞶めて居た。夫れは恰も頭を摺り潰された芋蟲が、胴體丈けを波打たして悶へて居る様にそっくりであった。其氣味惡さは眼を向けて居る事が出來なくなった。眼を掩ふと自分の成した暴行が更に恐ろしく彼の心に迫って來た。男は遂に駈け出した。闇を辿って逃げたのである。綿の様な大雪が數へられる位づゝ降り出して來た。空一面は既う雲に占領されて居た。
 一度動かなく成って了って居た彼の躯が、再び痙攣の様にぴくぴくと部分的に動いた。微かな聲があった。
「彼女もこんな風に殺されたんだらう。」と。
(了) 

注)句読点は追加修正したところがあります。


「一泊行」
「桂月」 1926.05. (大正15年5月) より

 知人を語らって修善寺へ來た。別に威張る譯ではない。汽車はロハ切符宿屋は最下等。てくてく歩きで脚は棒だ。
 姪ヶ小島は田の中の一本松、夫れに箱庭の泥の家見た様なのがぱらぱら蒔いてある。何と云ふ疳違ひな名前だらう。源頼朝と云ふ老人が此處から飛出して天下を取った事は誰でも知って居る。尤も此男始めから老人ではなかったらうが、三十三歳で旗揚したと云ふ事が、此年で凧でも揚げた様な氣持がする。
 江川太郎左衛門が奥伊豆で反射爐を造った時はまだいいが、韮山の高い所で遣りだしたのは不便な事だったらう。
 此邊至る所に「酒は源氏」と云ふ廣告だらけだ。金装と云ふのも醸造つくって居るやうだ。よし來た。修善寺へ行ったら一杯飲んでやらうと決心した。一杯と云っても腹一杯の事なり。
 五六年前から知合ひになった男が居る。此男千圓の牝牛を飼って居た。偶然か必然か其牛が姙んだ。「又千兩だッ。」彼は悦慢に躍った。出來得る限り美食を攝らした。仔牛は母胎内で角カ取の様に肥って行った。お産と成った時三人の獸醫にも引出せなかった。老ひたる親牛はうんうん呻った。千兩を殺さない様にと云って飼主も泣いた。 遂に仔牛を犠牲にする事となり、仔牛を手足胴と切り離した。手は無い筈だと思ふがさう云ったから間違ひはあるまい。而して仔牛はビフテキの材料となってバラバラと出て來た。これが爲めに牝牛の生命は救はれなかった。千兩の屍に取付いて男は三日泣いた。
 千兩取返す爲めに蜜柑を二百本植え椎茸を一面に蒔き付けた。これが又上出來で男を喜ばした。上出來は彼の所許りではなかった。投り出して置いても蹴飛ばす人さへない。捨賣々々。
 話は換る。古奈と云ふ温泉場に五十絡みの上品な金滿家の後家さんが居る。貸別荘を十數軒持って居る。今年十六になる妾の子が俗に云ふ海月といって足腰が立たない片輸だと云ふ。夫れを愛して育てゝ居る。村民の爲めに橋を三つも架けた。消防隊や尼寺や髪結の組合へ多額の金を寄附した。日蓮宗に凝り固まって了った相だ。ゼラチン見た様な宗旨があると見える。 所が坊主共之れをいゝ事にし、天氣が好いと云っては押掛ける。雨が降ると云っては飛込んで行く。自動車五六臺に坊主が乗ると、信徒が三十人位馬車へ旗を樹てゝ後に續くと云ふ。後家さんの家には毎日五十人前の料理が此等の人を待ってゐるさうだ。之れは汽車の中で知らない叔母さんに聞いた話だ。
「お妾さんも其處に一緒ですよ。貴方々も行ってご覧なさい。」叔母さんの人は御殿場驛へ降りる時にこんな事を呟いた。眼には意味あり氣な光と徴笑とがあった。
 何の爲めに叔母はそんな事を云ったらう。一體後家さんと云ふものは川柳などでも常に惡口の種に成って居る。淫卑の代名詞の様に話されて居る。これは何と云ふ偏見な事であらう。私達は修善寺で千兩牛の男からも同様の事を聞かされた。叔母さんの話と一寸一分も相違はなかった。これから考へても判る事だ。私は此後家さんを奇特な事に思ふ。
 南無妙法蓮華經々々。
(完) 

注)句読点は追加修正したところがあります。
注)明らかな誤字誤植は訂正していますが故意の可能性のあるものはそのままとしています。
注)「悦慢」の「慢」は似た形の字を当てており違うかも知れません。


「苦味のある笑」
「桂月」 1926.07. (大正15年7月) より

「下練馬へ参りますのは此通でしょうか。」
 元氣相ではあるが、既う七十歳は越したらうと思はれるお婆さんだ。肩には大きな風呂敷包がかさ張って居る。中高の足駄をしっかり踏んで、危うげな足元ではないが、何しろ雨上りの郊外はどろどろに泥濘って居る。訊かれたS氏は凝っと眼を瞠った。然りも否も急に出なかった。
「行かれるには行かれますがね。……だけど歩いちゃ大變ですよ。日が暮れて了ひますぜえ。」自分でも多少嚇かし氣味でと思った位であった。
「そうですか。どうも有がとうご座います。」
 婆さんは驚いた様子もなく、輕くお辭儀をした丈けで颯々と行き過ぎようとした。裏切られた様なS氏は、もう一度呼戻さずには居られなかった。
「お婆さん。一寸お待ちなさい。……それで何ですか、お前さんの尋ねる家は判って居るんですか。」彼は足早に二三歩進んで婆さんに追付いて居た。
「伜の宅なんですがね。床屋を遣って居ますから判るだらうと思ひます。」婆さんは全く樂天的に出來上って居た。
「床屋?……」S氏は頭を傾げた。
「まあ兎に角此處で一寸待って居なさい。私が今連れて行って上げます。」
 彼は家へ駈け込んだ。持って來たのはS氏外一人と云ふ武蔵野鐡道のパスであった。彼はあっけらかんとして居る婆さんの先に立って歩き出した。青い日傘を擴げた様な空は、綿切れの様な雲の一片さへも浮べないで爽々しく彼等の上にあった。若葉越しの風も初夏らしい氣分で漂って居った。
 彼等二人は椎名町から電車に乗った。若いS氏と老婆との對照が、同じ箱の中の人々にどんな判斷を求めたか判らなかった。二人の間の會話もたいした事はなかった。其内に電車は江古田驛に着いて了ったのである。
 婆さんは今更の様に感謝した。S氏に歸って貰ふ様に頼み出した。が、S氏の性質は今少しく徹底しなくちゃ氣が濟なかった。默って低利資金を得て組合どもが建てた住宅地を歩いて居た。彼は此附近に一つ貸家を持って居るので、比較的に地理を知って居た。
 此貸家を持って居ると云ふ事に就ても、S氏の氣分を證明するに足る様な經緯がある。それは大震災のあった時である。市内から燒き出された人々は此方面にもどしどしと入り込んで來た。貸家を捜し始めだした。感激性に富んだS氏は自分の住宅を解放した。今漸く壁を塗った丈けの貸家にも人を迎へた。他の一軒の貸家にも一組の家庭を入れる事を勸めた。自分は住宅を失って一室を聞借りした。 其間に建てたのが下練馬の家であった。其當時は大工が拂底して居ったので、自分も勞働に服して其家を建て上げたのであった。彼が下練馬を詳しく知って居るのは其爲めであった。かうして婆さんの息子夫婦が營んで居る床屋が發見された時彼は怒ってでも居る様に颯々と歸って來た。一日置いた次の日、彼は婆さんの訪問を受けた。
「どうして僕の家が判ったかねえ。」彼は面倒臭そうに訊くのであった。
「一心と云ふものは恐ろしいものでせう。」婆さんは得意の鼻をうごめかした。「何でも貴下が此邊へ駈け込んで入らしったのを見て居たもんですから、一軒々々尋ね歩いて居た處なんですよ。だけど平生の信神のお蔭様でしょうねえ。漸くこうしてめつかりました。」
 S氏は又しても感激して神様のご利厄などを眞面目に考へさせられて居た。
「うむ。そうかえ。」彼は何とはなしに不思議な程迷信的にさせられて了った。
「だけど何ですよ。」婆さんは世間馴れた口調で云ひ出した。「當節の世の中で、電車に只で乗っけて下さるし、態々暇を潰して送って下された上に、行先迄捜して下さる様な親切な方はまあありませんよ。本當ですよ。……えええ、そりゃ口先許りでは無い事を云ひますがねえ。だけど全く損になる事ったら、それこそ親の葬式でも出す事はいやだと云った位のもんですよ。私がだからそう云ふんですよ。 こんな方は中々どうして捜したってありゃあしないってねえ。だもんですからねえ。實は昨日お伺ひしお禮を申上げる筈だったんですよ。だけど私は此事を娘にも聞かしてやったんですよ。わざわぎ日本橋まで行きましてね。……娘からもよろしくお禮を申上げて呉れってねえ。本當に泣かない許りに喜んで居りましたよ。」
 七諄くこうして喋られる事は、少なからずS氏を間誤つかした。咄辨以上のS氏であるからだった。併し婆さんの來意は單にお禮を云ふ爲めでなかった事は、彼女の問はず語りに喋る事から直ぐに了解された。此元氣に見える婆さんも、今年取って八十二歳になって居るのであった。彼女の本當の子供と云ふのは下練馬で床屋を開いて居る伜丈けである。が、其息子と云ふのは、婆さんをして云はしめると、意氣地無しであると云ふ位にお人好しである。 それが爲めに何の商賣をやっても大した儲にはならないのみか、其女房にさへ頭が上らないのである。女房と云ふのは、つまり婆さんの嫁に當る女だがそれが又勝氣で横柄な女なので、亭主を尻に敷いて居る許か、姑である此婆さんを虐待して近付けないと云ふのである。
 婆さんは此處迄話すと、默りこくって居るS氏の顏を覗いて見た。熱に富んだS氏は婆さんさへ驚く程慣慨的な眼を見据えて居た。それに誘はれて婆さんは又いきまいた。
 彼女には三十八歳になる娘が居る。これは息子の嫁にする爲め早くから貰った養女である。其養女は息子に嫌はれて未だ獨身で暮らして居るのみならず、日本橋の或大きな料理屋に女中を勤め、月に婆さんに生活費を仕送って居ると云ふのであった。
「娘が送って呉れた金さへなかったら、私は疾うに嫁にいびり殺されて居たでしょうよ。だから私は伜の家へは成る丈け寄り付かないで、知り人の家を廻り歩いて居たんですよ。」
 婆さんはこんな事を云った。そして今一度S氏の顏を何か期待する所がある様に窺って見た。其時、一寸小指の先で突いた丈けでも、既う泣き出さん許りのS氏であった。
「嫁の仕打があんまり酷いもんですから、警察の方へ説諭を願ひ出たのも五度や六度ぢゃないんですよ。其當座はあれでも少しは温状しくするんですが、直ぐにもう邪慳になって私の顏を見た丈けでも氣分に觸ると云ひ出すんですからねえ。」
 此時は流石に氣丈な婆さんも皺くちゃな掌を眼に當てた。而してS氏に嫁を説諭して呉れと頼むのであった。
「自分で堪へ得る丈けの範圍であったなら、どんな犠牲を拂ってもお世話をして上げたいが、そんな風な事は私に成し得ない事だ。」と云った様な意味をS氏は述べた。夫れでも婆さんは感謝の意を表して歸って行ったのであった。
 以上はS氏から私が聞いた話である。今時の世の中に、S氏の親切も感心すべきではあるが、一方から見れば、其恩誼に感ずる事深い婆さんも感心して好い。殊に料理屋の女中になって、養女であると云ふ丈けの名の爲めに、嫌はれた人の母に仕送りして居る老嬢に至っては世にも珍らしい美しい心根だ。と私は感ぜしめられた。それとなくS氏から其料理屋を聞き取って私は一日其女を見る爲めに出掛けたのであった。
 日々迎へては送る見知らぬ客に對して、萬遍なく愛嬌を振り撤いて居るかうした女にとっては、内面的に自分を知って呉れた人には非常に親しみを感ずるらしい。彼女はS氏の好意に泣いた。尋ねて行った私にまで打解けた親しみを感じたらしく、世の中の輕薄な事を愬えたり又人情の美しさを染々と嬉しがったりした。夫れは學問のある人々よりも私の心を深く捉へた。尋ね甲斐のあった事を悦んで私は歸って來た。 併し、併し、今私の頭に殘って居る事は、彼女の社會觀やS氏に對してなした感謝でもない。只、彼女の美しい容貌丈けである。一體世の中はこんなものであらうか。

「ハッハッハ……それが君の美人禮讃と云ふ譯か。ハッハッハ……三十八歳の婆さんがか、ハッハッハ……」
「アッハッハ……」
「ハハアハハア。」
 私の友人達が笑った。私は此話をある酒場で、五六人の友人の前で話たのである。其話題が「美人禮讃」と云ふのであった。
 と、S氏は椅子を押遣って立ち上った。
「君はッ……君は敏捷だねえ。」彼の顏には憤りがあって、眼から眼へと突と走った。が、直ぐに他の友人達の笑ひに引込まれて笑って了った。私も笑った。S氏の笑と私の笑ひとには、少しく苦みがあった。

注)句読点は追加修正したところがあります。
注)明らかな誤字誤植は訂正していますが故意の可能性のあるものはそのままとしています。
注)江の崩し字を「え」、「みは(※目爭)る」を「瞠る」など代用している文字もあります。


「裸にされた話」
「桂月」 1926.08. (大正15年8月) より

 田中兄にも約束をした。「桂月」へ何か書く事を。次の日清水波靜君が態々來られたので、重ねて堅い約束をした。所が世の中は妙なもので、こんな時には却て約束が守れなくなる。二歳になる子供が病氣に成り、十二時間小さな身體で悶え苦しんだ擧苦、到頭鬼籍に入って了った。私は看病に氣疲れがして、病人の様に成って了った。それよりも、頭が氣體で出來上って居る様にぼけて了った。違約を恐れ々々し乍らも書きたくない。今回はこんな所でお許しを願ひ、次には何かで埋合せしたいと思ひます。

「面舵ッ。」艦長が號令した。
「面舵十五度ッ。」按針手は舵を取り終った事を報告した。
 十五海里の速力で、波と噛み合ふ驅逐艦の回頭は物凄い。
「戻せッ。」第二の號令である。
「舵中央ッ。」按針手の報告。
「取舵に當てッ。」第三の號令。
「當舵十五度ッ。」回轉力を止める爲め取った反對舵角を報じた。
「ようそろ。」
 雲耶山耶呉耶越で名高い天草灘は、海軍では八代灣と稱して居る。其處で二週間の演習を終り、黒瀬戸と稱する狹い長い屈曲の甚だしい水道を通過して、今天草の南端牛深港に進路を定めたのである。暮色に包まれた天草の連山は眼の前に迫っていた。雲は低いが風はない。
「さあ。兵曹長ッ、牛深の口まで持って行って貰はう。」艦長は指揮權を渡した。
「ハイ。艦長は牛深は初めてなんですか。」兵曹長が訊いた。
「港へ這入ったのは之れで三度だが、一度も上陸した事は無いよ。」
「そうですか。それぢゃ今夜は是非お上り下さい。何しろ「牛深三度行きぁ三度裸」と云ふ所なんですから、一度はご覧に成っていゝんでせう。」
「へえッ。そんな恐ろしい所かねえ。」
 艦長がさも恐ろし相に云ったので、艦橋に居た者は皆笑った。
「三度行きぁ三度裸は全く恐ろしい。「二度と行くまい丹後の宮津縞の財布が空になる」と云ふ奴などよりは一層猛烈ですねえ。」航海長が云った。
「面白いねえ。一ッ裸に成りに行くか。」乗組大尉が云った。「艦長は勿論おいやぢゃないでしょう。航海長も行こうぢゃないか。」
「酷い事を云ふ人だねえ。だけど僕は此上裸と云ふ事に成ると一皮剥がなくちゃならないから驚くよ。」
「いゝでしょう。顏から剥げば。」
 これで艦橋は又、笑ひに滿ちた。港口へ來て、「入港用意」の喇叭が鳴る迄、冗談と笑ひが續いて居た。投錨した時夏の日はもうどっぷりと暮れて居た。岸には漁船が盛り上って居る様に重なって居た。魚河岸の様に人々の叫び聲がはち合せして居た。棧橋の上では人と魚とが押し合って居た。三人は艦を出で其魚の行列に挾まれ乍ら狹い町を西へ爪先上りに歩いて居た。 道を挾んだ家と云ふ家は、皆軒も柱も格子も戸も、漆を塗った様に黒く光って居て、至る所が魚と其血とで胸を惡くする程生臭かった。こんな空氣から逃れやうと焦心あせったが、魚の行列を衝き切る事が困難であった。町の幅よりは遥かに長い大魚が、魚雷を擔いで居る様に擔がれて、町一杯に押歩くので、立停って居る事すら困難であった。
「こんな小さな町へ、これ程魚を集めでどう所分す氣だらう。」
 ごんな疑問が起らずには居られなかった。此牛深の町は愚、天草の上島下島一面に振撒いても、まだ餘りそうに思はれた。
「第一魚が大きすぎるが、此魚なんか何と云ふ名なのかしらん。」乗組大尉が云った。
「さあ。僕は魚の顏を能く覺えないたちの男なんだ。何しろ平生海の中に潜って居る奴等だから、餘り交際しないからねえ。」艦長が眞面目に云った。
「チェッ。それぢゃ博物學は零だ。」大尉が云った。
「高等動物が得意だから大丈夫だ。殊に艦長は長髪人種に對して造詣が深いんだから。」航海長が云った。
「それよりか裸にして呉れる所は何處か訊いて見給へ。まだ上陸して一人も女を見ないぢゃないか。」艦長が云った。
「笊を擔いで棧橋に澤山居たぢゃありませんか。」
「あれが女かッ。こりゃいけない。迚も裸は覺束ないねえ。」
「まあ漁師對手の話でしょうねえ。」
 こんな事を云って居る間に、航海長は一人の男を捉へて訊いた。
「オイ君ッ。三度裸にして呉れる所は何處かねえ。」
「あっちの方で金が泣いてるのが聞えないかね。」
 漁師は南の方を頤で指した。驚いたのは夫れが男の様に見える女なのである。併し三人は金が泣く音を聞き得なかった。兎に角魚群の隊を衝切って横町へ曲った。其處で始めて聞く事が出來たのは三味線の音であった。彼等の足は早くなった。道は間もなく田甫へ出た。五六軒位は家が並んで居るらしい。三味線の音でそう思はれるが、電燈の無い田舎の家は暗くて判らなかった。三味線の音に吸付けられる様に、三人は足を早めて居る。 汗は額から襟からだくだくと流れるが、此邊は有名な夕凪のする所で、蛙の息程の風も立たない。只恐ろしい様な闇の暗黒が、喘ぐ度毎に胸へ流れ込む。併し、どうした譯か道は一向に三味線の音に近付かない。歩いても歩いても距離が變らない。只方角が移動する許りである。つまり音を中心として圓周の上を歩いて居る様に思へる。
「八幡知らずの森へ這入った様だねえ。」
「あゝ暑い。迚も遣切れない。」
「もう二回位音の周圍を遶ったぜえ。」
「イヤッ。全く狐に魅まれた様だ。此邊で一つ休む事にしよう。」
 道端に大きな樹が伐倒されてあった。
「此處は一度通った所だ。」
 かう云ひ乍ら三人は樹に腰を卸した。不知不識上着を脱いだ。それでもまだ湧き出て來る汗は止まらない。シャツを脱ぎ襦袢を脱ぎ、到頭三人は裸になった。
「ハヽヽ……これで完全に裸にされたぢゃないかッ。ハハ……」
「兵曹長に化された譯かッ。」
 裸の儘で暗い田甫路を迚って歸った。

