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松本泰 作品小集2 (暫定)

Since: 2024.02.04
Last Update: 2024.02.04
略年譜・作品・著書など(別ページ)
作品小集1 - - - - - - - (別ページ)

      目次

      【翻案中篇探偵小説】

  1. 「舞踏会の夜」 (第一章+α) 旧かな旧漢字 2024.02.04
     
  2. 「二ツの影」 (第一・二章+α) 旧かな旧漢字 2024.02.04
     
  3. 「霧の一週間」 (第一章+α) 旧かな旧漢字 2024.02.04
     



探偵小説「舞踏会の夜」(原作者不明)
(壹千圓大懸賞付犯人捜し)
「婦人倶楽部」 1924.07.〜09. (大正13年7月号〜9月号) より

 白いカーテンを掛けた窓の外には夕靄が迫って、水氣を含むだ星が穏かな光を下界へ投げてゐた。勢よく燃上ってゐる暖爐(ストーブ)の前に立ってゐた巽夫人は小型の鏡を掌に乗せて紙白粉で鼻っ先を撫でながら、
「私、もう平凡な生活に飽々して了ったのよ。何も御夫婦だからといって年が年中一緒にくっついて歩かなくてもいゝではありませんか。」と投げ棄てるやうにいった。
「強てお前に一緒にいって呉れとは云はないが、偶には僕の交際をしたっていゝぢゃァないか。オイさう厚化粧するのは止めたらどうだね。まるでオペラ女優だ。」
 良人の巽良三は半ば眞面目に、半ば揶揄するやうにいった。最前から默って新聞を讀んでゐた母堂はそれをきくと急に險しい顏をして、
「貴郎(あなた)、そんな惡口を仰有るものではありません。この娘はまだ若いのですからお化粧位したって當り前ですよ。」
と、愼(たしな)めるやうにいった。
「世に時めく百萬長者巽男爵家の家族といっては雇人を除いて、當主夫妻及夫人の母堂房子刀自の三人限りであるが、各自が餘りに個性を發揮するので中々家庭が圓滑にゆかないのである。主人は飽迄男爵家の威嚴を保ち、格式相當の堅苦しい交際を續けてゆかうとする。處が新聞紙の美人投票で恣(ほしいまま)に一等賞を勝ち得た百合子夫人は社交界の花と唱はれる許りでは滿足せず、 凡ゆる舞踏場に孔雀のやうな姿を現はし、或はグッとくだけて歌澤の師匠とか、舞踊(おどり)の連中などに交って骨牌(はな)をひくといったやうな過渡期の社會が生出した所謂當世風の女性であった。一方母堂の房子刀自は自分の娘位の美貌をもってゐたれば、假令(たとえ)少々位過失があっても、許さなくてはならないと考へてゐる程、娘の愛に溺れてゐた。それ故當主の男爵と雖(いえども)、百合子の行爲を非難させてはおかなかった。
「お母様、左様御機嫌を損じて下すっては困りますよ。僕は決して惡口をいった譯ではありません。百合子程の美人には白粉などは不必要だと思ったのです。」
「貴郎は中々お世辭が甘(うま)い。そんな辯口の長(た)けた方にあっては叶ひません。」母堂は薄い唇に皮肉な冷笑を浮べながらいった。男爵は雲行が不良(わる)いと見て、急に話題(はなし)を變へ、
「百合子、それぢゃァお前は今夜家にゐるのだね。」といって、柔い電燈の光を半面に浴びてゐる艶麗(あでやか)な妻の顏を覗込んだ。
「誰が家になんかゐるもんですか。私先刻もいったでせう。平凡な生活に飽々したって。」百合子夫人の唇からは顏に似合はぬ毒々しい言葉が吐出された。
 男爵は少しムッとした様子で、
「さう喧嘩腰にならなくてもよからう。如何に夫婦の仲でも少しは禮儀を守りたいものだね。」といった。母堂は忿然として横合から口を出した。
「良三さんその言葉は何です。百合子が禮儀を知らないとでもいふのですか。親を侮辱するにも程があります。これでも私は百合子に女の作法は一通り仕込んだ積りです。」男爵は母堂の言葉に辟易して苦笑をしながら葉卷(シガー)に燐寸を點けた。
 夫人は何處を風が吹くといふ様子でつと長椅子を離れた。
「あらまァ随分大變な議論になって了ったのね。貴郎方はお勝手にヘボ議論をしてゐらっしゃいませ。議會へ出た時の御稽古になりますわ。私鳥渡失禮。」といひながら扉(ドア)に手をかけた。
「では僕もそろそろ仕度をして出掛けよう。」男爵は獨言のやうに呟いて立上った。
「貴郎は例の御歴々方と御一緒にお芝居へいらっしゃるのでせう。」夫人は男爵を顧ていった。
「あんな詰らない芝居は見たくはないが交際上仕方がないさ。」
「まァ随分御機嫌が不良いのね。だが貴郎位の男振りだと膨れたところが鳥渡乙だわね。けれどいくら好男子でも朝から晩まで鼻を突合せてゐては飽きて了ふわ。ではいっていらっしゃい。」夫人は蓮葉な言葉を遺して二階へ駈上って了った。
「平凡な生活に飽々したといふのか、これで一層夫婦二人きりなら何とか教育の仕様があるが、あの女親がついてゐてはやりきれない。骨牌をひくのは一番閉口だよ。然しあんな詰らない事がどうして面白いのだらう……」
 男爵はひとり物思ひに耽りながら浮ない顏をして玄關から自動車に乗った。
 車の響が遠くに消えて了ふと、百合子は再び階段を下りてきて、夕刊を讀んでゐた母堂の傍へすり寄り、
「ねえ母さん、最うこれっきりだから何とかして頂戴よ。」と甘えるやうにいった。
「最ういゝ加減に止したらどうなの、お前良三さんに知れたらどうする積り、私のところには既う一錢もないのだから……」
「知れたら知れたまでの事だわ、一層その方がいゝかも知れない。どうせ投って置けば自分の名譽に係る事なんだから、其時は何とか始末をするでせう。」
