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妹尾アキ夫 作品小集4

Since: 2025.03.30
Last Update: 2025.04.20
略年譜・作品・著書など(別ページ)
作品小集1 - - (別ページ)

      目次

      【ビーストンに就いて】

  1. 「ビーストンの特質」 (紹介・考察) 旧かな旧漢字 2025.03.30
     
  2. 「ビーストン雑感」捕鯨太郎 (雑感) 旧かな旧漢字 2025.03.30
     
  3. 「一方から見たビーストン」 (考察) 旧かな旧漢字 2025.03.30
     
  4. 「ビーストンに就いて(『ビーストン集』)」 (後書き) 旧かな旧漢字 2025.03.30
     
  5. 「ビーストンの作品(近頃読んだもの)」 (雑感) 旧かな旧漢字 2025.03.30
     
  6. 「ビーストンに就いて(『人間豹』)」 (前書き) 旧かな旧漢字 2025.03.30
     
  7. 「ビーストンに就いて(別冊宝石)」 (紹介・考察) 新かな新漢字 2025.03.30
     
      【オーモニアに就いて】
     
  8. 「オモニアーに就いて(新青年)」 (紹介) 旧かな旧漢字 2025.03.30
     
  9. 「オーモニアーに就いて(探偵趣味)」 (紹介) 旧かな旧漢字 2025.03.30
     
  10. 「オーモニアに就いて(新青年)」 (紹介) 旧かな旧漢字 2025.03.30
     
      【フリーマンに就いて】
     
  11. 「ソーンダイクに就いて」 (紹介) 旧かな旧漢字 2025.03.30
     
  12. 「あとがき(世界推理小説全集29)」 (後書き) 新かな新漢字 2025.03.30
     
      【その他海外作品・作家に就いて】
     
  13. 「予感と幽霊」 (紹介) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  14. 「ペルツァー兄弟」 (実話紹介) 新かな旧漢字 2025.04.20
     
  15. 「文学ベストテン」 (紹介※一部割愛) 新かな新漢字 2025.04.20
     
  16. 「オースチンの追想」 (随筆) 新かな新漢字 2025.04.20
     
      【日本作家・探偵小説・自身に就いて】
     
  17. 「変名をくさす」 (提言) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  18. 「感想」 (随筆) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  19. 「三番町時代」 (直木三十五追想) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  20. 「展望」胡鉄梅 (随筆) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  21. 「七色の虹(今年の抱負)」 (提言) 新かな旧漢字 2025.04.20
     
  22. 「(ENQUETE・三周年記念に際して)」 (随筆) 新かな新漢字 2025.04.20
     
  23. 「新鮮・快感・美的」 (私見) 新かな新漢字 2025.04.20
     
  24. 「兇器雑考(トリック研究)」 (解説・提言) 新かな新漢字 2025.04.20
     
      【翻訳に就いて】
     
  25. 「災厄の町の評について」 (随筆) 旧かな新漢字 2025.04.20
     
  26. 「私の小さいミステリー」 (随筆) 旧かな新漢字 2025.04.20
     
  27. 「靴のサイズ」 (解説※詳細割愛) 新かな旧漢字 2025.04.20
     
  28. 「探偵小説翻訳家組合」 (提言) 新かな新漢字 2025.04.20
     
      【アンケート・近況・短文(戦前)】
     
  29. 「(マイクロフォン)」 (寸感) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  30. 「(クローズ・アップ)」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  31. 「(昭和2年度印象に残った作品と希望)」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  32. 「(探偵小説問答)」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  33. 「(推薦の書と三面記事)」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  34. 「(昭和十一年度の探偵文壇に)」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  35. 「(海外探偵小説十傑)」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  36. 「(直木賞記念号の読後感と最近読んだ小説の感想)」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  37. 「(昭和十二年度の気に入った探偵小説)」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  38. 「(強要撃退術(当世百戦術))」 (短文) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
  39. 「(当世女十傑)」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2025.04.20
     
      【アンケート・近況・短文(戦後)】
     
  40. 「(ラジオ放送探偵劇について/愛読する海外探偵小説)」 (アンケート) 新かな新漢字 2025.04.20
     
  41. 「(今年お仕事上の御計画/生活上実行なさりたいこと)(昭和27年)」 (アンケート) 新かな旧漢字 2025.04.20
     
  42. 「((昭和28年)お好み年頭所感)」 (アンケート) 新かな新漢字 2025.04.20
     
  43. 「((昭和29年)お好み年頭所感)」 (アンケート) 新かな新漢字 2025.04.20
     
  44. 「新年崩壊(昭和31年)」 (アンケート) 新かな新旧漢字混在 2025.04.20
     
  45. 「(木々会長還暦祝賀)」 (アンケート) 新かな新漢字 2025.04.20
     
  46. 「((昭和33年)お好み年頭所感)」 (アンケート) 新かな新漢字 2025.04.20
     



「ビーストンの特質」妹尾韶夫
「新青年」 1925.10. (大正14年10月) より

 ビーストンの第一の特質は緊張味に富んでゐることだ。そして Shrill シュリルに富んでゐることだ。彼の小説には、無駄な叙述がない。ゆるみがない。カットすべき部分がない。始めの一行から最後の一行に至る迄、ピンと張りつめた、鋼鐵の絲のやうに緊張してゐる。叩けば鳴る鋼鐵が、彼の藝術である。彼の藝術は、塗りたくりつけ加へたものでなくて、無駄をかなぐり棄て、けづり去ったものである。 だから、鍛へに鍛へた日本刀のやうに凄く澄んでゐる。だから、せいぜい三十枚ぐらゐな短篇ばかりである。その會話の一句一句が、讀者をはらはらさせる。どうなるだらうと手に汗を握らせる。彼が作った人物は、簡潔な、鋭い、火花が散るやうな會話を交しながら讀者に息もつかせず、頁から頁へと結末を急いで行く。
 彼の第二の特質は、奇想天外から落ちる式の構想である。「意外の結末」アネクスペクテドエンディングである。およそ、「意外の結末」と云へば、西洋では(日本には全然ないのだから西洋と斷る必要はないかも知れぬが、)米國のオー・ヘンリーに留めを刺すと云はれてゐる。けれどもオー・ヘンリーのは、それが最後の一行に表はれるだけだから、少々呆氣ない感じがする。西洋落語と云はれる所以だ。 そこに持って行くと、ビーストンのはそのアネクスベクテッドがほど好い處に出てゐるから、充分にその驚きを含味享樂することが出來る。讀んでゐる中に、讀者の想像と期待をがらりと裏切って、意表に出るやうな結末に導いて行くのが彼の十八番おはこである。この點で、彼はユニークな作家だ。だから少しでも彼の作を讀んだことのある人は、彼の作と知らずに彼の作を讀んでも、これは彼の作だ、彼以外にこんな作を作り得る者はないと直ぐ氣が付く。 それほど彼は奇抜な構想やトリックを用ゐることが旨いのだ。それほど彼は組織的な明快の頭腦の持主なのだ。
 ビーストンの第三の特質は、描寫が徹頭徹尾、客觀的だと云ふことだ。彼は、手紙を受けとって心配してゐる人物を描く場合でも、オーモニア式にその心配を生のまゝ直接に書かうとせず、その人物の顏色と行動で心の心配を現はさうとする。例へば「決闘」の一九六頁を開けて見たまへ。(※作品は「約束の刻限」)
「ブランナは一通り手紙を讀んで仕舞ふと、最後の文句をぢっと睨んだ。太い眉をひそめて紙に穴が開くほど鋭く睨んだ。二分間った。それでも彼は身動きもしない。 火のいてゐない煙管パイプを口から取っても、火をけようとはせず、たゞ握りしめてゐるだけだった。彼は咽喉のどの奥の方で軽く咳拂ひした。それからまた繰返して始めから讀始めた。鳥渡足踏して一吋ばかり前より廣く股を開て、木が生えたやうに衝立った。」
 ざッとこの調子だ。實に驚くほど旨く書けてゐる。
 すべて容觀的に物事を取りあつかふ彼は、筋の過去の經過を讀者に知らせる場合でも、それを叙述的に述べることをなるべく避けて、作中の人物の對話で、それをどんどん語らしてゐる。それが爲には、對話が不自然になっても、お構ひなしだ。(「決闘」一九一頁参照)彼はそんな場合の不自然なぞと云ふことは、初めから眼中に置いてないらしい。
 ビーストンの第四の特質として、以上三つの他の雜多な特質を、ひっくるめて述べてみよう。彼の人物は、生活に對して、生々とした感覺を持ってゐる。花の匂ひ、雨の音(彼はよく雨を降らせる)なぞを彼一流の簡潔な言葉でよく描いてゐる。「密柑畑の匂ひよ! それに混ったテレビンスの樹の匂ひよ!」(「決闘」一四五頁)なほこの「東方の寶」には、彼の總ての作に流るゝ人生觀の基調をなす新鮮な希臘主義ヘレニズムがよく現はれゐ。 また彼は個々の人物の性格を、浮彫のやうな鮮かさで書き分けてゐる。
 彼の作には、時々、「人間豹」の中のエルグッドや、「敵」の中のマディッシュのやうなポー式の病的な人物が出て、ダイアポリカルな影を投げてゐるが、それは強烈な電燈が強い影を伴ってゐるのと同じ理由に過ぎない。彼が好んで描く人物は、ヴァレンティン伯爵や、レストローワや、ミルトや、セアズ卿や、フェラリのやうな、明るい、冒險的な、何處か床しい英國紳士の面影のある男性的人物である。それらの人物が、生か死か、危機一髪と云ふ、クライシスに直面した場合の動作を好んで描いてゐる。
 左様。男性的と云ふのが、彼の作の總てに冠せられるべき名前である。日光に觸るれば奇々怪々の琥珀色の光輝を發する、火のやうに強い英國製のウイスキーをたゝへたグラスが、ビーストンの作物である。
 其國の文學を見れば、その國民の意氣の消長が解る。亡國には亡國的な文學しか咲かない。世界に覇をなすアングロサクソン人種が、疲れた時にぐッと一息飲むのが、この舌端を觸ればピリヽと來る、香りの高い、甘美な、男性的なジョニー・ウォーカーである。英國にビーストンが生れたのは當前あたりまへである。

注)明かな誤字誤植は修正しています。


「ビーストン雜感」捕鯨太郎
「新青年」 1925.10. (大正14年10月) より

◎ビーストンは好きは好きだけれど、堪らぬと云ふほど好きではない。探偵物だけに就て考へてみても、彼の探偵物よりオーモニアーの探偵物の方がずッと好きだ。オーモニアーは「犯罪の偶發性」「オピンコット」「墜落」の三つの探偵小説を書き、三つとも本誌に載せられたが、これなら堪らぬほど好きだと言へる。しかしビーストンが嫌ひではない。好きは好きだ。
◎横溝君は三の宮あたりの古本屋に行って、ビーストンが載ってゐる外國雜誌は皆買ったと云はれるが、私も地震で神戸にゐたころには、よく三の宮の古本屋に行って、目録にビーストンの名がありさへすれば手當り次第買って歸った。 ストランド、プリミアー、ランダン、ピヤースン、グランド、ストーリーテラー、米國のディテクティヴ、中でもプリミアーとストーリーテラーには、毎月讀切りの主人公だけ同じ連續物シリヤルの形になったものが随分長く出た。私も五十以上は讀んだが、集める觀念がないもんだから、片っ端から棄てゝ行った。
◎春田君は、うるほひがないのがビーストンの缺點だと云はれたが、私も同感である。筋や構想は大變立派だが、それを裏づけるだけの落着いた瞑想がない。だから、血と肉を持たぬ骸骨みたいな氣がする。
◎ポーとビーストンを比較すると、ポーの崇拝者が抗議を申込むかも知らぬが、こんなことは個人の趣味を標準にして論ずべきもの。そして私自分に就いて云へば、私はポーよりビーストンの方が好きである。ビーストンがポーの感化を受けたことは事實だ。だから先驅者と云ふ意味でポーに尊敬を拂ふことは惜しまぬ。しかし時代と云ふものを度外視して、たゞ作品だけに就いて考へると、ビーストンの方が面白い。
◎尤も私は餘りポーを知らぬ。「アッシャー家の潰崩」と「レーヴンの詩」を原書で讀んだ外には、七つの短篇を反譯で讀んだきりだ。私は惡魔的なもの、病的なもの、變態的なもの、餘り陰氣なものには興味を起さうとしても興味が起きない。しかし私は自分の趣味を諸君に強ひはしない。そのかはり諸君も私がポーよりビーストンの方が好きだと云ふのを笑はないでくれたまへ。
◎ポーは感情に徹底し、ビーストンは理智に徹底してゐる。感情に徹底したポーが不孝な生活をしたことは、彼の傳記を見れば解る。この極度まで感情を徹底さしたことは、彼の作品に高い香りと不思議な光りを與へた。ビーストンの傳記はブックマンに出たこともないらしいし、人名簿フーズフーにも載ってゐないから、どんな人かさっぱり解らない。たゞ現在の作家と言ふことが解ってゐるだけだ。
◎けれども彼の作品を見れば、彼が理智的の人だと云ふことは直ぐ解る。餘程理智の發達した者でなければ、あれだけの複雜な、奇抜な筋は考へられない。あの筋は感情で作ったものでなくて、頭腦で作ったものである。建築家が定木とコンパスで澤山の家を設計すると同じ正確さ、同じ素早さで、彼は澤山の筋を作った。
◎彼が作った筋は、時間的に順を追って見ても相當面白いのに、頭の好い彼はそれだけで滿足せず、時間的に後になるべき處を、頁の上で前にしたり、中程になるべき處を最後に持って行ったり、實に驚嘆すべき巧みさで、奔放自在に取り扱って、ゆはゆる彼一流の「意外の結末」で讀者をいつも驚かしてゐる。
◎けれども、ビーストンの作に、筋以外に何物があるだらうか? 少くも、彼の作品にうるほひがないのは、筋以外に何物もないから――いや、比較的筋が多すぎるからだとは云へないだらうか?
◎私は落着いた瞑想がないのが、ビーストンの最大の缺點だと思ってゐる。落着いた瞑想と云ふのは、私の云ひ方が拙い。ポーが持つ突込んだ觀察と、あのひつこいほどの落着いた描寫、それから感情だ。私がビーストンを三分の一まで好いて、まるきり好きになれないのは、彼がこれを缺いてゐるからである。
◎ポーのことを云った次手に云ふが、彼の「阿門酒の樽」と、ドイルの「グリーン・フラグ」と云ふ短篇集の中にある「セ・ニュー・キャタコム」とは、全く同じものだ。一つは地下の穴倉へ友人を連れこんで出口をふさいで殺し、一つは友人を地下の塋窟カタコムに連れ込んで出口を閉いで殺す。けれどもこの二つを比べてみると、ドイルの方が形式もとゝのってゐるし、書き方も旨い。ドイル先生きっとポーのテーマを失敬したのだらう。
◎この道にかけては、ビーストンもドイルに引けは取ってゐない。彼が二三年前のストランド誌に載せた何とか云ふ短篇は、ランドンの「唇を洩れぬ名前」とそっくりそのまゝだ。(「唇を洩れぬ名前」は「第一短篇名作集」に譯されてゐる。ビーストンのは譯されなかったし、原本も今ないのでタイトルも解らぬ。)
◎吉田君の臺本を盗用した築地小劇場のやうなのは大いに攻撃すべしだが、こんなのは攻撃できない。眞似をしても、たゞ抜きん出さへすればいゝ。こんな詩もあるではないか。
"Though old the thought,
And oft exupressed.
Tis his at last,
Who says it best."
◎ドイルの文章は、癖がないので有名だが、ビーストンの作品に出て來る人物の對話は獨特なものである。たとへば彼の作中の人物は「それはきまり切ったことです!」と云ふ場合に、
"Unanserabke! Indisputable!"
 と、たゞ二口答へたり、「いゝえ」と云ふ場合に、
"Absolutely and emphatically no!"
 と、云ったりする。まるで漢語のやうにきびきびしてゐる。これなんかは、ビーストンの臭ひの最も高いものだが、こんなのは譯すと調子が消えてしまふ。
◎ビーストンは決して内部的に立入って、心理描寫をしない。たゞスクリーンに映る映畫のやうに、外部的に現れるものを描くだけだ。「彼女がはッと驚いた」とは云はずに、「彼女の胸に差す薔薇の花が微かに顫へた、」と云ふだけだ。けれどもそれで結局同じやうに心理描寫が出来てゐる。
◎この客觀的描寫は、彼の「意外の結末」をどのくらゐ助けてゐるか解らぬ。作者が知ってゐることを故意わざとと讀者の前に隠して置いて、終ひにそれを現して吃驚させるなぞ、みなこの客觀描寫を、巧く使ひ分けてゐるからだ。
◎例へば『決闘』の中にある「犯罪の氷の道」と云ふ短篇にしても、あの二人はもとより、讀者もあの家がドースの家だことは知らずにゐる。それが終ひに解って吃驚するのも、この客觀描寫のトリックに過ぎないのだ。
◎また八月號の本誌に出た、「緑色の部屋」にしても、最初の中は説明なしの映畫を見てゐるやうで、一軒家に忍び込むブレーディングが泥棒やら殺人犯人やら解らない。またあの乞食にしても、終ひになってはじめて秘密結社の首領だことが解る。この意味でビーストンの「意外な結末」の正體は徹底的な客觀描寫の使ひ分けであると云へる。と云って、何も私が客觀描寫が好きだと云ふのではない。彼の特質を説明してゐるだけだ。
◎客觀的描寫に徹底した彼は、減多にポーのやうに第一人構で書かないが、よくよく第一人稱の形式を借りて書かねばならぬ時には、『決闘』の中の卷頭にをさめられた短篇や、同じく『決闘』の中の「東方の寶」や「人間豹」や、それから今年春ごろ本誌に載った「決闘用の拳銃」のやうに倶樂部のやうな處で、或る男が、自分の經驗を皆んなの者に話して聞かせる形式にしてゐる。 これはツルゲニエーフもよくやった方法だが、かうすれば、たとひ第一人稱で書いても、そこに客觀性が出來るので、面白くよまれる。尤も日本では「私小説」全盛だから、その必要はないかも知れぬ。
◎先日の新聞に、内閣更迭のことで西園寺公を訪ねた或る政治家が、車中でシャーロック・ホームズを耽讀してゐたと書いてあった。これは探偵物が一般に戀愛物に比較して、理智的興味に訴へるから、從ってかうした讀者を吸集するからでもあらうが、一つにはシャーロック・ホームズの男らしい英國紳士ぶりが、或る種の讀者を惹き付けることを忘れてはならぬ。その政治家も云ってゐる。「私はシャーロック・ホームズといふ人物が好きだ、」と。私も彼が好きだ。ドイルの探偵小説は、探偵的興味をはなれて、たゞ男らしい高雅な紳士を描いたものとして讀んでも面白い。
◎英國の小説には男が惚れるやうな立派な男を描いたものが多い。私が最近に讀んだ「スカーレット・ピンパネル」もその一つだ。これにはホームズの沈痛はないが大木のやうな大きさがある。ビーストンは泥棒や前科者を書くと同時に、「惡漢ヴォルシャム」の中のセアズ卿のやうな、素晴しく立派な男らしい紳士を書いてゐる。あれを讀んで男性美に打たれないものがあるだらうか。男性美に興味を感じない人は、英國文學に失望を感ずるだらう。
◎ビーストンが好んで描く人物はスポーツマンである。私がスポーツマンと云ふ英語にぶつかるごとに魂が顫へるほどの喜びを感ずる。スポーツマンと云って運動家と云ふ意味ではない。痛快な冒險をやって結果を運にまかせる人のことだ。フェア・プレイをする人のことだ。
◎表面温厚らしい英國紳士の奥底に、發竦(※ママ)たるスポーツマンの精神があることを忘れてはならぬ。ドイルは英國紳土を書いたが、ビーストンはスポーツマンを書いた。それだけシャーロック・ホームズには品位があり、ビーストンの人物には野趣がある。「決闘」のヴァレンチン伯、レストローワ、シャドソン・セアズ卿、それから「密偵」のフェラリ、皆スポーツマンである。
◎日本人は文化々々と云って、西洋の堕弱な方面ばかり眞似て、その根元をなす野蠻な冒險的精神や、スポーツマンライクな元氣を少しも取り入れようとせぬ。運動競技や勝負事をもっと盛にすべし。國民に就いて考へてみても、個人に就いて考へてみても、競爭心がつよくて勝負事が好きな者は必ず生活力が強くて成長する。西洋人はよく賭けをやるが、これだけはお勧めしないが、而もその底に動物的競爭心が動いてゐることは見逃してはならぬ。國家の將來を憂ふるが故に一言して置く。
◎落着いた瞑想がないのがビーストンの缺點だと云ったけれど、例外はある。題は忘れたが、或る男が大切な手紙を風に吹きとばされ、それを追っかけて窓から這ひ出して、たうとう轉び落ちて死ぬると云ふ筋のがあったが、あれなぞは濕ひがないとは云へない。
◎ピーストンは人情物はあまり書かないし、また書いても面白いのは少いが、數年前のプリミアーに出てをた「菫と薔薇」と云ふのは面白かった。それは、森のそばの淋しい家でピアノを友として暮してゐる盲目の處に、或る晩、死んだ昔の戀人の妹が胸に菫と薔薇をさして訪ねて來て、二人で話をする處を書いたものだ。その中にビーストン一流の凄い緊張味があって、大變面白かった。

