「クリッペン事件の一挿話」
「文藝春秋」 1928.03. (昭和3年3月号) より
ドクタア・クリッペン(Dr. H.H.Crippen)の名は、苟くも犯罪史に興味を有つ者にとっては、ランドリュー(H.D.Landru)やパーマー(W.Palmer)其他の大犯罪人の名と共に忘るべからざるものであらう。クリッペンの被害者は素よりランドリュー、パーマーに於るが如くに多くはなかった。然しながら、此事件が惹起したセンセイションは決してそれ等に劣っては居なかったのである。
而て此の事件が一般に然く有名である理由は、勿論クリッペン自身の生涯及び犯罪前後の有様が甚だ劇的であったといふに依る事が大であるが、ただ單にかゝる意味でなく本件は、第一に無線電信が犯人逮捕に利用された世界に於る最初の事件であるといふ事、第二に、ヒョスチン(Hyoscin)が殺人に利用せられた最初の事件であるといふ事、
及び最後に、被害者の死體を斯の如く殆ど完全に近いまでに燒燬(しょうき)し去ったといふ事は殆ど其の比を見ない、といふ點に於て犯罪史に永久に記録せらるべき有名な事件なのである。
クリッペンがオールドベイリーに於て審問せられたのは、實に千九百十年十月であった。時の判事はオーヴァストン卿(Load Alverstone)であり、法廷に於て彼を極力防禦したのはトービン氏(Mr. Tobin)であった。而て、クリッペンに對し、正義を代表して公訴を提起し而て遂に彼を絞首臺に送ったのは有名なるリチャード・ミューア氏(Sir R.Muir)であった。
ミューア氏の永き司法生活中、此の事件に於て程、美事にその腕を表したものはなく、又此の事件に於て程、苦心惨憺したるものなし、とは彼の死後その夫人によって編せられたミューア氏の回想録中の言葉である。彼が法廷に於て被告人に對して爲して居る直接訊問(Erorsexamination)(※ママ)は實に峻烈を極め、一時は難攻不落と見えた被告人側の防禦線をつひに完膚なきまでに打挫いたのである。
其の攻撃に對するトービン氏の鮮やかな防禦振、又その間に於けるクリッペン自身の態度、此はわれわれ直接檢察の事務に携て居るものにとっては實に興味を與へるが、恐らく一般の人々にとっても十分その好奇心を滿足させる事に相違ない。が、その紹介は他日機會を見てする事にしたい。
とにかく、この事件に於てのミューア氏の態度は…… Deadly Manner in which Sir R. Muir conducted the Prosecution ……といふ言葉で回想録中には表されて居るが、之に對するトービン氏の被告人防禦も實に素晴らしきものであった。探偵小説家ル・キュー(W.Le Queux)はトービン氏の防禦を稱して Brilliant one と云うて居る。
宿命的な三角關係の一角を形造るクリッペンが他の一角たる妻ベル・エルモア(Belle Elmore)を惨殺し、其の死體を寸斷して我家の地下室にかくしたのは千九百十年の二月の事であった。
同年三月、三角形の殘れる一角たるクリッペンの情婦イーセル・ルネーヴ(Ethel Clara Le neve)は公然ヒルドロップクレセントのクリッペンの住居に同棲するに至た。同年七月クリッペン、及ルネーヴは突如として消失し同月十三日に遂に恐るべき犯罪事實の端緒が發見せられた。即ち、インスペクターのデュー氏(Dew)はヒルドロップクレセントのクリッペンの家の地下室から、ベル・エルモアの惨殺された死體を發見したのであった。
否、正確に云へば、デュー氏はクリッペンの地下室から肉の斷片を發見したのである。若し之が直にベル・エルモアの死體であると明かに判明するやうな状態にあったなら、検察辯護人(Councel for Crown)リチャード・ミューア氏は、あれ程の勞苦を費さずして濟んだであらう。事實此に發見せられたのはただ肉片にすぎなかった。
抑(そ)も之が人肉であるか如何か。もし人肉でありとせば將(はた)してクリッペン夫人のものなりや否や。若しクリッペン夫人の肉片なりとせば夫人の運命は如何? 病死か自殺か將他殺か。もし殺されたりとせば、何時、如何なる方法で何人によりて? 而て何が故に?
之等の問題に明瞭な解決を與へ而て積極的に立證する責任は實にミューア氏の双肩にかかって居たのである。
我國に於ても、又歐米に於ても多く探偵小説の興味の中心は犯罪の發覺から犯人、若くは犯人と推定せらるゝ者の逮捕までにあるやうである。それから以後檢事(我國並に獨逸等に於ては然り。英國には檢事なく檢察辯護人の制度がある)が如何に苦心してその有罪なるを立證し而て正義の刄を逃るゝ惡をなからしむるかといふ事には餘り觸れられて居らない。
之然しながら事實問題としては最も重要な事であって公訴の提起者が證據の蒐集を少しでも怠たならば正義はつひに惡を見逃すといふ結果を生むのである。シャーロックホームズ如何に偉なりと雖も若し犯人を糾彈する者にして證據を擧げ得ずとせば判事は恐らく有罪の言渡を與へないであらう。
宣なる哉、クリッペン事件に於て被告側の防禦者が死力を盡して主張した點は、發見せられた肉片が如何にしてクリッペン夫人のそれであると云う事が出來るかといふ事であった。而て事實公訴提起者の側の壘(とりで)が一時は全く危く見えた位であった。之に對して、右述べた如く、ミューア氏は又必死の攻撃をやって居るのであって、回想録中にはミューア氏の苦心に成る覺書が發表されて居る。
然し私が今ここに述べんとする所は此の事件の法廷に於る劇的光景ではない。又檢事又は檢察辯護人の苦心努力でもない。今ここに紹介せんとするのはクリッペンが倫敦を逃走してから逮捕せらるゝ迄の、最も探偵小説的事件であり、又最も人に知られて居らぬ一挿話なのである。
× × ×
千九百十年七月廿日、英國の汽船モントローズ號(Montrose)はキャナダのクヱベックに向けてアントワープを後にした。モントローズの船長ケンダル氏(Kendall)は時に犯罪事件に就て深い興味を有て居たわけではなかったが然し船乗の通有性たる、ミステリーに對する興味は十分にもって居たのである。故に、全倫敦をあれ程までに騒がし、つひには議事堂に於て迄問題にされたクリッペン事件の噂を興味をもって考へずには居られなかったのである。
忙しい中にも暇ある度には該事件の掲載されて居るタイムスを耽讀し自己獨特の冥想に耽て居たのであった。當時の諸新聞紙は、クリッペンの家から肉片が發見された事、クリッペン及ルネーヴの寫眞並びに人相書が掲載され、クリッペン、ルネーヴ並に地下室の死屍の殘片に對しては懸賞が附せられて一般に捜査される旨を報じ最後にクリッペン及びルネーヴはアントワープ方面に向て逃走せる形跡ありと報ぜられた。
アントワープをモントローズが後にしてから三日目であった。この全國的センセーションに頭をつかって居たケンダル氏の汽船モントローズに當局から無線電信が送られて來た。當時ケンダルは、技師が無線器に對して活動して居た時既に或る直覺によって之がクリッペンに關するものなる事を感じたと云はれて居る。
實に、この時受けられた無線電信は航海中の凡ての汽船に向けて發送されたものであってクリッペン及びルネーヴはアントワープよりいづれかの船に乗じて逃走せるものゝ如く思量せらるといふ意味を送て來たのであった。
當時モントローズ船中にある旅客は全部で三十名を越えなかった。電信を受けたケンダル氏は勿論其の凡てに對して深く考察して見たのである。
此の旅客中、食堂に於て、船長と卓を共にする事の出来た者は丁度六名であった。中二人はジョン・スミス氏夫妻、他の二名はジェームス・ロビンスン氏及びその子息、而て最後の二名はヘイス氏及びその令嬢であつた。
彼等の中一人もクリッペンの人相書に符合するものは無いとケンダル氏は考へた。
無線電信を受け取た其の日の夜、晩餐の卓に於てケンダル氏はクリッペン事件に就て、旅客と種々話を交へた。此の事件が勿論これら六名の客の好奇心をそゝった事は疑ひない。
牧師ロビンスン氏は殊に興味を有て居たらしくケンダル氏と頻りに論をたゝかはしつつ、ケンダル氏の有するテオリーをきゝたがってゐた。彼はその金縁眼鏡を鼻の上になほしながら、クリッペンの無罪のポシビリティーについて自己一流の議論をはじめた。唯、十九歳になる小ロビンスン氏は餘りにこの事件には興味を有て居らぬやうに見へた。
ヘイス氏とその令嬢は夢中になって、ケンダル氏に其の事件の詳細をきゝたがって居たが、しかし、ジョン・スミス氏夫妻はこの物凄い話題については興味を全く見せなかったのである。
若し、ケンダル氏にして、此の話題をこのまゝに終り他の事に没頭したならば、而てもし彼にして正義の氣分に滿たされて居らなかったならば、恐らくクリッペンの犯罪は永遠にそのつぐのひ(※ママ)を見られなかったであらう。
運命はしかし、クリッペンに幸しなかった、此の夜、晩餐果てゝから宿命的な正義の手が彼の上にのばされたのであった。
晩餐果てゝ後、己が室に退いたケンダル氏は、なほも比の犯罪事件に就て頭を惱ましつづけた。彼は机上にタイムスを擴げながら、掲載せられたクリッペンの寫眞にながめ入て居たのである。モントローズ船中には一人としてそれに似よりの容貌をもった人はない。つひに彼は考への範圍を狹め、彼と食車を共にする六名の船客に就てのみ思考に耽て見た。
その中、小ロビンスン氏、ヘイス氏令嬢、及びスミス夫人、この三名は勿論凡ての點から見て此の考察の中から取り除かれなければならない。彼等は第一、年齢から云ても、亦その性から云ても問題にすべき人々ではない、今やケンダル氏の腦裏に往來する映像はロビンスン師、スミス氏、ヘイス氏の三名のみである。ケンダル氏はこの三名を頭に殘しつゝ再び寫眞に眺め入たのであった。
此の時、電光の如く彼の頭腦中に入り來たったものがあった。彼は矢庭にチョークをとってまづその寫眞にある髯を消して見た。つゞいてその顏に眼鏡を描いて見た。何と、つひに彼は三名の旅客中にまさしく之と相似た顏を發見したのであった。
然し乍ら無論之のみを以てしては十分なる自信を得らるべきものではない。乗客中に、偶々クリッペンに似た顏をもった人が居るからと謂て直にその人を殺人者クリッペンなりと定める事は正に輕擧たるを失はない。彼は更に、より以上の證據を求めなければならなかったのである。
深き思案に沈んだケンダル氏は船長室を後にして甲板の上に登て來た。折しも初夏の宵の事である。今しも闇に包まれて行く太洋を見渡しながら船客達も亦甲板上に現れて居た。問題の六名の客も丁度甲板の上に出て己々その話題に耽て居たのであった。無限に擴がり行く大海を見下ろしながら此の船の船長も船客もたゞ冥想に耽て居たのであらう。
運命の手は此の時、恐るべき殺人者の上にのびたのであった。
犯罪の發覺には比の自然界の如何なる現象が役立つか、一寸先の見えぬわれわれ人間の誰が知らう。實に正義の刀は比の時豫想もつかぬ自然界の一現象となってあらはれたのであった。
突如、闇に包まれ行く大海を横切る突風がモントローズの甲板を過ぎ去つた。船長、船客の帽子衣服は風のために吹き飛ばされやうとした。實に比の刹那である。
或る一名の船客の衣服の裾が翩翻として風にひるがへった時、或る現象が起たのを、慧眼なるケンダル氏は決して見逃さなかった。
はたと手を打った彼は、躊躇する事なく船室にとって返した。而て机上になほおかれてあったタイムスをとるやクリッペンと並で掲げられて居たイーセル・ルネーヴの面影に眺め入たのである。彼は一片の紙片を取出してその寫眞に押あてゝ見た。或は其の額の上に、或はその髪の毛の上に。而して逐に彼は或る結論に到達したのである。
疑惑は最早、疑惑ではない。今や疑は確信と變じた。飛ぶやうにして船室を出たケンダル氏は眠たげに機械の前に坐せる無線電信技師の室に飛込んでその肩を叩いた。彼は一片の草稿を持って云た。
「非常に重大な事だ。すぐ打てくれ」
居眠りからさめた技師は何の表情を示す事なく無心に、機械的にその手を動かしはじめたのである。全倫敦を震駭した大犯罪人クリッペンも比の無心の手が彼の運命を決する宿命的なものとは知らなかったであらう。世界の長き犯罪歴史は、今此の無心の一技師の手によって操らるゝ近世の發明品によってこの有名な一記録をして其の重要な位置を占めさせなければならなくなったのである。
この電信は勿論倫敦のスコットランドヤードに向けて發せられた。曰く
「余は確信す。クリッペン及びルネーヴ兩名、我が船中に在り、彼等自身、己が發見せられたるを知らず。他の乗客も、クリッペン乗船せると知らざるものゝ如し。ルネーヴほ終始沈默を守り居れり。彼等ほ荷物を有せず。本船がクヱベックに到着する前に彼等を逮捕する爲、何人かを同地に至急送らるれば可ならむ」
再び云ふ。此の無線電信は、近世犯罪史を繙く者にとっては永く忘るべからざる有名なものとなったのである。
電文を發送せしめたケンダル氏は、漸く安堵の息をついて技師と別れたのである。勿論この電信が極秘なる事を彼に警告した後。
技師の室を出た途端、ケンダル氏は甲板のボートの蔭に人影があるのを認めた。彼が驚いて其處に進んだ時は、最早其の人影は見えなかった。彼の心は再び騒亂された。何人であらう。如何なる目的でここに居たのだらう。もしクリッペン自身ではなからうか。而てもし彼が話を立聞きしたのだったら?
(今に至るも當時そこに居た人影については明瞭な解釋がついて居らない。)
翌朝、稍おくれてケンダル氏は朝食のテープルについた。昨夜の怪しき人影について不安を有て居た船長は、もしや何か變った事がありはせぬかと鋭い神經を働かして六名の客を見渡した。然し特異の事情は發見せられなかった。さり乍り、昨夜、ケンダル氏がテープルに於てなした恐ろしい話は明かに彼等に深い印象を與へたらしい。
ロビンスン師は少しも變らず、ケンダル氏に、船の位置などをきいて快活であった。が、ジョン・スミス氏はいつもに似合はず顏色が甚だ惡かった。
「スミスは船に弱いものですから、昨夜は殆んど眠りませんでしたの」
と、夫人が言譯するやうに云ふのを向側に居たヘイス氏がすぐ引取て
「いや、マリイ(娘の名)も矢張り昨夜は眠りませんでしたよ」
と答へた。さうして朝餐のテーブルは續いて來る沈默によって襲はれた。一座何となく白け渡って見えた。否、白け渡たどころではない。何となく彼らは、一種の鬼氣に襲はれはじめたのである。
無理もない話だ。彼らの中には賞金を首にかけられて居る人間が居るのだ。彼等がそれを知てゐたかどうかは判らない。しかし人間の直感は此の時何となく彼等に警告を與へたものと見える。
餘りに空氣が重たげになったので船長は機を見てその席を立って朝食の終った事を皆に示した。
その時である。彼は傍のロビンスン師に小聲でさゝやいた。
「一寸、私の室までおいでを願へませんでせうか。少々申上げたい事があるのですが」
ロビンスン師は快く承認した。
五分程經てからロビンスン師は船長室のドアを叩いて居た。
「倅も一所につれて來ましたが構ひませぬか」
「令息は勿論用心深い方でせうな」
「無論です」
「ではどうか、おはいり下さい」
ロビンスン師父子は斯くしてケンダル氏の室に入り來たのである。ケンダル氏は戸が閉るや否やまづ葉卷を客に勧め、自分もパイプに火をつけた。而て若きロビンスン氏に葉卷をすゝめたが彼は之を斷てシガレットをえらんだ。
此の時この船長室での會話は次のやうに進行したのである。
ケ「ロビンスンさん。昨夜實は私は素的な發見をしたのですよ。是非その秘密をあなたにお話ししたいのですがね」
ロ「いや、人に關して秘密の事ならば私はなるべくうかゞはない方がよいと思ひますが」
ケ「然しそれは時によります。人は他人に秘密を打明けなければならない時がある。而てその人の助力を借りねばならぬ時があります」
ロ「よろしい。若し今がそん時なら私は喜んで承りませう」
ケ「御承知下さって恐縮です。では早速申上げますが、ロビンスンさん、私はクリッペンが本船に乗て居る事を發見したのです」
ロ「何と仰言る? あのクリッペンを發見したと? 冗談でせう」
ケ「飛んでもない。私は眞面目です。眞面目にも何も、私は今ほど眞面目だった事は嘗て一度もありませぬ。クリッペンは本船に居ます。昨夜私は奴を見出したのです。而も實に偶然な機會から」
ロ「而して、あなたはどうなさった?」
ケ「直に、スコットランドヤードへ無線電信を送りました。さうして本船がクヱベックに着く時に間にあふやうに刑事を派遣してもらふやうに申添へてやりました」
ロ「フン、流石はあなただ。立派にやりなすった。あなたは職務と義務を心得ていらっしゃる」
ケ「さうありたいです。しかしロビンスンさん、一ッ氣がかりな事が出來たのですよ。昨夜電信を打たせた時室の外に忍んで居た人間があるのですが、もしそれがクリッペンぢゃないかと思ふのですが」
ロ「ほゝう、然しもし彼がきいたにしろこの船から逃げる事は出來ないでせう」
ケ「無論です。しかし奴、進退谷まって海へとび込みはしないでせうか」
ロ「飛び込めば死ぬにきまって居ませう」
ケ「左様、それ故まさかそんな馬鹿げた事はやるまいとは信じますがね。……殊に私が信ずる所にして誤りなければクリッペンといふ奴は中々賢い男ですから生命ある限り必ず絶望する人間ではないやうです。必ず何か望を見出します。……如何ですあなたの御考へは」
ロ「御同感です。一體わしはあの事件に就てかなり研究して見たのですが、クリッペンといふ男は要するに、到底一筋繩ではいかぬ奴ですな。……事によるとあなたの裏をかく位の事をやる奴ですよ」
ケ「それ故、之から本船が目的地につく迄、晝夜彼を見張らせておくつもりです。……どうかこの話は極秘にお願ひします」
ロ「私は大丈夫です。誰にも申す事ではありません」
ケ「無論左様御信じすればこそ此話を申上げた次第です。たゞ必要な時は、或る御助力をお願ひ出來るでせうか」
ロ「喜んで……」
ケ「令息にもどうか御願ひします」
ロ「ヘンリ、お前の聞いて居る通りの次第だ。船長の云はれた事は十分心得ておかねばいけませんぞ」
小ロビンスン氏は小聲で服從する旨答へたのであつた。たゞ彼は非常に顏色が惡くなって居た。ケンダル氏がどうしたのかとたづねた程であった。ロビンスン師父子が室を出るに當ってケンダル氏はどうか何事もなかったやうにしておいてくれと云って別れを告げたのであった。
その翌日スコットランドヤードからの無線電信は、モントローズよりも遥に快速力のローレルテイク號はデュー氏を載せてクヱベックに向け急行したといふ事、その結果モントローズが目的地に着くより早く、デュー氏は同地に着しクリッペン及ルネーヴを逮捕するであらら事をケンダル氏に報じたのであった。
此の話をケンダル氏は直にロビンスン師につげた。
「いや、よくやりなすつた。其筋の人に會ったらわしは貴下の立派な行動に就て十分話してやりませう」
といふのが師の答であった。
敷日は過ぎた。英船モントローズ號は逐に目的地たるキャナダの海に靜々と入り來たのである。乗客は皆一同に上甲板に登って大陸の風景を賞讃しながら少しも早く上陸せむ事を望んで居た。
と、突如、悲鳴にも似た叫聲と共に船中は俄に非常な混亂の状態に陥た。ケンダル氏は急いで甲板から下に下りて行ったがロピンスン師は之を見るや人を押分けて進みゆき船長の袖をつかんで問うた。
「何事です、船長」
「いや、申上げて居るひまはありません、とにかく、クリッペンといふ奴は貴下の云はれる通り、一筋繩で行く奴ぢゃありませんからな」
比の問答が終へるか終へない中、早くもモントローズ號向けて港から一船の曳船が煙を吐いて近付いて來た。
たちまち旅客中に噂がひろまった。即ちあの般にはクリッペン逮捕の刑事連が乗て居るのであるといふ事が一般にひろがった。同時に誰云ふともなく、クリッペンは十五分程前に、逃れ得ぎるを知って、進退谷まった結果海に飛込んでしまった、刑事連がもう少し早く來ればよかったに、といふ説が口々につたへられたのであった。
繩梯かけるもおそしとスコットランドヤードのデュー氏はモントローズ號に飛込んで來た。折しもケンダル氏は丁度下に行って居たがデュー氏は早くもクリッペン投身の噂を耳にしたからたまらない。折角の獲物を一寸の所で逃がしたといふ不機嫌はかくすに由なく
「般長は何此に居る? ケンダル氏はどこだ?」といとぶっきら棒にどなり廻ったものである。
漸くケンダル氏が立現れると
「オイ、クリッペンは逃げたっていふぢゃないか」
といきなり劍突を食はせた。
「私はあなたがどういふ噂をきいていらしったか一向存じませんが」
ケンダル氏は落付いて答へた。
側に居たロビンスン師は引取るやうに、
「いや刑事殿、ケンダル氏は實に立派に事をやったのです、わしが十分證明致します」と口を入れたが
「君に云って居るんぢゃない、餘計な事を云ひなさるな、聞かれたら答へるがよろしい」
とデュー氏の一喝に會って驚いて默ってしまった。
不機嫌を通り越して殆んど憤慨の極に達して居たデュー氏はロビンスン師には委細かまはずケンダル氏に對して云った。
「ケンダル氏、わしはクリッペン逮捕の爲にこゝに來たのぢゃ、クリッペンは何處に居るか、早速教へて貰ひたい」
恐らく此の時のケンダル氏の表情程、くすぐったく、芝居がかったものは一寸其の比を見出すのに困難であったらう。又恐らく此の時のケンダル氏の胸中程複雜した感情に滿たされたものも一寸なかったであらう。永い勞苦が美事に効を奏したといふ滿足、而もそれを全く知らずして根據なき噂にまどはされて我がインスペクタア・デューはぷんぷんと怒って居る。
突如ケンダル氏は側に居るロビンスン師を指示して而も皮肉な表情を以って、落付き拂った態度を以って叫んだ。
「デュー氏! 之があなたの探して居らるゝ人物であります。早く手錠をお出しなさるがよろしい。とても一筋繩ではいかぬ奴ですから」
船長の比の言葉が生んだセンセーションは想像するに難くはない。ロビンスン師と航海中、卓を共にしたジョン・スミス氏は餘りの事に、
「何とおっしゃる、之は尊敬すべきロビンスン牧師ではありませぬか」
「左標、尊敬すベキ我がロビンスン師にして而も大山師! この牧師らしいカラをとってそれから頸髯をとって御らんなされ。中から生のまゝのわがドクタア・ハウレイ・ハーヴィー・クリッペン氏其の人が現れて來ますよ」
之がわがケンダル氏のシャーロク・ホームズ式のおち付き拂った答へであった。
人々はこの大なる侮辱に對してロビンスン師が必らずや何か憤慨若くは辯明する事あらうを期待したのである。
然るに事實は全くこの期待を裏切った。此のクライマックスに達した大ドラマに於て主人公たるロビンスン師叉の名クリッペンは何等勇敢なる態度を示す事なく、突如へたへたと側の椅子に倒れてしまった。そして
「おゝありがたい。今こそ漸く惱みが去った!」
と自白同様のせりふを口走ったのであった。
此の一言は、いかにも犯罪人が己が犯行後其の曝露の恐れから日夜苦しめられて居る事を、よく端的に表現して居るものであるが、同時に又その時、その場の緊張さに直に解決をつけてしまったのであった。
モントローズは當時キャナダのファーザースポイントに對して碇泊して居たのであるがクリッペンはそれよリクヱベックの警察に送られる事になって居た。此の時、水先人になって來たのは實にクヱベック警察署の刑事たちであったのである。
逃がしたと思って獲物を、思ひがけなく美事に捕へ得たデュー氏は今までの佛頂面の相構を全くくづした、そこで今度は至極丁重に、
「ルネーヴは如何しましたか」
とケンダル氏に問うたのである、
「下においで下さい」
かう答へてケンダル氏はデュー氏其他の刑事と共に下甲板に下って或る一室にとはいったのである。
小ロビンスン氏は折から雜誌を手にしてそれに讀み耽って居た。
「私を知って居ますか」
若者は顏を上げた。
「いゝえ」
此の答が終るか終らぬ中、デュー氏はいきなり側に寄って云った。
「わしはスコットランドヤードのデューだ。クリッペン及其の共犯者を逮捕する爲、こゝに遺はされたのだ」
小ロビンスン事ルネーヴはこれをきくと等しく驚愕の餘、其の場に昏倒してしまったのであった。
彼――實は彼女――を意識に回復せしむべく醫師は可なり骨を折ったと云はれて居る。
斯くして一代の名優クリッペンは遂に假面を剥がれてファーザースポイントに於てその情婦と共に拘禁せられた。彼等が逮捕せられたのは實に千九百十年の七月卅一日であった。翌八月二十八日にはリワ゛プールに送られ十月十八日(火曜日)からオールドベイリーに於て審問に附せられつひに同年十一月廿三日クリッペンは絞首臺上にその生命を終ったのであった。
彼がヒルドロップクレセントに於てベルエルモアを毒殺してから漸く十ヶ月足らずにして、彼は難なく逮捕せられて其の生命を終ったのである。彼の爲にあらゆる防禦をはかったのは右に述べた如くトービン氏であったがルネーヴの爲に熱辯を振ったのは後のロード・バークネッド(Lord Birknhead)當時のミスター・スミスであった。ルネーヴはスミス氏の防禦及びクリッペン自身の供述等により、殺人事件には無關係であるといふ事になって遂に釋放せられた。
右述べたるが如く、本件に於て、ケンダル氏は非常に重大な役割を演じて居り、且つ非常に美事にそれをなし遂げた。即ちもし彼にして正義の心に乏しく、又犯人逮捕に冷淡であったなら、世界犯罪史上最初の無線電信も記録には殘らざるべく又、この殺人罪は永遠に罰せらるゝ事なくして終ったであらう。
實に、もし彼にして右述べたるが如き態度に出づるの機智なく勇氣なかりせばクリッペンは將してオールドベイリーに出現したりや否や、甚だ疑はしきものである。
彼がクリッペン及ルネーヴを發見したるは良し。而も其後の態度に至っては更に落着きと用意とを示して十分である。
彼がクリッペンを發見した時、彼はクリッペンを捕へる事が出來たかも知れない。けれどもそれは船中にいたづらに不安を齎(きた)すと共にクリッペン自身に如何なる危險が来るやも知れぬのである。假令クリッペンは、生ある所必ず望ありと信ずる人間であらうとも、場合によっては、ケンダル氏が恐れたるが如く、つひに自暴自棄の態度に出でゝ、或は投身したかも保し難い。
クリッペン事件を讀む者は、必ずケンダル氏の功績を忘れてはならない。
ケンダル氏は後に人に對して次のやうに云った。
「いや私は、はじめから彼等を知って居たのですよ。ルネーヴが、まづ私に發覺の端緒を與へ、それがつひにクリッペンの没落にまで導いたのです。或る晩、甲板に突風が吹いて來た時、ルネーヴの着物の裾がひるがへりました。その時です、彼女、即ち當時の小ロビンスン氏の胴衣とヅボンとが安全ピンで結ばれて居る所を見たのは! それで私は彼實は女が少年に化けて居るのだと思ひました。殊にその若者の全く女性的な聲とそのものごしとはますます私のこの確信を堅めたのでした」
以上を以ってクリッペン事件に於るケンダル氏の活動を紹介する事を終ったのであるが、最後にケンダル氏自身が、當時のデイリーメールに掲げた文の大意を左に紹介して筆を擱かう。
余は當局より、電信を受けたる當時、わが胸に懐き居たる疑を何人にも告げずして獨り考慮したり。翌朝に及びたゞ余が最も信頼せる事務長に洩したるのみ。彼も亦余と同様の疑を抱けるを見出せり。而も余は彼をして絶對に秘密を守らしめ、彼等(クリッペン及ルネーヴ)をして最も安心せしめるため常に戯談を云ひ合ひ居たりき。
食事の時余はひそかに彼等の帽子を檢せり。クリッペンの帽子には Jackson Bondevard le word なる印あり而てルネーヴのそれには何等の印なく、冠るに適するため内側に紙片を折込めるを發見したり。ルネーヴは、上品なるおとなしき少女の擧動を現し居り常にクリッペンの制御の下にありき。彼女の服は全く彼女の身體に適せず胴衣とヅボンとは安全ピンを以って結び付けられ居りたり。
彼等、われが彼等を疑ひ且つ發見せるを知らざるが故に余は彼等を逮捕せざりき。何となれば、われもし彼を捕へんかそは徒に船中の騒亂をかもすのみなるを知るが故なり。たゞ彼らは晝夜の別なくひそかに監視され居たり。クリッペンは何等武器を有せぎるを余は注意したり。……
彼は常に甲板にありて讀書し若くは讀書せる振をなし居り、時々戯談を語り意氣頗る上り、食慾甚だ振ひ居たり。彼、余に語るに小ロビンスンの健康の爲、キャリフォーニヤに同行する旨を以ってし且つ、デトロイト、トロント等を詳知せるを語れり。こゝに注意すべきは彼が、會話中、屡々醫學上の専門語を用ひたる事之なり。余が確信は益々確固たらざるを得ず。