「まァお前は何て恐しい娘だらう。然うつけ上ると罰があたりますよ。」
「罰なんかどうでもいゝから、五百圓だけ頂戴。今日は馬鹿に運の好い日なんだから吃度大勝よ。さうしたらお母さんにだって誰にだって今迄の借金を返して了ひますよ。」
「駄目です。そんな事なりません。」
「母さんのやうな吝嗇(けちんぼ)な人は見た事がないわ、私がお金持と結婚したればこそ、母さんは恁うして何不自由なく樂隠居になってゐられるのぢゃァありませんか。母さんは自分さへよければ娘なぞはどうなっても構はないのね。」
「何といってもお前の身の爲にならないお金は上げられません。女だてらに博奕なんかやってどうする積りです。」
「いゝわ、そんな吝嗇な人からは一錢だって貰はないわ。その代り私はどんな眞似をするか分らない事よ。何といっても今晩借金を拂って了はなくてはこれから先交際社界へ顏出しが出來ないのよ。」
「ではお前はこれですっかり不良いお仲間と手を斷って了ふといふ約束を母さんにしておくれ。」
「事によったら然うするわ。私には素敵な考案(かんがえ)があるのよ。でも今は母さんにも秘密だわ。」
「今晩お前は何處へおいでなの。」
「花房子爵のお宅へ伺うふのよ。でもその前にもっといゝ處へゆくのよ。だから大急ぎで仕度をしなければならないわ。さァ母さん愚圖々々してゐないで早くお金を出して下さい。」
「いくら上げたくても無い袖は振られませんよ。」母堂は娘を押除けて自分の居間へはひって了った。百合子は到底見込がないと見究めをつけると、烈しく背後の扉を叩きつけて二階へ駈上り、
「お清、お清。」と次の間に控へてゐた小間使を呼んだ。
 夫人附の小間使は恐る恐る部屋へ入ってきた。
「お清や、後生だからお前の持ってゐるだけのお金を悉皆(みんな)貸しておくれ。」と命令的にいった。
「奥様、喜んでお役立致したいのですが、生憎持合せがないので厶(ござ)います。」
「そんな事ないわ。お前はお給金を昨日貰った許りぢゃァないか。」
「ハイ、昨日頂きましたけれども悉皆親許へ送って了ひました。」
「お清、お前は嘘を吐いてゐるね。お前がお金を貸してくれなければ此間の事をお前の許婚の男にいって了ふよ。」
「まァ奥様、何卒そんな事を仰有らずに下さいませ。有りったけ悉皆お用立致しますから。」
「それ御覧、持ってゐる癖に、一體悉皆で幾許持ってゐるの。」
「ハイ、五十圓程御座います。」
「アラ僅(たっ)た五十圓ぽっちなの、そんなものは役に立ないから不用(いら)ないわ。ぢゃァ村井の奧さんの許へ電話をかけて頂戴。奧さんがお在(いで)になったら、私がお話をするから、お前は下へいっておいで。」
「畏りました。」小間使は小走りに部屋を横切って卓上電話機を取上げた。
 百合子夫人は大きな姿見の前の長椅子にしどけなく身を横たへ、白い二の腕をダラリと下げて低聲(こごえ)で流行(はやり)唄を口ずさんだ。然うしてゐる間も彼女の腦裡(あたま)には骨牌をひく時の緊張した光景を思浮べてゐた。彼女にとって勝負は問題ではなかった。假令何百圓何千圓を一擧に失っても、一か八かといふ際どい瞬間の興奮を思ふと、到底賭博を思切る事は出來なかった。
「奥様、村井様の奥様がお出になりました。」小間使が受話機を夫人の手に渡すと、滑るやうに部屋を出ていった。
「モシモシ、華子さん、お願ひがあるのよ。だから直ぐ來て頂戴。」百合子は快活な調子でいった。
「一體どんな急用が出來たの? そんな無理を仰有っても駄目よ。私いま衣装附で大騒ぎなのよ。貴女も今晩例の所へ被入(いらっしゃ)る筈だったぢゃァないの。」
「でも彼處へは十一時迄に行けばいゝのぢゃァないの。何でもいゝから直ぐ來て頂戴。いふ事をきかないと仲違ひよ。」
 百合子は電話を切ると小間使を呼んで、
「さァ大急ぎでお化粧をして頂戴。頭髪は周圍を詰めて髷を高く結ぶのよ。耳隠しなんてあんな舊式な髪は厭よ。靴下は肉色のを出しておくれ。」と命じた。小間使は唯々諾々として夫人の言葉のまゝに小さな體躯を忙しく動かした。夫人が絹の下着の上へ派手な縫模様のある空色の部屋着を引かけて長椅子の端に腰を下すと間もなく玄關の電鈴(ベル)が鳴出した。
「あゝ村井さんの奥さんが被入(いらっしゃ)ったのだよ。早く此處へ御案内しておくれ。」
 小間使と引違ひに厚化粧をした村井夫人が入ってきた。白い紋縮緬に孔雀の裾模様を縫出した紋服を纏った姿は目の醒めるやうな美しさであった。彼女は椅子に就くなり細卷の煙草に火を點けて、
「さァ我儘な嬢さん、何御用なの。」と微笑ひながらいった。
「急に貴女の顏が見たくなったの、時に貴女の旦那様は如何。」
「旦那様? は相變らずよ。いつも御機嫌よしだわ。」
「そして相變らず貴女に首丈でらっしゃるのでせう。」
「當然だわ。」 村井夫人は姿見の中に映った自分の姿を誇らしげに見入りながらいった。
「さァそんな無駄口をいってゐないで早くお用を仰有いよ……またお金でせう。」村井夫人は卷煙草の吸殻を灰皿へ投込みながら附加へた。
「お察しがいゝわね。最う千圓どうしても入用(いる)のよ。旨く旦那様からせびり取って頂戴よ。こんな安い口止料ってありはしないわ。これが最後よ。綺麗薩張りお出しなさい。親友の好誼(よしみ)にね。」
「仕方がないわ。では今夜花房子爵のお宅で差上げますわ。十一時にね。」
「有難う、それで既(も)ういゝわ。いづれ後程。」
「左様なら。」
 村井夫人は靜かに部屋を出ていった。彼女の美しい顏には暗い影がさしてゐた。

