「収穫」
「新青年」 1927.09. (昭和2年9月) より
一
奇妙な經驗だった。
その時、私は世にも見すぼらしい家の、狹ま苦しい一と間の、寝臺の上に横たはってゐたのである。
その日、私は東京の郊外中野を歩るいて居た。昨日の朝から一食も口にしなかったので、咽喉はからからに渇き、腹の底に力が無いので、歩るくのにひょろひょろした。
で、その明治時代に建てられた様な、板張りの色の褪せた、洋館とは名ばかりの見すぼらしい木造家屋の扉口に寄り掛かったのは、決して惠みを受けようとしたからではない。それより先に一歩も歩けなくなったのと、それより後に一足も戻れなくなってゐたからである。
「おや! どうしたんだ。君は。」
扉口から出て來た男が、私を發見してかう云った時には、もう私は立ってゐられなくて、炭火の灰が崩れる様に地面に腰を落してしまってゐた。
「君は病氣なのか。おい……」
やゝ語尾を強めてさう云った相手の言葉に、私はやっと自分が訊かれてゐるんだと云ふことを知った。で、眼を開らいてその方を見た。そして、私よりはまだましではあったが、實に粗末な背廣を風呂敷の様に着込んだ、頬の落ちた、眼の鋭い男を眼の前に見た。
「病氣ではありません……でも、倒れさうです。」
「もう倒れてゐるぢゃないか。」とその男が唇を歪めて笑った。「空腹なのかい。」
「……さうです……お願ひです、私に水を飲ませてくれませんか。」
「お茶があるんだが。」男は笑ひ乍ら立った。
「いえ、水の方がいゝやうです……お茶を飲むと食物を想ひ出して堪りませんから。」
男は又笑った。何んとなくもの寂しい笑ひだった。
「僕にも覺えがあるよ。さあ、中へ這入り給へ。お茶と食物をやらう。」
この男の頬から顎にかけて荒い髯が無數に生えてゐる。幾日も剃らないらしい。所謂無性髯と云ふ奴だ。けれども私はその時のその髯くらゐ好感を持てたものはなかった。此の髯の一本一本が私を見て微笑んで呉れ、救って呉れたのだと思った。
扉口を這入ると、眞直に狹い廊下があって、左右に部屋が四つばかり有った。それは褪せた色の扉の數で解ったのである。先に立った男は奥の左手の扉を無雜作に開けて、立ったまゝ、顎で這入れと云ふ合圖をした。
部屋の中には恐ろしく大型の寝臺が一つ有るだけで、その他に家具と云ふものは何一つ無かった。敷物は穴が明いてゐてそこから荒っぽい床が見えてゐた。壁は埃にまみれて、處々これも破けてゐた。たゞ一つ、有り觸れた林檎にバナナを描いた油繪の額が掛かってゐたが、それは相當新らしいものゝ様だった。
「そこに横になってゐるといゝ。どうせ美味いものは無いが……腹の足しになるものを、今持って來てやるから。」
かれが持って來て呉れたのは食麺麭だった。私は碌々禮の言葉も滿足に云はないうちに、それを口に運んで行って、瞬間にして一斤大の奴を食べ終ってしまった。その合間々々に幾度茶を飲んだことだらう。それはなまぬるい、香りも味も妙なものではあったが、その場合の私にはビールよりもワインよりも嬉しいものであった。理由は無制限に多く飲めるものだからである。
「そこで寝てゐるといゝ。」と、男が云った。「此の窓は閉めて置かうか、開けて置かうか。」
「閉めて置いて下さい。何んだか眩ぶしくて堪りません。あ、こんなことを云って私は……」
かれは起上らうとする私を制して、
「君は居たい間だけこゝに居て差支へないよ。たゞ出て行く時は僕に斷って呉れゝばいゝ。」
男はその儘私を殘して出て行ってしまった。
私は一人寝臺の上に取殘こされた。
「あの男は一體何物だらう。……この家は一體どう云ふ人間が住んでゐるのか。どうしてあの男は俺に何事も訊かないのだらう。」などと私は考へ惱んだ。然しその結論が出來ないうちに激しい睡眠が私を襲って來た。私は麻醉劑でも嗅がされた様に、寝臺の上に倒れて昏々と眠ってしまったのである。
二
「もう十五分もすると、鹽谷がやって來ることになってゐるんだがね。」
と云ふ聲で、私はその眠りから醒めた。
何時間眠ったのだらう。天井から下がったコードの先に、薄ぼけた電燈が燈ってゐる。その聲ははじめ破鐘を叩たく様に非道く大きく聞えた。がそれは睡眠から醒めかゝる時の特殊の耳の作用で、その言葉が終ると、實はそれ程大聲ではないと云ふことが解った。
「何か……面白い話があるのか。奴には。」
と、別の聲が聞えた。どうやら私の耳の直ぐ側の、壁の向うで話してゐるらしい。
「大有りだ。」と前のと同じ聲が答へた。
「あれは俺に麺麭を呉れた男の聲だ」と私の心が呟やいた。好奇心が激げしく起って來たので、私は壁に耳を押し當てた。
「奴はね、此の間からとても素晴らしい處を見つけたって云ってやがったよ。」と私に聴き覺えのある聾が云ってゐた。
「奴と來たらいつだって仕事は一人っきりでやるものだと決めてゐるんだ。だから俺がいくら訊いても碌々返事もしない。」「仕事」とは何を意味するのだらう。と私は耳をそば立てた。それから私は多分煙草を飲んでゐるのだらうと思った。それは鳥渡の間言葉がとぎれたからである。
「奴が狙ったのは何んでも郊外の素的な別莊ださうだ。三階建の素晴らしい建物だとか云ってやがった。奴はね一週間ばかりその邊を徘徊いてゐるうちに、ふいにその別莊を見つけ出したものらしい。その日はそのまゝ歸って、その翌日塀を乗り越えて這入ったんだ。……さう云って居た。」
私はギクリと胸に釘を刺された様な氣がして、壁から耳を離した。これは!……自分はまだ何か夢を見てゐるのではあるまいか。……とも思った。夢を見てゐるので無いとしたら、自分は……。
「で、今日その収穫を持って、こゝへやって來る筈なんだが、奴のことだから、屹度思ひ通りに行ったと思ふなぁ。」
と云ふ聲が、私の胸を一層惑亂させた。咄嗟に私は窓を見た。深い深い夜の闇がその外にあった。そこから外へ出られるだらう? だが此の不規則的な生活に疲勞し切った身體で、そんなことが出來るだらうか。
「そんな仕事をやってゐたのか。……そいつは面白い! 奴、素晴らしい成功を納めたかも知れんぞ。」
他の聲がさう云った。
「頭がいゝからな。」
全然別の聲が云った。
私は再び耳が痛くなる程壁に押し著(※ママ)けてゐた。「三人だ! 三人も居るのだ!」私は全く危險な家に居ると云ふことを自覺せずには居られなかった。
あの髯の男は無條件で自分に食物を與へて呉れたが、本當に「無條件」なのだらうか!
隣室では暫らく沈默が續いた。二度マッチを摺る音が聞えた。摺り損んじたのだらう。三度目に、「有難う」と云ふ低い聲が聞えたきりで、又靜まり返った。私はと云ふと、全身から力が抜け去ってしまった様で、少しも起き上らうと云ふ氣力がない。……「あの男はまだ私が正體もなく眠ってゐるものと決めて、安心してゐるに違ひない。
でなければあゝして隣室にも聞える様な聲で話すやうな馬鹿はしないだらう。」……私はあの眼の物凄い、よれよれの服を着た男の、胸の中を露いてしまった様に思はれて、自分の立場が、薄氣味惡くて堪らなかった。
「やって來たよ。奴が。」
と一人が云った。
足音がゴツンゴツン響くのは、靴を穿いてゐるのだらうか。
「這入れよ。鹽谷だらう……さうら、君だ。」
「みんな來てゐるのか。」
と、新らしい聲が云った。低いが、咽喉が太い、然も張りのある聲だ。多分かう云ふ聲の持ち主は、體格が堂々としてゐて、肥滿ってはゐないが骨組の確りした男に違ひない。二十七八……いやもう少し若いだらう。
「俺が、集めたのさ。」とあの髯の男が云った。(何んとなく私には懐しい氣のする聲だ)「君の手柄話を聞かうと思ったんだ。みんなもその積りでかうして待ってゐるんだ。」
「手柄話と云ふ程の事もないが……」
その男は然し、内心非常な喜悦を持ってゐて、つとめてそれを押し隠してゐるのだと云ふことが、私に解った。
突然、私はギョッとして身體を動かせた。
でも、大したことが起ったのでもないと云ふことが直ぐ解った。たゞ、私の寝てゐる寝臺の下邊りにゴトリと云ふ音がしたのだ。つまり隣室でその邊へ何か品物を置いたらしい。重たい鈍い音だった。
「それが収穫かい。開けて見せろ!」
「無論見せるさ。」
と、私の直ぐ鼻の先でかう云ったので、私は又吃驚して、餘り近いので咽喉の奥を覗いた様だった。
「だが、僕の話の方を先に聞いて呉れ。」
「うん、その方がいゝ。」
「さあ、家宅侵入罪を犯した徑路を述べよ。」
と一人が檢事の聲色を眞似て云った。それに續いて一しきり低い笑ひ聲が響いた。
「怖ろしい眼に合った。」
その言葉が、ピタリと皆の笑聲を停めた。
「もうこりごりだ! あんなことは。」と話手の聲がその沈默の中で効果的に響いた。私は聴かう、と決心した。
「先週の火曜日の事だ。僕は例の商賣道具を携帶して、郊外を徘徊してゐると、突然長い紫色の塀に突き當ったんだ。極上等な煉瓦塀だ。塀の上には鬱叢と樹立が茂ってゐる。この塀が僕が二日がかりで探してゐた塀なんだ。……一日前に停車場のプラットフォームで發見した塀と樹立なんだ。何よりも目的は、その樹立の奥に聳えてゐる、灰色の三階建の、とても素晴らしい洋館なんだ。」
話手はそこで鳥渡言葉を切った。
「あゝ俺が持ってゐるよ。」
シュッと云ふマッチを摺る音――。
「その塀をぐるりと廻って行くと、それが盡きた處に、塀に劣らない立派な造りの門柱が立ってゐる。正面に目ざす建物が嚴然と姿を現はした。……君達はその門柱にある標札が讀み度いだらう。まあ、追々解るよ。
僕が門柱の前迄行った時に、往來の向うから自動車の發動機の爆音が聞えた。で、ひょいと側らの太い電柱の後に身體を隠して見てゐると、やがて自動車は門の前へ來てピタリと停車した。運轉手が飛降りて扉を開ける。門の中から一人の爺が飛び出して來て、
「お歸りなさいまし。」とうやうやしく頭を下げやがった。
すると自動車の中からそこへ降りたのは、令嬢だね。仕立のいゝ春向のオウバァを上に着て、水色の服をその下に着てゐる。白革の總釦の踵のキュッと高い靴を穿いてゐた。
僕の立ってゐる處からはほんの一瞬間ちらと横顏が見えたきりだったが、ニ十歳前後のすらりとした眼鼻立ちの綺麗な娘だった。……歩るき方が、實に嘆美すべきものだったよ。まるで、一流の歌劇女優の様だった。尤も、僕が見たのは自動車のステップから門の内へ姿を隠す迄の、時間にしたらば、僅々四十秒にも足りない僅かな間だったがね。」
聞いて居た私には二三不可解な點があった。それは何故此の話手はこんなことをくどくど愉快さうに話してゐるのか、と云ふ疑問だった。そして相手が默々として聴きほれてゐるらしいことだ。……何か此の男には企らみが有るのでは無からうか。それとも、單に話上手としての技巧を働らかせてやってゐるに過ぎないのだらうか。
「僕は本能的に標札を仰いだものだ。一つには侵入する爲の豫備智識、一つには今の令嬢に對する好奇心からだ。……何故かと云ふと、僕の眼はその娘を、たゞの娘でないと睨んだからだよ。確かにあの歩るき方は舞踊の心得の有ることを示してゐると睨んだのだ。ところがその標札に書いてある姓名と云ふのが、全然舞踊とか女優とか云ふ感じとそぐはない人間の名なんだ。明ら様にこゝで云ふことは差し控へてをくが、とにかくまるで縁が無いと云ふ感じだね。」
「基督教の牧師かい。」と、聞手の一人が口を挾んだ。
すると他の聾で、「牧師がそんな大きな邸宅を構へてゐゐものか。」と一言で否定した。
「牧師とは面白い!」と話手が太い聲で云った。「だが鳥渡ばかりお門違ひだ。軍人だよ。相當名の知れた陸軍の將校さ。……洋装の娘の姿が見えなくなってしまふと、老爺がピッと鋭い口笛を吹いた。すると門の内から逞ましい番犬が彈丸の様に飛んで來た。眞白な仔牛程もある凄い奴だ。耳をひらひら垂れ乍ら牙の間がら薔薇色の舌をはみ出させてゐて、頬がだぶだぶたるんでゐるのが全く恐ろしい。老爺がそいつの頭を強く摩り乍ら運轉手に向いてかう云ったのを僕は聞いた。
「今日は忙しいね。早く廻さないと又御叱言だァね。」
すると運轉手が、
「うん、かなはないよ。三越の出口でお嬢さんからお叱言を云はれるのと、陸軍省の大玄關で旦那の眼鏡が光るのとぢゃあ、鳥渡、違ふからなァ。」と云ひ乍ら、クランクをやけにガツガツと廻してね、凄い速さで元來た方の道を疾って行ってしまった。爺さんは爺さんで握拳で鼻の邊りを摩って、門の中へ、這入って行ったよ。
それから僕は電柱の影から出て、門の前を素通りにして、また長く續いてゐる煉瓦塀について歩るいて行ったのだ。歩るき乍ら僕は一つの失望を感じた。……と云ふのはほかで無い。陸軍省に勤務してゐると云ふ此の家の主人の身分のことだ。
標札を見る迄僕は、その屋敷の主人公が軍人だと云ふことを知らなかったんだ。……と云って僕は軍人が嫌ひな譯ぢゃない。これでも一度は兵營の飯を食ったことのある身體だからね。寧ろ大好きなんだ。
だが僕の仕事から云へば、殊にこれから侵入すると云ふ仕事を持ってゐる僕にとっては、軍人ではちと、面倒なんだ。……と云って、折角これと狙った建物ををめをめ見逃してしまふのは癪だ。
ところがそんなことを考へ乍ら、塀について歩るいて行くうちに、いゝものを見付けた。それを見つけると、僕のそれ迄の心配はすっと消えてしまったんだ。……もうどうしても這入らなくちゃならん、此處の邸は俺のものだ、とすっかり決心を決めてしまったね。」
私は寝臺の上で、石の様に身體を堅くして聴いてゐた。
「何を見付けたと思ふね。」と話手が云った。
誰も返事をしないのは、私と同様に餘り熱心に聞いてゐるからだらう。
「立札なんだ……。紫色の煉瓦塀はそこまで來ると盡きてゐるんだが、その盡きた處に高く立札が立ってゐて、はっきりとかう書いてあるんだ。
「賣貸地。三千二百坪」とね。そのわきにさっきの標札のと同じ名が書いてあって、御用のお方は、相談に來い。としてあるんだ。
さあ占めた! と僕は叫んだよ。賣貸地としてある以上、半分は「出入自在、探見勝手たるべし」と云ふ意味にとって差支へ無いんだからね。今度は粗末な板塀がづっと續いてゐる。そこに入口がある。押して見たが閂が掛ってゐると見えて開かない。勿論僕は此の地所を買はうなんて云ふんぢゃないから相談になぞ行くものか。その代り、邊りに眼を配ると、塀に飛びついて、何の譯もなく庭の中へ降り立ったんだ。」
「たうとうやったね。」と聞手の一人が云った。
「うん、それから約二十分間はその庭だか林だか解らない處を歩るき廻って、洋館を睨んだね。で、やっと絶好な場所を見付けて、三脚を出し、畫布を組立てゝ、描き出したんだ。それから……」
「あゝ、……さうか。」と私は寝臺の上に堅くしてゐた身體をゴロリと崩した。
「どんな構圖なんだ。」と一人が堪らなくなった様に云った。
「もうこゝ迄話したらあれを見せた方がいゝな。そこがどんなに素晴らしい處だったか、どんなに僕が氣狂ひのやうになって喜んだかは、繪を見て貰った方が、一層早く解ると云ふものだ。」その聲が私の寝臺の近くで聞えた。そして最前置いたらしい品物を取上げたのに違ひない。
「さあ、見てくれ。これだ。」と云ふ聲がした。「畫題は簡單に「風景」とつける積りだが、どうだらう。」
その後を私は半ば夢の中に聞いた様な氣がした。然し、激げしい空腹――急激に充たされた食慾――地下へ引きずり込まれる様な睡眠――驚愕させられた會話――安心。と、かうした徑路をとって來た私は、ほっと安心すると共に又もや底知れない睡りの沼へ引き込まれてしまったらしいのである。
三
その翌朝、私はかれらの仲間に加はって、愉快に煙草を吹かしてゐた。「はっはっはっ。われわれを泥棒だと思ったのですか。はっはっはっ。それは痛快だ。」
「さう思われても仕方が無い。われわれの身姿と來たら成っちゃあ居ないからね。」と髯の男が云った。
「で、それから後は、聞いてゐた様でも有り、聞いて居なかった様でもあるんです。夜中に一度眼が醒めましたがね。皆さんは靜かに寝てらっしゃる様でした。その時にはよく覺えて居たらしいんですが今はもう何も覺えて居ません。」と、私が主として鹽谷の顏を見乍ら云った。「どうなったのでせう。洒落者らしい運轉手や、舞踊の心得のあるらしい令嬢や、頑固らしい玄關番の老爺や、獰猛らしい番犬や、陸軍省に勤めて居られる閣下や、題材を得る爲に塀を乗り越えて侵入した畫家達のお話は!」
「ほら、われわれはまだ貴方のこれ迄の生活を聞いて居ませんでしたね。」と鹽谷が、好奇に滿ちた瞳で云った。「私の考へでは、多分、……貴方は清貧家の一人でせう。」
周りに居た三人が微笑し合った。
「清貧家とは、何んのことですか。」と云ふ私の問に對して、鹽谷が哀しげな、又半ば苦笑に似た面持ちでかう説明した。
「清貧家とは、「清貧に甘んずる人々」のことで、日に日に黄金萬能になって行かうとする今の世に生き乍ら、どうした生れつきか全然それと矛盾した生活の道を辿らうとする者の總稱ですな。本當の意味での純情の詩人、革命畫家、異端の小説家、彫刻家、音樂家、まだまだいろいろ有りますが、つまりさう云った連中ですな。……どうです。」
「當りました。」私はさう答へた。
× × × ×
今、あの人達がどうしてゐるか、私は知らない。未まだに極立った噂を耳にしない處を見ると、まだ「清貧家の生活」を續けてゐるのだらうか。それにしても忘れられないのは、あの私に一斤の麺麭と、お茶を與へて呉れた男の無性髯と、侵入畫家の冒險談だ。あの半ばは、かれ自身の創作であるらしい物語の、決末(※ママ)はどうなったのだらうか。
今度いつかかれに會ったら、聞いて見ようと思ってゐる。
注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加したところがあります。
「デパアトメント・ストア狂騒曲」
初出:「クラク」 1927.11.,12. (昭和2年11月、12月)
「幻影城」 1977.01. (昭和52年1月) より
一 エスカレーターの不祥事
お花見と汐干狩の記事がようやく新聞から影をひそめ、四月が過ぎて五月ともなると、東京は日毎日毎に好晴の日がうちつづき、豊かな土を恵まれない街路樹さえもが、幹いっぱいに青葉を茂らせ、街の容姿は次第に輝やきと明かるみを増して来るように思われる。――そうした頃の、初夏気分濃まやかなある日のことだった。
京橋交叉点に豪然とそそり立つ、鉄骨九層樓の建物、人も知る東亜デパートメントストアの階下の大広間は、見渡す限りの人波で埋まっていた。
丁度今、正面大壁柱の標準時計が一時を報じた処である。
「は、絹物は三階の奥になって居ります。食器部は二階の南側でございます。は、お手荷物はお預りいたします。ああもしもし、札をお持ち下さいまし」大玄関附きの接待部員、松本は、十五六の娘を連れた上品の容姿の老婦人にニッケルの札を渡すと、何やら包んだモスの風呂敷包みを側らの籠の中へ静かに納さめ乍ら、同僚の沢野に低声で云った―― 「沢野、ネクタイが曲ってるよ」
「おや、君にも似合わない。いやに親切だね」
沢野と呼ばれた、色の白い、髪を綺麗に分けた二十二三の青年は、そう云って笑い乍ら、赤味がかった派手な模様のネクタイに手を触れた。
「今日あたり『夫人』が来そうな気がするからさ」
「ほう」沢野は口笛を吹く時の様に口を細くすぼめた。
「しらばっくれるない」と松本は瀟洒とした姿にも似ない乱暴な調子できめつけて「僕には二つの眼があるんだからね」
電車が一台停まったのであろう、また一群の客がどっと押し寄せたので、二人は言葉を交わしているどころではなかった。
問われた事は一一明瞭に答え、手荷物洋傘などは預り、顔見知りの華客には歓迎の言葉を浴びせなどして、一と通りその一群を済ませてしまうと、又松本が低声で云った。
「さっきから僕は、あの女を三度見かけたんだがね」
沢野は松本の視線をたどって、売場の方へ眼をうつした。
「ほら……あの薬品部の一番こっちのショウケイスの処に立っている、あの女さ。……茶の中折れの隣りのね……仕入部のタイピストの須藤って云うんだ。ショウケイスを覗いている風をしているが、あの女はまるで別の事を考えてるね――」
沢野は次の瞬間に唇を曲げるようにして心に呟いた。
「ふん京子か。単純な、平凡な女さ、君は。……まだ僕の心を験めそうとしているのかい。左様なら。今じゃ君の顔を見ると、そぞろものの哀れと云う奴を感じるね――」
かれは同僚の横顔に眼を転じて、皮肉に云った。
「松本、ネクタイが曲ってるよ」
「こいつは、一本やられた――」
松本は明るく笑い乍ら、ふと気がついたようにかたわらの壁に装置された呼鈴のボタンを押した。
手荷物の籠が一ぱいになったことを、出口へ知らせる合図なのである。
「沢野君」
接待部長の片岡がそこへ大きな体格を現して云った。鼻眼鏡を掛け、美しい鬚をたくわえた、三十七八の紳士、前身はこれでもさる土地会社の重役をやっていた男なのである。
「屋上を廻って来るからね、後を頼みます」
云い残して、片岡部長は向うの隅の華客用昇降機の方へ歩いて行った。華客の応接、傘、手荷物の預りなどの監督。昇降機、エスカレーターの監督。各階休憩室、児童娯楽室、化粧室、屋上庭園、同附属児童遊戯場、動物舎等の施設の監督――これらが接待部長の仕事なのである。
「屋上へ行って、煙草でも喫って来ようと云う考えは悪くないね」
後姿を見送り乍ら、沢野が云った。そして、たった今の部長の口調を真似て「では、松本君。後を頼みますよ」
――かれは玄関右寄りの接待部長室へ入って行った。厚い扉をばたりと閉めると、あれ程、喧騒を極わめていた耳を聾するばかりの物音が、ばったり消えて、静寂そのものと云った周囲になる。
室内には、かれのほかに誰も居ない。部長がたった今迄腰掛けていたらしい、緑色の羅紗を張った廻転椅子が、半ばかれの方を向いて口を向けている。
卓子が四つ、書類を山と積んで、黙々としている。
沢野はその部屋へ入るがいなや、今迄の物に疲れた様な態度をガラリと変らせて、その秀麗な容貌に一脈のけわしさを見せ、身体をしゃんと堅くし、扉に止金を掛けた。それから窓ぎわへ行って、外を注意深く見渡した。厚い硝子戸がぴったり閉まっている上に、外に目の細かい金網が張り詰めてある。これは商品が店外へ盗みさられることを防ぐためであること云う迄もないが、沢野はいつもそれを見ると微笑みを禁じ得ないのだった。
「そんなことをしたって駄目さ。人間の盗癖と云うものは本能に近いのだ。本能はどんな障害物だって突き抜こうとする力を持っているのでね」
かれは、ポケットから鍵を出して壁ぎわのかれの卓子の引き出しを開け、ちょっとの間ごそごそやっていたが、やがて青い色で染めた一枚の伝票らしい紙片を取り出して、口元に秘密な微笑を浮べた。
と、その時である。
入口の扉をひどく手荒く叩く音が聞えて、
「もしもし、片岡さん!」と云う声がする。
かれは突嗟に、伝票をポケットに突込み、苛々し乍ら止金を外して、
「何だ! 片岡さんなら屋上だが」
と云い乍ら、扉の把手を引いた。
昇降機運転手の制服を着た男が蒼白な顔をして突立っていた。
「あ、沢野さん! あなたですか!」その男は噛みつく様な調子で叫んだ。死んだ魚の様に、眼が丸くみ開かれて、動かなかった。「大変です! とんだことが……」
「昇降機かね」容易ならぬ気配を感じ乍らも沢野は、強いて落ちついて訊いた。
「エスカレーターに……お客さんの子供が足を挟まれてしまったんです……」
二 救助
さっとばかりに沢野は色を失った。
「どこだ?」
「階下の二階です……階下から行って、お客さんを落ろさなければ……」
その男は、二階から小階段を駆け降りて来て、降り切った処にある此の室の扉を叩いたに違いなかった。沢野は男の後につづいて、群る人波へ飛び込んだ。
建物をゆり動かすばかりの喧騒音が、そう云えば、どこか常より静かなところがあった。……低音部が失なわれていた……あらゆる此の建物中に起る騒音の、壮重なる低音部を受持つところのエスカレーターが、一台、その運転を中止したからである。
――その、一段調子を落とした不思議な静けさの中を突抜くように、高く、鋭く、物恐ろしい、子供の悲鳴が長く尾を引いて聞えている!
