「小舟君のビーストンの研究について」甲賀三郎
「探偵趣味」 1927.05. (昭和2年5月) より
小舟勝二君は隠れたる探偵小説の研究者である。諸君もし過古數年の新青年誌を繙くならば、投書家としての同君が随所に活躍してゐるのを見出すであらう。同君は又創作もやる。そのうちの一篇は新青年の五月號に掲載されて同君の侮るべからざる手腕と將來への期待の閃きを見せてゐる。同君の創作は本誌に近く現れる筈だ。
小舟君の熱心なる研究は遂にビーストンの研究百八十枚を脱稿させた。ビーストンを總ゆる方面から見て、彼を解剖し批評し、縦横無盡に忌憚なく完膚なく彼の藝術を研究し盡してゐる。小舟君のこの論文を讀むと、半ば忘れかけてゐた彼の作品が歴々と頭の中に蘇み返って來る。さうして今更ながらに、彼の旨さと鋭さと面白さにすっかり陶酔する。小舟君は自ら創作するに際してビーストンの影響を受けて困ると云ってゐる。之だけ研究すれば蓋し當然だ。
一讀した私でさへが非常な影響を受けた。私は小舟君の研究を讀んでから、その直後にビーストン風の作品二三を書いた事を白状しても好い。この研究は確に作家を啓發する所が多いと思ふ。ビーストン風のものを書く人にはもとより、そんな風のものゝ嫌ひである人でも、きっと影響を受けるに違ひない。さうしてそれが好い影響である事を可成自信を以て云へる。
ビーストンの作品は可成紹介されてゐる。新青年誌に譯載せられたものゝ中ではビーストンが最高位を占めてゐるやうだ。小舟君は研究の材料に勉めて一度譯載されたものを使ってゐるが、之はさうあるべき事で、讀者にファミリアーのものを研究材料にする事は研究者にも便利であり、讀者にも便利である。たゞ、その爲に作品が稍極限されて、いろいろの方面から見てゐるうちに、重複した様な感じを抱かせる事がある。それが一方から云ふと全體として長すぎると云ふ事にもなる。
然しそんな事は白玉の微疵であって問題にはならない。小舟君が忙しい勤務の餘暇總ゆるものを放擲して、數ヶ月を費して書き上げたと云ふ事を聞くと、その貴い努力に對してはたゞ讃嘆する外はない。
こんな渺々たる小雜誌に既に創作と翻譯の讀物のある上へ、百八十枚の研究を分載して行くと云ふ事については相當考慮も拂った。水谷君とも相談したし、小舟君とも話合った。小舟君は高級な所謂通を讀者に持ってゐる本誌に掲載する事は非常に望んでゐたし、それにかゝる長篇の論文を掲載する事も他の同型雜誌中に見ない事で、大いに本誌の誇りになる事だし、斷然諸君の御高覧に供する事にした。
蓋し諸君は讀後決して後悔する事はないと思ふ。ビーストンの好きな人は勿論嫌ひな人であっても、必ず惹きつけられずには居られないものだ。殊に作家には非常に稗益する所があると思ふ。敢えて一讀を江湖に励める所以である。
注)一ヶ所、本紙を他と同じ本誌に修正しています。行末の句点は追加しているところがあります。
「ビーストンの研究」
「探偵趣味」 1927.05.〜10. (昭和2年5月〜10月) より
まへがき
探偵小説家エル・ヂェイ・ビーストンには、秘密がある。
私のかねてからの望みは、ビーストンを徹底的に研究し解剖し、その秘密を探り度いと云ふ事だった。
探偵小説に關する批評研究その他の文章は、ともすると、短艇小説の興味の焦點であるトリック、伏線を曝いてしまひ、その作品をまだ讀まない讀者をして、甚だしい落膽を感ぜしめてしまふ事がある。
處で、ビーストンの作品は、雜誌「新青年」「探偵文藝」その他に掲載されたるもの今日迄に、實に三十餘篇を數へる事が出來るくらゐである。そこで私の研究は、無論原書及それら邦譯を通じて、萬全を期するやうに心懸けたが、時に引例を必要とする場合は、既に發表された邦譯ものゝ中から採る事にした。これだけは許して貰ひたい。又邦譯ものはしばしば原作と異った題名が附されてあることを私は發見するが、讀者の便宜上、私の引例には、總べてそれら邦譯題名をそのまゝ用ひる事にした。
第一稿 ビーストンの探偵劇趣味
1
「ビーストンの探偵劇趣味」と云ふ稿を草するに當って、先づ私は、かれの作品に出て來る劇作家の名を、二人だけ擧げて置かう。
その一人は劇作家ウエストラム氏。もう一人は劇作家ファラウェイ氏である。前者は作品「五千磅の告白」に後者は「一月二百磅」に各々その姿を見せ、その創作脚本を發表してゐるのである。
此の二つの探偵小説は、作中の制作家が創作した脚本を作中人物が實演することで、終始してゐると云った體載であるから、謂はゞ探偵小説と云ふよりも探偵劇と云った方が良いくらゐである。
同時に又、ビーストンは單に劇作家と書いてゐるが、これはどの點から見ても探偵劇作家と呼ぶのがふさはしく、私には思はれる。私達はビーストンを呼ぶのにいつも探偵小説家と云ってゐる様に。
さて、此の二人の、探偵劇作家の現はれてゐる二つの作品は、ビーストンのものとしては、あまり傑作とは云はれないが、今これから私が述べやうとする、「ビーストンの探偵劇趣味」の研究には、相當に價値のあるものである。そこにはビーストンの、探偵劇と云ふものに對する總べての「心構へ」が、ありありと出てゐるからである。
總じてビーストンの作品には叙述體の文章よりも會話の方が多くの部分を占めてゐる。
私達はル・キウを知ってゐる。
ル・キウの持味は、あの水の流れるやうな、美しくも淡々たる叙述である。誰かゞ書いてゐたやうに、ル・キウには筋の奇抜さは無いが、筋の運び方は平凡だが、その平凡さが無類であるのだ。
處でビーストンにはそれが無い。
犯罪實録と云ふもの、犯罪記録と云ふもの、さうした總べての説明的な文章には、ビーストンはビーストンで別の手法を掴んでゐるのだ。一口に云へばそれは立體的である。平面的でない。
例にとって見るならば、アガサ・クリスティ女史のポワロものゝ中に、「智慧の戰ひ」(※「謎の遺言書」出典・訳者不明)と云ふ一篇があるが、その中に、ヴァイオレット・マァシュ嬢と云ふのが、探偵ポワロにかう話し出してゐる。
「私は孤兒でございます。父は二人兄弟で、デヴォンシャの小さな自作農の家に生れました。自作農と申しましてもほんの小さな農場のことですから、兄のアンドルウの方は早くからオーストラリアの方へ移住しまして、相當成功しましたので、土地の思わくに手を出したのが當って、大變殘しました。弟のロージャの方は私の父でございますが、農夫には不適當に生れついてゐたものと見えまして、自分で勉強して、ある小さな會社の書記になりました。
さうして自分より少し年上の一婦人――私の母と結婚致しました。母は貧乏畫家の娘でございます。父は私の六つの時に亡くなりました。それから、母も私の十四の年に父の後を追って天國へ旅立ってしまひました。私は獨り娘でございますから、父母に先立たれてしまひましてからは……」
こんな具合でまだまだ日本文に直して原稿紙七八枚程續け様に話すのである。
私はクリスティ女史の作品も相當買ってゐる。が、毎朝の勤務の途中、省線電車の中で讀む時だけは、クリスティ女史を敬遠してこれに代へるにビーストンを以ってする事にしてゐる。
ビーストンならばこんな場合に、決して私達に退屈を與へては呉れないからである。
クリスティ女史の手法は、作中の人物が語ってゐるとは見せかけてあっても、その實は、作者自身から讀者へ話してゐると同じで、あのル・キウの犯罪實録と何の變りもないことになるが、ビーストンの手法は、明らかに、作中の人物が、作中の人物に話してゐる、それである。作者と作中の人物とは、はっきりと區別がついてゐる。話す人物は興奮し、聞く人物は驚愕する。そこに眞の人間を見る。
何とも遺憾なことに、私はクリスティ女史の作品には生きた人間を餘り見かけないのが常で、いつもたゞ作者の鋭敏な頭を感じるだけである。
要するにクリスティ女史は話す事件そのものに深い注意を怠らないやうに書き、ビーストンは事件を話す人に深い注意をはらって書いてゐるのだ。深い注意と云っても別に難かしい事ではなく、たゞ、一つ、「如何なる場合にも、斷じて讀者に退屈を起させてはならぬ。」と云ふ事であるに過ぎぬ。
凡そ、ビーストンくらゐ退屈と云ふこと、無爲と云ふことを嫌ふ人もないだらう。此の點でかれは全く近代人であり、かれの作品が省電の中でも讀み得られる所以であるのだ。
「眞鍮の燭臺」(※妹尾韶夫訳「新青年増刊」1926.08.)と云ふ作品の中で、苦境に陥ちて貧民窟に住まってゐる主人公のシェパードが、かう云ふ溜息をついてゐたのを、讀者は記憶してゐられるであらう。
「病人と一緒に住むなんて嫌なこった。何と云ふ陰氣な家だ! 二十八歳の丈夫な體を持ちながら、こんな處にぶらぶらしてゐても詰らない。何時までもこんな處で愚圖々々してゐると終ひには馴ひ性となってしまふ。怖ろしいことだ! 貧乏と不潔は病氣みたいなもんだ。馴れるとそれが何ともなくなる。あゝ、何とかして――何とかして――」
そのまゝに、これは作者ビーストンの惱みである。悶えである。
ビーストンは若い!
私はいつもさう思ふ。ビーストンは青年の心を持ってゐる。退屈と無爲とを病氣のやうに嫌な人間の心持を知ってゐる。かれが探偵小説家になったのは、全く當然のなりゆきだったのだ。私はいつもさう思ふ。
此の悶へから産れたビーストンの作品が、激烈な興奮と凄惨な迄の緊張とを持ってゐるのは不思議でない。
私達は數々のコナン・ドイルの探偵小説を讀んだ。そしてドイルの探偵小説には、氷の様な冷たさと、鐵のやうな意志と、深く深く人間を、思索の世界に導くものゝあることを知った。
が、ビーストンの探偵小説は、全くこれと同じでない。ビーストンの探偵小説は、冷嚴な思索を、許さないではないか。瞑想を許きないではないか。私達は、そこに鐵の様な意志と云ふよりも、熱火の様な熱情の躍動を見る。思索に非らずして躍動、瞑想に非らずして、躍動! さうだ、そこに私は、「ビーストンの探偵劇趣味」を見出す。そこにかれの探偵小説が、「小説」的であるよりも、より「戯曲」的であることの素因を發見するのである。
2
アンドレ・ド・ロルド。
私は保篠龍緒氏に依って此の人の名を知る事が出來た。
「アンドレ・ド・ロルド(Andre de Lorde)は」と、同氏は書いてゐる。「かれは、「エドガー・ポーは恐怖の小説を書いたが、私はさうした氣分を劇によって演出したい」といって、斯うした陰惨な劇の創作に専念してゐます」
それは雜誌「新青年」大正十五年新春増刊號にロルドの作品「檢屍室」を譯載するに際しての紹介なのである。
「この劇は一九〇四年に「モデルヌ劇場」で上演されました。彼の書いた殺人、探偵等の血なまぐさい劇は幾つもあります。中には餘りの恐ろしさに試演中の俳優が卒倒したなぞといふエピソードすらあります」
探偵小説と探偵劇。それは決して離して考へる事の出來ないものだが、何う云ふものか後者の方は一歩遅れた感がある。私達はドイル、フリーマン、オルツィ、チェスタトン、ルブラン、クリークを知って來た。が、それ程に數多くのロルドを知ってはゐないのである。
けれども私は今一人の名を擧げる事が出來る。
エル・ヂェイ・ビーストン。
成程、探偵小説家モウリス・ルブランは一方には劇作家だった。今でもかれは劇作家として生きてゐる。アンナ・カスリン・グリーン女史も探偵劇脚本を書いた。が、ビーストン程に多く書かなかった。「アルセエヌ・ルパン」をあれ程に長々と書き續けて來たルブランも、ビーストン程多くは探偵劇脚本を書かなかった。
私達は今、ビーストンに直面してゐる。ヴェスヴィアス火山が今もなほ噴煙を擧げてゐるやうに、エル・ヂェイ・ビーストンは、一九一〇年頃から今日迄倦む事を知らすに、數々の探偵劇脚本を書き續けて來てゐるのである。
私はこゝで微笑を以って一言附加へて置きたい。
ビーストンがいつ探偵劇脚本を書いたのだ? と。
――ビーストンは今日迄、探偵劇と銘打った作品は一つも發表して居ないやうに、私は思ふ。けれどもかれの作品は、その何れを見ても、探偵劇そのものであり、或ひは探偵劇的傾向のものであり、或ひは探偵劇趣味のものでないものはない。ビーストンは探偵小説家として有數の作家と讃へられつゝある。が、此の特殊な作品の傾向は、まさにかれをしてユニークな作家たらしめるものである。
私は曾て、妹尾韶夫氏の書かれた、「ビーストンの特質」(※「新青年」1925.10.)なる一文を讀んだことがある。が、遂に此の特殊な作品的傾向に云ひ及んでゐないことを知って、ビーストン作品の健實なる翻譯家として、日頃崇敬してゐる同氏のために、非常に遺憾に思ったことがある。
「五千磅の告白」「一月二百磅」に、劇作家が出てゐる事は既に書いた。
「シャロンの燈火」「ヴォルツリオの審問」「十萬磅」「惡魔の笑ひ」「浮沈」「惡漢ヴォルシャム」「約束の期限」「幻の手」(※「過去の影」)「眞鍮の燭臺」「東方の寶」「緑色の部屋」「犯罪の氷の道」
これらの作品には劇作家も俳優も出てはゐないが、その代り作品全體を通じて、非凡なる探偵劇作家ビーストンの大きな姿を見る事が出來る。
ビーストンは探偵劇作家として、開拓者として先覺者と成功者の三つの名を與へられて差支へない。
と私は斷言しよう。
此の斷言が間違ってゐるかどうかは、直接今擧げた數篇の作品に就いて研究される事を、一般の愛好家諸氏に望むものである。
3
次にビーストンの作品にあらはれた、かれの劇作に關する言葉を聴いて見よう。
「五千磅の告白」(※宮井敏雄(妹尾韶夫?)訳「独立」1924.09./『ビーストン傑作集』中島河太郎編(国DC※)ほか収録)の中で劇作表ウエストラムが倶楽部へ飛込んで來ると、友人の舞臺監督シェバースンが欠呻をしながら、かれに聲を掛ける。
「ウエストラム君、何處に行ってゐたんだ、こんなに雨が降ってゐるのに?」
「ビーアレジ劇場で今まで『赤い凝視』と云ふ芝居を見てゐた。面白くないので途中から飛出しちゃった。」
「あの芝居は、僕の提言で舞臺に登せたのだ。」舞臺監督シェパースンが云った。「然し、あれは失敗だ。面白くない。囈言ばかりで、少しの緊張味もない。あれなら君が途中から飛出すのも尤もだよ。」
「口が惡いね。シェパースン君の批評は何時も苛酷だ!」
新聞記者マクロイドが云った。
私は、此の、舞臺監督が、よくビーストンを現はしてゐると思ふ。「あれは失敗だ。面白くない、囈言ばかりで、少しの緊張味もない。」――さう云ってシェパースンの様に倶樂部で欠呻をしてゐるのが、ビーストン自身なのだ。だからこと程左様にかれの作品といふものはいつも「面白くて」、「囈言は一つも云はず」、「緊張し切ってゐる」のである。
劇作家ウエストラムは友人バーバスカと協力して、今度此の高慢な舞臺監督シェパーマンをあっと云はせるやうな脚本を書上げた。そこで二人は舞臺監督に芝居とは告げずに、その脚本を實演して見ようと云ふのである。
それはかれの後からその部屋へ入って來たバーバスカを、或る窃盗犯として、かれに告白状を書かせると云ふ筋なのだが、かれらはその芝居を、同席の醫者ウッズにも、新聞記者マクロイドにも知らせずに、早速本當らしくやり始める。同時に讀者にもそれと知らせないで行くところに、ビーストンの妙手がうかゞはれるのである。
友人のバーバスカを窃盗犯人だと、本當に思ひ込んでしまった醫者と新聞記者は、驚愕して、これはどうなることかと、兩人の火花を散らす様な會話をはらはらして聴いてゐる。
處がビーストンの作品によく出て來る、ひどく太っ腹な、巨木のやうな感じのする男である舞臺監督シェパースンは、始めの中は一向乗氣になって來ないで、半分茶化し乍ら傍觀してゐる。が、筋が進行して來るに從って醫者や。新聞記者と同じやうに次第々々に釣込まれ、激げしい緊張と興奮がかれを襲って來るのである。
その心理過程が、全く素張らしく描き出されてゐる。と云ってもその表現は、簡單な殆ど叙述體抜きの、單なる短い會話の羅列に過ぎないのであるから、ビーストンはまことに凡庸作家でないことが解るのである。
私が此處に、その芝居を見せられてゐるシェパースンが要所々々に發した言葉だけを抜萃して置く事は、ビーストン作品の會話研究の爲に、決して無駄な事ではないと思ふ。
最初は嘲笑を以って、次には微笑を以って、次には不審を以って、又疑惑を以って、それから興奮を以って、シェパースンは、讀者と共に叫ぶのである。
「冗談は止して、早く續きを話し給へ。面白いぢゃないか!」
「好い思ひ附きだ。」
「成程抜目のない處を云った!」
「バーバスカ君、しっかり遣りたまへ!」
「皆んなが退屈するから短く書きたまへ。」
「ひやひや!」
「おや、ウッズ君は真面目だね!」
「ウエストラム君、どうしてそんなに興奮してゐるんだ?」
「もう冗談は止めろ止めろ!」
「何うしたんだ?」
「ほう!」
――こゝで流石のシェパースンもすっかり本氣になって緊張し切ってしまふと、劇作家ウエストラムがしてやったりとばかりに、今迄のは皆な芝居だったのだ、と識明する。即ちビーストンの作品「五千磅の告白」は次の様な數行てキリリと終ってゐるのである。
「おい、諸君、放っときたまへ! それァお金ぢゃない。本當の札束は、ほら、此のポケットの中にちゃんと仕舞ってあるよ。而も、御覧の通り上の二枚が本物で、後は皆贋札だ! さァ目を丸るくしてウエストラム君と僕をよく見て呉れ給へ。
僕達は今「生の緊張」と云ふ一節を稽古したのだ。舞臺監督のシェパースン君は有名な難かしやで、なかなかよしと云はないから、今ウエストラム君と僕と二人で作った脚本の一節を實演してお目に掛けたところさ。どうだい、シェパースン君、この脚本を買って呉れないか?」
すると、何時も物事に動じない落着き拂った舞臺監督シェパースンが此の時ばかりは興奮を面に表はしながら、
「買ふよ! 買ふよ! 英國も、米國も、それから植民地に於ける興行權も買ふよ!」と、云った。
4
ビーストンの探偵小説の探偵劇的傾向は、全くかれの探偵劇趣味から來てゐるのであるが、かれの此の好劇趣味は同時に作品の筋書そのものにかれ獨特な型を産むに至った。
そもそもかれは今やその數、百に垂んとする多數の作品を持ってゐる。そして勿論一つ一つその筋の組立ては異ってゐるのであるが、然し大局から見れば、三四の例外はあるとしても、大部分は常に同一の軌道を通ってゐると云ふ事が出來る。
あらゆる探偵小説に共通の題材と云ふものがこゝにある。即ち、惡漢が巧みな策略を弄して目的の金品を窃取すると云ふ筋だが、ビーストンの好劇趣味は、かれをして此處に常に同一の手法を採らせてゐるのである。
かれは平凡は嫌ひだからと云っても惨酷や俗惡や三面記事のやうな蕪雜さを好まない。で、此の場合にも、作中の惡漢をして、決して短銃を無暗に發射させたり、相手の咽喉を締上げさせたり、野戰的な腕力を使はせたりしない。詩人ビーストンの靈を受けた惡漢は、實に巧みな芝居を打って、相手を翻弄し、相手の心を自由に操って、結局悠然と目的を果してしまふのである。それが餘りに巧みであり美事であり、ロマンティックでもあるので、讀者は主人公と一緒にまんまと謀られ乍らも、つくづく感嘆してしまふのである。
この芝居をやると云ふ處にロマンティスト・ビーストンの面目が躍如として居り、そしてかれの作品に劇的傾向が加はる所以なのである。
このビーストン筋書の同一軌道――或る目的を果す爲に直接行動、強制行動に出でず巧妙な芝居を打って、相手の心を掴み、目的を果すと云ふ手法――は、想像力豐かなかれの頭腦の中で、様々な型に造り變へられて、如何にも新らしい筋書であるかの様に、次々と外に出て來るのである。が、要するにその筋書の走る軌道は唯一つなのだ。
ビーストンの筋書に關する私の凡ての研究は、後の筋書研究の稿で、詳細に述べる積りであるが、此の稿でも全然かれの筋書に就いての叙述を避けることは出來ない。かれの好劇趣味はかれ獨特の如何なる筋書を産ましめたか、かれの想像力は、同一軌道上の筋書に、如何に様々な型を造らしめたか、以下私はこれらのことを數篇の作品に就いて述べて見ることにする。
「三百三十三號室」(※鹽田喜八訳「新青年増刊」1922.09.)
ユーゴー・バアレエ卿邸に招待されたウエーリッヂは、その晩、バアレエ夫人所有の首飾を盗み出さうとした現場を、當夜來合せた六人の客に見られて、罪に服し、二ヶ年の牢獄生活を送った。牢獄から出たかれは、一夜、曾ての晩に集まってゐた六人の客を、或るホテルの三百三十三號室に招いた。そして恐ろしい事實を告白したと云ふ――。
かれはあの夜、決して首飾を盗まうとしたのではなかったのだ、と云った。かれは、その頃、或る理由で、或る怖ろしい秘密結社に、絶えずその命を狙らはれてゐた。その晩も階下に妙な物音がしたのが氣になって堪らず、そこへ行って見ると、一人の寶石盗賊が、首飾を持って逃げ出す處だったが、かれの姿を見ると首飾をそのまゝ捨てゝ窓から逃げ去ってしまった。かれはだから盗賊の發見者であって盗賊ではなかったのだ。そのかれが、何故罪に服して牢獄へ行ったのか?
それは物音を聞きつけてやって來た六人の招待客の中の、眞先に立った一人の男の右手に、かれが怖れてゐる秘密結社の刻印があったのだからだ。とウエーリッヂは説明した。敵は間近に居たのだ。秘密結社員の爲に命を取られるか、盗賊の汚名を着て牢獄に逃れるか。進退に窮したかれは遂にその後者を採ったのだった。そして無論その手に刻印のある秘密結社員は、今日此の集まっていたゞいた人々の中に居るのです。――これでウエーリッヂの話は終る。
そして矢庭にかれはハンロンと云ふ男目掛けて飛び掛る。が不幸にもハンロンの方が勝って居たため、かれはその場に打倒され、ハンロンを逃がしてしまふ。
ウエーリッヂは可哀想に、苦腦の餘り崩れるやうにうつぶして了った。立派な男子のすゝり泣きを聞くのは、あまりいゝ氣持のしないものだ。「可哀想な、本當に可哀想な奴だ!」とは、後に客の一人がその時の事を話した終りに思はずも洩らした心からの同情の言葉だった。
その後、出獄者ウエーリッヂは再び晴れて交際社會に仲間入りすることが出來、又、同情ある人々は醵金して、かれの爲に生活の保證をしてやった。
處でビーストンの解決はかうである。即ち、ウエーリッヂと云ふ男は矢張り、眞の寶石盗賊なのであって、かれは確にバアレー夫人の首飾を盗み出さうとして物音を立てたために、發見されたのだ。そして牢獄へ送られたのだが、出獄したかれは、どうかして再びもとの交際社會へ出入り出來るやうになりたいものだと考へた。その目的の爲に、秘密結社といふ假空の物事を持ち出して、仲間のハンロンと一緒に、一芝居打ったのだ。――と云ふのである。
「興奮倶樂部」(※妹尾韶夫訳「興奮の酒」「新趣味」1923.03.の改題と推測/『ビーストン集』博文館ほか収録)
ガーマンは單身自動車を操縱して、人里離れた寂しい山の中の、一週間前に老人が惨殺されたと云ふ一軒家の邊りへ行って見る。歸途そこから二哩ばかり離れた酒場へ立寄ってその事を話すと、酒場の主人が犯人が未だに補はれない事や、警察で探してゐる犯人の、服装年齢やを話す。
酒場から出たガーマンが人氣の無い寂しい夜道を、五十碼ばかり自動車を走らせると死人のやうに白い顏の男が、
「倫敦の方へ歸るなら、途中迄でもいゝから乗せてくれ。」と哀願する。その男は妙に紳經質な、物怖ろしい顏をしてゐるばかりか、その服装年齢が、酒場の主人の云った犯人のそれと、ぴったり符合してゐる。
殺人犯人を彙せてしまったガーマンは、豪放剛膽な男だったので、自動車を走らせ乍らかれを訊問する。と、突然男は車から飛降りて逃走しようとするが、闇の中に曲りくねった樫の木の梢のあたりを見ると、
「おや! また彼奴が出て來た!」と恐怖に襲はれたやうに叫んで立すくんでしまふ。此の男は自分が殺害した老人の幽靈をそこに見たのだった。その怖ろしい叫聲に、背骨に氷の様な戰慄を覺えたガーマンは、然し、非常な努力を費して、結局比の男を警察には連れて行かすに、自分が會員になってゐる興奮倶樂部へ連れて行った。
此の興奮倶樂部と云ふものは、ともすれば平凡に堕してしまひさうな人生の中から、激烈な興奮を味はうとする人々によって組織されてゐるのである。ガーマンは屹度みなを喜ばすことが出來るだらうと思ったのだ。
そして會員は物怖ろしい顏をした殺人犯人を歡迎(?)した。が、その男は不意に窓際へ走り寄って、
「また、彼處へ出て來た!」と喘いだ。「これで四度目だ! おれを見上げてゐる! 此方へやって來る! 早く扉を閉めて下さい! 這入らせないやうにして下さい!」
かれは又老人の幽靈を見たのだ。が、ガーマンがひょいと窓外を見ると、血の氣の無い石の様な顏の老人が、此方へ歩み寄って來る様子! ガーマン始め倶樂部員は、確かに幽靈を見た。のみならず、幽靈は階段を上って來た。そしてかれらの部屋へ現はれて殺人犯人の咽喉首をぎゅっと掴んだ!
さてビーストンの解決はかうである。ミルンと云ふ男は豫ねてから、是非とも昂奮倶樂部へ入會したいと云ふ目的を持ってゐた。此の倶樂部の會員になるには、激烈な昂奮を提供しなければならない規定だったので、ガーマンが殺人事件のあった地方へ旅行をしたと云ふ事を知るや、かれは會員の一人老イートマン博士を相手役として、二人で一芝居打ったのである。即ち、ミルトは殺人犯人の役、イートマン博士は幽靈の役を受持って、實演したのだった。
5
「東方の寶」(※妹尾韶夫訳「新青年」1922.09./『至妙の殺人』論創社ほか収録)
これにはずっと變った取扱ひ方を見せてゐる。アンゼルミング大佐は、コンスタンチノーブルに來て、親友メジド總督の邸宅へ暫しの客となった。その大佐は英國に歸る際一つの贈物を總督から貰った。それはたった一本の葉卷なのだが、それを渡す時總督は重々しく微笑してかう云ったのである。
「私たちは今でこそ日に照らされてゐますが、明日は日蔭の身となるかも計り難いのです。貴方も今は幸福と富に包まれてゐますが、何時何んな事にならんとも限りません――生活の酒の味が苦くなって、朝は失望と共に目醒め、夜は悲哀と共に眠りに就く時が來ないとも限りません。若しそんな時が來たら、何卒私の此の贈物の事を思ひ出して下さい。これは總べての悲惨の最後の慰安で、何んな烈しい苦痛も確實に直してくれます。この薫の高い煙草を僅か二三分喫へば「休息」と云ふ言葉の本當の意味を知る事が出來るのです。」
頭の良いアンゼルミング大佐は、これこそ怖るべき死毒のつめられた葉卷だと思ひ込んだ。讀者も又さう思ひ込んでしまふ。のみならず、作品中の二青年がそれを喫って見ると云ふ事件がまき起される。
が、ビーストンの解決は少し異ふ。葉卷の中には世にも高價な寶石が卷込んであったと云ふのである。メジド總督は、富が總ての人間の悲惨を救済すると信じてゐる人だったので、親友と別れるに際して、實は金錢を贈らうと云ふ目的を持ってゐたのだが、それでは餘り露骨過きはまるのでやゝその體裁を美化し、神秘化し、劇化したに過ぎない。
それにしても此處に表はれたビーストンは、何と微笑を禁じ得ないロマンチストであることか!
