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大庭武年 作品小集4

Since: 2025.02.02
Last Update: 2025.02.02
略年譜・作品・著書など(別ページ)
作品小集1 - - (別ページ)

      目次

      【中国・満洲小説、戯曲】

  1. 「小説 故国」 (小説) 旧かな旧漢字 2025.02.02
     
  2. 「戯曲 手紙」 (戯曲) 旧かな旧漢字 2025.02.02
     
  3. 「映画筋書 輝く銃後」 (映画筋書) 旧かな旧漢字 2025.02.02
     
  4. 「戯曲 劉愛護村長」 (戯曲) 旧かな旧漢字 2025.02.02
     
  5. 「小説 農民」 (小説) 旧かな旧漢字 2025.02.02
     
  6. 「戯曲 共同耕作」 (戯曲) 旧かな旧漢字 2025.02.02
     
  7. 「創作小説 売工人(まいくんれん)(中絶?)」 (小説) 旧かな旧漢字 2025.02.02
     



「故國」創作
「満蒙」 1933.01. (昭和8年1月) より

 船は黄浦江に入った。
 濁流が船舷をひたひたとなめた。
 白い外國の驅逐艦らしいのや、黒い貨物船や客船が、白しぶきをたて乍ら、しきりとすれ違って行った。
 岸の緑がひどく眼に浸みた。
 ――やつと故國に歸って來たのだ。
 陳英秀は散歩用鳥打の下で眼をかがやかしてゐた。
 二十七歳の現在まで外國で育ってきた彼だ――お伽噺を聞くやうに、故國の風物を空想してゐただけの彼なのだ。
 愛する祖國よ、
 そして愛する我等が同胞きょうだいよ、
 今僕が歸って來たのだ。
 彼は雙手を擴げて、眼の前に擴がる故國の大地を、しっかり抱擁し度い氣持で一パイだった。
「君、いよいよ上陸だね?」
 パイプを啣へて、ゆったり歩いて來た中年の外人が、ふとサイドレールによりかゝってゐる彼を見ると、足を止めて言った。
「やあ。」
 陳英秀は振返って微笑した。
「お別れですね。」
「さんざ航海中は議論したが――。」
「それが眼の前に實證されてきたんですよ。御覧なさい、矢張り支那は、貴方が仰有るやうに阿片と纏足の國ではありませんよ。」
「外面は兎に角――。」
「いや内面がなくて外面はあり得ませんよ。ボイラアに蒸氣がなくて、どうして機關車が驀進しませう。」
 新興支那を象徴する大都市「上海」の外貌が、既に濁水のうねりの向ふにあった。
 黒い煙が空を工業市らしく一面に染めてゐた。
 數限りないものから發する喧音が、近代的坩堝のたぎりを思はせた。
 陳英秀は愉快だった。
 力強い祖國の息づきが、支那を輕蔑し、支那を罵倒した此の外人を一ぺんにK・0したかと思ふと、知らず心の勇んで來るのをどうする事も出來なかった。
 我々は餘りに卑下してゐた。餘りに祖國を疎外してゐた。
 我々は外人の前で、自分達の頭の上らないのを祖國のせいに歸してゐた。
 ――それだのにどうだ。祖國は營々と國力を回復し、そして反對に外國の毛唐共を睥睨せんとしてゐるのではないか。
「上陸したら宿やどはどこにとるのかね?」
 外人は、遠くに建ち並んだ白い海岸通のビルデングを、すぼめたまなこで眺め乍ら、言った。
「一應、大東旅社にでも落着く心算ですがね――然し。」
 戀人の顏が彼の心眼に乏んだのだ。
 ――軈て二人は結婚して何處かに支那式の家を借るのだ。
「僕はカセイ・ホテルと言ふのにしようと思ってゐる。どうかねゴルフでもつき合はないかね、早速?」
「ゴルフ?」
 輕蔑したやうに陳英秀は外人を見返した。
「いや、そんな暇は僕にはなさそうですよ。僕には早速僕の爲すべき仕事が待ってゐるやうですからね。」
「爲すべき仕事?」
 外人はけゞんな表情かおをした。彼は此の青年が上海で樞要な地位を占めてゐる官吏の甥であり、兩親にはロサンヂェルスでも相當な商人を持ってゐる事を知ってゐたからだ。
「勿論、中國の爲の運動ですよ。中國は青年の力を要求してゐるんです。僕は僕の微力が少しでも新興中華民國の活動への拍車にでもなれば、この上の滿足はないと思ってゐるのです。」
「オウ、ワンダフル!」
 外人――その亞米利加人は手を擴げた。
「君は君の伯父さんの下に行って中國モンロー主義に就ての仕事をするのだね?」
「さうですとも。僕は覺醒した中國民衆に叫びかけるのです。愛國心とはどんなものか、中國民衆の持つ底力とはどんなものか。」
「君の戀人ベビイは君の活躍に非常な賞讃を送るに違ひないね。」
「いや彼女も闘士です。彼女の手紙はいつも燃えるやうな祖國愛のみによって綴られてゐます。彼女は勿論僕の協力者です。今の中國の安閑としてゐる青年が何人あるでせう。中國は今や眼覺めざめた東洋の獅子です。そしてその動力は男女青年大衆です。」
 昂然たる陳英秀の氣慨――亞米利加人は眼鏡をはづして拭き始めた。
 銅鑼がA甲板デッキを通過し始めた。
 太い氣笛が船體をゆすぶるやうに鳴った。
 亞米利加人は、ぼやけた視覺の中に、ごみのやうに群がってくる無數の(※舟山)(※舟反)サンパンを、そして近くの海關碼頭の上を蟻のやうに這ひ廻ってゐる苦力の姿を、不思議なフェアリ・ランドの光景でも見るやうに、眺めた。
「ではこれで失敬しませう。グッド・ラック。」
 矢庭に手を握られて亞米利加人は、危ふく眼鏡を取落しさうになり乍ら、びっくりして慌てゝ答へた。
「セーム・トゥ・ユウ――マイ・ボーイ。」

 ホテルの窓には六月の陽があふれるやうに照ってゐた。
 陳英秀はけだるい氣持で眼を覺した。
 枕元の釦を押すと、ボーイが早速カフェを運んで來た。
 實の所、陳英秀は故國の生活様式が、か程迄西洋化してゐるとは思はなかった。
「上海」に行けば、屹度支那固有の優雅なものが、眼にも鼻にも耳にも、どんどんふれて來るに違ひないと思ってゐた。が、それはとんでもない國粋主義觀念である事が、上陸間もなく理解された。
 いゝ事なのだらうか?
 それとも已むを得ない事なのだらうか?
 窓の下の大馬路には、川のやうな車馬行人の流れがあった。
 招牌が人を呼び、幕や旗幟が無形の觸手を道路の上にもつれさせてゐた。
 ――だが友よ、中國の持つ素晴らしい經濟力は、十分に外敵を壓迫するに足ると確信してゐる。
 ロサンヂェルスにゐる友に、陳英秀はさう書かうと考へた。
 食事を終へ、衣服を整へ終った時、ドアには輕いノックが訪れた。
「カミン。」
 訪問者は戀人――婚約者だった。
 彼女は陳淑芳と言って伯父の娘だ。―― ハイスクールにあがる前後迄、彼女も亞米利加にゐたのだったが。
「どう、よく休まれて?」
 彼女は活溌に入ってくると、元氣よく言った。
「あゝ、船の疲れが一ぺんでなほったやうだ。」
 だが、彼の見た娘の服装は、これは何と甲斐甲斐しい事か。ウエストのしまった、スカアトのひどく短い、粗末なサーヂの勤勞服だ。
「どうしたの、それ?」
「これ? これ中華女子愛國青年團の團服よ。これから民衆の排日デモの行進があるの。誘ひに來たんだけど、見に行かない?」
「あゝさうか、道理でね。」
 陳英秀は忽ち愉快になった。
「行かう。これからすぐ?」
「えゝ、時間はいゝの。」
 工作の時には支那服を着よう、それがいけなければオーバオールでも――陳英秀はさう考へて、トランクの底に古い父親の衣類なぞを疊み込んで持って來たのだったが。
「どうするの、着換へるの?」
「あゝ。」
「駄目よ。貴方はきちんとした身装みなりでいらっしゃいよ。どうせお友達に貴方の事は聞かれるんだから。」
 戀人の言ふ事がどう言ふ事か――陳英秀は一寸考へたのでは分らなかったが、遉にその意味が呑み込めると、苦笑した。
 ――愛國運動と虚榮は別か。
 街に出ると、人出は驚く程はげしかった。
 韮臭い群衆が各所に渦卷いて、あたり關はす唾を吐いたり、人の肩を小突いたりし合ってゐた。
 どれもこれも虫のやうに無智な顏をしてゐる――陳英秀は、むらがる群衆の顏を見て、内心ひどく失望したが、然し斯うした民衆こそ熱叫すると、どんな大きな力でも發揮する事が出來るのだ、と、微かに自分でなぐさめた。
 軈て行列が來た。
 游行隊の先頭には大きな旗が捧持ほうじされてゐた。
 黒山のやうにひしめき合った街頭の群衆の眼の前に、墨痕鮮かな文字が示し出された。
報 仇
奪回我滿洲的領土
不買日貨
實行對日經濟絶交
打倒日本帝國主義
 何やら分らぬ排日歌の合唱が、ほこりを立て乍ら通過して行く團隊の中から湧き上ってゐた。
 赤や黄の傳單が、要所要處で火花を揚げる爆竹と共に、群衆の垣の中にまき散らされた。
 十字路クロスでは電車自動車が堰を切った。
 群衆も行列もその度に雪崩のやうに入れ交って揉み合った。
 青葉の爽々しいアスファルトの道。肅々と行進マーチする一隊。綺麗な音色のブラス・バンドが南カルホルニアの高い碧空に浸み渡って――陳英秀はいつぞや自分達が、外國人の視聴を集めて行った「在留民排日デモ行進」を思ひ乏べてゐた。
「これぁ少し資金が足りなかったかな。」
 不圖耳元で、永年間き馴れた外国語が聞へた。
 陳英秀が聞耳をたてると、その返事が次のやうに答へた。
「請負金もかうせり上げられちゃァね。以前こんな事はなかったんだ。ものゝ一萬弗もやれば、工部局も顏色を變へる位の排日工作をしたものさ。近頃は一寸値切るとこの始末さ。香りの抜けたビールだね。」
 確にその長身の外國人達は、この豚臭い中國民衆の渦卷の中に、彼等の會話を理解する「文明人」が交ってゐやうとは、小指の先も思ってはゐない風だった。
 彼等は背の低い黄色民の背後から、悠然と頭れそびやかし乍ら、次第に襤褸衣の苦力に迄品質を低下させて行く行列を眺め入ってゐた。
 ――これはまあ何とした事だ!
 どんな陰謀でも、――例へば總司令暗殺の陰謀ですらも、支那群衆の中では平氣で話し合ふであらうその外人達を睨み乍ら、陳英秀は氷のやうな怒りを感じてゐた。
 ――外國資本家の畜生め!
 ポケットの中に握った二つの拳が、我慢し切れない力で、そちの方に飛んで行きさうになるのを、陳英秀は幸くも抑へて、くるりときびすをめぐらすと、同伴者を輕く引っぱった。
「行列なんてくだらないよ。歸らう。そして今日は家で本でも讀もう。」

 大馬路のレストオラン「マルセル」で、品も味もなかなか莫迦にはならない佛蘭西料理を食べ乍ら、陳英秀は友の黄律發と熱心に話してゐた。
 ――これは二三日あとの事だ。
 黄律發とは亞米利加視察に渡ってきた際、知合ひになったのだが、今のところ、故國に由縁ゆかりのない陳英秀には、唯一人きりの友なのだった。
 彼は工業大學出身の機械技師で、今は上海の或る大工場に勤めてゐるのだが、ほんの二三年會はないうちに、彼は見るかげもなく窶れてゐた。
「それで、いよいよヂェネ・ストと言ふ事になったのかい?」
 決して古代ポウトワインのせいばかりではない熱っぽい顏をして、陳英秀は皿越しに相手を注視した。
「うん、その筈だったのだ。だが奴等の切りくづしも功を奏したし、それにスキャップが續出したのだ。工人側は徹底的に惨敗したのだ。」
 黄律發の顏には深い困苦の皺が、さながら虐げられる人のやうに現はれてゐた。
 さうだ確かに虐げられる人なのだ!
 中國の勞働者は飽く事のない帝國主義資本家の搾取に喘ぎ仆れんとしてゐる。
 それは次のやうな話だった。
 黄律發の機械會社は金融資本家から俄かに資金の返還を迫られた。
 それに契約上からは決して非難さるべきものではなかったが、實際的には可成り惡辣なものだった。
 會社は極端な狼狽に陥った。
 一切の陳述、そして運動がすげなく拒絶された。
 會社は萬策盡きて金融資本家の手に委ねられた。
 金融資本家は北叟笑んで、それを他の會社と合併させ、自分の經營する新しい大きな會社を設立した。
「それでは結局同じではないか?」
 内情を知らない陳英秀は、金融資本家の横暴を怒り乍らも、友の苦惱は想像し得なかった。
「出來事がそれだけならいゝさ。然しその後に行はれるのは當然な大量馘首なのだ。」
 友は説明した。
「――工人は大半失業した。そして殘された者は給料を何割も低下させられたのだ。」
 恁うした末に起された、同じ機械工業にたづさはる全市工場のストライキ――だが、其麼そんなものにへこたれる金融資本家でもなかったのだ……。
「殘念だよ、實に。斯うして上海の、いや中國全體の、ありとあらゆる産業資本家が、刻一刻と金融資本家につぶされてゆくのだ。」
 黄律發は、インテリらしい絶望を、その蒼ぐろい顏に現はして、グラスの酒を呷った。
「産業資本と言ふものは其麼に無力なものかね?」
「無力だ、全く。そして君、我々として倒底我慢が出來ないのは、その金融資本なるものが殆んど亞米利加及び英吉利財團からなってゐる事なのだ。」
「畜生、外國の!」
「さうなんだ。我々の國の産業資本は、一切外國財閥が抑へつゝあるのだ。僕達はもうこの前から白色人にこき使はれる一人の黄色奴隷に過ぎなくされてゐるのだ。重工業は勿論のこと、工場手工業に到る迄、彼等外國資本が支配權を振はない所はなくなりつゝあるのだ。」
「惡魔め! 何故、中國の民衆は彼等をのさばらして置くのだ! 何故彼等を打倒しないのだ。」
「それが出來れば丈句があるか。中國は大蛇に卷き込まれた羊のやうに無力なのだよ。それに今僕は自分の關係してゐる工業方面の事ばかりを言ったが、實際はもっともっと、外國資本の魔力は、中國經濟界の全面に行き亙ってゐるのだよ。」
 陳英秀はもう口から吐き出す言葉も知らなかった。
 これが新興支那の内面か!
 これが覺醒せる東洋の獅子の肚の中か!
「ぢゃあ黄君、僕は君に聞き度いが、今中國の若いインテリが、一生懸命に狂奔してゐるのは何の爲なのだらう?」
「僕は知らない。おそらく僕にはわからない。」
 頭を垂れた黄色奴隷が悲しげに答へた。
 しっとりとぬれた初夏の宵――友に別れると陳英秀は、昂奮のあとのたまらない寂しさに襲はれた。
 太平洋の波濤を越える時、あれ程切なく故國に憧れた心持は、今はもう春先の淺雪程にも薄く消えかゝってゐた。
 新興中華民國の建設は何處にある?
 輝かしい中國青年の擔ふべき職場は何處にある?
 行き交ふ同胞の一人一人は、黄包車を洗足はだしでひく苦力と、何等異った顏つきをしてゐる者はなかった。
 ――淑芳に會はう。そして今夜はどこかで猛烈に踊り抜くのだ。
 電車通を横切らうとすると、彼の眼には突然烈しいヘッドライトの眩光が、驚くべきスピイドでのしかゝって來た。
 あッと思った瞬間、彼はくるくると、前の建物のイルミネエションが、渦を描くのを意識してゐた。
 痛くもなんともなかった。
 彼は醉っぱらった氣持で、ひんやりと冷たい大道に、長々と頬をつけて横たはった。
「莫迦野郎、支那の豚奴! 氣をつけろ!」
 確にそれは彼の第二の故郷の國語だった。
 そして夢のやうに覺えてゐるのは、その走り去ってゆくトラックに、武装を整へた亞米利加水兵の一隊が、陽氣に笑ひ乍ら乗ってゐた事だった。

「もう歩けやしない?」
 宿を尋ねて來た淑芳が、陳英秀を散歩に誘った。
「出掛けてもいゝね。」
 陳英秀は戀人の今日の扮装を眺め見た。髪に鏝をあてゝ眉を引き、唇には眞紅なハート型が――、そして華美はでな地合の上衣と袴子には俗に言ふ「上海風俗」のスカアトが一枚加へられて、すんなり伸した足の先のハイヒールに迄生々とした先端的な現代味が溢れてゐた。
 ――一體これが愛國女子青年團員なのだらうか?
 二人は連れ立って外へ出た。
 亞米利加仕立ての陳英秀の洋服も、ごみごみした巷の同胞達には、斷然光彩を放つものゝやうに思はれた。
 一切が外國趣味――町も、人も、生活も、感情も。
 第一この自分自身ですらも、恁うして異國趣味の女性を連れ、異國人ぶった行動をする事に優越を感じつゝあるではないか。
 中國全體が薄っぺらな外國風にかぶれてゐる――そしてその中で、本人達は、滑稽な排外運動に熱叫しようとしてゐる。
「やあ、おそろいで――。」
 聾をかけられて振返へると、そこには友の黄律發が歩み寄ってゐた。
「どちらへ?」
「散歩。君は――?」
 友は英語を下級社員に教へに行くのだと言った。今や中國では自國語より英語が必要になった。社員逹は英語が話せないと馘にされた。何故ならそれは彼等の經營者、指揮者の國語だったからだ。
 友と別れ、暫く行くと、或る街の角では大勢の人だかりが、一人の男の演説に聞き惚れてゐた。
 演説者の足許には、首枷をはめられた汚い顏つきの辮髪男がひき据えられ、そしてそれを取圍んで大學生風の青年が棍棒を持って立ってゐた。
「――諸君、国辱終須雪。不買日貨、就是制倭奴的死命、同胞們快起來與日本決一死戰!」
 亂髪の中年男は腕を振り拳をあげて叫んでゐた。
 意味が分るのか分らないのか、例によって蟲のやうな群衆は、口をポカンと開けて、喋る男の顏に眺め入ってゐた。
 可哀さうに、首枷の男は、縛られた體の胸のあたりに「日貨賣買者」云々と罪状を書いた札を吊るされ、窮屈な格構でしゃがんでゐるのだが、案外感じも鈍いと見えて、別につらさうな表情かおもしてゐなかった。
「同胞們起來奮闘、誓死抗日!」
 眼は火と燃え、演説者の聲は心ある聴者の肺腑をえぐるものがあった。
「東隣の狡兒に執仇せよ、日貨を徹底的にボイコットせよ!」
 彼等の群から離れた若い陳英秀等の胸の中にも、たぎるやうな昂奮が渦卷いてゐた。
 さうだ、無智な民衆と、惡軍閥の愧儡で濁り汚されてゐる中國國民の中にも、あのやうな覺醒せる憂國の士があるのだ。
 素晴らしい、素晴らしい――陳英秀は上陸後初めて故園に對する絶大な親しみを感じる事が出來た。
 彼こそ英雄だ、おれも明日からあのやうにして街頭に立たう。
「ね、貴方はまだ『國辱紀念の歌』を御存じないわね?」
 頬を上氣させた淑芳が言った。
「あゝ、教へておくれ。」
 二人は歩調に合せて、勇敢な、そして昂奮せずにはおられぬ歌詞を持つ、叛逆風なメロディを(※口甬)(※そら?)んだ。
「ね、本當に日本をやっつけるといゝと思ふわね。貴方どう思って、戰爭したらどっちが勝つと――?」
「シュウァ、日本ヂャップなんぞに負けるものか!」
「私もよ。この前の閘北の場合だって、もう少し中國の金持が頑張ればよかったのよ。」
「中國の金持?」
「さうよ、あの十九路軍を後援したのは蒋介石なんぞより永安工場等だったの。」
 中國資本家の帝國主義戰爭援助か!――忽ちすべてのからくりが、白々しい興ざめた感じで明瞭になって行った。
 排日をする者――それは日貨排斥で私腹を肥やさんとする英米資本家と貪婪な中國資本家と――。
 正義の士よ、決して此麼こんな奴の手先になってはならぬ――尠くとも先刻の志士達は、軈て不純分子を清算して巍然と高く正しき排日の旗幟を打ち立てるに違ひない。
「あら、どうしたのでせう?」
 見ると行手の教會の前で、宣教師の黒服を着た外人が、足を上げて俥夫を蹴ってゐた。
 多分賃金の事から口論が惹起したのに違ひない。銅貨が二三枚甃石道の上に散らばってゐた。
「もしもし、どうしたのですか? 手荒な事をしなくてもいゝではありませんか!」
 何となく胸に嚇っと來た民族的な怒り――陳英秀は早足でかけよると、牧師の亂暴を制した。
「何?」
 神に仕へる牧師ははき出すやうに怒鳴った。
「默ってゐろ、東洋のアフリカ人!」

