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松本泰 作品小集4

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      目次

      【長篇小説】

  1. 「都会の唄」 (青春小説) 旧かな旧漢字 2024.05.12
     



「都會の唄」
「中外商業新報」 1932.05.25〜12.12 (大正11年5月21日〜12月12日) より

新小説豫告「都會の唄」松本泰 1932.05.19
 畑耕一氏の長篇「眞紅の罰」も近日好評裡に終了することになりますが、次回は松本泰氏の力作を引續き掲載いたします。既に探偵小説作家として知られた作者はこれを機會に從來の心境を一轉し新たなる構想を以て新聞連載小説の型を破るべく意氣込んで居ますから必ずや讀者の御期待に添ふことゝ存じます。
作者の言葉
 都會の唄は明るく、華やかで、活々としてゐる。けれどもその底には、如何に唄っても慰めきれない哀愁が流れてゐる。
 都會の生活は慌しく、複雜である。隣人はいつも隣人ではない。右に悲歌を聞き、左に歡樂の歌を聞く。しかもそれ等の歌さへも、ともすれば友情無情の騒音に消され勝ちである。青春の血に燃ゆる男女が、さうした都會の實生活に第一歩を踏み込んだ時、彼等はどんな歌を唄ふであらう?
 こゝに一人の純情な青年がゐた。彼は戀故に親を棄て、友を喪ひ、竟には恐ろしい犯罪者にまで堕ちていった。しかし、彼の魂を救ひ、彼を甦生させたのは矢張り戀であった。
 作者が都會の十字路できいたのは、その青年の唄である。

午後四時氏
 なだらかに傾斜した緑の木立の間に、庭球(テニス)コートの白い線の一部が見えて、白い運動服がちらちら動いてゐる。
 初夏の午後は、空も碧く、揺れる葉も青かった。コートからは、澄んだボールの音に交って、折々、朗かな笑ひ聲や、拍手が聞えてくる。
 葡萄の若葉の繁った露臺で、前額(ひたい)の汗を拭いてゐた谷井清は、煙草を吸って一憩みすると、勝手を知った浴室へいって顏を洗ひ、運動服を脱いで瀟洒な鼠色の背廣姿になって戻ってきた。
 女中の多摩がサイダーを銀盆に乗せて入ってきた。
「もう、テニスはお仕舞でございますの? 今日は大變お早いのでございますね。」
 青年は微笑したゞけで、遠くのコートの方へ眼をやった。丁度そこへ、緑の隧道(トンネル)を抜けて、ラケットを持った賑かな一團が歸ってきた。一團といっても人數は四人で、若主人の足利と、妹の美波子と、それに弟の勇介、書生の川崎である。
「あら、何處へいったかと思ったら、あんなところで涼しい顏をしてゐるわ。」
 美波子は露臺の谷井を見付けて、ラケットで撲つやうな眞似をした。
「何だ、すっかり服なんか着込んで了って、もう止したのかい? これから美波子と單試合(シングル)をやる筈だったぢゃァないか。」
 足利は露臺へ上って、女中の注いだサイダーのコップをとった。
「今日は棄權だ。美波子さんに勝を譲りますよ。」
「理由なく棄權するなんて、男のくせに卑怯だわよ。」
 美波子は蓮葉に谷井の前へ飛出していったが、初めて氣が付いたやうに、しみじみと兄の友達、谷井清を見直して、鳥渡顏を赧らめた。谷井は汚點(しみ)一つないシャツに、黒と白の縞模様の蝶型ネクタイを結んで、軟い、艶々した頭髪をきちんと眞中で分けて、形のいゝ唇に微笑を浮べてゐる。
「卑怯は参ったな……えゝと、理由ですか……理由は暑いからです。貴女はさうは思ひませんか。」
「……さうね……眞實に今日は、庭球には少し暑過ぎるわ。」美波子はいつものやうに、無邪氣に谷井にぶつかってゆけなかった。
「ぢゃァ、麻雀でもやらうか、その中に山邊の兄弟がやってくるから。」と足利がいった。
「さうだわ、谷井さん、この前の復讐をなさいよ。」
 美波子はひとり呑込みで、ラケットや、ウヰルス帽を投げ出したまゝ、露臺を馳下りた。谷井は彼女の伸々した小麥色の素足が、牝鹿のやうに敏捷に、八つ手の葉蔭に消えてゆくのを見送りながら、戀人の住む燕アパートメントの階段を馳上ってゆく自分の脚を聯想してゐた―― 土耳其(トルコ)紅の絨氈を敷いた階段を上ると、突當りに眞鍮の扉(ドア)ノッブが光ってゐる。その扉の内側には緑色の部屋がある。紫檀の植木臺の青磁の鉢に、羊齒が盛れ上ってゐる。彼女は笑ってゐる時もあり、咎めるやうな眸(まなざし)で迎へる時もある。けれども彼女はいつも彼の前に輝いてゐる――
「麻雀で二時間つぶすのはやりきれない。もう三時過ぎだらうね。」
「成程、有名な午後四時氏だったね。午後四時の媾曳(ランデブ)は、まだ續いてゐるのか。もう三ヶ月にもなるぢゃァないか……僕は少し君にききたい事があるのだが……」足利は急に兄貴ぶった態度になって、妹とそっくりの、長い、尖った鼻を寄せて、谷井を覗込んだ。
「三ヶ月なんて、何處から割出したのさ。だが、今日は君の探偵的考察の的になるのは止して置かう。」谷井は苦笑して立上がった。
 突然、玄關の外で、晴やかな若い女の笑ひ聲が起った。

 一羽のカナリヤのやうに、露臺へ飛込んできたのは、山邊の妹靖子であった。
「斷然愉快な日さ!」彼女が二人の男に投げた挨拶の言葉である。
 細く襞を寄せた白いスカートは、肌色の絹靴下を穿いた膝の上で波のやうに躍った。金釦をつけた紺の上衣が、こぢんまりした體躯(からだ)にぴったりと合ってゐる。
「よくいらっしゃいました。正信君は?」
 足利は廣々とした庭園を見晴らす自分の椅子を彼女にすゝめた。
「マサなんて、銀座の眞中へ、うっちゃってきたわ。あいつ、妹の護衛をしてゐればいゝのに、途中でぼやけて了ふんですもの、厭になっちゃうわ。」
「はゝゝは、又、例の癖で、貴婦人にでも引かゝったのでせう。」足利は相手が靖子であるといふことだけで、すっかり陽氣になってゐた。
「銀座で、倫敦のパヽに贈る買物をしてさ、晝餐(ランチ)を食べてさ、それから四丁目の角へ出ると、向ふ側を歩いてゐる彼女を見付けてさ、僕なんか放擲(ほう)り出しておいて、わざわざ往來を泳いでいって、彼女の前で帽子を脱ったり、ぶら下げてゐる荷物を持たうとしたりしてゐるんでせう、僕すっかり憤慨しちゃったわ。」
「ふん、山邊君らしいね。」谷井は呟いた――だが、英國流の紳士は、特別の場合でない限り、往來で出會った貴婦人に、自分から聲をかける筈はない筈だが――その貴婦人が誰であるか、谷井は自分でははっきり指さしてゐたけれども、靖子の次の言葉を氣にしながら、新らしい煙草にマッチを擦って、葡萄の葉に煙を吹きかけてゐた。
 話半に、着換をしてきた美波子が戻ってきて、靖子の椅子の背に凭りかゝって、皆の顏を見廻してゐる。
「誰です? その女の方って?」足利は興ありげに促した。
「私、知ってゐるわ。鳥波伊佐子さんぢゃァなくって?」といったのは美波子である。
「さうなの。だからいよいよ腐っちゃうぢゃァないの。閨秀作家だか、女優だか、女給だか、寫眞屋のモデルだか、何だか知らないけれども、私、大厭ひ。それなのにマサったらあんな女に慇懃を極めてゐやがるんでせう。だから私、直ぐ前へきたタキシーへ飛乗ってどうぞ、御ゆっくりって、おいてきぼりを喰はしてやったのさ。」
「靖ちゃんにおいてきぼりを喰った向ふの二人は却って喜んだかも知れないわ。でも、靖ちゃん、伊佐子さんのことを、そんなに酷くいふものぢゃァないことよ。こゝにも二人、お友達がゐらっしゃるわ。最もお兄さんは作家として交際ってゐらっしゃるのでせうけれども……」美波子はちらと谷井の顏を見た。
「口の惡いお嬢さん達だね、作家として交際(つきあ)はうと、女優として交際はうと、要するに人間は一人で、どっちにしたって同じことさ………それに善いところもあり、惡いところもあるのが弱い吾々人間まんだから………靖子さんだって、以前はあんなに仲善しだったでせう。今は氣が合はなくったって、又、好きになる事があるかも知れない。」足利は笑ひながらいった。
「あやふやな議論ね。だが、そんな煮切らない話は興味がないから止めにして、僕はタキシーを飛ばしてこゝまで乗っけたんだけれども、銀座からこゝまで幾許できたと思ふ?」靖子は惡戯兒(いたずらっこ)らしい大きな眼をくりくりさせた。
「さァ、銀座から荻窪までだから、いくら値切っても一円五十錢といふところでせうかね。」足利がいった。
「ところがこっちは一文なしよ。買物をした後で、マサから受取るつもりだったのを、伊佐子に會ったので、すっかり忘れちゃったのさ。」
「では、運轉手は待ってゐるのですね?」足利は自動車賃を拂ふつもりで立上った。

「わが運轉手君は、とっくに歸ったわよ。お金がないっていったら、お次手でよろしうござんすっていったのよ。僕、迚も愉快になっちゃった。ほら、こんな名刺を寄越したわ。」
 靖子はポケットから出した名刺を、奇術師のやうに、足利の膝へ彈き飛した。
「何です。川路力松ですって? 詰らぬ名前の奴ですね。」足利は不良運轉手を排撃するやうに、名刺を卓上へ投出した。
「あら、力松なんて、がっちりしたいゝ名前ぢゃァないの。自動車(くるま)は立派だったし……足利さんの自動車より上等だったわ。それに男振りだって良かったわ。」
 靖子の輕口を皆は笑った。けれども谷井一人だけは浮ない顏をして、マッチの箱を開けたり、閉めたりしてゐた。
 先前(さいぜん)から思ふ存分サイダーを飲んで了った勇介と川崎は、退屈しきってキャッチボールをしにいった。
「……お次手でいゝといったって、街を流してゐるタキシーに、次手なんかあるもんぢゃァなし……妙な奴だな……」足利は腑に落ちない様子で獨言をいった。
「探偵小説家は詩人にはなれないと見えるね。お次手といったって、それは言葉ぢゃァなくって、意氣なのよ。次手はあるかも知れないし、絶對にないかも知れないわ。要するに彼が彼女を自動車でこゝまで送ってきたといふことなのよ。それだけで結構だわ。さァ美波子、庭球コートへゆかない?」
 靖子は美波子の腕をとって歩きかけた。
「では僕、歸る、又、會ふとしよう。」谷井は帽子をとって椅子を離れた。
「あら、もうお歸りになるの? 夕方までゐて晩餐のおつき合をして下さるのぢゃァなくって?」美波子がいふと、靖子も口を添へて、
「歸っちゃァいけない。東京にゐた僕が、荻窪まで引つけられてきたのに、折角こゝに來てゐる君が、どうしてそんなに急いで東京へ歸るの? 何かいゝ事があるの?」
「靖子さん、谷井君はね、午後四時氏と綽名がついてゐる程でね、ほら、もうそろそろ四時近いでせう……いつも其頃になると、何處にゐても、そはそはしだして、四時には屹度行衛を晦まして了ふのです。」と足利は素破抜いた。
「まァ、やるわね。それから?」靖子は愉快さうに美波子の腰を突いた。
「午後四時氏なんて、神秘的でいゝわね……でも、何處へいらっしゃるのでせう?」美波子は靖子とは別な意味で、谷井の午後四時の行動に興味をもって、自分でも氣がさす程、彼に對する關心を露骨に口の端にのぼせて了った。
「白晝夢かな?」靖子は無雜作にいった。
「谷井君は日時計ですと、吾戀は日時計に似て愁(かな)しけれ、君が心の照る日、曇る日、といふんで、午後四時に彼の太陽が輝く日もあり、輝かない日もあるんですとさ。」
 足利が調子に乗ってゆくにつれて、谷井は次第に憂的になっていった。
「あゝ、媾曳ね。ぢゃァ午後四時君、御遠慮なく歸り給へ。幸運(グッド・ラック)を祈る!」露台の下り口に立塞がってゐた靖子は、さっと身をひいて通路を開けた。
「谷井は欄干に手をかけたと思ふと、長身を輕々と宙に浮かせて、五段の石段の彼方へ飛下りた。彼は限りなく晴渡ってゐる青空を見上げて、
「さて、今日は晴れかな。曇りかな。」と冗談らしく呟いた。
 露台には三つの顏が並んでゐた。屈託のない足利。白地に赤い格子縞のセルを着た美波子の顏は少し沈んでゐた。靖子は相變らずカナリヤのやうに、忙しく囀ったり、羽ばたきしたりしてゐる。
「左様なら、僕は君達の勝手な批評を背中に浴びて退却するよ。」谷井は露台に向って手をふって、大股に歩出した。

 裏扉に鋲を打った古風な門の上に、一かたまりの欅の巨木が空を摩してゐる。
 その邊は生垣や、築墻を繞らした住宅地で、足利家の地境から、竹藪の殘ってゐる新道を、停車場の方へ下りてゆくと、黒い煙突を立てた浴場があったり、緑に埋まった屋根の長い、小學校の校舎が見えたりして、その先が停車場になってゐる。
 谷井には馴染の深い道であった。今でこそ遇にしか來ないけれども、大學の豫科に入學(はい)って、足利と知合になってから、つひ去年あたりまでの三四年は、一週に二度や三度、高く聳えた欅の梢を仰ぎながら、この郊外の道を歩かないことはなかった。
 足利家の裏庭には櫻の樹が多かった。谷井は或時、その櫻の根元に、丸々とした毛虫が這ってゐるのを見た。毛虫は營々として幹を登っていった。午後になっても、毛虫はまだ幹の半にも達しなかった。彼はその毛虫を吾身に引較べて、廿才前の、大人とも小人(こども)とも扱はれない、宙にぶら下ってゐるやうな、つかまりどころのない侘しさを、しみじみと感じたことがあった。
 彼は又、濃い六月の緑に圍まれた、コートわきの芝生に横になって、蒼穹を流れてゆく白雲を眺めてゐると、花壇の甘い薔薇の香がひしひしと忍び寄ってきて、何とも知れぬ焦躁に、體躯を地面に擦りつけて、悶えたこともあった。
 足利の家の廣い食堂には、大きな風景畫の横手に、大禮服を着た彼の父の寫眞が、いつも薄りと塵埃(ほこり)をかぶったまゝ懸ってゐる。外交官である彼は、もう永いこと日本へ歸ってこない。父親のゐないことが、その家を明く自由にしてゐるものか、谷井は足利の家へゆくと、妙に感傷的になって、詩でも書きたいやうな、しんみりした氣持になるのである。
 谷井は省線の踏切を渡りかけた時、ふと、左手の線路に沿うたガソリンスタンドの前に一台のタキシーが停ってゐるのを見た。紫紺の仕事着をきた娘が、自動車の窓ガラスに拂塵(はたき)をかけ、もう一人の娘がガソリンを注込んでゐる。少し離れて、若い運転手が往來に向って煙草のけむりを吐いてゐる。
 谷井は鳥渡腕時計を見て、自動車の方へ歩いていった。
「東京までいって呉れるかい?」
 先前からスマートな谷井の姿を見守ってゐた運轉手は、無言でがっと扉をあけて、帽子の縁(へり)に手をやった。彼は白地に太い菫色の縞模様のあるシャツを着て、同じ菫色の襟飾(ネクタイ)をひらめかしてゐた。
 自動車は中野の大通りを疾走(はし)ってゐた。鏡をちらちら覗いてゐた運轉手は、
「東京はどちら迄です?」
「さァ……青山の高樹町までいって貰はう。」
「高樹町は電車通りでよろしいのですか。」
「交番の横を入って貰ひたいね………今日、銀座から拾ってきた綺麗なお嬢さんは、無錢乗車だってね。」
 谷井は自動車の隅にぶら下ってゐる札に、川路力松といふ名を見出して、靖子の言葉を思出したのであった。
 運轉手は肩を窄(すく)めて笑ったゞけである。丁度その時、背後からきた銀鼠の自動車が、谷井の車を疾風のやうに追抜いていった。
「畜生!」川路力松は急に瞑想から醒めたやうに、把手(ハンドル)を握る手に力を入れた。そして氣味の惡いほど速力を出して、荷馬車や、電車の間を縫ひながら、ぐんぐん銀鼠の車に迫っていった。
「おい君、いゝ加減にしたらどうだい。」谷井ははらはらしてゐた。
 銀鼠の車の後尾には、「二二四二六」といふ番號がついてゐた。
「危い!」谷井が叫ぶと殆ど同時に、車は相手を抜いた。行手を遮られた銀鼠の車は、目前の荷馬車との追突を避けやうとして、急カーブを切った爲に、激しい音をたてゝ、舗道の半まで乗上げて了った。

燕アパートメント
「畜生! 何をしやがる!」銀鼠の車から詰襟を着た運轉手が飛下りてきた。
「何をいってゐやがるんだ、手前が間抜けなんぢゃァねえか。」川路も負けてはゐず、車を停めてのそのそ下りていった。
「この野郎! 太えことを吐(ぬか)しやがる。」詰襟は血相を變へて詰寄った。川路は蒼白な顏に薄笑ひを浮べながら、ポケットに右手を突込んだ。
 驚破(すわ)、喧嘩とばかり、通りがゝりの小僧が自轉車を停めたり、向側の停留所の赤い柱の下で、電車を待ってゐた男達が、ばらばらと集ってきた。
 其時、銀鼠の車から首を出した紳士が川路の姿を見ると、急に顏を背けて、周章(あわ)てゝ運轉手を呼ぶ命戻(よびもど)した。氣色ばむでゐた詰襟の男は、不承無精に車の方へ走っていったが、車窓へ首を突込むやうにして、内部の男と何事か話してゐたと思ふと、突如(いきなり)、運轉台に飛乗って一散に疾走り去って了った。
「態(ざま)を見やがれ!」川路は捨科白を遺して自分の車へ戻ってきた。
「どうしたい。ひどく威勢がいゝぢゃァないか。」谷井は先方にこそ云分があると思ってゐたのに、反對の現象を見たので呆れ顏にいった。
「なァに、相手によりけりですよ。」
「詰襟も、最初は馬鹿に鼻息が荒かったが、龍頭蛇尾だったな。」
 川路は、何か考へ事でもしてゐるらしく、默々として千駄ヶ谷から神宮外苑を抜けて、自動車を飛してゐた。谷井もそれっきり默って了った。彼は先前、相手の運轉手が詰寄ってきた時に、川路が右手をポケットに突込んだのを、短刀だなと睨んだことを思出してゐた。
 高樹町の電車通りから交番の角を曲って、小半丁ばかりいったところに、黄色く塗った三層建の洋館がある。それが燕アパートメントであった。
 川路はその前で自動車を停めて、谷井を下すと、無雜作に料金を受取って、其まゝ狹い屋敷町を亂暴に疾走り去った。
 丁度四時であった。谷井が高い石段を上って、四號の呼鈴(ベル)を押すと、若い女中が現(で)てきて彼を二階の鳥波伊佐子の居間へ導いた。
「何卒、暫時(しばらく)お待ち下さいませ。」
 女中は谷井に椅子をすゝめると、卓子(テーブル)の上に投出してあった數個の買物包を傍(わき)へのけて、灰皿や燐寸を置いた。
 緑色のカーテンで隔てられた部屋續きの寝室で、衣擦れの音がしてゐる。女中は紅茶の道具を小卓子の上に並べて、部屋を出ていった。
「今直ぐゆきますわ…………蓄音機でもかけてゐらっしゃいよ。」
 カーテン越しに、少し鼻にかゝった、甘たるい聲が響いてきた。
「何してゐるんです。」
「たった今、買物から歸ってきた計りで、手を洗ったり、顏を洗ったりしてゐるんですの。買物をしてゐて、氣が付いたら、もう四時近いんでせう、慌てゝ歸ってきましたの。お互ひに忙しいことですわね。」
「僕はこの午後四時を、一日の主要時間にしてゐるんですから、忙しいどころか、待遠しいですよ。何しろ午後四時氏といふ綽名までとってゐる位ですからね。」
「あら厭だ、赤ちゃんのお晝寝時間みたいぢゃないの。」女は晴やかに笑った。その合間々々に、水を流す音や、箪笥を開ける音などが聞えてゐる。足袋でも穿きかへてゐると見えて、寝台の軋む音がした。
「僕、そこへゆきますよ。」ピアノの上の黄色い薔薇に顏を寄せてゐた谷井は、熱っぽい眸(め)を寝室のカーテンに向けた。
「清ちゃん、駄目よ、そんなことを仰有っては…………貴郎(あなた)、又、花の匂ひを嗅いでゐるんぢゃァない?」

「貴女は相變らず何でも見透しなんですね。さういふ風に、僕の心の底まで見通して呉れゝば嬉しいんだけれども…………」
「さァ、これでいゝ…………そんなことをいふ坊ちゃんの顏を見てあげませう。」
 緑のカーテンを押しのけて、向日葵のやうに笑ひかけたのは、足利家で噂に上った鳥波伊佐子であった。
「まァ、清ちゃん、どうしてそんな拗ねたやうな顏をして立ってゐるの? 此方へいらっしゃい。」
 黄橙(オレンヂ)色と黒の派出な縞模様が、長椅子の上に崩れた。谷井は素直に示された席に腰を下した。
「八の字は厭!」伊佐子は笑ひながら、白い手を伸して谷井の眉間の皺を撫でた。谷井は素早く、その手を掴んで唇へもっていった。
 伊佐子は指先から青年の熱い血潮が、胸に傳はってくるのを感じながら、上氣した男の横顏を凝視してゐたが、急に坐様(いずまい)を直して、
「清ちゃん、今日は學校はどうして?」
 その言葉は青年を現實に呼戻した。
「學校なんて、そんな詰らない話は止しませう。」
「だって、貴郎は怠けずに學校へ出席(でる)って約束したではありませんか。それにあと、たった半歳の辛抱でせう。三月も欠席してゐて若し學校を失策(しくじ)るやうなことがあったら、お父さまだって、どんなに御心配なさるか知れませんわ。」
「お願ひですから、學校や、親父の事は云はないで下さい。貴女はどうして此頃、僕の厭がること許りいっていぢめるんです。以前の貴女はもっと僕に同情があったのに……」
 谷井は怨を籠めた眸で、甘えるやうに女の顏を見上げた。
「それゃ、私は貴郎をいぢめるかも知れませんわね。でも、それは迚も貴郎を好きだからよ。だからいつ迄も、私の「清ちゃん」でゐらっしゃいね。」
 女は靜に手をひいて、紅茶を淹れにかゝった。
「僕等は斯うして會ってゐて、終ひにどうなるんでせう? 僕はいつ迄もこんな半端な氣持でゐるのは遣切れないんです。」
 谷井は身の内に迫ってくる排け口のない激情に全身を顫(ふる※代用)はせて、女の手を執らうとした。
 伊佐子はちらと青年の顏を見て、
「さァ、お茶を召上れ、さうすると、氣が落着きますわ。そして二人で、いつものやうに今日は何をして暮したかを話しませう。私はこんな買物をしてきましたのよ。」といひながら部屋を横切って、卓上に積んであった買物の包を解き始めた。
「えゝ、貴女は銀座で買物をして、その荷物を山邊に持たせて歩いてゐたんでせう。」谷井の語調(ことば)は捨鉢であった。
「まァ、貴郎は私を尾行(つ)けて歩いてゐらしったの? 貴郎らしくないことをなさるのね。」
「えゝ、尾行いて歩いてゐれば、眞實(ほんとう)に僕らしいんですけれども……山邊の妹から聞いたんです。僕は他人から貴女の噂なんか聞きたくない。だから……」
「あら、あの時、山邊さんの妹さんも御一緒だったの? ちっとも知りませんでしたわ。山邊さんたら、妹さんの事なんか、一言も仰有らずに、私がお斷りするのに、何でも彼でも、蹤いていらっしゃるんですもの。時間が時間だから、氣が氣でありませんでしたわ。眞實にをかしな方ね。」
「山邊は貴女を好きなんですよ。山邊正信ばかりぢゃァない。第二、第三、第四の山邊がゐるんですから……だから僕は、斯うしてはゐられないんです。」
「山邊が幾人ゐたって、私は清ちゃんが好きなんですから、安心してゐらっしゃいよ。」
「貴女は僕を好きだといふ代りに、何故僕を愛してゐるといって下さらないんです。」

「えゝ、愛してゐますわよ、私の坊ちゃん。私は眞當に愛してゐるから、貴郎をあっさりと午後四時氏にしておきたいんですわ……」
「そんな愛しかたをして頂きたくないですね。僕は眞劍なんです。この氣持は遊戯ではないんです。」
 谷井は自分の言葉に昂奮してゐる自身を、はっきりと意識しながら、ポケットの煙草を探った。彼は煙の中から伊佐子の肉付のいゝ襟脚に初めて黒子を見出したりしてゐた。
「…………貴郎と私とは、まるで別な世界に住んでゐるんですからね…………お互に餘り現實的にならない方が良いと思ひますわ……今日はもうお歸りなさいね。私、夕方から鳥渡用事があって出掛けるんですから。」
 伊佐子は笑ひながら手を伸して、壁の呼鈴を押した。
 谷井が何か云はうとした時、すぐ扉の背後にでも立ってゐたやうに、先前の女中が入ってきた。
「あの……お客様がお歸りだからお見送りをしてね。」
 女中は叮嚀に頭を下げて、谷井の爲に扉を開けた。
 谷井は識らぬ間に、いつもの裏通りを抜けて、氣がついた時には青山一丁目の舗道をこつこつと歩いてゐた。呼吸(いき)づまるやうな緑の部屋の刺戟から開放された彼の氣持は、不思議に輕かった――薔薇の芳香は餘りに強烈(つよ)く、蠱惑的な女の顏は餘りに近くにあった。
 谷井は電車の交叉點からタキシーを拾って牛込矢來の自宅へ歸っていった。街角で自動車を下りて、八百屋や、洗濯屋の並んでゐる横町を少しいったところに、それ等のごみごみした商店とは懸絶(かけはな)れて、高い板塀を繞らした邸宅(やしき)がある。表門はいつものやうに閉切りになってゐる。彼は横手の耳門(くぐり)を押して中へ入った。
 植込の手入れも行届いて、掃き浄(きよ)めた前庭には塵芥一つ落ちてゐない。母の存命中は、柴折戸の彼方の奥座敷に、よく父の客などが集って、夜の更けるまで、謡曲をうたってゐた。その柴折戸には凄々と蔦が絡んで、謡曲どころか、今では高聲をあげるものもなく、夜の歸宅の遅ひ父に、殆ど不必要なその奥座敷には、滅多に灯(ともしび)の點く事もなかった。
 谷井は開放しになってゐる内玄關の敷台に腰を下した。家の中は薄暗く、ひやひやして黴臭い匂が漂ってゐた。彼が十日も前に忘れていった靴ベラが、まだ其儘、下駄箱の隅に置放しになってゐる。
 谷井の歸宅を知らずに、台所わきの六畳で老婢と女中がお喋りを續けてゐる。
「……旦那様が、この間、紀尾井町のお加代様に買っておやりになった丸帶は五百円ですってさ。そんな立派な帶を一生の中に一度でもしめて見たいもんですね。」
「勿體ない事だね、帶一筋に。」
「世の中って様々なものですわね。お隣りの大江さんではそれだけのお金があれば、父娘二人が一年も樂々食べてゆけるでせうにね。眞實にお氣毒ですよ。今日も高利貸みたいな人がきて、病人の枕元で大聲をあげてゐましたっけ。」
 谷井はそんな話聲をきゝながら、わざと跫音を立てゝ二階の居間へ上っていった。彼は窓際の椅子に埋って、茫乎(ぼんやり)と窓の外を眺めながら、奉公人達の口の端にのぼってゐた、父の圍っておくお加代といふ女の事から、亡くなった母の事などを考へるともなく考へてゐた。懐しい母の思ひ出が、大きく擴ってくるお加代の顏や、その背後(うしろ)に燦然と控へてゐる父親の姿などに壓迫されてゆくやうに思はれた。
 庭の隅々は、もう暗くなりかけてゐたが、東側の竹垣は一面に赤く夕陽を受けてゐた。谷井はそれが淋しく心を顫(※代用)はしてゐるのを知った。彼はさっと椅子を離れた。

 黄昏の淋しさがひしひしと迫ってきた。
「伊佐子さん! 伊佐子さん! 僕はどうすればいゝんです。」
 彼はぢっとしてゐられなくなって、帽子を掴むなり、階段を馳下りて、玄關を出ようとすると、背後から追縋るやうに蹤いてきた老婢(ばあや)が、
「どうなすったんです、坊ちゃま、お食事が出來てをりますのに、又お出掛けでございますか。」といった。
 谷井は氣遣はしげに立ってゐる老婢の顏をちらと振返ったゞけで、默って家を出て了った。
 谷井が再び高樹町へいった時には、初夏の日が全く暮れて。蒼白い空を走ってゐる低い電線の上に、金星が一つ、遣瀬ない谷井の心を覗いてゐた。
 燕アパートメントの前に、銀鼠色の自動車が一台停ってゐた。建物の入口が開放(あけはな)しになってゐたので、谷井は構はず階段を上ってゆくと、途中で盛装した伊佐子に會った。
「まァ、どうかなすったの?」彼女は悸(ぎょ)として青年の青褪めた顏を覗込んだ。
「僕は家へ歸ったんですけれども、夕燒を見てゐたら、耐らなく悲しくなって、又、貴女に會ひに來たんです。」
「さうなの、そんなに悲しくなっては困りますわね。まァ、こっちへいらっしゃい。まだ五分や十分、構ひませんから。」
 伊佐子は先に立って居間へ入った。
「僕が來たのは惡いやうですね。どうかして僕がいつ來ても構はないやうな、二人の生活に出来ないものでせうか。」
「でも、人間はそばにゐたからといって、必しも心が近くにある譯ではないのですから、私達は毎日の午後の二時間を、永久に持ち續けるといふことを考へる方が幸福なんぢゃァないの?」
「そんな悟りきったやうなことは、僕には出來ません。この物足りない、落着かない僕の氣持をどうかして下さい。」
 椅子の背に手をおいたまゝ佇(た)ってゐた谷井は、二足三足伊佐子の方へ歩寄った。部屋の片隅の卓上電燈が天井を影にして、ピアノの上の剪花や、佛蘭西人形の脚を長々と壁に映し出してゐる。閉切った部屋の中は世間を離れて、夢の國のやうに靜かであった。伊佐子は青年の激しい呼吸づかひを聞いた。
 二人の情熱に炎ゆる陰がかち合った時、伊佐子は急に氣がついたやうに壁のスヰッチを捻って、中央のシャンデリアに光を入れた。
「大問題を提出なさるのね。それは迚も今夜は解決出來ませんわ。その問題はいづれ明日から議事にのぼせるとしませうね。あゝ、こんなことをお話してゐる間に、もう十分も經過(た)って了ひましたわ。では坊ちゃん、いゝ子になって温順しくお歸りなさいね。」伊佐子は朗かにいった。
 二人は肩を並べて階段を下り始めた。
「貴女には、惡かったかも知れないが、僕は貴女に會ったんで、いくらか氣が濟みました。これで貴女がお出掛けになるんでなければ、貴女の顏を見たゞけで追返されても、もっと氣が濟むんですけれども…………」
「あら、そんな厭味を仰有って、私の用事を拘束なさらうとしてはいけませんわ。」
 伊佐子は玄關前で笑ひながら手を差伸べた。谷井は握手をした手に左手を重ねた。
「では、左様なら。」伊佐子が自動車の方へ歩きかけると、車の陰で煙草を吸ってゐた詰襟の男が飛出してきて、彼女の爲に恭々しく扉を開けた。
「おや、晝間のあの運轉手だ! 荻窪から東京へくる途中で、川路力松の自動車に邪魔されて、舗道へ乗上げた、あの車の運轉手だ! 車も同じ銀鼠色だ!」谷井は不思議な氣持で眼を瞠(※代用)った。
「左様なら、谷井さん。」
 銀鼠の自動車は、明く、素氣ない微笑を殘して、宵闇の中へ消えていった。

街の灯
 詰襟の男。銀鼠色の自動車。そして伊佐子は何處へゆくのであらう! 谷井は淡い妬ましさと、小さな港町に取殘されたやうな淋しさの中に、いくらかの好奇心を覺えながら、少時建物の前に立ちつくした。
 谷井が初めて伊佐子に會ったのは、東京横濱間の省線電車であった。足利と二人で横濱へ遊びにいった歸途に、櫻木町驛から電車に乗ると、これも丁度、コレア丸で横濱へ着いたアメリカの活動俳優を迎へにいった、蒲田の男女優や、その他の關係者が、偶然、同じ電車に乗込んできた。
 足利は伊佐子を詩人だといって紹介した。詩人にしろ、女優にしろ、彼女は残斷然群を抜いて光ってゐた。
 谷井は自分でも不思議な程、躁(はしゃ)いだ氣持になって、伊佐子に話しかけ、新橋につくと、三人でAワン料理店(カフェ)で一緒に晩餐をとった。その晩を皮切りにして、谷井と伊佐子の友情は急テンポで進んだ。劇場、音樂會、ダンスホール、活動寫眞、晩餐等、この二三ヶ月の間、二人は影の形に添ふやうに行動を共にしてきたが、日が經過つにつれて、若い谷井は單なる午後四時の坊ちゃんだけではゐられなくなってきた。 だが、彼が一歩前へ進むと、彼女は巧に一歩退る。伊佐子は自分から、二人の間に溝を掘って、對岸であでやかに笑ってゐる。彼は幾分の自棄を交へて、取付く島のない怨めしさを泌々と感じてゐた。
 谷井は夫から三時間後には、建物と建物の間に赤い月の懸ってゐる銀座裏を蹌踉として歩いてゐた。彼は街角の酒場に緑と紅のネオンサインの渦卷模様を見付けると、雪崩込むやうに、店の中へ入っていった。
 彼は丁度、客の立った後の、隅のボックスへ席をとって、以前の酒場からの引續きのやうに、ウヰスキーを命じた。彼が何杯目かの洋杯(グラス)をあけた時、通りすがりの女給が輕く彼の肩を突いた。
「あゝ、お秋ちゃんか、まだゐたんだね。」
「えゝ、まだゐるわ。随分辛抱が良いでせう。開店以來なんだから、褒められてもいゝわね。」
「褒めることはないけれども、僅の間に入代り、立代りして顏が變って了ふんだね。皆、新らしい人計りで、僕は誰も知らない。」
「でも、まだ七八人殘ってゐますのよ。谷井さんは随分久しぶりね。三月位姿を見せなかったわね。一體、何處へいってゐらしったの? 矢張り銀座?」
 色の白い、眼の綺麗な、札幌生れだといふ秋枝は笑ひながら谷井の横に坐った。
「忙しくてね、酒場などへ來る暇がないのさ。」
「他に面白いところがあってね……憎らしいわね。」
「それゃ眞實のことなんだ。面白いか、どうだか判らないんだが、兎に角、氣が忙(せわ)しいんでね……」
「面白くないことに、そんなに一生懸命になる貴郎ではなささうね。」
「ぢゃァ、面白いんだらうが……えゝと……君は活動寫眞で犬の競爭を觀たらう。恰度あれなんだ。いくら走ったって、犬と兎の間は電氣装置で一定の距離が出來てゐるんだからね。追付く事は不可能なんだ。」
「何だか知らないけれども、譯の解らない事をいってゐらっしゃるわよ……今夜は大變ご機嫌だわ。ねえ、眞砂さん。」秋枝は側へ來た洋服の女を顧みた。
「えゝ、大變いゝお色よ。随分お久しぶりね谷井さん。」
「そら、こゝにも忍耐の美徳をもった殘留組がゐるぢゃないの。」
「成程、こゝへくれば皆に會へるんだな。さァ握手しよう。」谷井は潤をもった人なつこい眼で、等分に二人の顏を見上げた。
 洋装の眞砂子は勢ひよく差出した手を急に引込めて、
「私、握手なんかしていゝのかしら、夏子さんから苦情が出やしないこと?」と大仰に眼を瞠(※代用)った。

「大丈夫よ、こゝでは三月も經過てば、何でも時効にかゝって了ふのよ。」
 三人は聲を立てゝ笑った。隣りのボックスにも賑かな笑聲が起った。其處にはでっぷりと肥滿(ふと)った、童顏の中年紳士が、ニ三人の取卷を連れてきてゐる。その中の派手な背廣を着た三十前後の男が、にやにや笑ひながら時々顏を現(だ)して、谷井の方を振返ってゐた。
「夏子さんは、今日はお休みなのよ。」
「それゃ、いゝところへ來た。」
「貴郎は奥多摩へドライブすると約束しておいて、巧にすっぽかしたわね。夏子さんはとても怨んでゐたわ。」
「そんなことがあったかしら? 奥多摩のドライブは今が丁度いゝよ…………この洋杯が空になってゐるが、誰かウヰスキーを持ってきて呉れないかな。」
「まだ召上る? 何處でそんなに修業なすったの。もう止めておきなさいね。身體に毒ですわ。」秋枝は谷井が椅子に掛けながらも、ぐらぐらしてゐるのを見て、氣遣はしさうにいった。
「親切だね。」
「えゝ、親切よ。私、眞實に親切よ……親切で思ひ出したけれども、貴郎とよく御一緒にいらしった足利さんは、この頃どうなすって? あれから一遍だったか、お友達とその妹さんとお三人連れでお見えになったきりですわ。」
「洋服を着た斷髪のお嬢さんでせう。とてもモダーンな、綺麗な方ね。」眞砂子は谷井が煙草のケースを出したのを見て、燐寸を擦った。
「山邊靖子だな。」谷井は口の中でつぶやきながら席を立って、廊下の方へ歩きかけた時、檜の鉢植につまづいて、隣りの卓子に手を突いた。灰皿の傍のコップが倒れて、麥酒(ビール)がさっと牀へ流れた。
「まァ、危いわ!」眞砂子と秋枝が飛んできて、卓子の上を片付けた。
「やァ、やァ、失禮しました。君、早く新らしい麥酒を持ってきてくれ。」谷井がいった。
「いや、そんな心配はせんでよろしい。誰もやることなんだから。」中年の紳士は笑ひながら制した。
「それでは困ります‥‥秋ちゃん、早くもっておいで。」谷井は上機嫌で、卓子につかまりながら、ぺこんと頭を下げた。
「私は貴郎のお父さんを知ってをりますよ。」紳士がいった。
「いけねぇ、いけねぇ、それぢゃァ、この通り、もっとお辭儀をしなくちゃァ…………こゝぢゃァ、親父は禁物なんですがね………」
「はっはゝゝは、これゃ、飛んだことをいって了った。まァ氣にかけんで呉れ給へ……大分いけるやうですな、どうです、お差支へなければ、こゝへ來て一緒におやりになったら。」
「有難う……今日は大に飲むつもりなんです。しかし夕方から大分やったんで、この通り少し危くなってゐるんです。」
「なァに、體格が立派だし、それに若いんだから、まだまだいけますよ。」傍にゐた三十前後の紳士は、さういひながらポケットから名刺を出した。
 谷井もチョッキのポケットから、一握りの名刺を摘出して、一枚々々、三人の前に並べて、又、ぺこんとお辭儀をした。
「……伴野喜一氏ですか、トンボ劇場宣傳部ですって?」
「こちらは社長、これは同僚。」伴野は笑ひながら紹介した。
 谷井はそこでもまた、ウヰスキーの洋杯を重ねた。彼は朦朧とした眼をあげて、白っぽく霧のかゝったやうな、廣いサロンを見廻した。
 彼方の隅の一かたまりも、此方の一團も、ばらばらと席を立った。部屋は片隅から薄りと暗くなっていった。谷井の網膜に灯ってゐる緑と紅の玉が、一秒毎に點いたり消えたりした。
「……伴野君。氣を付けてやって呉れ給へよ……」社長の聲が遠くに聞えた。

 直ぐ目の前を、電車が凄じい勢で疾走していった。車道を横切った。谷井は何も彼も承知してゐながら、次の瞬間には、厚ぼったい灰を被ったやうに、他愛なく一切を忘れて了ふ。彼の意識は明滅してゐる廣告燈のやうに交互にはっきりしたり、朦朧としたりしてゐた。
 谷井は伴野と腕を組んで橋の上を跨(わた)ってゐた。他にはもう誰もゐなかった。いつの間にか、橋の袂に自動車が停ってゐた。二人は中へ轉り込んだ。
 谷井がその次に氣がついた時には、格子戸に擦硝子の嵌った、石疊の玄關の上框(あがりかまち)にぐったりと横になってゐた。
 伴野が髷に結った年増の女と、何事か囁き合ってゐる。
「…………待合だな…………」と谷井は思った。
 そして彼が最後に氣がついたのは、丸い顏をした伴野が笑ひながら、彼の肩を叩いたのと、狹い部屋に派手な花模様の蒲團が敷いてあったことである。
 ―――何處かのホテルの夜會で、熱に浮されたやうなフヰリッピン人のジャズにつれて大勢の客が踊り狂ってゐる。谷井もそれ等の陽氣な人々の間に交ってゐると、突如、大廣間の一隅がざわめき出した。
 喧嘩が始まったのだ。わっといふ騒ぎの中に、短刀や、日本刀が空中に閃いて、盛装した男女が血煙りをあげてばたばたと仆れていった。
 怒號、叫喚、華かなサロンは倏忽(たちまち)、地獄の巷と化した。谷井は何か知らぬが、大責任をもって大きな三角箱を抱へながら、右手に短刀を揮ひ、やうやく一方の血路を開いてホテルを抜出した。
 戸外は眞晝のやうに明いのに、何處の家もばったり大戸を閉して、人っ子一人見えない。ふと、氣がつくと、大切に抱へてゐた六角箱が、いつの間にか伊佐子に變ってゐる。谷井は安全地帶まで走りつゞけて、とある建物の中へ飛込んだ。二階の一室に隠れて呼吸を殺してゐると、窓の下の道路を夜通し人がぱかぱか走ってゐる。部屋はいつか燕アパートメントになって、伊佐子はすやすやと安らかな寝息を立てゝゐる。谷井はほっとして彼女を抱きしめた。
 ふと、目を覺すと、所外(そと)にはもう高く陽が昇って、欄間から黄色い月光が射込んでゐる。谷井は打のめされたやうな氣持ちで、彼の傍に眠ってゐる見知らぬ女の顏を見た。
 伴野は朝早く歸ったといふ。女將(おかみ)は頻りに食事をしてゆくようにと勸めたが、谷井はそれを斷って日光の中へ泳ぎ出た。
 晴れた空に、陽はうらうらと照ってゐたが侘しい朝であった。谷井は白っぽく、後悔に汚れた心持を引擦るやうにして、築地河岸から昭和通りを抜けて銀座へ出た。
 濃くなった柳の緑が爽かな風に揺れてゐる。その陰を歩いてゆく人々の顏は、皆幸福さうに見えた。谷井が帽子店の角に立止ってどっちへ足を向けようかと思案してゐるところへ、前方から勇ましく歩調を揃へてきた三人連の學生が、不意に彼の前に顏を並べて、
「おい、何をぼやぼやしてゐるんだ!」その中の一人が笑ひながら、拳骨で輕く、谷井の下腹を突いた。
「やァ、君達か、何處へゆくんだ。」谷井は珍しいものを見るやうに、同級生の帽子のペン草に眼をやった―――さうだ、赤煉瓦の圖書館を仰ぎながら登るあの坂を、もう三月もあがらないのだ!
「もういゝ加減に學校へ出てきてもいゝぞ。」
「出そびれたから、今學期は遠慮するよ。」
「この間のクラス會にも顏を出さなかったぢゃァないか。通知状は届いたらう。」
「さァ、どうだったかな。」
「ぢゃァ、及川が情死した事も知らんだらう。」
「それはいつの事だ?」谷井の雲をかぶったやうな頭腦(あたま)の奥にぱっと火が灯った。

「一昨日の事さ。伊香保で毒藥を嚥んだんだ。相手は例の鈴蘭の花だよ。僕等はお通夜にいって、今、その歸途なんだ。」
「死んだのか…………あの及川が…………」谷井はつひ半歳計り前、一緒に山登りをした時の溌溂とした及川の顏をまざまざと思浮べた――酷い吹雪で、一夜を山小屋に閉込められた時。及川は徹宵(よっぴて)彼女の事を語り續けてゐたっけ…………あゝ、雪が戀しい、東京の雪が。僕があんまり彼女の事を思ってゐたものだから、こんなに雪が降ってきたんだぜ…………これを見てやってくれ給へ。東京を出發前の日に、お雪さんが贈ってくれたんだ……といって肌着のポケットから取出した手帳の間に、押花になってゐる鈴蘭の花を見せた彼――
「君は近頃、何をしてゐるんだい。昨日の夕刊にあんなに詳しく掲てゐたぢゃァないか。君は新聞も讀んでゐないのかい?」
「…………僕は新聞にも、雜誌にも興味を喪って了ったんだ…………」谷井は空洞な聲で呟いた。
「…………相變らずだね、君は………午後四時がまだ續いてゐるのかい…………」
「さァね。」
「おい、確りして呉れよ。」
「ぢゃァ、失敬…………」
「遇には學校へ顏を見せに來なければ駄目だぜ。」
 學生達は蟠りのない調子で、親しげに谷井の肩を叩いて歩み去った。
 ――及川が死んだ。けれども空はこんなに青々と晴れ渡って、人々は怡しげに笑ってゐる――初夏の賣出の、赤や青の旗が、氣の早いパラソルと亂れ合って、狹い舗道には目まぐるしい光と、色彩が溢れてゐる。暖簾の陰に、パラソルの間に、人懐こい、制服の好きだった及川の颯爽たる姿が永遠に消えて了はうとも、銀座は常に明るく、優しく、行人の脚は輕い。
 谷井は重い心持で、高い建物の空を仰いだ。もう夏がくる。白く盛れ上った夏雲の中に、彼は緑の山峡や、灼熱つくやうな海岸の赤松の砂丘に、再び見る事の出來ない及川の姿を描出したりして、掴みどころのない淋しさを感じながら、的(あて)もなく新橋の方へ歩いていった。
 樂器店の前に、一かたまりの通行人が足を停めて舗道を埋めてゐる。谷井も行手を遮られて、仕方なしに立止った。人々は飾窓に貼出されたK大學の新らしい野球の應援歌を讀んでゐるのであった。
(※省略「鬨の歌(応援歌)」の歌詞の一番の引用。作詞 堀梅天(1887-1973)。『慶応義塾案内 : 大学各部・高等部・中等各部・幼稚舎案内 昭和12年版(第16版)』デジタルコレクションに歌詞の掲載あり)
 レコードが勇ましいオーケストラの旋律を往來一杯に撒いてゐる。
 谷井の眼瞼が熱くなってきた。そして何も彼もが物悲しい中に、及川の死を考へ續けてゐる事が、急に恐ろしくなってきた。彼は一刻も早く、伊佐子を燕アパートメントから連出して、二人きりで何處か遠くの、死のない國へ逃げてゆかねばならないやうな氣がして、まるで物に憑かれたやうに、通りかゝりのタキシーに飛乗って、青山高樹町へ向った。
 谷井がアパートメントの前で自動車を下りると、直ぐ、彼の背後に、山邊が微笑しながら立ってゐる。
「やァ、思ひ掛けないところで會ひましたね。」
「さうですね。だが、こんな場面は、ありさうだとは思ってゐましたよ。」谷井は黒っぽい、仕立下しの背廣を着て籐の洋杖をもった山邊を見据えながら、素氣なくいった。
「鳥波さんは、お不在ですよ。お約束はしてあったんですが…………」
「さうでせう。氣が向かなければ、約束なんか破る方ですからね。」
 谷井は二階の窓を見上げた。

