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浜尾四郎 作品小集5

Since: 2024.01.14
Last Update: 2024.04.28
略年譜・作品・著書など(別ページ)
作品小集1 - - - (別ページ)

      目次

      【共著】

  1. 「麻雀占ひ」甲賀三郎共著 旧かな旧漢字 2024.01.14
     
      【座談会】
     
  2. 「探偵術座談会」 (冒頭と極一部) 旧かな旧漢字 2024.01.14
     
  3. 「探偵小説座談会」 (全文) 旧かな旧漢字 2024.01.14
     
  4. 「凄い話」 (全文) 旧かな旧漢字 2024.04.28
     
  5. 「身の毛も棘つ怪談座談会」 (全文) 旧かな旧漢字 2024.01.14
     
  6. 「探偵趣味の座談会」 (冒頭二回のみ) 旧かな旧漢字 2024.01.14
     
  7. 「法律の裏表座談会」 (冒頭と極一部) 旧かな旧漢字 2024.01.14
     



「特輯附録 麻雀占ひ」
考案者
日本麻雀聯盟顧問 六段 濱尾四郎
日本麻雀聯盟幹事 四段 甲賀三郎
「婦人公論」 1931.03. (昭和6年3月号) より

一、個牌の占ひ方
  A、戀愛・願望・戀人・金錢
  B、縁談・未來の夫の判る方
二、數の占ひ方
  A、D・S法
  B、ピラミッド法
三、獨り遊び方
 神秘の嗜好性は近代人の特色です。神秘とは――それは要するに、人生の疲勞のあとで啜るカフェでしかないのです。本誌が「新麻雀占ひ」を附録とした意圖もそこにあるのであって、われらは封建的な迷信の「眞劍さ」をもって之を見られることを恐れるものです。
 探偵小説界の二巨壁甲賀三郎、濱尾四郎兩氏は、麻雀界でも亦二巨壁濱尾四郎、甲賀三郎だと仰言います。麻雀の方はしばらく措くとして、探偵小説界の定評は既に動かすべくもありません。鋭敏刄の如く、尖鋭針の如き神經と、慧として神の如き洞察力。その異常な感覺に咲き散る神秘と想像の世界に至っては、正に兩氏の獨壇上であります。茲に冷徹の判斷と叡智の限りを捧げて想を練ること半歳、靈感到って初めてなる近代科學の密法、必ずや讀者の御嗜好に適ふものであることを信じて疑ひません。

淡路島通ふ千鳥…
戀愛・戀人・金錢・願望占ひ
(一個牌の占ひ方)
 此の方法は、自分の運命をたった一個の牌にかけて、その一個を信頼して占ふ方法であります。先づその占ひの目的によって使用する牌が異ります。
 戀愛問題――索子を使ひます。
 戀人占ひ――字牌を使ひます。
 金錢問題――筒子を使ひます。
 其他あらゆる願望――萬子を使ひます。
 若しもあなたが、戀に惱む時、その戀をどう處理したらよかと迷った時、あなたは先づ、索子牌をお撰びなさい。
 先づ百三十六枚の牌のうちから索子ばかり九種類三十六枚を抜き出します。それを全部裏向きにしてから、靜かにこれを攪きまぜるのです。恰度、洗牌をする時の様に、この洗牌は、二分間に限られてゐます。二分間より短くても、又長くても、その占ひの靈驗は狂って來ます。
 洗牌が終ったら、その三十六枚で左圖の様な縦横六枚づゝの四角を作ります。


 此處で、二つの骰子を取り出します。この骰子はなるべくよく轉がるもの程良い譯です。この骰子を徐(おもむろ)に平らな場所で振ります。そしてその骰の目の一つを上へ、他の一つを左へ、右の下隅の牌から數へて、その數の交った個處の牌を開きます。
 その牌に、あなたの運命、あなたの處すべき道が、全部懸ってゐるわけです。
 處で、今、骰を二つ振ってその目の數が三と四であったとします。
 この數に當る牌は二個あるわけです。と云ふのは、上に三つ數へる場合と、左に三つ數へる場合は、その牌が異ふわけですが、これは迷っては不可ません。咄嗟の感じでこれを撰ばねばなりません。
 處で又、それを圖に依って示すと――



 右の様な場合に上に三つ數へた牌でも良いわけですが、靈感によって五索を開いたとします。此の場合あなたの求むる解決は――
 解説表の中の五索の項を見ます。即ち
 ――總てはあなたのものです。身も心も。大地の果つる日まで……
 と云ふ事になります。あなたの愛してゐる方も、やはり身も心もあなたに捧げてゐると云ふ事がお判りになるでせう。

 處で、金錢問題に惱む時には、此れと同じ方法を筒子の牌を使用して占ふのです。又、その他のあらゆる願望、例へば明日の音樂會へ行き度いけれどとか、あの方が訪ねて來ると良いとか云ふ場合には萬子を使用します。その方法もやはり同じです。
 又、これは戀愛問題に附随するものですが、どの様な戀人があなたに相應(ふさわ)しいか、それを占ふ場合は字牌ばかりを使用します。
 字牌は全部で二十八枚ですから、これで前の様な四角を作るわけには行きませんから、次の様な四角を作ります。

 六枚づゝの四角がら、三五、四二と云ふあまり良くない數と二二、三三、四四、五五、の個所を空けて置くわけです。これで前記の場合と同様の方法をとります。
 處が、これには、八ヶ所の空欄がありますので、骰子の振り方が惡いと、この空に當ります。この空に當ったら、諦らめるのですね。當分の間、戀人が欲しいなどゝ云ふ事は考へない方が良いです。

一個牌の占ひ解説
戀愛問題(索子)
一索――決してあなたの事を忘れてゐるわけではありません。たゞ何となく…
二索――まだまだ、あなたには愛情が足りませんよ。
三索――あなたは疑ってゐますね。疑ひはお止めなさい。愛は信念です。
四索――大變、お氣の毒です、お諦めになった方がおためですよ。
五索――總てはあなたのものです。身も心も、大地の果つる日まで、……
六索――あなたの胸に芽生えたより先きに、あちらではあなたを憧れて居たのです。元氣を出してお進みなさい。
七索――不可ません。もう少し氣を引き締めて――。大切な事ですのに。
八索――あなたは餘り要塞堅固過ぎるのですよ。それではキウピットの矢は刺さりません。
九索――御覧なさい! 東の空を。あの赫らんで來る東の空を。曉です。明るい天地も、直ちに訪れます。
私にはどんな戀人が相應しいか(字牌)
東風――快よい微笑みと爽々しい氣性と、朗らかなこと梅の花に薫る東風の様なお方です。
南風――熱情。あらゆるものに對して限りない熱情を持つ人。あなたは幸福です。
西風――才氣換發。決して小才ではありませんが、その才人故に人から好まれもすれば憎まれもします。
北風――スティール。氷の様に研ぎすました、鋼鐵の様なお方。冷靜、どんな場合にも動揺しない心の持主。意思の強い處は、限りなく頼もしい。
紅中――ユウモリスト。あなたは、決して此の世の中で退屈しないでせう。それ程その人はあなたの生活に喜びを與へます。
白板――あなたに金錢上の苦しみを決してさせまいと、あの人は、何時も考へてゐます。お金持を戀人に持って、あなたは先づ何をなさいます。
緑發――濁った世に少しも染まぬ。汚れを知らない人。その人の心にはあなたの事より他はありません。
金錢問題(筒子)
一筒――今日、此日を外して不可ません。あなたの為めに備へられてある様な日です。
二筒――あなたの現在の状態は當分續く事でせう。
三筒――この上もない素晴らしい出來事が、あなたを待って居ます。遅れては不可ません。少しも早く。
四筒――もう少し控へ目になさい、分相應と云ふ事を考へるのです。そしてもう少し慎重に。
五筒――何をその位の事で苦しむでゐるのです。元氣を出して。そして積極的にお進みなさい。
六筒――危險! 後退りです。一足踏み出せば千仭の谷です。到底二度と浮び上れない深い谷ですよ。
七筒――あなたの爲めならと云って投げ出された限りない財源喜ばしいあなたの顏が見えるやうです。
八筒――もう。あの時代の苦しみを忘れたのですか。
九筒――隆盛。たゞ、それ一言に盡きます。なんと輝しいことよ。
凡ゆる願望(萬子)
一萬――此處一ヶ月ばかりの辛棒が肝心。急いでは事を仕損じると云ふものです‥‥。
二萬――まあ、お諦めなさい、全然望みはありませんよ。
三萬――來年三月です。來年三月が來れば必ず成就します。それまでは、唯自重あるのみです。
四萬――良い處に氣がつきました。此處に氣がついた事こそ、あなたが好運な證據です。直に決行なさい。
五萬――餘りと云へば蟲の良いお望み。これではいくら神様でもご承知なさいますまい。苦しい時の神頼みにしてもこれはどうも‥‥。
六萬――あつき心もて願へば、かなはざる事なし‥‥と云った具合です。要はあなたの心組み次第。
七萬――悲しみは一と時過ぎれば忘れるものです。やがて喜びの心があなたの心に湧き上るでせう。その時です。あなたの望みの叶ふのは。
八萬――あなたが現在の行びを改めない限り、まあ無理な相談ですね。
九萬――絶望! 絶望! 眞暗な前途、奇蹟を信じない限り、どうともならないのがあなたの運命です。

(解説オハリ)  


モダン千里眼
未來の配偶者 縁談が判る
(新麻雀占ひ法)
別法

 之はやはり一箇牌の占ひですけれども、全部の牌を使ふ所が違ひます。麻雀の牌は百三十六箇ありますから、トランプなどと違って、交ぜたり積んだりするのが中々手間が取れます。然し、決してそれを面倒臭ひなどと思ってはいけません。最も敬虔な氣持でよく洗牌し、心靜かに普通の麻雀をやる時のやうに、十七幢(トン)づゝ四角に組立てます。 それから心のうちに神様の名を唱へながら―この時に呼ぶ神様の名は別に極ってゐません。皆さんの常日頃信心してゐらっしゃる神様でよろしいのです―骰子を二つ取上げます。この二つの骰子にあなたの運命が懸ってゐるのですから、それを投げる時こそ、最も敬虔な態度でなくてはなりません。骰子の目に當った所が即ち開けるべき所です。次に取退けるべき數を求めなくてはなりませんが、それには自分の年から四の倍數を引けるだけ引いて(但最後の四だけは殘して置いて下さい)殘りの數を最初振った骰子の目に加へます。さうしてそれだけの數を開くべき場所の右から數へて取除き、最初に當った所から、取退けた數が奇數なら上を、偶數なら下をお取り下さい。
 かう云ふと何だか複雜のやうですが、つまり麻雀で牌を取り初める時、二度骰子を振りますが、そのうち一度は自分の年で間に合せる譯です。
 例を擧げますと、最初の骰子の目が十一だとしますと、對面が開くべき所となります。次に御自分の年が二十四だとすると、四の倍數を引けるだけ引いて最後の四だけ殘して、初めの骰子の目の十一に加へます。さうすると十五になりますから、對面の右から十五幢だけ取除き、十六幢目の上を取ります。さうしてその牌の種類によって次の表を見るのです。この方法ではどんな運勢でも見る事が出來ます。然し次の表は未來の配偶者に關する事だけを抜き出したものです。
 尚、この方法で縁談や相性を占ふ事も出來ます。それには鳥渡途中の遣方を變へれば好いので先づ最初に骰子を振って開くべき所を極め、次に自分の年から四の倍數を引けるだけ引いた數と、相手方の年から四の倍數を引けるだけ引いたものを、(但、兩方とも零にならないやうに、最後の四だけは殘して置く事)最初振った骰子の目に、加へた數だけ、開くべき所から取除きその數が奇數なら上を偶數なら下を取れば好いのです。
 (※注:最大二十となるので年齢加算後に四の倍数を引く、の誤りではないかと思われます。次の山への移動もアリなのかも知れませんが。)

取った牌の種類
未來の配偶者縁談
(骰子の目と自分の年の數で開く所を極める)(骰子の目と自分の年と相手の年の數で開く所を極める)
  東
 元氣のある美しい人です。然し金使ひが荒いですよ、きっと。
  大吉
 上々です。お互に短氣さへ慎しめば末永くですよ。疑ひありません。
  南
 少し憂鬱なのが欠點ですね。でも心は親切な人ですよ。
  半吉
 十年。さうですね。十年續けば心配ありません。それまでがどうも。
  西
 少し浮氣性ですよ。えゝ、お金は十分ありますが。
  凶
 双方とも我まゝが募って、まあ見込はありませんな。
  北
 しっかりした人ですな。男なら學者女なら才媛、冷靜なのが特長です。
  吉
 辛抱です。辛抱さへすれば、樂しい春が廻って來ますよ。
  白
 ぬらりくらりと捕へどころのない人ですな。呑氣な事は好い所ですがネー
  半凶
 要領を得ませんな。お互に思ひ合ってゐれば結果は惡くないでせうけれども。
  中
 さっぱりした氣性の人です。他人に好かれる性質ですから油斷がならない苦勞があります。
  吉
 間違ひありません。ピッタリ氣が合ってゐます。あんまり合ひすぎてゐる所に危險はありますが。
  發
 うまく行けば大成功。拙いとどうなるか分らない人ですな、御用心御用心。
  吉
 お互に愛し合ってゐるんでせう。どうも仕方がありませんな。氣をつけてさへゐれば間違ひはなからうと云ふ所です。
  一筒
 肥った活動家ですよ。お金となると少々心細いですがね。
  凶
 どうも餘り話が好すぎますね。もう一度考へ直すのですな。
  二筒
 むっつりした意地の惡い人です。然し、配偶者にはとても好いんです。
  大吉
 家庭圓滿疑ひなしですよ。然し稀には一人で歩きなさいよ。
  三筒
 どうも失禮ですが、兎角失敗し勝ちの人ですな。人には好かれますが。
  大凶
 この縁談は遺憾ながら纏りませんな。下駄を取替へたのがいけなかったのです。なに又好い縁がありますよ。
  四筒
 圓滿無類と云ふ人です。その代り人から少し馬鹿にされます。いや、どうも。
  吉
 纏りませう。アノ手紙が代筆だと云ふ事が分りさへしなければ。
  五筒
 嚴格な人ですな。少し几帳面過ぎますが、人から尊敬されます。
  半吉
 相性は好い方です。けれどもどことなく破綻しさうな危險性がありますね、御用心。
  六筒
 我まゝな人です。然し、その我まゝが又何とも云へない所で――お分りですか。
  凶
 女の方は確かですが男の方がうはついてゐますね。どっちかと云ふと成就しない方です。
  七筒
 とてもひねくれた人ですよ。頭は好いのですが、出世を取逃がすでせう。お氣の毒さま。
  吉
 何となく進まないやうですが、取逃がさない方が好いですよ。
  八筒
 眞直な氣性の人。然しお世辭が下手で上役年輩にだめです。
  吉
 上々の縁です。釣合ってゐる所が好い所ですよ。
  九筒
 子nメですな、人も好さうです。お金はまあ中位ですな。
  半吉
 先方が浮ついてゐますよ。諦めた方が好いかも知れませんな。
  一索
 賑やかな人です。お金もどっさりあります。けれどもケチン坊です。
  半凶
 どうも旨く行きさうにありませんな。例の借金の件がバレさうですから。
  二索
 竹を割ったやうな氣性と云ふのはこの人の事ですが、金に縁のないのが欠點です。
  吉
 これは良縁です。然し急ぐといけませんな。勸業債券を當てるやうな氣持でゐらっしゃい。
  三索
 オッチョコチョイですな。どうも失禮ですけれども餘り出世しさうもありません。
  中吉
 末で苦勞する恐れがあります。相手をよく見定めること。
  四索
 行儀の好い人です。然し當節は行儀では出世しませんからな。どっちかと云ふと、不遇ですな。
  大吉
 相当大乗氣上々です。好すぎて魔が差さないやう御用心。
  五索
 喧嘩早いですよ。どうも。女なら美人ですが、ツンと澄してゐるのが欠點ですな。
  凶
 どうも好くありません。あなたがあの時にあゝしたのが惡いのです。
  六索
 男女とも人に取り入るのが旨い人です。お金も出來ませうよ。尤も大した事はありませんが。
  吉
 相性は惡くありませんが、あの事が鳥渡心配です。
  七索
 之は亦物事に角を立てる人です。旨く行くとウンと出世が出來ます。拙く行くと失業ですな。
  半凶
 纏らないかも知れません。あなたがあんまり打算的だから。
  八索
 分らず屋です。お金はドッサリあります。配偶者には冷淡ですな。
  吉
 好いですな。あなたが變な見榮さへ出さなければきっと纏まりますよ。
  九索
 凝り性の方ですな。ズングリしたあんまり恰好のよい方ではありませんよ。
  凶
 本人同志は好いんですがアノ人がねえ。近頃は人を蹴殺す馬が拂底なので。
  一万
 甘え坊です。お金には縁のある方でせうが、結局身が持てませんよ。
  吉
 結構です。然し結婚しない前から人になんとか云はれないやうになさいよ。
  二万
 太っ腹の人です。お金はまあ無い方ですが、人望があるから心配はありませんよ。
  半吉
 駄目らしいです。アノ人があなたのアレを見たんですって。
  三万
 ヒョロヒョロとしたあんまり見ともよくない人です。でも見かけよリガッチリしてゐますよ。
  大吉
 大丈夫です。然し、今から妬くのはいけませんよ。
  四万
 頗る社交的な人です。一緒に銀座を散歩してもヒケ目を感じないのは好いですが、お喋りなのはどうも。
  半凶
 餘り喋り過ぎましたね。それが落選する基でしたよ。
  五万
 何不自由なく暮した悠たりした人です。地位も相當てすが、食意地が張ってゐると二つ好い事はないものですな。
  吉
 好い方です。成功ですが、お酒は謹しまなくてはいけません。
  六万
 美貌で金持で氣前も好いのですが惜しい事には意地張りでね、家庭はどうも餘り面白くありませんな。
  半吉
 やっぱり駄目らしいです。靴下の穴がいけなかったので。然し、そんなのが好いと云ふ人もありますから心配しないで。
  七万
 口前が旨いのですが。どうも落着きがなくて、けれども家庭は圓滿です。
  吉
 成功します。然しそゝっかしいのは直さなくてはいけませんな。
  八万
 信仰家ですな。その變り少し變り者です。品行の點では少しも心配のない代りに、些か融通が利かないと云ふ人です。
  大吉
 大願成就です。巾着の紐をしっかり締めてゐないと覘(ねら)ってゐる人が澤山ありますよ。
  九万
 圓轉滑脱、シャレの旨い人です。一體が呑氣ですから腹を立てるやうな事もない代りに、餘り金は殘りませんな。
  吉
 旨く行きさうです。然しそれだからと云って、餘り世の中を甘く見てはいけませんよ。

 尚二箇牌以上の占ひ法もありますが、それは始め骰子で開門を極め、次に自分の年の數から四の倍数を引けるだけ引いた數を加へて、一箇の牌を取り、次にもう一度骰子を振って、今度は自分の生れ月の數によって、同様の方法で一箇を取り、三度骰子を振って、今度は生れた日の數から四の倍數を引けるだけ引いたものを基として、同様の方法で一個を取り、都合三箇の組合せで運勢を占ひます、 この方法では三個の牌の組合せは種類だけ取っても(一索も九索すべて索子と見做して)百二十もありますし、人の生年月日は同じと云ふのが珍らしい位ですから占った結果は似通った點が少くなり、非常によく當る事になります。然し、それだけ複雜になりますから、こゝではさう云ふ方法があると云ふ事だけ述べて、後は省く事とします。然し、三つの組合せで旨く發中白を一箇づゝ引く事が出來たら、非常な好運が來ると云ふ事だけを申上げて置きませう。好運を掴みたい人はやって御覧なさい。
 つまり、骰子を二度振って開門を定める方法で、二度目の骰子の目を、自分の生れ年、生れ月、生れ日の數で代りをさせて、奇數偶數の差で上か下かを取り、都合三枚を取るのですが、それが發中白の各一箇宛だったら、好運この上ないのです。
 (※注:組み合わせは十種ですべて異なれば百二十通りだが同じ種類があるので二百二十通り)
 (※注:骰子の目が同じで生年月日での計算値が同じなら同じ場所になるのだが、都度元に戻すか積み直すのだろうか)

面白い數の占ひ
DS法・ピラミッド法
獨り遊ぶ法

A、D・S法
 この方法は、前記の始めの一個占ひの方式を使用します。即ちたゞ吉凶を占ふだけですが、これは占ひを必要としない場合は、麻雀の一人遊びにも利用出來ます。
 先づ前法の通り、目的によって牌の種類を選びます。その用途も前法同様です。
 一色牌三十六枚を以て六個づゝの四角を作ります。(前法中の圖参照)
 次に二個の骰子を振って、その目に當った牌を開きます。この方法を繰り返へして、だんだんと裏向きの牌を開いて行きます。そして開く牌がなくなるまで續けます。
 但し、同じ目が二回以上出た時はもう開く牌がありませんから(と云ふのは、3の4と4の3を開いた後に、又3と4が出たら、もうそれで終りです)殘ってゐる裏向きの牌の數を數へます。

  (※注:この図では白色が裏向き、灰色が表向きになっているようです)
 恰度右の様になった場合に、3と4が出たらもうおしまひです。其處で裏向きの牌を數へると二十二枚あります。
 残り牌による吉凶は――
  二十七枚以上殘り――大凶
  十八枚以上殘り――凶
  九枚以上殘り――吉
  九枚以下殘り――大吉
  全開――大々吉(これは又、反って恐ろしいものですよ。)
  (※注:さて、九枚の時はどちら?)

 これに使用する骰子は、なるべく癖のない骰子を選ばなくてはなりません。骰子によっては同じ目ばかり出る骰子がありますから。
 又、此の方法は二人乃至三人の競技にも利用されます。その場合は一人が索子、一人が萬子、一人が筒子を使へばよいのです。

B、ピラミッド法
 このピラミッド法と云ふのは、或る支那の富豪が、エヂプト見物に行ってピラミッドを見てから考案した占ひ法でありまして、ピラミッド法として傳ってゐます。
 これには百三十六枚の全部を使ひます。
 先づ全部の牌を裏向けにして、よく攪きまぜる。これにはエヂプト語と支那語との交った呪文を必要とするさうでありますが、殘念乍ら、その呪文は誰にも傳はらずに、考案者と一緒にその墓穴に葬られて仕舞ひました。止むなく爾後、此法を行ふものは、洗牌をしながら、アラアの神に願ふことにしてあります。
 洗牌を終へると、先づ自分の前に十七幢(十七かさね――三十四枚)を並べます。そして、殘りの牌を十五枚(※十四が正しい)を土臺として一側につみ重ねて行きます。そのつみ重ねる法は、土臺を十五枚その上を十四枚、その上を十三枚と云った具合に、一枚づゝ減らして積みます。最上段は三枚で終りです。
 判り難いかと思はれますから圖を以て説明します。


3枚
4枚
5枚
6枚
7枚
8枚
9枚
10枚
11枚
12枚
13枚
14枚
15枚

17枚
17枚
(※注:全部で百五十一枚となるので十五枚の段は不要です)

 右の様なピラミッドが出來たら、先づその上段の三枚を開きます。そしてもし同じ數(種類は何でも關まひません)があったら、その二枚を取り去ります。そしてその下側で上から邪魔をされてゐない牌を開いて見ます。そして又同數のものがあったら、二枚一緒に取り去ります。
 若し同數の牌のない時は、手前に揃へてある十七幢の右側の牌から一つ一つ開いて行って積んである牌を數を合はせて、山から取除きます。
 十七幢の方から開いた牌は別な場所に並べて置きます。この牌は無効となるのですが、その中の一番新しく開いた牌だけは使用を許されます。若しその牌を使用した後は、その次の牌も使用出來ます。
 かうして、これを繰り返へして、そのピラミッド型から裏向きの牌が取れる迄やります。
 字牌丈けは、種類にかまわず字牌同志で宜敷い。
 これで全開は――大々吉
 殘り十枚以内――大吉
 殘り二十枚以内――吉
 殘り三十枚以内――凶
 殘り三十以上――大凶
 と云った様な具合になります。
 これを人待ちに利用する場合は、殘った枚數を二で割って出た數の時間に、必ず待人來ると云ふわけです。

三 獨り遊び法
 最後に麻雀の一人遊びにもなり、同時に一人占ひにもなる方法を御紹介しませう。 之はやはりすべての牌をよく洸牌して裏向けにした後、十七幢づゝ四角に積み重ね、普通の麻雀の時のやうに、二つの骰子を二度振って開門を極めます。然し、この時に普通のやうに二幢取らないで一幢だけ取ります。次に又二つの骰子を振って、その數だけ、今取った所から左に數へて、その當った所を一幢取ります。次に又骰子を振ります。さうして今取った所から骰子の數だけ左へ數へ、一幢取り、又骰子を振ります。かうして七度目には手のうちに十四枚の牌が來る譯です。 さうしたら、能くてを見て、普通の麻雀通り不要牌を捨てるのですが、今假に九索を打ったとしたら、最後に一幢の牌を取って來た所から、左へ九つ數へてそこの上の牌を一つ取ります。次に二万を棄てたとしたら、今一枚取って來た所から左へ數へて二つ目の上の牌を取ります。上の牌がなければ下を取ります。 かう云ふ風にして次第に聴牌して、次に自摸って和了するのですが、この一人遊びの遣り方の特徴は、棄て牌をした瞬間に、その棄て牌によって摸をする所が極ると云ふ所にあります。云ひ遅れましたが、字牌はすべて十と勘定します。尚半幢の所はやはり一幢と數へます。王牌は拵へて置いても少しも差支へありません。 又王牌を拵へて置かなくても、牌が少くなるともう、九のつく牌を捨てゝは取るべき所がなくなると云ふやうな事になっていくつか、殘ったまゝ和了が出來ない場合が出來て來ませう。運勢を占ふつもりなら和了が出來たら幸運と考へもし清一色などが出來たら大々的幸運と考へて差支へないでせう。
 又この遊びで摸の回數を制限するのも一つの方法です。普通の麻雀では吃もポンもなければ、各自の摸の回數は十七八回ですから、それ位に制限するのも一興でせう。

