「探偵小説内幕話」講演速記
「保健評論」 1931.11. (昭和6年11月) より
子爵で、法学士で、長い間検事の職にあり、探偵小説家で有名な浜尾四郎氏が、本月二十三日、生命保険協会倶楽部晩餐会にて『探偵小説雑話』と題し、探偵小説の内幕話を試みられた。これは当日に於ける浜尾子爵の講演速記である。文責例によて記者にあるものなること、読者のご理解を願いたい。(一記者)
探偵漫談というお話を申し上げます。僕の話は学問ではありません。皆さんの顔色を見て、つまらなそうならば何時でも止めますから、正直顔色に表して下さい。
第一に探偵小説とは、どういうものかということを申し上げます。探偵小説は現在非常に流行してきております。現に私の子供等も探偵小説を読んでいるが、私はそれを恐れてひそかに取上げておる。非常に流行していることは事実である。でありますからして実業界においても、常識として知って頂きたいというような点があるのでお話申し上げます。
探偵小説の流行は独り我国だけの趨勢にあらずして、不景気と共に世界的趨勢であります。最近ヨーロッパにおいて、イギリスのような保守的な国で、殊に探偵小説を馬鹿にしていた国で、一番読まれているのも皮肉であります。今申し上げたとおり不景気と共に、探偵小説は我国でも非常な勢いで流行して参っておりますが、遡って考えてみますと、黒岩涙香氏が噫無常その他数篇を訳したときも、ただ翻訳者として認められただけで、探偵小説家とはなっておらない。
探偵小説が文壇の仲間入りが出来るようになったのは、江戸川乱歩氏が出てからであります。その時分までは文士録を見ても入ってはおりません。ところがだんだん時代が変遷致しまして、文士が食えない時代が到来したにもかかわらず、一方探偵小説の流行が始って、文芸協会が探偵小説をいやに持上げるようになってきた。文壇の大家が探偵小説を真似して、一生懸命作っているというようになって。
これは探偵小説が良い悪いの問題でない。それなら探偵小説とは何であるかということは難しい問題である。これは恐らく探偵小説作家の中にもはっきりしておらん人がある。皆さんが探偵小説をお買いになってお読みになると、実にいろいろありましょう。実にナンセンスな、滑稽な話があります。ある男がバーに行って相手の女が秋波を送って、人違いの自分がどこかへ行って見事にエロをやった、帰って見たら百円掏られていた、これが探偵小説の中に入っておる。そうかというと、全然犯罪の出てこない小説がある。
バカにされたという以外に犯罪の出ない探偵小説というものはなんであるかということがはっきりしておらない。これは恐らく編輯者が明瞭しておらんのであると思います。一例を挙げると私の所に雑誌社から探偵小説を書いてくれという、実は現在では御承知のとおり探偵小説を書くことが流行っている。形式に、内容に、一向一致しないのは文学上から、実際上から執筆者の関係である。江戸川乱歩、甲賀三郎、日本に於ては探偵小説家は名をあげて出た以上、何を書いても探偵小説になっておる。内容では区別がつかん。
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そこで探偵小説というものについて、第一に御紹介しておきたいことは本当の探偵小説は由来三つの要素があるといわれております。第一位はテーマが犯罪を中心として進行していかなければならない。例えば例をあげますと、ある男がバーに来て――エロの方面にばかり進んで恐縮ですが、時代が時代ですから――若い女と仲がよくなったとする。何日かの後に、ついに駈け落ちしようということになり、その男が友達の下宿に忍び込んで、机の中から三十円の金を盗んだ、というストーリーがあるとする。これにも犯罪がありますが、これは探偵小説ではない。
何故かというにこのストーリーは犯罪を中心として進んでおらない。これは恋愛小説であります。これは恋愛小説、通俗小説になるが探偵小説にはならん。探偵小説になるためには、この犯罪というものがテーマとして、そのストーリーが進んでいかなければならない。これが第一の約束であります。
それから第二はこれは非常に難しいことでありますが、証拠を歴然として提出しなければならない。なるべく約すが、科学的のことは現実に即して見つけることをしなければならない。探偵が出てきて捜索して見つけなければならない。でないと探偵小説にならない。
第三に反面にミステリーがなければならない。ミステリーというのですから、御承知のごとく一種不思議な謎、これはどうも不思議だという疑問を起こさせる。始めにミステリーのない小説は探偵小説でないのである。
一体探偵小説は文学的にどんな位置をもっておるか。探偵小説は普通リアリズム文学、リアリズム――写実主義文学であります。私が今一つの探偵小説を書く場合に舞台を丸ビルにとるとする。そのとき丸ビルには入口が三つしかないと書くと、読者は直ぐこの作者を馬鹿にする。こんなこと知らないようじゃ大したことはないと読んでくれない。でありますからここは写実的に丸ビルには四つの入口がある。東京駅に向いた入口に煙草屋がある。ここまではよい。後はインチキを書く。
毎日四時頃その煙草屋の角に十八歳位の女が来ると書く。すると読者はそういうことがあるかなと思う。読者ほど甘いものもない。これで誤魔化せるのである。即ちその始めのリアリズムが難しいものであります。妙なことをいうようですが自分のお話を申し上げます。四月から名古屋の新聞に探偵小説を書いておりますが、読者は何故名古屋のことを書かないかというが、私のそれに対する答えは名古屋の地理に自信がもてない。どうもこれを書くことは危ない。そういう関係で名古屋の読者のあまり知らない東京を背景としておる。
この点にいくとチャンバラの大衆文学は楽だという話であります。丸の内の真中に墓地を作ったり、小石川に吾妻橋があったとか、自由に何処にでも作れる。昔のことですから読者は知りません。ところが探偵小説そういう訳にはいかん。必ず本当のことを書かないと読者にインチキが暴露されてしまう。これが今申上げた如く、リアリズム文学でなければならないという一点であります。
それでこの探偵小説では読者をはらはらさせることはよいが、同情さしてはいかん。菊池寛氏の書いておる通俗小説では作者として中の人物に同情される方が成功である。例えば第二の接吻のしづ子ですが、よく覚えておりませんが、結婚二重奏にしても、菊池寛氏の小説は強い女と、弱い女とどっちが結婚するだろうか、読んでおる人が涙を流して、どうも可哀想だ、どうなるんでしょうと同情の涙を買うのが、この小説の目的であります。
それでありますから普通小説が情緒に訴えるに対して、探偵小説は理智に訴えるものであります。まずそういう次第であります。
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その次に組織のことについて申上げます。これは内幕の話でありまして、はなはだ恐縮でありますが、僕等から見ると有益なことで、この方面に趣味のない方には有益ではないが、若い作者に対して大家の説くところで、御参考までに申し上げます。一つの小説、通俗小説に女が出てこないと小説にならん。昔からよく歌かるたから始まった小説があります。一月三日にかるた会で会って、五日にはどこかで会って、それが発展して二十日には熱海に行く、三十日には結婚する話があったとする。
そうして作者はこれを書くとするという話でありますが、通俗小説の場合は昔、金色夜叉に見るとして歌かるたがあって、そこで知り合いになり、三日になってどこかで会って、それから二十日熱海に現れ、舞台が熱海に代る。あるいは金色夜叉と違ってくるが、三十日に結婚するまでに進む。これは日記体に書いていけばよい。探偵小説の場合はそうはいかない。
五日に仲良くなってどこかで会うというときに、ここに悪者があって第三の男が横恋慕をした。ここで恋敵の争いが起こる。これを探偵小説に書くときは逆に書く。三十日夜、突如悲鳴が聞えた、何事ならんと思って駆けつけ見ればという結論を先に提出しなければならない。そして最後に原因はどうであるということに解決する。これは非常に肝心な難しいことであります。
先が発展しなくなる、これは普通作家とは違っておる。普通作家になるとその日、その日の出来心で書いておる。南国太平記にしろ、最後まで出来ておるわけでない。読者は真面目になって次はこうなるだろうと予想しておるが、作者の方はその日によって構想を左右していく。だから作者が病気にでもなると休載ということになる。ですから百五十回のものが、百二十回で切ってもよいし、二百回に継続もできる。ところが探偵小説になると、始めに結末をつけて最後に誰が犯人かと解決しなければならないので、組織をつけておかなければなりませぬ。