――昇降機運転手の制服を着た男は、まっしぐらに階下正面の、エスカレーター昇り口へ駆けつけた。そして怒鳴った。
「降りて下さいまし!……降りて下さいまし!……」
一人しか通れない狭い階段を、人々が折重なって降りようとしていた。そして下からは好奇と戦慄との虜になった男の客たちが、まだ事実が解らぬ乍らに、ひしひしと押寄せて、完全に降り口をふさいだ。
続いて駆けつけた沢野は、特別仕立の背広を目茶目茶にもまれ乍ら、それらの人々を手荒らく押しやり押しやり、制服の男と一緒に怒鳴った。
「速く!……速く、降りて下さい!……」
全部が降り切ってしまうと、制服の男は、三段飛びに駆け上った。沢野は昇り口に備えつけの鎖を掛け「運転休止」の札を立てかけると、猿の様に駆け上った。
昇り切った処には、同じ制服の男が二三人と店員が二三人、それから無数の華客達がぐるりと物々しく取巻いていた。肺腑をえぐるような悲鳴が、すぐそこから起っている!
沢野は制服の男のわきから、ひょいと覗いた……そして思わず眼を掩いたいような惨たらしい光景を見てしまった……七つか八つの少女だった……オリイブ色の服を着、白い靴下をはいてあお向けに倒れていた……その右足の先端が……靴と一緒に……その靴は黒靴だった……正面の板壁の下へ……ぐっと挟み込まれているのだ!……
元来、エスカレーターの「足盤潜入部」の間隙と云うものはどんな厳密な尺度で測った処が一糎を越えるものでは無いのだ。靴の踵だけにしても挟まる筈が無いのだ。それが、ふとした本人の油断と、毎分九十尺の速度で進行している動力とのために、こうした起る可からざる事が起ったのである。
沢野がはじめに見たのは、ただぐちゃぐちゃの鮮血の塊りだった。そして二度目にきっと決心をして視直した時に、それらの事実をまざまざと見たのである。
「まだかッ!」誰やらが叫んだ。
「抜けない! 駄目だ!」ぐっとこごんだ誰とも解らない制服の男が、絶望的に唸った――皆なははっと黙ってその声をはっきりと聞いた――どうする!……時間が電光の様な素速さで駆け過ぎた……両手を真赤に鮮血で染めた男が譫言のように云った。
「抜けない! 畜生!……ああ……」
少女の悲鳴!
人々は骨が凍るような戦慄を味わった。声を揃えてわッと泣き出したい様な絶望と、今迄に感じたことのない憤怒とを、全身に経験した。
「待て待てッ! 戻すかッ!」
「そうだそうだッ, それがいいッ!」
沢野の前にいた制服の男が、手を伸ばして、横手にある赤と白と青の釦の中、Down 記号の青を押した!
忽ち轟然たる音響が皆の足元から起った。電動力が活動し出したのである――沢野も、制服の男も、その他の四五人も、エスカレーターに足を載せている程のものは、等しく足元に動力を感じ、同時に等しく一団となって品物のように動いた――
「どうだッ! 抜けたか!」
「――」
「――」
「――」
誰やらがおびえたように叫んだ。
「と、停めろ! 馬鹿ッ!」
沢野はむんずと腕を伸ばして、白い釦を押した。
ばったり音が鎮まった。
そして、もう悲鳴は聞えない!
皆なの眼が期せずして、少女の顔に向けられた――
――出血の為か、苦痛の為か? そんなことは沢野には解らなかった。
が、とにかく少女は、意識喪失を来たしたのである!……
「ぶち壊せ!」
「鉄槌と鋸と――」
「地下室へ! 誰か、直ぐ」
野獣の様に猛り立った男達の間に、咆哮に似た叫びが取交わされた。
その時、群る人々を押し抜けて一人の男がそこへ出て来て言葉短かに云った。
「私、医者です!」
三 失策
三十分後。
四階の医務室の扉は堅く閉ざされて、その前に黒朱子の事務服姿の青年や、タイピストや、小使や、少年店員などが慌だしい不安げな表情をして、群り寄っていた。最後に入って行ったのは、人事課長らしかったが、その前に駆込むように扉の中に姿を消したのは急を聞いて屋上から降りて来た片岡接待部長に違いなかった。
品川の海をはるかに見渡すことの出来る、金網を張りつめた窓の処に寄り掛り乍ら、二人の紫色の事務服を着た女が小声で話し合っていた。
「どうしたの? また万引でも捕かまえたんじゃない?」
「きっと、そうよ……暴れて怪我をしたのかも知れないわ……気味がいい!」
一方では便所掃除の小使が、ぐるりと取巻いた店員達のまん中に立って、あごひげをさすりさすりくどくど話していた。
其処へ扉が開いて、髪の毛を乱した沢野が蒼白な面を向けて出て来た。そして静かに扉を閉めると、急いで店員用階段をトントンと降りて行った。一斉に、一同がその方へ眼をやった。
――沢野は一直線に事務所から階下の売場へ出た。今の事件を知るや知らずや、華美な装いをこらした華客達は相も変らずごった返している。沢野は人波を切ってエスカレーターの昇り口まで行って見た。
かれが掛けたチェーンと「運転休止」の札がそのままになっていた。見上げると、被害現場には大きな白布が掛けてあった。もう既にあのおびただしい鮮血は、洗い流してしまったのだろうか――
――かれらは遂に道具を使って、エスカレーターの、構造の一部を破壊し、引き切り、取外して、痛ましい犠牲者の足首を離すことが出来たのであった。そして、丸ビルに開業している滝田医院長の滝田氏が折良く現場近くに居合わした事は本当に幸いだった。その、口鬚をたくわえた、鉄ぶちの眼鏡の紳士が居なかったらば、到底少女の生命を取止める事は出来なかったに違いない。
そして氏の云う処によると、救助は極わめて迅速に行なわれたが、ただエスカレーターを逆行させたことは非常に傷を重もらせた乱暴なやり方だったと云うのである。最初から破壊作業を行なって救助すべきであった――
然し、とにかく突発的の変事だったのだ。黒の翼を持ち青い眼を光らせた悪魔に、見入られたと云うより外ない超自然的な不祥事件だったのだ。あの際誰だって気狂いのようにならずに居られようか――
沢野は心に呟いた――「此処にも気狂いになりかけた男が一人居る……俺さ! ああ、馬鹿な奴!」かれの眼は異様にギラギラ光り出した「――たしかに此処に駆けつけた時、俺は、あの伝票を此の上衣のかくしへ突込んで来たのだ。……それが医務室で気がついて手をやって見ると、無くなっている! ここで、お客を押しのけ突きのけした、あの最中に飛び出してしまったのだ!……糞畜生! 間抜野郎!……お前の顔色を見るがいい!」
この思いがけない失策は、かれに取っては、殆ど致命的な痛手だったのである。少女の負傷事件などはこれに比べれば物の数で無いのだ。
――沢野は傷付いた狼のように、玄関脇の事務室へ飛んで行って、卓子の引出しを見たが、無論有る筈が無かった。
快活で放胆な日頃のかれにも似ず、悄然として力なく、ふらふらする足つきで、大玄関に立った姿は悲惨だった。
「どうして、足を扶まれるまで気がつかなかったかねえ」
沢野が大玄関に戻ると、同僚の接待部員伊藤が「御案内書」をパチリと撥き乍ら云った。
「間抜け野郎さ」沢野が曲ったネクタイを直し乍ら、吐き出すように云った「後に眼をつけて乗っていたんだね」
「親は居なかったのかね」松本が訊いた。
「居たよ。五十ばかりの役人みたいな先生だった」
「あのエスカレーターの受持は誰だった」
沢野はもう答えるのが面倒になったので、ぷいとわきを向いて、乱れた頭髪を掻き上げた。そして呟いた。「畜生! 俺の方で聞きたいのだ。あの伝票は拾わなかったか、ってね」
心中の煩悶と焦慮と、周囲の喧騒と雑音との間に、かれは苦痛の二時間を過した。部長の片岡の姿は、一時現われたが直ぐに又消えた。今日の負傷事件の直接の責任者は「接待部長片岡誠五郎」なのだから無理もない。
「頭が壊れそうだ!……」沢野は唸めいた。
大時計が三時三十分を過ぎた頃、かれはそっと持場から姿を消した。
地下室の店員食堂へ行って、頭を冷静にしようと思ったのである。
明るい売場を出抜け、殺風景な事務所のリノリューム敷の廊下を歩き、地下室の階段を降り切った時、かれはばったりタイピストの須藤京子に出会った。
「ああ沢野さん」
かれの以前の恋人が、そう声を掛けた。
うるさい!
沢野は顔をそむけて通り過ぎようとした。
「あの伝票受取って?」
「え、伝票?」沢野はギョッとして立ちつくした。
「まあ、まだ知らないの! あの騒ぎの最中にあなたが落したのよ。さっき、あたし四階の階段の処で、片岡さんにお会いしたから、お渡ししといたわ。お礼を云って頂戴。あたしに――」
四 女客
その頃、大玄関の緑色の掛物をかけた卓子の処には接待部長の片岡が厚い胸をうんと張り乍ら、部員の四人と、ドアボーイの五人を集めて、低い声で云っていた。
「――そう云う訳だから、誰から聞かれても、余りベラベラしゃべらないように注意して呉れ給え。新聞記者と云うものは、何処にでも網を張っているのだからね」
ふと、片岡は鼻眼鏡の奥から、玄関の方を見やった。砂塵を巻きあげて疾駆して来た電車につづいて、ナッシュ号の自動車がすべるように大玄関正面に現われ、中から洋装の女が降り立った。
片岡はその女客を認めると、つと身を引いて、眉をよせ乍ら一人の部員に低声で囁いた。
「沢野君は何処?」
「さあ、今迄居たのですが――」
「あのお客を満足に案内出来るのは沢野君より外にいないのだからね。僕は、これからまた部長会議に顔を出さなくてはならん……こしたまえ。君はあのひとを引き止めて置く。そして誰かをやって沢野君を急いで探して来るんだね」
云い終ると共に、片岡はすたすたと人混みを分けて彼方へ立去った。
接待部員松本は、ちょいとネクタイに手をふれてから一歩進み出て、女客を迎えた。
――噂によると、かの女は横浜のある英人貿易商の夫人だとの事だったが、単に噂たるにとどまって、真実の事はあまりよく解らなかった。
とにかく東京ステイションホテル三十八号を仮りていて、月々莫大な買物を届けさせているのである。
――今日のかの女は、二の腕の半ばほどしかない、薄い、藤色の縦縞のある衣裳を、ほっそりした身体につけていた。V字型にあけた襟の折返しからは、紫色の細い襟飾りがひらひらと、胸の下まで垂れていた。
「こんにちは」
黄色い地に白いリボンを巻きつけた小型の帽子の下から、宝石のように秘密な輝きを持った瞳を、チカリと光らせて、かの女が云った。
「いらっしゃいまし」と、松本ははっきり云って、それから英語で「多分お出でになるだろうと思って居りました。今日は大変良い日ですから」
大変に良い日!
此の言葉を聞いたらば、部長の片岡も喜ぶに違いない.
此の二十四五歳かと見える、いつも薔薇色の頬と、かみそりで切り割ったように悩ましく鮮麗な、赤い唇とを持った仏蘭西女は、此の店の誰よりも、沢野が「お気に入り」なのであった。かの女が比の店へ姿を見せたのは約六ケ月も前の事だったが、その最初の日の案内に当った沢野を、その後来る度毎に、名指すのであった。今日もかの女は、小娘のように身をくねらせ乍ら、
「サワノは?」と訊いた。
「今、鳥渡わきへ行って居りますが、呼びにやりましょうか?」
松本は、出来る事ならば、此の美しい婦人客と一緒に売場売場を歩き度く思っていたのである。――何の、沢野と俺とどれだけ違うのだ。ただ奴は仏蘭西語を話せると云う事だけではないか。
夫人は明らかに失望したように見えた。と、云ってかの女は決して気不味い顔をするような女ではなかったが、態度だけは何となく、よそよそしく近附き難く見えた。
「松本君、来たよ、沢野君が」皮肉なひびきをこめて、一人の部員が云った。
――沢野は店員食堂で砂糖湯のようなコーヒーを飲みほすと深い憂鬱に沈んだ心を抱いて、売場へ戻って来たのである。売場へ出れば当然片岡と顔を合わせなければならないし、顔を合わせれば片岡が――あの職責に悪く忠実な男が、かれにどんな事を云い出すかを、既に沢野は知っていた。それ故に、すっかり覚悟はきめて居たものの、明日の空の下に、自分がどんな惨めな姿で立たねばならないという事も考えると、追いはらっても追いはらえぬ憂鬱が、ひしひしとかれの胸を押しつけるのであった。
逃亡――という方法がある。
が、かれは今迄に余りに自分の才智と陰謀の老巧さを信じ過ぎていたために、発覚と云う場合を、万が一にも考えていなかったのである。沢野と云う男は、そうした、まだまだ青い、若い、駆け出しの犯罪者に過ぎなかったのだ。そして又、不幸にも現在のかれは、満足な旅費さえも持合わせてはいなかったのである――
どうにでもなれ!
――ふと、自分の持場である大玄関の方を見ると、恐れていた片岡の姿は見えなかったが、ほっそりした藤色衣裳の仏蘭西女がいるのを見つけた。
かれははっと両頬を紅潮させた「あ! 来ている」かれは足をとめた「あの女だ!……あの女が俺を京子から遠ざけ、俺と云う男を目茶目茶にしたのだ……」そして自嘲的に唇を歪めて笑った、「ふん、成程、うまく出来ているものさ――あの女のために俺の生活が乱れて来て、とうとう金に苦しんで、大それた暗闇の仕事をすれば、京子が何にも知らないで、それを明るみへ曝らけ出してしまう」――
ふと、同僚の松本が、快活に白い歯を見せ乍ら、かの女と話をしているのを見ると、沢野は身体中に云い難い憤怒を覚えた。「此の上、あの女まで取られてなるものか!」かれはつかつかと、その方へ華客達を押し分けて進んで行った。
仏関西女の顔には満足の色が浮び上った。
「運のいい奴さ」松本は舌打をして手を引くよりほかになかったのである。
――今の、沢野の心のうちを知る筈の無い女客は、売場売場をめぐって色々買物をした。かの女の姿が群を抜いて美しかったので、華客連は眼ひき袖ひき無遠慮な視線を送るのだったが、そうしたことが一層沢野の心を鉛の様に重くさせた。
――一時間の後――
――昇降機で屋上へ出て、紅紫白色彩とりどりの花が誇りかに咲き揃っている洋花部の温室へ、女は淑やかな歩をうつしていた。
「今日は思い切って綺麗な花を、買って行きたいのよ。あたし――それを楽しみにして来ましたの――」
晴ればれとした調子でそう云ったかの女は、ふと沢野の顔を見上げて、おどろきの瞳をみはった。
鉢にこばれるほどの青葉の映りかとも思われたが、あまりに男の頬は蒼ざめすぎていたのである。
五 告白
女は、とうとう心配げに云った。
「どうなすったの? サワノ。……気分でもお悪いのじゃない?」
「はははは」沢野は寂しく笑って「ちょいと考えごとをしていたものですから」
「今日はどうしてそう元気がないでしょう。男らしくもない――」
「全く、今日の僕はどうかしているのです。――こんなに意気地の無い男だったか、と今更に呆れているくらいなのです――」
かの女は楽しみにしていたという花の買物をやめて、温室を出、コンクリートで固めた、花壇と花壇との間の道を通って、屋上庭園の一番外ずれのてすりの処まで行った。
時は既に五時を過ぎていたので、見上げれば大空は晴れていながらに青みを失いかけ、太陽も光を弱めてぐっと西の方に傾いていた。そして丸の内の皇城の一廓と、愛宕山と、芝公園あたりの森が一しおその色を濃くし、金杉のあたりには、はや広告塔のイルミネイションがまたたき始めて見えた。――蒼茫と暮行く一時前の大東京の姿は、いつも乍ら人々の心を、淡い悲しみにいざなうに充分であった。
「――実は、ここ数日の中に、僕は此の店をやめなければならないのです」
沢野は悲痛な面持で、海軍省の大アンテナの辺りに眼をやり乍ら、三つも年上の女に云った。
「まあ! それはほんとうなの!」女は明らかに愕ろいて、今更のように男の顔を見上げた。
「たぶん、僕はもう此の店では、あなたにもお目に掛かれないようです……」
「どうして……お勤め代えでもなさろうと云うの?」
眉をよせて憂れわしげに青い瞳の女が訊いた。
「そうだといいのですが……どうやら働き口が無くなりそうな気がして」
「――でも、あなた程の人が、そんなことはありませんわ」
沢野はンガレットケースをさぐり乍ら、
「僕程の人がですって?……はははは、あなたは僕を買いかぶっていらっしやる。そう、二ケ月前に僕はあなたを本牧の海ぞいのホテルへ連れて行った……三ケ月前には軽井沢の高原へ遊びに行った……あなたのために腕輪も買った……いいえ、いやしいことを云う男だなどと考えないでください。僕はあなたにだけは、ほんとうのことを云ってしまいたいのです……僕がこれ迄にして来たことは、皆な嘘なのです。僕と云う人間は、そんなに金も無ければ、地位も無い、貧弱な、意気地のない一個の使用人に過ぎないのです」
六ケ月の間秘くしていた事実を、思い切ってしまうと、重荷を下ろしたような心地になってかれは、紙巻に火をつけた。最初の青い煙が屋上を吹渡る風に乗って、あわただしく飛び去った。
女は、不思議に冷めたげな瞳で、じっとかれの顔を見つめていた。
二人の周囲には相当に華客達が居るにはいたが、二人の話している異国の言葉が解らないので、誰一人立止まる者がなかった。直ぐ近くの交又点を越える電車の音や自動車の警笛などが一緒になって大変遠い処からの音のように聞えていた。またひとしきり風が吹いて、女の襟飾りをひらひらなぶった。
「では、あなたは――」やがて云いかけて、女が口籠った。
「泥棒だったのです」沢野が云った「いやしんで、そしてさげすんでください!……泥棒は泥棒に似合いの処罰を受けなければなりません……今日と明日と、僕はその処罰を受けるために此の店に居るようなものです」
「――」
沢野はこごんで靴先を凝視めた。直ぐ前に、仏蘭西女の、二つの違った色革をはぎ合わせて造った細い靴があった。そして澄き透るような白絹の沓下をはいた足が――
「――今になって想い出すと、此の六ケ月と云うものは、僕の生涯の中での一番幸福な時だったと云う気がする。遠い峯に雪が降りていても、軽井沢の夕暮れは、これ程寂しくはなかった……はははは」と空虚に笑って「あなたは、これ迄に、これ程弱気のサワノと会ったことはなかったにちがいない……犯罪と云うものは人を強くさせると云うが、どうやら嘘です。……それは惨めな、暗い、弱い人間にさせるだけです――」
濃厚な化粧顔をした、一と目でそれと知れる、カフェー勤めらしい女が、大学の制服を着た男と並んで、沢野のわきを通り過ぎて行った――
「眼に映る皆なが呪わしくなる」沢野は、かの女が憂い顔で丸の内の方の空を見やったまま、ひと言も云い得ずにいるのを見ると、堪らない哀愁に襲われて、独語のように呟いた「夜烏のように暗いことをして得た金を、押しげもなく浪費う時には、眼に映る総ての人達が馬鹿らしく見えるが、今となって見ると、皆んなが皆んな、僕よりも勝れて聰明な利巧な人達に見えてならない――」
「――一体あなたは何をなすったの?――どうしても、今迄通りのあなたになることは出来ないとおっしゃるの?――男と云うものは、感傷はきっぱりお捨てにならなければ――」暫くして、女が励げますように囁いた。
「有難う。僕はへんに大胆で、そしていざとなるとまるで小心な男なのです」
「お金で片がつくと云うことが世の中には、いくらもあるように思いますけれど――」
「無論ありますとも。笑って下さい、僕を!……今のサワノは五十円の金すら持っていないのです」
「あなたには、あたしの云うことがお解りにならないの?」かの女が、早口に云った「さあ、誰もあたし達の話が解る人は近くに居そうもないわ。おっしゃって御覧なさい。あなたがお取りになった金高を」
沢野は風にふかれた埋れ火のように眼をみはった。が、やがて低い声で云って退けた。
「二万七千円」
「まあ! あなたが!――」
唇のはしにパイプをくわえた沢野は、冷ややかに女を見乍ら、
「大笑いですよ」
かの女は茫然と、その口元を見ていたが、やがて静かに手を伸べて、沢野の二の腕を掴んだ。そして、伸び上るようにして沢野の耳に囁いた。
「素晴らしいひと! あたしのサワノは! 泣いては駄目よ……そのくらいのお金なら、そして、そのくらいのあなたなら、いつでも手に入れることが出来るわよ」
時々、この女の、無茶苦茶に情熱的になる事を知っていた沢野は、
「有難う! で、僕はどうすればいいのでしょうね」とつまらなそうに云った。
「何にもいらないわ」
「それで!」
「勇気、それだけ」
仏蘭西女の言葉は、然し、常よりも確かに真剣な響きを持っていた。
