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大庭武年 作品小集2

Since: 2024.12.01
Last Update: 2024.12.01
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作品小集1 - - (別ページ)

      目次

      【長篇小説】

  1. 「予告」「作者の言葉として」 (告知) 旧かな旧漢字 2024.12.01
     
  2. 『青春』 (青春小説) 旧かな旧漢字 2024.12.01
     
  3. 「「青春」の後書」 (後書き) 旧かな旧漢字 2024.12.01
     



「予告」
「大連新聞」 1929.07.07 (昭和4年7月7日) より

次回夕刊 新小説豫告
『青春』 大庭武年氏作、新木秀郎氏畫
滿洲文壇に始めて見ゆる
=青年作家の抒情篇=
 目下連載中の小説、壺南翁一郎氏作『群像ラオコン』はその飽迄も敬虔なる宗教思想と該博なる經驗と學識、さては其行文の流麗なる點に於て滿洲文壇稀に見る傑作として讃美諸彦の熱狂的好評裡に終末を告げやうとしてゐるが、本社は更に滿洲に於ける隠れたる年少氣鋭の新人を廣く江湖に紹介する意味に於て、此處に新進、大庭武年氏の長篇小説『青春』なる一篇を八日夕刊より連載するに決定した、壺南翁氏の飽までも内容的なるに比べて本篇は飽迄も優麗、逝いては再び歸らぬ青春を刻す一篇の一大抒情詩の如き氣品をもつ。 然もその内容の清新溌溂たるに加へ、挿繪は本社文藝部洋畫家新木秀郎氏がその奔放にして自由なる筆致をもって描出する筈である。けだし、小説、挿繪ともその名題に相應しき青年作家の手になるものその溌溂として輝ける情熱の迸りは如何に讀者を魅了し去るか、左に作者大庭氏の言葉を紹介しよう。

作者の言葉として
 誰れでも一度は持つ青春。そして誰れでも一度は經驗するであらうその時代の哀歡、苦樂。――それを私は此の小説の題材としたのである。然し青春時代はあくまで人生に於ける『抒情詩』の部分であり、人間本然の純眞、純情が美しく示し出されて一個の價値をなしてゐる時代であるから、私は此の小説に於てはなるべくむつかしい理屈や議論は抜きにしたいと思ってゐる。 ただ私は汚れない眼で若人の心を凝視みつめながら、熱情を以って、一篇の抒情詩を書き綴ってゆきたいのである。幸ひ諸賢の御清鑑を得ば滿足である。――一九二九、六、二九――

注)明らかな誤字誤植は修正しています。


『青春』
「大連新聞夕刊」 1929.07.08〜 (昭和4年7月8日〜) より

新秋序曲(9,11〜14回)/(章題無)(1〜4,10回)/序曲(5〜8回))
 汽車は山北驛を過ぎると、めっきり速力を落して、さも大儀さうに喘ぎ始めた。線路がようやく箱根の急勾配にかゝったのである。
 既に秋風の爽かに吹く九月のなかば過ぎではあったが、ひる中は未だに殘暑が嚴しくて、紺碧に晴れ渡った秋空から、斜にあかあかと照りつける午後の太陽は、旅に疲れた車窓の人達を季節はづれにじっとりと汗ばまし、もの倦い惰怠にいざなってゐた。
 はざま徹三は、肩の凝らぬ輕い讀書にもすっかり倦み飽いて、今はっと窓から移り變る外の景色に眺め入ってゐた。暑さにむれた微風が睡魔の掌のやうに彼の頬を撫ぜて行く――。
 實際この温氣と、調子ののろいモノトナスな車輪のリズムとは退屈そのものだった。ほゞ滿員に近い此の三等客車の客達も、大部分はいずれも睡氣をそゝられて、各自勝手な姿勢をりながら、放肆な假睡か睡りこけてゐるのである。
 徹三も可成り疲れてゐた。彼は前日早朝に、山口縣のY市を立って、夜は大阪に着いて一泊したが今日は再び東京迄の長い町場ちょうば(※ママ)を汽車に揺られて來てゐるのである。
 然し徹三は、きはめてきちんとした身だしなみをしてゐた。彼はこの暑さに上衣のボタンさへはずさずにゐるのである。それは彼のだらしなさを嫌ふ性質からでもあったが、又ひとつは彼と向ひ合はせのシイトに虔ましく坐ってゐる若い女性に對しての遠慮もあったのである。
 見知らぬ女の人なぞに拘泥こだわらなくてもいゝとは思ひながら、さすがに大學生の制服をつけた徹三は、暑さに負けただらしない格構なぞは執りたくなかったのである。
 ――既に車窓からは富士の秀峰は目近な箱根の連山に遮り隠されて見えず、唯重疊した黒い山の肌か草木の陰影に色彩られながら、見る見る目の先迄迫って來たり、或ひは遠く彼方に遠ざかったりしてゐた。時折列車が細長い切り通しに這入ると、線路の傍を掠め過ぎる芒の生えた丘なぞが、サっと影を車窓に投げかけて、あたりを急に涼しくさせたりする。
 だが、さうした樹や丘や山や、そして谿や川や田畠や、目まぐるしく入れ交って後に過ぎてゆく山峡の車窓風景は、幾度か見なれたものではあったが、いくらか徹三の退屈した瞳を慰めるに役立ってゐるのだった。
 ――開墾された線路の近くには水田が段階をなして作られてある所があった。そしてそれには稲が美しく丈高く延びて、時折渡る微風に柔かく波打ってゐる。又、列車の車輪の響きを通しては、畦から畦に清冽に流れる清水のせゝらぎも、水草の蔭で怐(※?)げに鳴く蛙の聲も、或ひは木立の幹にかしましく鳴き立てる蜩の聲も、澄明な秋の山中の氣をすうッと感じさせる程、快よく自然に聞えてきてゐた……。
 徹三はうした景色を見ながらいつの間にか頻りと東京の事を考へ始めてゐた。飛び出すやうにして來た故郷Y市の、不愉快な祖母や頑迷な伯父の事なぞは、今は憂鬱感を通り越して見向きもしたくない程の氣持だった。たゞ東京が一途に親み可懐なつかしまれ、そこに刻一刻と近づいてゆく事が、たまらない歡びだった。
 東京! おゝそこには仲の良い友達が明るい微笑で待ち構えてゐてくれる。いや東京迄行かずとも既に程近い國府津には、自分を出迎へてくれる筈の戀人の、なよやかな兩腕が、優しい抱擁の爲めに擴げられてゐる。
 何と言ふ幸福だ!
 何と言ふ歡びだ!
 徹三は、考へる毎に泉のやうに胸の底から湧きあがってくる感激を、奥齒の間に甘く堅く噛みしめるのだった。
 それにしても、徹三がこんなに長い間、友達に離れ、東京に離れてゐた事はなかったのである。或ひは、七月の末頃から今日に至る期間は。日數にしてみれば必ずしも長いものではなかったかも知れないが、ただ徹三がその日子を憂鬱な不快な郷里の家で過ごすと言ふ事だけで、彼にはそれが堪まらない長い間に思ひ做されたのだった。
勿論ほんの形式だけは、一時學生たちと同じやうに、毎年の大學の暑中休暇には歸省する慣例ではあったが、それが今年は遂こんなに長くなって了った。その原因も徹三にはひとつとして愉快に思はれる事はなかったのだった。
 然し、今日こそ、恁うした不快な記憶はさらりと捨て去る事が出來る日なのである!

 ――汽車の進行は極度にたどたどしくなってきた。漸く峠の頂上らしかった。窓から見る風景は、パノラマを俯瞰するやうに眼下に展開され、酒匂川の潺々せんせんの流れは遥か下の谿底に飛沫をあげてゐる。徹三は思はずこの壯快な景色にみとれてゐた……。
 やがて汽笛が前部と後部の兩機關車から相呼應あいこおうして鳴った。と、次は全く下り坂になったらしかった。車輪の回轉はにわかに急速度に改まって、列車は放れた駒のやうに勢ひよく、滑らかなレールの上を滑り始めた。
 第一のトンネルがうっかりしてゐる車室を眞暗に包んだ。先程より點ってゐた黄色な電燈がぼんやり室内に輝いた。惰眠してゐた多くの人達は、突然の音響におどろいて半身をもたげて、慌て窓を閉めたりした。
 徹三はトンネルに入る一瞬前に氣附いたので、つと手を延ばして窓に手をかけたが、その時、前に座った娘も同時に手を延ばしてきてゐて、期せず二人は突差に同じ窓を二人して閉め終った。二人は暗くなった室の中で一寸眸を合はせたのが、娘は戸惑ひしたやうな目つきをして、すぐ眞暗なトンネルの中に視線を外らして了った。
 列車は間もなく轟々とトンネルを通過した。窓ガラスにかゝった煙が吸はれるやうに晴れると、外の青々した山の風景が吃驚びっくりする程綺麗に見渡された。と又、列車は闇の中に突進した。人々はハンカチを口にあてたり、新聞紙で顏を覆ったりして、むっとしたトンネル内の不快な空気を避けやうとした。今度は可成り長いトンネルだった。列車はいつ迄も闇の中をはしってゐる。
 徹三は眸を移して薄暗い中に前の娘の横顏を見た。ハンカチを輕く口元にあてゝ熟と窓外を瞠めてゐる彼女の白い細面は、白い花のやうにあたりから浮き出してゐた。
 徹三は彼女を美しいと思った。
 そしてその睫毛の長い哀婉な眼差のあたりを、ふと、あくまで明るく輝いた戀人のそれと思ひ較べてみたりした。
 ――徹三の前に坐ったこの女性は歳の頃は十九か二十か、如何にもをとなしやかな娘だった。
 彼女は靜岡から一人で乗ったのだったが、持物は小さなメリンスの風呂敷包と、都會風なパラソルより外何もなかった。いづれ東京から一寸した用事で、靜岡迄出掛けて行った、その歸りでもあらうと思はれた。
 髪は女學生あがりのやうな簡單なひっつめで、耳の所の毛を揃へて少しカットしてゐた。そんなところが華美造りでない彼女の顏を、ぐっとインテリヂェントな美しさに引き立たせてゐた。其の外、服装なぞも彼女は目立たない模様の銘仙を着てゐたが、それがしっくり彼女の身についてゐて、かへって落ちついたおとなしい山手風の趣味を思はせた。 恁うしたすべての風采が如何いかにも智的に垢抜けしてゐる所から、又はあく迄注意深くきちんと身だしなみされてゐる所から、一見して彼女が都會の良家の子女である事が裏書されてゐるやうだった。
 徹三は又、彼女の處女らしい謹み深さにも、人づれしてゐない内氣さうな容子にもある好ましさを感じてゐた。彼女は何時徹三が讀書から眸をあげて彼女の方を見ても、常に體を堅くさせて窓の外を眺めてゐるか、又さうでない時は彼と同じやうに讀書してゐた。 靜岡から沼津、沼津から山北と、長い時間が經つうちにも、彼女は少しも態度を崩さず、徹三に對しても一度として眞面まおもてから視線を送るやうな事をしなかった。徹三はそれを何となく物足りなく思ひながらその反面、彼女の虔しさに好意を持たずにはゐられなかったのだった。
 然し、徹三はひょっとしたら彼女は病身なのではなからうかと思った。その美しい顏の線の細さが、その顏色の澄んだ冷たさが、そして華奢な體つきが、指の細さが――なにかそれを思はせた。そしてそれは又徹三の心に同情に似た哀憫あいびんの情を興させてゐたのだった。
 ――汽車はやっと總てのトンネルを抜け終った。人達は爭って窓を開け放ち、室内に外の新鮮な空氣を導き入れた。徹三も冷たく流れ入ってくる空氣の中に、ゆっくり煙草を一服吸ひつけて、さて愈々今度は下車だ、と心の用意をした。――徹三の豫定では、同じ今日の中に東京に歸るにしても、兎に角一旦此の汽車からは國府津で下りて、約束通り戀人と其處そこで落ち合ふ心算だったのである。

 徹三さま。
 お手紙拜見致しました。私どんなにうれしかったでせう。やっとやっと御上京なさいますのね。私すっかりしびれを切らしてゐたんですもの、とびあがる位喜びました。お察し下さい。
 それからね、徹三さもの御上京なさる日は二十日でせう。日曜日ですわね。私、それで都合さへよければ、大磯迄お迎へに出たいと思ってゐますのよ。ママさんには別莊に遊びに行ってくると言って出るつもりですから、かねやは連れて行かなければなりません。でもかねやには遠慮はいらないからかまはないでせう。
 徹三さまのお汽車が急行ならば私國府津迄出てゐてもいいと思ってゐます。(作者註――大磯は小驛で急行は止まらない。)時間がお決まりになったら、すぐ知らせて下さいませ。
 私は大磯にしても國府津にしても驛のプラットホームに出て待ってゐますから、私を見つけになったら、汽車からおりて下さいませ。
 私ひとりで勝手にきめていゝかどうか知れませんけれど、私出來る事なら御一維に、大磯の海岸でも散歩したいと思ってゐますのよ。勿論國府津だっていいんです。お久しぶりでゆっくりお目にかゝったり、色々お話もしたりしたいんですもの。東京ではとても大磯程ゆっくりも出來ませんし、落ちつけもしませんわ。
 それから、もし又、途中でお降りになって、一汽車遅らせる事が御都合に惡いやうでしたら、私も徹三さまの汽車に乗って、その儘御一緒に東京に歸って來ても結構ですの。どちらでも私いゝんですのよ。私どちらでもいゝ用意をして待ってをります。
 この御手紙は、お郷里にゐらっしゃる徹三さまに私から差上げる一番おしまひのお手紙になるだらうと思ひます。でも今日はこれぐらゐで切りあげる事にします。
 だってもう四五日の裡には、お眼にかゝれると思ふと、胸がどきどきして、うまく書きたい事も書けないんですもの。それに何だか書きたいと思ってゐる事を、みんな書いてしまっては、お逢ひした時に何もお話する事がなくなって了って困るといけないと思ひますもの。
 では、お汽車の時間をお知らせ下さいまし。そしてなるべく私たちに都合のいゝお汽車をえらんで下さいまし。あら、勝手ばかり言って御免なさい。
 一番おしまひにね、私心配になる事がひとつあるのです。それは私この夏すっかり色が黒くなってしまったんです。毎日大磯の海でお轉婆してゐたものですから、それでもしかしたら、停車場のプラットホームで、あなたには見つからないかも分んないと云ふ事です。私それが心配です。でももう黒くなって了った後ですからどうにも仕方はない、その時は私の方から徹三さまを探し出して、お聲をかけやうと思っております。
 まあ、お喋りが長くなりました。それではお機嫌よろしう。この四五日をお待ちなさるやうに。
オ、ルヴォア  
  船原かつ子 
 九月十五日夜
×  ×  ×
 徹三は、上衣の内ポケットの中に、恰度ちょうど自分の心臟の上にぴったり押しあてゝ持ってゐたやうな、戀人からの手紙を出して、斯うした文面を、前にゐる女性に、――もっとも彼女は決してこちらを伺ふやうな事をしないから隠し立てする必要はないのだったが、それでも何か氣を兼ねながら、今、もう一度讀んでみた。
 何度讀んでも微笑ほほえまされてくる書きぶりだった。黒く生々したナイブな瞳と、ぽっちり子供のやうに盛あがった唇と、小猫のやうな惡戯いたずら氣と怜悧さとをもった、快活な十八歳の女學生の生地が、そっくりそのまゝまる出しになって浮んで出てゐる手紙だった。遠慮も技巧も、懸け引きもない、たゞ思ふままの、子供のやうな心が躍如と跳ってゐる文面だった。 それにしても何と隙のない書き方だらう。ペンを執った瞬間にさらさらと書き流したやうな手紙でありながらそこにはあらゆる彼女の感情が、そして約束に就ての依細がぬかりなく述べつくされてゐる。然も全面は秋空のやうに明澄でいささかの陰影もない。
 徹三は、恰度小學校の先生が自分を慕ふ女生徒を抱きあげて、その無邪氣な頬にキスを與へてやる時のやうな愛撫慾を此の手紙から感じ、ひどく朗かな愉快さを感じたのだった。

 それで、徹三はかつ子の言葉通りに、なるべく彼女に都合のよささうな汽車を、大阪から立つ時に擇んで乗る事にした。そして、あらかじめ決めたその汽車の時間は、彼が故郷のY市を立つ前々日に彼女の許に通知して置いた。然し、都合のいい汽車と言っても、あいにく數の少ない急行列車の中では、午前七時半に大阪を立って、午後の五時に國府津に着くと言ふ列車より外に、ひとつもなかった。他はみな朝早くか夜遅くかになるものばかりだった。 しかも午後の五時と言へば、秋の日は既に黄昏れであらうし、或ひは彼女にとっては、必らずしも都合のいゝ時間とは言はれないかも知れなかった。然し徹三はそれより他に仕方はなかったので、そのよしをかつ子に告げ、なるべくかつ子の方の都合を融通してほしい旨を書き添えた。徹三にしても折角のこの機會を無駄に逃したくはなかったのだった。
 それで萬事がうまく行って、その上もし都合がついたならば、ほんの一時間かそこら、國府津で遊んで、次の六時何分かの普通列車で一緒に東京に歸へらう。都合が惡ければ彼女の手紙にも書いてあったやうに、國府津からそのまま彼女を伴って、此の汽車で一緒に東京に歸って行かう。徹三は心の中に恁うしたプランを立てゝゐるのだった。
 ――かつ子との仲はここ一年ぐらゐになるものだった。然し一年と言っても、その裡に遭ってゐる度數は廿度あるかなしかで、勿論未だキッスひとつ交換してゐない至極清浄なプラトニックなものだった。 かつ子はまだほんの女學生で家庭も上流の良家であったから、不良モダンガールのやうな眞似もさすがに出來ない性質に養育はぐくまれてゐたし、又家庭の環境も彼女を可成り自由な行動から束縛もしてゐた。それで大抵は手紙の交換が交渉の重心だったが、兩人ふたりの心はさうしてゐる裡に可成り熱烈なものに進んで來てゐた。
 始めて兩人がお互の顏を見合はせたのは、矢張り去年の夏の終り頃で、大磯のウイリアムスと言ふ英吉利人の家だった。徹三は私淑してゐる黒木と言ふ若い有名な詩人であり彼の大學の助教授でもある人に伴はれて、一日大磯のウイリアムス邸を訪れた。その時そこの海に面した涼しいテレスで、初對面の挨拶を交はしたのが、子供っぽい水兵服をつけた眸の冴えたかつ子だった。 かつ子はウイリアムスとは直接の關係はない人物だったが、ウイリアムスの奥さんの日本人が、かつ子の母親とDミッション・スクールでの同窓だった。さうした所から、同じ銷夏地の生活の事とて、かつ子や又かつ子の母親は、繁々しげしげ、ウイリアムスの家庭に訪れてゐるらしいのだった。
 勿論、始めの裡は徹三とかつ子とは見知らぬ者同志の遠慮から、ろくに視線も交へずにゐたのだったが、自由な男女の交際を歐米流に信用を以て認めてゐる習慣のウイリアムスは、無雜作にかつ子と徹三をお友達同志にさせて了った。徹三は、それから又一週間ばかりして、夏日を茅ヶ崎の假居に避けてゐる黒木助教授を訪れ、同道して再びウイリアムスを尋ねた時は既に書齋に英詩論を闘はす兩氏を遺して、折よく遊びに來たかつ子と共に海岸に散歩に出掛ける程に親しくなってゐた。
 うして始められた兩人のフレンドシップは夏が終って、かつ子の生活が東京に移されると同時にずんずん進展した。秋風に肌を冷やされる頃は、友情のみに始終してゐた彼等の消息文にも、始めて婉曲な愛の言葉なぞが用ひ始められた。然しかつ子はまだ何と言っても子供だった。彼女の言葉や動作には、徹三はほんのプラトニックな愛情より外そゝられはしなかった。 徹三は時として彼女の學校の歸りや、一週に一二度あるピアノやフランス語のお稽古の歸りなぞに、約束した場所に待受けてゐて、一緒にそこらあたりの靜かなプールガールを、無邪氣な輕い話を交えながら、散歩するとか、たまに自由になる日曜日なぞがあると、彼女にせがまれて築地小劇場のマチネエを觀に行くとか、又どこか郊外の草原にピクニックをするとか、そのくらひが積の山だった。
 然し今度まる二ヶ月以上と言うものを、全く彼女から遠く別れて暮すと言ふ經驗をすると、徹三の胸にはこれ迄になかったやうな情熱が、パッションネートリイに燃えあがり、彼女なしでは到底堪えられないやうな氣持がし出してきたのだった。

 したがって、手紙にも自然その氣持の反映は現れたし、それにかつ子からの返事にも明らかに彼と同じやうな氣持が、彼女の胸にも起ってゐる事が示されであった。それで徹三は、今度の會合は兩人の間のエポックだと思った。兩人は、これからは今迄のやうな友達とも愛人同志ともつかないやうな生ぬるい關係ではなく、名實ともに戀人同志と云ふ關係になるに違ひないと思ってるた。それは彼にとって期待すべきよろこびでない筈はなかった。 今迄何となく兩人の關係に滿たされない氣持ちがあったのも、煎じ詰めれば、既に少年期のセンチメンタリズムから脱却してゐ、來春は文學士として世に出る二十四歳の身の徹三としては、いつまでも少女小説にあるやうな遊戯的な甘い氣持ちに滿足してゐる事は、出來得ない――一言で言へば、あまりに莫迦莫迦しい淺薄な事に思はれてならなかったからだった。
 徹三はそれで一時も早くかつ子に逢ひたかった。新らしい光りと價値かちを増した戀人を、愛情にかつえた心に、思ふ存分樂しみたかった。然も恁うした彼の希望も、今目近に迫った國府津で達せられやうとしてゐるのだった。
 ――汽車は快よい速力で松田驛を風の如く抜けた。すぐ堤の下に小田原急行の電車線が、起伏する武蔵野の丘かげを縫って延びて來てゐる。『新宿ゆき』と言ふ大看板の文字などがその電車驛の屋根に見えるのも、もう既に東京に足を踏み入れたやうな氣がしてうれしかった。
 徹三はいつでも、地方から東京に歸って來る時は、無暗と心の中がいそいそした。そして東京から少しでも離れる時は、何故とも知れず涙が滾れて仕方がなかった。勿論原因は徹三には解り過る程解ってゐた。十歳ばかりの頃に父を失った徹三は、小學校を卒業すると同時に母に連れられて郷里を出、それからずっと東京に住む事になった。父の亡なった後とみに仲のうまくゆかなくなってゐた姑の、針で刺すやうな迫害を少しでも避けて生活したい爲めに、母が徹三の教育に理由を借りて計畫した苦肉の策だった。 然しそれから三年して、徹三がまだ中學に通ってゐる頃、病気の爲めに徹三を知人の家に殘して故郷に歸ってゐた母は、急に病が變ってぽろりと儚なく死んで了った。徹三はそれで孤兒になった。然し徹三は郷里の冷たい祖母の手には歸らず、中學を終へると、今度はひとりで下宿生活をしながら早稲田の大學に通ふ事になった。 恁うした家庭的に惠まれない、然も感受性の多い青年時代を只管ひたすら東京の甘味な都會生活に依ってのみ慰められて來たと言ふ事が、彼の心を東京にそれ程迄深く結びつけさす原因でない筈はなかった。徹三にとっては、或ひは故郷を東京と云っていゝのかも知れたかった。彼はそこで自分を知り入生を知ったのであったから。
 ――汽車は間もなく下曾我驛を通過した。今度は愈々國府津である。徹三は立上って網棚の上にある小さな手さげトランクを卸し、身のまはりに取出してあった二三のものを片附け入れた。
 前の娘は、徹三の突然始めた下車の用意に、いさゝか意外を感じたらしかった。讀みさしの雜誌を膝の上に伏せて、澄んだ眸を徹三の動作に向けた。徹三は彼女との間に堅く築かれてゐた牆壁しょうへきが、今さき汽車がトンネルに入った時から、何かしら少しばかり崩れてきたやうな氣がして、今別れて了ふのがなんとなく惜しまれた。
 徹三は手荷物としては、此の小さな卜ランクより外になかったので、それを手速く始末し終ると再びゆっくりした姿勢に歸って煙草に火をつけた。もうその時は娘の視線は彼から離れて、窓の外の青々とした野や畑に向けられてゐた。
 徹三は靜かに煙を吐きながら、彼女の細く美しい横顏を眺めた。心なしか彼女の面差しに、何處どことなく寂しさうな影が泛んでゐるやうだった。「行きづりの浮氣な戀」徹三はふと、そんなロマンチックな空想を自分自身の心の中に反省して苦笑した。
 汽車は熱海線と合流して、勢ひよく國府津驛構内に這入って行った。
 徹三はトランクをさげて立ち上る際に、ふと又娘と眸を合はせたが娘はすぐ無表情さを装って別の方に眸を外らした。徹三はその時何氣なく彼女の膝の上に伏せられてある讀みさしの雜誌に目がついた。
羅甸街らてんがい』!
 徹三は思ひも掛けなかった意外さに、思はず一旦持ち上げたトランクをシイトの上に卸ろし、地味な鼠色の紙質に眞紅な文字で雜誌名を浮せた其の雜誌を見守った。徹三は今が今迄、彼女が頻りに讀み耽ってゐた雜誌が、何やら婦人雜誌とばかり思ひ込んでゐて、それが徹三自身メンバアの一人となって發刊してゐる同人雜誌だった事には氣がつかないでゐたのだった。

「國府津! 國府津!」
 驛員が歩廊の上を呼ばりながらすぎた。
 徹三は列車から急いで降りた。そしてあたりに群がった人々の間にかつ子の待侘てゐる姿を探し求めた。
「熱海線乗換へ! 熱海線乗換へ!」
 驛員が彼の前を呼んで歩いた。
 乗る客、降りる客のざわめきもすぐ靜まって、あとは少人數の物賣や驛員のみが歩廊の上を歩き廻ってゐる……。
「改札口で待ってゐるのかしら?」
 徹三は細長い上り線歩廊の上を幾度か見返し見渡しながら考へた。どこにもかつ子らしい姿は見あたらないのである。約束のプラットホームには、或ひは見られて困る人でもゐると言ふので、出てゐられなかったのではなからうか?
 徹三はトランクを提て、陸橋の方に歩き始めた。發車鈴がけたたましく頭の上で鳴り響いた。徹三は何氣なく後ろの方を振り返った。と、そこには列車のブリッヂに出て徹三の方を見てゐる最前の娘の姿があった。
「さようなら!」
 徹三は心で別れを告げた。いづれこの印象の深かった列車中でのエピソードに就ては、自分等獨特の文學的表現で以て、散歩の時にでもかつ子に話してやらなければならないものと思った。彼はそしてその儘陸橋を昇って行った。
 陸橋を徹三が渡り終る頃、列車は汽笛と共に動き出した。徹三は改札口に近づくと、そのあたりを注意しながら、切符に途中下車の印を押してもらって、外に出た。
 然しそこにもかつ子の姿は見へなかった。徹三の心は始めて暗くなった。
「あれ程ゆき届いた手紙をくれてゐる彼女が、肝心なその日になって約束をたがへる筈はない。」――と、徹三は、驛の待合室の一隅に腰を下しながら考へた。
「今少し此處ここで待ってゐてみやう。」――然し、五分ばかりたっても、其處そこには彼の密かに期待したかつ子の姿は現はれなかった。
「それぢゃ一旦大磯まで來てゐてでもして、其處からこちらに出迎へに來やうとしてゐた際に、適當な汽車をミスしたのではなからうか? そして今頃は大磯の停車場で走り過ぎる急行列車を恨めし氣に見送ってゐるのではなからうか?」――徹三はふとさう考へつくと或ひはさうかも知れないと言ふ氣が頻りにしてきた。すると彼はかつ子の爲めにふたたび大磯迄行ってやらなければならないと思ひ出した。
 徹三は立って次の上り列車の時間を、改札口の上に掲げられてある時間表に見に行った。
 午後五時十七分發――東京行。
 さう言う列車が熱海から來るのであった。
「恰度都合がいゝ。これで一應大磯まで行って見やう。無駄足でもかまやしない。」
 徹三は自分の心細くなってきた心を慰めるやうに、考へた。出發以來、待に待ってゐた今日の約束であるから、それを無雜作に斷念あきらめ去って了ふ氣にはなれなっかったのである。出來る事なら期待してゐた通りの喜びを持ちたいものと思った。
 改札はすぐ始まった。徹三はトランクを提て再びプラットホームに出た。間もなく列車は停車場に滑り込んで來て、やがて徹三を乗せて走り出した――。
 徹三の心は、然し、先程迄のやうな明かるい愉快なものではなくなって來てゐた。折角の喜びの出鼻を挫かれた不快感があった。
「かつ子にもし大磯で逢ったならどんなに自分が國府津で力を落したかを言ってやらなければならない。」と徹三は心に考へてゐた。
「さうだ、それは又、自分がどれ程、かつ子を愛し求めてゐるかの反證にもなるのだ。」
 ――汽車は二宮を經て大磯に着いた。徹三は席の温まる間もなく再トランクを提て降りて行った。
 然し、こゝでも徹三はかつ子の姿を發見する事は出來なかった。
「どうしたと言ふんだらう!」
 徹三はぼんやりして了ってひと氣のない停車場のセメント床の上に立ち盡してゐた。念の爲めに告知板も見てみたが、そこには何等の記事も書かれてゐなかった。
 勿論ぬかりのないかつ子の事であるから、もし彼女が大磯迄でも來てゐたなら、徹三が萬が一にも此處まで足を運んで來る事を考への中に入れて、自分自身停車場に姿を出してゐられなくとも、少くとも告知板には何等かのサインを示して置きさうな筈だった。それがない。
愈々いよいよ今日は駄目だったんだ。」と徹三はすっかり斷念あきらめて了ふより外はなかった。然しそれにしても、今度は次の上り迄には又四十分計りの間があるのだった。

「さうだ海岸でも散歩して來よう。ぼんやり汽車を待ってゐるのも氣が利かない。」
 徹三は、さう考へて、邪魔なトランクを驛に一時預けにし、手ぶらになって停車場を出た。
 大磯の町は、去年の夏の事を思へば、何事につけても懐しい所だった。油で汚れた驛前のギャレーヂも、葦簾よしずかこひに『氷』の旗を掲げた茶屋店も、去年の様子と少しも異った所がなかった。徹三は去年の氣持ちを現在に働かせつゝぶらぶらと小學校の横から愛宕神社の下に出、そこから白鳥氏の『人生の幸福』にも出てくるひと氣のない寂しい切通しをかよって、軈て本町通りの街並に出て行った。
 避暑期を過ぎた街並は、もうふたたび磯臭い海邊の田舎に還元されてゐた。然しどことなく華やかな盛り場だった名殘が、破りかけて張り殘されてある色の褪せた廣告ポスターだとか、(みせ)を仕舞ひかけてゐる一時あてこみの物賣店、飲食店の店先きなどに見えてゐて、それが例へば無氣力で醜くなった流行藝者の老後の姿と見るやうに妙に寂しくみじめな感を與へた。
 徹三は海水道路を通って祷龍館の角に出、そこから長いコンクリートの階段を踏んで、海岸の砂原に降りた。
「本當なら、かつ子と樂しく散歩する爲めの砂原であるのに!」
「さき程迄は、この砂原を散歩するのをどれ程樂しみにしてゐたのか知れなかったのに。」
「それを一人で散歩するのだ。――然も戀人にすっぽかしを食はされた、そのブランクの時間を埋める爲に。」
 徹三は眼の前に遙々はるばるとひらけた秋の海邊の景色を打見戌うちみまもりながら皮肉な氣持で考へた。
 ――靜かな日ではあったが、海面には大きなうねりがあった。見てゐると照ヶ崎の岩礁の上には、白い花を無數に散らすやうに、白波が激しく躍って碎け飛んでゐた。
 然し濱の漁師は平氣なもので、そのあたりを滑稽な猪牙舟ちょきぶねで器用に漕ぎ廻ってゐる。
 徹三は煙草をふかしながら、西の海岸の方に歩いて行った。そこにはウイリアムスの別邸が、城塞のやうに積み上げた海岸線の石崖の上に、多くの別莊と並んで建ってゐるのだった。
「奴さんゐるかしら?」
 徹三は、横濱に商館を開いてゐると言ふ――と言ってもかつては×大學に講師を勤めてゐた人なのだが――ウイリアムスの赭い童顏を思ひ浮べながら、そのあたりを見上げてみた。
 二三軒の別莊のバルコンには、まだ赤い提灯が揺れてゐる所があった。そしてラヂオのアンテナが高々と空に十字架を描いて、まだその下に夏の名殘りを樂しむ人のある事を思はせた。然し探しあてたウイリアムスの別邸は、窓もぴったり閉って、ひと氣の程も察せられなかった。
 徹三は渚に足をはこんで勢ひ込めて吸殻を海に抛った。嵐の後でもあるのか、渚には海草やら芥くづやらが澤山に打ち上げられてゐる。寄せて來た大波が、しぶきを霧のやうにぼんやり佇んでゐる徹三の全身にふりかけた。徹三はしめっぽくなった體を退却させて、砂原の上に腰を卸した。
 太陽は既に富士山の方に沈みつゝあった。足柄山や二子山が夕燒雲をからませてゐた。足を投げ出したやうに長々と海上に突き出た伊豆半島。汽船の煙の見えるあたりは眞鶴岬のあたりでもあらう、ひと際目立って太い小半島の影が見える。大島は勿論かっきりと供へ餅のやうな姿を水平線目近に浮出されてゐる。
 晴朗な日の事とて、海岸には見渡した所、漁船のあがってゐるものはなかった。そして徹三の近くには子守等が砂いぢりをしてゐる向ふに、年老た漁師が、網の目をそこほってゐる姿があった。
「秋は海に最も早く來る。」――徹三は暫く其處で、靜かな景色を眺めて過ごした。軈て立ち上ると今度は鴨立澤の方に歩いて行った。停車場へ歸る道、未練がましいがかつ子の家の別莊の前を伺って見やうと考へたからだった。
 徹三がゆく砂原の先に、二人連れの女が濱砂の上にぺっちゃり坐って海を見てゐた。褪せた赤緒の日和下駄が二三尺離れた所に飛び飛びに脱ぎ捨てられてあった。町のカフェの女たちらしかった。痩た色の蒼褪めた彼女達が、海風にぼんやり鬢毛びんげを吹かれてゐる姿は、ひどく頽退的で寂しさを誘ふものだった。

 徹三はさくさくと砂を踏んで女たちの後を通った。夕日に照らされて長く伸びた徹三の影が女たちの背の上をかすめた。女たちはふり向ふともしなかった。
 徹三が鴨立澤の下まで行くと、濱には多勢の人が立ってゐた。見ると沖から二丁櫓の船がえっさえっさと歸って來てゐるのだった。さぞかし大漁であった事だらう。
 船がまたゝく間に海岸に漕ぎ着いて、船から綱が投げられて、岸邊の人たち、――それらは多く漁師達の女房のやうだったが――の手によってその綱がたくましく引き寄せられて、そして船がぢりぢりと砂地の上に引上げられた時は、そこから景氣のいゝどよめきが湧き起った。
「平和なる彼等にさちあれ!」
 徹三は遠くから、それを眺めながら思った。そして其處から町に登った。
 陽は既に山影に遮られ、あたりは靜かな黄昏だった。臺町通りの町はづれから、長々と續いてゐる東海道の驛路の松並木には、暮色が穏やか降りてゐた。
 臺町から汽車の踏切りの方に廻った所、並木のこんもりと茂ったさゝやかな砂道、――そこを二三軒ゆくと小さな冠木門を前にした日本造りの閑雅な平屋の小住安じゅうやすがある。それが船原家の別莊だった。
 素人が一見した所では、そこらあたりの小住居と何等變らないくらいみすぼらしいものであるが、然し目の肥えた建築師や庭師なぞに見せれば、澁味ごのみの此の屋の主人の雅心と、數千金の費用をこんなに地味に費した度量に敬服するであらうと思はれるものだった。
 ――徹三はゆっくりその家の前を一二度往復してみた。別莊番の住んでゐる気配もない程、ぴたりと閉ざされた冠木門の中はひっそりしてゐた。全々斷念あきらめてはゐたものゝ、徹三の心は遣る瀬ない寂しさに襲はれた。彼は足を速めて、そこから一町ばかり山手に寄った踏み切の方に出て行った。そしてそこから東海道線の汽車の線路に沿ふた小道を大磯驛の方に戻って行った……。
 午後六時十三分――大磯驛發車の熱海發東京行きの列車は、今發車鈴の鳴り終るのを待って、おもむろに動き出さうとしてゐた。
 徹三は、がらんと空いた三等客車の一隅に、トランクを膝の上に乗せ、その上に頬杖をついて、悄然と窓寄りの歩廊の上を眺めてゐた。靜かな空氣を震はせて、癇高く鳴り響くベルの音。冴え反ったひと氣の稀な歩廊の上。そしてあたりの薄暮を照らし始めた黄色な電燈の光。さうしたものが、調子を一桁踏み違へて、すっかりセンチメンタルになって了ってゐる徹三の心を、常になくひしひしと寂しくさせた。
 と、すぐ眼の前の陸橋のステップを、ぱたぱたフェルト草履の音をさせて、大いそぎで降りてくる人があった。
 徹三は眸をあげて、その女の人を見た。女の人はあわてゝ陸橋を降り了るとそこから一番近い徹三の乗ってゐる車に飛び乗らうとして近づいた。その時二人は視線を合せた。
「やあ、奧さん!」
「まあ硲さん!」
 二人は同時に聲をあげた。
「お早く!」
 と、驛員が走って來て、彼女を促した。彼女はあたふたと、そのまゝ行きすぎて、車のブリッヂにとび乗った。
 ボーと電氣機關車の合圖が鳴った。列車はゴトンと動き始めた。
「まあ、たいへんだった!」
 女のひとは、精も根も盡きたと言った表情で、小鳩のやうに喘ぎながら、徹三のそばに近づいて來た。
「あぶない所でしたね。」
 徹三は微笑みながらいたはるやうに言って、彼女を迎へた。
「あーあー。ひどい目をみちゃった。」
 彼女は、同じやうな事を繰り返しながら、苦しさうに大きく喘えぐと、にっこり笑って、徹三の前の席に腰を卸した。
「なにも、こんな慌てやうをしなくたって、次のにすればよかったんですけれどね。目の前に列車を見たら急に慾が出て了って。」
「はゝゝゝ。」
 徹三は笑った。そして、
「貴方は、この夏こちらだったんですか?」
「えゝ、さうなの。」
 彼女は未だ小さく喘いでゐる胸を拳でたゝきながら頷いた。

「輕井澤はお飽きになったんですか?」
「飽きたって譯ぢゃないけど、あんまり毎年山ばかしだから。」
「贅澤だな。」
「あら、あんな事言って。――ところで、すっかり挨拶抜きになったけど其後お變りなくって?」
 彼女は次第に呼吸を平調に歸しながら言った。過激な運動でボウッと赧らんでゐた美しい頬もやゝ血の氣が引いてきた。
「えゝ、お蔭さまで御覧の通りです。」
「随分お目にかゝらなかったわね。」
「さうですね。五月頃だったかな。銀座で音樂會の歸りだったかに、御馳走をして頂いた事がありましたっけね。あれ以來でせう。」
「さうね。でも又今はよく逢へたものね。偶然もよっぽどうまくゆかないとうは行かないわ。」
「本當ですよ。奥さんがもう三十秒も遅れたら、或ひは僕が別の車にでも乗ってゐたら、お目には掛れませんでしたね。」
「運命的な邂逅よ、神様か何かの想召おぼしめしで私たちを引き合はせたのかも知れなくってよ。」
「又御馳走を僕に食べさせる爲めにかも知れませんよ。」
 そして徹三は快活に笑った。と、彼はいつの間にか、先程迄濃霧のやうに自分の心を覆ふてゐたセンチメンタルな氣持を、どこかにすっかり置き忘れてゐる事に氣がついた。だが徹三は、彼の變屈な性格として、かうした時によく感じる激しい自己嫌惡は、今の場合は少しも感じなかった。 それは自分の氣持が、彼が最も嫌ふセンチメンタリズムから、きはめて自然にすっぽりと救ひ上げられた事に、この夫人に對して、一種感謝の念が湧いて來たからだった。もしこれが不自然なゆきがゝりでもあったなら、彼は忽ち不快になって石のごとく默り込んで了ったであらう。徹三は今、甘んじてこの快活な婦人との氣輕な會話に、自分の寂しい心をすがらせたかった。
「それはさうと、貴方は今お歸りなの?」
 夫人は徹三の大學の制服制帽にトランクを傍に携えた様子を見やりながら言った。
「えゝ、さうなんです。やっと今郷里から出て來たんです。」
「随分長い暑中休みだこと。」
「皮肉ですか?」
「――それに熱海線ぢゃなくって?」
「相變らず察しが早いんですね。」
「図星でせう!」
「あいにくです。」
「うそついたらいけないわよ。」
「嘘ぢゃありません。」
 と言ひながら、徹三はふと憂鬱を感じた。自分が今頃の熱海線の列車に乗り込んでゐる原因を、考へたからだった。
「ぢゃあ現在の貴方の境遇の矛盾をどう説明なさるの?」
 夫人は疊みかけて訊ねた。
「國府津で一時間ばかり降りて遊んでゐたんです。」
「なァぜ?」
「なぜって、――貴方はまるで探偵みたいだな。」
 それには夫人も吹き出して、
「斷然貴方の敗北よ。まァ大目に見てあげるわ。」
 徹三もしいて自分の心に宿ってゐる不快な點に觸れる事は欲しなかった。彼はその言葉をいゝ事にして、その儘默って笑って濟ませて了った。
 ――汽車は、夕暮れの茅ヶ崎あたりを走ってゐた。海岸に立ち並んだ松林を通して、燻銀いぶしぎん色の海がちらちら隠顕いんけんしてゐた……。
「御主人は?」
 徹三は、目を夫人にかへして言った。彼はふと、この美貌な夫人にお似合ひな、苦々しい立派な美男子の外交官、土屋襄三氏を腦裏に泛べたからだった。
「土屋は今外國に出張しておりますの。」
「外國へ? ――何處へです。」
「ハワイですの。」
「ハワイ? 又ひどく遠くへゐらっしゃったんですね。何時ごろゐらっしゃたったんです?」
「先日。まだ十日にもなりませんわ。」
「それはそれは――」
 その次に徹三は「お寂しい事ですね。」とつけ加へやうとしてわざとらしい氣がしたので止めにした。

 この婦人は土屋沓子と言った。色の白い艶やかな瓜實顏にばっちり刮られた黒目がちの明眸、お納戸地の粋な棒縞お召に明るい色のサンマーコートを、重ねたあく迄都會風にすっきりした好みを、すらりと丈高いしなやかな體に、器用に着こなした洗練された容姿――それらは、彼女の持って生れた華美やかで、才氣走った性格と共に、いかにも外交官夫人に相應ふさわしいものだった。
 徹三は中學時代に、友人の布施と言ふ男を介して彼女を知った。彼女は布施の從姉である。嘗て布施と共に嫁入前の彼女の家に幾度か遊びに行った事があった。そして、少年期の甘い心にこの美しい歳上の娘を遣る瀬なく戀慕こいしたった事があった。 然しそれから幾年かは流れ、今や彼女は立派なレディとなり、徹三は大學生となり、布施は不幸にも此の世の人ではなくなってゐたが、徹三は今でも沓子と道で逢へば、輕い冗談口を幼馴染のやうな氣持で取り交すし、又時によっては、その家庭に遊びに行く事もあるのだった。 歳こそ彼女は今年二十七歳になってゐるのだが、然し子供を持たぬ彼女の肉體は、或ひは心持は、未だ二十二三の若さに保たれゐて、いつ會っても昔と變らぬ新鮮さを感ぜさせられるのだった。
 徹三は彼女を上品な快活な女友達として好いてゐたし、又頭のいゝ藝術趣味の話相手としても彼女を相當に尊敬してゐるのだった――。
「大磯では別莊でもお借りになったんですか?」
 徹三は沓子の大磯での住ま居がどの邊であらうかと思った。かつ子の家の事を思ひ合はせられて、一寸興味が起ったからだった。
「いゝえ、土屋の友人の家に置いてもらってゐたんですの。」
「どの邊です?」
「貴方大磯御存知なの?」
「えゝ、去年の夏時々遊びに行った事があるんです。」
「停車場のね、山の手降車口から一寸ばかり山の方に行った所なの。楓や樫や松にかこまれた、それは靜かないゝ所よ。日曜日あたり東京から遊びにいらっしゃるといゝわ。」
「まだ長く大磯にゐらっしゃるんですか?」
「えゝもう少し涼しくなる迄ね。今日一寸家に歸って用をたして、又明日大磯に歸るの。四條といふ家だから、本當にゐらっしゃれるならいらっしゃいな。紫折戸の所に大きく表札が掛ってゐるからすぐ解るわよ。」
「えゝ有難う。」
 徹三はこれが暑中休暇中、――かつ子が大磯滯在中なら、どれだけ都合のいい事かわからないのにと思った。
「大磯の海水浴はつまんないけど散歩にはいゝ所よ。だからこれからがいゝと思ふわ。山の中を落葉を踏みながら歩くのもいゝし、海岸を朝早くか夕方かにぶらぶらするのも、氣持がいゝわ。私散歩の味を覺えたら、あんな汚い海で海水浴をする氣はなくなって了って到頭海に入ったのは一度か二度きり。」
「道理で陽に燒けた形跡がないと思ひましたよ。考へて見れば日中海水浴をして暑い思ひをするより晝は涼しい所で晝寝でもしてゐて朝夕散歩でいゝ氣持になってゐる方が賢いかもしれませんね。殊に女の人に於ては。」
 徹三はかつ子の日に燒けたと云ふ顏を心の裡に想像しながら、こんな事を輕い口調で言って笑った。それと同時に、沓子は屹度大磯生活で幾度かかつ子と顏を合はせてゐるに違ひないぞと考へた。かつ子の通信によく「夕方歌を歌ひながら海岸を散歩してゐます」と書いてあったから。
 ひょっとしたら、沓子はかつ子を心に止めてゐるかも知れない。もし、毎時もシューベルトの「海べにて」を誦さみながら、海岸の砂濱を逍遥してゐる美少女を知らなかったかと訊ねたら、或は「あゝあの方!」と、沓子はすぐ思ひ出してくれるかも知れない。
 恁う思ふと、徹三は、沓子にかつ子を思ひ出してもらって、そして自分達の戀愛を優しい姉のやうな心で祝福してもらひたいと考へた。然しまさか、そんな事を實際に訊ねられもしなかったし、自分達の恋愛を洒々しゃしゃと沓子に話して聞かせる程強氣でもなかった。
 ――徹三と沓子が恁うした話に汽車の進行を忘れてゐる裡に、列車は大船をそして戸塚を過ぎた。横濱近くになった時車掌の檢札があった。沓子はモダンなヴァニティケエスの中から、空色の二等切符を出して、車掌に示して見せた。

 暮れ切った夕闇の中に、美しく煌めきつながった横濱の市街の灯が、車窓から遥に眺められてきた。徹三は沓子が此處で降りるものと思った。
「今、お住居は、やはり山手本町ですね?」
「あら、私、すっかり忘れてた。私先だって東京に引っ越したの。土屋が出張したので、横濱の家は私一人には寂し過ぎると思って。」
「さうですか。それぁ尋いてみてよかったな。」
「御免なさいね。轉宅御通知を差しあげやうと思ってゐて、つひうっかりしてゐたんですのよ。いづれ明日の中には手元に差し上げますわ。屹度!」
「あはゝ、もう要りませんよ。それに僕の方の住所ももう役に立たなくなってゐるんです。」
「どうなさったの? ――貴方もお引越し?」
「えゝ僕が郷里にゐる中に、友達がいゝ貸間を見つけてくれたんで、それに頼んで留守中でもさっさと其方に引越しをしてもらったんです。まごまごしてゐるとふさがって了ふ怖れがあったものですからね。場所は東大久保だと云ふんですが、願はくはいい所であってくれればいゝと思ってゐるんです。僕はその友達を信用して、萬事委せてあるんですがね。」
「暢氣屋さんね。でもお友達にお引越をして置いて頂いて、その後へ濟まして行くなんて圖々しいわ。」
「いや、さうぢゃないんです。僕が癖のやうに好い所があったら引越したいって事を言ってゐたものだから、先生、氣を利かして萬事親切氣でやってくれたんです。」
「随分親切な方だわね。で、東大久保の何て所なの? 承って置くわ。」
「先づ、貴方のお引越し先はどちらです? 人の住所姓名を訊ねる時には――」
「まあ! 私の方はね、お茶の水の文化アパートメントなのよ。」
「ブルジョアは違ふな。」
「贅澤ぢゃないのよ。生活が簡單だからいゝのよ。何たって私とお波奈(小間使の名)と二人きりなんだから。」
「でも、あゝいふ所に住むと、宿屋住ひみたいで寂しくないかな。」
「そんな事もないでせうけど、寂しい事は矢張り寂しいわね。實家から誰か來てくれるといいと思ふんだけど。」
「貴方が實家に歸ればいゝ。」
「いやよ、出もどりぢゃあるまいし。」
「御主人はいつ頃お歸りになるんです?」
「――まあ、貴方の住所の事はどうなったんです?」
「僕の新らしいアドレスは市外東大久保××番地杜谷しづ方です。」
「女の方の家なのね。」
「さうなやうですね。なんでもミシンを内職にやってゐる人の二階ださうです。」
「東大久保××番地杜谷しづ方ね、私憶えたわ。」
「――で御主人は?」
「十二月中に歸る豫定なんですのよ。」
「十二月ね。それぁたいへんですね。ぢゃ、その間中アパート住ひですか?」
「いゝえ、ずッとあすこにゐる心算よ。尤もお金がどっさり出來てすきな所に家でも建てる事が出來るやうにでもなれば別ですけどね。」
「女の贅澤心にもきりがないな。」
 徹三は、吐息と共に言った。彼は是のブルヂョア氣質の貴婦人の中に、一點かつ子を見たのだった。かつ子が將來自分の妻になったならば、或は彼女はこの婦人のやうなタイプの女性になるのではなからうか。徹三は沓子のやうな氣質や趣味を持った女を嫌ひと言ふのではなかったが、然し、それを自分の妻として考へた時は可成り憂鬱にならざるを得ないものだった。
 ――汽車は、恁うした裡にずんずん東京に近づいて行ってゐた。徹三が、かつ子に第一番に話さうと思ってゐた、今日の列車中での見知らぬ娘さんに就いてのエピソードを、文學者風な談話法で、沓子に話し終った頃、列車は、なめらかに東京驛構内にすべり込んでゐた――。
「それぢゃ又お目にかかりませうね。」
「さようなら。」
 徹三はお茶の水にゆく沓子と東京驛のプラットホームで別れると一人で改札口の方に降りて行った。

 徹三は改札口を出ると、先づトランクを手荷物配達扱所に持って行き、次に自働電話室の方に廻った。
 軈て彼は西大久保の山本と言ふ酒屋を呼び出して、そこからその近所の村瀬と言ふ家に會社員の寄寓してゐる津田健介を呼んでもらった。
 津田は今度徹三の新らしい住居を探してくれた男であり、徹三とは早稲田の文科でも同級生で、お互に親友の間柄だった。
「やあ、硲君、お歸り!」
 電話機の中の津田の聲には、明かに友を迎へる歡喜の情が傳はってゐた。その懐かしい温かいトーンを耳にすると、徹三の胸に熱いものがぐっとこみあげてくる心地がした。豫定では、かつ子と一緒に手を携へて東京驛のプラットホームを踏む事になってゐたので、徹三は殊更に、「いつ上京するのだ? 上京の時間が決ったら知らせてくれ、迎へに出るから。」と言ってくれた友人の誰にも、上京の時間を豫報よほうしなかった。 さうした友情にそむいたエゴイステックな自分の心持が此の場合一時に激しく反省された。幸ひにも沓子と言ふ道伴れがあったからこそよかったが、もしたった一人でぽつんと東京驛の歩廊に吐き出されたらどうであらう。その時に、感ずるであらう堪らない寂しさを思ひやるにつけかりにもかつ子への愛の爲に友情を默殺してゐた自分の心根を、彼は自分ながら非難せずにはゐられなかったのだった。 どんな寂しい時でも、どんな苦しい時でも親い友だけは自分の半身になってくれる。肉身の愛に惠まれる事の薄い徹三には、友情はそれに代るものだった。
「すまなかった!」
 ――徹三は心に深く思ったのだった。
「今、着いたんだよ。」
おそかったね。電報が今來るか今來るかと思ってゐたんだが、夕方になっても來ないんで、明日に延びたのかと思ってゐたよ。」
「いや失敬した。」
「で、今どこにゐるの?」
「東京驛からかけてゐるんだがね。」
「さう、ぢゃ今すぐ迎へに行かう。始めての所だし夜でもあるしするから、東大久保の家を君一人で探すのは無理だらう。僕が連れて行ってあげるよ。」
「いや、それには及ばないよ。」
「だって君、疲れてゐるだらう。早く家へ歸って、風呂でも浴びて休んだ方がよくはないか?」
「有難う。だが、そんなに酷く疲れてもゐないんだ。勿論、僕一人で結構だ。番地は解ってゐるんだから、交番で訊けばすぐ解るだらう。」
「ぢゃ、君東大久保の停留所の所迄來給へ、僕は時間を見計ってそこまで出て待ってゐるよ。」
「さう。」
 徹三は目の裡が熱くなった。
「――ぢゃ、さう頼むよ。」
「それぢゃ、すぐ來るかね?」
「うん、まだ夕飯を食ってゐないんだ。驛の食堂で食べてゆくから――さうだな、一時間ばかし。」
「あゝいゝよ。それからね、圓太郎が通ってゐるから利用するといゝぜ。」
「さう。ぢゃ失敬するよ。」
「失敬。待ってゐる。」
 徹三は、電話室を出ると、驛の降車場口を出て、乗車場口へ歩いて行った。
 大東京の玄関口、東京驛の乗車場口は、夜の急行列車の客で混雜してゐた。徹三は久しぶりに喧騒な東京情調に浸りながら、右往左往する群衆の中を縫って、西側の精養軒食堂に這入って行った。
 徹三はそこで簡單な夕食を撮った。やっと東京に歸り着いたと云ふ氣持が、腹の滿ちた彼を急にがっかりさせた。
 彼はニ十分も、プレインソーダを少しづゝ飲みながら、椅子にもたれてぼんやりしてゐた。然し、さうしてゐる彼の頭の中を、低迷してゐるのは矢張りかつ子の事だった。かつ子はどうして今日自分との約束を破ったのだらう? かつ子の身の上に變った事でも萬一出來たのではないだらうか? 徹三はそんな事を考へると、今すぐでも阿佐ヶ谷のかつ子の家のそばに迄でも行ってみたいやうな氣がした。
 かつ子!
 かつ子!
 やっぱり徹三は淋しかった。あたりは徹三の故郷にも等しい東京の賑やかな町であり、そしてなほ親しい友が今か今かと鶴首して彼を待ってゐてくれる場合でありながら、徹三はやはりかつ子なしではその喜びを喜びとしそのたのしさを怡しさとし得ない自分を發見した。

 東大久保の停留所で、徹三が市營バスから跳び降りると、そこの電柱の下に佇んでゐた黒い影が跳び出して來た。藝術家らしい宏い額をむき出しに帽子をかむらず、黒っぽい銘仙を着た津田だった。
「やあ!」
「やあ!」
 兩人は思はず感慨の籠った短い言葉と共に、堅く手を握り合った。
「元氣でよかったね。」
「有難う。君も――」
 兩人は眸と眸とで温かく微笑合った……。
「――荷物は?」
 津田は徹三の手ぶらな姿を不審さうに見て言った。
「みんな配達にした。」
「さう。ぢゃあ兎に角家に行かう。」
「あゝ。」
 兩人は、肩を並べ、電車路を横切って、抜辨天の横の道を這入って行った。
「だいぶゆっくりだったね。」
「あゝ、一寸歸りそびれちまって――」
 徹三は不快さうに答へた。郷里の事と言へば彼には不快だった。今度、歸京が長引いた原因と言ふのも、彼には堪まらなく不愉快な財産繼承問題が、異腹いふくの義姉との間にかもされて、さうしたいざこざが彼の逃げ歸る途を否應なしに沮んで了ってゐた。然しなにか機會があったらそんな空氣の中から飛び出して東京へ出て了ひたいものと考へながらゐる裡に、祖母が一寸した病気に罹ったりして、遂また徹三の上京をそびれさせて了ったのだった。
 恁うした邊の消息を多少でも察してゐる津田は敢てこの問題を追求しようとはしなかった。彼は氣輕な微笑ひにまざらしながら、
「然し學校はまだ教授が出揃ってゐないんだよ。生徒も三分の二位の所かな。今月一パイはいづれこの調子だらう。」
「中谷君は學校に出てゐる?」
「あゝ出てゐるよ。昨日も君の事を言ってゐた。」
「北澤君も元氣らしいね。近頃逢った?」
「あゝ逢ったよ。新學期の事務で忙しい忙しいって言ってゐた。」
 徹三は、健康さうな血色のいゝ中谷君の頬と、詩人らしい北澤虔二の白皙痩面の風ぼう(※邦の偏部分のみ)を思ひ浮べた。
 共に徹三等の親友であり、中谷は同級の學生、北澤は一年先の先輩で今は神田の女子専門學校の英語の教師をしてゐる傍、文藝同人雜誌『カルチェ・ラタン』即ち『羅甸街らてんがい』の編輯主任をしてゐる男だった。
 徹三は噂を聞くだけで胸がわくわくする心地がした。なぜみまい電報を打って東京驛迄出迎へに來てゐてもらはなかったであらう。そして友の友愛に輝いた元氣な姿に接して、この上ない喜びを滿喫しなかったであらう。――そんな事がふたたび悔まれて來るのだった。
「で、今度の下宿の事だがね。」
 津田は歩きながら言った。
「下宿そのものに就ては十分責任は持てると思ふんだが、然し相手が全々さう言ふ事には無經驗の人らしいから、色々日常生活に不自由な事はあるだらうと思ふ。例へば取扱ひに氣が利かないとか……」
「そんな事はなんでもないよ。第一僕が今度の新らしい下宿を、無條件で希望したのは、その家の人が間貸しなぞに始めての人だと言ふ事と、同居人がゐないと言ふ事なんだからね。」
「それは或ひは得難い點かも知れないね。それに、そこの小母さんと言ふ人が恐らく善人らしいんだ。氣の弱さうな人でね。」
「よささうな家だな。僕は感謝してゐるよ。なんたって東京で學生生活をする者にとって、下宿の問題は切實だからね。これがうまくゆかないと勉強なんて出來ない。この意味で今度の君の骨折りは大いに僕を勉強さす基になるかも知れないよ。」
「さうありたいね。」
 兩人は輕く空を仰ぎながら笑った。空には、宵の星がきらきら光ってゐた。徹三はふと輕い疲れを覺えた。夕方大磯の海岸をぶらぶらした事が、列車中で沓子と話し合った事が、昨日の出來事であるかのやうな氣がした。
「やっぱり疲れてゐる――」
 徹三は心に思った。
 津田は、明るい通りから折れてくらい靜かな屋敷町の小路の方へ徹三を導いて行った。

 まだ九時になるかならぬかといふ時刻であるのに、あたりは寝靜まったやうにひっそりした通る人も稀な暗い屋敷町の小路を、もうひとつ路次に折れた所に、一軒の小ぢんまりした二階家があった。小さな形ばかりの門と、文字通り猫の額ぐらいの植込みの奥に、玄關の格子戸を上から薄明るく照らしてゐる軒燈がある。『杜本』とそれに書いてある。
「あゝここだな。」
 と徹三が思った時、津田が徹三を顧みて、
「こゝなんだよ。」
 と言った。
 徹三は津田と共に家の中に這入った。綺麗に掃除された三和土たたきの上には、女用の日和ひより下駄が一足隅の方によせてあるだけで、見るからに女住まひらしいきちんとした生活がしのばれた。徹三は随分感じのいい家だと思った。
「今晩は。」
「はい。」
 津田が呼ぶ迄もなく、ヂヂ……と鳴った格子のベルで.奥の間から立って來たらしい女あるじの丸髷姿が、二疊の玄關の右手の紙障子の上に動いて寫った。と障子が開いて背後から光を背った痩せぎすの婦人が、姿を現した。
「硲君を連れてきました。」
「は。」
 婦人は一寸狼狽あわてた風で、疊の上に膝をつくと、片手で上框あがりかまちの障子をぴったり引いて、
「どうぞお上り下さいまし」と言った。
 津田は先に玄關に上り、徹三の靴を脱ぐのを待った。そして「御免なさい」と輕くあるじに會釋して、すぐ左手の階段を二階に登って行った。
 二階は廊下つきの八疊である。建物は可成り古いのだが、よく見る震災で緩みが出たり壁が落ちた跡は見えず、しっとりと落ちついていゝ座敷だった。
「素的だなあ! 豫期以上だよ。」
 徹三は部屋の中央に立って、ぐるりと四方を見廻して言った。どう見たって今迄の下宿の薄っぺらいバラック式の室とは較べものにならなかった。
「晝だとまだいいよ。そっちの窓を開けると、裏は廣い草原になってゐるんだ。東京の街の中でこんな所はめづらしいと思ふよ。先づ僕は裏の草原をこの部屋から見て此處を君の爲に借りる決心をしたんだ。」
「いや素晴しい所を見つけてくれたものだ。」
 徹三はひどく感じ入った風で言った。第一印象といひ、部屋の實際の氣分と云ひ、何ひとつ不滿に感じるものはないのだった。彼は何となく自分の倖を思って心の中で歡びで滿ちて來た。それと共に見馴れぬ部屋に、五年もそれ以上も愛用してゐた机だとか、本箱だとか、其他の持物なぞが、誰かが使ってゐるかのやうに塵も止めずきちんと整頓してあるのも、珍しい氣がした。
 そこに茶を入れてあるじが上ってきた。
 あるじは内氣さうに鄭重に挨拶した。始めての事だから行届かない所があったら遠慮なく言ってくれと言った。徹三は何分よろしく頼むと書生流に頭を下げた。
 彼女はどことなく下町風の面影のある三十三四の婦人だった。病身なのかやせやつれてゐるが、顏立も整ってゐるし、姿も決して醜くはなかった。それに總ての態度が淑やかで上品なのが、彼女を奥ゆかしい眞面目な人に思はせた。徹三は一寸彼女を「下宿の小母さん」と呼ぶのは氣の毒なやうな氣がした。勿論彼女に好意を持てぬ筈はなかった。
 十時半頃迄、何を話したともなく津田と話し呆けて、やっと十一時すぎ徹三は押入れの中に疊んであった自分の蒲團ふとんにくるまって横になった。蒲團も留守中に日に乾して置いてくれたと見えて、心地よくほかほかしてゐた。
「行届かない所か、こんなに行届いたランドレデエに會った事はない。」
 そんな事を思ひながら、一二度轉輾するうちに、激しい疲勞が一時に出て、その儘知らぬ裡に睡眠に陥ちて行った。
 風が出たのか裏の木立がざわざわと鳴った。蟋蟀こおろぎの聲も澄み渡って聞える。秋はひそやかに夢路を辿る徹三の枕邊に通って來るのだった。