であるから通俗小説のように後の方に盛り上げていくわけにはいきません。最初の構想が重大である。今ある人が向かいの二階にいる男を殺そうとする。どうして殺すか。この男は空気銃を持ってきて、その空気銃の中に小さいナイフを入れて窓から打ち込んだ。翌朝になって青年が起きてこない。不思議に思って行ってみると死んでおる。部屋の中には人が入った様子がない。どこから犯人がきたろうというトリックを考えたとする。この場合、このままの順序では探偵小説にならない。
これは先ほど申上げたように、このナイフは空から飛んできたのであるということを言わなければならない。こうしたのが本格探偵小説であります。本格探偵小説という言葉は今の一番初めにミステリーをもち、名探偵が出てきて、これを探していくという小説が本格探偵小説であります。
そこで現在は本格探偵小説は非常に読者が少ない。これは悪口でないから申上げてよいが、講談社から出ておる雑誌に本格的なものは出ていない。ただはらはらさせれば良い。理智の力がない、その方が日本の読者に受けておる。田舎のパン屋のおかみさんとかが読むには、理屈っぽい探偵小説はいけない。今申上げた通りリアリチック・ストーリーを書いておる方が読者に受けるというので、本格探偵小説は少ない。
それでシャーロックのものにしても、探偵小説には名探偵が出てきて活躍致しております。それでこの探偵小説は非常に範囲が広いものであります。どの場合にも通じておるのは落ちがあることで、この点落語に似通っており、また我々作家の中で、落語から盗んでおるもののあることを私は知っておりますが、仲間のもので言わんが非常に沢山ある。
落語のこういう話がある。数年前の雑誌に出たが日本一の名探偵になるという。動物園にやって来て宝石を失くした。自身探偵になって、実はどうもあのペリカンが怪しいとにらんだ。果して宝石がペリカンから出たので、たちまちにして名探偵になったという話があります。
これは私の宣伝のようですが恐縮ですが、今曽我五郎がやっておる二番の探偵喜劇で恋愛遊戯がある。ある男が睡眠剤を殺す気でなく、その効果を試験するために一グラムを用いれば死ぬので0.五グラムだけを女に飲ました。すると一方の男も全然無関係に同じ目的で0.五グラムをその女に飲ました。ところが二人で0.五グラムずつですから一グラムになって、その女が死んだという話であります。
今喜劇で大いに変わっておりますが、まあ探偵小説と落語の連絡が深いものがございます。お暇がありましたら、新歌舞伎座でやっておりますからご覧になって下さい。
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その次に実話のお話を申上げます。日本に今出ておる実話雑誌も、果してどんなものか充分ご注意願いたい。我国だけでありません。外国におきましてもそうでありますが、一つの話をいろいろ伝えております。一体読者も悪いと思うのです。多くの読者というものは探偵小説作家が実話を書くとこいつは臭いと思うが、これは早計である。大体材料の出るところが違う。この沢山の材料を集めて、調べた探偵小説作家の書くものは一番正しいと言いえるのであります。
英国の法廷の記録を見ますと、三人を殺した犯人が、世間には十三人を殺したと伝わっておる。裁判記録に嘘はないはずですが、三人殺しただけでは読者が面白がらない。こんな例を見ても、実話がどの程度まで当てにならないものであるかを御承知おき願いたい。本当のことを書くと読者に受けない。これをもってもいかに実話は作られるものであるかということを記憶になって頂きたい。それを面白がっていらっしゃる読者がある。本当と思って読んでる人がおる。
皆さんはその辺を御注意になって読んで頂きたい。最近三大事件の実話、――ところがこの三大事件がたくさんあるが、この実話なるものは随分怪しい実話であります。その点充分お考え願いたいと思います。それなら本当の実話はどうか、これは難しい問題であると私は考える。というのは本当の実話は、先刻いったミステリーがない、刺激が弱い、だからそのままでは読者に受けないらしい。私は数年検事をしておりましたから、読者を引きつけるような実話をたくさんもっておるかというと、そうではない。
現在裁判官でもって探偵小説界に顔を出す人がたくさんあるが、この人達は成程豊富な実話をもっておるが、小説にはなっておりません。でありますから実話とはどんなにインチキなものであるかが解ると思います。三人殺した犯人が十五人も殺しておる。あるいはまた何時何分頃に覆面の男が家に忍び込んで、ピストルをもって……と細々と書いておるが、実話にこんなことはあり得ないです。さも後について歩いたようなことを書いておる。こんなものはまずインチキとみて差し支えありません。
それから探偵小説――我国の探偵小説について一寸一言申し上げておきます。それで探偵小説を分けることができる。一つは裁判小説。この裁判小説の中には、東洋の裁判小説と西洋のとがございます。それで、東洋の裁判小説は支那に起こっております。これは通俗的なもので大岡裁きであります。徳川天一坊等々が日本の裁判小説になったのである。馬琴等が書いておるものです。つまり無罪になるか、有罪になるか、裁判を中心としたものでございます。他の一は犯罪小説であります。
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我国で古田大次郎という死刑になった男が、何とかいう本を出しておる。それからこれは当然発売禁止になりましたが、吹上佐太郎という死刑になった男で、これは十五歳位の女の子達を強姦して殺した、その犯罪記録であったろうと思います。外国にもいろいろの変態性欲の有名になっておるのがあります。ところがこうした告白は自分の犯罪を誇張して書く。だからその告白なるものも当てにならん。今世界を風靡しておるアルカポネのごときも、一体どれが本当か解りません。
それから日本の探偵小説は犯人の逃げ場に困る。外国に逃げるには旅券がなければならない。ところが外国ですと例えばパリの犯人が汽車に飛び乗ればそれで逃げられる。ドイツに入ってしまうとフランスの警察権がとどかない。大陸ならどこへでも逃げられる余地がある。したがって汽車の中の事件が非常に多い。これが国際探偵小説で外国の小説を見ますとそういうのが盛んであります。我国においてはできないことです。次に我国の作家の困ることは宝石がないことです。
昨日、丸ビルの何とかいう宝石店に入ったのなどは素人と思う。日本では少し高価な宝石ならすぐ足がついてしまう。ここに五十万円するダイヤモンドを持っておる人を殺して取ったところが、これをどこかへ売ればすぐ足がつく。これが外国ですとすぐ金になって逃げられる。我国では金以外は駄目です。外国ですと宝石が欲しいために人を殺すということがあるらしい。日本ではこれはまず不可能といってよいでしょう。
話がいろいろ飛びますがアルカポネの話です。大体秘密結社はイタリアに起ったものらしい。イタリア人は性格が適しておる。有名なものがたくさん出ております。そしてヨーロッパ勢に力を得ておる。これは昔から山中におります。これがアメリカに出店を作ろうという考えである。
それから皆さんの方がよく覚えておりましょうが、二、三月前に藤村某が行方不明になった事件がある。新聞記者が来て犯人は誰だ、犯人が出て来るかという話であるが、レポートがはなはだ少ないので、はっきりしていないが、恐らくこれは、犯人が出てこない事件と思わなければならない。
探偵小説に関してはこの程度にしておきたいと思います。その他私の申上げたいのはまず探偵小説は今後どうなっていくかということであります。これは当分続くでしょう。ジャーナリズムの流行ですから当分続くと思う。文壇の中で、まず売れる本は皆犯罪に関する小説である。数年は続くという見込みであります。
探偵小説の影響いかんという問題になると、簡単によいとは決して言えません。がしかし今日は幼年倶楽部とか、日本少年にまで出ておる。ですからいつの間にか、子供がシャーロック等の名前を知っておる。少年雑誌に出るまで流行しておる。イギリス、アメリカでは六年続いておる。まあ当分続くものと思わなければなりません。
外国の探偵小説について一言申上げておきます。アメリカの小説はお読みになっても面白くない。原語のものをお読みになるならまず英国のものでないと面白くない。アメリカの作家のものはつまらない。私が菊池寛氏に会って、どうして種を取るかと聞いたら、百人ばかり書生を雇って外国の本を読ませる。それを継ぎ合わして書くと聞いた。菊池寛氏等の読者は甘いものらしいです。われわれですと百冊を読んでも種になるものは一冊もない。
探偵小説はまずアメリカのものよりか、イギリスのものをお読みになったらよいと思います。ドイツはあれほど科学の国でありながら、探偵小説が出ておりません。スウェーデンにはイプセン等が出ておるが、探偵小説作家は余り出ておりません。
