Shift_JIS Page
著者別リストへ

浜尾四郎 作品小集1

分離: 2023.03.12
新装:2023.11.05
Last Update: 2023.11.05
略年譜・作品・著書など(別ページ)
作品小集2 - - - (別ページ)

      目次

      【自作・探偵小説などを語る】

  1. 「私の作について」 (『殺人鬼』作者のことば) 新かな新漢字補正 2023.07.23
     
  2. 「探偵小説内幕話」 (講演速記) 新かな新漢字補正 2021.11.17 原文は(国DC※)
     
  3. 「高級作品を翹望」 (インタビュー) 旧かな旧漢字 2023.03.12
     
  4. 「探偵小説論(ラジオ「趣味講演の夕」)」「探偵小説断片」 (談話) 旧かな旧漢字 2023.03.12, 11.05追加
     
  5. 「裁判文学裁判(ラジオ「趣味講座」)」 (談話) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  6. 「探偵小説家たらんとする人へ」 (提言) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
      【実話・報道などを語る】
     
  7. 「犯罪漫談」 (解説) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  8. 「犯罪実話漫談」 (随筆) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  9. 「社会時評」 (論考) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
      【落語の犯罪を語る】
     
  10. 「犯罪落語考(末尾部分)」 (論考) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  11. 「裁判官の耳で聞いた落語」 (論考) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
      【自身のことを語る】
     
  12. 「浜尾四郎小伝」 (自伝) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  13. 「法律嫌いの検事殿」 (インタビュー) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  14. 「文学青年の頃」 (随想) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  15. 「云はでもの記」 (随筆) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  16. 「私が私でなかった話(持ち寄り奇談会・浜尾四郎部分)」 (座談会) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  17. 「恐るべき話」 (経験談) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  18. 「法廷の喜劇」 (随筆) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
      【他者・他者作品を語る】
     
  19. 「コーナン・ドイル」 (人物作品紹介) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  20. 「怪奇小説作家 江戸川乱歩氏」 付・「大下宇陀児」甲賀三郎 (人物作品寸感) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  21. 「N将軍と小説家A氏」 (人物作品評) 旧かな旧漢字 2023.xx.xx
     
  22. 「物に動ぜず」 (追悼文) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  23. 「「裁判夜話」を読む」 (書評) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  24. 「犯罪王アル・カポネを讀む…」 (書評) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  25. 「映画「アリバイ」漫評」 (映画評) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  26. 「「怪物団」を見る」 (映画評) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  27. 「徹底的合理化」 (歌舞伎界提言) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
      【趣味などを語る】
     
  28. 「現代はライター時代」 (談話) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  29. 「時価三千円の珍時計」 (コメント) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  30. 「麻雀戦術雑感」 (指南) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  31. 「麻雀漫談」 (随筆) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
  32. 「痛快な勝負」 (随筆) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     
      【探偵術を語る】
     
  33. 「夫探偵術」 (指南) 旧かな旧漢字 2023.11.05
     



「私の作について(『殺人鬼』作者、画家の言葉)」
「名古屋新聞夕刊」 1931.04.10 (昭和6年4月10日) より

探偵小説「殺人鬼」と 作者、画家の言葉
いよいよ近日より夕刊連載
 田中貢太郎氏の大作『刺青の痕』はひとまず近日を以って結了され、いよいよお待ちかねの浜尾四郎氏作、長篇探偵小説『殺人鬼』は当代挿画界の花形吉邨二郎氏独特の麗筆になる挿画と共に夕刊一面に掲載して愛読を願うこととなりました。掲載に先だって作者浜尾氏と吉邨画伯の読者諸君への挨拶をご紹介いたします。

私の作について 浜尾四郎
 他の文学が読者の心に、情緒に訴えるのに反して、探偵小説は常に読者の頭脳、理智に訴えます。ことに本格探偵小説にあっては理智を一刻もはなれることはできません。
 普通の小説のなかでは、読者は事件、その薄幸な主人公のために作者とともに泣き、あるいは悪辣(あくらつ)きわまりない冷血漢に対し読者は作者とともに我を忘れて憤激します。
 しかしながら探偵小説の場合はそうではありません。薄幸な人のために泣くときも、悪人を憎むときも常に理智を忘れてはならないのです。
 作者はここに、稀代の名探偵と、稀世の魔のごとき悪人を描出し、その二人の恐るべき闘争を記(しる)そうと思います。これは同時に読者対作者の闘いであります。
 犯人は何者か。最後まで読者に判らずに進めば作者はあるいは勝を誇り得るかもしれません。
 賢明なる読者はしかし、おそらくは紙上の犯人を捕らえられるでしょう。もしそうとすればそれはいつ頃か。
 作者はその時機を今から期待していようと思います。

挿絵家の言葉 吉邨二郎
 私は常にそう思っている、挿絵も独立した芸術である、と。
 私達が挿絵を描く気持ち、態度はそれが大きな展覧会への出品画に対するのと何等異なりはしない。私は新聞の挿絵としては大毎、東日へと、中外へと描いている。
 一枚の挿絵を新聞の半頁位の大きさの用紙へ精いっぱいかきつけた原画が、わずか二段の大きさになり、しかも、印刷が不出来だったりするとガッカリする。原画のまま鑑賞してもらえないところに挿絵画家の悩みがある。
 二つの新聞、それに月刊雑誌のいくつかをもっている私には、名古屋新聞の依頼をどうしてもお受けする気になれなかった。しかし、どうしてもお前でなくてはいかぬ、ぜひにという切なるお話であったのと、一つには「探偵物」という魅惑のために引き受けることにした。私は実のところ探偵小説の挿絵は描きたいのです。 自分で探偵小説が大好きなのです。奔放な、怪奇な、グロテスクな原作の味は、相応する挿絵とあいまって読者の好奇心をそそる、私自身が作者の人物になり切る、私はとても好きです。私は今、江戸川氏の黄金仮面を描いていますが私自身愛読者であるのです。
 とまれ懸命に描きましょう。


注)現代文への変更にあたって送り仮名の変更や、一部漢字を仮名に、またその逆も実施しています。
注)文末などの言い回しを変更しているところもあります。


「探偵小説内幕話」講演速記
「保健評論」 1931.11. (昭和6年11月) より

子爵で、法学士で、長い間検事の職にあり、探偵小説家で有名な浜尾四郎氏が、本月二十三日、生命保険協会倶楽部晩餐会にて『探偵小説雑話』と題し、探偵小説の内幕話を試みられた。これは当日に於ける浜尾子爵の講演速記である。文責例によて記者にあるものなること、読者のご理解を願いたい。(一記者)

 探偵漫談というお話を申し上げます。僕の話は学問ではありません。皆さんの顔色を見て、つまらなそうならば何時でも止めますから、正直顔色に表して下さい。
 第一に探偵小説とは、どういうものかということを申し上げます。探偵小説は現在非常に流行してきております。現に私の子供等も探偵小説を読んでいるが、私はそれを恐れてひそかに取上げておる。非常に流行していることは事実である。でありますからして実業界においても、常識として知って頂きたいというような点があるのでお話申し上げます。
 探偵小説の流行は独り我国だけの趨勢にあらずして、不景気と共に世界的趨勢であります。最近ヨーロッパにおいて、イギリスのような保守的な国で、殊に探偵小説を馬鹿にしていた国で、一番読まれているのも皮肉であります。今申し上げたとおり不景気と共に、探偵小説は我国でも非常な勢いで流行して参っておりますが、遡って考えてみますと、黒岩涙香氏が噫無常その他数篇を訳したときも、ただ翻訳者として認められただけで、探偵小説家とはなっておらない。 探偵小説が文壇の仲間入りが出来るようになったのは、江戸川乱歩氏が出てからであります。その時分までは文士録を見ても入ってはおりません。ところがだんだん時代が変遷致しまして、文士が食えない時代が到来したにもかかわらず、一方探偵小説の流行が始って、文芸協会が探偵小説をいやに持上げるようになってきた。文壇の大家が探偵小説を真似して、一生懸命作っているというようになって。 これは探偵小説が良い悪いの問題でない。それなら探偵小説とは何であるかということは難しい問題である。これは恐らく探偵小説作家の中にもはっきりしておらん人がある。皆さんが探偵小説をお買いになってお読みになると、実にいろいろありましょう。実にナンセンスな、滑稽な話があります。ある男がバーに行って相手の女が秋波を送って、人違いの自分がどこかへ行って見事にエロをやった、帰って見たら百円掏られていた、これが探偵小説の中に入っておる。そうかというと、全然犯罪の出てこない小説がある。 バカにされたという以外に犯罪の出ない探偵小説というものはなんであるかということがはっきりしておらない。これは恐らく編輯者が明瞭しておらんのであると思います。一例を挙げると私の所に雑誌社から探偵小説を書いてくれという、実は現在では御承知のとおり探偵小説を書くことが流行っている。形式に、内容に、一向一致しないのは文学上から、実際上から執筆者の関係である。江戸川乱歩、甲賀三郎、日本に於ては探偵小説家は名をあげて出た以上、何を書いても探偵小説になっておる。内容では区別がつかん。
 そこで探偵小説というものについて、第一に御紹介しておきたいことは本当の探偵小説は由来三つの要素があるといわれております。第一位はテーマが犯罪を中心として進行していかなければならない。例えば例をあげますと、ある男がバーに来て――エロの方面にばかり進んで恐縮ですが、時代が時代ですから――若い女と仲がよくなったとする。何日かの後に、ついに駈け落ちしようということになり、その男が友達の下宿に忍び込んで、机の中から三十円の金を盗んだ、というストーリーがあるとする。これにも犯罪がありますが、これは探偵小説ではない。 何故かというにこのストーリーは犯罪を中心として進んでおらない。これは恋愛小説であります。これは恋愛小説、通俗小説になるが探偵小説にはならん。探偵小説になるためには、この犯罪というものがテーマとして、そのストーリーが進んでいかなければならない。これが第一の約束であります。
 それから第二はこれは非常に難しいことでありますが、証拠を歴然として提出しなければならない。なるべく約すが、科学的のことは現実に即して見つけることをしなければならない。探偵が出てきて捜索して見つけなければならない。でないと探偵小説にならない。
 第三に反面にミステリーがなければならない。ミステリーというのですから、御承知のごとく一種不思議な謎、これはどうも不思議だという疑問を起こさせる。始めにミステリーのない小説は探偵小説でないのである。
 一体探偵小説は文学的にどんな位置をもっておるか。探偵小説は普通リアリズム文学、リアリズム――写実主義文学であります。私が今一つの探偵小説を書く場合に舞台を丸ビルにとるとする。そのとき丸ビルには入口が三つしかないと書くと、読者は直ぐこの作者を馬鹿にする。こんなこと知らないようじゃ大したことはないと読んでくれない。でありますからここは写実的に丸ビルには四つの入口がある。東京駅に向いた入口に煙草屋がある。ここまではよい。後はインチキを書く。 毎日四時頃その煙草屋の角に十八歳位の女が来ると書く。すると読者はそういうことがあるかなと思う。読者ほど甘いものもない。これで誤魔化せるのである。即ちその始めのリアリズムが難しいものであります。妙なことをいうようですが自分のお話を申し上げます。四月から名古屋の新聞に探偵小説を書いておりますが、読者は何故名古屋のことを書かないかというが、私のそれに対する答えは名古屋の地理に自信がもてない。どうもこれを書くことは危ない。そういう関係で名古屋の読者のあまり知らない東京を背景としておる。 この点にいくとチャンバラの大衆文学は楽だという話であります。丸の内の真中に墓地を作ったり、小石川に吾妻橋があったとか、自由に何処にでも作れる。昔のことですから読者は知りません。ところが探偵小説そういう訳にはいかん。必ず本当のことを書かないと読者にインチキが暴露されてしまう。これが今申上げた如く、リアリズム文学でなければならないという一点であります。
 それでこの探偵小説では読者をはらはらさせることはよいが、同情さしてはいかん。菊池寛氏の書いておる通俗小説では作者として中の人物に同情される方が成功である。例えば第二の接吻のしづ子ですが、よく覚えておりませんが、結婚二重奏にしても、菊池寛氏の小説は強い女と、弱い女とどっちが結婚するだろうか、読んでおる人が涙を流して、どうも可哀想だ、どうなるんでしょうと同情の涙を買うのが、この小説の目的であります。 それでありますから普通小説が情緒に訴えるに対して、探偵小説は理智に訴えるものであります。まずそういう次第であります。
 その次に組織のことについて申上げます。これは内幕の話でありまして、はなはだ恐縮でありますが、僕等から見ると有益なことで、この方面に趣味のない方には有益ではないが、若い作者に対して大家の説くところで、御参考までに申し上げます。一つの小説、通俗小説に女が出てこないと小説にならん。昔からよく歌かるたから始まった小説があります。一月三日にかるた会で会って、五日にはどこかで会って、それが発展して二十日には熱海に行く、三十日には結婚する話があったとする。 そうして作者はこれを書くとするという話でありますが、通俗小説の場合は昔、金色夜叉に見るとして歌かるたがあって、そこで知り合いになり、三日になってどこかで会って、それから二十日熱海に現れ、舞台が熱海に代る。あるいは金色夜叉と違ってくるが、三十日に結婚するまでに進む。これは日記体に書いていけばよい。探偵小説の場合はそうはいかない。 五日に仲良くなってどこかで会うというときに、ここに悪者があって第三の男が横恋慕をした。ここで恋敵の争いが起こる。これを探偵小説に書くときは逆に書く。三十日夜、突如悲鳴が聞えた、何事ならんと思って駆けつけ見ればという結論を先に提出しなければならない。そして最後に原因はどうであるということに解決する。これは非常に肝心な難しいことであります。 先が発展しなくなる、これは普通作家とは違っておる。普通作家になるとその日、その日の出来心で書いておる。南国太平記にしろ、最後まで出来ておるわけでない。読者は真面目になって次はこうなるだろうと予想しておるが、作者の方はその日によって構想を左右していく。だから作者が病気にでもなると休載ということになる。ですから百五十回のものが、百二十回で切ってもよいし、二百回に継続もできる。ところが探偵小説になると、始めに結末をつけて最後に誰が犯人かと解決しなければならないので、組織をつけておかなければなりませぬ。 であるから通俗小説のように後の方に盛り上げていくわけにはいきません。最初の構想が重大である。今ある人が向かいの二階にいる男を殺そうとする。どうして殺すか。この男は空気銃を持ってきて、その空気銃の中に小さいナイフを入れて窓から打ち込んだ。翌朝になって青年が起きてこない。不思議に思って行ってみると死んでおる。部屋の中には人が入った様子がない。どこから犯人がきたろうというトリックを考えたとする。この場合、このままの順序では探偵小説にならない。 これは先ほど申上げたように、このナイフは空から飛んできたのであるということを言わなければならない。こうしたのが本格探偵小説であります。本格探偵小説という言葉は今の一番初めにミステリーをもち、名探偵が出てきて、これを探していくという小説が本格探偵小説であります。
 そこで現在は本格探偵小説は非常に読者が少ない。これは悪口でないから申上げてよいが、講談社から出ておる雑誌に本格的なものは出ていない。ただはらはらさせれば良い。理智の力がない、その方が日本の読者に受けておる。田舎のパン屋のおかみさんとかが読むには、理屈っぽい探偵小説はいけない。今申上げた通りリアリチック・ストーリーを書いておる方が読者に受けるというので、本格探偵小説は少ない。
 それでシャーロックのものにしても、探偵小説には名探偵が出てきて活躍致しております。それでこの探偵小説は非常に範囲が広いものであります。どの場合にも通じておるのは落ちがあることで、この点落語に似通っており、また我々作家の中で、落語から盗んでおるもののあることを私は知っておりますが、仲間のもので言わんが非常に沢山ある。 落語のこういう話がある。数年前の雑誌に出たが日本一の名探偵になるという。動物園にやって来て宝石を失くした。自身探偵になって、実はどうもあのペリカンが怪しいとにらんだ。果して宝石がペリカンから出たので、たちまちにして名探偵になったという話があります。
 これは私の宣伝のようですが恐縮ですが、今曽我五郎がやっておる二番の探偵喜劇で恋愛遊戯がある。ある男が睡眠剤を殺す気でなく、その効果を試験するために一グラムを用いれば死ぬので0.五グラムだけを女に飲ました。すると一方の男も全然無関係に同じ目的で0.五グラムをその女に飲ました。ところが二人で0.五グラムずつですから一グラムになって、その女が死んだという話であります。 今喜劇で大いに変わっておりますが、まあ探偵小説と落語の連絡が深いものがございます。お暇がありましたら、新歌舞伎座でやっておりますからご覧になって下さい。
 その次に実話のお話を申上げます。日本に今出ておる実話雑誌も、果してどんなものか充分ご注意願いたい。我国だけでありません。外国におきましてもそうでありますが、一つの話をいろいろ伝えております。一体読者も悪いと思うのです。多くの読者というものは探偵小説作家が実話を書くとこいつは臭いと思うが、これは早計である。大体材料の出るところが違う。この沢山の材料を集めて、調べた探偵小説作家の書くものは一番正しいと言いえるのであります。 英国の法廷の記録を見ますと、三人を殺した犯人が、世間には十三人を殺したと伝わっておる。裁判記録に嘘はないはずですが、三人殺しただけでは読者が面白がらない。こんな例を見ても、実話がどの程度まで当てにならないものであるかを御承知おき願いたい。本当のことを書くと読者に受けない。これをもってもいかに実話は作られるものであるかということを記憶になって頂きたい。それを面白がっていらっしゃる読者がある。本当と思って読んでる人がおる。 皆さんはその辺を御注意になって読んで頂きたい。最近三大事件の実話、――ところがこの三大事件がたくさんあるが、この実話なるものは随分怪しい実話であります。その点充分お考え願いたいと思います。それなら本当の実話はどうか、これは難しい問題であると私は考える。というのは本当の実話は、先刻いったミステリーがない、刺激が弱い、だからそのままでは読者に受けないらしい。私は数年検事をしておりましたから、読者を引きつけるような実話をたくさんもっておるかというと、そうではない。 現在裁判官でもって探偵小説界に顔を出す人がたくさんあるが、この人達は成程豊富な実話をもっておるが、小説にはなっておりません。でありますから実話とはどんなにインチキなものであるかが解ると思います。三人殺した犯人が十五人も殺しておる。あるいはまた何時何分頃に覆面の男が家に忍び込んで、ピストルをもって……と細々と書いておるが、実話にこんなことはあり得ないです。さも後について歩いたようなことを書いておる。こんなものはまずインチキとみて差し支えありません。
 それから探偵小説――我国の探偵小説について一寸一言申し上げておきます。それで探偵小説を分けることができる。一つは裁判小説。この裁判小説の中には、東洋の裁判小説と西洋のとがございます。それで、東洋の裁判小説は支那に起こっております。これは通俗的なもので大岡裁きであります。徳川天一坊等々が日本の裁判小説になったのである。馬琴等が書いておるものです。つまり無罪になるか、有罪になるか、裁判を中心としたものでございます。他の一は犯罪小説であります。
 我国で古田大次郎という死刑になった男が、何とかいう本を出しておる。それからこれは当然発売禁止になりましたが、吹上佐太郎という死刑になった男で、これは十五歳位の女の子達を強姦して殺した、その犯罪記録であったろうと思います。外国にもいろいろの変態性欲の有名になっておるのがあります。ところがこうした告白は自分の犯罪を誇張して書く。だからその告白なるものも当てにならん。今世界を風靡しておるアルカポネのごときも、一体どれが本当か解りません。
 それから日本の探偵小説は犯人の逃げ場に困る。外国に逃げるには旅券がなければならない。ところが外国ですと例えばパリの犯人が汽車に飛び乗ればそれで逃げられる。ドイツに入ってしまうとフランスの警察権がとどかない。大陸ならどこへでも逃げられる余地がある。したがって汽車の中の事件が非常に多い。これが国際探偵小説で外国の小説を見ますとそういうのが盛んであります。我国においてはできないことです。次に我国の作家の困ることは宝石がないことです。 昨日、丸ビルの何とかいう宝石店に入ったのなどは素人と思う。日本では少し高価な宝石ならすぐ足がついてしまう。ここに五十万円するダイヤモンドを持っておる人を殺して取ったところが、これをどこかへ売ればすぐ足がつく。これが外国ですとすぐ金になって逃げられる。我国では金以外は駄目です。外国ですと宝石が欲しいために人を殺すということがあるらしい。日本ではこれはまず不可能といってよいでしょう。
 話がいろいろ飛びますがアルカポネの話です。大体秘密結社はイタリアに起ったものらしい。イタリア人は性格が適しておる。有名なものがたくさん出ております。そしてヨーロッパ勢に力を得ておる。これは昔から山中におります。これがアメリカに出店を作ろうという考えである。
 それから皆さんの方がよく覚えておりましょうが、二、三月前に藤村某が行方不明になった事件がある。新聞記者が来て犯人は誰だ、犯人が出て来るかという話であるが、レポートがはなはだ少ないので、はっきりしていないが、恐らくこれは、犯人が出てこない事件と思わなければならない。
 探偵小説に関してはこの程度にしておきたいと思います。その他私の申上げたいのはまず探偵小説は今後どうなっていくかということであります。これは当分続くでしょう。ジャーナリズムの流行ですから当分続くと思う。文壇の中で、まず売れる本は皆犯罪に関する小説である。数年は続くという見込みであります。
 探偵小説の影響いかんという問題になると、簡単によいとは決して言えません。がしかし今日は幼年倶楽部とか、日本少年にまで出ておる。ですからいつの間にか、子供がシャーロック等の名前を知っておる。少年雑誌に出るまで流行しておる。イギリス、アメリカでは六年続いておる。まあ当分続くものと思わなければなりません。
 外国の探偵小説について一言申上げておきます。アメリカの小説はお読みになっても面白くない。原語のものをお読みになるならまず英国のものでないと面白くない。アメリカの作家のものはつまらない。私が菊池寛氏に会って、どうして種を取るかと聞いたら、百人ばかり書生を雇って外国の本を読ませる。それを継ぎ合わして書くと聞いた。菊池寛氏等の読者は甘いものらしいです。われわれですと百冊を読んでも種になるものは一冊もない。 探偵小説はまずアメリカのものよりか、イギリスのものをお読みになったらよいと思います。ドイツはあれほど科学の国でありながら、探偵小説が出ておりません。スウェーデンにはイプセン等が出ておるが、探偵小説作家は余り出ておりません。
 それで最後に実話と称するものが、いかにインチキなものであるかということをお含みになって、お読みにならなければなりません。長い間つまらないお話を申し上げました。探偵小説の内幕をお解りになってくだされば私のここに現れた目的は達するのであります。もっと面白いお話を申し上げたいんですが、そんなよい種がありますと、すぐ原稿にして売ることを考えますので、またこうした話は座談的にやるほうがよいと思います。機会をみましてまた何か面白いお話を致します。長い間ご清聴くださいましたことを感謝致します。(完)

注)速記を現代文にという事で、漢字を一部かなに開いています。また漢字にしているところもあります。
注)速記という事で、句読点を一部追加、抹消、変更しています。段落の変更はしていません。
注)「居る」は「居りません」に合せて「おる」としています。
注)「シャイロック」は「シャーロック」、「イタリー」は「イタリア」など現代の言葉に補正しています。
注)「偵探小説」の混在がありますが「探偵小説」に統一しています。
注)通貨価値は当時のままです。


探偵小説を語る
「高級作品を翹望 所謂大衆物と判然たる區別」
濱尾四郎氏訪問記
「名古屋新聞」 1932.03.12 (昭和7年3月12日) より

 ――今までの探偵小説は、低級なものが流行りすぎてゐる。相當な作家も、大衆的であらんがために、ナンセンス趣味のものを書いてゐるようだ。然し、これでは、いけない。これだとあきられてしまうと思ふ。もっと、本格的な理智的な――所謂、ガッシリした作品が出てもいゝと思ってゐる。
 艶々しい顏を、心持ち紅潮させ濱尾氏はチョッキのポケットから銀のシガレット・ケースを取り出すと、また話をつゞける。
 ――僕は、日本の探偵小説は流行り立てだ。外國――殊にイギリスなどは非常に流行ってゐる。が讀みごたへのあるものは、二十冊に一冊位のものだ。本格的な作品――ヴァン・ダインの如きは、相當な讀者をもってゐる。彼の理智的な作品が讀者をもってゐるところから見れば、日本でもいゝと思ふ。僕が本紙に書いた『殺人鬼』などは、駄作ではあるが、非常に理智的なものであったゝめに、惡評を受けなかったのから見れば、日本の讀者も、理智的な作品を求めてゐることがわかる。僕は、今後も理智的な本格的な作品を書きたい。
 「そこで」とライターで消えたシガレットに火を點じながら
 ――もし、この考へが間違ひだとすれば、インテリゲンチャの興味を惹く作品と、所謂大衆物と、區別をつけなければならないことになる。僕個人としては、矢張高級な讀者を相手に書きたい。しかし作者には、賣名その他の点で非常に損ではあらうが、いゝ作品は結局、こゝに生れるのではないかと思ふんだ…。

注)もし間違いなら、なので副題は誤解を与えそう。


得意の一席「探偵小説論」(談話)
ラジオ「趣味講演の夕」
「名古屋新聞」 1933.08.04 (昭和8年8月4日) より

 私は作家の立場から、探偵小説といふものに一種の定義を下してゐる。一般に探偵小説といはれてゐるものゝ中には本格的でないものも含んでゐる。がこれを排斥するといふのではない。所謂怪奇小説、寓話小説の中には随分立派な作品なり面白いテーマなどがある。しかし、探偵小説には條件があり、その構成法も通俗小説とは非常に違った点がある。で時間の許す限り、本格探偵小説の特殊性と一般小説との異った点を斷片的に例を引いてお話したい。

「探偵小説斷片」(談話)
「東京日日新聞」 1933.08.04 (昭和8年8月4日) より
(同日の時事新報、万朝報、新愛知 も同一趣旨と思われるが未確認)

 私は作家の立場から探偵小説といふものに一種の定義を下してゐる。
×   ×
 一般に探偵小説といはれてゐるものゝ中には、本格的な探偵小説でないものがある。いはゆる怪奇小説とか実話小説等の中にも随分立派な作品なり面白いテーマがあるが、本格探偵小説には必ず備はらねばならぬ條件がある。即ち作者は「如何にして行はれたか」「如何なる動機でなしたか」「如何にして解決したか」この三つを義務的にロジカルに書かねばならない。構成法においてもまたしかり。
×   ×
 この本格的なものはエドガー・ポーから出、更に怪奇的なものに分れた。即ち概括的に情に訴へず理智に訴へるのが探偵小説であるといへる。次に探偵小説の特殊性を二三斷片的にあげれば第一人稱で描かれてゐること、いはゆるホームズ・ワトスン・フォームが取られてゐる。次に活躍する探偵には非常な特色があること。ホームズと煙草、チェスタートンの師父ブラウンと諧謔味、フィロ・バンスの貴族的品格等々々、これ等の點についてもお話してみたい。