注)句読点は追加削除したところがあります。
注)江の崩し字は「え」としています。
注)誤字誤植と思われるところでも故意の可能性のあるところはそのままとしています。


「胃癌」
「桂月」 1926.10. (大正15年10月) より

「さうだッ。俺は胃癌だッ。」
 と、つい大きな聲を出して了ったが、併し此即決診斷は、素人の私としては中々見事な斷定であった。
 炎暑丈けでも既う弱り切って居た私は、一昨夜以來虎列刺病の様な症状が續き、尾籠な話で眞に申譯がないが、痛む吐く下すの三拍子が揃って居る。夜もおちおも眠られない。昨夜は到頭酒さへも止めて了ったと云ふ今夜である。罷り間違へば今夜も飲まずに惱み明さなければならない模様である。それ程の重患であり、事は甚だ重大なのである。
 が併し、突然私が今胃癌だと自分に診斷を下したのは、昨今の此病氣に對して云ったのではない。
 嘗て私は専問家から聞いた事がある。人間は誰でも、其體質上から肺病系統と卒中系統に分たれる。肺病系統の人は頭が禿げない方で、呼吸器や皮膚が弱い。と、かう云はれて見ると私は肺病系統に屬して居る。所が又一方から見ると私は大酒を飲む。血壓は高い。近頃肩が凝り出した。肺尖加答兒を患った事のある友人は云ふ。「君は患はないでぽっこり死ねるから好いねえ。」と。 かうなると私はどちらの病氣で死んだら好いのか判らなくなった。所が、不圖した事から今夜此疑問が氷解したのである。私が今口に出して云ったのが夫れである。即ち私の死因は肺病でもなければ卒中でもない。中途半端な胃癌と云ふやつなのである。
 傍で夕刊を讀んで居た女性(俗に謂ふ女房とか妻とか云ふあれだ。詰り私の子供の母競なのである)が云った。
「胃癌だと直ぐ判るそうですよ。胃の中に堅い凝固りが出來て居るそうですから。」
 云ひ出す時から既う癪に觸って居た。病氣の故でもあったらうが、此方は書物と話して居たのに、女が横合から口を出したからだ。併し聞いて了ふと驚かざるを得なかった。堅い凝固りなら有るも有るも大有りだ。幾年前からだか覺えない程前から、胃袋の中に確然と存在して居るからだ。
「既う遣って來て居るのか。」私は驚き乍ら胸へ指を壓し當てた。
 依然として水月の所に一つと、其右の方に一つと確かにある。或は二つが連絡した長いものかも知れないが、兎に角壓して見ると相當以上に疼い。自分が誤診でなかった事に淡い誇を感じたが、直に心配の爲めに掻き消されて了った。
 斯くと見て取った子供の母が又口を出した。
「固りがありますか。」嘲るが如し。
「前から有るよッ。」忌々しいから聲を荒く云った。
「胃癌てそりゃ意地汚い病氣ですってねえ。」チェッ。子供の母は圖に乗って益々厭がらせを云ひ出した。「私の叔母が胃癌で死にましたけど、食べては惡いと極って居るのに、そりゃ何でも食べたがったそうですよ。仕舞にゃ自分の孫達が持って居るお菓子を見て、半分で好いから頒けて具れなんて強要ったそうですよ。それでも食べたい内は未だ好いそうです。食べたく無くなると痛んで痛んで痛み續ける相です。」
 聞きたくは無かったが到頭こんな事迄聞かされて了った。
「糞ッ。とんでもないものが取憑いたぞッ。」と、疳癪を起し乍らも自分の知った人で此病に殪れた者を心の中で捜して見た。
 生憎こんな不粹な病氣で死んだ友人は一人もない。只一寸知り合であった矢田部と云ふ男を思ひ出より外に無い。彼は籔睨みであった。それが如何にも彼を愛嬌者に見せて居た。愛嬌と云へば彼は大の嘘吐きであった。然るに其嘘にも妙に愛嬌があった爲めか、常に貧困に惱んで居た。彼は貧困のどん底に於て胃癌に罹ったのであった。患ったのは一ト月位であったらうか。其間に酷く苦しんだのは二週間位だったと云ふ事であった。
 二週間の苦み!
 それが私に堪へ得られようか。假に二十四時間にまけて貰ふ事にしても、噫々、私はぞっとする程不厭である。何とかして六時間位に我慢して貰へないもんかしらん。
 それに、少し困る事には、私が胃癌で死んだとなると、人々は必ず酒の爲だと云って、酒迄難癖をつけるに極って居る。そんな事になっては眞に申譯がない。尤も、酒の中に混じて在るサルチル酸などと云ふ藥品などに對しては、私は少しも義理立てなんかする必要は無い。が、酒其物に對してはさうは行かない。
 まあ皆さん一つ考へて見て下さい。酒は百藥の長ですよ。何で又人の命を取らうなんて氣を起すものですか。早い話が、此處に胃病の藥があるとします。胃散でも胃活でも其他どんな健胃劑でも構ひません。試みに夫れを一升丈け一ト晩に飲んでご覧なさい。どんなに胃の強い人でも大抵は胃を害せずに濟ます事は出來ないでしょう。然るに酒はどうですか。私など一升位飲んだからと云って胃を害した覺えはありません。 少し位惡いと思っても、一寸飲み直しをしてご覧なさい。立所に胃の惡いのが直って了ひます。これを見ても、酒が胃の藥よりもより好い藥だと云ふ事はお判りになるでしょう。其他何の病氣でも之れと同様だから驚くぢゃありませんか。
 かう云へば、皆洒好きだから酒の贔屓をすると云ふのであらう。夫れは決して間違っては居ない。併し私を酒好き酒好きと許り云って貰ひたくない。私は酒が好きであるが、同時に又酒の方でも私を好いて居る。否ッ、決して之れは自惚れではない。私の到る處で酒は私を待って居た。恰も私につき纏って居るかと思はれる位であった。酒は不遇不平であった私の一生涯を常に慰める事を忘れなかった。 二十年來毎夜私を安眠に導いて呉れた。これが不眠症の私に執ってどれ丈有り難い事であったらうか。迚も女房や情婦なんかがこれ程到れり盡せりの世話はして呉れまいと思ふ。其恩人に對し、私は病魔ででもある様な汚名を着せなければならないだらうか。これを思ふと胃癌になったのは甚だ困った事なのである。
 又、酒を惡く云ふ事は、一面に於て酒飲を惡く云ふ事になる。然るに酒を飲む人は大抵善人である。と云って何も下戸を惡人だとは云やしないが、酒飲みは善人であると見て差支ない。差支があったら其差支へた人が惡人である場合が多い。酒のみの慾は酒で盡きる。故に多くの慾がない。善人たる所以である。慾が多ければ共同生活をする人類界では惡人たらぎるを得なくなる。此點を考へても私は胃癌が酒の爲であると云って貰ひたくない。第一胃癌の療法も判らない今日、そんな定義を下すべき資格を誰が持って居るか。  談が少し與談に走り過ぎた。
 假令酒と其愛飲家とが私に汚名をきせられても我慢して呉れると云ふ事になっても、六時間の苦悶は私に對してまだまだ永過ぎる。尤も此六時間にしても私が勝手に定めた六時間であって、胃癌の方では依然二週間説を主張して居るかも知れない。或はそれ以上かも知れない位である。ああ、迚もこうなると凝乎として居られなくなる。否ッ、決してこれは笑ひ事ではない。私自身の事なのである。元來苦しい事痛い事痒い事擽ったい事と云ふ此四ッの「い事」は、私に執っては大の苦手である。 自慢ではないが、私は克己心とか忍耐力とか云ふ防禦力は餘り多く天與の惠を受けて居ないんだ。それだのに、何と云ふ因果でこんな大嫌いな思ひ迄して死ななければならないだらうか。かう考へて見ると全く以て遣り切れない。死ぬ方を先にして、痛い方を後廻しに摺り換へて遣りたいが、迚もそんな手には乗りそうにも思へない。此處で一ッ日米戰爭位が始まって、東京市の上空に敵の飛行機が舞ひ、爆彈毒瓦斯毒液焼夷彈が降って呉れるなら、私は喜んで毒瓦斯の中へ頭を突込むんでやるんだが。
「こりゃ、どうだい米國! 一ッ遣って見る氣はないかい。」
 なんて云はうもんなら都會人に叱られよう。これも餘り輕卒には口に出せない事である。
 ああ困った。實際困った。
 茲まで書いた時、先刻から寝て居た例の子供の母親と云ふのが起きたらしい。正に午前二時である。私は早速酒の燗を命じた。
「お酒なんか召上って好いんですか。あんなにお腹が惡いのに!」寝惚面を引掻き廻し乍ら彼女なる者が不平らしく云った。
「好いとか惡いとか云ふ事は既う超越して居るんだ。」私は煙草をふかし乍ら悠然として云った。
「胃癌が氣に成ってお休みに成れないんですね。明日お醫者に見てお貰ひになったら好いでしょう。」
 女と云ふ者は平凡極まる事しか云へないものと見える。實になさけない。
「醫者の醫と云ふ字は治すと云ふ字だぞッ。不治の病と極ったものを見て貰ったって、どうにもかうにも成るもんか。」私は忽ち決心した。どんなに痛んでも醫者には診察して貰ふまいと!
「だつて!……」
「何を云ってるんだ。何がだってだッ! 自分で胃癌を痛い苦しいものにして置き乍ら、今更燗をするのが面倒だとでも思って居るのか。度し難きは胃癌に非ずして女人なりだ。」
 と、之れは口へ出しては云はなかった。爛をするのが後れるからだ。が併し私は思った。痛くなったら先づ第一に此奴をぶん毆ってやらう。それから時計なんで野蠻なものは打壊して、痛い時間なんか判らなくしてやらう。迚も堪らなくなったら自殺する事にしようと。卑怯者だなんぞと笑ったって、其時には既う人間仲間から脱した屍だ。元素の集合が分離しつつある時だ。責任なんかありゃしない。それよりか吾々は胃癌て苦む爲めに生れた覺えなんか少しもない。いやな時には死ぬるのさッ。誰に遠慮が要るものかッ。
 もうかうなると捨鉢だ。矢でも鐵砲でも持って來い。死ぬのを恐いとは一度も云はないぞッ。
 そうれッ、お燗が出來た。これから一ッ飲みます。
「禁酒國よ。呪はれてあれ!」
「皇國に幸あれ!」
 酒はまだ……少しは旨いぞッ。

注)句読点は追加修正したところがあります。
注)明らかな誤字誤植は訂正していますが故意の可能性のあるものはそのままとしています。


「伊東の一夜」
「随筆」 1926.10. (大正15年10月) より

 百噸そこそこの船であったが、白塗りのトゥインスクリューと云ふ一寸酒落た汽船であった。私は熱海にある家兄の墓に詣でた後、伊東の方へ廻る積りで夫れに乗った。伊東には三高に居た友人のK君が居て、夏季体暇中東亞同文書院の支那學生に水泳を教へて居た。遊びがてら私に來て手傳って呉れと云って來て居ったのであった。私に執っては大事な休暇で、早く東京へ歸りたかったが、一日や二日位は泳いでっても可いと云ふ氣になったのであった。
 風は無かったが畝りは高かった。二十人近くの乗客は、かんかん照り付ける上甲板で、投捨てられたものゝ様に轉がって居た。網代港沖で一寸漂泊した後、船は間も無く伊東の沖へ錨を投じた。乗客は下甲板の荷物取入口から艀船へ降り始めた。先刻船暈で惱んで居た一人の婦人が、私より先に降りようとした。其時大きな浪が舷側を搏いて、船をぐらぐらと動揺さした。女の躯も蹣跚めいた。私は無意識の中に夫れを止めてやらうと、兩手を延ばして抱く様にした。女は私の手に觸れる事無く踏留る事が出來た。加之に其時私の方を振向いて見た。三十前後でもあったらうか。迚も上品な美しい顏の持主であった。
 女のをの字も云ってはいけない兵學校生徒の時分であったが、綺麗なものは依然綺麗に見えた。一種の威壓を感ずる程綺麗に見えた。私は手を延したりなんか餘計な事をしたのが耻かしく氣が咎めて堪らなかった。それでも妙に心を惹かれてならなかった。
 陸へ上って見ると支那學生達は直ぐ附近で泳いで居た。K君は只一人で三十人からの學生に一々教へて居た。私も早速服を脱いで豚の様に肥へた支那人を抱いては泳がせた。石が凸凹した濱沿ひ道を俥が輪の音を軋らせて走って來た。何心なく眼を遣って、私は先の婦人を車上に見出した。私の方を振向々々町の方へ去って行つた。「何者だらうか。何處かの令夫人が別莊へでも來たんだらうか。」こんな事を考へ乍らも幾度か私は顏を擧げてお互の視線を打つけ合った。車は軈て木立に隠れた。私は彼女と永久に没交渉な人間である事を淋しく思った。
 一トしきり泳いだ後に私達は學生の宿へ歸った。旅館では無かったが大きな浴槽があった。私達は皆知り合であった様に一緒に入浴した。廣東から連れて來た料理人のご馳走を食べた。食後暫く私は學生の日本語の稽古臺にされて色々の話をし合った。私は此等の學生は皆私達同様二十歳に成るかならない青年だと思って居た。所が友人の話によると皆二十七歳以上四十歳迄の人逹で、郷里には妻子が居る人が多いと云ふ事であった。又中に清廷の親王が一人居たにも驚かされた。彼等は白扇へ思ひ々々の筆を揮って紀念として私に送った。
 夜に入っても其日は中々暑かった。疲れて寝床へ急ぐ者もあり、菓子を撮み乍ら話合って居る者もあった。私と友人とは當時未だ開けない淋しい町を散歩した。海濱へ出ると少しは風もあった。月は相模灘一杯に照って海へ金鱗を落して居た。三原山の煙で暈された大島は、夢の様に凪いだ海に浮んで居た。
「涼しいなあ。」
 友人が云った。私は夫れに應じなかった。砂の上へ引揚げてある一艘の船を凝乎と瞶めて居た。其舷に憑り掛って、月を眺めて居る二人の影があった。其一人を私は先刻の婦人だと睨んだからであった。
「もう歸って寝よう。」
 友は促がした。それでも私は默って立って居た。少時すると二つの影は立ち上った。手を曳き合って居た。ぴったり躯をくッつけ合って歩き出した。距離は段々と私達の方へ近づいて來た。最早私達の顏も明瞭見えたらうと思ふ頃であった。女は急に立ち止った。男の手を引張って踵を廻らした。私達の眼を避けようとして居る事は明かに察せられた。不承不精とも見られる恰好で男も反對の方へ向きを換えた。私は其時月光で男の顏を明かに見る事が出來た。清廷の親王某氏が其男であった。
 翌朝私は山越して大仁の方へ出て歸京した。(終)

注)句読点は追加修正したところがあります。


「ありまーす物語」
「桂月」 1926.12. (大正15年12月) より

 臺灣から竹内君が上京して來た時である。舊友が五人程集って數寄屋橋内の「曙」で飲んで居た。座に在った井上博士は今帝大の法醫學講義を受持ってゐると云った。すると其話を聞ゐて博士に向ひ、
「君は法醫學など云ふ課目の在る事を好く知って居ったねえ。」
 と、かう云ふ無禮な事を云った人が有ります。