「――現今の中國は欧米人によってその核殻を食ひつぶされんとしてゐる。白狼は牙をむき出して、美味なる中國の腹肉を食はんとしてゐる。そもそも人間の生活の根源は何であるか、それは勿論經濟である。然るに中國の經濟は歐米財團によって危機に瀕せしめられてゐるのだ。然らば經濟力なき領土とは如何なることを意味するや、曰く空虚な觀念である。即ち中國は知らず識らず領土を失ひつゝあるのだ。又翻って人民なるものを考へて見よ。 それは將して中國の光輝ある存在であるであらうか。殘念ながらノオ。彼等は一様に垢面の黄色奴隷だ。彼等は我利あって祖國なき中國資本家と、無恥厚顏な白色人資本家の搾取の對象なのだ。おゝかくて中國はその人民をすら失はんとしつゝある! では最後に主權は存在するや否や。諸君よ、諸君は躊躇なしに國民政府を中國の主權と認める勇氣ありや。國内常に統一を缺き『兄弟鬩干牆外禦其務』の心なき中國に、我々は如何にして確乎たる主權を認める事が出來よう。 我々は斯く説き來れば、中國の前途に慄然たるを得ない。賢明なる白色人は黄色人を以て黄色人を殺戮せしめ、中國人を以て中國人を殺戮せしめんとするに汲々たる現相だ。そしてその後に來るものは黄色人の衰退であり、白色人の興隆である。天下の識者よ、無意味なる黄色人の爭闘を中止せよと叫べ。東洋は將に黄色人の生活根據地である。根據地を護れ、黄色人種は茲に一致協力團結して、白鬼の魔手に對抗せよ――。」
 如何なる經綸家の文章だらう――陳英秀はホテルのロビイで以上のやうな雜誌の一文を讀み終った。
 頭が麻のやうに混亂し、彼は熱病にかゝったやうに頭痛した。
 ――一體「愛國心」とは何だ? 中國の民衆がきちがひのやうに叫びまはってゐる「愛國心」とは何だ?
 陳英秀は帽子もかぶらず宿を飛び出した。夜風が頭の髄まで冷やすやうに浸み込んだ。
 ――おゝ分った、「愛國心」とは甲の帝國主義軍閥に對する乙の帝國主義軍閥の反抗心だけである!
 道路の上で、陳英秀は驚駭にとび上った。自分自身が解決したその結論に、彼は顏色を變へたのだ。
 ふらふらと、夢遊病患者のやうに、彼は酒場に這入って行った。
 足のついた杯が、朦朧とした彼の眼の前に限りなくならべられて行った。
「いよう、大將、盛んだね。」
 青幇とか言ふ連中は其麼そんな人種なのだらう――四五人の遊び人風の支那人が、馴れ馴れしい冗談口調で近づいて來た。
「どうだい、一杯、こちらからも献上しようぢゃあねえか。」
 とろりと眼を見はって、陳英秀はやけくそに頷いた。
「受けよう、さあ、片っ端しから注いでくれ!」
 どれ位飲んだか、いつの間にか彼等は次から次と酒場を群れて廻ってゐた。
「なんでぇ、この若僧は?」
 或る所まで來た時、一行は突然一人の男と行き合って合流した。
「弗箱でさ、親分。」
「けちな野郎共だな。ほら、これを取っときな。」
「親分濟まねえな。所でどうです、荷物の荷揚げの方は?」
「今度の分はさっき濟んだよ。次の分を明日頼むぜ。だが近項の日貨密輸入はボロいもうけになる代り宣傳の方が大骨折れだな。」
 爆發する洪笑――何の氣なしに醉眼を流した陳英秀の視線に觸れたものは、何と、晝間街頭で悲憤慷慨してゐた憂國の志士と、胸に「日貨賣買者」の看板をぶらさげられてゐた首枷の男に違ひなかったのだった。

 我友チャアリイ・張よ、
 僕の御無沙汰をゆるしてくれ。
 カリホルニヤの空は相變らず美しく晴れてゐるだらうか――僕はこの頭の上の空が、若し僕の懐しいそれであったらと思ってゐる。
 幸福なチャアリイ、僕は君の屈託なきニヒリズムを今切にうらやましく思ってゐる。
 一體君は、僕が非常なよろこびを、故國に就て感じつゝあると思ってゐることであらうか?
 故國に於ける數日間の經驗――それは亞米利加に於ける二十數年の思索より逢かなものであった事を、僕はこれから書き送らうと思ってゐるのだ。

 愛國的青年、陳英秀は恁ふ言ふ冒頭で長い手紙を書き出した。
 そして最後に、次のやうな言葉をしたゝめたのであった。
「友よ、故國は以上の如く既に亡びて久しいのだ。けれど僕はまだ僕等の任務が終ったものとは考へないのだ。何故ならば黄色人種はまだ滅びてはゐないからなのだ。」 ―一九三二・一二・一〇―

注)明かな誤字誤植は訂正しています。句読点は補ったところがあります。


「戯曲 手紙」一幕
「協和」 1933.01.01 (昭和8年1月1日) より

 場所――北滿の僻陬へきすう
 時 ――嚴冬
 人物――齋田上等兵
     藤本一等兵
     其他――A伍長、B、C、D各一等兵

 冶たい吹雪の夜である。場面は――支那家屋を改造した一分遺所の内部であって、暗いランプが天丼からさがり、古物のストーブがちらちら火を覗かせてゐる中央に粗末な卓子、壁際に銃器架。
 卓子を圍んでA伍長、齋田上等兵が紙製の將棋を闘はせ、ストーブの傍では一等兵が脱ぎすてた自分の襯衣に繼をあててゐる。
 藤本一等兵は――温突オンドルの上で寝ころがってゐる。
A伍長 (將棋を闘はせ乍ら)風が出たな、王手とゆくか。
齋田上等兵 これァ痛い。膝部盲貫銃創しつぶもうかんじゅうそうだ。
A伍長 これほどうだ、致命傷だらう。
齋田上等兵 ちぇ、いやな駒を持ってやがるな。
A伍長 くたばらないのか――往生際の惡い奴だな。
齋田上等兵 なかなかどうして其麼そんな事では。
B一等兵 (顔を上げて)なんだい藤本の奴「(※イ尓)不要麼」とか何とか言ってるうちに眠ってしまやがった。
齋田上等兵 (振返って)晝間ひどく疲れるからなぁ。
A伍長 おっと待った。そんな手はないぞ。
齋田上等兵 なにをぼけてるんだ、角がなったんだよ。
A伍長 巧い事行きァがったな、だが藤本はなかなか感心だよ、字もろくに書けないのに支那語にァ一生懸命だからな。
齋田上等兵 全くだ。先生支那語と言ふと夢中なんだよ。(振返って)おい、風邪ひくといかんから一寸外套をかけてやってくれ。
B一等兵 (膝の上の襯衣をどけて立ち上り)支那語の稽古もいゝが、巡回に行く毎にやたらに村民をつかまへるんで、面倒臭くていかんよ。
A伍長 だが評判は先生が一番いゝんだからな。親切で、人なつこくて……。
齋田上等兵 ほら、王手だよ、作戰奏功と言ふところだな。
A伍長 ちぇ、逆襲とおでなすったか。ぢゃァこちらは豫定の退却だ。
B一等兵 (外套を藤本にかけたついでに窓の方に廻って)寒さうだなぁ、今夜は確に零下三十度はあるぜ。
齋田上等兵 (盤面に眼を注いだ儘)吹雪だらう?
B一等兵  雪は割に尠いが風がひでえや。思ひ出すなぁ攻撃を。
A伍長 (駒を動かし乍ら)寒かったな、あの時は。しんのしん迄氷ったよ。
齋田上等兵 どこ迄行っても氷の上だからな。引馬行軍騎乗行軍と何べんやったか知れァしない。
B一等兵 敵部落の灯を見た時はうれしかったぢゃないか。(ストーブの傍にかへって襯衣をとり上げ乍ら)火にあたり度いばかりに敵兵の射撃なんか糞喰へだったものな。
齋田上等兵 散開もせずかまはずずんずん入っちゃったなんて、今から思ふと――亂暴だったが。と――一寸待ってくれ、その駒は。
A伍長 卑怯だぞ。待てん、待てん。支那式は恥辱だ。
齋田上等兵 ちくせう、よゥし、取れ! おれも日本男子だぁ。
B一等兵 だが――(糸を齒で切って)總攻撃の味はいゝなぁ。忘れられんよ。
A伍長  「突撃ッ」か。身の裡がぞくぞくするな。誰でもそのたった一言の命令を待ちあぐんでゐるんだからな。
齋田上等兵 おれは今でも中尉殿が自慢の日本刀で敵の素首を斬り落した光景をはっきり憶へてゐるよ。はっと思ったら、立ってる奴の首がないんだ。
A伍長 おれはね、おれに斬りかゝって來た敵の野郎の面を何の因果か、いまだに忘れられんで因っとるよ。おれが、「小癪なッ」とそいつを芋ざしにすると、そいつは齒をむいて笑ひやぁがるんだ。
B一等兵 然し白兵戰となると、戰ってゐろ間の時間がとても長いぢゃないか。敵と渡り合ってる最中に可成りの餘裕がある、不思議なもんだ――あの劍があゝくるから此の劍を恁うやる、然し此の劍があゝ行かぬうちにあの劍が恁う來たら、あの劍はおれのドテッ肚にブスリとくる……。
齋田上等兵 さう來たら來たで仕方がないと言った氣持だな。もう樂なものだ、あゝなると。
B一等兵 だが、うれしいなあ、凱歌を揚げる時は。(出來上った襯衣を上衣を脱いで下に着る)
A伍長 胸の底から出す聲って、あの時の萬歳の聲だな。うれしいより何より涙ばかり流れ出やがってな。
齋田上等兵 どうだい、あの軍歌を歌って本隊に歸る時は――。
B一等兵 おれはわあわあ泣き乍ら、歌って歩いたよ。おればかりぢゃないんだ、見ると、横も後も皆涙をぽろぽろ歌ひ乍ら出してゐるんだ。K軍曹の音頭がないのが一層胸をしめつけてなァ。
A伍長 中隊長殿も一句を一度に歌へなかったぢゃないか。
 齋田口笛で「戰友」を吹く。
A伍長 (口笛につれて)……離れて遠き滿洲の
B一等兵 赤い夕陽に照らされて
三人 (一緒になって)友は野末の石の下。思へば悲し昨日きのうまで、眞先かけて突進し、敵を散々こらしたる、勇士は此處に眠れるか……
 歌ってゐるうちに次第に歌に引き入れられて、皆なんとなく眼のうちが熱くなってくる。
B一等兵 (ランプを見詰めて)故郷くにの事を思ひ出すなぁ。
齋田上等兵 今頃は故郷くにの奴等もおれ達の事を思ひ出してるよ、屹度。
A伍長 (將棋の方はその儘にして了って)おれの妹は此の月の末嫁に行くんだよ、氣立てのいゝやつでなぁ。
B一等兵 別嬪か?
A伍長 (うれしさうに笑って)お前なんかたァまァ釣合ひは取れねえよ。
齋田上等兵 (椅子の上に膝小僧を抱いて)おれの親爺はもう故郷くにに歸ってる筈だ。いつも冬になると出稼ぎ先から歸るんだが、二百ぐらゐの金は持って來るよ。
A伍長 おれはね、妹に二十圓送ってやらうと思ってゐるんだ。前から少しづゝためたんだけれどな、こっちぢゃ別に買ってやるやうな祝物もないしなあ。
B一等兵 (上衣のポケットから手紙をとり出して見てゐたが)――おい、見てくれよ、おれの所ぢゃね、三番目の弟が生れたんだよ。何て讀むんだい、この字?
齋田上等兵 マスヲだらう。
B一等兵 マスヲか。いゝ名だらう。きっとくりくり太って可愛いぜ。もう暫くたったら村長さんが寫眞にとって送ってくれるって書いてあるんだ。
A伍長 妹の奴、おれが出征する時ァ千人針を街に出て縫ってもらって來たよ。「兄さん、これには私の魂がこもってゐるから、どんな敵が來たって大丈夫。」だってな。はゝゝゝ。
齋田上等兵 (一寸暗く)おれは親爺にぁ會へなかったよ、だが村中は總出で送ってくれたっけ。
B一等兵 おれの二番目の弟はね、いまに又兵隊になるんだよ。今おれのゐた金物屋に小僧をしてゐるけれど。そこの大將が親切でな、おれが入營したら、すぐ代りに弟を使ってくれたんだよ。あいつは騎兵がいゝな。
A伍長 どうだらう、今頃、故郷くにぢゃおれ達の事を聞いてどんな氣でゐるだらう。(愉快げに微笑む)
B一等兵 それぁ大騒ぎでゐるさ。××攻撃の事なんか新聞に大きく出たに違ひないものな。誰でもその噂ばかりだらうよ。
齋田上等兵 村中得意になって歩いてゐるだらうな。
B一等兵 おれ達が敵の、あんなにあばれた機關銃をやっつけた事も新聞に出たかな? 出たな屹度。(笑って)店の大將も毎日おれの自慢ばかりしてゐるぞ。あはゝゝゝ。
A伍長 妹の結婚式におれが歸れたらなあ。おれは上座に坐らされるよ。そして戰爭の話をしてくれって皆がやかましく言ふに違ひないんだ。
齋田上等兵 然しなぁ、おい、其麼そんな故郷くにの方の事を思ふと、おれ達も働き甲斐のある氣がするなぁ。おれ達のする事が一つ一つ親兄弟や村や町の名譽になってゐるんだものな。
B一等兵 本當だよ。この前姉さんから來た手紙には、こちらも随分寒いけれど、滿州にゐるお前の事を思ふと、こっちの寒さなんか裸でも濟ませられる氣がする――って書いてあったよ。故郷くにの方ぢゃ、とてもこっちの事を有難く思ってゐるんだ。
A伍長 親孝行だな、これも。
齋田上等兵 さうともさ。忠と孝が一度に果されてゐる譯さ。大體日本人と生れたら、男なら戰爭に出るのが何よりも名譽だ。見ろ、留守隊の奴等を。(笑ふ}
B一等兵 (爆笑して)あゝあいつ等の泣面と言ったら、わはッ……。
A伍長 得意だったなぁ、おれ等は、Sなんか血書の願書なんか出しをった。
齋田上等兵 喇叭を吹いて營門を出ると、町中の奴等は氣狂のやうに旗を振りをった。
 藤本一等兵温突オンドルの上に起き上る。
齋田上等兵 なんだお前眼をさましてゐたのか――おや、どっか工合が惡いのか?
藤本一等兵 (慌てゝ眼のふちの涙を掌でふきとって)いや。
B一等兵 どうしたんだ、夢を見たのか?
藤本一等兵 皆の話を聞いてゐたのさ。
A伍長 馬鹿、話を聞いてゝ泣く奴があるか――案外鬼一等兵も氣弱だなぁ。(笑ふ)
藤本一等兵 夢の中で「こゝは御國おくに」を聞いたんだ。おれはあの嵐のやうな戰場の中の事を又ぼんやりと夢現の中で思ひ出してゐたよ。
A伍長 よせよせ、そんなやうな時はろくな事は思ひ出さないものだ。おい齋田、將棋がお留守になってたぜ。(笑ふ〉
齋田上等兵 やめやうや。負けにして置いてやるよ。
A伍長 こいつ到頭斷念あきらめやがった。(ストーブの方に立つ)
藤本一等兵 ねえ齋田、お前、今、おれ達のしてゐる事が親孝行になってるんだと言ったなぁ。
齋田上等兵 (煙草「ほまれ」に火をつけて)言ったよ。實際その通りだものな。これ以上親孝行はないのさ。何をうれしく思ふって、親の身として、自分の息子が戰爭で忠義を盡してゐるって言ふ事程、うれしく思ふ事はないさ。日本中全體に向って鼻が高い譯さ。
藤本一等兵 (苦しさうに)世間の人もその親のうれしい氣持を判ってくれるだらうかなぁ?
A伍長 あたり前さ。あれが誰それの親だと言ふと、第一ものゝ言ひ方から違ってくるってものさ。
藤本一等兵 (黒ひ切って)ぢゃ、おれ、頼みがあるんだがなぁ、齋田。
齋田上等兵 何だ?
藤本一等兵 (氣まり惡さうに)實は手紙を書いてもらひ度いんだが……。
齋田上等兵 何だ、其麼そんな事か、誰に書くんだ?
藤本一等兵 おふくろにね。
B一等兵 お前、ついぞ今迄、おふくろのゐる事なんか口に出さなかったのにな。
藤本一等兵 (一寸赧くなって)若い時分から家を飛び出して、まるでおふくろとは音信不通になってるんだ。きょうだいが三人あっておれが末ッ子だったんでとても可愛がられたんだがつひ途中でぐれて了ってな。
A伍長 兩親を置いて飛び出したんか?
藤本一等兵 今から考へると面目はねえさ。ある女と町を逃げてな。それからあっちこっち北海道まで流れたんだが。遂故郷くにには寄りつかずさ。噂に聞くと二人の兄や姉は皆死んで、今はおふくろ一人で駄菓子屋をしてゐると言ふんだ――親爺はおれの子供の時死んぢまったんだ。
B一等兵 入營する時もおふくろの所には行かんかったのか?
藤本一等兵 面目なくて足踏み出來なかったんだ。
A伍長 出征する時は知らせたんだらう?
藤本一等兵 (うなだれて)いゝや。
A伍長 ぢゃ、お前のおふくろはお前が滿洲に來てゐる事を知らないのか?
藤本一等兵 知らないんだ。どこかで野垂死した位思ってゐるかも知れないよ。
B一等兵 莫迦だなぁ、お前は。何故早く知らせてやらないんだ。××部隊の鬼一等兵と言ったら屹度有名になってゐるに違ひないんだぞ。
藤本一等兵 實はな、おれ、滿期になったら滿洲に殘って、滿洲人を相手にうんと働いて、そして少しでも成功したら、おふくろを呼ばうと思ってゐたんだ。五年先になるか十年先になるか知れんけれどな。それにおふくろはもう七十に近いから、このおれの考へは結局生きてゐるおふくろには無駄な事になるかも知れんとは思ってゐるがなァ。
A伍長 知らせてやれよ、そのお前の考へてゐる事をおふくろが知ったら、どんなによろこぶか判りゃしないや。
B一等兵 それに、お前がこんなに立派な軍人になってゐる事を知ったら、おふくろはこれ以上にうれしい事はないと思ふよ。
藤本一等兵 齋田、書いてくれるか?
齋田上等兵 書かう、藤本。おれが立派にお前の氣持はおふくろさんに通じさせてやるよ。安心しろよ。
藤本一等兵 (思はず眼に手をあてゝ)お、おれの不孝が、おれの不孝が、若し其麼そんな事でつぐなはれたら。
齋田上等兵 つぐなはれるとも。おふくろさんは町中の人からうらやましがられるぞ。あの人もすっかり生れ變って今ぢゃ立派に國の爲に盡してゐるさうだってな。おふくろさんも今迄が今迄だけに、鼻がとても高い譯さ。
A伍長 それにお前の考へてゐる先の事は、よし實行されなかったにしろ、おふくろはよろこんで死んで行く事が出來るぞ。年とった者にせめて明るい希望を持たせて置くだけでも、どんなにいゝ事か判りゃしない。
藤本一等兵 (泣いて)齋田、頼むよ、頼むよ。
齋田上等兵 引受けた。安心しろよ。おれがいゝやうに書いてやる。お前のお母さんは学が讀めるか?
藤本一等兵 明きめくらだ。人に讀んでもらふんだ。
齋田上等兵 ぢゃ手紙はお前が書いたものだと思ふだらう。
藤本一等兵 突然吃驚さすやうに書いてやってくれ。そしてとても丈夫で滿洲で働いてゐるから安心してくれ、と。
齋田上等兵 よしよし、それからお前の考へてゐる事もくはしくな。――これから時々お母さんに手紙を出す事だ。
藤本一等兵 すまんな。封筒と紙はこゝにあるんだ。(彼は温突オンドルの隅の自分の持物の中から慰問袋を引き出す)
 丁度そこに重い兵戦靴の足音が聞へて、隣の玄關から雪だるまのやうになった二名の武装兵C、Dが這入って來る。
C一等兵 (直立して)報告ッ。R村、F村、及び巡回沿道に異状なし、終りッ!
A伍長 (直立して)よしッ。休養!
 C、D、雪をはらって、重い防寒具を脱ぎ始める。
C一等兵 寒いぞう。手に感覺がないわ。
A伍長 風が吹きつけるからなぁ。
D一等兵 行きはいゝが歸りは眞面まともだからのう。
B一等兵 (立ち上り乍ら)おい石炭くべてくれい。
A伍長 よしきた。
B一等兵 やれやれ、今度はおれ達がお出かけか。藤本、用意しろよ。
齋田上等兵 御苦勞だな。W、J村の方は山蔭になるから、割にいゝだらう。
C一等兵 (銃から装彈してあった實包をとりはづして)今夜はどこ行ったって同じよ。せめてレコの事でも思ひ乍ら、夜道をたのしく行って來な。
B一等兵 馬鹿野郎、貴様ぢゃあるまいし、レコが炭團たどんになるものかい。
 一同洪笑――そのうちに藤本、B一等兵は重々しい防寒具を身につけ、銃劍を用意してA伍長の前にならぶ。
B一等兵 (直立して)唯今よりW村、J村方面を巡回して参りますッ。終りッ。
A伍長 (直立して)よしッ。出發!
B一等兵 (笑って)おい皆、行ってくるぜ。ストーブの火を消しでもしようならたゞでは置かんぞ!(行きかけて)おっと、懐中じるこを盗んだら承知せんぞ。
C一等兵 莫迦、貴様の唾なぞついてるものを誰が盗むか。
B一等兵 (笑ひ乍ら出てゆく)
藤本一等兵 齋田、ぢゃ頼むぜ。
齋田上等兵 よし、歸って來る迄に書いといてやる。安心して行って來い。
 藤本一等兵背をまるめ、銃をさげて出て行く。風の音ひとしきり――。
D一等兵 (ストーブの傍にどかりと坐って)今夜は行きも歸りも到頭犬の子一匹にも會はなかった。寂しいもんだのう。
A伍長 變な奴に出没されるよりかいゝよ。
C一等兵 (手をやけにもんで)所が案外さうでもないんだ。誰もゐないとかへって物騒な氣がするもんだ。
齋田上等兵 お前等、そろそろ寝たらどうだの。おれは手紙を一通ゆっくり書かなきゃならないんだ。
D一等兵 おやすくないのう。
齋田上等兵 (苦笑して)當り前だぁ。
 と、突然、風の唸り聲の中に銃聲が一發。
 はッと皆が顏を見合せると、續いてタタタと數發の銃聲。「素破ッ!」とばかり一同とび上って軍装を素早く身につける。勿論防寒具等に手の及ぶ餘裕はない。
A伍長 (銃に劍をつけて)命令! C一等兵、D一等兵はA伍長と同行し現場に急行。齋田上等兵は分遣所を護る。終りッ。
 三人は足音せはしく飛鳥の如く室内をとび出して行く。齋田上等兵、室内のランプを消し、銃を擬し乍ら靜かに戸外に出て行く。長い間――。
 足音が聞へる。A伍長が先頭、一同が藤本一等兵の死體を抱き乍ら歸って來る。齋田上等兵が中からはなれてランプに火をつける。一同死體を温突オンドルの上に横たへる。
B一等兵 (昂奮に蒼ざめ齒ぎしりしつゝ)ちくせう、喚きァがったから、確に手應へはあったのだが……。
A伍長 (憤黙と)一發でやられたんだな。
B一等兵 (悄然と)さうなんだ。並んで歩いて行くと突然物蔭から……。
C一等兵 運命だなぁ、おれ達をそっと從けて來た奴かも知れないんだ。
D一等兵 かたきは討ってやるでのう、藤本。
A伍長 明日はこの邊の分遣所全部に通知して、十里四方の村落中手傷の者を片っ端から探すんだ。(悲憤の涙にむせぶ)
 一同屍の前に頭を低く垂れる。
齋田上等兵 (突然、悲痛に)藤本、藤本。おれは考へたが矢張りお前から頼まれた手紙は書く事にするぞ。今すぐこれから。お前の意志は生きてゐて、そしてお前のお母さんを明るい希望に甦へらすんだ。五年十年、おれの手紙はお前に代って、お前のお母さんを終生明るくさせて行くだらう。藤本、安心しろよ、手紙はいつ迄もお前のお母さんが生きてゐる中おれがしっかり引受けたぞ!
 誰も顔を上げる者はゐない。風がやけに吹きつのるランプの焔が靜かに揺れる。――幕

