「作者の言葉(曠野に築く夢)」
「満洲日報」 1931.03.12 (昭和6年3月12日) より
社告除き『曠野に築く夢』大陸書館 2023.05.10に新かな新漢字で収録
明日から本紙連載の
曠野に築く夢
新進の大庭武年氏作
滿洲が生んだ新進作家大庭武年氏は文壇の登龍門である「新青年」の懸賞募集「Qホテルの殺人事件」(※ママ)が首席當選し其後同誌に「競馬會の前夜」を發表して益々その前途を嘱目されてゐるが今回本紙朝刊三面に滿洲を背景とした長篇小説「曠野に築く夢」を十三日より連載することになった。
作者の言葉 大庭武年 (肖像写真あり)
滿洲日報社より突然のお話で、實は僕、めんくらってゐるんです。然し兎に角お引受けしたのですから全力を傾けやりませう。注文が「滿洲を背景にして」と言ふのですから、或ひはこれが僕の第二の故郷「大連」に Dedicate する作品ともなり得ませうし、此の意味に於て僕にとっては又仕甲斐ある仕事と言へるかもしれないのです。けれど一體背景を「大連」乃至「滿洲」にとって、それを現に共に其の土地に存在してゐる人々に讀ますと言ふ事は、作者にとって可成り苦痛な事なんです。
勿論、Ich Roman 風なものなら問題にはなりませんが、少しでも猟奇的な筋を中心としたものとなると、遠い土地での事なら誤魔化しも利くでせうが、現在自分達の住んでゐる土地の出來事だとすると、作者は絶對に正確を、そして眞實性を期さなければならないからです。又「新時代の讀者の爲め」と言ふモットーも忘れない心算ですから、讀者諸氏に御期待だけは持って頂き度いものと思ひます。敢て僕は、當作を「本格的大衆小説」と銘打ってかゝりませう。希くば最後迄御清讀を煩はしたく思ひます。
注)本文及び「「曠野に築く夢」中断に就て」は『曠野に築く夢』大陸書館をご覧ください
新春コント「彼と保険」
「満洲日日新聞」 1936.01.12 (昭和11年1月12日) より
「澄はどう?」
彼は外出から帰ると外套も脱がぬ先にきっとこんな風に尋いた。
「とても悪かったの。」
妻は又、わざと顔をしかめ、困った風に応えるのが常だった。
澄はこのの正月を迎えて二歳になったが、実際は八ヶ月余で、ようやく這い出したばかりであるが、それ相応の悪戯さは日増しにつのり、人手のない彼の一家では、ほとほととその監督に弱っているのだった。
しかし、
「悪かったのか、そうか――。」
と言いながら、外套や帽子を片づけて座敷に入って行き、澄のやつ、どこで、どんな悪ぶりを発揮しているかな、と探す時は、彼にとって一日一度の喜びの瞬間だった。
「おい、こいつァ大変だぞ、ひでえものを舐めていやがる!」
時折、澄はびっくりするようなことを、知らぬ間にやっていた。洗濯籠の中の汚れた足袋を舐めたり、畳のささくれを大きくしているぐらいは当り前のことで、時とするとペチカの火掻棒の先を舐め、口中真黒にさせていることさえある。
「お子さんは可愛いものでしょう?」
ある日、会社で事務をとっている彼の机の傍で痩せた老人が鞄を開きながら喋っていた。
「その可愛いって心が積り積ってお子さんが年頃になられた時には立派な一財産が出来上っているんですからね。」
「保険にかけなくたって、おれは貯金をするつもりだよ。」
「それが駄目なんですよ。貯金をするつもりだなんて――お金って、それァあなた、いくらあったって、とても生やさしい覚悟じゃ貯金なんか出来るものじゃありません。」
保険の事なんか何も知らない、又、知ろうともしなかった彼が、老人の弁舌に乗せられて、案外たやすく契約を結んでしまった。
「ちくしょう、うまくやられたな。」
彼は子供への愛情を見透かされ、そしてその弱みを衝かれた事に苦笑したが、決して不愉快ではなかった。
「な、澄のやつ、もう親たちより財産家だぞ。」
妻を顧みると、妻も明るく微笑んで、
「よかったわ。」
と、朗らかだった。
が、それから間もないある日、また別の保険勧誘員が家を訪れた。そして、彼が子供が入っているからと断ると、冗談でしょう、子供が入って親が入らない――それは逆さまですよ。親が先に死んだら、払込みはどうするんです。
彼は簡単な理屈に少時ぼんやりした。
「ふふん。」
妻もきょとんとした表情で茶を淹れていた。
注)漢字を一部かなに開いています。あまり使われなくなった漢字の使用のままのところもあります。
「煙館の殺人」
「旅行満洲」 1937.07. (昭和12年7月号) より
1
――それは、その邊の胡同にまで、仄な木犀の芳香の漂ふ北平の黄昏どきだった。
私は旅舎を出て、勝手知らぬ娼窟街をひやかしてゐたのだが、何時の間にか方向を違へて了ひ、氣がついた時には、燕の飛び交ふ暗い街角に、東西も判らず突き出されてゐた。
「先生。」
突然私を呼んだのは大衫兒を着た痘瘡男だった。
「――御案内しやせうか、飛び切りの姑娘がゐるんですがね。」
裸蝋燭をつけた路傍の八卦見がこちらを見てニタニタ笑ってゐた。
私はまだ醒め切らない老酒の醉を借りて、
「うむ、何處だ?」
と話に乗ってみた。
「近くですよ。すぐ其處です。」
男は私の前に立って迷路のやうな小路を右へ左へ曲って行った。
小便臭い眞暗な軒下から幾人かの眼が私たちの後姿を睨んでるた。中には韮を食べ乍ら狹い道傍で怪しげな賭博をしてゐる者もあった。
「遠いぢゃないか。」
「いや此處ですよ。」
男は急に立止って一軒の門扉を拳で叩いた。
扉には「花開富貴、五福臨門」と書いた赤い春聯が「不買日貨」なぞと言ふ破れかけた排日傳單と肩を竝べて貼られてあった。
「大變な所だな、何をする所だい?」
私が軒先に下ってゐる筈の招牌を探し乍ら訊くと、
「煙館ですよ、だが、先生、女は極上でね。へゝゝゝ。」
男は氣味惡く追從笑ひをして、
「おい、老頭兒、遊びに來たんだ、開けてくんな。」
と中に叫んだ。
扉が内側から用心深く開けられると、男は流れ出た洋燈の光を避けるやうにして私に紙幣を請求し、受取るなりひらりと闇に消えて行って了った。
阿片屋の親爺は私を眇でぢろぢろ眺めてゐたが、油ぎった厚い唇を掌でぶるんと擦ると、顎をしゃくって奥へ行けと合圖した。
「五番目の部屋だよ。」
私は足取りも確でない暗い廊下を、壁に燃えてゐる蝋燭の灯を便りに奥へ進んだ。一番目、二番目、三番目………そして言はれた五番目の部屋の扉を、私は思ひ切って中へ押した。
と、眞暗な部屋の中で女の小さな叫聲が聞え、さらりと絹ずれの音がして、闇の中に眞白な女の裸像が立ち上ったやうな氣配だった……。
2
釣ランプが黄色い焔で陰惨な部屋の中を照らし始めた。
女は花模様のある薄蒲團を(※火亢)の上に敷き、その上に細々と横たはり乍ら、私の方に微笑かけた。
「おやすみなさいな。」
私は上衣を脱ぎ捨ると、女に向ひ合ってごろりと横になった。
「妾、寶紅って言ふのよ。」
女は劉海の下で媚びたやうな眸をした。
「蘇州の生れなの。」
「さうか。」
「お吸ひになる?」
繊い手で、裾の方に在った阿片盆を引寄せた。
「うむ。だが、何時頃だらう?」
「さうね。」
女は枕元に頸を廻した。
私も女の視線を追った。
枕元には粗末な化粧臺が、白粉瓶の二、三を立てゝ飾られてゐた。安物の置時計がセコンドを刻んでゐた。
「なァんだ、ガラスが無いぢゃないか。」
「今朝、お掃除の時、わっちゃったのよ。でも、時間は大丈夫よ。」
「十一時と十分か。」
「まだ、早い?」
女は婀娜な上眸で私を覗き込んだ。
「いや。」
私は慌てゝ、
「ひと睡りしよう。」
女は紅をはいた頬に甘えたやうな悲しげな徴笑を泛べて、
「――これで二時間ばかり睡られますわ。疲れもすっかりとれますわ。」
女は透き通った細い指先で薄紙に包んだ阿片管を取り上げた。
私は煙斗を女に向けて煙槍を左手に支へ、尺八の口のやうな煙嘴を口に啣へた。女は馴れ切った手つきで紙を嘗める、阿片膏を包紙から離し、それを二本の煙籤子の先に刺して、盆の上の煙燈の焔に炙り始めた。
ぢりぢりぢり……それは間もなく油を吹いて來る。女はそれを指先に受け親指の腹で柔く捏ねる。そして適當な所で細長く伸し、それを四つぐらゐに分けて割る。次にその一つが再び煙籤子の先に刺されて煙燈に炙られる。
「さすが巧いものだな。これだけは素人ぢゃ出來ないな。」
感心して私は言った。
が、女は答へない。快感に浸るやうにうっとりして眼を細め、指先にぢっと精神を集中してゐる。
――阿片膏の一片は再び女の指の腹で捏ねられ、そして又煙燈のガラス面を轉され、漸く色艶も飴色に、柔かさも適度になる。と、女は器用に差向けられてゐた煙斗の斗門にそれを注ぎ込む――。
私ほ煙斗を焔の上に斜めに炙り乍ら一氣呵成に吸ひ上げた。
斗門に焦げる阿片の匂ひ、泡を吹いて斗門から流れる阿片汁、肺臟一杯に充滿してくる怪しい魔藥的陶醉、腦細胞を蕩かすやうな麻痺的感覺……。
胡弓が何處からか歔欷くやうに聴えてるた。
「あなた、あなた……。」
と女が呼んだやうにも思った。が、私の五感は抵抗出來ない大きな力で、甘美な夢幻の世界に引入れられて行った。
3
「おい、起きてくれ!」
肩先を靴か何かで蹴られた痛みで私は眼を醒ました。
と、朦朧とした視覺の中に、最初に泛び上ったのは顎紐を下した巡警の黄色な顏だった。
何が何であるか理解出來ない。私は亂れた頭髪を掻き上げて、縺れた舌で尋ねた。
「どうしたんです?」
「どうしたんだ――と? おい、これが見えないのか。」
目の前に突つけられてゐるのは正しくブローニング拳銃である。
はッ! と冷氣が私の背筋を駛った。私は瞬間、夢幻から現實に舞ひ戻った。
「――何か、事件があったのですね?」
「ふゝん、白を切るな、これを見ろ。」
巡警の指差した傍には――。
「呀!」
寶紅が無殘に殺害されてゐるのだ。
彼女は仰向に(※火亢)の上に殪れ、片手は苦しさうに頸を抑へ、片手は無念さうに虚空を掴んでゐた。
血飛沫は蒲團から附近の壁一面に迄飛び散り、女の胸には盛り上るやうに血の凝結した海軍ナイフが一挺、殆んど直角に二十糎ばかりも差し込まれてゐた。
私は餘りの事に呆然とした。一切の出來事が意想外なのだ。
「おい、正氣に歸ったら、おとなしく警察廰まで同行しろ。」
私は巡警に肩をどつかれて、ふらふらと引き立てられたのだった……。
4
私にとって事態は容易ならぬものであった。
阿片屋の女――「寶紅」を刺殺したのは私に違ひないと、推定されたからだ。
犯人は被害者の情夫であり、最近屡々女に復縁を迫りつゝあった無頼漢に相違ない――と朋輩は取調べの係官に申告した。
が、私にとって不運な事には、彼女の朋輩たちが無頼漢の噂は聞き知ってゐたが、本人を見た事はないと陳述した事だった。
「貴様はいつ頃から寶紅に喰ひ下ってゐたのだ?」
峻烈に尋ひ詰められて、私は旅の者である事を繰返へしたが、狐のやうな顏をした司法科長は頷かうとはしなかった。
「證明する者もゐない貴様を信用出來るか。それによし貴様が寶紅と無關係であると假定したにせよ、犯行の一切は覆ふべからぎる事ではないか。第一――」
司法科長は威嚇するやうに佩劍の束を鳴らして、
「殺害事件は貴様と被害者と二人以外は誰もゐない密室内で決行されたのだぞ!」
語られた事件の外貌は斯うだった。即ち――今朝、七時二十分頃、當然その頃は朝飯を食べに起きて來なくてはならぬ筈の寶紅が見えないのに不審を起し、煙館の亭主が扉の欄間ガラスから覗いて見ると、以上のやうな惨劇であった。
で、仰天して番頭たちに知らせると共に、即刻附近の四辻に立番中のの巡警に報告した。巡警は拳銃片手に駈けつけたが、扨、扉は内側から鍵が掛けられてゐて一向に開きさうにない。やっと板を外して中に入ってみたが、あたりはどす黒い血潮の海で足の踏み場もない。――その中で私が睡りこけてゐたのである。
「どうだ、それに窓には鐵棒が八本嵌め込まれてゐるのだぞ。犯人は逃げる方法もないではないか。」
私は惡寒に顫へ乍ら反駁した。
「犯人は扉から入って扉から出たのぢゃないのですか?」
「莫迦を言ふな。」
狐は狡猾さうに鼻で嗤った。
「扉の鍵は絶對に一箇しかなかったのだ。然もそれは被害者の穿いてゐた鞋の底から發見せられたのだ。」
「ぢゃ、寶紅は自殺したのかも知れないぢゃありませんか!」
私は混亂した頭を抱へて叫んだ。
「王八野郎。」
狐は眦を釣り上げて一喝した。
「逃げようとしても駄目だぞ。海軍ナイフの束には被害者の指紋は一つもなく、在るのは皆、貴様の指紋ばかりなのだ。それにだ、被害者の拳を開いてみても少しも血潮に染ってゐないのだ。――これだけ歸結が瞭してゐても、尚、貴様は無駄な抗辯を試みようとするのか!」
「然し、然し……。」
私は最後の勇を振って辯解した。
「私は朝まで完全に睡ってゐたのです。阿片の力で無能力にさせられてゐたのです!」
「假装は駄目だ。貴様は鍵を奪って逃走する心算で居た。が、目算は外れた。鍵は見附からないのだ。窓からは逃げられない。心を決めた。貴様は阿片を喫んで睡って了ひ、發見されてから知らぬ存ぜぬで押し通さうと計畫した。はゝゝゝ。どうだ、それとも觀念して阿片自殺でも計ったと言ふのか?」
5
……監房の中で、私は次第に冷靜になってゆく自分を發見してゐた。
強烈な阿片の魔藥的な作用が腦細胞から消え去ってゆくに從ひ、爽々しい清拭された氣分が心身に甦えり、私は極めて明確犀利に事件の經過を反芻する餘裕を取戻してゐた。
こんな不自然な陥井に落ちて堪るものか――眞犯人を必ず摘發して見せるぞ。
第一に、
――と私は考へた。
私は確に昨夜の十一時十分と言ふ時刻を記憶してゐる。それは枕元の置時計に依って示された私の記憶に殘る最後の時間なのだ。即ち彼害者を見た最後の時間である。
次に――私の飲んだ阿片は約二時間を睡眠に誘ふ分量でしかなかった事である。然るに私は今朝七時迄睡り續けてゐた。
即ち歸納すると、私は午前一時前後より以後確に異常な状態に置かれてゐた譯になるのだ。
……獨房の小窓から鎧格子越しに初夏の青葉を跳めて私は一日を暮した。私の頭には様々なパズルが結んでは解け、解けては結んだ。軈て青葉に宿る冴々とした太陽の影が次第に溝れ、たうとう夜の帳に包まれて了った。
夜、私は檢察廰から出張した檢察官の前に呼び出された。
關羽髯の檢察官は私をぢろぢろ眺め廻すと、
「證據物件はちゃんと揃ってゐるのに貴様は何故犯行を承認せんのか?」
と威した。
「私は全く事件とは無關係です。」
私は昂然と肩を聳かして、
「その證據物件は私の指紋があったと言ふ海軍ナイフでせう。ではお尋ねします。その指紋は私の左手ですか右手ですか?」
關羽髯は傍の脂肪太りの警察署長を顧た。
警察署長は愚鈍な顏を急に緊張させて室を出て行くと、軈て巡官二人に卓子の上に並べた色々の證據物件を運ばせて來た。
「……右手だな。」
指紋紙を取り上げた警察署長が言った。
「右手ですか?」
私は勝ち誇ったやうに言った。
「ところが事實は私は左手しか利かないのです。右手は關節炎で全く力仕事は出來ません。」
「うむ……。」
威嚴を繕ってゐた檢察官の表情が俄に動揺した。
「私は此の機會に一應他の證據物件も拜見し度く思ひますが。」
と疊みかけて、
「それは現場にあった置時計ですね。成程まだ動いてゐますね。」
感慨深く私は時計を眺めた。時計は全面に血糊を浴びた儘、事件も知らぬ顏に時を刻んでゐた。
と――私は重大な證據を發見した。
「檢察官!」
思はず私は叫馨を擧げて、
「正確な犯行時刻が分りましたよ。」
「何!」
「いや、一切は事件解決後お話します。次は煙具です。煙具を早く見せて下さい。」
頭腦に描いてゐた推理の線が、偶然にもピタリと當った喜びに昂奮して、私は自分が嫌疑者である事を忘れて了った。
煙槍――勿論これも血に染ってゐる。私はぢっと煙嘴から次第に煙斗を精査して行った。
斗門のほんのデリケートな一點――遂に其處に私は自分の推理の裏附けを發見した。
「警察署長、犯人の目星はつきさうですよ。」
驚く二人を尻目に私は當然存在しなければならぬ次の據粘を盆の上に求めた。
使ひ残りの一片の阿片膏――私はそれを取り上げて遂に凱歌を擧げた。
「檢察官! こゝに眞犯人の指紋がありました!」
6
事件現場を是非とも實地調査し度いと言ふ私の熱望に對して、最早檢察官も警察署長も、敢へて異議を唱へる勇氣を持たなかった。二人は完全に私に壓倒されてゐたのだ。
「早い程いゝのです。早い程事件が早く解決するのですから。」
警察署長は部下幹部を召集し、自動車に一同を分乗させて晴夜の道を裏街の燕春煙館に向った。
煙館は事件以來、出張巡警に依って警戒されてゐたので、兇行現場なぞは、その儘手がつけないであった。
私は檢察官と署長とを件って寶紅の部屋に入った。
そしてすぐ出て來ると、
「此處の亭主を呼んで下さい。」
と扉口に立ってゐた司法科長に頼んだ。
別室の茶卓を圍んだ私達の前に、物怖たやうに眇の亭主が現れた。
私は、眼で警官達の了解を求め、それから切り出した。
「尋き度い事があるのだがね、本當の事を答へてくれよ。」
亭主は上眼使ひに私を憎々しげに見やった。
「へえ。」
「比の燕春煙館には何人女招待がゐるんだね?」
私は鋭く親爺を睨んだ。
「……寶紅。」
「それは分ってゐる。」
「秀鳳。」
不性不精に亭主は答へた。
「それから。」
「王蓮。」
「まだゐるのだらう?」
「誓一。――それだけだよ。」
「本當だな。ぢゃ、その中で一番痩せた女は誰れだね?」
「痩せた女――誓一の事かい?」
「さうだ。」
私は頷いた。
「呼んでくれよ、誓一を。」
……親爺が憎々しさうに手洟をかみ乍ら去ると、私は警官の方を向いて言った。
「寶紅殺書事件の犯人が現れます。」
7
津浦線を南に駛る上海特急の客室で、私はR新聞特派記者と語ってゐた。
「――ガラスの無い時計に犯行時間が記入されてゐたのですよ。と言ふのは、血飛沫の散った瞬間、針のあった所だけが微に白く染り殘ったのです。私はそれが一時五分だと知ると、私の阿片夢の醒めかけた時刻がそれから間もなくだと想像する事が出來たのです。するとその頃、更に私に阿片を吸はせた第三者がゐなければならぬ推定になるのです。私は密に煙槍を調べて見ると、血の流れ固まった煙斗の斗門の所に、血の上を更に流れた阿片膏の痕を發見したのです。
私はその一事で、殺人事件が勿論、私に阿片を吸はせる前の出來事である事を證據立てると共に、更にその阿片膏の斗門への詰め方の巧みさからその取扱者が素人ではない事を推論したのです。又私は朝迄ぐっすり睡ったのですから餘程その時は多量に喫されたに違ひありません。そんな處をうまく心得てゐるのも唯者の仕業ではないと考へたのです。それから次に、私は、如何に犯人が手袋を用意して指紋を遺すまいとしても、阿片膏を捏る時だけは絶對に指の腹を以ってしなければならぬ事を思ひ出して、盆の上に使ひ殘りの阿片膏を探したのです。
そしてそれに成功したのです。指紋は細く、それは確に華奢な女の指を想像させました。こゝまで推理が進行すると後は一つの疑點が殘るだけです。犯行の原因は怨恨か――後で調べると彼害者の所有する翡翠欲しさの淺墓な兇行だったのですが、どうせその邊の處でせうし、事件の表面も半醒半夢の阿片吸飲者を利用して、それに犯行を轉嫁さすやうに糊塗したに過ぎぬものですし、總ては既に明白なのですが、たった一つ犯人の逃げ道が不明なのです。
が、これとて窮すれば通ず、犯人が人間である以上、あの部屋にその道は一つしかない事は動かせぬ事實なのです。即ち鐵棒の嵌められた窓です。私共は鐵棒を見ただけで、そこに駄目だと斷念めて了ひますが、鐵棒は單に嵌めてあるだけで、若し抜ければ充分出人りは出來るのです。私は監房の中で、自分の牢の窓に嵌められてゐる鐵棒を見乍ら、チラリとそんな事を考へたのでした。私は疑點が遂に最後のその一點に集中されるに到って決然と立って、その私の想像の正否を決定する事にしました。
これが的中すれば凡てはO・K――的中しなければ凡ては根底から壊滅です。が、想像はピタリと的中しました。八本の鐵格子の一番隅の一本が腐食してゐて、ぐッと押すと外れるのです。萬歳です。然しその間隙が餘りに小さいので到底人間は通れなささうに思はれましたが、女招待の中に極めて痩せた女のゐる事を確めて犯人の摘發に最後の止めを刺した譯なのです。」
注)明かな誤字誤植は訂正しています。句読点は補ったところがあります。
「黄金の十字架」
「令女界」 1932.12. (昭和7年12月号) より
それは寒い北滿洲の冬でした。――と、ニーナ・ミハイロヴナは語り出した。彼女は哈爾賓に於る私の友で、よく私が訪れると、サモワルのたぎる彼女の小室に案内しては、色々と街の物語なぞをきかせてくれるのだった。この話もその一つなのである。
1
それは寒い北滿洲の或る冬だった。哈爾賓の市街は装飾菓子の様に雪に埋れて、灰濁した空にはどの家からもペチカやストーブの黒い煙が、海草の揺れるやうに立ち昇ってゐた。
――その日、昔露西亞帝國の近衛陸軍中將だったアレキサンドル將軍夫妻は、日曜日の教會の彌撒を濟ませて、裸樹の續いた堆雪のうづ高い通りを、轅に二頭の支那馬をつけた幌がけの辻馬車に揺られて、我家の方に歸って來たのだった。
馭者臺には鞭の音が氷のやうに冴えて、人々の吐く息は霧のやうに白く散った。將軍夫人オルガは、厚い毛皮の間から、白々と流れてゆく街の景色に眺め入り乍ら、
「もうぢき降誕祭ですね。今年は何度目になるのでせう、あの恐ろしい十月があってから。」
と、心寒げに言ふのだった。
「さうさ」老將軍は默想するやうに眼をつむって「十三度目かな?」
「あゝ――」老夫人は眩暈するやうに頭を俛頸れて「神様はこの上まだ私達に尊い試練をお與へになるのでせうか?」
「これこれ」老將軍は閉じてゐた眼を開いて、優しく妻をたしなめた。「神様を疑ってはならぬ。神は全能であり、あく迄我々の味方なのぢゃから。」
年老いた二人の前には、今しがた拜んで來た金色燦い神龕やら、聖なる蝋燭に照らされた清らかな聖像やら、神の偉大な力を説く法服の神父たちの姿なぞが、強い光のやうに甦ってきた。二人は今更のやうに胸に十字を切るのだった。
今、世界中には、革命の後國を追はれて、何處へともなく萍のやうに放浪ってゐる白系ロシア人が、幾百萬とあるだらう。その人達はどんな世界の片隅に、どんな哀れな生活をしてゐても、一様に皆帝政ロシア國の復興を夢みてゐるのである。アレキサンドル中將も勿論その一人でない筈はなかった。
激しい西比利亞の革命戰に敗北して、遂に帝政ロシアの崩壊をささへることは出來なかったけれど、他日を期して再び兵を擧げる用意は決して怠ってゐるのではなかったのだ。
老夫人オルガも、亦、堅く帝國の再興を信じてゐた。世が世ならば、華なロープ・デ・コルテに着飾って、晴れの宮廷廊下を歩ける人達で、洗面器にトマト・スープを作って啜らなければならないやうな世の中が、將して紳の御心であるかどうかと思ってゐた。
「いまに屹度神の怒りがある。ノアの洪水のやうに、ロシア全土がひっくりかへる時が來る。」――老夫人はいつも豫言者のやうに考へるのだった。
馬車は寒々とした街通を雪に轍をつけ乍ら二人の思ひをのせて進んで行った。空は二人の心のやうに鉛色に重く沈んで、再び音もなく葩のやうな雪片が幌の間から二人の膝の上に滾れてきた。
「旦那様、ここでごぜえますか?」
馭者が幌の外から聲をかけた。
郊外に近い靜かな住宅街。そして低い木柵の中に廣い前庭をとってあるロシア式赤煉瓦の建物。それは質素な老將軍の假住居だったのだ。
將軍は馬車を止めさせ、夫人をたすけて雪の中に降りた。
「有難うごぜえます。」
毛皮帽子をとった馭者が、長い鬚をだらりと氷らせ乍らお辭儀をした。思ったより餘計に惠まれたのであらう。
と、その時だった。足を一歩門の方に運ばせてゐたオルガ夫人は、
「呀!」
と聲をたてて立ちすくんだのだった。雪の吹き寄せた門の傍に、貧しい身装の娘が行倒れてゐる――。
2
「セリョーヂャ! セリョーヂャ!」
夫人は邸の前迄走り寄ると、扉を叩いて呼んだ。夫妻にはたった一人の子で、今年二十六歳になる頼母しい程立派な青年だった。
「お歸りなさい、お父さんお母さん、何です一體――?」
扉が元氣よく開いて、召使の顏と一緒に男らしいセルゲイの顏が現れた。
「あ、セリョーヂャ、あそこに女の子が倒れてゐるのだよ、可哀さうに――。さ、早く家に抱いて來て、手當をしてやってお呉れ。」
家中は大騒動になった。皆親切で、氣のいい一家の人達は、我を忘れて、少女の看護に没頭した。空腹と寒氣で氣絶してゐたらしい少女は、やっと血の色を頬にすかせ初(※ママ)めた。
「あゝ氣がついたかい、神様、どうも有難うございました。」
夫人は室の隅の十字架像の前へ行って、感謝の祈りを捧げた。少女はその夕刻迄には悉り元氣をもとに恢復する事が出來た。神の守護と、この一家の心づくしの故であったらうか?