――約五分程前から、かなたの温室の硝子戸越しに、じっとまたたきもせずに二人の方を凝視めている女がいたが、それはタイピストの京子にちがいなかった――
六 曝ばかれたる罪
接待部長の片岡は部長室で、煙草を喫っていた。廻転椅子にどっしりと腰を落ちつかせ、左の手を椅子へもたれかからせ、壁に掛ったポスターの方を見るともなしに見やり乍ら、苦い顔をして煙を吐き出していた。
かれは昨日起ったエスカレーター事件のために、外出してたった今戻って来たばかりなのである。哀れな犠牲者の家庭へ、東亜デパートを代表して見舞金一封を持参して行ったのだ。決して人を愉快にはさせない役目である。
「ああした生活を送るものもある――」片岡はその家庭の陰鬱な空気も思い出していた。
「無気力な会社員、上役には頭が上らず、僅かばかりの昇給を唯一の楽しみにして、コツコツと老後の安息を望むためにけち臭い貯金をして行くと云った人達だ」
――片岡は以前に或る土地会社の重役をやっていたことがあり、自動車を一台所有して、数名の召使傭人を使い、葉巻をくわえた想い出を持っている男だった。財界の不況に遭遇して四苦八苦の末、遂に会社が差押えを喰って、身柄一個になってしまった時、口を聞く人があって此のデパートヘ勤めるようになったのだが、仕事は確かにやるし語学には素養が深いしと云うので、入店三年後に、接待部長の椅子に就いたのであった。
然しかれは一接待部長の椅子、と云うよりは、一会社の使用人として甘んじているには過去の想い出が、余りに華やか過ぎた。「いつかは、浮び上って見せる。自分の企画した事業のために腕一ぱい働いて見たい!」――それがかれ片岡誠五郎の日頃の念願だったのである。
かれは「敷島」を喫い終ると、卓上の呼鈴を押した。
扉が開いて、接待部のドアボーイが入って来た。
「沢野君を」
ボーイが立去ると間もなく、沢野が静かに入って来た。
――沢野はどう決心する処あってか、平然として今日も出勤し、日常と少しも異なる処なく、寧ろ快活にさえ見えたくらいである。
――然し場合が場合だけに、かれの顔には笑いの影は更に無く、筋肉を堅く緊張させ切って、片岡の卓子の前に立った。
「まま(※ママ)そこへ掛け給え。ちょっと君に話したい事がある」
云われるままに沢野は、粗末な椅子へ腰を下ろして向き合った。
「僕は今帰って来た処だ」と片岡が、鼻眼鏡の奥から屹と青年の顔色を見つめ乍ら、低い声で云い出した。「君も知っている通り昨日の犠牲者の家庭へ、比の店を代表して行ったのだ。金一封を置いて来るだけで大して時間も掛らなかった。それだのに僕は店を出てから帰る迄に四時間を費している。神田へ廻ったのだ。……神田五軒町二十番地の井上と云う家を探したのだ」
片岡は言葉を切って、相手の表情の動きを観察した。
沢野は顔筋一つ動かさずに黙然として卓子の上を見ていた。
「華客芳名録」と金文字で現わしたクロース表紙の部厚な書物が、そこに置かれてあるのを知った。
「それから芝桜田本郷町四十八番地の倉田みよと云う家を探した。牛込払方町十九の本沢定次郎と云う家を探した。――これらの所番地と名前とは、皆なある種の伝票に明記されてあるのだが、僕の調べた処では、此の三軒の中どの一軒も、その明記された番地には住んで居ない事が解ったのだ――」そう云ってかれはじつと沢野の顔をみつめた。
「それが私と何う云う関わりがあるのでしょう。説明して下さらないと分りかねますが――」
「何ッ! 君は!」
冷めたげな青年の反問に、かっと昂奮した片岡は思わず拳を握りしめて、眼を怒らせ、そう云い放ったが、直ぐにぐっと自分を制した。
「はははは」と先ず大きく笑って、「云い忘れた。僕は昨日、或る処で、或る伝票を拾ったのだがね」
「それがどうしたのです」沢野は相変らず冷然と云った。
「君は余程大胆な男か、さもなければ、薄馬鹿か、そのどっちかなんだね。え、沢野君」
片岡が、沈黙の後、云い出した。
「知りません」モゾリとした調子で沢野が答える。
「君は実際よく企らんだ。此の店の複雑な事務系統を精密に研究して、一番発覚の危険の少ない、いや、ちょっとした認印一個を偽造すれば、殆ど全然発覚の危険が無いという方法を選んで、うまうまと僕の年俸の二倍もの金を手に入れたのだ! 実にどうも凄い腕だ。君がどうしてあの印を偽造したかなどと云う事は聞く方が恥ずかしくなるからやめよう。で、沢野君、君はどうするつもりだ――それを聞こう」
然し沢野は貝のように唇を閉ざしている。
「それを聞こうじゃないか――君はすでに昨日、書類の一部を紛失した――にも関わらず今日平気で出勤している処を見ると、何か君には考えがあるのだろう――それを聞かせて貰おうじやないか」沢野が眼を上げた。
「それよりも、部長さんのお考えを聞かせて頂きたいのです」
「なに!」片岡が唸るように云った。
互いに沈黙の数分が経った。
今日も晴れている事は、金網を張った窓の外の眺めでうなずかれるが、密閉した部屋の中はデパートの大玄関とも思われない静けさである。窓外を、自動車の屋根が音もなく通って行く。
「ふん。そうか――」片岡が独語のように云った。「此方の出よう次第で、態度を決めようと云うのだね。では、僕の考えを聞かせるとしよう」そう云いながら片岡は、卓子の引出しから黒い表紙の紙挟みを取出した。そして、云った。
「君には少しばかり驚かせて済まないがね、僕は此の不正事件には眼をつぶっていようと思うのだ――」
「――」沢野の唇がちょいと開きかけて、直ぐに又閉じられた。
「云いたい事があるなら遠慮なく云ったらどうだね。――僕の云いたい事は、これだけなのだ。不問に附する――」
「どうして、そんなに寛大なのです? 僕にはまるで合点が行きかねますが――」静かな調子で沢野が云った。
「寛大? ははははは違うよ。僕は寧ろ小心翼々と云った方なのだ。君は君自身の事ばかり考えているから、そんな妙な質問をするのだ――僕の身をも少し考えて見たらどうかね――接待部長としての片岡は、昨日、たった一人のエスカレーター係員の過失のために――明かに過失だ! 子供が靴の先を挟み込まれる迄、奴は何処へ眼をやって居たのだ――部下の過失のために、僕と云う人間は、散々部長会議で油をしばられたのだ。
取締役達は苦い顔をする。三千円と云う見舞費が支出される。始末書こそ取られなかったが、僕は入店して以来始めて此の名の上に不名誉を塗附けられたのだ。そこへ持って来て、又々部下が不正行為を働いて数万円の大穴を明けたと云う事が知れたら、無論僕は部下監督不行届と云う名目のもとに、部長の椅子を取上げられるか、罰俸処分に遭うか、どっちにしろ、昨日の恥の上塗りをやって、僕と云う男は失脚してしまわねばならんのだ――解ったかね。君」
「――」
「寧ろ僕は昨日、女事務員からあの伝票を受け取った時以来、青くなって、君のやった事が、どの程度まで完全に遂行され、どの程度迄巧みに調査部の眼をくぐっているかと云うことを、熱心に調べ、その周到なやり口を見てほっとしたくらいなのだ。――で、此の事件は、僕さえが口外しなかったならば闇から闇へ葬り去る事が出来るのだ」
「――」
「沢野君! 大抵これで解ったろうね。くり返して云うがエスカレーター係りの男も、まだまだ前途多幸な身体なのだ。僕の主義として、人の罪を罰すると云う事は――まして君達青年を厳罰すると云う事は、成るべくやらん事にしてあるのだ。僕は、人間がどのくらいにまで生き抜いて行く事が出来るか、と云う事に興味を持っている! 悪事をせよとは云わん! ただ、君達青年が全身的に飛躍してだね、力いっぱいにその生涯を生き抜いて行くのを見てるのが愉快なのだ」
沢野は、まじまじと部長のこわばった頬と鬚と鼻眼鏡の奥に光る瞳とをみつめた。思いがけない部長の風格の一端を、今初めてかれは知ったのである。かれが日頃抱いている心持の一部を、此の部長は訳もなく吐露したのだ。片岡部長は素早く、その表情の動きを見てとって、
「君のことだ。比の僕の言葉を解ってくれる事と思う。では、片岡は一切を知らなかった事にしよう」
沢野はやっと虚勢の仮面を取外ずし、低い声で云った「感謝します――」
「おっととまだ少し早いのだ――」と、片岡が、冷めたく云った。そして紙扶みの中から、便箋を取り出して、更に冷ややかな調子で云ったのである。「若し、どんな事で、君が此の片岡をやり込めないとも限らんからね。僕はそうした場合の自己防衛の為に、今君に是非やって置いて貰いたい事があるのだ。――」
沢野は、はっとして、宛ら心中を見透かされた人の様に、惑乱と狼狽にみちた眼で、片岡の顔を注視し乍ら、口を挟んだ。
「何です! それは?」
「告白状さ」片岡が答えた「万年筆を用意し給え!」沢野の眼がチラチラとまたたいた。激しい反感と憎悪に充ちた眼が。
七 私用外出
東亜デパートが、総価格六万円に達する宝石入指輪盗難事件に遭遇したのは、それから間も無いことである。
その日――詳わしく云えばエスカレーター事件の日から六日目、木曜日の午後、接待部長室では片岡と沢野と松本とが、新しく印刷された東亜パンフレットを華客の家庭へ郵送するために、せっせと、包装、上書き、切手の貼附などをやっていた。
片岡は部長として、こんな仕事をやる必要はなかったのだが、ドアボーイに手伝わせると、かれらがどんなに非能率的にやるかという事を知っていたので、わざわざ監督のために、ぎごちない手附で青いハトロン紙にのりをつけ、包装をやっているのである。山と積まれた郵便物の宛名を、華客芳名録と首っぴきで、書いて行くのは沢野の役目だった。そばから切手を貼って行くのは松本の仕事だった。松本は従って一番簡単な役を引受けたのだが、その代り市内十五区を一区一区分けて、整然と積む事に努力した。
沢野は黙々として壁へ向いた卓子に寄りかかって、ペンを走らせていた。が、実は青いハトロン封筒に宛名を書いているのではなく、真白な角型の洋封筒の表へ、書いているのである。
丸の内東京ステイションホテル三十八号室、マダム・F・グリーヌ様。
「――僕は今夜宿直だからね」と片岡が云った。
「ああ、そうですか。それは、どうも――」
と松本。
「悪いことに、今度の土曜日には順番が廻って来たのだが真逆接待部長がいくら『直明け』でも、日曜には休めないしね。――だから二曰くり上げて今日やることにした。明日なら金曜日で、僕が休んでもかまわんと思う」
東亜デパートの規則として、宿直の翌日は一日、慰労休暇が与えられるのである。
そこへ、扉が開いて、売場の喧騒が、わあんとばかりに聞えてきた。
「何かね?」と片岡が眼鏡を光らせる。
「いえ、沢野さんにお電話です」
と、ボーイが云った。
「有難う」沢野はすっと椅子から立上って、出て行った。
「――此頃、あのお客はちっとも姿を見せない様だね」片岡がふと気がついたように云った。
「マダム・グリーヌですか」松本が要領良くそう答える。
「うむ、その人さ。何と云ったのかね?」
「マダム・グリーヌ――」
「あれは、そもそもどう云う女なのかな。松本君。――君の事だ。知っていたら教えて呉れ給え」
然し、松本は微笑して、答えなかった。
片岡はむっつりと黙った。
五分程して沢野が、別段変った態度も見せず帰って来た。部長の方に背を向けて卓子に就くと、上衣のかくしから白い洋封を出して、ちょいと考え迷う風だったが又そのままかくしに納めた。「五時から学校の先輩の送別会がありますので――」
――午後四時。片岡部長は沢野の「私用外出伝票」に認印を押した。
五月の空は晴れ渡り、電車は砂塵を立てて疾駆していた。茶の背広に、薄色の中折れの沢野は、笑ましげにその光景を眺め、ステッキを振り乍ら、銀座方面へ歩いて行った。
その後姿には、一週間前に危うく、刑に問われそうになった人らしい処は、少しも見られなかった。
八 その夜の宿直室
流石帝都商業の中心地と誇る京橋商店街も、夜十一時を過ぎては、云い合わせたようにショウウインドウのカアテンを引きおろし、或は鉄扉を引き下ろし、二階三階の窓の燈火も一つ消え二つ消えて、あとにはただ街路樹だけが時折吹き過ぎる風に、さわさわと葉音を立てて囁やき交すだけである。
銀座を引きあげた夜店商人の群が野卑な高声をひびかせて、ガラガラ車を引いて行くのがひとしきり、そして、カフェだけが、コンクリートの舗道に黄色い燈火の帯をひろげ、植木鉢の影から夜曲のメロディーが流れる――
鉄骨九層棲の東亜デパートも昼の華やかさは何処へやら、窓と云う窓の燈火は消えて、屹然と建った様は、うら寂びしい感じがする。
東亜デパートは本館と別館と二つの建物から成っていて本館の宿直は店員に依ってなされ、別館の宿直は警備員によってなされるのである。
――今、本館宿直室の時計は十一時二十分を指している。
「――帰って来たようだ――」
正面の大卓子に寄りかかって、最前から新聞を見るともなしに見ていた宿直長は、突然そう云って顔を上げた。髪の毛をくしゃくしゃにして、頬にも顎にも無性鬚が大分の長さに伸びているのはかれが決して華客を直接に取扱う店員でないことの証明で、計算部の主任堀田と云う男である。
かれは猫の様に耳を澄ませた.
「――ね、帰って来た様だ――」
と、かれはくり返した。
「――堀田さんは耳がいいんですな」と、隣りの卓子に居る宿直副長の柳瀬と云う老人が云った。「私には何の音も、聞えない――」
「――貴方は耳がどうかしているんだ」
堀田はそう云って、憐れむような眼で、相手を見返した。その老人は早や口鬚も頭髪も白くなりかけていたが、いまだに洋食器部の部長格で、十も若い堀田主任よりは一段、地位が低いのである。
今、宿直室に起きているものと云っては、その二人だけで、後の八人の宿直員と五人の少年店員とは、後の寝室で昼の疲れにぐっすりと死んだようになって眠っているのだ。かれらは、店が閉められ、店員が帰って行った後に起こる、宵の中の雑多な用務に追い使われるが、十時には寝室に入る事を許されるのである。
「――そら、帰って来た――」と堀田が云った。
左手の、本館出入口の重い扉が開いて、二人の男が入って来た。
一人は警備員、一人は鼻眼鏡の片岡接待部長である。二人とも手に角燈を持っていたが、堀田の卓子の上へ置くと同時に、自動的にさっと黄色い燈が消えた。
「どうでした?」と堀田が見上げる。
「異常ありません」と片岡が答える。
堀田は、分厚な宿直日誌を開いて、「午後十一時第四回巡視」と印刷された活字の下へ「異常なし、片岡、山崎」と書入れた。副長の片岡と、警備員の山崎とが、捺印した。二人は人気の無い、ガランとした、空洞の様な鉄骨九層樓の建物中を、昇降機も使わないで、巡視して来たのである。
「では片岡君、遠慮なく寝み給え」
鍵束を受取ると、宿直長の堀田が笑い乍ら云った。
「何だか、諸君がこうして起きているのに、僕一人寝るなんて、極まりが悪いね」
片岡が側らの椅子へ腰を下ろしながら云った。
「『宿直長及ビ宿直副長ハ十一時以後二於テ交互ニ二時間宛睡眠スルコトヲ得』とあるよ。寝なけりゃいかん。麻酔剤を嗅いでも寝なけりゃいかんよ。はっはっはつ」
「羨ましいね、片岡さん」と、堀田につづいて、柳瀬老人が童顔を崩した「その代り一時になったら用捨なく叩き起しますよ」
「では、失礼するかな」
片岡は「宿直長及び副長用寝室」へ入った。
一般宿直員の寝室とは違って、シングルベッド一台だけの小綺麗な狭い部屋で、元、物置だったのを改造したのである。だから奥に扉があり売場へつづいているが、厳重に錠が下りている。
――警備員は寝る事を許されない規則なので、隅の椅子に腰を下ろし、講談本をかたわらの棚から取り上げた。
風の余り無いらしい、暑からず寒からずの、五月の夜であった。遠方で電車の疾って行く音が聞える。自動車の警笛も時々聞える。次第にそれがまばらになる。
「山のふもとには、小さな河添いの村があって、毎朝毎朝、河からは真白な霧が立昇っていた――」
いつか警備員が、はっきり聞き取れる程の声を出して講談本を読んでいた。
「山のふもとには小さな河添いの村があって――か、変だな――」堀田が笑い乍ら、独語の様に呟やいた。「山のふもとには小さな河添いの村があつて――か――」
九 大盗難事件突発
十五分経った。
「どうもやり切れん――」
堀田はもう、隅から隅まで読み切ってしまつた筈の新聞を、うるさそうに、わきへ押しやった。するとその下に懐中時計がコチコチ音を立てていた。
堀田は「おや?」と云い乍ら、手に取って見た。「柳瀬君。これは?」
きせるを出してすぱすばやっていた柳瀬老人は、羊の様な細い眼でそれを見ると、
「片岡さんのですよ」と、事も無げに云った。
「片岡君の懐中時計が、どうして此処にあるのかしら」
「さっき貴方が巡視に行った時、片岡さんがそこに居ましたからな」
堀田は立上った。
「じゃ、片岡君に返して置こう」
二言三言寝室の中で話声が聞えていたが、やがて堀田が「はっはっはっ、怒るな、怒るな」と云い乍ら出て来た。「流石は接待部長だね――片岡君は西班牙語で寝語を云ってたぜ」
そうして、又十五分程沈黙の世界がつづいた。
「おや……あれは何だ?」
突然堀田が、叫んで椅子から腰を上げた。
柳瀬老人と警備員が顔を上げた。
「――何か、音がしたじゃないか」
堀田はつかつかと正面の店員入口の扉の処へ歩き寄った。そして扉を開け、半身乗り出して外の闇を見ていたが、素早く引返して来た。
「どうしたんです」本から眼をはなした警備員が聞いた。
「あの扉に誰かが手を触れたような音が聞えたのでね」
そう云って堀田は手に持った小さな白い紙片を見た。
「何んです? それは?」
堀田は答えなかった。じっと太い眉を寄せてその紙片を睨んでいたが、やがて今までとは、打って変わった低い声で、そっと云った。
「君は此う云うものを、どう解釈するね。……あの扉の下に落ちていたのだが――」
刑事は静かに、講談本をわきへ押して、堀田の手から紙片を受取った。顔の角張った、猛獣のように下顎のしっかりした男だったが、それが八の字に眉を寄せて、ゆっくり立上ったのを見ると、柳瀬老人も腰を浮かし始めないでは居られなかった。
「何んでもないような気がするが、君はどうするかね」堀田が不安らしく云って、警備員の顔を見つめた。
「御命令を仰ぎます」
と前京橋署詰刑事が胸を張るようにして云った。「地下室を巡視して来ますから」
「柳瀬君一緒に、鳥渡行って見て呉れ給へ――」
柳瀬老人は白い紙片を見た。ノートブックからでも引き裂いたらしく罫の入った紙だったが、それにこう書かれてあった。
あなたがたが地下室を注意するならば驚くべき何物かを発見することでしょう――警告
「うむ。ただごとではなさそうだ!」
老人は、鍵箱を開けて、一束の鍵を取出し、角燈を持って、右手の地下室昇降口に通ずる扉を開け、刑事の先に立って、コンクリートの階段を降りて行った。
――然し、柳瀬老人の呟やきは幸いにも事実の反映ではなかった。――地下室の店員食堂にも商品倉庫にも、店員下駄箱がずらりと並んだ地下道にも格別何の変事も発見されなかった。電気室には徹夜の技手達がいたが、二人の姿を見ると、汚れた手を振って言下に否定した。
「直長さんに云って下さい。変った事があったら、此方からお知らせいたしますって」
同じ地下室でも、売場とは鉄扉で遮断されているので一度宿直室へ戻るより外になかった。
「売場の方へ行って見なければなりませんな」
刑事が云った。角燈の光りがユラユラ揺れて、地下道の壁へ様々な奇怪な影を投げつけた。
「誰かの悪戯かと思うがねえ」
柳瀬が気の無さそうな調子で云った。
「売場の地下室の事を差して書いたのですな――われわれは習慣で、つい地下室と云うと此方へ降りて来てしまったのだが――」
刑事が、相手の気持などは考えずに生真面目で云った。周囲の壁へそれが反響して、眼に見えない人物がその言葉に真似をして云っているような気がする――
二人が階段を上り、宿直室の扉を開けた時に、時計が重々しくボーン、ボーンと鳴っていた。
堀田が突立ったままそれを見上げて居た。
「十二時だ!――」かれが振り返り乍ら、鋭い眼で云った。
「どうだったね」
「異常なしです」柳瀬が云った。
「あれは売場の地下室の事じゃないでしょうか?」刑事が云った。
「今度の巡視は僕の番だったね」堀田が云った「宜ろしい。特に地下室から見廻ってやろう?」
