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妹尾アキ夫 作品小集3

Since: 2025.06.22
Last Update: 2025.06.22
略年譜・作品・著書など(別ページ)
作品小集1 - - (別ページ)

      目次

      【戦後少年向け探偵冒険小説など】

  1. 「大東京の悪魔」 (探偵冒険小説) 新かな新漢字 2025.06.22
     
  2. 「海の狼」 (翻訳?海洋冒険小説※冒頭部のみ) 新かな旧漢字 2025.06.22
     
      【戦後翻案探偵小説(原作者記載なし)】
     
  3. 「黒苺」 (翻案探偵小説※冒頭部のみ) 旧かな旧漢字 2025.06.22
     
  4. 「蛇皮バッグ」 (翻案探偵小説※冒頭部のみ) 旧かな旧漢字 2025.06.22
     
  5. 「雨はヨットに」 (翻案探偵小説※冒頭部のみ) 新かな新旧漢字混在 2025.06.22
     
      【戦後(推定)翻訳探偵小説・コント(作者名単独記載、原作者不明)】
     
  6. 「壁を叩く音」 (翻訳?怪奇小説※冒頭部のみ) 新かな新漢字 2025.06.22
     
  7. 「石鹸は知っていた」 (翻訳?ユーモア小説※冒頭部のみ) 新かな新漢字 2025.06.22
     
  8. 「パリからの手紙」 (翻訳?探偵小説※冒頭部のみ) 新かな新漢字 2025.06.22
     
  9. 「生者の墓標」 (翻訳?怪奇小説※冒頭部のみ) 新かな新漢字 2025.06.22
     



探てい小説「大東京の悪魔」妹尾アキ夫(妹尾あき夫)
「小学五年生」 1953.04.〜1954.03. (昭和28年4月〜29年3月) より

孤児ふたり
「しっ! おとうさんだよ!」
 きたない下着のつくろいをしていた母が、そう注意すると、兄の洋一はあわててバイオリンをひくのをやめ、それに耳をすましていた妹の露子と、渋紙色にすすけた破れ障子のほうへ顔をむけて、息をころすのでした。
 階段をのぼる、あぶなっかしいくつ音が、障子の外でとまったと思うと、さらりと障子があいて、
「ま、ま、また、バイオリンをひいていたな。」
 まっかな顔をした、父の下条金助は、ふうふう息をしながら、くつをぬいでへやにはいり、荒々しく障子をしめました。
 母はなだめるように、
「おこらないでよ、おとうさん。きょうは月末だから洋一が新聞配達の金、こんなにたくさん持ってかえったのよ。ほら、こんなに――」
 そういって、すりきれたたたみの上に、金をならべて見せたのですが、おこっている父に、金をみせるのは、火に油をそそぐようなものだったのです。
「た、た、たったそれっぽっち――どうして、もっと大金を盗んでこんか? こ、こ、この恩知らず!」
「ぼく、働くのはいくらでも働きますが、人の物を盗むのは、死んでもいやなんです。」
「な、なんだと?」
 正面から反対された金助は、いきなり露子の机をつかんで、振りあげました。
「あぶない!」
 母がつめよると、机がその上に落ちて、頭を打たれた母は、うつぶせに倒れてしまいました。
 机をほうりすてた金助は、押入れからふとんをだし、そのなかにもぐりこみましたが、まもなく、ぐうぐういびきをかきはじめます。
「おかあさん、だいじょうぶ? けがはしなかった?」
 しんぱいそうに露子がたすねると、母はうつぶせたしせいのまま、目をあけるのでした。
「おかあさん」と、こんどは洋一がいいました。「このごろ、おとうさんは毎日のように、ぼくにどろぼうになれすりになれ、それがいやなら、家から出ていけって言うんだけれど、ぼく悪いことをするのはいやだから、今夜かぎり、露子をつれて出ていきます。おかあさんもいっしょに出ましょう。」
「おまえ、ほんきでそんなこと、言うのかえ?」
 母は顔をあげて坐りなおしました。
「ほんきですとも。こんなどろぼうの家にいるのはいやなんです。おかあさんだって、毎日ひどい目にあっているんだから、出たほうがましでしょう。」
「どうして暮すつもり?」
「こじきをしたって、どろぼうよりいいでしょう。」
「まさか――」
「ぼく、町でバイオソンをひきます。」
「わたしは、そんなら歌をうたうわ。」
 露子がいいました。
「ほんとに今夜出るっていうの?」
「出ます。」
「そんなら、その前に話しとかなくちゃならん大事ななことがあるの。おまえたちは、ほんとは、私の子でもなければ、おとうさんの子でもないんだよ。」
「なんです?」びっくりして、洋一と露子は、母の顔をみるのでした。
「おまえたちが私の子ならどんなにうれしいかしれないのだけれど、ほんとはこの家の子じゃないの。もうなん年も昔の話だけれど、ある晩おとうさんがふたりの赤んぼをつれて帰って、ほら、これを育てろといったきり、なにをきいても、話してくれないのだし、それに、もうそのころは、私、あの人がこわくなっていたので、しいてたずねもしなかったの。でも、おとうさんは、今でも、おまえたちのほんとのおとうさんおかあさんの名を知っているのかもしれないよ。」
 あたり,がしんとなって、聞えるのは、金助のいびきばかり。ああ、このみすぼらしいへやは、自分らの生れたへやではなかったのか。どろぼうの金助は、ほんとの父ではなかったのか。洋一も露子も、あまり突然で、まだ話がよくのみこめなかった。が、それでも、思わず大声で叫びたいほどの喜びが、胸の底からこみあげてくるのでした。
 母は両手のてのひらを顏にあて、
「洋ちゃんはことし十三、露ちゃんは十一なのね。いま別れるのはつらいけど、おまえたちは、この家を出れば、よい人にもなれるだろうし、ほんとの親にも会えるかも知れないのだから、しあわせなのね。でも、ほんとの親に会ったあとでも、長いあいだ、私が苦労して育てたことは、時々思い出しておくれかしら――」
「別れるのいや!」涙ぐんで露子は、母のひざにすがりつきます。
「いっしょに行きましょう、おかあさん。」
 立って洋一は母の手をひっぱりました。
 母のふさ代にしたところが、ほんとはこの家を出たいのでした。けだものどうようにあつかわれながら、今までけがらわしいどろぼうの家にいたのは、ただふたりの子供と別れたくないからなのでした。そのふたりの子供の出ていったあとの味けない生活は、考えてみるだけでも、たまらないことでした。
「私も出ましょう。」ふさ代はいいました。
「おかあさん!」
「もうおかあさんと言わないで。おばさんと言っておくれ。」
 洋一がバイオリンを紙で包むと、ふさ代も三人の着がえや、二三の日用品をいれたふろしき包みを、こわきにかかえて、立ちあがるのでした。
 金助はいびきを立てています。三人は階段をおりました。
 外は、はやたそがれて、ひっそりとした小路には、行ききの人の姿もみえません。
「どっち?」
「東。」
 どろぼうの巣から抜けだした三人は不安ではあっても前途に光のみえる新生活の、第一歩を踏みだしたのです。

怪紳士
「ぼくらがつれてこられた時、服に名まえのようなものは、書いてなかったのですか?」
 電車のなかで、洋一はききました。
「それがなにも書いてなかったの。ただ私たちがいなかに住んでいる時、おとうさんがおまえたちをつれてかえって、このことはなにもきいてくれるなと言ったきり、そして、そのあくる日、私たちはおまえたちをつれて、この東京へ来たのだよ。」
 電車をおりると、人にたずねて、安宿を探しあて、そこで夕食をすますと、さっそくふたりはバイオリンを持って、夕風のふく町へ出たのでした。
そして、映画館が二つ三つ軒をならべた前にそって、兄はバイオリンをひき、妹は歌をうたったのです。
 たちまち、そのまわりに、黒山のような人だかりができて、みんな珍しげに、後から後からと、肩ごしにのぞきこんで耳をすましました。それは、町のバイオリンひきというものが、もともと、このあたりで珍らしかったせいもありましょうが、それよりも、その歌というのが、こんな騒しい盛りばとは、ひどくかけはなれた、ごく静かなシューベルトの、アヴェマリアだったからなのでした。 しかも、露子の歌のほうは、ただかわいらしいというだけでしたが、洋一のバイオリンは、だれがきいても、おとなもおよばぬすばらしさで、もし専門家が耳をすましたらびっくりするほどの技術だったのです。
 歌い終って、人々が散らかると、露子は町のあかりで金をかんじょうして、
「にいさん、百三十五円もあるわ。」
 と、うれしげに言いましたが、このとき、りっばな紳士が、つかつか洋一のそばに近づいて、
「じょうずだね。すいぶんけい古したんだろう。おとうさんはなにしてるの?」
「おとうさんもおかあさんもないのです。」
「そりゃお氣の毒だ。じつは、戦災孤児を助ける資金を集めるため、演奏会を開こうという計画があってね、その下相談の会が、今夜これから大須賀さんの家でひらかれるのだ。ひとつそこで、いまのアヴェ・マリアをひいてみてくれんか。みんなを驚かせてやりたいのだ。」
 あまり意外な話なので、洋一と露子は、ぽかんと紳士の顔を見つめていましたが、その紳士は、おりから通りかかったから車を呼びとめると、
「これにのれ!」と、うむをいわさず、ふたりの腕をひっばるのでした。
 一分間ののち、ふたりは見知らぬ紳士と肩をならべ、明るいともしびが、星のように流れる町を、自動車で走っていました。大須賀というのが、音楽の社会で有名な人であることは、かねてから洋一も知っていたのでした。窓に流れるともしびを見ながら、自分は夢でも見ているのではあるまいかと、ふと洋一はそんなことを考えましたが、やはり夢ではないのでした。

真珠の盗難
 三十分ほどたつと、自動車は、とある大きな門をはいって、玄関先にとまりました。
「おりよう。」
 紳士のあとについて、廊下にはいり、一つのへやのドアをあけると、紳士や婦人が、あちらに一かたまりこちらに一かたまり、長いすや安楽いすに腰かけて、たばこをふかしているのもあれば、立って笑っているのもあります。
 白がまじりの、すらりとした紳士が、
「やあ、古川さん。」と、三人のほうへ歩いてきました。洋一と露子は、自分らを連れてきた紳士は、古川という名まえだなと思いました。
「大須賀さん、今夜は珍しい天才児をみつけてきましたよ。」
 と、古川は前おきしたあと、洋一と露子のことを手短かに話し、それからふたりを大須賀氏に紹介するのでした。
 ふたりが固くなってあいさつすつと、大須賀は優しく見おろして「そうか、それじゃ、バイオリンを聞かしてもらいましょうか。それまで二階で、お茶でものんでいてください。」
 ふたりは、古川について、赤い敷物のある大きな階段をのぼりました。古川は、明るいあかりのついた、静かなへやのドアをあけると、「ここで休んでいてくれ。バイオリンをひく時がきたら、ぼくが迎えにくるから。」
 と言いすてて、どこかへ行ってしまいました。
 ソファに腰かけていると、まもなく女中がサンドウィッチとコーヒーを盆にのせて持ってきてくれましたので、ふたりはりっぱな家具や、重々しいカーテンを珍しげに見ながら、それを食べるのでした。
 でも、そのサンドウィッチを食べ終ってもまだ古川は帰ってきません。あまり待たされるので、しんぱいになってきました。
 そのへやには、庭を見おろす露台バルコニーがついていました。洋一はその露台バルコニーへ出て、
「露ちゃん、きでごらん。」と、呼びました。
 下には、黒々とした立木があるだけで、なにも見えませんが、木立のむこうには、海のようにあかりがつらなってみえます。
 露台バルコニーの手すりによりかかったふたりが、ふと横に目をむけると、二階の各へやに続くその露台バルコニーの向こうに、ひとり黒い影が現れました。よくみると、それは古川なのです。うしろから窓明りをあびた古川は、手すりによりかかりました。と思うと、何か白いものが、彼の手からすべって、庭に落ちるのがみえました。 「ハンケチが落ちましたよ。ぼく、庭へおりて、拾ってあげましょうか?」
 そういって、洋一は古川のほうへ走りよりました。
 古川は驚いてふりむき、
「いいんだよ。かわりのハンケチがあるからもう下へおりよう。」
 三人が階段をおりて、また玄関わきの広間にはいると、美しい夫人といっしょに立っていた大須賀氏は、その夫人をかえりみて、
「あれが古川さんのつれてこられた、少年の天才バイオリニストだよ。じゃ、すぐはじめてください。」
 洋一は古川に連れられて、へやのすみの、ピアノのそばに、バイオリンを持って立ちました。露子はソファに腰かけてみていました。紳士や婦人たちは、好奇心に目を輝かし、ぼろ服の少年を見つめながら、慎みぶかく、ひそひそささやきあいます。
 このとき、だしぬけにドアがあいたのです。そしてあわてた女中が姿を現しました。
 主人の大須賀氏は、いぶかしげな顔で、いすから立ちあがりました。
 女中は息をはずませ、小さい声で、
「旦那さま、たいへんでございます! いまどろぼうがはいって、奥さまの真珠の首飾りを盗みました!」
「え、どろぼう!」
 たちまち、大須賀氏の顏は、紙のように白くなりました。
 へやが水を打ったようにしんとなって、一同がかたずをのみました。
 演奏をはじめていいかどうかわからないので、洋一は、あごの下にあてていた、バイオリンをおろしました。

とんまな探偵
 真珠の首飾りが盗まれたという知らせがあると、主人の大須賀はひとりの背の高い探ていらしい男のそばへいって、
「こんなことがなければいいがと、心配していたのですよ。女中といっしょに、二階へいって、調べてみてくれませんか。」
「なに、心配ないです。ほんの十分間ぐらいのあいだにおこったでき事ですから、調べればすぐわかりますよ。」
 探ていは女中のあとについて、へやを出ていきました。
「では、洋一さん、演奏をはじめてください。」
 そう、大須賀がうながすと、洋一はバイオリンをあごの下にあて、目をなかばとじて、劇場のまえでひいたとおなじ、ジューベルトのアヴェ・マリアをひきはじめました。
 みんなが、ぼろを着た少年のバイオリンのいとから流れでる美しい音色に、ひとときわれを忘れて聞きほれていましたが、やがで消えいるようにその演奏がおわると少年のじょうずさをほめるささやきが、あちこちにきこえるのでした。
 だが、このとき探ていが帰ってきて、
「大須賀さん、犯人はこのこじきのバイオリンひきらしいですぞ。そのふたりは、いま二階で休んでいたのですが、そのへやと奥さんのへやとは、露台バルコニーつづきで、行ききできるようになっているじゃありませんか。ほかには二階へ行った者はないようです。」
 探ていは洋一のそばにより、
「ごくろうだが、私といっしょに、警察までいってもらおうか。」
 そういって、腕をつかみます。
 洋一はもがきながら、
「ちがいます。ぼくじゃない。」
 露子もそばから、
「にいさんは盗むような人じゃありませんわ。二階ではコーヒーとサンドウィッチをいただいただけなんでず。」
「いや、そのあいだに露台バルコニーをとおって、奥さんのへやへ行こうと思えば行ける。」
 いじわるげに、探ていは洋一と露子のふたりをにらむのでした。
 洋一は困ってしまいました。自分はサンドウィッチを食べたあと、ちょっと露台へ出てはみたが、奥さんのへやへははいらなかったといいたかったのですが……。
 ふいに古川が顔をだして、
「これは悪い子じゃないのです。」
 と、いってくれたので、ふたりはほっとしました。
「ふたりを二階へつれていったのは私なんです。女中がサンドウィッチを持って来た時には、私はこの子のそばにいませんでしたが、大部分の時間は私といっしょだったのですから、奥さんのへやへはいるすきはなかったはずだ。」
 古川がそういうと、大須賀氏のむすこの精一という青年も、
「そうですとも。こんな子供がなんで首飾りを盗むものですか。だいいち、初めてこの家へ来たんだから、どこが母のへやか知りもしないでしょう。」
 なるほど、そういわれてみれば、そうにちがいはないのです。
 古川と精一に反対されたとんまな探ていは、
「そうでしょうか。じゃ、もういちど二階へ行って調べてみましょうか。」
 きまり悪げに、また女中をつれてへやを出て行くのでした。
 大須賀精一は、ふたりを玄関まで見送ってくると、
「君のバイオリンはまったくすばらしかったよ。君は天才だ。勉強さえすれば、メヌーインやハイフェッツぐらいのところまで、いけるかも知れないよ。ありがとう。これからも時々遊びにきたまえ。」
「さようなら!」
 ふたりは玄関の石段をおりました。
 石段をおりて、洋一は廊下で青年がボケットに手を入れたことを思いだし、そのポケットをさぐってみると、演奏のお礼の金が、びっくりするほどたくさん、はいっているのでした。

五つのダイヤ
「おじょうず、おじょうず! ふたりともよくできました。」
 先生が満足げにほめると、露子はバイオリンを、ケイスに入れました。
「今夜はこれだけにしときましょう。洋一さんのほうはいいが、どうも露子さんは、指に力をいれすぎるようだ。もっと力をぬいて、きらくにひくようにしなさい。いま電話がありましたから、もう古川さんがこられるでしょう。」
 洋一と露子は、バイオリンのけいこがすむと、長いすに腰かけて、古川がくるのを待つのでした。
 いま、親子三人は――親子といっても、ふさ代はほんとの親ではないのですけれど――この三人は渋谷駅ちかくのアパートに住んで、ふたりは一週間に二度ずつ、バイオリンのおけいこに通っているのです。
「今夜、古川さんといっしょに、どこへ行くの?」妹の露子はききました。
「知らないよ。」
「大須賀さんの家じゃない?」
 洋一は急に思いだしたように、
「ああ、そうそう、なんだか古川さんが、そんなこといっていたっけ。」
「来ましたよ。」
 と、窓から外をみていた先生がいいました。
 自動車の止まる音がしました。
「先生、さようなら!」
 それから五分後には、ふたりは古川とならんで、くれかかった東京の町を自動車で走っていました。
 露子がいったとおり、自動車が止まったのは、南部坂をのぼりきったところにある大須賀氏の家だったのです。
 広間にあつまっていたのは、一月ほど前に来た時と同じ人たちで洋一は曲目はかえましたが、同じようにじょうずにバイオリンをひき、同じようにみんなからほめられました。
 ただ、あの時とちがうのは、女中があわててへやにかけこまなかったことでした。でも途中から大須賀氏夫妻が落着きなくへやを出たりはいったりしだしたので、みんなが不安げに、そのほうへ顔をむけるのでした。
 古川はろくに一同にあいさつもせず、廊下から洋一と露子を手まねくと、いそいで玄関から出て、通りすがりのタクシーを呼びとめました。
「おじさん、渋谷のぼくんちまで送ってくださるの。」
「うん、ちょっとよるところがあるんだよ。それがすんでから送ってやる。」
 その自動車が止まったのは三本木ふきんの丸い緑色の電燈のついた建物のそばでした。緑色の光線をあびた、看板には、緑川渉外事務所と大きくかき、そのしたに小さい字で、特需関係の入札案内、ほん訳、通訳、タイプとかいてあるのですが、むろん、洋一や露子には、そんなむずかしい看板の意味のわかろうはずはありません。
 自動車をおりてから、その事務所にはいるまでの間に、洋一は近くの店からもれる、妙なラジオ報道を聞くともなしに耳にしてびっくりしたのです。
「……今夜七時ごろ、麻布本村町四十番地、もと外務大臣大須賀氏邸で時価数千万円のダイヤを、何者かに盗まれましたが、まだ犯人は……」
 事務所のなかにはあかりがついていませんが、ガラスごしの外からのあかりで、五つ六つのデスクがむかいあって並んでいるのが、ほのぐろくみえます。
「こっちへこい。」
 ふたりは古川のあとについて、くつのまま、せまい急な階段をのぼりました。
 二階のドアをあけると、天井からぶらさがった電燈が、へやのまんなかの丸い大きなテーブルを照しています。そのテーブルをかこんで、たくましげな若い三人の男が立ったり坐ったりしていますが、これから旅にでも出かけるのか、みんな雨外とうを着て、大きなかばんをテーブルの上においています。
 ラジオをきいてから、なぜともないおぼろな恐怖をいだきはじめていた洋一は、正面から三人の男に顔を見られると、もう逃げだしたいほど、その人たちがこわかったのですけれど、今さら逃げだすことはできません。
「どうだ? いま、ラジオをきいて安心したんだが、うまくいったかい?」
 古川はにやにや笑って、
「うん。」といいました。
「向こうも早いね。探ていがいるというじゃないか。電光石火だ。こっちもぐずぐずしちゃいられない。早くダイヤをおがませてくれ。」
「この子が持っている。」
 あごで洋一をさしました。
 そして古川はいきなり洋一の手からバイオリンをもぎとって、テーブルのまんなかにおいて、ふだをあけるのでした。
 古川がケイスからバイオリンを取りのけると、ケイスの壁に、絃や松やにをいれる小さいポケットが見えます。
 なにをするのかと思って、洋一と露子がふしぎそうにみていると、古川はそのポケットに指をつっこみ、首にかけるように丸くなった細いプラチナの鎖を、そのなかからつまみだすのでした。
 その鎖のさきには、なんと、きらきら星のようにきらめく、五つの大きいダイヤがぶらさがっているではありませんか!
 三人の若い男は、「ほう……」と、さも感心したようにためいきをして、うっとりと、それをみつめるのでした。