家庭
 軈て二人は肩を並べて、默々と電車通りへ出た。
「谷井君、格別お急ぎでなかったら、御一緒にお茶でも飲まうぢゃァありませんか。」
「…………お互に昂奮しあって、感情を害すやうなことがあっては詰りませんからね。」
「昂奮? そんな馬鹿なことがあるもんですか。」山邊は谷井の眞劍な面持を見て、呆れたやうにいった。
「僕の事は知ってゐるでせう。そこへ貴郎が入ってきては、お互の感情が面倒になるぢゃァありませんか。」
「それは、君の考へ方がいけなかないかね。伊佐子さんは單なる女性ではなくって、藝術家であり、女優なんだから、君一人の獨占は社會的に許されないと思ふね。」山邊は鷹揚に自信ありげにいった。
「伊佐子さんが藝術家であらうと、何であらうと、僕にとっては問題ぢゃァないんだ。僕は彼女の見るものを見、彼女の聞くものを聞いて、僕一人の彼女になって貰ふのだ。」
「それゃ、紳士の作法ぢゃァないな。それゃ拘束だ。又、藝術への冒涜ではないかね。」
「…………あゝ、君、もう止して呉れ。僕はそんな生温いんぢゃァないんだ。僕は生命を賭してゐるんだ…………ぢゃァ左様なら。」
 谷井は呆然と見送ってゐる山邊を街角に殘して、斷崖から海へ飛込んだ人間のやうに抜手をきって、人波の中へ泳いでいった。
 彼は昨日以來戻らない、家の事を考へ出して少年の頃は、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、眞先に驅け込んだ母の居間を思ひ浮べて、鳥渡暗い氣持になった。彼の眼には、締切りになった大きな門と、寺院の本堂のやうな冷々とした空氣と、探るやうな、烈しい父の凝視が映ってゐた。
「ふん…………構ふもんか、父さんだって自分の勝手なことをしてゐるぢゃァないか…………」
 谷井は一切の忌はしい幻を拂ひのけるやうに首を振った。彼の心は欅の梢が滑空を刷いてゐる、明い足利の家に誘はれてゐた。
 郊外は緑の海である。省線電車が驛に着く毎に、新緑の波が車窓に崩れかゝってくる。伸びてゆく木の葉の咽ぶやうな吐息の中に、彼は漫然と友情のやうなものを感じてゐた。
「…………少し惡かったかな…………それ程山邊に突っかゝる理由はなかったのに…………」
 谷井は荻窪驛へ下りて足利家の門を入るまで、そんな事を考へ續けてゐた。
 ひっそりとした建物の奥から、ピアノの音が響いてゐる。それは木立に谺する犬の吠聲、勇ましい馬蹄の響、森の小鳥の囀り、高らかに澄渡る角笛などを叙した美波子の得意の曲「狩猟(かり)の唄」であった。
 玄關に佇んだ谷井は、曲が終るのを待って呼鈴を押した。女中が引込むと、ピアノが歇んで、臙脂色に白い水玉模様の午後服(アフタヌーン)を着た美波子が廊下へ飛出してきた。
「あら…………いらっしゃい。私ひとりぼっちで退屈してゐたところなの…………この「狩猟の唄(ハンチングソング)」はお禁厭(まじない※代用)よ。これを彈くと、屹度誰かゞくるのよ。」
 美波子は無邪氣に笑った。
「足利君は不在(るす)なんですってね。」谷井は窓際の椅子に腰を下した。
「でも、もう直ぐ歸ってきますわ…………貴郎は昨夜どうなすったの? 老婢さんが心配して何度も電話をかけて寄越したわ。」
「…………」
「それで、昨夜はお家へお歸りになったの?」
「…………いゝえ…………歸ってやらなかったんです…………父を困らせてやったんです…………」
「ぢゃァ、お友達の家へでもお泊りになったの?」
「さうです…………僕は駄目な人間なんです…………貴女の「狩猟の唄」なんか、聴く資格はないな。」谷井は自分を憫むやうに苦笑した。

 美波子には谷井の意味がはっきり呑込めなかった。彼女は肩に垂れた卷毛を指先で弄んでゐたが、少時して
「駄目な人間だなんて、そんなことはないわ……貴郎が家へ來てゐらっしゃるといふ事を、老婢(ばあや)さんへ電話で知らせておきませうね。」
「いゝえ、いゝんですよ。抛っておいて下さい。後で僕が自分でかけますから。」
「老婢さんって、眞實にいゝ方ね。貴郎のことを随分心配してゐたわ。」
「余計なことを心配したりして………出過ぎた奴だ。」谷井は八つ手の葉に光を遮られた薄暗い六畳に蠢いてゐる鼠のやうな老婢の存在を思ひ浮べてゐた。彼女はいつも父親と谷井の間を執成す爲におろおろしてゐる。谷井は時には父に對して、もっと強く出ようとする場合でも、老婢への憐憫から心にもなく、弱腰になってゆく自分自身を腹立しく感ずるのであった。
「でも、性質の良い女です。昔から家にゐるもんですから、まだ僕を子供のつもりでゐるんです。」
「谷井さんは、お母様がゐらっしゃらないから、時々家が詰らなくなって、厭になって了ふんでせうね。家のマヽがさういってゐらしったわ……今度から詰らなくなったら、家へ泊りにいらっしゃいよ。」
「有難う、だからそれで來たんですよ。」
「ぢゃァ、女中にさういって、うんと御馳走させるわ。それからお友達のところへ電話をかけて、皆を招集して、じゃんじゃんに騒いで了ひませうか。マヽは今晩は館町の御祖母様のお供で歌舞伎座へいらしったのよ。それから弟は書生とシネマを觀にいったわ。」
 美波子は何かしら幸福を感じてゐた。窓の外の夕燒空に、仔犬の雲が跳ねてゐる。鎖時計の針は六時二分前を指してゐた。美波子はもう直ぐ、時計の上の小窓から、おどけた鳩が飛出してくる事を考へて、可笑しくって耐らなかった。
「どうしたんです? 又、何か惡戯を計畫してゐるんぢゃありませんか。そんなやうな顏をしてゐますよ。」谷井は自分の前で泣いたり、駄々を捏ねたりしてゐた美波子が、此頃になって急に背丈の伸びた事に氣がついた。
「……谷井さん、今日は大丈夫ね。この間みたやうに、不意に歸ったりしないでせうね。もう六時なんですもの。貴郎の時間は過ぎちゃったでせう? 何處へいらっしゃるの? 私、先から訊きたいと思ってゐたのよ。」
「貴女のやうな子供が、そんなことを訊くもんぢゃァありません。いや、失敬、失敬。」
「酷いわ。人を子供だなんて、私はもう女學校を卒業したのよ。ああ、解った、それで貴郎はお父様と喧嘩になって了ふのね。屹度貴郎はお父様に、大人はそんなことを訊くもんぢゃァありませんなんて、いふんでせう。」
「父なんぞは呪ひですよ。」
「随分酷いことを仰有るわね…………でも、午後四時さんなんて、陰氣だわ、どうしたの?」美波子はどこまでも、午後四時にこだわってゐた。
「言葉の喧嘩は止しませうよ。僕は白旗を掲げますよ。」
「貴郎は又、その術(て)を出すのね。自分から種を蒔いておいて、都合が惡くなると、直ぐ降参したりして、眞實に卑怯だわ。さァ、白旗を掲げさせてあげませう。」
 美波子は不意に手を伸して、谷井の胸のポケットに覗いてゐた手巾(ハンケチ)を引ぱり出した。それと一緒に桃色のマッチが牀へ轉がり落ちた。それはいつの間にか紛れ込んでゐた前夜の待合の宣傳マッチであった。
「あら! 奇麗なの…………」美波子が拾はうとすると、谷井は周章てゝ遮った。華奢な手と、がっしりした腕とが縺れて少時揉合った。谷井が到頭勝って、マッチは無事に彼のポケットに納まった。
 二人は他愛もなく、聲をあげて笑ひ合った。
「何だ、何だ、何といふ騒ぎであらう!」
 ゴルフの道具を肩にした足利が閾の前で微笑してゐる。

「谷井さんはずるいのよ、本氣で男の力を出すんですもの、ほら、こんなになっちゃったわ。」美波子は笑ひながら赤くなった手首を示した。
「このお嬢さんは力があるだらう。叶はなくなると喰付きにくるんだからな。」足利がいった。
「ぢゃァ私、電話をかけてくるわ。今晩谷井さんは家でご飯をあがるのよ。」
「電話? 人なんか呼び集めるのはお止しなさい。適には靜かな方がいゝですよ。」谷井は正直なところ、足利と二人きりになって、その持ってゆきどころのない惱ましい氣持を聞いて貰ひたかったのである。
 芝生に面した食堂の白い食卓に、カーネーションが紅く盛れ上って、銀器がきらきら光ってゐた。正面の席は空けてあって、その上の壁に家長の寫眞が懸ってゐる。主婦の席に並んで美波子の席があり、谷井と足利はそれに對ひ合って椅子に就いた。總が整然としてゐる。
 三人數(き)りの食事であったが、和やかな家庭の氣分が流れてゐた。美波子はひとりではしゃいで食卓を賑はしてゐた。
「ご飯の後で何をして遊びませうね。」
「美波子は遊ぶこと許り考へてゐるんだね。自分の部屋へいってピアノの稽古でもおしなさい。そして後で書斎へ珈琲でも持ってきてお呉れよ。」
 足利は谷井を促して書斎へ入った。
「君は余り眞劍になり過ぎてゐるのではないかと思って、少し心配してゐるんだがね……」
 足利は立つゞけに煙草に火を點けてゐる谷井の落着かない様子を氣にしてゐた。
「眞劍になる事は、ちっとも惡いとは思はない……僕は生活に大革命を起さうとしてゐるんだ……人間が魂を打込んだら、何だって出來ないことはない……僕はこの儘でゐると、狂人になるか、或は再び救はれないやうな泥濘(ぬかるみ)に踏み込んで了ひさうなんだ。」
「君、その氣持はよく解ってゐるが、君は對象を誤ってゐる。まァ私の思ってゐることを言はせてくれ給へ……私は君以上にあの人を知ってゐるんだから……實のことをいふと、今になって私は、君にあの人を紹介したことを後悔してゐるんだ。年齢からいっても、君があの人にこんなに關心をもつとは思はなかったし、あの人だって年下の君をこんなに誘惑しようとは想像しなかったからね……」
「誘惑? ……そんな失敬な言葉を使ふのは止してくれ……あの人は立派な女性だ、僕はあの人を尊敬してゐるんだ。そして僕はいつの間にかあの人なしでは一日も生きてゐられない人間になって了ったんだ。それだけでも僕は幸福ぢゃァないか。でも、……僕の幸福感は淋しいんだよ。」
「鳥波さんは、これまでにもいろいろ噂をもってゐる人で、第一余りに友達が多過ぎる。そして友達の顏は轉々と變ってゆく。氣をつけて見給へ、鳥波さんの周圍にはいつも得體の知れない男が、うようよしてゐるぢゃァないか、君は少し深入りをしすぎたよ。」
「交際が廣いから、友達の多いのは當然だ。そんな事位で、あの人の人格を云々する法はない。」
「いや、あれは謎の女だ。君、燕アパートメントで女中を使って贅澤に暮してゐるあの女の生活費が、一體何處から出てくるか、知ってゐるかい。」
「足利、もう止して呉れ。」
「今日は君、會へなかったらう、その筈さ、君よりもっと生産的な人物に會ってゐたんだ。昨夜はアパートメントへは歸りはしない。私はあの人が、ある男と麹町ホテルへ入ってゆくのを目撃したんだ……」

「君はまだ止めないのか、この上伊佐子さんを侮辱すると、僕はこの儘では濟まさない。」
谷井は唇を顫はせながらいった。
 廊下にことりと音がした。半開きになった扉の蔭から、白い手が出て、珈琲のカップを乗せた盆を投出すやうに牀へ置いて、兩手で顏を覆うて、ばたばたと廊下を走り去ったのは美波子であった。
 足利も可成り昂奮してゐた。彼は谷井が、椅子の背を掴んで、彩のいゝ唇を噛みながら、蒼白な顏を光に背けて立ってゐる姿を、ぢっと視守ってゐたが、
「……相變らず一本氣なんだな。それが長所とも、短所ともいふんだらうが、近頃はそれが短所にばかりなって、私達を心配させてゐるんだ。もう少し靜かな氣持になって、男同志の言葉を聞いてくれたらどうだ。」
「彼女にどんな評判があらうと、又、どんな非難があらうと、僕のこの氣持を變へることにはならないんだ。だから君が百万言を弄したって、徒に僕の氣持を傷けるに過ぎないんだ……僕は世界中の奴と闘ってやる……」
 谷井は誰の爲に闘ふのか、自分でも解らなかった。世間は皆、彼女に親切なのだ。彼女を歡迎する世間の奴を、悉く叩き潰して彼女をたった一人のものにするだけの氣力と實力とを、自分は果してもってゐるだらうか? 彼は孤獨無援な自分の姿を省て、急に身の周圍に、ひたひたと寄せてくる寂寥を感じてきた。
「僕は失敬する。又、會はう。」
 谷井は足利に會はなければよかったと思った。そして今日といふ日がなかったなら、一層よかったと思ひながら、椅子を離れた。
「まァ、そこへ掛け給へ。このまゝ君が歸っては、お互に氣持が不良(わる)い。」
 足利の言葉を振切るやうにして、谷井は玄關を出て了った。
 九時を過ぎてゐた。晝間の緑はそのまゝ、黒(※代用)々と染った天地に吸込まれて、微かな溜息を吐いてゐる。その中で幾つもの窓が、光の箱のやうに、闇の中に浮出してゐる。朱鷺色の光の流出てゐるのは食堂である。棟續きの台所の方では、女中達の白いエプロンが、ちらちら動いてゐる。既(も)う戸締をしてゐると見えて、二階の窓は順々に鎧扉が閉じられてゆく。
 谷井は門のところで立止って、背後を振返った。そこには整然とした、明い家庭がある。そこに住む人達は、誰も逃げ隠れしないで、公明正大に暮らしてゐる。
 谷井は其朝以來、忘れよう、忘れようと努めてゐた自分の家の事を、矢張考へてゐた。そして放浪者のやうな心を抱いて、停車場へ向った。
 矢來の家の門は、彼の前に、鐵のやうに冷く、嚴然と閉ってゐた。彼は暗い植込みの中を探るやうにして玄關へ入った。
 父親の居間で咳拂ひが聞えてゐる。谷井が二階へ上ると、默って後から蹤いてきた老婢が、
「……坊ちゃま、旦那様がお呼びになってゐらっしゃるんでございますよ。」と彼の顏色を窺ひながらいった。
「煩いな。今歸ったばかりだといふのに……」
 谷井は手にしてゐた帽子を机の上に叩付けた。
「……何でもないでないではございませんか、一言謝罪(あやま)っていらっしゃれば、それで濟むんでございますのに……」
「何を謝罪るんだ。僕が昨夜歸らなかった事か?」谷井は嘲けるやうにいった。
「旦那様は、随分坊ちゃまの事を御心配なすってゐらっしゃるんですよ。昨夜なんか、終夜(よっぴて)お寝みにならなかったやうでございました。」
「ふん、勝手のいゝ、御心配だ。」
 其時、階段の下で、女中が、
「ばあやさん! ばあやさん!と奥を憚るやうに呼んだ。
 遠くの部屋から、父親の苛々した氣持を其まゝに、呼鈴がけたゝましく鳴り續けてゐる。

父と子
「喧しいな、ご用があると仰有るなら、直ぐゆきますと、さう申上げておくれ。」
 谷井は階下の女中に、大聲で呶鳴った。そしてわざと、荒々しく跫音を立てゝ、階段を下りていった。
 鈎の手になった廊下の先端の障子に、黄褐色の覆布(シェード)をかけた、卓子電燈の光が、さっと斜に流れてゐる。
 谷井は本能的に、父親に對する畏怖を感じて、思はず牀を踏んでゐた足から力を抜いた。彼は怖々(おそるおそる)障子を開けた。
 机に肘を突いて、書ものをしてゐた父親はまだ五十を出てゐない。神經質らしい細面で、皮膚は艶々して、黒い頭髪を無雜作に掻上げてゐる。
「何か、ご用がおありになるさうですね。」谷井はちらと父親の顏を見て、すぐ眼を背らして了った。
「そんな云草は無からう。まァ。そこへお坐り。」父親の谷井榮輔(※統一訂正)は、眼鏡を外して机の端へ置くと、窮屈さうに横座りをしてゐる息子を、ぢっと見据ゑた。
「清、お前は此節、學校へもいってゐないさうだね。親の眼を晦まして、學校へも行かず、遊びほうけてゐるなんて、飛んだ糧見違ひぢゃァないかね。」
「………………」
[俺が何の爲に月謝を拂って、お前を學校へやっておくと思ふ。誰の爲でもない、みんなお前の爲なんだ。世の中には、いくら勉強したくっても、學費のないものが澤山ゐるんだ。お前は自分の身分を慮へて、世間に濟まないとは思はないか。」
「………………」
「唖ぢゃァあるまいし、默ってゐちゃァ譯が判らない。一體お前はどういふ量見なんだ。」
 谷井は父親の言葉に對して、意見も、量見も何も無かったのだ。父親の言葉は一々、彼の痛いところを指してゐた。彼は充分に自分の惡い事を承知しながら、その本心を誤魔化さうとする氣持から、無理な自己弁護を考へてゐた。
「……お父さんには、僕の心持の病氣がお解りにならないのです。」
「病氣なら病氣のやうに、内科の醫者にでも、精神科の醫者にでも診て貰ったらいゝだらう……生意氣なことをいふ……俺がお前位の年頃には、一家を支へて親を扶養(やしな)ってゐたんだぞ。俺の學歴といへば、僅に田舎の商業學校を卒業(で)ただけだ。それもお前なんぞのやうに、親から學費を貰った譯ぢゃァない。 朝暗いうちに起きて、新聞配達をして苦學をしたんだ。そして東京へ出ると、脛一本、腕一本で、誰の手蔓もなく、月給十八円の銀行員から叩きあげたんだ。お前には一體、何の取柄があるんだ。今のまゝで社會へ抛り出されたら、どうして喰ってゆくつもりだ。馬鹿者奴!」
「何卒、そんな亂暴な言葉を仰有らないで下さい。僕はさう無理に、喰ふ、喰ふといふやうなことは、考へたくないんです。」
「喰はないで、どうして生きてゆける。お前は俺の財産なんか、的(あて)にしてゐたら大間違ひだぞ。俺はお前が學校を卒業して、一本立になる迄は、面倒を見てやるが、夫から先は鐚一文もやらないぞ。人間はみんな前額(ひたい)に汗をして喰ふのが法則だ。俺の財産はそっくり社會事業に寄附して了ふんだ。」
「さうなされば藍綬褒章は間違ひありませんね。」
 谷井の言葉が終りきらない中に机の上にあった和綴の謡曲本が飛んできた。
「馬鹿! 貴様は親を愚弄するのか!」
 激しい怒號が障子を慄はせた。谷井は自分の言過ぎを少し後悔して、次に飛んでくるであらうインキ壺か何かを、素直に浴びる覺悟でゐた。そっと顏をあげると、疳癖の強い父親は前額に青筋を立てゝ、頬の肉をぴくぴく顫(ふる※代用)はせてゐた。

 谷井は昂奮してゐる父親の顏を見て、淺猿(あさま)しさを感じた。
「私のいったことが、お氣に障ったのなら、お詫びをします。」
 谷井はわざとらしく頭を下げた。その仕草が一層父親の氣持を苛立せた。
「貴様は、一體何が不足でそんな態度をとるんだ……俺が斯うやって、貴様を學校へやっておくのを、有難いと思はぬのか。第一、貴様が犬にも踏まれないで、斯うして無事に暮してゐられるのは、誰のお庇だと思ふ。」
「それはお父さんのお庇です。けれども、私は今も申上げたやうに、お父さんにはお解りにならない病氣なんです……それで……」
 谷井の言葉を皆までいはせずに、父親はおひかぶせるやうに呶聲を浴びせた。
「ではいってみろ! 貴様の病氣とは何だ! 怠惰(なまけ)病か?」
「……私はこんな生活には堪へられないんです……それで當分學校は休校させて頂いて……その中に、私の氣持が變りましたら、改めて新らしい努力をもって……」
「こら、いゝ加減にしろ! 學校が厭なら、さっぱり罷めて、明日から人足にでも、車夫にでもなるがいゝ! それにこの節、貴様は酒を飲むやうだな。親がゝりの小僧の癖に、酒なぞ飲み歩いて、碌なことはありゃしない。昨夜は何處へいって泊ってきたんだ!」
「お父さんのやうに、さう頭から、がみがみ仰有っても仕方がありません。私だっていつまでも子供ぢゃァないんですから……お父さんのご用と仰有るのは、それだけなんですか。」谷井は席を立ちかけた。
「待て! 俺は貴様の、その態度が氣に入らん。親に對する禮儀といふものがある筈だ。」
「そんなら、お父さんの方でも親らしくして下さい……奉公人の口の端などにかゝらないやうに……」
 父親は息子がお加代の事を匂はしてゐるのを感じて、急にかっとなった。
「貴様は親の批評をするのか!」
 父親の拳が飛んだ。その手をぐっと掴んだ谷井は、當惑したやうに父の顏を見上げた。
「此奴! 親に抵抗する氣か!」父親は喘ぎ喘ぎいった。
「何卒、亂暴は止めて下さい。私だって自分のやってゐる事が、みんないゝとは思ってゐません。それだから苦しんでゐるんです。」
 谷井は靜かに父の手を放して、運動で鍛へた逞しい腕をひいた。
「よろしい、もう彼方へ行け! 貴様がさういふ量見なら、俺も決心しなければならない。自分の部屋へ歸って、今晩ゆっくり考へて見ろ。」
 父親は思ひ返したやうに、息子に背を向けて、机の上の書物を開いた。
 谷井は父親の黒く染めた頭の上に、冷笑を遺して默って部屋を出た。
 廊下の隅に、老婢が影法師のやうに立ってゐた。
「坊ちゃま、老婢はどうなることかと、氣がわくわくしてをりました。何卒お願ひでございますから、この上旦那様に御心配をお懸けにならないで下さいまし。」
「又、余計な心配をしてゐやがる。年寄なんていふものは、早く寝るもんだ。そんな服装(ふく)をしてゐたら風邪をひくぢゃァないか!」
「坊ちゃま……昨日はお母さまの御命日だったのでございますよ。それだのにお歸りにならないで……」
「解ってゐる! こんなときに、母さんの名前なんぞ出すな!」谷井は肩で老婢を押退けるやうにして、荒々しく階段を上っていった。
 九日! 母の命日を忘れてゐた事が、二重にも三重にも、彼の良心を打ちのめした。
 戸外には勁い風が出て、高い塀の上から吹付けてくる風が、縁側に近い躑躅の下枝をざわざわと鳴らしてゐる。池の縁に乗ってゐた孑孑(ぼうふら)入れの空罐が、からからと遠くの塀際まで吹飛ばされていった。

 父親は氣が鎮まるにつれて、席を蹴立てゝ二階へ上ったきり、物音も立てない息子の事が、少しづつ氣になり出した。
 ……彼奴は何が不平で、あんなに親に楯をつくのであらう……父親には息子が何を考へ、何を望み、何をしてゐるのか、段々解らなくなってきた。
 ……子供の時には、温順しい、内氣な、良い子であった。どっちかといふと、母親よりも父親になついてゐた。母親はよく彼が子供を甘やかし過ぎると、抗議を云出したものであった。
 小さな清を中心にした若い夫婦の姿が、白っぽく、塀の曲った紀尾井町のお加代の家や、葬儀社の自動車に運び込まれてゆく妻の柩や、火鎮災(※誤判読?)などの錯綜した人事の柵(しがらみ)を越えて、遠くにはっきりと浮んでゐた。彼は或晩、子供の寝床へ、そっとビスケットを持っていってやって、翌日子供が腹を損(こわ)したので、散々妻から恨まれた事があった。
 ――父さん、坊やにビスケット持って來てくれない?
 その頃六才であった清は、夜着の中から小さな、可愛らしい顏を出して嘆願した。彼がそれを拒むと、
 ――たった一つでもいけない?
 ――一つだっていけない。子供は夜床へ入ってから、お菓子なんか、食べるものではない。
 ――さう?……ねえ、お父さん……坊や今に大きくなって、お父さん見たいになれるかしら?
 ――さう、早く、さうなって貰ひたいものだね。
 ――そして坊やが大人になったら、お嫁さんを貰へるかしら?
 ――それゃ貰へるだらうね。
 ――そして若し坊やが小さい男の子を欲しいと思ったら、坊やみたいな子がくるかしら?
 ――來るだらうよ。坊やがいゝお父さんなら。
 ――坊や、お父さんになったら嬉しいなァ。
 ――どうして?
 ――だって坊や、お父さんになったら、自分の子供に、夜中にそっと、ビスケットをたった一つだけ持ってきてやって、坊やがどんなに子供を可愛がってゐるかを、知らしてやるから。
 といふ清の賢しげな瞳に會って、若い父親は負て了ったのである……小さな子供は何といふ狡猾な外交家であらう!
 それからこんな事もあった。その時、清は父親の机の上のインキ壺を引くり返して、母親に叱られてゐた。
 ――僕、こんなになるとは思はなかったの……
 彼は怨めしげに、畳の上の黒い汚點(しみ)を見守ってゐた。
 ――だから母さんが、いつもいってゐるではありませんか。子供はインキなんて、使ふものではありませんって、いったでせう。
 ――だって、僕、手帳に字を書いたんだもの、そして……すっかり書いて了ったら……
 ――字を書くのなら、鉛筆をお使ひなさいといってあるのに…………このインキの汚點はどうしたって除れないんですよ。折角疊替をしたばかりなのに、又、畳屋を呼ばなければならないぢゃァありませんか……惡い子だ……彼方へおいでなさい!
 清は大きな眼に涙を一杯溜めて、悄乎(しょんぼり)と部屋を出ていった。父親が後から蹤いていって見ると、彼は裏庭の無花果の樹の下で、しくしく泣いてゐた。
 ――僕……折角、書いたのにインキがこぼれて了ったんだもの……
 清は字を書き上げて了ってから、インキをこぼしたといふ事を、繰返し、繰返し歎いてゐた。
 ――僕はどうしていつも惡い子になって了うんだらう……折角手帳に字を書いたのに、又、惡い子になって了った…………

 小さな清は、父親の胸に顏を埋めて、泣吃(じゃく※代用)りをしながら、頻りと何かを訴へてゐる。
 ――坊やは何を書いたのだい?
 と訊ねると、彼は涙に濡れた頬を袖で拭ひながら、懐中から黒い手帳を取出した。それは父親が前夜、彼にせがまれて與へた、舊い日記帳であった。その第一頁に、小學校へ入って字を覺えたばかりの清が、一生懸命に書いた曲りくねった文字は、「ボクハ、ケフカラヨイコニナリマス。」といふのであった。父親は胸を打たれた。
 ――僕は大切な事だから、インキで書いておく方が、いゝと思ったの……鉛筆だと、ぢき薄くなって消えて了ふから……
 可哀相な子供よ! 彼は大人から嚴禁されてゐたインキを使用(つか)ったことよりも、自分が良い子にならうといふ、重大な決心を書留めた直後に、惡い子になったのを悲しんでゐるのであった。
 子供は大人の覗き得ない、別世界をもってゐる。大人の頭腦で子供の國を批判するのは難い。
 ――俺はいつか年をとって了ったのかな、十七八年も以前には、もっとあの子を理解してやってゐた筈だが……
 父親は目まぐるしい程、慌たゞしかった、夫等の多端な歳月の間に、いつの間にか、渡りつくせない溝が築かれて、息子が既う手の届かないところへ、いって了ってゐるのを見出して、淋しい心持になってゐた。
 ――だが、俺はあの子の爲に何をしてやったらいゝのだらう……あの子が間違ひを起さず、正しい道をゆくやうに導くには、俺はどうすればいゝのかしら……
 彼はお加代の事を思った。育ちに似合ない、慎ましい彼女……彼女を後妻として屋敷へ迎へないのも、息子に繼母を與へたくなかったといふ彼の心遣ひからであった。けれども、それもこれも、空しい哀愁に裏づけられていった。父親が激しい憤怒の後に寄せてくる淋しさに、心を洗はれてゐる時、息子は二階で父を罵り、父を呪ってゐた。父に對する彼の心は光のない家庭生活の中で、すっかり歪められて了ってゐた。
 彼は父が疳癪を起して激しい言葉を浴せ、母が聖母(マドンナ)のやうな大きな眼に涙を宿してゐた光景を、今でもはっきり記憶(おぼ)えてゐる。
 又、或時は――それは後にも先にも、たった一遍の出來事だったかも知れないが――父が母を打擲したのを見て、彼は、
 ――お父さんの馬鹿野郎! お父さんを殺して了へ!
 と泣き叫びながら、玩具(おもちゃ)の刀を振り翳して父親に罷りかゝっていった事があった。
 さうした場面にぶつかる毎に、少年の胸には父に對する憎惡が植付けられていった。彼は母が早世したのも父の責任だと思ってゐた。それ故、父が母の回忌に墓前に額づくのを見て、空涙をこぼしてゐると、密に嘲ったりした。
 ――あゝ、こんな厭な思ひをする位なら、一層、家なんか、飛出してやらうか……誰からも拘束されずに、ひとり限りになって……あ、自由が欲しい、父も、老婢も、友達も誰もゐない自由の國へ往きたい……
 谷井はそんなつきつめた氣持になってゐながら、彼の往かうと焦慮(あせ)ってゐる自由の國にも、負ひきれぬ淋しさを背負(しょ)ってゆく、自分の惨めな姿を描出してゐた。夫等の彼の心持の裏に、伊佐子の顏が一杯に擴ってゐるのを谷井は識ってゐた。
 彼は暗い廊下の籐椅子に身を投げて、庇を掩うて揺れてゐる木の葉の間に輝く、大きな赤い星を凝視めてゐた。
「母さん! 母さん! 僕はどうしたらいゝんでせう。」谷井は全身の惱を溜息と共に吐出した。
 父親の居間には、遅く迄、電燈が灯いてゐた。

燕アパートの崩潰
 勁い風の日で、庭の木々は葉裏を返して散々に小突かれ、振廻されてゐた。大屋根の上の電線が凄じく鳴ってゐる。
 太陽のない、鈍色の空は妙に明く光ってゐた。
 谷井が目を覺して、のそのそ階下へ降りていったのは、もう十時過ぎで、父親はとっくに出勤した後であった。
 彼は食堂の卓子に堆(うずたか)く乗ってゐる父の讀み散らした新聞を、讀むでもなく、讀まぬでもなく、引くり返しながら朝食をとってゐた。
 盆をもって給仕に立ってゐた女中の敏は、谷井が箸をおいて立上るのを見て、
「若旦那様、鳥渡お待ちなすって下さい。いま老婢さんをお呼びしてきますから。」
「老婢?」
「はい、今日お隣りが御移轉(ひっこし)になるので、御挨拶にいったのでございます。」
「ふん、大江っていふ家か、あのぢいさんと娘のゐる……」
「……お氣の毒でございますね。あんな御病人を移轉だなんて動かして良いものでございませうか。眞實にあのお嬢様がお可哀さうです。」
「お嬢さんって? どうかしたのか。」谷井はぼんやり他の事を考へながらいった。
「あんな若くて、お奇麗なお嬢様が、世の中には、面白い事が澤山ございますのに、あゝやって何處にもお出にならずに、朝から晩まで、お父様のご看病をなすってゐらっしゃるんですもの。」
 女中が台所へ膳を下げてゐるところへ、老婢が入ってきた。
「まだまだ、お隣りは中々片付かない。家の方はいゝから、お前さん直ぐいって、荷造りのお手傳ひをしてあげてお呉れよ。眞實に私が男だったら、どんなことでもしてあげるんだけれども……」
 谷井はあたふたしてゐる老婢を眺めて、
「相變らず世話燒婆さんだなァ。」と呟いた。
「坊ちゃま、世の中はさういふもんぢゃァございませんよ。貴郎は始終御自分の事ばかり考へてゐなさる。されだから物ごとが不足になるんです。亡くなられた奥様は、誰にでも同情の深い、眞實にご立派な方でした。魚屋に泣き付かれて、お金を出しておやりになったり、屋根屋の息子に、そっと學費を貢いでおやりになったり、洗濯屋の若衆に瞞されて遺失したといふお金を用立てゝ、旦那様に大層叱られなすったこともあった程でございます。それだのに坊ちゃまは、誰方にお似になったんでございませう。」老婢は昂奮に呼吸をはづませてゐた。
 谷井は母の葬式の日に、日頃、見たこともない人達が、台所の隅にかたまり合って、眼を赤くしてゐたのを記憶えてゐる。商家の内儀さんらしい中年の女が裏庭の椛葉珊瑚樹の蔭に跨って、草の葉を毟(むし※代用)りながら、何か母の事を呟いて、泣吃(じゃく※代用)りをしてゐた光景などを思ひ浮べてゐた。
 谷井は其儘二階へ上り、外出の仕度をしてくると、階段の下に待ってゐた老婢が、
「坊ちゃま、又、お出掛けでございますか……あの、旦那様がこれを置いていらっしゃいました。」と一通の封書を差出した。
 それは父からでの手紙で、

 ――久しくお前と一緒に食事をした事もない、今日、午後一時頃、丸の内の中央亭で晝食をとるから、近所を通りかゝったら、寄りなさい。

 と簡單に走り書きしてあった。谷井は鼻先に冷笑を浮べて、丸めた手紙をポケットへ入れようとしたが、心配してゐる老婢の小さな顏を見ると、
「晝に一緒に飯を喰へとさ。」
 谷井は父の手紙を老婢の足下に投げて、玄關を出た。

 午後の一時には、谷井は丸の内の中央亭とは懸隔れた高樹町の燕アパートメントの石段を上ってゐた。
「奥様は御不在でゐらっしゃいます。扉の間から顏を現した女中は、不愛想に扉を閉めて引込まうとした。
「何處へいらしったの? ぢきお歸りになるかしら?」
「……困りますね、お出先の事は私には判らないんですよ……今、忙しくって……」
「昨晩もお歸りにならなかったんですってね。忙しいって何を爲(し)てゐるの、手傳ってあげようか?」谷井は扉を押して廊下を覗込んだ。
 二階で鈴(ベル)が鳴り出した。何處からか、伊佐子の許へ電話がかゝってきたのである。女中は慌てゝ階段を馳上っていった。
 廊下には見覺えのある旅行鞄や、風呂敷包みなどが置き並べてある。
「おや、奥さんの荷物だね、どうしたの?」谷井は電話を濟して戻ってきた女中にいった。
「……あの……奥様はね。御病氣なんですの。」
「病氣? いつからお惡いんです? 病院ですか?」
「えゝ、今日はいくらかお良しいさうですから、四五日でお歸りになるだらうと思ひます。」
「何處の病院……病院ぢゃァないの?……麹町ホテルぢゃァないのか?」谷井は女中の顏色を讀んだ。
「あすこで急病にお罹りになったものですから……」
 女中は谷井を扉の外へ送り出して、さっさと二階へ上っていった。
 追出されるやうにアパートを出た彼は、青山の通りで紅いカーネーションを買って、麹町ホテルへ向った。
 二階の廊下を二つ曲った角に、三二二と記した部屋がある。扉を叩いて中に入ると、病氣で臥ね)てゐる筈の伊佐子が、化粧室の前で爪を磨いてゐた。
「あら、清さんなの、到頭嗅付けてきたわね。」女は鏡の中で笑ひながらいった。
「貴女は病氣で臥てゐらっしゃるのかと思った。何故こゝにゐる事を僕に隠してゐたんです。」
「いゝえ、「僕」計りでなく、誰にも内緒にしてゐたのよ。病氣の時には誰にも會はずに臥てゐるのが、私の最上の療法なのよ。又、八の字ね、さァ、そんな顏をしてゐないで、こゝにお掛けなさい。「僕」は伊佐子が好きなんでせう、それでそんな綺麗な花をお見舞に持ってきてくれたんでせう。」
「病氣ぢゃァなかったんですか。」
 艶々した血色、立っていって窓の日除(ブラインド)をあけたりする敏捷な動作、どこに惨めな病氣などの影があらう。伊佐子は古代紫に白孔雀の刺繍をした派手な部屋着を羽織って、鏡の中に動く、美しい自分の姿を怡んでゐるやうに見えた。
「あら、私、病氣でしたのよ。一昨晩こゝで會があって、急に胸が痛み出して、お醫者を招ぶやら大騒ぎをして、それっきり家へも歸らずに、ずっと泊りきりなのよ。屹度、珈琲を飲過ぎたのが不良かったんだわ。」
 その時、輕く扉を叩いて、ボーイが手紙をもって入ってきた。
「速達が参りました。」
「あゝ、さう、御苦勞様、後でお紅茶を寄越して下さい。」
 伊佐子は大型の白い封筒に、毛筆で達筆に書かれた宛名の裏を返して、差出人の名を見ると、もどかしさうに封を切って、罫紙に細く書いた文字に目を注いだ。
「今日はまだ、高樹町へは歸らないんですか。」
 伊佐子は手紙に氣をとられてゐて、谷井の言葉は耳に入らなかった。
 谷井は所在なさに、窓際にいって、黄色い砂塵のあがる往來を見下してゐたが、ふと、――伊佐子が男とホテルへ云々――といった足利の言葉を思出して、吸寄せられるやうに部屋續の寝室へ入っていった。

 洋服箪笥、眞鍮の金具の光ってゐる大型寝台、枕元の小卓子(テーブル)には銀の水差と一個のコップ、葉卷の吸殻の乗った灰皿が置いてある。
 谷井は寝台の裾に投げ出してある、白地に太い撚縞の男子用の西洋寝卷(パジャマ)を見遁しはしなかった。彼はその上に、火焔(ほのお)のやうな視線を注いだ。
「清さん、清さん、鳥渡、何をしてゐらっしゃるの?」
 伊佐子の慌しい呼聲である。谷井は崩れた偶像を目前見て、激しい嫉妬と、失望に打のめされた。
「不良い子よ。そんなところへ入って……さァ、此方へいらっしゃい。私、貴郎にきゝたい事があるわ。」
 伊佐子は寝室から出てきた谷井の顏色を讀んだか、どうか、何の拘りもなく微笑を浮べて、傍の長椅子を叩きながらいった。
「僕だって、お訊きしたい事があります。」
「違ふのよ。私のお話っていふのは、貴郎のやうな、そんな眞劍な事柄ぢゃァないのよ。あの、貴郎のお宅は牛込矢來町でしたわね。確か三番地と仰有りはしなかって?」
「えゝ、確實に僕の家が三番地にあるやうに、貴女は僕を………」
「まァ、鳥渡待って頂戴………それで、矢來の三番地といふところは、どんな人達が住んでゐるの?」
「………どんな人たちって、三番地は廣いですから………」谷井は嫉妬と失望を織り交へた落着かない氣持で、ちらちら伊佐子の――どっちかといへば、鼻の小さい、扁平顏の、肉付のいゝ頬を見てゐる中に、相手の弱味を掴んだ安逸感とでもいふやうな、一種不思議な氣持が、心の底に萌してゐるのを意識してゐた。
 ――伊佐子は男と一緒に泊ったのだ………あの女は男の友達を澤山もってゐる――足利の言葉が谷井の耳元で、微に鈴をふってゐる。
「三番地に大江といふ家があるでせう。貴郎ご存知?」
「そんな家があるやうですね……貴女は矢張り病氣で此ホテルへ泊ったんぢゃァなかったんですね………そりゃ、貴女のやうな綺麗な方は交際が廣いから、好きな人が澤山あるでせうけれども……僕の氣持だって察して下すってもいゝでせう。こんな中途半端な氣持でゐると、今に、學校も、家も、父も、みんな失くして了ひさうなんです。」
「いけませんわ。貴郎は學校へいって、ちゃんとなさらなくてはいけないわ……貴郎は私が、眞實はどんな人間だか、知ってゐらしって?」
 伊佐子は谷井の焚えるやうな眸を見て、情熱に波打ってゐる男の激しい呼吸づかいを感じた。
 谷井は突如、伊佐子を抱いた。白い孔雀がふはりと宙に浮いて、女の嫋(しなや)かな體躯は、彼の腕から辷り抜けた。
「そんな事、駄目よ……貴郎だけはそんな事にならないで頂戴。」伊佐子は亂れた胸を掻合せて遠くの椅子に腰を下した。
「……ご免なさいね、伊佐子は後悔してゐるのよ。決して貴郎をこんなことにする心算(つもり)ではなかったんですけれども……私の態度が間違ってゐましたわ……どうぞ、貴郎は家へ歸って下さい。そして私の事なんか忘れて下さい。」
「貴女をそんな風にするのは、金なんですか。」
 伊佐子は首を振った。
「僕と一緒に逃げて下さい。何處か、遠い國へ、一緒に逃げて下さい。」
「そんな事は夢ですわ……現實の世界では生活を無視する譯にはゆきません。」伊佐子は獨言のやうに呟いた。
「あゝ、何だか、解ったやうな氣がします。僕は自分にだって、貴女を救ふ力があると思ひます。」
 その言葉が耳に入ったのか、どうか、默って窓の外へ眼をやってゐた伊佐子は、不意に谷井の方へ向直った。

「清さん、貴郎の人生はこれから始まるんですわ。私は貴郎が眞實に幸福になるやうに祈ってゐます……ねえ、お解りになったでせう。さァ、お願ひですから、お歸りになって下さい。そして私なんてくだらない女を忘れて下さい。」
「……では、僕は歸りませう。けれども、貴女を忘れる爲に歸るのではありません。」
 谷井が逆(のぼせ)上たやうな赤い顏をして、早口に喋ってゐる顏を、ぢっと視守ってゐた伊佐子は、急に眼を背らして、
「では、左様なら。」といった。
 廊下へ出た谷井は、二三歩ゆきかけて、又扉の前へ戻ってきた。部屋の中はしんとして何の物音もしなかった。彼は思ひ返したやうに部屋の角を曲って、階段を下りていった。
 戸外は益々風が吹募ってゐた。彼は帽子の縁を押さへながら、自分の前に堆積してゐる困難を押切ってゆくやうな悲壯な氣持で、烈風に逆って歩いた。
 矢來の家は相變らず頼りどころのない沙漠であった。隣家へでもいってゐると見えて、老婢も女中も、姿を見せなかった。それだのに谷井は跫音を忍ばせて自分の部屋へ上った。
 黒塀を隔てた隣家では、大荷物でも運出してゐると見えて、硝子戸に何かぶつかる音や、老婢の聲などが聞えてゐる。
 谷井はポケットに時計、万年筆、銀貨入、安全剃刀などを押込んで階段を下りると、もう一度目を澄して人の氣配のないのを確めてから、父の居間へ入った。
 彼は押入の手提金庫から五十円近くの現金と、百円債券二十枚を撮(つかみ)出して家を抜出した。
 裏木戸から横町へ出ると、大江の家の前に、古ぼけた家具を滿載した荷車が置いてあった。その傍に赤いやうな帶をしめた小柄な娘が立ってゐて、谷井を見ると、羞ながらお辭儀をした。
 谷井は挨拶を返して、大股に歩出した。彼はふと、先刻伊佐子が大江の家の事を訊いてゐたのを思ひ出し、洗濯屋の角を曲りしなに後を振返ると、娘はまだ荷車に背を向けて、谷井を見送ってゐた。
 彼は伊佐子がどうして大江の家の事などを訊ねたのかと、鳥渡不思議に思ったが、樫の條枝の繁った、長い黒塀に沿って、甓石(しきいし)を歩いてゐた時には、既う娘の事などは、すっかり忘れてゐた。
 谷井が旅館(ホテル)で取次を乞ふと、
「鳥波さんはゐらっしゃいませんよ。」と帳場の男は無愛想にいった。
「いつ頃、お歸りになるか、判りませんか。」
「さァ、こゝは既うお引揚げになったんですから。」
 谷井はそれだけ聞くと、直ぐ旅館を出て、タキシーを高樹町へ飛ばした。彼は開放しになってゐた燕アパートメントの玄關を入って、階段を馳上っていった。
 勢ひ込んで緑の部屋の扉を開けた谷井は、前額に手をあてゝ立竦んだ。魔法の杖が觸れたやうに、何も彼も消失せて了ってゐる! ピアノも、長椅子も、緑色の絨毯までも。そして白い壁には額の跡が、ところどころに煤けた輪郭を遺してゐる。カーテンを取外した部屋續きの寝室には、露出しになった寝台が空しく見棄られてゐる。
「伊佐子さん! 伊佐子さん!」谷井は白痴のやうに、がらんとした部屋の中を歩廻った。
 谷井はその部屋を出ると、アパート中の部屋の扉を叩き廻った揚句、へとへとになって階下の事務室へ轉げ込んだ。居睡りをしてゐた老人は、
「鳥波さんは、もう引轉(ひっこ)して了ひましたよ。行先は判りませんな。」と欠伸交りにいった。
 燕アパートの崩潰! 懐しい緑の部屋は永久に彼の前から消えて了った。
「何處へいったんだらう! 何處へいったんだらう!」淋しさと、悲しさが谷井を地の底まで押し沈めていった。彼は最う、家へも歸れない。
 朝からの強風は雨に變ってゐた。暮れかゝった室に町の廣告塔の光が赤く入染(にじ)んでゐる。
 雨に打たれながら舗道に佇ってゐた谷井は背後に警官の佩劍の音をきくと、悸(ぎょっ)として走り出した。
 十字路で足を停めた彼は、都會の光の海を眺めて途方に暮れた。彼はどっちへいっていゝか、判らなかった。

陰影
 虎の門の賑かな電車通りから離れて、裏手のパン屋の横町を入ると、トタン塀の自動車々庫や、自動車修繕工場や、黄色く塗った高い木造のビルディング等が、夏のくる前の、垂れ籠めた低い空の下に、雜然と並んでゐる。ガソリンの臭氣と、果實の饐ゑたやうな、甘酢っぱい臭氣とが、長い煤けた町を重苦しく掩うてゐる。
 俥宿があって、八百屋があって、その露路の突き當りに、格子造りの古びた二階家がある。入口の傍に、和服御仕立所と記した看板が出てゐる。
 何處かで時計が六時を打った。其時、黒っぽい背廣を着た中年の男が、用ありげに八百屋の角を入ってきた。男は格子戸の前に立止って、汚れたハンケチで前額を拭ひながら、表札を讀んだ。雨晒しになった木札には、波田井明義といふ文字が消えかゝってゐる。それに並んで大江と書いた小さな紙片が貼ってある。男は少時、家の前に立って様子を窺ってゐた。台所で皿小鉢を洗ふ音や、水を流す音などがして、折々二階から老人らしい力のない咳が聞えてくる。
 男は頷首(うなずき)ながら引返していった。その氣配を聞いて玄關を覗きに出たのは、白毛交りの頭髪をひっ詰の束髪にした波田井の妻、百合野であった。
「おや、誰か來たと思ったのに………」百合野は、土間に落ちてゐた夕刊を拾ひ上げた次手に、格子の間から、青っぽく、妙に光ってゐる夕暮の空を見上げて、奥へ戻っていった。
 勝手元にゐた若い娘はエプロンで手を拭きながら、部屋へ入ってきた。
「小父さんではありませんでしたの?」
「さうぢゃァなかったんですよ……麗ちゃんも今日は疲勞(くた)びれたでせう。もう重湯はとれたの? あゝ、さう。先刻、小母さんが見にいったら、よくお寝みのやうだったからもう少しそっとして於て、お食事は後にしたらどう? そして今夜は小母さんが替ってあげるから、麗ちゃんは御飯が濟んだら、階下でゆっくりお寝みなさいよ。」
「有難う、小母さん、でも、私平氣、ちっとも疲れてなんかゐませんわ。」
 麗子は慎ましく障子際に坐って、口許に、勝氣な、乙女らしい微笑を浮べながらいった。
「氣が張ってゐるから、さう思ひなさるだらうが、二日間も碌に休まないのだから、余り無理をすると、今度は麗ちゃんが倒れやしないかと、小母さんは心配でならないんですよ。」
「私なんか、大丈夫ですわ。傍についてゐても、うとうと居睡り計りしてゐるんですもの。」
「お父さんも、この春頃は大變工合がよくって、私が矢來の家へお見舞にいった時など、臥てゐる筈の病人が用足に出掛けてお不在だったりした事がありましたね。しんの強い氣丈な方だから、この鬱陶しい梅雨さへ、明ければ屹度、さばさばして、自然に熱も除れて了ひますよ。」
「どうか、さうなってくれれば、いゝと思ってゐますけれども……あの風の勁い日に、無理に移轉なんかしたので障ったんですわ。あの晩から目に見えて不良くなってきましたの。」
 麗子は移轉の朝、父がいつの間にか早起をして、運送屋のこない中に、荷物を玄關先まで運出した後で、便所わきの薄暗い二疊に横になって、絶入るやうに咳込んでゐた姿を思ひ出してゐた。矢來の家の凄々と伸びた庭の雜草や、その間に赤い花をつけてゐるたった一つの躑躅の鉢植の事や、隣りの大きな屋敷、親切なそこの老婢さん達や、いつも立派な服を着てゐるお洒落な青年などが、遠い景色のやうに、彼女の腦裡に映ってゐた。
「……早いものですわね。こちらへ來てからもう十日になりますわ……こんなに御厄介をかけて、眞當に申譯ありませんわ。」