 戸村早苗はまだ世間に一向名を爲してゐないが、放縦な美術家仲間では可成り名を知られた畫家である。尤も彼の作品が畫家仲間から尊敬されてゐる譯ではない。寧ろ彼の廣大な畫室が屡々開放されて美術家連の集合所となったり、舞踏場とされたりするので仲間中の人氣者となってゐる譯である。彼は未だ曾て個人展覧會といふやうなものを催した事もなければ、勿論帝展や院展へ出品しようといふような野心も抱いた事はなかった。 唯御多聞に洩れず、硬いバサバサの頭髪を延し、鼈甲縁の眼鏡をかけ、繪具だらけの仕事着をつけて畫室の中をうろついてゐるのが常であった。偶に畫を描くと仲間達がやってきて各自勝手な批評を下してゆく。孰れも天狗連の事であるから、誰一人他人の作品などを褒めてゆく者はない。 その中で唯一人彼の作品を眞面目に批評するのは眞山眞珠といふ閨秀畫家であった。彼女の技倆は多少一部の人々から前途を嘱望されてゐるものゝ何といってもまだ二十一になった許りで、ほんの小娘であったから、戸村早苗の畫室に集る定連の中では作品より美貌が評判であった。
 其夜戸村早苗は例によって畫家連の假装舞踏會といふお祭り騒ぎを催した。無論そのやうな催しを計劃したのは友人の逸見(はやみ)であったが、會場と凡の經費を負擔するのは戸村の役割であった。逸見と眞山眞珠の先生株に當る鹿島みどりとは早刻からやってきて舞踏場の天井に提灯を吊したり、窓の枠に櫻の造花を飾ったりして準備に忙しかった。
 戸村と眞珠は玄關に立ってお客を迎へてゐた。定刻が近(ちかず)いたので假装を凝した人々が陸續と詰掛けてきた。
 (略)
 逸見は氣味の惡い程ひっそりとした薄暗い喫煙室の前に立つと、
「どうしたんだ。」と聲を潜めてそこに立ってゐる林に問かけた。
「見給へ、そこに倒れてゐる婦人は死んでゐるんだよ。僕は今胸に手をあてゝ見たがすっかり呼吸が絶えてゐるんだ。」
「一體誰だ。」
「薩張り判明らない。假面を除って見たが見た事もない人だ。」
「どうしたんだらう。」
「先づ戸村を呼んでくるんだね。それから黄と僕は此處で番をしてゐるから君扉を閉めていって呉れ給へ。婦人達に知れると騒ぎが大きくなるから。」
 逸見が周章しく部屋を出ていって了ふと、林は改めて死骸の傍に跪いて今更のやうに婦人の顏を覗込んだ。眉間に恐ろしい打撲傷を受けて、眞紅の血が白い額を染めてゐた。
「どうしてこんな事になったのだらう、ひどい勢で走ってきて、棚の角にでも衝突ったやうな傷だが……然しこの部屋には棚はなし……不思議だな……兎に角一刻も早く醫者を呼ばなくてはならない。今夜來てゐる連中の中に旨く醫者がゐて呉れるといゝが……」林は獨言をいひながら部屋を出た。彼は舞踏場の入口に立ってゐた男に、
「君、誰かこゝに醫者は來てゐないだらうか。」と訊ねた。
「金石博士が見えてゐるから呼んであげませう。」その男は直に舞踏の群をくゞって醫師を探しにいった。

 (略)

◇被害者巽夫人に就て
 巽夫人の死は、其夜、畫家、戸村の舞踏場に集まった假装者達に恐怖を與へた。直ぐ前まで享樂の夢を遂うた紳士も、淑女も、舞踏場に來たを悔てゐるであらう。それにしても被害者は美人である、名ある男爵の令夫人である、社交界の花形である。随分この犯行には複雜した事情が伏在してゐるに違ひない。それが事件の興味である。犯人捜査に黒泉係長も大汗である。 が試みに犯人の嫌疑者を擧げてみる、戸村早苗、眞山眞珠、村井華子、に夫の良三、疑へばその誰にも、疑ひの黒い手は伸びる、犯人は誰? 次號を御覧になれば犯罪の輪廓も、犯人の見當も凡そ決る筈である。併せ讀み、盛んに懸賞應募あらんことを希望します。

四〜六
 (略)

七〜九
 (略)


注)当て字でルビと異なる漢字が多く使用されています。推測による漢字もあります。「みは(※目爭)る」を「瞠る」など代用している漢字もあります。
注)明かな誤字誤植は修正していますがゆらぎ等はそのままです。章の数字表記は統一しています。句読点は追加したところもあります。
注)前回までのあらすじ部分は省略しています。
注)内容は、時代が時代、作者が作者なので。犯人当ては名前のみの懸賞で正解者多数だったようです。