「名は何て言ふのかね?」
「マリアンナって言ひますの。」
「歳は?」
「十七歳。」
房々とした亞麻色の美しい髪と、黒苺のやうに潤んだ瞳と、透き通るやうに白い皮膚と、櫻ン坊のやうに赤い小さな唇を持ったこの少女は、自分の貧しい服装がどんなにこの立派な部屋に相應しくないか、それを恥らふやうに含羞み乍ら小さく細く答へるのだった。全く、破れた桃色の着物に外套もつけず、上靴を素足の儘穿いて、冷たい雪溜りの中に突伏してゐた少女は、どんなに貧しい家庭の子なのだらうか。
「マリアンナの家は何處だね?」
「――」
少女の返事はなかった。微笑が消えて、寂しい堅い表情が伏せた顏の上に流れた。將軍や家の者一同は、然し、彼女が決して素性の卑い者でない事を、聡明さうな顏かたちや態度から瞭り見抜いてゐた。孰れ自分達と同じ素性の人の子であらう。昔の貴族で乞食になってゐる人すら珍らしくなかったのだから。一同は重ねて少女を糺す氣にはなれなかった。皆は默った。すると今度は少女が、やっと思ひ切った風に、次のやうに語ったのだった。
「‥‥私には家がありませんの。この前迄女中をしてゐた家は、子供に風邪を引かせたからって、追ひ出されて了ひましたの。雪が降って體は凍えますし、食物は昨日から口にしませんでしたので、とうとうお家の前で、自分がわからなくなってしまったのでした。」
「お父さんやお母さんは?」
「死んでしまひましたの、革命の時に。叔母に連れられてこちらに來たのでしたけれど、その叔母も死にましたの。」
一同は今更のやうに革命を呪った。アレキサンドル將軍夫妻は、少女を自分の手もとで養ふことに決めた。
それからマリアンナはアレキサンドル家の家族の一人になった。可愛くて怜悧で、素性のいい少女は家族の誰の期待も裏切らなかった。縫物のお手傳ひをしたり、中將の居間のおかたづけをしたり、聖像を磨いたり、珈琲を炒って粉にして煎じ出したり、洗物をしたり、或ひはペーチカの中で低音が唸る吹雪の夜なぞは、皆と一緒にしんみりガルシンを讀み耽ったり‥‥。
「あの子は本當に私の娘のやうな氣がする。」
老將軍も老夫人も心から言ふのだった。
「マリアンナ、」セルゲイはセルゲイで又つくづくと言った。「お前は毎晩僕の夢の中に現はれてくるが、屹度そのうちに僕たちの仲にうれしいことがあるのかも知れない。」
3
然しかうした平和なアレキサンドル一家に突然音もなく嵐がひそやかに襲ってきたのはその長い北滿洲の冬も漸く薄紙を引き剥ぐやうにうすれて、雪解の下から下草が、そして杏が桃が、春の先驅として訪れた頃の事だった。それは中將を中心とした白系露人軍隊が俄に露支國境のコロンバイル地方に旗擧げをする事に相談がまとまり、それに就てセルゲイが秘密な使命を帶びて、そちらの方に出發しなければならなくなったことである。
「復活祭だと言ふのに、セリョーヂャは危い所に行かなければならない。」
老夫人は心配のあまり病床に就いて了った。マリアンナは夫人の役を一切引き受けて、立派に一家の事を切わ廻していった。そして、又老夫人の看病を自分一人が引き受けて、夜もろくに睡らない程だった。
「マリアンナや、お寝み、お前はもう三晩も寝ないぢゃないかね。」
夫人が床の中から見かねて聲をかけると、
「いいえ、おぢ様やセルゲイ様がまだお書齋からお歸りになりません。皆様の御相談がおはりになる迄は、私とても寝まれませんわ。」
さうして窶れた顏に優しい微笑を泛べるのだった。
深夜になって、集ってゐた同志達が、濃い夜の覆面の下に散り去って行くと、作戰計略に疲れ切った親子が、煮(※者の下に火)えたぎるサモワルの傍に歸って來るのだった。そしてその夜決められた秘密な計畫が、ひそひそとオルガやマリアンナの打ち顫へる心に語られるのだった。
春は街に溢れて、鈴蘭の匂が街から家の中迄ほの甘く流れた。マリアンナの顏色は、けれど日増しに蒼褪めてゆくのだった。
「マリアンナ、心配することはないよ。九月には又歸って來るからね。それ迄我慢して待ってゐておくれ。」
刺繍のあるルパーシュカの襟元から、陽に燒けた頑丈な頸を覗かせ乍ら、セルゲイが男らしい笑顔で言った。マリアンナはもう言葉を言ふ勇氣もない程顫へ悲しんでゐた。
「泣かなくてもいいよ、ぢゃァね、僕の留守の間はこれを借して置いてあげよう。僕だと思っていつも持って眺めてゐなさい。」
セルゲイは鳶色の眸に優しみをこめて、自分の首から小さな黄金の十字架をはづして、それを少女の細い胸元にかけてやった。
「こんな大切なものいいんですの?」
泪にぬれた頬をぽっと赧らめ乍ら上げる少女に、
「いゝともさ、他の人ぢゃなし僕の一番可愛いマリアンナだもの。その代り又僕が歸ってきたら返すんだよ。これはなくなった姉さんの形見だからね。」
白樺の嫩芽、楊柳の新芽、それらがすばやく葉をのばした、春の薄霞の夜、同志十人とひそかに我家を出發して行った。
「神よ!」殘された彼の父とその母と、そして涙なくては日を送れぬマリアンナの三人が、神々しい光を放ってゐる聖像の前に心から膝をまげて祈るのだった。――「セルゲイに祝福を垂れ給へ。」
さうして一週間といふ日が經った。それは苦難の毎日だった。マリアンナは心痛が昂じて、到頭熱病に倒れた。四十度といふ高熱がマリアンナを毎日苦しめた。
「セルゲイ様、セルゲイ様‥‥」
譫言にまで彼女は只管遠い所へ行った人の名を呼んだ。そしてしっかり手を組んだ胸元には、黄金の十字架が肌身離さず抱きしめられてゐた。
丁度さうした最中だった。アレキサンドル老中將は、同志の秘密通報人より、仰天すべき報知を受け取ったのだった。
4
「セルゲイ氏一行は密告により赤露國の秘密探偵局に捕縛され、チタに護送されし後銃殺さる。」
――一家は茫然自失した。出る溜息すらなかった。魂を抜かれた者のやうに、徒に虚な目をあらぬ一角に注ぐばかりだった。病床のマリアンナは早くもそれを耳にして、崩れ蒲ちるやうに氣を失って了った。
一家は次の日から、死人の家のやうに憂愁の色に深く閉された。老將軍は手をうしろに組んで、書齋の牀をどしりどしり踏みしめて歩き廻った。オルガ夫人とマリアンナは、交す言葉もなく、胸に錐の打ち込まれる程の痛みを、齒をくひしめて耐え忍ぷばかりだった。
「わしは決してくよくよせぬ。」老中將は或夜ひそかに集合した同志の者達に、悲しみを隠し、嚴然たる態度で言った。「―― セルゲイの死は我々の拂った犠牲として我慢しよう。然し諸君、今度我々の計略を嗅ぎつけた憎んでも餘りあるゲ・ぺ・ウの犬は、是非とも見つけ出して、二度と我々に近寄れないやうにたたきつけて了ふ必要がある。諸君、せめてセルゲイの死を悲しんで下さるのならば、その密偵を探し出すべく努力して下さい。」
一同は堅い決心を眉の間に現して、一人一人中將の手を握って去って行つた。そして室に最後の人がゐなくなった時、中將の眼には耐へ切れぬ涙の玉が溢れ出てゐた。
毎日、毎日、一家には悲しみの日が續いた。一日は一日とそれが薄れるといふ事はなかった。老夫人は黒い喪服を着て終日聖像の前に俯向いてゐた。マリアンナは病み上りの體を無理に起して、放浪人のやうに街へ行て行った。
「マリアンナ、お前は毎日、街へ何しに行くの?」
或日夫人が不審に思って訊ねると、
「セルゲイ様のかたきを探りに行くのです。街の人混みの中なぞでは、ひょいとどんな話が耳に入るかも知れないと思ひますから。」
黄金の十字架は勿論マリアンナの胸からはづされてゐたことはなかった。今はその十字架が永久にセルゲイ自身になったのだ。セルゲイは歸って來ないのだ。十宇架があの懐しいセルゲイに代る時は來なくなったのだ。
「マリアンナや、私はもうお前一人が頼りになったよ。」
老夫人は寂しい顏で顫へる手をマリアンナに差しのべ、マリアンナがその手を確乎とると、夫人の老いた頬には太い涙の線が幾筋も傳はるのだった。今となっては、マリアンナはアレキサンドル中將夫妻の、天にも地にも代へ難い唯一の慰めになった。仲のいい本當の親子――誰の眼にも三人はさう寫らずにはゐなかった。
さうして又暫くの日が流れた。哈爾賓の市街は青葉に燃え、松花江の水面を掃いてくる柔い南風は、春の息づきを、少女の吐息のやうに甘酸ッぱく、サンタ・マリヤの鐘の音と共に、市街の上に靜に撒き散らすのだった。
「おぢ様、私、私――」
夕餐後姿を隠してゐたマリアンナが、何處からか顏を引つらせて歸って來た。
「どうした? 慌てて、ほら頭布がほどけてゐるぢゃないか、それに裾をそんなに破いて――。」
アレキサンドル中將は、眼を血走らせたマリアンナの、とり亂した姿に駭ろきの眼を瞠り乍ら注意した。マリアンナは、けれどそんなことには關はないやうに、彈む息の下から言った。
「私、私、セルゲイ様の仇を突きとめましたの、やっと――。」
5
「セルゲイの仇をつきとめた!!」
この言葉は霹靂のやうに老中將の耳朶を打った。
「何處で、一體、どうして――?」
老中將はせき込んだ。
「キタイスカヤ街の酒場です。私は一人のゲ・ぺ・ウの密偵らしい男が、その話を自慢らしくしてゐるのを聞いたのです。私はその男の住居が、ムクデンスカヤ街三番地だといふ事も、そしてその二階を借て住んでゐるといふ事も耳に聞き取りました。赤鬚で背の高い長靴を穿いた男です。今夜はもう少し飲んでから、家へ歸って寝る心算だと言っておりました。私はそれ迄聞くと、無我夢中で歸って來ました。おぢ様、どうぞ今晩セルゲイ様の仇を、おぢ様の手でとって上げて下さい。」
マリアンナはがっくりしたやうに中將の腕の中に仆れ込んだ。
「マリアンナ、よく探ってくれた。他の誰もがまだ見當もつかないでゐたのに。よし今夜こそは憎い我々の仇を、一發のもとに射ちとってやらう。心配しないて、お前は寝んでゐるといゝよ。」
老中將は力強く言って、マリアンナの細い體を優しく抱いて、寝室の方へ連れて行ってやつた。その夜は特に大きな蝋燭が、聖檀の前に明々と灯されたのだった。
そしてその夜十二時すぎ。老中將は黒い服装に身を隠して、目的の家に忍び寄った。寂しい街端れの汚い通りでその家は半崩れかけた支那家屋だった。老中將は敵に感づかれない爲の用心から、單身乗り込んで來たのだ。コツコツコツ――拳銃の銃把を握りしめ乍ら厚い扉をノックした。中から返事はなかった。
中將は意を決すると體を扉にぶっつけて弱い錠釘をへし折った。と、中は蜘蛛の巣と埃の厚く積った無人の室内だ。が、空き間ではない。むき出して卓子の上には裸蝋燭が外からの風に大きく揺れて壁を奇怪に隈取ってゐる。主は確にゐる證據である。中將は銃口をピタリと前につけ、油斷なく前に進んだ。一歩、二歩――と、中將は綻れた窓帷のかげに息を潜めて立つ人間のあるのを發見したのだった
血が一時に逆流した。引金が思はず千萬の恨みをこめて引かれた。銃聲が木魂して一發、二發、三發と續いた。窓帷がかげの人間ぐるみ牀の上にどさッと落ちた。
中將は駈け寄って窓帷を手荒く引き剥いだ。と、そこには赤髯の、背の高い、長靴を穿いた憎い間諜が、惨な醜惡な姿になって――けれど、老中將の眼を瞬間刳り取るやうに打ったのはそれとは似ても似つかない大理石のやうに蒼褪めた、美しいマリアンナの死顏だったのだった。
「‥‥お許し下さい。私は自分の罪を自分で償ひます。私はおぢ様の手で存分なお裁きを受ける事を、この上ない幸福だと思ってゐるのです。‥‥私は鬼のやうな、ゲ・ぺ・ウの密偵でした。私の兩親が、昔ロシアの官憲から社會主義者だと言ふので殺されてから、私は昔のロシアを怨むやうに運命づけられてきたのです。‥‥けれど私は如何に本部の命令だとは言へ、おぢ様のお宅をあのやうに擾して了った事を、死ぬ以上に苦しまずにはゐられませんでした。
私はセルゲイ様を殺すやうに取計った本人なのですから、私はもうその時から、セルゲイ様のみあとをお慕って、死ぬ決心はしてゐたのでした。……私は毎日優しいおぢ様おば様の愛情に、とても耐へきれない苦しみを感じてゐました。そしてその後いつも本部と悉り手を切る相談をしてゐたのですが、それがやっと今宵許されたのでした。私の義務は終りました。私は愈々自分の生命を今脊限りこの苦しい世の中から斷つ事にきめたのです。
‥‥おぢ様、おば様の御恩は忘れません。私はセルゲイ様の所に行ってたのしく暮します。‥‥私の胸の十字架はセルゲイ様の形見です。どうぞ私の血潮でそれが洗はれるといふ事で、私の罪の萬分の一でもお許し下さいませ‥‥」
卓子の上に發見された一通の道書。それを手にした老將軍は、石のやうに立ち盡してゐた。將軍は可憐な少女の鮮血の、靜にしたたる黄金の十字架を、微な蝋燭の光の中に見つめてゐた。長い靜な時が、人生のやうに將軍の横を流れ過ぎた。年老いたアレキサンドル中將は、程へてやっと小さく誦むのだった。
「我爾曹を許すが如く爾曹亦互に許す可し。‥‥マリアンナ、わしはお前を許すだらうよ。そしていつ迄もお前は變らぬわしの家族として、わし等の心に刻みつけられてゐるだらうよ。」
注)明かな誤字誤植は訂正しています。漢字を統一したところもあります。
注)句読点は変更したところがあります。
「胡盧島の乙女」
「令女界」 1935.11. (昭和10年11月号) より
1
秋です。
連山と言ふ站で乗換へて、私は支線を獨り胡盧島に向ひました。
海の色は青々と冴え、秋の陽射しの中を鴎が紙のやうに白く飛んでゐました。
胡盧島といふ所は張學良が南滿唯一の開港市にしようと野心した所で、今は殆ど顧られてゐない廃港です。
でもホテルがありました。
赤い屋根と白亞の壁、それから海が眼下に一眼で見下せる露臺と――。
この異國的な建物は、築港工事に雇はれて來た和蘭人の倶樂部だったのです。
海濱站でポツンと下車した私は、手提鞄を抱へて危っかしく丘を登り始めました。
「ホテルはこの上」と矢じるしされてゐる立札の前には、秋草の咲き亂れた斜面があるだけで、道らしいものはなかったのです。
案内所の紹介を讀んでふと心を誘はれ、わざわざ立寄ってみた私ではありましたが、まさかこんな侘しい所だとは思ってゐなかったのでした。
道々野菊なぞを摘んで、やっと丘の上に出ると、そこには赤い旗を屋根に翻へしたホテルの玄關がありました。
「一泊したいんだけれど。」
新聞を讀んでゐた番頭に聲を掛けると、不意のお客に吃驚した番頭は、狼狽て立ち上って給仕を呼びました。
「――お客様だよ!」
2
開け放たれた窓――そこからは秋の空と秋の海が廣々と限りなく遠く見えてゐました。
もう夕方です。
雲は赤々と染って、海面を暗青色に照り返してゐます。
傳説の孤島にでも來てゐるやうな、そして自分がその物語の主人公にでもなったやうなうら悲しい氣持――旅愁なのでせうか、それが犇々と私を圍みました。
來なければよかった、私が考へてゐる所へ給仕が燭臺を持って入って來ました。
「何處へ置きませうか?」
「ああ電燈が無いんだね。」
私は今更のやうに天井を眺め、
「――ぢゃ、そこの暖爐棚へ。」
懐しい古い味のあるラムプの灯、それを凝乎とみつめながら私はポケットのパイプを口に啣へました。
以前、遠く海を越えて來た和蘭人が、やはり郷愁に惱みながら、こんな風にラムプを眺めてはゐなかったらうか。
いやいや、それよりか、やはり自分のやうに戀に破れた旅人が、寒い吹雪に凍えた胸と手を、かうして暖爐に温めようとはしなかったらうか。
私の眸には涙が浮びました。
私はまたしても觸れてはならない心の傷手にさはってしまったのです。
私はごろりと寝臺の上に横になって、苦しい追憶を追ひ拂はうと眼を閉ぢました。
と――私は駭躍として身を起しました。
確に二階です。この靜謐の中に突然のソプラノ。
女の人がゐるのだらうか? 私には到底信じられませんでした。
でも歌聲は靜かに透き通るやうに續いてゆきます。
私は次第に緊張をゆるめ、蒼茫と岬を包んで行く夕闇の窓邊に靠れて耳を傾けました。
歌は確にこれでした。
Ave Maria! Iungfrau mild,
erther either Iungfrau Flehen,
………………
3
朝凪は石竹色に陽の光を溶し、海燕の群は白い羽裏を際立たせながら、小波の洗ふ防波堤の崩れから飛び立ちます。
私はホテルの露臺に立って、地平線までくっきりと晴れた渤海の海原を眺めてゐました。
「御免なざい。」
突然に横から聲をかけられて、私は吃驚しました。振り返ってみると、もう聲の主は房々としたブロンドの斷髪と細い襟足をこちらに向けて、さっさと歩き去ってゐるのです。
昨夕の歌の主に違ひない。私は半あっけにとられ乍ら考へました。
でも何といふ思ひがけぬ少女がこんな寂しいホテルに來てゐることだらう!