月光
「あっ!」
 という低い叫び声が、ひとりでに洋一のくちびるからもれました。世の中がまっ暗になってうずをまいているようなきがしました。
 貧しいふたりを救いだしてくれた恩人の古川は、世にも怖しいどろぼうだったのか。この三人の男も東京に巣くうギャングの一味なのか。
「ペンチを持ってこい!」
「いまこれをわけてやるから、おまえたちは一刻も早く、高飛びするんだよ!」
 ひとりが針金を切るペンチを出すと、古川はそれで、五つのダイヤをばらばらにほぐし三人に一つずつくばって、残りを自分のポケットにいれます。
 それから、古川は階段をおりる三人の足音、下のドアをあける音に、だまって耳をかたむけました。
 洋一は、ひからびたくちびるを舌でうるおし、
「おじさんは、おじさんはどろぼうだったの?」
「おまえの腕まえだって、そうとうなもんだせ。ダイヤをケイスに入れて、まんまとあの家を抜けだしたんだからな。」
「あんなもの、ケイスに入れたおぼえはありません。」
「わかってる、わかってる! ケイスを持ち出したのはおまえだけれど、ケイスに入れたのはおれなんだ。」
「ダイヤはおじさんが盗んだのですか? それから、真珠の首飾り、いつやら、おじさんがハンカチに包んで、露台バルコニーから落したのは真珠の首飾りだったのですか?」
「まあ、そんなもんだ。」
「こわい!」
 ゆっくりと古川は巻たばこに火をつけ、ぷっと煙をはきだしながら、
「このおれは、今までおまえたちを助けてやった。いわば恩人みたいなものなんだ。驚くのも無理はない。しかしなにも心配するにはおよばない。おれのいうとおりにするなら、これからも助けてやる。まあ、おまえたち、そんなに壁にくっついていないで、いすに腰かけるがいい。」
 ふたりはいすに腰かけました。
「まあ、よく考えてみるがいい。このおれはこじきのようなまねをしていたおまえたちをひろいあげ、りっばな服をきせ、くつをはかせ、そのうえ家賃から月謝まで出してやったのだ。だから、そのお礼として、おれのいうことをきくのが当然じゃなかろうかね。」
 古川はたばこの煙を見ながら言葉をつづけます。
「いま三人にわけてやったダイヤはね。一つだけでも千万円もするのだ。そして、国際的に向こうの連中と連絡をとってあるので、ひとりはアメリカ、ひとりは香港、ひとりフィリッピンと今夜のうちに飛行機にのれるようになっている。心配もなければ危険もない。おなじ働くなら、こんな連中の仲間になったほうが、りこうじゃないかね。」
「いやです!」
 洋一はおこったように叫んで、いすから立ちあがり、
「そんなけがらわしいことをするより、が死したほうがましです。帰してください。」
 両手をにぎりしめたまま、壁ぎわに、あとずさりします。
「おれのいうことをきかなければ、警察に密告してやるぞ。おまえが盗んだといって。真珠の時もダイヤの時も、おまえは大須賀家にいたのだから、犯人とみられるにきまっている。」
「でも、盗みはしません。」
「そんなことをいって、信用してもらえると思っているのか? おれは警察や有名な人に知った人がたくさんあるので、だれだっておれのいうことは信用するのだ。どうだ。考えなおしていうことをきかんか?」
 洋一はまっさおになり、ぶるぶるふるえながら、
「いやだ、どんなにおどしてもこわくない。おじさんは悪魔だ! 悪魔のいうことは死んでもきいてやらない。」
「なにおっ!――ちくしょう――」
 とびかかって、古川が力まかせに、なぐりつけると洋一はどさんと床に倒れます。
 それから、洋一と露子の両手を、うしろにまわしてひもでしばり、暗い廊下をとおって、おくまった物置みたいなへやにつれこみました。そして、ふたりの両足もしばってしまったのです。
「が死するほうがましだといったね。そんならが死するがいい。」
 古川は、そういいすてて物置をでると、外からピンとかぎをかけてしまいました。
 両手両足をしばられて、床に倒れている露子はあたりが静かになると、
「にいさん、にいさん――」
「だまっておいで。」
「どうしましょう。」
 露子はしくしく泣きだしました。
 そのうち高い、小さい窓から、銀色の月の光がさしこんできました。

くらいへや
 洋一が目をさましたのは、東の空の白みかけた、夜明けがたのことで、いつもだったら、まだ暖かい寝どこのなかで、夢をみているころなのですが、手をしばられたまま、床の上に横になっていたので、からだが痛いのと、寒いのとで、いつもより早く目をさましたのでした。妹の露子は、洋一にひたいをくっつけて、えびのように丸くなって、まだ、すやすやと眠っています。
 すすけた窓ガラスごしにさしこむ、暁の光にすかしてみると、あまり大きくもないこのへやは、物置として使われているらしく、ほこりをかぶったテーブルや、空箱のようなものが、てんじょうにとどくほど、つみ重ねてあります。
 洋一は、昨夜のできごとを思いだして、ぶるっと身ぶるいしました。金助という悪人からのがれて、古川に救われ、その古川を、善人とも思い、恩人とも思っていたのに、それがまた悪人だったとは、なんというざんこくな運命でしょう。
 金助は、ふつうの悪人にすぎませんが、古川は教育もあれば金もあり、なんの不自由なく暮していながら、昼は紳士、夜はたくさんの子分を使うどろぼうと、はやがわりするのですから、金助よりもっともっと、にくむべき悪人にちがいありません。
 そう思うについても、洋一はいちじも早くここから逃げだして、古川がダイアを盗み出したことを、警察に知らせたいとあせるのですが、手足をしばられたうえ、ドアにかぎをかけられているので、どうすることもできないのです。
「露ちゃん。ここに待っておいで、ぼく窓から外をのぞいてみる。」
 露子が目をさますと、洋一はそういいました。
「何か見えるかしら?」
「もし人がいたら、助けてもらおうと思うんだ。」
 洋一はごろごろ転んで窓ぎわへ行き、そこで立ちあがって、ぴったりガラスに顔をつけて、外を見ました。
「だれかいる?」
「きてごらん。」
 露子も同じように、窓に顔を出しました。
 すぐ目の下は、木のないせまい庭で、五メートルほど向こうに、コンクリートの高いへいがあります。右のはしにはドアがあって、庭から外へ出られるようになっていますが、左は庭がまがって、建物のかげになっているので、何も見えません。
 コンクリートのへいの向こうには、緑の木々や家々の屋根がのぞいていますが、人かげは、どこにも見えません。
 洋一と露子は、がっかりして、また床の上に寝ころびました。朝になったら、古川が食べ物を持ってきてくれると思っていたのに、いつまでたっても、だれもきてくれません。
 そのうち、時間がたって、お昼になり、午後になりました。それでも建物のなかは、ひっそりとして、ろうかを通る足音さえ聞えません。ふたりはおなかがすき、のどがかわきました。
 古川のいうように、どろぼうのてつだいをするといえば、すぐにもなわもといてくれるでしょうし、食べ物もくれるでしょう。でも、ふたりは、どんなに苦しくても、悪いことはしないと、かたく決心しているのでした。
 やがで日が暮れかかって、へやのなかが暗くなり、たそがれの空をうつした窓だけが、四角に浮んで見えだしました。
 それで、建物のなかは、ひっそりとして、話声ひとつ聞こえないのです。
 ――――――――――――
       ――――――――??

一本のなわ
「露子ちゃん、ひもを切ってやるから、手をこっちへ出してごらん。」
 だしぬけに、洋一がそう言いました。
「どうして切るの?」
「かみ切るんだよ。」
 長い間かかって、洋一は妹の手をしばってあるひもを、かみ切ってやりました。
「ほら、手が自由になったら、自分で足のなわぐらいほどけるだろう?」
「うん、もうだいじょうぶだよ。」
 手と足が自由になると、露子は嬉しそうに立ちあがります。
「こんどは、ぼくのをほどいてくれ。」
 かたくむすんであったのですけれど、それでも、十分間ほどすると、洋一のひもやなわもほどけました。洋一はドアのそばへよって、
「開くかしら?」
 と、ハンドルをまわしてみましたが、やはり、かぎがかかっています。
「どうするの! にいさん?」
「窓から出よう。」
 あき箱の中に、なわくずが丸めてあるのを、洋一はちゃんと昼のうちに見ておいたのでした。そのなわをなん本もつなぎあわせて、長いなわをつくったのです。
 それから、音がしないように窓をあけ、なわを外にたらして階下までの寸法をはかりました。
「三本でだいじょうぶだが、とちゅうで切れると危ないから、四本にしとこう。」
 四本のなわのはしをテーブルのあしにしばりつけ、そのかたほうに輪をつくって、それを露子の胴の、両腕の下のところにまわしてやりました。
「ぼくが少しずつなわをのばすから、露ちゃんは、この窓から庭へおりるんだ。おりたらなわをはずすんだよ。」
「にいちゃんはおりないの?」
「あとからおりる。」
 ふたりとも、いっしょうけんめいでした。
 足が地につくと、露子はなわをはずして、二階の窓を見あげます。
 こんどは洋一のばんです。彼はたこをあげた時のけいけんで、糸やなわを、にぎったまますべらせると、てのひらに傷ができることを知っていたので、左の手と右の手を、こもごもに使い、しっかりなわをにぎって、静かに庭へおりました。
「こっちへおいで!」
 ふたりは昼のうちに見ておいた、庭のドアから、逃げだそうと思って、その方へ走っていきました。
 だが、そのドアは、かぎでもかけてあるのか、押しても引っぱっても開かないのでした。
「あっちへ行ってみよう。どっかに出口があるよ。」
 また引きかえし、なわのたれているところを通りぬけて、建物の角をまがりました。
 でも、勝手口のドアがあけはなしになっているだけで、ほかにでいり口は見つかりません。
 ふたりは勝手口に立って、しばらく息をころして、耳をすませました。遠くの電車の音はひびいてきますが、電燈のつかぬ建物のなかは、針一本おとしてもわかるほどの静けさです。
「水がある!」
 洋一がそうつぶやくと、露子は急にはげしく、のどのかわきを覚えました。今まで逃げだすことに夢中になって、忘れていましたが、朝からふたりは、飲まず食わずなのでした。水道のせんをひねって、ふたりは冷たい水をコップについで飲みました。
「さあ、行こう!」
 洋一は妹の手をひき、暗いろうかへはいっていきます。
 右手のへやのドアがあいていました。ぬき足さし足、先に立って、そのへやをのぞいた洋一は、急に妹の手を強くひっぱって、五六歩あとがえりをし、
「だれか殺されている!」
「えっ……?!」
 と、まっさおになってつぶやきます。
「だれ?」
「暗くてだれだかわからない。」
「こわい!」
「こわくたって、あすこを通らないと外へ出られない。行こう! あのへやを見ちゃいけないよ。」
 また、洋一は先にたって手をひっぱります。露子は、見るなといわれても、見ずにいられないのでした。そのへやには、電燈がついていないのですが、でも、ガラス窓からさしこむ暮れ方のうすあかりで、三つ四つのいすを並べた上に、ひとりの洋服をきた男の死体を、あおむけにおいてあるのがよくわかるのでした。
 片方の手はだらりといすからたれさがって、顔のうえに、新聞紙だかハンケチだか、白いものをのせてあります。
 いそいでそのへやの前を通りぬけると、洋一と露子は、手をつなぎ、足音をしのばせて、おくへはいりました。
 だが、そこでふたりは、また立ちどまったのです。
 それはろうかのつきあたりのドアがしまっていて、そこから、人の話声が聞えてくるからでした。

あの声
 そこは、昨夜古川につれらて通りぬけた、事務室のようなへやにちがいありません。ドアの下のすきまから、あかりがもれています。すぐそばに、二階へあがる階段がありました。
 ふたりが、胸をどきつかせながら、息をころしていると、
「――いやいや、一台でいいんだよ――」
 洋一と露子は、暗いろうかで顔を見あわせました。金助そっくりの声だったからです。
「――うん、一台、そして運転は私がするから、ただ車をここまで持ってきてくれさえすればいいんだよ――わかった?」
 電話なのです。電話がやむと、ひっそりとなって、せきばらいひとつ聞えません。
 それにしても、なんというふしぎなことでしょう。世の中に、同じ声の人がふたりとあるでしょうか。金助そっくりに聞えたのは、ドアをへだてているせいだったのでしょうか?
 洋一は妹の耳に口をよせ、
「二階へいこう。バイオリンを取ってこなくちゃ――」
 階段をあがって、昨夜、古川が三人の男にダイアを分けてやったへやにはいっててみると、ほの暗いテーブルの、昨夜と同じ位置に、しょんぼり、バイオリンのケイスが見えます。
 さもたいせつそうに、そのケイスをこわきにかかえると、洋一はらくたんしたように、力なくいすにこしかけて、
「これからどうしよう?」
「どうしようたって、早く逃げるよりほかに、しようがないじゃないの。」
「あのへやに人ががんばってるんだもの、逃げられやしないよ。」
「あれ、おとうさんよ。」
「ちがう! おまえまだあの人を、おとうさんというのか? おとうさんはよしてくれ。ほんとのおとうさんじゃないんだもの。これからは、金助さんというもんだよ。」
「いまの声、金助さんよ。」
「ちがう――金助さんが、こんなところへ来るはずはないよ。」
「だって、自分で自動車の運転をするといっていたじゃないの? 金助さんは、昔、運転手をしていたのでしょう?」
 洋一はだまって考えていましたが、
「ああ、いいことがある!」
「なに?」
「家の中には、いま電話をかけた男が、ひとりいるきりなんだよ。もしほかにだれかいるんだったら、電話のあとで、話声がするはずだからね! そして、自分で運転するといったのは、さっき見た惨殺死体を、その自動車にのっけて、山か海か、どこか遠方へすてに行くためなんだ。」
「そうかしら。」
「だからね、自動車がこの前へとまる音がするまで、ぼくらは階段のうしろにかくれて、待っているんだ。自動車が来て、運転手をかえしたら、あの男は死体を運びだすため、裏のへやへ行く。そのすきに、ぼくらはだれもいない事務室を通りぬけ、そこから自動車のとまっている表へ飛びだして逃げるんだ――」
 だしぬけに、スイィチの音、へやがまぶしいほど明かるくなりました。
 いり口をみると、なんと、こわい顔をして、金助が立っているのです。
「いつのまに、物置から逃げだした?」
 やっぱり金助でした。それにしても、古川と金助は、どんな関係なのでしょう!?
「さあ、おりろ!」
 ふたりが金助のあとについて、階段をおりかけると、その時、外に自動車のとまる音がするのでした。階段をおりた金助は、おくのほうへむいて、
「古川さん! 古川さん! 自動車がきましたよ!」
 と大声でどなります。まもなく、あくびをしながら出て来た男の顔をみると、古川なのです。死体とみえたのは、よってひるねしている古川の姿なのでした。
 しかたなしに、洋一と露子が、古川のあとについて自動車にのると、どっかと金助が、運転手の座席にすわってドアをしめました。

あきや!!
 三本木の事務所で、一夜をあかした洋一と露子は、あくる日の夕方、むりやりに金助の運転する自動車に乗せられ、古川といっしょに、どこかにさらわれたのですが、アパートに待つふさ代は、いつまでたっても、ふたりが、帰ってこないので、じっとしていられないほど心配でした。
 こつこつ階段に足音がするごとに、ドアをあけてみたのですが、いつもそれがよそのへやの人なのです。夜なかまで起きて待ちましたが、とうとう、その夜は帰りませんでした。
 あくる日もふさ代は、一日足音を聞いていました。心配でごはんものどを通りません。金助にさらわれたのではないかしら、そう思うと、不安で胸がどきどきしだしました。
 ふたりは、昨夜、バイオリンのおけいこに行ったまま、帰らなくなったのですが、ふさ代は、そのバイオリンの先生が渋谷駅の近くに住んでいるということを知っているだけで、その家がどこにあるか、はっきりとは知らないのでした。
「そうだ、これから、大須賀さんのおうちへ行ってみよう。あの人にたずねれば、古川さんのいどころや、バイオリンの先生のところがわかるかもしれない。」
 大須賀氏の家が、南部坂の上にあるということだけは知っていたのです。
 ふさ代は電車をおりると、二三の人にたずね、大須賀氏の家をさぐりあてて、広々とした門をはいりました。玄関のベルをおすと、ちょうど、あとから、ま新しい服をきたせの高い青年が門をはいってきました。
「しつれいですが、あなたは、古川さんとおっしゃるかたじゃないでしょうか?」
「ちがいます。この家の者です。大須賀精一です。」
「子供がいろいろおせわになりまして――」
「子供?」
「洋一と露子なんでございますよ。」
「ああ、あのバイオリンのじょうずな――とにかくおはいりください。いろいろ話があるのです。」
 精一は、ふさ代を客間にあんないし、いすにすわらせると、
「困ったことになりましたよ。ばくの家で、一度は首飾り、一度はダイアと、二度もだいじなものを盗まれたんですが、盗まれた時、二度とも洋一君がバイオリンをひきに来ていたのです。それで、ぼくの一家の探ていが、犯人を洋一君とにらんで、いま、ゆくえをさがしているところなんです。」
 ふさ代はハンケチで涙をふきながら、
「なにかのまちがいでございますわ。うちの子は、そんな悪い子じゃないのです。」
「ぼくもそう思うのですが――!」
 ふさ代は、ふたりが自分の子でないということや金助のことを話したあとで、
「全助がほねをおって、あの子をどろぼうにしようとしても、あの子は悪いことをするよりも、町でが死した方がよいといって、わたしといっしょに家を出たくらいなんです。それがなんで、おたくのものなぞ盗みましょう。」
「………………」
「しかし、いまのお話、ふしぎですね。金助はふたりの子をどこからつれて来たのでしょう? ふたりの子のはんとの親はだれなんでしょう? その規は、どこにいるんでしょう? また、金助はごくろうにも、あんな子を育てて、悪いことを教えこもうとするには、なにかわけがあるのでしょうが、それはどんなことでしょうか? なにが目的なのでしょう?」
 それは、ふさ代にもわからない昔からのなぞなのでした。
「ぼく古川さんの事務所なら、知っているのです。あの人に聞けば、子供のいどころがわかるかもしれない。ふたりで行ってみましょう。」
 精一といっしょに、へやを出かけたふさ代は、かベにかけてある油絵をみて、
「これ、諏訪湖のけしきでございますね?」
「おじが諏訪に住んでいますので、ぼくはよくあすこへ行くんです。おじは此小木というんです。」
「ああ、此小木さん! お名まえだけは、聞いたことがございます。わたし子供のころあの町にいたもんですから――」
 そとは日がくれて、暗くなっていました。
 三本木の事務所へ行ってみると、いつもの電燈もついておらず、ドアをたたいても返事がありません。精一はがっかりして、
「ひっこしたんですよ。かんばんがなくなっている。これはやっかいなことになった!」