注)句読点は追加変更しています。
注)同日夜7:30〜9:00までラジオ全国放送。「刀で斬る話」桜井忠温、「探偵小説談片(誤植?)」浜尾四郎、「見たり聞いたりの話」長谷川伸、「私の趣味の話」朝倉文男 となっている。
注)談話などは同趣旨でもかなり違うものになると実感させられます。


(ラジオ) 趣味講座 =後七時半=
「裁判文學裁判」(談話)
「東京日日新聞」 1934.06.20 (昭和9年6月20日) より

 凡そ多くの文學中で、先づ見出されるのは戀愛か犯罪だと思ふ。しかしてこの犯罪をテーマに使ってゐる文學は少くも六種に分け得ると思ふ。先づ第一が嚴格な意味における探偵小説、第二が犯罪小説(この一と二とは現代の日本において混同されてゐるが、全然意味が違ふ)第三が犯人自身の告白によるもの、第四が第三者の書いた犯罪實話、第五が純粋の文藝的作品を犯罪心理學より見たる文學及び第六はいはゆる裁判を中心とした文學である。自分はこの最後のもの裁判文學若くは裁判小説と名づけてゐる。
 さて今晩お話しようとするのはこの裁判文學中著名のものについて思ひついた事を述べて見たいと思ふ。場合によると古來名裁判と傳へられてゐるものが見方によっては必ずしも名裁判で無くなるかもわからんし、現在から見れば相當の疑惑を持たねばならなくなるだらう。兎に角時間の許す限り日本、支那、及び西洋の裁判文學中から、なるべく一般に知られたもの例へばシェイクスピアのヴェニスの商人やわが國の大岡裁判などの中から例を引いてお話して見よう。

注)句読点は追加変更しています。原文は段落分けなしですが一ヶ所追加しています。
注)同日夜7:30〜のラジオ放送。


「探偵小説家たらんとする人へ」
「雄弁」 1933.03. (昭和8年3月号) より

 現今は大衆讀物流行時代である。所謂(いわゆる)まげ物、探偵物、實話物の流行は我國を風靡して居る。此のことの是非は暫くおく。その事實たるや否定出來難い。而(しか)して一朝、名を作家の群に並べんか、忽(たちま)ちにして盛名をあぐる事、正に確實である。男子たるもの、その盛名を一朝にしてかち得る、蓋(けだ)し之にすぎたる快事はあるまい。從って滿々たる野心を胸に藏する青年諸君が、孜々(しし)として讀み且つ書かんとすることも尤もである。
 然し――然しである。まげ物については私の知る所ではないから暫くおき、探偵小説作家たらん、と、志す諸君に對しては、まじめに警告したいことがあるのである。それは一言にしてつきる。年三十歳に至るまでは決して探偵小説作家となる勿れ、といふことである。
 之を詳しく述べるならば、抑々(そもそも)探偵小説とは何ぞや、からして説くべきであるが、その點を簡單に略してしまふと、現今所謂流行の探偵物の多くは所謂嚴格な意味での探偵小説 Detective Novel ではなく、あれは大抵スリラー Thriller であるという事實である。このスリラーが現今日本、否世界を風靡してゐるのは事實であるが、誰か之が永遠に流行するものと斷言出來るか。明日にも之がすたれる日が來ぬとも限らぬ。
 ほんとうの意味に於ける探偵小説は、かのポーに端を發し、ドイルに於て殆ど完全の域に至り、更にヴァン・ダインに至って完璧にまでなったこの一脈のコースをこそ、探偵小説道といふべきである。而して之には餘りはやりすたりはない。否、常にある多數の讀者をもちつゞけて來たのであって、從て將來に於いても、もち續け得る理由があると私は思ってゐる。
 苟(いやし)くも、探偵小説作家たらんとする人々は、ドイル、フリーマン、オルツィ、チェスタートン、クリスティ、ヴァン・ダインの名を知って居らるゝだらう。而して、それらの人々の作品が二十臺の人々の頭によっては、到底完全に作り得ざることも賢明なる人々には判斷出來る筈だ。
 何となれば、假令(たとえ)天才であらうとも、社會の一般的常識と、而して或る特殊の知識の蓄積あるにあらずんば到底まねることが出來ぬものだからである。
 私一個の考へに從へば、我國に於いては、ほんとうの探偵小説の出來るのは、之からだと思ふ。而してその作家たる資格を有するためには、少くも次の條件を必要とする。まづ第一、右に擧げた人々の作を原作で讀み得る程度の外國語の知識あること。外國語は種類が多ければ多い程よいこと勿論である。第二、専門の知識(必しも學問とは云はぬ)があること。第三、社會的常識を有すること。云ひかへれば多少でも世間を見渡してゐること、等である。
 之らの點を綜合すれば、三十歳に達しなければその資格は中々得られないといふことは、自ら明かになるのではなからうか。
 二十代にして書くことは大いによし。しかし發表することは、暫く見合されよ。之血氣にはやる青年諸君には苦しいことだと思はれるが、敢て私はさう云はざるを得ない。
 私の言を證すべく實例を擧て見よう。
 諸君は、ドイルははじめから小説家でなかったことを知って居らるゝであらう。フリーマンも亦小説家ではなく、後に小説家として知られたこともよく御承知であらう。又ヴァン・ダインは何者か。彼は大學の教授であり哲學者である。
 敢て遠き例をとるまでもない。
 江戸川亂歩氏は種々の職業をかへられた方である。甲賀三郎氏、大下宇陀兒氏共に工學士で、この三名が處女作を發表したのは、既に三十歳に達して居られたはずである。小酒井不木氏は醫學博士であって、その處女作は無論三十歳をこえてから發表された。之らの生きた實例は何を語るか。
 私の如きも探偵作家の末席を汚してゐる關係から、方々の未知の人々から原稿を見てくれと依頼される事があるが、而もその多くは皆若い方々である。二十歳どころか、十七、八の人々さへある。
 私はその人々に對して、右に述べたことを常にくり返しくり返しいふのである。自分の事を云ってもよいとすれば、私は法學士で檢事の職を奉ずること數年、辭してからはじめて探偵小説を發表したが、そのとき實に三十四歳であった。
 若き人々は或は云はれるであらう。それは私が不才であるからだ、と。或は然らん。しかし諸君は二十代にして名をなしなお盛名をつゞけてゐる探偵作家を知れりや?
 私はまじめに青年達に警告する。
 探偵小説作家たるためには、三十歳まではたづなをひかへ給へ。若しそれ年少一代の盛名をはせんとならば、探偵小説如きをえらばず、須(すべから)く他の文學におもむかるべし! と。

注)漢字や送り仮名の不統一は原文のままです。ヴァン・ダインは間に点を追加しています。
注)太字はルビ位置に〇印のある強調された文になります。 注)あくまでも当時の浜尾氏の指向と個人的考えです。浜尾氏推薦作は聞いたことがないので気に入る作品はほぼなかったかと思われます。あるいは送ってくるなという予防線のような気がしないでもない。


「犯罪漫談」
「婦人公論」 1929.04. (昭和4年4月号) より

「説教強盗捕はる」「××事件眞犯人捕はる」
 斯ういふ様な記事が此の所暫く新聞記事を盛に賑はして居る。
 さうすると自分などはよく
「説教強盗は何年位の懲役になるんでせうか」といふやうな質問を受ける。中には
「説教強盗なんてのは直ぐ裁判が定って判決は直ぐ下されるんでせうな」などといふ人々がある。
 自分は斯ういふ人々から斯ういふ事を聞かされる度に、世人が如何に新聞記事を鵜呑みにし、且つ何等の考へもなくそれを受け入れるかといふ事を思ひ、其の危險さを痛切に感ぜざるを得ないのである。
 と云ふ意味は、新聞が好加減な事實を報道するものである、といふわけではない。新聞の記事は信じてはいけない、といふ意味ではない。勿論、新聞記事位、巧遅よりも拙速を尊ぶものはないのだから、勢その記事に誤りが有り得るのはやむを得ないけれども、假りに新聞記事を全部事實と見ても、被疑者(即ち犯人と目せられた人)を以て直に眞犯人也と信ずる事は教養ある人々が決してなすべきことではないといふ意味を云ふのである。
 一體世人は「犯人捕はる」との記事を讀むとすぐに之を眞犯人也と信じ、他に又眞犯人らしきものが捕はれると忽ち先の被疑者に對する人權蹂躙問題を起したがる。之は然し被疑者を直に眞犯人と信ずるからとかくさういふ風に考へるのではなからうか。
 成程、第一世説教強盗犯人として捕まって居る男は、指紋も一致してゐるらしいし贓品も持って居たらしいし、又新聞紙の傳へる所によれば可なり多くの犯罪事實を自白して居るらしいから、自分も多分眞犯人だらうと推察はする。然し乍ら彼がたしかに犯人であると信ずる爲には裁判所の判決が確定する事を必要とする。これ以前に決して斯様に確信すべきものではあるまい、と思はれる。
 勿論、警察が、まるで嫌疑のない人間を連れて行く筈はあるまいから、犯人として捕まる以上、相當の根據はあらう。然しそのまゝで世人が信じるが如く輕卒に定めてよいものならば檢事も辯護士も不必要であり、裁判所が直に刑の量定をすればよいわけである。
 現に新聞紙の傳へる所によれば「説教強盗」を捕へる爲に、警察は、少くもわれわれから見れば大失態を演じた。即ち強盗犯人也として捕へた男を一日たッてから全然無辜の者だったといふ事が判って釋放した事實があった。
 所であの際、説教強盗と誤られた男は僅か一日で直に自己の潔白を立證し得たから、世人から誤られた危險は比較的少かったけれども(勿論本人家族の苦痛は比するにものなかッたに違ひないが)自分などが考へると、潔白を立證し得た時間があの場合はむしろ珍しい位早かった。從って幸だったと思はれる。記事の報道に依れば、あの男は直に現場不在(アリバイ)證明をあげ得たらしいが、われわれの生活には、之をなし得られぬ場合も屡々起り得る。 或は又其の證明をなす爲には相當の時のかゝる事も屡々在り得る。假りに彼が其の潔白を證するに一ヶ月かゝったとすれば、後に起る人權蹂躙ほ別ヒして、彼は、恐らく世人から立派に眞犯人として烙印を押されたに違ひない。
 今度の説教強盗第一世某の場合も、理論は常に同じ事である。指紋は動かすべからぎるものであるから指紋を殘して行った家に入った強盗は正に彼と見做してよろしからうけれども、彼が現在(三月二日)自白して居る犯罪事實が果して全部彼の所爲であったか否かは、裁判をすませた後でなければ判るものではない。 明日にも彼は自白を翻すかも知れない。檢事の所で否認し始めるかも知れない。更に公判に於てどの程度まで事實を認めるか之も相當疑問である。と同時に、反對の場合も勿論考へ得る。明日にも新事實を自白するかも判らぬ、あさって他の犯罪事實の證據が舉がるかも判らぬ。だから現在の状況で、彼が犯人らしいと想像する事はよろしいけれども、確定してはいけない。
 右は説教強盗に就て述べたのであるが、之はたゞ一例に過ぎない。この理論は常に一般に適用される。新聞のリポートを鵜呑みにして、紙上眞犯人を眞犯人也と信ずる事の輕卒さと危險さは、どんなに強調しても強調し過ぎる事はない、とすら考へられるのである。
 かくて關西の或る地で、ある婦人が數人を殺して自殺した、と報ぜられ、暫くそれが信じられたことがあった。當時、都下の雜誌社で名士達にそれに就ての感想を求めた事がある。自分は其の名士達の感想を當時興味を以て讀んだ者であるが、諸名士の多くは「假りに彼女が眞犯人なりとすれば」といふ文化社會の名士として決して忘れてならぬ最も重大な假説をおく事なく、直に彼女を眞犯人也と鵜呑みにして種々な感想を洩らされて居るのに驚いたのであった。 此の事實は自分が先に述べた事が益々重要な意味をもつ事を示して居る。名士と云はれる人々ですらかうである。多くの人々が此の弊に陥るのはやむを得ないのかも知れない。
 あの殺人事件が起った頃、自分は東京で檢事を勤めて居たけれども、檢事としてゞなく法律家としてゞなく、單に一探偵小説愛好家といふ所からだけでもあのリポートは疑はしいと信じて、その意味を直に人に云ったことがある。果して其後間もなく事件は非常に紛糾した。  ところが今度は、彼女が犯人ではない他に犯人が捕はれた、といふニュースが又傳はると、世人は又直に之を信じて彼女の爲に泣いたものである。中には立派に彼女の爲に感想を改めて立て直した名士もあったやうに思ふ。自分は自分が辯護士だから、法律家だから、というて右のやうな事を述べたのではない。文化社會に生きる其の一員として此の事を述べたかったのである。
 序(ついで)に云ふが、右の關西の殺人事件などの場合は、法律家でなくても少し考へれば、随分疑はしいと思はれる點があった。だから、新聞記事を讀むに際しては、相當頭を使ふことが必要だと思はれる。
 尤もあく迄も懐疑的に理論を進めて行けば有罪の判決が確定したから、といふて、それだから眞犯人也と斷じていゝといふ事も云へなくなるのかも知れない。然し裁判といふものはさう手ッ取り早く「説教強盗」なり殺人犯人なりを取調べるわけでなく、人力のなし得る限りを盡して慎重に行はれるものであるからして「人が人を裁く事の危險さ」を絶對に信じるものでない限り、判決の確定といふ所で事を定めるより外途はないのである。「人が人を裁く危險と不合理」といふ事をあく迄主張する限りは、裁判といふものは全然不可能になる事は云ふ迄もない。
 然し乍ら、信念と判決とは無論別問題である。例之、今或る事件に於て檢事はあく迄も有罪を信じ、辯護士は絶對に無罪を信じて最終の判決まで爭ったとする。此の有罪無罪が全然法律關係の問題である場合は學理の論爭であるけれども、さうでなくたとへば被告人が或る殺人を行ったか否かといふやうな場合であったとすれば、最終の判決は必ず當事者いづれか一方には甚しく不滿足なるものであるに違ひない。 もし有罪と決せむか、被告人の側即ち辯護士は甚しく失望するであらう、もし無罪と定まらむか、檢事の期待は甚しく裏切られるには違ひはない。
 ところで、有罪になった場合。辯護士は直に無罪の信念までも變ずるであらうか、反對の場合、檢事は直に思想を變へるであらうか、之は疑問である。
 だから、疑獄と稱せらたるやうな案件に於て、判決確定後、若くは刑の執行後と雖も裁判所側、檢事局側、及び被告人側、各皆別個な意見をもって居る事が屡々あるやうに思はれる。
 何故に自分がここにこんな事を云ふか、といふと、かの所謂誤判事件といふものに對しての世人の用意を促したいからである。
 昔から今まで、我國でも外國でも間違って罰せられたといふ事件は屡々傳へられる。ところで此の傳へられる事實に對しても世人は十分批判的な態度をとってほしいのである。新聞記事とはちがって、出所が専問家(※ママ)からであるから間違ひない、とすぐに鵜呑みをする事はやはり危險である。否、矢張り所ではない、それが専問家から出るだけに信用されるから一層危險な事がある。 此の場合と雖も、其の事實を傳へる法律家は、故意に事實を曲げて云って居るわけではない、無論確信を述べて居るにちがひない。しかし確信は確信である。事實は事實である。
 試みに、かの疑獄として傳へられる大森で行はれた有名な殺人事件に就て事に當った、警察官、檢事、判事、辯護士に事實を問うて見られよ。同じ事案についてどの位其の立場によって考へが異るかといふ事を知らるゝであらう。否之等立場の甚しく異った人々でなくともよい、あの事件ではじめ犯人也と目せられた男を捕へた刑事と、次に犯人也と目せられた男を捕へた刑事とについて問うて見られよ、恐らくは立派に異った意見と結論とを得らるゝであらうから。
 又、宣教師で、殺人、窃盗を行ったといふことで捕へられ、判決の下る以前獄死した男の事を或る探偵小説家が探偵小説として發表して居られるが、きく所によると、其の材料は凡て警察の側及裁判所の側から得られたものであるといふ。しかし若しあの事件に關係した辯護士があの小説を書いたとしたら、恐らくは大分異った話が出來たと思はれる。
 斯様な意味からして、世人は常に考へなければいけないと思ふ。
「今や陪審裁判は實施せられて居る。一般の人々に法律的知識を與ふるの急務なるを痛感す」とは屡々云はれるところである。然し法律的知識より、法律事件に對する態度といふものゝ方が大切なのではあるまいか。
 法律事件に對する非常識的態度は困る。「殺人犯人が捕まったさうだ」「無論死刑だらう」などはあはてすぎる。「いやほんとの犯人が出たさうだ」「さうか、ぢぁはじめのは無實だったんだな、けしからん」とむきになられても一寸困る。新聞紙は半面以上を費して、寫眞を入れてさわぐ。之に乗ってさわぐのも一方から云へば無理もない。然し次の所謂眞犯人が又寫眞を出される。今度はこっちだ、と云ってさわぐのはどうかしら。
「一體どっちだ、どっちがほんとだ?」
 位の落付きはもちたい。然しこれだけでは無論足りない。
「はじめのがやったか、あとのがやったか、兩方ともやったか、兩方ともやらなかったか」
 此處まで行かなければ嘘だ。
 然し之は法廷に於ける陪審員の態度だ。外界から一時隔離されて居る陪審員の態度だ。
「新聞もよみ、床屋へも行き、湯屋へも行く人間が、そんな無感覺で居られるものか」
 と云はれるに違ひない。勿論さうである。
 一體此の點は、一般世人ばかりでなく、犯罪に可なり興味をもち、又それを相當研究して居る人達でも兎角見のがし易い所らしい。
 自分は特にここで、或種の「犯罪實話」と、「探偵小説」の愛讀者に一言申し上げたい。
 或る種の犯罪實話家はよく、自身が何某刑事から直接種を得たとか何某探偵の手記を手に入れて居る等と云ってそれを基としてよく書きよく語る。ところで書き語る人はそれでよいけれ共、先に述べた通りの譯合で、刑事や探偵といふものは捜査機關の一部に過ぎないのだからたゞそれだけの知識で人間一人の犯罪事實をきめてかゝるといふ事は頗る危險であると云はねばならぬ。 それと一方、之等の實話はその取材の結果から「そら犯人が捕った」といふ所迄しか書いてないし、もう少し行って「犯人が自白した」といふ所までしか書いてなく、「それから後ほどうなった」といふ點に至っては全く看却されて居る事が甚だ屡々である。丁度新聞記事で云へば「眞犯人捕はる」「眞犯人自白す」といふ所だ。 讀者は決してそれで安心してしまってはいけない。實話の興味は興味として之を價値と混同せざらむ事を希望する。探偵小説だと「なんだあんなもの、くだらない」と云って顧みもしないくせに、所謂「實話」だと眞面目に讀んで、其の儘鵜のみにしてしまひ、「何々事件の眞相がよく判った」などと得意になって居る人々を見る度に、自分は此の感を一層深くするものである。
 實話として價値あらしむむが爲には、捜査の端緒から最終の判決までを公正無視に書いたものでなければならぬ。例へば英國の、「著名裁判叢書」などは其の一例であらう。
 内外の探偵小説も矢張り「そら犯人が捕った」「犯人が自白した」といふ所で多く終って居る。勿論探偵小説の興味の中心は、被疑者が捕まる迄にあるのだし、又小説と銘打ってある以上、それを信じるとすれば讀む方に責任があると云へるわけだけれども、小説の筋其のものを信じないでも、法律關係をそのまゝ受け入れ易いのが讀者の立場だから、讀者としては常に此の事を注意せねばいけない。
 要するに、或る種の犯罪實話や、探偵小説は、被疑者捕はる、被疑者自白す、で終って居るが、法律家から云へば「捕って自白した」のはむしろ序幕かせいぜい二幕目位の所で、一番重要な面白い所はまだまだ之から、といふ所である。捕った犯人が、假令それが眞犯人であっても、有罪の言渡しを受けるまでには波瀾曲折、到底數え切れるものではない。之がなければ判事だけを殘して辯護士や檢事は、皆商賣換へをしなければなるまい。 尤もフリーマンはソーンダイクを屡々法廷に立現れしめて居る。然しシャーロック・ホームズに至っては、彼獨特の虹のやうな氣焔を吐いて犯人を恐れ入らせ之を引渡してたんまりお禮を貰ってさっさとさよならをして居る後で判事の所で被告人が否認したら擧證方法をどうするつもりかと云ひたいのもあるし、又證據固めに檢察辯護人(英國には檢事といふ制度がない)はずゐ分御苦勞様ァだと思ふやうなことがある。
 そこへ行くとバロネス・オルツイはずるいから、てんで被疑者を捕へることなく、カッフェーの隅でおぢいさんに勝手な熱を吐かしてゐる。まことにいゝ氣なものである。
 探偵小説は、だから法律に甚だ關係ある如くに見えて實ほ全く別個の存在であり、極めて縁の遠いものであるとも云へる。探偵小説が、被疑者を捕へる迄の所に興味の中心をおく限り、法律家には縁が遠いわけである。此の事實は、今まで探偵小説作家の中から法律家が出ず、又法律家の中から探偵小説作家が出て居ないことでもよく判る。
 探偵小説と法律との關係に就てはなほ詳しく述べたいのだけれ共、之以上書くと、自己を語るやうで氣になるから此邊で擱筆する。

注)明かな誤字は訂正しています。また句読点の追加、外国人名の名と姓の間に点を追加しています。


「犯罪實話漫談」
「実話時代」 1931.05. (昭和6年5月号) より

 現代は實話の時代だ。實話の流行おびたゞしいものである。犯罪の方面でも矢張り探偵小説以外に犯罪實話が盛んに受けて居るという有様である。
 ところで、此の實話なるものゝ、幾パーセントが、ほんとうの事實を傳へて居るだらうか。
 既に實話といふ銘が打ってあるものゝ、眞實性に疑をもつのもおかしな話だけれど、事實は、かうした疑問をもっていゝ有様ではなからうか。
 他の實話の事は知らず、犯罪實話を喜ぶ讀者には明らかに二種あるやうだ。探偵小説などは作り物で面白くない、ほんとうの話が知りたいのだ、という人々で、斯ういふ讀者に對しては(本來は實話に對する讀者の氣持ちはかういふものである筈である)筆者たるものは苟くも想像や創作らしきものは決して加へる事なく忠實にありのまゝを描寫すべきである。
 ところが、第二種の讀者はさうではない。はじめから實話を實話とは思はず、どうせこれは作り物だらう、と考へてかゝる結果、何でもいゝから面白い筋がいゝといふのだ。
 筆者が想像を書かうと、創作を加へやうとそんな事は一向かまはぬ、何でも刺戟が多ければ多い程いゝといふわけで、かういふ讀者に對すると、まぢめに數種の参考書を繙いて忠實に事實をうつすことなどは、骨を折るだけ無駄なやうな氣がして來る。
 誰でも實話をまぢめに書いた經驗のある人は知ってゐるだらうけれ共、實話をまちがひなく讀者に傳へる事は――殊にそれが外國の事件なんかだと――場合によっては、創作以上に努力がいるものだ。
 外國のものだと、たゞ譯したゞけでは何(なんに)もならないから、いろんな記録を見て、たしかだと思ふところだけをえり出さなければならない。
 僅か十枚か十五枚の物語を書くのに、百頁も二百頁も外國の文章をよまなければならない事がいくらもある。
 しかし右にあげたやうな讀者には、こんな馬鹿正直な努力をしても何もならない。
 例之(たとえば)ここにある男があって、三人の女を殺したという事實があれば、そのまゝ書かず適當に女を十人なり十五人なりにして之を筆の上で殺して行く。さうするとこの殺人事件がひどく物凄くなって來て、讀者にも受けやうといふ事になる。
 しかし、こんな話を、たまたま第一種の讀者がよんで之を信じるとすれば、大へん氣の毒な事になる。
 さういふわけだから、筆者の方にもずゐ分創作を加へたらしい實話が散見する。
 筆者が惡いのだか、讀者が惡いのだか知らないが、ともかくあてにならない實話が殖えて來た。
 まちがった事を書いてゐても、それが筆者にとって善意である場合がある。それは、一つは無意識に自分の想像ををり込む場合と、種のえらび方が誤ってゐる場合とである。
 近頃はさすがにそれがなくなったが、昔は新聞の社會面に、見て來たやうないゝかげんな事がよく出てゐた。たとへば、
「昨夜二時半頃、某區某町某番地某方裏手口より、出刄庖丁を持って忍びこみたる覆面したる怪漢あり、主人の枕元を物色中、主人に目をさまされ、今は之までといきなり庖丁を以って主人を一刺に刺殺し、傍に眠りゐたる妻某をも一撃のもとに惨殺して逃走したるが、曉方近く隣家の者某が、うめき聲を怪みて隣家を訪ね、惨劇を發見、直に最寄の交番にかけつけたるにより直に××署より係官出張目下取調中なるが二人とも、一言も發し得ずしてまもなく絶息し、云々」
 なんていふのがそれだ。
 二人とも一言も發し得ずして死んでしまってゐるのに、時間だの、覆面なんていふ事がちゃんと書いてある。勿論遺留品に出刄があったり覆面用の布(きれ)でもあったんならそれでもまだいゝが、何も證據物がなくてもこの有様なのだから、おどろく。
 現代の犯罪實話にでもよくこんな式のがある。
 例之、ある男がある女をさそひ出して、人里はなれた山の中で惨殺した、といふやうな話。殺しの場面にこんなのがある。
「男はこの時たまりかねて云った。
『お花さん、實はおとっつあんが病氣だと云ったのは實は嘘です。僕は平常からひそかにあなたに戀してゐたのです。どうか僕の思ひをとげさせて下さい』
 お花は、この時さっと青ざめて容易には口もきけなかった。
 男は執拗にせまるのである。
『ねぇ、もうこうなっちゃ仕方がありません。誰もゐないんですよ。叫んだってどうしてたってもうだめですよ』
 女はきっと唇をかんで云った。
『汚はしい、放して下さい。私はもう歸ります』
 男の顏色にはこの時惡魔のやうな表情がたゞよった。彼はしばらく何も云はずにきっと女を見つめてゐたが、今は之までと思ったか…………云々」
 この結果、男は女を殺してしまふのだ。
 これが犯罪實話といふのだから呆れる。
 被告人が法廷でかう述べてゐるならまだしもこの實話は根據がある。それでも實は決してあてにはならない。何故ならば被告人といふものは、人情として誰も見てゐなかった所の事は出來るだけ自己に利益にいうものだからである。
 しかるに、被告人が絶對に否認しつゞけて、而も、有罪の判決が下った場合でも、こんな調子の實話が時々あるのだからどうも驚く。
「凡ての證據は男が女を殺した事を示してゐる。彼は終始一貫して事實を否認した。しかし、判決はつひに死刑であった」
 とかう書くよりは讀者にうける事があるのだから、仕方がないかも知れないけれども、まぢめに實話をよむ人には氣の毒と云はなければならない。
 外國の事件になると、なお更危い。且つ怪しいのがある。
 之はさきに云ったやうに種本がすでにまちがってゐる場合に多くある事で、右にあげたやうなインチキな實話が、英國にも獨逸にもどこにもある。それをまぢめになってそのまま譯すとつまりインチキの受賣といふ次第になって來る。
 もう一つは、インチキでなくても、種のえらび方がわるい場合にかういふ事がおこる。
 ある男が女を殺した、といふ事實があっても、この時この男を辯護した辯護士やその方面から出る記録には、必ず男をわりによく書いてある。そして女が惡いことになっている。例之、女が男をさんざん弄(もてあそ)んだのでつひに男もかっとなって……云々といふ事に出來てゐる。それをそのまゝ日本に紹介すると女がわるいまゝになる。
 反對に探偵だの刑事だのから出た種には無論犯人が惡く出てゐるからそれをそのまゝうつすと、右にあげた場合と全く正反對な實話が出て來るわけだ。
 一體、世人(せけん)は、小説家の書くことは全く嘘ときめてゐるか(勿論小説と銘打ってある限り眞實の事實はまづ書かぬ)刑事だとか探偵の筆記を信用しすぎるやうだ。
 僕は刑事や探偵が嘘を云ってゐる、とは云はない。しかし刑事や探偵らは常に犯人に對して、原告官の側についてゐるものだ、といふ事を忘れてはならない。
 原告側は被告人側と常に爭闘状態にある。當る者同志であって、決して第三者ではないのである。
 既に身自ら當事者となって、事件の全體に公平な判斷をするといふ事は非常な聖人か賢人でない限り、甚だ困難な事と云はなければならない。
 尤も時として、犯人側(或は犯人自身)で、特に自分を惡くいふものもあり、又原告官側の者で妙にセンチメンタリズムに訴へ、俗にいふ人情味を見せやうとして犯人を有利に傳へる事もある。
 此の場合でも、事實はやはり傳へられないといふことになる。實話を本當に傳へる事はほんとうにむづかしい事だと僕はいつも考へてゐる。
 僕一個の事で云へば、僕は犯罪實話を記す時に、創作と同じだけの苦しみをしてゐる。時間的に云へば、創作をやる時よりももっと時間がかゝる。讀者を誤まらん事を恐れるからである。僕は、實話の讀者は、真實の話をきゝたがってゐるのだらう、と考へるからである。
 殊に事件が外國のものだとつらい。
 創作の時は、頭に中にストーリーさへ出來れば、ぶっつけに書いて行かれるけれ共、外國の實話なんかになると、さきに云ったやうに、まづ相當に参考書をよみこなし、それから、それを十枚なり十五枚なりにまとめるのだから、苦心甚しきものである。
 けれども、多くの讀者がたゞ興味本位でよまれるならば(興味と事實と關係なくもたれるとすれば)こんな骨折は馬鹿々々しいと思ふ。
 實話が本當の實話だ、と信じられる時代はすぎつゝあるのかも知れない。
 そこで僕も一ツ紙の上で勝手に人を殺して實話とする事に、そろそろしやうかしらとも考へてゐる。之必しも僕の責任にあらずと、一寸云ひたいところだ。
――一九三一、三、二〇――


