「変態性の犯罪に就て」
「新青年」 1928.10. (昭和3年10月号) より
私は檢察の事務に携ってから極めて經驗も少いのですし、それに東京以外に出た事がないので東京地方に行はれた犯罪以外には殆ど手をかけた事がないのですから、斯ういふ問題に對して直ぐ應じて御話しするには甚だ不適當だと自分で感じて居ます。斯道の大先輩からうかゞったら屹度興味多い御話があると思ひます。且つ私共が取扱った事件をそのまゝ世の中に發表するといふ事は種々な事情で不可能な事が多いので、書き得る部分は多くの方々には餘り興味がないかも知れません。
たゞ今までの事を省みて思ひ付いたまゝを記して見ませう。但し私は此の問題に就ては別に深く研究した事はありません。
「變態性犯罪」といふ名は必しも明な意味を持て居ないやうです。それで私は今まで出會た變態性慾的な犯罪に就て記して見ませう。
嘗て下谷の龍泉寺町附近でサディストとマゾヒスティンとが夫婦になって居て遂に一方が殺されたといふ事件がありました。之は有名な事件ですから大抵の方は御承知だらうと思ひます。勿論此の事件は残虐を極めて居りましたが犯罪人には殺意は無かったので、傷害致死といふ事でおさまった様です。所が斯様な事件は我國に於ては――殊に都會に於ては極めて稀です。此の事を以て然し我國の人々に變態性慾者が少いと斷ずる事は出來まいと考へます。
然らば如何にしてこんな事件が少いかと云ふに之は私が簡單に考へたところでは、まづ家屋の構造が非常な關係を有って居るのだと思ふのです。例之(たとえば)、ベルリンにサディスムスのアテリエをもって居たといふ伯爵夫人の住居や、パリで官憲が長い間たって漸く手を入れたといふやうな家は、皆立派な家です。而して御承知の通り勿論西洋造りでありますから、外部からは容易に内が探れない。ここにサディストとマゾヒストが亂舞をして居たとて容易に發見出來るものではない。
然るに我國の建築では餘程大きな家でも、襖や障子で境がついて居るので、此の芝居が容易に打てない。こんな事が相當原因になって居るのではないでせうか。西洋では寝室は城の中のやうなものだから、犯罪のみならず、いろんな事が中で人知れず行はれ得る。我國では大きな邸宅をもって居てもさうはいかない。(尤も此頃のやうな西洋造りが多ければ別です)大きな家では雇人などが多いからなほわかる。
そこで我國に於ける Lustmord といふものは、どうしても時間的に素早くやらなければならぬのでせう。悠々と快感を味って居るひまはないのだと思ひます。兎も角此の二種の變態性慾者(サディストとマゾヒスト)は少くも一般の人々が考へて居るよりはるかに多く居るやうに思はれます。
婦女を犯して殺すといふ事件は、大米龍雲等で有名ですから敢て此處には記しますまい。
○
東京區裁判所の檢事局で一番多く出會す變態性慾者はフェティシストです。つまり異性の肌につけて居るものを窃取するのです。
表は窃盗として送られて來ますが、調べて見ると立派なフェティシストで、何も物をとっても物質上の利益を得ようといふのではない。精神上の快樂を得ようといふのです。而して多くの場合犯罪人は男性で賍物は女のもの、例へば腰卷、襦袢、ハンケチ等であります。
或る男が極く僅な物を他人の家から盗み出した。警察官が捕へて、なほ餘罪がありはしないかといふのでその男の家を捜索した。ところが女の腰卷ばかり約三百枚出て來たといふ事件がありました。此の男はちゃんと家をもち一定の職業をもって居たのです。獨身でしたが相當の年の者でした。私は可なり詳しくその男を調べましたが、此の男は全くの變態性慾患者で、通常の Koitus は全く不可能だったのです。女郎買に二度程行った事はあるが全然興味を有つ事が出來ず、爾來異性に接する事は全くなかったさうです。
彼の氣持を刺戟する最も甚しきものは汚れた腰卷でしたが、彼は多くの場合それを大抵物干から盗み取て居ました。女が身につけて居る所を強取するやうな事はないのです。特にめだったのは彼は香ひに就ては何等の興味はなく、どんな香が自分を刺戟するかは殆ど考へた事がないと云って居ました。反之(これにはんして)、色は可なりの刺戟をもつので赤色が勿論最もよいのださうです。かうやって得た襦袢や腰卷を彼は深夜人知れず身につけて onanieren するのです。
但しその場合如何なる影像が彼の空想に入り來るかといふ事は大して一般の人々とかはっては居ませんでした。なほ彼は屡々腰卷や襦袢を夢に見る事はあったさうですが、異性そのものをはっきり見る事はないと云って居りました。
他の同じやうな例には、有妻の男がありました。彼も夫婦の通常の關係には興味がなくて、自分の妻の腰卷其他に刺戟されて居たのです。矢張りそれで onanieren し Koitus の方はなかったさうです。
○
或る中年の男が白晝突然見知らぬ家に入り込んで、そこに居た七つになる少女を捕へて、怪しかる振舞に及んだ事件がありました。尤も姦淫しようとしたのではないのでしたが、兎も角立派に刑法に觸れる事だったのです。此の事件は被疑者は絶對否認の事件でありまして、直接の證據としては少女二人の證言と、もう一人中年の女の證言だけだったので、被告人防禦の側からは防禦し易い事件に見えたと見え、辯護人は極力無罪を主張しました。
公判半にして被告人側より被告人の精神鑑定を申請し、その時の立會檢事たる私もその必要ありとして同意したのでしたが、裁判長は之を却下して審理をつゞけました。それで結局此の男は如何なる精神でかゝる殆ど通常の人には全く性的刺戟を與へない少女に此んな事をしたのかわからなくなりました。(勿論私は此の男が斯る事實を行った事を今でも信じて居ます)結局は有罪の判決が下りましたが、執行猶予がついて居ました。
その理由は被告人は女房を失って性的に餓ゑて居ただらうから、同情する理由があるといふのださうです。勿論之は醫學に全然知識の無い裁判長一個の考へである事は申す迄もありません。
○
或る青年がさる所のカフェーの女給と懇ろになりました。彼らは所謂蜜の如き戀に醉って居たのです。所が暫く經つうち、女の方に秋風が立って來ました。そしてつひに男と別れやうと申出したのです。そこで此の男が赫と怒って女を傷つけるか、又は殺したならば不思議な事件にはならなかったのですが、此の男は斯る方法を取りませんでした。悶々たる情を抑へながら男は最後に會見を申込み、吾妻橋のあたりで出會って、暮れ罩(こ)むる大川をながめながら男は頻りにかきくどいたのです。
然し結局どうにもならないといふ事に決った時、男は妙な申出をしました。それは、女の手の小指を切斷する事、但し指を切られても文句を云はない、といふ證文を書けといふ事なのです。そこで女は指を切られても文句はないといふ證文を自筆で認めました。男は女の手を俎板の上に載せて庖丁を振っていきなり打下ろしました。その時女の小指が約一尺餘も飛んでしまったさうです。
所が之から後が又少し變って居ます。男はその一尺餘も遠くにとんだ指を大事にしておいて、自分の雇はれ先の牛肉屋の冷藏庫の中にアルコール漬にしてしまってをったといふのです。話は之だけですが一寸變った事件でせう。之は私が起訴した事件ではなかったのですが公判には立會ひました。裁判長が、
「お前はその女の指を切る時どんな氣もちがしたか。」
と訊ねたのに對し被告人は、
「キッスでもする氣もちでした。」
とあッさりと答へました。
親に貰った五本の指を四本だか四本半にするのは、女が男に對する心中立です。然しこの事件のやうに指を切られたら手を切ると、女にあっさり片付けられたのでは男も一寸名譽を傷けられたわけでせう。
○
或る立派な職業をもって居る男、因果な事には人の家の物干にある腰卷を、默って見すごす事が出來ないのです。といって先にあげたフェティシズムでもないのです。此の男は物干に腰卷があると、いきなりいってそれを取り、同時に奇聲をあげてビリビリと引きさくといふ人です。だから窃盗罪は成立しないので、器物毀棄罪が成立するのでした。所が御承知の通り此の犯罪は親告罪ですし、腰卷を破られて訴へる人も少いのでまづは無事にすごして來たのでしたが、たうとうとんでもない事をし出かしてしまひました。
それは一日此の男が自轉車に乗って或る家の側を通ったのです。すると例の物干にかけてある腰卷が目に止りました。そこで彼はわざわざ自轉車から降りて腰卷をとり、べりべりと引裂きましたが丁度そこに其の家の便所があって、ゴトンと戸をたてる音がした途端、婦人の髪の毛が窓越しに見えたわけです。するとその男は今度は便所の横にうづくまって掃除口から中を見たのです。そこで彼は婦人の身體の一部分を見る事が出來ました。
所が男は側にあった箒木をとり更に塀について居る忍び返しを一本折って之を箒木に結び付け、槍のやうにしてその便所の掃除口からその中めがけて突いたのです。幸にも急所をはづれたのですが、中の女はひどい負傷をしました。彼は快哉を叫びながら自轉車に乗って逃げてしまったのです。
この行爲は果していたづらか若くは變態性慾患者の行爲か、それはその専門家によって定めらるべきでありますが、危險此の上もない事でありますから、此の男は直に捕へられて起訴され収監されました。不幸にも被害者はその翌日嫁に行くといふ人でしたから、その後が大變な騒ぎだったさうです。
○
先に述べたフェティッシュな行爲と同時に純粋の窃盗とがいつも平行して行はれた事件があります。犯人はやはり男ですが窃盗の態様はいつも空巣です。そしてそれが何時も若夫婦か新婚の夫婦の家に侵入して財物をとるのです。彼のやり口を述べるとまづ、空巣に入って目ぼしい財物を奪ひます。そして大抵手に入れると、押入れから蒲團を出します。而して男女の枕をその上に並べます。次に女の長襦袢を出して身にまとひ、自分は男枕をしてねころびながら onanieren するのです。
斯くして或る時は犯跡をくらまさんが爲に、放火したりした事がありました。此の男の空巣の回數前後約五十回の中、殆ど全部此の變態行爲をやって居たのでした。
○
東京には比較的同性愛の犯罪事件はありません。一つにはヨーロッパの刑法のやうに合意の不自然淫行を犯罪として居ない爲、從って犯罪となって表れる事が少いのでせうが、兎も角めったにありません。刑務所などでよく事件が起りますが實は異性に接し得ない爲不得止(やむをえず)起る事で、純粋の Homo-sexualitat 事件ではないやうです。
○
大抵右に述べたやうなのが所謂變態的なものだらうと信じます。然し斯様な犯罪人も多くの場合醫學上からは見られずに、大抵判事や檢事の手にかゝるのですから、眞相は中々わかるものではありません。餘程重大な事件では被告人の精神鑑定をしますが、さもないと之が行はれないのです。裁判長が鑑定の申請を却下すればそれまでゝ、大抵事件は進行するのです。例之私が取扱った右にのべた白晝少女をいたづらした人間の場合のやうなもので、實は裁判所でも檢事でも、又無罪を主張する辯護人にも彼の精神状態は、わからぬじまひです。
一體我國の人は、ドイツなどと違って學問はやりながらも暗闇の方の事は研究したがらない傾向があります。例之法律の専門雜誌等にずゐ分種々な研究が出ますけれども、刑法第二十二章殊に第百七十六條以下の法律論は餘り掲載せられぬやうに思ひます。之は我國の學者の缺點ではないでせうか。斯ういふ法律の研究をするといふ事が、何となく社會的の信用に關するものゝやうに思はれるのではないでせいか。事實此の方面の研究者には、賣名者流が多かった事もありませうが、學者はも少し此の方面を見るべきだと信じます。
殊に判事や檢事などは十分此の研究をするべきに不拘、實際にはさうなって居りません。遺憾な事です。勿論生兵法は大傷のもとですから、なまじ司法官がそんな研究はしない方がよいかも知れません。それならそれで少くも斯様な犯罪に就ては専門家をして研究をせしむる必要があるといふ事だけでも知らなければいけないわけだと思ひます。今日裁判所は果して此の方面の必要を痛感して居るでありませうか。
○
それから最後に問題なのは、之は寧ろ醫學者の側より感ぜらるべきだと思ひますが、現今の鑑定なるものゝ力であります。即ち判決に對する力であります。私の謂ふやうに性的犯罪者の精神鑑定を重要視するとした所で、現今のやうな有様で果してよいでせうか。一般の人々はどう思ふでせう。
諸君も御承知の通りよく死刑か然らずんば無罪といふやうな事件があります。第一審で死刑を言渡された者が第二審で無罪になる。而も此が醫學者の鑑定一つに據る。之が不安でないものでせうか。私は之を疑ふのです。醫學に全然素人の私が常識で考へても、私共が一寸病氣になっても數名の醫者の意見がちがふ事があります。鑑定の結果でも同じ事ではないでせうか。勿論、人血か他の動物の血かといふやうな事は化學的證明によって或は直にわかるかも知れませんが、精神鑑定などがさういつも十指の指す所、必ず一致するものでせうか。
鑑定者に惡意があれば勿論の事、なくても異論がある場合又誤りのある場合、之らが決して無いとは誰か云ひ得るでせう。思うて此處に至れば、被告人の生命はかゝって實に唯一鑑定者の手にある事になるのです。斯の如き場合が甚だ多いのですが、果して醫學者達は今の有様で滿足して居られるのだらうかどうか、甚だ疑なきを得ませぬ。
私が變態性犯罪について書く事の不適任者たる事は豫めお斷りしました。決して面白くなかったと思ひますが之で筆を擱きます。 (完)
注)ウムラウトはなしで表記しています。
「「ユーモアと犯罪」漫談」
「新青年」 1929.11. (昭和4年11月号) より
○犯罪は由來眞面目なものである。殊に夫が人間の生命、身體、自由等に對するものである場合、當事者にとっては立派に悲劇である。決してその中に諧謔味を見出す事は出來ない。然し、一旦第三者から見る時、犯罪にも屡々ユーモアが見出されるものである。此の際當事者殊に被害者の悲劇に同情せざることが要件となる。從って殺人、傷害などにはユーモアが見出し難い。
どんな場合でも人一人が殺されるのに全く同情しないわけには行くまい。だからユーモアを多分にもって居るのは財産犯の場合が多いわけである。(勿論財産犯だとて被害者にとっては立派に悲劇である)
○掏摸は元來技術を要するもので、その人の性格などには餘り關係がないからして餘りユーモアをもつ事は出來ない。サムがどんなに巧みに盗んでもあの話に讀者がユーモアを感ずるのはサムの掏摸そのものではなくて彼及びクラドック其の他の性格なのである。斯ういふ意味から云ふと詐欺が一番面白い犯罪である。
○僕がはじめて面白い犯罪を被害者から直接聞いたのは、まだ大學生の頃だった。たしか大學の三年生の時だったと思ふ。僕の友達のNといふ男が一日馬鹿に嬉しさうな顏をして僕を訪れた。Nは僕より一年先輩なので當時學士になって丸の内の或る會社に勤めて居た。彼は來るなり、僕に「おい、とてもシャンな一高生に食ひ下られちゃったんだよ」と云った。彼が得意になって喋舌った所を綜合すると次のやうになる。
Nは當時大森から東京驛まで電車に乗って通って居た。その日彼は大森驛で一高の制帽を冠った美少年を見出した。此の方面に相當趣味のある彼の事だから、彼の自白以上に目尻をさげて見て居たにちがひない。すると彼が會社についてから五分位經つとNは突然來客ありと給仕に呼び出された。應接室に行って、Nがそこに見出した客は、正にきっきの一高の美少年だったのである。僕は此の時Nがどんな顏をしたか聞き洩したが、聞く必要もない位滑稽な場面だったに違ひない。
ところで美少年の曰く「あなたはかつて一高にゐらしったでせう。先輩と見かけてお願ひします。僕實は大森に居るんですが國は靜岡なんてす。國の父が危篤だって云って來たので急に歸らなければならないんですがお恥しいんですが今金がないのです。僕はあなたが大森からこゝに通ってらっしゃる事を知ってるんですが、餘りぶしつけなのでいひそびれてたうとうこゝまでついて來てしまったんです。僕は斯ういふもので今一高の二年生です」
少年はこゝで自分で鉛筆で書いた住所と姓名をNに示した。Nが如何に此申出を快くうけたかといふ事は、少年が固辞するに不拘汽車賃以外に二圓の現金を渡した事でよくわかる。
扨こそその夕方、Nは喜び勇んで僕を訪ねて來たのであった。彼は曰く「きっと今頃はもう國に行ってるよ。斯う云ふ所に家があるさうだ」と云って紙片を示した。「一週間位たつときっと僕の所へ來るぜ。何しろ逆モーションだから凄いよ」Nの喜びは非常なものであった。僕が「そいつは羨しいね。一度是非拝顏の榮を得たいものたね」と云ったのも萬更お世辭でない位羨しく思ったのである。
翌日一日は何事もなく、Nの艶福も思ひ出さなかったがその翌日、何心なく新聞を見ると「僞一高生捕はる」といふ見出しがある。それによると、某といふ少年が一高の制帽を冠って大森、東京、上野各驛に網を張って大學生や先輩らしきものから盛に金を詐取して居たといふ事が明かにされ、尚ほんものゝ一高生が大森驛で、その詐欺漢を捕へたので、双方問題になって居るといふ事が詳しく出て居る。
僕は早速會社にNを訪問した。若し彼がまだその記事を知らないなら教へてやらうと思って。然しそれを教へる必要はなかった。僕がNに會った時の「我が世の末」といったやうな彼の表情は十分彼があの記事を味った事を示して居た。「どうしたね」といふと、「いや誠に面目ない。どうか内聞にしてくれ」と答へた。然しこの事件を内聞にする理由は絶對にない。直に事は外聞になっちまった。
(讀者よ、此の一事を以って僕が他人の秘密を故なく洩すものと即斷し給ふ勿れ)をとゝひ、彼の主觀的艶福(!)についてののろけに對しても之は素っぱぬく必要があった。
事件は之だけであるが、その時の被害者Nの悲劇的な顏は正に立派なユーモアであった。但し彼をして悲觀せしめたのは欺された金錢よりも逃した鴨だったに違ひない。此の事件に於て、犯人は必ずしも自己の美貌を利用したとは思はれないが、被害者の方で進んでひっかゝった所は大へんいゝ。序に云ふが、當時某大學の文科に行ってた友人が此の話をきいて、「最後の被害者」と題して一篇の小説を作ると云ってゐたが未だに發表されないらしいからその友人とN氏に失敬して此の實話を記しておく。
○ユーモアは被害者の方にばかりあるかと思ふとさうとは限らない。犯人自身にも十分ある。花札の賭博があげられると、「誰いふとなくやらうといふので蕎麥を奢りっこではじめました」使った花札は誰のかときくと、定って「引越した時からそこにありました」とか「神棚においてありましたが前に居た人がおいて行ったんでせう」と來る。
落語の「あくびの師匠」ではないが賭博辯解の師匠があってちゃんと本讀みをして來るんだらう。それで一人一人勝ったか負けたかときくと之は又きまって、「私は敗けました。私も負けした」と云って一人も勝って居ないから面白い。僕が檢事局に居た時、或時、第一のせりふを聞くとあとは斯うだらう、と云ってこっちで喋舌ってやった事がある。之をきいて居た被疑者連のポカンとした顏は未だに忘れられない。
○證據がそろって犯罪明瞭な事件にも不拘、被告が絶對否認をして居る場合は、それ自體滑稽なものである。腹が立つか、滑稽を感じるかどちらかである。檢事の前でカンニングをしたり同一人物が變装して再び現はれたりした事はかつて逃べた事があるから今こゝには記さない。
○法廷は勿論神聖で嚴肅であるべき所であるが法廷にも時々面白い事がある。僕自身で經驗しただけでも可なりあるが、現職に在る判事諸公の事になるから遺憾ながら遠慮しておく。但し次の話は有名なものだから申上げておく。或る被告事件で、證人を喚問する必要があって證人が出廷した。すると裁判長某氏は突然その證人に對して「證人はインケイを持って居るか」と聞いたものである。
證人ぽ男だったが此の質問でめんくらったのは勿論證人一人ではなかった。裁判長がインケイと稱したのは即ち印形の事だったのである。其他被告人の方でしゃべって裁判長に通ぜず、爲に裁判長が目をぱちぱちした言葉は、僕が立會った所では次の如し。「テケツ」「ワンサガール」「お通しもの」「盆」「めりはり」「かぶとをかぶる」等。
○姦通事件は深刻なものゝ筈だが可なり面白いのもある。僕が在職中受けた事件は、嫌疑十分だったが如何せん親告罪の告訴の期間を經過して居た。それで本夫に對し理由を述べて、如何とも出來ぬ旨を答へると彼、非常に憤慨して「法律でどうする事も出來ぬなら私が直接やっつけて來ます」と云って歸って行った。
當時鬼熊事件で騒ぎだったが、「鬼熊は情婦をとられてさへあんなにやってます。かゝあをとられて默っちゃ居られません」といふ甚だ論理的な捨臺詞を殘して行った。その様子がどうもまじめなのでそれとなく注意しておいた。こゝまではいゝ。すると翌日彼が再び役所に現れた。見ると鼻ッ柱の所をひどく傷をして黒血がかたまって居る。
こりゃ事によると劍劇をやったかなと思ってどうしたのかとわけをきいて見ると「どうしたって斯うしたってお話にゃならないんですよ」と云って彼が語った所は成程お話にはならない。彼は妻をとられて大にフンガイして居る傍、自分も結構氣に入った女をひき入れて同棲して居た。
ところで昨日役所から歸ると、彼は芝居がかりでその女に自分の覺悟の程を示して、迷惑がかゝらぬやうにといふので、別れ話をしはじめたのである。所が其の悲壮なる覺悟にも不拘、彼はいきなりその女からむしゃぶりつかれた。而て痴話喧嘩の果は鼻ッ柱に殘った黒血といふわけ。おかげで姦夫姦婦は無事なるを得たのだが、之などは龍頭蛇尾、正に悲劇的喜劇話である。
○勿論滑稽なのは犯人が犯行當時の擧動による事もある。傑がはじめて檢事代理になって生れてはじめて取調べた事件は住居侵入窃盗未遂といふ罪名で、その要旨に曰く、被疑者某(男四十六歳)は窃盗の目的を以て某區某所の某家に窃盗の目的を以て忍び入ろうとしまづ庭にあった梯子をとって下から二階に渡し之を登って開いて居た二階の一室にとび込んだ。
それが夜の十二時頃、折柄讀書中の某家の娘(十八歳)は驚いて逃げ被疑者はつゞいて中に入ったが某の妻女に發見されて泥棒々々と叫ばれ、尻尾をまいて逃走した、といふのである。所が被疑者を呼んで調べると大に趣が違ふのである。自分はかねてからあの娘とはいゝ仲になって居る。二人は同じ常磐津の師匠の所に行って居た。あの夜打あはせてあったので十二時頃に梯をかけてとび込んだ所、運惡くあの家の妻女に發見されたので逃げて來たのだ、といふ。
四十六歳の醜男と十八歳の娘でいはゞお半長右衛門といふ所だから一寸信用出來ない。娘にきくと成程知っては居るがあんないやな男と仲がいゝなどとは飛んでもない、と柳眉を逆立てゝの抗議、それから又男をよんで、其旨をいふと突然彼は懐中よりふくさ包をとり出して曰く「いや私も左様存じましたによって、あれなる娘よりまゐりました文を全部持参致しました」(この言葉は彼ががその時云った通り忠實に記した)
斯ういったが、彼の艶文集に書いてある事は、甚しく娘に不利益であった。ところで某家では所謂親馬鹿で自分の娘の行跡をまだ信ぜずけしからん男だといふので今度は名誉棄損といふ告訴をして來た始末。此の事だけで既に十分滑稽である。
○姦通の被害者即ち本夫の告訴状には可なり奇抜なのがある。中には證據書類として夫が深夜妻を訊問して、その訊問調書が附加されてあり終りに何月何日深夜二時記之、妻署名捺印などといふのが書いてあるが之などは家庭悲劇中の喜劇であらう。最も奇抜だったのは本夫が姦通の行爲(野外で行はれたもの)を數メートル離れた所から現認したといふので、訴状に見取圖があり本夫かから姦婦までのところに點々がしてこの所何メートルと書いてあったが、勿論こゝに記してゐるのは皆實話である。
○犯罪捜査機關の活動振だって見方によれば可なり滑稽に思はれない事もない。例之、高飛びをして全く安全な犯人から見ればうろうろ後をさがして居る人達が滑稽に見えるだらう。大西性次郎といふ強盗殺人犯人には果して捜査機關が滑稽に見えたかどうか知らないが、ともかく愚弄したやうな手紙を盛んに送ったものだった。あの鬼熊征伐の有様だって見方によれば一脈のユーモアを見出せない事もあるまい。
注)本編は改行が全くないので若干改行を追加しています。先頭の一文字空けはしていません。
注)会話や引用は「」で統一しています。また末尾の句点は無しで統一しています。
「賭博裁判寸景」
「新青年」 1930.08. (昭和5年8月号) より
「お前は何年やったんだ?」
「へえ、二十年ばかり前からおぼえて居ります。」
此の問答はある時花札賭博を調べて居た某檢事と被疑者との會話。檢事の方では、捕まった時、被疑者がどの位花をひいて居たかをきいた積り。相手はいつ頃から花をひく事をおぼえたかと訊かれて、正直に答へたつもりである事無論である。
話の生き違ひにしても、之などは被疑者がずゐ分正直で罪のない方だ。
一般にこんなに正直に答へる人は少い。假令三十年前からやって居ても、半月まへ位におぼえたか、二三日前に教はったなどと出鱈目な事を云ふのが常である。かう云へば、少しでも罪が輕くなると考へて居るのだらう。
次にかういう賭博で滑稽なのは皆が皆負けたと云ふ事だ。ノンセンスの甚しいものだがともかく四人で花をやったが皆負けたといふ。
少し頭のある連中になると、その中の一人だけを勝たして來る。ところが、その勝った一人は必ずその日はじめて花をおぼえた、といふ人間にきまって居る。
われわれが麻雀などをやって、途中で、
「一體誰が勝ってるんだらう。」
と云ふとよく、皆、
「僕は負けてるよ。」
といふ事がある。
そんな時は、だから、
「まるで檢事局の博奕みたいだね。」
と笑ふのである。檢事局で調べられてゐる賭博者の供述といふ意味だ。
麻雀と云へば、私が在職中、某區の相當地位のある人々を麻雀賭博で調べた事があった。
無論丁度四人來たので、方法を一應きいた上、
「ともかく一回ここでやって見給へ。」
と云って證據品(この場合は牌)を出してやらして見た。
はじめのうちは、檢事の前だといふので、戰々競々、でもちゃんと自摸って居たが、その中、他の檢事連や書記連が見學とあって、まはりにたかるとそろそろいゝ氣もちになって來たと見え、みんな一齋にがめくりはじめ、清一色ばかりを狙ひ、つひには、全く檢事局で享樂しはじめて仲間同志夢中になって怒ったり何かするので此方から一應注意した事があった。
丁度之と反對の例がポーカであった。
スタッドポーカを調べた際、私も一人に加って、一度やって見ようといふわけで僕がまづカードをシャッフルした。
ところでいざ戰闘といふ段になると、この連中は、悉くおりてしまったのには驚いた。
これは少々見え抜きすぎた初心者らしい態度である。
自分が夢中にならない程度に、矢張りいつもの通りやってくれた方がいゝやうな氣がした。
○
花だの丁半なんていふものは、警察官にもよく判って居るから、警察の調書もまことにとゝのって居るけれども、ドローポーカ、スタッドボーカ、それから麻雀(尤も之はこの頃流行してゐるから今はいゝかも知れない)などに至ると、遺憾ながらずゐ分滑稽な調書が出來て居たやうに思ふ。
そこへもって來て、被疑者等がほんとうを云はないんだから堪らない。
ポーカを知らない人がポーカをした人を調べてその方法を書く。そのポーカをした人間が出たらめを云ふんだから、大變なものが出來上る。
之でも判る通り、賭博の被疑者は相手が、ほんとうにやり方を知って居るかどうか、といふ事が第一に頭にピンと來るらしい。だから反對に、捜査官から云へば、假令多少知らなくても、知らぬ、といふ事を表してはいけない、といふ事になる。
極端な例をあげると,胴親のない賭博事件を調べながら、
「廻り胴か。」
などときくとすっかり馬鹿にされてしまふ。
後にほのかに聞く所によれば、私の調べたポーカの事件でも、彼等の仲で一番問題になったのは、
「一體あの檢事はほんとにポーカを知ってるんだらうか。それとも本でも見て來てやって見せたのだらうか。」
といふ事だったさうだ。
「人を馬鹿にしちゃあいけねえ。」
と申し上げたい處だ。
○
公判廷に出ると被告人もすっかり改まってしまふので、うかとした事を喋舌らないけれ共、判事が法律的語調を以って訊問するから時としてまるっきり面喰ってしまって鳩が豆鐵砲を食った形をする。
一體私は、判事に限らず、法律家といふものが、もう少し判り易い、やさしい國語を用ひるといゝと思ふのだが、相手が博徒などだと、まるっきり話が通じない事が多い。
或る判事が丁半賭博を調べる際、どういふわけか盆の事をお盆お盆と云って居られた。
相手の被告には、お盆といふ言葉が全く通じない。何も載せるものがないのにお盆と不意にやられて目をパチクリさせて居た實例を私は知って居る。
○
之は或る田舎での話。
檢事が賭博被疑者を呼んで見ると皆人のよささうな農夫ばかり。やった事は認めるが、賭けた事を否認する。
その一人一人が言ひ合せたやうに、
「ぶつはぶったゞが……」
といふ田舎言葉の中に、不意に、
「但し一時の娯樂に供するものを賭したでがあす。」
といふ文句が出て來た。面喰った檢事に、
「一時の娯樂とは何だ。」
とつッこまれてこんどはこっちがいづれも閉口して、つひに或る辯護士に習って來た、とまで自白。
そこまで知ゑをつけるならもう一歩進んで此の言葉ををしへてやればよかったらうに。
これは某檢事が私に語られた實話だが田舎辯の中に法律語が突然出て來た時は、(而も數人揃ひもそろって)檢事も失笑を禁じ得なかったらうと思ふ。
○
之は人情にからんで執行よけをしに來るといふ話。
乞食が、子供を一日いくらで借りて連れて歩く話は皆さん御承知だらうが、哀れな乳呑兒は乞食の外にも小道具としての用途があるのだ。
賭博の前科があって、その罰金が未納の女の犯人が之を用ひる。申す迄もなく、一定の期間内に罰金を納めない時は勞役場に入れられる。所謂ぶちこまれるのだ。ところで、未納の犯人は、今度は新しい事件で檢事局に出てくると、前の刑をはたす爲にぶちこまれる危險が十分にある、といふ事になる。
そこで用ひるのが「子を連れて」の一手。
よその乳呑兒を借りて來て、出もしない乳房へくッつけて檢事の前に立現れる。
本人を勞役場に入れようとしても乳呑兒の處置にはさすがの檢事にも大に困る。ために執行を免れようといふ寸法。
その人情につけこんでこの手をやる女が頻繁だ。
○
東京のさる所で、或親分が丁半賭博を開帳した。子分ばかりではなく客(素人)も數名この丁半に加って居た。ところへ疾風の如く飛込んだお役人。
一人殘らずめしとって警察へ連行、ついで檢事局に送って來た。
然るに、丁半をやった者は全部自白したが當時立胴に坐ってゐた親分は開帳した事を絶對否認。他の者も一勢に親分の開帳を否認した。
子分が親分をかばふのは必しも不しぎはないのだが、素人までも、どさの時の親分の坐ってゐた場所すら否認する。
かう口を揃へるのは不思議と、檢事は一番口を割りさうな素人を訊問しつゞけた。
その被疑者の供述によって判明したのは次のやうな事實。
彼等一味が某警察署の留置場に入れられて、無論別々におかれてゐる時に、親分が便所に行った。
その時、親分は、皆が別々に入れられてゐる部屋の前を通った。彼は監視の巡査につれられながら大聲で、
「どうも今度は不幸でしたよ。丁度あそこへ行って之から張らうとする時、捕まったんですから。」
此の大聲をきいて、素人衆もはじめて、親分は否認して居るのだなと感じて、そのつもりの供述をしたといふのである。
序(ついで)にいふ。賭博罪には未遂罪はない。やらうと思って坐ったとたんに捕まったのなら、無罪である。
○
或る門構への立派な邸宅で弄花事件が起った。
まへからやって居るらしいがうっかり手が出せないので、某警察では十分に自重した後、つひに手を入れた。
事件を檢事局に送って來た警官が、檢事に、
「どうも門構のある家なので一寸手を出すのに躊躇しました云々。」
と語った。
被疑者を呼び入れた檢事は、訊問の劈頭に、
「お前のうちには立派な門があるだらう。」
「はい。」
「だから、警察もゑんりょして今まで手を入れなかったんだ。今まで毎日やってたさうだな。」
「へえ、二ヶ月程前からやって居ました。」
若し檢事が、いきなり、
「お前はいつ頃から花をやって居たか。」
ときいたなら必ずや、きのふとかをとゝひとか答へたであらう。この檢事がいきなり、門があるだらう、ときいたのは蓋し大出來である。
○
賭博志願者と不思議な商賣の話。
可なり前の話だが、ある窃盗で捕まった青年が、何の爲に盗むかときかれた時驚くべき事實を自白した。
當時、諸外國大公使館内で、使用人たる邦人の賭博が盛んに行はれてゐた。即ち、Extraterritoriality の爲に、我が警察官がむやみにとび込まない事を知って、安全地帶を發見し、今日は某國大使館、あすは他國大使館と移動して賭博をしてゐた連中があった。
窃盗青年はいつかこの仲間に入ったが、かける金が無いので、かけ金を得んが爲に、窃盗をしたと知れた。
最後にその青年曰く、
「まったく、あれあいゝですよ。お手入れはなく、あんないゝ商賣はありませんよ。僕もあの仲間入をしたかったんです。」
と。
然しこの窃盗事件は賭博事件発覺の端緒となって直に當局の活動となり、大使館の諒解を得てつひに、賭博者連を一網打盡にひきあげた。
すると其の中に、決して仲間に加はらなかったと主張するいゝ年輩のをぢさんが居た。
他の者にきいても、「あいつはしません」といふ。
本人の話にすれば、當時現場に居たある一人に貸金があるのでとりに行ってたとの話。
然しどうも怪しいので取調べると、懐中から、へんな帳面が出て來た。見ると之ぞ、謎の暗號文字で一杯!