圓卓子の盟友
 徹三は翌日、十一時頃になってやっと起き上った。昨夜はぐっすり眠ったとは言ふものゝ、さすがに旅疲れが出て、體は何となく冴々しなかった。然し洗面器をさげて裏の井戸に顏を洗ひに出ると、津田の昨夜めてゐた草原には、熱を伴はない秋の日光があく迄輝かしくふり注いでゐ、冷たく澄んだ空氣はその青々と茂った雜草の上を傳ってきて彼の皮膚をひんやりと冷やした。 彼は何とも言へぬ爽やかな快い氣分を感じて、體の中に新らしいエネルギイが湧いてくるやうな氣がした。
 徹三はそれから、午後の二時頃迄かゝって、その朝早く驛から配達された二個のトランクの整理をした。そしてそれが片附いた時分、津田が制服にソフトと言ふ姿でやって來た。
「どう、よくやすまれた?」
「あゝ、もう元氣だ。」
 徹三はすっかり新居に馴染んだ風で、ゆったり構えながら言った。
「さっきね、北澤君の所へ電話を掛けたらね。」
 津田はヅボンを一寸摘んで胡坐をかきながら言った。
「今日學校の歸りにトロイカに廻るから、都合がよかったら君にも其處で會ひたい、って言ってゐたよ。君疲れが休まったら出掛けてみないか?」
「出掛けよう。中谷君にも逢へるだらうな。」
「大丈夫逢へるだらう。」
「君、今日學校へ行ったの?」
「休んだよ。」
「どうして?」
「月曜日で、おまけに僕に番が當ってゐると來たからね。」
「あゝ、さうか。」
 徹三は津田と目を見合せて笑った。月曜日はクラスにとってひどく鬼門の授業があった。それは午前の二時間をぶっ通したヘンリイと言ふ英人教師の時間で、彼は英詩學をひとりで喋った後、出席簿順に學生に與へた題に依って十分なり十五分なり英語の演説をさせるのだった。學生はこれをひどく厭がった。そして名指しが始まりさうになると一同結束してがやがや騒ぎ出すのだったがヘンリイ教師はそんな牽制運動に憶する人ではなかった。 學生は仕方なく教師の命令通りにならない譯にはゆかなかった。徹三等のグルウプでは此の時間を敬遠する事を得策として、自分に演説番が廻ってくると知らぬ顏をして休んで了ふのを常としてゐるのだった。
「北澤君は何時頃學校がすむ?」
「三時って言った。おそくとも三時半迄にはトロイカにくるだらう。」
「それぢゃ、もう出掛けていゝね。」
「君、よかったら出掛けやう。」
 徹三は暫くして着物を制服に着換え、そして津田と同じやうにソフトをかむって外に出た。
 津田は今度は昨夜と別の道を辿って徹三を天神下の電車停留所に導いて行った。その道すがら考へてみると、徹三の新居の位置が始めて判然した。新居は丁度西向天神の裏で、天神様の境内の立樹はそっくり!そのまゝ、徹三の家の裏の草原の背景をなしてゐるのだった。
 兩人は若松町迄電車に乗った。
 そこから早稲田の方へ降りる巾の廣いだらだら坂を、ゆっくりした足どりで歩いて行った。
「君のあのかゝりかけの戯曲はどうなった?」
 徹三は津田が鋭意執筆中の長篇戯曲を思ひ出して尋ねた。それは『佐々木家』と題名をつけた家族相剋劇で、その構想の堅實、その内容の深刻は、脱稿した最初の二幕分を假讀みしたゞけで、既に十分津田の目標としてゐるストリンドベリイに肉迫してゐる事が頷かれるものだった。徹三はそれを郷里にゐるとき、送ってもらって讀んでゐた。
「あゝ、あれね、四幕迄書き上げたが、今、岩崎さんの所に廻してある。あと一幕書き終へたら、一緒にして舞臺藝術の方に載せる約束なんだ。」
 津田は無表情に言った。徹三は今更のやうにこの友のユニイクな創作能力に畏敬を感ぜずにはゐられなかった。自分のやうなほんの瑣々ささたる文學青年に對して、津田は既に立派な作家的風格を所有してゐるのである。劇壇の著名な元老岩崎氏が津田の才能を高く買って彼を好意的に導いてくれてゐるのでも見れば解るのである。
 徹三は久しぶりに藝術的亢奮を覺えてくるのを知った。

「君は何か書かなかった?」
 今度は津田が訊ねた。
「到頭、此の夏は書けず仕舞ひだった。」
 徹三は仄かな憂鬱を感じながら言った。然し「書けない」と言ふ言葉はいかにも卑怯な言葉に思はれた。いやしくも文筆を心掛ける者が「書けなかった」では濟まされない。一生懸命仕事に精出してゐる津田や其他の友達に對しても、恥づべき言葉のやうな氣がした。
 徹三は思はず一寸顏を赦らめながら、
「いや、恥づかしいくらゐ怠け通して了った。」
 と、自嘲するやうにつけ加へた。
「なに、氣が落ちつかなければ勉強は出來ないよ。これからみっしり出來るだらう。」
 津田はそれとなく徹三を慰めるやうに言った。
 徹三と津田とはさう長い以前からの友達ではなかった。然し現在の徹三には津田は最も信頼するに足る、そして尊敬するに足る、親い友だった。津田は人格的には勿論友誼の厚い眞面目な好青年だったし一方藝術家としても徹三の尊敬せざるを得ない才能家だった。
 最も徹三が驚嘆するのは、病身らしい衰弱ひよわ(?)な彼の體に漲り溢れてゐるエネルギーだった。彼は青い疲れたやうな顏をしながら、その手にしてゐるペンは、常に他人の企圖きとし得ないやうな四幕五幕の長篇創作のみに走らされてゐるのである。徹三は、多勢の親い友達の中でも、津田は將來自分の唯一の伴侶になる人物ではなからうかと思ってゐた。
 ――やがて、坂道を降り切ると、兩人は穴八幡の方に向ふ狹い道に曲った。然しその道を途中迄行くとふたたび裏通りに曲った。そこには目的のカフェトロイカがあった。
 そこは、間口二間ばかりの表から見た所は物置かなにかに窓をつけたやうに見えるはなはだ貧弱で甚だ奇怪な家だった。そして看板だけが、ひどく美術的な意匠で、「トロイカ・橇」と掲げてあるのも、妙な感を與へてゐた。
 ――然し、この小さなカフェは徹三等にとっては東京全體のカフェに代えてもその存在は貴重なものだった。何故かとなれば、此處は徹三等がグループの唯一の倶樂部であったからである。徹三等は大學の行歸りには大抵一度はここに立寄った。授業が休講になったり面白くなくなって自分で休む時などの時間も、戸山ヶ原に寝ころびにゆく極稀ごくまれな時を除いては、常に此處の卓子で過した。
 此處を訪れる客は勿論早稲田の學生ばかりで、然も大抵は一風變った、容貌から風采までエキセントリックな文科の學生がおもだった。
 然し徹三等はその中にあっても特別な位置を持つ常連で、あるじ側でも、徹三等を一般客なみのよそよそしさには取扱ってゐなかった。一體何が徹三等を此の小さな見搾らしいカフェに惹きつけてゐるのだらう? そこには一般人が考へるやうな原因は、そこのあるじの妹が店で働いてゐると言ふより外にはないのである。 十疊ぐらいしかない板張りの床の上に、古びた木製の圓卓子と椅子が、幾つかあちらこちらに並べてあるのも、何等装飾のないくすんだ壁から奇妙なランターンが三つ四つぶら下ってゐるのも、そうして恁うした總てのデザインが、どことなくこの店名に相應ふさわしいシベリアの丸太小屋を偲ばすやうになされてゐるのも、一般人の興味を惹くには餘りに縁遠いものだった。
 勿論徹三等が惹かれたのは、そのゆかりと言ふが顏容のいゝ娘さんではない。一般人が意にも止めないであらう、此一種風變りなカフェの氣分に愛着を感じたのである。然し風變りと言っても、決して此の家の外觀だけを指すのではなかった。此のカフェの趣きを異にしてゐるのは、たゞその外觀だけだけではなかったからである。第一主人はいかにも紳士であった。いづれ相當なインテリゲンヂャであるであらうと思はれる上品な態度の人だった。 第二には此の家には使用人といふ者が一人もゐなかった。即ち料理番は上張りをつけた奥様風の妻君が、客へのサーヴィスは女學校を去年出たといふ主人の妹が引受けてゐた。こうした所が、一種好ましい上品な家庭的な雰圍氣を作ってゐるのも、それから備へつけの蓄音器のレコードや、又はテーブルに運ばれる飲料や料理に、一種澁く垢抜けした藝術的趣味が示されてゐるのも、他館では決して味ははれない氣分だった。

 徹三等のグループは斯くして、此のトロイカをこの上なく愛し、この上なく價値づけてゐた。
 そして恰も『ラ・ポエーム』の中に出てくる藝術家達の酒場でもあるかの如く、彼等はこの圓卓子のまはりに坐る事をひどく愉快に思ってゐたのである。
 さう言ふ所から、徹三等がループの文藝談話や議論や、又は雜誌『羅甸街』に關する相談なぞは常に此處の圓卓子を挾んで行はれる習慣になってゐた。來れば必らず誰れかには會へる場所であるし、それに場所的から言っても、グループ一同が集まるのには都合のいゝ所であったからである。そしてこの習慣が、いつとはなしにグループの間に「圓卓子の盟友」と言ふ言葉を作らせた。「パンサ・ロトンダの盟主」から思ひついた言葉である。
「圓卓子の盟友」
 徹三等は、此處の卓子のまはりに集って、時間を忘れて文藝談を交へる自分達を發見する毎に、微笑と共に此の穿った言葉を思ひ浮べるのだった。
 ――徹三と津田がトロイカの扉を押して、薄暗い家の中に這入ってゐると、中にはその盟友の誰れもが珍しく顏を見せてゐなかった。ただ奥の卓子で獨文科の學生が、がやがや雜談を交へながら懸命に麻雀を闘はせてゐた。徹三等は英文科であったので彼等とは顏見知りの間ではあったが親しくはなかった。挨拶だけにて「やあ盛んですね」と聲をかけただけで、窓際の卓子の一つに腰を卸ろした。
 ゆかりが綺麗にお化粧をした顏を奥から出した。そして徹三を見ると吃驚びっくりしてとんできた。
「何日お歸りになりましたの?」
「やあゆかりちゃん、御機嫌よう。昨日。それも昨夜なんだよ。」
 徹三は快活に言って、手を差出した。ゆかりもためらはずにしなやかな白い手をのべて、徹三の握手に應じた。
「でも随分御ゆっくりだったわね。皆さんたいへんお待ち兼ねだったんですのよ。」
 ゆかりは美しい眸を刮って言った。
「さうかい。ところで今日は誰も見えないんだね。歸京挨拶にやって來たんだけれど。」
「中谷さんは先刻お見えになったけれど、すぐ紅白亭に玉を突きにゐらしったわよ。お電話かけて見ませうか?」
「さうね。ぢゃゐたらすぐ來てもらふやうにね。」
 ゆかりはスタンドの電話機の所へ行った。そして受話機を取りあげながら、カーテンの掛った奥の間に、「兄さん、硲さんがお歸りよ」と言った。
 ゆかりが紅白亭に電話を掛けてゐる中に、トロイカの主人堤さんが、滿面に笑を湛えて出て來た。そして親げな態度で、その後の久闊を叙した。小母さん迄がカーテンの所へ顏を出して、「お歸りなさいまし」と挨拶した。
 徹三はいつもながら此の一家の温か味に感激した。勿論慾得づくの親切から、表面だけに示される温情ではない。彼等はみんな善人で、そして美しい心情を持ってゐるのである。
「ゐらっしゃいましたよ。すぐゆくからって言ふお言葉でした。」
 ゆかりがスタンドから歸ってきて言った。
 ――それから徹三等は、中谷が急ぎ足で這入ってくる迄、ゆかりや堤さんとひと夏の出來事やら噂話に就て花を咲かせた。
 中谷が來てから間もなく、黒皮鞄を、いかにも學校の歸りらしい格好で抱えた背廣服の北澤がやって來た。卓子は果然空氣が入れかはって、「圓卓子の盟友」の集まりらしくなった。
「宮田か佐伯が來なくっちゃならんのだがな。」
 中谷は、プレインソーダ――此店の自慢の――を一息で半分程平げて言った。
「古屋君は?」
 北澤が訊いた。
「古屋は芝居だ。さっき玉場の前を洒落れて通った。伊勢崎にセルの袴なんか着込んでね。あんな格好なんかする時は芝居に行く時より外はないんだよ。」
 皆は聲をそろへて笑った。
 それから一同はがやがやと話し始めた。最近の個人的消息やら例によって文壇の情勢などに就いて。徹三はふと自分がいつの間にか、故郷を過ごした二ヶ月餘の沈滯氣分を昔の元氣さまで取戻してゐるのを發見した。「矢張り東京はいゝな」と彼は思った。

「ところで――」
 と、雜談の途切れた時、北澤が吸ひさしを灰皿につぶしながら言った。
「來月號の羅甸街に就てだがね。」
 一同は顏を眞面目にさせて北澤の方を見た。
「ひとつ秋季特別號として、大々的な編輯をつけてみやうかと思ひ付いたんだがね。どうだらう? ミルマル社の方では、昨日一寸電話で話してみたら、算盤そろばんの合ふ限りの程度で引受けやう、と承知してくれたんだ。」
「大々的編輯といふと、紙面をふやさうって言ふのかね?」
「さうなんだ。實は前から考へてゐた事なんだが、もう少し雜誌を量的にも優秀なものにしたいんだ。幸ひ先輩の援助や、印刷所や發賣元の好意で、六割五分の賣捌率を示してゐる羅甸街だから、この僕の計畫は必らずしも不可能な事ではないと思ふんだ。それに質に於ては多少でも自信があるんだからこの際、僕は斷然他の同人雜誌を壓して、進出しなくてはならないと思ふんだ。」
「賛成だね、實際羅甸街は今好調だからね。此の機を利用しなくては嘘だ。」
 中谷は、熱のある調子で應へた。
「ほんとに有難いくらゐ好調なんだ。それに同人が油に乗ってきてゐる。津田君の八月號の「星を見る人々」でも中谷君の今月號の「古風な吐息」でも、十分に文壇に叫びかけ得たのだからね。同人雜誌の作品で、新聞紙上で批評されたのは、珍しいと言っていいのだ。僕は羅甸街の同人は決して實力に耻づる所はないと言ふ自信を得たよ。」
 北澤は、亢奮した面持ちで言った。
 徹三は默って聞いてゐた。然し顏が無暗にほてって來た。強い強壯劑を注入されたやうに、久しく萎えてゐた戰闘意識が旺盛な創作エネルギーと共に湧き起ってきた。
「さうだ俺も負けてはならない。」
 考へてみるに、近頃藝術に精進してゐないのは、同人の中で徹三ぐらいなものだった。地人の作品を褒めてゐる北澤ですら、自分の作品は既に堂々と數度營利雜誌の頁を飾ってる、その中でも、七月號の新聲に齋藤晴夫氏の推選で掲載された「家なき夫人」と言ふ短篇小説などは、一般讀者に相當なセンセーションを起させてさへゐるのである。然るに徹三はどうであらう? 徹三は一般營利雜誌に執筆する機會は未だに一度もなく、然も彼に許された羅甸街誌上にも六月號に三十枚ちかくの短篇を寄せてゐるきり、此の春以來碌な勉強振りも見せてゐないのだった。
 徹三は自分ながら自分の不勉強には愛想が盡きる氣はしてゐた。然し今、現在あまりにまじまじ皆の奮闘の跡を物語られると、徹三の心は強い力で反撥されたやうだった。過去は過去、これから以後に於て出來るだけ奮闘してみようといふ氣が湧き起ったのだった。
「ねぇ、津田君はどう思ふ?」
 北澤は腕組をして椅子に背をもたらせてゐる津田に言った。
「あゝ、僕は賛成だ。然し十月號だけを特別號にして大部なものにしても、その次から又げっそり薄く落ちるのだったら、華々しい進出の効果は薄くないかと思ふな。どうせなら、毎月號を、この際増大したらどうかね?」
「いづれ出來る見込みさへ實際的につけば勿論さうするよ。十月號はそのテストなんだ。十月號で相當に滿足な成績を収め得たら本當にしめたものなんだ。」
「僕は勿論賛成だよ、北澤君。」
 徹三は、北澤の眼が自分の方に向けられた時、彼の言葉に先立って言った。
「それに、僕は今ひどく怠けすぎてゐたから、ひとつ思ひきり勉強してみたい氣がするんだ。」
「ヴラボー!」
 中谷が、横合から叫んだ。それと同時に津田や北澤の顏も急に輝いたやうだった。皆は、沈淪ちんりんしてゐた徹三の創作衝動が、今、活溌に蘇生へって來たらしい事を知って、徹三の爲めにも羅甸街の爲にも、一様に晴れ晴れしい欣びを感じたらしいのだった。
「それは有難いね。僕等は君の活躍を待つ事久しいんだ。羅甸街の發展に錦上花を添えてもらひたいな。」
 北澤はよろこばしげに言った。

「ぢゃあ來月號に早速何か書いてみないか?」
 津田が徹三に薦めるやうに言った。津田の調子にはこの機を外さない方がいゝと言ふ親切氣が示されてゐた。
「來月號? すると原稿の締切にはあと二三日しかないんだね。」
 徹三も一寸つまって言った。
「いや、今も言ったやうに來月號を特別號とすると、紙面も餘裕が出來るから、いづれ集まってゐる原稿より外に、書ける人にもう少し書いてもらはなけれぁならないのだ。だから今月中ぐらい締切を延ばしてもいい。發賣は十月の十日ぐらゐになっても關はないと思ってゐるんだ。」
 北澤が一同に説明するやうにして徹三の言葉に答へた。
「さう、ぢゃあ今月中の餘裕をもらって是非書く事にしやう。何枚ぐらいもらへるかね?」
「一寸待ち給へ。」
 北澤は黒皮の折鞄を、隣の卓子の上から、手を延ばして取って、中を開いた。そして分厚な大學ノートを取り出して頁を繰った。
「豫定だと本月號は佐伯君の論文「ニヒリズムに就て」十五枚。宮田君の小説「トリオ」卅枚。中谷君の詩と僕の詩と三枚づゝ。それだけなんだ。だから特輯として後四十枚ふやすとして、硲君には二十枚受持ってもらっていゝ。殘りの二十枚は、津田君と古屋君に短篇で書いてもらほう。同人總出といふ威勢のいい所をお目にかけられる譯だ。硲君と津田君引受てくれるかね?」
「僕は書いたのがあるから出さう。」
 津田は頷いた。
「硲君は?」
「兎に角やってみよう。」
「ぢゃ頼むよ、で編輯當番を臨時に中谷君に頼みたいのだがね。特別號だから當番の佐伯君だけでは可愛さうなんだ。どう?」
「いいとも、やるよ。」
 中谷は氣持ちよく承知した。
「ぢゃあこれで羅甸街の方の相談は可決した譯だね。佐伯君には今晩家で編輯の事で逢ふ事になってゐるから、古屋君と宮田君に、誰れでもいゝから逢ったら一應この事を説明して置いてくれ給へ。いづれ明日か明後日には僕も顏を會はせるだらうと思ふけれど。」
 ――こんな所で、雜誌の方の相談は終った。陽はもう暮れかかってゐるらしく、開閉式の欄間の所からは、濃藍色の空が、星をぽっちり嵌め込ませて覗いてゐた。室の中には既にランターンの灯があった。
「硲さん。今日はお久しぶりで皆さんと御一緒に、家で御夕食をあがってゐらっしゃいましよ。」
 ゆかりが麻雀を了って歸って行った連中の後始末を終ると、硲の傍に來て言った。
「歡迎會と云ふ譯でね。」
 中谷が笑ひながら言った。
 ――ささやかながら、温かいあるじの心盡しの籠った、饗宴が粗末な圓卓子の上に開かれた。アペリチイフとしてボルドウの美醇な酒が各自のグラスに注がれたりした。雜談がひとしきり元氣よく彈んだ――。
「僕は白状するが――」
 酒に弱い北澤がいい顏色をして突然言った。然し彼の顏は酒から來る壓迫と言ふより、何かしら胸に苦しみを持ってゐる人のやうにゆがめられてゐた。
「近頃、僕は重大な危機に立ってゐるやうな氣がするのだ。こんな事は今迄、戰闘意識の旺盛なみんなの前では、餘り自分が弱氣すぎるやうな氣がして口にするのも憚られたが、矢張り心は強く惱んでゐて、言って了はずにはゐられない氣もするのだ。あっさり口にして了ったら、或ひは惱みから來る壓迫も少しは輕減されるかも知れないと云ふ氣もしてね――」
 徹三を始めみんなは、北澤が何を言ひ出したのかと思った。それ程、北澤の表情は先程、司令官のやうに堂々と羅甸街に就て相談を進めて行った時とは變って、弱々しく苦しげに見えた。
「――いや特別の事ぢゃないんだよ。もう今迄に幾度かお互同志で話合った事もある事なんだ。だが今度はそれが全く切實なんだ――やり切れないくらいね。」
 北澤は、淀んたやうに云って飲みのこりのホルステン・ビールのコップを口に持って行った。

「第一、僕は近頃切に斯う思ふんだ。學校の教師なぞしてゐると言ふ事は作家的に自殺する事だ――とね。」
 北澤は勉めて靜かな口調で言ひ始めた――。
「考へても見給へ。朝おそくとも九時には學校にゆく。そして歸りは三時か四時になるんだ。その間はリーダー片手に肉體勞働だ。それも、學校にゐる間だけの話ならまだいゝが、大抵の時は、生徒の成績品をしらべるとか、學校から命ぜられた仕事を片づけるとか折角の夜の時間をつぶされて了ふんだ。いくら自分が勉強しようと思っても、第一に時間がない。僕は僕の友達で朝日新聞記者をしてゐる男の悲壯な勉強振りを知ってゐる。 その男は晝間中だけでなく夜中まで忙しいんだ。然しその男はそんな境遇にゐても藝術の事は忘れない。そして會社に通ふ往復や所用で外出する電車の中の時間を創作の時間にあてゝゐるのだ。僕は自分が生活力に弱い男なので、その男の勉強振りを見ると打たれるといふよりむしろ驚嘆するのだ。僕には到底その眞似は出來さうにない。意氣はあっても體が續くまいと思ってゐるのだ。勿論藝術の事を考へると、體なぞ無理をさせたっていゝ氣もする。 然し、その點が學生時代の氣持と、社會に立ってからの氣持とは違ってくる所で僕等にはすぐ明日のパンといふ事が考へられてくるのだ。もし體を惡くして職業を捨てたら、一體どうして食って行かうか、とね。悲しい哉、僕の不才は藝術では食ってゆけないんだ。いや、そんな事は問題ではないかも知れない。 僕はエレサレムへの途上にある身なのだからね。だから甘んじて藝術で食えない事に滿足してもいゝのだが、問題はエレサレムへ着く迄のパンなのだ。途中で餓死したらどんなに救はれないだらう! エレサレムに着く迄はパンが要る。パンは僕にそこに到るエネルギーを供給するものだから。
 それなのにどうだ。そのエレサレムにゆく爲めの努力と、パンを得る爲めの努力とは必らずしも一致しないのだ。こゝに問題がある。こゝに悲愴があるのだ。
 僕は教員室で同僚の餘念のない執務振を横目で見ながら、常に考へてゐる。「羨ましいな!」と君達に軽蔑されても仕方はない、がそれ程僕の氣は弱くなってきてゐるんだ。僕は同僚が、その手に有してゐる仕事に一心を打ち込め得るのを、いや、それに一心を打ち込んで働く事によって、他に惱みを持たないでゐられるのを、羨ましく思へてならないのだ。
 僕は郷里の貧しい親爺の、嘗て僕に言った言葉を思ひ出すよ。
「なんでお前は文學なんてものに凝りかたまるんだ。そんなものに凝るより、暢気に金をもうける事でも考へた方がいゝだらうのにな。」
 親爺は恁う言ったんだよ。然し僕は今、この親爺の無智な言葉を笑へない。怒りも出來ない。現に僕がその言葉通りの事を思ってゐるんだからね。僕は教師の職を惱みもなく就いてゐる人、又は算盤をはじく職に惱みもなく從ってゐる人に、たまらない羨望の念を感じる。彼等は、彼等の意志するエレサレムと、パンを得る道とが綺麗に一致してゐるのだから。
 僕は彼等の幸福を思ふと、今言った親爺の言葉をそっくりそのまゝ呟やかれてきてならない。もし僕が文學なんてものに、藝術なんてものに、執着をなくして了ってそしてたゞ一つの目的にのみ、――それも金のもうかる、身の樂になるポシビリティのある目的に惱みもなく進めるやうになったら僕はどんなに幸福だらう。
 然し、――僕は絶對に文學を捨てる事は出來ないのだ。それに運命的なのだ。僕の腕を取り去る事は或ひは出來ても、僕から藝術に憧憬あこがれる心を取り去る事は出來得ないだらう。僕にとっては文學と言う文字は例へば眼鏡のレンズの上に書かれた文字なのだ。僕はどっちに眼を外らさうとしても、その文字は執拗しつこく僕の眼に目近く寫ってこない譯にはゆかないのだ。 だから僕は眼をつぶらない限り文學と別れる事は出來ない。或ひは眼鏡をはずす事をしない限りは、僕の心にひそかに羨ましがってゐる生活はする事は出來ない。さうして、眼をつぶる事も眼鏡をはずす事も、僕にとっては死の意味より外にはあり得ないのだ。」

 北澤の語調は、知らず知らずに火のやうに熱を帶びてきてゐた。一同は思はず氣をのまれて、眸を伏せて聴いてゐた。
 北澤は續けた――。
「こんな話を、君達以外の、言はば藝術なぞと言ふものに就て路傍の人に過ぎない人達に話して聞かせたら、定り切って恁う言ふ親切な言葉を應酬してくれるだらう。「でも、どうかして、兩方なり立たせてゆくと言ふ譯にはゆかないものかね。會社勤めの傍好きな文學をやってゆくと言ふ事は、その氣さへあれば出來得さうに思ふんだがね。」
 この言葉を僕はこれ迄、幾度となく聞いた。僕はこの言葉を聞く毎に、かつて學校にゐる時分僕の文學志望に對して同じやうによく人から聞かされた「安全な職を持つかたわら好きな文學をやれ」と言ふ言葉を思ひ合はせて、無性に腹が立ってくるのだ。
 僕は現在、彼等が注意してくれた通り、安全な――あまりに安全にも思へないが――職を持つ傍好きな文學をやってゐる。これで安泰なら誰れが始めから文句があるものか! 僕はその二重目的の生活が如何に不成立的であるかと言ふ事を經驗したからこそ、悲鳴をあげてゐるのだ。「どうかして出來ないものか?」と言ふ。そのどうかして、と言ふ言葉が何と彼等の無理解さを示してゐるだらう!
 然し、僕はこれ迄、我慢に我慢を重ね、意地に意地を積んで、此の二重目的の生活のつづ妻を合はせる事に努力して來た。そして無理にもこれを通さうとした。然しふと反省してみると、そんな事は無駄な努力のやうに思はれてきたんだ。
 こんな事を今更言ふ迄もない事だけれど、人間の兩眼が意識的に二つの焦點を網膜の上に結ぶ事が不可能のやうに、人間が異った方向を持った二つの目的に進まんとする事は不可能なのだ。或ひは譯の解らない人は、どっちかを副業にして、そっちの方は本業に從屬さすやうにしたらどうか? と言ふやうな事を言ふ。 今時のせちがらい世の中に、もし僕の場合だったら、教師の職は副業として文學の方を本業として、そしてその教師の職を文學の勉強に從屬させてゆくやうな事が果して出來るかどうか、そんな事をしたら教師の職は明日剥奪されるにきまってゐる。今の世の中では職を得たら、必死になってそれを守ってゆかなければならないのだ。一生懸命に力の續く限りそれを勤めあげてゆかなければならないのだ。副業どころか大本業だ。大本業に取扱はなければ、自分の首があぶないのだ。
 君たち! 落第より外に心配のない君たち! 僕がこんな敗者的な言葉を用ひるのを笑はないでくれ給へ。そして、僕が君たちより僅か一年先に大學を出たと言ふだけで恁うした事を言ふのを許してくれ給へ。
 然し僕は經驗したのだ。實際にあたって經驗したんだよ。
 繰返して言ふが、現在の世の中では、副業と言ふ事は成り立たない。どんな仕事でも本氣に眞向からぶつかってゆくのでなければ、嵐の前の葦のやうに薙仆されてしまふ。副業といふやうな弱い氣味の仕事は成立しないんだ。これは自分で商賣をするといふ場合にも或程度迄は適用出來るだらうと思ふ。兎に角、僕はパンの道を副業としていゝ加減にやって置いて、その傍文學の方を本業として勉強してゆくなぞと言ふ棚からぼた餅式の事は出來得ないと言ふ事を近頃あまりにも痛切に感じてゐるのだ。
 最後に、ぢゃあ文學の方を從とするか? 然しそれは既に僕には問題ではない。僕の文學に憧憬あこがれる心は、普通世間にあるアマツアの文學青年が、道樂半分に文筆を玩弄する、そんな程度のものではあり得ないからだ。もしそんな事に滿足出來るぐらいなら、始めから問題はないのだからね。
 長々と散文的にのべ立てゝきたが、以上が僕の一番最初に言った教師なぞをしてゐると作家的に自殺する事になって了ふと言ふ言葉の意味なんだ。一言に要諦すれば食はんがために働けばどうしても文學なぞおろそかになって了ふと言ふ事なんだ。それになほなによりいけない事は人間性の弱點として、知らず知らずにイーヂーゴーイングを求めると云ふ事だ。これを例にとって説明すれば、何か大切な事を前に控えてゐて、どんなに眠ってはゐけないと考へてゐる場合でも遂眠って了ふ事があるやうなものなんだ。」

北澤はなはも續けた――。
「人間は誰れも苦しむより樂をする方がいゝ。さういふ氣持は、つひ目がけても目がけても目的を達せられないやうな仕事からは、根氣を奪って了ふんだよ。高きより低きにつく――さういふ事がいつとはなしに自然と行はれるのだ。
 假令たとえ片方に大きな理想を持ちながら、それに達する道が難い爲めに遂それを腐らせて了って、自分は安易な平凡な生活について了ふ。さうなったら大抵、永久に人間社會の一兵卒で終るやうになって了ふが、それが實に多いのだ。いやそれが九十パアセントなんだ。そして彼等は一様に自己の運命を、「仕方がない」と呟いてあきらめる。
「仕方がない!」
 何と言ふ悲惨な又何といふ幸福な斷念あきらめの言葉だらう。然しこれは決してロマンティックな言葉ではない。生々しい現實の言葉なんだよ。現に僕が、歯をくひしばり手で喉を扼して、此の言葉を自分の口から吐かせまいと勤めてゐながら、ともすれば、僅な空隙をみつけて、此の言葉がとび出して來ようとしてゐる。どうだろう、君たちは吃驚しはしないか?
 僕はすべてをはばかからず具體的に話てみよう。僕は自分の職業に面白さを感じ出したんだ。教師の職が面白くなって來たんだ。滑稽な程嘘じゃないんだよ。僕のいふ危機とはこれを意味するのだ。
 いや、喋りついでにすっかりぶちまけて了ほふ。プチ・インテリゲンツアの性格破産をね。
 僕は、今教師の職に興味を持ち始めたと言った。その氣持の一つを紹介しよう。例へば僕は近頃學校へゆく事がさほど苦にならなくなった。そして教壇の上に立って肉體勞働をする事を、以前のやうに苦痛に感じなくなった。馴れたんだよ、と君達は云ふかも知れないね。然し馴れたと云ふ事はどう云ふ事を意味してゐるか? いやそれより恁うした事實を話さう。
 僕は、以前は、小煩い女生徒をどんなに嫌惡してゐたらう。話は横道に迯れるが、全く女學校と云ふ所は煩さい所なんだ。よく世間の莫迦が「女學校にお勤めですってね。さぞかし面白い事でせうね。まるで藝者の總あげぢゃありませんか」なぞと言ふ。勿論返事の出來る代物ぢゃないが、これで案外誰れにもさうした心理があるらしいんだよ。然し實際は大反對だ。一言で言へば、女學校なんて小鳥店みたいなものなんだ。チュチュガヤガヤその囀りのやかましいったらない。 然も彼女達の聲が人間の聲であるだけ、一層面倒なんだ。一本氣な、眞面目な男なら、腕をふりあげたくなる事は一日幾度あるかわからない位だ。藝者は向ふがこちらを遊ばせてくれるんだから、いくら大勢でも少しも困る事はない。然し、女學校では、反對にこっちが生徒を遊ばせるんだ。何百人と言ふ、勝手氣儘などうにも致し難い女性と言ふお客さまに對して、たった一人の教師と言ふ忠實な藝者だ。誰れが考へたって樂な仕事ぢゃない筈だらう。 然も僕の場合は、十八から二十一二にかけての無邪氣さを失った、それこそ女の缺點を顏に書き並べてゐる時代の女性が相手なんだ。僕がもし給料に未練がなかったら、一日で女學校でも中學校でも、もっと若い連中を相手にする所へ、鞍替してゐたらう。僕は通職一ヶ月で同僚並に教頭校長の私生活の模様を知った。或年寄りの教師に妾があるのを知った。又或る若い教師にネタタイが合計八本、あるのを知った。これは皆生徒が話して聞かしてくれたんだよ。
 話を元にもどさう。兎に角恁うした、僕には事毎にたまらなく嫌惡を感ぜさせてゐた女子専門學校英語教師なる職業が、驚いた事には、いつとはなしに、僕には面白くなって來たんだ。どう言ふ譯だらう? 先づ第一に、こちらが老巧になってきた。――言ひ換えれば彼等を統御する術を覺え込んできたからだ。それで苦勞が減った。第二にその心持の餘裕から、こちらに享樂本能が首をもちあげてきた、それによる面白さが出來てきたのだ。 享樂本能なぞと言ったら誤解される怖れがあるが、例へば矢張り好きな生徒が出來てくるんだよ。いくら教師だってエロティシズムを持たない筈はないし色々なアフェクションを感じない筈はないんだからね。勿論露骨ぢゃない。然し教壇に立ってその生徒の方を見る事が一日中の樂しみになると言ふやうな事はあるんだ。」

 これが何でもないやうで、なかなかの誘惑なんだ。淺間しいやうだが、その生徒の顏を一日見てからでないと晝飯もうまく食へないとか、その生徒が缺席でもすると一日授業が億劫になるとか、さうした氣持は笑ひ事でなく出來て來るんだ。勿論こっちも老巧だからそんな内心を生徒たちに察せられるやうなへまはしやしないがね。 然もまだこのくらいの中ならいゝ。一歩進んで敏感な相手の生徒が、早くもこちらの意を知って、かへってこちらに接近して來るやうになると困るんだ。今時の女學生にどんな温良な女でも、或る程度のコケットリイを持たない者はゐないからね。
 ――斯うした事も、僕のやうな凡夫の心をその職業に惹かせる一原因にはなってゐる。
 それから第三に、どんな職業でもやってゐる中に次第にその熟練に對する面白味と、それから、その仕事に對して意義が感じられてくる事なんだ。即ち、この仕事だってまんざら無價値な仕事ぢゃない、と思はれてくるんだ。そして自分の仕事が軽蔑出來なくなって甘んじて、その仕事に自分の生活を捧げやうとする氣持が湧いてくるんだよ。
 獨りで長々と喋り續けて了ったから尻は端折って言ふが、要するに、僕は今迄の、自分ではこの上なく堅いと信じてゐた藝術に對する信念が今あげたやうな外力的とそして内面的の原因のために、近頃めっきりゆるんで來て了った事を感じてゐるんだ。僕は以前は鼻紙ぐらいにしか考へてゐなかった自分の高等學校教員免状を、今や護符に祭り上げやうとしてゐる。
 作家的危機! 僕は自分ながら切実にこれを感じてゐる。ドラマツルギイに俟つ迄もなく、クライシスの次にはキャタストロフィが來るにきまってゐるんだ。僕は苦しみ惱みつゝも、いつかその破局に押しやられて了ふのではないかと考へてゐる。それこそ「どうにも仕方はない」と呟きながらね。
 僕は考へると、たまらない氣がする。全く救はれない氣がする。今日は硲君にも久しぶりで會ったし、片々いつもより話に油が乗って、すっかり亢奮と感傷の激流に心を流して了ったので、日頃胸に鬱積してゐた苦悶をすっかりさらけ出して了った譯なんだ。いづれ君たちにも色々批評はあるだらうし、意見もあるだらう。それも聞かしてもらひたい。ただ僕は、僕の恁うした經驗談、實に悲惨な經驗談を、参考の爲めによく味はってみてもらひたいと思ふ。 その結果君たちが、學校をサボるのを止めて、全學科の三分の二を甲を取る事に努力して、そして高等學校の教師の資格を取って、それを看板にして將來飯を食ってゆくやうになっても、或ひは反對に僕の言葉に憤慨して今の中から學校なぞと言ふものに頼る心を捨て、あく迄藝術家として立つべく確然たる方針と、確乎不抜な決心をたて、それに眞向から進んでゆくやうになっても、僕の長廣舌は、決して君たちに無駄だったとは思はないんだ。
 然し最後にに一言つけ加へたいのは僕はまだ決してへたばってはゐない事だ。僕の手に、愛する『羅甸街』編輯事務がある限り僕はミューズから見棄られたくないだらう。僕の救ひは、羅甸街なのだ。或ひは、羅甸街の名聲とか好評とかが、僕の一切の惱みを快刀亂麻的に解決するかも知れないと思ってゐる。作家として生活出來るやうに迄なれば、僕の今のべた千萬言の惱みは、淡雪のやうに溶けてなくなって了ふんだからね。
 だから僕は、どんなに忙しくっても、どんな苦勞でも、羅甸街だけにはとりついてゐたいと思ってゐるんだ――」
 ……議論をするのが商賣のやうな此のグループの者たちには、一晩中かゝるやうな長廣舌も決して珍しいものではなかった。然し今宵の北澤の言葉に、話が話でもあり人が人であるだけに、皆一方ならぬ衝動を與へた。皆は浮ぬ憂鬱な顏をして、默ってコップを上げたり下ろしたりしてゐた。話が相當重大性を帶びてゐるし、然も文學修業中の彼等にはあまり愉快でもない話なので、誰れも快活に口輕く反駁しやうとはしなかった。
 白けた氣づまりな沈默の時間がすぎた。室内には客の姿も見えなかった。スタンドの上で、鳩時計が八時を知らせた。ゆかりもいつの間にか奥へ顏を引込ませた儘出て來ない……。

 ――徹三は獨りで餘丁町の淋しい暗い通りを、東大久保の方に歸って行った。もう九時前後で夜氣は綺麗に澄んでゐた。
 徹三は結局獨りになった事を欣んでゐた。トロイカでの會合が何んとなく氣不味さの裡に終って、青山の下宿に電車で歸る北澤と、目白の下宿に歸る中谷とは、言葉尠に連れ立って早稲田の方に、大久保方面に歸る津田と徹三は、肩を並べて若松町の方に、各自トロイカを後にしたのだった。然し徹三と津田が、興奮のすぎた疲れたやうな空虚な氣持で、別段の話題も見付けずぶらぶら若松町まで來ると、津田は足を止め九段の親戚に一寸立寄る用事を持ってゐた事を思ひ出したといって別れて行った。 徹三は獨になると急に窮屈な緊張から解放されたやうな安易な氣輕さを覺え、彼は電車に乗る心算だったのを止めて、人通りの尠い廣いアスファルトの道を夜氣を樂しみながらぶらぶら歩いて歸る事にしたのだった。
 ――徹三は然し歩きながら矢張り北澤の言葉を反芻はんすうしてゐた。彼には北澤の言葉は決して自分の心に遠いものとは思へなかったのである。徹三は文學者といふ職業が現代社會に於ていかに成立的に困難であるかと云ふ事は、知人や先輩の例でよく知ってゐた。既に新進作家の名を有してゐる人達ですら經濟的には随分ミゼラブルな生活をしてゐるやうだった。 いはんや未だ原稿に市價を生ぜしめてゐない北澤が、假令たとえ一部有識者から有望視されてゐる位置に迄漕ぎつけてゐるとは言へ、經濟的には全々問題になってゐないのは無理はなかった。然し徹三は考へてみるに北澤の悲鳴の裡には藝術に殉ずると言ふ強い意志があく迄強く主張されてゐないやうに思はれるのが何となく物足りない氣がしてならないのだった。
 藝術家に貧乏――それは定理的な事ですらある。古今東西を尋かずその例はあまりに多すぎる。そんな事に苟くも藝術を心掛ける人間には問題でない筈ではなからうか。勿論貧乏もしたくない藝術も大成させたいなぞと言ふのは虫のいゝ話であるし、又如何に藝術を愛さうにも生活が出來なければ――と訴へるのも悲惨なドン底生活から幾多の偉大な藝術が生れ出てゐる事や、又は金持階級だけから藝術家が生れて來てゐるのでない事を思ひ合はすれば、自からそれは理屈にはならなくなる筈である。 即ち北澤の言葉は常識的には無理はないが、然しそれは結局平凡すぎる惱みではないだらうか? もし北澤が眞に藝術の士であるならばもう少し徹底すべきである。そして二つの世界の中間に、どちらにも惹かれどちらにも成佛出來ないでゐるやうな亡者的彷徨からは斷然抜け出さなければならない。 要するに眞に藝術を愛するか愛さないかは、北澤のやうな惱みの瀬を今一棹で敢然と乗り切るか、或ひは甘んじてその瀬に乗せられて流されて了ふか、そこのポイントに依って決められるのではなからうか? そしてもし彼が決然藝術に身を委ねたならば、その爲めには極端な犠牲をも敢て忍ぶべきで、又それくらいの熱情があっていゝ筈なのではないだらうか?――
 ――徹三は考へて來ておのずからが可成り興奮して來てゐるのを知った。然しそれは徹三を反射的に酷寂しい氣持ちにさせた。彼はいつしか自分の心の實際とは隔たりのある強がりを心で叫んでゐた事を反省し、然もそれが北澤の言葉に對してと云ふよりむしろ自分の心に對して叫ばれてゐたやうな氣持がしたからだった。
 無名藝術の惱み!――それは嚴粛な問題である。昔より東西を問はず幾千人或ひは幾萬人の人がミューズの神の隠れたる使徒として此の耐え難き惱みに苦しんだか! 藝術――それは餘りに俗惡な人生の村落から遠き高原に咲く美しく汚れない花であるが爲めに。
「然し北澤君! 君の惱みはそっくり僕等の惱みだよ。矢張り考へてみれば僕等はがらくたな凡人に過ぎないのだからね。何とか云っても結局それは強がりなんだ。僕等が今宵君の言葉に反撥を感じたのは皆自分たちが痛い所をさはられたからなんだよ。だが北澤君よ、努めて強く生きてくれ! 君が強く生きてくれる事は、即ち僕等同じ様な寂しい者達が強く生きてゆく事になるのだからね。しっかりして出來るだけお互に溺れ死にしないやうにしようじゃないか!」
 ――徹三は無性に寂しいやり切れない氣持の中で聲を大きくして呟いた。涙がいつとは知らず頬を流れ落ちてゐた……。
×  ×  ×
 その夜更け、徹三は机に向ってゐた。どうしても亢奮して睡られぬ儘に、ふと思ひ立って、今宵皆に紹介しなかった「列車内のエピソード」を少し創意を加へて一篇の小説に仕上げやうと考へたのだった。それは出來上れば約束の原稿として來月號の『羅甸街』に掲載する筈のものだった。

十月の花
 徹三さま。
 御許し下さい。本當にお許し下さい。お手紙を拜見して、かつ子はあまり濟まない氣がして泣いて了ひました。でも、かつ子には思ひ掛けない事が起って、どうしてもお約束を實行する事が出來なかったのです。決してかつ子がお言葉のやうにお約束に不誠實だった譯ではありません。この點だけは辯解しずにはゐられませんのよ。
 丁度お約束の日の前の晩でした。かつ子はママさんに明日大磯の別莊に兼やを連れて遊びに行って來てもいい? と何氣ない振りで訊きますと、ママさんはお父様のお許しが出たら行ってゐらっしゃいと申しました。 それでかつ子は寝る前にでも一寸パパさんにお斷りすればいいぐらいに思ってお部屋で遊んでおりますと、小間使ひの芳やがお父様が御用事ですと言って呼びに來ました。それでかつ子がパパの書齋に行ってみますと、書齋にはその前の日に名古屋から上京して來てゐた水上の伯父さまも煙草を吸ってお椅子に腰をかけてゐらっしゃいました。 かつ子は變だと思ってパパの傍にゆきますとパパは平常と違ってむつかしい表情をして、かつ子をパパと伯父さまの二人の前に坐らせ、そしてかつ子に思ひがけない事を話し始めたのですの。かつ子は少し聞いて吃驚しました。でもパパはかつ子を名古屋の水上の伯父さまのお家に、お預けするといふのですもの。それに伯父さまは伯父さまで、學校の方は、知人の校長先生に頼んで都合よく轉校出來る筈になってゐるからなぞと仰有るのです。
 かつ子はあまり思ひがけない事ですし、又随分腹も立ちましたので、パパに、どうして名古屋なんかに行かなければならないのですか、と怒って訊きましたら、パパは一寸默ってゐた後に、お前を東京に置いては爲にならないからだと言ひました。かつ子は思はずハッとしました。そしてもう何も言へず胸がどきどきし、顏があつくなって了ひました。パパは暫くしてから、遠まはしに、かつ子と貴方あなたの間の事を尋ね出しました。
 かつ子は急に悲しくなって泣き出してしまったので、パパも尋ねるのをやめて了ひました。かつ子はそれからお部屋に歸っていつ迄も泣いてゐました。その時はなぜかいつも好きなパパが憎らしくって仕方がありませんでした。
 かつ子がひとりで泣いてゐますと、ママさんが心配してお部屋に來て下さいました。かつ子はママさんに優しく慰められて、やっと涙がとまりました。ママさんは、「貴方さへこれから後暗い事をしないのなら、お母様がお父様にあやまってさしあげて、名古屋に行かなくてもいゝやうにしてあげませう」と申しました。かつ子はくれぐれも、「名古屋なぞへ行くのはいや」と念を押しました。名古屋なぞに預けられたら大變ですわね徹三さま。
 その晩はそれ切りです。ですが次の日は朝からどこにも出ないでお家にゐなさいとパパから云はれお約束の事を思って随分やきもきしましたけれども、どうにもする事が出來ませんでした。かつ子は一日中机の前でよく晴れた空を見、大磯の海岸を想像して寂しい氣分に閉じられてゐました。だが徹三さまがそんな苦心をなさらうとは思ってゐませんでしたわ。
 今度の事は、兼やの不注意から徹三さまからのお手紙が偶然パパの眼に止まった爲めらしいのです。いつ頃の事かわかりませんけれどそれでも名古屋の伯父さまとも相談が出來てゐるとすれば、可成り前からパパは氣づいて注意してゐたのではないかと思ひます。
 兼やに訊てみても、兼やは泣いてばかりゐて何にも云ひませんから分りません。
 きっと兼やもパパやママにひどく叱られたのではないでせうか。

(手紙の續き。)
 勿論、文庫の中の手紙や机の抽斗の中の日記帳は、かつ子の留守の間にでも一應は調べられてゐたかも知れません。パパは二十日のお約束の事をちゃんと承知してゐるらしかったのですもの。考へて見れば一寸氣まり惡い氣がしますけど、でもかつ子は自分のしてゐる事がそんなに惡い事だとはどうしても思へませんのよ。
 男の人と女の人と時々會って散歩したり、何でもないお話をしたりするぐらい、そんな不道徳にはかつ子どうしたって思はれないんですもの。ねぇ徹三さま、さうぢゃなくって? かつ子はママさんから、後暗い事なんて言はれた時、随分嫌な屈辱的な氣がしましたわ。
 でもね徹三さま。當分お目にはかゝれませんのよ。かつ子ママさんと約束しましたの、パパを安心させる爲めピアノとフレンチのお稽古もお家でする事にし、それから學校の歸りも道草しない事にしましたの。ですから暫くはどうしてもお目にかゝる時間が作れません。ぢれったいけど仕方がありませんわ。
 でも、一週間か十日ぐらいしたらどうにか機會をみつけて、お目にかかる餘裕を作りますわ。その時はお知らせしますから、會って下さいましね。屹度よ。
 それからお手紙も當分はいけませんわ。一寸でも今パパの感情を惡くしたらかつ子は名古屋に預けられて了ふんですもの。今が大切な時ですから、お互に不自由で寂しくっても、我慢しなければならないと思ひます。
 なんだか書足りない氣がしますけれど、取あへず御返事のおしるしに、お侘の言葉を書しるしました。どうぞ、恁うした譯ですから御怒りをお柔らげ下さいまし。それではおめもじの時を樂しみにして。   かしこ。
 徹三さまを信ずる
      かつ子より
 二十三日夜したゝむ。
×  ×  ×
 恁うした手紙をもらってから、早一週間餘がすぎて、九月はようやく十月と移り變ったが、徹三の許には約束の、面會通知は訪れて來なかった。
 徹三は友達と談笑したり藝術上の議論をしたりしてゐる間こそは忘れてゐるが、自分獨りしんと靜まり反った部屋の中に殘されるととてもまらなく寂しくなって來てならなかった。
「かつ子、お前は無情だな!」
 徹三はよく机の抽斗から小さな肖像額に入れたかつ子の寫眞を取り出して、まじまじ眺め入りながら、怒るやうに又は訴へるやうに呟いたりするのだった。
 事實徹三には、かつ子の手紙から氣に入らなかった。彼女の手紙には愁然とか悄然とかした所がひどく稀薄で、いつもの通りあまり朗かすぎるやうだった。そして又彼女に眞劍に取り亂してゐるやうな所のないのも何となくあっさりしすぎてゐて物足らなく思はれるのだった。
 勿論、名古屋へなぞ預けられたりしては、大變には相違ないが、然し彼女が餘りに子供じみた心で恁うした問題――少くとも兩人間に取っては思ひ掛けなかった悲壯な出來事でさへある――を考へてゐるらしい事は頼りない氣を起させるものだった。
「かつ子はやっぱりまだお伽噺のリーベを考へて居るんぢゃないだらうか?」
 徹三は、さう考へると、折角たのしみにしてゐたかつ子との仲が見る見る水で薄められてつまらないものになってゆくやうな氣がしてならなかった。
 それにしても、是非一度兎に角かつ子に逢ってみたかった。一目でいいから、逢ってみたかった。さうすればくよくよしたつまらぬ疑念なぞ一時に一掃されるかも知れないと思はれた。徹三にはかつ子の通知こそ千秋の思ひで待たれるものだったのである。

 然しその通知が十月に入っても來ないのだった。徹三は苛立たしい腹の立つ氣持で一パイになってきた。かつ子に言はせば場合が場合だから暫くは謹慎しなくてはならないと言ふに違いないのだけれど、恐らくかつ子と自分と立場を換へたら、自分は愛人に對する戀しさのあまり、到底平氣で我慢なぞしてゐられないだらう。要するにかつ子は自分に對して冷たいのだ。それで兩親の云ひなりに温順おとなしい子になり澄ましてゐられるのだ――。
 徹三は考へると癪に障ってさえきた。彼はのどかに晴れた一日、晩い朝食を撮りながら不圖思ひ立って、今度はこっちから押しかけて行って嫌應なしにかつ子に逢ってやらうと考へた。相手の都合を無視してやるのが、なにか腹いせになる痛快な氣がしたのである。
 徹三は午後迄本を讀んですごした。二三日前まで『羅甸街』に出す二十枚ばかりの小説原稿で久しぶりに「産み出す苦しみと惱み」を味あった彼は、どこか體が妙に疲れ果てゝゐるやうな氣分がしてゐた。誦書もあまり油が乗らず、それにオニールの戯曲のガスやスラングがちっとも了解されず、氣がくさくさして了った。一寸した精神勞働でこんなに疲勞するなんて何とも情ないものだと悲しまれた。
 徹三は時間を見計らって外出の用意をした。かつ子を學校の歸途に省線の停車場に擁しようと言ふのである。徹三はスーツケースの中から黒セルの背廣を出して着、ステッキを携へて下宿を出た。衆人の前に學生服より目立たなくてよからうと考へたからだった。
 かつ子の學校は日本女子大學の附属女學校だった。それで彼女は毎日目白と阿佐ヶ谷の間を省線電車で通ってゐるのである。徹三は適確に彼女をキャッチするためにわざわざ目白驛まで出向いて行く事にした。そこのベンチで見張ってゐれば、大抵彼女をミスする事はあるまいと思はれたのである。 ――新宿驛から省線に乗って目白驛に着いてみると時間は丁度三時十分頃で、ちらほら女學生の洋服姿がプラットホームに見えてゐた。
「まだ大丈夫だらう。」
 徹三はさう思ひながら、階段を登って改札口の外に出た。そして買ひたてのゲルベ・ゾルテの封を切って、その一本に火をつけた。彼はそれをくゆらしつゝ一二分そのあたりを歩き廻った。彼は今暫くの後に、殆ど八十日ぶりで戀しいかつ子と顏を合はす事が出來るのだと考へると、胸がときめき立って來て仕方がなかった。それに又思ひがけなく徹三の姿をここに發見して驚ろくであらうかつ子の顏を想像するのも、人の惡い愉快さが湧いて來るものだった。
 徹三は五分ばかりの中に十何人かの女學生が自分の傍を通りすぎてプラットホームの方に降りてゆくのを見た。勿論その中にはかつ子はゐなかった。然し彼女等の誰も彼もがかつ子らしく見えて、その一人一人が驛に這入って來る毎に?と徹三は心臟をどきつかせるのだった。
 徹三はさうやって女學生ばかり見守ってゐたので、その時彼の身近に高雅な黒檀の洋杖ステッキをつきながらゆっくりした歩調で近づいて來てゐた一人の紳士には氣付かなかった。
「おい君、――硲君!」
 と、突然柔か味を帶びたバスで呼ばれて、始めてハッと氣が着(※ママ)いた。彼の横手に莞爾笑って佇んでゐるのは帽子も洋服も靴も藝術家好みのオール・ブラックな黒木正一助教授だった。
「あ、先生ですか!」
 徹三は立上って帽子をとった。何だか無性に氣まりの惡い氣がして思はず顏が眞赤になって了った。

「もう歸京ってゐたんだね?」
 黒木助教授は強度な近眼鏡の奥から詩人らしいサガシティとセンシテヴの籠った眼差しを、周章あわてゝゐる徹三の表情の上に遠慮なく加へながら柔かく言った。
「えゝ、十日ばかし前に歸京ったんですが……」
「學校に出てゐないぢゃないか。」
「サボってるんです。」
「いかんな。」
 助教授は朗かに、徹三は苦しさうに照れた笑ひをした。
「先生の所にも御伺ひしようと思ってゐたんですが、つひ……」
「いや、そんな事はいゝよ。それより學校に出給へ。」
 二人はもう一度笑った。
「先生はどちらへかお出でなんですか?」
 徹三は黒木助教授がこのやうな所に現はれてきたのを、解せない氣がして尋ねた。
「あゝ、これから神田の大觀堂まで行くんだ。今そこの知人の所迄來てね、そこで大觀堂に珍しい古書が出た事を聞いたものだから、急に行って見たくなったんだ。どうだ君も行って見ないか?」
「はあ……」
 徹三は仕舞った! と思った。うっかり自分をこんな窮地に陥らして了った不用意な會話の仕方が悔まれた。それに、徹三の目の前には學校歸りの女學生の姿がめっきり殖えてきてゐるではないか。もし、黒木助教授の眼の前にかつ子が現はれて來たらどうであらう! 勿論徹三の今の計畫は失敗になって了ふし、それより黒木助教授の敏感な思惑次第によっては、徹三は穴にも這入りたいやうな氣まりの惡い思ひをしなくてはならない。兎に角どうにかして早くこの場をはづすか黒木助教授をこゝから去らせて了はなければならない。
「……僕は一寸用事を持っておりますから――」
 徹三は心であせり口で淀みながら先づ斷りを言った。
「誰れか待ってゐるの?」
「えゝ、友達と三時半ごろ此處で落合ふ約束になってゐるものですから――」
 徹三はギクンとしながらも、勇をこして嘘をついた。
「さうですか、どうも失禮しました。」
 徹三は頭をさげた。助教授は一寸帽子に手をかけたゞけで、あっさり徹三の傍を歩き去って行った。徹三は冷汗をかいた腋の下が氣持惡かった。彼はほっとして助教授の去って行った改札口の方から、驛の外の白っぽい往來の方に目を移した。
 と、そこには確にかつ子の歩いてくる姿があった。徹三はふたたび體がひえしまってゆくやうな衝動を感じた。彼は一旦ベンチの上に腰を卸し、又立ち上ってみたりした。 人もあらうに思ひがけない黒木助教授なぞの出現ですっかり面喰った直後だったので、徹三の心は、かつ子の姿を一目見ると、我にもあらず落ちつきを失ったのだった。徹三はすぐ平靜を取り戻した。彼は殊更ゆったり構えて、かつ子が一足驛の中に踏み込んできたら、一番先に目につくであらうと思はれるあたりに、佇んだ。
 かつ子はゆっくりゆっくり歩いてきてゐた。そして彼女の左右に連れ立ってゐる三四人の友達達と時々何やら話をして笑ひ合ったりしてゐる。
 徹三はかつ子の姿をじっと眺めてゐる裡に何だか酷く物足りない氣がして來た。徹三が心に憧れ求めてゐたのはどうしてももっと一人前の女らしい、成熟した情熱を持った娘でなければならなかった。それだのに、今、眼の前のかつ子は、水色のベレー帽を冠り油氣のない髪を二つに分けて胸に垂らし子供っぽい通學ドレスに鴇色ときいろネクタイを結んだ、まるで十四五にしか見えない小娘ではないか。

 徹三はなんとなく幻滅に似た味氣なさを味はった。多少でもかつ子の肉體に執着してゐた心持なぞは一ぺんに無くなって、唯、華奢な子供っぽい彼女の、例へば可憐な草花に見るやうな美しさに對する、單純な愛情だけが心に寂しく殘ったのである。
 徹三がかつ子に眼を注いだ儘、驛の入口の横に立ってゐると、かつ子は軈て三四名の友達と足取も輕く入口の方に近づいて來た。
 見ると彼女は手紙にもあったやうにすっかり陽に燒けて健康さうないゝ顏をしてる。相變らずの黒眸勝ちの大きな瞳は、憂も知らぬ黒ダイヤのやうに生々と輝いてゐた。徹三は眼の前に戀人の懐しい愛くるしい姿を見ながら何だかへんに悄氣た氣持を感じた。
 彼女は何氣なく友達と連れ立って徹三の前を横切らうとした。とその瞬間ひょいとこちらを流し見た眸に、徹三の堅い表情の顏が寫ったらしかった。
「まあ!」
 彼女は明らかに駭ろいたやうだった。が、それは一瞬の表情だけで聲には出なかった。彼女はちらりと何も知らずに行き過ぎる友達の方を伺って置いてその時一二歩彼女の近くに近づいて行った徹三に、わかるかわからない程度の小さな早口で、
「阿佐ヶ谷に來て下さいな。」
 と言ひ渡してその儘後をも見ずに改札口の方に、友達の後を追って行って了った。
 徹三は一寸の間呆氣に取られたやうに立ってゐたが、彼女の姿が階段の下に消えて了ふと、急いで切符賣場の小窓の所に行って、阿佐ヶ谷迄の切符を買求めた。
 徹三は、それから、悄然と一歩一歩ステップを踏みながらプラットホームに降りて行った。
 考へてみると徹三は何から何迄へまだった。黒木助教授とかつ子とがほんの一足違ひだった危い場面にすっかり餘裕を失って、かつ子と逢った場合取るべき態度に就てはつひぼんやりして了ってゐた。然し如何に藝なしでも、もっと何とか氣の利いたフィアンセ振りが執れなかったものか。例へば相手には數人の友達がゐる。それを見た時に既に相手の不自由な立場にゐる事を察して、こちらで適當な敵前行動?を執ってやらなければならない筈だった。 それをのらのらと突っ立ってゐて、然もかつ子から言葉を掛けられる迄、自分に行動の豫定を持たなかった。それなぞどうしたって間の抜けたやり方だと評さなければならない。もしかつ子が、突嗟とっさに「阿佐ヶ谷に」と言ふ事を言はなかったら、自分はどうする心算だったらう? まさか彼女の友達の手前もかまはず、その場からかつ子を自分の勝手な所へ――それも決めてはなかったのだが――連れてゆく譯には行かなかったらう。 なほそれよりももし彼女が徹三に氣づかずに行き過ぎて了ったとしたら、徹三ほどうする心算だったらう? いくら徹三でもあまり智慧のなさすぎる今の態度ではないか。
 徹三はすっかり自己嫌惡に陥って元氣なくステッキをプラットホームの上に引いて行った。
 三四間行った時に電車が來た。徹三はかつ子なぞには關はず、自分の前に扉をあけた車の中に乗り込んだ。電車はぎっしり人をつめて、又すぐ走り出した。
 ――だが、考へてみればみる程、かつ子の態度は偉かった。一瞬の中に自分の駭きは殺して了って、そしてすぐそれに對する對策を考へ、それを巧に相手に知らせて置いて、自分は何食はぬ顏でその場を彌縫びほうして了った。恁うした所なぞ徹三の手際の到底及ぶ所ではない。徹三はかつ子の機智の素晴らしさと言ふより、女性にさうした折に働く頭のスマートさにすっかり兜を脱がざるを得ない氣がした。