注)誤りと思われる事は本文中 (※注:) で記しています。次号などで訂正があるかもしれませんが未見です。
注)句読点を一部追加、抹消、変更しています。


「探偵術座談会」抜粋
「文藝春秋」 1927.12. (昭和2年12月号) より

探偵小説と探偵實話―科學的犯罪―探偵小説の變化と範圍―犯罪發覺の端緒―現今の外國探偵小説―殺人犯人の性質―犯行上の職業意識―拘模・詐敷・紙幣贋造―大岡裁判―日本の名探偵  ※本文に小見出しは無し
出席者
甲賀三カ
大下宇陀兒
金子準二
濱尾四カ
森下雨村
尾佐竹猛

近藤經一
菊池ェ

菊池 ぢゃ食事をしながらお話をして戴きたいと思ひますが、あの探偵小説の發達といふことだとか、探偵小説と實際の話との違ひとか、その間の交渉だとか、それから現在の日本のまあ探偵術の状態といふやうな、いろいろな項目に付てお話を承りたいと思ひますが、最初に、探偵小説といふものと探偵とが、僕等が考へると非常に違って仕舞って居るやうな氣がするのですけれども……
森下 實際調べずに書いた……甲賀さんその邊をどうぞ。
菊池 小泉さんのあれは……眼(まなこ)とか何とかいふ話ですが、あゝいふ話を讀むと探偵術とかいふ處迄行かないで、たゞ手拭が證據物件になったといふやうなことですな。手懸りが非常に簡單で所謂探偵小説のやうな秘術的な分は、ちっとも無いやうな氣がするのですが、あれでは探偵小説と非常に違って居るやうに思ひますがね。
甲賀 小泉さんの話と實際の探偵小説とがですか。
菊池 探偵實話ですね。探偵實話と探偵小説とが非常に違って行くやうな氣がするのです。
甲賀 現在の探偵小説ではさうですな、大變に違って居ります、これは森下君の畑ですけれども、現在のやうな探偵小説が發達して來た傾向は、翻譯物なんかに影響されて發達して來た爲、實際の犯罪と全く没交渉に發達したですね。いまその爲に實際の犯罪と小説とは可なり距離があるやうな、探偵小説が出來て仕舞ったやうに思ひますな。
大下 探偵小説を書くのに實際のものを實際の通りに書くのは退屈なんだらうと思ふのです。事實物語は事實そのまゝにして、小説的味を加へずに書いた方がいゝと思ひます。探偵小説になれば矢張り極端に變格なものを書いた方が面白いと思ふですね。
 (大幅略)
濱尾 いまの甲賀さんのお話ですが僕もさう思って居るのです。二つ僕は探偵小説に進歩する途があると思ふ。一つは何と云っても變態的な小説、あれは探偵小説の滅亡と思ふのです。ポーだとかルブラン……私はルブランは好まぬですが、第二の本格探偵小説でも犯罪の取扱方よりも犯罪そのものが陳腐なんだ。例へば竊盗、それから一番多い場合は殺人事件ですが、それは讀者を釣る爲にセンセーションを起すことは已むを得ない。 私は犯罪を使った探偵小説は實際さういふ方面に出て來ていゝと思ふね。また死刑を宣告されるやつが仕舞ひに無罪になる。殺人事件と竊盗事件は却ってそのものゝ方の研究が違って居やしないかと思ふ。もう一つは今言はれた實録と小説の區別が殆どつかぬ。この二つの方面に進んで行かれると思ふのです。 僕はさっき仰しゃったやうな人に倦きられるといふが、シャーロック・ホームズのやうな人物が出て來ても、人は倦きないだらうと思ふのですが、だから本格探偵小説であっても、犯罪そのものを……これは僕が作るのではなくしてお願ひするのですが、何か奇抜なことを少し御考へになったらどうですか。さうすればシャーロック・ホームズが出て來てもルパンが出て來てもいゝと思ふのですが如何でせう。
森下 濱尾さんの仰しゃる通りですね。實際吾々も變態的なものではいけないと思ふですね。尤も本格的の探偵小説と言はれる以上はそれでなければいけない。
濱尾 皆さんお出での前で失禮ですが、ポーのやうな天才にまづ近付くことはちょっと難しい。だから彼方の方に行かうとなさるならば寧ろ本格探偵小説で押通す方法があると思ふ。江戸川亂歩氏のは面白いと思ふ。があれはそろそろ倦き氣味だと思ふ。尤も變態小説を取扱った事件ですから……
尾佐竹 それは別として、默阿彌物が後には、變態性慾的主人公を描きそれから、辨天小僧にしたって三人吉三にしたって、捕物の場を使ったことやギラギラした血を流して丁度今の行詰った世相や作物に似たやうな物になって居る。もう少し默阿彌が生きて居ると、段々變態性慾を扱って行くと思ふのです。
濱尾 默阿彌について思ひ出したが、それについて面白い話がある。小酒井不木博士が犯罪文學のことを研究しておいでゞすが、あれは實は私が一番初めに手をつけたものです。それを私はシェクスピアの劇へ現れた犯罪の研究を、丁抹のアウグスト・ゴルの著書から翻譯して大正十二年頃法律の雜誌に載せ、夫から思ひ就て日本の歌舞伎に現れたる罪人の研究と云ふのを發表した。 更に默阿彌の「島衛月白浪」を題材にして、其中の主人公たる松島千太、明石の島藏の二人の犯罪性を研究したものを、其雜誌に金富讃三といふ名で續いて發表しました。
尾佐竹 日本法政新誌に出たあれは君の匿名であったのですか。
濱尾 それを森下雨村さんが面白いと思って小酒井さんに示されたさうです。
森下 さうでしたな。
濱尾 それから自分も小酒井さんがかういふ研究が面白いと思はれてしたのです。小酒井氏が新青年に發表した同じ題材の論文と、私のとは見方が大へん異ってゐます。小酒井さんはヴルフェンの影響を可成受けて居られるやうですが、私はゴルの方から出發したからでせう。
 (以下略)
十一月五日夜 大阪ビル・レインボー・グリルにて


注)他にも興味深いところが多々ありますが冒頭部分と濱尾四郎の別名義の部分のみの抜粋とします。
注)明かな誤記誤植や人名漢字などは訂正統一していますが、そのまま残しているところもあります。


「探偵小説座談会」
「文学時代」 1929.07. (昭和4年7月号) より

出席者
江戸川亂歩
甲賀三カ
濱尾四カ
大下宇陀兒
森下雨村

加藤武雄
(佐左木俊郎)

探偵小説の流行と時代的意義
加藤 探偵小説の漫談といふやうなことをお願ひしたいと思ひます。近頃非常に探偵小説が流行するやうですけれども、其の流行には何か必然的な理由があると思ひますが、先づ、それについての御考察――といふやうなところからはじめて頂き度いと思ひます。つまり探偵小説の流行と時代的意義といふやうな問題ですが。
大下 これは寧ろ加藤さんに伺ひたいやうな問題です。比の頃僕思うたことですが、英國の世紀末文學ですね、あれの發生した時代と今の状態と一寸似て居やしないでせうか。今は一般讀者が非常に刺戟の強いものを好むやうになって來て居る。無綸因って來る所は違ふかも知れませぬが、状態は僕は非常に似て居ると思ふ。
加藤 兎に角「刺戟的」といふ點が近代主義の一つの特徴なんですね。
大下 さうでございませう。
甲賀 それは此の間、森下君が日日新聞か何かに書いてをりましたが、其の時にイギリスだったかの作家の言葉を籍りて言って居ましたが、一寸讀んだだけでよくは覺えて居ないのですが、それに非常に同感なんです。私はある所で話したのですが、詰り比の世の中が非常に物質文明が發連して來て、機械的文明が完成の域に達して、人間の生活が非常に平凡になった。我々は一生唯温和しく、何等波瀾曲折のない生活を其の儘すうっと過して了ふ。 人間といふものはさうなると何かで自分の存在を示したり、何か一寸變ったものに遭って見たいといふやうな考が反動的に起るだらうと思ふ。それを行働に現す。例へば電車の内で美しい娘を見たから直ぐつけるといふやうに、アクションに現すことは一寸普通の人には出來ない。從ってさういふ考を小説のやうなものを讀んで滿足させるといふ風に向ふだらうと思ふ。詰り普通の平凡に暮して居ただけでは到底味はふことの出來ないやうな生活を探慎小説を讀んで滿足させる。さういったやうな氣分が働いて居やしないかと思ふのですがね。 私、窃に考へて居る……詰り人を殺して見たい、人を殺して見たいといふやうな考はないかも知れないが、人を殺したらどんな氣持だらうとか……一寸變態性かも知れぬけれども、何か殺人といふやうなことに對して興味を持って居る部分があるとするのですね。併しそれをアクションに現す……殺人の經驗といふ事は却々出來る事ぢゃない。 それでさういふ經驗を書いた――又、探偵小説の作者も一々殺人を經驗して書いたのではなく空想に過ぎないのですけれども、やはりさういふものを讀んで殺人といふやうな興味に對する滿足を與へようといふやうな考が大分あるだらうと思ふのですね。要するに比の人生が非常に平凡になって來たといふことが却ってさういふ刺戟的なものが、流行する原因ぢゃないのですかね。
大下 平凡になったかね?
甲賀 非常に平凡になった。それはもう個人といふやうなものは殆んど認められない時代が來た。昔は政治界だって一人の雄辯家があって大聲叱咤すると皆從いて行くといふのであったけれども、今は頭數の政治で、一人の個人が特別な大きな働きをするといふことは出來ない。極端に云へば個人なんていふものは認められない時代ぢゃないかと思ふ。そしてさういふ傾向が將來益々ひどくなってくるだらうと思ふ。 比の間も話したのですが、例へば演劇のやうなものでも未だに昔の遣物である歌舞伎劇などは、名優が一人あって、其の名優に特別の役をさして、それを生かして芝居をする。全て一人の芝居でありますけれども、今進んだ演劇では特別なものはなくなって、個々の俳優が唯動いて、それを綜合的に一つの藝術に纏め上げる。件優の個々の演技などは認められない。 演劇に於ても尚さういふのだから、總てが個人なんていふものは段々認められない時代が來て、生活も個々の生活なんていふものは、今の日本は可成り相違がある様ですが、近き將來に於ては個人の生活といふものは、大臣の生活も月給取の生活も勞働者の生活も内容的にそんなに違はないやうになって來る。だんだんさうなって來る傾向がありはしないかと思ふ。是は私の考ですが、さうなると愈々人生そのものは平凡になってしまって小説で滿足しようといふことになるのぢゃないかと思ふ。
大下 それに反抗しようといふのですかね?
甲賀 反抗といふよりも、自分の個性が餘り認められなくなって來たから何かで自分の個人的存在を主張したいといふ、さういふ爲に何かしらん變った生活を營みたい、けれども、それをアクションに現すことはやはり斯ういふ風に秩序だって來た世の中では出來ない。例へば幕末時代だったら人を殺すことを經驗して見ようと思へば、案外容易く出來たかも知れない。けれども、今人を殺して見たいと思っても簡單に行かない。やはりさういふことを經驗して見たいと思へばさういふ經驗を題材に取ったものを讀んで見る。さうなりはしないかね。
加藤 生活が平凡化して來たから、それに對する反動として――。
甲賀 反動的に讀み物の上に於てさういふ刺戟的のものを求めるのぢゃないかと私は考へる。
大下 加藤さんの方ではどんな風にお考へです?
加藤 同感ですがね、そして、一體が今、神經時代と言ひますか、理智時代と言ひますか、さういふ方面にも探偵小説流行に積極的な理由があると思ふのです。しかし、江戸川さんの物などを拝見すると、「新しい戰慄を創り出した」といふ風な感じがしますね。
江戸川 私斯ういふことを考へて居るのですがね、今探偵小説が非常に流行して居ますが、一體探偵小説といふものは私共が以前愛讀した時分には本當に理解する人は非常に少なかったやうだが、現在でも探偵物を讀んで居る人と話をして見ると、本當に探偵小説の、さあなんと言ふか、眞髄を掴んで面白がって居る人は尠い。
甲賀 尠い、非常に尠いそれは僕も同感だ。
江戸川 だから表面的な、唯、人を殺すと刑事が出て來て追駈ける、さういふ物を讀むが、併し本當の探偵小説の骨といふものを讀んで居る人は非常に尠い。
加藤 探偵小説の眞髄――といひますと?
大下 一寸言ひ難いのでありますが、ドイルのホームズ物語とか、純粋探偵小説の方は本格的な、唯凄いとか恐いとかいふ方面はさうでないのですが、本格的な高級なものがあるかどうかと思ふ。
甲賀 ないな。
加藤 ほんたうに高級な探偵小説と仰有るのはどんな性質のものですか?
江戸川 一番良い例はルルウの「黄色い部屋」ではないかと思ふ。
大下 僕もそれを言はうと思った。
加藤 それはどんな小説ですか?
大下 筋は非常に言ひ難いのですけれども要するに密閉した室内の犯罪です。
江戸川 筋を話しただけでは、本當のよさは分らないが。……兎に角非常に理智的なものだ。
濱尾 今の讀者は高級なものを非常に喜んでるやうです。
甲賀 ですけれども尠い。
大下 書く方でも却々難かしい。……非常に論理的のところが出て來るのだから……。
甲賀 それでゐて文藝的作品……論理的にいって居るけれども、幾何學の證明みたいなものではない。
濱尾 ところで餘り秩序整然として居ては面白くないやうだ。
江戸川 理智的と云っても、何かそこに普通の人間の頭でなく、多少違って居る頭の人が好くといふ感じのあるものではないかと思ふ。理智の使ひ方が學問とも違って一種獨得のものぢゃないかと思ふ。そこの所が皆話をして見てもどうも好いて居ないやうに思ふ。非常に少數の人は話が合ふのだが……。
濱尾 今の讀者が將來高級になるでせうか? どうでせうか?
大下 ならぬですね。
濱尾 作者にとっては重大な問題ですね。
大下 やはりさういふ高級なものを好くのは非常に尠ない。
江戸川 本當に私共の好きな探偵小説は非常に尠い讀者を以て滿足すべきぢゃないかと思ふが。
加藤 といふと、本當の本格の探偵小説には、大衆性がないといふ事になりますか?
江戸川 さういふ風になると思ふ。併しさういふことを言ふのは損だらうと思ふが……。
濱尾 先程のお話ですね。どうして流行するかといふ意義は、やはり甲賀さんの仰有った通りですが、此の間僕も一寸法律家の會で探偵小説の話をした事がある。……相手が法律家だから法律に關係して居る點を調べて見たのですが、たしかロングといふ人が、所謂探偵小説らしきものはまづ第一に舊約全書にあるとか色々言って居るのですがね、所でギリシャ時代には、探偵小説の形をしたものがとにかくあったのが、ローマの時代に入ると、探偵小説がない。 御承知の通り、ローマの時代は法律の非常に發達した時代で、法律は先づローマから出て居ると云ってもいゝ。さういふ法律の非常に繁榮した、システムの非常に完成した時に於て、何故に、犯罪從って法律に關係ある探偵小説が流行りさうで少しもはやらなかったかといふことは、十分考へて良い問題だといふのです。法律家としてどう思ふかといふことを云ったことがありますがね。さういふことは何か一つの参考になるのぢゃないかと思ふ。……非常に讀者が理智的になって居て、さうして理智的でありさうな探偵小説が其の時代に出ない。 ギリシャに出て居るけれどもローマには少しも出てゐない、そこに何かやはり考ふべき意義があるのだらうと思ふ。
甲賀 それは少しこぢつけかも知らぬが、先刻お話したやうな自分とは全く對蹠的のものを求めるといふ……
濱尾 僕もさうだらうと思ふ。
甲賀 理智の非常に發達した人にとってはそれは面白くない。それを學問として研究するのには非常に面白い。けれども、娯樂として求めるのには却って面白くないと思ふ。森下君のよく氣にして言ふことですが、我々の書く探偵小説が専門家……法律をやった人とか、實際に携はって居る警察官の人とかには馬鹿にされるといふことをよく氣にするが、演尾君は前にさういふ方面に居て、今度作家になって考が變って居るだらうからそれを一つ訊きたいと思ふ。 詰り私共の理論で言ふと、殺人するといふことに縁の遠い人は殺人を題材に使ったものを喜んで讀むけれども、警察官とか司法官とかいふ犯人を直接檢擧したり、裁判したり、直接其の事件を見たり聞いたり取扱ったり、毎日のやうにさういふことに接して居る人は、却ってさういふものは讀みたがらないのだらうと思ふ。それですから、探偵小説が警察官や裁判官や檢事に讀まれなくても一寸も私は構はぬ。さういふ人達を喜ばすために決して書かれたものでなくて、却ってさういふものに縁の遠い人が喜んできっと讀んで居るのだらうと思ふ。 さういふ人違が偶々法律的に、それが非常に重大な間違ひぢゃ困りますけれども、少々法律的に間違って居るとか、實際に反して居るとか、なんとか言ふが、さういふことは重大な間違ぢゃないと思って居るのですがね。少し傍道にそれましたが、要するにさういふ人達が餘り、探偵小説を面白がらないのはさういふ經驗を小説に依って與へられる前に持って居るからぢゃないかと思ふ。
濱尾 理論は兎に角事實はさうですね。私が檢事をして居る時に檢事や判事で探偵小説を讀んで居る人は餘りなかった。どういふわけで讀まないかといふ事は甲賀さんの仰有ゃる通りかどうかは異論の餘地があるかも知れませぬけれども、兎に角讀まない。それから法律家の愛讀者の側から云へば今仰有ゃる通り僕は重大な法律的ノンセンスが書かれて居なければ構はないと思ひますね。僕は檢事の時分から江戸川さんのものや何か讀んで居たけれども、別段法律的に矛盾して居る點は氣になりませぬ。 唯併し、法律關係其のものがエレメントになる場合、例へば小酒井さんの「見えぬ顏」といふやうなのは刑事訴訟法がトリック其のものになって居るのだから、法律の解釋が違って居るといふことは作自體に影響すると思ふ。だから氣になるけれども、さうでなければ甲賀さんの言はれる通りで宜いのぢゃないかな、是は作者にならぬ前から思って居りました。
森下 (森下氏着席)遅くなりました。さ、どうか續けて下さい。
甲賀 加藤さんの御經驗でどうでせうか? 戀愛小説の讀者は戀愛といふものを非常に經驗して見たいといふ考はあるけれども、それを實際に移すといふことは却々容易なことぢゃない。だから小説を讀んで樂しむといふ傾向はありませぬか?
加藤 さういふ傾向が大分あるやうですね。實際生活に出來ないものを補ふ……補足作用ですね。
 一體併し探偵小説の流行は日本ばかりぢゃないのでせうね?
甲賀 外國の方が早いやうですね。
加藤 今一番何處が盛んですか?
大下 それは森下さん……
加藤 矢張りアメリカが一番盛んなのぢゃないのですか?
森下 盛んのやうですね。
濱尾 ドイツには出さうで出ないね。
甲賀 ドイツ人は理智的だから、理智的な人間に讀ませるにはより理智的なものを書かなければならない。それは難しいことぢゃないかと思ふ。尤も其の點では日本人もどっちかと言ったら理智的なものゝ中に入りはしないかね?

アメリカニズムと探偵小説
加藤 アメリカニズムと探偵小説の關係といふ事は考へられませぬか? アメリカニズムと特別な關係はないのですか?
甲賀 さういふ鮎は私はさう思って居りませぬがね……アメリカニズムとはそんなに深い關係をもって居ませぬと思ふ。併し一般の雜誌社などの方はどうもアメリカニズムと何時でも結び付けて考へて居られる様ですね。ですから書くにしても短いピリッとしたモダンなものを書くやうにと直ぐお考へになるのですが、書いて居る上から言ふと、どっちかと言ふと、イギリスの方ですね。イギリスの氣質なり國風なりが探偵小説に適して居やしないかと思ふ。
森下 イギリスにいゝものが多いことは事實ですね。アメリカにだっていゝ作家はある筈だが、そこがアメリカニズムといふか、ほんたうにしっかりしたいゝ作品よりも、寧ろテンポの早い、刺戟の強いものを喜ぶ傾向があって、どっちかといふと活動寫眞式の作品が多いやうだ。だから偶々ワ゛ン・ダインのやうな作家が現れると反動的に洛陽の紙價を高めるといふやうなことになるんだ。
江戸川 日本の一般讀者も存外アメリカのやうなものを好んで居るかも知れないと思ふ。
森下 さうかもしれぬ。まだ一般の讀者は外國のほんたうのいゝ作品を澤山讀んでゐないんだから。
濱尾 日本の讀者はどういふ人達です? 學生ですか?
森下 無論若い人が多いでせうね。尤も、年とった探偵小説ファンも尠くはないが。
濱尾 さういふ人に座談會をやってもらったら宣いと思ふ。例へば僕の知つて居る法學博士の松本烝治氏、あの人は探偵小説を非常によく讀んで居る。……西洋のでも日本のでも、あゝいふ人の要求するのは本格探偵小説らしいですね。それでなくては詰らぬと言って居ります。
江戸川 最近僕が聞いたのでは、大鳥圭介の息子さん、と言っても大分の年もう五十以上でせうが、貴族院議員で遊んで居て色々な探偵小説を見て居る。大分探偵小説が好きだといふことです。
森下 大分ありますね。京城大學總長の松浦鎮次郎氏、それから福田徳三博士なども好きだといふ話です。さう云へば牧野伸顕伯も好きだといふことを聞いてゐたので、或る會でお目にかゝったのを機縁に、ワ゛ン・ダインの『カナリヤ事件』を差し上げたら、英國のものは可成り讀んで居るが、アメリカ物は初めてで大變面白かったといふ鄭重な御返事をいただいたことでした。
濱尾 知識階級の讀者はやはり本格のものを要求して居るでせうね?
森下 さうでせう。相當年輩の人には、その方が面白いんだね。

探偵の實際と探偵小説
加藤 今演尾さんのお話では司法官の人達は餘り讀んで居られぬといふ事ですが、探偵の實際と探偵小説といふものゝ關係ですね、實際の探偵に探偵小説が役に立つといふことはありませぬか?
濱尾 さあ、どうですかね。
加藤 大岡政談などといふものは、あれは嘘かも知れませぬけれども、非常に司法官の参考になったとかいふ話をきいた事がありますが。――
大下 心理的のものは案外参考になるのぢゃないか? 併し兇器を探すとかいふ事は参考にならぬ。
濱尾 ロングですかの小さい本の序文に探偵小説の中のロヂックは何等意味がないものだといふ事を言って居ります。例へばシャーロック・ホームズは犯人は三人入ったに違ひない。何故ならばコップが三つ汚れて居るといふけれども、怜悧な犯人ならば二人で入って來て五つ位汚して相手を逆にごまかすかも知れないといふやうな理窟を言って居りますけれども、あゝいふことから言ふと参考にならぬと思ふ。 兎に角名探偵らしき者が一つのロヂカルに見えることを一言云へば、讀者がそれを判定するひまもなく、次へ筋を運んで行ってしまへば一つの立派なロヂックに聞えるらしい。ワ゛ン・ダインなんていふ人は色々勝手な理窟を言って居りますが、あれが一つの作者の腕だらうと思ふ。それから例へばシャーロック・ホームズは偉いと考へさせることが腕なんですね。
甲賀 と同時に、さういふことに就て一寸考へたことがありますけれども、作中で一生懸命に取扱って居るロヂックを、なんだ馬鹿々々しいと思はれたらもうだめですね。其の作品はもう讀まれない。結局學問的に調べたら随分馬鹿々々しいことがある。けれども、今演尾君の言ったやうに讀んで居る中には讀者に隙を與へない、終まで引張ってしまふ、それが手なんだらうと思ふ。あれを論理學の教材かなにかに使はれてやられたらたまらない。
大下 嚴密に調べたら有ゆる探偵小説に嘘がありませう。最前も話しましたけれども作者は之を意識しながらやむを得ずやることもありますからね。
江戸川 欺瞞を全然なくして探偵小説は出來ぬ。欺瞞があるから面白い。
大下 併し江戸川さんの心理試驗などはどうです。欺瞞がどこにもない。
甲賀 完全なやうですね。
江戸川 見方に依っては色々ありますがね。
加藤 心理的の方面から見ると参考になるものがありますね。
甲賀 詰りウイットですね。ロヂックでなしに思付きが参考になる。
加藤 心理のプロセスについての観察――といふやうな點で参考になりはしないかと思ふ。
大下 『罪と罰』に出て來るものなどは多少の参考にはなると思ひます。
甲賀 たゞそれは自然主義文學で、實際殺人を經驗した人の、司法官の前に出た心理状態を書けば参考になる。探偵小説は空想で書いて居るのだから、空想で書いたものが果してほんたうに司法官の役に立つかどうか疑問ですね。
濱尾 犯罪心理學者がさういふ事に就て澤山論文を書いて居ますがね、其の人達の結論を見ると「非常な藝術家の作でなければ参考にならぬ、例へばシェクスピヤの物は参考になる。書かれて居るのが時代等に拘束されない眞の人間であるから、オセロでもマクベスでも参考になる。(所が一寸意外ですが)例へばヰ゛ヨンとかヴィドックとかいふやうな、あゝいふ人の告白談といふものは却って役に立たぬ」といふことを言って居るやうですが、勿論其の中には兎角誇張するか小さく言ひたがるものであるといふ理由もあるのですが、 ある特別の個人の犯罪心理といふものは役に立たぬといふことを書いたのを見たことがありますが、さういふ人達から見れば探偵小説は人間が動いて居らぬ。人間性がないと馬鹿にされて居るやうです。是から併しどうなるか分りませぬがね。それから或る西洋の批評家はかう云ってる。何か作者が作中の探偵を讀者に親しませるために一つの術として一種の妙な性格を與へる。例へばシャーロック・ホームズは無暗に煙草を喫ったり、獨人であったり、戀をしなかったり、とにかく一種の性格がありますね、あれは作者の一つの手だな。
甲賀 どうも探偵小説が犯罪捜査の材料になるとは考へられない。捜査の方は全然別だ。
大下 心理的の問題に於ても、實はある事實物語の中にあるものを我々が材料にするのであって、此方で書いたものを彼方で参考にするといふことはないのでせうね。
森下 無論逆だ。犯罪捜査の實例が探偵小説の材料にはなっても、探偵小説が参考になるといふことは殆どあるまい。併しこんな話がある。今神奈川縣の内務部長をして居る南波杢三郎氏が長野縣か何處かの警察部長をしてゐた時、管下の中學校に放火事件があってその時、自分で出かけていって半燒の校舎の天井裏に上り、放火現場に落ちてゐた紙片を拾ったところが、それに四年生毛利といふ字があったので、全校生徒を集め、手の檢査をしたところが、顫へてゐるものが數人ある。 その中に毛利といふ生徒がゐたといふのだがこれなどは大岡政談からヒントを得たものと思はれる。 甲賀 それは相手が中學生のやうな比較的幼稚な者だから利いたのだが、少し複雜なものでは駄目だな。
大下 探偵小説を讀んで實際家に役に立つとすれば、これは空想といふことではないか。實際家は却々空想を働かせないけれども、探偵小説の方は空想の方が主なのだから、この空想の中に何か役に立つものがありはしないか。
森下 つまり探偵作家は實際の犯罪よりも、もっと奇抜なことを考へるからだらう。ありふれた犯罪を書いたのでは面白くないからね。
濱尾 空想から生れた事でも却って實際にあるものですね。昨日某法學博士から聞いた話ですが、事件の事らしいので内容に觸れなかったけれども、それは田舎ですがね、百何十萬圓の資産家が銀行が怖いといふので紙幣で全財産を取って置いて、十七の年から五十幾歳卅何年といふもの紙幣の完全な番人をして暮して居た。……晝は寝て夜、倉の中に入って火熨斗をかけたりなにかして樂しんで居たといふやうな話を聞いた。假りにさういふ人間があることを書いたって、讀者はそんな馬鹿な奴は居ないと思ふね。
大下 それを上手に書けば、江戸川さんが書けば宣いが、我々が書けば變なものを書くだらうと思ふ。
江戸川 實際は空想よりももっと酷いことがあるらしい。
甲賀 我々が空想してこんなことは先づ實際に於てない、突飛なことだと空想して書いたことが後に案外實際にあるといふことがよくあります。
森下 米國のアーサー・リーヴの科學探偵小説などがそれだらう。リーヴが小説の中に用ゐてゐる機械は、恐らく全然空想の産物だらうが、それが今日では殆ど實現してゐると云ったやうなもので、小説に書かれた突飛な犯罪方法だって、人智が進めば珍らしくなくなって來るにきまってゐる。
濱尾 實際に犯罪の方が先へ行って居るですね。詰り、犯罪そのものは實際の方が進んで居るのぢゃないかと思ふ。
甲賀 小説の方は犯罪の方法と捜査の方法を同時に考へて居るのだから宣いけれども、實際の方は犯罪の方法は全然不明で捜査を考へるのだから、それは難かしいでせうね。