それで最後に実話と称するものが、いかにインチキなものであるかということをお含みになって、お読みにならなければなりません。長い間つまらないお話を申し上げました。探偵小説の内幕をお解りになってくだされば私のここに現れた目的は達するのであります。もっと面白いお話を申し上げたいんですが、そんなよい種がありますと、すぐ原稿にして売ることを考えますので、またこうした話は座談的にやるほうがよいと思います。機会をみましてまた何か面白いお話を致します。長い間ご清聴くださいましたことを感謝致します。(完)
注)速記を現代文にという事で、漢字を一部かなに開いています。また漢字にしているところもあります。
注)速記という事で、句読点を一部追加、抹消、変更しています。段落の変更はしていません。
注)「居る」は「居りません」に合せて「おる」としています。
注)「シャイロック」は「シャーロック」、「イタリー」は「イタリア」など現代の言葉に補正しています。
注)「偵探小説」の混在がありますが「探偵小説」に統一しています。
注)通貨価値は当時のままです。
探偵小説を語る「高級作品を翹望 所謂大衆物と判然たる區別」浜尾四郎氏訪問記
「名古屋新聞」 1932.03.12 (昭和7年3月12日) より
――今までの探偵小説は、低級なものが流行りすぎてゐる。相當な作家も、大衆的であらんがために、ナンセンス趣味のものを書いてゐるようだ。然し、これでは、いけない。これだとあきられてしまうと思ふ。もっと、本格的な理智的な――所謂、ガッシリした作品が出てもいゝと思ってゐる。
艶々しい顏を、心持ち紅潮させ濱尾氏はチョッキのポケットから銀のシガレット・ケースを取り出すと、また話をつゞける。
――僕は、日本の探偵小説は流行り立てだ。外國――殊にイギリスなどは非常に流行ってゐる。が讀みごたへのあるものは、ニ十冊に一冊位のものだ。本格的な作品――ヴァン・ダインの如きは、相當な讀者をもってゐる。彼の理智的な作品が讀者をもってゐるところから見れば、日本でもいゝと思ふ。僕が本紙に書いた『殺人鬼』などは、駄作ではあるが、非常に理智的なものであったゝめに、惡評を受けなかったのから見れば、日本の讀者も、理智的な作品を求めてゐることがわかる。僕は、今後も理智的な本格的な作品を書きたい。
「そこで」とライターで消えたシガレットに火を點じながら
――もし、この考へが間違ひだとすれば、インテリゲンチャの興味を惹く作品と、所謂大衆物と、區別をつけなければならないことになる。僕個人としては、矢張高級な讀者を相手に書きたい。しかし作者には、賣名その他の点で非常に損ではあらうが、いゝ作品は結局、こゝに生れるのではないかと思ふんだ…。
注)もし間違いなら、なので副題は誤解を与えそう。
得意の一席「探偵小説論」(ラジオ「趣味講演の夕」)
「名古屋新聞」 1933.08.04 (昭和8年8月4日) より
(同日の「探偵小説断片」時事新報、東京日日新聞、万朝報、新愛知 も同一と思われるが未確認)
私は作家の立場から、探偵小説といふものに一種の定義を下してゐる。一般に探偵小説といはれてゐるものゝ中には本格的でないものも含んでゐる。がこれを排斥するといふのではない。所謂怪奇小説、寓話小説の中には随分立派な作品なり面白いテーマなどがある。しかし、探偵小説には條件があり、その構成法も通俗小説とは非常に違った点がある。で時間の許す限り、本格探偵小説の特殊性と一般小説との異った点を断片的に例を引いてお話したい。
注)同日夜7:30〜9:00までラジオ全国放送。「刀で斬る話」桜井忠温、「探偵小説談片(誤植?)」浜尾四郎、「見たり聞いたりの話」長谷川伸、「私の趣味の話」朝倉文男 となっている。
女性犯罪の種々相「女性犯罪」
「新青年」 1929.03. (昭和4年3月号) より
女は一つの謎である。一つの驚異である。
此の言葉は、犯罪心理學に於ても立派に云はれていゝ。犯罪心理學に於て、男性を標準とした規則は、屡々女性に依って全く裏切られる事がある。
私は此の稿に於て極めて簡單に「典型的に女性的な犯罪」 Das typisch weibliches Verbrechen に就いて少し述べて見よう。
一體女性も亦人間である以上、彼女等の犯罪が女性なるが故に特に男性と異って居る、といふわけではない。男子が犯す犯罪を女性も亦甚だ屡々犯して居る。殺人、窃盗、詐欺等皆男女共通の犯罪である。強盗などといふ罪は女性にはその生理的の問題からして甚だ少いけれども矢張りある。強姦に置ては常識では一寸考へられないけれども、刑法上の理論から云へば、無論女性も亦犯し得る罪である。(例之間接正犯の場合の如き)
だゞどの犯罪に於ても體力の問題が起るから同じ殺人罪でも男性のやうな手段は取らない事が多い。それで一般に女性の犯罪と云はれて誰しも思ひ付くのは、女性が其の生理的の關係から特に男性とは著しく異った状境に於て罪を犯す事であらう。例之、成熟せる女性が、月經時に行ふ犯罪の如きは勿論、男性にあっては考へられぬものである。然し今私が述べようとする典型的女性犯罪は斯様なものを指すのではない。又女性は男性より惨忍性が強いといふやうな事から、屡々男性の企て及ばざる犯罪を行ふけれ共、之も亦典型的女性犯罪ではない。
然らば、典型的女性犯罪といふのに何をさすか。曰く、彼女等が犯す犯罪の動機、犯罪時前後に於ける彼女等の心理状態が重要な問題となるのである。
之を端的に表さんが爲に、私は典型的に typisch に男性的な犯罪を擧げて見よう。曰く政治犯である。いふ所の政治犯罪人は、自ら正しと信じた爲に罪を犯す。而て彼等の目的は、社會の爲、國家の幸福、利益の爲といふ事である。典型的に女性的な犯罪は、彼女等がやはり正しいと信じて行ふところのものであって、其の目的は彼女等が最も愛するもの、生命を捧げて居るところのもの、即ち、親、子、夫、戀人等の幸福、利益の爲に行ふところの犯罪である。
而て茲に注意すべきは、凡ての男性によって行はれる犯罪が必ずしも――否多くの場合、典型的男性的犯罪でないやうに、凡ての女性に依て行はれるそれも必しも――否多くの場合、決して典型的女性犯罪とは云へないのである。シーザーを殺したブルータスは典型的男性犯罪人であっても、同じやうに主權者を弑して居ても、兄を殺したクローデリヤスは決して典型的男性犯罪人ではない。目的が全く異るからである。
夫を教唆して王を弑せしめたマクベス夫人の犯罪は正に典型的犯罪であるが(後述)同じ犯罪を行って居るグロスター公夫人(沙翁戯曲ヘンリ六世に見えたり)の犯罪は決して典型的女性犯罪ではない。即ち之も目的が全く異るからである。
惟ふに之が根本問題は社會學的のものである。現代の社會は明かに男子の作った社會である。國家、社會、之等が観念されたのは男子によってである。若し女性が男性に優勢して社會を作ったとしたら必ず現代のそれと遥に異ったものであるに相異ない。彼女等は、國家とか社會とかいふものよりも、家族、血族といふものを考へて、而て終始それに一貫するだらう。ここに女性の犯罪が男子のそれと異る問題が潜んで居る。
一般に女性は男子よりも利他心に富んで居る。犠牲心に富んで居る。それ故、男子の犯罪よりは數に於て少いのだけれども一旦犯罪を行う場合にこの利他心犠牲心が働くから、結果は却て危險なる場合が多い。而てその利他、犠牲の對象となるものは國家、社會でなくして、彼女達に最愛のものである。
男子が最愛の者の爲に犯罪を行ふ場合、それが生來犯罪人でない限り、必ずや戰々競々として行ふものである。ところが女性が一見最愛のものゝ爲に罪を犯すに至る時、彼女等は實に勇敢に行ふ。而て殆ど後悔の念はない。
泰西の或る學者がマクベス夫人の犯罪を研究した書物があるがその跡をたどって行くとマクベス夫人は正に最愛の夫の爲に罪に行ふ事になって居る。彼女は自分が王妃になる爲にあの犯罪を行ったのだといふのである。之は結果は同じやうだが明に區別して考へる必要がある。
その主なる證據は二つある。一つは少しく注意深い人は直に認めるであらうが、マクベス夫人はあの全劇中だゞの一回も(獨白の場合にすら)自分が榮達したいといふ事を云って居ない。否、自分達二人といふ言葉すら云って居ない。たゞ夫のみが眼中にある。
たった一度第一幕第五場に於て Which shall to all our nights and days といふ言葉を云ってゐるが、之は前後の關係上、甚だ自然な言表しであって、特に彼女が自分の利益を考へたと見る事は出來ない。反之シェークスピヤは「ヘンリ六世」中グロスター公夫人に明に次のやうに云はせて居る。
And having both together hav'd it up
We'll both together lift our head to heaven.