芝居が好きなビーストンは從って此のメジド總督のやうに、劇的な動作、劇的な口上、劇的な物語を語って聞かせることなどが大好きであるらしい。かれの作品に出て來る人物は、屹度一人は如何にも劇的な物語をするか、劇的な動作で物を云ふかしてゐる。それが嵩じるとひと芝居打ちたがるのである。
此の例證として最も適當なのは「夜の精」(※延原謙訳「新青年」1925.10.)の中のヴィラアスキ公爵の長話、「強い酒」(※桜井昌二訳「探偵文藝」1926.06.)の中のモルデーン伯爵の長話であらう。兩者ともに、絢爛耳を溶ろかすばかりの美辭麗句を以って、長時間に渉る劇的な長物語をやるのである。ビーストンの此の美辭麗句癖に就いては、後の文章研究稿で詳しく述べるとして、今はその中からほんの一句宛引いて置くにとゞめる。
「――それから私は彼女を仕込みました。けれども、その血筋には必ず貴人の血を引いてゐるのに相違ないと私は思ふのです。あの汚れなき鼻目、あの曇りなき氣立てには、必らず貴族の血が流れてゐることを私は疑ひません。それ以來五年間、私は彼女を學校に送って教育しました。彼女の指はセエヴルの燒物の如くに美しく、春の野の微風の如くに柔軟です。
彼女の頬はマルメエゾンの薔薇の如くに生き生きと鮮やかです。彼女の眼はセエヌの流れの如くに深く清らかで、彼女の擧動は女王の如くに崇高です。そのミシェルが八年振りで見違へるばかりの貴婦人となって歸って來たのです。百合の花の如くに白く清らかな胸にこぼれる數知れぬ寶石が、カンテラのゆらめく光で、晴れ渡った空の星のやうにきらめいてゐます、――」(「夜の精」より)
「――伯爵の過去と彼女の現在は、二人の間に越ゆ可らざる垣を造って居ます。彼女はそれが伯爵であると云ふ事は知って居ます。が、それだけです。二人の間には二人が互ひに修道院の奉仕生活の人であると云ふ事以外には何の關係もありません。伯爵は彼女の側に居ると云ふ事を以って滿足してゐます。それは肉の滿足ではありません。靈の滿足であります。變る事なき魂の滿足であります。――伯爵は三十年近くもさうした懺悔奉仕の生活を續けて居ます。
春が來れば花園の手入れに、秋が來れば果物の取入れに、來る年も來る年も同じ様に豆々しく立働らいて居ます。斯うして居る間に伯爵の血は涸れて、青春は消え失せて了ひました。彼女も亦若い時の戀物語の悲劇を胸の底に藏ひ込んだまゝ、お婆さんになってしまひました。――」(「強い酒」より)
ビーストンの作品五十數篇を、何十度となく繰り返へし繰り返へし讀み直す私にも、好きな作品と嫌ひな作品の區別ははっきりついて居て、容易に變らないやうである。「東方の寶」などは何時迄經っても好きな作品である如く、比處に擧げる「頓馬な惡漢」(※宮井敏雄(妹尾韶夫?)訳「独立」1924.11./『ビーストン傑作集』中島河太郎編(国DC※)ほか収録)は何邊讀返しても依然として嫌ひな作品である。
一人の寶石盗賊がぶらりと博物館へやって來て、陳列されたダイアを見て居ると、そこへかれよりも一枚上手のフィルと云ふ寶石盗賊が、一人の婦人を連れてやって來る。
「近い中に或る皇族の手に渡ることになってゐる此のダイアは、陳列されてゐるのは今日限りなんだから、盗むのなら必らず今日中にやらねばならない。あいつは屹度盗むに違ひない。あいつの後を始終つけ廻して、盗む邪魔をしてやらう!」と第一の盗賊は決心して、その通りにする。
蛇に見込まれたやうなフィルは、手も足も出せず、博物館で婦人と別れて、自分の住居へ歸って來るが、部屋の窓から外を見ると、ちゃんと蛇がついて來て往來の向ふ側に立ってこちらを見てゐる。
「何處迄も俺を附け狙ふ氣だな!」とかれが呟く。「あんな執念深い奴は、一度密着いたら腕が千切れても放しやしない。これも俺が怖ろしいアイアンス刑務所で暮らしたその崇りだ。一體彼奴はどうするつもりなんだらう? 下に降りて絞め殺してやらうか知ら!」
これが目的だ。が、作者ビ―ストンはフィルをして相手を決して締め殺させる事を好まない。もっと面白い方法を採らせるのである。で、此處で、この男が蛇を向ふに廻して、さきに別れた婦人と一緒に、一芝居打つと云ふことになる。が、此の芝居は決して上出來では無いと私は思ふ。
芝居そのものに随分不自然な處があるし、それにあんなに迄して芝居を打つ必要もないのだ。何故なら、博物館で婦人に別れた時かれはその婦人に、窃盗の方法ををしへたのだ、とビーストンは書いて居る。そして、一芝居打った時には既に婦人はまんまとダイアを手中に入れてしまった後だと云ふのであるからその芝居と云ふものは、全然意味を爲してゐないことになる。
かれの前の呟きと、その芝居をやると云ふことの間には、非常な空虚が出來てゐるのである。芝居好きのビーストンが、芝居倒れした作品がこの「頓馬な惡漢」である。
5(※続?)
「幻の手」(※横溝正史訳「過去の影」「新青年」1924.01./『決闘』収録時のみ「幻の手」で別訳/『ビーストン傑作集』中島河太郎編(国DC※)ほか収録)は相當いい作品と云へる。
元寶石盗賊だったファー二ーは今は莫大な遺産を相續して正當な生活を送ってゐるかれに一つの惱みがある。それは曾てある家に忍び込んで寶石を奪取しようとした際、出し抜けにマグネシュームが燃えた。つまり窃盗の現場を撮影されてしまったのである。かれは今日迄その寫眞の事が氣にかゝって堪らない。「誰かが其の寫眞を利用するつもりではないだらうか?」とビーストンは書いてゐる。ビーストンがかう書く以上、必らず誰かゞ利用する事になるにきまってゐる。利用はかれの最も得意とする藝當だからである。
さうしてクリミニと云ふ男が現れた。
此の男の提言はかうだった。
「数日後にシーリング氏邸で夜會が開かれるが、そこへ君が招待されてゐると云ふ事を聞いてやって來た。シーリングの持ってゐる古代のカミオを俺は盗みたい。君が行ってそのカミオが何處へ隠してあるか、捜って置いて、手に入れたら、君の窓から懐中電燈で合圖をしてくれ。俺がはしごを掛けて、君の部屋へ入って、カミオを受け取って逃げる。
――かうすれば若しもの事があっても君に疑ひはかゝらない。是非君でなくちゃいけないんだ。俺は妙な寫眞を一枚持ってゐる。俺が或る邸に奉公してゐた時、その邸ヘ押入った盗賊を撮影したやつで、大變はっきり撮れてゐるんだ。俺はカミオが欲しいし、君はその寫眞が欲しいだらう。交換することにしよう!」
怖ろしい提言! 「私はもう犯罪から綺麗に足を洗はうと決心して居乍ら、また足を踏み込むの止むなきに至った。蟲が知らせると云ふものか、私は今度こそは仕損じて取返しのつかぬ深淵に投込まれるやうな氣がして、ぞっと身顫ひするのをどうすることも出來なかった。と、ビーストンは得意の鋭い筆で讀者の心を緊張でひきしめて置いて、第一章をキチリと結んでゐる。
第二章になると、ファーニーは、その當夜、力ミオを自分の部屋に運んで來てから、云はれた通りクリミニに合圖をする。が、はしごを昇って來たのは全く意外な人物で、クリミニではなく、親友のドッゴだった。處でドッゴは過まってはしごから落ちる。(詳しくは作品参照)友人の身を氣遣ひ乍らファーニーは、窓からはしごを傳って降りて見るが、何者の姿も見えないので、再び部屋へ戻る。
と、物音を聞きつけて、主人のシーリングを始め當夜の招待客數名がかれの部屋に來てゐる! 計らずもファーニーは、此の前の寫眞事件の二の舞ひを演じたことになってゐるのである。即ち、かれは眞夜中だと云ふに、キチンと禮服を着て居り、手には短銃を握り、窓にははしごを掛け、然も卓上には主人シーリング所有のカミオが置いてある。(此のあたりビーストンの芝居好みの極點を示してゐるものと云って良からう。)
かうした現場を、人々に見られた事は、寫眞を撮られたことよりも何倍か堪らない事だった。ファーニーは説明の仕様が無く、たゞ咽喉を詰らせてゐるだけだった。
處が主人シーリングは、喜悦に顏を輝やかせ乍らファーニーに云った。
「おや! ファーニーさん、貴郎は御自分の寶石を勝手に此處に持っておいでになりましたね!」それから彼は如何にも面白さうに周圍を見廻して「皆さん、まだ皆さんには披露いたしませんでしたが、実は昨夜皆さんにカミオを御覧に入れた後で、このカミオはファーニーさんに買取って頂いたのです。手形も昨夜書いて頂きました。ほら此處にあります!」云ひながらかれはポケットから一枚の手形を取出して、空とぼけた顏で嘘をついた。
「ファーニーさん、これは昔さんに御覧に入れても構ひませんか? これがファーニーさんから頂いた五百磅の手形です。五百磅で賣った事は、私の方でも滿足ですが、ファーニーさんの方でも滿足してゐらっしゃいます。滿足してゐらっしゃればこそ朝まで待たすに、勝手に夜半にカミオをお取りになったのです。」
シーリングは惡漢だったのである。クリミニとかれは共謀して、巧みな緊張劇の一幕宛を受持って實演し、五百磅を詐取したのだ。詐取?――それに違ひなかった。何故なら、問題のカミオは「原型から鋳型をとって造った硝子製のもの」だし、クリミニから送って來た問題の寫眞は、「頗る拙い出來で、誰の顏やら解らぬ代物」だったからである。
私は再び作者ビースーンに對して微笑をもよほさずには居られない。何と云ふかれは、私にとつて激しい興味を起させる人物なのであらう! 何と云ふへうきんな、惡戯小僧のやうなかれであらう! 私は五百磅支拂はせられたファーニーに同情する。
が、ファーニーにして見ても、寝てゐる處を、いきなり短銃を突きつけられたり、若しくは銃尻で一撃お見舞を受けて、昏倒してゐる間に、金庫を破壊されて大金を窃み去られたりするよりもかうした劇的な方法に依って巧みに詐取された方が、氣持良く思はれたに違ひない。尤も五百磅とられて氣持良く思ふ人間も餘り無からうが、かう云ふ讀物を提供して呉れるビーストンに、丸善を通じて大枚何圓かを支拂ふのは、餘り惡い氣はしないものである。
「幻の手」(※「過去の影」)はその題材と、作者の手腕との呼吸がぴったり合って成った探偵劇的傾向のある作品で、私がビーストンの傑作の一つに數へてゐるものである。
「一月二百磅」(※横溝正史訳「新青年」1925.01./『鍾乳洞殺人事件』黒白書房(国DC※)収録)
エトリッヂは親しい五人の客を、自分の邸に招いた。一人、來ない者があったので、皆が變に氣まづくしてゐるとその代り乞食が臺所へ忍込んで來て、物音を立てたので捕まってしまふ。乞食は主人のエトリッヂの顏を見て、
「あゝ、お前はペテン師のアルギーぢゃねえか! 四年前にチェーンロック監獄に居た――」
此の主人――此の親友が忌はしい前科者だったのか――エトリッヂは苦惱に打崩れ、乞食を去らした後で、怖しい事實を告白する。「曾つて私はあの乞食の云ふ通りの名で、乞食の云ふ通りの處に居た事がある。それは本當だ。が、私が罪人だと云ふのは嘘だ。私は何者とも知れない人から冤罪を被せられて牢獄へ入れられたのだ。牢獄を出てからの私は何者とも知れない人から毎月毎月二百磅の現金を送られてゐる。」
「私の生活はさうして保證されてゐるのです。私は無罪です。無罪の男でした。が、その金を受け取って生活してゐる以上、立派に罪を引受けた事になるのです。その金を返して、その差出人を訴へれば、私は私の潔白を證據立てることが出來るのですが、一月二百磅と云ふ金は私には大變な誘惑でした。たうとう私は最初に送られた分からうかうかと費消し始めて今日迄毎月その金を受取ってゐます。從って私は明らかにその罪を引受けねばならないのです。
皆さん、どうかこれらの事を信じて下さい。ある(※ママ)その冷たい眼は!――皆さん、どうぞ、私を見捨てないで下さい。」――かれは哀しい聲を絞って哀願するが、一月二百磅と云ふ大金を毎月送って來ると云ふ事實を、どうしても信ずる事の出來ない客達は、冷然として歸ってしまふのである。
数日後、エトリッヂから手抵を受取った人々は、又かれの邸に集る。今度は主人がどんな事を云ひ出すかと待ってゐると、エトリッヂは云ふ。
「私の處へあれから一通の手紙が來ました。それに依ると「昨夜、君が話した事は總べて眞實である。疑ふべきでない。君に罪をなすりつけ、毎月二百磅の金を送ってゐる人間とは、かく云ふ私である。そして私は昨夜招待されてゐた!」と云ふのです。それで私は再び皆さんをお招きしたのです。あの手紙を下すった方が、此の五人の方々の中にゐるのです! これで私の潔白は證明されたと思ひますが、まだ皆きまはこのエトリッヂを信じては下さらないのですか!」
けれども人々は、別の事を考へてゐた。――それは誰がその卑怯者であるかと云ふ事だった。哀れなエトリッヂをかほど迄も苦しめた男? 誰がその男だ?――五人の客は互ひに眼と眼を見交はしてゐる。やがて一人が、信じられん事だ。一月二百磅も嘘、今出った手紙の事も嘘、たゞ前科者だと云ふ事だけが本當なんだ。」と呟く。
たうとう堪りかねたエトリッヂが、問題の手紙を二つに折って云ふ。
「では、これは最後の手段です。かうして下さい。私に此の手紙を送って、私の潔白を證據立てて下すった方は、何卒私のために一つのことをして下さい。それは此處に十宇を書いて頂きたい事です。ほんの印です。それで澤山です。今の私は自分の潔白さへ皆さんに信じて戴けば、滿足なのですから。さあ! 電氣を消しますから、そして皆さんに一本宛鉛筆をお渡ししますから、その方はどうぞ、私のために印を入れて下さいまし。」
スヰッチは切られ、人々に鉛筆は渡された。手紙は闇の中を一人から一人へ廻った。
再び電燈がつけられた。エトリッヂは手紙を持ってゐる。かれは云った。今渡した鉛筆は一本一本色が異なってゐたのだ、と云ふことを! 從って誰が印をつけたかと云ふ事が直ぐ解る事になるのだ。
五人の人達は驚愕した。エトリッヂは手紙を皆に見せる。十字の印が青色で書かれてゐる。レティ・セービンと云ふエトリッヂの婚約者が青くなって、手にしてゐた青鉛筆を取落す。「かの女の咽喉の奥からは、何とも云へぬ無氣味な聲が、とめどもなく流れ出した。おゝ、債女は氣が狂ったのだ。」――と書いてゐるが、これだけはビーストンのおまけだと思ふ。
あゝした手紙迄出し、又今日も招待に應じて來たかの女が、如何に驚愕したらと云っても、氣が狂ふなどゝ云ふ事は、私にピンと來ない。少し筆が走り過ぎたと云ふか、或ひは、それ迄の描寫が粗末であるのか、そのどちらかの一つだと私は思ふ。
さて、此の小説はこゝで終っては居ない。化石したやうな人々の後で闊達な聲が、ひびく。「どうです。私の一幕物の一幕物の出來榮えは?」
エトリッヂは此の男――どこかで見た事のあるやうな瀟洒な姿の中年の紳士を、皆に紹介する。これが即ち劇作家ファラウィ氏。先夜乞食に扮した男である。前科者も手紙も一月二百磅も總て悉く此の男の創作だったので、エトリッヂとレティ・セービンは各一役宛を受持ったに過ぎなかったのである。
流石ビーストンらしい結末ではあるが、此の作は私には、餘り感心出來難い。ビーストンのものとしてはこくが無く淺薄な感じが先に立ってゐる。かれの得意の前科者の惱みと巧妙なトリックとが取入れられてはあるが、それらがそれ程緊張味を出してゐない。が、今私は此の稿でかれの作の批評をしてゐるのではないから詳しい事は止める。たゞ此の一篇によって見るも、ビーストンが如何に芝居氣の多い人物であるかと云ふ事が、うなづかれやう。
6
「決闘家倶樂部」(※横溝正史訳「新青年」1925.10./『地下鉄サム/決闘家倶楽部 外二篇』平凡社(国DC※)/『ビーストン傑作集』中島河太郎編(国DC※)/『『新青年』名作コレクション』ちくま文庫収録)
ビーストンは前科者の姿を描いて、妙筆を讃へられて居る探偵小説家である。が、かれは又決闘ものをしばしばものする。蓋し、よく前科者を拉し來って人間の弱い一面を描寫し得るかれにして、始めて描き得る、これは人間の強い一面である。かれの決闘ものには傑作が少くない。
決闘ものと云っても、決闘的氣分に充ちたものをもふくむのである。
これらビーストンの決闘ものは數あるが、その中で、それがかれの「芝居好き」と結び付けられて出來上ったものは「決闘家倶樂部」の一篇であらう。
大臣コープストーン卿の副秘書官の空席を中心にして爭ってゐる二人の議員がゐた。一人はドレッスラーズと云ひ一人はカスレークと呼ばるゝ社會的に知名な紳士である。兩人の確執は今に始まった事でなく可成り長いものだったが、遂にその最後の日が來た。
或る引っ掛りから、兩人はもうどうしても死ぬか生きるかの決闘をやらねば氣が濟まなくなって來てゐたのである。決闘の方法が彼等の屬してゐる倶樂部の問題となった。會長が持ち出した方法なら、自分達は潔く受けて闘はうと、兩闘士は答へる。
會長は會員マリースの提出した方法を兩人に傳へる。それはマリースの田舎の邸へ、倫敦レゼント街の寶石店から高價な寶石が届けられる事になってゐるが、兩入の中のどちらかゞそれを奪取すべし、と云ふのである。奪取すべき役目は簡單なくぢに依って兩人のどちらかに定められる。
奪取に成功すればその名は忌はしい盗賊となって官憲に追はるゝ身となる。失敗すれば逮捕されて牢獄行き。然うしてくぢに當り乍ら實行を避ければ、天下の卑怯者として、倶樂部員の笑ひ者となった上、一切の交際を絶たれるのである。何と怖るべき闘ひの方法であることかよ! 士道の爲に起った二人の闘士は、緊張に顏をひきつらせ乍ら、よし、そのくぢを受けよう! と誓ふのである。
ドレッスラーズ(※カスレークの誤り)がくぢに當った。
ドレッスラーズ(※カスレーク)は奮然死力を盡くして闘った。列車中で、周到な計畫と大膽な實行とで、寶石店の使者と、附添の探偵とを昏倒させ、寶石を奪ひ、停車場に飛降りると、折良くも倶樂部員のマリースが自動車で迎へに來てゐるのを認めた。かれはマリースに寶石を波し、そのまゝ自動車を倫敦に向けさせた。
かうして勇敢なドレッスラーズ(※カスレーク)は闘ひには勝った。奪取には成功した。が盗賊の汚名はかれの頭上に降りかゝって來たのだ。倶樂部へ刑事と寶石店の主人と、使者とが犯人逮捕にやって來る。かうして讀者は、數々の緊張の次に又も新たなる緊張を強ひられるのである。
無謀にも平然と倶樂部へ來てゐたドレッスラーズ(※カスレーク)を忽ち發見した寶石店の使者は、「此の人だ!」と叫ぶ。と、寶石店の主人は「おや、此の方は?――比の方はあの寶石を注文した方ぢゃないか! お前の届けようとしたのは此のドレッスラーズ(※カスレーク)様の、田舎のお邸なのだ!」と云ふ。
ドレッスラーズ(※カスレーク)の寶石だったのである。マリースのではなかったのだ。ではマリースは?
かれは寶石盗賊なのさ。とビーストンが云ふ。此の寶石盗賊は、レゼント街の寶石店から素張らしく高價な寶石が田舎へ運ばれると云ふ事を聴き込んだ。かれはそれが欲しかった。それで折柄倶樂部で持上ってゐた二人の紳士の決闘問題を利用して、寶石を他人に盗ませた上、自分が横取りしてやらうと企てたのである。
尤もドレッスラーズ(※カスレーク)の方が一枚上手だったので、かれは寶石の空凾を掴まされたことになってゐる。マリースの失敗は、無論その寶石の持主を調べなかったことにあるが、若しもその持主がドレッスラーズ(※カスレーク)以外の人のものだったら、此の企ては全く雜作なく成功するに決まってゐたものだと云ひ得る。
さて、ドレッスラーズ(※カスレーク)だが、かれは最初がら問題の寶石が自分の邸へ届けられる、自分の妻のものだと云ふ事を知ってゐた。從ってマリースなる人物を疑った。が、それらの事はとも角も、かれは敢へて、命令された通りに闘って、自分の寶石を奪ひ、マリースをも一泡吹かせたのである。
それから一方の闘士、カスレーク(※ドレッスラーズ)は、自ら探偵と名乗って寶石店の使者の附添になって行き、怨敵ドレッスラーズ(※カスレーク)を盗賊として、自分の手で捕らへようとしたのである。がこれ又ドレッスラーズ(※カスレーク)の智謀と腕力の前にはもろくも敗北してしまったのである。
此處にビーストンが二人出てゐる。一人はかくも決闘好きなかれ、一人は劇作家のかれである。劇作家の寶石盗賊マリースをつくり上げたかれである。
7
以上擧げ來った數篇は何れもビーストンの好劇趣味が、その筋書作製の上に如何に自由に變轉して様々な型を産み出してゐるかを示してゐるものである。猶此の外に「廢屋の一夜」(※横溝正史訳「新青年」1925.10./『地下鉄サム/決闘家倶楽部 外二篇』平凡社(国DC※)/『ビーストン傑作集』中島河太郎編(国DC※)収録)「眞鍮の燭臺」等を擧げる必要がある。
前者の筋などは、ビーストンにしてはぢめて産み出す事の出來る新らしい型であらう。
有名な心理學者が、昔の記憶力を失った男を、元通りにさせる爲に、二人の男女と協力して、一つの劇を演ずる。でこれなどは、寶石を奪ふのと違って、大變崇高な目的の爲の芝居であるが、蓋し此の作品は決して傑作と呼ばるゝものでは無い。
始めて讀んだ時には面白いと思ったが、繰返して讀む氣にはなれないものであった。然し私は暇ある毎に忍耐して、確かに十度以上は繰返して讀んで見たが、矢張り感心出來ないものであった。題材が題材だけに、作品全體に神秘的な氣分の濃厚なものだが、私の頭はどうしてもその怪しげな神秘にはごまかされなかったからである。
「眞鍮の燭臺」に就いても同じ事が云へる。雜誌「探偵文藝」(※「嘘偽」(訳者無署名)1926.07.と思われる)と、「新青年」(※妹尾韶夫訳「新青年増刊」1926.08.)とに殆ど同時に記載されたので、興味深く對照して讀返し讀返ししたがどうも不自然な處があって好きになれないのである。
筋は、ピーリングと云ふ男が、自分の家で、友人グリンドンの所有に關はる、一千磅の寶石入指輪を發見した。がそれを直ぐ自分のものにする事は出來なかった。何故なら所有者のグリンドンはとうに死んで居て、その遺書に「自分が何處かで紛失した一千磅の指綸は、發見次第友人シェパードに贈る」と書いたからだ。
で、此の指輪を強いて自分のものにするには、そのシェパードと云ふ男から、何とかしてひどく安い價格で買取ると云ふ事にしなければならぬ。そのシェパードは今血眼で捜し廻ってゐる。こゝを何とか一工夫して――。
その工夫と云ふのが此の小説の眼目になってゐるのである。忽ちかれは肺病患者ブラッドレーとなって、スモールポーター街の貧民窟へ泊り込みに行く。そして巧みな扮装と舞臺装置と獨白の三拍子でシェパードと讀者とを煙に卷くのである。
比の小説は全體で四章に分れられてゐるが、作品中の場面ははっきりと二つに分けらけてゐる。第一場肺病患者ブラッドレーの寝室、第二場グランドリー街グリンドン家書齋。こんな具合で一つの探偵劇が出來るやうになってゐる。ビーストンが探偵劇に激げしい趣味を持ってゐると云ふことは、此の「眞鍮の燭臺」が一番よく告白してゐるやうに、私は思ふ。
何故なら、今も書いたやうに情景がはっきり二つに分けられてあること、主として對話によって筋を進めてゐること、それから一人の人間が考へに迷ってゐる場合にも、かれは特に會話記號””を附して本人に獨語を云はせてあること等が眼につくからである。この獨語を云はせることは他の探偵作家の誰にも發見することの出來ない、ビーストン獨特の手法であって、何でもない事だが、それが非常に効果を納めてゐるのである。
この「會話記號附獨語」(稍々妙な熟語だが)はビーストンの作品のどの一篇でも手に取れば、忽ち出て來るものであるから作品について研究されることを望む。
8
ビーストンの作品を解體したり組立てたりして研究した後に、他の作家の作品を見ると、私はいつも異様な感に捉らはれるのを常とする。ビーストンの作品を「戯曲的」なものとするならば、他の作家の作品は、まことに「文學的な」「小説的な」と云ふ感じを起させるのである。
扱った題材それ自身は、無論殺人事件であり、盗賊事件であり、若しくは怪事實であって、まことに立體的なものであるが、その取扱ひ方が、その觀方が、如何にも平面的である。叙述的である。小説的である。煎じ詰めると一様に机上文攀的なのである。
群小作家は別として、コナン・ドイルの數多いホームズ探偵物語はどうであらう。チェスタートンの師父ブラウン、フリーマンのソーンダイク博士の探偵物語、オルツィの「隅の老人」、ポーの三つの探偵小説などはどうであらう。
これらはいづれも探偵小説の壓卷だが、これらと、ビーストンの作品とが、如何に感觸の甚だしく異ることか。如何にその題材の選び方、取扱ひ方の異ることか。
アガサ・クリスティ女史のエルキウル・ポワロ探偵の短篇は、その一篇の長さ、又その場面變轉の興味する點、又必らず讀者の意表に出る結末を持ってゐる點等に於いて、ビーストンに似てゐる處があると、ずっと以前に誰かゞ書いてゐたのを記憶してゐるが、これは全く飛んだ間違ひである。
此の前の冒頭にも鳥渡書いて置いたやうに、既にその叙述體の部分の手法だけで、可成りの相違が見出される。それから意外な結末は、ビーストンの慣用手段だが、敢へてかれの専有物だと云ふ譯ではなくて、鼻祖アラン・ポーからの傳來物である。
クリスティ女史の作品が退屈だと云ふ事は、同時にドイルが、ポーが退屈だと云ふ事になる。
が、此處に云ふ退屈と云ふ言葉は、決してドイルやポーを惡るく云ってゐるのではないので、無論それらが書齋の讀物として誇らかなものである事は認めてゐる。本當の意味から云ふならば退屈などゝは以ての外の暴言だと云ふ事も知ってゐる。
が、極く普通の意味で、われわれ忙しない生活を送ってゐる、讀者の身になって考へて見ると、ドイルよりはビーストンの方が退屈で無いと云ふ事が立派に云ひ切れると思ふ。
ではどうしてさうなのか?
この答は簡單である。
そしてその答へがそのまゝビーストンの作風を語る、只一つの、最も適切な言葉になるのだ。
ビーストンは一つの作品を書くに當って、讀者に、讀ませようとは思ってゐても、考へさせようとは思ってゐないのである。
これは全く驚くべき事だ。
苟も「探偵小説」が、「讀者に考へさせる必要なくして」書かれると云ふことは!?
ドイルは「ホームズ」を書いて、ルブランは「ルパン」を書いて讀者に「考へよ! 考へよ!」と強いた。アラン・ボ―の「デュパン」に至っては、情景變轉の妙味も、人物の性格描寫もあったものではない。たゞ「考へよ! 考へよ!」で押し通して來てゐるのである。「隅の老人」然り、「ポワロ」更に然りである。
作者はあらゆる材料を讀者の前に並べ、大學教授のやうに冷嚴として、「考へよ! 考へよ! 然うして解決せよ!」と命令してゐるのである。「粘土が無ければ煉瓦は造れない。」と云ふシャーロック・ホームズの言葉を逆に使って云ふならば、これらの作者は讀者の前に粘土を積んで瓦を造らせようとしてゐるのである。
然し、ビーストンだけは、讀者に決して推理觀察を命令してゐない。要求しても居ない。寧ろ拒んでゐるのである。讀者はかれの書いたことより、一歩も深く奥へ這入ってはならない。またビーストの作品に對した時に限り、讀者は推理觀察を行ふ必要はない。行っても無駄だ。かれは讀者自身で瓦を造り上げられるやうな、滿足な粘土を積んで置いては呉れないからである。
同時にかれはまた考へるのに一時間も二時間も、若しくは五日も十日も要するやうな暗號とか、疑問の人物とかを決して出してゐない。「パイプ」には一つの暗號文が出るが、かれはそれに依って、ポーのやうに暗號通を振廻はさうと云ふ意圖は無いし、その暗號を解く事が必要だと讀者に張要してはゐないのである。それ故にまた、「パイプ」に出た暗號文は、ルブランの「奇巌城」に現はれた複雜精緻巧妙極まる暗號とは、天地雲泥の差で、全く愚劣極まるものだ。その事はビーストン自身も知ってゐる。
かれがホームズ流の精緻な推理を強いて讀者に望まないやうに、かれ自身も餘り好んでゐない事が「パイプ」「人間豹」を讀むとうなづかれる。
一體かれの作品で、ホームズ流の探偵枝能を織り込んだものは、前二者の外に、「馬來土人の繪」その他のトレッドウェイズ探偵を主人公にした數篇、それから「明日の紳」「クレッシングトン夫人の青玉」「形見の猫目石」「緑色の人魚」(※西田政治訳「新青年」1925.10.)「マイナスの夜光珠」
その他のアクトン・ドウエス探偵を主人公にした數篇などであるが、それらは大體に於て事件の興味、場面の變轉、意外な解決を主眼にしてゐて、決して推理的歸納的解決を讀者に誇ってはゐないのである。
「パイプ」(※妹尾韶夫訳「新青年」1925.02./『ビーストン傑作集』中島河太郎編(国DC※)/『至妙の殺人』論創社ほか収録)の中の主人公レストローワの言葉にかう云ふのがある。
「――第一の理由は、知らぬ顏をして推理を下し乍ら話して聞かせるのが面白かったからだ――お前だって俺が本當の刑事のやうな斷定を下すのを感心して聞いてゐたぢァないか。――」
これはレストローワが、自分の心臟に短銃を突きつけてゐる惡漢を欺す爲に、一つのパイプをいぢくり乍ら、ホームズ流の推理を得々と述べ立てた後での、嘲笑なのである。かれは始めからパイプの眞の持ち主を知ってゐた。が、惡漢を患弄する爲に、尤もらしい觀察振りを述べ立てゝ、全然そのパイプの持主を別の人物へ持って行ってこぢつけて了ったのである。
此の點、ビーストンは神聖なるホームズ流の推理法を、口の先に弄んで、惡用し、惡漢と讀者とドイルとを嘲笑した事になる。
かくの如くビーストンは、或る意味に於いて、「精緻な推理」を無視し嘲笑してゐる。「周到な觀察」を無視し、嘲笑するビーストン!