逃げろ!!
 洋一と露子は、自動車がむきをかえるごとに、右に左に、からだをゆるがせました。東へ行っているのか、西へ行っているのか、けんとうがつきませんでした。
 もし、自動車が速力をゆるめたとき、人がそばを通ったら、「助けてください!」と、大声をだそうと思ったのですが、人通りの少ない夜の町を走る自動車は、めったに速力をゆるめませんでした。たまにゆるめても、そんな時は、そばを通る人はみつからないのでした。そのうち、前よりもっと人通りの少ない、ひろびろとした道を走りだしたので、助けをもとめることは、あきらめなければなりませんでした。
 いつのまにか、露子はこくりこくりと、いねむりをはじめ、洋一もおなかがすいたのと、つかれたのとで、ねむくてたまらなくなりました。
 どのくらいの時間、走ったでしょう。それはふたりにはわかりません。とにかく、だしぬけに自動車がとまったので、目をあけてみたら、
「おりるのだよ。」と、古川がいったのでした。
「ここ、どこですか?」
「どこでもいい。」
 自動車をおりると、寒い夜風がふいて、遠くの方から、雷のような海の音が、かすかに聞えます。
 すぐそばにおばけがしゃがんでいるみたいに、大きな洋風の家が、黒々と立っていましたが、あたりにはほかの家は見えませんでした。
 古川は、なにやら小声で金助にめいれいして、玄関をはいると、洋一と露子をつれて、どさどさ、くつのまま階段をあがりました。
 そして、二階の一室にふたりをいれると、ぴんと外から、かぎをかけるのでした。
 かたすみに、テーブルといすがありました。
 ふたりはだまってそこにすわると、たえず、下からひびいてくる、廊下の足音や、あわただしげな話声を聞いていました。
 しばらくすると、自動車の動き出す音がしました。乗ってきた自動車が帰るのでしょう。その音はしだいに遠のきました。
「にいさん、ここ東京じゃないらしいのね?」
「東京じゃないよ。ずいぶん走ったもの。海の音がするじゃないか。」
「全助は古川さんの運転手なのかしら?」
「おなじ仲間なんだよ。大将が古川だ。だから、ぼくらが、町でバイオリンをひいていたとき、古川がみつけて、話しかけてきたのも、ほんとははじめて、みつけたのじゃないのかもしれないよ。ことによると、金助がぼくらを育てたのも、古川のめいれいだったのかもしれない。」
「おかしいのね。じゃ、古川さんは、どうしてそんなことをするの?」
「そりゃわからないよ。なにか、ぼくらにはわからないような、ふかいわけがあるだろう。」
 足青がちかづくので、ふたりは話をやめました。かぎをさしこむ音。ドアがあいて、片手にろうそくをもった、黄色いセーターの若い女がはいってきました。
 きちんとおぎょうぎよくいすにすわっているふたりを見ると、にっこり笑って、
「まあ、暗いでしょう。きょう、ひっこしてきたばかりなので、まだ電燈がつかないのよ。」
 ろうそくをテーブルの上におき、
「これ、バイオリン?」
「ええ。」
「あなたの?」
「そう。」
「聞かしてもらいたいわ。でも、今そんなものひいちゃいけないのね。いつか聞かしてちょうだいね。」
 女中はドアのそばへひきかえし、パンと水をのせたぼんを持ってきて、テーブルの上におきました。
「おあがんなさい。おなかがすいてるの?L
「おねえさん、ここどこなの?」
「知らないの?」
「だれも話してくれないんだもの。」
「まあ! ここ茅ヶ崎なのよ。あなたどこから来たの、東京?」
 いままでのことを、小声でかいつまんで話してきかせると、女中はびっくりした顔になり、洋一の耳に口をよせて、
「この家にはね、アメリカの軍医さんが住んでいたのよ。わたしそこにやとわれていたの。その軍医さんは、こないだ家族をつれて、横浜から帰ったのよ。古川さんというのは、その軍医さんのお友だちで、こんどこの家をかりることになったけれど、二三日いそがしいから手つだいに来てくれというので、それでわたしここへ来たの。ダイアを盗んだというのは、なんかのまちがいじゃないかと思うけれど、とにかく、古川っていう人、酒ばかりのんでいるんだから、どうせ、ろくな人間じゃないわ。早く逃げだして、警察へ知らせたらどう?」
 それだけしゃべると、黄色いセーターの女は、なにか悪いことでもしたように、ろうそくをおいたまま、あわててへやを、出て行くのでした。

屋根へ!!
 おいしそうに洋一はパンを食べてから、
「逃げろといったって、逃げられやしない。」
「なわをたらしたら?」
「そんなものはない。ドアにはかぎがかかっている。」
 と、いいながら、洋一は頭の上を見あげました。
 そのへやには、てんじょうがないので、屋根うらの支柱や横木、それから、その上の屋根いたがよく見えるのでした。
「ああ、いいことがある!」
「どうするの?」
「屋根にあなをあけて、逃げてやろう!!」
「屋根の上にあがったら、高くて下まで飛べなくはない?」
「だいじょうぶ。ぼく自動車をおりたとき、ちゃんと見ていたんだ。この家は、二階の屋根や下の屋根が、いろんな形にいりくんでいる大きな家だから、屋根から屋根をつたえば、ひくいところへ出られるよ。――このテーブルを、あすこへ持っていこう。下に聞えるから、なるべく静かに!」
 ふたりはテーブルを、へやのすみに持っていきました。
 洋一はそのテーブルの上に、いすを二つならべ、またその上に一つのせました。それから静かにその上へのぼったのです。
 立ちあがると、横木に両ひじをかけることができました。かれは両ひじをまげて横木にぶらさがり、片足を横木にかけて、その上にはいあがりました。それから、横木に腰かけ、片手で支柱をつかみ、片手ではげしく屋根いたをおしました。
 くされかけた古い屋根は、めりめりとゆるんで、かわらといっしょに動きだし、まもなく、そこに、ぽっかりあながあきました。
 そのあなに洋一は手をつっこみ、木の皮やかわらをはらいのけて、だんだん、あなを大きくしていきました。
「お星さまが、見えだしたわ!」
 と、下から露子がいいました。
「露ちゃん、バイオリンを取っておくれ。先に屋根の上にあげとくから、それから、露ちゃんもにいさんがしたようにして、いすの上におあがり。あがれる?」
「こわい!」
 こわくても、いすの上にあがるよりほかなかったのです。
 でも、それからが、たいへんなのです。いすの上に立って、両手をのばすと、やっと両手が横木にかかるにはかかりましたが、それにぶらさがって、横木に足をかけるだけの力はありません。
 洋一は横木の上にはらばいになり、両手で露子の服のせをつかんでひっぱりました。
 露子がいすをけったので、がたんと音をたてて、そのいすが床にころびました。
 ふたりとも一生けんめいでした。足場のいすがなくなったので、いまさら、下へおりることはできないのです。
 やっと露子は、にいさんとならんで、横木の上に、はいあがりました。
「いまの音、下へ聞えたかしら?」
 横本の上でおおいきをしながら、露子がそういいますと、
「なあに、酒をのんで、さわいでいるんだ。いすのたおれる音ぐらい、なんとも思いやあしないよ。」
 洋一もいきぐるしそうでした。
 でも、いつドアが開いて、古川や金助がはいってくるかもわからないので、ゆっくり休んではいられません。
「もう、ひといき!」
 屋根のあなから、外へはいだした洋一は、またはいふさって、妹の服をつかみ、力いっぱいひっぱります。
 ようやく、露子もあなから、ぬけだすことができました。

ヨット
 洋一と露子が、屋根にはい出したころから、下の方で、ガヤガヤ人のさわぐのが聞こえましたが、ふたりが屋根づたいに、しだいにひくい屋根におりて、そこでまごまごしていると、下からだれかが笑いながら、
「おい、そこから飛びおりると、足がおれるぞ。ここにはしごをかけてやるから、このはしごをつたって、おりてこい。」
 といって、はしごをかけてくれました。
 ふたりがはしごをおりると、ズックのかばんをさげて、そこに待っていた古川が、
「ちょうどよかった。ふたりとも、ぼくについておいで。」
 逃げるとつかまえられるにきまっていますので、ふたりは、古川のあとについて、暗い夜道を歩きました。
「おじさん、どこへいくの?」
「船だよ。船にのって、遠方へいくのだ。」
 松林をぬけて、海岸にでると、波うちぎわの砂の上に、小さいボートが見えます。
 古川は、かばんをボートになげこみ、両手で押してボートを海に入れて、中にすわってオールをにぎりました。
「さあ、早くのれ!」
 どっと押しよせる波のうねりに、グッグッとボートが横ざまになろうとするのを、かれは、じょうずにオールを使って、もとのとおりにしました。
 洋一と露子は、ひざから下、ずぶぬれになって、ボートにのりました。
「ふたりとも、じっとしているんだよ。動くと、ボートがひっくりかえるからね。」
 ボートが岸をはなれると、目にうつるのは、砂をまいたような、空の星ばかりです。でも、まもなく向こうに光がみえました。
 ちかよってみると、それに、長さ十メートばかりの、白いヨットで、船室の小さい丸窓から、うすぐらい石油ランプのあかりが、もれているのでした。いかりをおろしてとまっているので、二本の長いマストが、静かにゆれています。
「きたぞ! おい!」
 そうどなりながら、古川は、オールでヨットの甲板を、二つ三つたたきました。
 船室のドアがあいて、ねむげな顔で、のそのそ出てきたのは、白シャツとズボンの、三十歳ばかりのふとった男でした。
「おそかったですな。ぼくねていまいした。今夜は、もうおいでにならんのかと思って――」
「この子の手をひっばってやってくれ。」
 ふたりは、古川といっしょに、ヨットにのりうつり、ひくい天井から、石油ランプが一つぶらさがっている船室にはいりました。両がわがベンチになっています。
「この毛布をかぶって、ベンチの上でねるんだ。」
 もう、目がつぶれるほど眠たくなったし、つかれていましたので、ふたりは毛布をかぶって横になると、外の古川と白シャツの男がボートを、甲板にひき上げたり、いかりをまきあげたりする物音を聞きながら、ぐっすりねいってしまったのでした。
 あくる日、ふたりが目をさましてみると、空はどす黒くくもって、ヨットは左から吹く強い風に、波をかぶるほど、右にかたむいて、矢のようなはやさで走っています。
 船室は昨夜見た白シャツの男がひとりだけです。
 ですから、今、この船には、みんなで四人のっているわけです。
 朝食をたべながら、洋一は、右の窓ごしに、大きな島を見つけて、
「おじさん、あれなんという島なんですか?」
「大島だよ。」
「あすこへいくんですか?」
 古川はめんどくさそうに、
「八丈島のそばの、よい島につれていってやるんだ。」
 口をむしゃくしゃさせながら、ひとりラジオのダイアルをひねっていた白シャツの男は、古川のほうを向いて、
「大将、こんやはしけますよ。」と、大きな目をします。
「うんとしけてくれ。たいくつしのぎには、ちょうどいいや。」
「今、波浮の湾に船をいれると、心配ないんですが――」
「どこまでにげたって、同じことだよ。」
 ヨットにもいろいろありますが、これは、ヨールという十トンばかりのヨットで、前に長いメインマスト、かじのうしろに短かいミズンマストが立っていて、船の底には、高さ一メートル、長さ五メートルもある、重い大きい鉄の板が取りつけてあるのです。ですから、どんなに船がかたむいても、この鉄の板の重みで、ヨットはおもちゃのダルマみたいに、ピョコンと、すぐ、おきあがります。 それに、丸窓のガラスだって、厚さが二センチもありますし、船室の出入口のじょうぶなドアをしめとけば、一しずくの水もはいらないので、たとえ頭から大波をかぶっても船がひっくりかえる心配はないのです。
 日がくれて、ランプに火をいれるころになると、今まで、ひとり船尾で空もようを見ていた白シャツが、
「大将! いよいよ、やってきましたよ。」
 と、大声でどなりました。

暴風
 たちまち横なぐりに、大つぷの雨が、ヨットをたたきはじめました。遠くの黒雲が、ピカッとひかって、恐ろしい雷がとどろきました。今まではりきっていた雨にぬれた重い帆が、急に風がかわって、ハタハ夕はためきだしたと思うと、またその帆が、はげしい風をはらみ、グラッとひっくりかえるほど、船が片方にかたむきました。白シャツの男は、カッパをきて、ミズンセイルをおろし、メインセイルと、ジプだけで、ヨットを走らせました。 やがて風がとまって、死んだようにしずまると、今まで、横ざまにたたきつけていた雨が、ま上から滝のようにふりだしました。山のような大波と大波のあいだの、谷みたいなひくいところに、ヨッ卜が落ちこむと、あたりをつつむ夜やみが、いっそう、こくなったように思われました。
 しばらくすると、またヒューヒュ風がうなりだしました。天丼のランプは、今にも、消えそうにおどりまわり、毛布にくるまった洋一と露子は、なんどもベンチからころげおちました。
 雨の音、波の音、それに時々雷がなるので、耳がつんぼになったようで、話をしようにも、声がきこえないのです。
 でも、それほど船がゆれながら、洋一も露子も、船によわなかったのは、ふたりとも気をはりつめていたせいかもしれません。
 このはげしい暴風が、しずまりかけたのは、東の空が灰色に白みかけたころのことで、あたりがしずまると、ふたりははじめて毛布をかぶって、ぐっすりねむったのでした。
 何時間か眠ったあと、目をさましてみましたら、まだ風は強いようでしたが、空は、まっさおに晴れて、高いところに暑い太陽がかがやいていました。
 白シャツと古川は、船尾で羅針儀(コンパス)をのぞいたり、六分儀(セクスタント)をつついたり、鉛筆で海図にすじを引いたりして、いそがしそうです。
 古川が船室にはいると、
「おじさん、この船どこへいくの?」と、またしても、洋一はききました。
 行先をきくと、古川はいつもうるさそうな顏をするのです。
「きのういったとおりだ。八丈島のそばの無人島へいくんだ。警察がいろんなことを調べだしたから、そこの別荘へいって、とうぶん休もうと思うのだ。」
「ああ、わかった!」と、洋一は笑いました。
「海賊のキッドは、ぬすんだ宝物を、無人島にかくしたんでしょう? だから、おじさんも金や銀を、その島にかくすんだ。」
「ばかいうな!」
「ぼく、そんなところへいきたくないんだけれど――」
「どうしてさ?」
「だって、学校もあるし――」
「もう警察じゃ、おまえたちを犯人とみて、さがしているんだせ。だから、こうなったら、おれの仕事をてつだうよりほかないんだ。」
「ぼく、わるいことはできないんです。東京へ帰らせてください。でなかったら、どこでもいいから、露ちゃんとふたりで、途中の島へおろしてください。おじさん、たのむから――」
 古川は笑ってしばらく、考えていましたが、
「よし、そんなら島へおろしてやる。そのかわり、もうせわもしてやらないよ。どの島へおりるかね?」
「どこでもいいから、途中のいちばん近い島へおろしてください。」
「よし。」
 にやにや笑って、海図をのぞきこんでいた古川は、船尾へいって、白シャツとしばらく相談していましたが、左にかじをまわして、ヨットの向きをかえました。
 それから、古川はほとんど一時間も、双眼鏡をはなさず、水平線ばかり見つめていました。また、ヨットの進路を、かえました。
 すると、やがて、前の方に、砂ばかりのたいらな島がみえだしました。島というより、砂州といったほうがいいでしょう。
 その砂州から、三百メートルぐらいのところにくると、
「ストップ!」と、古川がいいました。
 白シャツが帆づなをゆるめると、今まで風を受けて、はりきっていた三つの白帆が、ゆらゆら、波のようにうごめいて、ヨットの速力がゆるみます。
 あみの先に鉛の重りをつけたもので、海の深さをはかっていた古川が、
「もっと――」
 とつぶやくと、白シャツがまたかじをにぎって帆づなを引っぱりました。砂州まで二百メートル――。
「ストップ!」

砂州
「いかりをおろしますか?」
「なに、それにはおよばん。きみはボートでこの子どもたちを上陸させてやってくれ。」
 古川と白シャツは、底を上に向けて甲板にしばってあるボートのあみをほどきはじめます。
「ぼくたちが上陸するのは、あの島なの。」
「そうさ。」
「あんなところへ上陸したら、食物がないから、二三日でおだぶつになるかもしれない。」
 古川は笑いました。
「そりゃ、食物ぐらい、おいといてやるよ。あの島でよく考えるんだね。おりがあったら、またこの島へくるから、その時おれのてつだいをするといったら、東京へつれ帰ってやる。どうだ、あの島へおりるのはいかがかね?」
「いやじゃないよ。ねえ、露ちゃん、」
 ほんとは心配だったのですが、弱みをみせたくないので、洋一はわざとうれしそうに笑いました。
 白シャツがボートにのってオールをにぎると、バイオリンをかかえた洋一と露子も、あとからそれにとびのりました。
「ほら、これだけ持っていけば、とうぶん、くうにはこまるまい。」
 古川は、ヨットの上から、かたパンの木箱二つ、水だる二つ、それから茶わんやナイフのようなものをボートにいれてくれました。
「つりざおを一本やるからね。たべるものがなくなったら、これでさかなをつるんだ。それから水がなくなったら、雨水をたるにつめるといい。」
 おにの目に涙ということがあります。悪魔のような古川も、さすがに、別れぎわには気のどくに思ったのか、いろいろ心配してくれるのでした。
「さようなら。」
「うん。ごきげんよう。」
 ボートで砂に上陸して、荷物を砂の上にはこぶと、またふたりは白シャツに、
「さようなら。」といいました。
 そして、洋一と露子は、波うちぎわの砂に両足をなげだして、ボートがヨットにかえり、そのヨットがすずしい風に帆をはって、しだいに、水平線に遠く小さくなるのを、いつまでも、いつまでも見送るのでした。
 恐ろしい人から、のがれることができたのはうれしいけれど、いつになったら助けの船がきてくれるだろうと思うとふたりとも心配でたまりません。みをかくす木かげさえない砂原に、じりじりとあつい太陽がてりつけます。ふたりはたるをあけて水をのみました。水をのんだら元気になりました。
「いちばん高いところへ行ってみよう。」
 くつをはいているからいいようなものの、はだしだったら、足のうらがあついほど、日にてらされて砂が焼けているのです。
 いちばん高いところに立って、露子はぐるりを見まわしました。
「小さい島なのね!」
「さしわたしが五百メートルかな――まてよ、砂の上に色のかわった線がみえるだろう。今は潮がひいているけれど、潮がみちたら、あの線まで波がくるのだ。だから、満潮のときの島のさしわたしは、四百メートルくらいだろう。」
「お月さまみたいな島なのね。大きくなったり、小さくなったり――」
「昨夜の暴風ぐらいは平気だが、つなみがきたら、このへんまで波がくるから、島ぜんたいが海にのまれるかもしれないよ。」
「まあ、こわい!」
「でも、心配ないよ、露ちゃん。大地震でもないかぎり、つなみはこないから――それより今のうち、この高いところに小屋を作っておこう。日かげをつくらないと、あつくてたまらん。」
 波にうちあげられた、木ぎれや、くさった板をひろいあつめて、ふたりは島のまん中の、いちばん高いところに、三方に砂をもりあげ、その上に板をのせた小屋のようなものをつくったのです。
「もういくら日がてっても平気だ。この中にはいっていればあつくない。雨がふっても平気だ。」
 バイオリンや、たるや木箱を、その小屋の中にはこびました。
 そして、何もすることがなくなると、洋一と露子は、母にかわってそだててくれた、やさしいふさ代のことなど思いだし、急に心細く、さびしくなってきました。それで、いっしょに砂の上にひざまずき、神さまをおがんだのです。神さま、どうぞ私たちをおすくいください。どうぞあのヨットでない、ほかの船が私たちを見つけて助けてくれますように――。