注)明かな誤字誤植は修正しています。
注)ネタバラシ部分は背景色文字にしています。


「一方から見たビーストン」妹尾アキ夫
「探偵趣味」 1927.06. (昭和2年6月) より

 淺野君の話によれば、獨乙のレーベン誌なぞは、他の英國の短篇を翻譯してのせると同様に、ビーストンの短編をも時々のせるさうだ。けれど世界の何處を探しても、日本ほどビーストンを盛に譯し、かつまた彼を高く評價してゐる國は他にあるまい。まるでビーストンのメニアに罹ってゐるやうだ。本國で人望のない彼も、日本でだけは鼻が高いわけだ。では彼が日本で持てる理由は何處にあるのだらう。
 それは(第一)彼が今までの日本文學に全然缺けてゐた酒の如く強いアネクスペクテッドとシュリルを最も多分に持ってるるので、それが彼にチャームを與へるのではあるまいか。
 (第二)荒けづりで簡潔な彼の描寫が日本文の翻譯に最もよく適するからではあるまいか。云ひかへればデリケイトな感情の陰影が、少くて唯奇抜な筋の運びにのみ特色を有する彼の短篇が最もよく翻譯に適するからではあるまいか。
 この(第二)はもっと長い説明を要する。假りにポーの翻譯とビーストンの翻譯を兩方讀んだとしたらビーストンの方が面白かったと云ふ人は案外に多いかも知れぬ。然し原文を讀んだら大抵の人が比べものにならないほどポーの方を面白いと云ふだらう。それはどんなに上手に翻譯してもポーの陰影を再現することは難かしく、またどんなに下手に譯してもビーストンの筋を逃す心配はないからだと思ふ。
實際原文で讀めばビ氏が他の作家よりさほど優れてゐるとは思はれない。私などはやはり翻譯と云ふことを念頭に置いて讀むから、それは原文で讀んでも他の作品よりビーストンが面白く思はれるが、然し翻譯と云ふことを念頭に置かず、たゞ樂しむ爲に原文を讀むとしたら、ビ氏に對して持つと同じ程度の興味を持って讀み得る作家の短篇はざらにある。 例へば、四月號のストランドに就いて云ってみても、リン・ドイルやコーラン・パートイーやホレ―ス・ジェーチルなぞ決してビーストンより面白くないとは云はれない。
 私のビーストンに對する見解は、「ビースーンの特質」「ビーストン雜感」を書いた時より大分變って來た。私の様な無趣味な男でもビーストンに倦くのだから、まして多少でも英米の人情を知り英文學に興味でも持たれる人は、Form だけあって Life のない彼の作品には、間もなくお倦きになることゝ思ふ。
 私の「ビーストンの特質」が非難されたからこの文章を書いたのではない。あれを書いた時とは、今の私のビーストン觀が大分變って來たからこの一文を書いたのである。

注)明かな誤字誤植は修正しています。
注)原文は改行なしですが、適時追加しています。
注)「非難された」という内容は未調査未確認です。


「ビーストンに就いて」妹尾韶夫
『ビーストン集』博文館・世界探偵小説全集19 1929.11.27 (昭和4年11月) より

 ビーストン(L. J. Beestone)の名は英國の紳士録にものってゐなければ、ブックマン誌に出たこともない。私たちの知る範圍で、英國の各種の雜誌に彼の批許や傳記が出たことはないらしい。從ってこゝには彼の作品だけに就いて述べるより他ない。
 彼の夥しい短篇は、プレミヤー、ストランド、グランド、ランドン、その他の雜誌にのったのを私たち――もつと詳しく云ふなら、延原、横溝、西田、吉田、淺野、廣田、私なぞが新青年に譯した。
 私一個人に就いて云ふなら、今から十年ばかり前、森下雨村氏がこれを諄してみよと云って與へられらたのがストランド誌から切抜いたビーストンの「ヴォルツリオの訊問」(※「ヴォルツリオの審問」天岡虎雄名義)で、それが私の初めて譯した探偵小説だった。それ以來ずっと探偵物を譯して來たが、私は初めて「ヴォルツリオ」を譯した時の一種異様の感じを今だに忘れることが出來ない。 その時まで大陸の人道主義的な純文藝物ばかり譯してゐた私に取りて何と云ふ驚きだっただらう! そこには産れたまゝの人間の憎惡、怨恨、復讐、恐怖、爭闘、罪惡がありのまゝに描かれてゐる。それらのものが何の憚る處なく思ひ切って大空に技を伸ばしてゐる。私は息が詰るやうな眩惑を覺えた。
 初めて酒を飲んだやうな胸惡い酩酊を感じた。さうだ。強い酒と云ふのがビーストンの作品を評するに最も好い言葉だ。舌端を觸ればビリリと來る火のやうに強いウィスキーが彼の作品である。彼の作品の第一の特長が緊張味に富んでゐることだ。thrill に富んでゐることだ。彼の小説には無駄な叙述や寛みがない。カットすべき部分がない。一字一句を惜んで使って、初めの一行から最後の一行に至るまで、ピンと張りつめた鋼鐵の絲のごとく緊張してゐる。 彼の作品は塗たくり、付け加へたものでなくて、無駄をかなぐり棄て、けづり去ったものである。だから鍛へに鍛へた日本刀のやうに凄く澄んでゐる。その會話の一句一句が讀者をはらはらさせる。どうなるだらうと手に汗を握らせる。彼が作った人物は、簡潔な、鋭い、火花が散るやうな會話を交しながら、讀者に息もつかせず、頁から頁へと結末を急いで行く。だからせいぜい三十枚ぐらゐな短篇ばかりである。 延原氏はビーストンの Dagober's children その他の中篇を二三持ってゐられるが、どうも彼の中篇は面白くないと云ってゐられた。私も、近頃殆どペンを取らない彼がめづらしく昨年書いた Phantom of Crime と云ふ中篇を讀んだが、彼の短篇と比べると見劣りがすると思った。と云って彼の中篇が拙いと云ふのではない。たゞ彼の短篇がそれ以上に優れてゐると云ふのだ。それほど彼の短篇は氣が利いてゐて、獨歩の位置を占めてゐる。
 彼の獨特の味ひは奇想天外から落ちる式の構想と、「意外の結末」アネクスペクテドエンディングにある。讀んでゐる中に讀者の想像と期待をがらりと裏切って、意表に出るやうな結末に導いて行くのが彼の十八番である。この點で彼はユニークな作家だ。それに就いてビーストン通の積溝氏が面白いことを云ってゐられる。 「私なぞビーストンの作品はもう五十近く讀んでゐるが、未だにそのトリックを見破ることが出來ない。彼のものを讃む時には三分の二程讀むと、ばったり本を伏せて了ふのである。そしていろんな解決法を拵へて置く。稀にはそれが當ることもあるが、大抵の場合は失っ張り背負投を喰はされて参ってしまう。それは私などの考へよりも、更に更に奇抜なものである事が多いからだ。」 とこの意外な結末は、彼が徹底的な客観描寫を旨く使ひ分けるが爲だとは云へないだらうか。頭のいゝ彼は時間的に順を追って考へてみても相當に面白い筋を、それだけでは満足せず、時間的に後になるべき處を頁の上で前にしたり、中程になるべき處を結末に持って行ったりして、實に驚くべき巧みさで、奔放自在に取り扱って、彼一流の「意外の結末」でいつも讀者をあっと驚かしてゐる。彼の小説は聲もタイトルもない映畫を見てゐるやうだ。
 彼は決して内部に立入して人物の心理描寫をしない。たゞスクリーンに映る無聲映畫のやうに、外部に現れるものを描くだけだ。彼は、「かの女がはッと驚いた、」と云ふ代りに、「かの女の胸に挿す薔薇の花が徴かに顫へた、」と云ふだけだ。例へば「約束の刻限」のブランナが心配な手紙を讀む處を見たまへ。 「一通り手紙を讀んで仕舞ふと、最後の文旬をぢっと睨んだ。太い眉を顰めて紙に穴が開くほど鋭く睨んだ。二分間たった。それでも彼は身動きもしない。火のついてゐないパイプを口から取っても火をつけやうとはせず、たゞ握りしめてゐるだけだった。咽喉の奥の方で輕く咳拂ひした。それからまた繰返して始めから讀み始めた。」ざっとこの調子だ。實によく書けてゐる。この客觀的描寫は、彼の意外の結末をどのくらゐ助けてゐるか解らぬ。 作者が知つてゐることを、わざと讀者の前に隠して置いて、終ひにそれを現して吃驚させるなぞ、みなこの客觀描寫をうまく使ひ分けたに過ぎない。例へば「犯罪の氷の道」でも、あの二人はもとより、讀者もあの家がドースの家だことは知らずにゐるが、それが後で判って、吃驚するのも、この客観描寫のトリックに過ぎないのだ。 それがいゝか惡いかは別問題として、とにかく主觀的な描寫の嫌ひな彼は、筋の過去の經過を讀者に知らせる場合でも、それを生のまゝ叙述しないで、作中の人物の對話でどんどん語らしてゐる。それがためには對話が不自然になってもお構ひなしだ。 またある人物がたゞ一人ゐる時に心の中で考へることを現す場合だって、獨語の形式を借りて、會話のごとく話させてゐる。とにかく彼の筋の配列は實に巧妙をきはめてゐる。それは感情で作ったものでなくて、頭腦で作ったものだ。筋の取り扱ひ方に於ては第一流の作家と云へる。だが筋や構想の立派な割合に、それを裏づける落着いた濕ひのないのは唯一つの恨みである。
 かれはスポーツマンを好んで描いた。スポーツマンと云って一か八かの生命がけの冒險をやって結果を運にまかせる男らしい人物のことだ。それらの人物が生か死かのクライシスに直面した場合の行動を好んで描いた。それからまた夢魔のやうな恐怖に襲はれた人物の行動――それらの人物が高いビルディングの窓の外を這ったり、今にも滑り落ちさうな屋根の上を這ったりする處を好んで描いた。こんな場面は恐らくビーストンの作品に現れる最も代表的な場面であらう。
――終――

注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加したところがあります。
注)原文は二段落のみですが、適時改行を追加しています。
注)引用された横溝正史の文は「ビーストンの面白さ」(「新青年」1925.08./『横溝正史探偵小説選』論創社収録)からです。


「ビーストンの作品(近頃讀んだもの)」妹尾アキ夫
「ぷろふいる」 1936.05. (昭和11年5月) より

 ひとによって趣味がちがふ。ひとの評判をきいて讀むと、失望することが多い。僕なんか、亂歩氏が推奨した作では、「赤色のレドメン」だけは面白かったが、ハアリヒの「妖女ドレッテ」にしろ、シムノンの「男の頭」にしろ、どこが面白いのか、さっぱり分らなかった。これは、むろん、僕の鑑識が低いためだらうけれど、ひとつには、亂歩氏の鑑賞には、好人物的の間口のひろさがあるのではないかと思ふ。
 そこへ行くと僕の間口は狹いやうだ。數を讀まなかったせいもあらうが、近頃讀んだ外國物で、面白いと思ったのは、一つもなかった。
 先日、横濱の本屋で、表紙の繪が氣に入ったので、ジョン・ウイリアムズの「從男爵の犯罪」を買った。僕は製本、それから表紙やラッパーの繪の感じが惡かったら、買はんことにしてゐる。ところが、この本の安っぽい表紙の繪は、よくある怪人物の影法師や、ピストルでなくて、意地わるげな田舎の老婆が、片手にランプをもって、にやりと氣味わるげに笑ってゐるのが、童話のなかの鬼婆みたいに、グロテスク、かつユーモラスに描けてゐたので、つい釣りこまれて表紙の繪だけでも買ってみやうかといふ氣になったのだ。
 讀んでみると、講談倶樂部式のすこぶる低級なものだが、さすが二十五年前に出版されて、いまだに版を重ねてゐるだけに、どこかいゝところはある。ひどい失望を感じたくないなら、年月のふるいにかゝった作を讀むことだ。
 つぎはビーストンの「その後は幸福」、これは一九三二年出版の長篇だから、彼の最近の作といへる。ビーストンの小説は翻譯すると割合いゝものになるが、原文で讀んではそんなに面白いものではない。彼が英國に於て、二流三流の、ほとんど名もない作家の位置にあるのは、まんざら理由がないこともないのだ。この作は一つの寶石と金にまつわる倫敦の下層社會の生活とごたくさを描いたもので、無駄なところも可なり眼につくが、第十九章の火花がちるやうな會話を讀んでは、おゝ、ビーストン、やっぱりあなたは健在ですな、と思はず叫びたくなった。
 こいつは氣が向いたら、無駄なところだけ切りすてゝ、譯してみたいと思ってゐる。

注)句読点は追加したところがあります。


「ビーストンに就いて」妹尾アキ夫
『人間豹』博文館文庫 1939.06.10 (昭和14年6月) より

 大抵の英國の作家のことは調べれば分るのだが、ビーストンのことだけは、どんな名簿にも記録にも書いてないので分らない。
 たゞ分ってゐるのは、十數年前まで、プレミヤー、ストランド、グランド、ロンドン、ストリーテラー等の雜誌にあれほど盛に書いてゐた彼が、その後少しも書かなくなり、一九三二年思ひ出したやうに長篇「その後は幸福」を出版して久しぷりに沈默を破ったかと思ふと、また書かなくなったと云ふことだけである。
 先年來朝した英國の小説家で、同じ雜誌に長い間彼と一緒に寄稿してゐたブリットン・オースチン氏に、「ビーストンは死んだのですか」と訊いてみたら、「私もあの人の作は愛讀した。名前だけは知ってゐます。併し會ったことがないので、生きてゐるのか死んでゐるのか分りません」と云ふ返事だった。
 今まで日本語に翻譯されたビーストンは約七十篇、そのうち約七篇を除くほかは、全部博文館發行の雑誌『新青年』に載ったもので、同誌に紹介された数百の作家のうちでは、最も多く譯された作家の一つでもあれば、また最も好評だった作家の一つでもある。
 彼の作は曾てドイツの雜誌にも數篇譯載されたと聞く。併し恐らく日本ほど彼が壓倒的に夥しく譯され、かつそれが熱狂的に愛讀された國はあるまいと思ふ。
 では、本國に於てそれほど有名でない彼の短篇が、なぜ我が國でそんなにまで熱狂的に愛讀されたか?
 答へは簡にして單である。
 我が國の在來の短篇小説は、内容に重きを置いて、形式には盲目だった。それが最近の英米通俗文學の一派が輸入せらるゝに及んで、初めて内容よりも形式に重きを置く文學の存在することを知った。それは驚異だった。そしてそれらの一派の作家のうちでその特色、即ち形式に重きを置くと云ふ特色を、最も露骨濃厚に具備してゐたのがビーストンだったのである。
 だから我が國の讀者は、大旱の後の沛然たる慈雨に接したるごとくビーストンに飛びついた。内容がどうだらうが、文學的價値がどうだらうが、そんなことはてんで問題ぢゃなかった。我が國黎明期の探偵小説家は、直接間接ビーストンの影響を幾分受けてゐる。その點でビーストンはすでに立派に使命を果したと云へるのだ。
 では、内容より形式に重きを置く一派の小説とはどんなものであるか。
 これにはもっと説明が要るかも知れない。
 それは早く云へば、正面から物を見ないで、違った角度から物を見ることだ。正面から見るのはもはや飽かれてゐる。それより視野を變へて、思ひがけぬ方面からスポットライトを浴びせて、不思議な陰影を作らうと云ふのが彼らの意途である。
 ビーストンは順を追って描いても相當スリルに富んだ面白い筋を、決して時間的に順を追って描かうとはせず、時間的に後になるべき處をペイジの上で前にしたり、中程になるべき處を最後に持って行ったり、實に奔放自在な巧みさで配列して、彼一流の「意外の結末」でいつも讀者をあッと云はせる。
 言葉をかへて云へば、ストーリーテリングの技術を極度にまでひねくったものである。彼の作品にどんな缺點があらうと、彼の作品がどんなに低級であらうと、この一點だけで彼は實にユニークな作家であるに違ひないのだ。
 だから、讀者よ、試みに彼の作品を途中まで讀んで、本をふせて結末を想像してみられよ。ビーストンは諸君の想像を見事に裏切り、更に奇抜な結末で諸君に背負投げを喰はすであらう。