 電車はその中に新宿に着いた。徹三は人波に混って中央下りの電車に乗り換えた。勿論かつ子等の姿はどこへ行ったかそこらあたりには見えなかった――。
 徹三は東中野で一隅の空席を得それに腰を卸して足を休めた。彼はステッキの上に兩掌を重ね、眞向ひの欄間に篏め込まれた廣告畫をぼんやり眺めつゝ、先程より胸にわだかまったつまらぬ自己嫌惡の憂鬱を、なるべく今日は遡らさせないで打ち消して了ひたいものだと考へてゐた。
 自己嫌惡は徹三の惡い癖で、一寸した自分の感情齟齬から遂これに陥ると、どんな場合でも彼は忽ちミザントロピストになるのだった。これは徹三自身にも決して愉快なものではない。これが他人と感情の衝突でもした爲めと言ふのならまだしもの事であるが、他人とは何の關係もないのに唯自分で自分が理由もなく不快になるのだったからひどく始末に困った。殊にさう言う場合に彼に接してゐる相手に氣の毒だった。徹三は今日のは折角八十數日振りで戀人と逢った日であるから、出來る事なら我慢してでもこの惡い癖を發揮させたくはないと考へたのである。
 電車が高圓寺をすぎると、車内はめっきり空いて來た。車室を前部から後部まで立った人に邪魔されないで見透かせた。徹三もどうやら氣持を輕く恢復する事が出來たので、ふと立ちあがって、かつ子がどの邊に乗ってゐるか見る爲に一方のデッキに出て行ってみると、そこにあっけない程、かつ子の肩を窄めて車壁に倚りかゝってゐる姿が見つかった。
 徹三はどきんとして足を止めたが、周圍の眼もあったので、そしらぬ顏で彼女と反對側の場所に身を退け、軈て電車が阿佐ヶ谷に着くのを待つ事にした。
 かつ子は徹三に十分氣づいてゐるらしかった。と言うよりもかつ子は途中で友達と別れてから、徹三を探して外の車から此の車に移ってき、そして徹三のちゃんと此處の座席にゐる事を見とゞけて置いて、自分はそ知らぬ顏でデッキに立ってゐたのかも知れなかった。如何に無邪氣を装ってゐるかつ子にも、そのくらいの戀愛技巧は持ってゐなければならぬ筈だった。
 徹三は確にそれに違ひないと考へると、氣づかぬ振りであちら側の窓から外を眺めてゐるかつ子のプロフィルを盗み見しながら擽ったい愉快さを感じた。
 電車が阿佐ヶ谷驛に着くと、かつ子はさっさと車から降りて改札口の方に行った。徹三を意識してゐる事は、彼女の不自然に硬くなってゐる動作でよく知れた。徹三は彼女の後ろ姿をたのしむやうに悠然とステッキをついて彼女の後に從って行った……。
 かつ子の家は、ごたついた町並をはづれて、三町ばかり野畑の間を行った所にあった。そのあたりは遉に武蔵野の野趣を漂はせて、草は緑に土の香は高く、所々の土橋の下を流れる小河の水は清冽である。然もこの邊になるともうふんだんに林があった。樫、杉、松、檜、楢、櫟、其他の常盤木や落葉樹が、あっちに一かたまり丸く、こっちに一群長く、都會生活者には憧れである風景を作ってゐる。
 徹三はゲルベ・ゾルテの煙を澄んだ空氣の中に吐き散らしながらこの水彩畫風な穏かな景色の中を前にゆくかつ子と五六間のへだたりを置いて歩いて行った。もう何とか言ひさうなものだと徹三は考へたが、かつ子は全く徹三の事なぞを忘れて了ったかのやうに、後をも見ずにさっさと道を辿って行ってゐた。徹三はなんだか自分が小娘に操られてでもゐるやうな氣がしてきて、輕く腹が立ってきた。

 丁度、道が辻になってゐて二三軒の小さな文化住宅が揃ひに建ってゐるあたり迄ゆくと、かつ子はひらりと身をかわして、一軒の家の塀蔭に身を隠した。變だな、と思ひながら徹三がそこまで行って見ると、くるりとこっちを向ひて待ってゐたかつ子の花の開いたやうな愛くるしい笑ひ顏にぶつかった。
「やあ、どうしたの?」
 徹三は一寸面喰ひながら、自分もぴょんと道傍の小堀を跳んで、塀蔭の彼女の身近に寄って行った。
「暫く。」
 かつ子はわざとらしく眸に笑ひを殺して、媚た風に挨拶した。小麥色の彼女の顏には、野性的な美しさが漲ってゐた。
「やあ。」
 徹三も笑ひながら、帽子をかむった儘輕く頭を下げてみせた。矢張りかつ子は何と言っても親愛な戀人には違ひなかった。
 恁うやって一言親げに言葉を交し合ひさえすれば、親愛の情は忽ち泉のやうにほとばしり湧いて、心は甘く香々しい幸福で滿たされるのである。徹三は一瞬に今迄の小さい感情のわだかまりなぞはどこかへすっ飛ばせて了ったやうな氣がした。
「お、寶玉よ、今こそ汝は我が手にあり!」
 と、先づそんな風にでも叫びたい氣持だった。
「かつ子、随分吃驚したわ。」
 かつ子は、白麻に佛蘭西刺繍を施した通學鞄を、肩を窄めて若竹のやうに延ばした兩手でぐっと下の方に押しさげるやうにしながら心持ち小首をかしげて子供っぽく言った。
「驚かせてやれと思ったんだよ。」
「まあ、意地惡!」
「だが、約束の通知があまり長びいたからさ。一體、一週間ぐらひの中って言ふ話だったらう?」
「あのね、駄目なのよ。とても家で嚴重なの。」
「だって少しぐらひの時間は……」
「それが駄目なの。想像以上なの。かつ子ね、惡い惡いと思ひ續けてゐたんだけど、どうする事も出來なかったのよ。現にね、今も停車場から町角まで貴方の後から蹤いて來た人があったでせう――」
「蹤いて來た人?」
「えゝ黒い洋服を着た二十一二の男の人よ。」
「一向氣につかなかったな。」
「さう。それがね、パパの會社の人なのよ。いつも新宿あたりからかつ子の様子を見に來てゐるらしいの。――パパも随分だと思ふけれど。」
「……!」
「それ程なのよ。だからかつ子とても自分の思ふやうに出來なかったの。」
「随分ひどいんだね……」
 徹三は呆れたやうに溜息交りに言った。いかになんでも親がその子にそんな非人格的な事をしやうとは考へてゐなかったのである。
「ぢゃあ、かつ子さんは監視附きで通學してゐるんだね?」
「えゝ、まぁ――」
「屈辱だな、あんまりそれは。」
 徹三は思はず頬を少し蒼白ませて呟くやうに言った。
「でも仕方はないわ。此の前の手紙の次に又貴方に差し上げようと思って書きかけた手紙を、うっかりしてゐる中にパパに讀まれて了ったんですもの。それには、パパやママの油斷をみすまして、お目にかゝりませうなんて書いて置いてあったんですもの。パパが神經をとがらせたのも無理はないかも知れないわ。」
「親の身になればね――」
 徹三も素直に頭の下がる氣がした。自分たちから言へばそんな大事件でない筈だと思はれる事でも立場を換えて親になって見れば、自分の秘藏娘が秘密に見知らぬ男性とランデヴするなぞ、仰天せずにはゐられぬ事に相違ない。

「ぢゃあ當分ゆっくり逢へないんだね?」
 徹三はステッキの先で足元の小石をたゝきながら言った。國府津で彼女を抱き得なかったミスフォーチュンが恁うした大きな不幸事の幕開きだったとは、徹三も考へてはゐなかった。彼は突然容易ならぬ大きな障害を豫想させられ、心が暗く翳るのをどうする事も出來得なかった。
「えゝ。でも――」
 かつ子はこれも小麥色にこきみよく燒けた滑らかなうなじを垂れ、一寸沈んだやうな沈默を續けてゐたが、
「――どうにか無理をしてもお目にかゝるわ。」
「そんな事が出來るかい?」
「――出來るわ。」
「さう。ぢゃうまく行ったら會はう。あぶなかったらよした方がいいよ。」
 徹三はもしかつ子がへまをやって、その結果名古屋預けなぞにさせられたら、かつ子より自分の方がやり切れぬと思った。彼の心は事重大と見て取って急に消極的になって來たのである。
「ぢァね、今度の日曜日にお目にかかるわ。」
 かつ子は顏を上げて決然と言った。かつ子の氣性として、恁ういふ所の心の動きは實にはきはきと敢然を極めてゐた。
「日蹴日?」
「えゝ、あさってよ。」
「――大丈夫かい?」
「えゝなるべくうまくやるわ。けど、もしどうしても駄目だったら許してね。」
「あゝいゝよ。僕もならべくなら冒險なぞしない方がいゝと思ってゐるんだ。いづれ僕たちも此れを機會に、なんとか第二段の過程に這入らなけれぁならないと思ふんた。いつ迄も不良少年のやるやうな事をやってゐたんぢゃ誤解される恐れこそあれ、ちっとも僕等の爲めにはならないんだからね。 だから、將來の爲めにも、今つまらぬ事をして御兩親の同情を失っちゃいけないんだ。僕もかつ子さんと逢はない中は、君が通知をくれないのを冷淡だとばかり思って内心ちっとばかり憤慨してゐたんだが、話を聞いてみると今うかつな事はしちゃ大變だと思はれて來たんだよ。かつ子さんもくれぐれも注意しなくちゃいけないよ。」
「えゝわかったわ。」
 その時、自轉車に乗った男が道の小砂利をギシギシ言はせて、徹三等の方を眺めながら通って行った。徹三はこんな所で立話しをしてゐる不自然さを思った。
「かつ子さん。まだ家に歸らなくてもいいの?」
「さうね。もう四時半ぐらゐになるわね。」
「一寸お待ち。」
 徹三はカフスをずらせて腕卷時計を見た。
「――四時二十二分だよ。」
「ぢゃ――」
 とかつ子は何事か考へるやうに一寸遠くを眺めるやうな目つきをしてゐたが、急に眸を輝かすと、
「ね。徹三さん、私の家の裏の櫟林の丘にゐらっしゃらない?」
「どうするの?」
「かつ子ね、一ぺんお家に歸って御道具を置いてから、又出直してくるわ。さうすれば一時間ぐらいいゝのよ。」
「でも、君の家のすぐ裏なんて見つかりぁしないのかい?」
「大丈夫よ。いゝスロープになってゐるんですもの。」
「何て言って出てくるの?」
「レオを運動させるって言って出てくるわ。」
「レオほ僕を見て吠えやしないかなァ?」
「憾(※ママ)えてゐるわよ、大丈夫よ。」
「あの獰猛な奴にわん! と言はれたら遉の僕も弱るからな。」
「あら弱虫ね。」
「ぢゃあ、兎に角、僕は先に其處に行って待ってるよ。」

 場所を教へられて徹三はぐるりと遠廻りをし、かつ子の裏手――と言っても、二三十間は隔ってゐるのだが――に行った。そこは小さな丘陵になってゐてかつ子の言ったとほり櫟がなだらかに斜面に幾十本となく立ち並んでゐた。もう既に黄葉した木の葉がかさかさと土の上で鳴ってゐた。
 徹三はスロープの中腹あたりに朽葉を袴にして腰を卸した。彼の身體の上には薄れ陽に照らされた木々が、幾條かの縞模様を描いて影を投げかけた。徹三は靜寂の中にすいとマッチを擦った。吸ひつけた白い煙草のけむりがこゆるぎもせぬ空氣の中に消えもせず殘った。徹三は甘ったるい獨逸煙草のけむりと入れ換へに今度はつめたい空氣を肺臓一パイに吸ひ込んだ。
 十分經った。十五分經った。然しあたりは森としてゐた。やがて二十分が過ぎやうとした。徹三は四五本目の煙草を指先で揉みつぶして、ごろり腕を枕とに枯葉の上に仰向きになった。うら枯れの梢の上には、浮雲があった。風がないので動かうともしない。
「どうしたんだらう?」
 徹三は漸く退屈になって來て考へた。ひょっとしたら家を出そこなったのではなからうか? 彼はもう十分待ってかつ子が來なかったら、今日はあきらめて歸らなければなるまいと考へた。
 丁度それから五六分經った時、徹三の寝ころんでゐるずっと上の方で人の走ってくる足音がした。
「?」と思って聞耳を立てると、
「レオ! レオ!」
 と、まぎれもないかつ子の冴えた聲が聞こえた。
 徹三は跳ね起きてそちらの方を眺めてみると、かつ子は猛烈な勢ひでとびかゝってくる眞黒な毛並みの大きな洋犬を、胸一パイで引き受けながら、一方首を忙しく左右に廻して頻りに徹三の居所を探してゐるらしかった。
「こゝだよ。」
 徹三は遠慮した聲で言った。
「あら、」
 と、かつ子は徹三をみつけてにっこり笑ひ、犬を迯らせて足輕に走りをりて來た。
「随分お待たせして了ったわね。」
「約三十分だよ。」
「御免なさいね。」
「何してたの? 僕は歸らうかと思ってゐたんだよ。」
「でもね、すぐ家を出られなかったの。ママがおやつ食べておゆきなんて言ふものだから――」
「なんだ、おやつ食べて來たのかい? 僕を裏山に待たせて置いてね。」
 徹三は半呆れ半噴き出しさうになって、彼女の顏を眺め見た。何とこのマドモアゼルはランデヴの前にカステラ?の幾片かを平げて來たのである。
 然し又、徹三は彼女の顏を見詰めた時決して見逃しはならない現象をも見たのである。彼女は極薄くではあったが確にクリームを洗顔して綺麗になった顔に目立たないやうに引いてきてゐた。
 かつ子が――そんなに無邪氣なかつ子が、寸時を削いて迄態々お化粧をして來たのである――或ひはおやつを食べて來たといふのは口實かも知れない。彼女は此の三十分間をひそかなお化粧に費したのかも知れない。彼女は手紙でも色の黒くなった事を苦にして書いてゐたやうだった。又實際にも随分いい色に燒けてゐる。 (燒けてゐるのもかへって少女らしくて可愛いのだが)それで彼女は、徹三の前に女性的なはづかしさを感じて又一方には愛人に對する媚容を整へやうとして、恁うしてうっすらではあるがお化粧をして來たのに違ひない。――徹三は一瞬可憐なかつ子の心にひどくいぢらしさを感じた。
「だって――」
 かつ子は、徹三の言葉に對してか、或ひは自分のお化粧した顔に注がれた徹三の眼差に對してか、急に眞赤に顔を染た。

 その時、レオが獨りで巫山戯ふざけながら、林の中を走り廻って來た。かつ子の父親が外國歸りの友人から一年ばかり前にもらったと云ふ漆黒な毛の房々した良種の洋犬で逞い四肢を踏ん張ると小作りな人間程もあらうと云ふ獰猛な犬である。以前はジョンとかありふれた名前がつけてあったのだが、かつ子が徹三と知り合ひになってから、徹三の勸めでかつ子が齋藤晴夫氏の小説中の犬「レオ」に眞似て名をつけ換たものだった。
 ――ところでレオは徹三を間近に見ると、一寸尻込みするやうに身をずらせ、危く唸り出さうとした。徹三は危いと思ったので、「レオ! レオ!」と親氣したしげな語調で呼んでやった、レオはそれですっかり氣を許したと見えて、すぐ尾を振り始めた。或ひは數ヶ月前の徹三を想ひ出したのかも知れない。
 徹三はそれからレオと巫山戯た。此の強猛な洋犬は五六分間の中にすっかり徹三を疲れさせて了った。徹三は汗ばんだ顔を上げて、
「もう降参だ。かつ子さん引受けておくれよ。」
「レオ! レオ!」
 かつ子は足元の小石を拾ふと犬を呼んだ。そしてレオが彼女の方に突進してゆくと、手に持った小石を遠くに投げて、
「あっちで遊んでおいで!」
 と言った。犬は小石のあとを一散に追ひかけて行って、小石の落ちたあたりで勝手に獨りで巫山戯始めた。
 徹三はハンカチで額をたゝき、洋服の塵を拂ってかつ子の傍に佇んだ。かつ子の油氣のないむき出しの頭は丁度徹三の眼のあたりにあった。恁うして並んで立ってみると、かつ子も相當背が高い子だった。
「かつ子さんは丈はどれくらいあるの?」
「丈? ――一五六センチメートル。」
「何だ。メートルぢゃわからないな。尺に直すと五尺――?」
「――一寸何分かでせう。」
「丈はぢゃァ立派に及第だな。だが痩せてゐるから目方はなさゝうだね。」
「さうでもない事よ。これで四十七キロあるんですもの。約十二貫何百目かなのよ。」
「さうかな。ぢゃあ婦人としてはまづ整った方だねぇ。」
 稍意外を感じた徹三は感心してかつ子を眞正面から眺めおろした。なる程改めて熟視してみると、彼女は十分に成熟した處女の體格をそなへてゐる。假令たとえ二つに分けてその先にリボンをつけて、兩胸に編んで垂らしてゐるおさげは子供らしくとも、着てゐる學生風の洋服は膝っこまる出しでも、彼女の肉體はめきめきと女性としての發達を遂げ終って、彼女を完全な一個の女に仕上げて了ってゐる。
 徹三は一瞬決して平氣な表情で彼女を見ては居られなかった。彼の心は微かに動揺した。
「矢張りかつ子はもう立派に女になってゐるんだ。俺は彼女の子供すぎるやうな性質や態度に心配する必要はあるまい。俺たちの間は俺の出方ひとつで或ひは十分に次のエポックが作られる可能性はあるのだ。」
 徹三はひそかに考へた。
 手紙の上では十分に女でありながら、顔を合はせてみれば相變らずの子供で、彼が期待してゐた熱情的な戀愛など到底考へられないくらいかつ子は以前の儘の愛くるしい少女にすぎなかった。さうした遺憾な氣持が、目白の驛でかつ子を一目みた時から、少からず徹三の心を味氣なく物足らなくさせてゐたのだったが、それが、第一には彼女が、ひそかにお化粧をして來たと言ふ心理も考へる事によって、第二には目のあたりに彼女の肉體の成熟を確める事によって、俄に慰やされ安心させられる氣がしたのだった。

 徹三はかつ子から眼を放すと、どかりと土の上に腰を卸した。
「坐はらない?」
「えゝ。」
 かつ子は膝を揃へてそっと徹三の傍に倚り添って坐った。そして丸く出た二つの膝っこを短いスカートで包み込むやうにして、それから、上衣のポケットに片手を突き入れると、一寸躊躇ひながら、一掴みの銀紙にくるんだチョコレート・クリームを出して、それを子供のやうに含羞はにかみつゝ徹三に差出した。
「やあ、僕のおやつかい?」
「知らなくってよ!」
 徹三は笑って、
「ぢゃあもらふよ。僕だって待ち草臥れておなかが空いてゐたんだからね。」
 徹三はかつ子の細い指の間から流れ落ちさうになってゐるチョコレート・クリームを受取った。そしてそれを先づ逆さに置いた帽子の中に入れ、その中から一つを抓み出して早速銀紙をめくり始めた。彼の指先には栗の實型のチョコレート菓子が殘った。
「どう、かつ子さん食べない?」
 徹三はそれを掌に乗せてかつ子に示した。
「いいのよ。」
「さう言はないでお食べよ。」
「……」
「どうして食べないの?」
「だって、結構なんですもの。」
「かつ子さんのおやつはチョコレートだったの?」
「いやよ。」
「ぢゃァね、チョコレートはもう結構でも、僕が半分食ひかいた殘りなら食べてくれるだらう?」
 徹三は態と冗談らしく言って、――その實我乍ら少々テレながら――チョコレートを言葉通りに半分食ひかき、それをかつ子に差し出した。
「さあ。」
 かつ子は遉に躊躇したが、やがて赧くなりつゝも、それを徹三の掌の上から撮み取って、口の中にそっと入れた。
「ヂュ・ヴ・ルメルシ。――僕はこれでやっと氣が濟んだ。」
 兩人はなんとなく羞耻をお互に柔かな喜悦の情でふんわりと包んで、戀人同志らしく徴笑み合った。なごやかな氣持が春風のやうに兩人の心の中を流れて行った。
 ――それから兩人は、落ち着いて話し始めた。久し振りに逢った喜びがいつとはなしに兩人を周圍の事情から忘れさせた……。
 兩人は何の順序もなく漫然と、チョコレートを食べたり、その銀紙をまるめたり延ばしたり、又は地上の枯れ葉を拾いあげて揉みつぶしたりしながら、口に昇ってくる事を、なごやかなゆっくりした氣持で話し合った。
 先づ、今さき目白驛で思ひ掛けなく黒木助教授に捕まって面喰った話やら、遡っては大磯ですっぽかされた時どんなに自分が悲觀したかと言ふ話。又はかつ子の手紙が巧く書けてゐて感心させられたと言ふ話。一身上の不快なアフェアには觸れない郷里での單調な生活の話。東京に歸ってから急に創作衝動を刺戟されて、來月號の羅甸街に久し振りに短篇を書いた話。そしてそのモデルになった車中での見知らぬ少女に就いてのエピソード。 一方、かつ子の方では徹三の留守中寂しかった話。でも海岸でのお轉婆はさうした氣持の時には随分慰めの役にたったと言ふ話、其他お互の通信に書いた色々の出來事に就ての話など、――兎に角さうしたゆきあたりばったりの話が次から次へと兩人の唇に上って、兩人は時の移るのを忘れた。
「――俺はこんな喜びをどんなに待ってゐた事か!」
 徹三は、不圖話の途切れた時、膝の上に一パイとり散らかされたチョコレートの銀紙を凝視しながら、思ったのだった。

 暫くして、徹三はかつ子に誘はれて、櫟林の丘を降り、もう少し田舎道を行った所にある藪蔭の沼の方に歩いていった。そこはかつ子がよくレオを連れて遊びにゆく所ださうで、みのもには睡蓮なぞが咲いた氣持のいい靜かな所だと言った。道理でレオは兩人の足の方向を知ると、さっさと獨りで先走りして了った。
「――實際、國府津と大磯ぢゃァ悲觀したよ。あの寂れた秋の海邊をひとりでのこのこ歩いた時の心持ったら……」
 ――徹三は道すがら、又、思ひ出したやうに言った。こんな可愛い戀人を、今やしっかり掌中に握ってゐる幸福を思ふにつけ、さうした言葉が回顧的に唇にのぼってくるのだった。
「ね。もうその事は言っこなし――いいでせう? かつ子あれだけ先刻あやまったんですもの。」
 かつ子は、悲しさうな眸をして哀願するやうに言った。
「御免よ。つひ――。もう言はない。」
 徹三も、かつ子がいたはしくなって、あやまった。そして今度は威勢よくステッキを振ってみたり口笛を高く青空に向って吹き鳴らしてみたりした。心の中が、多少でもかつ子の無情を恨む心が嘗ては宿ってゐたかと訝しまれる程、綺麗さっぱりとれ渡った。
 然し、その時、ひょいと汽車中で沓子に逢った事を思ひついたので、
「かつ子さん、土屋沓子って人知ってゐない?」
 と、無雜作に訊ねて見た。
「土屋沓子さん?」
「あゝ、僕の知ってゐるマダムなんだけどね。――その人もこの夏大磯で暮したんださうだ。だからひょっとしたら海岸あたりで知り合ひになっちゃゐなかったかと思ったんだ。」
「知らなくってよ。どんな方かしら?」
 徹三は一寸した興味から沓子の身柄から容姿迄話して聞かせたが、かつ子は一向氣がつかなかったと言った。その中に兩人は藪の奥の沼のほとり迄來た。そこはかつ子の言葉通り靜かな落ち着いた場所だった。竹の鬱蒼と糟立そうりつした岸邊には、又、櫨や榛の木が枝を交えてゐて、さうした各々の枯れ葉をはらはらと鏡のやうに秋空を寫した沼の上に落してゐた。
「レオはどうしたらう?」
「向側の野原で遊んでゐるのよ。いつもそこにゆくと蜻蛉が飛んでゐるものだから、レオは大欣びで追ひかけ廻してゐるのよ。」
 兩人は倚り添って、沼の淵に腰を卸した。沼の上には睡蓮はもう沈んで了ったのか影は見えなかったが、空の夕燒雲がそっくり姿を落してゐて、綺麗な風景畫を作ってゐた。徹三は沼のおもてに落ちる枯葉を可愛い女のそばかすに例へた、ロシヤの作家ドウイモフの短い小説を思ひ出したりした。
「いい所でせう?」
「いいね。」
 徹三は彼女の肌の温味を感じながら應へた。
「睡蓮はもう見えないわね。」
「睡蓮なんかなくたっていいよ。この澄んだ沼の景色だけで十分だ。それに珍しく水が腐ったりしてゐないらしいのも氣持がいゝよ。」
 徹三は首を延ばして足元の水面を見た。そこには彼の黒い顏が明るい背景に寫った。
「底が見えて?」
 かつ子も首を延ばして水底を見た。然し水底は見えずに、彼女の顏がおさげをぶらんと水面に向って垂らして寫った。
 兩人は何と言ふ事もなく水の上で微笑み合った。それは徹三にヘルマン・ウント・ドロテアの一場面を思ひ出させた。彼は不圖ふと甘酸ぱい惱ましさが、そして一服の激しい情熱が身の裡に湧き上ったのを知った。彼は身を起すと、彼の目の前にあるかつ子の細い撫肩を極自然にそっと引き寄せてそしてしっかりと胸の中に抱きかゝえた。

 徹三とかつ子は先刻來た道を反對に辿ってゐた。夕日は兩人ふたりの影を長く地上に延ばしてゐた。
「かつ子さん!」
 徹三は不圖振返って一足遅れて歩いて來たかつ子に言った。
「え!」
「怒ってゐるの?」
「いいえ。」
 かつ子は小さく言って顏を俯せた。薄い耳朶にはまだ櫻貝を思はすやうに血の色が仄に殘ってゐた。
 徹三はその儘三四歩默って歩いて行ったが、急に歩調を弱めるとかつ子と一緒になって、肩を並べた。そして靜かな調子で話し始めた。
「――僕のした事、惡かったら許してくれ給へ。だが僕は僕等の間にキスぐらいないのこそ不自然だったのぢゃないかと思ふ。勿論僕等は、僕等の結婚迄は清浄な關係を持ち續けてゆかなければならないのは言ふ迄もない。然し僕はいつ迄もこれ迄のやうな子供同志のやうな交際ぢゃ頼りなさすぎるんだ。もう少し兩人はしっくり結びついてゆきたいと思ふ。かつ子さんの意見はどうか知らないけれど僕は今度郷里に歸ってゐて切實にそれを感じたのだ。」
「えゝ、わかるわ。」
 かつ子は微に口の中で言った。
「わかってくれるんだね。有難う。僕はひどく幸福だ。僕等はなるべく早く小兒的感傷主義を捨てゝ、そして現實意識に目覺めなければならない。僕等のこれから只管ひたすらにめざすのは結婚だ。僕等の交際はそしてお互いの感情も決して夢みたいなお伽噺的なものであってはならないんだよ。」
 かつ子は默って俯向いてゐた。徹三は、彼等の前を元氣よく走り廻るレオを見詰めながら語を繼いだ――。
「でね、先刻僕は一寸考へたんだが、今度の事件なんか僕等には反っていゝエポックメーキングになったと思ふんだよ。僕等はこれを機會に心持をすっかり入れ換えるんだ。僕等は茫然した交際でなしに眞面目に結婚の事を考へ始めなくちゃならない。これはかつ子さんだって決して異存はない筈だと僕は信じてゐる。どう?」
 かつ子は小さく頷いた。
「僕はね、來年大學を出たら結婚の申込みをしやうと思ってゐる。勿論正式にだ。僕はその結果は或ひは多少波瀾があるかも知らないと思ってゐる。第一に僕の郷里の方の複雑な事情。第二に僕が將來文學者志望である事なぞ。然し僕がそれらの難關を押しても樂觀出來る事は、かつ子さんは長女であっても弟のある事、そしてなによりかつ子さんが僕を愛してゐてくれる筈のことなぞなんだ。殊に、かつ子さんがあく迄僕に好意を持ちつゞけてくれたら僕は兩人の結婚は決して不可能な事ではないと思ふんだ。」
 兩人はいつの間にか櫟林の下まで來てゐた。そこは兩人の別れ場所でなければならなかった。徹三は足を止めて落日の方を見た。陽はまだ思ったより高いのだが、あたりは黄昏の氣分が濃厚だった。
「かつ子さん、今言った事はみんな眞面目な事なんだよ。分ってくれたらうね?」
 徹三は話に結びをつけるやうに言った。耳のつけ根あたり迄赧くしてゐたかつ子は相變らず俯向いた儘頷いた。
「ぢゃかつ子さんは眞實の愛をこの際堅く誓ってくれるだらうね。」
 徹三は熱情を籠めて言った。徹三の興奮も夕日以上に彼の顏を染めてゐた。
「誓ふわ。」
 かつ子は低いけれど、これだけは判然と言った。
「いつか貴方にお送りした押花ね、なづな、よ。あれの花言葉が以前からの私の心です。」

「あゝいつだったか、僕が郷里に歸って間もなくの頃、かつ子さんが手紙の中に入れて送ってくれたものだね。あれなづなって言ふの?」
 徹三はかつ子が愛用のコピイの香水を浸ませ、紅色レターペーパーの折疊みの中に、厚目な日本紙に包んで送ってくれた小さな白い花の――それは既に萎れた黄色な花になりかけてゐたが――あった事を思ひ出した。然し徹三はそれに別段意味があっての事だなぞとは思ってゐなかったのだったが。
「えゝさうよ。あれこの春野原で摘んだの。けど、なんだか氣まりが惡くって、押花にしたなりとうとう貴方にあげずに、先達まで机の中に仕舞って置いちゃったの。」
「さう。だけどどうして氣まりが惡かったの? その花言葉の意味に就て?」
「……」
「僕に聞かしてくれない? その花言葉の意味を。僕知らないんだ。」
「だって――」
「いゝぢゃないか。それに折角かつ子さんがその意味を籠めて花を贈ってくれたにしろ、僕がその意味を知らなけれぁ何にもならないぢゃないか。」
「――御存知ないの?」
 かつ子は顏を赧らめながら、同じやうな事を言った。
「本當に知らない。不幸にして僕は花言葉と言ふやうな星苗(※?)趣味からはひどく縁遠いものだから。」
「ぢゃあね。――だって、かつ子言へないわ。」
 かつ子は襟足まで赭くして俯向いて了った。
「あゝいい事を思ひついたよ。かつ子さんは言はなくていゝ。僕ねどこかの本屋で花言葉の本でもあったら立ち見してみるからね。それでいゝだらう。」
「えゝ。」
 兩人は兩手を向き合って握り合ひながら立ってゐた。愈々いよいよいやでも別れなければならない時になってきたのだった。レオは遠くから二人を不審さうに眺めてゐた。賢い彼は既に平常定められてゐる散歩の時間がとうに過ぎてゐる事を自覺してゐるのである。 徹三は別れの際に何か言って置かなければならぬ事があるやうな氣がして頻りに焦慮あせってゐた。然し焦慮れば焦慮る程心の中でまとまらないので、斷念あきらめて、やっと別れの言葉を言ふ事にした。
「ぢゃあ、今日はこれで失敬しやう。今度は四日の午前十一時半、銀座の山野の店なんだね。十二時迄待って來なかったら、僕は一應かつ子さんが都合がつかなくって出られなかったと解して、丸善の英書部に本を見にゆくから、そこへ電話をかけてくれ給へ。いゝね。」
「えゝいゝわ。なるべく時間迄にゆくつもりだけど。で、どこへゆくの?」
 兩人は先刻、來る日曜日のあぶなかしいランデヴの詳細に就いて色々の意見を交へながら相談し、豫定はほぼ出來上ったのだったがその日半日の行き場所に就ては未だ決定してゐなかったのだった。徹三は別れる迄にそれを決めやうと、その時言って置いたのだった。
「さァね。――ぢゃァと。」
「築地は今マチネを演ってゐないかしら?」
 かつ子は可成りの築地黨で、行く所がないと、よく徹三をそこへ誘ふのだった。
「築地? さう築地に行ってもいゝね。ホテルの演舞場でマチネをしてるよ。」
「なァに?」
「ウヰルヘルム・マイエルフェルステルのアルト・ハイデル・ベルヒかな。――確に。」

「ウイルヘルム・マイステルのアルト――?」
 かつ子は小首を傾げて、何の氣なしに問ひ返した。が、徹三は急に笑ひ出した。
「ウイルヘルム・マイステルは修業時代、乃至ないし遍歴時代だよ。」
 かつ子には此の意味が飲み込めなかった。徹三はかつ子の怪訝さうな顏付を見ると、笑ひながら説明した。
「マイステルはゲーテの作品の主人公だよ。その主人公が活躍するのが、マイステルの修業時代、又はマイステルの遍歴時代と言ふ、ルヰ・フィリップをして最も退屈で最も美しい書物と言はしめた小説なんだよ。所で僕の言ったのはマイエルフェルステルのアルト・ハイデル・ベルヒさ。随分やゝこしいがね、日本譯ぢゃ『想ひ出』となってゐる。内容は有名な青春劇なんだよ。」
 兩人はこんな罪のない會話を最後として、右と左へ別れる事になった。然し兩人はどちらからとなく別れ難い氣持を感じて、一寸相談した後、少し大膽だいたんのようではあったが、徹三はかつ子をかつ子の家の裏門あたり迄送って行く事にした。然もそれが幸ひ成功して兩人は枯かけた蔦のからんだ大理石造りの裏門の下で、暫しの別れを告げる事が出來た。
「ボン・ソアール、ムッシュ。」
 かつ子の聲も小聲だった。
「ボン・ソアール、ママント。」
 徹三の聲も小聲だった。
 兩人は輕く手を握り、眸で微笑ひあって別れた。
 徹三はかつ子の姿を傍から失ふと、俄に自分の半身を失ったやうな寂しさに襲はれた。徹三はがっかりした疲れを覺え、そっと然しゆっくりとその裏門から離れて行った――。
 徹三のさまよふやうな無意識の足は、暫らくたつと彼をかつ子の家をやゝ遠くから見渡されるひとつの丘の上に導いてゐた。丘には一面の雜草が、餘命の短くなった衰退の色を見せて生ひ茂ってゐた。
 徹三はもう黄昏色の薄く立籠めた、その丘の上に長い間、ステッキで身をさゝえて立ってゐた。彼の眸は、ぽっちりついたかつ子の家の二階の窓の灯に、いつ迄も吸はれてゐた。それは決してかつ子の部屋の灯とはきまらなかったのだったが。
 軈て徹三は、思ひ出したやうにゲルベ・ゾルテに火をつけて、丘を降り始めた。彼はその一本を最後として中をからにした煙草の箱を、輕く掌に揉んで捨てた。と彼はゆくりなくも、自分の足元に小さな紅色の花が一輪かぼそげに微かな秋風に顫えてゐるのを發見した。
 徹三はそれを立上って摘んでみた。小さな名も知れない秋草の花は、蝶の羽根のやうに薄い、そしてくっきりと紅をそませた葩を徹三の指の先でも可弱げに打ち顫はさせた。
「今日の記念に――」
 徹三は洋服の内ポケットからメモの小さい手帳を出し、その間に花を挾み込もうとした。と、一寸無理をしたのか、或ひは餘りにその花が脆弱なのか、二三枚の紅色の葩は、雜草の上にはらはらと夢のやうに落ちて行った。
「十月の花よ可憐な十月の花よ。」
 徹三は微笑を以てその壊れた花を懐にした。そして、不圖浮び上った齋藤晴夫氏の小さな詩を仄かな哀愁と倶に誦んだ。
「さまよひ來れば秋草の
ひとつ殘りて咲きにけり
面影見えて懐しく
手折ればくるし花散りぬ」
 ――徹三はそして停車場の方に歸って行った……。
×  ×
 徹三は新宿に出ると一軒の書房の棚を探した。そして折よく見つかった優しい装幀の『花言葉』なる本の一頁には次のやうな文句が述べられある事を知った。
「なづな――。心も身をも捧げて私は貴方を愛します。」

惜春のうた
 時雨やすい秋の空は、幾度か陽の光と交互して銀座街のペーブメントを驟雨で塗らせた。徹三は樂譜にも見倦きて、小せはじげに行き交ふ街頭の人の群を、山野樂器店のショウヰンドの横にもたれてばんやり眺めてゐた。小さめの降る日の街並みは、いやに白っちゃけた單色畫に見え、行人の雨道具に薄日のさすのも、又は銀色の雨脚の冷たく光るのも、底冷のする侘しさを與へてゐた。
「随分待たすな。」
 徹三は、苛立たしいよりも一寸心配になって時計を見た。
 ――十一時廿分。
「なんだ、まだそんな時間か。」
 徹三は心の奥に苦笑を感じた。少し早すぎると思ったが、行き所のないまゝに眞直に此處へ來た。それから随分こゝで暇をつぶしたやうな氣がしたが、それがまだ十五、六分足らずのものだったのである。
「待つ身につらき時鳥ほととぎす……」
 徹三はひょっくりそんな言葉を唇の上にとび出させて、我れながら可笑しくなって微苦笑したのだった。
 丁度、約束の十一時半きっかりの頃だった。ショウヰンド越しにちらりと見かけた黒い少女の影、――それは確實にかつ子だった。
「あら!」
「やあ。」
「お早かったのね。」
「あゝ一寸待ったよ。」
「でも私、遅れやァしなかったでしょ?」
「うん、さうだね、まづ成績ほいゝ方だったね。」
「これでも随分慌てたのよ、家を出る迄の氣苦勞ったらなかったわ。少しも早く家を出たいし、それかと云ってお稽古をすまして了ふ迄は、さもさも落ち着いた顏をしていなけれぁならないし――」
「でも、うまく出られてよかったよ。僕は下手にゆくと大磯の二の舞を演じなくっちゃならないかも知れないと思ってゐたんだよ。」
「又!――」
「だって本當にさ。」
「あれ、云っこなしぢゃないの?」
「えらい言質をとらへちゃってゐるんだね――ぢゃ、兎に角、そこらからぶらぶらしようよ、僕ァさっきからここに立ってゐて氣まり惡い位なんだよ。」
「あら――」
 かつ子はくすりと笑って、
「ぢゃ、一足先に出てゐて下さらない? かつ子譜を一枚買ってかなけれァならないのよ。」
「ぢゃ、あっちへ歩いて行ってるよ。」
「えゝ、すぐ追ひつくわよ。」
 徹三は、クレパレットの襟を立て、心持ちソフトハットの庇を目深に引き、兩手をポケットに突き込んだ儘、細い雨のけぶるやうに街路樹の上に降りかゝる外へ出て行った。
「巴里の若者たちは」
 ――徹三は雨に濡ながら、西條八十氏の抒情詩を思ひ浮べてゐた。
「傘を持たない
  ※割愛します 
 美しい娘のことを夢みる」
 ――かつ子がコトコト靴の音をたてゝ濡れたペーブメントの上を小走りに追ひついて來た。
「お待ち遠さま。」
 かつ子は徹三と、絹製の薄いレインコー卜の胸を並べながら言った。
「いや。」
 徹三は簡單に應えた。又詩の次の章を心に追った。
「容易に雨がやまぬ時は
  ※割愛します 
 しみじみと濡れてゆく」

「傘さしませうか?」
 かつ子は腕を曲げてそれにぶらさげてゐた洋傘を片手にもち換えて言った。
「だって、兩人でひとつの傘には這入れまい。」
「……」
「かつ子さんおさしよ。帽子かむってゐないんだから冷たいよ。」
「いいわ、こんな霧雨なら濡たってたいした事ないわ。」
「ぢゃ濡て歩かうよ。氣持が好いぢゃないか。」
「さうね。」
 兩人は尾張町の交叉點を超えて新橋の方に向って歩いた。
「どこがいゝ?」
「なァに?」
「ランチさ。」
「私、さう食べたくないけど。」
「僕は食べたいよ。」
「ぢゃ――私、どこでもかまはないわ。」
「三角堂か、モナミか、資生堂か――」
「三角堂が氣持がいいわ。」
「ぢゃ。」
 兩人ふたりは三角堂の扉をあけ、部屋の隅の階段から、その二階に上って行った。徹三もかつ子もレインコートを脱いでテーブルに就いた。
「何?」
「何でも。」
 徹三は定食の外に輕い洋食一皿と、ホットドリンクを、めいめいの爲に注文した。
 食事を簡單に撮った後は、兩人はなんとなく落ち着いた氣持を感じてくつろいだ。徹三はゆったり煙草をふかし、かつ子はぼんやり窓外を眺めてゐた。
「さァてと。」
 と、無言の安らかな數刻の後に徹三は椅子にらせてゐた身を起して、吸さしを灰皿に捨てゝ言った。
「出かけようか? もう十二時二十分だ。ゆっくり歩いて行ったら丁度いゝ時間だ。」
「さうね、それに丁度霧雨も降り止んだやうだわ。」
 兩人は勘定を濟ませ、レインコートを抱えて階段を降りた。そして何の氣なしにガラス張りのドアの外に出ようとした時、徹三はぴったりと外から同じドアの中へ這入らうとしてゐた一人の婦人と顏を合はせた。
「おや!」
「あ!」
 婦人は土屋沓子だった。お納戸地に華手な格子模様をあしらったコートを着、髪は洋髪ながら相も變らぬ都會人好みが、携えた細まきの紺蛇の目に、又はつま皮のかゝった東下駄に迄伺はれやうと云ふなりかたちだった。
「先日は……」
 沓子はにっこり笑って會釈した。徹三はかつ子を連れてゐる場合でもあり、一寸面喰った形で帽子を慌て取りながら、
「その後失敬しております。」
 と、改まってお辞儀した。
「よく方々で突然お目にかかるのね。」
「本當ですね。」
「で、今日はどちらへ。」
 沓子は視界のはづれに徹三の後ろで堅くなってゐるかつ子を眺めながら、それでも知らぬ顏をして尋ねた。
「ホテルの演舞場に行かうと思ふんです。」
「あら、いゝわね、ぢゃ私も行かうかしら?」
 徹三はハッと當惑した。その色が明らかに顏に出たであらうのを自分で知ると、次の瞬間には彼は二重に狼狽した。
「でも、貴方お連れがおあなんなさるやうだから、私今日は失禮しますわ。」
「えゝあの……」
 徹三が返事に窮して、困惑した顏を上げた時、沓子は矯慢な笑ひ聲をたてゝ、おっかぶせるやうに言った。
「行かうか、なんて嘘よ。御ゆっくり遊んでゐらっしゃい。」

「今の方だァれ?」
 銀座から数寄屋橋の方に曲りながらかつ子が訊ねた。
「ほら、いつか話した土屋って言ふマダムだよ。今も、まだ暫くは大磯にゐるから暇があったら遊びにきてくれって言ったらう。――あの人は此の夏からまだ大磯に住んでゐるんだよ。かつ子さん、顏に見知りなかった?」
「知らないわ、でも随分美しい方ね。」
「つくりが上手だからだらう。」
「さうかしら――」
 かつ子は氣乗りのしないやうな調子で言った。徹三は早くもかつ子と沓子との間に女性同志に特有な或る反撥感情が取り交された事を感じた。「女性ってかうしたものか!」と言ふやうな一寸不愉快な氣分が徹三にはした。年嵩としかさな沓子には仕方はないとしても可憐な小娘のかつ子にはどんな場合でも一般女性らしい缺點からは縁遠であってほしい氣がしたのだった。 それは或る時には少しく大人らしい女性であってくれるやうにと希ふ徹三の心とは、ひどく矛盾する筈のものではあったけれど、それにしても徹三は沓子の他人を玩弄したやうな先程の皮肉なしぐさには、戀人と一緒だったといふ場合が場合とて、すっかり反感に似たものを感じてゐた。 或は平常ならば可成り辛辣な冗談を言ひあったり巫山戯た小惡戯いたずらを交へあったりするのは決して珍しいのではなかったから、あの程度の事から拘泥こだわった氣分を感じると言ふやうな事は無かったかも知れなかったが。
 兩人は何氣なく默りあって道を帝國ホテルの方へ進めて行った。一寸白けた氣持ちが兩人の間にわだかまってゐるやうな氣がした。徹三はむっちりと肉の締った子供らしい顏をツンと澄まして無表情に自分と肩を並べてゆくかつ子の横顏を横眼で見ながら、彼女は屹度沓子の人の惡い皮肉な揶揄に少女らしくきずつけられたであらうと氣の毒に感じた。 と、又一方に自分があゝした傍若無人な婦人の前には矢張り子供扱ひにされて了ふ人間として練れてゐない若さを自分ながら不甲斐なくも思ひ、或ひはかつ子からでさえそれを輕蔑されてゐるのではなからうかと言ふ不快な氣持を覺えさせられもするのだった……。
 然し兩人がホテルの裏門をくゞって三々伍々と同じ入口を目差して足速にゆくモダン型の青年男女、藝術家型の青年や紳士なぞに混り込むと、自ら氣分はすっかり新らしい魅力の方に轉換されて、兩人は急に晴々しいいそいそした氣分になってきた。
「大入りらしいわね。」
「マチネにしちゃ珍しいね。」
「屹度評判がいいのよ。」
「友田と田村が戀人同志の役で共演をやるって言ふのが、つまらないゴシップなんか作ってセンセーションを起してゐるらしいね。」
 ――そんな話をしながら、ライト式の天井と、牀のやけにせまった演舞場側の入口に來た。そこには綺羅びやかに飾った令嬢たちやおめかしした青年紳士や、金釦を光らした丸帽や角帽の學生たちや長髪に異様な服装をした藝術家的ダンディたちが、或ひは切符を買ふために、或ひは下足を預けるために、或ひは連れのくるのを待つために、或ひは開演時間の迫らない儘に漫然と立話をして、ごてごてと然しインテリヂェントな靜粛を保って群らがりかたまってゐた。
「お金、持ってゝよ。」
「いゝよ。僕持ってるから――」
「出してあるのよ。これ――」
「いゝってば。」
 そして徹三は平土間の一等席を二席選んで買ひ求めた。

「やあ!」
 狹苦しい廊下を、岩窟内の廣間といった感の演舞場へ足を入れようとした時、徹三はそこの壁に倚りかゝってゐる黒服ロシア帽の一青年に氣がついて挨拶した。相手は徹三より先に氣附いてゐたらしく徹三の聲に微笑んで、帽子をかむった儘頭を下げてみせた。
「御無沙汰してゐます。」
 徹三は一寸青年の前に足を止めて言った。
「いや、僕こそ。」
「お忙しいやうですね。」
「えゝ、相變らずくだらない仕事が輻輳してゐるんで――」
「でも元氣でいゝですね。」
「いや元氣なんてまるでありませんよ。」
「どうしてどうして、仲々盛んぢゃありませんか。」
 徹三は久しぶりに逢った此の先輩的友人に、すぐ別れ難い氣持を感じて、背後に向ふを向いた儘佇んでゐるかつ子に、
「かつ子さん、君、先にシイトについてゐてくれない?」
 と言った。かつ子はふり返って頷くと、徹三の手から切符を一枚受取って、その儘場内に這入って行った。白服のボーイがかつ子を案内して場内への入口から番號の座席の方へ導いてゆくのが見えた。
「近頃、シネマの方は丁度シイズンで忙しいでせう?」
「忙しいですね莫迦々々しい位。」
「書きましたか?」
「西原さんのを一本ね。落第なのを到頭皆でこねあげて役に立てましたよ。――をとゝひ書き上げたのを今日はもう撮影してゐます。」
 青年は快活に笑った。彼は松竹蒲田撮影所で近頃賣出しのシナリオ・ライターとして名を馳せてゐる。そして又一方に於ては新興劇壇に續々と異色ある作品を發表して、新進劇作家としても將來を一般から嘱目されてゐる河野道夫と言ふ男だった。彼の作は、既に此の築地小劇場のレパートリイにも書き加へられてさへゐた。
「所で、今日はよく入りましたね。」
 徹三はもう開演時間が迫った故か、めっきり混雜してきた狹い廊下を見返りながら言った。
「えゝ僕も感心してゐたんです。まさかこんな出し物がさう改めて興味を惹くとも思ひませんでしたからね。」
「それに、こう見た所、見物はみんな築地の常連ばかりのやうぢゃありませんか? これぢゃ出張公演も意義を爲しませんね。」
「さうですね、然し、小劇場の腹ぢゃ、劇が劇だから――と言ふよりもホテルでやれば、少くとも一般に見てもらへる、殊に學生大衆に見てもらへると考へてゐるんでせう。然し恁うやってみるとやっぱりそれも失敗ですね。小劇場を見るのは常に一定の顏の定まった人達で、その他の民衆は、要するに新劇などと言ふものに對しては縁なき衆生なんだと言ふ事になりますからね。」
「まだ駄目ですね。民衆は少くとも五六年遅れてゐます。」
「いや、十年遅れてゐますよ。そういふ事は、民衆藝術に非常に近い位置にゐるシネマの、そのシナリオを書く時に、つくづく感じますよ。」
「困ったものですね。」
「どうも僕にはやり切れませんね。僕等はどうしたって今でさへこの『想ひ出』の程度ではあり得ない心を持ってゐるし、從って仕事だって務めてその方に近づけてゆき度いし、さうかと言って世の中は愚昧な民衆と、ヂャーナリズムと、極端な資本主義的彈壓の構成ですからね。」
 その時、河野の低い聲を壓倒するやうに、開演ベルがけたゝましく廊下中に響き渡った。
「ぢゃァ失敬します、――又。」
 徹三は帽子の庇に手をかけた。
「どうぞ、ちょっと自宅でもスタヂオでも遊びにゐらっしゃい。」
 河野はどこか精悍を偲ばす眉宇を、穏かに微笑ませて言った。

 徹三はかつ子の隣の席に就いた。場内は銅鑼どらの一打に消燈して觀客席は水を打ったやうにひっそりとなり、そして重い緞帳どんちょうは暗黒の裡に左右に開かれた。
 やがてぱっとともる美しき照明。
 ――『アルト・ハイデルベルヒ』(想ひ出)の劇はひらけてゆくのだった。
×  ×  ×
 第一幕
 舞臺は十九世紀、ドイツ聯邦、カールスブルク侯國居城内重々しい莊重な装飾調度と、古風で陰鬱な空氣の漂った薄暗い宮廷内の一廣間。――數人の侍從の男爵や又は此の大公家の從僕達の噂話――即ち大公殿下の甥御であり、後繼者でもあるカール・ハインリッヒ太子の大學入學の爲めに明日ハイデルベルヒに向って出發する事に就いての、ひそやかな噂話から劇は展開されてゆく。
 それに依れば此の古き居城はまるでお城ではなく人を封じ込める要塞である。窓と言ふ窓は重臣なる老人達の手に依ってピタリと閉め切られ、そこから少しの春風も通って來ない。心の窓を肉體の窓を、邪慳に頑迷に閉ぢられた幾多宮臣の哀れさよ! そこにある生活といふのは、只管型に箝め込もうとする形式主義と、何事でも高貴と名づける煩はしい禮儀作法と黴の生えた息詰まるやうな因襲とたゞそれだけしかない。 温情といふものも、なごやかさと言ふものも人たちの胸からは遠の昔、奪ひとられてゐて當の太子殿下カール・ハインリッヒですら、未だ水々しい青春の持ち主でありながら、既に笑いと云ふものを忘れさせられて了ってゐる。太子は氷のやうに教育せられ、一方鐵鎖でつながれたやうに嚴重な監督を受けて成長した。だから太子は世間の事は何も知らず、たゞ憂鬱にのみ育ったのである。
 それが、明日を期して一ヶ年のカレッヂライフを送りに、春風の恣ほしいままに吹く、草花のだぎれるほどに咲き亂れた、自由な天地に向ほうと云ふのである。これが八年間といふものを無理矢理の規則づくめで愛する太子を心にもなく冷たく教育した傍付きのユットナ博士の老て病み弱ってゐる心を喜ばせない筈はなかった。 假令たとえ、此の古城の生活を代表してゐるやうな國務大臣ハウクの言葉には「諸侯家の慣例として遺憾ながら」遊學させる、とあっても、博士にとっては「神様のお惠み」で人間らしい生活を少しの期間でも愛する太子に味はさせる事だった。
 然し、博士の喜びも、決して無條件に許されるものではなかった。そこにはいとはしい古城生活の延長が、先づ指導役の博士の肩書の巖めしい「國務顧問官」なる名となって、次には閣議に於て決定される筈だと言ふ明細な大學に於ける太子の「学問研究方針書」「日常生活規定」となって現はれ示されたのである。 老博士は、この言葉の傳達を受けてむしろ怒りと絶望に近い心持を味った。博士は太子の爲めにせめて此の一年間はあらゆる過去の鐵鎖をかなぐり捨て、一切の形式や禮儀や因襲からは逃れ出、そして思ふが儘に裸となって兩手を天に振り上げながら、人間として、自分たちの生命の泉の甘美さを味はなければならないと思ってゐたのだったから。
 舞臺は大勢の宮臣達が入れ交って去來し、最後に廣い間に博士と太子カール・ハインリッヒの二人のみになる。博士は太子の前にもこの憤懣をもらし、どうせそんな事なら自分はハイデルベルヒにはゆきたくないと言ふ。然し博士を肉親の伯父かなにかのやうに慕ふ太子の、切情をこめての哀願には、遉の博士も知らず顏をこはして太子の請を容れない譯にはゆかなかった。博士は太子の肩をしっかり抱いて、幕切れに恁う叫ぶのである。
「――貴方は何も見た物はない。人間も學生も若い娘も――さあ参りませう。カール・ハインツ。貴方は屹度吃驚しなさる! ハイデルベルヒ! 屹度貴方は吃驚しなさるぞ!」

 第二幕
 舞臺はハイデルベルヒに於けるリュウデル旅館の庭に移る。
 左手には年代の附いた煉瓦建の旅館の入口。舞臺正面は庭を區切る低い柵と、一列に立ち並んだ葉を茂らせた立木。その柵と青葉を通しては、背景のネッカー河の廣い紺の布を横に敷いたやうな風景と、その河向ふの緑の山の上に立ったハイデルベルヒの古城が望まれる。右手は舞臺端もよりだらだら阪になって、此の庭の向ふ側にある道路に下りつながってゐる心持。
 立木の陰が多い此の庭には、大學生たちの酒のみ場所として(此の宿は酒店兼業で白ペンキ塗りの卓子や椅子が、數多く配置されてある。然し、平常ならば閑古鳥も鳴かうと言ふ此の閑靜な獨逸古都郊外の酒店も、今日はハインリッヒ公子の御入來の日と言ふのでその時間が迫るに從って、宿の亭主を始め妻君や彼女の伯母や、學生達主催の新入生招宴の爲めにやって來てゐる音樂師連迄、あれやこれやの用意に轉手古舞をしてゐる。ハインリッヒ公子は一ヶ年間の御宿を此處に求められる事になったのである。
 此の店にケエティと呼ぶ美しく無邪氣な給仕娘がゐる。彼女はリュウデルの姪で、此處に聚る學生連の間には「美しきお姫様」と渇仰されてゐる。實に彼女は「青春」の美しさと清らかさと明るさとを表徴してゐるやうな女性であり學生たちには「青春」の夢の愉しさを想はす存在であった。
 彼女は今日も今日とて、ハインリッヒ公子の入來で夢中になってゐる。彼女には未だ見知らぬ公子は本當に美しい「夢の王子様」だった。彼女は憧れの公子がお出でになったら第一番に歡迎の詩を朗讀しやうと一生懸命思ってゐる。
 軈て公子はお着きになった。人々のざわめきの中に、興奮したケエティは花束を捧げながら、熱の籠った調子で覺え込んで置いた詩を朗詠する。
「遠き國よりはるばると
 我がネッカーの美しさ
 岸邊をさして來給ひし
 君に捧げん此の春の
 よに美しき花飾り
 樂しくわが家に入り給へ
 やがて去る日の來りなば
 ハイデルベリヒの學び舎の
 幸ありし日の思ひ出を
 忘れ給ふな心して」
 ――ハインリッヒ公子の若き心臟は、ゆきげの下から若草が萌え出す時のやうに、一脈の生氣を呼吸し始めた。總ては彼には驚異であり欣びであった。明媚な風光と豪放磊落快活な學生達の群も、そして始めて眼の前に見る、ケエティの美しき姿も。
 陽は既に傾いてくる。河向の古城は夕日の中に姿をシルエットにしてゐる。裏の庭からは、學生群衆の宴會がたけなわと見え、力強く響きよいリズムを持つ學生歌『ガウヂャームス』が、音樂隊の演奏と倶に聞えてくる――。
 黄昏の濃い舞臺の上には、疲れ果た病身のユットナ老博士が、たわいもなく一つの椅子の上に居睡りこけてゐる傍に、公子とケエティと二人が相對してゐる。
 二人は始めは怖る怖る、然し漸く大膽に話し始める。二人の若き胸と胸とは、いつ知らずしっくり溶けあってゆくのだった――。
 二人が話し會ってゐる所へ、學生連は雪崩込んでくる。庭は一面の亂痴氣騒ぎになる。酒を呼ぶ怒鳴り聲、騒ぎまはる足音。宴に興を添る音樂隊の『酒の歌』の演奏、そして醉っ拂ひ學生の合唱の聲。
「今日の日を何とか言はん我はたゞ
 心に思ふ、いざ飲まん哉!」
 公子は學生連の中に亂暴快活な青年デートレフ伯爵を友に得た。一同は夕闇の濃い庭の中に、手に手に提灯を振り翳しつゝ、圓陣を作って歌ひ踊り狂ふ。新入生歡迎會は、正に最高潮。眠りこけてゐた卓子の老博士も、亂暴な學生たちに叩き起される。
「御老人、五月が來ましたよ!」
「誰が來たって?」
「五月が來たのだ!」
 ――老博士も、亂舞の中に捲き込まれてゆくのだった。……幕靜かに。

 第三幕
 旅館下宿リュウデル家内のハインリッヒの部屋。遠い過去の市民風な雅致を帶びた點、古代フランク式の調度で飾られ、壁には繪畫や澤山の學生の小型寫眞が懸ってゐる。部屋の隅には一臺のピアノ等。
 午前五時頃で、朝日が窓へさし込んでゐる。その窓超しにハイデルベルヒが見える。――雀が外で囀ってゐる。
 公子は此處では、すっかり普通の自由人に返って。思ふ存分のびやかに、「青春」を享樂する生活を送ってゐる。數ヶ月の學生生活は公子を始めて人間らしくさせてゐるのである。
 屬官のルッツは、極端な官僚主義者で、そして嫌味な男である。彼は昨夜も到頭御歸館なされなかった公子の爲に、一夜を轉輾と假寝に過ごさせて了って、すっかり参って彼はこの罪を日頃氣の合はぬ平民主義者のユットナ老博士になすりつけて、ひどく腹を立てゝゐるのである。
 そこへ馬車の響き、鞭の唸り、元氣な笑ひ叫ぶ聲が聞えて、昨夜をユーゲンハイムで踊り抜き、それから歸途の村毎の酒場を荒して來たカール・ハインリッヒ公子、博士、親友デートレフ伯爵、其他の學生連が、歸宅して來る。一同は非常に酩酊してゐる。公子は公子で四時間も馭者臺に腰掛けて手綱を執って來たといって大元氣である。ルッツは茫然となって了ふ。
 暫くすると一同はおのおの引取って部屋の中には、公子とケエティと二人きりになる。二人はどちらからとなく抱擁し合ひ、熱いくちづけを交し合ふ――。
「僕達は若いのだ。ねケエティ青春の時代だ! 随分長い間、僕は咽喉をしめつけられすべてを奪はれてゐたんだ。――ね、ケエティ、僕達は先例のない素晴らしい眞似をしてみよう、一緒に世界中を旅しよう。」
 公子はうっとり夢のやうに言ふ。然し突然思ひ立ったやうに、
「行かう、今すぐ、せめて巴里迄も。」
 ――そして公子は、愕ろく屬官をせき立て、直に旅の仕度に取かゝらんとする。ケエティも晴の着物を着に部屋を去る。その時、突然カールスブルグの宮廷から、大公殿下卒中の御發作に依って御危篤の旨をもたらせて國務大臣が訪れてくる。ハインリッヒの今が今まで心の中に築いてゐた欣びと樂しみの殿堂はその瞬間に沙の上のそれのやうに崩れ落ちて了った。
 國務卿は、すぐさま公子に歸城して頂いて、なにはともあれ、摂政の職に就いて頂きたいと言った。
 公子は苦惱の聲を絞って、
「私を又縛りつけやうと言ふんですね。私はあそこへは二十年以來縛りつけられて息も吐けなかった。伯父上は本當にお氣の毒です。然しそれはそれだけの事です。伯父上は他人です。それ以外の何物でもなかったのです。兎に角それから私は放免された。ハイデルベルヒへ。私は此處で私の目を開いた。皆は心から私を迎へてくれたのです。それに約束の一年はいまだ四ヶ月しか經ってゐないぢゃありませんか! 私は自分の青春時代から實に多くの物を奪はれた。然しこゝに殘ってゐるこの僅かのものだけは斷じて手放しはしませんよ。」
 然し、若き公子の言葉は、國務卿に容れられる筈はなかった。公子は遂に叫ぶ。
「私は囚人になるのですね!」
 今は頼む所はユットナ博士より外にはなかった。公子は出て來た老博士の胸に身を投げかけて自分の心を披瀝する。然し、思はざりき、老博士は常に變った嚴然たる態度で、その公子の哀訴の間違ってゐる事を訓し、そして叱責迄して、宮殿に直に歸る事を命じた。
 然し博士の胸は苦しみで亂れる。博士は堪まらなくなって室を出てゆく。入れ違ひに悄然としてケエティが着換えた白服で這入ってくる。二人の深い苦悶をかくした、ぢっと涙を抑へた別れが取り交される。
「ケエティ、屹度歸ってくるよ、そして今日の取りかへしに必らず一緒に遊びに行かうよ!」
 ケエティは悲しみを抑へて微笑んでみせる。
「本當にね――」