檢事が頭をひねって解いて見ると、貸金の帳付けである。
このをぢさんこそ世にも不しぎな移動高利貸といふ商賣。
賭場が開けるといちいち出かけ、賭金をかしてやる。
その人間が勝つと高利をつけてとりもどすといふ人物。
即ち、みんなが夢中でやってゐるのを、横目でチラリとながめながら、くはへギセルか何かでをさまってゐたといふわけなのだ。
以後、賭場には金貸が居るものだ、といふ事をその檢事は知ったさうだ。
注)明かな誤植などは訂正しています。
「赤清殺し事件の裁判實話」
「オール讀物」 1931.05. (昭和6年5月号) より
赤清殺しといふ名で知られた有名な強盗殺人事件のほんたうの實話を記して見よう。
近來、實話と稱するものが多くは創作であるところから(犯罪實話の場合でもさういふ場合が多い)兎角その信憑力を失はれつゝあるやうだが、私はここにこの事件の推移に關して何ら想像、創作技術を用ひずそのまゝに記して見ようと思ふ。從って興味の點に就ては責任を負へないけれども、信ずるに足るといふ點に關して筆者は責任を負ふ。私は裁判所の記録を基にして紹介しようとしてゐるのである。
事件は昭和二年一月十九日午前九時頃、木村清吉といふ男が、上野天王寺墓地の中で、荒莚の下にかくされた男の變死體を發見したところからはじまる。
檢證の結果この死體は、日本橋區住吉町九煙草及袋物商赤羽根清一郎(四十二年(※ママ))と判明し、死因及びその時間は「昭和二年一月十八日午前一時頃にして死後三十四五時間經過せるものと推定、被殺者の着装せる襟卷にて後頭部に於いて輪形に絞締更にその兩端咽喉部に於て輪形に一結をなし以て死に至らしめ」たものと認められた。
之から刑事の活躍となり、被疑者が捕へられる筋になるのだが、それは、所謂犯罪實話や探偵小説に出て來る所だからわぎとこゝには略す。もし讀者の興味が、犯人逮捕までといふところにかゝってゐるならば、本稿は殘念ながらその期待にそひかねる事になる。そこでこの點を飛して行くと、昭和二年三月十一日、東京地方裁判所檢事局は吉江檢事の名に於いて、野口松五郎なる男に對して、赤羽根清一郎殺害の犯人として豫審を請求した。
檢事はたゞ殺人のみでなく、殺人強盗詐欺といふ三つの罪名で被告人を打ってゐる。
その豫審請求書記載の犯罪事實を見ると、野口松五郎の犯罪が大體判るのである。こゝで一寸斷っておくが、或る事件が起ると、警視廰なり警察で一通り犯人を調べる。その結果が一冊の記録となって檢事局に送られて來る。その記録のはじめの方に意見書なるものがあってこれに犯人の犯罪が一通り書いてある。
そこで檢事が調べた後之を起訴する時、公判請求書又は豫審請求書と書く。これにも被告人の犯罪が記されてある。次にこれが豫審に行くと、豫審判事が取調べ、公判に移すべきものと考へると、終結決定書に、公判に移付すべき事を記し且つ理由として又犯罪を一通り書く。
次に公判に移り、結審すると判決が下るがこの判決に又犯人の犯罪を記される。
警察で一回、檢事局で一回、豫審で一回、公判の判決で一回、少くとも殺人事件などだと四回は犯人の犯罪が記されるわけである。
ところで第一回(警察のもの)と第四回の判決の犯罪事實が全部一致してゐれば警察の成功である。何故なら警察が信じた犯罪事實はつひに國家の認むるところとなったわけだからである。警察で、百の程度を書いても檢事局ではその八十パーセントしか被告人を打たぬ事がある。更に豫審で五十パーセントにへる事がある。次に公判に行って三十パーセントしかみとめられぬ事もあるし、時によると全く認められないで無罪となることもある。
赤清殺しは、公判後第二審第三審があったのだからこの邊は、可成り興味あるところだと思ふ。まづ檢事の信じた犯罪を記して見ると次の通りである。
「野口松五郎はかねて金がなくて困ってゐたものであるが、偶然にも昭和二年一月十四日の新聞紙上で、日本橋區住吉町袋物商赤羽根清一郎夫婦が、同區白木屋呉服店で萬引をやり、新場橋署に檢擧されたといふ記事をよんで、一ツの惡事を思ひついた。
即ち彼は、刑事の振をして赤羽根の留守宅へ行って金を騙り取らうといふのである。そこで今月十五日と十七日の朝、赤羽根の家の附近に行って見ると、檢擧されてゐると思った夫婦は、もうちゃんと歸宅してゐるので、留守宅をごまかす手段はとてもだめだとあきらめざるを得なかった。そこで、いっそ清一郎をおびき出して殺し、更にその妻をあざむいて金をとらうと考へたのである。
十七日午後十時頃、野口は赤羽根方に至り俺は刑事だが白木屋の件で一寸警察に來て來れといひ清一郎をおびぎ出し、下谷區谷中墓地に至り、夜半の十二時頃、清一郎の襟卷をその咽喉に卷きつけて絞殺した上、同人の懐中してゐた金二圓外數點入の蟇口を盗み、更に夜二時頃、清一郎の家に至り、其の妻のひさに對し、清一郎釋放方を運動すると稱して金二百圓を出させるべく語り内金百五十圓をとり、更に午前九時頃に再び同所に來て五十圓をとらうとしてとりそこなったものである」
これが檢事の公訴事實である。
檢事は令状を請求したので被告人野口松五郎は直に収監された。
事件は秋山豫審判事の手にうつッたのであった。
豫審判事は三月十四日に第一回、同十五日に第二回、九月十五日に第三回、被告人の訊問をやった。
第一回の訊問で豫審判事は被告人に對して犯行當日の模様をはっきりと聞いてゐる。被告人は、赤羽根夫婦がるすだと思ったから、家人を欺くつもりで行ったのだと答へた。然し、夫婦が實際歸ってゐるのに不拘、被告人は赤羽根を訪問してゐる。ここをつっこまれて被告人は「夫婦だけ二人なら何とかうまく話込んで詐欺するつもりだった」と答へた。
次に、何故清一郎を連れ出したかといふ問に對しては「いろんな人が出入してゐたからばれるといけないと思ってどこかで話すつもりだったのです」と答へた。
赤羽根方を出て、人形町から千住大橋行の電車に乗り、坂本二丁目で下車、坂を上り博物館前を通り公園内の掛茶屋で話し、それから一旦坂の下へ戻り又引返して谷中の墓地に行った、といふ順序が被告人の供述である。
無論殺すつもりで連れ出したのだとは云ってゐない。あくまでも、だまして金をとるつもりといふのが被告人の主張であった。
「そんな話なら何も上野まで行かなくてもよいぢゃないか」といふ問に對して「私は人形町の附近はあまり地理を知らないので知ってゐる上野の方に行ったのだ」といふのが被告の答であった。
殺害の事は否認しなかった。谷中の墓地で赤羽根をえり卷でしめ殺した事實をはっきりと認めた。
但し懐中の蟇口をとったのは殺害後でなく殺害以前に欺し取ったのであると申立てた。
かくて同年九月に至り、やうやく豫審の調べは終り九月二十六日秋山豫審判事は
本件を東京地方裁判所の公判に付す
といふ決定をなした。その決定書記載の犯罪を見ると豫審判事はやはり殺人強盗詐欺を認めてゐる。事實も同じであるが檢事の請求書よりも稍くはしい。この書の記す所は
次の通り。
前略。第一、被告人は昭和二年一月十五、十七の兩日に亙り先づ右赤羽根方の附近に就き同人夫婦の在否其他同人方の動靜を探りたる上同日午後十時頃赤羽根方に至り刑事なるが如く装ひて清一郎を誘出(つれだ)し右警察司法主任を日暮里町の私宅に訪ね穏便の處置に依る内濟方を懇顧すべしとて上野公園に連行き右事件を内濟するためには百五十圓を要する旨を告げて出金を慫慂したるに清一郎には司法主任に面談の上歸宅し金を持参し來るべしとて司法主任方に連行を求めしより同人を谷中墓地に連込みしところ
清一郎は被告人の刑事たる事を疑ひ始めしより被告人は看破せられたるものと思惟し清一郎に對し懐中物の提出を命じ一時預り置くべしとて現金一圓餘在中の蟇口を奪取したる爲め清一郎は大聲を發し騒立てたるより逮捕を免るゝ目的を以て急に同人を殺害せんことを決意し即時(昭和二年一月十八日午前〇時過頃)同所に於て突然清一郎着用のえり卷にて同人の頸部を絞扼し因て同人を窒息死亡せしめて殺害し
第二、被告人は清一郎を殺害するや直ちに前記清一郎方に向ひ同日午前一時頃同人方に着し同人妻ひさに對し前記警察署司法主任の自宅にゐる清一郎の依頼を受け來ったるが二百圓の賠償金を出し内濟とすることゝなりしを以て其金を渡され度き旨申僞りひさをしてその旨誤信せしめ即時金百五十圓を交付せしめて之を騙取し
更に同日午前九時頃再び清一郎方に至り不足金五十圓を要求せしところひさが親戚の來る迄待ち呉れと云ひしより事實發覺したるものと思惟し逃走したるものなり(後略)裁判所の書類は片假名で濁りがついてゐないが便宜上右の如くに記した。
豫審判事の決定書記載の犯罪事實と檢事の豫審請求書記載の犯罪事實は右の如く殆ど一致してゐるがたった一點ちがふ點がある。即ち檢事は「清一郎を殺害した後金二圓入の蟇口を奪った」と記してゐるが豫審判事は「殺害する前に金一圓入の蟇口を奪取した」としてゐる。
公判の判事は、はたしていかに見るであらうか。
公判は年を越へて昭和三年一月十六日、東京地方裁判所第一刑事部で開かれた。裁判長は垂水判事であった。第一回公判が即ち一月十六日で立會の檢事は丸檢事である。
劈頭、裁判長から豫審終結決定書記載の犯罪事實をよみきかされた上、
「此の事件に付き何か陳述する事があるか」ときかれたのに對し彼はかう答へた。
「やった事は大體に於いて御よみ聞通り相違ありません。が、然し第一の事實に付き赤羽根清一郎から蟇口を奪取したのではなくそれは同人と上野公園の掛茶屋で話してから二人で歩き出して同公園内の木の澤山生えてゐるくらい下で私が同人に所持品の提出を求めたので同人が蟇口を出したのです。
次に清一郎を殺したのは相違ありませんが、其時私は同人を殺す氣はなかったのです」
即ち被告人は殺人の意思をこゝで否認してゐるのである。
第二回公判は同じく一月二十三日、丸檢事立會で同じ裁判長の下に開かれ、第三回が三月二日、裁判長が代って服部判事となり、この時立會った檢事は長宗檢事であった。
第四回は三月十四日丸檢事立會、服部裁判長が訊問を開始して開かれた。
第五回の公判は四月四日、服部裁判長の下に開かれたが、立會の丸檢事は此の公判廷で裁判長の許可を得て直接に被告人を訊問してゐる。
問 赤羽根清一郎は自分で蟇口の紐を切って被告に渡したのか。
答 左様です、前にも申しました通り其時私は赤羽根から蟇口を奪取したのではありませぬ、自分が自ら渡したのです。
問 それでは其時蟇口の紐を切る音が聞えたか。
答 それは聞えませんでした。
ここで審理が終ったので檢事は直に立って論告にうつったが、この時の檢事の求刑は、極刑即ち被告人に對して死刑の判決あらむ事を要求したのであった。こゝで辯護人の辯論があり、續行されて第六回の公判は四月九日に行はれた。
四月十八日に東京地方裁判所は野口松五郎に對して左の如き判決を下した。
理由
被告人ハ大正十五年十一月中旬東京府北豐島郡尾久町大字上尾久千五十四番地三共金融業合名會社事務員トシテ勤務中同年末當時同大字九百三十一番地ニ居住セル印刷業林田茂ヨリ營業資金ノ融通方ヲ依頼セラレ被告人個人ノ資格二於テ他ヨリ借リ受ケ金百圓餘ヲ同人ニ貸與シタルモ其後同人ヨリ辧濟ヲ受ケ得ズ
一方金主ニハ返還ノ必要ニ迫ラレ居タルモ既ニ父兄ヨリ多額ノ出資ヲ仰ギ居レル關係上自力ニテ解決セジト種々奔走セルモ金策意ノ如クナラズ焦慮中昭和二年一月十四日新聞紙上ニテ東京市日本橋區住吉町九番地袋物商赤羽根清一郎夫妻ガ萬引ノ爲メ新場橋警察署ニ檢擧セラレタル旨ノ記事ヲ見茲ニ刑事巡査ナルガ如ク装ヒ其ノ留守宅ニ到リ示談ニ藉口シテ金員ヲ騙取セント欲シ
先ヅ日本橋區役所ニテ右清一郎ノ戸箱謄本ヲ入手シ次デ同人方附近ニ至リテ種々其家族ノ動靜資産状態等ヲ探査シタル後ニ昭和二年一月十七日午後十時頃右赤羽根清一郎方ニ至リ恰モ刑事巡査ナル如ク装ヒ右清一郎ガ前示事件ニ付キ苦慮中ナルニ乗ジ容易ニ同人ヲ戸外ニ誘出ノ上下谷區上野公園ニ連行シ同公園内帝室博物館前廣場掛茶屋附近ニ於テ
先ヅ同人ニ對シ此際直チニ金百八十圓ヲ出金スルニ於テハ前示事件ニ付キ被害者トノ示談ヲ爲シヤルベキ旨ヲ告ゲ頻リニ出金方ヲ慫慂シタルトコロ右清一郎ハ之ヲ諾シタルモ一應所轄警察署司法主任ニ面談ノ上出金ノ運ビヲ致シ度キ旨答ヘタルヲ以テ被告人ハ然ラバ右司法主任ハ東京府北豐島郡日暮里町ニ居住セルヲ以テ同所ニ同行スベシト中シ欺キ
共ニ日暮里方面ニ向ヒ同公園内寛永寺坂上ニ差シカヽリタル時被告人ハ右清一郎ヲシテ自己ヲ刑事巡査ナリト盲信セシムル手段トシテ同人ニ對シ一時懐中物ヲ預カリオク必要アルヲ以テ之ヲ提出スベキ旨命ズルヤ當時被告人ガ刑事巡査ナルコトニ疑念ヲ有シ居ラザリシ清一郎ハ之二欺カレ現金一圓餘在中ノ蟇口一個ヲ被告人ニ交付シ被告人ハ右蟇口ノ交付ヲ受ケタル後司法主任宅ニ同道スベシト右清一郎ヲ谷中墓地内ニ引入レタルカ
其途中執拗ニ即時出金方ヲ迫リタルタメ清一郎ハ漸ク疑念ヲ生ジ被告人ノ所属警察署ヲ問ヘルニ其態度頗ル曖昧ナルヨリ益々疑念ヲ深クシ被告人ヲ僞刑事ト目シ其不都合ヲ詰責セルコトヨリ互ニ口論ヲ開始シ清一郎ガ大聲ヲ發スルニ至リシヲ以テ事失敗ニ歸セリト感念セル被告人ハ困惑ノ極寧ロ右清一郎ヲ殺害シテ自己ノ犯罪發覺ヲ防ガント決意シ
清一郎ノ隙ヲ窺ヒ即時(昭和二年一月十八日午前零時過頃)同所二於テ當時右清一郎ガ頸部ニ卷キ付ケ居タル襟卷ノ兩端ヲ引キ締メテ同人ヲ絞殺シ、右殺害後依然全員騙取ノ意圖ヲ翻スルコトアタハザリシ被告人ハ大膽ニモ同日午前一時頃右清一郎方ニ至リ同人妻ヒサニ對シ自分ハ司法主任方ニ留マレル清一郎ノ依頼ヲ受ケ來リクルガ清一郎ガ賠償金トシテ金百八十圓ヲ出スニ於テハ前示萬引事件ヲ内濟ニスルコトトナリシヲ以テ賣上金中ヨリ右金額ヲ交付セラレ度シト申シ欺キ
ヒサヲシテ其旨誤信セシメ即時内金百五十圓ヲ交付セシメ更ニ同日午前九時頃右ヒサ方ニ至リ不足金三十圓ノ交付方ヲ求メタルトコロヒサガ親戚ト相談ノ上調達スベキヲ以テ親戚ノ來ル迄待タレ度シト云フヤ被告人ハ事ノ發覺ヲ虞レ其儘逃走シ騙取ノ日的ヲ遂ゲザリシモノナリ。
(以下略)
之で野口松五郎の犯罪が讀者の前にもよくお判りになるやうになっただらう。
被告人は公判廷で殺意を否認したけれどもその辯解は信ずる事が出來ぬと判決は理由の中に云ってゐる。即ち
「殺意ヲ以テ爲シタルモノニ非ル旨辮疏スレドモ被告人二對スル第二回豫審訊問調書中、被告人供述トシテ判示日時谷中墓地ニ於テ清一郎ガ自分ヲ僞刑事ナラントイヘル事ヨリ互ニ大聲ニテ口論セルガ自分二疑ヲ有セル同人ヲ放置スルニ於テハ自分ガ刑事ヲ装ヒ金ヲ取ラントセシ事實直ニ發覺シ逮捕セラルベキヲ思ヒムシロ同人ヲ殺害シテ之ガ發覺ヲ防ガント欲シ同人ノ油斷ヲ見テ判示ノ如ク同人ノ頸部ヲ同人着用ノ襟巻ニテ絞扼シタル旨ノ記載アルニ徴スルトキハ右犯行ハ殺意ヲ以テ爲サレタルモノト認ムルヲ相當トスベク」
と云ってゐる。
讀者も考へられるであらうが、被告人にとって最も不利な點は、殺人後の被告人の態度である。判決の中でも裁判所は「大膽にも」と云ふ字を入れてゐるのである。
ここに注意すべきは東京地方裁判所では、被告人の強盗の罪を認めず、單に殺人、詐欺を認めたといふ事である。
即ち適條としては、刑法第二百四十六條第一項、同法第二百五十條、第二百四十六條第一項、同法第百九十九條、が示されてゐるのみで強盗殺人の罪、二百四十條はこの判決のどこにも謳はれてゐない。
判決は右に述べた通り檢事の死刑の求刑に對して無期徴役刑をえらんだのである。
ところが、此の判決に對しては、檢事、被告人双方から控訴申立が起された。
即ち被告人野口松五郎は、即日
「四月十八日東京地方裁判所ニ於テ言渡サレタル判決全部ニ對シテ不服二付」
控訴する旨の申立をなし、一方檢事局で、鹽野檢事正(現行刑局長)の名に於いて
「東京地方裁判所ニ於テ爲シタル判決ハ相當ナラズト思料シ」
控訴する旨申立があった。
つまり此の無期懲役といふ刑を、檢事局は、輕すぎるといひ被告人は重すぎるといふのである。
事件はここで第二審裁判所即ち東京控訴院の手にうつる事になった。
十一月一日、被告人は半紙十四枚に渡る上申書を控訴院に提出してゐる。
彼はその上申書のはじめに於いて、自己の殺人行爲は甚だ遺憾であるが決して考へて殺したのではない、全く一時の精神錯亂からなした事であるから此の點を明かにしてほしいと述べ、ついで兇行當時の模様について、赤羽根方に行った時決して自分で積極的に刑事と名乗ったわけではなく、相手が勝手にさう思ったのであると記してゐる。次に殺人の有様に關してはかう記してゐる。
「同氏ハ私ニ疑念ヲ生ジマシタ様子デアリマシタ私ハ何トカシテゴマカシテ逃ゲテシマハウト考テ居リマシタガ互ニ二言三言ノ話ヲ交ヘマシタ末ニ口論ヲ始メマシタ處急ニ赤羽根氏ハ私ノ着て居ル背廣ノ兩襟ヲ掴ンデ私ヲ引倒サウト引付ケ又ハ押付ケラレマシタカラ私ハ逃ゲテ了フ心算デ居リマシタガ同氏カラ餘り強ク組力ヽツテ來マシタノデ如何スル事モ出來マセンカラ私モ先方ノ外套ノ袖ヲツカンデ互ニ格闘シテ居リマシタ。
先方ハ私ノ兩襟ヲ強ク掴取ツテ居リマシタ私ハツヒニ引倒サレタ爲其場ニ二人共倒レマシタ時、益々強ク力ヲ以テ迫ツテ來マシタ。其時起キテ掴マレテ居リマス襟ヲ振拂テ逃ゲヤウト思ツテヅイ分強イ力ヲ以テ防ギマシタガ同氏ノ大キナ體ハ猛烈ナ力ヲ以テ尚一層私ニ迫テ來マスノニハ私ハ到底叶ハナカツタノデアリマス。段々私ハ危險ニナツテ來マシタ私ハ苦シクナリマシタ爲ニ夢中ニナツテ之ヲ防イデ居タノデ私ハ何時襟卷ヲ掴ミマシタカ知リマセヌガ今思ヒマスト同氏ノ卷付テ居リマシタ首ノエリ卷ヲツカミマシタノハソノ時ノヤウニオモヒマス。
(中略)私ハソノ場デ取組デ居ル中ハ前後夢中デ全ク何事モ知リマセヌ。逃ゲヤウトイフ事ダケハ考ヘテ居タノデス。全クヤムヲ得ズヤツタワケデアリマス。(中略)實際殺ストイフヤウナ心算ハ斷ジテアリマセン。豫審判事様ノ前デモ同人ノ油斷ヲ見テ逃ゲヤウトシタトハ申シマシタガ油斷ヲ見テ殺シテシマハウト申シタ意味デハアリマセヌ。云々」
即ち、被告人の上申書によれば、正當防衛だといふ事になるのである。
さて、控訴院に於いては、同年十一月十二日、日下部裁判長、長谷川檢事立會で、公判が開かれた。
裁判長から、事件につき先づ陳述することありやときかれて被告人は、第一、蟇口は自分が決してとったものでない。第二、赤羽根は自分がさそってから出たのではなく、先方から出て來たので一所に出かけた。第三、殺人の意思は毛頭なかった。等といふ事を述べた。
兇行當日の訊問は次の通りである。
裁判長
被告は初めは赤羽根のるす宅へ行って金を取らうと思ったと云ったが赤羽根清一郎が警察から歸されて家にゐると云ふ事が判っても出かけたのか。
被告人
左様です。其時はもうゐても騙して金をとらうと思って出かけたのです。
「赤羽根方を出てからはどうしたか」
「別にどこへ行くといふあてもないので通りへ出て人形町の停留所から千住大橋行の電車へ乗って御徒士町で下車し上野驛を通って省線に近い方の坂を登って公園へ行きました。」
「その時も無論清一郎は被告を刑事だと思ってゐたのだらうな」
「さやうです。そのやうに思ってゐたらしく見えました」
「今申立てた道順等も清一郎には話もせずに被告一人で思ったやうに連れて行ったのだな」
「左様であります」
「それでは尚更被告が清一郎を誘ひ出した事になるではないか」
「はい……ですが別に私がさそひ出したと云ふ譯ではありませぬ」
(中略)
「被告人は初め清一郎を連れ出した時から谷中の墓地へつれて行くといふ考へがあったのではないか」
「否、決して左様ではありませぬ。(略)」
「左うではなくて、事實ははじめからここへつれ込んで金をとらうと計畫的にやった仕事ではないか」
「否決して左様なわけではありませぬ」
それから例の蝦蟇口の件に關して問答がありつゞいて殺人のところにはいる。
裁判長のの問に對し大體被告は上申書にもあったやうにケンカになった結果、夢中で相手をしめたのだと答へてゐる。
第一審の裁判所で被告人は次のやうに云ってゐる。
赤羽根ハ私ノ胸倉ヲツカンデ私ハソノスキヲ見テ逃ゲヤウトシマシタ所、同人ハハイテヰタ下駄ヲヌイデ右手ニモチソレデ毆リカヽリマシタ。私ハ何モ持ツテ居ナイノデ迚モ叶ハヌト思ヒ左手デ赤羽根ノ右手ヲツカンダトコロ、ヤハリ私ハ數回毆ラレマシタ。(中略)赤羽根ハ私二強ク組ミツイテ來マシタノデ私ハ同人ノ前方カラ同人ガ頸ニマイテヰタ兵兒帶ノヤウナエリマキノ兩端ヲ兩手ニモチ、同人ノ後頭部ノ處デシメタノデアリマス。
ところで第二審の控訴院の公判廷での供述は、
ソレデ私ハ逃ゲテシマハウト思ヒマンタガ逃ゲラレズ夢中ニナツテ何ガ何ダカワカラズニ二人上ニナツタリ下ニナツタリシテ取組ミ格闘ヲシマシタガツヒニ私ガ下ニナリ、セビロノエリヲツカマレテノドヲシメラレマシタ。私モ夢中デ相手ヲシメコロシテシマツタノデアリマス。
そこで、さきにもどって豫審のところではどう云ってゐるかと云ふと次のやうに殺害のところを述べてゐる。之は第一審の判決にも謳はれてゐる重大な供述である。
問 ソレカラ殺害ノモヨーハ。
答 只今申上タ通リ赤羽根ヲ殺シテ發見ヲ防グ外ナイト思ヒマシタノデ同人ノ油斷ヲ見ソノスキニ同人ノ前方カラ同人ガ頸ニマイテヰタ兵兒帶ノヤウナエリマキノ兩端ヲ兩手ニツカミ同人ノ後頭部ノ所デシメマシタ。(中略)
問 赤羽根ガ倒レテカラ更ニエリ卷ノ兩端ヲ前二廻シ頸部前面咽喉部ノ處デ一ト結ビシタノデハナイカ
答 サヨウデアリマス
問 蘇生スルノヲオソレテ左様ナコトヲシタノカ
答 左様デアリマス
そこで第二審の裁判に戻るが、控訴院に於いても被告はあくまでも殺人の意思を否認しつゞけたのであった。
控訴院に於いても公判は續行され、同年十二月十九日第二回、而して更に年を越えて、昭和四年二月一日第三回の公判が開かれた。
ここで審理終結し、立會の長谷川檢事は、被告が強盗、殺人いづれも否認してゐるが周圍の状況のみならず被告人の豫審の供述により強盗殺人は明かであるからして死刑に當るべきものであると論じ後辯護人の辯論に入った。
昭和四年二月十八日、第二審の判決は下された。
第一審に於いて檢事死刑を論告し、無期懲役の判決があり、攻防兩側から不服として控訴したこの事件に對して、控訴院ははたして如何なる判決下すか。
判決言渡に先立つ約九日、二月九日に被告人は再び控訴院日下部判事に上申書を出した。
之には自分が犯罪を非常に悔悟してゐるから何とぞ寛大なる判決を與へられたいとくり返しくり返し述べてある。
二月十八日、控訴院に於いて、長谷川檢事立會の下に左の判決が言ひ渡された。
主文
被告人ヲ死刑ニ處ス
訴訟費用ハ被告人ノ負擔トス
理由はここに略す事にする。
殺害の模様について、控訴院も亦被告人の公判廷の供述を認めてゐない。