暴風
 かんかん頭から日は照りつけますし、みょうに空気がしめっぽく、むし暑いので、洋一と露子は、長い間、小屋の中で休みました。
「にいさん、外へ出てみない?」
 と、露子がさそったのは、日が暮れて、風が涼しくなってからでした。
「貝のようなものでもあったら、ひろっておこう。かたパンばかり食べていると、すぐなくなるから。」
 ふたりが一にぎりずつの貝をひろったころには、あたりが暗くなっていました。深い露につつまれて、月も星も見えません。
「風が出たね。」
「もう帰りましょうよ。」
 さっと吹いてはやみ、またしばらくすると吹いていた風は、いつの間にか、ひゅうひゅううねる大風となって、砂州をおういました。だしぬけの突風にうたれたふたりは、どさんと砂の上に押したおされました。
「露ちゃん、ねておいで。今起きると、吹きとばされるよ。」
「目がいたい! 目の中に砂がはいっちゃったの。」
「目をあけているやつがあるかっ!」
 顔がいたいほど、ビシビシ砂がぶつかってきました。
 でも、目をあけられなかったのは、ほんのちょっとの間のことで、やがて強い風が、海のしぶきを、雨のようにたたきつけだすと、砂がしっとりとしめってかたくなったのです。
 顔がぬれたのに驚いて、恐る恐る洋一が頭をもたげてみますと、空は黒雲におおわれ、海一面が、夜目にも白くミルクみたいにあわだっています。
 海ぜんたいが高くなって、砂州が半分ほど、消えて小さくなり、その消えたところは、いくつものあわが、ぐるぐるとうずをまいています。
「ごらん、露ちゃん、海が高くなっただろう?」
「どうしてでしょう。」
「潮がみちたのだ。」
「波も昼より高くなったのね。」
 ふいに、雷みたいな音をたてて、ふたりのすぐそばまで、波がおしよせました。
「さあ、帰ろう。立つと吹きとばされるから、はって帰るのだ。」
 ふたりが四つばいになって、高いところへ帰りかけると二度めの波が、おこったように、追っかけてきました。
 砂州の高いところをさがしても、小屋が見つかりません。
「小屋はどこだろう。」
「どうしたんでしょう。」
「そうだ。ここにたるや箱がある。やっばりここが小屋なんだ。」
「屋根の板が、風に吹きとばされたんだわ。」
「まあ、ここでもいい。ここにねころんで、風がやむのを待とう。」
 ふたりは両手で頭をかかえて、砂のくぼんだ所に、えびのようにからだをまるめて、横になりました。
 しばらくして、顔を起こしてみると、またあたりのようすが変わっていました。
 暗い夜の海が、目のとどくかぎりあれくるって、大波と風が恐ろしいうねりをたてています。砂州ぜんたいが、白いあわにつつまれて、ただふたりのいるところだけが残って、そのすぐそばまで、次から次と、波がうちよせているのです。ふたりはもう死ぬのかと思いました。
 見ていると恐ろしいので、ふたりとも目をつむって、頭をかかえました。そして、そのまま、眠ってしまったのです。
 しばらくして目をさますと、夜があけて潮がひいていました。そして、東の水平線の、雲の切れまから、美しい太陽が顔をだしていました。
「にいさん、あれをごらん!」
 むっくり起きあがって、あたりを眺めていた露子は、まだあれのしずまらぬ海を指さすのでした。
「なに?」
「船よ!」
 なるほど、よく見ると、船にちがいありません。その船は、波頭に乗り上げた時だけ見えて、波の谷まに落ちこむと、見えなくなるのでした。
「ほんとだ、あれは船だ!」
 洋一もそういって、顔をかがやかせました。
「助けにきてくれたんだわ。うれしい!」
「ちがうよ。よくごらん。半分沈んでいるじゃないか。昨夜の風でやられたからだ。」
 それは小さい、きたない貨物船で、はげしい波にゆられながら、暴風に吹かれて、砂州の方へ押し流されてくるのでした。

老人
 さて、洋一と露子が悪魔のような古川に、ヨットに乗せられたり、無人島においてきぼりにされたりしている間、東京に残ったふさ代は、どうしているでしょう。
 いつまでたっても、洋一と露子が帰らないので、ふさ代が大須賀精一といっしょに、三本木の古川の事務所をたずねたら、そこがあきやになっていたので、がっかりしたことは、前に話したとおりです。それで、ふたりがタクシーで帰りかけると、まもなく四つ角にさしかかって、タクシーがぴったりとまったのです。
 すると、タクシーの窓の外から、きたないぼろをきた老人が、にやにや笑いながら、のぞきこんで、
「いまあすこのあきやをおたずねになったのは、あなたがたでしょう?」
「そうだよ。」
 精一はうるさげに答えました。
「もしや、ふたりの子供をおさがしになっているんじゃないでしょうか?」
「おまえが子供を見たのかい?」
「見ましたとも、見ましたとも、ちゃんとこの目で、たいへんなことを見たのです。」
「いつ見たのだ? いま子供はどこにいるんだっ。」
「そんなことは知りませんや。ただわたし、みょうなことを見ただけなんです。」
 口のまわりに、一センチばかりの、白いひげをはやした老人は、じっと精一を見ながら、笑うのでした。
「みょうなこと? どうしたんだ?」
「だんなわたし酒がなにより好きなんです。酒を買う金を、少しばかりやってくださいませんか。そうしたら、見たことをまるで話してあげます。これは、だれにでもは、話されないたいへんなことなのです――」
「まあ、はいりたまえ。」
 精一は、ドアをあけ、老人をすわらせ、その手に金をにぎらせました。
 自動車が動きだすと、老人はぽつりぽつりと話すのです――。
「わたし、この近くに住むくずやなんです。きょうはあの家がひっこしなので、何度もあすこへ行きました。ところが、夕方、あの家のうらを、ぶらぶら歩いていますと、二階の窓から、子どもがふたり顔をのぞけるのです。どうもそのようすがへんです。それで、見ていると、なんと、男の子がなわの先に、妹らしい女の子を結びつけてそれを窓から下の庭におろすじゃありませんか。それからしばらくすると、今度は男の子が、そのなわをつたって、窓から庭へおりました――」
 もう、笑うのをやめて、老人はしょぼしょぼした目で、じっと精一の顔を見ます。
「いくつぐらいの子ですか?」
 と、そばからふさ代が、まっさおになってききました。
「男の子は十三ぐらいかな――女の子は十か十一――」
「庭におりてどうしたの?」
「コンクリートの壁があるので、庭は見えなかったのです。」
「きみが見たのはそれだけ?」
「いや、だんな、まだ見ました。」
「そんなら、早くいってしまいたまえ。」
 老人はしばらく考えていましたが、
「――こんなことは、いわないほうがいいだろうかな――」
「どうしたんだ? なにを見たの? あっさりいってしまいたまえ。」
「ではいいましょう。警察へわたしをつれて行かないでくださいよ。子どものしたことがふしぎだったので、わたしは、しばらく家の近くをうろついていたのです。すると、三十分ほどたって、おもてのドアがあいて、子どもがふたりとも、別々の男にぎゅっと手をにぎられて出てきて、そこにとまっている自動車にのせられたのです。ひとりの男は、子どもと並んで後にすわり、ひとりは前に乗って、自動車を運転しました。男の子はバイオリンのようなものを、かかえていたようです。」
「後に乗ったのは茶色の服を着た、色の白い若い男だろう?」
「そうなんです。」
「もしや運転手は、黒いジャンバーをきた、五十ぐらいの男じゃなかったでしょうか?」
 ふさ代がききました。
「黒いジャンバーでしたよ。」
「金助だわ!」
 ふさ代はまた顔色をかえました。
 自動車が大須賀の家の前にとまると、もう夜もおそいので、三人はそこで別れたのです。
 ひとり、玄関に向かって歩きながら、精一は心につぷやきました――。
「なるほど、金助は古川の運転手なのだね。すると金助が子どもを育てたのも、古川のいいつけだったのだ。ダイヤをぬすんだり、子どもをさらったりした犯人が、古川らしくはあっても、まだ証拠がないのだし、なんでもあるので、警察へ知らせるわけにもいかない。それにしても、人の子をさらったり、それにわるいことを教えたりするには、何か深いわけがあるにちがいないが、それはなんだろう――」

難破船
「この島に船をつけるつもりかしら。」
「そうじゃないよ。もう自由がきかなくなっているんだ。いまに砂にのりあげて、船がみじんにこわされるかもしれないよ。」
 船はどんどんこちらに押し流され、あとから大波がそれを追っかけています。砂に乗りあげたら、こわれるのかと思うと、ふたりはきがきでありません。やがて船の人が見えだしました。ふたりは、手をふって合図しました。
「おおい、おおい!」
 と、大声でわめいても、はげしい風に消されて、向こうに聞えません。
 四百メートルほど近づくと、はじめて船の人が、砂州に気づいたようすですが、船の人が自由に船を動かすことができないのですから、それに気づいても、なんにもならないのです。見ているうちに、船は砂州にのりあげてしまいました。
「あっ!」
 それと同時に、残っていた一本のマストがたおれ、おどりかかる大波が、めりめりと、船をこわしはじめました。
 船ばたにぶつかって、雪のようにくだける大波が、砂の上の船を、しだいにこちらにひきずってきます。しまいには船があまり高く砂にのりあげたので波の力がそこまでくる途中で弱まるようになりました。
「にいさん、あの人! ほら、あんなに!」
 青い目をした船の人は、波をかぶりながら、羊の群のように、デッキのかたすみにかたまって、船がゆれるごとに、右の者にしがみついたり、左の者にしがみついたりしています。
「あっ!」
 また洋一がさけびました。
 大波が船をふるわせたと思うと、船体がまん中から、まっ二つにさけたのです。そのとたん、海に投げだされた、何人という船員が、てんてんと黒い頭を白いあわの中にうかべて助かろうともがきながら、こちらの秒州をめがけて、泳ぎだします。
 その人たちは、ようやく波にのって、海岸近く泳ぎついたと思うと、すぐそのつぎに、しりぞく波にひきずられて、ひとりのこらずもとの位置にかえっていきます。見ているうちに、大部分の人が、泳ぎつかれて波に姿をかくしてしまいました。
「かわいそうに!」
 露子は自分がかわいそうな人間であることも忘れて、思わずそうつぶやきました。
「露ちゃんはここで待っておいで。」
「どうするの?」
「ぼく助けてやるっ!」
 ああ、なんということでしょう! 昨夜の洋一は、砂にすわって、神さま助けてくださいと言ったのでした。その洋一が、いまは人を助けようとしているのです。
 洋一は板にすがって海にはいり、半分死んだようになった人が、浅瀬にうちよせられると、それが波にさらわれないまに、岸までつれていってやりました。こうして洋一は三人の船員を助けたのです。どうも中国人らしく、その中のひとりが、たったひとつの日本語を知っていたのです。それは一番美しい日本語、「ありがとう」ということばでした。

いかだ
「露ちゃん! 露ちゃん!」
 つぎの日の朝、洋一に呼ばれて、露子は目をさましました。晴れた空に、まぶしい日がのぼって、海は眠ったように静か、青い水平線が、くっきり浮かびだしてみえます。海は昨夜より低くなり、はじめて上陸した地点まで、しりぞいていました。
 しかし、美しいながめはただそれだけで、海岸は目もあてられぬほど、きたなくなっていました。波うちぎわは、どこもかしこも、難破船の材木だらけで、ある場所では、ほとんどつみ重なるほど、水たるや、そのほかのいろんな物が、波にうちあげられ、そんな物のあいだのあちこちには、水夫の死体がちらかって、ある死体は砂の上ですでにかわき、ある死体はまだ波にゆられているという、じつに気持のわるい光景なのでした。
 三人の中国人は、砂の上にいっしょにかたまって、まだすやすやと眠っています。
「さあ、いいお天気になった。これから、どうしようかな。」
 と、洋一はうれしげに空をあおいで考えていましたが、
「とにかく、あの三人の中国人といっしょに、いかだを作るんだね。」
「いかだってなあに?」露子が聞きました。
「竹をたくさんつなぎあわせて、川に浮かべて、それに人が乗っている写真を、見たことがあるだろう? あれだよ。」
「あすこに散らばっている板で作るの?」
「そう。」
「そんな物に乗って逃げるより、この島にじっとしていましょうよ。いつかは近くを船が通るから――」
「だめだよ、こんな砂州のあるところはあぶないから、船が近よらないんだ。それに、ぐすぐずしていると、きのうよりもっと大きい暴風がきて、波にのまれてしまうかもしれないよ。」(砂州とは、塩がひくとあらわれる砂地のこと)
「川ならいかだでもいいけれど、海じゃ、あぶないのじゃないかしら。どこへ流されるか、わからないから。」
「帆をはるんだよ。」
 洋一は、砂の上にうち上げられた、たくさんのズックの袋を指さしました。
「ほら、あすこにズックの袋があるだろう?」
「うん。」
「あれをといて、つなぎあわせて、帆を作るんだ。帆が作れたら、北へ北へ行きさえすれば、日本のどこかへ上陸できるよ。何日かかるかしれないけれど――」
「どっちが北か、にいさんわかるの?」
「露ちゃん、北がわからないのか?」
「わからないわ。」
「あきれた! 夜は北極星をみれば北がわかるし、昼は朝日ののぼる方へ向いて立てば、左が北じゃないか。」
「そりゃ、しっているわ!」
「いま、しらんといった。」
 ふたりは笑いました。
 まもなく三人の中国人が目をさましたので、洋一はまたかたパンや水をやりました。
 そして、三人に、手まねで、これからいっしょにいかだを作って、日本へ渡ろうという考えをつたえたのです。手まねだけでは、たりないので、砂の上に、日本の地図をかいてみせたりしました。
 むろん、三人は、すぐそれにさんせいしてくれました。だれだって、こんな時には、そうするよりはほかないのです。
 三人は笑いながら、
明白ミンパイ好々ハオハオ!」(たいへんよくわかりました)
 といってうなずきました。
 いかだを作るなら、一日も早い方がよろしい、砂の上の材木や綱が、また波にさらわれる心配もありますし、いつまでも水にひたっていると、くさる食べ物もあったからです。カンカン日の照るなかで、三人の中国人は汗だくになって働き、波にただようたるを、つぎからつぎと、水の上につみ重ねたり、材木を集めたり、食物や衣類を分類して、砂の上にひろげてかわかしたりしました。 そして、夕方までには、いかだを作る材料や、長い航海に必要な食べ物や水を、せんぶ取りそろえることができました。あとにのこったのは、波にたただよう死体と、やくにたたぬ材木だけです。
 そのつぎの日は、みんなで材木やあきだるをたくさんつなぎあわせて、いかだを作りはじめました。みんな毎日こつこつと働きました。食べ物は海からひろいあげたいろんな物がありました。星がでて涼しい風が吹きだすと、みんな洋一のバイオリンを聞きました。
 そして、幅三十メートル、長さ六メートル、五人が乗ったうえに、箱やたるをのせられるいかだを作って、それにじょうぶな帆をはってしまうまでに、まる四日かかったのでした。
「さあ、いよいよ出発だ!」
 洋一がだいじそうにバイオリンのケイスをかかえ、他の者といっしょに、喜び勇んでいかだに乗ったのは、難破船が流れついてから、五日目の晴れた朝のことでした。
 三人の中国人が棒で砂をおとすと、いかだは静かに岸をはなれて、涼しい風に帆をはらませて、北へ北へと進むのでした。
 砂州をはなれても、くさった死体のいやなにおいは、どこまでもいかだを追っかけてきました。
 たくさんの死体を、ぜんぶうめるひまがないので、そのままにしといたからです。砂州にいるあいだは、さすがの中国人も、そのくさいにおいには閉口していたぐらいです。
 でも、そのにおいにも、島を一キロほど遠のくと、風の向きがかわったせいか、追っかけてこなくなりました。

手紙
「だんなさま、くずやがまいりました。」
 と、女中はおかしな顔をしました。
「くずや?」大須賀精一はふしぎそうに女中をみました。
「どんな用ですかときいたのですが、くずやが来たといえば、わかるというのです。」
「ああ、あのおじいさんか?」
「そうでございます。きたないおじいさんなのですが、おあいになりますか? いま玄関にいるのですけれど――」
「よし、おれがいく。」
 いそいで精一が玄関に出てみますと、先日自動車に追いすがって、ふたりの子どものことを知らせてくれた老人が、しょんぼり立っているのでした。
「だんなさま、みょうなことがあったので、お知らせしようと思いまして――」
「なんです?」
「きのうお話しましたように、わたしはあの事務所でくず物やがらくた物を、たくさん買ったのです。きょう、それをかたづけていましたら、そのなかに、富士山の版画の額があったのです。もうガラスにひびのはいった、、ふちのこわれかけた、ほこりだらけの額なんです。ところが、そいつをつついていましたら、裏の板と絵とのあいだから、ひょっこり手紙がひとつ、出てきたのでございます。」
「どんな手紙?」
「それが、だんなさま、讀めないんです。英語で書いてありますので。でも、古川という男は、子どもをさらうような、悪い男なんでしょうか? それが、かべにかける額に手紙をかくすんですから、どうせあやしい手紙にちがいないんですよ。つまり、あいつあわてて引っこしたので、たいせつな秘密の手紙を、額の裏にかくしたまま、忘れてしまったのです。忘れるぐらいですから、たいした手紙じゃないのかもしれませんが、とにかく、なにかの参考になるかもしれないと思いまして――」
「いま持っているの、その手紙?」
「え、持ってきました。」
「おみせ。」
 きのう、自動車に追いすがった時と同じように、老人はにやにや笑って、頭をかくすのです。
「だんな、わたしは酒がなにより好きなものですから――」
「よしよし!」
 精一はポケットから金をだして、老人の手ににぎらせました。
「ありがとうございます。これなんですよ。ひとつ読んでみてください。」
 それは赤と青でふちをそめた封筒で、飛行機の絵のある大きな切手がはってありました。
 精一は手にとって、消印をしらべながら、
「これは去年シカゴから来た手紙だよ。あてなは古川となっている。」
「なかを読んでみてください。どんなことが書いてあります?」
 何かきたない物にでもさわるような手つきで、精一はそっと封筒から、一枚の紙を出してひろげました。タイプライターでうった短い手紙なのです。
 精一は、一字も見おとすまいとするかのように、ゆっくりと、熱心に読みました。
 そして、読んでしまうと、まゆをひそめ、目をかがやかせました。
 それでも、なにもいいません。
 老人はあなのあくほど、かれの顏を見つめていましたが、
「どんなことが書いてあります?」と、聞きました。
 大須賀精一は、返事をしないで、またはじめから、くりかえして読みました。
「どんなことが書いてあります?」
「それはいわない方がいいだろう。この手紙はもらっておくよ。ごくろうさま!」
 老人は精一の顔をみただけで、なにかたいへんなことが書いてあるのだなと思いました。ですから、その手紙が役に立ったことを喜びながら、うちに帰ったのです。

姉妹船
 洋一と露子と、それから三人の中国人の乗ったいかだは、一時間に一キロメートルぐらいの速さで、北へ北へと進んだのですが、夕方近くなると、バッタリ風がやみました。
 ふたたび風が吹きだしたのは、あくる日のことで、それが北東からの風でしたので、いかだを西に向けて帆をあげました。
 いかだを西に向けるのは、日本本土に近づくことにはならないのですが、思うように動くことのできぬいかだとしてしかたがなかったのです。ですから、かれらは出発前から、反対がわから風が吹いても、さしつかえないように、たくさんの食物と水の用意をしておいたのでした。
 ところが、困ったことに、しまいには、方角がわからなくなってしまいました。朝と晩は、太陽の位置で方角がわかりますが、しじゅう、風がかわったり、波がかわったりするので、いかだがどちらへ進んでいるのかわかりません。かれらは運を天にまかせました。
 さいわい、つぎの日も、そのまたつぎの日も、天気がよくて、波が静かで、時々、飛魚がいかだの上に落ちてきました。
 ひとりの中国人が船を見つけて、じだんだふんでさわぎだしたのは、三日目のお昼ごろのことでした。
 洋一と露子も立ち上がりました。みんな立ち上がりました。そして、ハンカチやきれをふりながら、
「おうい! おうい!」
 と、声をかぎりにさけんだのでした。
 でも、だめでした。
 はるかな水平線をはしる、小さい発動機船は、そしらぬ顔で、通りすぎてしまったのです。
「どうしてきてくれないのかしら。」
「見えないんだ。」
「だって、こっちは見えるでしょう?」
「それは、むこうの船の方が大きいからだよ。こちらは、いくら帆がはってあっても、いかだだから、目につかないんだよ。」
 みんながっかりしました。
 そして、発動機船が見えなくなってしまうと、しばらくは帆づなを引っぱる者もなく、ごろりところんで、波のまにまに、いかだをただよわせるのでした。
 五日目の夕方、また船が見えたので、みんな立ち上がって、その方をながめました。
 こんどは大きな帆をはった船です。
「おうい! おうい!」
 また、みんなで、ハンカチや木ぎれをふりました。
 白い帆に夕日をうけた船は、だんだん大きくなります。
「ヨットじゃないかしら?」そう露子がいいました。
「ぼくもそんな気がする。」
 ふたりはうれしくもあれば、不安でもありました。ほかのヨットならうれしいけれど、古川のヨットだったら、また、とらわれの身となるのです。
「ほら、帆が三つあるでしょう?」
「ほんとだ!」
 近くなってみると、古川のヨール型のヨットにちがいないのです。
 いままでの喜びが、氷のような恐怖にかわりました。
 洋一と露子は、やっきになって、そのヨットが恐ろしい船であることを、身振り手振りで、三人の中国人に知らせようとしました。中国人には、なかなかそれがわかりません。しばらくして、やっとかれらが半分わかったように、うなずきました。かれらは、ヨットを海賊船と思ったらしいのです。
 しかし、それかといって、今さら逃げだすこともできないのです。全速力を出しても、いかだは一時間に一キロメートルしか走れません。すぐヨットに追いつかれるにきまっています。
 それで、かれらは、帆をおろせば、向こうから見えないだろうと思って、帆づなをときかけたのですが、ちょうどその時、ヨットはこちらのいかだを見つけたらしく、急に進路をかえて、一直線にこちらへ向けて、走ってきだしたのです。
 洋一と露子は、へびににらまれたかえるのように小さくなりました。
 とうとう、ヨットは百メートルのきょりに近づいて、速力をゆるめました。ヨットにはふたりの男が立っています。
「きみは洋一君じゃないか!」
 おお、そのの声!
 意外にもヨットに乗っているのは、大須賀精一と、もうひとり知らぬ人なのです。″地獄にほとけ″とはこのことでしょう。
 洋一と露子、それから三人の中国人は、すぐさま、ヨットに乗りうつりました。
 大須賀精一から話を聞くと、こういうことでした。
 くずやの老人が持ってきた、シカゴからの手紙には、こんなことが書いてあったのです――。
「古川様、あなたが時々休んだり、またたいせつな品物をかくしたりするのにつごうのよい場所を、おしらせしましょう。それは竹が島の燈台から南々西二十キロの海上に、名のない三つの無人島があります。その一番南の島です。この島の西に戦争ちゅう、日本の海軍が作ったと思われる大きなほらあながあり、島の一番高いところに、コンクリー卜の建物がありますが、これは爆撃されて、こわれています。この島が気に入らなかったら、またほかの島をおしらせします。 コステロ。」
 この手紙を読んだ大須賀精一は、すぐ島の探検を思いたち、横浜本牧の岡本造船所でヨットを買ったところ、それと同じ型の姉妹船を、半年ほど前に、古川らしい人物が買ったことまでわかったというのです。
 洋一と露子、それから三人の中国人は、大須賀精一といっしょに、すぐその島の探検に向かうことにきめました。日本語のわからない中国人も、大須賀精一の英語は、よくわかるのでした。