 第四幕
 第三幕から二年後である。舞臺はカールスブルク城に於ける昔の公子、今の大公カール・ハインリッヒの暗い立派な居間である。卓上電燈のある大きな書卓や書籍の入ってゐる棚等が配置されてゐる。
 即ち、大公は一年前に到頭藥石やくせきの効なく亡り、今は公子ハインリッヒが後を襲ふてゐる。そして、幕開きに登場する宮臣達の話に依れば、若き大公は後二週間の中に美しき、然し唯單に政略上の便宜にすぎない妃殿下を、おめとりなさる事になってゐると言ふのである。
 軈て大公は登場する。彼の顏はどこから見ても二年前ハイデルベルヒであのやうに快活に學生生活を送った人とは思へぬ程、死人の如く憂鬱に蒼褪め、木石の如く默りこく、堅く研ぎ澄まされた刄物の如く神經は鋭く嶮しくなってゐる。侍從長が密かに嘆聲を洩らしたやうに、若き大公から新鮮な空氣をこの古色蒼然たる古城に注入される事は失敗に終って、古城は今や「墓場」に變って了ったやうだった。それは一切の宮臣達の「明るさ」が「若さ」が、重い石の棺に封印されて、埋葬される事だったのである。
 ハインリッヒは重苦しく、侍從長の申し述べるきたる御婚儀の件を聞き終ると、今はもう故人となったユットナ博士の記念碑をハイデルベルヒの墓地に建立する件につき、命令と希望を述べる。
 侍從長はかしこまる。それから侍從長は退出しかけて思ひ出し、ハイデルベルヒの話の出たついでに申しあげると言って、ハイデルベルヒから一人の下賤な老人がお城に尋ねて來て、是非大公殿下にお目にかかりたいと望んでゐる、と言ふ事を傳へた。
 ハインリッヒはその者は誰れかと無表情に訊ねると、侍從長は無雜作に、ケラーマンと言ふ男だと答へた。この答へは、然し、大公をひそかに飛び上がらせんばかりにした。
「ケラーマン!」
 それは、大公には想ひ出の糸をたぐるに、非常に都合のよき、糸の端だったのである。彼はハイデルベルヒに於ける親友デートレフ伯爵の忠實なる下僕であり、そしていつか冗談に、ハインリッヒがその善良さを賞でて、「俺が力ールスブルクの大公になったら、尋ねて來い。給仕長位には取り立てやるから。」と言った事のある老爺だったのである。即ち老爺はその言葉を覺えてゐて、今頃出てきたのであった。
 ハインリッヒは、早速、ケラーマンを通させる。大公には、「あの時の一人」に逢ふ事だけで、耐え切れない歡びだったのである。
 ハインリッヒは、日頃になく胸をはだけて話し合ふ事の出來る気持を感じ、人を遠ざけた靜かな部屋の中で、腹の空いてゐる老爺を何くれとなく饗應しつゝ色々と、ハイデルベルヒのその後の有様を訊ねる。噂話をするだけで大公は昔の自分を取り戻すやうなうれしさを感じるのだった。然し、ハイデルベルヒも二年間の中に色々と變った。懐しい學生連も大分は散り散りになって了ってゐると言ふ。ハインリッヒは一通り相手をせき立てるやうにして、あちらの様子を聞終ると、今度は口籠りつゝ顏を赧くして、
「それからと――どうしてゐるかあの――ケエティは?」
 と、夢にも忘れ得ないでゐる、あの可憐な白衣の戀人の事を訊ねてみる。
「あれ――あのケエティ、あれでしたね、さうさう――あれは随分と泣いてゐましたよ。」
 老人のこのっ直な答へは、ハインリッヒの心を萬感に亂れさせた。ひさめに立ち消えんとして消えかねてゐた篝火が再び勢ひよく燃えあがるやうに、若き大公の胸には、二年前のそれと同じ情焔が爆發するやうに燃え上った。
 大公は老爺を鄭重に別室に下らせ休ませてから、夜の十時と言ふのに屬官ルッツを呼寄せて、すぐさま旅へ出る用意を命ずる。
「は? ハイデルベルヒへ!」
「さうだ。一日か二日間だ。一分間も愚圖愚圖ぐずぐず出來ない。」
 大公は血の氣を顏に漲らせて斷然と言ふのである。

 第五幕
 再びリュウデルの庭、舞臺は美しく掃除されさゝやかな宴會の用意が整へられてゐる。即ち大公殿下の御出を迎へる爲めである。
 然し、ネッカー河の上流に舟を漕かせてゐられる大公より、一足先に下見分にやって來た屬官ルッツの言葉に依れば、殿下は今度の旅行ではすっかり期待を裏切られひどく不機嫌に憂鬱になってゐられると言ふのだった。それと言ふのは、殿下は「昔のハイデルベルヒ」の夢をみながら、過ぎし日の學生の時のやうな心を抱いて、やって來られた。それだのに、大公を迎へる誰れも誰れもが、すっかり儀式ばって了ってゐて、まるでハイデルベルヒを宮廷の中のやうにして了ってゐる。 例へば今朝こちらへお着きになった時、殿下は懐しいハイデルベルヒ大學の學生達と、ホテルで謁見遊ばされたのだったが、その時、殿下は簡素な服で勲章も佩びられず、快活にお部屋に這入って來られて、微笑みながら親く手を差し出される位、お氣輕でゐられたのにも拘らず、學生連は徹頭徹尾鯱矛しゃちほこ張って了って、勿論殿下のお手は取らずに、一同はそろって敬禮である。 そして殿下の御輕い言葉に對しては、學生總體が前に進み出てお答への演説をする。殿下が再びお獨りになられた時は、殿下の顏は今迄血の氣で溢れてゐたのに換えて、雪のやうに眞蒼に變っておられた。――と言ふのだった。
 其裡に時間が近づいて殿下の思し召しで開かれる小宴に招かれるサクソニア團の學生連は、皆燕尾服で畏まって這入ってくる。音樂隊も、特に昔の日を偲ぼうと思し召しになる殿下の意に依って招かれて來てゐる。
 軈て殿下は、諸人脱帽の中に、氷のやうに冷やかな眼差しを左右に配られつゝ、岩から上って此の庭に這入って來られた。
 學生連の靜粛な歡迎。
 各人の簡單な自己紹介。
 ――ハイデルベルヒは變った。本當にハイデルベルヒは今や昔のハイデルベルヒではなくなってゐる。ハインリッヒは心の中でつくづく思はない譯にはゆかなかった。あたりの景色は、あの夕日にシルエットを描く河向ふの古城も、紺の布を敷いたやうなネッカー河も、そうしてこの立木にかこまれたリュウデルの庭も、少しも變ったものではなかったけれど、人の姿のみは移り變って昔の面影もない。大公は僅に殘る二三の舊友と話を交へながら、浸み込んでくる、秋の寂しさを感ぜずにはゐられなかった。
 殿下は、恩師ユットナ博士の墓が(博士はハイデルベルヒの土となったのだった。)思ひ掛けなく荒廃してゐる事を嘆き、學生連にどうか世話をしてやって下さい、と頼むのであったが、その心の中では、生きてゐる人でも過去に遠慮なく葬られる世に、死せる人が忘却されるに無理のない道理に、怒る氣さへ起し得なかったのである。
 やがて、宴會は卓子を圍んで始められる。二年前の大景氣に引換え、今ではすっかり學生客を他處に奪はれて了ったと言ふ酒店リュウデルの庭に、今日は久しぶりに得意なビールの香が香ふ。
「何かやって下さい。」
 殿下は祝杯を呷りながら、少しでも學生時代の元氣さを身の裡に甦えさうと務めて言ふ。
「承知しました、殿下。」
 學生連は答へて、奏し出される音樂と共に、若人の惜春のうた、「嗚呼過ぎ去りし若人の」を合唱する。靜かな黄昏れ近い空氣を顫はせて、哀調のメロディが一高一低、歔々として若人の肺臟に貫き響くのである。
 カール・ハインツはコップを握り占めた儘、懊然と、この低音なメランコリックな歌に俛首れて了ふ。
「嗚呼過ぎ去りし若人の
 榮やいづくに消え果てし
 いと樂しくも自由なる
 黄金の時よ、汝ははや
 とはに歸らず、求むれど
 影さへ偲ぶ術もなし
  嗚呼如何なればかくばかり
  物みなすべて變りてし!」
 學生達の歌う哀切の歌は、一番二番三番……と續いて行った。そして餘情を長く引いて「ミレンチウム! カンツス、エキス、エスト。」の號令と共に靜かに終った。
 ハインリッヒは宴會が終って、學生達が礼儀正しく敬禮して退場し去った後も、重苦しい夢に壓へ付けられてゐるかのやうに茫然と浮かぬ顏をして腰掛けてゐた。その時狂氣のやうに走り込んでくる一人の娘がある。
「カール・ハインツ!」
「おゝ、ケエティ!」
 二人は我を忘れて抱き合った。ケエティは用事の爲めに出掛けてゐて、今歸って來たばかり、そしてハインリッヒの來訪を知ったばかりだったのである。
「本當に貴方又いらっしゃって下すったのね!」
 ケエティはハインリッヒの腕にしかと抱かれつゝ、涙を流して言った。
「本當に私はまた來たよ、ケエティ!」
 ハインリッヒの聲も潤った。
「でも、貴方今直に又行って了はなくちゃならないって本當なの。」
「さうだよ、ケエティ!」
 二人は悲痛に抱き合った儘俛首れる。錐で刺すやうな苦痛が二人の心臟を突いて過ぎた。だがケエティはやっと心を取りとめ、取り収めた。
「分ったわ。分ったわ。」
 そして、愛しくて堪まらぬやうにハインリッヒを撫でさすりつゝ、
「ねぇ、カール・ハインツ、以前お笑ひなすったやうに、笑ってみせて頂戴。」
 ――二人はそれから二年前の追憶に僅かばかり殘された時間を費した。總ては白薔薇の花のやうに美しく甘く、そして脆い青春の夢だった。
「樂しい若い時代、それは本當に短いものね――」
 ケエティは心の底からしぼるやうに言ふのだった。
 ケエティは又自分も近々兼て婚約中の男と結婚する筈だと話した。相手の男はウインの博勞だとの事だった。ハインリッヒは無言の儘それを聞いてゐた。
「ね、ハインツ。私達二人の事はどうしたって仕方がなかったのですもの。さうぢゃなくって? そして私達はいつもその事は知ってゐましたわねぇ。――だからカール・ハインツ、これからは貴方もあの美しいお姫様を随分可愛がってあげて下さいましね。」
 その時、從僕は出立の時間の迫った事を知らせに來た。二人は眼に見えない鐵鎖に堅く縛られたやうに、どうしても別れる事が出來なかった。
「もっとゐてよ! カール・ハインツ。」
 ケエティは今失ったら永久に自分の眼の前から無くなって了はなければならない愛人を、今生の熱涙を泛べて眺めた。
「これが最後だ。ケエティ! お互に何時迄も忘れないでゐる事にしやう、どんな身の上にお互はなってゆかうと、ね、さようなら。」
 ハインリッヒは居たたまれぬやうに、その場から去って了はふとした。が、再バネ仕掛のやうに走り戻って來て、しっかりケエティを抱き、最後の接吻を與へて、その儘姿を庭から消して了ふ。後にはケエティの欷歔ききょだけが夕闇の中に高く……。
×  ×  ×
 徹三は夕燒雲の雨あがりの道路に照り映えた、小寒い秋の日ぐれ前を、かつ子と一緒に日比谷の方へ歸って行った。心の中がなにとはなしに泣きたい氣持で一パイになってゐた。なにが悲しいのか何が遣る瀬ないのか、そんな事は問題でなかった。唯々もう聲をあげて泣き出せば氣がすむやうな氣持だった……。

雨の日の客
 相變らずの雨だった。
 徹三はひる迄學校の教室で我慢してゐたが、午後に到頭逃げ出して「トロイカ」の圓卓子の前に坐り込んで了った。そこには朝から教室に顏を見せないでゐた古屋と宮田が、ライスカレーを食ひ散らかして置いて、夢中になって將棋を差してゐた。「この勝負で負けた者が、神楽坂のみどりやを奢るんだよ」なぞと意気込んだりしてゐた。 みどりやと言ふのは、學生向きの待合で、古屋や宮田には、馴染の藝者をぶのに何時も使用する所らしかった。徹三は一度ばかり宮田に誘ひ込まれて行った事があったが、それ切り別段の興味もなく足踏みした事もなかった。宮田や古屋も敢て氣の合った二人の外に特別に友達を彼等の根城に誘ほうとはしなくなってゐた。何故ならば、彼等二人は、友達の誰からも「不良」呼ばりをされ、然も好意的に誤って誘ひ込んでやった友達からは、
「君等は一パシ遊冶郎ゆうやろう氣取りでゐるが、なんだいあの遊び方は!」とか「いゝ女だとか、可愛い女だとかしきりに惚氣るんで、どんな女かと思ってゐたら、案外つまんねえ不見轉みずてんぢゃないか!」とか乃至は「藝術家にも似合ぬ美的觀念のレベルの低い男だ」なぞと痛烈にやられるので、すっかりその後は怖れをなして、敢て下手な友情は示さぬ事にしてゐるらしいのだった。
 徹三はゆかりを相手に一時間ばかり話てゐた。ゆかりは、漫談的に話出された徹三の『アルト・ハイデルベルヒ』の劇の話に、すっかり打たれて、これも妙にセンチメンタルになって了った。
「なんだか、ケエティって、私の身の上のやうな氣がするわ。いくら立派な人に戀したって、結局、博勞くらいのお内儀さんにしかなれない身分なんですもの。」
「どうしてどうして、ユカリーナ君等は――」
 將棋に勝ち目の餘裕のついた古屋が、板面から顏をあげて、ゆかりの方に半疊を入れた。ユカリーナだとかユカシエンカだとかいふのは、時によって、カルチェ・ラタン同人たちの、ゆかりに向って呼ぶ愛稱的別名なのである。
「――君等は、掃いて捨てる程の求婚者があるに決ってるよ。勿論その中には、カール・ハインツ位の男だってざらにある筈だ。」
「おい、そのカール・ハインツ位の男って、先づ君自身の事ぢゃないのかい?」
 徹三は、突嗟に正面から揶揄してみた。と、古屋は覿面てきめんにたぢたぢとなって、
「莫迦ァ言へェ!」
 と、テレ隠しに思った風をして板面に顏を歸して了った。
「あれでうぶだからな。」
「莫迦!」
 古屋は板の駒を動かしつゝ苦笑して言った。
「私、古屋さんなら、カール・ハインツだと思ってもいゝわよ。」
 ゆかりは無邪氣に笑ひこけて言った。徹三は洪笑を、古屋は狼狽した失笑を、勝負に負けかけてゐた宮田は痛快氣味な笑ひ聲を、他に客のない雨に垂れ籠められた部屋の中に爆發させた。
「駄目だぜ、ユカシエンカ! こんな待合遊びの名人を純情の人カール・ハインツだなぞと誤解しちゃァ。」
 宮田が、勝負の決しかけた板面を、眺めながら、復讐的な語調で鋭く言った。
「誤解? ――おいせめて、買ひかぶりとでも訂正したらどうだ。」
 人の善い古屋は新銘仙のそろひに包み込んだ丸く太った體を、椅子の上で小さくふるはせて笑った。

 將棋の手合はせは結局古屋の勝利に歸して、今夜のみどりやは約定通り、宮田が奢る事に決定した。古屋のほくほく顏に比して、宮田はさもさもいまいましさうだった。彼は舌打をして、
「莫迦みたな。金のある時こんな約束をするんぢゃなかった。」
 などと言った。古屋はうふゝと鷹揚に笑って、
「金のあるのに目をつけたからこそ俺ァ約束をしたんだよ。」
 と、得意になって肩をそびやかせたりした。
 それから徹三を加へた三人は、ゆかりにシェークしてもらった甘くちの力クテールを味はひながら雨の音を肴に、雜談をした。宮田や古屋の持ち出す話題は大抵、待合での話や、馴染の藝者や、よく聘ぶ雛妓ひなこなぞの話だった。徹三は次第に話が露骨になるのに辟易して、時間を見計って立ち上った。
「歸るのかい?」
「あゝ。」
「ぢゃァと、頼む事があるんだがな。」
「何だい?」
「津田に一寸傳言を頼み度いんだ。」
「あゝ、いゝよ。」
 徹三はレインコートに腕を通しながら應へた。津田はこの二三日さっぱり教室にもトロイカにも友達の所にも顏を見せないのだった。多分、なにか大作にでも取りかゝってゐるのだらう、と思はれた。
「今朝ね、下宿に泉って言ふ友達が來てね、そいつは制作座つう劇團に這入ってゐる男なんだが、今度劇團の試演に津田の「星を見る人々」をやりたいから、よかったら上演料なしで許してもらひたい、って言ふんだ。俺は一應本人に尋かなければと返事して置いたんだが、君から此の事を津田に話して置いてくれ。返事は二三日のちでいゝんださうだから。」
「さうか、それぁ滿悦(※?)だ。●●●(※文字不明)く津田にすすめて、脚本に脚光を浴びさすやうにしやう。」
「ぢゃあ頼むよ。」
「あゝ、承知した。」
 それから徹三は、一寸カーテンの蔭から奥の間をのぞいて、そこで毛絲の編を動かしてゐたゆかりに別れを告げ「トロイカ」から外に出た。若松町の所でトロイカの堤さん夫婦が傘をさして電車から降りるのを見た。堤さんたちはどこかの百貨店の紙包みを二つ三つづつも抱え込んでゐた。徹三は二人の後姿を見送りながら、丁度そこへ來た角筈行きの電車に乗った。
 津田の所へは、夕飯後にでもぶらりと出掛けやうと考へ、一應家へ歸る事にした。腕時計を見ると夕刻にはもう間もない時間だった。徹三は天神前で電車を降り秋雨で妙に陰氣くさくなってゐる西向天神の境内を抜けて、屋敷町の路次の奥にある杜本の家に歸って來た。
「まァお歸りなさいまし。」
 下宿の小母さんのおしづさんは相變らず白い作業服――上張りを着て、ミシンの絲くづをあちらこちらにくっつけて、玄關に出て來て言った。
「雨で大變でしたでせうね。」
「なァに。道がいゝからなんでもありませんよ。」
「それからね、私、氣を揉んでゐたんですけどね――」
 小母さんは、靴を脱いで玄關の間の疊の上に立ち上った徹三の耳元に、私語ささやくやうに言った。
「お客様が、二時間ばかり前からお待ちなんですのよ。」
「お客が?」
「えゝ、私、つひ、もうお歸りでせうから、上っておまち下さいって言ったものですから。」
「二時間前から?」
「えゝ、だから、私、随分氣を揉んで――」
「誰れです、一度も來た事のない人ですか?」
「えゝ、始めての方ですわ。温順おとなしさうな綺麗な娘さんですの。」

「娘さん?――」
 徹三は一瞬ひやりとした。電光の如く徹三の腦裏にはかつ子の顏が閃いたのだった。
「かつ子がどうして尋ねて來たのだらう? 豫告もなしに。」
 だが、小母さんは、「一寸待って、」と言ひ殘して、奥に這入るとすぐ小型な女名刺を手にして戻って來て、
「うっかりして名刺を頂いた事を忘れて了ってゐて――」
 と言った。
 徹三は名刺を手に取って見た。と、それには「白川絹江」と印刷されてあった。徹三はふたたび眉を寄せ改めなければならなかった。彼にはさうした名前の人物にどう考へ直しても記憶には殘ってゐないのだった。
「僕ァ知らない人だな。」
「あら、さうですか!」
 小母さんは名刺を讀める徹三の眉の濃い顏を眺めながら、訝かしげに言った。
「――確に硲徹三様にお目に掛り度いって仰有ったんですけれどね。」
「兎に角、逢ってみませうよ。」
 徹三は名刺をポケットに突き入れると、濡れたレインコートを抱へ書籍包みを下げて、玄關のすぐ横の階段からトントンと二階に上って行った。誰れだか見當はつかないが、なんでも若い女性が自分を尋ねて來てゐると言ふ事は、何の爲めにと言ふ不審と共に、興味的だった。
 徹三が、二階の廊下に足をはこぶと、たて切ってある障子の硝子窓超しに、部屋の中に菫色がかった着物を着た女の人のゐるのが見え、そしてその人が、彼の足音に多少居住まひを堅くさせながら、横向になってゐた白いうなじをこちらの方に回轉させたのが見えた。徹三はレインコートを廊下の釘に掛けて置いて、その儘躊躇ためらはずに障子に手を掛けた。
「お待たせ致しました。」
 徹三は部屋に這入ると、一寸客の方に會釋えしゃくした。と、その瞬間部屋の一隅に近くきちんと座ってゐた見知らぬ女の客と正面に眸を合はせて、驚いた。
「やあ――」
「今日は、突然に上って、失禮致しました。」
 客は、顏を赭らめ含羞はにかんだやうに言ひ、丁寧に疊の上に手をついた。
 徹三も膝をついて、簡單に應じながら、
「いや、どうも、これァ全く意外でした。」
 客ほ虔しく笑った。それと共にやゝ安度したやうな容子だった。
「あの、お忘れぢゃございませんでせうか?」
「冗談ぢゃない。」
「でも顏なんかはもう――」
「そんな物忘れのひどい方でもないんですよ。」
「あら。」
 客は顏を俯せて小さく笑った。徹三は體を伸ばして、窓際に寄せて据えてあるマホガニイ塗りの書齋机の上から、テラエッタまがひの灰皿と、その附近に轉がってゐる愛用のダンヒルのパイプと、ネエヴィカットの罐とを一まとめにして取り寄せて、それを疊の上に置きながらあっさり膝を崩して坐胡をかいた。
「でも、僕は全く思ひ掛けませんでしたね。」
「随分、唐突でございますものね。」
「白川絹江さんって仰有るんですね?」
 徹三は名刺をポケットから取出して見ながら言った。
「はあ。」
「よく私の所がお分りでしたね。」
 徹三は話題の見當もつかない儘にパイプに煙草をつめながらそんな事を訊ねてみた。
「あの羅甸街の編輯後記に住所が變更したと言って書いてありましたものですから――」
「あゝ、さうですか。」
「それを拜見しましたものですから――」
 客は膝の上に重ねた羽織の袂を俯向いて撫でながら言った。

「ぢゃ、なんですか、」
 徹三は一寸慌てた氣持を感じながら言った。
「――貴方は私のあの十月號に載せた小説をお讀みになったんですか?」
「はぁ、拜見させて頂きました。それで――」
 客は顏をあげ、
「――お伺ひしてみたいと思ひ立ちましたの。」
「それぁ、どうも。」
 徹三は可成りテレて頭髪を掻きあげた。
「あれぁ貴方をモデルに使ってすっかり失禮して了ひました。」
「いゝえ。」
 絹江は氣まり惡げに顏を赧らめ何か辯解しやうとしたが、俯向いて默って了った。
 徹三は、ゆきがかり上、かへって拘泥はるより率直に言った方がいゝと考へ、なんとなく絹江の來訪をそんな風に考へて、心懸りになってゐた事を言ってみた。
「何か、あの作品が、貴方のお氣を惡くさせたのぢゃないでせうか?」
 ――と言ふのは、即ち、言ふ迄もなく、今徹三の眼の前に虔しげに座ってゐる娘――白川絹江は徹三が九月半すぎ郷里から上京して來る途中、靜岡から彼の前の座席に席を占めて、徹三がかつ子と逢ふ爲に國府津で下車する迄數時間を同車した上品な娘さんであり、そして徹三が興を感じた儘、十月號の『羅甸街』に「少女」と題して、久し振りに書いた短篇小説の基礎的なモデルにした女性なのであったからである。
 勿論創作家として言へば、モデル問題なぞ別段遠慮する必要はないものであったが、それでも「少女」と言ふ小説が、内容的に可成り女性の心理解剖描寫に空想を交えた無遠慮さが加はってゐるものであった爲め、徹三には、殊に相手が若い温順しやかな女性である爲めに氣の毒だったと言ふ氣も加はって、なんとなく氣が引けたのだった。
「いゝえ、決して、そんな。」
 絹江は、徹三の言葉に、慌て打消して言った。
「でも、私は、假令あの小説のヒントはあの汽車中からだったとしても、あの小説のモデルが、あの時の事だとは考へておりませんから。」
 絹江の態度は嘗て汽車中でのそれと少しも變らず内氣さうに堅くなったものだったが、然し彼女の智的に辻褄の合ったはっきりした言葉は、彼女の底にひそめてゐる聡明さを察せしめるに十分なものだった。
 絹江は澄んだ明眸を遠慮したやうに上げながら言った。
「私、そんな事でお伺ひしたのぢゃございませんの。」
 そして、彼女は簡單に、自分の身分を説明した。既ち絹江は以前からの羅甸街の愛讀者だったさうで(考へて見れば彼女が旅行先に迄羅甸街を携えて行ってゐた事でもそれに頷けられるが。)一方眞面目な文學志望者ださうだった。彼女は昨年麹町の女學校を卒業して以後、東中野にある父母の家に家事を助けつゝ、かたわら文藝に親んでゐた。 そして一般文學青年がさうであるやうに、彼女も數多くの同人雜誌の「通」だったが、その中でも羅甸街が彼女の藝術趣味にひどくよく通じてゐた爲めに彼女は次第に羅甸街愛讀者となり今では他の同人雜誌は讀まなくなったが、羅甸街だけは只管ひたすら熟讀してゐると言ふのだった。それで、今日は愛讀者として、尋ねて來たのであって、「少女」の件で感情を害し、抗議を申し込みに來たなどと言ふのではないと、辯解するやうに絹江は言ふのだった。

「いや、それなら安心しましたよ、内心少しばかり氣味惡く思ってゐたんですがね。」
 徹三は冗談らしく笑って言って燃え盡きたパイプの灰を灰皿にあけた。
「――よく世間ぢゃ小説はその儘實際の事だと考へて了ふ人があるものですね。殊に文體が一人稱小説になってゐると、まるで作中の主人公がその儘、作家だと思ひ込む。こんな事は作家の立場としては随分迷惑ですよ。勿論イッヒ・ローマン、即ち心境小説と言ったやうな随筆的な小説の場合なんか多分に作者が表現されてゐるけれど、それでも記録と小説とは違ふのだから、從って可成り創意が加ってゐる筈なんです。 それぁ小説を小説として讀ましては駄目であく迄實感的でなけれぁならないんですが、それかと言って、まるきり作家に空想力だとか創造力だとかを認めない程、その内容の總てを作家の内的外的の生活にあて箝めて了ふのは、作家側としては苦笑以上のことです。勿論、藝術は作家の個性表現ですから、さういふ意味で作品から作家を推察される事は少しも苦痛ぢゃないんですけれどね。」
「よくわかりますわ。」
 絹江は温順しく頷いた。それは丁度、偉い先輩に教へを受けてゐる時のやうに眞面目な態度だった。徹三は急にくすぐったい氣分になって、
「いや、文學談ぢゃありませんよ。唯、一口にいって了へば、あの作品に對する貴方への辯解なんです。僕はあの作品で勝手に貴方――いやモデルの心理を解剖し、そして勝手に糸で操り廻し、勝手に過去と未來の背景を書きあげましたが、それは總て作者の小説的空想から割り出したものであって實際の貴方なる人物には關係のない事だと言へる筈だと思ふんです。だからモーテフだとか描寫だとか、人物のアウトラインだとかがすっかりあの時の事を借りたにしても、それを以て根本的なモデルになった貴方が反感を起してはならないと僕は強辯するんです。」
「はあ、よく飲め込めますわ。ですから、私、決して――」
 兩人は顏を見合せて何だか可笑しくなって笑ひ合って了った。
 ――で、それから絹江のやゝ打ち解けた話によると、彼女は前に言ったやうな長い間の羅甸街の愛讀者として、次に少くとも自分がひょいとした機會に、その羅甸街の同人のペンの上のモデルに――それは徹三の謂ふ通り五六部通り作者の空想の袍で覆はれたものであったが――なった人間として、從來の文學者志望の上の積極的前進策として、先づ羅甸街の同人に、持に、自分をペンの上で躍らせた硲徹三に逢ってみたいと思ひ立ったのだと言った。 そして、それも女性としての遠慮心や、さうとは言はない迄も想像のつく異性に對する警戒心や、又はその態度や容子から見ても容易に伺ひ知られる彼女の内氣さ、謹み深さ、やなぞの爲めに、思ひ立ってからも仲々實行する事が出來ず、遂に、前もって一應手紙で自己を紹介しやうと考へる事すら、なんだか氣が引けて爲し得ないでゐたのだったがそれを、今日、丁度徹三の下宿のすぐ近くの市ヶ谷の富久町迄用事があって來た機會に、急に改めて思ひ立って自ら勇を鼓して、そして、徹三を尋ねたと言ふ事だった。
 絹江は始終遠慮がちに伏眼になりながら、恁うした事を話し、終りに、
「であつかましいやうで、随分氣も引けましたけれど、一度お眼に懸って、文藝の上のお話でも承ってみたいと考へましたの。汽車の中の事を思ひ出してみましても失禮ですけれど、私、なんだか、安心してお伺ひ出來るやうな氣が致しましたものですから。」
 と言った。
 徹三は、彼女の中に、どこかかつ子なぞに見られない嚴として犯す事の出來ないしっかりした所のあるを感じたため、彼女のやうな虔しやかな處女が見知らぬ男性の所へ訪れて來た事に決して不自然さを感じなかった。寧ろ、勇を鼓して訪れて來た「文學の徒」としての心に十分の好意さへ持ち得たのだった。

 白川絹江はかつ子より二歳年上だった。それだけかつ子に較べて人間としてのおち着きもあり、しっかりした所もあった。殊に彼女は文學志望者であるだけに、決して普通の平凡な女性などに見られない明朗に澄んだ知識的な瞳を持ってゐた。徹三は話を聞いてゐる中に決して相手を輕く見くびる事は出來ない氣がしてきた。 寧ろ、その温良さと上品さと眞面目さとを考へれば、趣味だとか文學だとかの友達としての尊敬は、あのモダン・マダムの土屋沓子などより餘計に拂はれなければならないやうな氣さえした。彼女の温順しやかな、そのくせひどく明快な表現力を持つ話し振りと話は、瞭りとそれを思はせるのである。
 徹三は、しっとりとした愉快を感じながら、小母さんの運んで來た紅茶と果物を撮り、パイプを喫かして、數刻を話した。絹江も浮薄でない微笑を浮ばせつゝ上品にうちとけてくれた。大抵の女性なら話題なぞ、殊に初對面の人ならすぐにも盡きてしまふものであったが、絹江の場合は、雜誌の話、創作の話、藝術の話、文壇の話、なぞと、いくらひかえ目に話し合っても、話題は決して盡きるやうなことはなかった。 いつぞや徹三等の「圓卓子の盟友」たちの間では、「彼等は(自分等はの意である)戀人の事を話合ふが如く藝術の事を話合ふ」と言ふ言葉が流行はやったがこの場合を見れば、あえて「圓卓子の盟友」ばかりではなく、絹江もその仲間に入れてもいゝだらうと思はれるのだった。然しさうかと言って絹江の口にする言葉は、決してペダンテックな理論だとか、小才の利いた理屈だとか、気障な文學談なぞではなかった。 藝術賛美の精神から出た美しい、然も女性らしいデリケートな感情で包まれた、虔しやかな藝術談だった。徹三はどの言葉の裏にも、彼女自身がへりくだって、訓へを彼に請はうとしてゐるやうな調子があるのにかへって心苦しさを感じながら、それでも氣持よく考へる儘、感じる儘を、率直な態度で話して行った。徹三はさうしてゐる裡に、しみじみと、彼女の様な人一倍遠慮深く内氣な娘が、一般の人達が聞いたら驚くであらうような「見知らぬ男性の下宿に用事もなく訪問する」事を決行した氣持がわかる氣がして來た。
「文藝を愛するがために、即ち文藝研鑽の上の相當な友を得たい爲めに!」
 然もそこには、何等の邪念が加はってはゐない事は、彼女がか弱い女性の身でありながら、決して危惧の念をいさゝかでも心に抱いてはゐないらしい容子で知れた。彼女は藝術を信奉する。從って藝術の徒である徹三をも信じてゐるらしい。徹三はこれを感ずると、素晴らしい愉快さを覺えた。
 徹三は、心の中で、絹江との交際は、自分の理性以上のもので、あく迄清く美しく續けてゆかうと考へた。それと倶に津田や中谷や其他のグループにも紹介し、そしてよろしく彼女を指導してやるやうにしたいと考へた。
 徹三は話のきれた時、
「どうです、羅甸街の他の同人達にもあってみる氣はありませんか?」
 と訊ねてみた。
「はあ、あまり大袈裟でない程度でなら、お願ひ致し度うございますわ。」
 と彼女は答へた。徹三は津田と中谷にだけ非公式的に紹介しやうと考へた――。
 話が漸くカタストロフヰになって絹江が時計を見たりして、心に歸り仕度をし始めた頃、小雨は沛然はいぜんとした豪雨に變ってきた。

「や、ひどい降りになったな。」
「困りましたわ。」
 二人は思はず冷たく光る無數の太い雨脚を眺め込んで了った。前の家の平屋の瓦屋根にぶつかってしぶき飛ぶ雨が霧のやうにそのあたりを煙らせた。樋の音がヤケに高く喉を鳴らせてゐる。
「どうしませう――」
 絹江は困じ果てた顏をして獨語ちた。
「すぐ又小降りになりますよ。少し待ってみて御覧なさい。」
「はあ、でももう失禮しやうと思っておりましたの。時間ももう随分晩くなって――」
「でもこの雨ぢゃ、――兎に角もう少し様子を御覧なさい。そら、いそがずば濡ざらましを旅人の後より晴るゝ野路の村雨、っていふ歌まであるぢゃありませんか。」
 徹三は笑って言った。――それで結局絹江が腰を据え直す事にして了って、又小半時話込んだ。今度は遡って再上京の際の話だった。彼女は靜岡に嫁に行った姉がゐて、その姉がお産をした爲めにあの頃手傳ひにいってゐたのだと言った。徹三は久能山は知ってゐるので、一寸そんな話も出たり、絹江の郷里は沼津だと言ふので、又そのあたりの長閑やかな風物だとか、千本松原の話なぞも出たりした。
「あら、すっかりお話し呆けて了って。」
 絹江はやゝあって、慌てたやうに女持の小さな金の腕時計をのぞいた。
「到頭五時すぎて了ひましたわ。私失禮しますわ。」
「まだいゝでせう。雨だってまだまだひどいぢゃあありませんか。」
「どうせ濡れる覺悟でずわ。關ひませんのよ。」
「それぢゃ無理にお引き止めしますまい。又いらして下さい。」
「はァ、有難うございます。」
「さう、」
 と、徹三は思ひついて、
「上野の佛蘭西展御覧になりましたか?」
「いいえ、まだ、行きたいと思ってゐるのでございますけど。」
「ぢゃ、學生券を差しあげませう。僕學校から二三枚貰って來てあるんです。受附では大學の女子聴講生みたいな顏をして這入ればいゝんですよ。」
 徹三はポケットから萬年筆さしを取り出しその裏にはさんである名刺なぞの中から、美學科教室から分配された展覧會の入場券を一枚探し出して、絹江に渡した。
「僕は今度の日曜日頃行って見やうと思ってゐるんですが。二十五日です。貴方もその頃どうですか?」
「はァ、都合さへよければ。」
「ぢゃ、都合がよかったら、その時、又お目に掛りませう。」
「はあ、私参れましたら、あちらでお待しております。」
「僕行くなら午前です。でも、あてにしないでゐる事にしませう。」
 徹三は、絹江を送って階下に降りて行った。絹江は玄關に降りると遠慮しながらコートを着、奥から出て來た小母さんに、挨拶して、三和土の隅に寄せて脱いであった下駄の上に降りた。そして同じくそこに立かけてあった細卷の蛇の目傘を取りあげると、娘らしく一寸赧らんだ顏を微笑ませて、もう一度お辭儀をして、格子戸の外に出て行った。靜かに閉められた曇り硝子戸の外で、激しく雨が擴げられた傘の上を打つ音が聞えた。
 徹三は部屋に歸ると、机の前にどっかと座り込んで、不意に自分の眼前に現はれて來た因縁的な女性の事を考へた。
 哀婉な眼差しと、白い清楚な花のやうな絹江の印象は、思ひかへしてみても、汽車中での印象と少しも違ったものではなかった。然し、あの時、あんなに近づき難い感のした良家の娘が、今日は易々やすやす向ふから自分に近づいて來た事を思ふと、どうしてもそこに運命の不可思議を感ぜずにはゐられない氣がするのだった。

 夜に入って、徹三が夕食を濟ませ二階で新聞を讀んでゐると、津田が尋ねて來た。津田は徹三のすゝめた座布團の上にいつになく堅い表情できちんと座ると、袖の中から電報を取り出して、
「突然、今朝こんな電報が家から來てね。」
 と、言って、嘆息ためいきをした。
 徹三は、驚いて、津田の指先で擴げられた電報配達紙を受取って讀んだ。「チチワルシ、カエレタラカエレ、フミヨ」と書いてあった。北海道の札幌市にある彼の家から送られたものである。
「これぁ――」
 徹三は豫期しない事件に愕いて津田の顏を見た。油氣のない頭髪をのばした、白皙の哲學者めいた津田の顏は深い憂色を帶びて冷たく電燈の光に光ってゐた。
「で、歸らうと思ふんだが。」
「あゝ、それぁ、勿論だよ。いつ發つの?」
「明日あさにしたんだが。どうせ親爺の病氣も慢性なんだから、惡いと言っても寸刻を爭ふ事はないと思ってゐるから。」
 ――徹三は津田の父が永い間腎臟炎を患ってゐる事は聞き知ってゐた。だが電報で呼び寄せる程だから、屹度容體が激變したのだらうと察した。
「兎に角、他の事ぢゃないからゆっくり行って來給へよ。學校の方は僕が引受けるから心配しないがいゝよ。論文の方も参考書を整理して置くし、レポートやノート類も仲間でいゝやうに埋めて置くからね。」
「有難う。心苦しいがお頼みしたいよ。それから北澤君や外の連中に逢ってゆく時間がないのだが、それは君からどうか――」
「いゝとも。」
 徹三は頷いた。その時、津田の曇った眉の下には、やっと安心の色が見えた。徹三は津田が可成り肉體的に疲勞してゐる事に氣がついて、
「この二三日勉強だったの?」
 と尋ねてみた。
「あゝ、三幕物に掛ってゐたんで學校は休んでゐた。君ん所には顏を出さうと思ってゐたんだけれど。」
「いや、僕も君の所へ行かうと思ってゐたんだ。それに今夜は宮田からの傳言があったものだから、是非とも行かうと思ってゐた所だったんだ。」
「傳言って?」
「あのね、制作座って知ってゐるだらう。あすこで君の「星を見る人々」を試演したいって言ってゐるんださうだ。」
 そして徹三は宮田からの話をその儘傳へた。津田は一寸嬉びの色を顏に泛ばせたが、すぐ寂しさうな顏をして、
「原作を勝手に傷けないでくれたら僕は嬉んで貸す事にするよ。宮田君には僕手紙をあげて置かう。」
 と言った。場合が場合なので、自分の戯曲がフットライトを浴びると言ふドラマテストとしては最大でなければならぬ嬉びも心から味はふ事が出來得ないらしいのを察すると、徹三は津田が可哀さうな氣がした。
 徹三と津田は、津田が留守をする間中の打合はせに二時間ばかりを費した。學校の授業の方の事、もう目近に迫った卒業論文の事、それから羅甸街の事務の事――なかなか頼んだり頼まれたりする細かい事があるのだった。
「明日は朝早くの汽車だから、見送りはいらないよ。」
 さう言って津田は九時ごろ歸って行った。朝寝坊の習慣の徹三はその言葉に甘える事にした。
 雨の音は相變らず繁かった。徹三は、疊の上に仰向きになり天井を見ながら考へた。
 津田と親子相剋の陰惨な運命をになって、今や瀕死の床に横はる、彼の父親と。
 くるりと一轉しては、遂津田には言ひそびれて了った「雨の日の珍しい訪問者」絹江の事と。
 更に一轉しては、暫らく逢はないでゐる懐しい戀人かつ子の事と。

地獄の二騎士
 十月號の『羅甸街らてんがい』特輯號は豫想外に好い賣れ行を見せた。出版肆の方でも安心したし、それより同人一同の歡びは一方でなかった。そしてその元氣はそっくり次の十一月號の編輯に向けられる事になった。で、編輯當番の中谷は、卒業論文の方の仕事もおろそかにならず、決心して一ヶ月ばかりを日光の山の中に引っ込む事にし、十月の二日頃東京を立って行った。それで津田と中谷を失ったグループはひどく寂しくなったのだった。
 教室の講義は毎日平凡だった。出ても出ないでもいゝやうな授業が徹三等をうんざりさせた。徹三はノートやテキストの代りに、大學前の丸善や鶴卷町通りの古本屋からあさって來たゴルスワーヂイのドラマの本や、ハアディの小説本や、又は日本の作家の創作集なぞを机の上に擴げ、教授の講義なぞは風馬牛にして、時間中を讀み耽って送った。 サボる事には遉に徹三を瞠若させてゐる古屋や宮田も、留守中の中谷や津田の責任を分擔させられて、嫌々ながら平素に似げなく教室に顏を出してゐたが、チャンスを掴めば出缺席點呼の返事だけで逃げ出したり(宮田や古屋は、徹三と交代に講義をノートし、又は點呼には津田や中谷の返事を彼等に代ってする約束だった。)殊勝に授業を受けるやうな時は、遠慮なく徹三の眼の下に擴げられてある小説本を横取りして、徹三を手持無沙汰に陥らせて了ったりするのだった。
 級友の中には親い友もゐるにはゐた。然し大多数が徹三等のグループには縁遠い人間で、彼等の半數は學究的學生としての見地から徹三等のルンペン性を「劣等學生」として視、殘り半數は藝術家肌によくある自尊的狷狹心から、少しでも藝術的に發動的な仕事をしつゝある徹三等を、「くだらない連中」と白眼視してゐた。それで徹三等は外に出ての元氣に引き換へ、教室中では、至極物寂しげに机の片隅に自身を存在させてゐるに過ぎないのだった。
 然し、徹三等には、教室や級友の事など問題でなかった。度の強い分厚な眼鏡をかけて、ぎっしりしまった細かい歐文の活字を、肩をまるめて讀み耽ってゐる連中や、教室ではお互に絶對に日本語を使はず英語で話し合ふ事を約束して實行してゐる連中や、事毎に教授をつかまへて學問上の小むつかしい意見を闘はすのを誇りとしてゐる連中や、常に眞面目腐った聖人顏をして學問の上の話を交へてゐる「學校教師の卵」なぞ、まるで他國人としか考へられはしなかった。 寧ろそこへゆけば、相容れる所は少くとも、同じ藝術家肌の中には多少でも隣人の愛を感じる連位だった。然し要するに彼等は徹三側に言はすれば、同じ河を渡る時に同じ船に乗り合はせた乗合客にすぎない。そして教室も所詮その便宜上利用せられる乗合船にしかすぎないのである。
 徹三等は、あく迄平氣でその小さなグループを教室の片隅のほこりっぽい机の上に抛り出して置く事で滿足した。さうする所にかへって雜輩を超越せる誇りと逾越ゆえつの情を感じてゐた。
 然し、同人の中で佐伯だけは毛色が變ってゐた。彼は學術も優秀であり、身の處し方も生眞面目だった。いつもきちんとした制服に制帽をかむって、時間に遅れずに教室に出席した。そしてくだらないノートはとらないのは徹三等と變りはなかったが、その代り徹三等には讀めもせぬ獨逸語の書籍に熱心に眼を辿らせてゐるのである。 徹三は佐伯が夜間は神田の獨逸語講習會に通ひ、晝間でる教室が休講になったりすると、その時間を圖書館で送ってゐるのを知り、彼がひどく篤學の士であるといふ事を感心する以外に、秘に彼が重大な轉換期に望んでゐる事を瞭りさとってゐた。

 佐伯は江戸ッ子に似げない寡默な沈思的な青年だった。然しその背のすらりと高いのびやかに發達した體躯は中學時代から早稲田の高學時代にかけて様々なスポーツのチャンであった事を頷かせるに十分であり、彼の性格の半面に男性的な覇氣と熱情がひそめられてゐる事を物語るものだった。
 始め彼が羅甸街に書いてゐた作品は、彼をロマンテケルと思はせる傾向のものだったがそれが次第にロシア文學的なニヒリステックなものになり、近頃は更に方向を換へて、暴露的なものになって來てゐた。
「佐伯は轉換しつゝある。」
 直接にこそ言はね、文學道に於ては、假令たとえどのやうな非難があるとしても自らを正統派として任じてゐる藝術主義の羅甸街同人たちには、なんとなく苦々しい事に思はれてゐたのだった。そこへもってきて、佐伯は近頃めっきり獨逸語に熱中し寸暇を裂いて、プロレタリア理論らしき書物に讀み耽ってゐる。徹三は陰性的熱血兒佐伯が、どのやうな事を密かに考へそして人間的にもどのやうな重大な運命の岐路に立ってゐるか、嚴重な氣持ちで考へない譯にはいかないのだった。
 然し徹三は、他の同人、例へば中谷等のやうに、一途に佐伯の轉換に、白眼を向ける氣持はなかった。勿論徹三も藝術的には貴族派で、從ってプロレタリア藝術とは相容れない多くのものを所有してゐたが、然しさうかと言って、プロレタリア藝術を尊重しないものではなかった。徹三の考へでは、佐伯が自分達のグループから離反してゆくのは惜いが、もし眞から佐伯がプロレタリア文學に轉換してゆくのなら反って佐伯の爲めには大きな飛躍ではあるまいか、即ち彼自身の爲めには喜んでやっていゝものではなからうかと思はれたのだった。
 然も、佐伯は決して輕擧妄動の徒ではない。徹三は佐伯の進まんとする所には安心してゐていゝ氣がしてゐた。佐伯ならば轉換すればしたで屹度立派な仕事を殘し得るだらうと思はれた。然し、その安心の半面に、彼の轉換が眞摯であればある程、それは彼の未來に決して迂闊には見逃せられない重大性が絡まさってゐるやうに思はるのだった。
 ――恁うした佐伯をめぐっての羅甸街同人の感情が、十月號の羅甸街に、あらかじめ掲載される豫定になってゐた佐伯の評論「ニヒリズムに就て」に代えて、紙面に掲載された小説「或るマルキシストの死」の發表と同時に際立って露骨な不調和を示して來た。中谷なぞは正面から佐伯を異端視し、佐伯も反撥的に同人たちから親みを薄くして行くやうな結果になった。
「あんな小説を羅甸街に載せるのは、花壇に鉢植を並べて爆裂彈を置いたやうなものだ。少くとも不調和だ。――假令その爆裂彈は相應の價値を持つものであったにしても。」
 羅甸街の同人達はいずれもさう考へた。事實發禁をよく食はなかったと思はれる「或るマルキシストの死」の内容は羅甸街のこれ迄の歴史に存在しない種類だった。もし佐伯が十月號の編輯當番の位置を巧に利用しなかったなら、勿論同人たちによってその掲載は拒絶されたに違ひないものだった。
「作品の價値は第二の問題として――」
 羅甸街の同人の腹はこうだった。
「佐伯の執った態度は面白くない。そして彼の新らしき傾向は羅甸街とは相容れない。」
 こうした事があってから、一ヶ月がやがて經たうとする十一月近くなった一日、北澤虔二は佐伯から一通の私信を受取った。それは佐伯の「羅甸街脱退聲明書」だった。羅甸街同人一同は、ある土曜日の一夕トロイカの圓卓子の周圍に集まって今は快よく佐伯を「圓卓子の盟友」の中より送り出さうとさゝやかな宴を張ったのである。

 その席には、札幌に歸ってゐる津田と日光の山中に勉強しに行ってゐる中谷は顏を出せなかった。北澤と徹三と古屋や宮田が、なんとなく興奮した様子の佐伯を中心にして、卓子を圍んだのである。
 強いウヰスキイなぞを始めから呷り初めた古屋や宮田は、始めの裡こそ會合の性質上遠慮してゐたが間もなくいゝ氣持に醉拂って了って勝手に陽氣に騒ぎ始めた。そして、
「おい、宋ちゃん(古屋の名)今夜あたり春枝が待ってゐる筈だぜ! どうだい食指動かないかい!」
 なぞと、到頭だらしない呂律で露骨に遊びの相談を始めたりした。
「この連中も漁色にかけては立派な勇士だな。」
 徹三が感心したやうに言ふと、
「俺はサーニストで自任してゐる男だから當り前さ。」
 と古屋なぞは反って威張った風で、赤くどろんと濁った眸をてんと反したりした。
「ねぇ、佐伯君、」
 一方北澤は、古屋なぞのディレッタントの談話から離れて、默って盃をふくむ佐伯に話し掛けてゐた。
「君はプロレタリア運動に徹底する心算だと言ったね?」
「さうせずには僕の轉換は意義を持たなくなるだらうから――」
「勿論! ――だが、さうすると君は何か具體的な方針でも建てゝるの?」
 北澤の言葉には友達に對する暖かい情愛が溢れてゐた。酒杯の爲めに顏は赭く燃えてゐたが、その眼差には冷たく澄んだ眞面目さが光ってゐた。佐伯は思はず打たれて、
「有難う。僕は永らく自分の感情と理性とを闘はせて、やっと一つの結論を得た。そしてそれに依って貧しいながら自分の進むべき方針を立てた。明日からの僕の歩調も決定されてゐる。」
「さう、それはいゝ。僕等は安心して君の行手を見守れるだらう。しっかり思ふ事をやってくれ給へ。」
 北澤はしっくり言った。徹三は傍にゐて一寸嚴粛な氣がした。佐伯が胸に抱いてゐる決心は、どこか昔の國士かなにかのそれに似て、主義の前にはあらゆる人間的なセンチメンタリズムを克服してゆく、その悲壯さを持ってゐるやうに思はれたのだった。
「天國へか――?」
 徹三は、琥珀色の液體の底に、ランターンの灯かげを寶石程に寫した、カットグラスを凝視みつめながら思った。
「――それとも、地獄へか!」
 徹三には、佐伯等のやうな人道の戰士たちの目差する天國も想像出來ない事ではなかった。そして若き社會革命家達の情熱も或る時には仄かに自分の身の裡に微熱の如く感ずる時すらないではなかった。マルクスをして社會主義に走らせたものは道徳である。若い純情の青年達が、智識によって眼を開かされた神の意志でないからくりの世のオルガニゼーションを眺め見た時、少くとも正義的義憤を感じない者があるであらうか! 唯、要はそれ等青年達がより多く現實主義者であるか理想主義者であるかに依って、ソシアリストになるか否とに別れるのであらう。 徹三は然し、只管、情熱に押されて、前後の批判を持ち合はさない血氣の徒が應々に社會主義ボーイの中に發見せられる事を一種の流行的反逆心理の表出であるとして眞のソシアリスト達の爲めにその淺薄な存在を殘念に思ってゐた。然し、それとても彼等の意志する行動が、ブルヂョワーヂイ社會の驚くべき個人主義的功利主義に對して、あく迄私利私慾的でない事に、一種感のいゝものを感ぜずにはゐられない位だった。

 然し、若き人道の戰士たちが、大きなプロレタリアと解放の目的の爲に、甘んじて駒を乗り入れんとする所、そこが苦難呵責の地獄街道でない筈はない。だが彼等には殉教者に似た只管な隠忍と、敢く迄目的に到達せんとする熱力と、一種宗教的な理想郷憧憬の念の外に、卑怯と言ふものを持ち合はせない。 彼等は地獄の城門の扉の彼方には、人類の天國があるものと信じて、そして其處に於てこそ物事の「眞」と言ふものが發見されるであらうと信じて、勇敢に地獄街道に鞭を鳴らす騎士となる。だがはたして彼等の爲にひらけた道が、彼等を天國に導いてゐるのであらうか? 徹三は自分の思想を當然因循的なプチ・ブルなものと斷念め、勇ましき地獄への騎士たちが目差す城門の、その扉の向ふ側のその詳しき消息は自分には疑はれ、又は判然理解されないでゐる事を、仕方のない事だと思ってゐる。 そして朧に夢のやうに考へられる「無産者の天國」を、せめても勇敢な地獄への騎士たちのはなむけとして、信じてゐてやりたいやうに思ってゐた。
「だが――」
 徹三は不圖又恁うも考へもするのだった。
「ソシアリストにとっては、彼等の辿る地獄の道こそ、彼等に生甲斐のある天國街道で、そして、安住的な自分等の因襲的街道こそ、當然没落の深淵に導かれてゐる地獄街道なのかも知れない。」
 ――さう思ふと徹三は寂しさを感じるのであるが、然し又彼の立場から積極的に抗辯すれば、徹三等といえども彼等左右兩極端の中庸の道を、絶えず明日へと心掛けて進んでゐるのである。その自分達がどうしてみすみす没落する不明を持つであらう! 或ひは地獄の洗禮を將來或時機に於て、現在のソシアリストに代って受ける日があるかも知れないが、然し決してそれを切抜けずには居ないだらう。 そしてソシアリストはソシアリストの、自分達は自分達の、より新らしき明日の世界をお互に得てゆくに違ひないのだ。例へば明日の自分達の世界が昨日のソシアリストの社會であったにしても……。新らしきもの必ずしも徹三には第一義的には思はれないのであったから。
 徹三が、こんな事を考へてゐる間にも、北澤と佐伯は宮田等の騒ぎをよそに、醉顏を向き合はせて話してゐた……。
「僕には、どうしたって、中途半端な、より所のない、生活は我慢が出來なかったんだ。」
 佐伯がコップを握りしめながら言った。
「生活の柱をなにかしっかりした地盤の中に打ち込もうと思った。藝術にだって、僕はひどく懐疑的になって了ってゐたが、生活に凭り所を求める事を考へたら、それは救はれる氣がして來た。プロレタリア藝術へ! それは尠くとも僕には鐵の杖にすがる程心強く思はれるのだ。だから僕は、あっさり過去に別れを告げる。過去は未來を決定しない。
 僕は生れ變った新らしき意識の下で奮闘したいと思ってゐる。」
「わかるね。君のやうな求めてやまないやうな人がアート・フォア・アート・セークだとか、アート・フォア・ライフ・セークだとか、その位の程度のもので滿足し得ない、或ひは不安を感ずると言ふことは。然し要するに主觀の相違とそして内在的個性の相違だから、お互に否定し合ふ事は出來ないだらうと思ふ。どうせ僕たちだって時代の動きと共に或る意味での轉換はしなければならぬと思ってゐるが、兎に角お互に自分を主張して行きつく所まで行くより外はないだらう。 君は社會的意識の旗の下に、僕等は藝術的意識の旗の下に。尤もプロレタリア文學理論から言へばさう二元的に分けることすら認められないかも知れないけれど。だが僕は藝術のヴァラエティを信ずる。僕は自分達の目差してゐる方向もあく迄正しい藝術だと信じて、ミューズに忠誠を誓ふつもりだ。」
 北澤は自信強い調子で言った。

 その時、古屋が、二人の間に割って入って來た。
「おい、ソシアリスト。むつかしい議論はやめて、俺の盃を一杯受けてくれ。
 佐伯は微笑んで古屋のふらつく手の先からカットグラスを受け取った。
「ぢゃァ、俺の愛するウラディーミル・サーユンの爲めに乾杯するかな。」
「よし、ぢゃァみんなで俺達みんなの乾杯をしやう。」
 傍の宮田が威勢よく言って、ウイスキーの瓶を取りあげた。少し離れた卓子で獨りで雜誌に讀み耽ってゐたゆかりが立って來て、宮田の手から瓶を受取り、一同のグラスに酒を滿たした。
「佐伯君の健闘を祈って――」
 北澤が盃をあげた。
「羅甸街の發展を祈って――そして又好漢ガスバデイン、古屋の發展を祈って!」
 佐伯が言った。
「プロヂェット!」
「だが佐伯、」
 古屋はグラスを呷ると、それを卓子の上にガチャリと置いて言った。
「君と僕とは、全く方面を異にするな。君は社會主義、俺は極端な個人主義だ。俺は人間生活の根底は本能だと信じて、その本能の前には社會も政治も道徳も認めないんだからな。」
「變態的アナキストだな。」
 北澤が、穏かに言った。
「さうだアナキストと言っていゝ。だが一體世の中は禮的に生活する事ばかりを怖ろしく高尚に見る。そして本能的である事を醜惡に見るか、又本能を人間生活に附随したほんのトリッフルなものに見やうとする。例へばトルストイの莫迦げた宗教論とか、現代ではサヴヰエートのコロンタイの戀愛論なぞだ。彼等の論は孰方も見榮坊で、そして本末轉倒の逆説だ。彼等は人間とはどう言ふものだと考へてゐるんだらう。 トルストイはまるで人間はみな仙人でなくちゃならないやうに言ふし、コロンタイは人間は一つの目的の爲めに馬車馬のやうに動きまはらなければならない動物のやうに言ふ。その目的の爲には、本能なぞほんの私事にしか妥當しない。だからそっちの方は簡單に片付けて置けばいゝなぞと、それこそ造物主を侮辱した言を吐いてゐるんだからね。 考へて見給へ、人間は何も産れ出る前から社會的の約束を擔ってくるものではない。國家だって道徳だって、總て後天的の約束に過ぎない。そんなものに束縛される事こそ人間は本來の姿に對して不自然でなければならないのだ。勿論その約束は自己保存上の便宜として認めなければならないが少くともその約束の爲めに人間の本質を殺して了ふ事は神への冒涜だ。
 第一神は人間に靈と倶に肉體を與へた。いや肉體に靈を注入して與へたと言っていゝ。だから靈だけでは人間のであり得ないやうに肉體は人間の重要なアットリビュトなのだ。肉體が兎もすれば輕んぜられると云ふキリスト教的精神過重の僞善的惡道徳なのだ。僕は徒らに肉慾讃美を叫ぶのではない。かうした現代社會の間違った道徳に對して、勇敢な叛旗を翻すのだ。異教的な抗議を申込んだのだ。 或は夢想かも知れないが僕は時々「サーニン」のやうな超人の勝利を得る世界を想像する。偉大なエゴイストであり積極的強者であり道徳的利他主義に對する英雄的な自我主義の反逆兒である彼が、結局眞實の人間の生き方をしたといふ意味で。
 勿論、これは現代の社會制度とは相容れない。明日の民衆主義社會制度とも勿論相容れないだらう。然し當來すべき人間生活、眞實に人間が人間らしく生きる爲めに當來すべき人間生活でなくてはならない將來への理想人類の大飛躍の理想だ。」

「それは言ひ換えれば原始時代への逆轉ぢゃないか?」
 佐伯は熱心に古屋に應じて言った。佐伯は人一倍ピューリタンで仲間の中に通ってゐる男である。
「――人間は遠い野蠻時代は生れながらの本能生活を何等の束縛もなく送ってゐた。然しそれを以て開化された人類の目標とする事は當を得ないのでなからうか? 文明は人間を單純性より複雜化させた。從って人間の持つ使命も當然原始時代の人間とは違って來た筈だ。君は國家や社會組織は約束に過ぎないと言ふが、その約束は人間の生き方がさせるのである事を考へなければならない。約束があって人間があるのでなく、人間があっての約束なんだからね。」
「僕は君とは人生觀を異にするやうだ。」
 古屋はいそがしく手酌でウヰスキイを呷りながら答へた。
「――それに、君は文明の美點を認めない。原始時代への逆轉であった所で、一度行き着く所迄行っての改めて逆轉なのだから決して無意味な事ではあるまい。大體人間が複雜性を帶びて來たと言ふ事は、文明の缺點が眼について困る僕には、ひどく無價値な事に思はれる。要するに人間は生きてゆく事その事は目的であるに過ぎないものなのではなからうか? 僕は常にさうした人生觀を持ってゐる。だから總てが事大主義の――さう言っては惡いかも知れないけれど兎に角理想主義の君たちとは物事に對する考へがかけ離れてゐるのは論戰以上かも知れないんだ。」
「それぁ、古屋君にしても佐伯君にしても論戰は無駄だよ。」
 北澤が笑ひながら言った。
「――一方はダンテのやうな戀をする人だし、一方はゲエテのやうな戀をする人だからな。」
「ゲエテぢゃよすぎるよ。」
 宮田が横から言った。
「――一ストロンドベリでも違ふしもっと半獸主義の……」
「おい、お前だって俺のエピゴーネンぢゃないか!」
 古屋は宮田をたしなめたて、
「さうだよ、プラトニックラヴなんてものは、僕にはお伽噺にしか考へられない。ダンテなんて偏執狂だ。そこにゆけばゲエテは遉に人間らしい感がする。ナポレオンはゲエテと會った時「これこそ人間」と言ったそうだが、僕なんかにも、八十幾歳迄變轉として「肉の人」としての苦しみをなめ通したゲエテを、ダンテなんかより、どれ程親み深く、崇高に思へるか知れない。奴さんの一生は戀愛の一生だった。目茶な戀、不道徳な戀、氣紛れな戀、それこそ本能の赴くまゝに、數知れない戀をした、八十歳の老人になる迄――。 彼は自然を萬有の根源歸趨原型と信じて直接に身を以てその把握に求めやうとした。彼の人生觀は僕等にはよくわかる氣がする。」
「ぢゃあ君も、身を以て、君の信ずる本能世界を極めんとするのだね?」
 佐伯が頭痛を抑へるやうな顏で苦しげに言った。
「さうだ、丁度君が身を以て君の信ずるプロレタリア解放運動に進まんとすると同じやうに――」
 古屋は昂然と答へた。それは如何にも徹底したサーニストの面目が躍ってゐて、一同は思はず氣を飲まれない譯にはゆかなかった。
「地獄への騎士が此處にもう一人ゐる!」
 徹三は一同の論爭の圏外にあって椅子に靠れながら考へた――。
「勇敢なる社會への反逆騎士――」
 だが――徹三は、翻って自分達の身の上を考へると、よきも惡しきも彼等勇ましき騎士達に比し秋風落莫たる寂しさを身の裡に感じない譯にはゆかなかった。それは現代兒の誰でも惱む小市民的な佐伯の先程も言った頼り所のない寂しさ、ではなければならなかった。
「俺達は何處へ行く――俺達は。」
 ――徹三は醉った頭を椅子の背にぐっともたせ掛けた。