判示墓地内で清一郎の隙を見て之を絞殺したといふ事實については、控訴院では、第二回豫審調書に於ける被告人の自白によってそれを認め、殊に、その隙に乗じた點は、強制處分手續きに於ける豫審判事の檢證調書に赤羽根清一郎の屍體の着衣には特に汚れた場所が無い又足袋も汚れては居ないと書いてあるからして、被告人が清一郎の油斷を見て殺したと信ずるべきである、となしてゐる。
即ち、もし被告人のいふ如く格闘となり上になり下になったならどうしても着衣が汚れなければならない。その汚點がないから、被告人の公判廷で云ふ所は信じられぬ、といふのである。而して殺意ありし事は第二回豫審調書に被告人自分の自白がある。
次に控訴院は、蟇口一個を強取したものと認定した。これも第二回の豫審調書記載あり、又證人菅野警部補の言に、死體についてゐた細紐がいかにもひきちぎられた状態であったといふ言があったので之らを綜合して強奪を認めてゐる。
そこで、擬律について、第二審では刑法第二百四十條後段(強盗殺人)を認めたのである。詐欺の點は前審とおなじである。而して刑の中、一番重い死刑をえらんだものであった。
死刑の言渡しがあると即日被告人は大審院長に對して上告を申立てた。東京控訴院の言渡した判決全部に對して不服だといふのである。檢事局の方では目的を達してゐるので無論上告はしない。
そこでいよいよ事件は大審院の手にうつされ、同院第二刑事部豐島判事を裁判長として公判がひらかれる事に決した。
四月十五日、被告人野口松五郎は大審院豐島判事にあてゝ上申書を提出した。
彼の犯罪の有無、控訴院の判決の當不當はしばらくおく。彼がこの時の苦しみや實に察すべきである。
第一審では檢事の死刑の求刑に對して無期といふ刑が言渡された。
双方から控訴した結果、檢事の勝となって第二審では死刑の判決があった。
いよいよ大審院である。彼がその生命のために必死となるのは無理もない。もし大審院に於いて彼の上告が棄却さるれば萬事休すである。大審院の裁判如何をいかに彼はくるしく考へたであらう。
検事局にしても同じである。第一審で主張が通らなかったのが第二審でやうやく通った。最終の裁判で敗れては何もならない。
ことに第一審で死刑になったものが第二、第三で無期になる事はよくあるが、第一審で無期のものが第二審で死刑となる事が通例であるからして、最後の審判は果してどうなるか可なり重大視してゐた事と思はれる。
四年五月二日、被告人の最後の運命を決すべき公判が大審院に於いて、豐島裁判長のもとに開かれた。平井檢事が列席した。檢事は、上告棄却の判決を求めた事云ふを候たない。
かくて、いよいよ五月九日に最終の判決あるべき事が定められた。
五月九日は來た。判決は下された。
被告人に不利に、檢事局に有利に言渡された。
被告人の上告は理由なしとして棄却されたのであった。
かくて最後の裁判に上告を棄却された被告人は、もはや如何ともする事が出來なかった。
死刑は確定した。被告人は絞首臺に登らねばならなかったのである。
裁判ははたして正しかったか。
之は諸君が十分に考へらるべき事である。
一言、私の考へを課せば、裁判は正しかったやうに考へられる、しかしいろいろな考へ方がなほ有得ると思ふ。
私は、かういふ裁判の進行に關し、一般讀者が興味をもたれん事を切に望む、それは法治國の國民がもつべき一つの興味(?)ではなからうか。
不幸にして、私の記述が拙かったために、興味を惹起せられざりし諸君に對しては、更に筆を新にして、他の事件を紹介する機會あらむ事を望んでおく。
犯罪實話もいたづらに煽情的な記述のみをするのを第一とする時代はすぎつゝあるのではないか。
國家の裁判を、注目せよ、考へ、批判せよ。
之がわれわれ國民の與へられた一ツの任務ではなからうか。 (終)
――一九三一、三、六――
注)カタカナ引用部分の促音対応はしておらずほぼそのままとしています。
注)会話は「 」とし、末尾の句点の有無の混在はそのままとしています。
法廷ローマンス「罪に立つ女」
「講談倶楽部」 1931.05. (昭和6年5月号) より
[横顔写真:濱尾四郎先生]
濱尾先生は曾て東京地方裁判所に檢事の職を奉ぜられ、現在は辯護士をなさってをられます。探偵小説家としても早くより名聲あり、數多(あまた)の傑作を著してをられます。先生が故濱尾新子爵の令嗣であることは御存知の方も多い事と思ひます。
「決して父を殺す氣などはございませんでしたのです。……ただ餘り母をいぢめますのでついかっとなって……」
あとは殆どきゝ取れなかった。むせびなく彼女の弱い聲に滿廷たゞしんとしてしまったのである。
殺人事件、而も尊属殺、父殺しといふ恐ろしい名で今法廷に立ってゐる被告人は、青山美子(假名)といふ、まだ二十一歳になったばかりの美しい女であった。
四歳の時に母につれられたまゝ、或る大工職の家に入った。父親の大崎元吉(假名)といふのは、附近でも「まむし」と仇名をされてゐる位のならず者で、飲む打つ買ふといふ三拍子揃った道樂者であった。
でも、酒をのまない時は、一人前の働きがあると見え、一家が餓死しないでもすむやうに、やうやくその日をつないで來たのであるが、酒を呑みはじめたが最後、手におへぬ氣狂ひとなる。
必ず妻にあたりちらかし、金のない時は妻の衣類でも何でも質にはふりこんで平氣でゐるといふのが常であった。
美子の母ちかといふ女は、つれ子をして後妻に入って來た身でもあり、大崎元吉と今更別れても、どこといふあてどもない身、毎日の虐待を忍び忍んで來たものゝ、身の不幸を思っては、泣きあかす夜も幾度となくつゞいたのであった。
事件の起ったのは昭和×年の二月十五日の夜だった。
前の晩からどこをどう放浪して來たか一向判らぬ元吉は、その日の午後三時頃になって滿面酒氣をおびて歸宅した。
女房のあいさつ振が氣にくはぬといふのが第一の憤激、酒を買へと云はれた妻が買ふ金が無いと答へたのが第二の憤激で、忽ち彼は蝮の本性をあらはしたのである。
女房の面を平手でぴしゃりと毆ると、そのまゝぶらりと家を出たが、八時頃になっても戻って來なかった。
一體どうなることかと、おろおろしてゐたのは娘の美子である。彼女は殆ど毎日くりかへされる父の亂暴を見てゐた。何のために父はあゝひどい事をするのだらう。又何のために母はあゝまでされてだまって居なければならないのか。
世の中を知らぬ彼女にとっては、この世の中で食って行くためには、こんなうらめしい父親でも、自分達にとっては絶對に大切なものである、とは考へられなかった。
若し父親が居なかったら? もし父が居なかったら、自分の家はどんなに平和な一家になるだらう。
母と自分もどんなに幸福になるだらう。
美子はつくづくと、かう考へたのであった。
彼女は一度だって父に反抗した事はなかった。
しかしおとなしい彼女からは、苦しい考へがいつまでもいつまでもこびりついて放れなかった。
夜の九時すぎに、どこで呑んだか、父親は一層烈しく醉ったまゝ戻って來た。
父は醉へば必ず怒るのだ。どんなに待遇したって結局どなりちらすのだった。
今度戻って來た時は、しかしその怒り方は一層烈しかった。出た女房をいきなり足蹴にしたまゝ奥へはいって來た。
さうして、改めて、ちかを呼んでくどくどと何か云ひはじめたのだった。
父がその時、妻に云ひ出した話は、珍しいものではなかった。
自分達がこんな貧乏してゐるのに、娘をのらくら遊ばせておく法はない、早く美子を藝者にでも女郎にでもたゝき賣ってしまはなければいけない、かういふ事をくどくどといひたてたのである。
事實は、彼の家はそれ程貧乏なのではなかった。
美子にとっては、此の話は、全く寝耳に水といふ程意外なものではなかった。どうせ、こんな事を云ひ出しさうな父ではある。しかし今までに眞面目にこの話をもち出された事はなかった。
彼女は自分が身を賣られるといふ事に對しては、かねて一應の覺悟はして居た。けれども自分が今賣られて行ってしまったならあとはどうなるだらう。もしこのまゝ自分がゐなくなったら、母をあの兇暴な父の手から誰がかばってくれるだらう。自分がゐなくなれば、母はたった一人だ。その一人の母を父はどんなに取扱ふだらう。
怒った餘りに母を毆り殺しかねまじき父を見ては、彼女は到底家をはなれる氣にはなれなかった。
かういふ心配をしてゐる美子を傍にして、彼女の身賣の話は父母の間に進行しかけてゐた。
母親にすれば死んでも手放したくない、我が生みの子ではある。けれど、自分の連れ子なのだ。元吉にとっては實子ではない。そこに母親の、父に對する義理といふものがあった。父のほんとうの子ならば、どんなにしても頑張るはづだった母は、ともすれば父に從ひさうに見えた。
が、母としての最大の感情がとうとうちかの心の中で力強く働いた。彼女はは、一言、父に對して心の中の不平を洩してしまったのである。
妻が自分に對する義理立から、凡てを忍んでゐるのをいゝ事にしてゐた父は、妻は凡てを甘んじて屈從すると豫期してゐた。
この暴君にとっては、妻の不平は、全く意外だった。父はかっととりのぼせると、立上って母にとびかゝった。
それから後の、父母の爭ひは、他人でも見るに忍びなかった。父は母の髪の毛をつかんでひきずりまはした。はては、毆る蹴るの亂暴を働いた末、失神したやうに倒れてしまった母を傍に殘して、二階に上って行ってしまった。
この亂暴は美子を全く逆上させてしまった。
最早、何ものも忍べなかった。男子ならば二人の爭の中に身を挺してゞも母を救ひ得たらう。女の身のそれもならず空しく鬼のやうな義理の父が、最愛の母を苦しめるのを見てゐなければならなかったのだ。
けれど、もはや凡ての忍從の時はすぎた。
蒼白になった彼女は、倒れてゐる母を介抱もせず、つと立上ると、ひき出しから一挺の剃刀を取り出した。
美子が二階に上って行って見ると、父は、亢奮の後の疲勞からか、そこに横になってねてゐる。
悲劇は次の瞬間に起った。
うめくやうな聲が一聲その室からはきこえたばかりだった。
しばらくして、起き上った母親のちかは、二階が餘りに靜かなので上って行って見ると、横腹を突かれて死體となってゐる夫と、その傍に、氣狂のやうな顏をして、しかし全くしづかに一言も發しないでぺたりと坐ってゐる我が子を發見して、腰をぬかすばかりに驚いたのであった。
「父が居なかったらどんなに母が樂だらう。どんなにうちが樂しいだらうとは平生考へてゐました。けれど、あの時は全く父を殺す氣ではなかったのです。たゞ夢中でついてしまったのです」
これが彼女が檢事の前での供述であった。
「しかし、腹をかみそりで突けば、父が死ぬかも知れない位の事は、お前だって考へたらう」
「……ですけれど、あの時は夢中だったのです」
美子は、犯罪事實の中、殺す氣でやったといふ事をあくまでも否認しつゞけた。
此の供述は公判廷に於いてもつゞけられた。被告人美子の取調が一通り終ると、證人としてその母ちかが法廷によばれた。
夫を殺され、而もその下手人が最愛の我が生みの子であり、その子が被告人として法廷に立ってゐるそこへ、證人としてよばれた母親こそ、眞に同情されていゝ不幸な女と云はなければならない。
彼女は、夫の亂暴を知ってゐる。その兇暴さも知ってゐた。誰よりもよく知ってゐた。けれども、一方彼女がその夫と同棲してゐた以上、誰にも知られぬ夫のよさもよく知ってゐた。
我が亡き夫を辯護する事は、今目の前にゐる我が子の爲に不利になりはせぬか、と云って死んだ夫をのゝしる事は情に於いてしのびなかったのである。
夫を辯護せんか我が娘に不利、娘を辯護せんには亡夫をのゝしらねばならない。彼女はこの切迫した不幸に直面して、凡ての罪を一身に負った。
「私が惡いのです。何から何まで皆私が惡かったのでございます。私さへもう少ししっかりして居りませば、こんな事にはならなかったのでございます」
證人臺の上にのった彼女は、裁判長の言ふ何事も耳に入らぬかのやうに我れと我が身を責めたてたのであった。
美子は一言も云へずに下をむいてゐる。
滿廷の涙をさそって、母は退席した。
次に呼ばれた證人は、某署の巡査であった。
裁判長の問に對して、大崎元吉といふ男がいかに近所から嫌はれてゐるか、といふ事を縷々として物語った。近所から「蝮の元吉」とさへいはれてゐる位のならずもので、毎日毎晩醉っぱらっては妻を毆打する、といふやうな事實を詳述した。
一言でいへば、この證人の證言は悉く被告人美子にとっては有利のものであった。
つまり母が云ひ得なかった事實を、この證人ははっきりと云ってくれたのである。
證人が退席すると意外な事がおこった。
「今の證人の證言について、何か述べることはないか」
といふ裁判長の言葉に對して、今まで默してゐた被告人美子はすっくと立上ってはっきりした言葉で云った。
「おとッつあんは、そんな惡い人ぢゃありません。近所の方は何といっていらっしゃるか存じませんが、そんな惡い人ぢゃなかったんです。決してそんな人ぢゃありません」
彼女はかう冒頭しておいて、父のよき事を力をきはめてのべたてたのである。
被害者を、加害者たる彼女がかばふ事。それは同時に彼女に不利を來すものではないか!
しかし彼女は毅然として父の爲に辯舌を振ったのであった。
檢事が立って論告を述べた。
檢事は、まづ殺人事件として明かなる旨を最初に述べて、如何に被告が殺意を否認しても殺人たるや明かであるとこの點を詳述し、尊属殺なる事を明かにした。
「しかしながら、情状に於いては、甚だ同情すべきである」
と論じて、各證人の證言をひき、被告人のために大いに同情のある論告を試みた。たゞ、何分、尊属殺の事件であるから、といふのでその法律の許す限りの輕き實刑を求刑して、席についた。
無論、之に對する辯護人の防禦は、殺人事件にあらざる旨の主張であった。
數日の後、判決は下された。
裁判所では此の事件を殺人事件とは見なかったのであった。
傷害致死といふ罪名の事件として取扱ひ、之に更に情状酌量を加へた結果、執行猶豫の宣言があった。
この判決をきいてゐた被告人本人よりも、母親の喜び方は全くたとへるものもなかったのである。
傷けられた父、殺された父の不幸もさることながら、被害者を夫にもち、被告を子にもつ母の不幸には何と云って同情してやったらいゝだらうか。
かういふ時の、母の立場を、讀者はよく考へてやって頂き度いと筆者は思ふのである。
注)明かな誤字脱字は修正しています。
注)横顔写真はレアではないかと思われます。
家庭悲話「嫉妬故に罪を犯した若妻の懺悔」
「婦人倶楽部」 1935.11. (昭和10年11月号) より
夫の噂
山田弘(假名=二九)は會社の同僚の間でも評判の美男子。色はむしろ淺黒い方であったが、所謂一寸苦味ばしった顏立で、會社の宴會などで酒席に出ると、案外よくもてる。ところが當人もそれをいゝ事にして、妻のある身にもかゝはらず、素行の點では兎角の風聞が絶えなかった。
妻の絹子(假名=二三)は先づ十人並といふ顏立であったが、決して醜い方ではなかった。結婚の當初から、絹子は、良人が自分には勿體ない位好男子なので、心からなる純情の愛を捧げ續けて來た。從って良人の言葉には殆ど盲目的なまでに服從し信じ切ってゐた。
「今度課長が代ったのでね、その歡迎會があるんだ。下の者として出ない譯に行かないんだ。すまないけれど二十圓ばかり都合してくれないかなあ,本當にお前には苦勞ばかりかけてすまないが……」
良人にさう優しく云はれると、絹子は涙が出る程嬉しいのだった。平會社員としては、可なり社交費が嵩み過ぎる方であったが、絹子は今迄に一度だって良人の言葉や態度を疑った事はなかった。良人の出世の爲なら……、さう思って、嫁入りの時持って來た自分の衣類道具は惜し氣もなく質に入れて、今は殆ど着のみ着のまゝ、指輪一つ殘ってはゐない有様だった。それ程絹子は良人の爲には何も彼も捧げ盡して來たのである。たゞ、それによって、良人の愛情が永久に自分の上に續いてくれさへすれば……。
或る日、夫の出社中に、社用でつい近所まで來ついでだからといって、かねて顏見知りの良人の同僚の金子といふ男がブラリと訪ねて來た。
「いつもお變りがなくて何よりです。實際僕達はいつも奧さんに感心してゐるんですよ。あんなによく出來た奥さんは少ないってねえ――とことが、社の若い連中の中には、あんな貞淑な奥さんを持ちながら、山田君の遣り方は少しひどいやうに思ふ、なんて憤慨してゐる奴もありましてね。」
何を思ったか金子は絹子の前でペラペラ喋り出した。どういふ氣持ちでこんな夫の惡い噂を聞かせるのか一寸諒解に苦しむけれど、世間にはよくかういふおせっかひな男が多いものだ。愛する良人の噂を、何か奥齒に物のはさまったやうな云ひ方で聞かされると、聞くまいと思っても矢張ツイ氣になるもので、絹子が、
「私にはまるっきり分りませんけれど、山田が何か皆さんの氣持を惡くおさせするやうな事でも致しましたのでせうか?」
「おや、奧さんはぢゃあ山田君の最近の一件などちっとも御存知ないんですね? こりゃあ惡い事を喋っちまったな。――だけど、僕だから御注意しますが、奥さん、あんまり山田君を信じ過ぎると、今に馬鹿を見ますよ。今迄だって山田君の事だから色んな女をこしらへてゐたやうですが、今度のは相手が惡い。とても綺麗な、銀座の××の女給さんでしてね、最近兩方とも非常な熱なんですよ。
此間も、山田君は僕達の前で、僕は決心したんだ。いっそのこと女房を離縁して、この女と結婚のやり直しをしようかと思ふ、なんて、眞顏で云ふもんだから、僕達も吃驚したんです。」
かう聞かされた絹子は氣も顛倒せんばかりだった。今迄信じに信じ切ってゐた良人だけに、眞逆とは思ふものの、矢張り疑ひを掻き立てられずにはゐなかった。金子は、この不用意なお喋りが、どんなに大きな不幸を蒔きつけるかといふ事には氣がつかぬらしく、喋るだけ喋るとサッサと歸って行った。
恐ろしい現實
それからといふものは、絹子は思ふまいとしてもどうしても金子の言葉を思ひ出さずにはゐられなかった。しかも、疑ひの目を以て良人の今迄の行爲や言葉を思ひ浮べて見ると、どれもこれも思ひ當る節ばかりだった。
「若しかしたら本當では……?」
と思ふと、絹子は目の前が眞暗になるやうな氣持がした。若し、本當に良人から捨てられたら、その時には良人の目の前で死んで、良人の心を悔悟させるより外には、道がないやうな氣がして來た。
「さうだ、死んで後から來る女があったら、その一念で化けて出ても邪魔してやらう。」
後になって考へると可笑しい様でも。その時にはこんな事を眞劍に考へた絹子だった。月經前の半ば自制心を失った氣持も手傳ってその時近所の藥屋へ行き、工業用のある劇藥を一瓶買って來て臺所へ匿しておいた。眞逆の時には、それを飲んで自殺する覺悟で……。が、それは勿論一時的の氣持だったので、わざわざ買った劇藥であったが、いつか忘れるともなく忘れて一週間と經ち二週間と過ぎた。
心の中でかうした苦しい煩悶を繰返しながらも、その疑ひを良人の前で口に出して、その眞僞を確めてみる勇氣はどうしても出て來なかった。うっかり云ひ出して、良人から「お前から云ひ出してくれたので丁度幸だ。別れてしまはう……」とでも云はれようものなら……。さう考へると、とても恐ろしくてその勇氣が出ないのだった。
こんな風に絹子の心が激しい動揺を續けてゐる最中の或る日のこと、午前中はカラリと晴れてゐたのが、午後になって急にザッといふ土砂降りになり、それが到頭カラリとは上らずじまひに、シトシトと本降りの雨になってしまった。絹子は直ぐ今日は傘も持たずに出て行った良人の事を思った。さぞ退社するのにお困りだらう、と思ふと、彼女はイソイソと良人の洋傘を抱へて、時間を見計らって會社へ良人を迎へに出かけた。
ところが偶然にも、あまりに偶然にも、彼女が勝手知った會社のビルディングのエレヴェーターに身を乗せて、良人の事務をとってゐる部屋を覗いた、その瞬間、全身の血が逆流するやうな激しい赤面を感じてハッと棒のやうに立竦んだ。
もう全部の社員が退社した後のガランとした部屋に、良人が、かねて噂にそれと聞いてゐた女性とたゞ二人で、互に睦しさうに身をすり寄せて話し込んでゐるではないか。しかも、なんとなくみだらな空氣が、直感的に絹子の目にパッと映ったのだ。目の前の男女が、絹子の姿を見て、ハッと狼狽(あわて)た態度だけでも、二人の關係がどんな程度に進んでゐるかといふ事は、女性特有の敏感さで直ぐ悟る事が出來た。
「あなた!」
叫ぶと、咽喉がこはばって、もう後の言葉が出なかった。絶望と、口惜しさと、恨みと、悲しみと、激怒と、かうした感情が一時にこみ上げて來て、次の瞬間には、絹子はもう自分が何を云ひ、何をしたらいゝのか分らなかった。
「あんまりですわ。あんまりだわ。」
堰を切ったやうに溢れる涙を頬に傳はらせながら、絹子は叫び續けた。良人も相手の女性も、暫らくは不意を打たれて、ハッと立上ったきり、顏色を變へて一言も口をきかなかった。
この時、絹子の後からあたふたと入って來たのは、同僚の井上といふ男だった。
「山田君、僕も一緒に行くから、奧さんと一緒に歸らう。いゝよ、大丈夫だ。僕が引受けるよ。――奧さん、大丈夫ですよ。歸ってから僕が山田君をあやまらせますよ。」
かう云って、井上は一生懸命にその場を繕はうとした。實を云へば、彼は、山田のところへ女が來てゐるのを知ってゐたので、ビルディングの入口でチラと絹子の姿を見かけた途端、これは大變な事になるぞと大急ぎで引返し、次のエレヴェーターで絹子後を追って來たのであった。
絹子は、あまりに激し心の打撃を受け、この時には、もう半ば意識を失ったやうに、今は何を考へる力もなかったので、井上の勸める儘に、もう一人の女性を殘し、良人と三人でぼんやりと空な心のまゝ歸路についたのであった。
夫を自分だけのものに
途々、絹子は今迄あんなにも恐れてゐた事實に、到頭ぶつかってしまった事にたとへやうのない絶望を感じてゐた。
家へ歸ると、良人は非常な權幕で、
「なんといふ恥さらしだ。わざさざ會社迄やって來て騒ぎ立てる馬鹿があるか。十年の戀も一時に覺め果てるよ。下らない嫉妬をする女程おぞましいものはない。思っただけでもムカムカする。」
「まあそんなに云はないで機嫌を直し給へ。――さあ、奧さんも何卒機嫌を直して下さい。夫婦喧嘩を今更こんなつまらない事でしたって始まらないぢゃありませんか。」
井上はしきりにその場を圓く納めようと努力するが、絹子には良人の言葉も、井上の言葉も、あんまり男の勝手が過ぎるとしか思はれなかった。
この年月、あらゆる苦勞をいとはなかったのは一體なんの爲だったらう。いや、それよりも、雨が降ってさぞ困ってゐるだらうと思って傘を持って行ったのが、どうして恥さらしなのだらう? 自分の愛する者が、自分を捨てて他の女性に愛を移すのを見て悲しむのがどうして下らぬ嫉妬なのか? 愛すればこそ、愛すればこそなのに、それを却ってムカムカするとは? ああ、屹度もう私が嫌になってしまったのだ!