(第二部第一幕第二場)
次の證據は夢遊病の場である。注意すべきはマクベス夫人はあの苦悩中、たゞの一回も後悔の言葉を發して居ない。從って彼女がかゝる病氣に犯されたのは良心の苛責ではないと見るべきでで他の原因である。マクベス夫人は王を殺した事を惡いとは思って居ない。何故ならば彼女の考へる所によれば、最愛の夫マクベスこそは實に偉大な人物であり當然王となる權利があるからである。
典型的女性犯罪の理論は、到底短文に書くわけにはゆかず、誤解を招くおそれがあるから、この邊で打切って實際問題に觸れて見よう。
實際問題に觸れる前に文學に表れた例を擧げて見ると、マクベス夫人は右の通りとして同じ作者の戯曲では「リヤ王」の中には戀人を助けんが爲に罪を犯す王女ゴネリルがある。「シムベリン」の中では我が子の爲に犯罪を行ふシムベリンの妃がある。
我國歌舞伎劇にも時々ある。「矢口」の中であの悲劇が行はれるのを一般には頓兵衛にのみ責任を負はせるが實はお舟の奔放な戀に半以上の責任がある。幸義岑は父を殺せとは云はずお舟に自殺を暗示したゞけだからよかったけれども若しあの場合、義岑が頓兵衛殺しをすゝめたらお舟は勇敢に父殺しをやったにちがひない状況が見える。其他惚れた男の爲に人を殺したり火を放たりする女はずゐ分見える。注意すべき事は、その點に就て悔なき所である。
此の女性の心理を明に表した探偵小説は如何だらう。直ぐに思ひ浮ばないが、ガボリオーのモシュー・ルコックの中に、セグミュレといふ豫審判事が犯人と見做される人間を調べる際、證人として其の妻をよんで、此の妻の例の利他心即ち夫を愛する心もちにひどく手古摺らされる所があったやうに思ふ。
それからバロネス・オルツイの「隅の老人」の續篇の中でシガレットといふ名馬の事件がある。今本が手許にないからはっきり書けないが、嫌疑のかゝった調馬師の妻が證人として呼ばれると、その女は我が子に嫌疑がかゝるやうな證言をする處がある。すると隅の老人が大體次のやうな事をいふ。
『女は我が罪をかくさんが爲に、我が子を犠牲にする事は絶對にない。だからもしその子を罪ある如くに云って居るとすれば、必ずや其の子以上に愛して居るものがあるにちがひない。』
かうして彼は調馬師に嫌疑を向けるのである。
私が檢事をして居た間にも可なり女の利他心、犠牲心には閉口した。彼女等は、もし一旦自分がしゃべったために愛するものに迷惑がかゝると信じた以上、死んでも云はぬ決心をするものである。
偶然に共犯者となったやうな犯罪では(例之賭博の如し)まづ女の方から自白させる方がどちらかといふと樂であるが、戀愛が主題となって居る必要的共犯の場合、姦通事件のやうな場合に、女だからあっさり片付けられるだらうなどと思って、女に自白を強ひると時々ひどい目にあふ。
だから私は姦通事件のやうな場合には大抵まづ男の方に自白を促して屡々成功した。
ある場合の如き、男が既に自白してしまって居るのに不拘、なほ頑強に否認し、男に向て、其の自白を翻へさせんとした美人があった。又ある時、同じやうな事件で、男が中々自白しない時、遂に女が自白してしまったがその女は(不拘束のまゝ取調中だったので)歸宅すると直ぐに男に詫状を書いて猫いらずで自殺してしまった。
與へられた問題に對し、述べんとした事は餘りに多くして與へられた紙數ではまことに不完全であった。私の意の通じなかったよりは誤解あらむ事をむしろ恐れる。いづれ他日折を見てくはしく述べる事とする。 (をはり)
注)「女性犯罪の種々相」というテーマで、「無名の脅迫状」小酒井不木(「奈落の井戸」で公開あり)、「夫人犯罪管見」浅田一、「女性の特徴」高田義一郎、「罪に終らざりし罪」杉浦清 と本編が掲載されている。
注)前半の論旨は「犯罪人としてのマクベス及びマクベス夫人」の後半とほぼ同じ。
實話「奇怪なる脱獄物語」
「犯罪科学」 1930.08. (昭和5年8月) より
昔から、我國でも外國でも、脱獄事件といふものは可なりだくさんある。しかし多くの場合、脱獄囚は、脱獄には成功しても間もなく捕まってしまふので結局、結果に於いては非常に不利な立場に立つ事になる。
ところが、こゝにまんまと脱獄し、而もまんまと逃げおふせた例がない事はない。
さういう實例の中著名なものを二三擧げて見やう。
千九百年代になって、この種の最も有名な例は一つはポリスターとロールフといふ殺人犯人によって行はれたシンシン刑務所の脱獄であらう。これはアメリカに於ける事件で、ポリスターとロールフといふ二人がある農夫を殺した。その結果、死刑の言渡しを受けて、もはや、電氣椅子に乗せられる運命に定まった時、彼らは敢然として、脱獄を企てた。實際、脱獄以外に彼らの生きる道はなかったのだった。
彼らの殺人事件は餘りに惨らしいものだったので、平生囚人をあつかって居る看守連からも特に彼らは憎まれて居た。從って、彼ら二人にとって脱獄といふ事は、一見非常な難事だったのである。しかし、生命を賭しての企てである。彼らは、辛うじて、囚人の中三人までを自分の仲間に引き入れる事に成功した。が、それは實に、彼らの死刑執行と定められた日の直ぐ前日だった。
二人のうち、ポリスターの方が凡てに於いてすぐれて居た。彼はナポレオンのやうに強い意思を有(も)ってゐた。
死刑執行のの日の数日前から、彼は身體が惡いと稱して弱った顏をしてゐた。その前日の夜十時頃不意に彼は腹痛を訴へた。さうして看守に熱い牛乳を求めたのである。
看守が、その要求に應じて牛乳をもって監房内に入り來(きた)った途端、待ちかまへて居たポリスターは、いきなり看守にとびかゝって咽喉(のど)をしめつけた。彼の非常な腕力は一擧にして事を決した。彼は氣絶してゐる看守のポケットから鍵を取り出して、ロールフの室の戸をあけて、ロールフを自由にした。
ロールフは、直にそこから廊下を通って逃げやうとしたが、ポリスターは、その危險なるを知って他の方法をとった。事實もしロールフの考へ通りに進んだなら、おそらく彼らは二十餘名の看守から一斉射撃をうけたにちがひない。
ポリスターは少しも騒がず、ロールフを促がして空氣抜けの穴から上へ出て、とうとう刑務所の屋根へと上った。さうして二十フィートの高さから、二人は飛び下りて、つひに巧みに脱獄をなしおふせた。但しポリスターはどこの怪我もなく飛び下りたが、ロールフの方は左足をひどく傷してしまったのである。
地理に明るいポリスターはともかく重傷のロールフをつれて、ハドスン河を渡ってニューヨークへと逃れ、こゝでサリヴァンといふ男の家へとびこんだ。このサリヴァンといふ男は實は二年前にニューヨークで行はれた老婆殺しの犯人なのだが、それをポリスターはよく知って居り、又知ってゐるのはポリスター一人だった。
從って、今かくまってくれと云ってとびこまれた以上、サリヴァンはいやでも二人をかくしてやらなければならない。しかし自分の責任を輕くする爲にロールフだけをおっぱらふ事にきめ、變装用の着物の外に。五パウンドの金をやって、逃走させた。ロールフはうまくのがれてとうとうブラジルに逃げ込んで永久に刑罰からまぬかれる事が出來た。ロールフは獨逸人である。
一方ポリスターはうっかり動く事の危險を知ってあくまでサリヴァンの家にかくれてゐた。
そのうち、全アメリカの新聞はだんだんやかましく二人の脱獄囚の事を書き立て、つひに兩名の寫眞を掲載し、賞金が一般にかけられ、捜査に從事する役人に對しては、破格の昇進といふ懸賞で、二人に對する捜査が行はれた。
けれども容易に彼の居所はつきとめられなかった。
ところが、官憲は何のよりどころもなかったが、不意にサリヴァンの家を捜査にかゝった。之はたゞサリヴァンといふ男が餘り評判が惡かったから、偶然、こゝへ侵入したものだと云はれてゐる。
この時、ポリスターは、もう少しで捕まる所だった。
官憲の一行がサリヴァンの家にとび込んだ時、ポリスターはその屋根裏のベッドに横(よこた)はって居た。サリヴァンはすばやくポリスターに急をつげ、直に下に降りて警官達に對して、この不意の役人に文句をつけはじめた。之は無論ポリスターに逃げる機會を與へるためであった。
この計略ははたして功を奏し、警官の一隊が屋根うらに上った時、ポリスターは、反對に地下室へと逃れた。
屋根裏を空しくひきかえした一行はつゞいて地下室にかけこんだ。さうして壁をたゝいてみたり、そこにおいてあった酒樽の中味をいちいちなめてみたりして捜査したが、つひに犯人の形跡を見出さないので、とうとう引きあげてしまった。彼らがひき上げると、ポリスターが、そこにあった酒樽の一つの酒の底からぬっと頭を上げて出て來た。
三分の二程酒のはいってゐる樽の中に彼はかくれて居たのだ。探偵がそれをのぞいた時、彼は息を殺して完全に酒の中にもぐりこんでゐたわけなのである。
彼はまもなく、サリヴァンを脅迫して得た大金をもってメキシコに逃れた。
かくして、ポリスターと稱するアメリカ人ロールフと稱するドイツ人は完全にシンシンを逃れて、一生を無事に終へたのであった。
他の有名な脱獄事件は、千九百二年にアイルランドのメリボロー刑務所を脱獄したジェームス、リンチハウンの話である。