私は給仕に呼ばれて食堂に降りて行きました。
爽々しい朝の食卓、輕い朝餐と薫の高い珈琲――丁度私がナフキンをはづしてゐる頃、少女が颯爽と入って來ました。
それは海岸でも歩いて來たのでせう、青白い頬には薔薇色の血の氣が美しく上ってをりました。
「給仕! お林檎を――」
少女は亂暴に卓子に向ふと、齒切れよく給仕に命じて、ちらりと私の方を眺めました。
私は取り出してゐたパイプを置いて、輕く朝の目禮をし、つと席を外さうとしました。
「關ひませんのよ。」
莞爾と笑って少女が言ひました。
「貴方、英語がお出來なんでせうね?」
「少しばかし。」
私は慇懃に應へました。
「お友達になって。」
「お友達に――?」
「Oh yes!」
少女は病的に透き通る美しい顏に、いたづららしい笑ひをこみ上らせ乍ら言ひました。
「――もし御承知なら、お林檎を半分差し上げてもよくってよ。」
私は少女の怪しい魅力に思はず惹きつけられました。何といふ不思議な雰圍氣を持った娘であらうか。
「私は林檎は要りません。その代りお言葉に甘えてパイプを吸はして頂きます。」
つとめて禮儀深く私は微笑んで、ダンヒルを口に持って行きました。
アブドラ・ミクスチァの紫の煙が氣持よく舌を刺戟して立ち昇って行きました。
「Very good!」
少女はそれを見ると、食べかけてゐた林檎を皿の上に放り出して、
「――私、ぢゃ、自身を紹介します。ミス・ソフィヤ・セミョーノヴナ。英吉利生れの露西亞人。勿論帝國「露西亞」の。」
4
赤い塗料の剥げるかかった浮標の殘骸、朽ち曲った鐵筋材料、歴史の頁が一枚くられる間、風雨に曝されて顧みられなかった胡盧島の築港は、渚を噛む波の音を子守唄に、まだまだ深い眠りに陥入ってゐるのです。
秋深い海の潮風をブロンドの髪に受けながらソフィヤは私と並んで海岸を散策しました。
給仕の目付でもわかったことですが、もうその時は私にも彼女の頭腦の狂ひが理解されてゐたのです。
でも私には決してそれが少女に對する拘泥りにはなりませんでした。
清純な處女のお伽噺の世界、或ひはまた子供のままの夢の世界――さうしたものが彼女の上に思ひ添へられて、かへって愛しく考へられるのでした。
「歌を歌ってくれませんか?」
私が昨夕のことを思ひ出して言ふと、
「歌? いやなの。」
「どうしてですか?」
「胸が苦しくなるんですもの、悲しくって。」
然しさう言って置いてすぐ澄んだ聲で歌ひ出すのでした。
甘く憂鬱な沈んだメロディー、少女の持つ悲しい運命が自ら物語られてゐるやうな暗い歌。
「何ですか、聴いたことがあるんですが?」
「シューベルトの「海邊にて」なの。」
ソフィヤは屹度長い間音樂を習得してゐたのに違ひありません。私は今更ながらこの狂へる少女のいぢらしい横顏を凝視ずにはゐられないのでした。
二人が海岸から離れて胡藤林の枯葉を踏んで行くと山鳥が急に羽搏をして飛び立ちました。
「あら――」
ソフィヤは交錯した梢の彼方にそれを見送りながら、突然今度は、他のことを思ひ出したやうに、
「貴方は學生さんなの?」
と尋ねるのでした。
「いいえ、貧乏な小説家なんですよ。」
私が笑ひながら應へると、
「小説家?」
と怪訝さうに呟いて、
「滿洲にゐらっしゃるの。」
「いいえ、旅行してゐるんです。日本の東京から。」
「Oh!」
少女は小さく言って、何事かちょっと考へる風にしましたが、頭の中が統一されないらしく、もうそれ以上考へようともせずに口笛を吹き始めました。
「晩夏の薔薇」――今度は私の知ってゐる歌なので、私も彼女の口笛に唱和しました。
冷々とした林の中には、靜かに響いて來る潮騒のほかには私たちを邪魔する何物もありませんでした。
5
旅に出て、その旅先で戀をする――そんなことが尠くとも昨日までの私に想像されたことでせうか。
でも事實私はソフィヤを戀してしまったのです。胸に痛手を負ふてゐる寂しい私に、思ひ掛けなくそっと寄り添ってくれたやうなソフィヤ――私は彼女と逢ふ時の「幸福」の大きさに思はず驚くくらゐでした。
翌日は二人で突堤に魚釣りに出かけました。淺蜊を餌に茅渟がどっさり釣れるのでした。
午後は常春藤の一面に絡んだ山の廃屋に杖を引きました。
住む人もなく、荒れるに委せた廣壯な別莊は、夢のやうに消えた張學良の、野心の末路を見るやうに、うら寂しいものでした。
「これソフィヤのスケッチ。」
「うふふふ‥‥」
わかったのかわからなかったのか、ソフィヤは私のスケッチ・ブックをひったくると、私の膝の上の鉛筆をとって、その上に亂暴なキリスト鬚を描くのでした。
別莊の四阿を出てホテルへ歸ると、私は幾度自分の心のうちをソフィヤに打ちあけようと考へたか知れませんでした。
でも全く無邪氣な、殆んど神のやうにあどけないソフィヤを見ると、自分の考へてゐることがひどく罪惡か何かのやうに氣がひけて、口まで出かかってゐることが言へないのでした。
そして再び次の日が訪れたのです。
私にとっては四日目です。考へてみれば、ほんの一日の滞在豫定が知らぬ間にこんなに延びてゐたのです。
朝の散歩を終へて、ホテルの露臺でパイプを啣へながら、インキの香のする「天津晨報」を披いてゐると、私は一人の紳士の來訪を受けたのでした。
「突然に申譯ございません。」
その若い紳士は言ひました。
「――私はかう言ふ者でございますが、ソフィヤのことに就きましてお話申上げたいと存じますので。」
「ソフィヤに就て――?」
私は「沈英」と印刷された名刺を眺めながら椅子から立ち上りました。
「どんな御用件でせうか?」
「いいえ、實は一言御禮を申し上げたいと存じましたので。」
日本語の巧みな若い中國の貴公子は、端麗な顏を薄く紅色に染めながら、
「ソフィヤがたいへんお世話になりましたさうで。今度は私共が思ひがけない手落ちをしましたので實は非常に心配致してゐたのです。」
私は默って眼を伏せました。
紳士は續けた。
「――私共は北平に住んでゐるのですが、ソフィヤが海に行き度いと申しますので一月ばかり北戴河の方に参って、それからこちらに遊びに來たわけなのでございます。
私は丁度教鞭を執ってゐる清華大學の方が忙がしいので遊んでもをれず、ソフィヤには阿媽をつけて寄越してあったのですが、それが不注意にも忘れ物を取りに、ソフィヤを獨りにして、歸って來たものですから、私は吃驚して飛んで來た次第なのでございます。」
「わかりました。ソフィヤさんは貴方の奥様だったのですね?」
私は顏を上げて言ひました。
「いいえ。」
沈英氏は再び顔を紅色に染めて、
「――實は奇しき縁の許婚同志なんです。お差障へがありませんでしたら裏のお花畑でも一緒に歩いて下さいませんでせうか。お話申し上げます。」
6
秋草の咲き殘った山のお花畑を歩き乍ら私が沈英氏から聴いた話は――それは倫敦での事。
兩人はお互の友達に羨まれ乍ら婚約指輪を交換しました。
一人は劍橋の留學生、一人は舊露西亞帝國エミグラント貴族の娘。
兩人は軈て、男の修業の終ると同時に華燭の典を擧げる豫定でした。
けれど突然の嵐は父伯爵を奪ひました。それはゲ・ペ・ウの見えざる手に暗殺されたと噂されました。
悲嘆に暮れた母と子――その不幸な二人の上に更に不幸が重なりました。母が病氣で急逝したのです。
黒い喪服。白い十字架の墓標、讃美歌。倫敦の冷雨のやうな霧、父の肖像、母の慈愛の言葉。
――憐れなソフィヤは、その頃から精神錯亂に陥入ってしまったのでした。
「醫者は、突然の衝撃による痴呆症と診斷しました。私は寄邊ないソフィヤを伴って留學滿期と共に歸國しました。」
沈英氏は一輪の草花を指の間にまはしながら、沈痛に續けました。
「――私と彼女との結婚はいつ擧行され得るか神様より他、御存知ありません。或ひは永久に許婚のままで終ってしまふのかも分りません。けれど‥‥」
沈英氏は眼を伏せ、然し決然とした聲で瞭りと言ひました。
「けれど、私の心は彼女と婚約した時と少しも變ってはをりません。いや寧ろ、私の清い愛情はもっともっと増してゐるやうにさへ考へられるのです。」
7
秋です。空はは時雨てきたやうです。
窓の外ではコスモスが風に揺れてをります。
「さようなら、私の暖爐、私はまた當てなしの旅へ出て行くよ。再び又、お前の前に立って、パイプを喫ふことはないであらう。――だが私は決して忘れはしない。お前が僅かな間でも、秋風に凍えた旅人の、私の心と手を、ほんのりと暖めてくれたことを。」
私は鞄をさげてホテルを出て行きました。
眼下に擴った胡盧島の海は、赤旗をなびかした戎克の影一つだになく、時雨空の下に蕭條と、白波を崩し、むせぶやうな秋の挽歌を奏てをりました。
注)明かな誤字誤植は修正しています。
注)句読点は変更したところがあります。
創作小説「少年」
「新天地」 1934.01. (昭和9年1月号) より
「――よ、勇ちゃん、惇公がどうしたってのさ。教へておくれな。」
久保田と言ふ惡戯ッ氣の溢れた少年が手を土で眞ッ黄色にさせ乍ら、同じやうに肩を並べて足を投げ出してゐる飯田と言ふ少年に、あまへるやうに尋ねた。
秋の陽は、中學校の赤煉瓦の校舎を背に、運動場のボールの練習を見物する、歸り遅れた少年たちの、まばらに散ったうそ寒げな姿を照してゐた。
「やぁだよ。言ふと慍られるッからね。」
飯田は、其處から少し離れた所に、一人でぼんやり座ってゐる西村と言ふ少年の方をチラと見乍ら應へた。
「かまうもンか、惇公なんぞ慍ったって。」
久保田はわざと聞えよがしに大きな聲で言ふと、無遠慮な眸をそちらの方へ投げかけた。
制服の襟章にIIの字をつけた女の子のやうに華奢な西村は、氣弱さうに顏をあげたが、瞬間いぢ惡く光った久保田の瞳にぶつかって當惑したやうに、己の眉を顰めた。
「――要らない事なんぞきかなくたっていゝぢゃないか莫迦なやつ!」
西材は小さく一人ごつと、その儘、瞳をそらせて了った。
「よ、勇ちゃん、たら、惇公のノートに何が書いてあったんだよゥ………。」
久保田は西村の呟きが聞へなかったらしく、なほしつこく大きな聲で飯田に尋ねた。
西村は再び二人の方を見た。するとヒョイと西村の方を見た飯田の瞳とぶつかった。佗しい、頼りなげな西村の、氣の弱い眼差がはっきり「他人にそんな事言っちゃいけないよ。」とでも言ってゐるやうに思はれた。
「本當に、おれ、知らないッたら………」
遉に西村に氣をかねて、飯田は少し強く言った。久保田はやんちゃらしい紅い頬をふくらませて、
「なァんだい、言ってくれたっていゝぢゃないか.やに惇公に贔負してらあ。」
飯田は默って返事をしなかった。久保田は拗ねた風で、足元の小石を力一パイに遠くに投げつけた。
「ちぇッだ! もうきかないや。」
バットの球を打つ冴えた音が、虚空にカァーンと響きわたって、赭い運動場の土の上には白いユニフォームの姿が、すばしこく馳けめぐった。
「センタァ、バック! バック!」ダイヤモンドに立ってゐたコーチァが大きな聲で叫んだ。
西村はつぶらな瞳をあげて空を見た。澄んだ秋晴の蒼穹に、白い球が美しい抛物線を描いて流れて行った。
――パチパチとどこかで手をたゝく音がした。校舎の前の見物の少年たちも、それにつれて一齊に拍手を送った。ユニフォームの一人がグラーブの中から白い球を取り出して、ピッチァの方に投げ返した。
含めば甘き花葩の
紅の顏をかすめては
淡き憂ひの誘ひに
解き得ぬ秘密ありしとも
生命を愛づる小羊の
小さき涙、人知るや
西村はズボンの兩膝を抱いて、靜かにうろ憶えの少年詩を口笛に吹いた。柔かいメロディにのって自分の魂ははるかな秋空に吸はれてゆくやうな遣瀬ない氣がした。
「W・Cに行ってくるよ。」
飯田は急に鞠を抱えて立ち上ると、土で汚れたズボンの尻をパタパタと手ではたき校舎のはづれの方に歩き去って行った。
「あのね君――」キネマ狂とニックネームのある吉岡と言ふ少年が、突然西村の向ふ側から話しかけた。
「ウォレス・ピアリの蠻勇探偵っての見たかい。」
「うゝん。」西村は頭を振った。
「さうかい、とッても面白ろかったぜ。格闘が斷然凄いんだ。飛行機から自動車ン中へ飛び降りて、惡漢をやっつけちゃうんだよ。」
「さうかい――」西村は興味なさゝうに答へた。そして石ころを拾って、赭い土の上に、Y・Y・Y………と書き始めた。吉岡は切角の話の出鼻をくぢかれたやうに、いつもの映畫の話にもならず、その儘再びボールの方へ眼を轉じて了った。
「おーい、球、拾ってくれよう!」
ライトがトンネルして、校舎の方に迄球がコロがって來たのを見ると、吉岡は急いで立ち上って、その方に走って行った。
西村は顏をあげて、不圖あたりを見廻すと土の上にT・Kとサインの入った白い鞄が投げ出されてゐて、いつの間にか久保田の姿も見えなかった。
「?」
西村はちょっと眉をよせたが、その時校舎の昇降口から、のそのそと出て來た久保田の姿を見てハッとした。久保田は勝ち誇った色を顏中に漲らせ、相手を嘲笑するやうな眼の色をしてゐた。
「惇ちゃん――おい、西村君。」
意味あり氣に久保田は西村の少し前で立ち止って、顏を覗き込むやうにした。
「君のノートには、由子とか言ふ女の事が一パイ書いてあったんだってね。やァい、聞いちゃったよゥ!」
さう言っていったん逃腰になったが、豫想に反して西村がぼんやり土の上に坐った儘でゐるのを見ると、又、圖々しく道化た身振りをして、
「………そして、女學生の寫眞もはさんであったんだってさ。聞いちゃったァ!」
やァい、やァい! と言ふやうに、久保田は横着に冷笑して、面白さうに笑った。
途端、蒼褪めた顏をした西村が、ものも言はずにとびかゝった。不意を喰って横倒しに久保田の體は、ヨタヨタと突きのめされたが、辛じて逃腰に立ち直ると、一散に逃げ出した。
西村は眼に一パイ涙をためて、二間ばかり前を走って行く久保田の後を追ひかけた。
久保田が憎いのでもない、秘密を話して了った飯田が惜いのでもない――耻らひでも悲しみでもなく、たゞ甘い哀愁が胸に溢れてさうしてゐる事がうれしい事でもあるかのやうな心持で、たゞたゞ久保田の後を走り續けて行った。
一間のへだたりが三間となり、三間が四間となって………うらぶれた太陽の薄い光が、校庭の赭土を蹴って走って行く二人の少年の姿を、佗しい黄昏色に染めてゐた。
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創作小説「子供の顏」
「新天地」 1934.08. (昭和9年8月号) より
「どうしてにんじんなんてお呼びになるんです? 髪の毛が黄色いからですか?」
「性根と來たら、もっと黄色ですよ。」
――ジュウル・ルナアル――
(1)
その先生の級には「自治會」と言ふ習慣がありました。體操の時間です。
「今日の自治會希望者は手を擧げなさい。」
圓陣を描いた少年たちの中からは、七八本の右手が元氣よくサッと擧がります。
「A君、君の相手は誰れだね?」
「仁吉です。」
「よろしい。仁吉、さあ前へ出て。」
これは日頃の欝憤は溜めて置いて、先生の許可する時に、潔ぎよく霽らすと言ふ規約なんです。
「A君、理由を言ひ給へ。」
「この前、お畫の時間にお湯を配ってゐたら、仁吉が横から足を出して、ころばさうとしました。」
「希望は?」
「拳固です。」
「よろしい、一つだけやり給へ。」
二番日のBが指命されました。
「相手は誰れだね?」
「仁吉です。」
三番目になりました。
「相手は誰れだね?」
「仁吉です。」
四人目です。
「相手は?」
「仁吉です。」
(2)
理料の時間に――
「これは珍しい石だ。この邊にはちょっとみつからないものだ。君等も色々の石を集めて標本を拵へたまへ。」
先生は、子供の蒐集整理癖を決して惡いものではないと思ひました。
然し、翌日です。
「仁吉、お前は今迄何處へ行ってゐたんだ? お辨當を持ってゐるから、家は朝出たのだらう。」
學校のひけ時少し前、ひょっくり顏を出した仁吉に、先生はせき込まずにはゐられなかったのでした。
「先生、僕――」
そして仁吉は、肩から鞄をはづして中をあけて見せました。
石、石、石………
(3)
「おい僕は強いんだぞ。」
學校よりの歸途、仁吉は連れ立つてゐた仲間に肩を聳かせてみせます。
「何だ?」
「見てろよ。」
仁吉は大通のまん中へ威張って出て行きます。
自動車が駛って來ました。運轉手は眼の前に急に立ちはだかり、交通巡査のやうに兩手をひろげて「止れ」をしてゐる少年に吃驚しました。
「どうだい、凄いだらう?」
「莫迦、先生に言ってやるぞ……」
少年は顏さへ蒼褪めさせてゐます。
「お前、勇氣がないなあ、やってみろよ、そら自動車が來た來た、電車も來たぞ。僕、今度電車の方にしてみるからね。」
(4)
先生は校長室から出乍ら、眉の間をピクピク痙攣させてゐました。
N校の校長から今抗議があって――仁吉が登校の途中、電車の中で、N校の女生徒の指を扉ではさんで怪我をさせたと言ふのです。
「仁吉。」
先生は拳を握ってゐます。
「お前は今朝、N校の女生徒の指を怪我させたな!』
「………………」
仁吉は先生の見幕にちょっと度膽を抜かれた形です。
「正直に言へ。」
「先生。」
と仁吉は他意なさゝうに徹笑を洩すと、明るい聲で言ひました。
「僕は罪を閉めたんです。だって扉は閉める爲にあるんでせう。たゞそれだけなんですよ、先生……」
(5)
日頃あれ程止めてゐた勝手な喧嘩が校庭の片隅で行はれました。
先生は報告を受けるとその本尊の二人を休憩時間の教員室に呼びました。
一人は體の小さな、至って氣の弱いRと言ふ少年で、一人は仁吉です。
「どうして君達は、自治會を待たないで喧嘩したのだ?」
「だって先生。」
Rはもう、口惜しいさと、先生に對する恐怖で鼻聲です。
「仁吉は妹を泣かせたんです。妹は何もしなかったんです。」
先生は猾さうな仁吉の顏を一瞥し、そして妹の爲に敢て騎士の役を買ったRを眺めました。
「さうか、よろしい、ぢゃ、こゝでもう一度喧嘩をやれ、先生がよしって言ふ迄だぞ。」
教員室の先生たちは、新聞を置いて、皆此方を眺めました。
牀の上には喧嘩の再演が始まりました。
Rは必死です。
仁吉はたうとうやっつけられて了ひました。
「もうよろしい。」
先生がRを引き離しました。
「仁古、お前は組一番の弱虫だぞ。もう喧嘩なんかする資格はないぞ。いゝか自分の力が分ったな?」
「先生、僕、喧嘩します。」
仁古はほこりを拂ひ乍ら朗かに反對します。
「僕、もっと強くなりたいんです。」
(6)
違足です。
長々と並んだ後方から、口傳への傳令が先頭の先生の所に達せられます。
「仁吉が列を亂して仕方がありません。」
「仁吉!」
と先生が大聲で呼びます。
「先生のすぐうしろに來い!」
仁吉は先頭から二番目になりました。
「大きい奴があんな前にゐらあ……」
道の子供が――多分仁吉を知ってゐるんでせうが、ひやかしますと、仁吉は急に威張ってやりかへします。
「莫迦! おれは先生の次にえらいんだぞ!」
(7)
先生の受持級が變る事になりました。學期始めの更迭です。生徒はみんな泣きました。先生も袂別の言葉を遉に感動なしには言へませんでした。校長先生が新しい先生を連れてやって來ました。ひとくさりの紹介が濟みました。
と、手を擧げたのが仁吉でした。
「何だね?」
「どうしても先生は變らなければならないのですか?」
「さうだ。」稜長先生は事務的に應へました。
仁吉は絶望したやうにどしんと椅子に腰を卸しました。
校長先生は用事を濟ますと数室から出て行かうとしました。と、再ぴ仁吉に呼び止められました。
「何だね?」
「先生を變へないで下さい。御願ひです。」
「さう言ふ譯にはいかん。」
校長先生はうるささうに應へました。仁吉は眞赤になりました。憤懣が日頃になく彼を昴奮させました。
彼は閉った扉を見ると、喧嘩を挑みかけるやうに手を振り上げて叫びました。
「校長先生の莫迦ぁ!」
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創作小説「若い情熱」
「新天地」 1935.04. (昭和10年4月号) より
私もこの問題には頭を惱ましてゐた。と言ってどうする事も出來ないでゐたのだ。
姪の美生子が高等女學校を卒業する年に家庭の都合でどうしても東京に行かなければならない――一家と共にD市を引揚げなければならないと言ふ事に就て私は美生子とその戀人の島から特に膝を近くした相談を受けた。要するに別れたくないと言ふのだ。
けれど島が學生であってみればそれはどうにもならない事ではないか。島が美生子を妻として養ふ能力のないのにどう言ふ理由で美生子を家庭から引きはなして市に止めて置くと言ふのか。
若い青年男女の俛首た姿を眺めながら私は當惑の吐息を洩すより仕方がなかった。
君の氣持は分るよ。三年も美生子と別れて暮すのはどんなに苦痛かって事は。私はむやみに吸ひさしを灰皿につぶしながら、と言って僕だって二人に先の見えすいた駈け落ちをすすめる事は出來ないぢゃないか。美生子の氣まり惡るげな顏に較べて島は蒼く昂奮した顏を痙攣させてゐた。
結婚を前提として美生さんを大連に置く、例へば向野さんのお宅にでも預けると言った風な事は出來ないものでせうか。
それあ君の勝手な考だ。僕自身は兎に角として常識的に言って親がそんな事を承知するものか。
向野氏と言ふのは私たちにとっても親戚にあたる或る會社の幹部だった。そこに美生子を預けると言ふ事は不可能でないにしてもそれが島の思ってゐるやうな理由からならば決して出來る相談ではない筈だ。
僕は美生さんと別れて暮す日の事を思ふと三年先の事なぞ考へる餘裕もない程胸が詰るんです。
普通ならば、精神さへ結びあってゐたら三年が五年でもと言ひきかせる所であるが、私にしてみてもそんなありふれたお説教はしたくなかった。若い人たちの一途な戀心と言ふものは島の卒直な言葉の通りであらう。或ひは三年待てる戀があるとしたならばそれは未熟な果實にも比せられるものではなからうか。
兎に角向野さんにも會ってみていゝよ。又お小母さんの内意を遠廻しに探ってみてもいゝ、僕も努力はしてみるから。
夕陽の翳る頃になって私はやっとその位な事を言った。美生子は私の前に來た時に坐ったなりずっと俯向かせてゐた顏を初めてあげると、小さく微笑んで、たうとうこの日は何も言はず席を立って行った。
島は角帽を握る手も顫へる程感情を苛立たせ美生子を伴って歸って行った。
向野氏の説は世間なみの域を脱しないのは勿論だった。たゞ氏の教養ある紳士としての理解は、島が學校を卒業したらきっと美生子を妻にさすやう取計ってやるからとの言葉だった。
私は若い者の戀愛を決して否定しない向野氏を尊敬し、さうした親に將來を託してゐる氏の子供たちの幸福を想像したが美生子の家の敷居を跨ぐと、今度は別の常識に住む親の言葉を聞かなければならなかった。
本當から言へば美生子の親は私の姉である筈である。けれど姉は昔死んだ。そして美生子は父の再婚者を母としなければならぬ運命を擔ってゐたのだった。
私がお小母さんと呼ぶ美生子の母は外套を脱ぐ私を捕へると、すぐ顏を曇らせ、神經質な面持を寄せて、
島さんと美生子がこの頃こそこそと外で會ってゐるらしいんですよ。昨日もね美生子が門の外まで歸って來ていつ迄も家に入って來ないのでどうしたのかと裏から廻って行ってみると闇の中であなた。
ヒステリー質に聲を顫はせ、明かに怒氣を堪へて言棄を切った。
私たちは客間に行って改めて今の問題に觸れたが、美生子の母はいやらしいものにでも視線を落すやうに、
あんな不眞面目な男だとは私思ってゐませんでしたよ。美生子も誘惑されてゐるらしいのです。早く内地に連れて歸らなければどんな事になるかわかりはしません。本當にこんな時、高石がゐてくれたらと思ひます。
美生子の母はその前年の六月思はぬ病で急死した夫を怨むやうに愚痴た。
私は味氣なく紅茶を啜り窓の外の冬枯れた空を眺めるより仕方はなかった。
島と美生子とは美生子の兄を仲介として知り合った仲だった。私にとっては甥である美生子の兄は、島とは中學での級友だったのだ。
私は必ずしも島と美生子が結婚しなければならないとは思ってゐなかったが、兩人の意志がそれであるならば反對する理由も持ち合はさなかった。寧ろ自分達の戀愛の理解者として相談をして來てくれる二人に對しては、理解者らしい態度をとってやりたい氣もしてゐたし、又一途に戀愛を罪惡視し否定しようとする世間の常識に對しては殊更にも反對してやらうと言ふ日頃の氣持も手傳って、此の戀愛には加擔する決心が十分あったのだ。
美生子の兄は東京の大学に行ってゐる爲めに此の問題に就ては直接口はきかない位置にゐるらしかったが、妹の便りで經緯は十分承知してゐる筈だった。彼とても私同様別に反對の意志も表示してゐないのだから兩人の戀愛には兄としての理解を與へてゐたのであったらう。
然し高石未亡人一家のD市引揚げも日が迫り戀愛も未解決の儘推移した。私は重なる島の相談に當感したが、結局は誰の言葉より高石未亡人の言葉が強いものであるのはやむを得なかった。
島さんと美生子の問題は私は考へてゐませんのよ。まだ美生子は十九ですものね、それに島さんは學生の身分でそんな事を言ひ出す資格はないと思ひますわ。
そして遂に兩人の別れる日が來てしまった。
僕も話すだけの事は話したのだ。假令君が學校を卒業する頃になってもお小母さんの心がどうなるか分らないが然しその時は自ら問題は別だ。君に經濟的能力が附加されたなら道は十分拓かれる筈だからね。
寸暇をぬすんで訪れた兩人に私は言った。島は悲みと失望に複雜な表情を湛へ、美生子は割に落着いた諦めの顏色をしてゐた。
私は玄關まで兩人を見送ったが兩人の後姿に何か微な不安を誘はれ最後の瞬間につまらぬ間違ひをしでかさないやうにと祈る氣持にさせられた。
恁うして三年は過ぎ島は大學を卒業し醫學士となった。私はある日突然美生子の兄がはるばる滿洲に渡って來ると言ふ通知を受けて驚いたが、いよいよ久振りに遇って話をしてみる段になると、甥は妹の一身上に就き島に會ふ爲めわざわぎ來たのだと言ふのに更に驚かされた。
それ迄私と島とは同じ滿洲のそれも同じH市に住む境遇になってゐたので度々顏を會はせてゐた。だから自然と昔の問題にも觸れる機會はあったのだが何故か近頃は疎遠になってこの半年はついぞ島から訪問を受ける事はなかった。甥の言葉によると手紙では到底要領を得ないし、それに島はこの頃勤務の都合でT地方に行ってゐる。叔父さんに頼んでもいい譯だったがそれよりも自分がT地方に押しかけて行かうかと思ってやって來たのだと言った。
では話はうまく行かないのかと尋ねると、甥は苦笑しておふくろは島と美生子の戀愛は許して結婚させてもいい――と言ふより早く結婚させたい意志でゐると言ふのだった。
變ったものだね、以前はたいへんな見幕だったのに。
私が過去を凝視るやうに言ふと、甥は東京から持って來たバットに火をつけて、
美生子も年をとってゆくし、それに嫁入口も考へてゐたやうな工合にはいかないものですからねえ。
然し甥が持って來た問題は恁うした高石家の勝手な妥協に對して、今は島の方がすっかり態度を變へてしまってゐる事だった。
一年間はまだよかった。然し二年目は既に明らかに情熱の褪色を想像させた。そして三年を經過した現在は當の美生子の手紙に對してすら返信一枚も送らない冷淡さを示してゐると言ふのだった。
結婚の意志はもう喪失させてゐるのだね。
私が人の心の移りかはりと言ふものに白々とした氣持を感じ乍ら言ふと、
或ひはさうかも知れません。然し僕は兎に角はるばる訪ねて來ても會はない譯にはいかないのです。
何故、無意味ぢゃないのかね。
いや,それは男にとってはでせう。けれど女にとっては――三年前、D市で別れた時と同じ情熱を抱いてゐるのですから。
私ははっと胸を衝かれ、腦のどこかがズキンと痛んだ氣がした。私はパイプに目を落しそれに刻みをつめ乍ら、
無理に結婚させる事はないけれど考へものだよ。
決してそんな。と甥は強く否定し、ただ僕が來たのは、美生子の兄として島に一語言ひたいだけなんです。Yes か no かどちらなんだってね。
紳士の言葉と言ふものはさうしたものなのであらう。そしてそれは十分に役を果す重量を持ってゐるに違ひなかった。
なかなか會ほうとはしない島とやうやく會ふ事になった場所は私の家だった。T地方からやむを得ず歸って來た島は久振りに私の家の敷居を跨ぎ奥の部屋に待ってゐた甥と面會した。氣まづい會食は常に座を白けさせたがたうとう私の發言で話を問題にふれさす事にした。
實はその事に就ても僕には考へがあるんです。これは高石と二人きりで話し合った方が話し易いと思ふんですけれど。
島は視線を上げようとはせすに言った。
よからう。私は即座に應へた。遠慮なく二人で話し合ふのがいいだらう。然し言って置くが萬一遠慮しあって言ひ度い話を腹の中に殘すやうな事があったら後の爲めぢゃないよ。
ビールに醉った二人は、けれど生醉ひの面持ちで出て行った。私は遠い東京の空を想ひ一人の姪の爲めにはるかな挽歌を奏でなければならない氣持を感じてゐた。
島との話はきっぱりかたをつけました。
それから又半年ばかりたって私は東京の甥から便りを受取った。
あの夜、島は今少し返事とするのを猶餘して欲いと言ったのださうだったが、甥にしてみれば妹への同情もあり萬一と言ふ事を考へて承知したらしいのだった。
然し今となっては落着くべき所に落ちつくより他はなくなったのだ。
誰が惡いと言ふのでもなからう――境遇がこのやうに珠をころがしてゆく、たゞ私としては姪の受けた痍が私の考へてゐる程深手でない事を祈りたいだけの事だった。
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「藝術運動の提唱」
「大連新聞」 1929.06.04〜08 (昭和4年6月4日〜8日) より
大連はインテリゲンップ(※ママ)の都市である。特殊な植民地であり、滿鐵王国を背景に持つ故である。この知識的教養的な市民を有する都會は、内地に於ても主要都市を除いて他に類はあるまい。
然し常に私が不思議に思ふことは、斯くの如き標準の高き都會が藝術趣味には比較的無頓着な態度を持してゐる事である。一般趣味から言ふと決してさうではない。曰く運動競技……大連はカレッヂチームに比して決して遜色のない野球チームを有してゐる。市民は競技に對して立派な教養と識見を有してゐる。
野球のみならず蹴球、水泳、陸上競技、武道、等皆一流の實力を有し、大連の體面を堂々と維持してゐる。しかるにこれに比して藝術趣味の方面はどのやうな程度であらうか? 甚だ不活發な状態である事はいなめないのである。私は大連に常に在住する者ではないが、大連を訪れる毎にこれをひどく遺憾に感ずる者である。
藝術趣味なぞは自分達の生活には不必要であると市民一般が思惟してゐるのかも知れない、然しそれならば哀れである。彼は自分の心の窓を開かうとは思はないのである。開かうとはしない不幸さえ感じないのである。今、私が藝術趣味と云ふのは廣義に云って情操方面のさまざまな趣味、狹義に云へば先づ手近い所、音樂、美術、文學、其他として置いていゝ。勿論、運動の盛んな事は色々の意味をもってよろこぶべき現象であるに違ひない。
私はそれに對して一言の反對的言辭をさしはさむ者ではない。然し藝術方面の趣味なぞどうでもいゝとは思ってもらひたくないのである。運動は體育にそして勇氣涵養に男性的エンジョイメントに其他に必要である。だが藝術的趣味は人物を作る上に於て體育と同等に重要である筈である。少くとも田夫野漢の集合ではない内地の市邑に比して誇るべき高踏的雰圍氣を持ってゐる大連市民である。藝術的趣味なぞは……とは言はさない。運動に熱狂するのもいゝ。然し又一方には藝術をしみじみたしなむ趣味も旺盛であっていゝではないか!