無人島
「あれだよ。あれが竹が崎の燈台だ!」
 と、大須賀が指さしました。
 夜のやみを照らして、探照燈みたいな光が、ぐるぐるまわっています。その光は、きらっ、きらっと、二度こちらのヨットを照らしたと思うと、燈台のまわりを一まわりして、またこちらを照らすのでした。
「もうまちがいない。とうとう竹が崎の燈台をみつけた。」山下もうれしそうにいいました。
 山下というのは、学生時代からの、大須賀の仲よしで、ヨットを動かすのがじょうずなので、乗ってもらっているのでした。
 大須賀と山下は、月の光をあびながら、ヨットのうしろに腰かけていました。洋一と露子と三人の中国人は、キャビンですやすや眠っています。
 いかだで漂っているかれらを助けてからここまで来るのに、一週間もかかったのです。どうしてそんなに長くかかったかといいますと、風のぐあいが悪かったせいもありますが、普通の船乗りだったら、十分間ぐらいでできる計算を、しろうとの山下は一時間もかかったからでした。
「英語の手紙には、竹が崎の燈台から南々西二十キロとかいてあったね?」山下がききました。
「そう。」
「そんなら、ちょうどこのへんだ。もう、三つの無人島が、見えそうなものだが――」
 そういいながら、出下は夜の海上を見まわしていましたが、
「あッ! あれあれ!」と片手をあげるのでした。
 うすいもやに包まれているので、ぼんやりとしか見えませんが、なるほどよく見ると、黒々とした怪物みたいな島が三つ、呼べば答えそうな近いところに、並んで頭を出しているのです。
「あのうちの、燎台からいちばん遠いのが、古川の島なのだ。」
 山下が帆づなをひいて、かじをまわすと、ビュンとヨットは、おこったこまのように向きをかえて、矢のような速度で、その島に近づきました。
「みんなを起そうか?」
 と、山下がききました。
「いや、いま起きられてはじゃまになる。島を一まわりして、ようすをさぐることにしよう。古川がいれば、火がみえるはずだ。」
 ヨットは島を一まわりしましたが、江の島を三つよせたぐらいの大きさの島は、死んだようにひっそりとして、火の影はどこからももれていません。
 島いちめんに木がしげっていますが、海岸は切って落したような岩のがけで、それに夜の波がぶつかって、雪のように白くくだけています。
「あれが手紙にあるほら穴だね。」
 大須賀は、悪魔が口をあけたような、黒い穴を指さしました。
「大きいね。江の島にもほら穴はあるけれどあんなに大きくはない。あのほら穴に船を入れて、いかりをおろそうか?」
「なんだか、気味がわるいね。」
「なにも出やしないよ。出ればこうもりぐらいのものだ。」
 大須賀はちょっと考えたあとで、
「ぼくはあのほら穴のおくに、古川のヨットがかくれていると思うんだ。島をまわってみても、岩ばかりで船をつなげそうな場所はないんだからね。」
 山下は笑いながら、
「古川がいたら、ちょうどいい。なにも恐れることはない。やあ、こんにちはといって、子どもをさらった理由をきいたり、宝石を盗んだといって、いま警察が君を疑っているが、君はほんとに、宝石を盗んだのかと、きいてみるといい。」
 こんどは、大須賀が腹をかかえて笑いだしました。
「ばか! そんなことがきけるかい! そんなことをきいて、はい、わたしが盗みましたというやつがあるなら、すぐこの島のことを、警察に知らせればいいわけだが、しょうこがないから困るんだよ。」
「じゃ、これからどうする?」
「いちばんいい方法は、古川のいないとき、この島をすみずみまで探検するのだ。手紙に『たいせつな物をかくす場所』とかいてあったから、その場所をさがすのだ。さがしあてたら、古川が大東京の悪魔であるというしょうこがつかめたわけだから、あとは警察にまかせればいい。」
 そんなことを、ふたりが話しているうちに、ヨットはしずかに、ほら穴の入口に近づき、吸いこまれるように、そのながれにはいったのでした。

ほら穴
 洋一と露子がめをさましてみたらこうばしいパンを焼くにおいがキャビンに漂って、いそいそと三人の中国人がみんなの朝飯の用意をしているところでした。
 すぐそばに大須賀と山下が腰かけて、たばこをすいながら話しています。大須賀は時々英語で、なにやら中国人にいいつけています。
「おじさん、ここはどこですか?」
「古川の島だよ。」
「とうとう着いたんですね。一週間もさがしたけれど――」
「いま古川はいないらしい。だから、食事がすんだら、島を探検するのだ。」
「おもしろいなあ、ぼくもいきますよ。」
 波の上の日光が、ほら穴の岩の天井に反射して、チラチラうごくので、ヨットのいるあたりは、まぶしいほど明るいのですが、ほら穴のおくは暗くて、なにも見えません。
 食事がすむと、大須賀と山下は、デッキにふせてしばりつけてあるボートをほどき、波に浮かべて、それにのりうつりました。
「出下君、忘れものはないか?」
「うん。」
「懐中電燈は?」
「もった。」
 ヨットのデッキに立って、ふたりの話をきいていた洋一は、宝島やこがね虫の話を思いだして、胸がむずむずするほど、行きたくなるのでした。
「ぼくもつれていってください。」
 山下はオールをクラッチにさしこみながら、
「だめだよ。待っておいで。」
「ぼく行きたい。」
 洋一がボートにとびこむと、
「わたしも――」と、露子もボートにのってしまいました。
 ボートがゆれて、波もんが大きくひろがります。
「そんなら、つれていってやるが、そこにじっと並んですわっていて、ふたりとも動くんじゃないよ。動くとボートが傾くからね。」
 山下が洋一や露子と向きあって足をのばして、オールを水につけると、大須賀はいちばんうしろにすわって、かじをにぎりました。
 ほら穴はまがっているので、しばらく行ってふりかえると、もう入口は見えなくなっていました。
 大須賀は、たえず懐中電燈で、でこぼこの岩を照らしていましたが、
「ふん、こりゃ大きな工事だ。飛行艇でもかくすためにつくりかけて、途中でやめたんだろうか――」
 しばらくすると、きゅうに両がわの岩の壁がなくなって広々としたところに出ましたが、暗くてなにも見えないので、どのくらいの広さなのか見当がつきません。
 山下はボートをこぐのをやめて、
「どっちへ行ったらいいんだろう?」と、いいましたが、その声が岩にひびいて、みょうに大きな、うつろな声となって、かえってくるのです。
「どっちでも同じだよ。どうせ外から見たら、そんなに大きい島じゃないんだから、こいでいさえいれば、どこかにつき当たるよ。」
 大須賀がそういうと、ひびきがかえってくるので、ふたりがしゃべっているように聞えました。
「ここでバイオリンをひいたら、どんな音がするかしら――」洋一がいいました。
 山下はまたこぎはじめました。
 空気はしめっぱくて、寒くて、時々冷たいしずくがおちてきます。
 しばらくこいでいると、向こうにぼんやり岩の壁が見えだしました。
「やみのなかを、むやみに動きまわってもつまらん。こんどは壁にそって、この広い場所を一まわりしてみることにしよう。この壁をいつも右にみて進むのだ。」
 そう大須賀がいって、かじをまわしました。またしばらく進みました。
 そのあいだ、大須賀はしじゅう、しめってぎらぎら光る、右ての壁を照らして見ていたのです。
 すると、こんどは山下が、
「なんだか変だぞ!」といいました。
 不思議そうにやみのなかを見まわしていた洋一が、だしぬけに叫びました――。
「おじさん、このボートは、さっききたトンネルを、もときたほうへ帰っているんですよ。ほら!」
 左を指さしました。
 大須賀が懐中電燈をむけると、なるほど、右と同じようにそこにも壁が見えます。つまり、広い場所をまわっているとばかり思っていたボートが、いつのまにか、トンネルへはいっていたのです。
 大須賀は、あわててかじをまわして、ひきかえしました。そして、広い場所へ出ると、また右の壁にそって、ボートを進めました。すると、また同じようなトンネルの入口が見えます。
「うっかりしていると、またトンネルへはいるところだった。暗いから、よほど気をつけていないといかん。」
 その入口をやりすごして、右の壁にそってボートを進めました。
 すると、しばらくして、またトンネルの入口がみえるのです。
「こりゃ、おかしい!」
 その入口にはいらないで、また右の壁にそってしばらく進むと、またトンネルの入口がみえました。
 山下はこぐのをやめて、
「こりゃ困ったことになったぞ! いったいこの広い場所には、いくつトンネルがあるんだろう――」
 この質問には、だれも返事ができませんでした。考えてみると、一つしかないトンネルの入口を、なんどもぐるぐるまわって見ているようにも思えれば、二十も三十もトンネルがあるようにも思えます。
 考えていてもしかたがないので、山下はまたこぎはじめました。
 すると、またトンネルがあらわれたのです。

運命のくじ
 山下はオールの手をやすめて、
「まさか、きつねにつままれたんじゃあるまいな!」と笑いました。
「しっかりしていないとあぶない!」大須賀はボートがとまると、電気を節約するため、懐中電燈を消しました。鼻をつままれてもわからぬほどの暗さです。
 その暗いなかで、大須賀はいいました――。
「この広い場所に、入口がたくさんあるとすれば、さっきはいりかけたトンネルだね。そのトンネルを、洋一君は来た時のトンネルといったけど、ほんとはどのトンネルかわかりゃしないのだ。」
 だしぬけに大須賀がマッチをすったので、みんながそのほのおをみました。
 大須賀は、ひざの上に両ひじをついた姿勢で、まきたばこに火をつけると、
「みたまえ、マッチの火がこんなに風にゆれている。トンネルがたくさんあるしょうこだ。トンネルの数がわからないのは、目印がないからだよ。薄暗くてよく見えないうえに、どれもこれも、同じなんだからね。だから――」
 懐中電燈をつけて、ポケットをさぐり、「このトンネルに目印をつけておこう。」
 ポケットからだした白い紙きれをべったりトンネルの入口のしめった岩にはりつけて、
「こうしとけば、まい子になる心配はない。」
 かれらは壁を右がわに見ながら、またボートを進めました。
 やがて第二のトンネルが、ぼんやり電燈の光に照らしだされました。
 つづいて第三、第四――。
「あッ! 紙がはってある!」
 と、洋一がうれしげに叫びました。
 大須賀もその紙に目をやって、
「これで一まわりしたわけだが、トンネルはいくつだったかしら――」
「四つ!」
「四つ!」
 みんながトンネルを四つとかぞえました。
「つまり、この広い場所を中心にして、東西南北と、四方にトンネルを掘ってあるわけなんだが、広い場所には、このボートよりほかの船は見つからなかった。物をかくしうるような場所もない。だから、つぎには四つのトンネルを、一つずつ探検してみることにしようじゃないか。」
「ぼくは腹がへった。ヨットに帰って、なにか食べようじゃないか。」と、山下がいいました。
 大須賀は腕時計に光をあてて、
「あッ! そろそろ十二時だ。君の腹時計は正確だね――だが、困ったことに、すぐにはヨットに帰れないかもしれないよ。トンネルが四つあって、そのどれが、ヨットのあるトンネルかわからないんだから。」
「また、かたっぱしから、四つのトンネルを一つずつあたってみるんだね。」
「そうすると、探検の仕事も、同時にできるわけだ。」
「そんなら、手はじめにこの紙をはったトンネルにはいってみるか。」
「よかろう。まるでくじを引くようなものだけれど――」山下がオールで波をかくと、ボートは静々とまっ黒い穴のなかにはいっていきました。
 そのトンネルの先でかれらを待っているのは、おいしい食事の用意のできたヨットでしょうか。それとも食うか食われるかの恐ろしい運命でしょうか。

赤いペンキ
 大須賀は、かいちゅう電燈で、岩のかべを照らしながら、
「ここがぼくらのはいってきたほら穴でなかったら、またほかの三つのほら穴へ、じゅんじゅんにはいってみることにしよう。」と、いいました。
 ボートは、目じるしの紙をはった、まっ暗いほら穴へはいっていきました。
「おじさん!」と洋一がいいました。
「また三つのほら穴をさがすより、島の外をまわってヨットをさがしたほうが、早いかもしれませんよ。」
 ボートをこいでいた山下も、
「そうだとも、もう、こんな暗いトンネルは、ごめんだ。外まわりでヨットをさがすことにしよう。」
 ゆるやかにほら穴をまがると、はるかむこうに月に照らされた、明かるい入口が、見えだしました。
「ヨットが見える!」
 大須賀の声はうれしそうでした。
 かすかに外の光のさしこむあたりに、白ぬりのヨットがいかりをおろして、長いマストを、ゆらゆらと、ゆるがせています。
 ボートをこいでいる山下も、そのほうをふりかえって、
「ばんざい、ばんざい! 運がよかったね!」
 と、うれしそうにいいました。
 だが、いよいよヨットがまぢかになると、みんなが、不安な顔をしました。
 ほかでもありません。ヨットで待っているはすの三人の中国人の姿が、どこにも見えないのです。
「あッ! 中国人がいない。どこへ行ったのだろう!」
 コツンと山下がボートをヨットにくっつけるとみんなキャビンのなかを、のぞきこみました。
「あら! にいさんのバイオリンがない!」と露子が叫びました。
「お米や肉のはいった箱も、盗んでいったらしい!」大須賀がいいました。
「ひどいやつだ! 石油コンロもフライパンもなくなっている。ボートがないのだから泳いで逃げたんだろう。泳いで荷物を一つずつ島の外がわへ運んだのだろう。ずいぶんねんのいったドロボーだ。」
「大須賀はうす暗いキャビンをのぞきこみながら、考えていましたが、
「しかし、ことによると、ドロボーをするつもりじゃなかったのかもしれないよ。」
「どうして?」
「盗むつもりなら、ぼくらのるすのまに、まるごとヨットを盗んで、この島から逃げだしたら、よかりそうなものじゃないか。あのれんちゅうだって、船乗だから、ヨットを動かすぐらいのことは、できると思うんだ。」
「ぼくは、そんな先の先まで考えず、ただ習慣的に盗んで、島の外がわへ泳いで逃げたのだと思う。」
「いや、」と、大須賀は頭をふって、「こんな小さい島だもの、逃げたってすぐつかまえられるにきまっている。だから、盗むつもりじゃない。なにか、ふかいわけがあるのだ。」
「どんなわけ?」
「そりゃ、わからない。」
「ああ、わかった!」と山下はきゅうに思いついたように、「むこうは男が三人だろう。ところが、こちらは男がふたりきり、そのうえ、足手まといの子供までつれているんだ。だから、ぼくらをあなどっているんだよ。ゆっくり、ごちそうを食べながら、島で休んで、そのうち、風のぐあいがよくなったら、このヨットを盗んで、島から逃げだすつもりなんだよ。」
 大須賀は笑いながら、
「逃げだすつもりなら、いますぐヨットにのって逃げるよ。だから、やっばり、なにかふかいわけがあるのだ。」
 そういって、しばらく考えていましたが、きゅうに真顔になって、
「ことによると、ぼくらのるすのまに、古川のれんちゅうがやってきて、三人の中国人をしばりあげ、品物もごっそりさらって行ったのかもしれないよ。」
 このことばをきくと、みんなはしんとしずまりかえりました。洋一はぞっとさむけをかんじました。
 なるほど、そういえば、そうも考えられるのです。すくなくも、逃げたと考えるより、このばあい、そう考えるほうが、ほんとうに近いように思われます。
「しかし――」と、山下はしばらくしていうのでした。「古川のれんちゅうがいるとすれば、ヨットが見えそうなものだ。今までのところ、そのヨットも見えないんだから、いまこの島には、ぼくらのほかには、ひとりの人間もいないと思うのだ。」
 大須賀はまた笑いました。
「いや、ぼくは古川のヨットが、この島のどこかにかくれていると思う。きみはヨットがいないというけれど、四つのトンネルを、ひとつのこらずさがさないことには、なんともいえないよ。」
 この時、いままでふたりの話を、だまってきいていた洋一が、だしぬけに、
「あッ――おじさん――」
 と叫んで、水にひたっている、ヨットの底をゆびさしました。
「これはぼくらの乗ってきたヨットじゃありませんよ。古川のヨットです!」
 海水が、ガラスみたいに、きれいにすきとおっているのでヨットの底が手にとるように、はっきりと見えるのです。
「ぼくらの乗ってきたヨットは、水にひたっている底を、緑色のペンキでぬってあったでしょう。ごらんなさい。このヨットの底は、まっかです!」

谷の男
 大須賀と山下は、まだ古川のヨットを見たことはなかったのです。でも、いわれて初めて気がついたのですが、緑色だと思っていた船の底が、赤くなっていることだけはわかりました。
 古川のヨットと、大須賀のヨットは、どちらも岡本造船所が、同時につくった寸分ちがわぬヨール型の姉妹船で、どちらも船体やマストを、白くぬってあるのですが、きっ水線の下だけ、向こうは赤、こちらは緑色にぬってあるのでした。それに気づかぬ彼らが、二つのヨットをまちがえたのは、むりもないことだったのです。
「なるほど、これは古川の船なのか!」と、大須賀は笑って、「そんなら、三人の中国人は、逃げたのでもなければさらわれたのでもない。いまどこかでぼくらの帰るのを待っているのだ――同じ型の姉妹船だから、速力だって同じだろう。この二つのヨットが、広い太平洋で追いつ追われつしたら、おもしろい勝負ができるわけだ。おい山下、おもしろいことになったぞ!」
「そうだ。こりゃ、ぼくの船じゃない。ブイをつるした位置だって、ぼくらの船とはちがっている。」
 彼らは目印の紙をはったほら穴から、外へ出ようとしましたが、そのほら穴は、彼らがはいった時に通ったほら穴ではなかったのです。
 大須賀はいいました。
「みたまえ。このヨットにはボートがない。だから、古川ともひとりの男は、いまボートで、どこかへ上陸しているのだ。そのボートをさがせば、あいつらのいどころがわかる。外へ出てみよう――なるべく静かに――話をしちゃだめだよ――」
 山下はオールを水にいれました。
「そうだとも。気をつけていないとあぶない。なるべくおだやかに話をつけたいが、向こうがピストルを出せば、こっちもピストルでお相手するようになるかもしれない。」
 ピストルときいて、洋一と露子は、ヒヤリとしました。
 かれらはピストルの用意までして来ているのでしょうか。
 ほら穴から外にでると、まぶしいほどの明かるい太陽が、ちかちか頭から照りつけて、むっとするほどの暑さです。
「あれだ!」
 黒い大きな岩かげにつないである、白びかりのするボートを、大須賀は、あごをしゃくって知らせるのでした。
 そのボートをつないである場所からは、岩をつたって、上へあがれるようになっています。そして、上には青々とした草や木がしげっているのです。
 しばらくボートをこぐのをやめて、彼らは島のあちこちをながめました。島はしんとしずまりかえって、人かげはどこにも見えません。
 彼らは、いきをころして、ボートのつないである岩かげに近づき、そこにボートをつなぐと、ひとりずつ上陸して、一列になって岩をのぼりました。
 草のはえたところへあがると、大須賀はその草のうえを、歩きまわって、
「どうしてだろう? 足あともないし、草をふみつけたあともないよ。」と、低い声でつぶやきました。
 山下は、にやにや笑って、
「古川が上陸してから、なんども雨がふったんだよ。ボートに水がたまっていたじゃないか。」と、小さい声でいいました。
「とにかく、この尾根のようなところをつたって、あの、いちばん高いところへ行ってみよう。あすこまで四百メートルかな。ひといきだ。」
「あすこに、日が暮れるまで立って、見張っていれば、どこに人間がいるかわかるよ。人間のいるところには、煙が立つから――」
 大須賀は、先とうにたって、歩きながら、
「日が暮れるまで立っているわけにはいかん。明かるいうちに、ボートにのって、ヨットをさがさなくちゃならんから。それに、古川もぼくらのように、石油コンロを使っているとすれば、煙は立たないと思うんだ。」
「でも、夜になるとランプに火をつけるから、そのあかりが見えるだろう。」
「むこうで用心しているとすれば、そのあかりだって、外にはみせないよ。」
 しばらく、彼らは黙って歩きました。
 右はすぐそばが谷のように低くなって、そこにちょろちょろ、すこしばかりの水が流れています。
「おじさん!」
 と、ふいに露子が、低いながらも、力のこもった声で、よびとめました。
 大須賀と山下は、ふりかえりました。
「あすこに、だれか寝ている!」
 恐ろしげな顔で、露子は谷をゆびさすのでした。