「なんの、厄介なんてことがあるもんですか、お父さんと波田井とは、子供の時から一枚のお煎餅を半分づゝに分けて食べた程の仲ですもの、友達とはいふものゝ、血を分けた兄弟も同然ですから、決して氣兼なんか、する事はありませんよ。」
「あら、今度こそ、小父さんですわ。」麗子が立ってゆくと、勢ひよく格子戸を開けて、浪田井が手に餘る程の荷物を抱へて入ってきた。
 彼は目尻に小皺を寄せて、胡麻鹽交りの海豹(あざらし)鬚の下から、白い齒を覗かせて、
「それ、これは小父さんのご本だから、机の上へ乗せておいてお呉れよ。これは唐茄子だ、走りだぜ、小母さんが好きだからね。そしてこれはお父さんの藥と、そっちの包は果物だ、病人には滋養物が何よりだからね。」と夫等の包を一つ一つ、笑ってゐる麗子に手渡した。
 奥でその聲を聞いてゐた百合野は、
「嫌ですよ。果物が滋養物だなんて、困った學校の先生ですね……重湯を飲んでゐる病人ですのに……」と笑った。
「ほい、これは失策(しくじ)った……なに煮て汁を飲ませればいゝさ。」
 波田井は洋服や、靴下を、玄關から奥まで脱ぎ撒(ち)らしながら、台所の流し元へいってざぶざぶ澁紙色の顏を洗った。
 百合野は夫等の衣類を拾ひあつめたり、セルの平常(ふだん)着を良人の肩に着せかけたり、洗面器の水をあけたり、一しきり目まぐるしく動き廻ってゐた。
「眞實に、いつになったらこの癖が矯るんでせうね。玄關から脱ぎ歩くんですもの。」
「お前、片付けごとが好きだから、いゝぢゃァないか、これは結婚以來の癖だから、諦めなさい。」
 波田井が笑ひながら、火鉢の前で煙草に火を點けると、麗子は棚から茶道具を出した。
「時に、病人はどうだね? 今日は今井先生は診察に見えたかね?」
「お正午(ひる)頃、お見えになりました。いゝ鹽梅に夕方から少し咳がおさまって眠ってをります。」
「それで先生は、どう仰有ったね?」
「……この二三日が大切だから、氣をつけるやうにと仰有いました。」
「どれ、鳥渡、見にいってこよう。」
 波田井が立上ると、膳立をしてゐた百合野は、
「貴郎、又、いゝ氣になって、喋り過ぎてはいけませんよ。病人は直ぐ熱を出しますからね。」
「よし、よし、解ってをるよ。」
 二階へ上っていった波田井は、十分計りして茶の間へ戻ってきて、
「今日は大分良いやうだ。」といったが、彼の顏は何處か曇ってゐた。
 夜食を濟してから、無理にすゝめられて床に入った麗子は、隣室で書見をしてゐる波田井老人の書物の頁を繰る音を、夢現に聞きながら、いつかぐっすりと眠って了って、目を覺した時は一時近くであった。
 麗子は周章てゝ二階へ上り、百合野に代って病人の枕元に坐った。
「では、用があったら、いつでも遠慮なく起して下さいよ。」百合野は小聲でいって、そっと病室を出ていった。
 永い間、親一人子一人の寂しい生活に馴らされてゐた麗子には、波田井老夫妻の親切が、身に沁みて有難かった。そして鳥渡した言葉をかけられても、直ぐ瞼(め)の中が熱くなるのであった。
 高い枕をして、前額に氷嚢を乗せた病人は、荒く胸を波打たせながら、咽喉(のど)を笛のやうに鳴らしてゐる。痩せた體躯の下半身は淺黄色の薄い掛蒲團の下で消えて了ったやうに、ぴっしゃりとしてゐた。
 麗子は父と共に過してきた十八年間のいろいろな出來事を、前後の順序もなく、思浮べてゐた。

 父娘の日常生活は、まるで碁盤の上の黒白の石のやうであった。父は行儀よく、家の者にさへ、肌を見せた事もなく、賎しい言葉などは使ったことがなかった。そしてどんな場合にでも正義であった。
 麗子は父に對して無限の尊敬をもってゐたが、その一面には、父に甘えたことのない淋しさが、彼女の記憶を少し悲しくしてゐた。
――お河童の子供が秋晴れの、赤蜻蛉の飛んでゐる庭で、ひとり法師(ぼっち)で飯事(ままごと)をしゐると、父は庭に面した居間に端然と坐って、ひとりで碁をうってゐた。子供は時々、父の方を見たりしながら、誰にも妨げられずに、日暮まで飯事を續けてゐた。
――女學校から歸ってきたお垂髪(さげ)の少女は、机の上にきまって皿に盛った菓子を見出した。時には菓子の他に、欲しいと思ってゐた本や、リボンなどが置いてあった。父の優しい心遣ひである。父は居間で靜に讀書をしてゐる。少女は父を妨げるのを惧れて、そのまゝ聲も立てずに學課の豫習などにかゝる事が多かった。
 麗子は病人の咳に呼びかへされて、目の前の窶れ果てた父の顔を覗込んだ。病人は濁った大きな眼を開いて、動かない瞳で、いつ迄も麗子を見据ゑてゐた。
「お父様、何か飲料(のみもの)でも差上げませうか?」
「……あゝ、お前だったのか……私は夢を見てゐたよ。」
「どんな夢をご覧なすったのですの?」
「……お前のお母さんが、そこへ坐ってゐる夢を見た……」
「お母さんは、麗子が幾歳位の時に、お亡くなりになったのでせう?」麗子は相手が病人である事を忘れて、日頃胸にあった事を訊いた。
 父親ははっとしたやうに、麗子の顏を見直したゞけで、再び重い瞼を閉ぢて了った。
 夜の靜寂は、家の中から、往來から、遠くの町々にまでゆき渡って、刻々と更けていった。
 二時、三時、まだ朝が來ないで、黄色く疲れた電燈の下に、瀬戸火鉢の上の藥罐が微に白い煙を立てゝ、ちりちり鳴ってゐる。それが唯一の物音だった。
 麗子は、眼の周圍に、黝い暈の出來てゐる、頬骨の突起した父親の顏を見守りながら、晝間往診にきた醫者の言葉を思出してゐた。
――このニ三日が大切です――麗子はその意味を、二三日無事に越しさへすれば、必ず快方に向ふものと解釋して、その大切な峠を、お人善らしい今井醫師だけに托しておくのは心許ないやうに思った。
――一度でもいゝから、博士に診て頂きたい――麗子は櫻並木の奥に、白い建物の見える、溜池通りの徳永病院の事を考へてゐた。
 翌日の午後二時頃、麗子はその病院の受付の窓口に立った。
「先生に診て頂きたいのでございますけれども……往診料はお幾許位でございませう。」麗子は言惡(にく)さうに顏を赧らめながらいった。
「博士の往診料は、一回丗円ですが、月水金が博士の診察日ですから、病人を連れていらっしったら如何です。さうすれば五円で半歳分の診察券を差上げますから。」受付の男は窓一杯に、青ぶくれの顏を押付けて、麗子をぢろぢろ見廻した。
「……直ぐ、この近くなんでございますが、往診料は矢張り同じなんでございませうか?」
「遠からうが、近からうが、往診料は同じですよ。御病人は動かせないんですか。」受付の若い男は、鳥渡、ネクタイに手をやって、賎しげな薄笑ひを唇に浮べながら、廊下を廻って玄關へ現てきた。
 紫銘仙の着物に赤い帶をしめた麗子の慎しい姿が、白い壁際に浮上ってゐた。眼の下に濃い影を落してゐた長い睫がさっとあがると、森の中の泉のやうな澄んだ瞳が、恐る恐る男の顏を見上げた。

「誰方がお不良いんです?……どんな御病状なんです。」男は馴々しく傍へ寄ってきた。
 麗子がおどおどして、何事かいひかけた時、植込の小砂利を蹴って、銀鼠色の自動車が、車寄へ辷込んだ。詰襟の運轉主が車から飛下りて、扉を開けると、モーニングを着て、黒鞄を抱へた色の白い紳士が下りてきた。彼は麗子に一瞥を投げて、出迎へに並んでゐる看護婦達の間を抜けて、藥局の前へ出た時、背後から蹤いてきた受付の男を振返って、
「どうしたんだね!」といった。
「先生に病人を診て頂きたいといって往診料のことをきゝに來たんです。」
「誰だね。以前にこゝへ來た事のある患者かね。」
「いゝえ、さうぢゃァありません。それに往診料も拂へないらしいんです。」
 徳永博士は、細い鼻梁から縁なしの鼻眼鏡を外して、ハンケチで拭ひながら、鳥渡考へた後、
「いって診てやらう、大變心配してゐるらしいね。診察料などはどうでもよろしい。よく住所をきいて置け。」といひ殘して奥へ入って了った。
 麗子は看護婦達の穿鑿深い視線を浴びせられて、極り惡るさうに、玄關の石段を下りかけると、先前の男に窓口から呼止められた。
「お住居は何處です。博士が往診されるさうです。」
 麗子が窓口へ戻って、住所姓名を告げると、男はそれを書止めて、
「御親父さんですな……往診料の御心配はいらないさうです……お綺麗な方はお得ですな。」といってにやりとした。
 麗子が聞いたのは、博士が往診してやるといふ言葉だけであった。彼女は嬉しさと、感謝に胸を躍らせながら、病院の門を出た。
 家へ着くと、跫音を忍ばせて、梯子段を下りてきた百合野が、
「あれからずっと、氣持よささうに、眠ってゐなさるんですよ。」
「あのね小母さん、私、溜池通りの徳永病院へいってきましたの。それで、院長さんが診察にきて下さいますのよ。」
「あの、病院のね…………それはようございました。博士に診て頂けば何よりです…………でも…………」
「それで、往診料の心配はしなくてもいゝといって下さいましたの。」
「まァ、さうなの、矢張り貴女の孝心が先方様にうつったんですわね。」
 二人はいそいそと徳永博士を迎へる用意をした。
「麗ちゃん、病人の枕元を片付けて、お坐布團をかけて置きなさいよ。」百合野は古ぼけた箪笥から樟腦臭くなった坐布團覆布(かけ)を取出して麗子に渡した。そして麗子が二階へ上ってゐる中に、玄關に出てゐた下駄を揚板の下に藏ひ、流し元で洗面器を磨いてゐた。
 がらがらと格子戸が開いた。
「大江さんはこちらですね。徳永病院から参りました。」
 詰襟服を着た男が露路を引返してゆくと、角に停ってゐた自動車から、徳永博士が下りてきた。
 病人の診察を濟まして、階下へ戻った博士は、
「御親戚や何かに、通知をした方がいゝでせう。お氣の毒ですが、今晩かどうかと思ひます。」
「知らせる親戚といって、別に………」といひかけて、百合野は、眼を赤くしてゐる麗子をちらと見た。
「ご病人はもう何の苦痛もないのです。樂に眠ったまゝ、逝かれるのですから…………晩に又、診にきてあげますよ。」
 博士は同情深い視線を麗子に注ぎながら、慰めるやうにいった。
 博士を乗せた自動車の音が、遠くに消えて了ふと、家の中は急に太陽が墜ちたやうに暗くなった。その寂寥のどん底で、二人は顏を見合せた。
「小母さん!」麗子は百合野の膝に泣伏した。

小さな光
 病人は徳永博士の手當で一夜をもち越したが、次の日の、同じやうに曇った夕方、麗子と波田井夫妻に守られながら、息を引取って了った。
 矢來の家を引轉してから、僅か半ヶ月も經過(たた)ない中に、たった一人の父親を喪って了った麗子は、まだはっきりした悲哀(かなしみ)にも觸れ得ないで、恐ろしい夢の中を彷徨ってゐるやうな、おろおろした氣持に追はれてゐたが、湿かな通夜、そして形ばかりの寂しい葬式が濟んで了ふと、親も、兄弟も、縁邊もない、孤獨な自分の姿を眺めて涙をこぼした。けれども彼女はその悲哀の中で、世間の人達が皆自分に親切だといふ事を、しみじみと感じてゐた。
 葬式の濟んだ翌朝、茶の間で波田井夫妻と麗子が、小さな食卓を圍んでゐるところへ、珍しく麗子宛に書留郵便が届いた。
「津山愛子? 私、知らないわ。」麗子は差出人の名を見て怪訝さうに首を傾げた。
「麗ちゃんの名宛なんだから、開けてご覧なさい。」
 百合野の言葉に封を切ると、百円の爲替に添へて簡單な悔状が入ってゐた。
「百円なんて、こんな澤山なお香奠を……津山さんって誰方でせう? 一度も聞いた事のないお名前だわ。」麗子は悔状と爲替を波田井夫妻の前へ置いた。
「麗ちゃん、學校のお友達ぢゃァないの?」
「いゝえ、さういふ名の方はありませんでしたし、それにお父さんの亡くなったことは、まだ何處へもお知らせしてないんですの。」
「おかしいね。然し、こゝの番地で、麗ちゃんの名宛できてゐるんだから、先方様では承知で、贈るべきものを送ったんだらう。兎に角、差出人の番地が判ってゐるんだから、今日、學校の歸途りに先方へいって、どういふ知己か確めてきてあげよう。」波田井老人は手帳を出して、赤坂區榎坂町八番地、津田愛子と書留めた。
「どういふ方だか知らないけれども、當節百円の御香奠を下さるなんて、狐につまゝれたやうですね……本ものかしら……」百合野は二つに折疊んだ桃色の紙片を見直した。
「馬鹿なことをいふ、正眞正銘の爲替だ。こんな際に惡戯をする奴があるもんか。」
 波田井が出勤した後、百合野と麗子は、終日その不思議な香奠の事を氣にして、幾度も話題に上らせてゐた。
 夕方、いつもより少し遅れて歸宅した波田井は、
「調査委員といふやつは、疲勞(くらび)れるね。榎坂町を殆ど戸別訪問して、へとへとになって了ったよ。第一あすこは五番地までゞ、八番地なんてところは無いんだよ。到頭區役所までいったが、津山愛子といふ人は、榎坂町には住んでゐないんだ。」と玄關を入るなり報告した。
「では、津山といふのも、眞實の名前ではないんでせうね。」百合野は眉を顰めた。
「まァ、氣味が惡いわ……」
「さうですよ。そんなお金は滅多に使へないから、筋みちが立つまでは、手をつけないでお置きなさいよ。」
「何もそんなに怖がることはない。金を送った人は、譯があって名前を匿してゐるんだらうから、有難く頂戴しておくさ。」波田井はひとりで呑込んで、簡單にその問題を片付けて了った。
 麗子は父が亡くなってから、自分の家には殆んど一錢の蓄へもない事を知った。そして葬式万端の世話をして呉れた、波田井の家だって、余り裕福でない事を察してゐた。彼女はこれ以上夫妻に物質的の迷惑をかけないやうにするには、一日も早く自分自身の腕で、収入を得なければならないと思った。
――何がいゝだらう……幼稚園の保婦、電話交換手、郵便局の事務員、看護婦……麗子は徳永病院で見た、何となく神々しいやうな白衣の看護婦達の姿を思浮べてゐた。
――世の中で病人が一番氣毒だ。お父さんが病氣で苦んでゐる間中、皆はあんなに親切にして下すった……私は看護婦になって、世の不幸な病人の爲に、一生を捧げませう。

 初七日は日曜日に當ってゐたので、麗子と百合野は、波田井老人を留守番に殘して青山へ墓参に出掛けた。
 梅雨明けの、目覺しく晴れた日で、墓地通りの櫻並木が、二筋の緑の堤のやうに、青空を制して遠くまでつらなり、空のところどころに水氣を含んだ白い雲が走ってゐた。
「小母さん、そのお花は私が持ちませう。今日は随分お暑うございますのね。それに私の歩き方が少し早かったんぢゃァありません?」
 麗子は百合野は前額に汗を入染(にじ)ませて、小刻みに歩いてゐるのに氣がついて、歩調を緩めた。
「雨上りのせいか、少し蒸しますね。」
「私眞當にぼんやりして、小母さんにばかりお持たせして……」
 麗子は百合野の手から、夏菊と矢車草の束を受取った。
「お花はこの邊で買へばいゝんですけれども、お値段が倍も違ひますし、それにあの虎の門の花屋さんは、波田井の將棋のお友達だものですから、何でも彼でも、あすこで買ってゆくようにといはれたもんですからね。」百合野は前額の汗を拭きながらいった。
 二人は互に庇ひ合って、久し振りの好天氣に數を増した自動車を避けながら樹陰を歩いてゐた。
 丁度、二人が戰死者紀念碑の鐵柵に沿うて、左手の小道へ入っていった時、黄橙色の洋日傘(パラソル)を傾げた美しい婦人に出會った。それは半月ほど前に、谷井の前から突然消えて了った鳥波伊佐子であった。彼女は出會がしらに、麗子の大きく澄んだ瞳にぶつかると、はっとして足を停めかけたが、そのまゝ行過ぎて了った。麗子も婦人の美貌に惹つけられたやうに、百合野の陰から幾度も背後を振り返った。
 鼎垣を繞らした一坪の墓場には、桐の木が一本伸びてゐた。その下に震災で崩れかゝったまゝ、青苔の生えた大江家先祖代々の墓があって、少し離れたところに生々しい白木の墓標が立ってゐる。その前に不似合な程立派な花が供へてあった。
「まァ、誰方があげて下すったんでせう。」
 麗子は墓前に盛上ってゐる鐵砲百合、カーネーション、白薔薇等の高價な花に驚異の眼を瞠った。
「眞實にね!」百合野は溜息を吐(つ)いて、幾度も前額の汗を拭った。
「こんな奇麗なお花をあげて下すって……誰でせう!」麗子は疑問の中にも、見えぬ手の愛撫を感じた。彼女は花の贈り主と、謎の香奠とを結付けて、これも津山愛子かも知れないと思った。その時、彼女の心に映ったのは、今しがた擦違った美しい婦人の姿であった。
「おやおや、これぢゃァ、折角持ってきたお花のあげ場所がありませんね。では少しでもこの傍へ挿して、後はお隣りさんのお墓へあげておきませう。」百合野は花束をほぐし始めた。
 麗子は墓前で少時瞑目した後、地續きの隣りの墓場へ入り、黄色くすがれた花を、新らしい花と替へた。
「お父さんはもう靜に眠ってゐらっしゃるんだから、今年の夏はどんなに暑くてもようございますわ。」
 麗子は毎年夏がくると、喘息に惱まされてゐた父の姿を思浮べてゐた。
「お父さんもいろいろ苦勞ばかりなすって、眞實にお氣の毒な方でしたが、麗ちゃんが孝行をしておあげになったから、まづまづ幸な往生でしたよ。こんなに澤山お墓があるけれども、随分死際の不幸な方もあるでせうよ……さァ、そろそろ歸りませう。」
 百合野は遠くの樹陰に、ちらと黄橙(オレンヂ)色の洋日傘を見ると、急に麗子を促して墓地を出た。
 麗子は途々、墓地で見掛けた美しい婦人の事を考へ續けてゐた。そして動(ややも)すると、津山愛子と、その婦人とを結びつけようとしてゐる自分の甘い空想に氣付いて、密に苦笑した。

 今入町の家では、波田井老人が肌脱ぎになって、玄關先に古机を持出して、ぐらついてゐる脚の修繕最中であった。
「麗ちゃんの書齋をこしらへてやらうと思ってね。これで更紗の布でも掛ければ上等な机になる。」
 波田井は大工道具を片付けて、机を二階へ擔ぎあげた。老夫妻は改って何にもいはなかったけれども、麗子を家族の一人として面倒を見ようとしてゐる心持が、いろいろな節に現れてゐた。
 その晩、麗子は幾度もいひそびれてゐた決心を、思切って打明けた。
「小父さんや、小母さんのお庇で、お父さんの初七日も濟みましたから、私、そろそろ獨立して働く事を考へようと思ひますの。それでお願ひがあるんですけれども……」
「獨立? 何の、麗ちゃん一人位、家にゐたって、ちっとも遠慮はいらないよ、獨立なんて、大した事を考へずといゝぢゃァないか。」
 波田井は麗子のやうな小娘の口から出た獨立といふ大袈裟な言葉を可笑しそうに笑った。
「でも、小父さん、私だって働いて、自分の食べる位は出來ると思ひますわ。學校のお友達でも、職業婦人になってゐる方が幾人もあるんですもの。」
「それなら麗ちゃん、小母さんのお手傳ひをして、お針仕事をしたらどう? 女の内職では一番高尚で、立派なものですよ。お嫁にいってからだって役に立って、年寄りになっても家にゐて出來る事だしね。」と百合野がいった。
「まァまァ、働くなんて心配せんで、小母さんの手助けでもしてゐれば澤山さ。」
「でも、小父さん、遊んでゐるといふ事は、惡いことですわ。それに私は、お裁縫は余り得意でないんですもの……眞實のことをいふと、私は看護婦になりたいんです。」
「麗ちゃん、まァ何をいひ出すの、看護婦にまでならなくたっていゝぢゃァありませんか。麗ちゃんが一人ゐる爲に、別段家が困る譯ぢゃァなし、第一、そんなことをさせたら、亡くなったお父さんに申譯ありません。」
 百合野は心外に堪へぬ面持で反對した。
「まァ、お前のやうに、さうむきにならんでもいゝ、人間は働いて喰ふのが當然だから、麗ちゃんのいふのは無理はない。働くのは結構なことだ。然し、お前のやうに、當節の若い娘に仕立ものゝ内職をさせようといったって、そりゃ無理だよ。これが同じ仕立物でも婦人子供服の裁縫とでもいふなら、又、別だがね。」
 波田井老人の口吻では、滿更麗子の就職に反對でもないらしかった。それに力を得て麗子は一層熱心に、
「職業に就いて、私もいろいろ考へましたけれども、不幸な病人を看病してあげるといふことは、一番精神的でいゝと思ひます。それに徳永博士も面倒を見てやってもよいと仰有いましたの……私もあゝいふ立派な病院で働くやうになれば、眞實に嬉しいと思ひますわ。」
「へえ、博士が麗ちゃんにそんなことを仰有ったんですか?」百合野は眼を丸くした。
「さうか、博士が御親切にさういって下さるなら、一つその方の勉強をやって見るのもいゝかも知れない……では百合野や、お前、明日にでも病院へいって、博士によくお頼みしてくるがいゝ。」波田井はすっかり乗氣になってゐた。
 そんな譯で、麗子は間もなく、看護婦見習生として徳永病院に寄宿する事になった。
 いよいよ明日病院へゆくといふ前夜、麗子は貧しい自分の所持品の中から、持ってゆくものと、波田井家へ預けてゆくものとを選り分けてゐた。
 友達の一人がこしらへて呉れた絽刺の表紙のついた疊(たとう)紙の中に、學友からきた手紙や、寫眞や、其他學校時代の紀念品が入ってゐた。
 麗子はその中の一葉の寫眞を取上げて、懐しさうに見入った。

 それは八十人の級友の中で、クローバー組と稱(よ)ばれてゐた仲善し三人で撮った寫眞であった。
――毎歳、丁香の咲く頃になったら、何處にゐても、屹度學校を思出すであらう――といって、まだ蕾の固い櫻の木の下に並んだ三人。麗子の肩に手をかけてゐるのは級(クラス)一のおどけ者であった辻珠子で、彼女は去年の暮に、海軍士官と結婚して、鎌倉に新居を構へたといふ通知を年賀状と共に受取った。二人の足許の芝生に坐ってゐる土屋君子は級きっての美人であった。商賣の手違ひで家が破産したといふ噂をきいたきり、其後の消息は絶えて了った。
 麗子はその寫眞を見守ってゐる中に、卒業前の校庭に、廊下に、教室に溢れてゐた丁香の香がその中から匂ってくるやうに感じた。
 小さな聖書の間には四つ葉のクローバーの押葉が入ってゐた。それは女學校で奥多摩へ遠足にいった時、いつの間にか皆から後れた三人が、川縁の草原で三本だけ捜し出して、一本宛分けた思出の深いものであった。
 もう一枚の色の褪せた寫眞は、小學校卒業紀念であった。同じやうな、小さな円い顏が澤山竝んでゐて、前列の頤鬚のある校長先生と、四角な顏をした唱歌の女の先生が僅に區別がつく位であった。
 卒業前の小學生は有頂天になってゐた。早い朝の黒板に、誰が惡戯したものか、
――誰さんはお茶の水へ最高點で入學。とか、十五年後の級友消息と大書した傍に、
――聲樂家、大江麗子嬢獨唱會、帝劇にて。
――文學博士、土屋君子女史講演會。等と記してあったりした。そんなに浮れて、はしゃいでゐたのに、いよいよ卒業式に臨んで、
仰げば尊し、我が師の恩、
教への庭にも、はや幾歳、
忘るゝ間ぞなき、この年月、
今こそ別れめ、いざさらば、
 と唱ひ出した時、皆は涙をぽろぽろ翻(こぼ)して泣いて了った。
 麗子は今でも、卒業式の歌を口詠(ずさ)む度に胸の迫るのを覺える。唱歌の先生は嚴格であったが、麗子には優しい先生であった。それだのに惡戯な男生徒達は、先生にバケツといふ綽名をつけて、
――劣らず、負けずー――といふ歌を
――劣らず、バケツー――と大聲に呶鳴って先生を怒らせたりした。麗子はどういふものか、その惡戯兒の大將が矢來の家の隣家の、谷井の坊ちゃんのやうに思はれてならなかった。彼女は淋しい追憶の裡に、そんな事を考へて微笑した。
「おやおや、大變ですね、お手傳ひしませうか。」いつの間にか、百合野が梯子段を上ってきて、笑ひながら部屋を覗いた。
「片付けものをするつもりで、却って散らかして了ひましたわ。でも、すぐ濟みます。」
「さう本氣になって、澤山荷物を持ってゆかなくてもいゝでせう。當座のものだけにしておきなさい、入用なものはいつでも届けてあげますよ。それでね麗ちゃん、病院へいっても、厭だと思ったら、何時でも歸っていらっしゃいよ。小母さんはもともと貴女を他人の中へ出すのは賛成ぢゃなかったんですから、明日いって明後日歸ってきなすったって構はないんですよ。」百合野はしんみりといった。
 麗子は感謝の意を表したが、大使命を背負ってゐるやうな意氣組でゐる矢先に、さうした百合野の言葉をきいて、擽いやうな氣がした。
「おいおい、木乃伊取りになっては困るね。折角淹れた紅茶が冷えて了ふぢゃないか。」廊下で波田井老人が大聲をあげた。
「お名殘りだからといふんで、小父さんが西洋菓子を買ってきたんですよ、いゝ加減にして階下へいらっしゃい。」と百合野がいった。
 麗子は波田井老人が、その昔、英國歸りの友達から貰ったといふ御自慢の紅茶々椀を目に浮べながら、うきうきした氣持で階段を下りていった。

 麗子の病院生活が始まってから既う一週間になる。藥局に並びあった八疊の部屋に、麗子の他四人の看護婦が雜居してゐるので、夜も晝もざわついてゐて、これ迄のきちんとした家庭の生活とはまるで勝手が違ってゐた。
 麗子は病院へきた最初の日から、闖入者のやうな形になって了って、皆に氣兼をしなければならなかった。その晩寝床を敷く時に、仲間の一人が、
「四人でも狹いっていふのに、五つも床を敷くんぢゃァ、いよいよ雜魚だよ。眞實にやりきれないね。」といったので、麗子はそれを氣にして、敷蒲團の端を折って、壁際に小さくなって寝た。
 三度々々の食事も、皆は默って食べた事はなく、必ず不平をいった。麗子が膳についたものを、何でも素直に食べてゐるといって、
「貴女は、よくそんなものを平氣で食べるね。」と輕蔑した。
 麗子が默ってゐると、
「食べ盛りだからね、味なんかお構ひなしなんだわ。」といふ者があった。其癖彼女達の旺盛(さか)んな食欲には麗子の方が驚かされてゐた。部屋へ來て寝轉ぶ暇さへあれば、屹度口を動かしてゐる彼女達である。夜になると、きまって阿彌陀をやる。經木の上に乗せたまゝの大福餅、南京豆や、煎餅などを袋ごと、疊の上へ突出して、もりもり食べてゐる様を見ると、麗子は淺猿(あさま)しさを感じて、きちんと坐った膝の上に、申わけに撮(つま)んだ煎餅などを置いたまゝ、考込んで了ふやうな事があった。
――晝間、白衣を着たナイチンゲール嬢も、夜は買喰ひと、益ない雜談に時間を空費する只の女に過ぎなかった。
 看護婦達は麗子を殆ど眼中においてゐなかったが、星野といふ女だけはいくらか彼女に好意を示してゐた。
 其晩、麗子は例によって、皆の雜談から仲間外れになって、隅の方で本を讀んでゐると、婦長が扉口から顔を出して、
「大江さん、先生がお呼びだから、直ぐいっていらっしゃい。」
「應接間でございますか?」
「いゝえ、診察室、先生はお急ぎのやうですよ。」婦長はそのまゝいって了った。
 麗子が廊下の先端(はずれ)の診察室へ入ってゆくと、大きな書卓(デスク)に向ってゐた徳永博士は、ぐるりと椅子を廻して、
「こゝへ、お掛けなさい。」と傍の椅子を指さした。
「はい、有難うございます。」
「どうです。少しは馴れましたか。」博士は横を向いて、書卓の上の赤鉛筆を弄びながらいった。
「…………お庇様で…………」
「今も婦長に話しておいたんだが、あの部屋ぢゃァ、人が多くて、落着いて勉強も出來ないだらうから、これから毎晩時間を極めて、こゝへ來て勉強したらいゝでせう。受驗準備を早く始めた方がいゝから……」
「有難うございます……どの位勉強しましたら、免状がとれるのでございませう……」
「さァね……それは君の勉強次第だが……兎に角一生懸命にやる事ですね。解らぬことがあったら、私が教へてあげるし、試驗だって地方へいって受ければ、割に樂にパスするから、さう案ずる事はないですよ。」
「参考書は、どんなのがよろしいのでせう?」
「書物は私のところにあるから、それを使ったらいゝでせう……鳥渡お待ちなさい、確かこゝにある筈だ。」
 博士は立っていって、部屋の隅のカーテンを引いて、書架を一段づつ捜し始めた。
 前向勝ちになってゐた麗子は、其時ふと顏をあげた拍子に、書卓の上の寫眞に眼をやって、
「あら、あの方!」と危く聲を出すところであった。それは麗子が墓地で見掛けた美しい婦人! 鳥波伊佐子の寫眞であった。

「さァ、これを二冊勉強するんですよ。確か君は女學校を卒業(で)たんでしたね。どこです?」
 博士は看護婦學教科書上下二卷をもってきて麗子に手渡した。
「私、青山女學院を卒業ました。」
「ふむ、あすこは英語が進んでゐて中々いゝ學校だ。あすこを卒業てゐれば、看護婦試驗なぞは雜作ない。」徳永は麗子の健(すこやか)に膨んでゐる乳のあたりを、眼で探りながらいった。
 麗子は機械的に書物の頁を繰って、標題(みだし)を拾ひ讀みしてゐた。
「さァ、この書卓のところへきて、ゆっくり讀んだらいゝでせう。まだ今夜は時間も早いから。」
 麗子は鳥渡躊躇ってゐたが、徳永博士が椅子を離れて扉口の方へいったので、自分の腰かけてゐた椅子を書卓に寄せて久しぶりで、學校にゐた時のやうな氣持で書物を開いた。彼女は先刻の寫眞が氣になって机の上を見廻したけれども、徳永がいつの間にか片付けて了ったと見えて、そこにはもう寫眞はなかった。
 少時して麗子は、間近に人の氣勢(けはい)を感じた。彼女の直ぐ背後に徳永が立ってゐる。
「…………概論はざっと目を通すだけで、要點さへ心得てゐればよいのだから……鳥渡記號をつけてあげよう、」
 徳永は何氣ない風で、左手を麗子の肩にかけて、赤鉛筆で書物のところどころに線を引いた。麗子はさうした徳永の仕草を、ずっと年長の伯父に對するやうな氣持で、素直に受けてゐたが、男の熱い呼吸を頸すじに感じると、處女のもつ本能から、何といふ事なしに胸がどきどきしてきたので、そっと身體の位置を變へた。
「有難うございました。では記號をつけて頂いた個所を、よく暗記して参ります。」
「左様、最初から、余りつめてもいけないから、まァ追々にやるんですね。」
 徳永は二冊の書物を抱へて、淑かに部屋を去(で)ってゆく麗子の後姿に、小羊を狙ふ狼のやうな眼を注いでゐた。
 麗子が部屋へ歸ると、腹這ひになったり、横坐りをしたりして、夏蜜柑を食べてゐた八つの眼が、小さな彼女を射すくめた。
「何用だったの?」星野が無遠慮に訊ねた。
「これから毎晩、診察室で勉強するようにといって、このご本を貸して下すったのです。」麗子がいふと、
「へえ、随分親切な先生があったもんだわね。」と他の一人がいった。
「この人はお嬢様だから、あちらは騒がしくって、ご本が読めませんの、とか、何とか、いひつけ口を遊ばしたんだらう。」
「相手は平助博士ときてゐるからね。」
 皆はどっと笑った。
「叱!」婦長は一緒に笑った後で、皆を窘めた。麗子は何で笑はれたのか解らずに、抱へてゐた教科書を大切さうに、自分の手提籠(バスケット)に藏った。
「さういへば、受付のコンちゃんね、彼奴たら、大江さんの年齢を教へて呉れって頼んだわよ。」
「あれも平助組だからね……顏負けがしちゃうね。それで、教へてやったの?」
「憎らしいから、丙午よって、いってやったら、悄氣てゐやがったわ。」
「馬鹿々々しい……それゃさうと、大江さんは幾歳なの?」
「私より二つ下だから十九ね。」星野は、隅の方で顏を熱くしてゐる麗子を顧みていった。
「コンちゃんも、あれでもう少しお面が良ければ、滿更棄てたもんぢゃァないんだけれども、何しろ、狐のお面ぢゃァね……」
「だって、あゝいふ、鼻のむっと大きいのは、いゝんだっていふぢゃないの、その上、餅肌と着てゐるから申分ないでせう。」
「この人ったら!」腹這ひになってゐた女は相手を睨む眞似をして、夏蜜柑の皮をぶつけた。女達は何が面白いのか、げらげら笑ひ合った。
 麗子はびっくりして皆の顏を見廻してゐた。

 麗子が仲間の露骨な嫉妬を浴びるやうになったのは、博士から特別待遇を受けてゐるといふ事が、直接の動機であったが、彼女の群を抜いた美貌と、女學校出身といふことが、禍をなしたのはいふまでもない。
 或日、午後の暇な時間に、麗子は二階の窓際でぼんやり庭を眺めながら、小聲で歌を唱ってゐた。
「大江さん、何の歌? いゝ節だわね。」廊下の隅の机で、婦人雜誌を擴げてゐた星野がいった。彼女だけは相變らず麗子に好意をもってゐたのである。
「讃美歌なのよ。」
「貴女はヤソ教? 何處の教會へゆくの?」
「教會へはゆかないんですけれども、女學校にゐた時、毎朝禮拝があったもんですから。」
「へえ、女學校へいってゐたの!」
「私、青山女學院を卒業したのよ。貴女はどこをお卒業になったの?」
「人に恥をかゝせるもんぢゃァないわ。私、無學文盲なのよ。」星野は急に不機嫌になった。
「あら、私、そんな心算ぢゃァなかったのよ。お氣に障ったら、ご免なさいね。」
「田舎ぢゃァ、女學校へなんかゆくのは、お金持のお嬢さんだけよ。だから女學校を卒業して看護婦なんぞになりはしないわ。」星野は皮肉とも、厭味ともつかず、そんなことをいって、荒々しく階段を馳下りていった。それ以來、星野の態度はすっかり變って了った。
 さういふ女達の、針のやうな視線の中で、朝夕を迎へるのは麗子にとって堪へ難い苦痛であった。けれども勝氣な彼女はそんな事位で所信を翻さうとはしなかった。それに彼女は徳永病院の看護婦達が、想像以上に厭な人達だといふことは、看護婦といふ職業が惡いのでなく、適々、さういふ人達にぶつかったのが、自分の不幸だったのだといふ、はっきりした認識をもってゐた。 彼女はさうした人達の中で修養して、立派な看護婦になる方が却っていゝ事で、天から與へられた試練だと考へてゐた。とはいへ彼女にとって一番嬉しいのは、自由な夜の時間を仲間達から開放されて診察室で勉強する事であった。
 診察室の窓から見ると、アーク燈に照し出された垣根の薔薇が、火焔のやうに燃えてゐた。窓から流れ込んでくる夜氣の中に、甘い花の香が漂ってゐた。麗子は矢來の家の臺所の庇に、谷井の家の薔薇が條枝を伸して、紅い花をつけてゐたことなどを想ひ出してゐる中に、急に波田井老夫妻のゐる茶の間を覗いて見たくなった。
 其晩麗子は少し早目に勉強を切上げて、別に今入町へゆく心算ではなかったが、誘はれるやうに庭へ彷徨ひ出た。
 月の遅い晩で、庭は暗かった。麗子は誰かゞ玄關を出てくるやうな音をきいて後を振り返った。
 黒い夜の幕と、木立の影の中に明く浮び上ってゐる玄關の石段を、受付の近藤が下りてくるのであった。麗子は又かと思って厭な顏をした。近藤の眼はいつも麗子を追廻してゐる。そして彼女がひとりきりでゐると、屹度何處からか現てきて、馴々しく言葉をかけたり、隙を見て手を握ったりするのであった。
 麗子は木蔭に身をひそめた。近藤はきょろきょろ四邊を見廻しながら、麗子の傍を通り過ぎた。
 其時鳥打帽子を被った青年が、つかつかと門を入ってきて近藤と顏を會せた。
「川路さん、院長は不在ですよ。」
「ふん、では上って待ってゐるといったら、どうする。」鳥打帽子の青年は相手を見下しながら、せゝら笑った。
「お斷りだね。」
「この青ぶくれ! 誰に向ってそんな口を利くんだ。」青年は近藤の大きな鼻先を、指で彈いた。
「亂暴なことをしやがる。この運轉手野郎!」
 近藤は齒ぎしりをして躍りかゝった。
 青年が右脚をひいたと思ふと、手袋をはめた拳が電光石火の如く、近藤の頤を突上げた。
「呀!」近藤は一たまりもなく、けし飛んで、路傍の低い檜垣の中へ後頭を突込んで了った。

 川路力松は、倒れた近藤を後眼(しりめ)にかけて、大股に玄關の方へ歩いていった。
 麗子はどうなる事かと、呼吸(いき)をころしてゐたが、近藤はむっくり起上って、すごすごと裏口の方へ入っていった。
 玄關では看護婦長と、川路とが押問答をしてゐた。苦味走った川路の顏には、冷笑が浮んでゐた。婦長は困惑の愛想笑ひに紛らしてゐた。
「さァ、往診ではないのですから、どちらへいらしったか、判りませんです。」
「それぢゃァ、歸宅はいつの事か判らないから、待ってゐたところで仕方がない。」川路はあっさりと問答を打切って歸って了った。
 玄關の柱の陰に立ってゐた麗子は、川路がいって了ふと、ほっとして家の中へ入った。婦長は咎めるやうな眼で迎へた。
「おや、大江さん、何處にゐたの?」
「鳥渡、庭を歩いてゐましたの。」
「先刻から、そこに隠れてゐたんぢゃァないの?」
「いゝえ、婦長さん、薔薇が餘り綺麗だから見てゐたんですの。」
「女の癖に、夜、一人で戸外へなんか、出るもんぢゃァありませんよ。」
 麗子は婦長の言葉に追立てられるやうに、足を早めて部屋へ歸った。そこでは既う、近藤のノックアウトされた噂が擴ってゐた。
「コンちゃんたら、唇から血を流して、泣面してゐるのよ。時分ぢゃァ喧嘩をして相手をやっつけたやうな口を利いてゐるけれども、背中が泥だらけだったわよ。」
「どうせ、相手は川路とかいふ、あの男よ。どうしてコンちゃんなんか手が出るもんか。」
「川路って、あの人、何でせう? 院長さんの親類でもなささうだけれども…………」
「勿體振りやの院長さんが、あの男だけには随分横柄な口を利かせておくのよ。」
「何か、譯がありさうね。事によったら…………」
「叱!」
 扉が開いて婦長が顏を出したので、皆は口を噤んで了った。
 麗子は近藤の體躯が、丸太でも投げたやうに、空中に孤を描いて飛んだ時の様子を思出して、可哀相ながらも、可笑しさがこみ上げてくるのであった。
 麗子は病院へ來てから僅半月ばかりの間に、世の中にはいろいろな事があり、いろいろな人達がゐるものだといふ事を、漠然と考へるやうになった。
 翌日の夕方、麗子が何氣なく二階の窓から下を見下すと、玄關先に横づけになってゐる銀鼠色の自動車に、徳永博士と、鳥波伊佐子が乗ってゐた。麗子は青山墓地で見掛けて以來、幾度も夢にまで見た美しい婦人を、思掛けぬ場所で見出したので、びっくりして眼を瞠った。伊佐子の方でも、二階の窓にゐる麗子を感じたのか、ふと、顏をあげた。二人の視線がぴったりと會った刹那、自動車はさっと辷り出て了った。
 呆乎(ぼんやり)、自動車の後を見送ってゐた麗子は、少時して階段を下りていって、玄關に立ってゐた星野に、
「いま、自動車に乗ってゐらしった、あの綺麗な方は、先生の奥様ですの?」と訊ねた。
「何をいってゐるのよ、この人は……先生は獨身主義でゐらっしゃいますよ。へん。」
「では、あの女の方は誰方なの? あゝ、私知ってゐるわ。」
「知ってゐる? ぢゃァ誰よ。」
「津山愛子さんといふ方でせう?」
「ツヤマアイコ……まァ、何處からそんな名前をもってきたの、この人は變ってゐるわね。」
「あら、違ってゐて?」麗子は失望したやうに相手の顏を視守った。
「鳥波伊佐子よ、貴女は勉強々々っていってゐるけれども、碌に雜誌も、新聞も讀んでゐないのね。よく雜誌の口繪なんかに掲てゐるぢゃァないの。有名な女優で……戀愛賣買業者ですとさ。」
 麗子は大切な夢を迂闊に口に出して、こんな風に粉微塵に毀して了った事を後悔した。

闇の手
 其晩、麗子が診察室で勉強してゐると、婦長が入ってきて、
「大江さん、貴女に會ひたいと仰有る方が見えてゐるから、直ぐ先生のお住居の方へいって下さい。」といった。
「私に會ひたいって誰方でせう? 波田井の小父さんかしら……」
「さァ、誰ですかね。兎に角、早くいってご覧なさい。」
「先生のお住居といふと……私、まだ伺った事がありませんの。」
「表から玄關へ廻ってもいゝんですけれども、暗くって、危いから。そこを開けるとお住居の方へゆく廊下へ出られるんですよ。」婦長は書棚の傍の扉を指さした。
 麗子は、波田井老人なら受付へくる筈だから、自分に會ひたいといふのは、夕方博士と一緒に自動車で出掛けた鳥波伊佐子といふ例の美しい婦人かも知れないと思った。彼女はその人に會ふのは、何か幸福がくるやうな氣がして、胸をときめかせながら、机の上の書物を伏せて椅子を離れた。
 婦長のいった通り、書棚の横手の扉を推すと、コンクリートの土間になってゐて、片側に明取りのガラスを嵌めた長い廊下の先端(はずれ)に、電燈が一つ浮んでゐる。廊下の突當りには更に扉がついてゐた。ガラス戸の外に揺れてゐる黒い木の葉の影を見上げながら、麗子はやうやうそこまで來たが、後を振返ると、自分の歩いてきた長い廊下に、薄りと白い靄がかゝってゐて、何處にも人影がなかった。麗子は急に水を浴びたやうにぞっとして、樺色に塗った扉の前に立竦んだ。と、待設けてゐたやうに、内側から扉が開いて、
「さァ、何卒(どうぞ)お入りなさい。」と博士の聲がした。彼は珍しく和服姿に寛いでゐた。麗子は導かれるまゝに、又、廊下を抜け、階段を上って、二階の一室へ入った。其處は十疊程の洋室で、長椅子の傍の卓子に、酒瓶や、コップが置いてあった。
 麗子は誰もゐない部屋の中を、不思議さうに見廻しながら、
「あの……私に會ひたいと仰有る方は?……」
「まァさう堅くならずに、こゝへお掛けなさい。」
「波田井の小父が参ったのでございませうか。」
「いや、こゝには誰もこさせない事になってゐますよ。」
「では、私に會ひたい方が待ってゐらっしゃるといふのは、何かの間違ひだったのでございませうか?」
「貴女に會ひたい人といふのは、私なんですよ。」
 酒氣を帶びた徳永の眼がぎらぎら光ってゐた。
「まァ……」
 麗子は、笑ひながら傍へ寄ってくる徳永を右に避けて、後退りをした。
「私は、この間から、貴女と二人きりになって、ゆっくりお話をしたいと思ってゐたんですよ。」
「あの……先生……他にご用がおありにならないのなら、何卒私を歸らせて下さい。」
 麗子がわくわくしながら扉口の方へゆきかけると、徳永は素早く背後の扉に錠を下して了った。
「さう、怖がることはない。まァ、そこへ腰かけて、仲善くお話をしようぢゃァありませんか。」
 徳永は麗子の肩を抱へた。麗子は小鳥のやうに、その手をすり抜けて、飾棚の傍の大きな凭椅子を楯に立った。
「そんなに嫌はなくてもいゝでせう。私は貴女の將來を幸福にしてあげようと思ってゐるんです。」
「私は、誰からも幸福になんかして貰はなくてもいゝんです……自分の幸福は、自分で築き上げてゆきます。」麗子は眞青な顏をあげて、きっぱりといひ切った。