私は大連市民が、一途運動に熟狂し、そして情操的に甚だしく乾燥してゐる現状を、決していい現象だとは思はない。そして一方又それは市民の耻辱だとも思ってゐる。
或ひはこの難詰に對して、大連市民は、當市は内地のやうに藝術的に惠まれない位置にあるから、從ってその方面では思ふやうにならず、故に手取速く運動競技の方に、慰安と興味とを求めてゆくのだ――と、反駁するかも知れない。
私はそれに一理を認め得る。然し、それは市民の眼がぐるりと回轉さへすれば、あながちその場所の不自由なぞは問題でなくなりはせぬかと思ふ。運動にそれだけ熱心ならば、現在フランスからでさへ選手を呼んで競技を闘はし得るではないか。
即ち市民がもし藝術を求める心さえ熾烈ならば、矢張りフランスから藝術家を呼び寄せる事も出來る筈である。勿論私はそんな大袈裟な事を要求するのではなく、ほんの比喩に言ふのにすぎないが。
私は思ふ。市民さへ先づ意識的に藝術趣味の方面に心を働かせ始めたら、次第に場所の不自由なぞは薄らいでくるに相違ない。そして又そこには色々の獨創藝術が生れてくるに違ないし、斯くしてやがて大連市民は藝術的趣味の方面でも、内地の一流都市に比しても遜色ないものを持つに到るであらうと。或はさう簡單にはゆかないかも知れない。然し目標には相當近づき得るであらう。私はそれを望むだけで充分である。
具體例に就て云ふと、藝術趣味と云っても、先づ音樂會なぞは割に理解され普及されてゐるやうである。音樂家がその旅行の途次演奏會を開く便宜があり、又日本から屡々行脚してもくる。一般市民と云はれなくても、一部の市民はそれを熱心に期待し傾聴する。バンドの演奏なぞがあっても可成りの人氣を呼ぶ。これなぞは村岡樂童氏の音樂普及が預かって力あるものであらう。
又私はよく知らないが滿鐵音樂會と云ふのもあるらしい。これなぞも實によろこばしい存在であると思ふ。だがまだ滿足すべき程度迄には距離がある。もっともっと音樂なぞ一般に愛好されてもいゝ筈である。
私はこれに就いて、アマツアの人達の手による音樂趣味勃興運動を要求したいのである。形式としてはレコードコンサート、音樂會其他種々の思ひつきがあるだらうと思ふ。然し又このアマツアの活動と倶に、滿鐵なぞの金のある所が少しは恁ふした方面にも配慮してくれるといいと思ふ。以前行はれてゐた電氣遊園音樂堂に於ける夏期納涼演奏など復活させてもらひたいものであるし、其他出來るだけ機會を作って、音樂會や演奏やの便宜を取計ってもらひたいのである。
又下っては映畫常設館などでも、通俗的でいゝから休憩音樂をやってくれるといゝ。そんな所からも効果が現はれて來るかも知れない。其他大連には音樂學校があるのだし、ラヂオによる音樂普及も可能だし、決して道具立てに不足はなささうである。要はただ運動者側の熱心と犠牲的努力の精神、一般民衆側のそれに對する自覺的熱意とがあれば足りるのではあるまいか。
次に美術方面ではどうであらう? 美術趣味と言っても分野は廣くなるが假りにその一つの發露である繪畫製作趣味を考へて見る。然しこの方面には近頃相當力強い運動が既に始められてゐる事を發見する。私は嬉びに耐えない。私は無條件で滿洲美術家協會の活躍に信頼する。將來この團體が次第に赭土の滿洲の野を美しい色彩で塗りあげてゆくであらう事を期待する。
然し、これとても一般民衆の自覺を背景としなければ、力弱く影薄きものとならざるを得ない。私は滿洲美術家協會の美術運動と共に、一般民衆側にもアクテブな美術愛好心を促し起さしめなければならぬと思ふ。
東京に於ての感想を、そのまゝ大連にあてはめるのは無理かも知れないが、教養の點から言って敢て大連人が東京人に劣らぬ故を以て言へば、近頃上野の繪畫展覧會を觀るに、その鑑賞者數――數は大都會だから無理もないが――こそして質のいかに多く廣き事であらう。それこそ老若男女貴賤を問はず、輕蔑的言辭を弄するのではないが、最もそのやうな所に縁遠い筈の勞働者諸君の姿まで私は數多く發見するのである。
茲數年の東京人の進展、それは目醒ましいものがある。解る解らないと言ふやうな問題は別として、私は浮世繪展で寫樂の芝居繪の前に惚然として佇んで離れぬパップの女學生を、そして佛蘭西美術展の油繪の前に、桃割姿の小娘が瞳を見張ってゐるのも、私は嬉しい氣持で眺めたのである。大連の市民諸君よ! たまには展覧會を期待するやうな氣持になってもらひたいのである。
次に文學。
これは落第であっても仕方はない。眞の文學の成立は大連なぞでは不可能である。たゞ私は文學趣味をもっと一般市民の中に旺盛にさせたいと思ふ。私は全集物、即ち圓本の讃美者であるが、このお蔭で、無味乾燥な諸君の本棚(失礼!)にも、いささか古今東西の珠玉が飾られたものと思ふ。この機會にもう少し文學愛好趣味を涵養してもらひたい。文學は決してその日の生活に不必要なものではないのである。
人間の生活を知る人生を知ると言ふ意味に於て、なくてはならぬものである。「文學は人生の地理歴史である」と、菊池寛氏は言ってゐる。その通りであらう。人生の旅行をするのに地理歴史の智識なくしてゆく不幸を思ってみるがいい。そんな餘裕はないと言ふ人はきっと無精者に違ひないのだ。そしてそんな人に限って荒々しい生活をしてゐる人である。
勿論、私は猫も杓子もやれバルザックを讀まなければならぬのドストエフスキイを讀まなければならぬの、と、言ふのではない。通俗文學で結構である。夕食後寝ころんで讀む、美男美女物語でも、劍豪物語でもいゝ。たゞさうして讀書に親しむ機會を出來るだけ作ってくれるといゝのである。私は諸君が、ファミリアな氣持で書籍を手にし續けでゆくうちに、次第にその讀書標準が高められてゆく事を信ずる。
即ち次第に今迄手にしてゐるやうなものでは滿されなくなって、もっとなにか實のあるものが慾しいやうな氣持になってくる。そうしたら既にその人の讀書標準は高くなって來たのである。私は恁ふした所から私の希望が實現されてゆきはせぬかと思ふ。
さうした隆盛な一般讀書熱の勃興を期待したいと共に、私はやはりアマツア文學者の具體的活躍も望ましく思ふ。詩でも小説でも戯曲でも、素人の手によってどしどし生れ出るといい。然しそれはなにも東京の文壇を目標とする必要も、又それに進出する事を目的とする必要もない。滿洲の文藝は素人文學でかまはない。滿洲人(大連人〉の爲めの生活の歌、そして滿洲人がその慰めのために歌ひ出す歌であればいい。
私はこれに對しては一般民衆の同人雜誌(滿洲文學の爲めの)への理解、そして各種新聞雜誌類の文藝欄の活躍を希望したい。其他、音樂會なぞと同様に、機會ある毎に著名文學者の講演なぞを開くやう、金のある新聞社や滿鐵にお願ひしたいのである。
最後にひとつ、劇に就て所感を述べたい。劇は文學よりずっと民衆的である。文學は讀者個人個人に話しかけるのであるが、劇は一時に數百人に叫びかけるのである。それだけその民衆的趣味に迎合するものである。故に文學にたしなめない人でも、劇になら親めやうと思ふ。この意味に於て劇の發達は民衆の生活に大きな背景となるものである。私は先づ大連の人達に劇の趣味を持たせたい。そして劇の醍醐味を味はせたい。然し大連は劇に就いてはまだ幼年時代の理解力しか持ってゐないらしい。
故に先づ劇を少しく勉強するつもりで鑑賞してもらひたい。大連は場所の關係からいい劇を見る機會がないのは氣の毒であるが、これも市民の要求如何によっては、さして考へる程むつかしい事ではないと思ふ。先年東京の築地小劇場の土方氏が滿洲に視察に來て、そしてまだ築地小劇場を巡業させて來るには早い、とあきらめて歸ったさうである。これなぞ大連市民の耻辱ではなからうか? 然し左團次勘彌の來滿があれ程のセンセーションを起した事を思ふと、大連人が全々演劇なぞに興味を抱いてゐないのでもないやうである。
尤もあの時なぞは千兩役者と云ふ見世物を見る心理が働いてゐた事はいなまれないが、然しいづれもその結果は期待を裏切られず劇そのものにも感激を與へられたやうである。ただ私は大連市民が劇に無理解無頓着なのは劇に接しないからないのであらうと思ふ。數を見てゐる中には必ず好きになる、又解ってもくると思ふ。故に少しでも市民自身からそれをアクテブに要求するやうにしたら必ず市民はよき劇を求める事が出來るであらうと考へる。
市民は餘りに旅廻りのぼろ劇團にわざわひされてゐるやうである。劇とはあんなものかと考へる人があったら悲惨である。澤田正二郎氏があんな事にならずもし來滿してその得意の大衆劇を華々しく見せてくれたら、さぞかし大連の劇ファンもすっかり舊套を脱する事が出來たであらうのにと私は殘念に思ふ。
それにしても一體このやうにモダンな東洋にまれな立派な市街を持つ大連市が、その劇場の代表として、大連劇場は兎も角としても歌舞伎座の如きものを鼻先にぶらさげてゐるのは悲哀である。勿論文明的市民として耻辱である。私はどうして今少しよき劇場を市民が熱望しないのかと不審に耐えない。シネマハウスでも同様である。私は時々お人よしの市民のために自分の懐を肥やす事より他意ない興行者に對して義憤を感ぜずにはゐられないのである。
話は外れたが、私は又この劇に就いても、同じくアマツアの劇趣味運動を要望したいのである。これとても私はさう大した大仕事だとは考へない。する方の熱意と觀る方の熱意と合致したら、劇の試演なぞさして困難事ではないと思ふ。私はアメリカに於ける小劇場運動史を讀んで、そのほんの小さな町にも可愛い素人劇團が存在し、そして小規模の組織の下に十分な演劇効果を擧げてゐる實状を知って感心した。
私はいづれ稿を改めて小劇場問題に就てはもっとくはしく論じてみたいと思ってゐるが、要するに大連ぐらいの都市ならば、相當な素人劇團が存在していい筈と思ふのである。勿論始めは下手でもいい、眞面目な運動でさへあれば必ず目的にはそむかないものと思ふ。學生、會社員、商人、男、女すべて趣味のある人達が集って恁うした劇運動を計畫してくれるといゝ。
尤も羊頭を掲げて狗肉を賣るの類、乃至でたらめの巫山戯半分なものは眞平で、さうしたものは性質が性質だけに、かへって社會風教上有害である。私はなんでもいいから出鱈目芝居をしてくれと言ふのではない。兎に角劇なら劇を相當な後援者の力を借り、そして適當な指導者の下に眞面目に研究してほしいのである。
以上、長々といろいろ藝術趣味運動に就て愚見を述べたが、もしこれらの事が實行されでもしたら私はどんなに大連市民の爲めによろこばしい事か知れないと思ふ。ただ斯ふした運動は、民衆が蹤いてゆけないのでは仕方がない。そこを考へて、無暗に高尚がった先走りをするやうな事は避けなければならぬ。それと共に民衆の支持なくしては斯うした運動は三文の價値もなくなるのだから、願はくば賢明な市民諸君の自覺より出發した理解と熱意の援助をわづらはしたいと思ふのである。
運動! 運動! と叫ぶ爲政者の聲を、或時は私は憎しみの心を以て聞く。運動結構、しかし人間は矢張り情の世界をも求める。全く情操的方面に封ぜられて了ってゐる人たちは、情感のはけ口をどの方面にさしむけるか? 滿洲人(大連人)特に若い人達が低級な歡樂に荒んでゐるのはこゝに原因してる所が多いと言っていゝのではなからうか。色々言ひ足りない所もあったが、私はこれでこの稿の筆を擱く事にする。最後に聲を大きくして叫びたい。大連市民をして情操方面にも生かしめよ! 市民よ自覺せよ! 藝術運動よ力強く生れ出よ!
注)読点を句点に変更したところがあります。段落末の句点は追加しています。
注)漢字は統一したところがあります。
「プロ藝術に就て―ほんの偶然的に―」
「満洲日報」 1929.07.25、08.01 (昭和4年7月25日、8月1日) より
今夜も到頭眠られない。ヂャールなんていくら飲んだって駄目だ。今打ったのは四時か? もうその位になるだらう。戸外が心持ち白んで來たやうだ。啓明を眠らせない重い心で――眼で見守ってゐるのは心寂しいものだ。いっその事起き上って、夜の明ける迄、何か書いて見ようか(此れを前置きに代へすぐ本題に移る)
プロ藝術――彼は確に現代兒である。彼の持つ色彩は血の氣の多い若い者に多少でも魅力的でない譯はない。彼は少なくとも黴の生えた舊套藝術を一蹴した溌溂たる生氣を持ち、炎々として戰闘的な情熱を持ってゐる。これが新しきを喜び、反抗的痛快さを喜ぶ現代のプチ・インテリゲンツァの青年に受けない筈はない。それに又恁うした流行性以上に、彼は十分に智的な現代青年によって支持され得べき存在理由を持ってゐる、即ち啓蒙期の現代にスイタブルな存在理由を持ってゐるのである。
僕は恁うしたプロ藝術に對して假令僕が可成りのプチ・ブル根性の保持者であり、そして藝術的には大正時代的な貴族主義者であり潔癖家であるにしても、謳歌する心こそなけれ、決して否定する心は持ってゐない。或ひは相當の好意を常に感じてゐると言ってさへいいのである。
が、然し、僕は常に彼に對して恁うした疑ひを抱いてゐる。
「彼は正して行進を爲しつゝあるのだらうか?」
――即ち、僕がプロ藝術に抱く概念は(或ひは今言った現代青年に依って支持され得べき存在理由と言ふ言葉の意味は)一言で言へば、藝術をサロンの「愛玩品」より解放し、廣く人類社會の「實用品」にせよ、と言ふ意味なのであるが(この邊を後にでも詳しく述べたい)然し、現在猖獗を極めてゐるプロ藝術は、どうも藝術をアヂ・プロの「手段」とし、藝術本然の姿を滅却させがちなのではなからうかと思ふのである。
僕は思ふ。藝術はあく迄「藝術」でなければならない。と、決してそれは人世の眞のリフレクトする鏡である以上、歪められた贋相を示す宣傳ポスターであっては「絶對に」ならない、と。
どうも、現在のプロ派は極端に言へば藝術を「爆弾」にしてゐるとさへ言へなからうか? 即ちそれで既成反動機構を嫌でも爆破せしめんと努力してゐるのである(それでは彼等の藝術はスローガンと聊かも性質を異にするものでなくなるではないか!)從ってどうしても、と言ふよりも當然彼等の藝術は冷靜正鵠を失し、激越偏執、我田引水の誇張極りない宣傳ポスターとなり、いい氣になってゐる彼等には大滿足でも心ある識者(僕を言ふのではない。)をしては顰蹙せしめるものとなるのである。
僕はつくづく思ふのだが、實際現在のさばってゐるプロ藝術はあまりに批判がなさすぎるやうだ。勞働階級は常に正しく美しく可憐で支配階級は常に不正で醜惡で暴慢である。尤もさうした場面のみを取扱ふ爲めにもよるが、あまりそれでは標本めきすぎて、一般人を正しき批判の彼方には導かない。(寧ろ讀者はそんなものを讀んで反って反動的にそれと對稱した標本を思ひ浮べるかも知れないのだ)
僕の言ふプロ藝術の性能――即ち人生社會の姿を眞實に映し出すと言ふのは、即ち美醜をありのまゝに曝し出し、それを讀者の公平な眼に訴へる、と言ふ事であるのであって、僕はそこに眞の意義が認められるのではないだらうかと思ふ(此の例にゴルズワーヂイの劇作態度を擧げて置きたい)一體藝術なぞと言ふものは年數的に永い生命を持つものこそ尊く、その時代さえ通過すれば存在價値がなくなる(スローガンの如く)やうなものであっていゝ筈のものではないのである。
――前回の拙稿はあちらこちらに反響を起したやうである。然しまだ僕は全部を言って了ってゐるのではない。讀者諸氏は改めて此の稿を前回に續けて御一讀して頂き度い。――
で、僕は、あく迄藝術の價値はその世に生きる年數に依って決定されると信じてゐる、翻へっては眞の藝術と言ふものはさう言ふものでなくてはならないと信じてゐるのである。然し、此れは決してその藝術の生れた時代相と相關聯しないと言ふ意味には導かない。否、僕は「藝術は時代の花」だと思ってゐるのである。
然し、「時代」とは何ぞや? 僕は社會と言ふ河底の上を滾々と又は豪々と流れ去ってゆく、――そしてその色彩温度速度重量なぞで以て種々なる變化を河底に與へてゐる――河の水の如きものだと解してゐる。だから例へば、河の水がAの色彩でBの温度でCの速度でDの重量で流れ、そして河底がEの状態にある時にその水面に開く花はABCDE的な形式と内容を持ったものであるべき事は當然だと思ってゐる。
然しその花が根を卸してゐる筈の河底の壌土には(假令その表面は如何様に變化してゐやうと)永劫を通じて決して變らないサムシングが含まれてゐなければならぬと僕は思ふ。僕はそれを假りに、人間の本能を基礎として築かれた一種の有機的構成――「人間性」とでも稱して置かうか。即ち僕は眞の藝術と言ふ花は、假令どのやうな形式と内容を持ったものであっても、それは必ず此の人間性と言ふものに深く深く根を食ひ込ませてゐなければならぬと考へるのである。
そして新らしき波には古風な花となっても(少くとも永久に不變なそして常に新らしかるべき人間性と言ふ河底の壌土に根を据えてゐる爲めに)時代は如何に移り變って行かうと、いつ迄も存在して行くものであって決して時代の流れと共に流れ去って了ふやうなものであるべきではないと考へるのである(眞に好き藝術は如何なる時代にも適用さるべきだ)所で現在の陣笠的プロ藝術派の藝術はどうか? 彼等は藝術にダイナマイト代りを務めさせんとしてゐる。爆發してそれ切り煙になって了ふ藝術よ! 哀れなる短命藝術よ!
然し僕は決して現在の社會をいゝものと思ってゐる者ではないのである。プロレタリアートの抗爭がどんなに切實的で、合理的なものであるか僕には解り過ぎる位解ってゐる。だが、藝術は――。
僕は此處に、僕を滿足さすべきプロ藝術の見本として(そして、前に言った「藝術を廣く人類社會の實用品にせよ」と言ふ言葉を説明する爲めに)例を文學に取って、ゴルズワーヂイとトルストイの創作に就て述べたく思ってゐる。然しそれは餘りに長くなりさうで又次回迄引張らなければならなくなる。僕はその優長さを避けて、此の部分はすぐ後の大連新聞の日曜文藝欄に書く事にしたい(それは又前回の拙稿に對して好意ある反駁文を大連新聞紙上にものせられてゐる伊田音彦氏への禮譲的な應酬ともなるであらう)。
兎に角僕は、此處では、藝術である事が第一、そしてそれに依る種々なる目的意識上の現實的効果は、その副産物(副産物と言って決して輕く見るのではない)であるべきだと言ふ事だけを、書き添へて置く事にする。
最後に筆をかへして一言したい事に、藝術に於けるヴァラエティと言ふ事がある。僕はそれを認めるのである。一體藝術分野に於けるカテゴリィを異にした各種藝術の成立は決して不審ではない筈である。僕はサヴヰエートに認められないからと言ってパリの藝術を否定し、パリに容れられないからと言ってサヴヰエートの藝術を默殺する事は餘りに偏狹な餘りに藝術の本質を辨へない考へ方だと思ふ。根さへ「藝術」ならば、世界のどこの土地にどんな環境の下に花咲かうと、それはやはり藝術でない譯はない。僕は唯プロ藝術の正しい行進を望んでゐる者に過ぎないのである。
言ひ足りないが、長くなるからこの邊で筆を結ぶ。孰れ又機會を見て、現在のプロ藝術とそれを支持する人種に就て、日頃抱いてゐる疑念を述べてみたく思ってゐる。(完)
注)明かな誤字誤植は訂正しています。句読点は補ったところがあります。
「よろこび―金丸君に―」
「満洲日報」 1929.08.08 (昭和4年8月8日) より
三月末日の午後、春寒の火の氣のない一室で、君と僕は、今最後の推稿を終ったばかりだと言ふ君の原稿「滿蒙の地より母國の友へ送るの書」を、互に落ちつけない氣持で綴じ合はせてゐた。もう時間も晩くなったので一刻も早く出さなければと僕たちは可成り急いでゐたのだった。その時、僕は冗談でなしに眞面目に恁う考へ、恁う言ったのだった。
「君、これァ確に當選するぜ。どうもそんな豫感がするよ」
勿論、僕は、原稿が、出來あがる毎に一回目二回目と讀んで聞かせてもらってゐて、實の所全く敬服し感心しちゃってゐた。僕は滿蒙事情には全く暗い人間なので、丁度内地にゐるその「手紙」の讀み手の立場に適してゐた。さう言ふ僕が確實にその「手紙」に魅了され、そこに書き込まれた種々の滿蒙事情に耳を傾けさせられたのだから、もうそれだけで、この原稿は或程度迄の當選のポシビリティはあったのだ。然し、それが僕には、それ以外になんだか豫感的に成功が考へられてならなかったのである。
果然、その結果は僕の豫感を裏切らなかったのだった。君の「手紙」は錚々たる人達の原稿をしりへにして一等第一席の榮譽をかち得た。假令締切の當時から確實視してゐたものであっても、この全き事責が、常に君の側近者であり君の努力の傍觀者であった僕に、素晴らしいよるこびをもたらせない筈はなかった。僕は君と同じ程度に欣喜したのだった。
だが、今になって僕は考へる。僕の豫感は、或ひは全々根拠なく泛び上ったのではなく、その實何かに倚り所があったのではなからうか?