 弘田茂呂太君が「桂月」九月號から引續き、籐椅子に轉がって敷島の煙を輪に吹き乍ら、「博士元來無學者」と云ふ氣焔を吐いて居ります。これを見た或男が、
「弘田君は幾月も々々好く飽きないで籐椅子に轉がって居られるねえ。餘程金でも溜込んだに相違ない。」
 と、かう云ふ事を云った人が有りまあす。

「東京にも地下鐡道が出來たよ。」
「其事は前から聞ゐて居るが、電車と云ふ奴は偉ゐ奴だねえ。地の中へ理め込んだ軌道を能く間違へずに辷って行かれるねえ。」
「そりゃそうさ、電氣が通って居るんだもの。」
 と、かう云ふ話をして居た紳士がありまあす。

 カッフェの圓卓で頬をぽッとさして居った紳士が女給を捉へて、
「君の國は何處だね。」
「千葉で厶います。」
「フェッ、鬼熊の巣だね。」
「あらッ……」
「だけどまあよかったねえ。食ひ殺されずに生きて居られたから。」
 と、かう云ふ事を云って居った人がありまあす。

「姐さん何處だね。」
「大阪だす。」
「大阪は何處だね。」
「北だす。」
「北なら南ぢゃないねえ。」
 かう云ふことを云った人がありまあす。

「山口君が死んだそうだ。」
「何だ、生意氣な奴だねえ。」
 と、かう云ふ事を云ふ人がありまあす。

 日比谷に京都料理の平野屋と云ふのがあった時の話だ。女中に大阪言葉を使はして、夫れで京都趣味を現はした積りで居た。
「おい姐さん。君の大阪言葉はまだ幼稚園だねえ。何處で稽古した。」
 と、かう云ふ素破抜を云った人が有りまあす。

「君の處には桂月先生の書が澤山あるだらう。一枚僕に頒けて呉れないか。」
 或日私はかう云ふ談判を持込まれました。處が私は何時でも先生なら書いて戴けると思って居たので、實は一枚も持って居ないのです。で其旨を話て斷りました。すると、
「僕は半折を三枚持って居る丈けだ。誰か澤山持って居る人はないだらうか。」
 と、かう云ふ圖々敷事を云ふ男がありまあす。

注)句読点は追加削除したところがあります。


「惡日」
「桂月」 1927.01. (昭和2年1月) より

 朝食後井戸端へ出て鶏の餌を拵えて居ると、表へ遊びに行って居た子供の泣聲が近付いて來る。母親が慌てて飛出すと、此頃近所へ越して來た家の兒に頬ぺたを毆られたと云ふのであった。
「増子さんがお姉ちゃんの此處パッチした。」子供は泣き乍ら更に私の所へ愬へに来た.
「増子さんがパッチしたらお姉ちゃんもパッチして遣れば好い。泣いたりしちゃ駄目。」私がかう云って抱き締めて遣ると、間も無く子供の機嫌は直った。
「お父ちゃん。お姉ちゃんがお水を汲んで上けやうか。」
 此頃家の重い喞筒を少し動かされる様になったので、私が鶏の餌を練ると成ると毎朝手傳って呉れるのである。
「へいもう澤山です。さあキイコッコのご飯が出來た。お姉ちゃんも行ましょう。」
 キイコッコと云ふのは此子が勝手に發明した鶏と云ふ言葉である。私がかう云って子供の顏を見ると、今にも泣き出し相な顏をして頬ぺたを撫でてゐた。
「痛いの?」
「うむ。」子供は首肯いた。
 可愛想に、後まで痛む程比子は毆られて居るのである。子供の喧嘩に親が出ちゃいけないと云ふが、そんなら喧嘩に弱い兒は始終虐められて居なくちゃならないのかしらん。私は暗涙を催した。
「おいメンソラを塗ってやれ。」私は母親に吩付けた。メンソレタムと云ふ藥は此兒に萬能藥となって居るのである。
「お姉ちゃん早くいらっしゃい、おッくうつけたあげましょう。」家の中から母親が云って居る。
「いらっしゃいぢゃ無い。持って來て塗ってやれ。」
 こんな時當り散されるのは女房であると相場は極って居る。
 子供の玩弄物として家に一匹のホックステリヤが飼ってある。私は之れに「照」と云ふ名を付けてある。これが恰度交尾期になって居るので、茲一週間程前から近所の牡犬が張りに來る。五六匹、來る犬も來る犬も碌なのは居ないが、大抵ずう體が大きくて間に合はないからまだ好いが、一匹丈小柄な奴があるが、其奴はどうにか懸る事が出來そうだ。そんな駄犬の種でも宿しては堪らない。 私は見付け次第それを追拂って居た。所が此日私が一寸雜誌を讀んで居た間に、到頭其犬が懸って了ったらしい。子供が夫れを見付けて頻りに叱って居た。私は交尾したとは知らないので、呑氣に玄關の方へ出て行かうとすると、大きな犬が庭の方へ逃げた。子供が叱って居たのはこれだと思って、私は庭の方へ廻って其犬を追っ拂った。と其刹那であった。子供の泣聲が爆發した。
「痛いッ、わんわんがお姉ちゃんのあんよを噛んだッ。痛いよ、々々、々々。」所謂火の付く様なと云ふ奴である。
 見ると成程左足の甲に犬の齒跡が三つ見え、少しく血が滲んで其邊は紫に變色して居った。早速例のメンソラを塗って置いて玄關先へ出て見ると、小さい犬の方が照と尻を突合せて引摺りっこをして居った。子供を噛まれたと云ふ憤りと、照の節操を蹂躙されたと云ふ怒りとが、頭の中で巴の様に渦卷いた。私は竹の棒を執って其の女王を犯した奴隷とも見るべき犬を毆り付けた。 餘慣は中々晴れないが、泣いて居る子供が氣懸りであった。誰かにアンモニヤが好いと聞いた様な氣がしたので、夫れを塗って上へ綿を當て、繃帶で卷いて遣ると子供はすっかり嬉しくなって泣き止んだ。
 犬に噛まれた時の所置は板垣君から教へられて居たので、早速傳染病研究所へ連れて行く事を其母親に命じ、私は犬を所置する方に掛ったのである。目下使って居ない鶏小風があるが、二三日前其中へ犬を投込んで置いた所、金網を突破って出て來たので、其處の修理に取懸った。之れを見た子供の母親は、着物を着換へ乍ら縁先へ出て來て云ふのであった。
「連れて行くんでしょう。私は病院が何處だか知らないんだから、教へて下さらなければ駄目ぢゃありませんか。」
 それが如何にも恨を含んで居ると云った様な憎々しい云ひ方であった。私が鶏小屋を修理して居る事が、餘りに呑氣で不親切だとでも思って居るらしい。夫れに行きたくないと云ふ氣が有るのも明瞭に讀める。
「そんな事は判ってる。」私は呶鳴付けた。彼女が出掛ける迄まだ相當の時間を要する理由があったからである。
 夫れも夫れだが、實は傳染病研究所が何處にあるか私だって知らないのである。帝國大學傳染病研究所と北里傳染病研究所と同じものやら、違ふのやら、違ふとすれば板垣君から聞いたのはどちらの事であったやら、夫れさへ私は判然しないのである。田舎者らしいが地圖に相談するより外に方法はない。地圖を見るなら私だって彼女だって同じ事だ。私は直ぐ柵の手入が終ったので犬を中へ入れて置いて上へ上った。
「行きともながって居やがる馬鹿ッ。」
 私は再び呶鳴った。自分も子供の親でり乍ら、進んで連れて行こうとしないのみか、行くのを思に着せようと考へて居る。一體世の中に之れ程子供に不親切な母親が又とあらうか。第一今朝から私は既に彼女が癪に觸って居たのである。序だからそれも話して了はう。
 今年も子供の外套を毛糸で作る事にした。私は其色合に註文があったので自分が買ひに行った。併し私の欲する色のが無かったので、不滿足乍ら妙なのを買って來た。襟を引繰返す點に於ても私の好みがあった。少々夫れは面倒な編方であるらしいが、私はそうする事を彼女に命じた。襟丈けが出來ない時試みに子供に着せて見た。似合はないも似合はないも、てんで此位の子供に用ゆべき色ではなかった。彼女は既う張合が無いと云って編むのを止めた。 併し前日私は十二三歳の少女が夫れと同じ色の外套を着て居り、夫れが能く調和して居るのを見た。夫れで兎も角襟を作らせようと思って今朝其話をした。所が彼女は云ふのである。彼女の妹の嫁して居る家に近く、母親が無くなって父親丈けで育てゝ居る十二三歳の子供がある。其家でほしいと云ふかも知れないから、そうしたらあれを賣って遣ると云ふのである。夫れにしても襟を着けなくちゃ問題にならないと私が云った。彼女は、若し先方で欲しいと云った時、簡單な襟を着けて遣れば好い。とかう云ふのである。
私は先方が衿の着いて居ないものを欲しがる筈はないから、兎に角私の好みの襟を着けろと云った。彼女は頑として夫れに應じないのである。彼女は私の好みの様な襟が出來ないのかも知れない。夫れにしても其強情は癪に觸らぎるを得なかった。
 帝大附属の傳研ならば、私の知人が居るので夫れに手紙を書き、地圖を開いて捜して見た。二ツの研究所は別物であり、兩方餘り離れて居ない事が判った。
「北里の方は天現寺の先で、帝大のは白金台町だ。どちらへ行けば好いか忘れたから、北里の方へ先きに行って見ろ。」私が云った。
「何處で降りたら可いんです。」彼女はつん然と澄して訊くのであった。
「何處で降りるか自分で地圖を見ろッ。」三度私は呶鳴付けて子供の着換へを手傳ひ始めた。と、何處から抜け出したものであるか、照は柵を出て表の方へ駈けて行った。何しろ鶏よりも小さい犬なんだから始末が惡い。私は又しても疳癪玉が爆發した。表へ呼びに行かなくちゃならないぢゃないかッ!
 が併し、幸に犬は直ぐに引返して來た。私は今一度網の目の大きい様な所へ針金を渡し、今度こそ大丈夫と云ふ譯で犬を入れた。子供等は其間に出て行った。所が犬の奴またしても抜け出して裏の方へ走った。今度は呼んでも歸らない所か私に逃げるのであった。小汚い牡を追蒐けて、自分から貞節を破られに行くのを思ふと、私は口惜さで腹の中が煮へ繰り返った。其處へ此の犬を貰って呉れた友人が遣って來た。  芝園橋の所に好いテリヤの牡が居るさうだから、此處の犬に懸けて貰って仔を取らうぢゃないか。と云ふ相談なのである。之は願ってもない幸だ。所で肝腎の犬が居ない。襤褸犬なんかの種を宿したりなんかしたらそれきりだ。私は又々心が焦々した。こんな事を話して口惜しがって居た所へ、照がのこのこと歸って來た。夫れで兎に角つれて行って貰ふ事にした。犬の方はこれで一段落となってほっと安心した。
 軈て子供が歸って來た。肩へ注射して貰ったと云ふのである。これが十八日間續けて遣らなければならないのだ相だ。十八日の間毎日通ふのも大儀な事であるが、夫れは先づ止むを得ないから行くとしようが、小さな子供に十八本の注射をされては子供が可愛想である。子供は足が痛い肩が痛いと云って私に抱き付いて來る。夫れを抱いて私は只茫然として居った。嗚呼今日は何と云ふ惡い日であったらう。

注)句読点は追加したところがあります。
注)者の下に火は「煮」で代用しています。
注)明らかな誤字誤植は修正していますが故意の可能性のあるものはそのままとしています。


「口惡」
「桂月」 1927.02. (昭和2年2月) より

 横須賀行きの一番汽車に乗込んだ時大雪の爲めに世界は薄明るくなって居たが、夜は未だ明け離れては居なかった。毬の様に小ぢんまりとクッションへ躯を埋めた私一人の爲めの、二等室でありスチームヒーターである様な氣がして、私は睡むい寒いを忘れる事が出來る様な氣がした。
「おいおい、何處へ行くんだえ。」
 私の肩を誰かが叩いて居る。珍らしく早起した今朝なので、何時とはなしにぐっすりと寝込んで居たらしい。夫れを今呼起されて居る所である。私は車掌だらうと想像して、無禮な口の利き方が癪に觸った。一ト文句無かる可からずと眼を開いた。が、車掌の代りに、其處には一人の海軍士官が立って居た。私は夫れが誰であるかを了解し得る迄に、長い時刻を要しなかった。それは私が未だ海軍に居った頃の級友で、延岡と云ふ中佐であったからである。
「よう、何處から乗ったんだえ。」私はかう訊いた。
「今此鎌倉に住んで居るんだ。」
 なる程、私は前後も知らず此處迄眠り込んで居たが、今汽車は鎌倉驛を發車した所であった。箱の中には延岡の外に會社員風な二人連れも乗込んで居たし、私の知らない若い士官が三人乗って居た。雪も何時の間にか歇んで了って、丘と云はず木立と云はず人家の屋根と云はず、皆白熊の背の様にぼやけて居て、痛い程鋭い朝日が金色の翼を一杯に擴げて居た。
「今何處だい。君は佐世保だと許り思って居たが。」私は彼の勤務する場所を訊いた。
「うむ、つい此間迄佐世保に居たんだよ。近江へ換って來た許りさ。」
「近江か。艦長に成ったんだな。」
「君は何處へ行くんだ。用が濟んだら艦へ來ないか。始めての艦長振を見て呉れよ。」
「難有。又次にしよう。」私は珍しくも無い艦などへ行く氣にはなれなかった。
「次にしようぢゃないよ。是非來いよ。旨い酒が取って有るんだから。艦で面白くなかったら陸上の案内役を務めても可いから。」
 彼は馬鹿に熱心な勸め方をした。
「好い年をしてまだ陸上に發展しようと云ふ意志を持って居るのか。」私は少しく眞面目さを示して見た。
「珍らしく君とこんな所で逢ったからさ。平生は至って謹直に主事に勤勞して居るんだよ。だから偶には飲んだって好い譯さ。」
「だしに使はれるのも惡くはないが今日は駄目だ。其内級友會もあるだらうから、東京で大に談ずる事にしよう。」
 朝早くから酒を飲む話は餘り氣乗りがしないものであった。こんな事を云って居る間に汽車は横須賀驛へ着いた。彼は逸見の波止場の前を通り越して、私と並んで歩いて行くのであった。
「僕は今日何も早く艦へ歸る必要はありゃしない。何處か其邊で久し振に懐舊談でもしようぢゃないか。」到頭彼は惡友振を發揮しだした。
「朝っばらから洒でもあるまいぢゃないか。」自分ながら私の意志は案外強固であった。
「それぢゃ水交社にしよう。此儘別れるのは甚だ不本意だ。ねえ、水交社なら好いだらう。」
 海軍士官が軍港地で部外の友人に出逢った時、妙に懐かしみを感ずるものである。其經驗は私も有って居た。夫れ程軍港地と云ふ所は海軍以外の人に用の無い所である。私達は到頭水交社の食堂へ這入込んで、誰も居ない伽藍とした中でウイスキーを飲み始めた。私達は眞面目に議論を仕合ったりする仲ではなかった。話は直ぐ花柳界の方へ降って行った。
「佐世保の藝者と云へば、君は最近迄居ったから知って居るだらうが、彼處に清葉と云ふ子供々々した藝者が居ったらう。」私がかう云ひ出した時、彼は注意深い眼を光らして私を見た。
「知ってるよ。それがどうした。」彼は私の顏から眼を離さずに云った。
「別にどうもしないけど、二三日前僕は彼女を新宿の停車場で見たんだよ。何處かの大學生と二人でホームに立って居た。能く似た女が有るもんだなあと思って、人込の中を分けて傍へ行って見たよ。勿論向では僕に氣が付く筈はないが、紛れもなく夫れが清葉なんだ。併も前と少しも替って居なかったよ。」
「言葉を掛けて見ればよかった。」彼は依然眞面目に云ふのであった。
「若し大學生が居なかったら、僕も話掛けて見たかも知れなかった、何しろ全く無關係な間柄ではなかったからねえ。夫れに電車に乗って見ると同じ箱の中になったからねえ。」ウヰスキーで口が輕くなって居た私はこんな事を云ったが、餘り感心した言葉ではなかったのに氣が付いて追加した。「だが藝者なんかが東京へ出て來たってどうする積りかねえ。」
「いや。此頃の佐世保なんかと來ると突然様子が違って來たよ。休暇で歸省した大學生が藝者買をする様に成ったんだ。所で藝者の身に成って考へて見ると、海軍士官なんかにいくら深くなった所で、到底夫婦に成れないと極って居るだらう。其處へ行くと初心な大學生と成ると金さへあれば直ぐ受出して呉れるんだ。而して東京へ直ぐ世帶を持つ事に成ると云ふ譯だ。 併しどう云ふ譯だか東京へ來て半歳も經つと必ず歸って來て二度の勤めをやって居るよ。そう云ふ風な流行かも知れないねえ。……所で君が新宿驛で清葉に逢ったのは一昨夜だったらう。彼女が昨日艦へ尋ねて來てそう云って居ったよ。彼女は君を發見して居ったんだ。併し孰れお伺ひするから默って居たってそう云って居った。」
「へえ、彼女が君の艦へ尋ねて來る程君と親密な中だったのか。」私は輕い駭きを見せて笑った。
「何ッ、駭かなくても可いよ。訪問されたのは僕ぢゃない。僕の艦に居る立花と云ふ若い大尉なんだよ。偶然僕が後甲板に出て居たので一寸話をした丈けさ。」
「君を訪問したって構はないじゃないか。」
「ハッハッハヽヽヽ。」
「ハッハッハヽヽヽ。」
 私は横須賀での所用を濟して夕方の上り汽車で歸途に就いた。逗子と鎌倉とで海軍士官が下車して了ふと、客は半分よりも少なくなって了った。大船邊りへ來た時分には、夜の寒さが急に感ぜられる様な氣持がした。と見ると化粧室と便所で一寸仕切られた次の室から、一人の女がにこにこと笑ひ乍ら私を目指して近寄って來た。夫れが今朝延岡と二人で話題に上せた清葉なのであった。
「鶴谷しゃま。ほんにお久しかとでした。」かう云って今にも抱き着きそうな恰好をして遣って來た。誰が見ても素人とは見えない扮装である。
 私は邊りに居る乗客の顏を一ト渡り見廻した。其大きな聲。併も長崎辯丸出し。其扮装ッ。私は顏がぼうッとなるのを覺えたのであった。が、そんな事にはお構ひなく、彼女は私にぴったり躯を寄せて隣へ腰を卸ろした。
「どげんしとをましたとへ。」
 困り切って返事の出來ない私を促す様に云った。
「大學生の旦那が出來たそうだねえ、先刻延岡から訊いたよ。」私は餘り上ッ調子な彼女をへこまして遣る積りでかう云った。
「あれへ。おうち新宿の停車場で見なはったとでしょう。ホヽヽヽあれ私の弟ですばい。」誰もが他人を巧みに騙した時する様な喜び芙ひに躯を捻ぢって云った。
「一體東京へ何しに來たんだ。お馴染の士官の下宿を泊り歩いて、其傍で見物でもしようと云ふのか。」私は出來得る限り皮肉に、而して附近の人に彼女と關係などありそうに見えなくしよう努めて云った。
「田舎者の東京見物たい。そやけんでん、人の下宿なんかに泊るもんへ。昨夜だってちゃんと三富屋へ大威張で泊ったさ。」彼女は笑ひ乍ら肘を張って大威張の眞似をして見せた。
「誰と、立花大尉か。」私は眞面目らしく、小さな馨でかう云った。
「へッ、立花しゃま知らなはらんとばってんが、延岡しゃまから聞かしたとでしょう。大違ひさ。立花しゃまの所へは萬翠樓から頼まれて、勘定を戴きに行ったとですばい。大そう急に轉任なさったもんで、其儘になって居たとばい。……私今日おうちをお尋ねしようと思っとをりましたばッてん、よか所でお目に掛りましたばい。」
「冗餞云ふない。俺は萬翠樓なんかに借金はないよ。」
「そうぢゃなかよ。餘りご無沙汰しとをましたけんで、……そやけんでん奥様の燒きなはるへッ。」彼女は調戯ふ様な眼をして私を見た。
「燒くとも、お前見た様な別嬪で凄腕の女に舞込まれて見ろ、何處の奥様だって黒焦げだ。」
「おうちほんに奥様貰ひなはったとへッ。延岡しゃまは、おうちはまだ獨身で居りなはるばってん、遊びに行けと云ひなはったですばい。」
 獨身で藝者と話をして居る。藝者が遊びに來ると云って居る。こんな事を邊りで聞耳を欹てて居る人等に聞かしたくない。私は少々うんざりさせられた。
「それで今日は俺の所へ食潰しに來る豫定だったのか……」
「食潰しへッ、ホッホヽヽ恐ろしか。」彼女は大袈裟に腹を抱へて笑ひ出した。
「だめだよ。奥さんもあるし子供も居るんだ。そう易々と食潰しなんかさせるもんか。」
 だが彼女は既う笑ひ疲れて居た。笑はなかった。只少し眞面目になった丈けであった。
「明日から大角力が始まるとでしょう。」彼女が訊いた。
「はゝあ、成程、そうか。お前は褌擔ぎを追掛けて東京へ遣って來たんだね。大學生に惚れる様な、そんな上品な柄ぢゃないと思った。」私は東京相撲の一行が、比暮に佐世保へ立寄って一ト興行打った事を思ひ出して云ったのであった。
 清葉は突然私の肩をぱちんと叩いて笑ひ崩れた。
「相替らずおうち口の惡かですねえ。」笑ひの中から漸く之れ丈けの聲を出す事が出來た彼女であった。
 私は四邊に退屈し切って居る乗客の手前、既う迚もかうして居るには堪へられなくなった。突と起って反對側の空席へ坐を移した。彼女は夫れを追蒐けて來て、又してもぴッたり躯をくッ付け乍ら、袂で顏を埋めて何時迄も笑って居た。