ふと、とこの時絹子は、いつか買っておいた劇藥を思ひ浮べた。一層のこと、あれを飲んで……と思ふと、頭がクワッとなって、危く自制心がなくなりさうになる。
良人は戸棚をガタピシやってゐたが、やがて酒を出して來て、半ばは自棄になった氣持から、半ばはムシャクシャ肚を癒すつもりで、井上と飲み始めた。
「僕は、今日みたいな事があると、つくづく厭になってしまふんだ。ねえ君、その氣持は分って貰へるだらう? 僕はこれで可なり道徳的な男のつもりだ。」
酒が廻って來ると、良人は次第に勝手な熱をあげ始める。井上は半ば茶化すやうに、
「君の道徳的は一寸怪しいぜ。仲々持てるんだから、奧さんも心配は心配さ。」
「それあ、惚れられるのは仕方がないさ。一度こんな事があると仲々氣持が素直に行かないものさ。一層のこと此際綺麗に別れてしまった方が、お互の爲かも知れないんだ。」
「冗談云ふない。こんないゝ奧さんを……」
「いや本當の話さ。フン、女は何も女房一人ぢゃああるまいし……」
絹子はそれを臺所で息をはずませながら聞いてゐた。良人は酒の勢を借りて云ってゐるにせよ、生醉ひ本性違はずといふ言葉がある位だから、恐らく本當のことを云ってゐるのに違ひない。
「女は何も女房一人ではない……」――といふ良人の言葉を聞いた時、今の今までこんなに良人から愛されてゐないのなら、一層一思ひに死なうとまで思ひつめて、冷たい涙が止め度なく頬を傳はってゐたのが、不思議やピタリと止ってしまった。
「えゝ口惜しい。良人を私から奪れるものなら奪って見ろ、この廣い世間に良人を本當に愛してゐるのは、この私だけしかないといふ事を思ひ知らせてあげるから……」
さうだ、良人を自分だけのものにするのには……。もうこの時には絹子は全く自制心を失ってるた。思はずフラフラ立上ると、今その瞬間まで自殺する覺悟で棚の上からおろしてゐた劇藥の瓶を、堅く掴んだまゝ、良人達の酒をのんでゐる座敷へ、夢遊病者のやうに眞蒼な顏に空な瞳を大きく見開いてフラフラと入って行った。
「あッ!」
突然良人の激しい叫びが起った。が、その時には絹子はもう全く自分でも何をしたのか分らぬ程頭の中が混沌としてゐて、立騒ぐ井上と、額から頬にかけていきなり浴びせかけられた劇藥の痛みに堪へかねて、苦しさうな呻き聲を出しながら、
「醫者を……醫者を……」
と叫んでゐる良人の姿とを、たゞ茫然と見詰めてゐるばかりであった。
哀れ女心
山田は間もなく病院に擔ぎ込まれたが、既に顏の半分は見るも無惨な火傷を受けてゐて、醫者の言葉によると、到底元のやうには治らぬといふ話であった。
絹子の方は、警察の取調べでは「傷害罪」として一件書類と共に檢事局に送られる事になった。元來、劇藥を愛する男にかけるといふ犯罪は、外國では可なり例があるが、日本には非常に少ない例なので、檢事局では特に慎重な態度でこれを取調べる事になった。
先づ第一に、どうして劇藥を絹子が買っておいたかといふ事が大切な問題なので、これを追求すると、最初から自殺する氣で買っておいたのだといふ事が實に明らかで、決して彼女が嘘を云ってゐるのではないといふ事がすべての點から信じられた。
しかも絹子は、取調べ檢事の前で、
「ほんのその直ぐ前までは自殺しようと思ってゐたのですが、ふと、あの人の顏に劇藥をかけて火傷をさせて醜くしてしまへば、世の中の女は誰一人あの人をチヤホヤしなくなってしまふに違ひない。その時こそあの人は本當に私だけの良人に還って貰へるだらうといふ事に氣がついたのです。私は今でも、たとへどんな顏になっても、あの人をどこまでも愛して居ります。私はどんな刑を受けてもかまひませんから、お情けで、何卒今迄通り夫婦になれますやうに、お力添へを下さいまし。」
と、さめざめと泣くのであった。そのいぢらしい姿を見ては、檢事も彼女が心から良人に純情の愛を捧げてゐる事を疑ふことは出來なかったのである。
次に、絹子達の近所の人々が取調べられたが、異口同音に、
「あの優しい山田さんの奥さんが、どうしてあんな恐しい事をなすったのか分りません。本當に貞淑ないゝ方でした。御主人はいつも立派な服装をして出ていらっしゃるのに、奧さんは殆ど自分の衣類道具を全部質に入れてまで御主人の爲に盡していらしたやうです。私達は屹度、奧さんがあんな事をなすったのは、よくよくの事だったらうと思ひます。」
と、みんなが絹子の爲に非常に有利な證言をしたのである。
そこで、最後に檢事は入院中の山田を臨床訊問する事になった。勿論それ迄に警察の手で、今迄の山田の素行を細大漏さず調べ上げておいたのであるが、その不品行放埓の甚だしい事は言葉の外で、まるで色魔のやうなひどい不行跡がハッキリ分ってゐた。
「こんな不行跡をやって、細君の手前惡いとは思はなかったのか?」
と検事が訊くと、山田は素直に、
「どうも私が惡うございました。こんな顏になったのも、罪の報いかも分りません。」
と自分でも惡かった事をハッキリ認めた。
「若し、細君の罪が許されるやうな場合には、どうだ元々通り夫婦になって暮す氣はないか?」
と訊くと、
「不憫だとは思ひますが、男としてこんな目に會はされた以上、もう一緒になる氣になれません。」
といふのが山田の意見であった。
檢事局では、これらの取調べの結果を一同で相談したのであったが、元來これは良人の不品行が因になって起ったもので、妻の絹子の立場には實に同情すべき點が多いから、これは無罪になるべき性質のものだといふ意見が多數を占め、逐に絹子は不起訴といふ事に決定した。
そこで檢事は早速絹子を呼び出して、
「この事件は當然傷害罪として起訴されるものであるが、情状酌量する點があるので特にお前は罪にならぬ事になったが、例へどんな事情があるのにせよ、夫を改心させる爲にはまだ外に手段がある筈だ。今後は二度とかういふ輕はずみな事をしないやうに……」
と訓すと、自分のことには碌に耳も假(※ママ)さず、
「良人はどうして居るのでせう! 傷の方は? 私はどうなってもかまひません……」
と、涙ながらにたゞ良人の事ばかりを訊くのだ。
「お前の良人は今更こんなにまでされて一緒にはなれぬと云ってゐるが……」
といふと、絹子は檢事の前も忘れて、ワッとばかり聲をあげて泣き崩れてしまふのであった。
哀れ愛するが故に――愛する良人を獨占しようと思ったばかりに、かうした恐ろしい眞似をしたのであったが……その望みはすべて水泡のやうに果なく消去ってしまったのだ。愛する良人を永久に捕へようとして、却って永久に失はなければならなくなったのではないか。思へば愛故に迷ひ、思ひがけぬ恐ろしい罪を犯す哀れな女性が世間にはどんなに多いことであらう!
たとへ若氣のいたりとはいへ、自分の爲に凡ゆる愛情を捧げ盡して呉れた妻を、裏切った罪の報いとして生れもつかぬ醜い面貌となった山田はいまどこでどうして暮してゐるだらうか? また愛故にとはいへ、終生拭ふべからざる深い罪をのこし、曾ては身も心も捧げ盡した愛する良人に再び見ゆることも許されなくなった絹子は果して今どこの空で、どんな胸を抱いて暮してゐるであらう?
誤れる嫉妬は凡てを破壊する。呪ふべく慎しむべきは女の淺はかな嫉妬である。
………… (完)
法曹界に令名高い濱尾先生は、探偵小説作家としても皆様既にお馴染みの方です。記者は一日先生をお訪ねしてこのお話を頂きました。
注)「或る女の犯罪」の物語化作品。わざわざ記者のことばを載せているのはどのような意図だったのだろうか。文章自体は記者が記した可能性もありそう。
「或る女の犯罪」
「文藝春秋」 1932.07. (昭和7年7月号) より
「初夏」といふことゝ「女の犯罪」といふ事で、私自身が手がけた事件の中で、ひどくはっきり印象に殘って居るものがあるから書いて見よう。但し之は私が檢事在職中に取扱った事件だから、關係者の姓名は勿論の事、住所なども、はっきりと記すわけにはいかない。
一體、春から夏にかけて、ヒステリーの犯罪が多いと云はれて居るが、之は醫學者の方に任せるとしてここには單に或る事件を御紹介する。
今から數年前の初夏のある夜、山の手の或る會社員の家で。悲劇が起った。
犯人は二十四歳になる人妻で、被害者は、その夫たる會社員だった。
この婦人――假にA子と名づけよう――は、事件當時から一年程前まで、山の手で藝妓をして居たので、當時の客たる會社員(假りにBと名づける)と戀仲になり、揚句、Bに落籍されて同棲するに至った。但し入籍はして居なかったのである。
然る所、このBは元來非常な遊蕩兒で、A子との同棲生活のはじめ半年位は、でもおとなしくして居たが、それから後は、再びもとの遊び人となり一週間位家をあける事が少しも珍らしくないやうになってしまった。
ところで、Bの亂行に對してはA子がかつて藝妓をして居たといふ事實が、事情を惡化せしめた。といふのは、Bのいろいろなごまかしも花柳界出身のA子には一向にきかず、且つ花柳界出身のA子の嫉妬心は堅氣の女より一層甚しかったからである。ここに見逃し難い、ヒステリーといふ事實がある。更に、かういふ事情で同棲しはじめた妻の殆ど全てがかういふ場合にもつであらう所の、「捨てられやしまいか」といふ不安がだんだんとA子の頭の中にはっきりしはじめた事がますます此の家庭の空氣を險惡にした。
ここで一寸讀者に御注意を願ひたいのは、この不安は必しもA子のヒステリーからでも、又邪推からでもなかった。否、彼女は甚だよく夫なる人を認識して居たのだといふ事である。亂行をはじめたBは、六ヶ月以後には、水の邊りに近い或る花柳界の女――假りにC子と名づける――と立派に戀仲になって居て、このまゝ行けばA子を捨てゝC子に走りさうな形勢になってゐたのである。だから、A子の「捨てられはしないか」といふ同情すべき不安は、正に理由ありといふべきであった。
その年の、さみだれの多い或る日、朝からくもり勝ちの空は、ひるすぎからとうとうほん降りになってしまった。(と書いたって之は決して近頃流行のインチキ實話の描寫のまねをしたわけではない。此の日ひるすぎから雨のふり出したのは正に事實であり、而て此の雨が之から記してゆく事件に重大な關係をもつ事は直ぐに判る)
夫が雨傘を持たずに勤めに出て行ったのを知って居るA子は、會社のひけるより一時間ばかり前に傘をもって夫の勤先の會社に出かけた。
無論彼女は、少くも勤務時間中はまじめでゐると自分の信じて居る夫は、ちゃんと事務の机に向って居り、彼女が傘をもって來たのを見て、感謝の意を表してくれると思って居た。
然るに、豫期は全く裏切られ、彼女はそこでとんでもない光景を見せつけられてしまった。あらう事か、その時、夫は自分の席を離れて、情婦C子と應接間でいちゃついて居たのである。
カッとなったA子は夫とC子のところへつかつかと行った。さうしてC子と二こと三こと云ひ爭ふと見るや二人の女は、白晝會社の中でつかみ合ひをはじめた。驚いたのは夫である。更にめんくらったのは執務中の他の社員だった。
勿論此の場は周圍の人々によって何とか無事に納まったが、納まらぬのはBとA子の心であった。
Bにすれば妻にはあやまれぬ立場になってしまった。成程妻にかくれて情婦を勤先へよんだのはたしかに惡い。しかし大勢の前で、あんた醜態をあらはしたのは妻のおかげだ。女房がもう少しつゝしみ深ければあんな事にはならなかった筈だ。さうだ。A子は妻として不適當だ。早く別れよう。――これがこの日のBの氣持だった。だから彼は歸宅するや否や直に別れ話をもち出した。
A子にすれば、夫のいふ事は全く理解が出來なかった。自分に過失は少しもない。今日の醜態は百パーセント夫の責任である。今日の事に藉口して夫はC子のところに行くのだ。――これがこの時のA子の氣もちだった。
この夜一夜、二人は喧嘩をしてゐたがしかし翌日になってBは何故か別れ話を口にしなくなった。
彼は、A子に對して別れ話をしなくなった代りに、同僚の者に自分の氣持を語ったのであった。
世の中には、餘計な世話をやく人種がかなり多い。一體日本の社會はさういふ種類の人間で、滿たされて居るやうだが、此の時にもかういふ人間が登場する。
それは、Bの話をきいた同僚であった。
悲劇のおこった日の夜の六時頃夫Bは、同僚を二三人つれて自宅に歸って二階で酒宴を張った。外出しがちなBが歸ってうちで酒をのみ出したので、A子は大へんに嬉しかった。
ところが、酒がまはり宴たけなはになった頃、同僚の一人が二階から下りて來て、A子に、
「おくさん、あなたはほんとに氣の毒だ。Bはあなたと別れる氣なんですよ。あれにはYといふ土地にC子といふ女があるんです。それと一緒になるつもりなんですよ」
とさゝやいた。
「だからどうしろ」といふのではない。「あなたが氣の毒だから…」といふ口實で、とかく他人に干渉したがるわれわれの周圍にたくさんゐる人種の一人がかう云ったのである。
酒宴は夜半までつゞいた。階上では樂しさうな唄がきこえた。階下ではA子がしのび泣きに泣いてゐた。この間にある決意がなされたらしい。
夜更けて、客は、歸った。たった一人、よけいな口をきいた友人が二階に泊って行くことになった。BとA子とは階下に床を並べて横になった。
今まで我慢に我慢し、忍びに忍んでゐたA子は、二人だけになるや、しきりにBにかきくどいたけれど、Bほ死人のやうに泥醉して――若くは泥醉したふりをして一言も答へない。
しばらく夫の様子を見てゐたA子は、すっくと立ち上って臺所に行った。彼女は、そこから、かねて求めておいた硫酸の罎を手にとってぬき足して寝室に戻らうとした。その時、臺所と寝室の間にあった茶の間で、彼女の足にぶつかったものがある。見るとそれは、裁縫用のよく切れる鋏だった。
この鋏を見て彼女には妙な考へが浮んだ。
彼女はは硫酸を左に、鋏を右手にもってひそかに夫の側に戻った。
彼女は、ねてゐる夫に近づいていきなり×××切りつけたのである。驚いておき上らうとしたBの顏に、火のやうな硫酸が一時に注がれた。
Bの悲鳴をきいて、二階から友人がとびおりて來た時、A子は驚くべき冷靜さを保ってゐた。彼女は、一言も云はず、又逃げようともせず、默って友人がBを介抱してゐるのを見て居た。
騒ぎは直ぐに近所に知れた。Bは、そこから某病院に運ばれ、A子は傷害罪の現行犯人として直に逮捕された。
叙述のやうな經過の後、この事件が當時檢事をして居た私の手に來たのである。
彼女は、比較的正直に犯行を陳述した。
無論殺意を否認し、たゞ傷つけるつもりだったと答へた。
情状として彼女に不利な點が二つあった。少くとも二つありと警察では認めた。一つは犯行直後、彼女が少しも改悔の状なく夫の苦しむのを傍觀してゐた點で、他の一つは、あらかじめ硫酸を用意してゐたといふ點であった。
はじめの點については私は別な考へ方をしてゐた。必しもそれは彼女の惡性を表すものではないと考へた。成程、客觀的に云へばそれは犯罪直後だらうけれども、心理的に云へば、當時はまだ、犯行中であって後ではないと思はれたから。
しかし他の硫酸の方は、明かに不利だった。突發的と云ふにしては少々用意しすぎる。しかし彼女は、「實は自殺するつもりで硫酸を求めておいた」といふ巧みな辯解をした。
私は、被害者の方を病院に訪ねて聴取書を作った。火傷は、一番重く、一生顏はなほるまいといふ醫師の話であった。たゞ不幸中の幸は睡眠中だったので失明するのは免れたことである。他の方の傷は案外輕く、將來、性行爲不可能となることはない、といふ事であった。
被害者は、道徳的に自己に可なり責任ありといふ事を認めた。さうして「A子を告訴する意志は毛頭ない。しかし、妻としておく事は到底出來ぬ」と斷言した。
種々な點から觀察した結果、本件を起訴猶豫にすることにきめた。
さうきめた日、私はA子をよび出して事件の結末を言渡した。
しかし彼女は、刑を許された事を殆ど問題にして居ない。さうして、
「Bは何と申して居るでございませう」
とくどくたづねるのであった。
「Bはお前を告訴してくれ、とは云ってゐない。しかし、お前とは斷然別れる、と云ってゐるよ」
と云ったら、彼女は(ありきたりの言葉で云へば)よゝとばかりに泣き伏してしまった。
「そんなにBをお前はすきなのかい」
ときいたら、
「毎晩々々夢に見ます!」
と云って再び机の上に涙をぽろぽろとこぼした。立會ってゐた書記は、めんくらって席を立ってしまった。
その後Bはどうしてゐるか、A子はどうなったか、無論私は知らない。
二年ばかりたったある日、山の手の某映畫館の中で、A子らしい女を見かけた。その時のA子は、素人らしくないなりをしてゐた。
「又、二度のつとめに出たのかしら」
ふとかう思って、ふり返って見たけれども彼女のかげはもう見えなかった。
注)のち「嫉妬故に罪を犯した若妻の懺悔」として物語化された元の話と思われます。
氣にかかる犯罪「檢事廷夜話」
「話」 1933.11. (昭和8年11月号) より
「氣にかゝる犯罪」といふよりも「氣にかゝった犯罪」といふ話からして見やうと思ふ。
法律家同志が寄り合った時たまたまきいた話からはじめる。
A檢事は次のやうな話をきかしてくれた。
「この話は大犯罪でもなんでもないんだが、檢事として一寸あとあぢの惡い事件だった。
之は某市の區裁判所の檢事をして居た頃の話なんだ。妙な事件でね。まづとっかゝりから人を馬鹿にしたやうな話だよ。ともかく被疑者は現行犯人として身柄ごと局に送られて來たんだが、某區の貧民の多い所で、(まづ東京で云へば深川とか本所あたりだ)白晝ある男が、ある家に誰も居ないのを見すまし、いきなりガラス戸をあけて中にはいりこみ、たまたまそこにたった一人で遊んで居た十歳位の女の子に妙な仕業をしたといふのだ。
と云っても刑法第百七十七條の問題ではなく、同法第百七十六條後段に觸れたわけである。ところがどうしてそれが發見されたかといふと、その娘の友達が三四人(皆その位の年の少女)その娘の家を訪ねた。そしていきなりガラス戸をあけてこの始末を發見したのである。
彼女等に、被疑者の行爲がどの程度に判ったかは疑問だ。しかし諸君に一應注意を促しておきたいのは、貧民の家庭ではその住居の具合からして子供らがわりにさういふ事に敏感だといふ事實である。
娘たちは忽ち騒いだ。大騒ぎに騒がれて被疑者はそのまゝ往來を白晝夢中で逃走したけれども、或交番の前を通りすぎやうとした所を、擧動不審で訊問されて居るうち方々の長屋の人々がかけつけて以上の話をなし、おくれて歸った娘の父がカンカンに怒って直ちに告訴を提起してその結果自分の所に送られて來たわけなんだ。
記録を讀むと被疑者はまづ警察に於いて全然犯行を否認して居る。娘をどうかしたかはおろか、その家にもはいった事がない、法律的に云へば住居侵入をも否認して居る。その否認の仕方が又一寸變ってゐて、そんな事は絶對にしない、とは云はず、全然知らぬの一點張りなのだ。
僕が訊問に及ぶとはたして知らぬと各へる、どういふわけかと云ふと、自分はその日朝からひどく大醉してゐた。それはおぼえて居るがそれ以外何もおぼえがない、と云ふのである。一方、現行犯を見て居た子供達は一勢に、あのをぢさんがたしかに家にはいって花ちゃん(假名)をだいて居たと主張する。他に一二大人の婦人が、子供たちのさわぎをきいて一寸ガラス戸から覗いた時もたしかにさういふ状態だったと云ふ。
結局住居侵入罪は被疑者の否認にもかゝはらず、信ぜざるを得ない。何となれば、被疑者はその土地を通ったのがはじめてらしく誰も前に見た事がない。從って恩も恨みも参考人たちにはないわけだと僕は解したんだ。
而も被害者たる花子なるものは險事廷に出て來ると殆ど恐がってまるで答へない。何を聴いても答へない。やむなく被疑者に別らぬやうに被害者に被疑者をのぞかせたらはじめてあのをぢさんが來た、と答へる。しかしこんな子供相手でやむを得ないことだけれどもやゝ誘導的訊問にならざるを得なかったと感じてゐる。
長くなるから早く云ってしまふと僕はつひに刑法第百三十條及刑法百七十六條後段で起訴してしまった。
公判廷に於いても同じく被告人は否認した。證人の訊問は大人の方はよかったが被害者はますますすくみ上るばかり。結局僕と辯護人立會の上で裁判長が公判廷でなく、小さい室で取調べはじめたが、裁判長もやはり誘導的な(それは被告人にとって利益にも不利益にも解せられるが)訊問をして答を得るより外仕方がなかった。
「そこで判決は無罪ときまったんだ。しかしこの事件はどうも僕にはへんに氣になる事件だったよ」
A檢事はかく語った。
「君、警察署でも當時大醉してゐたことは認めて居たのかい」
とB險事がきいた。
「うん、さうだ。酒くさかったとは云ってる」
「ぢゃ警察署ですぐに被疑者を醉っ拂ったまゝぐうぐうねかしちまったんぢゃないかな。僕みたいな酒のみは、よった揚句歸宅してすぐねたが最後翌日どうしてうちに歸って來たか判らんことがあるからね」
とB險事がA險事に語った。
次は私自身の經驗話。私が險事在職當時の事件で一寸氣になって居る話である。
之も別段大犯罪事件でもなんでもなく、ごくありふれた姦通事件であった。
一體姦通事件程險事にとっていやなものはないのだ。少くも私一個人の體驗によれば、姦通罪で姦夫姦婦を起訴して最終まで行くことは殆どない。結局は夫が犯人二人から金をとって告訴取消と來る。何の事はない檢事は事後の美人局みたいなものゝ相場をあげてやる役に利用せらるゝのだ。だからその馬鹿らしさをさける爲に、はじめから一應示談させやうとする。どうしても告訴人が頑ばればいやでも應でも檢事たる職務上取調べに着手せざるを得ぬのである。
之から述べる事件は聊か趣きを異にしてゐる。
姦通罪はいふまでもなく三角關係によって成立する。此の事件に於て告訴状によれば、本夫三十五歳、姦婦(即ち本夫の妻)三十歳、姦夫二十七歳といふ順序である。
私は一應告訴状竝びに警察の調書をよんだ。被告訴人二人は絶對否認、反之本夫の告訴状は甚だ詳細(或は私立探偵を使ったかもしれぬが)であって本夫が關西方面に旅行中、本夫の友人たる姦夫が、本夫の妻と共に東京をあとにして房總を旅し、どこの宿屋にいつとまったか、どういふ行動をとって一週間るすにしたか、といふやうなことが書いてある。
そこでまづ私は告訴人の決心をきいた後、私は姦夫とめざされて居る男をよんだ。私の經驗によれば、まづ姦夫にあたり最後に女を調べるのがこの種の犯罪をしらべるに最も都合がよかったと思ったからである。
告訴人も被告人の男も全く主張が異るので結局私はどの程度に和解の意思があるかと思って、ある日二人を對決さして見たのである。
するとまるで大喧嘩だ。無論平和にはすまなさうな事件であったが姦夫と云はれた男は本夫に對し
「お前から見りゃ手前の女房だからきれいだらうと思はうが、俺から云へば、おかめの出來そこないぢゃないか。手前の方からくれると云ッたッて誰がもらッてやるものか」と、大體かういふ調子だから本夫はますますカンカンになる。被疑者が全くケツをまくッた形だから問題にならない。
ここでいよいよ私はほんとうの取調べに着手しなければならなくなッた。
房總の方へ取調方を依頼すれば證據が上るかどうかわかるわけだが、とりかかッたが最後こんな事件はぐづぐづしてゐるといつ犯人が逃走するか判らないので、その日は男二人を歸し、翌日女をよんで見たのである。
險事に對して一番強敵は老婆である。彼女等は自己の利益或は自己の最も愛するものゝ利益が苟くも自分が自白したなら大變だと思った場合は絶對に口を開かぬ。頑としていかなる理論の前にもそらッとぼけて自白はしない。第二の強敵は女性一般である。彼女等も前述の理由がある以上頑として自白するものではない。物的證據れき然たるものあるも決して自白するものではないのである。
愛する者の爲には自己を犠牲にしてもその愛するもの――例之、夫、戀人、我が子等――の利益をはかるといふ女性の一般の性質は、幾多の美談を殘し、幾多の文化につくした場合を無論認め得られるが、彼女が犯罪人を愛する限り、刑事々件に就いては有害の存在となるのである。
だからその日私も強敵と最後まで戰ふべく覺悟して檢事廷に入ッた。
はたせる哉、彼女即ち姦婦とめざされてゐる女は絶對的に否認する。一寸でも油斷すると迷路にひきこまれるから私の方も必死になッて追究しなければならない。
しかし結局、一應は私の勝利に歸した。その日の夕方になッてからたうとう彼女は完全に自白した。否完全以上に自白したのである。かゝる事件に於て、女は頑強に頑ばるけれども、一度、敗旗をかゝぐるや、大膽に、とうてい男性では云へぬ事をも率直に云ふものである。
私は直に彼女の自白の聴取書を完全に作成した。若し後日起訴した後にこの自白を決して否認出來ぬやうに十分に證據として作成した。
これから後が私として未だに氣になる事件となるのである。
本來ならば此際直に彼女の身柄を拘束すべきが當然であッた。正にかくすべきが檢事としてなすべきことであッた。