探偵小説界に於ける、これが大きな反逆でなくて何であらう。鼻祖デュパンが用ひてより此のかた探偵小説の聖典とされて來たものを、かれは溝の中に投げ込んだのである。
9
私はビーストンの暗號嫌ひ推理嫌ひを述べて來た。そしてそれらは皆、かれの作品を書く目的が讀者に讀ませる爲であって、考へさせる爲でない事から起因してゐるのである事を述べて來た。
そしてその前に於いて、かれが探偵劇と云ふものに趣味を持って居り、その作品に常に探偵劇的傾向のある事を述べた。
此の二つは無綸、相關聯し相通ずる處がある。そして一つの結綸を完全に形造くるのである。即ち、ビーストンはいつも讀者に一つの探偵劇を見せてゐる積りで、探偵小説を書いてゐる。
劇と小説との相異。
これを私流に卑近な例を擧げて説明すれば、かうだ。
本を讀んでゐるならば、難解な暗號が出て來た場合には、本を本棚の中へ投げ込んで、二日でも三日でも考へてゐられやう。が、劇を見てゐる時にはさう簡單には行かない。第一劇の中にそんなものを持ち出す劇作家がゐたとしたなら、決して賞めた作家ではないと云ふ事が出來やう。
そこで複雑な推理材料や暗號文をかれは提してゐない。
10
これらの事實に現れたビーストンの性質は、そのまゝ作品に影響して、かれの作品を良くもし、惡くもしてゐる。
即ち探偵小説家ビーストンは、探偵の出る作品には凡作が多く、探偵の出ない作品に多くの傑作を持ってゐるのである。
私の崇敬する、ビーストンの愛好者横溝正史氏の「ビーストン作品の探偵」(※「ビーストンに現れる探偵」「新青年増刊」1926.02./『横溝正史探偵小説選1』論創社収録)なる文の中に左に掲げるやうな一節がある。これはビーストン作品の探偵が、探偵として餘りすぐれた技能を持って居らない事を指摘したものである。同氏はそのことが、如何なる理由でさうなってゐるのかと云ふ事に就いては、一言も言及してゐないのであるが、無論それが、かれの特殊な作品發表形式と一派相通ずるものがあると云ふ事には、氣がつかれてゐられたに違ひないと思ふ。
「ところで最後に最も肝腎な探偵能力ですが、これはどうも頗る怪しげなものであるやうに思はれます。と云って、彼は一度も失敗したことはなく(或ひは失敗した事件だけは秘密にしてゐるのかも知れません)どの事件も立派に手際よく片附けて行きますが、それがどうも餘り手際がよすぎるのです。
むろん物語の終に於いて推理の過程、觀察の要點といふやうなものを、友人フランシィ牧師に話して聞かせるのですが、それが大抵の場合推理の過程や觀察の要點ではなくて、たゞ物語のかくれて居た部分を話して聞かせるに過ぎないのです。だから、彼がどうしてそんな結末に達したのか分らない場合が度々ありますが、それだけ彼が超人的に偉いのかも知れません。」(雜誌「新青年」第七卷第三號より)
以上で私は此の稿を終らうと思ふ。
ビーストン研究中の最大項目は何と云っても、その作品の筋書組立に就いてのそれであらう。然し、かれの筋書組立の秘密を語るには、是非ともかれの探偵劇趣味を語った後でなければならぬ。
即ち本稿を先に置いた所以である。
第二稿 ビーストン作品の組立
1
探偵小説を語る者で、ビーストンの名を語らぬ者はなくビーストンを知る者で、その筋書の巧みさを知らぬ者はない。否、寧ろビーストンは、筋書組立ての巧みさに於いてその名を探偵小説愛好家の間に知られたと云った方が當ってゐやう。
全くかれの作る探偵小説の筋書は、巧妙、複雜、そして胸のすくやうな明朗さを持ってゐる。然し乍ら、私の觀察研究した結果に依ると、それは決して驚異でも謎でもなかった。その謎は案外簡單、明瞭で容易に解き得らるゝ謎だったのである。
ビーストンに就いて驚くべきは、筋書の組立てではなくて、その組立てた筋書をキビキビと取扱って行く手際、所謂表現技巧の手腕である。
私は文藝作品上の表現技巧は、寧ろ末であって、主題の掴み方がその本であると見る觀方が、至當であると思ふ。從って眞のビーストンを語らうとするには、主題の掴み方、即ち筋書の組立てに就いて語る處があらねばならぬと思ふ。
今も云ふ如くビーストンの筋書は、決して謎でも驚異でもない。
先づ、私は前稿に於て、その初めの方に、ビーストンと云ふ人物が、如何に退屈と云ふ事を嫌ってゐるか、と云ふ事を一例を擧げて述べて置いた。從ってかれが日常抱いてゐる心情と云ふものは、常に大なる緊張、大なる驚愕、大きな感動を、七つ八つの子供が常に何か惡戯の種はないかと探し廻ってゐるやうに、探し廻ってゐる、それである。
かれは先づ危險と云ふ事に就いて考へた。これは「退屈」と云ふ寄生動物にとっての大敵だ。その前に、「退屈」はもろくも敗けて了ふに違ひない。
ビーストンは次に「危險」の種類に就いて、考へて見た。研究して見た。異常な熱心さを以て。――その結果、かれは「危險」の様々な種類に就いての豐富な智識を持つことが出來たのである。
あらゆる種類の冒險は、危險を約束するものである。たとへば、目も眩む様な高い處を歩む事が、その一つであった。命がけの決闘をやる事がその一つであった。かれはこの決闘をまた數種に分けてゐる。或ひは刄と刄、或は短銃と短銃、或ひは何と何、といふ様に。
購負事をすると云ふ事にも當然敗北の危險と云ふものが生じる。かれは勝負事の總べてに就いて研究した。トランプ、競馬等の遊戯に屬するものは勿論、その他のあらゆる場合に可能な、あらゆる種類の勝負に關して研究した。賭に就いて研究した。
犯罪と云ふものが、危險此の上もないものだと云ふことを考へた。犯罪のある處には常に發覺の危險がひそんでゐるに違ひない。さすれば、その發覺と云ふものにはどんな種類があるだらうか。――かうしてかれはあらゆる犯罪發覺の種類に於いて熱心に研究した。
この事からかれは又、前科者の苦惱に就いて様々に考へて見た。前科者であるのを隠す危險と、それが曝露される危險とに就いて専念研究した。
續いて被害のあらゆる種類に就いて考察する必要があった。盗難の被害、傷害の被害、詐欺の被害、そして天災に依る被害、偶然がもたらす處の様々の被害――これら被害は當然様々な危險を被害者に與へるからである。或る種の被害に依っては命を失ふ危險があり、財産を失ふ危險があり又名譽、地位を奪はれる危險がある。その他の數々の被害による危險を皆かれは研究した。
かれがかくて研究して得た處の、あらゆる「危險」の種々相は、それが凡そ何百種類を數へるものであるかは、到底私には解らない。
私が今擧げた數々の「危險」の種々相は、かれの、これ迄に發表した作品を、研究する事に依って僅かに想像し得たものに過ぎない。まだ此の外に未發表の「危險」觀がどれだけある事か。まことにビーストンの頭は「危險」の辞書と云っても良いくらゐであらう。
かれは又、單に危險の種類を數へ立てるばかりでなく、一つの危險に対して別の一つの危險を組合はせる事、或ひはまた一つの危險が二つの別の危險に分けられる場合等をも研究した事勿論である。かくてかれは「危險」構成術とも危ふべき神術を完全に會得する事が出來た譯であった。
けれどもかれの探偵小説が單に此の神術の發表にとどまってゐると考へる讀者は、まだビーストンを能く知ってゐるものと云ふ事は出來ない。
ビーストンは單にその「危險」構成術を應用して、様々な型の危險を讀者に示して事終れりとしてゐるのではない。かれの出さうとしたものは、それら危險に對した場合の人間の緊張である。興奮、驚愕である。
然しかれは又、單に緊張、興奮、驚愕を精密に描寫して能事終れりとしてゐるものではない。ビーストンの書かうとしたものは、それら緊張、興奮、驚愕の後に於いて、勃然起る處の奮起である。決闘的覇氣である。危險に打捷つ處の危險術策の記述。描寫。これこそはビーストン探偵小説の主眼であり、目的なのである。
かくてビーストンの作品の主人公は、男性的である。冒險者である。その主人公の老若男女の別なく、かれは常に勇敢な、精力的な、闘爭的な人物にしてゐる。男女の別なく男性的に、老若の別なく溌溂たる壯年者の性格に摘き上げてゐる。然もそこに些の不自然な感を見出さないのはビーストンその人の靈が、そのまゝ作品の主人公に乗りうつってゐるがために外ならない。
さて、ビーストンは如何にしてその會得した「危險」構成術を應用して一つ一つの作品を産み出すのであらうか。それを説明するには二つの方法がある。一つはかれの個々の作品に現はれた「危險」構成術に依る筋書の、様々の型を説明して行く方法、一つはかれの總ての作品を通じて見たる、かれの筋書構成上の習癖を一括して叙述する方法である。完全を期する爲、第一の方法を後にして、詳述する事にしよう。
2
「星の私語」(※延原謙訳「新青年」1925.10./『世界短篇小説大系 探偵家庭小説篇』近代社(国DC※)/『探偵名玉集』博文館(国DC※)収録)と云ふ作品を見ると、主人公のハンガアズが堂々二十五層の摩天樓の最上層の窓から身體を外へ出してその窓の外に帶のやうにビルディングを取卷いてゐる、巾一呎の石の出張りを歩るく事が書かれてある。これと云ふ手掛りもない石の外壁に兩手をかけ乍ら、そろりそろりと歩いて行くのである。
この破天荒な危險は、一體何の爲の危險なのであらうか。單なる危險の提出およびその描寫だけでは、決して探偵小説にはならない。ビーストンは此處へ巧みに一つの犯罪ロマンスを折込んで、恐怖と戦慄とを倍加せしめた。危險者ハンガアズを書良なる犯罪者にしたのである。
ハンガアズは以前から或る銀行に勤めてゐる。かれは今から四年前に同僚のハアヴェエと共謀してその銀行から二萬弗盗み出した事がある。そのハアヴェエが今日病氣で死んだ。死んだだけならいゝが、かれはいまはの際に良心の呵責に堪へかねて、一切の告白書を認めて、宛名を書き、封筒に入れ女中に命じて投凾させた。かれの妻メリーはこれを聞くと眞蒼になって共謀者ハンガアズの住んでゐる二十五階の部屋を訪れたのである。
メリーから委細を聞いたハンガアズは戰慄した。自分を牢獄へ送る手紙、その手紙を取戻さなくてはならぬ。その手紙は何處へ送られたのか。それは銀行附の探偵へ送られたのである。探偵は何處に住んでゐるか。かれも此のビルディングの二十五階、即ちハンガアズの部屋とは廊下を隔てた向ひ側の部屋に住んでゐるのである。
ハンガアズは、話を中止し扉を開けて、廊下を覗く。と、折柄一人のポストマンが一通の手紙を探偵の部屋のポスト口から投込んだ處。時間を考へて見ると、正にそれがかれに取っての死り手紙である筈だった。幸ひにも部屋の主、探偵は今晩芝居へ行って留守だが、手紙を取るには鍵がかかった扉を開けて中へ入らなくてはならない。
ハンガアズに殘された最後の方法――それはかれの部屋の窓の下の、石の張出しの上を傳って、建物の外側をぐるりと廻り、向う倒へ出て探偵の部屋の窓から入る事だった。メリーは仰天して、かれの冒險を止めたが、ハンガアズは服の釦をみんなはめ、實行にとりかゝった。
――ビーストンは、主人公ハンガアズを全く善良な人間にし、共謀者ハアヴェエを、氣弱な人間にし、その妻メリーを親切な同情深い女にした――つまり此の冒險者ハンガアズとかれを取卷く人物の總べてに、讀者の同情を集中させる事を忘れなかったのだ。それから雪を降らせてともすると靴が滑るやうにし、目の下はるかの別の建物にイルミネーションを點けさせて、パッパッと目眩ぐるしく明滅させた。等々々。
此の大冒險の描寫には實に一讀三嘆の價値がある。私は餘りに度々繰り返し繰り返し讀んだので、今ではすっかり暗誦してしまって、いつ何時でも空で云へるくらゐである。
3
「クレッシングトン夫人の青玉」(※西田政治訳「新青年」1925.10./『ビーストン傑作集』中島河太郎編(国DC※)収録)では主人公のアクトン・ドウエス探偵が、やはり大ビルディングの最上の部屋から出てやはり巾一呎の石の出張りを歩いてゐる。これは直ぐ隣室の部屋の窓迄行けばいゝことになってゐるのだから、ハンガアズ程遠路ではないがその代り眞中邊に角柱を置いてある。どうしても、そこはぴったり壁面に取りすがり乍ら、向ふへ足を廻して、またぎ越さなくてはならぬ。
ドウエス探偵はハンガアズの目的とは違ふ。ビーストンは、前の場合では探偵の部屋へ行く犯罪者を描いたが、此の場合では、惡漠の部屋から逃れ出る探偵を描いてゐるのである。
探偵はうかうかと、惡漢共におぴき寄せられて、その部屋へ檻禁されたのだ。凄い言葉を殘して一と先ず引上げて行く惡漢共の中に、一人の裏切者が居た。即ち、かれは窓外を傳って隣室へ行けば、隣室には鍵がかゝって居ないから、逃亡する事が出來るぜ、と探偵に書置きをして出て行ったのである。
探偵はそこで身の毛もよだつ様な冒險を決行する。が、目的の處まで行って、窓へしっかりとつかまるとたん、ポロリと窓が外づれるのである。ビーストンに云はせると、これが惡漢共の仕掛けた死の陥罠だ。裏切者は一人もかれらの中には居なかったのだと云ふことになってゐる。
但し、ドウエス探偵は落ちなかった。
「死者の手紙」(※吉田甲子太郎訳「新青年増刊」1922.08.)の中の主人公も同じ冒險をやってゐる。今度のは、自分を牢獄に導く種類の手紙が、風にあふられて窓外へ飛び、石の出張りの上へとまって、ひらひらしてゐるのを、主人公が取りに行くと云ふ筋である。早くそこ迄行かないと、風が再び、その手紙を飛ばしてしまふだらう、とビーストンは意地惡く書いてゐる。此の主人公は霜の爲に足元を奪はれてガックリ膝をつくと云ふ藝當を演じて、讀者の膽を奪ってゐる。
「犯罪の氷の道」(※妹尾韶夫訳『決闘』1925.05.15/『ビーストン傑作集』中島河太郎編(国DC※)/『至妙の殺人』論創社ほか収録)では二人の盗賊が、二階建の洋館の家根を傳って行く處が書いてある。今度は家根であるから、一寸油斷をすれば滑り落ちて、敷石に身體を打ちつけて、粉微塵とならねばならぬ。
「ヴォルツリオの審問」(※天岡虎雄(妹尾韶夫)訳「新青年」1922.04./『至妙の殺人』論創社ほか収録)では仲間に裏切した男を皆で抱き上げて、三階の窓から外へ落す事になってゐる。いや落した事になってゐる。
これでビーストンはたうとう落させてしまった譯だ。
4
以上は、目も眩まんばかりの高所を歩む危險と、その恐怖をとらへて、書いた作品であるが、今度擧げて見ようと思ふのは、告白状の恐怖を描いた作品である。ビルヂング上で冒險をやらねばならなかった、ハンガアズの、目的は脅迫状の奪還にある。
ビーストンはかうした告白状の奪還、並びにそれに關した物語をいくつか書いてゐる筈である。今その中から二三選んで次に擧げて見る事にする。
「頓馬な惡漢」には或る男の告白状が、或る家の一室に置いてある。それを、その男の敵が、窓から手を伸して奪取ってしまふ話が書かれてゐる。ハンガアズの場合では、あれ程の危險を冒さねば取る事が出來なかったが、此處では、窓に手が届かぬ爲、近所から埃箱を引きずって來て、その上に乗りひょいと手を伸べて取った、と云ふ容易さである。然し主題はずっと外の處にあるのだから、それで充分なのである。
「惡魔の笑ひ」(※延原謙訳「新青年」1926.04.)では重大な告白書が机の引出しの中から發見される。發見者は、先に、別の目的のためにその部屋へ忍び込んでゐて、偶然にそれを發見するのである。一層客易である。
「五千磅の告白」ではウエストラムがバーバスカに犯罪を自白させた上、「告白書を書けば五千磅やるから、逃けるがいゝ。僕は告白書さへ手に入れゝばいゝので、君を逮捕したくはない。」と云ふ。
バーバスカは告白書を書き、五千磅受取って外へ出るが、あたりを見ると探偵らしい姿が見えるので、眞赤になって怒って戻って來、よくも俺をだましたなとばかりに五千磅の札束を爐の中に投げ込んでしまふ。そして、たった今書いた告白書は時間が經てば消えるインキで書いたのだと云ふ。
つまりウエストラムは無効な告白書に五千磅支佛った譯なのである。
ビーストンはまた、告白書の變り種を讀者の前に知らん顏して提出してゐる。窃盗現場を他人に撮影された寫眞がそれである。それ自身、全く告白書と同じ役目を持ってゐるし、同じ恐怖と危險をもたらすものであるに違ひないからだ。
さうした寫眞を取戻すために「幻の手」(※「過去の影」)の主人公ファーニーと「緑色の部屋」の主人公ブレーディングとが死力を盡くしてゐる。「幻の手」(※「過去の影」)は前號に詳しく書いたから略すことにする。「緑色の部屋」の筋は後に書く。
告白書、寫眞と同じ性質、同じ意味、同じ結果を來たすものは、「仲間の口」それ自身である。告白書は己れの罪を文字が物語り、寫眞は己れの罪を繪が物語り、「仲間」はしばしば己れの罪を第三者に物語るものである。
ハンガアズの同僚ハアヴェ工が、病氣で死ぬ間際になって、告白書を書いた事は、此の稿の最初に述べて置いた。が、あの場合、ハアヴェエが病氣で死なずに居たとしたらどうなるだらう。そしてかれが本當の惡者だったとしたらどうなるだらう。そしてかれが今貧困に苦るしめられ、ハンガアズが反對に富裕な身分になってゐたとしたらどうだらう。
これらの想像から産れた作品が前稿に擧げた「一月二百磅」「幻の手」(※「過去の影」)等である。尚、此の積の主題を採用したものは、非常に多くかれの作品中七八分を占めてゐる。次にその中の數篇を引いて簡單に説明して置く事とする。
「一月二百磅」のあら筋は前稿に書いた通りである。チェーンロック監獄に居た二人の囚人の中、一人は世に出てから不思議な理由で富を得、一人は乞食に成下って、知らずに前の男の家へ忍び込んだと云ふ物語である。そこでかれは捕まってしまふ。その家の主人が怒り散らす。乞食はその聲と顏に見覺えがあったので、「おや! お前はペテン師のアルギーぢゃねえか! チェーンロック監獄に居た――」とそこに居合せてゐた五人の客の前ではっきりと云ふ。隠しに隠してゐた前科者と云ふ事責が、此の一語で見事に曝露されてしまったと悲劇が生じるのである。
「幻の手」(※「過去の影」)では、ファーニーと云ふ男が、前に盗賊をやってゐた時、或る家へ忍び込んで金庫に手を掛けた處を、その家の息子の爲に寫眞に撮られてしまった事がある。丁度その時その家に召使になってゐた性の良くない男が、その寫眞を手に入れて、後にファーニーを脅迫する。
「夜の精」では三人組の盗賊が居て、警察では懸命になって逮捕しようとする。三人組の中の一人が裏切って、自首して出て殘る二人の居所を教へて逮捕せしめてしまふ。獄を出た三人の中一人はヴィラアスキ公爵と名乗る人物になった。それが裏切者だった。殘る二人の中一人は男で一人は女だったが、男はヴィラアスキ公爵と名乗る男が裏切者だとは知らないで、裏切者を見附け次第命を取ってやる、と探し廻ってゐる。
女の方でも探し廻ってゐたが、かの女の目的は、違ってゐる。それは愛の復活だった。遂にかの女はヴィラアスキ公爵の本性を知ったので、それをせまる。公爵を名乗る男は、今は新しい愛する妻を持ってゐたのでかの女の求愛を退ぞける。かの女は怒って、例の男にお前の本名ををしへてしまふぞ、と脅迫する――と云ふ物語である。
「クレッシングトン夫人の青玉」には四人組の盗賊が出る。その中一人は女である。四人の中一人はすっかり改心して、今では探偵になって警察の爲に働らいてゐる。三人は仲間を裏切ったかれを殺害しようと計畫をめぐらす。かれは三人を逮捕しようと苦心する物語。
「犯罪の氷の道」には二人組の盗賊が出る。一人は獄に入り、一人は探偵となって警察の爲に働いてゐる。獄から出た男は、探偵になってゐる男になってゐる男の訪問を受ける。一と通りの挨拶が濟んで第一に出獄者が云ひ出した事は、新しい寶石の口を見附けたから、手傳って呉れと云ふ事だった。探偵になってゐる男は吃驚して、なじる。が、相手はどうしても決行しようとする。探偵が苦心してそれを思ひとどまらせようとする物語である。
「惡漢ヴォルシャム」(※妹尾韶夫訳「新青年」1923.09./『ビーストン傑作集』中島河太郎編(国DC※)ほか収録)は、昔仕事仲間だった女が、今セアズ卿夫人となって濟してゐるのを、ヴォルシャムがかぎつけて脅迫する。セアズ卿が此の事を知ってヴォルシャムを撃殺すと云ふ物語。
「約束の刻限」(※妹尾韶夫訳「新青年」1924.11./『ビーストン傑作集』中島河太郎編(国DC※)/『至妙の殺人』論創社ほか収録)ほか収録)は昔仕事仲間だった男が、今は正當な平和な生活を送ってゐるのを知ったディバーが、と脅迫する。そのディバーが何者にか短銃で撃殺される迄の話。
此の外まだ數々ある筈だがすべて省略する。要するに何れも二人組乃至四人組の盗賊團體を剌し來って、その過去と現在とを、ロマンティックに描寫し、そこに「仲間の口の怖ろしさと、裏切者の恐怖とを取扱ったものである。
以上が、告白状、寫眞、「仲間の口」等を扱ったものに就いての、研究である。これに依って、作品上に現はれた型は如何に異ってゐようとも、ビーストンの計畫した處は結局たゞ一つのものである事が解るであらう。告白状も寫眞も「仲間の口」もその出所は全く一つである。
ビーストンは一方に、冤罪を被せられる危險を、作品中に描いてゐる。
「一月二百磅」のエトリッヂは僞造小切手行使罪。「東方の寶」のフェアニーの殺人罪等の冤罪。
「頓馬な惡漢」のフィルは寶石盗賊としてアイアンス刑務所に送られたが、かれは大臣の息子の罪を承知の上で一身に引受けたのであった。
「三百三十三號室」のウエーリッヂも、「間諜」のロバスンも、「シャロンの淑女」のアーサーも、「敵」のマディシュも、「人間豹」のエルグッドも、「決闘家倶樂部」のカスレークも、「興奮倶樂部」のミルトも、「闇の手」のフィッシャアも、總べて表面有罪の人となってゐるが、ビーストンの伏線では悉く無罪の人となってゐる。
その他トレードス探偵の出るかれの數篇の作品は、總べて冤罪に苦しむ人々に關するものである。
5
すべての世の出來事は相關聯して起るものであって、それ自身獨立して起る事は嚴密な意味で、絶對に有り得ない。天災は一つの偶然であると云はれるだらうか? 決して偶然ではない。盗難は被害者にとっては全く偶然であっても盗賊にとってはやむを得ざる欲求から産れたものである。これらの事をコナン・ドイルは、その「五十年後の戀人」と云ふ小説の冒頭に於いて面白い筆で書いてゐるのを、ドイルの愛讀者は既に讀まれた事であらう。
ドイルならずとも、凡そ世の小説家、就中良き筋書の組立てを最も重要なものとする探偵小説家で此の「偶然」を利用しない者はない。嚴密な意味から云へば「偶然」は絶對に此の世に無いものであるが、普通の意味から云へば、總べての事件、出來事、問題は、悉く「偶然」から出發してゐるとも云へるからである。
ビーストンも、「偶然」の良き利用者である事は云ふ迄もない。かれの作品を見ると、しばしば小さな偶然が大きな事件をまき起してゐるのを發見するのである。
再び「星の私語」を引用すれば、あの告白書の入った手紙を、ハアヴェエの女中が投凾したと云ふ事が偶然であるし、ハアヴェエが病氣になったのも偶然でない事はない。これらの問題を一々擧げるのは際限の無い事であるから、此處ではビーストンの作品に現はれた「窓」を利用して「偶然」を創造した筋書のみに就き、研究して見る事にする。
ビーストンは窓が餘程好きであるらしくあらゆる作品に窓を出し、どんどんそこから「偶然」を造り出し、「危險」を構成し、筋に複雑さを増してゐるのである。
「頓馬な惡漢」の中のマクフェイルは、パシンガム氏方の窓口から、部屋の中のパシンガム氏とその主客との對談を見、聞き、二人が別の部屋ヘ去って行ったすきを狙って、つと手を伸して、机上の重要書類を奪取ってしまふ。
「浮沈」(※横溝正史訳「新青年」1925.10./『地下鉄サム/決闘家倶楽部 外二篇』平凡社(国DC※)収録)の中のランドマークはウエルマン氏の窓外に立って、部屋の中のウエルマン氏が戀に破れ、事業に倒れ、今や短銃を頭へ持って行かうとする處を見てしまふ。その時外の部屋で何かの物音がしたので、ウエルマン氏は、そのまゝ扉を開けて出て行く。部屋の中には誰も居なくなる。「さあ、今だ!」とばかりランドマークは窓から中へ這入り込んで机上の上の紙幣を盗み再び窓から逃げようとした處を、戻って來たウエルマン氏に捕まってしまふ。
「一月二百磅」の中のエトリッヂ邸では、臺所の窓を破って乞食が忍び込んだ處を、下男が捕まへてしまふ。
「馬來土人の繪」(※妹尾韶夫訳『決闘』1925.05.15/『ビーストン集』博文館ほか収録)の中のブランダワイン教授は、露臺の窓の前で讀書をしてゐる最中、毒矢を吹き送られて、それが眉毛に剌さって死ぬ。毒矢は窓外の庭の茂みの彼方から飛來したものである。
「十萬磅」(※妹尾韶夫訳「新青年」1925.10./「宝石」1952.11.掲載)の中のライオンザックと云ふ男の部屋の窓外に居た、乞食ランチンは、短銃の彈丸で額の中央を射抜かれて死ぬ。彈丸は部屋の中から飛來したものである。
「間諜」(※妹尾韶夫訳「新青年増刊」1925.01.)の中のフェラリは外から歸り自分の部屋の窓外から、自分の部屋にゐる四人の男をぢっと視つめる。その人の中三人が自分等の仲間で一人は敵なのだが、それが四人の中のどの男なのかと云ふ事を見分ける必要があったからである。
「決闘」(※「盲目の猛犬」妹尾韶夫訳「新青年」1922.09./『決闘』1925.05.15/『ビーストン集』博文館ほか収録)の中のベルテリ大佐は部下のヴァレンティンに、「ストロムズ子爵と決闘するんだ!」と命じる。「何の爲にですか?」とヴァレンティンが聞き返すと、折柄窓外を、聯隊長ダネー殿下が二頭馬車に召されてお通りになる。ベルテリ大佐は「あれを見ろ! お前はあの人の爲にストロムズ子爵と闘ふのだ。ストロムズ子爵がダネー殿下を侮辱した。お前がその恥をすゝぐ事の出來る唯一の男なのだ。」と云ふ。
「興奮倶樂部」の中では、ミルトが窓外に幽靈を見、「敵」の中では、マディシュが窓外に幻影を見、「頓馬な惡漢」の中ではフィルが窓外に蛇のやうな敵の姿を見た。
「三百三十三號室」の中のウエーリッヂは、バアレエ卿邸へ招待された夜、階下に妙な物音がしたので、降りて行って見ると、一人の盗賊が首飾を持って逃げようとしてゐるのを見た。盗賊もかれの姿を見た。そして首飾を投げ捨てたまゝ、窓から逃走する。それを拾ひ上げたウエーリッヂに盗賊の嫌疑がふりかゝることになる。
「シャロンの淑女」(※横溝正史訳「新青年増刊」1922.09./『ビーストン集』博文館収録)の中のアーサーは道を歩るいてゐると「あッ!」と云ふ悲鳴を聞いたので、いきなりその悲鳴の起った家の窓から中へ飛込む。一人の女が手に燭臺を持ち、一人の男が側らに倒れてゐる。女はアーサーの姿を見ると非常に愕いたが、直ぐに譯を話した。男が此の部屋へ自分を連れ込んで辱しめようとしたので、夢中になって擲ったのだ、と云ふのである。アーサーがふと足元に落ちてゐる寶石を捨ひ上げた。
それを見た女は大變な事をアーサーに注文した。その寶石は妾のものだ。妾はその外に澤山寶石を持ってゐるが、今それを總べて貴方に差し上げます。貴方はそのまゝ、入って來た窓から逃けて行って下さい。さうすれば此處の處は、寶石盗賊が侵入したが、此の男に仕事の邪魔をされたため、擲って逃走したのだと云ふ事になります。――アーサーが寶石の誘惑に負けてその通りにして翌日逮捕されると云ふ話である。
「東方の寶」の中のミーズはアンゼルミング大佐邸の書齋の窓外に立って、部屋の中の大變な光景を見た。二人の男が毒の入ってゐる葉卷を中心にして何か爭ってゐるのである。結局一人が、何か相談をきめた後、その葉卷を吸って昏倒してしまふ。今一人の男は吃驚してそのまゝ部屋を出て行く。ミーズはやをら窓を開けて室内に入り、葉卷の先の方から寶石を取出す。昏倒してゐた男は此の時覺醒してミーズの腕を掴んだ。ミーズは手にした劍でかれを剌し殺す。此の殺人の嫌疑はたった今部屋を出て行った男にかゝり、遂に死刑に處せられるのである。
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偶然から起る出來事よりも、敵から企まれた危難の方が、遥かに殘酷な被害を受ける事は勿論である。人間は眞正面から向って行って、よく相手を陥入れる事が出來なかった場合、第二の方法として裏から行く方法を選ぶものだ。ビーストンは此の場合に必らず巧妙な芝居を組んで、まんまと相手を意のまゝにしてしまふ方法を、多くの作品の筋に取入れてゐる。
「三百三十三號室」「シャロンの淑女」「緑色の人魚」「一月二百磅」「決闘家倶樂部」「浮沈」「廢屋の一夜」「クレッシングトン夫人の青玉」「十萬磅」「眞鍮の燭臺」「犯罪の氷の道」「興奮倶樂部」「惡漢ヴォルシャム」「東方の寶」「五千磅の告白」「人間豹」「頓馬な惡漢」「幻の手」(※「過去の影」)その他かれの作品は殆ど全部と云ってよい程、此の手法を用ひてゐるのである。(前稿「ビーストンの探偵劇趣味」参照)
けれどもビーストンはいつも策略と機智と計畫と芝居とを組立ててゐるだけで滿足してはゐない。ビーストンの本當の年齢は幾つであるか私ははっきり知らないが、作品に現れた作者ビーストンは、少年でも青年でも老年でもない三十才から四十才迄の、打てば響く壯年者の俤が、はっきり出てゐる。
機智と策略が泉の様に後から後から湧いて出るのを忽ちの中にまとめ上げて行く事の出來るかれは全く都會人らしい處を持ってゐるが、結果が計り知れない場合や、勝利が豫知出來ない場合にも、敢然信じる處の計畫を決行するかれは、一面確かに野人の風貌を具へてゐると思ふ。一か八かやって見ろ! とばかりに全身をそれに打込んで敵にぶつかって行くのだ。ビーストンは智謀家であると同時に冒險家である。
此處にかれの「決闘もの」が産まれたのだ。
「決闘家倶樂部」の筋書は前稿にやゝ詳しく述べた。二人の紳士が決闘をするのに、その方法として、籤に當った方の紳士が他人の高價な寶石を窺取する。
「決闘」は取扱った時代がやや古い點でビーストンとしては珍しいものである。ストロムズ子爵と云ふ當時一流の劍客と、若くて血氣の軍人との、劍對劍の眞劍勝負を描いたものだ。此の小説はビーストン一流の伏線よりも技巧よりも、全くその眞劍勝負の光景の描寫が素晴らしい。「星の私語」に現れたビルディング壁面の大冒險を描いたものとこの眞劍勝負の描寫とはビーストン作品中の名文である。
「決闘用の拳銃」(※妹尾韶夫訳「新青年」1925.03.)には拳銃と拳銃との決闘が書かれてある。兩方共彈丸は一つしかこめない規定で開始した。ハスウェーズは相手を殺したくなかったので、足元を狙って撃ったがどうしたのかそれが身體に當って、相手は死ぬ。相手はまだ一發を撃たない中に死んだのである。ハスウェーズは相手も又自分を殺す氣がなかったのではないかなどと考へて、非常に良心の呵責に苦しむ。丁度まる一年經った頃、死んだ相手と瓜二つの男が、突然姿を現はして、さんざんかれを惱ますと云ふ、全篇に無氣味な冷たさのみなぎった一讀蒼然たる物語。
「強い酒」(※桜井昌二訳「探偵文藝」1926.06.)はバルカン半島を背景の物語。逸樂豪奢な耽溺生活に身を持ち崩してゐるモルデーン伯爵と、若くて純潔な神學生との、戀のための眞劍決闘である。火のやうな闘ひを終った時、傷付いた學生は友人に援けられ乍ら寂しい山路を橇で下って行くが、吹雪の中で兩人とも狼に襲はれて、喰殺されてしまふ。
闘ひに勝った伯爵は、その時限り頭に狂ひを生じて、痴呆症になってしまふと云ふ凄惨な筋である。前の「決闘用の拳銃」と同じやうに、此の小説でも何年か經った後、死んだ筈の學生が突然伯爵の前に現はれる。
決闘の型の變化したもの、即ち決闘的氣分の濃い筋を取扱ったものは可成多數を占めてある。
「惡漢ヴォルシャム」では、セアズ卿が、惡漢ヴォルシャムを殺す爲に、策略を以ってかれを自邸に忍び込ませて、寶石を盗まれる。彼が部屋を出ようとする處へセアズ卿は姿を現はし、かれに短銃を與へ自分も短銃を握り電燈のスヰッチを切って、闇中に闘ひ合ふのである。
「緑色の部屋」(※妹尾韶夫訳「新青年増刊」1925.08./『ビーストン傑作集』中島河太郎編(国DC※)ほか収録)では、ブレーディングが、外務大臣マンドリアク男爵の邸宅に忍び込んで生と死の冒險をする話。
「犯罪の氷の道」では牢から出て來たばかりのファーニーが、又も寶石を盗みに行かうとするのを親友のドースが思ひとまらせようとし、却ってかれと、危險極まる窃盗を共にして、その間かれに眞の恐怖と戰慄を與へしめようとはかる物語。
「十萬磅」倫敦の最も貧しい病院に務めてゐた社會主義者のレーヴンスクロフトは、公園のベンチに醉ひ倒れてる乞食ランチンの姿を見て驚愕し、かれを助け起し、自分の住居に連歸った。乞食を連れ歸ったのは決して同情からでなくて殺さうと思ったからである。何故か? ランチンの身には十萬磅の遺産相續權がその頃おりて居て、新聞にはしきりにかれを探し出さうとする廣告が出てゐた。
若しも規定の時日迄にランチンが申出でぬ時は、巨額十萬磅の全部がレーヴンスクロフトの勤めてゐる病院に寄附される事になってゐるのが、社會主義者の彼をして、此の怖しい考へを起させるに至ったのだ。が主義に強い彼も犯罪には弱かったので、どうしても乞食を殺す事が出來なかった。かれの親友ライオンザックは絶大の勇氣と膽力と機智とで、犯人を出さない犯罪を決行する。
「約束の刻限」では紳士ジャドソンが日毎に惡漢デイパーに脅迫されてゐる。デイパーは、彼が前科者だと云ふ事を知ってゐたからである。二人は前に一つ監獄に居た事がある。――彼は堪りかねて、遂にデイパーを殺さうと思ひ立つが、かれにはそんな勇氣が無かったので、同じ監獄に居たもう一人の男ブランナの居所をつきとめ、脅迫状を送るのである。