「二ツの影」(原作者不明)
「婦人倶楽部」 1925.08.〜12. (大正14年8月号〜12月号) より

(一)捜索隊
 靜かな山間の町を終日吹荒してゐた暴風雨も、日の暮と共に雨は歇み、風は落ちて、雲の切れた山の背の磨上げたやうな空に、星さへ輝き初めた。
 村の青年團から成立った捜索隊は疲勞(つか)れきったやうな足取りで、提灯を振りながら石塊の多い山路を下りてきた。
「こんなに骨を折っても見付らねえだから、最う諦めるより仕方があんめえよ。」
「兎に角これ以上、何處を探すっていふ的(あて)がないからなァ。」
「今日はこれだけにして歸るとしよう。」
「先刻のどしゃ降りで俺(おいら)懐中の蟇口までぐしゃ濡れにして了った。」
「そんな事は何でもねえ。」
「何でもねえ事があるもんか。俺達は悉皆(みんな)風邪をひいて了ふぜ。」」
「左様かも知れねえ。だがねえ、人間が生きるか死ぬかといふ大切な瀬戸際に自分達の事許り考へて風邪をひく位の事を心配するのは褒めた話ぢゃァないと思ふ。」先に立った林といふ中老人がしんみりした調子でいった。
「左様だ。その通りだ。」數人の聲が應じた。
 その時、峯を隔てた町の方から微に太鼓の音が聞えてきた。
「倶樂部で太鼓を鳴らしてゐるぞ。きっと發見(みつか)ったのかも知れない。」
「左様だ。早くいって見よう。」
 人々は木の根に躓いたり、近路をする爲に崖を飛下りたりして一散に町へ向って駛った。
 小さな一本通りの田舎町は事ありげにざわめいてゐた。學校の横手にある倶樂部の前に同じ扮装をした一團がゐた。
「どうです。手掛りはありましたか。」林は聲をかけた。
「儂等は辧天池で帽子を見付けたですよ。」
「誰の帽子です。」
「大村の若旦那の帽子です。」
「間違ひないだらうね。」
「左様さ、帽子の内側に大村健一と書いてあった。」
「いよいよ駄目だったか、大切な若旦那がそんな事になっちゃァ、大旦那は嘸(さぞ)嘆かれるだらう。世の中はいゝ事許りないものだなァ。いくら財産があっても後繼(あととり)を失しては何の甲斐もない。」林は我事のやうに聲を落していった。
「大旦那もお氣の毒だが、可哀想なのは木下さんのお嬢さんさ。來月は若旦那と婚禮だったのに。」
「たが帽子が發見(みつか)ったからって、死んだ證據にはなるまい。」
「若し生きてをられるなら、とうに歸ってゐる筈ぢゃァないか。それに昨日の夕方校長さんの息子さんと若旦那が連立って辧天池の方へ行くのを見た氣があるですよ。」
「成程ね。二人は餘り仲の善い方ぢゃァなかった。つい先頃も郵便局の前でひどく爭論(いさかい)をしてゐたっけ。だがまァ眞實(ほんと)の事が判明(わか)る迄は滅多な事をいふもんぢゃァない。皆さんどうも御苦勞様でした。明日は一つ辧天池をさぐって見るとしませう。」と林はいった。前日から行方不明になってゐる二人の青年を捜索してゐた青年團の人々は、明朝を期して三々伍々(※ママ)に散っていった。
 二人の青年のひとりは土地の素封家大村義太郎の嗣子健一で最うひとりは土井修といふ校長の嗣子ワ(あきら)である。
 小高い丘に煉瓦塀を繞らした宏壯な大村家の邸(やしき)では玄關にも食堂にも、應接間にも至るところに明るく電燈がついてゐた。當主の義太郎老人は前夜から一睡もせず、何一つ口に入れずに落着ない様子で家の中を歩廻ってゐた。最初彼は伜の身に間違ひが起ったなどとは夢にも信じられなかった。運動家で健康で殊に當年二十七といふ血氣旺(さか)んな年頃であり、且つ生れ落ちると共に育った土地であるから何處の崖は危險で、何處は安全だと知りきってゐる筈である。 尤も血氣に任せて多少粗暴な振舞をやる事もあったが、來月は豫(かね)てから相愛の仲である隣村の前田家の娘數江と結婚する事になってゐたので危險に身を處するやうな事は絶對に避けてゐた。老人はよくそれ等の消息を知ってゐた。
「馬鹿め、一體何處へいったんだ。」老人は同じ言葉を幾度も繰返しながら仆れるやうに椅子に腰を下した。
 十二年前にこの世を去った懐かしい妻の事がしみじみと思出された。それは健一が十五で、康子が八つの秋であった。十二年の歳月は夢のやうに過去って一しきりは再婚の噂さへあった彼も、この數年メッキリ老込んで了った。
 疲勞(つか)れきって重く瞼を閉ぢた彼の目の前に優しい妻の顏、立派な體格をもった健一の姿、東京の女學校にいってゐる母親に似た快活な康子、それから近々に伜の嫁になる數江の白百合のやうな美しい姿などが、入替り入替り映っては消えてゐた。