注)句読点は追加したところがあります。
注)誤字誤植と思われるものでも故意の可能性のあるものはそのままとしています。


「惡友」
「桂月」 1927.03. (昭和2年3月) より

「君は「桂月」へ「惡日」を書き「惡口」を書いたが、今度は屹度「惡友」と云ふのを書くだらう。」
 國澤君は札をパチパチと音させて切り乍ら云った。彼が第二回目に惡友振を發揮しつつあった晩の事である。
「そんな事は書かないさ。今夜は僕が勝って惡友振を發揮するんだもの。」私は勝を信じて云った。
「何ッ君が勝つ。だって既う十貫借りて居るぢゃないか。」
「だってまだ二タ月しか遣って居ないぢゃないか。今から運命が判るもんか。」
「二タ月で十貫借りると一年で六十貫借りる譯になるぜ。」
「一年位ぢゃ判らん。三年遣れば屹度勝つ。今日は僕は運の好い日だ。」
「よしッ。それでは三年行かう。」
「よし、それなら勝つ。」
 醉眼朦朧の二人は、仇の様に坐布團を叩き着け始めた。覺えた許りの嬶はお附合が出來るので内心喜んで居るが好い迷惑をして居るのは子供である。矢張此男は自分で云ふ通り惡友かなッ。
 私が花骨牌を覺えたのは此正月の末の事で、此時はまだ半月とは經って居なかった。元來私は子供を近所の友達と遊ばせない事にして居る。意地惡な子供許り居て、家の馬鹿娘は常に下積みにされるからである。で、此四月から幼稚園に行く様になるのだが、それ迄はどうしても家で遊んで貰はなければならない。 それでぼつぼつと玩弄物を集めて居る。トランプと花骨牌とは正月用として暮に求めたものである。所が親が第一其使用法を知らないのであった。正月の末或友人が來て飲んで居た時、彼は毎晩自宅で花合戰を遣ると話して居た。そこで早速捉へて其方法を教はったのであった。手役とか場役とか云ふ事を私は始めて知った。
 場役の事を出來役と云ふ人もある様だが、普通手役と云って居る役こそ出來役と云ふ可きで、出來役とか場役とか云って居る方は、作り役と云ふのが適當な言葉だと思ふ。が、そんな事は此處ではまあどうでも好い事にして置く。
 花骨牌を覺えたと云った所で、何の役が何貫などゝ云って、何等標準も理窟も無いものを棒暗記したのではない。只書き留めて其一枚を持ってさへ居れば、玄人と云ふには十分である。私は其一枚を持って居る。それ以後第一に來た客にはかう云った。
「君、花合せと云ふ奴を教へて遣らうか。遣って見ると中々面白いもんだぜえ。」
「えゝ遣りましょう。」客も中々教へて呉れとは云はない。圖々しいもんだ。
 私には短一が出來た。短冊を伏せて横の方へ寝かせ、後のカスを皆洒し、友人の顏を覗き込んで遣った。
「短一か、三貫ですね。」客が云った。
 虎の卷一枚を取出して見ると、正しく三貫と自筆で現はれて居る。不思議な事があるものだ。其次から私は謙遜して出る事にした。
「君花合せを知って居るか。」
「久しく遣らないから、忘れてるのがあるかも知れないよ。」友はかう云った。
「はゝあ。此奴はまだ素人だな。始めから教へて掛るとなると面倒だなあ。」
 私はかう考へて躊躇して居た。所が脇で聞ゐて居た子供か骨牌を持ち出して來た。
「花合せしましょうよ。をぢさん花合しない?」
 かう云ひ出すと子供の方が承知しなくなる。勿論自分には出來ないので、持札を開ゐて並べて置く、私と客とが相談づくで取ったり捨てたりした。
 二三回遣った後、友人が札を前へ洒して了った。そんなのは手役として私の記憶にない。虎の卷を一見に及んだが、それにも揚げて無いのである。
「愈々此奴素人だ。素人も素人幼稚園だ。」私はかう考へたので云った。
「おい。そんな何でもないものを洒す奴があるか。」
「君達は二タ三本は洒さないのか。」
「洒したけりゃ洒しても好いさ。だけど役でも何でもないぞ。」
「いや。二タ三本は役だよ。」
「だって之れに書いて無い。」私は友人の確信ある言葉に少し弱くなって、到頭大事な虎の卷を出して見せた。
 友人はこれを熟々見て云った。
「これには一二四も無ければ四三もない、成程二タ三本もないね。」
 かう云ってから花合せの根本成立から語り出した。それは私達から考へても、相當に理由がある様に思った。
「よし。二タ三本も四三も一二四も皆僕が認める。」私は云った、感心して云った。
「君が認めなくても世間が認めて居るよ。」
 考へ直して見るのに、私に教へた男はあの晩非常に醉って居た。酒では私よりも數段下だから。三つ位忘れたのも無理はない。しかしだ、此友人は始めなまじっかな、柄にない謙遜なんかしたもんだから。私は飛んでもない耻を掻いて了った。
「もう少し謙遜的であらねばならぬ。」私は考へ且つ決心した。其次に來た友人に向ってである。
「僕は近來花合を覺えたが君は當然知って居るだらうねえ。」謹慎な私の言葉である。
「君は中學校時分不良少年だったぢゃないか。それだのに花合せ位を知らないのか。」
 友人はかう云った。少し謙遜するとつけ上る。世の中はどうしたら好いか判らない。私は花合せすら知らない程不良であったのかしらん。今度來たのには更に謙遜した。
「君は遊ぶ事なら何でも知って居るが一つ花合せをやって見ようか。」
「碁石ならご免蒙るよ。金を掛けてならやってもいゝ。」
 世の中には驚いた奴が居るもんだ。
 其次に來た男は何と考へても花合せと云ふ様な生やさしい面ぢゃない。
 私は相手にしなかったが、子供と顏馴染だから子供が骨牌を持って行った。處が奴さん少々心得て居るらしい。これは滑稽極まるぞと思った。併し私は謙遜の美徳を忘れない。
「僕は此頃花骨牌を覺えたが、僕の家に來る友人で、此戯を知らない人は一人もないよ。」
「君は此頃迄知らなかったのか。それぢゃ君の様に知らない人の方が貴重品だねえ。」
 知って居る人が惡友で、知らない者が貴重品か。まるで品物扱ひか。どうも世の中の人間と云ふ奴は、謙遜して可いか高飛車に出て好いか。宛然骨牌と同じく譯が判らなくなった。私は貴重品の方を捜して見たくなった。花骨牌を知らない人となると、「桂月」同人の方がどうも頼母しい様な氣がする。第一田中貢太郎だ。花骨牌と云ふ様な生優しい事をやる柄ではなさそうだ。 弘田茂呂太君か。これもねえ。一寸考へるよ。あんな氣の短かい男はどうかねえ。「よしっ。此役は智君にやらう。」なんて云ひ相な男だ。そこで田村板垣の兩君はどうなるか。若い若い知るもんか。皆之れ貴重品で、大賞堂のショウ・ウヰンドーに顏を洒す手合だ。少し私も安心が出來そうだ。其處へ、紀元節の前の日久し振で顏を見せたのが島田美彦君だ。私は叫んだと云ひ度い位大きな聾をして云った。
「そうだ。島田君なら花合せを知らないに極って居る。ねえ君ッ。僕は嬉しいよ。君だ君だ。君なら花合せを知らないだらう。うむそうだらう、君は知らないよ。知る譯がない。」
「花合せッ。そんな面倒な事はやって見たくもないですよ。」
「そこだッ。頼母しい。いや確かに頼母しい。貴重品々々貴金屬々々。君は天賞堂だよ。服部時計店だよ。御木本眞珠店だよ。玉屋眼鏡店だよ。あゝ嬉しい。泣きたくなつた涙が出る。」いや水鼻が出ました。
 所が駄目だ。のっこり現はれたのが國澤惡友居士だ。第三回目の惡友振を發揮しようと云ふのである。私は高飛車に出ましたねえ。
「國澤君。君は手役など六すっぽ出來やしないぢゃないか。然るにだ。のそのそと何かやって居るうち、何時の間にか場役だとか大場だとか、妙な専門語を使って場役を作り借貫をさせ、自分丈け勝って歸る様だねえ。ありゃ札を集める時大體の見當を附けて於いて札を切る時巧みに自分の方へいゝ奴を持って來るんだねえ。もう種は上って了ったから駄目だよ。昨日弟が來て矢鱈と勝つもんだから、到頭そいつを白状さして了ったんだ。君も矢張其手だったよ。」
「冗ッ……冗談云っちゃ困るよ。そんなら僕が親になった時は、君に思ふ存分切って貰はう。」
「それぢゃ遠來の客を負かして了ふ事になるよ。」
 こうなっては兩方承知しなくなった。島田君はそっちのけで、夜が更けたから一手丈け遣る事にした。
 やりましたねえ。僕は國澤君が親の時には一々切りましたよ。公平にやりましたねた。見る見るうちに國澤君は白の碁石で洪水になりましたねえ。私の所は借貫の札の洪水プラスとマイナスとの差がある丈けですよ。光陰矢の如し、實際花合せの一年は一時間位でしょう。龍宮の一日よりもまだ短かいのです。島田君は何時の間にか歸って居ましたよ。
「ちぇッ。此道場荒し奴ッ。此惡友めッ。」
「鳴呼々々。」又しても私は嘆息しましたよ。
「俺には好運が來ないんだ。が待てよッ……どうも國澤君の遣り口は運命ぢゃない。あれは博才に富んで居るんだ。運命とは關係はない。存外運命の方は俺の方へ向ひてるかも知れないぞッ。かう考へると又望みが出來て來た。それは麻雀だ。あれは運命八分に巧拙二分と相場はきまって居る。其上にだ、國澤君は麻雀なんて少しも知らない。 否、まじゃんのまの字を聞いたら青くなって眼を廻すにきまって居る。其處へ行くと吾輩も斯通の達人否玄人否少し知って居る。これで一つおどかしてやれ。「槓っ」「(※口當)ぽん」風位で一翻二翻と立て續けにまかして置いてローンと出て見ろ青くならざるを得ないぢゃないか。よしきた。一寸面倒だが今度國澤君が來たら麻雀を教へてやらう。教へてやれば此方がお帥匠様だぞ。……弟子は師の半ばに過ぎずか。えへんッ。
「誰だッ。その邊で出藍の譽と云ふ言葉もありますよなんて云ってる奴は。そりゃそんな諺もあるさ。併し凡人は當箝らないさ。まして惡友にはねえ……」