余はかねて新聞紙上に於て、彼が入齒を有するを知り居たるを以って、時ある事に、彼をして呵々大笑せしめんと努力せり、而てこの試みは巧みに成功し余は彼が口を開きて大笑するを見、而て入齒をはめ居るを發見したりき。
小ロビンスンが食卓に於る動作は全く婦人のそれなる事明かなりき。而てクリッペンが之に對する態度は全く父が子に対するそれにあらずして、あたかも仲よき情人同志の態度ありき。
一日余は甲板上にクリッペンが逍遥せるを見、後方よりわざと彼が僞名ロビンスンなる名を呼びかけたり。而て彼は全く余に注意する事なく、恰も他人の名の呼ばれ居るが如き有様にて不注意にも余の方を振向く事なくして歩き去れり。
或る時の如き、同様の場合に於て、側に在りし小ロビンスン即ちルネーヴに注意せられてはじめて余が、ロビンスン氏と呼ぶに應じ、而も、天候寒くして耳爲に疾を得たりてふ、嗤ふべき辯解をなしたる事あり。叉彼屡々甲板に在りて、其場に建てられたる無線電信柱を打眺め、げに素晴らしき發明よと賛嘆やまざりし事あり。今にして思へば、天は此の惨劇中の大立役者をして、悲惨なる一個の喜劇役者たらしめしなリ。航海中の彼は、常に喜劇役者として悲劇的終結に近付き居たるなりき。
ルネーヴは、勿論自己が殺人に與せざりしにも依るべけれど、全く危惧の状なかりしもたゞ一見甚だ意思弱き婦人なる事明なりき。而てクリッペンにより、恰も魔術をかけられ居るが如く一擧手一投足全く彼が支配力の下にありたり。即ちクリッペンは彼女を掌中の玉の如くいつくしみ、彼女は全く彼に頼り居りて到底父子の關係とは見るべくもあらざりき……云々。 (終)
注)直接訊問の英文は誤記と思われますが Direct examination や Examination-in-chief の誤記とも思えずそのままとしています。
注)外国人の姓名の区切りは”、”と”・”が混在していますが”・”に統一しています。
注)人名や地名などは作品内のみならず他作品との関係も含めて表記を統一したところがあります。
注)送り仮名で多くの促音など(活字では小文字ではない)が抜けていますが原文通りとしています。
注)句読点は追加したところがあります。会話の末尾の句点の有無は混在していますが無しに統一しています。
注)引用部分は一文字空けで段落冒頭一文字空けはなしですがWeb都合により前後5%空けで冒頭一文字空けは追加しています。
注)明らかな誤字脱字は修正したところもありますが、あり得る表記と思われるところはそのままにしています。
「變態殺人考」
「新青年」 1930.05. (昭和5年5月号) より
種々な意味から變って居ると思はれる殺人事件を數種書並べて見ることにする。
一、ベル・ガネスの話
二十世紀の劈頭に、古來の犯罪史に未だ嘗て現れた事のない殺戮が、一女性によって行はれた。此の事件の發覺は、犯罪地たる米國全土を震駭したのみならず、全世界をおびやかした。
千九百八年の四月の或る夜、米國インデヤナ州のラポルトといふ所に農園を有ってゐたベル・ガネスといふ未亡人の家から失火し、彼女及び三人の幼い子供等の死體が翌日その燒跡から發見された。村の人々はたゞ悲惨な彼女等の運命に涙を流したのみであったが、捜査機關にたづさはる人々は、出火の原因を怪しいとにらんで直に放火犯人の捜査に從事したところ、いろいろ調べて見ると丁度その悲劇の二三日前に、ガネス夫人に解雇されたランフィーヤといふ男が、去るに臨んで何か脅迫がましい事を云ったといふ噂をきゝこんだ。
そこで官憲は直にランフィーヤを捕縛して例のサードディグリーといふ方法を以て訊問した結果、遂に彼はあの夜、夫人及び三人の子供等を殺して後その犯行を蔽ふために放火したのだといふ事實を自白した。
ところが、彼は自白に際して驚くべき事實を申立てた。
「全くやむを得なかったのです。若し私が彼女を殺さなければ、彼女が私を殺したにちがひありません。何故って、私は何でもよく知ってるんですから」
インスペクターにその「何でも」といふ意味を訊ねられて彼は更につゞけた。
「ガネス夫人といふのは實は大變な人殺し女ですよ、あいつは私たちが兎を殺すやうにどしどし人間を殺しちまふんですからね。……はじめクロロフォームで眠らしておいて、それから斧でばっさりやるんです。彼女は秘密の室を「客室」と名付けてそこでやっちまふんです。嘘だと思ふなら、その殺された人間の死屍を見せてあげませう。かくした場所はよく知ってますから」
此の恐るべき供述は、直に官憲を驅って現場を捜索せしめたが、其の結果、ベル・ガネス夫人とは、實は空前の殺人鬼なる事が判明するに至った。
死體は農園の殆ど至る所に發見された。或る者は二人分一緒に、或るものは手足だけ、又あるものは首だけといふ風に。さうして彼女の館のセメントで固められた地下室を掘り返して見るとその下からも人骨が累々として現れて來た。死體發掘は約一週間に渉って行はれ、その結果、彼女の農園は凡て被害者の墳墓なりといふ事實が明白となった。その多くは男子であったが、中には女もあり又子供もあったのである。
彼女の殺した人間の數は遂に明白でないが少なくも百人以上だといふ事だけは判明して居る。或は百數十人と云ひ或は二百人以上だともいふ。
物語にあるブルーベアドは六人の妃を殺戮して、その名を犯罪史上に輝してゐる。近世のブルーベアド佛蘭西のランドリューは十三人の女を殺して歐洲全土を脅かした。英國のクリッペンは僅に一人の妻を殺して第一流の殺人者の仲間入をしてゐる。
之等に比すれば、ベル・ガネスは何と云って批評したらよいのだらう。一女性の身を以って、百餘人(最少に考へて)の生命を奪ったとは、正に超特殺人者と名付けて然るべきではないか、我國の吉田御殿の物語は遠き昔のことである。今やベル・ガネス夫人は二十世紀の劈頭千九百年から僅に八年の間に百餘人を殺したのである。之は犯罪史上決して忘れることの出來ない特殊の事件と云へるであらう。
然らば何故に彼女は人殺しを敢行したか。
一言で云へば金錢上の利慾であったと謂はれて居る。彼女の被害者を四種類に分つことが出來る。即ち子供、裕福な紳士、富んだ夫人連それから保險金をつけた夫である。この内裕福な紳士の數が一番多く、次が子供で之は勿論養育費を付けてもらふ養子である。
貰ひ子を十人も殺す人間は我國にもよくある。ガネス夫人は二十人の貰ひ子を殺したがその點では大して超特殺人者の資格はない。配偶者に保險をつけて殺す手は、多く夫によって行はれるが、必しも珍らしいものではない。たゞ此の場合に於いて、妻が行ったといふことが注意をひく。最後に、裕福な紳士を數十名(勿論一人づゝだが)引き入れて、之を勸待した後、金を持参せしめ、斧でばっさりやって平氣でゐるといふ例は、全く一寸比べものがないであらう。
右述べたやうに、成程彼女の犯罪の動機は利慾であった、と説明は出來る。けれど讀者は既に考へられるだらうが、一女性が單に金を得んが爲にのみ、斯の如き殺戮を敢行するといふ事は、俄に信じ難いのである。
不幸にも、犯人が捕縛されず死んでしまったからその精神状態を知ることは出來なかったのだが、少くも彼女には殺人淫樂の性状が十分にあったと見てよろしからうと思はれる。
ベル・ガネスは元來ノールウェー人で少女時代にアメリカに移住した。廿歳前にスウェーデン生れのアルベルト・ゾーレンソンといふ男と結婚したが、夫に莫大な保險金をつけて千九百年に之を毒殺し、まんまと成功したが、之が彼女の殺人の Opus 1 であった。
之はシカゴでの犯罪で、彼女は之で大金をせしめたが次にガネマスといふ人と結婚した。ところがまもなく彼女はこの夫を或る夜、斧でもって兎を殺すやうに死屍にしてしまった。この夫殺しの理由は、夫が彼女の犯罪をかぎつけて居たからだらうと云はれてゐる。尚、彼女は既にその頃から、女房に保險をつけて之を殺したホッホといふ男と懇意だった形跡がある。
ホッホは新聞に求妻の廣告を出して幾多の女を釣った。さうしてその或る者はガネス夫人の所にホッホと共に訪問したらしいけれども、彼女等はそれきり地上から消失したのである。ホッホの犯罪は然し間もなくばれて、處刑せられた。
つまり、ホッホの求婚廣告の手段はガネス夫人にいゝ例を模範を示したわけである。ガネス夫人はたゞ wife といふ字を husband とおきかへればよかったのである。
ランドリューも同じやうな方法を取った。しかしガネス夫人の方法はもっと直接だった。
彼女はまづ廣告に、ラボルトの風景をのべ農園を裕福な紳士と共同經營したいといふやうな希望を出す。
廣告の劈頭に Comcly widow といふ字があるが、之で見ると無論ガネス夫人は相當美かったらうし、又美しくなければあの方法は用ひられなかったに違ひない。Comcly widow といふ字は、我國の寡婦といふ言葉よりも歐米でははるかに或る魅力をもって居る。
そこで野心のある紳士がたづねて來る。美しい若後家が十分にもてなす事は勿論だ。そこで男もすっかり魅せられてしまふ。無論話はうまくまとまるので、紳士は今度は約束の金を持参する。かうなればしめたもので彼女は直に筋書通り密室(茶室)と名付けたものへつれ込む。
彼女が紳士とこゝで何をなしたかといふ事は明かでない。種々(いろいろ)に想像されるが、明かなたった一つの事は、紳士がこゝでクロロフォームで眠らされた後、斧で頭を割られた、といふ事實だけである。
ところで此の密室なるものが又生やさしいものではない。一旦はいったが最後、中から出ようとしてもオークの大な戸にはスプリングのついた錠がかゝって開かない。窓には外から閂がかゝってゐる。壁は二重になって間には鋸屑をつめどんなにどなっても外からは聞えない仕掛になって居る。
男はこの中でクロロフォームでやられた上に斧で生命を終らせられるのである。彼女が、クロロフォームをかゞした後この室につれこんだか、或はつれこんでからかゞせたか明かでないけれども女が男を斯様な室に入れて殺す以上、十分に所謂色仕掛を用ひた事は考へられる。
その一つの明かな例をあげると、
千九百七年の十二月に、アンドリュー・ヘルゲラインといふ紳士がガネスから次のやうな手紙を受取った。(之は後に官憲の手に渡った)
世にもこひしきわが友へ、
あなたはたゞいらっしゃって、私の唯一の人になって下さればよろしいのです。あなたが此處においでになれば恐らく帝王よりもはるかに幸福だといふ事がおわかりになります。私のよろこびは、王妃の幸福にもまさるでせう。戀人よ、私の農園は、ラボルトに比較すべきものもありません、必ずあなたのお氣に入ります。二つの湖水の傍ら、美しい斜面の上にあるのです。あなたの御名をきく度に、私の心臓は高鳴るのをおぼえます。
My Andrew, I love you !
此の譯は無論うまくないが、原文も決して名文ではない、とぎれとぎれの怪しげな文句だが、蓋し殺し文句たるを失はない。
一體、凡て女性はP、S、に非常に重大な意味を書くものである。多くの女性の手紙は、追伸だけを讀めば用が足りると云っていゝ位のものだ。ガネス夫人も亦その例にもれず、手ぎはよくP、S、を書いて居る。
さりげなく、何でもないやうに、
農園に投資する三千弗を御忘れなきよう――念の爲衣服に縫ひ込まれゝば大丈夫と思ひます。
とやっつけて居る。
アンドリュー・ヘルゲラインは此の殺し文句が文字通りの恐しい殺し文句とは露知らず、有頂天になって、云はれた通りの金を之も云はれた通りに上着に縫ひ付け、意氣揚々と同地へのりこみ、出迎へのガネス夫人の馬車に相乗りになって、ラボルトの附近の住民をあてつけたが、無論それ切り、彼は消されてしまったのであった。
マックリューア・スティーブンスといふ人は「大犯罪及大犯罪人」といふ本の中にこの事を記述して、扨、こゝに至って、しばし、この光景を想像せよ、而て眞實のこの事實の恐しさを考へよ、と云って居る。
なほ男の外に、婦人も數名彼女の犠牲になった事が判明したが、之等はいづれも、所持の寶石や貴金属の爲に生命を失ったので、ガネス婦人は之らの婦人が盛装をして來ることゝ豫期して招待し、生命を奪ふといふ恐ろしい事をやってゐたのである。
ガネス夫人の姉妹といふ者の説に從へば、彼女は幼年時代から全く利慾の權化であったといふ事だが、これが嵩じてしまひには、利慾の爲には人の生命などは眼中にないやうになったのではあらうが、私には、どう考へても、單に利慾からのみの殺人とは思はれない。
おそらく、彼女には人間の鮮血や血みどろのありさまやを見る事が、たとへなく愉快だったのだらう。
たゞ驚くべき事は、ニ十世紀の世の中で、こんな殺人の連續犯罪が五年間も發覺しなかったといふ事實である。實際、もし彼女が、ランフィーヤに殺されなかったら、いつまで彼女の犯罪がつゞいたかわからず、なほ幾人の生命が失はれたか判らないのだ。
かう考へるとランフィーヤが二十年の懲役に處せられたのは一寸氣の毒にも思はれるけれども、然し他面から云へば決してさうも思はれない。
何故ならばわれわれは彼が罪のない子供三人を殺してゐる事を知ってゐるばかりでなく、彼がガネス夫人の犯罪とどの程度に密接であったかを、いろいろに想像する事が出來なかったからである。
但し彼は間もなく肺病の爲に獄死をとげてしまった。
二、ジョーヂ・ジョセフ・スミスの話
千九百十五年、獨墺が全世界を敵として、必死の奮闘をつづけて居た時、英吉利も亦その戰禍にまき込まれて、自國の有爲な青年幾百幾千を戰線に送り、毎日幾百の死者を出して居た際、あの、人間の生命が最も安價に見積られて居たあの時、英國本國の中央裁判所では、ジョセフ・スミスといふ一被告人の生命が、將(はた)して生をつゞける價値があるかどうかといふ事に就いて、一ヶ月餘に渉って裁判がつゞけられ、證人を喚問する事、實に百二十人、時の法曹界の權威、醫學界の權威を集めて論爭が行はれ、つひにある米國の法律家として、
”British justice! It's dear, but it's prime!”
と叫ばせたのである。
國をあげて國民が戰線に赴いてゐる時。
法律家が正義の楯を手に取って生くるに價値なき惡漢の裁きを冷靜に且つ慎重に進めてゐた事は正しくその國の誇りと云はねばならぬ。かの歐州戰亂の劈頭に、フランスの國内にセンセイションを起したのは、フィガロ新聞の主筆カルメットを射殺したカイヨー夫人の事件であった。戰央(たたかいなかば)に英國を騒がしたのは實に「風呂場の花嫁」事件の立役者ジョセフ・スミスだったのである。
カイヨー夫人は無罪の判決を得て釋放された。しかしスミスは有罪と認められて死刑に處せられた。
「風呂場の花嫁」事件は當時、我國でも一寸新聞に載ったことであるが、こゝには、中央裁判所の法廷記録によって的確と思はれる事を稍詳述して見たい。
ジョセフ・スミスの事件は英國に於いてはパーマー以來の大事件で簡單に云へば、スミスが三人の女を順次に妻にし、その妻に遺言を書かしておいて、浴槽の中で溺死させた、といふのである。
彼は幼少の時から既に不良少年として感化院に入れられ、その後もいろいろな罪を重ねて居るやうだが左に簡單に彼の一生を表にしてあらはして見よう。
ジョーヂ・ジョセフ・スミス
一八七一、一月、ビースナルグリーンに生る
一八九一、二月、窃盗罪に依り六月の懲役に處せらる
一八九一――一八九三、ノーサンプトンシャ聯隊に服役せりと稱せらる
一八九六、七月、窃盗、贓物故買により六月の懲役に處せらる
一八九七、この年リセスターに行く
一八九八、一月、ベアトリス・ソーンヒル女とリセスターに結婚す
一八九九、結婚の形式により某女と關係す
(ロンドン、セントジョージ寺に擧式)
一九〇〇、十一月、ロンドンにて捕縛
(窃盗の嫌疑)
一九〇一、一月、窃盗、贓物故買により二年の懲役に處せらる
一九〇八、某女を僞りて婚約を結ぶ
同年七月、一方に於いて、イーデス・ブグラーといふ婦人とブリストルにて結婚
一九〇九、六月、F女と逢ふ
十月、F女とサザンプトンにて結婚
十一月、F女の全財産をもったまゝ、逃走
一九一〇、八月、ベシー・マンディー(第一の被害者)とウエイマウスにて結婚する
同年九月、マンディーの現金をもって逃走
一九一二、三月、ウエストンシューバー農場にてマンディーと再會
同年五月、ハーンベイのハイストリート八〇番地に住居を定む(之が第一の犯罪地)
一九一二、七月八日、法律的に効力ある夫婦間の相互の遺言成立(即ちスミスが先に死ねば彼のものは妻にゆくやうに反對の場合にはその反對にゆくやうに。但し此の時スミスは殆ど一文無しだった)
同月九日、浴槽を金物屋へ注文
同月十日、スミスが妻をつれてフレンチ醫師を訪問。妻を診斷せしむ
同月十二日、マンディー夫人は自分が遺言を作った事等を手紙に書いてゐる
同月十三日、マンディー夫人浴槽に溺死體となって發見さる
同月十五日、變死證下附さる
同年九月、遺言の檢認を得て、この年の終にマンディー夫人の全財産がスミスの手にはいった
一九一三、十一月、アリス・バーナム(第二の被害者)と結婚
同年十二月、バーナム夫人に保險をつけ、同じ月バーナム夫人遺言を作成
同月十二日、ブラックブールの家の浴槽の中で、バーナム夫人溺死體となって發見さる
一九一四、一月、保險會社から妻の保險金全部を受取る
同年九月、アリス・リーヴィルと結婚。同月直に彼女の許から失踪
同年十二月十七日、マーガレット・ロフティ(第三の被害者)とバスに於いて結婚
翌十八日、ロフティ夫人、ハイゲートの家の浴槽の中から溺死體となってあらはる
一九一五、一月、スミスは遺言の檢認を求めるためデーヴクス氏の許にゆく
二月一日、捕縛さる
五月二十三日、公判に附せらる
六月二十二日、公判第一日
七月一日、死刑の言渡
八月十三日、死刑執行
右が事件の概觀であるが、之が詳しい記述をなす事は本誌上に於いては到底不可能であるから(ワトスンの編述に係る法廷記録だけでも英文で約三百頁に渉って居る)こゝには極大體を諸君に説明するに止めたい。
ジョセフ・スミスが捕縛されたのは無論最後のロフティの事件から、さきに遡って他の二人の女が同一人によって惨殺されたらしいといふ嫌疑にするものだが、スミスは頑として凡ての殺人を否認した。
そこで種々の取調べの結果千九百十五年六月に中央裁判所で公判が開かれたのであるが、此時、被告人に對して公訴を提起したのは、ボドキン氏でスミスの爲に辯論をなしたのは後のサー・エドワード・マーシャル・ホール氏(當時ミスター・ホール)であり、判事はスクラトン氏であった。
さうして問題は第一の殺人事件、即ちスミスが湯船の中でその妻エリザベス・アニー・コンスタンス・マンディーを故意に殺したか如何といふ事であって、他の二つの殺人事件は主たる問題ではなかったのである。即ち、千九百十二年の七月十三日ハーンベイ、ハイストリート八〇の家の浴槽で死體となって發見されたマンディーの問題であった。
今その有様を簡單に述べるため當時の檢察辯護人ボドキン氏のオープニングスピーチの一節を紹介しよう。
……五月の二十九日から六月の初まで彼等(スミス夫妻)の家には浴槽はなかった。然るに七月六日に被告人は浴槽の賣物を或る店から買求めたのである。(中略)而て同月九日に住居の空室に之が備へつけられた。ところで諸君(陪審官)は同月の八日に法律的な相互的な遺言が作成せられた事は御承知の筈である。扨計畫の第一歩は之で成った。次の一歩は夫妻が醫師フレンチを訪問することだったのである。即ち、マンディーに癲癇の症状があるといふ言立をしてフレンチに診斷を乞ふたのである。
一方、近所に住んでゐるミルゲート夫人は、毎日マンディーに會って居り、而てマンディーが常に健康であったといふ事を認めてゐる。同月十三日、フレンチは被告人からノートを受け取った。「早く來て下さい。妻が死にました」とそれには書いてあった。彼のところに驅けつけたフレンチは、マンディーが浴槽の中に既に死んでゐるのを見出した。彼女は仰向きに倒れてゐたが殆ど全身が水にひたってゐた。口も顔も水の中に在り、兩脛は臀部から直に突出し、たゞ足の先だけが浴槽の端に出て居った。
被告人は、ノートを書く前に彼女の首を水から引あげて浴槽の一方にたてかけたと云ってゐる。しかるにフレンチは正に全身が水中につっこまれてゐる死體を見出したのである。ところでフレンチは同月九日と十一日とに被告人によって聞かされた癲癇の發作といふ事によってサヂェストされてゐたのか――諸君、フレンチは一度だって被害者の發作を見た事はないといふ點に注意を願ひたい――兎も角も、この事件については何等の疑をも起さなかったのである。
私の考へる處によれば、婦人が三十三歳になってはじめて癲癇の發作に襲はれるといふ事は極めて珍しいと云はねばならぬ。而も死體の位置は發作といふ事と甚だ矛盾して見えるのである。(中略)死體の解剖がなされたわけではない。夫と醫師とがたった二人の證人である。被告人の供述する處によれば彼等はその朝七時半に起床したといふ、而て八時半にはノートが書かれ、使がやられ、醫師が來たといふわけである。
スミスは其日、浴槽には自ら湯を運ばなかったといふ。湯を運ぶ爲に、バケツをもって風呂場と臺所との間をニ十回往復しなければ浴槽は一杯にならない。マンディーは發作に惱んでゐたといふことである。ところが彼女はこの日スミスが一寸外に出てゐた間にこの湯を運ぶといふ大勞働をやって居る。
「發作による偶然の溺死」といふのが檢屍の調書に記されてあるが、まことに之が溺死たるや、些の疑はないけれども發作といふ點に至っては、私の信ずる所によれば單なる憶測にすぎぬ。而もある婦人を醫師の處につれて行って、この女には癲癇の發作があると云った言葉の上に建てられた推測にすぎない。
檢屍の際にコロナー其他によって發せらるべかりし重要な二つの質問がその時の調書に書いてないといふ事を注意願ひ度い。一つは浴槽の長さ及び中はどの位であったか。今一つはマンディーの身長はどの位であったか、といふ事である。被害者はよく發育して五フィート八インチの丈をもってゐた。浴槽の方は、最上部の一番長い所が五フィートで、底は三フィート八インチで、その巾は上が二フィートで底は一フット六インチである。
而してこのよく發育した女が兩脚をのばしたまゝ浴槽の中で水に全く浸ってゐた。こゝに甚だ簡單な而も最も恐るべき方法がある。之によれば簡單に人を浴槽の中で溺らせることが出來るのである。水のはひってゐる風呂は人がはひってゐれば無論、深くなるわけだが、今人がどっぷりつかって居る時、突然その兩脚を引張りあげるのである。
然らば、躯幹(からだ)は忽ち急傾斜をなして深く水の中に沈み、忽ちにして意識不明となり忽ちにして死はその人を襲ふに違ひない。かやうに風呂の中で兩脚をひっぱりあげられた人間は殆ど如何ともすることは出來ないものである。――而てマンディー夫人の兩脚も亦たしかに浴槽の一方に立てかけられてゐたと發見されたのであった。(以下略)
これはオープニングスピーチのずっと後の部分であるがボドキン氏は次にマンディー夫人の死後のスミスの行動(殊に金錢授受に關して)について詳しく述べ、次いで、第二、第三の殺人事件について一應述べやうとした。ところが、これに對して被告の辯護人マーシャル・ホール氏は極力反對した。マンディーの事件を裁判するのに、他の二つの殺人事件について有力な證據を示すのは陪審官に、或る餘斷を抱かしむることを恐れたが爲であらう。判事スクラトン氏は然し、次の如く述べて檢事のスピーチをつゞけさせた。
私は檢事に、他の二つの事件について證據を擧げる事を許した。然し諸君、諸君が決するべきはマンディー殺害の事件であって、他の二つの事件ではない。それ故、被告人は他の二人の女を殺したにちがひないから、從ってそんな惡人ならばマンディーをも殺したに違ひない、等といふ風に考へてはならん。私が檢事に、二つの事件についての擧證を許したのは、さういふ意味ではない。諸君をして、被告人が結婚して女を殺すといふあるシステムをもってゐたか、どうかといふ事について何らかの参考になりはしまいかと思ふからである。
この言葉に對してもマーシャル・ホール氏は最後まで反對意見をもってゐたらしい。
それはともかく、ボドキン氏はつゞいて、バーナム、ロフティの事件を詳述し最後に次の言葉を以てスピーチを結んで居る。
私は最後に三つの事件の中から同じ點をはっきり抜出してお目にかけよう。いづれの場合にも諸君は、佯(いつわ)りの結婚を見出すであらう。いづれの場合にも女の金が被告の手に入って居る。凡ての場合にいつも女は被告人に都合のよいやうな遺言を作成してゐるし、而もいつも被告の財産はただ女の死によってのみ作られてゐる。
更に、いづれの場合にも、私の考へによれば、必要もないのに醫師の處へ妻をつれて行って居るし、又いづれの場合にも、死のすぐ前夜、必ず夫としての親切を讃美する手紙が女によって出されてゐる。又、被告人はいつも、家をかりるのに風呂場について必ず質問をしてゐるし、女が死んだ時第一に之を發見するのは必ずきまって被告人だといふ事實がある。而てどの場合にも風呂場の戸の鍵はかゝってゐなかったか又はかゝらないやうになってゐた。
のみならず、妻の死んだ後、被告人は必ずその家から失踪するのを常とした。
諸君、之等の事情を熟慮せられたならば、必ず之が、チャンスの問題でなく、或る計畫せられたものである事が判り、おそらく被告人は有罪なりとの判決を與へられるであらう。かくせらるゝが諸君の義務であらう。たゞもし之をなほ疑はしと思惟せらるゝならば諸君は無罪の判決をなすべきである。
ここに私がボドキン氏のスピーチの一部分を掲げたのは勿論一方に於いて、英國の檢事カウンセル・フォア・ゼ・クラウン)のスピーチの一例を紹介したかったからでもあるが、他方、大體、スミスの犯罪をおぼろげながらも諸君に判らせるやうにしたからである。
犯罪實話的に詳述することはわざと避けてスミスの行動の筋書は之でお傳へしたことにしておく。
扨、右に述べた通りスミスの犯罪は所謂ブルーベアドのものであるが、之がパーマーやランドリューと特に著しく異なってゐる點は、既に掲げた通り、殺人として最も簡單な、而も最も頭のよい方法をえらんだといふ點である。但し、三の事件で檢事が指摘した通り、皆同じやうな事をやってゐるのは、かういふ惡人獨特の愚かさを表したものと云ってよろしからうが、ともかく、風呂場で溺死させるといふ殺人方法、湯ぶねにつかってゐる女の兩足を不意にひっぱり上げておぼれさせるといふ考へは、一寸探偵小説にあってもいゝやうな思ひ付きではあるまいか。
たゞ其の際、殆ど抵抗する餘地が無かったといふ事實は、死體にいづれも殆ど傷あとがなかったといふ事に徴して、如何にスミスが巧みに之を行ったかといふ事を物語って居る。
私は醫學に關して全く知識がないからして當然この法廷で大問題になった法醫學的論爭に就いてはふれるのをさけたいが、要するに一言で云へば、直接にスミスが暴力で足をひっぱったといふ事は明かにはなって居ないらしい。殊に問題の中心であるマンディーの場合は、フレンチ醫が簡單に片付けてしまったゝめに、直接證據は中々見出せなかった。
だから裁判長は最後に、陪審官に向って次のやうな説示をなして居る。
(前略)ここ(裁判所)の大部屋に三つの浴槽がおかれてある。その側に物差がおいてある筈である。その三つの浴槽の中で三人の女が死んだのであるが、諸君は今まで五時間の間に聞かれた攻防兩側の事を十分理解して十分の注意をひいて浴槽を観察せられたい。
辯護人マーシャル・ホール氏は諸君も聞かれる通り、被告人には十分殺人の動機のありし事は認められてゐる。即ち女が死ねば彼に利益があるだらうと云ふ事である。
一方檢事は犯罪のシオリーを提出され而て女等が被告人によって殺されたといふ事實を諸君が認められん事を求めて居られる。私のきいた處ではその根本のシオリーは女が浴槽につかってゐる所を被告人が不意に近づいて兩脚を引上げるといふものである。次のシオリーは女がつかってゐるところへ被告人が近づきその兩膝に兩手を入れて抱へて引くり返すか又はそれなり逆に引ぱり上げるといふシオリーである。
又辯護人側は、檢事のシオリーに反對な、合理的なシオリーが有り得る限り、檢事の擧證は十分でないと主張される。即ち、特別に名をあげられなかったが、醫師の所謂エピレプシーといふものゝ有り得る事實を指されるのである。ホール氏はエピレプシーといふ言葉には二つの場合を含有するものとせられてゐる。而てホール氏の指すものは「一時の失神状態」といふ事である。云々。