注)明かな誤字誤植は訂正しています。会話に動作として()を入れたところがあります。
注)句読点は補ったところがあります。


「輝く銃後」懸賞映畫筋書 社員健闘の映画化
「協和」 1933.06.15 (昭和8年6月15日) より

 血痕惨たる孤驛の舎屋、身を以て護りし國旗にしぶく碧血、モーターカーに蝟集せる彈痕等、比々皆、壯烈果敢な同僚の傷ましき最期を物語る。愴然.死を期して乗る先驅車……門邊に見送る妻とその背の幼兒が、夕べには冷たき骸に縋って號泣する……想ふだに悲壯の極!! 事實は既に偉大なる劇である。
 然しながら記臆は滅びる。終には正史とも謂ふべき『滿鐵社員健闘録』が正確に事實を傳へ得たが、尚、滅びざる史實に血を通はせて人の胸を衝く永遠性を附與したい。一には地下の同僚を慰め、一には斯かる同僚を有する吾等滿鐵社員の誇りを世に示さむがため。
 即ち茲に藝術の匂ひを籠めた作三篇を世に送る。

輝く銃後
入選 大庭武年

 これは一つの挿話である。然し輝かしい全滿鐵社員の健闘を表象する物語でもある。
 私はこの一篇を、われわれ全滿鐵社員に捧げると共に、非常時日本大衆の前にも贈り度いと思ふ。
×
 凄愴たる鹿柴ろくさい、そして憂鬱な土壌――枯枝の影がその上に侘しく落ちてゐます。
 今、この滿鐵線の孤驛Uの歩廊プラットホームに、大型の懐中時計をてのひらの上にのせ、ぢっと列車の通過を待ってゐる驛長がありました。
 セコンドは時を刻んで、軈て遠く信號機の彼方に白煙がもくもくと上り始めました。M型機關車の牽引する第×貨物列車なのです。
 その機關車の窓には、堅くレヴァを握った青年機關士矢橋鎮夫が、刻々と近づいて來るU驛の信號機を眺めてをりました。冬枯れの畑が飛び雜木林が飛び、列車はそして轟々と驛の構内に入って行きました。
 驛長は帽子を抑へ、驀進して來た列車を緊張して注視します。――風を切って眼前に突進して來た機關車の窓、そこには帽子の顎紐を堅く下した青年機關士の顔が、一パイの微笑を湛へて乗り出してゐるのです。
「…………!」
 何を叫んだかわかりません。機關士の聲は風に吹きちぎられて飛んで了ひました。が、機上からはまるめられた通報紙がパッと歩廊プラットホームに投げられて……。
 驛長は手を上げ、去り行く機關車に別れを告げました。列車は尾標テールマークを見る見る縮小させて、軈て遠いカーブの彼方に影を没して行きました。
 驛長はやをら歩を移し、歩廊プラットホームに落ちてゐる通報紙を拾ひ上げて、指先で擴げて見ました。と、それには次のやうな文句が鉛筆で走り書きされてゐるのでした。
「お變りありませんか、お父さん。僕、元氣です。とても忙しく不眠不休です。お父さんも一層御精励下さい。鎮夫。」
×
 靜かに照る電燈の下で、縫物を膝にのせた娘の綾子は、新聞を擴げた母親と話をしてゐました。
「僞勇軍や匪賊がまた猖獗しょうけつしてゐるさうだよ。兵隊さんの苦勞も並み大抵ぢゃないね」
「本當に。けど、お母さん、兵隊さんの蔭になって働いてゐる人々も並大抵の苦勞ぢゃないと思ふわ」
「それはさうだね。表面に出ないだけ人の注意は惹かないけれどね」
「鎮夫さんは、けど、男子の本懐だと言ってゐたわ。兵隊さんでなくても、國民の期待を双肩に擔って、思ひきりお國の爲に盡せるのだからって。――お母さん鎮夫さんの所に電話かけてよくって? 今夜は歸って來てゐる筈よ。ちょっとなら御迷惑ぢゃないと思ふわ」――綾子は鎮夫の許婚なのでした。事變以來、會ふ事は稀でしたけれど、照るにつけ曇るにつけ、蔭乍ら愛人の身の上を心配する事は、一方ではなかったのでした。
 電話は通ぜられました。鎮夫はその市街(滿鐵線の中心驛F)の機關區の運轉室にころがってゐたのですが、受話器をとると、それが愛人の綾子だったので、大變喜びました。
「別にお用事はないの。けど御無事な聲を聞き度かったの」綾子は懐しさうに言ひました。
「さう、僕も久し振りにお目にかゝり度いのだけれど、それも一寸出來ないんでね。いゝかね、此處の掲示板に書かれてある文章を讀んでみようか」
 ――不時呼集ニ備ヘ各員外出を禁ズ。執務服ノ儘休養ヲ撮ラルベシ。機關區長」鎮夫はさう讀み上げて笑ひました。
「おいおい、おやすくないぜ」
「とても聞いちゃをられねえな」
 傍で將棋をさしてゐた同僚たちが惡意のない揶揄を飛ばします。
「あの、鎮夫さん、寂しくなくって? 私こちらからレコードを放送してあげませうか? あなたの大好きな歌よ」
 心ばかりの慰勞です。綾子はえんやらやっと蓄音器を電話の前に持って來ると、軈て一枚のレコードを鳴らし始めました。
 東より
 光は來る 光を載せて
 東亞の土に 使ひす我等――
 それは夜空の電線を傳って遠く鎮夫の受話機まで快く響いて來ました。將棋を闘はしてゐた一人がふと耳を聳てました。と、又一人が顏を上げました。毛布にくるまって煙草を吸ってゐた滿人の機關方、楊惠林も片肱を疊につきました。
 皆の顏には自然と微笑が泛びました。快いメロディです。懐しい「われら」の歌詞です。――皆の耳は一様に受話機に近く引き寄せられて、そしてその旋律にうっとりと聞き惚れるのでした。
×
「おい、出動だ! 皆、起きてくれ!」
 その深夜です。運轉室に着のみ着の儘で毛布にまるくなってゐた一同は、飛び込んで來た係長の叫びに、
素破すわ!」とばかりはね起きました。
「××方面の鐡道、橋梁が破壊された。應急修理の十三輛の修理列車を一時間の中に編成して、至急出發するやう」――下された命令は以上のやうなものでした。
 闇の構内には忽ち戰場のやうな活氣が充滿しました。F驛は今や總動員!
「矢橋さん、私、一緒に行けないのが殘念です」
 線路のみが幾條も薄く光る闇の中で、忙しく擦れ違ひ合った矢橋に、楊惠林が言ひました。兩人は長い間同じ機關車に乗ってゐた仲のよい相棒だったのです。
「私、三時の××線の先驅車に乗るんで」
「當番だったの?」
「いえ、昨夜、志願したんです。實はこの前、先驅車の乗員の選にもれたら家内におこられちまひましてね。是非、志願してゞも乗れって言はれてゐたものですから。はゝゝゝ」
 楊は體裁惡さうに笑ひました。鎮夫は、楊の妻君が人に評判される程、亭主思ひだと言ふ事を思ひ浮べるにつけ、その言葉がひしと胸に應へました。
「さうか、ぢゃ、元氣で行ってくれよ」
「貴方も氣をつけて行って下さいね」
 仲間にだけ通ずる堅い親身の握手――兩人ふたりは暗夜の中にあはたゞしげに右と左に別れて行くのでした。
 ――軈て用意整った一聯の修理列車は、鎮夫の手によって闇の中を驀進し始めました。そして白々と夜の明けめる頃、列車は目的地點に到着し、忽ちそこにはめざましい復舊工事が開始されました。
「矢橋さん、通信が來てゐますよ」
 その日の午後、必死になって働いてゐる鎮夫の所に電話係が一葉の通信紙を届けて來ました。何であらうか? ――鎮夫はよごれた手を拂って開いてみると、
「今暁××線第×先驅車は×地點で爆破され、乗務員全滅せり。旅客列車は無事。」
×
 任務を了へてF驛に歸着すると、鎮夫は取るものも取りあへず病院に驅けつけました。
 犠牲者は白い寝臺ベッドの上に、多勢の同僚に見守られつゝ、靜かに息を引きとらうとしてをりました。
「おい、楊君、おれだよ。何か言ひのこす事はないか?」
 全身を繃帶で包んだ楊機關方の手をとって鎮夫は悲痛にきゝました。
「ありません」楊は微かに應へました。
「たゞ私は社員の一人として、滿足です」
 居ならぶ係長も主任も、瞼に涙を溢れさせました。
「矢橋さん」と楊が又唇を顫はせました。
「何?」鎮夫は堅く楊の手を握りしめました。
「何だ、何か言ふ事があるなら、遠慮なく言ってくれよ、言ってくれよ」
「あの……」
「何だ、楊君?」
「あの、あの滿鐵の歌を歌って下さい」
「滿鐵の歌を!」一同は唇を噛みました。
「よし、歌ってやるぜ。いゝか、しっかり聞いてゐるんだぜ」
 歡ぴは
 滿洲の民と 日本の國の
 先行く者の 共にす睦み
 睦みの歌は 聞け
 崑崙の峯揺がす如く
 鎮夫はこみあげるものを抑へ抑へ力強く歌ひ始めました。悲しみのこもった朗かなメロディ――。と、その歌聲はいつからとはなく、尊い犠牲者を圍む同僚の間から、靜かに低い合唱コーラスとなってわき上ってくるのでした。
 鎮夫は係長から渡された「われら」の社員會旗を、そっと冷えてゆく友の體の上にかけてやりました。
×
 或る晴れた夕方――驛の宿舎の前で、矢橋驛長は非番とみえて、小さな庭の一隅の手製の小温室をいじってをりました。と、そこへ鎮夫が元氣よく訪れて來ました。
「お父さん、やっと休暇にありつきましたよ、やぁ又土いぢりですねぇ」
「よう、よく來たな。なに、恁うして今やって置くと春になっていゝ花が咲くからな。せめてこんな土地では、花でも作って慰さめてやらなければ、驛の者が可哀想だからな」
 母親は愛する息子を久し振りに迎へて大喜びでした。早速ぼた餅やいなりすしの調整にかゝります。
「ね、お父さん、愈々働き甲斐が出てきましたね。我々も大業の礎石を擔ってゐるのだと思ふと」
 ストーブを圍んでくつろぐと、鎮夫は煙草に火をつけ乍ら愉快さうに言ひました。
「さうだ! 我々は國家的な、重大な特殊使命を帶びてゐる事を寸時も忘れちゃいかんのだ。我々の任務は生命いのちがけだ」
「僕は滿鐵のマークを頭に戴いてゐる事をこの上なく誇りに思ってをりますよ」
「三萬の社員は誰しもその氣持だらう。どの持場で働いてゐる人も同じだよ」
 窓外の土手の上を長い貨物列車が通って行きました。二人は何とはなしに凝乎じっと眺め込みました。ふと鎮夫は我にかへって微笑すると、父親を顧みて雄々しく言ひました。
「お父さん、しっかりやりませうね!」
「うむ、おれも若い者に負けないぞ!」
 母が「風呂に入るやうに」と言って來ます。鎮夫は遠慮なく眞先に裸になって飛び出して行きます。母は針を出して破れた愛兒の服の修繕にかゝりましたが、ふと内ポケットからお守りと綾子の寫眞の辷り出てきたのに氣づき、暫く凝乎じっと眺めてゐましたが、軈て慈愛深さうに、輕い溜息と共に、それをそっと元に返して置いてやるのでした。
×
 それから數日經った或夜です。
 U驛の周圍には突如けたゝましい銃聲がわき起りました。
素破すわ、匪賊の襲来!」
 矢橋驛長を初め全驛務方は、ランプを吹き消すなり決然立って、應急手段に移りました。
 あたりは眞の暗黒です。――その中で猛烈な彼我の銃火は交換されました。
 匪賊は衆をたのんで歩廊プラットホームにまで這ひ上って來ます。窓から土嚢の影から、驛員の必死になって防衛する銃彈は、一人二人と賊をたおしますが、同時に勇敢な味方も次第に傷き仆れてゆくのでした。
 驛長の胸には、數分の後に通過する軍事輸送の貨物列車の事が燒きつくやうに迫ってをりました。萬が一にも妨害でも加へられたら、自分達に擔はされた重大な使命の手前、死んでも死に切れないのです。最後の一員になるまで、せめて無事列車を通過さす迄、我々は驛を死守しなければならないのだ!
「もう一刻だ、諸君、頑張ってくれ!」
 驛の裏手に昇る火の手を見乍ら、驛長は闇の中で絶叫しました。仆れた驛員はその聲を聞くと、また再び這ひ起き、よろめき立って、銃を取り直すのでした。と、おゝ、微かに列車の近づく轟々たる音響!
 その列車には、矢橋鎮夫が機關士として、堅くレヴァを握り、近づく青色安全信號を凝視してをりましたが、構内に近づいて彼はハッと顏色を變へました。驛舎が今や炎々と燃え上ってゐるではありませんか!
 非常汽笛、思はず知らず鎮夫は列車の速度を落しました。が、彼が、ぐーっと眼の前に迫って來た歩廊プラットホームの上に眺めたものは!
「あゝさうだ!」
 彈のまとになる危險も顧みず、歩廊プラットホームの上に走り出て氣狂ひのやうに通過合圖燈を、我子の乗る機關車に打ち振る死物狂ひの父親の姿を見た瞬間、息子の胸には父の意志が天啓のやうに閃き渡りました。
「お父さん、御免!」
 レヴァは力一パイに引かれました。列車は凄じい震動と共に、矢のやうにU驛を通過して行きました。
「お父さん、僕はあなたを見殺しにしました。僕はあなたをみすみす殺させました。許して下さい。お父さん、許して下さい」
 U驛を燒き盡す猛炎が次第に忘れられたやうに後方に小さくなると、鎮夫は機關車の窓に縋り伏して泣きました。齒を食ひしばり、血のやうな涙を流して泣きました。
×
 悲しい思ひの數日がちました。
 鎮夫は再び命令されて装甲列車に乗る事になりました。
 今日はその出發の朝です。
 綾子は機關庫のかげまでひそかに見送りに來ました。
「おからだに注意してね」
「有難う」
 手編みの靴下、手袋、スエタア、そしてキャンディの入ったお菓子の袋――その心ばかりの品々が綾子の胸から若く逞しい鎮夫の腕に渡されました。
「御無事を祈ってゐてよ」
「大丈夫だよ。第一綾子さんの魂のこもった千人針が僕を守ってくれるぢゃないか、はゝゝゝ」
「お歸りの日までお茶斷ちをするわ」
「なにすぐだ。國の爲、もう一働きして、銃後に輝く滿鐵社員の健闘を天下に知らせて歸って來るよ。僕にとっちゃ弔合戰でもあるんだからね」
 ――軈て装甲列車は、高く掲げた日章旗をハタハタと朝風にひるがへし乍ら、威風堂々と走り始めて行きました。
 行手には軈て朝日の麗かに昇るであらう滿蒙の曠原――。
 綾子は兩手でしっかりと胸を抱いて、凝乎じっと小さくなって行く日章旗を眺め盡してゐるのでした。(完)


 映畫筋書『事變を背景とする萬鐵社員の健闘』は相當の應募稿中、能登博氏、芥川光國氏及び編輯局に於て審査の結果、上掲の如く――入選(二百圓)……大庭武年氏、佳作(各五拾圓)……中島荒登.高岡駒雄兩氏――の三篇を發表し得た。
 大庭、中島の兩氏は大連、高岡氏は營口驛の人。
 大庭氏は父を、中島、高岡氏は母を描出して氣分を出してゐる。申し合はせたやうに主人公を少壯社員にしたので斯ういふ結果になったのだが、三篇ともが大同小異になり過ぎたことは殘念であった。
 内一篇くらゐは、妻と可憐な子供とを描出して欲しかった。殉職社員中の殆んど全部が有家族者である。頑是ない子女と千々に心を傷めつゝ夫の身を思ひ暮らす妻、又は新婚のか弱く美しい未亡人の喪服姿……といったやうなものが場面に出て來ない事は誠に遺憾此上もなかった。 (編輯局)

短評 芥川光藏
 私に與へられた應募原稿は『輝く銃後』『装甲列車』『鐵の竝行線』の三つでした。
(略)
 それに比べると『輝く銃後』のプロットはまことに自然で、氣のつかない處に細心の注意が拂はれてゐるし、且又配役に立つ人物に托して夫れ夫れの社員使命が確然され、情味も豐に而も劇筋に變化が多いから、映畫となった場合の興味も充分期待される。
 ともあれ(以下略)

注)明かな誤字誤植は訂正しています。句読点は補ったところがあります。


「戯曲 劉愛護村長」
「満蒙」 1935.01. (昭和10年1月) より

 康徳元年の春の頃から秋にかけて
 滿洲國清源縣英額門附近
 劉萬祥 大邊(※サンズイに匂)コウ愛護村長
 その妻
 社景順 村の若者
 杜相文 弟
 その母
 張連壁 英額門警察署長
 鳳山 匪首
 その他