注)句読点は追加したところがあります。
注)誤字誤植と思われるものでも故意の可能性のあるものはそのままとしています。江の崩し字はえとしています。


「漫談」
「桂月」 1927.05. (昭和2年5月) より

 月日の經つと云ふ事は早いもんだ。などゝ今更感心するのも妙なもんだが陽氣が變って櫻が微笑したので、こんな事が云って見たくなった。實は「桂月」へ會心の作を送りたいと思ひ乍ら、茫然して居るうちに締切が迫って居たので、時間が無意味に過去へ葬られて行くのを歎じた次第です。
 前號田所貢君の御言葉によると、まだ若い君が此老生と間違へられたと云ふお話、何ともお氣の毒に堪へません。僕とても好んで老人に成った譯ではないんですが、それがその矢張月日の經つと云ふ奴でさあ。所で其間違へたと云ふ人は一寸誰だか想像がつきませんが、其席に居られたと云ふ松山白洋さん、此方ならば萬々承知と云ふよりは、どうなされたかと氣に懸って居た方です。私が兵海校へ入學して間もなく、「曙光」といふ短歌雜誌を國で發行して居られました。
 休暇で歸省した時短歌の添削を願った事もありました。其うち田所君に松山さんの宿所を伺ひ、お手紙でも差上げたいと思ひます。
 一圓全集大流行は結構だが、大衆文學全集の中に田中貢太郎の名を逸して居る。僕は敢て憤慨する。氏の怪談傑作集を讀んで感心した許りではない。氏が若し之れに加はって居たら、七萬圓と云ふ成金に成って居た所であり、僕も一つ奢らせる事が出來たからである。否、唯それ許りぢゃない。「桂月」の爲めにも非常によかったらうと思ふからだ。
「桂月」誌代集金郵便に關し、中に數人大町家へ御小言を云った人があると云ふ話、私達が駄文句を並べて居るので責任を感ずる。以後屹度謹みますが、三十分もあれば讀み終れる雜誌だ。たいして時間つぶしにもなりはしまい。第一文字を讀む事自體が人格修養になるんだから、讀め々々遠慮なく讀め。讀んだら代金をお拂ひなさい。と云ひたくなる。
 何と考へても人間の手は今一本なくては足りない。杯を持ち乍ら、「萬歳ッ」と兩手を擧げる事が出來ないからだ。サッ、所で其一本の手は何處へ着けたら好いか。私は一所懸命でそれを考へて居る。
 食ふ爲めに生きるか生きる爲めに食ふか。これは一寸判然し難い問題とされて居た。併し私の考へではどちらも違ふ。人間は死ぬる爲めに食って居るのである。まあ早い話が、私が毎晩四合からの洒を飲む。これなど明かに死ぬる爲めに飲んで居るものではなからうか。否、これは少し意味が違ふ。
 世の中と云ふものに退屈し切ったのは、穴勝僕一人では無いだらうと思ふ。町を歩いても電車に乗っても、荀も人間と名の附くもので退屈らしくない顏をしたのを見た事がない。これに依ても人が人世に飽き切って居る事は容易に知られる。が併し、世の中と云ふものは之れ以上面白いものでは無いらしい。神様が勢一杯で漸く之れ丈けにした上に、人間が法律だの警察だの刑務所だのと、不愉快なものを矢鱈に作った今日ではどうにもならない。 第一神様にした處で、人間に「死」を與へた上に病菌を滅茶苦茶に作ったのは、人生が人に飽きられると云ふ事を見越しての仕事に相違ない。まあ諦めるより外仕方があるまい。所で、人生を愉快にして暮れる第一つのものがある。之れは神が與へたのでなくて人間が考ヘたのだ。人間が作って神様にさへ差上げるものだ。何ぞや曰く酒だ。――實際酒を飲んで居る間は愉快な人生が忽然として現はれるんだからねえ。神様。
 見込違ひはざらにあるが、先づ此酒程大きな手違ひはないだらう。
 上野の花が滿開だ。實は今見て來たんだから早晩御吹聴する次第である。花が咲いたからと云って何故人が見に出掛けるだらう。花見などゝ云ふ風流氣は少しも無い面が、ぞろぞろ其邊を歩き廻って居た。私は勝手に獨りで極め込んだから間違って居るかも知れないが、花が咲くと綺麗だから見に行くんだらうと思はれる。綺麗なものを見たがるのが人情であるから、之れ亦止を得ないと云ふ事になりはしないか。若しさうださすれば私には云ひ分がある。美人が居たら矢鱈覗き込んでも一向笑ふ可き事ではない譯だらう。
 動物園へ這入って見た。殘る隈なく見て歩いたが、大事なものが飼ってない。それは人間が飼はれて居ない事である。此頃人間は自分等が動物である事を忘れて居る。之れを時々記憶に引摺り出させる爲めに、一人位は動物園へ飼育して置く必要があると思ふ。併し動物園に置く人となると先づ見本品である。之れは餘程いゝ奴を置かなくちゃなるまい。 新橋とか柳橋とか、乃至は蒲田とか帝劇あたりへ行って、一流所を捜すべきだ。矢張檻を一つ造らなくちゃなるまい。いやがって逃げ出す位の代物でなくちゃ誰も見て呉れないから、猿芝居などゝ違って動物園に居る動物は一つも着物なんぞ着せて無い様だ。人間丈け特別にする必要は無いだらう。
 一体人間が他の動物を檻に入れても差支へないとすると、一段以上高等なものは、下等なものは殺しても縛っても可い事になる。故に神様は人間を殺しても何とも思って居ないらしい。私は嘗て子供が病死した時、深く神様の處置を怨んだ事があった。最も私は神様を信仰した事はなかった。何所の神社へ行ってもお賽銭一つ投げはしなかった。併し私が假令信仰しないからと云って、これから信仰するかも知れない私の兒を殺すと云ふ法律は人間界にはない。 恐らく神様の國にもあるまいと思った。それで私は神を怨み且つ咒ったのであった。これは大いに私が間違って居た。今日動物園を見て歩いて居ろうちに全然悟って了った。「世の中は何でも權力だ。權力だ。」と呼ばうとした位であった。今更そんな事を悟るのも遅過ぎるが、悟らぎるを得なかった。併しそれでも、私は子供が死んだ當時を思ひ出して、又新しく神を恨み詛ふ心が殘るのであった。
 子供が幼稚園へ行く様になった。「……そうして今に偉くなる。嬉しいな嬉しいな。」と云ふ唱歌を唄ひ出した。
「お姉ちゃん偉くなるの?」私が訊いた。
「うむ。偉くなるの。嬉しいな嬉しいな。」と云って置いて一寸小首を傾けた。「偉くなると嬉しいの?」
 かう訊かれて私は少し間誤付いた。偉くなったら嬉しいか知らん。
(四・八) 

注)句読点は追加したところがあります。


「野外スケッチ」
「随筆」 1927.05. (昭和2年5月) より

 新緑の草が羊の並んだ様に、畦と云ふ畦に盛り上って、鋤返された田を縦横に區切って居た。私は六歳になる娘の手を引いて、或日の午後散歩して居た。久し振りで哲學堂へ行って見る豫定であったが、此處迄來て其方向を眺めて見ると、塔も丘も霞に隔てられ、子供の足には遠過ぎる様に覺えた。
 子供は「お山へ行く。」を繰返し云って出て來た。それは連れて行く戸山ヶ原の事であるが、草さへ生えて居れば何處でも好いのであった。彼女のオペラバックの中には海苔卷と茹卵があった。蜜柑もお菓子も用意されて居た。それを開けば何處でも可いのであった。
 古綿の様な雲が出て、陽を遮ると風が出た。外套を脱いで子供を坐らせて居た私は、身慄ひする程寒かった。併し其中で辨當を開いたり、摘草をしたりする閑人は、私達親子許りではなかった。野川を隔てた丘の麓にも、街路を越した向側の畦にも、幾組となく蕎麥饅頭の様に蹲まって居た。
 闘犬に引摺られ乍ら街道を通る人があった。「大きい照! 照々々ッ。」子供は茄卵を翳して呼んだ。家に居るホックステリヤに、「照」と云ふ名を付けてあるので、總ての犬は彼女に云はせると「照」であった。
 エスケープしたらしい中學生の一團があった。
「學校兄ちゃん。」彼女は呼び掛けては一人ではしゃいだ。
 所澤の方へ歸る飛行機が過ぎた。
「飛行機ッ。此方へ來て頂戴ッ。」彼女は跳り上って叫んだ。
 寒いとは云っても春である。風はあっても親として私の心は穏かであった。
 私達が渡って來た野川の丸木橋に、派手な着物がさし掛った。此方へ向って渡って居るのである。そんな田舎娘などに注意を奪はれる事はなかった。併し、惡戯な風はまだ吹いて居た。緋の蹴出し、乳色に輝く白脛、それが街道の北側に只一組丈け居る私達の前へ迫って來た。眼鏡の度が低くなって居て、二人の若い女を明瞭と見る事は出來なかったが、それは意外に美しい娘であるらしかった。
「お父ちゃん。こんな花々あった。採っても好い。」子供は小さな黄色い、恐らくは名前などなさ相な花を指して居た。私は默って肯いて見せた。
 私と子供とは畦道に沿ふて移動して居った。前方の二人の娘も同様である。私は子供の意志に依てのみ移らうと決心して居た。若し偶然此二組が遭遇する事が出來たなら、彼女達は綺麗な女に相違ない。と、私は占ひの様な事を獨考へて居た。子供の意志は様々に、甚だしく不規則に畦を辿った。それが案外にも、遭遇に對して頗る有望になって來た。今私達が進んで居る小逕は、自然に彼女達が沿ふて進みつゝある小溝縁の逕と交叉する様に成って居た。
 間もなく私達と彼女達とは枯れた小溝を挾んで正面に向ひ合って居た。彼女達は芹を摘み乍ら、私と子供は出鱈目に草を摘んでは捨て乍ら、併しそれよりも、私の占ひは的中し過ぎる程當って居た。驚きと喜悦と悲観とが此順序で、非常に強く私の心をゆすぶった。私は今迄是程美しい女性を見た事がないのに氣が付いた。 髪は根を詰めて絞った様に結ばれて居るが、黒さと量とに於て適度であり、優雅で温情の籠った眉の下に銀縁の眼鏡に保護された、聴明らしい輝きの眼があった。如何なる人形師にも作れない様な、恰好の好い鼻と愛らしい口元、之れ以上私には説明が出來ないが、こんな有り觸れた美貌さではなかった。
「たけや。此方へお出でよ。」と、小鳥の様な美しい聲が發せられたのは、彼女が私の前へ來た時であった。たけやと呼ばれた女は召使であらう、其時彼女より數間後ろに居た。
 風に向って乙女は踞んだ。ひらっと捲れた裾の間に、私は又しても蝋細工の様な白脛を見た。若い血潮が其下を、旭の前の小川の様に力強い息して流れて居る。私が前に云った驚きと云ふのは、彼女の餘りに美しい爲であり、喜悦は相向って草を摘む事が出來た事である。が彼女は、私と何の關係もない人であるが故に、悲觀が伴はねばならないのである。私は不良青年でない事を熟々悲しんだ。
 一瞥から萌え出した戀は不純であらうか。私はそんな事を考へた。私は彼女を戀する資格はないのを知って居るが、心は若返って燃えて居た。併し、此滿ち足り過ぎた境遇は、大きな失望を以て直に終る事を、取越苦勞しなければならなかった。好い歳をして居乍、含羞やで憶病者であるのも之れに手傳って、私は卑怯にも前來た方へ十間程も逆戻りし、其處で彼女の様に芹を摘み始めた。 後悔は直ぐ後から跟いて來たが、それは長くは續かなかった。何と云ふ僥倖な事であらう。彼女も直ぐに前の場所を見捨て、私の側には好い芹が在るとでも思って居るのか、再び私の前に位置した。力強い美の壓迫と、尊い匂ひとは再び私の心を醉はした。
「二つ三つ……お父ちゃんお父ちゃん、二つ三つ。」
 子供が後の方で飛び上り乍ら叫んで居た。
「うむそうそう、綺麗花々ねえ。」私は其方を見ないで云った。
「花々? ……そうぢゃないよ。二ツ三ツ、これ蝶々でしょう。」
 振り向いて見ると、黄色い蝶々が二ツだか三ツだか、縺れ合ひ乍ら田を横切ってひらひらと流れて居た。子供は蓮華を摘んで其渦卷へ投げ掛けたり、手を伸ばして掴まうとする様に駈け廻った。乙女も顏を揚げて此無邪氣さに愛情の籠った微笑を送って居た。悲しい様な嬉しさが眼の邊りから腹の中へ辷り下った。
 竹やが近寄って來た。略同じ位の年齢らしく、單獨に見れば相當の美貌を有して居るが、彼女を前にして見ると牡丹と並んだ野茨でしかなかった。竹やは私達には何の注意も拂ふ事なく、此處を通り越して野川の方へ畦を辿った。これが餘り遠ざかったのを見送った時、乙女は氣が咎める様にそわそわした。果して間も無く起ち上った。
「今迄二度共彼女の方から近付いて來たんだ。今度は此方から後を追っても耻かしい事は無いだらう。」私はこんな圖々しい事を考へた。此時は既う彼女と離れるのには堪へられなくなって居たのである。
「お父ちゃんお父ちゃん。」後に殘された子供は私を呼び乍ら徐々に近付いて來た。
 どちらの方へ近付いて居ようか。私は相反する方向からの二引力を感じた。此私の苦みを察しでもした様に、彼女は其邊へ踞んで又草摘を始めた。若し二人の若者が、故意に彼女の後ろへ近寄って、妙な咳拂ひをしたり卑しい唄を謡ったりしなかったら、まだ暫く此處で二人は相對して居られたかも知れなかった。
「可厭な人ッ。」彼女は愛らしく眉を顰め、獨語の様にかう云ったが、私は愬えて居る様な眼を彼女に見た。
 私も同じ意味の積りの眼を返した。乙女は若者から逃げる爲めに、枯れ溝を跨いで私が踞んで居た小畦に移り、私の躯へ觸れ乍ら野川の方へ行った。彼女の脚の柔かさと温かさとなめらかさと曲線とを私は犇々と感じた。私は若者を怨まなかった。少し間を置いて彼女の後に續いた。
「お父ちゃん。」子供が後から呼びかける。
「はあい。」私はゆるゆると歩いた。
 子供は私に此返事をさせるのが面白いらしい。急には近付いて來なかった。只幾回となく私を呼び掛けて、幾回でも繰返す返事を喜んで居た。二人の女は岸の斜面で芹を摘んで居た。子供を連れて居る私は、細い竹の叢生したかうした斜面へは降りられなかった。私は其降り口の所に立塞って草を摘んだ。
「ねえ、竹や。」乙女が突然云ひ出した。「夜こんな所へ來て聲を出すとそりゃいゝわよ。」
「夜ですって? ……こんな所へ?」竹やの聲は水際近くで聞えて居た。
「そうよ。妾お師匠さんと一緒に此處へ來た事があるわ。三味線持って!」乙女はかう云ひ云ひ道端へ上って來た。其處には雜草と離れて大きな芹が固まって居た。
「妾今夜獨で來て見ようかしらん。」乙女は獨言の様に小さく云った。
 之れが普通の容貌丈けの娘とか、或は藝者らしい女でゝもあったのなら、私は随分不快を感じた事であらう。併し其時は少年の様に顔を火照らした。「好機だぞ、逸してはならない。」とこんな心の囁きを聞いたに拘らず、私は自惚れた考へを制するのに努めて居た。私は乙女に摘んでやる積りで、同じ場所の芹を摘み始めた。手と手は磁石の様に引附けられては彈け返した。私は胸を躍らして居た。
「お嬢さんお嬢さん、こんな大きいのがありましたわ。」竹やが一株の大きい芹を高く翳して見せるのであった。
「妾だって大きいのを採ったわよ。」乙女は振向もしないで云ふのであった。
「水の中のが大きいんですよ。」竹やが云った。
「そんな事云って、落ちたら大變だわ。」
 私と乙女とは默って一つ所の芹を摘んだ。我儘一杯に育ったらしい。此種の乙女にうっかりした事を云ひ掛けて、つんと怒って行って了はれたらそれきりだ。私の恐れる所はそれであった。二度目に此乙女と逢ふ事が出來たなら、氣易く話が出來るだらうと、頼み難い事を頼んで深く忍んだ。風も陽も漸く疲れて來た。私の心は次第に淋しく成って行った。
 建築請負師、大工の頭領、大工の手間取、と私はかう見たが、三人の男が話しながら近寄った。急に迂散臭そうな眼になると、彼等の話はばったり止った。私はそろそろ潮時だと思って起ち上った。
「お父ちゃんこんな花々!」笹の卷葉を握った子供に、そろそろ倦怠の色があった。私は手を執って川下の方へ道を辿った。
「もう歸りましょう。竹や。」後ろに乙女の聾を聞いた。私達の後ろに跟いて來るのも判った。相前後して浮雲い丸木橋を渡る事になれば、何か話の絲口を得られるだらうと悦んで居た。
「お父さん、こんな大きな花々、これ取っても可い。」子供は一群の酸葉を指した。
「取りたければお取りなさい。」
 子供の樂みを奪ふ事は出來ない。私は踞んで子供と共に酸葉を取り始めた。私は背に再び彼女の觸れるのを感じた。彼女が丸木橋の袂に行った時、其處へ多くの學生達が押掛けて先を爭って渡って居た。乙女は其處を離れて更に川下へ行き叢の中へ這入って行った。乙女は依然私の事など問題にして居なかった。私は輕卒に話掛けなかったのを悦んだ。
 橋の所に人影が減じた。私は子供を急がして此間に渡って了はうとした。併し子供の足が鈍い上に、次々と異った花を見付出しては摘んで居るので、橋に達した時には又しても人で一杯に成って了った。譯の判らん事を饒舌り乍ら、書生さん達は巫山戯て橋を渡り始めた。摘草に來て居た婦人達が渡り始めると、囃立てたり橋を揺すぶったりして居た。聊か憤慨した私は、子供を背負って渡り始めた。之れには誰も手出しは出來なかった。渡り終って見ると、私の後に續いて渡って來た人のあるのを知った。 それが乙女と竹やとであった。併し私は彼女と言葉を交はすには、附近に餘り人目が繁かった。乙女の後に從って、私達は一本道を家路へ辿って居たが子供の足は兎角後れ勝であった。後から來る一組の群は、容易に此四人を追抜いて進んで行った。道の兩脇には八重櫻がまだ散り始めないで、重そうな花を付けて居た。私達と乙女逹との距離は級數的に遠ざかりだした。此時後から來た三人の學生が、此二組の中間を歩いて居た。が、突然其中の一人が唄ひ出した。
「娘十八××たい盛り。」
 と、それは不快な歌であった。が、乙女は嬉し相な笑顏を以て振向いた。併し間近く迫って居る學生の顏を見ると、颯と顏色を變へて道の端へ飛退いて了った。再び彼女が振向いた時、私は彼女の眼に出喰はす事が出來た。
「可厭な人ねえ。」と、愬へて居る様な彼女の眼であった。
「チェッ。」
 學生はかう云ひ乍ら振向ひて又すたすたと歩き出した。