文面はかれの前科者たる事を知ってゐるものが命の無心と同時に脅迫の文句を書き連ねた無記名のものだった。ブランナは彼と違って熱火の様な性質を持ってたので、現在の社會的地位を失ふことを怖れるの餘り、手紙に指定された場所へ出かけ、一發のもとに、脅迫者を撃殺して、そのまゝ姿を隠した。殺されたのは惡漢デイパーで、ジャドソンを待ち合せてゐた處だったのである。つまりジャドソンは他人の手をかりて惡漢を倒したのだ。
「パイプ」ではレストローワが、家に歸ると忽ち二人の惡者に襲はれ、盗んだ寶石を出さねば殺すぞとおどされる。が、彼は盗んだ覺えが無い。と云っても惡者は信じないで今にも引金を引かうとする。彼が巧みな辯舌と機智とを以って、此の難關を首尾よく切りぬける物語である。
ビーストンの作品に最も多く出て來るのは寶石と寶石盗賊であらう。かれが千邊一律な寶石盗賊物語をあれ程多く書いて、少しも單調に流れた作品を作らないのには、そこに相當の苦心がある。
寶石類は大抵費石凾に入れて金庫に納めて置くのが最も普通のやり方であるが、ビーストンは何時も金庫や寶庫の中に入れて置くのでは能が無いと考へたのであらう。作品中の寶石所有者をして様々な巧みな隠し場所を案内させてゐる。同時にな想像力豐かなかれは、それだけで足れりとせず、隠される物品が寶石以外なものの場合をも色々書くとともに、その隠くし場所を色々に書變へて、筋の上に無限の斬新さを産ましめてゐるのである。「星の私語」で、告白状をポスト受箱の中に入れたのも、無論その一例である。
「惡漢ヴォルシャム」及び「幻の手」(※「過去の影」)「緑色の人魚」「シャロンの燈火」の中では書物型の寶石凾に寶石を入れて置く。
「シャロンの淑女」では大卓子の底をくり抜いて寶石を隠くしてあり、「明日の神」ではアラの神像の眼玉に寶石を隠してあり、「東方の寶」では葉卷の中に、
「眞鍮の燈臺」では燈臺の中に、「闇の手」では嗅煙草凾の中に、「マイナスの夜光珠」では左の腋の下へ、外科手術して――何れも寶石を入れてゐる。
「緑色の部屋」では、楢製の小凾の中へ毒蛇を入れ、廻轉書架の中へ短銃を入れ、書物の中へ重要書類を入れて(※誤り?)ある。
就中「東方の寶」や「マイナスの夜光珠」や「シャロンの淑女」等の作品に始めて接した讀者は、その構想の奇抜さに驚嘆するに違ひないが、かくの如く種が上ってしまへば一向驚嘆すべきものでない事が解るであらう。たゞビーストンの想像力空想力の豐富さには驚かざるを得ない。
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以上でビーストンの神術たる「危險構成術」が、如何に作品の筋の組立ての上に應用されてゐるか、と云ふ事實に關する研究を終りたく思ふ。私は「」の引例を可成多く擧げて所説の例證とした。が、それから引例は充分周到な注意のもとに、順序立てゝ並らべた積りあって決して雜然と羅列したものでない事を一言附加へて置く次第である。
次に述べようと思ふのは、その作品全部を總活して觀たる、かれの筋書を組立てる上の、特性、習慣の研究である。
ビーストンの作品の筋書には、かれの探偵劇的な作品になってゐると云ふ事に就いて私は、前篇「ビーストン探偵劇趣味」で、詳細に述べて置いた。
全くかれの作品は、「小説」よりも「戯曲」と呼んだ方がいゝ位で、「考へさせる爲」よりも「讀ませる爲」に、「讀ませる爲」よりも「見せる爲」に書かれてあると云ふ方が正しい。
從ってかれの作品の筋は、一般探偵小説家の作る筋とは全く趣きを異にしてゐる事を注意する必要があるのだ。
此處に一つの殺人事件があるとする。そして犯罪は最も巧みに行はれ、犯人の推定頗る困難なるものがある。これが立派な探偵小説になる事は論を待たないが、ビーストンによっては、犯罪の巧妙、犯人の推定の困難だけでは作品にはならない。つまり一般の探偵小説にあっては、新聞紙上の犯罪事件は直ちに採って以って探偵小説の題材となるべき可能性を持ってゐるが、ビーストンの場合には決してさうでない。
ビーストンは、その事件が浪漫的なものでない場合は、よしそれが犯罪史上如何に稀有な巧妙極まる犯罪でも、見向きもせぬ。その事件が少しも劇的な素質を持って居ない場合には、些の關心をも持たないのである。反對に、そこに非常な興味深い劇的な挿話が發見されるなら、たとひ如何に愚かしい單純な犯罪にも眼を向ける。
謂はゞ、彼にとっては「巧妙なる犯罪」そのものよりも犯人がその犯罪を決行するに至る經路、動機等の探求の方が重大なのである。「巧抄なる犯罪」そのものよりも、その犯罪を決行した後の、犯人の心理、境遇、對人的關係の變化などの方に興味を持つのである。
此の意味で、ビーストンは「犯罪」研究家ではなくて、「犯罪人」研究家であると云ふ事が出來よう。ドイル、フリーマン、ハンショー、オルツィ等の探偵小説家は總べてこれ純然たる「犯罪」研究家だがビーストンのみは、犯罪現象の探求を第二義釣とし、その人的關係を第一義として、そこに深い興味を持つところの「犯罪人」研究家である。
ビーストンは從ってしばしば、犯罪の無い探偵小説を書く。それは單に緊張と驚愕と興奮との小説で、厘毛も犯罪的質素をふくんで居ないものだ。此處にこそビーストンの眞の作物が見られる。そしてまた、ビーストンの作品には探偵の出ない犯罪小説が多い。それは單に緊張と驚愕と興奮との小説であって、厘毛も探偵の推理をとり入れてないものである。此處にこそビーストンの眞の作物が見られるのである。
ビーストンは從って嚴密なる意味から云へば探偵小説家ではなくて、怪奇小説家と呼ばれるのが至當なのだが、かう云ふ稱號は存在しない。で、近來の稱號に依れば「新らしき探偵小説家」と呼ぶのが最もふさはしい様に思ふ。一體探偵小説はその源を、全く寫實主義から起してゐる。そして發達するに從って、次第に浪漫主義の方向に進んでゐるのである。
今や、犯罪のない探偵小説こそ、新しい眞の探偵小説であると云ふ事になってゐる。
そこでビーストンは、ロマンチストである故に、又、犯罪と探偵が嫌ひである故に、そして緊張と驚愕と興奮とが好きである故に、まことに新らしき、「探偵小説家」なのである。
「決闘」「間諜」「決闘用の拳銃」「廢屋の一夜」「黄昏」「強い酒」等は、犯罪的元素を少しもふくんでゐないところの作品の代表的なものである。本稿の冒頭に擧げた「星の私語」を讀んで、犯罪小説なりとする讀者があったら、それはかれの作品をまだ充分に知らない事を證言してゐるやうなもので「星の私語」は立派な冒險小説である。斷じて犯罪小説ではなく、まして探偵小説では全くない。あの作品には犯罪と犯人と脅迫状と探偵とが出てはゐる。
が、かれの作品を仔細に研討して見た事のあるものは、あの作品が主として何を表はさうとし、そのために作者が何を拾って來て足場にしたかと云ふ事が解る筈である。「星の私語」はビルディングの壁面を傳って行く男の、膽力と決心と冒險と苦心と恐怖と興奮とを描かうとしたものだ。あの作品に現はれてゐる犯罪や犯人や告白状や探偵やは、全くたゞ單に、足場、添物に過ぎない。それらが少しも作品の主題の中に喰込んでないのである。
「興奮倶樂部」の筋は、前稿に述べて置いたやうに、犯罪件を取入れてはゐるが、作者の狙ったものは全く別の處にある。作品が結末を告げても、犯罪事件はそのまゝ謎として取殘されてゐるのである。
又、犯罪は明らかに取扱ってゐるが、それに對しての「探偵」が取扱はれてゐない作品つまり、「探偵的解釋の行はれてゐない」「探偵的要素をふくまない」ところの犯罪小説としては、「東方の寶」「五千磅の告白」「浮沈」「形見の猫眼石」(※西田政治訳「新青年」1925.10.)「惡魔の笑ひ」その他ビーストンの作品の大部分を擧げなければならない。
「パイプ」がホームズ式の推理を描いてゐながら、實はそれを冷笑してゐるものであることに就いては前稿に述べて置いた通りである。それから又探偵等の出る作品が、探偵的推理の紹介よりも、場面の變轉事件の興味、意外な結末を主眼にしてゐるものである事もその際述べて置いた。
要するに、ビーストンの作品は今擧げた二種類の中のどちらかに屬するもののみであって、その外に出たものは一つも無いと云って差し支へないのである。所謂かれは本格探偵小説は書かないのである。
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これらの事から、當然起って來る問題は、作者に何か専門的智識と稱するものがあるか否かと云ふことである。
探偵小説家と云はるゝ人には、純粋の文藝家の中から出發してゐる人々と、警察、裁判所、法醫學、犯罪學に關係してゐる人々、所謂本職から出發してゐる人々とがある。前者の部類に屬する人々は、その文章上の輝やかしい手腕を存分に作品の上に盛り、後者の部類に屬する人々は、ひたすらその各々の持つところの専門的智識、素養、意見を利用して――と云ふよりも、寧ろそれらを基礎として、その上に一篇の作品の筋を組立てる方法――を採ってゐる。
ルブランは美術愛好家として、又歴史考証家として作品に臨んで居り、ル・キウは旅行家として見聞の廣き事を誇り、ウォーレスは新聞記者から出發して、議會、刑務所、社會組織の缺陥等を好んで題材に取入れてゐる。
ルヴェルの作品には外科醫の診察室へ入ったやうな匂ひがし、フリーマンの作品には同じ醫者の匂ひでも警察醫然とした匂ひが漂ってゐる。
そこでビーストンには如何なる専門的智識があるだらうかと云ふ事になる。が、ビーストンの作品は此の問題に對してはっきりした答案を出して居ない。かれは作者として今擧げた二つの部類のうち前者の部類に屬してゐるからである。
ビーストンは實際派ではなくて藝術派だ。實際家ではなくて藝術家だ。藝術家彼は、さうした専門的智識を不純なものと考へてゐる。それはかれの作品の組立てにとって何のたすけにもならないばかりでなく、却って硬化する憂ひがあるのだ。
「マイナスの夜光珠」(※西田政治訳「新青年増刊」1921.08./『新青年傑作選4』立風書房(国DC※)/『ビーストン傑作集』中島河太郎編(国DC※)ほか収録)と云ふ作には、探偵が寶石盗賊を捕へようとする苦心が書かれてある。苦心と云ってもかれは先づ、窃取した寶石、マイナスの夜光珠の隠場所に困り、或る日、天井の硝子窓を打破って落込んで來た家根職人の傷口を診察すると見せかけて巧みにその男の傷口に外料手術をほどこして、寶石を縫込み、そのまゝ不用意にもその職人を逃がしてしまひ、
目下一生懸命にかれを探してゐることなどを知った。知ったと云っても探偵したのではなく賊の情婦が、探偵を訪ねて、話したから知ったのである。そこで探偵は新聞に廣告を出す。廣告主は、行方不明の家根職人の知人と云ふ體裁で、「かれの事に就いて何かを知ってゐる人は、私方へ來て説明して戴きたい。」と云ふ文面である。計畫通り、やはり職人を探し廻ってゐる賊が、何か手掛りを掴む事が出來るだらうと思って、探偵の罠とも知らずに、飛込んで來る。
忽ち捕縛されると云ふ筋であるが、惡漢は、探偵の顏を見てあッと愕く。それが先日の家根職人だったからである。つまりビーストンの解決はかうだ。探偵は自ら職人に化けて賊を監視しに行き、過って窓硝子を破って落ちてしまったがその時、自分の身體に寶石を隠されたとは、情婦が訪ねて來る迄知らなかったのである。
此の一篇こそは、ビーストンのビーストンたる面目が躍如として出てゐる作品と云ふべしであらう。そこには探偵として、少しも尊敬するには足らぬ無爲、無策、無活動の探偵が書かれてあるだけである。犯人としても、行當りばったり式の愚かな人物が書いてあるに過ぎない。ルブランの「怪人對巨人」に見るやうな、奇策縱横的人物とは全く比べ物にならないのである。而も、これは全く愉快な探偵小説であるに違ひない。専門的智識の豐富さに依って讀者をひく作品ではなくて、筋の面白さに讀者を醉はせる作品であるのだ。そして此の傾向が彼の作品の全部に行渡ってゐるのである。
彼は寶石盗賊を非常に多く作品に描いてゐる。同時に「シャロンの淑女」だとか「シャロンの燈火」だとか「緑色の人魚」だとか、浪漫的な名稱の寶石を描いてゐる。一見、寶石に對して可威りな専門的智識を持ってゐるかのやうに感ぜられるが、作品の上に表はれた寶石に關する記述を見ると、何等、深い處を書込んではゐないのである。「かれは黒革の靴をはいてゐた。」と書く場合と同じ程の簡單な筆で「かれは「シャロンの燈火」と呼ばれてゐる寶石を持ってゐた。」と書いてあるに過ぎない。
「アクトンドウエスと云ふ男は、元寶石専門の盗賊だったが、今では改心して探偵となり、寶石に對する深い智識を應用して、寶石盗賊を専門に捕らへてゐるのである。」と彼は書いてゐるが、私達はその作品から、寶石に就いての専門智識を攝取する事は全く出來ないのである。要するにビーストンにはこれと云ふ専門的な智識が無いのだらうか。否、かれはあっても、それを露骨に出さうとしないのだ。
かれが好んで前科者、決闘者、冒險家を描いてゐるのは、その方面に深い研究があり、深い智識がある事を物語ってゐるのだが、かれは決して智識のまゝに作品の上に盛らずに全くかれのものとして消化し盡した後に、作品の裏側にそっと盛って置くのである。ここが彼の藝術家たる所以である。フリーマンの作品とその感觸が全然異る所以である。
9
私の見るビーストンは探偵ではなくて、心理學者である。それはかれの作品をよく讀むと解る。かれの作品は一言にして云へば「筋の面白さ」そのものだ。よくビーストンを評して、「かれは筋の面白さだけの作家である。」と云ふ言葉を聞く。そして私も又かれを評するに「筋の面白さだけの作家である。」と云って置きたく思ふ。
が、一般に流通してゐる此の評語は、實はビーストンを非難してゐるのだと云ふ事を私は知ってゐる。「ビーストンの作品は筋だけだ。筋を取ったら何が殘るだらうか。」と言ふ非難である。
が、此の非難は全く當ってゐない。かれの持つ特質を全く無視した片手落ちの非難である。
第一、ビーストンの作品から「筋を取去る事は」出來ないのである。他の作家の作品の筋は、とかく容易に取去る事が出來るかも知れないが、ビーストンの作品の筋は、それは自身、全く素晴らしい産物である故に、然し容易に取去る事は出來ないのだ。いやしくも批評家として此の勝れた筋を無視する事は許るされない。無視して容易に取去る事の出來る人は斷じて正當なる批評家ではないのだ。
何が殘るかと云ふ問題答案は「何も殘らない。」であるかも知れない。「故に筋の面白さだけの作家である。」と私は言ひ切ってはゞからないのである。けれども、筋ばかりであるとは筋があると云ふ事であり、筋の面白さばかりであると云ふ事は面白い筋があると云ふ事である。
然り! ビーストンには面白い筋がある。驚嘆すべき筋がある。男性的氣魄の浪打つ堂々たる筋がある。讀者はかれの作品から智識を得ようとはせずに、その變幻極まりない筋に誘惑される事を望んでゐるのだ。かれは讀者の前に智能を誇らうとはせずに、獨特の魔術で、讀者の心を思ふがまゝに操らうとしてゐるのだ。
私がかれを探偵と見ずに、心理學者と見るのはかうした理由からなのである。全くかれ程、人間心理の微妙な動きを知り抜いてゐる作家はゐない。かれほど人間の心理過程の變化、推移を察知し精通してゐる作家はゐない。かれは相手のどんな些細な心理の移動をも變化をも、忽ち見抜く事の出來る眼を持ってゐる。見抜いて、更に新らしき變化を與へしめる術を知ってゐる。かれの前に立った相手は既にその心臓を掴まれたと同じである。
それは意のまゝにかれに動かれ、移きれ、押へられ、かくして完全に操られてしまふのである。ビーストンの作品の筋の大部分が、作中の人物に芝居を打たせて、その目的を果たさせてゐるのは、全く此の現はれの一つであるのだ。ビーストンは劇作家であり、心理學者であるやうに、作中の惡漠は、いつも劇作家であり、心理學者なのである。
そして、かれは、讀者心理を把握して、自在に翻弄する處の、全く手におへない惡漢であると云ひ度くなるのである。
「決闘」の中に、二人の軍人が劔と劔とで相闘ふ場面がある。その一人V伯爵は、その時の光景をかう物語ってゐる。
「諸君も御承知の通り、二人の男が死を覺悟して夢中になつて戰ふ時には、相手の眼を一瞬の隙もなく見入るものだ。そして、さながら開かれた書物でも讀むやうに、相手の眼の中にほんの僅かな心の動き幽かな揺ぎも逃がさず見て取るものだ。私は彼の眼の中に私に對する疑惑の念が閃めくのを明らかに認めた。同時に私は一瞬の猶豫も出來ないことを覺った……。」
又「廢屋の一夜」の中で精神病學者ジェームス・ゴッドマン卿の噂をし合ってゐる倶樂部の中の一人が、かう云ってゐる。
「おそらく、あの人程デリケートな技倆を持った者は他に有りますまいよ。――例へば我々人間に備はってゐる、實に種々雜多な神經系統だが、これが様々な形をなして、我々の頭の中に一つ一つ違った部屋を持ってゐると假想するんですね。さうすると彼はそれらの部屋の扉を、一つ一つ自由自在に開いて、其の中を覗込む事が出來るのです。そして其處に間違ひでもあれば、うまくそれをほぐして呉れるんですよ。」
「決闘用の拳銃」と「黄昏」とは、かうした心理學者ビーストンの、代表的傑作であると云へる。そこにはほんの少しの犯罪事件も探偵の姿も引用されてなくて、たゞかれの奇しくも妖しき筆が、讀者の心奥を心にくきばかりに掻き亂して行ってゐるだけである。その中でも「決闘用の拳銃」の一篇こそは、私の讃嘆措く能はざるものであるので、彼の技巧の研究の稿で出來得る限り、能ふる限り、解剖研究して見るつもりである。
又、かれが心理解剖に非凡な能力を持ってゐる事に就いては、此の稿に於いて語るよりも、技巧研究の稿に於いて語る方が正しいと私は思ふ。此處では單に、かれの筋書は著しく他の作家のそれに比べて、心理的に深いものであると云ふ事實を述べて置くだけに止める。
かれの筋書の研究項目として、今一つ落してならぬものがある。ビーストンは一つの問題に對する答案が、同じく一つである事を好まないと云ふ事である。
こゝに一つの問題なり事件なりがあるとする。その場合かれは二つも三つも答案なり解釋なりを出さねば氣が濟まないと云った風である。それはかれの性質と云ふよりも趣味と云った方が正しいかも知れない。此の趣味はかれの筋書構成上に次の二つの傾向を附與した。
その一つ。一つの事件に對して二つの解釋し、或ひは三つ四つの解釋を與へて一篇の作品の筋書に益々複雑と精密の度を増させて、つくり上げて行く方法である。
他の一つは、全然同一の事件を三つ四つの解釋に分割して、これを各一篇宛の作品につくり上けて行く方法である。
前者に依ってかれの最も誇りとする「意外な結末」が産まれ後者によって、これまたかれの特徴であり、かれの誇りである「驚くべき多作家」なる名が與へられたのである。矮小國日本の藝術批評家は、しばしば或る芸術家が多作家である故に蔑すむ性質があるが、藝術家として多作家たる事は一つの誇りでなければならない。
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以上で、ビーストン作品の筋書の研究を終らうと思ふ。
それは探偵小説界に於ける一つの謎であり、驚異であるとされてはゐるが、かくの如く解體し、綜合し、その依って來たる處の根因を探り、その構成さるゝ状態を曝いて見れば、敢へて徒らに驚嘆すべき秘密がある譯でなく、解き得られぬ謎がある譯でもない事が解るのである。
曾つて横溝正史氏は、「ビーストンは、かれ自身の作品の燒直しをしばしばやってゐる。」と書いて居られたが、しばしば處ではなく、かれの作品の全部は、かれの作品の燒直しである。私は本稿の前半部に數多の作品の筋を擧げ引例とした。が、その總べては、冒頭に擧げた「星の私語」の各部分の變型であり、類似型である事を示して來たのである。
つまり「星の私語」一篇で、ビーストン筋書の研究の全部はなし得る事を示し、かさの數多い作品は打って一丸として「星の私語」中にふくまれてしまふ事を示して來たのである。この場合、「星の私語」でなく、他の何れの作品を刺し來っても同じ事である。
これを要するに、ビーストンは無數の新型を産む作家ではあるが、同時に決して新型を産まぬ作家とも云ひ得らるゝのである。
かれの筋書は決して驚くべきでない。驚くべきは、その筋書を運んで行く手際、所謂表現技巧である。と云ふ事を私は本稿の冒頭に述べて置いた。今、稿の終るに臨んで、再びその言葉を操返して置きたいと思ふ。
最後に一言する必要あるのは、かれの特質たる「意外の結末」に就いてゞある。
凡そ、かれの作品の筋書に關する研究で、「意外な結末」の研究は、除外すべからざる項目であるに違ひない。
が、私は敢へて時にそれに關する所感を述べない事にしようと思ってゐる。何故ならビーストンの謎である筋書の秘密が解けた以上、その末技たる「意外な結末」の如き、改めて解剖する必要を認めないからである。
第三稿 ビーストンの表現技巧
1
ビーストンは驚くべき潔癖家である。探偵小説家としてのビーストンは、全くかれ獨りである。系統も流派もない。かれ獨りのビーストンである。
ビーストンには探偵小説と云ふものが、餘りにはっきり解り過ぎてゐるらしい。
かれには確然とした探偵小説法とでも云ふやうな法則があって、(それは或ひはかれ自身のみの探偵小説法であって一般の探偵小説家には當てはまらないものであるかも知れないが)それから一歩も外へ出ないのである。
かれはその方則に固執してゐる。その方則を遵守してゐる。かれは今日迄に百に近い多くの作品を書いて來てゐるが、その間、斷じて、かれはかれ自分の信ずる型を破らない。先輩の模倣、追随、それらはビーストンの作品には到底求められない。ビーストンが驚くべき潔癖家であると云ふのは、此の事を指して云ふのである。かれは探偵小説の總べてに就いてその潔癖さを示してゐる。
その題村の選擇、その構想の樹立、その筋の組立、その表現手法、就中その文章、その會話、叙述、その作品の冒頭、その作品の結末等々に就いて。
題材の選擇、構想の樹立、筋の組立に就いては既に述べた。本稿では、主としてその表現技巧に就いて述べようと思ふ。謂はゞ、これ迄のは作品の準備時代の研究であったが、本稿は、それらの後に來るべき愈々作品が完成へと向ふ道程上の、總ての技巧手法の研究なのである。
2
作品の主題――作者がその作品に依って、表はさうと意圖したものは、既に筋書の組立に依って大體決ってしまふものであるが、それを如何なる方法で出さうかと云ふ事は、非常に重大な事である。この表現形式の適不適は、明かに作品の効果を左右するからだ。
ピーストン作品の表現形式には、終始、全然對話のみで進めて行く形式と、倶樂部なり夜會なりの會合の席上で、一人の人物が出て周圍にゐる人々に向って、一つの長物語をする。それが作品の全部になってゐると云ふ形式と、右の二つの形式を組合はせて、作者の叙述を配したもの、即ち主要人物の對話と作者の叙述とを以て進めて行く形式との三種類がある。
探偵小説として、右の第一第二の形式は他の探偵作家に餘り見られぬ特殊なものである。
何故なら、普通の小説と異ってその題材に特殊な制約のある探偵小説では作中人物の對話のみで進め、或ひは作中の人物一人に話さして行くと云ふ方法は、非常な困難を來すからである。
緻密な犯罪計畫、複雜な嫌疑者の擧作言動の描寫、探偵の深甚なる推理、捜査現況、考察、思索、且想(※?)、觀察の描寫、犯人尋問、證言、法廷、刑務所等の記述。これらの事實の精密正確なる記述描寫を強要される多くの探偵作家がともすれば平凡單調に堕し易い、讀者に退屈を起させ易い、さうした形式を據らないのは當然なことであらう。餘程勝れた手腕、讀者心理を把握する力量がなければさうした形式によっての立派な探偵小説は書けないのである。
ビーストンは、敢へてその困難な形式を操ってゐる。對話と、獨言との作品をどしどし書いてゐるのである。
第三の形式は、探偵小説として最も普通の形式であるが、私はこゝにもまた超然としてたゞ獨りのビーストンを見出さない譯には行かなかった。
それは叙述と對話との形式とは云ふものゝ、その叙述の部分が一般作家のそれと異り、如何にも叙述的でないことを發見するのである。讀者の退屈を何よりも恐れるかれは、だらだらとした叙述を一切避けて、端的に、直截に、強く短く速かに、云はんとしたところを云って居るのである。かれの叙述と會話とに於ける技巧に就いては後に詳しく述べよう。
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ビーストンの採用する表現形式に就いてはこれだけにして置いて、次は、その形式の上に用ひられる表現手法である。既に組立てられた筋書を、如何なる雰圍氣の間に進めて行くか、讀者の心の上に如何なる印影を落しつゝ進めて行くか、俗に云ふ作品の味、匂ひ手觸りを如何なるものにするかの問題である。
凡そこれは、人間の理智性方面の良き産物である處の「探偵小説」に關するあらゆる問題の中で、最も藝術的な問題である。その探偵小説が藝術的である。無いと云ふ事は一にその表現手法の優劣如何に懸ってゐるのだから。
ピーストンの作品に現れた表現手法は、大別次の如きものに分けられやう。
一、犯罪事件の進展に讀者の興味を持たせつゝ行くもの。
これは最も普通の探偵小説の型で、その中には恐怖、危惧、惨虐の念を抱かせるものがあるが、大部分は、それらの感情を抜き去った、たゞ單に犯罪事件の發生、進展、結末に興味を持たせて行く方法である。私達はドイルの「シャロック・ホルムズの冒險」の中に納められた數篇の探偵小説から、恐怖、戰慄を感ずる事は少くない。同じやうにビーストンの作品「明日の神」「緑色の人魚」「馬來土人の繪」「シャロンの淑女」等は、全く犯罪事件そのものに興味を持たせてゐるのである。
二、犯罪物語として讀者の興味を持たせつゝ行くもの。
これは、前のものとは違って、犯罪物語そのものである。そこには脅迫者が居り、被脅迫者が居り、犯罪者が居り、被害者が居り、冤罪に泣くもの前科に苦るしむ者が居る。戰慄、驚愕、恐怖、興奮、緊張、冒險等が主題であって、捜査、探偵及探偵的人物は必ずしも必要とされない。
「惡漢ヴォルシャム」「東方の寶」「五千磅の告白」「頓馬な惡漢」「幻の手」(※「過去の影」)「眞鍮の燭臺」等はこの種に屬するものである。
三、冒險を描いて讀者に恐怖戰慄を與へつゝ行くもの。
嚴密な意味では探偵小説とは云はれないが、冒險や決闘を決行せざるを得ないいききつを描いたものは廣義に於いての探偵小説の中に入れらるべきものであらう。又、冒險、決闘に當然附隋する處の戦慄、緊張、恐怖を描いた作品は無論そのまゝ探偵小説の要素となるのに差支へない。「星の私語」「決闘」はこれらのものの中の白眉であらう。
四、無氣味、妖氣、戰慄を起させつゝ進めて行くもの。
前のよりは一層探偵小説的でない、一種の怪異談、妖怪談に屬する作品である。「決闘用の拳銃」「興奮倶樂部」「廢屋の一夜」「黄昏」等はこの部類である。
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さて、かくの如く、大體の表現形式が決り、その形式の上を如何なる手法を以て、表現させて行くかが決ったとしたならば、次は、その手法を如何にして表現するか、如何にして徹底的に効果を擧げさしむべきかの問題である。
作品完成への最も最後の、最も末枝たる、最も細部の表現技巧である。これこそ作品の姿だ。此の技巧の巧拙、優劣に依って、作品の最後の慣値が評價されるのである。そしてビーストン研究中の大眼目は實にこれなのだ。
私は前稿「ビーストン作品の筋書の組立」でビーストンは探偵と云ふよりも心理學者といふ感じが深いと云ふ事を書いた。
實にビーストンは世に隠れたる心理學者である。かれは何といふ讀者心理を確然と掴んでゐる作家だ。かれの作品の細部の表現技巧を語るには先づ前以て、かれが如何なる程度に讀者心理を掴んでゐるかを語らねばならないと思ふ。
ビーストンの遵奉する處の探偵小説法の第一ヶ條は、先づ讀者に讀ませると云ふことである。
一見、大變に單純なことのやうだが、決してこれが單純でないのだ。何故なら探偵小説はいつも探偵小説として讀まれるに決ってゐるからである。讀者が特に探偵小説を讀まうと云ふのは、普通の小説とは異った感興をそれによって得ようとするが爲に他ならない。從って探偵小説作家たるものは、普通の小説を書く場合と同様な心持で書いては斷じて成功しないのである。
ビーストンは云ふ。
先づ讀まれねばならない、と。讀まれんがためには是非ともその冒頭に於て讀者の注意を強く、激しく、牽くものがなければならぬ。決して弱くては駄目だ。――こゝにビーストンの驚くべき潔癖が現はれてゐるのだ。
では、ビーストンは如何にして、強く激しく、讀者の注意を牽いてゐるか。その方法は決して一様ではない。これから私が研究して見ようと云ふのは、かれの採ったその様々な方法に就いてゞある。
今私達は、全然かれの作品から離れて、私達の日常生活の方面に眼を向けて見よう。そして、その日常生活に於て私達は如何なる場合に驚き、如何なる場合に興奮し、如何なる場合にショックを受けるのかを、考へて見よう。そしてビーストンが如何にそれらのことに深い洞察の眼を向け研究を怠らなかったかを、知らなくてはならぬ。
第一は、或る人から突然に物を云はれた場合である。
今迄堅い沈默を守ってゐた男が、突然物を云ひ出したらそれを聞いた人は、たとひそれがどんな下らない。平凡な話であったにせよ、最初の瞬間には、此の男は一體何を話す積りなのかと、多大の興味と、驚きと、意外と期待とを以て、聞く氣になるであらう。此の際、その突然の話し手の話術が、巧妙であればある程聞手の好奇心はいやが上にもつのらされるのである。
第二は、珍しい言葉を口に出された場合である。今迄聞いたこともないやうな珍しい人の名、地名、奇異な動植物の名、奇怪な事件。それが何にせよ、珍奇な、耳に新しい言葉を相手に口に出された場合には、今迄うかうかとその人の話を聞いてゐた人も、その瞬間から、突然緊張し、その言葉に依って激しい好奇心を誘發されて聞く氣になるものである。
第三は、興味のある主張をされた場合である。或ひは提言と云ってもよい。「私はかく信ずる!」「僕はかう思ふ!」「僕はかう主張する!」の類である。聞き手はこの場合、そもそもどう云ふ主張をするのだらうと、疑惑を起し、好奇心を覺えなどして、聞き耳を立てるのである。此の場合、話し手の主張の強弱は、聞き手の感情の興奮を正直に左右する。相手の普通の感想を開く場合と、一ヶの主張を聞く場合との相違がそれである。
第四は驚くべき話をされた場合である。これは敢へて説明を要しないであらう。最初から、話手の方で、相手の驚くべき事を豫想し、希望し、計畫しての話であるから、聞手が驚愕し、興奮し、戰慄するのは當然である。
第五は、期待してゐたことを話された場合である。こちらで期待してゐたこと、豫期してゐたことを、ずばりと相手に云はれた時は、それが嬉しい場合にせよ、怖しい場合にせよ、その最初の瞬間には激しいショックを覺えるものである。犯罪者が警察官に訊問される場合の激甚の恐怖はその後者の一例である。
第六は、巧みなる形容、比喩、誇張を以って、話された場合である。何ら相手を感動させる事の出來ない話でもそれが巧みな形容、誇張を以て、即ち巧妙なる技巧を加へられて話した場合には、相手を相當に感動させ得るものである。怖しい話には、一層の怖しい形容と誇張を加へ、珍しい話には、巧みな比喩を以て話せば、幾らでも聞き手を戰慄させる事が出來ようし、豫想外の好奇心をさへ起させる事が出來るものである。
さて、今私は六つの種類の場合を擧げて來た。まだまだ私達の日常生活を深い注意と洞察を以てふり返って見るなれば、かうした平凡心理學の初歩の實例などは、幾らでも發見する事が出來るであらう。
だが、ビーストンを私は語ってゐるのだ。ビーストンを語るには、今擧げた六種の心理現象だけで充分なのである。
かれは、これらの簡單な心理現象を根據として、それを自由自在に作品の上に應用し最初の一行から、最後の一行に至る迄讀者の心理を、ぐんぐんと操って、その間一息だにつかせないのである。かれの作品を評して妹尾韶夫氏が次のやうに書いてゐる。
「ビーストンの第一の特質は緊張味に富んでゐることだ。そして Shrill に富んでゐることだ。彼の小説には、無駄な叙述がない。寛みがない。カットすべき部分がない。始めの一行から最後の一行に至る迄、ピンと張りつめた、鋼鐵の絲のやうに緊張してゐる。叩けば鳴る鋼鐵が、彼の藝術である。彼の藝術は、塗りたくりつけ加へたものでなくて、無駄をかなぐり棄て、けづり去ったものである。
だから、鍛へに鍛へた日本刀のやうに凄く澄んでゐる。だから、せいぜい三十枚ぐらゐな短篇ばかりである。その會話の一句一句が、讀者をはらはらさせる。どうなるだらうと手に汗を握らせる。彼が作った人物は、簡潔な、鋭い、火花が散るやうな會話を交しながら讀者に息もつかせず、頁から頁へと結末を急いで行く。」
(實にビーストンを語り得て快とする言である。が、これだけでは單にビーストンの文章を形容したに止ってゐて、研究にはならない。私はビーストンに驚いてばかりはゐられない。私は、ビーストンを飽く迄も解剖しその正體を掴まうとするものであるのだ。)
5
さて、ビーストンの作品の一篇を採り、これを分けて次の各部分にする。
一、冒頭
二、叙述
三、會話
四、結末
先にも書いたやうに、探偵小説の冒頭は、先づ讀者の注意を強く牽くものでなければならない。ビーストンの作品の冒頭を見よ!