「貴女は中々慥りしてゐる。そこが尚、氣に入った。」
 徳永は赤い唇に、氣味の惡い笑ひを浮べながら、ぢりぢりつめ寄ってきた。麗子は怯えた眼をあげて四邊を見廻した。唯一の出口の鍵は徳永がもってゐる。
「騒いだって無駄ですよ。聲を出したって、何處へも聞えやしません。窓から下は五間もあって、石疊ですよ……私は貴女を愛してゐるんです。」徳永は勝誇ったやうにいった。
 絶體絶命である。麗子は冷酷に閉ってゐる扉口を見、厚いカーテンのかゝってゐる窓を見、情慾に燃えてゐる徳永の賎しい顏を見た。その眼を飾棚に移した。そこには鼈甲の柄に黄金で花模様を刻込んだ西班牙製の短刀が光ってゐた。
 麗子は咄嗟に短刀を掴んだ。
「何をするんです! その扉をけて、私を出して下さい。」
「そんなもので人殺しは出來ませんよ。」徳永は冷かにいった。
「いゝえ、私は他人を殺すのではありません。自分を殺すのです。貴郎がその扉を開けて下さらなければ、私はこれで自分の咽喉を突いて死んで了ひます。」
 麗子は握りしめた短刀を咽喉に擬して、男の顏を見据ゑた。彼女の顏には侵し難い決心が現れてゐた。
 徳永は純眞な乙女の向不見な事を知ってゐた。
「これは私が惡かった、許して下さい。」
「早く扉を開けて下さい。」
 徳永はがらりと態度を變へて素直に扉を開けた。麗子は短刀の切先を咽喉にあてたまゝ、男を正面に見守りながら、用心深く扉口までゆくと、怖いものでも棄てるやうに、短刀を牀へ投げて廊下へ走り出た。
「階段を下りて、右へ曲ると、玄關へ出ます!」徳永は背後から聲をかけた。
 麗子がその言葉に操られて右手の廊下を走ってゆくと、そこは行止りの壁であった。はっと氣がついた時には、徳永の跫音が迫ってゐた。
「さァ、可愛いゝお人形さん、もういゝ加減に駄々を捏ねるのはお止しなさい。」
 男の逞しい腕は麗子を抱きすくめた。
「何をするんです! 何をするんです!」
 必死になって藻掻(※代用)いてゐる麗子の頸すじに、男は火のやうな唇を押付けたまゝ、小さな體躯を輕々に抱上げて寝室へ運込んだ。
 白い寝台の上で、黒い影が縺れ合った。處女の必死の抵抗が益々男を昂奮させた。男は激しく胸を蹴られてよろめいた拍子に、化粧台にぶつかって、がらがらと花瓶が牀に碎けた。麗子はその隙に寝台から飛下りて扉口へ走ったが、小卓子に躓いて顛倒(たお)れたところへ、男は野獸のやうに襲ひかゝった。
 突然、さっと扉があいて、洋装の婦人が飛込んできた。
「何をしてゐるんです!」婦人は男を突飛ばして麗子を背後に庇った。それは鳥波伊佐子であった。
「あゝお前だったのか……何だって今頃……」徳永は露(はだ)けた胸を掻合せながら起上った。
「貴郎は、よくもこんな事をしましたね。人を侮辱するにも程がある!」
「つひ、冗談が過ぎたんだ、ねえ、君、何でもありはしなかったね。」徳永はしどろもどろになってゐた。
「そんな事で誰が胡麻化されるもんですか、用があるなんて、人を撒いておいて、飛んだ用だ、一體貴郎は…………」伊佐子は口惜しそうに唇を噛んで男に詰寄っていった。
「まァ落着いて私のいふ事を聞いてくれ、私が適にこんな失策(しくじり)をやったからって、私にとってお前はお前なんだからね……」徳永はてれかくしに卓上の煙草を取上げた。
 伊佐子はその煙草を叩き落して、
「いゝ加減におしよ、このインチキ野郎!」と怒鳴った。

「まァ、お前のやうに昂奮してゐたんぢゃァ、私の引込みがつきやしない。さァ機嫌を直して呉れ。今日お前が鑑賞してゐたあのエメラルドの指輪を買ふことにするよ。」徳永は苦笑しながらいった。
「ふん、眞實? 随分思切った賠償金ね。でも、それ位はあたり前だわ、ははゝゝゝは。」伊佐子は上ずったやうな聲をあげて笑った。
 牀に膝を突いたまゝ、がたがた慄へてゐた麗子は二人を殘してそっと部屋を辷り出た。彼女は小走りに階段を馳下りて、元來た道を引返したが、診察室に通ずる扉には錠が下りてゐた。
 麗子は夢中になって扉を叩いた。無論、應ずるものはなかった。彼女は後へ戻って玄關を探す勇氣はない。まるで獅子の檻にでも入ったやうに、長い廊下を往ったり來たりして、逃げ惑ってゐた。彼女は、最後に明取りの高窓に眼をつけて、そこへ攀(よじ)上った。回轉式の硝子戸は雜作なく開いた。地面までは一間計りしかなかったけれども、眞暗で、下がどんなになってゐるか、見分けがつかなかった。
 誰か階段を馳下りてきた。
「鳥渡、お待ちなさい! お話があるから、鳥渡、お待ちなさい!」
 それは伊佐子であった。窓の上に躊躇してゐた麗子は、廊下を走ってくる彼女を見ると、追ひつめられた兎のやうに、ひらりと飛下りて了った。
「危い!」
 伊佐子の叫聲を背後に聞いて、木苺の繁みの中へ轉げ落ちた麗子は、跳起きるなり、遮二無二に走った。
 彼女は花壇を飛越えたり、木立にぶつかったりしながら、病院の建物に沿うて往來を目がけて走ってゆく中に、空溝に踏込んでばったりと倒れた。
 其時、植込の中から飛出してきた男が、
「どうしました。」といひながら助け起さうとした。麗子は驚いて、地を這ひずって逃げようとした。足首を挫いてゐて立上れなかったのである。
「僕は怪しいものぢゃァありません、安心しなさい。」
 男は無雜作に麗子を抱へ上げて、芝生へ下した。
「どうぞ、私を逃がして下さい! 恐ろしい人が追ひかけてくるんです。」麗子は激しい呼吸づかいの下から、きれぎれにいった。
 男は生垣の根元を押分けて、病院の横通りへ麗子を援け出した。
 街燈の下で、二人は初めて顏を合せた。男は前にも一度見掛けたことのある川路だったので、麗子は何といふ事なしにほっとして背後を振返った。病院の白い建物は秘密を包んだまゝ、暗い木立の中に、音も立てずに眠ってゐる。
「貴女は病院にゐらっしゃる方ですね。一體何があったんです?」川路は足袋跣で、頭髪を振亂してゐる麗子を見下しながらいった。
「……何でもないんです……でも私は、もう病院へは歸りません。」
「……ぢゃァ、あの院長の奴でせう……畜生! 太い野郎だ!」川路は舌打ちをして病院の方を睨んだ。
「お宅はどこです?」
「今入町七番地に小父さんがゐますから……そこへ歸りますわ……どうも有難うございました。」
 電柱に掴まってゐた麗子は二三歩ゆきかけて顏を蹙めた
「あゝ、貴女は足を傷めましたね、そこまでいって、タキシーを拾ってあげませう。」
 川路は麗子に肩を貸して、大通りまで出ると、通りかゝったタキシーを呼止めて、麗子を援け乗せた。
「君、ついそこの今入町だ、虎の門の裏通りを入った、食堂前の横町だ。さァ一円やるぜ。足を怪我してゐるから氣をつけて送ってあげてくれ給へ。」川路はズボンのポケットから五十錢銀貨を二枚摘出して運轉手に渡した。

 麗子は窓に顏を寄せて、
「……どうも有難うございました……あの、お金は明日でもお送り致しますから、お住所と、お名前を伺はせて下さい。」
「なァに、住所も、名前もないやうな奴ですよ。そんな御心配はいりません。ぢゃァ。」
 川路はくるりと踵を返して、病院の方へ引返していった。
 突然現はれた川路も、往來で拾ったタキシーの運轉手も、あっさりと、親切であった。
 麗子が眞暗な露路に立って、四邊を憚りながら波田井の家の戸を叩くと、目敏い百合野が直ぐ起きてきて、
「まァまァ、麗ちゃんかい、こんなに遅くなって、どうしたの?」といひながら戸を開けた。
 麗子は上框で、泥塗れになった足袋を脱いで、足を引擦りながら家へ上った。
「麗ちゃん、何か間違ひでもあったの?」百合野は麗子の眼に涙が光ってゐるのを見て、氣遣はしそうに青褪めた顏を覗込んだ。
「…………」
 麗子は張り詰めてゐた氣が弛むと共に、悲しさと、口惜しさが一時にこみあげてきて、百合野の膝に顏を伏せて了った。
「どうおしなの? 泣いてゐないで、小母さんに話して下さい。」
「あゝ、麗子ちゃんが歸ってきたんだね。どうした、どうした、何があったんだ。」波田井老人も寝卷の帶を締直しながら茶の間へ入ってきた。
「私……喧嘩をして……病院を出てきて了ったんです。」
「喧嘩? まァ、よく譯を話してご覧、そのまゝにしておいて良いものか、どうか、小父さんが考へてあげるから。」
「私、お友達と喧嘩をして……梯子段から墜落(お)ちて、足を挫いたんです……」
「まァ、酷いことをするもんですね。麗ちゃんを突落したんですか……どう、見せてご覧なさい。」と百合野がいった。
「いゝえ、私、自分で踏み外したんです……でも、そんなにひどくはないんです……私、もうあんなところへは歸りません……皆が意地惡なんですもの……」麗子は足首を撫りながらいった。彼女は病院での出來事を明ら様に語る事は出來なかった。あれ程信頼してゐた徳永博士だったのに! 波田井夫妻の前で、博士の非道な行爲を發(あば)くのは、自を鞭打つやうな氣がして堪へられなかったのである。それにそんな忌はしい目に遭ったといふ事は、自分自身の耻辱だと思ってゐた。
 波田井夫妻は顏を見合せた。彼等は麗子の説明以外に、もっと理由のある事を想像してゐたが、強いて追求しようとはしなかった。
「さうか、さうか、麗ちゃんが喧嘩する位だから、余程の事情があったんだらう。小父さんは聞かないでもよく解る。」
 百合野は台所から酢とうどん粉を練ったのを持ってきて、麗子の足首に塗って繃帶をした。
「斯うしておけば二三日で癒りますよ。明日小母さんが病院へいって、先生にお斷りして荷物を頂いてきてあげませう。心配しないで今夜はゆっくりお寝みなさい。」
「眞實に我儘ばかりいって、御厄介をかけて濟みません。」麗子は改って叮嚀にお辭儀をした。
 波田井老人は吸ひさしの敷島を、火鉢の中へ突刺して、急にからからと笑出した。
「ははゝゝゝは、よくお歸り下すったと、こっちからもお辭儀をしたくなるね。麗ちゃんがいって了ってから、家の中はまるで火が消えたやうになって、書齋は散らかり放題で、小父さんは叱られ通しさ。小母さんも淋しくて所在がないもんだから、叱言の種計り捜してゐるんだよ。」
 陽気な老人の言葉に釣込まれて、麗子まで微笑した。
 麗子は二階へいって床へ入ったけれども、中々眠られなかった。闇の中に擴ってゐた魔手から遁れた安堵と、偶像が破壊された失望との交叉の裡に、麗子は縁もゆかりもない川路の顔などを思ひ浮べてゐた。
 階下では波田井夫妻がいつ迄も起きてゐて、何かごとごと話してゐた。

口紅
 はっきりしない天氣が、毎日のやうに續いてゐる。白い雲の間から、射るやうな強烈(つよ)い日光が、工場のトタン塀に照返ってゐるかと思ふと、急に湿っぽい風が出て、空地の隅に繁ってゐる雜草を吹き散らして、雨をぱらぱら墜してゐる。
 さうした日の午後、麗子は雨具の用意なしで出掛けた波田井老人の爲に、洋傘をもって電車の停留所まで迎へにいった。
 俄雨の事で、傘の用意のない人達が、新らしい麥藁帽子を抱へて電車に飛乗ったり、タキシーを呼止めたりしてゐる。その間を右往左往に自轉車が擦りぬけてゆく。
 麗子は停留所に近い銀行の庇下に雨を避けて、飯倉方面からくる電車を見守ってゐた。
「あら、麗子さんぢゃァなくって?」
 紺の蛇の目傘を傾けて、麗子の前に足を停めたのは、丈のすらりとした、意氣好みの女性であった。
「まァ、君子さん、久闊(しばらく)でしたね。」麗子は懐しさうに女學校時代の親友土屋君子の顏を見上げた。
「眞實に思ひ掛けないところで、お目にかゝったわね。どうしてゐらしって? 私、この間、お手紙を差上げたんですけれど、戻ってきて了ったのよ。お移轉(こし)になったの?」
「えゝ、父が亡くなったりしたもんですから、つい、方々へ御無沙汰して了って……」
「まァ、お父様がお逝去(なくなり)になったの……ちっとも知りませんでしたわ……眞實に……」といひかけて君子は氣の毒さうに口を噤んで了った。
「君子さんは、この御近所にお住居なの? 私はぢきそこの今入町の、父のお友達の家に御厄介になってをりますの。」
「あゝ、さう、それは近くていゝわ。私はあの金比羅様の境内の、髪結さんの二階に、母と二人で間借をしてゐるのよ。父は都落ちをして九州の方へいってゐますの。」
「では、貴女も随分、御苦勞なすったでせうね。」
「えゝ、現に苦勞をなしつゝあるんですけれども、そんなことは氣の持ちやう一つよ。お庇様で、どうやらこの細腕で、母を養ってゐますわよ。」君子は陽氣に笑ひながらいった。
 麗子は同じ級友でありながら、自分より三つも四つも年上のやうに、すっかり世馴れて了ってゐる君子の態度に驚異の眼を瞠った。
「私も働きたいと思って、看護婦免状をとらうとしたんですけれどもうまくゆきませんでしたの………」
「看護婦? いやに堅實なことを思ひついたのね。眞實に貴女らしいわ。私はずっと碎けて女給をやってゐるのよ。何の彼のって最初はいろいろ考へて見たんですけれども、結局現今の仕事が氣樂でいゝわ。私のゐるところは、銀座松屋裏のオリオンっていふ酒場(バア)よ。晝間は大抵暇ですから、あっちへ出たら寄って頂戴ね。あら、もう三時だわ。」
 君子は腕時計を見ると、通りかゝったタキシーを呼止めて、
「銀座まで三十錢でやってね。」といひながら物馴れた様子で乗った。
「左様なら、麗子さん、近い中に會ひたいわ。」
「左様なら。」
 麗子はそれから少時して、電車を下りた波田井老人を迎へて家へ歸る途中も、凡の點で鮮かな印象を殘していった君子の事を考へつづけてゐた。
 何も彼も極りきってゐる老夫妻の單調な生活の中で、麗子の一刻も成長を求めて歇まない若い心は、狹苦しい延(にわ)で、條枝を擴げてゆく若木のやうに、羽目板にぶつかったり、庇に遮られたりしてゐる。彼女は雨風から保護されてゐる家庭生活に、そろそろ呼吸苦しさを感じ始めてゐるところへ、不意に君子が現れたので、一時挫けてゐた職業慾を再び唆り立てられた。
 ――私も女給にならうかしら――麗子はそんな事を考へた。

 夫から數日して、銀座裏の新興ビルディングの前を、往ったり來たりしてゐた麗子は、思切ったやうに、建物の角のオリオン酒場へ入っていった。
 青地に黄色く、星形を抜いた旗の下をくゞって、鉢植の檜の間をぬけてゆくと、クリーム色の洋服を着て、眼の下を青く隈取ったゴム人形のやうな女が飛出してきた。彼女は胸に下げた赤玉の頸飾りを、指先で撮みあげながら、氣取った様子で首を傾げた。
「あの、君子さんはゐらっしゃいますか?」麗子もつい釣込まれたやうに、長い睫毛をあげて微笑した。
「君子さん?……さァ、誰だらう?」
「土屋君子さんです。」
「あゝ、白薔薇さんだ、こゝぢゃァ、みんな花の名前がついてゐるのよ。さァ、こっちへいらっしゃい。」女は快活にいった。
 白薔薇の君子は、すぐ出てきて、麗子を隅の卓子へ連れていった。
「よくきて下すったわね。直ぐ判ったでせう。急に暑くなったのね。アイスクリームでも召上らない?」
 麗子がもぢもぢして、まだ返事もしない中に、君子はさっさと調理場へいって、アイスクリームをもってきた。
「お邪魔ぢゃァないでせうか。私貴女に御相談があって、お宅の方へ伺はうと思ったんですけれども、夜分は出られないもんですから……」
「こゝはちっとも構はないのよ。夜は忙しいけれども、晝間はこの通り、滅多にお客がないんですもの。私に相談って何に? この職業に入りたいの?」君子は、麗子の着てゐる見覺えのある百合の花模様の銘仙や、桃色博多の夏帶などをちらと見た。
「えゝ、さうなの。私、何とかして働かなければならないんです。今私のお世話になってゐる家は、ほんの父の友達だといふだけで、親戚でも何でもないんですから、さういつ迄もいゝ氣になって遊んでゐては濟まないと思ふんですの。」
「さァねえ、どういふもんでせうね……」君子は細面の眼の大きい、清淨な花のやうな麗子の顏を見守りながらいった。
「あの……着物や何かも、随分かゝるんでせうか?」麗子は、相手の眞新らしい絽縮緬の着物を見て、鳥渡、淋しい顏をした。
「そんな事はどうにでもなるとして、この職業は麗ちゃんに適(む)くかしら……それゃ見かけはいゝけれども、内部へ入ると、中々大變なものよ。尤もどんな職業に就いたって、いゝ事ばかりぢゃァないでせうけれどもね。」
「それゃ、私、一生懸命になってやりますわ。」麗子は熱心にいった。
「貴女、眞實にやる氣があって?……大勢のお客の中だから、時には随分厭なことがあってよ。何があっても、我慢々々で押してゆかなければならないんですからね。」
「私、君子さんと一緒なら、働きたいと思ふんですけれども……」
「貴女がその氣なら、マヽさんに話してあげてもいゝわ。」
「えゝ、何卒お願ひしますわ。」
「こゝの家は、みんないゝ人許りよ。あすこに黒い服を着て、眼鏡をかけてゐるでせう、あれが家のマヽさんよ。それからクリーム色の洋服を着てゐるのはダリヤさんで、迚も愉快な人、まだ、コスモスだの、紫陽花だの、水仙だの、薊だの、澤山お仲間がゐますわ。それゃ収入の點からいったら、随分いゝ仕事よ。割合に身體だって樂だし……では、私、明後日は遅番だから、朝の中にお宅へ上るわ。」
「私、……まだ、家の方へは何にも話してないんですから、私の方からお返事を伺ひに出ますわ。」
 そこへ、數人の客がどやどや入ってきたので、麗子はそれを機會(しお)に席を立った。
「では、何卒よろしくお願ひします。」麗子は帳場の附近にゐる人達に目禮をして店を出た。その背後で、コスモスや、ダリヤ達が、
「まるで、星のやうな綺麗な眼の人ね。」と囁合ってゐた。

 麗子は二日目に、オリオン酒場から、はっきりした返事を貰ふと、其晩食事が濟んだ後で、
 私、大變不意ですけれども、來週から女給になって働かうと思ひまして、勤口も決めたんですの。」といった。
「えっ! 麗ちゃんはまァ何をいひ出すんです。働くにこと缺いて、女給なんて!」百合野は茶を淹れやうとして持上げた鐵瓶を其儘下において開き直った。
「又、麗ちゃんの職業熱が始まったな。働くことは結構だが、女給とはどういふところから割出したんだね。」波田井老人は讀みさしの夕刊を膝からすり落して、眞面目くさった麗子の顏を見守った。
 麗子はオリオン酒場へ、君子を訪ねた經緯を語って、
「君子さんとは、小學校から女學校まで、ずっとお友達で、それゃ眞面目な、豪い方なんです。以前は立派な家のお嬢さんだったんですが、今はオリオン酒場に働いて、お母さんを養ってゐらっしゃるんですの。私、あゝいふ方と一緒に働くのなら、いゝと思ひます。」と附加へた。
「さァ、女給はねえ……小父さんは、さう頑固ぢゃァないつもりだが、もう一度考へ直したらよくはないかね。何も私は女給といふ商賣そのものが惡いといふのぢゃァないけれども……」波田井老人がいひかけると、先前から呆れ返って、口を噤んでゐた百合野が、
「いゝえ、惡うござんすとも、そんな仲間へ入ったら、いくら麗ちゃんが慥りしてゐたって、碌なことになりませんよ。私は大反對です。男を相手の商賣なんて、風儀が惡い。」と聲を彈ませていった。
「でも、小母さん……他はどうだか知りませんが、あのお店は迚も嚴格なんですって……」
「私、そんなことを聞いてゐるんではありませんよ。何といっても女給なんて、相場がきまってゐます。眞紅に口紅を塗ったり、引眉をしたり、男にぺちゃくちゃしたりして、眞實にいやらしい。」
「私、男にぺちゃくちゃしませんわ。」
「私は麗ちゃんが、看護婦になるといひ出した時だって、あんなに反對したのに……」
「あの時は、眞實に濟みませんでしたわ。私が辛抱氣がなくって戻ってきたりして……」と麗子がいひかけると、百合野は覆ひかぶせるやうに、
「小母さんの心持を、さういふ風に取られたんぢゃァ、全く立つ瀬がありません。歸ってくる分には、百度歸ってきたっていゝんです。私は麗ちゃんをどこへも出したくないと、いふんですよ……それを人の氣も知らないで、小母さんに隠れて、ひとりでそんな勤口をきめて了ふなんて、余り水臭いぢゃァありませんか。」と涙をこぼした。
 麗子は前掛けで眼頭を拭いてゐる百合野を見て、一體どうしたら自分の氣持を納得して貰へるのかと途方に暮れた。
「まァまァ、一度にやいやいいったって、どうにもならん。これは宿題にしておいて、お互にゆっくりと一番いゝ事を考へようぢゃァないか。」波田井老人が仲裁に立った。
 其晩は互に氣まづい思ひをして床に就いた。老夫妻は、麗子が見掛けによらず意思の強いことを知ってゐた。それに病院をよした時も、彼女の説明以外に、深い事情が潜んでゐた事を察してゐたので、彼女が大抵の場合、身を護るだけの自信をもってゐる事を認めてゐた。夫妻はそんな點を話し合ったと見えて、翌日學校から歸ってきた波田井老人の態度は一變してゐた。
「同僚にもいろいろきいて見たんだが、女給といっても、中々感心なのがあるさうだ。殊に銀座あたりの店だと、想像以上に風儀も嚴重だといふね。それに良いところの娘達も澤山きてゐるさうだな。いづれにしても、小母さんに先方へいってよく話をしたり、聞いたりして貰はねばなるまい。」
 百合野は、もう反對しなかった。そして明日にもオリオンへゆくやうな口吻を洩した。

 麗子は菫といふ稱名(よびな)を貰って働く事になった。お河童のダリヤとも、温順しいコスモスとも親しくなった。皆は麗子に親切だった。歸途には君子が保護者のやうな顏をして、虎の門まで送ってくれた。店では何といっても美人で傳法肌の君子がナンバー・ワンであった。彼女がお客から騒がれたり、仲間達から尊敬されたりするのを見ると、麗子は頼母敷いやうな氣がして嬉しかった。
 菫といふ名は、麗子に相應はしかった。彼女は目立たないやうでゐて、目立ってゐた。恰度、野邊の堤に一輪咲き出た早春の菫のやうに、店へくる人達の眼にとまった。彼等は一度、麗子の可憐な姿を見ると、屹度、次に新らしい客を伴れてきて、
「これが有名な菫さんだよ。」と紹介するのであった。
「成程、評判以上だ。こんなところへ置くのは勿體ないね。」
 麗子は段々仕事に馴れて、面と向ってそんなことを云はれても、最初の時のやうに、赧くなったり、照れたりしないで、
「どうぞ、よろしく。」と笑ひながら挨拶が出來るやうになった。
 陽が落ちで間もない頃で、青白い夕闇の中に、入口の飾電燈が、青く、紅く、秋波(ウインク)を送ってゐる。まだ客は疎で、思ひ思ひの席に就いた人達は、グラスを前にして、隅の方から流れてくる蓄音器の「ハワイの夢」を聞いてゐた。
 夜食を濟して、顏を直してきた麗子は、入口に近い席にゐる男を見ると、
「おや、川路さんといふ方ではないかしら。」と呟いて、植木の陰に立止った。男の傍に君子が坐って、親しげに話をしてゐる。
 蓄音器のわきで口笛を吹いてゐたダリヤが麗子の傍へきて肩を突いた。
「何をぼんやり見てゐるのよ。あれ?」
「こゝへ、よくお出になる方なの?」
「えゝ、白薔薇の仲善しよ。でも、あの男は公平潔白で、皆にもてるわ。」
 其時、君子が遠くから麗子を見つけて、人差指をあげた。麗子が傍へゆくと、男は顏をあげて、
「あゝ、君、こんなところへ來てゐるの?」と意外な面持をした。
「いつぞやは、どうも有難うございました。」麗子は改まってお辭儀をした。
 君子は鳥渡、險しい眼で麗子を見た。
「あら、貴女、川路さんを知ってゐるの?」
 麗子がそれに答へない中に、川路は、
「一ぺん、往來で會ひましたね。斯ういふ綺麗な人は、一度見れば誰だって記憶えてをますよ。」と笑ひながらいった。
「まァ、貴郎は随分誰でも知ってゐらっしゃるわね。でも、菫さんを知ってゐるとは思はなかったわ。」君子は探るやうに二人の顏を見較べた。
「私、轉んで足を挫いた時、家まで送って頂いた事があったのよ。」麗子がいった。
「何だか、惡い奴に追ひかけられたとかで、轉倒んだんでしたっけね。どうです、愉快にやってゐますか?」
「えゝ、有難うございます。何にも出來ないんですけれども、白薔薇さんが親切にして下さいますから……」
「ふん、それゃいゝ、白薔薇の陰にくっついてゐれゃ安心だ。」
 その時、新らしい客が入ってきて、白薔薇が番に呼ばれた。入代りにダリヤが川路の傍に腰を下した。
「川路さん、この間、いゝところを見たわよ。素晴らしいモダーンなお嬢さんと、銀座をぽかぽか歩いてゐたわね。最初私は西洋人かと思っちゃった。あれ、誰方?」
「止せよ、そんなこと。」
「いっちゃァ惡い人なの? 白薔薇さんに知れたら、嚴しい訊問を受けるでせうね。」
「煩いんだね。あれはこちとらとは人種の異ふお姫様なんだ。」
「まァ、御挨拶だわね。こちとらといふのには私達まで引っくるめてゐるんでせう。」ダリヤは笑ひながら、川路の鼻を彈く眞似をした。
 麗子はこゝでも又、氣前のいい、あっさりとした川路を見出した。彼は誰に對しても一様な態度をとり、公平に多くのチップをおいて歸っていった。

邂逅
 暑い日が續いた。其晩は急に天気が崩れて、十時頃から土砂降りになった。新らしい客足が途切れ、雨に降りこめられた客は、卓子のあちこちに、其儘停滯してゐる。
 蓄音機のジャズが、いくら陽氣に鳴り響いても、空氣の彈まないやうな晩であった。
 麗子は毎晩のやうにくる會社員風の四十がらみの二人連に、又、番があたってゐた。
「ひどい降りだなァ、やらずの雨とでもいって貰ひたいところだが、この娘はまだほんの赤ちゃんだからな。」前額の抜上った赭ら顏の男は、指先で麗子の頤を突いた。
 麗子はびっくりして身體を退いた。
「この通り、鳥渡觸ったゞけでも、電氣がきたやうに感じるんだ。惡くないね。」
「はゝゝはゝはゝゝ。」相手のづんぐりした丸顏の男は、反り返って高笑ひをした。
「ねえ、菫ちゃん、今晩はこんな雨だから送ってあげるよ。君の家は芝口だってね。」
「いゝえ、さうぢゃァありません。」麗子は首を振った。
「ぢゃァ田端か、日暮里か? まァ何處でもよろしい。遠ければ遠いだけ結構だ。菫ちゃんを抱っこする時間が永くなるからね。」
 麗子はつんとして腰を浮した。
「お麥酒(ビール)をもっと召上りますか?」
「あゝ、持ってきてくれ。おい君、もっとやらんか。」
 二人連の男は、麗子が新らしく運んできた麥酒を一息に飲干して、潤んだ眼で四邊を見廻した。二人は既う、強か醉ってゐた。
「菫ちゃん、今度はウヰスキーにしよう、看板になる迄飲みつゞけて、君を待ってゐてやるよ……えッ、厭だって? 怖いって? 何が怖いことがあるもんか。一對一なら怖いかも知れないけれども、二人で送るんだから安心なもんだよ。」赭ら顏の男は帳場の方へ行く麗子の後姿を眺めながら、何が面白いのか、相手の肘を突いて笑ひ合った。
 帳場の横手に、白薔薇の君子が佇ってゐた。麗子は傍へいって、
「私、困るわ。又、あの執拗い人がきているの。今夜は随分醉ってゐらっしゃるのよ。」
「眞實に厭ね。一體あれ位の年輩の人が一番いけないのよ。臆面なしで……詮り夢を失って了ってゐる輩(やから)達なのよ。」
「何だか知らないけれど、私、氣味が惡いわ。送る、送るっていふんでせう、いつかみたいに、追かけられたりしたら、みっともないわね。」
「大丈夫よ、心配しなくても、私がついてゐるから、さァ、往きませう、往きませう。」白薔薇は麗子の代りに、ウヰスキーの洋杯(グラス)をもって、男達の卓子へいった。
「よう! 姐御がおいでなすった。さァ、何卒こちらへ。」男は自分の膝を叩いた。
「大層、御愉快さうね。でも、菫さんなんて、あんな初心な人をかまっちゃァ駄目よ。」白薔薇はにやにやして酒ばかり飲んでゐる、づんぐりした男の傍に坐って、彼の啣へた煙草にマッチを擦ってやった。
「ふん、菫ちゃんは、まったく好い娘だ、養女にでもして、したい放題をさせてやりたいな。」
「さうね、奧さんにするには、余り年齢が違ひ過ぎますわね、でも、鱶の養女になるやうなもので、危いこと、危いこと。」白薔薇は澄していった。
「鱶とはひどい事をいふ。」
 言はれた當人より、默々とウヰスキーを嘗めてゐた男の方がふき出した。
「鱶でも何でもいゝから、菫ちゃんを呼んできな。何處へいったんだ。赭ら顏の男は四邊を睨み廻した。
 麗子は鉢植の棕梠の蔭に小さくなってゐた。コスモスは上衣を脱いだ若い男に肩を抱かれて葡萄酒を飲んでゐる。隅の席ではダリヤが老人の膝に腰かけて、茶瓶のやうな禿頭をぴしゃぴしゃ叩いて笑ってゐる。
 麗子は溜息をして眼を反した時、雨と、風と、一緒に雪崩こむやうに、店へ入ってきた青年を見た。
 それは谷井清であった。

 麗子は思はず馳け寄らうとしたが、急に氣がついて棕櫚の蔭にに隠れた。突然出現した谷井は、懐しい思出を澤山もってきた。麗子は矢來の家にゐた頃の、貧しいながらも、世間の風に觸れない、靜かな生活を思ひ出して、現在の境遇を悲しく思った。彼女はそれ迄、一度だって自分の職業を愧ぢた事はなかったのに、不思議に、谷井にだけは自分が女給をしてゐる事を知られたくなかった。
 谷井は酷く醉ってゐた。彼は店にへ入るなり、中央の卓子にのしかかるやうに體躯を投げかけた。眉深に被った鼠色のソフトの縁から、雨水が瀧のやうに流れた。黄色いトレンチコートの裾からも、雫が牀を濡してゐる。
 その卓子の番にあたってゐた白薔薇は、二人連の客を離れて谷井の傍へゆき、濡れた帽子を取って、初めて見る青年の蒼白い顏を覗込みながら、
「どうなすったの? もう、何にも召上らなくっていゝんでせう。冷水(おひや)でも持って参りませうか。」
 谷井は前額にぴったり附いた黒い頭髪を、煩ささうに拂ひのけて、切れの長い眸を鳥渡あけて女の顏を見返した。
「あゝ、さうぢゃァなかったのか……知らない顏だね……」谷井は獨言をいひながら、ポケットを弄って、掴み出した十円紙幣を卓上へ置いた。
「さァ、ウヰスキーだ。これだけみんな飲まして呉れ。」
 谷井は又、がっくりと卓子に顏を伏せて了った。帳場へ注文を通しにいった白薔薇は、暗いところに悄乎(しょんぼり)と佇ってゐる麗子を見て、
「菫さん、番を代ってあげませうか。今來たお客さんはウヰスキーよ。」といった。
「いゝえ、いゝのよ。私、ゆきますわ。」麗子は周章てゝそれを遮った。
 其時、ダリヤが二人の傍を通りしなに、
「白薔薇さん、川さんがきてよ。」と小聲でいった。
 麗子は谷井の方を氣にしながら厭な二人連の卓子へいった。
「おい、菫ちゃん、馬鹿に沈んでゐるんだね。さァ、こゝへ坐って手を出してご覧。」
「何ですの?」
「手相を觀てあげるんだよ。」
「えゝ、有難うございます。でも、私、いゝんですの。」麗子は、赤くてらてらした男の前額を見て、臆病らしく後込みをした。
「君の未來を占ってやる。」男は麗子の白い手首を掴んで引寄せた。
「あら! いけませんわ。」麗子は狼狽して手を引込めようとした。
「そんな、大袈裟な聲を出す奴があるものか。」男はにたにた笑ひながら、右手を其儘ぐっと押へて、片方の手を麗子の脇の下へ差込んだ。
「あっ! 何をなさるんです!」麗子は掴まれた手を振放して、憤然と席を離れた。
 男はそれを追はうとして立上った拍子に、ウヰスキーの洋杯を引くり返して、一輪挿しの花瓶が牀へ轉落ちた。男は硝子の碎ける音に昂奮して、
「こら! 失敬だぞ!」と叫びながら、二三歩追ひかけて、麗子の肩を掴んだ。
 すぐ傍の卓子で、眉間に皺を寄せて、ウヰスキーの洋杯を睨んでゐた谷井は、その物音に舌打ちをして、
「靜にしろ! 煩い野郎だ!」と呶鳴った。
「何だと? 餘計なお世話だ、青僧奴! 默って引込んでゐろ!」男は眼を据ゑて、谷井の前に立ちはだかった。
「馬鹿野郎!」谷井は、さっと立上ると同時に、劍を抜くやうな早業で、相手の頤を突上げた。
「呀!」不意を喰った男は、張板のやうに、背後の席(ボックス)へ倒れ込んだ。皿と洋杯が凄じい音響を立てゝ牀へ飛んだ。
「危い!」麗子が叫んだ。
 づんぐりした連の男が、麥酒瓶を振上げて谷井の背後に廻ったのである。

 谷井が振返った時、麥酒瓶が發止と前額に碎けて、赤い血がさっと迸った。谷井は二三歩よろめいて、がっくりと膝を突いた。男は執拗く追縋って、麥酒瓶を振りかぶった。ぎざぎざになった瓶は空で支へられた。横合から飛出してきた川路力松の逞しい腕が、彼の手首を逆に取った。麥酒瓶は牀に落ちた。男は谷井をすてゝ、猛然と彼に躍りかゝった。
 川路は相手の腹部に鑽打を加へ、顏面に續け打を喰はした。男の顏は忽ち赤い假面を被った。
 谷井にやられた男が、牀を這ってきて、川路の脚に武者振りついた。川路は男の襟首を掴んで、土砂降りの雨の中へ突き出してきた。そしてもう一人の男が顏を押へながら、扉口まで逃げていったところを、小氣味よく、往來へ毆出した。
 酒場の中は總立ちになってゐた。ダリヤの頸を抱へてゐた老人は、酒瓶や、洋杯の散亂した席の隅で、がたがた慄へてゐた。白薔薇とコスモスが濡タオルで、谷井の前額を冷してゐる。
「大丈夫でせうか。」白薔薇は戻ってきた川路を見上げた。
 谷井は薄眼を開けて、
「大丈夫だとも……さァ、誰でもかゝってこい。」と呟いたが、笑ったやうな顏をして氣持よささうに眼を閉ぢて了った。
「巡査がくると面倒だから、この人を預ってゆくよ。君、タキシーを呼んでくれ給へ。」
 川路の言葉に、白薔薇が、戸外へ走り出た。
「さァ、往かう、確りしてくれ。」川路は谷井に肩を貸して、扉口へ扶け出した。
 白薔薇の呼びにいったタキシーは、もう店の前にきてゐた。吸ひ寄せられるやうに谷井の背後についていった麗子は、
「どうぞ、お願ひ致します。」と川路に對(むか)って頭を下げた。
 谷井を自動車に擔ぎ込んだ川路は、
「淀橋だ。」と運轉手にいった。
 雨に打たれながら、自動車を見送ってゐた麗子はいつの間にか、白薔薇の手を堅く握ってゐた。
「大變なことになったわね。私、眞實に申譯ないわ。」
「誰に申譯ないの?」白薔薇は麗子が涙を浮べてゐるのを見て、怪訝さうにいった。
「坊ちゃんに、あんなお怪我をさせて……」
「あら、貴女、あの方を知ってゐるの?」
「……えゝ、あの方は矢來の家のお隣家の谷井さんの坊ちゃんなんです。」
「あゝ、それで、貴女を庇ったのね。」
「いゝえ、谷井さんは私がこんなところにゐる事なんか、御存知ないんです……」
 二人が店へ入った時、麗子は谷井の鼠色のソフトを大切に抱へてゐるのに氣付いた。
「あら、私、お帽子をお渡しするのを、すっかり忘れてゐましたわ。」
「眞實にね、つい私もぼんやりしてゐたわ。」
 麗子は永い間、隣同志に住んでゐて、いろいろな噂をきいたり、密に姿を眺めたりしてゐた谷井の坊ちゃんの身についた品を、斯うして自分で持ってゐる事を、あり得べからざる奇蹟のやうに思った。
 苦りきってゐた女將は、麗子を見ると、
「お前さんみたいな、お上品ぶった娘もないもんだ。醉拂ったお客様が手を握った位で、こんな騒動を起されたんぢゃァ、商賣は上ったりだよ。物品はこの通り毀されるし、大切なお客を二人も無くして了ふし……一體あの、後から入ってきやがった彼奴は何だ、余計な騒ぎを起しやがって……」
「……どうも濟みません……毀れた品物は私が弁償致しますわ………」
「女給に身を墜した程なら、男に手を握られる位は、覺悟の上だらうぢゃないか、そんなことで、この商賣がつとまるとお思ひかい。私の家ぢゃァお姫様を飼っておく譯にはゆかないんだよ。」女將は憎々しくいった。

 麗子は今迄、他人からそんなに口汚く罵られた事はなかった。それに日頃から親切な、いゝマヽさんだと思ってゐたゞけに、呆氣にとられて、眉間に青筋を立てゝゐる女將の顏を見守ってゐた。
「ねえ、マヽさん、この人はまだ斯ういふ空氣に馴れないんだから、今晩のところは大目に見てやって下さいよ。」白薔薇は見かねて取做した。
「貴女は默ってゐるがいゝよ。私は斯ういふ性分で、厭氣がさしたら、もう駄目なんだ。酒場はこゝ計りぢゃァないんだから、お前さんの性に適ったところを捜して去ってお呉れ。」
 不機嫌な女將は、くるりと踵を返して奥へ引込んで了った。
 十二時を過ぎて、店は片端からばたばた片付けられてゐる。唖者のやうに、默りこくってゐた麗子は、白薔薇に促されて表へ出た。
「麗ちゃん、悲觀することはないわよ。今夜はマヽさん少し旋毛(つむじ)が曲ってゐたのよ。明日はお店を休んだらいゝわ。私がよく話しておいてあげるから。」君子は街角に立って、タキシーを待ってゐる間、蛇の目傘をくるくる廻して縁を傳ってくる雫を散らしながら、氣輕にいった。
「でも、私、もういゝわ……またこんなことがあると困りますから……川路さんといふ方は、またお店へお見えになるでせうか?」
「えゝ、えゝ、來ますとも、あの人は店中のお客をみんな投飛ばしたって、翌日になれば、けろりとしてやって來ますわ。眞實におかしな人……」君子はいつも川路の噂をする時の、晴々した顏をあげた。
「若し、川路さんがお見えになったら、あの方、どうなったか、伺って頂戴ね……私の爲にあんなお怪我をなすって、眞實に申譯ないと思ってゐるのよ。」
「あの方、随分醉ってゐらしったわね。いつもあんな?」
「いゝえ、お酒なんか召上る方だとは思はなかったわ。迚もそんな方ぢゃないの、立派なお邸宅(やしき)で、いつもきちんとしてゐらしったわ。」
「麗ちゃん、大層關心をもってゐるのね。貴女はあの方が好きなんでせう。」君子は麗子の肩を突いて揶揄(からか)ふやうにいった。
「いゝえ、そんな譯ぢゃァないんですわ。お隣家同志だって、碌に口を利いたこともないんですもの……小いさい時には虐られましたけれども……」
「ぢゃァ、愛する敵(エナミイ)なのね。随分ロマンチックだわね。」
「私なんかとは、まるで身分の異ふ、遠い感じの方なのよ……あの、川路さんと仰有るのはどういふ方なの? 私、病院にゐた頃惡い人に追駈けられて、あの方に助けて頂いた事があったんですけれども、それっきりお禮をいふ機會もなかったんですの。」麗子は川路との交渉を釋明する心算でそんなことをいった。
「あの人こそ謎の人物よ。お金持でもなささうだけれども、お金はつかってゐるし、職業は運轉手だといって、立派な自動車をもってゐるけれども、氣が向かなければ流さないんだから、タキシーで食べてゐる譯でもないのね。女に親切で、女に冷淡で、腕力があって、氣前がよくって、迚も愉快な男だわ。」
 麗子は彼女の最大級の褒め方に微笑した。
 麗子が家へ歸ると、百合野は夜業(よなべ)の針を動かしてゐた。茶台には蝿帳がかゝって、夜食の用意が出來てゐた。麗子はお茶だけ飲んで、其晩は何にも話さずに二階へ引込んだ。
 電燈を消して床に入ると北側の硝子窓が街燈を反射して、白く壁の上部に浮んでゐる。夜の酒場で虐げられた彼女の感情はすっかり鎮って、悲しさも、口惜しさも洗ひ去られてゐた。只店へゆかないとなると、二度と谷井に會ふ機會はないだらうと思って、何となく淋しい氣持になってゐた。彼女はふと谷井の帽子の事を思ひ出して、床の上に起上った。入口の壁に掛けた彼女のコートの下に、紙に包んだ帽子が置いてある。彼女はその帽子を谷井に渡す時がくるかしらなどゝ考へながら、枕に頭をつけた。

男同志
 天井裏に露出(むきだ)しになった生々しい丸太の一つから、赤や黄色の包装糸を繋ぎ合せた長い紐が下ってゐた。その先端に氷嚢が括りつけてある。
 六疊程の部屋に、窓の方を頭にして、前額に血の滲んだ布を捲いたまゝ、蒼白い顏をした谷井が、まぢまぢ眼を開いたり、閉ぢたりしてゐる。
 六尺の窓は、雨戸が半分だけ開いてゐて、障子に明るく陽光があたってゐる。谷井は眼の上でぶらぶらしてゐる氷嚢を避けながら、四邊を見廻した。壁の釘にづらりと懸けてある浴衣や、雨外套の中に、衣紋掛にかけた谷井の鼠色の洋服がぶら下ってゐる。服はだらりと形が崩れ、襟や、袖口が、汗に赭くなって、ズボンは膝の上まで泥土の飛沫があがってゐる。
 階下は車庫になってゐると見えて、自動車の出入りがあったり、時々、何處からか電話がかゝってきて、
――生憎、自動車は出拂ってをります――などゝ斷ってゐる女の聲が聞えてゐた。
 谷井は前の晩、泥醉して何軒目かの酒場へ飛込んで、そこで客と喧嘩した事は、朧氣に記憶えてゐた。醉ってゐた爲に、思はぬ不覺をとり、前額に怪我をして、誰かに扶けられて自動車に乗ったことは、薄々知ってゐたが、それから先は、すっかりぼやけて了ってゐた。
 誰かゞ梯子段を上ってきて、がらりと障子が開いた。最初に買物包みが幾個も投込まれ、その後から、川路が手巾で頸筋の汗を拭ひながら入ってきた。
 谷井は、それがこの部屋の主である事を知って、周章て、起上って挨拶をしようとしたが、烈しい眩暈を感じて顏を顰めた。
「そのまゝで、靜にしてゐ給へ、何か喰って元氣をつけなくちゃァいけない。冷い曹達水と、アイスクリームと、サンドウヰッチと、果物を買ってきたんだが……」
 川路は買物の包を解いて、適當に谷井の枕元へ並べてから、自分はその傍に胡坐をかいて、煙草を吸ひ始めた。
「有難う、随分世話になった……濟ないけれども煙草を一本。」
 川路はバットの箱と、マッチを渡した。
「家の方でも心配してゐるだらうから、少し快くなったら、僕が送ってやらう。」
「家ってないんだから、心配をする奴は誰もないんだ。」谷井は吐棄てるやうにいった。
「君は、勤人でもなく、學生でもないのか?」
「うん、曾ては學生だった事もあるんだが、二ヶ月計りの間に、何も彼も縁が斷(き)れて了った。最後の金は、昨夜そっくり飲んで了ったし……」
「歸る家もないし、金もないといふんだね。だが、働くあてゞもあるのかね?」
「僕は盥に乗って大洋を漂ってゐるやうなものさ。その中に轉覆するか、何處かへ漂着するか。」
「行くところがなければ、こゝにゐても差支へないぜ。僕だって矢張り盥組だが、有難い事に屋根をもってゐる……まァ當分こゝにゐるんだね。これも何かの因縁だらう。その中に君も働き出すさ。」川路は無雜作にいった。
 谷井は、二ヶ月計り忘れてゐた他人の親切といふやうなものに觸れて、意外な感に打たれて、相手の顏を見直した。
「おや……僕は以前にも君に會ったことがある……さうだ、この春、荻窪から君の自動車に乗せて貰った。僕は谷井清といふんだ。女に棄てられて、自分は親と家を棄てゝきて了ったんだ。」谷井は、これ迄どんな親しい友達の前でも外した事のない氣取りを、こゝではさらりと脱ぎ棄てる事が出來た。
「あゝ、さうだったのか。あの時の若紳士か、それにしちゃァ汚れたもんだなァ。」
「あゝ、腹の底まで汚れて了ったよ。」
 二人の青年は、泥濘の中を歩き廻った揚句、路傍の石に腰を下したやうな氣持で、朗かに笑った。