第一幕
 康徳元年の春たけなわの頃である。
 畑野は豐饒に惠まれ、青空には雲雀が平和の唄を歌ってゐる。
 大邊(※サンズイに匂)コウ村に近い鐡道線路(奉吉線)附近――村の若者、杜兄弟が言ひ爭ってゐる。
景順 止めたって駄目だぞ、おれはもう肚を据えかねただ。なんだ、大きな顏さしくさって、畑の中さ突走りあがって。
相文 豚さ汽車が轢き殺したって、そんな怒る事はねえと思ふだがなぁ。
景順 貴様われ、家の豚さどうなったってえゝと思ふだか? 貴様われァ、汽車さ憎くねえだか?
相文 兄さ、おれだって汽車さでえ嫌いだ、お爺さまが言うてたが、この汽車ちゅうものを出かす爲にぁ村の衆さとんでもねえ目に逢はされたんだってな。
景順 そうとも百姓どもがな、朝から晩まで働いてもらった金を、糞役人が次ぎ次ぎに持って行きくさっただ。どうぞお許し下されと言へば、汽車ちゅうもの作るだから貴様われたちぁもっともっと働いて金さ役所に差し出せってぬかすだ。
相文 金さなかったら非道ひどい目に逢はされたのだってな?
景順 死んだ婆さまなぞ、貴様われさ背中にくゝりつけて砂利運びをしただ。おれは子供だったが牛よりひどくコキ使はれたものだぞ。
相文 死んだ人もあるちゅうな?
景順 あのでっけえ汽車にし潰された人さ幾人もあっただ、ひでえもんだったぞ。
相文 だがそねえ苦勞して作ったものさ何に使ってゐるんぢゃろな。
景順 大方、おれたちの豚を殺す爲だんべ。
相文 おれは一度乗りてえ思ってゐるだが。
景順 莫迦野郎め、あんなものに寄りついたら婆さまの幽靈さ出るぞ。
相文 でも見てゐると、乗ってゐる人さみな面白さうだがな。
景順 あいつらぁ金持ばかりだからよ。おれたちみたいな奴は乗りたくても乗せちゃくんねぇ。
相文 兄さもちょっとぐれえなら乗ってみたいだんべぇ?
景順 糞たれ! 誰が乗りたかんべ! おれはまだ命さ惜しいぞ。あいつはな、貴様われ、命とりだぞ。
相文 (憧れるやうに)見てゐると馬より早いな。あれぁ、どこからどこさ行くもんぢゃらうな?
景順 やい、貴様われァ汽車さ轢かれて死にくされ!
相文 兄さ。
景順 何だ?
相文 兄さ、矢張りやる心算つもりだか?
景順 當り前だ、見てろよ、今に大きなつらして突走ってくる汽車さゴロゴロとどての下にころがり落ちるだ。面白ろかんべぇ。
相文 あの早さで突ッ走って來るだでひどい事になりくさるぢゃらう。
景順 面白いぞ、貴様われ手傳ふか?
相文 (惹きつけられて)手傳ふだよ。あの大きな石さ持って來るべぇか?
景順 さうだ、方々から重さうなやつを引っぱって來い。
 二人がえっさえっさ線路の上に石塊を積んでゐると、丁度そこへ驢馬に乗って劉村長が通りかゝって來る。
 劉村長は二人の様子を眺めて眉を曇らせたが、驢馬から降りて手綱を曳き乍ら近づいて行く。
劉村長 これ、何をしてゐる!
 杜兄弟は不意に聲をかけられて吃驚する。そして聲の主が村長だと知るとどてから飛び降りて逃げようとする。
劉村長 待て! 待て叱りはせんから待て。
 二人は腰を宙に浮かした儘躊躇ためらふ。
劉村長 (やさしく)とんでもない惡戯いたずらはせぬものだぞ。二人で早くそこに積んだ石を元の場所に戻しなさい。
景順 (やっと反抗の氣勢を示して)だが劉大人。おれは豚さ殺されて……。
劉村長 豚を? 汽車にか――はッはッゝゝ。
景順 何が可笑しいだ、豚さおれの家の寶ぢゃぞ。
劉村長 (驢馬に草をはませて置いて、自分は線路上の石を取り除きかゝる)豚が汽車に轢かれたらそれァ豚が惡いんだ。汽車を怨む法はないぞ。
相文 でも大人、汽車さこんな所走らなけれァ村の衆が安心するだんべ。
劉村長 (石をころがして)お前達はとんでもねえ考へ違ひをしてゐるな。汽車が走ってゐるからこそ村の衆は安心してゐられるのぢゃないか。
景順 串談じょうだんいふでねえぞ。汽車さいつおれたちの爲になった、さァ聞かせてくんろ。
劉村長 この石を皆もとに返へせ、そうしたらよく聞かせてやる。
 二人はそれを聞きたさに一生懸命、石を線路の上から落す。
景順 サァ元の通りにしたぞ、聞かせてくんろ。
劉村長 よし聞かせてやらう。そこに二人とも坐れ。話のはじめに聞くが、お前達は野良の高粱や大豆がどうしてどこに送られるか知ってゐるか?
景順 知ってゐるとも、馬車で町さ運ばれるだ。
劉村長 それから――?
相文 それからは知んねぇ。
劉村長 それからはな、今度は汽車に乗せられて、もっと大きな町に送られるのだ。そしてその大きな町には小さな町では出來ない色々の便利な品物が澤山積んであって、その高粱や大豆の代りにそれが汽車に積み込まれて歸ってくるのだ。勿論お前達が働いた代もその汽車が持ってきてくれるのだ。
 景順、相文ポカンとして聞いてゐる。
劉村長 お前達は手や足がなかったら困るだらう。汽車はちゃんと手や足と同じやうなことをしてくれるのだ。いゝか、もしお前たちがどうしても遠い町に行かなければならぬ事があるとすると、普通なら歩くか馬で行くより外はない。所がもし汽車に乗ってみろ、百里や二百里の所は居睡りをしてゐるうちに行ってしまふのだ。
景順 だが、汽車にぁおれ達は乗せちゃもらへねえだ。
劉村長 そんな事はあるものか、金を出せば誰でも乗れる。お前たちが乗りたけれァわしが金を出してやってもえゝぞ。
相文 本當か?
劉村長 本當だとも、昔は張學良と言ふ惡い奴が鐡道の持ち主だったから色々、人を苦しめた事があったが、滿洲帝國が出來てからは、鐡道なんかみんな國のものになったんだ。國の物と言ってわからなけれァお前達のものと言ったっていゝのだ。
相文 汽車がおれたちの物だって!
劉村長 さうさ、田舎を突走ってゐるのは百姓の爲に突走ってゐるのだ、お前等の爲に汽車は走ってゐるのだぞ。
相文 ぢゃァ己等おれらの村の眞中さ突走ってゐる汽車は村の衆の爲に突走ってゐると言ふだか?
劉村長 その通りだ。さっきも言ったやうに野良の物を金に換えてきてくれるのも、町の色々の品を安値やすく村に持って來てくれるのも汽車だ。又、あのお尋ね者の人殺し共が村の衆を苦しめようとやってくる時、助けに來てくれる兵士や警察の旦那方が乗ってくるのも汽車なんだ。もし汽車がなくてみろ、村中は奴等に皆殺しにされてしまふぞ。
景順 おれは今迄考へ違ひさしてゐたかも知んねえぞ。(考へ込む)
劉村長 前の事は仕方はねえさ。これから鐡道や汽車は大切にするんだぞ。鐡道がある村はな一日一日と立派な村になって行くのだ。その代り鐡道の通らない村ときてみろ、いつまでたったって山の中と同じ事なんだからな。
景順 それが本當なら、おれはこれから汽車の惡口さ言ふ奴はぶんなぐってやるだ。
相文 おれはこれから毎日鐡道さ見廻りにやって來るべぇ。惡い事をする奴がゐねえとも言へねえだからなぁ。
劉村長 お前達はなかなかえらいぞ。わしの話がこれ程よく飲み込める人間は澤山ないかもわからん。これからもな、何かわしに聞き度い事があったら聞きに來るがえゝぞ。
景順 大人、おれはこれから家にかへって爺さまに汽車や鐡道の事を教へてやるだ。
相文 (頓狂に叫んで)汽車だ、汽車だ、早いなぁ、あんなに煙さ上げて走って來るだ。
劉村長 あれにはみんなお前達と同じ滿洲國人が乗ってゐるのだ。この村に色んな物を持って來てくれる人だって乗ってゐるのだぞ。
景順 やい相文、今度、停車場まで汽車見に行くべぇか。
相文 行くべぇ、行くべぇ。
劉村長 はッはッゝゝ。今度わしが隣りの町まで汽車に乗せてってやるからな。
景順 大人、嘘ぢゃなかんべぇな?
劉村長 嘘なもんか。
相文 あ、汽車さ來た、汽車さ來た、萬歳だ萬歳だ!
 轟々たる列車の響――三人は顏を輝かして凝視する。

第二幕
一場
 季節は夏に移ってゐる。
 貧しき杜の家の中である。
 彼等兄弟の母親は病氣で片隅の襤褸ぼろの中に伏ってゐる。――この地方に猖獗しょうけつしてゐる傳染病らしい。
 窓からは燒けつくやうな畑地が見えてゐる。
景順 おッかあ、苦しいだか?
母親 うう――(唸ってゐる)
相文 おッかあの病氣さ命取りだ言って、誰も寄りつかねえだが、おれァどうしていゝだかわからねえだ。(泣き聲になる)
景順 いゝさ、かまってくれねえならくれねえでも。
相文 おッかあは死んぢまふだか。(母に縋る)
母親 うう――(悶掻もがく)
景順 苦しいだか、おッかあ
相文 水を飲んでくんろ、おッかあ
 戸口の所に白い防疫服をつけた醫師と助手の一行が、警察署長張連壁と劉村長等に案内されて現れる。
劉村長 この家です。
張署長 婆さんだね。
劉村長 此の若い者の母親です。息子達がなかなか親思ひでして……私も何とか生命いのちだけは助けてやり度いと思ってゐたのですが。
防疫醫 檢査してみよう。
 醫者と助手が家の中に這入らうとする。今まで何事であらうとポカンとしてゐた兄弟が狂暴にそれを遮る。
景順 何をするだ。おッかあさどうする心算つもりだ。ちくせう。
防疫醫 まァ待て、おれは醫者だ。
景順 おッかあを殺しに來くさっただな、ちくせう。(傍の鋤を手に握る)
張署長 莫迦ッ!(部下に)こいつらをあっちへ引ッ張って行け! 仕様のない奴等だ。
劉村長 張先生、私がよく話して聞かせますから。おい二人ともこっちに來てみなさい。
 兄弟二人は母親の方を氣にしながら村長の傍に行く。
 防疫醫は助手を督勵して病人の診察にかゝる。
劉村長 お前達はおッかあによくなってもらはうと思ったら、この旦那方に叮寧に御辭儀をしなくちゃなんねえぞ。
景順 だって大人、おッかあさ業病にとりつかれてゐるだぁ。(情なささうに泣く)
相文 隣村の人が數へ切れねえ程おッ死んだって言ふだぁ。(鼻をすゝる)
劉村長 (なだめて)だが、もうこの旦那方が來られたから大丈夫なんだ。病氣にかゝる人も尠くなるし、病氣の人もよくなるようになるんだ。
景順 (信じられないやうに)おッかあが助かったら、おれは死んでもえゝぞ。いつでもなぁ。
 防疫醫、唸ってゐる母親の傍を離れて戻って來る。
防疫醫 重態だが命は助かる見込みです。早速隔離して手當を加へよう。
劉村長 醫者様、助かるのですか!
防疫醫 大丈夫です。安心するように伜たちに言ひきかせて下さい。(助手たちに)患者を運んでくれ給へ。
劉村長 (兄弟に)おい嬉びなさい、お前達のおッかあはよくなるぞ。
景順 (不安さうに)おッかあを何處へ連れて行くだんべ?
劉村長 心配せんでもえゝ。こんな所へ寝かして置いたらいつ迄もなほらんのだ。(防疫醫に)どうも有難うございました。
 一行は患者を擔架に乗せて連れて行く。
劉村長 心配する事はないぞ。これで此の村は救はれたのだ。おい景順、お前はいつか鐡道線路に石を積んだ事があったな、考へてみろ、鐡道線路の走ってゐる村には、惡い病氣でもあればすぐ斯うして醫者様が病人を助けに來てくださるのだ。それに較べて汽車の通らない村は、どんな事があったって、都市みやこの人なぞは來てはくれないんだぞ。
相文 汽車って便利のいゝもんだなぁ。
劉村長 さうさ。それだからな、鐡道って言ふものは大切にしなくてはいけないものだぞ。汽車は村の人のもの、滿洲國のみんなの物だ。えゝか、これは前にも言ったから分ってゐる筈だな。
相文 分ってゐるだ、汽車さおかげで村が見違へるやうになって行く事もな。
劉村長 さうだ、その證據が今のおッかあの事だ。だから、なぁ、鐡道はみんなが大切にしなけれぁならない、誰の爲と言ふより自分の爲にな、それに一人が鐡道を大切にすれば知らぬ間に萬人が倖せになってゐるんだからな。
景順 よく分っただ。おれもこの頃なんだかそんな氣がして來ただ。
 三人はぢッと顏を凝視みつめ合ってゐるうちに心の底から微笑ほほえみが泛びあがってくる――。

二場
 第一場より數日後。
 夜の鐡道線路――星が眞昏まっくらい空に怪しくきらめいてゐる。
 カンテラの灯が揺れて一隊の黒い影が線路の上に現れる。
 五、六名の武装農民で、所謂愛護村民よりなる鐡道巡邏隊である。景順兄弟も加ってゐる。
農民甲 この邊だんべ、この前も線路さはずしてあったなぁ。
農民乙 餘ッ程、この場所さ惡いだな。
景順 だが、もう大丈夫だぞ、おれたち毎日毎夜交代で廻ってゐるだでな。
農民丙 でもな、油斷はなんねぞ、噂によると全勝の奴が五、六人の身うちだけ連れてこの邊に忍び込んできたちゅうからな。
相文 大丈夫だ、鐡道に這ひ寄るすべがあるもんか。
農民乙 こゝで隣村の人さ待つべぇ。
農民甲 こゝさでいゝだか?
農民丙 この邊が丁度眞中だんべぇ。
 一同は銃を卸ろして、線路の傍に腰を卸ろして休息する。
農民甲 夜はどえらく涼しくなったのう。お前さおッかあの工合はどんなあんばいだ?
相文 もうすっかりえゝだ、都の醫者様のお蔭で命拾ひしただ。
農民乙 えれえもんだな。
景順 おれらあの時は、どうなるものだと思ってゐただが……。
農民丙 昔とは御時勢が違ふだなぁ!
農民甲 鐡道のお蔭だんべ。
 その時、反對側から又カンテラの灯が揺れてくる。
 こちらの一同が立ち上って相手を見きはめる。
農民乙 隣村が來ただ。
相文 合圖をするべ。(透る聲で叫ぶ)護路!
 闇の中で「以民」と叫び返へす聲が聞える。
 双方、鐡道線路上で合體する。
農民甲 隣村の衆、變りねえだか?
隣村の農民 變りねえだ。お前の方さどうだ?
農民甲 變った事ねえだ。
隣村の農民 紅(※髟胡)ひげ子が這入りこんでゐるちゅうだから用心するがえゝだ。
農民甲 大丈夫だんべ。
隣村の農民 ぢゃあ、こゝで引き返すとすべぇ。
農民甲 御苦勞さん。
隣村の農民 おやすみ。
 隣村の連中、再びもと來た方向に姿を消してゆく。
農民甲 おいらも引き返すべぇ。
景順 おいちょっくら待ってくんろ。おいらどうもあの邊に人のゐる氣がしてなんねえだが。
農民乙 どこにだ?
相文 人影なんかねえだよ。
農民丙 木だよ、木の影だよ。
農民甲 おいらにも見えねえな。(氣輕に)歸るべぇ、歸るべぇ。
景順 氣になるで見てくるだ。先に歸ってくんろ。
相文 (心配げに)兄さ大丈夫だか?
農民乙 (事もなげに)氣になるなら見てくるがえゝだ、大方、犬か何かだんべ。
農民甲 ぢゃ、おいら先に歩いて行くでな。
景順 すぐ追ひつくだ。
 景順、そのまゝ線路を降りて行く。一同線路を傳って引きかへして行く。相文、兄の後を一寸見送ってゐたが、思ひ直したやうに一同を追って去る。
 暫く間――。
 と、四、五人の匪賊に取りまかれて景順が線路の上に現れる。
匪賊1 手前てめえ、百姓の癖に生意氣な眞似をするぢゃねえか。
匪賊2 誰に頼まれて鐡道線路なんか見廻ってゐるんだ。
景順 おいら誰にも頼まれねえだ。たゞそれが當り前だで……。
匪賊3 小癪な見周りなんかしやがって、おれ達の仕事の邪魔をする氣か、やい! 貴様、命が惜しかったから、線路の犬釘をこれで抜け!
景順 何ぬかすだ、手が腐ってもするもんぢゃねえ、鐡道はな、大切なものだぞ。鐡道のお蔭で村の衆は……。
匪賊4 (ピシッ! と景順の頬を平手打ちする)四の五のぬかさず、線路をぶち壊せ、言ふ事をきかぬと命がねえぞ!
景順 おれさ命なんか要らねえだ、その代り鐡道は死んだって護るだ。やい! 地獄の惡黨め、鐡道線路に手をふれたら、おれはこの鐵砲さ打って仲間に合圖をするぞ。仲間はまだ遠くにゃ行ってゐねえだから。
匪賊1 ちくせうめ、強情な奴だ、仲間に入らなけれァ(短銃の引金を曳く)
景順 やりくさったな、ちくせう!(銃を射つ)
 双方の亂闘になる。
 軈て景順は無惨に殺される。

第三幕
一場
 康徳元年十月二十七日夕方頃
 劉村長の自宅
 暗い家内――農作物なぞの収穫が積み上げられてある。
 村長の妻女が仕事をしてゐる。
 相文がひそかに門戸口に姿を現はす。
相文 (小聲で)劉大人はゐねえだか?
妻女 (吃驚して)何だね、お前か、驚ろくぢゃないかね。
相文 (小聲で)劉大人がゐたら、ちょっくら逢はしてくんねえだか?
妻女 あいよ、裏で仕事をしてゐるから、今呼んでくるよ。
 妻女膝をはたいて裏へ出て行く。相文、落ちつかずキョロキョロしてゐる。
 劉村長、妻女に伴はれて出て來る。
劉村長 やあ相文か。
相文 そ、村長さま!
劉村長 どうしたんだ?
相文 (傍に寄って)鳳山一味の隠れてゐる所が分っただ。
劉村長 何ッ!
 妻女それを聞いておびえる。
相文 死ぬ程の苦しみをしただ。兄さの仇を討ってやるべぇと思って……。(泣く)
劉村長 (肩を叩いて)よく働いたな、警察の旦那方もお前の働きにはどんなに感心するか分らんぞ。さあ警察へ行かう。
妻女 (走り寄って)あなた!
劉村長 うん、心配するな、日頃から萬一の時の事はよく言ひ聞かせてあるぢゃないか。
妻女 あなた子供に會って行って下さい。すぐ呼びにやりますから。
劉村長 (後髪を引かれる思ひ)うむ、だが、そ、そんな事もしてゐられない。
相文 (見かねて)村長さまおいらが警察さ一足先に行くだ。
劉村長 何を言ふか、この邊の草一本でも石一つでも知らぬものはないのはこのわしぢゃないか。愛護村長の仕事は村の人の倖せを計ってやる事だ。匪賊の隠れ家を知ってゐて一刻でも默ってゐられるか。
妻女 あなた、鳳山に近寄ったら命がどうなるか分ってゐるんですか!
劉村長 その時次第で仕方はない。わしは愛護村長に任命された時から自分の命の事は考へちゃゐないのだ。(簡單な用意が終る)さあ相文、出かけようぜ。
妻女 あなた、子供の事を考へて……。
劉村長 躰を大切にしてくれよ。さあ!(相文をうながす)
 相文は辛らさうに眼をつむって駈け出す。
劉村長 (ぢっと妻を凝視みつめたが無言の惜別をその中にこめて、默って戸外に出て行く)
妻女 (後を追ひすがる)あなた! あなた!(戸にすがって泣き伏す)
 靜かな數秒間――。
 村の子供達が遊びから歸って來るらしく平和な歌聲が次第に大きくなって來る。
歌聲 大哉鐵路  功在運輸
   擴充國利而民福  務要看成公共物
   設如民是民  他方路是路  …………………………。

二場
 翌二十八日午前三時頃である。
 鬼哭啾々たる深夜の山間。
 枯れた大樹が重なり合って黒い背景を作ってゐる。
 草葺きの小さな小屋。森閑と寝靜ってゐる。カサカサと枯葉の落ちる音――跫音を忍んで黒い影が一人二人と現れる。
 先頭は劉村長である。
 續く影は張連壁警察署長以下警察隊員十數名、雜役夫として相文が從ってゐる。
張署長 (小聲で)意外に早く到着したな。
劉村長 わかり難い間道ぬけみちですが、幸ひ間違はずにうまくいきました。
相文 あれです。あの小屋です。
張署長 今度こそはうまく行きさうだな。おいみんな用意は十分だな。
警察隊一同 大丈夫です。
張署長 今度は劉村長の幾度目の功績になるのかね。
劉村長 (笑って)功績って言ふ程のものではありません。「通報」、「道案内」――そうした事は愛護村民の當然の義務ですから。
相文 ちくせう、奴等いゝ氣持で眠ってゐるべぇ。もう貴様ら命さねえだぞ!
張署長 (部下に)おい偵察して來い。
劉村長 私が行って來ませう。假令たとい怪しまれても私は警察だとは感づかれませんから。
張署長 大丈夫かな?
劉村長 御心配いりません。
 劉村長そっと地を這ふようにして小屋に近づいて行く。一同地に伏した儘成行を窺ってゐる。
 と、劉村長の足が張りめぐらせた繩に觸れ、鐵板が大きな音を立てゝ鳴る。
 一同はッとする。
 小屋の蔭から匪賊の一名が飛び出して來る。
匪賊1 誰れだッ!
劉村長 ……(身が凝立して了ふ)
匪賊1 貴様、何しに來たッ!
劉村長 (むりに心を落ちつかせて)私はこの邊の獵師でして……。
匪賊1 獵師だ? 怪しい奴め。(呼笛を取り出して吹く)
 小屋が開いて鬚だらけな匪賊の五、六名の顏が覗く。
匪首 どうしたんだ?
匪賊1 あ、おかしら、怪しい奴が來たんですよ、ちょっと出てみて下さい。
匪首 鐘をたゝいて皆に知らせろ。
匪賊1 ようしきた。(威勢よく鐘を打ち始める)
 隠れてゐた警察隊さッと立ち上り聲を上げて突撃する。
 突然の攻撃に仰天びっくりした匪賊は小屋に逃げ込んで防戰する。
劉村長 (傍の溝に身を伏せて叫ぶ)東に廻って裏から攻めてください!
張署長 (部下に)八名、東に廻れ!
 部下八名東側に這って行く。
劉村長 (又叫ぶ)匪賊が十名ばかり西から走ってきますよ、用心して下さい。
 匪賊、窓から銃を出して應戰する。
張署長 それ今のうちにあの小屋を奪取して了へ。(齒がみする)
 警察隊ぢりぢり進んで行く。
 匪賊一味が打鐘と銃聲によって駈け集って來る。
劉村長 (四方に目を配り乍ら叫ぶ)西側の木の上に敵がゐる、署長用心して下さい。
張署長 さうだ、おいあそこに敵が隠れてゐるぞ、射ち殺せ!
 部下が狙って射つ、隠れてゐた匪賊がどすんと落ちて死ぬ。と東側にまはった警察隊が匪賊の背後に躍り出て數名と渡り合ふ。
 狼狽した匪賊――その中に署長一同が飛び込んで行く。
張署長 (叱咤する)進め、進め!
 警察隊も傷つく、匪賊も一人二人と仆される。
 猛烈なる白兵戦――遂に匪群は四方に潰走する。
張署長 (息を切らせ乍ら大呼する)皆集れ、鳳山を逮捕したぞ!
 警察隊負傷をこらへ乍ら集って來る。
 鳳山は重傷を負って署長の膝下に伸吟してゐる。
傷ついた警察隊員 おゝ確に鳳山だ、おれァ生きてゐた甲斐があったぞ。(感泣する)
張署長 みんなどうだ? 手傷は深くないか? 劉村長はどうした?
 一同はっとなって周圍を見まはす。
相文 この人ではねえだか!(地上に横たはってゐる屍を見る)
 一同騒然となる。
 張署長は駈け寄って抱き起こす。
張署長 劉村長、劉村長しっかりして下さい。
相文 死んでゐるだ。
張署長 賊彈に數發射抜いぬかれてゐる。もう意識がない。
相文 兄さの仇は討っただが、今度はおいらの村長さまを殺して了っただぁ。(泣く)
張署長 これを聞いたら家族たちよりも村民が悲しむ事だらう。だが名譽の戰死だ。
 全愛護村長のかがみだ。劉村長の功績はあの愛護村旗と共にいつ迄も人々の頭の上に掲げられる事だらう。
 一同は靜かに頭を垂れて默祷する。心なしか黎明の光が東天を薄く染め始める……。