注)明らかな誤字誤植は訂正しています。口偏に耳は「囁」を代用しています。
注)句読点は追加したところがあります。


「鶏の話」
「桂月」 1927.06. (昭和2年6月) より

 私の夜が明けた。十一時四十二分、正直なものだ。顏を洗って午食に就く丈けの餘裕がちゃあんと取れて居る。
 尤も、此時間と云ふ奴が抑も怪しい存在である。之れは太陽と地球と時計の三者がぐるになり、勝手に妥協して作り上げたもので、世の中に之れ程嘘ッ八なものは有りやしない。吾々が時間と稱して居る所のものは、全宇宙の「時」とは何等の關係がないものである。私の目覺めたのが十一時であらうが夜半であらうが、別に問題とするには當らない。併し目が覺めて了ったので、三十年も前に七圓位出して買った、頗る堅牢な獨逸製枕時計に敬意を表し大きな欠伸と共に起き上った。 鶏が餌を欲しがって五月蠅く催促をして居た。朝の三時頃から何も食はないだらうから、腹の減いたのは無理もない。能く耻かしくもなく生きて居られると思ふ様な男が、まだ飯から全く見離されて居ないのに、給金を多く呉れろとか待遇を好くしろとか云って、勞働爭議を起すようだが、あれなどに比べるとまだましの方である。かう云ふ爭議を起す奴は、自分より下の者とか新参者とか、乃至は正直な働き者を虐めて自分は働かずに居るのが常である。私は或勞働者から聞いた事がある。
「鐵道工夫などに傭はれて居る者で、本當に働いて居るものは四人に一人です。」と、こんな輩に給金を増したり待遇を好くしたりすると、益々自分が偉くなった様に思ひ、其下に働く者は一層惨めな目に逢はされるのである。私はそんな人間を重用する前に、病氣で働けない人や食ふ丈け働けない者を先づ救ふ可きだと思って居る。遊んで食って居る富豪貴族も、大に癪に觸るは觸るが、人を羨んで見た所で仕方がない。勞働爭議と云ふ事よりも、其方に重税を科する方法を先づ考へた方が好いと思ふ。
 脱線復舊、鶏の餌催促は此際無理ならぬ事ではあるが、私は縁側へ出て行って呶鳴って呉れた。
「馬鹿ッ、まだ遣るもんかッ。」
 と、萬物の靈長たる自身が未だ食事をしないのに、禽獸を先にすると云ふ話はないからである。
 幼稚園では辨當を要する様になった。新鮮なる卵は子供のお菜に最も喜ばれるものであるが、此時に際して私は鶏を飼ふのが熟々いやに成って來た。眞夜半から鳴き出すのもいやであるし、朝っ原ぐうぐう鳴いて餌の催促をするのも遣り切れない上に、私の所の雄鶏が馬鹿に臆病者で、一寸した事に恐れて悲鳴を續ける時、私の神經は掻毟られる。呶鳴ったり水を掛けたりすると往々に狂ひ鳴く。 一体鶏の雄と云ふ奴は贅澤極まる動物である。彼等は貴族富豪の馬鹿旦那以上かも知れない。何の働きもない癖に、他人から毎日餌を當がはれ、たら腹食って居る上に、老妾十羽以上もの雌鶏を自由にして威張って居る。世に之れ程幸福な存在は又と無いであらう。こんな癪に觸る様な振舞を眼の前に見乍ら、孜々として餌を作って遣って居る自分に愛想が盡きた。
 私が鶏の世話で日々を過ごして居ると云ふ話をした時に、池田邦夫君が云った事がある。
「私も鶏は飼って見ましたが、恰度女郎屋の亭主と同じ事で、他人の生殖器に依て儲けようと云ふのはちと下等な考へですわ。」
 と、氣が付かなかったが成る程そうだ。將にそれに相違ない。私は池田君の意見に敬服して、其時五六羽は潰して食ったが、まだ六羽許り居るのを潰すのが面倒で、其儘にして居るのである。早く女郎屋の亭主から足を洗ひたい。

注)誤字誤植と思われるが故意の可能性のある字はそのままとしています。
注)句読点は追加したところがあります。


「様々な幸福」
「桂月」 1927.07. (昭和2年7月) より

 灰の中を掻廻した。既う莨の喫殻は一つもなかった。朝食後の一服こそ、彼に一日の生氣をあたへ力となるんだが! 春の火鉢は淋しく煤けて居た。彼は煙管を投げ出して躯を新聞の上へバリバリと轉がした。
「第一朝っぱらから冷飯を食はされちゃ、胃の腑の中の納まりが惡い。進藤俊雄の忍耐力にだって限りがあるぞ。」
 とは彼の考へ方だ。妻の芳子の身になると、金なしに何物も得る方法は教へられて居なかった。
「煙草の一本位ないのかッ。」彼は呶鳴った。あらう筈はない。それは無理な註文だと云ふ事は明瞭して居た。只呶鳴れば好いのであった。
 碁會所へ行って賭碁を打てば、四十錢や五十錢は直ぐ儲けられる。對手は慰みに賭けて居るんで、商賣の積りで打って居るのは彼より外に無いからだ。所が、今日は資本金の二十錢すら持って居ない。否、あの薄暗い碁會所へ潜り込むには、餘りに今日は晴れ過ぎて居る。
「お金を下さい。買って來ますから。」
 芳子が云ひさうな答へだ。それがいけなかった。默って居れば彼は忘れて了ふ所であった。それを、無いに極って居る金の事を云ふ。金があって買ふなら彼にでも出來る筈だ。が、幸に朝だ。彼は醉って居なかった。
「おい。此褞袍を賣れッ。」彼は上に着て居たのを脱いで襖へ投げ掛けた。「これても銘仙だぞッ。」
「加賀屋では既う貸して呉れませんわ。」襖の向から芳子が云った。
「加賀屋許りが質屋かッ。馬鷹。」
 芳子が顏を出さないのも原因の一つとなって、かうなると彼は無茶な事を云ひ出すのであった。女は感ずるよりも涙が先である。微かな泣聲が漏れ始めた。それが彼に快感を與へるのであった。
「おいッ。煙草を買って來いよッ。」快感の追求と云ふ積りの彼である。
「はい。」聾は高かった。反抗的服從とでも云ふのであらう。
 若い妻が、褞袍を包んだ大きな荷物を持って、本通りの質屋へ朝っぱら這入る。これは相當幸い事に相違なかった。それでも自棄になった様な態度で芳子は出て行った。三尺の庭に山吹がいぢけて、篩を振って居る様な小學校の唱歌が流れた。
 二箱のバットと二圓八十何錢が彼の前に並べられた時、はゝあ三圓貸しやがったなと彼は思った。かうなると如何に女房でも氣恥かしい。此儘家には居られなかった。
 歩いて居ると背中が汗ばむ位、ぽかぽかと温かい晝の町。店頭に湧き上る天麩羅の香、皿に盛ってある柏餅、勿論彼は甘黨ではないが、そろそろ食慾が唆られ始めた。「生ビールでも一杯引掛けるかな。」と、幾度となく彼はさう思った。併し今日の經緯を考へると、どうしたものだか金を遺ふのが惜しまれた。目的地と云っては無い筈なのに、彼は人生の中を五月蠅がって歩いて行った。電車賃を儉約して居ると思ふと妙に嬉しかった。 彼は或見附けに近い町で活動常設館の前へ立った。看板が掛替られたばかしであらう。小僧や近所のお内儀さん達が、金魚の様に口を開いて眺めて居た。其仲間入りをしたのであった。懐さへ暖かければ何をしても愉快であった。髪を振亂した女が脛も露はに逃げ出さうとして居る。其後から惡黨の振翳した刄がある。其又横合の大樹の蔭から、大上段に構へて飛び出さうとする若い美丈夫が描かれてある。悲風劔の舞、これが比映畫の表題らしい。
 が、此看板は彼を活動寫眞の方へ導く代りに、商賣の事を思ひ出させた。彼は不況時代にブローカーを止めて後色々の事を計畫した。今目論で居るのもさうした種類に屬するもので、或發明品の製造販賣に關するものであった。相棒の友人が彼方此方と話歩いて、捉へた金主と云ふのは今の處資金が無いと云ふのであった。其代り所持して居る刀を賣って呉れたら其金を出資しようと云ふ事になって居た。 友人が又諸方へ頼み込んで、其刀を買はうと云ふ人を見付け出した。今日は其買手と友人とが會合して話を極める日になって居った。こんな問題は幾度となく持上ったが、今一つも成立して居ない所を見ると何とかかんとか駄目に成って了ったのである。併し駄目に成る迄は常に出來る事の様に思はれるのが例である。彼は友人の宅へ行って見る事にした。
 此話が纏まりさへすれば、月に二百や三百の金は取れる様に成る。と、彼は胸算用をし乍ら友人の家へ行った。友人は刀劔を買はうと云ふ人からの手紙を見せられた。昨夜投凾したもので京阪地方へ旅行するから、歸京の後ご相談しようと云ふ丈けの事であった。
「今度は吃度纏まるよ。」友人は自信がありさうにかう云った。
 彼はもう全然嬉しくなって了って、今朝の褞袍の事なんかけろりっと忘れ景氣好くバットを飢えて居た様に喫った。事業の話はお互に有利な方へ導いて行くし、儲けた後の話に花が咲いた。彼が友人の家を出た時にはバットが一箱になり、街には光丈けを殘して暗黒色が塗られて居た。
「午食は抜いた。電車には少しも乗らなかった。此位儉約したんだから、一本位の酒に有付いても好い譯さ。」こんな事を考へ乍ら彼の知って居る酒場の方へ足を運んで居た。若し一歩酒場へ這入ったら、有り丈けの金で飲んで食ふのは過去の經驗から明瞭であった。空腹を訴へる様に腹が鳴いた。其處へ酒を飲んだ時の旨さを想像して凝乎我慢した。
「二圓八十錢とッ。あるだらうなあ。」彼は冗談半分に獨言を云って、懐中へ手を突込んだ。背中の方まで腕を廻して見た。往來で帶を解いて着物を振って見た。蟇口は何處からも出て來なかった。
「掏られたッ。」途方もない大きな聲が往來の人を振向かした。
 活動の看板を見て居た時、妙に押して來る者があった事を思ひ出した。彼は泣きたい様な中であらゆる愚痴っぽい事を考へた。其等がいくら云っても何にもならないと氣が付いた時、泥棒してやらうと云ふ復讐的の憤怒が燃え上った。憤怒の前には善も惡もなかった。彼は捨身に成って菓子屋の前に立った。其處には誰も店番が出て居なかったのであった。彼の食慾を唆るものが並んでは居るが、皆硝子の板に圍まれて居て、取り出す手段が判らなかった。 大抵の店には見張人が居て、其前で強奪するには未だ宵過ぎるのであった。彼は到頭店番の居ない店を見付出した。其處は乾物屋で前には鰤節と卵とが剥出しの儘に並んで居た。彼は誰が見ても疑を起さない程度に四方を見廻した。一歩、又一歩踏み進んで、卵の箱へ向いて手を差延べた。一箇を握った其途端であった。表から駈けて來た小僧が叫んだのは!
「いらっしゃい。卵で厶いますか。」
 彼は腦天から鐵槌で打卸された様な氣がして、危うく卵を取落さうとした。對手が暢氣な小僧さんでなかったら、事は面倒にならないまでも、どんなにか彼は疑はれたであらう程、それ程彼は狼狽して居った。逃げ出す様に店から離れても、恐怖の爲めに氷の様になった心臓は痛かった。
「盗み得る人は幸福だ。」
 こんな事を獨言し乍ら、疲れ切った躯を横道へ曲った時、再び彼はハッとした。彼の言葉を十分聞取れる位置に、人の佇む影を見たのである。が次の瞬間、彼は明るい巷から暗い横町へ急に這入った眼の錯覺で、其等には大きな塵芥箱が小溝を跨いで据付けられて居るのを知った。が、更に第二の瞬間に其箱が動いた。又しても彼は度膽を抜かれて了った。が、それは塵芥箱の中を漁って居る乞食であった。
「盗めない者はあそこ迄行かなくちゃならないのか。」彼は空腹の前には様々な恐ろしいものが待って居るのに脅かされた。
 彼は結局或知人の家へ辿り着いた。知人と云っても元々芳子が子供の時から世話に成った家で、彼女が彼と結婚する時にも一切の費用を出して呉れたと云ふ恩人であった。で、彼女は貧乏して居る彼が其家へ立寄って、ご馳走などに成る事を非常にいやがった。
「どんな事があっても彼家で金なんぞ借りないで下さい。」彼女は常にこんな事を云って居った。
 燃るに彼は何か問題が起る毎に、今にも儲ける様な事を云っては常に内證で金を借りた。一番借り易い人だからであった。
「刀の買手と云ふ人は見付かりましたか。」主人はかう云って彼にお酌をした。
「買ふ事は確實に決定りましたが、今一寸大阪へ行って居りますから、歸り次第金は渡すと云って來て居ります。どうも何時迄も愚圖愚圖と引張られるもんですから、私の方は今もうどうにもかうにも成らなくなりました。」彼は今夜も電車賃位を借り出さなくちゃならないので、餘り調子に乗って得意がる譯に行かなかった。
「いや。それは何より結構です。どうにもならない程結構な事はありません。どうにか成って了ふと云ふんぢゃもう人間のどん詰りだけどもハッハ……」主人は人が好きさうな笑ひ方をした。
「成程さうですねえ。どうにも成らなければ先づ現状維持ですから、生きて居てどうにも成らなければ可い事にしますか。」彼もかう云って笑った。
 彼が此家を出た時には剛か醉って居た。懐中には五圓の札が一札忍んで居た。
「嘘を吐ける者は幸なりだッ。どうにもならない者も幸なりだッ。」彼は電車の中でふらふらし乍ら呟いて居た。