 徹三は暫く眼をつむって自分の心に湧き上った、はっきりしない寂しさや苦しさや、又はゆはれも知れぬ不安やを、何等かに具體化して聚収してみたいと考へた。然し落ち着かぬ酒席でもあり、周圍の騒然たるデレタンティズムのトピックに患らはされたりして想念は曲折錯綜してなかなかまとまった形を取れなかった、徹三は斷念めて、又ひとしきり享樂主義の談議に耳を貸さなければならなかった。
 だが軈て會が終って又例のみどりやにしけ込もうと連立った古屋と宮田に別れ、次に北澤に別れると、徹三は都合よくも佐伯と二人きりになった。徹三は佐伯を誘って江戸川公園に散歩に行った。徹三が「一寸話合ってみたい」と言った言葉に對して佐伯が快く應じてくれたのだった。
 二人は夜の大瀑の上を通って、瓦斯燈の灯の蒼白くともってゐるじめついた公園の中に這入って行った。十時過ぎの暗い公園は空氣が冷たくぶらつく人影もなかった。
「あすこのベンチに腰をかけやうか?」
 佐伯は闇をすかせて、少し先の河っぷちに下った空地にある人戀しげなベンチを顎で示して言った。
「あゝ、さうしやう、だが君寒くはないか?」
「大丈夫だ。」
 佐伯は胸を張って答へた。徹三はレーンコートを着てゐたが佐伯は制服むき出しだったのである。
 二人は足元の危げな小徑を傳ってベンチに行き腰を卸した。佐伯はバットを取り出すと一服すひつけて、燃えさしのマッチ棒を、小さな鐵製の柵を隔てゝ、すぐ二人の足元を濤々と夜眼にも白く泡立ちつゝ流れてゆく江戸川に投げ捨てた。
 噂通り、夜鷹の出さうな晩だった。闇の中には佐伯の煙草の火がぽっちり孤點を作り、二人は何となく默り合った。
「さうだ、先達この邊で身投げがあったけね。」
 佐伯は無雜作な口調で突然言った。徹三は變な事を言ふものだと思ひつゝも、すぐ數日前一人の貧しい老婆が自殺を計って助かった事件のあった事を憶ひ出した。
「あゝ新聞に載ったやうだね、だがそれが――?」
「なに不圖憶ひ出しただけなんだ。」
 佐伯は煙草の煙を溜息のやうに長く吐き出し、燃えさしを足元にぽいと捨てる。
「死ねる餘裕のある貧民はまだ惠まれてゐるな、とひょいと考へたんだよ。」
「どう言ふ意味なんだい? 實は僕は今夜、君に無産階級解放運動に就ての意見を聞かしてもらひたく思ったんだ。僕は今迄プロレタリア運動と言ふものに對してひどく冷淡であった事を告白する。これは要するに常識上から云って危險な事だし、それに人生の眞の表裏を見透す上から言っても不便な事だ。だから僕は君に初歩的な啓蒙を行ってもらひたく思ってゐる。勿論、僕は君の説を他山の石とする以上に何物とせぬかも知れない。それは僕の持論だが、人間の思想や行動は個人の相違に從ってお互にどうにもならないと思はれたからだ。」
「その通りだ、僕は自分の轉換は他人の力でされたのでなく、自分の堪へ切れないパッションによって爲されたのである事を自覺してゐる。一體附和雷同程淺薄なものはない、人間は裡から動いてくる強い力によってこそ始めて動かなければ嘘なのだ。勿論君が僕と同じ轉換をしないからと言って、それはお互の立場によるのであって當然でありこそすれ難じたり怪訝しんだりする性質のものではない。」

「ぢゃあ――」
 徹三が言ひ掛ける迄もなく佐伯は頷いて、
「あゝ何でも訊いてくれ給へ、淺學菲才の僕で答へられる事なら何でも、いやそれより二人で意見を述べ合ふ事にした方が適切だらう。僕の到らぬ所も多々あるに相違ないし、君の意見に稗益される所もあるに違ひないのだから。僕のほやほや思考が指先位の程度でも君に何等かの役に立ったら滿足だ。」
 ――徹三はそれから先づ佐伯の思想轉換の動機に就て質問してみた。「何かに頼りたかった」と言ふ佐伯のトロイカでの言葉は、ゆはば昏迷期の若きインテリゲンチァの共通の惱みであって、大小の差こそあれ佐伯一人のものではない。即ち徹三はさうした惱みがどう言ふ所からプロ運動に結びついたか、その直接のいきさつを聞き度いと思ったのだった。
「一番最初は、」
 と、佐伯は眞暗な闇の中の一點を腦髄の中の一點を凝視めるやうに凝視めながら、落ち着いた調子で靜かに話して行った。
「――この春埼玉縣のある機業地に行ってそこであまりにみぢめな織匠女の勞働と、許し難い資本主の搾取行爲をまざまざ見せつけられた時からなんだ。がその資本主と言ふのが外ならぬ僕の伯父だったので、僕は憤激感より憂鬱感を滿喫した。僕はそれから數ヶ月を獨りぼんやり考へ通したのだ。だがその苦腦時代を抜けた時は僕は勞働問題に對する熱情的な學徒になってゐた。僕はそれから片々には文學から來るニヒリズムを、片々には社會科學研究に對する熱情を極端的に並列させながら、暫く第二段的苦悶時代を送った。 だが七月頃から僕は親しく江東一帶の第四階級部落に出入する事によって自力的に僕は永い間のニヒル感を克服する事が出來るに到った。僕が羅甸街十月號に掲載しやうとして止めた「ニヒリズムに就て」はそれ以前にまとめた感情であった。克服後の僕には無價値に近い物だ。だが僕は原稿執筆の時間がなかったし、それに或る意味での僕の理想的岐路上の記念にもなると思って、それを出さうと考へたのだった、 然し間もなく僕は熱情を感じてやすやすと「或るマルキシストの死」を二三時間で書き上げたので僕は勿論それを前者に代える事にした。その作品を愛する僕としては當然だらうと思ふ。でその結果は僕の羅甸街脱退となったのだがそれも僕の遠からずしなければならないと豫期してゐた事で、反ってお互の爲めに時間的に早かった事を喜ぶべきだと思ってゐる。」
 佐伯は向ふ岸を黒い影が逍遥ふやうに消えてゆくのを眺めながら一寸口を噤むだが、間もなく言葉を繼いで、
「話は横に迯れたが、實は恁うなんだ。僕は本所深川の貧民窟が第一豫想以上のみぢめさである事に驚いた。想像してもみ給へ、七月八月と云へば炎天か或ひは雨天で人間が暮し難い最中だ。さういふ際にトタン一枚上に渡した屋根の下に三家族位の人間が、それこそ蛆虫のやうになって棲息――さうだ生活とは言へないんだ――してゐる。 話で聞けば何でもないだらうが、その現状を見てみ給へ、とても平氣ではゐられないから。僕の聞いたエピソードに、さうした所から或る料理屋かどこかの下女になって行った娘が、六疊の下女部屋に同輩と二人きりで寝るのが怖ろしい迄に寂しく思はれて、逃げ戻って來たといふ實話がある。悲惨なユーモラスを持ってゐるぢゃないか!
 然し僕は貧民の生活に驚いた事だけでは濟まなかった。「何が彼等をさうさせてゐるか?」即ち彼等をそれ迄に踏み躙ってゐる資本階級の暴戻ぼうれいに驚き入ったのだ。」

「全く彼等貧民達は死ぬ事からも束縛されてゐる。先日此處で身投げした老婆は、たった一人きりの息子が北支那の××に××した爲めに、生活難の極に陥って自殺したと云ふ話だった。然しこの老婆は自分一人の生命を斷つ事によって總ての苦悶は解決され得る幸福者だった。然し本所あたりの連中は、その一人の勞働者の生命は、彼一人のものでなく家族數人のものになってゐる。彼一人自殺する事は尠くとも老幼の二三人を自殺せしめる事である。彼はそこで死ぬにも死なれない立場になる。
 それで、彼等は一生懸命に、デスパレートになって働かうとする。然し彼等の給料は彼等の勞働率に比して如何に低きものか! 然しまだいゝ。一朝資本家達の冷酷な斧を食らって失業した時はどうか?
 君ほまだ恁うした事は知るまいと思ふから一例として説明するが例へば此處に或工場があるとすると工場主は時を見て自分のプロフィットを掲げる爲めに、工場の切換を行ふのだ。即ち舊工場は不景氣の名目で閉鎖し、職工は解雇して了ふ。その裏で新工場には賃金低率な職工を雇傭して前にも増した活動を始める。これなぞに關しては勿論種々ないきさつも前後關係もあるにはあるが、要するに資本主が自己のプロフィットの前には、勞働者達の生活など秋毫の關心もしないと言ふ事は明らかな事實なんだ。
 で、哀れにも豫告もなしに馘首された勞働者達はどうだ! 勿論不景氣の名目に解雇された彼等は、些少な退職金さえ手にする事は出來ない。彼等は明日の、ではなく今日の生活費の捻出を血眼にならずにはゐられない。では何故、彼等はさう言ふ不時の際の爲に貯蓄をして置かないのか、何故切角稼いで來た金をどぶろくに飲んだくれて捨てゝ了ふのか? 或ひはさう言ふ事を考へる人がないとは言へない。 だが、それは餘りに彼等にとってみぢめな叱言過ぎる。彼等に命を繼なぐ金以外に少しでもゆとりがあったとしたら、それは明後日の贅澤な用意金の爲にするよりも、先づ今日の疲勞し切った體を慰め、明日の活動への勇氣と精力を養ふために使はなければならないのだ。彼等にとっては體はたった一つの資本なんだから。然し事實はもっと酷く、彼等はゆとりを手にする事はまァない。あったとしても、到底明日への精力を養ひ得る程の量のものではない。 辛うじて今日の疲勞を自暴氣味に慰めてゆく位なものだ。然もこの要求の、彼等にとって一方ならず切實的であるのは、彼等にゆとりどころか生命を繼ぐにも足りない程の収入をもさいて、その一杯の慰安を求めやうとしてゐるので知れる。
 哀れなるプロレタリアよ! と僕は思はずにはゐられないのだ。然もこの反對の立場に立つブルジョアを思ふとき、どうして憤然たらずにゐられよう。」
「それで――」
 と、徹三は、佐伯の言葉の切れた時言った。徹三はさうしたプロレタリアを救はうといふ彼等の理想に就て日頃抱いてゐる自分の不審や疑念を、ただし又は討論して行ってみたいと考へたのだった。
「君の轉換の動機も心意もよく判った。では、一體恁うした矛盾の世の中をソシアリストは究極的にどうして行かうと言ふのだらう。」
「究極的に? いやソシアリストは究極的にも第一歩的にも、唯此の社會を、貧しき者にも割の合った生活の出來る制度のものにしたいと思ってゐるんだよ。「貧しき者」先づそんな人間的に不合理な存在はなくなって了はなければならないんだ。ソシアリストの目差すのは、常に人類の、いゝかい人類の幸福へ! なんだ。」
作者より讀者に ――之れに續く「地獄への二騎士」第十回は都合上掲載を遠慮する事にします。すぐ次の章に移ります。

秋風に託された手紙
 十一月の或る爽々しい朝、徹三の許に數通の郵便物に混って、日光の山中に籠ってゐる中谷と、北海道の札幌の父の家へ歸ってゐる津田とから、長く書き綴られた便りが來た。徹三は、軒から釣るされた鳥籠の、くっきり影を落してゐた麗らかな二階廊下で、籐椅子に倚りながら封を切った。遠い所から秋を孕んで、はるばると送られて來た手紙は、徹三の足元でかさこそとかそけき葉ずれの音を、うら枯の棕櫚に立てさせて過ぎてゐる秋の風に、丁度託されて來たものゝやうだった。
×  ×  ×
 硲兄、離京以來すっかり失敬してゐた、だが變った事はない。無事で、勿論元氣で、毎日勉強してゐる。秋の湯本は完全に素晴らしいので、僕はすっかり腰を落ちつけて了ってゐる。勉強もはかどるし、それに氣分が近頃になくいゝので、出來る事なら豫定通りゐたいと思ってゐる。
 羅甸街十一月號の編輯事務は、僕の引受けた分だけやり了へ、昨日中禪寺から小包みにして北澤君の許へ送った。後は北澤君がやってくれる筈だ。僕はこれから専念論文の方の勉強をする事が出來る。参考書は二册讀みあげてゐる。この勢ひでやると、あはよくば持参した殘り二册も、こゝで讀み上げて了へるかもわからない。さうすると、僕は湯本に來た廿日餘りの日數で、東京での三ヶ月位の勉強の分量をした譯になる。何と能率的な事よ! 君も下宿なぞにくすぶってゐないで、よろしく何處かに隠遁すべし。
 昨日、原稿包を送りに中禪寺に下りたので、半日湖で遊びすっかり陽に燒けて歸って來た。色々と愉快な事や、面白い感想があった。今日はどうせ疲れ休めに午前中をつぶす心算でゐるから、一寸そんな事を書き送って、消息たよりの代りにしやう。
 昨日朝早く起きて女中に中禪寺行きの乗合馬車を訊ねたら、二階のお向ひの部屋のお客様が、自動車でおくだりになるから、御一緒にお出掛けなさったら如何です? と言ふ。それで自動車賃の割前を拂ふ事にして、その人達と同じ車に乗って湯本を出た。その人達といふのは若い關西者の夫婦で、僕の推察では船場あたりの暢氣な若主人公夫婦だと思はれた。男はおっとりして上品な大阪ぼんちだったがフラウは非常に近代的な明るい女學生上りの感じの人で、矢張り關西人らしい所はあったが、僕には意外な好意が持てた。 自動車は朝霧の中を三十數マイルのスピイドで走った。僕達は冷たさで頬を赤くさせながら、それでも腋の下に冷汗をかいた。何故となれば、戰場ヶ原を貫く中禪寺への道は決してアスファルトのやうにドライヴウエイではなかったから。然しこの小さなアヴァンチュールめいた三十分は、僕と同乗の夫婦達との交情をもたらせた。無事に車が中禪寺に着いた時は、彼等は僕に是非一緒に秋晴れの湖上の舟遊をする事を勸めるのだった。
 で僕達は大尻橋の下からセールを張った和製ヨットを出した。太い青縞を二本走らせた瀟洒な三角帆は白根おろしの秋風を一パイに孕むで、小波の疊の目のやうにこまかく立った湖面を、水を切って速かに走った。僕等はひどく愉快になって快哉を叫んだ。然しフラウの子供らしい喜びと言ったらなかった。彼女は舟が三十度に傾斜してぐっと方向を換えたりすると、頓狂に叫んで僕につかまったりする。僕は舟より餘程此方がひやひやした。
 空には浮雲さえなく、澄み切ったスカイ・ブリューの下には、男體山を始め、白根連山の山々が突兀とつこつとして、紅葉した木々や常盤木のつゞれ錦を着て収まってゐる。僕は十六七歳の船頭から、この山々を飾る木々が、峰楓、紅葉、山毛欅、さはぐるみ、楢、白樺、姫小松、つが、樅の類だと言ふ事を聞いた。

 それから僕等は歌ヶ濱に上陸して、其處にあったお堂に参詣した。修學旅行の中學生や女學生が澤山休んでゐた。
 僕等も一軒の茶店に休んで茶をのんだ。すると其處でこんな會話が取り交されてゐる。一方は學生を引率して來てゐる教師、一方は茶店の爺さんである。
「華嚴瀧は樂しみにして來たんだがね、水が落ちてないぢゃないか。いくら有名な瀧だって水が無けれぁ崖と少しも異りゃしないよ。」
「今年は湖に水が少いから堰が止めてあるんです。外國から觀光團が來たりすると堰を開けて瀧を作るんですがね。」
 こんな意味だった、僕はなんでもない事ながら、莫迦々々しさを感じニヒルを感じた。「名所とは何ぞや?」「有名とは何ぞや?」
 茶店を出て濱に下り、綺麗な小砂利の渚から又和製ヨットに乗った。舟は魚の腹のやうに光る小波を蹴立てゝ、八丁出島を目掛けて進む。僕は次第に遠ざかりゆく歌ヶ濱の繪のやうな景色に見とれて思はず呟いたものだ。
「歌ヶ濱、成程歌ヶ濱だ。歌にでも詠まれずにはゐない景色ぢゃないか!」と。
 然し硲君、若き船頭は、僕の不見識を啓蒙してくれた。
「――冬の寒い時、歌ヶ濱って言ふ相撲取りが、何かの願をかけて中禪寺の濱からあすこの濱迄泳いで渡ったんです。それであすこを歌ヶ濱と言ふんです。」
 世のロマンチストは、どれ程の認識不足を冒しつゝあるか! 僕は可成り憂鬱を感じた。次手だから書き添へるが、歸りの乗合馬車の中で聞いた話、戰場ヶ原の名の起源も、僕等の幻想する程詩的なものではなく、大昔、何々の尊と何々の尊とが戰って勝ったとか負けたとかいふ荒唐無稽な傳説から由來してゐるらしい。これなぞも要するに底を割れば莫迦々々しい氣がしたものだ。だが、轉じて考へれば、世の中で底を割って莫迦々々しくないものがあるであらうか? 人間の現生活然り、人間の史的生活然り!
 僕は景色を見るのが嫌になり、舟の底に仰向けになって歌を唄った。舟舷の低い此舟は時々サアッと舳先から水煙を寝ころんでゐる僕の頭の上から降らせた。フラウは僕と一緒に若やいだ聲でこれも歌を唱ひ始めた。「ボルガの船唱」だとか其他新作民謡を澤山知ってゐた。御主人公はと見れば、彼は術もなささうにぼんやり頬杖をついて景色を見てゐる。僕は一瞬のグリンプスで彼等の全生活様式内容が伺はれたやうに思った。
 ――夫は因襲的な商家の息子。妻は過渡期的な近代性を求める女性、男は戀して女をもらふやうにした。女は男の財産と自分の夢とを組み合はせてそのプロポーザルを承知した。だが、結局人間同志の一致と言ふものは……。
 僕は午後二時頃迄彼等二人と遊山した。晝食も御馳走になった。白樺の木の下で彼等の携帶したカメラに請はるゝ儘に這入ったりした。そして寂しく佇む二人を背後にして僕は別れた。僕はくだらないと言ふ意識の下に、一々彼女の僕に示した好意的態度や行爲や言葉を書きしるす事を避けた。だが彼女は驚くべき自然さで、彼女の夫を當然寂しくさせるやうな言行を敢てした。 僕は平凡な男性がするであらうニヤリとした微笑も、一歩進んで偶然ヒステリイ發作の對稱にされたと言ふ苦笑を浮べなかった。何か「人生の傷々しさ」といふものを感じ、彼等の幸福を密かに祈りつゝ、逃げるやうにその場から去ったのだった。
 歸途はテトテトと喇叭を吹いて客を集め、暢氣な鞭の一當でのろのろと馬をやる圓太郎馬車に乗っかった。馭者は鉈豆煙管をはすに啣えながら、山道を喘ぎながら登る、馬車の上で恁んな事を一乗客に話してゐる。
「この馬車も廿年からなるが今年限りでお終ひでさ、來年からは乗合の自動車です――」

 馬車は、阪が急になると客を卸ろすのだ。勿論誰れしも文句を言ふ者なぞは居ない。無駄話をしながら秋の陽の照り輝く山道を馬車の後から歩いて行く。山道と言っても、林の生えた丘陵の上を傳ってゐる道だから、高原を歩く心持でひどく朗かなのだ。一緒に乗ってゐた二人の高等學校の學生は、口笛を吹き鳴らして馬車の先を元氣よく歩いてゐたが、間もなく行手に姿を決して了ったりした。然し馬車が平な所へ出ると、馭者は客を顧みて乗車を勸める。そして又のろのろと車輪を赭土道に軋らせつゝ、行き過ぎて道路に憩ってゐる乗客を拾ってゆく。
 或曲り迄行くと、例によって又乗客は降ろされた。然し今度は何とか瀧がすぐ近くだから、見に行き度い者は見に行って來いと言ふのだった。十人餘りの乗客の中で六七人迄、馭者の指差す方に瀧を見に下って行った。行き度くない者は矢張り文句を言はうともせず停留した馬車の中で欠伸して待ってゐる……。
 然し今一度降ろされた所は、道がC字型に密林を圍んで遠まはりしてゐる所だった。
「この林を皆さん眞直に突切って行っておくんなさいよ。」
 と馭者は馬車を降りて立った乗客達に言った。乗客達はがさごそと枯た落葉の一面に厚く散り敷いた林の中に這入って行った。林は白樺の林だった。あの品のいゝ白い幹が、浮雲のぽっかり浮いた秋晴れ空に向って、刺を刺したやうに立ち並んでゐる現様は、高原情緒の雄なる風景だった。僕は明るい林の中で落葉の上にひっくりかへって空を見たり、地上に耳をあてゝ自然の鼓動をさぐらうとしたりした。厚い落葉の褥の下に横たはる大地は悠久な睡眠の息遣ひをひどく平和に、又ひどく太古の呼吸めかしく、ゆるやかに立てゝゐるやうな氣がした。
 林の中には鳥の聲もあった。彼等貧しき秋の音樂者達は、しじまの中に、時折思ひ出したやうに飛び交ってゐる。微風は又、寂た「林の私語」を傳へる。木葉づれの音か、又は元の枝を慕ふ地上の落葉の嘆きの聲か……。
 乗合馬車の喇叭は短い時間を置いて絶えずテトテトと吹き鳴らされてゐて、馬車の所在は林中の人達に見當がついてゐた。二十分も林中を逍遥した頃、林は絶きて僕達は曠い野原の一隅に出た。秋草の生茂った荒涼たる戰場ヶ原である。僕達は道傍の草の上に足を投げ出して三、四分もしてゐると、喇叭の音は次第に耳に近くなり、軈てねむたげな車輪の軋りと共に馬車は林を曲って目の前に出て來た。僕達はそこから馬車に乗って又悠暢な時間を湯本温泉迄送った。
 途中、慾の深い馭者は、馬車の座席に二人ばかり餘裕のあったのを生かさうと、テクついてゐた二人連れの店員風な男を乗客の反對を押して無理に乗せた。然し暫く行くと、女學生の二人連れが野花を摘みながら湯本の方に歩いてゆくのに追ひついた。それを見て先程から窮屈になった事を不平でゐた一乗客が「どうせつめ込むのならあゝ言ふのをつめ込んでもらひたいな」と皮肉で言ったので、乗客一同睡氣さましに大笑ひに笑った事だった。
 おや随分だらしなく長く書きとばして了ったものだ。用事もないのにつまらぬ事ばかり。この邊で有閑書簡は切りあげる事にしやう。又、面白い話でもあったら、歸京の際のたのしみにする。
 僕は兎に角、もう暫くゐる。中禪寺と違って遥かに山間めいたこの湯本温泉は、訪客もきはめて尠く、暢氣に悠々自適してゐる事が出來る。朝早く起きて湯氣の霧のやうに立罩めた湯の湖にボートを漕ぎにゆくのも、僕の健康策には非常に効果的であるやうだ。上京の際は勉強と體格とのいゝ収穫を持って歸られると思ふ。先は諸兄の加餐かさんをこひつゝ筆を擱く。
日光湯本温泉渡邊旅館にて 
中谷 浩
  十一月八日
 硲徹三大兄

 次は津田健介からの手紙
×  
 遠い北海道の空から遥々書を送る。君ならびに同人諸君に變りはなきや?
 北海道は野分が吹いて、もうすっかり寒い。君が長田幹彦氏の「旅役者」の憧れてゐた北海道の冬は、現實的には、あまりに無味單調落莫たるものだ。灰色に重く垂れた空と、カムサッカから吹いてくるやうな憂鬱な寒風と、それから色彩の低調な街の氣分と、僕のやうな日頃鈍重な鉛色の性格の者には、恁うした所に住む事は酷く苦しい。プラスとマイナスが合って初めて零になるにプラスとプラスではやり切れないのだ。 僕は僅かの日數しかこちらにゐないのにもう東京を慕う心でいっぱいだ。一時も早く明るい東京に歸り度い。日頃僕等は東京を輕蔑してゐるが恁うして東京から離れてみると、その東京のよさがしみじみ身に浸みて來る。東京は取りも直さず僕等の戀人だ。いつも一緒に顏をつき合はせてゐると、色々我儘氣儘も出るが、少しでも離れるとそのよさばかりが思ひ偲ばれて來て、たまらなく懐しくなると言ふやうなね……。
 父の病気も一進一退でどうも目鼻がつかない。莫迦に良好な時があるかと思ふと頭も上らぬ險惡な時がある。慢性だから恁うした状態かも知れない。醫者はこゝ一ヶ月持ちこたえれば、後は養生次第で良くなるかも知れない。然しその間に餘病でも出たら或ひは助からぬかも知れないと言ってゐる。僕を初め家族の者も、父の病状の一喜一憂にすっかり疲れ果てゝ、僕なぞはもうどうにでもなれ! と言った氣持でゐる。病人の看病程人の身心を憔悴さすものはないしそれがエキサイテングに一ヶ月も續いたらデリケートな者なら自分が参って了ふ。
 然も、父は、自分が死に瀕したとなるとひどく絶望的になり自暴的になり、日頃の缺點をあるだけさらけ出して家族の者を困らすのだ。家族の者はそれがいぢらしいと言って父に同情するが、惡魔の星の下に生れた僕は少しも同情なぞを感じない。寧ろ嫌惡を感じると言っていゝ位なのだ。僕は父を今失っても或ひは泣かないかも知れない。然しこうした星の行き違った親子關係に生れた運命に、寂しくなって泣くかも知れない。
 君は、僕の父へ對する心持を知ってゐて、そして理解してくれてゐる唯一の友だ。僕は今迄多くは僕の陰惨な制作品によって、時には雜談の中にはさんで斷片的な身上話によって僕と僕の父との相剋の實状を君に傳へてゐる。然し詩を交えない實際の話は、もっと激烈でもっと醜惡でもっと悲惨なのだ。いづれもし父が死にでもしたら、僕は反って父を追悼する意味で、こうした過去の話をする機會を持つかも知れない。二人が生きてゐる間は僕と父とはかたき同志だ。 僕の生活は從って藝術は總て父に對する反抗に據ってゐる。父か僕が仆れたらその時始めて僕等二人の間には平和が來る、微笑が來る。即ちお互の過去も清算されて、二人の怨みも消えやうと言ふのだ。先づそれ迄は只管に父から怨まれ、父を怨み續けてゆくより外に仕方はない。これが惡魔の星の下に生れた親子の悲惨な運命なのだ。
 少年時代は亂暴な取扱ひを受けて戰々競々と父を畏怖して育ち思春時代には一人の娘を爭奪して父を暴君的ライヴァルとして憎み、青年時代は家族や自分を守る爲めの闘士として父を敵の如く視、斯くして常に父と反目し合ふ事に依って成長した僕は到底この世に於ては永久に和解し合ふ事の出來ない精神上の牆壁をあまりに強く感じてゐるのだ。

 然し父も遉に今日此頃は寂しいらしい。痩細った腕を朝の床の中でさすりながら、ほそぼそと何事か考へてゐるやうな眼差をしてゐる時がある。僕も不圖そんな容子を見かけて妙な氣になる時もないではないが、一度だって自分の氣分に甘えて妥協的な言葉なぞ口にした事はない。僕はどんな少さなセンチメンタリズムでも克服してあくまで自分を勝利に導いて行かなければならないのだ。父への妥協は父への降服であり、父への降服は僕といふ人間の降服を意味する。 僕がもしみじめに降服したら僕のやうな人間は自分の一生に何事も強い信念も自信も持ち得なくなるだらう。そして僕は自分の從來の個性を見失って、平凡な魂の喘ぎの裡に、生氣を失った朽木のやうに横たはって了ふだらう。嘗て谷崎潤一郎氏が、自分の生活や藝術は自分を務めて惡魔らしく意識させてゆく事に依って成り立ってゆく、だから、少しでも人間的な心境が沸いて來たならば、それを自分の敵として怖れ拒避すると言ふやうな事を言ったやうに覺てゐる。僕も要するにそれと同じ意味で、それ迄に徹底し得たいと思ってゐるのだ。
 それに就て、昨日こんな事があった。丁度氷雨がしとしとと降りしきって、何となく侘しい頼りない氣分のする午前だった。僕は父の病床近くで疊の上に新聞を擴げてゐた。もし妹ででもあったらいつも無聊に苦しんでゐる父の爲めに新聞でも雜誌でも讀んでやるのだが、僕は嘗て父に必要以外の言葉さへ交した事はないのだから勿論默ってゐたのだった、 小一時間も經っただらう、父は頻りに咳なぞして話相手を欲しがってゐたやうだったが、到頭、それが癇癪に變じて、俄に誤氣荒く僕を呼ぶと、ひどく刺々しく僕の文學志望に對しての愚痴と非難を浴びせ始めたのだ。父の愚痴や非難は常にお定まり文句で、僕は聞きあきてゐるものだが、要するに僕の反感を煽るより外に何等の意味を持たないものなのだ。
 父は先づ文學と言ふものを口を極めて罵倒する。文學なぞは人生の装飾品だ、世の中で最も用を爲さぬ道樂品だと貶し、次に文學を志望する人間なぞ、最も放縦怠惰な最も非活動性の女々しい最も碌でなしの人間だと毒舌する。そして散々僕の文學志望を非難し僕の心を傷つけて置いて、次に他所の青年を例に引いて來て僕に對する愚痴を列べ立てる。即ち、父によれば僕が父の理想とするやうなAならAと言ふ青年のやうに少しでもならなかったのが、千載の恨事此上ない不滿事だと言ふのだ。 そして父の例に引くAならAと言ふ青年はどう言ふ青年かと言ふと、彼は大學を常に一二番で通し、在學中に高文にパスし、卒業と同時に立派な社會的の椅子を占めるやうな人物なのである。勿論文科なぞの出身者であらう筈はない。
 僕は恁うした父の愚痴を、場合に依っては一面肯定し得る氣持を感じる時もある。然し、父の餘りに理解に缺けた、感情的に惡意の含められた言葉で眞向から、くどくどといはれると、つい相手にならずにはゐられなくなる。相手になると言へば、應戰であって、既に父の言葉に多少でも寄せてゐた好意は煙の如く消散してゐるのである。
 僕は簡單に文學の意義を説き、文學志望者としての自分の覺悟を説き、父の言葉が因襲的なわからずやのそれである事を言ふ。そこで常に口論になる。父はあく迄僕を意久地なしと罵り、將來何等期待する事は出來ぬ家の穀つぶしだと罵倒し、青年Aを子とするA一家を痛烈に羨望し、逆に僕のやうな者を子とした自分一家をこの上なき悲運の家だと嘆くのだ。

 僕は大概な程度迄は我慢してゐる事が出來る。然し昨日は父が自分の病氣を持ち出してそれを利用して迄も僕に難癖をつけやうとしたから、その態度にすっかり腹が立った。父は殊更に自分の病氣が明日にも危險なものである事を悲歎し、それに就ても僕が親不孝者であり、一家にとっても將來禍をなす者である爲めに、死ぬにも死なれずさうかと言って僕に對する苦勞と失望の爲に良くなるべき病氣もよくなれず、自分は此上なくみぢめだと言ふのだった。
 僕は父の言葉を聞いてゐる裡にありありと自分が昂奮してゆくのを知った。あまりの笠にかゝった言ひ方、あまりに無批判な言葉、あまりに意味を爲さない愚痴のための愚痴――僕は病身の父への同情も、多少でも感じてゐた自分の意氣地なしの性格や才能に對する引け目の氣持やらはなくして了って、唯憤りの反抗心のみが燃えあがったのだ。 然し僕は努めて心を靜め、なるべく平氣な顏をして父の言葉には冷笑をむくひたきり知らぬ顏をして新聞を讀み續けてゐる態度を執った。勿論新聞の活字なぞ目に入る所ではないが恁うした見榮を切る事が、父への最大の應酬だと思ったからだった。と案の状父の氣色は見る見る變った。それを知って僕は心に痛烈な凱歌を揚げやうとした時、父の手からは藥瓶が激しい勢ひで僕の身邊に投げつけられた。
 僕は遉に顏色が變った、心が怪しく戰いた、動物的な四つの眼が突嗟に闘牛の角のやうに組合った。その時この様子を見て義母と妹が飛び込んで來て必死の面持で僕等の間に割って這入ったので、僕は漸く反省を取戻す事が出來た。
 僕はすぐ立って部屋を去らうとした。とその時僕は病床に半仆れかゝった蒼褪めた父のやつれ果てた顏に、數條の泪が冷たく光ってゐるのを見た。一瞬前迄燃えたぎってゐた憎惡の光は消え、只管あはれみを乞ひ自己を歎く弱者のいたましい眼差しが弱々しく涙で曇って僕の方に投げられてゐるのだ。
 僕はハッとなった。と、無暗に父が可哀想に思はれて來て眼頭が急に熱くなった。僕は慌て二階の部屋に驅上った。うっかりして泣いて了っては大變と思ったからだ。然しさうなると餘計胸の下からこみあげて來るものを防ぐ事が出來ないやうな氣がして來た。
「畜生! 負けるな、此處で泣いて了ったらおまへの負けだぞ、口惜しくとも我慢をしろ、勝て! 勝て!」
 僕は座敷の中に棒立ちになって拳をふりまはしながら心に叫んだ。然し冷たい理性の反面を意識しながら理屈なしに眼には涙が後から後から湧いて來た。
「負けるな! 負けるな!」
 僕はなほも叫びながらも、遂には綱引きに負けかゝった一方のやうにずるずる涙に誘はれて行って了った。一條――二條と僕の頬の上に涙を意識した。然しそれでも僕は負ける氣は許せなかった。こゝで父の爲めに泣いて了ったのでは反抗それだけが自分のやうな氣がしてゐる僕にはあまりにみぢめな敗北のやうに思はれたのだ。
「弱虫め! 貴様は俺の心を裏切って泣いて了ふのか!」
 僕は突嗟に臺の上の鏡を取りあげ、それを持って机の前に坐った。丸い小さな鏡の中に、頬に光る條をつけた醜いひきつった顏が寫った。
「莫迦! 貴様は自分のその顏見ながら泣いてみろ!」
 僕は敵に對するやうに憎しみの瞳で鏡の中を覗き込み、寫った顏を見てあざ笑った、意氣地なしめ! と罵った。と不思議に自分の氣持が救はれてゆくやうな氣がし出した。胸が澄んで頭が輕くなった。僕は鏡の中の歪んだ顏を見て滑稽になって笑った。
「あゝ俺は泣かなかった、俺は負けないですんだ!」
 僕は喜びで晴々して恁う思ったのだった。

 それから僕は心を落ちつけて今日の事を靜かに反省してみた。考へてみれば、親子がいがみ合ふなぞと言ふ事は、理由は兎に角として、後味のいゝものでは決してない。僕は父を憎み、そして意地になっても情的に父に打克たうと焦慮あせってゐた三十分前の自分を悲しい心で打ち眺めた。
 だが、又暫くすると、僕の心は變った。僕は矢張り父に負けないでよかったと考へられて來た。そして今感じた自分の悲しみなぞは激越の次に來た極つまらない反動の情に過ぎないと思った。
 僕等の相剋は斯くして永久に――。
 僕は泌々と斯う考へないではゐられなかった。
 僕はそれから夕方迄、ツルゲエネフの『父と子』を讀み返した。何度讀んでも讀み倦きない、愛讀書だ。頁をひらくと随所にペンや鉛筆のアンダラインが引いてあって、所々にはその折々の感想なぞが走り書きしてある。三年も前神田の古本屋の棚から買って來たコンスタンス・ガアネット譯の英譯本で、僕は父との爭ひで寂しくなると、何時でもこの本の中に逃げ込むやうに務めるのだ。
 君も同感だらうが、何と此の『父と子』は感銘的な物語だらう。あのアルカディの父にしても、パザロフの父にしても、まるで僕には感激以上の代物だ。僕はこの本を讀むと涙が出る。理由もなく泣けて來て仕方がない。
 僕は此の本を讀むと、僕の憂悶はカタルシスされるやうな氣がする。どういふ心理だらう――。屹度、現實的に得られないなごやかな父性への氣持が、この書物によって與へられるからなのかも知れない。氣分が靜かになり、猛ってゐた心も月の光にさし込まれたやうに冷たく澄んでくる。僕は常に苦しい心をこの書物に救はれてゐると言ってもいゝのだ。
 僕は晩には早く寝た。戸外は粉雪が降ってゐるやうだった。眠られぬ儘に天井を向いて空想してゐると、僕は急に家出がしてみたくなった。少しばかり感傷めくが、こうした雪の穏かに降り積む夜、親も捨て家も捨てゝ、何處へともなく去って行って了ったら、それこそ後を汚さない綺麗な解決ではなからうか? そして僕はシュミットボンの『街の子』の物語を想ひ出したりした。
 僕はそれから夜中迄、色々と自分を一人の街の子に空想して、甘いセンチメンタリズムに浸り樂しんだ。だが、そんな事が現實的に全く不可能である事を裏書するやうに僕はその儘疲れて眠って了った。
 今朝眼が覺めると、僕はたいへん寂しい氣がした。僕は自分の身に襲ひかゝる又今日の日の苦悶を思ふと、せめて『街の子』の空想を、今日も持ち續けてゆけたらと思ったのだ。
 本當に家出と言ふ事は、僕には憧れた。假令『街の子』のやうにロマンチックなものでなくても。
 確に現在のやうな精神的桎梏から抜け出る事は、僕にとっては、學業なぞは犠牲にしても關はない程の、大要事なのだ。僕が父とのもつれから解放されたなら、僕はどれ程成長し、飛躍するだらう!
 だが――それは不可能なのだ。家出なんて現實的には實行出來ない事なのだ。又出來る性質のものなら今更らでなく遠の昔でゐたらう。
 僕には義母への義理がある。妹への愛情がある。そして矛盾した事には憎み切ってゐる筈の父にも一面密かに斷ち難い親子の絆を感じてゐる。君は嗤ふかも知れない。さうだ全く僕は平凡中の平凡人なのだ。何は扨て、僕は運命的に約束された苦悶の道を、甘んじて辿り着く所迄辿らなければならない人間なのかも知れない。長い愚痴を滋して失敬した。何の爲めの愚痴かも知れぬ代物だ。許して頂きたい。くだらぬと思ひつゝも寂しい儘に遂心の傷みを書かずにはゐられなかったのだ。ぢゃあ御自愛を祈って――さようなら。
津田健介
 硲徹三兄侍史
 昭和×年十一月六日
 一伸
一、学業の方の件、感謝の至り也。なほ小生の歸京は目下不明。
一、拙作「星を見る人々」の試演成功の由、一に諸兄の斡旋よろしきを得た爲めと感謝し喜んでゐる。

徹三の日記抄
 十一月二十日(金)――晴
 近頃は世を擧げて早慶戰時代だ。今日はその第二回戰だと言ふので逢ふ人毎に沸々たる貌を見る。朝學校に行かうと若松町の阪を降りてゐると、クラスの村田や岩川や早瀬や其他紅白亭の亭主や古本屋の小僧に次々と會った。「どこへ行くんだ?」と訊いてみると、皆「野球だよ!」と言った儘驅出していって了った。どうもさかんな事だ。
 校庭に入ると中谷が圖書館の白壁に靠れて日向ぼっこをしてゐた。旅から歸ったばかりだから日頃好きな野球も一奮闘(實に激烈な奮闘を要するのだ!)して見物にゆく元氣がないと言ふのだ。
 二人して教室に這入って増田教授の授業を受ける。見ると弱った事に出席がイヤに尠い。皆野球に吸はれたのださうだ。僕と中谷とはうっかり譯讀を當てられたりしたら大變と、大急ぎで黴の生えたやうなサッカレイの文章に字引を引いた。と到頭僕が當てられて了った。仕方がないので觀念して立ち上って即席にやっつけた。やってみると案外むづかしくなく譯せたが、ただ一つ單語が分らず立往生してゐると、傍の中谷が嘘の意味を教へてくれたのでとんでもない間違ひをやってのけて了った。
 だが僕に當てられた箇所はたいへん美しく好ましい文章だった。不勉強の僕はサッカレイなぞと言ふと頭から黴の臭ひ以外何物もないと思ってゐたのだが實際意外な氣がした。後日の爲に僕の譯文を殘して置いてみやう。
「――彼に生涯に一度戀をした。彼の愛した婦人は死んだ。總ての世人から愛せられてゐながら彼は決してその代りを求めはしなかった。私は彼のその貞節觀念が私を如何に強く感動させたかを言ふ事は出來ない。彼の後半生の快活さが口にせられざるその物語での哀感を加へはしなからうか? くよくよ悲しむ事は彼の性質外の事であった。彼が悲しみを持ち世人がみんな彼を見舞ってその不幸を哭く時に於ても深くそして靜かに彼の心の愛を寝かせつけ、そしてそれを葬った。それは時節と共に傷いた地上を覆ふ草花を齎せたのだった。」
 午後からトロイカに行った。堤さんはやっぱり野球に行って留守だ。ユカリーナと僕と中谷と三人で野球の勝ち負けに就て一圓づつの賭をした。ユカリーナは三對二で早稲田の勝ち、中谷は五對二で早稲田の勝ち、僕はどうも早稲田は勝ち目はなささうな氣がしたが早稲田が負けるといふのも癪なので二對一で早稲田の勝ち、とした。
 二時頃トロイカから出て家の方に歸って來ると、方々の家のラウドスピーカーから騒然たる神宮球場の音響が放送されてゐて、歩きながら思はず胸を躍らせて了った。慶應の應援歌が輕快に「ケイオ! ケイオ! 陸の王者、ケイオ!」と連呼すれば怒濤の盛上って來るやうに總ての騒音を壓して湧き上ってくる「都の西北」の歌! 矢張り僕も一人前の青年らしく亢奮して飛び出して行き度い氣持を誘はれた。
 夕方、飯をすませて散歩して歸って來ると古屋が待ってゐた。金を十圓是非貸してくれと言ふのだった。どうしたのだと尋ねるとみどりやにどうしても今夜中に支拂はねばならぬ義理があるのだと言った。日頃の傲慢顏に較べ今日は餘り悄氣てゐるやうだったので氣の毒になって言ひ通り十圓貸してやった。そしたら圖々しく小遣錢を貸してくれと言って、無理に押入れの中から鴎外全集の片われを二册持って行って了った。ひどい奴ったらない。
 風呂に行って歸って來た下宿の小母さんが、野球のの戰績を聞いてきた。
「三對零で早稲田負け!……」
 到頭一圓の賭は不成立で終った。それは兎も角、早稲田が一敗したと言ふ事は斷然不愉快である。

 十一月二十二日(日)――晴
 午前中、約束通り白川絹江君が訪ねて來た。黒地に大型の模様のついた上品な銘仙を着た彼女は、例によってあか抜けして美しかった。中谷が一眼見て「美人だなあ!」と感心したと言ふのも無理はない。僕だって、もしかつ子と言ふ戀人がゐなかったら、或ひは絹江君に戀して了ったかも知れない。絹江君は、その才能から言っても容姿から言っても、その性質から言っても、十分男性の崇拜尊敬を集め得てもいゝ人物だ。
 絹江君とは、佛蘭西展覧會以來二三度しか會ってゐないんだが、便利な事に藝術と言ふものを通じての交際は、二人に無駄な時間を費させなくとも、ずんずんお互を了解させ、親密にさせた。僕等はもう何事でも遠慮なく話し合ふ事の出來る仲になった。だが僕等の友情程美しいものはないだらう。僕はいつ迄もこの美しき誇りを持ち續けなければならない。
 絹江君は最近の作だと言って、十枚ばかりの短篇小説「ワルプルギスの夜」を見せた。僕は十五分ばかりかゝって二度讀み返した。女性らしい詩情に溢れた、それでゐて如何にも輕快なテンポを持った賛讃さるべき好短篇だった。内容は戀愛遊戯に一寸錯覺を起した小惡魔的な男の夢遊的な行動の話で、背景は魔女の祝祭の夜に諷した近代的魔女の群がる華やかな都會の享樂場裡が幾場面かだった。
 それから例によって文藝の話やら、美術の話やらした。絹江君は繪ではマリイ・ローラ・サンが好きだと言った。僕はアンリ・ル・シダネルやアマン・チャンを持ち出し、最後にはユトリロを持ち出して大いにメートルを上げた。絹江君は佛蘭西現代畫壇の寫眞版畫集を、僕に贈ると言って風呂敷包の中から出してくれた。それにはボナール、マチス、ドランなぞと懐しみ深い人達から、ブラック、シニヤック、ルオールなぞの人達迄のが、一二葉づつ蒐集されてあった。僕は感謝してそれを受ける事にした。
 晝になって、絹江君が歸らうとしてゐる所へ中谷が來た。中谷はそこで始めて絹江君を見て、「美人だなあ!」と感心したものである。僕は丁度いゝ機會だと思ったので、中谷と絹江君の顏つなぎに晝飯で抜辨天の支那料理店紅●(※漢字不明)に二人を誘って喰べに行った。支那料理は相變らずうまくなかったが蓄音器を散々かけて陽氣になって歸って來た。
 絹江君は家事の都合ですぐ帰った。月末頃には又ゆっくり暇をみつけて遊びに來るといった。
 中谷は、あれだけの交渉で可成り絹江君が好きになったらしかった。しきりに絹江君の好ましい女性である事を口にしてゐた。中谷が絹江君を好きになるのはやむを得ないが、然し、出來る事なら、お互に、關係を濁したものにしたくはないと思ふ。
 中谷はそれから、金曜日の晩、銀座に遊びにいって、早慶戰に勝った慶應の學生が、全銀座街頭と全カフェを占領して、勇敢なる戰勝祝賀會を開いてゐた現様を見聞して來たと云って、話して聞かせた。僕も新聞で讀んではゐたが、實際の話を聞くと遉に顏敗かおまけした。だが僕は決して塾の學生を憎んだり非難したりする氣持は持てなかった。 如何にも青春の溌剌としたそれで童心の漲った趣きがあって僕には共鳴的な胸のどよめきさえ感ぜられた。歡喜の絶頂にゐる若人の心理を、さう堅苦しい道徳觀ばかりから批判してやっては氣の毒だと思ふ。
 新聞なぞは随分非難を浴びせてゐるやうだったが、それに就ても一年中世話になってゐる各カフェが一年に一度荒されたからと言ってむきになる法はないと思ふ。中谷は夕方迄雜談をして歸って行った。

 十一月二十五日(木)――曇(※二十六日か水曜日の誤り)
 朝、十時頃、學校へ出かけに土屋沓子氏から電報をもらったのでその電文から見てどうせ用事ではないと思ったけれど、晝から學校を切り上げて、お茶の水アパアトメントにマダム沓子を尋ねてみた。ヒーターのぬくぬくと通った瀟洒な部屋の中には、むろ咲きのフリーヂャやシクラメンの花が薫って、マダムはバスタッブから上ったばかりの血の氣のいゝ體をパヂャマに包んで、ビュウローに向ってお化粧してゐた。 フロアメイドのお波奈さんが僕の爲に香の高い熱いコッヒと、外國物のファンシイ・チョコレートをはこんでくれた。僕は外國映畫にあるやうな部屋の様子に何となく興味を惹かれつゝ、鏡の中のマダムと例によって意味を持たない會話をした。
 ――電報で呼び寄せといて別段用事もなかったんだ、なんて御挨拶ですね。
 ――ぢゃあ御馳走しませうか?
 ――それはさうと、御主人はまだお歸りぢゃないんですか?
 ――アメリカに廻る事になったんですのよ。今年は歸れないんださうです。
 ――大磯はもうお引き上になったんですか?
 ――えゝ一週間ばかり前にね。それでその事をお知らせしやうと思ってお呼びしたんですのよ。
 マダムは頬紅をさし終るとお化粧が終った。がまだ鏡からは中々離れない。又五分ばかりパッフで顔をなぜまはしたりした挙句、やっと殘り惜さうに鏡から顔をはづした。僕は黛に頬紅に生彩の見事に立ったいつもながら若やいだ美しいマダムの顔を正面に見た。僕は不圖パリーの「ロザリ」の筋を思ひ泛べた。
 それからマダムは次の小室に行って衣服を着換えて來た。二人は小卓を圍んでコッヒを啜りながら話した。冗談や無意味な話は別として、趣味の上の話は、文藝では探偵小説の話だった。マダムはこの夏大磯の四條家のマダムに薦められて探偵小説ファンになったのださうで、有閑階級では燎原の火の如く探偵小説が流行してゐるのだと言った。 僕は恥しながら探偵小説などと言ふと殆どクラシックなポオとかドイル、ルブラン位しか知らなかったので、今日は温順しくマダムの新知識に傾聴した。マダムは得意になってルルウやチェスタートン、ヴァンダインやフレッチャに就て話して聞かせてくれた。
 三時頃からマダムに誘はれて自動車で銀座に出た。華美なヴェネシャンのコートに高價な白狐の首卷をしたレディと、見窄らしい青年の僕とのコントラストは、道ゆく人の眼を惹かずにはゐなかった。僕は先夜暗い江戸川公園で佐伯と貧しき人達の事に就て熱情を以て語り合った時の事を思ひ浮べ、現在いゝ氣になってこんな贅澤以外何物もない貴婦人と自動車に乗って遊んでゐる自分を随分氣のひけたものに思った。
 銀座に出て車を捨て、曇日のうそ寒い中を、あちらこちらマダムと歩いた。マダムは田屋に寄って僕のタイを擇んでくれた。米國製のヒウズ・エンド・ブラドレエを一本、英國製のマリオンを一本、後者はマダムの好みで、僕にはあまり好意の持てぬ派手なものだ。
 マダムは買物を濟ませてからシネマ銀座に這入らうと言った。僕は自分の白けた氣持からそれを斷って、夕飯を竹葉で御馳走になってから、尾張町からバスに乗って新宿に歸った。マダムは僕を見送ってから、どこかダンスホールあたりへでもしけこんだかも知れない。
 兎に角今日はまるで狐につまゝれたやうな氣持の一日だった。

 十一月二十八日(土)――曇
 郷里の伯父から手紙が來た。譯の分らぬ祖母と頑迷な伯父とが鳩首相談して書いた有様が眼に見えるやうな手紙だ。
 内容は相變らず義姉とみ枝との財産繼承問題のいざこざに就いてだが、要するにこの前餘りのわけの分らなさにカッとなって、たゝきつけるやうに書き送った「どうでも勝手に好きなやうにするがいゝさ!」と言った僕の投げやり調子の手紙に對しての又くどくどしい老人の非難的繰言と、鈍い頭ででっちあげた自分勝手な理窟ばかりだった。
 僕は床の中で讀んですっかり不快になり起き上る氣もなくなって十一時迄蒲團にもぐってゐた。
 考へてみると祖母だって伯父だって決して惡い人間なのぢゃないのだが、悲しい事に彼等は極端的に小人物なのだ。そしてなにより僕を不快にさすのは彼等のしみったれた金錢に對する慾望なのだ。僕は彼等の持つ僕の死んだ母に對する反感と義姉とみ枝に寄せる依怙贔屓の情を或ひは舊弊なイグラノランスの齎らせるものとして、最早彼等の思惑如何によらず立派に成人した僕からとしては甘んじて許してやってもいゝものだ。 然し當然長男の僕が法律上繼承すべき財産を迄くどくどしいまで勝手な理窟で横取りされる事は、いくら僕が金錢なぞに恬淡であったにしろ不快でない筈はない。だが、僕は今朝床の中で轉輾して考へた揚句、總て綺麗にそんなトラブルから抜け出して了ふ事に決心した。もう僕は自分の權利なぞと言ふものを一切主張するやうな事はしない事に決めた。 財産など一文ももらはないでいゝ事にきめた。學校だけ卒業させてもらへばいゝ事にした。金錢に絡まる不快を逃げ出す最良の方法は、これより外はないからだ。元々頼りにしてゐなかった親爺の遺産だ。そんなものは一切くれてやらう。祖母や伯父はやっと安心し世界が明るくなったやうに思ふだらう。その金で彼等に幸ひあれ!
 午食を撮る前に、伯父に返事を書いた。「財産問題からは永久に手を引く、好きなやうにしてくれ」と書いたら胸がすうッとした。
 手紙を出して來て飯を食べてゐたら古屋が來た。この前の金を返しに來たのかと思ったら、反對にもう十圓借してくれと言ふのだった。僕は古屋と言ふ男をさう好きには思ってゐない、だが嫌ひでもない。北澤や津田や中谷が白眼視するやうな氣持は僕はどう言ふものか持てない。古屋には一切飾り氣と言ふものがない、彼の性行はすべてむき出しだ。そこに僕は何か打たれるものを感じる。僕は古屋の辯解や口實を聴きたくなかったので、古屋の言ひ通りすぐ本棚の中の金目の本を三册卸してやった。 然し古屋がそれで十圓になるかならぬか心配するので、僕も散歩の心算で早稲田の石塚書店迄ぶらぶら踉いて行ってやった。丸善で買った時は一册六七圓づゝもしたドラマツルギイの最新刊は勿論僕の交渉で十圓になった。亭主は古本のうづ高く積った帳場の中で僕等にお茶を出しながら、ヘンリイ教授の惡口を言った。ヘンリイ先生昨夜ぐでぐでに醉拂ってどこかの女給をひっぱって此の店に轉がり込んで來、亭主を口説いて七圓なにがしかの支拂を立換させたのだと言ふのだった。
日頃洋書で一方ならぬ世話になってゐる亭主の事だから、たまにその位の事を勤めるのは當り前だが、それにしても教壇ではあんなに生徒を煙たがらせ敬遠さす學習的に嚴格な彼がそんな風な醉態を見せる事があると思ふと滑稽だった。無理もない、彼もオックスフォードを三四年前出たばかりの青年なのだから。
 夜どうも朝からの「財産問題」が祟って氣持が晴れないので、下宿の小母さんを無理に誘って少し億劫だが四谷の喜よし迄落語を聴きに行った。助六、三悟樓、文樂等と言ふ眞打の罪のない噺に憂さを忘れて十時半歸宅した。誰かの句にある。
 秋雨や小さんを聴いてもどりけり。

 十二月三日(木)――晴
 急に思ひ立って、午前中蒲田のスタヂオに行って來た。先日來ひどく切實感を以て迫って來てゐる來春の就職問題に就いて、不圖胸に浮かんで來たシネリオライタアの口を、畏友河野道夫氏に尋ねてみようと思ったのである。蒲田驛に下車する迄の小一時間を、色々と就職問題に就て考へた。就職! さうだ僕はどうしても學校卒業と同時に食にありつかなければならないのだ。郷里の伯父に斷然遺産分配の件で斷ってやったからには卒業後は鐚一文とて生活の補助を受ける譯にはゆかぬ。 僕はどんな職業にでもかぢりついて、自分を立派な獨立人にしあげなくてはならない。だが、昨日教室に出張して來て十分間ばかりクラスの連中の前で喋って行った、大學の人事課嘱託の「中等教員志望者への注意」は、何と僕等の今迄のイリュジョンをぶち壊した事か。彼によれば、あく迄執拗に情實に頼る事なしには中等教員に就職する事さえ殆ど不可能だと言ふ事だった。 僕等藝術家志望の者達は、自分達のプライドをひどく安値にふみ倒された現實に、憂鬱と腹立しさを感じただけだったが、教師志望の連中はすっかり慌て了ったらしく氣の毒な程元氣をなくしてゐた。誰れだかは「六年間も授業料を搾取して置きながら、今の挨拶はどうだ!」なぞと憤慨してゐた。だがそんな事を言ったって仕方はない。要するに大學生があまり自分等を高く評價しすぎてゐるのがいけないのだ。 社會は大學生なぞ小僧より取扱ひにくいドンキホーテとしか見てゐないんだから。兎に角卒業を前にして、最早僕等は娑婆の寒風に吹かれ初めた。殊に身に浸み渡る冷たさは僕の場合はひとしほだ。藝術と生活と――今更こんな問題を振り返ってみる迄もないが到底一致する可能性はない。要はただどれだけ兩者を接近させてゆくかと言ふ問題だ。僕はひょいとシネリオライタアにでもなったらと思ひついたのだった。
 蒲田驛で省線を捨て矢口村の河野氏の宅にゆくと、玄關を掃除してゐた奥さんが慌て襷をはずしながら、脚本をもって會社に先刻行ったと氣の毒顏に言った。僕は今來た道を引き返して踏切りを越し御園のスタヂオに行った。セット撮影を二三組小一時間見物してのち、同じく知り合ひの脚本家の野中氏に誘はれ、河野氏と倶にふたたび矢口村の野中氏の宅に行った。 僕はそこで二人に僕の用件を話してみた。すると二人からすっかり反對された。第一シネアストと言ふものゝ不健全さ、第二に經濟的の極端なみぢめさなど。
 諄々じゅんじゅんたる親切な忠告を受けてゐる間に、僕はシネリオライタアになる希望なぞすっかり捨て了った。そしてあく迄清く純粋に藝術家として僕を育くませてゆきたいと言ふ二人の厚情を心から感謝しつゝ午飯を御馳走になって十二時すぎ蒲田驛に戻った。
 牛込まで省電に乗り後は市電で早稲田迄。午後一時から四時迄、坪内逍遥博士の記念的最後の沙翁講義が大隈講堂にあるのだった。さいわい顏をそろへてゐた羅甸街の連中が滿員の聴講席の中に僕の席を取って置いてくれたので、時間には少し遅れたが割込むことが出來た。講堂の中はひどく物々しく階上階下に埋める早稲田の學生、目白の學生、それに都下大學の聴講希望學生ではち切れるやうな盛況だった。テキストは『キング・リア』。 老博士の音吐朗々たる名講義は全聴衆を魅了し盡すに十分であり、これきり永久に聞く事が出來ないものかと思ふと、その一言一句も千金の價あるものゝやうに思はれた。講堂のステーヂに椅子を並べた數十人の教授博士連の熱心な聴講も老博士に對する敬意と見られて氣持ちよかった。今日の講義の模様は總て強い孤燈の放射の下で活動映畫に収められ、永久に殘される事になった。講義後學生ホールに於て文科生の博士への乾盃の會があって夕闇の濃い頃散會した。感激の一日!