注)会話の最後の句点は無しに統一しています。


「社會時評」
「犯罪公論」 1932.09. (昭和7年9月号) より

 現時日々の新聞紙を賑はしてゐるものに、自働車運轉手受難事件と心中事件とがある。
 無論之は今更はじまった事ではなく、自働車運轉手受難事件の最も甚しかったのは、一昨年九月、第七五八〇號事件として知られたものがあるのは讀者の記憶に尚新たなるものであると信ずる。
 心中事件は古來我國の名物の一つだけれど一家心中といふ特に悲惨極るものが流行したのはやはり一昨年の春から夏にかけてゞあったらう。
 この二つの流行がこのごろに至つて俄然、勢をもり返して來たのである。
 運轉手を襲ってその所持金を奪ひその車を奪取する、といふのは無論強盗事件である。或は叉運轉手を殺すといふ強盗殺人事件にまで深刻化することもある。
 いづれの點から見るも、この犯罪が愚かな、ノンセンスな犯罪たることは爭はれない。第一、死刑に當る犯罪を敢てして得る所きはめて少い。のみならず、犯跡をくらますのにまこと難い事件である。運轉手は大抵現金を所持してゐる。しかしそれはその日の稼ぎ高程度のものである。次に車を奪ってこれを操縦して走る以上、我國に於いてはその犯人の範圍は大へんに狹くて當局がトレースするのに比較的困難を感じない。
 かやうな愚な犯罪が流行するのは何故か。かやうな愚な犯罪を敢てしなければならぬ程ゆきつまってゐる人々が多いといふことも一方の事實である。しかし一方に、かくの如き犯罪が日々報道されるといふことが多くの人の心をあふることは爭はれないと思ふ。
 その事責は殊に心中事件に於いて一層はっきりする。
 讀者は事實の迫力、實話の迫力といふことをはっきり考へて頂きたい。
 探偵小説をどんなに巧妙に描いたってこれを模倣するといふ人は殆どあるものではない。よく新聞にそんなことが出てゐるが之は信じられぬことに属する。反之(これにはんし)、まるでノンセンスな犯罪でも生々しい事實だとすぐ人はまねるものである。
 讀者は、日大宿直員殺しの事件後直ぐ同じやうな事件のあったことを思ひ出されるだらう。又、説教強盗の後にすぐに講談強盗といふのが現れたことを想起されるだらう。
 心中事件の如き場合には、新聞紙がどの位その動機を與へてゐるか、思ひ半にすぎるものがあると思ふ。
 勿論、新聞の記事が心中の原因にはなるまい。しかし動機を與へてゐないとは誰も云へまいと思ふ。
 私は於是(ここにおいて)、ジャーナリズムのデリケートな立場を考慮せざるを得ないものである。
 新聞紙が、社會に起った事件を報道する機關である以上、心中の如き事件を默殺することは出來まい。結局はその態度如何といふことになるのではあるまいか。
 大磯心中と稱せらるゝ事件に對する大新聞の態度には興味深きものがあった。
 ある新聞は事實を冷靜に報道した。ある新聞は故人並びにその遺族の立場を考へたのであらう。多少これを美化して傳ふるが如き感じがあった。私もこの態度を惡いとは決して信じない。
 しかるに、その後、流行する心中を見ると、むしろこの美化、讃美にあこがれ、刺戟された結果と思はれるものが少くない。映畫にしてまであらはれるに至ったのは映畫界もいかに切迫してゐるかといふことがわかるけれども、その映畫を見る若い人達は一體何を感じるであらう。
 事實の迫力、新聞紙の影響? 私は輕々に之を論斷し去るのをひかへてしばらくそのなりゆきを見ることにしたいと思ふ。
 なほ現時の世相に就いては逃し難き、農村問題といふものがあるが今はしばらく預っておく。
――一九三二、七、一六――


注)句読点は追加したところがあります。自働車のように現代と異なる表記もありますがそのままとしています。
注)農村問題というのは何をさすのか不明。


「犯罪落語考(末尾部分)」
「新青年」 1928.09. (昭和3年9月号) より

 ※『浜尾四郎随筆集』なと収録の「犯罪落語考」に続く
 落語が提供して居る法律問題には中々面白いものがある。以下少し御紹介しやう。
「百人坊主」といふ話。相模の大山詣(まいり)に行く話だ。大勢で行く中に一人酒ぐせの惡い男があって喧嘩をふっかけて困る。そこで大勢で大山詣(もう)でをする前に豫(あらかじ)め皆で規約を定める。それは
 モシ講中デ喧嘩ヲ賣リカケタルモノハ坊主ニサレテモ違論アルマジキコト
 といふのである。一同は樂しく大山にゆく。酒ぐせの惡い男も謹んでいる。そのうちやうやく大山に登て首尾よく御詣りもすんだ。そこで皆の氣も稍ゆるむ。例の男はたうとう酒をのんで例の癖を出してしまふ。醉がさめて皆にせめられた時後悔臍をかむが既におそい。自分も承知の上の規約であるからやむを得ない。たうとうくりくり坊主にされてしまふ。成程自分がわるかったとは云ひながら、立派な男を坊主にしやがったといふので、くやしさとはづかしさとで居たゝまれず、皆が大山の下で一泊して居る間にいそいで江戸に戻って來る。 驚いたのは女房、くりくり坊主になった理由(わけ)がわからぬ。その中、講中の女房連も皆々集て來て一體どうしたわけかとその男にきく。この男は勿論非常に憤慨して居るのだから何とかして皆に仇討してやろうと思て居る。そこで、實は皆で大山へ登たところ、大變な山荒れで、自分一人を除く外皆谷底にふきとばされて死んでしまった。 自分一人が生き殘て歸たがまことに申し譯がない、せめて皆の後生を弔はうと思て坊主になったのだ。それについてはおかみさん達も髪を剃て夫等のために安樂を祈てやったらよからうと空涙をこぼしながらすゝめる。何分當人がほんたうに坊主になって居るのだから誰もうそとは思はない。之ぞ夫に對する最後の義務なりといふので皆一勢に坊主になってしまふ。するとそこへ大山詣の一行が戻て來てこの有様は何事ぞとさわぎたてる。結局この話の落は
 おけがなくてお目出度い。
 という落で落は實にくだらないが法律問題としては一考の餘地がある。即ちはじめ坊主にされた男の責任である。
 その意思に反し、若くは抗拒不能に乗じ髪の毛を切るのは暴行罪であるといふのが判例の吾人に示すところである。ところが女房共に髪を切らしてゐるこの男の行爲は暴力を用ひたわけでもなく又知らぬ間に切ったわけでもない。髪を切るといふ意思を相手におこさせて居る。然しながら「髪を切る」という意思は本來の意思ではない。重大な錯誤に陥ったからこそかくの如き意思が出たのである。 結果から見れば知らぬまに髪を切たのと大して異らない。而もこれに當然適用すべき條文は條文としては見出せない。この男に刑事責任があるかどうか、もしあらば如何なる罪に擬せらるべきものであらうか。諸君の御一考を煩はす。
「三軒長屋」といふ話。
 三軒長屋があって眞中があるいん居の妾宅で兩隣は一軒には劍術の先生、片方には鳶の頭が住んで居る。或る事から妾は二軒のものに反感をもたれる。鳶の者が劍客のところに行て何かひそひそ相談する。その結果まづ劍術の先生が妾宅をたづね
「今般都合により引越ししたいと思ふが金がない。依て千本試合を致して何とか都合する。千本試合といふは眞劍も同様、或は隣家の事ゆゑ、御宅に刀の二つや三つとび込むやもはかり難い。念の爲豫め申上げる」
 と申し込む。さあ大恐慌、隣の家から眞劍がとびこんで來ては物騒でたまらぬといふので仕方がないから千本試合をしないで引越させるやうにといふので入用の金を渡してやる。ひきちがへて鳶がやって來てやはり引越したいが金がないから手なぐさみで金を作るつもりだと申出す。何しろいさみのものばかりだから酒の上で何をはじめるかわからない。皿小鉢の三ッや四ッは隣のことゆゑ、とびこむかも知れないから豫め申上げる、と云ふ。之も物騒だからとといふので入用だといふ金を渡してやる。 斯くして兩方が引越すのを待て居る。期日になった。劍客と頭はどこへ行くかと思て居ると豈はからむや、劍客は頭の家、かしらは劍客の家に、手もなく入れちがひに引越したといふ話である。
 此の事件に是(お)ける劍客とかしらとの刑事責任は如何、といふ問題。
 此の事件には大して疑問はないと思ふが法律論の立て方によっては或は面白いかも知れないから此處に記してみた。
「羽織の幇間」といふ話の中で旦那が幇間を困らしてやらうと乞食と通謀して幇間の羽織をとらせやうとするのはどういふものだらうか。更に之を防ぐ爲に幇間が旦那の羽織を勝手にいつのまにか、乞食に與へてしまふのなどはどうだらう。
 さきに自殺幇助事件の中に一寸あげたあの「品川心中」で女の髪を切らせる話。あれはどうだろう。自殺教唆の女が助かってしまったのを見て、どうかして仇をとってやりたいと、ここに一計を案じて怪談を作てその女をこはがらせ、その結果として自ら髪を切らうと決意せしめて切らせる話。これはさきの「百人坊主」の髪切りとは稍々趣を異にして居るが矢張り一應問題として見てよろしからう。
「捻兵衛」といふ男が妻を失て悲觀して居るところをつけ込んで樟腦玉に火をつけて之をおどし、衣類を奪ふのは何罪か、之なんかは大して面倒なものではない。
「鼻きゝ長兵衛」とかいふ話。昔から今に至るまで山師の種は盡きない。鼻で何でもかぎあてると大法らをふいて天下を横行するあたりは中々曲者だ。尤もこの男餘りわるい事をしない。どころか殿様の役に立たりして居るのはいゝ。しかし今こんな事を云たらまづ、捕まるにちがひない。
「猫の茶碗」といふ話がある。ある峠の茶やに猫が飼てある。一人の旅人がふと通りかゝって見るとその猫がものを食べて居る器は珍らしい高價な燒物だ。猫の茶わんにして居るところを見るとこの主人はこの燒物の値打を知らないに違ひない。よし一つぼろく儲けてやらうといふので巧みに主人に話をもちかけ猫を一兩でゆづってくれともちかける。主人はよろしいといふので素早く金の取引をすませ、扨いよいよ目的にとりかゝるべく「猫といふものは器がかはるとものを食べなくなって困るからついでにその茶わんももらひたい」
 と申し出る。すると主人はとんでもない事、これは斯く斯くのいはれのあるものだから高價でなければ賣れぬと答へるので相手の不知に乗じやうとした旅人はがっかりしたが、一應念の爲に、お前さんそんな貴重なものと知って居て何故また、猫などにやるものを入れておくのかときいた。相手の答へが振てゐる。「いや、かうやっておくと猫がたびたび一兩づつに賣れますから」
 この旅人は自分が不當の利を得やうとしてこの有様なのだから文句も云へまいが、しかしこの一方の方も餘りよくはないやうだ。刑事問題にはなりさうもない。
 落語に於ける犯罪の研究は大體これで打切るつもりである。
 江戸落語の名に於て傳はり行くべき話も近頃の有様ではだんだんと變化して行く。所謂、漫談とさして區別の無いやうな話が多くこの頃はうけて居る。それは進歩であるか退歩であるか、門外漢の私には全くわからないけれども、一方漫談の發達はそれはそれとして、やはり古色蒼然たる話が長く生命を保て行けばよいと思ふ。
 落語と犯罪。甚だ縁遠きものを無理にくっつけたやうに見えて決して然らず。世に落語の泉と稱せらるゝ醒醉笑はその昔有名な判事の爲に編まれたものと傳へられる。
 また、江戸落語の組(※ママ)と稱せられる鹿野武左衛門とか云ふ人はひどい刑罰に處せられて居る事、多くの書物の記すところである。今ならば、流言蜚語取締令とでもいふところのものにひっかゝって嚴罰に處せられて居る。
 思うてこゝに至れば落語と犯罪、落語と裁判、豈縁なからむや、である。長々とこゝに落語偏痴奇論を記した。まだ記すべくして記さなかったものも多からう。また話の筋が大へんにまちがって居るものもあるかも知れぬ。讀者幸にその過を責むるに急ならば、筆者の意のある處を諒察せられ、御教示を賜らば、筆者の光榮之に過ぎない。 (終)

注)冒頭からの部分は『浜尾四郎随筆集』などに収録、デジタルコレクション個人閲覧可能なので割愛しています。内容的に他の作品と重複も多く割愛されたと思われます。
注)明かな誤字は訂正していますが、漢字と仮名の不統一や送り仮名は原文のままです。句読点は追加削除したところもあります。


「裁判官の耳で聞いた落語」
「サラリーマン」 1931.05. (昭和6年5月号) より

第一席
 落語の一特徴とすべきことは、扱はれた犯罪に於ては、被害者に對しての同情がないといふことである。
 其當事者にもなれば、生命にも關すべき重大な問題が、落語の中では非常に輕く取扱はれている。強盗が出ても、人殺しが來ても、犯人の立場から物を見てゐる。
 此事は少くとも落語を法制の立場からみるならば第一に考へなければならぬことゝ思う。
 現代ならば或る女が親の爲にカフェーの女給に身を落したとする。客といゝ仲になって捨てられた。
 之だけの事件について貞操問題を起せば社會的事件である。訴へれば法律問題になる。女を救う美青年が現れゝば通俗小説。捨てた男が誰かに殺されば探偵小説になる。瞞(だま)した男のトリックを描寫するか或は瞞(だま)されいるがそれを知らずに女が笑っているとなれば落語になる。
 以下落語の中にあらはれた犯罪の二三を刑法の順を追うて述べて行くことにしよう。

第二席
「きも潰し」……昔の今助の何時もした話でこゝに非常に友誼に深い男がある。其男の友人が戀わずらひだったかをする。
 處がその病氣は戌の年の戌の月の戌の日に戌の刻に生れた女の生ぎもを呑ませると直ると聞いてゐる。よく考へると自分の妹がそれに當る。
 一つ妹を殺してきもを取らうといふので深夜私に妹の部屋に忍んで行って馬乗りになり正に短刀を突き立てようとする。
 途端に妹が眼を醒まして悲鳴を擧げる。そこで今助が其男の慌てる身振りをやる所が非常に滑稽であった。
 とにかく慌てゝ
「何も本當に殺す氣ぢゃない、茶番の稽古だよ」
「それなら早く言ってくれゝば宜いのに。わたしゃ本當に殺されるのかと思って、きもを潰したよ」
「あゝそうか! それぢゃもう役に立たねえ」
 こういう落ちで、傑作だと思ふ。之は殺人未遂である。
「後生うなぎ」……觀音さまを非常に信心する御隠居が毎朝天王橋を渡ってお詣りをしてゐる。ある朝御隠居さんがふと見ると橋際のうなぎ屋が俎(まないた)の上にのせたうなぎを殺してゐる。
 是はいかん、殺生ぢゃと、隠居さんが「殺して下さるな」と頼む。「いやこっちは商賣ですからさういうふ譯には行きませぬ」と承知しない。
「それでは俺が買ってやらう」と言ってうなぎを買って河に戻してやる。
 かくすること兩三度に及んでうなぎ屋は考へた。あの隠居が來ると必ず買ってくれるといふので色々な魚を持って來て殺す真似をする。
 すると皆隠居が買って行って河へ放してやっては南無阿彌陀佛といふ。
 ところがある日うなぎ屋さん、隠居が向ふから來かゝるのに俎へ乗せるものがない。
 側に蹲ってゐた猫を捕へて俎に乗せようとすると爪を立てゝ逃げてしまふ。隠居は益々近づく。何もない。
 うなぎ屋さん自分の赤ん坊を俎の上に載せて了ふ。そこへ隠居がやって來て「是は飛んでもない、殺生なことだ」と言ひながら赤ん坊を買ひ取っていつものやうに南無阿彌陀佛ドブンと河へ抛(ほう)りこんだ。
 この事件は法律的には相當問題で、認識主義に從へば無論殺人犯であらう。
 併し問題は、果して其時に犯罪者はノーマルな精神状態にあったか、否か、精神鑑定になるであらう。

第三席
 傷害致死に移らう。
「骨ちがい」……熊五郎といふ男が、友達が自分の女房と話をしてゐるのを見ていきなり毆り付けると打ち所が惡かったと見えて死んでしまふ。
 殺す氣ではないらしいが、さて始末に困った。で女房と相談して床下へ穴を掘って入れておく。一年か二年經つと女といふものは油斷のならんもので夫婦喧嘩の時にそれを口走った。
 當時の役人の耳に入る。熊五郎は捕へられて調べられる。「私はそんなことをした覺えがない」と熊さん申立てると死體遺棄の共犯者である女房は夫が確かに殺したといふ。
 それならばと床下を掘ってみた所が、中から出て來たのが犬の骨だ。
 之は女といふものはどういふ事をやるか分らぬといふ友人があって、熊五郎成程と合點して、一緒に埋めた死體は外へもって行き犬を殺してそれを入れて置いた。
 熊五郎無罪になって揚々として出て來ると犬がわんわん吠える。
 熊さん「畜生、貴様も人間にされやがるな」とくるところでおちである。

第四席
「ほしの屋」……若旦那が花魁に惚れて毎晩々々家をあけて困る。そこでいっそ女を身受けしてやったら納まるだらうといふことになった。
 ところがその家の番頭が中々思慮ある者だから直ぐに女を身受けしようとしない。
 其花魁が若旦那に惚れてゐるのかゐないのか一つ試して見よう。どうして試すかと言ふと一緒に兩國橋へ行って身を投げさせる。兎に角橋の下には船を拵へて待ってゐるからと言ふ譯。
 話は筋書き通りに運んで女郎が出て來る。兩國の橋の上に來ると若旦那は下に船があるのを知ってゐるから氣がつよい。
「覺悟はよいか」と許りにいきなり飛込む。見てゐた花魁急に毒舌を吐く。
「なあんだとんちきめ、わたしに惚れてやぁがって、誰が情死なんかするものか」とその儘歸って了ふ。
 若旦那口惜しくて堪らない。それを聞いた友人が、よし俺に委せろと言って女の家へ行って怪談をはじめる。お前のところに若旦那のやうな恰好をした男が煙のように這入ったとか言って恐がらす。
 そこで女がどうしたら宜いかといふから、いっそ尼さんになって若旦那の後世を弔ったら宜いだらうと勧める。女も眞顏になって隣の部屋へ行って髪を切って手拭を被って出て來る。
 そこで友人が聲をかけて「髪を切らしたから」と若旦那を叫ぶと花魁は
「そんなことだらうと思った」
 と頭の手拭を取る。
 實は切ったと見せたは髢(かもじ)であったといふ話だ。
 事件は自殺幇助であるが男の方にも女の方にも本當に死ぬ氣はない。
 法律によれば犯意の超過といふ譯で、殺す氣だ自殺させる氣だったけれども、實に互いに虚僞の意思表示をしてゐたので中々六かしい事件だ。

第五席
「しめ込め」……空巣に入った泥坊が物を纏めて出ようとすると亭主が歸って來る。
 來て見ると荷物が片付けてある。さては女房め俺の留守に間男をして驅落ちをするんだなと驚く。そこへ女房が戻って來る。
「お前さん、どこかへお出掛かい」と不審の目を亭主にむける。
 二人が喧嘩ををはじめるので、見てゐられすに泥棒が飛出して仲裁する。仲直りが濟んでいざ寝よう。お泥棒さん泊って行きなさいとなる。
 亭主が「明け放しでは物騒だから鍵を掛けなよ」「はい」といふことで女房が戸締まりに行くと事主は
「泥棒は中にゐるのだから外から鍵を掛けな」
 といふのがおち。
「釜どろ」……石川五右衛門が釜で殺されて以來、全國の泥棒が同盟して釜を盗む。
 豆腐屋の爺さん、釜泥棒の話を聞かされて婆さんと一緒に、一つ取っちめてやらうという意氣込みで、大釜の中に入ってゐる。
 と何時の間にか睡ってしまふ。釜を盗み出した泥棒は途中まで來ると中からいびきの音が聞えるので釜を抛り出して逃げ出す。
 おっぽり出されて日を覺ましたぢいさん、上を見ると青天丼の星月夜だ。そこで「婆さん、今度は家を盗まれた」と言ふ。
 前のは窃盗を扱ってゐ、後のは強盗を主題にしてゐて、共に滑稽なものである。

第六席
「突落し」……小せんのよくやった有名な話がある。固より佛ふ意志がなくて三四人して遊んで來るのだから馬を引張ってゐる。
 皆が一緒になっておはぐろどぶに向って小便を始める。
 牛太郎に「お前もやれよ」と言ふと「私はしたくございません」といふのを無理に押しやっていざやらうといふ途端にばあんと突落して逃げる。
 一人が遅れて中々來ない。どうしのたのかと言ふとおとす時莨入れのいゝのが目についたから抜いて來たといふのがある。
 之は暴行を加へた後に莨入を取るらしい。だから是は單純な窃盗らしいが、暴行罪にもなり尚ほ女郎屋の支拂ひもしないから法律間題には充分なるしろ物であらう。
「千両蜜柑」……これは落語中の白眉である。江戸時代の話で、或る所の若旦那が病氣になる。
 その原因が分らぬ。
 忠實な番頭が聞いてみると、夏の最中に蜜柑――夏みかんではない――が食べたいと言ふ。中々捜してもない。併し金持の若旦那のことだから番頭さん江戸中を鐵の草鞋で尋ね歩く。
 到頭永代橋の近所のある問屋にたった一つあった。賣って呉れといふと「なあにこんな時期はずれの物だから持ってらっしゃい」といふ。「私の家は何が何でも相當な金持ちだから、どうか相當な値で賣って下さい」
「いや賣る程のものでもないから」
「そこをどうか一つ……」
 すると蜜柑問屋怒った。
「そんなら千兩で賣りましせう。千兩がビタ一文缺けても賣りませぬ」
「でも千兩とは……」
「いや高かったらよして貰はう。もともとやるといふものを貴様がつべこべ値をつけて下さいといふからそんなら千兩と言ったんだ」
 とたんかを切られた。
 とゞのつまり主人に復命すると我子の生命にはかへられす千兩出して買はせる。
 蜜柑をあけて見ると十袋入ってゐる。一袋の單價百兩の蜜柑が三袋殘った。すると若旦那は「まことにおいしかった。就ては三袋のこったが、之をお祖父さん、お父さん、お母さんに恩返に差上げてくれ」といふ。
 番頭は旦那のところへ持って行く途中で考へた。三百兩の蜜柑、自分などは何年奉公したとて百兩とはとれない。こいつは一番、と謀反氣を起して三百兩の蜜柑を持って逃げて行く。
 法律問題としてみれば横領だが、又、主觀的の經濟價値がどの程度まで客觀化されるかに面白味がある。