科學の進歩と犯罪の變遷
加藤 兎に角今の探偵小説には犯罪心理學なんかの最新のものが取り入れてあるでせうね? 詰りさういふ學問的根據が深く入って居るでせうね?
甲賀 それ程ではないと思ひますね。
佐左木 心理學の方ばかりでなく、科學の進歩に伴れて犯罪の方法も變って來れば、探偵の方法も變って來ると思ひますが。
甲賀 手段の方は出來るだけ科學的になりませうが、けれども、犯罪の手段が科學的だからと言って、其の作が科學的とは言へない。探偵小説其の物が科學的だといふのは少し即斷だらうと思ふ。――他の小説よりも科學的なことが多いと言へば言へるかも知れませぬけれども、探偵小説を以て直ちに科學的の小説であるといふことは一寸言へぬかと思ひます。併し世間一般の人は非常に科學的のものだと思って居るのです。
大下 組立てに於ては非常に科學的ですね。
甲賀 少くとも論理的になって居るでせう。
佐左木 要するに科學の上で新しい發見がされて、若しくばされようとすると、探偵小説作家の知識なり空想なりが、そこ迄游いで行って色々な新しいものを取り入れることが出來るぢゃないでせうか?
大下 新しい發明などを入れるのは案外面白くない。
佐左木 アメリカの一番新しい探偵方法は、ラヂオで探偵するといふことを見ましたが、犯人が何處かに居るとそこから直ぐ放送局に電話がかゝる、放送局では犯人がどっちの方に逃げたらしいといふことを放送する。さうすると探偵の方では自動車に受ける物が着いて居て、到る處でどっちに逃げたかといふことを聞きながら、追掛けて行くから直ぐ捕まると云ふことですが……。
濱尾 さうなったら探偵小説にはならない。
佐左木 小説にはならないでせうが、科學の進歩に伴って變って來た探偵方法の一例です。
加藤 心理學など必要はないのですか?
甲賀 純粋の學問などは必要はないと思ひますけれど、さういふ事を基礎として知って居ることは大變に宣いことゝ思ひます。併しそれを生のまゝ作中に現すといふことは餘りないと思ひます。尤も近頃大下君は何か美術の方を研究して居ると見えまして、最近の作に二つ程それが出て來て居るので大下君なにかを讀んで居るなと思ひましたが、さういふ風なことが作中に出て來るといふことは却々面白いことですが。
濱尾 僕はその人の學問よりもむしろ實生活の經驗が出て來るし役に立つと思ふ。例へばドイルは印度へ行ったので、其の經驗が出て來る。學問は必要だと思ひますけれど、必ずしもなければならぬものとは思ひませぬね。
佐左木 心理試驗にも亦、いろいろ科學的なものが、進歩が應用されてゐるやうですから心理試驗の方法も、科學の進歩に伴れて變って來るのではないでせうか?
江戸川 大岡政談なんかに出て居る心理試驗と今の探偵小説に出て來る心理試驗とは大部違って居る。
佐左木 最近の小酒井さんのものに「網膜現像」といふのがありますが、あれなんかは、たしかに一つの心理試驗ですね。たゞ科學の力をかりて心理試驗をしたまでゝ。
江戸川 心理試驗ぢゃない。「網膜現像」といふことをトリックに使って居る。
甲賀 どんなのかしら?
佐左木 犯人の顏が、その被害者の、――被害者は死んでゐるのですが――網膜に寫って居るから、嘘をついても駄目だといふのです。
濱尾 それはトリックだね。科學そのものを取扱っては居ない。
佐左木 勿論、科學そのものではありません。科學的なものを應用したと云ふのです。
甲賀 小洒井さんのは讀んで居ないから知らないけれども、誰かそんなことを書いて居る。
大下 小酒井さんのは網膜現像を種に使って、トリックにしたので、前のは現像其の物なんでせう。唯小酒井さんのは「キング」に出たのでせう。
江戸川 あのトリツクは佐左木さんの云はれる、新しい科學の應用とは云へない。
佐左木 心理試驗としては新しいと思ひませんが、併し科學的な知識がなければ使へないトリックだと思ひます。
森下 古いですね、大岡政談的のトリックだと思ふ。
江戸川 科學的の書物を讀んで居るといふことに非常に宜いことだと思ふ。必要でなくても、讀んで居ますとハッと種が浮ぶ。非常にさういふ種を浮ばせるのに宜い。心理的なものでも、政治學とかいふものでも、さういふものを讀んで居ると、其の言ひ方なんかにヒントがある。

探偵小説作家の用意
加藤 さう云ふ點を話して戴けませぬか。この「文學時代」の讀者の中には随分探偵小説を書きたい希望の者があって、どう云ふ風にしたら宜いかと云ふやうなことを尋ねてくるのです。
甲賀 それには組立と云ふことが肝腎だらうと思ふ。
大下 それに就いて僕はチェスタートンの書いた物を讀んだことがあるのですが、それには探偵小説の書き方といふ本がない。なぜさう云ふ本を出さぬかと云ふことなどから書き始めて、いろいろ面白いことが書いてある.先づ探偵小説には外の小説と違って困難なことがある。それは探偵小説は事件の一番結末から始まるといふことだと言ふのですが、これは私も至極同感で、例へば、普通の小説はカタストロフィに行くなら、そのカタストロフィに行くまでの經過を書く。 ところが、探偵小説は結末から始まるから、必然的に小説が縮まって行く。即ち最初から、コンバージョンする。さうしてこれは讀者には面白くないことなので、作者の方では、それを途中で無理に擴げなければならない。そして非常に困難があると思ひます。それから同じくチェスタートンの言って居ることに、探偵小説に出てくる人物は皆假面を被って居るといふ言葉があるのですが、實際その爲にも又非常に骨を折ります。 作中の人物を正直に現せない。從ってそこにどうしても人間らしくない所が出て來易い。それを避ける爲に、途中で本當の人間を書いて仕舞っては小説の種が割れて仕舞ふし、已むを得ず假面を被せないと困ることがある。そこを上手くやれば宜いのですが、却々困難な所です。
加藤 性格なら性格が素直に出せない。歪められた性格になるのでせうね。
大下 例へば喋る言葉でも白い物を白いとは言はない。黒でもない。赤でもない。青でもないと、斯う言はなければならないのです。所が實際の人間は、さうさう歪んだものゝ言方をしないのだから、かうした作中の人物に向き合ってゐる讀者にとっては、これがどうも嘘つきな人間のやうな氣がして來る。そこを上手く妥協させて、成るべく本當の人間に見えるやうに仕向けて行くと云ふことが困難なのだらうと思ふ。 それから今話の出た組立ですね、是はポーの言ったことですが、ゼ・フィロソフィー・オブ・コムボジションと云ふものゝ中にあったのではないかと思ひますが、その中に書いて居ることは、自分は小説を書く時に一番初めには先づ作中のどこがその主眼であるかと云ふことを考へる。それに就いてその主眼にエフェクトを與へる爲には、どう云ふ要素が必要であるかと云ふことを先づ考へる。 それから排列(※ママ)を考へる。さうしてやって行くので非常に數學的に作ると云ふことをポーが言って居るのですが、探偵小説が矢張りさうだと思ふ。先づ一番最初に考へることは、最後の所です。作の最後になるべき所……さうしてそこへ行くまでの過程に非常に骨を折る。實際に作る前には外の小説家よりは頭を使ふだらうと思ふ。
加藤 探債小説では結末が先に出來る場合が多いのですか?
大下 さうです。チェスタートンが言って居る通りです。
江戸川 だから探偵小説家の一番苦しむことは、出來るだけ不自然なことを、如何にして自然に見えるやうに書くかと云ふことです。
大下 さうです。さうしてそれはあなたが一番上手い……(笑聲)
江戸川 それが不自然であればある程面白い。さうして不自然な程、むづかしい。
甲賀 あの『パノラマ島奇談』は随分苦心したと思ふ。
大下 割合に取つき易いのは犯人を主にして書いて行くと云ふ行方ではないかと思ふ。或る犯人のやって居る犯罪を眞正面から書いて行く。さうして終ひに犯人の錯誤からして犯罪が暴露して仕舞ふと云ふやうな書き方が、非常に入り易いだらうと思ふ。さうして一番むづかしいのは、所謂本當の、本格探偵小説ですね。犯人の書いて居る探偵小説……
甲賀 犯人の書いて居るものは僕は本格ではないと思ふ。
大下 僕は矢張り本格だと思ふね。尤もちょっと格を外したものもないぢゃないが……併し實際本格探偵小説はむづかしいです。

探偵小説とモデル 題名と思ひ付
加藤 矢張りあれでせうね。探偵小説にもモデルと云ふものがあるでせうね?
大下 そのモデルが使へませぬ。一體普通の人間では面白くない。成べく異常の人間を持って來なければならぬから……。
甲賀 我々はさう云ふ異常の人間を知らぬので、從ってモデルが使へませぬな。
加藤 例へば實際にあった珍らしい事件などを種にすることはないのですか?
甲賀 それは極く僅かしかないのですね。
濱尾 若しさう云ふことが出來れば、僕が筆さへ立てば幾らでも出來る譯ですが、さうはいかぬのです。
加藤 どうしてですか?
濱尾 どう云ふのですか、實際上の事件は面白くないのだと思ふ。
大下 それは探偵小説と事實小説とは全く違ふもので、事實の物語を探偵小説にすると云ふことは、むづかしいだらうと思ふ。
加藤 ヒントはさう云ふ物から得ることがあるでせうな?
甲賀 それはありますね。
濱尾 こゝに居る方で、事實問題を扱った方があるかどうか知らぬが、僕は「新青年」なんかの愛讀者ですから讀者の立場から云へばあれを讀んで見ても、是は事實を組んだらしいと思ふ探偵小説は、讀者としては餘り面白くない。詰り空想が無いからですね。どうも面白くない。
森下 小酒井君なんかの短い物には、空想も随分入って居るだらうが、専門方面の文獻とか事實から材料を得た物が可なりあるやうに思ふ。
江戸川 事實を扱ふとしても、その扱ひ方に獨創的な思ひ付があった。その獨創的な部分が面白いんだね。
加藤 江戸川さんの『陰獸』ですが、あの樂屋話でも伺ひたいですな。どうしてあゝ云ふことを思ひ付いたのですか。
江戸川 やァ、どうも頭の中でごねごねとこね廻して居る内に出來上ったのでして。
甲賀 あの●●●●(※伏字にします)と云ふことは初めから考へたのでせう?
江戸川 さうでない。初めは單純に或る犯人がヒステリーの女に脅迫状を出すと云ふことを考へた。それから段々伸ばした。
甲賀 あなたも頭を先に考へて、それから伸ばすかね。作家のやり方に二た通りあると思ふがね。頭を初めに考へて伸して行くのと、又一書初めに中心の核を作って、それに金平糖みたいに周圍をつけて行くのと、組立を考へるのに作者の癖として二つある。大下君なんかも矢張り頭を先に考へる方だね。それから後を付ける……。
大下 さうでない時もあるよ。尻を考へて、それから頭を作ることが多い。さうして頭を作って居る内に最初思付いた尻がどっかへ行って仕舞って、尻は又外の小説にする(笑聲)
濱尾 却々狡いね。
江戸川 人に依ると題名を初めに考へるさうですね。題名の魅力に依って作意が動くと云ふのですね。
森下 僕等も題を付けるのに一番苦しむが田中貢太郎君などは、題を先に付けて、それから書いて行くさうだ。
大下 そんなことは出來ませぬね、題と言へば良い題を殆ど二年越しに持って居る。『ガラス娘』と云ふのですが、どうにも書きやうがない。それはとても面白さうだと思って居るのだが……。
甲賀 登録したね。題名の登録などは困るよ。
大下 江戸川さんに賣らうと思ふ。
甲賀 江戸川君は『押繪と旅する男』と云ふ題は長い間登録してゐましたね。あれは到頭書いたが。
大下 江戸川さん、『空氣男』を書いたら、その次に『ガラス娘』をお書きなさいよ。
江戸川 何々娘とか。何々嬢とか何々男とか云ふのは少し鼻について來た。『幽靈嬢』と云ふのを書いたですね。
大下 『幽靈嬢』と『ガラス娘』とでは、ちょっと味が違ふでせう。
江戸川 その方が新鮮だね。
大下 新鮮ですよ。
濱尾 江戸川さんの遠眼鏡で見て居る内にすうっと小さくなって消えて行くと云ふ所、あゝ云ふ思ひ付は宣いな。僕なんかには思ひ付かない。あゝ云ふことはふッと思ひ付くのですか?
江戸川 偶然に思ひ付くのですね。
大下 あゝ云ふことは幾らか氣狂じみた所が無い人は駄目なんですよ。(笑聲)
濱尾 あゝ云ふ思ひ付は宣いね。
大下 僕もあれで感心した所がある。眼鏡で見て居る。初め見て居て、生きて居る人間だらうと思ったのですね。
濱尾 僕は何よりも、すうっと望遠鏡から小さくなって消えると云ふことが、兎に角宣いと思った。
江戸川 僕は眼鏡なんかゞ好きですから……眼鏡を反對に覗いて見ると面白い。
森下 江戸川君ほど突飛なことを始終考へてる人も珍しいでせうね。あり得べからぎることを、有り得ることにしようと苦心してるんだ。
加藤 ちよっと詩を作ると云ふやうな氣持が先に出て、それをあとからあたまで整理して行ったのですね。
濱尾 あゝ云ふことは僕には考へられさうもない。
加藤 實際『陰獸』などはどう云ふ頭で考へたか不思識だと思ふ。
江戸川 ねちねちと飽く迄も拘泥って考へて居ると、ああなるだらうと思ふ。外の人はねちねちと拘泥はらないのでせう。
加藤 あれは理智的でなしに、心理的になってゐるし、色々變態的の所も混って居れば、實に複雜な味ひを持って居る。
江戸川 私は考へる時に長く考へて居る。他の人は長く考へないから、さう云ふ混み入った物にならないのぢゃないかと思ふ。

トリックとテーマ ―探偵小説的興味―
加藤 探偵小説の色々道具立がありますね。例へば指故とか、現場不在證明とか、或は藥物とか、さう云ふ風な物ですね。今一番宜く使はれる道具はどんなものですか?
森下 色々あるけれども、大體用ゐ古されてゐますね。
甲賀 私は指紋とか、現場不在證明とか云ふものを主題にしたことはありませぬが、拵へた現場不在證明と云ふものは案外役に立たない。
江戸川 指紋なんか、古いから使ひ途はないが、現場不在證明はまだ使ひ途がありさうに思ふ。非常に突飛な現場不在證明は……。
森下 さうだね。現場不在證明は探偵小説につきものだが、たゞそれをどう云ふ風に上手く使ふかと云ふことが問題だね。
甲賀 最近現場不在證明を使った外國の物を讀んだが、どうも面白くない。
江戸川 何かそれに外のものが付加はらなければ……、現場不在證明だけではいけない。
大下 一體トリックだけでは駄目ですね。現場不在證明と云ふのはそのトリックの代表的のものだが、それだけではいけない。探偵小説を書く時には今はあらゆるものを、幾つも幾つも使ふと云ふことになる。
加藤 一つだけではいけないでせうね?
甲賀 外國の小説家は平氣で一つだけでやって居る。
濱尾 よく讀者が飽きないね。
甲賀 日本では讀者が尠いのだらうと思ふ。
大下 讀者が飽きないばかりでなく、よく作者が飽きないと思ふ。
甲賀 それは作者が日本のやうに職業意識を離れて書くと云ふことがないから、ボツボツ書いて原稿料を取って行かうと云ふ風に、外國の作者は考へて居るのぢゃないかと思ふ。日本の作者はワッと言はさうと云ふ考がある。外國の作者はワッと言はすと云ふやうなことは、どうでも宜い。書いた物を金に換へて行ければ宜いのだが、我々の中では讀者ばかりでなしに、作者仲間までも一つ唸らしてやらうと云ふ風な考があるから……、そこに叉進歩の見込もあるし、同時に益々複雜になって行って、愈々讀者が迷惑すると云ふことにもなる。
江戸川 案外一般の讀者は單純なもので宜いのだね。
甲賀 僕もさう思ふ。
加藤 短篇では宣い物がありますね。
甲賀 日本の方が短篇では進んで居りはしないかと思ひますね。
濱尾 僕は愛讀者であった時分に、感じたが今は少し自分も書き始めたから斯う云ふことを言ふのは工合が惡いが、讀者として言ふと、日本の物の方が面白い。と云ふのは外國の物は成る種のずばぬけた作以外は愚作が多い。随分讀むが面白くないよ。
加藤 日本では警察なんかもちゃんとして居るし、家屋の構避が解放的だし、探偵小説が發達しにくいやうに思はれてゐたやうですね。
甲賀 それだけ作者が骨が折れるのぢゃないかと思ふ。
濱尾 是は使って居る人があるけれども、實際的に考へると、日本では寶石の窃盗事件が書けない。大した寶石が無いから……。それから日本ではダイヤモンドならダイヤモンドを盗んで、僕がこゝに持ってをっても仕様がない。西洋ならアムステルダムか何かへ行って外の形に變へますが、日本ではどうにもならない。さう云ふものが用ゐられないから、そこにやり惡いことがある。
大下 日本人は寶石に對する趣味が無いのぢゃないでせうか。
濱尾 第一金が無いから…… 「文藝春秋」の座談會だったかで或る人が「そんなものは日本には無いよ」と一言に言って居るが、實際無いらしい。さう云ふ點は日本の作家は損だね。
甲賀 それから西洋人は遺産と云ふものを重大に見て、それを譲るにも非常に苦心して譲って居るが、日本では遺産の譲り方は無造作にやって仕舞ふ。
濱尾 日本では明かに相續法によって遺産の行方を定めてあるから勝手に外の人にやると云ふことは出來ない。例へば甲賀さんが遺産を全部僕にくれると遺言を書いても僕の所には來ない。
甲賀 外國では遺産の問題が可なり大きなテーマになって居る。
濱尾 ちょっと日本では、それが出來ないから困る。
加藤 逃げる場合でも、日本では外國へ逃げると云ふことが出來ない。
濱尾 旅券が下がらないし、むづかしいですよ。
森下 初めに戻るが、日本にはまだ長篇にさう良いのがない。是は日本の探偵小説がまだ若いからで、その代り短篇は確かに勝れて居るでせうね。と云ふのは作家諸君が非常に眞劍だったからで、それも「新青年」を中心にして、外國の良い作品が先に提供されたので、自然宜加減な作品では打って出ることが出來なくなった、それに今一つ作家が筆で飯を食はなければならぬ。といふ人々でなく、皆が本當の趣味から筆を執ったといふやうなことも重大な關係があるでせう。とに角、短篇は確かに外國より日本の方が進んで居ますね。
甲賀 長篇も初めから終ひまで書き卸して出せたら、相當の物が出來やしないかと思ふが、雜誌の連載などではどうも良い物が書けないと云ふこともある。
大下 道具が古いと云ふ話ですね。指紋を使ったもので、マーク・トゥエーンに『抜けウイルソン』と云ふのがある。あれが指紋を使って居って却々面白い。あの指蚊と云ふ物に對する知識がまるっきり無い頃の人を相手にして書いて居るのですね。却々讀んでゐても面白い探偵小説です。だから矢張り古い道具を使っても、まだまだ行き途はないことはないのですね。
佐左木 兇器と言ふか、藥物と云ふか斯う云ふ話があります。或る女が變んな死方をしたので、どう云ふ原因で死んだか、色々試験をして見たけれどもどうしても分らなかった。所が又同じやうな症状で死んだ者がある。それは、初め腸が惡いやうな徴候がある。さうして三月か四月經つうちに段々衰弱して行ってたうとう死んで了った。所がどうしても分らなかったので解剖して、腐った腸を顕微鏡で見たら、小さな硝子の粉が澤山ある。 是は普通の藥物で殺すと、直ぐ發見される恐れがあるので硝子を細かく碎いて、粉にした物をおみよつけや御飯なんかに入れて食はしたので、それが腸の襞に喰入って、そこから炎症を起して、段々腸が爛れて行ったのだと云ふことです。――さう云ふやうな話を開いたのですが、さう云ふことはもう書かれて居るのですか?
甲賀 何かで讀んだやうに思ひますね。
大下 それは保險金詐取で亜米利加でやったと云ふ事實の物語ではないかね。
濱尾 日本にあったよ。
江戸川 日本に實際あったと思ふ。今のお話は日本のことですね。
佐左木 さうです。
甲賀 さう云ふ場合に硝子の粉を毒物として法律的に取扱ふことが出來ますか? 濱尾さん! どうですか?
濱尾 とおっしゃる意味は硝子の粉が所謂一種の兇器になるかどうかといふことですかね? 犯罪に供したる物ですからさういふ意味から云へぼ兇器でせうね。ともかく犯罪行爲に供したものたることは明かだ。
甲賀 けれども、硝子の粉を飲んで死ぬと云ふことは從來の文獻には無かったら、どうです。
濱尾 從來の文獻にないといふ事は法律的には問題でないですよ。
甲賀 併しそれを醫學的に證明出來なかったらどうですか。
濱尾 それが爲に死んだかどうか、因果關係が認められなければむづかしい。
甲賀 けれども、從來それで人が死ぬものかどうか分ってゐないでやる……。
濱尾 お訊ねの意味は犯人が或る藥物の効果を的確に知らないで、他人に嚥ませたやうな場合ですね。殺人の意志があって、その藥をのませて、それが爲に相手が死ねば無論殺人事件ですよ。犯人が藥の効果を確實に知ってる必要はない。然し殺人の意志ある事と因果關係のあることは必要です。犯人がその藥物の効果をはっきり知らないで而もいたづらにのませたといふやうな場合は別問題です。
江戸川 さう云ふ兇器と云ふことで面白い見方が出來る。チェスタートンのプラウン探偵が、ある彼害者が非常に大きな兇器でやられたと云ふ。大きすぎて見えないと云ふのです。それは墜落して大地に頭をうちつけて死んだ。大地が兇器だといふのです。それに對して今の話は、それの反對に極微な兇器だ。
大下 チェスタートンの言ひさうな言葉だね。
濱尾 法律的興味と探偵小説的興味と云ふものが一致すれば、僕なんか随分有難いのだが、どうもそれは全然違ひはしないかと思ふ。
江戸川 演尾さんのお書きになる物を實際見ても、餘り法律的でないものですね。
濱尾 ほんとは法律的なものが書きたいのですが、恐らくそれは面白くないのぢゃないかと思ふ。だから金然是は法律的興味とは違ふのだと思ふ。然しいづれ書くつもりで居ます。
甲賀 併し演尾君がいつも云ってゐる通り現在の探偵小説は檢擧に終って居ると云ふが、今度は檢擧からスタートして、裁判になって自白を翻す。さうして又やり直したなんて云ふことは面白くはないかと思ふ。
濱尾 それを上手く書ければ宜いのだが。
森下 それから演尾さんに註文することは、法律的と云ふことも、所謂法律的でなくって、犯罪の方法とか、手順とか云ふものを實際的に取扱って見てくれませぬか。さうすれば我々は面白いと思ふ。倒へば英國のヂルノーやクロフツのやうに、警視廰の連中の捜索法をそのまゝ行ったといふやうなものも別途の意味で面白いと思ふ。
加藤 「週刊朝日」ですか、本當にあったことゝ云ふものを書いて居る。あれが本になって出た。あの中で『小笛事件』と云ふのが面白いと思った。
濱尾 あゝ云ふ風に長くなると面白くないと思ふ。
森下 相當面白いよ。
濱尾 僕はあれは中途までは全部讀んだが、あれから止めて仕舞った。
加藤 僕は面白かったです。少し長いと思ったけれど、あゝ云ふ事件は澤山あるでせうね?
濱尾 随分聞いてはゐますね。