リンチハウンの脱獄以後、今日に至るまでアイルランドでは彼についていろんな逸話が傳へられてゐる。その半分は事實とするも、彼は立派なヒーローである。けれども實際は彼はそんなえらい人物ではなかった。第一彼の犯罪といふものが甚だ英雄らしくないものである。
即ち彼は、長年自分が奉公してゐたさきの女主人に瀕死の重傷をおはせ、あまつさへ彼女をある家にたゝき込んで放火したといふ犯罪だった。彼は之が爲に二十年といふ最長期の懲役刑に處せられたのである。
これの前にも彼は一度罪を犯して捕へられたが、脱獄した事があった。それで當局でも非常に注意して、判決が定るとすぐにメリボローの刑務所に入れて嚴重に之を監視してゐたわけなのである。このメリボロー刑務所は、當時アイルランド中で最も嚴重な最新式な刑務所だった。丁度完成するまぎはで、天井の一ヶ所が未だ十分出來上ってゐなかったけれども、そこから逃れ出る危險は全くなかったので、官憲でも、す早くこゝにリンチハウンを収容したわけなのである。
メリボロー刑務所には最新式の設備がしてあった。リンチハウンの監房の戸が完全に閉され、かんぬきが完全にかゝると、外側に白い圓板が現れる。もしかんぬきが完全にされてゐないとこの圓板が出ない。從って看守は、外部からこの白圓板が出てゐるかどうかといふ事を見れば、完全に戸がとぢられてゐるかどうかといふ事がわかるといふ仕かけになってゐた。
リンチハウスはかつて或る學校長を勤めた事があった。從って、彼は相當に知識があり且つ頭脳もよく働いた。メリボローに入れられた第一日から、彼は脱獄の事を考へた。さうして脱獄の第一難關はこの白圓板だといふ事を知った彼は白圓板について詳しく研究しはじめたのであった。
彼は、暫くたってから、書物の差入を典獄に依頼した。たゞ此の際彼の要求した書物は、途方もなく大きな形のものだったのだが誰もその理由を怪しむ者はなかった。無論リンチハウンはこの本を讀むつもりではないのである。
夜になって、囚人共が皆眠入った頃、彼はくだらぬ用件を持出して典獄に面會を求めた。無論彼の要求は退けられ、彼は再び監房に送り歸される事になったが、その時彼は監房の戸をわざと大きくばたんと閉ざした。あらかじめ彼はかんぬきが完全にかゝらぬやうに手はづをしてあったので、例の白圓板は出るべき處へは出て來なかった。すると、かねて、大きな書物の中の白紙を圓く切りぬいておいた彼は、この時、白圓板が表れるべき個所にその白圓紙をそっとぶらさげておいたのである。
嘘のやうな話だが看守は外を通る時之を見て、すっかり、欺されてしまった。
リンチハウンは、かくして絶好のチャンスを掴まへる事が出來た。
彼の居ない事が發見されたのは、彼の脱獄八時間經ってからだった。之は、全世界の脱獄史に於ける長時間のレコードである。
この長い時間を利用して彼は妻にあひ、十分の用意をなし、巧みに倫敦に逃れ、そこからアメリカに渡った。官憲の捜索も遂に功を表さず、この脱獄囚はアメリカで又々盛にあばれまわって數奇な一生を終えた。
彼は屡々その後アイルランドへ戻って來たと云はれてゐる。
フランス人ヂョーヂ・ブランも亦脱獄の大家であらう。彼は實に二十度の脱獄に成功した。但し二十回の脱獄といふ事は二十回の捕縛といふ事を意味する。實際、彼は、折角の脱獄を自分の運命開拓に少しも利用せず、いつも犯罪を又くり返し、とうとう獄中であはれな死をとげた人間である。この點で、今まで書いた人たちとは彼は大分ちがってゐる。
かつて、ブランは、自分を捕へた探偵に對して、必ずお禮に出ますよと云った。探偵がその言葉を全く忘れてしまった頃、一夜、盗賊が彼の家にはいり、目ぼしい物を奪ひ去ったあと、紙片にちゃんとブランといふサインがしてあるのを發見、あはてゝ訴へ出たといふ話がある。
この時の脱獄は、ブランが病氣と僞って病室に収容されてゐる間に、看守の衣服をぬすんで變装して、敢行したものであったが、彼はさきにも云った通り、直に逃げず、探偵の家に忍び込んだりして稚氣滿々の事をやったためまもなく捕まってしまったのである。
最も喜劇的なのはネッドライダーの脱獄だらう。
ネッドライダーは、刑務所の中で謹慎して模範囚人として認められてゐた。そこである時、典獄が、官舎の窓ガラス拭きを入用とした際、彼がこの役にえらばれたのである。
ライダーはそこでこのいゝ役目についた。
ところで或る夕、看守達がつとめををはって歸る時、典獄夫人にあいさつして行ったのだったが、後にその典獄夫人實はネッドライダーだと知って一同呆然としたのであった。
ライダーの脱獄術は極めて簡単でユーモラスなものだった。
彼は窓ふきに行く度に隙をうかゞって典獄夫人プライスの衣服を少しづつ盗んでおいた。但し、盗んだものをもって來るわけにはいかない、そこで彼はそれ等の品悉く、被害者の家の或る場所にかくしておいたわけなのである。
さうして十分變装するに足りるだけのものを盗んだ時、彼はすっかりプライス夫人に變装して、看守達に、鷹揚にあいさつしたのであった。
彼は二度と捕まらなかった。
彼の昔の仲間が二度目に彼にあった時は、もう大勢の子の父親として立派な農夫になりすましてゐた。幸にも、仲間が彼を裏切らなかったので彼は、再びオーストラリヤの犯罪記録に名を乗せられずにすんだのである。
英國のグートムーア刑務所にかつて脱獄なしと云はれてゐたものであるがこのレコードはチャールス・ウエブスターといふ窃盗犯人によって美事に破られた。
彼が容易ならぬ惡人であり、從ってうっかりすると何時逃走せぬとも限らないといふ事は前から一般に考へられて居た。その爲彼は十分嚴重な監視の下におかれてあったが狡猾な彼はその間、脱獄の企みなどは、顔色にも出さずに謹慎して居た。するとある時、ウエブスターは偶然の不幸から左足を挫いたので、刑務所内の病監に移された。
彼が愈々脱獄の決意をしたのは、この病監に移された時であった。
彼は長い熟慮の後、二人の仲間を探した。彼のプランによれば、もし一人で逃走すれば十人なら十人の看守達がかたまって彼を追跡するにちがひない。けれども若し、三人が三方に逃げ出したとすれば、十人の看守は少くも三つに分れるはづであり從ってそれだけ戰闘力が減じるにちがひない、といふわけなのである。
かくしてウエブスターの仲間にはいった囚人は、ブロドリックとクムスンといふ者であった。
彼等のベッドが接して居たためにウエブスターは二人にいろいろな企てをさゝやくのに都合がよかった。病監の床がわりに脆弱である。この床の下には物おきがあって、そこには梯子が有るはづだ。その梯子を利用すれば刑務所の壁をのり越える事が出來る。こんな話を彼は二人につたへた。
此の病監では、めし時には三人が、一所に食卓につく事を許し、且つ一寸した休憩時間があって、看守は、遠くの方から窓を通して見はるのが常だった。
或る日、看守の一人がめし時に外に立って彼らの室を見張って居た。別に異状はない。戸は無論窓からも誰も出入した様子はない。可なり經ってから何心なく窓からのぞくと、三人の囚人は消え失せたやうに居なくなってゐる。看守ははじめは我れとわが眼を疑った位であったが、やがて中にはいってみると、食卓の下の板がはずして、又おきなほしてあるらしい形跡を發見した。
彼らがさわぎはじめた頃には三人は豫定の通り物おきに至り梯子をもち出して脱獄して居たのである。
然し、何事をするにも頭の惡い者は失敗する。この場合でも、ブロドリックとクムスンはたちまち又捕まったが、肝心のウエブスターはとうとう捕縛されずにしまった。
當時警察側の意見では、無論ウエブスターは又犯行をやるにちがひないといふ事だったが、事實は之に反し、彼はその後、正業について居た。
脱獄後、二十年たってから、ウエブスターは倫敦で某通信社の社員をして居り、その友人にはたくさんの警察官だの探偵等がゐたといふ話である。
ウエブスターの如きは、正に脱獄成功者と云ふべきであらう。
ところが中には全く之に反對な例もある。
今から約四十年前に、マンチェスターの、ストレンヂウエイ刑務所を脱したジョン・ジャックスンの如きはたしかに愚者の一人と云ってよろしからう。
彼は、當時單純な窃盗罪によって、懲役六月に處せられて、ストレンヂウエイ刑務所に収容されて居たのである。
六月の懲役は大して長いものではない。況して、脱獄に伴ふ種々な危險を冒してまで、逃げ出す必要は一寸無ささうに思はれる。然るに彼は、脱獄したばかりか、その脱獄にあって、ウェブといふ看守を殺害するといふ驚くべき亂暴を働いた。後その爲に死刑に處せられたのである。
彼は、或る日の午後、刑務所内の監房の一部を修理中、不意に看守ウェブにとびかゝり、ウェブの手にしてゐたハンマーを奪ひとってウェブを一撃に打ち殺した。その途端に、外から女の聲で一體何事だと訊ねる聲がきこえたので、彼は鍵をしめると同時に素早く、屋根に登り、室外の女が他の人々をよんでゐるまに、屋根から、サウトホール街にとび出してしまった。
夜ならばいざ知らず、まっぴるま、マンチェスターのやうな人の混雑する町の中を、脱獄人が誰にも怪しまれずに逃走し得たといふのは全く不思議な事件といはねばならない。