第七席
「無錢飲食」……遊び歸りの若衆一本引かけながら蕎麦を食ふ。「爺さん勘定拂ふぜ、十六文だって、そら一文二文」と目の子勘定をする。八つまで数へると上野東叡山の鐘がボーンと鳴る。
「爺さん、今のは何時だね」
「へえ九つでやあす」
「あゝそうかい、ほら十、十一……」
 と數へて一文胡魔化す。此話は非常に面白い。
 鐘が入るなど中々凝ってゐる。所が之を逆に行った奴がある。
「九つ、十……」と數えた時にボーンと來た。
「何時だね」鐘の鳴り方が遅かった。
「九つです」
「そうか十、十一……」
 之は一文損してしまった。
「はや桶屋」……無錢遊興で旨いのは小せんに止めを刺す。
 是は、吉原に無錢遊興に行く。
 上る時に、俺は金がないと斷ったのを無理に牛太郎が上げてしまった。さて翌朝になった。金がない。叔父の家は引手茶屋だが「斯ういふ縁起商賣で朝っぱらから金を取りに行く譯にいかない。少しそこらを歩いてからにするから一緒に來てくれ」
 といふ。
 仕方ないから牛太郎ぶらぶらついて行くと淺草公園で銅像をほめたり何かして煙に卷く。途中で風呂屋に入ったり、酒屋によったりして牛太郎に立替させる。
 やがて、
「お前一寸待ってゐてくれ、彼處にも一軒俺の叔父がゐるから」
 と其邊に待たしておく。全然他人の早桶やへ入って牛太郎に聞えるやうに「小父さん、今日は」といふ。
「實はね、あいつの親父がゆふべくたばったので、彼處にゐる奴はぼんやりしてゐるんだ。普通の桶ぢゃ間に合はないが大きなはや桶を造って呉れないかね。
 急ぎだが小父さん出來ますか。出來ますね」
 このしまいの所だけを大きな聲でいふ。
「仕方ない、拵へませう」
「拵へてくれますか、それは有難い」
 また大きな聲を出す。そして牛太郎の處へ來て、
「お前も聞いてゐたらう、叔父さんが拵へてくれるさうだからお前は行って貰っておいで」
 と犯人は逃げてしまふ。
 牛太郎なるもの何も知らずにのこのこと早桶やに行く。
「早速と拵へて下さるそうで有難うございます」
「どうもお氣の毒でした。昨夜はお通夜でしたか」
「へいゐつゞけで」
「急でしたか」
「はい突然いらっしゃいまして」
 どうも話が一應は合ふ。
 そこで早桶屋
「笠をつけますか]
「いや、帶を買って下さるといふ話でしたが」
 とそろそろ話があやしくなって來る。到頭お互ひが騙られてゐたことが分る。
 牛太郎「困るなあ」と嘆息する。はや桶屋怒って、
「馬鹿なことを言っては困る。突然大きなはや桶を拵へさせられてはほっておけない、お前は一體どこの者だ」
「廓の若衆です」
「なんだ牛太か。おい、誰かなかまで馬になってついて行け」
 是がおちである。
 二者共に詐欺を取扱ってゐる。

第八席
「三方一兩損」……大抵大岡様の裁判の話にしてある。ある男甲が兩國あたりで三兩の金を落す。他の男乙がその金を拾って、どう捜し當てたか、とに角江戸中を散々捜して落主の甲にとゞける。すると、
「之は落した以上、俺の身に付かない金だからいらない。お前さんに上げる」
「こっちは拾った以上返さなければならぬ」
「然もやっと捜しあてたのだからどうでも取ってくれ」
 となって結局、やる、いらぬで大岡様の裁判を仰ぐ。
 すると大岡様の判決は
「一兩でも取り度い世の中に受取らないと言って喧嘩をするのは殊勝の至りだ。
 其金一應こちらに出しなさい。お上の思召を以て頂いておく。
 さてお前達は感心な者ぢゃ、改めて二兩ずつ褒美をとらせる。其儘持ってゐれば乙は三兩得するのだが、今二兩とらしたから一兩損、甲も三両損するところを二兩やったから一兩の損、奉行のわしもそち達に褒美をとらしたから一兩損。
 之を三方一兩損と申す」
 ある文學によると之は詐欺の前提だといふがとにかく裁判の話である。
「おかふい」……次は親族法の事件で、ある非常に接妬やきの亭主が奥さんが美人なので何時も誰かに惚れられやしないかと色々心配をする。
 それ程御心配ならば、私は決してそういふことをしない證據に美貌を傷つけます、とばかり鼻を斬ってしまふ。
 ところが、鼻のない女房を見ると、いまさらいやになって離縁してしまはうとする。
 そこで女房が大いに憤慨して矢張り奉行に訴へ出る。この判決はどうかと言ふに、可なり今から見ては非難されるかも知れないが結局亭主の鼻を切るのが正しいとなった。
 つまり鼻を切られた二人が、おかしい、と言へないで、おかふい、おかふいと云ふ話。

第九席
 最後に法律問題としてやゝ面白い話を一二しやう。
「百人坊主」……この話は大山詣での講中があって中に一人喧嘩早くて困る奴がある。そこでもし大山詣りに喧嘩をやった奴は坊主にしてしまふ契約が出來た。
 と果せる哉、下山の途中ではじめてしまふ。講中の規則だからやむなく髪を剃らされる。
 殘念至極とさっさと歸って來る。家には妻たちが夫の歸りを待ってゐると其男だけ坊主姿。
 一體どうした譯と尋ねれば
「俺も歸れた義理ぢゃないが何しろ山は大暴れで、とうとう俺一人になった。後の奴は皆谷底へおちて死んでしまうし申譯なくて坊主になった」
 といふ。
 皆の女房たちはわあわあ泣き出す。
「それ程亭主に實があるならみんなもわれ同様に髪を剃ったらよからう」
 と勸めたので、立ち所に一隊の尼さんが出來た。
 そこで一足遅れて講中が帰って来て驚くのだが、幾ら怒っても今更仕方ない。結局、「お怪我(お毛が)なくて目出度い」といふ話。
 是が女房たちの意志に反して髪を切らせたのなら刑法上單純な暴行罪に問はれるが、實際は一應意志に反してゐない。少なくとも意志の錯誤によって起ってゐる。
 刑法の問題になるかどうかは一寸面白いだらうと思ふが、民事々件とすれば髪の毛がどの程度まで貴いかその價格如何が實際問題として興味あることだらう。

第十席
「三軒長屋」……三軒長屋の眞中に大家の妾がゐて片方に劍道の先生片方に鳶の者がゐる。
 ところがお妾が兩隣りの店子と喧嘩をして、追立てやうとする。金を出さなけれ動かんといふ。旦那の來た日兩方とも今度こそは引立てるといふのが兩隣りへ聞える。
 益々憤慨した鳶の者が劍道の先生の所に行って二人で何か契約する。
 そこで劍道が、いきなり妾の家に行って「最近ひき越すが引越し賃がないので千本試合をやるつもりだ、刀の一本や二本とび込むかも知れぬが御承知あり度い」といふ。
 暫くすると勇み肌の連中が参って
「鳶職も引っ越したいが金がないから祝い事をやって幾らかお餘りを得たい。ついては、若い者が大勢集るから皿小鉢の五六枚は飛び込むかも知れない」
 といふ。
 そこで引越料をやったら温和しく退いてくれるだらうと引越料を出す。ぢゃ、引越しませうと右の方にゐた武士が左の家へ、左の方にいた鳶が武士の家へ入った。
 これはおそらく法律上の問題としては詐欺になると思ふ。然し引越すには引越したのだから辯護の仕様でやゝこしくなる。

注)明かな誤字脱字などは訂正しています。
注)他の落語と犯罪を扱った作品と内容重複多数です。


「濱尾四郎小傳」
『新選探偵小説集』平凡社・現代大衆文学全集続18 1932.01.05 (昭和7年1月) より

 明治廿九年四月、東京麹町に生る。加藤家の四番目に生れたので四郎といふ極く平凡な名をつけられた。その命名者は祖父加藤弘之ださうだ。從って舊姓は加藤。
 東京高師附属小學及中學を卒業して第一高等學校に入學。
 小學三年生の時、親の目をかすめて不如歸を人に借りて讀んだのが小説のやみつきで、それからすっかり文學少年文學青年になったが、高等學校に入る時は法科にはいった。
 一高を出て、濱尾新の養子となり、大學は法律科に入った。このころから、法律を學ぶことをそろそろ辛いと思ひ出した。
 もし健康だったら法學士になってから或はまじめに文科へ行ったかも知れぬが、不幸にして肋膜炎にかゝり大學を二年おくれて出たのでそんな餘裕はなく、その年直ぐに裁判所に入り司法官試補となった。
 大正十四年に檢事に任ぜられひきつゞき昭和三年の夏まで東京地方裁判所兼區裁判所檢事をして居たが、その夏、檢事をやめて、辯護士となり昭和四年から探偵小説書きとなった。
 檢事をやたのは大した理由はない。一言でいへば、檢事としてえらくなるまで長命であり得る自信がなかったからだ。自分の祖父も實父も養父も、皆役人として殆んど最高の地位に進んだ。自分にはとてもその地位まで行き得る自信がない。どうせ父祖の名を汚すなら、いつそ脱線しやうと思って道をかへたのである。
 しかし、文學青年だった頃の考へで見れば今やってることなんか全くはづかしいことだと思ふ。
 何故探偵小説をかくのか、と問はれたら自分はごく簡單にかう答へる。
「賣るために……」



卒業当時(4)
「法律嫌ひの檢事殿」(インタビュー)
音樂ファンだった探偵小説家…濱尾四郎氏
「国民新聞」 1931.03.16 (昭和6年3月16日) より

櫻ま白く咲きいでゝ
悲しき春のたちくれば
黄金をとかす夕ばえに
六寮の窓もゆる時……
「變ホ調四分の二、快活に」と指定してある一高記念祭寮歌の樂譜を快げに愛撫しながら、白い陶器を感じさせる痩身の優男濱尾四郎子爵は笑う。 「僕が今までやった仕事の中で、自信あるのはたゞこの作曲一つです」――事ほど左様にこの元檢事であり探偵小説家である貴公子は、玄人まがひの音樂青年だった――大正十二年、東大卒業當時の思ひ出
□  □
 寒い朝、四谷左門町の瀟洒な應接室に赤々とストーヴの火が燃えて、シガレットの煙が急ぎ足に壁をのぼって行く、その跡をぢっと見つめてゐると、過去の記憶がフリーヂャの香ひになって湧いてくる……。
「法科でした――大佛次郎君、平野義太郎君、皆一しょに上杉博士の憲法を聞いた同窓生です。法科さへ出ればまづどうにか食へる時代でしたから。……面白くなんかない、だから、親父をだましちゃ芝居を見る角力へ行く麻雀をやる。勿論探偵小説は大好きで、ドイル、フリーマン、ブレーク手當り次第讀みました。法律の勉強以外なら何でも好きでした、そう、何でも……とりわけ音樂狂でしてね」
 そこで新しい煙草が一本つまみ上げられ、ライターがいぢらしいキスの灯をもやす。
□  □
「今でこそインチキなカフェーでさえスゴイ名曲レコードが聞けますけれど、當時は音樂会といへば音樂學校の土曜演奏會と神田の青年會館などでたまに小さいものが催される位ですから、レコードも値が高く、殊に世界大戰の影響でベートーベン、シューベルト、モーツアルト等ドイツ物は殆ど輸入されなかったやうな状態で、音樂青年は自然超尖端のモダンボーイと見られてゐました。そして僕もその一人だったといふわけでだからつまりハハハ」
 この哄笑こそ、かさなる戀の思ひ出をカムフラージュする煙幕! とにらんだはひが眼か――彼氏が初めて人の子の父となったのは、卒業の年大正十二年だ。
□  □
「裁判所を何故おやめになりました?」
「健康を害したので……今でも丈夫にさへなったら返り咲きしたい位檢事といふ仕事は好きです」
「民衆の呪詛で病氣なさるんですよ、ハハハ……でも其の一面、いとやさしくも清元に十年この方凝ってをられるさうぢゃありませんか」
「おや、ご存じですか、負けました……一體僕は何でも手を出すので検事も辯護士も小説もすべて道樂でやってる様に噂されて困るんです、これぢゃ生きてゐる事まで道樂にされてしまふ」
「ブルジョアだからでせう」
「どうして、稼がなかったらアゴの干上る貧民ですよ」
 この「貧民」の應接室にピアノがながなが寝そべってゐた。(写真は帝大卒業當時のシークボーイ濱尾四郎子)

注)無記名だがこのインタビュアー(執筆者)はなかなかのツワモノのような。


随想「文學青年の頃」
「国民新聞」 1934.04.21 (昭和9年4月21日) より

 今から僕の少年時代青年時代をかへり見ると、僕は高等學校を出る頃まで全く文學青年だった。親や先生の目を盗んで、小學三年の時、蘆花の「不如歸」を友人に借りて讀んだ。(勿論一向面白くなかったが)
(●)……(●)
 それから小學時代は當時流行した押川春浪や其他の冒險小説――今で云へばセンセーナルストーリズ(※ママ)――をむさぼり讀んだものである。小學六年から中學二三年までに徳川時代の文學を手當り次第によんだ。之は大抵帝國文庫であったが元來それまでは亂讀のくせがあって、現代に於てもまだその興味はあるが、中學の半(なかば)頃から大學を出る頃までは大分システマティックによんだものである。
(●)……(●)
 今でもはっきりおぼえて居るが、中学三年の時白樺の第一號が出た當時の感激は今もっておぼえて居る。之によって無車氏や長與氏の盛名と同時にカタカナのミケランヂェロやゴッホの名を知った。その頃から同時に音學青年ともなったがその邊は省く。
(●)……(●)
 中學四年の夏休み――畏(かしこ)くも明治天皇崩御の年、世は諒闇(りょうあん)の頃――に僕ははじめて「シャーロック・ホームズの冒險」を原書で一人で片ぱしから字引きをひいて讀んだ。之が僕が生れて以來外國語の本を完全に一冊讀んだ最初である。この時代から純文藝を愛讀する事と平行(※ママ)して探偵小説を讀み始めた。
(●)……(●)
 文學の愛好はいまだにかはらないが、探偵小説は今は趣味でなく仕事の一つになってしまった。
 大體僕が法科を出て檢事になったのがまちがって居たやうな、又さうでないやうな氣持もする。檢事局に居た頃、主として外國の探偵小説をよんで居たがその頃は大衆的なものだとして馬鹿にし切ってよんで居た。(尤も今だって、探偵小説が最高の文學だとは思っては居ない。)
(●)……(●)
 人間の運命は誰も云ふ通り、神のみぞしろしめす、である。
 僕が白樺派や漱石、鴎外を崇拝してもし文學者になって――或はならうとつとめてゐたら今どうなって居たか。
 僕が純文學を以て身を立てんとしなかったのは勿論、ゲーテやシェークスピヤになれる自信をもたなかったからであるが、それでも相當努力したらうと思ふ。
(●)……(●)
 檢事をして居た時に、探偵小説が役にたったと考へた場合は具體的に云へば少いやうだった。
 しかし「正義」を代表して第一線に立ってゐたせはしなかった間、僕にとって凡ての文學はオーアシスだったやうに思ふ。(一九三四・四・一八)

注)カタカナ表記は現代の一般的表記ではなく原文のままを基本としています。


「云はでもの記」
『橄欖樹 第2輯(校友会雑誌第三百五十号記念)』
第一高等学校校友会文芸部編 1935.02.01 (昭和10年2月) より

 僕は元來文弱者流だったので、一高時代に在ても、痛快豪壯な思ひ出を有たない。
 たしか大正六年の春だったと思ふ。獨法三年即ち僕の属して居たクラスの中から文藝部委員を出さねばならぬ事になった。ところが黨時の僕の同級生の中から一人も委員になりたいと云って出た人がなかった。誰が立候補しても其競爭なのであるが而も一人もなりてがないといふ有様だった。結局誰か一人は委員にならなければならぬのに誰も名乗りを上げすに居るので偶然總代だった僕がこの役を引受けるわけになったのである。
 當時僕は先に記したやうに文弱者流でずい分小説など讀んで居たが文筆を以て世に立つ意志は幼少の折から現在までもたなかった。
 同期の委員はたしか文科から谷川徹三君、佛法から平山君、英法から織田君、まだ他に現在立派に文藝によって社會に認められて居る方とがあったと思ふが、今一寸おぼえてゐない。
 何でもおぼえて居る事は豫算のとりっこで、運動部だか柔道部だかの委員たちに「一體文藝部の連中は飲んだり食ったりする爲に豫算をとるんぢゃないか」なんて云はれたやうな事があった。
 然し僕の記憶によるとめしの會を開いたのは二度位だった。
 一度は神田の多加羅亭で文藝部の先輩を御招待したことがある。その時僕ははじめて、谷崎潤一郎氏の健啖振りと小山内薫氏の巧みな話術に接した。小山内氏は、文藝部の委員だった事はないと云って居られたやうにおぼえて居る。小山内氏には其後いろんな機會でお目にかゝった事があるが、谷崎氏にはその時以後今日まで御目にかゝった事はない。
 もう一度は豐國で部長以下で相談會をした事がある。部長は森卷吉先生でたしかその夜先生は夫人のおノロケを云はれたやうに思ふ。ともかくわれわれはアテられて散會した。
 當時は自樺派の全盛時代で、漱石健在、鴎外漁史も健筆を振って居られた。僕は自樺にかぶれてゐたので何でも武者氏張りのものを幼稚な型式で書いた。
 自我といふものが諭ぜられてゐた。友情といふ事がうたはれた。友情を語るには、あの頃の一高は最もよかった。去年「友情」について一高でつまらぬ事を僕はしゃべったが、僕の口べたのせいもあらうが今の學生は、こんな題には趣味がないやうに見えた。當時の僕らよりは皆かしこくなって居るらしい。
 文藝部からしきりに投稿をせまられるのでこんな事を一寸書いて見たが、こんな下らぬ事を書いてゐても切りがなく諸君にも面白くなからうから自分の事を書いて筆をおく。
 僕には故郷がない。ないといふと變だが故郷は東京である。僕は惠まれた家に生れたゝめに一高から大學を出るまで生活の苦勞をした事がなかった。(今は別である。)
 僕の父は勅任官だつたし祖父は親任官だった。叔父等は或は局長、或は知事だった。僕には錦を着て歸るべき故郷はないのである。
 僕らのクラスメートは毎月一回づゝ會合するが、皆出世してえらくなって居る。この舊友等がたまたま高等學校時代に苦勞した話をきかされても僕はその話には加はれない。而ておそらくわが級友は錦を着て歸るべき故郷があるはづだ。
 僕が萬一長生きをして親任官になったとしても、僕の家庭の周圍の者は僕を認めてくれるかどうか蓋し疑問である。
(一九三五、一、一〇)


注)約十五年前のことになるようです。この年の暮れに亡くなりました。


持ち寄り奇談会(濱尾四郎部分)
「私が私でなかった話」
「新青年」 1935.07. (昭和10年7月号) より

 これは僕の一身に關する話で、面白くも何ともないが、僕にはちょつと變った經驗なのです。昭和六年の十二月頃でした。僕の所へ春川秋太郎といふペンネームだか何だか分らぬ名刺を持った人が二度ばかり訪ねて來たんですよ。年の暮だし、執筆について何とかいふから、僕はむろん強請(たかり)と見て、會はないで追ひ返した。すると、偶然にもそれと前後して、僕の知って居る新聞記者が記事を取りに來た。 その話の序(つい)でに「私の友人の一學生が、濱尾四郎に大變非道(ひど)い目にあったといふ話がある。今猶ほ信じてゐるやうだから、一度會ってみたらどうか」といふのです。それから僕も、どういふ話か分らぬが、その學生が僕の家へ來て呉れゝば非常に都合が好いんだがと言って置いたら、その學生がやって來ました。それから「僕は此處の家の主人としてゐるのだから、僕が濱尾といふことは明らかなことだが」と言ふと、「實は今まで知ってゐた濱尾四郎とは大變違ふ」と言ふのです。 そこで「何か非常に迷惑を蒙ったといふ話だけれども、どういふ意味で迷惑を蒙ったのか、それを聞かして呉れ」と僕は訊いた。
 そこで、學生が言ふには「自分は濱尾四郎の愛讀者だ。或る日何處かのバーでその話をしてゐたら、急に自分が濱尾四郎だと名乗って出た男がある。それから相互に飲んで愉快になり、その晩その學生の所へ濱尾四郎なる者が泊り込んだ。するとその晩、折惡しくか折好くか分らないけれども、警察の大警戒があって、下宿屋なんかに片ッ端から巡査や刑事が踏込んだ。さうしてその學生と濱尾四郎と稱する人間が諸共に警察署に擧げられちゃった(笑聲)。 一晩留置されたゞけで大した事はなかったらしいが、その時に學生の見てゐる所で、前に檢事をしてゐたといふ人間にしては随分亂暴に取調べられて居る、さう思ひながら、釋放されてぼんやり家へ戻ったといふ。それだけの被害では少し變なので、「結局君の被害なるものはそれだけか」と訊ねると、自分はその濱尾四郎に文章を教へてやると稱して三圓取られたが、それっきりで何もしてくれない」といふ返事。 そこで僕はフト憶(おも)ひ出した。「其奴には他の名前かペンネームかがあるか」と訊きますと、「春川秋太郎といふ名があった」と言ふ。春川秋太郎とは二、三日前に僕の所に來た奴だ。つまり一方に於て僕になりすまして置いて、一方に於て僕から金を取らうとして居ることが判明した。
 それから今度は手ぐすねひいて待ってゐたら、その翌(あく)る日の晩に悠々乗込んで來た。(笑聲)。今までは追ッ拂ってゐたが玄關子にさう言って、今度は非常に鄭重に招じ入れ、お茶を出さして置いた。それから僕が行って、いきなりかう言った。「今まで縁もゆかりもない君に會はなかった僕が、これだけ待遇して居るのは、如何なる理由だか、君に分るだらう」とハッキリ威(おど)かした。見ると僕に似ても似つかぬ奴で、頭の毛も生えてゐる(笑聲)。 その男は面喰ったと見えて、默って居る。そこでハッキリ言ってやった。「お前は僕の名を騙ってかういふ惡事を働いたさうだが、それを認めるか。若し認めないなら警察署も近いのだから今直ぐにこれから突出してやる。ハッキリ言へ」と言ったら、三十人位から三圓づつ取ったことを自白した。その時僕は餘程考へたですよ。これは今となって後悔してゐるんだが、正義の觀念からいへばその時警察に突出すべきであった。併し、どうも事一身に關すると多少感じが違ってね。
 それから仕様がないから「僕もこの場合默って置く。然し實害は受けてないけれども、名前を詐稱された被害者だから、これは將來實話か何かに書くかも知れないが、その時に名譽棄損だとか文句を言っちゃいかぬから、その通りだという覺書を書け」と言って、書かせた。その覺書が此處にありますから、ちょっとそれを讀みます(笑聲)。
覺 書
一、先生の姓名に關し只今小生が述べたる事は、全部事實相違これなく候
一、右の事實に關し、他日先生に於かれて如何様に御發表相成らうとも、小生に於ては全然異議これなく候。後日の爲覺書作製する事右の如し。
  昭和六年十二月二十八日
春川秋太郎(印)
  濱尾四郎先生
 これは今まで發表したことがないから、この機會に發表するけれども、たゞこの話で興味をお持ち下さるとすれば、あなた方の僞者も澤山現れるでせうが、僕の場合は、僕に化けて犯罪を行って置いて、更に僕の所へ來たといふ點です。
甲賀 それは惜しい事をしましたね。いきなり叱らないで、何の目的で來たか聞いて見たら……。
濱尾 むろん僕から金を貰ひに來たんだ。十二月二十八日で年も押しつまって居るから。
江戸川 それと一つは風貌をよく見て眞似ようといふのだらう。然し三十人から取ったといふのは、どういふ所でやったんです。自宅へ呼んだんでせうか。
濱尾 自宅があるかどうか。何處かで金を集めてそれっきりにして居るんです。金を取ったのだからこれは立派な詐欺なのです。

注)本編は話を持ち寄って意見を言う企画のようです。「贋紙幣造りの話」大下宇陀児、「私が私でなかった話」浜尾四郎、「奇妙な訪問客の話」甲賀三郎、「珍らしい毒殺の話」江戸川乱歩、「奇縁三人の女の話」城昌幸、「偶然が重なる話」甲賀三郎、「思ひだせない話」木々高太郎、「あの世から便りをする話」海野十三、「野毛の牡蠣の話」小栗虫太郎。他者の話に浜尾四郎の発言もありますが割愛します。


「恐るべき話」
「政界往来」 1933.03. (昭和8年3月号) より

恐るべき手紙の話
 名士になると僞者が屡々現れるといふ事である。では逆に僞者が現れると本人は名士になるのであらうか。それは兎も角として、僕自身の知って居る限り僕の僞者が二人現れた。而も實にそれが不愉快な立ち現れなのである。
 尤も探偵小説作家の僞者などといふ者はどうせ氣味の惡い者達ばかりである。通俗小説、戀愛小説を書いて一寸でも名が出ると必ず桃色の手紙が舞ひ込むさうであるが、探偵小説作家の所に來る手紙は、大抵恐しいものが多い。これは僕一個の經驗のみならずこの方面の大家の話だから確實らしい。
 扨て、僕に關する話であるが多分昭和五年頃の事かと思ふ。名古屋市の某區の某といふ人から一通の手紙を受取った。
 無論未知の人である。封を切って僕ははじめて驚いた。恐るべき手紙の劈頭は次のやうにはじめられて居る。
「おれはお前ら親子を死ぬまで呪ってやる。神よ。惡魔よ。お前らに必ず天罰を與へよ」
 とはじまってこの文章は全部が呪ひの文でそれ以外に何も書いてない。
 唯發信者は番地と名前をはっきり書いてゐる。
 僕もこの手紙には一寸當惑した。冗談でひっかけるために妙な手紙をよこす人が大分あるけれども、この恐るべき手紙は、全部を度々通讀すると、そこに或る切實さが表れて居る。僕は不愉快と同時に少々腹が立つた。當時僕は卅五歳だったから四十歳の今よりも、さういふ事には怒り方がはげしかったのだ。
 そこで僕は直ちに發信人に對し
「貴下の書翰拝見致したれど何故に貴下が余及子を呪はれるや一向に判明せず」
 と書いてやると折返してその應答があった。
 比の手紙も半分呪ひの亢奮にかられて書かれたものらしくはっきりとしないが、何でも僕の息子と稱する二十四五歳の男が名古屋に居て、その發信者の娘に對して、不徳義な事を働いて逃げてしまった、といふ事がやっと反覆熟讀(※ママ)の結果判明した。
 こゝまで來て僕は成程と思ったのである。
 當時、僕の作が、JOCK(名古屋放送局)から毎日アナウンサーによって放送されてゐた。放送探偵小説といふ試みをやってやっと完結した頃である。
 從って當時名古屋の新聞其他ポスターに僕の寫眞が盛に出てゐたものである。僕の寫眞並に僕の顏は人をして僕の年齢について非常な錯覺を起さしめるやうに出來て居る。卅五歳の時旅行して宿帳へわざと年をかゝずにおいて、あとで見せてもらったら五十三歳と書いてあった。四十歳の今日でも五十以上六十位には見えるらしい。
 そこで、そのポスターを見た青年が假りにあるとしても、僕には、成りきる事は出來ないが息子と稱する事は出來るわけなのである。當時の寫眞が五十以上に見られゝば二十三位の息子が居ても不思議はない。そこで僕の息子と稱する者が出て何かしたのではないかしらとかう僕は考へた。
 そこで僕はもう一度その人に手紙をやった。
「貴下ノ考ヘハ全ク誤レリ。余ハ三十五歳ニシテ、余ノ法定相績人ハ今八歳ニシテ小學校二年生ナリ。ヨッテ貴下ノ考ヘ居ラルヽ如キ事件二於イテ被害者タル資格ハ有リ得レドモ絶對ニ加害者タル資格ナシ。ナホコノ點ニ關シ疑アラバ、興信録ソノ他ヲ利用セラレ度シ。此ノ件ニ關シ之以上余ハ貴下ニ文通スル意ナシ」
 ところが之で滿足する相手ではなかった。返信として益々奇々怪々な文が來た。
「貴様は自分の恥をよくもさらせる奴だな。成程お前の子は子供かもしれないが、俺の云ってゐるのは貴様の妾腹の子の事だぞ」
 これを受取った僕は呆然とした。
 當時卅五歳の僕に假りに妾がありとしても廿三四歳の息子は作りやうがない。
 僕は呆れてばかりは居なかった。退職檢事といふ位置の自覺が問答無益といふ考へをはっきり起さした。
 比の日僕は名古屋の某の管轄警察署へ、強き注意を喚起すべき手紙をおくったまゝそれなりにしておいた。
 昨年になって忘れてゐる頃、本人から手紙が來た。
 見ると今度はたゞひたすらに平謝りに謝ってゐるだけで結局事の眞相は僕にはつひに判らずにゐる。名古屋は苦手だと僕はつくづく思った。