さうだ、僕は今、君のあの強い信念「――蒔いただけの種に對する花は必らず咲かなければならぬ」と言ふ日常の言葉を思ひ出す。實際これこそ、僕に君の成功の確實を想はせたものかも知れないのだ。君はよく「俺は屹度當選すると思ふ」と豪語した。僕はそれに對して躊躇なしに「俺もさう思ふ」と應へてゐた。然し、この言葉の裏には自惚や空の想勝算でなしに、どれだけ血のにじむやうな勞苦が、そして不撓な熱意が、その仕事に注がれた事實を、君が、そして僕が、見詰めてゐた事か!
僕はつくづく思ふ「光明は常に彼岸にある」と。平凡ながら、今度の君の成功で僕は切實にこれを感じたのである。君も、今後、益々、君の信念を堅くし、そして生活職場を勇敢に行進してゆく事が出來るだらう。今度のよろこびは君の努力と信念の將來への門出のそれだ。君はまだ廿六歳の弱冠、前途は洋々としてゐる。ひとつ今度のよろこびを將來に迄、何等かの形で生かして行ってもらひたいものと思ふ。最後に友達一同に代ってこゝで君の萬歳を叫んで置く。
注)明かな誤字誤植は訂正しています。句読点は補ったところがあります。
注)金丸精哉 (1904 - 1988?) 氏は『満洲雑暦』『満洲の四季』『満洲歳時記』などの著書があるらしいが詳細不明(未調査)。大庭氏の親友だったらしい。
「『蟹工船』讀後に」
「満洲日報」 1929.08.15 (昭和4年8月15日) より
最近評判の、そして「日本プロレタリア文學の最大傑作として新興文壇を震撼せしめた」と稱せられてゐる小林多喜二氏作の「蟹工船」を、誠に迂闊かも知れないが僕は先日始めて一讀する機會を得た。勿論「其の一」だけで、後半は北村、高田氏作「北緯五十度以北」のストオリイで大體のスケールを伺ひ得たのであるが。で僕はその讀了後に一寸頭に泛んで來た事をペンにしやうと思ひ立ったのである。題目も違ふし、内容も甚だ散文的ではあるが、大きな意味から言って、これも僕の「プロ藝術(文學)觀」の部一を形造るものである。
僕は「蟹工船」を、先づどんな異常な容貌體格をしてゐる作品かと思って讀んだ。即ちプロ文學の最高峰と言ふものは、一體どう言ふものだらうか? と思ったのである。と言ふのは「藝術でない」と斷言出來る事が特質であると言ったやうなプロ文學論を以って、僕の藝術主義的プロ文學觀が曝撃された直後だったから。即ち僕はその駁論によれば、プロ文學の見當がつき兼ねてゐたのだった。
で僕は讀んだ。作に惹かれて一氣に讀了した。然しその結果は完全に僕の期待と異ったものだった。そこには何等の「異常な容貌」もない。奇想天外さもない。勿論泥繪具宣傳ポスターでもなければ粗惡なダイナマイトでもなかった。それは餘りにも僕の考へてゐるプロ文學觀に近い「藝術的作品」だったのである。
「蟹工船」は傑作である。假令プロ派の批評家の「自家宣傳式」の持ち上げが加はってゐやうが、確に収穫の餘りに尠きに過ぎるプロ文藝陣に於ては一般凡庸作家では中々書けさうにない出色の作であるに違ひない。僕はその隙だらけの筆致奔雄過ぎる構成の内に、實に大きい作者の眼、把握の力、描出の腕前、を感じた。
僕はこれを讀みながら幾度か胸の詰るやうな重苦い息をつき、鉛のやうな心を自分の中にも感じていった。此の作は怖ろしい迄に迫眞性のある作である。僕は此の作の材料が珍しい爲に特別重く價價づけられたのだと考へつゝも、然し、全體として決してそんな有利的な立場からばかりでない、その名聲に添ふだけの「作の良さ」を泌々感ぜずにはゐられなかったのである。
「蟹工船」の藝術味は、それが決して「爆彈そのもの」でない所に存在する。即ち、此の一篇の創作は、北海の靄多き蟹工船の上に於て、曇り勝ちな眼鏡のレンズを塵も止めず綺麗に拭き清めて、そしてそこに寫って來た「ありの儘の眞」を、如實に讀者の爲めに描き出したものである。讀者がその餘りな光景に思はず眼を覆ひ度くなるのは、即ち此の點である。
そして又、恁うした作者の立場が「爆彈藝術」では決して存在されない藝術味を生み出し得たのである。即ち、僕が言ふ「唯ありの儘を寫し出す」といふ事が、作品をなにより感銘的にする事であるし、又藝術味を豐にする事でもあるのである。
僕はこの前「藝術である事が一。そしてそれに依る種々なる目的意識上の現實的効果は、その副産物であるべきだ」と言ふ事を書いた。即ち人間と言ふものは頭から叱責されて決して素直に頷く者でない。反って反發する。然し靜かに反省の鏡を與へられ、しんみり考へ込まされたならば、必ず頷くべき事には頷くに違ひないのである。故に「先づ第一に歪みなき鏡を與へよ。そしてその結果を待て」と僕は主張するのである。此の例が「蟹工船」の創作態度に示されてはゐるのだ。
兎に角、僕はプロ文學の最高峰が、決してアヂ、プロの爲めの淺薄なダイナマイトでなかった事で安心もし滿足もした。矢張り藝術であるべき哉と思ったのである。
なほ、自分の説を他から裏書きしてもらふやうで嫌だが、先日の朝日紙上に平林初之輔氏の「文学の功利性」と言ふ一文を發見したから、適宜數行を参考として引用させて頂く事にする。一讀を願ひたい。
「科學者が眞理を探求するのは實用のためではなくて唯眞理のためであり、眞理を發見することの喜びのためであると自ら信じてゐる人が少なくない「我々科學者の活動の目的は眞理の發見である」と――そして重要な事は常に實用功利を念頭において研究してゐる人よりもさういふことを頭から度外視し若くは輕蔑してゐる人の間から、本當に重要な仕事が殘される――文學や藝術に就ても正確にこれと同じ論理があてはまる。
何か社會の役に立てようと意慾して書かれる作品は大概凡庸な、ちっとも社會の役に立たない作品になる場合が多い――どんなに技術的に完全であっても、あまり功利的な内容は藝術と相容れない――功利主義の餘りに直接的な意識的な適用は時を破壊するものである。却って「藝術の爲めの藝術」派の作品にこそ、もっとも廣い意味の功利性が見出される――功利主義は九十九パーセントの場合迄作品の藝術性を害するだけの役にしか立たない(以下略)」
注)明かな誤字誤植は訂正しています。句読点は補ったところがあります。
「藝術家の生活に就いて論ず」
「満洲日報」 1929.09.12,19 (昭和4年9月12,19日) より
藝術家と世間
嘗て、世間では、藝術家と言ふとひどく物好きか道樂者のやうに見る傾向があった。これは文化の進んだ外國にすらあった事で、又理由がないではなかった。然し斯うした事は、藝術家の向上と、世間の頭の進歩に從って、餘程考へ直されて來、現在では藝術家といふものが文化の先端を歩み、そして時代の指針になって行きつゝあるものである事が理解され、從って社会的尊敬さえ集め得、餘程のわからずやからでない限り、從來のやうな考へ方をされる事はなくなったやうである。
然し、一歩進んで考へて見るに果して、それでは一般世間に藝術家と言ふものが眞實的に理解されてゐるのかと言ふと、それはまだまだ問題で一部の人達を除いた他の大多數は可成りの見當違ひをしてゐるやうである。
一體、第一に藝術家なるものに就て考へられなければならない事は、藝術家は、一般民衆と同じ社會に住みながら、内的外的生活の世界を全く異にしてゐるものであると言ふ事でなければならない。
然るに、世間はなかなかその邊の消息を理解せず、又理解したとしても曲解誤解で、色々の藝術家への見當違ひを冒すのである。
先づ、例へば、現在藝術家に寄せられてゐる世間の尊敬と言ふやうなものに就ても、これが眞の藝術なるものに對して拂はれてゐるのではなくて、世間での習慣である物質的評價法で以て拂はれてゐる。即ち「あの人が繪を一枚書けば何百圓になるさうな」とか「あの小説家の月収は何千圓ださうな」だとか。實際斯うしたメートルで計るべき所をインチで計ったやうな見當違ひから出た尊敬は藝術家に冠せられた浮薄極まる金箔であって、藝術家にとって決して有難からぬものである。
一事が萬事、總て恁うした世俗的觀點からしか見やうとせぬ世間は、だから、なかなか藝術家と言ふものを、特殊な世界に據って生活をしてゐるものであるとして、それに從った見方をしてくれやうとはしない。そして恁うした世間の認識不足は、往々にして藝術家の生活に對して、見るに耐えない無同情、誤解、罵倒を産み出す事になるのである。例へば藝術家の戀愛事件、情死事件、自殺事件等が起った場合なぞ。
勿論、藝術家とても社會細胞の一人である以上、一般社會的規準にあて嵌められなければならないと抗辯されゝばそれも尤もと言はなければならないが、然し、社會と言ふものが分業組織になってゐる點から考へれば、藝術家と言ふ一般的からは極めて特殊な位置にある人達が、或ひは特別な立場を持ってゐる事も認めてやらなければならない筈なのである。
今更言ふ迄もないが、藝術家と言ふものは(此の場合マルキシズム藝術家は別とする)「美」を對照(※ママ)として生活してゐるものである。物みな「美」に對する觀念――即ち、喜び、悲しみ、希望、失望、苦悶、憂鬱、なぞ――を基調とし、その上に自分の個性的生活を具體化させてゆく。恁うした藝術家の世界が、常に金錢、名譽、權力、其他を對照として生活してゆく一般世間から隔たってゐるものである事は論ずる迄もないのである。
故に、もし藝術家なるものが「美」に對しての或る觀念より或る特殊な行爲をしたとした場合、全然違った立場の世間、或ひは餘りにも隔て過ぎた立場の一部から、彼等の生活に即した、彼等の世界に於ての見方で以て、認識不足と未だ少しは殘ってゐないとは言ひ切れない因襲的白眼視で、推察、批判された時は、或は大抵罵倒的なものになるものになるに違ひないが、然し、それは當然甚だしい見當違ひをなしつゝあるものである事を知らなければならないのである。
恁うした藝術家に取っての悦びは、近來藝術家と言ふものが色彩的にひどく華やかなものに觀られ、それにジャーナリズムも手傳って何かと言へば事毎に見せ物にされる位置にあり、世間も興味的にそれを迎へやうと努める關係にも依ってゐる。これなぞは藝術家こそいっそいゝ面の皮であると言はねばならない。
即ち、決して藝術家でなくてもするであらうような事件も、一朝藝術家がしたとなるとひどく特別な目で凝視められ、わいわいいゝ加減な勝手な評をされながら騒ぎ立てられるのだから。要するに、藝術家への平常の人氣又は尊敬なるものが恁うした場合、如何に淺薄性なるものであるかと言ふ事を曝露するのである。
藝術家にとって、見當違ひの見方をされる事は、無理解と同程度に参らされる事である。
藝術家の生活世界
(承前)では、藝術家は具體的に言って、世間人とどう異った生活の世界を持ってゐるか、即ちこれには第一に藝術家とその仕事の關係を考へてみなければならない。
藝術家の仕事と言ふものは、同じ精神勞働の分野にあっても、世間人のそれと全く異って、前述の通り常に「美」を目標とした夢の追求であり、無から有を造形的に又は非造形的に創造してゆくものである。
勿論藝術家とてもその製作品を以て生活をさゝえてゆく以上、一種の職業と見做されるのはやむを得ないが、然し純粋な意味から言へば、藝術家は決して職業的意識の下に立働らくものではなく、一から十迄藝術精進(※ママ)だけで全生活の意義が認められてゆくものであって、世間風な功利的立場(職業的立場)は最少限度に於てパン其他の爲めに維持されるに過ぎない筈のものである。
從って、恁うした生活立場から見れば藝術家と世間人は、その持つ仕事の内容も違へば、その仕事へ働らきかける方法も違ふのである。
然も爰に注意しなければならぬのは、藝術とは藝術家の個性的生活の佯らざる表現であると言ふ事である。即ち、例へば文學で言へば「文は人なり」と言へるやうに總て作家と作品とはその人とその影の如く相同じきもので、從って藝術家に於ては「生活即藝術」と言ふ事になり、從って藝術家には、これは公の時の生活態度、これは私生活と言ふやうな二元的な世界は持てない譯なのである。即ち總てが藝術家の直情の働らく私生活のみなのである。
(詳言すれば、藝術と言ふものは、藝術家の純粋直情で以て製作されるもので、從ってその純粋直情なるものが藝術家の生命であり、その純粋直情の生活する世界が藝術家にとっては唯一の世界であると言へるのである)
所で、斯うした藝術家の世界が萬事個性的にひどく尖鋭化されたものとなったり、世間人の習慣と異って、能力消費者の特例として極端な氣分本位、直感本位、等になったりする事も、至極當然な事で、反って藝術家の生活がエキセントリックであればある程、その作品が期待さるべきものと考へなければならぬ筈である。
で從って、藝術家の生活と言ふものは、以上に述べた性質上、どうしてもルンペン性にならざるを得ない立場にあるのである。(ルンペンとは生活的にも思想的にもスタビリティを缺いて集團生活の健全な單位をなさぬものを言ふのである)これを誤解してゐては、又は理解する事なくしては、けして藝術家を眞に評すると言ふ譯にはゆかないのである。
實際、餘りに人間的な純情と眞情と直情とを持ち、餘りにも美に對して鋭敏的であり熱情的である藝術家の私生活が、何でもかでも出來るだけ表面を糊塗し、世間體なるものをつくろって人前には善良な君子顏をしたがる世間人の虚僞の生活に較べ、兎もすれば因襲的見地から非難されがちなのは、それこそ當然で、寧ろそれは人間としての藝術家の美點を逆に示してゐるものとしてもいゝのである。
(附記――筆者病床に在り、怱卒の筆とて文中到らぬ所多し、次を待って補足せむ)
注)句読点は補ったところがあります。
「女性主義者菊池寛氏の檢討」
「満洲日報」 1929.11.07 (昭和4年11月07日) より
フェミニストの作家は澤山あるが、先づ菊池氏程、それで特徴を發揮してゐる人はないやうに思ふ。氏に對しては、戯曲家として、短篇小説家として、特別に論議される必要はあるが、何が菊池氏を今日程に有名にさせたか、と言ふ事を考へれば、どうしても長篇通俗小説作家としての氏を、第一に考へに上せなければなるまいと思ふ。で、此處では氏の長篇小説を檢討してみるのだが、それでみると全部が全部と言っていゝ程、氏の作品はヒロインに依って中心づけられてゐる。
嚴密に言って氏はヒアロを持った事はなく、常に男性はバイプレイにまはしてゐるのである。わづらはしいが頭に泛んでくる氏の作品を並べてみると、僕の讀んで覺えてゐる範圍で即ち眞珠夫人の主人公、新珠の三人の姉妹、不壊の白珠の姉妹、第二の接吻の二女性、受難華の三女性、陸の人魚の三女性、新女性鑑の三女性、結婚二重奏の二女性、火華の令嬢、明眸禍の主人公、東京行戯曲の二女性、それから現在國民新聞連載中の新戀愛全集の主人公
――全く氏の作品には男性の影なぞ薄いものになってゐる。なほ慈悲心鳥だとか、又其餘失念してゐる作品があるかも知れないが、それ等は僕は未讀だから何とも言へない。然し、それらも屹度、前掲のものと同版なものだらうと考へていゝと思ふ。
かう考へてみると、氏の女性主義は全く文壇に比をみない特徴と言はなければならぬ。試みに同じレベルに立つ長篇通俗作家、三上於菟吉氏、加藤武雄氏、中村武羅夫氏、其他に就て、考へてみれば思ひ半にすぐるものがあるであらう。
然かも、驚くべき事は氏の恁うした作品がすべて一方ならず成功し、世人に、殊に女性の間に讃仰されてゐる事である。此處に氏の異常がなければならない。僕たちは英國に於てトマス・ハアディの多くの作品の中に、浮彫にされた女性を見る。そして日本に於ては、スケールこそ問題でないとしても、菊池氏の小説にそれを見ると言へはしなからうかと僕はこゝで思ふのである。
女性でない僕は、果して氏のペン先に踊る女性が、どれ程リリーフされたものであるかは知らないが、それでもアピールされた女性たちの支持の姿を見ると、なんでもよっぽどよく書けてゐるに相異ないと思ふ。勿論氏の長篇小説は解りやすい面白い現代的だと言ふ三拍子をそろへてゐるからでもあるが、氏が特に女性を描く事にのみ意圖し、そしてそれに對して女性讀者の反應が熱狂的だと言ふ事實に、當然根本をそこに歸納しなければならない。
恁うした所からみて、僕は確に菊池氏は日本の持つ一人の偉大なフェミニスト(女性主義者)だと思ふのであるが、又一方から逆に見ると、氏は或は非フェミニストであるかも知れない。氏は女性に對して、可成り冷眼を持ってゐる。女性に惠まれなかったと言ふ青年時代の心理が、随分原因になってゐるだらうと思ふが、要するに氏の常識的物の見方も手傳って、氏は至極、嚴格な眼で辛辣に女性を見るやうである。だから、大甘な女性禮讃家なぞでは及びもつかないやうに、氏のメスにかゝると、つまらない女は遠慮なく紙の上でやっつけられる。
氏の作が型式の如何によらず、どれも古風な勸善懲惡になってゐるのも、女性を鋭く見る、決して女性の魅力に引づられない、と言ふ氏の立場が伺はれるものである。即ち僕は氏が女性に一種の反發感情を抱いてゐる事が察せられると思ふ。鋭く相手を見極めやうとする者は、常にその者の身方(※ママ)ではあり得ないのは當然である。恁うした意味の事は氏の日常の様子をみても、それから、氏の常に説く戀愛觀をみても十分裏書きされるであらう。
では氏はフェミニストなのかフェミニストでないのか? 勿論僕は始めに言った通り氏は偉大なフェミニストだと言ふ。それは氏はどの作品にも必らず型にはまった程氏の好みに從った理想的(必らずしも世俗的意味に非ず)女性を燦然と光らせて存在させてゐる。それは氏が多くの女性に恨みがましい心を抱いてゐながら、たった一人の憧憬的女性偶像を、心の中にひそめてゐる事を物語ってゐるのである。
それは氏が人一倍熱情的女性渇望仰者である反證である。いやむづかしい事は兎も角、一體女性にあれ程關心すると言ふだけでも立派なフェミニストでない筈はないではないか。
――一九二九、一一、四――
注)明かな誤字誤植は訂正しています。句読点は補ったところがあります。
「文藝同人雜誌の存在理由 北村舞人君に應へて」
「満洲日報」 1929.11.14,21 (昭和4年11月14,21日) より
畏友舞人、北村譲次郎は、嘗て僕が彼に與へた手紙の中に、「同人雜誌は聊もレエゾン・デエトルを持たない」と書いたのに對し、その餘りに暴言であるのに唖然とし、次に極度の憤懣を感じたと言ひ、そして原稿用紙十枚に亘る反駁分を東京某誌上に掲載した。僕は、東都新詩壇を飾る同人雜誌「原詩復興」に活躍してゐる彼が、僕の言説にそれ程迄憤激した事を無理とも思はず、又その反駁文にも幾多の道理のある事を頷かなければならなかった。
然し又僕は、彼が不用意な僕の蕪雜な文章に誤解を抱いた事も發見した。兎に角比の問題は一般的に相當興味があるから、此處に持ち出して改めて論議してみようと思ふ。併せて北村への返事にも代へる事にする。
第一、北村は僕が「今時文學青年が同人雜誌を以て文壇登龍門としようと企てるなぞ全く愚だ」と言った言葉を、僕のあの同人雜誌否定論の本旨だとは取ってくれなかったらしい。決して僕は同人雜誌の本質を兎や角言ったのではなかったのだ。唯僕は、世に認められやうとして、同人雜誌を企てる事が、現在のやうな状態の時代には、殆ど非効率的だと言ったのだ。此れに對しては北村は、例へば「新思潮」「七人」「人間」「奇蹟」「白樺」「文藝時代」
なほ外國にあってはダウスンやシモンズの「エロオ・ブック・サヴォイフィ」リップ等の「赤い●(※窯?)」其他の有名な過去の同人雜誌の名を擧げ、そしてそれ等の大きな仕事の趾を説いてゐる。然しそれは時代とそしてその發生の環境なぞに依るのではないかと思ふのだ。勿論、同人雜誌そのものがくだらないものだなぞと決して思ってゐるのでない。僕は、北村の例示に對して聊かも抗辯する所は無い。成程それ等の雜誌は立派に成長したし、又立派な仕事も爲し得てゐるのである。
だが、今、北村の所へだけでも寄贈される同人雜誌が五十種内外あると言ふ、驚ろくべき同人雜誌洪水の時代に(全國的に調査すれば同人雜誌の發刊される數は數百に上るであらう)將して計畫者達が期待するであらう本格的同人雜誌運動が成し遂げられるであらうか。然も現在のやうに讀書階級が、時代のテンポに追ひ立てられて心を落ちつけず、そして圓本洪水によって眼を混亂させられてゐる時代に於て。なほ又、自己の地盤、即ち生命をつなぎ止める事に狂奔してゐる既成文壇人のヂャーナリズムを支配してゐる時代に於て。
だから僕は同人雜誌がくだらないといふのではない、その運動が益なしと言ふのだ。從って瓦礫の中に混った寶石の如き存在が、數百册の同人雜誌の中に考へられやうとも、それが讀書人に依って、又は後進を舞臺に導入すべき位置にある文壇人に依って、ピックアップされる努力は拂はれないだらうと思ふ。試みに見よ、現在無名作家の手による同人雜誌が、一册として輝かしくその名を認められてゐるや。もっと卑俗的に言って寄贈される五十册の同人雜誌を、北村自身將してうんざりせずして眺められるや。
又十軒に一軒の割で書房の店頭に目白押しに並べられてゐる數十種の同人雜誌を、通りすがりにでも一瞥して、そしてその一册一册を手にとって見る氣になるや否や。何も世の中の人は出版される圖書を努力をしても讀まなければならぬ義務はない。いはんや無數の同人雜誌――それは質的に言ってもニキビ文學を出ないものだと一般的に概念されてゐる――を一一取りあげて、その中から傑出したものを探し出さうとは、なにか心願でもない限りする人はゐないだらう。
此處に於て僕は同人雜誌の無力を言ふのだ。そして結局、同人雜誌なぞは「お道樂」以外の用はなさないものだと言ふのだ。實際、幾百册の同人雜誌の絶對多數は、ほんの素人の遊戯的な用に使はれてゐる。そしてそれだけの効用を収めて滿足してゐるのだ。恁うした種類のものは基よりこの場合問題ではないが、それにしても目標を文壇に置いて仕事をしても、まるで道樂を滿足する程度でしか効を収めないとは眞劍な同人雜誌の爲めに、僕だってなげかずにはゐられない事なのだ。
次に北村は、同人雜誌は、發表機關を持ち合はさない有名無名の文學人の爲めに、彼等の本能的表現慾を滿足さすのに役立ってゐると言ってゐ。これは一理ある。純文藝雜誌が相次いで没落し、發表機關が極端に狹められ、然もそれがヂャーナリステックに限定された一部の人達にのみ占領されてゐる今日、如何に多數の文學人が徒らに彼等の創作本能を否定されてゐるか想像に難くはないのである。
殊に北村が擧げてゐるやうに詩人の場合は一入であらう。有力雜誌中詩歌に頁をさいてゐるのは改造より外には先づ無い。然もそれが僅々四五頁なのだ。茲に於て生計の爲めと言ふ事なぞ第二としても、發表機關に惠まれない人達は、自分達の表現慾の爲めに、同人雜誌を企てずにはゐられない――と言ふのは頷かれる言葉である。
然し、僕は、相當エミネントな人達の此の雜誌ならば、それはそれで一般の眼も惹き、從ってレエゾンデエトルも持ち得るに到るだらうに、この場合もゝし全く無名の人達のものだとすると、矢張り「自分の作品を活字にした」と言ふだけより外の意味は持ち得ないだらうと思ふのだ。それでは結局つまらない自慰行爲に過ぎなくなるではなからうか(茲でやゝ成功したと言はれる同人雜誌は大抵既成の人達の手に依って爲されたものである事實を思ひ浮べるであらう)
(勿論、同人雜誌と言ふものはその文字の示す廣い意味から言って前にも言った通り、別段功利的な目的を持たない、即ち自慰的な行爲であってもかまはぬ。アマツアの手すさびの爲のものであってもいゝ筈だ。然し僕等の意味する同人雜誌は少くとも文壇に呼びかける事を目標としてゐるものであるのだ)
次に又北村は、同人雜誌はコムマシャリズム其他の外力的掣肘にわづらわされぬ作品を産み出すによき壌土だと言ってゐる。同人雜誌には作者の絶對藝術が思ふ儘示し得られるし、又一方にはナップの形成する戰旗のやうな立場も執り得る、と言ふのである。
然し今日、婦人雜誌、趣味雜誌、新聞等の場合ならば、その創作の受ける掣肘は如何にも露骨であらうが中央公論、改造、新潮、文藝春秋、等の藝術を重く見る雜誌ならば、もしそれが藝術的に優れてゐるものでさへあれば、いかに個性的な作品でも、それに頁を頒つに吝でない筈だと考へる。
又、戰旗のやうな場合は、當然同人組織を執らなければならないのだ。第一經營を引受けてくれる金主がなし(尤も左傾劇の上演が儲かると言ふのでその經營を引受け始めた資本家がある世の中だから、いつ又新潮社あたりが文藝戰線?位を經營しないとも限らないが呵々)よしあっても、元來その雜誌の性質が營利ではなくアヂプロを目的としてゐるものであり從って極端にリベラルな立場を要求してゐるものだから、うまくゆく筈はないのだ。
兎に角、斯う考へてくると、何も作家的に純粋な作が出來ると言ふ事が同人雜誌の他に見られない特徴だなぞとは言へない――又さう聲を大きくして言ふ程のものでもないと思ふのだ。
最後に、同人雜誌は多く青春時代に企てられ、又それが屡々時代の眞理を創造した歴史的事實から同人雜誌は「人生の花だ」と言ふ詩人らしい言葉や、僕がいっそ功利的に企てるなら寧ろ個人雜誌の方がいゝと言った言葉に對する反駁なぞも北村は述べてゐるが、餘り長くなるから僕は失敬する事にする。尻切蜻蛉だが北村よ、この邊で和睦しやう。――二九、一一、一八
注)明かな誤字誤植は訂正しています。句読点は補ったところがあります。
注)●は判別できず、推測もできなかった文字です。推測で補った文字もあります。
注)(續く)、――承前―― は割愛しています。
「アトリヱ雜記 北村舞人氏に再び應へる」
「満洲日報」 1929.12.12 (昭和4年12月12日) より
北村は要するに文壇なぞと言ふものは目標とするには餘りに愚劣な所だから、其麼ものに心掛ける事なぞ放擲して、反って自分達で文壇に對抗するやうな藝術を作り上げやうとする、それが眞摯な同人雜誌運動の正しい解釋だ、と言ふ。それァそれでいい。然し萬人が讃嘆?する程の餘程の天才的に優秀なものでない以上(又それ程のものならなにも同人雜誌によらなくても立派に世に認められるのだが)本質の解釋はどうであらうと、同人雜誌運動の影は薄い。
意氣壯とは言ひ得るも、結局北村のやうな考へで同人雜誌をやる事はドン・キホーテ式に終りはしなからうか?(北村よ、辻川が言ふ通り君と僕とは評點が違ふのだ。それに又君は、本質的にAの價値あるものは、あらゆる場合に、斯くあるべきだけの力を持ってゐるものだ、と言ふ理想論を持ってゐるやうだ)
次に「亞流」云々だが、これに對して僕は答へたい。僕は便宜上「文壇」だとか「登龍」だとか言ふ言葉を使ったが、何も文壇と言ふものを特定な城塞のやうなものだと考へてゐるのではない。登龍と言ふ事も唯「世間から認められる」事を意味させたのだ。だから世間から認められるやうになればいいので、さうすれば又當然自分も文壇なるものの一部を形造る事になる理窟なんだ。
何も文壇意識なんてものに囚へられる必要があるものか。勿論自由にオリヂナルに自分を大成させてゆけばいゝ。第一エピゴーネンなぞどうして今時首が出せるか。
最後に「道樂」云々だが、然し北村は一體「文學とはすべておやつのやうなもので又睡眠劑の代りになるものだと言ふ事をちゃんと心得てゐる」やうな讀者を相手に文學なるものを提供しやうとして文學修業をしてゐるのだらうか? それに北村の言説は、始めの方はひどく眞四角にひらき直ってゐるのに、茲に到ると皮肉の心算か知れないがまるで前と反對の態度だ。
僕は文學をどんな場合でも「道樂」視は出來ない。僕は「仕事」だと思ってゐる。だから、どうかしてその仕事を効果的に進行させてゆき度ひと思ってゐる。金丸精哉は僕等の論爭は二人の性格をお互に語ってゐるのだと評した。僕もさう考へてゐる。實際北村はアイデアリストなのだ。僕はなんと言ってもリアリストなのだ。
注)原文は全文一段落ですが段落分けを追加しています。
「何を興味深く讀んだか?」「興味深く讀んだ書物」
「書香」 1931.01.,1932.01.,1934.02. (昭和6年1月,7年1月,9年2月) より
何を興味深く讀んだか? 1931.01.