注)句読点は変更したところがあります。


「ビーストンに就いて」妹尾アキ夫
「別冊宝石」 1953.09. (昭和28年9月) より

 こんど宝石別冊に、チェスタートンとビーストンの短篇を収録することになったと聞いて、私はたいへん要領のいい企画だと思った。なぜというに、もし探偵小説に、程度の高いものと、低いものがあるという前提を承認してもらえるなら、チェスタートンはその最も高い水準にたっしたものであり、ビーストンは最も低い、大衆的な作家を代表しているからである。ドイル、クロフツ、そのたの作家は、巧拙の差こそあれ、みなこの二人の中間に包含される作家なのである。
 ちょっと名の聞えた探偵作家なら、クニツの「二十世紀作家」をみれば、大抵写真までのせてあるが、イギリスのビーストンの名はどんな名簿にものっていない。彼と同じ時代、同じ雑誌に、さかんに作品を発表していたブリットン・オースチンが東京に来た時、ビーストンのことをたずねてみたら名前は知っているが、どんな人か知らないという返事であった。いまは故人となったこのオースチンも、当時はすくなくも、イギリスの「フーズフー」には名が出ていたが、ビーストンの名は、その当時の「フーズフー」にすらのっていなかったのである。
 では、イギリスでそんなに名もない作家が、なぜ日本で受けたか? これは理由があるのだが、それを説明する前に彼の特色を話しておかねばならない。
 ビーストンの特色は、時間的に順をおって話せばなんでもない事件の筋を、自由自在にひねくって中程に書くべきことを初めにもっていったり、初めに書くべきことを結末にもっていったりして、読者をびっくりさせ、面白がらせ、楽しませ、そのためにはあらゆるものを犠牲にしていることである。
 こんな作家は、むろん、他にもたくさんあるが、彼はそのなかでも、筋を巧妙に捻ねるというストーリー・テリングの技術を、もっとも徹底的に巧みに使いこなした作家の一人なのである。そのうえシチュエーションや場面を選ぶのに、常套的な的なものを避け、例えば相手の一語で破滅におちいる前科者だとか、一歩踏みはずせば、まっ逆に落ちる屋上の男だとかを描いて、いつも読者の手に汗を握らせ、スリルを満喫させる。 そして最後に必ずどんでん返しを作って意外の結末で読者をあっと云わせる。しかもそのどんでん返しは、像想もつかぬ巧妙なものでかりに読者が途中で読むのをやめて、結末を想像してみたとしてもビーストンは必ず読者の想像するよりも、もっと大きい意外の結末を用意しているのである。
 ところで、今までの日本には、こんな種類の物語は絶無だったのである。私たちが今まで親しんできたのは、多くはロシア、フランス、ドイツあたりの、まっ正面から主題に斬りこむ、いわばオーソドクスのストーリーなのであった。
 そこに突然入ってきたのが、この、ビーストンもその一人であるところの、イギリスの近代ジャーナリズムとコンマーシャリズムの私生児、「筋をひねった」ストーリーなのである。それは黄昏の世界に突如として現れた刺戟の強い眩惑するばかりの、真夏の太陽であった。それは異端的であり、原始人間への甘美な郷愁を持っていたという意味で、ヘブライズムの上に落下したヘレニズムの爆弾でもあった。大正末期の日本の読者が、なんか新しいものを迎えるように、探偵小説と緊密に提携したこの種のストーリーを、悦び迎えたのはむしろ当然だったのである。
 わが国の探偵作家は、程度の差こそあれ、みな直接間接に、この、探偵小鋭と不可分に提携した「筋をひねる」一派の影響をうけている。いや、実のところは、探偵小説以外の文学やラジオも、多少は間接ながら、いくぶんその感化は受けているにちがいないのである。
 だが、もう私たちは、この「筋をひねる」一派からは、吸収すべき養分は吸収してしまった。もう太陽でもなければ、爆弾でもない。その意味で、この一派はすでにわが国で完全に使命を果したと云える。
 この種のストーリーの欠点は、不自然で人間性を逸脱しているため、皮膚の表面にふれて、末梢的な感覚だけは刺戦するが、心の深いところまでは、喰いこむ力を欠いていることである。思考力の発達した高級の読者は、ひねった筋に眩惑されないで、読みながら筋を解体して考えるだけの余裕を持っているものだ。解体してみると案外平凡なばかりか、現実にはありえない、不自然なところが目につく。読んでいる時は面白い。 然し読んでしまうと後になにも残らぬ。それだけの使命しかこの種のストーリーは持っていない。それでよいとも云えないことはない。確かにこの種の文学も必要である。探偵小説が魂に呼びかける文学でないことは分りきったことだ。だが、フリーマンやドイルやチェスタートンは、探偵的興味は狙っていても、ただ末梢的な感覚を刺戟するだけではないようである。 もっと私たちのおくにあるもの――例えば理智だとか、人間性だとかいうものに触れ、それらのものを楽しませてくれる。五十年百年の時代を生きのび、いつまでも私たちの印象に残るようなストーリーには、読者をびっくりさせるため、結末にどんでん返しを持ってきたような作は一つもない。以上述べたような理由から、私はビーストンを、一般向きの大衆作家と云うのである。
 ビーストンが短篇を発表した雑誌は、主としてプレミア、ストランド、グランドなぞだが、この雑誌は今は三つとも潰れてしまっている。
 私の知っているかぎり、彼の長篇は一冊だけ、それは「ハッピー・エヴァー・アフター」という名だが、ところどころビーストン一流の、火花の散るような対話は出てくるが大したものではなかった(「ぷろふいる」昭和十二年四月号参照)。
 なおプレミアに三回にわたって中篇が連載されたことがある。よく覚えていないが、たしか延原君が訳したはず。その他はみな短篇である。ドイツのダス・レーベンという雑誌に、彼の翻訳がのっているのをみたことがある。
 嘘かほんとか、彼はロンドンのイーストエンドで生れたという話もきいた。いま生きているか死んでいるか、生きていればまれには作品にお目に掛れそうなものに、もう二十年以上も音沙汰なしだから、恐らく、故人となっているのであろう。

注)明かな誤字誤植は修正しています。誌名はプロフィルとありますが平仮名に変更しています。
注)句読点は追加したところがあります。
注)一行空けが二ヶ所ありますが、文の途中、空ける意味がないと思われるので無視しています。


「オモニアーに就いて」(無署名)
「新青年」 1924.11. (大正13年11月) より

◆ステイシー・オモニアーは、押しも押されれもせぬ現代英國の第一流の短篇小説家だ。日本にこそ餘り知られて居らね、英本國ではゴルスウォージー、チェスタートン、ベニット、ウェルズ、マクスウェルなぞのお歴々の流行兒はやりっこと肩を並べてゐる。
◆彼は處女作を書いてからまだ十年にならない。從って彼の作を手に入れるのは困難だ。一昨年發行された彼の唯一の短篇集『ブレースガードル嬢其の他』だって横濱のケリウォルシュに二三册來たばかり、而も其商會が地震で潰れて以來、東京の丸善に問ひ合しても神戸のタムスンに問ひ合はしてもない。彼が日本に知られざる所以である。
◆然し彼は頗る多作で毎年七八篇書いてゐるから、「キャッセルズ」「ストランド」「ロヤル」なぞの雜誌を注意してゐれば新しい作品だけは見逃しっこあるまい。彼は建築用の装飾石材を刻む人の息子で、五人兄弟の末子であった。小學校が濟むと父の仕事を手傳って、石の彫刻の下繪を描いてゐたが、後に或る大きい家具屋に雇はれて装飾畫を描き、次に肖像畫家となり、次にクライティリオン劇場の開幕劇の作者兼役者となったが大戰爭が始まると共に止めてしまった。
◆それから彼は唐突だしぬけに處女作「友達」を現して一躍文壇の寵兒となった。これは酒飲の生活を書いたもので、少し長たらしいと言ふ批評はあったが、それでも大變な人気で、忽ち飛ぶやうに賣れた。
◆ステイシーが英語の名で、オモニアーが、佛蘭西語の名であるのを見ても解るやうに、彼は佛蘭西だねの英國人で、祖先はユーグノーの一人だった。(十六七世紀の佛蘭西新教徒。)そして同國人の迫害を避る爲に英國に逃れて來たのである。
◆英國に逃れたステイシーの祖先は銀細工屋だったが、數百年にわたるその子孫が皆揃ひも揃って装飾美術、即ち藝術を仕事にしてゐたのは面白いことだ。瓜のつるには茄子なすびはならぬとやら。神はステイシーを造るまでに長い準備をしてゐたのだ。彼の妻ガートルードは可なり有名な音樂家で、二人の間にティモシーと云ふ一人息子がある。
◆本誌に集めた「受難」は彼の作中でも傑作の方で、讀んだ後で胸が清々するほど氣持が好く「暗い廊下」は人道主義的の香が豐かで、「撓まぬ母」はゲーテの言葉「最も好い作は最もよく國民性を表してゐる」と云ふ意味で棄てがたい。彼の作は穏やかで、健全で、滑稽味と人情味があって、噛みしめるやうな上品な繊細な味がある。

注)明かな誤字誤植は修正しています。名前表記はゆれがありますが統一しています(ステイシーに統一)。
注)句読点は追加したところがあります。


「オーモニアーに就いて」妹尾アキ夫
「探偵趣味」 1926.04. (大正15年4月) より

 Popular story と云ふ言葉があるから英國にも通俗小説と純文藝物の區別があるやうに思ふ人もあるが、それは一部の文學青年しか見向きもせぬ「創作」と云ふものを持った日本人の偏見で、一般的な意味で、英國には好く書かれた小説と、拙い小説の區別しかない。 無論その人によって傾向はそれぞれことなってゐて通俗的な物を書く人もあれば、高踏的な物を書く人もあり、また範圍の狹い探偵物ばかりに閉籠る人もあるが、純文藝物と通俗物が區別されてゐないことは、彼等の作品が同じ雜誌と雜居して發表されるのを見ても解るし、また彼等が社會的と同じ待遇同じ報酬を受けることを見ても解るだらう。 あるものはたゞ上手な作家と下手な作家の區別ばかりだ。だから英國の上手な作家が書いた小説は、丁度江戸川氏の作品のやうに、藝術的であると同時に、誰が讀んでも面白いだけの興味ある内容を持ってゐる。オーモニアーなどはその最も明らかな例だと思ふ。
 ステイシー・オーモニアーは押も押されもせぬ現代英國第一流の短篇小説家だ。日本にこそ餘り知られて居らぬが英本國ではゴルスウォージー、ベニット、ウエルズ、チェスタートンなどのお歴々の流行兒と肩を並べてゐる。Stacy が英語で Aumonier が佛蘭西語であるのを見ても解るやうに、彼は佛蘭西種の英國人で祖先はユーグノー(十六七世紀の佛蘭西新教徒)の一人だった。そして同國人の迫害を避ける爲に當時英國へ逃れて來たのである。 英國へ逃れたステーシーの祖先は銀細工屋だったが、數百年にわたるその子孫が皆揃ひも揃って装飾美術、即ち藝術を仕事にしてゐたのは面白いことだ。瓜のつるには茄子なすびはならぬとやら、神はステーシーを造るに長い準備をした。彼は小學校がすむと父の仕事を手傳って、石の彫刻の下繪をかいてゐたが後に或家具屋に雇はれ装飾畫をかき、次に肖像畫家となり、次にクライテリオン座の開幕劇の作者兼役者となり、大戰爭が始まると共にそれを止して處女作「友達」を現して一躍して文壇の寵兒となった。
 彼の特色は作中の人物を熟愛してゐることだ。彼が書いた「犯罪の偶發性」「オピンコット」「墜落」等の探偵小説を見れば、彼がどんなに醜い罪惡に現れた人間性の美しさを愛してゐるかゞ解る。彼の次の特色はユーモアと暖い皮肉である。英國の優れた作家は皆ユーモアを持ってゐるが、彼に至っては純然たる滑稽小説を澤山書いてゐる。而も作中の人物を愛しながら書いてゐるから、ユーモアの中に輕いペーソスがあって、それが噛みしめるやうな味の深いものになってゐる。それから彼はアトモスフィアを描くことが得意だ。 たゞ一つの缺點は長たらしいと云ふことだが、底の底まで掘りさげて描かうとする彼にこの缺點があるのは止むを得ないかも知れぬ。彼が書いたものは皆んな美しい。醜い事件でも彼の筆になると美しくなる。「ブレース・ガードル嬢」の美しさはどうだ! あの生々とした描寫とそこに盛られた人生の美しさはどうだ! もしドイルやビーストンのウイスキーに倦かれた方があるなら、私はその人になみなみ注がれたオーモニアーの葡萄酒をお飲みにならんことをお勧めする。

注)句読点は追加したところがあります。


「オーモニアに就いて」妹尾韶夫
「新青年」 1929.05. (昭和4年5月) より

「英国の新進小説家ステイシイ・オーモニアは、長らく病床に呻吟してゐたが、此程他界した。新進作家として將來に大きな期待をかけられてゐたゞけに、彼の死はロンドンの諸新聞紙を始め、一般の讀者からひどく惜まれてゐる。(中略)オーモニアの作は魅力と同情と勇氣と義侠に溢れてゐるもので、それは彼の性格の反映であったらうが、その同情と義侠が人を惹きつけて、ために多くの友人が出來たと云はれてゐる。(後略)」以上は去る二月二十二日の都新聞の記事だが、この記事を讀まれた新青年の讀者はひどく驚かれたことゝ思ふ。 彼と本誌には特別の縁がある。本誌のやうに今まで彼の作品を數十篇も譯して來た雜誌は、日本は元より恐らく世界にも他にあるまいと思ふ。 彼の祖先は宗教の爲に同國人に迫害されフランスから英國へ逃げて來た。それはオーモニアがフランス語でステイシーが英語であるのを見ても解るであらう。倫敦に逃れた彼の數代の祖先は皆美術装飾を職業としてゐた。彼は小學校を出ると家具屋に勤め、次に畫家となり、次にクライティリオン劇場の開幕劇の作者兼役者となった。彼は何をやっても器用だった。だが烈しい夜の勞働は體が續かないので、大戰爭が始まると同時に舞臺を退き「友達フレンズ」と云ふ短篇小説を書いた。
 この處女作は英國と米國とで同時に大變な評判となり、彼は一躍して文壇の寵兒となった。彼の作は純文學と大衆文藝が不思議に交錯したもので、ある作の如きはメルヘンの如く概念的である。
 彼は作中の人物に深い同情と理解を持ち、また澤山の優れた滑稽小説を書いた。彼の作品の大部分は短篇集となって英國で出版されてゐる。
 本號にのせた「昔やいづこ」は去年のストランド誌の十二月號で發表されたものであるから、恐らく彼の絶筆だらうと思はれる。
記者 妹尾韶夫

注)明かな誤字誤植は修正しています。ステイシイ表記は引用部分なのでそのままにしています。


「ソーンダイクに就いて」妹尾韶夫
「新青年増刊」 1926.02. (大正15年2月) より

◎私はフリーマンの小説は、あまり好きではない。小説に描かれた探偵の中で、何が一番好きかと訊かれたら、私は一にも二にも、オーモニヤーが書いたトローザンだと答へるより他ない。
◎今までの探偵小説には興味と刺戟以外に何物もなかったがオーモニヤーの探偵小説には人間の魂を全部的に動かせる好いものがある。オーモニヤーの小説は、行き詰った探偵小説の今後進むべき方向を暗示してゐる。
◎けれどもオーモニヤーのことは、またいつかの機會にゆづって、こゝでは讀者に馴染深いフリーマンの澤山の探偵小説に現れた法醫學者ソーンダイク博士に就いて短かい感想をのべる。
◎フリーマンの小説には、チェスタトンのユーモアや、皮肉もなければ、ルブランの輕快もなく、ガボリヨーの變化もなければ、ポーの神秘もない。が、彼獨特の特色がないことはないのである。それは探索の推理の過程が、如何にも自然で無理がなくて、科學的だと云ふことだ。
◎科學的で思ひ出すのは、例のアーサー・リーヴが書いたケネディーであるが、あんなに現代にない機械や藥劑ばかり使っては、たとひそれが理窟として面白く、また科學小説として優れたものであっても、普通の讀物としては、砂を噛むやうに無味乾燥である。
◎フリーマンの小説は、科學的であると云っても、決して機械や不思議の藥品は使わない。たゞ推理の過程が論理的であると云ふまでだから、科學に興味を持たぬ一般の人が讀んでも面白く感ぜられる。
◎「青色ダイア」のソーンダイクは、犯人の鞄から出たクローシリアと云ふ一つの貝殻が、或る一地方の特産なることを知って、それから犯罪の行はれた場所が、テムズ右岸のハンマースミスなることを斷定する。
◎同じく『青色ダイア』の中の「パンドーラの凾」では、河からひろひ上げた若い女の右腕の刺青ほりもの擴大鏡レンズで覗いて見てその表面のざらざらしてゐるところから、その刺青ほりものが死後に施されたものなることを斷定し、それから死體の替玉であることを發見する。
◎また「盗まれた金塊」では金の比重と、鉛の比重と、眞鍮の比重とを比較して、税關官吏の目をかすめた鉛が金塊であったことを發見する。これなんか、皆な英國で實際にあったことを元として書いたものであるから、少しも小説らしくない。まるで、新聞の社會記事を讀むやうに眞實性があって面白い。
◎ドイルはシャーロック・ホームズを活躍させて、その友人ウォトスンに記述さしてゐるが、同様にフリーマンは、ソーンダイク博士を活躍させ、その友人ジャーヴィスに記述させてゐる。物に動ぜぬ沈痛なホームズとソーンダイクの性格がよく似てるのも面白い。
◎彼の作品は始めから終ひまで探偵的推理で埋まってゐる。他に何物もない。まるで數學の公式のやうに論理的で、自然で、科學的である。探偵小説に犯罪を主にして描いたものと探偵を主にして描いたものと二つあるが、後者の中で最も代表的なのは恐らくフリーマンの作品であらう。この意味で、最も探偵小説らしい小説はフリーマンの作品だと云へる。
◎彼はルヴュルや、イヴァンスや、ビーストンのやうに小さいトリックを弄して讀者を驚かさうとしない。山氣や衒氣が微塵もない。實に平易で、穏やかで、靜かに流れる河のやうに素直ですっきりしてゐる。
◎このあくが抜けてゐてお上品なところが、一部の讀者から物足らなく感じられ、また一部の讀者から好かれる所以であらう。英國の小説に現れる探偵は、他處の國の探偵に比べて一般に紳士らしい立派な人物が多いが、フリーマンのソーンダイク博士もその例に漏れない。
◎フリーマンの小説を日本語で讀みたい人は、博文館發行の『青色ダイア』をお讀みにならんことをお勧めする。彼の邦譯は今のところこれより他にない。これは二三年前の英國のビヤスン誌に一ヶ年にわたって連載された彼の十一の短篇を集めたもので、主人公はいづれも法醫學者ソーンダイク博士になってゐる。
◎ソーンダイクに就いてもっと徹底的なことがお話したいのだが、地震で書物をすっかり失ったし、それに近頃フリーマンをとんと讀まないので、僅かな記憶を元として短かい感想を書くより仕方がなかった。