 十二月六日(日)――晴
 就職の事が氣になってならないので、近頃はどうも氣分が明るくなくて困る。此の二三ヶ月前の樂氣さに較べて何と心持の變って來た事か! 然し僕はそれを僕の成長だと思ってゐる。彈雨劍戟の洗禮を受けない兵士が何の役に立つものぞ!
 十時頃から天氣がよかったので久し振りに中野に黒木助教授を訪ねてみやうと出掛けて行った、郊外の道は二三日來の寒さでコチコチしてゐた。手足を凍えさせて黒木絆さんの宅に辿り着くと、都合よく先生は火鉢を抱えて新潮社の社員と言ふ男と今度出版される先生の本の件に就き要談をされてゐた。その男が歸ってから晝過まで先生と紅茶を幾杯かを飲みながら、色々の事に就いて話した。話が藝術と生活との問題に這入ると、先生は自分も學校を出た時分は、食し得る爲めに随分みぢめな文筆勞働を沼の中で喘ぐやうな氣持ちでした事があったと話された。 現詩壇では藝術的香氣の點に於て他に比肩する者もない黒木さんに二束三文の安翻譯や三流雜誌の探偵小説を書いた時代があったとは實際思はれない事だった。先生は僕の就職の心配に就き、受け合へないがどこか雜誌記者の口でも探して置いてあげやうと言はれた。新聞記者の口は都下一流の會社は皆試驗制度だから、それも心掛けて置くといゝと注意された。親子丼の晝飯を戴いてゐると、訪客が二三人來た。 僕は「もっと遊んで行っていゝよ」との先生の言葉に甘えて次の間に獨りで蓄音器を鳴らせて一時間ばかり遊んだ。アルバムには先生の蒐集された東西の名曲が驚く程澤山あった。今日はチャイコフスキイの「胡桃割り」と「悲愴交響樂」とをかけて心ゆく程音樂の醍醐味に浸った。
 三時頃のこのこ東大久保に歸宅してみると、實に色々の事が自分を待ってゐた。第一さき程マドモアゼル白川絹江が訪れて來たが、僕の留守に歸った事、第二にマダム土屋沓子から帝劇のエフレムヂムバリストのリサイタルに行くから來いとの誘ひの速達、第三に津田健介が今朝札幌から歸京したとの本人からの速達による通知、第四に中谷から今夜邦樂座に澤田正二郎の白野辨十郎劇を見に行かないか? 四時頃もう一度誘ひにゆくから行けたら行かうとの小母さんに殘された傳言。
 そして僕がまるでぼんやりしてゐる所へ宮田が先月古屋に借した金の中の一部だと言って十圓紙幣を持って返却に來た。珍しいと思って聞くと宮田は今月號の婦女界の懸賞戯曲に當選したあの賞金を二百圓今朝もらったのだと白状した。然しその二百圓は重なり合った借金と質屋からの冬物の質出し金に完全に吸収され盡して、金を手にしてから五時間後の今は殘す所僅か三十圓だと苦しさうに打ち開けた。その中から十圓ハザマへ返すのは友への義理を重んじてこそだとひどく恩に着せた。 僕も嘘でない彼等のやり繰が氣の毒だったので奢らせる豫定は許してやった。宮田と入れ違ひに中谷が來て今の話をすると酷く殘念がった。俺ならせめて五圓はふんだくってやるんだがと言った。中谷はそれから是非とも澤田を觀に行く事を強要した。あまりの熱心さにほだされて遂に邦樂座につき合ふ事にした。津田の歸った事を知らせると、それでは津田も誘はうと言って津田の下宿迄出掛て行ったが、昨夜の汽車中での不眠の爲めに今よく眠ってゐるので起すのが氣の毒になったと言って歸って來た。 電話では面倒と電報で沓子には斷り状を出し、中谷と邦樂座に行く。白野は豫期以上の感激を以て觀劇する事が出來、殊に最後の金光院の場は思はず涙を流して了った。十二時近く歸宅。すっかり肩をつからせて床に入る。

 十二月八日(火)――氷雨
 佐伯が突然退學處分にされたと言ふ報知を、大學から早く歸って津田と倶に炬燵の中に半身をつき込んで話してゐる所へ受けとった。速達の出信者は北澤で、なほ葉書には、應急策に就き相談したい事があるから、今日午後四時迄にトロイカ迄聚ってもらひたいとしたゝめられてあった。僕は驚いてトロイカに出掛ける用意をした。津田は相變らず一進一退でふんぎりのつかない札幌の父の病状や、心を削られるやうな病父との相剋や家族のお互をめぐる精神上の葛藤に就いて、ひどく苦しげな憂鬱な顔でその苦衷を表してゐたのだが佐伯の退學の通知を見ると、 今日は心も随分疲勞してゐるし、強い刺戟に耐えられさうにないから、僕は出席しないから、君頼むと言った。それで四時近くになって、本當に札幌の看護生活で精神的にも肉體的にもヘトヘトに疲れ、憔悴し切ったやうな津田の後姿を見送り、獨で氷雨が冷々と小降りする中をトロイカに行った。
 トロイカには北澤、中谷、古屋、宮田の同人達と、佐伯の出身中學の同窓の早稲田の學生達が四五名鳩ってゐた。相談と言うふのは、佐伯の助命運動を、佐伯に今迄近しくしてゐた學友達の手でやらうかやるまいか? と言ふ事だった。
 僕は最も遅く行った爲め事件の眞相に就て知らないので、樋口といふ學生に説明を求めた。それに依ると、佐伯は社會科研究室から一歩實行運動に踏み出して、しばしば學生監の忠告があったに拘はらず、遂に最近はコムミュニズム運動の闘士として表面的に活動し出したので警察からは注意人物ともなり、遂に學校當局の忌緯きいにふれて退學處分を言ひ渡されたのだといった。 然し、本年が卒業期でもあり、學校の方の成績も割によく、教授の受けもいゝから、以後謹慎といふ名目の下に歎願したら次第によっては或ひは停學位に助命されるかも知れないといふのだった。
 それから各人は色々考へて議論したりし合ったが、結局、穏健派の北澤の佐伯當人の意志は兎に角噂によればあまり豐でもない佐伯一家の苦しみを思って、出來る事なら助命運動を徹底的にして、佐伯を學士にさせてやりたいと言ふのと、強硬派の島崎と言ふ男の、助命運動は當人の潔よしとしない所、それに反ってそれは佐伯の手足に枷をはめる事になるから、この際常識的な同情の押賣りはやめて、斷然、彼の新らしき門出を生かしてやらなければ嘘だ、と言ふ説の二派に別れて僕はどちらもにも意味があると思った。 北澤の話を聞いてゐれば、折角六年間も大學に通わせて、自分達は貧乏してゐた親達の、斷念め切れない悲しみ、決してガサツな第三人者的理窟で默殺して了ふ事は出來ないやうに思はれ、さうかと言ってあの江戸川公園の夜の、熱情に溢れた佐伯の社會改革論も、僕にはどうしたって佐伯の第一義的なものとしてやらなければならない義務も感じる。
 一同はお互を主張しつゝも、矢張り僕のやうなヂレンマに多少なりにも陥って遂に話は集まった者一同連名で一應助命願を出してそれが一蹴されゝばそれ迄、効果があれば又その時第二段の相談に移らうと言ふ事に歸結し、整へられた奉書にそれぞれサインして、解散した。
 歸りに、歩きながら僕は考へた。佐伯は羅甸街の同人を脱退すると同時に大學なぞはやめて了ふべきぢゃなかったらうか? 今更學校に助命を願ふなぞ、或ひは酷く間抜けた消極的感情であるかも知れないのだ。世界は動く――これは眞理である。僕達も明日の日の佐伯の爲めに、あらゆる理解を惜んではならないのだ…………。

 十二月十三日(日)――晴
 午前十一時、かつ子を約束通り銀座の富士アイスで待ち合はせる。かつ子は約十分遅れて來た。おとなしやかな大島紬の袷に同じ模様の羽織を重ね華やかで上品な肩掛けをした、いつもとは違ってひどく娘々した姿だった。急に年齢が二ッ三ッ飛んで見えて、まがひのない十七歳の女性を思はせるに十分だった。僕はなんだか堅くなるやうな氣がしたので、その事をかつ子に言ったら、かつ子は意外さうな眸つきをしてから、
「ぢゃ毎時の通り洋服着て來ればよかったわね」と言って笑った。
 今日は前もって行く先が決めてなかったので、ぶらぶら大川端の方へも散歩して、何處か靜かな休み場所でも探さうと、銀座からタクシで永代まで行った。それから二人で穏かな川沿ひの町を柳の枯枝の影を浴びながら目あてもなく歩いた。久し振りで來てみると下町もどこか情調があっていゝ。道づりの女達も藝子髷や日本髪が多く黒襟の粹な人たちが冷たさも關はず素足で東下駄を突っかけて歩いてゐるのも、山手の小市民の妻君連が着ぶくれてぽたぽた歩いてゐる姿ばかり見てゐる眼には、ひどく情趣的だ。
 かつ子は歩きながら、この頃パパやママの容子がどうも意味あり氣に寛大で變だ、と話た。色々の場合に極めて優しく、以前のやうにつけつけいったりするやうな事もなく、事々に自分を勞はってくれる、これは何か嵐の前と言ったやうな氣味惡さを自分に感じさせる、然し、別段最近お互のランデヴにも、又は手紙の交換にも尻尾をつかまれたやうな様子はないから、その方の心配はないけれどと言ふのだった。 僕ほ現在より將來の二人の身の上が大切だから、成るべく自重してお互に間違ひのないやうにしようと言ふと、かつ子は頤を肩掛けに埋めて瞼を伏せながら、寂しさうに默ってゐた。
 三四十分も風も吹かぬ小春日の靜かな町を足に委せて出鱈目に歩いて行くと、ゆくりなくも濱町河岸の「河清」の前に出た。いつか江戸趣味自慢の從兄に連れられて來て上り、大いに感心した事があった所なので急にかつ子を誘ってそこで履物を脱ぐ事にした。かつ子は遉にためらったやうだったが出迎への女中の心配した程にないあっさりした應對にやっと安心して上った。 僕等は見くびられもせず薄暗く光った廊下を奥に案内され、大川に面した美しい立派な間に通された。六疊の備後疊の座敷は、東が床西が押入南が川に面した敷居の高い障子窓、北が廊下と云ふ風に圍まれて、火鉢も要らない位陽の光が暖かく照り込み、河面の照り返しは、檜の天井板にギラギラ水の動きを映してゐた。
 鯛ちり、薩摩汁、葱鮪――貧しい食道樂の知識の中から、さうした温かい料理を注文して、ほっとかつ子とひと氣のない座敷の中で顏を見合はせた時は僕はわけもなく胸が幸福で滿たされた。

 かつ子は僕に酌をする傍自分も子供らしく笑ひながら二三杯熱燗を飲んだ。と、見る見る瞼や頬のあたりをいゝ色に染て了った。「かつ子さんはウヰスキーダンサンなんか平氣だって言ふのに日本酒は駄目なんだねぇ」と言ふと、「私、お酒なんか平氣なのよ。だけど顏にすぐ出るたちなの」なぞと眞めかしく強がったりした。
 窓の外には絶えず、櫓や櫂の音がしてゐた。低い調子の船唄などが、工合によると鮮かに聞えた。ポンポン小ぜはしげに行き交ふ發動機船の音、それも冬のうそ寒さを含んで、ちゃぷちゃぷ窓下に寄せる水の音なぞと共に、川端の風情を添へてゐた。僕は盃を含みながら障子に箝め込まれたガラス越しに大川の上を眺めた。 頬かむりにぶくぶくのちゃんちやんこを着た夫婦の船頭が二人、目の先を大きな達磨舟に竿さして靜かに上って行った。如何にも大川情趣の風景だった。舟はすぐ窓をはづれたが、ふな脚のくみをが陽にキラキラ輝いて殘った……。
 と、鯛ちりの鍋の微にチリチリ鳴る音以外に、全く靜謐な僕等の座敷の中に、どこか附近の小粹な二階からでも傳はってくるらしいピンと冴えた撥のさばきが聞えてきた。僕とかつ子とは思はず顏を見合はせ、そして熱の籠った眼差を組合せた儘うっとりとなった。どの位時間が經ったらう、そのうちに僕はかつ子の體をしっかり抱きしめてゐた。酒に醉ってゐた事も確實だが、周圍の雰圍氣にそれともなくすっかり誘はれたのだ。かつ子は心持ち首をかしげて、上半身をすっかり僕の胸に靠しかけてゐた。
 僕は、いけない! と思ひながら然し決して彼女を離さうとはしなかった。僕の眼は美しい彼女のぼんのくぼから襟足に這ひ、僕の腕はふっくら熟成した彼女の肉體の感觸を樂しんだ。もう僕には意氣地なくも自制心なぞと言ふものに價値を認める力が薄れてきてゐた。僕にとって無意識的に一番誘惑だったのは、彼女の今日の女々したなりかたちと、それから、ひどく艶っぽく見えたしなだった。かつ子には意識されてゐたものか否か知れなかったが。
 僕はクレッセンドオに胸のときめきを増しながら、メフィストの私語に身を悶えた。
 ――彼女を最も將來的に安全に有するには、彼女の肉體に自分の烙印を壓して置く事だ!
 僕は、惡魔の目を以て、僕の腕の中に沈んでゐる女を見た。かつ子はすっかり自身の體の重心を僕に委ね盡して、今にも僕の膝の上に倒れかゝらうとしてゐる。そして兩手は袂を掴んで、しっかり自分の顏に押し當てゐる。僕はおくれ毛の下から紅色に染った小さなかつ子の耳朶を恐ろしい迄に凝視しながら、
 ――かつ子は、花言葉で誓った如く、肉體迄、僕に捧げてゐるのだ!
 と針の先のやうに尖った心で考へた。
 だが、何と言ふ奇蹟だ。この考へは、次の瞬間には實に崇高な金鈴の響きとなって僕の全精神を嚴に打ち顫はせた。人間一人の全運命が絶對の信用を以て委嘱されたその瞬間の尊さ! 僕はどんなにか深く慚愧ざんきした事か! 相手は神で僕は惡魔だった。いくら自身に辯解しやうとしても、相手の一生を賭け、このまごころに對して僕が一時的のセッキジュアル・パッションで應じる意外(※ママ)に手段がなかったとは言へない事だ。 奪ひ取り勝手と迄自由に、お互の貞操を机の上にほったらかして置き合っても、それで毛筋一本の間違ひもないと言ふのこそ、眞に全人格を融合し合ったと謂はるべき交際だ。それこそ人間と人間とのまごころに對するまごころの交際だ。

 ――思ひ邪なる者に禍あれ!
 僕は靜かにかつ子を抱き起し、その襟首にそっと唇をつけながら、聖書かなにかにあったそんな文句を心に口ずさんだ。通り魔のやうに、僕の不健康な情焔も消えて行った。僕は不自然でなく、かつ子を自分の横の座布團に座らせてそして、彼女の耳元でしっかり言ってやった。
 ――僕達はあく迄正道を歩もう、そしてそれを僕等の誇だと思はう。今更言ふ迄もないが、僕はどんな事があってもかつ子さんを愛し、かつ子さんを尊敬する心を失ふものでない事を誓って置く。お互にその點だけ本當に信じ合ってさえゐたら、どんな形式的な約束を取り交して置くよりか、心強いものと思ふ。わかったね?
 かつ子は、額が膝につきさうになる迄俯向いてそして、首から垂れ下ったおさげの、黒髪の先を、きりきりと指に卷つけて、頷いた。いぢらしいかつ子! 僕は再かつ子の肩に腕をまはして、兄のやうに暖かく抱擁してやった。見るとかつ子は堰切れなくなった涙をぽとりぽとりと膝の上に落してゐるのだった、うれしい涙なのだ!
 ――いい子、いい子!
 僕も眼頭が一途に熱くなった。戀の幸福――戀の美しさ――戀の甘味、比の春雨のやうな涙に潤う心を謂ふのだらう。うれしいやうな、寂しいやうな、滿ち足りたやうな、滿ち足りないやうな、甘いやうな、苦いやうなこのシュルメライ!
 時間は欄間に翳る日脚で餘程經った事が知れた。總てに氣を利かしてくれた女中に心持ち張った心附けをし、十圓札でおつりの來ない勘定を濟ませ、外に出たのは四時少し前だった。
 ――どこへ行かう?
 道を水天宮の方に戻りながら、僕はかつ子に言った。まだ別れたくない氣持で一パイだったのだ。然し別段こんな中途半端な時間から行く所は考へつかなかった二人は漫然と賣出しやなにやらでごたついたそのあたりの街並を、外套や肩掛に顏を埋めて歩いて行った。街の空気は粹な川端筋とは變ってどんよりと重く濁り、その中を斜に懈い太陽がうそ寒く流れてゐる。 町角の電信柱の下にはきたならしい子供達に取圍まれた軍服姿の飴賣屋が、町の空景氣に取殘されたやうに、錆た眞鍮ラッパを口にあてゝ、全く調子の狂った「勇敢なる水兵」を吹奏してゐる。
 ――銀座に出やうか?
 僕は水天宮の停留所前迄來た時言った。かつ子は暫く考へてゐたのち、低い聲で、
 ――私心配だから、今日は少し早く歸る事にするわ。
 と言った。僕も勿論彼女の言葉を阻止する氣持はなかった。名殘惜かったが、次の再會を約して丁度そこに來た電車に乗せて、かつ子を歸す事にして、僕はかつ子がしきりに辭退するので、送るのをやめ、その儘、時間つぶしに銀座に廻った。尾張町で降りて、そこで夕刊を二三枚買ひ、ライオンにでも這入って休もうと思ってゐると、ひょっくり中谷が一人で歩いてくるのに逢った。兎に角、銀座に來れば「定例航路」である筋を辿らうと、すぐ銀座ビヤホールに行く。 そこでオデン幾箱と、ジョッキ四五個並べた時は、外は既に藍色に染り、僕等も第一段階的醉っ拂ひになってゐた。それから十時頃迄、芝口から京橋迄五六軒梯子酒をして歩いた。途中の事はよく覺えてゐないが、なんでも僕は到る所で「リーベズ・フロイド」の旋律を口笛に吹いて浮たってゐたやうだし、中谷は頻りに白川絹江君の愛すべき女性である事ばかりくどくどしく口にしてゐたやうだった。歸りは兎に角タクシを雇ったが、どこでどうしたか財布を無くなして了ってゐたのには弱った。(十四日午前記)

 全く押し迫った歳の暮になって徹三は突然困った事に行き當った。それは下宿の小母さんが、急に東大久保の家を引き拂って、郷里の新潟に歸郷する事になり、從って當然徹三もねぐらから放り出されなければならなくなったのだった。
 それは徹三には迷惑至極な話だった。寝耳に水の此の年の瀬に、それも徹三は目睫もくしょうに提出期の迫った卒業論文の仕事を抱えてゐるのではないか。
 だが、お靜さん―下宿の小母さん――としては、然しさうするよりか外に仕方はなかったのだった。郷里に殘してある可愛い最愛の坊やが、近頃兎角健康が勝れないと言ふので、一方ならず憂慮してゐた所へ、近日送られて來たたよりには、その坊やを寵愛し育てあげてくれてゐる實姉が、脊椎かなにかで病床に就いて了ったとその夫なる人から通知して來てゐるのである。
 お靜さんは、それをきいては立ってもゐてもゐられぬ憔燥に駈られた。元々親一人子一人の不幸な境涯であり、そしてその愛兒を少しでも不自由なく成長させたいばかりに、別れられない愛の絆を切って迄も、子のない實姉夫婦の申し出にまかせて自分は東京に稼ぎに出てゐる彼女としては、その坊やの身の上が、斯うした場合氣にならずにはゐられぬのも無理はない筈だった。
 徹三もこれ迄、聞くともなく察知するともなく、大體彼女の身の上は知ってゐた、お靜さん自身としては、その内氣さからいってもさうこみ入った内輪話は、なんと云っても愚痴っぽくなったり自慰的になって了ふ話の性質上、可成り遠慮して話たがらなかったけれど、そして又、徹三にしてみても他人のプライヴェト・ライフを詮索するやうな事は全く性質外の事として來たのだった。 其から彼女は暫く新潟の田舎の町に小學教員だったので、決して見えすいた同情的態度で聞きたゞすやうな事はなかったけれど、然し、初めて彼がこの素人下宿に厄介になった時から、女一人で東京に一戸を構え一心不亂にミシンの手内職をして自活生活をしてゐる下宿の小母さんに、決して簡單でない事情があるに違ひない事は察してゐた。
 ――實際、お靜さんは不幸な人だった。理由は夫との間が氣むずかだった爲めとのみ多く言はなかったが、彼女は二十三の時、その當時日本橋で乾物屋を營んでゐた伯父の媒酌で嫁入った澁谷のあるブローカーのもとを、三十の秋、生れたばかりの坊やを連れて出戻り、養子に迎へて家を繼いでゐる實姉の所へ歸って暮した。 だが、田舎と言ふ所は何と出戻りの暮し難い所か! 多少それでも東京風に勝ち氣にとんだ彼女は、ひとつには愛兒の將來の養育金の問題をも考へて斷然自活生活の爲めに上京した。そして約二年と言ふものは流れ、今年彼女は坊やの三回目の誕生を迎へたばかりだったのである。
 徹三は嘗て、お靜さんの終日座ってゐるミシン臺の上に、小さな額に入れた可愛い坊やの寫眞が置いてあるのを見た事があった。又は、彼女が「町を歩いてゐたらつひこんなものが眼について了って」と微悲笑しながら、男の子の水兵服を膝の上に擴げてゐるのを見た。又彼女がミシン縫ひの出來上りの品を右手に、左手に愛兒への小包を抱えていそいそと家を出てゆく後姿を見た。それ等は徹三をショックせずにはおかぬものだった。
 だから小母さんから、言ひにくさうに今度の引上げ話を打ちあけられた時、一應はひどく當惑しながらも、「さうですね、さうしてあげたら、姉さんと言ふ方も安心だし、坊やの爲めにもいゝ結果になるに違ひありますまいね」と心から言はずにはゐられなかったのだった。

壊れた花
 だが、さうは言ふものの、てそれは明日にでも、となると、徹三は途方に暮ない譯にはゆかなかった。お靜さんとしても、なるべくなら徹三に迷惑を掛けまいと言ふ心遣ひがあったればこそ、前から考へないではなかった愛兒の爲めに一時歸郷したい心算も、遠慮して押へに抑へてゐたのだったが、それが今となっては反って寝耳に水と謂ふ結果になって徹三を間誤つかせたのだった。それを氣弱さうに辯解されると徹三も弱り切った顏ばかり見せられなかった。
 で兎も角、徹三は友人連にも頼んでそれぞれ適當な貸間を探してもらう事にして、自分も勉強の寸暇を割いて、落ち着かぬ心持ちでこのあたりと思はれる邊を歩き廻ってみたりした。さうした時に同じく徹三の「貸間探し」を聞き知ってそしてほんの冗談半分に「貴女もひとつ手傳って下さい」と言はれた事を眞に受けて、親切に貸間を探してくれたらしい白川絹江から「恁うした所でよければ――」と、徹三には耳よりな通知があった。 徹三はすぐ行ってみた。そして徹三はすっかり氣に入った。その場で借りる約束をすると、徹三は直に東大久保の家を引上げる仕度に取りかゝった。
 ――絹江が探し出してくれた今度の下宿と言ふのは、場所は絹江の家から一町も離れてゐない、東中野の閑靜な屋敷町で、ある會社員の家の離れ屋敷だった。庭もあり座敷も良く、それで間代が算盤にも合はない程安いと言ふのは、その家が知人である白川方に是非ともと頼み込まれて、どうせ空いてゐる座敷だからお貸しませうと承知してくれた關係からであった。
 徹三は絹江の好意を幾重にも感謝せずにはゐられなかった。お靜さんも徹三と倶に喜び、そしてやっと安堵した。
 引越の仕度は、急いでされた。徹三は柄にもなく鉢卷なぞして一日の中に威勢よく荷物をまとめて了ったりした。然し、日暮になって疲れてぼんやりしてゐると、急に寂しくなって來た。夕闇の濃く忍び込んでくる灯もつけない二階の座敷の中に、ゆはえつけた荷物に腰掛けて外を瞶めてゐると、お靜さんが靜かに階段を登って來て徹三の傍に立った。
「御飯になさいません?」
「えゝ。」
 徹三は答へた儘なほぼんやりしてゐた。お靜さんも廊下のてすりの所へ行って、暗い宵空を眺めてゐた。徹三はお靜さんの黒い後姿を眺めながら、今宵の自分の心が淡くお靜さんに吸はれてゐる事を知った。
 ――これで別れて了ったら、僕たちは永久にお互の姿を群衆の中に見失って了ふだらう。
 徹三は氣の優しい、親切な、お靜さんと二人して暮した三ヶ月未滿の日子の事を考へてみた。それは活動にも寄席にも買物にも、都合さへよければ肉親の如く一緒に出掛けて行ったものだった。徹三が體でも惡くしたとなると、夜中まで枕元でお靜さんは看護してくれた。二人はまるで危險なぞと言ふ意識を持たずに、思ひ切って解けあった生活をして來てゐた。年若い男と一人身の三十女とであったのに。
 徹三は考へると、清らかな喜びの情で溢れて來た。お互に神にでも感謝を捧げたい氣がして來た。徹三は突然立ってお靜さんの傍へ近づいた。
「ねぇ小母さん、僕等は本當に美しくおつき合ひして、そして本當に美しくお別れする事になりましたね。僕は袖すり合ったこの三ヶ月ばかりの生活を、清らかな思ひ出として永久に忘れはしない心算ですよ。これ切り二度とお眼に掛る機會はなからうと思ひますが、小母さんも嘗て僕を弟のやうに世話してくれた事だけはいつ迄も覺えてゐて下さいよ。」
 お靜さんは意外にも先刻から流してゐたらしい涙の跡をキラリと頬に光らせながら徹三の方を振り向いた……。

 ――新らしい東中野の住居での生活では刷新の氣分と共に、一路卒業論文の製作に向けられた。學生には毎年三月の年の瀬より外に年の瀬はなく、早徹三の知らぬ間にクリスマスは過ぎた。
 と、ある朝、徹三は見知らぬ差出人よりの封書を受け取った。「船原知子」――それは迂闊にも徹三をして一瞬小首を傾げさせしめた。だが其の名の肩に達筆な筆致でしたゝめられてある住所は、總てを徹三に了解せしめた。「府下阿佐ヶ谷町××――」それはかつ子の家の處番地である。
×  ×  ×
 拜啓、
 始めて御手紙を差し上げます。突然の事とて定めし御不快をお感じなさるだらうと存じます。失禮の段はお許し下さいませ。
 私はかつ子の母でございます。これ迄、色々かつ子が御世話をお掛け申した事と存じ、一應御禮を申しあげます。
 扨て今日改めて筆を執りました要件は、申す迄もなくそのかつ子に就てなのでございますが、何卒惡意に御解釋なさらず、御冷靜に御讀み終り下さいませ。
 先づ、私はかつ子の母として監督の行き届かなかった事を遺憾に思ってゐるのでございます。かつ子の言葉に依りますれば、貴方様との御交際は昨年の夏からとの事ですが、假令その動機は兎も角、私の監督さへ行き届いておりますれば、決して今度のやうな次第にはならず、貴方様にも御迷惑はお掛けしないで濟んだらうのにと思ひます。最近、どうも親の眼にあまる色々の態度や行爲のあるのに當然不審を起しまして、漸く總ての事情を知る事が出來ましたやうな譯で、私達は反って、私達の不注意を責めてゐるやうな工合なのでございます。
 でも、過ちは改めるに晩い時はなからうと存じ、私共は改めてかつ子を嚴重に監督致す事にしたのでございましたが、其後はどうもかつ子の性質が陰鬱になりそして以前のやうな子供らしさが失はれ何事につけても大人らしい考へ方ばかりするやうな思ひ掛けない結果になったのでございます。
 それで、又なるべく、かつ子を自由に暢びやかに生活さすやうに監督の手をゆるめたのですが、さうしますと、かつ子は相變らず貴方様とお逢ひになり、●(※漢字不明)かれた心をその機會毎に募らせてゆくやうな様子なのでございます。
 恁うした事が親として心配でない筈はなからうと存じます。外國の習慣は知らず、日本に於きましては、男女の關係は至極嚴格に取扱はれ、從って世の親としてわけても女の子の親として、恁うした問題に平氣でゐられる譯はないのでございます。
 それに、先だっては私共には思ひも寄らぬやうな料亭へ立寄り、そこで數刻を過ごしました由、さうした事自身惡いとは言へないかも存じませんが、それにしても若い男女が機會に惠まれて、感激の餘りどのやうな間違ひをしないとも保證出來ない事が、最も心配だと考へるのでございます。
 かつ子はどのやうに申してゐるのか知れませんが、假令貴方様が御求婚下さるにしてもこゝ四五年は結婚と言ふ事はさし控へさせたく思ってゐるのでございますから、親としましては萬が一にもかつ子に間違ひはさせたくないのでございます。
 なるべくならば事なかれ流に一時、貴方様とかつ子との御交情を自然の儘に薄れさせたい所存でございましたが、近頃のかつ子の容子を見ますと、どうもそれにも色々無理が起りさうなので、私共はどうにも取るべき手段として、此の際お互の爲めにきっぱり絶交して頂くよりか外にないと考へたのでございます。

 或ひは或時機じき迄友人としての交際でも續けてゆきたいと言ふ希望が、かつ子にでも又は貴方様にも生れるかも存じませんが、それは双方の親同志なり保護者同志なりの承知と、そして監督の下に行はれるのでなければ、百害あって一利ないものと考へます。何と申しましても、かつ子は未成品でございまして、すぐ御希望に沿ふ譯にはゆかないのでございますから、當然結婚を前提としなければならぬ筈の男の交際は一切唯今遠慮させたく考へるのでございます。
 勿論、私共は、貴方様の御教養と御人格を信じ、貴方様を誤解視する所にございません。貴方様はかつ子が信じてゐます通り立派な方だと考へます。又考へればこそ私は私心をいつわらず披瀝して、そして御高邁なる御理解力にお訴へしたいと存じたのでございます。貴方様は必らず、餘りに因襲的な私共の親心なるものをお嗤ひになりつゝも、私共の希望の正當である事を認めて、總てを承知して下さるだらうと存じます。
 何卒今後かつ子の身邊には御配慮下さらぬやう、強て申しますなれば、一切御手を引き下さるやう御願ひ致します。かつ子の方は私共にて十分取締り、決して御迷惑は御掛け致しません。
 さだめし、若人の魂を踏みつける事になるだらうと存じますが然し、現在のお互にはこれより外に許されないのだとお考へになって、お忍び難い所をお忍び下さいませ。孰れ將來の事は受合ひかねますし、又想像もつきませぬが、又何等かの御縁に結ばれる時があるやも計り知れません。その時にはその時で又御相談にお乗りする事に致しませう。今は一時絶對的に御交情をお斷ち下さいませ。
 終りに、貴方様の大切な御勉強をお亂しした無躾を御許し下さいませ。折角御自愛の程を祈っております。   かしこ
船原知子
   硲徹三様
 昭和×年十二月二十七日
×  ×  ×
 徹三は繰返し二度讀む元氣がなかった。いくら理窟を言ってみたところで、相手から恁う出られたのではもう仕方のない氣がした。徹三は錯綜した氣持をまとめるすべも失って、讀み終った手紙を膝の外に落した儘、茫として了った……。
「それにしても、かつ子の氣持はどうなのだらう――?」
 どんなハメからか判らないが兎に角問題が恁うなった以上徹三は縋る所は唯そこばかりな氣がした。かつ子さえ――兩親や周圍の意志が假令どうであらうと――自分と誓った氣持を失はないでゐてくれたら、決して今度乗り上げた暗礁なぞ自分達の致命傷にはならない。ただ今度の破綻は自分達がお互ひに學生の身分であったと言ふ事を、それから交際が親の眼を盗んだ子供染みたものであった爲め、かつ子の親達にひどい駭ろきと、たいへんな危惧の念を抱かせたのに依るのだらう。 從って今後眞の自分達の気持が分ってもらへる時が來たら或ひはかつ子の親達にも考へ直してもらへるかも知れないのだ。
 然し、いかなる障害にもめげずあく迄二人の結婚に邁進してゆくに必要なのは言はずと知れた二人の熱情でなければならぬ。その熱情がかつ子には今後保存されて行き得るめやすがあるだらうか? 即ちかつ子は今度の事件勃發でどんな氣持を抱くに到ったらうか? そして又どんな覺悟を堅めた事であらうか?
 徹三は一切かつ子に關しては此の手紙に書き加へられてゐないだけに、さう言ふ事が心配になり何はどうでも一度かつ子に直接會って色々話し合ってみなければならないと考へた。

 徹三は次の日になって、人知れず阿佐ヶ谷のかつ子の家のあたり迄行ってみた。今迄のやうな通信手段は當然いけなくなってゐるだらうし、それに都合の惡い事には通學の途中を待たうにも冬期休暇で學校は休みになってゐるのだった。徹三はかつ子に會ふべき方法も見あたらないながら、それでも萬が一の偶然の僥倖を期待して又は、かつ子とても或は徹三の行動を豫想してそれとはなく機會を作って待ってゐるかも知れない、と云ふ所まで考へて、微かな希望の火を胸に勞りつゝ阿佐ヶ谷驛のホームに降りたのだった。
 だが、かつ子の家のまはりを幾度心弱げに廻ってみても、かつ子の影さえ見る事は出來なかった。當然のやうな氣もしながら失望ともどかしさは抑へ切れなかった。
「何とかして、僕が此處に來てゐる事を家の中のかつ子に知らせられないものか!」
 枯蔦の幹の絡んだ大谷石造の裏門の所にひそやかに佇んで、徹三は焦慮ながら思ったりした。だが一時間もそのあたりをぶらぶらすると眼に見えない誰かの眼で自分の行動が瞶められてゐるやうな氣がし出して來て、徹三は道を引返へさないではおられなかった。徹三は後を見返へり見返へり、心を半分そこに殘して、停車場に戻った。今日は駄目でも又後日に。或は又その裡にかつ子から必らず何等かの通信があるに違ひないと考へながら――。
 恁うして又二三日が、憔慮と寂寥の裡に流れた。徹三は勉強する意力も失くして、散亂した書籍やノートの中に埋もれた儘で毛布も頭からかむって轉がってゐた。そして恁うした場合に、どうしても求められてやまないのは酒の陶醉だった。日頃あえて酒びたりになる習慣のなかった徹三も、今度はジョニーウオーカァを一本二本と手あたり次第に撫ぎ倒して了った。金で買へるものだったら、どんな高價なものであっても、此の憂えさを忘却するしろにしたい心持だった。
 徹三は、かつ子を信じてゐた、だから、どんな苦痛もそれに縋らせたく思った。だが現實感にはどうしても弱氣と寂しさが先に立って彼は懊惱しない譯にはゆかなかった。戀する者には、恁うした場合餘裕と言ふ事は考へられないものだった。
 この煩悶の最中に絹江は度々訪れて來た。絹江は加納家――徹三の新らしい住居――とは、知り合ひだったので、それに距離から言ってもほんの五六分で來られる場所だったので、以前とは比較にならず自由に心安く、一寸した暇をみつけると尋ねに來るのだった。然し、絹江は、徹三の苦悶を穿鑿しやうなぞとは決してしなかった。彼女は訪れ來ると、時には徹三に一語を交される事なくして、取り亂された座敷の中を、靜かに取りかたづけて歸って行った。 又或る時は徹三の懶うさうな命令で、ノートに書き込まれた文章を、あれこゝと原稿紙の上に浄寫して、徹三のウヰスキイに醉っ拂って睡ってゐる間に、そっと歸って行ったりした。絹江には、何事とは知れなくとも、何か酷い苦しみが徹三の胸の中を馳け廻ってゐるに相違ない事は分ってゐたのだった。徹三は嫌人的な我儘な憂鬱から、絹江にもすっかり無愛憎にしてゐたが、心では絹江の態度や親切に感謝し、自分の態度を濟まなく思ってゐた。
 そして遂に正月が來た。徹三は相變らず床の中でウヰスキイを飲んでゐた。友人達もお互に論文で忙しいらしくその後絶えて往復がなかった。徹三は結局それをいゝ事にし、思ふ存分自分の病鬱に惑溺した。
 その頃、やっとかつ子から手紙が來た。徹三は勿論飛び立つ思ひで封を切ったのだった。

 徹三さま。
 かつ子は今名古屋にをりますの。今日で丁度一週間になります。もう御想像はおつきの事と思ひますが、かつ子はこちらの伯父の家にあづけられましたの。學校もこちらの學校に通ひます。
 かつ子は悲しいにも寂しいにもまるきり、どう書いていゝかわらない程です。
 随分堅く手紙を書く事を禁じられたり、嚴重に監視されたりしてゐましたけれど、手紙は幾度書いたか知れませんのよ。でもいくら書いても、思ふ事がまとめられないので破いて了ひました。
 徹三さま。かつ子の心をお察し下さいまし。かつ子は唯泣いてばかりゐます。いっそこのまゝやつれて死んで了ったら、どんなに救はれるだらうと思ひますわ。
 それからかつ子は、徹三さまの近頃を心配してゐます。丁度御勉強で忙しい最中に、御氣分でも擾させて了ひはせぬかと思って。勉強の方も大切ですから一生懸命にやって下さい。暮々もお願ひ致します。
 かつ子は、決して徹三さまとお約束した事は忘れません。永久にどんな事があってもお誓ひした事はしっかりと胸に抱きしめております。徹三さまもどうぞ私の事をお忘れにならないでね。
 色々とお話したい事は山程あるのですけど、とても手紙やなぞには書けませんわ。もしかこんな我儘が言へましたら、論文の方の御仕事がお濟みになって、徹三さまにお暇が出來たら、一度名古屋の方に來て戴けないでせうか? もし御承知下さったら、どんなに私うれしいかしら!
 かつ子は徹三さまのお胸に抱かれて、死んで了ひたい。味氣ない今の身の上を考へると、しきりにそんな願ひばかりが頭に泛んで來ます。ね、徹三さま、かつ子は狂はしい位徹三さまの事ばかり思ひ續けておりますのよ。今度の事なぞで、あの誓ひを忘れたりしちゃ(※ママ、行欠落か?)本當にね。
 とりとめない事を書きました。近頃ずッと興奮してゐるので、おかしな手紙になって了ひましたのよ。でもかつ子一生懸命になって書いたのです。どうにかしてこんな亂れた心を簡單にまとめてお知らせしたいと思って。
 ね、徹三さま、もしゐらっしゃれたら一度來て下さい。ほんの一目でいいの、御目に懸りたい!
 では、下で伯母の聲がしますからこれで失禮致しますわ、又ね。御返事は到底戴けませんの。でもその裡に何とか考へます。かつ子死ぬ程寂しくっても、何とか方法がつくやうになる迄、ぢっと我慢しておりますわ。可哀想に思って頂戴! ぢゃあ又すぐ次の手紙を書きます。それ迄、さようならを致しませう。お元氣で――。
  徹三さまを信ずる
       かつ子より
×  ×  ×
 かつ子が名古屋へ!
 徹三は愕然とし、次には弱々しく心が萎え凋んで了った。「仕舞った! 仕舞った!」と、溜息をつきながら考へた。恁う言ふ事があってはと心配したればこそ、あらゆる場合に、行動を抑制し、お互に危い道を歩まないやうに間違ひをし出かさないやうに、理性の手綱を引き緊め引き緊めして來たのであったのに! 到頭、心配してゐた穴に陥ち込んで了った。徹三は頭を抱え込みたい氣がした。
 が、暫くすると、徹三は俄然と面をあげて呟いた。
「今日すぐ名古屋へ行かう!」
 徹三は熟と壁を瞶めた。そこにはドガの踊子が寂しい微笑を湛えてゐた。
「――出來て了った事は仕方はない。かつ子ですら、くよくよした過去の事には一切ふれてゐないではないか。さうだ、僕等は今後の方針に向って?」

 徹三は早速旅の用意にかゝった。久しく沈淪ちんりんしてゐた精神が、一脈の活氣を帶びて燃えて來た。徹三は通學用の布鞄に、雜用品と一二册のノートをつめ込んで、それを抱へて行く事にした。と、彼は、ポケットに入れやうとして取り落したメモの手帳の中から、小さな押花が一ひらひらひらと疊の上に落ちたのを見た。いつぞや「今日の日の記念にも――」と、かつ子の家の裏山での媾曳の歸りに、徹三が秋草の丘邊から摘んで來た十月の可憐な花だった。
 手に取ってみると、もうその花は紅色を失ってくろずんでる、薄絹のやうに嫋やかだった葩は枯渇してカサカサに肌を突張らせてゐる。だが、それよりも、徹三を儚なくさせたものは、もうその花の命も盡きたものゝ如く、手に觸るゝより先に花が枯れ果した體をバラバラに崩して了った事である。
「おゝ、壊れたる花よ!」
 徹三は、何か、そこに自分達の戀の姿を見たやうに思った。
 彼は壊れた花を掌に載せて、靜かに火鉢の火に向った。――火鉢からはペロリと舌のやうな火が小さく燃え上って、そこからは細い煙が心忙しげに立った。
「荼毘に附された過去の戀!」
 ――だが、徹三は、次への進展を信じてゐた。
 自分達の戀は決してこの儘、この煙のやうに消えてはおわらない。新らしい發足を今日、唯今よりするのだ! 徹三は煙を見ながら考へた。
 簡單に、旅に出てくる、とのみ書いた葉書を津田に出して置いて徹三は、可訝しんでゐる加納家の人達の眼に送られて、下宿を出た。
 午後十時四十分。東京驛發の最終急行列車は、外套の襟に顏を埋め、制帽を眼深にかむった徹三を三等客車の片隅に乗せながら、屠蘇氣分の未だ抜けない東京の町を縫って、西へ西へと次第に闇の中を驀進して行った。
 徹三は、まんじりともせず、堅い座席の上に蹲ってゐた。山北以西は雪が降ってゐた。ガラス窓の曇りをこすって外を見ると、雪明りで野や山がひどい勢ひで後ろへ飛んでゆくのが見えた。昨年の九月にかつ子を慕ひつゝ辿った道を今夜は再かつ子を慕ひつゝ逆に走るのだ。――徹三は視線にひしひしと眞冬の冷たさを感じながらでも、いつ迄も、窓外の闇に眼を向けてゐた。
 論文なんかどうでもいゝ、たった一度かつ子の懐しい姿に、聲に接する事が出來るのだったら。いや、論文どころか、僕は僕の持ってゐる總てを失って了ってもいゝ。勿論、死にもしよう、かつ子がそれを欲するのなら。生命が何だ藝術が何だ、まして學問なぞが何にならう。僕の心の寂しさを滿たしてくれるものはかつ子だけだ。僕はかつ子のゐない僕の世界を考へる事は出來ない――。
 眞夜中の列車中は寒かった。徹三は凍えた體を窓際の板壁にすり寄せて考へてゐた。先程迄「寒い寒い」と呟きながら、しきりに政宗の五合瓶を呷ってゐた向ひの四十男も寝て、ザット滿員な車室に眼覺めてゐるのは徹三獨りらしかった。
 僕は將來の生活の事を考へるとうんざりした氣持ちになる。藝術と生活と、――いや、そんな事より、世路の難澁は考へただけで僕を疲勞さす。だがその灰色の未來を明るくさすのがかつ子なのだ。かつ子の事を考へてこそ、僕も一奮闘する氣を感じるのだ。だのにもし、かつ子を失ったら、どうして僕が僕の未来の生活に魅力を持ち得るだらう、――。
 徹三は手を延ばして窓ガラスに「かつ子」と書いた。そして無意識の中に、それと同じ字を二ッ三ッとふやしていった。――汽車は吹雪を衝いて靜岡あたりを駛ってゐる…………。

 名古屋には朝の七時すぎに着いた。名古屋は詳しく知らない土地なので、徹三は驛の外の賣店で地圖を買った。そして、橘町××と言ふかつ子の住所の位置をしらべてみた、がみつかった所は驛から可成り遠かった。徹三はひと先宿に休んでからと思って、車中で一睡もしなかった疲れた體を、驛前に立ち並んだ宿屋の方に運んで行った。そして一軒の旅館に靴を脱ぐと、早速風呂を浴び、朝食を撮った。
 かつ子に自分の來訪を知らせるのは、なもべく早い方がいゝと、徹三は思った。その方法にも車中から色々と考へてみたが、變名で電話でも掛けてみる事より外に別段良案と言ふのも無かった。それにいつかかつ子から聞いた話の中に平澤とか言ふ從妹が名古屋にゐると言ふ話のあった事を覺えてゐるのが強味な氣がした。
 徹三は女中を呼んで電話帳を持って來させた。そして心せはしげに水上家――かつ子の預けられてゐる伯父の家――の電話番號をしらべてみた。××工業會社専務取締役の水上家に電話の無い筈はないと、安心し切ってゐたのだが、「み」の部が段々尠くなって行っても見つからないと徹三は次第に慌出した。だが矢張りあった。徹三は手帳にそれを書き取るとほっと安心した。
「此の番號の所へ君の聲で電話を掛けてね、」
 徹三は暫く考へた後、再女中を呼んで言った。
「――かつ子って人を呼び出して下さい。何處ですと向ふで訊いたら平澤と言って下さい。そしてかつ子って人がゐて、電話口に出たら、いゝかね、ハザマの代理ですが、お會ひする場所と時間とを決めて戴けませんでせうか? と尋ねてみて下さい。もし留守なら又後程にとでも言って、平澤とは言はずに切って下さい。」
 十七八になるその可愛げな女中は、渡された番號の書き止めてある紙片と、一圓札の二枚はいってゐる包み紙とを受けとると、殊更に眞面目くさってゐる徹三に素直な微笑を返しながら、一度それを復唱し、承知して下って行った。
「さぞ吃驚するだらう!」
 徹三は胸をときめかせ、返事を待った。二分三分四分――てっきりかつ子は在宅なのだ。「それにしても、これが失敗せねばいゝが――」
 ――五分ばかりたった頃、女中は次の返事を齎せて入って來た。勿論かつ子は家にゐて、首尾よく電話口に出たと言ふのである。だが――、
「今日はどうしても都合が惡いから、明朝、十時、松坂屋入口で待合す事にしたい。」
 徹三は失望しながらも、すっかり安心した。神に感謝してもいゝ程の氣持だった。態々名古屋迄出て來た甲斐があったやうに思はれた。
 徹三はその日一日を休息することにした、床を延べさせて晝すぎ迄ぐっすり眠った。事件以來の睡眠不足な腦髄の疲勞の鬱積が、渙然と一掃されるやうな熟睡――全くそのうまいだった。心が安堵の糸でゆるめられた久し振りの休息だったのである。
 彼は三時頃眼をさました。だが何となく甘ったるい、快よく魂がふんわり空中に浮んでゐるやうな心持が、彼の未ださめ切らない體を支配してゐ、瞭り眸を開けて了っては惜しいやうな氣がしたが、とろとろした半睡状態が次第に意識的になって行くに從ひ、色々の事が水を含んだ白紙に赤インキの滴りがにじんで行くやうに頭に浮んだ。 かつ子の事、友達の事、郷里の事――。それらが又妙にロマンテックな色彩を帶びてゐる。こんな事を思ひながら、感傷的な音樂でも聞いたら、泣いて了ふに違ひないと思はれる程、心が哀愁に滿ちて行った。軈て彼はパッチリ眼を覺した。障子は赤く冬の陽で燒けてゐた。彼はゆるみ切った四肢をぐっと伸ばして欠伸をした。關節や筋肉に殘ってゐるけだるさに快い午睡の名殘りを殘してゐた……。

 約束通り翌日、午前十時、徹三は松坂屋の入口で、かつ子を待ってゐた。時間が接近すると再び今日の首尾が心配になり出して來た。
「あゝは言ふものゝ將して約束が實行されるだらうか? 何か故障が出來はしなからうか?」
 徹三は、そこの煙草賣場で買ったラッキーストライクの一本を啣えながら、落ち着かぬ心で、寒風の吹く戸外から頬を紅くさせて足速に這入って來る若い女の姿を一人一人見張ってゐた。――と、
「あ、かつ子だ!」
 徹三は危く叫びさうになった。電車道を横切って急ぎ足で、こちらに近づいてくる紺のオペラマントを着た少女。まぎれもないかつ子だった。徹三は人の間をすり抜けてその方に近づいて行った。二人は街路樹のあたりでバッタリ行き會った。
「!」
「!」
 何とも言へない感慨が、二人を無言にさせ、涙含ませた。たったお互の一瞥だけで、胸に籠った萬感が通じ合った。全感情と全感情との尖端に立った戀人同志にだけ經驗せられる氣持である。だが徹三は、火のやうに燃え上った歡びの情の儘に、かつ子を思ひ切り抱しめる事も、キッスで顏中を埋る事も、この場合出來ない事をもどかしく思った。
「此の町が、いや自分達二人を包む周圍だけでも、今一瞬闇にならないものか!」
「昨日、出たかったんですけどね……」
 かつ子がハンカチで瞼の下を一寸抑えてから言った。お正月らしく、ウエーヴした髪、美しくお化粧した顏、マントから覗いてゐる華美な晴衣は、彼女を女學生とは思へない令嬢風にさせてゐたが、それと共に徹三がひそかに、驚いた事は彼女が暫く見ない中にすっかり大人びた物腰になってゐる事だった。女性としての惱みは彼女を斯んなに變化させたのか!
「いや、都合が惡ければ、僕はいつ迄も待つ心算だったよ、だが今日は大丈夫だったの?」
 二人は人の眼の集中を避ける爲めに、どちらからともなく上前津の方に並んで歩きながら、話し始めた。
「えゝうまい工合に行ったのよ心配はないの。」
「突然で駭ろいたらう?」
「えゝ、でも夢ぢゃないかと。」
「僕は手紙を見たら、もうその場で來る決心をしたんだ。なんだッて一度會って話てみなくッちゃと思ってね。」
「でも御勉強の方は――」
「そんな事とても關っちゃゐられなかった。それに僕ァ君のママさんから手紙を貰ってからてものは、まるで病氣みたいにぶらぶらしてたんだ。」
 徹三は話してゐる裡に、ひどく自分がいぢらしくなり、遂涙聲になって了った。かつ子はマントの襟に顏を埋め、ハンカチでそっと鼻を抑へた。寒風が荒涼とした感の鋪石路を、二人の頬の泪を冷しながら、吹き過ぎて行った。
「ところで、今日はどの程度に自由なの?」
「夕方迄、五時頃迄はいいのよ。」
「ぢゃァ、ゆっくり話せる所へ行きたいね。どこかない?」
「――さァ?」
 郊外にいゝ所はないかな? 僕ァ名古屋は知らないものだから。」
「いつだかの夏、二三度新舞子ッて言ふ所へ行った事あるんだけど、でも冬ぢゃァ――駄目ねぇ。」
「いゝ所?」
「いゝ所よ。松林の中に旅館や別莊があって――」
「すぐ行けるの?」
「熱田驛の前から愛知電鐵で四十分ばかりかゝったかしら。」
「ぢゃァすぐ、そこへ行かうよ。こんな町の中ぢゃ一分だって落ち着けなくて駄目だ。」

 バスで熱田驛迄ゆられて、熱田驛前から、愛電の常滑行きに乗った。ガランとすいた電車は、大學生と東京風な美少女の二人連れに、見るからに間の抜けた眸を見張る二三人の田舎者を相客に乗せただけで、冬枯れの野原の中を寒風を衝いて駛った。でも薄日のさす車窓から見た濃尾平野の風景には、遉にのどやかな春の氣分が漂ってゐた。霞すんだやうな薄青磁の空の色、暢氣に日向ぼっこをしてゐる農家の茅葺屋根、久しく鋤を入れない田畑の、霜柱から立つかげらうのゆらめき、まるまると着ぶくれて畦に突っ立ってゐる百姓爺さん……。
「一體今度の事はどう言ふ所からこんな大事になって了ったの?」
 徹三は走りゆく車窓で言った。
「すっかり私達がしてゐた事を或る人に調られて了ったの。それに私達は氣が着(※ママ)かなかったけど随分方々で色んな人に見られてゐるの。それが皆ママやパパの耳に這入ったんですものね。」
「――」
「あゝ日本は厭。どこかどんな事をしたって、他人の事は氣に病んだりおせっかいしたりしないで濟ます國はないかしら?」
 長い睫毛をやゝ伏せて、ほそやかな吐息口調で言ったかつ子の言葉には十八やそこらになった子供のものとは思へない切情の響きがあった。
「ネヴァ・ネヴァ・ランド?」
 徹三も寂しく諧謔的に言った。此「世の中にうるさい人」の住んでゐない所は、どこを探してもないだらう。男は男で、女は女で、世間の人と言ふものはうるさいものだ。唇を動かす事が恐らく重税のかゝるものとならない以上、彼等の惡癖は止まる所を知らぬであらう。それにしても殊に日本人と言ふものは、かつ子の言葉通り何とせゝこましいおせっかいやなんだらう、それが又一旦男女關係の話とでもなると!
「――ね。」
「何?」
「かつ子、つくづく、活きてくの厭ンなった。」
「死ンぢゃえば、それこそネヴァ・ネヴァ・ランドだわね。」
「だがね、僕ァ一應そんな氣持は否定したいと思ふよ。僕等はまだ逃避には早い氣がするんだ。僕等は未來を祝福されてゐると思ひ込めないかな?」
「でも現實の苦しみは――」
「乗り切らうよ! あく迄勇氣を出して、クゥラァジュ!」
 徹三は熱を帶びた眼差でかつ子を見た。かつ子も徹三に負けない熱情を眸に示してそれを受けた。もし車室内に彼等の自由を遮る少數の乗客がなかったら、二人は戀の歡喜に相擁してくちづけ合ったであらう。
 太田川――尾張横須賀――古見それからやっと新舞子だった。電車は避暑地風な瀟洒たる、だが犬の影もなく冷々と寂れ返った歩廊の上に、ばっちりと二人を降ろし捨てた儘走り去って行った。二人は肩を窄め合ひながら、寒さに顫えてゐる若い驛員に切符を渡して改札口を出た。
「海の方を一寸歩るいてみない? 寒い?」
「いゝえちっとも、海べの方へ行ってみませう。」
「ぐるりと廻って歸って來れるだらう?」
「えゝ多分出來たと思ふわ。」
 兩人ふたりは驛前の廣場を廻り、踏み切を越して一町ばかりの砂利道を海の方に辿った、あたりは住む人もない空別荘の軒並びだった。
「僕は海が好きだ。それに海ならふと大磯をすぐ思ひ出す、僕等の戀の發祥地の大磯をね。」
「あの夏は事毎に樂しい事ばかりだったわね。思ひ出しても微笑まれて來るわ。惱みなんか少しもなかったし、私達は無邪氣だったし……」

 海邊に出ても風はなかった。白砂の濱邊を二人は身を寄り添はせて歩いた。見渡した所、海岸には人影もなく、唯ありし夏の歡樂を物語るバラック造りの遊覧設備が破れ姿を曝し捨てゐるだけだった。振り返れば遠く名古屋はミニチュアに、そして寒ざむとした紺碧の伊勢湾の波の上には鳥羽あたりに向ふ汽船が一艘あった。
「えゝと、あの邊が津で、あの邊が鈴鹿だらうね?」
 渚にふと足を止めて、徹三はよく晴れた空の下に、くっきりと姿を横たへてゐる對岸の紀州の方を見て言った。かつ子は分らないと言った風で默ってゐた。足元の砂をサイダアの泡のやうな海の水がしめして去った。
「――ぢゃァ、」
 と、徹三はふたたび歩き始めながら前の話に言葉を繼いで言った。
「かつ子さんは、今度の事なんか僕に對する心持の上ぢゃ、決して何等の動揺にはならなかったって言ふんだね。」
「えゝ。――それよか、なほ一層……」
「有難う、僕はとてもうれしい。かつ子さんさえ今迄通りの心でゐてくれたら、僕はどんな努力でも僕達の將來に向って拂ふ勇氣を持つよ。」
「かつ子あの誓ひを忘れやァしない! どんな場合になったって。」
「かつ子さん! 有難う。」
 徹三はマントの上から、かつ子の肩をぎっしりと抱いた。
「僕はその言葉を聞く度くって遥々來たんだ。僕は、僕はこんな滿足な事はない――」
 兩人は小さな砂丘の裾を廻って濱から別莊地の方へ上った。そこでは朝鮮人の人夫が二人、道路を掘り返してゐて、ぴたりと寄り添ってゐた兩人を駭ろかせたりした。
「お晝でも食べよう。それに火にでも少し當らうぢゃないか。」
 徹三はそのあたりを物色しながら言った。看板の掛った料理店や旅館はそちこちにあるのだが、みな夏場當込みのものらしく、見ると人のけもせぬ汚い様子をして戸を閉ざしてゐた。二人はぐるりと廻って再驛の方へ歸って來た。と、そこに食料品店と旗亭とを兼ねた小綺麗な店があった。二人は拾ひものゝ心算でその店へ這入った。土間にはペンキ塗りの三四脚の椅子テーブルが氷りついたやうに置かれてあった。
「なんだい、これァ凍えちゃうな。」
 と、遉に徹三も弱った顔をしてゐる所へ、横のガラス戸から顏を出した親爺が、
「よろしかったら奥にお上りになって――」
 と云った。兩人はカーテンをくぐって奥に入った。そこで履物を脱いで狹い廊下に上った。通された座敷は安普請ながら小綺麗な四疊半だった。兩人が茶ぶ臺をはさんで妙な顏をしてゐると、内儀さんが手焙りに炭火を盛って運んで來た。徹三はありあはせの品で温い晝飯を頼んだ。
「あまり柄のいゝ所ぢゃなさゝうだね。」
 徹三は二人になると、微な屈辱を意識しながら、部屋の中を見廻して言った。俗に言ふ連れ込み部屋とでも言ふのだらう。
「さうね。」
 けれどもかつ子は座布團の上に美華な錦紗の膝を折って、火鉢に手を焙りながら、別段氣にも止めないらしく答へた。然し燦然と輝いた彼女と此の安座敷とは何と釣り合はぬコントラストか!
「でもね、かつ子さん。東京の二人がこんな思ひもよらぬ所で逢ふ事にならうなんて、随分、考へて見ると妙な氣がするねぇ。」
「本當ね、愛知縣の、それも新舞子だなんてねぇ――」

 晝飯――と云ってももう一時を過ぎてゐたのだったが――を食べ終ると、兩人は寛いだ氣持になって火鉢を中に挾んだ。かつ子に逢へないで身も世もあらず煩悶苦惱してゐた昨日迄の自分を思ふと、徹三は、現在斯うしてゐる事が恐ろしい迄の幸福に思はれた。それにしても又、後になって今日のやうな幸福への追憶が、孤獨な自分の寂しい心を切り苛むのではなからうか! 徹三は幸福な思ひ出といふものを一途に樂しいものとは考へる事が出來なかった。寧ろ思ひ出は胸を痛ますものに思はれた。 或日の幸福が大きければ大きい程後日の追憶は苦しかった。人と云ふものは常に幸福の頂上にゐられるものでない以上、そして又その幸福が極めて稀にしか得られるものでない以上、それを惠まれない位置から振り返り見る事は、一入寂しさを誘ふものでない筈はない。その過去に、自分が嘗て踏んで來た高い美しい山が、蒼茫と夕闇の中に消えて行かんとするのを、心ならず谷間に降りる細徑の上から小手を翳して振り返り見る寂しさを考へてみるがいゝ。
「かつ子さん、」
 徹三は默々と吸ってゐた紙卷を灰の中につき込みながら言った。
「――僕は現在恁うしてゐられる事が、なんだか僕の心に許され得る以上の幸福のやうな氣がするよ。僕はこの幸福の滿喫で明日はげっそり参って了ふかも知れない。全く幸福なんてものは素晴らしい御馳走のやうなもので、食べる時は夢中だが、その後は必らずひどい苦しさが來るものだと思ふよ。」
「さうかも知れないわね。」
 かつ子も寂しい笑顔を上げて言った。
「――かつ子も、矢張り同じやうな事を考へてるわよ。それに前みたいに簡單にお逢ひするって事が出來なくなって了った今ぢゃ、その感が一層切實だわ。」
「なんでも物事てものは、得難くなると尊くなるんだね。僕等はこれ迄あまりに惠まれ過ぎてゐたんだ。これから少し試練されなければなるまい。」
「でも私――」
「何?」
「かつ子ね、我慢出來るかしらと思ふのよ、今度だって死ぬ程つらい思ひをしたんですもの。たった二週間ぐらいお眼にかゝらなかっただけで――」
「僕だって同じだ、だが――」
 徹三は不圖眼頭が熱くなった。
「だが、お互に今暫く堪え忍ぼう。過去を振り返らずに未來のみを瞶めてね。」
「徹三さん! かつ子いつでも貴方の事ばかり思ってゐるわ。徹三さんもね……」
「勿論だとも!」
 火鉢にかけてゐた手を延ばして徹三はかつ子の手を握った。堅く堅く、感激の情を傳へて握った。
「ね、これね、」
 かつ子はその握られた左手から中指に嵌めてゐた大きなルビイの指輪をはずし、徹三に差出しながら言った。
「これ、かつ子だと思って受取って置いてくださらない?」
「いゝの? そんな事して。」
「いゝのよ。」
「ぢゃァ、僕よろこんでもらふよ。僕肌身から離しやしない。」
「かつ子も、いつでも貴方のお傍にゐる氣でゐるわ。」
「いつでも僕がかつ子さんを力いっぱいに抱いてゐると思ってゐておくれ。」
「かつ子、うれしいの!」
 かつ子は見る見る眼に一パイ涙を湛えて、熟と徹三を見守って言った。本氣な、心の底からの眞劍さが現はれてゐて、寧ろか弱い少女としては悲痛な表情だった。
「いのちに賭けても――」
 感激して徹三は言った。
「此の指輪は離しやしないよ。」

 何と言ふ事なく時間が經って、兩人がその家を立ち出たのは午後の三時半頃だった。少し早いが一先づ名古屋迄歸って、そして餘った時間はせかれない氣持で、徹三の宿の二階ですごさうと話し合ったのである。
 電車は往路より混み合った。徹三等もなにとはなしに氣兼ねして四十分ばかりの間を別段話もせずに過ごして了った。熱田に着くと徹三はタキシを雇った。そして未だ松の内で華やかに賑ってゐる名古屋の町々を斜に切って、名古屋驛前の旅館に戻った。
「まだ四時半だ。後一時間ぐらゐ遊んで行ってもよくない?」
 遉に大旅館らしく靜かに落ち着いた暖かい部屋に通ると、徹三は時計を出しながら言った。一分でも二分でもより長くかつ子を引き止めて置き度い未練で一パイだった。一度離せば又後日の事は判然と期し難い此の幸福の事であったから。
「えゝ、いい事よ。少しくらゐ晩くなったってどうにでも言ひ譯はつくわ。」
「ぢゃァ出來るだけゆっくりして行っておくれよ。僕を可哀想だと思ってね。」
「それよか、お別れして行かなくっちゃならないかつ子を可哀想に思ってよ。」
 かつ子は悲しい顏をしながら言った。
「――僕達二人はお互に可哀想な子なんだ。」
 徹三は言って不圖火鉢に眼を伏せた。別れの迫った切情の際に、用意もなくひょいと口にした此の言葉は、いかにもよく自分の心情を寫し得たものゝやうで、我が言葉ながら徹三は胸に溢れる感傷を感じたのだった。
「だが、」
 暫くして後、徹三は心持を取り直したやうに、だが泌み泌みとした調子で云った。
「――ねぇかつ子さん。僕達は今こんな寂しいこんな悲しい氣持を經驗してゐるけれど、然し人生と云ふものから見ると、今最も美しい事をしてゐるのぢゃないかと思ふね。一生に一度しか得られないやうな事、そして最も印象的な事を。」
 かつ子は默ってゐた。徹三は一寸沈默した後に續けた。
「僕は今思ひ出したんだけど、シュニッツレルに「リーベライ」って言ふドラマがあるだらう。あれの幕切れで戀人をあの世に失って歎く娘を慰める老音樂師の父親の言葉があるんだよ。
 ――泣きなさい、泣きなさい、だがお前が今血を絞るやうにして流してゐる涙は、お前が年を取ってから考へてみると、本當に美しく懐しい涙に思はれてくるものなのだよ、そしてお前の若い時に胸に受けた洟が、どんなにお前の老後の寂しさを慰めるものになるか、そしてお前の一生を豐富にさせるものになるか、それが分ってくるのだよ! お父さんは寂しい一生を送った。 若い時にお前のやうに血を絞って泣いたやうな事がなかったから。お父さんは微笑と共に泌々と思ひ出す何物もない、それは過去より外のものを既に持たなくなった年寄りに取って、どんなに耐え得られないものだか思ってみてもごらん!
 確こんな意味の言葉だったと思ふ。ね、かつ子さん。僕も或ひはさうぢゃないかと思ふ。「五十年踊る夜もなく過ぎにけり。」一茶の句にあるこれなぞも、僕達にとって考へられない寂しさぢゃない。この意味で僕達は惠まれた生活をしてゐると言へるに違ひないんだ。戀愛のない多くの青年男女は花を咲かせない若草のやうに寂しからう。 その苦悶から見れば戀愛で惱み苦しむなぞ寧ろ羨望視される事かも知れない。例へばそれは失戀でも戀は人生に於ける輝かしい寶石だ。まして僕等のやうにお互にこんなに堅く結びあひ、そして未來を約し合ふ事の出來る戀愛をする事が、人生に於て素晴らしいものでない筈はない。ねぇかつ子さん、さうだらう!」