昨年の例に做って今年も「昭和5年中に御閲讀になった書籍中最も興味を惹かれたるもの二、三の書名と讀後感」に就いて滿洲讀書家の方々の御意見を求めました。何れも眞摯な御回答を賜りましたことを謹んで御禮申上げます。掲載の順序は御回答の到着順であります。筆者の敬稱は凡て略しました。
1. 春陽堂發行『小山内薫全集』
近代日本演劇に於ける巨人の巨歩の跡を忍び得て、氏の崇拜者たる私は、異常な感激に打たれました。全く氏の全人格に親しく接し得られたやうな氣がしました。
2. 新潮社發行『ルヰ・フィリップ全集』
一行一節美しき詩そのものであり、そして又眞の意味に於けるプロレタリア文學。何度讀み返へしても、その感激の度は薄れません。
3. 滿鐵哈爾濱事務所編『東支鐡道を中心とする露支勢力の消長』
實に面白い。大衆文學のどんなものも、これ以上の面白さを私には與へ得なかったやうです。尤もこれは單に讀みものとしての感想ですが――。
右御答へ迄。
何を興味深く讀んだか? 1932.01.
例年の通り今年も「昭和6年中に御閲讀になった書籍中最も興味を惹かれたるもの二、三の書名と讀後の感想」に就いて滿洲讀書家の方々の御意見を求めました。何れも眞摯な御回答を賜りましたことを謹んで御禮申上げます。掲載の順序は御回答の到着順であります。筆者の敬稱は凡て略しました。
ジャン・コクトオ『怖るべき子供たち』
その怪しく美しきフランス風の感能と、針のやうに冴えた技巧の點で――。
改造社版『ゴーリキイ全集』
偉大な本格的プロレタリア小説。本年はドストエフスキイの全小説(新潮社版)と共に、鋭意復讀につとめたが、それぞれ新らたなる感銘を、非常に得た。
久間宏著『北滿洲の政治經濟的價値』
圖書館にあった古い本であるが私にはたいへん有益にかつ面白く繙讀された。
以上は、特に新刊と言ふわけではないが、讀み捨てた數多い本の中で特殊な印象をのこしてゐるものなので、茲に御返事として擧げた次第である。
興味深く讀んだ書物 1934.02.
『化粧品と口笛』川端康成氏著
―僕の好きな傾向の文學として愛讀せり。
『無神論教程 第一部第二部』永田廣志氏譯
―常識として宗教觀をこれ程迄に分り易く説いてくれし書物他になし。
注)明かな誤字誤植は訂正しています。句読点は補ったところがあります。
注)年度違いで統一する為に若干補正しています。
注)原文は国立国会図書館デジタルコレクション個人送信(ログイン必要)で公開されています。
「本に就て」
――借りた本は返さなくてよいか――
「満鉄奉天図書館収書月報」 1939.07. (昭和9年7月) より
本に關する随筆――と言ふ御註文だったと思ふから、ま、何か簡單な雜文でも書いて許して頂かう。
本に就て、全く世俗的な話ではあるが、私が常日頃不思議に思ってゐる事は、世間の人が、他人から本を借りる事を何とも思ってゐないこと、そしてそれを返さない事も平氣でゐるらしい事である。
金錢の貸借なぞには極めて潔癖な人が本だと反對である。金錢なぞ、可成りさし迫った時でも絶對に遠慮する律氣者が、本だと平氣である。そして一旦持って行ったとなるとなかなか返さない。いつか返してくれる人はまあいゝ方で、少し大袈裟に言ふならば、十人中八人位までは絶對に返してくれない。當方から催促すれば勿論返してくれるのだが、私は本に限らず、他人に貸した物を、どうも正面から返してくれと切り出し得ない弱氣があるので――と言ったところで相手によりけりだが――大抵の場合、本は取られ放しになって了ふ。
學生時代の數年間に、ろくな本も買へなかったのだが、それでも下宿の押入一パイには藏書がたまった。それを殘した儘歸滿して、扨、本を友人の手で送り返してもらって見ると、何と三分の二以下の數に減ってゐる。訝しいと思ってみると、友人から讀みたい本だけ一時借りたと言って來た。そして遂にその儘になって了った……。
これなぞは、ひどい方であるが、一月に二册や三册は必ず書架から本が姿を消し去るのには閉口してゐる。中には買って來て、まだ頁も開いてない新本をちょっと、と言った儘持ち去られて、後で思ひ切って請求してみると、申譯ないが先日歸宅する時のどさくさでどこかへまぎれさせて了った、なぞと謝られるのがある。
斯うして私の手から失はれて行った本が、三百册位はある計算になってゐる。
「貸してくれないか?」と言はれると、いやとも言へないし、「讀んだらすぐ返してくれよ」とも始めから念も押せない氣持で「あゝいいよ」と答へて了ふ。そして心の中では「あゝ又か!」と嘆息する。果してその本は返って來ない。數ヶ月たってその友人の所に所用で行って見ると、その本はその先生の書架にちゃんと納って、全くその人の藏書になり切ってゐる。
その先生もその本の事に就ては別に私に申譯ないとも恩はないらしく至極平氣である。これが惡氣で相手がやってゐるのならば勿論默ってはゐられないが、如何にも他意なくやられるので全く言ひ出し得なくなって了ふのである。
私自身としては、さう言ふ事が身に沁みてゐるから、なるべく他人から本は借りない事にしてゐるが、萬一借りる時には必ず最短期限を切って借り、返す時には小包郵便にしてでも確實に返却してゐる。これが當然の事であらうと思ふが、一體、世間の人達は、何故に對象が本だと、こんなにルーズな考へを持ってゐるのであらうかと、頭を捻る次第である。
もともと、私なぞは、蒐集癖で本を買ふのでも、退屈しのぎに買ひ集めるのでもない。なけなしの財布をはたいて、一册二册と買ひ求めるのは、全く自分の仕事の――廣い意味での――参考資料としたいからである。だから第三者が見たのでは單なる小説本であったにしても、私にとっては参考にする必要上買ったもので、決して讀み捨てにする爲に買ったものではないのである。
私としては、私の書架にある物は、一册としても失ってはならないものばかりな心算である。ぶらりと本屋に行ったのでは見當らない本、註文してやっと取り寄せた本、絶版になってゐる本――そんな色々な本は、例へ十錢の廉價版でも散逸させては困るものなのである。それを退屈凌ぎに三册四册、と勝手に抜き出して「汽車の中で讀む物がないから」なぞと持って行かれた切りでは浮ばれない。
要するに、この借用本に對する世間人の道徳心の無さは呆れるばかりであるし、考へる度に憤懣に耐へない。この雜文を讀まれた諾氏も一應反省して、私のこの歎きがお互の胸にぴりと響くや否やを試され度いものである。
注)間々ある話。買い直した事もある。
「昨日を揚棄して明日のシネマへ」
――キノ・キイとアヴァンガルド迄――
「満洲日報」 1930.03.10,17,24,31 (昭和5年3月10,17,24,31日) より
シネマは藝術であるかないか? だが我々は今や、青空の如く晴々とそれ等の愚問を嗤ふ事が出來る。然し、シネマは正直な所、可成り最近迄は「藝術」でなかった事は事實だった。それは、先づ最初には單に珍奇なる「動く寫し繪」に過ぎず、やゝ發達した次の時代には、藝術としては餘りに非個性的であり單純過ぎる「持ち運びの出來る演劇」であったに過ぎないからである。
然し今やシネマはその本質を發揚した。シネマはシネマでなければ表現し得ない獨自の世界を把握し獲得し樹立したのだ。我々は茲に於て、教授コンラッド・ランゲの暴論を否定し、その認識不足を指摘しなければならぬ。即ちランゲは言ふ、
「――シネマは活動する意味に於ては運動の寫實であり、寫眞である意味に於ては機械的操作に過ぎない。故にシネマは將來共藝術たり得ない」と。
我々はこれに對し、餘りに多くの抗辯を持ち過ぎる。然し簡單に要約して言ふであらう。
「それは出生並びに幼年時代の單純なるシネマに就て考へられた時に爲さるべき論である。今やシネマは決して單なる運動の寫實ではなく、そして又機械的操作も人間の秀でたる感性と思想を伴はずには行はれてゐない。シネマは立派に機械と藝術家の主觀の融合であり、藝術的素材の様式化であるのだ」
我々は即ち、シネマに於けるキャメラは、側へば文學に於ける文字、繪畫に於ける繪具に相當するものと考へる。文學に於て文字そのものは何等の屬性をも持たないがそれが藝術家の頭に依って驅使せられると、其處には有機的な「藝術」が成立するのだ。
もしもキャメラが一定の單純な作用しかしないのであったならば、或は藝術として無價値なものになるかも知れないが、キャメラはそれを操作する人間の頭次第によっては文字にも劣らぬ駭くべき魔力を有してゐるのだ。從ってシネマは機械に依って産み出される藝術であり又それが何等「藝術」である事を妨げるものにはならないのである。
比れに就いて、我々は、シネマが如何にその「藝術たり得ない」境地から「藝術たり得る」迄に發達したかを振り返へり省察してみよう。即ち嘗てシネマに於ては、機械は單なる利用さるゝ手段に過きず、その主體は劇か被寫物であった。然しそれが次第に改められ機械に就いての關心も加へられ、機械と劇(乃至は被寫物)との關係はほゞ對等に近き迄になった。
即ち茲にシネマの特自性が從前より甚だしく主張されて來たのである。そして此の期間が進むにつれ瞭らかにシネマは「藝術」と言ふ城塞を築き上げたのだ。だが我々はアメリカの「百萬弗映畫」と稱される單に黄金のかけられたフィルムを以て、或は資本主義より見たシネマの發達であると見るにしても、シネ藝術の發達であるとは考へない。然し我々は聲を大きくして叫ぶ。
一九二三年度に於けるフリッツ・ウェントハウゼンの「化石騎手」ロベルト・ウィーネの「罪と罰」等の表現派作品、同じく二三年より二五年度にかけて光彩を放ったプ・ピックの「シルヴェスタア」並に「野鴨」、カールドライエルの「あるじ」、ジャックフェディの「雪崩」等のポエテカル・リアリズムの作品――が如何にシネマの個性を確立してゐるか! シネマは茲に於て藝術としての大きな未來を約束されたのだった。そしてそれはその通りだった。
大きな未來を持つシネマは以後優れたる先覺者の手に依って一日として開拓の斧の揮はれない日はなかった。即ちカールドライエルの「ジャンダーク」、エプスタンの「アッシャ家の末裔」等を初めモンターヂュ手法に新らしい輝きを増した「生ける屍」等がシネ藝術發達の里程標を打ち込み、そして今やなほ、シネマは、キルサノフ等の「アヴァンガルト」、エイゼンシュテイン等の「キノ・キイ」に迄、昨日のシネマをアウフフェーベンせんとしつつあるのである。(續く)
(二)
尊敬すべきパイオニアは、斯くシネマのアプリオリを探求する事によって、そのエスプリを押し擴め、磨をかけ、そしてシネマに於ける注視點を從來の被寫物的要素から「光と影」なる機械的要素に移行せしめた。即ち、シネマ本來の主體であるべき機械が、シネマに於て正當なる位置を獲得するに到ったのである。比れがシネマにとって、過去のそれに比し、より強固なる「藝術」的獨自性の樹立でなくて何であらう!
所で、茲に當然言及しなければならぬものに、その機械技術發展が齎した新らしいシネマの領域! 即ち自然色フィルム、立體フィルム、發聲乃至音響フィルム等のものがある。發生的に言って、比れ等はシネ藝術としての正統的所産物ではなく、科學者と企業家との頭から生み出されたものではあるが、然し一部保守の唱ふるが如き邪道的なものではない筈だ。此れ等とてシネ藝術が獲得した新らしい武器である事は我々を充分に頷かしめる。
事實、何處にシネマに色があってはならない理由があるか、平面的でなければならぬ理由があるか? 我々は又アベル・ガンスやデミトリィ・キルサノフ等の主張するやうに「沈默」がシネマに於て絶對的に守られなければならないものとは考へないのだ。試みに思へ、沈默のシネマは音樂の伴奏なくしては何と寂しいものであるか! 伴奏のなかった時代は知らず、伴奏による醍醐味を知って後の我々は、最早シネマを音樂なしには鑑賞し得ないのだ。
これと同様の事が、發達した自然色、立體、音響、フィルムの後に言ひ得られはしなからうか。所で又我々には、その伴奏に就ても一種の不自然さが意識されるのである。所謂シネマにオーケストラを附随させる事は、我々に相融合せざる二種藝術の混合を思はせる、もし此のオーケストラに頼る力をシネマが自身の機械力の生から生み出したとしたなら、シネマはより獨立性を高める事となりはしないか。
然し、茲に最も注意しなければならぬ事は、現在に於ける主として發聲フィルム、自然色フィルム製作者の態度に見られる誤謬である。彼等無智なる製作者は(否、彼等が無智なのではない、製作を命ずる者――一般觀客としてもいゝ――が愚昧なのだらう)エクランの上に於ける自然再現を、如何にして自然そのものに近づけんかと努力しつゝあるではないか! 我々は此れ等の度し難き迷妄を徹底的に排除し去らねばならぬ。
一體、如何に研究し苦心を拂へばとて、機械力による自然の再現が自然そのものになれる筈はないのである。それを知悉しつゝ少しでも自然に近しくせんと試みるのはそれは單なる「好奇心」を覘はんとする以外のものではない。言ひ換えるならば、シネマの藝術的價値より原始的價値――往時の「動く寫眞」と言ふのと全く相等しい「音の出る寫眞」「色の見える寫眞」と言ふ――への顛落である。
我々は知ってゐる。例へば「ダグラスの海賊」に於て何とあのテクニカルカラがわづらわしき非藝術的なものであったか、又はロイドの「ウエルカム・デンヂャ」の發聲並びに音響が比の世のものに非ざる噴飯以上のものであったか! 歩く度に跫音がする、ピストルを放てば炸裂音が聞える、コップを落せば硝子のわれる音がする。――もしもそんなものが發聲フィルムの要目ならば此の新發明よ、犬に喰はれろ! 人々よ、もし卿等がそれ程迄に自然色に憧れ、自然音に憧れるならば、シネマを捨て演劇に行かれよ。
我々がシネマに色彩を欲し音響を欲するのは、決してシネマを自然に近づけんが爲めではないのだ。絶對に――このやうな事は、例へばアベル・ガンスの「シネマに於ては、その活動によって、吾々は言葉によってよりも良く、心理を知る事が出來るのである」と言ったやうな、シネマの本質を如何にもよく説いた言葉を味はってみれば自ら判然としてくる事であらう。
要するに我々の心掛ける所は、一切のフィルム上の技術は、如何に利用してシネマの本質を生かすに役立たすべきか、と言ふ所にあるのである。あく迄衆愚を克服し、輝かしき「明日」の段階に迄、シネ藝術を止揚しなければならぬと言ふ事、此れが音響(發聲)彩色立體フィルムの擡頭によって混沌たる「今日」のシネマに考へられなければならぬ事である。(續く)
(三)
以上で我々はシネマの「昨日」と「今日」とを檢討した。さればシネマの「明日」とは如何なるものであるか?