注)明かな誤字誤植は修正しています。
注)ネタばらしと思われる部分は背景色文字としています。


「あとがき」訳者
『ソーンダイク博士』東京創元社・世界推理小説全集29 1957.01.10 (昭和32年1月) より

 フリーマンの序文のなかに出ている「ピアスン誌」という雑誌は、イギリスの短編小説ばかりのせる月刊雑誌だったが、第二大戦とともに廃刊になった。表紙のデザインは毎号かわったが、いつもかならずまっ黄色い表紙をつかうのが、この雑誌の特徴で、フリーマンのストーリーは、まれには「アーガシー誌」なぞに再録されたのを見たことはあるが、最初に発表されるのは、いつもきまりきって、「ピアスン誌」であった。時によると、何ヵ月も毎月つづいて、フリーマンのストーリーがのるようなことも珍らしくなかった。
 むろん、どのストーリーにも、精巧な挿絵がついていたが、フリーマンの話にはそのほかにかならずといっていいほど、顕微鏡写真や、足跡の石膏型や、指紋のようなものの、実物写真がついていた。
 顕微鏡で思いだすのはミルンの言葉である。「顕微鏡のでてくる推理小説はまっぴらだ」といったのはミルンであった。ミルンのみならず、おおくの読者もそれには同感であろう。けれども、フリーマンの作を読んでみると、顕微鏡は顕微鏡なりに、またよいところがあるということに気づくし、また、顕微鏡や化学実験を無視するのは、旧時代の推理小説だと主張する人々があることも忘れてはならない。
 一九二七年一月の「ストランド誌」に、「実話と小説に現れたもっとも巧妙な殺人は?」という問いに答えて、フリーマン、チェスタトン、バレジ、ラーンズ夫人、フレッチャー、ベントリー、ルキュー、オースチンなぞが解答をよせているが、そのなかでフリーマンはつぎのように書いている。――
「もともと、人間を殺すということは、そんなにむつかしいものでもなければ、知恵がいることでもない。だから、巧妙な殺人だとか、不手際な殺人だとかいうのは、言葉をかえていえば、犯人が自分を隠すためにとった手段が、巧妙であったか、不手際であったかということなのである。したがって、いちばん巧妙な殺人は、殺人が行われたということを、最初から誰にも知られないようにする殺人である。 すなわち、殺人を自然の死のようによそおうのである。そうすれば死体を隠すという、厄介至極な問題に頭をなやます必要もないし、またどんな結果になるか分らぬ、不安な検屍審問もおこなわれないのである。
「だが、じっさいの社会では、どのくらい度々、そんな、誰にも覚られぬような、完全な犯罪が行われているだろう? それを知ることは困難である。というのは、世間に知られ、記録に残っているのは、みな死体を見ただけで他殺ということが分ったり、犯人が分ったりするような、失敗の殺人ばかりなのである。しかし、殺人というものは、他の多くの人間の行為とおなじように、ただ失敗の記録のみを見ただけで、殺人全体を判断することはできない。 巧妙な殺人は、発見もされないし、記録にものこっていないはずだ。そして、私たちは、不手際で乱暴な殺人でありながら、長い年月のあいだ迷宮入りになってしまい、その犯人が何年かの後に、またおなじばかげた殺人をくりかえすことによって、初めて前の犯人が明るみにでるような例に、なんどもぶつかるにつけても、いま世にある、ごく平和で無邪気な顔をした墓石が、どんなに多くの記録に残らぬ殺人を見てきただろうと、怪しまないではいられないのである。
「ところで、実際の殺人事件が、探偵小説家の参考になるかというと、けっしてそうでないのである。実際の殺人事件は、なんの役にもたたないので、探偵小説家は、いつも自分で話の筋を考えなければならない。新聞のうえではスリルにみちた、はらはらするような殺人事件も、ひとたびそれが小説になると、無味乾燥でほとんど読むにたえないものとなってしまう。犯罪史で有名な殺人者でも、不手際なあやまちをたくさんおかしている。そんなのは頓馬な探偵でも見破ることができるのである。 私は刑務所の医者をしていたこともあるし、また長いあいだいろんな犯罪記録も読んできたが、それらのなかで小説に使えるのは、たった一つしかなかった。それは『オスカー・ブロズキー事件』で、それも殺人方法の巧妙さに感心したのではなく、ただ、私に法医学上のちょっと面白い問題を思いつかしてくれるいとぐちになったにすぎなかった。ここに一八六七年、ノッチンガム州の巡回裁判で公判になった、その事件のあらましをかいてみよう。
「鉄道線路のそばの淋しい一軒屋にすむ、ワトスンという夫婦者が、レイナーという男をその家におびきよせて、絞殺して轢死とみせかける計画をたてた。二人はレイナーを手でしめ殺すと、死体をもちあげて垣を越させ、汽車の来る時刻か分っていたので、その時刻のすこし前に、線路の上に横たえた。
「ここまでは計画通りにいった。ごく簡単なことだったので、その後も計画通りに終るはずだった。もし計画通りに終ったら、頸の指跡、心臓の状態、肺の状態、頭脳の状態、みな車輸に寸断されて、他殺ということが、分らないですんだかもしれない。
「だか、よくあることだが、実際には手ちがいができた。殺人者は大体の計画だけは立てていたが、こまかい可能性を無視していた。一つの可能を見すごしたため、とんだ誤算ができた。それからまた、彼らは死人の帽子を線路のそばにおくことを忘れた。誤算の第一は汽車のくる時刻がいつもよりおくれたことだった。そのため鉄道員が死体を発見してしまって、まだ汽車のこないうちに、死体をどこかへ持っていってしまったのである。それが他殺死体であることはすぐにわかった。 調べてみたら、ワトスンの家の垣に血がついていたり、家の裏の柔らかい地面に足跡があったりしたので、彼が犯人であることもすぐにわかった。家のなかにはいってみたら、帽子を焼いた灰がでてきたり、血のあとや、その他の犯罪の痕跡もみとめられた。すべてを見る神は、ここでも殺人者の切札に、手ちがいを生ぜしめたのであった。」

注)フリーマン(1862.04. - 1943.09.)の引用部分もそのまま掲載しています。


「豫感と幽靈」妹尾アキ夫
「新青年」 1935.08. (昭和10年8月) より

 人間は不意に降りかゝって來る災難を豫感することが出來るだらうか? ふとした機會はずみに、たとへば通りすがりの垣根から、向ふの庭をちらと瞥見し得るやうに、未來の恐ろしい出來事の一つの光景を盗見することが出來るであらうか? 英國のオリヴァー・ロッヂ卿は、その可能を信じてゐる。彼の説によれば、人間と云ふものは、睡眠中の夢だとか、ぼんやり幽明境を彷徨してゐる瞬間だとかに、どうかした拍子でひょっとそれを瞥見し得ることがあると云ふ。
 現に今日の新聞も――昭和十年六月一日の東京朝日――滿洲事變の貴い前驅をなした中村震太郎少佐の遺骸を、それから三年たった今日、その記念碑を刻んでゐた石屋が、夢の知らせによって發見したと報じてゐる。かうした例は、古今東西に珍らしくないと見えて、英國の心理研究協會ソサエティー・フォア・サイキカル・リサーチの月報や、マイヤース氏の「人間の靈魂」に、數へつくされないほど載ってゐる。
×  
 一八八三年三月、チケンハムのアルジャー夫人が、良人の用事で一人ヴィクトリア停車場からウエストミンスター寺院の方へ歩いてゐると、キャノンローの處で、不意に誰やら肩を叩いた。振向いてみるとそれは良人の母で死人みたいな蒼い顏をしてゐる。
「まァ、お母さん、吃驚びっくりしましたわ!」
 と云ふとすぐその姿が消えた。夫人は急に氣分が惡くなったので、用事は果さないで、すぐ家に歸り、良人と二人でブリクストンの母の家へ急いだ。母は死んでゐた。
×  
 夜中にドアを叩く音がするとか、階段が軋る音がするとか云ふ、つまり化物屋敷と云ふやつは、大部分は鼠だとか、建築に狂ひが來た爲に摩擦音を生ずるとか云ったのが多いが、千のうち一つぐらゐは、どう科學で説明しようとしても、説明できないのがあるものだ。
 その例として倫敦の心靈學會スピリチュアリスト・アライアンスのモーリー・アダムス氏は、次のやうな實話を提供してゐる――
×  
 チェスターの郊外の大きな古い邸宅――それを世間では化物屋敷と呼んでゐたが、住んでゐる家族は、誰一人怪しい物を見たことがなかった。
 ある日澤山の來客が來て泊った。そのなかの一人の娘は、いつもは空いてゐる二階の一室に泊った。
 ベッドにもぐりこんで、枕元の蝋燭の火を吹き消すと、部屋のドアがひとりでに開いて、闇のなかに一人の女の姿が現れた。女の姿は常人と違はない。たゞあたりが暗いのにぼうッと明るく見えた點だけが違ってゐた。
 この娘は幽靈を見た當時は健康だったが、間もなく病氣になって死んでしまった。
×  
 ハンプシャーのグレイヌック館は百年前までは僧院だった。
 いまは空家になってゐるが、時々物好きな人が、その家を借りる。それが一ヶ月も住むとまた空家になる。彼らの云ふ處を綜合すると、夜半よなかに黒い影のやうなものが蠢めいたり、裏の古井戸に何か投込むやうな音がすると云ふのである。ゼーソン氏が多くの家族をひきつれて、この屋敷に引越して來た。
 と、なるほど、時々眞夜半まよなかに、裏の井戸に氣味惡い物音が反響する。だがゼーソン氏はそんなことは構はなかった。ところがある晩、彼一人で書齋で手紙を書いてゐると、急に部屋がぞッとするほどさむくなり、いままで煖爐だんろのそばで温まってゐた猫が、むっくりおきあがった。それと同時に、向ふの壁に黒い影が浮び出し、その影が僧侶の形になった。
 ゼーソン氏は聲を立てようとしたが、どうしても聲が出ない。僧侶の委は次第にはっきりと、細部まで明瞭になり、濡れた裾からぽつぽつ落ちる滴の音まで聞えた。ゼーソン氏は逃げ出さうとしたが、足が麻痺して立上れない。ばたばた藻掻く拍子に、椅子が倒れて、彼はどさんと床の上に轉んだ。
 間もなく正氣づいた彼は、いそいで床の上の滴の跡を調べたが、滴の跡は殘ってゐなかった。
 この僧院の記録はどこにも殘ってゐないので、歴史を調べることは出來ないが、モーリー・アダムス氏は、恐らく昔一人の僧侶が何者かに惨殺され、井戸のなかに投込まれたものだらうと解釋をくだしてゐる。