私の好きな探偵小説と作家
加藤 今どこの國の物が探偵小説で面白いのですか?
森下 矢張り英國に多いでせうね。
加藤 どう云ふ作家の物ですか。
森下 澤山ありますね.矢張り物に依って、どう云ふ方面でと云ふことになって來なくちゃ、言へぬけれど……。
加藤 詰り一番愛讀して居る作家に就て、お一人づつ何かお話を願ひたい。
濱尾 僕はドイルですね。ドイルは何度讀んでも面白い。
加藤 どう云ふ所をお好きですか?
濱尾 本格探偵小説として一番良い。それからシャーロック・ホームズの出て來ない短い小説の中に良い物があると思ふ。僕がドイルを讀むのは短篇が多い。僕は一體探偵小説識は短篇が良いと思ふ。これは讀者として讀んで、……長いとどうも途中で飽きる。例のワ゛ン・ダインの物を讀んで見ましたが、途中を飛ばしたくなる。是は僕の惡い癖ですが……。
森下 併し一般の讀者は矢張り短篇より長篇でなければいかぬでせうね。
濱尾 僕はどうも長い物は飽きる――大下さんはどんな作家ですか?
大下 僕の一番好きなのはチェスタートンではないかと思ひますね。さう澤山も讀んで居りませぬけれども、何と云ふことなしに好きですね。幻想的な所などが出て來ると堪らなくなる。ちょっとした風景なんか書いても普通の人の書き方と違ひますね。藝術的のやうですね。
加藤 さうしてあの主人公は面白いぢゃないですか。
甲賀 ブラウンですか。
加藤 どれにもあれが出て來るのですか?
大下 いえ、この頃ブラウンの出て來る物は餘り書かない。ブラウンの出て來るのは二、三冊で、後は……。
濱尾 あれは僕にはどうもむづかしいのでね。僕は夜寝る時に讀むが、チェスタートンは大體筋はあるのだが實にむづかしくって眠くなる。
大下 それで、分らないで、さう云ふ所は益々夢幻的に引入れられる。
濱尾 甲賀さんは誰ですか?
甲賀 長篇ではウォーレスですね。それから短篇では矢張りドイルとか、チェスタートンとか好きです。私などは大體ドイルに師事してスタートしたやうなものですから、ドイルは矢張り好きです。
濱尾 作者になる目的があったら、ドイルは是非讀まなければならぬと思ふ。あれは手引でせうね。
江戸川 ルブランとドイルとどっちが好きだね?
甲賀 ルブランも好いね、それは實に好いね。
加藤 ルパンですか、あれは人間が好きですね。
甲賀 人間は星野君が拵へた點がありはしないかと思ふ。
森下 さう云ふ評があるね、本當のルパンは紳士六分に怪盗四分といふところだらうが、それが逆になってゐるらしい。しかし、それにしても星野君の譯は面白く讀ませるね。
加藤 あのルパンはすっきりした性格に出來てゐる。『813』などは面白いですね。
大下 興味、面白さと云ふことに於ては随一ではないかと思ふ。
濱尾 僕は探偵小説を讀む時は中學生のやうな氣持になる。例へばシャーロック・ホームズがルブランの中に出て來てアルセーヌ・ルパンと爭ってると、理窟なしにホームズを勝たせたいね。若しホームズを負かしたら。もうルブランの物を決して讀まないと思って居ると巧みに兩方に花をもたすやうに、上手く取扱ってあるので安心する。兎に角僕はホームズが非常に好きだよ。妙な男で……。
甲賀 それからさっきちょっと話の出たガストン・ルルーの『黄色の部屋』……本當は『黄色の部屋の秘密』だが、是は好い作ですね。又ルルーと云ふ人が大分書いて居るやうですが、好いのはその外にないやうです。
濱尾 江戸川さんは本格物として何が好きですか7
江戸川 僕は本格物としては、今のルルーの『黄色の部屋』は圖抜けて居ると思ふ。探偵小説としてルブランの良い所もあるし、ドイルの良い所もある。本格物として良い所は皆あるやうな氣がする。あれが現在に於ては最高のものではないかと思ふ、それ位いゝと思ふね。
甲賀 僕も非常に良いと思ふ。さうして人間が描かれて居る。
江戸川 さうして昔ドイルとか、チェスタートンとか、さう云ふ人の物を讀んだ時と同位の魅力を覺えるやうな作品は、現在では無いのいぢゃないか。現在のものにはあの位の魅力のあるものはないと思ふ。
甲賀 けれども我々が讀者として讀んだ時代と、作者として今讀むのと大分違ふからね。
江戸川 さう云ふことはあるかもしれないが、現在の探偵小説の作家で、ドイル.チェスタートン以後に出た人で、ドイルやチェスタートンの様な魅力を持って居る者はないやうに思ふ。最近ワ゛ン・ダインの物が非常に評判だから三冊とも讀んで見たが、ドイルの系統の物で、却々面白いが、新しいものではないね。
甲賀 ドイルよりもドウゼだね。
濱尾 作者としてバロネス・オルツイは一寸面白い。あゝ云ふ風に書いたら書き易いだらうね。
甲賀 『隅の老人』は非常に捏ち上げたねちねちした所がある。
大下 僕は嫌ひだ。
江戸川 『隅の老人』より傳奇小説の方が良いだらう。
森下 最近では、ワ゛ン・ダインの物が面白いと思ったね。無論缺點はあるが、兎に角筋も相當にいゝし作全體に新味があって筆も惡くはない。
甲賀 平林君の譯で讀んだが、兎に角出て來る人間が面白い。
江戸川 さうして最後に於て失望させないのが宜いと思ふ。近頃の大抵の長篇小説は偶然犯人が見付かるやうなものが多いが、ワ゛・ダインのものは最初からチャンと組立が出來てゐて、さうして非常に奇抜なトリックがある。その點が好きだ。從って古い、けれども。
濱尾 探偵小説愛讚術探偵小説犯人觀破術といふものを僕はこのごろ考へて居る。同時に如何に本格の探偵小説と云ふものがむづかしいかと云ふ事を感じたのですが、それはワ゛ン・ダインのべンソン殺人事件云ふものを初めて讀んだ。八十頁ばかり讃んで來た時に、兎に角犯人は小説の書き方で分って仕舞った。中をとばして終ひの方を見た所が、果してさうだ。尤もワ゛ン・ダインは犯人が分っても讀ませる所がある。ともかく分らせずに置くと云ふことはむづかしい。
江戸川 あの程度に分らせるのは、却って宜いかも知れない。
甲賀 分らせないと云ふのは譯はないが、それを發表した時に讀者に腹を立てさせないやうにするのがむづかしい。
加藤 併じ全然それが分らないではいけないでせう。
甲賀 さうなのです。是か知らん、是か知らんと云ふことをちらちらと讀者に感じさせ乍ら、最後にそれが現れても、讚者があゝ矢張りあれだったかと云ふ程度でないといけない。
濱尾 僕はこの作家が斯う書いて居るからこれが犯人だらうとあてると大抵あたる。要するにこの頃の作家のものは作者が何氣なしに澄まして居る者がその犯人だね。
江戸川 書く方で今度はその裏を行くか。
加藤 ポーの物は今でも宜いですね。
江戸川 さうですね、偉いですね。あゝ云ふ書き方はない。
甲賀 けれども大衆的ではない。
江戸川 僕は案外大衆的な要素があると思ふ。ポーには皆素晴らしい思ひ付がある。全體を讀んでむづかしくっても、その思ひ付を引出して見ると大衆的だと思ふね.
甲賀 大衆はさう云ふ見方をしないだらう。
濱尾 あの行き方でルブランの『水晶の栓』と云ふのは面白いね。
甲賀 途中で捕ったかと云ふ感じを抱かせて、それが皆駄目で、あゝ云ふ所は面白い。『水晶の栓』は良いものだね。
大下 ルルーの物は娘ナターシャなんかも良い。僕は翻譯で讚んだが……。
濱尾 森下さんは何がお好きですか。
森下 皆さん僕の好きな作家は云ってしまったが、殘ってるところでは、大概フレッチャーとモリスンなどが好きですね。共に所謂本格派ですが、筋の構成が非常にうまいのです。殊にフレッチャーのミッドル・テムプル事件の如きは傑作でせうね。
加藤 ルヴェルと云ふ作家はどうです。
大下 探偵小説家とは言へないかも知れませぬが、初期の短篇は探偵的興味をもった良いものです。
加藤 非常にピリッと握んだものがある。
江戸川 ルヴェルの『集金人』は良いね、それと自轉車で輕業をする……。
佐左木 『乞食』なんかも良いですね。
江戸川 あれは又別の意味で良い。
大下 良い思ひ付をして居るね。
江戸川 あれは日本の作家で似たやうな脚本を書いた人があった。關口次郎氏だったか、乞食が旦那になりたい氣持。
大下 眞似とは言へぬけれども、殆ど同じだね。

探偵小説の將來 ―大衆的と本格的・明るいものへ―
加藤 探慎小説は是からどうなって行くものでせうか? 大變漠とした問題ですけれども……。益々藝術的に進んで行く傾向と、益々大衆的になる傾向とあるやうですね。
森下 無論二た道に分れて行くでせうね。元來が大衆性の文學だから、その方へ進んでゆくのは勿論、一方では江戸川君みたいな探偵的興味と云ふよりも、寧ろ純文藝的傾向をもったものも出て來るでせう。
加藤 江戸川さんなどは全然大衆を相手にしないのですか?
江戸川 そんなことはない。
甲賀 あなたは大衆性があるぢゃないか。
江戸川 僕には幼稚な所があるから、大衆的だと思ふね。
濱尾 大衆にも二た色ある。高級的大衆とさうでないのと……。
甲賀 著書を買って讀んだりする大衆は高級な方ですから、江戸川君なんか高級的の大衆性がある。今の探偵小説の將來とか何とか云ふことになると、それは外國の傾向や、讀書界等の、外界の事情に支配されることもあるが、第一は作家の問題ではないかと思ふ。作家に江戸川君のやうな人がどんどん現れてくれば、盛んになるでせうし、江戸川君のやうな後繼者が無いと、さう云ふものを書く人が無くなる。將來どうなるかと云ふことは非常に作家そのものに依る問題だと思ふ。
江戸川 現在居る作家でも、皆が段々個性を出すだらうと思ふ。今は皆一緒みたいなものだが。
加藤 持味が出てくるでせうね。
江戸川 僕は斯う云ふことを考へて居る。こゝに居る人達の書くものではないのですが、例へば横溝君の山名耕作物などは本格的なものではないが、併しトリックはある。あゝ云ふものは新しい日本だけのものではないかと思ふ。あゝ言ったものがもっと出てくれば、それも一つの新型になると思ふ。
濱尾 このごろは探偵小説でもユーモアの多いものが受けますね。一般にさうですか。
甲賀 英吉利のモーレスなんかのものに非常にユーモラスのものがありますよ。
濱尾 けれども、特に近頃さう云ふものが迎へられて居るのでせう。
加藤 それは非常に要求されて居るですな。宜く雜誌社などで、ユーモラスなものを書く人が無くて困ると言って居る。
大下 明るいものを好くのでせうね。
江戸川 僕なんかの書くものは、一時代前の化物でちっとも新しくなくって、だから「新青年」に書く時なんか氣が負(ひ)けて困る。
大下 江戸川さんのものは暗くはありませぬよ。
江戸川 暗くないか知らぬが、ごつ臭いよ。
加藤 それは亞米利加あたりの輕快なものを對照にするから、非常に暗いやうに思ふのでせう。……どうも有難うございました。
速記擔當者 佃速記事務所員 (※人名略)


注)江戸川乱歩 (1894 - 1965)、甲賀三郎 (1893 - 1945)、浜尾四カ (1896 - 1935)、大下宇陀児 (1896 - 1966)、森下雨村 (1890 - 1965)、加藤武雄 (1888 - 1956)、佐左木俊郎 (1900 - 1933) 全員が著作権保護期間を終えています。
注)本座談会の現代語版が電子書籍で出ています。明らかな誤字誤植などは修正していますが現代語版との校正比較はしていません。入力後に気付いたことでもあり公開しておきます。