裁判長は更に長々と説いて特にボドキン氏のシオリーをはっきり二つの場合をあげて、臺詞まじりに説明したので辯護士ホール氏は裁判長並に陪審官にその反對のシオリーをも十分考へられむ事を求めて、公判をとぢたのであった。
一體ブルーベアドの犯罪といふものは或る素質をもったものに限って敢行し得るので、さう誰にでも出來ると云ふものではない。
即ち女をうまく欺く事、云ひかへれば、所謂「色魔」とか、「女たらし」とか名付けられる人間でなければ、出來ない仕事である。
而て、スミスは正しくその一人であるが、パーマーにしろランドリューにしろ、スミスにしろ、所謂色男顏を決してしてゐないといふ所が注意せらるべき點である。
ポール・ブルヂェーは、「レディス・マン lady's man たるには、風彩や教育などは問題にならない」と云って居る。
我國に於いても、女をひっかけて犯罪を行ふ男は、多く決して色男顏をしてはゐない。
之が有名な色魔かと思ふやうである。
然し、かう云ふ人間の多くは、男子には全く目立たないが女には或る魅力を有する容貌を備へて居る男が多い。
ジョン・スミスの場合では彼の二つの眼が一種の力をもって居たさうである。
この稿を書きながら改めてスミスの寫眞を熟視しても、一向私には其の眼の魅力は判らないけれども、女性に對しては催眠術者の目のやうに働いたらしい。
恐るべき視力である。
催眠術といへば、スミスが實際、催眠術を施したのではないか、と疑って居る人もある。
彼を辯護したエドワード・マーシャル・ホール氏は、後に、
「私はスミスが實際催眠術者ではなかったかと考へて居る。彼がこの術を行った、といふシオリーを認めれば凡ての事件――鍵のかゝって居ない戸の事なども、――明瞭になるやうに思ふ」
即ち、スミスは檢事のあげた暴力のシオリーに反し、催眠術によって女を溺らせたのではないか、と云ふ考へである。
催眠術によって、かゝる事が出來得るか、又例へば遺言書などを勝手に書かせる事が出來るかと、といふ問題は醫學上の問題でアルベルトモルやデーヴィスなどは消極説を持して居るやうだけれども一方積極説も屡々法廷で論じられた事がある。フォレル・フォン・オイレンブルグ、フォン・シュレンクノッチングなどはこの説に與して居るさうだが詳しい事は醫學の専門家の知識にゆづる。
それはともあれ、催眠術にかけられて人を殺したといふやうな辯論はロシヤで一度、フランスで二回、堂々と法廷で論ぜられたものである。
ところでジョセフ・スミスは將して變態性慾者であったか。
此の問題は極めて興味ある問題である。
有名な犯罪人、ニールクリーム、チャプマン、或はジャック・ゼ・リパー等には假令(たとえ)他の動機があったであらうとは云へ、サディククムスの徴候が十分に認められる。
例之(たとえ)、ニールクリームの事件では、脅迫によって得られる物質上の利益が動機の一つであったとは云へ、この半狂氣のドクターにとってはそれは主たるものではなく、まさしく彼は變態性慾者であった事が明かである。
スミスの場合はそれ程烈しくはない。
實際、彼は必要に迫られた場合にのみ女を殺して居る。表によっても明瞭な通り、彼は二人の犠牲者以外にも數人の女と關係してゐる。而も之らの女は彼の魅力に魅せられて全く凡てを彼に捧げて居た。然し彼は三人の犠牲をしか出さなかった。
けれども、ノルマルな状態にあったとは思はれない。つまりクリーム程に烈しい衝動には驅られなかったのだらう。
なほ彼は、甚だ屡々妻を毆打する癖をもって居たが之などは何かを暗示してゐないだらうか。
こんな癖をもって居るから彼の魅力は一方恐るべきものがあった。彼の妻の一人が云った。
「スミスは女性に對して恐ろしい力をもって居ました。この力は彼の眼に在ったのです。彼に一分か二分見つめられて居ると全く、マグネティズムにかゝったやうになって意志も何も失ってしまふのでした」
尚スミスは自分の妻(佯(いつわり)結婚の)に對しても又戀人に對しても決して自分が他に女をもって居る事をかくし立てしなかった。
この點は特に注意に値する。
この事實は一方に於いて、女性の心理を甚だよく明かにして居ると同時に、スミスが如何にその微妙な心理をつかんで居たかといふ事を證據立てるものだからである。
單純に考へると、スミスの爲には、或る女と他の女をあはせない方が利益のやうに見えるところが、事實彼は左様なまねを決してしなかった。
此の點に就いてはヴァレラとハンス・グロースのシオリーを参考にする。
「最も貞淑な敬虔な少女でも、今まで多くの戀人をもってゐた男と結婚したがる。この場合、自分がその中から特にえらばれたといふ事が彼女に重大な價値があるのだ」
ヴァレラ
「たゞ、非常に若い、純潔な、而て無經驗な少女のみ、色魔に對して、本能的な嫌厭を感じる。その他の少女はしかし相手の男を愛する女性が多ければ多い程、烈しく彼を愛するものである」
グロース
たゞエリスはそんな本能はないと云って否定してゐる。
バルザックはかつて云った。
「女といふものは、既に誰か他の女のものになってゐる男を得たがるものだ」と。
之等の點は女性の心理の研究にゆづるとして、ともかく、スミスのやうな金もなく、様子みわるく、行儀も知らず、教育もない男があれだけの腕を振ったのを見ると、われわれの間で「彼奴はえらい男だ」とか「あれは馬鹿だ」と云ふやうな事は多くの女性にとってはまるで意味のない事らしい。
一言で云へばわれわれ男が評價する時と女が男を評價する時とは全く尺度が違ってゐるのである。
今一つ興味の中心となるのは、彼の犠牲になった女の彼の犯罪に對する心理である。
ジェスといふ婦人はその著「殺人及その動機」といふ本の序文に、
「ここに注意すべきは一方に殺人者の群が在ると同時に一方に生れながらの被殺者があるといふ事實である。
例へばパーマーに殺された人々は、かねてパーマーを恐れ且つ疑って居た。而もはっきりと! 彼の姑は、もし自分がパーマーの處へ行ったらもう生命はないとさへ明言してゐる。然るに事實ちゃんと彼の處へ行って居るのだ。云々」
と云って、例をなほ多く擧げて居るがその解釋としては一言たゞミステリーだとしてゐる。
スミスの場合に、その妻達がスミスを疑って居たかどうかは無論明かでない、然し彼が妻と一緒に家を借りに行ったり遺言を書かせたりした時の状況には、多少疑はれてもいゝやうな擧動が見える。將してこの女たちが氣がついてゐたかどうか之は疑問だけれどもこれらの點も研究する價値はあるだらう。
ともあれスミスのやうな犯人が女に對してもって居る魅力はまことに驚くべきものである。
我國でも時々かういふ怪人があらはれて、相當なえらい女をまどはせる事がある。必しも殺人事件とはならないが、一種のヒプノティズムにかけられて、可なり常軌をはづす女が居る事は事實である。
三、フレデリック・ディーミングの話
千八百九十二年の十二月の或日、豪州メルボーン市に、英國からスウォンストン男爵と自稱する一人物が到着した。風采も上り中々立派な男だったが、所の警察官は之に十分の注意を向けた。といふのはかつて同地でウイリヤムスと名乗ってゐた放火及詐欺の犯人と、この男爵とが同一人物ではないかと思はれたからであった。
然るに男の方では其の點には一向氣が付かないらしくやがて同行の妻と稱する婦人と共に或る家を借りたが其の時彼が第一にやったのはセメントの樽を註文するといふ不思議な事實だった。
さすがの官憲も何の目的で彼がセメントを註文したのか一寸判らず色々と考へたのである。
ところが丁度クリスマスの前夜、一寸官憲が注意をゆるめた間に、男は妻諸共に逃走してしまった。官憲は直にその家にとび込んで見た。然しつまらぬ家具以外に何も變ったことはない。
すると警察官の一人があのセメントの事を思ひ出した。一體何の爲にあれを註文したか。而て何に使用されたか。
或る豫感があったので一同その室々を隅なく捜索すると、ある部屋の煖爐(だんろ)の側の石が最近に抜かれてコンクリートがかはりに埋めてある事が判明したので、之をとり除くとその下からまだ、新しいセメント樽が埋めてあり、更にそれをかきのけて見ると、頭を砕かれ、咽喉を切られたまだ新しい女の死體が出て來たのである。
それと云ふので男爵に對する捜査網がそこらに一杯に張られたが、メルボーンを去る事遠き或町でたうとうスウォンストン事ウイリヤムスは捕縛された。彼は逃走の途中、列車中で懇意になったケティー・ラウンスヴィルといふ少女をいつの間にたらし込んだか、この女と結婚しようとする處であった。
彼が其地に落付いてから未だ一週間と經たなかったが、彼が新しく妻たるべきラウンスヴィルと一緒に住む事になって居た彼の家には、既に、墓に作る位の穴が作られ、なほセメント七樽が既に用意されて居た。
彼が所持して居た手紙其他から彼が豪州に來る前に、リヴァプール附近のレインヒルにブルックスといふ名で住んで居た事實が判明したので同地に紹介種々取調べた結果スウォンストン男、ウイリヤムス・ブルックス等と稱してゐた此の男は、世界を股にかけて大犯罪を行ってゐた有名なフレデリック・ディーミングと同一人なることがわかった。
と同時に彼がレインヒルで妻と子供等と一緒に居たが其後何等の消息がない事及びそこでもやはりセメントが求められた事實等が判って來たので、同地の官憲は直にレインヒルの家を捜索した。
一番初めに、まるで形のくづれてゐない女の死體、次に二人の少女の死體が現れた。
少女の死體は抱き合ったまゝになって居た。次に男の子、最後に赤坊の絞殺死體が發見された。他の四人は皆、咽喉を切裂かれてゐて、全く二目と見られぬ惨状を呈して居た。
彼の取調べは相當長くかゝったが結局彼はなほ之以外に四人の人間を殺してゐる事實と數萬の金を詐取したことが判明した。
公判はメルボーンで開かれたが、その公判廷で彼は少しも恐れた様子はなく、女の傍聴人に對して盛に横目をつかってゐたといふ。
彼はあくまでも全部の犯罪事實を否認したけれども問題でなく、陪審官は退席する事なしに直に有罪と決した。
かくして此の獸のやうな人間は絞首臺に上ったのである。
注)外国人名、地名、漢字での不統一の一部は適切と思われる方に統一しています。
注)引用部分は一文字空けですがWeb都合により前後5%空けとしています。
注)引用部分など「」の終りが欠けていたり明らかにおかしな所は修正しています。
注)句読点は追加したところがあります。
實話「奇怪なる脱獄物語」
「犯罪科学」 1930.08. (昭和5年8月号) より
昔から、我國でも外國でも、脱獄事件といふものは可なりたくさんある。しかし多くの場合、脱獄囚は、脱獄には成功しても間もなく捕まってしまふので結局、結果に於いては非常に不利な立場に立つ事になる。
ところが、こゝにまんまと脱獄し、而もまんまと逃げおふせた例がない事はない。
さういう實例の中著名なものを二三擧げて見やう。
千九百年代になって、この種の最も有名な例は一つはポリスターとロールフといふ殺人犯人によって行はれたシンシン刑務所の脱獄であらう。これはアメリカに於ける事件で、ポリスターとロールフといふ二人がある農夫を殺した。その結果、死刑の言渡しを受けて、もはや、電氣椅子に乗せられる運命に定まった時、彼らは敢然として、脱獄を企てた。實際、脱獄以外に彼らの生きる道はなかったのだった。
彼らの殺人事件は餘りに惨らしいものだったので、平生囚人をあつかって居る看守連からも特に彼らは憎まれて居た。從って、彼ら二人にとって脱獄といふ事は、一見非常な難事だったのである。しかし、生命を賭しての企てである。彼らは、辛うじて、囚人の中三人までを自分の仲間に引き入れる事に成功した。が、それは實に、彼らの死刑執行と定められた日の直ぐ前日だった。
二人のうち、ポリスターの方が凡てに於いてすぐれて居た。彼はナポレオンのやうに強い意思を有(も)ってゐた。
死刑執行のの日の数日前から、彼は身體が惡いと稱して弱った顏をしてゐた。その前日の夜十時頃不意に彼は腹痛を訴へた。さうして看守に熱い牛乳を求めたのである。
看守が、その要求に應じて牛乳をもって監房内に入り來(きた)った途端、待ちかまへて居たポリスターは、いきなり看守にとびかゝって咽喉(のど)をしめつけた。彼の非常な腕力は一擧にして事を決した。彼は氣絶してゐる看守のポケットから鍵を取り出して、ロールフの室の戸をあけて、ロールフを自由にした。
ロールフは、直にそこから廊下を通って逃げやうとしたが、ポリスターは、その危險なるを知って他の方法をとった。事實もしロールフの考へ通りに進んだなら、おそらく彼らは二十餘名の看守から一斉射撃をうけたにちがひない。
ポリスターは少しも騒がず、ロールフを促がして空氣抜けの穴から上へ出て、とうとう刑務所の屋根へと上った。さうして二十フィートの高さから、二人は飛び下りて、つひに巧みに脱獄をなしおふせた。但しポリスターはどこの怪我もなく飛び下りたが、ロールフの方は左足をひどく傷してしまったのである。
地理に明るいポリスターはともかく重傷のロールフをつれて、ハドスン河を渡ってニューヨークへと逃れ、こゝでサリヴァンといふ男の家へとびこんだ。このサリヴァンといふ男は實は二年前にニューヨークで行はれた老婆殺しの犯人なのだが、それをポリスターはよく知って居り、又知ってゐるのはポリスター一人だった。
從って、今かくまってくれと云ってとびこまれた以上、サリヴァンはいやでも二人をかくしてやらなければならない。しかし自分の責任を輕くする爲にロールフだけをおっぱらふ事にきめ、變装用の着物の外に、五パウンドの金をやって、逃走させた。ロールフはうまくのがれてとうとうブラジルに逃げ込んで永久に刑罰からまぬかれる事が出來た。ロールフは獨逸人である。
一方ポリスターはうっかり動く事の危險を知ってあくまでサリヴァンの家にかくれてゐた。
そのうち、全アメリカの新聞はだんだんやかましく二人の脱獄囚の事を書き立て、つひに兩名の寫眞を掲載し、賞金が一般にかけられ、捜査に從事する役人に對しては、破格の昇進といふ懸賞で、二人に對する捜査が行はれた。
けれども容易に彼の居所はつきとめられなかった。
ところが、官憲は何のよりどころもなかったが、不意にサリヴァンの家を捜査にかゝった。之はたゞサリヴァンといふ男が餘り評判が惡かったから、偶然、こゝへ侵入したものだと云はれてゐる。
この時、ポリスターは、もう少しで捕まる所だった。
官憲の一行がサリヴァンの家にとび込んだ時、ポリスターはその屋根裏のベッドに横(よこた)はって居た。サリヴァンはすばやくポリスターに急をつげ、直に下に降りて警官達に對して、この不意の役人に文句をつけはじめた。之は無論ポリスターに逃げる機會を與へるためであった。
この計略ははたして功を奏し、警官の一隊が屋根うらに上った時、ポリスターは、反對に地下室へと逃れた。
屋根裏を空しくひきかえした一行はつゞいて地下室にかけこんだ。さうして壁をたゝいてみたり、そこにおいてあった酒樽の中味をいちいちなめてみたりして捜査したが、つひに犯人の形跡を見出さないので、とうとう引きあげてしまった。彼らがひき上げると、ポリスターが、そこにあった酒樽の一つの酒の底からぬっと頭を上げて出て來た。
三分の二程酒のはいってゐる樽の中に彼はかくれて居たのだ。探偵がそれをのぞいた時、彼は息を殺して完全に酒の中にもぐりこんでゐたわけなのである。
彼はまもなく、サリヴァンを脅迫して得た大金をもってメキシコに逃れた。
かくして、ポリスターと稱するアメリカ人ロールフと稱するドイツ人は完全にシンシンを逃れて、一生を無事に終へたのであった。
他の有名な脱獄事件は、千九百二年にアイルランドのメリボロー刑務所を脱獄したジェームス・リンチハウンの話である。
リンチハウンの脱獄以後、今日に至るまでアイルランドでは彼についていろんな逸話が傳へられてゐる。その半分は事實とするも、彼は立派なヒーローである。けれども實際は彼はそんなえらい人物ではなかった。第一彼の犯罪といふものが甚だ英雄らしくないものである。
即ち彼は、長年自分が奉公してゐたさきの女主人に瀕死の重傷をおはせ、あまつさへ彼女をある家にたゝき込んで放火したといふ犯罪だった。彼は之が爲に二十年といふ最長期の懲役刑に處せられたのである。
これの前にも彼は一度罪を犯して捕へられたが、脱獄した事があった。それで當局でも非常に注意して、判決が定るとすぐにメリボローの刑務所に入れて嚴重に之を監視してゐたわけなのである。このメリボロー刑務所は、當時アイルランド中で最も嚴重な最新式な刑務所だった。丁度完成するまぎはで、天井の一ヶ所が未だ十分出來上ってゐなかったけれども、そこから逃れ出る危險は全くなかったので、官憲でも、す早くこゝにリンチハウンを収容したわけなのである。
メリボロー刑務所には最新式の設備がしてあった。リンチハウンの監房の戸が完全に閉され、かんぬきが完全にかゝると、外側に白い圓板が現れる。もしかんぬきが完全にされてゐないとこの圓板が出ない。從って看守は、外部からこの白圓板が出てゐるかどうかといふ事を見れば、完全に戸がとぢられてゐるかどうかといふ事がわかるといふ仕かけになってゐた。
リンチハウスはかつて或る學校長を勤めた事があった。從って、彼は相當に知識があり且つ頭脳もよく働いた。メリボローに入れられた第一日から、彼は脱獄の事を考へた。さうして脱獄の第一難關はこの白圓板だといふ事を知った彼は白圓板について詳しく研究しはじめたのであった。
彼は、暫くたってから、書物の差入を典獄に依頼した。たゞ此の際彼の要求した書物は、途方もなく大きな形のものだったのだが誰もその理由を怪しむ者はなかった。無論リンチハウンはこの本を讀むつもりではないのである。
夜になって、囚人共が皆眠入った頃、彼はくだらぬ用件を持出して典獄に面會を求めた。無論彼の要求は退けられ、彼は再び監房に送り歸される事になったが、その時彼は監房の戸をわざと大きくばたんと閉ざした。あらかじめ彼はかんぬきが完全にかゝらぬやうに手はづをしてあったので、例の白圓板は出るべき處へは出て來なかった。すると、かねて、大きな書物の中の白紙を圓く切りぬいておいた彼は、この時、白圓板が表れるべき個所にその白圓紙をそっとぶらさげておいたのである。
嘘のやうな話だが看守は外を通る時之を見て、すっかり、欺されてしまった。
リンチハウンは、かくして絶好のチャンスを掴まへる事が出來た。
彼の居ない事が發見されたのは、彼の脱獄八時間經ってからだった。之は、全世界の脱獄史に於ける長時間のレコードである。
この長い時間を利用して彼は妻にあひ、十分の用意をなし、巧みに倫敦に逃れ、そこからアメリカに渡った。官憲の捜索も遂に功を表さず、この脱獄囚はアメリカで又々盛にあばれまわって數奇な一生を終えた。
彼は屡々その後アイルランドへ戻って來たと云はれてゐる。
フランス人ヂョーヂ・ブランも亦脱獄の大家であらう。彼は實に二十度の脱獄に成功した。但し二十回の脱獄といふ事は二十回の捕縛といふ事を意味する。實際、彼は、折角の脱獄を自分の運命開拓に少しも利用せず、いつも犯罪を又くり返し、とうとう獄中であはれな死をとげた人間である。この點で、今まで書いた人たちとは彼は大分ちがってゐる。
かつて、ブランは、自分を捕へた探偵に對して、必ずお禮に出ますよと云った。探偵がその言葉を全く忘れてしまった頃、一夜、盗賊が彼の家にはいり、目ぼしい物を奪ひ去ったあと、紙片にちゃんとブランといふサインがしてあるのを發見、あはてゝ訴へ出たといふ話がある。
この時の脱獄は、ブランが病氣と僞って病室に収容されてゐる間に、看守の衣服をぬすんで變装して、敢行したものであったが、彼はさきにも云った通り、直に逃げず、探偵の家に忍び込んだりして稚氣滿々の事をやったためまもなく捕まってしまったのである。
最も喜劇的なのはネッドライダーの脱獄だらう。
ネッドライダーは、刑務所の中で謹慎して模範囚人として認められてゐた。そこである時、典獄が、官舎の窓ガラス拭きを入用とした際、彼がこの役にえらばれたのである。
ライダーはそこでこのいゝ役目についた。
ところで或る夕、看守達がつとめををはって歸る時、典獄夫人にあいさつして行ったのだったが、後にその典獄夫人實はネッドライダーだと知って一同呆然としたのであった。
ライダーの脱獄術は極めて簡単でユーモラスなものだった。
彼は窓ふきに行く度に隙をうかゞって典獄夫人プライスの衣服を少しづつ盗んでおいた。但し、盗んだものをもって來るわけにはいかない、そこで彼はそれ等の品悉く、被害者の家の或る場所にかくしておいたわけなのである。
さうして十分變装するに足りるだけのものを盗んだ時、彼はすっかりプライス夫人に變装して、看守達に、鷹揚にあいさつしたのであった。
彼は二度と捕まらなかった。
彼の昔の仲間が二度目に彼にあった時は、もう大勢の子の父親として立派な農夫になりすましてゐた。幸にも、仲間が彼を裏切らなかったので彼は、再びオーストラリヤの犯罪記録に名を乗せられずにすんだのである。
英國のダートムーア刑務所にかつて脱獄なしと云はれてゐたものであるがこのレコードはチャールス・ウエブスターといふ窃盗犯人によって美事に破られた。
彼が容易ならぬ惡人であり、從ってうっかりすると何時逃走せぬとも限らないといふ事は前から一般に考へられて居た。その爲彼は十分嚴重な監視の下におかれてあったが狡猾な彼はその間、脱獄の企みなどは、顔色にも出さずに謹慎して居た。するとある時、ウエブスターは偶然の不幸から左足を挫いたので、刑務所内の病監に移された。
彼が愈々脱獄の決意をしたのは、この病監に移された時であった。
彼は長い熟慮の後、二人の仲間を探した。彼のプランによれば、もし一人で逃走すれば十人なら十人の看守達がかたまって彼を追跡するにちがひない。けれども若し、三人が三方に逃げ出したとすれば、十人の看守は少くも三つに分れるはづであり從ってそれだけ戰闘力が減じるにちがひない、といふわけなのである。
かくしてウエブスターの仲間にはいった囚人は、ブロドリックとクムスンといふ者であった。
彼等のベッドが接して居たためにウエブスターは二人にいろいろな企てをさゝやくのに都合がよかった。病監の床がわりに脆弱である。この床の下には物おきがあって、そこには梯子が有るはづだ。その梯子を利用すれば刑務所の壁をのり越える事が出來る。こんな話を彼は二人につたへた。
此の病監では、めし時には三人が、一所に食卓につく事を許し、且つ一寸した休憩時間があって、看守は、遠くの方から窓を通して見はるのが常だった。
或る日、看守の一人がめし時に外に立って彼らの室を見張って居た。別に異状はない。戸は無論窓からも誰も出入した様子はない。可なり經ってから何心なく窓からのぞくと、三人の囚人は消え失せたやうに居なくなってゐる。看守ははじめは我れとわが眼を疑った位であったが、やがて中にはいってみると、食卓の下の板がはずして、又おきなほしてあるらしい形跡を發見した。
彼らがさわぎはじめた頃には三人は豫定の通り物おきに至り梯子をもち出して脱獄して居たのである。
然し、何事をするにも頭の惡い者は失敗する。この場合でも、ブロドリックとクムスンはたちまち又捕まったが、肝心のウエブスターはとうとう捕縛されずにしまった。
當時警察側の意見では、無論ウエブスターは又犯行をやるにちがひないといふ事だったが、事實は之に反し、彼はその後、正業について居た。
脱獄後、二十年たってから、ウエブスターは倫敦で某通信社の社員をして居り、その友人にはたくさんの警察官だの探偵等がゐたといふ話である。
ウエブスターの如きは、正に脱獄成功者と云ふべきであらう。
ところが中には全く之に反對な例もある。
今から約四十年前に、マンチェスターの、ストレンヂウエイ刑務所を脱したジョン・ジャックスンの如きはたしかに愚者の一人と云ってよろしからう。
彼は、當時單純な窃盗罪によって、懲役六月に處せられて、ストレンヂウエイ刑務所に収容されて居たのである。
六月の懲役は大して長いものではない。況して、脱獄に伴ふ種々な危險を冒してまで、逃げ出す必要は一寸無ささうに思はれる。然るに彼は、脱獄したばかりか、その脱獄にあって、ウェブといふ看守を殺害するといふ驚くべき亂暴を働いた。後その爲に死刑に處せられたのである。
彼は、或る日の午後、刑務所内の監房の一部を修理中、不意に看守ウェブにとびかゝり、ウェブの手にしてゐたハンマーを奪ひとってウェブを一撃に打ち殺した。その途端に、外から女の聲で一體何事だと訊ねる聲がきこえたので、彼は鍵をしめると同時に素早く、屋根に登り、室外の女が他の人々をよんでゐるまに、屋根から、サウトホール街にとび出してしまった。
夜ならばいざ知らず、まっぴるま、マンチェスターのやうな人の混雜する町の中を、脱獄人が誰にも怪しまれずに逃走し得たといふのは全く不思議な事件といはねばならない。
暗くなってから彼は、或る古着屋の店頭から一着の衣服を奪ひ去ったが丁度その頃『ストレンヂウエイ刑務所内の殺人事件』を報道する夕刊賣子がとびまわってゐた。
あらゆる機關が活躍したけれどもジャクスンの足跡は判らなかった。二週間後、彼は、ファースといふ僞名のもとに、ブラッドフォードにあらはれ、或る下宿屋にはいりこんだ。
二週間の苦勞で彼の容貌は見ちがへるばかりに變ってしまった。
もうその頃には烈しい捜査の手もいくらかゆるんで來たので外出しても危險はないやうに思はれた。實際、若し彼がこのまゝ小さくなって居たなら或は安全だったかも知れない。
然し、彼にとって一番恐ろしかったのは飢であった。彼は一文の金ももって居なかった。ある午後、彼は、ふらふらと外に出てブラッドフォードをうろついて居た。その二日まへから、彼は一片のパンすらも食べて居なかった。
とある乾物屋の前に立った彼は、この飢といふ誘惑には打ち勝つあたはず、店員の隙をうかゞって、牛肉の罐詰を盗まうとしたが、之が彼の運のつきで、その場で店員にかっぱらひとして捕まって官憲に引渡された。
けれども、もし彼が、ウェブのポケットから奪ひとって來たナイフをその時、そのまゝ懐中してゐるといふようなへまさへなかったら、このファースが實はジャックスンだとは容易に判らなかったかも知れない。
彼の顏は左様に劇しく變化してゐたのだった。たゞ彼が右述べたやうな馬鹿をしてゐたので直にウェブ殺しと判明してしまった。
斯くしてジャックスンはまもなく死刑を執行されてしまったのである。
脱獄事件で著名なものと云へば大體、右のやうなものであらう。
極めて頭のよい、幸運に惠まれたもののみが成功して居る。
脱獄それ自體は必ずしも難い事ではないらしい。殊にジャックスンのやうな死物狂の行爲に出る場合には一應脱獄には成功するやうだが結局、先にのべたやうに、あとで捕まるといふ事になる。
だから我國でも、私はある典獄から次のやうな話を聞かされたことがある。
「私は、いつも囚徒に云ふんです。逃げるなら勝手に逃げて見なさい。見張ってゐる方には隙もあるだらうから、逃げられない事はあるまい。しかし之だけの事は覺悟をしておいて貰ひたい。――決してそのまゝ逃げおほせるものではない。きっとこっちは捕まへて見せるから。――私はよくかう云ってきかせるのです」
これはある典獄の言葉である。
一九三〇・六・一
注)外国人名、地名、漢字での不統一の一部は適切と思われる方に統一しています。
注)明らかにおかしな所は修正しています。また句読点は追加したところがあります。
「リッチモンドの惨劇」
「犯罪科学」 1930.09. (昭和5年9月号) より
『強力犯篇 防犯科学全集4』『浜尾四郎随筆集』『浜尾四郎全集1』の改題再録作「カスリン・ウェブスター事件」の伏字なし版
一
人を殺して其の死體と共に同じ家に數日をすごし、後その死體を何とか始末をつけるといふ話は、探偵小説ばかりではなく、最近には我國の新聞紙上にもちょいちょい見られるところで、必ずしも珍らしいものとは云へないけれども、かゝる場合の犯人は殆ど全部が男性である。
之はあたり前の話で一體女性は男よりも氣が弱いのだ。病死體とたった二人(?)で一つの家の中で一夜を過すことすら中々むづかしい。況して惨殺死體の側にたった一人で坐してゐられる女が一體世の中に何人あるだらう。