恐るべき女の話
 名古屋も苦手だが、婦人も僕は苦手だ。コハイ。と云ったって無粹の僕故、女難の相なんか決してないんだからその方面での話でなく、凡て婦人に對しては僕は苦手である。
「老婆を立派に自白させればまづ一人前の檢事だ」と僕は在職中に、上官から云はれた。檢事在職中も女―― ことに老婆には手をやいた。落語に所謂女は何とかいふあれで、随分仕事の上に苦勞をした。
 檢事時分の頃、櫻田門から新宿行の電車に乗るべく待って居た。折しも夕方のラッシュアワーで停車場では男女二十名位で車を待ってゐる。ふと見ると僕の傍に着袴をした婦人、中年の婦人で一見先生に見える人がやはり車を待ってゐる。
 車は来た。降りる人々が相當あったが、つゞいて皆は人を蹴とばしても乗らうとする。見るとさっきの中年婦人は勇敢にも右手を出して車掌臺の棒を握り降り切ったらば一番に乗らうといふ待機の姿勢をとった。
 ところがさう巧くはいかないもので、その右手で遮られてゐた男達は余程積にさわったと見え、その中の職人風のアンチャンは全部降りると見るや否やいきなりその婦人の右手を突きとばして一番先に乗り込んだ。つづいて男が二三人、僕もやっとその次に乗ったが勿論席はない。仕方がないから中程の釣吊にぶらさがって居た。これからコハイ話になるのである。
 参謀本部の下を通って三宅坂位まで來た時、僕は僕の後の方で何か女のつぶやくのをきいた。ちらと見るとそれが中年教育家婦人だ。注意してゐると、
「見れば相當な紳士の癖に、女の手をつきとばすとは何事だ」
 といふので、考へると之は僕に對して發せられてゐるらしい。「見れば相當な紳士」までは光榮の至りであるが、それからあとがいけない。彼女は僕が彼女の腕をつきとばして乗りこんだ犯人と解釋して、盛に僕に挑戰してゐるらしいのである。
 而て呪文の如く、同じ恨みを嫋々として(?)執拗にくり返しくり返しやってゐるまに半藏門まで來てしまった。
 僕は不愉快ながらどこまでもこっちは默殺してやらうと決心した。今更僕ではないと云って車の中で議論をすれば必ず他の人の注意をひくし、相手にとって不足だらけだから絶對的沈默をつゞけたが、その不愉快さといふものは言語に絶した。幸にして同じせりふを捨白(せりふ)として中年婦人は麹町三丁目で降り、僕は次の六丁目で降りたからそれですんだが、いや降りてからのクサリ加減、今でも思ひ出すと惡寒をおぼえる。
 一回だけ僕は車中で婦人にはっきり苦言を呈した事がある。
 東京ではないが、開西の或る電車の中の事、子供を二三人つれた傲然たるどこかの令夫人に對してゞある。
 夫人はお伴の女中をつれてゐるのであるが、お伴の女中がぼんやりで三人の子供をもてあまして居る。その子供等は泥だらけの靴のまゝ窓の外を見てゐるが、一回も母親は子供がどういふ行動をしてゐるかを注意してゐない。僕が子供の隣にゐるのだが、その泥靴をズボンに盛につけられさうになるので、ヒヤヒヤする。一體母親が我子をつれて車にのる時、いかなる場合でも我子が他人に出來るだけ迷惑をかけぬやうに注意するのが當然であるべきだ。それに傲然たる態度が甚しく僕の癪に觸ってゐたので、僕は結局その母親に注意を喚起した。
「お子さんの靴をぬがせていたゞけませんでせうか」
 之に對して彼女は沈默のプロテスト陣を張った。餘計な事をいふなといふヂェスチュアである。僕は直ぐに同じく默った。かうなればどうしてもこのうるさい子供を僕の傍から迫拂はねばならない。といってどうすればいゝか。
 當時僕は檢事だった。檢事の鋭い眼光がどの程度にきゝめがあるかを僕は知ってゐた。こゝで一番この手を用ひてやらうと思ひついたのだ。僕は泥靴のまま僕によって來る子供をそれこそハッタと睨みつけた。効果忽ちにして表れ、この子供は非常に恐れをなしても一人の子供をとびこえて女中のひざに上った。次の子供がこっちへ來かゝったところを同じ方法で睨みつけると、これは少々藥がきゝすぎて泣顏になって女中にしがみついた。この異變には傲然夫人も氣がついたらしい。
 内心僕が子供をつねったんぢゃあるまいかと思ったかも知れないが、沈默戰故それは出來ない。僕は痛快がって景色を見てゐるうち降りるべき所に來た。立上ってふと見ると、子供たちは母と女中の間に皆ゐて、母夫人が自分の衣服をかばふ爲子供のどろ靴をとらうとしてゐるところだった。
「奥さん、お子さんの靴は脱がせないで結構です」
 かう一矢酬いて僕は車から降りた。
 何と云っても女は苦手だ。

恐るべき警戒眼の話
 僕は泥棒と間違へられた事が二三回ある。
 そんなに人相が惡いつもりではないが。
 一番はじめは小學生の頃、招魂社のお祭りの時である。
 あの廣場でいろんな店が出てゐた。店以外に廣場の中で、泥を呑む術をやったり刀をのむ術をやったりしてゐる。僕もこの術を見物してゐる群集にまぢってゐると、僕の前にゐた婦人が去るつもりか何かでぐるりと向きをかへた。僕はどういふ風に手を出してゐたかおぼえないがともかく婦人が向きをかへた途端に僕の片手(右か左かおぼえてゐない)が丁度その人の袂の中にはいってしまったのである。僕にすれば向ふがわざわざ袂を僕の手にはめたと思った。すると、自然の結果、その女はたちまち僕の方を見て
「いやな子だよ、この子は!」
 と檢事以上の睨み方をしてさっさとどいて去ってしまった。
 僕はその時、掏摸と問連へられたと思った。然し今から考へると、或はもっとひどい子供だと思はれたのかも知れない。
 僕は同日、興行師の或る大インチキを觀破したが結局二錢の被害者になった。その恨み徹して後に檢事になったといふ程でもないが、小學生の時、僕は明かにそれを感じた。
 それは或る見世物やなのだが當時小人三錢とかいふやすい見世物だった。木戸口で十錢拂ふと彼は釣錢だと稱して、一枚一枚銅貨を僕の片手にいれてくれ
「さあ坊ちゃん、一錢、二錢、三錢、四錢……それ七錢ですよ」
 といってたしかに一應手に入れてくれたのだが、最後に僕の掌に一枚おいた刹那、たしかに彼はその錢と更に一旦僕に返したいくらかを素早く自分の手に入れて胡魔化し去ったのである。僕は、子供ながらに怪しいと思ってその場でもう一度釣錢をかぞへはじめるとその男は、
「そこに立ってちゃ邪魔です。さあさあ奥へはいったりはいったり」
 とどなるので、そのまゝ中へ押入れられてしまった。
 中でそっと隅の方で數えて見るとたしかに二錢たりない。しかし子供の事ではあり、何となく恐いのでどうする事も出來なかった。
 これは僕の方の警戒眼の話。
 つゞいて第二回目にかっばらひと思はれた話にうつる。
 之は僕が中學五年位の時の事だ。丸善で本を買った事がある。勿論震災前で、更にその前に一度焼けたその前の頃の話であるから決して現在の丸善をさして云ふわけではない。
 當時僕の記憶によれば、本を買ふと、受取の代りに店の袋紙で包んでくれたものである。ところが、新しい本を買つた時は一時でも早く、ともかく扉だけでも見たいものだ。これは讀書子一般の心理だらう。
 それで僕は階下の和書を一冊求めたが、包んでもらはないでもいゝと云ってそのまゝ本を携へて出やうとした。するとそこにがん張って居た男がいきなり僕の本をとって一寸僕を見た。然しその邊は如才ないもので、いきなり、
「お包みさせませう。ねえ」
「いや、包まないでもいゝんだよ」
「いやいけません」
 この邊まで來ればいくら馬鹿でも僕が怪まれてゐる事は感づく。
 勝手にしろと思ってほっておくと、その男は賣場へ行って何か云ってゐたが、さう云った手前そのまゝひき下って來る事は出來ない。立派に紙に包んだ上に紐までかけて來た。
 僕は憤然とした。僕は「ありがたうございます」と云ってわざわざ戸をあけてくれたその男の前を動かなかった。
 そして、わざわざその紐を全部そこでほどき、その袋紙を出來るだけ細かに破いて、その場にちらかして店を出た。
 意地惡ではあるがさうしなければ、最初の僕の言分が立たないから。
 向ふには向ふの立場で、人を見れば泥棒と思ったらうが、こんな侮辱をうけては、店を紙でちらした位では僕の憤慨はおさまらなかった。僕は恨骨髄に徹して一生この店にははいるまいと決心したが、この節操は、數年しかつゞかずまもなく階上に又行くやうになった。口惜かったからその本の名を今もはっきりおぼえて居る。その本は森槐南の和漢名詩鈔(選?)といふのである。
 けれどその氣持ちが今に絶えぬか、僕は丸善の階下で和書を買ふ氣はめったに出ない。
 紳田に中西屋といふ本屋があった。
 この店は全く「人を見れば泥棒」と考へて居たらしい。必しも僕ばかりではないが、はいって行くと常に店員が尾行して來る。不愉快な事おびたゞしい。あゝまで警戒が嚴重になると、いっそこゝで一冊かっ拂ってやらうなどといふ奇妙な氣持になる人がたくさんあったらうと思ふ。
 此の店で僕は中學四年の時 The Adventures of Sherlook Holms をはじめて一冊買った。途で頁をめくって居ると落丁のある事に氣づいたのですぐ引返して取代へてくれと頼んだ。
 するとそこの番頭(この男の顏を僕は一生忘れまい)は、現に自分の店のマークの張ってある本で多分僕がさっきはいった事をおぼえて居たに不拘、
「一旦お賣りした本は絶對にお取りかへしません」
 と來た。
「しかし君、落丁があっては仕方がないぢゃないか」
 と言ひ返すと
「いえ、店にあった時は落丁も何も決してありません。そんな不完全な本を店には出しておきませんから」
 と實に明瞭に頑張った。
 當時文學にこってゐた僕も、冗談でなく法律家になる必要を痛切に感じた。

恐るべき通人の話
 震災の一寸前、僕は或る人に連れられて、大雪の夜、淺草の或るめし屋に行った事がある。このめし屋はのれんで、はいると腰かけて食ふやうに出來て居る家で當時相當に有名なものでたしか久保田萬太郎氏其の他の文藝の士や有名な幇間や、役者や落語家が集まって來る店だった。吉井勇氏の歌や其他有名な人の俳句や川柳が、はいる人をおびやかして居たもので、僕もたしかにおびやかされた一人だった。
 酒の呑めぬ僕はその日集まって居る人々のいろいろな通の話を大いに有益にきいてゐたのである。折しもその時、或る有名な噺家がやって來たので、皆の話は落語の事で大いにはづんで來た。
 僕は幼い頃から寄席に通って居たので、大抵な東京の方言は判るつもりで居たが、小せんがよく話した「居殘り左平次」の下げがどういふ意味かよく呑みこめなかった。
 かういふ機會にきく事がいゝと思ったので僕はその時はじめて發言してその意味をたずねた。僕の初歩の質問に對して、そこにゐた落語の大家は勿論、外の人でも直ちに斷案を下し得るものと信じて居たからである。
 然るに僕の質問は意外な結果を齎(もたら)した。
 或る人は甲といふ解決を與へ或る人は乙といふ意味を答へた。こゝで「居殘り佐平次」のさげはまさに問題となったのである。
 而もそのどれも僕を納得させなかった。
 二三年前、落語研究會のパンフレットでこの問題が叉むし返されて居たやうだったが、結局どう落着したかおぼえて居ない。
 苟くも一流の大家になれば何でも判ると考へて居た僕が馬鹿だったのだが、これはたしかに僕を驚かした。
 丁度、日本のピアノの専門家が、いきなり譜をよんで、ぶっつけにひけると思ふのと同じ愚かさであった。
 けれども、立場は立場として諒とするも、下げを知らずして噺をしてゐるハナシカが居るのは一寸言語道斷といふ感がする。
 僕は年を間違へられるのと同様に時々場違ひの所に呼ばれたり、遠慮なく出席することがある。恐るべきは食通と稱する人の集ひである。僕は元來酒が呑めず、ひどく紳經質なので、味覺よりもアトモスフェールに支配される傾きがあるので、愉快な仲間ならトンカツでもうまいし、一寸堅苦しいとどんな美味のものでも、うまくない。耳の惡い人を音痴といふなら僕の如きは味痴(!)であらう。
 ところが食通大家のつどひに出ると實に恐しいのである。片端から食物の産地をあてたり、料理方法をあてたりする。酒の呑める人は勿諭その産地をあてる事易々たるものである。江戸の落語に、若旦那が二階で居候をしてゐる話の中に「豆腐の見利きをする人にははじめてあったよ」といふ言葉があるが、どういたしまして、これら食通にかゝったら米の目きゝでも鑑定でもやりかねまじき様子だ。
 有名な話だが「昔八百善で玉川の水をとって來て作ったものだから、と云って大枚の代金をとったといふ話が傳へられてゐるが、はたしてその時の客に、水の目きゝが出來たらうか。その事が傳へられて居ないのは遺憾である。
 場違ひついでに邦樂の批評家の大家のコハイ話を書かう。何かのチャンスで僕は清元の大通の議論をきく光榮を得た事がある。
 此の人逹から云はせると浄瑠璃といふものは、悉く我が國文法にかなって語らねばならぬ事になる。つまり、「保名」なら保名を朗讀するつもりでなければ御滿足にはならぬらしい。清元といふ浄瑠璃の第一要素たる音樂的美感は第二のものとなってしまふわけである。
 かくの如くにして甲論乙駁、はてる所を知らぬ。さういふ諭理的文學的解釋がどの程度に必要か甚だ疑間ぢゃないか、と自分は思ふ。
 最近人を食ったのに兼常大人がある。
 大人得てして自己を韜晦し給ふ癖があって、一日、ビヤノのタッチといふ戯文を公にされた。大人の腹の底の判らぬ批評家連中、血まなこになってこれに乗った正直さも買ってやるべきなのだが、大入あまりいたづらをやりすぎ給ふやうな感がする。
 大人身をひるがへす事に妙をきわめ、最近はいつのまにか某誌にあの素ばらしい、但し、今日では餘程のひま人でなければきいてゐられぬベートホーヴェンの第九を禮讃されて居る所など實に妙々である。以上素人の勝手な放言、専門騎士の御相手をする義にあらず、議論とあったらさっそくの逃腰、政界往來子に求めらるゝまゝ亂筆惡筆を振ふ事まづ右の如し。(終)
――一九三五、五、二六――


注)句読点は追加したところがあります。
注)会話や引用末尾の句点は無しで統一、一文字空けは詰めています。


面喰った話「法廷の喜劇」
「朝日」 1931.05. (昭和6年5月号) より

 僕が中學生の頃、芝居の「春雨傘」を見て、札差とは何ですか、と老人にきいて「何だ、そんな事を知らないのかい、この頃の學生は何も知らないんだね」と云はれた事がある。此の質問は、僕としては少しも奇問ではなかったが、相手は奇問として面喰ったと見える。
 久保田万太郎氏だったかの話に、このごろある學生に落語の話をしたら、權助ってのは何ですか、と聞かれてめんくらったといふのがあった。
 僕が一番いろんな人に出會はしたのは、檢事をしてゐた時だったが、檢事はいつもきく方で問はれる事があまりないから、從って奇問にもあまり出會はなかった。却って檢事がきく方が、相手にはずゐ分奇問だったらうと思はれる。
 或る事件に立會してゐた時、被告が、
「その時、お通し物で一杯やってゐました。」と云ったら、裁判長が
「お通し物とは何だ。」
 といふ質問をした。めんくらった被告の答が又中々振ってゐた。曰く
「お通し物とは豆の事です。」
 僕自身の事で云へば、さんざん頭の中でこね返して、誰がよんだって代(つく)り物にきまってゐると思はれる様な小説の事を
「あれは、いつ頃取扱った事件ですか。」と時々聞かれる。
 これなどは、はじめの中は奇問だったが、このごろではなれちまって、奇問でもなくなり、答もすらすら出來るやうになった。
 睡眠劑××と書いたら、讀者から××は何だ。僕も眠れないで困ってるから教へてくれ、と手紙をよこされたのは少々驚ろき入った。
 今月の或る芝居の題、當穐(できあき)八幡祭を、何とよむのか、ときかれたが、こんなのは奇問とは云へない。札差の類である。
 試みに、カフェーやバーばかりに入りびたってゐる人達は、〆能色相圖(しめろやれいろのかけごえ)、だの色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)だの、大和い手向五字(やまとがなたむけのいつもじ)だの、其小唄夢廓(そのこうたゆめもよしわら)だのといふ字をきいて見たまへ。きっとみんな奇問になるだらう。
 僕自身には、どうも奇問をきかれてめんくらった話といふのは、まづ無いやうに思ふ。
 めんくらはなかった、といふわけではない。そんな落着いた僕ぢゃない。たゞ奇問に出會はないのだ。

注)「お通し物」の部分の意味は不明。意味を聞かれたのを出された物を聞かれたと勘違いして答えたのだろうか。別の隠語も含まれているかもしれないとは考え過ぎか。


「コーナン・ドイル」
「コドモのテキスト」 1930.09.(10月放送号) (昭和5年9月(10月放送号)) より

【十月十五日AK放送】
 西暦一八八六年に英國に「緋色の研究」といふ探偵小説が出版されました。この本の中にはじめてシャーロック・ホームズといふ探偵が出て來ましたが爾來引つゞき此の名探偵の現れる探偵小説が出版され、シャーロック・ホームズの名は今や全世界的のものになって居ます。
 シャーロック・ホームズの作者はアーサー・コーナン・ドイルといふ人であります。
 ドイルはシャーロック・ホームズ物の外に實に面白い歴史小説や冒險小説を書いて居ます。
 その中で昨年出たものに、マカロー博士の「海底探檢」といふのがあります。大西洋の眞只中で、新發明の船にはいって三千尺の深さにもぐり行くのです。突然あらはれた怪物、あっといふ間に、海上に浮いて居る汽船との連絡を切ってしまひます。それはともかく、この時突如出て來た海底を歩く人間はそも何人でありませうか。
 ドイルは海底の話と反對に大空の上に居て飛行機を追っかける空の怪物の話も書いて居ます。「空の恐怖」といふ話です。

注)ラジオ講演(?)の予定内容の紹介と思われます。


大衆作家寸評(3)
「怪奇小説作家 江戸川亂歩氏」
「讀賣新聞」 1932.08.18 (昭和7年8月18日) より

◇…亂歩さんと近づきになったのは三、四年前からだが第一、生活が飄々乎としてゐる。大體探偵作家は外の職業から轉じた人が多い、それで甲賀君にしても僕にしても叉大下君にしても實際生活は極く平凡、かりにダラシがないとしても精々「役人」のダラシのない程度である。亂歩さんはその點大分變ってゐて比較的文筆の士に近いところがある。
◇…僕から云ふと亂歩さんの作は僕が愛讀者だった頃、つまり初期の作品を認めてゐる。現代の亂歩は書きすぎる。作品も探偵小説といふより怪奇小説に近い、尤も先輩として云へばそれだけ書けることも偉いには相違ないが。これは先生自身も自覺してゐることで、休息すると同時に又元へ戻るとは思ってゐる。
◇…僕とは様子も似てゐるし、趣味も似てゐるが性格は對照的で多くを語らぬ、奥まった感じのする陰氣な人である。氣の合った人とは一晩中語り合ふが、大勢寄る、たとへばカフェーや待合のやうな所で騒ぐ人ではない。その點甲賀氏等とはコントラストをなす人である。【寫眞ほ江戸川氏】

おまけ:大衆作家寸評(1)
「大下宇陀兒君」 甲賀三郎
「讀賣新聞」 1932.08.16 (昭和7年8月16日) より

◇…大下君は私と全く同じ道をとほって來た人で一高から大學は違ふが應用化學を専攻し同じ研究所で働き、私が探偵小説を書き出すと間もなく大下君も書き出した。といふ譯で批評は却って難いが…。大下君は近頃賣出して來て長篇小説の書ける作家の有力な一人だと思ふ。最近新潮社から出した書下ろしの「奇蹟の扉」を見ても長篇作家の素質は十分ある。
◇…併し探偵がどんどんと謎を解いてゆくといふ本格的な方面では餘り優れた作品を見ない。探偵小説だけに捉はれず通俗作家といふ或は戀愛小説といふ方面に…丁度牧逸馬君が色々名前を變へてやってゐるやうに…十分手腕を揮へる人だと思ふ。
◇…さういふ意味で本格的な探偵小説としては「奇蹟の扉」は案外下らぬものかも知れない。尤も「奇蹟の扉」だけをとって彼是云ふわけには行かないが。とにかく大下君は長篇小説のために大いに努力して貰ひたい。
 (大下宇陀児の顔写真あり)

注)つぶれた文字を推測で記したところがあります。
注)参考までに正確な題や副題の有無まで記録していませんでしたが、2「長谷川伸氏」佐々木味津三、4「三上於菟吉氏」加藤武雄、5「吉川英治氏」長谷川伸、6「直木三十五氏」三上於菟吉(21日)、7「中村武羅夫氏」長田幹彦(23日)、8「貴司山治氏」山田清三郎、9「細田民樹氏」大宅壮一、10「吉屋信子氏」長谷川時雨、11「佐々木味津三氏」田中貢太郎、12「加藤武雄氏」岡田三郎(28日)、13「白井喬二氏」土師清二(31日)と続きます。9月以降は調査していません。