「凄い話(第十三回食道樂漫談會)」
「食道楽」 1929.07. (昭和4年7月号) より

六月十二日 赤阪瓢亭にて

出席者
長谷川伸
濱尾四郎
田中貢太郎
堀口九萬一
甲賀三郎
松崎天民

松崎 御忙しいところを有難うございます。長谷川伸君と大泉黒石君も見える筈でしたが、少し怪しくなりました。食道樂の座談會も今日で第十三回目――近頃怪談座談會とか怪談號とかいろいろ雜誌に出ますが、少し變態的に怪談に限らず、色々此の人間の暮し向き、男と男の折衝、男と女との刹那的の凄い話など、皆様の御體驗もある事と思ひます。無論怪談も其の内に含んで御願ひし度いのですが、何にもございませぬがぼつぼつ召上り乍ら御話を願ひ度い。
田中 私は話が下手なのですが、友人が發狂したのを見て居った話をしませう。丁度日露戰爭の時に私の村で初めて講演會が開かれて其の時に小學校で幻燈か何かあって、村の者が皆集ってそれを見て居りましたが其の時に私の丁度裏隣りの有人が、不斷は非常におとなしい男ですが、其の晩はヒヤヒヤなどと云って手を盛んに叩くのです。不斷そんな事をせぬ男だから不思議に思って居りましたが、それから三日許り經って、其の頃は國民軍がどんどん引張り出されて居たので、引張り出されると村の者が其の村境迄送って行くのですが、 其の村境の所は武市瑞三の生れた所で、丁度其處に瑞三の墓がありますが、其の側迄行くと小さい川がある。其の川が隣村との境になるので、其處で其の日の見送りの連中と別れて、村の外の者は皆歸って、私達若い者が十人許りで其の武市半平太の墓所の所で休んで居た。丁度其の墓の側に松があって、皆が手を掛けるに丁度よい位に横に流れた枝がありまして、其處に私と私の友人と他に二三人の者と凭れて下の道の方を見て居った。さうすると其の私の友人は家の方を見て居って、お婆さんが來た來たと云ふのです。 お婆さんと云ふのは其の友人を非常に可愛がって呉れる祖母です。其處の家は其のお婆さんが中心人物で、徳望のあるお婆さんです。其のお婆さんが來た來たと云ふものですから、私は何うして來たかと思って見ると誰も居ない。それを又、面白い面白い、お婆さんが來た來たと云ふのですね。其の様子が何うも可笑しい。それで私は三晩か四晩前の幻燈の時にヒヤヒヤなどと云った事を思出して、何うも調子が變ったと思ひましたから見て居ると頻りに獨り言を云って居る。 さうして顔を見様と思ふと、私の方を向かずに横の方を見詰めて、非常に妙に身體が浮立つ様な風をして居る。私ももう氣持が惡いから十分程默って居って、最後に、おいもう歸らうと云ふと、友人も歸らうと云って、今度は一番先になってどんどん下りて行くものですから私は後を追掛けて行くと、其の瑞山の墓場と道の間に小さい谷川の流れがありましたが其處に行って止まったから、どうもお前の様子が少し可笑しいから顏を洗へと云って友人に注意したら、直ぐ云ふ事を聞いて下に下りて行って顏を洗って手拭で顏を拭いて上がって來た。 そこで私は、どうもお前の様子が可笑しい、お前は少し注意しなければいけない、氣が違ふ人は自分が本氣になってしっかりして居ると、何んな場合でも氣が違はずに濟むものである、お前もしっかりしなければならないと云ったら、何うも私も此頃は變だとか何とか云って、家迄二三町ありますが、其の歸りは別に變った事は無かった。さうして私の家の門を入って、先生は裏口から抜けて歸って行ったのですが、さうして三十分位したらば又私の家にやって來て、小説を貸して呉れと云ふ。 そこで小説を貸してやると、斯うやって開けて見て、是は非常に面白い、何う云ふものですか、小説の裏が見えると云ふのですね。何うも様子が可笑しい。それでまあ一旦家に歸して置いて、其の家に行って友人のお父さんに會って、何うもあれは怪しい、斯う斯う云ふ事があって怪しいから注意せよと云ふ事を云ってやりましたらば、其のお父さんは非常に信心家で、それでは神様のお拂ひを上げようと云って居りましたが、私は反對で、お拂ひもよいけれども何とか手當をしなければならないだらうと云ふ事を云って歸って來た。 さうして夜寝て居たけれども心配なものですから矢張り隣りの家の方を氣を付けて居ると、其の友人が十時頃になって、お面、お小手と云ってやり出したのです。それで朝になって行って見ると態度が變って居る。それで家の者も心配して寝ずに居ると云ふ。それで私は兎に角高知市の腦病院に連れて行かうと云ふので、私と友人のお父さんと二人で友人を連れて小舟に乗って二人で艪を漕ぎ乍ら高知市の方に行った。すると舟の中で變な事を云ひ出した。私などが始終遊びに行って居った家の娘で最近になって嫁いだ女がある。 娘の時によく知って居た女ですが、一寸名望家の娘ですが〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇と云ふのですね。それでお父さんはびっくりして、そんな情けない事は云って呉れるな、と云ふ。さうして高知市に行って腦病院に連れて行って見せると、其のお醫者は是は胃病から來たので急に來たのであるから治ほると云って居りましたが、さうして半年位入院して居って、後は家に歸ってお父さんが見て居って、寝ずの番などをして注意して居た。するとその家から十二三町離れた隣り部落に其の男の好きな女が居りましたが、其の女の家から故障が來た。 夜起きて見たらば貴方の家の兄さんが私の家に來て居たと云ふ、つまり娘の所に忍んで來て居たと云ふ向ふの故障であります。何うも不思議です。さう云ふ病人が十二三町も離れた所に夜行ったと云ふ事は何うも信ぜられないのですが、それから家に居って三月許り養生して居たら治りました。治った時は、一日私と海岸を歩いて浪を見て歸りましたが、其の翌日けろりと治った。今は健全です。
堀口 其の後再發しませぬか。
田中 しませぬ。非常に胃の惡い男でしてね。其の胃が急に治ほったのです。胃が急に治るとよく來るさうですね。慢性の胃病が急に治ると精神に異状を來すものださうで。
甲賀 それを昔の人が何か憑いたとか何とか云ったのですね。
田中 それから序にもう一つ話しませう。
 是は伊勢の津の在の事ですが、其處に所謂明かずの家とか、明かずの間とか、云ふものがある。それは其の家のお爺さんがつまり其の明かずの間の中で一生出ずに亡くなった爲に誰も入らなくなったのですが、それで其のお爺さんの所にしょっちゅう來て居る旅商人が或る時にやって來て云ふのに、私にお願ひがある、私は札狐を連れて來て居るが、其の札狐の居る所が無くなったから、何處か外に封じて置かないと非常に禍ひをする。だから貴方の山の穴を貸して呉れ、と云ふ。 其のお爺さんは、何、馬鹿な事をと思ったけれども、お前が必要ならば山の穴を貸してやらうと云った。さうして其の翌日其のお爺さんが山を見廻って歩いて居ると、其の前日の行商が穴に首を突込んで死んで居たさうです。それを見てお爺さんが家に歸って來て、それから一間に入って出なかったと云ふのですね。
松崎 堀口先生、何か外國で凄い眼に會った事を一つ御話し下さい。
堀口 外國ではありませぬが、僕が十五の時に、今でも覺えて居りますが、私は長岡に生れましたが、長岡から六里離れた川口と云ふ所に柳舟學舎と云ふのがあって、其處に行って居りましたが、其の前に大野川と云ふ川があって、それを隔てて西川口と云ふ所があって、其處に西願寺と云ふお寺がある。丁度明治十二三年頃ですね。僕は今でも覺えて居りますが十五の年でしたが、其の頃はまだ小學制度と云ふものは、田舎ですからよく行はれて居らないので、其のお寺を小學校にして居た。 其處に教員をして居たのが僕の友達の小林次郎と云ふ男です。其の頃は若い者は皆天下とか國家と云ふ事を口にして居たし、又眞面目にさう考へて居った。立身出世しなければならない、女などには決して手を出してはいけないと云ふので、女との關係は非常に嚴しくして居た頃です。所が其處に教員をして居た先生は十八だったが、其の頃素性の好くない女を妾にして居たと云ふ事は後になって分ったのですが、或る時に僕はひょいと其の男の所に遊びに行った。さうすると其の女が脇に居って先生は其の女の酌で酒を飲んで居る。 酒が非常に好きな男で、朝から酒を飲まなければ居られぬ程に酒好きな男です。まだ十八だったが酒を飲まなければ手が震へると云ふ位でした。それで行って見ると女が脇で酌をしてやって居る。其の頃の學生は極くピューアと云ふか、敬虔と云ふか、或は馬鹿と云ふか、今日の學生と違って女などに近寄ると云ふ様な經驗は少しも無い。それが行って見ると女の膝元で斯う云ふ様な按梅にして酒を飲んで居るから驚いた。 それから僕は眞面目になって、おい小林、お前は何をして居る。女などと酒を飲むと云ふそんな堕落した根性の腐った事で何うする、と云って、それから其の女に向って私は云ふのですね。極く馬鹿な話ですが、書生の何等經驗の無い單純な頭から、お前は‥‥まあ今の言葉で云へば‥‥誘惑しやうとすろのだらう、僕の友達を誘惑しやうと云ふのだらう、是は今でこそ小學校の先生であるが、將來は東京に出て立身出世する男であると云ふ様な事を云ったのですね。所が此小林と云ふ男は何をさせても出來る男である。 歌も詠めば尺八も吹く。詩などを作らせれば七言絶句などは實に巧いものでした。其の位の才子ですから平常敬服して居るので益々堕落させるのが惜しい。それで友達を愛する心が極くピュアーであるからして、斯う云ふ事をしてはいけないと色々な事を云ひ、それから貴様は惡い奴だと云ふのでうんとむきになって其の女を罵倒した。すると其の男がすっと立上がったと思ふと、ひょいと僕を抱上げて、唐紙に向ってすぽっと僕を投げたものですね。さうすると其の勢ひで唐紙が向ふに外れたが、怪我はしなかった。 こいつはいけないと思って、お寺の此方が庫裏で、所謂本堂で酒を飲んで居たのですが、其の本堂の次の間に逃げて、其の下り口の所から下りて、跣足で飛出した。丁度秋の稲刈時分でしたが、前はずっとお墓になって居て、それから竹藪がある。其の竹藪の路の所に來ると、からからからっと云って何か白い物が竹藪の中を飛んで行った。見ると此の位の刀なのです。つまり其の先生が醉っぱらって居て投付けたんですね。
濱尾 其の頃はまだ刀を差して居たんですか。
堀口 つまりお寺だから床の間にちゃんと大小が飾ってあった。其の小刀の方ですね。それを取って僕の後から投付けたんですね。それがからからからっと云って竹藪の中に落ちた。危險いと思って後を見ると夜叉みたいな顏をして其の男が此方にやって來る。捉っては堪らないと思ったから、其の下は崖になって居たが、其の崖を藪でも何でも構はずに落ちたんだか飛んだんだか分らないが一目散に走って、漸く二三町行った時に後を振返って見たが、それ迄は後を振返る暇さへ無かった。 何しろ刀を投げたので、あの時位怖いと思った事はありませぬでした。まあ、酒亂なのですね。女と一緒に酒を飲んで居たのですから、酒亂になって居たのですが、實に怖かったですね。人間と云ふものは矢張り當り所の惡い所があるもので、其の先生は其の女に非常に熱中して居り、初めての女でもあり、餘程愛して居たさうです。それが又僕が見ると實に汚い女です。 ですから極くピュアーな心から、斯んな面付の蝦蟇みたいだ、觸はるも穢はしい様な女に酌をさせて酒を飲む、抱いて寝ると云ふ様な腐った心で何うすると云って罵倒したので、それがぐっと來たものと見える。其の時に私は思ったのでずが、なる程是は酒飲みにはうっかりした事は云はれないと云ふ事をつくづく思ひましたね。
田中 危なかったですね。
堀口 あんな危險い事は無かった。
濱尾 劔が竹藪の中を飛ぶ所が凄いですね。
甲賀 濱尾さんは死刑囚に御會ひになった事はありませんか。
濱尾 ありませんね。一番私が厭な氣持ちだったのは、私が初めて死骸を見た時ですね。見たのは東京の或るバーでコックが仲間を殺した時です。原因は極く詰らないが、其處の女給と三角関係になって片方が女によくされなかったと云ふのが原因ですが、殺したやり方が非常に凄い。さうして殺された顏が又凄い。絞殺したのですが其のやり方が凄い。一間に一緒に寝て居たのですが、寝て居る所を紐を首に掛けて、片方は自分の首に掛け、片方は足にかけて斯う突張って居り乍ら自分の腕時計を見て三分間さうして居たと云ふのです。 實に落着いたものです。それで不意にやったものですから顏が紫がかった黒い色をして居る。それから警察へ行って其の紐を取らうとしても中々取れない。何しろ手でやった力ではない。つまり完全に殺さうと云ふので片方は首にかけ、片方は足にかけて斯う突張って自分の腕時計を見て居たと云ふ、實に落着いたものです。やられた方の顏が凄かった。 それから凄いと云ふ程の事でもないが、周圍の状況と一緒になって凄かったのは、外にも斯う云ふ事は澤山あるかも知れないが、私が司法官試補の時分でしたが、何處か、目黒かの工場かで女を殺した。それが十年程經ってから犬が骨を掘り出して來たのです。それ迄は別段凄くはないのですが、是は法律問題として非常に面白い。それは自分の關係した女が妊娠した。それを殺したのですが、殺意があると云ふ事で起訴した。所がそれが法廷に來てから全然殺意を否認して居る。 つまり堕胎する心算で昇汞を飲まして目黒に連れて行ったので、殺す心算ではなかったと云ふのです。所がその男には堕胎の知識は無い。つまりそれで殺意を否認して居るので、其の點は法律問題として面白いのですが、其の時に證據品として白骨を法廷に持出したのです。もう十年も土の中に埋れて居たものですからよい加減なものになって居るのですが、時刻は夕暮で薄暗い。さうして其の壇上に白骨を竝べて是は何うだと云って居る。その様子は一寸凄かった。それは白骨其のものが凄いのではないが其の邊りの様子と關聯して非常に凄いと思ひましたね。 それから僕自身として一番怖かったのは是は月並ですが震災の時でしたね。僕はあの時は丸善に居りました。後にあれが潰れましたね。初めに大きい奴がやって來て、それが休んだ瞬間に僕は外に飛出したのですが、あの日の朝は雨が降って傘を持って居た。それで二階に行って探偵小説でしたが二冊手に持ってそれを買はふと思って店員に交渉して居る時にやって來た。邊りから色々な物がばたばた落ちて來る。途端に向ふの窓で白い煙がぱっと上った。前の家が潰れたんですね。其の内にシャンデリアががちゃがちゃと云って落ちて來る。 是はもう助からないと思ひましたね。其の内に此方が倒されて仕舞った。それ迄はまだ私の手には傘と洋書を持って居りましたが、後で人間は最後迄慾のあるものだと云ふ事を思ったのですが、兎に角それを投り出して腹這ひになったが、何うする事も出來ない。其の内に漸く初めの奴が一寸止まりましたね。其の時に五六間先にある傘を持ってそれから其の洋書を持って行かうか何うしやうかと云ふ事を餘程考へた事を覺えて居ります。 持って行っては泥棒になるかも知れないと思ったし、構はぬと云ふ氣もしたのですが、結局置いて來ました。それから下に下りて來ると二三人氣絶して居りました。そして急いで表に飛出したらば直ぐに續いて二度目がやって來たのです。
田中 丸善では慥か二三人死にましたよ。私などもあの時市中に出て居たらば何うなって居たか分らないが、前の晩酒を飲み過ぎて起きられないで家にまごまごして居って、無事だったのです。
濱尾 甲賀さんは何處に御出でしたか。
甲賀 私は研究所に居りました。僕は非常に早く飛出しました。
松崎 月並だけれども凄い話と云へば震災の話になるなあ。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。
濱尾 それで丸善の側にある家が、其の時は夢中になって居たので何處だか覺えて居りませんが、後から考へると、家が一つ潰れて居て、「此の下に人が居る、助けて呉れ」と書いた札が立って居て、側に其の家の人が居て何か云って居たが、誰も助ける人は無かった。
甲賀 私は餘り凄い眼に會った事はありませぬが、あれなどは今でも覺えて居りますが、人間と云ふものは元來大きいものが大きいと云ふ場合には餘り驚かない。奈良の大佛が大きいと云ふ事は誰も知って居るのですが、元來小さかる可きものが非常に大きかったりすると、随分驚くものです。私が中學時代に夏休みに友達と二人で輕井澤の方に行きましたが彼方に女瀧雄瀧と云って瀧がありますが、それを見に行かうと云ふので、道を聞いて行ったのですが、途中で踏迷って中々瀧に出ないのです。 其の内に到々谷に突當って、其處は斷崖になって居て、もう進めなくなりました。それでふっと下を見ると、何でせうかね、炭燒小屋の様なものがありました、其處に夫婦と子供と三人の人が見える。夏であるから皆眞裸身です。それから此方は。おーい、瀧に行く道は何處かーと云って聞いたのですが、それはちゃんと教へて呉れたのですが、其の時にどうも錯覺かとも思ふのですが、友達もちゃんと見たと云ふのですが、其の者達はずーと谷の底の方に居って大きい聲で呼んでやっと聲が届く位の所に居るのですが、其の裸身で居る男が素晴しく大きい。 女房と子供が居るのですが、それと釣合が取れない位に大きいのです。聲も吾々は大きい聲で叫んで居るのですが、其の男の聲ははっきりと聞える。聞いて居る時はそれ程とも思はなかったが、後でおい、大きい男だったぢゃないかと云ふ譯で、後になって凄くなって來ましたね。錯覺ではないかと思ったが、友達も慥かにさうだったと云ふので、餘程大きい男だったと思ひますね。
濱尾 山男と云ふのですかね。
甲賀 あゝ云ふ大きい男は居る筈が無い。居れば見付けて相撲にでもする筈だと思ふが、大分前の話ですが、あれは一寸凄かった。鯉などでも一尺位ならばよいが、二尺三尺となると一寸凄いですからね。
田中 竈なども随分大きいものがありますね。
濱尾 それから今の死刑囚の話ですが、是は受賣りで梅原北明君から聞いた話ですが、先生の友達に一人の男があって、其人は非常に貧乏をして何處かの裏店に住んで居て、其處で何か猥褻な寫眞を作って賣って居た。その男が貧乏して自分の屍體を賣る、自分が死んだらば解剖用に屍體を賣るから其の金を先に寄越せと云ふ事で、梅原君が世話をしてやった。其の内に其の男が死んだので其の屍體を梅原君が解剖用に帝大か何處かの病院に持って行ったと云ふのです。 さうすると其の後市ヶ谷の監獄に居る何も縁故の無い男から手紙が來て、是非貴方に會ひ度いと云ふ。何にも知らないけれども其の男は死刑囚であると云ふので會ひに行ったのです。梅原君の話では面會所の所に何か斯う扉があるのださうですね。さうして時間が來るとそれがすっと閉まって仕舞ふのださうです。さうして其の時間が非常に短い。 兎に角瞬間に會って話をする暇も無く閉って仕舞ったのですが、其の何の關係も無い自分の所に會ひ度いと云って來た男が、其の屍體を賣ると云った男と顏がそっくりであったと云ふのです。それが本當ならば凄い話ですが、錯覺としても面白いですね。
松崎 面白い。いゝ話だ。
甲賀 作り話としても一寸凄いですね。
濱尾 あれは何うなんでせうか。小光の執念的の怪談は‥‥。あれは色々傳へられて居て私等も方々で聞くのですが、或る程度迄は本當らしいのですが‥‥、何でも小光は清元が好きで巧かったらしいのですが、お俊傳兵衛を是非やり度いと云って梅吉の所へ行ってやって居たが、其の内に死んで仕舞った。さうするとお通夜の晩に‥‥是から先は色々バリエーションがあるのですが‥‥天井からお俊の稽古本がばさっと落ちて來たと云ふ者もある。それから可哀想だと云ふので、燒場にお俊の稽古本を持って行って燒いたと云ふ。 所が或るストーリーに依れば其の稽古本だけはそっくりと讀める様に其の儘になって殘って居たと云ふ。それから梅吉の弟子の名取りの女のストーリーに依れば、是は直接聞いた話ですが、夏其の女が葉山に行って居った。梅濱といふ名取りの女で、五十位のお婆さんですが、それが花を生けやうと思って居ると、是は作り話かも知れないが、非常に黒い蝶々が澤山飛んで來て室の中を飛び廻ったので氣持ちが惡いと思って、それから東京に歸って來て小光の死んだ事を聞いた。私の聞いて居るのは是だけですが、外に御聞きになりませぬかね。
田中 私は喜多村緑郎さんから聞きましたが、何でも小光は旦那が出來て鎌倉に遊びに行って居たのですね。
松崎 小光はそれ迄長い間、誰にも關係しないで居たが、死ぬ直ぐ前にふっと旦那が出來たんですね。
田中 それで鎌倉で遊んで旦那は歸って、女はお湯に入ると云って倒れて死ぬのですね。其の死んだ同時刻に此方の家の方で大きな音がして清元の稽古本が落ちた。さうして好きな所が開いて居たと云ふのです。
濱尾 同時刻に場所を異にしてゞすね。
甲賀 其の時に本當にそれが好きであったか何うかと云ふ事は疑はしいですね。本が落ちたと云ふ事實があれば、それに結付けて仕舞ふものですからね。併し何にも無い天井から落ちたならば怪談ですが、あるべき所にある物が落ちたのでは怪談の凄味が薄くなりますね。
濱尾 どうも凄い話と云ふものは無いものですね。自分だけの凄い話はあるけれども、客觀的に凄い話と云ふものは少いですね。‥‥是も凄い話ではないけれども、或る間男事件を調べた事がある。それが例の訴訟法では犯人を知って六ヶ月以内でなければ訴へられない事になって居るのですが、それが少し遅れて六ヶ月を出て居る。それで犯人は自白して居るのですが、自白して居る所ではない、現に同棲して居るのですが、訴訟を取上げる事が出來ない。 お氣の毒だが今では何うも仕様がありませぬ、と云ふと、段々その男の表情が深刻になって來て、宜しうございます。お上で取上げて下さらなければ私にも覺悟がありますと云ふ。何うすると聞くと、是から男を殺しに行くと云ふ。當時は鬼熊が人氣男で、鬼熊は情婦を取られたと云って憤慨して居るが、私は女房を取上げられたのです、私は是から行ってやっ付けて來ます、と云ふ。さう云った時に抑へる事は出來ない。直ぐに捉まへても、そんな事は云はないと云はれゝばそれ迄で何にもなもない。 意志表示をしたゞけであって、客觀的には何にも無いのであるからして何うする事も出來ない。私は當時はまだ上官の教へを受けて居たのであるが、それは脅かしではないかも知れない。本當かも知れないから、警察に云って置いたらよいだらうと云はれたのですが、其の儘にして置くと、翌日になって奴さん、額の所に怪我をして來たから僕は是はやって來たな、と思った。貴様何うしたと聞いて見ると、奴は外に情婦があるんです。 中々やる事が芝居がかって居る。先づ其の情婦に離縁状を渡して、是から男を殺しに行くと云ったらば、其の奴が妬いて取組合をやった譯なんです。其の時の怪我なんです。是はまあ餘り凄い事ではないけれども、僕が今迄實際に會った事の内で一番凄かった事ですね。此の男は姦通罪で犯人を知ってから六ヶ月放って置いたのです。知らなければよいのですがね。斯う云ふのはどうも困るですね。
松崎 甲賀さん。貴方は支倉事件をお書きになったが、あの時の話をして下さい。いろんな怪異があったさうですね。
甲賀 あれを書くと厭な顏をする人がある。だから名前を出さなければよいが、つまりあれは私が讀賣新聞にあの事を書いて居た時分に、關係者に皆病人が出來た。それが決まって皆女房なのです。それが可笑しい。第一は某氏ですが、是はお産で難産でしてね。手術迄したのです。是も一寸危險なかったのですが、それから一番非道かったのは繪を畫いて居た松野一夫君の細君です。是が流感で寝て居って、まだ繪が濟まない内に死んで仕舞った。それから風邪を引いて寝て居って産をして死んで生れた子が一人。 それからもう一人子供があったが是も風邪で死んだ。つまり三人死んだ譯です。是が一番非道い目に合った。それから私の女房です。私の女房はあれを書いて居る内に流産をした。皆女に關係があるのですから何も不思議な事は無い。女と云ふものはお産の時が一番危險なのですから、皆サイエンティフィックに説明出來るのですが、流産をして其の時に醫者や看護婦が來たのですが、産婆が自分ではもういけないからと云ふので醫者を呼んだのですが、心臟麻痺を起しかけて醫者が脈を見乍ら青い顏をして居る。 それで一時はもう駄目かと思ったが、幸ひに助かった。それで三つです。其處に持って來て彼處の文藝部に關係のある人の細君が病氣になった。それから松野君の細君が死んで一寸繪が畫けない。其の時に吉村君に畫いて貰ったが、是は吉村君が病氣になった。吉村君には細君は無い。其の吉村君が病氣になった。それから私の所に、明治大學に行って居る人で私の家に來て居た人が居った。 其の時に支倉事件の豫審調書を借りて來て、一々私が寫させたのですが、其の豫審調書が又凄い。殊に一番凄いのは、支倉が殺したと云ふ疑ひを受けて居る女が大崎の何處かで轢死をして居て、それが無縁佛にして葬られて居たのですが、それが支倉に殺された女らしいと云ふので発掘した。三年も經って居るので屍體は皆腐って骨計りになって居る。それが其の井戸から出た屍體か何うかと云ふ主を確めるにも骨が折れたが、それが井戸から出た屍體であるとしても、次に井戸から出た屍體が果して支倉が突落した女か何うかと云ふ事が又問題です。 それにはそれが支倉の家に居た女中か何うかを見なければならない、それを何うして見るかと云ふと着物が殘って居る。身體自身は腐っても着物は幾らか殘って居る。それは背中に當って居る帶の一部分と、帶の下になって居る着物の極く一部分とが殘って居る其は、井戸の中に水に浸かって、それから三年土に埋まって居たものですからはっきりとは分らないが、其の帶は上方式の帶で、晝夜式になって、表を裏に折返した特殊の帶です。それは慥かに其の女中の締めて居た帶です。 それから着物も渡邊裁縫女學校の校長が鑑定したのですが、それが豫審調書に貼付けてある。屍體と一緒になって井戸に落ちて土に埋まってぼろぼろになった切れが貼付けてある。それを寫して居る明治大學の學生が、凄いですね、怖いですねと云って居ったが到々病気氣になって仕舞った。決してそれが爲ではないのですが、前から肺が惡かったのですが、それ以來ぴたっと病床に就いて仕舞った。それから病院や何かに入れたが一月經たない内に死んで仕舞った。 是は前から惡かったので、支倉事件に關係した爲ではないのですが、偶熱に一致したのですね。それからもう一つあるのが面白いのですよ。それは博文館に太陽と云ふ雜誌があった時に其處に平林初之輔と云ふ人が居た。それから讀賣に平林譲二君が居た。 是は平林違ひなのですが、此の讀賣に居る平林君が松野君の細君の死んだ事を眞先に知ったのです。繪を頼みに行った事から知ったのでせう。さうして其の事を博文館の人に知らしたのです。さうすると博文館の、是は一寸名前を憚りますが、博文館の或る記者に電話がかゝって來たのです。それで聞いて見ると、細い女の聲で非常に遠くから、松野ですが、と云ったと云ふのです。それで松野君の細君だと思って何ですか、と聞いて居ると、ふっと切れた。 何うしたのかと思って外の記者に話すと、皆讀賣の平林君から聞いて居るから、松野君の細君は死んだ筈だと云ふ。それを聞いて其の記者は震へ上がったと云ふのです。一體誰から聞いたと云ふと平林から聞いたと云ふので直ぐに太陽をやって居た平林君に聞いて見ると、俺はそんな事は知らないと云ふ。つまり平林違ひなのですが、すっかり怪談が出來上がって仕舞ひました。
 [長谷川氏出席]
 それから先は長谷川さんが御存じです。松野君の怪談はあれっきり知らないのですが、あれは解決したと云ふ事を聞きましたが‥‥
長谷川 解決を付けては詰らないですよ。幽靈の底を割る位詰らないものはありませんからね。今日聞いた話ですがね、斯う云ふ話があります。種は新しいが、書いても構ふまいと思ふが.此の間死んだ林家正藏がね、一昨年の話だが、あれの友達で淺草の須賀町に住んで居る人の所にオートバイに乗ってやって來た。正藏の顏色を見ると非常に厭な色をして居る。 そうすると其の友達に一緒に一寸外に出て呉れないかと云ふ。何か用があるのかと云ふと、兎に角一緒に出て呉れと云ふので、一緒に出た。さうすると自分のオートバイは預けて省線電車の驛に行った。そして久保田萬太郎さんの家の側の驛で下りた。あれは日暮里か田端だったと思ふが‥‥
松崎 田端でせう。
長谷川 田端で下りて、斯うやって向ふの方を見て居る。さうして此方だと云ふ。一體何處に行くのだと云ふと、兎に角歩き乍ら話す、と云ふ。さうして段々坂を上がって行く。時々止っては、斯うして見て居る。それから、此方だと云って向ふの横丁に入って行く。さうして又曲り角の所に來ると、斯うして見て居る。何だか氣味が惡い。何處に行くのだと聞くと、後で話すと云ふ。たうとうお寺の中に入って行く。此處だ此處だと云ってお寺の中にどんどん入って行く。一緒に連れて行かれた奴は何が何だかさっぱり分らない。 さうすると正藏は坊さんに何か聞いて居る。此のお寺に何々と云ふ人のお墓があるかと聞いて居る。坊さんは過去帳を調べて、ありますと云って教えて呉れたので、其處にお詣りをしてお寺に歸って來て、今のお墓の身寄りの人が何方かにありませうかと聞いて、それは目黒の先の田園調布に某と云ふ姉さんの人が居って其の人が始終お詣りに來ると云ふ事が分ったので、其の所を書いて、女の戒名を寫して歸って來ると云ふと林家正藏先生すっかり元氣を恢復して居る。 それで家に歸ってから一體何うしたのだと聞いて見ると、正藏はそれ迄四晩續けて夢を見たと云ふのです。四晩續けたと云ふけれども、間を置いて同じ夢を四回見たと云ふのです。と云ふのは自分が一緒に居た事のある女の人がすっと出て來て前を歩いて居る。その女に自分は後から付いて行って聲を掛けやうとすると、すっと前の方に行って後を振返る。又付いて行って聲を掛けやうとすると、すっと前の方に行く。さうして歩いて行く内に門の中に入った。それが氣を付けて見るとどうもお寺の門の様である。 つまり其の女を夢の中で見掛けてお寺の中に入って行く所の道を、四度も見て居るのだからよく覺えて居る。田端で下りたと云ふのもそれなのです。夢の中の景色を其の儘追掛けて行って、結局お寺に行って探し當てたのです。それは何う云ふ譯かと思って聞いて見ると、斯う云ったさうです。あの人のお内儀さんが仔細があって居なくなった。何處かに行って仕舞った。それで自暴糞になって方々遊び歩いて居った時に、湯島天神の藝者に一人深いのが出來て御出なさいと云ふので其處へ行って、其處から寄席に出て居た。 所が其の女と云ふのは其の前に相撲を買ふ、役者を買ふと云ふ様になかなか藝者らしく發展した人であるが、それで一緒になっては居るが、單なる浮氣と云ふ様な所で夫婦と云ふ迄には進まなかった。ですから餘所から正式に細君を持たないかと云ふ話が出て來た時に、其の女には話さないで婚約をして仕舞った。それから婚約の話が決まってから默って居ては惡いと思って、其の女に、實は女房が出來かゝって居る、話が是迄に進んで居るが、お前俺の女房になるのではあるまいなと云ふ事を聞いた。 よくある話ですが、其の女は、えゝ、私は師匠のお内儀さんなどにならうとは思ってやしません、と云ったさうだ。それは正しい返事だが、それから片方の話は更に進んで結局正藏ほ其の新しい女と一緒になって、まあ當然藝妓とは別れた譯だ。さうすると其の藝者は白山に住變へて、白山から又他處へ住かへて、それから郊外の花柳界に住變へをしたさうだと云ふ事は分って居るが、時偶思ひ出すが、何處に居るかと云ふ程度迄は探しもしなかったし、又探さうとも思はなかった。それが今の夢を見たのでお寺を探して回向をして歸って來たと云ふ話なんだが。
濱尾 其のお寺が、其の藝者が死んで埋葬したお寺だったのですか。
長谷川 さうなんです。それから田園調布の姐さんの所に訪ねて行ったら、其の人は大變喜んで會って呉れたんださうです。それであの人は何時死んだのかと聞いたら、妹は大變貴方に會ひ度がって居りましたよ、と云ふ。あなたが知らして下さればよかったのに、死水位は取ってやり度かったと云ったら、妹は費方に會ひ度いと云って居たが、知らせない方がよいと思ふから知らせないで呉れと云ふ、だからお知らせしなかったのです、と云ふ。 さう云はれて正藏はそれだけの事がしんみりと應へたさうです。それから妹は貴方と一緒になり度かったと云って居りましたと云ふ事を聞かされて、正藏は参っちゃったさうだ。
松崎 いゝ話だね。實にいゝ話だね。
甲賀 創作では困るけれども、夢で昔の馴染女に會ったと云ふ事はありさうな事ですね。
松崎 何も友達に云はずに、一緒に行く所が面白いね。
長谷川 須賀町の友達と云ふ男の解釋に依れば、四晩も同じ夢を見て居るので出掛けて來たが、一人では氣味が惡かった。それで友達を連れ出したのだが、其の話をする餘裕が全然無かったのですね。それで顏色を變へて居たのだが、其の男は正藏とよく知合ひの男で、研究會の最後の晩には、研究會が濟んでそれから間も無く死んだのだが、其の晩には行かなかったさうだが、新聞を見ると出て居る。其の内に電話で知らして來た。 知らして來た時に行って見るとね。正藏はセルを着て居たさうだ。其のセルが一昨年行った時に着て居たセルなんだ。それで田端に出掛けた時は何時かと云ふ事ははっきり覺えて居らないけれども、正藏の死んだ日と略々同じ日だと云ふ。それは因縁を付けて、多分の架空を加へて、其の時には着物から聯想して日が同じであると云ふ事になりましたが、日はまさか同じではないと思ふ。
松崎 是は全部事實らしい話だね。
長谷川 僕に話をした男が僕に嘘を吐いた所で百にもならないからね。
甲賀 林家正藏が夢を見たと云ふのが本當か何うか分りませんね。
長谷川 併し正藏は嘘を吐かない男です。正藏を知って居れば直ぐ分ります。正藏から直接聞いたのではないからよくは分らないけれども、其の女と一緒には居たけれども、惚れては居らなかったらしい。向ふは惚れて居たが、正藏の方では惚れて居らなかったのだが、女が死んでから夢に其の女を見たので氣味が惡いから、自分は餘り思って居らなかったのだが、何か罪を消す穣な氣持で行ったゞけだが、姉さんの所に行って其の話を聞いたら、ぐっと胸に來た。正藏と云ふ男はさう云ふ男です。
堀口 所で藝者の心理は何う云ふものか知らないが、お前は俺を亭主にする氣は無いかと云ふ事を云はれた時に、眞に其の男を愛して居るならば普通の女なら何とか云ふ所だらうが、其處は藝者で、意地からも云はれないのでせうね。
長谷川 其處が面白いですね。當り前の女ならば、一緒になるわ、とか何とか云ふのですが、自分は相撲を買ったり、俳優を買ったりして散々道樂をした藝者であるが故に、ぢっと唇を噛み締めて、そんな氣はない、と云ふ所が實に面白い。
甲賀 今の御話は大分面白いが、夢の話を科學的に云ふと、本人は全然意識して居らなくても潜在意識と云ふ奴が一遍は必ず其處を見て居ると云ひますね。何時か、子供の時かに一寸も意識しないで見て居る所が夢に出て來るので、全然見ない所は出ないと云ひますね。併しそれも何うだか分らないが‥‥
長谷川 多くの場合はさうらしいですね。
甲賀 併し全然覺えの無い所を夢で何遍も見る事があるでせう。
長谷川 僕の女房が死んだ時、位牌を枕邊に置いて、其の側に二週間位一人で居りましたが、其の間外に一足も出ませんせしたね。朝起きてから夜寝る迄始終其の側に居た。つまり幽靈でもよいから會い度いと思ったのです。それから夢に見られるものならぼ夢でもよいから見度いと思ったのです。所が未だ曾て夢にも見ないのです。所が斯う云ふ夢は見ました。或るステーションに私が汽車で着くのです。其處に女房が居る筈になって居るらしい。 それで私はフォームに下りて其處に立って女房を探すんですね。探すと其處に居る人が皆此方に背中を向けて居る。此方を向いて居る人は一人も居ない。其の中に僕の方に向って女房が來るだらうと云ふ、さう云ふ氣持がして兎に角待って居る。待って居るけれども誰も來ない。其の内に兎に角再び汽車に乗って、汽車の窓から斯うして見て居るけれども僕の女房は來ない。其の内に汽車が動き出した。其の時の驛の名を知らうと思って一生懸命になって見たけれどもぼんやりして見えない。 それで何々と横に書いてあるものや、縦札のものを見やうと思っても何うしても字が歪んだ様になって居て見えない。けれども頭字の様なものを朧氣に記憶して居たので、それから鐡道案内を片端から見たが分らない。それっきりです。是などはつまり何でせうもう世の中に居らないと云ふ意識がある爲でせうね。
甲賀 つまり何うしてももう見られないと云ふ潜在意識がある爲でせう。
長谷川 それで夢にも會ひに來ないのは早く忘れさせる爲ではないかと云ふ様に其の時に私は解釋して居りました。一體凄いと云ふのは芝居などを見ても、幽靈自身が出て來ると云ふのは餘り凄くないね。幽靈の出て來ない奴が凄いですね。映畫などを見て居っても凄いと云ふのは餘りありませぬね。
濱尾 さうですね。矢張り幽靈などは出ない方がよい。例へば小道具などで何かばさっと落した方がよい。さっきのお俊の本がばさっと落ちたと云ふ様な方が怖いと思ふ。
長谷川 市川壽美藏君の話ですが、歌六が甲州の方に旅興行に出て夜中に、芝居を終ってから宿屋に歸って來たのですが、ひょいと聞くと廊下の向ふの方に子守唄が聞える。今時分子守唄が聞えるのは可装しいと思って、そっと行ってその室を覗いて見たら、室の中で若い女が後向きになって子供を抱いて揺って居る。それを何時迄も覗いて居ると、其の女が不意に振返って、斯う指差して、默っておいで、と云った。 是などは凄い。併しこれなぞは紙に書くと凄味が出ない。青い顏をして髪を振亂してどろどろやって居るのは餘り凄くない。尤も本當に見たらば何うか知らないが‥‥
甲賀 幽靈と云ふものは第一あるものであるか何うか。外國では、ホーフェンツォイエル家に属する伯林の宮殿の奥殿に幽靈が出たと云ふ様な話がありますがね。併し髪を振亂して居ると云ふ様な事は創作でせうね。
濱尾 大體、幽靈が血を流して出ると云ふのでは、物質不滅ですものね。
松崎 夜中にどんどん戸を叩く。今晩は今晩はと云ふ聲がする。誰が來たのかと思って戸を明けて見ると誰も居ない。軈て身内の者から電報が來て誰々が死んだと云ふ事を知らせて來る。斯う云ふ事はよくありますね。
甲賀 それは科學的な解釈を與へると、今晩はと云って戸を叩く様な音のする事は澤山ある。吾々は一寸もさう云ふ凶事が無い時に平生さう云ふ眼に會って居るのかも知れない。さう云ふ事があるかも知れないが、さう云ふ事が絶對に無くて、死んだ時だけあったと云ふならば不思議であるが、どうもさうではないらしい。
長谷川 西園寺八郎氏の思ひ者で、葭町に五郎丸と云ふ藝妓があった。其の五郎丸と僕の死んだ女房とは姉妹分だった。五郎丸は葭町に居り、僕の女房は麻布に居った。それで或る日女房は寝坊なもので、戸を明けっ放しで寝て居って大概九時か十時でなければ起きない。さうすると蚊帳の外で水色の着物を着て頭を潰しにして膝を崩して座って居る人がある。それで女房があんた五郎ちゃんぢゃない? と云ふと、えゝ、と云ふ。 それから蚊帳の中に入れと云ふ心算でせう。御入りなさいよ、と云ふと、えゝと云ふ。それで自分も起きやうとした。それが寝返りである。つまり夢だったのですが、はっと思って眼を覺ましたら誰も居ない。夢だったかと思って寝て居て見ると、蚊帳越しに蝶々が一匹飛んで居る。それから眠れもしないから起きて蚊帳を外づして居ると、其の蝶々は室の中をぐるぐる廻って中々出て行かない。
それから其の翌日かに死んだと云ふ知らせが來た。矢張り同じ時刻でした。けれどもね、僕は氣が付かないが外の人の話に依れば、さう云ふ知らせと云ふものは、知らせなければならない筈の近い人の所には來ないさうですね。知らせる程の深さの人ではない人に往々にして來るさうですね。さうして見るとかなり科學的に引繰返へせる餘地が十分にある様な氣がしますね。是は幽靈が無い方の話になりますけれども‥‥
濱尾 一體幽靈の形が出て來ると云ふのは物質不滅の法則になりますものね。精神とあゝ云ふ形に現はれたものとは關係が無い筈ですからね。
長谷川 池田一郎と云ふ俳優がある。非常に綺麗な役者ですが、岡山に興行に行った時に岡山の何とか云ふ料理屋の女中頭に惚れられて、其の女の所に養はれて居った。さうして岡山に芝居が掛かると其の女中頭が先頭になって世話をするので非常に勢力があって、それで岡山に芝居があると何時でも割込まして貰ってよい役をして居た。所が何時迄も男妾になって居たのではいけないから、大阪に行って一修業して偉い役者になり度いと、斯う考へて世話になって居る女中頭に大阪にやって呉れと頼んだが、やって呉れない。 それで始終其の事で喧嘩をして居た。とゞの詰りは喧嘩別れをしやうと云ふので、大阪に居る福井茂兵衛の所に手紙を出して前々から手筈をして、或る日こっそり汽車に乗って岡山を出た。すると岡山の市中に踏切りがあるさうですが、其の踏切りの所を通ると、ピーッと汽笛が鳴って汽車が止まったさうだ。軈てばらばらと人が駈けて行く。見ると遠くの方に何か黒い物が轉がって居る。誰か轢かれたのだと云ふ事は分ったが、晝日中から死ぬ者もあるのかと思って、自分の事ではないと思って平氣な顏をして居た。 さうして大阪に着いて、芝居小屋に福井茂兵衛を訪ねて行った。すると福井は鏡の前に座って顏を作って居たが鏡の中をふっと見て變な顏をして居る。それからまあ居るがよい、泊る所も無いだらうからと云ふので、番頭に、おい、此の男の泊る所を見付けて置いて呉れ、と斯う云って池田の方を見て、何だ、一人かと思ったら‥‥とつぶやいた。それから顏を拵へて芝居に出た。福井君の方は女房付きと思って居るが、當人は一人なんだ。 そのうち、兎に角綺麗でもあるし、追々役も付いて具合がよくなって來た。併し外の人が女が憑いて居ると云ふ事を云はない内はよかったけれけれども、何うかした拍子に本人がそれを知って仕舞った。其の前に何の氣無しに岡山の古い新聞をひょいと見ると、自分の乗って來た汽車に轢かれた者は自分の女である事が出て居る。それを讀んだ後の話だが、自分には分らないけれども自分に女が憑いて居ると云ふ事を人に云はれて當人自身がそれを意識した時からいけなくなった。 自分が舞臺に出て芝居をして居り乍らひょいと斯うして後を見る。どうも女が立って居る様な氣がして仕様がない。それも初めは何でもなかったが、終ひには段々本當に見える様になって來た。見える様になって來ると、酒を仰いで舞臺に出た。芝居の女形と云ふものは平生から優しい態度を取って居らなければならないのだが、それが酒を喰らって出るのだから、段々荒んで役が下がって、立役に廻される様になった。 それから舞臺に出て自分の臺詞の無い間、默って立って居ると道具の側の所に女が立って居る。それからもう年百年中酒を煽る様になった。酒を飲んで居る間は幾らか紛れるらしいのです。それからは白粉を塗った色の白い役は出來なくなって、三尺帶を締めて、べらんめーと云ふ立廻り役計りして居た。僕等の知って居た頃はさう云ふ立廻り役者をして居た。 それで女房と云ふ名の付くものを持っては自分に祟る、好きな女があっても女房にしてはいけないと云ふので、女はあっても女房と云ふ名の付くものは持って居らなかったのだが、さうして居ると、森三之助といふ役者が其の話を聞いてどうだ池田、お前は女房を持たない持たないと云って子供まで出來て居るが、子供を何時迄も私生兒にして置いてはいけないではないかと云ふと、いけないけれども祟って居るから仕方が無いと云ふ。それは何とか方法があらうと云ふので、岡山に連れて行って、何とか云ふ名僧の居る所があるが‥‥
松崎 岡山の蓮生寺かな。
長谷川 其處に行ってやってもらったら、それからぴたっと何も無くなった。それでお内儀さんの籍を入れたのだ、それから何年か經って亡くなりました。
甲賀 女の影は第三者に見えたのですか。
長谷川 さうです。第三者で第一番に發見したのが福井茂兵衛です。
甲賀 寫眞を撮って置けばよかった。
松崎 二人連れで座敷に上ったら、女中が三人分の膳を出したと云ふ様な話はよくある話だね。是は面白い話だなあ。
甲賀 非常に科學的で信ぜられますね。後の方がね。併し是は氣の弱い奴ならやられますね。見えもしないものを、お前見えるぞと云ったらばね。
濱尾 よく氣が變になりませんでしたね。
田中 それは酒を飲んだ爲でせう。
長谷川 全く酒の徳でせう。けれども我々と違って、さう云ふ芝居道の人には憑物があると云ふ事の實例を持って居る人が澤山ある。僕の知って居る人でも、西川薄之助、それから震災で死んだ丸山操などね。
甲賀 寫眞を撮って置けばよかったですね。英吉利のコナン・ドイルなどもさう云ふ寫眞は撮れると云って居りますが‥‥
長谷川 淺草に××と云ふ俳優が居りますが、是が幽靈の寫眞を寫して持って居りますよ。
田中 娘が琴を彈いて居る所に後の方にお婆さんが寫って居ると云ふ様な寫眞もありますね。
長谷川 僕が平山に聞いた話ですが、北海道の何處だったか忘れたが、或る船長が陸に上がって酒を飲んで居た。嵐の時ですね、さうして嵐を非常に氣にして居たさうだが、酒杯を六つか七つ斯う置いてね。それに自分でいっぱい酒を注いで斯うしてぢっとそれを見て居たのださうだ。側に女が居って混ぜ返したり何かしても全然相手にしない。さうして酒杯にいっぱい注いだ酒を見て居たさうであるが、暫くして、あゝ一人助かった、と云ったさうだ。 それから嵐が靜まってから、其處から何十里か先の海で難船して五人か六人か死んだが、一人だけは船の破片に囓り付いて救はれて居た事が分ったさうである。何でも酒杯に酒を注いでぢっと見て居ると、助かった奴は酒が踊るさうだ。尤も僕等はさう云ふ話を聞いても信じませんがね。 それから其の人は漁師の親方でしてね。或る時漁に行ったらぱ非常な大漁であったが、しけを食って陸に向って急いで歸って來る時に皆が眞青になったさうだ。船に浪がどんどんぶっつかって來る。其の浪の中から手が出て來るのださうだ。手が出て船縁に斯う手を掛けるのださうだ。それで外の者は眞青になって何もしないのださうだ。
それで船長は初めの内は口もきかないで居たさうだけれども、終ひには帆柱か何かに囓り付いて、手の出ると見える海に向って、お前達は海の者が海で死んだのに何が愚痴があるんだ。漁が澤山あったから陸に歸らうとするのを送って呉れたらよいぢゃないか。壽命があって斯うしてたった一人生殘って居る者を連れて行かうと云ふのは不人情だ、何をお前達は血迷ってるんだ、と云ったさうだ。さう云ったらば手が見えなくなったと云ふのですが、是はまあ、錯覺か何かでせうね。
甲賀 さうでせうね。けれども錯覺と云ふものは一人に起るものではありませんかね。大勢居るものに起ると云ふ事はあるでせうかね。
濱尾 客觀的に起る事があるさうですね。軍隊などでよく見るさうぢゃありませぬか。
長谷川 幽靈以外に凄い話と云ふのは都會などでは無いものですかね。京都の日活撮影所でね。夜遅く何處かに行って遊んだ歸りにタクシーなどで歸って來ると、向ふの方で明りを點けて劍戟の撮映をやって居るさうですね。それから、おや、今時あんな事をやって居る、何處の奴等だらうと思って、ろくすっぽう見ないで歸り、翌日誰に聞いて見ても知らない。そんな事をした奴は無い。それで結局狸と云ふ事になる。狸で解決するのが一番早いですからね。所が彼所に古く居る人ならば大抵出會はして居るさうですね。
松崎 錯覺なんだらう。
長谷川 何だか知らんが、話は狸が一番よい。けれども狸君が劍劇の撮影をやって居るのは實に洒落て居ると思ふ。愛嬌があって良いと思ふがね。
甲賀 狐とも云ひますね。向ふの方に火が列って見えるとか、馬鹿囃が聞えるとか云ふ様な事はあるらしいですね。
長谷川 狐火は私も見て居ります。私があれを見たのは私が兵隊に居た頃です。鴻之臺でしたがね。所が其の時脱營した奴がある。それを正當に引張って來たのでは罰を食ふ。一寸可愛がられて居た男であったから、罰を食はせ度くないと云ふので、私が一人で探しに出た。外に出るのには公務證と云ふ木の札があったが、それを貰って出た。さうして市川の停車場で網を張って居ると、奴さん歸って來た。歸って來たが罰を食ふので何うしやうかと考へて居た。 そこに丁度よく出會はしたのです。それで今ならば意見するのですが其の時は嚇かしてやった。馬鹿野郎とか何とか云ったと思ひます。兎に角其の男は初年兵で僕の方が古いから威張れたのです。それで市川の橋を越えて引張って來た。すると此方の方に田蒲がある。其の田蒲の中に狐火が澤山出て居るのです。狐火を見た時の感じは、此方が頭が何うかして居りますね。
濱尾 どんなものですか。
長谷川 赤い火は赤い火ですがね。それが上の方にも下の方にも不規則にあって、斯うやって泳いで居るのです。それが。人間の視野は是だけなのですが、それ以外に此方の方にも見える。此方の方にも見える。上の方にも下の方にも見えるんです。それでも兵隊ですから、足は兵營の方に計り向って歩いて居るのですががね。兎に角頭は非常にぼっとなって居りますね。それから兵營の前に來た時には非常にはっきりして居りましたが‥‥何うも凄い話って餘りありませぬね。凄くない話ならば知ってるんですがね。
甲賀 斯う云ふ眼に會ったらば凄からうと云ふのは何う云ふものですかね。
松崎 博奕打の亂暴者の中の話には今でも凄いものがあるだらうと思ひますね。或は現在では足尾銅山の坑内などには凄い所があるだらうと思ひますね。
堀口 さうでせうね。僕は入った事は無いが‥‥
濱尾(※長谷川?) 乃木大將の話だが、私の兄弟の學習院に行って居た者の話で、是は怪談ではないが、未だに分らぬと云ふ話ですが、乃木大將が子供の時に夜、眞暗闇の路を通った。すると向ふから傘をさした一人の女がやって來た。唯だそれだけの話だが、眞暗闇の中を非常に遠くからやって來る其の女の傘や着物の模様は分り得可き筈のものではないのに拘らず非常によく分った。私には今にそれが何う云ふ譯であるか分らぬと云ふ事を乃木大將が學習院の院長の時に生徒によく話されたさうですが、大將だけに嘘は無いでせう。 大將は其の他には何にも付加へて居ない。それが度々來て居ると云ふ様な事は仰らなかったらしい。唯だ一度だけで‥‥。矢張り分らない事になって居るらしいのですがさう云ふ話を聞いた事があります。それから博奕打に金神の猪之助と云ふ人がある。明治の中頃から末頃にかけて賣れた人であるが、此の人の乾分で名前は云はれないが東神奈川に居る人があるが、茲六七年會はないが、六七年前に會った時は七十三だった。其のお爺さんがね。夏になると晝間でも自分の鼻の先に男の顏が出て來る。厭な話だよ。 想像しても氣味が惡い。お爺さんに聞いてもちぇっと云って笑って話して呉れない。それで品川の身内の奴に、爺さんに顏が出ると云ふのは本當かい、と聞いて見ると、氣を付けて見ろ、時々斯う顏を背けるから、斯うやった時には眼を潰るからと云ふ。それで長い事氣を付けて居りましたが、矢張りさう云ふ事がある。何うかして居って差向ひで話をして居ると出しぬけに斯うやって眼を潰る。其の時には話を途切る。それで顏が出て來ると云ふのは嘘ではないと思った。
松崎 誰の顏なのか。
長谷川 それがね。若い時に喧嘩が澤山あって、斬ったり振ったりした事が頻々あったさうだ。其の内の一人で、竹槍で突いた奴があるさうだ。さうすると突かれた奴がすっと前に來た。竹槍で突いた時には、突いて突放すと、向ふはもんどり打って引繰返るのだが其の時には向ふがすっと前に來たのださうだ。さうして凄い顏をした面が殆んど自分の顏の所に來たさうだ。其の時の顏なんだ。何でも口を開いて居るさうだ。それは爺さんから聞いたのではない。 今ならば僕も商賣の種にする積りで、もっと詳しく聞いておくんだったが、其の時分などは原稿稼ぎなどをしやうと云ふ氣は更に無かったので、ろくに聞きもしなかった。聞かなかったけれども、鼻先に顏が出ると云ふので面白いから餘程心安くなってから聞いたのだが、それに又斯う云ふ疑問があったから聞いたのです。其の時分は頭に髷があったり無かったりする時だからして、明治の初めからさうそんなに此方に寄った時ではなかったでせう。 それからずっと時が經って居る。時が經って居るからさう云ふものが出て來るのは變でせう。それから喧嘩したのはもっと外にも澤山あると云ふのだがそれが出て來ないのは變だ。又それが出て來るにしても何故もっと若い時に出て來ないで年を取ってから出て來るのだか。斯う云ふ疑問があったから聞いたらば、其の爺さんが笑って斯う云ひましたよ、俺がよだれになったからよ、と。つまり俺が耄碌したからと云ふのですね。ぢゃ、お爺さん怖いかと云ったらば、怖かあねえ、と云って居た。
濱尾 夢などには出ませぬかね。
長谷川 夢には出ないが、晝間出て來るのですね。之を私はずっと後に小説にしやうと思って見事やり損ひましたね。書く事は書いたが全然物になって居らない。何うしても鼻の先に出て來る凄さが出て來ないのです。
濱尾 現實の凄いのでは博徒の先達の鶴見の事などはお詳しいでせうね。
長谷川 あれは無論凄かったらしいですね。僕の仲間の者が應援に行って見たら何でも戰場の跡の様なものだったらしい。
濱尾 一昨年頃でしたね。何とか云ふ親分と‥‥何とか云ふ親分と随分人數があったらしいですね。あの時には竹槍なども出たらしいですね。
長谷川 出ましたよ。あれは餘り近か過ぎるし、皆まだ生きて居るので一寸話し難くいのですがね。あれなどは凄い喧嘩でしたでせう。
松崎 餘り凄い話も出なかったが、面白い話は出た。いろいろ何うも、では此の邊で。
速記擔當――(※人名略)