(二)奇怪な訪問客
 同じ山間のY町で十年一日のやうに郷黨の育英に努力してゐる土井校長の家にも深い愁の雲が覆ひかぶさってゐた。彼は最愛のひとり息子ワが前夜大村の息子と辧天池に近い橋の上で話合ってゐるのを目撃したといふ男の話をきいてゐた。場所が場所であり、相手が相手であるだけに彼の心を暗く不安にした。
 健一といひ、ワといひ、このY町許りでなく郡でも五本の指に數へられる程の秀才であった。健一は帝大の法科を出た學士で實務家であり、ワはまだ文科に籍のある詩人肌の空想の多い青年であった。さうした二人の性格の相違から、健一はワが自分の妹の康子と心易くしてゐる事を尠からず不滿に思ってゐた。
 彼は屡々ワに對して抗議を入れた。
「君は康子さんの親ぢゃァないから、そんな事をいふ權利はないでせう。」ワはその度に強く云返した。
「然し君は自分自身をさへ支へてゆけないのにどうして康子を幸福にする事が出來る。」
「無論僕は君のやうに金持の親は持ってゐない。だが人間の幸福は金錢で買へるものではない。康子さんと僕の心持の問題に君が口を出すのは僭越ぢゃァないか。」
 このやうな會話が屡々二人の間に繰返された。健一は結局父親(おやぢ)を説いて妹の康子を東京へ遊學させて了った。この事は健一とワを益々反目させた。
 土井老人はこれ等の事を考へ合せると、ぢっとしてゐられなくなった。若い者達は何をするか分らない。最愛の一人息子を失ふといふ事は思っても恐ろしい事であるが、共に行方の知れぬ大村の息子が無事に歸るまでは例へワが生きて歸ったとしてもそれは死にも勝る凶事を語るものではあるまいか。
「お前の息子は殺人罪を犯したぞ。」
「お前の息子は殺されたぞ。」この二つの言葉が土井老人の耳に絶えず鳴り響いてゐた。
「あゝ儂は氣違ひになりさうだ。一層どっちかにきまって呉れた方がまだ増しだ。どうか二人とも無事であってくれ。」老人は眞實に氣が狂ったやうに首を振りながら叫んだ。
 田舎町の夜は刻々と更けていった。家中は恰も喪についてゐるやうに各自に聲を潜め、足音を忍ばせてゐた。突然その靜かな空氣を破って裏口の扉を叩くものがあった。勝手元にゐた女中は、
「若旦那様がお歸りになったのかも知れない。」といって慌てゝ戸を開けると、そこには髪を振亂した恐ろしい形相の老婆が立ってゐた。
「旦那様に用があるんだから取次いでおくれ。」と横柄な言葉付でいった。
「旦那様は大變な心配事がおありになるのだから、お前さんなんかに會ってゐられないでせうよ。」女中は老婆の見窄らしい服装をまぢまぢと眺めながらいった。
「何でもいゝから、取次げばいゝのだよ。旦那に心配事があればこそ、來てやったのさ。」
「お前さんの取次などは出來ません。」
「この罰あたり奴、私を何だと思ってゐるんだ。さっさと取次げといったら、取次げ。」と老婆は聲を荒らげていった。女中はその權幕に氣を呑まれてバタバタと奥へ走っていった。
「旦那様大變でございます。變な婆さんがきて、どうしても旦那様にお目にかゝるといってをります。」
「何か無心にでも來たのかね。若しさうならきいてやったらよからう。」
「イヽエ物乞ひではないやうでございます。旦那様に心配事があるから、それで來てやったのだなどと申してをります。」
「兎に角此處へ通したらよからう。」
「でも旦那様、あんなものにお會ひにならぬ方がおよろしいでせう。ひどい服装(なり)をしてゐるのでございますよ。それに人相が惡うございます。」
「そんな事は構はない。すぐこゝへ通すがいゝ。」と土井老人は穏かに命じた。
 やがて女中に案内されて入ってきたのは眼付の鋭い六十餘りの老婆で日に燒けた額に深い皺が幾筋も刻まれてゐたが、若い頃は可成りの美人であったらしく思はれる。老婆は怖れ氣もなくツカツカと入ってきて土井老人の薦めた席に就いた。
「私に會ひたいとか仰有いましたな。」土井は徐(しずか)に口を開いた。
「會ひたくなければ、誰がこんな晩に、わざわざ遠くからやってくるものがありますか。」老婆はぶっきらぼうに應へた。土井は呆氣にとられて相手の顏を視詰めてゐた。
「そんなに遠いとこから來たのですかね。」
「辧天池の向ふ山ですよ。それで是非共貴老(あなた)に來て頂きたいのです。」
「これからですって、冗談ぢゃァない。一體私に何の御用です。」土井は目を瞠(※)った。
「それは後でお話します。兎に角大事件で人間一人の死活問題なのです。」
「人間? 一體誰の事です。」土井は慌てゝ反問(といかえ)した。
「いづれ後程解りますよ。さァ愚圖々々する場合ぢゃァありません、すぐ雨仕度をして出ていらっしゃい。」
「御免蒙ります。用件もわからずこんな晩に誰が戸外(そと)へ出るもんですか。だが貴女(あなた)の用件と仰有るのは何か昨夜から戻らぬ私の息子と關係があるのですか。」
「さうかも知れず、またさうでないかも知れません。兎に角こゝではお話が出來ません。」
 土井は目をあけて奇怪な深夜の訪問客を視詰めながら、
「貴女は自分の道樂で私を迎へに來たのではないと仰有るが、或は眞實(まったく)左様かも知れない。ではどうでせう、私の代りに下僕をやりませう。」といった。
「斷じてなりません。私は貴郎を迎へに來たのです。十分程門の前で待ってゐますから、その間にもう一度考へ直すがいゝでせう。然しどうしても貴郎がお厭とあれば致し方ありません。私は自分の義務を果したのですからね。どれ、お暇をしようかな。」老婆はヌッと立上って部屋を出ていった。土井は謎のやうな老婆の言葉に心を牽かれて結局一緒に出掛ける事とした。
 夜風が高い梢にザワザワ鳴ってゐた。町の家々はすっかり燈火を消して深い熟睡の裡にあったが、町はづれの大村家だけは眞晝のやうに電燈を點して、二階のカーテンにまだ寝もやらぬ人々の影がキラキラと映ってゐた。
 町の街道をきれて道祖神の横手を入ると、爪先上りの路は急に狹くなって、兩側に生茂った樹木はすっかり空を覆うてゐた。
「いゝ鹽梅に追手風(おいて)になった。」先に立った老婆は獨言(ひとりごと)のやうにいった。
「そんなに急ぐ必要があるのかね。私は既う年をとってゐるんだから……」土井は喘ぎ喘ぎいった。
「おほきにね、私は貴老を待ってゐる人の事を思出してゐたものだからね。」
「その男はひどく容態が不良(わる)いのかね。」
「行って見れば分りますよ。」
「では男なんだね。」
「それもぢきに分りますよ。」
「お前は不思議な女だね。そんな事を秘す必要はないと思ふが……」
「さうかも知れない。だが私は云はれた通りをやってゐるのさ。口をきけば餘計に息切れがするからまァ默ってゐなさるがいゝ。」二人は無言のまゝ谷を下りて、更に新らしい坂路にかゝった。遅い月が昇った。雨に濡れた樹木の葉がキラキラと照らし出された。下の方から微に渓川の流れが聞えてきた。奇怪な道案内の老婆は熊笹を分けて欅の巨木の後手へ出た。突然土井の眼前に赤い灯影(ほかげ)が見えた。そこは欅の空洞(うつろ)から續いた洞窟であった。