ところがこゝに、自ら手を下して惨殺した死體と共に数日を一つ家でくらし、揚句の果てにはその死體を三つの部分に切り離して、犯跡をくらまさうとした女が居る。
本篇の主人公で、まだ卅歳になったばかりの英國の一女性は即ちその犯人だが、彼女の犯行前後の状況を見ると、之が人間の、而も女性の犯罪かと驚かれる。若し探偵小説の中にこんな人物を描出したとすれば恐らく讀者は、作者の荒唐無稽なる空想の所産だと嗤ふであらう。以下私は何らの想像を加へる事なしにこの事件を叙述して見やうと思ふ。
二
一八七九年三月はじめの或る夕ぐれ、英國リッチモンドの近く、テムズ河の邊にあるハマースミスに住むポーターといふ男が突然、一人の婦人の訪問を受けた。見ると此の女は六年以前にポーターの隣りに住んで居たカスリンウェブスターといふ卅歳前後の女であったが、ポーターの隣に住んで居た頃はいつも貧乏で、何かといふとポーター一家から世話を受けて居たといふ關係からして、ポーターの主人はウェブスターの訪問を餘りよろこばなかった。
ところが話を聞いて見ると、態よく追ぱらふ氣にはなれなくなった。といふのは、あの頃こそ困っていろいろ迷惑をかけて居たが、最近に、夫に死に別れ今やトーマス未亡人として立派に暮して行かれる身分になって居るといふのだ。
「リッチモンドに大きな家と立派な家具がありますの。お負けに銀行にはたくさんの預金もあるし、まあ悪いけれど、私夫が死んでもちっとも悲しいなんて思はないわね。――時に私近くリッチモンドを引越すつもりなんですけれど、私があそこを去る前にどうか一度御訪ね下さいましね」
トーマス未亡人はかういふ申出をなした。ポーター父子が之を喜んで受けたのは云ふまでもない。いや受けたばかりではない。その夕べ、トーマス未亡人はポーターの家でせい一杯の歡待を受けたのであった。
トーマス未亡人はポーターの家を訪れた時はじめから一つの黒い鞄を持って居た。彼らがいろいろ昔話に耽ってゐる間、この鞄はテーブルの下におかれてゐたのだった。
かうして樂しい夕べの時間は二時間程すぎた。
あたりが暗くなったので、トーマス未亡人は、黒い鞄を取り上げて別れを告げやうとした。
昔いゝ目付で見なかった女が今は物もちになって居る。人情に東西の變りはないと見え、ポーター父子はそこまで御送りしやうと申出た。
「重いでせうから其の鞄を持って行きませうよ。――オヤ中々重いですね、尤もあなたは昔から御丈夫だったが」
こんな世辭を云ひながら若い方のポーターが鞄をぶらさげて外に出た。
途上では樂しい昔話が又くり返された。さうして其の翌日、ポーター父子はトーマス未亡人をリッチモンドに訪問することに約束をしたのである。
こんな話をして居るうちに三人は或る酒場の前にやって來た。
三人がその酒場にはいると、若い方のポーターは鞄を戸の側において何か呑むものを命じた。
「一寸外に行って來ますよ。何直ぐ戻って來るから。私にも呑むものを云っておいてね」
かういってトーマス未亡人はその鞄をもって外に出たが、まもなく又戻って來た。その時、彼女の手には何もなかった。勿論このことは其の當時さして注意されなかったところである。
其の翌日約束に從ってポーター父子はリッチモンドにトーマス未亡人を訪問した。丁度其の席に偶然チャーチと稱する道具屋が來て居たが、この男とポーター父子を相手にトーマス未亡人は、陽氣にティータイムを樂しんだのであった。
この會話の行はれた部屋の隅に一つの箱がおかれてあった。話の間にトーマス未亡人は之をどこかへ運ぶやうな話をして居た。
樂しい茶の時間が過ぎた時、まづチャーチがいとまを告げた。ポーター父子は暫く物語った後別れやうとした。その時トーマス未亡人は、その隅においてあった箱をハマースミス橋の上まで持って行ってもらひたいと云ひ出した。彼女はそこでその夕ある人にあって非常に大切な用件を片付けなければならないといふのだ。
無論ポーターはその頼みをきゝ入れ、息子と父とがかはるがはるその箱をもちながら、トーマス未亡人と三人で又ゆかいにハマースミス橋まで行ったのである。
橋の上まで來ると、トーマス未亡人は、
「ではこゝでお別れ致しませう」
と云ひ出したので、ポーター父子は、箱をそこにおいたまゝ未亡人と握手して別れた。
約二十秒、ポーター父子が歩いた時、突然ザブンといふ水音がきこえた。身投げか? 斯う思って二人は暫く耳を立てゝ居たが、別に救ひを求める聲もしないので、彼等はそのまゝ歸宅した。
ポーター父子はこの事があってから別に何も氣にして居なかったのである。
當時英國にはいろんな事件が多くて社會はいろんな事に氣をとられてゐた。ヴール戰爭の最中なので多くの人達はその話で夢中だった。
だから暫く經ってからバーンズの附近で一勞働者がテムズ河から箱を拾い出し、その中から人間の骨が出て來たといふセンセーショナルな報道があってもポーターは何も思ひ出さずに居た。
彼らが何も思ひ出さずに平氣でその日をくらしてゐた時、突然ポーター父子はスコットランドヤードの役人に召喚された。その嫌疑は、チャーチ・カスリン・ウェブスターと共謀してリッチモンドに於いてジュリヤ・マルタ・トーマスといふ寡婦を殺害し、剰(あまつさ)へその死體を三分して之を捨て去ったといふのであった。
トーマス父子は氣を失はんばかりに驚いた。實際彼らは、讀者の知る如くその殺人事件に付いては何も知らなかったのだ。
やうやく暫くたってから彼らの無實が明かになったが、しかし、彼らがトーマス未亡人と稱したウェブスターの鞄を自分の家に二時間もおいた事はとりもなほさず眞物(ほんもの)のトーマス未亡人の首をテーブルの下に二時間もおいてゐた事になるので、この事實は思ひ出して十分後あじのわるかったことに違ひない。つづいてその翌日ハマースミス橋まで、人骨の入った箱を、のんきな事を喋舌(しゃべ)りながら運んだことも戦慄の種となったに相違ないのである。
然らば、リッチモンドの惨劇は如何にして行はれたか。
三
簡單に云ふと、リッチモンドにたた一人で暮して居たトーマスといふ五十六歳になる後家さんが、たった一人の下婢カスリン・ウェブスタ−といふ卅歳の女に毆り殺されたので、ウェブスターは兇行後、女主人の死體を三日かゝって燒き、其の結果完全に死體が消失しない事を發見するや(此の事實はかゝる殺人者が愚かにもいつもあとになって發見する事實である)死體を首、胴、其の他の骨と三つ部分に分ち、各部分を河に投じ、一部は埋めてかくしておいたといふ惨(むごたら)しい事實なのである。
たゞ驚くべきことは、かくの如き残虐が、完全にウェブスターといふ女性一人の手で行はれたに不拘(かかわらず)隣人は全く何らの疑ひも起さなかったといふ事である。
カスリンウェブスターといふ女が、物持ちの後家ジュリヤ・トーマス夫人の家に使はれるやうになったのは一八七九年の始めであった。
淋しいのでトーマス夫人は誰か同居人を求めて居たのだが適當な人物が見當らなかった。トーマス夫人の住んで居た家は、その隣りに住んで居たアイヴス夫人の所有に属するものでアイヴス夫人及び其娘がちょいちょいトーマス夫人の所へ話をしに來た。それから毎日曜日の夕方は必ずトーマス夫人は近くのプレスビテリヤンチャーチに行く事にして居たのでそこに數名の友人があったわけであるが、其他に友人といふものは殆どなかったのである。
雇はれたカスリン・ウェブスターは當時卅歳、やせ形で鋭い眼をもち、大變陰氣な女だった。元來カスリンは世の中をいつもひがんだ目で見て居たのである。それ故いつでも誰にあっても愛嬌なんていふものは少しも現はさなかった。彼女の生立ちは一言で云へば淋しいものだった。
若し彼女がかつてキングストンで窃盗罪の爲に一回罰せられた事實、及び彼女には育てなければならない子供があるのだといふ事實を知ってゐたならば、無論トーマス夫人はカスリンを雇はなかったであらうが、然しこんな事は誰にも知られて居なかった。
カスリンはそれまで女中になってゐる間に二回、主人のものを盗み出して雇先から追拂はれた。その動機は何とかして、働かずに一生安穏に暮したかったからにすぎない。
然し二回の窃盗によって罰せられた彼女は今までの自分の誤ちに氣がついた。惡かったと悟った。だから窃盗はもうやめやうと決心した。さうしてもっと大きな仕事をやってその一回で一生の財産を作らうと決意したのである。其の最も大きな仕事の目標に定められたのが即ちトーマス夫人であったとはまことに不運の極みであった。
恐ろしい、然しはじめは漠としたこの犯罪の考へは、トーマス夫人の日常の生活を毎日見るに及んで、だんだん具體的な決意をよび起して來た。トーマス夫人は老人であるからいざとなれば極めて簡單に片付けられるべきである。同家には殆んど來客といふものがない。その上トーマス夫人の財産の在場もつひに凡て判って來た。
之等の事實はある目的をもって入込んで來たカスリンに確固たる決意を與へてしまった。彼女のプランに從へば、彼女はまづ第一に女主人を一撃に斃し、その有金を悉く奪ひ取り、然る後自らトーマス夫人といふ名を名のって女主人公になりすまさうといふのである。
一撃に殺すことはともかくも、いかに訪客がない家とは云ひながら隣近所のある家で、女中が主人になりすますといふ事は、われわれから考へると一寸馬鹿らしい話である。然し、カスリンはまぢめにさう考へたのだ。
殺害だってさうたやすくはいくものでない。いくら相手が弱い人間でも、悲鳴をあげればすぐアイヴス家にきこえる筈だ。又もしうまく行っても隣家のアイヴス夫人は直ぐトーマス夫人が居なくなった事に氣がつくだらう。
この邊の事に付いては、カスリンウェブスターはおどろくべき自信と過信があったらしい。(又實際彼女は、結果から見るとその位の自信をもって居てもよかったのだが)
これらの點から見ると、ベルエルモアを殺して逃走したあのクリッペンとどうも性格が似て居るやうに思はれる。
四
カスリンがいよいよトーマス夫人を殺す決心をしたのはその月の廿五日にカスリンは或る知合いに、自分の伯母が遺産を殘して死んだのでそれが自分の手に入ったから、將來は樂に食っていかれるやうになるだらう、と語った事實から推定される。つまり、手に金がはいってから怪まれないやうに、豫めこんな事を吹聴したものである。
此の時の會話は後に極めて重大な證據となった。即ち、トーマス殺しは決して一時の興奮からでなく、深謀遠慮の結果であるといふ事になるので、此の點に法律問題としては(特にヨーロッパでは)重大な關係があるのだ。
三月の二日は日曜日だった。トーマス夫人はいつもの日曜日の通りに夕方プレスビテリヤン教會に行った。そこで彼女は二三の知合と此の世での最後の會話をやって居る。
うちに自分を殺さうとしてカスリンが待って居るとは無論思ひもよらぬこの老夫人は、教會をあとに徒歩で歸宅した。何くはぬ顏で主人を迎へたカスリンは帽子と外套を受取ると、そのまゝ臺所へいつもの如く引下ると見せて實は廊下の戸のかげにかくれてゐた。トーマスは一旦階段に上り自分のへやの鏡の前で一寸形をなほすと再び下へ降りて來た。
丁度夜の九時頃の事である。
戸のかげに恐ろしい怪物がかくれてゐるとは知らずトーマス夫人がそこをすぎて二三歩行った途端、待ち構へて居たカスリンはいきなり後から棍棒様の物をふりあげて力一杯、トーマス夫人の頭を毆りつけたのである。この一撃で夫人は叫び聲すらあげ得ず失神して仆れたが、息ふき返すまもなく、カスリンの兩手は咽喉もちぎれよとばかり夫人のくびにまきついたのであった。萬事は簡單に終った。全くカスリンが豫期してゐた通りだった。
此の惨劇が行はれて居た丁度その時、この家から僅か二ヤード位しか隔って居ない隣りのアイヴス母娘は何も知らずに樂しげに話し合って居たのである。
兇行直後(此の時その場を照して居たのはわづかかに臺所にあった灯だけだった)カスリンはうす暗りで一旦被害者の青白い顏を覗き込んで確に死んで居るかどうかを見定めた。さうして今の物音が外に聞えはしなかったかとあたりを見廻したのである。
この光景――ほのかな灯の光、死體、その側に立つ女、この光景だけでも氣の弱い女の人には戰慄を與へるのに十分ではないか。
カスリンは今やこの家の中にたった一人である。自分で手を下した死人の外にはこの家には「生物の形」さへない。この恐ろしい一夜彼女は死體の處置について考へてゐた。
あたりまへの女性にとっては此の恐ろしい一夜をくらす事だけでも彼女をかつてヒステリーにするに十分である。然るにカスリンは鋼鐵のやうな神經を以って見事にこの試みに耐へたのである。
私はここで特に一言したい。
一體兇行前に於いては犯人はかなり勇敢になるものである。この點に就いてはカスリンは決して比類なきタイプではない。たゞ注意さるべきは、彼女の兇行後のこの勇敢さである。實に驚くべきではないか。私は讀者がここでもう一度、リッチモンドの一家屋の中でカスリンがその被害死體と一夜を共にあかした光景を想像せらむ事を望むのである。
否、この一夜ばかりではない。ついで述べるとほりカスリンはなほ二三日こゝに死體と居たのだ。
然し彼女もやはり人間だった。數日の證據隠滅の手段が終って萬事これでよしとなった時、流石の彼女にも調子の狂ひを生じて來たのだがその點に就いては後に述べやう。
五
彼女は而も死體を其のまゝにして考へてゐたのではない。
カスリンは死體を勝手にまで引ずって行った。さうしてそこの大釜に火を燃しはじめた。アイヴス夫人はこの火の燃えるのは知ってゐた。しかし日曜日の夜にいやに働く女だと思ったのみで別に疑ひを起さなかった。
カスリンはその大釜の中にトーマス夫人の死體を投げこみ、この大釜の前で、いろいろな感想にふけりながら、一睡もせずに一夜を明した。
翌朝が來てもまだ完全に死體が焼けなかった。彼女はそれを見ると釜をそのまゝにして二階に上り、主人のベットの中にはいって、安らかにぐっすりと眠ったのである。
彼女は目ざめると、平氣で階下に下りて朝めしを食べた。さうして火をたく事をつゞけてゐた。
すると突然、玄關の戸を叩くものがある。はじめてカスリンは恐怖におそはれた。しかしやむ得ず出て見ると、見知らぬ紳士が、トーマス夫人に面會を求めるのであった。
「氣持が惡くてねて居るからとても會ひませんよ」
と烈しく云ってばたんと中から戸をしめてしまったが、幸にして此の紳士はそれであきらめたと見えて二度とは訪れなかった。
此の日即ち月曜日一日中釜の下の火は絶えなかったけれ共、まだ死體はやききれなかった。夜になってカスリンははじめて、之はとてもだめだ、燃やしても人の死體といふものはどうしても跡が殘るものだと悟った。
この夜彼女は二時間しか眠れなかった。
火曜日の朝が來た。依然として釜の火は燃えつゞいて居る。カスリンはあとからあとからどしどしと薪を投げこんだ。牛乳屋だのパンやだのは無論臺所にちょいちょい來たが別に中を覗かずに行くから恐れることはない。カスリンはたゞ玄關の戸が叩かれるのを恐れてゐた。といふのは玄關から來る人は必ずトーマス夫人にあふはづの客だからである。
此の日、その恐れる玄關の戸が叩かれた。
恐る恐る出て見ると見知らぬ少女だった。
來意をきくと、かねてトーマス夫人から大屋であるアイヴス夫人に對して屋根をなほしてくれといふ依頼があったが、その要求により今日午後屋根屋をよこすから、といふアイヴス家からの使者であることが判った。
屋根屋が來る! 來られては萬事休すだ。
「あれは間違ひでした。トーマス夫人の思ひちがひでした。屋根は何ともありませんからアイヴス夫人にさう云って下さい」
彼女はかう云って臺所に引返した。どんな變った大屋さんでも借家人がかう斷はればむだな金を使って人をよこすわけもあるまいと彼女は考へた。アイヴス夫人も普通の大屋と同じだったと見え、その午後には誰も來なかった。
釜の火は不相變(あいかわらず)燃えて居る。しかし、之はいくらやっても同じ事である。カスリンはたうとうかう思った。どうしても之はどこかへ死體を運ばなければなるまい、と。
アイヴス夫人はもう二日に渡って隣りのトーマス夫人に會はない。けれども別に疑ひを起さなかった。無理もない話だ、三月の風のふく頃、五十六歳の老人が出歩かないといふ事は不しぎではない。大かたベットにでもはいって居るのだらう位にしか考へなかった。
六
死體を燃やす事について失敗したカスリンはたうとうこれを運び出す事にきめた。
彼女は驚くべ冷靜さを以て釜から死體を引出し之を頭、胴其の他の骨と三つの部分に切り分けた。
讀者よ、彼女にはかつて我國で『鈴辨事件』を惹起した犯人のやうに、前に豚を切りさいたやうな經驗は全くなかったといふ事に注意されたい。
彼女は黒い鞄の中に先づトーマス夫人の頭をつめた。さうしてハマースミスまで出かけた。彼女が何故ハマースミスまで出かけたか何故特にハマースミスをえらんだかその動機は明かではない。ハマースミスまで行かなくても、リッチモンドのテムズ河附近に人に見られずに鞄を投げこめる所はいくらでもある筈である。
この點に就いてはっきりした記録は殘って居ない。
私一個としてはかう考へる。鞄を捨てに行くといふ考へが浮んだと同時に彼女の胸の中に誰か知合と口がきゝたいといふ希望が浮んだのでなからうか。
二日二晩、死體を燃やす事に費し、而もヒステリーにもならなかった彼女もやはり人間である。たった一人で家の中で恐ろしい仕事を二日二晩もしつゞけた彼女である。其間殆ど誰とも口をきかずにくらした彼女だ。今や、彼女は人なつかしくなったのだ。だからわざわざハマースミスまで出かけたのではあるまいか。
近くの知合にあう事は恐ろしいのだ。アイヴス母娘などは最も危險なのだ。それ故遠くの知合がなつかしかったのだらう。
鞄をもって出かけたこの鬼のやうな女の胸に、この時浮んだのは六年以前、わりに親切をつくしてくれたポーターの人々だったに違ひない。親があれば親の所へ行ったらう。兄弟があれば兄弟を訪ねたであらう。
彼女にはそれがなかった。彼女の胸に浮んだのは、ハマースミスの邊りのポーターの人々だったのである。
だからこそ、讀者の既に知って居られるやうに、彼女は鞄を投げすてるといふ重大な仕事をするより前に、ポーター家を訪れて居るのではないか。
私の此の解釋は、稍感傷的にすぎるかも知れない。しかし犯人がことに女性である事、及び假令(たとえ)鋼鐵のやうな神經をもってゐたにせよ二日二晩殆ど誰とも話をせずに死體と共にくらした彼女に、この程度のセンチメンタリズムがなかったと云へやうか。
彼女がポーター家についてからの事情はすでに記した。その時、彼女が鞄を平氣でテーブルの下へおいて話に夢中になってゐたといふ事實やポーターの息子に鞄をもたせた事實などは、私の考への正しいことを表しては居ないだらうか。こんな常軌を逸した行動は、彼女の淋しさが急にポーターの人々によってまぎらわされた反動と見るべきであらう。
それはともかく、この時、カスリンが河へ捨てたと見るべきあの鞄はたうとう後になっても發見されなかったのである。
その次の日ポーター父子に來て貰ふやうに云ひおいて彼女は其の夜、又家に戻った。三つの死體の部分の中一つは完全に消失した。胴が問題である。他の部分は釜の下に埋めることにきめたのであった。
七
其の翌日、彼女は近くに居たチャーチといふ古道具屋に會った。やはりトーマス夫人と名乗って。
最近夫が家具を殘して死んだから家具を引取ってくれといふのだ。無論ほんとのトーマス夫人を知らないチャーチはカスリンをトーマス夫人と信じて直にカスリンの所へやって來た。さうして家の中で早速談判がはじまった。
チャーチの買値ははじめ五十磅だったが結局この取引は六十八磅で落着した。蓋し一應カスリンの勝利といふべきである。
この談判の間室の一隅に例の箱がおかれてあった。この箱の中に即ちトーマス夫人の死體がの胴體がはいって居たわけなのである。
たゞこの話の最中、カスリンの膽を冷した事が一寸出來した。それはチャーチの來てゐる間、アイヴス嬢がちらと姿を現したのである。チャーチが何も知らずにカスリンの事をトーマス夫人とよんでゐる。この言葉が一寸でもアウヴス嬢に聞えたなら忽ち嘘がばれた筈なのだ。しかし彼女の爲には幸にも、アイヴス嬢はカスリンのぶ愛想を見て、又いつもの佛頂面だと解してまもなく引取ってしまった。
丁度此の取引がすんで、カスリンがチャーチに御馳走をしてゐる所へポーター父子が前日の約束通りやって來た。
彼らが來てからの有様は讀者は既に知って居る筈である。
たゞ此の日の四人の會合は後に非常な問題を惹起した。即ちチャーチ、ポーター父子は凡てトーマス夫人殺害の共犯者ではないか、と見られたのである。實際、あんな犯罪が女一人の手で行はれたと思はなかった一般の人々は決して無理ではない。
この一見樂しげな會合の後、例の箱がハマースミス橋から河へなげ捨てられた事は既に記した通りである。
八
骨は完全に埋められ終った。他の二つの部分も完(まった)く河に投げこまれた。チャーチはちょいちょい來るが少しも怪しむ様子はない。カスリンは凡てを賣りつくしてからこの土地を去るといふ事にプランを立てた。
しかし、どんな犯罪人でも必ず何かの過ちをするものである。犯罪人が偉大なれば大なる程、其の過ちも大きいと云はれる。
カスリンウェブスターも亦この過ちからは逃れられなかった。
犯罪を勇敢に行ひ、その後始末も美事にやってのけた。一番恐ろしい所を過ぎたと思った時、流石鋼鐵のやうな彼女の神經にもたうとう調子に狂ひを生じて來た。
彼女は隣家のアイヴス夫人の訪問が恐ろしくて恐ろしくて堪らなくなりはじめたのである。もしやアイヴス夫人がチャーチに何かたずねはしまいか、ほんとうのトーマス夫人の居所をききはしまいか、さうしてカスリンを怪みはしまいか。
アイヴス夫人がカスリンに會ふ度に、トーマス夫人のやうすをきくのは少しも不思議ではない。元來アイヴス夫人は物ずきなきゝたがりやではないのだ。(もしアイヴス夫人が好奇心に富んだ女ならとうの昔、カスリンを疑ってゐる筈だ)隣家の、老夫人が一向見えないからその人について下婢にたづねることは、社交的禮儀から云っても何の不思議もない。然るに、カスリンにとってアイヴス夫人の質問は、日に日に恐しく感ぜられて來たのだ。
何とかうまい説明を與へて、機を見てそこを引上げればよかったのだらうが、既に、恐怖心にをそはれて居たカスリンにはこんな事さへ出來なかった。
或る闇夜に、何のあいさつもせずに、カスリンはたうとうリッチモンドを逃亡してしまったのであった。
彼女は出來るだけの物を身につけてアイルランドに行き、そこで親戚をたづね、そこでも裕福な寡婦と稱して呑気にくらしはじめた。
さきに述べた通り、英國の社會はこの當時他のいろんな事件で忙しかった。
犯罪事件として當時社會に騒がれてゐたのは『ユーストン・スクエア事件』で他の事件は全く問題にならないやうすだった。
從って氣の毒なトーマス夫人の行方については誰も手をつくして探すものもなかった。
例の死體入の箱がバーンズ附近で見付かった時も、倫敦では大分さわぎになったが、アイルランドでは殆ど新聞紙が報道をしない有様だった。それ故、カスリンウェブスターは漸く安心し殆ど逮捕の危險を忘れはてゝゐたのだった。
九
しかし彼女にも最後の日が來た。
彼女の住って居た家の子供が紳士の來訪をつげたので彼女はポーター父子のどっちかゞ來た事と思って室を出て階下に降りて見ると見知らぬ男が立ってゐる。
「あなかたはカスリン・ウェブスターですね」
彼女は肯いた。
「では覺悟なさい。私はスコットランドヤードの者です。ジュリヤ・マルタ・トーマスの殺人犯人としてあなたを逮捕します」
かう云って令状を示された時、彼女は何の抵抗もせずそのまま捕へられたのである。
チャーチはこれより先、一旦捕へられたが證據不十分の故を以って釋放された。
アイヴス夫人は、河中からでて來た箱がたしかにトーマス夫人の物であると證言した。さうしてカスリンの手によってチャーチのものになった家具類がトーマス夫人のものである事を認めた。
頭部はつひに發見されなかったが、箱から出て來た胴體はトーマス夫人の死體なる事も認められた。埋められて居た骨もほり返された。けれどもこの骨がトーマス夫人のものであると證據立てる事は出來なかった。
カスリンは凡てを否認した。絶對否認をつゞけて爭った。ポーター父子は如何にして彼らがカスリンをトーマス夫人と誤信したかを説明した。
未決の獄中で彼女はいろいろなステートメントを出した。さうしてポーター父子及びチャーチの有罪を主張し自己の無罪を主張した。
彼女のテオリーに從へば、トーマス夫人を殺したのは實はポーター父子及びチャーチなのだ。彼女は無理に共犯者とされてゐるのだ。
それなら何故逃げるかはりに官憲に告げなかったかとつッこまれて、彼女は彼らの復讐を恐れたのだと答へた。
一〇
彼女のステートメントは一應裁判所に取つがれた。しかし、公判がデンマン氏を裁判長として開かれた時、被告人となったのはカスリン・ウェブスター一人であった。
彼女の辯護人は勇敢に彼女を防禦した。
彼女を起訴したのは後のホールスベリー卿である。
攻防法廷に於て闘ふ事五日間。つひに陪審員は「有罪」といふ宣言を與へた。
カスリンは、死刑の言渡しを顏色をかへずにきいて居た。たゞ公判廷を出る時、失神したがこれは彼女が神經の激動をあらはした最初の最後だった。
當時の一般の社會は、然し、彼女一人の犯行だとは思はなかったらしい。女一人であんな事をするとは考へられなかった。だから判決後でも、共犯者があったと一般には思はれて居たらしいのである。從ってポーター父子やチャーチに對しても、(法律上の疑ひは晴れても)嫌疑の眼が向けられて居た。
彼らの爲には、幸にも、死刑執行の直前、彼女は眞正の自白をはじめてなした。それには全く彼女一個の犯罪であると認めたのである。
この自白なかりせば三人の人々はおそらく不幸な一生を終った事だらう。
實際、今まで述べた通りの事實では、ポーター父子、チャーチの唯一の誤は、殺人犯人のいふ事を信じたといふ點なのだから、これだけで一生世の中からにらまれては堪らない。
一一
以上を以って「リッチモンドの惨劇」を終らうと思ふ。
此の事件は犯罪研究者にとってはいろいろな意味があると信ずる。
カスリン・ウェブスター其の者の心理は可なり研究する價値がある。
それから、公判の結果と社會一般の與論といふものゝデリケートな關係も面白いではないか。この問題については私は機會があったらいろいろな例を述べて見たいと思ってゐる。
最後に、法律家にとってこの事件は可なり面白い。一見明かなやうで實は有罪に決するに可なり困難な事案である。この點はかのクリッペン事件に甚だ似て居る。彼女を起訴したホールスベリー卿の苦心察すべしである。
辯護人側に於いて、如何なる防禦方法をとったか。法廷記録が手許にないのでよく判らないが、この記録はたしか British Iriol Series の一つとして出てゐる筈だから、一見したいと思ってゐる。防禦の餘地は十分あるやうな氣がする(終)
辯護人側に於いて、如何なる防禦方法をとったか。法廷記録が手許にないのでよく判らないが、この記録はたしか British Iriol Series の一つとして出てゐる筈だから、一見したいと思ってゐる。防禦の餘地は十分あるやうな氣がする(終)
――一九三〇・七・十四――
注)漢字、かな表記などの不統一部分はそのままにしています。人名の「・」は入れて統一させています。
注)本編は「世界著名殺人事件の真相」の「カスリン・ウェブスター事件」(『強力犯篇 防犯科学全集4』『浜尾四郎随筆集』『殺人小説集 浜尾四郎全集1』収録)の初出からとなります。「……」や「×」部分を復活させています。
(第三章一節、第四章六節、第五章三節、第六章一節、二節、四節、七節)
注)「British Iriol Series」(犯罪科学、『強力犯篇 防犯科学全集4』『浜尾四郎随筆集』)は『殺人小説集 浜尾四郎全集1』では「British Trial Series」となっています。「名検事物語」のクリッペン事件に関しては「British Notable Trial Series」となっており、校正で正された可能性が高いですが「たしか〜筈」ということでもあるのでがそのままとしています。他にも違いはあるかもしれませんが突き合わせはしていません。
(Wikipedia英語版の「Murder of Julia Martha Thomas」が該当します。著書一覧でシリーズ名は確認できませんでした。)