「それがいいです!」刑事が云った。
二人は角燈を持って、左手の本館出入口の扉から入って行った。
柳瀬老人は直長席へ腰を落付け、しなびた手できせるを出し乍ら、呟やいた。
「――若い者は――」
――それから十五分経つか経たない中に、突然、宿直室備えつけの十個の電話の中、どれか一つの電鈴が、激しく鳴り響いた。
「!」
柳瀬老人がジロリと見やると、三番目の電話機の上に赤い豆電気が、ポッと点いていた。「売場」と、そのわきの木札には白エナメルで書いてある。
柳瀬老人はぼいときせるをすてて立上った。
受話器を外して耳に当てると、赤い豆電気が消え、堀田の明瞭な声が伝わって来た。
「……君は柳瀬君だね!……即刻、宿直員全員を叩き起して呉れ!……警備部員非番当番全員の召集!……えッ! うん……貴金属部のショウケイスが空虚になっている!……」
十 目醒ましき活動
柳瀬老人が、受話器を置くのと殆ど同時に、正面の店員出入口の扉に黒い人影が動いた。
売場からの直通電話によって、早くも事件の総てを知り、警備命令を受けた別館の警備員が五人、雪崩込んで来たのである。
何れも詰襟の制服を着ているかれらは、多く口数をきかなかった。
かれらの一人は既に昇降機の運転開始を命令する釦に手を触れていたし、一人は地下室昇降口に佇立して警備の第一線に立ち、残る一人は本館出入口に佇立して、手の甲を擦っていた。これで完全に犯人の退路を絶った訳である。
その間に、老人は二つの宿直員の寝室の扉を開け、古武士の様な厳とした声で「起きろ!」と声高に命令した後、中央の宿直長席に就いた。
次の瞬間には警備員が更に二人現れて、昇降機の前に突進した。
地下室に降りていた昇降機に、パッと五燭燈が点燈って、電動機が継続された事を示し、やがて油に汚れた作業服のままの電気室技手を乗せた鋼鉄の部屋が、電動機の廻転する音と共に昇って来た。
「四階貴金属部!」
どやどやっと乗り込んだ先頭の男がただ一言そう云っただけである。
「起きろ!」と云う、乱暴な柳瀬の声を聞いた片岡は、ベッドから飛び降りて、壁から上衣を取り、片袖通し乍ら、開け放なたれた寝室から出た。
隣室の宿直員も二人四人と起出て来て、柳瀬老人から次の事を云い聞かされた。
「命令以外に勝手な行動を取ってはならぬ事」
そして五分間経った時昇降機が降りて来て、堀田直長と一人の警備員が飛び出した。
堀田は直ぐに宿直員を二人呼んで、電話機の前へ立たせ、側らの壁面に貼出されている数人の人名表を指で示して、
「此処と此処と此処と此処と、それから此処と此処とへ、電話を掛けて、宝石盗難事件が突発しましたから直ぐ出勤を願います、と云うのだ!」
こうして探偵細川警備部長、貴金属部主任並びに部長、営業部主任並びに部長、調査部主任並びに部長、人事課長、倉庫部長、雑貨仕入部長――そう云った直接間接に重要な関係のある職員が呼び出されたのである。電話の無い家へは、二名の少年店員が派遣された。かれらは別館の自動車隊本部へ駆けつけて、車庫の扉を押開け数十台の自転車の中から手頃の車を引きずり出し、勢一ぱいにペタルを踏んで、深夜の街上の彼方へ駆け去った――
――一方堀田と一緒に現場から戻って来た警備員は京橋警察署、警視庁その他へ電話を掛けた。
五分後、十分後、二十分後、三十分後――そして一時間後。深夜の東亜デパートの宿直室は緊張した表情の人達で埋まり、昇降機は幾度か上下した。
――屋上監視の任に当った若い刑事は、只一人屋上庭園のコンクリートの床の上を、右に歩き左に歩いた。
「素敵だ!」かれはベンチの上に飛乗り、胸いっばいに冷え冷えする夜気を吸い込んだ上で、叫んだものである。「素敵だ!――初夏の夜風! 燦爛たる星群! 屋上庭園! 草花の香い!……大東京の深夜! 府瞰! 深呼吸!……素敵だ!……そして、宝石部のショウケイスをすっからかんにしてしまった大泥棒!」
そして、その「大泥棒」は遂に発見されないで緊張の夜が明けたのである。
十一 ショウケイス
銀座裏の、とあるささやかな喫茶店
午後の七時少し前、これから銀座の夜がひらかれようと云うのだが、少し早いかして、その二階は閑散を極めていた。
窓近くの草花の鉢などをあしらった、白いカバァを掛けた食卓に、二人の男と一人の女とが伺い合っていた。ほかにはずっと離れて、大学生が二人ピールを飲んでいるだけである。
女給が持って来た夕刊には、特号活字で、その日の朝起った東亜デパートの大盗難事件の第二報を載せていた。
「新聞で読んだんじゃ、さっばり雲を掴むようで、要領を得ないが、一体正確の処どのくらい盗まれたんだね?」と、東亜デパートの接待部員松本が訊いた。
「六万円さ!」と、それに答えたのは、面長の、どう云うものか眼のふちが、絵の具をさした様に紅く、そのために凄味のある顔になつている男で、灰色の背広を着た身体はほっそりしているが、腕などを見ると、中々筋張っていて体力のあるらしい感じがする。
「あの晩僕は屋上警備に廻されたので、詳しい光景は見なかったのだが、後で部長から皆んな聞かされた」
「六万円なんて宣伝じゃないの?」と云って、その男の顔を見つめたのはタイビストの京子だった。
かの女は細い指にシガレットを支えている。
「いいえ、今度ばかりは宣伝じゃないんだ。何しろ凄い。あのショウケイスには二段硝子棚があって、皆指輪ばかり並べてあったのだそうだが、それが二段共そっくり盗まれちゃって、一番下の、つまり羅紗の敷いてある処のは手が附けてないで、そのままになっているんだ」
「それにしてもどうして、ショウケイスの扉を開けたのだろう? 合鍵を持っていたんだね?」
「処が合鍵は要らなかった。堀田さんが発見した時には、ショウケイスの天丼の硝子板が、取外してあって、わきに立て掛けてあったそうだ――どうだい。微笑を禁じ得ないだろう! ショウケイスと云う奴は扉には鍵を掛けたり、その鍵を宿直へ預けたりし乍ら、天井には種も仕掛もして無いと云う代物なんだ。ただ一枚、厚い硝子板が寸法を合わせて、載せてあるだけで、留金さえ打って無いんだ――あんなものならきみだって外せるさ」
と、眼をみはって聞いていた女の方を向いて笑った。
「――ほんとうはあたしが盗んだの。なんて嘘よ。ほほほほ」とあでやかに笑って「でもそう云えば、店のショウケイスは皆んな物騒なのね」
「他所のデパートのは大抵留金が打ってあるけれど、高が留金さ。ネジ廻し一挺用意していれば小学生にだって訳無しだ!――で、盗賊はだね、硝子板を外し、中の棚を二枚外してそれに飾ってあった宝石入指輪を全部で六十個ばかりそっくり持って行ったのだ。一番下の羅紗の上のは背が届かなかったのだろう。値段は三百円から五百円迄のやつで、貴金属の主任が台帳を調べて云うことに『被害六万円也』さ」
「正確な時間は?」と松本が訊いた。
「十一時二十分から十二時十五分迄の間に、来て、盗み、逃げたのだ、と云う事になっている。僕の方に山崎って云う堅人がいるがね。それが第四回巡視と第五回巡視との間に被害を受けた事を神掛けて証言しているんだ。その一時間の間君の方のおやじは寝ていた。柳瀬さんはたばこをのんでいた。堀田さんはあくびをしていた。山崎は本を読んでいた。――その間にまんまとやられたのだ」
「犯人は――」
「何処から入ったと云うのかい? 何処から出たと云うのかい?――どっちもはっきりしないのだ。大体、昼の中に華客の中にまぎれ込んで入って来て、倉庫か何処かに隠れて夜を待っていたものらしい。それを巡視員が不都合千万にも見落したのだろう、と云う事になっているんだが、倉庫内のトランクの中や、紙屑を入れるズック袋の中にいたら見落すのは当り前さ。
さて、それでどこから逃げたかと云うと、まるで判らないんだ。発見と同時に、目茶目茶に探し廻ったが鼠一匹出て来やしない。――最も僕は屋上で草花の香いをかいで深呼吸をしていただけだがね」
「まあ、呆れた刑事さんだこと!」と女が笑った。
「詩人だからね。屋上庭園がすっかり気に入ったと見える」
「そういえばね、松本さん。あたし、いつかあなたがお話しした沢野さんの『マダム』を見たわ。――屋上庭園で仲良く話をしているのを」と女が云い出した「あのエスカレーターのさわぎがあった日だったわ」
「鳥渡、凄い女だろう」松本がにやりと笑った。
「何だね? その『夫人』というのは?」
警備員が訊いた。
十二 詰問
此の頃東亜デパートの会議室では、今朝の盗難事件に重要な関係を持つ人々が居残って、緊張した話題を交わしていた。
次の部屋では、髪の毛を大きく波を打たせ、哲学者の様に広い額を持った三十五六の黒背広の男が堀田主任と対談している。
「――で、貴方は此の紙片を見られてから、柳瀬さんと山崎警備員とを地下室へおやりになった――そこで私がくどくお尋ねしたいのは……」
「解っている! 君の云う事は――」と、堀田主任が苛々した調子で遮った「その間に何か物音を聞かなかったか、と云うのだろう」
「そうです。或いは何者かの姿を見はしなかったか、と」男が紙片をつまぐり乍ら云う。
「何度聞いても同じだよ。君が僕に嘘を云えと云うなら此の限りではないがね」
「然し、此処が大事なのですよ。非常に!」と、男が屹と堀田の顔をみつめ乍ら、力を籠めて云う「賊は商品倉庫に隠れたのです。それは想像や理論ではなく、もう事実なのです! 四階の階段脇の家具部倉庫だ。われわれは既にそこに動かす事の出来ない証跡を発見した。――然し、盗みをした後もそこに入っていたとは断じて考えられないのです。――此の辺の事情は、私よりも貴方の方が、被害現場発見者なのだからよく御解りでしょうが」
「そう。山崎君のあの際の活躍振りは凄いものだったよ」堀田がうるさそうに云った。
「あの男は確かなのです。いつでも!――あの男の報告によると、盗難を発見してから二十分以内に売場と云う売場、倉庫と云う倉庫、事務室と云う事務室を、余す処なく捜させたが、犯人の姿を発見する事が出来なかったと云うのです」
「謎だね」
「謎と云う言葉を口にするのは、われわれの恥辱ですから」と、男は冷たく反駁して「問題は犯人が何処から逃げたか? と云うことなので――」
「だから謎さ」
「目茶は止して下さい。冗談ではありません!」
「何処かの窓から逃げたのだろう?」
「金網が張ってあります」
「然し、相手は君、その道の達人だ。何処かの出入口から――」
男が遮って、
「本館から街路への出口は総てで七つあって、表玄関と横玄関とは高さ十尺の鉄の大扉で、合鍵を持っていたとしても、此処から出たとは考えられない。仕入部と地方発送部と庶務部とは、鉄扉が下ろしてあるので、これを巻き上げるには、時間と音響とを要するのです」
「なるほど――」
「残る一つが宿直室に向いている訳です。――お解りですか。で、煎じ詰める処、どうしたって、犯人の逃げ道は一つしかないし――さもなければ……」
「さもなければ」
「遺憾乍ら宿直員の行為を疑わなければなりません」
「えッ! 君は、君は何を飛んでもない事を放言するのだ! 無礼な!」堀田はくしゃくしゃの頭髪を振り立てて云った「宿直員の名誉のために、柳瀬君と片岡君と僕の名誉のために、君の失言を即刻取消し給え!」
「さあ、それは兎も角もとして、もう一度お訊ねします。柳瀬さんと山崎君とが地下室へ行っている間に、貴方は事実何事も何ものも見も聞きもしなかったですか」
「知らん!」
「堀田さん。偽証罪として告発しますぞ」
広い額の男が、どんと卓子を叩いて云った。
「何! なんだって」
「貴方はあの時たった一人だと思って、そう剛情をお張りになるのかも知れないが、ちゃんと総てを見ていた者があるのを知らないらしい!」
「誰だ! それは?」
「片岡副長ですよ」
「えツ! 片岡が……君にしゃべってしまったのか!……ああやっぱり」
突然、堀田は顔色を変えて、そうしたきれぎれの言葉を口走った。
「お気の毒です! 一人の男が合鍵を使って本館出入口の扉を開けて出て来たのを、貴方がむざむざと通過させて、外へ逃がしてしまったのだ! 片岡さんは寝室の扉の隙間からはっきりと見ていたのです。……あの人は、今迄貴方が云い出すだろうと心待ちに待っていたのだが、依然として沈黙を守っているので、とうとう堪まらなくなって、今から一時間前に私にすっかり話したのです」
警備部長細川がそう云って、惑乱し切った堀田主任を見下ろした。
十三 小さな拳銃
翌日の午前、片岡部長は規定の休暇を拒絶して、出勤していた。ふと顔を上げると、細川の姿が見えたので、直ぐ事務室へ通して、云った。
「どうだった、君」
「訳無してしたよ。貴方の名を出したら直ぐに白状してしまいました」と、快活に細川が云った。
「実際、何とも僕は君に対して申訳が無い。僕があの晩直ぐに君達に云えば、宜かったのだ。捜査の方針を誤まらしたのも遅らせたのも皆な僕の罪だ。済まんことをした」
面目無げに声を落して片岡が云った。
「いいえ、一日や二日捜査の手が遅れても大した事はありませんよ。私の探偵方針はいつも初めから全然常識本意て進めて行くだけです。超自然的な事は絶対に考えないのです」
――片岡は、顔を伏せ乍ら云い出した。
「どうも寝附かれなくって――それに途中でやっとうとうとしかけた時に、堀田君が出し抜けに時計なんか持って入って来たしね――で、僕は一と思いに起きて無駄話でもした方がましだと思ったのだ。その時さ、こう妙に宿直室がしいんとしているのだ! まるで誰も居ない様なのだ。
僕は何んとなくぞっとしてね、そっと扉を細目に開けて覗いたのだ。
すると、堀田君が時計の柱の真下へ棒立ちになって、真蒼な顔をしている。その前をだね。そいつが通ったのだ。――僕が覗く一瞬間前に、左手の扉口から出て来たらしい。とにかくはッと僕が思う間に、堀田君を睨み乍ら外へ出て行ってしまったのだ」片岡はその時の事を思い出し乍ら云った「怖ろしい奴だ! 僕にはよく聞えなかったのだが、堀田君に何か云ったらしかった……」
「黒い布で覆面をしていたそうです。『騒ぐな! お前には迷惑が掛らないようにしてある。俺の事を一言もしゃべらなけりゃいいのだ!』とそう云ったそうです」
「え! そんな事を云ったのか。だから、堀田君はあんなに黙っていたのだね」
「まあ、犯人の計画は九分通りうまく運んだのです。あの妙な紙片を入口の扉の下へ落して置いたのは、多分共犯者の仕事で無論宿直員を遠ざける為だったのですよ。で、宿直の二人はお誂らえ通り、地下室へ行く。そこをすっかり仕事をすませて来た犯人が、本館出入口の扉の直ぐ後で見ていて、時分はよしとばかりに出て来たのです。手に拳銃を持って!」
「ほう! 拳銃を持ってたのか――」
驚いて片岡が云った。
「堀田さんはそう云いましたよ。何でも型が非常に小さかったが、どっしりと重そうで決して玩具らしくはなかったそうです」微笑を浮べて細川が云った。
「女持ちの拳銃だ――」片岡が云った。
「私もそう思うのです。そしてこれが新しい手掛かりになりそうなのです。――その点に就いては、此の店へ来る外人客に充分精通していらっしゃる貴方に色々お尋ねさして戴きます――とにかく犯人の云った短い言葉は真理をふくんでいるのです! 全く、貴方と云う目撃者さえなかったら、そして堀田さんが沈黙していたら、此の事件はそれこそ雲のように掴み処がないのです。
然し、もう、大丈夫だ! 貴方が奴の後姿を見ている。堀田さんが声を聞き、拳銃を見て居る。白い紙片は保管してある。犯行前の奴の隠れ場所も発見されている。――これだけの事から努力をすれば、必ずそいつの足跡を探し当てる事が出来るにちがいない」
片岡が静かな調子で云った。
「どうぞ、宜しく頼みます――君も御存じの通り此の店では一にも責任、二にも責任なのだからね、当夜の宿直の任に当ったものは実際、罪も無いのにひどい目に遭わなければならんのだ。今頃だって人事課では寄ってたかって、誰を始末書にしようとか、誰を罰俸にしようとか、譴責処分にしようとか、怖ろしい事を相談しているにきまっているさ! はははは、人間何よりも今日の生活が、生命よりも大事だからね。
可愛そうに。堀田君は、一晩の内に、その生命と生活と両方を取られそうになったんで、いささか血迷ったのだろう。事件を余りはっきりさせたくなかったんだ。――僕からお願いするがね。人事課へ行っても、余りはっきり云わない様にして呉れ給え。頼む!」
「承知しました」呑み込んだと云うように、細川は眼を大きくしてうなずいて「人事課と云えば、もう直ぐに私の手元へ、部下が報告を持って来てくれる事になってるのです」
「ほう! どんな――」
「一昨日、つまり被害前日出勤しなかった者、それから出勤しても中途から外出したに就いての人名調査です。――それはそうと」細川は探るような眼付きで、「あの人は居ませんかね」
「誰です……」
「そら、あの、色の白い好男子の若い先生。――そうそう沢野君って云いましたか」
「あの男は……」片岡部長は、ぐつと詰ったが、やがて低い声で云った「昨日も今日も欠勤しているので……」
十四 デパートを去る人々
午後。――昨日の夜以来、別人のように憂鬱になり、部員や同輩をはらはらさせていた計算部の堀田主任は、とうとう人事課長宛に辞表を提出した。理由は、無論今回の盗難事件に関係しているので、その一つは、宿直長としての自分の職責が充分に尽されていなかった為に、倉庫内に隠れて居た犯人を発見する事が出来ず、遂に大盗難事件を惹起して、株式会社東亜デパートに莫大な損害を蒙らしめたこと、今一つは事件発生後に於いて、私情の為に、虚偽の証言をなし、警備部をして、最も重大なる最初の捜査方針を誤まらしめたこと
――云々とあった。一徹な人物に特有な右上りの文字で墨痕鮮やかに書かれていた。
職員懲罰規則を吟味して、しきりに審理をすすめて居た人事課では、此の辞表を見て、先手を打たれた形で、唖然としたが、直ちに人事課長は警備部の細川部長を呼び出した。その結果総てが証明されたので全主任部長会議を召集する事になった。
その席上では「巡視」の事実が問題になった。何れも宿直長や副長をやる人達ばかりなので、堀田主任が各階の倉庫の中を極めてあっさりと見たままで、通り過ぎた事を、深く咎めようとはしなかった。慣例で、大抵皆んな其の程度の巡視をやって済ましていたからである。
「より完全な巡視をせよと云うなら、もっと人数を増して貰わなけりゃならん」と云う様な問題に迄進んだりなどして、大体に於いて堀田主任に同情が集まっていた。
が、「私情の為に虚偽の証言をなし」云々の審議の段に来ると、流石に皆んなは眉を寄せた――
――結局、相当な譴責処分なり罰俸処分なりにすべきではあるが、職を辞する程の事でもあるまい、と云う様な事になったのだが、本人の堀田主任は頑として辞意をひるがえさなかった――
柳瀬食器部長、片岡接待部長は、それぞれ職務怠慢の科で譴責処分を受けた。
が、さきにエスカレーター事件で気を悪くさせられ、一週間後に又もそうした不快な眼に遭った「弱り目に祟り目」の片岡接待部長は、堀田主任と殆ど同文の辞表を叩き付けて、前後して東亜デパートメント・ストアから姿を消してしまったのである。
世は青葉に包まれ、都の空をそうそうたる夏近い風が吹き過ぎる時、東亜デパートの華麗な大玄関には、新しく転任した坂田という紳士が接待部長の威容を誇っていた――
その間にあって、細川警備部長は部下を督励してたった一人の男を追っていたのである。
接待部員沢野慎二郎
――細川の手帳には大きく明瞭にそう書いてあった。
十五 狂想曲
細川警備部長が、接待部員沢野と云う名に興味を覚えるようになったのは、全くの偶然と云うより外はなかった。
犯人の様々な、てきぱきした行動から推察して、その男が驚く程店内の事情に精通して居る者、即ち店内勤務者の仕業か、又はそれの指図を受けた者に違いないと云う事は、容易に考えられたのだが、犯行前に、果して店内の何処に隠れていたものであるか、と云う事の捜査は、中々思わしく行かなかった。二十三人の部下を督励して、徹底的に各売場事務室倉庫等を捜査させたが、これはと思う証跡一つ発見する事が出来なかったのである。