注)明かな誤字誤植は訂正しています。会話に動作として()を入れたところがあります。
注)ルビや言葉使いを一部統一したところがあります。
注)句読点は補ったところがあります。


「小説 農民」
「満蒙」 1936.11.,12. (昭和11年11月,12月) より

 ――支那には多くの謎がある。支那は謎の國である。然し我々にとって支那にはたゞ一つの謎があるだけである。即ち支那の農民がいかにして生命を維持してゐるかと言ふ事である。
マヂャール

 穆英は十七歳である。だが、親父が死んでからは立派な一人前の農夫である。赤銅色に陽燒けした背と、肉塊の盛り上った腕を持ってゐる。
 朝は、村で誰より早く起きる。夕方は、村の誰よりもおそく野良から歸る。仕事に熱心であると言ふよりは、これは親父時代からの習慣なのだ。
 母親と妹が彼にはある。母親はまだ四十前で、妹は十になったばかりだ。
 村は平和ではあったが、景氣はさっぱりだった。穆英は知らない事であるが、親父の若い時代は、彼の一家は石塀を廻らした大きな家に住んでゐたのだと言ふ。今は赤土を捏た土塀の中に親子三人が豚のやうに暮してゐるのだ。
 この邊一帶の地主は袁泰と言ふ肥えた大人である。高いチャンの諸所に銃眼のある豪壯な邸宅を村の西に構えてゐる。家の前に廻って見ると、防賊臺の横の大門からは、僅かに第二門の影壁ヂェンビが覗いてゐるだけで、院子イェンズの様子はさっぱり窺へない。兎に角。見ただけで豪華そのものだ。
 穆英の親父は、この旦那に自分の耕地を賣り佛ったので今は自分の所有地は猫の額程もない。お袋の習慣的愚痴なので穆英にはさっぱり實感が伴はないのだが、なんでも不景氣が年毎に激しくなって、村の百姓たちは總倒れになり、たうとう、殆んど全部がその所有地を袁の旦那に賈ひ上げてもらったのだと言ふ。
 袁の旦那は、この邊に古くからゐた御仁ではなく、つひ數年前は省政府の偉い役人だったさうだ。勿論、こんな事は水飲百姓には理解も出來ないし、そして又さしあたっての問題にもなり得ないのであるが、彼が擁してゐる巨萬の富は、普通の計算だと、到底、彼が赤ン坊の時から貯蓄に精出しても纏り難い高であるらしい。
 村の百姓たちは――穆英の親父もその一人であるが、耕作地を失った絶體絶命の立場を、情深い袁の旦那に助けてもらった。
 袁の旦那は、鷹揚に百姓の歎願を聴き終ると、
「――ふむ、それは苦しからう。では斯うしてやらう。」
 そして百姓から賈ひ上げた土地を出來るだけ小さく區分して、多くの人に貸し與へた。
「――お互に困ってゐるんだ。村の誰にも少しの土地は行き渡るやうにせんとならん。それから……」
 と、旦那は好意あるえみを彼の隣人たちに示し乍ら、
「資金が必要ぢゃらう。資金がなけれぁ何事も出來ん。わしはお前達の不幸は他人ひと事とは思ってはゐん。」
 斯うして村人たちは旦那の小作人になった。資金も九拜して旦那から借りた。百姓たちは昨日まで自分の所有地であった同じ場所を、今日からは他人のものとして、耕し始めた。
 穆英のお袋は穆英に言った。
「それからの、父さんは、死ぬ迄働いただよ。小作人になった年の秋は豐作ぢゃったが、旦那さまは不作の時の用意ぢゃと言ふての、穫れ高の半分よりもっと持って行かしゃっただ。」
 小作農の地代は誰がきめたか、現在では、生産量の五割になってゐた。これは豐作の第一年に地主が持ち去った量よりは、幾分樂になってゐるかも知れない。
 然し、働いても働いても一向にうだつの上らぬ不思議な現象が、村の百姓の生活に在った。薄馬鹿な連中にはこの疑問が解けなかったが、中には、地主から激しく取り立てられる借金の利子のせいである事を覺ってゐる者もゐた。
 地主の袁旦那は、廂房シャンファンを造作して、そこに都から美しい女を連れて來たと言ふ噂だった。百姓達は犁(※宛リ)ワン子を汗みどろに繰り乍ら、みだらな想像を戰はせてゐたが、誰も、その女が自分達の汗で購はれて來たものである事まで想及する者は居なかった。
「穆、われァ、旦那の家の太々さ見ただか、えらう別嬪ぢゃさうなが……。」
「うむ、おらも、これ迄見た事ァねえ位だよ。」
 (※火亢)カン土糞を混ぜ乍ら、穆英は相手の男に、無邪氣に答へた。
「袁の旦那は、幸せ者だべ。」
 男は、卑しい聲でヒヒヒ……と笑った。
 倖せ者の地主は、村の衰亡を尻目に、益々倖せ者になりつゝあった。貧農は土地にしっかりと束縛されて、自由な搾取を許容してくれた。そして、農業經營に名を藉りた高利資本は、居ながらにして二重利得をふんだんに搾取せしめてくれた。
 穆英は、親父の遺してくれた尊い馬車馬的な習性を以て逞しい十七歳の躰を、機械のやうに野良に活躍させた。そして、それは、常に彼等親子三人を飢餓の一歩手前に彷徨さまよはせてくれるだけの結果しかもたらしてはくれなかったが、彼はそれを、どう理屈づけようとも考へてゐなかった。

 この地方を地盤にしてゐる督軍は張某と言ふ將軍だった。彼は南京政府の一領將であるが、私兵を十萬人持ってゐる以外に、能のある男ではない。
 然し、彼も最近は毎日苛々した日を送り、機嫌が惡かった。それは金が期待通りたまらなかったからだ。
 親分の南京政府は、やれ江西の共産軍を討伐するのだとか、對×軍備を堅めるのだとか言って、頻りに地方から金を集める事に狂奔してゐる。南京政府の歳出を見ると、八〇%が軍備費やら債務費なのだ。
 張將軍は、金が自分の手の中を素通りして、どんどん親分の所へ流れて行くやうな氣がしてならなかった。
 昔はこんな事はなかったのぢゃが――と、過去を可懐なつかしがるのだが、下手をすると、だゞでさへ厄介視されてゐる自分の軍隊が、封建的軍閥軍隊として整理されさうな氣がして、直接不平は口に出せない氣がしてゐた。
「――兵隊の給料が二箇月ばかり不渡りですが。」
 と、將軍の幕僚が言った。
「そんな事はないぢゃらう。」
 將軍は先々月は確かにやった筈の事を思ひ出して言ったのだが、考へてみると、額の少い金額は、將校まで行くか行かないかのうちに消失して了ふ理屈は、極めて明白なのだ。
「ふむ。」
 苦蟲を噛みつぶしたやうに將軍は唸った。
「――やむを得ん、もう一度兵餉捐を強制徴収したらどうぢゃ。」
 と呟いた。
 現在支那に於て地方財政の主要収入となってゐるものは地租である。そして地租に基いて課せられる附加税なるものは、その名目だけで三十種を下らず、甚しい縣になると附加税の總額が本税の二十五倍にもなってゐる所があるのだ。
 先づ省が勝手な名目の附加税をつける。それを受け繼いだ縣は更に幾多の附加税をつけ加へる。これに對して地方に割據してゐる軍閥が默ってゐる筈はない。彼等は己れが所有する武力の威嚇で、更にその上に自由氣儘な附加税を並べあげ、必要あらば地租の前徴さへも決行しかねないのだ。
 張將軍の命令は各縣に傳達され、公課された分擔金は、改めて各村に割られて傳達された。
 村長は恐る恐る縣衛門に伺候して命令を受け、
「いつもの事で、お前も承知してゐる事と思ふが、徴収金が命令額に達しないと、お前の身邊は安全でないぞ。未納者とても同じ事だ。よくその邊を辨へてやれよ。」
 と脅され、蒼くなって、村に歸って來た。
「それァあんまりひどかんべ。」
 村長の家に集った村の百姓たちは、泣き面になったが、いくら喧々囂々とわめき立っても、問題になる譯のものではない。
「ほんに、今年は三度目の税金だべ。そんな理屈はねえだよ。」
 この村の百姓は年に一度の筈の税金を三度徴収されたのだ。然し、實際的には一年のうちに十度以上も徴集され、民國六、七十年度分まで前拂ひさせられてゐると言ふ非現實的な地方すらあるのだ。
「どうしたらよかんべ。」
 だが――この村の百姓共は、これ迄の搾取で、腹の底まですッからかんだった。
 村中で要求された税金を差し出し得る者は、指に數へていくらもゐなかった。村長の垢と汗で、よごれた顏は、日を經る毎に憔悴していった。
「おいらは、袁の旦那に、もう一度、お縋りして見べえ、と思ふんだが。」
「だが、旦那には、随分と借金が、嵩んでゐるで――」
「家の餓鬼さ賣るべえか。」
 暗憺たる相談が、村の各所で續けられた。
 張將軍は、部下の無頼漢ごろつきのやうな粗惡なピン共が、雨笠を背負ひ、よれよれの綿服に、垢だらけな彈藥帶を斜に掛け乍ら、無統制に暴動を始めた事の報告を受け、癇癪玉を破裂させた。
「――金を庭の穴に匿してけつかるやうな百姓共を叩き殺せ、少し見せしめをせんと、土百姓共は兎角ずるくなりよるのぢゃ。いゝか、早く金を集めろと縣長たちへ言へ!」
 將軍は九萬も軍隊を養ってゐると、苦勞が絶えんと思った。最近の不景氣さも、一芝居何とか打たないと、恢復出來んわい――と熟々考へ乍ら、唾の跡のある牀の上をやたらに歩き廻った。
 村の百姓は貯へた穀物を洗ひざらし吐き出して金錢に換えた。村の幾人かは、三、四、五歳の子供を城市まちの「人市」に連れて行って、他人に賣った。
「いくらになった。」
「大洋十元だよ。」
 雛だらけの手に、その親たちは、しっかりと子供の身賣金を掴んでゐた。が、それは、勿論行く先の決ってゐる金だった。
「よからう、外の話ぢゃない。相談に乗らない事もないがな。」
 村人から嘆願を受けた地主の旦那はじろりと相手を眺め渡して言った。
「だが、お前たちの借金もきりがなくなってはおれも困る、あまり癖になるといかんから、今度の分から利息を上げるぞ。」
 百姓たちは蒼褪めた顏で默ってゐた。うっかり返事をして旦那の機嫌を損ねては大變だと思ったからだった。
「いゝな、承知だな。」
 旦那は太鼓腹を滿足さうに揺り上げた。そして卓子の上の吸煙管を取り上げると、一服うまさうに吸ひ、その煙と一緒に吐き出した。
「人間はなかなか死ぬものぢゃないぞ。その氣で稼いだら、お前たちの借金も返へせるぢゃらう。一生懸命働けよ、いゝか。」

 春風が高粱を點種してゐる穆英の頬を吹いて過ぎた。
 五月の空は清く輝しく、苦勞で固まった若い農夫のおもてにも、秋の幸福を微笑ほほえませる程だった。
 作物がうまく稔ってくれたら――百姓たちの考へる事はこれ以外はない。彼等の相手は常に地主の太っちょだとか髯を垂らした縣の収税吏だとか、そんな俗物ではない。農民の眸は、深く空の眸に食ひ入って離れない。蒼穹の明曇は、農民の心の明曇である。
 空は氣紛れな農民の戀人で、機嫌がいゝとあくまで彼等を喜ばせてくれるが、少しでも氣に入らないと、手のつけられない氣儘娘のやうに暴れ廻る。農民は、然し、一度だって空を憎んだりする事はない。
「今年はえゝぞ。」
 穆英は汗を拭ひ乍ら考へた。
「肥料も利いてゐる筈だでなぁ。」
 丘の下の自分の畑に立って、穆英は、今蒔いた穀物の種が、軈て見事に生き繁る時の光景を想像してみた。
「おい、村の衆、一寸尋ねるがな。」
 頸の上で突然に聲がした。
「へぇ、おいらだか?」
 穆英は吃驚してうなじを廻し、丘の上に立ってゐる見馴れぬ乗馬男の姿に眺め入った。
「うむ、袁泰と言ふ人の住居に行き度いんだがな。」
「へぇ、袁の旦那ん所だか、袁の旦那ん所はこゝさ眞直ぐ行けばいゝだよ。」
 穆英の指差した方向には、白っちゃけた小徑が畑の中に遠く迂って續いてゐた。
「遠いか?」
「そこの山さ廻ったらすぐだ。」
「有難う。」
 ぽかんとしてゐる穆英を後に、馬の紳士はさっさと蹄の音をたてゝ走り去った。
 何處の旦那だべ――穆英は次第に小さく山陰に消えて行く男の姿に眺め入ってゐた。
 間もなく袁泰の住居に馬を乗りつけた紳士は、主人の絶大な歡迎の辭に迎へられて、奥の正房ツェンファンに招じ入れられた。
「突然なので迎へにも出なくて。」
「いや、初めは來る心算つもりぢゃなかったんだ。」
 紳士は外國流に乗馬服を着こなして遠慮なく上座に進んで行った。
「汽車から、だいぶあるんたな。」
「全くの田舎だよ。」
「だいぶ金がたまったやうだな?」
「冗談ぢゃない。」
 馳走がならべられ、紹興酒サオシンチュが交された。
「時には田舎へも視察に來んといかんな。」
 客が酒臭い息を吐いた。
「わし等が都會を視察しに行くやうにな。」
 主人が言葉を受けて、
「――時に、今度は大高樓ビルディングを建てるとか、本當か?」
「その通りだよ。」
「他にもっと――」
「いや投資對象がないのだ。毎年中國の農村から都市に集中する資本は、上海だけでも約七千萬元――この金を金庫に寝させて置いてみ給へ。利子の損失は莫大だ。だから君、我々銀行屋はだね、投機市場での利喰ひをするか、他の方法として土地經營をするか、どちらかの方法を講ずるより他はないのだよ。」
「成程、だが、その資本だって、我々の大切な金なんだからな、それで興國銀行のやうに競馬や賭博場を經營されちゃ心配だ。何か確實な工業方面へでも……。」
「あはゝゝゝ。工業なんて、現在の支那にあるものか。外國資本が鐵より重く抑へつけてゐるからな。第一、そんな金の行方が不安なら、この際だ、都會へ出さないで置いたらどうだ。」
 客は意地惡さうに、ニヤリと笑って、主人の顏を窺った。
「――農民の膏血を搾った零細な金だらう。それで又儲けしようなんて、餘り後生がよくないぞ。はゝゝゝ。
「莫迦を言ふな!」
 主人はすつかり狼狽あわててゐた。無意味に酒をあほると、
「それはわしのせいぢゃない。農村の不安定は世界的な不況からだ。金が都會に流れるのは經濟的の法則だよ。それよりも、貴公はわし等の一枚上を行く惡黨ぢゃ。大きな口をたゝける柄か!」
「いや、惡黨を搾取する惡黨は、良民を搾取する惡黨より餘程、ねむり心地がいゝ筈だからな、あゝゝゝ。」
 客人の傍若無人は主人の毒氣を抜くに充分だ。然し、袁大人も自分の金をより大にしてくれる商賣相手に、喧嘩を賣るやうな馬鹿では勿論ない。
「商賣上の話はそれ位で、ゆっくりくつろぐ事にしようか?」
 主人は座にはべる美しい妾の方に眼くばせした。
「いや、さうもしてをられん。棉花産銷合作銀團の組織、米棉産銷合作所の組織――そんな新しい事業の下調査が、おれを待ってゐるのだ。今度の旅行もそれが目的なんだよ。」
「どう言ふ仕事なのかね。」
「何、棉の販賣の獨占と買付輸送さ。銀行資本の新しい活路だ。農村の爲より銀行の爲だな。はゝゝゝ。」
 客は空虚に笑った。その笑の中には黄金に操られる人間の、ロボット的な悲惨さが、にじみ出てゐるやうだった。
 都會へ、都會ヘ――資本は滔々と流れ出て行く。支那の農村は、握っただけの収穫を都會に吸収されて了ふのだ。
 農民は驢馬のやうに從順に働いてゐる。その血と汗の結晶は、二度と農村には歸って來ない。農村の枯渇衰退が、どうして、農民の不勤勉な故か!
 穆英は、星を見ると、漸く仕事を止めた。夕燒が、まだ遠い西空の端に殘ってゐた。
 親父の墓の土饅頭が、遥かの丘に黒く影繪を作ってゐる。親父の一生は目的を失った一生だった。穆英の一生も、いや、支那全體の農民の一生が、夕暮の墓のやうに、暗く寂しいものであらう。
 穆英は、空腹を抱へ、家の方へ小徑を辿り乍ら考へた。
「今年が豐作だったら、地主の旦那に借金を返さう。そして、金がまだ餘ったら、メリケン粉を少々買って、おッ母や妹と、餃子ショウズを作って食ひ度いな。」
 重い疲れが十七の若者の全身に襲ひかゝってゐた。最早さゝやかな空想だけが、彼の身の裡に燃えてゐる明日への希望だった。
 早く歸って、土竈へっついの火の明るい土間で、高粱粥を啜り、手足を自由に伸し切って、豚のやうに睡りこけて了ひ度い。
 穆英は道を急いだ。そして、もう一度、心に呟いた。
「この秋が豐作だったら、メリケン紛を少々買って……。」

 支那の中心地には列國の觸手がからみ合ひ揉み合ってゐた。
 米國の大統領ルーズベルトは、銀國有政策を宣布し、銀相場の引上げを計った。それは米國弗爲替の支那市場に於ける價格を極めて安いものにし、支那に輸入される米國商品の原價を、極端に廉價ならしめた。
 これは米國商品の壓倒的勝利を齎した。他國製品のみならず、支那國産品をすら、完全に抑へる事に成巧(※ママ)したのだ。
 米國商品はどしどし支那に於て消化されていった。疲弊した國民にそんな力のある事は不思議であったが、然し、人間が生きる爲に必要な凡ゆる品々は、國産品を除け者にして、總て、外國商品がその役を爲したのだった。
 米國が、こんな成功を獲得してゐるのを、列國が傍觀してゐる筈はなかった。
 第一獨逸が策動した。
 獨逸が言った。
「――即ち、中國四億の民衆の爲にですな、此際あく迄武力統一が必要ですよ。偉大なる武力の常備、それのみが平和を意味します。中國の民衆は、平和を熱望してゐます。貴國政府はそれを考へなければなりません。」
 此の獨逸帝國主義の外交官は、從來の競爭相手である米國、英國、其他に決して負けてはならぬと言ふ堅い信念と敵愾心を抱いてゐた。そして、最近の對支輸出の成績が、次第に他を壓倒して、首位にある米國にすら肉薄せんとしつゝある事に、極めて強い自信を築きつゝあったのだ。
「――私共獨逸政府は極力貴國現政府を支持します。充分なる軍需借款でその誠意を披瀝しませう。」
 支那中央政府の役人達は、××に對する軍備充實、西南軍閥に對する武力彈壓、そして徐々に中國全版圖を蠶食しつゝある共産軍の剿匪武力の整備等を、何よりの頭痛の種にしてゐた。政府はこの弱身(※ママ)につけ込まれた狼狽を隠す事は出來なかった。
 獨逸は、油脂原料、食料品を支那から輸入し、四年乃至六年を一括して、以上輸入品の代金一億元を、前拂する反對給付として、支那はそれに相當する軍需品、機械類を輸入する事に協定を成立させ度い――と希望するのだった。
 獨逸の外交員たちは、この交渉を進め乍ら、祖國の食料窮乏に思ひを馳せ、祖國の國民たちに支那のおいしい鳥卵製品をどっさり食べさせたら、定めし滿足するだらうと空想した。然し、彼等の眞の底意は、そんな生やさしいものではなく、久しく戰爭がなく四苦八苦してゐる祖國の軍需工業界の爲に、いやでも一仕事させなくてはならぬと言ふ、悲壯な決心だったのだ。
 斯くして獨逸の提案も大體に於て成功した時、踵を接して現れたのは、昔馴染の英國だった。
 老大國の代辯者は重苦しい言葉と壯重な身振りで言った。
「獨逸との貿易密約商議は我政府としては意外でした。私共大英國官民は、常に變らぬ友情と好意とを貴國に持ち續けてゐるのですが、それが聊か裏切られた氣持がして遺憾です。大體、獨逸のみが對支輸出一億元を確保して、支那市場に不抜の地歩を築くと言ふのは、列國の經濟的關係に與へる衝動は激しいだらうと思ひます。 兎もすれば、何らかの形態で爆發しようとしてゐる國際政局に、これは極めて危險な火を鮎じようとしてゐるものと考へられるのです。所で、我英國政府は、貴國に於て最も缺陥とされてゐる航空機に關する借款増加の用意があるのですが……。」
 斯くして、支那は、世界に殘された唯一の投資市場であった。世界經濟恐慌の波濤は、列國の過剰生産の數へ切れぬ商品を、潮のやうに支那に向って集中させた。支那は、農民の饑渇の生活から、年額十三億元の現金を搾り取ってそれを外國資本家の手に渡してゐた。
 然もなほ、外國資本の怖るべき觸手は、種々な借款を後から後へと造り出して、その吸盤から、農民の血液の最後まで吸ひ盡さうと努力してゐるのだった。