(三)洞窟
 洞窟の内部は思ひの外に廣く、鼠色の毛布で中仕切をして二つの部屋が出來てゐた。土井老人は入口に立止って暫時躊躇してゐたが、老婆はそんな事に頓着せず、粗末な食臺の上の裸蝋燭を取上げて、幕の後へ入っていった。内部でヒソヒソと話合ふ聲が聞えた。土井老人は好奇心に驅られて思はず二足三足前へ進んだ。その時、老婆は幕の蔭から首を出して手招きをした。
 次の室には縁(へり)なしの古疊が三枚程敷いてあって稍々人間の住居(すまい)らしい形をなしてゐた。片隅に延べた薄い蒲團の上に何者か横になってゐる。老人は胸を騒がせながらその傍へにじり寄ったが仄な蝋燭の光に照らし出された蒼白い顏を見ると、
「あゝ、ワ! よく生きてゐて呉れた。」と叫んだ。ワは床の上へ手をついて、
「御心配をかけて申譯ありません。飛んだ事を爲出來(しでか)して了ひました。と聴取れぬやうな低い聲でいった、
「健一君はどうした。」老人は瞬もせず息子の顏を凝視した。
「屹度死骸になって浮上るでせう。」
「ぢゃァいよいよお前がやったのだな。」
「左様です。私が下手人です。」ワはキッパリと答へた。無事な我子を見出した父親の喜びも束の間であった。ワの短い言葉は老人の前途を闇黒にして了った。父親は兩眼に涙を浮べて死人のやうに窶れ果てた我子の横顔を視守ってゐた。
 (略)

(四)誘拐?
 (略)

(五)放免
 (略)

(六)絶望
 (略)

(七)謎の女
 (略)

(八)罠
 (略)

(九)救ひの手
 (略)

(十)斷髪
 (略)

(十一)執念
 (略)

(十二)父の秘密
 (略)

(十三)尋ね人
 (略)

(十四)不思議な邂逅
 (略)

(十五)船たび
 (略)

(十六)山中の一夜
 (略)

(十七)冒險
 (略)

(十八)危機一髪
 (略)

(十九)死の告白
 (略)

(二十)春の訪れ
 (略)


注)当て字でルビと異なる漢字が多く使用されています。推測による漢字もあります。「みは(※目爭)る」を「瞠る」など代用している漢字もあります。
注)明かな誤字誤植などは修正しています。ゆらぎや多少違和感がある程度のものはそのままとしています。句読点は追加したところもあります。
注)章の数字は通算に改めています。