然し、それが如何にも発見出来たかの様に公言して、無理に告白させた堀田の証言により、犯人が拳銃を所持していた事が判明した時、細川は急に東亜デパートに関係ある総ての外人客を調査する必要を感じた。折も折、かれは一人の部下から、マダム・グリーヌと沢野接待員の噂を聞かせられたのだった。その部員はたった今、銀座裏のカフェで、接待部員の松本と云う男から聞き込んで来たばかりだと云った。細川は、ある矛盾を感じた。
「自分の部長が宿直の当夜、わざわざ盗みをやろうというのは、部員として少し変な行動だと思わないかね?」
「然し、わざわざやると云う事も、考えられないことはありませんね」とその男が云った「それに沢野は、余り片岡部長に好感を持っていないらしい、と松本が云うのです。それに覆面をしていたことも考えますと――」
「沢野が、故意に片岡部長を、責任問題の渦中に投げ入れる目的でやった、と云うんだね。――うむ、悪くない考えだ。明日の朝、片岡部長に会ってそれとなく聞いて見る事にしよう」
こうして、細川は接待部へ片岡を訪ねて行ったのである。
その結果、沢野が、事件の前日の午後四時私用外出をしたこと、そのまま無届で欠勤をつづけている事などを知り、細川は急に緊張し始めた。――然し、片岡は、沢野から格別反感を買う理由などは思い当らないと答え、その夜の男の後姿は、咄嗟の事で、それが沢野に似ていたかどうかは断言出来ないと答えた。
「沢野君の所持品が入れてあるというような処は?」
「その卓子の抽斗です」
片岡が壁際を指差して云った。
「調べて見ようと思いますが?」
「それは少し、乱暴ではないかね」と片岡が眉を寄せた。
「権利がありますよ!」と細川が云った「無届欠勤者は此の店の店則では、甚だ香んばしくないのですから」
合鍵を持って来させて、開けて見た結果、数通の沢野宛の仏蘭西文の手紙を発見した。片岡部長が厭々それを翻訳して読み上げると、細川は眼を輝かせたが、片岡の顔ははなはだしく曇った。
「こりゃあいけない」とかれは嘆息した「これは華客と店員との間に交わすべき手紙ではない。――細川君。僕の負けだ! 存分に此の青年の行為を調べて見て呉れ給え――」
どれもこれも情熱に爛れた恋の手紙だったのだ。
細川は意気昂然と引返して、更に部下を連れて本郷弥生町のかれの借りている部屋を訪ねた。そこでも同様の手紙を数通発見した。いずれも、若い男を悩殺させずには置かないような文字の羅列だった。それらの手紙によって、かれらが相携さえて、本牧、軽井沢等の遊覧地を旅行した事が解った。
更に重大な発見は、青色の入金伝票の発見だった。行李の底から出て来た偽造の金銭受領印は細川の眼をギロリと光らせた。忽ち三万円に近い不正行為が暴露した。
丸の内の東京ステインョン・ホテル三十八号室が調べられた。果せるかな部屋は取片づけられ、手掛かりとなる何ものも無く、部屋の主は、事件発生前日、朝から外出したきり、全然姿を見せないとの事だった。一人のボーイは、かの女が護身用として小さな拳銃を所持しているのを見た事があると証言した。
「部長!」
事件発生後の四日目の午後、細川警備部長が地下室の店員食堂から、別館の警備部へ戻って来ると、一人の部員が、こう云って立上った。手に何やら報告書の様な紙片を持っている。
「何だ」
「沢野の居処が解りました」
「宜し。女は?」
「一緒です」
「更に宜し。何処だ」
「軽井沢の英人の別荘です」
「直ぐ行って呉れ」
「ところが余り気乗りがしないので――」
「不思議だね」
「自殺しちゃったんで――」
細川は報告書を見乍ら、
「確りしろ。違うぞ! 男と女が死んだ時には心中というのだ」
「男が女を殺して、それから自殺したのです」
「無理心中さ」
細川部長はひどく興ざめた顔をして椅子に腰を下ろした。
「やれやれこれが落ちか! 沢野! 俺はまだまだお前に聞きたい事があるんだにな。――あの晩何処へ隠れていたのだ!……白い紙片を宿直室の入口に落して行ったのは誰なのか!……宝石指輪は皆んな俺に返して呉れるだろうな!……それとも隠し場所に困って海の中へでも投込みはしないか! 俺はそれが心配なんだ――」
十六 奸計
六月に入ると、毎年の店則で、東亜デパートでは午後九時迄の夜間営業を開始した。
軽快な夏服の若者たちは、ストローハットをななめにかむって、薄物をまとった美女達を連れ、赤、青、紫の色電燈で飾り立てた、屋上庭園を散策した。初夏の夜風ははたはたと高塔の気象報知機を波打たせ、若者のネクタイを吹きなびかせ、間の中の女のハンカチを白く動かせた。
眼下に広く大東京は黒々と横たわり、新聞社や劇場は強烈な照明燈を受けて、くっきりと浮き出して見えた。銀座街は直ぐ近くに光の帯を延べ、はるかの空の広告燈は宛ら巨大な首飾と見られた。
そして、色電気に頬を染めた若人たちは、互いに、直ぐ足の下の建物の四階宝石売場に起った盗難事件と、それの結末とを語る者が多かった。
何故なら、眉目美わしい接待係りの青年が、謎の仏蘭西女と狂わしい恋に陥ち、単身拳銃を握って巨額の宝石指輪を奪取し、然かも軽井沢の外人別荘で女を射殺して自殺を遂げた、といういきさつは、かれらの探偵趣味にとって申分の無い贈り物だったからである。
「――然し君」とベンチに腰かけた一団の中の一人が云った、
「犯した罪を侮いた遺書が一通に、宝石指輪が十一個、現金四千円を残して敢えなくなった、われらの沢野君の事を考えると、何ともいえず寂しくなるね。いくら色彩が華やかであり、事件がロマンチックであっても、死そのものは、いつも厳粛で、憂鬱で、絶望だからね」
「あら接待の松本さんじゃなくって?」
薄闇の中からこう、とんきょうな声をかけたのは、タイピストの京子だった。いつもの紫色の事務服は着ていなかった。
「しっ!」松本が云った。「よして呉れ。僕は今日は休暇だよ。その証拠には帽子をかぶっているからね」
かれの周囲にいた一人の女と二人の男が笑い合った。
「あれから、片岡さんに会って?」
京子が聞いた。
「会わないよ。あのおやじも可愛そうにな。堀田さんの短気の真似なんかしないで、平気でいりゃ良かったんだ。今頃は何処かへ隠遁してしまったろう」
「でも、たった今電車通りで自動車に乗って通ったわよ。タクシイでしたけど」
「ほう、そうかい」松本はやや驚いた様に云った。
「堀田さんと一緒のようだったわ。綺麗に鬚をそってしまったけど、堀田さんらしかったわ」
「同病相憐れむかね」松本は立上り乍ら「で、きみは何の用で外出したんだね」
「あたし、今日休暇なの」と京子が云って、明るく笑った。「此の御召物が見えないの?」
堀田と片岡はタクシイに揺られつつ、深々と並び合ってクッションに身を埋めていた。
窓硝子の外を、同じ速力の電車が轟々と音を立て乍ら疾っていた。
「カーテンを降ろそうじゃないか」
綺麗に鬚をそり落して見違えるような紳士に若返った堀田が云った。
「構わんさ」片岡が云った「誰にでも見せるさ。安心し給え。世間にはぼんくら連中がうようよしているんだ。誰一人だって此の二人が宝石盗賊だと思ってはいはしない」
「二人? いや厳密に云えば一人だ。僕は徹頭徹尾君の命令に従っただけなんだ。実際、君は素晴らしい度胸のある、頭脳のある、企画家だ。僕などは足元にも及ばない――」
片岡は上衣のポケットから素敵な葉巻を一本取り出して噛み切った。
「そう謙遜するにも及ばないさ」とかれが、運転手に聞こえない程度の低い声で云った。「寧ろ芝居が上手な事に於いては、君の方がずっと素晴らしいじゃないか。――僕が寝室の裏から抜け出して仕事をしている間に、一人二役をやって完全無比な現場不在証明を仕上げて呉れたのは誰だね! ポケットから出した紙片で、二人のでくの棒を追払ったのは誰だね! 『小さな女持の拳銃を持った男』をつくり上げて細川を喜ばしたのは誰だね!」
「あれは合作というやつさ」堀田が微笑み乍ら云った「君と二人ででっち上げた人形だ。だが人形にされたやつは気の毒だて。あ、それはそうと、僕は昨日細川に会ってやったがね。先生の遺書に就いては毛筋一本の疑いも持っていなかったぜ」
「当然さ」と片岡が誇らしげに云った「僕はあの女に頼んで、沢野の青二歳を誘惑させようと考えついた時からあの文案を考えて置いて、此の僕の目の前で書かせたんだからね。生きているうちの告白状と死ぬ間際の遺言状との違いを発見出来る人があったら、お目にかかろう。……難かしいのは遺言状でなくて、自殺と見せかける仕事の方だった」
堀田はその顔を見乍ら、
「――然し、君は、あの女に未練はないかね。徹頭徹尾君の指図通りうまくやって呉れたのだがな。君だって幾らか手こずり気味だったあの男を、あの女は申し分なく恐喝して、君の来るのを待っていたのだろうが、よもや、君に殺されようとは思っていなかったろう――」
片岡はせせら笑って、
「何のあいつが! あの女は、まかり間違えば君や僕を刑務所にぶち込んで、一人で涼しい顔をして外国へ逃げてしまうと云うやつだ!――僕が郵便配達の身姿で、合図と一緒に壊れ別荘の裏口から入って行ったらね、既に沢野は冷めたくなっている。遺言書も、指輪も、金もすべて僕の注文通りになっているのさ。
『有難う』って僕はお礼を云ったものだ。で、君にも話した通り、拳銃を調べる風をしてズドン――宝石事件の幕が閉じた訳だ。流石は軽井沢だね、東亜デパートとは違って八時間経ってから騒ぎ出した処なんぞは!」
「来た様だ――」堀田が窓の外の闇を見乍ら云った。
東京駅の建物が運転手の肩越しに見え始めた。
「左様なら! 東京よ、かね」
片岡が足元の鞄に手を掛け乍ら云った。
注)他者の会話で段落を改めたところがありますが、他はほぼそのままです。
「「サンプル」の死」
「探偵趣味」 1928.03. (昭和3年3月) より
一
「サンプル」の林田が食料品倉庫部長になったと云ふ、奇怪な事實を瀧本が聞かされたのはもう二ヶ月も前の事だった。場所は銀座の伊東屋――あの有名な百貨店の――確しか出口に近い處だったと思ふが、そこで林田自身の口から聞かされたのである。
二人は曾つて一緒にその百貨店に勤めてゐた時に親しくなった。が、瀧本だけは三年前に辭めて今では別の事をやってゐる。
瀧本は二ヶ月前に會った時の、林田の言葉をちゃんと覺えてゐた。
「やぁ、珍らしいぞ瀧本! 今君ァ何をしてる? 景氣はいいかね。え、金融業―― ふム、ぢゃァ君は目下高利貸の店員をやってるんだね! おやおやこいつはいさゝか驚いたね。瀧本浩一が高利貸の手代になったとは――俺かい? はゝゝゝ、聞けよ。今じゃァ此の店の食料品倉庫部長さ。
どうだい、こいつもちょいと呆れものだらう! もうお客様に、ぺこペこ米搗バッタをやるのはいゝ加減飽きた。で、毎日毎日倉庫の中で、サンキストのレモンにリビィのパイナップルさ。はゝゝゝ、暇があったら來いよ。四國名産野菜漬でも御馳走してやらぁ――何しろ君、昔の「サンプル」が部長をやってる倉庫だから、その歡迎振りたるや千匹屋糞喰らへと云ふやつさ。」
「サンプル」と云ふのは、その以前、平の食料品賣場員時代のかれに與へられてゐた仇名で、かれがむやみに見本だ見本だと云っては、罐詰や折詰の蓋を開けて「試食」することに基因してゐるのである。
林田と云ふ男は、身姿は餘り大柄の方ではなかったのだが、非常に鋭く働く頭腦を持ってゐて、それで性質はと云ふと放縱で、快活で、磊落で、大膽だった。だから妙な女とも關係をつくれば、傳票をごまかして小遣ひを浮ばせると云ふことも遠慮無しに――但し絶對に上役には秘密にだが――やった。
とにかくさうした男が「部長」になったと云ふのは、まさに奇怪な事實だが、然し林田は、大きな仕事を與へればそれだけの仕事をやり遂げると云ふ性質の充分「使へる男」ではあった。
「十時過ぎにはゐると云ったな。十時二十五分だからもういゝだらう。」
腕時計を見て、瀧本は立ち上った。そして銀座、伊東屋の三階休憩室を出た。
かれは、四階へ通じる巾の狹まい階段を上って行った。上り切った處は玩具部で、例に依って此の賣場はまだお晝前だと言ふのに大變な混雜である。――瀧本は大きなショウケイスの横の垂幕をくゞると、賣場とは打って變って殺風景な、ガランとした、廊下を眞直に行って右へ折れて直ぐとっつきの事務室の前へ立停まった。
近くに此の店の地方發送部があって、そこで働いてゐる荷造箱運搬用の、怪しげな構造の昇降機が、絶えずガラガラ凄さまじいお物音を立てゐる。
――かれは入口に掛ってゐる標札を見上げた。「食料品倉庫部」とある。開け放しになった入口の一歩内側には、大きな衛立が立ってゐて、鳥渡室内が見えない様になってゐる。
「はゝあ、此處だな。所謂千匹屋の本店と云ふのは。」
瀧本は衝立のそばへ歩み寄って、そっと部屋の中を覗いて見た。
と、かなり廣い部屋で、天井迄届く程のガッシリした棚が、三列も四列もずらりと造られてあって、そこには、罐詰、箱詰、樽詰、瓶詰、あらゆる種類の食料品がギッシリ詰まってゐる。それらのものから發散する、何んとも形容の出來ない濃厚な、あくどい匂ひがプンとかれの鼻を衝いた。
その棚と棚との間の狹まっこい通路の突當りに卓子があって、そこに一人の男が腕組をして突立ってゐた。林田では無かった。
「成程、「サンプル」も、部下を使ふやうに出世してゐるんだな。」
やがてその男が、ひょいとこちらへ向いたので、瀧本と顏を合はせた。
年は二十五六だらう。左右の眼がやゝ鼻柱の方へ寄り過ぎた、唇元が皮肉に曲った、どことなく不快な感じを人に與へる顏の男である。瀧本の顏を見ると、ゆっくりした態度でこちらへ歩るいて來て、少しの笑ひの影さへも見せずに云った。
「何んですか?」
「居ますかね。林田君は?」
男は上から下までかれの姿を見た後で、答へた。
「居らっしゃるでせう。」
「と云ふと?」
「林田さんは隣りの部屋に居らっしゃるんです――この部屋からも行かれますが――お名前は?」
「瀧本。さう云へば直ぐ分ります。」
瀧本はその男の後について、棚の列を右に見乍ら、左側の壁寄りに進んで、次の部屋へ通じる扉の前へ行った。
「林田さん。お客様です――」
と云ひ乍ら男はその扉を押して室内へ一足入ったが、そのまゝ無言で棒の様に立ちつくしてしまった。
その様子が、何かしら容易事でない氣配を感じさせたので瀧本は、つと進んで男の肩越しに次の部屋の中を覗いて見てあッ! と愕ろいた。
「サンプル」の林田が横ぎまに倒れて、美事に腦天を割られて死んでゐる!
眞青な顏面、額から眼鼻へ掛けてドロリとした鮮血が流れ黄色っぽいリノリウムの上へ垂れて溜まってゐる光景は、たとふべくも無い凄惨な圖だが、より以上に瀧本が恐怖を感じたのは、それが、――兇行が、たった今、行はれたばかりだと、直感されたからである。
二
ちょっとの間、二人は一言も發しなかった――。
が、ガラガラ云ふ騒々しい昇降機の音が、容謝なしに部屋の空氣を掻亂した。
その部屋は、やはり棚が奥深く續いてゐるらしいが、前方、かれらの立ってゐる處だけはやゝ廣く空いてゐて、そこに据えられた事務卓子の上には雜然と書類が積まれてある。林田は紺色の背廣を着て、卓子の前に横向きに倒れ、伸した手は虚空を掴んでゐる。カッと開らいた一方の眼に宿る死相、一と目それだけを見て、既に息切れてゐる事が肯づかれた。
男はぢっとその屍體を見てゐたが、やがてその眼を瀧本の方へ向けた。
呟やく様な調子で、
「一體、これはどうしたって云ふんだらう!――ひどい事になったものだ――靴が滑ったのかな。」
「君。これは、怪我じゃァ無いよ――」
瀧本が云った、きっぱりと。
男は無言で部屋の中を見廻した。
瀧本がつゞけて、
「誰かに殺られたんだ――それに違ひない。」
「誰かに?……さぁ、そんな事は……確か此の部屋には、誰も來てゐない様だったが……」
「が、此の通りだ……扉は? 君、此の部屋の出入口はどこだね?」
「そこです。」
男の指先す方、食料品棚の影になってゐる扉の處へ瀧本は走り寄って、把手を掴んで開けやうとした。が、開かない――。
「錠が下りでゐる――」とかれが云った。
錠が下りてゐると云ふ事は、犯人が此處から出たのではないと云ふ事を示してゐるのだ。
「えッ、そりゃァ變だ!」
「何故?」
「此の部屋にはそこより外に、出口は無いんです……」
瀧本は、ぢっとその男の顏を凝視めた。
「と、するとどう云ふ事になる?……誰かが林田をやっつけて、こっちの扉口から君のゐる部屋へ入った……と、考へるより外は無いが……」
「絶對にそんな事はありません。」男が云った。「……が、可怪しい!……實に不思議だ! こんな事があるものだらうか? 人間が殺されて、殺した奴はゐない……」
男は、急に言葉を切って、今更の様に屍體の扉口を見詰め乍ら「さあやっぱり、私は林田さんが足を滑べらして倒れた……か、どうかそんな處だと思ひますね……此の敷物の下はすぐに堅い床なんですから……」
「しかし――」
「それとも動機は分らないが、自殺したのかも知れません。」
「不注意で倒れてもこんなにひどい傷は出來さうにもない――それを君は自分で倒れて、こんな傷をこしらへる事が出來ると云ふのかね――自殺とすれば兇器がある筈だが、此の通り何も無い。」
「けれども――」
「……何れにしてもその邊の事は醫者を呼ばなきァ分らないさ……しかし、君は……いつから居たんだね?……その、いつ林田君が……」
「かうですよ。」と、男が苛々した様に引取った。「私は今朝から……八時半頃からこちらの部屋、今あなたが入って來る時に御覧になった、あの席にゐたのです。林田さんは、いつでも、あの、今錠がかってゐる扉口から入って來て、極まってこゝの境の扉を開けて私に挨拶するのです……今朝もさうでした。「お早やう!」と云ひました。それが十時頃です……それからこっち私はずっと私の席にゐた。いや、部屋の中をぐるぐる廻って棚の整理をしてゐた。あなたがお見えになったのはそれからすぐです……」
瀧本は腕時計を見た。十時三十二分である。
「では、此の三十分の間に外から誰かゞ入って來て林田君を――」
「誰も入って來やぁしません。」
「それがどうして分る? 境の扉は閉まってゐたし、この通りしっきり無しに騒々しい普がしてゐるんだから、ちょっとやそっとの話聲は聞き取れはしない。第一君は、林田君が倒れた音を聞かなかったらしい口振りぢゃないか。」
「では……では何處から逃げました……えッ!……ふム、あなたは私を……はゝゝゝ。それもいゝでせう――」
と、男が皮肉な唇元をゆがめて、冷淡な、不敵な笑ひを洩らした。
「――そこで、君は自殺、或ひは怪我と、斷定するのだね。」
「無論、さうでせう。ものゝ理窟と云ふものは――」
三
――とにかく、此の男の言葉がすっかり眞實を云ってゐるものとすれば、これは世にも奇怪な出來事である。しかし、そんな、現實をかけ離れた出來事などは無論起る譯が無い。――やっぱり此の男が虚辯を弄してゐると考へるより他に説明が付かないではないか。
「多分、この男が殺ったのだ――で、ないとすれば外の誰かが殺してから、此の男の部屋から逃けたのを、此の男が隠くしてゐるのだ――」
瀧本は、此の殺人事件に、ある決定的な、嚴とした影を投げかけてゐるところの、扉の錠を見た。
一―或ひは、此の錠を、犯人が去ったあとで、こゝにゐる男がおろしたのかも知れない――しかし、何故そんな事をしたか!――うム、こりゃァ中々重大、且つ複雑な謎だぞ! 何故、犯人はこゝから逃亡しなかったか? そして何故、この男は錠を下ろしたか?――若しも出て行ったそのまゝにして置けば、この男の立場も案外樂になってゐるかも知れないではないか――。
「とにかく、いつまでも愚圖々々してゐては良くない。速く報らせなければ――」
と、瀧本が重苦るしい思考ををきっぱり打切って、相手を促がした。
「電話ならこゝにあるが――一體どこへ掛けたもんだらうな――」と、男が呟やく。
「醫者のゐる處と刑事部だね。」
男は卓子の前の贅澤な回轉椅子へどっかり腰掛けると、忙しなさうに卓上電話の受話器を外づして、交換手に呼び掛けた。
瀧本は、その部屋を出て、元來た部屋の方へ入って行った。
すると、いくらか緊張に堅くなってゐた頭腦がゆるんで、林田の快活な聲、放膽な顏がありありと思ひ出された。
「はゝゝゝ、暇があったら來いよ。四國名産野菜漬でも御馳走してやらあ……」
と、云ったかれ――そのかれが、來て見ればあんな怖ろしい眼で睨んでゐるのだ。そもそも誰を、あの眼は睨んでゐるのだらうか!