注)明らかな誤字誤植は訂正しています。
注)句読点は追加したところがあります。


「宿酔」
「桂月」 1927.10. (昭和2年10月) より

 咒はれろッ。太陽の黒點めッ!
 私は遂にかう叫び出した。それ程、其頃暑い日許り續いて居った。
 寒暖計の御託宣に依ると、九十度を基準として二三度の所を上下して居った。尤も寒暖計が何處を歩かうが、私が文句を云ふ筋合ではない。併し太陽の黒點には關係があると云ふと、私も默って引込んで居る譯に行かないのであった。
 私は今一度叫んでやった。
 惡魔に浚はれろッ。黒點めッ!
 と、だが、あながち黒點許りの罪でもない。私は宿醉からも苛められて居た。頭は鐵槌の様に重くなって居た。若し鉢卷を取除けたら、乾いた桶の箍を外した様にばらばらに成りそうであった。前の晩にS氏と貪飲した。朝からそれが始まって居た。其前の日も、まだ其前の日も、まだまだ其の前の日も! 之れを數學的に云ひ換へれば、四日間と云ふ事になる。
 若し其宿醉の朝、ものに脅へて鳴き叫ぶ鶏の、消魂しい聲が爆發的に起らなかったら、冬瓜が腐爛した様な私の頭は、何時迄も持ち揚らうとはしなかったらう。
 鶏は、私の尊い睡眠を呪ひ、永遠にそれを奪ひ去らうとでも思ひ付いた様に、あらん限りの力を聲にして、絶叫の瀑布を私に叩き付けた。私は鶏でも氣が狂ふ事があるかと驚かされた位であった。私は戸外へ飛出した。其處にも宿醉らしくどんよりとした、未だ明け切れない薄暗の空があった。鶏舎の中に、安眠防害着として一羽のコーチンが見出きれ、私が迂路々々と邊を見廻す迄、其處には花でも散敷いた様な光景がある許りであった。
 外の鶏が一羽も見えない事は、瞬間的に私を迷はしたが、直ぐに私は植込の蔭に、殪れた二羽のハンバークを見、又、一ト翼搏きして縁の下から飛びだしたきり、ばったり殪れた雄鶏を見た。鶏が私を目覺めさす前.既に此處では大殺戮が演ぜられて居た事を始めて知った。
 隣の三毛だッ。直ぐ私には想像が付いた。 一匹の仔猫を連れ、庭先から裏口の方へと迂路付き廻り、能く犬の食ひ殘しを漁って歩いて居た。それに相違はなかった。併し私は猫を憎む事よりも、又鶏を惜む事よりも、何より第一に睡眠を欲して居た。鶏の恐怖心を無くする爲、三羽の死骸を隠し、且つ猫が這入ったらしい孔を塞いて寝床へ急いだ。恰度其時時計は忘れて居た様に四時を打った。
 脅へ切った鶏は何時迄も悲鳴を揚げ續けた。隣近所へ對しても餘り迷惑を掛けたくないし、第一眠れないのが癪に觸るので私の憤怒は遂に爆發した。再び飛起きて柵の中へ突進するなり、救助を求めるらしく近寄って來たコーチンの首を掴み、一ト撚りして置いて地上へ叩き付けた。と、鶏は他愛もなくぐったりと死んで了った。恰度此時、猫の牙を逃れて柵外へ出て居たハンバークの一羽が、人懐かし氣に其處迄來て居たが、私も亦猫同様に敵である事を發見し、恐怖の悲鳴を喚き始めた。 私は竹の棒を執って之れを一撃した。併し此敏捷な鶏は魔術のやうに飛退いた。竹が獨角力をとって二つに折れた。餘憤の持って行き所が無い折れ竹は、犬の頭をしたゝか食はした。
 三羽も殪されると云ふ大惨劇が行はれなのに、何も知らせなかった犬にも罪がある。此犬は嘗て隣の三毛に三度挑戰した。が、三度乍ら負けて悲鳴を擧げた。それ以來脅え切って手出しが出來ないのみか、吠え付く事すら出來なくなった卑怯者なのである。
 これで私の睡を妨げるものは最早現はれなかった。若しあったとしたら、私は又も飛出して行って其等の首を撚り、大地へ投げ付けなければならなかったらう。例へば、納豆屋、御用聞き、隣の電力喞備、遥かに聞える省線電車、シンガーミシンの勸誘員……えゝッ五月蠅ッ。
 猫で目覺めたのが午刻少し前であった。頭は依然として重かった。喉が渇き胸が苦しかった。食慾などは全くなく、只もっと睡り續けたいと云ふ慾丈けであった。再びうつらうつらと眠りかけた時、裏戸を開けてS氏が這入って來た。今日はY氏を連れて來た。燒酎とトマトを持って居た。S氏は昨夜一寸家へ歸って、再び出直して來た譯であった。
 二人が庭先の鳥の羽根に不審を起し私の寝て居るのを不思議がったのは云ふ迄もなかった。私は自分の事は宿醉だと答へた。――又實際そう信じ切って居た。――が、次に鶏の話を語って見ようと試みたが、それは殆ど不可能であった。私は渇きを訴へ眠りに飢えて居る許りでなく、口を利く事さへ堪へられない程苦痛を感じて居る事を始めて知った。
「恰度鶏が絞ってある。」私は只之れ丈け云って鶏舎を指さした。
「惜い事をしたねえ。君の所のハンバークは頗る良種ぢゃないか。」S氏はかう云ひ乍ら庭の方へ降りて行った。
 私は只頭を左右に振って見せた丈けで、默って家を飛出した。氷水をうんと飲んで來ようと云ふ積りであった。冷い生ビールなど少しも欲しくなかった。氷は渇を醫するのに有効なものではなかった。喉迄行くと冷たさも量も共に消えて無くなった。私は牛乳へ氷を掻込んで貰って飲んで見た。之れは胸の邊り迄冷たくして呉れた。私は砂漠の中でオアシスを發見した駱駝か何ぞの様に、腹一杯に成る迄それを飲み込んで、到頭しまひには身慄ひさへした。  併し家へ歸り着いた頃、口膣一面砂糖を塗り着けた様な甘味を感じた。牛乳の中へ砂糖を入れたものであったらしいが、餘り冷たいので飲んで居る時氣が着かなかった。が、之れは私の氣持を随分惡くさした。私は歸って來るなり汲立ての井戸水を何杯となく飲まずには居られなかった。私は又して寝床の中へ潜り込んだ。
 二人は既に庭先の陽當りの中で鶏の毛を毟って居た。
「碌な物が食はせて無いと見えて、此鶏は見掛程肥って居ないぜえ。」S氏は憎まれ口を叩いて私に挑戰した。私は之れに應戰する丈けの勇氣など全然無くなって居た。
「冗談云ってら、暑い時には鶏の脂肪がぐッと減るんだよ。今が一番痩せる時だもの、どんな好い物食はしたってだめさ。」物識のY氏が云って居った。
 孰れ二人に任せて置けば、臺所の秩序は滅茶々々になるだらうし、飲水バケツで雜巾を洗はない迄も、鶏の血位は洗ひそうだし、足拭で釜の中を拭はないとも限らない。併し私は、そんな事を苦に病んで居る時機ではなかった。二人の話對手から免れる事さへ出來得るなら、どんな犠牲を拂っても滿足しなければならなかった。
 併し二人が料理に取掛り、Y氏が柔道何段かの掛聲で、鶏を叩き切る様になってから後も、私自分は決して幸福ではなかった。先づ第一に毛を燒くから古新聞を出せと云ひ出した。私は瓦斯で結構燒ける旨を答へた。所が、瓦斯で燒いたら臭くなると云ふのである。そんなら門の脇へ行って今朝の新聞を取って來て使へと云った。
「君はまだ見ない新聞だらう。そんな馬鹿な奴があるもんか。」之れがS氏の答である。
 私にはそれが馬鹿な事であらうとは思へない。水を飲みに行く事さへ死ぬか生きるかの苦しみである。新聞紙を取る爲めに死にでもしたら、一文惜みの百文損と云ふ奴である。――とッとッと、私の命の實價が百文と云ふのでは勿論ない。――私は仕方がないから古新聞なら三疊の棚に上げてあるから取って呉れと云った。
「今手が汚れて居るんだからさ。」と、これがS氏の答であった。
 私は問答が五月蠅いので到頭取りに行ったが、これから立て續けに色々の註文が出て來るのであった。どの庖丁を使ふのかと訊くし、大きな皿を出せと云ふし、鍋を出せ砂糖を出せ酒を出せ醤油を出せ、味の素を出せ玉葱があるだらう燒酎を飲む様なグラスがあるだらう、箸を出せ火鉢を出せ木炭を出せ。……ああああ、云ふ丈けでも骨の折れる様な大量註文洪水註文、下男ならお暇を願ひ出るだらうし勞働者なら早速ストライキと云ふ所であった。一體彼等の眼と而して手とは何が爲めに備へ付けられて居るだらう。 而して更に彼の口の存在も、果して神意に叶って居るだらうか。私は餘計な事の様だが疑はずに居られなかった。いや、責苦は單にそれ丈けには留まらなかった。今度は氣分が良くなるから燒酎を飲めと云ふのであった。之れは實際親切から起った事には相違ないが、如何に私が酒好でも、後口が惡くて喉が渇くと云ふ燒酎を、平生ならば兎も角も、こんな氣分の惡い時にどうして飲めよう。私は燒酎と聞いた丈けでも胸が惡くなった。
「君は飲んだ事が無いだらう。一寸好いもんだから飲んで見給へ、」と、幾度も幾度も、枕元へ來て繰り返したのは何と云ふ執拗なSであったらうよ。
 一ト渡り二人が食べたと思ふ頃、肉を勸め出した事は云ふ迄もなかった。
「君燒けたよ。一ツ食って見給へ。」Sが云った。
 私はそら來たと思った。
「迚も迚も。」これが私の答であった。實際私は一つ食って見なくったって、燒鳥の味なら知って居る。而して今は食慾から全く見放された時であった。
「君は平生から鶏肉が大好きの方ぢゃないか。非常に旨く燒けたからまあ食って見給へ。」
「僕は今日は平生の健康ぢゃないんだ。」
「そりゃ君胃を惡くしたんだよ。だけど此肉は素敵に軟かい。大丈夫だから食って見給へ。」
 私が默って居れば幾度でもSは自分の主張を繰返すのである。先刻よりは燒酎が廻って居る丈けに、其執拗さも一層ひどいのである。
「硬い軟かいの問題ぢゃない。食ふのが可厭いやなんだ。」
「可厭だか可厭でないか、食って見ない限り物の味は判らないぢゃないか。」
「味の如何に拘らず、水より外には喉を通らないんだよ。」
「味さへ好ければ何だって食へるぢゃないか。君は妙に依怙地な事を云ふねえ。」
 さあ困った。私は實際依怙地なのか知らん。第一私の云って居る事は日本語ぢゃないんぢゃあるまいか。
「愛憎と善惡とは別物だよ。」私はこんな風に云って見た。
「そうさ。そんな事は判り切って居る。例へば此處に一人の女が居るとする……」Sが云ひ出すとYが話を奪った。
「そうすれば君は必ず其女に肉を勸めるに相違ない。而して他の誰にも……」
「おい混ぜ返しちゃいけない。」Sは再び話を奪還した。「其女が非常な美人だとする。衆目の見る所だよ。所が僕は其女を少しも好まないかも知れない……」
「資格がないからなあ。」Yが又混返した。
「君はいかんよ。人が眞面目に病人の爲めに心配して居るのに、君が脇から混ぜ返すからいかんよ。」Sの聲は大きくなった。
「よし。それては謹聴々々。……で其先は一體どうなるんだえ。」Yも眞面目らしくなった。
「愛憎と善惡は別物ぢゃ。」Sが始めた。「がぢゃ。……えゝと……所がぢゃ。所が彼は鶏肉が好きである。而して此鶏肉は旨いのである。そうすれば彼は之れを可厭と云ふ可き理由はないぢゃないか。」
「S待て。」Yが云ひだした。「なる程彼は平生鶏肉が好きである。併し今日丈けはそれが嫌ひである。そうすれば君が勸めたって仕様がないぢゃないか。」
「そうはいかんぞ。今日彼は未だ鶏肉の一片をも食って居ない。それを今日丈け嫌ひだと云ふ事は、全く彼の食はず嫌ひから來たものである。故に僕は健康を保つ爲めに食ふ可く勸告して居るのである……」
「それぢゃ今のは取消す。今日丈け嫌ひと云ふのでなく、鶏肉は嫌ひぢゃないが食ふと云ふ其事が嫌ひならどうするんだ。」Yが云った。
「どちらにしても同じぢゃないか。彼は未だ食って居ないんだから、嫌ひだか嫌ひでないか判り様がない。それで僕が食って見給へと勸めて居るんだ。決して食はねばならんとは云って居ない。」Sが云った。
 驚いたのは脇で聞いて居た私である。一體世の中では、如何に食ふ事が嫌であっても、食って見なければならないと云ふ義理があるのか知らん。Sの論理に從へば當然そうなるのである。私は熟々浮世の義理の幸さを感じ、病氣で感傷的に成って居る眼に涙さへ浮んだ。が、此時、突然であり又偶然であった事には、Sが話頭を一變した。
「おい君起きて來給へ。僕が此Yの眞似をして浪花節を遣って聞かせるから。」Sは聲の調子迄弛めて居た。
「あゝあゝ。」私は嘆息せずには居られなかった。一難去って又一難來ると云ふ事は此事であった。「頭へ響かない程度で遣って呉れないか。」
 だけど、そんな事に頓着する様なSではなかった。眼を閉ぢ肩を張って上體を斜に構へたと思ふと、彼の聲帶徐ろに運動を起し、何かの文句らしい音となって空氣を震動し始めた。將にこれ猛虎月に嘯いて飢えを訴ふの譜であった。
「チェッ。一體そりゃ何だ。」一トくだり吼え終った時Yが云った。
 いや、それは前から判り切って居る事であるが、Sの音癖たるや又甚だしく、其節は完全に破壊され、雜音以上の不規則さである。更にいけないのは氣取らうとする野心のある事で、其臭氣ぷん然として鼻を打つのである。YはSのを訂正でもするかの様に、Sの遣った所を語り直した。此方は元々器用な男丈けに、下手なりに雲右衛門の眞似になって居た。
「何だ。同じ事ぢゃないか。」Yが語り擧った時にSが云った。
「文句は同じだねえ。一種の音聲である點も同じかも知れない。」Yが云った。併し比位の皮肉に驚くSではなかった。
「こんな事は文句さへ合って居ればそれで可いとしたもんだよ。」Sは又しても呷り始めた。
 夜遅くなって私の元氣は餘程恢復した。其處へT氏夫妻が遊びに來た。麻雀が始まり花合戰が始まった。それが終ってから酒となり夜食となり、Sを除いた三人が歸った時、朝の四時に成って居た。
 翌日の宿醉は一層酷く私を苦めた。寝ても起きても居られないものにしたS氏も面白くなかったと見えて夕方歸って行った。次の日になると水を飲む事も出來なくなった。私は目を覺すなり只呻りに呻った。午前十時半になると海岸へ行って居る子供が腸を害し、熱が高いと云ふ知らせが來た。私はふらふらと起き上ったが崩れる様に倒れた。「僕は死んでも可い行かなけりゃならん。」私は夢の様な氣持で旅客の一人に加はった。

注)句読点は追加削除したところがあります。
注)明らかな誤字誤植は修正していますが故意の可能性のあるものはそのままとしています。


「酒か泥水か」
「万朝報」 1928.10.09,10 (昭和3年10月9〜10日) より

(一)
 話は少し古過ぎるが、日露戰爭の初期であった。
「哨兵交代用意です。」番兵が頻りに起して居る。起されてゐるのは私自身と判って居た。
「マアいゝや。起すのは番兵の役目だから。」
 と私は諦め切って居った。
「候補生ッ。哨兵整列になりました。」
「あっといけない。それ見ろッ。早く起さないから!」
「先刻から起して居ます。」
「そんな事は知ってるッ。」不機嫌な私は、外套を掴んで上甲板へ飛んだ。羊羹を潜る様な暗黒の中に刄の様な風が刺す。外套が帆になって躯が飛びさうであった。一萬五千噸が波にのた打つ。それにしても可笑しいのは、雲を踏んで居る様な私の足だ。
「あゝ判った、醉って居るんだ。」
 出征前時間がなくて、蝕齒の治療なかばで其儘になって居た。それが朝から痛みだした。戰友の一人はウヰスキーで含嗽すれば治ると教へて呉れた。私は早速試みた。一口含嗽すると吐き捨てた。が、殘った滴が喉を滑った。迚もがまんがしきれない。二口目から含嗽ではなくなった。胃酸が一罐を完全に吸ってしまった。其醉が今發したのだ。
 私の任務は、艦橋に立って前のふねの艦尾燈を測り、距離を當直將校に報告する事であった。此位難物は一寸ない。艦が揺れるので光が眼鏡には入って來ない。寒いので指が切れさうになる。私達仲間で、二時間に一度測れば上出來と云ふ事になって居た。もっともそれは内秘の話だ。
 が、醉って測ると時々旨く行った。ふねの動揺に同調するらしい。距離測定は醉ってやるに限る。私は今でもさう思って居る。只一ついけないのは喉の渇く事であった。意地にもがまんがしきれない。私は意を決して、闇にまぎれて艦橋を抜け出す事にした。 ふねふねとの定距離は四百米突であった。所が今、都合の好い事にはどしどし近付いて行った。當直將校は頻りに機械の回轉を減じて居る。が、一度加はった隋力は中々止まらない。
「距離いくらッ。今いくら、まだ近寄るかッ。」私に向っての催促である。そんなに矢繼早に訊かれたって、自慢ぢゃないが測れやしない。
「三百ッ。」私の答へ。尤もこれは出鱈目である。喉から火が出そうな程苦しいのに、測定どころの騒ぎぢゃない。
「今いくらッ。まだ近寄るか。」
「二百五十ッ。」
「回轉を減じてるのに、さう急に近寄る筈はない。今いくら。」
 筈があらうと無からうと、現在近寄って居るからしかたがない。此位近付けばもう測距儀を煩はすまでもない。自分で判断出來そうなもんだ。だから器械を過信する人はきらひである。
「二百ッ。あんまり近過ぎて測れません。」
 これも勿論目測だ。云ひ終ると私は艦橋から滑り下った。(つゞく)

(二)
 上甲板を一足駈けると、向う脛を強か物に打付けた。前へのめって手を突いた所は、神の助けと思った程嬉しい水の中であった。明朝洗濯に使う爲、洗濯桶に水を滿たして、甲板一面に並べてあった。其中へ口を突っ込んで、思ふ存分がぶついた事は云ふまでもない。下戸に聞えると憤慨するから、大きな聲では云へないが、此の醉ひ醒の水の旨かった事!
 艦橋へ歸って見ると、當直將校の聲は闇を掻き廻して居た。
「機械の回轉が間違って居やしないか。おいこらッ。テレグラフ當番ッ。回轉いくらになってるか。取舵ッ。オイ取舵々々々々。回轉を知らせ。回轉幾許々々……半速ッ。面舵取って居るか。イヤ面舵ぢゃない取舵だ。取舵一杯とれッ……」
 人間業としては、これ以上狼狽する事は先づ不可能であらう。私はもっと悠然と飲んで來てよかったのだ。私は餘り正直過ぎた。直ぐ又喉が渇き始めた。一度水の味を覺えたので、今度は一層苦しくなった。
 ふねが定位置に就いた時、私は馬鹿に遠い距離を報告し始めた。出鱈目だって構やしない。と、當直將校は回轉を増し始めた。だいぶ増したと見て取ると、今度は急速に近い距離を報告した。
「どんどん近寄ります。」近寄るわけだ。遠くないのに回轉を増したからだ。
 そうれ、忽ち又前の様な狼狽の世界になった。私は悠然とくだって行って水を飲んだ。今度上って見ると既う二時間は經過して居た。同僚が交代に來て居った。あと二時間は、後艦橋へ行って、敵襲の見張をして居ればいゝ。しかも私より上級の者は中尉が一人居る丈けである。あとは候補生よりもまだ下級だ。で、中尉も心得たものだ。私に頼んで一寸次室へ降りて行った。一杯引掛けて來るにきまって居る。
「こんな所で寝て居るのは誰だ。」之れは確に中尉の聲だ。誠に不可思議千萬であるが、起されて居るのは確に私だ。私は今寝て居るらしい。
「此處は何處ですか。」私は訊いて見た。中尉は吹出した。
「何だ君かッ。此處は後艦橋の海圖室さ。自分で這入って寝て居ってそれで何處だか知らないのか。」
「私は寝た覺えはないんです。」
「それぢゃ起きて鼾をかいて居たんだね。」
「第一海圖室なんぞへ這入った覺えはないんです。」
「そんなら君ぢゃないかも知れない。」
 翌朝少々氣になったので、自分が飲んだ邊りの洗濯桶を見に行った。水は眞黒に濁って居た。甲板士官に訊いて見ると、前の朝上甲板へ積った雪を集めたものだが、煤煙まで這入ったから使へない、と云ふのである。私は急に胸が惡くなった。鹽水で滅茶苦茶に含嗽した。所で、氣が付いて見ると、蝕齒は完全に治って痛みがなくなって居た。ウヰスキーか、泥水か、どちらかゞ利いたに相違ない。(了)