「霧の一週間」(原作者不明)
「行楽」 1925.04. (大正14年4月号) より

 その頃私はマーシントンいふ有福な代議士の秘書役を勤めてゐた。氏の邸宅は倫敦では閑靜なイートン街と、田舎ではドーバア海峡に近い聖マーガレット灣に臨んだ海岸にあって、そこには書籍、繪畫、並に骨董類が夥しく藏されてあった。マーシントン氏は彼是五十位で而も獨身であった。氏の唯一の血縁で姪に當るドリスといふ娘も同じ家に起居してゐる。彼女は私がこの家に雇はれてきた時には某宗教學校を卒業した計りの十七歳の少女であった。家族はこの姪とマーシントン氏と私の三人である。 私とドリスとは年齢にも大差ない若者同志であり、且つ一つ屋根の下に住んでゐるといふ關係上、二人の間には早晩、戀が育まれるであらうとの私の豫期は、さして不自然ではなくて、此事件の發生した時には二人は將にマーシントン氏に一切を打明けて婚約の許可を乞はうとさへしてゐたのであった。
 だが何よりも先づ、マーシントン氏の人物を明かにする必要があらう。忌憚なくいへば初對面の瞬間から、既に何處となく神秘的な印象を與へられた。雇はれる際の契約は僅に數分時を要せずに結ばれた。其時私は知人の紹介状と身許證明書とでもいったやうなものを携へて、イートン街に氏を訪ねると、氏は眼鏡を外して一通り書類を讀んだ後、一つの條件を提出した。 それは氏の家庭に起居するといふ事と、給料年俸三千圓といふのである。私は大喜びで即座に先方の申出を承諾した。兎に角一旦屋敷を出て可成りの道程を歩いてから漸く自分は雇主たる彼に就て殆んど何事も知らないといっても可(よ)い程だといふ事に氣付いた。
 彼に就て私は何を知ってゐたか、知ってゐた事といへば、彼は英國中の最小選擧區たるヴレイミニスターから選出された代議士で、邸内の有様から推して繪畫、骨董等を愛好し、物靜かで落着きのある親切な人格者で、外見上にも甚だ裕福なところが窺はれたといふ位に過ぎなかった。確かな人だ、安心して可なりとは思ひながら、それでも念の爲に私を紹介してくれた知人の事務所を訪ねて、不躾にもマーシントン氏の人物を質(ただ)して見たのである。
 知人は微笑しながら、
「さうだね、實は私もよく知らないのだよ。あの人が三年前に南アメリカから歸ってきて、現在の場所に居を構へ、代議士に打って出たといふ事は周知の事實だが、その他、あの人は非常な金持であるといふ事以外には何にも知らない。それにしても何か穿鑿の必要でもあるのかね。」といった。
 それで私は結局同家へ住込む事になったのである。われわれの日常生活は頗る平穏無事で、マーシントン氏は多くの場合議會に出席してゐた。さもない時は終日家に引籠って讀書に耽ってゐた。ドリス嬢にも格別友達とか學校時代の仲間とかいふものはなかった。
 日毎に同じやうな平穏な日が續いてゐる。主人も彼女も滅多に外出しないし、また訪間の客も見えなかった。私の觀察(み)たところでは主人は交友を避けてゐるらしく、議會に於ても彼は常に一人法師(ぼっち)であった。
 我々は判で押したやうに毎週金曜日或は木曜日から海岸の別莊へ出掛けるのである。然し大抵の若い者だったら、このやうな生活には飽々して了ふのが當然であらうが、私共だけは例外であるといひたい。私とドリスは既に戀仲に陥ってゐたから……
 偖、いよいよ本統に事件の發端に移るとしよう。
 それは四月末のカラリと霽(はれ)渡った金曜日の午前の出來事であった。春らしい風が室内に流込んでゐた。その時の感じは今でもまざまざと眼前に浮上ってくる。恰度主人とドリスとは前の晩から例の如く、聖マーガレットの別荘へ出發(た)ち、私はニ三の事務を處理してから、その日の夕刻、彼等の仲間に加はる筈になって、倫敦の家に殘ってゐた。そしてこの日曜日こそは二人の間柄をマーシントン氏に打明ける約束が既に成立ってゐたのである。
 私はその時の光景を胸に描いて、どんな風に切出したものかなどゝ考へながら、朝食を攝(と)ってゐた。すると給仕のトムが當惑氣な様子をして入ってきた。
「ご主人にお會ひしたいといふ方が玄關に來てゐるのですが御不在(おるす)だといっても中々歸らうとしないのです。」
「どんな人かね。」と私は訊ねた。給仕は肩を窄(すぼ)めながら、
「左様ですね。まァ船乗りといふ恰好の男でございます。言葉つきは至極叮嚀ですが、どうもその男には御主人がお不在(るす)だといふ事が充分了解(のみこめ)ないらしいのです。それで何でも彼でもお目にかゝりたい。重大事件で至急にお會ひしなければならないと申すのです。」
「左様か、ぢゃァ兎に角應接間へ通しておくがいゝ。」といって私は悠々と朝食を濟ませた。客といふのは大方マーシントン氏の選擧人で何か請願をするか、或は時局を慷慨(こうがい)する爲の來訪位だらうと考へてゐた。然し、私は煙草に火を點けて應接間に入ると、來訪者の用件は尋常一様のものでないと直覺した。
 男の年齢は五十の坂を越してゐやう。彼は私を見るとスックリと椅子から立上った。私の眼に映じた彼は岩丈な、一酷らしい男で身丈は中背といふより稍高く、顏は日燒けがして赫黒く、耳朶に純金の耳飾を下げてゐた。そしてオドオドしながら舊式な山高帽を弄(まさぐ)ってゐる兩の手は、木の根のやうに節くれ立ってゐた。 衣服は眞新らしい藍色の船員服を着けてゐたが、全體の感じの上にも洋々たる海洋とか、荒漠たる遠隔の殖民地にでも暮した經驗(こと)のあるらしい俤が漂ってゐた。顏には一面に天然痘の痕があって、其上右頬には一條(すじ)の刀創があった。
「主人はいま不在(るす)ですが、御用件があれば仰有って頂きませう。」と私はいった。彼は二三度ペコペコとお辭儀をして秘密な何事かを持ってゐるらしい素振りをしながら、
「内密に申上げたい事が二三ありますが……」彼は閾際に立ってゐる給仕をチラと横目に見て云澁った。私は頷首いて彼を書齋に招入れた。彼は椅子に就くと中央の卓子(テーブル)に乗ってゐるドリスの最近の寫眞の上に目を留めた。
「マーシントンさんは眞實にお不在ですか、このお邸宅(やしき)にゐらっしゃらないのですか、それとも御旅行でもなすってゐらっしゃるのですか。」
「貴殿も中々クドイ、兎に角いまはお不在ですよ。」と私は素氣なく答へた。彼は太い人差指で顎を撫廻しながら、
「困った事になりましたよ。實に閉口です。併し貴殿(あなた)は御主人が何處にゐらっしゃるか勿論御存知でせう。」彼は意味ありげにいった。
「貴殿の御用向を伺った上でないと、その點も申上兼ねますな。」
 それを聞くと彼はムッとして口を噤んだが、久時(しばらく)して不意に氣味の惡い横目を使ひながら指先で私の胸を押した。
「隔てなくね、ね、隔てなくお願ひしますよ。私はマーシントンさんに會ひに來たのです。あの方の爲に力になってあげやうと思って参ったのです。それがどんなにあの方の爲になるかといふ事は、私とあの方と唯二人きりにしか解らないのです。ね、何卒私をマーシントンさんの許へ連れていって下さい。」
 私は再びぢっと相手の様子を凝視(みつ)めた。眞實に心配らしい顏色は本氣に主人に會ひたがってゐるらしく、他意があるとは思はれなかったが、
「月曜日の午後なら主人は在宅ですよ。」といった。相手は眼の色を變へて、
「何ですって、月曜日の午後? それでは遅くなって了ひます。諺にも後悔は先に立たずといふではありませんか、今の場合がそれです。私が是非至急にお目にかゝる事を切望してゐるのはお解りでせう。何卒ゐらっしゃる場所を教へて下さい。」と熱心に叫んだ。
「兎に角、主人の不在中に起った用件は、一切私が處理する事になってゐるのですから、御用件次第で如何やうにも取斗(とりはか)らひます。」と私はキッパリ言放った。
 男は應答(こたえ)もなく突立って、つくづくと私を視詰めてゐたが、その中私は途方もない失策を爲出來(しでか)した。
「お金でも御入用ですか。」と私は尋ねたのである。彼は無言のまゝ大きな拳固(げんこつ)を片方のポケットに捩込むと一握りの金貨を掴出した。次に胴衣(チョッキ)の隠袋(かくし)に手を差入れて紐で括った古ぼけた紙幣(かみ)入れを引張り出して、厚い紙幣(さつ)束を取出し、それ等を一緒にして私の鼻先へ突出したのであった。
「イヤ、誠に失禮な事を申上げました。だが主人は月曜日に歸宅するとのみで、居場所を申上げる譯にはゆきません。然しお言傳(ことづけ)なら致しますが……」と私は云添へた。男は金を仕舞ひ終ると、身體(からだ)を窓の方へ反けたが、私の最後の言葉を聞くと、素早くクルリと振返った。眼にホッとした安堵の色を浮べながら早口に、
「ではお傳へ下さいますか、直ぐですか、何日(いつ)、何時頃?」
「今晩の五時前。」
 男は又しても太い人差指を差延して、念を押すやうに私の袖口を抑へながら、囁くやうにいった。
「ではこれだけの事をいって下さい。クイルトはD市のアドミラル・ベンボウにゐます。そして暴風が近くに迫ってゐると申上げて下さい。」
 私は彼の言葉を再三繰返し、その上相手を安心させる爲、その數語を書留めた。それが濟むと、彼はツカツカ戸口に歩寄って歸りかけた。
「すると、貴殿(あなた)がそのクイルトさんですね。」
 振返った彼は眞面目な顏をして、ぢっと私を視詰めてゐたが、頷首きながら、
「左様です。それでマーシントンさんは私のいった事をおきゝになれば、必(きっ)とお會ひ下さるに相違ないですよ。」
「お住所はD市のアドミラル・ベンボウですね。」
 彼は重々しく附加へた。
「では五時頃ですね。私はマーシントンさんから御返事のある迄、アドミラル・ベンボウにをりますから。」
「委細承知しました。」
 稍少時して、彼は部屋を出ていった。私は玄關まで送り、彼が植込の間を抜けて門の方へ歩いてゆくのを見戍ってゐた。傷のある恐ろしい横顏に日光を受けながら彼は大股に門を出ていった。