かれが如何にその點に腐心してゐるかが、まざまざと私達に判るではないか。私はそれを先に擧げた六つの心理現象によって説明しようとする。
次に擧げる四つの作品の冒頭は、その第一の場合の應用である。
即ちビーストンの目的は、或る男に、突然に、口を開かせることに依って、讀者の好奇心を瞬間のうちに誘起せしむるにある。
「「他人がピカデリー街の豪奢旅館のことを話すのを聞くと、僕ァいつもあの旅館の三百三十三號室の出來事を思ひ出す。ありゃ、實に變な出來事だった。」と、Aといふ一人の男が話し出した。
食堂に集った七人の男は一齊に眼を輝かせながらその方を見た。」……「三百三十三號室」
「「諸君!」ヴィラアスキ公爵が倶樂部の喫煙室でプチ・ジュウルナル紙をひょいと土耳古緞通の上に抛り捨てながら突然言ひだした。「私の妻の姿が見えない、ゐなくなったといふ奇怪極まる風説が最近行はれてゐるやうで、あなたがたのうちにも定めし内證で語り次いで居られるかたがおありかと察します。いえ、それだからどうと、咎めだてをするのではない。妻はたしかにゐなくなりました。」」……「夜の精」
「「おい、お親父さん、私は今ね、此處から二哩ばかり北の寂しい山の中の、一週間前に老人が惨殺されたと云ふ一軒家の傍を、自動車で通って來たよ!」と葡萄酒の酒杯を飲みほしながらガーマンが云った。」……「興奮倶樂部」
「或る倶樂部の喫煙室ではその日の夕刊で訃を傳へられた有名な精神病學者の思ひ出話に花が咲いてゐた。
「おそらく、彼の人程デリケートな技倆を持った者は他に有りますまいよ。」一人の男がそんな事を言った。例へば」……「廢屋の一夜」
次は、その第二の場合の應用である。
ビーストンはこゝに先づ突然に讀者の耳に新しい人名を提出し、或ひは作者自身が奇異な情景を點出し、或ひは作中人物をして突然奇異な言葉を發せしめてゐる。
「刈り込まれた一株の冬青の木の下にランドマークは佇んでゐた。彼の眼は、目前の不思議な光景に釘附けにされた。」……「浮沈」
「プレーディングは庭の垣に兩手をかけて、背伸びして中を覗き込んだ。」……「緑色の部屋」
「夜更けた倶樂部の喫煙室に五人の男が集って談話に花を咲かしてゐた。或る者は卓子に肘をついて暖爐の火を見入り、或る者は長椅子に凭れかかって紫色の葉卷の煙を吐き出し、或る者は安樂椅子にふんぞりかへって天丼を睨んでゐる。」……「決闘用の拳銃」
「「英國、倫敦、警視總監」に宛てゝ、不思議な報告を書き終った男は、ラタキア煙草の煙管に火を點けて、燒け付く様な日光を浴びながら、うんと手足をのばして背伸びをし、それから今しがた書き終った報告を靜かに讀み始めた。それに書いてあった事は次の通り――」……「東方の寶」
「その時エトリッヂは六人の客人達に向って、電報の文面を讀んで聞かせてゐた。
ヤムヲエヌヨウジアリユカレヌ――ファラウェイ。
そこにその物音がしたのである。窓硝子か何かが割れたに違ひない、鋭い、金属製の物音が隣室から傳はって來た。」……「一月二百磅」
前掲「三百三十三號室」や「夜の精」の冒頭も、無論此處に書加へる必要がある。何故ならば二つ共に、最初から奇異な言葉を發して、作中人物と讀者とを煙に卷いてゐるからである。
又、反對に此處に列擧した冒頭はすべて、作中人物をして突然に物を云はしめてあるから、前掲の部類に組入れて少しも差支へないものである。
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第三の場合の應用が次に示す數篇であらう。
こゝにビーストンは、作中人物をして、或る種の主張、聲明をんさしめ、以て讀者の注意を増長してゐるのである。作中人物をどうしても最初に出すことの出來ない場合には、作者自ら或る種の主張をして、讀者の好奇心を誘ふやうにつとめてゐることもある。
そして私は前の第二の場合と此の第三の場合とを分けたが、兩者はしばしば同一現象として起ることがある。つまり、突然の主張は、常に聞き手をして、奇異な感を抱かせることがあるからである。或る人が一つの奇異な話題を持って來たと云ふことは煎じつめれば、その人が一つの主張を持って來たと云ふ事になるのだ。
「「僕は個人生活がすべてだと思ふ!」アシェルが云った。「僕は群衆生活だと思ふ。」スティラードが云った。」……「十萬磅」
「「勿論その結果はかうなるんです。」と、マーリス君は言った。「その襲撃を試みる者は逮捕されるに違ひないのです。」」……「決闘家倶樂部」
「伯爵の眼は輝いてゐる。
「實に立派な劍だ!」と彼が云った。「これは屹と昔の西班牙の刀鍛冶冶が作った劍だ。西班牙の刀鍛冶の他に、こんな劍を作り得る者はない。今の戰爭は何もかも機械だが、昔はこんな美しい武器で、美しく殺し合ったものだ。怖ろしい! 見事だ! まァ、この刀身やこの柄(※木覇)や鍔の細工を見給へ!」」……「決闘」
「午後七時、レストローワは自分の部屋に歸ると、まるで背骨でも折れたやうに、ドカリと椅子に腰かけて、
「あゝ、もう骨牌には凝り凝りした。本當に凝り凝りした」と嘆息した。「俺は垢取人夫にも劣ってゐる。あんな骨牌なんぞ、星雲ほどの値打ちもなければ關係もないことだ。あゝ、こんなにお金を取られちァ、夜も碌々寝られァしない。それに今夜は先日の週末休日にワイルドリー卿方で取られたより二倍も小切手を書かされたのだから、これではもっと骨牌に上手になるか、でなければ――おや、誰がこんなに取りちらしたんだらう?」……「パイプ」
「「戀は或る人の云ふ如くに異常精神の作用ではない。又他の人々が想像して居る様な最高至純な自我心の發露でもない。それは強い意思の人のみが飲む特權を有する強い酒である。」」……「強い酒」
「「犯人と云ふものは、」積みさしの新聞紙を脇に置いて、探偵ドッゴが云った。「程度の差こそあれ、多少は誰でも自分が犯した過去の罪を良心に咎められるものだ。如何に抜目ない老巧な犯人でも、ほんの鳥渡した過失をしやうものなら、それがその當時こそ何ともなけれ、時が經つに從って次第に大きくなって、良心を脅迫せずには止まない。恰度それは、煙突の内部に出來た小さい煤の塊が、掃除も出來ない中に次第に大きくなって、どうする事も出來なくなる様なものだ」」……「幻の手」
(※参考:「「俺はかう考へるなあ。」老刑事は新聞を傍へ押しやりながら言った。「どんな惡黨だって必ずおの過去には、何かしら思ひ出す事の恐ろしい挿話を持って居るもんだ。その方面の大天才と言はれる様な男でも、何時か何處かで詰らない失策をやってゐる。その失策といふ奴は煙突の中の煤みたいに、永劫消える事はなくて日が經つにつれて、段々と良心を脅し始めるのだ――。」」……「過去の影」)
そしてこゝでも再び繰り返さねばならないことは、いつもビーストンは、最初を、突然會話體を以って始めてゐると云ふことである。即ちこれらはすべて第一の場合に組入れてかまはないと云ふことである。
第四は、驚くべき言葉を、作中人物に發せしめて、作中人物と、讀者とを戰慄せしめ、或ひは驚愕せしめ、或ひは興味深からしめてゐる冒頭である。元々驚くべき内容を持った話なのだから、これに一層巧みな誇張と形容を加へて云はしめれば、その効果が倍加するのは當然の事であらう。從って此の種の冒頭にはビーストンの妙筆が極度に加へられてあるのが常である。
「ヴァレンティン伯爵は、怖しく細長い、眞っ直な劍の先を床につけて、その五十吋もある長い鋼鐵をうんとしわめ、殆ど先端と柄と密着く位になった時急に放してヒュウと怒った蜂の唸り聲の様な音をさせた。」……「決闘」
「美妙な少女の顫音が、屋敷から庭へ、庭から森へと響いた。
「懶き眸を開きて靜かに、我が心の扉に立つ人は誰ぞ」
「猫の様に八釜しく唸ってゐやがる!」とヴォルシャムが云った。」……「惡漢ヴォルシャム」
「「ねえ、ジャドソン君」
とチェインズ刑務所を出て來たディバーが微笑しながら云った。
「君ァ運の好い男だぜ。まァ此處の景色と、あすこの景色を比べて見みがいゝ。此處は見晴しの好い、古風な綺麗な庭園で、テムズ河の波の音まで聞えて來るが、彼處は扉の孔に柱を打付けた怖ろしい石の部屋だ――」」……「約束の期限」
「怖しい五ヶ年の期限が次第に消滅して來るにつれゴールドリングの心は不安を増して、日毎に暗い影が胸を壓するのを感じた。」……「敵」(※妹尾韶夫訳「新青年」1924.12./『至妙の殺人』論創社ほか収録)ほか収録)
「マートル・カッドマンといふ名刺を見て、私は、「こいつマイナス事件でやって來たのだナ」と直覺した。そして會はない方がいゝと思った。――と云ふよりも會ひたくなかったといふ方が眞實だった――苦々しい三年以前の思ひ出――四人の寶石専門の惡漢が組をなして働いてゐた。彼女マートル・カッドマンはその一人で、その相棒にアクトン・ドーエスといふ男がゐた。それが私である。」……「マイナスの夜光珠」
第五は、期待してゐたことを、相手に云はれた場合に、感ずる、強弱様々の感情の動き――それを巧みに應用して、讀者の興味を牽く冒頭である。
第一例「シャロンの淑女」の冒頭を讀んだ讀者は、一先づそこにかるい微笑をもよほし、さて、それから……と云ふやうに次の文字に眼を向けるのである。處で私はその先を書く事を遠慮したが、ビーストンは直ちに續いて、ヒルダ・パセット嬢と云ふ何物とも知れぬ婦人が訪問して來た事を書いて居るのである。
第二例「明日の神」の冒頭は、ビーストン趣味のあらはれとして、全く愉快なものだ。讀者は嫌が應でもそのまゝで本を手離すことは出來ない。
第三例「敵」の冒頭は、今迄のと違って中々會話が出て來ないのだが、その叙述が一般探偵作家の叙述と比較してどんなに違ふものだかは、直接作品に就いて知って戴き度い。
「凩の吹き荒む十二月の或る夜、友人ホッグ・トレードスから十七世紀時代の制作にかゝる珍らしい卓子を手に入れたから見に來ないかとの通知が有った。私は早速半月莊に彼を訪れた。
彼の見せ様と云ふ卓子は鬱金香木の小さいもので有った。成程彼が自慢するだけ有って實に立派な物であった。」……「シャロンの淑女」
「夏の夕方の街に、消魂しい新聞賣子の呼聲が響いた。
「大英博物館の殺人!」
瞬間に私はカスパーを思ひ出した。
新聞賣子はまるで場末の穢ない街で牛肉でも切賣する人のやうに、神聖な世間の報知を矢釜しく呼立てゝ賣ってゐる。私も群衆に交って順番が來るのを待って、一枚買ふと靜かなアーケードに入って擴げて見た。
讀んで見ると、その日の朝早く、大英博物館の埃及室の「明日の神」たるラアの花崗岩の膝を握ったまゝ、カスパーと云ふ男が死んでゐたと書いてある。
私は開いた口が塞がらなかった。
讀まぬ先に私がカスパーを聯想したのは……(後略)」……「明日の神」(※宮井敏雄(妹尾韶夫?)訳「独立」1924.07./『ビーストン集』博文館ほか収録)
第六は、巧みなる形容、誇張を以って話された場合の聞き手の恐怖、驚愕、好奇を、應用した、冒頭である。ビーストンの筆はこゝに鋭い輝を見せ、最初の一行から、讀者の心をぐっと掴んでしまってゐる。
「ヴァレンティン伯爵は、怖しく細長い、眞っ直な劍の先を床につけて」云々(前頁(第四の例)参照)……「決闘」
「「我々の運動は力強い威嚇的な調子に終始するのです」と波蘭の音樂家カルピンスキーが云った。「そしておのおのその地方の主義者を代表して世界各地からこの會合に集まって來たのです。我々はお互ひに初めてお目にかゝる仲ですから、そこに多少の危險は伴なふでせうが、なに構ひません! 我々はすでに意見を交換し、報告をすまし、各自の考へも述べて、今度我が主義の種子を蒔くべき土地も決定を見たのです。」……「間諜」
「一面にたち罩めた靄の中を汽船はもう二三時間も前から速力をゆるめて、注意深く遡行してゐるのである。リヴァプールの大きな埠頭が影のやうにうっすりと右舷の方に見えだしたので、赤ペンキ塗りの煙突の脇でこうるさく吹き鳴らされてゐた引き裂くやうな汽笛がやっと止められた。
あのぼやけたやうな埠頭、それからづっと右の方にぼんやりと見える一帯の陸地、あれがあのだゞっ廣い海の、長い航海の終りなのだと思ふと、メリイ・ハアボードの胸には希望と不安との混合した一種重苦るしいやうな感じが浮び上った。たうたう歸って來たのだ!」……「黄昏」(※延原謙訳「新青年増刊」1926.02.)
「長い卓子の一番上手に控へて、胴衣の間から禮服用のシャツをはみ出させ、火の様に赤い髯を生やした、背のひょろ高い、痩せ細った男が、席を立って云った。」……「人間豹」(※妹尾韶夫訳「新青年増刊」1924.08./『ビーストン傑作集』中島河太郎編(国DC※)/『至妙の殺人』論創社ほか収録)ほか収録)
「青いボスフォラス海峡はさながら火に燃えてゐるよう。テレビンスの樹の匂ひは淫蕩な接吻の様に私の頭腦を刺戟する。此の暑い午後、後ろの壁に圍まれた庭で鳴く鳩の聲を聞きながら、私はテラピアの斜面に凭れて、去年九月二十二日の夜、オックスフォードシアーに於ける、英國陸軍大佐、アンゼルミング氏邸で起った事件を此處に書いて見よう。」……「東方の寶」
「ブレーディングは庭の垣に兩手をかけて、背伸びして中を覗き込んだ。
爪先上りになった五十碼ばかり向うに、三つの破風のある近代式の煉瓦家屋が見えて、あたりは二十四時間前から小止みなく降る雪に眞っ白に包まれてゐる。家の窓は暗い。たゞ一つ芝生に面した階下の或る窓から緑石のやうな青い光が流れて、外の雪を照らしてゐる。雪が止むと共に、蒼白い月が昇って、空の雲を灰色に染めた。
その蒼白い月光がかすかに雪に反射して、薄暗い家の硝子窓を水溜のやうに淡く光らした。
ブレーディングは興味ある物を見る如く、ヂッと緑色の光の漏れる窓のみ見つめてゐた。その窓は、闇の中にひそむ猫の目玉のやうに緑色に光ってゐた。
「あれだ!」とブレーディングが胸轟かしながら心に呟いた。……「緑色の部屋」
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以上、私はビーストンが、その作品の冒頭に如何に苦心をしてゐるかと云ふ事を、書いて來た。ビーストンに取っては、その作品が讀者の注意を牽かないと云ふことは、大變な事なのである。その故にかくも様々に、人間の心理を研究し、應用し作品第一行から讀者をして、些の怠屈を生ぜしめないやうに、筆を進めてゐるのである。
然も此の周到なる注意は、最後の一行に到る迄、間斷なく續けられる。どの一節、どの一章、どの一句を見ようとも、その注意のあらはれてゐない個處がない。その苦心の程は、ビーストンの作品を數多く讀めば讀むほどまざまざと感得する事が出來て、一種凄惨な感さへ起るくらゐである。
既に何度も繰り返したが、ビーストンの作品には叙述が少く對話の部分が多い。一體、叙述と對話とはどちらが讀者の注意を強く牽かと云へば無論對話の方であらう。だから、作品の冒頭には叙述を成るべく避けて、直ちに對話を以て始めてゐるのだ。
がビーストンだとて、徹頭徹尾對話のみで進めることが探偵小説と云ふ作品本來の性質上甚だ不利なことは知ってゐる。そこでかれの嫌ひな叙述體の部分も相當加へなければならない。
ビーストンの叙述は、全くビーストン獨特な味を持ってゐることを、私は云ひ度い。
それはル・キウ、ドイル、ルブランなどゝ甚だしく感觸の異ったものである。一言にして云へば、溌溂たるものだ。一字一字が躍動し、飛躍してゐる叙述だ。叙述とは云ひ乍ら、平凡な寫實的な記述ではない。讀者の心をして感ぜしめないやうに、深い深い注意を以て組立てられたものだ。
「怖しい五ヶ年の期限が次第に消滅してくるにつれゴールドリングの心は不安を増して日毎に暗い影が胸を壓するのを感じた。
それと云ふのは、五ヶ年の長い月日を牢獄に過した彼の友マディシュが解放されるからだ。マディシュは五年の間、監獄に暗黒の夜を送り世間から全く存在を忘れられてゐた。而し彼は無實の罪だったのだ。何の罪も犯さないで、五年の苦役を忍んだのである。彼は不圖した不利な誤解から社會の表面から葬られ、總ての人に見放された。而しマディシュが無罪なことを知ってゐる人間が、唯一人あった。それがゴールドリングだった。(後略)」……「敵」
要するに、先に擧げた六種の心理現象を、最も巧妙に、次々と交互に應用して、一字一句の末にも、讀者の注意と好奇と、期待とを外らさぬやうに計畫されたものに外ならぬ。何たる此の苦心!――此の到らざるなき苦心が、ビーストンをして、あれ程名を成さしめたものでなくて何であらう。
私が日本の探偵作家の作品をそれぞれ興味深く讀んでは居り乍らも、いぎ外國のそれと比較して見ると、いつも外國の作品の方に采配を擧げたくなるのは、それらがかうした細微な處にさへも、深い深い注意が行きわたってゐることを知るからである。ドイル、ルブラン、マッカレー、ルヴェル、すべて自分が探偵小説家であると云ふことを、はっきりと知ってゐて、一宇一句の末に到る迄も、「探偵小説らしさ」を匂はしてあるではないか。
而も日本の探偵作家は徒らに題材の怪奇のみを求めて、その文章の表現にいさゝかも注意をはらはず、依然として自然主義文學的表現を遵法してゐるのではないか。新らしき酒は新らしき革袋に盛れよ。新興探偵小説文學には、宜しく探偵小説的表現を採用せよ。先づ讀者心理を把握せよ。あたら得難き題材を死なせるな。自らが探偵小説家たることを瞬時も忘するゝ勿れ。
正木不如丘、小酒井不木、江戸川亂歩、平林初之輔諸氏の作品が探偵小説としてその表現にまだまだ緊張味の不足なのを痛感する私は、今日のところたゞ一人、城昌幸氏の表現を以て、理想に近いものとしてゐる次第である。
同氏の叙述の進め方、會話の組立て方こそはしっかりと讀者の心理を掴んでゐるではないか。その一句々々で痛くも私達の胸を刺戟する。それは海外探偵小説家の採用するそれに近いものだ。就中ビーストンらしい表現であると云ひ得る。
(然し、城昌幸氏とビーストンとは、作品の題材の把握に著しく異なる點があるのを私は知ってゐる。が、城昌幸氏の作品程ビーストンの作品と似通ったものはない。同氏に就いては是非共一篇をもうけて私の思ふ處を述べて見るつもりである。)
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ビーストンの叙述體の文章のことから、大變脱線して、日頃尊敬してゐる斯界の先輩に飛んだ暴言迄はいてしまった。私が次に述べようと思ふのはビーストンの會話に就いてゞある。
ビーストンの會話が如何に鋭いものであるかは先に擧げた妹尾韶夫氏の言葉が、遺憾なく裏書きしてゐる通り「簡潔な、鋭い、火花が散るやうな會話を交しながら讀者に息もつかせず、頁から頁へと結末を急いで行く」のである。處が、ビーストン以外の探偵小説家の作品にはしばしば息をつかせる會話が出て來る事を發見して、興味索然として了ふ事があるのだ。
殊に我國の探偵小説には、それが多いのである。會話が全く死んでゐる。長ったらしい。活気がない。無駄だらけである。飛躍と云ふものがない。全然讀者を度外視して、作中人物だけが、勝手に話をしてゐる。と云った様な非難が次々と私の口をついて出て來て、仕方がないのである。
私は云ふ。
ビーストンを見よ! と。
それからルブラン、更にルヴェルを見よ! と。
その洗練された、簡潔な、しつかりと讀者の胸に喰入る會話よ! 先づ、私はビーストンだけに就いて語らう。
ビーストンの會話は斷じて描寫されたものでなくて、造られたものである。
かれの作中の人物は如何なる場合にも、勝手に話す事を禁じられてゐる。かれらは創造主ビーストンの命ずるまゝに、話すだけである。何故さうするのであるか。
それはビーストンが瞬時も讀者から眼を放たないからである。今、ビーストンは作中人に物只一言を云はしめる、そして直ちにその一言に依て起された讀者の心理の動揺を火の様な眼でぢっと凝視める事を忘れない。そして更に作中人物に次の一言を云はしめる。此の反應は如何にとばかりに、再びビーストンの眼は、讀者の心奥にそゝがれる。そしてどんな微細な動揺さへも悉く觀取してしまふのである。
私は先に六種の心理現象を擧げた。ビーストンは要するに、矢張り、それらの心理現象を交互に應用して、あゝした會話を組立てるのである。今私は次にその代表的なものを擧げて見よう。
「船が島に着きかけた時、甲板に立ってゐる僕の後ろに落着いた聲がして、
「この水の底には昔の町が沈んでゐるんですよ。」と云ふ。
何だか聞いた事のある聲だと思って、僕が後ろを振向くと、前日珈琲店で知合ひになったルポールが立ってゐるので、吃驚した。彼は僕を見ながらにっこり笑ってゐる。今の聲は僕に話しかけた聲だったのだ。
僕は餘りの意外に、
「えッ?」と問ひ返へした。
「確にこの水の底には昔の町が沈んでゐる筈です。昔、ひどい嵐がありましてね。島が崩壊したことがあるんですよ。そしてこゝらが一面の海になってしまったのです。」
彼はこゝまで云ふと、僕が吃驚したやうに彼の顏ばかりまじまじ見詰めてゐるので、
「君は僕を忘れましたね? 昨日珈琲店でお目にかゝったルポールと云ふ男ですよ。」
「いや、忘れてはゐません。忘れてはゐませんが君の顏が、僕の昔友達の顏によく似てゐますから、それで不思議に思ってゐるのです。」
「昔の友達とは?」
「トランプラードと云ふ男です。やはり君と同じ佛蘭西人ですよ。その男は不幸にも決闘をやって、拳銃で射殺されたのです。」
「ぢァ、死んでゐるのですね?」
「えゝ、死にました。」
「誰が殺したのです?」とルポールが訊いた。
「ハスウェーズと云ふ英國人ですよ。」
「やはり君の友人ですね?」
「さうです。」
ルポールは暫らく默って海の上を鳴いて飛ぶ鴎の群を見入ってゐたが、やがてまた口を開いて、
「二人は何が原因で決闘をしたのです?」
「矢っ張り女の事ですよ。つまらぬ事から次第に喧嘩が大きくなったのです。」
「しかし女の爲に決闘までするとは、随分思ひつめたものですね?」
「えゝ、尤もハスウェーズは殺す意志なしにトランプラードを射殺してしまったのです。」
「では、さだめしハスウェーズと云ふ英國人が今後悔してゐるでせう?」
「後悔してゐます。」
「決闘の方法は?」
「方法は頗る簡單でした。一人が一發しか彈丸を込めない約束だったのです。而もトランプラードは、その一發さへ射たずに死んでしまったのです。」
「何故射たなかったのでせう?」
「何故射たなかったか、それは永久の謎です。或はゆっくり相手を殺すつもりだったのか、それともハスウェーズと同様、全然相手を殺す氣がなかったのかも知れません。」
するとルポールが嘲笑するやうな句調で、
「それを確めるには死人を墓場から甦らすより他ありませんね?」と云った。(後略)」……「決闘用の拳銃」
「身を切る様な風の吹く或る夜三月の夜のことだった。僕は一人の友人――さやう、レーヴンスクロフトと呼ぶことにしよう――レーヴンスクロフトと一緒に倫敦のある公園を歩いてゐた。(中略)寒い風がビュービュー吹くので、二人はさっさと歩いた。歩きながら彼は何時もの社會主義に關する意見を饒舌ってゐた。ところが、我々が通るすぐそばに、一人の乞食が坐ってゐるのが眼についた。腰掛に腰掛けてゐた。いかにも苦労をしたやうな、やつれた顏をして、酒を少し飲んだやうな處も見える。
乞食の前を通り過ぎて、五十碼ばかり行くと、ふとレーヴンスクロフトが立止って私の方に顏を向けて、
「後歸りしようか?」と云ふ。
元より、僕らは用事あって公園に來たのではない。散歩に來たのだ。で、僕は彼の云ふまゝに、後歸りに同意した。
と、二人はまた、例の乞食の腰掛のそばまで來た。
「彼處に乞食がゐるだらう?」
「うん。」
「よく見てやらう。」
「うん。」
我々は、やや歩度を寛るめて、腰掛に近づいた。
乞食は、空家の窓のやうな、どんよりした眼を見張って、僕等を見た。表情の無い朦朧とした眼だ。と、友がぎゅッと僕の腕を掴んで、
「矢っ張りランチンだ!」と喘ぐ。(中略)
「僕ァあの男を知ってゐるんだ。」と云ふ。
「それァお目出たう。」
「冷やかしちァ困る。あの男は、僕の親友だったのだ。」
「でも、君は、あまり嬉しさうでもないぢァないか。」
「それァ、當り前さ。親友が乞食になってゐるのを見ては、幾ら久しぶりに會ったって、嬉しいものぢァないよ。しかし、スティラード君、何年も會はずにゐた友が、意外にも乞食になってゐるのに、偶然出會すなんて、珍らしいことだねぇ?」
「何とかしてやるつもりか?」
「まさか、知らぬ顏も出來まい?」
「さうか。」
「僕の家に伴れて歸ってやらうか……」
「まァ、それが親切な行ひだね。」
「君も來てくれるか?」
「うん。」」……「十萬磅」
9
ビスートン作品の結末は、かれの最大の誇りであるかも知れぬ。明快にして痛烈なる或ひは奇抜にしてユウモアに充ちたる時に、異妖にして戰慄を感ぜしめる、自由自在に讀者の意表に出づるあの表張(※ママ)らしい結末は全く驚くべきものと云はなければならない。あの結末は一體如何にして生るゝものであるのか。
私はそれを前稿「ビーストン作品の筋書の組立」の中に述べて置いた。
つまリビーストンは、ロンティストである故に、或る一つの問題に對して、たゞ一つの答案のあるのを望ないところがある。かれはいつも二つも三つも、或る時は四つも五つも答案、解決を考へて置く。そして、讀者にはその中のたゞ一つを知らせて置いて筋を進める。最後に到って、實はかうなのだと、かねてから用意してあった解決を發表するのである。
然し、それでは一般探偵小説家の採るそれと何ら異る處がないやうである。事實それは全く異る處はないのだ。然も何故あの様に鮮やかな背負投げを喰はせる事が出來るのか。
それは誇張があるからである。
ビーストンには誇張がある。
この事を忘れてはならない。かれは決して寫實的な作家ではない。かれの作品には到る處に誇張を發見するのである。
巧妙なる誇張とそしてそれは私達をしばしば微笑させはしても、決して輕薄な感じは抱かせないのだ。
「「あら! 何の音でせう? 拳銃の音ぢァないかしら?」妻が軟らかい聲で云った。
「神經だよ。」と興奮に息を詰らせながらジャドソンが呟いた。
「まァ貴方はお聞きにならなかったの? 今あの向ふの奥の方で大きな音がしたぢゃありませんか。」
「風が烈しいから、大きな木が根元から折れたんだらう。」片手で横腹を押さへて、ジャドソンが説明した。
彼は「寒いのに斯んな處に立ってゐるのは毒だから、さァ内に入らう!」と云ひたかったが、自分の齒並がガタガタ顫へ、顏が眞ッ蒼になってゐるのを見られるのが嫌だったから默ってゐた。そして鐵の手摺りを握り締めながら、さながら自分が企らんで、企らみ通りになった出來事を見る様に、屹と兩眼を圓く見開らいて、何時までも何時までも闇を見詰めてゐた。(後略)」……「約束の刻限」
何たる誇張! 何たる探偵趣味!