石ころの山
 みんながそのほうに、顔をむけると、ぼうぼうとひげをのばした、やせ細って骨と皮ばかりになった男が、身にぼろのシャツとズボンをつけて、涼しい木かげの草の上に横になって、すやすや眠っているのでした。
 洋一は始めには、その男を猿人かと思いました。さるでもなければ、人間でもない猿人が、遠い無人島に住むという話を、なにかの本で読んだことがあったからでした。
 大須賀は坂をくだって、その男に近づき、
「おい!」
 と、声をかけました。
 ひげをはやした男は、目をさますと、あわてて立ちあがり、つえをついて逃げようとします。
 むずと大須賀は、その男の手をつかみました。
「逃げんでもいい。こんなところで、なにをしているんだ、きみは?」
「あなたは古川さんの――」
「いや、古川とはなんのかんけいもない。」
「そんならいいますが、私は古川のために、飲まず、食わずの、こんなひどい目にあっているのです。」
 大須賀は、ひげの男を、草の上にすわらせ、
「それだけじゃわからん。もっとくわしく話してもらいたいね。」
 一同谷へおりて、その男をかこんで、草の上にすわりました。
「私はこじきでもなければ、きちがいでもないのです。ただ古川の秘密をしっているので、こんな目にあっているのです。」
「秘密?」
「くわしく話せば、きりがありませんから、かんたんに話しましょう。もう半年も前の、ある晩のこと、丸の内のある会社で、私は古川がふたりの手下をつれ、金庫をこわしているのを、ふとしたことから、見てしまったのです。
 警察へ知らせようと外にでると、通りすがりのタクシーが、ただで乗せてやろうといいます。それに乗ると海岸へつれていかれ、そこからヨットでこの島へ渡って、一へやにかんきんされてしまったのです。古川は手下になれといいます。私はそれをきかずに、窓を破って逃げ出したのです。どうせ餓死するとでも思ったのか、ろくに私をさがしもせず、古川はそのまま東京へ帰ってしまいましたよ。」
「なにをたべて、生きているの?」
「もう六か月も、木の実や草の根ばかり――それから貝をひろったり――」
「いま古川はどこにいるの?」
「またこの島にやってきました。」ひげの男はつえにすがって立ちあがり、「あすこに、石ころの山がみえるでしょう。」
 一同、立ちあがって、工事あとらしい小石の山をながめました。
「あのすぐそばに穴があって、そこをおりると、地下にへやが二つ三つあるのです。いま古川は手下をひとりつれて、そこに住んでいます。」
「ほかには?」
「だれもいませんよ。」
「さて、これから、どうしたものだろう?」
 と、大須賀がいいました。
「いま行くのは危険だよ。いちどヨットに帰って、食事でもすませて、これからのことを相談するとしよう。」山下がいいました。
「よかろう。きみもきたまえ。」
 と、大須賀はひげの男をさそいました。

とらのうなり
「さあ、ぼくがいちばんにおりるから、みんなあとからついてこい。」
 草がぼうぼうとしげったなかに、井戸ぐらいの大きさの穴があいて、そこに、ななめに、石だんがみえます。
 大須賀がまっさきにたって、その石だんをおりると、山下洋一、露子、ひげの男というじゅんにあとにつづきました。
 石だんがとちゅうで、横にまがっていますので、そこまでは上からのあかりがきますが、そこから先はまっ暗です。
 先とうの大須賀は、足でさぐりながら、ゆっくりとおりました。
 石だんをおりてしまうと、そこにドアか、ろうかのようなものがあると思っていたのに、ドアもろうかもなく、ただ、ゆかが土でなく、板であるということがわかるだけで、どのくらい広いのか、てんじょうがどのくらい高いのか、けんとうがつきません。
 かれらはだまったまま、しばらくそこに立って、耳をすませました。
 もし、いま古川たちがいるなら、話し声ぐらい聞えそうなものですが、それがどこからも聞えないのです。
「もっと行ってみよう。」
 大須賀が、口のなかでそうつぶやいて歩きだすと、あとの者も、おたがいのからだに手をふれながら、やみのなかをひとかたまりになって歩きはじめました。
「じ、じ、じ――」
 みょうな音がしだしたので、ぱっと、だれかが、かいちゅう電燈をとぼしました。
 電燈にてらしだされたのは、なんと、大きな一ぴきのとらなのです!
 そのとらは、はじめ二本の足を前へつきだし、それにあごをのせ、目をつぶって眠っていたのですが、電燈の光をうけると、恐ろしい顔を起して、ぱっちり目をあけ、まぶしげにこちらを見るのです。
 洋一と露子はふるえあがり、
「うっ!」
 と、のどのおくで叫んで、手をとりあって逃げようとしました。
 が、そのしゅんかん、とらは大きな口をあけ、かみなりのような声で、
「うおう!」とうなって立ちあがり、のそのそこちらへ歩いてきだしました。
「バーン!」
 へやをゆすぶるような銃声がとどろきました。
 大須賀がピストルをうったのです。
 それと同時に、電燈がきえて、もとどおりのまま暗やみとなりました。とらは一ぱつのたまで、頭をうちぬかれたのでしょう。あたりはひっそりとして、なんの物音もしなくなりました。
 と、だしぬけに、チラリとやみのなかにあかりがもれました。それは、かれらの立っているところから、五、六メートルはなれたところのドアがあいて、あかりを背にして、ひとりの男があらわれたのでした。
「だれだ?」
 その男は、するどい声でどなりました。
 洋一と露子には、すぐ、その男が古川であることがわかりました。
「よう、古川君、みょうなところでお目にかかった。じつは、きみにいろいろききたいことがあって、やってきたのだ。」
 大須賀はそう言って、まだ火薬くさい煙のでるピストルをかざしながら、そのほうへ近よりました。
 ピストルを持った男が、思いもよらぬ大須賀であることを知ると、古川はさっと顔色をかえました。
 しかも、大須賀のうしろには、強そうな男がふたりと、洋一や露子までついているのです。
「古川君、もうきみがどんな男か、たいていわかっているんだ。どたばたするとこのビストルの引金を引かなくちゃならんが、ぼくだって、なるべくきみにけがはさせたくない。」
 大須賀がじりじりつめよると、古川はしだいにあとずさりして、へやのなかへはいりました。
 みんなも大須賀のあとについて、石油ランプのついた、へやのなかにはいりました。
 かべぎわにベッドがひとつ、まんなかに丸テーブル、もひとつのかべぎわに、デスクがあります。古川は今まで本でも読んでいたのか、そのデスクのランプの下に、本をひろげてあります。
「すわりたまえ!」
 そういわれると、古川は、はなのさきにつきつけられたピストルをみながら、そっとテーブルのそばのいすに腰をかけました。

Kという字
「きみにききたいことが二つある。よくわかるように答えてもらいたい。」
 まっさおになった古川は、ピストルを持って立つ大須賀の顔や、そのうしろに立つ人かげを、じろじろ心配そうに見ていましたが、
「よし、なんでもきいてくれ。」
「正直に答えるだろうね?」
「さしつかえのないことなら、答えてもいいが、とにかく、そのピストルだけは、しまってもらいたいな。そんなぶっそうな物を、目の前につきつけられちゃ、おちついて話なんか、できやしない。」
 大須賀はピストルをにぎっている手を、したにおろしました。
「ポケットのなかに、しまってくれたまえ。」
 大いきをしながら、古川がいいました。
「だめだよ!」大須賀は笑いました。「虫のいいことをいってらあ! ぼくがこのピストルをポケットにいれると、きみがどこからかピストルを出すつもりなんだろう?」
「そんな物は持っていないよ。ぼくのポケットをさぐってみるがいい。」
「それにはおよばない。では、きくがね、ぼくの家から首かざりを盗み、それから、しばらくしてある家からダイヤを盗み出したのは、きみなんだろう? 正直に答えてもらいたい。きみが露台から、ハンカチに包んだ首かざりを庭に落したり、それから宝石をなかまの者に分けてやったりしたのを、ちゃんと、ここにいる洋一君が見ているんだからね。」
 古川はくちびるのあたりをふるわせながら、
「ぼくが盗んだといったら、どうするつもりなんだね? 警察の手にわたすつもりなのか?」
「きみに質問されにきたのじゃない。こちらの質問に答えさえすればいいんだよ。警察の手にわたすか、わたさんか、それはきみの答えをきいたあとでぼくがかってにきめる。じつは、まだなんとも考えていないんだよ。はっきり答えなければ、しかたがないから、警察へわたすということだけはわかっているが……」
 古川は大いきをしながら、相手の目を見いっていましたが、
「じゃ、正直に答えよう。あの首かざりはぼくが盗んだのだ。」
 と、ひくい声で答えました。
 大須賀は、ほっとしたように深いためいきをして、
「ぼくの母は、だいじな首かざりを盗まれたといって、ひどくらくたんしているぜ。かえしてもらうわけにはいかないのか?」
「そいつは、ちょっと――もう金にしてしまったのでね。だから、金でかえそう。」
「金はほしくないよ。」
「あの首かざりのねだんを十万円とみて、そのばいの二十万円だしたら、もんくはないだろう?」
「いらんよ、金なんか!」
 しかりつけるように、はげしくいいました。
「たずねたいことが二つあるといったね。一つの質問はきいた。それにたいして、ぼくはありのままを答えた。もひとつの質問は、まだきかないように思うが――」
「正直にこたえるか?」
「なんでもきいてくれ。」
「そんならきくが、洋一君と露ちゃんの親は、なんという名で、いま、どこにいるんだ?」
「……」
「早くへんじをしないか?」
「……」
「アメリカあたりでは、金持の家から子供をさらってその親から金をしぼりとるやつがあるそうだが、きみは十年間もふたりの子どもを育てさせたのだから、まさか親から金をとるのが目的じゃないんだろう? なにかわけがあると思うんだが、それを話してもらいたい。まず、親の名から知らせてくれたまえ。」
「それはいわれないね。」
「いわなければ、警察の手にわたすまでだ。それでもいいのかい?」
 こまったように、古川はランプの火を見ながら、考えていましたが、顔をおこすと、にやにや笑って、
「ふたりの子どもの規は、名前のはじめに、Kという字のつく人なんだ。これだけで、かんべんしてくれたまえ。」
 大須賀はま顔になって、
「ローマ字のKか?」
「そう。」
 が、このとき、たいへんなことが起ったのです。
 ドアがあけはなしてあったので、何者かが後からあらわれ、やきゅうのバットのようなもので、大須賀の頭を、力まかせになぐりつけたのです。
 大須賀は、ピストルを握っていた右手をあげるひまもなく、どさっとゆかの上にたおれました。
 つづいて、山下とひげの男も、頭をなぐられてたおれました。
 その男は、つぎに洋一をめがけて、バットのようなものをふりあげたのですが、古川が手をあげて、
「子どもはかわいそうだ! 生かしておけ!」
 と、いいました。
 恐る恐る、洋一と露子が、その男の顔をよくみると、古川のヨットにのっていた、白シャツの男なのでした。

三つの死体
 古川はうれしげに、右手でその男の手を握りしめ、左手で肩をたたきながら、
「うまくやってくれた。ありがとう。いいところへ帰ってくれた。こっちはひとり、向こうは三人、そのうえピストルをつきつけられたのだから、はらはらしていたところだ。ほんとにありがとう。」
「古川さん、それより、早くこの三人を、海へほうりこみましょう。ぐずぐずしていると、生きかえりますよ。」
「まてよ。このままほうりこむのはまずい。海へなげこんでから、息を吹きかえしたらやっかいだ。その戸だなのいちばん下に、麻のふくろがあるだろう。あれを三つ出してくれ。この死体を重い石といっしょに、ふくろにいれてほうりこむんだ。」
 きゅうに元気づいた古川は、子どもとばかにしてか、洋一と露子には目もくれず、白シャツの男といっしょに、戸だなから麻のふくろを三つさぐり出すと、それをひろげて、穴があるかどうか、しらべるのでした。
 ふくろとひもの用意ができると、古川は、あけはなしてあるドアとは、はんたいのがわにあるドアをあけました。
 そのドアの向こうはトンネルになっているらしく、すうすう寒い風が吹きこみます。
 古川は片手にかいちゅう電燈を持ったまま、死んだようになっている、大須賀をかつぎあげました。
「ああ、重い、重い! 向こうまで行けるかしら。とちゅうでへこたれそうだ。きみはその男をかついでくれたまえ。」
 白シャツは、やっとこさで、三つのふくろと山下をかつぎあげると、ひげの男の死体をふりかえり、
「古川さん、あいつはいつやら逃げ出した男ですよ。どうします?」
「どうするといったって、いっときに三つの死体は運べないよ。あいつはあとだ。さあ、行こう。ああ、重い、重い!」
 死体をかついだふたりが、かいちゅう電燈をかざしながら、暗いトンネルへはいっていくと、あとにはひげの男の死体と、洋一と露子だけがのこりました。
「どうするの、にいさん?」
「早く逃げよう。」
「どこから?」
「ついてこい!」
 洋一は、大須賀のおとしたピストルを、すばやくひろってポケットにねじこむと、片手にランプを持ち、来た時のドアを外にでました。
「あら、とらの死体がみえないわ。どうしたんでしょう?」
 きたときには、まっ暗でなにも目にはいりませんでしたが、ランプの光にてらしてみると、かべぎわにベッドの一つある、りっぱなへやなのです。
 でも、露子のいうとおり、とらの死体はどこにも見えません。
「ふしぎだね!」
 ふたりが石だんのしたまでくると、また、じ、じ、じ、という音がして、ぱっと向こうのかべに光線がうつって明かるくなりました。
 みると、そこにとらがうつっているのです。
 そのとらは、来た時と同じように、一声たかくうなりましたが、すぐ、じ、じ、じ、という音といっしょに、消えてなくなりました。
「露ちゃん、わかった?」と、洋一は笑いながら、妹をふりかえり、「この床板をふむと、向こうのかべに映画がうつるしかけになっているんだよ。来た時には、だれかがかいちゅう電燈をつけたのかと思ったが、そうじゃなかったのだ。映画の光線が、かいちゅう電燈のようにみえたんだよ。つまり番犬のかわりに、映画をつかっているんだ。」
 だが、ふたりはゆっくりそんなものを見てはいられませんでした。いっときも早く、逃げ出したいと思うだけでした。
 いそいでふたりが石だんをかけあがると、来た時には、そこになにもなかったのに、こんどは頭の上に水平に、鉄の板みたいなドアがしまっています。そのドアには、手をかけるところも、ハンドルもないのです。
「どこかに、ボタンがあるはず――」
 洋一はしばらくランプでかべをさがしていましたが、
「これ、これ!」
 と、ボタンを見つけて、それを押しました。
 たちまち、鉄の板がするするとあきました。
 いつのまにか、外はたそがれて、日の沈んだ西の空は、かすかにだいだい色にそまり、はるかな海から吹いてくる、さわやかなそよ風が、草の葉をそよがせています。
「さあ、早く海岸へ走っていって、ヨットをさがそう。」
 洋一は元気な声でそういいました。

死体ふたつ
 ずきずきと頭がいたむので、大須賀精一は目をさましました。気がついてみると、だれかにおぶさって、どこかを歩いているのです。
 大須賀はそっと目をあけてみました。おんぶしているのは古川です。古川が電燈をてらしながら、まっ暗なトンネルのようなところを、よちよち歩いているのです。
「ああ、そうだ! おれはさっき古川と話をしていたのだ。そこを、うしろからだれかになぐられて、気を失ったのだ。古川はおれが死んだと思って、海へすてに行くのだろう。」
 大須賀は心でそう思いましたが、また、目をつむって死んだふりをしました。
 ちょうど、胸のところが、古川の肩にのっかっているので、いきをするのも苦しいほどでした。
 でも、いきが苦しいのは、おんぶしている古川も同じなのでしょう。しばらくすると、古川は大きいいきをして、
「ああ、いきが苦しい! 死んだ人間が、こんなに重いものとは思わなかった。ちょっと休もうじゃないか。」
 古川は、しゃがみながら、大須賀を肩からふりおとしました。
 ふりおとされた大須賀は、岩の上に横になって、死んだふりをしていました。
 そして、はそめに目をあけてみると、暗いのでよくわかりませんが、うしろから来た白シャツの男も、
「どっこいしょ!」
 と、山下の死体らしいものを、肩からおろして、岩の上にすわるのでした。
「古川さん、ふくろとひもは持って来ましたが、石はあるでしょうか?」
「石はトンネルの入口にいくらでもあるよ。大きいのでも、小さいのでも、よりどりだ。」
「どっさり石をいれときませんとね。」
「そうだとも、海に浮きあがって、生きてられちゃたいへんだ。」
 しばらく休むと、
「さあ、行こう……」
 と言って、古川がまた大須賀をかついで、立ちあがりました。
 そしてヒイヒイいきをしながら、苦しそうに前こごみになって、でこぼこの岩の上を歩きます。
 大須賀は、すきがあったら、逃げだそうと思っていました。ちょうど自分の両手が、だらりと古川の肩から前にたれさがっているので、この手で古川のくびをしめてやろうかとも考えました。
 でも、そんなことはできません。すぐうしろに、白シャツの男がいるのです。
 だしぬけに古川が、「ここだ!」
 と言って、大須賀を岩の上にふりおとしました。
 大須賀はまたそっと目をあけてみました。下においてある電燈のあたりに、岩が見えるだけで、なにも目にはいりません。
 でも、そこがトンネルの入口で、すぐ下に海があることはよくわかりました。それも、島の外がわの海でなく、さっきボートでなんどもまわった内がわの海なのです。暗くても、声のひびきぐあいで、それがわかるのでした。
「ぼくはいま考えてみたんだがね、ふくろのなかに石をいれるだけじゃ、どうもだめらしいよ。」
「どうしてです?」
「ふた月か三月たつと、ふくろがくさってやぶれると思うんだ。」
「やぶれたっていいでしょう。」
「いや、やぶれると死体が浮きあがるんだ。」
「まさか。」
「死体が浮きあがって、外の海へ流れだすと、発見されるにきまっているからね。」
「じゃ、どうします?」
「そうだね……」古川は考えていましたが、「ふくろの上から、針金をたくさんぐるぐる巻きつけたらどうだろう?」
「ありますか、針金が?」
「針金ならいくらでもある。きみ、すまんが、取って来てくれんか。戸だなのおくに輪にしてしまってあるはずだ。いや、きみじゃわからないかもしれん。ぼくも行こう。きみはあのひげのある男を、かついで来てくれたまえ。」
 大須賀は胸がどきどきしました。逃げるなら今です!
 目をつむったまま、耳をすましていると、古川は白シャツの男といっしよに、来たほうへ引きかえすようです。
 ふたりの足音や話声が、しだいに遠くなって、消えてしまうと、大須賀はむっくり起きあがって、まっ暗ななかを、手さぐりに山下に近づき、はげしくその肩をゆすぶりました。
「おい山下……山下……」
 なんども、耳に口をよせて、名をよびました。
「う……う……」
 山下はのどを鳴らして正気ににかえり、
「ど、どうしたんだ?」
 と、とばけたようにたずねます。
「ぐすぐすしちゃいられない。すぐ古川と白シャツがここへやって来るんだ。こっちはピストルなしだが、向こうはピストルを持っている。この下の海にはうりこもうと思っているんだよ。ぼくは、はじめは、ほうりこまれたら、ナイフでふくろをやぶって、逃げようと思っていたが、ふくろの上から、針金を巻くそうだから、逃げるなら今のうちだ。」
「どこへ逃げるんだ?」
「ここは、さっきボートで迷った海なんだ。だから、一方の岩かべについて泳ぎさえすれば、島の外へ出られる……きみ、泳げるだろう?」
「千メートルぐらい平気で泳げるよ。」
 ふたりのいるところから、二メートルほど岩をおりると、すぐそこが海になっていました。
 ふたりはくつをぬぎすて、服をきたまま、ざんぶと暗い海にとびこみました。
「ああ、冷たい、ぶるぶるぶる……」
 手足がしびれるほどの寒さでした。そのうえ暗いので、なにも見えません。