注)句読点は追加抹消したところがあります。


「ペルツァー兄弟 奇怪な暗號電報」妹尾韶夫
「真珠」 1948.03. (昭和23年3月) より

 ベルギーの若い技師が、辯護士の妻となかよくなり、その女と結婚するため、じぶんの弟に命じて、辯護士を殺さした――たゞそれだけの事件で、たいしてスリルのある話でもないのだが、それがフランス文豪ポール・ブールジェーの殺人小説「アンドレ・コルネリス」のモデルにまでつかわれるにいたったのは、その犯行がどこまでも念入りで、計畫的で、技巧の極致にたっしているからである。
 白晝ひとりの人間を倒すのに、こんなにまで考えぬいて、大がかりの準備をするようなのは、やはり日本にはすくなく、歐米に多いようである。これは國民性の根本的相違なのだ。このものごとをしつこく考えぬくという性癖が、あの「カラマゾフ兄弟」「モンテ・クリスト」そのたの、深刻無比、大伽藍のような大きな小説をかゝしたのではあるまいか。この話の興味は、犯行にとりかゝるまえ、考えぬいて準備をしたというところにあるのだが、そのほかいろんな點で、私たちはこの話をよんで、考えさせられるのである。
 犯人アルマンド・ペルツァーはベルギー人、一八七六年、南米ブエノス・アイレスにわたった技師をしていたが、ゼームスとレオンのふたりの弟が、郷里アントワープで、公金消費の罪名で告訴されたとの報にせっし、いそいでベルギーにかえり、ベルネイという猶太人の辯護士をたのんで、無事、事件を解決させた。そこまではよかった。それから先がわるい。たびたび辯護士のうちに、でいりしていたアルマンドは、辯護士の妻ジリーと仲良しになってしまったのである。 この女は美人というほどではないが、どことなく魅力のある金髪の女で、教養があって、純情的で、アルマンドにたいし、どこまでも純粋的な天使のような愛をそゝいだことも、彼の心をとらえる原因となったらしい。いっぽうアルマンドは、色の黒いキリとした小柄な男で、辯説さわやか、世故にたけていたというから、これまたジリーに愛されるだけの資格は、充分もっていたのであろう。 そのうえ、冷靜で、技巧的で、ひとたびかの女を手中に握ろうと決心した以上、どこまでもたえしのんで、時がくるのをまつという、蛇のような辛抱づよさをもっていたのである。辯護士夫婦が仲のよい夫婦だったら、彼だとてそんな欲望は初めからおこさなかったかもしれないが、ジリーはつねから良人を愛していなかった。なにかにつけて夫婦はよく衝突した。これが蛇のような第三者にわりこむ機會をあたえたのである。 猶太人にはめづらしい新教徒で、嚴格で、やゝもすれば粗暴だった辯護士は、じっさい妻とのあいだには口論のたえまがなかった。そうして、妻にたいする不滿の慰めを、子供の乳母にもとめていた。この子供はふたりのあいだのたったひとりの男の子で、何物にもかえがたいほど、相方から可愛がられていた。いはゞこれが二人のあいだをつなぐ、たったひとつのきづなだったのである。
 ことの起りは、一八八一年夏、ジリーがアルマンドと、人目しのんでスパーに旅行した時からはじまる。それを乳母の口からきいた辯護士は、烈火のように怒って妻の部屋にとびこんだ。妻の心はすでに良人をはなれていたが、良人はまだ妻を愛していたのだ。妻はそんな旅行をした覺えはないといった。そういはれてみればどうすることもできなかった。妻がアルマンドと旅行したといふ證據はどこにもないのだ。 彼は妻の言葉を信じてよいか、乳母の言葉を信じてよいか迷うた。そうして、迷ったあげく、アルマンドの下宿にとびこんだが、アルマンドもそんな覺えはないといった。それどころか、慌てた辯護士を嘲笑し、君のような亂暴者は、天使のようなジリーの良人になる資格はない。こんやも君のうちに遊びにゆくから、これまでどうり友人としてつきあってくれといった。
 そう強腰にでられては、もともと證據をつかんでいない彼としては、あいてのいうまゝになるよりほかなかった。そうしてその晩も彼を夕食に招待したのであるが、テーブルにむきあった妻とアルマンドが、仔細らしく目をみかわして笑っているのをみると、思はずかッとなって、いきなり彼を部屋からつきだしてしまった。
 どこまでも冷靜で計畫的なアルマンドは、この機會を利用し、ゼームスとロバートのふたりの弟を彼のもとに送り、決闘をいどませた。決闘にやぶれたら、辯護士はピストルで殺されたうえ、妻をさゝげなけばならぬ。馬鹿でない辯護士は、斷乎としてこの挑戰をはねつけた。
 決闘を拒絶されたアルマンドは、第二段の方法を考えた。そのころ彼が助けてやった弟のひとりレオンは、すでにアメリカ合衆國にわたって、もう一歩で刑務所入りというような、危っかしい生活を續けていたのであるが、彼はこの弟を呼びもどして、辯護士を殺させることにしたのである。レオンはニューヨークから僞名で乗船すると、直接ベルギーには歸らず、フランスで上陸すると、パリのホテルに投宿した。 そのホテルで兄と落合ひ、三日三晩、ふたりで頭をひねって、殺人方法を熟議した。僞名で船にのったことゝいゝ、故國に歸らず他國のパリで落合ったことゝいゝ、じつに杖をついて石橋をわたるような大事をとっているのである。相談がまとまると、兄はアントワープにかえり、弟レオンはパリにのこって、變装衣裳店へいって、假装舞踏會にでるのだといって、焦茶色のかつらや頤鬚や染料そのたを買った。 じぶんの部屋にかると、それで眉毛をそめ、皮膚を褐色にぬり、はじめは英國人に變装するつもりだったが、どうもうまくゆかないのでブラジル人になった。これでレオン・ペルツァーという人物は地上から消えて、あらたにヘンリー・ヴォーガンという人物ができあがった。この名は彼の兄が、まえまえからえらんでおいたのである。
 變装がすむと、煖爐がうなるほど石炭をくべ、いままで身につけていた衣服類を燒いてしまった。それから、シャツから靴から靴下まで新しいのをつけ、試みにまえの衣裳店を訪問して二三の買物をしてみたが、店の亭主は前日みた客であることに氣付かなかったという。こんなことにかけては、彼はもともと器用だったのである。舊友に會っても氣付かれぬだけの自信があった。
 變装がすむと、こんどは武器である。パリの銃砲店をあさって、七つか八つのちがった種類のピストルを買った彼は、そのうちのもっとも音の低いのを、アントワープの兄に送って鑑定を乞うた。だが兄にはそのピストルが氣にいらなかった。まだ音が高すぎるようなきがした。もっともっと音のひくいのがあるはず。彼は弟をロンドンにゆかせた。ロンドンのベーカー街の有名な店で、レオンは初めて兄のきにいるようなピストルを手にいれた。
 さて、これからいよいよ、かれら兄弟の遠大な計畫の決心に入るのだが、もともと、レオンが變装するのは、たんに警官の目をくらますためではなかったのだ。今まで地上に存在しなかった幻想的な架空人物をつくりあげ、その人物に犯罪を行はせようとしてゐるのだ。だから、まづ、このヴォーガンとなのる架空人物を、ひろく世間に紹介しなければならなかった。
 そこでレオンは、こんどできたオーストラリアのマレイ汽船會社の代表者であるとなのり、ベルギー、オランダ、ドイツを旅行し、シドニー、アムステルダム間の新航路をひらくことになったとふれまはった。ブレーメン、ハンブルグ、アムステルダムの一流ホテルに泊り、わづか二三週間のあいだに、北歐海運界で誰ひとり知らぬものなき有名人となってしまった。
 そうして、機が熟すると、ブラセル、ロア街一五九の家を借りうけ、玄關わきの一部屋を事務室として、大型デスク、革張の椅子をおいたほか、事務室に不似合な厚い敷物、重い窓掛、ドアに二重の垂布をかけたりしたが、これはピストルの音を殺すのが目的だったのである。
 舞臺の準備ができると、當の辯護士に、大體つぎのような意味の手紙をかいた――
「ベルネイ様、ロンドンの友人の紹介であなたのことをしったのですが、こんど私の社でシドニー、アムステルダム間の新航路を開始するにあたりまして、海上法にお詳しいあなたに弊社の法律顧問になっていたゞきたく、こゝに差當って法律上の諸疑問を、項目にして同封しておきましたから、お手數ながら、御教示くださいますよう。僅少ながら、前金として五百フラン小切手で同封いたしました。ヘンリー・ヴォーガン。」
 この手紙をうけとった辯護士ベルネイが、こおどりして喜んだことは、いうまでもなかろう。彼はすぐ返事をかいた。そうして、まもなく時刻をきめて、ブラセルのレオンが、アルトワープの辯護士を訪問するというだんどりになったが、前日になると、急にレオンは、子供が病氣でゆかれぬから、あなたのほうからきてくれと手紙をかいた。辯護士はそれを承諾した。
 あくる日がいよいよ、一八八二年一月七日の土曜日である。ヴォーガンと名のるレオンは兄がえらんだピストルをポケットにしのばせ、いまやおそしと、自分の部屋で、辯護士の來着をまった。
 玄關のベルがなったのは十一時だった。むかえにでたレオンは、愛想よく初對面の挨拶をし、辯護士の厚い外套をぬがせて、そばのラクにかけてやった。外套をぬがせてやったのは、親切からではなく、ピストルで頸をうつとき、厚い冬外套の襟があると邪魔になるからであった。そうして、辯護士が先にたって、重いカーテンを押しのけて部屋に踏みいると、つゞいて彼があとから部屋にはいり、ポケットからピストルをだして、うしろから頸のまんなかを狙ってうった。
 辯護士はもがきもせねば呻きもせず、ひとあしまえにすゝむと、どさんとデスクのそばに倒れた。兄アルマンドが考案したプログラムによると、殺したあとで、屍體を椅子にこしかけさせるのであったが、少々あわてゝいたのでそれを忘れた。けれども、辯護士が確實に死んでいるかどうかを確めることだけは忘れずにいた。辯護士はたしかに死んでいる。 彼はそれをみとゞけると、寝室にはいって、かつらや附鬚を燒きはらい、綺麗に顏をあらった。これで北歐の海運界に顏を賣ったヴォーガンなる人物は、永久に社會から姿をけして、かわりに清浄無垢のレオン・ペルツァーがかえってきたのだ。そうして、彼は家をでると、いづこともなく街に姿をかくしてしまった――
 はなしかわって、辯護士ベルネイの家では、その日のうちにアントワープへ歸るはずの、プラセルに行った主人が、日がくれてもかえらず、あくる日になってもかえらないので、心配して警察に捜索願をだした。だが、警察にしたところが、捜索の心當りはなかった。かりに警察が、この事件の蔭に、アルマンド・ペルツァーがいると睨んだとしても、たしかな證據をつかむことはできないのだ。 アルマンドはジリー夫人をなぐさめるため、毎日のように辯護士宅にでいりしている。たゞ、動かすことのできぬ確實な點がひとつある。それは、辯護士がプラセルに行った當日アルマンドが終日アントワープにとゞまっていたという事實である。すなわち、彼は完全なアリバイをもっているのだ。
 ところが、それから十日たって、不思議な一通の手紙が、ブラセルの警察にまいこんだ。それはスイスのバール町の消印のある手紙で、こんな意味のことがかいてあった。
「けうの新聞をみますと、まだ辯護士ベルネイの行方がわからぬとかいてありますが、先日私がだした手紙は、まだお手元にとゞかないのでせうか。あの手紙をごらんになったら、ブラセル、ロア街、一五九の私の宅で起った怖ろしい事件にお氣付きのはずです。私は故意に弁護士を殺したのではありません。あの時私はなにげなくピストルをつゝいていたのです。そしたら、どうかした拍子に彈丸がとびだして、ベルネイさんを殺してしまったのです。 びっくりした私は、すぐにも警察へ自首してでようかと思ひましたが、知らぬ他國で、病身の妻子をかゝえ、長い期間の取調べの苦痛を考えては、スイスに逃げだすという安易な誘惑におちいらざるを得なかったのです。しかし無事に當地に逃げてきた今になっても、私は悔恨と絶望に氣も狂いそうです。どうか、この私の氣持を、遺族のひとにおつたえください。一八八二年一月十六日。ヘンリー・ヴォーガン。」
 住所はスイスのバールとあるだけで、詳しいことはかいてない。
 それにしても、この殺人犯人は、どうしてこんな手紙を警察によこしたのであろう。警察もそれを不審に思い、世間のひとも不審に思った。けれども、讀者にはこの手紙の目的がわかるはずだ。この手紙の第一の目的は、警察の注意を、ヘンリー・ヴォーガンという架空人物にむけさせるためなのである。捜索の手をそのほうへむけさせたいのだ。第二の目的は、辯護士の死體を發見させたいのだ。なぜというに、月日がたつと死體が腐敗して、ベルネイであることがわからなくなる。 そうなると、ジリー夫人はいつまでたっても、未亡人ということにならないのだ。未亡人となったら、天下晴れて正式に結婚できるが、良人が行方不明というだけでは、何年たっても、正式の結婚はできないのである。だから、犯人としては、少々無理をしても、ぜひベルネイの死體を、警官に見てもらいたいのだ。普通の犯罪では死體をかくすのに一苦勞するのだが、この犯罪では、死體を警官に見せるのに一苦勞している。このへんが普通の犯罪と根本的にちがっているのだ。
 この手紙をうけとったブラセルの警察は、たゞちに數名の警官と醫者を、ロア街のレオンの宅に派遣したが、こゝで讀者がちょっと意外に思うことがある。それはレオンが逃げ出すとき床の上に倒れていた死體が、いつのまにか椅子に腰かけさせてあったのである。そうしてあつい床の敷物のうえには、血のりをふみつけた靴跡があった。これはだれの足跡だろう。レオンが逃げだしたときには、まだ血がかたまっていなかったから、彼の足跡ではないはずだ。 その説明はあとにゆづるとして、死體をしらべおわった警察では、ヴォーガンという架空人物の捜索をはじめた。手紙の消印にあるスイスのバールという町の警察にといあわせてもみたが、町のホテルにそんな人物が投宿した形跡はないという返事だった。彼に會ったという者は、北歐各都市にたくさんあったが、現在彼がどこにひそんでいるかということを知った者はひとりもなかった。
 そのうち、ふとしたことが端緒となってすらすら犯人の目星がつくようになった。ほかでもないが、警察にまいこんだ手紙の寫眞が、いっせいにベルギーの各新聞にでたのである。それをみたレオンの舊友のひとりが不審をいだきはじめた。どうもこの字はレオンの字によくにている。彼はレオンの古い手紙をとりだして、寫眞とくらべてみた。こまかい癖がそっくりである。そこで彼はその古手紙を警察に持ちこみ、それが犯人檢擧の導火線となったのである。 アルマンドとレオンの兄弟が、アントワープで逮捕されたのは、三月五日のことであった。いはゞ、スイスからの手紙は、考えぬいて作りあげたアルマンドの傑作の、たゞひとつの缺點だったのだ。もし彼がもっと大事をとって、手紙をタイプライターでかいたとしたら、この犯罪は永久に迷宮入りとなったかもしれないのである。
 あとでわかったことだが、床の上の死體を腰かけさせたのは、兄アルマンドのしわざであった。彼は弟から犯罪のてんまつをきいて、どうしても椅子に坐らせたほうがよいと思ったので、わざわざ出かけていってなおしたのである。テーブルの上でピストルをつゝいていて、偶然發火したのなら、相手も坐っているのが當然だと考えたのだ。血のりを踏みにじったのも、この時の兄の足跡であった。
 裁判官に取調べられたレオンは、ヴォーガンに變装したのは、じぶんにちがいないが、辯護士を殺したのは、スイスからだした手紙にかいた通り、過失であると主張した。檢屍した醫者は過失とはみとめられぬといった。
 するとレオンは前言をひるがえして急に次のような辯明をした。
 私の事務所で辯護士と新航路の打合せをしていましたら、話の途中で、彼はとつぜん私の顔をみつめながら、『私はあなたに會ったことがある』といいだしました。私はどきんとしたが、冷靜をよそおいながら、『それは人ちがいです』といいました。 すると彼はいきなり私のかつらを拂いのけ、『やあ、お前はレオンだ、この嘘つきめ!』といい、急いで立上ってドアをあけ、『よォし、おれはこれから警官をよんでくる!』私は威嚇するためにピストルをとりだし、片手で彼の腕をつかんで、引きとめようとしました。彼はそれをふりはらおうとする。その拍子にあやまちに引金に指がふれて、彈丸がでゝしまったのです。
 レオンはあくまでこの作りばなしを固守しようとしたが、事實の眞相は取調べがすゝむししたがって、だんだんあかるみにでてきた。かつらや染料をうったパリの變装具店や、ピストルをうった銃砲店が、次から次と取調べられた。アルマンドの部屋のマントルピースの上の壁に小さい孔があったので、それをほじくってみたらピストルの彈丸がでてきた。弟が送ってよこしたピストルを試驗してみた時のなごりである。 同じ部屋から、レオンがよこしたひとたばの暗號電報がでゝきたが、それは彼の行動をいちいち兄に報告したもので、最後の電報には、いよいよあす辯護士が罠にとびこんでくるとかいてある。それらの電報を受けつけた郵便局から、原稿の頼信紙をとりよせてみたら、やはりレオンのかいた文字にちがいなかった。
 この暗號電報のたばは、なにものにもまさる證據品で、これをつきつけられては、ぐうのねもでないはずであるが、頑迷なレオンは、あくまで前述のつくりばなし、すなわち、變装をみやぶられたので、しかたなしにピストルをだすと、それがあやまちに發砲したのだ、といふ説をのべたてた。
 では、なぜ變装したのか、なぜ變名してありもせぬ船會社の代表者となったか、なぜ厚いカーテンを部屋にはったか、――こうつめよられると、彼は口をつぐんで、なんの返事もしないのであった。
 十二月二十二日、かれらふたりの兄弟は、終身の刑を宣告された。當時死刑をきんじていたベルギーでは、終身の刑がもっとも重い判決だったのである。

注)明かな誤字誤植は修正しています。新旧かな混在は原文のままです。
注)「え」は「へ」に変更しているところがあります。
注)人名表記など不統一部分がありますが統一するようにしています。
注)濁音、半濁音は間違いがあるかもしれません。
注)句読点は追加抹消変更したところがあります。


書誌「文学ベストテン」妹尾アキ夫(一部割愛)
「探偵作家クラブ会報」 1949.05. (昭和24年5月) より

 世界から遮断された、アマゾンの深林で、一人生活するとしたら、どんな本が欲しいだろうか。ロビンソン・クルーソーみにいに、孤島に流されるとしたら、どんな本を持って行こう。探偵小説のベスト・テンはしばしば論じられたが、その背景をなす、広義の文学のベスト・テンは、まだ一度も論じられないだけに、私たちの興味をそゝるのである。私は学生時代に、内ヶ崎作三郎氏と、片上伸氏に、必読の良書を十冊づつ書いてもらったことがあるが、 両氏とも、聖書や卜ルストイやドストイエフスキーを挙げられたことは同じだが、この他の書物には、二人別々の好みが現れ、内ヶ崎氏が大蔵経をすいせんされたに対し、片上氏はペイターなぞを挙げていられたように記憶している。探偵物は範囲が狭いだけに、がいして多くの人の好み燒点(※ママ)が一致し易いが、広い意味の文学書となると、大海の一滴を掏うようなものだからそうはゆかない。その選択には、その人の趣味や好みも現れるし、教養の広さも現れるので、客観的に見ると甚だ興味深いのである。 そうして多くの人のベスト・テンを見てしまったあとの、私たちの最後の結論は、要するに自分のベスト・テンは、自分で選択しなければならぬ、という処に落着くのである。しかし、妙なもので、人によって好みが違うとはいえ、そこにはやはり共通の最大公約数というものがあるので、私たちはなるべく多くの人のベスト・テンを知りたいのである。そんなことを希望する人のために、私はこゝに、自分の持っているとぼしい材料のなかから、二つ三つのベスト・テンを挙げてみることにしよう。
 つぎにかゝげるのは、ペンシルヴァニア大学の米国文学の教授、リュイス・パッティ氏が選んだ、最もよい二十篇の米国の短篇小説である。
 W. Irving Rip Van Winkle
 Poe The Murders in Rue Morgue
 (※以下割愛)
 次の五十篇は、アメリカのある雑誌社が、読者の投票によって決めた、最もよい短篇小説である。投票者が米人のせいか、アメリカ物が多いようである。
 Maupassant Necklace
 O. Henry Gift of Magi
 (※以下割愛)
 このうちの「猿の手」(※Jacobs Monkeys Paw) は新青年に出たし、オー・ヘンリーのラスト・リーフは、戦前の「キング」に三四度形を変へてのせられ、そのたびに喝采をはくしたもので、新青年にのったこともあるはずだ。そのほかにも新青年にのったのが沢山ある。
 【乱歩附記】妹尾氏の稿には、このあとに往年のアメリカの再録雑誌「ゴールデン・ブック」に掲載された世界文学のベスト百が列記してあったが、謄寫版の英文筆耕には少し過重なのと、探偵小説には直接関係のない文献なので、割愛させてもらった。妹尾氏にお詫びします。
 尚、右にオ・ヘンリーの邦訳のことが出てゐるが、丁度私の手許に探偵小説関係雑誌に出に邦訳目録が出来てゐるので、そのオ・ヘンリーの部を左に記しておく。
 (※以下、9探偵雑誌のO・ヘンリー邦訳リスト、作家別邦訳短篇作品数の記載があるが割愛)

注)補足:20篇にはO.ヘンリー「都市通信」がある。
注)補足:50篇にはO.ヘンリー「賢者の贈物」のほか「最後の一葉」「赤い酋長の身代金」「都市通信」、ポー「アッシャー家の崩壊」「落とし穴と振り子」「アモンティリャアドの酒樽」「黄金虫」がある。


「オースチンの追想」訳者
「宝石」 1954.12. (昭和29年12月) より

 ナポレオンを主題にした長篇「栄光への道」を書きあげたイギリスのスリラー作家ブリットン・オースチンが、事変下の日本へやって来たのは、昭和十二年十一月末のことだった。それより十数年前から彼の作品に親しみ、そのうち六篇を訳していた私にとって、彼の名はすでに親しかったので、私は簡単な打合せの後、約束の時刻に帝国ホテルを訪ずれた。
ロビイに立って待っていると、長躯肩幅の広い一外人が、長い廊下を悠々とやってくる。私は雑誌に出た彼の写真を三つ四つ持っていて、そのどれもがパイプをくわえているのだが、見よ、いま向うから来る男も、その永遠のパイプをくわえているではないか。あれに違いない。長い空間をへだてて双方が同時に微笑した。初対面の挨拶がすむと、二人は冬の日ざしの差込むロビイの一隅に向い合って坐った。
しばらく話していると、原稿料のことをきくので、私はありのままを答えた。すると、「そうですか、では本当は原稿料の半分を原作者がもらうんですけれど、日本は事情がちがうから要りません」と大きく出た。私は向うが金のことをきくのなら、こっちも負けるもんかと、「イギリスではあなたの短篇にどのくらいの原稿料をくれます?」「語数によって違いますが、短篇は百ポンドから百五十ポンド、同じ作をアメリカへ送るともっとくれます」
私はその時すでに廃刊になっていた博文館の「独立」という雑誌に出した彼の「虚空からの声」の挿絵をみせた。すると「これをくれませんか。私のコレクションに加えたいのです」そう云われなくても、一本を呈するのが礼儀だぐらい心得ていたが、残念ながら一冊しかないので、私は北斎の画集を贈った。彼は「北斎! 北斎!」と子供のように悦ぶ。
オースチンが書物蒐集と旅行の二つを道楽にしていることは、当時の「フーズフー」にものっていた。写真よりも肥った五十二才のオースチンは、茶色の髪を角刈のように短かく刈込み、緑と灰色のまじった眸は湖のように澄んで、身につけただぶだぶの広背(※ママ)はセピア色のトイードで、左の袖口に色模様の絹ハンカチを皺くちゃにして捻じこんでいた。
話半ばに黙ってのそのそ歩きだしたので、どこへ行くんだろうと、大きな後姿を見ていると、スタンドからノートペーパーを取ってきて、朱鞘の万年筆で、まず日附と私の名をかき、それからゆっくり文句を考えながら、「すべての著作権が私に保留されていると云う条件で、私のあらゆる作品の日本語の翻訳権を君にあたえる」と書いてくれた。
やがて、小柄の黒衣の婦人が現れた。夫人だといってオースチンが紹介する。年が年なので美人とは云えないが騎慢なところの微塵もない、とても感じの好い婦人であった。愉快な会談一時間の後、私はオースチン夫妻と別れたが、別れしなに夫人は二度も私の手をとり、「こんどはパリで会いましょう」を何度も繰返した。当時彼らはパリのフランコ・ルス街に住んでいたのである。
それから二三年たってオースチンは他界した。私は戦争のどさくさで、手紙も出さなかった。いま私はせめて夫人を慰める手紙でも出したいと思っているが、オースチンの名は、今は「フーズフー」からも削られていて、宛名が分らないのである。ああ、去り行く人たちの足音の、なんと慌ただしいことよ!
(新青年昭和十三年二月増刊参照)