 百姓たちは全くの貧困だった。彼等の大部分は、母である大地まで取り上げられ、自分のものと言ったら、勞働力しか無かった。然し、百姓には、自分たちの境遇を批評しようとする智力はなく、本能である土への愛着を、夢中になって護り續けて行かうと努力するだけだった。
 穆英の畑は十七畝あった。これは生活を維持してゆく最小の耕地面積だった。その昔、親父が數町歩の田地を所有してゐた事は、考へれば嘘のやうな氣がしてならない。
 母や妹たちは、野良の手傳ひの餘暇には、養蠶をし、織布をした。そして銅貨何枚と言ふ乏しい収益で、からくも農産収益の不足を補はうと努力した。
「でも、家には牛があるで、まだえゝわ。」
 母親は、はたを織りながな、述懐した。
 穆英の家には、年老いたよたよたの黄牛が一頭納屋に繋いであった。
 役畜のない百姓たちは、高い借賃を出して借りなければならなかった。そして、畑に重大な役目を持つ畜糞も、家畜を飼養しない農民たちは、村から村を拾って歩かなければならなかった。
 上を考へれば限りはなく、又、下を考へれば限りはなかった。穆英たちも、生命が維持されてゆくだけで、滿足しなければならなかったかも知れない。
 來る日も來る日も、農民の汗は玉のやうな雫になって、大地にぽつりぽつりと注がれていった。
 黄土質の此の地方は、農作物の成長に適する期間は五月から九月までしかなく、年一毛作をなし得るに過ぎなかった。そして、水を滲透させる性質の土壌は、長い降雨を必要とするに拘はらず、天候はなかなか農民の希望通りには動いてくれなかった。
「もう雨が降ってくれてもよささうなが。」
 村の百姓は天を仰いだ。
 天には浮雲さへなく、白銀のやうな陽の光りがさんさんと輝き渡ってゐた。
 播種期に雨がないと、鋤耕された耕地の表土は砂のやうになって風で飛び去り、種子は日光に露出して、全然發芽しないのであった。
 村には鑿井や水渠があった。それも農民自身の自衛手段として、農民が營々と設備したものであった。然し、これとても、この地方全體の旱魃に處するには、決して充分なものではなかった。
「豐作ぢゃと思ふたのに……」
 期待外れの天候に、百姓たちは怨めしさうに空を眺めた。
「雨乞ひをやるべ。」
 村人たちは昂奮した表情かおで、村のあちらこちらに集った。
 この上の飢饉は、生命の僅かな灯さへ打ち消さんとする災危でなくて何であらう。
 農民たちの焦慮と絶望のうちに旱魃は決定的な事實となっていった。粟、高粱、小麥等の春播穀物の植付期に、僅かな降雨があったきり、乾燥は月々と激しくなっていった。
「大渠を作って、河から水を引いてもらふべ。」
 農民の代表者は、地方農村の死活の鍵を掴って、縣當局に交渉に出かけた。
「――そんな事を突然に言って來ても仕方がない。」
 役人は怒った表情で突っぱねた。
 旱魃は遂に此の地方を大飢饉にさせた。秋の収穫は平年作の五分も出なかった。
 百姓たちは前年の餘糧から高粱を縦にさき、それに樹皮や野草を混ぜて食糧にした。全くの細農は稗と稗穀を粉に(※手偏に展)き煎餅に燒いてそれを食った。
 村中は赫々たる太陽の下に、死人の村のやうな相貌を示してゐた。ひびわれのした畑地は、自然の生命さへも、失ひ果したかのやうだった。
「心配する事はねえだ。來年があるだ。おいらはちっともへこたれねえだ。」
 穆英は母親に言った。
「だがの、税金はどうするべぇ。利子だってあるずらに。」
 亂れた鬢を風にそよがしながら、母親が氣力も失せたやうに言った。
「牛を賣る事はのう。」
「牛を――?」
 穆英はひ返した。母親は默って目を伏せた。穆英の視線も次第に力なく、焦點から外れて行くのだった……。

 罅破れ、乾き切った見渡す限りの大地は、枯渇した作物の哀れな姿を、烈日の下にさらけ出してゐた。そしてその萎へ凋み、遂には土塊つちくれの中に倒れて了ふ農作物の現様は、そっくり農夫たちの姿でもあった。
 播種期に雨がないと植物の種子は發芽せず、雨季が遅れると穀物は成熟せずに霜に凋落して了ふ。旱魃による饑饉はこの國では必ず毎年、どこかの村を死紳の懐の中に投げ込んでゐるのだ。
「おっ母さ、町から人買ひが來てゐるさうな。」
 穆英の母の所へ、近所の百姓の女房が、蒼い顏をして來て言った。
「わしは思ひ切って、家の娘さ賣るべえと思ふだ。」
 穆英の母は、相手の顏を鋭く失った眼で凝視みつめてゐた。――彼女は黄牛と娘とどちらが大切か天秤にかけ始めたのだった。
 さうだ、黄牛には力がある。鋤耕にはなくてはならぬ家の寶だ。若しも黄牛を手放して了ったら、この饑饉から立ち上る力が期待されるだらうか。
「人買ひに賣ったらどうなるべぇ?」
 震へる聲で彼女は言った。
「さァてね、だが、殺される事はねえだよ。金さかゝってゐるだで。」
 女房は眸を乾いた地面に落した。其處には水を求めて這ひ出たらしい蛇の死骸なぞが、カラカラに乾からびてころがってゐた。
 穆英の母は、僅な旱生植物の収穫を何よりの心頼みに、今日も荒地に出掛けて行った息子の事を、針を飲んだやうに痛く考へてゐた。
 あれに言ったら屹度反対するだらう。彼の歸らぬうちに娘を賣って來よう。家にはもう何も賣るものはない。娘を賣るよりわし達の生きる方法はないのだ。娘にしたところで、こんな所で飢え死にするより、誰かに買はれて行った方が倖せだらう。
「のう、おぬし娘賣るなら、序でにうちの娘を世話しておくれ。そいでの、出來る事なら、二人一緒の所へな。」
 穆英の妹は、垢だらけな洗足で、外から歸って來た。手には小狗の痩せた死骸をぶらさげてゐた。眼ばかりぎょろぎょろさして、髪の毛は包米の糸毛のやうに赤黒く縮れてゐた。
「おッ母、これ拾ふて來ただ。」
「ふむ、えゝものがあったな。」
 三人の視線が、哀れな犬の餓死體に集められた。搾取され盡して、然も今や生産手段まで奪ひ取られた貧農たちは生きる爲には仲間喰ひさへ辭せない氣持ちに追ひ詰められてゐたのだ。
われぁ、町さ行く氣はねえだか?」
 母親は、わざとらしい硬張った笑顏で言った。
「町さ、何れに、行くだ?」
 きょとんとした顏で娘が訊いた。
「働きに行くだよ。在よりぁ、えゝものが喰へるべぇ。」
 娘は戸迷ひしたやうに、母親や近所の女房の顏を眺めたが、何かいゝ物が食べられると言ふ母親の言葉は忽ち一切の決心を固めさせたらしかった。
「己ぁ行くだ。たんと物が喰へたらなあ。」
 母親は襤褸衣を一枚、木綿の風呂敷に包んで、それを娘の荷物にした。そして、女房に眼くばせすると三人で家を出て行った。
 町に行って、大きな商館の前に着いてみると、その前は既に黒山のやうな人だかりだった。皆、洟たらしの子供たちを連れた連中だった。
 穆英の母親は、娘と二人で道傍の石に腰かけて、人々のざわめきに氣を呑まれてゐた。一緒に來た女房親娘は、群衆を掻きのけて商館の格子窓の邊りまで、様子を窺ひに出かけて行った。
「おッ母、己ぁ、行くの厭だよ。」
 突然に脅えたやうに娘が顫へた。
「…………」
 母親も同じやうな心持だった。
 いつそこの儘家へ歸らうかと考へた。が、家に歸って又饑餓の生活を始めるのか、と思ふと、母親の心は忽ち決心がぐらついた。
「おッ母さ、わしは餓鬼を紡績の女工に賣る心算だよ、今話を聞いて來ただ。この位の娘なら、大洋二十元くれるとよ。」
 一緒に來た女房が走って來て言った。
「大洋二十元?」
 母親の耳は暫くそれを疑った。黄牛ですら、今賓るとなったらそれだけで賣れるかどうか分らないのだ。素晴しい事だ。紡績の女工でも何でもいゝ、娘を二十元で賣らう――母親の心は決定した。
「わしもそこさ賣るだ。」
 娘は母親の昂奮した態度に再びきょとんとしたが、すぐ愈々別れなければならぬ事を悟ってべそをかきだした。
「今度の饑饉ぢゃ仲々身代金がえゝだよ。この前の時はおらの前の娘を目方で値を決めてのう、一擔銀二十元で賣っただよ。」
 傍に佇んで居た痘婆さんが言った。彼女は幾人目かの娘を叉、終身奴隷に賣り拂はうとして來てゐるのだ。
 夕陽は既に西に落ちてゐた。町は俄に黄昏れ始めた。然し群衆はなかなか散らうとはしなかった。

 外國資本家が、支那に工場を設立することは、既に當然の權利として、勝手にどんな邊僻な地方にでも實行せられてゐた。
 そして、その外國資本は豐富な財力と、高級な技術で忽ち支那民族工業を競爭圏外に蹴落し、更に精密な經營方法で、どしどしと根を張り膨張して行った。
 安値で立派な外國製品が市場に氾濫するのである――支那工業の悲しくもみじめな敗北、然も、その敗北を助けてゐるのが、支那國民自身なのだった。
 周旋人の手から集められて來た奴隷たち――穆英の妹も汽車で或る町に送られた。
 其處には立派な大工場が煙突からもくもくと煙を吐き續けてゐた。
 其處の門を一度くゞると、人間は既に機械に追ひ使はれる奴隷に變って了ふ。耳を聾するやうな騒音が巨大な、そして複雜きはまりない機械から轟々と響き、奴隷たちは眼の廻るやうにその間を駈け歩いた。
 彼等には一分の休息も遅滯も許されなかった。機械が鞭を上げて追ひかけて來た。どんよりとした工場の空氣の中で、凋びた年若い奴隷たちは、朝から晩まで、來る日も來る日も、いつ果てるともなく働き續けた。
 斯うして工場が支那の下級勞働者たちの力で景氣のよい煙を上げてゐる時、農村は工場の資本による種子の供給を受けて、營々として棉花の栽培に精出してゐた。そして毎年、大量の支那棉はどしどし外國工場に買占められて、片っ端から機械の中に放り込まれて行った。
 低廉――と言ふより寧ろ只に近い工人の賃金と、そして極めて合理化されて生産される安價な原料は、斯くして製品を無敵なものとして市場に押し出すのだった。
 支那の紡績工業は國内で窒息し、外國に向って活路を求めやうとすれば、そこには品質の低劣が、運賃の高額が障壁を作って、到底貿易の採算は成り立たないのだった。
「統税税率が外國工場と我々の工場と同様であるとは怪じからん!」
 支那の資本家たちは、自分の懐に入る金の日増しに減少して行くのに憤概し慷慨した。
「それにぢゃ、我々の製品が二十三番手内外の安價な太糸であるに拘らず、高價な外國の細糸と殆んど同様の徴税方法にしたやり方ぢゃよ。」
 他の一人は自分の工場の劣惡能力を悔しがりもせず政府を恨んだ。
「いや、外國商品のダンピムグに對して、當局がダムピソグ税を徴収すればえゝのぢゃ!」
「いや、爲替平衡方法をうまく運用して、外國爲替の低落を喰ひ止めればえゝのぢゃ!」
 資本家たちは口々に泡を飛ばして論じ合った。
 が――彼等の論爭が、彼等の同胞である農民や、そして細民階級の幸福を思ひ、支那の建て直しを考へて行はれたのでない事は勿論だった。
 それは、買(※辛力辛)ばいべん階級が、とりもなほさず彼等資本家の他の一面の姿であったからだ。
 外國製品の支那國土への浸潤振りは、あらゆる民衆の窮迫化をよそにして行はれて行った。綿布が農民の體にどんどん纏れて行った。布鞋がどんな百姓の足にも履かれて行った。石油や、洋蝋燭が、農村の隅々まで送り込まれて行った。
 支那の資本家たちは、外國製品の販賣人になってその手數料を以て莫大な利益を手中に収めてゐたのだ。
 農民や、一般の支那國民は、生きると言ふ目的の爲にのみ、年から年中同じ饑餓線上を堂々めぐり、勞働によって得た利潤は、いつとは知らず幾多の吸盤によって自分の知らぬ世界に持ちはこばれてゐた。
「己ぁの餓鬼は、今頃、うんと物さ食べて、肥えてゐるだんべ。」
「さうだんべ。町さ行けば、うめえものが、たんとあるだでのう。」
 荒廃した村で、穆英の母たちは、金に代へた娘たちの噂をし合ってゐた。無智な彼女たちには、娘の送り込まれた世界がどんなものか想像も出來なかったのだ。
 村からは多くの人間の姿が消えて行った。
 妻を町の富農の家に奴隷に賣ったり、又は三年五年の雇傭契約で、十元、二十元と金を得た貧農たちもあった。
 地主たちは、極めて安價な勞働力を、斯うした機會に自分の物とする利益を考へたが、數人を買った後は門を閉して相談には乗らなかった。それは彼等に與へる仕事が、農業にしろ手藝にしろ、さして廣範圍に存在しないからだった。
 穆英親子は、工場に身賣りした娘の身代金で、町から粟を買って來て粥にして啜った。多勢の村人たちが、草の根や、本の葉や、時として白土の塊を食物にしてゐるのを見ると、穆英たちは思はず湯氣の立つ椀を背後に隠して、そっと粥のある事を見られまいと努力した。
「來年の春に蒔く種さ買ふのぢゃから、粥も一日一回ぢゃ。」
 薄い水ばかりのやうな粟粥を穆英親子は、毎日一回づゝ拜むやうにして啜り續けた。饑饉の秋は冬に變り、北風が火の氣もない農家の土間の中を、あぎ笑ふやうに荒れ狂って行った。
「來年は、えゝ事があるだんべ。今、ちっとの幸抱だよ。」
 穆英も考へてゐた。そして、それは生死の境を彷徨してゐる農民たち凡ての者の果敢ない前途の希望でもあった。

 工場に行った娘の消息もなく二年が過ぎた。
 村は饑饉の傷手からやっと立ち直って、農家の竈からは朝夕、薄い炊煙が棚曳いてゐた。
 穆英は村の若者たちと三十支里もある隣村の富農の家に短工に傭はれて行った。農繁期には荒れた田畑が彼等の勞働を待ってゐた。それで彼等は比較的農閑期を擇んで働きに行くより他はなかった。
 毎朝五時頃までには、村の若者たちは隣村の「短工市」に出掛けてゐなければならなかった。
 幸な事に穆英は、その寺廟の前に佇んだ最初の日から彼を雇ってくれる老人を發見した。そして穆英が「短工市」に顏を出してゐる限り老人は彼に仕事を與へてくれた。
 然し、仕事は朝の六時頃から夜は七時頃までゞあった。彼等は一日の中三、四回休憩しては一生懸命働かされた。この富農も農繁期には數百の短工を雇って農作をさせるのだが、農閑期には數十名に數を制限して、手工業を與へるに過ぎず、給金も農繁期の牛分ぐらゐにしかならなかった。
 一日に乾穀八斤――それでも穆英等には大きな副業だった。
「家にもっと餓鬼がゐたら、えゝ金になるべえになあ。」
 お袋は知人の子澤山が、男女を問はず短工に出してゐるのをうらやましがった。我家に耕す田地の無い貧農たちは競って遠方の「短工市」にまで出掛けて、骨の髄まで疲勞して歸って來た。農繁期には麥の刈入をして五元の金を得て來た男もあった。彼等は喜びにわくわくしてゐたが、その腿は滿足に歩行も出來ず、掌は火傷したやうに腫れ爛れてゐた。
 農婦たちも「短工市」には群を作って集り、男に負けず挿秧でも収穀でもやってのけた。村は斯うした非常手段で餓死の一歩手前でからくも踏み止ったのだった。
 此の頃、村には何處からとなく不穏な噂がひろがって來てゐた。それは張將軍の部下が、再び給料の不渡りを憤って叛亂を起したと言ふのだった。
 零細農民の、食ふものも食はずに収めた税金が、張將軍麾下十萬の私兵を養ふに足りなかったかも知れない。然しそれは農民の知った事ではない。
 或日、村にたうとう一隊の軍隊が、砂塵を上げて襲來した。砂埃にまみれくたくたに疲憊した百名前後の兵士達は踏み占める脚も確でない騾馬を乗り捨てると、てんでに百姓家に闖入した。
「喰ふ物は無いか?」
「酒は無いのか?」
 彼等は口ぐちに怒鳴り散らした。中には土間の隅の油壼までひっくり返へす兵もゐた。
 納屋と言ふ納屋は、兵士の泥鞋で蹴散らされた。高粱や大豆の一握りまでが、無雜作に鍋の中にたゝき込まれた。
 豚や鶏が所有者の哀願の前で屠られた。兵士達の飢えと食慾は一年中饑餓に追ひかけられてゐる百姓達も吃驚する程だった。村人は唖然として傍觀するよりすべはなかった。
 兵士達は總ての家々を裸にして了ふと、今度は狼のやうに女を探し始めた。女があちらこちらで豚のやうに曳ずり廻はされ、時折り悲鳴やら、大きな聲で罵るのやらが聞えたりした。
「また何もかもなくなって了ったのう。」
 穆英のお袋はぼんやりと土の上に坐った儘で言った。穆英は野獸のやうな兵士達が、てんでに獲物をさげてどやどやと騾馬の手綱を解き、再び我勝ちにと馬の背に乗って、列も揃へず村を飛び出て行くのを、唇を噛んで眺めてゐた。
 舞ひ上ってゐた埃が、靜に地面に落ちると、村はやっと自分を取り戻した。村人は三々伍々、避難先から默々と我家に歸って來た。
 穆英は空になった穀倉を調べ、投げ壊された農具を改め、そして第一に明日からの仕事の事を思った。妹とも代へ難かった黄牛の姿さへ既に無かった。村の彼方此方で時をつくる鶏の聲も無かった。村中は全く赤裸にされ再び死の暗影に包まれて了った。
「まぁえゝわ、昔は人がぎょうさん殺されたものぢゃ。」
 村の老人は諦めたやうに首を振った。
 穆英は兵士が去って行った方を眺めてゐる中に、涙が滂沱として頬を傳った。遠い隣村の邊りで、豆を煎るやうな銃聲が聞えてゐた。隣村には保安隊が少敷、屯してゐた。彼等が最後の防衛を試みてゐるのであらう。
 袁大人の家は掠奪されたのだらうか――穆英はとぼとぼ道を歩いて袁家の高塀の見える場所まで來た。然し袁家は銃眼を嚴しく覗かせ乍ら、何事もなかったやうに靜まり返へってゐた。穆英は奇蹟でも見るやうにそれをいつ迄も眺め續けてゐた………。