暗くなってから彼は、或る古着屋の店頭から一着の衣服を奪ひ去ったが丁度その頃『ストレンヂウエイ刑務所内の殺人事件』を報道する夕刊賣子がとびまわってゐた。
あらゆる機關が活躍したけれどもジャクスンの足跡は判らなかった。二週間後、彼は、ファースといふ僞名のもとに、ブラッドフォードにあらはれ、或る下宿屋にはいりこんだ。
二週間の苦勞で彼の容貌は見ちがへるばかりに變ってしまった。
もうその頃には烈しい捜査の手もいくらかゆるんで來たので外出しても危險はないやうに思はれた。實際、若し彼がこのまゝ小さくなって居たなら或は安全だったかも知れない。
然し、彼にとって一番恐ろしかったのは飢であった。彼は一文の金ももって居なかった。ある午後、彼は、ふらふらと外に出てブラッドフォードをうろついて居た。その二日まへから、彼は一片のパンすらも食べて居なかった。
とある乾物屋の前に立った彼は、この飢といふ誘惑には打ち勝つあたはず、店員の隙をうかゞって、牛肉の罐詰を盗まうとしたが、之が彼の運のつきで、その場で店員にかっぱらひとして捕まって官憲に引渡された。
けれども、もし彼が、ウェブのポケットから奪ひとって來たナイフをその時、そのまゝ懐中してゐるといふようなへまさへなかったら、このファースが實はジャックスンだとは容易に判らなかったかも知れない。
彼の顏は左様に劇しく變化してゐたのだった。たゞ彼が右述べたやうな馬鹿をしてゐたので直にウェブ殺しと判明してしまった。
斯くしてジャックスンはまもなく死刑を執行されてしまったのである。
脱獄事件で著名なものと云へば大體、右のやうなものであらう。
極めて頭のよい、幸運に惠まれたもののみが成功して居る。
脱獄それ自體は必ずしも難い事ではないらしい。殊にジャックスンのやうな死物狂の行爲に出る場合には一應脱獄には成功するやうだが結局、先にのべたやうに、あとで捕まるといふ事になる。
だから我國でも、私はある典獄から次のやうな話を聞かされたことがある。
『私は、いつも囚徒に云ふんです。逃げるなら勝手に逃げて見なさい。見張ってゐる方には隙もあるだらうから、逃げられない事はあるまい。しかし之だけの事は覺悟をしておいて貰ひたい。――決してそのまゝ逃げおほせるものではない。きっとこっちは捕まへて見せるから。――私はよくかう云ってきかせるのです』
これはある典獄の言葉である。
一九三〇・六・一
「ギヨチーヌ綺談」
「犯罪科学」 1931.02. (昭和6年2月) より
一、ギヨチーヌの起源
死刑といふ刑罰を廃止すべきか或は存續するか、といふ事はよく法律家の間其他の識者間に論ぜられる問題であるが、兎も角現在では多くの國家が此の刑罰を明かに認めて居るのである。然しながら、死刑執行の方法は國により必しも同じではない。
我國では一般に知れて居るが如く絞首である。而して刑の執行は非公開で刑務所内で行はれる。一般人が死刑の場合絞首にされる事は刑法第十一條第一項に明かにされて居る所である。
英國に於いても此の方法が採用されて居る。判決の言渡しの時にはっきりと裁判長が云って居る。死刑の宣告の時、『汝はそれより刑場に赴き、咽喉部を汝が死に至るまで縊られるべし』といふやうな言葉が必ず謳はれて居る。
米國に於いては各州それぞれ方法があるらしいが電氣椅子に載せる方法があるのは既に讀者の知って居られる所だらう。米國の本などを讀むと『椅子に行く』といふやうな言葉が出て來ることがあるが無論之は電氣椅子にのせられる事を意味するのである。
ところで佛國であるが此の國では今でも首切りが行はれてゐる。有名なギヨチーヌといふ恐ろしい首切機械にかけられるわけなのだ。
どの方法を採用するにせよ、第一の目的は少くも現今では罪人の苦痛を少しでも減少させるために最良の方法としてえらばれて居るわけである。私はここにフランスに於ける死刑に就いて聊か述べて見たいのである。
一七九二年三月二十日發布された法令により、一般人の死刑はギヨチーヌで行はれる事に定った。
ギヨチーヌを發明した人は、ドクトル・ギヨチーヌであって而も彼がその機械の最初の犠牲者である、とは一般に傳へられてゐる所だけれ共、實は之は誤りである。
國民議會でドクトル・ギヨチーヌが、此の機械採用の提議をしたのは事實である。彼は、首切りのやうな事は人の手でやらず、機械に行はせるのが人道的であるといふ論旨からこの提議をした。
『諸君、この機械によって、私は諸君の首を一瞬の間に飛ばせる事が出來るのである。而し諸君はその時、痛いとも痒いとも感じてゐるひまはないのである』
此のユーモラスな發言に對して、全會員が思はず失笑した。而してギヨチーヌの名が歴史に不朽のものとなったのであった。
ドクトル・ギヨチーヌがその當時の首切り法の代りに用ひやうとした首切機械は實は十五世紀頃からヨーロッパでは知られて居たのである。
一五〇七年五月十三日にジェノアで死刑を執行されたデメトリ・ユスチニヤンといふ人間を美事に死に至らしめた機械は丁度ギヨチーヌのやうなものである事が記録されてゐるし、又一六〇〇年にベアトリス・ツェンナといふ人間の首をはねたのも同じやうなものであった。スコットランドでは『少女』と呼ばれる同じやうな道具があり、一六五一年と一六八五年にアーチル候及びその息子の首を切ってゐる。
ところでドクトル・ギヨチーヌの提議が採用され、ここに愈々この道具が用ひられる事になったがその第一のプランを立てたのはラキアントといふ男で代ったのはトビヤス・シュミッツといふ男だった。トビヤスは當時ピアノ製作者だったといふから、彼は、藝術品を作るつもりでこの首切り機械を作ったかも知れない。
このギヨチーヌ刃が内側に向ってまづ頸部をとばす前に、それをしっかりと圍むやうに出來たのであった。ところが、多少機械の知識をもってゐたルイ十六世は、この代りに下向きにとがった三角形の刃を用ひさせた。ルイ十六世のこのギヨチーヌ改良の命令は實は彼の最後の命令だった。といふのは、彼は一七九三年一月二十一日にまづ自身その改良機械にかけられなければならなかったからである。皮肉にも、この時の切れ味はまさに彼の機械改良家としての頭のよさを證明したといふ事である。
現在フランスで用ひられてゐるものは、之に更に改良を加へた形のもので一八七五年に採用されたのである。
二、ギヨチーヌの用ひられる時
フランスの法律によれば、死刑は公開の場所で行はれる事になってゐる。勿論この死刑公開といふ事に對しては賛否の議論が中々あるがともかく公開といふ事になってゐる。たゞし眞晝間にやるわけではない。大體暁に行はれるのだ。
死刑執行の日には、まづ裁判官、公議權の代表者たる檢事総長或はその代理人、書記、それから教誨師、及び被告人の辯護人が監房にはいる。
Magistrate (邦語に適譯なし)が被告人に對していよいよ死の時が來た事をつげ、ざんげを云はしめ又彼の云ひ遺したい事を聞いてやる。但しこの場合被告人に勇氣をつけてやる事を忘れない。勇氣とはつまり殺される勇氣である。この最後の被告人の言説中にもし裁制を動かすに足る事實を認めた時は直に裁判官はその執行を見合せるのである。囚人が女であった場合は妊娠の意識ありや否やを確め、もしさうらしい時は一時執行を見合せて醫師に診察させる。
次に約ニ十分間、囚人は教誨師とさし向ひになれる。無論ざんげをする爲にである。
それから、被告人に最後の食事又はシガレットが與へられる。被告人が最後に望むものは與へられるのが原則だけれども藥などは勿論與へられない。
次に愈々執行人がはいって來て、まづ被告人のシャツを切る。之は頸部をはだかにする爲、つゞいて綱をもって手足を縛るが之はいふまでもなくいざといふ場合に被告人が死者狂ひになってさわがぬ爲である。但し足は歩ける程度にしておく。
それから憲兵の一隊に圍まれて被告人はギヨチーヌの建てられて居る刑場に行くのである。
無論或る一定のスペースは兵隊に守られて法官その他の係り官以外の者はその中に入れられぬ。
かくして用意とゝのへば被告人は板の上にねかされ首を刃の下におかなければならない。執行人がボタンを押す。刃が落下する。首が飛んで糠を入れた前面の籠の中におちる。
かくて正義は保たれたり。刑は終る、といふ次第なので、手つゞきはいたって簡單、ドクトル・ギヨチーヌが議會で述べた通り、事は一瞬にして決してしまふのである。
刑が執行されると直に白木で出來た柩が運ばれ、素早く死體が収容される。仰向けにねかし、首はひろげた兩脚の間におく。それから車に載せられて埋葬墓地に運ばれ、最後に牧師の祈りがあってここに人生一代が完全に終をつげる事になる。
此の祈りが埋葬の唯一の儀式であるが大げさには出來ない。若し被告人の親戚が特に乞ふ場合には死體はそれらの人々に渡さるべし、但し儀式を用ひざる事を要す、といふ旨がフランス刑法第十四條にちゃんと記されて居る。又もし親戚達がこの要求をしない時は通常、死體は解剖に附せられ學術上の資料に供される。
三、執行する人々