瀧本は振返って、電話を掛けてゐる男の後姿を見た。
――五分經たないうちに、鞄を抱へた醫師と、刑事らしい男が三人駆けつけた。それに續いていづれも服(※ママ)の險はしい男が四五人入って來た。部屋の入口はピッタリと閉ざされた。――かうした物々しい空氣の中に、食料品から發散するあくどい匂ひが、一層強烈に人々の鼻を襲った。
直ちに自殺説は避けられた。嚴然として他殺なることを醫師が主張した。時間は僅々一時間以内、兇器は堅い棍棒様のものか、それに類した、當りの鈍いもの。鋭利な刄物を用ひた形跡は認められない――。
刑事部副長の須崎氏は、發見者の瀧本とその男――食料品倉庫部員、浦野定夫とから大體事情を聞くと部下の刑事に耳打ちして.それぞれに簡單に、捜査命令を下した。二人は部屋を出て行った。二人は二つの部屋を捜索した。醫師が又何やらかれに囁いた。屍體には布が掛けられた。やがてその場で假審問が開始された。
元、警視廳の警視を勤めてゐたと云ふ現伊東屋百貨店刑事部副長の須崎氏は、もう五十近くの肥った小男で、頭髪が大分薄くなってゐるが、仕事はどしどしやると云ふ評判だ。部下を見返る口元にやゝ薄笑ひを浮べてゐる處を見ると、此の事件をさのみ重大視してゐない事が分る。
最初に瀧本が訊問された。須崎氏の訊問は簡潔だが、要を得てゐて、ぢりぢりとヒタ押しに押し進めて行くと云ふ風だった。瀧本の現在の動め先を聞くと、林田が瀧本の斡旋で金を借りてゐる様な事はないか――などと云ふ質問もあったが瀧本は無綸否定して、總べての事を明確に答へた。
適當な處で打切って、今度は浦野定夫の番になった――。
「で、君は全く何の物音も聞かなかったと言ふのかね。聞いたと云ふのかね。どっちなんだ。」
忽ちのうちに審問はそこまで進んだ。もう一歩で崖の縁と云ふ處である。並居る人々は極度に緊張し切って、浦野の答へを待った――いや、告白を待ったと云ふ方が正しい。それ程にも皆なの心持は、或る一點に一致を見せてゐるのである。
「さう、はっきりは云はれません……とに角物音はしたかも知れませんが……私には聞えなかった……今も申上げた通り私自身も騒々しい音を立てゝ、欄の品物を置き變へてゐたのですから――」
浦野は、人々の期待を裏切って益々落ち付いて來るらしく言語も明瞭に、はきはきと答へる。世に若しも、これが數十分前に殺人罪を犯した男の態度だったとしたら、それはまことに驚ろくべき大膽不敵な男だと云はなければならぬ。
「今朝、君の居る部屋へ來た人は誰々か?」
「朝早く掃除に來た小使の井上と、この瀧本、と云ふ方だけです。」
「その他は誰も君は見なかったと云ふのだね?」
「さうです。」
「林田さんが挨拶をしたのは間違ひないかね。」
「間違ひありません。」
「君は見たのか?」
「見ません。たゞ扉を開けて「お早やう。」と云ふのを聞いただけです。」
「確かに林田さんの聲だったと斷言出來るかい。」
「出來ます。」
「ふウム、」とうなづいて,重たげなまぶたの下から、矢を射る様な視線を、キラリと光らせ乍ら「で、問題は此處だ。君はその三十分間にどこへも行かなかったと云ふが――いや、待て! 僕の云ふ事をよく聞くのだ。」と、浦野が何事か口走らうとするのを押さへて「そんな答辯が出任せだと云ふ事はちゃんと分ってゐる。僕は君から、もっと變った事を答へて貰ひたいのだ。――たとへば、君がすっかり頼まれた或る人間。その人間の名前などをね。」
「そ、そんな事は知りません。」
「良くないね――どうも良くない。殺人罪を犯した人間を隠蔽し立てするなんて事は。」
「須崎さん……私は、そんな分らず屋ぢゃありません。子供ぢゃァ無い。……どんな大金を積んだ處で、私はそんな事を引受け様などとは思ひませんね。」
平然たるその答辯、須崎氏は苛々して靴先を動かした。
「君の答へは立派だ。だが、それが頗る疑ぐはしいと云ふのは、君の云ふ通りだとすれば、この出來事には非常な矛盾があるからだ。」
「どう矛盾しやうと、私の知った事ではありません……その矛盾を解くのがあなた方の仕事ぢゃありませんか。私には全く何も分らない! が、私が眞實を云ふのは、それだけが私の役目だからです。須崎さん。私はこんな訊問を少しも恐れちゃァゐませんよ……」
刑事達は互ひに顏を見合せた。その眼はてんでにかう囁き交はしてゐた。「こいつ、どうして一筋繩な野郎ぢゃあ無え。」
その時、今迄默まってその模様を見てゐた瀧本が一足前へ出て、出し抜けに云った。
「ちょっと、あの人の胸着のかくしを調らべて下さい――」
あっ! と云ふ叫聲。
浦野定夫が、恐怖に充ちた、絶望的な叫聲を擧げたのだ! ぐいと身を引く。が、それも瞬間、刑事の一人が飛びかゝった。と、もうその手に何かゞ掴まれてゐると云ふ具合――細字が認められた二枚の日本紙である。
四
審問者は落ち付いた態度でそれを受取った。
そして、それに眼をやる前に、屹と瀧本の顏を見て、
「どうしてあなたは今になって、注意してくれたのかね?」と訊いた。
「今、急に思ひ出したのです。その方が、何んとなくその方を心配してゐるやうに見えたので……實は先刻電話を掛ける時、私はずっとこちらの部屋に離れて向ふを向いてゐました。で、私がふと振返った時、その方の左の手が、卓子の抽出から離れた様な氣がしたので……。」
「どの抽出ですか?」
「椅子に隠くれてよく見えなかったのですが、左側の、上から三番目あたりだったと思ひます。」
須崎氏は問題の紙片に眼を落した。
「ふウム、これは……おい、君、浦野君。何んだらうね、これは?」――非常な發見らしい。
それを發見されてからの浦野は、人が見違へる様に狼狽し始めた。困惑と絶望がかれの淺黒い顏にはひ上った。瞳は光を失なっておどおどと物を恐れる鼠の様に動揺した。
「……何んだか、お讀みになりゃァ分るでせう……はははは」自棄的な、空虚な笑ひ方をして「それともあなたは字が讀めないのですか。」
「君、言葉に氣をつけろ。」
と刑事の一人が注意をした。すると浦野は聲を震はして、
「何ッ! き、君に訊かれてゐるのではないぞッ、引込んでゐ給へ!……ねえ、貴方……それは見らるゝ通り、私と林田とが組んでやった仕事の誓約状です……連帶署名の……もうかうなったら何もかも云ってしまひますが、林田を部長にしたのは一體どなたです?……こんな、こんな惡こすい男は、又とありません! 私はこの猫をかぶった男の爲に散々利用され、惡事のダシに使はれて來たのです……」
「宜ろしい、林田の私行に就いては、もうさっき一人調らべにやってある。何れ、分るだらう。處で、もう當人の林田は比の通り死んでゐるのだから、君たちがどんな事をやったかと云ふ事は、君に聞くのが一番良い方法だと思ふ。どうだね。仲間の名前を云っては? それとも此の仕事は君が獨りでやったとでも云ふのかね。」
「此の仕事と云ふと……」
須崎氏はニヤリと微笑して、
「つまり最後の仕事だな。」
「えッ! まだ、まだ貴方はそんな事を云ってるんですか!……さう、成程その紙っ片れは貴方にとっては非常な、貴重な發見でせう……しかし、しかし、私は斷言します!……この上どんな、どんな物が現はれて來たって、私が人殺しをしたと云ふ證據にはならない……」
音も無く境の扉が開らかれた。一人の刑事が人々の後を廻って、審問者に近附いて、低聲で何事かを囁いた。
が、浦野は今や極度に昴奮して、蒼白な顏面を痙攣させ乍ら云ひつゞける――。
「……證據にはならないのです……第一が醫者さんは、非常に重い、硬いもので打撃たらしいと云ひますが、それは何んです……いや、何處にあるんです!……私が殺したのだとすれば.何虚かへ隠匿したんだ………はゝゝゝ、幸ひと、私はどこへも部屋の外へは出なかったと、さっきから申し上げてゐましたね。」
「浦野君、もう分ったよ。」と、審問者が靜かな聲で云った。
「いゝえ、まだ分らない……私の云ふ事が――」
「さうぢゃない。兇器が分ったんだ!」
「…………!」
「分ったばかりぢゃない。發見されたんだ。……簿記棒がね……S.U.と彫りつけてある……えゝと、君、これは何處から出たのかい?」
いつか須崎氏の手に握られた、太い、重みが強かにありさうな、物恐ろしげな兇器を見乍ら、後に立った一人の男が云った。
「この男の、卓子の脇からです……罐詰か何かゞ入れてあったらしい木箱へ、おがッ屑と藁で隠匿して入れてあったんで……」
――どうやら、これで最後の幕が下りるらしかった。
と云ふのはすっかり心身共に疲勞し切った、幽靈の様に生氣の抜け去った様な男が、「それは、確かに私が使ってゐたもので、一昨日から林田に貸してあったのです……「僕のは具合が惡るくなったので、代りが來るまで」って林田が云ふもんですから……」と消え入る様な調子で云ったからである。
無論,誰一人として、この終りの方の言葉を信じようとする特志家はゐなかった。
五
それから一週間程過ぎた日の夕方近くの事、瀧本が一日の事務を終へて、社主の夫人が入れて呉れた紅茶を一人ですゝってゐると、次の間になってゐる入口の扉がガタンと開く音がした。
瀧本が取次に出て見ると、薄暗らい玄關に立ってゐるのは、茶の外套を着た男で、かれの姿を仰ぎ乍ら、
「今晩は!」
と云った。
正しく、その聲には聞き覺えがあった――あ! あいつだ――と、ばかり瀧本はと胸を突かれたが、それかと云って、どうしやうにもない――。
「浦野だ!……奴、何をしに來たのだ……怖ろしい兇漢!………」
しかし、かれはグッと腹を据えて、確りした手附で柱のわきのスヰッチをひねった。
そこに浦野定夫が立ってゐる。
「君は、浦野君ぢゃァ無いか……どうして?」
「中へ入れて下さい。ちょっとあなたを驚ろかせる話があります。」
「上り給へ!」と瀧本が短かく云った。「此處にスリッパがある。」
かれは.此の奇怪な訪客を、玄關脇の應接間へ通した。丸卓子を間に挾さむ様にして、向ひ合って見ると、頬がコケ落ち口のまわりには髭がぶよぶよ生えたまゝで恐ろしく顏色が黒ずんでゐる。大分消衰してゐるらしい。これでは何程の事もあるまい、と瀧本は考へた。
「で、僕を驚ろかせると云ふのは……」
と、かれは早速切り出した。黒塗の莨凾の蓋をとって、一本摘まみ取る。
浦野はぶっきら棒に云った。
「放免されたのです。私が。」
「ふム、で、そりゃどう云ふ理由でね。」
こちらは青い煙をフーと吐き出し乍ら、冷たい眼で云った。
「理由は、私がやった事ではない、と云ふのですね……まあ。」
「では、あの事件はどうなった――」
「一切、片が附きました――」
「それは結構な事だ。ぢゃあ誰かゞ白状したんだね。」
「さうです。藤森春子と云ふ女賣子がゐましたが、そいつの仕業だったので――」
瀧本は、ピタリと相手の眼の上に視線を置いた。
「女か!――ふウム、林田のやりさうな事だ。僕も最初そんな氣がしないではなかったが、何しろあの通りの具合だったからね――すると、君はうまい時に前言をひるがへしたんだね。」
「いゝえ、始めから終ひまで私はあの供述を變へませんでしたよ――それが何よりも大事だったんですからねぇ――お話ししませう。明日の朝あたり、あなたの處へも呼出状が來るでせうが。」
と云ふ前振れで、かれが話し出した事件の眞相は、全く瀧本を「驚ろかせる」に充分だった。今筆者はその大要をこゝに書加へて、此の物語の結末としたく思ふ。
――伊東屋百貨店藥品部の女賣子藤森春子は、以前から林田部長の情婦だった。が、女に熱し易くて醒め易い稀代の不良である林田豐之介は、いつの間にか別の女――それが誰であるかはまだ分ってゐない――に氣を移してゐた。藤森春子はかれのために身も心も物質も總べてのものを根こそぎ奪ひ取られたまゝ、穢いものでも捨てる様にフイと捨てられてしまったのである。
かの女は最後の話を付けるために、その朝十時過ぎにそっと賣場を外づして、林田の部屋へ行った。かの女の姿を見るといつもの習慣で、林田は、第三者のための不意の訪問を防ぐために扉の内側から閂を下ろした。傷付けられた女は今更哀願などはしなかった。かの女の求めてゐるのはたゞ物質だった。巨額な手切金を要求したのである。
男は一笑に附して取合はなたった。カッと上氣せて前後の思慮を失った女は、ふと手に觸れた簿記棒を掴みしめると、それを振り上げた。慌てゝそれを取戻さうとした男は、劇げしく打下ろされた兇器を眞向から受けて、叫び聲も上げずにその場に打倒れた。
――かの女には殺す意志は無かった。だが、昂奮に震へるかの女の手は、餘りに強く簿記棒を握りしめてゐたし、林田のやり方が全く下手だったので、此の結果を來たしたのだった。いはゞ、それは物のはづみと云ふものだったのである。
が、男は床の上に倒れてから、何事かを唸めき、口走しる様に見えた。その様が丁度草叢にのた打ち廻はる蛇の様だった。で、かの女は身震るひし乍ら打撃った、又打撃った!
その後は全然夢中だった――錠が下りてゐる扉を、錠が下りてゐるものと思った――少しも躊躇せずに兇器を持ったまゝ、次の部屋への扉を開けて又閉めた。すると、その部屋の入口の邊に人の話聲が聞える――やがて足音が近附く――で、かの女は半ば本能的に、棚の影から影へと姿を隠くし乍ら、反對側の壁を傳って、浦野定夫の卓子の處まで來た。その時始めて、かの女は我れに返った――。
咄嗟にかの女は、足元に放り出してある木箱を見た。素速やく中に詰まってゐるおが屑を取のけて兇器を底の方へ隠匿し、上部へおが屑や、あたりに落ちてゐる藁を詰めた――そして風の様に、開け放しになった扉口から廊下へ出抜け、賣場へ出た。いつもの様に混雜してるた玩具部の、賣場員は、定めし紙の様に蒼白であったらうかの女の顏も、いや、姿さへも見掛けなかった――と後になって申立てた。
――藤森春子が取調らべられたのは、林田部長の私行を熱心に調査しつゝあった、一刑事に依ってゞあった。
つまりは此の、一見怪奇に見えた事件も「見込捜査」の常道に從って解決されたのである。
注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加したところがあります。
「或る百貨店員の話」
「探偵趣味」 1928.06. (昭和3年6月) より
一
有名なК――百貨店の洋品仕人部を受持ってゐる里見は、帳簿の記入を濟ましてしまふと、パタリと冴えた音を立てゝそれを閉ぢ、前の書類棚へ納めた。そして、ざっと事務机の上を片附けて椅子から立上った。
と、その時、後で柔かい聲音が洩れたのである。
「あの、――」
靜かにふり向くと、そこに賣場の女賣子が一人立ってゐた。眉墨をさして頬紅を濃い目にはいたひどく濃艶な女だった。
かれと視線がが合ふと、女はひと足身近くすり寄って、目にっぱいの微笑を見せ乍ら、哀願的に囁いた。
「九番の津田ですけれど――これを、いくら――かお願ひして見てくれとおっしゃるのですが。」
そして、手にしてゐた細長い紙凾を見せた。
が、里見はチラリと一べつしただけで、それを受取らうとはしなかった。――その凾の中にネクタイが入ってゐることも、かの女の不得要領な言葉の意味も、ちゃんとかれには判ってゐた――そのネクタイの値札を、もっと安い値札とつけかへて呉れと言ふのである。
店員が店の商品を買ふ場合には、正價の二割引で買へると云ふのが、この百貨店の規定だった。然し、それにはたゞ傳票上の數字を書き變へればいゝのである。それを、わざわざ仕入部まで商品を持って來て値札をつけ變へる事を頼むと云ふのは、先づ正價そのものを安くして置いて、更にそれを二割引で買って行かうと云ふ狡るい連中で、無論こんな事は嚴禁されてゐるのだが、そこがどこにもある公然の秘密と云ふやつで、或る程度までは相當行なはれてゐた。
「おい、ひとつ頼むよ。」「ふむ。」と云った調子でキズも何も無いのに、正價に手加減を加へて貰ふのである。
「これですの――どうぞお願ひいたしますわ。」
女は、かれが受取らないと見ると、自分から紙凾の蓋をあけて、茶っぽい模様の派手なネクタイを見せ乍ら舌甘い調子で云ふ。
里見は冷たい眼でそれを見眄して、
「歸って津田さんに云って下さい――今、忙しいから駄目ですって。」
しかし、女はたぢろがなかった――かの女にしても、洋品仕入部の里見と云ふ青年かどんなに「分らず屋」で融通の利かない男であるかと云ふことを、皆なから聞かされて知ってゐた。にもかゝはらずかの女は賣場員の津田民雄にかう云って引受けて來たのである。
「まあ、どんなことを云ふひとだか、あたし、行って見て來るわ。でも、大てい大丈夫よ。」
――かの女は自分が相當美貌で、魅惑的な女だと考へてゐたのである。
「いえ、お忙しければ今直ぐでなくてもよろしいんですわ。」かの女は、格別忙しくも無ささうな里見の態度と事務机のまはりなどをひと通り見まはしてから、やゝ白いくびすぢを傾しげる様にして、かれの眼をまともに覗き込んで云った。「のちはど――また、あたし、参りますから――」
ふむ、ちょいと可愛い唇をしてゐるな――だが、なんと無恥な、淺間しい眼つきだ――里見は、さう云って蔑みを、顏にまで見せて、たゞ默りこくってゐた。
「では、どうぞ。」
かの女は机の上へ紙凾を置いた。
――少し、可哀そうかな――いや、だが俺には俺のやり方があるんだ――。
「あゝ、置いてゐらっしってもダメですよ。あなた、持っていらっしゃい。」
「ほ、ほ、ほでは里見さんは、いつでもお忙しいんですのすのね。」かの女が、とうとうむッとした調子で苦がっぽく笑ひ乍ら云った。
――はゝあ、怒っちゃァ君の負けだ――里見は言葉短く應じた。
「さうです。」
それっきり、何んともつけ加へなかった。
「仕方がありませんわ、――どうもお邪魔様でした。」
「あゝ、鳥渡」と、里見はプリプリして品物を持って行きかけやうとする女に聲をかけた。「津田さんにさう云って下さい。なるべくなら、津田さん自身でいらっしゃる様にってね。――それからと、僕も一つ賣場へ行って來なくちゃならん。」
終りの方は獨語の様に呟いて、かれは、逃げる様に足早やに行く女の後から、ゆっくり廊下口へ出て行った。
「はっはっはっ。」
「先生相變らず手際がいゝね。」
すべてを横目で見てゐた仕入部の男たちが、あとではてんでに囁き合ってゐた。
二
これはほんの一例に過ぎないので、一事が萬事、里見はかう云ふ調子にきちゃうめんに仕事をした。それで大ていの男なら、先づ「あいつ、始末にいけない奴だ」とあって同僚から敬遠される處だが、里見は寧ろ、皆なからかなりの好感を持たれてゐた。と云ふのは、かれは物解りのしない頑固屋ではなくて、たゞ人一倍潔癖だったに過ぎないからである。
里見は潔癖を愛した――一切、面倒なこと、うるさいこと、煮え切らぬことは御免だ、と云ふ性質だった。かれは二十七才で、當り前から云へばもうそろそろ結婚生活に入っても良いのだが、一向そんな事には頓着無しで、店が退けると細身の洋杖を振って銀座通りを漫歩したり、同僚とカフェの二階でジンの晶杯を重ねたり、キネマを見に行ったり、時にはなかなか派手な「遊蕩」をしたりして、依然として暢氣な獨身生話を享樂してゐた。
よく讀書をする事と、あらゆる女性に侮蔑の眼を向けて決して本氣になって、取り合はない事と、頗る金放れの良い事などがかれの特徴だった。それから、かれのすべての印象が冷ややかで、さっぱりしてゐるので、「貴族」などと云ふ綽名が現に同僚間に傳へられてゐた。
――里見は事務所の廊下を通って、賣場へ出て行った。かれに關係のある賣場は五階の洋品部だった。雜鬧を極めてゐ華客達の間を擦りぬけて、寄木細工の階段をのぼって行った。奏樂堂では華やいだアメリカの流行舞踏曲をやってゐた。
「あ、里見君。今君の處へ電話を掛けやうかと思ったところだ。」
里見の姿を素早く見付けた洋品部長の井上が、鼈甲眼鏡を光らせながら云った。
「T・W・Yの麻ハンケチがまるで無くなってるんだ。それから變り2號のシャツと――一つ大至急頼むよ。」
「シャツの方は倉庫にありゃしませんか。」
「無い! 僕もまた有る有ると思ってゐたんだが、いつの間にかすっかり出ちまってゐるんだ。十打ばかり――明日にも入れて呉れ給へ。」
「承知しました。――今倉庫に誰か行ってますか。」
「いや、誰も行ってないだらう。」
里見は習慣的に賣場を一と通り見廻った。夜會服用の蝶結びネクタイも、禮装用の純白ワイシャツも、寶石入のカフス釦も、近頃俄かに需要の激増した婦人用の絹沓下も手套も、總べてかうした近代生活の象徴であるかの様な服飾品は、悉くかれの手を經て職先から納入され、相當に利益を見た上で正價が定され、値札を附けて、この賣場へ出されるのである。
「あの、ちょっと――」
かれを賣場員と思った女客が手套のカウンタアの前でかう云って呼びかけた。
「はぁ、たゞ今。」
里見はさう答へて置いて、少し離れた處で、顧客にネクタイを見せてゐる賣場員に近附いて、云った。
「竹内さん、あちら様をお願ひしますよ。」
「困るなァ、誰かゐないかい。」綺麗なオールバックの頭を振り向けながら、竹内が言った。「進藤は。――チョッ、駄目だな、あいつ。」
「進藤って誰だね。」
「そら、この間計算部から廻はされた女さ。駄目だよ。ありゃ――時々幽靈の様にゐなくなっちまふんだ。」
「どうしてね。」
「きまってるさ。化粧室だよ。君、濟まないが手套の方を見てくれ。君だってたまにゃァ賣場を手傳ってもいゝだらう。」
里見は薄い唇で微笑した。
「そうゃァどうしても手が足りないって云ふ場合なら手傳ってもいゝさ。だが、僕は進藤とかの、油賣りの代りに働くなんて御免だ。」
云ひ殘すと、さっさとその賣場を出て、隣りの書籍部の方へ歩るいて行った。書籍部の側らに大きな鏡がある。里見はそこを開けて中へ入った。洋品部の倉庫なのである。
賣場に較べてひどく薄暗い。が、窓際に面した側は白っぽい光線が差し込んでやゝ明るくなってゐた。倉庫の中は一面に棚がしつらへてあって、様々な大きさの紙凾がキチンと積まれある。森として靜かだった。
里見は事務的な調子で、とある棚に近づいてその中から一つの凾を引き出した。蓋を取って見ると上物のワイシャツが現はれた。かれはなほ二三の凾の蓋を取ってあれこれと見較べた後、一つだけを殘してあとのを元通り納めた。
つゞいてその直ぐわきの棚に積んである平らたい小凾を四つ五つ手に取って、内容を調べた。何れも寶石入のネクタイピンだった。六個一組になって中蓋に差してある。