我々はシネマに於ても辯證法的生成發展を考へる。未だ藝術的には第一段的過程であった「明日」のシネマに對して「今日」のシネマはとりもなほさずテーゼに對するアンチ・テーゼの位置にあると考へられ得よう。即ち我々には茲に「昨日」の揚棄が考へられそして「明日」のシネマの出現が信ぜられるのである。そしてそれが決して空論でない事は、既に先覺者なる一部シネアストの手に依ってロシアに於てはキノ・キイが、フランスを中心としてはフィルム・アヴァンガルドが、シネマに於ける新しき存在を主張しつゝある事によって實證されてゐるのである。
此れ等新しきフィルムは、過去のフィルムからは著るしく蛹脱し乃至は甚だしく變貌してゐる。然し乍ら過去を母胎としその過去の正しきエスプリを受け繼いでゐる事は明らかな事實であり、換言せば、一層強くシネマのエスプリを掌握して來てゐるものと言ひ得られるのである。我々は將しくここに「昨日」の揚棄された姿を見るのである。そしてそれこそ我々の純粋シネ・ファンが期待すべき「明日」のシネマでなければならぬと考へる。
然らば、平易に言って、キノ・キイとは如何なるものか、フィルム・アヴァンガルドとは如何なるものであるか――。
一體シネマの表現能力には叙事的寫實性と様式的感覺性の二つがある事は誰れにでも認識される事であらう。即ち前者はストオリイを形づくり、後者は所謂映畫美なるものを形成する。此の二つが漠然と無自覺的にミクストされてゐたものが從來のフィルムであるが、それがシネマの本質探求運動に依って、劃然と分析され各々は各自獨特の方面にその特性を顕揚するに到ったのである。
即ち、シネ藝術を叙事的寫實性のラインに沿ふて押しつめて行ったものがジガ・ヴェルトフ一派の主張する「超藝術的實寫映畫」即ちキノ・キイであり、その反對に様式的感覺性の上に極端に尖鋭化したものがルネ・クレイル一派の「絶對藝術的映畫乃至純粋藝術的映畫」と稱さるゝフィルム・アヴァンガルドなのである。
ルドルフ・クルツに從へば、兩者は次の如く説明される。
「――キノ・キイにあっては、シネマは、事實の工場、事實の撮影、事實の分類、事實の擴張、事實に依る感激、事實に依る宣傳、事實の拳、シネ妖術への反射、シネマの虚僞への反射でる。……(云々)」
フィルム・アヴァンガルドに就ては――。
「――心理的拘束からの解放を根本的に推し進めて行けば總ての個性的な自然の形象の最後の痕跡も抹殺され、たゞその數學的の形のみが殘留すべきである。何となれば數學は「無拘束なること」の主觀的形式なのであるから、これが絶對藝術の立場である。斯の如き「絶對藝術」の上に立った「絶對映畫」にあっては、從って物語りも筋も事件も又因習的な人間も現れて來ない。
自然を根本的に排除するのを原理としてゐる故、總て歴史的な世界を覺現するものが悉く拒否されてゐるのである。そして幾何學上の形状が相互關係をし乍ら現れて來、そのコンボジションの中に精神的なもののドラマが行はれるのである。……(云々)」
此の説明文は甚だ難解であるが二三回の反讀によってその意味を汲取され度い。
要するに、キノ・キイは巧なモンタアヂュに依る寫眞映畫であり然もそれに注ぎ込まれたイデオロギイは異常な藝術的迫眞力を以て觀客の胸にアッピールするのである。一言にして言ふならば、キノ・キイはシネ藝術のメカニズムと社會的イデオロギイの完全なる一元化であると言ひ得よう。
殘念ながら我々はキノ・キイの一篇にすら接し得られないけれどレニングラードに於ける勞農國立映畫會社「ソフキノ・ファブリカ」に働らく天才的映畫勞働者エイゼンシュテイン、又はプトウフキン等の手に依る「戰艦ポチニムキン」が、「母」が、又は「マルクス資本論」の映畫化が、如何に驚嘆すべき「明日」のシネマであるか、それは噂に依っても察するに難くないのである。(續く)
附記――勞農映畫に就ては参考書の整理を俟って改めて稿を起す事にする。茲では簡單に有名な二三映畫名を擧げて、大體どのやうな内容のものがキノ・キイとして製作されてゐるか示して置かう。即ち前記の外に「全線」農村經濟振興を主題とする經濟實寫映畫(エイゼンシュテイン)、「トゥルクシプ」鐡道建設を主題とする經濟實寫映畫(トゥリン)、「帝國の破片」ソヴエット十年の建國(エルムレン)、「十月」十月革命の記録等々のものがあるやうである。
(四)
キノ・キイの製作に就ては、一般觀客層を對照とする經濟的危惧はない。何故かとなれば、それは國家の手に依って作られ、乃至國家の手に依って配給されてゐるからである(ソヴエットにあっては政府が映畫製作及び映寫の管理權を持つ)。これに反して歐洲に於けるフィルム・アヴァンガルドは資本主義の桎梏下に藻掻き苦みつゝ僅にその萌芽を伸ばさんとしてゐるのである。
事實、現在のシネ觀客層にとって、アヴァンガルドは先驅に過ぎるかも知れない。從って觀客はこれを理解し得ず支持し得ないのも無理はないとも思惟され得る。然しアヴァンガルドが正しき「明日」のシネマの萌芽である事はシネマに見識を持つ者の等しく信ずる所でなければならぬ。
一體アヴァンガルドは如何なるミリュを持って生れたか――。
一九二〇年後の歐洲映畫界は今や全くアメリカニゼーションの下にあった。即ち百パーセント興行價値保有のフィルムがジャズ的淺薄性を以て市場を風靡した。即ちこれに對抗し、純粋シネ藝術の正道を擁護する爲めに敢然立ったのがフィルム・アヴァンガルドの運動なのである。從って彼等は第一にシネマのヂャナリステク・コムマシャリズムに抗爭する、斯くの如き商業主義の下にある以上、シネマは藝術的に自由であり純粋であり得ないからだ。でアヴァンガルドは極端に製作者の主觀第一主義に依って製作される。
製作者は己が信ずる純粋な藝術良心以外何物にも掣肘されない。故にアヴァンガルド内にあって制作者の個性に依って傾向は異にされる。即ちワルタ・ルットマン製作「伯林」の如き實寫のモンタアヂュにシネ藝術の進路を開拓したものゝ、ディミトリ・キルサノフ制作の「秋の霧」の如き光と影なる映畫美を強調したもの、乃至ルネ・クレエル制作「幕間」の如く、音樂的リズムとシネ・ポエムの心境を現したもの等……(假りに前者のやうなものが「絶對映畫」と呼ばれ、後二者のやうなものが「純粋映畫」と稱されてゐる)。
アヴァンガルド運動は、從って根本的に歐洲シネ藝術家の間から發祥したもので、主としてフランスを中心に、北歐がこれに呼應した。即ち一九二四年フランスのフェルナン・レジニの「機械舞踊的」を契機として以後多くの異色あるシネアストが比の運動に從事した。そして益々新しきシネマの未來性を強固ならしめつゝある。
要するに、我々は「明日」のシネマの成長は必然だと信ずる。シネマの處女地は廣漠として廣い。モンタアジュ等はコンテニュテイの研究と共に益々活用されるに到るであらうし、キャメラ・アングル、キャメラ・ワアク、フィルムへの加工、レンズに依る「光と影」の追求は、如何なる新境地を開拓してゆくかわからない。
それと共に「明日」のシネマには當然、シネ藝術の生命に印した音響及び色彩が重要なキャストを勤むべきであると考へる。さうして茲に渾然たる新しきシネマがエクランの上に躍り出た時、我々は完全に過去を揚棄し了へたシネマの姿を見るであらう。
所詮、シネマは何處迄行ってもメカニズムの藝術である。「シネマは機械に依ってのみ最高度迄發展される。テキニックはシネマの思想を製作する」これは映畫人の常識であるだらう。シネマを愛する諸君よ、卿等は「映畫の持つ魅力」とは如何なるものか、文學とも演劇とも繪畫とも異る映畫の魅力とは如何なるものか、一考して、此のアヴァンガルドの精神を理解して頂き度いものである。なほ、日本に於てはアヴァンガルドを「前衛」と譯してゐるが、寧ろ私は「先驅」とでもした方が適當だと考へる。
アヴァンガルドは所謂「前衛」の字が示すやうな社會的な意味は持ち合はしてゐないのである。長々と拙文を綴ったが。最後にアヴァンガルドの目録を乏しいメモの中から抜粋して結辭の代りとして置き度いと思ふ。(完)――三・二七
アルベルト・カヴァルカンティの作品「港町にて」「時の外何物もなし」「可愛いリフ」、マン・レイ「ひとで」、ルネ・クレエル「幕間」、デイミトリ・キルサノフ「秋の霧」「メニルモンタン」、ジャン・ルノアル「水の娘」、ワルタ・ルットマン「伯林」、シルカ「家鴨の惨死」、ジェルメニマ・デュラック「坊主と貝殻」まだまだあるであらう。
注)明かな誤字誤植は訂正していますが判断できていない部分もあります。推測によるところもあります。
注)特にカタカナ部分に関しては現在の一般的表記と異なる所も多々あり誤字誤植が混入しているかもしれません。
注)句読点は補ったところがあります。
「満洲國に翹望する映畫政策」
「満蒙」 1933.09. (昭和8年9月) より
序説その一 宣傳手段としての映畫の効用
宣傳手段としての映畫は現代に於ては最も優れた、そして最も強力な武器である。先づ試みに教化乃至宣傳を極度に發揮せんとしてゐるソヴェート・ロシアの映畫政策を見るならば、「あらゆる藝術のうち革命にとって最も有意義なものは映畫である」と言ったレーニンの言葉を味っても十分に頷けられ得る事であらう。即ちロシアに於ける映畫政策は八萬五千人の映畫勞働者によって最高能力が發揮され、その社會的任務も想像外に重要な位置を占めるに到ってゐるのである。
一體、宣傳手段として、映畫程、浸潤性を持ち、廣汎性を持つものはあるまい。例へば、文書による宣傳は文字に親しまぬ者には効果が薄く、演説、演劇なぞ又聴衆觀衆に限りがある。
繪畫は割に一般的ではあるが、これとて靜的である點で感銘の度を一籌、映畫に輸さなければならない。
文字を知らず、論理を明快に解せぬ、知識程度の低い民衆には、文字よりも理窟よりも、彼等の嗜好に關する娯樂を以て、知らず識らずの間に彼等に對する宣傳を遂行しなければならない。然しこの場合、若し彼等に演劇乃至それに類したものを提供せんとするならばそれはその繁瑣な用意に非常な不便を感ずるに違ひない。
然るに映畫では、機械一臺さへあれば即刻如何なる山間僻地へも出掛ける事が出來、更に又その効能の上から言っても、映畫は實景を自由にとり入れ、世界各地の實情を動的に紹介するが故に、演劇その他に比して格段の優越性がある事が認められる。
尚、映畫は機械により製作されるものである爲、演劇より取材表現とも自由でもあり――又百尺竿頭一歩を進めてトーキーの利用となれば、映畫の感銘も幾段か深まる結果ともなってゐる。
以上の如き国内宜傳、大別して政治、教育、工業、産業の宣傳等の外にも、映畫は又他國との交驩、外客誘致の宣傳にも重要な部門を形成してゐるのである。
要するに建國日未だ淺い滿洲國なぞにあっては全力を拳げて對内對外の宣傳に力をつくし、一は國民に自覺を與へる爲に、一は滿洲國を世界に紹介し、その實状を知らしめる爲に、宣傳機關の一部門として、「國營映畫製作」に重要な役目を與へる事は當然な事と謂はなければならない。
序説その二 國策遂行手段としての映畫
映畫が現代に於ける最も有力な宣傳武器となってゐる事は、既に「序説その一」で述べた事であるから茲に再説する事は避けるが、代表的な諸外國に於ては、國家として如何に映畫を利用してゐるか、と言ふ事を一應述べて置き、而して滿洲國に於ても国策遂行手段として映畫の利用さるべき所以を一言したいと考へる。
そもそも映畫に対して國營と言ふ態度を執ったのはソヴェート・ロシヤが初めてであるが、これはソヴェート國家が、いちはやく經濟的、精神的文化の高揚、啓蒙と言ふ重大な任務を、眞先に映畫に負はさうとしたからで、如何にロシアが映畫なるものの社會的機能を重要視したかは、その國家草創の時代、即ち政府成立後三箇月の間に既に映畫専門委員會が組織された事で領けられるのである。
ではソヴェート・ロシアはそれとして、他の國に於ては如何なる情勢にあるだらうか。勿論少しでも映畫の驚くべき力を知覺しつゝある國に於ては多かれ少かれ映畫の園營化は論議されてゐる現状である。
先づ獨逸に於ては、最大の映畫コンツェルンである「ウーファ」が、フーゲベルク財閥の手に握られてゐる現在より、より反動的である爲に國營化されんとしてゐるし、又「エメルカ」等は自ら進んで國營化されんとしてゐる情勢である。
斯うした種々なる事實は、獨逸國憲黨の發した「映畫に關する聲明書」中に示されてある言葉、即ち、「……世界大戰の幾年かは、映がが第一級の宣傳的闘爭手段であると言ふ驚歎すべき經驗を吾々に與へた。」と言ふ言葉を考へても分る通り、政府が從來市井に於て製作されてゐた消極的な宣傳教育映畫よりも、もっと強烈な國家としての宣傳乃至教育機關へ猛進せんとする積極策の現れである以外のものではない。
尚、斯うした例證を攀げれば際限はなく、カトリック教徒大會に於ける「映畫的宣傳への積極的進出」の決議があるかと思ふと、獨逸共産黨の「映畫に關する宣言」があるやうに、映畫に對する猛烈な野心は、到る所に、そしてあらゆる分野に徹底化されんとしてゐる現様なのである。
要するに、これらの事實は、一として映畫の持つ力を反證してゐないものではない。そもそも映畫は、これ迄商人に依って甚しく無責任に利用されてゐたものであって、主として映畫は彼等の金儲け的利害にのみ奉仕してゐたと言ってよいのみでなく、斯うした利害だけを考へる人々の手中に完全に掌握されてゐた爲、映畫獨自の表現方法を發展させ、意識させようとする可能性は奪はれてゐたのである。
それが今、漸く新しい見方で檢討され、社會に對して重要な文化的使命を帶びるものとして完成せられんとしつゝある。
即ち、事實を示して知性に訴へんとするもの、挿話的な構成に依て情操に訴へんとするもの――前者が記録映畫、學術映畫、工産業乃至經濟紹介映畫等々の「文化映畫」となり、後者があらゆる「教化、宣傳映畫」となるのである。この二つの行き道こそ映畫が新しい時代の積極的建設に奉仕する爲誕生した、溌剌たる新生命でなくてはならない。
要するに滿洲國にあっても、廣汎な版圖と蒙昧な民衆を持ち、それに對して王道主義的イデオロギイの普遍、新國家政治の普及等、國民の自覺を促すと共に、種々なる文化的教育を施すべきは焦眉の急務として要求されてゐる。若しも映畫が、國家の指導下に、その意志を具現して製作され、それが國家の力によって傳播されたならば、その効は最も期待すべきものであるだらう。
一體滿洲國の民衆は、知識程度はどうしても一般外國人に比して低く、或ひは簡單なスローガン又はポスターによって十分効果を収め得る場合に於ても、その意の那邊にあるかを察する事の出來ないと言ふやうな事情にある。この場合の映畫の使命は、視覺に訴へて興味的な説明を現實的な行爲で以て見せる點に於て前者の及ばぎるを補って餘りある。
故に、若し映畫が獨特な機械的技巧を以て、現在民衆の現實生活に即した内容を巧みに統制して提供したならば、それはあらゆる階級一般農工民及び女子幼年に對しても、容易に啓蒙の役目を果し得るに違ひない譯である。
ジョセフ・フリーマンは”Movies in Soviet Russia”の中で次のやうに言ってゐる。「映畫は詩や小説や演劇によっては動かすに困難な幾百萬の勞働者、農民大衆に完全に働きかけ得る藝術である。廣大な土地を持ち、その文化水準は種々異って居り、そのあるものは全く原始的でさへあるロシアのやうな國にあっては、總ての人間に近づき得るやうな藝術が何より必要であり、そして映畫がその重要な地位を占めてゐるのである」と。
兎も角、滿洲國に於ても、自らは建國の基礎をかため、併せて三千萬民衆の福利を増進する爲に、前述のやうな先進國の例にならって、映畫を國策遂行の一手段として動員する事は最も適切な處置であるとされなければならないと考へる。
本論 滿洲國に翹望する映畫政策
第一章 國營映畫製作機關の樹立へ
滿洲國として映畫總動員の決して理想論であり得ない譯は、蕪雜な一文ながら前掲の「序説」に於て述べた心算である。
ソヴェート・ロシアに於ては、映畫事業は一切國家に移されて、他の諸事業と同様、「映畫化五箇年計畫」が實行されてゐる。即ち、図營映畫事業の組織は、国立全聯邦映畫寫眞統一局(ソユーヅ・キノ)なる本體の下に、全聯邦の映畫製作機關、配給販賣機關、映畫機械製作、寫眞化學工業の經營、映畫關係者養成機關等が統轄され、事業は最高國民經濟會議の計畫的産業の一として、相當な収益をあげつつある。
然し滿洲國としては勿論これを踏襲しなければならぬ道理はなく、たゞ希望されるものは、政府内にその一機關として國策遂行映畫の製作、そしてその完全な配給機關の樹立さへ實現されゝば、本質的な目的は達せられたものと言っていゝのである。
畢竟、映畫を國家の事業とする事は、言ふ迄もなく國家の宣傳武器として、理想的に指導性を持ち、徹底的に組織化する事を期する爲であるが、尚、滿洲國の如き、廣汎な版圖内にあっては、國家の事業としない限りは全國的の映畫化は全く不可能な状態である。よし外國資本の自由投資に委せたとしても、それは商業主義の上に立脚するものである以上、決して國家當局の期待してゐる結果を招來するものではない。
満洲國とソヴェート・ロシアは、建国の礎を固める點で全く同一軌上に在り、尚、彼等は力強い一日の先行者である。依って我々は事毎に彼等の業績を参考にし、咀嚼してゆく必要を認めるのであるが、次に一應ソヴェート・ロシアに於ける國營映畫の發展過程を檢討してみる必要があると考へる。
ロシアの國營映畫は、大戰内亂を通じてすっかり荒廃し盡した小さな一映畫工場の中から誕生した。彼等はあらゆる忍苦に耐え、諸外國との經濟絶縁等の嵐の中をも突き切って一路目的の映畫政策に邁進した。この苦闘時代の製作は、極めて貧弱な條件しか許されなかった爲主として製作品は記録、宣傳の短篇映畫に限られてゐたらしい。
然しこの時代に作られた何十萬メートルの生々しい記録フィルムが現在に到ってどれだけの社會的、文化的の價値を呼んでゐるか、それは意想外であると言はれてゐる。
又、宣傳映畫もこれに竝行して多數製作された。傾向、迫力、熱情、意識的な單純化――わかり易い方法で新しい主題が、盛にもられた。そして次に挿話が潤色され、ともすれば陥入りがちな退屈さから救はれる事になっていった。これは撮影其他のメカニカル・テクニックの驚くべき發達を促す事にもなったのである。斯くして、ソヴェート・ロシア映畫十年間の遅延は、總て建設時代の感激と熱情によって、僅か三四年の中に列國に追ひつき、そして忽ち追ひ越して了ふ迄に發達した。
軈て、映畫上映機關の急進的建設が始った。約三年間の中に二千以上の上映設備が簡單に勞働者クラブの中に設けられた。そして此の極めて有功な映書網は、日々驚くべき發展を遂げ、從って映畫上映の回數、觀客衆も急昇騰した。尚、このクラブ利用と相俟って、商業的映畫館の發達もめざましかった事も注意しなければならない。
| 一九二五年 | 一九二七年 |
商業的映畫館 勞働者クラブ映畫館 | 六五〇 六四七 | 一四九一 一七八八 |
この映畫網の増大と共に、製作機關も約十箇所に増加された。撮影組織も大規模にされて簡單な記録、科學映畫なぞの類は、個々の小都市に於てすら、どしどし各自に製作される程になった。
尚、一九二九年度よりは映畫化五箇年計畫が實行される事になり、
| 一九二九年 | 一九三〇年 | 一九三一年 |
都市 農村 | 五三〇〇 六七〇〇 | 五七〇〇 一五〇〇〇 | 六八〇〇 三〇〇〇〇 |
の數字が豫定され、大體に於て實行される好結果を示してゐるさうで、一九三二年末の五箇年計畫の完成時には、總數六九五〇〇が意氣込まれてゐると稱されてゐる。そしてこれと共に地方各中心都市にある總ての集團農場のクラブと言ふクラブが撮影所化される計畫だと言ふ。
叉、茲に最も注意さるべきは「ODSK」と略稱される移動映畫隊の活躍で、これは一九二五年組織された時、既に二千隊の設備があったと記録されてゐる。彼等は遠隔の地氷海、ツンドラ、コーカサスに迄、映畫を持ち込んで農村及各地方住民に任務を遂行した。要するに特殊な使命を以て生れたソヴェート國營映畫の指導精紳は殆んど全體的に言ってこの移動映畫隊と各村クラブの小映寫場によって、一億四千萬の國民の體内に血液となって流れ込みつゝあるのである。
要するに滿洲國にあっても、その性質上主體となるものは移動映畫隊になるであらう。彼等ぼ網の如く未開の地域に這入り込んで、文盲に封する闘爭、政治、經濟的啓蒙を行はなければならない。
ソヴェート・ロシアに於けるこの移動映畫隊數は、現在三千以上に迄達して居り、彼等は一箇月の間に約二十箇村を訪れ、その一回が終了すると、又別の映畫を選んで巡回する。
巡回映畫會 | 一日平均一回乃至二回、休日を除いた二十日間に約三十回開催 |
見物人 | 一日一回百人、一日二回百五十人、一箇月平均三千人 |
収支決算 | (一箇月の計算、單位ルーブル) |
収入 | 入場料 | 二一〇(一興行一〇・五ルーブル) |
支出 | 映畫賃借料 | 七五 |
| 技師手當 | 四五 |
| 運賃 | 四〇 |
| 映寫用光源 | 一〇 |
| 會場料 | 二〇 |
| 償却資金 | 一八・五 |
| 合計 | 二〇八・五 |
純益 | | 一・五 |
この成績は、農村に於ける映畫普及の決して不可能的事業でない事を實證してゐる。政府は各巡回映畫隊の自覺によって、莫大な負擔から逃れ得てゐるのである。又、一般民衆が、はたして斯くの如き映畫隊の映畫を支持するものであらうかと言ふ心配は、實際的に言って杞憂であって、それは現に彼等が引續き非常な勢で、それ等の映畫を要求してゐる事で證明されてゐる。勿論、映畫製作者側としても、絶えす彼等の意見「どんな映畫を見たいか?」は質問してゐるのであって、それによって民衆の嗜好と聯絡は十分にとってゐるのである。
以上は、ソヴェート・ロシアの實例を参考迄に要録したのであるが、滿洲國の映畫政策にも他山の石として學びとらなければならぬ、種々なる教示が含まれてゐると考へられないであらうか。
國策遂行の爲に映畫の利用、その指導的な映畫を作り、統制ある配給を爲す爲に國營が必然的であること。斯くして我々は當然滿洲國に國營映畫製作機關の樹立を待望せずにはをられないのである。即ち我々は斯く叫ぶ、
「映畫を三千萬民衆の味方にせよ! 映畫を彼等の知識の泉にせよ!」と。
第二章 滿洲國映畫の製作方法論
然らば次に、我々は、試みられんとする滿洲國映畫の製作が、如何なる方針の下に、如何なる方法で以て、爲さるべきかと言ふ問題に就き考慮を拂ふ必要に迫られてくるであらうと考へる。
即ち方針としては、言ふ迄もなく、教化、並びに新國家意識の宣傳ではあるが、(國外宣傳は此の場合附随的事業として暫く措く)製作態度としては、あくまで通俗的である事と、實生活的である事と、娯樂的價値のある事を必要とする。
難解な學理を高尚な表現で示すならば、敢て印刷術を捨てる必要はない。映畫は、殊に民衆の啓蒙を心掛ける映畫は、可及的に分りやすくと言ふ事を建前としなければならない。
又、實生活的であると言ふ事は映畫に依って民衆の――つまり彼等の生活を再現してやると言ふ事で、民衆はそれによって、非常に明瞭に自分達の生活環境を客觀視する事が出來るのである。
これはロシアに於ては「事實の確認」と稱せられて、映畫の持つ使命の最も大切なものゝ一つにされてゐる。即ちエス・トレチャコフは「映畫は我々自身がその主人公としてこの建設されつゝある土地を眺めまはす大きな窓の役をなすものでなければならぬ」と言ってゐる。
事實、彼等民衆の生活から遊離した映畫が何になるであらう。民衆は躍る映寫幕面に彼等自身を、彼等の父母を、彼等の同胞を眺めなければならない。無意識的な反省――それが映畫の重要な指導性になる事は勿論である。
次に娯樂的價値であるが、これに就ては全露映畫會議に於けるルナチルスキイの演説中の言葉を引用するのが最も便利であらう。即ち「人々は、映畫が娯樂手段として大部分の大衆から受け容れられてゐるのだと言ふ事を忘れてはならない。見物人たちが活動小屋にやって來るのは、その好奇心を滿足させたいからである。
若しも我々が彼等のこの氣持を滿足させてやらないで、反對に退屈な話ばかり持ちかけたならば、彼等はそれを拒否するか、でなければ、何の興味もなしに聞き流して了ふであらう。それ故娯樂とイデオロギイとを統一せしめる事が絶えず試みられなければならぬのである。だが勿論、観客の趣味に奴隷的に追從する事ではない。そんな事をすれば、映畫の藝術的發展の道はふさがれて了ふ筈である。」
全く、如何なる人と雖も、論文のやうな映畫よりは冒險映畫や其他の肩の凝らない映畫を見たがるものである。まして知識程度の低い大衆が、娯樂的興味なしに映畫を受け容れやう筈はない。
この意味に於て、映畫政策者は、ソヴェート・ロシアの映畫「装甲艦ポチェムキン」を、理想的な作品として擧げてゐる。即ちこれは彼等下級民衆の姿であり、そして誰の血をも思はず知らず湧き立たせずにはをかぬ作品だからと言ふ。
又、同じくロシアの映畫「罪の村」は、戀愛を主題にはしてゐるが、その全部を通じて實に巧みに農村の公共生活、兒童保護事業に於ける婦人の地位を説明してゐると言ったやうに、ロシアに於ては總ての作品が極く分り易く面白く最も重要な國家イデオロギイの解説に從ってゐるとの事である。
斯くして、滿洲國當局の心掛けなければならぬ映畫も、又方針、態度とも當然前述のやうに決定さるべきだと思はれるが、茲に注意すべきは、志される映畫は如何なる場合と雖も満洲國と言ふ特殊的觀念をあらゆる點に於て忘れてはならない事、次に、映畫に一種特別な性能を與へなければならぬ事である。
即ち、後者の意味は、ただ單に映畫を娯樂として民衆に與へるだけではなく、これを以て、現在滿洲國建設と言ふ歴史的大事業を遂行しつゝある建設者と、協力者と、そして一般國民大衆に對して泉の如き闘士と、新鮮なエナアジイを補給するものとしなければならぬと言ふ事である。
大體に於て映畫は慰安の時間に供されるものであるから觀覧者の休息にならなければならぬ事は當然であるが、それと共に又一面スポオツマンに對するレモンの一片の如く精力を補給し、又怠惰安易に流れんとする人間本來の精神に對して、カンフルの如く強い刺戟劑ともならなければならない。
要するに「映畫を民衆へ」と言ふ事は一面から言へば映畫に依って民衆に喜びを與へそして力を與へる事でもなければならない。
扱、次に、然らば、以上の如き方針、態度の下に、如何なる映畫が如何なる方法で製作さるべきであらうか。
レーニンは、映畫の社會的任務の領域を三つに分けてソヴェート映畫の行手を示してゐるが、それによると、
1.教化的効果のある日常記録
2.科學及び技術の諸問題に於ける公衆的實物教授
3.觀念(思想)の藝術的な宣傳
となつてゐる。
これは前述「國策遂行手段としての映畫」の中で既にふれてゐる事であるから、くりかへし茲に詳説する煩を避けるが、大體この三つの範疇で、國家當局で製作さるべき映畫の方向も説明され盡してゐると考へる。