 二人は顏を見合せて笑ったが、谷井はその空洞な笑聲の裡に、二ヶ月間放浪を續けてゐた自分自身の姿を、そっと思ひ浮べてゐた。
「ぢゃァ君は、荻窪の足利といふ家へゆく連中の仲間だね。」
「あの連中にも、もう永いこと會はない。君は僕の友達の妹と、荻窪まで送ってきたっけね。」
「あゝ、あの日のことは僕は忘れない。あの口の惡いお姫様にはあれから幾度も會った。」川路は遠くの滑空を仰ぐやうな眸(まなざし)をした。
「靖公の顏も見ないなァ、勇敢なお嬢さんだ。いまは矢張り田園調布にゐるのかしら。」
「月初めから、逗子の清海ホテルへいってゐらっしゃる。あのお姫様は英國の女學校を卒業して聖心の日本語科へ入ってゐるんだってね。迚も民衆的で、おでんでも壽司でも立喰ひをやらうよといふんで、こっちが参って了ふ。」
 谷井は氷嚢の下で閉ぢてゐた眼をあけて、川路の顏を見直した。
「大變詳しいんだね。」
「三度も偶然に會ったりすると、もう偶然とは思へなくなる。人間は誰でも、どこかに蔭影をもってゐるものだけれども、あのお姫様だけは、裏も表もない、水晶玉みたいなものだね。」
「僕は誰にも自分の事を知られたくないんだ。君が靖子さんに時々會ふやうだと、僕の事が知れさうだが、どうか當分内緒にして置いてくれ給へ。」
「それゃいゝとも、だが、君はどうしたっていふんだい。若し、親や、家を捨てる程、好きな女があったとしたら、假令、その女がどうならうと、自分を滅茶々々にして了ふのは思ひ出に對して濟まないぢゃァないか。」
「僕は思ひ出に生きるなんて、そんな夢みたやうなことは出來ないんだ。僕は親父の金庫から盗出した二千円の金をもって、彼女と逃げる心算だったんだが、彼女が行衛を晦して了ったんで、今度は自分の思ひ出から遁れる心算で、大阪へいったり、京都へいったり、轉々としてゐたんだ。」
 谷井は東京驛のプラットフォームで、都會の華かな灯の海に左様ならをした時、遅い月光に照し出された懐しい大磯や国府津の海に別れた時の事を想ひ出してゐた。商人や、地方へ轉任する家族連れの勤人や、大學病院へ診察を受けにきた患者や、その附添人や、さうした知らない顏ばかりの中で、人々から離れて車窓に凭りかゝってゐる夜の帳に、過ぎ去ってゆく驛々灯が、虹のやうにぼやけてゐた。 彼はもう二度と東京の土を踏むまいと、心に決ってゐたのに、厚い掌で突のめされたやうな馴染のない土地で、懐中が段々手薄になるにつれて、呪はしかった東京が戀しくなって、つい半月程以前に、再び舞戻ってきたのであった。彼は未練にも、伊佐子の事がまだ諦めきれなくなって、霖雨の降りつゞく懶(ものう)い日を、燕アパートの前に立ちつくしたり、心當りの場所に空しく彼女の姿を覓(もと)めたりした。
 空は東京に着いた翌日、邦樂座の晝興行から出てきた女を、伊佐子と思ひ誤って、わざわざ円タクで尾久町まで追っていった歸途に、熊野前の、毀れかゝったやうな工場裏の二階家に貸間札を見付けて、そこに世間を忍んでゐたのであった。
「兎に角、昨日までゐた宿を引拂ったらどうだね。荷物でもあるなら、自動車を引ぱり出して一緒にいってやらう。」
「何に、荷物なんぞは鞄一つきりだから何でもないが……」
「さうか、支拂ひが滯ってゐるんだな。どれ位だ。これで間に合ふかね。」
 川路は次の間の本箱の抽出から、拾円紙幣を五枚攫出してきて谷井の前へ差出した。
「それぢゃァ大餘りだ。然し、君から金まで貰っちゃァ濟まない。」谷井は鳥渡赧い顔をした。
「男同志だ、いゝぢゃァないか、餘ったら帽子でも買ふさ。さァ、折角のアイスクリームが溶けて了ふ。僕はこれから稼ぎにいってくる。」川路が立たうとすると、谷井は、
「有難う。」と一言いって手を差しのべた。川路は其手を堅く握り返して、荒っぽく階段を下りていった。

 川路の歸宅は毎晩遅かった。階下は車庫の後に部屋があって、運轉手の夫婦者が住んでゐた。それが車庫の持主で、川路は二階の二間を借りてゐるのであった。
 谷井は、尾久町の下宿を引揚げて、川路と同居するやうになってから、支拂ひ殘りの金で、朝晩、附近の簡易食堂へゆく他は、屋根裏の部屋に引くりかへって、川路の本箱から現てきた唐詩選や、露西亞文學の翻譯ものなどを讀んで暮してゐた。
 川路は或朝、又、紙幣を摘み出してきて、谷井の前に突出ながら、
「これで着替の服でも買ってきたらどうだい。神田邊にゆけゃ、安いのが澤山ぶら下ってゐるよ。そして今きてゐる奴は洗濯に出すんだな。」
 谷井は、どうせ謝絶(ことわ)ったって、それを引込める川路でないことを知ってゐたし、又、自分としても、差しあたり収入の的(あて)もなかったので、默ってその金を受取ったが、急に自分でも何か職を得なければならないと考へ始めた。その考へは明るかったが、偖、何をしたらいゝかといふ段になって、礑(はた)とゆき塞って了った。 學校にゐた時には、漠然と卒業したら會社員にでもならうと考へてゐたが、いざ實際に當って見ると、どういふ方法で、どこの會社へ入ったものか、見當もつかない。第一自分にどんな取柄があるだらうと思ふと、暗い氣持になるのであった。二三の大會社にも、知合がないでもなかったが、それはみんな父親を通してのことである。彼は今更、父親に降参する氣はなかった。
「なァに、捜したら何かあるだらう。それにしてもこの服装ぢゃァ…………」彼は褄(つま)の飛出したヅボンや、着飽きた上衣を脱棄てる事を考へて、いくらか氣が霽れてきた。そして新らしい服さへ着れば、直ぐ就職口が見付かるやうな氣になって家を出た。
 川路は神田といったが、元來神田の買物を好まない彼は、手近のほてい屋へ飛込んでいって、白麻布の上下に、白靴まで揃へて、脱いだ服をクリーニング部へ廻して貰った。それから一階で二三の買物をして表へ出た。
 彼は何といふ事なしに四谷見付の方へ向って歩き出した。世の中の人はみんな働いてゐる。メリンス屋の番頭は、客の應對をしながら、馴れた手付で友禪の布を捌いて鋏を入れてゐる。金物屋の小僧は、自轉車の後に山程の金網を括りつけて、雜閙の中を縫ってゆく。電車の運轉手は、客を滿載した緑色の電車を疾走らせてゐる。
 谷井は夫等に一々感心してゐた。彼はこれ迄、世の中の人々がそんなにいろいろな仕事をもって、朝から晩まで孜々として働いてゐる事に氣が付かないでゐた。 ――だが、僕には一體何が出來るんだらう――彼は大學の二年まで勉強した事が、現在の場合、何の役にも立たない事を痛切に知った。
 谷井が四谷見付の青バスの停留所に、ぼんやり佇ってゐると、背後から肩を叩いた男があった。
「やァ、谷井さん、其後如何です。」
 それはトンボ劇場宣傳部の伴野であった。谷井は待合の夜の事を思ひ出して、鳥渡厭な氣がしたが、直ぐいゝところで會ったと思って、
「何か、貴郎のところに仕事はありませんか。」
「えっ!」伴野は腑に落ちない面持で聞返した。
「僕は就職口を捜してゐるんです。」
「ほう? 貴郎が……まァ、こんなところで立話も出來ないから、その邊までお伴しませう。」
 伴野は先に立って近くの三河屋の食堂へ谷井を伴った。
「さァ、鹹(から)いものでもやりますか。」
「いや、僕はもう酒どころぢゃァないんです。曹達水でも頂きませう。」
「あゝ、さうですか、お互に日中はその方がいゝですね。それで、先刻の就職口と仰有るのは?」

「僕は、學校なんか飽きて了ひましたから、實社會へ飛込んで活動して見たいと思ふんです。親父とは意見が適(あ)ひませんから、獨立する氣なんです。で、親父に口を利いて貰って就職したんぢゃァ、巾が利かないと思って、自分でぼつぼつ捜してゐるところなんです。」
 見栄坊の谷井は、事實から離れたことを、すらすらといってのけた。
「谷井さんの坊ちゃんが就職口を捜すなんて、破天荒なことですな。」伴野はにやにや笑ってゐる。
「さういふ事を仰有られるから困るんです。坊ちゃんでも何でもなく、大學を中途退學した書生っぽのつもりで、相談に乗って下さい。宣傳部の方に、何か僕に出來るやうな仕事はありませんか、翻譯とか、解説とか……」
「へえ、本氣ですか?……さうですね、結果はどうなるか分りませんが……どうです、これから社へいらしって、西嶋社長にお會ひになりませんか。無論私からも話しますが、貴郎が直接お話しになった方が効果があるかも知れません。」
「では、どうぞお願ひします。」
 二人はそこから青バスで、銀座の昭和通りにあるトンボ劇場の事務所へいった。
 谷井は應接間で一時間計り待たされ後で、西嶋社長に會った。
 その一時間の間に、西嶋は谷井の父親と電話で相談をして、谷井の給料は父親が支弁するといふ事に話が極ったのであった。
 應接間に入ってきた西嶋は、どっかりと革張りの大椅子に腰を下した。
「大變お待たせしました。生憎來客があったもんですから……先刻伴野から鳥渡話しをきゝましたが、中々結構な心掛けだと思ひます。然し、働くといふことは生易しいことではないですぞ。親から小遣ひを貰ふのとは違って、一錢一厘、みんな君の汗の結晶ですからな。失禮だが、君に辛抱が出來ますか。」西嶋は葉卷の煙の中から、ちらちら谷井の服装を觀察した。
「無論、僕は充分な覺悟をもって來たのです。こちらに仕事がなければ、電車の車掌にだって、靴磨きにだってなるつもりでゐるのです。」
「ほう、それゃ豪い……で、恰度宣傳部の方に人が欲しいと思ってゐたところだから、君にその方を手傳って貰はう。給料は追々に考へるとして、最初八十円といふ事ではどうだね?」
 八十円は、彼が毎月父親からきまって貰ってゐた小遣ひと同額であった。彼はそれで、着る事から食べる事まで、一切處理するのは大變だと思ったが、一方、大學卒業生の相場を知ってゐたので、この割のいゝ申出に少し驚いた。
 彼はいよいよ明日から出社するといふ事にきまって、お辭儀を幾つもして、勇んで屋根裏の部屋へ歸った。
 珍しく川路が早く歸宅してゐて、ほてい屋から届いたばかりの小包を怪訝さうに眺めてゐたが、谷井の小薩張りした白服姿を見ると、
「はゝァ、君の古靴を送りつけたのか。」と笑ひながらいった。
「有難う、ほてい屋に恰度いゝのがあった。」
 谷井は部屋の眞中に突立って、兩手を擴げて見せた。川路は彼の上衣のポケットに、縞の絹ハンケチが覗いてゐるのを見て、こんなに、切羽つまってゐても、まだお洒落をしてゐる谷井の呑氣さに微笑を送った。
「さうさう、君にお土産を買ってきた。」谷井は上衣の内隠袋から、赤と青に、細い白線の入った派出な襟飾(ネクタイ)を引張り出して川路に渡した。
「成程、三色旗だね。」
「今日は就職口を見付けてきた。明日から月給八十円のお勤人だ。トンボ劇場宣傳部谷井清といふ名刺を作らなければならない。」
「ふん、そいつは面白い、活動はロハで觀せて貰へるな。」
 川路は愉快さうに笑った。

屋根裏の生活
 谷井はトンボ劇場へ勤めるやうになってから、生活が激變した為に、伊佐子の事は一時忘れてゐた。彼は毎朝九時には必ず事務所の机に向ってゐた。淀橋の屋根裏から、昭和通りの劇場までは、青バスで四十分もあれば充分であるのに、彼はまるで小學校の生徒のやうに、八時には克明に家を出るのであった。
 彼は出勤時間では誰よりも一番早かった。けれども彼の主な仕事といへば、數種の新聞の演藝欄に目を通して、主任が鉛筆で記識(しるし)をつけた記事を切抜く位が關の山で、朝九時から、夕方の五時までかゝる程のものではなかった。
「伴野さん、何か他にご用はありませんか。」手持無沙汰でうろうろしてゐた谷井は、ポスターの卷いたのを小脇に抱へて、前額の汗を拭きながら、忙しさうに歸ってきた伴野を廊下の眞中で捕へた。
「さァ、これを見て貰ひませう。」
 伴野は自分の机の上で、印刷屋から出來てきたばかりの次週映畫のポスターを擴げた。
 谷井はそれに對する批評を述べるつもりで、動物園の象の背に胡坐をかいて、胡弓を彈いてゐる、支那服姿のマルクス兄弟の、漫畫風なポスターを見てゐると、伴野は、
「毎週こんなのが出來るんですよ。」といひながら、谷井がまだ一言も云はない中に、ポスターをくるくる卷いて、棚の上へ投げ上げて了った。そして自分の机の上に積んであった米國の映畫雜誌を二三冊選びだして、
「谷井さん、お暇があったら、いつでもよろしいから、この雜誌をざっと讀んでおいて下さい。」
「翻譯するんですか。」
「いや、いや、急行で目を通しておけばいゝのですよ。それから退屈になったら、時々は觀覧席の方から寫眞でも觀ておいて下さい。それも肝腎なことですよ。」
「給料を貰って、これぢゃァ、まるで遊んでゐるやうで惡いやうな氣がしますね。」
「なァに、こんな暇な時ばかりではないんですよ。まァいまの中は、馴れのつもりで氣儘にやってゐて下さい。」
 午後になって、谷井が雜誌に讀み飽きて顏をあげると、社長室から現てきた伴野と視線がぶつかった。
「どうです。お茶でも飲みにゆきませんか。」伴野は傍へきて小聲でいった。
 地下室のタイル張りの食堂は、扇風機が方々に回轉ってゐてひやひやしてゐた。風通しのいゝ窓際に席をとった伴野は、谷井の爲にアイスクリーム曹達をとった。
「これからは、いよいよ本格的な暑さになりますね。休暇はどちらにゆきます。確かお宅の別荘は大磯にも、箱根にもおありでしたね。」
「えっ? 休暇!」谷井はその意味が呑込めなかった。
「こゝぢゃァ、七月十日から八月末にかけて、交替で一週間宛休暇があるんです。」
「僕は入社した計りだから、そんな權利はないんでせう。」
「さういふ内規はないから、大威張で休暇がとれますよ。七八月は暑いからこそ休暇があるんで、暑さにあっちゃァ、新参も古参もありませんよ。」伴野は大きな體躯を椅子ごと揺って笑った。
 夫から暫時して、谷井が勘定をしようとすると、
「おい、傳票をこっちへ持っておいで。」伴野は、ボーイの持ってきた紙片に署名をして席を立った。
 その後も谷井は伴野に誘はれて食堂へゆく毎に、いつも奢って貰ふやうな破目になった。彼はこれまで、他人の分を出してやった事はあるが、奢って貰った事はなかったので、自分が非常に小さくなったやうに感じた。そんなことから、彼は自分が月給取(サラリーマン)になったといふことをはっきりと意識して、鳥渡、侘しい氣持になった。

 トンボ劇場での谷井の仕事は、給仕にでも出來るやうな、實のないものであったが、社長室の横から、廊下續きに舞台裏へ下りて、一週間に一度差替へになる晝興行の活動寫眞などを觀たり、知合になった技術部の連中などゝ立話をしたりしてゐる中に、一日の勤務時間を、どうやら過ごして了ふ術を覺えるやうになった。
 仲間は誰も彼も親切で、氣がおけなかった。其頃では事務所へゆく事が、谷井にとって樂みの一つになった。
 六時近くになって、いそいそと屋根裏の家へ歸ると、時には川路が待ってゐて、一緒に食事に出掛ける事があった。
「菫ちゃんといふ娘は、もうオリオン酒場にはゐないぜ。」
 中野の大通りを、肩を並べて歩いてゐた川路が、急に思ひ出したやうにいった。
「何だね、それは? 菫ちゃんなんて、僕は知らんぞ。」
「それ、菫ちゃんの爲に、君は武勇傳の一節を演じたぢゃァないか。菫ちゃんは非常に感謝してゐたさうだ。」
「そんな娘がゐたのかな。」
「何でも小學校時代から君を知ってゐたさうだぜ。」
「誰だらう? 見當がつかんね。」
「珍しく印象のはっきりした綺麗な娘で、女給なんか、させておくのは痛々しいやうな娘だったよ。僕なんか、たった二度見たゞけで忘れない顏だったのに、どうして君に思ひ出せないんだらう。」
「よく、顏でも見たら、判ったんだらうが、僕はあの時は、滅茶滅茶に醉ってゐたからな。」
「もう一度、見直しに連れてゆくところなんだが、もうあの店にゐないんぢゃァ仕方がない。殘念ながらこのロマンスは立消えかな。」
 川路は谷井の肩を押して笑った。
 谷井は誰とも知れない小學校時代の少女の事を聞かされて、久時忘れてゐた、矢來の家の事や、亡くなった母の事などを思ひ出して氣が滅入ってきた。
 會話は途切れて了った。二人は思ひ思ひの事を考へながら、何處までいっても際涯のないやうに續いてゐる長い舗道を歩いてゐた。
 道路普請で、甓石を掘り返したところまでいった時、
「鳥渡、待ってくれ給へ。」川路は街角の自働電話室へ入っていった。
 何氣なくその傍に佇ってゐた谷井の耳に、――四五九番――といふ聲が聞えた。谷井が振返ると、川路が驗しい眼をして、ぴしゃりと扉を閉めた。
 谷井は數間先の、煙草屋の飾窓の前へいって、川路が電話の用を濟ますのを待ってゐた。其晩家へ歸ると、川路は長いことかゝって手紙を書いてゐた。
 丁度、煙草が切れたので、戸外へ出ようとした谷井は、
「煙草を買ひにゆくから、次手にその手紙を投函してこようか。」
「いや、いゝんだ。」川路は表書をした封書を隠すやうにして懐中へ入れて了った。
 谷井が一丁許り先の煙草屋までいって、歸ってきた時には、既う十時近くだといふのに、川路は何處かへ出掛けたと見えて、家にはゐなかった。彼は其晩、曉近くなってから、こっそり歸ってきて、寝床へ滑り込んだ。
 翌日、いつものやうに、谷井が事務所から歸ってくると、川路は朝出掛けたきり、戻ってゐなかった。
 谷井は前日からの、川路のいつにない變った擧動を怪しんでゐたので、心配して遅く迄起きてゐたが、一時を夢現の裡に聞いて眠って了った。
 ふと、人の氣配に目を覺すと、いつの間に歸ったのか、川路が本箱の前に立膝をして、懐中から出した厚い紙幣束を、抽出へ押込んでゐた。

 翌日から、彼は再び、以前の快活な川路に返った。
「夕方から、涼しいところを、ぶっ飛ばすから、會社が退けたら眞直ぐ歸ってこないか。」
「いゝな、横濱へでもいって、久振りで南京を喰ふかな。」
 二人はそんな會話をして、谷井はいつもの時間に家を出ていった。彼は事務所にゐる間中も、前夜の奇怪な光景が執拗く目先にまつはりついてゐて、一日中、氣になってならなかった。
 ――あれだけの紙幣束は、百や、二百ぢゃァない。尠くも五百円以上だ。一體どうした金だらう――谷井は、ともすれば首を擡げてくる恐ろしい想像を、一生懸命に拂ひのけようとした。彼は川路を惡人とは思ひたくなかった。
 夕方、家へ歸ったが、川路は正午頃、家を出たきり戻ってこないといふので、谷井は暑い二階へ上っても仕方がないと思ひ、時間をつぶすつもりで、ぶらぶら新宿方面へ出ていった。
 谷井は停車場前から、賑かな舗道を、人波に揉まれながら、陽氣な飴屋だの、明るい果實店だのゝ前を通って、久振りで中村屋の喫茶部へ入った。以前の彼だったら、青綸(マロニエ)や、額を飾った二階の廣間へ上っていって、昂然と四邊を見廻したかも知れなかったが、彼は目立たないやうに隅の席に腰を下して、眉深に被った帽子の下で曹達水を飲んだ。
 谷井が表へ出た時は、夕燒雲は消えてゐたが、西の空は水のやうに明く澄んで、赤く、紫に明滅してゐるライオンの齒磨の廣告塔の上に、金線を曲げたやうな新月が懸ってゐた。
 谷井は懐しい気持で、しばらく往かなかった武蔵野館の前へ出て、繪看板を眺めてゐたが、格別入ってみる氣にもならなかったので、二三歩ゆきかけると、すぐ彼の傍を、見覺えのある銀鼠色の自動車が擦りぬけていった。
「あゝ、あれだ!」谷井の腦裡に、電光のやうに閃いたのは、燕アパートメントの前から伊佐子を乗せていった自動車であった。その瞬間、谷井は前後の考慮もなく、獲物を見付けた猟犬のやうに、來かゝったタキシーに飛乗って、
「あの、銀鼠色のパッカードを追ってくれ給へ。」と叫んだ。
 銀鼠色の自動車は、神宮外苑から千駄ヶ谷驛前を過ぎ、福田原の電車軌道を横切って、赤坂見付へ出た。そして山王下から溜池へ出ると、急に速力を緩めて、徳永病院の石門を入っていった。
 門の際で自動車を下りた谷井は、その後を追っていった。銀鼠色の自動車は玄關へはゆかずに、植込を右に切れて車庫へ入っていった。
 自動車には、誰も乗ってゐなかったのである。谷井が呆乎(ぼんやり)立ってゐると、詰襟服を着た運轉手が、掌で腕の塵埃を叩きながら戻ってきて、迂散臭さうに谷井の顏を見ていった。それは三ヶ月程以前に、中野の大通りで川路と喧嘩をした男であった。
 谷井は、拍子抜けがすると共に、そんなところまで空自動車をつけてきた自分の輕卒さを、耻しく思って、こそこそ後へ引返したが、門を出しなに。「赤坂四五九」といふ電話番號を見て、思はず眼を瞠った。
 それは前の晩、川路が中野通りの辻で、自働電話をかけた時、聞くともなしに耳に入った番號であった。
 四邊は、すっかり夜になってゐた。街燈の光に、明暗をはっきり描出された並木道を、虎の門の方へ歩いてゐた谷井は、銀鼠色のパッカードと、徳永病院と、手の切れるやうな紙幣と、川路とを結びつけて、何かあるに違ひないと考へ續けてゐた。

 谷井が往來を横切らうとして、ふと顏をあげると、向ひ側の街燈の下に、當の川路が待設けてゐたやうに佇ってゐて、彼を見るなり、ステッキを鳥渡あげて、笑ひながら合圖をした。
「君、どうしてこんなところにゐるの?」傍へいった谷井は、怪訝さうに相手を見上げた。
「君がきたからさ。」
「……君は、矢張り、僕の想像通り、徳永病院に何か關係があるんだね。僕は君が昨晩遅くなって歸ってきたのを知ってゐた。」谷井は思ひ切っていった。
「昨晩の金は、僕が何處からか、盗んできたと思ったらうね。」川路は相變らず微笑を湛へてゐる。
「僕はさうは思はないけれども、今日は一日、その事が氣になってゐた。」
「そして君は、僕の身許調査を始めたんだね。」
「身許調査なんていふと、角が立つけれども、僕は君を惡く思ひたくはなかったのだ……」
 二人はそれっきり、その問題には觸れなかったが、淀橋の屋根裏へ歸って、更めて顏を見合せた時、
「世間には、思ひ掛けぬところに秘密があるものだよ。僕は早晩、君には打明けようと思ってゐたのだが、實は僕なる人間は、他人の秘密を喰って生きてゐたのさ。」川路は、氣遣はしげに眼をしばたゝいてゐる谷井を見守りながら、言葉を續けた。
「僕は無教育な植木屋の伜で、現在は親も兄弟もない、眞實のひとり法師なんだ、君、三田の綱町に喜多川男爵の大きな屋敷があったのを知ってゐるだらう。」
「あゝ、去年あたり分譲地になった、彼處だな。二三年前に、主人が發狂して古井戸へ飛込んで死んだとかいふことが、新聞に掲てゐたと思った。」谷井は、黒塀の上に、椎の木の繁った男爵家の前を、學校の往復に通った事を思ひ出した。其處の大きな門はいつも締切りになって、門燈のガラスは毀れたまゝになってゐた。
「僕等親子は、その屋敷の隅に、小さな家を一軒貰って暮してゐたんだ。ところが、その植木屋の倅の奴は、文學青年になって、その次ぎには戀をしたもんだ。戀といっても、一人呑込みの、儚ない夢のやうなもので、先方様は御存知なしだったんだ。詮り崇拝してゐたんだな。」
「君のその戀と、徳永病院とは、どんな關係があるんだね。」
「まァ、待ち給へ……男爵が死んだ後には、美しい未亡人と、三歳になる男の子と、夫から夫人の母堂とが殘った。ところが僕の崇拝してゐた未亡人は、去年の春、神經衰弱が昂じて自殺して了った。そんな譯で、母堂は綱町の屋敷を引拂って、男爵家の嗣子を伴れて鎌倉へ引込んで了はれた。僕の親父も間もなく病死した。………ねえ君、若しある男が、有夫の女を誘惑して、共謀で良人を毒殺したとするんだ。ところが女は自責の念に驅られて、自殺したとしたら、生き殘って、世間にのさばってゐるその男をどうしたらいゝと思ふ。」
「怪しからん奴だ。そいつは二重の殺人を犯したことになるね。尤も法律上では、どうにもならないだらうけれども……一體その或男といふのは何者なんだ。」
「それが喜多川男爵家へ出入りをしてゐた色魔陰者の徳永といふ奴なんだ。」
「だが君は確かな證據を握ってゐるのか。」
「だから僕は、徳永を自分の思ひ通りに操ってゐるんだ。」
「證據があるなら、警察へ申告するのが、吾々の義務ぢゃァないか。」
「僕は、死んだ彼女の名を穢したくないんだ。表面徳永を罰するとなると、勢ひ死人に鞭をあてねばならない事になる。無論、僕は自分の行爲を正當だとは思ってゐない。だから僕はこの上徳永から、金を引出すやうな事はしないつもりだ。」

爭議
 谷井は川路の言葉に救はれたやうな氣がした。
「僕の手許にあった彼女の日記帳は、徳永の要求通り、金と引替にして了った。君が昨晩見た金はそれなんだよ。こいつは自分の爲でなく、何か有効に使はうと思ってゐる。」
 川路はいふだけのことを云って了ふと、のうのうとしたやうに、疊の上へ長々と引くり返った。
 彼は、その翌日から、まるで人が變ったやうに勤勉に働き始めた。
 谷井も輕い氣持になって、毎日事務所へ通ってゐた。だが、事務所の空氣は段々重くなっていった。正月以來の欠損續きを、盆興行一つに希望を繋いでゐたのに、その盆興行の成績が豫想外に惡かったのであった。
 社長は苦りきって、犠牲者を物色するやうな眼付で、暑さの中でうだってゐる社員達を睨め廻してゐた。そして毎日のやうに幹部連が前額を鳩(あつ)めて物議を凝らしてゐる。
 谷井が晝食を濟して二階へ上ってゆくと、日頃贔屓にしてゐる給仕の中村が飛出してきて、
「谷井さん、大變ですよ。整理が始まったんです。」と聲をひそめていった。
「誰がやられた?」
「誰どころぢゃァありません、づらりと八人も撫切りにされたんですよ。そればかりぢゃァない、階下ではレビュー部が解散になって、技藝員の他、弁士だの、樂士だのが、そっくり馘首(くび)になったんです。」
「不意打ぢゃァないか。」
「まだ、後が出るらしいんで、皆びくびくものなんです。」
「服部君はどうなったい?」
「脚本部なんて全滅ですよ。昨日の株主總會で、この劇場は將來トーキー一點張りで押してゆくことに決定したんださうです。」
「服部君なんて、あんなに功勞のあった人を馘首するなんて酷いな。ぢゃァ大河内さんは?」
「あのお爺さんも、同じ運命ですよ。」
「ぢゃァ、僕なんぞは無論だらうな。」谷井は出口を斷たれたやうな惨憺たる氣持になった。
 給仕の中村は、谷井の沈んだ顔付を見て、急にげらげら笑ひ出した。
「へ、へ、へ、へへ貴郎のやうな保證付の首が飛んで耐るもんですか。」
「笑ひ事ぢゃァない。保證付どころか、一番危い首だ。」
「だって……皆は、貴郎の事を天降りだといってゐますよ。」給仕は狡猾(ずる)さうな眼でちらと谷井を見た。
「えっ? そんなことを皆はいってゐるのか、飛んでもない誤解だ……然し、服部君や、大河内さんのやうな、あんな眞面目な人を馘首にして、僕をその儘にしておくなんて、不公平極る話だ。」谷井はたった今、自分が感じた失職に對する恐怖を、もっと切實に味ってゐる、妻子をもった仲間達に同情する心持と、天降りなどゝ云ふ噂に憤慨する心持とに煽り立てられて事務室へ入っていった。
 そこでは机に向ってゐるものはなかった。人々は部屋の片隅にかたまり合って、ある者は眞青になり、ある者は逆上(のぼせ)あがったやうに眞赤になって、悲壯な叫びをあげてゐた。
「会社が缺損だって、俺達の知った事ぢゃァねえ。」
「結束しろ!」
「組合に任せろ!」
「叱っ!」
「スパイだ!」
 人々は谷井の姿を見ると、一齊に口を噤んで了った。

 一本氣な谷井は、熱湯を浴せられたやうにかっとなって、何か云はうとしたが、集ってゐた男達は、目配せをして各自の席に戻って了ったので、唇を噛んで部屋を出た。
 彼の頭腦には、スパイだの、天降りだのといふ、不愉快な言葉が鳴り響いてゐた。彼は仲間の馘首に義憤を感じて、社長室の扉に手をかけたが、そこには錠が下りてゐたので、忙しさうに階段を馳上ってきた伴野に、
「社長はゐないんですか。」
「急用で、正午に歸られましたよ。」
「では、貴殿でもいゝ、僕は説明して頂きたい事があるんです。」
 伴野は、谷井の昂奮した表情を見ると、急に愛想笑ひをして、
「今日は、勘弁して呉れ給へ、この通り、手が何本あっても足りない程、忙しいんだから……いづれ二三日中に、ゆっくり晩飯でもやりながら、お話を伺ひますよ。」といって抱へてゐた書類を示しながら、事務室へ入っていった。
 五時近くになると、社員達は、三々五々に、食堂へ下りていったり、舞臺裏へ通ずる階段へ消えていったりして、何となく、ざわついてゐた。
 一人取殘された形になってゐた谷井は、壁の釘から、引たくるやに帽子をとって表へ出た。
 谷井が橋を渡って、尾張町の角へ出ようとした時、背後から蹤いてきた給仕の中村が、
「銀ぶらなさるんですか?」と聲をかけた。
「銀ぶらなんていふ言葉は大嫌ひだ。」谷井は不機嫌にいった。
「爭議が始まるらしいですね、皆、食堂に集合してゐましたよ。伴野さんが一生懸命に宥めてゐましたが、一體、會社はどうなるんでせうね。」中村はそんなことを云った後で、直ぐ口笛で、「君と一とき」を吹きながら、谷井に歩調を合せて歩いてゐた。
「事業縮小といふやうな大問題は、昨日や、今日、決定した譯ぢゃァないんだらうがな……」谷井は、つい一ヶ月程前に、自分のやうな冗員を雇入れた西嶋社長の眞意を測りかねた。
「人間といふものは、一寸先きが見えないんだから、困って了ひますね。あの服部さんなんぞは、つい先週、石鹸會社の宣傳部から、きて呉れと云はれたのに、もうこゝに五年もゐるんだからって、謝絶(ことわ)ったんですってさ。眞實に損をして了ひましたね。」
「君は、何年ゐるんだい?」
「まだ二年ですよ。僕なんぞは、ゐても、ゐなくってもいゝやうな人間だから、何時馘首になっても、平氣ですよ。」
 谷井はその言葉が、自分自身にも適てはまってゐると思った。服部は、涛々と五年も働いて、やうやう八十円の給料しか貰ってゐなかった。そして何の取柄もない自分が、入社匆々から、同じ八十円の給料を貰ふなんて、總が出鱈目だと思った。
「谷井さん、貴郎は時々自動車で出勤しますね。あれは円タクですか、それとも自家用ですか。」中村は擦れ違ふ若い女達をちらちら見ながら、取ってつけたやうにいった。
「何をいってゐるんだ。安月給取が自家用車なんて、所有(も)ってゐるもんか、あれゃ友達の自動車だ。」
「ロハタクはいゝな。僕もそんな友達が欲しいな。」
「もう止せ、そんな詰らぬことをいふのは……その邊で飯でも奢ってやらう。」
「洋食を食べて、その後で、ダンスホールへでもゆきませうか。」中村は人波の中で、ダンスのステップでも踏出しさうに、はしゃいでゐた。
 谷井は、彼の舐めたやうに光らした頭髪と、それとおそろひに光ってゐる靴とを見て苦笑した。
 二人が食事を京橋の橋手前で濟して、爽かな夏の夜風に向ひながら、劃然と展けた八重洲通りの舗道を歩いてゆくと、懐しいジャズが何處からともなく流れてきた。

 谷井は思はず足を停めた。耳を澄すと、音律(リズム)に合せて、ことことと牀を踏む靴音が聞えてゐる。
 煙草屋の角を曲ったところに、星(スター)ダンスホールの入口があった。背後を振返った谷井は、眼を輝かしている中村に、鳥渡頷首いて、階段を上っていった。
 三階のとっつき小窓で、谷井は十回券を二枚購った。
「ワルツですよ。もう一寸早く來れば、よかったな。」カーテンの陰から、ホールを覗いてゐた中村は、溜息のやうに呟いた。
 薄緑の曇り硝子を通してくる月光のやうな柔かい光の中で、水色や、白や、朱色のドレスが波浪のやうに揺れてゐる。椰子の葉陰に青い月を見るやうな靜かな曲の中に、牀を據る靴音が、小石を洗ふ水の旋律を織込んでゐる。
「随分大勢きてゐますね。でも、これだけ人がゐて、こんなにしんとしてゐるんだから、不思議ですね……もっと、前の席へゆきませう。さうでないと、いゝダンサーをつかまへ損くなる……」
 中村の言葉が終らない中に、谷井は小柄なダンサーをリードしてゐる靖子を見付けた。彼女達の一組おいた後方に、タキシードを着た山邊が、朱色のドレスを着たダンサーを抱へてゐた。
 谷井は、さっとカーテンの陰へ身を退いた。そして持ってゐた切符を、呆氣に取られてゐる中村のポケットへ押込むやうにして、階段を馳下りていった。
 谷井は過去の幽靈に追はれてゐるやうな氣持で、淀橋の屋根裏へ逃げ歸った。けれども部屋へ落着いて見ると、何故、そんな騒ぎをして逃げ歸ったのかと、自分を憫むやうな氣持になってきた。
 ――見得坊奴! 谷井清といふ奴は、いつもお體裁ばかり作ってゐやがる――谷井は柱に懸ってゐる安直(やす)鏡を覗込んで自分を罵った。
 間もなく、元氣のいゝ川路が歸ってきた。
「まだ起きてゐたな。お茶でも飲みにゆこうか。」川路は部屋へ入るなり、着てゐるものを脱ぎ飛ばして、浴衣に着換へた。
「僕も、もう少し前に歸ってきた計りなんだ。會社ぢゃァ、豪いことがあってな……馘首が始まったんだ。あゝいふところは實に横着だな。」
「ふん、君もやられたのか。」
「僕がやられるなら、當り前だけれども、もっと會社の爲めになってゐた人間が馘首されて、僕が無事でゐるなんて、實に不合理だよ。」
「ふん、君の首がつながってゐるのには、何か、裏があるんだらうよ。」川路は意味ありげにいった。
「裏とはどういふことだね? 西嶋社長と、僕の親父が友達だといふ意味かね。若し、さういふ情實があるなら、僕は決心しなくてはならない。」谷井は憤然としていった。
「いや、さう、むきになるには當らないよ。それは單に僕の憶測に過ぎないんだから……それで今迄、事務所にゐたのかい。」
「なァに、事務所は五時に出て、久しぶりでダンスホールを覗いて見たが、困る連中に顏を會せさうになったんで、踊らないで歸ってきて了ったんだ。」
「君には珍しい事だね。何處のホールだ?」
「八重洲通りの星ダンスホールだ。」
「ぢゃァ君は、山邊兄妹に會ったんだね。彼處なら僕は、お姫様のお伴で二三度いった。さうさう、君に話さうと思って忘れてゐたが、彼處には例の菫ちゃんが現はれてゐるんだ。どうだい、いゝことを聞かせてやったらう。」
「菫ちゃんといふのは、オリオン酒場にゐたといふ人か?」
「現在は菫ちゃんではなくて、小鹿麗子といふんだ。君、まだ思ひ出せないか?」
「小鹿? そんな人は知らないな。」
「先方ぢゃァよく知ってゐるんだ。何でも君の家の隣りに住んでゐるんだ。」
「あゝ、さうか! それなら知ってゐる……あのお嬢さんが菫ちゃんで、小鹿麗子か……」谷井は、赤い帶を胸高に締めて、庭前などを掃いてゐた、つゝましやかな娘の姿を思ひ浮べて暗然とした。

 翌日、谷井が出勤すると、劇場の正面の入口に、「本日臨時休業」大書きした立看板が出てゐて、數名の巡査が物々しく警戒してゐた。立看板の附近には、通りがゝりのものや、蕎麥屋の出前持や、白いコック帽を被った男等が、物珍しさうに、事務所の入口を覗込んでゐた。
 少し離れた電柱の蔭や、向ひ側のパン屋の庇下や、電車の停留所などに、數人づゝが、かたまり合って遠くから劇場を見張ってゐた。
 地下食堂三信軒に通ずる横通りの石段を、聯絡員らしい男が、頻りに下りたり上ったりしてゐる。
 谷井が事務所の前までゆくと、舗道に並んでゐた男の一人が、
「おい、何處へゆくんだ!」と呶鳴った。
 谷井は驚いて振返った。その一團は同業組合から繰出した應援團らしく、殺氣立ってゐる若い連中のなかで、昨日馘首を先刻された大河内老人が、當惑したやうな顏をして、人波に揉まれてゐた。
「立看板が見えないのか。今日は臨時休業だぜ。」鳥打帽を被った顏見知りの從業員がいった。
「休業でも、何でも、仕事の事なんぞはどうでもいゝんだ。僕は社長に會ふ用事があるんだ。」
「社長には、君より先に、こっちが會ひたいんだ。それで吾々は暗い中から待ってゐるんだ。」
「まだ見えてゐなければ、事務室で待つ。社長がゐなければ部長でもいゝ、僕は質問する事があるんだ。」
「ふん、何だか知らんが、いくら伴野だって、今日は君の質問なんぞを、のめのめ聞いてはをるまいよ。」
「何だ? 何だ? 裏切者か?」誰かゞ叫んだ。
 谷井は誰に對するともなく腹立しい氣持で人々を掻分けるやうにして事務所へ飛込んでいった。
 黄色い日覆を下した廊下の窓の前を、おろおろしながら、往ったり、來たりしてゐた給仕の中村は、谷井を見ると傍へ馳けてきて、
「大變な事になりましたね。僕は地下食堂でうろうろしてゐたら、部長さんに捕って、用があるからって、否應なしにこゝへ連れてこられて了ったんです。ストライキだっていふのに、會社の用をしてゐるんですから、表へ出れば、半殺しの目に會ひます。」と涙聲でいった。
「下らないことを心配するな、お前なんか構ったって、何の足しになるもんか、社長は?」
「まだお見えになりませんが、伴野さんは社長室で、重役の方達と會議をしてゐます。」
 谷井が階段を上ってゆくと、出會頭にばったり伴野に行會った。伴野は吃驚したやうに谷井の顔を見守りながら、
「やァ、今日は休みにしましたよ。馬鹿者共が爭議屋の尻馬に乗って、飛んだ騒ぎを起しましてな……」
「僕はその事で來たんです。一體、會社の遣口は亂暴です。何の準備も與へないで、突然馘首するなんて……それに大河内さんや、服部さんのやうな……」
 伴野は皆までいはせず、聲を立てゝ笑ひ出した。
「ははゝゝは、貴郎は陳情員の代表者みたいなことをういふ。」
「僕は正義人道の爲に……」
「いや、營利會社は算盤本位で、正義人道などに拘泥(こだ)はってはをられませんよ。」
「算盤づくなら、尚更仕事の出來る人を馘首にして、僕のやうなものを生かしておく必要はないでせう。」
「いや、貴郎は別會計なんですよ。」
「別會計とは?」
「實は貴郎には、ある方から補助金がありまして……」
「ちぇっ! そんな事か! そんな事とは知らないで、いゝ氣になって働いてゐたのに……親父の奴、余計なことをしやがって……」
 谷井は堪へ難い屈辱を感じて呻くやうに叫んだ。

 谷井は、父親の心遣ひなんていふものを考へるより先に、ペテンにかけられたやうな不愉快を感じた。
「僕はこんなに恥を掻いた事はない。僕は今日限り、斷然會社を罷める。」
「まァ、さう無茶な事は仰有らんで、私の部屋へいって、ゆっくりお話しませう。實際世間は逼迫してゐて、就職口なんて、さうざらに轉ってゐるものぢゃァないですよ。」
 伴野は薄笑ひを浮べながら歩き出した。
「もう解りました。左様なら。」谷井は、宥めようとして肩においた伴野の手を振り拂って階段を馳下りた。
 谷井が白布のやうな顏をして、顳かみ(こめかみ※原文漢字)に青筋をってゝ表へ飛出してゆくと、馘首組の服部が傍へきて、
「どうか、なすったんですか?」
「…………」
「社長に會ったんですか?」
「止めだ! 止めだ! 僕はもうこんなところへは來ない。」
「辞表を提したのか? 罷めるなら吾々と倶に合理的に行動しようぢゃァないか。」誰かゞいった。
 谷井は、親から給料を支給して貰って、この一ヶ月余りを人並な顏をして出社してゐた事を、今更見っともなくて口には云へなかった。彼の心の隅に少しばかり燃上ってゐた義憤なんていふものは、石鹸(しゃぼん)玉のやうに消えて了って、屈辱だけが胸一杯に擴ってゐた。
 谷井は、がやがや罵り喚いてゐる人々の間を押分けて電車通りへ出た。
――畜生奴! 親父からまた金を、つうつうに渡しておきやがって……人を馬鹿にしてゐやがる――
 彼の頭腦は忿懣で渦卷いてゐた。そして手繰っても手繰っても、同じ文句が珠數玉のやうに、ずるずる繋ってくるのであった。足に任せて歩いてゐた彼は、いつの間にか、京橋の先を折れて、八重洲通りを歩いてゐた。
 すぐ、眼の前に大型の無蓋自動車(オープンカー)が停ってゐる。
「おやおや、これは珍らしい、久振(しばらく)でしたね。何處へ雲隠れしてゐたんです、谷井君。」
 それは思掛けない山邊であった。例によって寸分の隙もない服装をして、帽子にかけた指先にまで、伊達者の閃きを見せてゐた。谷井は出來合いの白靴の中に隠されてゐる安ものゝ靴下まで見透されてゐるやうな氣がして立竦んだ。
「眞實に皆に御無沙汰をして了ひました。関西の方を旅行してゐたもんですから……」谷井は赧くなって、やうやうそれだけいった。
「旅行とは羨しいですね。それでいまは?」
「相變らず、のらくら遊んでゐますよ。」
 山邊から少し離れて、裾の長い純白なドレスを着た少女が、鍔の廣い蜻蛉の羽根のやうな帽子の下から、黒い、美しい瞳で、谷井をぢっと視詰めてゐた。
 谷井は牽付けられるやうに少女を見返した。――知ってゐる、知ってゐる、何處かで見た忘れられない眸だ――
 山邊は氣がついたやうに二人の間に入って、
「あゝ、谷井君、紹介します。この方は僕の一番仲善しの小鹿麗子さんですよ。麗子さん、こちらは谷井清君です。さァ出掛けませう、時間がなくなるから。ぢゃァ谷井君、其中ゆっくり會ひませう。」といひながら、麗子の手を執って自動車へ乗せた。
 歴子は幾度も、谷井に何かいひかけようとしたが、山邊はその機會を與へないで言葉を續けた。
「今は何處にゐるんです? 二三日前に足利兄妹が逗子へやってきて、いろいろ君の噂が出ましたよ。殊に美波子さんは君の消息がないといって心配してゐましたっけ、適には吾々仲間へも顏をお出しなさいよ。」
 山邊は麗子と並んで席に就いた。自動車は谷井を置忘れた荷物のやうに舗道に殘して走り去った。
 麗子は帽子の縁を押へて、二度計り背後を振返った。

 小鹿麗子は、矢來の家の隣家にゐた大江の娘であった。隣り同士でゐた時は、まだほんの子供だと思ってゐたのに、いつの間にか、斷髪までして、見違へる程美しい娘になってゐた。谷井は麗子が隣家の娘であるとか、綺麗だとかいふ他に、もっと自分を惹付ける何かをもってゐる事に気付いた。
 彼は東京驛の長いプラットフォームを歩いてゐる中に、思はず、
「あゝ、あの眼だ! 伊佐子の眼だ!」と叫んで、愕然と身の周圍を見廻した。
 ――だが、僕は伊佐子なんかに、まだ未練をもってゐたのかしら……いや、斷じてそんな事はない――
 谷井は伊佐子の幻影を追拂ふ事には成功したが、どうしても麗子を心から拂ひのける事は出來なかった。白百合のやうな彼女の姿は彼の行く先々にちらついてゐた。
 谷井は自分が失職した事よりも、山邊が麗子を一番仲善しの友達だといった事の方が遥に氣になってゐた。
 彼は其晩、川路と夕飯を食べに出たが、劇場を罷めた事に就いては、つい云ひそびれて了った。從って、會社にゐる筈の時刻に、八重洲通りのダンスホール前で、山邊と麗子に會った事などには觸れなかった。
 次の日から、谷井は今迄通り出勤するやうな顏をして家を出ては、就職口を捜し歩いた。彼は先づ新宿驛で新聞を買ひ、待合室の隅へいって、廣告欄に目を通した。けれども雇入欄にあるものは、主として經驗ある販賣人とか、手に職のあるものとか、或は住込奉公といったやうなものばかりであったが、その中で、これはと思はれる口が二ヶ所あった。その一は、
  外務賛助員
 固定給三十円、廣く人材を求む。優遇。
その二は、
 月収三百円、青年紳士を求む。
 といふのである。後者は少し話がうま過ぎると思って、谷井は最初に、廣く人材を求むといふ方の口へいって見た。それは某保險會社の代理店で、神田蝋燭町の電車通りの、屋上に三角形の廣告塔を立てた藥種店の土間の半分を衝立で仕切って、數脚の曲木椅子を置いたのがその事務所であった。股引のやうに細くなった白ズボンを穿いた五十がらみの男が應接に出た。
「學校は何處を卒業ましたね?」
「塾ですが……二年までいって中途退學しました。」
「三田か、それゃ素晴らしい。實は吾々の方では學歴よりも、有産階級の手蔓のあるといふ點に重きをおいてをるです。あすこなら定めし立派な知己を澤山お持ちでせう。」
 谷井はそれを聞いたゞけでぎゃふんとして了った、彼には學友や、親戚知人を頼りに保險の勸誘をするなんていふ事は到底出來ない。彼は這々の體で其處を逃げ出したが、外務賛助員といふ文句を思出して、太陽のぎらぎら照ってゐる往來の眞中で失笑した。
 次の月収三百円の口は、小石川西丸町であった。巣鴨の終點で電車を下りて、後へ引返して公設市場の横を入り、魚屋と下駄屋の露路を突當ったところにやうやう「帝國企業商會」といふ堂々たる看板を發見した。
 開閉(たてつけ)の惡い格子戸を開けて、一尺計りの土間に立つと、でぶでぶに肥滿った中年の男が猿股一つで現てきたので、谷井は悸(ぎょ)っとして顏をそむけた。
「新聞廣告を見てきたんかいな、ちょっと待ちなはれ。」といひながら男は次の間へ引込んだので、衣物でも着にいったのかと思ってゐると、小冊子(パンフレット)のやうなものと、玩具でも入ってゐさうなボール箱を抱へてきて、ぺらぺらと大阪訛りで説明しだした。
 ボール箱には金属製の棒の先端にゴム玉をつけた電氣仕掛けの、自働按摩器が入ってゐた。