注)長谷川伸 (1884 - 1963)、浜尾四カ (1896 - 1935)、田中貢太郎 (1880 - 1941)、堀口九萬一 (1865 - 1945)、甲賀三郎 (1893 - 1945)、松崎天民 (1878 - 1934) 全員が著作権保護期間を終えています。
注)明かな誤字誤植脱字は修正していますが、漢字違いなどそのままの所もあります。
注)句読点は若干変更しているところもありますが、口調の関係もありほぼそのままにしています。
注)後の「身の毛も棘つ怪談座談会」と重複している話もありますが全文ということで。


「身の毛も棘つ怪談座談會」
夏なお肌に粟を生ずる物凄い話ぞろい
「婦人世界」 1930.08. (昭和5年8月号) より

出席者 (いろは順)
元檢事
辯護士
濱尾四郎
創作家長谷川伸
創作家田中貢太郎
陸軍大佐櫻井忠温
俳優喜多村緑郎
畫家水島爾保布

=相撲を取りたがる化物=
記者 今晩は一つぞっとするやうな物凄いところをお話願ひたいと存じます。
田中 私の國の先輩で、横山又吉といふ人がある。板垣さんの門下で、自由黨の建白書や、色々文章を書いた漢詩人でありますが、この人の話によると、どうも昔は至るところで火の玉が飛んだり、陰火が燃えたり、馬の首が飛んだりしたことがあるが、近頃なくなった、あれが不思議でならないといってをります。 私なども小さい時はよくへんなものを見た。或は眼の錯覺であったのかも知れないが、藪の間などを通ると、青い火がとろとろ燃えてをったやうな記憶がある。私の國は高知縣浦戸港の入口ですが、そこは一方土佐灣に臨み、一方は浦戸の入江に臨んでをる半漁半農の小さい町で、土地の人はあまり宗教心をもたない。坊さんなどはあの坊主奴! で片づけるほど尊敬しない。まあさういふ土地柄でしたが、よく馬の首が飛んだとか、大入道が出たといふやうな噂が絶えない。 それからまた高知にはしばてんといふものがあって、私どもの村にも出た。そのしばてんといふのは、普通は小坊主の形をしてをって、夜醉っぱらひなどが通ると「相撲とらう相撲とらう」といって近よってくる。醉っぱらひは、何を小僧奴、投潰してやるぞと思ふんだが、何回やっても投げられる。口惜しい口惜しいといって一生懸命になってをると、夜が明けて、本人はその邊にある大石塔と相撲をとってをった。時には荊の藪の中で荊と相撲をとって、身體中血みどろにしたといふやうなことがよくあった。 それからもう一つ私の經驗してをることは、高知市の北の山に法經堂といふのがあって、そこに陰火がある。新しいおろし立ての草履をはいて、怪火(けちび)といって呼んで招くとすぐ側へ來る。どこにをったか分らぬやつが、側の松の木や大きな木の側へ來る。或は火の玉が傘のまはりに止るといって恐れたものであるが、私などもその法經堂のけち火なるものが私の村へ飛んできて、浪打ち際の松の枝にかゝってをったのを見たことがある。さうしてその火は風の具合か、一定の場所をあっちへ飛び、こっちへ飛びする。 それから、私の村は海岸ですから、地曳網を曳くのですが、網を曳く場所が一番二番三番といふやうにきまった場所があって、その八番の海岸の松の木には、傘のやうに上へパッと上って、蛍火のやうにポロポロ小さくこぼれて、時がたつとまた集まってまたこぼれる。これは八番のけち火といって、私の國では有名なものです。

=人間にとりつく犬神の怪=
記者 それは本當にあったものなんでせうか。
田中 たしかにあった。私が十二三の時にはよく見たことがあります。どういふ關係で出たものか、今はあるかないか、多分なくなったと思ふが、まだその外にえんこうといふやつがある。子供たちが、夏海に泳いでをって溺死すると、えんこうに肛門を抜かれる‥‥
水島 それは河童といふやつですね。
田中 よくいふ河童のやうなものだと思ひますが、それについても、色々面白い話がある。もう一つ面白いのは犬神といふものが土佐にある。
田中 犬神といふのは、一種の精神病だらうと思ふが、犬神をもってをる家があって、その犬神が嬉しい時にも悲しい時にも誰かに喰ひつく。喰ひつくとその人は急に病氣になる。さうすると、心得てをるものが、どうもあの病氣は怪しい、犬神が憑いたに違ひない、犬神を祓へといふので、山伏の様な尼さんのやうな、さういふ商賣の者を呼んでくる。それで病人を動かす譯に行かないから、病人の代りによりといふものをこしらへて、そのよりに幣(しき?)を持たして、今の修驗者が祈祷をする。 さうすると幣を持ってをるよりが非常に手を震はして、飛んだり、跳ねたりさうして暫くやってをるとその修驗者が「お前はどこそこから來てをる犬神であらう」といふと、凄くない奴はさうだといふ、凄い奴はさうでない、俺は天狗であるとか、神であるとかいって抗辯するが、最後には犬神だといふことになる。 さうすると「そんならもう歸ってくれ、こんな病人をこしらへては困る」といふと犬神が何かしら註文を出す。たとへば團子をどこそこへ供へてくれとか、お香々がたべたいとか、梨をたべたいとか、何でも犬神に憑かれた家にあるものを欲しいといふ。
濱尾 お香々や梨ぐらゐで濟めばお安いものだが。それで生命まで取られては堪らないな。
田中 土佐には又別に天狗といふものがある。この天狗は、惡いものが山へなど登ると、下へ放り投げるといふので、心の暗いものは非常に恐れる。私の親類に高木猛且といふ人がある。小學校の教師をしてゐるが、土曜日に土佐の山奥の柏山といふ山を越えて自分の家へ歸ってをった。ところが、その柏山の中ほどへ來ると、傍の木の上でパッと音がすると同時に、頭をピタリと掴まれた。 これは天狗に掴まったわいと思って、地べたに突伏して、暫くじっとしてをったら、急に頭が輕くなった。ふと見ると、頭の上を怪しいものが飛んでをった。それで恐る恐る柏山の峠へ登って、茶店のお婆さんに聞いたところが、お婆さんは笑って、それは天狗ではない、むさゝびといふものだ、鼠の化けたやうな、蝙蝠のやうなものだといはれて、大笑をしたといふ。

=壽美藏丈にまつはる怪談=
喜多村 役者の壽美藏さんが、まだ妻君を貰はない時分の話ですが、御徒町にをる時、大變凄い目にあったといって、何かの雜誌にも書いてゐましたが、その家は玄關が六疊だったが、その外に九疊の間がある。十疊の間を一疊だけ二階へ上る梯子段に取って九疊の間、その次の座敷が六疊と八疊、それから臺所、二階へ上ると八疊の座敷が一つある。そこは疊廊下になってゐて、物干へ行けるといふやうな中々便利のいゝ家造りだったんですな。そこで大變氣に入って移って住んだ。 ところが、毎日お母さんが庭へお線香を立てる。どうしてお線香を上げるのですかと聞いたところが、いや何でもないのですといはれるので、そのまゝ氣にも止めずにゐた。お母さんと兄さんと妹がこの座敷にゐて、お父さんはもう一つ向ふの座敷に寝てをった。すると引越してから一月ぐらゐたって、十二月三十一日に兄さんが急に病氣になって亡くなった。役者稼業のことだし、ごく内輪だけで野邊の送りを濟ましてしまった。 ところで兄さんが亡くなる前だったか、死んで間もなくだったか、下谷のある待合のお女將が訪ねて來たといふことをお母さんが話した。大へん贔屓になる家でもあり、一度お禮に出掛けやうといふのであった。さうすると、色々な話の末に「あなたの家は玄關が六疊で、その左に九疊の座敷があって、かうかういふ間取りでせう」といって、すっかり知ってをる。どうして知ってゐますかとはいって見たが、大して心を惹かれることでもないので、向ふでもいはないまゝに歸って來た。 それからまた暫くたって、明治座で或る顏つなぎに招かれたことがあった。その時、二次會である人に會って、住居の話から「その家はかうかういふ家ではありませんか」といってこれもよく知ってゐる。それでも、自分が氣に入って住んだのだから、深く氣に止めないでそのまゝ聞流してをった。その夜遅く歸って來て、二階の八疊の間へ入ると、壁に何かの跡がある。氣味が惡いなァと思ってよく見ると、雨のしみらしい。その夜は何事もなく寝てしまった。 翌朝起きて見ると、下でお母さんとお父さんが何かひそひそ話をしてをる。お早うございますと挨拶すると、お母さんが突然こゝを引越さうぢゃないかといふ。「實は昨夜、お希が歸って來るすぐ前、私どもは寝られないでうとうとしてをると、こゝの襖のそばに若い女が立ってをる。二人ともはっきり見たが、フランネルのやうな着物を着て、頭を雨に濡らしたやうに濕らしてゐたが、その中にすうっと見えなくなって、ハッと思ふと、表を叩いてお前が歸って來たのだ。 とてもこゝにはをられない‥‥かうなったらお話をするが、こゝの家の藏の戸前口で人が腹を切って死んだといふことが引越してからすぐ聞いた、それで線香を上げてゐた」といふ譯。――それから間もなく代地とかへ引越してしまったが、引越してからあとで近所の洋食屋の話を聞くと「お引越になったばかりにいふのは惡いと思ってゐたが、どういふものかあすこへお入りになった方は、十二月か一月に人が死ぬ」といふ、さうすると十二月に兄が死んだことも思當ってぞっとしたといふ。 それから前に行った待合でその話をすると「お引越になったのならお話をいたしませう。實はあの家にはある人の妾が住ってゐたが、主人公が商賣の手違ひから整理をして、朝鮮へ行かうといふ時に女が死んでしまった」といふので、色々聞いて見ると、女の年頃や髪形がお母さんの見たのとそっくりだった。それから後でその待合の女中に話をすると、その人なら度々あの家で見たことがあるといって、今更のやうにぞっとしたといふ。