「ウーマンキラア」
「モダン日本」 1930.11. (昭和5年11月号) より
モダン日本から「ウーマンキラア」に就いて何か書く事を命ぜられた。然し僕實はウーマンキラアといふ言葉が英吉利の言葉か亞米利加の言葉か、さういふ字が第一有るかないかといふ事すらよく知らない。それでこの語が當然思ひ出させる「女殺し」といふ事に就いて何か書いて見よう。
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[写真:H・D・ランドリュー]
我國に「女殺し」といふ言葉がある。之は、勿論文字通りに女を殺すといふわけではない。女をたらして精神的に苦しめて居る色魔の事をさすのである。
然し世の中には、まづ第一にその手で女を惚れさせて色氣を十分滿足させた後、慾に變じてほんとに女を殺す男もある。これこそ、二つの意味に於いて正しく女殺しである。
此の意味の「女殺し」は誰にでも出來るといふわけのものではない。
たゞ單純に女を殺すといふ事なら、良心を捨て人情を捨て、道徳を捨てゝ暴力を用ひる勇氣さへあれば誰にも出來るといふやうなものではない。
まづ第一に女を手中のものにする腕がなければならない。
一押し二金三男といふ言葉がある。又一押し二押し三押しといふ言葉もある。
實例に就いて見るとともかく男の容貌といふものは少くも第一には來ないものらしい。
俗にいふ色魔で、ほんとにいゝ男といふのはめったにない。「あんな男が」といふやうな人物が、多くの場合女殺したる資格を有するものである。
「女殺し」の「女殺し」の中で、まづ第一流の名聲を博したものは何といふてもフランスのアンリ・デジレー・ランドリュー其人であらう。
西洋ではこの種の犯罪人を古(いにしえ)の物語にかたどって青髯の犯罪と名付けてゐるがランドリューの事を次のやうに簡單に説明してゐる。
「殺人の王であり、戀愛術に於ける大巨匠であったランドリューの犯罪ほど濃厚な記録はフランスの犯罪史には全くないだらう。彼は實に一ダースに近き婦人を、彼女等の所有せる寶石の爲に、殺したのであった。黒い髯をはやし、怪しく輝く眼を有した彼ランドリューは、婦人に對して、全く驚くべき、而も何とも云ひ表し難き魅力をもってゐた。彼はギャンベーのほとりに孤立せる淋しき家に、之等の犠牲者を一人一人つれてゆき、この家の中で凡てを惨殺した。」
ランドリューの犯罪は、丁度フランスが國をあげて國境に迫るドイツ兵と闘って居たあの歐洲大戰爭の最中に行はれた。從って捜査機關の活動も十分でなかったゝめでもあらうが、十人の婦人が彼の犠牲になるまで發覺しなかった。否發覺しても確證が中々あがらなかった。かくの如き大犯罪に於いて、ほとんど、一人の女についても直接の證據が擧がらなかったといふ事は全く驚くべきである。
彼の犯罪は餘りにも有名である。而して之を記して行くには紙數が餘りに少い。それ故僕は、彼の犯罪に就いての詳述をさけよう。
彼の犠牲となった女性の名は次の如し。
1 Madame Heon, 2 Mlle. Babelay, 3 Mme. Marcbadler, 4 Mlle. Jaume, 5 Mme. Pascal, 6 Mme. Baisson, 7 Mme. Laborde-Line 8 Mme. Collonb, 9 Mme. Guillin
面白いのは彼のノートブックでその中には殺した女の名と時日とそれによって得た獲得物の數などが詳細に記してあった事である。
これらの女の中には新聞廣告を通じて彼と知合になり、その結果彼の魔手にかゝった者もあるが、全く途上で偶然會合して、ランドリューが腕によりをかけてたらしこんだ女も可なりある。
彼はゆきずりの女に尾行してうまく話をもちかけるのが得意だったらしい。のみならず彼の手紙も中々うまかったらしいのである。ともかく、さういふ手紙をもらった女は皆、夢中になってしまって、たちまち彼の手におちたのである。
ランドリューに戀されて、危くその魔手を遁れた女に Fernande Begret といふ若き女性がある。
一九一七年の五月のある夕べ、電車の中で彼女は偶然ランドリューと會った。その時の状況を彼女は次のやうに記してゐるが、之でランドリュー一流の腕前がよく判ると思ふ。
「彼は、非常に教養のある立派な紳士に見えた。彼はひげをなでながら私の方をしっかと見つめた。まるで催眠術師の眼光のやうに彼の眼は私を射た。私はおもはず赤くならないわけには行かなかった。私が降車すると彼も降りてあとをつけて私に物を言ひかけたけれど、私は答へずにいそいで行かうとした。が、彼は追いついて來て、大變丁寧な言葉で、かういふのである。
「お嬢さん、可哀想に私はこの世の中でたった一人なんです。友だちといふものが今の私の生活にとっては一番大切なんです。あしたのあさ十時に、ワグラム通りの角のブラース・ド・レトアイユで又會ふと約束して下さい。でなければ私はあなたをどうしてもはなれませんよ」
私はその時の紳士の丁寧さに驚かざるを得なかった。さうして半分夢のやうにその約束を承諾してしまったのであった。彼は私と堅い握手をし、帽子をとり、さうしておだやかにどこかに去ってしまった」と。
見るべし、ランドリューの腕のさえを!
而も彼は第二彈を放つ事を決して忘れなかったのである。
彼女がランドリューと約束通り會った日から數日たつと彼女は彼から次のやうな手紙を受け取った。
Jeudi soir,
Je suis, ma jolie petite amie dans un stat chagrin qui me fait venir pres de votre coeur si affecteux pour trouver en lui la consolation et Poubllf de oette peine.
而て終りに
Adieu, ne me faites pas trop languir; quelle que soit reponse, elle sera de vous la bienvenue et regue suns murmure.
Vous n'en aurez pas moins Pestimes, les bons sentiments, et si rous le voulez, sur vos cheres menotte, les meilleurs baisers de votre. Lucien Guillet
ルシヤン・ギエーとは無論彼の變名である。
折しもフランスはドイツの飛行機からの爆裂彈でおびやかされてゐたのである。それで彼女は彼のギャンベーの家によばれる事を大へんよろこんでゐたのだった。
彼女は全くランドリューに惚れこんで彼と結婚するのを待ってゐた。幸にして彼からもほんとに惚れられゐたので殺されずにすんだのである。
ランドリューは多くの女性を殺し、その死體をストーブで燒いたものだと云はれてゐる。ともかくギャンベーに行った女は皆消失してしまったのであった。
法廷に於いて彼は、無論無罪を主張した。而てクリッペンなどと異り、大にアグレシブな態度をとってゐる。彼は常に、裁判長に對し、
「あなたは私を有罪だといふ。然らばそれを立證したまへ! あなたはたゞ私をパリー女に有名にさせるばかりぢゃないか。彼女等は、大なる戀人を愛するものである! 何とゆかいな事ではないか!」
こんな調子で盛んに相手にくってかゝって居る。
ランドリューの容貌は寫眞に見ゆるが如く、決していゝ男といふべきでない。それに、年をとって居る。けれども、女をたらす腕はその犯罪に徴しても特異なものであったと察せられる。
[写真:G・J・スミス]
「風呂場の花嫁事件」で有名なジョーヂ・ジョセフ・スミスも亦斯界の猛者である。
ランドリューが十人の女を殺したに對し、スミスは三人の女を殺してゐるが、いづれもやはりまづ色仕かけで、ひっかけ次いで惨殺するのである。
このイギリス人は、一九一二年の七月から一九一四年の十二月までの間に sadistic nympho mania といふ三人の女と順次結婚し而て順次之を殺したのである。
殺人方法が極めてもダーンなものでこれがこのスミスをして一躍有名にならしめた。即ち、妻が浴槽につかって兩足をのばして居る時に、不意にその足を上げて溺らせてしまふのである。尤もたしかに兩足をもち上げたかどうかは、遂に判然として居ない。
彼を法廷で辯護したマーシャル・ホール氏が後に人に語ったところによれば、氏は、スミスが相手に催眠術をかけたのではあるまいか、思ってゐたらしい。ここ至ってスミスの女に對する魅力が問題になるのである。
スミス亦決して所謂色男ではない。寫眞を見ても僕などにはその目の魅力は一向解らないけれ共、一朝之が女性に向けられると、俄然非常な力を發揮したものらしい。
彼の妻の一人は彼について次のやうに云って居る。
Lucien Guillet
He had an extraorddinary power over women. Thie power laies in his eyes. When he looked at you for a minate or two, you had the feelling that you were being magnetised. They were little eyes that seemed to rob you of your will.
スミスの目の魅力は、然し女にのみならず彼にブリストンではじめて會った辯護人に依っても認められて居る。
スミスも亦法廷にあってはあくまでも犯行を否認したがランドリュー同様、死刑に處せられた。
[写真:ドクタ・クリッペン]
ドクター・クリッペンも亦青髯の尊稱を奉られて居る。彼は御承知の通りたった一人の妻を殺したゞけであった。而も彼はそれだけで斯界の高段者と認められて居る。
たゞ彼の性格は、ランドリュー、スミスとは全く反對のものだったらしい。
犯行で残酷だったといふばかりでなくランドリューとスミスの犯罪にはどことなく Sadistic な變態性慾的な嗅ひがするのに反し、クリッペンの場合は、惨殺であるのに不拘、その反對に考へられて居る。
妻ローラ・クリッペン以外の戀人イーセル・ルネーブといふ女と結婚せんが爲に、妻を殺すといふ事は通常殺人の動機としては珍しいのである。男が妻以外の女を愛する場合には通常、妻を捨てゝその女に走るものである。
では何故にクリッペンは妻を殺したか。
之について、マーシャル・ホール氏は興味ある意見を發表して居る。もし氏がクリッペンの辯護を引受けたとしたならば、たしかにこのこの議論を法廷で展開したであらうし、且つ氏はそれを眞相として信じてゐたらしい。
ホール氏の考へに從へば、クリッペンは、一方に妻をひかへ、一方にルネーブをひかへこの二人の間に立って遂に性的煩悶に陥ったのである。はっきり云へば、ルネーブを滿足せしめる事は妻を煩悶させることになるのだ。精力絶倫でなかったクリッペンには、二人を共に喜ばせておくといふ器用なまねが出來なかったのである。
無論このテオリーを確實にする爲には、クリッペン夫人の性慾の程度を考へに入れなければならない。ホール氏の意見によればクリッペン夫人のそれは決して僅少なものではなかったのである。
於是、クリッペンは遂に窮餘の策を講じた。即ち何か藥物を用ひて妻の性慾を減少しやうとした。この時考へついたのがヒヨスチンなのである。
かねて此の藥が(※7文字空白)にきくといふ事を知ってゐるので、或る日彼は妻にヒヨスチンを飲ませた。ところが量が大にすぎて妻は死んだのである。
即ち、マーシャル・ホール氏のテオリーに從へば、クリッペンは殺人罪の被告人にあらずして過失致死罪の犯人たるべきであるといふのだ。(死體の問題は無論別である)
扨、ランドリュー、スミス、クリッペンとならべてその寫眞を見ると一人として色男は居ない。いづれも相當な年輩でむしろじゞむさいおぢいさん達である。
このおぢいさん達が、ヴァレンチノそこのけといふ腕を若い女に表してゐるのだからえらいものだ。
フランスのポールブルヂェはレーディスマンについて、
「レーディスマンたるには容貌や教養などは問題にならない」
と冒頭して次のやうな事を云ってゐる。
Mais le tact de Phomme a femmes est quelque chose de toui partieulier premque un organe comme les insec es presque un instict, car l'education n'y ajoute guere.
Cet homme, par example, du premier coup d'oeil, juge exatement quel degreo de chance il a aupres d'une femme la uelle il est presente. Il dira mentalement. Celle-ci est pour, mois, celle-la non.
ジョセフ・スミスは自分の女を他の戀人の前へわざと、ひっぱり出して、双方の嫉妬心をあほる事を忘れなかった。
ヴァレラはかう云ふ。
「どんな貞淑な敬虔な少女でも、今まで多くの戀人をもってゐた男と結婚したがるものだ。この場合、自分がそれらの中から特にえらばれたものだと思ふところに價値があるのだ」
即ち、枯野に咲くたった一本の花と愛でらるるより百花咲きほこる花壇の中からえりにえった花として自分を一本ぬきとってもらひたいといふのが少女の本能だといふのである。
ハンス・グロースはかう云ふ。
「たゞ非常に若い、純潔な、而して世の中を知らない少女のみが色魔に對して、本能的な嫌厭を感じる。之はさういう少女の本能である。その他の少女は相手の男がさわげばさわぐ程、烈しく彼を愛するものだ」と。
バルザックは、
「女といふものは、既に誰か他の女のものになってゐる男を得たがるものだ」と云った。
斯ういふ細い女性の心理を把握したものが即ち戀の勝利者であり女殺しであり得るのであらう。
而も、この女の心理研究を、女殺し達は決して研究によって得たものではないらしい。彼らはやはり本能的に之を得てゐるらしい。
僕等が日常の交際によって見ても、又かういふ犯罪者のレコードで見ても次のことだけは動かし難き眞理だと思はれる。
「僕ら男性が男を評價する尺度と、女性が男を評價する尺度とは全然違って居る」
といふ事である。
即ち、僕らには、實にくだらぬ意味のないやうな存在の人物が、時とすると女にとっては大した人間になるのだ。
讀者はおそらくさういふ知合を一人位はもって居られるだらう。
押し、即ち勇氣といふ事はやはり大切な武器である。この押しの一手は生れつきのものでない限り、たしかに年齢といふ事が關係する。
僕があげた三つの例がいづれも、美青年の犯行でなく、みんな相當なおぢいさんの犯罪である事もこの點を考へさせる。
手近な例をとっても、電車の中で女性の手をにぎったり何かする男で、若いのは少い。
之は、青年連が慎み深いとは限らない。彼らには手を出したくてもその勇氣がないのだ。
讀者もし疑ふならば知合の婦人にきいてみられよ。電車内のかうした行爲は、きまって相當の年輩の紳士態の男ときまって居るのである。
ランドリューが若い女を電車からつけて行き一旦拒絶されても圖々しくやったあたりは、不良少年なんかのやるいたづらなどとは全く深刻味が違ふのだ。
年齢は、知り合の女の數の多少に比例する。年輩の男は、經驗によりても女の心理を巧みにつかむものである。
かういふ點から云へば、獨身の男よりも既婚の男の方が女殺したるの資格を得易いことは直にうなづけるのである。(完)
――一九三〇・九・一九――
注)本作は『強力犯篇 防犯科学全集4』の「色魔王ランドリュー」と一部同じところもありますが別作品です。
注)人名表記はなるべく統一し、かつ名と姓の間に・を入れるように統一しています。
注)外国語、特にフランス語は元からのスペル間違いもあるようですが正しいのが不明のためそのままにしています。
注)「」末尾は句点なしに統一しています。
「ギヨチーヌ綺談」
「犯罪科学」 1931.02. (昭和6年2月号) より
一、ギヨチーヌの起源
死刑といふ刑罰を廃止すべきか或は存續するか、といふ事はよく法律家の間其他の識者間に論ぜられる問題であるが、兎も角現在では多くの國家が此の刑罰を明かに認めて居るのである。然しながら、死刑執行の方法は國により必しも同じではない。
我國では一般に知れて居るが如く絞首である。而して刑の執行は非公開で刑務所内で行はれる。一般人が死刑の場合絞首にされる事は刑法第十一條第一項に明かにされて居る所である。
英國に於いても此の方法が採用されて居る。判決の言渡しの時にはっきりと裁判長が云って居る。死刑の宣告の時、『汝はそれより刑場に赴き、咽喉部を汝が死に至るまで縊られるべし』といふやうな言葉が必ず謳はれて居る。
米國に於いては各州それぞれ方法があるらしいが電氣椅子に載せる方法があるのは既に讀者の知って居られる所だらう。米國の本などを讀むと『椅子に行く』といふやうな言葉が出て來ることがあるが無論之は電氣椅子にのせられる事を意味するのである。
ところで佛國であるが此の國では今でも首切りが行はれてゐる。有名なギヨチーヌといふ恐ろしい首切機械にかけられるわけなのだ。
どの方法を採用するにせよ、第一の目的は少くも現今では罪人の苦痛を少しでも減少させるために最良の方法としてえらばれて居るわけである。私はここにフランスに於ける死刑に就いて聊か述べて見たいのである。
一七九二年三月二十日發布された法令により、一般人の死刑はギヨチーヌで行はれる事に定った。
ギヨチーヌを發明した人は、ドクトル・ギヨチーヌであって而も彼がその機械の最初の犠牲者である、とは一般に傳へられてゐる所だけれ共、實は之は誤りである。
國民議會でドクトル・ギヨチーヌが、此の機械採用の提議をしたのは事實である。彼は、首切りのやうな事は人の手でやらず、機械に行はせるのが人道的であるといふ論旨からこの提議をした。
「諸君、この機械によって、私は諸君の首を一瞬の間に飛ばせる事が出來るのである。而し諸君はその時、痛いとも痒いとも感じてゐるひまはないのである」
此のユーモラスな發言に對して、全會員が思はず失笑した。而してギヨチーヌの名が歴史に不朽のものとなったのであった。
ドクトル・ギヨチーヌがその當時の首切り法の代りに用ひやうとした首切機械は實は十五世紀頃からヨーロッパでは知られて居たのである。
一五〇七年五月十三日にジェノアで死刑を執行されたデメトリ・ユスチニヤンといふ人間を美事に死に至らしめた機械は丁度ギヨチーヌのやうなものである事が記録されてゐるし、又一六〇〇年にベアトリス・ツェンナといふ人間の首をはねたのも同じやうなものであった。スコットランドでは『少女』と呼ばれる同じやうな道具があり、一六五一年と一六八五年にアーチル候及びその息子の首を切ってゐる。
ところでドクトル・ギヨチーヌの提議が採用され、ここに愈々この道具が用ひられる事になったがその第一のプランを立てたのはラキアントといふ男で代ったのはトビヤス・シュミッツといふ男だった。トビヤスは當時ピアノ製作者だったといふから、彼は、藝術品を作るつもりでこの首切り機械を作ったかも知れない。
このギヨチーヌ刃が内側に向ってまづ頸部をとばす前に、それをしっかりと圍むやうに出來たのであった。ところが、多少機械の知識をもってゐたルイ十六世は、この代りに下向きにとがった三角形の刃を用ひさせた。ルイ十六世のこのギヨチーヌ改良の命令は實は彼の最後の命令だった。といふのは、彼は一七九三年一月二十一日にまづ自身その改良機械にかけられなければならなかったからである。皮肉にも、この時の切れ味はまさに彼の機械改良家としての頭のよさを證明したといふ事である。
現在フランスで用ひられてゐるものは、之に更に改良を加へた形のもので一八七五年に採用されたのである。
二、ギヨチーヌの用ひられる時
フランスの法律によれば、死刑は公開の場所で行はれる事になってゐる。勿論この死刑公開といふ事に對しては賛否の議論が中々あるがともかく公開といふ事になってゐる。たゞし眞晝間にやるわけではない。大體暁に行はれるのだ。
死刑執行の日には、まづ裁判官、公議權の代表者たる檢事総長或はその代理人、書記、それから教誨師、及び被告人の辯護人が監房にはいる。
Magistrate (邦語に適譯なし)が被告人に對していよいよ死の時が來た事をつげ、ざんげを云はしめ又彼の云ひ遺したい事を聞いてやる。但しこの場合被告人に勇氣をつけてやる事を忘れない。勇氣とはつまり殺される勇氣である。この最後の被告人の言説中にもし裁制を動かすに足る事實を認めた時は直に裁判官はその執行を見合せるのである。囚人が女であった場合は妊娠の意識ありや否やを確め、もしさうらしい時は一時執行を見合せて醫師に診察させる。
次に約ニ十分間、囚人は教誨師とさし向ひになれる。無論ざんげをする爲にである。
それから、被告人に最後の食事又はシガレットが與へられる。被告人が最後に望むものは與へられるのが原則だけれども藥などは勿論與へられない。
次に愈々執行人がはいって來て、まづ被告人のシャツを切る。之は頸部をはだかにする爲、つゞいて綱をもって手足を縛るが之はいふまでもなくいざといふ場合に被告人が死者狂ひになってさわがぬ爲である。但し足は歩ける程度にしておく。
それから憲兵の一隊に圍まれて被告人はギヨチーヌの建てられて居る刑場に行くのである。
無論或る一定のスペースは兵隊に守られて法官その他の係り官以外の者はその中に入れられぬ。
かくして用意とゝのへば被告人は板の上にねかされ首を刃の下におかなければならない。執行人がボタンを押す。刃が落下する。首が飛んで糠を入れた前面の籠の中におちる。
かくて正義は保たれたり。刑は終る、といふ次第なので、手つゞきはいたって簡單、ドクトル・ギヨチーヌが議會で述べた通り、事は一瞬にして決してしまふのである。
刑が執行されると直に白木で出來た柩が運ばれ、素早く死體が収容される。仰向けにねかし、首はひろげた兩脚の間におく。それから車に載せられて埋葬墓地に運ばれ、最後に牧師の祈りがあってここに人生一代が完全に終をつげる事になる。
此の祈りが埋葬の唯一の儀式であるが大げさには出來ない。若し被告人の親戚が特に乞ふ場合には死體はそれらの人々に渡さるべし、但し儀式を用ひざる事を要す、といふ旨がフランス刑法第十四條にちゃんと記されて居る。又もし親戚達がこの要求をしない時は通常、死體は解剖に附せられ學術上の資料に供される。
三、執行する人々
ドクトル・ギヨチーヌは、人が首切りをせず、機械が首を斬るべしといって提議した事はさきに記した通りだけれ共、いかに機械が首切りをすると云ってもそれは自動的に動くわけでなく誰かボタンを押さねばならぬ。そこで結局、この人が直接死刑囚に手を下す事になるのだが、この職業は餘りいゝものではなさゝうだ。
我國には今以って檢事や警官になるのをいやがる人々が居るやうだけれ共、フランスだって首切役人といふ商賣は餘りはやったものではないらしい。詳しい事は判らないが丁度我國の山田淺右衛門のやうに、代々傳って行く所謂一子相傳の職業らしく、而も上手下手がはっきりあるらしい。
パリの警視総監アルフレッド・モーランが執行人銘々傳を書いてゐるからそのまゝここに紹介しやう。
「死刑執行人は一般にムシウ・ド・パリと呼ばる。此のニックネームたるやフランスの首府にたゞ一人の執行人のあるのみなるを意味す。現代に於いては然るも、過去にありては必ずしも然らず。各刑務所に一人づつの執行人をおきたるなり。
Heindreich 彼は一八七二年、七十才の高齢にして没したるが病に仆るゝまで執行人の職にありき。彼は實に十六歳の少年時代にその父(やはり死刑執行人)の助手となり其後この職をつぎて四十四年に及びぬ。余は個人的に彼とは相識の仲にあらざりしも、わが幼時に彼がトロップマンをギヨチーヌにかけたるを見たる事あり。
余は今なほ彼の性格の特異なるものありしを人にきかされしを想起する。彼は丈高く、落着きむしろ冷く見えたり。執行を終るや直に教會に行きて、死者の爲に彌撒(ミサ)を用意し、事終りて歸宅し直に入浴するを常としたり。
Roch ハインドライヒの死するや直にその職をつぎたるはその助手たりしロシスなり。彼はかつて執行を終りし夕べ、人に問はれて平然と、Tont s'est pass'e a' ravir.(ゆかいに運びぬ)と答へたりき。一八七九年に死しその助手に職を殘せり。
Deiblen 一八七九年ロシスのあとをつぎたる人。而して現在同名の執行人は實に彼が一子たり。彼がその職に就きし時は既に六十歳の老年に達し居たり。外貌極めておだやかにして教養あれ共内おかし難き根強さと強氣を蔵す。彼がこの強氣はその就職第一の執行の時あらはれたり。
アヂャンに於いて彼ははじめて執行人として手を下したりしが時の死刑囚はラブラードと呼ばるゝ二十歳の血氣盛りの男子なりき。ギヨチーヌに達するや、死物狂ひになりて狂ひまわり容易に板の上に身體を横へず、Deiblen これを見て憤激し、ラブラードの咽喉首をつかみ、床に叩きつける事、實に數回に及びぬ。
Deiblen (Jr.) 前項同名の者の子にして現代の執行人。余(モーラン)はここに彼自身余にあてたる手紙を公開し以って彼の性格をしらしめんとす。
「小生は個人としては、犯罪の惨虐性なほ死刑の存續を必要とせざるを得ざる現今の有様を悲しむものに候。さりながら苟くも死刑にして嚴存する以上、今少しく嚴格に適用せられざるべからずと信ずるものにござ候。然るに死刑の宣告を受けたるものゝ三分の二はその實、刑を行はれずして赦さるゝが現在の有様に候へどもはたして如何なものにや。
最近十五年間にありては死刑の執行は、宣告四ヶ月乃至五ヶ月に於て行はるゝを常とする、犯罪が一般に忘れられたる頃に行はるゝが通常に候(筆者曰く讀者試みにその理由及びその是非を一考せられたい)。
死刑執行はそれ自體極めて簡單なるものに候。而て被告人の或者は勇敢に、あるものは怯惰にござ候。こゝにその數例を聊か申述べん。
ダビッド。彼は一八九二年三月二十一日、サンナザルに於いて刑の執行を受け申候。二人の婦人を惨殺したるが彼の犯罪に候。彼は甚だ剛勇、ギヨチーヌまでの足取りもしっかりといたし居り、ギヨチーヌの下に於いて一場のスピーチを致し候。まづ神に赦しを乞ひ、次に群衆に向って自己の行爲をのべてざんげし、犯罪人の末路として、世のいましめたらん事を述べ、然る後從容として死に就き申候。
アナステー。一八九二年パリに於いて執行さる。身かつて軍籍にあり。デラール男爵夫人を殺し、なほその召使を殺さんとしたる廉にて死刑を言渡され候。彼は最期に群衆に向ひ刑死の自業自得なる事を發表いたし候が、終りに執行人らに向ひ『諸君、汝の務めを励行せよ』と自ら命令して死につき申候。
ケーニグシュタイン。一八九二年七月十一日モンブリゾンにて刑を執行されたる甚だ危險なるアナルキスト。彼はギヨチーヌに着くまで裁判官に對して冷笑をあびせ、教誨師をも罵り候。自己の行爲を決して誨いずとなし、卑猥なる歌を唱ひつゝ首を落され候。
カゼリオ。一八九四年八月十六日リヨンに於て執行。犯罪は大統領カルノーを暗殺したるものにして彼も亦アナルキストにござ候。彼は刑場に赴くや戰慄やまず、ギヨチーヌの下に至りし時はほとんど失神の状態に候ひき」(以下略)
四、執行された人々
コンミューンが癈止された後、最初のギヨチーヌの犠牲者はモロー(Moreaux)といふ男だった。これは一八七ニ年六月十七日死刑が行はれた。彼はある女を殺したので死刑を言渡されたのだったが、まことに勇敢に死に就いた。ところが彼の首が落ちると同時に、見てゐた群衆の間に不平がおこった。その何故なるかを問はれて彼らが一齋に答へた所はかうだった。『餘り事が早すぎてあれぢゃ面白くない』
被告人が大勢の時は次々とどんどん死刑が執行される。一番有名なのはコンシュレート時代にあったオルヂェールの一黨の執行であらう。その大將株の二十一人をはじめとしてその結社六百餘名がどしどしと首をはねられた。當時の有様を見た人たちは血の池の中に首が浮いてゐたやうに見えたと記してゐるが蓋し實感だらうと思ふ。これは一八七四年の話。