ドクトル・ギヨチーヌは、人が首切りをせず、機械が首を斬るべしといって提議した事はさきに記した通りだけれ共、いかに機械が首切りをすると云ってもそれは自動的に動くわけでなく誰かボタンを押さねばならぬ。そこで結局、この人が直接死刑囚に手を下す事になるのだが、この職業は餘りいゝものではなさゝうだ。
我國には今以って檢事や警官になるのをいやがる人々が居るやうだけれ共、フランスだって首切役人といふ商賣は餘りはやったものではないらしい。詳しい事は判らないが丁度我國の山田淺右衛門のやうに、代々傳って行く所謂一子相傳の職業らしく、而も上手下手がはっきりあるらしい。
パリの警視総監アルフレッド・モーランが執行人銘々傳を書いてゐるからそのまゝここに紹介しやう。
『死刑執行人は一般にムシウ・ド・パリと呼ばる。此のニックネームたるやフランスの首府にたゞ一人の執行人のあるのみなるを意味す。現代に於いては然るも、過去にありては必ずしも然らず。各刑務所に一人づつの執行人をおきたるなり。
Heindreich 彼は一八七二年、七十才の高齢にして没したるが病に仆るゝまで執行人の職にありき。彼は實に十六歳の少年時代にその父(やはり死刑執行人)の助手となり其後この職をつぎて四十四年に及びぬ。余は個人的に彼とは相識の仲にあらざりしも、わが幼時に彼がトロップマンをギヨチーヌにかけたるを見たる事あり。
余は今なほ彼の性格の特異なるものありしを人にきかされしを想起する。彼は丈高く、落着きむしろ冷く見えたり。執行を終るや直に教會に行きて、死者の爲に彌撒(ミサ)を用意し、事終りて歸宅し直に入浴するを常としたり。
Roch ハインドライヒの死するや直にその職をつぎたるはその助手たりしロシスなり。彼はかつて執行を終りし夕べ、人に問はれて平然と、Tont s'est pass'e a' ravir.(ゆかいに運びぬ)と答へたりき。一八七九年に死しその助手に職を殘せり。
Deiblen 一八七九年ロシスのあとをつぎたる人。而して現在同名の執行人は實に彼が一子たり。彼がその職に就きし時は既に六十歳の老年に達し居たり。外貌極めておだやかにして教養あれ共内おかし難き根強さと強氣を蔵す。彼がこの強氣はその就職第一の執行の時あらはれたり。
アヂャンに於いて彼ははじめて執行人として手を下したりしが時の死刑囚はラブラードと呼ばるゝ二十歳の血氣盛りの男子なりき。ギヨチーヌに達するや、死物狂ひになりて狂ひまわり容易に板の上に身體を横へず、Deiblen これを見て憤激し、ラブラードの咽喉首をつかみ、床に叩きつける事、實に數回に及びぬ。
Deiblen (Jr.) 前項同名の者の子にして現代の執行人。余(モーラン)はここに彼自身余にあてたる手紙を公開し以って彼の性格をしらしめんとす。
『小生は個人としては、犯罪の惨虐性なほ死刑の存續を必要とせざるを得ざる現今の有様を悲しむものに候。さりながら苟くも死刑にして嚴存する以上、今少しく嚴格に適用せられざるべからずと信ずるものにござ候。然るに死刑の宣告を受けたるものゝ三分の二はその實、刑を行はれずして赦さるゝが現在の有様に候へどもはたして如何なものにや。
最近十五年間にありては死刑の執行は、宣告四ヶ月乃至五ヶ月に於て行はるゝを常とする、犯罪が一般に忘れられたる頃に行はるゝが通常に候(筆者曰く讀者試みにその理由及びその是非を一考せられたい)。
死刑執行はそれ自體極めて簡單なるものに候。而て被告人の或者は勇敢に、あるものは怯惰にござ候。こゝにその數例を聊か申述べん。
ダビッド。彼は一八九二年三月二十一日、サンナザルに於いて刑の執行を受け申候。二人の婦人を惨殺したるが彼の犯罪に候。彼は甚だ剛勇、ギヨチーヌまでの足取りもしっかりといたし居り、ギヨチーヌの下に於いて一場のスピーチを致し候。まづ神に赦しを乞ひ、次に群衆に向って自己の行爲をのべてざんげし、犯罪人の末路として、世のいましめたらん事を述べ、然る後從容として死に就き申候。
アナステー。一八九二年パリに於いて執行さる。身かつて軍籍にあり。デラール男爵夫人を殺し、なほその召使を殺さんとしたる廉にて死刑を言渡され候。彼は最期に群衆に向ひ刑死の自業自得なる事を發表いたし候が、終りに執行人らに向ひ『諸君、汝の務めを励行せよ』と自ら命令して死につき申候。
ケーニグシュタイン。一八九二年七月十一日モンブリゾンにて刑を執行されたる甚だ危險なるアナルキスト。彼はギヨチーヌに着くまで裁判官に對して冷笑をあびせ、教誨師をも罵り候。自己の行爲を決して誨いずとなし、卑猥なる歌を唱ひつゝ首を落され候。
カゼリオ。一八九四年八月十六日リヨンに於て執行。犯罪は大統領カルノーを暗殺したるものにして彼も亦アナルキストにござ候。彼は刑場に赴くや戰慄やまず、ギヨチーヌの下に至りし時はほとんど失神の状態に候ひき。』(以下略)
四、執行された人々
コンミューンが癈止された後、最初のギヨチーヌの犠牲者はモロー(Moreaux)といふ男だった。これは一八七ニ年六月十七日死刑が行はれた。彼はある女を殺したので死刑を言渡されたのだったが、まことに勇敢に死に就いた。ところが彼の首が落ちると同時に、見てゐた群衆の間に不平がおこった。その何故なるかを問はれて彼らが一齋に答へた所はかうだった。『餘り事が早すぎてあれぢゃ面白くない』
被告人が大勢の時は次々とどんどん死刑が執行される。一番有名なのはコンシュレート時代にあったオルヂェールの一黨の執行であらう。その大將株の二十一人をはじめとしてその結社六百餘名がどしどしと首をはねられた。當時の有様を見た人たちは血の池の中に首が浮いてゐたやうに見えたと記してゐるが蓋し實感だらうと思ふ。これは一八七四年の話。
モロー(Moreau)といふ、妻を二人まで毒殺した男と、ブタといふやはり女房殺しとが、一日の間に、わづか三分の間をおいてつゞいて首をはねられた事がある。その執行は非常に巧みに迅速に行はれた。だから少し極端に云ふと、二人目の男の首が丁度刃の下で、籠を見下ろしてゐると、まださきの男の首がその中にころがってゐたといふ有様だったさうである。
さきに述べたやうに、刑の執行の前には豫めギヨチーヌを調べたり又被告人の身體を縛っていざといふ時にまちがひのないやうにするのであるが之がいつもうまく行くといふわけには行かない。時々不完全な爲に意外な事件がおこる場合がある。
一八〇五年にシャロンでモンシャルモンといふ男を死刑にした時は、人々はこの男を二度ギヨチーヌまでつれて行かねばならなかった。
モンシャルモンは憲兵二人を殺害したといふので死刑に處せられたわけなのだが、元來非常な力持なので刑場で檻から引出されるや否や死物狂ひで暴れはじめた。執行人達がやうやくギロチーヌに上る梯子までつれて行くと彼は今度はその梯子に足を巧みにつッこんで一寸も動かない。二人の男が何とかしてこれをはなさうとして三十分の間、格闘をした。
この間モンシャルモンは、執行人を罵り、憲兵等を口をきはめて罵倒し、しまひには見物をしてゐた群衆に對して、助けを求めはじめたので、執行人らはひどく狼狽し、やうやくに梯子からはなすとギヨチーヌにはやらず一まづ檻の中へ又もどすといふ醜態を演じた。とうとう夜になって、はじめて死刑執行されたが今度は彼はぎうぎうといふ程手足を緊縛されてゐたのでどうする事も出來なかったのである。
女の咽喉を裂いて數ヶ月の間全フランスをさわがしたビロアといふ男はかつて軍人でたくさんの勲章をもらってゐた。死刑執行の際はいかにも軍人の出らしく落付き拂ひ、ギヨチーヌの前に立つや恰もこの機械を研究せんとするものゝ如くに、仔細にいろいろのからくりをながめてゐたが、やがて時が來ると教誨師に『師父よ、さらば!』と一言云ってさっさと刃の下に首をのべた。
マリー、ジョセフ、アクレーといふ少女を惨殺して死刑に處せられたウェルテルといふ男は反之いざといふ時非常な恐怖をあらはした。
その恐怖の状態たるや甚しいもので人々はこれは刑場まで行かぬうちに、昏倒してそのまゝになるのぢゃあるまいか、と心配したのであった。監房中にあって、上訴が却下されたときいた時から彼は斯様な状態であった。はたして彼は刑場につくと、人々に引きづり出されてギヨチーヌまで行ったが、刃の下に首をのべた時は全くもう意識を失ってゐたといふ事である。
プレヴオといふ殺人犯人は最も勇氣に滿ちて執行を受けた。執行を監房で告げられた時教誨師が
『勇氣、勇氣、勇氣を失ひなさるな』
といふと彼は
『大丈夫、大丈夫です』
と答へた。
いざギヨチーヌについた時又教誨師が云った。
『友よ、勇敢なれ、勇敢なれ』
するとブレヴオが答へて云った。
『恐れては駄目ですよ!』
と。この言葉は實に之から執行されやうとする人間が教誨師に與へた忠告なのである。かくて二十秒の後彼は死者の群に入った。
五、生きてゐる首
我國でも、切られた首が石に噛みついたとか、首のない死體が切られた途端に歩き出したとか、ずゐ分奇々怪々な話が傳へられてゐるがギヨチーヌに關してもずゐ分奇怪な話が傳へられてゐる。
二十世紀に入ってもこんな話がある。こゝにその一つを紹介して見やう。