「こゝまで考へて來て、ふと彼が聞耳立てた。誰かゞ自分の名を呼ぶやうな氣がする。けれども恰度その時。また隣室から烈しい咳聲が續けざまに聞えて來たので、名を呼ぶ聲は聞えなくなった。彼は扉を開けて、次の聲を待った。と咳聲が止んで、また自分の名を呼ぶ聲がした。氣が附いて見ると、それは咳聲の主なる隣室の病人が呼んでゐるのであった。(後略)」……「眞鍮の燭臺」
微笑! 又、
「「随分よく取れてゐる。泥棒が黒檀の箪笥を開けかけた瞬間にマグネシュームを爆發さしたもんだから、吃驚して比方を向いたので、顏がまる見えさ! 實際面白い寫眞だよ!」(後略)」と云はれて、その寫眞を手に戻し度さに、前科者ファーニーが寶石窃盗罪を決行すると云ふのが、「幻の手」(※「過去の影」)の筋書だが、その小説の最後の結末はかう書いてゐる。
「「なあに、その寫眞と云ふのは頗る拙い出來でね、誰の顏やら解らぬほどの代物だったよ。これなら何も怖れるに足らぬと思った。つまりその寫眞一枚を買ふ爲に、五百磅拂はされたんだね。然し、まァ萬事は濟んだ事だ。濟んだ事は二度と話すまい。」(後略)」
(※参考「過去の影」:「「(略)だが何もさう感心する必要はないのだ。寫眞はうまく寫ってゐなかったんだからなァ。」」)
つまりビーストンの結末が美事なのは、いや、言葉を直して云ふならば、美事に見えるのは、かれが二つ三つの解決を手に握ってゐるにもかゝはらず、その讀者に提出した假の解決の方へ、適度(或ひは極度)の誇張を加へて、一層、その確實性を多く持たせるからである。期待が大きければ大きい程、それが外れた場合の失望は大きい、と云ふこつを、ビーストンは心得てゐるのである。
但し、最後の解決が無理であると、讀者をあっと云はせる事は難しいのは無論である。が、他の作家ならばいざ知らず、ビーストンが、幾つも解決を造るのは、かれに具はった天性の然らしむる處なのだ。
だから、いつもそれには無理がなく、極めて自然なのである。
ビーストンの天性……とはかれの頭が、如何にも融通が利くと云ふことだ。
ビーストンがあれだけの數々の作品を造り得たのは、全くそのおかげである。自らの作品の筋を幾度にも燒直しが出來、そこに少しのかび臭い匂ひを漂はせないのは、そのおかげである。謂はゞかれには應用の法がある。一本のマッチの棒を與へても、かれはそれに依って、自由自在に一篇の作品の筋を組立てることが出來るのだ。
しかも、かれは誇張描寫法を會得してゐる。
ビーストン作品の「意外な結末」は、考へて見れば決して「意外」でない事が以上でうなづかれやう。
10
以上、私は數言を費してビーストンの作品完成上に於ける、表現技巧を研究して來た。
その冒頭、その叙述、その會話、その結末等に於ける、かれの表現技巧を研究して來た。
私は可成り忠實に實例を擧げ、細部に渉って、思ふ處を述べて來たつもりではあるが、今稿を振返って見るとまだまだ決して滿足になる迄述べ盡して居られぬ事に氣が附く。如何にも表面上だけを走ってゐるやうな氣がして、まだまだ幾らでも云ひ足らぬ個處を發見するのである。そしてまた、前稿にも書いた様に、此の稿で私は、ビーストンの最傑作と思ってゐる。「決闘用の拳銃」に就いて、徹底的に解剖研究の筆を振って見たかったのだが、それにもこれにも既に豫定の紙數が盡きて了った譯なのである。
で、私は次の稿に於て、「決闘用の拳銃」の解剖研究をやり、併せて、此の稿で述べ足らなかったことどもを、補はうと思ってゐる。
(ビーストンの研究 本稿完了)
注)ネタバラシ部分は背景色文字にしています。
注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は修正したところがあります。
注)引用の一部は『ビーストン集』博文館・世界探偵小説全集19、新青年などに合わせて若干の修正、改行の追加、ルビを入れたところがあります。
注)題名も修正したものがあります。「幻の手」と「過去の影」は同じ作品ですが訳者違いか再訳か不明ですが文章が異なります。一部併記しています。
「八月探偵小説壇總評」
「探偵趣味」 1927.09. (昭和2年9月) より
「湖畔手記」を書いた頃の葛西善藏氏と云ふとまだ本郷の下宿に居た時分の事だが、私はよく訪ねて行っては、氏の酒杯の中から出て來る人生哲學を聞かされたものである。
ある時、氏は「子を連れて」と云ふ氏の著作集を取り出して、常とは違って時折朦朧とした眼の底にぢっとした鋭いものをたゝへ乍ら、
「もう、君は、批評が出來るかね? どう? 此の中の僕のものに就いて批評が出來るかね?」
――
今、急に思ひ立って、八月號の各雜誌に現はれた探偵小説全部の批評の筆を執るに當り、ゆくりなくも思ひ出されたのは、葛西氏の此の言葉である。
「批評が出來るかね?」
所詮は憎まれ役である。が、まあ出來るだけやって見ようと思ふ。
▼疊まれた町(以下八篇サンデー毎日) 國枝史郎
國枝氏のあの一と癖ありげな文章に就いては、しばしば思ひ切って手酷い非難の言葉を聞かされる。だが、よくよく底を割って聞きただして見ると、此の非難、大概自分の好き嫌ひから出てゐるので、私は問題にしない。いやみたっぷりだと言ふ人があるが、私はあの文章が好きである。國枝氏のものだと一も二もなく、直ぐ手に取って讀破したくなる――それ程にも私はあの癖のある文章に、激げしい魅惑を感じる。
――だが、と此處で云はせて戴く。だが、私が魅惑を感じるのはそれが氏の大衆ものの場合に限るのである。「劍侠受難」や「神州纐纈城」を讀んだ時の愉快さは、然し、「銀三十枚」や「奥さんの家出」の讀後感とはいさゝか違ふと云ふ事。
「疊まれた町」も同様で、あゝした文體の爲に、どうも作の中心をぐっと把握したと言ふ力が感じられず、無駄な描寫が(その作品にとって)多く、作全體が間延びがしてゐると思ふ。
そして一行毎にチクリチクリと針を刺す様な氏獨特の社會批評、文明批評、それから皮肉、風刺と云ったものが加へられてゐるのだがそれは折角のものではあるが、此の作にとっては邪魔になって仕方が無い。
作者の意圖が、若し此の策の結末に書かれたやうな、童話文學と探偵小説の、一種の共通點を見出して、それに興味を持ってゐたのだとすれば、此の文章と手法は甚だ不向きなものと云ふより外仕方がないであらう。作者が餘り大人であり過ぎる。だから、あどけない、子供の國の「夢」が、全然描出されて居らぬ。
▼湖畔劇場 正木不如丘
正木氏よ。一度でもいゝ「探偵小説」を書いて見せて下さい。書けなければ書けないで、徒らに妙なものを書いて、紙面をふさげないで下さい。
「この脚本は湖畔に近い高原に新らしく建設された療養所の所長が餘技として書き下したものであったが、脚色がいかにも素人放れがした大膽なものであったので加藤君としては、一種の冒險事業の如く考へて、公演を決行したのであった。」
此の一節を讀んで感じた事は氏の唱導する客觀小説も、案外淺薄そのもので、かうした一人よがりの文章よりも、私はまだ、武者小路實篤氏の「自分小説」や葛西善藏氏の「私小説」の方が、好感が持てるのだ。何しろ「湖畔劇場」と云ふ題の付け方からして、作者の舊式な事大趣味が鼻に附く。私は、もっと純粋なものを此の作者の機敏に望んでゐるのだが、探偵小説にはどうやら縁の無い人のやうな氣がする。
▼赤んぼと半鐘 牧逸馬
ピリッと凍る、巧妙な筋を掴んだものだが、筋倒れせず、最後の一行迄、生きた人間の呼吸が感じられる。かうした筋の良い作品はうっかりすると、筋に負けてしまふ危險があるのだ。
もう少しつき詰めて書けばぐっと凄味が出て、日本のルヴェルだとか何とか云はれる處だが、敢へてルヴェルにならずとも宜しい。何よりも私達は、此の程度の作品に對する正直さ、素直さ、を持ち度いではないか。
▼手袋 水谷準
「威嚴を持って語る作家現はれよ!」の、水谷準氏とも思はれない。これは又、恐ろしく陳腐きわまる筋だ。
ワードも書いた。デーヴィスも書いた。ナイトも書いた。ベーアも書いた。英米の短篇家(※?)が幾つ書いたってかまはないが、我等の水谷氏に、書いては貰ひたくないのだ。
素人をおどろかせる事は出來やうが、探偵小説に處女性を破った私達には、完全にあくびものである。
手袋を紛失した志村が、型通り血眼になって探し廻らないで、あたかもバスター・キイトンの様にポカンと澄ましてゐたとしたら――それだけでもワードやベーアを見返して、帽子を振る事が出來やうと云ふもの。
▼敗北 甲賀三郎
二十枚に足りない短いものだが感じがすっきりしてゐて、樂々と讀める上に、結末の緊張が目新らしい。立派に完成された作品である。
然し、新進が、かうした「完成」を目的とすることには餘り賛成し難い。
▼隼の藪入り 久山秀子
巧い!
新聞社から原稿を頼まれて、ほい承知とばりにかう云ふ作品を提供する。新聞社も喜べば、讀者も喜ぶ。天下泰平と云ふ譯である。早速讀んで、早速感心して差支へない。
然し、六十何枚とかの「隼の勝利」は、まだ讀む氣になれないで、此の事は、只々作者に對して濟まない心地がしてゐる。だが此の作者には、「隼の藪入り」の様な、短かくて、理窟要らず、正直に面白いものを望んで、敢へて禮を失する様な事は無いであらうと思ふ。
▼血友病 小酒井不木
文學的に見て、甲賀氏の「敗北」以上に手ぎはよくまとめられた作品である。そして筋も充分私達を失望させないだけの嶄新さはある。
十二枚ものには勿體なさ過ぎる材料を、あれだけにきっちり壓搾したところ、然も尚、釋々たる餘裕を見せてゐるところ、大家たるを恥ぢないものがある。
此の作品は、今月での目ぼしい収穫の一つである。
▼戀 渡邊温
渡邊氏の作品には毎度好意が持てる。
と、云ふのは、妙な話だが探偵小説で何より氣になるのは文章であり、渡邊氏は現在の探偵小説家連中の中での文章家だ、と信じてゐるからである。
一體、白井喬二氏によれば、大衆文藝に於ける文章は、單調(※?)をよしとし、それはたゞ物語を擇ぶ素朴な事であればよいと云ふのだが(その氏の文章にして既に脈々たる詩趣(※?)を持ってゐるのだが)渡邊氏は此の點から云って、全然反對の立場に立って居る人ではないかと思ふ。
私は、氏の前身に就いては、いさゝか知るところがある。そして氏を探偵小説壇に迎へる事が出來たのを喜ぶ、その歩みを期待するものゝ一人である。
「戀」は、然し、手際の良いコントであると云ふ以外に、古い言葉だが、探偵小説味が希薄だ、と云って置く。
▼電話を掛ける女(講談倶樂部) 甲賀三郎
▼阿修羅地獄(文藝倶樂部) 甲賀三郎
前者は第一回、後者は第四回、共に長篇物である。
戀人に會ひに行かうと思った青年が、自働(※ママ)電話室に立ち寄ると、婦人の先客があり聞くともなしに聞いたその婦人の言葉は、英語ともつかず佛蘭西語ともつかず、獨逸語でもなかったと云ふ。ふと青年の記憶にのぼったのは、目下盛に新聞紙が報じてゐる言語不明の人物の富豪脅迫事件である。
青年は婦人が立去った後、それとなく聞き込んだ先方の番號を交換手に問ひたゞして見る。計らずもそれが、一年以上も訪問しなかった彼の叔女の家だった――。
と云ふ様な事が發端となって、色々怪奇な事件がまき起され様と云ふのが、「電話を掛ける女」なのだが、これらの筋が充分、複雜であり怪奇である事は、既に第四回を數へてゐる「阿修羅地獄」を見ても豫測出來る。
そしてもはや、私達はドウゼやウォレスをそれ程ムキになって迎へなくてもよいと云ふ事を信じ度い。甲賀三郎氏や小酒井不木氏のストーリイが、「完全に英米を凌駕してしまった」のは宣傳でなくて事實である。これは何と云ふ大きな功績である事か!
八月號の不同調に寄せられた、小酒井氏の感想文を讀むと、「探偵小説を書く程至難な事は此の世にあまり無く、筋を組立てた上、猶文章に迄苦心しなければならないとすると、探偵小説家は身體を壊してしまはねばならぬ。」とある。その通りである。だが、尚曾つ、その文章に就いて非難せねばならぬとは、批評家の苦衷も又察して貰ひたいものである。
――例へば、「電話を掛ける女」の中で、自動電話室から出て來た妙齢の婦人を、主人公の青年が見送る箇處に「おゝ、何と云ふ彼女の姿の氣高かさよ。後姿と横顏とを見て美くしい女とは思ったが、かく迄整った品位のある、ほんとうに天上の神女が天降ったかと思はれる程に美くしいとは思はなかった。」とあるなどは、今少しどうにかならぬものだらうか。此のことを今少しはっきり云はせて戴くならば、人物をもっともっと生かして動かせる點に努力して貰ひたいものだと思ふのだ。
どうも「阿修羅地獄」の鳥山老人にしろ、畫家の時田にしろ、女優の若葉みどりにしろ、餘りにも概念的な、型にはまった人物ではあるまいか。そして華族の園池や、三太夫やの人物の言語動作などは、確かに菊池幽芳時代そのまゝである。
以上の諸點、是非とも御壹考をわづらはしたく思ふ。
▼三年の命 横溝正史
挿繪小説と云ふ大甘物だが、これも文藝倶樂部に連載して、第四回になる。小舟勝二愛讀小説の一つである。
篠山博士と云ふ紳士が路傍に倒れてゐた青年を救ふ處から始まるのだが、此の青年、生れて三十幾年間。曾て一條の日光を見ず、一歩も歩かず、一瞬間も立った事がない、と云ふ變り種である。何でも生れて以來、暗黒の部屋に横たはったまゝで、一日一回覆面した男が一片のパンを運ぶだけだったさうな。しかも世にも稀れな美貌を持った青年で、作者の云ふ處によると、「高畠華宵が好んで描くやうな」青年そっくりだと云ふ。
此の題材、奇想天外だが、既に解決されざる世界の話として。中歐にその事實譚がある。
とにかく充分に小説化されてよい怪異譚である事は確かだ。だが、横溝氏は、單に愉快な讀み物として、全くの通俗的興味本位に筆を進めてゐるものと思ふ。
私の出る幕でない事を知る。
▼網 瀬下耽
懸賞二等にしてはいさゝかへうし抜けした作品である。文章申分無しと云ふ處だが、「一本の網にまつはる三人の男女の愛欲の葛藤」が案外平凡で、深刻味が缺けてはゐないかしら。
と云ふのは取材が平凡だと云ふのではなく、取材の扱ひ方が――問題の三人を客觀的に描いたと云ふ事がその素因をなしてゐるのではあるまいか。あれだけ作者が狙った心持を、一人一人に簡單に一話づゝ告白させて、相當の効果を擧げようとあるのが無理ではなかったか?
最初の出は鳥渡よかったが、結末はその割に冴えなかった事が惜しい。
▼地の底の精神主義者 小堀甚二
主人公を生かした描寫の冴えが感じられた。
此の作で面白いのは、三十枚ものゝ、筋の組立てである。中々用意した、作者の頭の良さが、私を微笑ませる。だが讀後の感じが、案外すっくりと來ないのはどう云ふものだらう。今の處此の作者の探偵小説は私には未知數である。
激げしく、私は此の文壇作家の第二作を期待する。
▼初夏の晴着 林房雄
新潮に発表された「囚人の犯罪」を讀んでから、能角のある探偵作家としての氏を、ひそかに期待してゐたものである。
「初夏の晴着」は期待してゐたやうなものとは大分違ふが、然し、申分ない。かほどにも明るく、輕ろやかな作品を從來餘り見かけなかったと云ってよい。今月の作品中傑出したものゝ一つである。
▼笑ふ楠田匡介 水谷準
前の大下氏のは、筋が面白く、それにともなふ作者の感激が、何處か甲賀氏に似て、希薄なのを感じたが、今月の水谷氏の作品には、丁度その反對の事が云へると思ふ。
新らしい楠田匡介の生活振りの紹介が濟んでから、ツタンカーメン式化粧の女が出て來ると、私には直ぐそれが、かれの妻の澄子だと云ふ事が判ってしまった――これは私だけではあるまいと思ふ。かうした點、特に此の種の連作ものの難かしい處である。今後が思ひやられる。
「笑ふ楠田匡介」は、此の點を非難すればするのだらうが、何よりも作者が人物をくっきりと紙面に生かしてゐるのが嬉しい。概して水谷氏は作品を愛し、心して育て上げる作家だと思ふ。「手袋」などは困りものだが、此の「楠田匡介」と云ひ、七月號本誌の「遠眼鏡」と云ひ、作品に對する愛情の行届いた、中々いゝものだと思ふ。何と云ってもロマンティストである。だからもいつも堅苦るしい理詰めに陥ちず、天眞らん慢として童話風のおほらかな味があるのだ。
▼疑問の黒枠 小酒井不木
何とも作者に對しては失禮なことだが、私は此の作品を飛び飛びにしか讀んでゐないので、感想は此の次の機會に譲りたい。
▼水晶の座(女性) 牧逸馬
牧逸馬氏と探偵小説に就いては微笑すべき事がある。
と云ふのは、最初は「彼」だったのが、結末へ來ると犬になったり猫になったりする、例の同氏の羊頭狗肉的文學(尤も良い意味に於いての)だが、それが新青年に紹介された時、成程鳥渡氣が利いてはゐるが、探偵小説としてはどうも餘りに輕過ぎる、たあい無さ過ぎると云ふ非難を、可成聞かされたものだ。
が、七月號の本誌に載った同氏の随筆に曰く「實のところ、これ迄私は探偵小説に一生懸命になったことがない。それが、何ういふものか、探偵小説家――嫌な名だな――の端くれに加はって來てゐるから妙だ。さぞはた迷惑だったことだらうと思ふ。ところで、ふとしたことで、もっとも自分としては立派な動機があるのだが、最近、探偵小説に大きな興味を感じ立てた。それは、どうせ探偵小説家の一人とされてゐる以上、毒食はば皿までゞ、一つ思ひ切って働らいてやれと云った程度の、自暴に近い感奮でもあるのだが、これからうんと書くつもりである。」
何ぞ計らん、今迄の牧氏の羊頭狗肉的文學は、都會趣味的のウヰット文學ではあっても、敢へて探偵小説だと言ふ譯ではなかったのである。
何しろ、未だに最新進とも目さるゝ本誌投稿家の内にも此の形式の模倣者があるらしく、それを又いちいち水谷氏が叱りつけてゐると云ふ奇觀を呈してゐるなどは、確かに牧氏の云ふ「はた迷惑」的の現象の一つであらう。
さて、その牧氏の跳躍一番の作品が、此の「水晶の塵」である事は、一度讀めば直ぐさうと察しがつく。
東亞日報社の大講堂で講演中だった、新歸朝者の山岸博士が、奇怪な死を遂げたのを、傍聴の中串戸豐と云ふ探偵小説家が、妻君の洋子と共に色々探査の歩を進めて行く――と云った筋だが、まだ連載されて二回目七十枚程なので、海のものとも山のものとも判らない。
甲賀氏の行き方よりも地味だが――と云ふのは作者牧逸馬氏がそのまゝの身體を投げ出して正直一方に書いてゐるからだが――それだけに實感に強く來るものがある。今のまゝで行くと、怪奇を取扱ってはゐてもどぅやら久米正雄氏の微苦笑私小説と同じ様なものになりさうで、私一個人としては稍々失望である。然し外の人ならず、我等の才人牧氏のことだ。一般人的興味の具備と云ふ、大衆通俗文藝の必須條件を忘れてしまふ様な人でない事を信じたい。
▼譚(探偵趣味) 城昌幸
此の作品には久しく接しなかったので「探偵趣味」では一番先に讀んだ。
が、三つの物語の中、「傀儡人形」と云ふのがやゝ印象に殘っただけで、總じて期待に反し、詰らなかった。
城氏とはまだ未見の間柄であるが、會へば愉快に語れさうな人に思ふ。だが、「譚」を讀んだ機會に一言苦言を呈したく思ふのは甚だ心外であるがこれも仕方がない。
城氏の「寶石」と云ふ作品、あれには稍々探偵小説的稚氣と云ふやうなものがあって、一部の人々には輕んぜられたらしいが、然し私はあの稚氣を愛したく思ふのだ。寶石! 踊子! 頸飾! 盗賊! 短銃! 殺人! と云ったやうな――。
「その暴風雨」にはそれが全然なく、文字通り藝術的に巧緻にまとめられてあった。今度の「譚」も結局その部類に入れられるのであらう。そのことが、私に眉をひそめさせるのである。
――そもそもわれわれの文學、探偵小説は、在來文壇的文學、創作小説と云ふものの、常套と倦怠と無感激とを痛感し、そこで清新なるストーリイ、爽快なる筆致、強烈なる興奮などと目新らしい看板を押立てゝ華々しく賣出したものなのだ。假りにも探偵小説家と云ふ名を與へられてゐる人は、片時も此のことを忘れてはならないのである。
――佐藤春夫氏が過去に於いて探偵趣味的な小説を書いたとしても、要するに過去は過去であって一昨年だかに新青年に發表した此の「家常茶飯」を讀んでも、それがいさゝかもわれわれの現在讀んでゐる處のものでなく、所詮佐藤春夫氏は退屈文壇人であると云ふことを證明したに過ぎなかった。
で、城昌幸氏の作品が、次第に探偵小説的稚氣を失なって、藝術的に完成され様としてゐることは私を明らに失望させるのだ。
――甲賀三郎氏の書斎で、本格探偵小説の將來と言ふやうなことを論じて話に段々身が入って來た頃、氏がチョッキの兩わきへ兩手は挾んで、胸をうんとそらせ乍ら、「探偵小説はやっぱり本格長篇ですなぁ!」と本懐を洩らしたのを、今でも覺えてゐるが、探偵小説が純粋文學の一部門とならうとすることよりも、通俗大衆文藝の一部門とならうとすることに、より妥當性と必然性とが見出す私には、城氏の近來の高踏的、獨自的傾向に同感出來難いのである。
▼老婆二態 XYZ
編輯者が此の作者を探偵して見ろ、と書いてゐるので、答へる譯なのだが、これはどうしても牧逸馬氏である。
何故牧氏であるかと云ふ推定理由を次に擧げて見よう。
一、假名を使ってゐるから=凡そ牧氏は假名好きである。私は三上於菟吉氏の名が、手に取る毎の雜誌の目次欄に出て來るのを、痛快と恐怖とを以って見てゐるのだが、牧逸馬氏の作品が様々な假名で出てゐることを知るのも、確かに痛快であり、と同時に恐怖である。
現に八月號のクラクにも、確かにそれと思はれる作品が出てゐる。
二、人物の描寫が常識的だから=牧氏が苦情を云ふかも知れないが、氏の作に出て來る人物は男であらうが女であらうが、老人であらうが、子供であらうが、いつも常識的である。此の作品に就いて云へば、七十五のお婆さんは中風である、孫娘はおカッパさんである。臺處には出刄がある。
第二話の方のお婆さんは、長男と田舎に住んでゐる。二番息子は東京にゐる。その息子はお婆さんに東京見物に來いとすゝめてゐる。お婆さんは善光寺詣りの費用をひそかに貯へてゐた。東京の息子は會社員で、宴會と縣人會とボーナスとがある。何と立派に常識的ではないか。
三、人物の會話が、個性的であり過ぎるから=例へば、おカッパさんの孫娘は「あたちね、おはりしごとするの」と云ひ、そのお母さんは「どうしたの君子さん! あ、あなたおてゝを切ったのね、あらまぁひどい!」と叫び、第二話の方では、お婆さんが「なにね、わしは謝ってなど貰ひたくはござんしねえ。おきくには理窟があるでな、わしが負けたこととにして置きますだ。」と云ひ、
總領息子は「ねえおっ母様、わしも云ひ過ぎたし、きくだって悪い。きくにはわしが後でよく云ひ聞かせるで、もうそんな大きな聲をしねえでおくれや。」と云ふ。人物人物の言葉が餘りに明瞭に(若しくは型にはまって)個性を現はし過ぎてゐる。長篇「水晶の座」の巡査の言葉など、それの最も甚だしいものだ。
四、大衆文藝的の文章が随所に出てゐるから=牧氏は別に假名で大衆まげものを書いてゐる。その文脈が、これにも出てゐる。「帽子掛へ掛けて行ったまゝのアンテナ線、ぐるぐる大きな輪に卷いたのがどうしたものか……」などその一例。
五、サンデー毎日の「赤んぼと半鐘」と、殆んど全く類似した手法だから讀み合せれば直ぐとうなづかれることである。
以上で、此の「老婆二態」」のXYZ氏が、牧逸馬氏であることを答へたい。此んなことのために随分紙面を費したが、云って見るならば、これらのことで、氏の長篇、「水晶の座」の伏線もトリックも大體あばく事が出來やうと云ふものである。ビーストンの解決が、ビーストンをよく知ることによって、容易に察知出來得るやうに。
かうして八月の雜誌に現はれた創作探偵小説と云ふものを一通り讀破して見ると、さて、文字通りの傑作と云ふものは少くない。本格か變格か、探偵小説の創作が我國に興ってから三年に近いが、未だにその落着く處を知らないのである。
注)ネタバラシ部分は背景色文字にしています。
注)明かな誤字誤植は修正しています。
「九月創作總評」
「探偵趣味」 1927.10. (昭和2年10月) より
九月號の各雜誌に發表された創作探偵小説の總數は、長短篇とりまぜてざっと二十篇である。一ヶ月僅か二十篇! これが日本探偵小説壇の現在である。
だが此の中で、われわれの理想を托するに足る、ほんものゝ探偵小説、「明日」の英氣をはらんだ眞氣な作品はと云ったなら、大下字陀兒氏の「闇の中の顏」その他二三篇が數へられるに過ぎない。正直のところ、これが九月號の總決算である。
――然し、八月の炎暑にあてられて、うとうとしかゝる時に、
「ひとつ、眠氣醒ましに探偵小説でも讀んで見よう」と云ふ人々の希望を、充分に滿足させる程度の作品は、それでも中々あることは確かだ。
木蘇毅氏の「不思議なる死」(クラク)小酒井氏の「人間機械」(講談倶楽部)甲賀氏の「ダイアモンド」(キング)サトウ・ハチロー氏の「大東京の怪魔人」(雄辯)その他講談倶樂部夏季増刊の清見睦郎、倉田啓明兩氏の作品等――。
以上の著作は皆とりどりに、相當讀者の好奇心をそゝる面白い讀物で、筋も破綻を見せず、充分に通俗的な平明な文章で、巧妙にまとめあげてある。
然し、私には、遺憾乍ら、これらの作品からは、何等尊敬するに足る様な創造的意識をも、藝術的香氣をも感じる事が出來なかった。そして此の二つは、それがほんものゝ文學である限り、必らず兼ね備へてゐなければならない筈のものである。
みんな趣味が通俗に傾き過ぎてゐて、人物の描出が殆ど概念的で思想がなどと名附けるものが果して有ったかどうか――ともあれ、「これは新しい!」と云った境地に踏み入れた作品は、まあ無かった様な氣がする。凡そ、われわれの胸の扉を釘たないものばかりである。毎月私は此の欄で探偵作家が餘りに、高踏的藝術意識を持つことを非難した――が、今擧げた様な作品を、いさゝかも私は期待してゐたのではないのだが――。
たゞ、甚だ奇妙な話だが、これらの作品に就いて、私はかふ云ふことを知る。
それは「みんな所謂本格物ではないか」と云ふ事實だ。犯罪、探偵、證據、解決――すべてこれらの作品は足並揃へて探偵小説の本道を歩んでゐる。このことは、私の頭を奇妙にいらいらさせる!