然るに一寸した考へが私に重大な失策をまねかしたのである。
それは、まッたく恐れ入ッて居る彼女を歸して姦夫にも説かしめ、或は本夫に謝罪させて此の事件を手早く解決せしめ將來いづれは本夫から金をとられ例の告訴取消を出させるが如き事に之以上乗らぬ方が策の得たるものと信じたのであッた。
よッて私は彼女を其日歸し、翌日三人とも呼出す手續をとッて自分も裁判所を出たのであった。後にも述べるが之は決して彼女に同情したわけでは無論ない。センチメンタリズムでは決してない。檢事廷にある檢事は武装せる軍人と同じ氣持である。軍人が祖國の爲に外敵に當ると同じく檢事は國家の爲に、犯罪人と常に武装して相對して居るのだ。その頭腦には鋼鐵の如き意思と、冷靜なる批判力あるのみである。
ところで、翌朝險事廷に出て見ると、ある警察署(之は姦婦の住所を管轄してゐる警察)から急に電話が私の所にかゝッて來た。
何事かといそいで受話器をとると、
「實は昨日檢事殿が御調べになッた〇〇〇〇(※ママ)といふ女が昨日服毒し、今朝只今たうとう絶命しました」
といふ驚くべき報告に接した。
その時の私の感じを率直に云ひあらはすと
「畜生め、やりやがッたな」
といふ感情と、「俺は大失策をやッた」といふ自責の念に打たれたのみで、彼女に對しては同情はおろか、むしろ腹を立てた位だった。
妻に死なれた本夫はいよいよますます、相手の男を収監してくれと迫るのみならず、既に死んだ女の自白により假令本人が否認してゐても證據十分と見られる状態だったから、直に檢事廷から起訴同時に収監したわけだったが、さすがに男もいざ起訴されるといふ時、はじめて全部自白した。
その自白の動機が一寸變ッて居る。
女はその死に際して遺言を書いた。
「申譯なし」といふ意味であった。
讀者は此の遺言が本夫にあてたものと思はれるだらうが、事實は意外にも姦夫にあてたものなのである。内容の意味は、大體次のやうな事であッた。
「今日檢事によばれた、私も出來るだけかくして居ましたが、鬼のやうな檢事でさんざん責められたのでたうとうほんとうの事を云ってしまひました。ほんとうに申譯ございません。おわびの爲に私は死にます」
誤解のない爲に申上げておくが、いくら鬼のやうな檢事でも責められたといふ事は決して手荒な事をやったのではなく、相對時して問答したのである。
かくて彼女は最後まで夫を蹴り、戀愛至上主義に身を殉じたのである。
その後私はすぐこんな事件は忘れた。現職にある檢事はさきに申した如く犯罪人と常に戰って居るのだ。過去の事件はたちまち去って新しい犯罪事件がいくらでも來る。
私は職にある間、如何なる場合にもセンチメンタリズムにおそはれた事がない。
然るに退職して既に五年ばかりたった今、此の事件は一つの「氣にかゝる犯罪」に属してゐるのだ。
軍人が國家の爲に戰って敵を殺した時は彼は何とも思はないだらうし又それが當然である。
しかし、戰すぎて五年、身は何らかの理由でもはや軍隊に非る時、しづかに過去を思へば、悲惨なりし戰場の一場面を追想することもあり得るだらう。身戰場にあるの氣もちでなく、追想して時にものゝあはれを知ることもあらう。
私は國家の公訴權の發動する機關たる檢事の末席に居た時は、全く犯罪者と常に闘ふ氣もちでゐたが、今や戰場をはなるゝ事數年にしていろんな場面を追想する。この事件はその一つである。
然らば私は今どうかんがへてゐるか。職務上やむを得ざりしとはいへ、間接には彼女は私の爲に自殺したのである。氣の毒だといふ思ひ方はたしかに一つである。けれど全部ではない。私は一應勝ったつもりで結局敗れたやうなものなのだ。この事件は有罪になったとは云へそれは形式上の問題で彼女には將に敗れたのである。この點については韮をかむ感じがする。
然しともあれ、假令彼女は國法を犯し夫を蹴り戀愛至上主義に生き且つ死したりといへども、死者をして死者を葬らしめよである。彼女は戀愛といふ事を十分に知って居た。然し正義といふ言葉は彼女の語彙にはなかったのである。 (をはり)
注)明かな誤植は訂正しています。
注)会話末尾の句点はなしで統一しています。
探偵作家の眼から觀た最近の新聞記事
「社會欄に散見する諸材料」
「文学時代」 1931.04. (昭和6年4月号) より
政治季節にあるので新聞紙は政治問題でやかましいが、政治問題は敬遠して社會面から二三の報道を取り出し、そこはかとなき感想を述べる。
世に「惡女の深なさけ」といふ言葉があるが、全く之に惱まされたらしい申の、殺人事件に對する判決のあった事が二月末の新聞紙上に出てゐる。
或る男が、妻に餘り可愛がられすぎてもて餘し、つひに之を絞殺したといふ事件で、裁判素はこの被告人に對して、懲役七年の刑を言渡した。
「可愛がられすぎて、たうとう殺す決心をした」といふのは、珍しい事件だけれども、理由が判らない事はない。ただかういふ場合に、大ていの男は、巧に女から逃れる事を知ってゐるのだ。殺すと云へば兇暴だけれども、考へて見ると、この爭ひに出る男は元來氣が小くて、おとなしいに違ひない。
ただ此の事件は、自殺幇助でなく、純粋な殺人である所が珍しい。こんな時の自殺幇助といふのは心中である。歌舞伎劇を見ると、いくらでもこんな例はある。「お半」でも「十六夜」でも、――之は決して惡女でなくたしかに美女だが――女の方から盛んに男をかきくどき、しまひに「殺していって下さんせ」といふやうな事になり、結局「南無阿彌陀佛」となって西に向いて手を合せる。
途中までがこのつもりで、後に殺人とかはるのに「かさね」があるが、これも前半まではたしかに心中もしかねまじき状態である。
之が昭和の時代になりて、執拗につきまとはれた末の殺人がさきにあげた「愛せられすぎの殺人」である。
これにつけて思ひ出されるのは、かのクリッペンについて語ったマーシャル・ホール氏の興味ある辯護である。
クリッペンは、ベル・エルモアと夫婦だったが、後イーセル・ル・ネーブと戀に陥りつひにベル・エルモアを殺す決心をした揚句、劇薬×××××をのませて之を殺し、ヒルドロップクレセントの自宅の地下室に埋た、といふ事實によりて死刑に處せられた醫師である。
マーシャル・ホール氏は法廷に於いてはクリッペンを辯護しなかった。クリッペンを法廷で防禦したのはトービン氏であったが、ホール氏はかつて友人に「もし私がクリッペンの事件を辯護すべく依頼されたとすれば」と前提して次のやうなシーオリーを語った。
クリッペンは決してベル・エルモアを殺す氣だったのではない。ただ伎女をさけたかったのだ。特に彼女の愛撫を! 彼は、二人の女を同時に愛する事は生理的に不可能であった。その上、ベル・エルモアは普通以上に、夫を愛し又夫から愛せられたる女だった。そこで彼は、この妻の執拗なる求愛を、鎮撫させるために、ヒヨスチンを用ひたのである。即ち彼は、この藥が、この方面に効力あるのをきいてひそかに之を妻に呑ませた所、量を過ったためにたうとう妻が死んだのである。即ちこれは決して殺人事件ではない。
これがマーシャル・ホール氏の立てたシーオリーの大略であるが、さすがに大法律家の防禦法であるとうなづける。尤もこの論に對しては法律家の批評もあるけれども、ある評者の如きは「もしクリッペンにしてマーシャル・ホール氏の如き大家に辯護されたならば、きっと死刑にはならなかったであらう」なんて、トービン氏に對してはずゐ分失禮な言葉を放ッてゐる位であるから、ホール氏の言も相當重大なものであらう。
實際この言があてはめられていいやうな性格をクリッペンはもってゐた。決して兇暴でなく、温和な、マゾヒスティシュな男だったらしい。
一體、色魔のほんたうの腕は、「如何にして女をつかまへるか」といふ事よりも「如何にして女と巧みに手を切るかといふ點にあるのだと思はれるが、かういふ中味からいふと、クリッペンもランドリューも、ジョセフ・スミスも、與右衛門も、それから今度の事件の被告人もまづ落第だし、又共に水にとび込む清心にしろ、長右衛門にしろ、又女のそばにへばりついて大事の迫るのも忘れ、揚句の果、お上の手にかかる直次郎も決して斯道の大家とは云へまい。
二月のはじめに妙な事件があった。十五才の少年が、柔道でおとされる快感を味ふため首をくくって死んでしまったといふ出來事で之も可なり珍しい事である。
奇を好む人と、變態的な事に趣味ある人とにとっては見逃せない事件だったらうと思はれる。
次はカフェーとは何ぞやといふ話。
僕はよくバーだのカフェーに行くやうなゴシップをかかれるけれ共、實は、全く酒がのめないので一人では全然行った事がなく、又酒のみの友人とでもめったに行った事はない。之は一身上の辯明ではなく、實は如何に僕がカフェーについて知識がないかといふ理由の釋明なのである。
それが最近の警視廰からの發表で大分得る所があった。警視廰では二月末に、バーとカフェーの定義を發表している。曰く
カフェー、バーは洋式の設備を有し酒類を販賣しかつ婦女を使用する飲食店をいふ。(この内に入るのは西洋料理、支那料理、酒場、喫茶店等)之等はカフェー、バー取締規則を適用する。(以下略)
これだけではバーとカフェーの區別は分らない。僕もそれが別らぬのでいろいろ友人にきくと、定義が必しも一致してゐないやうで結局、酒類のみを賣って、茶(カフェー、紅茶等)を賣らないのをバーといふんだらう位に考へてゐる次第でまことにお恥かしい次第だ。
ところがこの間、實にはっきりした定義をある女給からきいた。數日前夕方淺草の電氣館に「モロッコ」を見に行った歸り、どこかで電話をかりる必要があったのでバウリスタに一人ではいった。僕はバウリスタは昔のままのバウリスタだと迂遠にも考へてゐたのである。戸をあけてはひったとたん、全然昔と光景が違ってゐるのを發見したが、女給達を見て驚いてとび出すのも恥辱と思ひ、電話をかりた後、紅茶と果物を命じて腰かけてゐると、何分夕方で客のゐない時なので、手のあいた女給氏等は盛に暇潰しに來る。
自然の成行、實は俺はもとのバウリスタだと思ってとび込んだと言はずに「ここはバーかい」と愚問を一つ出して見た。すると一人の彼女氏は斷然、「バーぢゃありません、カフェーです」と來た。そこで僕もかねての疑問たるカフェーとバーの相違をきくのはこの時と、「一體、バーとカフェーとはどう違ふんだ」ときいた。
僕はほんとにこの機會に(然り、いらぬ果物や紅茶の代りにもとをとるつもりで!)知識をますつもりだったのである。然るに彼女氏の答ふるや實に簡にして明瞭頭よき氏は、知識を僕に與へると同時に、チップ請求を巧みに入れて答へた。蓋し愚問に對する賢答と申すべし!「バーといふのは女給さん達は月給で働いて居りますの。ここはカフェーですからカフェーでは私たちは月給がなく、チップだけで、くらしてゐるんですのよ」ですとさ。
戸をあけたとたんから、既に多少のチップはかくごをしてゐたが、一體こんな定義があるものかしら。之がほんとうなら僕はもとを取ったつもりなんだが……世のカフェオロギーの大家達よカフェオローグよ。一體僕はもとをとったのかしら、とられたのかしら?
注)名と姓の間に・を追加しています。
注)句読点は一部追加したところがあります。
注)判読し難く推測で記した漢字があります。
「犯罪月旦」
「新青年」 1930.11.〜12.,1931.02.〜03.,07. (昭和5年11月号〜) より
昭和5年11月号
近時の犯罪の諸相に就き、聊か思ふ所を述べて見ようと考へる。
元來、かういふ事は、毎日の新聞の切抜を取っておき、一つ一つに短評を加へれば、一番樂で骨が折れないわけと信ぜられるが、今回はその方法をとらず、まづ總括的に短感想を述べて見たい。
一、死體の隠匿
殺人事件は不相變屡々報道される。然し、殺人そのものゝ方法に就いて、特に著しく注意に値するものはないやうに考へられるが、最近に於いて、その殺人の後始末、即ち證據湮滅の手段につきやゝ注意に値するもの數例を見るに至った。
讀者は富士郎事件なるものを記憶せらるゝであらう。更に又内田某なるものが家族數名を殺したと稱せらるゝ事件をおぼえて居られるだらう。
かつて市外阿佐ヶ谷に於いて、永い間死體が空家に放置せられて居た事がある。又目下豫審繋属中の事件として、ある家で姦夫姦婦が本夫を殺し、その死體を戸棚に入れて匿し、暫くその犯罪が發覺しなかったといふ事件がある。
殺人事件に於いて、死體が表れるといふ事は、法律問題としては絶對に必要な事である。假令凡ての證據があっても(例之、犯人の自白、證人の供述)死體が出て來ない様合(ばあい)には檢事は少くも殺人既遂の起訴をなし得ざるべく、判事亦この判決を與へる事は出來ない。
くどいやうだが一實例をあげれば、數年前、信州輕井澤で或る青年が一人の少年を數丈の斷崖から殺意を以て突き落した事件があった。すべての證據はまちがひなく、犯人の自白に一點の疑ひはなかったけれども不思議にも死體がどうしても出て來なかった。そこで係檢事はつひに殺人未遂の罪名で之を起訴したのである。
死體は、訴訟法關係上證據として左様な重大な意味を有するのみならず、まづ第一に犯罪の嫌疑をおこさせるかどうかといふ點に重大な意味をもつ事勿論である。
そこで從來、多くの犯人によってこの死體の始末が考へられて來た。
「自宅にかくす」といふのはその一つの例だけれども我國には最近まで餘りかやうな例は見當らなかったやうである。
私はこの點に就いては我國の家屋の構造を問題にしたいのである。即ち死體のやうなものを永く日本建の家にかくしておくといふ事は、第一その臭氣を防ぐ手段を考へた上でなければ出來ない。この點について日本建の家はヨーロッパ式の家に比してはるかに損である。從ってこの例が我國に餘りなかったのだと考へて來たが、最近の實例によると、大分多い。
ヨーロッパやアメリカでは死體を我家にかくしてすまして居たといふ例は少くない。而も多くの場合、或る程度まで成功し發覺の時期をおくらせて居る。
ドクター・クリッペンが妻ベルエルモアを殺して自宅のセラーに埋めた方法は殆ど完全に近かった。若しかの肉の一片を identify した偶然の證人が現はれなかったなら、クリッペンは恐らく無罪になったであらう。否、英國の大法曹マーシャルホールは云って居る。
「もし彼の愚かしき逃走なかりせばクリッペンの犯罪はおそらく永久に發覺せざりしならむ。」
と。
かつて本誌に紹介したディーミングが家族を殺した事件もしばらくわからなかった。
富士郎が假りに殺人犯人なりとすれば(といふのはなほ豫審係属中なるが故に)もし、三番目の弟をも、次弟同様に殺して埋めて居たならば、はたして彼の事件が發覺したかどうかは判らないと思はれる。
一言で云へば、この種の犯罪は、或る場合には、殆ど完全に近く隠匿せられるのである。
然しながら、讀者も既にこの數例によって推知せらるゝが如く、かくの如き「死體を自宅にかくす」ための條件として或る特殊な場合が必要なのである。
即ち、「被害者が常に家族の一員若くは數名又は親しき同居の身寄りの者」
である場合に限るのである。
之は當然すぎる程當然な事なのだが、今までの我國の殺人事件にはわりに少かった。他人ではこれは一寸用ひられない。
例之AがBの家に行ったまゝ行方不明になったとすれば、Bの知人か家族は當然怪しむわけであるから忽ちBは一應調べられる事になる。
ところが妻なり夫なり子なりが或る家で見えなくなっても、そこの家の人が公表しない限り、(家族が犯人の場合は無論はじめは公表しないだらう)まづ世間の注意が集まる迄に相當の時間がかゝる。
注意をひいた時分に、そこの主人なり誰なりが勝手な嘘を流布すれば一應之が信じられるから、發覺の時機はますますおくれることになる。
現に、クリッペンは、妻の友人に、妻はアメリカに渡った、と公表した。而も暫くたってから、アメリカで死んだ、と發表してゐた。新聞紙の傳ふる所によれば、谷口富士郎といふ男は、次弟は滿洲に行ったと父はじめ他の者にも云って居り、皆又之を信じて居たらしいのである。
かういふ事を考へると、次のやうな犯罪の定理が出て來る。
「家族を殺すのには自宅が最もよい。而てその死體も自宅にかくすがいゝ。」
從って、かういふ例が最近我國に流行の徴が見えはじめた以上、捜査官の方でもこの點に常に注意しなければなるまいと思ふ。
云ふべくして甚だ困難な問題ではある。然しこの犯罪形式を防止せんとせば、常に居住者の擧動を注意しなければならないことになる。
お初地藏で有名なあの事件などは丁度この反對の例だった。尤もあれは殺人事件でなく傷害致死だったが娘を殺した事は同じである。
その時兩親は娘の死體を月島かどこかの河へ流したゝめ犯罪が比較的早く發覺した。
三四ヶ月程前行李詰にした死體を圓タクに託したといふ事件があったやうだが、これらの例を見ると、犯人達は、全力をそゝいで一應考へては居るらしい。腦漿をしぼった揚句が、結局愚擧といふことになるらしい。
富士郎事件は別として他のさきにあげた事件は、必ずしも犯人達があの定理を發見して實行したわけではないらしく、死體を實はどこかに捨てたいのだが捨てる間もなく勇氣もなく結局、ぐづぐづになって自宅において居たものと見た方が正しいやうだ。
何故ならば、彼し、彼等がほんとうに、あの定理を考へてやったなら、もつと構ずべき手段があったはずであるから。
二、或る變態性慾事件
或る人々から云はせると、最近の世相は(不景氣問題は別として)まことになげかはしい、エロとグロの世界であるといふ。それには探偵小説などが大に與(あづか)って力あり、從って探偵小説作家などの責任大に重大だといふ事を私はよくきかされるのである。
之は餘談だが、一體探偵小説作家は、作の中でどうしても取扱はなければならない場合(例令變態性慾がテーマであるか又はトリックである場合)でない限りわざわざ變態性慾を描く事をさけた方が、こんな批難が出ないでいゝと思ふのだが、それはともかく、探偵讀者に興味あるやうな變な事件が二三ヶ月程前に東京でおこった。
まだ僅二十歳にならぬ少年が隣家の妻の容色に心を奪はれ、夫のるす深夜、忍び込んで、女を後手に緊縛し、更に兩脚をも縛って金品をまき上げた上、一旦縛った足をほどいて之を犯し更に絞殺したといふ事件である。
この事件も未だ公判に移らないから以上の事實は新聞の報道にすぎないけれども事實とすれば、この少年の性的傾向は普通ではない。
私は、我國にかういふサディスムスの犯罪が比較的少いのは、日本人の性向にもよるが、他にやはり家屋の構造が與って力あると思って居る。
この事件は最近東京に行はれた著しい一つの事件である。左の點に於いて、
一、犯人が未成年者である事、
一、方法が、惨酷な事、
一、犯行後の犯人の態度が驚くべき程落付いて居たといふ事、
一、近くに家のある狹い家でこれが行はれたといふ事、
しかしこの事件については、もっとたしかな事を知ってから記したいと思ふ。
三、ノンセンスな犯罪
人智が進歩し、現代のやうに皆の神經がきりのやうになって來て居る時に、之は又時々、驚くやうなノンセンス味に富んだ犯罪が行はれる。その二三をあげて見よう。
八月の或る日、市内の某銀行の小使が、六萬圓の現金をその支店に運ぶべく託されてそのまゝ拐帶横領して行方をくらました。
それから二日ばかり經って捕へられた時はまだいくらも使って居なかったのである。
新聞の報ずる所によればこの男は前科者で計畫的に小使になりすましたものだといふのだがそれにしては少々馬鹿氣てゐるではないか。
六萬圓の金を盗み之をどこかにかくしておき、自分は六萬圓横領の犯人として處刑をうけ、後にこの金を使はう、といふのだと一寸面白い。それが動機となって殺人事件でもおこれは早速探偵小説だらうが、かうあっさりと終局に達してはまことにものたりないのである。
之は東京ではないが關西で、汽車から落ちてはふはふの態で警察署へかけこんだ辯護士があった。
「乗客の一人が自分を脅迫し、デッキからつきおとした。その時自分の預ってゐた二千圓(?)を奪はれた。」
といふのである。
ところがこれが嘘で實は自分で使ひこんだのだと知れて忽ち檢事局に送られた。
最近この人の公判が開かれたといふ記事が新聞に出て居たやうだが、之もたしかにノンセンス味のある犯罪だらう。
之は最近ではないが一寸まへに妙な少年が東京をさわがした事がある。
この少年は、何でも他人の飼ってゐる犬でも鳥でも戸をあけたり鎖を切って逃がしてやり、人が騒ぐのを見て喜ぶといふ少年なのである。
之を單純に、人が騒ぐのが面白いと解するのは聊かあたらないと思ふ。何かそこにあるのではないか。
この少年はしまひに或るデパートの上の動物を放って大さわざを演じ、しまひには鵞鳥と一緒に、人の家の屋根からおっこちるといふさわぎを演じた。
この少年の始末は私はよく知らないけれど私が知りたいのは法律問題としてこの少年の行爲をどう見たか、當局者の考へである。
四、貰ひ子殺し事件
數ヶ月以前、大々的に報道されて少くも東京全市に喧傳された事件に、板橋の貰子殺し事件なるものがあった。
しかし、元來貰子を順次殺すといふ事件は、司法當局から云へば決して珍しい事でなく、又事新しい事件でもないであらう。
たゞ新聞紙の報ずる所によれば、(而て私はあの事件に關し、新聞記事以外の何らの知識もないが)殆ど全町だか全村こぞって組織立ってやって居たといふ事であるが、之は相當注目に値する。
彼等犯人の刑事上の責任は問題外として問題となるのは、彼らに我子を譲り渡す兩親の問題である。同時に之は私生兒の問題に關聯し更に最後に深刻なる不景氣問題に關聯して來るのである。これらの點に就いては私がここに述べるべき限りでないから差ひかへるが私はここに貰子殺しなるものの典型的のものを申しておかう。
通常被害者即ち嬰兒は私生兒即婚姻外の子である。内縁夫婦の兒も無論私生兒だけれどもこんな場合は少く、青年の男女が不品行の結果、女が妊娠した場合、勇敢なのは堕胎をやるが、それほどの勇氣のないのは仕方なく出産までは待つ。然し世間態を恐れてその子を直に誰かにやるのである。嬰兒殺常習者は之を養育料附で受取ると、まもなく殺してしまふ。智慧のないのは暴力を用ひるが、悧巧な奴は他の方法でやる。
即ち法律的に比較的證據を殘さぬ方法で行ふのである。
それで檢擧されるまでに中々時が要るので、結局數名の犠牲者を出さねばならない事になるのである。
子をやった親の方では多くの場合、金をつけてやる時、之が一生縁切りだから後は知らぬといふのだから犯人の側から云へば實に思ふ壺である。
一言で云へば、「貰子殺し」事件にあっては凡ての當事者(被害者は別として)に好意のもてない場合が多いのである。
五、自動車利用の事件
現代はスピードの時代だといふ。從って最も速い自動車が犯人の逃走其他に利用せられる事は少しも不思議ではない。
最近表れてゐるものでは自動車を誘拐に利用するもので、一番烈しかったのは七月頃東京から二人の男が一人の女を酌婦に賣る爲に、誘拐し圓タクの運轉手を脅迫して靜岡市まで東海道を下った事件であらう。
私は、かういふ場合、無抵抗に檻禁されたり、誘拐されたりする女性の心理を可なり注意すべきものと思ってゐるが、それはそれとして此の事件は靜岡で發覺して幸であった。
もう一つは、圓タク行方不明の事件で、府下の某なる運轉手が客と一緒に數日歸らず、結局、栃木縣だかどこだったかまで行ってゐたといふ事件。
それから圓タク運轉手を襲撃する強盗が大分出て來た。
ピストルで脅かすのはまだいゝ方で、いきなり後から運轉手の頭をグアンと毆って金と車を奪ふ奴が出て來てゐるから油斷がならない。
それから最後に、之は犯罪事件といふ程ではないが(無論法律問題とすれば、業務上過失致死である)數ヶ月まへに、東京から一人の客をのせた圓タクの運轉手が横濱まで走って行った事件を、讀者の記憶から呼びさまさせたい。
その時客は醉ってゐて、いゝかげんな方向を運轉手に云ったので土地に不案内の運轉手は横濱の夜をまっしぐらに走った。その結果、車は海岸の岩壁を走り、そのまゝ海に沈んだのであった。
幸にして運轉手が助かったので事件が判ったが、(客は溺死)もしあの時二人共沈んでしまったら之は奇怪なる自動車消失事件となったであらう。
交通機關の發達につれてこの方面の事故はますます多くなる。しかし特に犯罪に之を用ひた例は、今の所餘りないけれ共、將來決して安心してはならないと思ふ。
昭和5年12月号
九月三十日附の都下の新聞紙は、
「無殘な他殺死體深川越中島沖に發見さる」
というやうな標題で、惨酷極る殺人事件を一齊に報道した。事實は大略次のやうなものである。(本記事は大體同日の東京朝日新聞に據る)