 穆英は、體を刻まれるやうな苦澁の日を續け軈て二十二の青年に成長した。
 村は幾度か全滅しかゝっては、執拗に生に噛りついて放れなかった。
「今年は豐年だんべ。」
 心配してゐた穀雨も程よく降って、中耕も除草も、さしさはりなく行はれた。高粱の幹はぐんぐん伸びて農夫の姿もその穂波の中に沈んで了った。
 農民の希望は意地惡い運命の紳に弄ばれるやうに、恁うしていつも最初は輝かしい。
「支那は約四百三十餘萬平方哩、即ちアジア全面積の四分の一、世界面積の十五分の一である。然して世界有數の大農業國である………。」
 國立農業大學では、アメリカ歸りの教授が、若きインテリ青年に講義してゐた。教授の鼻眼鏡のレンズには、カリフォルニアの平原に、ミシシッピィ沿岸の大沃野に、肥え太った勞働者が鼻唄を歌ひ乍ら、大トラクタアを運轉してゐる風景が寫ってゐるのだ。
「……我が中華民國は、惠まれたる大自然と、而して勤勉たぐひなき四億の國民を有してゐる。若し、中國國民にして一旦、農事知識に眼覺めたならば、世界の農業は到底、中國の敵とはなり得ないのである。」
 都では、又政府の要人が世界帝國主義者と、毎日のやうに交渉會議を開催して、如何に支那を泰山の安きに置かんかと苦心してゐた。
「ソ聯と握手して日本を牽制すべきだ!」
「英國に利權を與へて、日本の對支政策に齟齬を來すやうに計畫すべきだ!」
 喧々囂々たる討論は終日、續けられてゐたが、その實、支那農業及び民族工業の衰退と對蹠的に繁榮した金融業の變態的發展は、政府の財政破綻を救ひ、支那銀行資本を利潤せしめ、彼等をして極めて安らかな心境にその日その日を遊ばしめてゐたのである。
 農民たちは、政治の事は少しも知らない。そして誰の爲に饑餓と戰って生きて行きつゝあるのかも知らない。勿論此の無智な勞働力が、此の國の學者を、そして政治家を、銀行家を、うまい工合に太らせてゐるのである事は知りはしない。
 張將軍は愈々身邊に迫って來た、どうしようもない經濟的危機に、封建的搾取地盤の揺解を沁々感じてゐた。
「これは、どうでも外國の力に縋らなくては……。」
 と考へてゐた。有力な紅毛國に依存して、己れの地盤を補強しようと言ふとって置きの手なのだ。
 穆英たちは所詮、彼等とは世界を異にする人種だった。世界の各國が中國を操り、そしてその操られる中國によって又、自分たちが操られてゐる事を知る能力もなく、高粱の穂波の中でたゞ齷齪と働き續けるのみだった。彼等の希望は、樂々と體を伸して睡る事と、一椀でも粥を多く啜る事だけなのだ。
 斯うして再び収穫が近づいた。と、都會の新聞は突如次のやうな記事を掲載し始めた。
K河大増水――昨年の最高記録を突破
〔T特電×日發〕連日の降雨にK河上流は一齊に増水し上流各地點とも昨年度水害當時の水位を突破するに至り急増せる流水は本日早期には××省境に達する豫定で、K河沿岸は今や大洪水の危險刻々と迫りつゝある。
 穆奥の村も既に大騒動であった。堤防が決潰したならば村は必然的に濁水に見舞はれる立場にあったからだ。農民たちは顏色を變へて、堤防に走って行った。四十支里の彼方にある堤防であったが、奔流は滔々と岸を洗って、物凄い水音は村の老人達の耳にさへ聞えてきてゐた。
「駄目だ、これァ助からねえぞ!」
 鋤鍬を持って堤防を補強してゐた農夫達が一齊に逃げ出した。水位はぐんぐん昇り、流量は溢れる程、増加して來た。
「おーい、東が切れたぞ!」
 叫びが遠くから聞えた。初めちょろちょろ流れ出した河中の濁水は、寸尺の間隙から忽ち大瀑布を奔騰せしめた。水煙が激しく立ち昇って、草も木も根こそぎ薙ぎ倒すやうな波濤が、末廣がりに平地に氾濫して行った。
「助けてくれい!」
 水勢の中で手と首だけを出して溺れてゐる男があった。脆くも潰えてゆく村々が堤防の人達を茫然自失せしめた。畑も道も一瞬のうちに濁流の下に姿を消し、横たふしになった木々が、僅かに村の残骸を表示してゐた。
 耕地も既に無意味だ。収穫するばかりだった小麥も、燕麥も泥の中に埋れて了った。高くのびた高粱や玉蜀黍も海草のやうに水の下でそよいでゐた。
 農民たちは、木で筏を作って高地や丘へ避難した。
 食物は到底滿足に彼等の口には入らず、日を經る毎に餓死する者が増していった。雨は一月近くも降り續いて、八月に入って漸く日光が照り始めた。
「穆英、わしはきっと死ぬだ。」
 丘の上に建てた土塊つちくれの家の中で、肋骨あばらを浮かせた母親が喘いだ。
「何か食ふものがないかい?」
 穆英は袋の中から一すくひ粟を取り出して見せた。
「あるよ、おッ母、まだ、たんとあるだ。」
 そして土鍋に粟を入れて粥を作り始めた。穆英はもう三日も食べない。袋の中の食糧は母の生命の續く限り保存させて置かなければならぬ。母は洪水以來、頓に體を弱らせて、今日此頃は體さへ自由に動かせないのだ。熱病でゞもあらうか、額が火のやうに熱かった。
「穆英、役人が近く助けに來てくれるとよ。」
「莫迦言へ、嘘だんべ。」
「本當だと。」
 知人の百姓が通りすがりに言った。本當に助けに來てくれるのであらうか。穆英たちには今更、百姓に親切な第三者が存在しようとは信じられない習慣だった。
 母はたうとう死んだ。それは溜り水に十六夜の月の映る美しい宵の事だった。まだ中年の母の死體はまるで老婆のやうに骨と皮ばかりの輕いものだった。穆英は一日、母の傍に禮拜してゐて、翌日、丘の一隅に穴を掘って葬った。
 おれはたうとう獨りになった――穆英は湖のやうな水の面を茫乎眺め乍ら考へた。そして無性に悲しくなったが、然し人間の運命と言ふものは恁うしたものであらうと考ヘて、漸く涙を拭き取った。
 それから間もなく政府の役人が、船を仕立てゝやって來た。罹災民たちはやっと食糧にありついた。穆英は一椀の高粱飯を、そっと役人にかくれて、母の墓場に供へに行った……。

10
 水旱害は、支那では決して珍しいものとはされてゐない。記録に依ると、民國十七年に陝西、甘肅、山西、綏遠、河南、山東、察哈爾、河北の八省に起った大旱魃は、被害區域五百三十五縣、罹災民三千萬人に及び、民國二十年長江淮河及び運河の流域一帶に越った大水害は、被害地域十六省、罹災民五千萬、續いて二十一年には十一省二百二十縣が水害に、時を同じくして六省百二十六縣が旱魃に襲はれた。 そして災害は杜絶えてはゐない。二十二年には水害地域十五省二百五十二縣、旱害は八省九十八縣、二十三年には更に記録は増大して、全國旱害地域十一省三百六十九縣、水害區域亦十四省二百八十三縣――前者は現有田畑の二一%、後者は五%を占めてゐるのだ。
 斯くて支那農村大衆は推定額十億を超えんとする農産物をたった一箇年間の災害に横奪され、貧困化は加速度を加へてゐる――たゞ動物的な農民の不死身な勞働力だけが、壊滅の中からやっと生産を甦へしてゐるに過ぎないのだ。
 幾度目かの秋が再びめぐって來た。
 この年は、高粱、玉蜀黍、粟、大豆が、農民の知ってゐるどんな美しさより美しく豐に稔った。
 豐年だ、數年にない豐作だ――人々の口から、歡喜の叫びが發せられ續けた。
「おッ母に見せたいな。」
 穆英は畑を眺め乍ら獨り呟いた。
 空は農夫の希望のやうに高く晴れ、その空の下には老幼を問はぬあらゆる村人が、てんでに鎌を携へて働いてゐた。
 収穫なのだ。取り入れなのだ。
 鈍い光を反射さす鎌の刄は、高粱や玉蜀黍の稿稈を勢よく切り倒して行った。歡聲があちらこちらの野面から響いて來る。
 畑が次第に地肌を現すと、その代りに作物の叉銃が數を増した。大豆や粟や粳子は、刈り取られると或は畑に擴げられ、或は束にして立てかけられた。
 汗が農夫の全身を流れ、秋風がそれを冷やして過ぎた。
 刈り入れが濟むと、數日間の陽乾しが始った。急に暇になった勞働力は、既に月の上旬に収穫した稗や、續いて刈った粟や糜子の脱穀に、一齊にさし向けられた。
 脱穀場は、百姓たちの住居に近い畑地とか、院子内に設けられる。地均しされた平坦な地面に、濕氣を與へる水が流され、上を石製のローラが鎮壓した。
 農夫たちはそれぞれの収穫をこの脱穀場に持ち込むと、穂と穂とを向ひ合はせに輸形に敷き擴げ、その上にローラを曳いて脱穀させた。高粱や玉蜀黍の脱穀が開始される最盛期になると、村中の馬や騾や驢が總動員された。百姓達は朝から夜まで鐵叉子を持って稿稈を飜轉させ、農婦たちは脱粒を終った稿稈を、場園の片隅に積み重ねるのに追ひまくられた。
 天候は來る日も來る日も快晴だった。農夫たちは星の燦めくうちに起き上って脱穀場に姿を現はし、休んではゐられないと言った風に、終日、間斷なく動き廻ってゐた。
 穀實は軈て堆高く場園の中央に寄せ集められた。男たちは揚掀を手にとって、恰も秋空を叩くやうに、穀實を掬ひ上げ掬ひ上げしては、空に抛り上げた。
 選別の仕事が終ると、蓆子で(※囗の中が屯)とんが作り始められる。倉子を作る家もあるが、それらの穀倉は、家々の幸福を表徴するやうに誇らかに農家の軒先に立て竝べられるのだった。
 斯うして百姓たちがほっと一息ついた時、季節は既に十一月を半分も廻って、霜の降りたむき出しの大地には、靜かに重い休息が訪れてゐた。
 穆英は竈の前の粗朶の火に、年寄りのやうに節くれ立った手を炙り乍ら、収穫の金に代る日の事を考へてゐた。山程の穀物があるのだから、借金や税金を支拂っても、相當な金は殘るに違ひない。
「己は妹を買ひ戻してやらう。」
 然し、穆英の――いや一般農民の豐作の歡喜が思ひもかけず煙散霧消する日が訪れた。怒涛のやうな収穫物は市場に於てはろくな値も示さなかったのだ。
 支那の農民が自己の収穫物を運び込んで行った市場には既に世界の凡ゆる國々より潮のやうに流れ込んでゐた農作物が山を造ってゐた。そして、それが想像外のダムピングを行ひ始めたのだ。
 打ち續く旱魃と水害から輸入され始めた外米は、民國二十一年度には、輸入商品中の第一位を占め、農業國であり米の特産國である支那自身を完全に壓倒してゐた。
 從って農産物の輸出は、このやうな状態に在っては、流れに逆って泳ぐより困難な事であった。輸出額は凡ゆる部内に加速度的な減少を示してゐた。
 國内に氾濫する農作物の山――然もそれは到底國内に於ては消費され得ない品物なのだ。
 百姓は凡てが食ふや食はずで生活してゐる。比較的生活のよい北支一帶の農民ですら、高粱と甘藷で命を繼ぎ、窮乏の南支の農民達は、粥と雜穀類で幸くも命を支へてゐる――どうして農作物の消費が期待され得よう!
 矛盾、恐ろしい矛盾――百姓達はすきっ腹を抱へ、然も眼の前に販路なき山のやうな過剰農産物を眺め乍ら、茫然としてゐた。
「いくらでもえゝだ。買ってくだせぇ。」
 百姓たちは地に頭を擦りつけた。
「命を助けると思って、買ってくだせぇ。」
 百姓たちは一家の生死をかけて哀願するのだった。

11
 穀物商人は、百姓たちが土壇場まで追ひやられたのを見極めると、懇像も出來ない價格で作物を買ひ上げた。
 銀行は此の機會にどしどし農村に倉庫を設立して、農産物販賣事業を開始し、穀物市場の獨占に力を振ひ始めた。農作物は大きな力で、どんどん價格を下落させられ、農民の手から吸ひ上げられて行った。
「なんの事ぢゃ、豐作ぢゃと思うて喜んだに。」
 村人たちは呆れたやうに呟いた。あれだけの穀物の山が僅な貨幣にしかならなかった事實を、どう解釋してよいか分らなかったのだ。
「今年は豐作ぢゃったな、金が入ったら、義理だけは第一に濟すものだぞ。」
 腑抜けのやうになってゐる村人の前に、既に袁泰の督促が訪れてゐた。
「へえ。」
 一同は顏を見合せ、眼を瞠る元氣しか持たなかった。
「小作料は、特別に例年通りにしてやってあるのだから、借金の利子はまとめて支拂ふ事だ。今後の事もあるのだから、その邊をよく考へろ。」
 袁泰の投資した資本が、銀行の手を經て農村の穀物類を二束三文に買ひ上げてゐる内幕を、百姓たちは夢にも知らない。百姓達はいづれは袁大人の手垢のついてゐるに違ひない貨幣を、再び自ら足をはこんで袁大人に忝しく返献して歸って來た。
「妹、妹――」
 穆英は、儚くも破れた自分の夢を悲しんだ。
 都にゐる妹よ、世界にたった一人しかゐない肉身の妹よ、お前に會へて、そしてお前と一緒に、昔通りこの故郷の地で、いつ迄も畑を耕さうと思ってゐた事はたうとう出來ないで了った。やっとめぐりあった豐作の年ですらこれだ。この先いつになったらお前を買ひ戻す事が出來るだらう!
 涙をゴワゴワした掌で拭き乍ら、穆英は親父の墓に行きそしてお袋の墓へ行った。やっと穆英の胸には自分たちの兩親の歩んだ道が、矢張り自分の歩んでゐる道である事を悟った。彼の心には初めて胸のむづ掻くなるやうな感情が湧き上った。それは彼が今迄まるで經驗もしなかったやうな火のやうに熱いものだった。
 此の國の都、南京には、豐作の年であり乍ら乞丐が町に溢れた。各地の窮民が食をあさりに集ったのである。
「きたならしい奴が町をうろついて困る。第一に物騒ぢゃないか。」
 偉い市政府の役人は警察廳の役人を叱り飛ばした。警察廳の役人は驚いて都の四方八方を固めさせ、市中に侵入しようとする窮民を捕へて放逐した。然し放逐された窮民たちは流れ込む如何なる土地もなく、饑餓地帶をあちらこちらさまよひ歩いた。
 この冬、遂に暴動が勃發した。所謂「哈大戸チイタァフウ」とか「搶米チャンミイ」とか呼ばれる騒動だった。
 袁泰の家は夜半、突然、雪崩れ込んで來た數百の暴民の爲に完全な物は一つも無い程に打ち壊された。暴民たちは米倉を開いて鱈腹飽食し、そして潮の引くやうに引上げた。又近くの町に逮てられた資本家の大倉庫は、喊聲を擧げた暴徒に襲撃せられて、貯藏米數百石は掠奪され盡した。
 新聞紙上に報ぜられた民國二十二年の記録だけでも、各省に亙って多くは十四、五回、少くは三、四回の米騒動が頻發してゐる。
 村は死の前夜のやうにひっそりと靜まり、畑は寒々と寂れて了った。都から派遣された警備隊が、袁泰の邸宅を中心に無氣味な警戒な布いてゐた。村人の數人は相談があると言って呼び出された儘、再び歸って來なかった。
 此の頃、都に走る汽車の中に頬を紅潮させた穆英が乗ってゐた。彼の眼は眞理を悟った者にのみある輝きを示し、口邊には自信ある強い微笑が泛んでゐた。
「妹、妹――兄さんは、お前に會ひに行くだ!」
 ――冷たい革窓のガラスの上に、穆英の恰しげな微笑はいつ迄も消えなかった。(終)

 本篇執筆に當り重要な参考とせる文献は次の通りである。茲に敬意と感謝を表す。=支那經濟研究會譯「支那經濟現勢講話」、滿洲評論同人著「再分割の危機に立つ支那」、早川二郎譯「マジャール・支那の農業經濟」、天野元之助著「支那農業に於ける水の意義」、小澤茂一著「支那の擾亂と山東農村」、この外「滿洲日日新聞」新聞記事

注)明かな誤字誤植は訂正しています。句読点は補ったところがあります。


「戯曲 共同耕作」二幕二場
「観光東亜」 1938.06. (昭和13年6月) より

 時  康徳×年の春より夏にかけて
 場所 或る鐡道愛護村
 人物 警務分所長   森巡長  27歳
    驛長      池田さん 40歳
    愛護村長    王榮昌  35歳
    小学校教員   陳明   23歳
    鐡道局産業課員 秋山さん 37歳
    匪賊の副頭目  飛龍
    その他
 註――警務分所と言ふのは鐵道警備の爲に各驛毎に設けられてゐる路警の派出所である。愛路運動の現地工作は總てこれ等若き分所長たちによって實施されてゐるのである。

第一幕
 山峽やまあいの村にも春が來た。麗かな春の空が警務分所の窓から覗いてゐる。さう言へば森巡長の坐ってゐる粗末な机の上にも、一輪ざしの葩が笑ってゐる。土造りの平房ペエファン――アンペラを敷いた(※火亢)カンが一隅にあり、書類戸棚、銃架、電話などが他方の壁際にある。
 森巡長は村民の一人と對談し、驛長の池田さんは(※火亢)カンの上に新聞を擴げて讀んでゐる。
森巡長 ぢゃ、袁の言ひ分は土地はお前の物だが溜り水はお前の物ぢゃないと言ふんだな。
村民 へい、さうでがんす。水は天から降って來た物で誰の物でもねえとこきますんで。
森巡長 (笑ひ出して)そんなくだらん事で喧嘩しちゃいかんな。
村民 でもその水はおらの畑さ撒く大切な物でがんす。
森巡長 然しだなあ、袁は昨日やって來て、お前の所で堰止めたんで、本當は袁の所へ流れて來る筈の水が來なくなって了ったと言ってゐたぜ。
村民  それぁ、もともと河ぢゃねえだもん、おらの畑さ流れて來た水を勝手にするに文句はねえだよ。
森巡長 さう言って了へばそれ切りだ。だが隣同志ってものはもっと仲よくしなけれぁいかん。自分の事しか考へないって言ふ習慣が一番惡いナ。お前は堰を切って袁の所へも水を流してやるんだ。いゝか分ったな。
村民 へい。
森巡長 村中はお互にたすけ合って行くのだ。こんな山の中の貧乏村が少しでも樂になる爲には皆が心を合せて一生懸命働くより他に道はないんだからな。さァ歸って堰を切るんだ。
村民 へい。(お辭儀をして去る)
驛長 (新聞を疊んで)愛護村問事處長も樂ぢゃないな。(笑ふ)
森巡長 (煙草に火をつけ乍ら)一日平均十件ですね。開設當初はまるで相談に來る者もありませんでしたが。然し、痴話喧嘩まで持ち込まれるのは閉口ですよ。
驛長 獨身の森さんにァそれぁ無理だ。(笑ふ)
森巡長 だが、百姓は純朴ですね。僕等のやうな若輩にも本心から信頼して來るんですからね。愛路運動に入った者が自然と眞面目になるのは百姓の純粋な氣持に惹き入れられるからでせうね。
驛長 さうだ全く。愛路運動の尊さはやってみて初めて分る――僕もね、この前こんな事があったんだ。鐵道局へ行った歸りの列車の中でね内地から視察に來たらしい紳士の一行がだらしなく座席に寝そべって欠伸まじりに言ふ事が斯うなんだ。滿洲は匪賊が出ると言ふがさっぱり姿を見せんぢゃないか。土産噺に一度位襲撃されないかなぁ。僕はカアッとなったね。そして言ってやった――貴方がたはそんな呑氣な事を言ってゐるが匪賊等に指一本差させない爲にどれだけの人が晝夜分たず苦勞してゐるか知ってゐるか。 守備隊の兵隊さんはもとより、路警の苦心も一通りぢゃないんだ。そしてその上に九百萬愛護村民が身命を賭して鐡道警備に協力してゐるのだ。この愛護村民はみな鐡道がどんなに大切なものかと言ふ事を自覺して自發的に鐵道愛護に奉仕してゐるのだ。こんな隠れた努力に紳土諸君は恥かしくはないか、とね。先生たち一言もなかったよ。
森巡長 線路を雨に濡れ乍ら巡廻してゐる村の老人に列車の窓から蜜柑の皮を投げつける客があるのですからね。
驛長 全く旅客なんか愛護村民の犠牲的精神を知ったら寝臺なんかでのらのらと旅行は出來ない位なんだ。
王村長 (帽子をとって入って來る)今日は。
森巡長 やあ王村長。
王村長 どうも先日來色々お世話になりまして。
驛長 いやいや。まァおかけ。
王村長 (すゝめられた椅子に腰を卸して)御蔭様で百姓たちも蘇生しました。春耕期に播く種が無いなんて悲惨です。鐵道局から優良種子を分けて戴いた時は皆感泣しましたよ。
驛長 それより我々は貴方の行爲に感激したよ。自分の大切な種子を惜し氣もなく村民にやって了ったりして……。
王村長 なにを、あなた。そんな事は當り前の事ですよ。こんな貧乏村で私利私慾を考へてゐたら共倒れですよ。所で、森先生、今日は家畜の豫防注射の件でお伺ひしたのですがね、隣村で昨日炭疽病が發生したらしいのです。
森巡長 それァ大變だな。
王村長 確に炭疽病なんです。で、百姓は注射を知りませんから、注射だと言ふと家畜を匿すだらうと思ひますが、鐡道局の方でお世話下さるならば私が屹度全村の家畜を集めますが……。
森巡長 早速局に報告して處置してまはらふ。炭疽病が蔓延したら大變だよ。
王村長 どうかお願ひ申します。全く百姓が分らないもので困ります。今年から一家全勞を實行しなければと考へて戸別に勸めて歩いてゐるのですが、まだまだ女は働くものではないなんて考へてゐる連中がゐましてね。
森巡長 その點愛路少年隊員は優秀だな。聞いてみると少年隊員の家庭は總て自力甦生を決心してゐるさうだ。
王村長 さうです。子供たちが少年隊教育を受けてからすっかり變って了ひましてね。教へて戴いた事はそれが一番よい事だと信じて家に歸ってからも熱心に主張するのです。一家が自然とそれに引きづられて行きつゝあるのは事實です。
驛長 いつぞやの鶏の成績はどうです。これが成功したら蜜蜂をするといゝんだがナ。
王村長 さうですね。だが村民はまだ副業と言ふものを期待しないのですね。私は切角鐡道局が優良な種鶏卵をお世話下さっても百姓の理解が足りなくて失敗したらどうしようかと心配してゐます。出來るなら、先づ各戸に五羽から十羽ぐらゐの養鶏を實行して、その卵の収入は副業収入として、別に貯金すると言ふ位に成功させ度いのですがね。
森巡長 出來る、必ず出來る。僕も愛路少年隊の基金を作る爲に谷から砂利を運び上げて賣り、山から草花を採取して驛で立賣りさせようと計畫してゐるのだ。自力甦生は勤勞より他はない。
驛長 さう言へば二、三日前、あの怠け者の李雲正が馬糞を拾って歩いてゐたから珍しいと思って訊いてみたら、村長さんがさうしろと言ったと答へてゐたよ。
王村長 えゝ、肥料は大切ですから馬糞も無駄にしてはいかぬと教へたのです。堆肥も今年は毎年より二回も多く切替しをさせました。
(一名の壯丁が入つて來て敬禮する)
森巡長 やあ。
壯丁 報告をお届けします。
森巡長 御苦勞さん。五支里もある所をたいへんだな。(紙片の封を切って讀む)本日十一時頃騎馬匪らしき者約十名、北臺子村の北方三支里の地點を西方に通過しつゝあるを當村監視の呉靜遠が望見せり、鐡道線路地帶には近接せず退去せるを以て村民を動員せず。南臺子愛護村長寶祥報告す。
驛長 この頃、匪賊情報は頻々たるものだね。
森巡長 情況偸安を許さずですよ。(壯丁に)これは今月號の愛路雜誌だ。最近の記事が載ってゐる。持って歸り給へ。寶村長によろしく。
(壯丁擧手の禮をして去る)
驛長 情報連絡がこんな完全に行はれるとは思はなかったねえ。
森巡長 純朴な村民は一度了解したら後は責任を以て仕事を遂行してくれるんです。どんな遠い村でも事故のあるなしに不拘一日一報は励行されてゐます。
王村長 (立ちかけて)では私は失禮します。注射の儀はよろしくどうか……。
森巡長 承知しました。あ、王さん、貴方、家族を隣村へ歸したんだってね。
王村長 えゝ。
驛長 へえ、さうだったのかい、知らなかったな。どうしたの。
森巡長 僕も昨日、孫巡警に聞いて知ったばかりなんだが……。
王村長 都合がありましてね。
森巡長 都合って――。
王村長 實は飛龍から又脅迫状が來たのです。
森巡長 (驛長も同時に)何! 飛龍から。
王村長 (悲しさうに)村にまだ通匪者がゐるんです。私はいつでも覺悟はしてゐますが、家内や子供達は可哀想ですから……。
森巡長 (拳を堅く握る)ちくせう、飛龍の奴あくまで手向ふ心算だな。よし斯うなったら一騎打ちだ。王村長貴方が殺られる時は僕も一緒だよ。だが、奴等に敗けてたまるものか!(堅く唇を噛む)