▼闇の中の顏(新青年) 大下宇陀兒
此の作品は、何と言っても九月中の大きな収穫の一つに違ひない。作中人物に對する作者の、懐かしい思ひやりの深い點で、或ひは「疑問の黒枠」以上の快い傑作となりはしまいかと思はれる。元來筆の豐かな氏が、これは本格長篇だと云ふので、愈々引締めて、簡潔にしようとしてゐる用意が感じられるが、その繪景は一段と効果を強めたと云ひ得る。第一篇六十枚で早くもお誂へ通り、女が一人殺されたが、どうやら犯人がもう既にわれわれの眼前に出場してゐるらしい氣息を感じる――。
▼緑ヶ丘事件 松浦美壽一
此の前の「B墓地事件」は、題材が著しく地味なのと、作者がすこしも華やかさを欲してゐないのと、描寫が驚くぺき健實性を持って居たのとで、私には未だに忘れ難い作品になってゐるが、同じ作者の第二作「緑ヶ丘事件」にも殆ど同じ感慨を覺へさせられた。何とはなしに淋しい姿の作者ではあるが、私は此の作者を尊敬する。更に第三作のX事件を期待する。
▼五月の微風 古賀龍視
タイトルも題材の狙ひ所も、確かに快活なものに違ひないが、讀後の感じは、全くその反對のものだ。これは一體どうなのだらう?
非常に、こまごまと、様々なことを書いてゐるが、よく讀むとどうも胸へしっくりと來ない。時々恐しく上滑りした齒の浮く様な調子の個處がある。そしてトリックそのものは決して成功してゐるとは云はれない。要するに此の作品には、眞の若さやモダン味は感じられないで、反對にどこか老人じみた、變に力抜けのしたもののみを感じる。一考を要されたい。
▼人肉の腸詰 妹尾アキ夫
此の作品から受けた喜ばしさはどうしよう! 此の新味溢れたスタイル! そして、此の、底に測り知れないユーモアをたたへた作者の温容は! 妹尾氏はいつの間にか立派な道化役者になり切ってゐた――。
まだ、どこにやら、文章のギコチ無さは感じるが、此の題材の發見、配合、此の會話、此の描寫、此の説明、もはや第一流の作家として大手を振るべき素質づくめである。確かにこれも九月中での逸品だと思ふ。
▼電報(探偵趣味) 前田次郎
此の作品を一言で「愚劣だ!」と評し云ったのを私は三人迄聞いたが、かうした短篇ユーモアものは、いつも讀者の兩極端に立つものであることを忘れてはならない。私一人に云はせれば、此のユーモアと若さとが斷じてまがひ物でないことに於いて愉快極はまりない作とはするが、だが根がこれだけのものと云った感じにも無論捉らはれることを白状しよう。
▼作品 窪利男
同じユーモアア物でも此の方がずっと偉大だと云ふ氣がする。兎に角、度々の作品で知った窪氏は、スケールのまとめ方が手に入ってゐる――いや、幾分か入り過ぎてゐる人だ。
▼素敵な素人下宿の話 荒木十三郎
おゝ恐るべきナンセンス化! 横溝氏の微笑がその邊に――。
▼老婆 XYZ
前月此の假名作者のことに關して、私は牧逸馬氏であると書いたが、さうで無いさうで、すると飛んだ引合に出した牧氏に對して激しい恐縮を感じる――但し、私の牧逸馬氏觀は、依然として、あの例證の中の一字一句をも動かすことを拒絶するものである。
▼青野大五郎の約束 春日野緑
これは批評でなしに――。
私は東京で生れて東京で育ったのだが、里見ク氏の小説が何よりも好きで、そしてお壽司が又何よりも好物で、さてあのキビキビしたにぎりの味覺を思ひ出すと、前後三回にわたって讀んだ春日野緑氏の青野大五郎ものは、人物、題材、到底私の嗜好の外にあるものだと云ふこと。
▼平野川殺人事件 一條榮子
「本格探偵小説の恐怖」(と云ふと餘り度々云ひ盡された事だから分ってゐると思ふが、執念深くも本格物につきまとふ例の硬化、三面記事化の恐怖だ!)から無事に逃れ出した作品である。ほっとする。
――此の多少翻譯味がゝった簡潔な會話や、硬い感じのする飾字をずらりと並べた文章や、人物や、構想やは、忽ちに私を懐しい舊「新青年」時代の心に引戻して呉れた。此の作の中の主人公や、その助手には、確かに以前會ったことがあるに違ひないのだ。此頃にも時々二三人の人が、さうした好意を持って呉れたが、どうもそれらの人ははっきりとその面影を傳へて呉れなかった。
注)明かな誤字誤植は修正しています。推測による文字も数ヶ所あります。
注)句読点は追加したところがあります。
「十月創作總評」
「探偵趣味」 1927.11. (昭和2年11月) より
▼お白狐様(サンデー毎日特別號) 正木不如丘
或る藝者が一心不亂にお白狐様を信心する(と聞いただけで既にわれわれには或る種の妖氣が感じられる)かの女のいゝ人である呉服屋さんが、近頃兎角商賣がうまく行かなくなったからである。と、信心の効目が現はれたか、七十ほどの白毛の女が、ひんぱんに白絹を買ひに來るやうになった(面白い)。ところが何も知らなかった呉服屋さんは滿願の日の晩、初めて藝者からお白狐様云々を聞かされて喜びよりも恐怖のあまり、その時以後氣がふれて、
狂ひ死してしまふと云ふ怪しげな話だが、作者は此の話の裏に、科學的な解釋をつけて、一篇の探偵小説にまとめ上げてゐる。が、その贔後の種明しが、實に朦朧たる筆致で、たゞそれとなく讀者に匂はしてある、と云った程度で、その手際には敬服した。此の手際一つが此の作品を實に味はひ深いものにしてゐる。學ぶべき點だと思ふ。
▼或る自殺者の手記 小酒井不木
文士の自殺が敏感な探偵作家の頭に何事かをもたらしたのか、自殺者と遺書を取扱ったものが、今月は六篇あった。ところで、探偵作家の取扱った自殺者の遺書と云ふものは、大抵の場合恐しく立派な探偵小説になってゐるものだ。「或る自殺者の手記」の、加藤と云ふ醫師は自殺するよりも探偵作家になった方がよかった――何故なら、一流の週刊雜誌に掲載されて少しも見劣りがしないではないか(!?)
▼拾った和銅開珍(クラク) 甲賀三郎
私は此の作品にあらはれた作者の「遠慮」を此上なく好ましいものに思ふ。「これは怪奇探偵小説だ!」とばかりに眞向から脅しつける手法をガラリと捨てゝ、「明治の末、と云ふともう十五六年前の話ですが……」と云ふ具合に物靜かに讀者に話しかけて行く。此の作品が終りまでしみじみと讀ませるのは、作者の此の謙虚な態度が全篇に一貫してゐるからである。
けれども、甲賀氏はどうしてなかなか遠慮深い人ではないのでさうした物靜かな話し方の中にも容赦なく伏線を敷いて行く。が、本格五十枚と云ふ、誰にも鳥渡眞似の出來ない巧妙な作品が、いつの間にか出來上ってゐるのである。最後の數行は何とも云へない魅力だった。
▼股から覗く 葛山二郎
新青年誌上諸家の批評で充分云ひ盡されてゐるから止す。甲贅氏の批評を最も面白く讀んだ。
▼死體蝋燭 小酒井不木
素人をも玄人をも無性に喜ばせる絶品。前者にはトリックが、後者には題材と描寫が、すっかり氣に入ってしまふ。
▼柘榴病 瀬下耽
秋は収穫時と云ふが、今月はなかなか良い實が結んだ。此の作品など一點難ずる餘地の無いものだ。探偵小説がぜまくるしい限界を突破して、ひろびろとした世界(世にこれを稱し通俗、大衆文藝となす)へ雄飛する必要が大いにある事、そのよき例證として、此の一篇は價値がある。そしてわれわれを實に快活にさせる。
▼瓶詰奇談 稲垣足穂
甘美なるメロディ! 稲垣氏(と書くと政友會代議士の様な感じがする)の、此の作の様な比較的長篇ものは、その文章のまことに快いリズムが心ゆくまで味へるので私は寶玉の様に珍重して、何度となくにこにこと讀み返すばかり、批評などとは愚かしき限りである。
▼可哀想な姉 渡邊温
私ははぢめの二三章に現れたまゝのすがたで終るものとおもってゐた。が、驚いた事には單に最後の章のみでなく、全篇にわたって、用意周到な探偵小説的構想が完成されてゐたのだった。
あの哀れな姉を、あれほどまでにも愛してゐた弟が、自ら計畫たてゝ姉を斷頭臺上へ送ったといふ、そして歡喜にふるへたといふ、一種錯覺的な心理の描出は、渡邊氏ならでは眞底書けるものではない。然も卜リックと云ふものが(何といやらしい輕浮な言葉だ!)これ程迄に作品の本筋へ喰込んでゐるのには、驚きを通り越して微笑したいくらゐである。
▼舞馬 牧逸馬
これも探偵小説の領域擴張運動の實績。冗漫らしくて冗漫ならざる作。
▼殺人淫楽 城昌幸
前者とは全く相反した趣味、猟奇の枝に成ってた果實。然も、どちらも技巧の限りを盡くして讀者を魅力させんず意氣が、火よりも強い。要するに探偵小説文學は技巧萬能の文學だから、これらの極致にまで達した作品は、天下の猟奇どもにとってはに阿片の様なものだ。その中でも城昌幸氏の供給する阿片は最も速やかに現實を忘れさせる點に於て類が無い。但し現實を忘れることがいゝことか惡いことか、それは誰かに聞いて貰ひたい。
▼青い鳥を買ふ話 加宮貴一
「如何にして小鳥を飼育すべきか――附、小鳥の買ひ入れ方注意」と云ふ話。
それから最後の二行を此處に引例して、これは探偵小説ではないと結論する。
「何んと世の中は目まぐるしく、せち辛らくなり行くものであらう。私は大きな不安を將來に感じないではゐられない。」
▼追ひかけられた男の話 水谷準
一い二う三いと、さて水谷氏は一體何篇此の種の妖奇ものを書く積りであらう。人間て奴は兎角飽きっぽいものでして――と、云ふのが、いつも頃合の長さのもので、いつも充分讀者が甘まやかされてまんまとラストへ來る、と云った譯なので――多分これはうまいお菓子を貰ってばかりゐる子供が、駄々をコネたくなったのかも知れません。
▼菰田村事件 甲賀三郎
恐しく腰を据へたものである。「拾った和銅開珍」では讀者と膝を交へると云った感じが深かったが、此處では初めから讀者を呑んでかゝって――手もなくわれわれは蛇の前の蛙だ。悠々と、しかも次々と間斷なく筋を交錯させ、次々と説明して行く。一種風格と云ったものさへ感じられる――たゞ解らないのは、あの中の若い男女の會話だ。どうしても私の胸へしっくりと來ないのだが、若しや作者は意識してあゝした生硬な會話を書いてゐるのではないか、だとすればそれはどんな意識なのか。今度氏にお會ひしたら伺って見ようと思ふ。
▼流れ三つ星 角田喜久雄
私の見る處では、角田氏なかなかよい道を歩んでゐられる。
▼廢園挿話 秋本晃之介
此の作中の老人の物語はそれ程勝れた話でもないだらう。それ故どこか物足らぬ。
▼或る檢事の遺書 織田清七
死因は初めから私にうなづけたが、それが檢事の計畫だと考へた。しかも事實は檢事も知らなかったのらしい。檢事の計畫だと考へたのは何となくその人物が惡人のやうに描寫されてゐたからで、從って終にかれが自殺するのは受取りかねるのだが――。
▼千三ッ 柴田良保
好短篇也。
▼水宮譚平狂氣 小坂正敏
作者笛吹けど讀者踊らず――感嘆符の多い此の作の多くの緊張恐怖怪奇を發見せず、次の、
▼斷崖 龍悠吉
に、その反對の現象を見る。但し、此の作は稍々古典だ。けれども直ぐに古典を蹴飛ばしさうな意氣が窺はれて、力強い。(以下略)
注)ネタバラシ部分は背景色文字にしています。
注)明かな誤字誤植は修正しています。
注)句読点は追加したところがあります。
「昭和2年度印象に殘った作品と希望」
「探偵趣味」 1927.12. (昭和2年12月) より
一、本年度(一月―十一月)に於て、貴下の印象に刻まれたる創作探偵小説、及び翻譯作品。
二、ある作家に向って來年度希望する點。
一、誠に遺憾乍らこれこそと思ふ作品を、本年度には發見出來ません。
二、誠に遺憾乍ら、良い加減な處に停滯してゐるならば、探偵小説は止めた方がましです。では何處に希望を持つかと云へぱ寧ろ一時絶筆状態にある江戸川氏平林氏その他の今後に注目しませう。(以上探偵小説を愛すればこそ、率直に御返事)
「引伸し」
「探偵趣味」 1928.01. (昭和3年1月) より
大正は九年度刊行の「大審院判決例」全二十何冊と云ふのを大枚十八圓也奮發して買込んだり――こいつがありとあらゆる犯罪の種類、ありとあらゆる判決例を飽き飽きする程僕に提供して呉れたもので、その一つ一つに巧みに藝術細工を施せば優に子々孫々に至るまで探偵小説書きで、樂に食って行かれると見えたが――そいつも間もなく賣拂らってしまって、勤人となり下ってしまった。勤人と云ふと體裁がいゝが小っぽけなビルデングのリフトマンだ。半月後には郵便局員。
「何んとか狂騒曲」と云ふ小説を書いて、ちょっとそれ者らしい生活をしたのが一ヶ月、今度は變態心理研究と洒落れて神妙に圖書館通ひを励行したが、いつの間にかそれが「各雜誌創作總評」に自然的推移を見せた――ところで又もや生活が窮乏の極に達するに及んで、然も性來働らく事は、餘り好まないと來てゐるので、斷然帝都を去って富士の裾野は、山氣幽遠の地に隠棲、しばらく俗塵とはなれて「大地とともに」悠々自適の生活を送った。
これがために、持ってゐた本を全部賣飛ばしてしまったので、今現在、僕の手元には、一冊の新青年も一冊のクラクもそして唯一冊の探偵趣味も無い――いや、本と稱し、書物と名附くる處のものは全く此處に影をひそめた――。
事情まさに斯くの如しであるから、今此れから章せんと思ふ文章も、その根底甚だ確かならずである。と、云ふのは、甲賀三郎氏が先々月の本誌で、僕と本田緒生氏に關し、何か書かれた様であるが、若しそれこゝで完全なお答へをしやうにも雜誌が手元に無いのだから――だからトンチンカンになる。が、トンチンカンになったとしても、もともと僕らの探偵小説に就いて物を云ふのだから、大方の讀者諸兄には多少とも關係がありそうな氣がする。
さて、僕のやった例の批評が、趣味に堕してゐるが故に、探偵小説創作界のよき發達を害する、と云ふのが甲賀氏のお言葉であるが問題は、氏の云ふ處の「趣味に堕す」とは如何なる事なりやに盡きる。これが探偵趣味で無い事は確かだ。なぜと云ふに他の雜誌に非らず探偵趣味之會發行の同名の本誌上で、作品の批評を探偵趣味に堕してやったのだとしたら、どんな理由からも、これが非難される譯が無い。
「探偵小説の約束を越えて」と云ふ文字があったと記憶してゐるから、多分、これは探偵小説を批評するのに、普通の小説趣味でしたのが怪しからんと云はれたのにちがひない。そうなると、話が面白くなる。
實を云ふと僕はこれでも一個の探偵小説人である積りだが、探偵小説を讀んだり、書いたり、物を云ったりする時には、つとめて探偵小説人であることを避ける。つとめて、である。だからあの批評も決して探偵趣味を以ってはしなかった。此の點甲賀氏の言は適中してゐる。
だが、僕は氏の言に反して、そうあらねばならないと主張する。つとめてそうあらねばならないと!
探偵小説は通俗小説の一部門である――それは宜しい。從って探偵小説としての機構を忘れて所謂藝術小説に盲目的にはしってはならない――とを僕は主張する。然し通俗小説は永久に通俗小説であってよいか。又、探偵小説は永久に藝術小説と背中合はせであって宜しいか。と云ふ事になると、これはどうも餘り宜しい事とは思はれない――。
お江戸日本橋の下を流れる水は、直ちに太平洋に相通じてゐるそうだが、一と切れの片々たる探偵小説もやはり直ちに、ヂュンイチロウ、リュウノスケ、ハルオ、トン諸星たちの所謂藝術小説に相通じてゐるのだ。これは當然ゐなければならぬ。
批評に手加減は無用だ。手痛い批評のために委縮してしまふやうな弱い芽生は、もともとこの至難な(この形容は至言だと思ふ)探偵文學の修業には向かないのだ。批評はそれが最高の理想に向っての冷嚴なる同伴者である事を多要とする。で、僕の批評は無論探偵小説の約束も越えれば、尺度も守らないのである。
「探偵小説が探偵小説である中は――通俗小説が通俗小説である中は――私には關係が無いのです。お判りですか。」と、タルホ氏が以前云はれたと記憶するが、そして此の事は、本誌創まって以來、實に何度となく幾人かに依って書かれた。けれども甲賀三郎氏の態度は今日迄一貫して「探偵小説らしい探偵小説」を書き主張するのである。そして又、探偵小説藝術化を叫ぶ人は、次第に筆を鈍らせて書かなくなるに反し、甲賀氏は現に見る如き多作家となりつゝある。喜ぶべきであるか悲しむべきであるか?
甲賀氏の長篇作に「夜光珠をめぐる女性」がある。此の機會に(と、云っても別に他意あってではない)一言僕の讀後感を云はせて頂くならば、あの作品は決して好ましい作品ではない。筋の組立はわれわれの以て範とすることを躊躇せぬ。が、作中人物の心理描寫が淺く、生活が無く、言語會話が不熟で、全く僕をひきつけるものが無いので、何度となく中途で讀むのを中止せざるを得なかったのは事實である。つまりあれは探偵小説であった――のだ。
餘り長くなるとはた迷惑だ。昭和も三年の夜が明けた。今年もまた幾人かの新作家が現はれ、同様に幾人かの隠遁者が出來る事は必定だ。思へば摩訶不思議な探偵小説壇ではある。だが僕は信じる! その隠遁者の中から誰かゞ目醒ましい旗を擧げて再度立現はれはしないかと云ふことを――以上、前月號の僕の寄書の引伸しである。
注)明かな誤字誤植は修正しています。少しおかしなところで直していないところもあります。
注)句読点は追加したところがあります。
注)稲垣足穂の出典は未確認。寄書とはアンケートの事と思われる。
「拾ひ物」
「探偵趣味」 1928.02. (昭和3年2月) より
ロンドンニウス
どう云ふものかこの頃、小説にしろ詩にしろ戯曲にしろ探偵小説にしろ、キリヽとまとまってゐるものが嫌ひになった。散文的にザックバランなものが好きになった。この傾向を廣く押し廣めて行った擧旬、探偵小説よりは新聞紙の社會記事、文藝映畫よりは實寫物、懇談會よりは喧嘩をした方が愉快だと云ふ事になった
――そんな譯からして、世にも厄介千萬な「筋の組立」なんぞをうっちゃらかして、外國のニュウス物雜誌の頁を繰って、際限も無く出て來る雜多な文章と寫眞版とを見乍ら、散文趣味にたんのうすることがこの頃の僕の生活の全部らしいのである。
二三日前に鳥渡面白いものをロンドンニウスの中から見つけた。但し、こいつが一九二五年版と來るから、僕は恐らく最後の發見者と云ふ處かも知れないが、そないなことはどうでもよろし。
嬉しくなる程拙い繪で、お馴染のホルムス氏とワトソン氏とが原っぱに横倒しになった大本へ腰掛け乍ら、めいめい片方づゝの靴を仔細に調べてゐる光景が描かれてあって、その下にこんな文旬が出てゐる。
「此の靴が、ロナックで磨かれた事は明白だねワトソン君。このぢめぢめした草っ原で見つけたんだが、しかし僕には分らんね、こいつが數分前に捨てられたのか、それとも、先週あたりに捨てられたのか。何しろロナックで磨かれた靴と來たらなかなかどうして永持ちするんだからね。」
さて、かうなると僕らは、かゝる愛嬌たっぷりの廣告を出すロナック商會宣傳部長に好意を表はすために、早速ロナック靴クリームの一箱位は取寄せなければなるまいて。とにかくシャーロック・ホルムスの品質保證附だからその點は全く安心なもんです。
新青年
例に依って百花繚爛たる新青年くらゐ物騒千萬な雜誌はあるまい。ざっと頁を繰っただけでナイフを握った處、死體が轉がってゐる處、穴倉へ落込んだ處、咽喉を締められた處、などがぶっ續けに十三枚も出て來ようと云ふ。新年早々讀者の顏色を青くさせようと云ふので「新青年」なのかも知れないが、就中最も僕を愕かしたのは「夜の謎」に於いて、教養があり乍ら一介の門番を勤めてゐた男フランツ・ヘルヰ゛ッヒが、かれにふさはしい貸間小説「貸出圖書館」を書いてゐた事だったね。
朝日新聞
十二月十五日朝日、新聞のラヂオ欄を見ると歳晩に因んで「探偵小説の夕」をやるとある。育ちの良い友人のMが首をひねって、何故歳晩に因むのだらう? と云ふ。成程さう云はれて見るといささか見當がつかないが、多分かうなんだらう。歳晩はほれ、物騒と云ふ事に相場が極ってゐらぁね。そこで物騒な連中が機を見て現はれ出たのさ。かれらもまた能く己れを知るかね。
――何か面白い事もあるだらうと、夕方になるのを待ってアタゴ山の放送局へ行って見た。
暖爐の赤々と燃えた前に、水谷氏横溝氏本郷氏が爐邊雜話をやってゐる。座談をやる水谷氏ビクビクしながら時計とスピーカーを見て「あのニウスが今晩中續いてるといゝがなぁ。」と云へば横溝氏が「こゝん處で一つ火事でも起すか。」
來賓休憩室へ行って見ると「やあ、いらっしゃい!」とばかり甲賀氏が振返る。こゝにはソファに埋まって森下江戸川大下の諸氏が談笑してゐた。
七時二十五分から森下氏甲賀氏の講演、それが濟むと愈々呼物の即席創作「探偵小説が出來上る迄」だ。水谷江戸川大下甲賀横溝の諸氏がゾロゾロとだゝっ廣い放送室へ入って行く。「僕の名はオオノタウタルですからね。いゝですか、ウタルですよ」とアナウンサアに一生懸命に注意してゐる。
諸君、オオシタウタルですよ。いゝですか。
さて、「探偵小説が出來上る迄」放送最中放送室内にゐたのは以上の五氏の他にはアナウンサアと僕とだけであった。從ってその室内で行はれた一切の悲喜劇に就いて第三者の立場から冷靜に觀察批判し得る者はかく云ふ僕だけなのだが、此の點に關しては大下氏との間に或る種の契約が取交はされてゐるから、遺憾乍らこゝに發表する事は避けようと思ふ。かくして遂に永久に知られざる「放送室の秘密」である。
座談の次は山田隆彌氏その他の、ラヂオドラマ「深夜の客」。ビイストンの「軋る階段」を本郷春台郎が脚色、自ら放送指揮に當られたものだが、實に近頃に無い興味と緊張とユーモアに富んだラヂオドラマだった。
午後十時。眞先にアタゴ山を降りて、まだ早いので銀座の方へ歩き乍ら、「今年ももう終りだ。來年は二十五の厄年なんださうだが、構はないからドンドンやっつける事にしよう!」とかれは呟いた――。
注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加したところがあります。
「俺は駄目だ!」
「猟奇」 1929.05. (昭和4年5月) より
僕がこれから書かうと思ふことは、讀者にとっては、へんに古めかしい、詰らないことなのである。探偵小説といふものに、僕は何年越し深い深い恨みを持ってゐる。いつかはこの遺恨をはたしてやる時があるに違ひない。僕は今、その恨みの言葉をクドクドと書き連らねやうとするのだ。
僕といふ人間は年中貧乏で、殆ど生活に追はれ通しなのであるが、そして現にも大へん忙しい勤め先を持ってゐて、よき本を讀むヒマも、よき藝術を味はふ餘裕もまるで無いのだが、それでゐて探偵小説となると、時には一つ書いて見やうかな、などと考へる。書かう! といふことになる。
さあ大變。忽ち僕は探偵小説地獄に突堕されて、毎日毎夜、散々に苦しめ責なまれる。これが一週間も續いて、眼はくぼみ頬は落ちて、ゲッソリと痩せる。卜ヾの詰まり「探偵小説を書くこと」を諦らめて、やっと地獄から披け出て、明るい酒婆へ浮び上る――といった次第なのである。
いざ探偵小説を書かうとなると、僕は實に何んともいふことが出來ない程苦しむ。多忙な生活の中なので、とても原書なぞは讀んでゐられないが、譯書はフリーマンからフレッチャー、ルブラン、ドウゼ、ポウ、要するに僕は古いものが好きで、出來るだけ讀む。筋をバラバラに解體して、その結合状態をうるさく審査して明らかにする。日本のものでは、甲賀氏、江戸川氏、大下氏,小酒井氏等の作品を、同様バラバラに解きほぐして、顯微鏡的に研究する。
事件を主にして人物の行動を調べたり、人物を基にして事件を辿って行ったり、或る作中人物に對して、その作品に書かれてゐない事件を直面させて見て、性格の動きを考へて見たり、或る作中の事件に他の作中の人物を配して、その成りゆきを想像して見たり――凡そ、苦しく辛らいものは、探偵小説の創作であると考へる。
さて、ペンを取って見るがどうしてなかなか纏まらぬ。自分の不才がまざまざと省みられる。あれを讀みこれを調らべ、苦惱轉々、幾日か費やしてどうしても思はしいものが出來上らず、「ドモ又の死」のセリフのやうに「俺は、駄目だ!」と嘆息して、ペンを投げてしまふ。絶望だ。
――去年の夏、牛込神樂坂の宿で、松浦美壽一氏に逢った時、「探偵小説を書く時に、どう考へてゐます? 難かしい文學だ! とは思ひませんか?」と聞いて見た。
「僕ですか、僕は大體のんきかも知れませんが、ありゃあ、大して難かしいものとは思ってゐませんね。」
と、松浦氏はあのケロリンカンとした表情で、答へられた。
僕はギョッとして暫らくは相手を見詰めてゐたものである。
――もとより僕が探偵小説創作に適しない人間であることに分ってゐるがそれにしても、僅か二三十枚の作品を書き上げやうとするに、こんなに無茶苦茶に苦惱するといふことは、良くないと思ふ。どこか道が間違ってゐるやうに考へる。よしんば曲りなりに作品が出來上ったとしても、讀んだ具合が變に神經質で、不健康な感じがにぢみ出してゐると思ふ。胃病患者の胃袋を覗いたやうに、咀嚼不充分のものばかりがゴロゴロ集まってゐるのではないか。何んと醜い有様だらう!