モロー(Moreau)といふ、妻を二人まで毒殺した男と、ブタといふやはり女房殺しとが、一日の間に、わづか三分の間をおいてつゞいて首をはねられた事がある。その執行は非常に巧みに迅速に行はれた。だから少し極端に云ふと、二人目の男の首が丁度刃の下で、籠を見下ろしてゐると、まださきの男の首がその中にころがってゐたといふ有様だったさうである。
さきに述べたやうに、刑の執行の前には豫めギヨチーヌを調べたり又被告人の身體を縛っていざといふ時にまちがひのないやうにするのであるが之がいつもうまく行くといふわけには行かない。時々不完全な爲に意外な事件がおこる場合がある。
一八〇五年にシャロンでモンシャルモンといふ男を死刑にした時は、人々はこの男を二度ギヨチーヌまでつれて行かねばならなかった。
モンシャルモンは憲兵二人を殺害したといふので死刑に處せられたわけなのだが、元來非常な力持なので刑場で檻から引出されるや否や死物狂ひで暴れはじめた。執行人達がやうやくギロチーヌに上る梯子までつれて行くと彼は今度はその梯子に足を巧みにつッこんで一寸も動かない。二人の男が何とかしてこれをはなさうとして三十分の間、格闘をした。
この間モンシャルモンは、執行人を罵り、憲兵等を口をきはめて罵倒し、しまひには見物をしてゐた群衆に對して、助けを求めはじめたので、執行人らはひどく狼狽し、やうやくに梯子からはなすとギヨチーヌにはやらず一まづ檻の中へ又もどすといふ醜態を演じた。とうとう夜になって、はじめて死刑執行されたが今度は彼はぎうぎうといふ程手足を緊縛されてゐたのでどうする事も出來なかったのである。
女の咽喉を裂いて數ヶ月の間全フランスをさわがしたビロアといふ男はかつて軍人でたくさんの勲章をもらってゐた。死刑執行の際はいかにも軍人の出らしく落付き拂ひ、ギヨチーヌの前に立つや恰もこの機械を研究せんとするものゝ如くに、仔細にいろいろのからくりをながめてゐたが、やがて時が來ると教誨師に『師父よ、さらば!』と一言云ってさっさと刃の下に首をのべた。
マリー、ジョセフ、アクレーといふ少女を惨殺して死刑に處せられたウェルテルといふ男は反之いざといふ時非常な恐怖をあらはした。
その恐怖の状態たるや甚しいもので人々はこれは刑場まで行かぬうちに、昏倒してそのまゝになるのぢゃあるまいか、と心配したのであった。監房中にあって、上訴が却下されたときいた時から彼は斯様な状態であった。はたして彼は刑場につくと、人々に引きづり出されてギヨチーヌまで行ったが、刃の下に首をのべた時は全くもう意識を失ってゐたといふ事である。
プレヴオといふ殺人犯人は最も勇氣に滿ちて執行を受けた。執行を監房で告げられた時教誨師が
「勇氣、勇氣、勇氣を失ひなさるな」
といふと彼は
「大丈夫、大丈夫です」
と答へた。
いざギヨチーヌについた時又教誨師が云った。
「友よ、勇敢なれ、勇敢なれ」
するとブレヴオが答へて云った。
「恐れては駄目ですよ!」
と。この言葉は實に之から執行されやうとする人間が教誨師に與へた忠告なのである。かくて二十秒の後彼は死者の群に入った。
五、生きてゐる首
我國でも、切られた首が石に噛みついたとか、首のない死體が切られた途端に歩き出したとか、ずゐ分奇々怪々な話が傳へられてゐるがギヨチーヌに關してもずゐ分奇怪な話が傳へられてゐる。
二十世紀に入ってもこんな話がある。こゝにその一つを紹介して見やう。
さすがにフランス、切られた首がげたげた笑ったなんていふ物語ではない。ギヨチーヌで切られた首がどの位生きてゐるかといふ事を、實地について研究した醫者の話である。
時は一九〇五年、六月二十五日、オルレアンの刑場で、アンリ・ランギュイユといふ獰猛な男がギヨチーヌにかけられる事になった。
其の日の未明三時半にランギュイユをのせた車が刑場に着いた。牧師のアベ・マルセーが青白い顏をしてまづ車から降りると次いで、後手に縛られたランギュイユが地におりた。
一瞬、彼はギヨチーヌを見て驚いたやうだったがやがて刑場を圍む群衆を見ると、侮蔑の目を見はって嘲笑した。
執行人が板の上に彼をねかした時、さすがにしりごみをやったがつひに刃の下に首をのばさせられてしまったのである。
つゞいてムシウ・ド・パリのすばやい動作によって忽ちランギュイユの首はころころと前に落ちた。彼が刑場についてから首のおちるまでが實に正確に五分間であった。
と、こゝまでは極く珍らしくはない事なのだがこれから後で不思議な事が行はれた。
ドクター・ボーリューといふ人が、檢事の許可を得て奇怪な実驗をはじめたのである。
彼は兩手にランギュイユの首をしっかとつかんで
「ランギュイユ! ランギュイユ! きこえるか?」
と大聲に其の名をよんだ。
すると驚くべし、ランギュイユの兩眼がそろそろと開いて來たのである。而てまるで生きてゐるものゝやうにドクターの方をぢっと見つめた。かくて兩眼は再び閉ぢられたのであった。
すると又ドクターが叫んだ。
「ランギュイユ!」
再びまぶたが上ると思ふまに兩眼が開いてドクターをぢっと見つめた。さうしてまもなく又とぢてしまったのである。
三度ドクター・ボーリューはランギュイユの名をよんで見たが今度はもう目は開かなかった。ランギュイユの目は永久に閉されてしまったのであった。
此の實驗に要した時間は三十秒間。
ドクター・ボーリューは此の實驗によって、切られた首は少くも十秒位は生きてゐるものだといふ確信を得たわけである。
ちょっと不思議な話だけれどもこの實驗談は當時のマタン紙にもルジュルナル紙にも載せられてゐる。
六、女性とギヨチーヌ
女の被告人とフランスの法廷の話についてはいづれ他日機會を見て語らうと思ふが、法律はともかく、事實女とギヨチーヌの關係は一八八七年以來、フランスでは絶えてゐるやうである。女性に對しても男子同様の刑を實際上科すべきかどうかといふ事は一八四六年以來のフランスでの問題である。
一八四六年から一八八六年――この四十年間に百六十人の女性が死刑の宣告を受けてゐるがその中事實ギヨチーヌにかけられた女性は四十八人であとの人々は皆減刑の恩典に浴してゐる。而てこの四十年の間も近くなればなる程、數が減じてゐるといふ事實が發見される。
即ち一八四六年――一八六〇年までに四十二人、一八六一――一八七五年までに六人。一八七六年から一八八六年までギヨチーヌは完全に血に汚されなかった。
一八八七年ロモランタンでトーマという婦人が親殺しでギヨチーヌにかけられたが之が最後の例である。
此の現象に就いての私の意見は今は述べない。
一八四六年一月に、二人を殺したフコーといふ寡婦が死刑の言渡をうけた。同年二月二十五日、彼女はルーアンから刑場のアルギーユまで運ばれてギヨチーヌにかけられなければならなかったがこの場合は甚だ殘酷だった。
といふのは、普通、最期の時をしらせてからギヨチーヌに囚人をのせるまでは長くて一時間といふ事になってゐるのだが、この時は彼女は二十四時間前に死刑執行の時をきかされゐたからである。
アルギーユは丁度その日はマーケット日だったので人の出はいやが上にも多くフコーの最期を見やうと群衆はひしめきあひ囚人を罵詈した。
此時牧師が立って群衆に對して一場の訓示を垂れたので人々は彼女の爲に同情の涙を流し、涙の中に刑は執行されたと云はれてゐる。
同年六月二十三日、ルビユイでシャナルといふ婦人が夫殺しでギヨチーヌに上った。彼女は公判の間極めて落付いて勇氣を維持してゐたがはたして刑の行はれる時にはどうかしらと皆考へてゐた。
教誨師が當日監房に行くと彼女はおちつきながら、
「何の御用でいらっしゃったか私ちゃんと存じて居りますわ。覺悟して居りますの」
と云った。
彼女の乞ひによって彼女は黒いヴェールをかぶせられ跣足のまゝでギヨチーヌまで歩いて行った。さうして少しも取り亂した様子を表さず立派に最期をとげたのであった。
一八四六年にやはり夫を毒殺して死刑に處せられたラビュチウといふ女の最期は全く之とは反對だった。
最後の時が來たときかせられるや否や、彼女ははげしい絶望の發作状態に陥ってしまった。
「いやです、いやです! 皇后陛下にお願ひして下さい。皇后陛下は女の殺される事を決してお好みにはならぬ筈です」
彼女は全くそれも無駄と知るやわれと我が頭を壁に打つけて死なうとさへした。
「どうしても死ななければならないのなら、外の方法で殺して下さい。銃殺でもいゝ、毒でもいゝ、しかしギヨチーヌだけは許して下さい!」
最後の化粧の間中彼女は悲鳴をあげてゐた。
さうして死ぬまで彼女はギヨチーヌをいやがった。彼女を護送する憲兵隊に對して、
「早く、今直ぐサーベルで首を切って下さい、ギヨチーヌはいや、ギヨチーヌはいや!」
と叫びつゞけたのであった。
ギヨチーヌに上るまで三時間彼女は半ば狂氣になってあばれまわり、ギヨチーヌの刃の下でも逃れやうと身をもだへた。
一八四七年ポアシェーで行はれた死刑は、その陰鬱さと暗さでときにレコードを作ってゐる。死刑を執行されたのは母と子で、殺人、窃盗、尊属殺がその罪名だった。
ムニエルといふのが母子の名であったが、息子の方は未だ漸く二十歳になったばかり、從って彼はいよいよギヨチーヌに上らせられるまでその少年の故を以って死刑を免れるものと信じて居たらしい。それで死刑の日に彼は殆ど喪神状態でギヨチーヌに上った。
子が先づ先に死刑を執行されるのである。母は見物の群衆に對して、
「神の正義を恐れよ、人間の正義を恐れよ」
と叫んで居たがわりに落ついてゐた。
目前で我子の首が切られ、今度は自身の首を切るべく血みどろの刃が又上げられると母は首をその下に出しながら執行人に向って、
「神様だって私を見たらお驚きになるでせうよ」
と云った。
此の話は全く不愉快な物語である。母を子の前で、又子を母の前で刑につける話は我國にもずゐ分ある。母なり子なりがその際、悲嘆にくれてゐる方がまだ我慢が出來る。
ムニエル母子の場合は母ムニエルの恐ろしい冷静さが、刑の惨酷さと一所になって、何ともいへない不快さをわれわれに與へるではないか。
次の話も惨酷すぎる事實譚である。
一八四八年一月三十一日夫殺しのアンヌボアといふ女が死刑を執行された。彼女はその前夜夜半に、明日晝、サンポールの刑場でギヨチーヌに上らされると告げられた。
翌朝午前四時に車にのせられてアンヌボアはサンポールへ運ばれたが、手を縛られてゐたに不拘、巧みに手を自由にし、かくしてゐたナイフで自ら咽喉をかき切った。これが發見されたのが午前六時頃だった。着衣も何も血だらけになってゐたが而もそのまゝ護送が續けられ午前十時になってやうやくサンポールに着いて醫師から手當を受けた。傷を縫って一應の手當をし改めてギヨチーヌにかけやうといふのである。
貧血した彼女は、勇氣を恢復すべく、刑の執行を一日二日のばす事を嘆願したがきゝ入れられず正午に至ってやうやくギロチーヌの刃が彼女の首をはねたのである。
アンブロジン・ゴスランといふ女性は、その戀人を助けて夫を殺したといふ廉で一八四九年四月十三日に死刑を執行された。
彼女は死刑の時をきかされた時少しも驚愕の状を見せず、ギヨチーヌの所までの護送の間キャフェをのんだり、菓子を食べたりした。
いよいよギヨチーヌの刃が落ちた時、どうしたわけか刃が彼女の首を切落さず僅に傷をつけて止ってしまった。そこで刃は再び上げられ、改めて刑が執行された。即ちゴスランは二度刑を執行されたといふ事になる。
彼女はこの間少しもさわがなかったが、死刑執行人は群衆からひどく嘲けられた。
既述の諸例によっても判る通り、女性の死刑囚必ずしも弱からず男性の死刑囚必ずしも勇敢ではない。
これは何もギヨチーヌに限った話でなく我國のやうな絞首臺でも同じ事である。
從容として死に就くものもあり、狂氣のやうになって絞首臺に上らせられる者もある。
ギヨチーヌ物語もこの邊で一應終りとしておく。
餘談だけれども死刑囚の心理を一番はっきり描いた人はドストエフスキーである。彼は實際一度死刑の宣告を受けたのだ。
彼はその體驗から、その信條から死刑そのものゝ癈止を重んじて居るやうである。
理論は常に闘ひ合う。
死刑の存否はこれからもますます論ぜられるであらう。 (終)
――一九三〇・一二・八――
注)外国人名、一部漢字での不統一部分は適切と思われる方に統一しています。
注)漢字、かな表記の不統一部分はそのままにしています。
注)句読点は追加したところがあります。
注)「死刑囚断末魔の声 首切り器機(ギョチーヌ)凄譚」伝法院鎌五郎 エロチックミステリー・旅と推理小説 1963.10.の大部分は本稿の現代漢字かな対応文。
「佛蘭西惡漢團記(三章中絶部分)」
「犯罪科学」 1931.04. (昭和6年4月号) より
注:「一、各國惡漢團起源」「二、Tragic Bandits」犯罪科学 1931.03.〜04.は冒頭部改稿(及び校正?の上)『強力犯篇 防犯科学全集4』に再録されているので省略します。
三、La Villette Gang.
トラジック・バンディットと同じ位有名なものにラヴィレットといふ團隊がある。
この團體はボンノー團體のやうな、えせ無政府主義者(Pseudo-anarchist)ではなく、全く血に餓えた狼のやうな一群である。人の物を奪って「ブルジョアジーへの報復」などと名付けて自らひそかに辯解してゐたボンノー團や其他いろんな名義をつけてゐばってゐる決死團とはちがひひどく簡單で單純な慾のために人を殺すといふ連中から成立してゐる。それだけ危險極る次第だ。ボンノー一味と著しい對照をなすのはその犯罪がごくひそかに行はれたといふ點である。
トラジック・ギャングの方は、何と云っても芝居氣たっぷりで白晝公然と大犯罪を行ふのだけれどもこの方はさうでない。
彼らは、時と處をえらばず、機會があると商人を狙ってゐた。その首領をルネ・ジャンといふ。
一八八九年十二月二十三日パンタンで生れ屠殺業者の小僧になり、結婚後も子供がなくその後たくみにごまかしてドレフュスといふ牛屠殺業者に傭はれた。
この主人に使はれてゐる間、彼は實は如何にしてこの商賣を奪はうかと考へてゐたのである。
ところがへんな機會が來た。
ダヴリルといふ男が、ラヴィレットにある屠殺場の家を二千フランでドレフュスと共有したいと申し出た。ここの話をルネ・ジャンはきいてゐたが、その時もう彼は主人夫婦をあっさり片付けるつもりでゐたのである。
この企てにサボーといふ男とサラゼンといふ人物を彼はひき入れた。この二人とも、すぐこの企てに賛成した。
一九一八年四月二十四日の朝、ドレフュス夫人が絞殺されて死んでゐるのを發見された。その死體の横に手袋と疑問の紐があった。九萬四千フラン入れてあった引出が空になってゐる。
ここで數名の嫌疑者が捕へられたが皆證據不十分で許され事件は一寸迷宮入の形になりかけた。
ルネ・ジャンは一萬フランをラヴィレットの屠殺場の家に拂ひダヴリルと共にその家の所有者になりすましたのである。
ところがそれからまもなく、一九一九年の一月の十八日、サラゼンの仲間が二人――トラヴァイユとディセマといふ獰猛な男――加はって、ラヴィレットにあるブラシュグラヴロー銀行に押し込みダイナマイトで金庫を破壊し、五百十フランを盗み去った。此のディセマといふ男は、これまでに種々な犯罪をやった人間で、トラヴァイユも同様、此の方は特に銀行盗賊専門で疾に警察官からつけられてゐたのである。
トラヴァイユはリオデジャネイロで犯罪を行ひ、盛んに追かけられた結果汽船に乗って海を渡ってスペインに逃げ込みここで惡漢團の一人となりすました。
一九二〇年八月十日、ラヴィレットには更に四名の惡漢が加り午前十時にサン・トウェインでレシュール事務所の現金係を街頭で襲った。この四人はアラール兄弟、アダム、シローと呼ばれる連中である。被害者はボセリといふ前記レシュール事務所の者でまづレオン・アラールが棍棒で彼に一撃を加へると同時にアダムが三萬フラン入りのボセリのポルトフォリオを奪取した。而て、ジョーヂ・アラールが操從する自働者によって彼はたちまち逃走してしまった。
この事件に直接ルネ・ジャンが手を加へたかどうかは判然しないけれ共、この金を大分使った形跡は十分ある。
これより先、恐るべき犯罪が行はれてゐたのだ。
ルネ・ジャンは、かねて知合のマゼーといふある銀行の現金係をやっつける事に決し、この擧を行ふためコカール、マクローといふ二人をえらんだ。
一九二〇年一月の夜、この犯罪擧行に指定された日、コカールとマクローはルード・フラン・ドルのソシエテ・ジェネラルの附近に見張りをしてマゼーがそこに入り、二萬三千フランを受取った所をたしかめた。マゼーが出て來ると、ルネ・ジャンは恰も偶然通りかゝったやうに見せかけ、自分の乗って居る自働車に乗ることをすゝめたのであったが何も知らぬマゼーはただちにその申込に應じて彼の隣りに席を取ったのであった。
車が走り出していくらも行かぬ中に、ジャンはひそかにかくし持ったピストルを出してマゼーを狙ったその途端、マゼーがちょいと後を見たので、ジャンは、あははと笑って、
「今のはぢょうだんだよ」
とごまかしてしまった。
そこでこの第一の企ては失敗に終ったのである。
ところで、ジャンはこれでこの企てをやめるやうな男ではない。彼は第二の企てを考へた。
今度は新しい仲間を用ひる事に決した。
ジョージ・アラール、ビニヨン、デストーの三名であるが勿論凡てはジャンによって計畫された。
一九二〇年十月五日、ジョージ・アラールがまづ、アヴェニュー・ド・ヰ゛ラーからシトローエンの自働車を一臺かっぱらった。同月十一日、その日マゼーが、二十二萬五千フランの金をもって通る筈になってゐるパンタンの或る通りで待ちうけてゐた。ピニヨンがまづマゼーに目つぶしをくれるわけで、彼は胡椒をあらかじめ用意してゐたのである。尚、マゼーの悲鳴をふせぐべく彼の首に卷きつける布が用意された。一方ジョージ・アラールはエンジンをとめずいつでも發車出來る様にしてシトローエンに乗ってマゼーを待ち受けてゐた。
(以下次號)一九三〇・二・一四
注)作者自ら中絶して次号から別の作品が掲載されています。
「名檢事物語 リチャード・ミューア卿のことども(中絶)」
「犯罪科学」 1931.05.〜06. (昭和6年5月号、6月号) より
一 クリッペン事件の檢事としての彼
私はここに、我國に未だ餘り紹介された事のない英國近代の大法曹、名檢事リチャード・ミューア卿(Sir Richard Muir)に就いて聊か語りたいと思ふ。
元來、英國にわ我國のやうに檢事といふ役人は無い。檢事總長といふものはある。之は國家から任命され、大逆事件とか、毒殺事件とかいふ特殊のものには立會ふけれども、その他の事件で、公訴提起側の者として法廷に立つのは、即ち我國の檢事と同じ役目をするのは、カウンセル・フォア・ゼ・クラウン(the Counsel for the Crown)で之は辯護士の中から選ばれてその時々に職務につくのであるから、この檢事は決して役人といふわけではない。
從ってある辯護士は事件によっては被告人の爲に立つ場合もあり、反對に the Counsel for the Crown として立つ場合もある。
又判事も、長年辯護士をやって令名のあった者がえらばれる事になってゐるのだから、同じ人が一生の間にはいろいろな役をする事になる。
人間には自からその特色があるものだ。名辯護人必しも名檢事(the Counsel for the Crown の事を假りにかう譯する、以下同じ)とは云へぬし名檢事必しも名辯護士とは云へない場合もある。
ここに語らんとするリチャード・ミューア卿の如きは正に、英國法曹界に於ける名檢事と稱すべきで、丁度辯護人としてのマーシャルホール卿とよきコントラストをなしてゐる。
私はここにミューア卿の傳記を書かうとしてゐるのではない。彼の傳記を詳述せんとせば一本を著すもなほ足らずとの感があるだらう。私は彼が、檢事となってどんな事件を、どんな風に取扱ったかといふ事を紹介したいと思ふのである。
先づ彼の華かな檢事事務の中で、著しく目立つものはかのクリッペン事件であろう。クリッペン事件は丁度それから一年半後に公判をひらかれたヘンリ・セドンの事件と著しい對照をなしてゐる。
ミュ―ア卿が公訴提起をなしたクリッペンに於いては、終局に於て檢事側の全き勝利を表してゐるが、檢事總長、アイザック卿が立會ったセドンのの事件では、なほ多少の疑問が一般に殘されたのである。
たゞ特にここにクリッペン事件がミューア卿にとっても又社會にとっても著大であったといふことは、事件そのものゝ深刻さと及び檢事側の殆ど死物狂ひの努力――クリッペンを絞首臺へ上げる爲にミューア卿によってつくされた努力が全く稀有のものであった故である。
クリッペン事件の表面の描寫は可なり我國にも今まで傳へられた。私も且て之を他誌に發表した事がある。
けれども、此の事件の裏に如何ばかりの努力が檢事側でなされたか、之は殆ど未だ知られてゐない。
實に、ミューア卿の探偵的敏腕が、最も能力を發揮し得たのはクリッペン事件に於いてゞあった。ミューア卿はまことに此の事件で、百パーセントにその腕を表したのである。
讀者は既にクリッペン事件なるものを知って居られると思ふから今更この事件のをここに述べることは煩しいとも考へられるが、讀者の記憶を改にするために、この事件の推移を一應簡單にここに述べると、クリッペンは、妻ベルエルモアを毒殺して死體を我家の地下に埋め、情婦のイーセル・ルネーブといふ女と共にアメリカに向けて逃走中捕まったのである。
一九一〇年二月頃から、クリッペン夫人ベルエルモアの姿が地上から消失してしまった。クリッペンは近所の人達やベルエルモアの友人などに對して、妻が逃げてしまったと語った。そのうちに、アメリカに逃げてゐるといふ事を語りはじめ、つひに、ベルエルモアがアメリカで死去したといふ事を發表した。
しかし、何處で死んだかといふ事に就いては全く語らなかったのである。
さうして、一方、ヒルドブルップクレヤントの彼の家には、イーセル・ルネーヴといふ女が、公然と彼の妻やうな形でのりこみ兩人はここで夫婦氣取りで暮しはじめた。
六月二十八日に、ナッシュといふ人がクリッペンに妻の遺骸について質問したがクリッペンの之に對する答があいまいだったので同氏は、すぐスコットランドヤードにクリッペンの事を察告した。七月になって、クリッペンとルネーヴが倫敦から消失した。
そこでインスペクター・デューは、ヒルドルップクレセントの彼の住居をいろいろと、捜索していると、十三日になってそこの地下から人間の死體があらはれて來た。同時に、クリッペンの人相書が全國に向けて發せられ、無電によって、洋上の各船舶にその人相が傳へられた。之を接受したモントローズ號の船長は、船客の中に正しくクリッペンと男装せるその情婦らしい女を發見、二十二日直に無線電信を以ってスコットランドヤードに通告。
そこで、係官連は二十三日リヴァプールよりローレンティック號に乗ってモントローズを追い之を抜き一足先にキャナダに到着、七月三十一日、クリッペンとその情婦とが逮捕された。
八月二十四日兩名は英國に送還され、二十九日、二人に對する警察の取調べが開かれた。
そこで同年十月十八日から、いよいよ公判を開かれて、クリッペンは取調べられる事となったのである。
此の事件の公判の裁判長はオーヴァストン卿檢事が即ちリチャード・ミューア卿、被告人クリッペンの辯護人はトービン氏、ルネーヴの辯護人はバークネッド卿であった。(當時ミューア、バークネッド兩名はいづれも Mr. であった、よって以下ミューア氏といふ)
これで判る通り、公判の最大の中核は、ヒルドロップクレセントの地下から發見された人間の死體がはたしてベルエルモアかどうかといふ事で、ミューア氏は之を明かに證據立てなければならず、若し彼にして之に失敗せんか陪審員は必ずや被告人に無罪の判決を與へるにちがひないのである。
此の點に關して、ミューア氏は特に、バード・スビルスベリーといふ若い醫師を信頼し努力させた。之まで世の中に少しもその名を知られてゐなかった此の若い醫師はこの事件から俄然名をなしたのである。
公判の終りの方になってから、死體がつゝんであったパジャマのジャケツが、非常に問題になった。クリッペンの家の二階の寝室から警官は二着の完全なパジャマとそのズボンを發見した。もし、死體をつゝんだパジャマのジャケツと、二階の寝室に在ったズボンと全然同一の品質のものであれば、死體を包んであったのは即ちクリッペン夫人の品物であり、その死體は取りも直さずクリッペン夫人であるといふ事實が證據立てられるのである。
ミューア氏は公判がはじまってからも此の點については惱まされた。凡そ、この事件に少しでも關係した警官は皆召集された。さうして、全倫敦を隅から隅まで捜索して、このジャケツの出所をつきとめよといふ命令が發せられたのである。
公判は一方遠慮なく進んで行った。
一九一〇年十月十八日に公判第一日がはじまり、四月二十日まで檢事側の證據提出があった。然しながら此の時までに右のパジャマの一件はミューア氏によって立證されなかった。
二十日からトービン氏の驚嘆すべき雄辯なる、被告人防禦側の證據提出がはじまり、二十一日、ブリス氏を最後の證人として、辯護人側の防禦は、まさに頂點に在り、之より、辯論に入らうといふ刹那であった。
ミューア氏は突然裁判長に對して發言した。
「裁判長閣下、此のパジャマに就いて一言希望する所を述べます。被告人は之に就いて一言もいつ之を得たかといふ事を立證してゐませんぬ、主尋問(examination-in-chief)で、この日の點に關して調べるのは不可能でありました。この點に關し證人を召喚されたき事をここに申請します」
裁判長は直に之を許可した。
この許可に對しては勿論辯護人トービン氏は一矢を放たざるを得なかった。今や被告人の辯護は始められやうとしてゐる。檢事側の證據提出は凡てすんでゐる筈だ。ここに改めて新しい攻撃側の證人が出て來ることは決してクリッペンの爲に利益ではない。
そこでトービン氏は極力之に反對したけれども、結局その證人は召喚されることとなった。
即ちこの證人はミューア氏の努力によってつひに發見された所のシルヴァーといふ男で、この男が證人臺に立つと同時にクリッペンの運命が定ってしまったのである。
シルヴァーはジョーンズ兄弟商會の取引先の者で、證據品として示されたパジャマについて極めて明かな證言をした。パジャマのジャケツをズボンを示されてそれが全く同一の品質のものであり、何年にそれが賣られたかといふ事を明瞭にする事が出來た。而も、證據品は「ジョーンズ兄弟、有限責任會社」とちゃんと書かれてあったが、この有限責任會社が成立したのは一九〇六年以後だといふ事がこの證人によって明かとなったので、今までの防禦側の大中心は無殘にも打挫かれてしまったのである。
蓋し、辯護人の極力力説した所は、發見された死體は、決してクリッペン夫人に非ず、他の何者とも知れざるもの也といふ點であったが、クリッペン夫妻が、ヒルドロップクレセントの呪の家に居住しはじめたのは實に一九〇五年からであるので、一九〇六年以後に出來たパジャマで包まれてゐる死體が、クリッペンの地下室から出た以上、他人の死體がクリッペンの知らぬ間に埋められてあった、若くはクリッペンの來る前から埋められてあったといふテオリーは全然成立しなくなってしまったのである。
[全身写真あり:ルシャード・ミューア卿]
實にミューア氏は此の事件でまづ第一に、實力ある醫師を召喚して檢事側の立證に資し最後に、パジャマの問題をシルヴァーによって解決せしめて、決定的な勝を得るに至った。
此の事件に於いて辯護人側の最も力を注いだ所は、ヒルドロップクレセントの家から發見された死體はクリッペン夫人ベルエルモアに非ずといふ事だったが、ミューア氏は、之を同一なりと立證する以外に、更に殺人の動機を説明しまければならなかったのである。
私はここにミューア氏が如何にこの事件に苦心惨膽したかを表すために彼自身の手になる、詳しきメモランダムを紹介したい。一體檢事のメモが公表された事は未だかつてないと思ふが、それを全部ここに出すのは却って煩はしいから、重要な所のみを紹介する。下手な譯をして興味を削ぐのをおそれれて、原文のまゝここにのせて見る。
Hawley Haruey Crippen,
M.D.Hospital College
Cleveland, U.S.A.