注)「オースチンを襲う」新青年増刊 1938.02.(再録『悪魔黙示録「新青年」一九三八』ミステリー文学資料館編 光文社文庫 2011.08.20)とほぼ同内容でその後が追加されている。


「變名をくさす」妹尾アキ夫
「探偵趣味」 1926.07. (大正15年7月) より

 私は變名や雅號は嫌ひだ。沙翁はベーコンの變名だといふ説があるぐらゐだから、外國にも随分昔からこいつがあるらしい。オー・ヘンリーもペンネイムだってね。延原君が譯した「死を賭して」の作者も今でこそ本名マクネイルを押通してゐるが、戰爭當時はサッパーと云ふ變名を使ってゐた。が、何にしても外國には變名を使ふ人がすくない。これだけには感心する。
 日本は變名だらけだ。講談クラブなぞの目録を開けてみて、まづ驚くのは變名の多いことだ。よくもこれだけ變名を集めたものだと、私はいつもその凄さまじい變名の行列に仰天してゐる。私の先生や恩人や先輩や尊敬すべき友人も皆んな變名や雅號を使ってゐるのだから、いや私自身でさへ時々こいつを使ってゐるのだからあまり攻撃したくはないが、なんとこれからはお互ひにこいつを成るべく使はないやうにしようや。 たとひ本名が誰も讀んでくれん難かしい字だらうが、假令それが字面の惡い覺えにくい名だらうが自分で書いたものには本名を署名したい。どんな下らない耻かしい文章でも堂々と本名を書いた方が男らしい。かうした眞面目な氣分がみなぎって來ると、大衆文藝のレベルも高まって來るに違ひない。變名や雅號を使ふ人は次第に少なくなって來ると思ふ。
 この雜誌(※探偵趣味7月号)の編輯者牧君も變名の親玉だ。随分澤山變名を使ってゐらっしゃるらしい。けれども牧君の文章には獨特の光彩があるから幾ら名前を變へても直ぐ解る。いつやらの「女性」に前田河廣一郎氏が牧君張りのアメリカ小品を書いてゐたが、牧君に及ばざること遠かった。あまり牧君を褒めるとおべっかのやうに思はれるからこれだけで止しておく。とにかく牧君が本名を使ふことを望む。海! 君らしい好い名ではないか!

注)原文は改行なしですが、適時追加しています。
注)この号の編集担当は牧逸馬です。


「感想」妹尾アキ夫
「探偵・映画」 1927.10. (昭和2年10月) より

 私が最近に驚いたことは、中學生の間に探偵小説の好きな人が意外に澤山あると云ふことだ。今更らこんなことに驚いたなぞと云っては、世間知らずと笑はれるかも知れないが實際私はこれほど澤山讀者があらうとは思はなかった。
 中學の一二年生はまだ探偵物は讀まない。時分は小學生全集や少年倶樂部の愛讀者だ。時分が探偵小説を熱愛しはじめるのは三四五年の間に於てである。
 私は数室では探偵小説のことは一切喋らぬことにしてゐる。しかし私の家に遊びに來てくれる生徒たちの話によれば随分熱心な讀者があるらしい。「地下鐵サム」の好きなある生徒は、まだ誰にも見せぬ探偵創作を四五篇作ってゐるさうだ。またある生徒は創刊以來の新青年を殘らず買ひ集めて持ってゐあるさうだ。量に於ても私などより澤山探偵小説を讀んでゐる人がざらにある。
 そしてまた私が驚いた意外な現象は探偵小説の好きな生徒は、概して勉強家で、學校の成績が好いと云ふことだ。現に今云った創刊以來の探偵雜誌を持った人なぞも、クラスで一番の生徒だ。これは探偵小説がその本質に於て人情小説なぞと比較して、よほど理智的な興味に訴へるが爲だと私は解釋してゐる。その日本に於ける開拓者の間に數學好きの新聞經營者や、圍碁愛好者や、醫學博士や窒素學者や電氣技師を持つ探偵小説にはどこか代數や幾何の式に似た理智的なものがふくまれてゐるやうに思ふ。

注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加したところがあります。
注)原文は改行なしですが、適時追加しています。


「三番町時代」妹尾アキ夫
『直木三十五全集』月報20 1935.11.19 (昭和10年11月) より

 としはあまり違はないのだが、私は直木さんを先輩と思ってゐたし、また實際先輩に違ひなかった。
 直木さんの随筆を見ると、ずいぶん人を喰ったやうなところもあるが、それはあの人の皮相の一部で、眞底は人情にあつい篤實な人だった。
 私が直木さんに親しんだのは三番町時代、つまり震災前のことだが、その頃はまだ直木さんとは云はないで、あまり世間に知られぬ植村宗一さんだった。物質的にも思想的にも暴風雨時代だった。
 私が翻譯を持って行くと、「ずいぶん早いですね、一日どのくらいやりますか?」と訊かれるので、「三十枚」と答へると、「ほう、僕なんかそんなに書くと指が痛くなる。」と目をまるくされたが、なんと、この直木さんが、しまひには一夜に六十枚を書き飛ばすやうになった。
 冬夏社時代には、ドストエフスキー全集、ツルゲネフ全集、ロマンロラン全集、ダヌンチオ全集、マーテルリング全集と矢つぎばやに出したが、鷲尾浩氏が去って、冬夏社が分散してからは、雜誌「人間」もつぶれるし、八方ふさがりだった。山田耕作氏から借りたダンスの本を二人で譯したり、二松堂と云ふ本屋から、外國新聞の記事を譯して、パンフレットのやうなものにして毎月發行したりしたのは、その頃のことだった。このパンフレットはもと青野季吉氏と直木さんが計畫したのだが、青野氏が途中で嫌氣がさして手を引いたものだった。
 鷲尾浩氏がゐた頃は、翻譯を持って行くとすぐ枚數を勘定して小切手を書いてくれたが、直木さん一人になってからは、殆ど稿料を拂ってくれなかった。まれに小切手を書いてくれても、そいつは銀行へ持って行っても金にならんしろものだった。時によると財布から一圓札を一二枚出して、「今日はこれだけしかないから、これで勘辨してくれ。」と云はれることもあった。
 それだからと云って私は直木さんを恨む氣には少しもなれなかった。直木さんのずぼらや無軌道には滑稽味があるだけで卑劣なところは爪の垢ほどもなかった。
 金はなくても直木さんの生活は悠々たるものだった。夏は猿又一枚で玄關に出られるし、冬は三尺四角もある大きな火鉢に赤々と炭火を入れて、スリーキャスルをふかしてゐられた。須磨子夫人はどんな場合でも忠實な奥さんだった。いつもきちんとした風をしてゐられた。その頃三つか四つの昂生さんは木馬に乗って遊んでゐられた。ベビーオルガンもあった。三味線が壁にかけてあった。 表に遊んでゐられた木の實さんは、私の姿を見と、「妹尾さんがお見えになりました。」といちはやく玄關に入られた。この娘さんがもうお嫁さんになってゐられるんだから、ずいぶん昔のことだ。あどけない昔のことを思ふにつけても、お二人の今後の幸福を祈らずにゐられない。
 寒い晩のことだった。直木さんは須磨子夫人から財布を受取られるとトンビを引っかけて外に出られた。元來が直木さんは言葉のすくない質だったし、私もそれに輪をかけたやうな男だったので、二人はだまり勝ちに星を仰ぎながら散歩した。そしてどこか珈琲店の二階で、熱い珈琲にウイスキーを入れて啜った。
 震災後、大阪のとある停留所で、偶然直木さんに出會した。
「やあ、久しぶり、どこかでお茶でも飲まう。」
 と云って近くの珈琲店に入ったが、この時に飲んだのも、ウイスキーを入れた熱い珈琲だった。

注)会話の最後の読点は句点に変更しています。!を?に変更したところがあります。


「展望」胡鉄梅
「探偵春秋」 1937.01. (昭和12年1月) より

▼昭和十一年の探偵小説界の展望をするつもりだったが、同じ題目で中島親氏が「探偵文學」誌上に、書くべきことはまるで書きつくしてしまったので、重複をさけるため視野をかへて、違った方面から展望することにする。
▼一年間に發表された長篇の主なるものを算へてみると、北町一郎氏の「白日夢」、蒼井雄氏の「船富家の惨劇」、小栗虫太郎氏の「廿世紀鐵假面」、大下宇陀兒氏の「狂樂師」、海野十三氏の「深夜の市長」、以上はみな春秋社から出版された。
▼そのほか蘭郁二郎氏の「白日鬼」、江戸川亂歩氏の「怪人二十面相」、蒼井雄氏の「瀬戸内海の惨劇」、小栗虫太郎氏の「青い鷺」、多々羅四郎氏の「臨海莊事件」、木々高太郎氏の「人生の阿呆」、大下字陀兒氏の「ホテル紅館」、甲賀三郎氏の「闇に蠢く」、「虞美人の涙」、「怪奇連判状」、久生十蘭氏の「金狼」など。
▼このなかには少年物あり、怪奇あり、ミステリーあり、スリラーあり、勇敢に處女地開拓を目ざしたものあり、みなそれぞれ違った味で、違った讀者層に呼びかけて、各自の使命を果したものといってよい。
▼つぎは短篇だが、こゝでも相變らず多くの作を發表したのは木々、大下、甲賀.海野、横溝の諸氏だったやうに思ふ。そのうちどれが傑作だったかは、讀む人が自分の好みで勝手にきめたらいゝことだが、十月以前の作品で僕の印象に殘ってゐるのは水谷氏の「屋根裏の亡靈」、木々氏の「文學少女」、横溝氏の「蝋人」、光石氏の「梟」、森下氏の連載物、大下氏の「老院長の幸福」、甲賀氏の「四次元の斷層」などである。
▼質から云っても量から云っても、木々氏は最も目覺しかった作家の一人で、油の乗りきった魚が卵を生みつけて行くやうに次から次と澤山の好い作品を生産したが、なかでも最も異色があって問題にしていゝのは「文學少女」だったやうに思ふ。
▼この作に強ひて探偵味を求めるなら、江戸川亂歩氏が指摘したごとく、女主人公の文學才能を醫者が觀破した鮎と、それからもひとつは、女主人公が自分の良人を殺害して、そのとき初めて自分の父の死因が同じ方法による他殺であることを覺る鮎にある。
▼この二番目の探偵味は、強調して書きさへすれば、どんなにでも探偵小説的に書くことができた筈だ。即ち小説の始めの父の死に對する疑惑を、もっと強調して、讀者の心に印象づけて置いたなら、小説の終りに出て來る解決がもっと劇的な効果を持つ筈である。にも拘はらず木々氏はあっさりと五六行で片付けてゐる。
▼だが我々はさうであればこそこの作を愛せずにゐられない。もう我々は探偵小説の見えすいた誇張と型にはまった組立には飽き飽きして居る。木々氏もまさかこの作で探偵小説的な探偵小説を書かうとしたんぢゃあるまい。むしろ一個の文學に對する火の如き情熱をもったヴィヒメントな性格を書かうとしたんだらう。そしてそれは成功してゐる。
▼なにも探偵小説と純文藝との間に垣をもうける必要はなからう。混血兒が生れたって差支へなからう。純文藝のなかにもこれだけ逞しい作品はザラにあるもんぢゃない。いまの純文藝の作者がどれだけの物を書いとるか。どれだけの藝術がそのなかにあるか。彼らを蹴飛ばしてしまへ。
▼森下雨村氏の連載物は、同氏が斷ってゐる通り、外國物からヒントを得たものや換骨奪胎したもので、外國でも一粒選りの名作を取ったものと思ふのに、あれがそれほど評判にならなかったのは意外であった。あれは翻譯物以上に日本的であると共に、翻譯物以上に大陸文學とちがった、上品な英國のストリーの味を生かしてゐた。
▼あらゆる神話や傳説が抜き差しならぬほど完成されてゐるのは、口から口ヘ傳へられてゐるうちに、剰餘物が絞り取られ、新しい生命を注ぎ込まれる爲であるが、あの連載物にはこれと同じ種類の磨きがかゝってゐた。そこへ行くと涙香の物などは單なる翻案でこの種の磨きはかゝってゐない。
▼つぎに創作以外の評論や随筆のなかでの最大の収獲は、云ふまでもなく江戸川亂歩氏の「鬼の言葉」で、甲賀氏が探偵小説講話で外形的の機構を論じたに反して、これは深い洞察で内部を捜りまはしてゐる。甲賀氏の講話も無論推賞したいが「鬼の言葉」は探偵小説に關心を持つほどの者は必す讀まねばならぬものである。春秋社から出版されて居る。
▼江戸川亂歩氏の随筆「惨忍への郷愁」はいろんな意味で興味深かった。實を云ふと我々は惨忍に對してそれほど魅惑を感じないものであるが、あの徹底した考へかたには心を打たれた。繪でも文學でも思想方面でも、とに角一黨一派を樹立する人間は、常人から見れば殆んどモノマニアと思へるほどの鋭い感覺をある一つのものに對して持ってゐるのだが、我々はその片鱗をこの随筆に見た。そして休火山の如き江戸川氏は、まだまだ近い中に第二第三の爆發をするだらうと悦びの戰慄を感じた。
▼渡邊啓助氏が三つ四つの短い随筆を書いたが、それらはみなお上品であると同じ程度に素朴で、適當なユーモアを持った逸品である。随筆中の白眉だ。もっと長い複雜な思索を盛ったものを拝見したい。
▼同氏は今年二つの創作を生産したが、いづれも氏の作としてはやゝ物足らぬものであった。この人が今まで書いた幾つかの作は、一流作家として決して恥かしからぬ物である。度々春秋社を出して恐縮だが、同氏の短篇集「地獄横丁」をまだ讀まぬ人があったら、ぜひ一讀をおすゝめする。
▼いったい一流作家といったら誰のことなんだらう。まづ世間的の意味から云へば江戸川、大下、甲賀、海野、横溝、水谷、木々、小栗の諸氏だらうと思ふが、量を問はずに、質だけから云ったら渡邊氏をこの中に入れても差支へないと思ふ。このなかでも随分ひどい物ばかり書いてゐる人があるのは諸君も御存じだらう。
▼だが世間的審判が案外正しいものであることは眞實なのである。批評家は量を見ないで質ばかり見る。世間は質は見ないで量ばかり見る。これからの作家は量といふものに含まれた得態の知れぬ新しい價値を忘れてはならぬ。
▼さうは云ふものゝ、我々はやはり小量作家に懐しみを感ずるのを如何ともしがたい。ウォーレスやオップンハイムには何の魅力も感じない。近頃評判のシメノンの作に於てゞさへ大量作家の物足らなさを感ぜずにゐられない。世間は大食家だが、個人個人をたゞしてみると、みな美食家であるらしい。
▼尤も、大量作家だの小量作家だの、と一概には云へぬもので、木々高太郎氏なぞは可なりの分量を書いてゐるが、そんなに歩調が亂れてゐるとは思はれない。病後の横溝正史氏は、俄然矢つぎばやに書きまくりだしたが、この人は何故か小量作家であって欲しいやうな氣がしてならない。
▼長篇を書く顏ぶれは大抵きまってゐて、いつも同じ人が二つも三つも同じ風なものを書いてゐるが、いづれも試驗ずみの感があって、またかといふ嘆聲がもれる。我々讀者にとっては變った顏ぶれが欲しいのだが、變ったのに書かせると、もっと下らない物を書くのだからやりきれない。
▼探偵小説の創作家たちが大きな顔をして勝手な熱をふくに反して、なんと批評家たちの謙遜で遠慮ぶかげなことよ。大家の一喝に會って引っこむやうでは頼りない。
 西田、中島、井上、その他匿名の批評家たちよ、牙をみがけ。
▼批評家は羊群を獲りながら、彼らを安全に牧場に導く牧羊犬のやうなものだ。けれども或る場合の批評家は橇を追ふ狼群のやうであって差支へなからう。インチキがあったら寄ってたかって屠ってしまへ。
▼昭和十年に濱尾氏が死に、昭和十一年には夢野氏が死んだ。今度は誰れだらうか。ひとのことを心配するより自分のことを考へろ。今度はお前だよといふ聾が聞える。なるほど新青年の「ぺーぱーないふ」を見ても胡鐵梅と云ふ名はない。胡鐵梅は永久に死んだのだらう。
をはり

注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加したところがあります。
注)ネタバラシ部分は背景色文字としています。