 小冊子には、老衰豫防の秘傳と、按摩術といふやうな表題が印刷してあった。帝国企業商會の仕事といふのは、定價五円の自働按摩器を四円で受けて行商する事であった。
「八掛けやったら、一つ賣って一円の利得やさかい、日に十個もこかしなはれゃ、月に三百円は保證付や。男は小冊子を振り廻しながら得々と述立てた。
 谷井は呆れ返って、碌に挨拶もせずにそこを飛出した。
 そんな風にして、最初の一日は馬鹿々々しく暮れて了った。
 翌日は、方法を變へ、新聞廣告には依らずに、お茶の水の職業紹介所に出掛けた。そこでも思はしい仕事はなかったが、芝佐久間町の一源商會といふのに有給外交員の口があった。
 それは間口の狹い、鰻の床のやうな鑛油店であった。古色蒼然とした大金庫の前に、色の黒い、頤の突出た、人相の惡い男が肘を張ってを彈いてゐた。それが店主であった。男は散々谷井を待たせた後で、
「當節は、帝大出だって、二十五円も出せば大威張りで使へる。中途退學の場合には、寧ろ學校の名なぞは出さない方が増しだぜ、君。」と横柄にいった。
 店は可成り忙しいらしく、小僧だか、事務員だか判らないやうな男が、大荷物を擔いで出たり、入ったりしてゐる。その一人が店先で、リヤカーに山程の石油罐を積んで出掛けようとする背後から、店主は、
「それを蒲田へ届けてきたら、すぐこの十罐の口を二時までに中野へ配達するんだぞ。まだ三時間あるから充分だ。」と呶鳴った。
 彼は谷井の方をむいて、
「君は自轉車に乗れるかね? 尤も乗れなくたって、夜分にでも、店の前で少し稽古すれば雜作ない。給料は當分十八円と、それでよかったら、明日から出社したまへ。」
「歩合はどういふことになるんです?」谷井は十八円の固定給に失望したが、歩合に希望をかけた。
「歩合は一割、但し百円以上賣った場合に限る。何商賣をするんだって、最初の半歳や、一年は資本を下して勉強しなければならない。それを月謝を貰ひながら、仕事を覺えさせて貰ふなんて、こんな割の良い事はない。」店主は蟷螂のやうな、黒く長い腕を伸して、煤けた藥罐から麥湯を注いて、がぶがぶ飲んだ。そして急に氣がついたやうに、谷井にも一杯注いで出した。
 谷井は、密に溜息をした。彼は十八円の月給も面白いと思った。石油罐を自轉車に滿載して、東西南北に馳け廻るのも、痛快でいゝと思った。然し、この青閻魔のやうな顔をした店主と、鼻を突合せて、理窟めいた事を聞いて暮すのはやりきれないと思った。
 彼は其場で斷って了ひたかったのだけれども、うっかりへまな事をいふと、又、長説法が始まりさうだったので、曖昧な返事をして店を出て了った。
 谷井は暑氣と、疲勞で氣を腐らして了ひ、櫻田本郷町の通りで、簡單な食事を濟すと、まだ會社の退ける時間には早かったが、目の前で五本の指を出した円タクへ、ふらふらと乗って、淀橋へ歸った。
 彼が屋根裏の部屋へ上って、上衣を脱いでゐるところへ、
「ご免下さい、ご免下さい。」といふ聲が聞えてきた。
 階下の内儀さんが店へ出て、何かごとごといってゐる様子であったが、谷井といふ言葉が耳に入ったので、階段の上から首を出すと、伴野が土間に立って、流れる汗を拭いてゐた。彼は谷井の顏を見ると、ほっとしたやうに、
「やァ、こゝを捜すのに、大骨を折りましたよ。」といひながら、靴を脱いで、さっさと梯子段を上ってきた。

「こんなところへ、大變でしたね。」谷井は恐縮したやうに、座布團を前へ突出した。
「自動車々庫の二階なんかに、よく御辛抱なさいますな。運轉手と御同居ださうですね。トタン屋根ぢゃァ、耐らんでせう……二三日お見えにならなかったから、この暑氣にやられなすったかと思って……」伴野は男住居の、雜然とした狹い部屋を見廻した。
 谷井は伴野の視線を追って、着古したシャツや、だらりとぶら下ってゐる川路の浴衣などに眼を移して、少し恥入ったやうな氣持になった。
「僕は會社を罷めて、就職口を捜してゐたんです。」
「へえ、それゃいゝ經驗でしたね……どうです、社へお戻りになりませんか。爭議の方は新聞で御承知かも知れませんが、六分通り要求を容れて、無事に解決しましたよ。」
「爭議がどう解決しようと、問題ぢゃァありませんよ。僕はお情で月給を貰ふのはご免です。その話でいらしったのなら、どうぞ歸って下さい。」
「それが貴郎の最後の御決心なら、どうも致し方がありません。或はそんな事かと思ひ、社長から退職手當を預ってきました。今月分の給料に、手當が三ヶ月入ってをりますから。」
 伴野は折鞄から、膨んだ褐色の封筒を取出して谷井の前へ置いた。
「そんな金は、一錢も貰ひたくないですね。」
 伴野は自分の耳を疑ふやうに谷井の顏を見直した。
「何ですって? さう申しちゃァ、甚だ失禮だが、この退職手當は破格ですぞ。社長の特別の計ひで…………」
「僕は、その特別扱ひが厭で罷めたんです。御厚意は有難いですが、この金は受取れません。」
「貴郎はそんなことを仰有って、明日からどうして食べてゆきます。汗みどろになって、二日も三日も巷を捜し歩いて、就職口が見付かったとでもいふんですか。甚だ出過ぎた話かも知れませんが、貴郎は少しも世間をご存じない。世の中は万事これですぞ。これがなければ人格までなくなって了ふ。」
 伴野が、人差指と拇指で、丸をこしらへて鼻先で振廻したのを見て、谷井は厭な顏をした。
「いや、もう澤山です。暑いから、貴殿もそろそろお歸りになった方がいゝでせう。」
「貴郎は、根本から慮へ違ひをしてゐらっしゃる。貴郎は第一に親御さんの心持といふものを理解なさらなければいけない。子供は親に一度睨まれた位で、平氣で親を憎んで了ふが、親の方では踏まれても、蹴られても、子供を愛しつづけるものです。貴郎は獨立自尊なんていふ旗を立てゝ、自分だけを良い子にして、親の慈悲を無視してゐらっしゃる。それでいゝと思ふんですか。世の中は、さういふものではありませんぞ。」
 谷井は、家出をした前の晩、父親が咳をしながら遅くまで起きてゐて、縁側を往ったり、來たりしてゐた姿を想ひ出した。父は淋しい影を背負ってゐた。物置小舎の上を覆うてゐる無花果の大きな葉が、生ぬるい風に煽られて、屋根を叩いてゐた。もう少し耳を澄すと、二階の、三角形の三色旗を壁に貼った彼の部屋で、卓子に空布巾をかけてゐる老婢の、ごとごと呟く聲が聞えてきさうだった。谷井は周章てゝ、それ等の光景を墨で塗りつぶして了った。
「歸って下さい。歸って下さい。僕はそんな下劣な金なんか、欲しくはありません。」谷井は呶鳴って了ってから、自分の高い聲に驚いた。
 伴野は、呆れ返ったやうに口を開いて、昂奮してゐる谷井の顏を視詰めてゐたが、それっきり何にもいはないで、金包を折鞄に押込みながら、匆々に歸って了った。

お加代の家
 谷井は、毎日空しく外を出歩いてゐる中に、月末がきて、段々懐中が淋しくなってきた。
 其日も考へ事などをしながら、街角を曲ると、商店の飾窓に麥稈帽子を被って、型のくづれた白服を着てゐる憔悴した自分の姿を見出した。服は既う三日も着つゞけてゐるので、腕に皺が出來て、袖口は汗で赭くなってゐた、白靴は塵埃を被ってゐる。
 彼は父の家を飛出して以來、知った顏に會ふのを惧れて、銀座通りは愚か、一寸した表通りさへ歩いた事はなかったが、それでゐて尚、自分の見窄らしい姿を見られはしまいかと四邊を見廻すのであった。
 午後二時の、物影一つない炎天を、喘々歩いてゐる彼の靴の先で、白く灼けた舗道がむくむく起上ってきて、鼻先に迫ってくる熱氣に呼吸苦しかった。
 彼は燒付やうな咽喉の渇きと、微かな頭痛とを覺えながら、それをどうしようといふ氣もなく歩き續けて、麹町電車通りから、紀尾井町の郵便箱の傍を入っていった。そこには大きな松の木が聳えてゐて、だらだら坂になった兩側に、緑が繁ってゐた。
 坂の中途の、石垣の上の黒板塀から凌霄花(のうぜんかずら)が下って、黄橙色の花が咲いてゐた。それは谷井の父の圍っておく、お加代の家であった。彼は知らず、知らず、その石段を上って了ったのである。
 玄關の簾の蔭にゐた小婢が、周章てゝ奧へ引込むと、入違ひに派手な絹麻布の浴衣を着たお加代が出てきた。
「まァ、若様、よくいらっしって下さいました。さァ何卒。」
「いや、こゝで……」
「そんな事を仰有らないで、何卒お上り下さいまし。」
「上らなくなってもいゝんです……僕、少し金が入用(いる)んで……」谷井は口ごもった。
 お加代は小走りに奥へいったと思ふと、すぐ紙幣入をもって引返してきた。
「もっと御入用なのでございませうけれども、生憎今日はこれっきりしか持合せておりませんので……これでお役に立ちましたら……でも、何卒、お上りになって、冷たいものでも召上って下さいませんか。」
 お加代は紙幣入をあけて、六枚の十円紙幣と、五円紙幣とを遠慮勝に差出した。
「それだけでも結構、では借りてゆきますよ。」
 谷井は借りるといふ言葉に力を入れた。そして掴んだ紙幣を無雜作にポケットへ拈(ひね)り込んだ。
「あの。明日は日曜でございますから、明後日ですと、もっと澤山そろへておきますが……若様は、只今、何處におゐで遊ばすんでございます?」
 お加代がいくらか親しみ深いやうな調子になったのを、谷井はぐっと睨み返して、
「僕の居所なんぞをきいて何になるんです。僕が金を借りぱなしにでもすると思ってゐるのか。」と憎々しくいった。
「飛んでもない、決してそんなつもりではございません。私は……」
 谷井はお加代の言葉が終らない中に、くるりと後をむいて、大股に玄關を出て了った。
 お加代から金を借りたことが、酷く彼をみじめにした。彼は男子の爲すべからざることをしたやうに思って、一旦ポケットに入れた金を、すぐ返しにゆかうと思った。けれどももう一つの心が力強くそれを遮った。彼はその、もう一つの、意氣地のない、圖太い心を叩きつぶすやうな氣持で、門を出る時、柱にぶつかって飛上った麥稈帽子を、力任せに地面に叩き付けて、滅茶々々に踏み躙った。
 ――なァにいゝさ、返してやればいゝんだ――
 それでいくらか氣の濟んだ谷井は、電車通りへ出ると、シャツや襟飾や、帽子などの手招いてゐる銀座へ足を向けた。

 其晩、十一時過ぎに、買物の包をぶら下げて、屋根裏へ歸った谷井の頭には、廿円のパナマ帽子が乗ってゐた。
「いやに、きばったな。賞與(ボーナス)でも出たのかい。」
 バットの煙を天井に吹きながら、床の上に引くり返ってゐた川路がいった。
「それが、變な賞與なんだ……構ふもんか、行くところまで、いって了へばいゝんだ……君の好きな洋菓子だ、やらんかね。」谷井は、包の一つを解いて、ボール凾に入った菓子をすゝめた。
「ほう、舶來の輸入煙草なんかも、買って來たな。えらい景氣ぢゃァないか。」
「それゃ君へ土産だ。」
「有難う、だが、君はこの四五日、會社へ出てゐないやうぢゃァないか。」川路は起きてきて、煙草の罐を切り始めた。
「會社は不愉快だから、とっくに罷めたよ。君に内緒で、後口を捜して了はうと思ったが、駄目さ。いゝ智慧はないかね。」
「そんな事だらうとは思ってゐた。就職口を捜すたって、この暑い中は何處にも口なんぞあるもんぢゃァない。まァ、やきもきしないで、秋になる迄、こゝにぶらぶらしてゐるさ……あゝ、これゃ上等だ、久しぶりでいゝ煙草を吸った。舶來煙草ってやつは、盗んだのしか吸ったことがない。お屋敷にゐた頃は、西洋間の接待煙草をちょいちょい失敬したもんだ。公明正大なやつを吸ふのは、これが初めてだよ。ふゝふゝゝ。」川路は谷井の就職の事なんかは煙に吹飛して、愉快さうに笑った。
「僕も、就職の事なんぞはどうでもいゝと思ふんだけれども、氣になる事がもう一つあるんだ。」
 川路は谷井が何をいひ出すのかと思って、まだパナマ帽を被ったまゝでゐる彼の顏を、面白さうに見守った。
「實はね、いつか君の話した小鹿麗子に、ダンスホールの前で會ったんだが、どうしてあんな娘がダンサーなんかしてゐるんだらうな。」谷井はその言葉の中に、白い帽子の下から、ぢっと自分を視詰てゐた麗子の姿を思ひ浮べてゐた――あの潤をもった瞳は、救ひを求めてゐたやうに思へたが――
「なァに、生活さ。女給が駄目となれば、少し器用な娘だったら、先づダンサーといふところかな。」
「そんな風ぢゃァ、生活に困ってゐるんだらうな。何處にゐるんだらう?」
「まァ、そんな事はどうだっていゝぢゃァないか。第一、眞裸體で帽子を被って、ダンサーの身許調べをしてゐるなんて、凡そ珍妙な圖だね。」
 さういはれて、谷井は初めて自分の異様な恰好に氣付いて、
「成程、これゃ變だ。」と大聲で笑出した。
 其晩二人は遅く迄起きてゐた。喋ってゐるのは主に谷井で、彼はひどく樂天的になってはしゃぐかと思ふと、急に悲觀したやうなことをいって悄氣たりした。
 二人が床に就いたのは二時過ぎであったが、曉方、谷井の呻聲に眼を覺した川路が、そっと彼の前額に手をやると、びっしょり汗をかいて、火のやうに熱くなってゐた。
「おい、どうした。苦しいか?」
「前晩(ゆうべ)、アイスクリーム曹達を三杯、立續けにやったのが惡かったらしい。腸をやられて了った。」
 谷井は力のない眼をあけて、ぼんやり空を見守ってゐる。
「醫者を招ばうか?」
「徳永博士はご免だぜ……そんな事は冗談だが、二日も絶食してゐれば癒るから心配はないよ。」
 川路は、そんな事は聞えないふりをして、がらがら雨戸をあけて新鮮な朝の空氣を入れると、戸外へ出ていって、氷と藥を買って戻ってきた。

 川路は、其日は何處へも出ずに、終日谷井の看護をして、甲斐々々しく氷嚢の氷を取替へたり、食事の世話などをした。
 谷井の病状は危惧した程ではなく、二三日すると、すっかり熱が除れて、川路の購ってきたオートミールを煮たりして食べた。
 暑い日と、暑い日の間に挾まれた、次の日の暑さが思ひやられるやうな、妙に風の冷々した曇った日であった。
 谷井はお加代から借りてきた六十五円が、その晩の中に、大方なくなってゐた事を知ってゐた。
 彼はどうしても金が必要であった。川路には家賃の半分を負擔する約束があった。それは自分からいひ出して、強いて納得させた事である。無論、斯うした場合、川路がそんな金を當にしてゐるとは思はなかったが、せめてそれだけは拂ひたかった。川路は彼の爲に四日も仕事を休んでゐる。そしてその朝は、こっそり郵便貯金を下してきたやうであった。
 谷井は、寛大な川路の申出をいゝ事にして、何處までも負さってゆくのは濟まない計りでなく、罪惡だと思った。
 彼は柱の釘に引かゝってゐる眞新らしいパナマ帽を見て、大切な金の中から廿円も支拂って了った事を少し後悔した。
 川路は、五日目の朝になって、初めて外出の支度をした。彼は汗ぽくなった薄手の鳥打帽子を阿彌陀に被って、罐から摘出した煙草をポケットへ入れながら、
「ぢゃァ、僕は出掛けてくるぞ。今日はまだ起きちゃァ駄目だぜ。用があるなら僕が足してきてやる。こゝも片付けなくてもいゝから、靜に寝てゐろ。」
「僕の病氣はすっかり癒って了ったんだが、さういふなら、もう一日、靜養するとしよう。」
「煙草の控へておく方がいゝぜ。君は昨夜、煩い程咳(せき)をしてゐた。」
「おやおや、外出止に、禁煙令か。」
「病人の癖に贅澤いふない。」
 川路は陽氣に口笛を吹きながら出ていった。
 谷井はひとりになると、又、金の事が氣になりだした。どう考へても秋まで支へる金の出所がない。彼はづらりと友達の名を想ひ浮べた。足利、山邊、櫻木、等、等。――だが、どうしてそんな連中のところへ、金なんか借りにゆかれよう――
 谷井はそんな事を考へてゐる中に、伴野が持ってきた退職手當を突返した事が惜しくなってきた。――さうだ。借用證書を入れて、正々堂々と伴野から借りてやらう――彼は金の目當がつくと、急に元氣になって、支度もそこそこに部屋を出た。
 勝手元で、洗濯をしてゐた内儀さんがその跫音を聞付けて、濡れた手を振りながら走ってきた。
「あらまァ、谷井さん、何處へいらっしゃるんです? お買物なら私が一走りいってきますよ。」
「鳥渡、その角まで煙草を買ひにゆくんです。」
「煙草なら、私がいってきてあげませう。御病人を外へ出したりすると、後で川路さんにどやされますからね。」
「病人は昨日でお終ひですよ。寝て計りゐないで、少しは足馴らしをした方がいゝんです。そこまでいってくるのは五分とかゝりませんからね。」
 谷井は、心配さうに立ってゐる内儀さんに微笑を殘して往來へ出た。彼はわざわざ煙草屋の前を廻って電車通りへ出ると、築地行の青バスへ飛乗った。
 トンボ劇場の事務所の入口を、幾度も往ったり、來たりした揚句、谷井は思切って中へ入っていった。
 給仕の中村が目敏く見付けて、懐しさうに傍へ寄ってきた。
「あゝ、谷井さん、貴郎は自分から止して了ったんですってね。貴郎がゐなくなってから僕はつまりませんよ。後は話せない人計ですからね。」
「相變らず遊ぶこと計り考へてゐるんだらう……おい……あの、伴野さんはゐるか?」といって了ってから、谷井は腑甲斐なくも胸をどきどきさせた。

「伴野さんは、昨日から休暇なんですよ。」
 谷井はそれを聞いて救はれたやうな氣がした。
――ゐないでよかった。もう少しで大恥を掻くところだった――
「通りがゝりに、鳥渡寄って見たんだ。別に用はないんだから、伴野さんには、僕がきた事を傳へる必要はないよ。」
「暑いから、海水にでもいらっしゃるんでせう。僕も會社なんて罷めて了ひたいなァ。」
 事務所の出口まで蹤いてきた中村は、そんな事をいった。
 谷井は、それから散々巷を歩き廻った揚句、又、お加代の家の前に出て了った。着橙色の凌霄花の花が凋んで、小さな新らしい花が咲きかけてゐた。
 兩側に松葉牡丹の這ってゐる小徑を、眞直ぐ玄關へ入ってゆくと、出てきた小婢がぴったりと坐って、
「何卒、お上り下さいませ。」といった。
「ゐるかい?」谷井は棒立になったまゝ云った。
 小婢は、玄關と奥の間を往復して、頻りに谷井を講じ入れようとした。その中に髪でも結ってゐたらしいお加代自身が出てきて、
「先日は玄關先でお歸しして了って、眞實に失禮いたしました。今日はお願ひでございますから、何卒お上り下さいまし。いろいろお話を伺ひたいと存じますから。」
「僕には、貴女から金を融通して貰ひたいといふ以外には、何にもお話する事はないんです。」
「それはよろしうございますとも、私で出來ます事なら何でも致します。お金の事はいゝと致しまして、もう時分どきでございますから、お晝飯でも召上っていって下さい。」
「二三日、腸を損してゐるから、ものなんか喰はない方がいゝんです。」
「そりゃいけませんわね。それでもうすっかりおよろしいんですか、いろいろ御苦勞をなすってゐらっしゃるやうで……お身體でもお不良くなすってはと、私共はいつも心配してゐるんでございますよ。」お加代は面窶れのした谷井を見て顏を曇らせた。
 谷井は、お加代の憫むやうな眼に反感をもって、
「別に苦勞なんかしてゐませんよ。自分が好きでやってゐるんですから。」
「學校の方は一學期お休みになったとしても、九月からお出になればよろしいんでございませう。もう一息といふところで止してお了ひになるのは、眞實に惜しいと存じます……」
「困ったな、僕は貴女のお説教なんか、聴きにきたんぢゃァないんだが……」谷井は苛々して、煙草を自棄に吸った。
「どう致しまして、決してそんなつもりではございません……それで、お金はこれでお間に合ふでございませうか?」お加代が紙幣入から百円紙幣を二枚出しかけた時、奥で小婢が電話をかけてゐる聲が聞えてきた。
――只今、若様がお見えになってゐらっしゃいますから……
 谷井は、突乎(いきなり)、お加代の手から紙幣を引たくり取った。
「親父が來たら、僕が貴女から金を盗んでいったといって下さい……上れ、上れなんていって置いて、そっと親父に電話をかけるなんて、卑怯な事をする。」
「まァ、若様……」お加代は手巾で眼を押へた。
 谷井は上框に肩を慄はせてゐるお加代を後目にかけて、小砂利を蹴りながら門を出た。
 けれども、すぐその後から、後悔が追ひかけてきた。堤下の乾いた道路を踏んでゆく靴音と、高い松の梢を拂ってゆく風の音が、妙に耳についてゐた。
「僕はどうして、斯う怒りっぽいんだらう。」彼は泣伏してゐたお加代の姿や、間もなく自動車を飛してくるであらうところの、父親の顏などを侘しい氣持で視詰めてゐた。
――もうお終ひだ、僕にはもうゆくところがない。この二百円は最後の金だ。今度こそ、この金を活かさなければならないぞ。これで凡に左様ならだ――
 彼は淀橋へは歸らず、大決心をもって、三ヶ月程前に巣を構へてゐた、尾久町へ向った。

 川路が、仕事を少し早目に切上げて、淀橋の家へ歸ると、二通の手紙が待ってゐた。速達便は谷井からであった。

 甚だ唐突ですが、唯一の安息所であった屋根裏の家へは、今日限り歸らない決心をしました。
 あの土砂降りの晩、君に助けられて以來、同じ屋根の下に起居を倶にしたといふ事は、何といふ奇縁でせう。僅か二ヶ月の交友であったけれども、僕には終世忘れられない君である。
 こんな事をいっては、水臭い奴だと憤慨されるかも知れないが、僕はこの上、君に物資の負擔をかけたくない。
 僕は君にも、親にも、親戚にも、それから一切の友人にも左様ならをして、自分で自分の道を拓いてゆかうと思ふ。僕は出直さなければならないのだ。
 この次に君に會ふ時には、もっといゝ條件にありたいものだ。
 いつも變らぬ君の友誼を謝しつゝ
 谷井清
 川路力松君

 川路の眼に涙が光った。
――坊ちゃん育ちで、お洒落で、我儘で、そして感情家の彼に、何が出來よう――若し谷井の居所が判ってゐたなら、彼は直ぐにも飛んでいって、撲りつけてゞも、無理矢理に連戻ったであらう。
 川路は讀終った手紙を疊に叩付けて、ごろりと仰向けになって、少時天井を視詰めてゐたが、急に起上ってもう一度手紙に目を通し、下谷局の消印や、時間などを檢めてから、叮嚀に机の抽出へ藏った。そして氣が付いたやうに、もう一つの葉書を取上げた。
 それは逗子に避暑中の山邊靖子からで、明日十一時に、新橋驛へ迎へにきてくれといふ、ペンの走り書きであった。その一枚の葉書は夕燒雲のやうに、彼の心の隅を明るくした。
 けれども夕燒は、さう永くは續かなかった。彼は谷井の外套や、ステッキなどの殘ってゐる部屋で、夕刊などを擴げてゐたが、ぢっとしてゐられなくなって、金入をポケットに押込むなり、逃げるやうに家を出た。
 彼は最初、何處といふ的はなかったのだけれども、新宿通りを歩いてゐる中に、急に思付いて、八重洲通りの星ダンスホールへ向った。
 ホールでは小柄な小鹿麗子は餘り賣れっ子ではなかったが、美人で、誰の眼にも純眞そのものゝやうに見えたので、若い學生達の間に素晴しい人氣があった。
 川路は得意の滑込みで、二度とも續けて彼女と踊る事が出來た。
「今日は、何だか沈んでゐらっしゃいますね。」
「君の知ってゐる谷井君は、僕のところを飛出して、何處かへいって了ったよ。」
「どうして? 何かあったんですか?」麗子は鳥渡ステップを間違へさうになった。彼女はそれだけでも胸をわくわくさせた。
「多分、僕のところにゐるのが、親父さんに知れたからだと思ふ。つひこの間、親父さんの友達の代理だとかいふ男が、家へ訪ねてきたさうだから……」
「どうして、あんな御立派な家の坊ちゃんが、家出なんか、なすったんでせう。お父さまもお優しさうな方でしたし、乳母さんなんかも、坊ちゃん思ひの、眞實にいゝ方でしたのに……」
「青年は青年の中で暮したいんだよ。」
「谷井さんは、山邊さんなんかとも、お友達なんですってね……お家をお出になったりして、これからどうなさるおつもりなんでせう。眞實にお可哀さうね。何か、人にはいへない不幸な事がおありになるんではないでせうか……。」麗子は谷井の陰に、惡い女でもついてゐるのではないかと思って、それっきり話題を變へて了った。
 川路は、隣り同志であった彼等二人が、當然誰よりも一番深い交渉を持ちさうでゐながら、離れ離れになって、却って山邊だの、足利だの、自分だのが、斯うして麗子の近くにゐるのを不思議に思った。

 次の日、川路は少し早目に自動車を新橋驛につけて、煙草を横啣へにしながら、掃子(はたき)をかけてゐると、いつの間にか、背後を廻ってきた靖子が、
「感心だわね。僕、荻窪へゆくのよ。いってくれて?」といひながら扉に手をかけた。
 川路は、ケープ襟(カラー)のついた緑色のドレスを着た靖子をちらと見ただけで、例によって挨拶もしないで運轉台に乗った。
 赤坂見付、權田原、神宮外苑、淀橋、中野、馬橋、それから右へ折れて自動車は荻窪の足利家へ向った。
「こゝで停めてよリキ、そして少し歩かない?」
 矗々(すくすく)と伸びた杉木立が、爽かな風を聚めてゐる並木道に差しかゝった時、靖子が不意に川路の肩を突いた。
 川路は路傍へ自動車を停めて、森の小徑を默々と、靖子の後から蹤いていった。
「君に倫敦の郊外を見せたいな。いくら歩いても、中々端れへ出ない大きな公園があるんだ。こんな森の中を歩いてゐると、不意に、海かと思ふやうに、青鈴蘭(ブルーベル)が咲いてゐるしね。僕は又、倫敦へ歸りたくなったよ。」
 川路は、行く先々で明るさをみんな自分のものにして了ふ靖子のやうな娘でも、何だか知らないが、そんな遠い外國へ歸りたくなるのかしらなどゝ思ったが、口に出しては何にも云はなかった。
「君は口が重いのね。それとも遠慮ぽいのかしら。」
「何をいってゐるんです。勝手な批評をしますね。」川路は思はず吹出した。
「今日はね、足利のところで、お晝ご飯と、晩ご飯を招ばれてゐるんだけど、一緒にこない?」
「招かれざる客になんかなるのは厭ですよ。」
「あすこの家は構はないのよ。それに君の事は、もう先から吹聴してあるわ。」
 靖子は兎のやうに、溝や草叢の株を飛んでゐたが、急に重大な用件でも思出したやうに、川路の傍へ引返してきた。
「君は、僕の事を何て稱ぶつもりなの? 何ていふかと思って、いつも氣を付けてゐるんだけれども、一度も僕を呼んだ事はないね。」
「さァ……陰ぢゃァ、お姫様といってゐるんだがな……」
「お姫様は少しシャクだな……でもいゝや。それぢゃァ君は幾許か僕を尊敬してゐるのかい?」
「喜んで用心棒を承ってゐるといふところかな。」川路は柄になく、鳥渡顏を赧くした。
「紳士氣取りなんだね、いゝよ、僕は君が好きさ。」靖子はくるりと後向になって、又、先に立って歩出した。
 森の先端から、二人は自動車のところへ引返した。
「足利のところへゆくのはどうしても厭?」
「止しておきませう。」
「……さうね、ぢゃァ今日はこれで失敬しよう。その中に逗子へ連中を招待するから、その時は大威張りでやってきてね。無論、招待状をあげるよ。」
「僕はさういふ交際は、余り好きぢゃァないんだけれども……」
「命令よ。」
 靖子は睨む眞似をして、易々と川路の承諾をとった。
 足利家の門前で川路に別れた靖子は、案内を乞ふまでもなく、庭を廻って露臺へ上っていった。
「美波子! 伯母様! 靖子がきたのよ!」
 靖子は節をつけて唱ひながら、その邊を歩き廻って、小卓子(サイドテーブル)の上の切子硝子(カットグラス)の鉢から、緑色の葡萄をを擯(つま)んで口へ入れた。
 そこへ、美波子がいそいそ走り出てきて、
「あら、いらっしゃい、暑かったでせう。今直ぐ冷たいものを持ってこさせるわ。」と懐しさうに靖子の側へ寄って、脱いだ帽子を受取った。

「こゝへくると、鳥渡テニスをしてもいゝ氣になるわね。相變らずやってゐる?」
「勇介が、川崎をお伴に連れてキャンプ旅行にいって了ったので、コートは閑散を極めてゐるわ。」
「春、盛んにやってゐた頃は、猛烈な夏季練習をやって、鎌倉倶樂部と試合をするんだなんて意氣込んでゐたのに、第一に約束を破ったのは谷井君だったね。」靖子がいった。
 二人は、春の頃より一層影を増した緑の隧道を抜けて、コート傍の小高い四阿家(あずまや)の方へ歩いていった。
「谷井さんはどうしてゐらっしゃるんでせうね。その後、噂をお聞きにならない?」
「この間、マサが星ダンスホールの前で會ったんですってさ。僕がゐたら捕へてきて了ったんだけれど、マサはあんなでせう。だから居所も聞いてこやしないの。」
「ぢゃァ矢張り、東京の何處かにゐらっしゃるのね。矢來のお宅では随分心配してゐらっしゃるのよ。學校へも全然顏を出さないんですって。この間、邦樂座で櫻木さんに會ったら、さういってゐましたわ。皆がこんなに心配してゐるのに、何故、私達から離れて終ったんでせう……」
「原因は、あの伊佐子だと思ふわよ。考へてご覧なさい。谷井君が家を出たのと、伊佐子が姿を消して了ったのと、殆ど同時ですもの。」
 美波子は、それを聞いて鳥渡顏を曇らした。
「さうでせうかしら……でも伊佐子っていふ人は、随分年とってゐるぢゃァないの。」
「相當な年齢だが、あの顏は、僕、嫌ひぢゃァないな。それ、星ダンスホールの小鹿麗子に似てゐるぢゃァないか。あの眼がいゝね。」
「さうかしら……麗子っていふのは、温順しくっていゝ娘だけれども……」
「あゝ、鳥渡待って頂戴、谷井君と伊佐子が僕等の前から消えて了ったのは同時だったけれども、二人が一緒に隠れてゐるといふ證據はないのよ。」靖子は美波子の心の底まで見透すやうに、ぢっと眼の中を覗込んだ。
 屋根の上のポプラが、蒼穹に白い葉裏を翻へして、吹抜けてゆく風に應へてゐる。
「私、谷井さんが眞實にお氣毒だと思ふのよ、……こゝにもよくいらしったでせう……そして私達はお互ひによく性質を知ってゐるでせう……」
「君は谷井君が好きだったんだね。こんなことになったのは、君にも多少責任があると思ふよ。蔭でいくら和歌を作ったり、日記を書いたりしたって、駄目さ。」
「靖ちゃんは、他人のことだとそんな口を利くけれども、自分がさういふ問題にぶつかった時、立派にやれる?」美波子は笑ひながら應酬した。
「僕が戀愛をすれば勇敢だよ。尤も現在は相手がないから、模範を示すことは出來ないけれどもね。」
「……私の責任かしら……でも、私には到底出來ないわ……」美波子は久時してから、獨言のやうにいった。
 間もなく、女中が食事を知らせにきた。二人は食堂の大卓子に向ひ合って他愛のない雜談をしながら、ゆっくり食事をした。
 靖子は、美波子の母親の前では、余程言葉使ひを慎んでゐたやうだったが、時々興に乗って、君、僕を連發して謹嚴な小母様を微笑させた。
 食後、美波子の部屋で靖子がピアノを弄(いじ)ってゐるところへ、足利が汗を拭き拭き入ってきた。
「あら、お歸りなさい。この暑いのに何處へいってきたの?」靖子はピアノのキイを叩きながら振返った。
「櫻木から情報が入ったんで、珍しく早起きをして淀橋までいったんですがね。」といふ足利の顏を、美波子は氣遣はしさうに見上げながら、
「それで、お判りになって?」
「判りにくいところで、大汗を掻いちゃったよ。要するに、二足も、三足も遅れて終ったんだ……まァ、鳥渡着替をしてくるから。」足利は濡れた手巾と帽子を一緒に掴んで、部屋を出ていった。

「昨晩遅く、櫻木さんから電話で、谷井さんのお住居が判ったって知らせてきたのよ。それで兄が今朝早く出掛けたんですの。何でも谷井さんは、活動寫眞の會社とかへ勤めてゐらしって、櫻木さんはそこで働いてゐる親戚の方から、偶然聞出したんですって。」と美波子がいった。
「谷井君が勤人になったって? よく彼にそんな事が出來るね。少し感心したいね。屹度、我儘で、同僚と喧嘩ばかりしてゐる會社員だらうね。」靖子は興味をもっていった。
 美波子はしんみりして、
「でも、谷井さんが學校を中途で止めて、月給取なんかになるなんて、よくよくの事情がおありになったのだと思って、眞實に淋しくなるわ。」
「それ程の事はないだらう。適には月給取になるのも、目先が變って却って面白いさ。」
 靖子は、丁度そこへ入ってきた足利を見て、
「谷井君が、勤人になったといふ事は、報道價値があるわ。それからどうした?」と愉快さうにいった。
「淀橋の税務署の横から、煙草屋の角を曲った、ごみごみしたところで、穢い車庫(ギャレーヂ)の屋根裏に、自動車の運轉手と同居してゐるといふ譯だったが……あれゃ、余りひどい、あゝまで下落するとは思はなかった……」
「そんな事を仰有るもんぢゃァないわ兄さん、假令どんなところに住んでゐようと、人格に變りはないわ。」美波子は突っかゝるやうにいった。
「美波子のいふ通りだわ。少し下等な表現(インスプレッション)だった、君の爲に惜むわよ……」靖子は鳥渡考へるやうな眸をして何かいひかけたが、思ひ直して口を閉ぢて了った。
「こりゃいけない。それ程、意味のある言葉を使ったつもりぢゃァなかったが……では失言を取消すとしてやっと、侘住居を突止めて見ると、谷井君は三日前に、その家を出て了ひ、勤務先のトンボ劇場に聞合せたところが、一ヶ月も前に自分から罷めたといふ次第なんですよ。」
 三人はそれっきり默り込んで了った。久時して靖子のあげた眼と、足利の眼とがばったり會った。靖子は美波子の爲に、それ以上谷井の噂に觸れたくなかった。足利もそれを感じたと見えて話題を變へた。
「山邊君は相變らず遅いな。どうしたんです?」
「マサは駄目よ、何だか譯が解らないのさ。いつも前の日まで約束を嚴守しておきながら、當日になってもっといゝ事があると、ふらふらと、そっちへ往っちゃうんだからね。支那みたいな奴さ。」
「靖子さんに會っちゃァ叶ひませんね。それで今日はどんないゝことがあったんです?」
「マサはね、やうやう伊佐子熱が冷めたと思ったら、今度は猛烈な麗子熱に浮かされてゐるのよ。だけれど、麗子には少し可哀相だわ。あの通りの赤坊(ベイビイ)だからね。」
「貴女だって、稍、氣の強い赤坊組ぢゃァないかな?」足利は揶揄(からかう)ふやうにいった。
「馬鹿いってら。僕はこれで何でも知ってゐるよ。一體マサだの、足利君なんて、親から小遣を貰って、女性の御機嫌取りに没頭してゐるやうな奴は駄目さ。いくら奢って貰ったって、パヽさんから奢って貰ってゐるやうなもので、有難味が薄いわ。僕は矢張り一本立の人間を尊敬したいな。」
「僕だってその中には、一本立になるんだがな……」
「マサもそんなことを三年越しにいってゐるわよ。」靖子は朗かに笑った。
「今夜は、山邊君がこないとなると。男は僕ひとりで總攻撃に遭ふのかな。」
「僕はそこまで友達と一緒に來たんだけれども、歸しちゃったよ。」
「歸さないで、伴れてくればよかったのに。」
「それが少し變った友達なのよ。」
「あゝ、判った! 例の川路力松でせう。」
「さうさ、あれゃ貴族だから、氣位が高くって、招待状なしぢゃァ、來ないっていったわよ。」
「こいつは参った。會ふ度に力松君の位が上ってゆくんだな。」足利は大袈裟に笑った。

忍び寄る戀
 須田町の果實店の二階にある靜かな喫茶店で、山邊と麗子が人目を避けるやうにして、扇風機の下のボックスに對(むかい)合ってゐた。
「何か、もう少し實になるやうなものを食べなくっていゝの?」
 山邊は、桃色の曹達水のストローを吸ってゐる麗子の花弁のやうな唇を視詰ながらいった。
「えゝ、眞實に何にも欲しくありませんわ。」
「まるで鳩の餌位しか食べないんですね。尤もそんな華奢な體躯をしてゐるから。」
「そんなことはありませんわ。」麗子は肩から露(で)てゐる白い二の腕に、山邊の凝視を擽く感じて、そっと肩を窄めた。
「僕なんかは、朝の食事が待遠しくって、寝坊してゐられない方なんですよ。先づメロンを半分、大皿にオートミールを一ぱい、ベーコンと鶏卵二個、それに分厚な燒麪包(トースト)、マーマレードと和蘭三葉(セロリ)、それから例の大コップで、香の高い紅茶を三杯、それでゐて一時まで保たないんですよ。」
「まァ、随分健啖家でゐらっしゃるのね。」
 麗子は眼を瞠った。
「僕は非常に健康なんです。適には病気でもして、誰かに見舞にきて貰ひたいと思ふ位なんです。」
「でも缺食病にでもなるといけませんから、私に御遠慮なく澤山召上って下さい。」麗子は笑ひながらいった。
「……どうです。今日は活動寫眞には少し暑過ぎるやうですから、箱根へでもドライブしませんか。」山邊は給仕の運んできた二つ目の皿を片付けて了った。
「箱根?」麗子は窓の外の高い建物(ビルディング)の上に浮んでゐる白い夏雲を見上げながら、まだ見た事のない、緑の渓谷を胸に描いた。
「自動車で三時間も飛ばせば求ですよ。」
「ようございますわね。どんなにいゝでせう。」麗子は憧れるやうな眸で、無邪氣に山邊の顏を見上げた。
「杉木立の中で、蜩の聲を聞きながら、二人きりで温泉に浸ったり、お話をしたり、實際浮世を忘れますよ。」
 麗子は温泉に浸るときいて、悸とした。
「でも、今からでは歸りが遅くなりますわ。時間に遅れるとやかましいんですの……」
「少し位遅れたって構ふもんですか。支配人が愚図々々いったら、あんなところは止してお了ひなさいよ。」
「でも、私の生活ですから、そんな譯にもゆきませんわ。」
「然し、貴女は、ダンサーといふ柄ではありませんね。どうです一層きっぱり止めて了って、外國へゆく事を考へませんか。貴女さへその氣なれば、巴里だって、倫敦だって、僕は喜んでお伴しますよ。」
「まァ、そんなこと!」
「巴里で、本場のダンスを見學したり、舞臺舞踊を研究したら、随分貴女の爲になると思ひますね。僕も來年は倫敦へ歸って、父の店を手傳はなければならないんです。どうです流行の巴里や、倫敦は、貴女を惹付けませんか。」
 山邊は餘り熱心になって箱根のドライブから大分外れて了ったが、氣が付いて話を戻した。
「どうです? 箱根行は。」
「えゝ、でも、今日は矢張り活動寫眞を觀せて頂きますわ。」
「さうですか、矢張り活動寫眞ですか。」
 山邊は麗子が温順さうでゐて、案外慥りしてゐるのに気付いた。彼は箱根行に見切りをつけると、さらりと調子を變へて、
「尤も、帝劇は割に涼しいし、それに今週の番組(プログラム)は觀ておく價値がありますね。」といった。
 映畫は非常にロマンチックなものであった。銀幕の甘い場面に刺戟された計りでなく、山邊はそっと麗子の手を握った。彼は桃色の夢を夜にまで延長させる計畫で、晝興行(マチネー)が終って階段を下りてから、彼女を銀座へ誘はうとすると、泥鰌髭を生した老人が親しげに傍へ寄ってきて、
「やれやれ、いろいろ有難う存じます。麗ちゃんや、面白かったかい。よくお禮を申上げなさいよ。」といった。
 それは麗子を迎へに來た波田井老人であった。山邊が出鼻を挫らせて、呆氣に取られてゐる中に、老人はさっさと麗子をつれていって了った。

 夫から二日目に、山邊は又、麗子に會ってゐたが、その時は靖子が一緒だった。三人は京橋日吉町のグランドで、少し早目の晩餐をとった。
 卓子の一方に山邊が就き、それに對って麗子と靖子が並びあった。
「なァに? 箱根のドライブ? いゝわね、僕、鳥渡誘惑を感じるな。だが、この邊の●●を拾ってゆくのは厭だね。箱根のドライブは矢張り、富士屋の遊覧自動車の方が、危くなくっていゝや。」
 靖子は笑ひながら、時々麗子の首を引寄せて。わざと山邊の方をちらちら見ながら、内緒話をしては面白がってゐた。
 麗子は三人になると、いつも別人のやうにはしゃいで、時には冗談をいったりする。それと反對に、山邊は動もすると押され氣味になって、自然と言葉數が尠くなった。
「いゝこと、今度逗子へくる時には、今日こしらへたドレスを着てくるのよ。五日間で出來るっていったでせう。」靖子はお喋りをしながらも、麗子の肩に飛んでゐる襟を直してやったり、扇風機で亂れた頭髪を撫でつけたりした。
「あんないゝ衣物をこしらへて頂いたりして、いゝんでせうか、家へいって叱られさうだわ。」
「あゝ、ちっとも構はないんだよ。僕は迚も買物が上手だから、一着拵へるお金があれば、二着拵へちゃうんだから。ねえ、マサ、あのドレス麗子に似合ふわね。僕の見立旨いだらう?」
「そりゃ、當り前さ、お前なんか、衣物を買ふ事を商賣みたいにしてゐるんだもの。」山邊は靖子がゐたんでは、得意の戀愛術も効を爲さないと觀念したらしく、盛にフォークを動かしてゐる。
「私、恥しいけれども、三越の本店へなんかいったのは今日が二度目よ。」
「さうかい、麗子は女學校にゐた頃は何をしてゐたんだい? 大抵の女學生は、あすこを遊び場にしてゐるぢゃァないか。」靖子がいった。
 麗子は、明後日假縫にいって、それから三日目に出來上る、佛蘭西染の派手なジョーゼットのドレスの事を思ひ出してゐた。彼女はこれ迄、他人から余りものなど買って貰った事はなく、殊に何十円もする衣物などをこしらへて貰った經驗がなかったので、當惑やら、感謝やらの中に、呆然として靖子のいひなりに、生地や型を選んで貰って了ったのである。だが、麗子は不思議に、靖子からして貰ふ事は少しも拘泥のない氣持ちで受ける事が出來た。同じ兄妹でも、山邊からは一口に説明する事の出來ない、ある壓迫を感じるのであった。
――靖子さんの方が男だったらいゝのに――麗子は最後に運ばれた珈琲のコップに手をかけながら、そんな事を考へてゐた。
 食事を濟まして表へ出ると、山邊兄妹は麗子をタキシーで星ダンスホールの前まで送っていった。
「失敬、ぢゃァこの土曜日には間違ひなくね。」靖子は自動車の上から手を振った。
「では、麗子さんのお好きな、薄茶のアイスクリームを澤山こしらへさせて、お待ちしてゐますよ。」山邊がいった。
 麗子は叮嚀過ぎる程頭を下げて自動車を見送った。
 其晩十時過ぎになって、山邊がひとりきりでホールへやってきた。
「逗子へ、お歸りになりませんでしたの? 靖子さんは?」ワルツを踊りながら麗子が囁いた。
「二人は道連れといふことがあるでせう。今日は一日三人連れでしたから……四辻の向側で待ってゐますよ。」山邊の熱い息が、麗子の耳にかゝった。
 山邊は麗子の微笑に滿足して、時間より一寸前にホールを出て、夜風に襟飾を飛ばしながら煙草に火を點けた。
 建物に沿うた狹い露路から、様々な服装をしたダンサーがぞろぞろ現てきた。その何人目かに、白いドレスを着た麗子を見付けてほっとした時、又しても波田井老人が現はれた。
 山邊は、老人と並んで反對側の方を歩いてゆく麗子を遠くから見送って、啣へてゐた煙草を地面へ叩付けた。

 今入町の家では、百合野が風呂の加減を見たり、一旦下した藥罐を再び瓦斯にかけ直したりして二人を待ってゐた。
 麗子が見習看護婦から女給に、そしてダンサーに移ったやうに、波田井老人も永年勤めてゐた芝の學校を、校長の更迭から淘汰されて、現在は一週に二度づゝ、神田の某出版會社に通ふ事になってゐた。収入は減ったけれども、豫ての宿望であった著述に没頭する事が出來るので、老人は却ってそれを喜んでゐた。
 百合野は針仕事の手を休めて、幾度も柱時計を見上げた。麗子はいつも自分の行動をはっきり家へ知らせてゐた。遅くても、早くても、歸る時刻は毎日出しなに云ひ殘して置く通りを正確に守ってゐた。從って迎へにゆく老人を一分と待たせた事はなかった。百合野は最初、波田井の舊友の娘といふ義理合で、麗子の面倒を見てゐたのであったが、段々氣ごゝろが知れるにつれて、今では血を分けた娘のやうに愛着を感じてゐた。
 間もなく歸宅した麗子は、風呂に入って浴衣に寛ぐと、晝間三越で買ってきた羊羹を茶の間へ持ってきた。
「今日は、山邊さんに三越へ連れていって頂いて、お洋服をこしらへて頂いたんですよ。それから香水も買って頂きましたの……」麗子はうきうきしてゐた。
「ほう、そんな大したものを買って貰ったのかい。然し、今に指輪でも買って貰ふやうなことになると、鳥渡困るね。」老人は口先では笑ひながら、首を傾げた。
「いゝえ、山邊さんの妹さんから買って頂いたんですのよ。麗子は男の方なんかゝら、矢鱈に何か頂いたりしませんわ。」麗子は少し顏を赧くした。
「一體、その山邊さんといふのは、どういふ家の方なんです?」百合野が訊ねた。
「倫敦に美術品の店を經營してゐる戰爭成金の息子さ。何でも美術品でなくって、お門違ひの干饂飩で儲けたんださうだ。子供等は母國見學とか、何とかいふんで、監督もなしに氣儘にしてをるんぢゃ。」老人の語調には成金を蔑んでゐるやうなところがあった。
「さういふ、お金に不自由のない人達だったら、何でも出來ますわね。ぢゃァそのお嬢様は余程麗ちゃんがお氣に入ったんですね。」百合野は金持の令嬢に敬意を表してゐるらしかった。
「えゝ、すっかり仲善しになって了ったんです。それで今度の土曜日には、逗子のホテルへ一晩泊りで招待されてゐるのよ。小母様、麗子はいってもいゝでせうか?」
「えゝ、えゝ、それはようございますとも、さういふ御立派な方とはお交際(つきあい)をしておく方が麗ちゃんの爲になりますよ。」
「だが…………あの青年は、儂は好かんね……どうも、輕薄才子といふやうな感じがする。まァ、ある間隔をおいて交際ってゐる方が無難だね。あの、厭に叮嚀な、氣障っぽい態度が面白くない。」老人が横合から口を入れた。
「まァ、おぢいさん、貴郎なんかに當節の若い方の心持なんか、解るもんですか。大學でも卒業た若い方達は、みんなモダーンで、私達から見ると、氣障っぽく見えるんですよ。」百合野は笑った。
「何をいふ? 儂だって學校で、散々現代の青年を見をった。」
「あら厭だ、小父様の現代の青年なんて、中學生ぢゃァありませんか。」麗子が彌次った。
 三人は聲を合せて賑かに笑った。
「まァ、まァ、こゝの家は狂人ですよ。十二時過ぎだっていふのに、こんな馬鹿笑ひをしたりしてさ……」一番大笑ひをしてゐた百合野がそんな事をいった。
「まァいゝわ。麗ちゃんは慥りしてゐるし、儂もついてをる事だから……どれ、麗ちゃん式に美容睡眠でもやるか。」老人は肘を枕に、ごろりと横になった。
「いけませんよ。ごろ寝なんかすると、尚、皺が殖えますよ。」
 百合野は箒子をもってきた。麗子は茶道具を臺所へ下げて二階へ上った。