 一時間ばかりの時間は、戀愛の法悦にしたってゐる戀人達には、またゝく間に過ぎるものである。電燈が煌々と照って、あたりがすっかり夜の世界に變ったのを知ると、遉にかつ子は落ち着かない氣持を感じ出した。然し丁度そこへ夕飯が出たりして、又小半時間がつぶれかつ子がたち上ったのは六時を少し出た時刻だった。
「ぢゃ、明日電話掛けておくれね、何處にも出ないで一日中宿で待ってゐるから。」
 折角名古屋迄來たのだから、せめてもう一日位逢へないものかと未練を募らせての徹三の願には、勿論かつ子とて斷る氣持は生じなかった。かつ子の心配してゐた徹三の論文の方の勉強は、徹三の言葉に依れば馬力さへ掛ければ一週間の餘裕で十分だと言ふ程度迄完成されてゐると言ふから、その方は先ず安心として、一方自分の方の境遇が果して明日も自由な行動を許してくれるであらうか? とそれがかつ子の頭を惱ました。 今日も随分苦しいトリックを用ひて嚴格な伯父の家から半日を解放されて來た。明日は又どんな方法口實を設けるべきであらう? 東京時代より總ての點で極端に遠慮やら不自由やらのふえ勝ってゐる此の名古屋生活に於て。だがかつ子は例の果敢な決斷心で以て、兎に角、何とか都合して明日逢ふ機會を作らうと約束した。そしてそれは電話で知らせる事にすると言ったのだった。
「一生懸命妙案を考へてみるわ、ぢゃ、電話、待ってゝね。」
「一刻千秋の思ひで待ってゐるよ、だがヘマは決してやらないやうにね。」
「大丈夫よ。」
 ――その日はこれで二人は別れた。徹三は柳橋の停留所迄見送って行って、そこの堀沿ひの川柳の下でかつ子の乗った電車が遠くに消えて行くのをいつ迄も佇んで見送ってゐた。
 翌日は晴朗な天氣に關はらず寒氣のひどく嚴しい日だった。徹三は朝の中からそはそはとかつ子からの電話を待ちあぐんでゐた。然しさうしてゐる中に午後になって了った事は徹三を限りなくがっかりさせた。
「電話かゝらなかった?」
「いゝえ。」
 女中との會話は二度三度と重ねられて行ったが……。街は冬ざれた夕の景色に變って行った。晴れた日の事とて、空の色から氷のやうに冷たかった。徹三は昨日の今頃の事を偲びながら、二階の欄干から眼に浸みてくる氷ついたやうな街の灯を眺め入ってゐた。だが幸福の次の苦悶が又何と早く訪れて來た事だらう!
「お電話でございます。船原様から。」
 女中の此の言葉は、けれど徹三をいゝ暗示には導かなかった。胸も躍りはしたが、今となっては絶望の氣持の方が多かった。案の状かつ子の言葉は今日の不首尾を告げ、詫るものだった。然もこの電話さへもほんの二三分の隙を利用して性急に掛けられたもので言ふベき事さえ言ひ了ったらすぐ切って了はなければならないものだった。
「ぢゃあもう駄目なんだね?」
「……駄目なの……」
「さう。」
 徹三は暫し默った、そして、
「ぢゃ仕方がない、僕は斷念めて明日の朝の急行で東京に歸る。孰れ又來月になったらやって來る事にしやう。」
「ぢゃ、さうしてね、身勝手ばかり言ってかつ子濟まないけど。」
「體に氣をつけてね――」
「――徹三さんもよ!」
「え、元氣で暮し給へ――」
「――徹三さん!」
「何?」
「かつ子! かつ子!……」
 顫える手で堅く耳に押し當てたレシイバアは、かつ子の堰切れぬすゝり泣きの聲が細く低く傳って來た――。

悪魔の戯れ
 一月末日の締切り期日迄に、徹三は兎に角卒業論文を完成させて提出した。それと倶に安堵と疲勞が一時に出て彼は極端な無氣力状態に落ちて了った。彼の元氣が恢復したのは二月の半頃だった。彼がこんなに疲勞を感じたのは無理な勉強の仕方からばかりでなく、かつ子の事件に對する心勞があったからだった。かつ子からはその後時折便りがあった。然し徹三からはたった一つの姑息な方法――雜誌のブランクに文章を書き込んで送る、といふ手段より外に通信の仕方はなく、從って、極めて簡單な消息を、極稀にかつ子に送る事しか出來なかった。
 これに反して白川絹江との關係は以前とは比較にならぬ程接近したものになって來てゐた。それは絹江が徹三の論文制作の手傳ひをしてから著しいものになったのだった。今、絹江は判然と徹三に戀する者の態度を執って來てゐた。徹三は、だが、まるでそれらの事實を認識しないものゝやうだった。或ひは假令氣づいてゐたとしても友情が兄妹愛に多少接近したと言ふ位にしか考へてゐないに相違なかった。 徹三の絹江に對する態度は、勿論以前よりはかどはとれたけれど、決して戀人に對するそれではなかった。誰れでも、愛と言ふものは二分して兩立させる事の出來るものではない以上、かつ子を斯くばかり思ひ慕ってゐる今の場合、絹江を異性的に愛するなぞと言ふ事は出來るものではなかった。それらは徹三には考へられもしないものである。
 然し絹江は温順しい一方の娘だったので、徹三に愛情を示される事がなくとも、それを發動的に要求するやうな態度は全く出來なかった。いつかは自分の密かに奏でる愛のメロディが相手の心のハーヴにも響いてくれるだらうと、例へばそれを待つかのやうな態度だった。彼女は今はお客としてではなく、加納家の一人として下宿人の徹三の世話をする事を、近頃の訪問の仕事とし、そしてそれだけの事で滿足してゐるやうだった。
 二月の中旬からは、論文でげんなりしてゐる學生達に卒業試驗が新らしい責具で迫って來た。成績表の上でベストテンを心懸ける連中は掉尾の奮闘とばかり元氣を振ひ興した。徹三は然し相變らずの散漫な氣持で、落第のない程度の勉強でお茶を濁して了った。これは徹三だけでなく『羅甸街』の連中は皆さうだった。
「やっと荷が卸りちゃったな。」
 最後の試驗の課目の試驗答案を仕上げて、心持ち充血した眼をしながら試驗場を出てくる徹三を一足先に廊下に出て待ってゐた中谷が言った。
「うん、だが、卸ろし工合が少々氣になるな。」
 徹三は萬年筆をポケットにしまひ直したりしながら答へた。一寸この大學三ヶ年と言ふものを餘りに學科に不忠實に送って了った自分を苦笑を以て振り返る寂しさがあったのだった。せめてゆう終の美とでも言ふやつを、學生時代への手切金にしたならば、もう少しは朗かに校門から飛び出して行けるかも知れなかったのに、そんな後悔に似た情がほんの少しばかり徹三の不勉強だった心を責めるやうに湧いて來たのである。
「なァに大學の文科なんていゝ加減なものさ、形式以上何物でもないんだ。僕等も形式だけ勉強して形式的な卒業證書をもらひさえすれァいゝんだ。それよか俺達はこれからさ。」
「これから!」
 徹三は小さく口の中で呟いた。この元氣のいゝ精氣に滿ちた言葉は今、徹三の心からは遠く離れてゐたものだった。彼はこの言葉に憧憬れるやうな力強さを感じ、一方斯う迄イムポテンスになって了ってゐた自分を悲しく思った。

 徹三は或日不圖就職に就ての妙案を思ひ浮べた。土屋沓子に頼んでみたらと考へたのである。と言ふのは、嘗て沓子がその夫の友人達の中に、特殊な方面に進んでゐる色々の人達、例へば外國貿易商、出版業、藝術家、新聞社員、教育關係者なぞと言ふ人達があると言ふ話をした事を覺てゐたからである。沓子ならば何の氣兼ねも要らないし其に萬一話がうまく行けば儲けものとして駄目だったにしてもお互に氣まづい思ひをしなくて濟んで了ふ、徹三は恁う考へて躊躇もなく沓子のもとに出掛ける事にした。
 沓子に逢って話してみると、沓子は平凡な顏をして、
「貴方なんか一體遊んでゐて目的の方を一心に勉強した方がいゝのぢゃないの? ――就職の事は考へてみて差し上げるけど。」
「所が遊んぢゃおられないんですよ、パンを食はずには生きちゃおられませんからね。」
「おくにに話てみれぁいゝぢゃないの?」
「くにとは絶交したんです、金なんか要らんッて言ってやったんです。」
「あらまァ、随分強がりねぇ。」
「だからそのどこか適當な所があったら――贅澤は言ひませんよ、此の際ですからね。」
「えゝ承知してよ、今日から早速方々に當ってみるわよ、でもひどい就職難だって言ふから、もし駄目だったら困って了ふわねぇ。」
「困るけど仕方はないですよ、關ひません。」
「そしたらおくにに降参おしなさいな。」
「いやしませんよ、僕はどっか地方の小學校教員にでもなりませう。僕は時々空想するんですがね、小學校の教員なんて相當ロマンチックな職業だと思ふんです。青葉の茂った下で頬ぺたの林檎のやうに赤い瞳のまん丸な子供達にとり圍まれて遠い國のメルヘンでも聞かせてやるなぞ。そして其處には煤煙なぞは決して含まない清浄な微風がふくよかな土の香りを匂はせつゝ流れ過ぎてゆく――」
「まァ風變りなドリイマアね、でもそれはキリストか釋迦ぢゃないこと? 樹の下で弟子達にメルヘンを聞かせるのは。」
 沓子は面白さうにクッションの上で笑ひこけながら、
「――少くとも私のダーリング・テツゾウ・ハザマにはそんな事似合はないと思ふ事よ。」
「夢を持たない近頃のモダンフェミニュティにも参るな、都會に流れる空氣ばかりがヨルダンの川のやうに有難いんだから。」
「ぢゃ貴方郷土文藝家なの。私、別莊地以外の田舎は大嫌いよ! 藝術だって勿論さう。貴方が土臭い小説書いたら讀みやしないからいゝわね。」
「御随意に、氣儘なフランス式の貴婦人! 貴方はスヂロ版式の小説かそれとも、恐怖は情熱であると言ったスチヴンソンの言葉に共鳴して、スリリングな探偵小説でも讀み耽ってゐらっしゃればいゝんです。」
「貴方は私を軽蔑なさったお心算?」
「どう致しまして、でも惡るく聞えたら許して下さい。僕は今日はすべて下手に出なけれぁならない就職依頼者ですからね。」
「でもさう言はれると責任を感ずるわねぇ――で冗談はさて置いて一體どんな方面が御希望なの? 実務家教育家藝術家勿論何か藝術家に近いものがいゝんでせうね?」
「所がね、恁うした話があるんです。僕のやうな場合には斷然畑違ひの職業を擇ぶべきだってね。さうすると此れは藝術此れはパンのための職業と判然區劃がつくと言ふんです。さうするとつまり純粋の藝術を培って行くに非常に利益だと言ふんです。例へば新聞記者なんかすると筆がどうしても使ひ分けられなくなってくるって言ふんですね。一理あると思ふんですが――」

 結局話は、徹三に向くやうなものならなんでもいゝと云ふ事にして、徹三は沓子のもとを辭した。そしてそれから一週間目に沓子から素敵な返事が來たのを、徹三は訪問れて來てゐた絹江と倶に讀んだのである。それに依れば横濱の西洋人の商館に通信文翻譯係の椅子があるさうだから早速頼み込んで置いた、外には適當なものがないやうだから、それで一時我慢出來るのなら我慢してみてくれ、と云ふのだった。 贅澤な事を考へてゐなかった徹三は思慮する迄もなくその職業に就いてみる事を決心した。それに云ひ添えられてゐる條件と云ふのも、勤務時間の短少と云ひ與へられる給料の、意想外に多額な事と言ひ、徹三には此の就職難の世の中にあまりに惠まれ過ぎるものに思はれた。唯、外國語に十分な自信のない事が多少躊躇の念を興させただけだったが、なればどうにかなるだらうとたかをくゝるとそんな不安も収まって了った。
「結構でしたわね、」
 絹江は自分の事のやうに喜んだ。
「今晩、小母さんにお願ひしてお祝ひの御馳走を作って頂く事にしますわ。」
 そしてその晩は絹江を加へた小宴が張られた。
 徹三はやっと安心した氣持になる事が出來た。どうにか大學は卒業出來さうだし、それに人々が血眼になって探してゐる就職口を自分は早くも見附ける事が出來た。兎に角これは郷里に強い事を言ってやってある徹三は、感謝しても餘りある救ひでなければならない。もし口先だけで強い事を言ってゐても、結局就職口のなかった時は何と言ふみじめさに陥入る事だったらう!
 徹三はその夜、床の中に腹這ひながら、喜びの心で、かつ子に宛て便りを書いた、羅甸街の頁の餘白に――。
 親愛なるかつ子よ、
 やっと試驗は終った、まづ落第の心配はない。卒業式は四月の三日だ、それ迄にまだ三週間も間がある事だから、僕は近い中にそちらに出掛けてゆき度いものと思ってゐる。二月の始めにと約束してゐた事も、僕の具合で實行されなかったからね。それから今日は、素晴らしいニュースをお知らせしなければならない。僕の心は春のやうな明るい愉快さで溢れてゐる。かつ子さんもこれを聞いたら僕と同じ程度に喜んでくれなければならない。と言ふのは僕の就職口が決まったのだ、孰れ勤めるのは四月過ぎてからなのだが……(以下略)
×  ×  ×
 なんと言っても彼岸に近い三月の気候は爭はれぬもので、徹三の部屋から見る庭の立樹は急に芽をふき出したやうである。空氣は未だ冷たいが空はけむるやうに霞んで、そろそろ訪れて來る南風には、やがて羽織が徒に重いものになりはしなからうか、水仙の細長い根の泳ぐガラス製のフラスコを、陽のよく照る窓邊に移しながら、徹三はしみじみと春のあしどりを感じたのである。
 庭には山吹か咲いててゐた。いや庭いぢりが好きな此の家の主人はその外にも多くの花を咲かせてゐるのである。假へば庭の隅の椿とか、其他適當な所に、これも主人の好みによって配されてある筈の山茶花、海棠、龍膽、雛菊……なぞと。
「春だなあ、全く。」
 徹三は霜枯れの地上から、かく迄美しいものゝ甦えって來た事實を考へながら、今更の如く思ふのだった。
「硲さん、お手紙ですよ。」
 ぼんやりしてゐる徹三に小母さんの聲が掛けられた――手紙は土屋沓子から來たものだった。彼は縁側から庭下駄を突っかけて庭に降りぶらぶら歩き乍ら封を切った。どこからか、甘い戀人の吐息のやうな沈丁花のかほりが香ほって來た……。

「――にちようまちに六代目を觀に行くから貴方もゐらっしゃい――」
 ――沓子の手紙は簡單なものだった。徹三はまるめた手紙を袂の中に落して、飛石の上に突っ立った儘空を見上げた。どこからともなく遠雷のやうに聞えてゐたプロペラの音が、漸く耳近く響いて來て、やがて近空に銀翼を春光に煌めかせたサルムソンが一臺二臺三臺雁行して過ぎて行った。
「今日は。」
「やあ。」
 そこには絹江が立ってゐた。
「何を見てゐらっしゃいますの?」
「飛行機をね。」
「まあ子供みたい。」
「どうして?」
「さっきから幾度も聲をお掛けしましたのよ、それだのに――」
「いや、飛行機を見ながら考へ事をしてゐたんですよ、それぁ失敬。」
「……」
 絹江は微笑った、事實徹三は此の晴れやかな空を仰ぎながら久し振りの觀劇氣分を身の裡に愉しく甦えさせてゐたのだった。あの開幕前の廊下や棧敷のざわめき、時間が近づいて第一番のが冴えた音を立ながら緞帳の向ふに過ぎてゆく頃の気分、そして開幕序樂の大囃子なぞ……。就職口が決定したと言ふ安心が知らず知らず徹三の心を近頃にない安泰なものに誘ってゐたのである。
「花を剪りませうね、お部屋のもう凋んでゐましたわ。」
 絹江は徹三の前をすり抜けて草花のある方に行った。
「どれ剪りませう?」
「さァね。」
「どんな花おすき?」
「可憐な花なら大抵好きだな、どんな花って、こゝにある花だって碌に名さえ知らないんだから。」
「――椿は?」
 絹江は傍の椿の木に咲いた眞赤な大輪の花に手を觸れながら言った。
「さァ、ちっとしつこいね、嫌ひと言ふ程でもないが……」
「私の一番好きな花なんですのよ。」
「おゥッと、それぁ失禮、氣に障ったら御免なさい。」
「どう致しまして、だけど、椿の花、お好きにおなりになれないかしら?」
「無理に?」
「えゝ、無理によ!」
 絹江と徹三は聲を合せて笑った。
 ――絹江は徹三の部屋の一輪差しに庭から剪って來た椿の花を生けると、今度はお茶を淹れて持って來た。そして今朝出た次手にまはり道して買って來たのだと云って風月堂の生菓子を菓子器に移して出した。
「まはり道って、今朝何處迄行って來たんです?」
 風月の生菓子にいさゝか驚きながら徹三はきいた。
「日本橋迄――」
「日本橋? ひどく又早く出掛けて行って來たものだなァ。」
「病院に行って來たんですの、」
 絹江は穏かに微笑し續けながら言った。
「父が出勤の途中一緒に寄ってやると言ってきかないものですから。」
「どうしたの? どっか工合が惡いの?」
「えゝ、随分――ですって。」
「どこをどうしたの一體。」
 徹三も眞顏になった。絹江は輕く紅潮した頬を相變らず微笑ませて、
「肺が惡いんですって、可成りひどく、尤も以前から少しは惡かったんですけど。」
「それぁいけないねぇ。」
「でも、私、平氣なんですのよ、少しも駭ろきませんでしたわ。」
「熱はあるの?」
「七度位、いつも。」
「それァいかん!」
 徹三は愕ろいて瞳を見張った。

「仕方はありませんわ、今更慌たってどうにもならないんですもの。反って瞭り重いと宣告されたら氣が落ち着きましたわ。」
「ディスペイアは、でも一番禁物ですよ。」
「いえ決してそんな氣持ぢゃないんですけれど……」
 だが絹江は多少心を見透かされたかのやうに面を伏せた、徹三はそれをいぢらしいものに思った。考へて見れば絹江は今日は平常より元氣らしく振舞ってゐたやうだった。それが彼女の内心の苦悶の反動だったに相違ない。
「養生して少しも早く快くするんですね、見た所そんなに貴方が云ふ程惡いとも思へないんだからな。」
「でも恢復はむつかしいかと思ひますのよ、これからずんずん惡くなる一方ぢゃないかと思ひますの、そんな氣がしてなりませんわ。」
「そんな莫迦――な。」
「私ね、近頃運命ってものを考へますの。それも今迄に矢張り何と言っても悟り切れずに、例へば體の惡い事は百も承知でゐながらそれでゐて自分の病人であるみぢめさを忘れやうと焦慮あせってみたり、くだらない幸運を信じてみたりして色々の妄想に惱んでゐたのですけれど、今日立派なお醫者様から嚴然と重患と宣告されたら、それァ朗かな氣がしましたのよ。 考へやうに依っちゃ態とらしくも思はれませうけれど、私自身は負け惜みでも強がりでもなく、本當に眼の曇がれたやうに瞭りした氣持になりましたのよ。決定された運命が水晶の向ふに示されたやうな氣がしましたの。」
「貴方はセンチメンタリズムを捨なけれぁいけませんよ。それぁ妄想を捨て靜かな心境を得る事は療養の上から言って勧むべき程の事だからいゝけれど、それが極端な消極主義に傾いて、運命だとか死だとか言ふ事ばかり考へるのは、所謂肺病患者の感傷主義で、百害あって一利ないものです。貴方は斷然そんなものは放擲しなけれぁいけませんね。」
「わかりますわ、ですけれど、私決して感傷やなぞではないんですのよ。私言ひ方がなくて自分の心を言い示せないんですけれど……。兎に角、私はあまり長く生きられさうになく思ふんですの。理由なんかなく、それでどうしてもそれが確實に思はれるんです。感傷主義なんか意識の上ぢゃ殆どと言っていゝ位無い心算なんですけれど。」
「病気が重いといはれて急に弱氣になったんぢゃないんですか? 短命だとか何んだとか以前から獨りで決めて考へてゐた所へ、病氣の事を言はれたんで、すぐ、それを現實的に結びつけて了ったんでせう。絹さん、貴方は悲觀したりしちゃいけませんよ、死だとか運命だとか考へるのは、本人から言へば無理もないかも知れないが、實は少しも爲になるものぢゃありませんよ。氣を安泰に持って、いや全く僕の説法は常識的だが、氣長に養生するやうにしなくちゃいけませんよ。」
 絹江は辯解めいた事は言はなかった。その代り以前の晴れやかな顏を寂しさうな顏に變へてその中に行く事になるといふ鎌倉のサナトリュームの話なぞをした。そして、その療養生活は文學修業上に何等かの効果を齎すかも知れないのが、せめてもの樂しみになると言った。徹三は只管に力強く慰める事に努めた。 健康な者が弱者に注告したり又はその精神を批評するのは、残酷以外何物でもないと考へながらも、徹三は相手に退嬰的な弱氣を一寸でも持たす事を恐れて、壓倒的に自分の強がりを相手の心に植えつけんとした。徹三は尠くとも一生懸命だった。例へばそれは恰も實の妹の病氣に對するかのやうだった――。

 午後時間が迫って、徹三が心持急いで沓子のアパートに行く用意をしてゐると、中谷がひょっくり遊びに來た。
「さうか、それなら又出直さう、驛迄一緒に出やう。」
 外出の譯を聴くと中谷は脱いだばかりの靴に又手をかけやうとした。中谷等親い友達は皆玄關から案内を請はずに、勝手に庭傳ひに離れの徹三の部屋の縁側に廻るのだった。
「いや、まァお茶でも飲んで遊んで行ってくれ、絹さんも來てゐるんだ。折角だから僕の代りに絹さんとでも話して行ってくれ。」
 徹三は氣の毒になって言った。そしてネクタイを結びながら、廊下傳ひに母家に行って、丁度まだそこで病氣や何やらの話をして家に歸らずにゐた絹江を呼んだ。
「あらさうですか、ぢゃ私がお相手しますわ。」
 絹江は元氣よく徹三の話に答へて言った。
「疲れると惡いけれど――」
「いゝえ、昨日迄起きて跳廻ってゐて今日からすぐ寝て了ふなんて事出來やしませんわ。」
 そしてまだ工合よく結べないでゐる徹三の蝶ネクタイを見て、
「一寸お貸遊ばせ。」
 と言って、すらりとした體を徹三の前に寄せ、華奢な手でネクタイを器用に結んでくれた。徹三は今迄になく近い所に見た紅く薄い彼女の唇を、なにか忘れ難いものに印象した。
 部屋に歸ると、中谷は疊の上に仰向きになってバットの煙を吹かしてゐたが、徹三の後から絹江が絹江が微笑を泛べながら這入って來るのを見ると、慌てゝ起き上った。中谷の絹江に對する態度には、一度は一度と改まったものが加はるやうな所があった。然し徹三は純良な少年肌の中谷の、立派な女性に拂ふ慇懃さだと思ってゐた。
「ぢゃ、お茶でも御馳走になって一足遅れて出るよ。」
 徹三が用意を整えて、扨て忘れ物はないかな? と突っ立った儘考へてゐると中谷は下から見上げながら言った。
「あ、どうぞ、全く今日は失敬しちゃう。」
「いや、と、それから、北澤君から言傳けがあったっけ、據金だよ一人前五圓なんださうだが。」
 と中谷は急に思ひ出したやうに吸ってゐた煙草を勢ひよく捨て、ふっと煙を吹いて言った。
「何だい!――」
「ユカシエンカが近く嫁入りする事になったんださうだ、それで――」
「――」
「何か僕達のグループで記念のプレゼントをしたいって言ふんだがね。」
「――へえ! さうかい、それぁ讃成だ。だがゆかちゃんが結婚するとは初耳だったなぁ――」
 徹三は感慨を籠めて言った。何か胸に強く響くものがあるやうな氣がした。
「僕は今年になってからは、すっかりトロイカにも失敬してゐるんで、何にも知らなかったんだが、何かい、ユカリーナのマリエーヂの話なんか前からあったのかい。」
「いや僕も先達に宮田から聞いたばかりなんだ、堤さんなんかまだ表向き發表してゐないんだ。」
「勿論確實なんだね?」
「それぁ確實さ、嫁入先と言ふのは法學士か何かで、仙臺にゐる人なんださうだ。僕等も安心してユカシエンカを渡せさうに思ふんだ。」
「……」
 徹三は部屋の中をズボンのポケットに手を突込みながら歩き始めた。「ゆかりが結婚する、僕等のゆかりが結婚する!」――それは假令自分の所有物ではなくても、自分の眼の前の庭に咲いてゐた美しい大きな花が、突然横手から出て來た人の手に、引抜かれてゆく寂しさがあるのだった。

「己達もこれで寂しくなるなぁ、硲の横濱と、宮田の浦和とは先づ東京と見ていゝが、津田の札幌歸りは一時的でも己達にぁ寂寥だ。佐伯はゐないし、ユカシエンカもゐなくなるし。」
「宮田さんは浦和にお出になるんですの?」
 中谷の獨言のやうな言葉に絹江が言葉をはさんだ。
「えゝ、あすこの縣立中學に行く事になったんです。」
「古屋は結局どうする事になったんだい?」
 部屋を歩いてゐた徹三が尋ひた。
「先生は遊ぶ事に決めたさうだよ。先達は、一二年どこか田舎廻りの劇團に飛び込んで、思ひっきりどん底の凄惨な逸樂に身を持ち崩してみたい、なんと言ってゐた。或ひはやるかも分らないよ。」
「あいつは徹底してゐるからいゝなぁ。」
「津田さんは札幌でお勤めになるのですか?」
「えゝあすこの新聞社の文藝欄に腰掛けるんださうです。ファザアの體の工合で又時を見て上京するとは言ってゐますが――」
「でも羅甸街は續けてゆくのでせうね? 皆さん離れ離れになってお了ひになっても。」
「勿論です、唯、これからは東京にゐる者が委員になるんです。僕は、どうせ當分遊ぶ心算でゐますから、北澤君に代って雜誌の世話を一人でみてもいゝ心算でゐるんですが。」
「四月は羅甸街を久し振りに出すと言ふ話だったがどうしたんだい?」
 徹三が出てゆくのを忘れたやうな調子で、自分の書齋机の上に腰を卸して言った。
「なんだい、君にぁ通知が行ってゐなかったのかい? 駭いたなぁ、古屋がね、古屋が當番なんだ、それであれから君に原稿の催促が行ってゐなければならない筈なんだ。」
「僕は知らん。」
「奴さんすっかり怠けちゃってゐるんだ。近頃は第二のみどりやに入りびたってゐるんだからなぁ。」
「四谷●(※文字不明)谷なんだらう? あいつのデレッタンティズムにも敬服するなぁ!」
 それから中谷は二十四五日頃迄に書けたら短篇でも書いてくれと注文し、不圖氣がついたやうに、
「おい晩くなるぞ。」
 と注意した。
「ぢゃ、僕は御免を蒙るぜ。」
 徹三は時計の針にびっくりして立上った。
「絹さん行ってきます。」
 だが絹江は、慌ただしく廊下に出てゆく徹三の後に從って玄關迄見送って來た。
「お歸りは何時頃になりますの。」
「さァね。」
 徹三は靴の紐を結びながら、
「十二時になるかも知れないな。」
「成るべく早く歸って來て下さいません?」
「なぜ?」
 と徹三はぴんと三和土の上に立ち上って、絹江の顏を見た。障子の所に片手をかけて敷居際で跼んでゐた絹江は、徹三の不意の視線を浴びて、面喰ったやうに顏を赧らめた。白皙細面の繊麗せんれいな彼女の顏は、今日は朝から感情が立ってゐるせいか、生々と病的に輝いてゐるやうだった。殊にその眸なぞ今の瞬間、徹三に惹き付けられる美しさを感じた。力一パイで見てゐた眸、叡智と情熱の溶けあった處女の晴眸!
「なぜです?」
 徹三は反對に受けた小さい感動を反ってテレて隠すやうに、もう一度同じ事を訊ねた。

「私ね、今日こちらに泊る事にしましたの。なんだか寂しくって寂しくって、親子四人の家には歸る氣がしませんの。私さう言ったらこゝの小母さんが、ぢゃお泊りなさいって言ってくれたんですの。こちらには十人足らず人がごちゃごちゃ賑やかにしてゐるからって。だから、私、今夜はこゝの家で貴方のお歸りを待っておりますの。」
 東中野からお茶の水迄の省線電車の中は、徹三は絹江の事ばかり考へてゐた。何と言っても、彼女のやうな善良で美しくそして才媛である娘が、肺病といふやうな不幸な病魔に冒される事は殘念であり、いたましくあり、心配な事であった。 もともと昨秋汽車中で一瞥した時から、彼女は脾弱ひよわさうな弱々しい體つきをしてゐたから、徹三が密かに思った通り、病身であったに違ひないのだが、扨て彼女がさうした業病にとりつかれてゐるとなると、とんでもない不幸が突然に降って湧いたかのやうに心痛されてならなかった。
「サナトリュームに、さうだ一日も早く規則的な療養生活に入れなけれぁならない、さうしたら或ひは思ったより簡單に恢復するかも知れない。絹江だけはどんな方法を執らせてでも病氣からは抜け出させなくてはならない!」
 それにしても徹三は、今日絹江の病的な亢奮が――あんなに生々とし、そして言葉にも行爲にも元氣なのが、亢奮から來たものでない筈はない――なんとも言へずいぢらしいものに回想されてならなかった。 餘程の強いショックを受けたのだらう、彼女自身はそれを主観觀的に思惟して、それでやっと心が落ち着けたとか、運命を悟る事が出來たとか言ってゐるが、客觀的に徹三から、見ると、それらは反って悲痛な彼女の苦惱の絶望的詠哲のやうに思はれた。即ち彼女の今日の言葉なぞは哲人のやうな心境から言ふのではなくて、異常な亢奮の上で譫言のやうに云った言葉に違ひないのである。
 可哀さうな病氣の子絹江、幸あれ。
 徹三は幾度となく、彼女を祝福するやうに心で叫んだ。
 ――アパートメントのマダム、沓子の部屋を訪ねると、待ち兼ねてゐたやうなあるじが、直接にドアのノッブを廻していらいらした顏を出した。
「随分晩いぢゃないの! もう五分待って來なかったら、おいてきぼりしてやらうと思ってたのよ。」
「いやどうも濟みませんでした。時間をうっかり過ごしちゃってゐたものですから。幾重にもお詫致します。」
「いやに素直なのね、ぢゃ許したげるは。その代り休息時間なしよ、すぐ行きませう。今からすぐ行っても一番目は間に合はない位なんだから。」
「一番目はくだらない新作ぢゃありませんか、あんなのは反って見ない方がましな位ですよ。」
「御挨拶なのね、私は始めッから觀たいのよ!」
 ――五分も經つと沓子と徹三はビウイクの中に肩を並べて萬世橋のあたりを駛ってゐた。高價な芝居行晴着に身を包んだ沓子は相變らず令嬢のやうに若く美しかった。然し徹三は毎時でも彼女と身近く接すると、他の美しいだけの女性からは受けない壓迫をじりじりと感じるのは、沓子の美――容姿から態度迄――には多分なコケットリイが含まれてゐるからだと思ってゐた。昔はさう迄強く感じなかったのだが、近頃は、徹三が鋭敏になったせいか、どうもわづらはされる氣持が多くてならなかった。無論それらは徹三には苦笑以上の事ではなかったが……。
「土屋が歸って來ますのよ。」
 沓子が雜談を口にするやうな調子で言った。
「は、さうですか、いつ?」
「來週の月曜日かしら?」
「ぢゃ、あと四五日ですね。」
「えゝ、さうなの。」
「それぁ――」
「それぁ――何?」
「それぁ結構ですね。」
「……」
 何か彼女が答へやうとした時くるまは市村座の前にピタリと止まった。

 ※第106回欠?(※この頃休載もあり以降ずれたと思われる)

 美しい婦人を同伴する事がどんな男性にも喜びでない筈はない、時に依っては大きな誇りともなるだらう。そしてこれは近頃の自由思想に生きる女性にも或程度迄は裏返して適用されはしなからうか。
 徹三は今日沓子と連れ立ってゐる事を、場所がら決して不愉快なものには思ってゐなかった。寧ろ人前や社交界に出しては、容姿態度教養の點から言っても決して誰れにもひけを取らないであらう彼女のやうな女性を、親しげに自分のコムパニオンとしてゐる事に、人並の少さい優越を感じてさえゐた。それに恁うした場所には男でも女でも自分一人で來るのは餘りに徒然な事である。それを思っても沓子は彼女が徹三をして多勢の人達の前に得意を感じさせる美しき存在である以上に、よき趣味の上の話相手、即ちよき觀劇同伴者であるのだった。
 これに對して沓子も此の若き男性の連れを尠からず喜びとしてゐるやうだった、假令彼女がその知り人に彼の事を若き燕と放言した事が冗談であったにしても、その中に彼女の變態的な女性的誇り、即ち徹三が抱いてゐると同じやうな誇りが多分に含まれてゐない筈はなかった。要するにその善惡の批判は別として、現代に於けるレデー間には、彼女の夫が彼女以外の異性に享樂を求めると同じ主張と權利とを以て、夫以外の若き男性を愛する事を當然とし、又は誇とする事が流行してゐるやうである。
 彼女達は從來の物質的見榮坊を倣棄して、或ひはかゝる叛逆に新らしき見榮を張るのかも知れない。
「ねぇ、徹三さん、貴方今晩私ん所へ泊んなさい?」
 芝居が次第に終りになった頃沓子は何氣ない口調で言った。
「どうして?」
「どうしてッて事ないけど、私なんだか今夜は家に歸ってから一人ぼっちぢゃ寂しいやうな氣がするの、話相手が欲しいのよ。」
「僕ぁ斷るな、夜中中貴方の話相手になる事なんか。」
「不人情ね、私は貴方の事だといつも献身的なのに、貴方はまるで冷淡ね。」
「冗談ぢゃない、とんだ所で恩に着せられるものだ。」
「兎に角今晩私ン所來て下さいよ、カクテールでもなめて睡くなる迄話ませうよ、私もこゝ四五日がせいぜい天下なの。」
「でも、男の僕がそんな事していゝんですか?」
「そんな事って?」
「そんな事って――御婦人のお部屋に夜中訪問する……」
「いゝわよ、誰が故障を言ふものですか、主人の私が招待するんですもの。」
「うるさくないんですか?」
「うるさいものですか、誰も氣になんぞ止めやしませんよ、ねいゝでせう、もう決めた事よ。」
「困ったなぁ。」
「あらまだなの、私怒ってよ。」
「いや家でも僕を待ってゐるんです。」
 絹江の寂しげな人待顏が今しがた忽然と徹三の心の上に泛んでゐたのだった。然しどう言ふものか、身も心も華やかな空氣に陶醉してゐる現在の徹三には、少しばかりその病身らしい陰氣な冷たい表情はいまいましいものだった。謂はば興醒めの感とでも言はうか――、それで絹江に同情は起ってゐながらきっぱり沓子の申し出を拒絶する決斷を持得ないでゐた。
「誰れが?」
「誰って――」
 徹三は言ひ淀んだが、まさか一人の若い女性が、とは言へず、
「――下宿の人がです。」
 と答へた。
「それなら電話でなんとかお斷りなすったらいゝぢゃありませんか?」

「でも電話なんてないぢゃありませんか。」
 徹三はまだどっちつかずの態度で反駁すると、
「さうだったわね、ぢゃ、どこか近くの物賣店からでも繼いでもらうやうにしたら……そんな所ない事?」
「あるにはあるが、さあ、どうしやうかなぁ……」
 徹三は他愛もなく子供のやうに迷って言った。誰でも經驗するであらう、後から考へて見ると右すべきか左すべきかは莫迦らしい位に明白な事でありながら、不圖その場の氣持のコンデッションで、自己の聡明を覆ふディレンマを感じ、うこうと愚にもつかぬ事をして了ふやうな事を。丁度それが今の徹三だった。 普段の心でなら假令絹江に對する同情心と言ったやうなものは別にしても、沓子の申出の如き事は唯一笑で辭退したであらうのに、どうした氣持の氣紛にか、今宵の徹三の心は甘い陶醉に云はば未練のやうなものを、突然に持ち出された沓子の言葉から唆られたのだった。「久し振りのこんな歡樂氣分を冷たい下宿の寝床の上で消して了ひたくはない、沓子のアパートに行けば、そこには華やかな氣分の續きがあるのだが」つまり誘惑がそれだった。
「まだそんな事云ってんの! いやねぇ。」
「ぢゃ、電話掛けるとしやうかなぁ――?」
「さうなさいな、早い方がいゝ事よ。あんまり晩くなると電話の取次なんて迷惑がられるから。」
「到頭それに決めるかな。」
 ずるずると、例へて言へばファウスト博士がメフィストの罪多い私語に乗せられて行って了ふやうに、徹三は自己の眞意からでなく誘惑に引下された形で、そっと椅子から腰を上げた。
「ぢゃ掛けて來ますからね。」
 ――舞臺では呼物の「近頃河原逢引」が漸く佳境に入りつゝあった。場面は早「堀川猿廻し」の場で、友右門の與次郎の母が子役のお鶴に不自由な眼をしばたゝきながら三味線の指南をしてゐる。彈く曲は「烏邊山」……女肌には白無垢や上に紫藤ヶ紋、年は十七初花の、雨にしほるゝ立姿、男の肌は白小袖、二十一期の色盛りをば戀と言ふ字に身を捨小舟、どこへ取付く島とてもなし……。
 ――徹三は、舞臺を殘してあかりの總てが消えてゐる薄暗い平土間の通路を、舞臺面に吸はれてゐる無數の觀客の視線に逆らって、腰を折り跫音を忍ばせて出口の方に傳って行った。
 明るい廊下に出ると徹三はほっとした。そしてすぐ近くの喫煙室に這入って其處の一隅にしつらへてある電話室から、東中野のもよりの洋服店に電話を掛けた。だが郊外の電話の接續は仲々工合よくは行かなかった。然もこちらが公衆電話であった爲めに、五分か六分置きには客があって、それ等の電話と入れ交ったりして電話口を退いて局からの呼出しを待ってゐる徹三には、いつ迄たっても要領が得られないのだった。
「弱ったな。」
 ものゝ三十分も經ってまだ電話が通じないで喫煙室のソファの上に立ったり坐ったりいらいらしてゐる徹三を見ると、その室付きの女給仕が、
「ぢゃ私がお掛けしてみませう、向う様がお出になったら、お知らせ致しますから。」
 と言ってくれた。徹三は電話番號と、それから自分の座席のナンバアを教えて置いて、又薄暗い觀客席に歸った。
 ――舞臺では、菊五郎の與次郎が、猿廻しの稼業から歸って來て後始末やら寝る仕度やらを一流のレアリズムで器用にアクティングしてゐる。
「こまかいぞォー。」
「音羽屋ァ!」
 大向ふで景氣よく怒鳴る聲が聞える。

 軈て舞臺では母者も奥に引込んで床にはいり、與次郎お俊の兄妹も煎餅蒲團にくるまって横になる、與次郎の寝方が奇抜だと云って觀客席に笑聲が湧く、そこへ舞臺下手の竹藪の影から傳兵衛が悄然と出てくる。浄瑠璃が人情の籠った泌み泌みした哀調で、こゝのパントマイムを浮出させる。……更け行く鐘も哀れ添ふ、頃しも師走十五夜の、月は冴ゆれど胸の闇、過ぎし別れの云ひかはし、死なば一緒と傳兵衛が忍ぶ姿はしょんぼりと、佇む軒は見覺えの、慥に爰と門の戸へ……。
「あの、先程の御電話でございますが――」
 思はず舞臺に吸ひこまれてゐた徹三の耳に、誰やらひそかに呼びかける聲が聞えた。見ると椅子の横の通路に仄白く顏を浮ばせて先程の喫煙室の女給仕が背を圓めて跼んでゐた。
「あ、掛りましたか?」
「いゝえ、どうしても通じないのでございます。局でもどうしたんだらうと言ってゐますが……」
「さうですか。」
 徹三もあぐね果てたが、然しどうすると言う方法もないので、
「ぢゃよござんす、どうもお手數を掛けました、有難う。」
 と、女給仕を歸した。
「掛らなけれぁ、電話なんかどうだっていゝぢゃないの、十二三の子供ぢゃあるまいし、道にはぐれたとも思ひますまい? どうせ芝居に來た事は斷ってあるんだからお友達の家へでもと思ふわよ。」
 沓子は舞臺から眼をはずして小聲で言った。
「そんな事はどうでもいゝんだ、唯、絹江が、絹江が、僕の歸りを待ってゐるんだ!」――徹三は心で激しく叫んだ。だが、爰でもむくむく頭を擡げたイーヂーゴーイングな心に彼の心は抑へられて了った。
「放ったらかして置くのも惡いが、だが仕様がないな。ぢゃ兎に角今晩はお説に從ひますよ。」
「恁う迄お勸めしたんですものあたり前よ。」
 沓子は徹三を優しく睨まえて言った。
 ……舞臺のお俊は今涙ながらにかき口説いてゐる、「そりゃ聞えませぬと傳兵衛さん、おことば無理とは思はねど、そも逢ひかゝる始めより、末の末迄云ひ交し、ほんの女夫と思ふ物、大事の大事の夫の難儀、命の際にふり捨て、女の道理が立つものか、不幸とも惡人とも思ひ諦めこれ申し、一緒に死なして下さんせ。」觀客はこのあたりに絹糸のやうな感情の糸で胸を緊めつけられる。 繪草紙にあるやうな美女が果敢はかない縁に操られて、想ひ焦れても添はれぬその情人と、火のやうな戀情の裡に死なんと言ふのではないか。その劇のコンストラクションからいへばお話にもならない幼稚な、陳腐極まるものであったが、でも、そこに息づく人情には、昭和の御代に生きる徹三等にも、ほろりとさせられるものがあるのだった。戀に戀する者の氣持とは幾世を經ても變るものではないのであらうか? 軈て舞臺の戀人たちは思はぬ母や兄の情ある理解を得て、夫婦になる事を許される。 だが罪を持つ傳兵衛の悲しさには兩人はその場から何方かへ落ち延びなければならない。與次郎はその門出に彼等への餞として祝言の壽といふ猿廻しをする。「お猿は目出度や目出度やな」――の紐を操りながらえがらっぽい聲で歌ふ與次郎の眼には、けれども隠し切れない涙の玉が宿ってゐた。去り行く兩人を見送る兄と目の不自由な母と……。
「どうしたのよ? 考へ込んぢまって。」
 ――歸りの自動車の中で沓子は細卷のディミトリノに火をつけながらいった。
「いや疲れたんですよ、お家に行ったら早速リキュールでも戴かなくっちゃ。」
 徹三は懶げに笑って見せて言ふのだった、心ではとんでもないかつ子の事なぞ忍びながら。

 アパアトの、沓子の部屋に歸ると、兩人は打寛いで、お手製のカクテールやら、お波奈さんに用意させた甘口の洋酒やらそして輕い夜食の食べ物やらを撮った。スチームの通ったコムフォタブルな上等な部屋に、花壺に花の薫テーブルを前にして、深々とクッションに身を沈ませながら、快よくアルコールでほてり始めた顏を壁天井に向けて、ふうッと舶來煙草の煙を吹き上げて徹三の心は、いつになく緩み切った、安逸を貪るものだった。
「もう少しめし上れ?」
 歸宅すると間もなく外出着では窮屈だと言って、隣の部屋に這入って着換えて來た。贅澤な厚地のパジャマ――と言ふよりも寧ろ風變りな室内着の姿で、沓子が卓子の向ふ側からあらはな白い手を伸ばし、きらりと光った洋酒の瓶を差しのべた。
「もう結構、今が丁度いゝところです。」
「まあさう言はないで、召し上れな、今夜は醉はさなければ承知しないのよ。」
「醉はせて聞きたい事がある、とでもいふ寸法なんですかね?」
 徹三の笑ひで空中に立迷ってゐた煙草の煙が勢ひよく四散した。
「えゝさうなの、お察しの通り。」
 二人のグラスに玉虫色の液體を勝手に注ぎ終ると、沓子は一寸しなを作った眸つきをして言った。
「うふゝその手には乗りませんよ、尤も日頃恩顧を蒙るマダムの事だから、話していゝ事は話しもしませうがね。」
 あく迄冗談だと氣を許して鼻の先で斯ういふと、沓子は相變らず笑ひを湛えながらも、その瞳を一寸意地惡く輝かせて、
「ぢゃあ、」
 と相手の眼に自分の視線を打ち込んで置いてずばりと、
「私、貴方の戀人の事を聞き度いのよ。」
「戀人?」
 徹三はズシンと胸を撃たれるものを感じた。突嗟に相手の心を推し計れずに、眼に見えた動揺を眼の色に示して、
「冗談でせう。」
「あらそんなにテレなくたっていゝ事よ、それに水を差さうなんて氣はちっともないんだから、心配する事ァないわよ、でもあの方は何て云ふの、稚い可愛い方ぢゃないの。」
「鎌掛けるなんて卑怯ですよ、それに戀人だか何だか一緒に芝居を觀に行った位で決められるものぢゃありますまいが……」
 勿論かつ子の事を沓子に隠す氣持なんかすこしもなく、それよりはなほ一歩進んで折にふれてはかつ子の事を打ち開けて自分達の身方になってもらひたいと考へる時すらあるのだったが、今、虚を衝かれた斯うした立場に立たされると反ってあっさりとは云ひ出せなかった。それに例のおっかぶせるやうな沓子のものゝ云ひ方が徹三を餘計妙に拘泥らせたのである。
「誤魔化すのねぇ、戀人だか一寸したお連れだか、その邊の區別は一目見たら誰にだって判る事よ。私貴方がた二人を見た時は可成り嫉妬を感じちゃった。」
 ガチャリと皓齒にグラスの淵が當って琥珀の液體は見る見る三分の一程紅に濡れた沓子の唇の奥に流れ入った。
「誤魔化すんぢゃないが、弱っちゃったなあ――」
「どうして弱ったの、私に突込まれたら惡いやうな戀人なの? そんな事はないんでせう、なら立派に私に報告したらいゝぢゃないの。私貴方のお姉さんよ、貴方は弟ぢゃないの、弟がお姉さんに嫉妬さすやうな事をして置いて、それを默ってるなンて法はない事よ。」
 ずッと卓子傳ひに身を寄らせて來た沓子は徹三の横に席を占めた。
 ――アルコールですっかり上氣した妖艶な彼女の顏が、不圖すぐ自分の頬の横にあるのに、徹三は沓子から受ける例の獨特の壓迫を何處へともなく身體中に受けた。

 ――嘗て、そのかみの少年の日に徹三は、年上の沓子にリリジカルな片戀を味った事があった。今から振り返ってみると、總てが子供らしいセンチメンタリズムで固められてゐて、苦笑めいたものを感ぜずにはゐられないのだが、然し又、そこには幼い繪筆で描かれた抒情風な油繪のやうな一種新鮮な懐しいものもないではなかった。
 その頃は徹三も金釦の中學生だった。彼はよく友の布施に誘はれて、布施の親戚である沓子の家を訪れた。震災後にすっかり變って了ったけれど、三筋町のそのあたりには、老舗を誇る紺の暖簾の店や、夕陽にやける白壁土藏、燕の低くかすめ飛ぶ枝垂れ柳の行路樹が、さながら江戸の昔を忍ばすやうに、落ち着いた町並みを作ってゐた。 沓子の家も連子格子の生絲問屋で、店先には丸三と屋號の染抜かれた暖簾が重くさがってゐた。そして、徹三はよくそこの店先に、艶麗な下町好みの沓子の娘姿を見かけたものだった。今でこそ徹頭徹尾彼女は洋服に轉化してゐるけれど、女學校を出たてのその頃は髪は無論日本髪で着物も黒襟のかゝった友禪かなにかだった。徹三は彼女を見ると、何といふ事なく繪草紙の八百屋お七を聯想されてならないのだった。
 沓子は、然し中々親切だった。彼女は徹三を從弟の布施よりも大切にしてくれたやうだった。或時一葉の「たけくらべ」を是非讀めと言って本箱の中から貸てくれた事があった。彼女は文學なぞに趣味のない弱々しい布施を「役者の子のやうだ」と言って軽蔑してゐた。その頃から彼女は感情の激しい牝鹿のやうにきびきびした、勝氣な娘だったのである。彼女は徹三の文學的才を既にその時分に認めてゐてくれたのだった。
 斯うして沓子のもとを訪問する事は、父母を失ってともすれば悒鬱がちにならうとする徹三には、たいへんな慰めになった。然しそれと共にいつ知らず彼の胸には、當然ありがちな惱みが宿されない譯にはゆかなかった。
 徹三には沓子を訪問してもぼんやりしてゐる事が間々あるやうになった。
 ――何ぼんやりしてるの?
 或時などは陽當りのいゝ沓子の部屋の窓据まどかまちに腰掛けて、横丁の堀割の上を曳舟のゆっくり通ってゆくのを、自然と涙ぐまれる心で見てゐるのを、沓子は怪訝んで訊ねた事なぞあった。彼女の眼には今で思ふと、少年徹三なぞ、どうしたって戀の對象としては映らなかったのに違ひない。年は徹三より三つ上でしかなかったが、彼女は既に立派な大人だったから、そんな事に氣づかない徹三はひどく彼女が無情におもへて、やたらに口惜しくばかり思はれた。
 ――掘割の水に秋の空が眞青に映ってるんです、それを見てゐたら何だか寂しくなって。
 ――あら貴方は随分寂しがりやねぇ。
 さらりと立つと、沓子は、無邪氣なしぐさで、徹三を柔かい胸にそっと抱くやうにしてくれた。こんな一寸した事もその時代の徹三には忘れ難い事だったのである。布施は中學卒業間際に亡くなったが、徹三は相變らず沓子を訪れてゐた。然しそれから間もなく彼女は忽然と嫁入ったのである。なんでも二人で散歩した時、春の月のやうに光る瓦斯燈の下で、彼が何の氣なしに吹き鳴らしてゐた口笛に、いつにないセンチメンタルな涙なぞを流してゐたのが、彼女に處女の別れを告げる日の近づいた頃だったのではなかったらうか。 兎に角、少年徹三の片戀はお伽噺の姫に寄せた戀のやうに儚く終ったのである。そしてそれは徹三も一人前の青年に成長し、沓子も立派な外交官夫人として賣り出すに及んで、別の友情に轉換されて行った。即ち徹ちゃんが徹三さんに、沓ちゃんが奥さんに。完全にそして不自然なく移り變って行ったやうに。

 だが今、突然に受けた沓子からの衝撃は、一瞬遠い昔の戀情を徹三の胸に甦えさせた。古傷のうずきが一時に甘い惱ましさを伴って呼びさまされたのである。それに徹三はアルコホルに醉ってゐた。彼は不圖惡魔の啓示に不用意な魂をゆすぶられたのだった。
 だが徹三は此の一歩を越える事が、どんなに危險な事であるかを知ってゐた。彼は心の中の感情を押し隠すやうに、おもむろに手足を伸ばしながら、何氣ない調子で欠伸まぢりに言った。
「そんな話は又この次にしますよ。それよか僕はそろそろ眠くなって來たやうですから、寝させて頂きませう。」
「こすいのね、私、貴方が白状しない中は寝かさない事よ。」
 椅子を引寄せ座った儘でずり寄せ、今は亂暴に體を徹三の方に仆しかけて、覗き込むやうな工合に沓子は徹三に顏を近づけた。
 ――何と言ふ事だ! いかに何でも餘り酷すぎる!
 徹三は瞭り形をとって泛び上って來た不安を、周章あわてた心でみつめた。それは餘りに今迄の清純な交際からはかけ隔てたものだった、自分達への冒涜だった。
「寝かさなけれぁよござんすよ、この儘此處で眠って了ひますからね。」
 遉に胸が怪訝しくときめいて來て、それが危く態度に迄現はれて來さうになるのを、彼は醉態の中に紛れ込まさうとして、深く安樂椅子の中に身を沈めて、熟と眸をつむった。頬がほてり増て來た。
「ぢゃもう訊かないわよ、言ひたくなかったら言はないがいゝわ、唯酷く嫉妬を感じちゃってゐたのだから――さァもう一杯いかが?」
 徹三は首のあたりに生温い彼女の息がふれるのを鋭い神經で感じてゐた。
「もう結構です、あまり醉ふと恩人に迷惑を掛ける事になって了ふかも知れませんからね。」
「恩人?」
「えゝ貴方は僕の恩人なんです。貴方は僕にパンの爲めに椅子を與へて下さったんですからね。」
「恩人はいゝわね、ぢゃあ恩人の言ふ事なら何でも聞いて下さらなければいけないわ。」
「えゝ何でも聞きますよ。」
 徹三はひょろりと椅子から立ち上って、彼女から遠のくやうに窓際の長椅子の方によろめいて行った。立ってゐると意識してゐたよりも激しく醉ってゐるらしかった。彼は仆れるやうにクッションの上に横になると、もう金輪際彼女の言動には心を動かされまいとして兩腕を堅く胸に組んで眸を閉ぢた。
 それにしてもマダムの、今宵の突飛な態度はどうであらう、まさか? ――とは思ふものゝ、惡意に解釋すればいくらでも惡い意味に取れる。一體どうした惡魔の氣紛れだらう。然し又、一方から考へれば、これは反って自分の恥づべき取越苦勞かも知れない。元々彼女は性格的にフランクリィなリベラリストで、知らない人が見たのではハラハラするやうな言動も平氣でする人だ。だから今宵の誘惑的なコケットリィも、或ひはいつもの親さから出た他意ないものかも知れない、――徹三は考へると、無理にでもさう決めたく思った。
「そんなにお苦しいの? ぢゃあ寝室に御案内しますわ。」
 兩手を華奢な卓子に突いて椅子から立ち上り、これも幾分輕くよろめき加減に、沓子は徹三に近づいて來た。彼女は徹三と三杯に一杯の割でしか洋酒でもカクテールでも飲んでゐなかった。
「濟みませんがね、奥さんお波奈さんを呼んで下さいませんか? 僕の寝臺に案内して頂きませう。」
 徹三は眸をつむった儘重く言った。

「お波奈? ――お波奈はもう寝かせてあるから、私が御案内しますわ。」
「さうですか、ぢゃァ――」
 徹三が殊更に瞳を顰めて開けて半身を無精さうに起すと、沓子はにこりと笑って腕を差出した。これに掴まって椅子から立てと言ふのである。すんなりと整った中背の、外國人タイプに習慣づけられた彼女の容姿は、今リア・デ・プティのやうな魅惑を湛へて、兎もすれば情感にかきみだされがちな徹三の瞳に寫った。
「さあ。」
 だが徹三は瞬間に自己を克服して、氣づかない風で一人で立ち上った。勝ったやうな寂しいやうな氣がした。
「どちらです?」
 徹三は眼を彼女からそむけて言った。
「こちらなの。」
 ヂャスミンの香を、徹三の嗅覺に殘した儘、彼女は牀に敷きつめたトルコ絨氈の花模様を踏んで部屋の一方のドアの方に進んだ。
「どうぞ。」
 ――開けられたドアの彼方には濃藍のシェードに光を濾されて、恰も海底のやうに睡った部屋があった。醉眼によくは見極め難いが天蓋附きのどっしりした寝臺や黒光りしてゐるマホガニイの衣装箪笥や、鏡面をシルバァプレインのやうに光らせてゐる化粧臺や、水差しとコップの並んだウォッシスタンド、そしてこれらを縞目に照らしてゐるフロアランプ――は、一目見て此處が主人用の閨房である事を思はせた。徹三は遉に躊躇した。
「どうなすったの?」
「あの、僕はどこでもいゝんですけれど。」
「まァ變ね、どこでもよかったら此處でもいゝでせう?」
「僕、本當に此處でいゝんですか?」
「いゝのよ! さあ大きな坊ちゃん、御ゆっくりお休みなさい、お寝卷はあの椅子の上に。――クーシェーブー。」
 輕く肩を押して、徹三をその部屋の方に這入らすやうにすると、自分は一二歩退いて、ドアを靜かに閉めた。徹三は一人とり殘されると吻っとしたやうに、傍に見つけた小椅子に腰を卸した。
 ――矢張り自分が淺間しかったのだ。マダムはひとつも今宵の事なぞに拘泥はってなぞゐないのだ。本當に思ひ邪なる者に禍あれ! だ。
 どこからともなく香ってくる寝室用の芳香に、彼は寂しさを誘はれつゝ思った。五分、十分、十五分、薄暗い室の隅に熟とさうしてゐると不自然な情熱は靜かに身の裡を引いて、彼はやっと落ち着いた氣持になれた。徹三は立ち上って寝臺の横に行き、洋服を脱ぎ、そこの椅子の背に折り疊んで掛けられてあった浴衣に着換えた。 それから水差の水をコップに注いで一息に飲み、疲勞にせかれて寝臺に上った。感觸の冷たい絹の羽根蒲團と純白のシーツ、そして廣いダブルベットにクッションの枕が一つ備へてあった。彼は擽ったい氣分を感じながらスプリングの利いた寝床の上に身を投げ出した。なんと言ふ事なく太平洋上の汽船の上にゐるミスタッチャの事が思はれた。
 十分、十五分――再時は化粧臺の上の小さな置時計に刻まれた。徹三は二三度轉輾した後に、息を長く引いて、軈て眠りに陥んとした。と、音もなくドアが開けられて、明い光を背負った白衣の女性が、スリッパの音もなく送り込まれて來た。女性は靜かに寝臺に近ずくと、斜に體を跼めて、輕く徹三の額に唇を當てた。はッと眠りから引き戻されて徹三が眸を開けてみると、妖花のやうに微笑んだ沓子の顏が、蠱惑に滿ちたクローズアップになってゐた。

 走る自動車の中で、徹三は堅く唇を噛んでゐた。深夜の町には人影とてはなく、森と靜まり返った闇の中に、放心したやうな灯が凝固して連ってゐた。フロントガラスを通して、ヘッドライトの光芒が黒い地上に揺れるのが見え、その青白い光の中に蛇のやうに光る電車路や、白い埃の舞ひ立つ凸凹道や、ギシギシとタイヤに石の彈ける砂利道やひどく滑らかなアスファルト路が、現はれ且つ消え去った。時折ゆき逢ふ自動車が合圖のやうに光を消し合ってすぎる。
「待て!」
 行手の暗がりから、警官らしい影の合圖したのが見えた。ブレーキを器用に入れて車はすうッとスピードを落して止まった。丁度赤い電氣の灯ってる交番の前だった。
「君ァ何處へ行くのかね?」
 外套の襟を立てた警官は運轉手席のドアから首を突き込みながら後ろの客席に身體をこわばらせてゐた徹三に言った。
「東中野です。」
「どうしてこんな晩くなった?」
「知人の宅で夜更ししたんです。」
「職業は?」
「學生です。」
「なるべく早く歸るやうにせにゃならん、よろしい。」
 ――自動車は再走り出した。その邊からめっきり暗い市外に曲り込んだ。自動車が通ると一パイになる石塀と溝沿ひの物騒な道があった。内側から幕の引いてある安普請の店家、雨戸をぎこちなくおろした貧しげなしもた家、剥げちょろの看板に黄色い裸電燈の光の落ちてゐる安カフェなぞの、ごちゃごちゃ並んだ小通りもあった。然し何處も此處も寝靜まって自動車の速力を妨げる何物もなかった。
「二時か――」
 徹三は組んでゐる腕の袖口から覗いてゐる腕時計に眼をやりながら思った。
「早く歸るやうにせにゃならん、全くその通りだ。早く歸りさえすればよかったんだ!」
 徹三は、三十分前のアパートでの出來事を、決してもう一度思ひ出してみやうとは思はなかった。夢から現實に引き戻された瞬間のあの駭ろき、人間の理性と情念との時に際して支配力を爭ふ悲惨な爭闘の魂、底から湧き上って來る惡魔に對する憤怒、絶望的な涕涙、火のやうに猛烈な反省……それらは隙あらば鐵棒を振り翳すやうな勢ひで、彼の心に今一度打ってかゝらんとしてゐるのである。徹三はひしひしとその壓迫を背後に感じてゐた。
「もう少し待ってくれ! 煉獄の火は潔く引受ける、だが今振り返ったのでは、俺は自殺以外取るべき方法を發見出來ないのだ、靜かに靜かに考へさせてくれ!」
 徹三は、噛みしめた口の中で聲のない叫びを幾度となく繰返してゐたのである。
「この邊ですか?」
 ショウファが、ハンドルを握った儘言った、バックミラを通して徹三の蒼ざめた顏を伺ってゐる。
「扨、驛はまだ随分先ですか?」
「あの角を曲って行った邊りが驛でせう。」
「さうですか、ぢゃ、いゝ加減な所で駐めて下さい。」
 見當のつかない眞暗な屋敷町の道傍に車から降ろしてもらひ、そこから足の向いた方に歩き始めた。自動車は深夜の空氣に一切爆音を高めながら、赤いテールランプを闇の中に曳いて軈てカーブを曲って行って了った。
「俺はどこをどう行ったらいゝんだ、俺の道は眞暗だ、俺は道を失って了った可哀さうな男だ。あゝ俺は早く歸りさえすればよかったんだ。警官――何故もう少し早くそれを注意してくれなかったのです。絹江の寂しく待ってゐてくれる家に、何故もっと早く歸るやうに注意してくれなかったのです!」
 徹三は寒風の横なぐりに吹く暗い道をよろめくやうに歩いた。

山の湯
 春とは言へ、山里の明け暮れは寒く冷たかった。上強羅から西へ登って十三町、硫黄の地獄けむりをいまだに濛々と、摺鉢底の赤熱した岩間より吹上げてゐる大涌谷噴火口と、細徑に傳ひつゝ半周巡って、更に西へ下る事約八町、巍然きぜんと聳ゆる神山と仙石原に面した楓林に挾まれて、箱根七湯でも名高い姥子温泉がある。そこの宿の秀明館に四五日前から滞在してゐるのが顏色憔悴した硲徹三だった。
 ――だが又此處は何と言ふ寂しい所だらう。結局身も心もフェータルに傷いた徹三に、手傷を負った獸が、人知れぬ密林の奥で傷を養ふやうに、肌に浸み通る、香の強いいでゆにひたって靜かに孤獨な我身を勞る事が、今の場合最適ではあったけれど、そして彼もそれを目ざして態々山奥の寂しい場所を擇んで來たのだったけれど、實際姥子は寂しかった。 人家と云っては宿の秀明館一軒きりで、あたり數里は山と野と林より外に何物もない、春は遊山に、夏は銷夏に、秋は紅葉に、冬は避寒に、一年中それぞれの訪客で賑ふ箱根の各温泉場に較べ、此處はまあ何といふ鄙なび方だらう。尤も交通不便な所の事であり、從って都會風に化されない事が特徴であるのかも知れなかったが。
 又、時節の關係も随分あるらしくはあった。見た所座敷數は數十を數へる立派な二階建の本館に、百以上の自炊向小部屋を持つ分館とは、明らかに時節によっては如何に此處が繁盛するかを物語ってゐる。然し現在はこの廣大な大旅館の中に、客と言ふのは四五日を通じ徹三ひとりだけだったのである。それが何より怖ろしい迄に荒涼とした感を唆ってゐるのに違ひない。
 徹三は疲れた旅人の如く、この數日を座敷の中に閉じ籠って過ごしてゐた。彌生半やよいなかばの高原の空は、さんさんとプラチナのやうな陽の光を落下させて輝いてはゐたが、地上の草を、山の肌を、枯木の梢を吹き渡る山風には、未だ座敷の中に炬燵の用意をさせずにはおかぬ冷たさが含まれてゐた。彼は朝起きると長い長い廊下を、草履の音を悒鬱に立てながら、分館のはずれにある湯殿へ行った。 そしてそこで彼の體を流してくれた湯番の若者に、横笛の一くさりをいでゆにひたりながら聞かせてもらった。若者は餘程笛が好きらしくそれを腰から離したことがない。彼は旅館の下男であるが、たった一人の滞在客のために、今は、毎日湯をたてる仕事を努めてゐてくれるのである。湯も冬の間は湧出量が激減するのださうで、徹三の入るのは、岩窟内の本湯の中から樽で汲み出したものを小さな湯槽ゆぶねに湛えたものだった。
 午前から午後、午後から夕方にかけて徹三は炬燵の中にころがってゐるか、一巡り數町あるかと思はれる本館の長い廊下を、浮ぬ重苦しい顏をして、歩き廻ってゐた。ガラス張りの瀟洒たる窓戸を通しては、澄んだ空氣にくっきり浮び上った箱根外輪山の山々や、頂上の雪を目に浸む程白く反射させてゐる富士の秀た姿や、又近くには靜かな仙石原の風景も、美しく一望に眺められたが、彼はどうしてもそれに釣られて外に杖を引く心持にはならなかった。
 夜は早く寝た。電燈のない山間の宿は、襖障子にゆらめく石油ランプにも夜は早く更けて、七八時と言ふのに既に深夜の感だった。木の枝に吹きすさぶ夜嵐の音、ガラス戸の怖えたやうな震え鳴り、遠くに細く聞える横笛の調べ、それ等を夜具の中から聞きながら、徹三は、幾度考へても結局堂々巡りの苦しみを、再び改めて心に繰返し考へるのだった。