48 years of age.
Agent and Manager for Munyon's Remedies,
Albion House Advertising Business Tooth Eye Ear remedies.
Cora Crippen "Belle Elmore"
1900-1906 Music Hall Singer of Brooklyn, U.S.A. 9 Sept. 1973 about 37 years of age marries Crippen as his second Wife. Comfortably off, lived at 39 Hillchop Crescent, £50 p. a. 21 Sept. 1905.
Well furnished latterly kept no servant. Life together.
On affectionate terms, kind and attentive husband.
Conbrast Crippen's statement
"Ungovernable temper" "Often threatened to leave me" "Not co-habited since 1906"
(中略)
Money
Crippen says he provided all the money for the home.
If so
For four years he had been supporting a wife for whom he had no affection. A laely with expensive tastes in furs, jewellery and clothes.
(中略)
Motive
Belle Elmore stood between him and the closer relations he wished to establish with Ethel Le Neve. Belle Elmore's money (and other property convertible into money) would enable him too keep Ethel Le Neve.
31 Jan. 1910
Invitation twice repeated to Mr. and Mrs Martenelli.
(中略)
Disappearance of Cora Crippen
Would she return? Never to return. He very early made up his mind that it was certain she would not return.
之はほんのそのはじめの方の一片であるが、以下 Inquiries by Friends, Inquiries by Police, Preparation for Flight, Flight, 其他數ケの題目のもとに、水も洩らさず詳しきメモが出來上ってゐる。
クリッペンのやうに平氣で冷靜に被告人席についてゐた犯人はないと云はれてゐる。
勿論彼としては、ミューア氏の提出するテオリーを悉く否認しないわけにはいかなかったらう。もしさうしないなら、陪審員はクリッペンがその席を去るよりさきに有罪の判決としたかも知れない。しかし彼は、必死になってかゝって來るミューア氏の訊問にあって、自分の口から自分の有罪の事をうっかり――否うっかりではない、ミューア氏の手腕によって用心しながらもとうとう白状してしまったのであった。之と面白い對照をしている状態が、一九一二年の三月に法廷で起った。
被告人はヘンリ・セドンで時の檢事は、檢事長のアイザック卿。この時は、アイザック卿の火のやうな訊問にセドンはあくまで冷静に答へて、却って冷血漢として自分を裏切ったがクリッペンはミューア氏の鋭い訊問にあってしどろもどろの答をして自分を裏切った。
セドンとクリッペンは丁度訊問に對して正反對な態度をとって而も同じ運命を自分で作ってゐる。
クリッペン自身は實際鐵の如き神經の人間であったけれどもミューア氏の烈しい訊問がとうとう彼を陥落させてしまったのである。
その訊問をここに一寸紹介する。
檢「二月一日にお前は妻とたった二人切りになったか」
ク「さうです」
「妻は生きてゐたか」
「左様」
「さうして丈夫で?」
「左様」
「その日から後、妻が生きてゐるのを見たといふ人間を被告は知ってゐるか」
ミューア氏は滿廷かたづを呑んでゐる時にかうきいた。
「知りませぬ」
「では、その日以後彼女から手紙を受取ったといふ人間が世界中に一人でもあるか」
「知りません」
「では、妻がその日から以後に生きてお前の家を出たといふ事を立證し得る人間を世界中で一人でも知ってゐるか」
「全然知らんです。私はこの事についてはすっかりデュー氏に云った筈です」
(デュー氏とは Inspecter Mr. Dew の事)
かくの通りミューア氏の尋問はずゐ分くどく、執拗である。
クリッペンのこの答辯だけでももう彼の立場は可なり危いのだが、ミューア氏はまだ之では滿足しないで、ねばり強くもっとつゞけてゐる。
クリッペンが二月一日以後妻がゐなくなったと答へると、又かうきいてゐる。
「では被告は妻がどこへ行ったと思ったか」
「私は、彼女がよくブルースミラーの事を云ってゐましたから大方そこへ行ったことゝ思ってゐたのです」
元氣をまだ失はなかったクリッペンは辛じてかう答へた。そして、
「それだけしか考へられませんでした」
とつけ加へた。
「とは、アメリカへ、といふ意味か」
「さうです。アメリカです」
「ぢゃ被告はすぐその方を捜索したか」
「いゝえ」
「その時分、何といふ汽船がアメリカに向けて出發してゐたか或は出發しやうとしてゐたか、については?」
「その點についても調査はしませんでした」
「では、とうとう一度も調査はしないのだね」
「さうです」
この頃から、クリッペンは次はどんな訊問をされるかといふおそれを少しあらはしはじめた。
「被告人が逮捕されるまでかね」
「さうです、全然しませんでした」
「何だって!」
ミューア氏は特にここで力を入れて叫びながら陪審員の方を見た。さうする事によって、クリッペンが妻の消失後一回もその行方を調べなかったといふ事實を認めたことの重要さを陪審員達に強調したのだった。
犯人によっては、鋭い訊問を相當烈しくはね返す人間があるものである。しかしクリッペンの場合は彼到底ミューア氏の敵でないことを直にあらはしてしまった。
ミューア氏はそれから更に執拗にクリッペンに迫って、クリッペンをして、妻の消失後、船も汽車も何も、全く一回だも調べず、妻に似た女についてさへ調査しなかったといふ事實を公判廷ではっきり云はせてしまった。
眞面目な意味に於いて、全く犯罪人にとって、ミューア氏は恐るべき名檢事であった。この訊問中、クリッペンの辯護人トービン氏は全く氣が氣でなかった事と推察せられる。
追撃はますます急である。
「三月二十五日、被告人は、マーティネッティ夫人に對して、前夜妻が死んだ電報を受取ったと電報を打ったね」
「さうです」
クリッペンは小聲でやっと答へた。
「被告人は、イーセル・ルネーヴと一緒に出発する前の晩ヴィクトリヤステーションでその電報を打ったか」
「左様」
「三月三十日に被告人が歸宅した日、マーティネッティ夫人とスミスリン夫人が、被告人の妻の死に就いてきゝにやって來たか」
「左様」
「被告人はその時喪服を着してゐたかね」
「さあおぼえてゐませぬ」
「考へてごらんよく。被告人は喪服をつけてゐたか」
「その後は喪服をつけてゐました。けれども、その日つけてゐたかどうかはっきりおぼえませぬ」
この問は更に裁判長によって行はれ、クリッペンはその後、喪服をつけ、黒わくの手紙を妻の友人に送ったりした事を自白した。ミューア氏は更にかう云った。
「手紙は四月五日、アルビヨンハウスで、我が親しきドクターよ。余はわが無沙汰を許さるゝ事を信ず。余は哀れなるベルの死によりて正に半狂亂の有様にて候、とあるが、これは全くの僞善ではなか」
「私はその事はもう認めてゐます」
クリッペンはかう答へたが、自分の答が如何なる影響を陪審員に與へてゐるかを見てとってしまひには、餘りにくどいミューア氏の訊問の對して多少の怒氣をあらはして、かう云ってゐる。
「私は全く僞りであった事を認めてゐるのです。又さう云ってゐるはづです。然るにあなたが何のためにそんな質問をなさるのかわかりません」と。
かうやって打砕かれながらも、クリッペンは必死になってなほも出鱈目をくり返さうとした。
一方ミューア氏は更に深く追求した。
「一體誰の爲に被告人はこんな念入の方法をとったのか」(多くの死亡通知を出した事をさす)
「われわれ二人の爲です」
「何だって! 被告人らの爲にだって? とは又どういふわけかね」
「私は友人達に、妻が家出をする程私が彼女をいぢめたと思はれたくなかったのです」
「では被告人はここにゐる友人たちに惡く思はれたくなかったんだね」
「さやうです」
「で、被告は妻同様イーセル・ルネーヴを同伴したんだね」
「しかし公然とではありませぬ」
「ぢゃ、そんな嘘をついてまわってどんな徳があったのかね」
「私は友人達にひろまるだらう所の醜聞をさけたのです」
「ところで、被告は妻を好遇したか」
「左様」
「金を彼女にやったかね」
「さうです」
「寶石なども?」
「さうです」
「着衣も?」
「はあ」
「被告人は夫婦関係をやめてから四年も彼女の爲に家庭をもってゐたのに、彼女が何らの理由もなく家出した、といふのか」
「さうです」
この答へ聊か危險を感じながらもクリッペンはさう辯じた。
「ぢゃどうしてそんな(忘恩な)妻の爲に、醜聞をかくさうとしたのか」
「それについてはこれ以上説明はいたしかねます」
それから、ミューア氏は例の死體について訊問をはじめたが結局クリッペンの答辯は、その死體は、自分にも又妻にも知れぬうちに地下室の下に埋められたのだらうといふ事だった。但し、ミューア氏に突込まれてそんな事はめったにありさうもないことだといふ事を認めざるを得なかったのである。
ミューア氏は、ここに於いてさきに一寸述べたパジャマのジャケツについて訊問を行った。之は彼がヒルドロップクレセントにうつってから求めたものであらうといふ事をつっこんだ。
クリッペン自身それに對する答辯がどの位重大なものであるか知ってゐたかどうか判らないけれども、それが如何ばかり重大なものであるかといふ事は、つひに裁判長が、被告人に對しもし欲するならば、從來の答辯を變更してもいいといふ注意を與へてゐるので判る。ここの所の訊問は次の通り。
險「一九〇九年一月五日に、其の一つのジャケツがなくなったが、その三組は妻が被告の爲に買ったのではないか」
ク「彼女は其品物を私に買ひましたけれども、これがそれであるかどうか判りません」
裁判長「二分前に被告は、被告の妻は決して被告の爲にパジャマを決して買はぬ、と云ったはづである」
ク「さやうです」(中略)
裁判長「私は今きれいな方のズボンの話をしてゐるのだが、被告はその答辯を變更しやうとは欲しないか」(中略)
裁判長「今ここに三組のパジャマがあるが、この三つは一九〇八年十一月に製造されたものである。この布地は一九〇八年十月以前には全く存在しなかった事を私は被告人にはっきり云っておく。この機會に於いて被告人の供述を變更したらばいかが?」
更に後に曰く、
「之らに關して被告が最後の答辯をなす前にこれらは一九〇八年十一月に製造されたものである事に注意せよ」
險事「裁判長よ、もはやこの點に關して追求しますまい」
裁判長「(ミューア氏に向ひ)君は此の證人(クリッペンの事、被告人クリッペンは今證人席にある故かく云ふ。しかし筆者は便宜上被告といっておく)に、甚だ、有力な事實を暗示しました。もし彼が欲するならばその供述を變更する機會を彼に與へました」
しかしクリッペンは首を振って答辯を變更しやうとはしなかったのである。
ミューア氏は更に訊問によってクリッペンの出鱈目をはっきり陪審員にしらせた上、警察官の態度につき大なる不滿を發表しはげしくその態度を批判しはじめた。即ち、クリッペン夫人消失の報を得た時すでに捜索が開始さるべきで從而彼はもっと早く捕へらるべきであったといふのだ。
然し之に對しては、さきに警察に於いて取調をした時に表したクリッペンの圖々しさを考へに入れなければばらない。インスペクターデューはかつて自らヒルドロップクレセントの家に行ったのであるが、當時クリッペンは全く平氣で、冷靜にしてゐて少しも怪まれるやうな事はなかったのである。クリッペンに關するミューア氏自身の感想は次のやうなものであった。
「大體クリッペンといふ男は、妻を殺してその死體を寸斷するといふやうな犯罪を行ひさうな人間ぢゃなかった。私はあの男の性格をうまい詐欺師に適してゐるやうに思ってゐる。克己心も相當あるし、奸智にたけてゐるからな。ともかく、彼の妻との同棲生活はよほど悲惨な絶え難いものだったに違ひない。だから、イーセル・ルネーブとの生活がたとへなくのぞましかったんだ。
それから、妻の死體をあんなに殘酷に切り斷つことなんかは、他の人間ぢゃ出來るものではない。これは、彼が醫者で解剖なんかを平氣でやってゐたので、他の人よりも平氣でやれたわけだらう」
この點に關して、私は我國の「鈴辨殺し」を思ひ浮べる。犯人山田憲が被害者の死體を平氣で斷ち切ったのは平素、豚を殺して分解した經驗があったからだと云はれてゐる。クリッペン事件はいろいろの意味で犯罪史上に永のこるべきものである。
第一に、犯人逮捕のために無線電信がはじめて利用されたといふ事、第二に毒殺に用ひられた藥が從來餘り知られなかったヒヨスチンであったといふ點、第三に、死體を寸斷してかくの如くに殆ど完全に近い迄に燒燬し去ったといふ事は殆ど其の比を見ないといふ點に於いて永く記憶さるべきものであらう。更に劇的な犯人の逃走なども話となって傳へられる事だらう。
クリッペンの最後については多く語る必要はあるまい。
クリッペンは死刑の判決を受けた後、直に上訴に及んだが、之は却下された。一九一〇年十一月二十三日ペントンヴィルの牢獄に於いて絞首臺に上って一生を終った。
彼は、死刑確定してたゞ最後の日を待ってゐる間にも、一回も自ら犯罪を認めなかった。たった一度、イーセル・ルネーヴに手紙を出した切り誰とも手紙の交通をしなかった。
彼のやり方は全く彼獨特で、今まで知られてゐた殺人犯人の中でも特殊の味がある。
クリッペンが死刑を執行されたときいた時、ミューア氏はかう云った。
「正業は、まだ完全に行はれたとは云へない」と。
彼がこの言葉で何を意味したかここに云ふ必要はあるまい。
クリッペン事件に於けるミューア氏の名檢事振はここで一應終らうと思ふ。
次には、これから間もなく起ったヘンリ・セドンの公判に於ける檢事總長ルーウファス・アイザック卿の態度を語らう。
終に一言する。
クリッペン事件については餘りに有名であるために、私はここに事件そのものゝ筋を餘りくはしく記さなかった。それ故もしそれがために事件がはっきりわからぬ方は、他の書によってクリッペン事件を知られん事を望む。
この事件については、我國にも種々の紹介がある。實話、創作取交ぜの紹介もあるやうだ。
私自身もかつて「クリッペン事件の一挿話」と題して大體の筋を紹介した事がある。(昭和三年文藝春秋、四月號)
なほ最も権威あり詳しいものは英國著名裁判叢書の中の『クリッペン事件』で之は法廷の訊問が殆ど全部、速記體で出てゐる。特志の方はこの叢書について研究されたい。
(British Notable Trial Series ― Trial of H. H. Crippen)
同書の抄譯が村上常太郎氏によって出されてゐる筈である。
――一九三一、三、一四――
(佛蘭西惡漢團記は都合により一時休載させて頂く。名檢事物語の方が筆者にとって興味もあり又自信もあるのでこの方をつゞけて行かうと思ふ。さきのものよりも稍大衆的でないけれども特志の讀者の興味をひく事が出來れば幸である。)
二 ヘンリ・セドン事件と檢事長アイザックス卿
一九一〇年の十月、クリッペンに對するリチャード・ミューア卿の、あの素晴らしい攻撃が行はれて人々にその記憶なほ新なる時、一九一二年三月、オールドベーリには他の有名な殺人犯人が被告人として現はれた。
此の被告人は、フレデリック・ヘンリ・セドン(Frederick Henry Seddon)といふ男で、某保險會社の監理人で、エリザ・メリー・ボローといふ婦人に砒素をのませて之を殺害したといふ廉で公訴の提起を見たのであった。
一體、毒殺事件といふものは、立證するのが甚だ困難なものである。
如何なる點より見るも、セドンの犯罪は、全く冷血で、巧みに巧んだ仕事といふべきであった。
激情に驅られた殺人などといふものは、犯人の方で豫め考へぬいて居るわけでないので後始末なり、又殺人方法に必ず手ぬかりを殘すから立證もわりに容易であるが、元來毒殺といふやうな犯罪は、最も憎むべき冷血な犯罪で、從って犯人が豫め考へに考へぬいてやる事であるからして中々その尻尾をつかみにくいのである。
ヘンリ・セドンの事件で特に著しく人々に記憶せらるべき事は、彼がボロー嬢にのませた砒素を、彼が如何にして手に入れたか、といふ事がとうとう立證されなかったといふ事實であった。
殺人の動機は甚だ明かであった。單純にボロー嬢を殺して金を手に入れやうといふのであった。
セドンは法廷に於いて實に落付いてゐた。クリッペンとは大ちがひで、どんな訊問に對しても直に答へる容易をしてゐた。
もし彼が餘りに落付き拂った、あのにくにくしい態度をとらなかったら、はたして彼は死刑の言渡を受けたかどうかは疑問だと一般に言はれてゐる。
セドンに對して公訴を提起したのはミューア卿ではなかった。此の時檢事として立ったのは時の檢事總長ルーファス・アイザックス卿(Sir Rufus Issacs)その人であった。彼は自身、證據をあつめ自ら法廷に立ったのである。
アイザックス卿の攻撃方法はたしかに正しくはあった。然しそのどの點まで成功したかといふ點が多少疑はれる。
セドン夫妻の事件は、一言でたゞ惨忍と云ふ二字でつきる。クリッペンの事件で見られたやうなロマンスも何もない。
たゞ金に對する利慾、之がこの犯罪のテーマであった。
セドンは、かつてロンドン、マンチェスター工業保瞼會社につとめてゐた。生活には可なり困ってゐたらしいが、ともかく一應のくらしをやってゐたのである。
事件の起った當痔、彼はトリントンパークに自分の家をもち、同會社のホロウェー監理人であった。
惨劇の序幕は一九一〇年七月にはじまる。
此の月に、ボロー嬢といふ(嬢と云っても四十九歳の)獨身女が、一人の養子をつれてセドンの家にはいって來た。
此のボローといふ婦人が又甚だ妙な性格の女で、吝嗇(けちんぼ)で、猜疑心が深くて、銀行に金を預けるのさへ不安で、自分の所に金でも寶石でもおいておくといふ人物であった。彼女は、自分のねどこの枕の下に、自分の財産をかくしておいたと云はれて居る。
セドンが、ボローといふ女は案外金持ちである、と思ひはじめたのはそれから間もない事だった。
事實、彼女がセドンの所に來た時、彼女は四千磅の財産家だった。その中千六百磅だけは銀行に入れてあったが、その他、家を二三軒ももち、年に居ながらにしてそれらから百二十磅といふ金が彼女の手にはいって來るのであった。
枕元にいつも置いてあった箱の中に、彼女は金貨で四百磅もっていた。彼女がセドンのに所に來てから間もなく、この貯金がしてあった銀行が取付けにあって危くなったので――この點さすがに彼女の用心は豫感があったとみえる――二百十六磅を引き出した。それで少くもボロー嬢は身に八百磅の現金をつけて居たと思はれるのである。
ところが彼女が死亡した際、即ち一九一一年九月十四日に、彼女の所で發見されたのは僅かに十磅にすぎず、其の餘は皆どこかに消えてなくなって居た。さうして、彼女の所有に属して居た不動産はいつのまにか、セドンの名義にかはってゐたのである。
尤も表向きは、之らは一週間三磅づつ現金でセドンが彼女に金をやるといふ約束で書かへられたものではあったが、ともかくかやうな有様であったから、之はセドンでなくとも、ミス・ボローの死を願ふのは當然だらう。何しろ彼女の不動産。動産の代りぬ、一週三磅づつ拂ふといふ約束がしてあるのだから、彼女が死ねば彼は一文も支拂ふ必要はなくなる上に、全部セドンのものになるのだから。
問題は如何にして、誰人の疑をも招かずにミス・ボローを殺すべきかといふ事であった。
そこで思ひ付いたのが、砒素で彼女を徐々に毒殺するいふと方法で、セドンは、彼女が彼の所に來てから一ヶ月もたゝぬ中に、蝿取紙から砒素を手に入れはじめたのである。
事は極めて迅速に進んで行った。
一九一一年の九月一日にミス・ボローは病氣になった。さうして醫師に診てもらってベッドに就いた。同月十四日の拂暁、非常な苦痛の後に彼女は息を引取った。
之に對してかゝりつけの醫師は死亡診斷書を認めたがそれには、急性大腸加答兒(カタル)と記してあったさうである。
この時、セドン自身醫師の所へかけつけてボローの死を報告し、死亡診斷書を受取って引返すや否や、死人の部屋にはいり込んで金や寶石を探して居たのである。
死の三日前に、ミス・ボローは遺言を作成して、セドンをその遺言執行人と定めたが、この執行人が發表したボローの財産は、前に記した通り僅かに十磅であった。然し、セドンが、ミス・ボローの死の前後にとった態度は世にも恐るべきものであった。全く人間とは思はれぬ。人の皮をかぶった獸である。彼は、ボローが斷末魔の苦痛を味ってゐる間、醫者もよばず隣の室でパイプをくはえながら、新聞をよんでゐた。
後になって、法廷で、彼がおどろくべき冷靜さでこの事實を物語った時は、滿廷の人々は餘りの事實に皆戰慄した。
彼女の死後、彼は出來るだけいそいでその葬儀をすませた、出來るだけいそいで、而て出來るだけ安直に! 葬儀の費用は全部で四磅であった。
此の事實をも亦きわめて落付いて彼は法廷で物語った。
葬儀屋の人間がやって來て、出棺の前夜、ボローの死體の始末をしてゐる間、セドン夫婦は近くの音樂會に行って居た。
葬儀の日、棺についてゐたのはセドン夫婦切りであった。
元來、ミス・ボローにはヴォンデラーエと稱する親戚が居たのだが、彼はボローの死を誰人からも知らされなかったので、無論葬儀には列しなかった。
法廷でセドンは、當痔ヴォンデラーエの舊住所までたしかに報告したはづである、とて、カーボン紙に記した手紙のうつしを出してしきりとその事實を主張したが、この手紙のうつしは彼が後になってあはてゝ作ったものであると知れてしまった。
そこで事件は一先づセドンの思った通りに進んで、ボローの葬式も無事にすんだのだったが、程へて彼女の死を知ったヴォンデラーエがセドンの行動を怪しみはじめた。
考へて見ると、あれほど金持であった筈のボローがたった十磅しか殘して居ないといふのも妙な話だし、死の前後のセドンの行動が又悉く怪しい。そこでヴォンデラーエはひそかにこの疑ひを倫敦警視廳に告げて、ボローの死體を發掘して解剖されたき旨を申込んだ。それが十月九日の事である。
一旦、無事に葬式をすませた人の死體を發掘して解剖するといふのは容易な事ではない。たゞ怪しいから、位の事で左様な事をするわけには行かない。英國内務省は、確たる證據を提出せぬうちは之を許さぬ方針でゐたのだが、いろいろの事情からして、申請人の望みが一應理由ありとされ、一九一一年十一月十五日、イースト・フィンチリー墓地に眠ってゐるミス・ボローの死體を發掘していよいよ解剖に附するに決した。
解剖を行ったのは當痔の英國内務省の解剖學者、W・H・ウイルコックス博士であったが、彼の發表の結果は、ボローの死は決して腸加答兒ではなく、可なりの時間に亙って行はれた砒素の内服によるものと決した。於是、Criminal Investigation Department は俄然色めき立った。
當痔、トリントンパーク附近で砒素を手に入れる方法はたった一つしかなかった。それは夏、蠅を取るためにぶらさげておく紙に之が府着してゐるのである。
そこで當局はまづこの蠅取紙に目をつけはじめた。
すると、その年の八月に、ボローが病中、そのベッドのまわりに來る蠅をとるために、セドンの妻とその娘のマーガレットが、蠅取紙を買求めたといふ事實が判明した。
醫學の證明によって、この蠅取紙のもってゐるだけの砒素で、立所に一人の男が殺せる事實が明にされた。まづ下痢をおこし、ついで急な死を伴ふのである。
有名なクリッペン・ルネーヴ事件直後の事とて、セドン事件は大變な人気をあほった。
今度の事件では、時の檢事總長ルーファス・アイザックス卿自ら檢事として立ったが、不幸にして彼は種々な非難の下に立たねばならなかったのである。
クリッペンを地獄に追ひやったミューア卿の腕を見たばかりの人達は、今度もクリッペン(※誤記?)が立つと思ってゐた。わざわざ時の檢事總長自身の出馬を見るの要はないと考へてゐたのだ。
勿論、アイザックス卿が現代の最大の法律家の一人である事については何人にも異存はない。たゞ卿は從來、殺人事件といふものを餘り自分で取扱った事がなかった。この事件に於いても卿は重大なりとして自分一人では事に當らず、その部下として、ミューア、トラヴァースハンフレー、及び、ローラットの三氏を働かしたのである。
檢事側のあげた證據といふものは、徹頭徹尾間接證據ばかりであった。セドン母子が蠅取紙を買求めたといふ事は立證された。然し、アイザックス卿は、何時セドンが被害者に砒素をのませたか、といふ事については何人にも語らしめる事が出來なかった。無論セドンはボローにこれをのませるに十分な時日をもち、正に之を殺した事はまちがひはなかったのだが。
セドン夫人が後、ボローの金を、僞名を用ひて方々に預金した事も明かになった。けれども、ボローを殺したといふ直接證據はどこにも法廷では、直接現れて來なかった。
若し、この世の中に、自分で自分の首をしめたといふ被告人があるならば、セドンこそまさしくそれであった。