 二階は、麗子が來た當座に比較べると、見違へる程、明くなってゐた。疊の新しく替ったのは云ふ迄もないが、窓には白いレースのカーテンが掛けられ、電燈に菫色の覆布が掛ってゐる。片隅の小さな本箱と、机、そこには小説や、ロングフェローの詩集や、日記帳などが入ってゐた。
 壁のミレーの晩鐘の繪の下に、ピンで留めてある三色旗を見て麗子は微笑した。それは折々ダンスホールへくるK大學の青年から貰ったものであった。
 麗子は永年の習慣で、床へ入る前に日記をつけた。

 八月〇日、月曜日
 暑さに馴れたせいか、八月に入ったら、却って凌ぎよくなりました。昨日靖子さんからお電話があったので、午後二時きっかりに新橋驛でお會ひしましたら、思ひ掛けなく正信様も御一緒でした。三越で靖子さんがいろいろお買物をして、その後で私にも立派なお洋服と、香水と、レースのついた手巾を買って下さいました。手巾は正信様が見立てゝ下すったのです。その手巾一枚が銘仙一反の値段と同じでしたので驚きました。 驚いたのはそればかりでなく、よくもあんなに綺麗な奥様方が澤山買物をしてゐるといふ事です。それに、あゝいふところへいって見ると、随分欲しいものが澤山あって、今更のやうに自分の慾の深さに驚きました。便利かも知れませんが、あゝいふ店の存在は、貧しい人達に余計貧しさを感じさせるものではないでせうか……私は靖子さんに感謝しなければなりません。それと同時に、靖子さんのやうな身分を羨む心を持たないように、注意しなければなりません。
 私は、お目にかゝる度に、段々正信様を好きになります。でも、何だか怖いやうな氣もします。正信様を好きになるのは惡いことでせうか? 私はあの方に手を握られたり、接吻を求められたりすると、何故だか體躯が顫へてきて逃出したくなるのです。あの方はいつか、
 ――そんなに麗ちゃんが、僕を嫌って逃げるやうな事をすると、僕も諦めて、永久に左様ならをしなければならなくなる――と仰有った。若しそんなことになったら、私は淋しいと思ひます……接吻位なら、許してもいゝんではないでせうか……

 麗子はペンを擱いた拍子に、ふと去年の今日はどうしてゐたらうと思って、別の日記帳を出して、その日のところを開いて見た。

 八月〇日、土曜日
 向日葵の花が咲いたせいか、急に庭の上の青空が濃くなったやうに見えます。お隣りの老婢さんが朝から二度も、
 ――今日は沼津の千本松原へ水泳にいってゐらしった坊ちゃまがお歸りになるんですよ――といひました。余程嬉しいと見えます。
 夕方、格子戸の外に打水をしてをりましたら、坊ちゃまといふ柄でもない程、丈の高い坊ちゃんが、自動車に蓄音機だの、ラケットだの、毛布だのを山のやうに積んで歸っていらっしゃいました。
 私は、眼ばかり光らしてゐる黒ん坊のやうな顏を見て、びっくりして家へ入って了ひました。何でも又明日からお友達と箱根の別荘へいらっしゃるとかで、「陸の王者」などを口笛で吹いて騒いでゐらっしゃいました。

 麗子は、そこまで讀んで、その日の日記が谷井の事で埋められてゐるのを發見して、氣恥しくなって日記を閉ぢて了った。
 麗子は電燈を消して寝床へ入った。枕元の香水が闇の中に擴ってきて、彼女の夢を花園へ誘った。

緑の波
 暑い日盛りの午後、山邊兄妹と麗子を乗せた自動車は、逗子驛から櫻山の切通しを抜けて、新宿の通りを右へ折れていった。その界隈は一帶の別莊地で、築堤を繞らした雅趣に富んだ日本屋や、赤甍の洋館などがあった。
「そのドレスは、眞實に麗子さんに似合ふ、裾の模様などは、生地で見た時より、ずっと引立ちましたね。」寄り添ふやうにして麗子の傍に坐ってゐる山邊は、彼女の新調の洋服の褄を撫でながらいった。
「眞實に、綺麗で、輕くって、霞を着てゐるやうですわ。」麗子はそっと山邊の手を傍へのけた。
「それぢゃァ天女ですね。」と山邊がいふのを、
「止しなさいよ。古めかしき事をいふね。」と靖子が叩き潰して了った。
 自動車が別莊地の中程へ差しかゝった時、右手の小高い薔薇垣の上に、白い水兵服を着た五六歳の男の子の手をひいて、往來を見下してゐた中年の婦人が、車上の山邊に微笑を送った。
 山邊はこゝろもち體躯を後方へひいて、麗子に氣付かれないやうに、そっと手をあげてそれに應へた。目敏い靖子は鳥渡眉を顰めて、
「マサ!…………」といひかけたが、思ひ返したやうに、唇を閉じた。
 麗子はそれ等の無言劇に気付かない風を装ってゐたが、鏡に映った青葉の流れの上に浮びあがった、すらりとした女の姿を見た。それはほんの一瞬間であったけれども、麗子はその女が紺地の白のボルカドットの午後服を着た、色の白い、何處か理智的な顏をした婦人である事を認めた。
「足利兄妹に、僕の友達の川路力松、みんなとっくにきて、待ってゐるんだよ。」靖子は久時續きそうに見えた氣まづい沈默を破った。
「あら、川路さんも今日はいらしってゐるの? あの方は靖子さん達のお友達の、谷井さんと一緒に住んでゐらしったのね。」麗子は川路が靖子に秘してゐた事柄を、うかうかと喋って了った。
「おや、麗子は前から谷井君を知ってゐるの?」
「えゝ、よく知ってゐますわ。小學校が同じでしたので……」
「さうなの……リキの奴はいやに信義を守って、谷井君のことを僕等にひしがくしにしてゐたんだよ。この間、足利君のところで初めて聞いたのさ。麗子は谷井君が、リキの家を出てから、何處へいったか知ってゐるかい?」
 麗子は谷井の行方を知らないのを悲しむやうに首を振った。
「何に、困れば何處からでも現てくるよ。隠れるには隠れるだけの理由があるのだらうから、それを強ひて、ほじり出さうとするのは尠くも紳士の作法ぢゃァないね。それゃ、友情でなくって、お切匙(せっかい)だ。」山邊は不愉快さうにいった。
 ホテルの玄關で自動車を下りた三人は、眞直ぐに、緑の海を見晴すテレースへ出た。そこには既にお茶の用意が出來て、皆が待ってゐた。
 六人の中には、初對面のものもあったが、五分と經過ない中に、人々の氣持は融然と溶け合って了った。運轉手川路力松といふ名に多少の侮蔑を抱いてゐた足利が、第一に彼の傍に坐り込んで熱心に喋り合ってゐた。
 川路は、少し肘の擦れた紺の背廣に、白と黒の斜縞の襟飾をしてゐたが、流石にシャツは眞新しく、純白であった。彼の少し野暮臭い服装は、流行の粋をあつめた人々の中で、却って海軍士官とでもいふやうな重味を見せてゐた。彼は惡びれもせずに、誰とでも快く談笑した。殊に對話中に、鳶色の大きな眼をはっきりと見開いて、相手の眼を正視する明朗な態度は、人々を惹つけた。
 緑の芝生の先に、紺碧の海が開いてゐた。人々の談話の絶間々々に、波の唄が聞えてくる。

 水平線に浮上った白い夏雲が、次第に上へ騰っていって、幾度も形状をかへた。
 麗子は、雲の中に女の顏を見付けた日は、不思議に幸福なことがあるので、皆と話をしてゐる間も、ちょいちょい氣にしてゐたが、其日はどの雲も、犬になったり、駱駝になったりして、ヴヰナスの顏は現てこなかった。
「さァ、これから皆で泳ぎにゆかうよ。麗子は水着を持ってこなかったね。僕のがあるから着換へにおいでよ。」靖子は麗子を自分の部屋へ引っぱっていった。
「私、泳げないから、このまゝで見てゐますわ。」
「でも、形だけはこしらへておくものだよ。ぢゃァこれがいゝだらう。」靖子は箪笥から、白地に紺と赤で渦卷模様を現した派手なパジャマを出して麗子に着せ、西班牙風の大きな帽子を被せた。
 靖子自身は、櫻ん坊色の水着をきて、二人は腕を組んで、ホテルの芝生を横切り、専用の階段を下りていった。
 連中はもう波打際を馳け廻ってゐた。先に立った靖子は、魚のやうに身を躍らして、緑の波の中へ飛込んでいった。
 山邊だけが、麗子のパラソルの中に殘った。眞夏の太陽は、凡ゆる色彩を逗子の海に招いてゐた。焚えるやうな眞紅と黄橙色、強烈な緑と赤の配色などが、到るところに揺れてゐた。
 ホテルの下の小高い沙濱に、トルコ玉色のパラソルを擴げてゐる二人の傍を、濃厚な色彩を身につけた男女が通ってゆく。人々は云合したやうに、パラソルの中を見返っていった。顏のひろい山邊は、夫等の或ものと微笑を交したり、目顏で挨拶をしあったりした。
「いけない、どうもいけない。僕達が二人きりになるといふ機會は絶無ぢゃァありませんか。」山邊が思ひ出したやうにいった。
「あら、今だって二人きりぢゃァござませんか。」麗子は眩しさうに眼を細くして、遠くの水の中で巫山戯(ふざけ)てゐる靖子や、美波子の方を見ながらいった。
「あの、いつでも飛出してきて、貴女を連れて歸る老人は、どういう意味なんです……それといふのも、貴女が僕を信用して下さらないからですよ。」
「屹度私には、まだ大人の資格がないんでせう。それでおぢいさんが心配して、附いて歩いてゐるんですわ。おぢいさんは貴郎ばかりでなく、世間の人をみんな信用してゐらっしゃらないんです。」
「では、若し誰かゞ貴女に結婚を申込んだら、矢張りあのおぢいさんの意見で採決されるのですか?」
「いゝえ、そんな事はありませんわ……でも、私はまだ結婚なんていふ事を考へた事はありませんわ。」麗子は指先で、足下の砂に落書をしながらいった。
「では、今度二人きりで何處かへゆきませう。ねえ、約束して下さるでせう? そして僕は貴女にお話したい事があるんです。」
「私にお話って? 今ではいけませんの?……あゝ、いけません、何卒お願ひですから何にも仰有らないで下さい。」麗子は山邊が何を云出さうとしてゐるかを察し、自分自身に即答出來るか、どうかを疑って、周章てゝ取消した。
 山邊は、突乎(いきなり)、麗子の手を握って、匂やかな頭髪に顏を寄せた。
 丁度、そこへ連中が海から上ってきた。
「貴郎には、水泳には大分自信があるやうですね。」足利は麗子の傍の砂地に、崩れるやうに身を投げて、後からきた川路を振返った。
「いや、自慢する程ではないですよ。僕のは眞實に自己流ですからね。」
 川路は微笑に眼を輝かして、賑かな濱邊を見渡しながら、
「……海は實にいゝですな、富も階級もなく、みんな裸體(はだか)だ……」と呟いた。

 麗子の隣りに山邊、それに並んで足利と川路が灼付くやうな日光を背に受けて腹這ひになってゐる。それから數間距れて、美波子が片手に體躯を支へて、波打際で鬼ごっこをしてゐる子供達の群を、笑ひながら眺めてゐた。
 川路は、一日を精一杯樂しんでゐるやうに見えた。麗子にとっても、彼女の境遇から懸絶(かけはな)れた、別人になったやうな一日であった。贅沢なホテルの客となって、斯うして海濱の華かな人々の群に交って、爽やかな潮風を思ふ存分に樂しむなどといふ事は、夢にも思はなかった事である。パラソルの蔭を覗いてゆく若人達の眼は、好意に輝いてゐるやうに思はれた。
 麗子は自分の一擧手一投足に、人々の視線が聚ってゐるのを意識しても、余り厭な氣持はしなかった。けれども、たった一つ氣がゝりになってゐたのは、川路が其日に限って、一度も彼女を直視しなかった事である。麗子は、川路に會ふ度に、不思議に谷井を想ひ出すのであった。川路も又、麗子に會ふと、まるで兄弟の事でも話すやうに、熱心に谷井の事を語るのであった。その川路が、山邊と親しくしてゐる彼女に、折々非難するやうな視線をを送るだけで、碌に言葉もかけなかったのである。
 靖子だけは。人々の感情がどのやうに動かうと、一切無頓着な様子で、小蟹のやうに、皆の間を飛び廻ってゐた。
「おゝい! もう一度、入ってきて、そろそろ引揚げようよ。僕は少々、咽喉が渇いてきた。」
「靖子さんの、咽喉が渇くといふのは、お腹が空ったといふ事でしたね。」と足利が彌次った。
「さァ。總動員だよ。二百米の平泳ぎだ。マサもくるんだよ。」靖子が波打際へ走っていって大聲をあげた。
 一同は麗子を殘して、海へ飛込んでいった。
 目標の赤旗のところでは、川路が先頭を切って、美波子、山邊、それから足利の順で、總指揮官の靖子は脆くも殿りをつとめてゐた。そのせゐか、競泳は中途で崩れて了ひ、各自に勝手な泳ぎ方をして、岸へ戻ってきた。
 麗子は、白い帽子を被った山邊ばかりを視守ってゐた。その山邊は途中からコースを變へて、陸と平行に右手の方へ向っていった。
 其處には赤い帆をあげた、小型のヨットが揺れてゐた。白鴎のやうに波間に浮いてゐた白い帽子は、ヨットを一周りすると、するすると船べりを登っていった。
 船の主は、遠くて顔は見えなかったが、黒い水着をきて、縁の廣い、緑色の帽子を被ってゐた。
 麗子が眼を瞠って、赤い帆の下に動いてゐる白い帽子を凝視してゐるところへ、一同がぞろぞろあがってきた。
「おや、マサはどうしたらう?」靖子は後を振返った。
「私と並んで泳いでゐたのに、あの赤いヨットに誘惑されて了ったのよ。」美波子は、遠くの青い海に浮んでゐるヨットを指さした。
「相變らず、道草の好きな男だな。」足利がいった。
「草が好きだなんて、馬みたいだな。」靖子が嘲けるやうに應じた。
「誰のヨットです?」足利は手屏風をこしらへて、やうやう煙草に火を點けると、兩手を眼の上に翳しながらいった。
「他所ものだね、屹度。この濱のヨットぢゃァないよ。さァ歸らう。マサなんか待つ事はないよ。今に突落されて、歸ってくるだらう。」と靖子がいった。
「おやおや、赤いヨットは出帆だぞ!」足利が頓狂な聲を出した。
 皆は、ヨットの主が、確に女性である事を見てとってゐたが、誰もその事は口に出さなかった。
 謎のヨットは、山邊を乗せたまゝ、岩鼻をめぐって、鎌倉の海に影を没して了った。

 一同がホテルへ引揚げて、それぞれ着換をすまして控室(ロビー)へ出たのは、紫がゝった薄靄が芝生に匐って、ひそひそと窓の庇に絡み寄る頃であった。
 波は次第に高くなって、遠い濱邊にはもう人影はなかった。
 明い集合電燈(シャンデリア)の下に、連中の顏は揃ったが、山邊だけが缺けてゐた。
 一旦、階下へ下りてきた麗子は、手巾を忘れてきたのを思ひ出して、七時を指してゐる壁の時計を見上げながら、二階へ引返した。
 廊下を二度曲ったところの右手に、20 22 24と部屋が並んでゐて、その奥まった24號が麗子の寝室であった。
 麗子は、薄暗い壁のスヰッチを捻って、白壁に圍まれた何の装飾もない部屋へ入った。寝臺が片隅にあって、それに對ひあって簡素な洋服ダンスと、化粧臺が並んでゐる。
 逗子といへば、東京から僅一時間余の行程とは知ってゐながら、麗子は遥々遠い旅先にきてゐるやうな氣がして侘しげに身のまはりを見廻した。尤も、麗子の心を蔭らせたのは彼女が忘れた手巾を寝室へとりにきた時からではなく、山邊が赤いヨットに乗って、鎌倉の海へ消えて了って以來であった。
 麗子は部屋を出しなに、化粧臺の鏡に顏を映した時、大きな眼の中に、自分でも覺えなかった涙が光ってゐるのを見た。
 扉を閉めて、急いで外へ出た麗子は、二つ目の廊下を折れて階段の方へゆきかけた得、右手のT字形になった壁の蔭に、見るべからざるものを見てはっとした。
 男女が相抱いて接吻をしてゐる。
 男は山邊であった。
 女は誰だか判らなかったが、片手に見覺えのある緑の帽子を持ってゐた――赤いヨットの主――
 麗子の胸は早鐘を撞くやうに鳴ってゐた。彼女は夢中で階段を馳下りた。
「どうしたの? 麗子さん。氣分でも不良いのぢゃァないの?」美波子は眞青になってゐる麗子の顏を覗込んだ。
「いゝえ。何ともないのよ。余り急いで階段を下りたせゐでせう。」麗子は兩手で頬を押へながらいった。
 窓下の長椅子に並んで、盛んに煙草の煙をあげてゐた川路と足利は熱心に心靈學の話をしてゐる。聽手は川路で、話手は主に足利であった。
「……今迄の實例は、縁の遠い外國の話ですが、私自身も經驗をもってゐるんです。ご覧なさい、この時計ですがね、これは實に正確で十何年一度だって狂った事はないんです。ところが去年の夏、たった一遍妙なことがありました。私が舞臺で假睡(うたたね)をしてゐると、其頃日光へキャンプ旅行にいってゐた私の從弟が、谷底で白い旗を振りながら救助を呼んでゐる姿をまざまざと見たんです。餘りはっきりした夢だったので、いやな氣がして時計を見ると、二時二十分を指して停ってゐたんです。」足利はポケットから出した時計を川路の前で指さしながらいった。
「それで、從弟の方が怪我でもなすったんですか?」
「怪我どころぢゃァない。丁度時計の停った時刻に、中禪寺湖でボートが顛覆して溺死したんです。」
「不思議な事ですね。よく田舎の寺なんかで死人があると、戸を敲いて知らせがあるといふやうな話は聞きましたが、時計が停るとは初耳です。偶然の符合といふ事では説明がつきませんかね。」
「若し、偶然が十度づゞいたらどうします? 時計と死人の實例なら、まだいくらもあります。現に細川藩であった私の大伯父が、火輪船に乗って凾館の五稜廓を攻めにいって……」と足利がいひかけた時、
「ちぇっ! まだ、お化け話の續きをやってゐら!」
 長椅子の肱に腰かけてゐた靖子は、先刻から散々ひっくり返してゐた朝日グラフを二人の間に叩付けて、足利の心靈學を滅茶々々にして了った。

夜の謎
 男達は、靖子が木彫の兵隊の眞似をして、兩手を眞直ぐに振りながら、麗子逹の方へ歩いてゆくのを見て笑ひ出した。
「マサなんか待ってゐると、干乾になっちゃうから、もう食堂へゆかうよ。」靖子は背後を振返って、人差指を鉤にして男達を招いた。
 一同が食卓について、スープを濟したところへやうやう山邊がやって來た。
「赤いヨットが、大分問題を惹き起してゐましたよ。食堂に遅れたのは其せいだったと、白状した方が男らしいですね。」足利は笑ひを隠して、わざとむづかしい顏を見せた。
「失敬、失敬、實は新嘉坡で知合になった友人に會ったもんだから、すっかり失禮して了った。」山邊は白々しい事をいった。
「それは、彼か、彼女か、黒白を明かにし給へ。」
「彼である事は勿論さ。場所が新嘉坡ぢゃァないか。相手は黒いにきまってゐる。」山邊は麗子の隣席について、白いナフキンを膝に擴げた。
「さァ、どうだか……頗る怪しいもんだね。」足利がいった。
「諸君、もうこれ以上、取調べの必要なし、相手が彼にしろ、彼女にしろ、どっちみち有罪さ。お客をしておいて、主人公が食事に遅れるなんて、言語道斷だよ。いづれ判決の申渡しは明日だ。麗子遠慮なしにびしびしやっておやり、帽子の一打(ダース)も買はせるんだね。」靖子は非難と冗談をまぜこぜに飛した。
「四面楚歌の聲といふところだな。だが、麗子さんだけは僕の味方になってくれますね。」山邊は特別の親しみを見せて、麗子の顏を覗き込んだ。
 麗子はそっと溜息をした。
 食事が終って、一同が控室へ引返したのは九時近くであった。
 川路は足利にすゝめられた埃及煙草を吸って了ふと、立上って、
「僕はこれで失禮させて頂きます。明日は又、仕事が待ってゐますから。」
「今日は、リキが來てくれて眞實によかったわ。完全なる一日だったよ。」靖子が前へ飛出していって快活に握手をした。
 麗子はちらと川路の方を見て、おづおすと席を離れて、
「……私も、御一緒に……」と口籠りながらいった。
「あら、麗子は何をいってゐるの、貴女泊るのよ。」靖子は麗子の肩に手をかけた。
「さうなのよ。ねえ麗子さん。明日私達が自動車でお宅までお送りするっていふお約束でしたわね。」
「でも……私、歸った方がいゝやうな氣がしますの……」
「家へちゃんと斷ってきたんだもの、ゆっくりしてゐる方がいゝでせう。それにこれからぢゃァ、歸るたって遅くなって了ふ。」川路は初めて麗子を正面に見た。
 靖子は川路を玄關まで送ってくると、麗子の肩を叩いて、
「いやになちゃうな、この赤坊(ベイビー)は屹度ホームシックなんだよ。さァ、美波子も一緒にあっちへいって、ジャズでも聞かうよ。」
 三人の女達は肩を組むやうにして社交室へ入っていった。
 控室に殘った男達は、廊下を通る客や、忙しさうに往ったり來たりしてゐるボーイの姿などをぼんやり眺めてゐた。
「川路君っていふのは好漢だね。顔と同じやうに氣持の朗かな男だ。あゝいふ境遇にゐて、どうしてあんなに純な氣持をもち續けてゐられるんだらう。」足利が沈默を破った。
 山邊は興がなささうに、椅子の肘を指先で敲いてゐた。
「それに非常に頭腦が良い……態度だって立派だし……珍しい男だ。」足利が言葉を續けた。

「さう……ずっと標準を下げて、運轉手風情には珍しい男だといふ意味だらう。」山邊は歪めた唇の隅に冷笑を浮べた。
「そりゃ酷い、僕はそれ程皮肉ぢゃァない。」
「皮肉でなければ、気障な温情主義だ。僕はさういふ生温いのは嫌ひさ。」
「さういふ君自身の、戀愛に對する態度は随分生温いぢゃァないか。君は麗子を招待しておいて、何もその日に女と媾曳する事はなからう。新嘉坡の知合なんて酒娃(しゃあ)々々したことをいってゐるが、緑色の婦人帽を被った男もあるまい。戀愛もいゝ、然しこれ迄の君は一度だって一人の女性に打込んだ事はない。僕はさういふ君の態度に慊(あきたら)ないんだ……」
 山邊は足利の言葉を背後に聞流しながら、ふいと椅子を立って、部屋の中を歩き出した。
「それゃ、打込む女性が見當らないからさ。相手を捜してゐる最中なんだから、いろいろな女性と交渉をもつのは當然だよ。」
「さういふ詭弁は止さうぢゃァないか。僕は議論をして君を遣付けようといふんぢゃァない。友達といふ上から、君の反省を求めようとしてゐるんだ。友達の名は信義だ。時には友誼の爲に自分の感情を犠牲にしなければならない。早い話が、谷井と伊佐子といふ女の間に水を差すやうな事をしたのも君ぢゃァないかね。」足利はいくらか昂奮した調子でいった。
 山邊は足利の氣むづかしい顏を見て、急に聲をあげて笑った。
「何いってゐるんだ、相變らずの脱線だね。僕は谷井と伊佐子がどの程度の交渉をもってゐたかも知らなかったし、又、詮索しようとも思はなかった。僕は元來、他人の自由意志を拘束しない主義なんだ。伊佐子が僕に好意を示したからって、谷井の爲にそれを拒む必要は認めない。女性だって男を選ぶ權利をもってゐるんだからな。君の戀愛觀は偏狹だよ。第一舊式だ。」
「然し、信義は時代を超越してゐる。正しい事に、舊いも新らしいもない……谷井はその爲に……」足利は相手が時々立止って壁の額を覗いたりしてゐるのを、眼で追ひながら腹立しげにいった。
「又、始まった。君は一生、他人の苦勞を背負って歩いてゐるんだな。谷井がどうならうと、誰がどうしようと、各々好んでとった道なんだから、それでいゝぢゃァないか。谷井だってさう君のやうに傍(はた)からやきもきされたら参るだらうな。若し僕が谷井だったら、屋根裏で乞食の生活をしようと、汗臭い運轉手と親友にならうと、そんなことは默殺しておいて貰ひたいね。」
「山邊、失言だ! 直ぐ取消し給へ。」足利は顏色を變へて立上った。
 先前から廊下にちらちらしてゐた美波子が氣遣はしさうに控室へ入ってきて足利に目配せをした。丁度そこへ、社交室や、廊下を覗き歩いてゐた給仕が、山邊の傍へきて、
「お電話でございますが……社交室の方へおつなぎ致しませうか?」
「いや、帳場だらう、僕がゆく。」山邊は足利兄妹の方をちらと見て、
「鳥渡失禮する……もうこんな議論は止めようよ……」と獨言のやうにいひながら部屋を出ていった。
「どうなすったの? 駄目よ兄さん、さうむきになっちゃァ。」美波子は兄の肩に手を置いた。
「實に怪しからん、言葉の調子に乗ったのかも知れないが、あれぢゃァ谷井に惡意をもってゐるとしかとれない。」
「谷井さんが、どうかなすったの?」美波子は直ぐ愁しさうな眼をした。
 其時、遊び足りないやうな顏をして、控室を覗きにきた靖子が、
「そんなところで、じめじめ何を話してゐるの。マサなんて忠告したって無駄よ。あんなのは絶交するか、毆るより他はないね。」といった。
「毆るはよかったな。尤も毆ったり、絶交したりする位なら、忠告する事はないんだが……」足利はいくらか氣をよくして微笑した。

 麗子は、足利と山邊が何事か高聲で言爭ってゐるのを、廊下の先端で聞いたが、そこへ顏を出すのも工合が惡いと思って、露台の方へ出ていった。
 いつの間にか、低い松原の上に月が昇って、渚を洗ふ波頭が金線のやうに光ってゐた。
 まだ月光の届かない芝生の横手の台地には、ヒマラヤ松が黒い三角テントを張ったやうに點在してゐる。
 麗子は露台の石段を下りて、ホテルの横手から見晴台に導く、コンクリートの道路を歩いてゐた。彼女は一人きりで、誰もゐないところへいって、思ふさま泣いて見たかった。亡くなった父の事や、顏を知らない母の事や、生れ出た自分の事などを考へて、廣い世の中をたった一人で歩いてゐる自分の姿を、しみじみと淋しく感じた。
――今朝、家を出た時の、あの幸福な氣持はどこへいって了ったのであらう?……私は自分が考へてゐる以上に、山邊さんを愛してゐるのではないかしら――
 背後から誰かゞ大股に歩いてきた。振返った麗子は白ネルの服を着た山邊を見て胸を昂せた。
「麗子さん、丁度よかった。貴女を探してゐたら、石段を下りていらっしゃる姿を見たんで、追ひかけて來たんですよ。」彼は麗子の腰に腕を廻して並んで歩き出した。
「貴女は何か氣にしてゐらっしゃるんではありませんか。例えば僕があのヨットへ乗った事など。」
 麗子は應へなかった。
「僕は皆の前では嘘をいったけれども、貴女にだけは眞實の事をいはうと思ってゐたんですよ。實は先刻會った友達といふのは女だったんです。」
「廊下のところでも御一緒でしたわね。」麗子は自分でも驚いた程、ずばりと急所を突いた。
――尠くも彼女はさう思った――けれども相手は微風ほどにも感じない様子で輕く受流した。
「えゝ、やうやう彼處で追拂ったんですよ。飛んだところであんな女に見付かって了って皆には彌次られるし、貴女には惡い印象を與へたでせうし、眞實に今日は厄日でしたよ。」
「……あんな仲の善いお友達がおありになるんなら、麗子なんかいらないでせう。」彼女は少しづゝ大膽になったきた。
「それゃ酷い、でも、貴女にそんなことを云はせるのは、僕が惡いんだ……僕等はどうしてもっと早く會はなかったんでせう。さうすればあんな女なんか現てこなかったんです――僕は貴女なしでは一日も生きてゐられないんですよ。」山邊は麗子の腰に廻した手に力を入れて引寄せるやうにした。
 道路は爪先上りになって、砂丘の上に樹蔭を背負った四阿家があった。
 麗子は柔かい月光に照らし出された山邊の横顏を見上げた。そこには彼女が今迄氣付かなかった男性の魅力があった。
 山邊は白い月光の中で、夢見るやうに微笑した麗子の流眼に見て、無言で四阿家へ導いた。
「貴女をこんなに愛してゐるんですけれども、貴女は少しは僕を好きになって呉れますか。」
「…………」
「それとも、僕を嫌ってゐるんですか?」
 麗子は男の眼の中を見て笑った。
 山邊はいきなり彼女の肩を抱寄せた。麗子は眼の前に大きく擴がってくる男の顏を、睫毛の下から見上げて、小鳥のやうに顫へてゐた。
 突然、二人の背後に女の笑聲が起った。
「山邊さん、何をお惡戯(いた)してゐらっしゃるの。」
 男の抱擁の中で麗子は悸として振返った。
 いつの間にか、そこには鳥波伊佐子が立ってゐた。
「ほゝゝゝほゝ、お邪魔でして?……山邊さんはお人が惡いこと、先刻ヨットの中で何を仰有ったの? 御自分から伊佐子のところへ泊りにくるなんて仰有っておいて、こんなところで道草を喰ったりして……」

 伊佐子は山邊の腕に手をかけて、立竦んでゐる麗子を見守りながら言葉を續けた。
「これが有名な小鹿麗子さんなのね。こんな可愛いゝお人形さんを貴郎の玩具にして了ふのは惜しいわね。」
 激しい屈辱に石のやうになってゐた麗子は伊佐子の視線にぶつかると、惡夢から醒めたやうに四阿家を走り出た。彼女は背後に、
「麗子さん! 麗子さん!」といふ山邊の聲を聞きながら、暗い木立に劃された一筋の白い道をホテルへ向って走っていった。
 麗子は露台の石段を上ったところで、初めて立止った。彼女は割れさうに鳴ってゐる胸に手をあてゝ、深い溜息をした。
 大方の人は寝室へ退いたと見えて、控室も、社交室もがらんとして、海に面した窓のカーテンが勁い風に煽られてゐた。
 麗子は誰にも知られずにホテルを抜出して、そのまゝ東京へ逃歸りたいと思った。けれども靖子や、足利兄妹の思惑を慮へ、取亂した振舞をして、自分の悲惨な心を覗かれたくないと思った。それに時計は既う十一時を過ぎてゐた。
 廊下の電燈が、ゆく先々で白い壁を寂しく照らしてゐた。麗子は長い廊下と、二つに折れた階段とを並んで歩いてゐた黒い影法師と一緒に、自分の部屋へ入っていった。彼女は電燈も點けないで、其まゝ寝台の端に腰を下した。
 いくら拂ひのけようとしても、眼の前に浮んでくるのは、謎のやうな伊佐子の笑ひ顏と、一言の弁解も出來ないで、意氣地なく立竦んでゐた山邊の顏であった。
――赤いヨットの主は、矢張りあの女だったのか! そして廊下で見掛けたのも……でもあんな綺麗な人を、私は惡い人だとは思ひたくない。それにあの人の眼は、いつでも何かを、私に教へてゐるやうな氣がする――
 麗子は山邊に唇を許した事をしみじみと後悔した。それと共に伊佐子の出現によって自分が救はれたやうに思った。
――あゝ、さういえばあの病院の晩も――
 麗子は伊佐子といふ女がいろいろな男と交渉をもってゐるといふ事を考へるよりも先に、そんな事を思った。
 窓の外では、芝生も、臺地のヒマラヤ松も、松原を越えた遠くの砂丘も、月光に溶込んで、愁しい夢を見てゐるやうに溜息をしてゐる。
 麗子の頬には止度なく涙が流れてゐた。
 その時、入口の扉を輕く敲く音がした。
「誰方?」麗子は周章てゝ手巾で眼を拭った。
「私……まだ起きてゐらしって?」
 それは美波子であった。
「えゝ、……どうかなすったの?」麗子は廊下へ出ていった。
「寝そびれて了ったのよ。それに兄が散歩に出たきり、まだ歸ってこないんですの。山邊さんもまだお歸りにならないやうだから、又二人で先刻のつゞきをやってゐるんぢゃァないかと思って、私心配だわ。」美波子はまだ晩餐の時のドレスのまゝであった。
「大丈夫ですよ。もうぢき歸っていらっしゃいますわ。こんなにいゝお月夜ですから、海岸でも散歩なすってゐらっしゃるんでせう。」
 二人は廊下の窓に凭れて、庭園を隔てた街道を眺めてゐた。折々二三人連の浴衣がけの避暑客が通ったり、並木に頭光をあびせながら自動車が走ったりしてゐる。
「おや、誰かゞあんなところを登ってきたわ。」美波子が庭の一隅を指さした。
 築墻を越えて、黒い影がひらりと芝生へ飛下りた。月明りに鳥打帽を眉深に被った男の姿が浮び出た。
「あら! 川路さんだわ!」美波子は声を潜めていった。
「眞實にね、どうしたんでせう。」麗子は眼を瞠った。確に東京へ歸ったはずの川路力松である。
 彼は二人が見下してゐる窓の下の芝生を横切って、鉤の手になった別館の建物の前に立って、三階の窓を見上げてゐた。
「誰か、知ってゐる方でも來てゐるんでせうか。」麗子が呟いた。
 川路は久時すると踵を返して再び築墻を乗越えて往來へ消えて了った。

舊主
 誰も知らない彼一人だけの用件をもって、逗子驛に近い倉本旅館に一泊した川路は、九時を少し過ぎた頃、新宿の町はづれの商店街を歩いてゐた。
 八百屋の店頭で買物をしてゐた五十恰好の女が、向ひ側を歩いてゆく川路を見ると、買物を風呂敷へ包ながら、周章てゝ往來を横切って、
「もし、もし、力ちゃんぢゃァありませんか?」と追縋った。
 川路は吃驚して立止ったが、相手の顏を見ると、一層驚いたやうに、
「あゝ、小母さんですか、どうしてこんなところに……」
「矢張りお前さんでしたね。どうもよく似てゐると思った。お屋敷がおの春こちらへ移ったもんでね……」
「さうですか、ちっとも知りませんでした。鎌倉の方はどうしたんです。」
「折角、御立派に御普請が出來たんだけれども、御隠居様は波の音がやかましくって、いけないと仰有るし、それにあすこへいってから、御病人が絶えなかったんで、易を觀て貰ったりして、それでこちらへ轉(こ)したんですよ。」
「お屋敷の方達は、皆さま御丈夫ですか? すっかり御無沙汰して了ひまして……」
「御丈夫でゐらっしゃるよ。さァ往きませう。お屋敷はすぐそこですよ。今朝は御隠居様は大層御機嫌がよくって、庭前を歩いてゐらしった程だから、お目通りしたら屹度お喜びになるだらうよ。」
「ぢゃァ、鳥渡御機嫌伺ひをしてゆきませう。若様はさぞ御成人なすったでせうね。鎌倉のお屋敷へ伺ったのは去年の暮でしたかね。」
 川路は思ひがけぬところで、喜多川男爵家の女中頭お勝に會った爲に、東京へ歸る豫定を變更して、閑靜な屋敷町の方へ、彼女と並んで歩き出した。
 右手の、小高い薔薇の築墻垣に沿うて、十間ばかりいったところに、御影石の表門があって、深い木立の奥に屋根の一部が見えてゐる。門の前を通り越して數間先に、土手を切り開いたアーチ形の耳門(くぐりもん)がある。
 二人は板戸を押して、貝殻の光ってゐる爪先上りの道路を内玄關の方へ向っていった。
 屋敷は街道を距れて、高い丘を占めてゐるけれども、樹木が多過ぎる程鬱蒼としてゐて、まるで谷底へ入ってゆくやうな感じがした。
「随分廣いお屋敷ですね……何處か綱町のお屋敷に似てゐますね……彼處も陰氣だったな……どうしてこんなところへお移りになったんです。健康の爲なら、鎌倉の方が余程良かったぢゃァありませんか。」川路は、空を遮ってゐる梢や、月光の届かない足下の地面に生えてゐる青苔などを見廻しながらいった。
「お前さん、滅多なことをおいひでないよ。お上でお氣に召してお買ひになったお屋敷なんだから。」お勝は愼(たしな)めるやうにいった。
 内玄關の天水桶の傍に密生してゐる暗緑色の八つ手の葉が、小砂利の上に黝い影を落としてゐる。薄暗い土間へ入ると、上り框に十五六の腺病質らしい小婢(むすめ)が、青い顏をして腰かけてゐた。
「お千代さん、また、こんなところで、何をしてゐるのさ。」お勝は眉を顰めた。
「あゝよかった、老婢(ばあや)さんが歸ってきてくれて、私、ほっとしたわ。お春さんも、お幾さんも、奥へ呼ばれていって、お勝手には私一人でせう。怖くって、怖くって、どうしようかと思ってゐましたわ……」小婢はお勝の背後に佇ってゐる川路を見て、周章てゝお辭儀をした。
「馬鹿々々しい、朝ぱらからくだらないことをいって……よしんば、眞實に幽靈がゐたとしたって、日が暮れなければ現るもんぢゃァないんだよ。」
「だって、先刻も私が井戸端でお洗濯をしてゐたら、白いお護符みたいなものが、目の前をひらひら飛んでいって……」

「お止し、つまらない事をいふのは。それより早く奥へいって、川路が御機嫌伺ひに参りましたってお取次しておいで。」
 お勝は台所わきの自分の居間へ、川路を案内した。
「眞實に若い者達は臆病で困って了ふんですよ。それといふのもこんな擴いお屋敷に、男氣といふものは、一つもないんだからね。」
「若様のお相手に書生でもお置きになるといゝんだが。これだけ廣い屋敷に男手のないのは實際無理ですね。」
「それがさ、お前さんも知っての通り、御前様も奥様も、あんな風におなりになったらう。だからお隠居様は滅多なものを屋敷へ入れる事をお喜びにならないんだよ。今ゐる若様の家庭教師を入れるんだって、随分面倒だったのを、西嶋の旦那様のお骨折りで、やうやう御承知になったんだからね。」
「へえ、家庭教師がゐるんですか。」
 川路は出された蒲團の上に膝を崩して、黄色くなった指先で、バットを撮んでゐた。
「牧野さんといふ女の先生で、中々確りした利口な方ですよ。どういふ事情だか、三十を越えてゐるといふのに、まだ縁付いた事もない人なんですよ。」
 そこへ、小間使のお千代が戻ってきて、
「どうぞ、奥へおいで下さい。」と先に立って川路を導いた。
 障子を開放った部屋を、幾つも左右に見ながら、黒く拭込んである長い廊下を通って、鉤の手になった縁側に出ると、中庭に面した部屋があった。
 十疊間を二間打抜いた廣々とした奥の方に、切下げにした岸子刀自が端然と控へてゐた。
 床の間には、魚藍觀音の軸が懸って、その横手の壁に、日本間に不似合な大きな油繪の額が懸ってゐた。それは陸軍大將の正装をした岸子刀自の良人、先々代の喜多川男爵の肖像畫であった。
 敷居際に坐った川路は、先づ岸子刀自にお辭儀をしてから、肖像畫に向ってもう一つ頭を下げた。
「お前も變りがなくて結構ですね。近頃は何をしてゐます? 矢張り自動車の方ですか。」
「はい、お庇さまで相變らずやってをります。」
「學問をして、豪い人間になるより、さうやって勞働をしてゐる方がお前の性分に適ふのですかね。亡くなったお前の父親は、無學でしたが、向上心がありましたよ。お前だけは學問をさせて、立派な人間にしたいと口癖のやうにいってゐましたから、お前自身はそれでいゝとしても、希望の達せられなかった爺やの事を想ひ出すと、可哀さうになりますよ。」
 木彫の假面のやうな、無表情な顏をした岸子刀自は、抑揚のない低い聲でいった。
「はい、學校へはゆきませんでも、成可く人間らしい人間になりたいと心懸けてをります。」川路はもう一度叮嚀に頭を下げた。
「世の中には、學問をしたくても、學費がなくって困ってゐるものが澤山あります。それだのにお前は屋敷を飛出して了って、勝手なことをしておゐでだ。私もぢきにお迎へがくるでせうが、お前がそんな風だったのでは、爺やにお土産がありません。どうも困ったものです…………だが、斯うして一年に一遍づゝでも、忘れずに顏をお出しなのは感心です。まァあちらへいって、お晝飯でも食べて、ゆっくりしておゐで。」
 川路は感覺の無くなってゐる脚を、そっと拇指で押しながら、部屋を辷り出た。
 彼が台所のわきを通りかゝると、女中達が井戸端に集って、高い木を仰ぎながら、
「氣味が惡いわね。誰があんなところへ、結付けたんでせう。先刻は確になかったのに、ほんの鳥渡の間ですよ。」
「天狗の仕業かしら! ほんたうに厭だわね。昨日は應接間の卓子の植木鉢が、ひとりでにごとんごとん動いてゐたし……」などゝいひ合ってゐた。

 お勝は長火鉢の前で、緑茶を淹れて待ってゐた。
「あの通り、女達が又、騒いでゐるんですよ。木の頂点にお護符が糸で結付けてあるなんて……あの人達は幽靈が現るなんて怖がって、日が暮れると、干物も一人ぢゃァ取込みにゆけないといふ有様なんですよ。尤も十日計り前に、私も植込の陰に白いものが動くのを見たんですがね……眞逆、いま時幽靈でもないでせう。私は泥棒がこの家を狙ってゐるんだと思ひますよ……」
 川路は麻痺(しび)れた脚を投出して、お勝の愚痴めいた、取とめのない幽靈話を聞いてゐた。
 平常は滅多に想ひ出す事さへないのだが、長火鉢の縁に肘を掛けるやうにして、昔ながらの煙管で、煙草を吸ってゐるお勝の姿を見てゐると、親身の伯母さんのやうな懐しさを感じた。
 場所は異ふけれども、同じ炭火鉢の前で、投出した脚を行儀が惡いといって、その煙管で叩かれた事があった。又、その抽斗から煎餅を出して貰った事もあった。もう少し長じてからは、父親に内緒で小遣錢を貰った事がある。それから晩の台所が片付いた後で、新刊の小説を讀んで聞かせた事もあった。それはみんな、十年も、十五年も以前の事であった。
「早いもんだね。お父っさんが亡くなってから、もう七年になるね。お前さんまだお墓も建てないっていふぢゃァないか。七回忌には何としても建てなくてはいけませんよ。」
「えゝ、そのつもりでゐるんです。綱町のお屋敷もすっかり變って了ひましたね。分譲地か何かになって、ハイカラなやうな家が澤山出來ましたね。親父のこしらへた庭なんか、跡形もなくなって了ったんですから、私みたいな人間でも、余りいゝ気持はしませんでしたよ。この間、久しぶりでお屋敷の跡を通って見て、親父の手がけた築山の石を一つ失敬してきて、お墓の上へ乗せてきましたよ。」
「眞実にさうだったね。どうせの事なら、お父っさんが可愛がってゐた植木の二三本も頂いて置けばよかったのに……」
「なァに、植木なんぞ貰ったって、置場所がありませんよ。貧乏人が象を頂いたやうな事になって了ふ、ははゝゝゝはは。」川路は氣易く笑った。
「力ちゃんは、矢張り淀橋とかにおゐでかい? 話は異ふけれど、もとお屋敷へお出入りしてゐた徳永博士は、相變らず溜池で御立派にやっておゐでなんだらうね。」
「この節は、お屋敷のお出入り醫者は誰です。」
「それなんだよ。大切な一粒種の若様なんだから、立派な博士に始終お身體を診て置いて頂かなければいけないと思ふんだけれども、御隠居様は近頃は御信心一方で、お醫者はいらないと仰有るんだよ。徳永博士は鎌倉の方へわざわざ御親切に、二三度お見舞にいらしって下すったんだけれども、どういふ譯か、御隠居様は御機嫌が惡くて、追返すやうにしてお了ひになったんだよ。」
「博士といったって、いろいろあるんだからな……何も徳永でなくったって、この邊にもいゝ醫者はいくらもありますよ。……どれ、若様にお目にかゝってこよう。何處にいらっしゃるかな?」
 川路はその上、徳永博士の噂をつゞけるのを避けるやうに、急に立上った。
「丁度、御運動の時間だから、お庭へいってご覧。」お勝は柱時計を見上げながらいった。
 川路が樹木の間を覗きながら、裏庭を廻って表門の傍へ出た時、道路を見下す台地の青葉の蔭に、白い服と、桃色の日傘がちらちら見えた。
 植込を抜けて芝生へ出た川路は、薔薇垣に沿うた十間計りの小徑を、家庭教師に手をひかれて、つまらなさうに歩いてゐる水兵服の若様を見た。
 紺地にボルカドットの洋服を着た牧野女史は、遠くに川路を見ると、桃色の日傘を傾げて愛想よく微笑した。