今年の抱負「七色の虹」妹尾アキ夫
「宝石」 1950.01. (昭和25年1月) より

 どんなにかび臭かろうと、思い出ばなしというものは、すくなくも、事實が話されているという點で、非常な強みをもっている。それに比べると、未來の抱負などゝいうものは、要するに痴人の夢、駄法螺、讀物として三文の價値もないものなのである。
 だが、それにも拘らず、私は自分の過去をかえりみようとは思わない。少年はあらゆることの可能を信ずる。私は少年の心で、バラ色に彩られた未來や、七色の虹のように美しい夢のみを眺めていたい。そうして、たとえ少しずつでも、現實をその夢に近づけ、この人生を、美しい、樂しいものにしてゆきたいというのが、私の常からの念願なのである。
 まず、自分の希望をふくめて、アプレゲールの「寶石」のありかたや見透しを考えてみよう。
 英米の讀物雜誌は、小説より挿繪が豪華なので、つい挿繪にひきずられて、本文を讀んでみようかというきになる。そのうえ、一册の雜誌として、挿繪が統一されていることも、嬉しいことのひとつである。江戸時代の木版の小説本の挿繪だって、いまの日本の雜誌の挿繪に比べると、數段美しかったように思う。じつに、明治末期から、今日にいたる期間は、挿繪の混亂時代、粗雜をきわめた時代であった。だから、私は、パルプ事情がよくなったら、まず第一に。「寶石」の挿繪が、アメリカや江戸時代に劣らぬものになると思うのである。
 つぎに、「寶石」の内容はどこまでも本格探偵物を中心とし、それに「戰前新青年派」とでも云うべき、幻想怪奇トリックを主とした、いわゆる變格物を多分に配し、探偵小説は大體、創作と翻譯が半々になるのではないかと思う。いろいろ説はあるようだが、探偵小説はいろんな面で、翻訳物と深いつながりを持っているので、これを無視することはできず、それかと云って、翻譯ばかりにすると、足が地につかぬものとなるので、まず半々というところが無難だろう。 その他、記事や随筆も入って、クイーンの「ミステリー・マガジン」のようでは少數の讀者しか掴めないから、ちょっと「サタデー・イヴニングポスト」の日本語版と云ったようなものになり、日本で一番よく賣れる雜誌になると思う。
 つぎに翻譯について云うなら、今までは輸入ばかりしていたが、もう國内で相當なものが製造されだしたのだから、輸出入のバランスを取り、日本製の探偵物を、向うの言葉に翻譯すべき時期になったのである。探偵物の翻譯は、やはり探偵小説家がしなければ駄目である。私は横文字をたてに書きかえていたが、これからはそれと同時に、たての物を横に書きかえたいと考えている。ペーペルマンスはドイツ生れだ。クリストウはギリシャ生れだ。アメリカは各國の科學者に門戸をひらくと同時に、各國の文學者を迎え容れる國である。
「日本タイムズ」の論説はよいが、「英文毎日」の論説は日本語の直譯だとけなす人がある。だが日本臭い英語を嫌がるのは、じつは日本人だけなのである。印度人は印度臭い英語を書き、中國人は中國臭い英語を書く。それでいゝのだ。それが英米人に取っては、却って魅力なのだ。日本人が西部米語で小説を書くのは考えものである。
 私は日本臭い平易な文章に上達したいと思っている。




「(ENQUETE・三周年記念に際して)」妹尾アキ夫
「関西探偵作家クラブ会報」 1950.11. (昭和25年11月) より

 関東大震災で横浜を逃げだした私は、その年の年末まで二三ヶ月、兵庫の湊川のすぐそばの市立実業補習学校とかいう夜学校の英語教師をしたことがある。校舎は小学校、生徒は造船所の職工が多かった。その学校に紹介してくれたのは、神戸商業の右腕のない元気な英語の先生だったが、今の私はその人の名さえ忘れてしまった。もし健在なら、会ってお礼を云いたい。元町の本屋や海岸のトムソンには新着の外国雑誌、三宮の古本屋にはプレミヤー誌。カフェパウリスターのライスカレー。 神戸は今でも私の夢の中の楽しい町なのである。西田さんには三四年前の岡山の横溝さんのお宅で初めてお会ひした。もっと早く会うべき人だったけれど。会ってみたら写真で想像したと違って、私と肌の合う、どこまでも親密になれる人だということがわかった。それにも拘らず、その後再会の機会をえずにいる。いつかゆっくり落着いて、西田さんと三十年の思い出話をしたい。

注)略字は正字に変更しています。楽(※がんだれの下にホ)、違(※しんにゅうに麦)。


「新鮮・快感・美的(私は今探偵小説に何を求めているか)」妹尾アキ夫
「探偵作家クラブ会報」 1953.05. (昭和28年5月) より

 いま私は探偵小説になにを求めているか? まず探偵小説という言葉の意味からして、限定してかからねばならぬが、もし本格物という意味なら、主として犯罪に関する難解な秘密を、論理的に徐々に解いて行くところに面白味があるのだから、(「幻影城」第一ペイジ参照)その面白味を求めると云えば頗る簡単であろう。
 だが、もともと文芸の地平線は無限なのだ。そこには国境線もなければ、三十八度線もないのだ。探偵小説といい、家庭小説といい、身辺小説といい、べんぎ上大体の区別をつけたまでで、その中間のものがあってよいことあたかも、赤と青との中間に、何百とない濃淡各種の中間色があると同じ、むしろ原色より中間色の方が美しい場合すらある。
中心は本格物にあるとしても、いまの探偵作家クラブの会員が書くようなものは、なべて大ざっぱに、探偵物と云わしてもらって差支えなかろう。だから、従って、私はさきに云った面白味のほかに、新鮮なもの胸を打つものも求めるし、快感を覚えるように配列された犯罪記録も求めるし、美的満足を得られるような空想、幻想、行為の記録、美的感情や想像の交錯を、すぐれた技巧で効果的に配列したものも求める。この美的効果というものは、文芸である以上、大変大切で、いくら立派な本格物でも、これを伴っていなければ、価値がさがるのである。

注)略字は正字に変更しています。門がまえ、第。数文字ある旧漢字は新漢字にしています。


「兇器雑考(トリック研究)」妹尾アキ夫
「別冊宝石」 1954.06. (昭和29年6月) より

 兇器の問題にはいる前に、探偵小説はなぜ殺人事件を取扱うかという問題を、考えてみるのも、無駄ではなかろう。それは他のあらゆる犯罪のミステリーよりも、殺人のミステリーが、もっとも読者の興味を唆るからである。では、なぜ殺人のミステリーが、もっとも読者の興味を唆るか。
 いまは故人になった、アメリカの有名な探偵小説家アンナ・キャサリン・グリン女史は、それをこう説明している――
 多くの犯罪のうちで、殺人がもっとも読者の興味を唆る第一の理由は、窃盗や贋造や詐欺や誘拐は取返しがつくが、殺人は絶対に取返しがつかないからである。死んだ人間は、二度と生きかえらない。その意味で、この犯罪には完全に終止符が打たれているのだ。それに、人間の犯す罪のうちで最大なものであるから、その動機も情熱的劇的で、したがって、他の犯罪の動機よりも興味をひく。
 第二の理由は、その秘密を知る人間が、世の中にたった二人しかいないということ。しかもその一人は、永久に沈黙してしまうことである。大きな秘密を抱きながら、唇をかたくとざして横たわる死体ほど、スリルに満ちた、興味を唆るものが他にあるだろうか。探偵小説はその死人に代って、その唇が語ろうとするミステリーを解くのである。探偵小説が圧倒的に読まれる理由がそこにある。
 さて、殺人の謎に連関して、当然問題になるのは、それに使った兇器だが、これは今までの探偵小説に、ありとあらゆる道具が使われているので、ここに一々あげるのも煩しいほどである。
 ピストル、ナイフ、短刀、剃刀、猟銃、空気銃、日本刀、青龍刀、スティレット、大工道具、庖丁、テーブルナイフ、果物ナイフ、ベーパーナイフ、ハットピン針、鉄の棒、木の棒、砂を袋に包んだ棒、矢、毒矢、石、ガラス、ダイナマイト、等々――
 もっと風がわりな兇器について、詳しく知りたい人は、宝石昭和二十八年十月号の江戸川乱歩氏の「類別トリック集成」をお読みになることだ。なお、中島河太郎氏のお説によれば、昭和二十七年三月の犯罪学雑誌復刊第一号に、乱歩氏が「兇器としての氷」と云うのを書いておられるよしだがこれは私は読んでいない。氷の短刀は「類別トリック集成」に出ているより他に、たしかフリーマンも使っていたように思う。
 中島河太郎氏のお話によれば、フリーマンの「アルミニュームの短剣」では銃で短剣を発射し、カーの「デス・ウォッチ」では大時計の分針が兇器となり、同じくカーの「黒死荘殺人事件」では、体温で溶解する岩塩の弾丸が人を殺し、チェスタートンの「神の鉄槌」では、高いところから加速度で落ちる鉄槌が鉄兜を貫き、クインの「Yの悲劇」ではマンドリンが兇器となり、 カーの「ツー・ウェイク・ザ・デッド」では大トランクの中へ首を突込んで探しているところを、蓋をして絞殺するのだから、トランクが兇器となっているわけだし、グリーンの「弾丸の行方」では氷の弾丸が兇器となり、ロードの「誰が射ったか」とベントリーの「みごとな打球」では、ゴルフのクラブの先端についていた爆弾が破裂して人を殺す――
 いままで発表された、古今東西の、長篇短篇の探偵小説に現れた兇器の統計を取ったら、面白いものができるだろう。だが、これは不可能なこと、世界中の切手を集めるよりも六づかしい仕事だ。せいぜい自分が読んだ探偵小説の範囲内で、統計を取るよりほかはあるまい。
 しかし、ほんとは、兇器の問題などはどうでもいいのである。どんな珍しい兇器を使おうが、それはただ珍しい探偵小説ができるというだけで、その作品の価値を、少しも高めはしないということを、知っておく必要がある。
 では、探偵小説で、一般の読者が一番興味を持つのはなにか。探偵小説の価値を高めたり低めたりするものはなにか。
 それは、犯罪の動機である。それから犯罪の途中における、加害者と被害者の心理である。そんなものが、話の途中で、徐々にほぐれてくるところに、一般の読者は心をひかれるのだ。つまり、ある状態におかれた人間が、どんな行動をとるかという、その心理に興味を持つのだ。探偵小説の価値を高めたり低めたりするものは、人間が描けているか、描けていないかの問題である。
 といって、なにも心理小説を賞揚しているのではない。動機や心理を少しも描かなくても、人物の描写にそれが表現されていればいいのだ。最下級の無教育な読者は、犯罪そのものに興味を持つように考えている人もあるが、ほんとはそんな人たちも、犯罪に現れた人間に興味を持っているのだ。
 例をあげてみよう。アトリエのマネキンの指に、天丼から雫がたれて、その湿気で指が縮み、ピストルの引金を引いて、ソファに寝ていた画家が弾丸に当って死ぬ。これは解けるまでは立派なミステリーだが、解けてしまえば、奇抜な着想に感心しながらも、なんだ、馬鹿らしいと思うだけだ。形は犯罪になっていても、動機や心理がないからである。
 もひとつ例をあげてみよう。ある男が自宅から駅へ行くのに、廻り道をして行くとする。これが道を間違えて廻り道をしたのだったら、動機も心理も伴なわないので、面白くもなんともないが、腹へらしのためだったら、動機だけが伴なうので、やや面白くなり、もし恐る恐る昔の恋人が引越した家の前を通るのが目的だったら、動機も心理も伴なうので、俄然ロマンティックなスリルに満ちたものになるのである。この三つの場合、外形は同じなのである。
 ある人はトリックの重要性を説く。私はトリックなどは技術的な小さい問題で、探偵小説の死活を決するのは、やはり人間の悲劇が描けているかいないかだと思う。私は先に兇器はなんでもよいと云ったが、むしろ最も平凡な手近な兇器が、いちばんよいとさえ云いたく思う。
「罪と罰」のラスコルニコウは、兇器として平凡な手オノを選んだが、動機と心理が見ごとに描けているため、マネキン殺人事件の何百倍何千倍の読者に愛読されている。「罪と罰」は探偵小説でないと云うなかれ。小説の世界に判然とした三十八度線はないのだ。

注)句読点は追加したところがあります。
注)本稿はトリック研究3にあたり、1は「「密室」の原理」不二見晴雄、2は「一人二役の魅力」渡辺剣次 です。


「災厄の町の評について」妹尾アキ夫
「探偵作家クラブ会報」 1950.05. (昭和25年5月) より

 平出さんの災厄の町の公判の場面の訳しかたに就いての批評を讀んだ。私はぺチャンコになった。私はあれを訳す時アメリカの公判の事をよく知った人にいろいろきゝたいと思った。けれどもそんな人を知らなかった。探してゐる時間もなかった。翻訳者はいろんな智識が要るものだといふことを痛感した。災厄の町の非難が来月号に出ますよと武田さんにおどされたので、私はもっと勉強しなければならんと思って、今まで行ったことのない探偵作家クラブに出席し、いっしょに公判見学に行ってみた。 その結果いろいろのことを知った。しかしまだ分らぬことが多い。こんどアメリカの公判のことを訳すときには、平出さんにおきゝしようと思ってゐる。翻訳は割の悪い仕事である。ほかに芸があるならやめるのだが。

注)「アメリカの法廷風景 「災厄の町」翻訳雑感」平出禾 宝石 1950.06.(月号は本稿と前後逆転)の指摘に対するもの。


「私の小さいミステリー」妹尾アキ夫
初出:「探偵作家クラブ会報」 1950.05. (昭和25年5月) 「別冊宝石」 1951.08. (昭和26年8月) より

 探偵小説を翻訳してゐたら、「彼は彼の十二号を彼のデスクの上において午睡してゐた」といふ句が出たが、私には何のことか分らなかった。分らない句は一晩寝て考へ直すと大抵分るものだが、この句はあくる日になっても分らなかった。初めは何か職業上の番号札のやうなものかとも思ったが、そんなものがあらうはずはなかった。そのうち、今までうっかりして見落してゐたが、この十二号といふ字に複数のSがついてゐることに気がついたので、このSが私の小さいミステリーの解決の鍵になると思って私はよろこんだ。 けれどもそれはぬかよろこびで、このSは私の頭をいっそう混乱させ、ミステリーを余計大きいものにしてしまった。
 私は、ヒズナンバートエルヴズアップオンヒズデスクといふ字を一字づつ、まづ三省堂のコンサイス、つぎに同じく三省堂の米語辞典、さいごにウエブスターカレジエートで引いてみたが、どこにも新しい意味は見つからなかった。私はかぶとをぬいだ。そして原文を進駐軍につとめてゐる友人に書き送って、外人に意味を聞いてくれと云ってやった。返事にはきいても分らなかったと害いてあった。
 私は意を決して原本をポケットに入れ、ある晴れた日に近くの東横デパートに行き、日本娘と二人で化粧品を買ってゐるアメリカの兵隊さんのそばへ恐る怖る接近し、勇をこして本を拡げながら「ごめん下さい、然し、私はこのナンバートエルヴズが何を意味するか、理解することができない。それが何を意味するか、あなたは私に親切に話してくれるであらうか?」ときいた。
 そばにゐた若くて美しい日本娘が、「そりゃ十二番といふことですよ」と日本語で云った。兵隊さんも「イエス、イエス」といった。私は「然しながら……」といった。するとペイジを覗き込んでゐた兵隊さんが、破顔一笑、「これは靴のサイズですよ、つまり十二号の靴をデスクの上にのせて、午睡してゐたといふことなんです」、ありがとう、ほんとにありがとう。 私は一つのミステリーを解決した喜びで、意気揚々と電車に乗って帰った。じっさい私にとっては、探偵小説そのもののミステリーの方が実生活に直接に繋がってゐるだけに、より以上のスリルやサスペンスを持ってゐたのである。
 さて家へ帰ったら、これをどう訳したらいいかといふことが問題になった。「十二号の靴をデスクに乗せて」と書かうと思ったが、読者の半分の者は十二号を靴のサイズと解釈してくれても、半分の者はそう思ってくれないかもしれない。翻訳には不可解の句を入れるのは禁物である。
 そのうち私の家にお客があったのでその話をした所、「十二号といったら余程大きい靴ですよ、私の靴は、パークリールにゐるワイフの父が送ってくれたのですけれど六号です」と玄関から靴を取ってきて見せてくれた。それで私は十二号といふ字を消して「大きな靴をデスクにのせて」と書きなほした。
 ところが、外人が足をデスクに乗せる習慣を持ってゐることを知った人には、これで分るが、田舎の人はこの文句を読んで、脱いだ靴をデスクの上にのせてゐるのだと解釈するかもしれないといふことに気がついた。それで私は靴といふ字をまた削って「大きな足をデスクの上にのせて居睡りをしてゐた」と書いた。そうして、これが結局活字になってしまったのである。そんなに苦心したに拘らず、これは大変拙い翻訳なのである。
 なぜといふに、第一、原文のしゃれた味を殺してしまってゐる。原作者は、しゃれたつもりでわざと靴といふ宇を抜かしたのだらうが、翻訳にはそのしゃれのしゃの字も現れてゐないのである。第二に友人が大きいと云ったので私は大きい足と書いてしまったけれど、十二号が大きいといふ証拠はどこにもないのだ。だから、ことによると、これは誤駅なのかもしれない。
 私はいつか十二号の靴がどのくらいの大きさか、また一号二号といふのは何を基準としてゐるのか、そんなことを見たり聞いたりしたいと思ってゐる。もし十二号が十二インチのことなら、六号といふのは、あやまって9といふ字を逆さに読んだのであって九インチなのであらう。

注)原文は二段落のみですが、適時改行を追加しています。
注)数文字旧漢字が使用されていますが新漢字にしています。カタカナ表記は統一したところがあります。
注)判明結果が「靴のサイズ」宝石 1952.03.に掲載されています。


「靴のサイズ」
「宝石」 1952.03. (昭和27年3月) より

 土のうえの足跡を見つけると、かならず鞄から道具をだして、石膏で靴跡の型をとるのが、フリーマンの探偵ソーンダイク博士である。單行本には寫眞がないが、フリーマンが三十年ほどまえに、毎月短篇を連載したピアスン誌には、その石膏の靴跡の寫眞までのせてあった。作者のほうでも、讀者のほうでも、そんなことが面白く、かつ樂しかったのであろう。 いまの讀者は、そんな寫眞に興味をもたないかもしれないが、でも、現場に殘る足跡が、犯罪捜査の重要な要素で、探偵小説のスリルや中心興味は、要するにそんなところにあるのだということは、今の讀者でも認めないわけに行かないだろうと思う。
 私は寶石の八月號に、「アメリカの探偵小説に、十二號という靴のサイズが出たけれど、それが大きい靴なのか小さい靴なのかわからない。アメリカの靴のサイズの數字は、なにを基準にしているのか、いつか誰かに教えてもらいたい、」という意味のことをかいた。アメリカどころか、じつは日本の九文だの十半とはんだのという、數字の意味さえ、私はろくすっぽ知らなかったのである。
 ところが、その道の専門家である(略)さんから、最近くわしい説明をきくことができた。探偵小説の讀者でなくても、およそ洋服をき、靴をはくほどの現代人は、このくらいのことは常識として覺えていてもよかろうと思うので、ここに新知識を披露しておこう。
 イギリスでは、(略)
 アメリカでも、(略)
 フランスでは、(略)
 ドイツでは、(略)
 最後に日本では、曲尺八分(※約2.4cm)を一文といい、一文を四等分して1/4を三分、3/4を七分、1/2を半というが、事實上は三分は二分五厘、七分は七分五厘の長さがある。