「二十九日午後六時頃深川越中島東京築港第五護岸工事附近沖合に變死體が浮んで居たのを一船頭が發見、直に水上署で檢屍すると他殺の嫌疑十分なので本廰より江口捜査課長吉川鑑識課長、及び東京地方裁判所檢事局より木内檢事出張して取調べた所、死體は男で、年の頃二十二三、丈五尺一二寸、黒の詰えり洋服を着し、死後一週間を經過したらしく、死體の胴體から胸部にかけて針金で三卷した上、四貫五百目位の石がおもりとして着けてあった。又兩膝も同様針金で三巷し三貫目位の石をつけた上、更に手拭ひで頭部を締めつけて後で結んであった。
そこで捜査機關はたちまち活動を開始した結果、この死體は二十三日午後三時頃乗客を乗せたまゝ行方不明となった神田區蝋燭町一五澁谷タクシー運轉手村松勝雄(二三)に着衣が似てゐるので同タクシーの主人澁谷雄太郎をして見させた所、同人は正しくその死體は村松勝雄なる事をアイデンティファイした。」
而て新聞記事は村松の失踪につき更に次の如くに報じてゐる。(やはり「朝日」に據る)
「村松運轉手は二十三日午後三時頃、澁谷タクシーからシボレー、セダン型第七五八〇號を運轉して紳田區旭町藤本ビルの用命で客を芝まで送り届け、其歸途空車の札をかゝげてガレーヂに歸る途中二人の客を拾い午後四時頃日本橋區本銀町三ガソリン販賣店淺尾商會に立寄り後車輪のパンクをなほして出て行ったまゝ今日まで行方が判明しなかったものである。」
次に殺人の動機に關して推理の材料として左のやうな事を報じてゐる。
「發見された當事の村松は所有の銀の腕卷時計も亦現金四十餘圓もそのまゝちゃんとポケットに所持し居り當局では犯人は強盗の目的ではなく現在に至るも同人の自動車が發見されない所から或は、右自動車を奪はんが爲の犯行と見られるので、警視廰では目下自動車の行方を捜索中である。」
ところが比の事件は、記事差とめの命があったゝめこれから數日の間報道機關はこれに關しては全く沈默を守ってしまった。
現在の新聞記事の報道によってわれわれが知り得た諸點は次の如し。
(一)九月二十九日午後、越中島沖で男の他殺死體が發見された。死體はまもなく、同月二十三日午後、自動車を運轉したまゝ行方不明になった村松勝雄と判明した。
(二)同人は二十三日午後四時頃二人の客を乗せたまゝ日本橋區本銀町まで來りパンクをなほして出發した。之彼が生存中最後に見られたものである。その後の消息は全く判らない。
(三)發見された死體には現金が殘って居た。又腕時計も殘って居た。
(四)彼が最後に運轉したシボレー七五八〇號は行方不明である。
以上の點からわれわれはどれだけの事を考へ得るか。
(一)は全く事實であるから何ら推察の餘地はない。
(二)に至って吾人は稍考へるべきものを見る。彼が二人の客をのせて午後四時頃に日本橋本銀町まで來た事を誰が見たか。どうしてこゝまで判ったか。
此の點に關して右記事は何等指示する所がないので吾人ははっきり知る事が出來ないが、若し之が確實な事とすれば、ともかくその二人の客といふものが一應注意されるべきであらう。無論、その乗客はまもなく降り、次に村松が犯人に出會ったかも知れないがこの乗客が、知れるといふ事は捜査の上に大なる力を與へるものと考へられる。又、乗客と村松との會話等をもしきいたものがあるとすれば、はじめての客か、舊知のものかといふ事も判る筈である。
(三)死體に現金が殘り時計が殘ってゐた、といふ事は重大な事實である。
私が前號に一寸記したやうな圓タク運轉手を襲って有金をさらふ、といふやうな強盗事件でないのは明かである。賢明な犯人ならば時計は盗らないかも知れない。然し現金を盗まないはずはないのである。從って、この犯人は、現金以外の目的をもってゐたと見るのが正しいと思はれる。
而て、報道をそのまゝ信ずれば少くも動機について二ツの假定をする事が出來る。即ち一は、怨恨による殺人事件である。村松勝雄が何人かの爲に恨みを抱かれ、惨殺された後、海へ投げ込まれたとするもの。之は法律的に云へば單純なる殺人事件である。次は、報道にもあるやうに自動車を奪はんが爲の殺人、即ち法律的に見れば、強盗殺人事件である。自動車を奪ふ爲にもいろいろの動機があるだらう。之を得て賣り飛ばす爲とするも一つの考へ、之を利用してどこかにいそいで行くといふ場合(他の犯罪の爲に逃走する者の如き場合)も一つの考へである。
(四)自動車七五八〇號の行方不明、之は何をわれわれに語るか。われわれは最も常識的にかう考へる事が出來る。犯人は村松を殺害した後、之に乗じて逃走したと。誰が運轉したか。最も常識的に考へれば犯人自身又は共犯者の一人かである。
於是、犯人の捜索範圍は甚しく狹ばめられなければならない。犯人は自動車を運轉する事が出來るか、又は運轉し得る人と一緒であった、と考へるべきである。
私が「最も常識的に」と云ったのは、他の考へ方が無いではないからである。被害者自身が犯行の場所まで運轉し、自動車がその場から消失したと考へ得ないわけではない。死體は海から發見された。之によって、例へ次の如きテオリーが絶對に立たぬわけもあるまい。
犯人はあくまでも乗客としてある海岸の地點まで行く。そこが犯罪の現場である。犯人は村松を殺した後悔に投じ、同時に自動車をも海に沈めてしまふ。この場合無論動機は怨恨と思はねばなるまい。
以上、いづれの考へ方にするにせよ、消失した七五八〇號を發見する事は最も重大な事件だった筈である。
而て當局者も勿論この點に全力を注いでゐたのだった。
(なほ死體の模様についても針金の出所や縛り方の特長などいろいろヒントを與へるものがあったと思はれるが、詳報されてないからこれははぶいておく)
ところが月を越えて十月四日に至り、犯人が捕へられたので、當局は記事差とめを斷然撤回し翌五日諸新聞紙はこぞってこの強盗殺人事件を詳報した。之によれば、右に記したものゝ中、自動車を目的とする強盗殺人説が正しく、捜査方針としては最も常識的な考へ方が正しかった事が判る。
報道によると、犯人は朝比奈稀市(三一)及野原達雄(三二)の兩名で、二人とも自動車運轉手だった。村松とは一面識もなく、たゞその自動車を奪ふために、無殘にも村松を惨殺したといふのである。
本年八月上旬、上州高崎市に行った時、土地のブローカー井田某からシボレーで行程三萬マイルを越えぬものがあらば千圓で買ふといはれ、九月二十一日、二人で適當な車を發見既に交渉が成立したのだったが、後急に破談になったゝめ、こゝに二人はやぶれかぶれとなり、どこかで手あたり次第自動車をかっぱらふといふ腹をきめたのであった。
そこで犯行當日の有様が詳しく報道されてゐる。
その日即ち九月廿三日午前、二人は圓タクに乗り、月島まで行き「見はらし亭」を訪れ、釣について詳しい話をきいた。何のためにこんな事をしたかといふと、これは殺人並に死體遺棄の準備だったのである。即ち二人の考へに從へば、自動車を奪ふためには必然的に運轉手を殺さなければならなかったのである。
そこで二人は小舟に乗じ豫め殺人に適して居さうな場所を沖合で捜し午後三時頃「見はらし」に戻り夜七時頃又來ると云って去ったのであった。
それから上野で夕食をすませ、いよいよ犠牲者物色にとりかゝったのだがこの時次の條件が必要だったさうである。
一、シボレーなる事、二、一九二九年型なる事、三、セダンの新しいもの(以上はいづれも取引關係よりの條件)四、助手の居ない車(之は無論犯罪のための條件)
彼らは上野廣小路に立って物色してゐたのだが、たまたまあつらへ向の車が上野方面から來たので二人は直に之をよびとめた。この運轉手こそ村松勝雄だったわけである。
報道によれば、彼らの間には貸切りの談判があったさうだ。一時間二圓といふ村松に對し十一時頃まで六圓にとりきめ、そこで三人は月島に向った。
犯人二人は車を「見はらし」の側でとめさせ、針金五尋、玄能と梨ピールを買ひこみ、村松にも釣に一緒に行かぬかとすゝめた。村松が同意したのは全く犯人たちにとっては思ふ壺で、自動車を暗がりに止めておき、犯人二人は前記の物品の他、おもしにする石を二ツ拘へて、三人で船に乗ったのであった。
以上は無論、警視廰に於ける被疑者等の自白によるものであらうが、舟中の惨劇のもやうに至っては、ますます全く二人の供述以外以外には手がかりがないわけだが、傳へられる所によれば次のやうになる。
三人は小舟に乗つたまゝ沖合に出て釣をはじめた。約一時間後、舟一艘も見當らぬのを見すまし、朝比奈がまづ用意の玄能で村松の背後から一撃を浴せた。つゞいて第二の攻撃にうつると玄能の首がとんだので野原がひもで村松の咽喉部をしめつけ絶命させた。さうしてかねての計畫通り針金でおもりの石を二つ縛りつけて水中に投じたのである。
兇行後二人は血痕を洗ひおとし、野原は途中で上陸(二人だけで戻っては、一人減って怪しまれるといふ懸念から)朝比奈一人で見はらしに漕ぎ返しそれから二人で交替に七五八〇號を運轉して高崎まで行った。二十四日午後五時高崎市へさしかゝった時、車體の番號札を用意の札ととりかへ、ブローカーのもとに至り千百圓で車を賣り飛し、千圓の中八百五十圓を受け取り二人で山分けをしてべつべつに歸京したのである。
以上が第七五八〇號事件の大略である。
この事件は最近東京附近を驚かした最も大な事件と云ってよろしからう。
運轉手を襲ふ事件の中、最も惨虐を極めたものである。
最近、大都市の交通機關(殊に自動車)が殖えたゝめ、通行人受難時代を現出してゐるが、同時に今や運轉手受難時代を現出するに至った。
此の事件について私が記した所はたゞ新聞記事による知識のみである。だから報道に誤りなしとは云へない。しかし假りにこれが事實だったとしてわれわれは如何なることを考へ得るだらうか。
まづ第一にわれわれは二人の犯人のこの一見用意周密だった犯行がどの位用心深く賢明であったかを考へて見たい。
大體、強盗殺人を行ふといふ事は決して賢い犯人のやる事ではない。刑法によれば死刑か無期懲役の二つしかない。同じく法律を冒して人のものをとり同じ位に不當の利益を得るにせよ、こんな危險に身をさらさぬ犯人はまだ他にたくさんある。だから強盗殺人罪を犯す事がまづもって最も愚であるとは誰でも考へるだらう。
そこでそれはそれとして、彼らの方法である。
私は、便宜上まづ殺人と強盗の點を分けて考へて見る。まづ彼らの殺人の方法について。
私は、何と云っても彼らが二度も同じ日に同じ「みはらし亭」に行つた事は愚だったと思ふ。はじめに行った時は釣の時間及び沖の工合を知るためだったのだらうが、二度目に殺人の時にも同じ家に行く必要がどうしてあるだらう。さぐりに行った時と、實行の時とは、家をかへるべきではなかったか。二度も同じ日に行ってそこの家人と話してゐれば人相言語等かなり深く相手に印象を與へる筈である。
次に、被害者を「みはらし」までつれてゆき、そこから三人で舟に乗った事は見逃し難き愚擧であった。どんな口實をまうけた所で、三人行ったうちの一人だけがもどり而もその一人が運轉し去る如きは一寸をかしな話と云はなければなるまい。少くも怪死體が現れれば、「みはらし」の家人には必ず何かを思ひ當らせるに違ひないのである。(事實みはらしの人が怪しんだかどうかは私は知らないが)
犯人としては自分の顏も餘り見られるのは利益でないが、被害者をその店のものに見せるのは決して策の得たものではあるまい。
野原だけが一人途中で上陸したのは即ち賢明であったかも知れぬが同じ地點から村松を乗せるの賢明には如かなかった筈である。
死體を針金で縛りおもり石をつけて沈めた點につき自分は聊か考へてゐる事があるが故あってこゝには省く。
結局殺人の方法ついては、一見利口さうに見えて大して賢いやり方とは思はれない。
次に強盗の點。自動車を盗むといふ點。
これが今回の犯罪の目的なのだが之はどうだらう。
私はさきに最も「常識的な考へが正しかった」と記した。あれでも判る通り、自動車をうばって消失するといふ事それ自體は既に捜査上に於いて、犯人の範圍をある程度まで限定して居る。
取引が自動車で、之をとるのが目的なのだから從って凡てはやむを得なかったのだらうが、一方からいへぼ同時にこの犯罪はその點に於いてはじめから犯人の側に不利益なものがあった。
高崎でナンバー札を取りかへたりした所は一寸うまいがそれにしては、車を賣りとばして安心してゐたのがふしぎである。車のナンバーはとりかへられても、エンジンナンバーはかへられなかった筈だからである。
當局の捜査はまさに正規の軌道の上をはしって美事に犯人を捕へた。新聞の傳ふるところによれば、本富士署の椎名賢太郎氏といふ交通巡査の探偵的敏感によって、自動車の所在が明かになったさうである。
自動車の所在が明かとなり、之がアイデンティファイされゝば此の犯罪人は直にトレースされて萬事休矣である。而も自動車のやうなものはポケットの中にはいるものと違ってわりに發見されやすい。此の點に於いて此の犯罪ははじめから致命的な不運をもってゐた筈である。
なほ、村松勝雄が日本橋本銀町で乗せてゐた二人の客は、後の報道にてらして見ても犯人ではないらしい。午後四時から午後六時――七時まで村松はガレーヂに歸らずにかせいで居たものと見える。
くどくもくり返すが私はただ以上の事實を新聞記事をもととして述べたにすぎない。だから正しくいへば朝比奈、野原が眞犯人であるかどうかは公判後にならなければ判らないのである。ことに殺人者としても兇行の有様の自白の如き、今後どうかはるか、決してはっきりした事は今は云へない。
新聞の報ずる所によれば二人の犯行について何ら情状の酌量すべき所のないのは二人の爲に遺憾としなければならぬ。
殊に、豫め十分謀って人を殺してゐるに至ってはこれが全部事實とすれば、まことに憎むべきであらう。
本誌前號に自働車運轉手を襲ふ強盗の事を一寸書いたが、この七五八〇號事件は、全くそれとは違ふ烈しいものである。
最近の不景氣のためか、圓タクの運轉手はこんな意味でいつも危險に身をさらしてゐると云ってよろしからう。
村松勝雄の全くの災難こそ眞に同情さるべきである。
〜〜〜〜〜
世の不景氣の爲か、妙なユーモラスな且つノンセンスな犯罪が頻繁する。
十年程前「幸運の手紙」なるものが一時流行した。ところが、今年の春頃又はじまった。今度のは少々大がかりで、私の受取った三通は悉く英字で而もタイプライターで書いてあり、バーナードショーやエッケナーなんていふ物すごいえらい人物の名がつながってゐた。
すると最近「幸運の蟇口」といふ代物が東京市中にあらはれ一部の迷信をあふった。これは五十錢だがほんものゝ金がはいてゐるのだからやる方も中々資本がいるわけである。
しかるに本月に入りて又々新しいものが表れ出た。名附けて「幸福の大黒天」といひ、池袋、巣鴨、板橋を中心として配布された。
これらは「幸運のハガキ」と同じものでやる本人はどういふ考へか知らないが、ともかく警察犯處罰令によりて罰せられる事になってゐるから御注意ありたい。
某役所のものだが勸業債券があたってるやうだからお宅のを調べに來た、といふ人物が方々に表はれてそれをもって行く。私の家にもこんなのが一度來た。怪しいと思ったから私自身會って出タラメの番號を二三云ってやったら、手帳を見ながら「そのうちの一つが當ってます」とはっきりと仰せられる。ありがたくお禮を云って歸ってもらったがこんな手にかゝる方もずゐ分うかつ千萬である。
往來で今紙幣をひろったから山分けにしようといふ二十年も三十年も前からある手段にまだかゝる人がこのごろよくあるらしい。こんなのはかゝる方がわるいのだと云へる。
世の不景氣につれ、こんな妙なのが盛んに表れる。
――一九三〇、一〇、一二――
昭和6年2月号
昭和五年十一月中に、世間を騒がした事件が少くも二つあった。一は今月十四日東京驛頭で濱口首相が一青年から狙撃された事件で、他は耐空百數十時間といふレコードを作った川崎の今では「煙突男」とよばれる事件である。
前の事件は、當時「首相狙撃さる」といふ報道があったのみであり、後の事件に至っては、報道された事實だけについて見るに、當局が抑も如何なる處置をとってゐるか、といふ事が明かでないのでいづれも臆測を逞くするのを避けなければならぬ状態にある。
たゞ昭和五年の終に於ける重大事件であるにより、全く之に觸れないのも如何かと思はれるので、まづ前者に對してはあの事件を機として、抽象的に政治犯罪人といふものについて聊か考へて見ようと思ふのである。
一體、要路の大官を暗殺する、といふ事は内外決してめづらしいものではない。否我國にあっては、原首相遭難以來、一回もこの危險がなかった首相はないといふも過言ではあるまい。
内閣總理大臣を暗殺する。成程事は極めて重大である。然しながら、被害者が大臣だからと云ってそれだけで特に犯罪人が特殊のものとせられるものではない。假令その結果が、内閣を仆したとしても、なほ且つ、單純に大臣を殺したといふだけでは、その犯罪人は何ら普通犯罪人と異るところはないのである。
無論、人民として最高の地位にある人が被害者となるのだから一般民衆が騒ぐのは無理はないところだらう。而し、首相は一個人としての資格以外の公的地位にあるから政黨關係に重大な問題も起るであらう。
與黨の人達が犯人を極度に憎み、反對に野黨の者が、或はひそかに快しとなすのは、人情に於いて必ずしも無理とは云へないかも知れない。
然しながら、法を繞る人々は如何なる場合にも、決して興奮してはならぬ。政黨に關係なき一般民衆も出來るだけ冷靜でありたい。
而て、まづかくの如き犯罪事件が起った場合に、如何に考へるべきかを思はねばならない。
さきにも述べた通り、濱口首相の場合に於いては、事件が未だ公判に附せられて居ない爲に、犯人が如何なる考へで首相を要撃したかは全く知る事は出來ない。從って吾人は何ら云ふべきではないがたゞ次の事だけは確實に云ひ得られ、而て十分考へるべき事だと思ふ。
即ち、犯罪人のあの殺人未遂の(嚴格に云へばこの罪名すらも未だ確定してゐないが、大體報道されたところではたしかと思はれる)動機は抑も何であったか。而てその動機如何により、犯罪人は、相手が首相であるにもかゝはらず單なる通常犯人となり、或は、特殊の犯罪人となるのである。
特殊の犯人とは即ち、政治犯罪人である。
濱口首相の場合に在っては未だ之が明かにされて居ないから犯人がそのいづれに属するかが定め難い。從って民衆はみだりに憶測を下して犯人を不當に賤しみ、或は反對に不當に價値づける事は謹まなければならない。
過去に於ける各名士暗殺事件を考へると、犯人の殺人の動機はいろいろに分たれる。
第一、私怨によるもの。
動機が此の私怨による場合は、無論何ら一般の殺人事件と異るところはない。相手が、大臣であらうと、會社員であらうと、少しも、犯罪者の立場にかはりはない筈である。
第二、賣名のためにするもの。
之は多少外註釋を要する。多くの場合、犯人は、病人か何かでこのまゝ行っても一年か二年位しか身體がもたぬと醫師などから云はれた場合、とてもの事に、一代に名を殘さうとして被害者をえらぶのである。だから、えらばれた相手こそまったく迷惑なわけであるがこの事實を正直に法廷で述べ立てる犯罪人は少い。必ず一應、國士を氣取り、主義の爲に身を捨てるやうな事を云ふものであるから、次に述べる眞正な意味に於ける政治犯人とは事實上――殊に世上一般には、はっきり區別が出來ない事がよくあるが、しかし無論明かに區別すべきものである。
これも通常の犯人であって決して特殊なものではない。
第三、個人的に怨みはないが公人としての反感よりするもの。
ここに至って稍政治犯罪的に見えるが、嚴格に見るとこれはなほ且つ特殊扱ひにするわけには行かぬやうに思はれる。
或る政黨が横暴であると信じ之を憎むの餘りにその首領を襲ふのは私怨の場合とは甚だ異るけれども、而も嚴格なる意味の政治犯人とは云へない。
右に述べ來った三つの場合は、次に述べる政治犯人と明かに區別さるべきに不拘、多くの場合に混同され勝である。
相手が大臣だと、直ぐ犯人を國士扱ひにするのは輕卒である。
勿論、右は通常犯罪人に属するといふのみで、中には、十分同情に値する人々も居る。
かつてムッソリーニを襲った犯人は、親の仇を討つつもりだったといふ事である。
扨然らば嚴格な意味に於ける政治犯罪人とは何か。
第一に自己の利益を全く眼中におかぬ事。
第二に自己の犯行を正義と信ずるものである事。
第三 一個の理想主義者であり、必ず高き理想を抱いてゐる事。
第四 彼が攻撃する所のものは少くも彼の考へる所によれば一般人の幸福の敵であると信ぜらるゝ一ヶ人又は數名である事。
政治犯罪人とはかくの如きものでなければならない。即ち、社會の生活利益を攻撃せんとせず(之通常犯人と異る點)これを増進し保持せんとする。而てその行爲によって彼自身は自己の利益を得ようとはしない、――否、彼は或る場合には自己の行爲の爲に一身を全く滅亡に導かねばならないといふ事を知ってゐるのである。
實際の社會に於いて、このほんたうの高きタイプがどの位發見出來るか、中々むづかしい問題と云はなければならない。
私はここに讀者諸君に、シエークスピヤの「ジュリヤス・シーザー」を想起せられん事を希望する。而てあの戯曲の中で、ブルータスが如何に美事にこの資格を有してゐるかを試みに檢討されん事を望むものである。
アウグスト・ゴルは、法律家としてこの戯曲を檢討した後、ブルータスを批評してかう云ってゐる。
「それ故、かくの如き政治犯罪人が違法者として立つ場合、その性格は利他主義である。主觀的に觀察すれば彼は犯罪人どころか全く之と反對なのだ。客觀的に見る時は正に彼は立派な犯罪人と云はなければならない。
何となれば、如何なる社會と雖も、如何なる國家と雖も、その中に何が一般人の幸福を増進するかといふ事を自由に判斷し、且又社會に向ってそれに達する道を命ずるが如き或る特殊な優越性をもつ位置を認めるわけには行かないからである。
現代成立せる社會的勢力は、常に一般人の幸福を、自己自身の力で解釋し、この解釋に反對して行動する者を犯罪人とよばなければならないのである。
然しそれでもなほ且つ社會はかゝる犯罪者を一種特別な者と認めてゐる。何となれば、この犯罪者の行動の根本動機は他の種の犯罪人のそれとは實に雲泥の差があるからだ。このタイプは全く特殊なものであって、後世、彼が社會進歩に貢献せる者と呼ばれるか、勇者と名けられるか、或は不幸な狂人よとののしられるかは大體に於いてその結果の如何によって決せられて居る」
ついでゴルは、かくの如き、純潔な理想家は、えてして實利主義者らによって、のせられ煽動されやすき事を説明してゐる。
シェークスピヤはブルータスの第二幕第一場に於ける有名なモノローグに於いて、極めて簡單に、この邊の理論を云はしめてゐる。
「殺さなければならん、自分一個としては何の怨もない。彼を排けるのはひとへに公共の爲だ。‥‥すなはち彼(シーザー)は毒蛇の卵である。それが孵って蛇となれば大害を醸すに相違ない。それ故卵の間に碎く。」‥‥(坪内氏譯「ジュリヤス・シ−ザー」による)
ブルータスは全國民に對する純粹の利他心のみならず、彼がシーザーに對する個人的のいはゞ利己的利他心さへも捨てる事が出來た。この事はブルータスの、人民に對するあの演説に表れてゐる。
「然らば何故ブルータスはシーザーに刄を加へたかと、かう其人が問はれたならばかう答へる。それは、シーザーを愛する心が薄かった爲ではない。ローマを愛する心が更にそれよりも厚かったゝめであると」(同上)
アウグスト・ゴルは更に、この研究の中でブルータスの外にカシヤスをあます所なく檢討して居る。カシヤスはブルータスを駈ってあの殺人を行はしめた。しかしカシヤスは決してブルータスと同列におかるべき人ではない。
私が、大官を殺すもの必ずしも國士ならずといふのはこの點である。世に幾人のブルータスがあったか。而て幾人のカシヤスがあった事だらう。
さはれブルータスは純潔であつた。廉直であった。而も彼は亡びなければならなかった。之が社會が彼に與へた判決である。
シェークスピヤはアントニーをしてブルータスを葬らしめて曰く、
His life was gentle and the elements so mix'd in him, that Nature might atand up.
And say to all the world: This was a man!(第五幕第五場)
然り This was a man! これこそ一個の男子! かゝる公明正大なる能力と確信をもつものこそ正しく男子の面目である。
しかし、シェークスピヤの此の言葉の中には言葉のたはむれがはいってゐる事に注意しなければいけない。
This was a man! 然り、これこそ一個の人間! 而てそれ以上の何ものでもなかったのだ。假令彼が最高のものであってもなほ且つわれわれ同様人類以上のものではなかった。彼も亦一の人間にすぎなかったのだ。
而してブルータスは人間以上である事を欲したのである。
アウグスト・ゴルはその檢討を終るに當って次の一句で結んである。
This was a man!