こじきの子
 ボートのつないであるほうへ急いでいた洋一は、だしぬけに立ちどまって、
「露ちゃん、いま古川さんが言ったこと聞いた?」
「聞いたわ。おとうさんの名には、Kという字がつくんだって。」
「ちがうよ。ぐずぐずしていると、三人が生きかえると言ったじゃないか。だから、三人ともまだ死んじゃいないんだ。」
「そうなら、嬉しいけど。」
「ぼくは、いま気がついたんだけど、あの三人は、いまが死ぬか生きるかの別れ目なのだ。それを見すてて、こんなに逃げだすのは、ひきょうだと思うんだ。」
「どうしたらいいの?」
「いそいで引き返せば、まにあうかもしれない。古川さんに助けてもらうようたのんでみよう。」
 夕やけぐものしたを、兄と妹は、また穴のほうへ引きかえすのでした。
 石だんをおりると、ライオンが頭をもたげてほえましたが、こんどはちっともこわくありません。
 古川のへやの前まで来ると、ドアのすきまからかすかにあかりがもれ、そこから人の話声がきこえます。
 洋一は露子のうでをつかんで、立ちどまりました。
「ちぇッ! ゆだんならねえやつらだ。子どもも逃げるし、ひげをはやしたやつも逃げやがった!」
 古川の声です。
 ひげの男も、生き返って、逃げたものとみえます。
「こりゃ困った。またさがすのにひとほねおりだ。」
 白シャツの男です。
「なに、心配することはない。小さい島だから、すぐさがせるよ。」
「古川さん、これはいかが?」
「うん、一ぱいくれ。」
 ふたりで酒を飲んでいるような音がきこえます。
 洋一は、かれらがぐでんぐでんに、よっばらってくれればいいなと思いました。
 ドアをあけて中にはいろうと思いましたが、もっとふたりの話をききたいので、黙って立っていました。
「古川さん。」
「なに?」
「あのふたりの子を、どうしてだいじになさるの?」
「なにもだいじにしやしないよ。ここへ来るとちゅう島においてきぼりにしたのは、きみも見て知っているだろう。」
「あれはだれの子なんです?」
「そりゃ、ちょっといわれないね。」
「そう秘密になさると、ぼくのほうでも、よけいに聞きたくなるんです。とにかく、赤んぼの時から、金をかけて、あの運転手の金助に育てさせたぐらいですから、何か深いわけがあるんでしょう。」
「べつにわけはないよ。ただ、おれのあとつぎにりっぱな大どろぼうにしたいと思っているだけなんだよ。」
「どこからひろって来たんです? こじきの子ですか?」
「これだよ、針金……」
 ふたりの話は、ぷっつりそこでやみました。
 つぎにかれらが、どんなことを言うだろうと思って、洋一はなおも耳をすましていました。
 が、話声はそれっきり聞こえません。
 思いきって、洋一はドアをたたきました。返事がありません。
 ノッブをまわして、ドアをあけようとしました。
 いつのまにか、かぎがかかって、ドアはあきませんでした。

泳げ泳げ!
 海へ飛びこんだ大須賀と山下は、闇のなかを泳ぎながら、時々、左手でかべをさぐりました。岩をはなれると、迷子になるからです。そのかわり、岩にとりついてさえいれば、いつかは島の外へ出られるのです。
 世の中に、どこが暗いといって、この島のなかの海ほど暗いところがあるでしょうか。星のない闇夜に、家の外へ出ると、暗いことは暗くても、それでも、空の明かるみがぼおっと見えたり、白い道がぼんやり見えたりするものです。
 でも、この島のなかの海は、空もなければ、明かりもさしてこないので、どっちへ向いてもまっ暗で、目にはいるものがなにもないのです。
 ふたりは疲れると、両手で岩にしがみついて休みました。けれど、長く休んでいることはできません。水が冷たくて、じっとしていられないからです。
 この時のふたりは、目には見えませんけれど、寒さのために、くちびるがむらさき色になっていたにちがいないのです。
「ここで左へおれるんだよ!」
 だしぬけに、先を泳いでいた大須賀が言いました。
 ふたりは広いところから、トンネルにはいりました。
「もうひといき!」
 寒さとたたかいながら、ふたりは力いっぱい泳ぎました。
 やがて向こうにひが見えました。
「ぼくらのヨットだ!」
「そうらしい。中国人の影が見える。」
 ヨットに泳ぎついて、船べりに手をかけると、あわててキャビンから出てきた三人の中国人が、手をさしのべて、引っばりあげてくれました。
 キャビンへはいった大須賀と山下は、まず、ぬれた服をぬぎからだをふくと、新しい服を出して着かえはじめました。
「おい山下くん、あいつらはこれからどうすると思う。」
「とにかく、向こうは秘密のかくれがをさぐられたのだ。それから、あいつらが宝石どろぼうであるということもわかったのだ。だから古川と白シャツは、一時も早くこの島から、逃げだすにちがいないよ。」
「ぼくもそう思う。逃げられてから、さわいだってつまらん。だから、今夜は一晩じゅう、ヨットで島をぐるぐるまわりながら、見はることにしようじゃないか。」
「よかろう。」山下は、ズボンのボタンをしながら、「だがね、大須賀くん、島を見はるより、あいつらのヨットをぶんどったほうがいいと思うがどうだろう。あいつらのヨットをぶんどって、それに三人の中国人をのせるのだ。」
「なるほど、ヨットもボートも取ってしまえば、古川も白シャツの男も、この島から逃げ出すことができなくなる。そうしておいて、ぼくらだけ二そうのヨットにのって、東京へ渡り、警視庁へ報告するのだ。」
「それがいい。じゃ、今夜のうちに、ボートとヨットを、ぶんどることにしよう。一時も早いほうがいい。」
 お茶をのむと山下はいかりをあげヨットを海へだした。
 空には星が砂をまいたように出ています。
 島を半分ほどまわると、がけ下に白いボートがふたつ見えました。近よると、その一そうに、洋一と露子とひげの男がのっているのでした。
「大須賀さあん!」うれしげに洋一が呼びます。
「ぶじでよかったね。そのボートでこっちへこい。もひとつのボートも、いっしょに引っぱって来てくれ。」
 そう大須賀が、大声でどなりました。

気球
 まぶしい朝日がてりだしました。
 みんなは島のちかくに二つのヨットを浮かべて、一晩ぐっすり眠ったのでした。一つのヨットには大須賀と山下と洋一と露子、ぶんどったヨットには、三人の中国人とひげの男がのっています。こうして、ヨットをぶんどってしまえば、島にのこった古川と白シャツは、袋のねずみと同じで、逃げだすことができません。
「さあ、東京へ帰ろう。」と、大須賀がいいました。
 だが、この時、だしぬけに洋一が、
「あッ!  あれはなんでしょう? 」
 と、島を指さしたのです。
 一同ふりかえりました。島の木立のあいだに、大きなたこの頭みたいなものが、ぐにゃぐにゃ動いているのが見えます。
「たいへんだ! あれは気球だ! 気球にのって、島を逃げだすつもりなのだ。いま、水素ガスを入れているんだろう。みんな上陸!」
 すぐきまヨットを島につけ、みんな上陸して、気球のほうへ急ぎました。
 歩きながら、洋一はききました。
「気球にのって、どこへ行くつもりなんでしょう?」
「いま南風がふいているから、あれにのっていさえすれば、日本のどっかの上空へ流されるんだよ。」
「流されても、気球からおりることはできないでしょう?」
 綱でしばってある広告気球アドバルーンよりほか見たことのない洋一は、ふしぎそうにきくのでした。
「いや、ひもをひっぱると、少しずつガスがぬけるようになっているのだ。だから、古川らは日本の大きな山脈の上空までくると、人のいないところでガスをぬいて、おりるつもりなのだ。」
「そんなところへおりたら、もうさがせませんね?」
「そうだとも。だから今のうち、つかまえなくちゃ――」
 むこうはふたりきり、こちらはおとなだけでも六人なのです。ですから、洋一も露子も、少しもこわくありませんでした。
 はじめて会った時、弱っていたひげの男も、ゆうべおいしいものをたくさん食べて、ぐっすり眠ったせいか、きょうは見ちがえるほど元気になって、あとからついてきます。
 森をぬけると、気球がまぢかに見えだしました。銀色の大きな気球は、はちきれるほどまん丸になって、ちょうど古川と白シャツの男が、ゴンドラという、つりかごに乗りうつろうとしているところです。
「古川! 待て!」
 ばたばたかけよって、みんなで気球をとりかこんで、つりかごのふちに手をかけようとしました。
 だが、その瞬間、プスリと古川がナイフで綱を切ったので、つりかごは、ふわふわと地をはなれました。
 つりかごの下に、長い綱が二本ぶらさがっていました。
「なにくそ!」
 洋一はその一本を両手でつかんで、力いっぱい引っぱろうとしました。
 でも、この時、たいへんなことが起ったのです。洋一をぶらさげたまま、気球が上へ上へと、のぼっていったのです。洋一がそれに気づいた時には、飛びおりることができないほど、高くのぼっていたのです。
 洋一君はあおくなりました。
「にいさあん!」
「あぶない、あぶない!」
「手でぶらさがっているとあぶないから、その綱で胴をしばるんだ!」
 みんなのあわてて叫ぶ声が、下のほうから、いっしょになって聞えます。
 洋一君は、片手で綱にぶらさがったまま、片手で綱のはしをたぐりよせ、それを二重に胴にまきつけて、しっかりゆわえました。
 ゆわえてしまうと、胸は少し苦しくなりましたが、全身の重みがそこへかかるので、手のつかれる心配だけはなくなりました。
 気球はどんどん上へのぼって、島がおもちゃのように小さくなりました。
 ふと、洋一はいいことを思いつきました。
「そうだ。おれはピストルを持っているはずだ。古川のへやから逃げだす時、ひろったビストル――」
 左手で綱をにぎったまま、右手でズボンのポケットをさぐると、うれしや、ピストルが手にふれました。
 洋一君はそのピストルで銀色の気球をねらい、「ズドン!」と、一発ねらったのです。
 だが、二発目をうつことはできませんでした。それは、あまり高いところへのぼったのと、胸が苦しいのとで、目がくらんでしまったからです。
 大きな気球は、一発のたまを受けたぐらいでは、びくともしません。
 だらりと、死んだように目をつむった少年をぶらさげたまま、上へ上へとのぼっていきます。
×  ×  ×  
 ちょうどそのころ、青い海や高い山を遠くへだてた、静かな諏訪湖のほとりの大きな家に、八十をこしたひとりの老人が、肺炎をわずらって、すやすや眠っていました。
 これが、此子木という、大須賀精一のおじさんで、広々とした家に、女中とたったふたりで、暮らしている人なのです。
 老人が目をさますと、そばにすわってかんびょうしていた女中がいいました。
「だんなさま、きょう先生がおみえになったら、注射をおうけになったらいかがですか? 先生は注射すればすぐなおると、おっしゃるのですけれど――」
「もう注射のことだけはいわないでくれ。わしは注射がきらいだ。それより、おまえ、きのう電報をうってくれただろうね?」
「はい。」
「電報がついたら、きょうは東京から精一が来てくれそうなものだが。」
 もう何年も昔に、たったひとりの娘をなくしたこの老人は、おいの精一だけをたよりにしているのです。
 でも、なんで、なんで、そんな電報が大須賀精一にとどきましょう。いま、遠い南の島で、大東京の悪魔の乗った気球を、ぼんやり見送っている最中なのですもの。

墜落
「気球を見送っていた大須賀は、山下をふりかえって、
「ヨットで気球を追っかけよう。」といいました。
「だって、見たまえ、北へ北へと流れているじゃないか。ヨットより速力が早いから、追っかけたってだめだよ。」
「しかし、こうなったら見ているわけにもいかん。追っかけられるだけ追っかけてみよう。」
 みんなは、また海岸へ急ぎました。
 二つのヨットが岸をはなれて、帆をはったころには、日をうけて銀色に光る気球は、青い空のなかの、豆のように小さくなっていました。
 口に出してはいいませんでしたが、みんな洋一が生きているものとは思いませんでした。それはピストルの音が聞えたからです。あのピストルの音は、古川が洋一をうったのだろうと思ったのでした。
 風がまうしろから吹くので、二つのヨットは、白波をけりながら、矢のような速力ではしりました。
「どうしてだろう。気球がだんだん落ちているらしいよ。」
「ほんとだ。おかしいね。」
 あいかわらず、気球は北へ北へと流されていますが、よく見ると、たしかに下へ落ちています。
 はじめ高いので豆のように小さかった気球は、だんだん低くなって、野球のボールぐらいになり、さらに低くなって、フットボールのように大きく見えだしました。
 ふしぎなのは、それだけではありません。はじめ、まん丸に張りきっていたのが、しなびて、くぼみができて、そのくぼみが風にふかれて、ぐにゃぐにゃ動いているのが見えます。
 そして、気球の落ちる速度は、しだいに早くなりました。
「しめた! 全速力! もう落ちるにちがいない!」
「洋一君は、死んでいるんだろうか? よく見えないけれど、だらりと頭や手をたらしているじゃないか。」
「なに、かいほうすればすぐ生きかえるよ。」
「あッ!」
 とうとう気球は、落下さんのように、ヨットから一キロメートルほど先の海に、ばさっと落ちました。
 近よってみると、胸に綱をまきつけたままの洋一君は、にこにこ笑いながら、浮かんでただよう気球に取りすがっています。
「にいさん!」
 うれしげに露子が呼びました。
「古川はどうしただろう?」
 大須賀がヨットを近づけて、気球のそばに浮かんでいるゴンドラをのぞきこむと、ふたりの男が、えびのようにからだをまげ、横むきに倒れているのです。
「死んでいる!」
「ふたりともピストル自殺だ!」
 一同は、洋一をたすけてヨットにのせ、ふたりの死体は、中国人のヨットにうつしました。
 死んだ古川の手がにぎりしめていた手帳に、こんなことが書いてありました――。
「もうこの気球はだめだ。私はとらえられる前に、自殺して世間におわびする。どうして私がこんなことをしたか、ここにそのわけを書いておこう。
 私は諏訪の町でいちばんの金持の家に生まれ、此子木家の令嬢と結婚の約束までしたが、酒ばかりのむ私の素行おさまらないので、此子木氏は約束をやぶり、令嬢をほかの男と結婚させてしまった。私が此子木家にふくしゅうをちかったのは、この時からはじまるのだ。
 その男は中国で戦死し、令嬢はその翌年肺をわずらって、建太郎という男の子と、鈴子という赤んぼうをのこして死んだ。
 私はこのふたりの子が、女中につれられ、逗子の海岸を歩いているところを待ちぶせ、女中は金をやっていなかへかえし、ふたりの子どもは私の部下の金助に育てさせることにし、ボートがひっくりかえって、三人とも死んだようにみせかけた。
 それから私は、大東京の悪魔といわれるほどの悪い男になったのだ。そして、ふたりの子供を、私と同じような悪い人にしようとしたが、すべては失敗におわった。」

湖畔の家
 いくら医者が注射をすすめても、此子木老人はいやだいやだといって、がんこに注射をこばみました。
 ですから、病気はしだいに重くなりました。
 精一に電報をうってから三日たちました。三日のあいだ、毎日同じ電報をうちました。それでも精一からは、なんのたよりもありません。
 だが、四日めに思いがけなく、女中がにこにこ笑いながら、
「だんなさま、精一さまがおみえになりました。」
 すぐそのあとから、日にやけた精一が、洋一と露子をつれて、はいってきました。
「おじさん、ご気分はいかがですか。」
「うん、よく来てくれた。待っていた。待っていた。あとのことをたのもうと思ってな。それはどこの子だ。」
「よろこんでください、おじさん。これはふたりとも、おじさんの孫なのです。」
「どうして? そんなことをいうもんじゃない。わしの孫は、何年もまえに逗子の海で死んでしまったのだ。」
 精一は島の話や気球の話、それから古川の遺書のことなど、こまごまと話しました。
 老人はびっくりしたように目をみはって、精一の顔を見つめながら、耳をかたむけていましたが、聞きおわると、喜びに目を輝かせ、
「ああ、そうだったのか。おまえが建太郎か! 鈴子か! もっとこっちへよれ!」
 ふたりの頭をなでて、
「大きくなったなあ。ふたりともおかあさんそっくりの顏をしている。よく無事で帰ってくれた。ありがたい! こんなうれしいことはない。」
 老人はいきいきとした顔で女中に、
「すぐ電話で先生を呼んでくれ。注射をうけますといって――」
×  ×  ×  
 みなさん、晴れた日に、山の中腹にある此子木家の前を通ってごらんなさい。すっかり健康になった老人が、ある時はテラスのとういすで日なたぼっこをし、ある時は庭で草花の手入をしているのが見えるでしょう。
 そして、かつては洋一とよばれていた建太郎や、露子とよばれていた鈴子が、元気のいい声で、学校の本のおさらいをしているのが、窓からもれるのが、聞えることでしょう。
 もし、みなさんの運がよかったら、専門の音楽家でも、びっくりして立ちどまるようなバイオリンの音が、その窓からもれるのを、聞くことができるかもしれません。
 これは、建太郎君が、少年コンクールを目ざして準備しているのです。(おわり)

注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加削除したところがあります。
注)行頭一文字空けは追加したところがあります。改行を追加したところがあります。


「海の狼」妹尾韶夫(冒頭部のみ)
「冒険少年」 1948.04. (昭和23年4月) より

エスキモー
 エスキモーといったらなんだろう?
 こうたずねられると、十人の讀者のうちの五人までが、エスキモーとは北氷洋にすむ人種であると答えるだろう。
 では、北氷洋のどのへんにすんでいるか?
 この問いに答えうる讀者は、おそらく十人のうちに一人あるかなしであろう。
 エスキモーがいちばんたくさん住んでいるのは、グリーンランドなのである。そのつぎがアラスカ、それからカナダ北岸とシベリア東部、そのほかの土地には、ほとんど住んでいない。
 彼らは背が低くて、日本人のように皮膚が黄褐色で、かみの毛が黒くてちぢれていない。いつも毛皮の服をきて、夏は毛皮の小屋イグルーにすみ、冬の間氷と雪でつくった小屋イグルーにすむ。 エスキモーの村には、むろん學校のようなものはないから、子供の時から、親につれられて、北極光オーロラの浮かぶ雪の野に、犬橇にのってけものをとりに行ったり、氷のうかぶ海に小舟カヤクをうかべて、魚をとりに行ったりするのである。
 アラスカ北岸にすむエスキモーに、アミツカという十三の少年があった。ある朝、彼は祖父のウムダクにつれられて、小舟カヤクにのつて海豹あざらしをとりにゆくことになった。
  (略)