「N將軍と小説家A氏」
「文藝春秋」 1933.03. (昭和8年3月号) より

 N將軍も文士A氏も共に故人である。而てその生前聲名はきいて居ても私は知遇を得たことはない。N將軍のいかめしい姿を見たことはある。然しA氏には會った事さへない。そのかはわり其の作品は大抵尊敬しつゝ讀んだ。
 二人共に私の尊敬する名士である。殊にA氏は、文壇の末席に坐して居る私の如きから見れば、到底近づくことすら出來ない鬼才であった。
 今若し私に、「近代の偉人中最もお前がえらいと思ひ且つすきな人をあげて見よ」と云はれたら、私は躊躇なくN將軍の名をあげる。私は凡てを通してN將軍を禮讃して居る。私にとってはまるで縁のなかったN將軍が一番私のすきな名士だ。私はめったに泣かぬ性質をもってゐる。然し事一たび將軍の生涯に關する記事をよむと人知れず泣きたい氣持になる。 N將軍は其の赫々たる武勲と聲名にも不拘不幸な人だった。私はN將軍が西南の役で軍旗を奪はれた其の時から、明治四十五年九月まで「死なねばならぬ、死なねばならぬ」と考へ通して居たとは思はない。そんな事は心理上有り得ぬ話だ。然し、明治卅七八年の戰役後からは將軍は明かに死ぬ機會を探して居たと考へられる。「天皇陛下に對し、祖國に對し、而て死なせた數多の部下に對し、すまぬ、すまぬ」と思ひつゞけた。その至誠が私を無條件に動かす。 勿論、愧(は)ず我れ何の顔(かんばせ)あってか云々といふ心事を謳った詩は、發表されるよりも韮をかみつゝ沈默されて居た方がより尊かったらう。しかし發表されても少しも構はない。凱歌今日幾人か還る、と云はれても私がN將軍を尊敬する程度を少しも減殺しないし、又誰だって決して芝居だとは思ふまい。
 たった一つの私の疑ひは、將軍が軍人としてはたして適任者であったらうか、といふ一事である。將軍は餘りに血と涙をもちすぎては居なかッたか。鋼鐵の如き神經の所有者だったらうか。ナポレオンの如きは、自分一己の野心の爲にあれだけの戰をなし、部下を殺しても、きっと涼しい顏をして居たに違ひない。N將軍は勿論自分一己の爲てはない。天皇の爲に、祖國の爲に「死ね!」と部下に命令する位置におかれたのである。他の職務にある者にとっては堪へられぬ苦痛だったかも知れない。 然し、將軍たる位置にあってはこの場合鋼鐵の如き神經をもって、肉彈を旅順の鐵城に投げつけるべきであった。勿論N將軍は敢然として事に當って遂に成功した。しかし成功した時N將軍は泣いてゐたといふ事である。「すまぬ、すまぬ」と考えつゝ。鐵壁に肉彈が碎け散るのを見る度に、N將軍の腸は九回(※ママ)した。然し、將の將たる將軍たるものは碎けちる肉彈を冷かにながめるべきではなかったか。 よし多少の違算はあったにしても武將たるが故に、より高き目的の爲には鋼鐵の如く冷かであるべきではなかったか。私はN將軍が將軍たるべくアルツーメンシュリヒ(※ママ)ではなかったかを疑ふ。
 A氏も亦その赫たる聲名にも不拘不幸な人だった。私はA氏が何を惱み何が故に眠られぬ夜を過さなければならなかったか、もとより知る由も無い。ただ催眠劑中毒者たる私には、A氏の體の中にやはり催眠劑中毒患者でなければ判らぬ心理が出て來るのが、尊敬の外に更に親しみといふやうな感じを起させる。
 以上私は自分の尊敬する而て全く方面を異にした二名士の名をあげた。然し之は無意味にあげたわけではない、この兩者の間に一脈の關係があるから、而てそれに對して私の感想を述べたいからあげたのである。
 A氏はその作品の中にN將軍を主題とした小説を書いて居る。而て「將軍」といふその作に出て來るN將軍は少くも私の考へるN將軍とはまるで違った人になって居る。感情だけで云へえば、A氏の見方によりて私はN將軍の爲に少からず不愉快に感じた。N將軍はゆがめられて居る。A氏はN將軍を理解して居ない、とあの作が出た時はっきり感じた。
 一體あゝいふ見方は私は元來きらひではない。私自身も元來物をあゝして見たがる性質なのだ。だからA氏の「或る日の大石内蔵助」などは私の好きな作の一つである。しかし私はN將軍を禮讃する故に、N將軍の場合は感情的に云って氏の見方がいやなのだ。
 では理論的に云ってどうだらう。
 「將軍」の中の「父と子と」といふ作者が最も重點をおいたと考へられる章の中に、實に氣障な學生が出て來て父と議論する。
「が、自殺する前に、寫眞をとる餘裕はなかったやうです。(中略)誰の爲にです」
 この一言がこの章の一撃である。これで父は實に全く参ってしまふのだ。私はA氏即ち學生だとは無論思はない。しかしA氏がかう云ってにやりとするのを感じないわけにはいかない。
 将軍は自刄の前に何故寫眞をとったか?
 私は確信を以て法廷に於いてN將軍の爲に辯論し得ると思ふ。「父と子と」の中に於いて、父はそのキザな子に對し、「N將軍はその妻の爲にだ!」と一云へばいゝのだ。今更私が云ふまでもなく、N將軍は少くもあの寫眞をとった時は妻をこの世に殘しておくつもりだったのだ。遺言書にもそのまゝある所を見れば、N將軍夫人の死ぬ事の將軍に知れた(或は知らなかったかも知れぬ)のは遺言書を訂正するひまがなかった位、自刄に近かったと思わなければならぬ。 それ故にN將軍は、殘し行く妻の爲に自分の最後の盛装を殘したと解すべきではないか。後世の爲に自分の姿を殘さうとしたと解するは單に酷なるのみならず眞相に遠きものであると思ふ。
 もしそれ余裕云々の點に關しては、將軍が寫眞をとったことゝ、A氏自身の自殺に際しあの謎の如き遺書を長々と書いてゐることゝはたしていづれぞやと云ひたい。
 私は「將軍」が發表された時からこんな感をもって居た。しかしA氏が故人になったゝめにこんな感想を發表するのを今までひかへていた。それは故人を批議するといふ不徳に陥るものではないかと感じてゐたからだ。A氏の「將軍」の場合はともかく小説である。私にあゝいふ小説が書けたらこの感想を創作に托したかも知れぬ。しかしもし故人を云々していけぬとなれば、堂々と諭陣をはるよりも小説の形に托して故人を云々する方がもっとずるいやり方かも知れない。だから私は一應たゞ感想としてこれを發表するのだ。
 私はN將軍を軍人たるべくアルツーメンシュリヒだったのではないかとさへ疑って居る。しかしA氏の「將軍」の中に、N將軍は私の考へと全く反した人間として現れて居る。
 私のこの感想文は決して故人A氏を批難してゐるわけではない。私は先にも述べた通り、A氏に知遇を得た事はない。A氏の「N將軍觀」はたゞ僅かに「將軍」一作によってうかゞへるのみである。
 幸にして現代文壇の名土中にはA氏の知己が多いのだから何かの機會に、A氏の眞のN將軍觀をしらせていたゞきたいと思ふ。
 この駄文、故人をあげつらうの非禮の批難を甘じて受ける氣で私は書いた。

注)「腸は九回した」は意味不明。「アルツーメンシュリヒ」は「alts menschlich」(古い人間?)ではないかと思われますが不明です。
注)本稿のN将軍は乃木将軍、A氏は芥川龍之介であるのは自明だが、「将軍」でもN将軍となっているので踏襲したのかもしれない。


直木氏を憶ふ「物に動ぜず」
初出:「衆文」 1934.04. (昭和9年4月号)
『近代作家追悼文集成23』 ゆまに書房 1992.12.08 (平成4年) より

 私は直木氏とは私的交際を全くしませんでした。さういふ機會がなかったのです。私がはじめて氏の風貌に接したのは、何かの座談會でゞした。それから、私一個として氏に感謝してゐるのは私の爲め出版の記念會をした時、發起人の一人となって下さった事、及び當日わざわざ會場に出席して下さった事であります。
 私は一體小説家仲間と(探偵小説家は別ですが)餘りおつきあひする機會がなかったものですから特に直木氏の逸話、警句を知ってゐません。もしそれ印象といへば「物に動ぜず」といった感じでした。

注)本件に限り再録より掲載しています。


「「裁判夜話」を讀む」
「時事新報」 1930.06.09 (昭和5年6月9日) より

 大審院判事大森洪太氏は最近その著裁判夜話一本を僕に贈られたので、早速通讀するの機會を得た。
 本書は、三十餘篇の物語りから成り立って居る。その二、三を除く外は全部、裁判の實話である。
 外國の、かういった裁判實話を紹介する事は元來、人知れぬ苦心を要するものである。殊に紹介者の立場が、法律家である場合に特にさうである、何故ならばこの場合、描かれた事實が面白く讀まれるといふ事と同時に出來るだけ正確でなければならないからだ。
 僕自身にもさういふ經驗がある。僅か二十枚位の記事を書くために、約五冊の外國の書物を讀まなければならなかった。さうして讀まれる場合には小説程面白がられないのだから、勞して割にあはない仕事である。
 此の書の著者は小説家では無論ない。大審院の判事である。著者はこの比較的損な役目を敢然とはたして居る。
 法律家にとっては無論興味多いものだが、物語讀者にも却々(なかなか)趣味のある話が出て居る。「檢事長を殺した辯護士の話」や、「黒手組の話」等はその例だらう。
 裁判事件は第十六世紀時代の事實より、現代にまで流れて居る。いづれも著者の正確な知識によって記されて居るのだから全部そのまゝ信じてよい。
 たゞこの書について僕が一言申したいのはその表現の方法だ。一體かういふ書は、表現法が實にむづかしい。すらすらと事實を書いて行けば無味乾燥に流れ易い。然らばどの程度に文章をやるべきかといふ事になる。
 著者は小説家ではない、從って讀者におもねる必要は少しもないけれども、如何に讀者によみ易くすべきか、といふ問題を充分頭に入れて居るやうすがありありと判る。この苦心は五百二十二頁の大冊のはじめから終りに至るまで現れて居る。而して大體に於いて著者はその點で成功してゐる。かくの如き種類の書物を之以上に面白く書く事は難いだらう。
 しかし所々に、この努力がピントをはずれたやうすを見せて居る。例之「幽靈退治」の話の中に謡曲や常磐津の文句をそのまゝ二度も引用せる如き、「職責を自覺した辯護士の話」の中に、漢、英、獨の詩を引用してゐるが如きは、どうかと思はれる。
 要するに此の書は、大審院判事といふやうないかめしい役にある者が、筆をとった最も大衆的讀物の一つの標準を示すものである。
(日本評論社發行 定價二圓五十錢)

注)句読点は追加したところがあります。
注)本書『裁判夜話』大森洪太 1930.05.25 はデジタルコレクションで一般閲覧可能(DC)です。


「犯罪王アル・カポネを讀む…」
「新愛知」 1931.08.29 (昭和6年8月29日) より

 カボネの名を全く知らない人又はきいてはゐても餘り詳しく知らない人にとりて本書は全く一ッの驚異である。そこには我國では到底信じ得べからざる奇々怪々な事實が描かれてゐる。高官、實は殺人鬼の手先、警察官は惡人の乾兒、機關銃を備へた自動車の白晝公然の殺人及び市街戰! 宛然之(あたかもこれ)映畫中の光景である。
 犯罪王のナポレオン、ナンバーワン、カポネはそも何處に生れ何處に育てられたか。
 彼がシチリア人である事以外に知られてゐない。之は當然の事で之以上詳しく現在の彼を知り得やうがないのである。
 皮肉な事に此の男は、法律のおかげでえらくなった。アメリカは禁酒法を施行したゝめにとんでもない人間を育て上げてしまった。
 白晝公然の市街戰。殺人は實にこゝに源を發してゐるのだ。
 カポネは捕まったといふ説、カポネは實は死んで現存してゐるのは、第二世いや第三世だといふ説、こんな噂が傳えられてゐる。
 之が、支那でなくて、世界一の文明をほこるアメリカの出來事であるだけ非常におもしろく思ふ。
 リンバーグの名を知るものはカポネの名を知らなくてはいけない。何故ならば、アメリカ新聞紙上に名を唱はれること頻りなる點に於てレコード保持者であったりリンバーグの記録を破ったのは即ちアル・カポネだから。
(定價一圓卅錢、東京・芝・愛宕下町・改造社發行)

注)原題は「犯罪王ア・ルカポネを讀む…」となっていますが訂正しています。
注)明かな誤字脱字は修正しています。句読点は追加したところがあります。
注)変態仮名の江が二ヶ所使用されていますが、「え」としています。
注)本書『犯罪王カポネ』和気律次郎 1931.08.16 はデジタルコレクション個人送信で閲覧可能(DC※)です。


「映畫「アリバイ」漫評」
「映画時代」 1929.09. (昭和4年9月号) より

 七月十九日淺草松竹座に「アリバイ」を見る。此の前「キャナリー殺人事件」に就いてワ゛ンダインの小説と映畫のそれとを比較して何か書く約束をしながらそのまゝスッポかしてしまったので今度は何か書かなければ映畫時代子にすまんと云ふ譯でわざわざ淺草まで出張に及んだ。此の日氣象臺の寒暖計正に九十四度を示したといふんだから映畫館の中は文字通り蒸されるやうな暑さ。其の爲では無論ないんだが――いや、なるべくなら其のせいにしたいのだ――つひにオールトーキーなるものに禍されて、どうも筋がはっきり判らなかった。 僕實はオールトーキーなるものを見るのがはじめてなので、大方こんな事だらうと思って豫め英國人の會社に勤めて居る男を引張って行った所彼の語學正に僕のそれ以上に出なかったと見え、彼も矢張りはっきり判らない様子。映寫中に之ではいかんと考へ説明者の方ばかりに耳を向けると今度は――スクリーンの方の言葉が盛にがやがやして一向説明が聞えぬといふ始末。 尤も昨日或る英國人にきいたら英人でもどうもはっきり聞きとれないといふんだから仕方がない。結局、オールトーキーだけれど僕にはパートトーキーに成ってしまった。そのパートトーキーで大體を知ったゞけで評をしやうといふんだから我ながら大膽不敵と感ぜざるを得ない。
 早速本題に入るが、先づ「アリバイ」を種に使ふ事は探偵小説の方ではいたく事古りにたるわざである。遠くは涙香小史譯する處の「海底の重罪」といふのに丁度今度のやうなアリバイがある。之は自動車に乗らずに自轉車に乗って行って犯罪をやるんだから作者が今日まで居たら無論自動車を用ひたにちがひない。近くはジョン・ローレンス探偵小説に「パーフェクトアリバイ」といふ長篇がある。
 ところでアリバイを犯罪に利用する以上犯人は豫めそれを立證してくれるであらう所の人間を大抵物色して居る筈で之でこそアリバイ利用の効果があるわけである。
 然るに、本映畫に現はれるチック・ウイリアムスには、愚にもその用意がなかったらしい、そろそろ危くなってから大あわてにあわて出す。それも好いが遂にモルガンと云ふ怪げな男をつかまへるといふ醜態さだ。僕は何故に彼が戀人ジョアンをその證人に立てなかったのか、その理由を解し得ない。あんなに迄男を戀して居る限り、ジョアンはどんな事があってもチックを救ふに極まって居る。而も彼女は警官の娘である。こんな都合のよい證人なんてものは一寸あるものではない。
 一體、チックが巡査を殺すのが、僕にもはっきり判らない。グレノンが後に檢證する所を見て居ると自動車で劇場から走って行って時計を出す。さうして直に又自動車で戻ると丁度十分間經て居る。果して然らば、チックにした所で自動車でとんで行って直にビストルをうち、直に引返した事になる。もしさうでなければ、彼は丁度あの時間内に殺して來られなかった筈だ。そこで更に、彼は丁度お誂へ向きの時間にピストルを撃ったことになる。即ち巡査があの時間に、あの場所に居なければならぬ。チックはあれだけの用意をして抑も何をしに行ったのか。
 答へて曰く丁度あの時間にあの場所に立てゐる巡査に向ってピストルを一發うつ爲に! 時間の關係上彼が仲間(?)の者と共に泥棒を働く事などは思ひもよらぬ不可能事であるわけだから。
 チックがアリバイを利用する以上、かう解するより外に仕方がない事になるが、どんなものかしら、それにしてもモルガンなる者のヘマさはどうしたものだ。チックから犯罪の自白同様の事を聞いて何の爲にあゝあはてゝ電話をかけるのだらう。
 チックがモルガンを證人に頼む以上、チックがあの場からずらかる危險は無ささうに見える。令之(たとえ)商事に事をかりたにしろ電話番號をはっきり云って刑事の溜りへつたへるとはどういふ譯かしら。餘りに輕率である。あれでは殺されるのも自業自得だ。
 一番不愉快なのはあの男が死ぬ場面である。元來妙に感傷的な影はひどく嫌ひな僕だけれど、モルガンの死ぬ所にだけは誰だって同感は出來まい。外科的手術を絶對に必要とする怪俄人を中にして、醫者もよぶことなく應急の手當もせずに悲痛な顏をしてその述懐をきくなどは我がカブキ劇かオペラにばかりあるものと思ひ居りしに、今日オールトーキーの映畫に之を見るとは又多幸なりと云ふべしである。
 會話の内容が判然しないからはっきりした事は云へないが、チックはモルガンにあの當時電話がかゝったと證言してくれと云ふ。
 もしそれだけだとすれば甚だ滑稽である。誰でも電話がかゝった途中に時計を見る人はあるまいから。それに第一モルガンの時計が非常に正確でなければならないわけだが、アメリカ人の時計は皆正しいのであらう。
 犯人の戀人實は警官の娘、といふ所は決して惡くない。然し之ははじめ判らずにあとでやうやく曝露したといふ事にしなければ困る。自分達が追っかけてゐる犯人の戀人が警官の娘である事が公然となって居りながらあの刑事達の醜態はどういふ事だらう。
 殊にジョアンからモルガンのかけた後、電話がかゝって來るとはっきり事實を知って居るのは無茶すぎる。
 大體僕にはジョアンに對する其の筋の人人の考へがどう動いて居るのかさっぱり判らなかった。
 運轉手をピストルで脅かして自白させるのも馬鹿氣てゐる。法律的問題で云ふのではない。あれではおどしの効果がなからうといふのだ。毆ったり打ったりして云はせるのならよくわかるが、いくらアメリカだって制服の警官があゝいふ場合、ぶッ放しもしまい。運轉手が汗をかいて恐れる所以がよく判らない。假りにあんなに頭の中が混亂したとすれば、彼の云ふ事なんか到底信ずる事は出來ぬ筈である。
 こんな揚足取りを云って居れば切りがない。勿論僕が初め云った通り、トーキーの會話をはっきり會得し得ない爲にいろんな疑問が出るだらう。それにしてもどうもほんとうの探偵映畫とは云へないやうだ。
 あれ程馬鹿らしくない、今少し筋の通ったものを見なければ探偵映畫といふ事は出來まい。
 何と云っても探偵劇なる以上、探偵小説同様見る者をして一應尤もと思はせる論理的ストーリーがほしい。
 斷片的な場面としては、はじめがいゝ、それから自動車に乗って檢證に行く處などいゝ氣もちだ。素人の映畫觀、之を以て終る。
(一九二九、七、二四、大磯にて)


注)明かな誤字脱字は修正しています。句読点は追加したところがあります。
注)名と姓の間には・を入れています。


「「怪物團」を見る」
「時事新報」 1932.11.24,25 (昭和7年11月24日、25日) より

最も氣味の惡い、陰惨な映畫
 此の寫眞を見る前から僕はその評判をきいて居た。曰くグロの極致。曰く變態映畫、曰く猟奇趣味横溢等。
 ところで實際之を一見するに及んで、これはこれは全く大變なものにぶつかったと感じたのである。
 試寫を共に見た大下宇陀兒君と、銀座に出ながら、二人とも、
「今日は参ったよ」と語り合ったのだった。
「怪物團」は僕が近來見た映畫の中で、一番氣味の惡い、陰惨な映畫である。單にグロテスクとか猟奇的とかいふのは足りない、もっとあくどい暗い物が、はじめから終りまで貫いてゐる。
 物凄いと云っても、普通の殺人などといふ明るさがない。(此の明るさといふ言葉は誤解を招くかも知れないが、同じ犯罪と云っても殺人事件は堕胎事件などより明るい、と云へると思ふ。)
「怪物團」を終始一貫してゐるモチーヴは、「暗い」といふことである。
 何しろ登場する人物の中四五名を除く外は悉く不具者なのだからまづ觀衆はどぎもをぬかれる。兩手がなくて足で何でもする女、身體の或部分がくっつき合って永遠にはなれられなぬシャムの双生兒、さては又一寸法師、胴から下のない人間、一番烈しいのは兩手兩足がなくてたゞ芋蟲のやうに動いて居る氣味の惡い人間、おまけに此の男が器用にたばこにマッチをつけるのだからやり切れない。
 是等の人々がまづ最初から次ぎ次ぎと現はれるのだからストーリーはともかくとして觀衆は斷片的に場面毎に驚かされるのだ。
 此の趣味はモオリス・ルヴェルの作品に屡々見受けられるところのものであり、日本にこの種の作品を求めればまづ江戸川亂歩氏のものであらう。
 一言で云へばこの寫眞は不健全極まるものである。
 ところで、この「不健全さ」が此の映畫の持ち味なのだからどこまでこの「不健全さ」が成功してゐるかを考へて見やう。
 僕をして正直に云はしめるならば、此の「不健全さ」、「暗さ」は、まことによく手順に運んで行ってゐると思ふが、前半は相當甘いものである。即ちいろいろの不具者をならべて斷片的におどろかすの手法は一般の觀衆をして膽を冷させるかも知れないが、われわれ探偵小説作家は大しておどろかない。
 しかし後半に至って俄然「不健全さ」が壓倒的に殺到する。
 場面毎に順を追ふて來たグロ味は、ハンスとクレオパトラの結婚式に至って一斉に噴火する。不具者共が嵐の中でハーキュリーズの胸に刃を刺す場面の所でクライマックスに到達する。あらしのサウンドは聊か烈しすぎたが、その次の不具者共の眞意に、サイレントの効果をあげて見事にその短を取り返してゐる。(つゞく)

氣弱者、婦人見るべからず
「怪物團」を簡單に評すると右の如くであるが、こゝに一つ問題がある。
「怪物團」全篇全部不健全か否かという一事である。
 答へて曰く然らずである。かくの如き不健全さにも不拘、此の「不健全」といふテーマに常について離れぬ戀愛が存外健全なのだ。實にピューアなのである。戀愛のテーマは屡々現れハンスとフリエダの純潔な戀愛、その協和音としてフォロソ、ヴィナス、それからクレオパトラ、ハーキュルス、シャムの双生兒とその戀人等の戀愛!
 あの氣味惡さに壓倒された人々は僅かにこゝにオアシスを發見して救はれた氣になるだらう。
 けれど――然り、けれどだ、僕はあれほど不健全に進んで行くならこゝでも一層その手を用ひてもらひたかったのである。(これは映畫の興行價値に全く知識のない門外漢として云ふのだ。)つまり僕はこの健全な所がこの映畫の缺點だと云ひたい。この映畫は變態映畫だ、しかし決して變態性慾的映畫ではないと僕は思ふ。(但しフロイド式學説でいへばさうかも知れないが)
 倭人が如何にしてあの妖婉なるクレオパトラを不具にしたか。どんな惨虐が行はれたか。この肝腎な――或る意味に於いてはこゝが一番眼目である――具體的な事實をこの映畫は示してくれない。ただその結果を示してゐるにすぎない。この點が僕にはものたりないのである。(作者が何故そこを削ったかは僕の知る所ではない)
 俳優について素人評を云はせれば、それぞれ相當によくやってゐる。クレオパトラになるオルガ・バクラノバは、かつて僕は何とかいふ映画で見たことがあるやうに思ふがその記憶が誤りなしとすれば、妖婉さが大分瞹(※?)へたけれどもしかもなほ毒婦役を相當にやる。ヴィナスになるリーラ・ハイアリスはたゞ美しいのがいゝ。驚くべきは不具者連の藝のうまいことである。殊に、ハンスになる役者は立派なものだ。
 寫眞は何と云ってもサウンドであるから効果的である。さっき一寸述べた嵐のやかましさの缺點を除けば、サウンドは十分に効果をあげてゐるやうに思ふ。
 終りに、再びくり返すが、「怪物團」映畫を貫くテーマは「不健全さ」である。しかしその中に漂ふエロティークは決して不健全ではない。これは事實だ。この事實をどう買ふかは觀衆の自由である。
 序に一言する。氣の弱い人や婦人――殊に病氣上りの婦人や妊娠中の方々はこの映畫を御覧にならぬ方がいゝと思ふ。これはメロトの方々に叱られるかも知れないが、まじめに申し上げる。だから僕も、子供には勿論妻にも――但し妊娠してはゐないけれど――斷じて見せぬつもりである。

注)つぶれた文字を推測で記したところがあります。
注)俳優名の一般的表記はオルガ・バクラノバ→オルガ・バクラノヴァ、リーラ・ハイアリス→レイラ・ハイアムズのようです。


「徹底的合理化」
「演藝画報」 1931.12. (昭和6年12月号) より

 歌舞伎劇の興行が危機に面したといふやうな事は大問題だから、我々局外者には難かしいが、たまたま自分も今度三津五郎家の財政整理に關係をもって、始めて内情を知って見ると、如何にも所謂歌舞伎王國の内部が餘りにも現代離れのしてゐる時代錯誤に驚ろくと同時に、これを先づ合理化する事によって、多少とも經濟的危急から救ふ事が出來、興行の成績も今より良くなるだらうと思った次第である。 成程歌舞伎劇なるものは現代とは可なり空氣の違ったものとなって來て、一部にはその滅亡をさへ唱へられてゐる状態には違ひないが、自分に云はせると、歌舞伎の俳優生活そのものの方が、遥かにそれ以上現代離れがしてゐると思ふ。
 自分は武士の家に生れた爲め、幼時から可なり嚴格な教育を受けたが、當時は武士の子弟など物の價段等金錢に關した事を口にすると、賎しい云って烈しく叱られたものであるが、然るに今日自分の子が、學習院初等科へ行ってゐるその授業振りを見ると、林檎一つが幾らとか教師の質問に對し答へ得る生徒も少なくないのである。學習院といへば兎に角貴族階級の子弟が行く學校であるが、そこですぐさういふ實際的教育をして誰も怪しまないやうになった。 勿論、我々もその方が大賛成で、これが即ち時代なのであるが、而も歌舞伎俳優となると名門の人々は大てい自分で自分の給金が幾らなのだか知らない者の方が多いのだから驚く。否、知らうともしないし又考へもしないらしい。働らいてゐる人間が自分の収入のどの位なるかを知らぬなどといふ、左様なナンセンスが他の社會に有り得るだらうか? 尤も俳優の給金なるものは昔がら秘密主義を執り、他人には絶對に知らさぬ方針を續けて來たのださうだが、本人さへ知らぬとは馬鹿々々し過ぎよう。 而してその給金ほ興行主がら本人へ直接に渡るのではなく、代理人の手を經て俳優の家庭へ取次ぐといふ制度甚だ曖昧な受渡しなのであるから、その間に若しも假りに不正等があったとしても、寧ろある方が當然だとさへ思はれる程である。
 左様な次第で、實のところ今日、自分の給金が何程であるかを明確に知ってゐる俳優が何人あるかと云ひ度い位、尤も全部が全部さうではなく、中には目ざめた俳優もゐるが、そういふのは多く妻君が確かりして内助の功を盡し、破綻を見せぬ向もある。然らざるものは皆經濟的の破滅を來して、理由なき借財をふやしつゝあること、敢て今回の大和屋のみとはいはぬ。借金のない俳優はなからうといふ位だ。 而も滑稽なのは、その人々が債務の額も知らなければ債權者の名も顏も知らぬといふのが多い。そして相變らず派手な生活を營み、借金だらけで擔保に入ってゐても、自家用の自動車に納まって樂屋入りをするところ、これが本當の火の車だが、本人は無感覺なのだから恬然としてゐる。まさにこれ歌舞伎劇以上の奇觀であらう。
 興行主と俳優との間に立って給金の授受をする仲介者に、不正があるかないか、それ迄は言及も出來ないが、萬一にも假りに、そこに不正が行はれるとして先づ千圓なら千圓が本人の手へ渡る迄に五百圓になるものと價定し、その俳優はその五百圓で滿足出來てゐるのなら、興行主と本人と直接取引に改めれば五百圓で事が濟む譯だから理由なく消えた五百圓はそこに浮く勘定である。 俳優一人について半額づゝと行かぬ迄も、何割づゝかが節約出來るとしたら總體では莫大なものであらう。さうなれば今日高いといふ與論のある入場料も、グッと低減出來る。五郎劇や新派の入りは廉いのも一つの原因だらうから、歌舞伎劇も廉くなったら成績が良くなりはしないかといふ素人考へだが如何なものか。
 而してこの合理化を行ふには二つの方法があると思ふ。一つは徹底的な荒治療で、即ち今回の守田家事件に於けるが如く、第三者から合法的手段に訴へて、把羅揚抉(※ママ)の強制に出で、寄生虫退治をやる方法である。これなら清々として、いゝとは思ふが、因襲の久しきに亙る芝居國へ、急にそんなショックを起すといふ事も穏かでないし、怪我人を出すのも好ましくないから、先づこれは最後の手段として、一番いゝのは俳優が本當に目覺め興行主も自覺して、前述の如き直接取引を行ひ、介在する寄生虫を自然消滅の餘儀なき運命に陥らせる事である。 斯くて次第々々に弊習も一掃される事であらうし、劇場の觀覧料も低下が出來れば、理想に近づく結果ともなると思ふが、要するにこれは興行主なり俳優各自の、徹底的自覺に待つの外はないのである。