「而てこの墓石の碑銘こそ、トルストイも亦云へるが如く、一般に政治犯罪人を葬ふ銘となるのであらう」と。
私の思ふに、私國の暗殺記録者は、この碑銘を餘りに濫用しはしなかったらうか。
くどくも私はくり返す。凡ての大官暗殺者にこの碑銘は捧げらるべきではない。ただその中の特殊の者のみに。――極めて特殊の者のみに與へらるべきである。
濱口首相に對する犯罪人に This was a man! といふ名が與へられるか如何かといふ事を決するは、まだまだ長い月日を要するであらう。
以上私は濱口首相の遭難より縁をひいて政治犯罪人について聊か語ったのであるが順序として煙突男について眞面目に考へて見たい。
煙突男の行動についてはさきにも述べた如く、當局が如何なる處置をとってゐるか今明かでない(五年十二月一日)のでこれが法律的の研究はここで避けておく。
勿論煙突男の行動に對する法律的解釋も十分興味あるものであるがそれは法律専門の雜誌にまかせてここには一つの社會事件として見たい。
この方には、首相遭難事件とちがって、可なり多くの探偵小説味とノンセンス味とが見出される。人の思ひよらぬことをやったといふ點、あくまで人氣を煽つた點、そのことごとくが面白いが、私は、前項首相遭難事件についてのべたと同じラインでこの事件を觀察したいが、そこで問題となるのほやはり、
煙突男があの煙突に登った動機如何であらう。
この點に就いても確實な報道はない。無論いろいろな説はあった。丁度私が前項にのべた第二の例と同じやうにこの男のやったあの突飛な事は賣名の爲であり、彼自身不治の病氣にかゝってゐる、といふ説が報道されてゐる。
噂の通りとすれば、自分の爲といふ事になる。さうとすれば、單にノンセンス事件で終りになる。
が、彼が、あの事件を起してゐた爭議團の人々の爲にあれだけあそこにがんばってゐたとすれば? さすれば事は必しもノンセンスのみではない。そこには非壮な何ものかゞある。死を決してゐた何かゞある。
之も然し、まだ眞相が判らないから何とも斷言する事は出来ない。
ともかく、あれだけ高い煙突に登って、寒空に百何十時間をがんばったといふ事は私の知ってゐる限りでは我國ではじめてのやうだ。(あれは第二番目だといふ話もあるが)當局者もこれは弱ったらうと考へる。
唯此事件で見逃し得ないのはあの芝居氣である。その動機が賣名であるにせよ、將又(はたまた)血の出るやうな深刻なものであったにせよ、彼にあれだけの芝居氣のあった事は誰しも認めて居る。
私はその芝居氣の故を以ってその動機を律してはならぬと云ひたい。人は如何なる場合でも芝居氣は失せぬものだ。死を賭してかゝってゐる仕事の際にも決して芝居氣がないとは云へない。
煙突男は如何なる動機で登ったか判らないが登った以上、全く自分の芝居氣の爲に亢奮して居た。彼の與へる群衆への亢奮が逆に彼に反射して彼を又刺戟してゐたやうである。だがら耐空何十時間目位になっては、最早や彼の最初の動機は消え去って、ただ自分の演じてゐる芝居によって、亢奮しつゞけてゐたやうに思はれる。だからと云って私は彼を必ずしも不眞面目とのみ見るのではない。われわれはここに死を賭して演じた芝居を見たといふのみである。
次に此の月で、著しく世を騒がしたものに第二の大本教事件明道會事件といふものがある。朝鮮人高某を中心にして諸名士が、大分關係して居るやうに見える。
新聞の報道によれば、高某は詐欺罪で起訴されさうな状態であるといふのだが、一方、その中のおもだった某博士は新聞記事の取消をせまって居られるやうでもあるし今の所、私にはよく判らない。
十一月廿七日朝小田原町在早川村熱海線鐵橋下に首のない男子の裸體の惨死體が漂着した。取調べの結果、小田原町の關某(四四)と判ったが、嫌疑者としてその妻が捕へられた。
死體は見るも無殘なもので、首を切り落した後、左腕の文身をゑぐりとってあったが、これは女一人で出來る犯罪でないとの見込で妻の情夫を目下捜索中と報道されてゐる。
假りに當局の見込通りだったとして、姦夫姦婦共謀して本夫を殺すといふ最も憎むべき殺人事件は、必しも珍しくはないけれどもこの事件で一寸注意をひくのは文身をゑぐり取ってあるといふ點である。
何の爲にとったか、當局の考へに從へば死體の同一性をくらますためだったのであらうが、(而て大體さうらしく思はれる。死體の首を切りとったのもその目的らしい)犯人としては相當考へたものだらう。
殘しておいては身許がばれるし、さりとてゑぐりとったといふのは一寸智慧が足りなかった。
かつて私が檢事をしてゐた頃、新宿の某レストランで深夜ボーイがねてゐる仲間を殺して逃走した事件があった。此の犯人は極めて落付いてゐたと見え、仲間を殺すとその家の電線を切り、電話をこはしてそのまゝ逃げたのだがその時妙なことを一つして行った。
といふのは、その家に、開店の記念寫眞が一葉あって、それには被害者も犯人も皆並んでうつってゐるのだ。ところが犯人は逃走するに際し、その一葉の寫眞を取り出し自分の顏のところだけを剥ぎとって寫眞をそこにほって行ったのであった。
人相書がそこからくばられると考へたのだらうが、犯罪人の中にはよくこんな小細工をする者がある。
悲惨な事件が十一月の最終の夜半に京橋でおこった。
六十三になる老人が二十七になる壮年の我子(實子)を匕首で刺殺した。原因は我子の放蕩に愛想をつかしての殺人であった。
たゞこの事件が、新聞で見ても、悲惨を極めてゐるのは老人は我子を殺して自殺するつもりだったが、殺してしまふと呆然として自殺の氣もうせ、我子の死體の側の蒲團上に端坐して翌朝七時半までそのまゝでゐたといふ事實だ。
翌朝、七時半頃犯人の妻が二階に上って行ってはじめてこれを見て驚いて訴へ出たといふのである。
昭和6年3月号
一九三〇年十二月の犯罪
一九三〇年も愈々押つまった。順序として最後の月の事件から一望する。
一體十二月といふ月はいつでも犯罪事件が可なり多いがわけても一九三〇年は切迫した不景氣が原因を爲してか、經濟上に直接關係した事件が多く、而もそれが屡々殺伐味をおび、財産犯が同時に生命、身體に對する犯罪になる所、甚だ面白からぬ現象を呈して居る。
其の最も著しい例は十二月九日夜紳田區北甲賀町日本大學専門齒科の宿直室に於いて行はれた惨劇であらう。
「十日午前六時頃、前記學校の小使が出勤して宿直室に入って見ると、當直の荻島初太郎(四七)が鋭利な短刀で胸部外數ヶ所を突刺されて惨殺され、隣室には同じく當直の柴山松太郎(六二)がこれも胸部外十二ヶ所を突刺されて惨殺されて居るのを發見した。更に九百圓入の手提金庫が二個紛失してゐるので驚いて西紳田署に急報した。」
之が當時報道されたところであつた。
ここに注意すべきは二人の被害者が共に何らの抵抗をしたらしい跡のなかった事と殺し方が、餘りに惨たらしい點である。
即ち一見、犯人はかねて知って居た手提金庫を盗み出さんが爲に、全く無抵抗状態に入って居る二人の宿直をめった斬りにしたといふ事、而て若し犯人が一人だとすれば、一人が殺され居る間他の被害者が全く之を知らなかったか、又は知っても逃げるひまさへなかったといふ事になるわけである。
探偵小説の中で作家がこんな犯罪を描いたとして讀者は果して首肯するだらうか。九百圓の金をとるために、二人の熟睡中の男を惨殺したといふのである。餘りにも兇暴すぎる犯人ではなからうか。
之だけの記事からまづ吾人が考へなければならぬのは、被書着兩方若くは一方に恨みをもって居る者の仕業か、而て犯人は二人以上ではないか、といふ事だったと思ふ。
然るに、暫くたってから此の犯人が捕まった。やはり同校に勤めて居る男で、元巡査をして居た者が犯人として捕まつたのである。
今日(十二月二十八日)われわれが知り得る處はこれだけの事實である。
私は今之以上この問題に就いては云はない。しかし、本事件は終ったわけではない。讀者諸君は簡單な之だけの記事から、なほかくれた事實を考へてもいゝ筈である。暫く公判になるまで問題として殘しておきたい。
右の事件は、東京全市の宿直員に一様に恐怖を與へるに十分なものだったが、はたして、まもなく同じやうな事件が他の學校の宿直部屋に行はれた。
被害者は一人だったが、犯人は一人ではなかったらしい。
昨日(二十七日)の新聞紙の報道によれば、一昨夜府下の寺院で行はれた強盗殺人事件の犯人と同一であるといふ事である。
ここで、又特に注意すべき點が現はれてゐる。
即ち最初の日大の事件に於いては、可なり深く考へなければならない所が數ヶ所あるに反し、つゞいて起った第二の宿直殺しは全く第一の事件の結果のみを見て、暗示され、模倣したと思はれる點である。
新聞紙の報道にヒントを得又は全く之をまねるといふ心理は必しも犯罪人のみには限らない。(例へば自殺者心理)しかし、此の第二の事件は明かに第一のイミテーションである。
せッぱ詰ってゐた犯人が、あの記事を見て直にその實行にかゝったのだ。實に危險である。
新聞紙が一般人の爲に存する公器である限り、犯罪記事を載せないわけには行くまいけれども、之が爲に他方にかくの如き模倣者を出すのは悲しむべき事と云はなければならない。
私は今更ながら、フレッシュな犯罪實話の持つ魅力に深く感ぜざるを得ない。
模倣者が出るのは、記事が實話であるといふ事なのである。探偵小誘をまねる犯罪といふものは殆どない。それは作り物だと信ぜられるからである。然るに實話に在っては可なり馬鹿々々しいことでも模倣者を生むのだ。
試みに日大の犯罪を考へて見られよ。吾人は如何に馬鹿々々しい事を發見するか。
記事そのまゝを信ずれば、先にあげた通り犯人は九百圓を得んが爲に、死刑に當ることを敢てなして居る。勿論犯人は九百圓以上あると思ってゐたかも知れない。しかし、現金を手づかみにするためにあんな犯罪を行ったとすれば其の愚や及ぶべからずである。
探偵小説にはもつと安全な犯罪が描かれてゐるはずである。
然るに、この愚かな犯罪は直に模倣者を生んだ。何故か。どんなに馬鹿々々しくてもそれがまだ新しい事實であったからに外ならない。そして第二の模倣者は、その模倣を行ふ時に既に自分の危險を感じたのであらう。二十五日の夜牛、さきにも云ったとほり、府下の某寺におし入ってここで又強盗殺人事件を惹起した。犯人は模倣の犯行の時から自暴自棄に陥ったのである。
この模倣者は、やはり深刻に經濟問題で苦しんでゐたのに違ひない。日大の事件を讀んだ時、愚かな事だとは感ぜず、うまい話題と思ったのである。人間が常態の心理状態に居ない場合にはある一方の刺戟のみしか感ぜず、而もそれを誰よりも鋭く感じるものである。
第一の日大事件については多くを云はず第二の事件の犯罪こそ一九三〇年フィナーレの世にも恐るべさ殺伐な事件といふべきである。
さきに本誌に記した自動車の運轉手を襲ふ事件は本月に入って不相變模倣者を出してゐるが、自動車の犯罪に關しては後に述べるからここには畧す。
ノンセンスな事件として之もかつて本誌に記した事のある六萬圓拐帶事件は、やはり亦、あとつぎが表れて新聞紙上を賑はした。
淺草千束町所在の川崎第百銀行で矢張り前と同様なやり方で今度は三萬圓持逃げした男があった。この男は逮捕に至るまでに一寸日數がかゝったが、之には面白いところがある。
彼は大金拐帶をすると直ぐに横濱の知人の所に行き、翌日その知人の衣類を借りて相州平塚に行ってそこで泊った。ここまでは別にかはった事もないのだが、その後で彼は約一週間程某地の某病院に入院したのであった。
たまたまこの男は性病に罹ってゐたので實際治療の目的ではいったのかも知れないけれ共、ともかく此の人院といふ事が彼の逮捕をおくらせたのは事實である。わざと病院をえらんで、ほとぼりのさめる迄待たうとしたとなれば彼中々隅におけぬ人物である。
しかし此れだけの智慧をもちながら逮捕の時は極く平凡な有様をしてゐた。即ちはるかはなれた紳戸市の某遊廓で、大盡遊びをして居るところを捕まってしまったのである。
前號に一寸觸れた第二の大本教事件、明道會事件は十二月に入っていよいよ發展し月末に至ってつひに博士外數名の収監を見るに至った。これと同時に天津教なるものが、茨城縣だったかに表れ不敬問題を惹起すに至った。
科學がどんなに發達してもかういふ宗教團體(?)は絶えない。而て之は必しも年の景氣不景氣によるものではない。
たゞ一寸面白いのは此の事件の起った同じ月に、さきに不敬事件を惹起した天津教の主教某が大審院に於いて無罪の言渡しを得たことである。判決を見る暇がなかったがおそらく大審院でも無罪となった理由は犯罪の客觀的構成要件ほ具備してゐてもその主觀的條件が缺けて居たゝめであらうと推測される。
十二月の月末、たった一ツ探偵小説的事件が報道された。
府下大森てある朝七十餘歳の老婆が病死した。ところが死因に疑ひがありそこの若夫婦が捕へられるに至った。その疑ひといふのは、死體に小さな傷があったので當局では、菓子を老衰せる病人の身體にふりかけ、鼠にかませて死に至らしめたのだらうといふ意見をもったのである。
鼠を利用して病人を殺すといふ事が一寸目をひく點である。
以上を以って本月の事件の一望を終る。
一九三〇年犯罪の展望
一九三〇年は不景氣に明けて、ますます深刻ならんとする不景氣に終らうとしてゐる。
最後の月に當って、この年の展望を試みたい。
特に一九三〇年に限らないが、はじめはやはり強盗窃盗事件が多かった。説教強盗は一年前の事件だったけれ共、この年に入っても不相變この犯罪は少くならない。
一九三〇年に於いて注目すべきは第一に盗犯防止令の發布及び施行であらう。
頻々たる強盗――殊に説教強盗がこの法律を作らせる動機になったといはれて居る。盗犯防止の法律は一九三〇年春種々な世評の中に無事通過した、
法律解釋としては、此の法律は從來の刑法第三十六條の擴張と見るべきでなく、第三十六條の立法の精神を明かにし、而て之が具體的例示をしたにすぎず、と解するのが正しいだらうと思ふ。
換言すれば、一九三〇年に作られた盗犯防止及處分に關する法律は、刑法卅六條に既に謳はれてあったので、之なかりしとするもかく解するのが正當防衛の正しい考へ方だったのだと思はれる。
それ故に、この法律の發布に關してあれ程まで世間が論爭するの價値があったかどうかは甚だ問題であらう。
但し同法第二條第三條に至っては新にはっきりと定められたものであるからして相當考へるべきものである。
而て本年の中に既に同法の適用された事件が可なり新聞紙上に發見された。
此の法律に對して反對説の中(プロレタリアートイデオロギーのものは別として)もしこの法律が發布される時は、賊の方でも死ぬ覺悟で忍び入って來るから、却って彼らを激せしめ、危險が多いといふものがあった。
さきににあげた一九三〇年十二月に於ける兇暴なる強盗殺人の如きが果してその結果であるかどうか、之はもう少したって見ないと判らないと思ふ。
一九三〇年に於いて著しく目につく第二の事件は一家心中の頻發したことであらう。
即ち一家の主人が妻子を殺して自殺し若くは自殺せんとしたるもの實に頻々で、春頃には殆ど毎日の新聞紙上にこれが報道された。
中には逆に妻が夫を殺して、後に我が子を殺し、自殺したといふ例も二三あらはれたやうに思はれる。
之が第一の原因は世界的不景氣也となすものが通説であった。ところで世界的不景氣の中で外國にあまり例がないこの一家心中が特に我國に多いのは何故であるか。
この點は一考して見る必要がありはしないだらうか。
之に關しては我國の社會状態、國民の心理状態がいろいろ研究材料となるべく、簡單にここに記すべき事でないと思ふがその一、二をあげると次のやうな事はたしかにその原因の一つだらう。
一體我國民は死を輕んずる國民である。死を重大視しないといふ事は生を重大視しないといふ事にもなる。(之に關してはドイツ人フロレンツの Todesverachtung des Japanishen Volkes といふ小論文あり)一家の家長が生活の壓迫に堪へ切れずに、やけになった時、死なうと決心する。この死なうといふ決意が、外國國民よりは、比較的たやすく起るのではないか。既に自分が死なうと決心をする時、つゞいて冥途の道づれとして妻子をつれて行かうといふのである。
私は父が自殺しようと決心した時、我が子もつれて行かう、といふ所に惱ましき弱き父親の、力強き愛を見出す事は出來る。しかし、社會から此の事件を見る時、目をおほはずには居られないのである。
妻が夫を殺し我が子を殺した事件に於いては嫉妬を見逃す事は出来ない。女が自殺しようとする時わが子を殺す心理については多く問題があるだらうがここには畧す。
一家鏖殺といふ事件ほ我國で時々行はれる。外來の者でも來て一家の家族を鏖殺する事が出來るのだ。これは特に我國の家屋の建築法に注意しなければならない。
外來者がこれが出來るのだから、一家の家長にはなほたやすく出來るわけである。勿論父親がまづ妻を殺し次で子を全部殺さうとあくまで堅い決心をしてゐれば家屋の構造なんかには關係はなささうに思はれるかも知れないが、實はさうでない。
はじめこそさういふ考へをもってゐてもいざ實行にとりかゝると第一撃筆二撃に至って犯人は全く夢中になってゐるのである。從って、離れにねてゐたり、外に泊りに行ってゐる我子まで殺しに行く父といふものは殆どない。況してやこんな事件は發作的におこるものだから、現場から一寸はなれた室にゐた子供が助かったといふやうな例は少くないのだ。要するに枕をならべてねてゐる状態は、極めて親しいわけだがこんな時には甚だ危險だと云っていゝわけであらう。
要するに、一家心中は今年のはじめに頻々と行はれた悲劇であるが、變った事件もある。
一九三〇年の劈頭に起り、而も犯人と目されて居る人間がはっきりと分明して居りながら未だに逮捕に至らぬのは、かの内田清作の事件であらう。
一月六日の朝東京市外綾瀬村彌五郎新田四二〇荒川放水路で下谷區入谷町一四七建具職内田清作の二男京治(二ツ)の絞殺行李詰死體が發見された。つゞいて同家の床下から清作の妻きみ(二九)の絞殺死體が發見された。更に長男一男(六)の死體も發見されたが、清作の行方が判らない。
此の事件では、どうも清作が犯人であるらしいので、當局でも必死の捜索をつゞけたけれども未だに判らず、一九三〇年も今やくれんとして清作はなほ現れて來ない。
此の事件では、清作が自殺するつもりだったと見るのは、無論誤りらしいが、さうでなくても犯人が自殺することは有り得るわけだ。しかし清作はその後かなり時を經てから一度どこかで發見された事があるところから推して、清作自殺説はどうやら威立しないやうである。
此の事件は、右に述べた一家心中とは一寸違ふけれ共、一家心中で一九三〇年の殿りとして十二月廿三日に淺草で惨劇が行はれた。
廿三日夜淺草區吉野町土木請負業某の妻は夫の留守中に、二人の子供を絞殺し更に夫の妹を殺して自殺した。尤も二人の子供の中、女の兒は助かったのである。
この子のいふ所によれば、母親が小姑を殺したのでなく小姑の方が母を殺したことになるのが現場の模様では、右のやうな事になる。これはヒステリーの犯罪の一つであらう。
さきに私が述べた新聞紙の報道の暗示力に富む事は、かくの如きヒステリーの犯罪の場合ことに烈しい。一家心中など、父親がやる場合でも殆どヒステリー的の兇行であるから斯の如き事件を大々的に報道するといふ事は可なり危險だと思ふのである。
本年春頃一家心中が盛んに行はれた際、諸新聞紙の大々的報道はどれほど多くの暗示を彼らに與へた事だらうか。
切迫した氣の弱い父親、殊に切迫した母親に、あのセンセーショナルな惨劇がどう心に影をうつしたらうか。實に寒心すべき事であった。
勿論、新聞の報道が原因ではない。動機である。深刻な不景氣がもとよりその最大なる原因ではあらう。しかし、妻子を手にかけて殺す、といふやうな殆ど精神病的犯罪の場合に、大々的に報ぜられる他の事件がどれほどの力をもって迫ったか、蓋し想像するに難くない。
さきの、強盗殺人事件の場合とは一寸異る。
一家心中の主人公になるやうな人の氣もちは既に既にヒステリーになってゐるのだ。そこへ他の惨劇の報道が目につけば、彼らの苦惱はおそらくその一點にはけ口を見出すに違ひないのだ。
だから私ははっきり云ふ、先覺者がもしなかったなら、又もし先覺者があっても報道機關が沈默を守ってゐたなら、今年の春行はれたやうな悲劇ははるかに數が少なかったらうと。
次に本年社會問題となった事件として、貰ひ子殺し事件なるものがある。
然し之については既に本誌に記したやうに、貰ひ子殺しが特に今年になって多くなったわけではないので、偶々組織だったものが發見されたといふに過ぎない。
特に一九三〇年に於ける重大な、注目すべき犯罪は自動車を廻る犯罪てあり、私の考へる所に從へば、もし現状のまゝで進むならば一九三一年に於いては更に甚だしくなるのではないかと思はれる。
自動車に就いて直ぐ思ひ浮べられる犯罪は所謂交通事故であって、犯罪と云っても業務上過失致死若くは過失傷害罪となり、いづれにしても過失犯となるので、本誌の讀者諸君には犯罪そのものとしてはピンと來ないかも知れぬけれ共、犯罪たるや明かであり、而も人命に關するものであるからして、決して見逃しにするわけには行かない。
殺人事件だと被害者がたった一人でも大騒ぎとなり、又探偵小説なんかにも立派になるのである。
然るに交通事故といふ方は、名がわりに輕いためかわりに注意されないけれ共、あっといふ間に二三人が轢かれて死んだり怪我をする所から云っても決して輕々しく取扱ってはいけない筈である。
私は現時の大都市の交通状態が餘りにも亂雜なのを思ひ、約一年前、即ち本年の一月、B誌に一文を發表して當局者並びに世人に對して一應の警告を發しておいた。然るに、交通の恐怖時代はますます烈しくなって來るが故に今年の秋再び同趣旨の一文を草して、C誌に發表し更に警告する所があったのである。
それ故、此の交通状態と法律關係については敢て本誌に於て三度論ずる事を避けるが、結果から云へば、私の危惧はつひに杞人の憂とはならず、不幸にして豫期の通りのものとなって來た。
記憶なき諸君は、一九三〇年十二月に入って、毎日の新聞紙上に必ず、一人か二人が自動車に轢殺され、又は怪我をしたといふ報道がのせられた事を思ひ出されるであらう。
今に至って當局者も世人も漸くこの問題に注意しはじめたやうである。今さらあわてる事はないのだ。夙にこの事あるは知れ切ってゐる。
然し、おそくともあわて出した事はあわてないよりはまだいゝ。しかし私は云ふ。この恐怖時代は、年を越えて來年にもちこすに違ひない。そして更に犠牲者を出さなければ、ほんたうの整理は出來さうもない、と。
權威ある報告を未だ手にせぎるが故に、はっきり云へないけれども東京市に於けるこの種の事故は本年だけで約二千件あるといふ。
而て、想像せらるゝ通り、これは昨年の件數よりもずっと増してゐるのだ。かうやってほッておいてもいゝのだらうか。
自動車の數は益々殖えて行く。
從って自動車を繞る犯罪はますます増す一方である。
かつて本誌に記した事のある運轉手殺しの事件は、その頂角である。これも幾多の模倣者を生んだ。
而て將來に於いてもこれはまだまだ増す事だらう。
暫く前までは運轉手がおそはれるといふ事件は餘りなかった。
本年にはいってから俄にその加速度を増して居る。
殊に、年末に入ってから流す圓タクの運轉手も、乗る客も皆死物狂ひになってゐる。淋しい郊外で乗客と運轉手とが二十錢か三十錢の事で血眼になって爭ってゐるのが屡々見出される。これが現時の世相の一つであらう。
一言で云へば、他の諸設備――この中には法制も入れる事が出來る――が十分とゝのはぬうちに文明の利器が餘りにスピード化して増加しすぎたのだ。
從業者に訓練の行き届かないうちに、車が急テンポに増加しすぎたのである。
私は一九三一年に於いて、此のスピード自動車を繞る犯罪が、種々なる方面で増加するであらう事を考へるものである。
思想的背景をもつ犯罪は一九三〇年に於いて、或る程度まで進んで來て居るやうに思はれる。
殊に、さき頃解禁になった新聞記事によればメーデーには可なりの事件を惹起してゐる。
メーデーに起った事件の凡てが報道されたのかどうかゞはっきりわからぬ上、私は犯罪月旦にこの方面の犯罪を餘り取扱はないつもりであるから之はこの程度で止めておく。
一九二〇年十二月の終りに至り、東京市の市電從業員と電氣局との間の空氣が險惡となって、甚だくらい氣もちを市民は一時感じた。
もし、ストライキの擧に出るやうな事でもあると、その波及する處いづれまでか、といふ問題が實に大であった。
しかしこの問題は無事に解決した。
從って一九三〇年最後の不氣味さも犯罪を生まないですんだわけである。
最後に一言附加しておく。
最近堕胎罪と姦通罪とがわりに報道されない。これは社會問題として取扱はるべきものである。
問題にならぬ、若くは報道されない、といふ事は決してそれらの犯罪が減少してゐるといふ事には必ずしもならないわけである、
殊にこの二ツの犯罪は、減少しさうな原因はあまりないのである。從って表面に出ない。
表面に出なくなったと見るのが正しいのではなからうか。
社會の常識、考へ方等によって之らがだんだん表から下へ沈んでゆくやうに思はれる。
――一九三〇―一二――
昭和6年7月号
昭和六年になってから、今まで豫審にかゝって居た事件が公判に附せられ、公判廷が賑って新聞に報道された事件は可なりある。
中でも大岡山事件の二人の殺人犯人の裁判は大分人氣を出した。
それから、本年まで記事掲載を禁じられて居たものが、この春以來解禁となったものが多くは思想部に属する犯罪であるが、之亦新聞紙を大分賑はした。
然し本年に入ってから全國を震駭させるやうな大犯罪といふものは起ってゐないと思はれる。
之は社會にとっては甚だ喜ぶべき現象である事勿論である。但し犯罪月旦の材料乏しきも亦事實である。從って私は本年に入ってから犯罪月旦を一回も書かなかったけれども、もはや今年も四ヶ月すぎて五月に入ったので、一寸目についたものに關して語って見よう。
〇
保險金詐取の目的で放火するものゝあるのは珍らしくないが、債權者が債務者の債務不履行に業をにやして、債務者の手に保險金を受取らしめ、それからその金を自分の債權に充當させようとした高利貸が現れた。
四月の或る日、某金貸業の家に放火があり、大事にならずに消止めた。するとまもなく近所の某方に小火(ぼや)があり之も大事に至らず消止めたが、つゞいて又他の家で出火せんとしたが丁度そこへかけつけた人が白衣をきた老人が現場附近からとぶやうにして逃出すのを發見して引捕へた。之が放火犯人であったがこの老人は最初、放火のあった家の主人でその自白によれば、最近彼の債務者が數名、どうしても借金を拂はぬ。
ところがその債務者達が各自家をもち皆保險にはいって居る事實を知った。そこで彼思ふらく、彼らの家にして一朝灰燼に歸せんか、必ずや保險金がその手に入るべく、入れば即ち彼はその債權を行使してそれを差押へるなり、そのまゝ現金を受け取るなりすれば、甚だ簡單也と。
そこで即ち高利貸の放火事件とはなったのであるが、一寸面白い現象である。
〇
次に、この事件より少しく前、某區の公園の共同便所の中で六七歳の少女が殺されて居た(絞殺?)といふ事件があったと思ふ。
何でも之は白晝、午後の出來事で、近所の子供達が四五名でそこで遊んで居り、後皆家に歸ったが一人歸らぬ兒があったので親達が心配して探した結果、共同便所の中から、その死體を發見したわけである。但し姦されてゐるやうすはなかったらしい。
何分、一緒に遊んで居た人たちが皆幼兒なので、その子供達のいふ所が雲を掴むやうな話で當局者も之には弱らせられたらしく、本稿を書いて居る迄には、犯人は未だ捕らない。
新聞の報道する所によれば警察でははじめその附近のルンペンを物色したらしく、次いで不良少年等の中に犯人を發見しようと努力したらしい。
一體此の犯罪の動機は何であるか。
常識的に考へれば、變態性慾者の犯罪である。かつて數年前、或る青年が、ゆきずりに出會った少年を捕へて、井戸に投げ込み、溺死せしめた事件があった。
犯人の自白によれば、彼はたゞ少年が苦しんで死ぬ所が見たかったから、かやうな殺人をしたのだと答へた。云ふまでもなくザディストの行爲である。
私が檢事をして居た時、起訴した事件の一つに、犯人が白晝、或る町の家に入りこみ、七つになる女の子一人が留守居してゐたところに入り込み、その女の子に暴行を加へようとした事件があった。
だから、共同便所の中からさういふ死體が出たとすれば、やはり此の種の犯罪と一應見做すことが常識的ではあらう。
然し問題の立方は必しもさうとは限らない。
彼女の兩親に恨みをもつものが、復讐の爲にその子と知って之を殺したといふことも有り得る。
やはり私の在職當時、恨みのある或人の子供二人を誘ひ來り、キャラメルをしゃぶらせておいて、鋭利な刄物をその口に突込んで無惨にも二人とも殺した犯人があった。此の犯人ははっきりと當局に知れて居たにも不拘、巧みに逃走してしまって、未だに捕へられぬやうである。
けれども私は今回の事件にもう一つ他の考へ方があるやうに思ふ。即ち犯人は案外、年の割に行かない子供ではないかといふ事である。
ルンペンの中からも、不良少年の中からも犯人が出て來ないとすれば、さういふ方面を探す必要はないか。
而もその犯人は、或は年齢に於いて責任能力たる資格に缺けてゐる者ではなからうか。而て、犯人は必ずしも一人とは限らない。
〇
本年四月に諸新聞を賑はしたものは、例の箱詰死體事件であらう。一般に梅太郎殺しと稱せられて居る。
犯罪の發覺は四月であるが、殺人の時は、昨年十二月廿八日と推定されて居る。而て殺人及び死體遺棄の犯人は本年四月廿六日東京隅田川に死體となって現れた。
有名な事件だから一應發覺からの順序を簡單に記して見る事にする。
本年四月十三日、北海道旭川で箱詰の女の死體が發見された。そこで勿論當局者は之が何者の死體であるか、といふ事の捜査を開始したが之が意外な難事件となった。
なるほどば昨年の十二月から年を越えて、本年四月まで箱詰になったまゝ、倉庫にしまってあったのだから、腐敗して居たわけである。
死體が女のものである事は判ったが、はたして他殺か、他殺とすれば毒殺か絞殺かといふ事は判然としなかった。
三ヶ月間、頭部を下にして積重ねられてあったので胸部から上が全く腐敗に近く、旭川赤十字病院で胃の顕微鏡検査が行はれてもおそらく之を(毒殺かどうか)はっきりする事は出來まい、と報道された。
果して顕微鏡の下でもさうであるかどうかは疑問としても、ともかく發見當時は全く五里霧中といふ有様だったが常識的に他殺と見て當局はともかく被害者を identify するのに全努力をそゝいだが右云ったやうに難問となった。
此の箱の發送地は名古屋で、發送人は「坪井初」といふ名になって居たゝめ活動の中心は忽ち愛知縣の警察となった。
坪井初といふ實在の女があって、事件と全く關係なく丈夫で生きて居ることが判ったり、又名古屋の人力車夫がそれかと思はれたりした事など新聞紙を賑したのであった。
他の重大な手がかりは、死體の肌襦袢に、洗濯屋の印で「ウメタロ」と縫がしてあったので、梅太郎といふ名がまづ當局にはピンと來たらしい。
十八日に新聞記事掲載が差止められた所を以って見ると、この時には捜査機關は既に犯人を確定したと思はれる。
「ウメタロ」と云ふのは梅太郎であり、女の肌着に梅太郎とあれば一應その死體を梅太郎と見るべく、又さうでないにしても梅太郎なる女を探す必要がある。
ところで女で梅太郎と名乗る以上は大抵その職業も察すべく、こゝに被害者の確定範圍が一應定められるわけである。
何と云っても此の事件で、ウメタロの四字に犯人が考へつかなかった事は致命傷であった。探偵小説でこんな事を書けば讀者に叱られる位の間抜けさ加減である。
大體、死體を着物のまゝ送るといふ事が既に相當の手ぬかりだ。ウメタロとなくても、着物のまゝである事は、着物のないよりも手がかりが多いわけである。
尤も犯人はさすがに佛心があったらしく、手に珠數まで持たせてあったといふから、裸體のまゝ箱詰にするに忍びなかったのかも知れない。
なほ、死體をつめた箱にも印があり、死體を包んだ毛布にも山三の絲縫字があったいふから手ぬかりだらけである。
それはともかく、四月二十六日になって、犯人と見られてゐる木村宗太郎といふ男は、死體となって現れたから、彼が如何にしてこの女を殺したかといふ事はたうとう判らないらしい。
犯人が判ってから、之を逃がして死なせてしまったのは、確に捜査機關の手落ちといはなければならないが、之は大阪市芦原署の者と名古屋警察の人との先陣爭ひからの結果だと報道されてゐる。
新聞紙の傳へるところでは被害者は梅太郎事平田あいなる女で、犯人木村宗太郎の内縁の妻で濱松に居た。
而て兇行の時は昨年十二月、場所は濱松、動機は別れ話をもち出した女に對する男の未練からだと傳へられる。
兇行後、宗太郎は濱松驛前の運送店をよび、箱を書籍がつまってゐると稱して名古屋丸ア運送店留置、發送人小松として送る事を命じた。之は十二月卅日の事。
一月五日、この箱が名古屋に着した。之は汽車でなくトラックで運ばせたのである。
宗太郎本人は自分で名古屋に至りこゝから「坪井初」と記して旭川へ發送したが之は鐡道便であった。
まづ事件の大略は右の通りだが、どうもいろいろ腑に落ちない點がある。
第一は濱松で平田あいなるものが消失したについて、誰も怪しまなかったといふ事である。
尤も近隣へは「あいが大阪へ行った」と稱してゐたさうで丁度「ベルエルモアがアメリカへ行った」とふれまはったクリッペンと同じ筆法だから周圍が全くそれを信じて居たとすれば仕方がない。何分私はその兇行地を現認しないのだからこの邊の事情がのみ込めない。
第二に何故宗太郎があいの死體を箱詰にして送ったか、といふ事である。
無論、彼の答に從へば、一番巧みに死體を消す方法だった、といふのであらうが、果してさうだらうか。
運送屋に托してトラックで運ばせたり後鐡道便で送ったりしたあたり、本人としては百パーセントの用意周到さだらうけれども、文明の機關に托して死體を送ることがたしかに彼にとっては安全だったらうか。
私はたゞ結果論をしてゐるのではない。一般論でいふのである。かうやって送った死體が永久に發見されぬと彼が思ってゐたとすればその自信たるや過信と云はねばならない。
死體發送といふ事が可なりの弱點をもってゐる上に、前記の如き重大な手ぬかりを犯人は平氣で(?)やって居る。
彼は死體の腐敗した時の臭氣をどう豫算に入れて居たのだらう。
妻を殺したクリッペンの場合は、死體が我家の床下にあった關係上、彼は逃走しない方が安全であった筈だ。現にマーシャル・ホール氏の如きは、「クリッペンがもしあの馬鹿らしい逃走をしなかったなら、おそらく彼は死刑臺には上らなかったらう」と云ってゐる。
けれども、木村宗太郎は逃走すべきではなかったらうか。少くも本年一月中位には!