=幽靈が隊列に加ってゐる=
記者 (櫻井氏に)戰場では、怪異といふやうなものはありませんか。
櫻井 戰爭では澤山あります。一體、兵營などは血氣の若いものが澤山集まってをるのですが、それでも古い兵營などは、昔のお城跡が多いので、どこかに怪異めいたものが潜んでをるやうです。私の生れは松山なんですが、あすこも怪談の多いところで番町皿屋敷なども松山が本家だといふ説がある。今でも不思議なのは、熊本の兵營に夜鬨の聲をあげるといふ。これは有名な怪談ですが、日露戰爭の最中、大阪の第八聯隊で、夜中に鬨の聲をあげて萬歳々々といふ叫びとともに兵營内を隊列が廻ったことがある。 翌朝電報によると、第八聯隊の某中隊は奉天で全滅したといふことが判って、昨夜の喊聲は、あれだったかとみんな暗然となった――それから戰場でも、あの男は死んだ筈だがと思ふ男が、隊列の中にをることがある。一體、戰場はこの世とあの世がすぐ背中合せに見えるやうな場所だからどちらでも大して違ひはない譯だが、さういふことは度々ある。
濱尾 それは實際死んでをるのですか。
櫻井 實際は死んでをるのですな。さういふことは幾らも戰場にはあります。アンドレーフの書いたもので「赤き笑ひ」の中に、幻の大砲を射ったといふことが書いてある、あゝいふこともあります。夜中に兵隊が俄かに起上って戰場へ馳けて行って、鐵砲を射ったり、劍を振廻したりする。それが鎮靜すると敵を射ったのでも何でもない。幻と戰って來る。歐洲戰爭では塹壕の怪異といふのがあって、戰爭が長引けば長引くほど色々な怪異が現はれる。 殊に露西亞人などは、戰友の屍體を早く片づけないとその傍にをるものに災厄を及ぼすといふことが信ぜられてをる。それで戰友の屍體は馬上からでも拾ひ上げてゆく。戰場でどうしてあの屍體を始末するかと思ふほど上手に始末する。日露戰爭でも露軍側には随分さういふ話が殘ってをる。或る大尉が天幕の中で夜露營してをると、犬が盛んに吠える。何かしらと思って出て見ると、黒いものが自分の眼の前を行く。それが段々小さくなって消えてしまふ。天幕へ歸って見ると、軍用鞄の上にキラリと光る指環がある。 それは自分がかつてペテルスブルグにをった時、仲よくした幼年學校時代からの友達の某少尉のものである。それと義兄弟のやうな契りをして、指環を交換してをった。少尉は本國に殘り、大尉が滿洲に出征する別れの時、お互不幸なことがあった時は指環をかへさうといふ約束をした。今大尉が天幕の中で犬の聲を聞いて、外へ出て黒い姿を見たが、さてはあの少尉は死んだのかなァと思った。聞いてみると、事實少尉は死んでをったさうですが、さういふ戰時中の怪異は、随分澤山あるやうに思ひます。

=夜、馬の蹄に壓へつけられる=
記者 戰爭以外で御覧になったことはありませんか。
櫻井 私自身直接お化けを見たといふことはありませんが、書生時分下宿屋に友達と二人でゐた。ある日のこと、眼の前を白装束をつけたものがすっと通り抜けた。非常にへんな氣持になったが、一方の男も何だか妙なものが通ったといふので、よく聞いて見ると、昔その家に詰腹を切らされた武士があったといふことが判って、この家にはさういふ妖氣がたゞよってゐるのかと思った。 それともう一つ、これは幽靈に属するものかどうか知りませんが、牛込の若松町に下宿してゐる時――その時分中尉で、東京に來たばかりでありましたが、同宿の友達が毎晩のやうにやられる。何か動物に押へられる。馬の蹄のやうなもので胸を押へられるといふのです。自分の胸に蹄の跡がついてはゐないかといって心配してゐた。 その家も、昔井戸におちて死んだものがあるといふ曰くつきの家だったが、その井戸の幽靈よりも、偶然のことから、その家の裏の納屋に瀕死の女が押籠められてゐることが分って、その方がよほど物凄かった。非常に小さな聲ではあるが、夜ごとに苦しいうめき聲をあげる。それが何だか押へられるやうな氣持に導いたのではないかと思ふ。そのことが分ってから慌てゝ引揚げてしまひました。

=晝日中横濱の書店でみた幽靈=
長谷川 私が若い時分、本當の幽靈を見た。横濱のある本屋で、晝間、本を立ち讀みしてゐたのですが、時々親爺の方を振返って見る。親爺さんは下をうつ向いてじっとしてゐる。そのうしろにお婆さんが坐ってゐる。青白い顏といふより青黄ろい顏であった。お婆さんもゐるなと思って、また本を見て、また叱られやしないかと振向いて見る。まだお婆さんがゐる。それから二三度目に振返って見たら、もうゐない。 それで濟んでしまへば何でもないのですが、あとで聞いて見ると、それが本ものゝお化けなんだといふので、いやな氣がした。その本屋の構へは晝間でもうす暗い。眞中は土間になってゐて、突きあたりに大阪格子があって、奥の入口に爺さんが坐ってゐる。そのうしろに死んだ筈の婆さんが立ってゐる‥‥それを聞いてから、もうその本屋へは行けなくなった。

=化物屋敷に二度住んだ經驗=
水島 僕は化物屋敷を二度借りたことがある。最初は知らずに、馬鹿に家賃が安いなと思って引越した。根岸から西藏院へ入る角の突きあたり、お行の松へ行く途中ですが、間が八つあって、大分前の話ではありますが、たしか四圓か五圓の家賃だったと思ふ。それから植木屋へ庭の手入を頼みに行くと、あの家は幽靈が出ますからおよしになった方がいゝといふ。こっちはまだ若かったから何の!! といふ譯で、そのまゝゐたが何事もない。 もっとも、非常に陰氣な家で、雨蛙が澤山ゐたし、じめじめ濕った感じの家でしたが、僕には何のこともない。近所で聞くと、あすこの井戸へおちた女が祟るので、あの井戸で洗濯したものはいくら干かしても夜になると濕るといふがしかし現に私は毎日洗濯して着てゐて何ともない。それで二月ばかりもゐましたらうか。そのうちに大家が家賃をあげてくれといって來た。 實は今まで化物屋敷だといふので家賃を安くしてをきましたが、二月もゐて何事もないからあげてくれ、あげてくれなければ家を明けてくれといふ、そんなことなら出ようといって引越ました。そのあとへ入った人はやはり惡かったらしい。僕等だけが何ともなかった。それからもう一軒の家は、引越して間もなくよく腹痛を起す。どうも不思議だ、化物屋敷とはむろん知らないのですが、座敷に坐蒲團が出てゐると、疊が何ともなくて坐布團が濕る。これは不思議だといふので、疊をめっくって見たら、床の下に大きなきのこがニョキニョキと澤山出てゐる。

=「なむ」といふ金澤の幽靈屋敷=
喜多村 どうもさういふ家へ入ってゐますとへんな氣になって、こゝの家は井戸へ人が飛込んだとか、首縊りをしたとかいふ家は住ってをると病氣になりやすい。それから幽靈と化物は別ですが、女の首がころがったとか、こっちの方で髪の毛が頬をなでたとか、あんなのは皆狸か貉ですからね。幽靈といふやつは、さうでなく、たゞ何となく鬼氣が身に迫るといふのが本ものゝ幽靈ではないでせうか。 私の友人に、今大阪の豫審判事をしてをる西本といふ人がありますが、學校にをる時分からよく私どもの怪談會に來る。その人が金澤にをる時分、私も金澤へ行った。ところが會ふとすぐ幽靈の話が出る。「俺も化物の出る家へ住ひたいと一生懸命探したけれども、初めて來たところで勝手が分らない。家内が來るとうるさいことをいふから、家内の來ないうちに家を構へようと思って探した。どうしても分らない。それから巡査に見つけさして探した。 これはいゝ思ひつきだった。それから一軒あって行って見ると非常に氣にいった。家もいゝ、ところもいゝ。ところが下宿のものがおよしなさい、あすこに入ると必ず病氣になるから絶對にお止めするといふ譯でやめてしまった」といふ話です。それぢゃ今夜俺をつれて行って見せてくれろといふので、飯を食って、弟子を二人つれて出かけた。 例の聯隊のうしろの方を通ったが、あすこは晝間でも寂しいところです。そこを抜けて、なるべく寂しいところを通って氣分をこしらへて、さて行って見るともう人が住んでをる。それからもう一軒の化物屋敷の方へ行かうといふので、尾山座の方へ行く通りから寂しい方へ抜けると、恰度根岸のやうなところがある。そこを入って行くと、なるほどお寺があったり、土塀が壊れてゐたり、その狹い通りの傍らに半分平屋の家がある。 夜も大分遅いのですが、右手に石段があって、石段の上へ行って見ると薄氣味惡いやうな木が澤山繁茂してをる。そこを一わたり見て、一體この家にはどういふ曰くがあるのか、どんなものが出るのかといふと、夜中に「なむなむ」といふ聲が聞える。それだけだ、何のことか分らないが、「なむ」といふから南無阿彌陀佛か南無妙法蓮華經か、いづれにしても「覺悟はよいか」てなことで死んだものがあるのだらうといふ風に考へて歸って來た。 それから私が歸る時、送別會を開いてくれましたが、そこへ來る藝者がなむなむといふ。その藝者に一寸待ってくれ、そのなむといふのは何だいといふと、なむといふのはもしとも、ねともつかふといふ。さうすると、あの化物屋敷のなむなむは、もしもしと呼ぶのだらう、なるほど、夜中にもしもしとやられては堪らないといふことになって、やうやくそのなむを解釋した。‥‥(笑)

=白雪の上に支那人の血がにぢむ=
櫻井 金澤に面白い幽靈がある。兵營の中で飯盒飯盒といふ兵隊らしい幽靈ですな。どうして飯盒といふのか分らないが、營内に水溜りのやうな池があって、兵隊が首を縊ったか、池へ飛びこんだかしたんでせう。最近でもやはり出るといふ。そんな話をしてゐると、京都の野砲隊、例の山崎街道で與市兵衛が定九郎に財布を取られたあたりですが、「銃くれ銃くれ」といふ聲が聞える。 それは昔ある歩哨が營門に立ってをって居眠りをした。そこへ巡回が來て銃を取った。ふと眼がさめると鐵砲がない。びっくりしてそのまゝ首を縊ってしまった。その怨念が、銃くれ銃くれといふんださうですが、兵隊らしい非常に面白い幽靈だと思ふ。
水島 越後の高田の人で大佐で滿洲から歸って來た中山といふ小太刀の名人がある。この人が少尉の時、恰度日清戰爭の時分、金州の城外で逃げて來る支那人に會った。刀を振上げると、兩手を出して拝んだといふのですが、それを頭から斬った。パッと血が飛散って見る見るあたりの雪を眞赤に染めた。それで長い間何ともなかったが、高田へ轉じて雪を見ると、馬の上から往來の雪が眞赤に染まってゐるやうに見えて前に進むのに困るといふ。

=軍神橘中佐の幽靈を見た話=
櫻井 三年ほど前の話ですが、私の教へた生徒が、軍刀で妻君の首を斬った。二人とも夜中に盛装してをった。妻君は裾模様の晴着を着てゐるし、主人公は軍服を着けてをる。どうも心中とより外に考へられない。ところが色々聞いて見ると、どうしても刀を妻君の頭に下さなければならないやうに自分の手を誰かゞ押へたといふ。その軍刀は、日清戰爭に親父が支那人の首を斬った刀なんです。 それを家寶として自分が持ってゐたのですが、とうとう妻君を斬ってしまった。斬るやうな理由はないのだが、斬らなくてはならないやうに、何者かゞ自分に迫る。自分はそれに反抗する意思があっても、どうしてもその力に勝てなかったといふやうな不思議な話もある。それから橘中佐の幽靈といふのは御存じでせうか、これは本當に中佐の奥さんから伺ったのですが‥‥橘中佐は御承知の通り、八月三十一日に首山堡で戰死をされた。 その晩のこと、中佐の奥さんは市ヶ谷の本村町にをられた。子供さんと添寝をして蚊帳の中で寝てをった。ところがコトリと物音がして見ると、黒い猫が通り魔のやうに床の間を出て、飾ってあった中佐の寫眞を引くりかへして消えた。その瞬間に、表の戸を叩く者がある。誰かしらと出て見ると、夫の中佐が歸ってこられた。「自分は首山堡で澤山部下を殺したが、まことに申譯ない、お前からよく墓参りを頼む‥‥」といって消えてしまった。あとで奥さんがしみじみ話して、さういふ不思議があるものだと信じてをられた。

=深夜彈藥庫の前をすぎた白い怪物=
櫻井 彈藥庫の歩哨などは、かなり恐ひ思ひをする。ある晩のこと、ある歩哨が、自分の眼の前に白いものゝ動くのを見た。來たな! と待構へてをると、だんだん近づいて來る。そこで白いものを目かけて突き刺した。たしかに手應へがある。刀に血がついてをる。ところが翌日病院の試驗用の羊が、自分の傷口をなめてをったといふ。
長谷川 僕も三十七年の兵隊ですが、夜の歩哨はなかなか恐いですな。
櫻井 彈藥庫の扉には、穴が澤山あいてをる。あれはみな兵隊が銃劍で突き刺した痕です。何か來るかといふ恐怖觀念でたまらなくなるものらしい。

=幽靈をは月夜に出るか=
櫻井 それからどなたかにお聴きしたいのですが、一體日本の幽靈で、月夜に出るものはありませうか? 西洋の幽靈は大抵月夜に出るものときまってをるやうですが。
喜多村 日本のものでもたしかあったと思ひますね。先代の左團次がやったもので「月はかはれど十四日、我が手にかけし小百合が命日」といって、左團次の佐々成政が例の名調子で刀を振上げて刄傷する。あの場面には月が出てゐたと思ひます。
水島 支那のお化も月夜に多い。それから牡丹燈籠も月夜でせう、お盆にあったことですから‥‥
記者 濱尾さん、何か刑事問題で怪談はございませんか。

=怪死檢事の血みどろの姿=
濱尾 合憎怪談の持合せはないのですが‥‥。一體、檢事だの、判事といふものは、精神状態が幽靈とは縁が遠いのですね。こんな話がある。僕が調べた事件ですが、姦通事件で女を非常にいぢめた。それで、女が猫いらずを飲んで死んでしまった。さういふ話を聞いても何ともない。お化けになって出たら、もう一度よく調べてやらなきゃならぬといふくらゐなものです。だから、幽靈も吾々のやうな手合にかゝっては權威がない。 ただ、三四年前、僕等が區裁判所の檢事をしてをる時、上席の某檢事が、大森蒲田間の線路傍で怪死體となった事件がある。當時非常に新聞にも出たし、皆さんも御存じでせうが、これは非常にむつかしい事件で、今もって全然分らない。過失で死んだといふことになってをるらしいが、本當のところは一切分らない。その奥さんが檢事正のところへ行って「自分の主人は血だらけになって毎晩出て來る、ぜひ調べてくれ」といって訪ねられたとも聞いてをる。 或る檢事は、たしかに殺人事件に違ひないといって、捜査してをるともいふ。はっきり分らないが、吾々が考へて、その死體は何かしら異常なものがあったやうに思はれる。
水島 檢事さんは職業柄、危險は十分ある譯ですね。吾々もあの事件を新聞で見た時は何かしら異常なショックを受けた。
濱尾 ですから、檢事をしてをった時は、死んだものより生きてをる奴の方がよほど恐い。自分で刑を與へて牢へブチこんだ後で何かしやしないかと思ふと、幽靈を恐がってゐるひまがない。それから、死骸を見に行く時は、檢事は職業で、これは恐ろしいものを見に行くんだといふ覺悟をもって行くから、それに憑かれるといふやうなことはない。
けれども、法廷で論告をした後で睨まれる、「いづれお禮に行きますから」とか何とか凄文句を並べて、ひどい睨み方をされる。およそ人間が睨むのにあゝいふ睨み方があるものかと思ふほど物凄い睨み方をする。
記者 それで本當に禮に來るものですか?
濱尾 禮には來ませんね。あれは妙なもので、最初やられた時には檢事を怨む。けれども死刑を言渡される時には裁判長に怨みが移ってしまふ。それから懲役刑ならば、懲役に行ってから看守を怨む。さういふ風に、段々怨みの對象がかはって來る。それでなければ檢事はやり切れない‥‥(笑)

=聞き分けのよい幽靈の話=
喜多村 化物にも話せない化物と、物分りのいゝのと二通りある。これは今でも生きてをる人の話です。ある役者が大阪で興行をした時に、南地のある藝者と關係ができてしまった。色々話合が濟んで、今夜うちへ來てくれといふことになって、その役者が藝者のうちへ泊った。弟子を一人連れて行ったのですが、色々御馳走になって、弟子の方が醉っぱらって先へ寝てしまった。それから藝者がお座敷へ出かけて歸ってくるのを役者が二階で待ってをった。 するとその役者が夜中の梯子段をゴロゴロ落ちて、弟子の寝てをるところへ轉がりこみ慌てゝ帶をしめて、早く歸ろ早く歸ろと弟子をせき立てる。主從が夷橋まで逃げたが、そこで立止って「お前何か見やしないか」「何も見えません」「さうか」といってホッと吐息をついたといふ。翌日芝居の稽古場で色々話が出た。さうすると、その藝者といふのは外にも馴染があって、その中の一人の役者が「君このごろあの藝者とできてゐるといふ話だが、まァ結構だが、何といはれてもあすこの家へだけは行ってはいけないよ」といふ。 どうしてかといふと、二階に例のが出るといふ。さては、昨夜のはそれだったか、實は昨夜招かれて二階へ寝かされたが女が歸って來ないから本か何か見てをると、枕元の柱のところへボッと顏が現はれた。見ると若い綺麗な男だ。怨めしさうな顏をして枕元へくる。ぞっとして頭から蒲團をかぶると胸を押つける。こいつはたまらんと思って蒲團をはねのけて、下へころがり落ちたといふ譯。段々聞いて見るとこの藝者がまだ舞妓の時分に、あるところの若旦那と馴染んだ。 そのうちに男の家の方が面倒になって、外へ出ることもできなくなった。昔でいへば勘當といふやうな有様で暫くよそへ預けられることになった。大阪は、藝者はどこのお茶屋から呼んでも來るといふ譯にいかない。料理屋からはお茶屋を通さなければ來ない、そこで若旦那は始終自分が藝妓などを上げて遊んだ吾妻といふ料理屋へ飯を食ひに行って、實はかうかうで家を出された、僕もこれから少し身を慎しむつもりだが、何とかしてあの妓にもう一度會へないだらうか、それぢゃといふのでお茶屋から口をかけて、二人がまゝごとのやうな語らひをした。 さて俺はこれからよそへ預けられる、暫らくは會へないから、そこまで送ってくれないか、送って行きませうといふので、當時あった合乗り俥で、櫻の宮まで行って、そこから歩かうといふので俥をかへした。ぶらぶら歩いてをるうちに、何となしに男の方から死んでくれといふ譯で、女の方もふらふらと死ぬ氣になってしまったものらしい。それから附近の流れへ身を投げやうとしたが、その時どういふ譯か、女が長襦袢一枚になってしまった。 ところで、女が先に水へ入ったんだが、落ちる時、若旦那がうしろから押したものだから水の中へ身體が沈むと共に向ふ側へ首が出てしまった。若旦那の方は、女の水音を聞いて、大丈夫だと見こんで飛びこんだ。さァ、女はそこで死神が離れてしまった。水から上って、長襦袢一枚で着物はそっくりしてゐる。そのまゝ着物を着て歸って來てしまった。けれども、その晩から青い顏をして若旦那の幽靈が出てくる。色々祈祷をして貰っても、どうも惱まされる。 それからお母さんが幽靈に頼んだ、「親一人子一人で、今あの子を取られては困る。あなた一人を水にはめたのではない。あの子も入ったんだが、不思議に助かってしまった。まァ壽命があったんだからあきらめてくれ。あの子に養はれてゐる私も困る。何とも濟みませんが、その代り、娘に亭主は持たせません。それから決して家へ男を入れるやうなこともしませんから、まァ我慢してくれ」と頼みこんだ。大へん聞分けのいゝ幽靈だと見えて、それっきり出てこない。外で女が何をしても姿を見せない。ただ家へ男が入って寝るときに限って、きっと出る。

=神經衰弱になった裁判長=
櫻井 昔の築城などには、色々な犠(にえ)を捧げたといひますね。あれは事實あったものでせうか。
濱尾 あり得ることだと思ひますね。たとへば秘密の部分に立會ったものとか、その仕事をしたやうなものが、後で邪魔になって‥‥
水島 人柱といふものは、事實あったものらしい。江戸城から骸骨が出たといふのも、或はそんな意味のものでなかったかと思ふ。この間、さういふ古文書を發見したが面白いことが出てゐる。越後のあるところの話ですが、「いつも四隅へ人間を生埋めにするけれども、人命をとるのはもったいないが、何か代りを立てゝよろしいか」といふやうな伺ひの文書などがあります。
櫻井 旅順の要塞を築いた時、支那人をジャンクに乗せて、あるところでたゝっ斬ったといふやうな話がある。ペルダンの要塞にもそんな話が傳はってをる。
濱尾 裁判所の話では、怪談ではないけれども、裁判長が死刑を言渡した時は非常に氣持が惡い。もしさうでなかったら‥‥といふ危惧の念が、さういふ氣持を起すものかと思ふ。最近聞いた話ですが、ある判事が裁判上の煩悶から神經衰弱にかゝってしまった。さうしたら廷丁が、「裁判長御安心なさい、あの被告は言渡しを受けて歸る時、俺がやったんだから仕方がない――といふ獨り言をいってゐましたからたしかです」といってくれた。これでやっと安心したといふ話です。 それから、これは今村さん(前東京裁判所長)に聞いた話ですが、判事は死刑を言渡す時と無罪を言渡す時とが一番不愉快だといふ。無罪を言渡す時は、あとでペロリと舌を出されはしまいかといふ懸念がある。それでどちらも愉快に宣告ができない。
長谷川 こないだ文藝春秋社の社長さんの座談會を讀んだが、それによると、海に怪異はないといふが、本當でせうか。
田中 船には色々ありますよ。海に怪談がないといふのはおかしい。
水島 殊に外國船などにはよくあるやうだ。
濱尾 カイゼルの宮殿に出る幽靈は有名だった。巖谷小波さんも洋行土産に書いてをられるが、これは宮殿の中を女が薔薇を持って歩く、私の親父も、獨逸から歸って來てそんな話をしましたが、ホーヘンツオルレン家に傳った怪異だといふ。それから露西亞の舊王室にも色々な怪談がある。
水島 日本の大名屋敷にも必ずある。今の徳川十六代將軍の屋敷にも、何とかいふ人形があって、それはよく魂が入ったやうに汗をかくといふ話があるが‥‥
喜多村 一體人形といふものは、氣味の惡いものではありませんか。

=お岩様の幽靈の出る芝居の奈落=
櫻井 芝居なども、はねたら凄いものでせうね。
喜多村 芝居の奈落には、昔から怪談が澤山あります。この頃の大劇場は設備がよくできてゐますから、恐いことはありませんが田舎の小屋へ行くと、今でも奈落に藪だゝみがおいてあったり、その間を通って花道へ出るのだが、しんしんとして、濕氣があって、夏でも奈落へ入ってをれば暑さを知らないくらゐで、非常に氣味が惡い。 ある役者は奈落でお岩さまを見たといって氣絶しさうになったが、それは、自分がお岩さまに扮装して顏をこしらへて、奈落を通って花道へ出る、それで自分が鏡でこしらへた顏が、暗い奈落に幻のやうに浮き出たものだと思ふ。
櫻井 私はある映畫をとるために撮影所にをった。その時お寺で幽靈が出る場面がある。夜三時頃だったか、出勤して來た女優が化粧部屋で幽靈のこしらへをしてをったところが不意にキャッといって、撮影所の中へ飛込んできた。幽靈が出るといふ。それから行って見ると、化粧部屋には鏡が十も二十も備へてあって、横にも後にもある。そこへ自分の扮装した顏が映った。そんな關係で、自分の幻に驚いたのだが、これは非常に面白いと思った。
水島 夜の戰爭では、同志討があるといひますが。
櫻井 同志討は日露戰爭でも澤山ありました。同志討をやって、夜が明けて見ると、味方がみな倒れてをったといふやうなことがある。それから別な話ですが、夜の戰ひは、第一、人を斬るといふことがない。劔銃でも突くやうにできてをるが、大ていは突かないで、自分の身の回りを拂ふ、鐵砲を振廻すんです。

=死んだ人が歩いてゐて振りかへる=
長谷川 僕の知ってゐる女で、本牧のお君といふ女があります。中々凄腕の女で、ある西洋人から絞れるだけ絞ってしまった。それで結局自殺してしまった。それからお君が翌年の夏、伊勢佐木町に用があって、歩いてゐると、前を西洋人が通ってをる。こいつ引かけてやりませうといふので、足早によって行くと、ひょいと振むいた男の顏が、死んだ男にそっくり、それで、もう手が出せなくなったといってましたが、やはり何かの幻影なんでせうね。
水島 人混みの中へ入って、向ふから來る人に一寸ぶつかった、よくみたらそれが自分だったといふやうな、氣味の惡い話もある。

=「生きてゐる小平次」のモデル=
長谷川 この間秦豐吉君に聞いたんだが、死んだ鈴木泉三郎君に「生きてる小平次」を書く暗示を與へたのは、自分だといふ、それはどういふ話かといふと、名古屋で今はもうなくなったが、道路にトンネルがあった。そのトンネルの入口のところで、旅仕度をして笠を持った男に會った。へんな奴が通るなと思ってゐると、そのトンネルの出口のところで、また同じ奴が向ふからやって來る。さァ化物だといふので、一目散に逃げかへった、その話を鈴木君にしたところが、數年後に「生きてる小平次」が世に出たといふ。
櫻井 一體幽靈の出る時刻といふものはいつ頃なんでせう。色々讀んだもので見ると、西洋の幽靈は夜の十一時から二時までの間に限られてをるやうに思ひますが、日本の幽靈はどんなものでせう。
喜多村 別に深夜と限ってもゐないやうですね。
濱尾 あれはどういふものでせう。たとへば幽靈が出る前に額が落ちるとか、風もないのに行燈の火が消えるとか、僕等は幽靈の本體よりも、さういふところに凄味を感じますがね。
喜多村 芝居ではそれをよく使ひます。その方がより効果的な場合が澤山ありますから‥‥
水島 それはさうだ。芝居でも本當に幽靈が出て來ると凄いといふよりも、おかしくなる。
濱尾 額が落ちたり、火を消したりするのはやはり幽靈がやるものと解釋すべきでせうか。
長谷川 無論さうでせう。
田中 日本の幽靈談で、目星い奴は大てい支那からの受賣りです。本場爭ひをしてをっても、本當の本場は支那にあることが多い。