 偖私に急いで取次ぐ意思があれば、クイルトと稱する男を待たせておいて、聖マーガレットにゐる主人に長距離電話を掛ける事も可能であったが、その場合それ程の必要も認めなかったのである。尤もそれには多少の理由もないではなかった。主人はこの節、健康が勝れないので、主治醫は突發的な衝動を避けるやうにと注意してゐた。それに五時前には別莊へつくから、わざわざ電話にも及ぶまいと考へたのである。
 處が事務は豫想外に早く片付いたので、私は四時少し過ぎに聖マーガレットに到着した。別莊は一方は灣の西南隅に當る斷崖で自然の柵をなした高原の上に在って、全面の芝生から階段で濱邊へ降りてゆく事が出來た。私はわざと玄關を入らずに庭へ廻ると、春の暖い日光を浴びながらドリスは籐椅子に凭(よ)りかゝって雜誌を讀んでゐた。
「いらっしゃいませ。大層お早かったのね。」彼女はあでやかに微笑(ほほえ)みながら聲をかけた。
 (略)

 (略)

【豫告】 奇怪なる海岸別荘をとりまく疑惑はマーシントン氏の卒倒によって益々迷宮に入るばかりだ。彼マーシントン氏ほ霧深い夜、木立に隠れて何をしてゐたか、事件は意外の方面に轉換又轉換して、南アメリカより不思議の紳士の來訪、聖マーガレット灣に於ける船員の屍體發見、探偵の出没、意外又意外、到底讀者の豫測を許さぬ場面はいかに解決されるか、刮目して次號を待たれよ。

以下未確認 (未入手)


注)明かな誤字誤植などは修正しています。句読点は追加したところもあります。
注)原作者不明、作者自身によれば翻案との事ですが「松本泰訳」とあるので翻訳扱いとします。連載期間は予告から次号で解決、完結ともとれそう。



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夢現半球