逃走すれば危險である筈のクリッペンは逃走して死刑臺に上り、四月十八日まで自信をもってすましてゐた宗太郎はそれが爲に命を失った。逃走すべからぎる者却て逃走し、すべきものせずいづれも身を亡した。
此の二人の犯人はいづれも大きな誤算をやって居る。
何分、宗太郎の事件は本人が死んでしまひ從って問題にならず證據品なども法廷に出て來ないから之れ以上立至って批判するわけには行かない。
それにしても、殺人事件で、犯人が一番困るのは死體の始末である。宗太郎もトランクに死體をつめて川の中へ投げこむ事が屡々危險だといふ事を知ってゐたのだらう。北海道へ死體を送るとは考へたものだと云はなければならない。
一寸常識的に考へては、死體を巧みに處分するのは不可能のやうに思はれる。これがために殺人事件は大抵ばれてしまふ。
實際ほんとに死體を消失することが發見されては(ドリヤングレー)のやうに大變な事になる。
〇
梅太郎事件で名古屋の警察が活動したが、その名古屋に物凄い變態夫婦の殺人事件が四月に行はれた。
平生から互にいぢめ合ってゐた夫婦が、或る晩、又喧嘩をしてゐるうちに、妻が夫にランプを投げつけたのである。
忽ち石油に火がうつって夫は生不動となり病院で絶命、警察は妻を殺人放火の罪名で逮捕、目下取調中といふ報道がある。おそろしい話だ。
〇
中央に於ける目星しい事件では五月に入って、大藏大臣の官邸の前に爆裂彈をしかけた者がある。犯人は未だに捕へられない。
一家心中は昨年の今頃流行したが今年は幸にあまりはやらないやうである。
但し五月のはじめに物凄いのが一件あった。
夫が發狂して、妻子の手足を縛って殺したといふ事件だが發狂して居ては刑法上の問題とはなるまい。
それから常識的には一寸妙な話で法律上當然なのは、家主が自己所有の借家にはいりこんで住居侵入罪で捕へられた話がある。
或る家主(女である)借家人が店賃ををさめぬので大にふんがいし、人を頼んで一所にその家に入りこみ、家財をどんどん外に投げ出した。その結果、住居侵入、暴行罪の現行犯として二人とも、捕へられたのである。
其他新聞の社会欄をいちいち見て居れば、いくらもあるけれども、右にのべたやうに大きなものは見當らない。
自動車運轉手を襲う犯人は、屡々のべた如く中々減らず、五月に入ってひどい自動車強盗が出現した。
今回はまづこの邊で筆をおかう。
――一九三一、五、六――
注)明かな誤字は訂正したところがあります。句読点は一部修正したところがあります。
注)ウムラウトは無しで表示しています。
行李詰事件の張本人
「清作はどうしてゐる?」
生か死か凶行の原因その他
探偵小説家の觀測
「報知新聞」 1930.01.14 (昭和5年1月14日) より
行李詰死體事件は、犯人内田清作の妻きみの絞殺死體を床の下から發見した事によって、更に探偵的興味を加へた。果して親子心中が目的であったか、それ共彼には別な目的があったか、この大きな疑問を解決するキーを握ってゐる彼清作は、姿を現さない。清作は今何處にどうしてゐる? 探偵小説家及び法醫學者等に聞いて見る。
「死に遅れて煩悶か」濱尾四郎氏談
事件をよく知らないので早速には判斷を下せないが、一應は殺害犯人は清作以外にあるのではないかと考へて見る。しかし家財道具等を賣拂ったのが清作自身であることが確かならばまた別に考へなければならない。清作が家族を殺害してすぐその興奮状態の中に自殺を遂げて居ないとすれば、死に遅れて非常な煩悶の日を送ってゐることと思ふ。
「清作は生きてゐる
妻への憎しみが原因か」大下宇陀兒氏談
清作は生きて居る。京治といふ次男をつれて東京にゐると思はれる。清作は大膽な男である。凶行は先づ清作が妻きみの不貞を憤ったあまり、少くも何かの憎しみのあまり絞殺した。それを既に物心づいてゐた長男一夫が見てゐた。清作にして見れば妻は憎み、子は可愛がってゐたが、凶行を知った長男は殺さねばならなかった。
そこで第一に妻は腰卷のまゝに殺されて埋められ、足で固く踏みつけられた。本意なく殺した長男は、いろはがるたや晴衣を着せて水葬した。妻と子に對する愛憎の差別が明かに犯人の心理に働いて居る。次男京治も殺さねばならぬ時に、子を熱愛したすなほな親心が蘇ってゐる。彼は妻を殺した後に金錢をかき集めて、今は重荷となった次男をつれて家を出たに違ひない。
長男の死體を妻と一緒に埋めなかった點も、不貞の妻のそばに愛兒を葬る心が起きなかったゝめと思はれるし、かゝる點から見ても妻を憎んだ凶行だと推定する。清作は大膽な男で、初めは自首も自殺もする意思はなく、存外當局を見くびって今日まで生きてゐると考へられる。
面白い近來にない怪事件だ。殊に妻の死體が發見されてからは、俄然探偵的興味が百倍した。おい! 清作君、生きてゐるだらう東京の近くで、子をつれてね。
「犯人は弱い
今は迷ってゐる」江戸川亂歩氏談
犯罪のやり口から見て、おそらく組織的な逃げ方は出來ないでせう。現在市内にゐるか、市外にゐるか、そんなことは判らないが、弱い彼は非常に迷ひぬいて不安な状態でうろついてゐるでせう。もう死んでゐるかも知れませんね。とにかくこの犯罪は死體の始末に慈愛の念が見え、死體の隠匿が不統一なのから見て、犯人が惡のためでなく、弱いために引起した事を考へるのです。
あれは善人の遣り方です。惡人らしいあくどい計畫的な犯罪とは思はれません。次男の京治は一番初めにやったのかも知れませんね。捨子をしたとも考へられます。その方の調べは出來てゐますか。女の關係は無いと見るのが至當でせう。あったとしても主要な原因とは考へられません。親子心中の變形です。
「計画的な犯罪だ
發覺を恐れてゐるだらう」甲賀三郎氏談
あの浦和の親戚に届いたといふ手紙が、眞實の彼のものだとすると、計畫的に逃げる手段だと考へます。どうもあの殺し方は變ですね。妻は縁の下に埋め、子供は行李詰にして河に流すのはどういふわけでせう。もしはじめから親子心中する氣なら、死體はそんな家の中に置いて線香でも立てといたらいゝでせう。それをあんなに骨を折って匿す處を見ると、はじめから逃げる積りだったのではないでせうか。
今生き延びてゐれば無論煩悶してゐるでせう。新聞で事件の發覺も知ってゐるでせうからね。しかしその煩悶は良心の呵責でなく、刑罰に對する恐ろしさでせう。もし良心の呵責から來る煩悶だとしたら、もっと早くどうかしてゐると思ひます。
「世間の心證から自殺の虞れ」高田義一郎博士談
※割愛します
注)大下宇陀児、江戸川乱歩、浜尾四郎、甲賀三郎、高田義一郎の順に掲載されていますが入れ替えています。其の他、取材内容など混在して掲載されています。
注)つぶれた文字やかすれた文字を推測で記したところがあります。
注)読点を句点に変更しているところがあります。句点を追加しているところもあります。
越中島運轉手殺し「第七五八〇號事件批判」
――共犯の心理――
「婦人サロン」 1931.01. (昭和6年1月号) より
再録:『犯罪都市 モダン都市文学7』川本三郎編 平凡社 1990.09.20
再録:『覆面の佳人・吉祥天女の像 合作探偵小説コレクション5』日下三蔵編 春陽堂 2024.01.10
新刊で再録されましたので削除します。
「探偵小説家曰く」
「時事新報」 1932.10.07 (昭和7年10月7日) より
「初心の手口」濱尾四郎
ギャングは地中海に起ってヨーロッパに渡り、歐洲大戰頃アメリカに渡って發展したものだが今度の犯罪の様なのはまづフランスにあった頃の初期の手口と思はれる。
勿論犯人は自分で自動車を持ってゐるものではなく圓タクか、又は運轉手が一味とすればガレーヂから掻っ拂って來たものでせう。圓タクならすぐに捨てゝゐませうが、それにしても今のところ手懸りは自動車を突止めることです。犯人に思想的背景があるか何うかは早急に判斷出來ません。私は寧ろ常識的に見て之はインテリの犯罪ではないかと思ふ。非常に豪膽であったととは思ふが初心者のやったことだらうと思ひます。
で犯人は一刻も早く捕へぬと同一犯罪を更に繰り返へす危險があり、今度は相手が何等抵抗しなかったからよいが、この次には吃度殺人的な犯罪になると思ひます。犯人が四挺も拳銃を所持してゐるから捕まへるには相當時間もかゝると思ふが、この際最大の任務は自動車を突き止めることだ。今後日本にかうしたギャングの犯罪が激増するとは思へぬが、防衛には拳銃携帶の巡査を銀行に配備する外仕方がありませんね。
「自動車を突止めよ」甲賀三郎
いよいよギャング出没と云ふことになりましたね。かう云ふ犯罪があると、きっと眞似するものが出て來ると思ひます。それも銀行などなら未だいゝですが、之が富豪の邸とか、金持の家を襲ふやうになると全く困ったものです。それかと云って之を防衛するには一般にピストル携帶を許可しなくてはなりますまいが日本人のやうな血の氣の多い者にピストルを許可したら、それこそ又大變。毎夜銀座あたりでピストルの音を聞かぬ日はなくなりませう。
犯人は實に大膽な男達ですね。それに着衣などから推してもインテリだらうと思ひます。「切取り強盗は武士の習」と或は共産黨系か、右翼系のものが資金を得るための手段ではないかとも考へられます。捜査には何はともあれ自動車を調べる外ありません。運轉手が一味のものとすれば一寸判りにくいですが、ハイヤーなら直ぐ乗り捨てゝゐるにしても何かの手懸りはありませう。
「事件を解く」
犯人は案外臆病者
運轉手は同類
犯罪研究家濱尾子は語る
「東京朝日新聞」 1932.10.07 (昭和7年10月7日) より
日本では最初のアメリカのギャングスターそのまゝ白晝ピストル銀行襲撃事件がわが犯罪史に近代的な一ページを加へてあらゆる方面に戰りつを送った日、例の犯罪研究家の辯護士濱尾四郎子爵は事件をにらみながら記者と一問一答する。
問――この事件をどう思ひますか
答――まあ、日本にはなかったギャングがやって來たといふわけですねえ。銃砲火藥取締規則や毒藥取締が嚴重であり犯罪者の頭が幼稚なので日本では科學的犯罪もギャングも發達しないと思ってゐたのだが、あぶないあぶない。
問――犯人についてはどう考へますか
答――教養のある人、いひかへれば常識圓滿な犯人ではない、インテリならば詐欺をすると思ふ。たゞ三萬圓といふのが問題で、その使ひ道……僕は何か企てる資金と思ふ。しかしどうも人を殺さないところ、強盗と殺人強盗の罪の輕重を知ってゐるらしいから、案外臆病な奴だよ。
問――では捜査の中心點はどこにあるでせう
答――まづ自動車です。もちろん自動車の運轉手も仲間だと思ふ。日本には自動車を持つ程のギャングはゐないから、どこかのガレーヂから盗んで來たもので、多分意外な所でおっぽり出すだらう。だからこの自動車の番號から持主がわかれば、今の警察の力で犯人は何者なりやが解ると思ふ。その次はピストルの出所だ。
問――外國のギャングと比べてどういふことになりますか
答――僕の考へでは今流行のアメリカギャングよりもフランスのギャングに似てゐるやうです。ギャングの元祖は寧ろシシリー島邊でアメリカのギャングは規模は最たるものだが、今度のはフランスの銀行強盗團の系統だ。大戰前だと思ふが、フランスで五六人組が銀行を片っぱしから襲ひ、これは皆んなピストルで殺して悠々自動車で逃げる。自動車はかっ拂ったもので勝手に捨てゝは乗次いでゐた。
問――ではかうしたギャング防止の名案は
答――まあ銀行の守衛さんにピストルを持たせるのでせうな。いやこれからは銀行ゆきも物騒になったわけですね――
「名探偵としての意見を叩く」
探偵小説の兩大家に
「讀賣新聞」 1932.10.07 (昭和7年10月7日) より
白晝帝都に出現した大膽不敵なピストル強盗事件、海の彼方、アメリカのギャングを彷彿たらしめるその手口、正にわが犯罪史上特記すべき犯罪事件である。銀行經營者の最上級の恐怖は遂にわが國にもやって來たのだ。風のやうに襲って風のやうに去った通り魔、三人組の正體は何? 犯罪研究の大家、探偵小説家として名聲嘖々たる左の二氏に炯眼な名探偵長としての意見を叩く――
「背景あるとせば右翼の仕業」濱尾四郎子
前檢事である探偵小説家濱尾四郎子は語る。
「此の類(※推測)犯行、順序は最初に先づ自動車を掻拂ふ、そして其の車は必ず何處かに乗り棄てゝ他の車で逃走したものと見られるから、自動車の捜査から犯人の何人であるかの點までを突き止めるのはさう骨が折れまい。併し犯人を捕縛するまでには相當手間が取れるかもしれぬ。
なほ此の種の犯行の模倣よりも遥に恐ろしいのは犯人が更に第二、第三の犯行を重ねて行くことで所謂毒喰はば皿までだし、それに今度はまあ犯人も紳士的で殺傷を避けたからよいやうなものゝいつまで紳士的でも居まいから、氣味の惡いのは此の點だ。犯人の素性を想像するのは誠に難しいが私は智能犯とは全く反對的である此の種の行爲は恐らく知識教育あるものゝ仕業ではないと思ふ。
然らば思想的背景は如何といふに、私は、左翼方面に於ては最近武器を手に入れることは非常に困難になって居るから先づ此方ではあるまいと思ふ。背景ありとせば右翼ではあるまいか。――で容易に考へられるのはギャング闇組織の資本金獲得運動である。然らば三万圓では足りまいから、犯人は更に第二、第三の犯行を企てるかもしれぬ。
資本主義社會を崩壊させるものとして一方に赤化の手があると共に一方にギャング化の手がある。これは文明國が何れも持つ患ひであるが殊に米國の禁酒法は正にギャングの育ての親とも稱すべきで、これは映畫によって誰でも知る通りである。今度の犯行など恐らく稀有の事柄であらう。元來此の事件は探偵小説としての興味は少い。探偵小説には最初に犯人を登場させてはならぬ。事件をミステリーの裡に包んでこそ讀者の興味を沸かしまた繋いでも行けるのだ。私は探偵小説家だが此の事件は社會問題として考察すべきだらうと思ふ」
「思想的背景もつ軍資金調達」甲賀三郎氏
右につき探偵小説家甲賀三郎氏は語る。
「アメリカなんかでは團體行動のピストル犯行事件は既に卒業ずみで日本なんか犯行手段としては随分遅れてゐる方です。
私の直感ではこの犯行は何か背後に思想的バックをもってゐるもので所謂軍資金調達の犯行ではないかと思ひます。素人強盗にしては餘り手口が鮮やかすぎます。同銀行の様子を非常に良く知った者の犯行でせう。私はかういふ事件が起る度に思ふのですが、日本の家屋の構造とピストルの嚴重な取締方法です。アメリカ其他の國ではこれ程の事件に對する豫防方法は銀行員が全部ピストルを携帶して警戒してゐるが日本人はまだそれほどピストルに對する自衛と云(※推測)ふ觀念が缺けてゐるから其後に來たるピストル殺傷事件を
恐れるからどうしてもこれは警視廰で今後万全を期した銃砲火藥の取締をやってもらひたい。白晝公然と行ふ事は外國でもあまりたくさんはない様で、夜ならまだしも白晝では外國警察でもその取締警戒方法がない様です。手口はまったく外國映畫、探偵小説に影響されてゐるものですね。
私は今後かゝる事件が次第に増加して行くだらうと思ひます。警視廰の方でもこれに對して先を越した防犯方法を研究してもらひたいものです」
注)つぶれた文字やかすれた文字を推測で記したところがあります。特に推測度合いの高いものは(※推測)と入れています。
注)読点を句点に変更しているところがあります。句点を追加しているところもあります。
注)本件は「大森銀行事件」後に「赤色ギャング事件」とよばれる事件の発生翌日の紙面に掲載されました。
注)事件解決後の談話に関しては下記「日本ギャング來?」参照願います。
「日本ギャング來?」
――川崎銀行襲撃事件私見――
「文藝春秋」 1932.11. (昭和7年11月号) より
一
十月六日の自晝、數名の壯漢が各自ピストルを手にして自動車を驅りて、川崎第百銀行大森支店に乗りつけ、中に押入ってその場に居た行員を脅かし、現金三萬餘圓を強奪し去った事件は、我國未曾有のギャング事件として滿都の人心を驚倒せしめた。
私は此の日夕方六時すぎ、日光から歸京して淺草驛に着し、四谷の自宅に歸ったのだが交通機關にひどく神經過敏である私には、淺草から四谷まで、要所々々にいつも必ず立って居るべき交通巡査が一人も居らぬので、何事かおこったといふ感じがしたけれども勿論ギャング事件など夢にも想像しなかった。
歸宅して夕食をすますと、俄然三つの大新聞社から電話がかゝって一寸でも面會したいといふ事である。一番早くかけつけた記者子から事件の大略をきいてはじめて事件を知ったわけなのであった。
いつの頃よりかのならはしで、こんな大犯罪事件があると新聞紙は、探偵小説家や、捜査官であった人々を訪問してその意見をたゝき之を紙面にのせるのが流行となってゐる。實際家は實際家らしい説を吐き、探偵小説家は小説家らしく事件をテーマに空想を逞しくする。私の場合は、探偵小設家たる資格と、前檢事である資格とを併せ有ってゐるために餘り空想的な事も云へず、可なり困るのである。
有り態に云へば、その時の諸新聞記者子の質問は可なり飛躍的なものであった。例之、「一體犯人は何者でせう」の類である。もし之に私が直に答へ得られ、且つそれが當るとすれば私は千里眼であり警視廰の如きは全く必要なきものである。空想の所産であるかの名探偵シャーロック・ホームズ、扨は又フィロ・ヴァンスの如きですらさんざん苦心の末犯人をあてゝゐるので決してのっけに誰だとは云ってゐない。從って名探偵ならざる私は勢ひ常識的な問答をくり返さゞるを得なかった。
ところで昨日(十月十日)の新聞紙は犯人が逮捕された事を報じそれが共産黨員のテロ化したものなる事を記載してゐる。
ここに至って私は、自分が想像した所とまるでちがってゐる事を知り、當日新聞記者子に語った所が如何に的をはづれてゐたかを知って、大に恐縮し且つ大に滑稽と感じてゐるのである。
私は、あの時「左翼の者ではあるまい」と語った。(或る新聞に私の言説として「右翼だ」としてあるがあれは誤りである。私は積極的に右翼だとは云はない。たゞ左翼ではあるまい、と語ったにすぎない。)而しそれには相當の理由があった。ところが事實はまるでちがって思想的背景のある共産黨事件となったわけである。
共産黨について研究の足りなかった私にはあゝいふテロリズムは少くとも共産黨の武士道にはづれたものだと信じてゐたのだ。
更にもう一つの的はづれは自動車から足がつかず全く他の偶然(勿論之は警視廰としては努力の結晶で偶然ではあるまいが)の事から發覺の端緒を得たといふ事實である。本格的の捜査はどうしてもまづ怪自動車を捕へるにあった筈であり現に當局もその方面に全力を注いでゐたらしい。
犯人はインテリか否か、思想的背景ありや否や、ありとすれば右翼か左翼か、こんな事を一見して斷言することは千里眼でなければ(現場をふんでゐない限り)云へるものではない。負惜みではないが、結果が的はずれでも何でもいゝ、あゝいふ際に新聞記者子に答へる場合はあくまでもまぢめであればいゝのだ。餘り人を馬鹿にした法螺さへふかなければいゝのだと私は考へてゐる。
二
一體ギャングと云へばすぐアメリカを聯想しすぐカポネなんかを考へたがるが、今度の事件なんか形式で云へばフランスのボンノー事件の方に餘程よく似て居る。
ボンノー事件といふのは一九一一年一月頃に、パリを震撼せしめたギャング事件でガルニエだのボンノーなどといふ男が首魁になって銀行を襲って現金を奪った、此の時は今度のやうに紳士的(?)でなく賞際にピストルを發射して數名を射殺してゐる。彼らは自動車を利用して各銀行を襲撃して金を奪った。だから川崎第百銀行事件は賞際に殺人をしなかったといふ點を除けば、大いにボンノー事件に似てゐるわけである。
多くの人々はギャングの先祖であるナポリのカモラだのシチリヤのマフィヤなどを忘れてしまってアメリカで發達したアルカポネだのダイヤモンドなどといふ手合ばかり考へたがるが、今度の事件は形式に於いては決してアメリカ式でなくむしろフランス式だといひたいのである。
然し、報道されてゐるやうに思想的犯罪といふ事になれば事件は根本的に別な色で彩られることになるわけだ。
大ざっぱに云って左翼といはれる人々の事件では私が檢事在職當時に、古田某のピストル事件があった。之は強盗殺人で死刑になったが、ともかく自晝銀行を脅かすなどといふテロ的事件は全く今度がはじめてゞあらう。
三
今後、斯の如き事件がふえるかどうかは一見簡單なるが如くにして實は中々難問である。事件がおこった當夜、即ち六日の夜、私は記者諸子との會見の時に、「この犯罪は必しも他の犯罪の如く直に模倣者を生むまい。模倣者よりも本もの、即ち今度の犯人が再び犯行をくり返すことが恐るべきだ。だから、今回の犯人を逮捕することは最大の急務である」と語ったことをおぼえてゐる。私は當時、思想的背景なしと考へてゐたからかく云ったのであるが、比の條件の下に於ける限り私は之を訂正する必要を認めない。
けれど、苟も今回の犯人が思想的犯人なることが明白になった以上、その方面の研究の足りない私には何とも云ひやうがないのである。たゞ一言申し添えたいのは、もし今後再ぴかくの如き事件が起ったとして、犯人は今回の如く、紳士的(?)であり得るや否やといふことである。
今回の事件に於いては幸にも、人命には少しも害はなかった。然しこの次にもかくの如くであらうとは斷言し得ないのではなからうか。なほ、今回の事件の直後、埼玉縣某驛に於ける怪人物の話、靜岡縣下の檢擧事件、怪自動車のナンバーに就いて、その他種々語りたいこともあるが、時間と紙數がないからここで擱筆する。
――一九三二、一〇、一一――
注)別途三社の記事を掲載していますので参照願います。
呪はれし因縁に結ばれた犯罪
「バラバラ事件批判」
「報知新聞」 1932.10.22 (昭和7年10月22日) より
寺島のバラバラ事件犯人逮捕の報は世の人に異常なる衝動を與へた。事件が殘忍であったゞけに犯人は如何にも凶暴な奴であらうと想像されてゐたのが凶行までの意外なる事情は更に人の心を衝いた。そこには温かい人情さへにじみ出てゐる。恐ろしき因縁に結ばれた罪よ、恩讐の絆が生んだいたましい事件を識者はどう見るか?
「何故自首して出なかったか」濱尾四郎氏談
檢事は先づこれを訊く
捜査に當った警察官までが同情の涙を禁じ得ないほどの事情ではあるが、これが檢事局に送られた場合問題は別になる。慎重な檢事ならば先づそれほど止まれぬ事情からの犯行なら「何故自首して出なかったか」、「何故あんなに死體をバラバラにしたか」の二つを問題にするだらう。それに今までのところ本人の自白だけしか報道されてゐぬから、これだけを根處に物うをいふことは危險である。
注)高島米峰氏は語る、菊池寛氏談、河崎なつ子自女史談、金子準二氏談、浜尾四郎氏談の順に掲載されています。浜尾四郎以外は割愛します。
注)読点を句点に変更しているところがあります。