――本當に良い文學作品といふものは、(よしやどんな氣難かしい本格的探偵小説であっても)讀み心地が素直で、しっとりと讀者の胸へ落ちつくものがなければならないのだ。そしてさういふ作品は、決して氣狂ひの様に苦しんで、もがいて書き上げたものではないと、考へる。
僕は松浦氏のあの時の言葉を尊敬し、ますます僕如きまだまだ遠く及びもつかないことを知るのである。
とにかく年來「探偵小説」なるものを恨むこと甚だしい僕の、これは愚痴こぼしなのである。
(了)
注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加したところがあります。
「都會の幻想」小舟生
「猟奇」 1930.01. (昭和5年1月) より
カナリヤ事件、スタジオ事件、グリイン事件、サンダーボルト、だが僕はパラマウントの『都會の幻想』 "Interference" を採る。都會の哀愁を見た後で此の題名だから、輕蔑して邦樂座を見落したが、六ヶ月を經って場末のボロ舘で見てあっと驚嘆したものだ。實に落着いた物靜かな探偵映畫である。
女優が昔の情夫のために青酸を呑まされるところが正直に割ってあるから、秘密好きな探偵ファンには物足りないだらうが、探偵映畫の謎の人物はいつでも失敗するのだから、始めから犯人を知らせて置いて、その外のことで探偵趣味を狙った方がいゝのである。
この青酸を呑まさる時のエブリン・ブレントの演技はとてもいゝ! クライヴ・ブルックの醫者がやって來て、妻のバッグが落ちてゐるので妻の仕業だと思ひ、他殺を自殺に見せかけるべく青酸の瓶を女優の右手に握らせる。だが一度も生きてゐる時の彼女に會った事の無い醫者が、彼女の左利きを知らなかったのは自然だ。探偵が食器の配置から左利きを推理するのも映畫的には面白く、それで右手に瓶を握った死體が他殺であると斷定するのもさっぱりしてゐていゝ。
大體が筋をやゝこしくつくらず戰爭と放蕩で身心共にやくざになってしまった男が、昔の情婦を殺害するに至る迄の心理過程を、主として描寫しやうとしてゐるのだから、『何々事件』のやうに肩も凝らず、ボロも出す、好ましいメロドラマになってゐるのである。
俳優はブルックとブレント。ポウエルと、それからアラ珍らしや懐かしのドーリス・ケニヨンで、此の四人がガッチリ組んだ大芝居である。ブレントの女優がよく動いてゐるが、終始右手をブランとさせてゐるのには感心したし、左手だけで情夫の頸を抱いてキスするところも嬉しい。ホルムスの腐った様な役をやるよりもボウエルには此の寫眞のやうなデカダン紳士の方がグッと見ごたへがある。ブルックの演技は壓倒的だ! ケニヨン婆さんはまあ精一杯といふところだ。
此の映畫で胸のすくことはボウやロヂャース的人物が出ないことで、此の點だけでも昭和四年度のフイルム中異色だ。何んとしてもあきれかへったのは『都會の幻想』なる譯名をつけた男の頭の惡るさである。
注)明かな誤字誤植は修正しています。
注)原文は改行なしですが、適時追加しています。
「角田喜久雄に望む」
「猟奇」 1930.05. (昭和5年5月) より
★
角田喜久雄君に望む! は少し大ゲサすぎる。
實は――。
★
ついこの間中、「朝日」に川端康成氏の「淺草紅團」が連載されてゐたが、私は毎晩西洋鋏を用意してゐて、夕刊が配達されるとチョキチョキ切抜いて、それから讀みはじめた。こうして大分切抜きが溜ったが、それをどうするつもりかといふと、大へん御無沙汰をしてゐる角田喜久雄君に送るつもりだった――尤も、川端氏があんまり何邊も休むので、讀む方も切抜く方も張合ぬけがして、とうとう途中で鋏を投げ出してしまったから、從がって角田君に送らうといふ計畫もやめてしまった。
★
なにゆゑ「淺草紅團」が、角田君に送らなければならない運命を持つか?
★
角田君は淺草通、若しくは淺草ッ子である。淺草通必ずしも淺草ッ子でなく、淺草ッ子必ずしも淺草通ではないが、角田君は淺草ッ子であって且つ淺草通だ。と、これはいつかの晩、公園裏を歩いてゐた、角田君じしんが告白、且つ主張したところである。現代はまことに齒切れのいゝ、明晰な、純粋東京語韻を耳にすることの少ない時代であるが、私は角田君と會話を交へるに及んで、此處に知己あり! の感を深くした。すなはち、君の流暢快明の文章は、あれはほんものなのである。
★
雷門からの突當り、觀音堂の右手、矢大臣門をずっと出て行って、次の電車通りへ出る。こゝが昔からいろいろ云ひ傳へられることの多い山之宿町! そこに角田喜久雄君は、久しい、久しい、久しい以前から住んでゐた。現在では然らず。
ところで、昭和版淺草名所圖繪「淺草紅團」を讀んだ人は御承知だが、そこにはありとあらゆる「淺草」が百花繚爛、仲見世のおもちゃ屋の店先の如く展開されてゐる。そこで私の微笑を誘ったのは、主人公の不良青年Aが觀音堂を正面に見て右手、矢大臣門を出て行ったことである。さうして出たところが山之宿町、そこから河岸へ出て、橋のたもとにつないだ、女の沓下が川風にひらひらと吹かれて、干されてゐる舟へ乗り込まうといふ。河岸といひ橋といふすべて角田君曾つて住まへる家を去る、十歩のところの河岸であり橋である。
★
私たちは森下雨村氏を尊敬すべきこと、三郎氏を信頼すべきこと、本田緒生氏を期待すべきことなどを話しながら、夜の公園裏を歩いてゐた。角田君がいふ。
「靜かな家がいゝでせう――小っぽけな、忘れられたやうな、寂れた家が――」
さうして、私たちは淺草通としての角田君がピックアップしたところの、忘れられたやうな、寂れた家で、さゝやかに酒汲み交した次第であるが――かなり度のある確か細ぶちの金だった記憶するが――いづれにせよあの不恰好なロイドではない――をかけて、低聲で、謹嚴で、輕いユウモア、鋭どい諷刺――要するに角田喜久雄君は、その得意とする、はげしい熱とスピードのかんじられる文章に比較して、別人の如く温和しやかな人である。
★
廣告で見ると「新青年」に川端氏の「水族館の踊り子」なる作が載るらしい。しかもそれが新青年向きの猟奇的作品であって見ると、このところ、角田喜久雄君は神聖なる繩張りを荒されたことになる。斷然一言なかるべからず!
何しろ、私は誰のよりも先づ、角田君の批評が聴きたいのであって「淺草紅團」を切抜いて――若しかすれば角田君が「朝日」をとってゐないかも知れないからだ――角田君に送らうとしたのも、つまりは君の讀後感、なかるべからずの一言を聴きたい心、切なるものがあったからである。
注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加したところがあります。
「鑑定室 四月探偵小説總評」
「猟奇」 1930.05. (昭和5年5月) より
★新青年四月増大號
正義 演尾四耶
この作七十枚は何んとしても長すぎるのである。四十五枚まで讀むとトリックが分ってしまふ。殘り二十五枚は蛇足と云ふことになる。例へば、甲賀三郎氏に七十枚を與へたとすれば恐らくこの作の内容を三倍したものを盛ってくれるであらう。そこに退窟がない――この作の中に正義といふ文字が二十一敷へられると云ふことは、作者の關心を示すものである。筋を並べたかったのでなく「正義」を語りたかった作者の意圖は肯づける。
しかし正義といふ言葉そのものがひどく古風であって題とするに足りない。この題材それ自身は光ってゐる。たゞそれを以ってして讀者に教へやうとするよりは、純粋の探偵小説ダネとして取扱ふべきではなかったか?
すちいる・べいす 阿部知二
知らねばならないことは、野球選手の突指とかスランプとかいふものが、探偵小説の題材としてよくこなされてゐることである。作者の功績は認められるべきだ。もっともっと各方面に向って小説の觸手はひろげられるべきであって、さまざまな傾向の作者が努力を見せてはゐるが、その割に實績は擧がらない現状である。
この作の内容と表現は立派に一つになってゐる。言葉をさしはさむところはない。
水族館の踊り子 川端康成
「丈壇」へゆけばこの作者のことは何から何まで知れるのである――さて鉛筆を持ってこの作の探偵小説としては不用と思はれる描寫、記述、會話などを消して見ると、始んど全部が消されてしまった。これは出直さなければならないのである。作者ではない私がだ――全部不用だといふことは全部入用だといふことだ。そしてまたどんなナンセンスな物語にも、感覺的な小説にも、或る程度までは讀者の意を迎へる妥協と常識はあるものだ。この作にはそれがまるでない。その態度は凛烈だといへる。なほ後でいひたいことがある。
墓場の接吻 勝伸枝
たとへば、かくの如きを常識の勝ったナンセンスといふのである。この作は地下のナンセンスがしばしば地上の常識とぶつかる。地下は柔らかく地上には固いものがある。水と油をまぜたやうな不快を感じる。どこか外科的手術を思はせる不快な作品である。
地圖にない街 橋本五郎
全部四十枚。苦心は苦心としてムダな苦心ではなかったか? ナンセンスの奇を出すか、實話の眞を傳へるか、探偵小説のトリックを誇るか、何等の腹がきまってゐないやうに、四十枚の表現効果がチグハグだ。苦心は苦心として――哀しき、要らぎる苦心ではなかったか?
電氣看板の神經 海野十三
これも同じく、である。原稿紙の浪費! 標題にこだわる必要はないのであらうが、はじめの電氣恐怖病患者なるものが、單にペンで書き上げられたにすぎない存在で「紳經」も何もかんじられないのである。そこにはニュアンスもエクスタシイもない。それで本格的な探偵物語なのであるか? それにしては、あの程度の粗雑な描出では讀者は眞面目について行けないのである。何らかの匂ひか味を出さうと試みて、まったく失敗してゐる。
霧の夜道 葛山二郎
前二作に比すれば、この作は作者の態度がどっしりと据ってゐてその點だけでも讃へたいではないか――作者は題材そっくり自分のものにしてゐる。し過ぎてゐる嫌ひがある。たとへばあの赤ポスト事件など一人よがりすぎる。また主要人物にしても描寫のタッチは太い確實性を持ったものでありながら、その斷面が作者の方へ向いてゐる。われわれは背中を見せられてゐるのである。針金や、そのつぎ目にある布片、炭俵から取ったらしい棒切れ、それについてゐる土、履物のうらの白い石灰。
さういふところに作者の素晴しい冴えをかんじる。大きな魅力であるトリックに就いて兎や角いふことは私の好まないところであるから作者が二三反省してくれゝばいゝと思ふ。「正義」の作者が正義を語らうとしてゐるやうに、この作者は霧を語らうとしてゐるに違ひないのだが、何んとよく語られてゐるではないか!
★附言――以上新青年四月競では葛山氏と阿部氏と川端氏の作品を傑出したものとして擧げたいのであるが、時に「大衆文藝としての探偵小説」が、もっと眞摯に考究されなければならないと、私は考へる。「水族館の踊り子」は「すちいる・べいす」のやうに誰でも――とは、私が一緒に働らいてゐる多勢の工場の友だちを指してもいゝ――たやすく讀まれ、たやすく分るとはいへないのである。
また「霧の夜道」がかれらによって、林不忘や大佛次郎や加藤武雄の作品のやうに、一讀快哉を叫ばれるわけにはゆかないのだ。それは話がちがふとはいはせない。川端氏の立場は然し別だ。探偵小説の作家はあまり名譽ある泥の中に首をつっこみすぎてゐる。もう一度頭をあげて、快朗な、五月の空を仰いで見るべきである。讀者を限定させ趣味に淫させることは、すくなくとも大衆文藝の名に於いて、本意ではなからうと考へる。
★文褻倶業部
鏡面の網 大下宇陀兒
もちろん、この作が探偵小説構成を無視してゐることは、はじめの四頁を讀んだだけで讀者にも作者にもすぐ分ることである。女主人公の欣子が天丼から繩が下ったといふ。作者がそれに續けて、然し天丼には穴がなかったといってゐる――そこでもう話が片づいてゐる。後で女が嘘をいったことにするか、作者が見誤まったことにするか、それは御自由で、われわれはそこで作者にサヨナラをいふだけだ。さうした作品構成上の難點を除くと、かくの如く平滑に沈着にビジネスライクにサラサラと書かれた作品といふものを、私は非常に好ましいものに思ふのである。これは一つの反動ではある。然し惡い反動ではない。
猟奇の果 江戸川乱歩
明朗で快活な、充分に大衆的な亂歩だ。何んとなく亂歩の商品見本のやうな氣がする。この長篇は顏も聲も姿もそっくり同じだといふ二人の男に、讀者の興味をつないで、既に二ヶ月連載されて來たが、今月號では嘘のやうに何から何まで生きうつしのこんどは女性を提出した。讀者は然し、どこまでも合理的な結論を求めやうとして讀みつゞけてゆくわけだが、作者側からいってこれ程難かしい連載物もたんとはあるまい。
十枚ぐらゐづゝ區切って小さな標題がついてゐるのが、この作者のものとしては非常に面白い。誰にも分り易い亂歩! だから氣の利いた商品見本のやうだといふのである。
魔像 林不忘
こゝでも又瓜を1/2にしたやうな劍豪が出て來て怨敵十人を相手の復警綺譚。やっぱり於菟吉氏の「仇敵日月草紙」風なものらしい。私が不忘作品を愛讀する所以のものは、筋よりもその文脈の珍味覺を娯しまんがためといってよい。髷物を書いてゐるとは思へない。暢達自在、快活で皮肉なペンの舞踏! この道化師の服を脱ぎ捨てると、甚だ詰らないエッセイストでしか有り得なくなる作者なのである。
帶取の池 岡本綺堂
どれを讀んでも機智第一主義の目下のよみもの界だ。時にこの作者のすなほな作物――その實は端睨すべからぎる機智充溢の作品を――繙くことは大きな甦へりだ。
海外の歌 國枝史郎
この作者はいつでも開卷第一頁で發止! と斬り込んで來るのである。それは充分にとぎすまされた鋭どい切尖。怖ろしい太刀風。そこでさういふ荒事を好まないで眉をひそめる人たちがゐる。氣勢負けともいへる。一方には私などのやうに讀みもの中毒といふのがゐて、眉をひそめるどころか同じく刀身を抜き放って受けとめる。史郎氏の作品はかういふ連中には、まことに索晴しい刺戟なのである。「海外の歌」は例に依ってよく髷ものゝ型を破ってはゐるが、いつも破ってばかりゐる作者だけに、いさゝか今度のは破り型にはまってゐる。翻案教則本第一課。
無念流昔話 金澤紫蘭
原作に忠實なビーストンの翻案。然し、洗練された筆数は、興味一〇〇パアセントに讀ませる。然しだ! かう露骨に翻案第一主義に惱ませられるのも迷惑なことである。
戀のサイレン 辰野九紫
随筆家辰野九紫氏による長篇ユーモア小説の第一篇。作者描くサラリーマンは手に入ったものである。
★東京日日新聞
旋風時代 田中貢太郎
この長篇實話風小説に就いては名士の後援會などもあって、批評も議論も萬事その方へお任せしておけば宜しい。そして描寫が餘り寫生に陥ちてゐて、情熱とスピイドが無いから今の時代の讀みものではない、などといふことは、單なる濫讀階級の暴言にしか過ぎない。
由井正雪 大佛次郎
幕府方松平伊豆守、浪人由井正雪。紀伊大納言、その時代に於ける三大勢力三大人物の對抗を例の風格のある筆致で描いてゐるのだが、回を重ねること二百五十。一晩も缺かさないといふ私の愛讀ぶりだ! 性格と陰影を與へられてゐる人物約二十人の中、女性がたった一人といふ男性横暴の小説だ。イデオロギイ第一、戀愛は顯微鏡で探さなければ分らないといふ小説だ。それでゐて少しも肩を凝らすやうなことがないといふあたりにこの作者の謎が秘められてゐる。
★サンデー毎日
巷説化鳥地獄 行友李風
主として會話で物語の綾をすゝめ、從として短簡な記述を以ってする。その短かく壓搾された記述は作者獨得なものではあるが、決して珍らしいものではない。誰も振返っても見ないほど古めかしい型を頑固に守り通して來たら、この文章スピイド時代の要求にカッチリ適合したといふわけだ。私が好感を持つのはこの作者の地方色の部分だ。人物にも自然にも運命にも、原始的な、臭氣の強い、むしろ嫌味な迄にむき出しの地方色が滲み出てゐることである。どこか中村武羅夫氏を思はせる、わざとらしく企まないで自然に任せた作筋。單調だが疲れを知らないらしい怖ろしく健康な筆力である。
★週間朝日
巷説享保圖繪 林不忘
道化師の服を脱ぎすてると、甚だ詰らないエッセイストでしか有り得なくなる作者だ――と前に書いた。この作品のことをいひたかったのである。不忘氏の生面目な姿はちょっと困るのだ。この作は長篇戀愛小説を時代ものでゆかうとしてゐることは明白だが、それにしては構へが温和しすぎやう。今一息深く切下げなければ致命傷にならぬ。
東日連載中の現代物の「この太陽」が當初の期待に反して既成作家の戀愛長篇とべつに異ったところがなく、むしろ倦怠をさへ感じさせるのも、同じ理由に基づくのではあるまいか。不忘氏がまじめでは困るとは困ったことだと思ふ。
アスファルトの唾 サトウ・ハチロー
筋に一二ヶ處不合理なところがあるが――などといふのは、新歸朝の女のギターひきがカナリヤのお尻へひそかにモルヒネを附着させておいて、男にそれをなめさせて都合五人ばかり殺してしまはうといふ破天荒なエロ文學には、向かないらしい。又そこが探偵ファンのファンたる處で、新青年掲載物にさへやたらに不合理を發見して氣難かしく云ひ立てるのだ。
この作品は然し結末まで讀んでも私を不機嫌にはさせなかった。作者の稚拙藝術が規格のやかましい探偵小説に澄まして坐り込んで數學と化學の講義にいろいろ肯づいてゐることは一つの好ましい驚異だ。
どんどろ心中 佐々木味津三
これは寄席藝人が毎晩若い女の足のうらをなめないとよく寝付かれないといふ、その爲に殺人を犯さうとして仕損じて命を落すといふ、前の作品によく似たゑろちっく時代物だ。要領を掴んだら變にこだはらないでさっさと次へ運んでゆく作者の話の妙巧! 第一人者の名にそむかない。
最後の夢 城昌幸
同前――といふのは、一般的な怪奈小説(※ママ)らしい表現でさっさと片附けてゐることだ。申し分のない好短篇といへるが、この作品だけに就いていへばいはゆる城昌幸氏の獨自性は周圍から蠶食によって完全に失なはれつゝある。
赤爐閣と海のクラブ 籠膽寺雄
六十枚の長篇。
「都合はそれ自身が巨大な幻想で夜、街に灯りがともると、その幻想もまた闇とともにムクムクと膨れ、あらゆる猟奇家の群の瞳を吸って暗黒の亂舞をほしいまゝにするのです」といふ序詞からはじまって「さて、あなたがた。私は探偵小説家ぢゃないんで、夜の街の幻想をあなたがたにお眼にかければそれていいんですから、あとは――謎の解決は親愛なるエドガハ・ランポさんの優れた手腕にでもお任せしやうぢゃありませんか。」といふやうな言葉で結ばれてゐる。
街の角に女たちを中心とした享樂のクラブがあり、常に黒衣をまとった美貌夫人が街から手頃な若い男を誘惑して來ては秘密の通路からそこへ送り込むと、大勢の裸の女たちが享樂の相手として奪ひあふ――つまりはそんな物語らしい。作者は誘惑されて來た若い男の述慢或ひは幻想といふ形式にして描きはじめ、最後に來てもはっきりと謎は解かれてゐない。
黒衣の夫人! 老天文學者! 丘の天文臺! 海の城塞! トンネルの闇に花束をおく女! ハンガリヤ王の時計! 小型飛行船! すべての場面人物にこの新興モダン派文藝陣の雄は例の絢爛たる扮飾を凝らしてゐるし、それだけが確かに私たちを惹きつけてゐるのだが、全體から受ける感觸はその割にさっぱりしたもので、ゑろちっくの部分も明るいサロンで讀むにふさわしいお上品さである。
とすればどうやらこの一篇は優れた少年少女丈學だったかも知れない。かも知れないが、氣不味い破綻の多い近頃の中篇猟奇ものに失望させられてゐたものには、幻想と怪奇と神秘と親切な贈り物として、歡ばれるのである。
★雄辯
幽鬼微笑 大瀧鞍馬
★雄辯
蜘蛛男 江戸川乱歩
一つは和洋個有名詞の混交した涙香式作品一つは新聞の社會記事的筆觸で書かれた冒險探偵小説である。連載長篇物だが飛び飛びにしか讀んでゐない。もちろんこれらの作品を故人渡邊温の署名に依る作品と比較することは、愚かしさの骨頂ではあるが、私はこれにあって彼れにないもの、彼れにあって此れにないものをとっくり考へやうと思ふのだ。
★猟奇
三つの偶然 本田緒生
トリック全集! 一頁ごとに二つ三つのトリックが築かれ、崩壊されてゆく。長篇探偵小説としては理想的な興味本位の作風だ。一つ一つトリックがもう少し重厚さを持ってゐればいいと思ふ。それでないと怪奇的に抒情的にも徹底しない。人物の表情や動作の確實な描出はこの作者の手腕であるが、それにしてはスタイルが――むしろ物語全體のスタイルが明確さを缺いてゐる。然しこれは幾つかの寶玉をその中に秘めた作物だ。その點で惹きつけられる。
黄昏冒險 津志馬宗麿
編輯者原辰郎氏の簡短な評言が當を得てゐる。
注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加したところがあります。
注)ネタバラシ部分は背景色文字にしています。
「葛西善藏の幽靈」
「猟奇」 1931.05. (昭和5年5月) より
◇
「二月二日。永濱宗治君、小舟勝二君、年始に來たる」
葛西善藏全集。第三卷。日記の部。「ぼけ日記」からの書抜きだ。この日の私は葛西氏から新刊の著作集を一部「小舟勝二君に。善藏」といふサインと一緒に贈られたことを記憶してゐる。
などゝ、今どきこの雜誌へ「葛西善藏」を持ち出すのは、いかにも場ちがひ時ちがひの感があるが、しかし何をいふにも幽靈のことである。どこへどう出現するかわかったものぢゃない。雜誌の名が「猟奇」といふ手前からでも、葛西善藏の幽靈なんか大きな特種だらうともいへる。
さて、その頃――
といふと、あの陋巷の文豪がさながら血で綴るやうな苦難の一字一字で「椎の若葉」「湖眸手記」を書いてゐた。それでゐて葛西氏としては、生涯を通じて一番油の乗りきってゐた時代であったのだが――といふその頃、私は殆んど毎日のやうにこの「文豪」に會ってゐたものだ。
といっても、べつに私は雜誌記者をしてゐたわけではない。記者といへば、新潮社の中村武羅夫氏が自から出張して葛西氏から、談話筆稿をとって歸ったこともあるし、改造社の記者氏の顏も毎晩のやうに見られた。「蔦の家後日譚」の松浦美壽一氏が××社の記者として足繁く來られたのは、その一時代前だらうと思ふ。これはずっと後に松浦氏と知己になってさういふことを聞かされたのだが、私は氏を葛西氏の部屋で見たやうでもあり、見ないやうでもあり、はっきりしない。
葛西善藏氏は、おせいさん――元來このひとは、もっと敬稱を以って呼ぶべきだ。しかし、私たちにはこれがそのまゝに敬稱なのだ――との間に、赤ちゃんが生れたので、永年住みなれた本郷臺の旅館を引きはらって、市外世田ヶ谷に新居をうつした。そこが遂にこの文豪の臨終の土地となってしまったのであるが、その永年住みなれた本郷臺の旅館の主人F氏の息子と、私とは洋畫を通じての友だちだった。彼の名をSと云ふ。――そこで私はSの畫室を訪ねる度に葛西善藏氏に會った。といふことになるのである。
◇
「やあ、來てゐますね、小舟クン。いかゞデス。あとで僕んところへ來たまへ!」
街の眞ん中の百貨店で、旅行者相手にトランクだのスウツケイスだのを賣って歸って來ると、私はきまってSの部屋へ顏を出して、珈琲とタバコとマルク・シャッガールの繪と、1916年のグレートWARの寫眞畫報と、古トランクからはぎ取った世界各國のホテルラベルと、それらに關する雜誌とで、わがまゝな時間を過すのがおきまりだった。そんな時よく葛西善藏氏は通りすがりに、扉の外から私に聲をかけてくれた。
そして、扉をあけて見ると、そこの小暗い廊下に危なっかしい腰つきで、醉眼を据えて飄然と立ってゐる葛西氏!――あゝ、その親しみぶかい瞳! 今もなほはっきりと思ひ出すことの出來る故人のすがたである。
◇
しかし、私たちはさういはれても決してすぐには葛西氏の部屋へ行かなかった。何んとなれば、既にゴシップなどでもあまねく知られてゐるやうに、氏は自他共にゆるすの大酒家だった。そしてまたこの人ほど酒の上の惡い人を私はあんまり見かけない。酒っ氣のない時の氏は實に不機嫌であり、酒っ氣の當り前にある時の氏は上機嫌であり、酒っ氣が少しでも過ぎると、實に不機嫌で、クダを卷きはじめたら最後、流石に千軍萬馬の談話筆稿記者も萬年筆を投じて嗟嘆してしまふ。
で、いつが一番いゝか? この呼吸がなかなか難かしい。この呼吸を呑みこまないことには、この文豪に滿足に會ふことは出來ないのだ。
高木某といふ文學志望者が、葛西氏に前以って手紙を出しておいて、或る晩訪問した。
族館の女中が氏に通じると、「あゝ高木君か。通してくれ」とのことである。で、客は例に依っての酒席へ案内されたのだが、この時生憎にも停電があって部屋の中が眞闇だった。さて十分程して元通り明るくなった。すると葛西氏がいふのである。
「はて、君は誰ですか? 何しにこの部屋へ入って來ました?」
面喰った高木某君が、一と通りの順序をのべ立てると、葛西氏、怖ろしく不機嫌だ。
「僕は君が高木だ、といふから僕の知ってゐるあの高木君だと思って通したのだ。ところが君はまるで知らない高木だ。君には別に用はない。手紙? そんなものはまだ讀んでゐない」
客はほうほうの態で歸って行った。――といふこの話なんだが、この話を思ひ出す毎に、私はその停電といふやつが可笑しくって堪らない。私にいはせると葛西氏の不機嫌といふものは一つの「滑稽」だ。まぢめになって探って行ったところで、怒る理由などどこにも有りはしないのだ。それでゐてむやみに怒る。
暗い廊下へ突立って「僕んところへ來たまへ!」といふ葛西氏の、その眼の据り具合を見て、私とSは行く行かないを決心するのである。
それでもまだ安心がならない時には葛西氏の部屋へ行ってから、話の合間におせいさんの顏を見る。「今は駄目ですよ」といふやうにおせいさんの眼が動く。さうなったら私たちは何が何んでも理窟をつけて、さっさと引上げてしまふ。――敢えて葛西氏が怖いわけぢゃない。ツマらない。ことに主客が取組み合ったりするのは、まことに莫迦げた話だし、食膳がひっくりかへったり、器物が壊れたりしては、第一Sの親父の損害になるばかりだったからだ。
◇
私たちが貧弱きはまる同人雜誌を刊行した時には、すっかり喜んで、
「これはよく出來た! 君。どうしてもこれ一部は帝國圖書館へ寄贈したまへ。さうすればちゃんと後世に殘るからね」
これが決して酒席の冗談ではない。大眞面目で何べんもすゝめられた。しかし不幸にして、後世に殘すほどの自信を持たなかった私たちは、とうとうこの建議案を握りつぶしてしまった!
「來月は僕が何か短かいものを書かう」といったり、丁度來合せてゐた牧野信一氏の肩を叩いて「それよりも先づこの人に書かせろ!」といったり――すると、いゝ氣持さうに醉ってゐた、當時非常な勢ほひで文壇へ乗り出しはじめてゐた牧野信一氏がニコニコして「承知しました」といったり――そこで私とSが「葛西善藏と牧野信一! どうだい凄い同人雜誌だらうぢゃないか!」と、小さなヂャナリスト振りを發揮して喜んだものである。
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十九かはたち前後のわれわれに、何が一體書けたといふのだらう。だが文豪は私に向っていった!
「君は危ない人だ! 小舟君。君の書くものはいつも才に走りすぎてゐる。危ない危ない」
――この故人の言葉は、半分當ってもゐたし、半分當らなかったともいへる。
いはゆる才に走りすぎてゐた(?)ところの私は、葛西氏の作品及びその當時の文壇小説に到底我慢がならないので、とうとう文學的技術工藝品である「探偵小説」へ首を突込んでしまったし
――それから、生々しい現實社會の方により多く興味が持てゝ、部屋の中にくすぶって机の上で小説なんぞを書いて生きて行くといふことに、それほどの熱情を持てない性質の私は――これは才に走りすぎてゐるといふのか何んといふのか判らないが、とにかくだ、もう少し私が葛西氏のいふ如く、「才走ってゐる」人間ならば、もっと探偵小説がドシドシ書けた筈だったと思ふのだが――。
◇
いづれにせよ、葛西善藏氏の幽靈――一字一句もおろそかに書くな! 筆が滑らかに走りはじめたら――興に乗り出したら、書くことをやめろ! 斷じて、拵へ事を書くな! 等々――が今でも私につきまとってゐるらしい。
これは確かだ!
この盛んなるジャズとナンセンスの時代に、ものもあらうに葛西善藏氏の幽靈。――これは困る。こいつどうにかならないものだらうか、と近頃つくづく嘆息してゐる私なのだ。
だって、さうではないか!
「斷じて拵らへ事を書くな!」を遵奉してゐた日には、探偵小説屋たるもの手も足も出せやしないのである。
注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加したところがあります。
注)葛西善蔵(1987.01.16 - 1928.07.23)。この作品が小舟勝二の遺稿となったのも何かの縁だろうか。
「小舟勝二の辛辣な皮肉」滋岡透(※抜粋)
「猟奇」 1931.05. (昭和5年5月) より
○
謹んで、小舟勝二氏の靈に拝ぐる!
「猟奇」を有難うございました。隅から隅まで。すっかり讀みました。せめて圓本の内容見物より、たくさんの部數が出れば結構だと思ひました。資本主義の横暴を考へさせられます。
――これは、たしか「猟奇」を始めてお贈りした時に戴いたハガキである。直ちに「資本主義」まで論理を飛躍させたところに、小舟勝二らしい面目が躍如としてゐるではないか!
○
最初、文通したのは、ボクが未だ中學坊主であった頃、探偵趣味の會が最初大阪で創まって、會員名簿が出來てお所が判ったので「新青年」の「昇降機」や「苦樂」の「百貨店もの」に對するデタラメな批評(ともつかないもの)を、生意氣にも送ってからであった。
その後、「探偵趣味」時代を經て、「猟奇」が創刊され、一昨年の三月ころに玉稿を戴いたのが五月號「俺はダメだ!」である。
(略)
こんな一節があった。ナルホド、苦んだらしい朱の一パイ入った原稿が多かった。
○
(略)
「國禁の書」は一五枚の短篇ではあったが、時代意識の把握と、小舟勝二の復活と、二つの大きな足跡をのこしてゐる。その内容では、智的遊戯としての探偵小説と、資本主義としての階級組織とに隠れた皮肉が投げかけてゐる。
○
(略)
○
そこへ随筆「葛西善藏の幽靈」である。發表の機を失ってゐるところへ、訃報を受けて、全く皮肉さに呆然自失した。
「幽靈」の絶筆!!
辛筆辣鋒をもった小舟勝二の、これは身をもって描いた最後の皮肉ではないか!
ボクにとっては悲しい皮肉――
○
小舟勝二氏もまた、恵まれずして往った不遇の、しかも、佳き作家の一人であらう。
注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加したところがあります。