注)詳細は現代と合わないので省略します。


「探偵小説翻訳家組合」妹尾アキ夫
「探偵作家クラブ会報」 1951.05. (昭和26年5月) より

 乱歩さんから、翻訳家の利益をようごするため組合をつくってはどうか、二三人で話し合ったらできることではないかという話があったのは、もう一年も前のことであるが、今日まで何もせすに過してしまった。
 しかし、考えてみると、文芸物の翻訳家は相当優遇されているが、探偵物の翻訳となると、てんで世間の人が頭から馬鹿にして、方角ちがいのこっぴどい悪口は云うし、出版社は金詰りを口実に、払うべき金も払わないで当然な顔をする。
 勤人や労働者には、職業組合だとか労働組合というものがある。それにならって、探偵小説翻訳家組合をつくってはどんなものだろうか。
(一)目的は翻訳家の利益ようご――主として支払上のグリーヴァンスの対策を相談する。
(二)会員は多いはど強力なものとなるから、できれは二三十人欲しい。
(三)民主的で自由自在な集りだから、会長もおかす、会費もいらない。また会員は何の義務こうそくも受けない。たゞ順番に当番をきめ、当番の宅で二月に一ぺんほど会を開く。
(四)地方の会員とは当番が手紙で連絡をとる。
(五)会で決議したことでも嫌だと思ったらその決議通りにしなくてもよい。

注)略字は正字に変更しています。イカ→働、門がまえ。


「(マイクロフォン)」
「新青年」 1925.12.〜随時 (大正14年12月〜随時) より

「無題」妹尾韶夫 1925.12.
◆私は本誌の探偵小説に眼を通さぬことはあっても、田所大佐と川田少佐の實録に眼を通さぬことはありません。時によると、胸を轟かせながら耽讀します。やっぱり眞面目な眞實ほど人間の心臟に喰ひ込む力をもったものはございませんね。

(無題) 妹尾韶夫 1926.04.
 本誌増大號卷末の『歐米探偵小説著作目録』の中に、拙譯『青色ダイヤ』(※ママ)の原本はまだ出版されてゐないらしいと書いてあったが、あれはピヤスン誌に連載された後、The Blue Scarab と云ふ一册に纏められて二三年前に出版された。『青色ダイア』の讀者の爲に一口云って置く。

(無題) 妹尾韶夫 1926.10.
 僕はトリックの探偵小説に食膓(※ママ)した。短かくてピリヽとした處は好いには違ひないが、そんなのばかり餘り澤山讀んでると、何だか妙に頭がこせこせして不愉快になる。恰度小細工の装飾をほどこした部屋の窮窟な小さい椅子に腰かけた時の感じだ。探偵小説家よ、間が抜けてゐてもいゝから、もっと重みのあるどっしりした物を見せてくれたまへ。頭痛がするわい。

(無題) 妹尾アキ夫 1926.11.
 先日半年ぶりで本牧へ歸って來て、まだ落着かぬので、増大號をよく拝見してゐませんが、處々にある漫畫入りの一口笑話は面白さうですね。それから口繪の『一尾のうなざ』も面白うございました。あんなのをもっと澤山見せて下さい。

(無題) 妹尾アキ夫 1927.03.
 今さら僕なんかゞ云はなくても、諸君も御承知の通り、外國の雜誌を見て一番に感ずることは、記事の内容が愚劣な割に、挿繪が優れてゐることだ。挿繪だけ見たら、文句を讀まんでも筋が飲込めるやうなのがある。いや、文句より挿繪だけ見た方が氣が利いてゐるやつがざらにある。技巧に餘り優れてゐるとは思はぬが、揚面の掴みかた、それから個々の人物の個性と性格を根氣よく書き分けてゐるには感心する。 畫家がよく原文を讀みこなしてゐるから文句と挿繪との間にトンチンカンがない。日本の雜誌では私は新青年の挿繪が一番好きだ。ことに近頃の表紙などなかなか凝ってゐる。少くも松野君が滑稽物の挿繪畫家として日本一だと云ふことだけは云へる。ウォードハウスの挿繪なぞ素敵だ。これだけ書けたら日本に燻ってゐなくてもパンチやライフの挿繪家と肩が並べられる。挿繪に就いてもっと云ひたいのだが、もう一枚の葉書に書けなくなった。

(無題) 妹尾アキ夫 1927.05.
 本誌四月號の記事、活字の配列、挿繪、表紙、どこにも生々とした、きびきびした、フレッシュな、モーダンな、洒落た、ハイカラな、小憎らしいほど氣の利いた、スマートな、輕快な、健康な感じが溢れてゐる。日本になくてはならぬ雜誌が生れたやうな氣がする。雨村と云ふ園丁のオヤヂが丹精して培った草花は、眩惑するばかりの華麗な花を開いた。私が四月號を手にして、何よりも先づ第一に感じたことは、横溝と云ふ後繼者を見つけた園丁のオヤヂは、なかなか眼がよく見えるわいと云ふことであった。

(無題) 妹尾アキ夫 1928.11.
「陰獸」を讀んだら何故だか最近の谷崎氏の長篇「黒白」を聯想した、私はいつもから谷崎氏が好きなのだけれど、「陰獸」は「黒白」より優れてゐると思った。江戸川氏は探偵小説界の水平線を抜きんでゝ、たゞ一人で高いところに光ってゐる。甲賀氏の精力には感心する。日本のオプンハイムだ。顏も圓いところがよく似てる。 「陰獸」の次には「勝敗」を面白く讀んだ。「動物園」には深味がほしい。「海底」はどこかポーの「メールストロム」に似てゐる處が嬉しかった。「死後の戀」は筋はあっけないが文章で終ひまで讀ませた。他はこれから讀みたいと思ってゐる。




「(クローズ・アップ)」妹尾アキ夫
「探偵趣味」 1926.12. ,1927.01.,05.(昭和元年12月ほか) より

1926.12.
一、我が作品(又は翻譯)のうちで、どれが一番好きで、どれが一番嫌ひであるか?
二、將來、どうしたものを書き(又は譯し)たいと考へてゐるか?

 一、全部嫌ひですが、今度出た「暗い廊下」は割合好きなやうな氣がします。
 二、何も考へてゐません。

1927.01.
一、僕がルパンであったら……
二、僕がホームズであったら……

 僕がホームズだったら當分犯罪の少い英國に見限りをつけて米國へ渡り、紐育で八十五人の犯人シカゴで三十八人の犯人を捕へ、それからまた船で日本に渡って、東京の警視廳で講演をして、それから東海道魔の列車の犯人や東京郊外殺人犯人を片っぱしから片附けて行きます。

1927.05.
一、一番最初に讀んだ探偵(趣味的)小説について
二、今から三十年後の探偵小説は?

 一、徳富健次郎氏の「探偵奇話」と云ふ本を小學時代に讀みました。しかしその後本屋の廣告を見ても古本屋を探してもこの本がありませんから、或は私の記憶の誤りかとも考へてみました。ところが最近「富士」を讀みまして、同氏が探偵物の翻譯をした時代があったことを知りまして、やっぱりあの本は徳富さんの本だったと思ひました。今は絶版になってゐるらしいです。持ってゐらっしゃる方がありましたら、大切に讀みますから、借して下さると嬉しいです。
 二、普通の通俗物と混合して、一層盛になると思ひます。




「(昭和2年度印象に残った作品と希望)」妹尾アキ夫
「探偵趣味」 1927.12. (昭和2年12月) より

一、本年度(一月−十一月)に於て、貴下の印象に刻まれたる創作探偵小説、及び翻譯作品。
二、ある作家に向って、來年度希望する點。

 一、すべての創作、すべての翻譯。たとひ多少の非難はあるにしてもそれぞれ變った特長と變った興味で私を樂しませてくれたことをこゝに感謝して置く。
 二、怪談と冒險小説を、もっと讀ましてくれたまへ。




「(探偵小説問答)」妹尾アキ夫
「新青年増刊」 1933.08. (昭和8年8月) より

一、これまで讀んだ探偵小説で(長短篇和洋作品を問はず)何が一番面白かったか?
二、右に對する寸鐵的御感想

 探偵物らしい臭みがなくて、スタイルが雄大で、通俗的であるとともに深みがあって、人間の魂を振ひ動かす力もあれば藝術品としての氣品もあると云ふ點で、「レ・ミゼラブル」は、探偵小説界にキツゼンとそびえた最高峰でございませう。
 それから私一人の趣味にぴったり合ふと云ふ點で、「壜から出た手紙」も大變よろしかったです。




「ハガキ回答(推薦の書と三面記事)」妹尾アキ夫
「ぷろふいる」 1935.12. (昭和10年12月) より

I☆讀者、作家志望者に讀ませたき本、一、二册を御擧げ下さい。
II☆最近の興味ある新聞三面記事中、どんな事件を興味深く思はれましたか?

I 誰でも僕より澤山讀んでゐるでせう。あっちいこっちい聞かせて項きたいほどです。いま讀みたいと思ふのはスパイ物で―― Walsh "The Silent Man" Maddock "The Eye at the Keyhole" 讀んでがっかりしますかな。
II 忘れました。




「(昭和十一年度の探偵文壇に)」妹尾アキ夫
「探偵文学」 1936.01. (昭和11年1月) より

 昭和十一年度の探偵文壇に
一、貴下が最も望まれる事
二、貴下が最も嘱望される新人の名

(一)ラヂオの聞えない山の奥の森の中の小さいバンガローに、犬と私と二人だけ住んで井上良夫氏が讀む十倍の本を毎日讀みたい三年間でいゝ。
(二)明日のことを知ってゐるのは神様だけ。




「(海外探偵小説十傑)」妹尾アキ夫
「新青年増刊」 1937.02. (昭和12年2月) より

A、海外長篇探偵小説を傑作順に十篇
B、その第一位推賞作に對する寸感

 探偵物と云ったら純粋の本格物に決ってゐます。ですからワ゛ン・ダインが推賞した數篇を中心として、それにダイン自身やクイーンの二三品を加へ、さらに近頃流行のシメノンを二皿ぐらゐ加へたら、もっとも萬人向で誰れでも感心される獻立メニューができあがるわけです。どれが一番面白いかと云ったって、どうせ本格物である以上みな似たりよったりで、ドングリの背比べぢゃないでせうか。 私はそれより面白くありさへすれば、本格物の名前に囚はれないで何でも讀みたいです。例へば「レ・ミゼラブル」「クロイツェル・ソナタ」「カラマゾフ」「エドウィン・ドルード」「脚本闇の力」「涙香の白髪鬼」「罪と罰」「モンテ・クリスト」その他。




「(お問合せ(直木賞記念号の読後感と最近読んだ小説の感想))」妹尾アキ夫
「シュピオ」 1937.06. (昭和12年6月) より

一、シュピオ直木賞記念號の讀後感
二、最近お讀みになりました小説一篇につきての御感想

 あのなかに初めて接する作が四分の一ありましたので、大變有益に感じました。目録の頁の衆刷もよかったです。こんどは海外名作梗概集を出してください。長篇中篇を二百ほどあつめ、その梗概を一頁にまとめ、犯罪の動機と探査の經路がよく分るやうに、簡單にまとめてください。




「(昭和十二年度の氣に入った探偵小説)」妹尾アキ夫
「シュピオ」 1938.01. (昭和13年1月) より

昭和十二年度の氣に入った探偵小説二三とその感想

 今年は新青年以外に殆ど讀まなかったので、好きな作品を揚げるのにちょっと困難を感じます。
 別な話ですが、自分が本當に面白いと思って讀んだ作品を認めるのは、自分ながら割合に六つかしいものだと云ふことを近頃感じました。どうしても他人の説や先入觀や下らぬ理窟等々に幾分邪魔され勝ちで、澄んだ池に影が映るやうに自分の心を認めることは六つかしいのです。また別な話で恐縮ですが、新青年正月號の私の「カフェ奇談」は創作ではなくてタネがあるのです。良心がとがめますから告白しておきます。




「(強要ゆすり撃退術(当世百戦術))」妹尾アキ夫
「新青年増刊」 1938.03. (昭和13年3月) より

 強要される者は幸ひなり。彼らはひとの欲しがる物を持てればなり。僕不孝にして小切手かくことを強要されたり、原稿を強要されたり、美人にサインを強要されると云ふ幸福を未だ知らず。どっちかと云へば、僕の方が強要者なり。恐るべし。唯一の強要者はクヅヤでこいつ時々裏の物をカッパラヒます。僕そっと金網からセパードを放し「廻れ」と命じます。犬は家を一周して、クヅヤのうろつく裏手に突進しますが、これは百發百中の撃退法です。




「(当世女十傑)」妹尾アキ夫
「新青年」 1938.06. (昭和13年6月) より

 與謝野晶子(識見の高い偉い人だ、昔讀んだ新聞随筆のある物は今も頭に殘ってゐる)
 徳富愛子(優しい内助)
 棚橋絢子(人生マラソン優勝者)
 長谷川時雨(才)
 吉屋信子(文と精力)
 林芙美子(同上)
 大倉Y子(才)
 大江スミ(企業的教育家)
 山田わか(評論家)
 三浦環(聲と度膽)
 以上の人々より高潔な魂を持ちながら埋れてゐる人も澤山あらう。いろんな意味であらゆる日本の無名の母親に、我々は心からなる花束を捧げたい。




「アンケート(ラジオ放送探偵劇について/愛読する海外探偵小説)」妹尾アキ夫
「宝石増刊」 1951.10. (昭和25年1月) より

1 放送探偵劇「灰色の部屋」「犯人は誰だ?」をお聞きですか その御感想と。
2 欧米探偵作家の誰れのものを御愛読なさいますか? その御感想と。

一、聞いたり聞かなかったり。聞けばやはり面白い。
一、味噌の味噌くさきは上物にあらず。探偵小説の機構があまり表面に浮かび出しているのは上物ではありません。ぼくの好きなのと云えば、書きなぐってあるところは嫌だけれど、まずシムノンあたりでしょうか――




「アンケート(今年お仕事上の御計畫/生活上實行なさりたいこと)」妹尾アキ夫
「宝石」 1952.01. (昭和27年1月) より

1 今年のお仕事の上では、どんなことをお遣りになりたいとお考えですか。又何か御計畫がおありでしょうか?
2 御生活又は御趣味の上で、今年にはお遣りになってみたいとお思いの事乃至は御實行なさろうとすることがございますか?

一、できるだけ澤山、翻譯もやり、創作もやりたいと思うだけは思っているのだけれど。
二、釣りに行くこと。よい本を讀むこと。J. W. Dunne の時間に關する本を持っている人はないだろうか。




「((昭和28年)お好み年頭所感)」妹尾アキ夫
「日本探偵作家クラブ会報」 1953.01. (昭和28年1月) より

 ぼくなんか歳末がこようが新年になろうが何の感想もなく、碌々として怠惰なその日その日の生活を続けるばかりだ。そのうち風の向きが変ったら、いいものが書けるような気はするが――




「((昭和29年)お好み年頭所感)」妹尾アキ夫
「日本探偵作家クラブ会報」 1954.01. (昭和29年1月) より

 この春は本棚の探偵物を全部よみたい。ふしぎに探偵物は、文芸物とちがって、何度よんでも忘れてしまう。自分の訳したものでさえ筋を思い出せない。こんなところに探偵物の本領や好さの一面があるのだろうか。




「新年崩壊」妹尾アキ夫
「宝石」 1956.01. (昭和31年1月) より

1 歳末新年をいかにお暮しですか
2 越年楽しかった苦しかった思い出
3 昨年読んだ忘れがたき作品

 年末だろうが、新年だろうが、私にとって、三百六十五日のうちの、他の毎日とすこしも変りはない。年をとるにしたがってそんなものを無視しようとする気分が、いっそう強くなったように思われる。昔は新年になると、書初めということをしたが、いまはそんなことも無視して、おくればせの年賀状が書初めになることもあれば、去年という名をかぶせられた前日からの続きの翻訳が、書初めになることもある。そのくらいだから、隣近処に名刺を持って行くようなこともしない。 子供の時は父が田舎の郡長だったので、玄關にたこ壺のような伊部燒の壺を出しとくと、それが名刺でいっぱいになった。朝は暗いうちからおきて雑煮をいただき、家々には美しい日の丸がへんぽんとひるがえり、私は新しい羽織をきて小学校へ行って君が代をうたった。ああ、すぎさった明治のグッド・オールド・デイズよ! いまはその田舎町をおとずれてみたところで、マス・コミュニケーションとやらのお蔭で、音の面影はなく、人情風俗も都会と同じになっているだろう。 つまり「新年」というものは、すでに崩壊しているのだ。そして、それにかわる好いものが、まったく変った新しい形で生れているのだが、人間の執拗な細胞の記憶に邪魔され、ただ私たちがその新しいものに、しいて目をつむっているだけなのだ。

注)明らかな誤植は修正しています。数文字、旧漢字が使用されています。


「(木々会長還暦祝賀)」妹尾韶夫
「日本探偵作家クラブ会報」 1957.12. (昭和32年12月) より

 シュニツラーは作家としての名声をえても、医者の職業から離れなかった。モームは聴診器を俶履のようにふりすてた。高太郎が前者にぞくするのは、彼の医学者としての位置が、前二者と比較にならぬほど高くもあるし、忙しいからでもあろうが、それにしても近頃数年前ほど書かなくなったのは淋しい。私は火山が活動を開始するのを待っている。




「((昭和33年)お好み年頭所感)」妹尾韶夫
「日本探偵作家クラブ会報」 1958.01. (昭和33年1月) より

 探偵小説の世界もこの二三年のあいだに大分変ってきたようだ。その第一は松本氏や日影氏の台頭や、探偵畑以外の作家が探偵物を書きだしたりして多少作家の顔ぶれが変ってきたこと、つぎに翻訳物の方でも、以前クラシックとされた作品が必ずしも受けず、今まで見向きもされなかった物が、読者層に受けだしたことである。





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