第二幕
第一場
 夏である。前幕より三箇月ばかりの後。
 村には集會所が建設された。草葺に泥壁の貧しい費しい平房ペエファンではあるが、この村では記念すべき文化の先驅だ。
 集會所の背後には畑が擴がり一端に「×××愛護村共作圃」と墨書した標柱が建ってゐる。又、集會所の横には五色の愛護村旗が空高くはためいてゐる。
 森巡長と王村長、陳青年が集會所を眺め乍ら話してゐる。
王村長 念願の集會所を落成して私は重荷を卸した氣持です。鐡道局には何とお禮を申していゝか分りません。
森巡長 いや集會所は村民の熱誠で出來たのだ。勞力も材料も殆んど村民の奉仕なんだからなあ。
陳青年 (うれしさうに)此處で村の人たちは集って相談事も、勉強も、遊ぶ事も出來るのですね。
森巡長 僕等の理想の第一歩が實現された譯だよ。僕は斯う考へてゐる。先づ標準時計を備へ附ける。朝と晝と晩と少くも三回此處から鐘を打つんだね。時間と言ふものを村の人はもっと知らなければならんのだ。それから一週間に一度位は村の中堅分子はみな集會所に集って村の甦生に就ての意見の交換をするんだ。農村合作社運動も當然この集會所を中心として行はれるだらう。
王村長 この村がよくなる事は誰でも夢だとしか考へてゐませんでしたが、それが皆の努力で夢ではなくなって來たのです。
陳青年 あの共作圃だって、初めは働きに出る者もなかったのですからね。それが愛路少年隊員が率先して働き出してから、兎も角も村民は手をつけるやうになったのです。
森巡長 共同耕作の精神が呑み込めただけでも成功だ。來年からは五天地ぐらゐは主要作物を栽培して殘りの五天地には特用作物の試作をするのだね。共作圃は村有基金の出所にもなり村の農事試驗場にもならなくちゃならない。
(驛長と連れ立って鐵道局の産業課員秋山さんが來る。一同お互に挨拶を交す)
産業課員 森さん、中々立派なやつが出來ましたね。
森巡長 えゝ、なにしろ村民が一生懸命なんです。
産業課員 この村の金家勤勞精神は凡ゆる方面に反映してきてゐるぢゃないですか。道々見たのですが、第一今年の作物の生育は極めて良好ですね。畑の手入れが行き届いたからだと僕は考へます。
森巡長 いや天侯が順調だったせいで割合豐作だったらしいのですよ。我々の努力は未だ力及ばずですが、幸い愛路運動のよき理解者王村長と小學校の陳教員とが先頭に立って活躍してくれるんで、一歩一歩前進して行くやうです。
驛長 秋山さん、この陳明さんは貴方のいつぞや説明された「卵から馬へ」を具體化しつゝありますよ。
陳明 初め村民も少年隊員も鶏を副業にする事をたいして期待してゐなかったのですが、卵の強制賣上げ貯金が次第に増してきたのを見て今更のやうに駭いてゐるんです。今年は先づ共同使用馬を買ひ來年は豚を、その次は改良農具を買ほふと考へてゐます。
森巡長 少年隊實習園の収益は隊服を買ふ豫定にしてゐますが……。
産業課員 全く感心ですね。頭が下りますよ。今年の秋は色々の意味の大きな収穫がある事でせう。私の考へでは、共作圃の方の収益は、先づ共同精選機の購入、次に堤防改修の補助、續いて共同堆肥場の設置等に使用するといゝと考へますが、その十分の一でも果し得たら今年は大成功だったと言へるでせう。
王村長 共同精選機は是非欲しいですね。すぐ役に立って生産品もずッと向上するんですから。
驛長 堤防の修築はもう村民の共同奉仕で一部から始めてゐますよ。お蔭で降雨期にはひどく心配する線路の方も、來年は餘程安全になってくるだらうと思ひます。
産業課員 素晴しい革新ぶりですね。一般的には滿洲の百姓の保守性退嬰性を學者は非難してゐるけれど指導に依っては斯うまで變るものですかね。(跼んで傍の畑の農作物を調べる)おや、これぁいかんな。
森巡長 どうしたのですか。
産業課員 夜盗虫ぢゃないですかね。
(一同駭く)
産業課員 これァ早く發見してよかったですよ。すぐ對策を施しませう。放置すると全村の畑に蔓延しますよ。今迄の百姓は總て没法子メイファーズだったけれど、現代の百姓は勇敢に凡ゆる農作の敵と闘って行かなくちゃいけません。
王村長 我々みんなその覺悟です。農作の敵ばかりでなく、農村を破壊する凡ゆる敵と闘ひ通してゆく心算です。
産業課員 その通りです。しっかりやって下さい。夜盗虫は昔は怖るべき農民の敵でしたが今は怖るゝに足らぬものです。總てがさうなるでせう。私はこれから畑を全部調査しませう。夜盗虫がこの邊だけのものなら此處だけ溝を掘って他と隔離すればいゝのです。さあ、そっちの畑から始めませう……。
(一同は勇み立つ――)

第二場
 夜――。前場より數日の後である。
 仄暗い洋燈ランプの下で王村長と陳青年が話してゐる。陳明の住居すまいであるが、極めて貧しい様子が窺はれる。王榮昌は最近此處をねぐらにしてゐるらしく、落ちついて鋤の手入れなどをしてゐる。陳明は膝の上に書物を開いてゐる。
陳明 秋山さんは生活改善は井戸の清潔からだと言ってゐられましたが、早速これは始めなくてはいけませんね。
王村長 それと同時に便所も作って人糞堆肥を作る事も大切だね。それから農村合作社の話も秋山さんの話でよく分ったが、早く村の人たちに徹底させんといけない。
陳明 兎に角、冬が來ても食ふ心配をしなくて濟むやうに早くさせてやり度いものです。(欠伸をして本をとぢる)
王村長 勉強が濟んだら寝ようか。(農具を片づけ乍ら)今年の冬はまァ少しはいゝかも知れない。村の衆も以前のやうな事はないからね。阿片を飲んだり博奕をしたりして夜更しをしてゐた連中がこの頃はアンペラを編んだりしてゐると言ふぢゃないか。(突然の物音に耳を澄ませる)何だらう。
(二人が振り向くと戸口に匪賊の副頭目飛龍が拳銃を差向けて立ってゐる――二人は愕然とする)
飛龍 動くな! 返事をもらひに來たんだ。いや、返事をもらへないお禮に來たと言った方がいゝ。
王村長 どうしようと言ふのだ。
飛龍 命をもらふ約束だったな。
王村長 (眼をつむって觀念する)
陳明 (昂奮して)莫、莫迦! 王村長を殺すなら僕を殺せ。村の人達をドン底から救ひ上げて食へない村を食へる村にしようと一生懸命働いてゐる人間を何の理由で殺さうと言ふのだ!
飛龍 (せゝら笑って)若僧、默ってゐな。鐡道の奴等の機嫌をとりやァがって、事毎におれ達の仕事の邪魔をするうるさい男を片づけるだけよ。死にたけれァ勿論遠慮はいらねえぜ。(一歩進む)
王村長 (靜かに)己の命は初めから捨てゝゐた。たゞ愚痴を言はしてもらへれば――己はいつかお前と話し合ってよく愛路の意味をのみこませ、自分の非を悟らせ度かった。そしてお前等に歸順を勸める時がありはしないかと夢のやうに考へてゐた。だが、もう遅い。
飛龍 歸順なんかする位なら自分で首を括るぞ。あはゝゝ。愛護村長などと日頃大層な事をぬかし居っても斯うなったら手も足も出ねえだらう。さあ觀念しろ!(引金に指をかける)
(途端にぢァーンと警鐘が鳴り亙り、續いて気違ひのやうに亂打され始める。飛龍は度膽を抜かれて思はず狼狽した所を陳明が飛鳥のやうに飛びかゝって大格闘になる。王村長は素早く戸口に走って行き中から閂をかけ窓には内側から防禦物を積み上げる。戸外にゐたらしい飛龍の部下たちが戸や窓を叩いて「隊長、隊長!」と叫ぶ。飛龍は格闘し乍ら「野郎共、早くはいって來い!」と叫ぶ。王村長も格闘に加はるが飛寵の方が強い。 この頃から戸外では凄じい銃聲が聞え、飛龍の部下たちの叫聲が聞えなくなる。遂に飛龍は二人を土間と壁にたゝきつけ、拳銃を拾って二人を射殺せんとすると、銃聲一發、飛龍は腕を射たれてたぢろぐ。天井の明り窓から武装した森巡長が拳銃片手に飛び降りてくる。格闘になるが今度は負傷した飛龍の敗北になり、森巡長の捕繩にかゝる)
森巡長 王村長、怪我はなかったか。
王村長 どうもありません。命拾ひしました。
森巡長 陳君、どうした。
陳明 ひどく撲られて腰が立ちません。然しお蔭で命だけは助かりました。(苦しさうに笑ふ)
森巡長 荷馬車夫の趙宗全が密告したんだ。奴は今迄金をもらって飛龍に内通してゐたのだが村の氣風に感化されてからは自分の行爲が惡いと悟って、たうとう改心したらしいのだ。そして今夜は飛龍等の襲撃を知ってゐたものだから、すぐ警察や僕の方へ知らせて來たのだ。僕は駭ろいてやって來たが、間に合ってよかった。
王村長 本當に有難うございました。ですが森先生、私は自分の命が助かった事よりも飛龍が捕へられた事よりも、村でたった一人とり殘されてゐた趙宗全が、我々と同じやうな協力精神を持つようになった事が一番うれしい気がしますよ……。
陳明 (微かに、然し希望に溢れて呟く)村もこれからだ……。
(二人は凝乎と佇んだ儘。靜かな徴笑を交し合はせる) ―終―

注)明かな誤字誤植は訂正しています。句読点は変更したところがあります。


「創作小説 売工人(まいくんれん)(中絶?)」
「新天地」 1938.09. (昭和13年9月) より

 村に見馴れぬ男達が來てゐると言ふ話を通りがかりの村人に聞いて李萬福は畑から立ち上った。すきで耕起したばかりの赭土の塊を無器用に踏みしめて、のそのそと村通に出て行った。
とう、何處さ行くだ?」
 土糞を鍬で碎いてゐた伜が振り返って叫んだが李萬福は、
「騾さ見てろ」
と言ひ捨てた儘、埃風の中に姿を消して了った。
 紅い紙を型ばかり招牌に千切って軒から下げた村辻の饂飩屋の前まで來ると、李萬福は思はず足を停めた。其處には顏見知りの村の衆が十人以上も無表情に佇んで茫乎ぼんやりみせの中を眺めでゐるのだった。
「南のおとっつぁ、何んでがんすね? 」
 前の男の肩越しに李萬福が覗き込むと、
「よくは知んねえだが、なんでも滿洲さ稼ぎに行く者を探してゐるだげなよ」
「滿洲へね」
 成程、床几に腰かけた古洋服にゲートル卷の若者と(※衣偏に夾)襖チャアアウの太った中年男が、茶を飲み乍らみせの親爺に話してゐる。
「前貸金は事情によっちゃ三十元まで借すんだぜ。小遣錢だって融通すらぁ。それにあっちに行けァ毎日呑氣にしてゐて五角にァなるんだ。卯子工モズクンと違って長工ツァンクンなんだから心配は全くいらねえ。己ァこんな貧乏村で高粱粥ばかり啜ってゐる百姓らの氣が知らねえよ。なァ親爺さん、あっちぢゃな、食ふ物は白麺パイメエンの餃子か大米の上等ばかりだよ」
 李萬福は生唾を歓み込んで前に乗り出した。痩土に萌生えた僅かな農作物が、昨年は最後の土壇場で旱魃にやられた。高粱も大豆も糜子ミイズも無収穫だった。僅かに大麥が早期に手に入った。この春耕期にはさしせまって種子の苦面から始めなければならなかったのだ。
「おら行くべぇ」――即座に李萬福は決心した。生活の苦しさに足掻のとれない彼の氣持が、反射的に風船玉のやうに膨らむだ。
大人だんな!」
と、人を振き分けて李萬福は前に飛び出した。
「おらを傭ってくれはしねえだか」
 ゲートルの若者はぢろっと横柄に一瞥し、(※衣偏に夾)襖チャアアウの男は値踏みみするやうに李の體を眺め下ろした。
「前金が要るのか?」
「へい――嬶と餓鬼が四人、空腹すきばらを抱えてゐますだで」
 憐みを乞ふやうに李萬福は言った。不圖微かな不安に襲はれた。出稼ぎした後の女房子供の事だった………。

 苦力達はむんむんする客車の中で煙草を吹ひ鍋餅ケオピンを噛り、持参した錻力ブリキ藥罐の茶を飲んだ。
 麻繩でからげた綿布の寝具包みが、棚の上から坐席まで積み上げられて、身動きも出來ない混雜であったが、或る窓邊には百靈パイレン子を入れた鳥籠が呑氣さうに揺れてゐたりした。
 のろい退屈な汽車がまる一日走ったり停車したりして軈て國境の町に到着した。そこで一同は一人一人寫眞を撮られたが、取調べの時、手の甲を見られて矢庭にぶん撲られた男があった。
(※イ尓)ニイ不是莊稼人(※口巴)?」
と居丈高に檢査員は怒鳴ったが、男は情無さゝうに頬を抑へて默ってゐた。巡警が小突き乍ら連れて行った。
 その街で一泊して、再び乗せられた汽車の中で、李萬福は顏色の惡い趙と名乗る男から話しかけられた。
「己ァ來るんぢゃなかったよ」
とその男は述懐した。
「三十元前借したァいゝが、汽車賃や宿賃や飯代や、おまけに招工ツァオクン(募集員)の日當まで稼ぎ高から引去られたんぢゃ、あんまりいゝ割にもならないからな」
「そんでも,日に五角も貰やァ百姓するより割の惡い事はありゃすんめえ」
「己ァ百姓ぢゃねえよ、天津で脚行チャオハンをしてゐた事もあるし、紗廠サアチャンで働いてゐた事もあるんだ」
とちょっと得意振って、
「五角ぐれえ何處へ轉げ込んでも手に入るさ、己達は賣工人だもの」
と林檎を齧り乍ら呟いた。

 線路敷設工事の現場はなだらかな山のうねりの中腹にあった。樹木もない赭土の山肌にアンペラ造りの屋根だけの小屋が立ち並んでゐた。それでも小屋の内部は三四尺も掘り下げられてゐて枯草が厚く振り敷かれ暖い褥が作られてあった。
 それぞれの飯場は小工頭によって差配され、更に全部が一人の大工頭に統率されてゐた。
 最初は約束通りの白麺と包米が李萬福に頬鼓を打たせた。大きな鍋にはぐらぐらと白菜汁が煮られて、その匂ひが腹の虫をキュウキュウ苛立たせた。
 苦力の總ては金錢を持たなかった。貧乏な彼等は先借は家に置いて來てゐたし、多少の小遣錢は旅の途中で使ひ果たしてゐた。
 然し誰も不自由をする者はゐなかった。タオルを買ふにも安莨を買ふにも、飯場の賣店で傳票賣りしてくれた。
 李萬福は金錢を持たず紙切れ一枚で高粱酒と小魚の油揚げを買ひ、悠々と疲れを休み得る境遇を有難いものにも不思議なものにも考へた。
 勞働は然し激しいものであった。朝は夜が白むと同時に起されて作業場に追ひ立てられた。李萬福等は十名で一班と稱せられ、班長格の三頭サントウが指揮してゐた。そして數班をまとめて二頭アルトウが棍棒を持って現場を見張り、矢鱈に大聲をあげて叱咤してゐた。
 作業は晝食時を除いて間斷なく續けられた。鍬を打ち込む者、ショベルを揮ふ者、トロッコを押す者――山を崩し谷間を埋め、後方から迫って來る敷設列車に追ひ立てられるかのやうに、先へ先へと路盤を築いて行った。
 夕方、陽が落ちる頃になると、苦力群ほ青黒い疲れ切った一團となって塒に歸った。そしてポンプを押して洗面器に冷水を取ると、頭の先から臍のあたりまで汗と泥を洗ひ落し、大師夫タアスフ(炊事夫)の用意してくれた湯麺タンミエンを畷るのだった。
 五月の夜空に月が懸ると、器用な男が癇高い胡弓を膝の上で鳴らし、鄙びた感傷詩を唱ったりした。
 李萬福は郷里へ殘して來た家族を遠く偲んだ。荒れ果てた畑は幼い子供等の細腕で既に播種も了へたであらう。穀雨も降った事であらう。霜柱の立つ頃になったら歸れるかも知れないが、それ迄には纏った小金でも懐にしたいものだ。――彼は輕い溜息をつき乍ら、垢じみた古蒲團にくるまって眼を閉じるのだった。

 一ヶ月に一度の賃銀支拂日は出稼苦力の最も樂しみの日である筈だった。然し事賞は大抵それに反してゐた。
 會社より支拂はれる金は講負人の手を經る時に一割五分は刎ねられ、大工頭で六分、二頭で二分と漸減し、その殘額から食費を含む日常諸費用の一切が差引かれた。そして又、共同生活上の使用人、例へば先生シェンサン(書記)、大師夫、小打ショウタ(小使)等な賃銀までが一同の負擔になってゐた。
 ちゃりんちゃりんと掌の上に殘った數枚の銀貨を地面に打ちつけ乍ら、李萬福は日頃有難がってゐた生活の謎が理解出來たやうに考へた。彼は茫乎といつか趙の言った賣工人と言ふ言葉の意味を考へてみた。
 アンペラ小屋のあき地では牌九パイキュウと呼ぶ賭博が行はれてゐた。錢を手にした苦力達は、金が仇ででもあるかのやうに錢をバラ撒いた。そして一ヶ月の營々たる勞働の結晶は雲散霧消して跡を殘さなかった。
 夏に近い或朝のこと、露の繁い叢で野糞を垂れ乍ら李萬福は肝を縮める光景を見た。
 丘の下を走って行く唯事でない人々の氣配と間もなく彼等に引立てられ乍ら現れた血塗れの苦力の姿であった。
 二頭、三頭の一群は手に手に棍棒を持って息をはずませてゐるのだが、脱走者の氣力の失せた顏は彼にも心覺えの趙に違ひなかった。
「どうしたらよかんべえ」
 李萬福は我事のやうに慌てたが、彼に出來る手段のあらう筈はなかった。
 その日李萬福は憂欝だった。ショベルを機械的に動かし乍らも頭の中には趙の顏ばかりが泛んでゐた。己は何でこんな仕事に傭はれて來たのか情なく考へた。故郷の荒野が樂圏のやうに思はれた。
 ――丁度その日はダイナマイト作業があった。赤旗がひらひら翻ってゐる危險地帶に、李萬福は氣がつかず働いてゐた。そして轟然たる爆破の瞬間に彼は片腕を宙に吹き飛ばしてゐた。彼はその儘、まる三日間も気を失ってゐたのだった。

 附記――締切日の都合で中途半端で筆を擱く事をお詫びする、他日中篇に纏める心算である。

注)明かな誤字誤植は訂正しています。句読点は補ったところがあります。



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夢現半球