では、これ等の映畫は如何に製作さるべきであるか。それは次の如く答へられなければならぬ。最も内容を、そして觀點を効果的に表現する様式に――。
記録映畫には記録映畫の、學術映畫には學術映畫の獨自の行き方がある。ロシアに於ける記録映畫製作の天才エスタア・シュープの作品を見よ、と人は言ふ。
彼女の手腕によれば、日常のくだらない出來事の片々がとても役なぞに立ちさうもないお役所用の撮影が、論争の火と純粋な感動とを燃え立たせる素晴しい一篇の映書にまとめ上げられてゐると言ふ。
例へば「ロマノフ王朝の浚落」に於て、倉庫の隅から拾ひ上げられてきた海軍士官と一緒にダンスで夢中になってゐる王女達の額をしたゝる汗の場面と、全く別の所から持って來られた、耕作に苦役する百姓達の汗の場面とが組み合はされて、それが素晴しい感銘を盛り上げてゐると言ったふうに。又、學術映畫に於ても事象的な態度と、モンタージュの妙味によって、ロシア映畫は獨自な境地を作り出す事に成功してゐる。
次に3の宣傳映畫であるが、これには次の事が考へられなければならぬ。即ち、「宣傳」を表に現はすか現はさないか。DNVPの「映畫に關する宣言」には、「作者の意圖を拳骨大にさらけ出した傾向映畫が効果あるとは信じられない。最もよき宣傳効果を期待する爲には、最高の藝術的手腕が必要である」とのべられてゐるが、一考の價値があるとは信じられないであらうか。
即ち、宣傳が宣傳として、煽動が煽動として、大衆に與へられる時よりも、その宣傳されるものが識らず知らず自發的に大衆の胸に湧き上る時の方が、効果は遥に強いとされなければならぬ。宣傳として大衆の前に突き出されたものは、所詮、宣傳としてしか受け容れられない。この意味に於て、宣傳は極めて巧みにカモフラーヂされなければならぬ。つまり、映畫が賞讃さるべき藝術形式を以て、なほ宣傳効果を失はないならば、それに越した成功はないと言はなければならない譯なのである。
又、トレチャコフは言ふ「人間を鼓舞することゝ何等かの具體的な事實を示し乍ら、それによって人間の氣持を昂揚せしめること――これこそ立派な藝術である」と。確に斯うした藝術意識が確實に掌握された時、製作者の腕には期待すべき宣傳映書がもたらされるであらう。
要するに滿洲國當局の映畫製作者は、先づその製作に當って、
1.素材 何が示さるべきか
2.構成 如何にそれが示さるべきか
3.目的(機能) 何の爲にそれが示さるべきか
を慎重に考究し、必要な社會的効果をあげるのに最も適した材料をえらびあげ、そしてそれを表現するのに最も適した技術的手段を採用するのが任務である。
滿洲國が、斯くしてその獨得な映畫を製作しようとするその前途にまちかまへてゐるものは、數かぎりない「苦難」であらうが、そのすべてを踏み越えて、一路建設への協力者として、その輝かしい任務を達成する事を筆者は衷心より翹望してやまない次第なのである。
あとがき――私はこの續稿として、「滿洲國映畫班組織私案」及び「映畫による國外宣傳の急務」の二稿を追て發表したく思ってゐる。甚だ蕪雜な文章ながら、讀者の清鑑を得ば幸ひである。
注)句読点は補ったところがあります。
注)冒頭に章題目次がありますが割愛しています。
「ハツピイ・エンド要求論その他」
「満洲映画」 1938.04. (昭和13年4月) より
1
アンドレ・モオロアならずとも、私は映畫にハッピイ・エンドを要求する。この國では庶民の生活をリアリステックに描出することが藝術的だとして賞讃されてゐる。小津安二郎は小市民の暗鬱を鋭く決出することに依って名監督の榮譽を贏ち得た。だが現實を刻明にフィルムに再現するだけならば、私はさほどに困難な仕事だとは思はないがどうであらう。まこと「限りなき前進」は良心的な作品ではあった。
營々として人生の大半を會社に捧げ盡した老社員の晩年が冷酷に曝露されてあった。だが、私はこの現實に徹した映畫を觀終って、この映畫の存在理由を懐疑したのである。私が一日の勞苦の後で更に映畫館に足をはこんだのは、私たちの將來を改めて指差し示してもらふ爲であったのだらうか。私は思ふ、この映畫の觀客諸君は、無神經な者か金持でない限り、入場料金で人生の憂鬱を贖って了ったのであると。
以前、同じく小津安二郎作品に「大學よいとこ」と言ふのがあった。私はこの映畫を觀た大學生諸君が、果して如何なる感慨を――ひいては人生觀を持つであらうかと恐怖した。あの頃とは違ひ今日は世の中も變り學生の氣分もあのやうに沈滞したものでないことを欣ぶ氣持も切であるが、あの頃の世情の中であゝした映畫を觀せつけられた學生こそ助からないものではなかったらうか。
兎に角、「愉しき哉保吉君」とは如何なる意味であらうか。我々にとって狂人になる事が愉しいと避難するのであるか、狂人にでもならない限り愉しさは得られないと歎息するのであるか、シナリオ原案を讀んでゐない私には了解出來なかったが、どっちにしても作者のそのやうな觀方が愉しいものである筈はない。
生活の難澁は我々に餘りにも切實である。その現實を、飛び込んだ常設館のスクリーンまでが追ひかける必要がどこにあるのであらうか。
然し、私はともすれば荒唐無稽に陥り易い通俗映畫の惡癖を肯定するものでは勿論ない。主人公は生活の質には聊かも困らないのが通例であり(第一何を生業としてゐるのであるか、その生産面を現した場面は殆んどと言っていゝ程示されてゐない)彼の心勞は戀愛以外にはないのである。失戀の結果外遊したり自殺したりするのがオチである。人間は單に戀愛以外に生活はなきかの如き映畫を、私は民衆の味方とは考へない。
映畫を二十世紀の阿片なりとしたウヰリアム・ハンタアは、現實を遊離した夢物語で以て民衆に眞實を忘却せしめた映畫の魔藥的役割を批判したのであらう。
私は希望したい。映畫よ大衆の實生活に近いものであってくれ。そしてその貧しい生活の中にも愉しさのある事を教へてくれるものであってくれ。今日の疲勞を慰し明日への勇氣を與へるものであってくれ。ジャン・ルノアールの「どん底」はベベルに明日への希望を持たせた事に依って大衆の味方となってゐる。
人生を正面に凝視め映が監督としての自己を見出さんとする小津安二郎の態度は誠實なものであらう。然し彼が更に前進して彼の描く世界の中に光明と愉悦が盛り上げられた時こそ、彼は眞に我等の味方となるであらう。
2
東寶の制作課長は、東寶映畫の制作方針が凡て合理化された組織の下に行はれてゐる爲め百%採算の執れ得ぬ企劃は絶對に避けなければならないのだと威張ってゐる。
私はこの制作課長を――否、さうした「合理化」を天下に憚りなく誇示する東寶を憎み度いのである。彼等の言葉を敷衍すれば、映畫そのものはどんなものでもそれに依って儲かりさへすればいゝと言ふ理屈になるのではなからうか。尠くとも文明國の文化部門を擔當する彼等が、そのやうな經營方針を「我社の特色」として誇りつゝあるとは驚くべき事ではないか。
日活が「人生劇場」を作り「蒼氓」と「裸の町」を作製した事は、東寶制作課長の言の如く「あのやうな企劃は寧ろたやすい事で」又「赤字ではないがたいして儲かってゐない」のかも知れない。又「人生劇場」を企劃した時は日活は破産状態にあった。一か八か損したって同じやうなものだと言ふ肚」だったかも知れない。
然し、それらの映畫は間違ひなく「觀客の先導者」として企劃されたものであり、完成された作品はこの國の映畫水準を高め、映畫人のプライドを高からしめ、大衆の觀賞レヴェルまで引上げしめる等この國の文化に寄與するところは大きかったのだ。
東寶よ、文化の尖兵が血みどろに開拓して行った後方を徒に「觀客に追随」する低調な企劃を以て「我社の特色」と空嘯く耻なき態度を反省したらどうか。
3
滿映の劇映畫第一回作品が出るさうである。設備萬端整はぬ現在としては大作を期待するのは無理であらう。
山内業務部長に依ると、滿映の製作プランは國内用として興行用、非興行用(文化映畫)、國外用として販賣用、興行用、宣傳用であって、現在の急務として滿人大衆向き劇映畫の作製に力を注がれるとのこと、ゆくゆくは廣範圍な優秀作品がヱクランを飾ることにならう。要するに滿映の誕生を天下に證明するのは作品以外にはないのであるから、近い將來に素晴しい傑作を作ってもらはなければならない。
滿映の作品は滿洲國文化の批評對象にもなるであらうし、列國に對する滿洲國顕揚の手段ともなるであらうから、民間企業會社で採算のとれない仕事でも堂々と手がつけられる筈であるし又凡ゆる政府の援助が約束されてゐる筈である。スタッフさへ揃へば前人未到の映畫が作製し得られる理屈である。
最近東和商事が「東洋平和の道」を作製してゐるが如何なるものであらうか。今のところ豫測は許さぬが、その努力は高く買はるべきではなからうか。滿映は將來に期する所ありとはいへ、その第一歩に於て一個人會社の作品と輸贏を競はなければならぬことは皮肉である。
4
清水宏の「風の中の子供」は子供に對する客觀性が賞讃された映畫である。然し私には子供を描いて大人を描かなかった缺點が苦になって人々のやうに映畫に融け込めなかった。それに反してシナリオ「泣蟲小僧」は完全に私を泣かして了った。どうにもならない大人の世界の重壓が子供の上にのしかゝってゆく現實に私は胸をつぶされたのである。この映畫は「風の中の子供」とは對蹠的な作品として完成の日が期待される。
田阪具隆の「五人の斥候兵」は近頃になく日本映畫界を蓆捲した。關係者一同の眞面目さが身上の映畫であったが、この眞面目さが民衆の胸にピタリと合ったのであらう。私は思ふ。日本映畫に最も缺乏してゐる事は眞面目さであると。これは誰の罪であるか。民衆が眞面目な作品を熟愛することは「五人の斥候兵」の成功で明瞭である。私はともすれば觀客を低級扱ひにしたがる映畫企業家たちこそ「低級極まる奴等」だと稱し度い。
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「笈摺の旅―季節的随筆―」
「満洲日報」 1929.09.05 (昭和4年9月5日) より
秋風が吹初めると僕は堪らなく旅に誘はれる。どう言うふ譯だらう。芭蕉の吉野紀行に「旅人と我名呼ばれん初時雨」と言ふ句があるが、僕も多分にその心境を感ずる。一二年前迄、學生時代は、僕は貧し旅行を可成した。文字通り漂々としてあちらこちら出掛けて行った。秋風にうしろから吹かれ、飄旋する落葉のそれのやうに、あてもなく旅に出る氣持は一寸ボヘミアン向くがいゝものだ。
旅は然し秋には限らない。春の旅も(夏の旅は僕はあまりしたいと思はないが)冬の旅も又趣きがあっていゝ。春旅はどこか清新でなごやかだし、冬旅は懐しみ深く心持の暖く蒸れてくるものだ。
僕は、秋は多く山に行った。温泉場だとか寂しい山里だとか。野分が吹いて時雨がさッと草葺の屋根を濡らせて過ぎてゆく。さうした鄙びた景色は行きずりの旅人の印象には忘れられぬ秋のものだ。冬は暖かい所より寒い所がいゝ。一度雪に埋もれた北國の津輕の海近く迄行って、その味を覺えた。その時、行き暮て泊った漁村の旅人宿で、傴僂の藥賣りや、漂泊の寄席藝人の女達と同宿して一夜を潮騒と彼等の廃頽的なさゞめきの爲めに眠られないで送った事は「ひとつ屋に遊女も寝たり――」の句も憶ひ合はされて忘れ難い。
春はどこへ行ってもいい。何處へ行っても溌剌とした愉快だ。だが僕は春はいっそ雜沓の巷に、自分を捨られた子のやうにさまよはすのに趣味を覺えてゐる。僕は度々黄塵の京都に遊んで滿足してゐる。京の春は、都踊紅提灯のともる京の春は、僕には忘れられぬものゝ一つだ。
東京の町は自分の住んでゐる所なので餘り感興を起さない。それに郊外も平凡な氣がする。少し前蒲田に住んでゐた頃、よくスタヂオの連中と、武蔵野をロケーションして歩いたが、六郷河畔をのけ惹きつけられる所はなかったと言っていゝ。それに比べると關西はいゝ。宇治あたりは特別である。尤も僕には珍しいからかも知れない。
温泉場は伊豆だ。あの山かひのいでゆの香は、果物の香と、伊豆娘の肌の香と共に、特徴あって忘れられない。箱根は近代的趣味にはいいが、笈摺を負ふやうな旅には不向きだ。
旅に就いての僕の望みは、用事を持たない限り、極端に漂然と始終したい事だ。汽車や乗物を利用する事は勿論だが、歩ける所はなるべく歩くやうにし、そして疲れればごろりと草にころんで浮雲を眺め又立ち上って歩いてゆく。渇すれば川の水を手で掬って飲み、行き着いた百姓家で一膳の飯を仕度させる。さう言ふやうにして歩いてこそ旅の味は判るやうな氣がする。一本の杖と少しばかりの金さえあれば、持物なぞ外に要らないのだ。大業な旅は僕は一番嫌惡する。
旅! 旅! 僕は逢ふ人毎に恁うした旅の面白味を説く。だが、近頃の若い人達は、多くは旅なぞに趣味を持たぬらしい。僕は時々ひどくそんな事で失望させられる事がある。矢張り旅は、獨りでして、獨りで愉しんでゐればいゝものであるかも知れない――。
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「住めば都か」滿洲に住むよろこび
「協和」 1940.02.01 (昭和15年2月1日) より
私は東海の秀峰下に生れ、お世辭にも滿洲の方が住みよいとはいへない。然し矢張り永年滿洲に生活してゐると故郷への愛着なぞは薄れて了ってゐる。我々は滿洲でそれぞれの環境に應じて「住みよさ」「樂しさ」「生き甲斐」を發見してゐるのである。何が一番樂しいかとの質問には一寸改まって答へられない。私には滿洲で生活することそのことが既に樂しいのである。
(總局愛路課)
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「農村宣傳」雜話
「満洲グラフ」 1939.09. (昭和14年9月) より
前註―愛路宣傳と言ふのは、滿鐵が鐵道警護總隊と合作して、鐡道沿線の民衆に、鐡道の防衛愛護を實行せしめようと言ふ運動、即ち鐡道愛護運動の一部門である愛護思想の普及工作の事である。
愛護宣傳で最も効果的に使はれてゐるのは映畫と演藝である。これならば文字が讀めない相手にでも或程度までは理窟を納得させる事が出來るからである。だが、極端に單純な映畫や演藝でさへ理解されない相手にぶつかるのだから面喰ふ。
例へばスクリーンに汽車が寫る場面がある。その汽車は黒煙を吐きつゝ觀客に向って一直線に驀進して來る。すると觀客席には俄にざわめきが起り、見る間に正面の觀衆は左右に逃げ惑ひ、何と客席には汽車を通すだけの空地が出來て了ふのである。これは嘘のやうな事實である。
斯うした連中には映畫は機械的操作によって生れる幻影ではなくて眞實そのものなのである。だから漫畫映畫なぞはどうしても承知出來ないらしいのである。何故かと言へば漫畫の犬や猫は唄を歌ひ、又は人間と同じやうに歩いたり、ブランコに乗ったりするからである。だから漫畫映畫は極めて不評判である。
風景映畫なぞも、よく當事者たちは、滿洲のやうな無味乾燥な所にゐる住民たちは、日本の明眉な風光を觀せたら喜ぶだらうと考へて、色々用意して行くのであるが、事實は正に反對で、如何なる景色が寫らうと、觀客はいささかも表情を變へないのである。彼等にとっては山は總て單なる山に過ぎず、川は川、木は木に過ぎない――そんなものなら自分たちの部落にもざらにあるのである。
では、どんなものが喜ばれるかと言ふと、先づどたばた喜劇である。撲ったり、轉んだり、ひっくり返ったり、これなら全く抱腹絶倒である。前後の連絡も要らなければ、ひち面倒な理窟もない。無條件に拍手大喝采である。
觀客の中に交って映畫を觀てゐると、
「何だらう!」
「兵だ。歩いてゐる」
とか、
「何だらう?」
「あれは犬だ。何か喰ってる」
なぞと、一カット一カットに就て話をしてゐるのを聞くのであるが、これなぞは場面の連續性なぞには聊も頓着なく、その場その場だけにしか鑑賞眼を働らかせないよい反證である。
又、私は熱河の或る相當な街て實見したのであるが、スクリーンの畫が晴いと矢庭にカンテラをそばに持って行って眺めやうとする觀客のあったのには驚かされた。明くすればもっとよく見えると考へたのであらう。斯ふ言ふ先生たちは、電影なんて何故暗い夜なぞにやって晝間の明い所でやらないだらうかと不思議がりはしやしないかとも考へるのであるが、又一方には第一そんな疑問を抱き得るかどうかさへ分らない氣もする。要するに彼等にとつては眼の前に眞實が現はれて、そしてそれが煙のやうに消えて了ふ映畫は、不可思議千萬な代物なのである。
よくフィルムの紛失するのは、そんな疑問から、先生たちが密かに失敬するのではないかと考へてゐる。といふのは、山間僻地の寒村でフィルムの一卷が、彼等に何の經濟的價値を生み出させよう! それよりも面白いのは紛失したフィルムが一ヶ月もたつとひょっくりと何處からともなく現れて來る事である。いくらひねくりまはしても細長いぺらぺらしたものに過ぎない事を發見した彼等が、疑問を解決する事を斷念して返して寄越したと考へるのが至當ではなからうか。
勿論.民衆の全體がこのやうな程度である譯ではない。全部がこんな風であるならば、宣傳も何もあったものではないのである。
所によると、一人の物知りが聲を張り上げて字幕を讀み上げ、私設辯士を勤めてくれる愉快な事があり、中には愛路映畫を觀た翌日、少年が映畫から受けた感銘をそのまゝに、重大な線路事故を未然に防止したといふ、それこそ宣傳映畫の効果を一〇〇パーセントに生した感激的な事實譚もあるのである。
然し、斯うした宣傳映畫を巡回映寫してまはる現實の勞苦は、以前も現在も、筆舌に盡し難いものがあるのである。觀衆がどんな所でも平均五六百名から一千名は集まるのであるから、會場は戸外に定められる事が多い。四月五月頃の塵風、七月八月の炎暑、冬季の嚴寒、機械も勞はるだけが精一杯で、自分自身の肉體なぞは虐待され通しである。更に自然の脅威に加へて直接匪賊の跳梁がある。
「今晩は匪賊が險惡であるが、歩哨を立てるから映畫をやってくれ」
なぞと警備機關から言はれる事がある。抜身の銃劍に護られ、遠く銃聲を聞き乍ら、機械を回轉させる氣持は何とも言へない悲壯なものだと技士たちは述懐する。
然し、建設線や自動車路線なぞでは、事實匪賊とぶつかる事さヘあるのである。嘗て、哈同線では「今、匪賊は十支里の地點に來てゐる。今八支里、今五支里――」と櫛の齒を引くやうな報告を耳にし乍ら(勿論觀衆には知らさないで)映寫を續行し、たうたう日滿軍の應援が間に合って匪賊を撃退、映畫は無事最後まで映寫し續けたと言ふきはどい實例があり、又、ある時は、映畫班が移動する途中、ばったり匪賊に遭遇し、坂の上から一齊射撃を受け、荷物を放り出して命からがら銃彈下を逃げのびたと言ふ危い綱渡りをした事もある。
然し斯うした命懸けの工作の反面には、田舎の大群から馬鹿々々しい程の歡迎を受けた事や、地方の名家から、××先生と銘を入れた記念の書畫なぞを贈られて感謝され、久し振りに命の洗濯をしたと言ふやうな例も尠くはないのである。
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槍後赤誠 愛路運動の回顧「鐵道愛護團と愛路青少年隊」
「協和」 1939.10.15 (昭和14年10月15日) より
≡1≡
鐵道愛護運動(愛路運動)も六星霜の歴史を重ねた。顧るにこの六年間は感慨深き荊棘の道であった。然もそれは次第に深く嶮しく、ともすれば蹉跌しがちな困難を加へるものであった。草創時代は民衆を把握する事既に極めて難澁な仕事であった。愛路工作は、愛路を説く前に直接匪賊と闘ひ、ついで民衆の反抗や蒙昧と闘った。それは文字通り生命懸けの仕事であった。かくて滿洲は驚くべき速度で平和郷を作り上げた。
勿論愛路運動がその推進力の全部であったといふのでは決してない。軍隊の、そして又多くの人の、多くの運動の犠牲的な努力がその輝かしき業績を築き上げたのであることは言を俟たない。けれど、建國直後の動亂の滿洲に、決然と開始された實際的な文化啓蒙工作が愛路運動の他にあったであらうか。
「王道は鐵道より」のモットーは、單に空虚な掛聲ではなく眞實の収穫を目ざして具體化されたのだ。それは凡ゆる苦難を克服する營々たる血みどろの奮闘であった。かくて建國の壯業にその一翼として率先参加し、而してその輝かしき使命の一端を果し得たと信ずることは、愛路運動に携はった者に許される自負であり矜持であると考へてゐる。
然し、今や滿洲國は堂々たる國家として成長し、内外を整備し得た。そこには必然的な機構組織の調整統合が社會全般に亙って行はれ、愛路運動も自ら進んで幾多の修整を受け、新しき機構の下に舊に倍した意氣と聊かも揺がぬ信念を持って前進することになった。時局は多端、我々の望見する前途には、すさまじい暗雲の低迷がある。
然し我々は身命を賭し、如何なる嵐をも突破し得る決意を抱いてゐる。我々は愛路運動の過去の業績に誇りを持ち、然してそれを齎すべく凡ゆる障害と闘った先輩諸氏に感謝し、尚、我等同志の逞しき精神と肉體を信じ、一路今後の使命達成に邁進する事を誓ひ度いのである。
≡2≡
扨、愛路運動の創始されたのは昭和八年(大同二年)の六月であった。建國直後の擾亂状態の満洲に、交通機關の安全性と秩序ある運行を確立し、國防並治安の完璧を計ることを第一目標とし、軍、滿洲國、鐵道(當時の鐵路總局)の三者合體協議の末、着手されたのであった。
[写真:水害による列車事故未然防止著功勞者(撫順―滴臺驛間)]
即ち鐵道、自動車路、水路の沿線概ね五粁以内の村落を鐵道(又は自動車路、水路)愛護村として、その村民に先づ「匪民分離工作」を施し、進んでは彼等をして各交通路の保全に協力せしめ、一方愛護村地域に各種文化産業工作を實施して、鐵道を通しての國利民福、國防充實の根源を培養せんと試みたのであったが昭和八年十月より昭和九年六月下旬までに國線主要幹線三千七百粁に亙り、設置された愛護村數一千二百七十箇村、包容村民三百五十萬を算するに至った。
昭和十年(康徳二年)に進むと、既に愛護村設定工作も一段落をつげ、舊北鐵線の接収等總局線の飛躍的伸張に伴って、愛路工作も實質整備に力を注いだ。愛路少年隊の結成と模範鐵道愛護村の設置はこの年度から實施されたものである。
昭和十一年(康徳三年)は前年に引續き工作内容の擴充期であり、愛路少年隊の指導訓練も漸く軌道に乗った感があり、既に優秀な隊員達の中からは鐵道從事員として採用される者數百に達する状態であった。模範愛護村も農家組合の創設、共作圃の設定、冬季愛護村塾の開設等、續々農村改革の具現化に努力し、一方愛護村民に對する警備訓練も「一家一人動員演習」等の實施によって遺憾なきを期した。
昭和十二年(康徳四年)に到ると、準戰時體制は強化され愛路工作も文化啓蒙工作より一歩を進めて、愛護村民に對する交通路防護の實力附與に主力を注ぐことになり、軍の指導統制下に「以民護路」の具現化を計り、特に滿洲國保甲及び街村制度に愛護村組織を適合させた。
時恰も日支事變の勃發に際會し、愛路運動も必然的に時局に即應、全面的に交通路の徹底的確保、治安の維持、人心の安定等、銃後國防に最善を盡した。特に、この際、記録すべきは、事變發生直後において、軍事輸送路たる安奉奉山兩線の愛護村民五百萬人(延人員)が、自ら進んで献身的愛路奉仕に當り、日夜線路を護り續けたことで、この愛路報國の赤誠は永く滿洲國歴史に特筆さるべきものと信じて疑はない。尚この年の六月には奉天鐵道局が開設され社線愛路工作も國線に合流、工作上の統一が計られた。
昭和十三年(康徳五年)は愛路運動の機構上に大なる變化のあった年である。即ち治外法權の撤癈に伴って、從來の愛路擔當機關であった鐵道總局警務局が滿洲國に移管され、鐵道警護總隊となったゝめ、愛路運動も、各業務の性質に應じて、滿洲國地方行政機關、鐵道警護總隊、鐡道總局の三者が、それぞれの分野を擔當することになった。然しこれは愛路工作の弱體化を意味するものでは勿論なく、三者の力を併せて、より一層強固なものにせんとする最高方針に基いたものに外ならない。
これらの變革に關聯して、「鐵道愛護村」なる名稱は「鐵道愛護團」と改稱されるに至ったが――(愛護村長は愛護團長に、愛護村民は愛護團員となる)――これは行政上の名稱と混同を避けるためであった。
尚、この外に、從來、鐡道側が實施して來た自動車路、水路の愛路工作も、原則として滿洲國地方行政機關が擔當する事となり、必要ある場合は鐡道側が積極的に協力することゝなった。
[写真:愛護青少年隊の分列式]
このやうな指導機構の變更は、然し、愛路工作には聊かの動揺も與へなかった。引續き軍の統制下に特に青少年隊の訓練強化に務める一方、宣傳宣撫の透徹、防共精神、日滿共同防衛觀念の昂揚に鋭意し、豫期以上の目的を収めたのであった。
昭和十四年(康徳六年)――即ち本年度は既に知悉されてゐる如く、日支事變の第三年、滿蒙國境事件の勃發、更に第二次歐洲大動亂等、容易ならざる國際情勢に伴って、愛路工作も愈々深度を深め既に指導者が民衆に宣傳する時代を揚棄し、民衆が民衆を指導し民衆が民衆に宣傳し、全愛護團員が大きな一團となって、愛路の大使命に突進する時代を造り上げつゝある。
機構上の改革としては、本年三月、滿洲國内における青少年運動が協和會に依って統一されるに際し、愛路少年隊も「鐡道愛護團協和青少年團」として統合改編されたことは特筆しなければならない。尚又、時局に即應する民衆組織工作として愛路地域の自衛團中より暫定的に愛路義勇隊を組織し防衛令下に活躍せしめたことも愛路の使命遂行上極めて有効適切であった事を附言したい。
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[写真:愛護團員の線路復舊修理工事]
滿洲事變と共に活躍を開始した宣撫班を母胎として、愛路運動は以下の如く今日の大を築き上げたのであるが、その推移を觀察すると、そこには大きな成長が窺はれる。工作の最初は瀕死の病人に對する應急手當であった。然しそれは次第に常人に對する靜養法となり健康法となり、今や溌剌たる青年に對する鍛錬法となってきてゐる。愛路運動は國防・開拓鐵路を中心として、しっかり民衆の中に根をおろし、「王道は鐵道より」のモットーを凡ゆる部門において輝かしく實現化しつゝある。
愛路運動の實績に就ては今更茲に喋々しその功を誇示する暇はないが、要するに永續不撓の工作に俟って初めて成果の期待さるべき精神運動が、極めて短時日の中に驚嘆すべき成績を擧げ得てゐることは既に周知の事實である。今や重大時局下において、鐡道の重要性が愈々強調せられてゐる時、全線一萬粁の鐡道は八百萬愛護團員の生ける防壁によって完全に護り通されるに違ひないことを確信してゐる次第である。
注)原文は国立国会図書館デジタルコレクション個人送信(ログイン必要)で公開されています。