――里見は微笑みかけてゐた。ワイシャツのしつけ糸を切ると、三つに折疊んだその間へ、六個の寶石入ネクタイピンを中蓋に差したまゝ、巧妙に挾み込んだ。そして元通り正しくワイシャツの形をとゝのへると、胸着のかくしから縫針を出した。細く鋭どい針には白い糸が通ってゐた。かれは慣れ切って、女の様な器用な手つきで完全にしつけ糸をかけた――もうそれで、どう見てもたゞ一着のワイシャツだった。その中に高價なピンが隠くされてゐるとは、誰の目にも見えないのである。
かれの唇元に皮肉な微笑みがはひのぼった。
「俺が「貴族」だとはちょいと滑稽だて。貴族どころか、卑劣な泥棒なんだからな。自分乍ら淺間しい次第さ。――だが、これは里見啓三の慾望だからな。誰だってそれぞれ慾望を目がけて繩を手繰って生きてゐるんだ。たゞ俺のは物事を手取り早くやりたい性分でね。そして簡潔を愛すること切なり、だ。」
ふと、その時、里見は非常に微かなな、香料を感じた様な氣がした――これは少々ふしぎである。この洋品倉庫には別に香氣を發散する品物なぞは無い筈だ。それに、これは確かに、若い女性が用ひる香水の匂ひだ!――。
と、感附いた途端、輕い足音が聞えて思ひのほか間近かなる棚のわきから、コバルト色の賣場衣を着た女が姿を見せた。
里見はギョッとして自分の眼と頭を疑ぐった。とにかく女の現はれ方は突然過ぎた。で、咄嗟に里見は冷靜を取戻して、靜かにワイシャツに蓋をしたのだが、もうその時には女に、それをすっかり見られてしまってゐた――。
三
見たところ、かの女はまた大へん年が若さうだった。鼻すぢの氣持よくとほった、眼のぱっちりした、笑ふと笑くぼが出さうな頬のあたりが、アメリカの映畫女優ベチイ・ブロンソンの顏に良く似るゐた。まだ十七八だらう。可愛いゝ娘だ、と思った。
「仕入部の里見さんでせう。」と、かの女が微笑みながら云った。「あたし、こんど洋品部に入りました進藤ですの。」
「あゝ、さうですか、前には計算部にゐたんでしたね。」里見はさり氣ない體でネクタイピンの空凾に蓋をしながら云った。「どうです、事務室と賣場は大分違ふでせう。」
「えゝ、のろのろしてちゃいけないよって、毎日叱られてばかりゐますわ。」
里見は、空凾をわきの棚の上に載せた。これはそっと仕入部へ持って歸って、手先へ取って置く必要があった。
「ちょいと拝見、これどんな色合てすの。」
おや? 何んてませた口のきゝ方で!――と里見は愕ろいて、彼女の顏を見た。そのうちにかの女は白いかひなを伸して、素早くかれの腕のわきにあったワイシャツの凾を引きよせて、蓋を取った。
里見は騒がなかった。どんな場合にも、人間が狽たへて醜くゝ騒ぐのをかれは嫌惡した。
「いゝ、色ですわね! 卵色!――これ、地は何んて云ふんでせう?」
「は、は、洋品部のひとがそれを知らなくっちゃ困りますね、富士絹ですよ。」
かの女は元通り蓋をして、それを胸に抱へた。
「あたしが、賣場へ持って行きますわ。」
「いや、そりゃ仕入へ持って行くんですよ。」
笑ひながら、かれは手を差し出したが、女はひと足後へ身を引いてしっかり兩手で押へたまゝ、渡さうとはしなかった。
「いゝえ、これ、あたしが賣場へ持って行きますわ。」
里見はそのまゝ愕然と突立って、ぢいっと相手の眸の裡を覗き込んだのである。かれは前後の事情をす早く思ひ返して見た。
「知ってるのか。」
やゝ、あってから、かれが低い調子で云った。
「えゝ。」
と、輕くうなづく。急にかの女の眸に、相手を壓倒する様な一脈の強い光りが加はった。
「悉んな?」
「悉んな。」
「ふむ、どうしてね?」險はしい眼つきで訊く。
「あたし、此の棚の向ふから――そこの隙間からすっかり見てゐましたわ。――實は頭が痛くなったので、さっきからこゝへ來て腰かけて休んでゐましたの。」
「成程――そこで、君はそれをどうするつもり?」
「部長の井上さんか雜貨部主任の大谷さんに御覧に入れますわ。」
里見は兩手をズボンに差し込んで、強いて口元に皮肉な笑ひを見せながら、ゆっくりと一股で歩いて、かの女の退路を絶たうとするのだが、かの女も用心深く、少しづゝ位置を變らせる――。
「僕の身體を見るといゝね。君から、そいつを取戻すだけの力はあるだらう。」
「あたしには口がありますよ。」
「なあに――聲なんか立たせるもんぢゃない。それに扉は閉まってゐるし。」
「ほ、ほ、ほ、明日でもあさってゞも、自由にあたしはお喋りしますわ。」
うゝん、とかれは詰まったが、直ぐに冷笑して、
「そりゃ君の御勝手だ。僕はその間にどうにでもするよ。とにかく口をきくとなれば、僕と君とでは、大分信用が違ふ。」
「さあ、どうですかしら。」
こりゃァどうして、一筋繩で行く女ぢゃ無いわい、と里見は考へた。糞ッ、こんな事があるものか! 高がこんな小娘にこの俺、里見啓三がとっちめられてどうするのだ。
――然し、事態が容易ならないものである事はかれも認めなければならなかった。
敢えてネクタイピンとは限らない。そしてワイシャツとは限らない。要するにかれは此の種の奸策を弄して、多額の賍品を巧みに外部に持出することを殆ど常習としてゐた。時計が欲しければ時計を、鎖が欲しければ鎖をと云ふ様に。――そして金錢に換えたい時には――大ていの場合はさうだが――決して危險極まる質屋などへは持って行かなかった。かれ、獨特の方法で、この店の仕入部から再搬入をして、奇怪な支拂傳票を作製し、それだけの金額を會計課から支拂はせてかれ自身が受取った。
かれは嘗つて、天性の、鋭く働らく頭腦で、この百貨店の全般の事務系統を研究し盡した結果、僅かな冒險と機敏と大膽さとを犠牲にすれば、優に一ヶ月壹千圓までは、樂にこの店から引出せると云ふ事を知ったのである。それはもう一年半も前の事だった。以來、かれは表面勤直を装ひ乍ら、飽く事なしに忌はしい窃盗行爲を續けて來たものである。
良心とは感傷性の一種だと考へた。征略主義の權化である一個の企業家として起った男子が、女々しい感傷癖などを、持合せてゐたとしたら随分滑稽だらう。「要するに俺は、これでも着實な企業家なんだからな。」と、うそぶきながら、かれは月々月給以外に壹千圓の収入がある様な「事業」にたづさはってゐた。
どうやらその「事業」が頓挫來しさうなのである。「どんな方法を執ってでも、恢復させる必要があるぞ!」と、かれは拳を握りしめて決心した。
四
「思ったよりあなたは温和しい人だわね。」
と、女が嘲笑的に云った。
「さう見えるかな。」と睨みつける。
が、かの女は平氣だ。
「ちょいとはね。でも本當は中々温和しかないんでせう。きっと里見さんは、かう云ふお仕事にはずいぶん慣れてらっしゃるのね。さう見えますわ。――でも相手があたしではお困りだわね。あたしにも慣れた仕事がありますもの。」
「あ、それぢゃァ君も――」
かの女がひどく誇らしげに笑った。
「ほ、ほ、ほ、御免なさい。間違ったことを考へて載いちゃ困りますから、はっきりあたしの方から申し上げますわ、――若しあなたが、どんなに上手に云ひまわして、今日のお仕事を否定なすっても、あたしはこれまでのお仕事をすっかり調べて上げますからね。計算部にゐましたからその方丈は確かですわ。」
アッと里見は驚愕した。成程、そんな女だったのか! カードと傳票を突合せて、かれの事業の利益決算などをやられては堪まったものではない……何んと云ふ女だらう!……。
やがて、かれはズボンから兩手を引抜いて、胸の上に腕を組んだ……いつか、かれの胸には憤怒の炎がめらめら燃え上って來てゐた。が、それを押へる様にして、
「お嬢さん。」と、話掛ける。「僕はこれまで随分色んな女を見て來たが、まだ君の様なひとには出會はしたことが無いよ。―― いつか僕は、こんな場所ではなしに、君とゆっくり話合って見たい氣がする――まあ、然しそんなことは後の話だね。此の場の始末を早く附けてしまはう。で、僕はかうしやうと思ふ。――斷はって置くが、これは、相談ぢゃァ無くて宣言だ。」
女の頬に、やゝ緊張がはひあがった。
里見は眉を釣り上げる様にして、屹と、その顏を注視しながら、わざと聲を低く落して不氣味な脅迫を試みた――。
「とにかく、その凾をこちらへ貰はないうちは、君をこの倉庫から出さん事にする。無論僕は必要とあれば暴力を用ひるよ。君の小指を一本ボッキリ折るぐらゐの事は全くやさしいからな。――それで、君はたぶん苦痛のあまり氣絶してこゝへ倒れてしまふだらう。とにかく、どうしてもさうする事が必要だ! いづれ誰かゞ後で發見するだらう――その間に僕は出來るだけの事はやってしまはうと思ふ。大して難かしかァない。と云ふのは現に、僕は相當の財産家だからね。
意地の汚たない主任や、部長や計算部の奴らを買収するのには、時間が一時間ありゃ充分だ!――然しそれだけで濟ます積りぢゃァ無い。――尤も僕はみんなから「貴族」なんて呼ばれてゐる手前、なるべくなら惨虐な手段は執りたくは無いが、しかし、貴族は得て惨虐性を具有してゐるものでね。は、は、は、何故かと云ふと、愚昧な平民どもを自分と同様な人間だとは、産れた時っから考へてゐないのだからね。――その點、僕は同じ意見を持ってゐると云っていゝ。」
「……」かの女は無言で、まぢまぢとかれの顏を注視してゐる。
ひと足里見は近寄った――。
「で、かう云ふ事をお約束して置かう――君がどこまでも僕に刃むかふ氣なら、僕も決して容捨はしないと云ふ事。目には目を、齒には齒だ! 狼の様に、君のあやふやな「平和」と「幸福」とを噛み裂いてやるつもりさ! 何と云っても今のところ、男が一人一人の女の生涯を地獄へ墜とすくらゐ譯無しの事は無いのだ。――さ、君、餘り倉庫の中にいつまでゐるのも良くあるまい? 君が利巧なひとならば、餘計な他人の領分なんぞに立入らないで、君自身のことに専念すべきだ。
その凾をこゝへ置いて、化粧室を廻はって賣場へ歸り給へ! みんなにもさう云ふんだ。そして君自身も、倉庫へ來た事なぞは綺麗に忘れてしまふんだ。――生れつき僕は、自分の生活を他人に干渉されるのが大嫌ひな性分でね。」
――その場は出放題の嚇しが利いて明らかに里見の勝利だった。
が、結果としては或ひはかれの敗北だったかも知れない。何故なら、これは甚だ奇怪な話だが、二ヶ月後に進藤はつ子はかれと同棲して、完全にかれの生活に干渉してゐたし、「貴族」の里見は、すくなくとも、「女嫌ひ」では無いと云ふ事になったから。
――だが、依然として月給壹千圓の豪奢な生活振りを續けてゐた事に變りは無かった。
注)明かな誤字脱字誤植は修正しています。句読点は修正したところがあります。
「國禁の書」
「猟奇」 1930.01. (昭和5年1月) より
1
「はゝあ、これは恐ろしいものだ……で、それは?……それは何んです?」
客は支那青年張基銘の手元へチラリと視線を投げ乍ら訊いた。張は本能的に白い手を重ねて、その鼠色をしたパンフレット様の薄い書物と、ノートとをかくすやうにした。
「國禁の書ですよ。」と張は云った。
「見せていたゞけませんか。」
「こればかりは……」張の口調は嚴格だった。「君にも見せられません。表題だけでもお教へ出來ないのです……黨の幹部の指令で翻譯を續けてゐるのですが、單に此の原書を持ってゐると云ふことが知れたゞけでも、僕は即座に君の國の牢獄へ入れられるのです。君を信じないわけぢゃありませんが。」
それっきり客はその書物に就いての質問はしなかった。卅分ばかりすると客は椅子から身體を起した。そして隣室へ歸って行った。張は、小説作家と自稱してゐるけれども、一向落着いて原稿を書いてゐる様子の無い、外出し勝ちな隣室の日本青年に就いて、暫らくの間考へてゐた。
「見せていたゞけませんか。」
さう云った時の、彼の限付が氣になってゐるのである。
――事件はそれから半月ほど經ってのことだった。
2
東京S大學政治經濟部學に籍を置き、同時に日本勞農××黨員である、中華民國人、張基銘――それだけでも彼と云ふ男が随分複雜な生活行程を辿ってゐることは肯づかれるのだが、これに加へて、彼は當時陸軍省統計課に勤務しでゐた日本人、牧野みつ子と戀に陥ちて、去年の夏から此の和洋折衷式のアパアトメントの一室に同棲してゐるのだった。豫測し難い生の波濤の謎よ! 何が彼をかくあらしめたか? 誰もそれを知らなかったし、張自身にも恐らくは解き得られない謎であったかも知れぬ。
――アパアトメントの靜かな一室に時計が二時を報じると、張は椅子から立上って帽子を取った。S大學の午後の講義を聴講に行くのである。肉附の良い身體に藤色のワンピイスを着た斷髪の愛人は、何んとなく憂鬱な表情で、若い革命黨員を送り出した――と云ふのは今朝から頭痛がしたり眩暈がしたり兎角氣分が勝れなかったからである――。
駿河臺の靜寂な町並を抜けて、繁華な街路の方へ曲らうとするところで、張は同じS大學の制服を着た同國人の趙とばったり行き會った。
「あゝ、いゝ處で會った!」趙は何やら昂奮した調子で云った。「直ぐに君の部屋へ行かなければ。」
「どうして?」
あたりをヂロリと見廻してから趙は、低い母國語で説明した――最近又もその筋の左翼秘密結社の監視振りが、頓に嚴を極めて來てゐるが、現に昨日も、共同生活をしてゐた三名の日本人黨員が突然檢束された。秘密文書を押牧されたのは勿論だが、そのうちの一つは張の部屋に在る書類と關聯のあるものだから、近いうちに探査の手が伸ばされるかも知れぬ。で、一刻も早く他の安全な場所へ移動させねばならない――。
張は直ぐに引返すことにした。
「みつ子さんは部屋にゐるのか?」趙が訊いた。
「あゝ、何故だい?」
「何んでもない……」
張は、友人が何を云はうとしてゐるのかを察った。彼自身も漠然と考へてゐたことだったからである――趙はいつか、彼が餘り隣室の日本青年と親しくし過ぎてゐることを非難した。張の妻と日本人里見との親交に就いて、或る種の危惧を感じるといふのである。或る種の危惧と云ふのは必らずしも戀愛關係ばかりを指すのではなかった。女性は秘密を守ることに於いて弱い。例へば張の所有する重要書類に就いて、その隠匿場所に就いて、どう口をすべらせるかもはかり難い――。
アパアトメントの彼自身の部屋が鍵を使はなければ開かない時は、愛人が買物に出てゐる證據なのだった。
「あんなに氣分が惡いと云ってゐたのに……」張は妻と一つづつ持ってゐる鍵をかくしから取り出した。
「あ、」
扉を開けてそこに立ちつくした彼である。心外な光景――みつ子は藤椅子にぐったりとからだを落とし、椅子の背に後頭部をもたせかけて、蒼白な顏である。その側らに隣室の日本人里見が立ってゐる――。
「あゝ、いゝところへ歸りましたね!」
里見は張の顏を見ると安途したらしい口調で云った。
「妻が……どうかしたのですか?」
「いゝえ……輕い腦貧血です。實は僕が外出しやうとして廓下へ出ると、こちらで何かゞ倒れる音と唸めき聲がした……で、僕は何事かあったに違ひないと思ってこちらへ入って見たんですよ。すると奥さんはその机の上に俯臥せになってゐらしたので.僕が力をお貨しゝて藤椅子へかけさせて上げたのです………倒れたのはこの椅子でしたが……」
その時、張は妻が薄くまぶたをみひらいたのを見た。彼は肩に手をかけてゆすった。
「おい、どうしたのだ……お前。」
みつ子はもの憂さうに室内を見廻した。良人と良人の友人と里見と――彼女はやうやくはっきりと意識を取戻したやうだった。
「あなた……」と彼女は若い良人に向って云った。「お禮を云って下さいまして……私あの油繪の額を取らうとして仰向いたら、急に頭がクラクラとして胸が込み上げて來たのよ。すぐに里見さんが來て下すって……」
彼女の言葉や態度には微塵も嘘が無い――張は里見の方へいかにも濟まなさうな顏を向けた。
「やあ……失禮しました……有り難う!」
「いゝえ。ではお大事に……」
「チョット待チ給ヘ。」
支那入趙景文の巨躯が、里見の前へぬっと立った。
「僕、アナタニ少シ訊クコトガアル。」
此の支那青年の日本語は張ほど流暢でなかった。眉は太く、茶褐色の皮膚は堅く、前顎は野獸のやうにガッシリしてゐる。外交官のやうに柔やかな、態度に洗練されたところのある張に較べると、この男は野人といふ感じだった。
「何んです。」里見はいぶかしさうだった。
「何故、アナタハ此ノ扉ニ鍵ヲ下シタノデスカ?」
張と、彼の妻は吃驚して二人の方を見た。趙の此の質問は、全く唐突で殘忍だった。さうだ!……何故、里見は扉に錠を下したか?
然し、當の里見は別に驚ろく様子はなく、たゞいかにもテレたやうな表情で説明するのだった。
「それはね……かうなんです。僕は奥さんが眼をさまされるまで、ちょいとの間こゝに居て上げやうと思ったのさ。するとこゝに鍵が落ちてゐたので、深い考へも無く使ったまでゞすよ……これは僕のやめられない習慣で……一人で考へ事をする時や、調べ物をする時や、さうした絶對の靜寂がほしい時には、どうも扉にピンと錠を下しておかないと、氣がすまないのです。」
突然、張の頭に電光のやうにキラめいたものがあった。で、彼は二人には構はずに書棚の前へ行って、その下に置いである旅行用のスウツケースを開けた。
「………」
彼の女性的な、白い頬が石のやうに硬化した。
鼠色表紙の薄い書籍とノートとが失はれてゐる………。
3
「趙――」
黨友に向って口早やに母國語を浴せかけた張の態度には、針金のやうな緊張が見られた。火のやうに熱した頭腦で彼は考へをまとめやうとあせるのだった。では、矢張り、隣室の日本青年を疑がはねばならないのだらうか?
趙は此の恐怖すべき事實をきくと等しく愕然と眼をみはった。同時に、ニタリと物凄い微笑みを口邊に洩らした。それは恐らく最初からの、彼の豫想が適中したと信じたからであらう。
「里見君。張ノ云フトコロニ依ルト、留守中ニ二三ノ書類ガ紛失シテヰルサウダガ……君ハコレヲ何ト説明シマス?」
「知らないね。そんなことは。」里見は全く感情を害してしまったらしく、口荒く怒鳴り返した。「張君! 此の部屋の主たる君が、どうして貝のやうに默ってゐるんだ?……僕は君から感謝される立場にこそあるが、こんな無禮な人間にとやかく云はれる理由はない!」
「然シ、君ノ立場ハソンナ都合ノヨイモノデハナイ。」と趙は一歩も退かずに抗言した。「君ハ良人ノ不在中ニ、ソノ妻ノヰル部屋ヘ入ッテヰル!……扉ニハ内カラ鍵ヲ下シテヰル。」
「それは説明した筈だ。」
「ハ、ハ、ハ、アンナ説明デハ駄目ダ!」
「張君。一體そいつは君が外出する時迄は確かに在ったのかね?」
張は確實な返答をすることが出來なかった。翻譯書類に最後に目を通したのは一昨日の夜更で、それ以後は全く注意をはらはずにゐた――。
「見給へ!」里見は怒りがましく云った。「いゝ加減なことで人を誹謗することは許されない。」
「勿論、僕ハ好ンデ君ヲ誹謗スルモノデハナイ。君ニ對シテ或ル種ノ疑惑ヲ持ツニハ、持ッタダケノ理由ガアルノダ。」趙は不氣味な笑ひを洩らし乍ら云った。「イツダッタカ、此ノ近クノ喫茶店デ君ガ神田警察ノ思想取締係ノ秋野刑事ト話シテヰルトコロヲ、僕ハ確カニ見タノダ。」
こゝに至って、小説作家と自稱する日本青年は二つの疑惑の目を以って眺められてゐるものと云へる。里見は――それさへ假名であるかも知れぬ――單に張基銘の家庭を破減に導かうとする惡魔ではなかった。彼らにとってはまことに恐るべき帝國政府の密偵として、憎むべき資本主義政府の犬として、彼ら二人、ひいては黨員全般の極秘潜行行動を曝露しやうとしてゐるのである。一歩あやまれば容易ならぬ事態を惹起する! 今此處で、慎重に、そして斷然たる處置を採らなければ!……。
――だが里見は、それを聞くと快然と笑った。
「はゝゝ、張君にも話したことがある筈だが、僕の専門は當時流行の探偵小説だ。從って刑事との交際はいくらでも有るよ……吾々は何事にでも興味を持つ。まして高等視察係とすれば特別だ。」
「デハ……君ハ隣室ノ張ノ生活ニ就イテモ興味テ持ッテヰル!」
「全くだ。張基銘君の生活は僕にとって非常な魅力だと云ふことは白状しても宜しい。」
「……!?」
疑惑から疑惑が生れるのである……此の男、果して一小説作家に過ぎないだらうか? それは假面であって、その下に最も敏腕な青年刑吏の顏が覗かれるのではなからうか? いゝえ、問題はあの鼠色の書籍と張基銘の署名ある未完成の譯文を書きつけたノートだ! それを彼が現に持ってゐるかどうかといふ一事だ!……張はヂッと里見の横顏を凝視するのである。
支那人、趙景文の堅い皮膚を持った顏面は、次第に大陸人特有の獰猛な形相に變って行った。
「吾々ハ、君ノ言ヲ一ツモ信ジルコトガ出來ナイノダ。」
「それは遺憾だ。」
「仕方ガ無イ……」
支那人趙景文は制服の内側へ手を入れると、ふしぎに落若いた態度で黒い重たげなものを出した。素早い手際でキラリと白光りのする刄を返した。大型の鋭利なメス!
みつ子があっと叫聲をあげて立上らうとすると、肩を張の腕がムズと押へた。里見はいかにも脅へたものゝやうに二三歩後ずさりをした。
「ソノ右ノポケットニフクランデヰルモノテ出セ!」
と越。
里見は又二三歩退ぞいた。
趙はいざとなればその巨躯で飛びかゝらうとする用意と共に、ヂリヂリと詰めよせる……が、彼にすれば確かに仕損じたのである。突然、里見の身體が窓際へ飛んだのだ。硝子窓を開ける。右のポケットから書類を掴み出した。バラリと投げた!………窓外へ。……一瞬の出來事である。
驚愕の叫びをあげて二人の黨員は走り寄らうとする。
「待ったり! 無駄だ!……外には秋野刑事が張ってるぞ……もう拾ってしまったさ。吾々の欲しいのは書類だけだ……然し、貴様たちが事を好むなら騒ぐがいゝ! 俺が呼ばなくっても秋野はこゝへ上って來るだらう。」
萬事窮す! 二人の支那人が知ったことは、彼らこそ疑ひもなく敵壘中にゐるのだと云ふことだった。
――アパアトメントの外に出た里見は、その儘ずんずん坂道を下りて行った、五分後には、行きつけの喫茶店「ルル」のボーイが彼を迎へて、奥まった卓子へみちびいた。
「紅茶と、それから?……」ボーイが去ってしまふと彼は、内かくしから二つに折った書類を取出して、滿足氣な呟やきを洩した。
「さて、國禁の書といふのはこれだな。」
彼はアパアトの窓外へ投げ捨てた方の書類のことも、それを拾ふ男のことも考へやうとはしなかった。尤もそんな男は始めから居る筈が無かったし、書損じの詩稿などは實際どうなっても構はないのだった。
4
「毎日々々、僕は檻に入れられた猛獸のやうに、部屋の中を歩き廻ってゐた……たまに文字になった詩を讀み上げて見ると、僕の頭腦は空虚で、やくざだった。ペンは鉛のやうに重く少しも運ばない。……何か、欲しかった。僕の死んだやうな頭腦をよみがへらせる何かゞ欲しかった……「國禁の書」といふやつが僕にピンと利いたのだ。よし、これだ! これにはその何かゞあるに違ひない!