さすがにフランス、切られた首がげたげた笑ったなんていふ物語ではない。ギヨチーヌで切られた首がどの位生きてゐるかといふ事を、實地について研究した醫者の話である。
時は一九〇五年、六月二十五日、オルレアンの刑場で、アンリ・ランギュイユといふ獰猛な男がギヨチーヌにかけられる事になった。
其の日の未明三時半にランギュイユをのせた車が刑場に着いた。牧師のアベ・マルセーが青白い顏をしてまづ車から降りると次いで、後手に縛られたランギュイユが地におりた。
一瞬、彼はギヨチーヌを見て驚いたやうだったがやがて刑場を圍む群衆を見ると、侮蔑の目を見はって嘲笑した。
執行人が板の上に彼をねかした時、さすがにしりごみをやったがつひに刃の下に首をのばさせられてしまったのである。
つゞいてムシウ・ド・パリのすばやい動作によって忽ちランギュイユの首はころころと前に落ちた。彼が刑場についてから首のおちるまでが實に正確に五分間であった。
と、こゝまでは極く珍らしくはない事なのだがこれから後で不思議な事が行はれた。
ドクター・ボーリューといふ人が、檢事の許可を得て奇怪な実驗をはじめたのである。
彼は兩手にランギュイユの首をしっかとつかんで
『ランギュイユ! ランギュイユ! きこえるか?』
と大聲に其の名をよんだ。
すると驚くべし、ランギュイユの兩眼がそろそろと開いて來たのである。而てまるで生きてゐるものゝやうにドクターの方をぢっと見つめた。かくて兩眼は再び閉ぢられたのであった。
すると又ドクターが叫んだ。
『ランギュイユ!』
再びまぶたが上ると思ふまに兩眼が開いてドクターをぢっと見つめた。さうしてまもなく又とぢてしまったのである。
三度ドクター・ボーリューはランギュイユの名をよんで見たが今度はもう目は開かなかった。ランギュイユの目は永久に閉されてしまったのであった。
此の實驗に要した時間は三十秒間。
ドクター・ボーリューは此の實驗によって、切られた首は少くも十秒位は生きてゐるものだといふ確信を得たわけである。
ちょっと不思議な話だけれどもこの實驗談は當時のマタン紙にもルジュルナル紙にも載せられてゐる。
六、女性とギヨチーヌ
女の被告人とフランスの法廷の話についてはいづれ他日機會を見て語らうと思ふが、法律はともかく、事實女とギヨチーヌの關係は一八八七年以來、フランスでは絶えてゐるやうである。女性に對しても男子同様の刑を實際上科すべきかどうかといふ事は一八四六年以來のフランスでの問題である。
一八四六年から一八八六年――この四十年間に百六十人の女性が死刑の宣告を受けてゐるがその中事實ギヨチーヌにかけられた女性は四十八人であとの人々は皆減刑の恩典に浴してゐる。而てこの四十年の間も近くなればなる程、數が減じてゐるといふ事實が發見される。
即ち一八四六年――一八六〇年までに四十二人、一八六一――一八七五年までに六人。一八七六年から一八八六年までギヨチーヌは完全に血に汚されなかった。
一八八七年ロモランタンでトーマという婦人が親殺しでギヨチーヌにかけられたが之が最後の例である。
此の現象に就いての私の意見は今は述べない。
一八四六年一月に、二人を殺したフコーといふ寡婦が死刑の言渡をうけた。同年二月二十五日、彼女はルーアンから刑場のアルギーユまで運ばれてギヨチーヌにかけられなければならなかったがこの場合は甚だ殘酷だった。
といふのは、普通、最期の時をしらせてからギヨチーヌに囚人をのせるまでは長くて一時間といふ事になってゐるのだが、この時は彼女は二十四時間前に死刑執行の時をきかされゐたからである。
アルギーユは丁度その日はマーケット日だったので人の出はいやが上にも多くフコーの最期を見やうと群衆はひしめきあひ囚人を罵詈した。
此時牧師が立って群衆に對して一場の訓示を垂れたので人々は彼女の爲に同情の涙を流し、涙の中に刑は執行されたと云はれてゐる。
同年六月二十三日、ルビユイでシャナルといふ婦人が夫殺しでギヨチーヌに上った。彼女は公判の間極めて落付いて勇氣を維持してゐたがはたして刑の行はれる時にはどうかしらと皆考へてゐた。
教誨師が當日監房に行くと彼女はおちつきながら、
『何の御用でいらっしゃったか私ちゃんと存じて居りますわ。覺悟して居りますの』
と云った。
彼女の乞ひによって彼女は黒いヴェールをかぶせられ跣足のまゝでギヨチーヌまで歩いて行った。さうして少しも取り亂した様子を表さず立派に最期をとげたのであった。
一八四六年にやはり夫を毒殺して死刑に處せられたラビュチウといふ女の最期は全く之とは反對だった。
最後の時が來たときかせられるや否や、彼女ははげしい絶望の發作状態に陥ってしまった。
『いやです、いやです! 皇后陛下にお願ひして下さい。皇后陛下は女の殺される事を決してお好みにはならぬ筈です』
彼女は全くそれも無駄と知るやわれと我が頭を壁に打つけて死なうとさへした。
『どうしても死ななければならないのなら、外の方法で殺して下さい。銃殺でもいゝ、毒でもいゝ、しかしギヨチーヌだけは許して下さい!』
最後の化粧の間中彼女は悲鳴をあげてゐた。
さうして死ぬまで彼女はギヨチーヌをいやがった。彼女を護送する憲兵隊に對して、
『早く、今直ぐサーベルで首を切って下さい、ギヨチーヌはいや、ギヨチーヌはいや!』
と叫びつゞけたのであった。
ギヨチーヌに上るまで三時間彼女は半ば狂氣になってあばれまわり、ギヨチーヌの刃の下でも逃れやうと身をもだへた。
一八四七年ポアシェーで行はれた死刑は、その陰鬱さと暗さでときにレコードを作ってゐる。死刑を執行されたのは母と子で、殺人、窃盗、尊属殺がその罪名だった。
ムニエルといふのが母子の名であったが、息子の方は未だ漸く二十歳になったばかり、從って彼はいよいよギヨチーヌに上らせられるまでその少年の故を以って死刑を免れるものと信じて居たらしい。それで死刑の日に彼は殆ど喪神状態でギヨチーヌに上った。
子が先づ先に死刑を執行されるのである。母は見物の群衆に對して、
『神の正義を恐れよ、人間の正義を恐れよ』
と叫んで居たがわりに落ついてゐた。
目前で我子の首が切られ、今度は自身の首を切るべく血みどろの刃が又上げられると母は首をその下に出しながら執行人に向って、
『神様だって私を見たらお驚きになるでせうよ』
と云った。
此の話は全く不愉快な物語である。母を子の前で、又子を母の前で刑につける話は我國にもずゐ分ある。母なり子なりがその際、悲嘆にくれてゐる方がまだ我慢が出來る。
ムニエル母子の場合は母ムニエルの恐ろしい冷静さが、刑の惨酷さと一所になって、何ともいへない不快さをわれわれに與へるではないか。
次の話も惨酷すぎる事實譚である。
一八四八年一月三十一日夫殺しのアンヌボアといふ女が死刑を執行された。彼女はその前夜夜半に、明日晝、サンポールの刑場でギヨチーヌに上らされると告げられた。
翌朝午前四時に車にのせられてアンヌボアはサンポールへ運ばれたが、手を縛られてゐたに不拘、巧みに手を自由にし、かくしてゐたナイフで自ら咽喉をかき切った。これが發見されたのが午前六時頃だった。着衣も何も血だらけになってゐたが而もそのまゝ護送が續けられ午前十時になってやうやくサンポールに着いて醫師から手當を受けた。傷を縫って一應の手當をし改めてギヨチーヌにかけやうといふのである。
貧血した彼女は、勇氣を恢復すべく、刑の執行を一日二日のばす事を嘆願したがきゝ入れられず正午に至ってやうやくギロチーヌの刃が彼女の首をはねたのである。
アンブロジン・ゴスランといふ女性は、その戀人を助けて夫を殺したといふ廉で一八四九年四月十三日に死刑を執行された。
彼女は死刑の時をきかされた時少しも驚愕の状を見せず、ギヨチーヌの所までの護送の間キャフェをのんだり、菓子を食べたりした。
いよいよギヨチーヌの刃が落ちた時、どうしたわけか刃が彼女の首を切落さず僅に傷をつけて止ってしまった。そこで刃は再び上げられ、改めて刑が執行された。即ちゴスランは二度刑を執行されたといふ事になる。
彼女はこの間少しもさわがなかったが、死刑執行人は群衆からひどく嘲けられた。
既述の諸例によっても判る通り、女性の死刑囚必ずしも弱からず男性の死刑囚必ずしも勇敢ではない。
これは何もギヨチーヌに限った話でなく我國のやうな絞首臺でも同じ事である。
從容として死に就くものもあり、狂氣のやうになって絞首臺に上らせられる者もある。
ギヨチーヌ物語もこの邊で一應終りとしておく。
餘談だけれども死刑囚の心理を一番はっきり描いた人はドストエフスキーである。彼は實際一度死刑の宣告を受けたのだ。
彼はその體驗から、その信條から死刑そのものゝ癈止を重んじて居るやうである。
理論は常に闘ひ合う。
死刑の存否はこれからもますます論ぜられるであらう。 (終)
――一九三〇・一二・八――
注)外国人名、一部漢字での不統一部分は適切と思われる方に統一しました。
注)漢字、かな表記の不統一部分はそのままにしています。
注)句読点は追加したところがあります。
注)「死刑囚断末魔の声 首切り器機(ギョチーヌ)凄譚」伝法院鎌五郎 エロチックミステリー・旅と推理小説 1963.10.の大部分は本稿の現代漢字かな対応文。