注)原文は改行が一切ない為に多少改行を追加しています。
注)明かな誤字脱字は修正しています。


まさに尖端を行く銀座人種の携帶品(一)
マッチなんざあおよそ野暮の骨頂
「現代はライター時代」(談話)
「やまと新聞」 1930.04.07 (昭和5年4月7日) より

 銀座通りの雜踏を肩で風を切って、仕立ておろしのしゃれた洋服にスネイクウッドのステッキを打振りながら
春の宵を我物顏に、颯爽として歩いて行くモダンボーイが、銀のケースから一本のシガレットをつまみ出す。その時に、尾張町の角で貰った、バア何々と、宣傳マッチで、灯をつけるとしたら、これ位矛盾した光景はないと思うね。よろしく其場合は、現代流行の尖端にある「ライター」を使用すべきである。所がこのライターといふ奴、可成り
専門的の知識を必要とするので、パチンパチンパチンといくらやっても、約束通り灯がついてくれない。えゝ、ぢれったいと思う時、そばから「君、マッチは此處にあるよ」なんぞといはれる時の間の惡さったらないが、つまりこのみぢめな光景も、もとをたゞせば「ライター」そのものに就いての知識の
不足に原因して居るのである。實際僕なんぞ、毎日のやうに、銀座に於いて、このあわれな場面を拝見するのである「ライター」といへよう。今更いうまでもなからうが、つまり自然發火器或は萬年マッチとでもいふか、その流行は實にすさまじい限りだが、勿論、品物もぴんからきりまであって
安いのは一品一圓位から高いのになると六百圓、八百圓なんぞといふ恐ろしいのがある。

近ごろ巾を利かす米國もの
ピストル型モダンライター
 抑もこのライターには、二種類あって、一モーションで點火するのと、おもむろに二モーションの後に點火するのとがある。第一に属するものでは、HK印のドイツライター・ソーレンス、コリブリ・ダグラス、ロンスン、フランスのユニヴェルサル、それから近頃巾を利かして居るアメリカものゝピストル型ライター。第二に
属するものでは、ダンヒル・パーカー、ビーコン・ナスコカスコその他ドイツ製の安物が、ダンヒル型の眞似物で、其他に時計の入ったエテルナ社のライター或はモンロー等がこれに属する。一モーションで割に無事に行くのは、ソーレンスで、これはボタンを押すと、シャッポがはずれるとたんに、パッと來るやつだが、値段も安く二圓位だから
格好である。H・Wといふドイツの代物、これは一圓だが、ソーレンスと同じ式で、フリントを取りかへるのが、割合に便利だ。(談)

注)本編は別段組みで掲載されており、末尾に(談)とあるのはライター説明部分のみだが全編が談話と推測していますが、原稿と談話の組み合わせかもしれません。
注)本編は「ライター漫談」漫談 1930.04.(「新青年趣味」9号再録)を部分的に語ったようでもあります。
注)行頭太字は実際には大活字になっています。


わが家の珍宝
「時價三千圓の珍時計」
「新青年」 1933.04. (昭和8年4月号) より

 人を訪問する時、人と打合せて會ふ時等、僕は比較的時間が正確なつもりなので、勢自分にも正確な時計が必要だ。のみならず時計その物に趣味がある。之をきいてさる人が昨夏寄贈されたのがこの珍品。ウオルサム會社のプレミヤマキシマスといふ時計。グリニチはじめ諸國の天文臺の證明書がついてゐる。目下の所丁度三十日に一分進む、即ち一日に二秒進む氣味があるがそのまゝにしてある。まづ僕が今一番大切にしてゐる品物である。(寫眞の時計に秒針なきやうに見ゆるは、撮影に十秒ほど要せし故なり。)

注)「わが家の珍宝」ということでの写真とコメントによる小特集。
注)他には「よだれかけ」(文献)江戸川乱歩、「万年筆」直木三十五、「お茶碗」大下宇陀児、「私が二人」(人形)平山蘆江、「三本足の蝦蟇」甲賀三郎、「「青バス」縁起」(手紙)辰野九紫、「足利尊氏」(木像)徳川夢声、「シルビア・シドネイの毛と自動車番号札」松井翠声、「はてね?」(団扇?)松野一夫、「家宝のナイフ」横溝正史、「ガーゴイル箒神」海野十三、「思案橋の暴徒事件」(画)田中早苗、「福の神」森下雨村。


「麻雀戰術雜感」
「週刊朝日」 1930.10.01 (昭和5年10月1日号) より

 麻雀競技の理論に就ては、絶對的の理論はあり得ない。もし、絶對的な理論が有り得るとすれば「絶對的理論なし」といふことは夫自體だらう。
 だから僕は具體的な問題を避けて、極く抽象的な事についての感想を述べて見たいと思ふ。

一、配牌についての觀察及び方針の變更
 麻雀をしてゐる人の後から見てゐると、自摸(ツモ)する度に考へてぐづぐづしてゐる人が可なり多い。かういふ人は何でもかでも出たとこ勝負をやる人で、少しも自分の手についてさきを見てゐないのだ。これでは困る。十三枚の牌をずらりと並べたなら、素早く、この手はどういふ風な和(あが)りに進むべきか、といふことを一應觀察しなければならない。こゝでともかく方針を立てるのだ。さうしておけぼさういちいち休むに似た考へをしないですむ。さうして、場合によっては、途中で主義をすばやく變じなければならない。
 たとへは、十三枚の中に塔子こと順子がかなり來てゐて、自摸がなければ、門前清平和の手であると一應きめる。こんな時には發だの中だのは、惜みなく捨てることにする。ところが捨てやうと思ってゐると發をもう一個つかむことがある。この場合、あくまでもはじめの方針に從って發を二枚切るのもなるほど一つの考へにはちがひないが、之は通常の場合はいけないことだと思ふ。 かういふ場合には仕方がないから發が出たら無論ポンをして、二十四の一翻四十八の和りを心がける。もし不幸にして發が出ない場合には他の對子をポンして二十四でも何でも和ることにすべきであらう。
 方針變更の他の重要な場合は上家下家に對する關係である。はじめのやうな手が來てゐて、自分の手としては兩面の二五万を得て、しまひに二五八索の三門張の聴牌(テンパイ)をするつもりである。その爲には、篏張(カンチャン)待ちの筒子を崩すといふ場合がある。一般的理論としてはそれでよろしいが、下家が筒子一色を心がけてゐるやうに見える時は、場合によりては不利な聴牌の仕方をしなければならない。 即ち篏六筒を待つ七五筒などといふところは捨てられないから、他の兩面の方をくづして行く。上家が一から或る種の牌を捨てゝ來ない時は、自摸する自信のない限り、その種の牌をくづす事も必要だらう。
 麻雀競技者にして、しばしばこの上下に對する觀察を怠り、おもはぬ愚手を弄することがあるから注意を要する。
 麻雀の教科書には多くの場合、自分の手のことだけしか記してない。それでその教科書によって理論をおぼえた人が、それに囚はれすぎると臨機應變の術を施し得ぬやうになる。これは教科書の罪ではない。教科書には一應の理論しか書けないのだ。おぼえていろいろに考へることが競技者の腕である。

二、絶對的和了主義
 麻雀は花札と違って和了者には絶對に支出はない。從って和れる時にはどんな事があっても和るべきだと僕は考へる。
 平和の聴牌をしてゐると案外自摸してしまった。二十二ではつまらないといってそれを捨てるといふ人があるが、之は馬鹿氣た話だ。二十二で和れた時に和らないで捨てゝ、うまくいかないで、他家に一翻で和られたと假定すると、さし引きいくらの損害になるか。ことに自分が莊家である場合の如き、甚だしき損をしなければならぬ。だから和了出來る時には絶對に和ることにするのが大切である。
 和る時和らぬといふことは他面から見ると人を馬鹿にしたやり方なのだ。相手を甘く見てゐる話なのだ。敵三人を強敵なりと尊敬してゐたら、こんな人を食ったことがやれるものではない。
 和れる時に和らなかったゝめに滿貫を食ったなどといふ話はよく聞くことである。尤も僕はこの主義を絶對に守ってゐるために、滿貫を逃したことが二回ある。
 いづれも四暗刻の場合だったが形式としては三暗刻對々の聴牌で兩ポンで待ってゐた。即ちその對子のどっちか一つを自摸すれば滿貫、人の捨てた牌で和れば三暗刻對々にすぎない。
 ところが、皮肉にもこの二回とも上家が放銃して來た。僕は主義通り和了した。(しかるに二回が二回とも、次の僕の自摸牌を見たら滿貫の和了牌だったのである。)
 戰ひはじめの方なら、まさか僕でもかくまで主義を固執しないのだが、大體、四暗刻が聴牌するころは、大抵誰かゞやはり聴牌してゐるから和了したのである。
 この二度の經驗を得てゐるにもかゝはらず僕は依然として和了出來る時には和了すべしといひたい。だから僕のレコードでは滿貫の中四暗刻は僅か二回しかない。いづれも、三暗刻對々の和了牌を誰も打ってくれなかったのでやむなく自摸した形なのである。
 滿貫を逃がして三暗刻對々で和るのはたしかに損には違ひない。然し、他家に和られる事を思へばその差いくばくぞやである。
 この絶對和了主義は、負けこんで來た時にはますます必要である。
 初心のうちは東南でひどく負けると、一擧にしてその負けをとりかへさうとして、必ず一翻又は兩翻で和らうとするものである。これは、麻雀に限らず、かういふ勝負事についてまはる心理である。
 しかしこれは禁句だ。負けが多くなればなるほど、何でも和らなければいけない。「今日は俺は不運だ」とあきらめて、ともかくマイナスを少くする事だ。さうして場合によってはプラスにまはり得るのだ。
 南の終りに千符負けてゐたとしても、西と北で、四回づゝ連莊をやって見るとたちまち取返すものである。だから、決して負けてゐるからといって、無理をしないことだ。

三、ガメクリに就いて
 絶對和了主義といったってこれは必ずしも小和り主義、またガメクリ主義をいふわけではない。その證據には僕自身のレコードを見てもずゐ分清一色なんかゞたくさんある。
 要は、ガメクリをやるチャンスの問題である。ガメクリ方がよいか小和りに和る方がよいか、といふことをいふ人があるがこれは、一言ではいへない。平凡なやうだが「ガメクルべき時は、ガメクルべし、然らざる時は無理をするな」といふより他仕方があるまい。
 たゞガメクリについて大切な注意をあげると次のやうになる。
  (イ)他家の形勢に特に注意すべし
 これは何もガメクリの場合に限らないのだがガメル時にはことに必要だ。自分には將來滿貫の手になるべき手が來てゐたところで、誰かすばやく聴牌してしまひ、他の一人も非常に早い手をもってゐるらしい時には、ガメクリはやめなければならない。但し、これは高等戰術になるが、それらの人の和了が、自分の一色牌らしい時は却ってガメクった方がいい時もある。 即ち自分が万子の清一色を企ててゐる時、對面と上家が聴牌または聴牌に近い時その和了が万子であると見た時は、あくまで万子の清一色をやるべきだ。この際は、他家の和了を防ぎつゝ進むのだから甚だしく愉快である。けれども、こんな特殊の場合は別として、大體において、他家が早い手の時にいたづらにガメってゐるといふことは馬鹿げたことだと思ふ。
  (ロ)清一色を作る時の注意
 清一色をガメルために一應他の數牌をすてゝ翻牌を殘して行く人があるが、とんでもない話である。清一色を企てる時でも、何でも翻牌は適黨な時に打たなければいけない。さうしてもしそれが不幸にしてつゞいて命中した時には、さきにいったやうに直に方針變更の擧に出なければならぬ。
 たとへば、數牌が八枚來てゐてあと、風と翻牌が孤立してゐたとしよう。中を捨てたら莊家にポンをされた、發を打ったら南家がポン、西を打ったら西々の西家がポンをしたといふやうな際に、なほ且つ悠々として索子の清一色をやってゐるべきではない。
 西々から出た一万でも吃(チイ)して、あとは全部索子でも聴牌すべきであらう。
 配牌の時ずらりと見ると、万子が九枚もある。しめたといふので、他人の手なんか見るひまもなく腕をとゞろかせて筒子を二つ切ったら二度とも下家に吃された。も一つといふので、筒子をすてたら、南無三、下家に見事に筒子清一色を作られた、なんていふ話がよくある。
 自分に万子がたくさん來てゐる時には、他家に他の種類の牌がたくさんはいってゐる事がよくある。これは理論的にも説明出來るだらうがともかくさういふ事がある。こんな時には、他家の手に特に注意し、餘り危險を感ずる時には、やはり方針變更といかなければなるまい。
  (ハ)下家を時に抑へよ
 一體下家を抑へることは麻雀技においては大變大切なことだが、自分がガメクル時には特に大切である。假令、滿貫の途上にあった所で、他家に早くも聴牌されては何にもならないわけだ。ところで、直接抑へることの出來るのは何といっても下家であるから、自分がガメらうとするときは特に下家の手に注意し、むやみと吃をさせぬやうにする。たとへば、三だの七などといふ所は出來るだけ握ってゐて、下家が思ひ切って九か二を捨てゝから初めてこちらが打つやうにすべきだらう。
 僕はこゝでもう一度絶對和了主義を強調したい。即ち、ガメクル側からいへば他家の聴牌を出來るだけ防がなければならぬ。といふことは逆の側からいへば、何が何でも早く聴牌して和了しなければならないといふことになる。だからこの際の和了はたとへ二十二でも、實はその裏に清一色、又は滿貫を防いだといふ大功を建てゝゐるのだ。
 二十二の和了を馬鹿にするのは、その裏を考へない人のいふことである。
 丁度戰爭でいへば、敵國の都まで占領しないうちに戰ひを終るのはつまらないといふやうなものである。敵の國境に一歩でも踏込んで戰ひを完了することは、裏からいへば、自國に一歩も敵を入れなかったといふ功績、更にひいては自國を危險に陥れなかったといふことになるのだ。
 日露戰爭の時、我軍が露府を陥れなかったからといってあの戰爭が無意味だったとは誰もいふまい。我軍が滿洲に攻め入らなければ我國は危かったといふ事を考へて見たい。

四、下家に吃をさせる場合
 さきにも述べた通り、下家を抑へることは常に必要なのだが、抑へてはいけない場合があり得る。
 たとへば東風戰の時、莊家が東をポンして、しかも自摸がよささうな場合、南家が白發中を一個づゝもち、しかして容易に和了出來さうもない手をもってゐらやうな時には南家は出來るだけ下の西家に吃をさせてやらなければならない。
 南家としては無論和了したいが、それがためには生牌(ションパイ)の翻牌を三種も打たねばならない、これは無茶である。王牌まで行かれゝばいいがそれはとても出來さうもないやうな時には仕方がないから北家が西家をやすく和了させてしまはなければなるまい。
 この際になほかつ定跡通りに、邊張等を抑へて下家を困らせるのは愚である。早く他の二人を二十二か平和位で和了させるがよいのだ。
 こんな大役の時でなくても、連莊が四回もあった時は、和了出來ないものは犠牲になって早く莊家以外のものを和らせなければいけない。
 一體連莊の盛な時は定跡としては北家は犠牲になって、下家即ち莊家を抑へ、ポンも我慢すべきである。

五、放銃恥づべきか
 必ずしも然らず、と僕はいひたい。
 誰か大役をつけてゐる時、やすい人を打上げることはむしろ功績だらうが、僕のいふのはさういふ意味ではない。放銃者の責任を常に惡しとする勿れ、といひたいのだ。
 たとへば今ある人が不注意にも下家に邊三索を吃させつゞいて篏八万を食はせ、九筒をポンさせてしまって、聴牌した人から白板が出て來た時などは、一體何で和了するか一寸手の中が判らない。この時、その下家が、一索を捨てゝその人に和了された時、その和了の責任にはたして放銃した人ばかりに負はせていゝだらうか。
 無論、規則として放銃者に或る責任をおはせてしまふことにするなら公平だからかまはないが、その規則の立法の精神に、もしこんな場合にも放銃者ばかりが惡いのだといはれるなら異議がある。
 こんな場合は、放銃者より聴牌させた方がわるいのだともいへる。但し九筒のポンが必ずしもわるいとはいへない。さうするとそれより先に邊三索や嵌八万などを吃させたのがよくないといふ事になるだらう。
 ともあれ、僕はこんな時、放銃しても恥だとは考へない。

六、門前清を何故に重んずるか
 門前清を尊ぶ癖が一般についてゐて、中には吃して一歩も早く聴牌すべきにかゝはらずなほかつ門前清で行かうとする人が大分ある。
 食ふのは品がわるい、吃は恥べぎだといふ。何故に然るか。はっきり判ってゐるのだらうか。
 門前清の有利なる説明としては一般に、自摸牌の手中にあるものとの連絡の蓋然性がとなへられてゐる。僕も無論賛成だ。しかし門前清には他にも一つ重大な意義があるのだ。
 即ち相手を牽制する策として用ひられる。
 例をあげて説明しよう。
 今南風戰の場合、南家が索子を吃し、筒子をポンし更に万子をさらして聴牌の形勢をしめした。この時、莊家が生牌の南を捨てればやはり聴牌になるといふ時、彼はその南をおさへるだらうか。
 もし南家が連風牌をかくしてゐたところで兩翻の手である。他の發中牌が一つ位づゝしか出てゐないでも、莊家は兩翻の役を食ふ覺悟さへすれば勿論南すてゝ自己の手を崩すまい。
 ところが、かりに南家が門前清で進んで行く。まだ聴牌しないでも、莊家が南を掴めば、一寸これはすてられない。他の翻牌が出てゐない時は、莊家は無論のこと、他家の方でも南を握ったが最後、うっかり打てない。もし、中白發の一組でも暗刻にしてもってをり、しかも南々で和了されては大變だ。だから心あるものなら、必ず南を抑へて、聴牌を崩してしまふに違ひない。
 さうすれば、結局聴牌出來るのは門前清の南家だけになる。
 こんな意味で、「手の中を見せない」といふことは他を牽制する上に大變に有効なのである。これは、南々の場合の一例にすぎないがこの門前清の利用は一般の場合に應用出來ると思ふ。

七、相手の力量を早く察知せよ
 牌をいぢってゐて十分か十五分もたてば大抵相手の技量が判って來る。僕は出來るだけ相手の技量を知るべしといひたい。
 早い話が、二、四、六万と持ってゐて、二万を捨てゝ聴牌したとする。この時、他の人たちが相黨力があるか、教科書をよんでゐる人なら、はっきり印象に殘るやうに二万を打つと、二五八の原則で、却って五万が早く出て來るものだ。ところが、まるで人の手に注意してゐない相手にかゝってはこのひっかけは通じないのである。
 他の例をあげて見よう。
 今、紅中の暗刻、白板の對子發財一張をもってゐる時、中が飛び出して來ても、槓をせず、白が出で來た時はじめてポンをするのが、原則である。いふまでもなく、中と發をさらせば、發が包牌になるからだ。出かたが逆の場合もさうである。白板が出たらポンをする、次に中の出た時はすましてゐるのだ。
 ところがこれの逆を行った方がいゝ場合がある。相手の力量が相當ある時に限るが。白板をポンする。紅中が出たらわざと槓をするのだ。さうすれば發は無論包となる。
 ところで原則をもって、發をといてある時、中を槓する手はないのだから、相手は、「さては發はないな」と考へて包牌の發を却って敢然として打って來る事がある。
 これも相手によるので何も考へない人に會ってはこの手は應用出來ない。
 同じやうなことが清一色の時に行はれる。
 索子二副露で全部索子で聴牌したが、相手がいづれも相當なもので警戒して索子を打ってくれないといふ場合。手に九索の暗刻をもってゐる時、誰か九索は大丈夫といって打ったとする。この際通常ならば三副露にする手はないのだが、どうしても索子が出て來ない時はわざと之を槓する。九索を自摸して來ても捨てずにわざと槓する。
 さうすれば索子ほ包となる。
 こんな時九索を槓して包にするのは、初心者のやる事だから、手の中には、索子以外のものがあるなと他が考へて、却って索子を打ってくれるものだ。これら反面苦肉の策も、相手が相當のものであってこそはじめてひっかゝって來るので、相手が初心者では何にもならない。
 次には相手の癖を早くおぼえることだ。
 誰でもくせはあるもので、たとへば八九とあるのを崩す時、九から切るか、八から切るかこんな時によく癖が出る。これを早くのみ込んでおいて、九が出たら次に八を期待するのだ。
 だから逆にいへば、かういふくせをつけておくと、人に手をよまれるからいけないことになる。
 ある時は九から、ある時は八から、といふやうにして行かねばならない。
 何事でもさうだが、要するに相手をはやく知ることである。
 たゞこゝに一ツ問題がある。
 相手の一人、または二人が全くの初心者で惡牌をさかんに打つ。おそい生牌の東々でも何でも打つ。一言でいへば包にならない限り、何でもすてる、といふやうな場に出會した時こちらはどうしたらよいか、といふことだ。
 こっちが定跡通り押へてゐても、その手合が押へないんだから、結局押へてゐるものが損をする。だからこんな時はこちらも亂手を打った方が勝つことが多い。
 しかしそれでよいだらうか。
 有段者又は高段者が、この亂戰に應じるのはよくないと思ふ。
 僕自身としては、さういふ人々に一應注意する。これは勝負が終ってからの方がよい。途中でやると、勝負の氣分をわるくする。
 さうして、注意してもなほ且つさういふ事をやめない人とは、仕方がないから、將來手合せをしない事にするより外あるまい。

八、理牌の利害
 理牌しないでも出來るやうにするのは必要だ。然しいつも理解しないでやる必要はないと思ふ。徒に精力を一方に使ふことになるからだ。
 たゞたった一つ理牌しない方がいゝ場合がある。それは相手が非常に上手な時で、理牌しておくと、そのすて方によりて手の中を見すかされる危險がある。こんな時はしない方がいゝ。たゞ理牌しないで和了したものは必ず、手をさらす時、一應理牌して見せなければいけないと思ふ。
 これは、規則にはないけれども、徳義としてはかくあるべきであると考へる。
 僕はこれは規則にしておいてもいゝと思ふのだが。
 それから一寸雀品といふことについて。雀品といふことを、妙に考へてゐる人が多い。たとへばいきなり他家の門風を打ってはわるいと考へ、一應ひかへて出す時は「失禮」といってゐる。これはまことにをかしい。
 一旦戰ひが開かれてゐる以上、相手の勢力をそぐ度に謝る必要がどこにあるだらう。
 一番わからないのは、かういふ人が和了した時「失禮」といはないことだ。他人の門風を打つのが失禮なら、和了して他人にめいわくをかけることの方が一番失禮なんである。麻雀として、和了するのが失禮なら、はじめからしない方がよい。
 劍道でも、柔道でも他のスポーツでも、いやしくも戰ひがはじまった以上、全力をつくして敵を負かすことに努むべきである。
 たゞ一ツ、常にフェーアに、卑怯な手を用ひない、といふ事さへ考へてゐればいゝのだ。麻雀に於て、他人の風をすてることも、自分が和了することも、決してファウルではないのである。
 なほ述べたい事はあるが今回はこれまでとする。
――一九三〇・八・一五――


注)ルールはアリアリだろうか。間違いと思われるところもありますが修正していません。
注)専門用語はほとんど読みは入れていません。
注)明かな誤字脱字は修正していますが漢字や仮名の不統一は修正していません。句読点は追加したところがあります。


「麻雀漫談」
「文藝春秋」 1931.01. (昭和6年1月号) より

 僕は飲酒に就いて全然無能力者なので、酒に醉ふといふ樂しさを知らない、勝負事にもどうも醉ふことが出來ない。酒に醉ふ人勝負事に醉える人はいつも僕を羨しがらせる。勝負事の方は必しも無能力ではないが矢張り醉えない。
 傍觀者の立場に居ると我を忘れる事がある。今でも角力(すもう)は僕を可なり夢中にさせてくれる。子供の頃、常陸山が梅ケ谷に敗(やぶ)れたのを見て泣き、兩國が梅ケ谷を仆(たお)した時おどり上った氣持ち、高等學校時分に栃木山が太刀山を仆した時ほんとに躍り上った氣持ちは今でもある。久し振で今年の夏角力を見て、武藏山が土俵に上ると、どうも氣がもめて心配でならなかった。僕は二日彼を見てファンになってしまった。
 麻雀をやっても夢中になれない。その癖、ずゐ分好なんだしやる以上必ず勝たうと努力する。その證據に僕の打方にはどうもロマンシングがない。極度にリヤリズムになる。
 しかし牌を闘はして居る間、始終、自分の外に第二の自分が居て、勝負事なんかに時を費してゐる自分を冷笑してゐるやうな氣がしてならない。
 だから、忘れられぬ程うれしがったりくやしがった事はまあないと云っていゝ。たった一度嬉しかった事がある。それは滿貫の連莊をした時だった。あんな手のつく事は一生に二度とはなさゝうに思ふ。
 僕が起莊でいきなり東と中をポンし、白を麻雀頭にして万字混一色で和了し、千符づゝ三人からとった。すると直ぐ次に發を暗刻にもつ索字混一色、三暗刻、對々和でまた滿貫となり、相手三人のチューマ(※点棒)をすっかり空にした事がある。
 それも相手が名もなき武者では大して喜ばなかったかも知れぬがいづれも之が、名のある人々。麻雀で――而も四圏(スーチョワン※四場一荘)で敗れる事は別に技の問題でもなく、從って名誉に關しないと思はれるからその時の相手の名を記すと、僕の釋門(トイメン※対面)が池谷信三郎氏、下家が菊池寛氏、上家が古川緑波だった。(古川緑波は僕の弟なので彼を名ある人にする事はい聊か氣がさすけれど、この際彼にも名士の一人になって貰はないと僕の滿貫連莊が引立たないから、名ある弟にする)
 くやしくてたまらなかった事は麻雀では一回もない。之は無論勝ってばかり居るわけではなく、負けても何とも思はないのだ。まあ麻雀の敗戰について不感症なのだらう。一つには麻雀では勝っても敗れても技量の問題とは考へられないからだらうと思ふ。
 僕はさきにも云ったやうに普通の局面でも可なり理屈っぽく打つ性質だが、ほんとの論理的に打たねばならぬ、ときめられると、もう麻雀は遊び事でなく勞働になる。いつだったか、菊池寛、林茂光、前島吾良の諸氏とやって牌譜をとられた事があったがあんなのは全く苦痛だ。はじめから終ひまで、一ツのノンセンス味なくテオレディッシュ(※理論的?)にやってちゃたまらない。時々妙な手を出したがる所が、まあリヤリストの僕のせめてものロマンシングだと思ってゐる。
 僕は方々の麻雀倶樂部や、よその家で餘り打たぬので麻雀の珍談を少しももってゐない。この秋前橋の裁判所に用があって、人につれられて同地へ行ったら思ひもよらずそこの麻雀黨に歡待され、一夕席を設けられて或料理屋の二階で僕も四圏打った。
 そのとき白板を暗槓にしてさらし、「サイドサイド」といひながら、槓牌をめくってゐると、僕を同地へつれて行った人(この人は全く麻雀を知らないのだがそこで義理に見てゐたのだ)が何かあはてゝ下へ下りて行ったが、やがて
「これはどうもおくれまして……」
 と恐縮しながら上って來て僕に云ふからふと横を見ると、そこにはサイダーがコップについであった。
――一九三〇・一二・二――