裁判半に至らずして、陪審員等は早くも彼の有罪を決してゐたのである。全くあの、切迫した、アイザックス卿の最後の論告などがなくともセドンは有罪になったにちがひない。
それは全く、セドンのとった、法廷に於けるそのいけ圖々しい態度によるものであった。
筆者は前號に於いて、クリッペンの法廷に於ける態度について語った。クリッペンは餘りに落付きを失って却って陪審員の心象證を惡くしたが、それを丁度反對に、セドンは餘り法廷で冷靜でおちついゐたゝめに有罪とされるに至ったのでる。
筆者はここで一應讀者の注意を喚起したい。さきに述べた通り、毒殺事件は最も立證し難き犯罪であるといふ事を。他の兇器を用ひた事件ならば、被告人が最後まで否認してゐても、どこをどうやったかといふことは明かになるものなのだ。ところがわれわれはさきにクリッペン事件を一通り見て來た。彼がヒヨスチンでベルエルモアを殺したことは事實であらう。
しかし、如何なる方法で、いつどういふ風に殺したか、といふ事は永遠に判らぬ謎である。
セドンの事件も同じである。彼はおそらく蠅取紙から砒素をとってボローにのませたものではあるらしいが、どういふ風にしてのませたか全く判らない。解剖の結果、ボロー嬢の内臓以外に、頭髪の中、爪のさきからも砒素が發見されたのである。
此の事件に於いては、檢事側の弱みは如何にしてセドンが砒素を手に入れたかといふ事を立證出來なかったところである。
クリッペン事件でも、亦最近の事件としてはアームストロング事件に於ても、被告が毒藥を手に入れた徑路に立證された。
一方辯護人側の方を見ると、セドンはこの時マーシャル・ホール卿によって防禦されてゐる。かくの如き事件を手にかけては右に出る者なしと云はれるホール卿である。而しホール卿は立派に被告人を辯護した。しかし、さすがのホール卿の雄辯を以ってするも、セドン自身が陪審員に與へたあの惡い印象を拭ひ去る事は出來なかったらしい。
審理が終結して、裁判長バックニル氏は陪審員に對して事件の説示をなしたがその説示の中に次のやうな言葉があった。
「一體、何の理由があって被告人は、側で被害者が苦しみもがいてゐる最中、醫師をよびにやらなかったのであらうか」
蓋しこの一語は、何よりもまさって陪審員らの氣もちを決してしまったのではあるまいか。一時間も經ずして陪審員らはその答申をもって現れ、有罪の決をなした旨をつげた。
その一瞬、セドンはさっと顏色がかはったけれ共、たちまち又もとのおちつきを回復して、死刑の判決をきいたのである。
最後に、何かいふ事があるか、ときかれてセドンは突然すっくと立上って滿場の人々に一場の演説をはじめここで又更に自分は無罪であると主張した。さうして最後におごそかに祈りをはじめ、神に誓って自分には罪なしといふ事を力強く云った。
一九一二年四月十八日、彼はベントンヰ゛ルの獄で死刑の執行を受けた。
扨この事件に對して、リチャード・ミューア卿は後におこったセドン無罪説に對して憤慨してゐる。セドンに對する直接證據がないと云って彼の無罪を主張した人々が大分あったのだ。しかし、度々記したやうに、考へに考へ、冷靜な氣もちで行はれた毒殺事件の直接證據をあげるといふ事は、まづ一般に不可能に近いのである。だからその點でこの事件の檢事の側に手ぬかりがあったといふわけには行くまい。リチャード・ミューア卿が之は、下になってはたらいた一つの事件である。
三 ミューア卿と殺人事件
リチャード・ミューア卿の事を叙する序に、筆者はその先輩のアイザックス卿の事にふれてしまった。
アイザックス卿も亦名檢事の一人である。
彼は、殺人事件こそ餘り取扱はなかったが檢事としての腕は實にすぐれたもので、殊に經濟方面の事に精通しこの種の事件を巧みに取扱って居た。アヴォリー卿(Sir Avory)、スティヴンスン(Sir Stephenson)及ブランスン卿(Sir Branson)と共に、名檢事のクワルテットと云はれた程の人である。
この中、アヴォリー卿は彼自身檢事總長になった。
ところで、殺人事件を一番多く取扱った人と云へば何と云ってもリチャード・ミューア卿であらう。之は彼が特に殺人事件を好んでゐた、といふ意味ではなく、彼の性格が殺人事件に一番よくむいて居た、と云っていゝのだらうと思はれる。
英國王冠法曹の多い中に、ともかく一番人殺しを多く取扱った人間はミューア卿である。
筆者はここに、指拇法がはじめて採用された頃、彼がこれを如何に巧みに應用したかを物語りたい。
今日でこそ指拇といふ事は重大な證據とされ、ずゐ分インチキな探偵小説にまで取入れられてゐるけれ共、はじめて之が採用された頃は、世の中に、同じ指拇をもった人間が決して二人はゐないなんてことは全く信用されなかった。英國警視廳でこの方法をまづ第一に採用したのは、エドワード・ヘンリ卿だった。彼はこの指拇による犯人確定法を採用するにした。さうして之を法廷で、はじめて陪審員に念を入れて説いたのがミューア卿であった。之は今からまだ約三十年以前の事である。
一九〇五年になってから、指拇の證據が法廷に實にはっきりともち出された。
一九〇五年三月、デットフォード・ハイストリート三四番地にトマス・フォローといふ七十歳なるに老人が妻と共に住んでゐた。フォローは或る石油商に二十四年も忠實につとめて一週五十磅を得てゐたのである。
一九〇五年三月二十七日の朝、フォローの手傳人が彼を訪問したけれど戸を叩いても開かなかった。それでこの男は裏へまわって臺所から中へはいって行って見た。
そこで彼は實に見るも無惨な光景に出會したのである。
フォローは、顔を、まるで誰だか見別けられぬまでに粉砕されて死んでゐる。そこで手傳人は心配してフォロー夫人のゐる筈の二階へとびこんで行った。ここで又新しい惨劇を見出した。フォード夫人は二階で、現金を入れた箱の側でやはりひどく傷つけられて仆れてゐた。
於是直に當局の活動となった。下の廣間に、マスク用に使ったらしい黒の靴下が見出された。ここで今なら直に、現金箱の指拇が調べられるわけなのだが、當時の事で、この注意をひかず、たゞとりあへずそれは警視廳に引上げられたのである。ところでフォローの死の時間が問題になった。
彼が襲はれた後に生きてゐたかどうか。
當局の考へではフォローはいつも七時に戸をあけてそこでパイプをすってゐた。この事件の日は、ところが、或人の證言によればフォローは七時に戸をあけなかった。
注)前回までの「佛蘭西惡漢團記」を中断して新稿を開始、本稿も中絶となったようです。
注)外国人名、一部漢字での不統一部分は適切と思われる方に統一しました。
注)漢字、かな表記の不統一部分はそのままにしています。
注)句読点は追加したところがあります。
「西洋冤罪物語(冒頭および末尾部分)」
「モダン日本」 1931.05. (昭和6年5月) より
冤罪事件といふものには二通りあるやうである。一つは有罪の判決が確定して、被告が或る刑を受けてしまったか、又は受けつゝあるうちに、眞の犯人が現れて來る場合、若くは被害者と思はれてゐた者が實はさうでなく何らの被害がなかったといふ事が判った場合――例えば殺されたと信ぜられた人が健全で出て來た場合――こんな場合は明かに被告人は冤罪である事が立證されたわけで、われわらはたゞ人が人を裁く事の不完全さと而もそのやむを得ざる事を考へて、人智の力無さを悲しむより他に途がない。
他の冤罪は、起訴された被告人が公判に於いて、又は第一審で有罪と確定された者が第二審又は最終審で無罪とされる場合である。
この無罪に又いろいろある。いはゞ積極的なものと消極的なものとある。
被告人の行爲は罪とならずとの理由で無罪になるもの、例へ、甲は乙を殺した事は明かだけれどもそれは正當防衛である、といふやうなもの、それから先にあげたやうに、甲が乙を殺したと信ぜられてゐたが實は丙が乙を殺したのだと判った場合の無罪、及び實は乙は生きてゐたといふ證明が出來た場合、之らの無罪は被告人の無罪をいはゞ積極的に示してくれるもので彼は全く青天白日の身となるわけである。
ところがさうでない無罪の判決がまたある。
消極的無罪である。之は、嫌疑又は證據が十分でないから無罪にするといふので、云ひかへれば、被告人に
「お前は甲といふ人間を殺したらしいけれ共如何にせんその證明が十分に立たないから許してやる」
といふのであって、眞の無罪者にとってはありがたいやうなありがたくないやうな判決である。
十人の犯人を逸するとも、
※『強力犯篇 防犯科学全集4』収録「怪奇なるオスカー・スレーター事件」と同一のため割愛
(略)。これは一九一四年の話である。
近年における疑獄事件である。
之が最も正義を尊ぶイギリスに起った事は注意に値する。何故ならば、考へ方によれば正義を尊ぶイギリスだからかういう問題になったと云へる。もし他の國だとしたら、與論があれ程湧かなかったかも知れない。
それにしても公判廷の記録が世の中に出る國は公平の裁判が行はれるわけである。
われわれは我國の事件を知りたくても、一般に權威ある報告のないことを遺憾と思はないわけには行かない。
一九三一・二・一八
注)メイン部分『強力犯篇 防犯科学全集4』収録、デジタルコレクション個人閲覧可能なので割愛しています。
注)そのまま訳しても予定の紙数に達しそうだから→そのまま訳したら大変な事になるから など細部の差異はあります。
「時代を物語る新しい犯罪」
「雄弁」 1934.06. (昭和9年6月号) より
一
人類の歴史を見るに、如何なる時代に於いても、犯罪人の全く無い社會といふものは、なかったやうである。同時に之に對する社會の制裁といふ事も必ず存在して居たらしい。
即ち社會の發達と、之に對する防衛の發達といふ事に歸着する。
而して實際的に之を見れば、常に犯罪人側が一歩づつ進み、防衛機關はおくれつゝもなほ直に追ひ着きつゝあるやうである。
近代の科學の發達はあらゆる社會の現象に、重大な影響を與へたが、犯罪もその例外となる筈がなく、矢張り著しく影響を受けて居る。
誰にもすぐ考へられる事は機械文明の發達である。之は後に述べるが如く、犯罪人の側に於いていつも進んで利用するものであるが、私は今之を後に譲り、先づ主として化學の方面を考へて見よう。
この領域に關する限り、捜査機關は犯罪人をはるかにこえつゝある。云ひかへれば、毒殺の如き事件は世の進むにつれて發見される率が多くなって來たやうに思はれる。
元來、劇藥毒藥の類は、遠くエジプトの時代から相當の發達を示して居たやうに思はれるけれども、その頃の捜査はまづ甚だ不完全だったと考へられる。即ち、ある種の毒藥を以って人を殺す事は出來たらしいが、その犯人を捜査する事は餘程困難であったらしい。
然し乍ら近代化學の進歩は犯人をして容易に天網をくゞるを許さない。
この方面に於ける著名な例は甚だ多く、おそらく讀者諸君の十分御承知の事と思ふが、今試みに二三の例をあげて見よう。
殺人に用ひられた藥が、今まで決して殺人に利用されなかった點に於いて、及び犯人逮捕にはじめて無電が利用されたといふ點に於いて世界の犯罪レコードに特記さるべきは、ドクター・クリッペンの名であろう。
一九一〇年二月頃からクリッペンの夫人ベル・エルモアの姿が地上から消失した。クリッペンは近所の人達やベル・エルモアの友人達に對して彼女が彼の所からにげてしまったのだ、と語った、ついで、彼女はアメリカに逃げて居るらしいと話し、最後にベル・エルモアはアメリカで死去したといふ事を發表した。但しアメリカの何所で死んだかといふ事については全く語るのを避けた。
然るに一方、ヒルドロップクレセントのクリッペンの住所には、イーセル・ルネーヴといふ女が、公然と彼の妻のやうな形で乗りこみ、ここに夫婦氣取りの同棲生活がはじまった。
同年六月二十八日に、ナッシュといふ人がクリッペンの妻の遺骸に就いてクリッペンに質問したが、彼の答があいまいだったので、同氏はすぐ英吉利警視廰に密告した。すると七月になって、クリッペンとルネーヴの二人の姿がロンドンから全く消失してしまったのである。
直にインスペクター・デューはヒルドロップクレセントのクリッペンの住所を隈なく捜索して見ると其の地下から人間の死體らしきものを發見した。直にクリッペンの人相書が全國に發せられ、同時に無電によって、洋上の各船舶に其の人相書が傳へられた。たまたま之を接受したモントローズ號の船長は、船客の中に正しくクリッペンと男装せるその情婦らしき女を發見。二十二日同じく無線電信を以ってスコットランドヤードに通告。
そこで當局者は二十三日リヴァプールよりローレンティック號に乗じてモントローズ號を追ひ之を抜き一足先にキャナダに到着してゐた。而して七月三十一日、クリッペンとその情婦が逮捕された。
これから二人の送還となり十月から公判がはじまった。この公判廷のことは省くが、こゝで判明したのは、クリッペンは妻とルネーヴとの三角關係からその一角たる妻ベル・エルモアに、ヒヨスチンと稱する藥品を呑ませて之を殺し、死體を寸斷して地下にうづめたといふ事である。
此の事件に於て、科学は全き勝利を博した。この事件の王冠法曹(檢事)は特に、バード・スピルスベリーといふ若き醫師に信頼して努力させたのであったが、檢事の見こみたがはず此の醫師は、クリッペンの犯罪を極めて明かにしてしまったのである。
之は毒殺事件に對する現代科學の勝利であるが、かゝる例は敢てクリッペンにのみ限るわけではない。
我國でも今より約十年前に有名な保險詐欺を目的とする殺人犯人が捕まった事がある。彼は、丁度ジョセフ・スミスのやうに妻をもらってはこれに保險をつけ、自ら受取人になり、何も知らぬ可憐な妻女を殺しては代へ、殺しては代へて行ったのであった。
ジョセフ・スミスが物理的に殺人を行ったのに反し、日本の川本某は、化學的に殺人を行ひ、又行はむとしたがつひに發見されたのである。
彼此共に有名な毒殺事件は枚擧に暇ないが、要するにこれらの犯罪に對しては、多く當局者側が勝利者となってゐる。
最近毒ガスを利用した事件が我國にあった。
しかし此の場合に於いても警視廰は勝った。
尤も犯人の知識と能力が稍々かけてゐたせゐにもよるが、我國に於いては種々な理由で、此の種の犯罪は犯罪人側にとっては極めて不利だと考へられる。
たゞ此がガスの密閉されやすい欧米の建物の中で、他の有力な機械力と共に行はれる場合は、極めて危險であること申すまでもなく、同時に之を防衛する當局側にも立派な兵器でかためられるのである。
機械力と化學との組合せによっての危險は近代に於いては最も著しい。
かつて外國の或る大銀行が天下無敵といはれる金庫を發明して備へつけた。然るに一夜化學機械によって備へられた惡漢共の襲撃にあひ、脆くもその無敵の名は打ち破れた。即ち惡漢共の化學力は、發明者の上を行ったのである。そこで金庫の發明者は、之ではいかぬといふので、一考の上、更に之を完全なものとして備へつけこれでやっと安心した。
然るに、又々一夜盗賊共に襲はれると、さしも完全に出來たと思った金庫は手もなく犯人共にしてやられてあいた口がふさがらなかったといふ。此度も又盗賊らの智慧は發明者の上を行ったわけである。
二
機械の文明といふ事で誰しも思ひつくのはまづ自動車だらう。まことに自動車を遶る犯罪といふものは數限りがない。
犯人の方でも利用するし、勿論當局者側でも之を用ひる。犯人が逃亡にスピードを出せば警察官は更に猛烈なスピードで自動車をはしらせる、といふ有様だ。
然し乍ら自動車が逃亡のみに用ひられる場合は、まだ危險が少い。が、自動車が攻撃並びに逃亡に使用さるゝに至って犯罪は俄然、大がかりになり派手になり危險は増大する。
アメリカでリンドバーグの子が誘拐された事實は餘りにも有名である。あの場合、犯人は自動車でひそかに忍び行き、逃亡にひそかに用ひた。當局は更に大活躍をした。飛行機までがとび出して捜査に當ったやうな有様だった。
然し、ギャングが一度自動車で或る銀行なり富豪邸を襲ふ場合は、既に出發の途上に於いて、餘りひそかではない。場合によれば四面をおびやかして進行する。而してかゝる場合には勿論自動車は武装されてゐるか、或は車上の人々は武装――而も最新の武器によって――されて居る。
アメリカでギャングの一味が數台の自働車で或る銀行を襲った。その數名がピストルをもって銀行に侵入して金を奪った。(丁度日本で大森の某銀行が襲はれたやうな形である)但しこの時、我國の場合と異ってゐたのは、銀行から金を持って出て行く行員をピストルでおどかしつけて居た所を、一臺の自動車が活動寫眞機械で撮影しつゝあった。群衆は、どこかの會社のロケーションだと思って皆まはりにたかって見て居ると、やがて撮影が終るとこの自動車も他の自動車と共に、脱兎の如くに走り去って行った。
後で銀行及び銀行員がほんとにギャングにやられたのだと判った時は、もう犯人は數マイルもにげて居たといふ話。
こんな話はよくある話だから讀者諸君は無論御承知の事と思ふ。
しかしこんな事件がアメリカ特有のもので、アル・カポネの事實物だと思はれたらとんだまちがひで、自動車強盗はアメリカでは最近だがヨーロッパではずっと前から流行してゐる。
何事も新奇な仕組みを發明して世界をアッと驚かすアメリカもこの自動車ギャングでは遺憾ながらその尖端をフランスに譲って居るのである。尤もそのかはり一たび之がアメリカに入るや、禁酒法のおかげですっかり全世界のギャング共を眼下に見下した。しかし此の種の黒手組とでも云ふべきものは必ずしもフランスが家元ではない。
趣味豐富なる讀者諸君は、例へばデューマの「モントクリスト」の中で、ロオマの山賊の一團に出會(でくわ)されたであったらうし、コーナン・ドイルのブリゲーディヤ・ヂェラール物語で、ナポリのギャングやイスパニヤの顏役連に度々御出會ひのことだったと思ふ。之は小説家の空想ではなく、實際、イタリヤやスペインにその先祖が多かったのだ。
本來、地中海の諸島にはこの種の秘密結社がずゐ分あったらしい。
シチリヤのマフィアの如き有名なもので、又ナポリのカモルラ、それから、アメリカに入ったマノニエラ(ブラック・ハンド)等もさうである。
ナポレオンもかつてこの種の秘密結社の一員であったさうで皇帝になってからも、裏切った同志から暗殺される事を恐れてゐたと云はれて居る。アメリカにも例のカポネ以前にずゐ方々にこんな結社があったらしい。
讀者はシャーロック・ホームズ物語の、殆ど過半が秘密結社事件で占められて居るのを發見せらるゝであらう。
大體が秘密結社の事だからその結社の法律も勿論非合法的なものであるが極めて嚴重で、同志を裏切ったものに對しては殆ど凡て死を以て報いて居る。これ即ち私刑であり、アメリカ語のリンチである。
最近我國にもリンチ事件があったが、いやしくも、秘密結社が存在する限り、必ずこのリンチは存在する。
扨、この連中がまづ最も派手に活躍したのがフランスの都パリである。
一九一一年、即ち今から約二十三四年位前に、パリを自動車で荒れまはったボンノーギャングで、之にはさすがのパリの警視廰でも手が出ず、犯人をどうしても捕へかねて、仕方なくその首領の住居にダイナマイトをしかけて犯人も家も一度に木葉微塵にしてしまったといふ大物である。
三
同年十二月二十一日午前九時頃、ソシエテ・ヂェネラル銀行員が三十一萬八千フランの有價證券と五千五百フランの現金を、リュー・オルドネ一四六の支店にもって行く所へ、突如一人の男が飛び出して放銃一發直ちにその獲物につかみかゝて之を奪ひ同街、五〇番地先にとゞめてあった自動車にとび乗るや、そのまゝリュー・ド・クロアの方へと逃走。この時車上には前記犯人以外に數名の人間が乗ってゐた事勿論である。
而も逃げ行く彼らは、前方にある邪魔な車には悉く砲火を浴せて追ひちらし、やっとおくれてとび出した後方の警察の自動車の運轉手に彈丸を集中して、死物狂ひで逃走に成功したが翌日この惡漢共の利用した自動車は、ディエブのアレクサンドル・ヂューマ通に棄てられてあるのが見出された。
その翌々日、或る銃砲店の倉庫から多くのピストルが盗まれ、翌年一月八日にはプール・ワ゛ール・ハウスマン第五四番地のアメリカ人の銃砲店が襲はれ、現金と多くの小銃、短銃が盗まれた。即ち犯人達はいよいよ武装を堅めたわけである。
二月十五日の夜、今度はマルベツリといふ人の自働車が盗まれ、同二十六日、酒屋のビュイソンのガレーヂから立派な車が盗まれたのである。かうやって彼らは一時田舎に去り地方の豪家共を襲って、やがて再びパリへと乗り込んで來た。
彼らは一體何者であったか。
當局者はやうやく當りをつけてゐた。ロマンヰ゛ルのバニヨレー街第十六番地に事務所をおく、「ラナルシク」といふ無政府主義を奉ずる新聞社の連中に相違なしと見込みをつけた。
さぐって見ると仲間の中には泥棒業専門家も居るといふ事が判った。
彼らは泥棒をする事を「ブルジョアジーに對する個人の報復」と名付けてゐたのである。
調査の結果このメンバーの中に、ガルニエ、ボンノー、デュードンヌ、カルーリ、ヴァレー等のおそるべき人間が居る事が判明した。
パリへ戻ったこの連中は、まづ警察官に怪まれて、これに一斉射撃を加へて血祭りにし、次いで、法律家タンタン氏を襲って小戰の後、利あらずして退却、その後屡々市中を荒れまはるので、與論はために轟々と市民は恐怖時代來と絶唱し、新聞紙はひとしく警視廰無能を書きたてたので、當局も斷然たる攻撃を開始した。
にも不拘、彼らはますますその暴力を振ひ、三月二十五日にモンヂュロンの森でチェリソール氏の自動車を奪ひ同時に同人の身體に五六發の彈丸を打込んで惨劇の序曲を演じ、二時間後にはシャンテリイのソシエテ・ジェネラル銀行にのりつけ、中からカルニエ、ヴァレー、モニエル、カルマンの四人が手に手にピストルを持って同銀行をおそひ、いきなり居合せた行員三名を射撃し、傷(きずつ)け或は殺し、金庫を開けて中から四萬七千フランを奪取し表の自動車にとび乗って逃走した。
表にのりつけた自動車の中にはボンノーとスーディの二人が通行人を片ッ端から射撃して銀行内で惨劇を行ってゐた仲間を庇ってゐたのであった。
この白晝の大惨劇はフランス國民の氣もちを極度にあふッた。警視廰はむちゃくちゃな批難をあびた。
議會に於ては、この事件に關し、數多(あまた)の亢奮せる質問――詰問が行はれ、警視廰全く無能が叫ばるゝに至った。
警視廰は今やボンノー一味に劣らず死物狂ひになった。極度に熱した捜索に次ぐ捜索、その結果、やうやく數回に渉ってギャングの數名を捕へた。
而も巨魁ボンノー、ヴァレー、ガルニエは逃走したのである。市民はますます當局を批難し與論はいよいよ白熱化する。パリ警視廰は今や悲壮な決意をもってパリ市民の安全のため、あらゆる手段をとらねばならなくなったのである。
四
四月二十八日の夕暮、ボンノーがショアシー・ル・ロアのデュボアといふ者の物置にかくれて居るといふ情報がはいった。刑事の一群は直に出動徹宵して物置を包圍した。
二十九日の暁になるや探偵局長ギシャールは一群の刑事たちといきなりデュボアの家にとびこんだ。
「逃げろボンノー、逃げろ」
デュボアはかう叫びながら刑事に向ってピストルの亂射をはじめると同時に二階にかくれて居たボンノーからもピストルの亂射が猛烈にはじまったので刑事連もうっかり近よれず、そのうち一人の刑事は腹部に一發を受けて即死、次いで他の刑事も傷(きずつ)いたので一同しばらく退いて遠まきにこの家をかこみ油斷なくボンノーを監視することに決した。
ボンノーがピストル、ライフル銃あらゆる武器を用ひて、數十分間、百に餘る刑事連と戰ったとは驚くべき事實である。その中彌次馬連は刻々に集り來りしまひには數千といふ人出であったといふ。
嘘のやうな話だが何分ボンノー、デュボアは家の中にかくれて居て姿を見せず正確に發射するのに對し、警官達は姿の見えぬ相手に對して無やみと發砲してまぐれ當りを希望するより他なしといふ有様であるから必ずしも無理ではなかったらしい。
如何に人間二人の死物狂ひの兇暴さがパリの當局を苦しめたか。驚くべきである。
しかし、警官達も、もはや死物狂ひである。生きて捕へ得ざるならば、敵を粉砕して社會惡を倒すより外なしと決意した。
之にはリパブリカン・ガードも参加して應援した。
いよいよ二人を家諸共ダイナマイトでやッつけやうといふのだ。フォンタン中尉がやっと家まで近づきダイナマイトをしかける事に成功した。第一回はフューズが破れて失敗。第二回目に仕かけられ、點火されるや、デュボアの家は不氣味な爆音と共に空にふきとばされたのであった。デュボアもボンノーも天晴れな討死をしたのである。
まだガルニエとヴァレーが殘ってゐる。
五月十四日の夕方、ノーヂャン・シュール・マルン目ざして約五十名の警官が自動車をはしらせた。マルンの近くの小屋にガルニエとヴァレーがかくれてゐるといふ情報が傳へられたからである。一行がその家に近づくと中から二人の女が出て來て警官に降伏の意を表した。
これはガルニエ、ヴァレーの情婦だった。
女の降伏は同時に二人の男の死物狂の戰を意味する。
果して彼らは戰った。いきなり警官二人が戸外からの猛撃にあって倒された。ショアシー・ル・ロアのボンノーとの戰爭と同じ光景が再び展開された。應援隊がくり出され、憲兵の一隊と陸軍の一隊が到着した。
ギシャール氏は戰の一分前に叫んだ。
「正義の名に於いて、ガルニエよ、ヴァレーよ、降伏せよ!」と。
この叫びは直にピストルによって答へられた。但し幸にもギシャール氏には當らなかったが。
此のピストルの亂射に對しては憲兵隊の方でも應戰した。
しかし敵は屈服せぬ。三つの爆彈がつゞいて投げこまれた。しかし彼らは屈服せぬ。
於是いよいよダイナマイトが使用される事となった。
ダイナマイトで家をとばしたあと、かけつけて見ると、ガルニエもヴァレーもそこに死體となって發見された。
これが實に翌日の午前十時だったのである。
巨魁四名を失った犯罪人の裁判がつゞいて行はれたが、こゝではそれを省く。
右述べた所が自動車利用のギャングのまづ全世界に於ける大がかりのものゝ中の最初のものであらう。
私は尚この外のものにふれるつもりであったけれど紙數の都合で今回はこの程度で擱筆しやうと思ふ。(一九三四・四・二五)
注)漢字、かな表記の不統一部分はそのままにしています。
注)句読点は追加したところがあります。