 勝三はかつ子の事を考へると窒息しさうになる程苦しかった。そしてその度毎にこの總ての苦悶を抱いた儘煙のやうにこの世から消えて了ひたい焦燥に襲はれるのだった。だが、結局徹三の苦悶と言ふのはかつ子に對してこの自責の念と耻の念と、自分のした事が相手を如何に激しく傷けるかといふ怖れの念とだった。だからこれを解決せずにはいつ迄たっても徹三は救はれない筈だった。 徹三は當然自分のしなければならぬ事が判ってゐながら、卑怯の一言で盡きる男子らしからぬ心で、悶えつゝこの數日を送ってゐたのだった。然し山の温泉場の生活は、彼の心を次第に透徹へ導くに役立った。彼はやっと自分の取るべき方法を實行する事にした。彼はこの決心がついた事を山の湯の生活の賜だと喜んだ。
 或日、徹三は長い時間かゝって書簡箋に四五枚の手紙を名古屋のかつ子宛に書いた。恥も怖れも自己に對する怒りも忍んで、自分のあやまって犯した大きな罪を僞らずにしたゝめた。こんな手紙が彼をどんな場合でも心から信ずる、そして純良な戀の美しさに幸福な夢を見續けてゐる年稚なかつ子に激しいショックを與へるか、それは徹三としては考へるに耐へない事だったけれど、でもそれが自分としては最も潔い、そして罪を償ふに足る方法だらうと考へたのだった。
 幻滅か?
 憤怒か?
 小さな世間知らずのかつ子の胸が、この手紙の文字の一つ一つに嵐に逢った小鳩の胸の如く、戰のきそよぐ状が眼に見えるやうだった。徹三は幾度かペンを折り捨やうとする衝動に驅られつゝも、正義の魂に鞭打ちつゝ、喘ぎながら文を綴って行った。この苦しみこそ、そしてこの手紙によって齎せられるだらう苦惱こそ、自分の罪を洗ふべきものだ。かつ子の歎きや苦悶を思へば、まだまだ自分のそれは輕いものだ。 罪した人間とその罪によって迷惑を蒙った人と、どちらが不幸を託つべきだらう。かつ子こそどんなに悲しみに陥し入れられるか知れはしない。自分なぞはどの程度に苦しみを經驗しても、まだそれで足りると言ふ譯には行かないのだ。もし、かつ子がこの淺間しい自分の罪に愛憎を盡かして、そして自分に對する愛情を今日限り消去って了っても、自分は文句の云へた義理ではない。否、寧ろ罪人としてはそれを希はなければならないのかも知れない。 つらいとか苦しいとか、そんな事を云ってゐる場合ではなく、眞面目に罪を問はなければならないのだ。清純と清純、誠心と誠心とを以て美しい結合を目標にしてゐた二人にとって、徹三が自分の犯した罪に嚴正であるべきは二人のまごころに忠實である以上當然の事なのである。此の罪をかつ子の心で審いてもらふこそ、かつ子との關係を尊敬すべきものにしてゐた事になるのである。
 別れやうと云ふのなら別れやう。否、この手紙を見てかつ子が自分と言ふ人間を軽蔑しない筈はない。別れやうと言ふ返事すらよこさないかも知れない。かつ子の驚きと怒りと悲しみが大きく深ければ深い程、さうあるべきだ。自分はどんな報ひでも甘んじて受けてゐなければならぬ。例へその結果、或ひは自分が此の世の中と言ふものに興味を失ひ、人生と言ふものを愛しなくなって、自分を現世から抹殺させて了ふやうになっても。
 ――徹三は、讀み返す勇氣もない書き上げた手紙を、かつ子より指定して來てある彼女の新らしい友人の住居宛にして、その日の中に出した。湯番の若者が上強羅迄用事があって出掛けてゆくのにそこ迄託して。

 だが、かつ子に較べて沓子に對しては割に樂な氣持で、徹三はゐる事が出來た。勿論、立場はどうであらうと罪は徹三に分離させられない筈はない。否、もし危險の淵に立つ前に、用心して退くか、又は危險の淵に立っても、そこで斷然踏み止まってさえゐれば、今度のやうな間違ひは起らなかったに相違ないのだから、それを思へば反って罪はうかうかと理性の綱をゆるめて了った徹三に重くかゝるべきであるかも知れない。
 だから徹三は、道徳的に審かれる罪を、自覺する事に決して卑怯ではなかった。もし、沓子が希望するならば、徹三は自身からアダルタリィの罪を負ってもいゝ位な氣持だった。何と言ってもこちらは沮喪に芽生えた本能的な間違ひ事であり、そしてその報ひも體刑的な形而下的な事で濟む事なのであるから、一方の、かつ子に對する苦衷なぞに較べて、苦惱の輕い事は格段だった。ただ一つ、斯うした間違ひをし出かした自分の愚劣さ加減に、極端な自己嫌惡の悒鬱が、ミストの如く心にのしかゝってくるのが、堪え難いと言へば堪え難かった。
「――僕は罪を怖れてはゐません、潔く罪の報ひを受ける心算です。」
 徹三は、かつ子に手紙を出した次の日に、今度は沓子に宛て、こうした文句を入れながら手紙を書いたのだった。そしてそれは案外にすらすらと思ふ通りに出來上ったのだった。
 それには、感傷を交えない徹三の意見がのべられてあった。
「――なんとしてもし出かして了ったあやまちは消す事は出來ません。これが重大な罪になるのならば、今更それもやむを得ません。――でも、この罪を一途に正義感や道徳感で明るみに出す事が、僕は兎も角、貴方にとって決して最上の事だとは思へません。一寸したあやまちが、そんな大きな痛手を齎すべきだとは、どうしても思へません。然も現代の小乗的道徳律が、僕には往々にして不合理に思へてならないのですから。
 ――今度の事は、可成り貴方にも責任があると、あながち僕の曲言でなく言へると思ひます。ですから、この罪の解決に就ては、貴方のいゝやうにして下さいと言っても、不自然ではないと思ひます。僕は罰せられるべきならばいつでも罰せられます。貴方のお考へに依る事にします。」
 それから徹三は最後に特筆して次の事を書き加へた。
「――言ふ迄もなく、私達のお附合ひは、當然今度の事件を境として中止されなければなるまいと思ひます。無邪氣だった友情を懐しむ心切なるものがありますがそれを壊して了った今となっては元に返す術もありますまい。」
「――なほ御心配お掛けしました横濱の商館の勤の口は、僕の氣持の上の潔癖から御辭退したいと思ひます。惡い方にお取り下さらぬやう。御厚意は今でも感謝致してゐるのですから。唯「気持の上から御辭退したい」それだけですから深くお咎めなきやう。手續は都合上として僕自身致します。」
 手紙を書き了ると、重荷を卸すやうに徹三は吻っとした。沓子の方は或程度迄はこれでカタがついたやうな氣がした。この手紙は配達に來た郵便脚夫が携えて行った。
 その夜、降り始めた雨の音を、楓林の枯葉の上に聞きながら、徹三は夜具の中で考へてゐた。
「惡魔の戯れだったのだ。沓子が惡いのでもない。或ひは俺が惡いのでもない。沓子が誘惑心を唆られたのもその誘惑に俺が乗ったのも、それは惡戯好きのパックのやうな小惡魔の、ほんの氣紛れから計畫したに違ひないのだ。パックは多分俺達の平凡な交際が餘りに退屈だったのかも知れない――。

 雨は夜なか中をしとしとと降って翌日は再カラリとしたいゝ天氣になった。秋雨と違って一雨毎に暖かくなる春の雨は、見違へるやうに生々とした緑を野に甦えし、木々の小枝にも新芽の爲めに洗ひ清めた。山々の姿は一段と春光に輝き、天地は今や晩冬の桎梏から逃れ出たやうだった。
「中谷さんとか仰有るお客様がお眼に掛りたいと申してゐらっしゃいます。」
 陽のよく當る裏庭の納屋の前で木株に腰かけて薪を割る湯番の若者と、先日仙石原に不時着した陸軍飛行機の話やら、大雪の降った一週間ばかり前、散歩中の外國人夫婦が突然大笹の中から熊に飛び出されて仰天して了った話やらを、山里の春らしく長閑に話てゐる所へ、女中が庭下駄を突かけつゝ來て言った。
「中谷が? 何處に來てゐるの?」
「もう御座敷にお通りでございます。」
「さう。」
 徹三は煙草の吸さしをかげらうの立つ雨に濕った地面に捨てゝ立ち上った。そして本館の建物の方に歸って行った。
「――中谷が又何しに自分の後を尋ねて來たのだらう?」
 徹三は廊下を辿りながら考へた。出先だけは絹江や中谷や津田に傳へては來てゐたが、山の湯の宿に孤獨を求めて逃避して來た原因は少しだって話してなぞゐないのである。
 廊下を曲った座敷の前に出るとそこに中谷がマドロスパイプを啣えて立ってゐた。足音に察して窓の景色から眼を移し、徹三の姿を待ち構へてゐたらしい中谷の、微笑を泛べた懐しい顏を見ると徹三も反射的に喜びに顏が崩れた。
「やあ。」
「やあやあ吃驚したらう。」
「一寸意外だな。」
「急に思ひ立ったんでね、でも行き違ひにならなくてよかったよ。」
「いつこっちに來たの?」
「昨日夕方小田原に着いてね。昨夜は塔之澤に泊ったんだよ。相憎雨なぞ降るんで悲觀したが、今朝起きてみるといゝお天氣なんだらう、すぐ元箱根に出てあすこから蘆の湖を湖尻に渡ってえっさえっさ此處まで登って來た譯なんだ。
「僕の歸らうとする道順だな。まァどうだい風呂でも浴びてゆっくりしないか?」
 徹三も逢ってみれば嬉しくない筈はなかった。孤獨を慕って來たとは言ふものゝ、絶望の底に微なあきらめの安泰を見つけてゐる現在の消極的自己が酷く寂しいものでない筈はなかった。その寂しい中に何と言っても思ひ掛けない親友が現れて來たのだ。それに場所が場所でもあり徹三は豫期しなかった程の力強さや明るさを、退嬰的に萎縮した心に受けたのだった。
「ぢゃァ、用事があった譯ぢゃないんだね?」
「別段用事なぞはなかったさ、尤も出しなに君の下宿に寄ったら今着いたからこれを持って行ってくれと君の所へ來た手紙を託されて來たがね、君の郷里からのだ。それ以外には、まァ色々いでゆにでもしたってぼつぼつ君と話してみたいって言ふ氣持ちがあった位なものさ。北澤君は休暇で、女學生をつれて大島へ行くし、津田は長篇の創作に没頭してゐるし、僕もいっそ旅にでも出たくなったんだ。 それで温泉にでもしたるのなら、獨りより伴れのあった方がいゝと思って、君の後を追ったのさ。萬が一君が出立した後へでも來やしないかと思ったが、それも杞憂で倖だった譯だよ。」
 中谷は健康さうな微笑を浮かべ、甘いエキストラマイルドの煙をパイプの口からただよはせながら言った。

 早速女中の用意した褞袍どてらに背廣服を着換えて、中谷は徹三と共に湯殿に立った。正午近い明るい太陽の光が湯気の籠った湯壺の中に迄、高い窓から縞を描いて流れ込んでゐた。
「それぁさうと佐伯があげられてねぇ――」
 いで湯の中に身を沈め、湯槽のふちにぼんのくぼをあてがって、湯氣に霞すんだ高い天井を眺めてゐた中谷が思ひ出したやうに言った。」
「あげられた?」
 ぢゃぶぢゃぶと手拭で首筋をしめしてゐた手を思はず止めて徹三は中谷の顏を見た。
「あゝ共産黨の大檢擧があったんださうだよ。僕は佐伯と同じセツルメントに働いてゐた男に逢って始めて聞いたんだけどね、なんでもコムミュニストの七八分はやられたらしいよ。」
「いつの事なんだい、この頃かい?」
「この十五日ださうだ。」
「へ――え。」
 徹三はそれきり返事が出來なかった。首や腕やを手拭で擦るのもやめて、中谷と同じ格好に湯の中に仰向いて了った。
「先生もゆく所迄行ったね。」
 中谷はどこか寂しさうに言った。そして遠い所を見詰めるやうに高い窓の彼方に眸を凝らした。雉の鳴く聲が裏の楓林にして、そしてその儘あたりは森とした。徹三はぬるま湯の感觸にしみじみとした心を唆られつゝ靜かに眸を閉ぢてゐた。
 ――そこにはブルヂョワヂイのバリケードに向って勇敢な突撃を試みつゝあるプロレタリアートの鯨波があった。そして白馬に跨って颯爽と走る佐伯の姿があった。
 ――又そこには凄惨な地獄街道が暗黒の中にあった。そして傷き惱む敗惨の佐伯の姿があった。
 だが、佐伯の顏には強い信念と不屈の闘志が燃えしきってゐるやうだった。頼もしく、誇ありげに彼の青春は溌溂と輝いてゐるやうだった。徹三は踏みしめる若人の強いあしどりをどこかに聞く心持がした。
「それにしても、俺の意氣地なしはどうだらう!」
 徹三は振り返って我身の營みのくだらなさを恥しく思った。假令佐伯の目差す仕事そのものは徹三等には素直に受け容れられないものであっても、佐伯の生活には張切った、青春を力一ぱい費してゐると言った感が漲ってゐやうに思へた。如何にも「仕事をしてゐる」と言った感が受取れた。徹三にはそれがどんなにか羨ましいものに思はれたのである。
「それからね、又古屋が困った事をしでかしちまったんだよ。」
 沈默から歸って、すぐ又次の話題を掴まへた風で、中谷が、顏を手拭で洗ひ始めながら云った。
「? ――どうしたんだ?」
 徹三も下思ひよりさめて顏をあげた。
「するに事かいて、奴さん羅甸街の金を無斷費消して了ったんだ。」
「目茶だな。」
 徹三も再呆れて了はない譯には行かなかった。羅甸街の金と言へば同人一同に取って一番大切な軍資金でなければならなかった。
「北澤君は何って言ってるんだい?」
「すっかり茫然としちゃってゐるよ。羅甸街は當分休刊だぜ。」
「仕方があるまいな。」
 然し、徹三も中谷も、改めて古屋の罪をこゝに讒謗ざんぼうし責め上げやうとはしなかった。お互に古屋を赦す心にやぶさかではなかったのである。彼等グループの間には假令佐伯であろうと古屋であらうと、どんな場合でも、友情の綱は斷たれずに結び渡されてゐるのである。
「古屋は駈落ちでもしたんぢゃないか?」
「さうなんだ、藝者を連れて逃げたんだよ。」
 中谷は勢ひよく湯槽から立ちあがりながら答へた。

「行方不明なのかい?」
「いやすぐ捕って女は連れ戻されたんだ。古屋は然しまだ新潟邊りにうろついてゐるらしい。」
「愛嬌のあるサアニストだな。」
 微笑を湛えつゝ徹三も洗場に上った。古屋の少し位は悄氣てゐるだらう顏が想像されて滑稽だった。学校は終る、氣持はゆったりなる、羅甸街の編輯當番で費用に當てられる、金が渡される、自然に使ひ果して了ふ、同人には顏が會はせられない、他方よりの借金攻めには逢ふ、そこで決心して女を連れて逃亡する。――大概その位なプロセスだらうと徹三には想像された。將して中谷の言葉に依ればその通りだった。
「古屋もゆき着く所迄行ったのさ。」
 さう言って二人は湯氣の中で笑った、午後――。
 二人は輕装して宿を出た。あく迄霽れた好い天氣だった。湖尻の方に道を下って、芦の湖がキラリと山蔭に體を覗かせてゐる邊からでたらめな道を鬱葱と茂った杉林の中にとって、軈て廣袤こうぼうたる仙石原の草原に出た。風はなく寒くなく、雨に洗はれた空氣はさわやかだった。徹三はもし中谷が來なければ、今日のやうに快適な氣分は味はれなかったらうと思った。じめじめと悲觀して重苦しく沈んでゐた氣持も幾分か開放され恢復してゆくやうだった。
 二人は一時間もぶらぶら話ながら歩いてやっと仙石原の眞中あたり迄來た。どこかで猟銃の音がしてゐた。遠く四方を見廻すと丁度廣い湖かなにかの眞中にポッチリ自分達が置き捨てられてゐるやうで心細かった。
「いっそこゝ迄來た次手にあの山に登ってみないか? まだ時間は早いし大丈夫夕方迄には歸れるよ。」
 中谷は灌木の間に佇んで今更のやうに渺茫びょうぼうたる風景に眺め入ってゐた徹三に言った。中谷が登らうと言ふのは、宮城野から續いてきてゐる御殿場への街道が、トンネルによって三島に抜けるやうに出來てゐる長尾峠の事だった。
「登ってみてもいゝな、でも富士を見る眺めはあっちの乙女峠からが一番いゝさうだぜ。」
「ぢゃァこっちが近いからこちらから登って、峰傳ひにあちらに行かう。」
 遉に二人は靴の紐を結び直しなぞして輕い勇躍を感じながら、長尾峠の方に向った。そして一時間餘りもたつと、けれど、さした疲勞も感ぜずに長尾峠の頂上をきはめ、更に喬木や草叢の繁った峰の上の小徑を傳って、目的の乙女峠の上へ出る事が出來た。
 これは又何と雄大な展望ぞ!
 富士の秀峰は指呼の間に全容を聳えさせ、然も彼我とはその高さを競ってゐるのではないか! 想像もせざりし歡喜! 山麓から見なれたお馴染の風景とは山容の一變してゐる絶景である。徹三等は思はず聲をのんで暫く霊峰の魅惑に心を吸はれてゐた――。
 夕陽は早可成り西に傾いて、富士の倒影が裾野の曠野を蒼茫と彩った。豆、駿、遠三州の平原と海とが、煙霧にも妨げられず、あすこは何處、此處は何處と指示し得る程に瞭り展開してゐた。線香の煙程の白煙が緑の襞の間に立つのは、山北邊りを駛る汽車ででもあらう。
「どうもこんな景色を見ると氣が大きくなるねぇ。」
 むら消えの雪の殘った草叢の上に足を投げ出して景色を見てゐた中谷が言った。だがその語調はその言葉らしくもなく力なかった。徹三にも中谷の心持は受け取れた。
「――人間があまりに小さすぎるのだ。」
 徹三は返事の代りに靜かな口笛を吹き始めた。寂として玻璃の如く冷たく澄んだ山巓の空氣に、峠を超える馬の鈴の音が響いてきた。

 徹三は馬の鈴の音を聞きながら大空に向って口笛を鳴らし續けた。中谷は徹三の口笛に歌をつけた。
「しづかにきたれなつかしき
友ようれひの手をとらん
くもりてひかるながまみに
消えゆく若き日はなげく」
「げにもえわかぬ春愁の
もつれてとけぬなやみかな
君が無言のほゝゑみも
見はてぬ夢のなごりなれ」
「あゝ青春は今かゆく
暮るゝにはやき若き日の
うたげの庭の花むしろ
足音もなき時の舞」
 ――二人は草の上に仰向きに、天を見て寝ころんだ。空には筆で擦ったやうに一抹の浮雲が夕日に赫ゝと燃えてゐた。あたりが少し寒くなってきた。
「絹さんがねぇ――」
 口笛も杜切れてから、暫く遠ざかりゆく馬の鈴に、默って耳を傾けてゐた中谷が言った。
「たいへん君の事を心配してゐたよ、獨りでプイと山の温泉に行って了ったって。」
「さうかい。」
 徹三は鉛のやうな心苦しさを胸に受けた。あの惡夢の夜以來、彼は絹江には顏を合はさないでゐるのである。第一後で家人に聞けば發熱を我慢してもあの夜は随分晩く迄起きて徹三の歸へりを待ってゐたと言ふ。そして次の日からはそれが多少應へたのか自宅に靜臥にするやうに彼女はなって了った。徹三は自分の罪を思ひ合して、彼女に濟まないやら、憂鬱になるやらで遂に彼女の病床を訪れる事はしないでゐたのだった。
「ルンゲンの方も餘り良くなさゝうなんだが、元氣は相當あってねぇ。」
「いけないねぇ――今度歸ったら早速御見舞に行かう。」
「それがいゝよ――絹さんは君の歸りを随分待ってゐるんだ。」
 徹三は不圖眉を曇らした。中谷はそれ切り默ってゐた。
「ねぇ浩ちゃん。」
 一寸改まった風で、相變らず虚空を見上げた儘で、徹三は暫くしてからかう言った。
「――思ひ違ひだったら失敬だけれど、君は絹さんにリーベしてゐるんじゃないのかしら?」
「……」
「或ひはさうぢゃないかと先から思ってゐたんだ。」
「硲――」
 中谷は低く感動した様子で言った。
「君にァ氣がひけて打ち明けずにゐたが、僕はすっかり絹さんが好きになってゐたんだ。始めて君から紹介してもらった時から僕はあの人に惹かれて了ったんだ。」
「わかった。僕は薄々察して内心祝福してゐたんだ。君、絹さんはいゝ人なんだものねぇ。」
「一寸待ってくれ、硲。」
「何だ?」
「だが、だが、君は絹さんを何とも思っちゃゐないのか?」
「僕が? それぁつまらぬ君の思ひ過ごしだ。僕はあの人をお友達以上には思ってゐないよ。尤も肉親的に親切にしてくれるから僕も随分親しくはしてゐるけれどね。」
「あゝ。」
 中谷は深い溜息をついたやうだった。
「どうしたんだ?」
「でも、絹さんは君を一生懸命に思ってゐるんだぜ!」
 徹三はぐっと息を止めさせられたやうに思った。何か絹江との間に蟠まってゐた不透明なものが、瞭りしたやうな氣がした。それと共に深い奈落に落ちるやうな思ひがした。
「……」
「それぁ全く可哀想な位だ。僕は先日、さうだ君が芝居に出掛けて行った日、君の部屋で夕方迄絹さんと話しした。話したと言ってもお互い默ってゐる時間の方が多かったけれど、その時つくづく絹さんが君を思ってゐる事を知ったんだ。」

 中谷は半身を起し、暮逝く富士や裾野を眺めながら話した。徹三もいつとはなく身を起して草の上に膝を抱えてゐた。空氣も冷て大空の光も薄れて來た。
 ――中谷は自分の片戀はきっぱり斷念めたから、徹三に絹江を愛してやってくれ、と言ふのだった。徹三は永い沈默の後にやっと低く答へた。それはうつろな彼の胸をその儘示した言葉だった。
 ――僕が惡かった。絹さんにそんな心持を起させたのは全く僕の不用意からだ。僕は絹さんを別段何とも思ってはゐなかった。それで少しもそんな方に用心しなかった。それがわざわひしたんだらう。
 ――僕は今更絹さんを愛しなぞ出來ない、考へられもしない。と言ふのは僕には生命をも掛けて愛してゐるアミイがあるからだ、否、あったんだ。それはどちらでも僕にとっては同じなんだが、兎に角これは別に隠してゐた譯ではない。生れつき窮屈な性質から、こんな事はなるべく口にしないでゐたのに過ぎない。機會があればいつでも話す心算だった。これをもっと早く皆に紹介して置けば今度のやうにアフェアはお互に起らなかったのかも知れないが。
 ――僕はアミイに對してある事情から愛の滅却を願ひ出てゐる。僕の方に愛の純正を犯す罪が出來たからだ。それで僕は此の大切なアミイを失ふかも知れないのだ。然しそれだからと言って、僕のアミイに對する心が變るものではない。この心を抱きながら他の人を愛する事が出來やう筈はない。今迄誰にも云はなかったこれ等の事に就ては、孰れ總てが清算せられてから君等にも聞いてもらひたく思ってゐる。
 ――要するに僕は、今舵の折れた難破船だ。然しその中に自分の進むべき路も發見されるだらう。それ迄は絹さんの事は僕自身としてはどう考へていゝか判らない事だ……。
「ぢゃ。」
 と、終ってから中谷が言った。
「――絹さんの事はお互に未解決の儘に捨られるのか?」
「仕方はない、誰れにも解決出來ないのだから。」
 二人は夕闇の山の上で默り合った。富士の裾に盛上った西の山が落日を背負って燒け爛れてゐた。
 ……二人默々と立ち上って乙女峠を下り始めた。仙石原を眞直に突切って姥子に辿り着く頃にはあたりはすっかり夜になってゐた。宿の者はたいへん心配してゐたと言った。二人は湯を浴びて夕飯を撮った。
「あ、頼まれて來た手紙があったっけ、忘れてゐたよ。」
 中谷は火鉢の前にくつろぐと急に思ひ出して、煙草を啣えた儘立ち上り、壁障に掛けてあった自分の外套の内ポケットをさぐった。
 渡された封書は、晝中谷が言った通り郷里の伯父から來た手紙だった。すぐ讀む氣もせず徹三は一旦小机の上に置いたが、中谷に惡いと思って暫くして封を切った。讀み終った時の徹三の顏は、けれど酷く混亂してゐた。彼は手紙を邪慳にまるめて抛り出した儘、疊の上に仰向きになって寝て了った。中谷は別段徹三には注意もせず、石油ランプの燭臺の下で、持って來たオケシィの小説集を擴げてゐた。一時間もその儘に時間がすぎた時、むくりと起上った徹三が、突然に底力の籠った聲音で言った。
「浩ちゃん僕は外國へ行くよ!」
「?」
 中谷はキョトンとして顏をあげるのにおっかぶせて、徹三は微笑を泛べた明るい顏で元氣よく言ふのだった。
「郷里の伯父がね、菩提心を起して僕に分配財産として七千圓くれるって言ふんだ。いや是非とも受け取ってくれと言ふんだ。いっそ一蹴してやってもいゝが、どうせ彼等の死金になるのなら、僕が活用してやった方がいゝとも思ふんだ。僕はそれで外國に行ってくるよ。今こゝで即座に決心したんだ、素敵だらう! 僕はこれで新生してくる。難破船に素晴らしい順風が吹き始めたんだ。」

さらば青春
 糠雨にしっとりと重く濕って、かつ子からの返信が届いた。ひねもす降りしきった春雨が、庭前に繁った樫の葉の表を鈍い銀色に光らせてゐる、薄ら寒く侘しいかはた時だった。
 デスクスタンドのスヰッチを捻って、徹三は宿の小母さんから受取ったその桃色角封筒を、繁々と見守った。
「わかってゐる、何と言って來てゐるのか――」
 彼は封筒の表を濡らしてゐる雨の滴を、かつ子の涙のやうに思った。彼は机の抽斗からペエパアナイフを取出して、封に當てた。そしてきちんと疊まれた書簡箋を取出した。
×  ×  ×
 徹三さま。
 かつ子は貴方を怨んではをりませんのよ。怒ったりなぞもしてゐません。かつ子の心はちっとも以前とは變ってゐません。徹三さまのお手紙のお言葉は、かつ子にはたいへん悲しいものではありましたけれど、でもそれはあやまちだったのですもの仕方はないと思ひます。人間にあやまちがないと誰れが言へませう。
 かつ子は徹三さまの、お手紙を下さったお心を嬉しく思ひます。そのお心だけでかつ子は貴方のあやまちなぞおとがめしたくは思ひません。かつ子はどんな場合でも貴方を信じております。そのお心算でいつもいらしって下さいませ。お手紙には随分心細いお言葉がありましたけれど、かつ子はそんな事は一切不要だと考へております。 何にもなかった以前と同じやうにそんな堅苦い事を言はずに、かつ子を愛して下さいませ。かつ子くれぐれお願しておりますわ。いやな事はお互に忘れて了ひませう。私達の間はそんなあやまちから崩れて了ふ程、力弱いものではない筈だと思っております。
 かつ子もいよいよ卒業です。なんとなく氣も落着きませんの。で今日は考へただけを書くのにとどめて失禮致します。徹三さまも卒業式がおすみになったら、是非名古屋にゐらっして下さい。その時かつ子よく自分の心持をお話し致しますわ。どうぞ二度とあんな悲しい事言はないでね。ではさようなら。かつ子。
×  ×  ×
 意外だった、實に意外だった。徹三の胸は、幾重にも重なりあってゐた鉛色の雨雲が一時に大きく裂けて、其處からまばゆい太陽の光りが流れ込んで來たやうに明るくなった。徹三は眼にも痛い程の蒼空を自分の心の中に見たやうに思った。徹三は何と言ってもかつ子の確乎した態度に敬服した。子供だと見てゐたかつ子に、これだけの思考力が備はってゐやうとは思はなかった。これ程の心の餘裕が示されやうとは思はなかった。
「えらい!」
 徹三は自分のだらしなさをここにも感じて恥しくなった。そして次に、
「俺はかつ子を失はないで濟んだ!」
 と言ふ例へやうのない深い歡喜とかつ子に對する胸一パイの感謝の念で、彼はとめどもない涙を机の上に擴げたかつ子の手紙の上に落して了った――。
 だが、徹三は一旦決めた外遊計畫を取り消さうとは思はなかった。丁度、徹三の學校の、英文學科の講師をしてゐる赤津氏が、四月の初旬に英國に向けて出發する便宜もあった。徹三は教室で顏馴染の赤津氏と、同じ目的で同じ所まで同行出來る此の機會を決して逃したくはなかった。
「早く行って早く歸へって來やう、そして若い元氣な時代を一瞬も無駄にしないやうに力一パイに活躍しよう。外國に行くのは素晴らしい俺のスタートなんだ。俺の惡い癖の因循姑息なぞ一ペンにこれですッ飛んで了ふに違ひないんだ。」

 かつ子には折返して感謝と喜びの手紙を出した。そして自分の外遊に就ての諒解を求めた。かつ子からはすぐ返信があって、外遊の幸福を心から喜んでゐる旨が知らされた。かつ子の勝氣なしっかりした氣性は、彼女が次第に一人前になるに從って、彼女の身に添ふて來たやうだった。彼女を行く末のベターハーフを考へてゐた徹三はそれがマダム・タイプ(母性型)の一要素のやうに考へられて愉快だった。
 四月三日の大學卒業式を濟ますと、徹三の周圍は俄に忙しくなった。かねて東京廳に願ひ出てゐたパスポートも下附され、旅行のスケヂュールも大體決定した。下宿の荷物も要らぬものは賣り拂ふなり委譲するなりして整理し、旅行に必要なものゝ外は、まとめて加納家の倉庫に預ける事にした。 出發が四月十日横濱、十三日神戸解(※糸覧)らんの鹿島丸と決ってゐるだけに、目睫に迫ったあわただしさをどうにもする事が出來なかった。先づ新調の三ッのスーツケースやトランクに携帶品をつめ終り挨拶すべき所は挨拶し廻ってやっと一段落着いた。それがもう六日の夜だった。
「絹さんが惡いやうだから御見舞に行ってあげたがよからうッて小母さんが言って來たんだけれど。」
 黒木助教授の宅で送別の晩餐を御馳走になって、夜晩く歸って來た徹三に、下宿の部屋で徹三の旅行の用意を何くれとなく手傳ってゐてくれた中谷が、顏を曇らせて言った。徹三は明るい心も消え失せて、脱ぎすてたスプリングコートにふたたび手を通すと中谷と共に戸外に出た。絹江は四五日前から信濃町の慶大病院に入院してゐるのである。兩人ふたりは痛心を顏に現はしつゝ、省線電車の片隅に揺られて行った。
「まァまァ御苦勞様でございます、お忙しいのに。」
 病院の絹江の病室に通ると、看護づかれでいたくふけたやうに見える絹江の母親が、寂しい笑顏で迎へてくれた。病室の中には他の人の姿は見えなかった。道々ひどく心配してゐた二人は、この穏かな空氣にやっと安堵の吐息をもらした。
「如何です?」
「えゝ。」
 母親は一寸言ひ淀んだ。
「――相變らずなんです。」
「そうですか。」
 二人は窓際のベットに近づいて、
「絹さん、少し工合はいんですか?」
 えゝと薄く頬を赧らめてゐた彼女は、大きな黒目かちの晴眸を含羞むだやうに伏せた。が、軈て顎の下迄引いた白い毛布を、蝕んだ胸で小さく揺り動かすと、一寸きっぱりした聲で言った。
「私ね、だいぶ惡いらしいんですのよ。」
「……!」
 部屋の中の三人は思はず視線を思ひ思ひの方に迯らした。冷たいものが皆の心臓にふれたやうな思ひがした。
「あはゝ、又例のペシミズムですね。」
 一番早くその氣持ちを追ひのけた中谷が、殊更闊達らしく笑ひ聲で言ったが、その聲は空虚な響きを皆の耳に傳へたゞけだった。絹江は少さく咳をしてから、落ち着いた聲で靜かに言った。
「ペシミズムではないんですの。本當なんですの。私には自分の體の様子がお醫者様よりよく判るのですのよ。多分、この二三日で皆様にお別れするんぢゃないかと思ひますの。」
「莫迦な!」
 徹三は力一パイ叫ばうとした。が、髪を病人らしく無雜作に束ね長い睫毛を斷念あきらめたやうに伏せ、痩せた蒼白い頬に寥しい微笑を浮かべてゐる絹江の顏を見ると、その聲もその儘咽喉元でつまって了った。

「もう卸立ちの御仕度はお濟みになりましたの?」
 ――純白の毛布の襟に頤を埋づめながら、睫毛を伏せた儘で絹江が言った。
「えゝ大體。」
「愈々お別離わかれですわね。」
「なにすぐ又歸って來ますよ、素敵なお土産を買って來ますから精々樂みにしてゐて下さい。」
「でも――」
「何です?」
「――でも、私が死んぢまった後ぢゃつまりませんわ。」
「此の子はねぇ。」
 と、横から母親が引き取って涙を宿した笑ひ顏で言った。
「あんな事ばかり言っておりますんですのよ。」
 徹三と中谷は「仕方のない子だな!」と言った風に殊更らしく苦笑して見せた。
 が、その時キラリと光った涙の滴が玉のやうに、彼女の伏せた、長い睫毛の下から轉がり出るのを見ると、徹三も中谷も思はず暗然とした。
 一時間ばかり何となくしめやかに、藝術の話やら旅の話やらをして、時計の針の十時を示すのに驚いて二人は立ち上った。
「ぢゃ明日にでも又來ますからね。」
「えゝ。」
 と彼女はうるんだ黒眼がちの瞳で徹三を見た。平常はあまり感情を外に現はさない彼女ではあったが、今の瞳は鏡面のやうに彼女の胸のうちを寫し出してゐた。徹三はじーんと深く心情を打たれた。
「おい!」
 と、言葉のない目顏の合圖でかたわらに立った中谷が徹三に注意した。その意味はすぐ徹三に諒解された。彼は、白い毛布の上に抜き出された細い絹江の手に、握手をしてやれと言ふのである。
「ぢゃァ又明日お目に掛る迄元氣でね。」
 徹三は温かい心の籠った手で、絹江の靜脈の透ひた細い手を握ってやった。思ひなしか弱々しく羞らった彼女の顏に、大きな歡びがかすめて行ったやうだった。
 元氣な貌で病室の扉を閉めたけれど、廊下に出ると二人は申し合はせたやうに憫然とした顏になった。そして默りこくって、何處か古城の廊下と言った陰鬱な廊下を歩いて行った。
「あら?」
 ひと氣もない長い廊下を、スリッパの音もひそやかに、向ふから歩いて來た白衣の婦人が、通りすがりに小さく聲を立てた。ろくに注意もしてゐなかった徹三も駭いて眸をあげた。
「やァ小母さんぢゃありませんか!」
「なんだか餘りよく似てゐらっしゃると思ひましたのよ。」
「珍しいですねぇ。」
 中谷が餘りの意外さに感歎して言った。婦人は堪へられない懐しさを顏に表しつゝ笑顏で泌々と二人の青年たちを眺め入るのだった。
 ――彼女は徹三が東大久保で厄介になってゐた下宿の女あるじ、杜本しづ女だった。立話で簡單に聞いてみると、新潟の田舎も矢張り住み難く、一度は土着を決心したものゝ坊やの健康が恢復したまゝに、再び出京して、今は坊やを託兒所に預ける傍、自分は此の病院で附添婦をしてゐるのだと言った。収入の上からミシンの内職より此の方がいゝと言った。 徹三は不圖考へた。彼女に絹江の世話を話した。しづ女は絹江の病氣に驚くと共に、一も二もなく心からの看病を引受ける事を承諾した。孰れ明日にでも具體的な話はする事にして徹三達は彼女と別れたが青年達の胸の中には、この取計らひを絹江の爲めに喜ぶ心で滿されてゐた。しづ女の出現はなにより絹江の病状に明るいものを投げかけるものゝやうに思はれた。

 外は潤んだやうな春の夜だった。薄雲がち足らずの月にふんわりと懸って、その邊りは瑪瑙のやうに美しい色に染ってゐた。亂れ咲きの櫻の葩が、夜目に儚くハラハラと散かゝるのを、薄い春外套の肩に受けて、青年達は暗い病院の構内から門の外へと出た。
「外苑を歩かないか?」
 中谷が衣兜から煙草を抜き出しながら言った。――二人はモダン交番の前を通って、夜露に濡て眠ってゐるやうな靜かな外苑に這入って行った。そぞろ歩きの男女らしい影が、ロマンチックな瓦斯燈の光りの下を横切った。
「ねぇ硲。」
「ん?」
「君は絹さんを可哀想に思はないか?」
「…………」
「絹さんは君を、あの病み疲れた心で一途に思ってゐるのだよ。君を闇の中のたった一つの光明にしてゐるのだよ。」
「…………」
「――それに絹さんは事實酷く惡いらしいんだ。ドクトルの言葉だと、或ひはもう……」
 二人の眼には夜空を斜めに截って流れる大きな星があった。何か不吉な豫感が身の裡を過ぎて行った――。
「ほんの假りの言葉でもいゝ、君、絹さんを幸福にさせてやる譯には行かないか?」
 中谷は俛首れて小暗い道傍に佇んだ。目の前に美術館のドームが闇の中に仄白く浮んでゐた。
「だって君、それァ罪惡だ!」
 徹三は思はず敢然と言った。
「いや罪惡じゃない。彼女はそれで安らかに死ねるんだ。」
「死ぬ? 莫迦な! 其麼そんな事がどうして僕等の假定になるんだ。其麼事が僕等の虚僞の言葉の前提にされてたまるものか! 僕は信ずるよ、否信じてゐるんだ、絹さんは助かると! 僕は他人が何と云ほうとドクトルが何と言ほうと信じてゐるんだ。僕は彼女から病氣の話を始めて聞いた時から、その事を深く信じた。僕は誠心誠意只管に彼女の回復を念願するよ。そしてもし念力とでも云ふものが通るものだったら、その力で屹度僕は彼女を病氣から癒らせる。中谷、この心こそ美しいものだとは思はないか?」
「硲、僕ァね――僕ァね。」
 中谷は荒っぽく肘で眼の邊りを擦った。
「――絹さんがいぢらしくって堪まらなかったんだ。僕はとても見てゐられなかったんだ。僕は自分の胸が苦しかったんだ。」
「中谷、ねぇ浩ちゃん、何て君は美しい人だ! 君のその純情が、その美しい情熱が何時か絹さんの胸に響いてゆかない筈はないと思ふよ。僕は絹さんの看護を君に心からお願する。君も必死になって、あの傷いた小鳩を明るい世界に呼び戻すやうにしてくれ。僕は後日あの時あんな事を硲に言はせないで助った、と君がつくづく思ふやうな時があるだらうと、今密かに考へてゐる位だよ。」
×  ×
 徹三の東京出立は八日の夕刻の急行に決った。一先づ郷里山口のY市に直行して一晝夜を其處に送り、再夜行で名古屋迄引返す。そしてその日と次の日の夜迄の時刻をかつ子との留別の時間にあてる事にする。そして――翌日十三日午前十一時には横濱より廻航して來てゐたSSカシママルは、飄然と見送り人も持たない游子徹三を乗せて、神戸岸壁を離れる事になる、と言ふ寸法だった。同行の赤津氏とは船中で落ち合ふ豫定である。
 あまりあはたゞし過ぎる怨みもないではなかったが、赤津氏の日程が決定的である以上、同行を逃してはならない徹三はどうする事も出來なかった。それに恁うして急に思ひ立った事は總て出足が大切であり、殊に徹三のやうにすぐ弱氣に浸潤される性質の者には第一歩を鈍らす事は危險だった。「善は急げ」――それ式で彼は一切を決定させたのである。

 徹三は先づ外國施行の方針を黒木助教授と相談して立てた。黒木氏は嘗て自身が歐米に留学した時の事を参考に、親切な注告を與へる事を惜しまなかった。徹三は形式的にあちらの大學に入るよりもその時間と金で、歩るける限り各地を歩るくやうにし、そして色々の經驗を積んで歸へり度いと思った。七千圓の金の中一千圓は羅甸街の基金に寄贈し、一千圓は歸朝後の靜養費にさいた殘金では、さう長い滞在も出來さうではなかった。金が無くなったら何處からでも漂然と歸途に就く心算だった。
◇  ◇  ◇
 七日の夜は、徹三の送別を兼ねて、羅甸街同人の分散の會があった。北澤虔二を盟守として、懐しいカフェ・トロイカの圓卓子のまはりに、顏をつらねた四人の若き「圓卓子の盟友」たちは、けれど悲痛な表情を湛えてゐた。
「俺たちも寂しくなる!」
 皆はおのおの考へてゐた。徹三は遠く海の彼方に、津田は鈴蘭の咲く北海道へ、宮田は浦和の中學校に――それぞれ明日を限りとして分れ散ってゆくのである。殘される北澤と中谷の寂い胸には、今は囹圄れいごの人として社會から異端視されてゐる佐伯や、都の櫻も咲き揃はんと言うのに、何處を放浪してゐるかボヘミアンの古屋の事が、しきりに戀しく思ひ出されてくるのだった。
「今日はみんな思ひ切り醉はうぜ!」
 中谷が低調な一座の空氣を引き立たすやうに言った。一同は微笑と共に頷いた。
「ねえユカリーナ、君ン所に黒いきれはないかい?」
 宮田が突然に言った。
「黒いきれですって?」
 ゆかりは美しい眸を不審げに見張った。
「あゝさうなんだ、なかったら表に出て買ってきておくれよ。」
 ゆかりは腑に落ちぬ表情で命ぜられた黒いメリンスのきれを、附近の呉服店から買ひ求めて來た。
「さぁ葬式だ、このきれを破いて喪章を作るんだ。俺たちはみんな喪章を胸につけやう、それからこの部屋の中のものにも全部喪章をゆはえつけるんだ、椅子にも卓子にも花壺にも、コップにも酒壜にも。」
「まァ縁起でもない、氣でもお違ひになって? 宮田さん!」
 ゆかりは驚いて美しい眉をひそめた。
「驚くにァ當らないよ、ユカリーナ。それよりか喪章は先づ君からつけるんだ。」
「いやなこと! 一體どうしたって言ふんですの?」
「だって、ユカリーナ、君の青春はもう後十日ばかりで結婚と言ふ墓場に葬られて了ふんぢゃないか。君にはそれが悲しくはないか? 僕は考へるんだ、僕等の青春もこれでいよいよおさらばだと。それァ君が結婚したって、僕等が社會にとび出して行ったって、僕等に若い日がなくなる譯ぢゃないさ。然しそれは謂はば第二の青春さ。僕等が今迄味はって來てゐた甘美な自由な青春とはその性質を遠く異にするものだ。それに僕等の青春の美しかった事は神に感謝しやう。誰もが經驗出來るものではなかったのだ。 惠まれた學生生活、ミューズの使途として様々な美の幻影を追ひかけゐた夢の生活! 僕等は今失はれやうとしてゐるこの懐しい青春に、泌々と袂別の情を感じるよ。だから今夜はこの去り逝く青春に心から別れを告げやうと思ふのさ。僕は喪章を嚴かにつけてそしてヒューネラルマーチを口誦みつゝ、僕等の青春を、そしてもろもろの青春の夢を、悲しみを歎きを喜びを靜かに忘却の墓場に埋葬しやうぢゃないか! ねぇタワリシチ諸君、そして僕等の清い戀人だったユカシェンカ!」

 その昔、佛蘭西のアンリ・ミルヂェに依って描かれたラ・ポエームの生活――それを今に懐しく憧憬あこがれて、徹三等は、自分達の雜誌も『カルチェ・ラタン』即ち『羅甸街らてんがい』と名づけた。
 おゝ巴里の羅甸街! ――そこにはポエームと呼ばれる無名で貧乏でルンペンな、音樂家、美術家、文藝家が、幾十人となくミューズに憧れつゝ、古めいた破れ煉瓦の建物のフラットに、或ひはギャレットに、生活に喘ぎながら住まってゐる。彼等には明るく惠まれたその日その日が無い、そして彼等の運命は時によっては、暗い儘で此の世の道程を終ってゐる。然しあく迄彼等には藝術精進の外には他意はない。 世間的には極端な程恬淡に、然し自己の藝術家である誇と歡びと、そして自己の藝術を輝かしく達成せんとする意志は、墓場に仆れてゆく迄失ひはしない。彼等こそは藝術の殉教者である。又彼等は、世人からは碌でなしの貧書生と疎まれ、經濟的には一切れの黒パンもたやすくは手に入らず、然も生命を懸けてもと勉強してゐる藝術は世人識者の一瞥をも蒙る幸運を持得ないみぢめさではあったが然し、彼等には如何なる荊棘の道とても没現實的な笑顔で行進してゆく尊い朗かさがあった。 彼等は奇謀に依って常に豐醇なピエンを手にし、屈託のない洪笑を濁った空氣中に爆破させ、天眞爛漫な唄のメロディを唇からはたやさず、そして美しく可憐な女と戀をする。それらは如何にも物事に拘泥らない天才的な風貌があって誰れをも浪曼的に感激させずには置かぬものだった。
 ――徹三等も、常に無名藝術家としての寂しさや悲しさをひしひしと味わってゐた。そして「俺達もポエームだよ」と、佛蘭西のさうした貧乏なぞして惠まれない藝術家達の事を思ひ添へて、考へるのだった。又、遠く國を異にし時代を異にしたものではあったが、ポエームのさうした自由な藝術家としての生活は、何となく憧憬らしいものを徹三等の胸に抱かせたのだった。
 そして今や、自稱ポエームなる北澤始め徹三等グループは、雜誌羅甸街に據りつゝ、着々と個性的な歩みを續けて來てゐたのである。そして彼等は何時か必ず自分達が華やかに世にデヴュする時の來る事を堅く信じてゐるのである。假令境遇上の經緯から、今日のやうに一時お互の袂を左右に別ってもそれは決して羅甸街グループの離散ではない。北澤の胸に火のやうな熱情が消えぬ限り『羅甸街』の仕事は繼續されるであらうし、同人のめいめいも藝術精進を怠る事はないであらう。
「さあ、皆、こゝらあたりで乾盃をしやう。」
 ――彼等には、貧しくとも華やかなうたげが、漸くたけなわになった頃、既に大量のウヰスキイで顏を赭く染めてゐる中谷が突然に立って言った。皆の前のグラスには、今宵を最後として店から姿を引かす筈のゆかりの、その思ひ出多き手によって、シマンパニエは爽やかに注がれた。
「羅甸街の未來を祝福して!」
 徹三が第一に杯を擧げていった。
「――硲君の外遊を心から祝し送って!」
 北澤が杯を擧げた。
「長い間のゆかちゃんの厚情を感謝して!」
 中谷が杯を擧げた。
「此處には不幸にして顏を並べられない佐伯と古屋の心に代って。」
 津田が杯を擧げた。
「ねぇユカシェンカ、君も杯を擧げないか。」
 と、宮田が傍のゆかりに言った。
「私、みなさんの、御親切を一生忘れは致しませんわ!」
 ゆかりは小さく涙聲で言った。そして形ばかり杯を擧げた。
「――さあ俺達の青春も此の一杯の杯と倶に葬られるのだ。」
 最後に宮田が立ち上って言った。
「さらば青春よ!」
 一同は杯を合はせた。
「プロヂット!」
「ア・ヴォートル・サンテ!」

 宮田の主張で、奇妙にも喪章づくめにされた部屋の中で、酒宴が何時果てるともなく續けられて行った。他の卓子には客とてはなく今宵はトロイカ借切の有様だった。
「さあ別れの歌だ!」
 誰れかが言った、「オールド・ロング・サイン」の、あの懐かしいメロディが誰れからともなく歌ひ出されて、やがて杯をふくむ一同によって唱和された。
「ジュド・オールド・アクエンタンス・ビイ・フォアゴット……」
 ――ゆかりは、その英語で歌はれる歌の意味を瞭りさとる事は出來なかったけれどでも小聲で、眸を俯せながら「螢の光」を唱和した。さうしてゐると何とも知れず悲しくなって、涙が滾々こんこんと湧いて來た。彼女は瞭り自分から去って行く乙女の影を意識した。
 歌が終って、滅茶苦茶に獻酬があって、各人亂醉と共にへとへとに疲れ果てゝ十一時を過ぎる頃自然崩壊の形で會は終った。
 堤さん夫婦はゆかりと倶に門口に立って、散ってゆく若者の一人一人に、心からの握手をした。
「ねぇ堤さん、長らく學生ッポ時代には厄介になりました。でも、今宵僕等の青春を、あの過去と言ふ墓場の中に、埋葬して了っても僕等の本質は以前とちっとも違ったものぢゃありません。僕等は相變らずのポエームです。僕等は矢っ張りこのカフェ・トロイカの圓卓子をこの上なく愛するでせう。ゆかちゃんがゐなくなっても、僕達はねぐら慕ふ小鳥のやうに又此處に聚まって來ますよ!」
 醉拂ひらしくくどくどしい口調で、よろける體を入口の壁に支へさせつゝ宮田が堤さんに言って出て行った。
 堤さん達は、去って行く新學士の一人一人に「幸あれ!」と心からなる送別の辭を與へた。
 假令一時の分散とは言へ、今迄斯うまでに馴染んでゐた一同が、今宵限り散り散りになってゆくのを見送るのは、堤さん達にも耐えられぬ事だった。ゆかりはすっかり泣き濡てゐた……。
「僕達はね、君の歸りを千秋の思ひで待ってゐるよ、君なら屹度素晴らしいものを得てくるに違ひないと思ってゐるんだ。僕達はそれを期待する。君の収穫は決して君だけのものでなく、僕達みんなの血となり肉となるんだ。」
 津田が暗い道を歩きながら、連れ立った徹三に言った。今夜一夜を徹三と共に送りたいと言ふ中谷を加へた三人は、夜風にほてった頬を吹かせながら、新宿迄歩く事にしたのだった。
「出來るだけ希望にふやうに努めるよ。僕にも今度の外遊計畫は大出來な事なんだ。一時は人生にすら興味を失ひかゝったやうな無氣力極まる僕から偶然の機會から轉換したんだ。僕の胸は今希望に滿ち滿ちてゐるよ。あらゆるものを求め盡す意氣で心の中が燃え盛ってゐるんだ。僕もこの順風を逃したくない。僕は此の氣運に乗じて大いに活躍する心算だよ。」
 徹三も亢奮して力強く言った。津田と西大久保の邊りで別れると徹三は中谷と二人きりになった。二人は醉醒よいざめに氣持をひしひしと身の裡に感じて、默り合って省線電車に揺られて行った。
 眸をつむった徹三の網膜には、色々の映像が過ぎて行った。かつ子の懐しい笑ひ顏、絹江の痩て傷々しい顏、沓子の眸を俯せた力ない顏、そして人生の人混みに一度は見失ひながらも、再び巡り合ふ事の出來たしづ女の顏、又は長い間の仲好だったゆかりの顏……」
「おい東中野だ、降りやうぜ!」
 中谷が突然横で言った。
 ――さうだ、過ぎ去った年月のさまざまな出來事を、今更ここに繰返し想起するには、餘りに慌ただしい時間である。
 徹三は一切の思ひ出をぷっつり切り捨てゝ勢ひよく腰掛から立ち上った。

  終曲
 時間は次第に近づいた。――午後七時三十五分発下關行急行列車は、美しく塗りあげられた鋼鐵製の胴體を、長々とプラットホームに横たへ、出發前の落着きを示しながら號笛の鳴るのを待ってゐる……。
 歩廊の上には、慌ただしいげな空氣がただよってゐた。親子、けうだい、朋友、親戚、知人、戀人、さうしたあらゆる關係を網羅するであらう群衆は、或ひは小さなグループを作って談笑し、或ひは二人三人打ち連立って歩廊の上を漫歩し、或ひは車窓に倚り合って語り合ふ。
 然し、交通機關の發達は別離の人達の涙を可成り薄いものにさせてゐるのである。
 硲哲三は二等寝臺車の前で、一群の洋服の群に圍まれてゐた。徹三は今宵見送りの爲めに北海道に歸る日を今日迄延ばしてゐた津田や其他のグループの連中の間からは黒木助教授の厚い眼鏡を掛けた顏や堤さんの顏やが見え、少し離れた所にはゆかりの虔しやかに立った姿があった。下宿の加納さんは、徹三の荷物を赤帽の手から受け取ったりそれを列車中に運んだりしてゐる……。
「一寸恁うした空氣も華やかで景氣がよくっていゝぢゃないか。」
 黒木氏が混雜した周圍を眺めながら言った。
「矢張り旅心を誘はれますね。」
 中谷が傍で言った。
「羨ましさうだな。」
 黒木氏は笑った。
「えゝ羨ましいですとも、先刻も宮田と話し合ったんですけれど今夜はとてもこの儘家へなど歸れやしません、やけ酒です。」
「たいへんな事になったな。」
 黒木氏は温顏を崩して笑った。
「創作はしっかり頼むよ、そして僕は一日も早く君が東京に歸って來る事を祈ってゐる。」
 徹三は津田に泌々と言った。
「有難う、君が歸って來る迄には何とか僕も自分の基礎位は作って置く心算だ。」
 津田も自信ありげに低く答へた。
「ねぇ浩ちゃん。」
 次に徹三は中谷を一二歩近く呼んで、目立ぬやうに小聲で話した。
いよいよ僕は行くけれど、絹さんの事はくれぐれも頼むよ。今日のあの様子ぢゃ、矢張り僕が確信したやうに、絹さんは決して絶望ぢゃない。思ひ掛けなくあんな理想的な看護人を得たのだし、僕は必ず明るい日が絹さんの上に巡って來ると信じてゐる。どうか君も勇氣を出して白川さん一家の片腕になってあげてくれ給えへ。」
「わかった、有難う。」
 中谷は顏俯向けて洋服の蔭で徹三の手をぎっしりと握った。中谷のしほらしい迄の善良さが、瞭り徹三の心に迄傳って來て、徹三は不圖涙ぐまれさへした。
「ぢゃあ皆さん行って参ります、御土産を存分樂しみにしてゐて下さい。」
 ――一分鈴がけたゝましく鳴り渡った時、徹三は元氣一パイで皆の前に頭を下げた。皆は徹三の圍りに集まって來て手をさし出した。誰の手にも人の世の尊さを思はす温かい心が通じてゐた。
「ゆかちゃん、今度逢ふ時はベビイも一緒だね。」
 徹三は、そして列車の昇降台に上った。ベルは鳴り終わって列車はとたんに動き始めた。
「さようなら!」
「さようなら!」
「元氣よくたのむよ!」
「ボン・ボヤーヂ!」
 歩廊の人々は色々の形にゆらぎつゝ音もなく辷りゆく列車の上の人に口々に叫んだ。徹三の顏には晴やかな微笑が湛よひながら、眸には何とも知れない泪が、後にとぶプラットホームの灯を寫してゐた。だが徹三も誰も、群衆にまぎれて遠くから無言の別れを送ってゐる一人の貴婦人には氣が附かない……。
 ――暮れて間もない大東京の大空が、間もなく驛を出はずれた徹三の瞳にキラリと星を燦めかせつゝ美しく寫った……。
――完結―― 

注)第六十六回の「作者より」の通り「地獄の二騎士」の章は内容に支障があったと思われ途中で切れています。作者としては単行本化時に補完するつもりではあったようですが刊行はされていません。
注)第百六回は掲載が確認できませんでした。休載されていることもあり内容に支障があった可能性があります。無くても話としては繋がっていますので改めて書き直したのかもしれません。
注)明かな誤字誤植は訂正しています。●は判別できなかった文字です。
注)句読点は補ったところや変更したところがあります。
注)――や……は多く句読点の後に置かれていますが、句読点を後に変更しています。
注)カナ文字の中点は「、」から「・」へ変更しています。
注)行単位で離れた場所にあり意味の通じないところ二ヶ所は正しいと思われる位置にしています。
注)送り仮名の不統一、漢字と仮名の不統一などは原文のままにしています。
注)名詞や踊り字などの不統一は適切と思われる表記に統一していますがモレがあるかもしれません。
注)会話は全て『』から「」にしています。引用も「」にしています。書名や誌名に『』を使用しています。
注)ルビはほぼ現代表記にして読みにくい所や当て字部分のみに入れています。原文のルビは読みにくいところにない事が多かったりおかしなルビもありますが推測で入れているところもあります。
注)西條八十の詩はほぼ全文ということもあり、一部のみとして残りは割愛しています。
注)(續く)(承前)は割愛しています。
注)元は本当に誤字誤植が多いです。


「「青春」の後書」
「大連新聞」 1929.12.12 (昭和4年12月12日) より

 ごうごうと鳴る夜半のペチカのかたわら、僕は『青春』の最後の回を書き終へた。妹が用意して置いてくれたホットドリンクに睡眠劑を混ぜながら、さすがに僕は感憾に打たれたのだ。丁度十一月廿九日の午前二時近くだった。
×
 思へば随分長い仕事をしたものだ。第一回を机に向って書き始めたのは六月の青葉繁る頃だった。僕はアトリエの――僕は自分のゐる室をさう呼んでゐる――窓から晴れた空を見上げながらパイプにライタアの火を移し、そして再びコツコツと筆を働らかせたものだった。それがもう冬になってゐる。窓外は雪で白々と彩られてゐる。以前爽々しい青葉を見せてくれたポプラは徒らに格木(※?)を倒に立てたやうな殘骸を寒風に曝してゐる。全く五ヶ月の日數が立ったのだ。
×
 「青春」一篇は勿論意に滿たぬ所多い。然し僕にはなんといっても一粒種の愛兒だ。僕の眞面目な魂が吹き込まれてゐる。僕はいささかも職業意識といふ様なものを持たず又何等の傍言的制肘にもわずらはされず、専ら自分の眞摯な心が生み出すものを見守ってゐた。この意味で『青春』は確に僕の眞實の子だ。
×
 讀者は僕の『青春』に所謂新聞小説の「通俗的大衆味」を期待したらうか、又は滿洲の新聞だといふので滿洲文藝を期待したらうか? もしさうだったら『青春』は諸君に反古ほご同然だった。僕も謝らなければならない。然し僕は何處どこかに僕の仕事を認めてゐてくれた人があったやうな氣がする。 僕の作を、滿洲の新聞に載った小説だからといふ意識なしに、日本の中央で發刊される單行本の小説だと言ふ風に思ひなして讀んでくれた人があるやうな氣がする。さういふ讀者には『青春』の特殊性もわかってもらへ、そして愛讀も願へたらうと思ってゐる。
×
 僕も愈々いよいよ一九三〇年には廿七歳になる。いつまでも青年趣味ではゐられない。この意味で『青春』は僕の記念塔だ。『青春』には既に埋葬さるべき僕の小兒病的生活感情や、文學様式上の趣味が具象され盡してゐる。僕は『青春』を從來の自身の抜けがらとして次への成長を遂げなければならない。『青春』一篇はとりもなほさず二十六歳迄の僕の形見だ。
×
 小説そのものに就ては餘り言ひ度くない。唯、始めノートに作ったプランよりどうしても回數がのびて、到頭心ならずあちらこちらのいきさつをはぶいた。それで一寸不體裁ふていさいな所も出來たし、人物の去就にも不分明な所が出來た。又用語上のミステークは汗顏至極にも所々にあった。そのほか誤植の爲めに意味がまるきり分らない所が幾度となくあったが、それは賢明な讀者の御推察を受けた事と考へる。 いずれ僕はこれをまとめて單行本にする心算だ。その時は一切の文章に推敲を試み、萬遺漏なきを期して新しく讀者にまみえさす考へだ。その時はくだらないなぞとは言はずに、もう一度讀み返してみてほしいものだ。
×
 なほ一言――こんな事は言はでもの事だが『青春』の最後を徹三の洋行にさせた事に就いて、それは餘り常套的だと難ずる人たちがあった。然し徹三の洋行は決して小説的なプロットの運びからさせたのではなく、僕の憧れがさせたのだ。徹三が僕の代りに洋行して僕にいゝ氣分を味はせてくれたのだ。常套的であらうがなからうが僕には全く無關係だ。
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 最後に直接間接御聲援下さった讀者に紙上で御禮を申し述べる。なほ、挿畫さしえを長々と書いて下さった新木秀郎氏には、厚い感謝以外何物もない。原稿を遅らせて一方ならず困らせた事は御詫の言葉もない。孰れ捕禽苦心談でも聞かせて頂き度いと思ってる。
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 今夜は暖かい。雪解の水が軒からしたゝる音がする。アトリエの窓からは戀人の瞳のやうな星が覗いてゐる。午前一時だ。僕は大きな荷物を卸すやうな氣分で、一管のオノトペンを机の上にく。
(一九二九、一二、六 紀伊町の寓居にて)

注)句読点は補ったところがあります。



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夢現半球