注)句読点を追加削除したところがあります。
注)麻雀(マージャン)用語は該当漢字がなく、ルビの表示にしているところがあります。


卓上天國「痛快な勝負」
「新青年」 1931.05. (昭和6年5月号) より

 これはかつて他誌にも述べた事ですが、僕は勝負事は好きですけれ共、どうも我を忘れて夢中になる事が出來ないのです。麻雀も非常に好きでありながらやって居てひどく興奮する場合がないのです。やって居ながらいつも第二の自分が傍に居て、勝負事なんかに時を費してゐる一つの自分を冷笑してゐるやうな氣がします。 從ってよそから見たらどうか判りませぬが、麻雀をやって勝って非常に嬉しがったり、敗けて非常にくさったりはしないつもりです。(無論之がいゝ事とは思ってゐませんが)まあ甲賀さんの云ひ方に從へば、僕は麻雀は興味中心主義者で(例之、國士無双なんかあっていゝと思ふ方ですから)ほんとうの闘士の資格はないやうです。
 だから麻雀で忘れられぬ程嬉しかったり愉快だったり特にいふ程の事もありません。やって居る相手が氣持ちのよい人たちだと勝敗如何に不拘愉快です。全然氣の合はぬ人、氣心の判らない人とやるのは餘り愉快ではありません。
 でも僕としてはめったにない事だといふやうな經驗もあります。かつて、滿貫の連莊をしたことがありますが、此の時はたしかに愉快でした。いきなり東々と白板をポンし、紅中を麻雀頭にした万字の混一色で和了、つゞいて發財を暗刻にもつ索字混一色對々和三暗刻で又滿貫、劈頭三人の等馬を全部まき上げた事がありましたが一寸愉快でした。 然し、この時對手三人のくさった表情が僕の神經衰弱的氣持に反射して、後は餘り面白くありませんでした。之が僕自身麻雀闘士の資格がないといふ所以です。麻雀が好きでゐながら餘り自分が當って他がくさるといやだし、と云って自分が大敗するのもいやなんです。それですから、餘り大きな勝負だと僕は面白くありません。少くも皆三桁位だとゆかいなのです。
 甲賀さんと一緒に聯盟本部でやった時は面白い事がありました。二人で對門でしたが、甲賀さんと僕ばかりが當りつゞけ、結局僕が三千いくつ勝ったのに甲賀さんもプラスなのです。マイナスは兩側の人がうけもったので一寸痛快な勝負でした。
 三四年前、東京對大阪の選手の對抗試合がありましたが、その日すんでから僕の家へ大阪の方々をお招きしました。この時の僕の成績はおぼえてゐませんが、大へん愉快に一晩を過した事をおぼえて居ます。神戸から選手が上京された時も、僕の家を訪問されましたが、その夜もたしかに愉快に送り得たと思って居ます。
 ですから、結局、僕の麻雀は社交の道具といふ事になるわけです。
 麻雀をおぼえてからはじめて、大三元だの國士無双なんかゞ出來た時は無論ゆかいでした。しかし滿貫の中で僕が一番ゆかいなのは四暗刻です。但し僕はたった二回しか作った事はありません。
 勝負でも傍観者の立場にゐると僕は却って夢中になります。
 例之、この一月に、武藏山と朝潮の取組だけはどうしても見逃す事が出來ず(僕は武さし山のファンですが)やっとなほりかけた流行感冒をおして見物し、再びその夜からひどく發熱、折角なほりかけたかぜをぶりかへらせた愚か振りです。そのかぜのおかげで、新青年へも大變御無沙汰して申譯ありません。

注)句読点を追加削除したところがあります。漢字と仮名の不統一は原文のままです。
注)麻雀(マージャン)用語はカタカナ表示のルビが多々ありますが省略しています。


「夫探偵術」
「モダン日本」 1931.02. (昭和6年2月号) より

「モダン日本」子突如僕に求むるに「夫探偵術」一篇を執筆せむ事を以ってす。意の存する所をきくに「如何にして夫の放蕩を探偵するか」といふ注釋を得たり。 依って僕ひそかに思へらく「如何にして犯罪を捜査するかといふ事は即ち如何にして巧妙に犯罪を行ふかを極むる事なり。如何にして夫の放蕩を探偵するかといふ事は、即ち如何にして女房にかくれて巧みに遊ぶかといふに異らず。斯の如き難問題に對して警告を與ふるは天下のわけしり、斯道の大家、若くは天下の大通を夫に持って年が年中苦勞の斷えぬ奥さん以外に有るべからず。僕の如き野暮人の何ぞ筆をとるの愚擧に出でんや」と。
 然れ共翻って考ふるに「モダン日本」子が僕に執筆を促したる眞意は、かつて僕自ら惴(はか)らず檢察の廰に末席を汚し居たる事あり、今又探偵小説家の驥尾に附して探偵小説と稱するものを折にふれて發表するを以ってならむ。果して然らば僕必ずしも此問題に無縁にもあらす。況んや僕の一文よく天下の放蕩兒の膽を寒からしめ、天下のマダム連をしてヒステリーを起さしめば之亦天下の快事ならずとせず。僕が筆を執る所以斯の如し。
 抑も「夫探偵術」たる、其の目的を究むるに正に二つに分たる。一は即ち夫の非行を知り、有無を云はさぬ證據を掴み以って三行半の結論に達せむとするもの也。毎朝の新聞紙を見れば、煩悶相談欄とやらいふ所に「見込みのない夫」「望の少い男」などといふ題目にて身の鬱憤をあられもなく書き連ねて少しも早く結論に達せんとするマダム天下に多き事を知るに足るべし。 天下のマダム連の目的もし凡て斯の如きにありとせば何ぞ敢て僕が愚論を讀み、まわりくどき探偵術を知るの要あらむや。須(すべから)く黄金若干を携へて私立探偵の許に走り、思ふさま胸の中をぶちまけて半夜蹌跟瞞跚(そうこんまんさく)として妾宅を出づる夫君を尾行せしめ給ふべし。而て得たる證據を悉く書き連ねて代言人を訪ひ萬事を託せらるべし。 そのよく甲第一號證となりて裁判所に現るゝの價値ありや否やに就きては凡て法律家の決するところ、マダム自身のなし給ふべきものならず。依って僕の探偵術はかくの如き深刻なる問題には到底觸れざる也。夫の放蕩をかぎつけ、適當にヒステリーを起し、而て脱線せる夫をもとの軌道に戻し「天晴れ貞女也賢女也」と謳はれむとするマダムにのみ聊か考へを語る所あらんとはするなり。後日某々の雜誌に「如何にして夫の放蕩を私はなほしたか」などといふ題にて懸賞を射當られなば僕の本懐之にすぎずと先づ以て申上ぐ。
 往昔デルフィの神殿に刻せられし文字は「汝自身を知れ」といふ格言なりしと傳へらる。夫探偵術の第一課はまづ「汝の夫を知れ」といふ事なり。即ちつれそふ夫の性格をまづはっきりと掴まざるべからず。性格に次いでは性癖、其の趣味等也。夫探偵術の第一歩實に茲に存す。
 芝居に出て來る裁判官は誰を捕へても同じやうに取調ぶるを常とすれ共、實際賢明なる判事檢事は先づ相手の性格を會得したる後、おもむろに訊問を開始するなり。臨機應變、千變萬化相手の氣心を知って之に巧みに應ずるは正に捜査の要諦たり。今女房が亭主を捜査するも亦同じ事ぞかし。あまい亭主を理攻めにしたり、理屈ばった夫に泣落しを用ひたりしてはおほむね訊問は失敗するものと知り給ふべし。故に曰く「汝の夫を知れ」と。
 元より容貌の異る如く天下の夫たるもの皆各々個性を有するや論なし。然れ共何とか分類の出來るものなり。例之あまいとか冷いとかおしゃべりだとか無口だとか、大體に分ける事は出來るもの也。
 例外はあれども、女房にひどくあまき亭主は大體一般の女性に對しても矢張りあまいものなり。差向ひになっても女房に割にやかましき人は他の女にも割に頑固なるものなり。さればと云うて前者危く後者安全とはもとより云ふべからず、たゞ之を原則として捜査法の中に心得おかれてよろしかるべしと思ふなり。
 苟しくも我が夫女房に甘しと知らば専ら此の點をめがけてすべてを捜査するべし。決して亂暴をせず怒らず、夫を嬉しがらせて巧みに尻ぽを捕へるを便とす。
「ねえあなた、私ほんとに嬉しいわ。だけどあなた他の女にもこんなんでせう?」
「じょ、じょうだんぢゃないよ、馬鹿云っちゃいけない。あんたばかりだよ」
 などと齒の浮くやうな會話ありても亭主の方は無論絶對否認すべければこれ以上ふみ込んで立入るべからず。さりながら、後日だんだんと巧みにもちかけ、機を見てちょいとひっかければ、「むゝ、そりゃ僕だって男だもの、昔はそりゃ一寸はあったさ」などとあまい夫は必ず乗って來るものなり。 又の機會にちょいと訊ねるとその昔がいつの間にかだんだん近頃になって來たりなどし、亭主殿あはてゝ口を押へるに至って、何も云はずに、じッとにらんでやるべし。多少いつもよりは涙腺をゆるめ少し涙を出してにらめば一層効果的なり。右はたゞ夫の性格を知って訊問法を講ずる一例とも見給へかし。
 夫の性格を呑み込みたる以上は何と云っても夫の趣味、習慣、嗜好等について鋭き觀察を下し全部を空んじ居らねばならず。之夫探偵の第二課にして實に捜査の端緒手がかりとなるものなればなり。
 之はアメリカの物語なるがかつてかの地の有名なる探偵、部下に令して曰く「凡そいかなる事にても平生と異りたる事あらば必ず手帳に記して報告せよ」と。例之毎日午前七時に戸をあける八百やが三十分にてもおそく戸を開きたる場合、いつも徒歩で學校に行く教師が馬車を用ひたる場合、いつもすいて居る電車が意味なく混み合ひたる場合凡そ世の中のあらゆる現象にて平生と異りたるものあらば悉く報告せしむる事となしけり。
 然るに、毎朝午前九時に或町の角を必ず曲り來る銀行員が、或る日その時間にあらはれざりきといふ報告をきゝて彼は第六感を鋭く動かしつひにここに一大犯罪を發見するに至りたり。この話は有名にして犯罪史に趣味ある者のあまねく知る所とおぼゆ。
 こは之もとより犯罪發見の話にして而も海を越えたる國の話なれど僕思ふに夫探偵に於いてもこの觀察點は十分大切なり。
 まづ習慣につきて述べんに、毎夕五時に會社を終る夫が、突如夜九時頃に歸ったりとせばこは必ず何か重大なる事おこれるなり。況してや夜おそき日が數日つゞかば如何なる人のよきマダムにても一應首をひねるならむ。
 この場合の如きは誰しも考へつくところなるべけれど、さしたる言動にあらずして平生と異る所出で來らば矢張り一應の警戒は必要ぞかし。極端なる例をあぐれば、平生一向身なりにかまはぬ夫が急に香水をつけはじめたり、あぶらとりを懐中に忍ばせたり、又筆不精なる夫が急に机に向ひて何やらんつゞいて書きはじめ居る時などがその場合なるべし。
 氣がつきさうでつかぬが日常の習慣なり。平生風呂好きの夫が急に風呂に入るのをいやがりはじめたる場合の如き、之を如何に解すべきか、試みに之を問題として天下のマダムの答をつのらば果して幾何(いくばく)の正解を得ん。
 次に注意すべきは夫の趣味嗜好にぞある。洋服ばかり着て居たのが急に和服を好み出したり、スポーツが好きだったのに急に芝居に凝り出したり弓がすきだったのに音學にこり出したりする時は一應考へる必要あらん。ましてやその音學が淺酌低唱に適する三絃音學なるに至りては警戒極度たるべきものとす。賢明なる夫は自ら警戒して中々本音を出さぬものなり。かゝる場合は隙をうかゞって探偵するを便となす。
 例へ夜十二時頃に歸宅したる夫、歸宅のとたんは女房の顏を見て必ず警戒すべければ決して尻ぽを出す筈なし。かゝる際は決してヒステリーをおこすべからず。若かず笑顔を以て之を迎へんには。
 夫といふものは利口のやうで案外ぬけたものなり。女房の笑顔を見ればしすましたりと信じて心の警戒を解く事必定なり。然れども歸り早々女房の前にては清元の調子などは決して口に出す筈なし。よって退いて默ってゐるなり。女房の前では強ひてオペレッタの歌など口づさめども、一人後架に登るに及びて(讀者尾籠なる例をしばらく許し給へ)思はず、親不孝の音をあげるものなり。即ちたった一人になった時口づさむ歌こそ當時の氣分の表れなれ。世のマダムなるもの決してこの時を逃すべからず。
 次に注意したきは食物の嗜好也。一言にして云へばひねったものを好みはじめたる時は心すべし。地道に大學や職業學校を出て、役人や會社員になりたる人が、鮭の頭をブツ切りにして酢につけて食ふ藝當など知ってゐる筈なし。日頃好まぬ酒煙草の類を嗜みはじめたる場合注意すべきは論を待たず。
 はしりの物を骨折って膳にそえたる際、夫の表情に注意すべし。「初ものゝ胡瓜はとうによそで食べ」といふ句あり。よく考へるべし。かゝる時、うちできうりを出された時の表情まで研究しておいて女房をだます程頭を働かしてゐる夫は一寸なきもの也。もし有らばその夫たるやずば抜けてえらき人なり。ゆめヒステリーをおこして見捨てられ給ふ勿れ。
 次は平生の癖なり。人は必ず癖のあるものにて例えネクタイを心もち右にまげて結んだり帶を心もち上の方にしめたりなどするものなり。朝送り出す時必ず夫の服装全部に氣をくばるべし。歸宅の際着物の着方が多少にても異れりとせばそも如何なる結論をか出すべき。己が夫の癖、決して見逃すまじき事にこそ。
 以上、惡く變りたる場合のみをあげたり。世の常のマダムこの邊までは、「そんな事判り切ってるわ」とのたまふべし。さり乍ら、よき變化をも見逃すべからず。
 いつも何も買って來てくれた事のない夫が急に親切に土産物など買ひて歸れる際などは怪しみて然るべし。之をしも怪しと云はば餘りに檢事眼なりと曰ふべけれど、さにあらず。世の夫といふもの遊ぶと雖も心から妻を嫌ってゐるわけでなし。一人留守を守ってゐる女房の事を考へると歸りぎわに一寸センチになる也。こは夜の更けるに比例す。よって一には自己の良心をごまかさんが爲、一には女房のヒステリー面を見るがいやさに、手輕く手土産でごまかすとおぼえたり。
 但しこんな場合は、怪訝の顏はゆめにもせず、「あらいゝわね」と云ってよくなくても何でも土産をもらっておくに限る也。はかるはかるとおもはせて結局こっちがはかってゐるが悧口と申すべし。
 次は夫の言語に注意すべきなり。ふしぎな言葉が出たり、似つかはしからぬしゃれなど云ひたる時は決してきゝのがすべからず。言葉の例は後節に記すべし。
 以上、習慣、趣味、嗜好、癖の變化は特に注意すべきものなり。頭よきマダムならば、これだけにて夫の遊びと、その方向を知り得べし。カフェー、バーか、待合か遊廓か大抵見當はつく筈のものなり。
 數ふれば早や十とせの昔ともなりぬべし。僕未だ學生たりし頃、赤木桁平といふ先生、盛に筆を振って荷風、万太郎、幹彦、諸先生の作品を遊蕩文學と稱し撲滅せんとしたまひし事あり。僕が特にすゝめたきは、マダムがこれらの遊蕩文學を愛讀せられむ事なり。モダーンな事ばかりおぼえ、映畫やスポーツのむづかしい術語をいくらおぼえても決して夫探偵の助けとはならず、反之、前記遊蕩文學は如實に男の遊びを叙したるものなれば一讀直に夫が如何に遊ぶかを知るに足るなり。 まさに之等の先生の作品は、夫探偵術の必携教科書とや申すべし。もし右の諸先生にして當時赤木桁平先生の論に對し「余が作品は天下のマダムをして花柳界の知識を増さしめ、以って夫の遊蕩を防がんために書きたるものなり」と論駁せられたらんには、おそらく桁平先生もさまでは撲滅を叫ばれざりしならむをおもへば惜しき事なりかし。遊蕩小説は一面遊興の教科書也といふ人あれど決して然らず。其の證據には遊びで一番大切な遊興費の出所を決して明してなし。 僕の知る限りに於いて小山内先生の「大川端」荷風先生の「おかめざさ」には稍々表れ居たりしやうにおぼゆれども、他はおほむね遊びのみを叙して支拂方法若くはふみ仆し方法につきて記さず。その經濟方面に筆をそめざる事恰もかの「八笑人」の作者と同じ。肝心の遊興費捻出が書いてなくては教科書といふべからず。故に僕思へらく、皆之、夫探偵術のための書也と。
 夫の放蕩を知らんとするもの、放蕩の状況の多少を知らずして如何でかその目的を遂げ得んや。
 之等の「放蕩探偵必携」を繙くに當りて決して漠然と讀むべからず。單に遊里の事を知らんと欲せば必ずしもこれらの教科書によらず、米八丹次郎の情事小さん金五郎が仇語を繙くも亦可なり。諸先生が著の中に見逃し難きは「夫の心理」が如實に描かれ居る個所なりとす。
 即ち前記諸先生の小説中には一面に遊びの状況を記すと同時に遊ぶ男の氣持が現れ居るなり。殊に夫が妻にかくれて遊ぶ有様手に取るやうに描寫せらる「夫は如何に巧みに遊ぶか」といふ問題に對する解答實に茲にうつされたり。
 荷風、万太郎、幹彦諸先生の他、薫、ク、豐隆、花袋諸先生にも此の種の教科書の著あり。これらを綜合するに、夫のかくれ遊びの憲法凡そ次の如く。
1.如何なる場合にも決して妻君に眞實を云ふべからず。
(註)こはこれ凡そ天下の夫たるものゝ十分に心得べき事にして、「あなた、今日はどっかお樂しみだったのでせう」不用意にもポケットにあった茶やの受取といふのっぴきならぬ證據をつきつけられても絶對に否認せよといふ事なり。どんなに仲のいゝ夫婦でも決して遊んで來た事を云ふべからずと也。その理由は「妻にほんとを云はぬがいゝといふ事は經驗が之を教ふるのだ」といふに存す。之によって是を見れば女房たるものむやみに問ひつめるは意味なしといふ事となる。
2.やむなき時は友達のせいにすべし。
「どうも井上の奴困ったよ。宴會で醉っちまってとうとう家まで送り届けたんでね」
 などと友達のせいにする事なり。
(註)之によって案ずるに、夫おそく歸り來りて友人を理由にする時はむしろ夫の方が主犯者なるを知るべし。
3.自分の女房と惡友の女房とは絶對に近付かしむるべからず。
(註)之(2)より當然出て來る定理也。之によって案ずるに、天下マダムたるものは夫の惡友のマダムと一刻も早く近づく必要あり。
「先日お宅の御主人大へんお醉ひになってお歸りになったんですってね。大變でございましたらう」と遠慮なくやって見るべし。「あら、たくではお宅の御主人がお醉ひになったなんて申して居りましてよ」
 といふ珍問答に終る事必定なり。
4.女房の捜索が烈しくなればなる程かくれて遊ぶのが面白くなるものなり。
(註)之によって案ずるにマダムたるものは自分の捜査振を決して表すべからず。捜査振急なるは夫の遊びをアヂル事になればなり。尚憲法多くあれども自ら教科書を繙いて知らるべし。
 たゞ教科書の効能二三をここに記さんにこれらの教科書には多く隠語だの遊び場獨特の言葉を網羅する。僕がさきの項に述べし夫の言葉の變化といふ點に聊か關連せり。
 藝者をキモノ、女給をメタマヒ、などいふが此の例なり。小千代をショーセンダイ、赤坂をセキハンといふが如し。僕案ずるにかくの如き惡趣味の隠語は決して大通の喜ぶべきところにはあらざるべし。されどともかく流行のもの故心得おくべき也。數年前には言葉の間にアイウエオとかカキクケコといふ字を入る風流行したれど今はすたりしやに聞けり。
 夫惡友と話しながら、
「ありゃ君のキモノかい」
「なにメワザさ」
 などと云ひはじめたらば嫌疑十分なり。
 一體遊びをはじめたる人は之をしてキザな言葉を使ひたがるもの也。それがちょいちょい妻君の前でも洩れるものなれば注意すべし。
 教科書中、荷風先生の高著を以て最も穿ちたるものとなすは誤りか。先生の小説中にたくみに女房をごまかす夫を描けるもの多く見受けらる。
 遊び道の名取り、有段者と稱せらるゝものに至ってはよそで風呂にはいっても家庭以外のシャボンの香のしみる事をおそれて決してシャボンを使はず、頭髪にも決して油をよそにては用ひざるものときけり。
 事茲に至りてはマダムたるもの反間苦肉の計を用ひざるべからず。されどこの計略を描寫するは聊かおそれあれば敢えて曰はず。
 往昔の最高の文獻中「末摘花」一卷をとりて句中女房に關するものを見て知らるべし。
「夕方の歸宅時間もきちんきちんとして一かうおそくもならぬ故、うちの殿御は大丈夫」と、思ひ給へるマダムがある世なれば、げに泰平の御代とやいふべし。
 教科書中に見ずや、遊道に晝遊びの一手あるを。僕の知ってゐるだけでもこの手でマダムを欺してゐる男三四人あり。おそるべしおそるべし。
「うちの亭主は月給がやすいから大丈夫」とこれは又ひどくしけた安心の仕方もあり。世の遊人の凡てが自腹を切って遊んで居るとの御考へなるべし。泰平泰平と申すべし。
 夫探偵術記せば數限りなし。よって大略以上をもって大綱となす。モダーン・マダムは皆女學校を出られしならん。學校にてアナロヂーといふ言葉を學ばれしなるべし、萬事は此のアナロヂーにて進み給へ。僕はたゞ此處に探偵學の總論を説きたるに過ぎず。その各論に至っては各自アナロヂーと實驗によりて研究せらるべし。
 扨此のネタのあがった夫の遊興放蕩を如何にしてやめさせるか、これ天下のマダムの最も知らんとしたまふ所なるべし。然れどもこの研究たるや夫探偵學が範圍以外に属するを以って僕多くを曰はず。
 かつて戀愛を病氣なりと斷ぜられし先生あり。僕思ふに遊興も亦熱病なり。これによって身を亡ぼすもの數あれども、多くは適當の時期をすごせば快癒するものなり。その罹る事早き程豫後よき事情もハシカの如し、中年にして之をおぼゆれば往々にして身を誤るに至る。
 故に若き夫の遊びはむしろ喜ぶべきにして必ずしも悲觀するに及ばず。もとより一生遊びの味を知らで暮せば幸此上なし、されどどうせおぼえるならば早い方がよし。而してはじまったが最後、さうたやすくはなほり難し。さらばといふてほってもおけず、ここがマダムの苦心の存する處といふべし。
 どうせ遊びをはじめたと分ったら、あんまりいや味な遊び人にして天下の笑はれものに夫をさせたくなし。出來るだけちゃんとした遊びをさせ、少しも早く卒業させるに若くはなからん。それにはまづ以ってマダム自ら遊蕩教科書寄席學校に通ひ學び本格的な遊方を知り、而てキザな事をいふ夫を高飛車に出て煙にまくなり、がらにもないイキな帶など買って來たら笑ってやるべし。がらにもない歌澤などをならひはじめたら
「あなたは呂が出ないからだめよ」
 位の事を云って恥かしめてやるを可とす。白粉など着物につけて戻って來たら、顏に用ひる白粉となりにつけるおしろいの區別位を講義してやるべし。
 出來るならば遊里につきものなる三絃音樂の歴史分派、各特徴を心得て時々こっちから説いてやるべく又歌舞伎劇に精通して劇評役者評何でも出たとこ勝負で語るべし。こんな時分の夫は映畫の話やスポーツの話よりも芝居の話に興味をもつものなれば。
 かうして一たび夫をペチャンコにしておけば決して夫が身を誤る事なからん。
 然し乍ら何といっても最後の切札はヒステリーなり。
 げにあめが下に新しきものなし。寄席學校の教授落語家は曰へり。
「やきもちは遠火でやけよコンがりと狐色に」と。
 僕思ふにやきもちはおこすをよしとす。その故如何となれば、ヒステリーをおこさずじっと我慢をしてゐれば、
「俺の女房は感心だ、こんなに遊んでもヒステリーを起こさぬ、可愛想だからと遊びをやめやう」
 などと云ってやめる男は世に一人でもある筈なければ也。恰も、藥罐を投げたり、ハンケチをやぶいたりしてヒステリーをおこしたマダムが、だまってゐる亭主を氣毒だと思ってヒステリーをひっこめる事決してなきと同じ事なり。
 だまって居ればますますつのるのが遊びとヒステリーなり。故に適當にヒステリーをおこす事は遊興封じにはなくてならぬ事と心得べし。
 甘い夫ならばなほの事、どんなにやかましい夫でも餘り度々ヒステリーをおこされると、えゝ面倒くさいといふ事にて五度の遊びが一度になるもの也。
 よって僕ここに夫探偵術の筆をおくあたりて特に告げん。ヒステリーはおこすべし、おこす方がおこさぬよりはるかによし。然しながらモデレートに。然り極めてモデレートに!
 何が然らばモデレートか。
 何がコンがり狐色か。
 これ奥義にして僕には説き難し。あなかしこ、あなかしこ。 (終)

注)句読点は追加したところがあります。
注)一部異なる漢字を使用していたり不統一なままですが明らかな間違い以外は原文のままとしています。



入口へ  ←  著者別リストへ  ←  先頭へ
夢現半球