注)明らかな誤字脱字は訂正しています。江の崩し字はえとしています。鹽は臣の代わりに土のようですが代用しています。
注)句読点は追加変更したところがあります。


「俳句の批判に關する新提唱」
初出:「生光」 1929.09 (昭和4年9月)
『川田功追悼録』 発行日不明 より

閑さや岩にしみ入る蝉の聲
 佳景寂寞な立石寺に於て芭蕉翁は蝉の聲をかう聞いた。翁の傍には曾良も居た。翁と同じく蝉を聞いた。しかし曾良の聞いた聲は「閑さや岩にしみ入る蝉の聲」ではなかったのである。別聲を(※欠落?)
 所と時とを同じくし、同じ對照に接しながら、そして、芭蕉と曾良とは共に俳人でありながら、其見方に至っては全く別である。これは二人の内在的對照の相違から、文學意識が異る爲めであって、當然過ぎる程當然な現象である。
 偖て、自然現象に對しての見方が斯く違う上からには、作品に對しての見方もこれと同様な現象が起るに相違ない。例へば此處に一つの對照たる、俳句があると假定する。それを甲乙丙丁等幾人かの異った人々が批判すると云ふ事になった時、甲乙丙丁各人が其句から受ける文學意識、云ひ換れば感激は、皆同様であらうなどとは到底想像されない事であらう。 更に進んで考へて見るのに、單に第三者たる甲乙丙丁等の感激が同一でないと同じく、其等批判者と作者の間に於ても、同様に感激の差が無いと誰が云ひ得よう。否、世界に於て最も簡單な詩たる俳句に於ては、當然の結果として感激其儘が記されてあり、説明と云ふものは殆んど無いのであるから、猶更作者の文學意識と批判者のそれと、旨くぴったり合致する事は困難な道理である。
 吾々は、常に不用意に他人の俳句を鑑賞批判し來った自分の内在的對照は、常に作品を通して作者のそれと合致して居ると勝手にきめて掛って居た。これは少々我儘すぎはしないだらうか。少くも、作者の本當の氣分を味ひたい、批判したいと思ふ人があったとすれば、今迄の様な見方に甘んぜず、更に一歩進んで見る必要がありはしまいか。
 若し誰かゞ開き直って「他人の俳句を鑑賞批判しようとするには、一體どんな態度で見て行ぐべきであらうか」と尋ねるものがあったとすれば、大抵の人は次の様に答へはしまいかと思ふ。「先づ綿密な注意を以て、熟讀玩味しなければならぬ」と、此答は甚だ平凡であるが私も斯く答へるであらう所の一人である。何となれば、近來世の中が世智辛くなり、動ともすれば直覺判斷が尊重されて居るからである。 なる程直覺判斷は屡奇を奏する事がある。しかし私の經驗によると、俳句の直覺批判は甚だ危險である。何故かなれば、他人の着想は多くの場合自分のそれと異ってゐる。一讀した位の時は新しい着想だと思ふ事が多い。故に直ちに感心して了ふが、これを再讃し再三讀して居ると、色々古い經驗が頭の中に甦り、次第に其が古かったり平凡であったりするやうになる。故に平凡であるが私は熟讀を可と信ずる。
 次に、又大抵の人が答へさうに思はれるのは「句調がいゝかわるいか、句品が高いか低いか、表現法が適當か不適當か…………等々を詳かに觀察せねばならぬ」と、此答も尤も千萬な事で、多くの人は常にさう云ふ風に見て批判して居るだらう。だけれども、これは表面的外觀的の見方であって、此等が見方の總てゞはない。又私が此處に云はんとする所でもない。私な句調に重きを置いて見ようとするのである。其外の點は他の人々が云ふであらうと思ふ所に随ふのである。次に内面的に深く這入れと云ひたいのである。
 内面的に見ようとする一つの方法として、作者の境遇位置を知る事は一つの必要手段である。殊に方言などを用ひた句などになると、作者の位置を考へに入れないと無意味になり易い。例へば芭蕉の
涼しさを我宿にしてねまるなり
 と云ふ句を、翁が尾花澤に行っての作であり、「ねまる」と云ふ言葉が、該地方の方言で「坐る」と云ふに同じい事を知らなければ、一寸鑑賞批判が出來ないのである。又或中學校に於て一茶の句
嬉しさも中位なりおらが春
 を、教師が生徒に説明するのに、「おらが春は嬉しいが、非常に嬉しくはない。又ごぐ僅かに嬉しいのでもない。まづ中位の嬉しさである。」と云ふ意味だと云ったと云ふ。然るに一茶の郷里信州飯田邊では中位と云ふ事は「チョックレエ」と云って、餘り面白くない。又はつまらないと云ふ意味であると知ったなら、其教師の説明は自ら違って來やしまいかと思ふ。
 子規時代に於ては、句を見て、其から境遇を想像するに勉めたものであった。彼等は句を見ると直ちに聯想を起したのであった。句から言外の色々な事が聯想される事は多い。しかし、餘りに聯想を重大視して居ると、勝手極まる所まで行って了ふ。子規時代其一派の聯想は、そんな所まで脱線したやうであった。
 偖本文の骨子たる、句調の上に就て考へて見るのに、如何なる文學に於ても、意味と口調とは明瞭に分離して考へられるべき筈であらう。然るに詩となって來ると、口調は常に意味の上にまで影響を及ぼして來る。「讀書百遍意自ら通ず」と云ふ古語は、實際上屡々事實である。又こゝに一つの漢詩があったとする。其大部は先づ意味が判って居るが、一部分或は二つの部分は、少しも意味が判らないとする。其時でも、これを繰返して讀んで居ると、「好い詩だなあ」と思ったり、「いやな詩だなあ」と思ったりする。此等は多く口調から來る感じによるのである。
 口調を左右するものは、音の種類音の配列等であるやうだが、これ等は少し細かく入り過ぎて居るし、言語學や音樂等で解釋して居る所であるから、其邊の所は略する事として、俳句に就ての口調を語ればよかろうと思ふ。俳句の普通の口調は五七五と云ふ事になってゐる。故に調子を云ふのには、此七五調から一歩も出なかったのである。 かうした分解法を更に一歩進めて、五文字の所は二二一或は二一二或は又一二二と細かに分解して考へ、七文字の所ならば、二二二一、二二一二、二一二二、一二二二と分解を試みる。これを假に因子に分解したと名付けるならば、句を讀んで見る上に於て自ら因子と因子との間に間隔が置かれるのである。
 ふる……いけ……や……
 かはづ……とび……こむ……
 みづ……の……おと
 と云ふ風になる。かはづと云ふ場合の様に、一つの名詞にぶつかると、三字或は四字となるのは止を得ない。
 かうして置いて讀んで行くと、自然と五文字或は六文字の上に、英語で云ふアクセントの様な高低がつけられるわけである。此讀方の高低と、其間隔とを問題にするのである。高低を色々に換へて最も重きを措く可きであらうと思ふ字、或は重きを措いた方がいゝと思ふ字を高く讀む。次には間隔を最も適當に置く、其間隔の計りかたは、時計の秒時によることなく、自分の呼吸數で變へて見る。 其呼吸のうち、尤も云ひ易く尤も合理的の様に思はれる呼吸數を採用する。而してこれを繰返して讀んで居ると、恰も念佛や讀經が人々を無念無想に導くやうに、作者の人格境遇創作の時機等へ引入れて呉れるのである。例へば此處に擧げた
古池や蛙飛込水の音
 を、只一氣呵成に讀んで了ったんでは、古池と蛙と飛込と水の音とが混同して印象に殘る丈けで其境地に中々這入る事が出來ないものであるが、
 ふる
 と云って一ト呼吸なり二タ呼吸なりの間隔を置いて見ると、古いと云ふ事に添ふべき餘情が頭に浮き上って來る。こゝで古さの印象を味って置いて、次に池と云ふものを心に浮べると、もう苦勞なしに古い池が持つ所の餘情が味はれる。しかも尤も重きを措くものは、高く口に出して讀んだ丈けに、其印象は低く口にしたものよりも深いわけである。
 若し豫め作者の人格境遇及作った所と時と、更に氣分まで知って居たならば、作者の感激に合致する事が最も容易で、且つ誤のないものとなるのであらう。
 こゝで誰でも、語と語との間隔を勝手に極めたと云って、文句を云ひ出す人が出て來るに相違ない。しかし芭蕉の感激的呼吸を、今人こゝで測知する事は到底出來ないので、自分が最もいゝと思ふ呼吸を取ったのは、深切な見方をしようとするのである。どうせ呼吸の數を合して見ても、一ト呼吸の時間が人に依て各々異るので、同じ長さとなりはしないが、呼吸さへ合へば結構である。呼吸は作者と合はなくても、句と合致する事が出來ればそれでいゝ句と合致して居ると思ふ呼吸が、即ち自分が最も適當だと思ふ呼吸なのである。
 かうして口吟して來ると、音樂的である丈けに、而して間隔を置いたが爲めに靜寂になる丈けに句の味は自ら増して來る。而して古池の中へ蛙が飛込んで立てた水音は、唯ジャボンとかドブンとか云ふものでない。物理學的に考へて其音波が芭蕉の鼓膜を打つ言でない。今迄の鑑賞批判者が聞いた音でもない。即ち芭蕉の心のみが受取った、味の深い餘韻であった事が判るのである。
 私は間隔の中で餘情を味ふと云ったが、こゝに又一つの抗議が起って來るかも知れない。それは古池と云へぱ古い池に對しての聯想が起りはしないかと云ふのである。勿論これは過去の記憶に訴へるので、聯想も餘情と共に起る場合はあらう。しかし間隔の間で起る餘情は、其間が短かい丈けに一句の後に起る。若くは無理に起こす聯想程奔逸なものではない。
 まだ書きたい事が澤山殘って居るやうな氣がするし、今少しく學問的に書けば判り易かったか知らんとも思ふが、今は多忙でもあり書くのが憶劫な氣もするから、今回はこゝでお許しを願ひ、抗議でも申込まれたらゆっくり堂々の陣を張る事にします。(了)

注)明らかな誤字誤植は訂正しています。
注)脱落と思われる所がありますが、初出確認はしておらずそのままとしています。
注)句読点は追加変更したところがあります。


「句の新舊」
初出:「生光」 1930.01 (昭和5年1月)
『川田功追悼録』 発行日不明 より

 九月十日夜、「生光」の句會があった。私は始めて其集りに末席を汚すの光榮を得た。此夜得點の多かった句に、「乾豆の頻りに跳ねる殘暑かな」と云ふのがあった。會が終って或人此句を評し「乾豆の……」を「莢豆の……」とした方がよくはないかと云った。と私は、餘計な差出口をしてしまった。「乾豆でも莢豆でも此句は問題でない。句全體が古い」と。
 こゝに於てか、「感情に新舊なし」と伝ふ意見を持った至水君が承知しない。「人間の本質として、同一感情は二度同じ様には起って來ない。故に舊と伝ふ事は有り得ない。同一人にして既に然り、況んや他人と同じ感情が起ることはない。」と云ふ。これを私が勝手に換言して見ると「神様は全く同一の感情を人間に起させよふと企てた事はない。全く同一の境遇に、二度以上置かうと試みた事もない。環境と感情とが全く同一でない限り、感情に訴へて出來た句が全く同一である筈はない。故に出來る句は總て新しいのである」と伝ふのであるらしい。
 なる程、人間の感情と云ふものは、顕微鏡的に見た時は、全く同一のものが起りはしないであらう。併し句なり詩歌なりと云ふものは、表現されて始めて成立するものであるが、其表現する文句に至っては、顕微鏡的に數が多くない。ことに俳句の場合は、字數が少ない上に題詠である。故に實際の問題としては、同様な句が作られ得る。 更に又、句全體がぴったり同じでなくっても、同一の意味を現はして居たり、形式が甚しく似て居ったりすると、吾々は同巧異曲として後者を捨てる。即ち後から出來た句の方が、實際は新しいが舊いと云ふ。例へば芭蕉の句に、
五月雨を集めて早し最上川
 と云ふのがある。然るに今日の人が、
五月雨を集めて廣し大井川
 と云ったとする。後句を作った人は、芭蕉と感情を異にして居る。芭蕉は水流の「早さ」を感じ後者は水幅の擴がりを感じてゐる。しかも對照も異って、芭蕉は最上川を後者は大井川を詠じて居る。しからば後者の想は依然新しいとして、許され得るだらうか。私達はこれに「否」と答へるものである。
 高級なる藝術を論ずるに當っては、「感情の移入」或は「精神同化」と云ふことを無視しては、決して正當な結論に達しないとは、獨逸系の哲學者が唱へる所である。
 彼等は云ふ。若し人間に感情移入或は精神同化がなかったとすれば、藝術は全く存在の價値を失ふと。
 吾々が今、或一つの作品に感心したとする。その時は讀者たる吾々は、藝術を通じて、其作者の精紳に同化したのである。又他人の感情を自分の心に移入する事がある。例へば、吾々が一茶の句を好んで愛讀して居る時は、一茶の調子の句が出來る。次に芭蕉の句を耽讀して居ると、今度は芭蕉の心持が判る様な氣がして、芭蕉の様な句を作らうと焦心するやうになる。これ感情の移入でなくて何であらう。 故に藝術に單一なる師匠があることはよくないのである。箇人を師匠として居ると、師匠の感情に同化して、其師匠以外に出られなくなるからである。話が少し脱線した。今一度初めの道へ引返さう。
 斯く同化が人間の感情の上に行はれる所を見ると、神様は全く違った感情を與へた積りでも、人と人とは神に反逆して、同じ様な感情を起す場合が無いとは云へぬ。それへ持って來て、前云ふ通り表現の文句が不足だし、(感情の種類に比較して、其表現の言葉は十分澤山にはない)題が同じである。故に同一感情は起らなかったとしても、それが相似て居た場合には、同巧異曲の句は出來上り得る。
 かうなると至水君は云ふ。然らば同巧異曲の句が、自分の作以前にないとすれば、自分の句が新しい事になるか。若しさうであるとすれば、幾百年來幾萬人の作って來た句を一々記憶して居なければならないかと。
 これは誰しもそんな風に考へるであらう所の疑問である。が併し、新しい古いと云ふ事は、そんな事を云ふとは限って居ないのである。今新舊の句を實例に就て説明して見よう。
乾豆のしきりに跳ねる殘暑かな
 此句を今一度槍玉に掲げる事にします、今迄の行きがゝり上、それが便利な爲めだからです。どうぞ作者お怒りにならないで下さい。
 此句の中で「頻りに」と云ふ副詞は、「はねる」状態を形容したに過ぎない言葉で、これは技巧上の問題だから問題の外へ取り除ける。所で、夏出來た諸種の豆を乾すのは百姓の家での年中行事である。故に殘暑の候に、庭先の蓆の上で、豆が彈けて爽から飛出すのは必然的なものであると云へる。そんな必然的な出來事は、最早我々の感情を刺戟するのには、餘りに目慣れた出來事である。 否、少くも俳句などやろうと云ふ人にとって、今では殘暑と言ふ言葉の中には、最早こんな年中行事は含まれて居て好い位である。それを今更の様に書きたてると、判り切った事を説明して居る位にしか感じない筈である。が、それはまあ私の勝手な考へで、中には殘暑の時に豆がはねたのを、感情に訴へる人があるとする、それは差支ないとする。 併しそれは許したとしても、殘暑を頭に描いてから、乾豆を想像する事は、新しい發見であるとはまさか云やしまい。何となれば、乾豆は殘暑の頃に於で殆んど、必然的に乾されるものである。又乾した豆は目の前に跳ねるのもきっとある所の出來事である。それが無い方がむしろ物足りない感情を起していゝ位である。斯くきっとある事があったと云ふのでは、それは古いと云ふより外はないではないか。
 私はその夜の句會に於て、次の様な句を秀逸として採った。今それと乾豆の句とも較べて批判して見よう、
破れば崩る腐れ卵や秋暑し
 と云ふのであった。私はこれを
破れば崩る卵や秋暑し
 と直したいと思ふ。卵が崩れたと云ふ事は、腐れて居る事を自然に云ひ現はして居る。故に腐れるは此處では贅語だからである。
 それはさて置き、此句は假令先人が同一句を作って居ても、作者がそれを眞似たのでさへなければ、決して古い句ではないのである。何となれば、卵を破ると云ふ事も、破った卵が崩れたと云ふ事も、何も新しい出來事でないのであるが、と云って何も殘暑と關係がありはしない。いやいや關係は大にある。あるからいゝわけだが、しかし殘暑の頃には必ず卵を破るとは限らない。又破った卵が必ず崩れるものとは限って居ない。然るに其限らない出來事は、必ずしも殘暑と没交渉な事でもない。故に限らない事が巧みに調和されてゐるのである。
 此人は殘暑を意識して卵を破ったのではない。卵は何心なく破られた丈けである。然るに破って見ると卵が崩れて出たのである。これは卵としては常態でないのだから此人の感情を刺戟するには十分の力があった、皆さん卵を破って見て、それが崩れ出た時の氣持に一寸なって御覧なさい。淡い淋しさ、一寸の未練さ、微かな惜しさ、と云った様な頗る複雜した感情が起るでせう、其心持は殘る暑さと云ふものとぴったり合ふ様に思ひませんか。 そして其人は卵が崩れて居るのを見た時に始めて季節の事が頭へ浮んだのです。「オヽもう秋だと云って居るが、しかしまだこんなに暑さが殘ってゐるんだもの、卵の崩れて居るのも無理はないな。」位の事は考へたでせう。かうした考へ方は立派な詩ではないでせうか。少しも古くない新しい立派な詩ぢゃありませんか、今一度二つの句を並べて見て下さい。事件に囚はれないで氣持の中へ這入り込んで較べて見て下さい。
乾豆のしきりにはねる殘暑かな
破れば崩る卵や秋暑し
「破れば」は「われば」と讀んで下さい。やぶればぢゃありませんよ。どうです。これでも句に新舊がないと主張しなければなりませんか。

注)明らかな誤字誤植は訂正しています。漢字と仮名の不統一はそのまもとしています。
注)句読点は追加変更したところがあります。



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