イルカ
「このごろは潮の調子がくるったのか、このへんに毎日のように海の狼がやってくる。用心しないといかん」
 祖父のウムダクがいった。
「うちのお父さんは、海の狼に噛み殺されたんでしょう?」
「そうだよ。もう十年になるかな。あの時はわしとふたりで、海の狼がくるとすぐ、氷塊の上に逃げたんだけれど、たくさんの海の狼がよってたかって、氷の塊を下からひっくり返してしまったのだ。わしだけは次の氷の塊まで泳ぎついたけれど、お前のお父さんは食われてしまった。海でいちばん怖いのは海の狼だよ」
  (略)
 エスキモーが海の狼というのは海豚いるかのことなのである。英語でドルフィンという。日本の傳説に鯱という魚がある。これはお城の屋根のいちばん高いところに逆立ちさせて飾りにする勇猛な魚であるが、この鯱は海豚のことだという。
  (以下略)

注)明かな誤字誤植は修正しています。
注)句読点は追加したところがあります。
注)改行を追加したところがあります。


ほんあん黒苺ブラック・ベリイ」妹尾韶夫(冒頭部のみ)
「ロック」 1947.01. (昭和22年1月) より

 ある晩、仁木は友だちの探偵鍛冶木を案内して、銀座裏地下室の狼月亭で食事をした。仁木は飾氣のない純粋のアメリカ料理を食はせる狼月亭がすきだった。それに常連の顏ぶれがたいていきまってゐて、いつも森閑としづまりかへって、無作法な客がこないことも嬉し醫かった。常連の多くが洋畫家であるためでもあらう、四つの壁には畫廊のやうに夥しい油繪がかざってあって、それが落着いたほの晴い電燈にてらされてゐた。
 女給ハル子もよその食堂の女給にくらべるとどことなく垢抜けがして、年増だけれど利口で美しく、それに常連の一人々々がどんな料理を好むかといふやうなことまでちゃんと心得てゐるのだった。
  (略)
「君、かういふところに坐って世の中を觀察してゐると面白いものだね。あの隅っこに頤鬚をはやした老人が坐ってゐるだらう。あの人は降っても照っても火曜日と木曜日の晩にこゝへやってきて、空いてゐさへすれば必ずあのへんに坐るのだ。それがもう十年も時計のやうに正確なんだとさ。それでゐてどこに住んでどんな商賣をしてゐるかといふことはもとより、名前さへしった人がゐないのだから面白いぢゃないか」
 ハル子が七面鳥の一片を皿にのせてもってくると、
「姐さん、あのお爺さんはまたきてゐるね」
「えゝ、火曜日と木曜日にはお缺かしになったことがございませんの。それが先週は突然月曜日においでになったので、はじめには私が日をまちがへたのかと思って、びっくりいたしましたわ。でも、あくる日またつゞけていらっしゃったので、月曜日だけは例外だったわけです」
「それはめづらしい―― 」仁木が呟いた。
「月曜日には何か心配ごとでもおありになったのかもしれません」
「態度がちがってゐたのか?」
「いつものやうに、お入りになると『今晩は!』お歸りになるとき『左様なら!』と云はれるだけですから、態度がどうのかうのといふわけぢゃございませんが、ご注文になったものがちがってゐたのです」
  (以下略)

注)明かな誤字誤植は修正しています。曜日に不備がありますが修正しています。
注)句読点は追加変更したところがあります。
注)原作は「二十四羽の黒つぐみ」アガサ・クリスティー。


ほんあん「蛇皮バッグ」妹尾韶夫(冒頭部のみ)
「ミステリイ」 1948.03. (昭和23年3月) より

 初子の職業は普通人の職業とはかわっていた。P百貨店は日曜日でもあり天氣もよかったので雜沓してゐたけれど、どの賣場へあるいていっても、店のものが初子の職業をしってゐるやうに思はれた。かの女が通ると男の店員が見つめたり、女の賣子が妙な顏をしてひそひそ囁くのである。
 これには初子も當惑した。もう三十年も法律上の「所有物」といふ言葉に彈力性ある獨自の解釋をくだして、自分ならびに二人の子供たちを養ってきたかの女は、警視廳の連中にはもとより、市内の主なる百貨店でよく顏をしられてゐた。だが、P百貨店へはあまり足をはこんだことがないので、こゝだけは安全だらうと思ってゐたのに、そのP百貨店でも猜疑のまなこの一齊射撃をうけやうとは――。
 だが、そのうち好い機會にめぐまれるであらう。愚かな冒險をこのまぬ初子は、形勢非なりとみると、徐ろに退却することにきめた。さうしてぶらぶら昇降機のほうへ歩いてゆきかけた時、鼻の先に鴨葱物をみせつけられて、思はず立ちどまった。
 ほかでもない。いままでしきりに銘仙の反物を物色してゐたひとりの若い女が、ハンドバッグをそこに置いたまゝ、反物をもって帳場のほうへ行ったのである。それはN・Sといふ頭文字を銀色に打ちこんだしゃれた蛇皮のバッグで、適當にふくらんでゐる。いそいで初子はあたりを見まはしたが、有難いことにこちらに顏をむけてゐる者はひとりもなかった。
 そこでかの女は自分のバッグの内容物を素早くポケットに移すと、その空のバッグを床に落して陳列臺の下に蹴りこみ、それから蛇皮のバッグを取って、なにげなく靜かに歩きだした。あとから肘をつかむものもなければ、呼びとめるものもなかった。
  (略)
×  ×  
「もう絶望でせうか?」と刑事廣瀬がきいた。
 醫者下野は路傍に仰向けになってゐり小さい體を診察し終ると立ちあがって、その薔薇の蕾のやうな赤い唇のある蒼白い美しい顏を眺めてゐたが、
「頭蓋骨に傷はみえないやうですが、瞳孔が擴大してゐるのは、腦にひどい傷をうけてゐる證據ですな。廣瀬さん、あなたはこの女を知ってゐると仰っしゃいましたね?」
「知ってゐますとも。寺下初子といって、萬引常習犯の女ですよ」
「自殺でせうか、それともあなたの姿をみて逃げださうとしたのでせうか」
「そりゃちょっとわかりませんな。しかし飛びだすまへに長い間私を見てゐたことは事實です」
「どうも不思議だ。このバッグは盗んだのでせうか?」
「どうせ自分のものぢゃありますまい。N・Sとかいてあるぢゃありませんか」
 黒山のやうな人だかりを押しのけて寝臺車がやってきて、昏睡状態の初子を慶應病院に運びさった。刑事廣瀬が蛇皮のバッグを同僚の刑事にわたすと、醫者下野が口をだして、
「どうも不思議ですな、萬引女が乗合自動車めがけて走りだすとは。私はこの事件をもっと取調べてみたいのですが――」
  (以下略)

注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は変更したところがあります。


ほんあん「雨はヨットに」妹尾アキ夫(冒頭部のみ)
「東京」 1948.02. (昭和23年2月) より

「先生はいらっしゃいますか?」
「お氣の毒ですが、診察は一時からなんですけれど――」
「診察じゃないのです。ちょっとお目にかかりたいのです。」
「あ、そうですか。じゃ、どうぞ。」
 大町京子は看護婦に案内されて、待合室にはいるときいた。
「あなたまだお聞きにならない?」
「なんです?」
「人見さんがピストルで――」
「あァ、大変なことになりましたのね。お嬢様、お顏色が惡うございますわ。ここで待っていてください。」
 そそくさと部屋をでると、看護婦は須田の書斎へはいった。
 若い須田博士は、いつも晝食がすむと一時まで、大きなデスクにむかって、讀書に余念がない。丈夫そうな体をして、眼鏡も鬚もない顏は、立派というよりは男性的であった。
「先生、大町京子さんがおみえになりました。ピストルで殺された人見さんのことで相談にこられたらしいのです。」
「そうか、じゃァ、ここへお通ししてくれ。」
 べつに驚いた顏はしなかった。彼は大町京子もしっているし、かの女の放蕩者の三人の兄もしっている。それから、まだ会ったことはないが、かの女と近い中、結婚すると噂のあった、殺された人見もしっている。
 人見はこんど工場労働者の劇團を組織するため、土地の富豪刈田芹子が、三月ほどまえ、東京から呼びよせた新進の劇作家で、労働者や農村の素人芝居の理論では、可なり名をしられた人物なのである。
 靜寂をこのむ人見は、刈田家に泊らないで、海近い河口につないだ刈田家のヨットに寝起きしていた。荷物はトランクが一つと、スーツケイスが一つだけ、食事は刈田家の女中が三度三度はこんでくれるし、外出のときには船室に鍵をかけてでられるし、彼にとっては氣樂ではあったろうが、この三カ月というもの、ちょっと風変りな生活をしていたのである。
 刈田芹子の良人は寛大な人で、たいていのことは夫人のいうままにしておいた。だから人見を呼びよせることだって、すこしも反対しなかったのである。この文学少女めいた芹子夫人は、刈田氏の後妻で、十年まえに死んだ先妻とのあいだに理三郎という二十五になる息子がある。この息子は学校をでても、どこにも勤めず、家にあって釣りばかりに熱中しているが、風采もよいし、健康で氣立てのよい青年であった。 須田は今まで、大町京子が結婚する相手は、この青年かと思っていた。というのは、刈田家の土地と大町家の土地は隣合っているし、それにふたりは子供の時から親しかったからである。
 だが、新進の劇作家がこの土地にのりこんで、急に事態がかわったのであった。
  (以下略)

注)明かな誤字脱字は修正しています。句読点は追加や削除したところがあります。


「壁を叩く音」妹尾アキ夫(冒頭部のみ)
「笑の泉」 1955.08. (昭和30年8月) より

 何年も昔の話、香港からニューヨークへ帰る途中、私はサンフランシスコで一週間をすごした。
 久しぶりにこの町を訪間した私は、そこで何人かの旧友に会ったが、そのうちの一人に、私と同窓のダンピアというのがあった。この男とは、別れた当初はさかんに文通していたが、そのうち音信不通になってしまったのだった。どうも文通というものは、いくぶん距離の遠近に支配されて、あまり遠方に離れると、両方から疎遠になるものらしい。
 私の記憶に残るダンピアは、勉強ずきの健康な学生だったが、根気よく仕事をするのはあまり好きでなく、金を儲けることなぞ、眼中にないらしかった。もっとも、これは彼の育ちによるので、莫大な資産を相続した彼は、生活のためにあくせくする必要なぞなかったのだろう。性質が感傷酌で、いくぶん迷信家らしいところもある彼は、一時神霊学なぞに興味を持ったこともあるが、それかといって、万事を放てきして、それにこるというふうでもなかった。
 さて、私が彼の家を訪問したのは、人通りのない街路に、寒々とした冬の雨が降りしきる、暴風雨の夜のことで、烈しい風に吹かれる雨が、横なぐりに家々の窓を打っていた。私の馭者が探しあてた彼の家は、海岸に遠い郊外の、人家のまばらな区劃の、広々とした庭のまんなかに立った家だったが、庭には草も花もなく、ただ二三の大木が、風に吹かれて唸りを立てているだけだった。 家は煉瓦造りの二階家で、その屋根の片隅に、一階ぐらいの高さの塔があって、家の中で灯のついているのは、その塔の窓だけらしかった。いかにも物寂しいそんな光景をみると、なぜともなく私はぞっと身震いしたが、それは一つには、馬車を出て玄関に走る時、ちょっと雨に濡れたせいもあるだろう。
  (略)
「そんなに気を廻さなくてもいいよ。塔にはこの部屋しかないんだから――」云いかけて彼は立ちあがり、音のした壁に取りつけてある唯一の窓をがらりとあけ、「この通りだ」
 私は彼のそばへよって、窓から覗いてみた。雨は降りしきっていたが、遠くの街燈の光で、外に誰もいないことはすぐわかった。窓の外にあるのは、雨に濡れて、つるりとした塔の壁だけだった。
  (略)
「まあ、いいじゃないか。君が来てくれたことを、感謝しているのだ。じつは、いまのような壁の音を、これまで二度聞いたが、今まで半信半疑だった。今夜は君の耳にも入ったのだから、錯覚でないことが、初めて分ったよ。君は知らないだろうが、これはぼくにとって大変なことなんだ。葉巻でもすいながら、これからぼくの話すことを、きいてくれたまえ」
 雨は低い囁きのように、小止みなくふっていた。烈しい風が起るごとに、外の大木の梢が、怒ったような唸りを立てた。夜は更けていたが、私は同情と好奇心から、静かに友の物語に耳を傾け、途中で邪魔になるような言葉は、はさまなかった。

 今から十年ほどまえ、ぼくは町の反対がわ、リンカンヒルの、同じような造りの家ばかり、ずらりと並んだうちの、一軒の階下を借りて、住んでいたことがある。その一列の家々は、街からちょっと引っこんだ位置に撻ててあって、どの家の前にも、鉄柵でくぎった、同じような小庭があり、門から玄関までの、つげの木でふち取った小砂利の道が、その庭を幾何学的の正確さで二分していた。
 ある朝、下宿を出かけたら、一人の少女が、左どなりの庭を入ってくるのがみえた。
  (以下略)

注)明かな誤字は修正しています。


「石鹸は知っていた」妹尾アキ夫(冒頭部のみ)
「笑の泉」 1956.08. (昭和31年8月) より

 ゴルツビーは公園のベンチに腰かけていた。うしろには手摺にかこまれた芝生と植込み、まえには広々とした自動車道路をへだててロットン・ロー、右には自動車の音や、警笛のやかましいハイドパークがあった。
 三月初旬の午後六時半、あたりはほのかな夕闇に包まれはじめ、その夕闇はかすかな月光や、たくさんの街の灯にやわらげられている。
 大路小路をゆきかう人の姿はまばらだったが、薄暗いものかげは黙々として人影がうごめき、はっきりとは見えないが、あすこのベンチここの椅子に、もうろうとした人の姿が坐つている。
  (略)
 さて、その紳士がたそがれのなかに消えてしまうと、今度は、風采だけは立派であるが相変らず浮かぬ顔をしたひとりの若者が来てそのあとに腰かけた。どうも世の中が面白くないといった恰好で、ぶつぶつ口の中でわけの分らぬことを呟きながら、どっかとベンチに腰かけたのである。
「どうしました? 悪いことでもあったのですか?」と、ゴルツビーはきいた。
 若者は好人物らしい顔をこちらへ向けたがすぐまた陰気な表情になって、
「こんなひどい目に会ったのは、ぼく生れて初めてです」
「どうしたんです?」
「ぼく、きょう、パークシャー広場のパタゴニアン・ホテルへ泊ろうと思って、ロンドンへやってきたんですが、来てみると、なんといつのまにかホテルがなくなって、そのあとに映画館ができているんです。それでタキシーの運転手のすすめるホテルヘ泊って、そこで田舎へ手紙をかき、それから石鹸を買おうと思って外出したんです。ぼく、ホテルの石鹸を使うのが嫌いなたちでしてね。 ところがちょっと街をぶらつき酒場で一杯やって、石鹸を買って帰ろうとしたら、ホテルの名はもとより、そのホテルのある街の名さえ知らずに外出したことに気がついたんです。ロンドンの友だちがないので困りましたな。田舎へ手紙を出しましたから、その田舎へ問いあわせれば、ホテルの名は分るのですが、その手紙は明日にならんと、向うへ着かないんです。ホテルを出る時、お金を一シリング持っていたのですが、それで酒をのんだり、石鹸を買ったりしたので、いまじゃ二ペンスしかないんです。これじゃ今夜どこにも泊れない」
  (以下略)




「パリからの手紙」妹尾アキ夫(冒頭部のみ)
「笑の泉」 1956.11. (昭和31年11月) より

 ペリー様
 パリからの絵はがき、ありがとうございました。セイヌ河をへだてて、ノートルダム寺院をみた景色、わたし羨しくて、思わず溜息がでてしまいました。ペリーさんがフランスへご旅行なさるなんて、なんて素晴しいことでございましょう。この手紙がつきますころには、あなたはスイス行きの準備をなさっていらっしゃるのじゃないでしょうか。そんな風光明眉な国の名をかくだけでも、もうわたしの頭はぼうとなってしまいそうです。でもわたし羨んではなりませんわ。 これでも女としては幸福なほうでしょう。といいますのは、図書館の司書をしていますので、いろんな国の案内書を自由にみれるからで、そんな本をみていますと、あなたといっしょに旅をしているような気持になってしまうのです。
 学校が始まるまでにはお帰りになってね。校長のあなたがお留守では、学校を始めることができません。では九月にお会いしましょう。また飛行便でお手紙ください。
  カナダ、クリヴァタウン図書館にて
ノルマより

 ノルマ様
 二十三日附のお手紙有難うございました。数時間ののちに私は生涯におけるもっとも重大な危機に直面せねばなりません。その危機というのがどんなものか、見当がつかないのですが、まだ三時間の余裕がありますので、不安な時間を消すためこの手紙をかきます。
 きょう昼食前、私はカプシーヌ街の「セイヌの漁夫」というカフェの、街にめんした椅子にこしかけて、通行人や自動車をみていたのです。すると隣りのテーブルに、よく肥った、頭のはげた、顎先に黒いひげのある男が、葉巻をくわえて坐っていたのですが、その男がだしぬけに英語で、「失礼ですが火をつけさせてください」というのです。
 その時、私はマッチをもてあそんでいたんですから、こんなことをいわれても、ちっとも不思議じゃなかったのです。で、早速マッチをすってやりました。
 すると、お礼でもいうのかと思っていたら、
「今夜七時、ラメール街二十三番、アパートのいちばんうえ」
 と、それだけいうと、私のほうは振向きもせず、つれの女といっしょに、すたすたカフェを出てしまったのです。
 私は狐につままれたような気持でした。秘密結社やスパイの連中が、こうした方法で街頭連絡する話はききましたが、相手もあろうに、私のような外国人にそんなことを呟くのは不思議です。人をまちがったのでしょう。
 ぽかんと二人の後姿を見おくっていると、ふいに私の腕にふれたものがあるのです。ふりむくとやせて骨ばった男が、
「おい、ちょっとこい」と横柄にいいました。
 私はめんくらいました。
「どこへ行くんです?」
「警視庁」
  (以下略)

注)明かな誤字脱字は修正しています。句読点は追加や削除したところがあります。


怪奇短篇「生者の墓標」妹尾アキ夫
別冊笑の泉「新グラマー画報4」 1959.01. (昭和34年1月) より

 きょう私は奇妙な経験をした。まだいのちのあるうちに、そしてまた、こまかいことを覚えているうちに、ここにそれを書きとめておくことにしよう。
 まず、私の名が、ジェームズ・ウィザクロフトであることから書きはじめなければならぬ。年齢は四十、心も体も健康で、まだいちども病気になったことがない。職業は画家、有名な画伯でないから世間には私の名を知らぬ人も多かろうがそれでもとにかく、挿絵画家として、いままで一本立ちで生活してきたのである。五年前までは、姉と二人で暮していたが、その姉が死んでからは、まったく天涯孤独の身なのである。
  (略)
 その絵は、私の今までかいた絵のなかでもすぐれたものだった。それは裁判長が死刑の宣告をしだした瞬間の法廷の模様で、死刑の宣告をうけた被告人は、頭の禿げた、きれいに髯をそった、でぶでぶ肥った二重顎の男で、短かい、無器用げな指でむずと手摺をつかんで、じっと前方を見つめているが、その顔には、絶望というよりは、むしろすさまじい恐怖といったようなものが現れていた。
 その絵を描きおわった私は、ていねいにたたんでポケットに入れたが、どうしてポケットにしまう気になったのか、いまになって考えてみても、その理由が分らない。そして、満足に仕事を仕終った時のいつもの癖で、気分の転換をするために、ぶらりと外に出た。今から考えてみるのに、家を出た私は、トレントン君を訪問する気だったらしく思われる。というのは、線路工事をしているあたりでリットン街の方に折れた記憶があるからだ。でも、結果的に考えて、私はトレントン君を訪問しなかった。 それからの私が、どのへんをどううろついたか、どうもはっきりしないのだが、ただ非常な暑さに苦しめられたことだけは覚えている。暑さにアスファルトが溶けて、靴の裏にくっついたほどだった。西の空には大きな黒雲が土手みたいに横たわっていた。私は早くその雲が拡がって、雷鳴をともなった夕立でも降らしてくれればいいと思った。五、六マイル歩くと、小さい子供が私を呼びとめて時間をきいた。
 六時四十分だった。

 子供と別れた私は、急に瞑想から覚めたように、いったい自分はどこを歩いているのだろうとあたりを見まわした。私の前には門があって、その門のなかに赤や紫の花が咲きみだれているのが見えた。その門には、
「アトキンスン墓石工務所」と書いてある。
  (略)
 その男は私が絵にかいた男だった。死刑の宣告をうけた男にちがいなかった。
  (以下略)

注)句読点は追加したところがあります。



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夢現半球