=お岩様はたたるかたたらぬか=
櫻井 芝居の幽靈では、何が一番すごいですか?
喜多村 凄いといへば、やはり四谷怪談などが一番でせう。無理に物凄い顏をするのですから‥‥この頃の怪談では、殊更に物凄い顏をつくったりしない。あたりの雰圍氣に氣をつけて、その方で効果を出さうといふやうになってゐます。
櫻井 怪談の興行には、必ずその主人公の墓詣りをなさったりするやうですが、あれをしないと、何か祟りでもあるといふ譯なんですか?
喜多村 昔からお詣りをしないといけないといふのでやるやうです。この間私等が大阪で演ったのは、今までのお岩さまでない、現代風に書直して演ったのですが、それでもお岩さまといふ名がつくから、お詣りをしなくては惡いといふので、興行中は代参を立てたりしましたが、さうしないと思はぬ怪我をするといふ。怪我をするしないといふのは、實は幽靈が舞臺へ出たり消えたりする時、トリックで、入る時に蹉づいたり、何かにぶつかって引くりかへったりするのは、小屋の勝手を知らないからで、さういふことはどっちにしても免れない。 それから奈落でお岩さまにあふといふのは、さっきのやうな場合に限られる。つまり心持の上で幻を見る。人が見たらキャッといふやうな物凄い顏をつくらうと苦心する。ある役者はお岩さまの顏のつくりは家の秘密として、人に見せなかったといふ。そのくらゐ苦心して顏をつくって、ぼんぼり一つ提げて奈落を通るのですから、暗いところにお岩さまの顏が浮ぶといふことは有り得ることだと思ひます。

=狸がキネマのロケーション=
長谷川 京都の撮影所などは、昔はよくお狸さまが出たといふ。この頃は人が多くなってどこかへ行ってしまったが、夏など夜間撮影を濟まして歩いて歸って來ると、向ふの竹藪の近所が明るい。ひょいと見ると數人が亂闘をやってゐる。どこの撮影所だらう今時分までやって‥‥さう思っても、自分も疲れてをるし、誰がやってをるのかたしかめもしないで歸って來る。 翌日になって、昨夜はどこだか遅くまでやってゐたなァといふと、よそのものが、いや俺んとこは昨夜はやらないよといふので、照會してみるとどこでもやってゐなかった。さてはまた狸がやったかといふやうな話が澤山あった。
水島 汽車の初めて通った時分、向ふから同じ汽車が來たといふやうな、大がゝりないたづらもある。
長谷川 僕のところは大崎の桐ケ谷ですが、夜遅くなって馬鹿囃子などがよく聞える。あれも狸のいたづらだらうと思ふ。
喜多村 狸や貉のいたづらといふものは、本當にあるもので、なかなか面白いものですよ。

=夢で女の死を知って墓参=
長谷川 死んだ林家正藏にまつはる面白い話がある。去年怪談會があって、二日ばかりたって正藏が死んでしまった。正藏の友達に土田新三郎といふ男がある。非常に正藏と仲よしで、ある日正藏がやって來て、非常にすまないが、一寸つきあってくれといふ。眞ッ青な顏をしてゐる。何かもめ事でも起ったか、役に立つなら出かけようといふので、行った。日暮里の方へどんどん行く。ある四つ角で、どうした。どこへ行くんだといふと、まァもう少し待ってくれ今に分るといふ。 それからあるお寺へ入って、お寺のねえさんに何か話をしてをったが、一しょに寺の奥に入ると、新しいお墓があった。正藏はそこへ線香など上げて拝んで、それでおしまひだといふ。何だか狐につまゝれたやうだったが、歸る途中で、一體どうしたのだといったら「實は夢を見た、君も知ってゐるあの女がね――」といふ話になった。その女といふのは、土田も知ってをるが、正藏が不遇の時分に關係した女、どこやらの藝者だったが、浮氣で關係した。 それから正藏が宿無しになった時家へ來てゐたらいゝでせうといふので、女の家へ行って、暫く面白おかしく暮してをった。女の方も、正藏の方も、夫婦にならうといふ考へはなかった。そのうちに正藏は、正式に世話する人ができて、かみさんをもらふことになった。その話があってすぐに女に話せばいゝのだが、もともと浮氣で一しょにゐるだけなんだから、それにも及ぶまいといふので、どんどん進行して、さてといふところで改めて話をした。實はこれこれで女房をもらふことになった。 お前とはかういふ間柄だが、文句はなからうね‥‥といふと、「え」と答へたゞけで笑ってをる。成立ちが浮氣で、一しょにをる間も夫婦の眞似ごとゝいふより色戀の關係だったから、ではまァ御機嫌ようといふので別れてしまった。けれども暫く世話になった女だ、時々は思ひ出す。暫くぶりで女のゐると云ふ小石川へ行ってみると、もうどっかへ住替へしてゐない。その中に忘れるともなく忘れてゐたが、その女が或る夜夢で正藏と一しょに歩いた。 あるお寺の門へ來て、正藏を待たせて、中へ入ってしまった。どうしたんだらうと思うところを起された。眼が醒めて考へて見ると、どうもお寺へ入ったといふのは、たゞ事ぢゃない佛になったに違ひないといふので、どこで鑑定をつけたものか、日暮里の近所の寺だといふことは最初から判斷がついたものらしい。とにかく一人では困るからといふので、下谷龍泉寺町にをった土田を誘った。初めは胸が一杯でその物語りをする餘裕がない。 無理に土田を引ぱって墓詣りをしてしまってから、漸く心が鎮まったといふ。正藏はなほそれだけでは氣がすまないで、墓守から女の姉の住所を聞いて、調布の田園都市にあるその家を訪ねて、懇に回向をして來たといふ。そんないゝ話を持ってゐながら、さすがに自分の身の廻りのことだったので、この話は高座で聞くことは出來なかった。
喜多村 大體林家正藏といふ人は怪談の得意な人でしたがね。
長谷川 なかなか達者な人でした。惜しい人を亡くしたものです。

注)浜尾四カ (1896 - 1935)、長谷川伸 (1884 - 1963)、田中貢太郎 (1880 - 1941)、櫻井忠温 (1879 - 1965)、喜多村緑郎 (1871 - 1961)、水島爾保布 (1884 - 1958) 全員が著作権保護期間を終えています。
注)本来は浜生四郎の部分だけでも良いのですが、せっかくなので全文掲載しておきます。
注)明らかな誤植などは修正しています。


「探偵趣味の座談會」冒頭二回
「名古屋新聞夕刊」 1931.04.14〜19 (昭和6年4月14日〜19日) より

(一) その夜集る人々
「殺人鬼」の作者濱尾四郎氏を中心とした權威大家怪奇を語る
 日ならずして夕刊第一面に連載すべき探偵長篇小説「殺人鬼」の作者濱尾四郎氏の來名を乞い同氏を中心する「探偵趣味の座談會」をわが社會議室に開いた。その夜集まるものは左記の如くその道の専門家。話題は八方に進展して凄惨、怪奇の場面がしばしば展開し、近来稀なる興味に富む座談會であった。しかしその内容全部をこゝに掲出することは公安上避くべきであるから、そうした急所はこれを削除せねばならなかったことを豫めお斷りして置く。(一記者)
出席者
濱尾四郎、名古屋控訴院檢事西村卯、名古屋控訴院部長判事稲田競、名古屋地方裁判所判事正木晃、辯護士能勢萬、辯護士石橋毅、小説家國枝史郎、名古屋放送局龜山半眠、愛知醫大助教授醫學博士長松英一、同醫学博士小宮喬介、愛知縣刑事課長齋藤友次郎、同次席警部渡邊敏、同刑事部長美濃羽喜傳次、本社側與良社長、柴田主管、三田学藝部長

柴田(本社) 今夕の集りのために御來會下さった皆様にあつく御禮申し上げます。また特に東京から御來名下さった濱尾子爵に御禮申し上げます。さきに濱尾子爵の「博士邸の怪事件」が名古屋放送局から放送されるや、一大センセーションとなり、その人氣はすばらしいものでした。それは作品が異常なる傑作であったのと、龜山半眠氏の比ない名朗讀によるものだと考えます。敏活なジャーナリズムがこの事實を何で見のがしましせう。本社ではいち早く子爵にお願いして新聞への處女作の權利を得ることができました。日ならずしてその名篇は本紙をかざることになりませう。こんな意味で子爵にわざわざ來名をわずらわし、子爵を中心として、こゝに探偵趣味を語る集まりを催した次第です。本夕集まりの方はいづれもその方面のエキスパートであります。主催者側として滿足この上もありません。進行係として本社の三田学藝部長に願ひます。
三田(本社) 濱尾さんから何か。
濱尾 私が濱尾です。私がお伺ひした理由は柴田主幹のお言葉の如くです。新聞社に對して一言お小言をいはしていただきたいのは、どうも今夕、餘り大家ばかり集まっていただきすぎて……。(一同哄笑) 私はものを書きだしてまだ若いし、私自身、餘り大きなことがいへないんです。それに國枝さんのやうな大家もここにゐらっしゃるし……
國枝 困りますなあ。
濱尾 ですから、我國全体の作家の批評でもお話下さったら、私はその取次役となることはできるんです。
三田(本社) それではお話の糸口を濱尾さんからどうぞ。
リアリズムと小説との妥協
濱尾 いまも放送局で話してきたんですが、探偵小説の根本は自然描寫(リアリズム)でしかも科學的(サイエンティフィック)に眞實(ツルース)を書かなくてはならん。私は醫者の手術について書いたが醫者の讀者から、リアルでないと叱られ、一度見學にこいと手紙を再三受けました。これは一例ですが、いつも専門家から見たら探偵小説にリアルなものを缺いてゐることにならう。しかしそれではアマチュアは小説が書けないことになる。だから何處かで妥協点をみつけないと困んです。江戸川氏の「屋根裏の散歩者」は寝ている人へ天井からモルヒネを落して殺すのだが、醫者はそんな殺人法はないといふでせう。しかしこの位は妥協してほしいものです。 ウイリー・コリンズの作には催眠剤を紅茶に入れて飲ませるのがあるが、醫者にいはせると、そんなもの實際には苦くて飲めないといふ。こんな事は許して貰はないと探偵小説はとても書けない。むろん、理想はリアルがいゝ。しかしリアルであってならないことが一つあるんですよ。それは法律なんです。といふのは外國の種本にもあるが、法律が發達した國では犯罪がむつかしい。ギリシャに多かった犯罪もローマでは少なくなってゐます。つまり探偵小説は檢事局の活動より私立探偵の活躍が面白い。警察よりも新聞記者の潜行的活動がいゝ。法律的な背景はぼんやりとしてゐる方がいゝんだ。法律がリアルに持ち出されたら探偵小説はペンを投げださなくてはならないことになりますからね。 【寫眞は本社會議室での同座談會】

(二) 現實の世界に自由に駈け巡る空想
まず讀者の信用を得るが第一
濱尾 探偵的興味と法律的興味は別なんだ。探偵小説は逮捕までを書き、法律は捕へられてからを裁くのだから。それに面白いことには、シャロック・ホルムズ、フィロ・バンス、ルタビールなどは法廷へ出ると大抵無罪になるんです。巧妙な殺人法を用いて直接手を下してゐないからです。ヴァン・ダインの「スケアラス・マーダー・ケース」なども證據不充分で逮捕ができず、しかも法廷へ行かない前に自殺してゐるやうなわけでね。
三田(本社) 結局、探偵小説に法律は用のないわけですね。
濱尾 私は今、弁護士をやってゐるが、法律を中心とする探偵小説には讀者がたかりませんよ。
西村(檢事) 私も思いますな。小説に書いたらいゝ材料だと思ふんだが、頭が法律的にかたくなってとても書けません。
濱尾 それは實話で行くんですよ。
西村 そうでせうね。
濱尾 法律とミステリイとは反對ですからね。
西村 その實話をジャーナリズムがあほり、讀者も求めてゐるんではないですか。
柴田(本社) ではひとつ西村さんにお願ひして麗筆を振るっていたゞきますかなあ。どうです、足を洗って實話作家になられたら。
西村 いや、どうも(哄笑)しかし實話は探偵小説にやきかへられませうか。
濱尾 私も檢事をしていたころの實話を扱はうとすることがあるが、全然だめですよ。探偵小説は空想に限ります。ときどき東京の檢事局へ舊先輩にネタを頂きに行きますが法律的には面白くても小説には書けない。だから、君にいくら話をしても書かないから駄目だといふんです(哄笑)で、思ふんです。法律家より醫者の方が探偵小説家にはあつらへむきだと。小酒井さんのようにね。外國でも「ソーンダイク博士」を書いてゐるフリーマンが醫者だといひます。つまり經驗が自由に書けるし、殺人の方法だって合理的にやれるし。
小宮(醫博) ところが逃げる方法を知らない。(一同哄笑)
三田 長松さんどうです。
長松(醫博) ハア、書いてみたいですね。
三田 刑事さんの六感といふようなのは。
濱尾 それも結局、實話にしかならない。探偵小説の讀者は六感では承知しません。とても現實的ですから。しかし、それもある程度ですが、名古屋驛に地下道があると書いたら駄目です。日比谷公園には門が幾つあるかを眞實に書けば讀者がまづ作家を信用してくれる。それから先は、黒い馬車が毎日午後四時にその門を通ると書いてもよいこのコツですよ。ねえ、國枝さん小酒井さんも、震災後の東京は地理が變ったからコワくて書けないとおっしゃってましたね。
國枝 そうでしたね。
三田 そこへゆくと國枝さんなど時代もの作者は自由でせう。
國枝 山や川を自由に作ります。イヤ、どうもインチキですな。
 (以下略 ※実際に起こった事件の話が主となる)

注)『殺人鬼』連載開始前の浜尾史郎を迎えての座談会ですが、作品や内容に関する話はありません。


「法律の裏表座談會」抜粋
「文藝春秋」 1933.08. (昭和8年8月号) より

 法律知らずの悲喜劇―十八娘の親殺し―となりの印刷屋―姦夫姦婦―時効の規定―警察の同情した強姦事件―エロを撃退した檢事―警官にモーションをかける―模範青年の春の目ざめ―ボクシングと過失傷害―スポーツ上の過失―大腿露出の限界―手紙の無斷開封―未成年者の非常識―遺言と贈與―素人はみんな法律にひっかゝってゐる―地上權と賃貸借權―時効の採用―示談で無罪―おやぢの借金 ―姉妹と入婿―商賣人に強姦は成立するか―蜷川新左衛門と曾呂利―法廷珍談―珍裁判昔話―藝者の定義―名古屋の殺人事件―女囚が男を見たとき―選擧違反―カフェ嬢チップ請求のこと―貼紙と貼板―三原山の立會ひ―金山、沈没船の所有―詐欺にかゝらぬか―無主物先占―射倖心をそゝる―〇子と命名のこと―男女判別不可能の親
出席者
濱尾四郎
辯護士稲本錠之助
辯護士森山庸躬
辯護士清水郁
辯護士辰野保
辯護士塚崎直義
辯護士上田保
辯護士吉岡秀四郎

濱尾 僕は今日は法律家の資格でなく出席しました。強いて云へば探偵小説家として出席したのです。社側の方々の希望は、法律を知らなかったゝめに素人がひどい目にあったといふやうな話がきゝたいさうです。よって僕は諸君と文藝春秋社の間にある存在として單純に進行係をやります。

法律知らずの悲喜劇
濱尾 素人が法律を知らない爲に引っかゝり易きこと、それが皆様の御經驗におありになれば、はっきりさう云ふのが分る程度にお話を願ひたいと云ふことで先づ第一に其専門の民事の點からお聴きになったことと、それから刑事の點からお聴きになったことを。そこで早速うかゞひますがよく新聞に出て居りますことですが、隣のラヂオが煩い。それから隣の大木が邪魔になって困る。又汽車の煤煙が非常にうるさいと云ふことは、是はまあ色々例もございませうが、御經驗が若しおありになったならば、そのお話をして戴きたい。
塚崎 私は法律を知らんと云ふ爲に間違を生じたことで、或は少し見當が違ふかも知れませんが‥‥
濱尾 結構です。
塚崎 (略)
濱尾 今尊属殺のお話が出ましたが、それに付てのテーマで、何か近頃どなたでも‥‥さう云ふ近頃でなくても結構ですが、尊属殺の事件をお取扱ひになって、それが非常に名判決だったと云ふやうにお感じになった例を伺いたいのです。
上田 どうも塚崎さんや稲本さんにお願ひしないと、我々は刑事々件に縁が遠いので‥‥

十八娘の親殺し
塚崎 私自身で辯護したのではありませんが、夫は陪審裁判にかゝって結局執行猶豫になった事件がありました。一昨年でしたか、淺草の十八歳の娘が親を殺しかけたと云ふのがありましたね。それは判決は執行猶豫になりました。さう云ふやうな場合に於ては親父が得手、酒を飲んで夜遅く歸へる。歸って來ては女房をいぢめ、子供をいぢめて酒を飲むと云ふやうな家庭に多くあるやうに見えます。 或は家を外にして妾狂ひをする。家のことは顧みない。そこで家庭を思ひ母を案じお母さんの考へに引き摺られて、矢張り女の子供が父親を殺す。(濱尾氏に向ひ)さうですね。
濱尾 私は今日は全然素人なんで‥‥今塚崎さんの仰ったことで、今度は民事の方に伺ひたいんですが、どうも素人の人は割合に親族法のことの質問が多くはないかと思ふのです。それに關して内縁關係とか妾とか、或は私通の爲に、法律を知らなかった爲に例へば財産を取られたと云ふことは非常に多いと思ひます。さう云ふケースに付て承りたいのですが。

となりの印刷屋 〜 姦夫姦婦
 (略)

時効の規定
濱尾 是は刑事々件の方に伺ひたいのですが、素人が一番僕は考へなければならぬことは、今のやうな事件(※姦通事件)は犯人を告訴する時効の規定がございますね。あれに對する御感想を伺ひたい。例へばあれは犯人を發見したる日より六ヶ月でしたが、あの六ヶ月は今の儘が正しいか、或はもう少し長くしなければならぬか、短くした方が宜いかと云ふお考へは別段ありませんでせうか。 自分の女房が男とくっついた場合に子供が澤山ある。それで一應どうかして‥‥分れるのは困るので、さう云ふ場合に示談をして妥協を致しませう。と、うやうややって居る中に六ヶ月位はすぐ經つと思ふけれど。
上田 さうですね。殊に我々が實際やった事件ではありませんけれども、さう云ふ姦通の問題があった場合に、要領よく今にも示談するやうな、金を出すやうな、曖昧模糊のやうな状態で引張れば、結局丁度無効になってしまひます。六ヶ月と云ふものは短いやうに思ひます。
濱尾 詰り姦通をして姦夫を本夫が知った場合に、夫が六ヶ月の間に告訴しないと告訴が成立しないと云ふのです。僕が檢事をした時の經驗に依れば、さう云ふ場合に非常に氣の毒な六ヶ月を、一日遅れて送達された場合にどうにも仕様がなかったことがあります。だから僕は短いと思ひます。
上田 短いと思ひます。だから要領よくやれば、例へば金を出すやうな、出さんやうな風をして居れば宜いのですね。
記者 其話を澤山出して戴けませんか(笑聲)

警察の同情した強姦事件 〜 ボクシングと過失傷害
 (略)

スポーツ上の過失
記者 運動の過失で人を殺した場合はどうなるんですか。砲丸投で當ったとか‥‥
辰野 過失致死ならたしか千圓以下の罰金だったと思ふ。
上田 極く微細な話ですけれども、今來る時にマラソンを稽古してゐましたが、あれだって、太腿を出してはいけないといふ規則になってゐるのですが、あれは街の眞中を太腿を出して走ってゐるですな。それは正當の業務でなくとも正當性があるからといふんぢゃないですか。社會通念上さう解釋するのぢゃないですか。法律上‥‥。
清水 それは檢事の起訴猶豫と同じやうに一々それを問題にしないだけぢゃないですかね。問題にしたら、理論的に言へばいけないんぢゃないかと思ふ。たゞ問題にすべきものでないといふだけの話であって、問題にすれば、僕は法律の明文がぴったり當て嵌る問題ぢゃないかと思ふ。

大腿露出の限界
上田 例へば海水着は随分太腿を出してゐますね。しかしそれは罪にならぬと思ふね。
清水 しかし街を歩くと‥‥。
上田 街を歩くことはいけませんが、例へば舞臺へ海水着で出てもいゝし、相撲の芝居の時には裸で出て居るでせう。あれは業務だから‥‥だから業務と解釋して、社會的に正當性があれば業務でなくとも罰しないといふ法律の立前にならぬですかね。
清水 法律の立前から云へば、結局それを罰する必要がないのですね。
上田 結局罪になるけれども大目に見て貰ってゐるといふだけですね。

手紙の無斷開封 〜 未成年者の非常識
 (略)

遺言と贈與
清水 遺言と効果に於て同様に認められる死因贈與といふものがあります。遺言といふのは人の承諾も何も要らない。自分の言ふことだけで立派な法律上の効果を有する。ところが贈與といふことになると相手が承知しなければ――お前にこのものを遺らう、承知しました、有難く戴きますといふ風な、ぴたっとした意志の合致がなければ成立しない。ところが今言ったやうに遺言といふものは非常に手續が面倒でせう。 自筆の遺言ならば自分が遺言の全文を書いて、署名して、捺印して、而もそれが死んだ後は之を裁判所へ持って行って判事の檢認を受けて、さうして初めて之が遺言として法律上の効力があるといふことになる。公正證書の遺言ならば公證人が立ち會って、公證人が遺言する人の言ふことを全部筆記して、さうして法律上の嚴格な規定に從ってちゃんと出來たものでなければ、遺言として認められてゐない。 ところが普通に、俺が死んだ後にはかうかうして、この財産は誰れに遺らう、この財産は彼れに遺らう。さう言って死んでしまった後に、そんな形式を全然とってゐなければ、遺言として無効なのです。相續人から言へば自分の財産を減らされるのは厭だから、相續人の方で死んだ人の言った通りの事を履行しないといふやうな時にはそれっきりなんです。どうにもならぬですな。死んだ人の意志が徹底しない。 ところが今言った死因贈與になると、之が履行しなければならぬ事となってゐるんです。これが實際の問題となると遺言と死因贈與ははっきり區別がつかない。勿論訴訟になれば判事の判斷によって決するのですが事情から見て死んだ人の財産の分け方が公平なものだと見れば判事が裁量して死因贈與と見ることもあるでせう。だから比較的救はれて來て居る。とにかく遺言といふものの形式は餘りに嚴格すぎるですね。 親族法とか相續法の日本の現在の法制といふものは餘りに嚴格すぎる事が多過ぎると思ふのです。他の例ですけれども、例へば相續人を廃嫡するといふやうな場合には、現在の日本では裁判を要するのです。ところがその裁判は大變なんです。私はもう相續人を廃めたいから廃めさせてくれといったって、なかなか裁判所では廃めさせてくれないんだ。 普通の男の相續人の場合は兎に角、女ばかりあって、例へば姉と妹があって、姉の方を早くお嫁に遺っちまはうといふ場合にも、嫁にに遺る爲には廃嫡しなければならぬ。それがなかなか面倒なんです。そこでいゝ加減で、法律の裏を行かうといふ奴が出て來たんですね。‥‥是は塚崎さんに訊いて見なければ分らぬけれども、僕は犯罪になると思ふ。犯罪になった例は知りませんが‥‥そこで簡便にやるにはどうするかといふんですね。 それは犯罪になるから勸められないですよ。勸められないが、現在多くやってゐるのは、外から男の子を養子に貰ふのです。さうすると日本の相續法では男は年が下でも順位が上なんですから、長女の方が養子より相続順位の下になります。そこで長女を外へ遺っちゃうのです。その後で養子を離縁しちゃうのです。これがなかなか多く行はれて居る様です。これは廃嫡の手續が嚴格なので法律の裏を行かうといふ事を考へてやってゐるのです。
記者 皆やってゐるのですね。
清水 是は僕は刑事上から言へば罪だと思ふ。だから人には決して勸められないが、餘り親族法、相續法が嚴格なるが故に、そんな事になったんぢゃないかと思ひますね。

素人はみんな法律にひっかゝってゐる 〜 おやぢの借金
 (略)

姉妹と入婿
濱尾 先っき清水さんが仰言ったことに關聯して、素人が身分上心掛くべきことがあると思ひますが、或る家に姉妹が假に二人ある。自分が入婿になりまして、結婚と同時に其の家に入る。自分が當然將來相續人だと普通は思って居るだらうと思ひますが、今の人は常識上後から例へば子が生れると、それは弟だと云ふが、何か親族法にはさうでないやうなことがあったと思ひますが。
清水 現在では長女に婿養子が來た後に長女の弟が生れた場合には、お婿さんに相續權はありません。法律では「法定ノ推定家督相續人ハ其姉妹ノ爲メニスル養子縁組ニ因リテ其家督相續權ヲ害セラルルコトナシ」と規定して居ます。そこで長女の婿にするつもりでも後に結婚さすつもりで一旦養子として家に入れた場合には其養子が相續人となりますから其後に長女の弟が生れても其弟は相續人になりません。結局養子になると同時に長女と結婚した場合婿所謂養子縁組の場合には右民法の規定に從ふのであると大審院は判決して居ます。

商賣人に強姦は成立するか 〜 蜷川新左衛門と曾呂利
 (略)

法廷珍談
清水 是は名川君(現鐵道参與官)の話だけれども人間の名前を蟲が食った話がある。それは名川が裁判長であった時代に、被告人を調べる時に、名前はと聞くと「六」だと云ふ。「さうぢゃないだらう。權六と云ふ名だろ!」と訊問すると「親は權六と云ふ名前はつけて届出たんですが戸籍謄本の原本の權と云ふ字を蟲が食ったため「六」と云ふ名前になったんです」との返事だったそうです‥‥(笑聲)是は形式的現代の法制の弊ですね。權六と云ふことが證明出來ないのです。
辰野 (略)
濱尾 珍判決の名文句に就てもう少し承りたいんですが。

珍裁判昔話 〜 男女判別不可能の親
 (略)
記者 ではこの邊でどうも有難うございました。
(於日本橋・浪華家)


注)浜尾四郎進行役で始まる珍しい座談会。徐々に記者が進行役になっていくが。 注)内容は民事刑事含む法律的な話で、現代と異なる戦前独自の話題を中心に掲載しています。



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夢現半球