「國の禁書」まさしくそれは詩の領域に屬するものなのだ……張の妻君が――あの氣障な斷髪頭の愚かしい豚女が、ふうふう息を吐いて目をつむってしまった時、僕に「魔が差した」のだ。えい面倒だ! いくらせがんだって、あの憶病主義者は見せっこなし、此の絶好の機會に、當分の間無斷借用してしまへ! 後で僕の仕業と分っても、ものがものだから騒ぎ立てるわけには行かない……で鞄の中から見付け出してふところへ突込んだ時に、まだ三時間は大丈夫だと決めてゐた主義者先生が、ひょっこり歸って來たといふわけさ……」
私の友人里見は快活に笑った。
私は實に流暢な日本語を操る、張基銘と云ふ支那青年を知ってゐる。それから里見が奪取った鼠色表紙の薄い書籍を見た。
どういふ目的の爲に書かれた書物であるか、彼がその後それをどうしたかも知つてゐる。だがこゝには書くことを惧しむだらう。
何しろ誰が所有しやうとも「國禁の書」には違ひないのだから――。
(終)
注)明かな誤字脱字誤植は修正しています。句読点は修正したところがあります。
「613」小舟生
「猟奇」 1930.03. (昭和5年3月) より
「ちょいと君に聞くがねえ、一時から三時までと三時から六時までと、どっちが水い?」
眞面目なやうな眞面日でないやうな、重大な事のやうなどうでもいゝやうな、至極不得要領な態度を以って、私は彼女に向ひかけるのである。
「え?」と云って彼女は私の眼をみて聞き返す。
「一時から三時までと三時から六時までと、どっちが永いだらうと云ふんだよ。」
「ホホホ、あんた本氣なのね、嫌だわ。」
「何が嫌なんだい。」
「きまってるぢゃないの、そんなこと。」
「どっちが永い?」
「あんた、私をからかってるんぢゃなくって?」
てんで問題にしてゐない。此處に至って私はそれまで我慢してゐたエアシップの一本を抜き出して、吸ひ付けるのである。で、悠然たるこなしで、さも心地好げに薄紫いろの煙を吐き出す――これが「彼女」でなく「彼」であったら、もっと辛ラツにやるべきだ。サなくともその煙は彼の顏の方向へ吐き出すべきである。
「まだ分らないのかな、ねえ、どっちが永い。」
「午前? 午後? どっちなの?」やうやく彼女は眞面目だ。
「どっちとも僕は云はないさ。」
「ぢゃ、それは心理學的なの? それとも單に計數的なの?」どうも事が難かしくなって來た。
「君はいくつも答へを持ってゐるのかい。」
「單に計數的なら問題ぢゃないわ。」
「といふと?」
「同じだ、と答へるわ。」
「一時から三時までと、三時から六時までの永さがね。」
「心理的な問題ならば、又考へやうがあってよ。でも、ちょいとやゝこしいわ。」
私はエアシップを心ゆくまで吸ふ。何んてうまいタバコだ! やがて灰皿へ投げ込んで立上る。こゝに待兼ねたセリフがある。
「まづ、頭の惡い點ぢゃ君もヒケを取らないなあ。フフフ。後で、時計の繪でも描いてとっくり考へて見ることを、おすゝめしたいね。――デハ、サヨーナラ!」
注)明かな誤字誤植は修正しています。
「職工良心」
「猟奇」 1930.05. (昭和5年5月) より
一
テーブルが三つしかないケチな酒場で、名前は「末廣」と云ふ。埃によごれた柱時計は夜の十時をちょいと外づれたばかりだが、さっきから客は此の二人だけだ。
どこまでが本音でどこまでが法螺だかケヂメがつかないが、樺太、カムチャッカは愚か、アラスカまで行って來たと云ふ男――尤も彼の指が、滿足なのは六本しかなくて、あとの四本は製鑵用型抜機でつぶしてしまったにちがひないところを見ると、彼も、製鑵職工としては相當場數を踏んで來たことが肯づかれるが――。
有田爲造が、こゝを先途と「めっかち猪の」事、猪瀬幸助を説きつけてゐた。猪瀬といふ男は有田よりもずっと年若だが、これも手を見れば判る。手のひら餘すところなく切傷だらけで、その傷の間や爪の隙間に印刷インキのカスが溜ってゐて、苛性ソーダで洗っても落ちないと云ふブリキ印刷職工だ。片目なのは生れつきだから仕方がない。
「どうだい。やって呉れるな……大して手數のかゝることぢゃなし。」
「さうよ。大して手數のかゝることぢゃなし。」
「それで、お前にゃ酒代が出るしな。」
「月が變りゃあ、こっちからお前をお迎へに上るし。」
「月が變りゃあ……おい! そりゃ本當か?」
「本當よ! 俺は口を酸ぱくしてお前のことを大將に話したんだ。大將も物分りのいゝ人さ。ぢゃ來月からでもそいつをこっちの工場へ呼んでやれ! 話はチャァンと決まったんだ。だがね、どうせ今月限りでそっちを出るんならよ……序でのことに……」
やって呉れといふのである。
それは怖るべき陰謀だった。
資本對資本の血みどろな闘ひ――明らさまに云へば、新興氣鋭のAブリキ印刷工場が經營困難に陥入ってゐるBブリキ印刷工場に最後の大打撃を與へやうとするのだった。
有田の希望は――同時にそれはA工場主の希望であるのだが――B工場の機械を五時間ばかり停めてしまひたいことにある。――そのB工場では或る化粧品製造の大工場から、大口の製鑵用ブリキ印刷の注文を受けてゐたが、材料不足その他ちょいと外部には洩らし難い理由の爲に、期日がとくに過ぎた今日未まだに納まらないでゐる。
注文主は嚴重な督促振りだ! といふのがA工場が裏面に巧妙な策動をつゞけてゐるからで――愈々、明後日早朝七時迄に全部の納品が出來ぬやうなれば、永久にB工場との注文契約を破棄し、新らたにA工場と契約を取結ぶといふことにまでなってゐた。――それで、A工場として此の際主要な問題は明日中に何らかの手段を廻らせて、B工場の印刷機械を作業不能に陥入らせやうといふのである。
「よしか!」アラスカの爲造が駄目を押した。
「やっつけやう……えゝと硝酸が……」
「おっと……こゝにあるんだ。」
上衣のかくしから、手の中には入ってしまふやうな小さな硝子瓶を出して、爲造が云った。「氣をつけろよな。生一本だから、下手ァ曲げるとコルクが燒けるぞ!」
猪瀬は瓶を受取ってかくしへ藏った。彼は躊躇することなくこの申出を實行するつもりだった。かゝる惡策をめぐらすA工場主を憎む一方に、さうした男に巧みに取入って、向後色々と思ふだけの金を搾り取ると云ふことは、彼のやうな男にとって樂しくないことではなかった。
二
「めっかち猪の」はBブリキ印刷工場の「下差し」である。「上差し」といふのは、機械の上へ立ってアメリカンステイルプロダクトカンパニイ製造、一〇〇封度口、14×20インチ角のブリキ板を、機械へ差し込む役目だ。速度は一分間二十六枚。するとオフセット輪轉ゴム胴がぐるっ!と廻轉して赤なりオリーブなりの版が刷れてパッ!と飛び出す。「板取り」は機械の上へ胡坐をかいて、それを素早く掴んで「下差し」に渡す。
そこで「めっかち猪の」は臺の上へ鐵製の取り枠を据えて、一枠三十二枚、三糎間隔で、敏捷な手さばき宜しく差し込んで行く――ブリキ板は四邊斷ち切り「柄の無い刄物」だ! 板そのものが取扱ひに危險千萬な上に、機械から飛び出して來たばかりの奴は、印刷インキが生のまゝだから、些しでも指先が觸れたり、板と板とが重なり合ったら最後その板はゼロになる。ブリキ印刷職工は、然し、何の變哲もない一枚の紙を取扱ふやうに、機械の最高廻轉速度に合はせて、一秒一板の狂ひもなく處理して行く。
「おい! 猪の、代らうぜ。」
「ホイ來た。今度からもっと早く來いな。遠慮にゃ及ばねえ。」
猪瀬は交代に「下差し」を譲った。これで三十分間は彼も手空きといふわけである。手空きとは云へブリキ板を運ぶとか、取り枠を積むとか、機械に油を差すとか、雜多な仕事はあるのだ。――だが、それら以外に今日の彼には、特に大事な仕事が一つ與へられてゐるのだった。
「三時だな……」猪瀬は三時の交代に狙ひをつけてゐたのである。「そろそろ例のやつに取りかゝるとしやうか。」
それは、如何にもアラスカから仕込んで來たらしい寒む氣をもよほすやうな企らみだった――印刷機のわきに突き出てゐる棚に、清水を充たした水鉢が載ってゐる。硝酸の一滴をその中に滴らし込まうと云ふのである。
現代に行なはれてゐる各種印刷術に就いて、その概要だけにでも興味を抱いた人は知ってゐられるであらうが、亞鉛(ヂンク)製版印刷術の生命は、木と油の反撥性を極度に活用した點にある。稍専門的に云ふと、その水は可及的純粋なるを要するのであって、これに少量の脂肪分アルカリ分鹽分等がふくまれてゐても印刷には障害を來たすのである。まして強酸類はどのやうな微量でも甚大の影響を及ぼすこと勿論だ。盛んに進退運轉をしつゝあるヂンク版と、モルトン布を張った保水盤、その上を廻轉しつゝある水壓ルーラー等の缺く可からざる重要装置は、
一滴の硝酸のために、徐々に、確實に傷められて行く。指頭に痛みを感じることが無く、嗅いで少しも臭氣を感じることの無いほど稀薄な硝酸液が、保水盤や水壓ルーラーのモルトン布に作用すれば、それは徐々に燒けて、質が粗硬になり、毛切れが甚だしくなる。印刷の主體であるヂンク版に作用すれば次第に酸化腐蝕して、遂には全く使用に耐えなくなる。要するに三十分、内至一時間經過すれば完全に作業不能に陥入るのである。
「今だ!」猪瀬はさう呟やきを洩らして、油差しを取り上げると、機械へ近づいた。――機械に油を差すと見せかけて、一方の手を水鉢の上にかざし、ちょいと小瓶を倒さにすればいゝのだ。機械は盛んに廻轉しつゝある! ブリキのハネ返る音と、工場一棟をめきめき云はせ乍ら廻轉する機械の震動とが錯綜して、例へやうも無いほど騒然轟燃たるさなかに、彼の胸は實に陰嶮にして惡辣なる希望を育くんでゐるのである。
彼は油差しの口を二つの齒車が噛み合ってゐる個處へ向けた。右手はズボンのかくしに忍ばせた硝子の小瓶を探る! その中にある一滴の液體……それが此の工場を最後の倒壊に導びくものであらうとは!……。
「ふん……何が怖いんだ!……ほんの一と滴らし……俺だって知らねえうちに濟んぢまふんだ。」素早くあたりを見渡す。大丈夫だ! 彼は小瓶を掴んだ。指先でコルクをはねる。さて、どうしたものだ? 瓶を掴んだ手首が重い! かくしから出ないのである。何故だ?
「おやおや、こんな仕事にドヂを踏む俺かい? 冗談だ……」せゝら笑って、彼を壓迫しやうとするものと闘った。「めっかち猪の」の強烈な意力の前には何物も無い!……やがて彼の左手はかくしから引出されて、靜かに、それ自身に眼があるやうに、目的物へ――水鉢へ近づいて行く……二十秒! 三十秒! やるか! よすか!……流石に、この時には埃りと油にまみれてドス黒い彼の額にも、不覺な汗がうすくにぢみ出してゐたのである……。
三
「え?……何んだ?」
機械運轉の制禦は「上差し」の領分に屬する。その「上差し」の岩本が、今何か怒鳴ったらしい猪瀬の方へ耳をかしげた。機械のそばでは、顏と顏をつき合せてゐても、相手の聲がはっきりとは聞き取れないのだ。
「停めろッて云ふんだ!」猪瀬が片目を光らせて叫ぶのが聞えた。
「停めろ?」岩本は審ぶかった。「どうしたんだ?」
「故障だ。」
「岩本は忌々しさうに舌打をし乍ら、制禦把手をぐいッ! と右へ廻はして、制動機を踏んだ。不氣味な静寂が機械の上へ降りる――。
「どうしたんだ?」
「何んだ?」
「誰が停めたんだ?」
「あれよ!」猪瀬は落着いた聲で云って、機械の一部を指差した。「あゝなってゝもいゝのかね?」
皆なが首をのばして覗いた。口々に驚愕と絶望の嘆息が洩れた。
「あゝ……いけねえ……」
「うゝむ……ちょいと厄介なことになりやがったな! こいつぁ。」
「退いた、退いた。」上唇にチョンビリ髭のある、相當の年配の肥大漢が、新聞を片手に、バットを口に噛んだまゝ、皆んなを押し分けた。この機械を一手に預かってゐる職長の野村萬吉だ。
――作業場からの機械の音がふいに停まって、五分經ってもその儘だったので、工場主任はやけに帳簿を閉ざした。
「彼奴ら、何をしてやがるんだらう! チェッ、この印刷は一分だって停められちゃ堪らないんだ!」彼は前の机にゐる外交員に向って云った。「君、行って見て呉れ給へ!」
外交員はエアシップを灰皿に投げ込んで立上った。途端にこの事務所の硝子扉が外から荒々しく開いて職工の一人が叫ぶのだった。
「工場主任! ちょいと顏を出して下さい……機械が!」
四
かゝる騒ぎの中に、獨り猪瀬幸助は、人知れず奇妙な頬笑みを唇元に浮べてゐたのである。彼は皆んなから離れて窓際に來てゐる彼自身を見廻した。彼が何をしたのか? 彼の上に何事が起ったのか?……決して何事も起りはしなかったのである。
――あの時、彼の耳はひどく敏感だった。雷のやうな響音の中に交って、極めて微かな耳慣れぬ軋りが斷續的に聞えたのだ。はてな? と思った。猪瀬幸助はその瞬間、些の邪心もない熟練印刷職工に還ってゐたのである。首を傾げてヂッと耳を澄した。片目ではあるがその駿敏な視力の尖端は、機械奥部の軋りの起る方向を探った。と、遂に發見したのである。
機械は彼の手を俟つことなく、それ自身が故障を起してゐたのだった!――職工仲間の略語で「おかめ」と呼ばれるもの――輪轉の廻轉運動を水平進退運動に變へやうとする装置に要する鐵盤で、外型が神樂の「おかめ」の面に似てゐる――その鐵盤に附屬してゐる、直徑二糎あまりの鐵ピンが抜けかゝってグラグラしてゐたのである。
「停めろッ!」と叫んだのはその發見と同時だった。それは機械職工としての本能とも良心とも云っていゝ心からなる驚愕と憂慮の叫びだった。
どん! と彼の肩を叩いたものがある。
「おい! よくあれを見つけたなぁ!」野村職長がバットを取り出し乍ら云った。「かうなるとチャンと二つ眼玉を具へつけてる俺たちがお恥かしい次第さ。はっはっはっ。」
「診察はどうなんだ? 直るかい。今日中に?」
「大丈夫だ! 何しろお前の見つけ方が速やかったからな。正公が機械屋へ電話を掛けてゐる。ピンとナットを新規の奴と取替へて貰ふだけのことよ。二時間ありゃたっぷりだ。」
猪瀬は苦笑に似たものを感じた。もう少し遅く、いゝえ、機械がガタガタ云ひ出す迄、默ってゐれば良かったのだ。桿の尖端に些しでも狂ひが來たら到底今晩徹夜したって直りっこはない!――だが、猪瀬幸助の心は、全く理由なしに朗々として、天日のやうに明るかった。彼はそれをそうあるべきことゝ是認した。すると、もう、六本指のアラスカの爲造のことなどは、まるで念頭に失くなってしまったのである。
「おい! ところで、此處にうっちゃっちゃ置かれねえことありさ。」と野村が云った。「お前の途方もねえ手柄よ! ほかの印刷ぢゃあねえんだ。俺からよく。大將に云ってやらあ。……こん畜生、一ぱい呑めるぜ!」
「めっかち猪の」はズボンのかくしから何かを掴み出して、窓外の地面へ投げつけた。カチリと冴えた音がして硝子の破片が光った。
「何んだい、ありゃあ?」
「瓶よ!」猪瀬が片目で意味ありげに笑ひ乍ら云った。「どうして俺のかくしへへえってやがったんだか!」
――をはり――
注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は修正したところがあります。
「故意の過失」遺作
「猟奇」 1931.04. (昭和6年4月) より
右腕を白い繃帶で卷き、肩からつり下げてゐる友人の姿を部屋の入口に見出した時、私は一週間前に起った町の大火を思ひ出した。T町の製鑵工場から發した猛火が工場二棟と社宅を全燒した上、近隣に燃え擴がって、全半燒三百五十戸、死傷者八、罹災者一千五百を出したのである。出火原因は火元製鑵工場の、工場長の姪某のたき火の過失からだった。
「どうだね、その後の具合は?」
「有難う、大分快いやうだ……まだ少し動かすとピリピリするが」
私の友人は微かに笑ひ乍ら答へた。彼は私のすゝめた籐椅子に腰を下すと、左手で紙卷を取り出して、五本の指と齒とを使って、シガレットホルダアに差し込んだ。
「然し、君も今度はえらい目に遭ったものだな……勤め先の工場は燒けてしまふし、消防を手傳って火傷をするし」
「うん……」
彼はまた苦しげな、微かな頬笑みを洩らし乍らうなづいた。私が彼に會ふのはあの火事以來二度目だった。出火の際現場に居合せて極力消火につとめた結果、右の腕に火傷を負ってしまった彼――好奇心が私を虜にした。――然し、彼の短かい、冷淡な答へは、私を滿足させてくれなかった。
「あんまり考へ込むなよ。少し時が經てば萬事元通りになるさ。……何んだか君は、名譽ある消防の勇者にしては憂鬱すぎる」
「憂鬱にもなるさ」
突然彼はひどく昂奮した調子で云ひ出した。
「僕は今、激しく責められてゐるんだ」
「責められて?」
「君にだけはうち明けてもいゝが……僕は全く恐ろしいことをしたものだ! 結果から見るとね……あの火事は――死人までを出したあの火事は、實はこの僕から起ったのだ」
私は非常に驚ろかされて彼の顏を見守った。それから全然彼の言葉を信じないものゝやうに云った。
「だが、誰でも工場長の姪とかの不始末からだといふことを話してゐる」
「それは間違ひ無いんだ……確かに彼女の過失だし、彼女もはっきりとそれを警察官の前に陳述してゐる……然し、實際はこの僕から起ったことなのだ」
「それにしたところが」と私は云った「人間、誰にも過失といふものはある」
「過失ならばこんなに苦しみはしないさ、……白状するが、僕は……故意にやったのだ……」
× × ×
「アラ、随分早いのね……」
その日、彼が寒烈な朝の空氣を衝いて工場へ行って見ると、誰も來てゐさうもないと思った作業場の中からソプラノがひゞいた。聲の主は華美な錦紗のキモノで柔かい身體を包んだ斷髪娘だった。
「まあ、今朝は何んて寒いのでせう。でもあんたは感心だわ――いつも眞先に來ることにきめてるのねぇ」
彼は不機嫌に默り込んだまゝ、オーバーを脱いだ。それからブリキの空鑵に灰をつめただけの「火鉢」を棚の下から引きずり出した。
「いゝわ……私が火を起したげるわ、――私今朝は馬鹿に早く起きちゃったの。いつもならまだ三時間も寝てるんだわ――たき木割ってある?」
「割ってあるでせう」
彼女が工場長の姪であるといふことだけでも、彼には憎しみに値ひするに充分だった――殊更昨日の今日では。
――昨日、彼は仕事の合間を見て事務所へ出頭し、工場長に面會を求めたのだった。彼の待遇改善要求も随分久しいものだった。さうして、もう一日も待つことは出來なくなってゐるのだった。何故ならば工場の經營が既に危殆にひんしてゐた。外交員は出て行ってしまった。次の外交員を傭入れる迄、工場長は外交と金策とを一人で兼ねなければならなかった。作業場ではとかく機械が休み勝ちで、職工達の給料支拂ひは三ヶ月前から亂脈を來してゐた――。
「君達の見らるゝ通り工場は目下危險状態にある」
鼻下に小さな髭をたくはへた工場長は、冷めたくいった。
「私は經營者として、寝食を忘れて東奔西走してゐるのだ。君達も少しはこゝを察して呉れなければ困る。今は待遇改善などゝいふ時期ではないのだ」
「工場長、貴方の「時期ではない」は一體いつ頃からのことです」
「兎に角、こちらの仕方に不服がある、此の儘では仕事が出來ないといふならば、やめて貰ふより外はないね」
「は、は、は、いつも貴方とのお話はそこへ落着くのですね。では、いつものやうにこれで打切りにしませう」彼は憤怒に固くなった身體を椅子から上げた。「僕は決して工場をやめたくはないのです」
――彼女が工場長の姪であるといふことだけでも、彼には惜しみに値ひするに充分だった――その上彼女はダンサアの免状を持ってゐた。彼女は東京に於ける一流のダンスホールに勤めることによって莫大な収入を得てゐるのである。
彼は自分が職工であり、彼女が職業婦人であるとしても、二人の間に何ら共通した階級意識を持つことが出來なかった。彼女の生活には恐らく彼の想像すら許さない華美と浪費と怠情と放縱とがあるにちがひなかったし、彼のはそれと反對だった。日給壹圓七拾錢の製鑵職工の生活――そこにあるものは貧乏と營養(※ママ)不良と、機械作業に強いられる機械的な勞働と、一日をも失なふまいとする強いられる勤勉と――。
「この女が時々叔父の處へ二日三日泊りに來るのは、生活の單調さを破りたいためなのだ。この女は作業場へ入って來て、機械の運轉するのを見たり、職工達をからかったりする。チョコレートボンボンをしゃぶり乍ら、女工達と一緒になって鑵の「蓋付け」作業をやって見る――みんなこの女の享樂に過ぎない。とゞのつまりは新らしい話題を拾ってダンスホールヘ歸り、工場勞働者の惨めな生活が、巧みな侮蔑を織込まれて、みんな話されるのだ」
「マッチを貸して頂戴」と彼女が云った。彼女は物置からたき木を一と抱へと、巨大な打抜機のわきからブリキ洗滌用の揮發油鑵とを持って來た。それは手頃の大きさに出來てゐて耳型の把手と小さな口とがついてゐた。女工達がハンダ付け作業の時などにやる、極はめて簡單に火を起す方法を、彼女は眞似て見るつもりらしかった。たき木を「火鉢」の中に組立てゝ揮發油をふりかけ、マッチを投げ込むのである。
――ふん、モガさん、火傷をしなければいゝがね――。
彼は彼女に背を向けて棚の上の、キザミの凾を探した。だが彼女は火傷以上の過失をしてしまったのだった。
彼女はマッッチを摺って落した。ボワッ! といふ音がして、たき木一面が眞赤な焔を吹いた。然し、その時彼女はふしぎなものを見た。眞赤な火焔は「火鉢」の中ばかりでなく、外側にも吹いてゐるのだ! 彼女は視線を移した。すると三寸ばかり「火鉢」をはなれた床の上にも一塊の焔が燃えてゐる……もう一つの焔がそれから少しはなれたところに……。
彼女はハッと胸を衝かれた。火がうつったのだ! 彼女がそれとは知らずに點々と床の上に滴らした揮發油に火がうつったのだ! 恐怖の叫びをあげて斷髪娘はそこを飛退いた。
「あッ、何をしてるんです!……一體」
彼はふり返りざま、彼女をにらみ据えて、憎惡と憤激とを以って、その不注意をなぢった。然し次の瞬間彼のすることは、最も危險な母體である揮發油鑵を掴んで取りのけることだった。だが遅かった。焔は揮發油鑵の口へパッと飛び移った……彼は右手に激しい火熱を感じた。驚愕して掴んでゐた手を放した。(彼の右腕の火傷はこの時に負ったものである)火焔は見る見るあたりへ擴がりはぢめた。横ざまに倒れた鑵から揮發油がどくどく流れ出したにちがひない。素破事件だ! 床はコンクリイトではない。乾燥しきった板敷だ……。
「水だ!」彼は叫んだ。作業場の出入口の外に「洗い場」があった。水道が引いてある。幸はひにもバケツが三つあった。
「ドンドン汲んだ……」
彼は一ぱいになったバケツを手に取ると作業場へ飛込んだ。二尺ばかりの高さに、凄まじい勢ほひで燃え盛ってゐる火焔を目がけて、ザブリと浴びせかけた刹那、焔は一時に消えた……やうに見えたのだ、どこかに殘ってゐた焔は忽ちツヽと水の上を走って、又もやパッと全部が火になった。水を加へられて却って前よりも面積が廣まり、火力は猛烈になったのである。
彼は飛ぶやうに戻って、彼女の手から二杯目のバケツを引ったくった。唇を紫色に變へて彼女が叫ぶ。
「誰か……誰か呼びませうか!」
「大丈夫だッ!」
第二の水は非常に効果的だったと云へる。水を浴びせられたところへはもう火がうつらなかった――然し、水の至らないところは益々激しく燃えてずんずん擴がるやうだ。彼は目を刮った。何んといふ危險! その先數尺のところに昨日到着してその儘になってゐる、ブリキ塗装用のワニスの鑵が二三十山と積んであるではないか! そしてその後は物置だ。揮發油、石油、重油、グリセリン、恐ろしい引火物ばかりだ……。
「あゝ、ワニスへ燃えうつらない前にすっかり消すことが出來るだらうか!」第三のバケツを取りに走り乍ら、彼は彼自身の頭を火のやうにさせて考へる。「若し、ワニスの鑵が火熱に耐えられなくなったら……大爆發だ!」
バケツは二杯充たされてゐた。
彼は第三のバケツを手に、火の海の前に立った。急所と思はれるあたりへ叩きつけるやうに浴びせた。萬歳! 彼は全身歡喜にふるへた……焔はパッと散って、非常に火力を減じた。彼は第四杯目のバケツを掴んだ。
「消えるぞ!……この一杯でとゞめを刺してやる!」
× × ×
「僕はその時、ふいに自分自身をふり返ったのだ。何んだって俺はこんなに一生懸命になって火を消さうとしてゐるのだ? 誰のために? どういふ理由で?……ねえ君。何んといふロクでもない功利主義だらう」
私の友人は惑亂に充たされた表情で云ふのだった。
「それは、兎に角、咄嗟の間に僕は實に恐ろしい、殘忍な考へをまとめ上げて、然かもそれを即座に實行してしまった……とはいふものゝ、その時には、それが當然、僕の成すべきことのやうに感じられたからやったまでのことなんだ。どうしやうもないではないか」
――久しい以前から抱懐しつゞけてゐた冷酷な工場長に對する憤懣は、彼の消防の誠意を鈍ぶらせたのである。そして工場長の姪に對する得態の知れない反感と憎惡は彼女の過失を少しも訂正する必要のないことを囁やいたのだった……。
よし、分った! 彼は眞赤に燃え上る火焔に面して惡魔の笑ひを笑った。で、第四杯目のバケツの水はまるで違った方向へあけてしまった。これは大きな、故意になされた過失だった……機會は彼の手からはなれて、火焔の占めるところとなった。彼が甚だしい危險を感じて身を退ぞけた時、山と積み上げられたワニスの鑵の一つが、凄さまじい音を立てゝ爆發した……。(終)
注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は修正したところがあります。