 川路は帽子を脱って大股に芝生を横切っていった。
「川路、川路、川路が來ました。」
 水兵服の少年は川路を指さして、嬉しさうに足踏みをした。
「若様、ご機嫌よう。」
 川路は輕々と少年を宙へ差しあげた。
「先生でゐらっしゃいますか。僕は昔々、お屋敷に御厄介になってゐた川路といふものです。」彼は昂奮に顏を紅く染めてゐる少年を地面に下して、牧野女史に挨拶をした。
「お目にかゝって、大變嬉しく存じますわ。私、牧野と申します。何卒よろしく。」牧野女史は日焦けのした顔色の良い川路の顔を見上げながら、媚態(しな)をつくって挨拶を返した。
「先生、川路は豪い人なのよ。運轉手なの。ねえ、川路、斯うやって自動車を運轉するんですね。」少年は肘を張って、把手(ハンドル)を回轉すやうな手付きをしながら、青草の上を走り廻った。
「ほゝゝゝほゝ、それゃようございますこと、でも、そんなに元氣にお驅け遊ばしてはいけませんわ。」
 牧野女史は後を追っていって、少年の手をひいてきた。
「川路は自動車をもってきて?」少年は仰向けになって川路を見上げた。
「今日はもって参りませんでした。この次には屹度もってきて、若様を方々へ連れていって差上げませう。」
「いつ? 明日?」
「さァ、明日ではありませんけれども、成可く早く参りませう。」
「毎日、こゝで見てゐると、澤山自動車が通るのよ。時々、ビュイックが通ると、川路かと思って了ふ。」
「若様はよく自動車を記憶えてゐらっしゃいますね…………近頃は若様、海水浴をなさいますか?」
「あゝ、泳ぎたいなァ、でもお祖母様がお許しにならないから、一遍も海へ入った事はないのよ。」
 少年は片手を牧野女史に掴まれたまゝ、空いてゐる方の手で、水を掻く眞似をしながら、
「脚はどうするの? 川路、そこで泳いで見せて頂戴。」
「こゝぢゃァ泳げませんよ。……もう若様位になると、水泳をお始めになってもいゝんですがね。」
 川路は少年と、牧野女史とを等分に見ながらいった。
「プールがあるとよろしいのでございますけれども…………プールも不潔でございますしね…………あの若様、あと三十分だけ、川路さんと遊んでお頂きなさいましね、それから御勉強ですよ。ではよろしくお願ひ致します。お蹴りには私の部屋へお寄り下さいまし、お紅茶でもお淹れ致しますわ。」
 牧野女史の姿が、植込の陰に消えて了ふまで、ぢっと見送ってゐた少年は、川路と二人きりになると、急にはしゃいで、芝生を馳け廻ったり、わざと危なかしい堤の縁を傳って見せたりした。
 少年は笑ってゐる川路のところへ馳戻ってきて、
「ねえ川路、海へ泳ぎにゆきませうよ。そっといってくれば誰も知らないから大丈夫よ。」と慧しげに聲を潜めていった、
「隠れていったりしてはいけません。お許しを得てから連れていってあげませう。」
「さうを…………川路は何處へいっても叱られないのね。いゝなァ。私も運轉手になりたいなァ。」
「若様だって、大人におなりになれば、何處へでも好きなところへいらっしゃれますよ……さァ、裏庭へいって蜩でも捕ってあげませう。」
 二人は後になり、先になりしながら裏庭の木立の中を縫って歩いてゐた。
「あすこにも蝉がゐてよ。」
 川路はその聲をきいて、悸として振返った。少年は眼を輝かして、高い梢を指さしてゐる。
 川路は綱町の大榎の蔭にある離室の窓から、自分に呼びかけた喜多川男爵の若い未亡人の聲そのまゝを聞いたのであった。

青空のない家
 その離室の窓の下には、一株の紫陽花が丸く繁ってゐた。彼の父親は――病人が絶えないといふから、切って了ひませう――といったが、未亡人は迷信を笑ってそれを許さなかった。未亡人はその海のやうな色が好きだった。
 離室は二間になってゐて、ピアノや、蓄音機や、書棚の置いてある居間と、その奥に寝室があった。病身で滅多に床を離れたことのない男爵が、不幸な變死をして以來、若い未亡人は殆どその離室を出なかった。それでも暗い屋敷の中で、未亡人は明星のやうに、輝いてゐた。その頃神田の學校へ通ってゐた川路は屡々未亡人に吩咐って、銀座へ廻って蓄音機のレコードを買ってきた。川路が通用門から萩の亂れた小徑を抜けて、母屋の方へ廻らうとすると、未亡人はよく居間の窓際に佇ってゐて、
 ――構はないから、そこから入っていらっしゃい――といって、庭に面した佛蘭西扉を開けた。
 川路はそこで命ぜられるまゝに、買ってきたレコードを掛けたり、時にはコヽアを貰って飲んだりした。
 そんな時に、鋏を片手に鳴らしながら、庭を歩き廻ってゐる川路の父親は、鶴の恰好に刈上げてある檜葉の蔭から、愼(たしな)めるやうな視線を息子に送ったり、未亡人を見て周章てゝお辭儀をしたりした。
 讀書の好きな川路は、未亡人から文學書のぎっしり詰ってゐる書架を全部開放して貰ってゐた。讀んだ小説の感想を訊ねられたり、鳥渡した用事を吩咐ったりする位の事が、どんなに川路を幸福にしたか知れなかった。彼にとっては女王の間近にゐるといふ事だけで、充分に幸福であった。
 未亡人に對して限りない尊敬と、夢のやうな憧憬とをもってゐた彼は、いつか、足繁く未亡人の部屋を訪ねてくる徳永博士に、嫉妬に似た焦燥な氣持を感ずるやうになった。
 其頃から未亡人は激しい不眠症に惱まされ始めた。夏がきて木立の多い屋敷では、油蝉や、蜩が、凡ゆる條枝で鐘を打鳴らしてゐるやうに鳴いてゐた。川路は物置小舎から、長い竹竿を持出して、跫音を忍ばせながら、離室の周圍の蝉を追ひ歩いた。或時、いつの間にか、未亡人がそれを知って、不意に、
 ――あすこにも蝉がゐてよ――と聲をかけて彼を驚かせたことがあった。

 川路は青空に聳えてゐる欅の木の下に立ってゐる少年の肩に兩手をかけてしみじみと懐しい氣持で、未亡人に生寫しの澄んだ瞳を覗込んだ。
「川路、どうしたの? 何故あの蝉捉らないの?」
「若様は大きくなって、何におなりになります?」
 少年は鳥渡首を傾げて、考へる風をしながら、
「私、川路みたいに、運轉手になりませうか。」
「それゃいけない。もっと他のものになりなさい。」
「…………では、飛行家になりませうか。毎日々々、お祖母様も、先生も、誰もゐない高い空の上を、ぶんぶん飛んでゆくんです。いゝなァ、いゝなァ。」少年は飛行家を強請(せが)んでゐるやうに、川路の手を揺った。
「さうですね。お祖父様みたいに、軍人におなりになるのがいゝでせう。陸軍の飛行將校にね。」
「川路、もっと奥の方へいって隠れてゐませう。」
「何故、隠れるんです? 若様。」
「牧野先生がお迎ひにくるから……」
「あゝ、もう三十分經過ましたよ。先生にお約束したんだから、そろそろ参りませう。」
「私、もっと川路と遊んでゐたいな。」少年は大人のやうに溜息をした。

「若様、男といふものは、約束を守らなければいけませんね。さァ先生が待ってゐますから参りませう。川路に勉強室を見せて下さい。」
「あゝ、私の部屋で川路に繪を描いて貰ひませうか。」
 二人は内玄關から廊下を一つ隔てた勉強部屋へ入っていった。
 遠くに耳門の見える窓際の卓子で、熱心に手紙を書いてゐた牧野女史は、跫音をきいてひどく驚いたやうに、背後を振返った。その顏には狼狽の色が浮んでゐたが、次の瞬間には笑顏になってゐた。女史は素早く手紙を抽斗へ入れて、愛想よく川路を迎へた。
「お歸りなさいまし、若様は川路さんに遊んで頂いてよろしうございましたわね……如何でございます、少しお話になってゐらっしゃいません?」
「有難う……こゝが御勉強室ですね。」
 川路は疊の上に絨氈を敷いて、二つの卓子と、數脚の椅子を置いた簡素な、十疊程の部屋を見廻しながらいった。卓子の横手の壁には、黒板、地圖、年表などが掛け並べてあって、その隙間にクレオンで描いた少年の幼い繪が十數枚ピンで留めてあった。川路はそれ等の大部分が、殆ど飛行機と自動車計りなのを見て、思はず微笑した。
「このお隣りが、若様の御寝室ですの。」と牧野女史がいった。
 川路は一旦廊下へ出て、次の部屋の扉を開けた。
 突當りに三尺の窓が二つ並んで、白いレースの窓掛けがかけてあって、牀には緑色の絨緞が敷いてあるだけで、何の装飾もない部屋である。高い天井の下に、ぼつねんと置いてある小さな寝台を見て、川路は、幼少の時から兩親の懐を知らずに、こんな風にひとり法師で育てられてゐる少年を可哀さうに思った。
 勉強室から、教育勅語の暗誦をさせられてゐる少年のたどたどしい聲が聞えてきた。
 川路は久時がらんとした部屋を見廻したり、カーテンを除けて、樹蔭の多い庭を眺めたりした後、ふと部屋續きになってゐる次の間を覗いた。
 そこは牧野女史の寝室兼居間で、前に見た二部屋とは打って變って、けばけばしく飾りたてゝあった。緑色の絨氈と、白い壁は少年の寝室と同じであるが、寝台には派手な花模様の覆布が擴げられ、傍の長椅子には焚えるやうな緋縮子のクションが置いてあった。壁には泰西名畫や、水彩の風景畫の間に、バイロン、キーツ、それから若き日のゲーテの寫眞版などがあった。 飾棚に雜然と入亂れてゐる人形の中には、金髪の青い眼をした西洋人形に媚めかしく日本の衣服を着せたのや、眼の縁を隈取った、唇だけ眞赤な、蒼褪めた瀬戸人形などが、無氣味な流眄を送ってゐる。
 川路は、其の部屋全體に獨身女の疏け口のない感情が充滿してゐるやうに感じて、厭なものを見たやうに、周章てゝ首を引込めた。彼は其の儘、勉強室へは顏を出さないで、そっとお勝の部屋へ歸っていった。
「若様はお前さんを記憶えておゐでだったかい? お喜びだったらうね。」洗濯ものを疊んでゐたお勝がいった。
「三十分きっかりといふお許しが出て、お相手をしてきましたよ。」
「若様の事となると、何でも彼でも、規則づくめなんだからね、眞實にお傷はしい程だよ。」
「あれで、いゝのかなァ、ちっとも男の子らしい活發なところがない。まるで女の子みたいな言葉を使ってゐらっしゃる。矢張り子供は、子供の中へ入れて勉強させる方がいゝんぢゃァないかしら。」
「それゃ、さうかも知れないけれども、何といっても掛替へのない一粒種なのだから、奥では御心配でお屋敷からさへ、一歩もお出しにならない位だもの、どうして町の學校なんか、お出しになるものですか。」
「全くお可哀さうだ、先刻せがまれた時には、そっと海岸へでも連出して思ふ存分遊ばせてあげたいと思ひましたよ。」と川路はしみじみといった。

 そこへ、小間使のお千代が大皿に盛った枝豆を運んできた。
「おや、もうおやつ時だね、川路さんだから構はない、皆を呼んでおいで、それからお煎もきてゐるだらう、あれも持ってくるといゝよ。」お勝は洗濯ものを傍へ押しやって座を擴げた。
 顏馴染のお春や、お幾もそこへやってきた。神奈川在の農家の娘で、殆ど川路と入れちがひに喜多川家へ奉公にきたお春は、お勝についでの古顏であった。柄の大きい彼女は、襖が撓(しな)ふやうに背後へ凭りかゝって、皆の話など耳に入らぬ様子で、頻りに枝豆を撮んでゐたが、不意に、
「今日は、田舎のお盆だった。」と頓狂な聲をあげた。
「なァに? びっくりするぢゃァなにの、そんな大きな聲を出して。」お千代と顏を寄せてこそこそ話をしてゐたお幾は、眼を丸くして振返った。
「貴女達は思ひきり大きな聲を出して歌でも唄ひたいと思はない? 私は野良育ちだから、斯ういふお屋敷で、始終遠慮しながらものをいってゐると、適には野良聲を張上げたくなるんだよ。」
「おゝ厭だ……野良聲なんか、どうでもいゝけれども……矢張りさういふ意味かしら、私達は活動寫眞の喜劇でも觀て、思ひきり笑って見たいわ。ねえお千代さん。」
「こゝぢゃァ、いゝ活動も觀られないわねえ。」
 お千代は氣のない聲で、それに合槌を打った。
「おばさんに、又、叱られるかも知れないけれども、この頃になって變なことが余計あるから、怖くて仕方がありませんわ。ねえお千代さん、誰か男の方にでも檢て頂きたいわね。」神經質らしいお幾は、たった今笑ってゐたと思ったら、もう頬を硬張らせて、上眼使ひに人々の顏を見廻してゐた。
 女達の聲が杜絶れると、八疊の部屋はそこにゐる人間を乗せて、深い水底へ沈んでゆくやうに思はれた。何處かで啼いてゐる小鳥の聲が、幾層も、幾層も上の方から聞えてくる。
 お勝の煙管から飛んだ煙草の火玉が、灰の上を轉っていって、火鉢の隅で眞直ぐに煙をあげてゐる。
「……植木鉢が踊ったって、家中の植木鉢ぢゃありますまい。」川路は自分の聲が、思掛けなく大きかったのに驚いた。
「……應接間の植木鉢が、ひとりでにことんことん動いてゐたんですの、それから一昨日は牧野先生のお給仕をしてゐたら、お皿が幾度も持上って、ひっくり返りさうになりました。」とお千代がいった。
「その時、先生はどうしましたね?」川路は少し興味を感じたらしい。
「お氣がつかなかったやうで、知らん顏をしてお茶を飲んでゐらっしゃいましたわ。」
「それぢゃァ、お千代さんの氣のせいだ。」
「いゝえ、いゝえ、私ばかりぢゃァありませんの、お幾さんも見たんです。ねえお幾さん。」
 お千代が餘りにも眞劍になってゐるので、川路はちらとお勝と目配せをして、笑ひながら立上った。
「そんな事は信じられないけれども、兎に角見にゆきませう。應接間ですって?……」
 川路は後に踉いてくるお千代に教へられて表玄關わきの應接間と、台所續きの食堂を見廻った。
 滅多に使用(つか)った事のないらしい應接間は、緑色の日覆を下して、こもった空氣がむっと暑くなってゐた。
 暗い片隅の小卓子に、黄麻布が掛ってその上に海の動物を思はせるやうな、無氣味な仙人掌の鉢植が置いてあった。
 川路は植木鉢の底を覗いたり、テーブル掛の下を檢めたりした後、
「成程、こいつは化けさうだ。」と呟きながら扉口に首を竦めてゐるお千代を顧みて笑った。

 台所續きの食卓は、一方がガラス戸で、開放った窓から紅葉の枝が覗き込んでゐた。中央の長方形の食卓には白布が掛って青林檎を盛った鉢が置いてあった。
 そこにも別に異状はなかった。川路は台所から脱ぎ棄てゝあった女中の下駄を突っかけ、庭へ出ていったが、久時すると、遠くから笑ひ聲をあげながら、女達のお喋りをしてゐるところへ戻ってきた。
「馬鹿々々しい、君達が怖がってゐた正體はこれですよ。」と川路の差上げた手から尻尾に細長い紙片をぶら下げたやんま蜻蛉が、ひらひらと部屋の中を飛廻った。
「まァ厭だ…………誰がそんな惡戯をしたんでせう。」お勝はそれで幽靈を片付けで了ったやうに、ほっとした顏をした。
 けれども若い女達は、そんな事では納得しきれない様子であった。
 川路は女達が夕方の支度をする爲に、部屋を出ていって了ふと、
「小母さん、牧野先生には男の友達でもあるんではないですか。」と頭腦の中で考へてゐた續きを口に出した。
「えっ? さァ私は知らないね。お屋敷へ來てから、女も男も一度も訪ねてきた様子はないから。」
「ふむ…………西嶋さんとはどういふ知合なんだらう。」
「京都の方ですってね。西嶋さんの會社關係の方の姪御さんだとかいふんですがね。それゃあの年齢でおひとりでゐる方ですもの、殿方のお友達の一人や二人はありませうさ。それにあゝいふ目立つ方だからね。」
「……さァ……そろそろお暇(いとま)するかな。まるで久しぶりに自分の家へ歸ったやうに、ゆっくりして了った。」
「折角來たんだもの、まだいゝぢゃァないか、もう少し經過つと日が落ちるから、それから歸る方が樂だよ。」
 川路が襟飾を結び直して、ふと横を見ると、障子の引手の上部の紙が、少しづゝ剥れ始めて、黒い眼が覗いた。
「あゝ、こんなところに隠れてゐたのね!」がらりと障子が開いて、少年が飛込んできた。
「やァ、若様、天井までつけてあげませうか。」
 川路は少年の腰に手をかけて、高く差上げた。
「届いた! 届いた!」少年は嬉しさうに、きゃっきゃっ笑ひながら天井を敲いた。
 そこへ、お千代が廊下をばたばた走ってきて、
「若様、若様、こんなところへおいで遊ばしてはいけませんって、御隠居様がお呼びでゐらっしゃいますわ。」
「さァ、若様、お迎ひが來ましたから、これで左様ならに致しませう。」
 川路は少年を抱き下して、首に卷付いてゐる小さな手をそっと外した。
「川路がいつ迄も歸らないといゝなァ、もう先はずっと家にゐたんでせう。」少年は淋しさうに川路を見上げた。
「又ぢきに伺ひますよ。」
「屹度ね、男といふものは約束を守らなければいけませんね。」
 少年が、先刻の言葉を記憶えてゐたので、川路は思はず笑ひ出した。そして背後を振返りながらお千代に連れられてゆく小さな姿に、手をふって別れを告げた。
 川路が喜多川家の玄關を出る時には、もう可成り遅いつもりでゐたが、高い梢の間にはまだ水のやうな明るい空が殘ってゐた。耳門のところから見える勉強部屋の窓には、紅い葢のかゝった電燈が灯って、牧野女史が晝間見た時と同じ姿勢で、熱心に何か書いてゐた。
 川路は往來に立って、もう一度背後を振返った。喜多川家の表門はぴったりと閉って、密生した樹木が巨大な蝙蝠の翼のやうに、屋敷全體を覆うてゐる。
 川路は、その青空のない暗い屋敷の中にゐる少年を、お伽噺の「捕虜(とらわれ)の王子」のやうに思った。彼は何だか、遠い國へいってきたやうな氣がした。

誘拐
 喜多川家では、奥の夕食が濟み、雇人達の賑かな食事が終って了ふと、台所の後片付けをしたり、家中の戸締りをしたりして、すっかり夜にして了った。
 間もなく、夕刊が奥から下ってくると、台所の一棟を除いて、家中の電燈が一つ一つ消えていって、床の間の掛軸も、陸軍大將の軍服姿も、暗い壁の中に吸込まれて了った。
 まだ、八時半をやうやく過ぎた計りであったが、廣い屋敷内は、まるで夜更けのやうな靜けさであった。
 一日の仕事を終って、自分の身體になった女中達は、お勝の居間に集まって、お幾は東京の親許へ出す葉書をかき、お春は針箱を持出して、丹念に足袋を繕ひ始めた。お千代は毛糸の玉を遠くへ轉がして、折々お幾の助言を受けながら、緑色のスエターを編んでゐた。
「お千代さん、弟のスエターだっていふが、又、弟が生れたのかい。馬鹿に小さいぢゃァないか。」先刻から幾度も引くり返してゐた夕刊を、まだ膝の上に擴げてゐるお勝が、火鉢の向ふから彌次った。
「又、おばさん、そんな惡口をいって……小さくなんかありませんよ。ちゃんと寸法を取ってきたんですもの。」
 お千代はそれでも不安だと見えて、畳の上へ置いたスエターの胴に物差をあてがった。
「だが、お前さん、寸法を測ってきたのは春のことだらう。これからお正月までかゝって編んでゐた日には、その間に子供がずんずん大きくなって了ふぢゃァないか。」
「大丈夫だわ。ねえお幾さん、毛糸は伸びますものね。」
 お千代はむきになって、短い胴を引ぱり始めたので、皆はくすくす笑出した。
「あゝ、お春さん、もう先生のところへ牛乳を温めて持ってゆく時間ぢゃァないかい?」
 お勝が注意した。
「今日は頭痛がするんで、早寝をするから、何にもいらないと仰有ったわ。」とお春がいった。
「では、皆様、もうお寝みだと見えるわ……道理で靜かだこと。」
 お勝の妙に高い聲が、皆の頭の上で消えた。
 書上げた葉書を手にもって、何度も腰を浮して思案してゐたお幾は、
「おばさん、私鳥渡これを出しにゆきたいんですけれど……」
「あゝ、さうさう、耳門を閉めるのを忘れてゐたね、お千代さんと一緒にいって、手紙を出しにいった次手に閉めておいで。」お勝は時計を見上げながら欠伸交りにいった。
 二人は肩を押合ふやうにして勝手口を出ると、内玄關の傍を抜けて耳門の方へ小走りに急いだ。
「お千代さん、お止しよ、驅出すのは……後から誰か蹤いてくるやうで、却って氣味が惡いぢゃァないの。」さういふお幾も、お千代に釣込まれて走ってゐた。
 耳門を通って、往來へ出て了ふと二人はほっとしたやうに歩調を緩めて四邊を見廻した。その寂しい通りの先端(はずれ)に、明るい大通りがT字型に流れてゐる。自動車、自轉車、その間に交って浴衣かけの涼み客などが、ちらちら見えてゐる。
 二人は半分雨戸を閉ぢた荒物屋の前で、葉書をポストへ入れると、少時立止って遠くの賑かな通りを懐しさうに眺めてゐたが、急に思出したやうに、屋敷の方へ走っていった。
 一足先に入ったお幾は、お千代が門をくゞるのを待って扉を閉め、(かけがね)を下した。
 二人が呼吸を切らして部屋へ戻ると、お春が鹽煎餅の皿を膝の前に置いて待ってゐた。
「さァ、もう九時だから、二つ三つ撮んだら床を敷いてお寝みなさいよ。」お勝は自分の湯呑に急須をしぼりながらいった。
「おばさん、あと十分だけいゝでせう。もう一寸で袖が片方編み上るんだから……その代り、おばさんのお床をとってあげるわよ。」
 お千代は又、編物を取上げた。
 岸子刀自の次の間に寝る事になってゐるお春は、臺所で口を嗽いで奥へいって了った。

 十分の約束が十五分となり、ニ十分となって、お勝に叱言(こごと)を云はれながら、お千代はやうやう編物を風呂敷に包んで立上った。
 彼女はお幾と一緒に部屋續きの八疊に、三つ並べて寝床を敷いて了ふと、鼻唄をうたひながら、廊下の先端の便所へ入っていったが、突然、
「きゃっ!」と悲鳴をあげて飛出してきた。
「何ですね、そんな聲を出して!」お勝は障子の間から首を出して咎めた。
「をばさん、大變ですよ。眞白な衣物を着た幽靈が、勉強室の窓のところに立ってゐるんです。」お千代は呼吸を彈ませながら嗄れ聲でいった。
「又、さういふ馬鹿なことをおいひだ。」お勝は嶮しい顏をしてお千代を愼(たしな)めた。
「をばさん、嘘だと思ったら見てご覧なさい。」
「どうせ、木の葉か何かだらう。」
 お勝がぷりぷりしながら廊下へ出てゆくと、若い女達は、後へ殘るのを怖がって、その背後に從いていった。
 開放しになってゐた便所の戸に手をかけて、鐵格子の嵌った小窓から、暫時裏庭を覗いてゐたお勝は、首を傾げながら戻ってきて、
「…………馬鹿だね、白いものっていふのは窓掛が風に煽られてゐるんぢゃァないか…………だが、どうしてあの窓が開いてゐるんだらう…………お幾さん、閉めるのを忘れたのかい?」
「おゝ、氣味が惡い…………をばさん、私確に閉めておきましたわ…………」お幾は首を縮めて眼をつぶった。
「兎に角、窓掛が風で飛んでゐるんだから、窓は開いてゐるに違ひない。どうしたんだらう? いって見よう。」
 お勝は女達を從へて、長い廊下を鉤の手に曲って、壁のスヰッチを捻りながら、勉強室の扉を開けた。
 戸口に立った三人は、明るい電燈の下に、ぴったり閉った窓と、動かない白い窓掛けを見出して、氣味惡さうに顏を見合せた。
「…………厭だね…………でも、そんな怪しな事はない…………」お勝は流石に氣がついて、二つの窓に棧が下りてゐるのを確めると、直ぐ廊下へ引返して、そっと隣りの寝室を覗いた。
 開いてゐたのは、その窓であった。冷々した夜風が吹込んで、闇の中に白い窓掛けが、ふはふは揺れてゐる。
「どうしてこの窓が開いてゐるのだらう。若様がお風邪を召す…………」
「をばさん! 若様がお見えにならないわ!」
「何ですって?」
 お勝は探ってゐたスヰッチを捻った。
「まァ!」
 三人は呆然として、藻抜けの空になってゐる寝台を凝視した。
「牧野先生! 早く來て下さい!」
 お勝は續けさまに、境の扉を叩いた。
 應答がない。
 さっと扉を開けると、突當りの、庭へ通ずる佛蘭西扉が開放しになってゐる。
 牧野女史の寝台も空であった。
「…………まァよかった…………眞實に心配して了った…………屹度、おむつかりになったんで、先生がお庭へ連れておいでになったんだ…………」お勝は胸を撫でた。
「さうですわ、今日は川路さんが來たんで、若様は昂奮してゐらしったから…………屹度四阿家にでもいってゐらっしゃるのかも知れませんね。」とお幾がいった。
「でも、こんな時間に、若様を戸外にお連れするなんて、困った先生だね。」
 お勝は開放しになった佛蘭西扉から、上草履のまゝ、庭へ下りていった。
 その時、小高い芝山の灌木の間に、白い人影が動いた。
「牧野先生ですか?」お勝は四邊を憚りながら聲をかけた。

「はァ……何か、ご用ですか?」
 牧野女史は急ぎ足に芝山を下りてきた。
「おや、若様は?」
「えっ!」
「若様がゐらっしゃらないぢゃァありませんか! どうしたんです!」
 お勝は噛付くやうにいった。
 それを聞くと、牧野女史は顏色を變へて、物も言はずに、露台に立ってゐる人々を突退けて家へ飛込んでいった。
「まァ!」
 彼女は自分の眼を疑ふやうに、空になった小さな寝台を凝視した。
「どうしたんです! 若様がどうなったか、知らないといふんですか?」
 お勝の聲が彼女を現實に叩き返した。
「たった今まで、お睡眠(やすみ)になってゐらしたやうでしたのに……私は余り頭痛がするものですから、風にあたらうと思って鳥渡出たのですけれども……」
 牧野女史は手巾を眼にあてながらも、寝台の白麻の蒲團を剥いだり、寝台の下を覗いたりした。
 椅子の上に置いてあった水兵服も下着も、そっくり紛失(なくな)ってゐる。けれども寝台の裾の方に、小さな赤靴と、スリッパが整然と竝んでゐた。
「若様は、眠ってゐらっしゃるところを、お寝卷のまゝ、誰かに連れてゆかれなすったんだ。」
 お勝は全責任が牧野女史にあるやうに、彼女に詰寄った。
 その時、騒ぎを聞いてお春が走ってきた。
「大變よ。若様が見えなくなったのよ。」
 戸口のところで慄へながらお千代がいった。お春はそれだけ聞くと急いで奥へ注進にいった。
 家中に電燈が點いた。
 間もなく、そこへ現はれた岸子刀自は、冷靜に皆の口から一通りの話をきくと、自から三つの部屋を見廻った。
「お前達、そんなに騒いでも何にもなりません。靜におしなさい。この三つの部屋は誰も手をつけてはなりませんよ。牧野さんは奥で寝んで下さい。」
 岸子刀自は周章狼狽(あわてふため)いてゐる人々に、水のやうな一瞥を投げた。彼女の無表情な象牙の顏の中で、井戸のやうな黒い眼だけが、凡ゆる苦痛と、悲哀と、忍耐とを湛へてゐた。
「すぐ警察へ電話をかけましたものでございませうか。」お勝がいった。
「いゝえ、それには及びません。私にも考へがあるから、今夜の事は世間に洩らしてはなりませんよ。お前は東京へ電話をかけて、西嶋にすぐ來るやうにいっておくれ。それから他の者達は念の爲に、屋敷の周圍を檢ておいでなさい。」
 岸子刀自が奥へ引込むと、女達は牧野女史の後について、裏庭から屋敷を一巡して耳門の方へ向った。
 一足先に大きな木犀のわきを抜けていった牧野女史は、開放しになった耳門の下に蹲ってゐる黒いものを見て、傍へ馳寄った。
 それは鼠色の背廣服を着た青年紳士であった。牧野女史は倒れてゐる男の顏を覗込むと、
「山邊さん! 山邊さん! どうなすったのです!」と狂氣のやうに叫んだ。
 後からきたお春とお幾は、その聲を聞付けて、ばたばた走ってきた。
「何です? どうしたんです?」
 青年の傍に膝をついてゐた牧野女史は、さっと飛退いて、
「誰でせう、知らない人がこんなところに倒れてゐるんですよ。」と唇を慄はせながらいった。
「死んでゐるんですか?」お春が叫んだ。
 丁度そこへ通りかゝった三人連の土地の若衆が、女達の唯ならぬ聲を聞付けて門の中へ入ってきた。
「何だ、何だ醉拂ひか。」
「頭から血が出てゐる!」若衆の一人が地面に跼んで倒れてゐる青年を抱起した。

 青年は微かに呻聲をあげた。
「氣絶してゐるんだ。」若衆の一人がいった。
「貴女方はこのお屋敷の方ですか? どうしてこんな事になったんです。この人は一體どこの人です。」
 青年を抱へてゐた男は、氣遣はしげに立ってゐる牧野女史を見上げた。彼女ははっとしたやうに、二三歩後へ退って、
「私達は、いま、この門を閉めようと思って参りましたら、この方が倒れてゐたんです…………何處の方ですか、存じません。」と上ずった聲でいった。
「あ、これゃ清海ホテルのお客さんぢゃァないか。七月頃から斷髪のお嬢さんと一緒に來てゐるあの人ぢゃァないか。」と誰かゞいった。
「早くホテルへ知らせにゆけ!」
 人々が、がやがや騒いでゐるところへ、大型の自動車が頭光を一團の上に浴せながら、その道路へ入ってきた。
 徐行してきた自動車は、門の前で人混に行手を遮られて了った。
「危い! 待って呉れ! 人が倒れて死にかゝってゐるんだい!」群衆の一人が叫んだ。
 自動車に乗ってゐたのは靖子の一行であった。何事も見逃しておけない性分の足利は、自動車から飛下りてきた。人垣を分けていった彼は、若衆の膝で肩息をしてゐる青年を見ると、
「あゝ、これは僕の友人だ! どうしたんです。」と叫んだ。
 若衆は手短かに説明して、
「後頭部に怪我をしてゐるやうですけれども、氣絶してゐるだけだと思ひます。直ぐ醫者の許へ擔いでゆきませうか。ぢきその通りに醫者がありますから。」といった。
「濟みませんが、その自動車に乗せて、一緒にいって下さい。」
 足利はそこにゐる三人の若者に山邊を託して、一足先に自動車のところへ戻った。
「驚いちゃァいけない靖子さん。山邊君が怪我をしてゐるんだ。さァ三人とも自動車を下りて下さい。僕等は先へゆくから、貴女方は後から歩いてきて下さい。その大通りを右へ二丁許りいったところに、秋月醫院といふのがあるから。」足利は呆然自失してゐる令嬢達を急き立てゝ、自動車から下して了った。
 そこへ、山邊が運ばれてきた。
「まァ、兄さん、大丈夫?」
 靖子は人々を突退けて、若衆の肩にだらりと下ってゐる山邊の腕を掴んだ。
「…………大丈夫だ……」山邊は薄眼を開けて譫言のやうにいった。
 自動車には山邊を眞中に挾んで、足利と若衆の一人が乗った。群衆がさっと道路(みち)をを開いた。自動車が辷り出た。
 その日の夕方、倫敦から歸ってきた父の友人に會ふ爲に、横濱へゆくといってホテルを出た山邊を、足利はこんなところで、しかも、こんな状態で見出したのであった。彼の頭腦は驚愕と疑惑で渦を卷いてゐた。けれども彼はそんな非常な場合にも、喜多川家の門前で、一番無關心を装ひながら、人一倍の關心をもって、山邊を見送ってゐた牧野女史の存在を見遁さなかった。
 美波子と麗子は、嫩(いた)はるやうに兩方から靖子の傍へ寄り添って、明るい大通りに向って歩き出した。
「靖ちゃん、心配だわね。」美波子は同情深くいった。麗子はいふ言葉を知らないで、靖子の手を堅く握りしめた。
「マサの馬鹿! マサの馬鹿! 僕にこんなに心配させて…………」靖子は駄々子のやうにいひ續けてゐた。
 秋月醫院は足利がいった程近くはなかった。三人が呼吸を切らして、やうやう明るい玄關へ馳込むと、足利が現てきて、
「靖ちゃん、安心おしなさい。最う氣がついて、大分元氣になった。一時間計り安靜にしておいて、それからホテルへ連れて歸るから、貴女方は自動車でホテルへ戻って、氷嚢や何かの用意をしておいて下さい。麗子さんも今晩は仕方がないからお泊りなさい。波田井さんの方へは私が電報を打っておきます。」といった。

私立探偵
 山邊を乗せた自動車が、街角に消えて了ふと、喜多川家の女達も、そっと袖を引き合って、辷るやうに耳門の中へ入って了った。
 門の外にたかっていた人々も、一人去り、二人去って、三十分計り後には全く人影が絶えて、僅に魚屋の小僧がその邊をうろうろしてゐるだけであった。
 其處へ、白服を着た巡査が佩劍を鳴らしながらやってきて、小僧と二言三言立話をした末、
「醉漢が喧嘩でもしたんだらう。」と呟いて、いって了った。
 通りのうちの荒物屋も、すっかり雨戸を下して、店の電燈を消した。
 夫から二時間程して、停車場の方から疾走してきた自動車がその通りへ入ってきて、喜多川家の前で停ると。中年過ぎの紳士があたふたと耳門の中へ消えていった。それはお勝の電話によって、東京から馳付けた西嶋であった。
 表玄關に電燈が點いて、お春とお勝が出迎へた。勝手を知ってゐる西嶋はちらとお勝をみたゞけで、さっさと奥へいった。
 お勝の部屋に集った女達は、更けた夜の空氣に肌寒くなってきたやうに膝を寄せ合って、何とはなしに聞耳をたてゝゐた。
「……眞逆……力ちゃんがねえ……」お勝は散々考へぬいた同じ迷ひを、振切るやうに首を振った。
「若様は、お食事の時に、川路が今にお迎ひにくるんだと仰有って、喜んでゐらしったけれども、眞逆、夜中にきてそっとお連れするなんて、そんな事はないと思ひますけれども……」お幾が合槌を打った。
「何をいってゐるんだね。川路がお連れしたと判ってゐれゃ、心配はないんだが……先生があんなところを開放しにしておいたから、若様がふらふらと出ていって、迷子にでもおなりになったのぢゃァないかと、それを心配してゐるんだよ……」
「でも、若様が御自分で寝卷のまゝ、御洋服を抱へて、跣足で出ていらっしゃっるなんて、そんなことないでせう。」
「それも、さうだけれども……耳門のところに倒れてゐたっていふ男は何だらう。お前達が手紙を出しにいった時に閉めておいた門が、開いてゐたんだってね?」
「をばさん、私、先生も變だと思ひますわ。あの男の人は、牧野先生の知ってゐる方らしいのよ。」お幾は一段聲を落していった。
「どうしてさ?」お勝は相手を見守った。
「一番初めに先生が見付けた時には、名前を呼んでゐたやうでしたわ。後では知らない人だといってゐらしったけれども……」
「さうかい……その人はホテルのお客だって?」
「えゝ、さうなんですって。」
「牧野先生も、女學校時代のお友達がきたとかで、二三度ホテルへ食事にいったやうだったね。」
 お勝はそれっきり默って考込んで了った。
 先前から、呆乎した顏をして電燈を視詰めてゐたお千代が、不意に、
「をばさん、川路さんはギャングぢゃァないかしら?」といった。
「ギャング? それゃ何のことだい。」
「ほら、よく新聞や、雜誌に書いてあるぢゃァありませんか。ギャングっていふのは、時々お金持の子供なんかを盗むんですってさ。」
「何をいひ出すかと思へば、飛んでもないことをいふ、こんな際に滅多な事をいふもんぢゃァないよ……川路は子供の時からお屋敷で育って、海山のご恩を受けてゐる身なんだよ……それゃ現在は、お屋敷を出て、運轉手なんかになってゐるけれども……」
 お勝は眞向からお千代を呶鳴りつけたものゝ、さういってゐる間に、段々川路に對する確信がぐらついて來たのに氣付いて、ふっと口を噤んで了った。

 其時、跫音を憚るやうにして長い廊下を歩いてきたお春が、緊張した顏を出して、
「をばさん、西嶋の旦那様がお召しよ。」といった。
 お勝が部屋を出てゆくと、お幾は、
「ギャングが若様を誘拐したのなら、身代金を出せば返して寄越すわね。」
「だけれど、お金をとっちゃってから、子供をざくざくに切り殺して了ふ事があるんですって。」お千代は、けろりとして、又、電燈を凝視した。
 二人の女達は、お千代の無氣味な言葉に、ぞっとして顏を見合せた。
 お勝が奥へゆくと、十疊の居間で岸子刀自と小聲で話をしてゐた西嶋は、穏かに後を振向いて、
「いま、大體の話を御隠居様から伺って、私の方でもとるべき方針をたてたが、お前にも何か氣がついた事があれば、隠さずいって貰ひたい。今日は珍しく川路がきたさうだが、變った様子はなかったかい?」
「若い者達は川路が自動車で若様をお迎ひにくるとか申してゐたといふので、川路を疑ってゐるやうでございますが、大體川路を今日こちらへ伴れて参ったのは私で、あれはお屋敷がこちらへ移った事も知らないでをった位でございますから…………」
「無論計畫的ではないとして、急にふらふらと、そんな氣を起したとは考へられないかい?」
「私には、とんと見當もつきませんけれども、川路に限ってこんなにお屋敷をお騒がせするやうなことはしないと存じます…………」
「川路は近頃、金に困ってゐるのではないかね?」
「どうせ、あんなしがない商賣をしてゐるものですから、さう裕福なことはございますまいが…………他に何か紛失ものでもあったのでございますか?」
 お勝は川路が奥へきてゐた事などを思ひ出して、何といふ事なしに部屋の中を見廻した。
「お前はまだ、はっきり若様がゐなくなられた譯を諒解(のみこ)んでゐないやうだが、私達の考へでは誘拐者は、いづれ身代金を要求してくると思ってゐる。それでうっかり表沙汰にして、若様に万一の事でもあっては大變だから、その心算で皆にも口止めをしておいて貰はねばならない。」
「まァ、そんな恐ろしい事なのでございますか……ちっとも氣がつきませんでした。それでは若様は惡漢(わるもの)に捕ってゐらっしゃるんでございませうか。」
 お勝は想像もしてゐなかったことに直面し、しかも、川路がそれに掛り合ってゐるらしい事を知って、今更のやうに慄いた。彼女は西嶋から問はれるまゝに、この十數日來、若い女中達が、幽靈を見たとか、泥棒がどうしたとかいって、屋敷内の空氣がざわついてゐた事や、自分の見掛けた植込みの中の怪しい人影、延いては牧野女史に對する疑惑、それにはその晩の女史の行動、そしてその耳門の傍に倒れてゐたホテルの客の事などを、洗ひざらい語った。
 お勝が西嶋の前を引退ると、薄暗い廊下の先端にお千代が白いものをもって突っ立ってゐた。
「をばさん、御隠居の吩咐で、あちらのお部屋の戸締りをしにいったら、若様のお部屋の窓にこんなものが挾んでありました。」
「何だいそれは? 先刻はそんなものは無かったぢゃァないか。」お勝は氣味惡さうに手を伸した。
 それは宛名も、差出人の名も記してない、大型の角封筒であった。
 お勝は封書をもって直ぐ奥へ引返した。
「西嶋様、若様のお部屋の窓にこんなものが挾んであったさうでございます。」
 西嶋は豫期してゐたらしく、手早く封を切った。そこには、
――驚き騒ぐ勿れ。ワ少年は無事なり。警察に通ずる事は、少年の生命を危くするものと知るべし。次信を待て。 X團。
と邦文タイプで打った紙片が入ってゐた。

「矢張りさうだった。だが、どうして先刻誰も氣がつかなかったらう。何處にあったのだか、皆を連れてきておくれ。」
 西嶋は一時間程前に檢た現場を、もう一度調べにいった。
 お千代は一旦閉めた窓を開けて、手紙の差してあった個所を示した。
「そこだったら、誰の眼にもつく筈だが、お前も氣がつかなかったのかい。」西嶋はお勝を顧みた。
「私は確になかったと思ひます。あれから後に誰かゞ入れたんぢゃァないかしら……ねえお幾さん。」
「えゝ、私達はこゝへ三度きましたけれども、私は確に見ませんでした。」
 すると、お春が、
「さァ、私はうっかりしてゐて、窓は見ませんでしたから、何ともいへませんけれども、あの時なかったものが、三時間も經過ってから現てくるなんて變ですわ、若様を一寸の間に盗出していった程のものが、わざわざ今頃になってこんなものを投込みにくるなんて事もないでせう。矢張り最初からあったのを、氣付かなかったんではないでせうか。」といった。
「私は、そんなものがあったかどうか、知りません。」牧野女史は皆がむきになって、手紙の事ばかり問題にしてゐるのを、苦々しく思ってゐるらしく見えた。
 西嶋は拳銃をもって、庭内を一巡りしてくると、
「今夜は、いくら騒いだって、どうにも仕様がない。お前達はもう寝むがいゝ。」といってさっさと奥へ引揚げて了った。
 夜風が囂々と梢を鳴らしてゐる。一同は枕に耳をつけて、海のやうな風の音を聞きながら、若様の身を案じて、一しきり噂をしてゐたが、いつとはなしに眠って了った。
 短い夜は、倏忽(たちまち)明けた。
 女中達がやうやく朝の食事を濟ましたところへ、東京から三人の客が到着した。前夜西嶋が電話で依頼しておいた私立探偵大船の一行である。
 三人は應接間で、西嶋を前に長い間密議を凝らしてゐたが、軈て二人の助手は忙しく喜多川家を出ていった。
 五十恰好の、でっぷりした大船探偵は、西嶋とは別懇の間柄らしく、無駄口をきいたりして、折々、この屋敷には珍しい爆笑をあげてゐた。
 彼は廣い家の中を氣儘に歩き廻った揚句、葉卷を燻しながら庭へ出ていった。
 葉の混んだ躑躅の並んでゐる小徑を抜けて、地境ひまでいった大船は、檜垣についてじめじめした裏庭の裾を迂回って、物干場の傍へ出た。彼は折々足を停めて、ステッキの先で路傍に溜ってゐる落葉を跳飛したり、蚯蚓を引張ってゆく蟻の作業を、興ありげに眺めたりしてゐたが、物干場の傍の日向に雜然と咲いてゐる一振のダリアを見付けると、側へいって、葉裏に附着いてゐる虫を夢中になってとり始めた。
「お千代さん、このダリアは莖虫がついてゐるから駄目ですね。」大船は不意に大聲でいった。
 そこから數間距れた袖垣の陰で、洗濯ものを入れたバケツを足下に置いて、耳門の方を覗いてゐたお千代は、その聲に驚いて飛上った。
「あゝ、びっくりした。誰かと思ったら……」
「はゝゝはゝゝ、情人(いいひと)は中々來ないと見えますね。」大船は笑ひながら傍へ近づいていった。
「いゝえ、そんな人を待ってゐるんぢゃァありませんわ。怪しい奴がくるかと思って、見張ってゐたんです。」
「晝日中、怪しい奴が來ますかね。何故さう思ふのです。」
「誰かゞ、又、脅迫状を投げ込みにくるかもしれませんから……」

 暫時、青白いお千代の顏を視詰めてゐた大船探偵は、
「お千代さん、それゃ本當かい、どうしてそんなことを知ってゐるのだね?」
「第二の脅迫状が、いつ何時くるかも知れないって、牧野先生がいってゐらっしゃいました。」
「ふむ、成程ね……ぢゃァ私も一つ、見張番をやるかな。何か怪しい事があったら直ぐ知らせて貰ひませうね。」
 大船は紫色の煙をあげながら、その邊を大股に歩いてゐたが、久時して築山の蔭の四阿家へ入っていったと思ふと、間もなく大きな鼾聲が聞えてきた。
 お勝の吩咐で、冷たい飲料を四阿家へ持っていったお千代は、腰掛(ベンチ)に長々と横になって、肘枕をしてゐる呑氣さうな探偵の姿を見出した。
「やァ、これはこれは……どうです、まだ怪しい奴は來ませんかね。」大船は直ぐ眼を覺して笑ひながら起上った。
 彼は冷たいサイダーを飲干すと、大きな伸をした次手に、櫻の植ってゐる遠くの台地に眼をやって、
「おや、牧野先生があんなところで見張をやってゐるな。どれ私もお仲間入りをしよう。」といひながら四阿家を出た。
 築堤に沿うた芝生を歩いてゐた牧野女史は、無遠慮にすぐ背後へきた大船い気付いて、鳥渡眉を顰めた。
「成程、こゝは御散歩には絶好な場所ですな。第一往來が見えて退屈しない。」大船は帽子の縁に手をやって笑顔で挨拶をした。
「早くから御苦勞様でございます。眞實に私一人の責任のやうな事になってしまひまして、どうしていゝか判らないのでございます。一刻も早く若様のお行衛が判りますように祈ってをります。」牧野女史は溜息をした。
「いや、さう御心配なさいますな。私共にはもう見當がついてをります。探偵の仕事なんていふものは、奇術のやうなもので、種を明して了へば他愛のないものですよ……貴女は奇術に趣味をお持ちですか?」
「どうしてゞせう、私、そんな風に見えまして?」
「美人に奇術はつきものですからね。天勝はいつ見ても奇麗ですな。」大船は愉快さうに笑った。
「まァ、何の事かと存じましたら、そんなご冗談ですか。」牧野女史はほっとしたやうに微笑を返した。
「美人は戀をします。戀をすると、いろいろ奇術をやりたくなるものです……貴女はお千代をどうお思ひになります? あれなどは無智で、臆病で、うてつけの觀客ぢゃァないでせうか。」
「貴殿は何をいってゐらっしゃるのか、私には了解(のみこめ)ませんわ。」牧野女史は上目使ひに、ちらと相手の顏を見た。
 大船は無頓着な様子で、ポケットから櫛を取出して、假睡(うたたね)で飛上った頭髪を撫つけ始めた。
「やァ失禮、どうも年寄になると行儀が不良くていけない。娘からも始終叱られ通しです。時に貴女のお召しになってゐるその服は大變よろしいですな。外國からでもお購めになったのですか。これからの婦人は洋装に限りますよ。私のところの娘も洋装にさせたいと思ふのですが、これで本式にすると、中々數が入るでせうな。貴女は昨日晝間は、紺地に白の水玉の服を着てゐて、夕食の時には緑色のドレスに着換へ、頭痛がするといって、寝室へ退かれてから、又、今召してゐらっしゃるその服に着換へられたのですね。」
「……」牧野女史は唇を噛んで俯向いた。
「私は貴女の友達がホテルに滞在してゐる事も、その爲に貴女が幽靈を出した事も、貴女がX團の脅迫状を戀文と間違へて開封し、別の封筒に入れてそっと窓へはさんで置いた事も、すっかり知ってゐるのです。私は貴女がこの誘拐事件の直接關係者とは思ひませんが、この際御存知のことは腹藏なく話して下さる方が、お互ひの爲ではありませんかね。」
 大船探偵はそれだけいって了ふと、くるりと踵を返して、家の方へ歩み去った。

探偵の手帳
 大船探偵の助手、中澤はその日の暮近くに喜多川家へ戻ってきて、表玄關傍の應接間で、黒手帳から調査の結果を報告した。

 山邊正信二十四歳――清海ホテル七號室滯在客。
 この青年紳士は、昨十六日夜九時半前後に喜多川家耳門の傍に昏倒してゐた。
 彼が手當を受けた秋月醫院々長は次の如くに語ってゐる。
「丁度、ラヂオの気象通報を聴いてゐる最中に、その怪我人は自動車で運び込まれました。傷は後頭に長さ五センチ、深さ一センチの鈍器による裂傷でした。一時失神状態にあったやうでしたが、ぢきに氣がつき、處置をして赤酒を與へ、一時間程こゝで安靜にさせておいて自動車でホテルへ歸しました。今日も往診してきましたが、輕微な發熱があるだけですから、十日間位で全治するでせう。」

 山邊氏友人足利氏談
「私共兄妹は山邊兄妹から土曜日の晩餐に招待されたので、一泊の豫定でこのホテルに來てをったのです。
「山邊君は昨日午後五時のお茶が濟むと、横濱の知人を訪問する約束があってホテルを出ました。
 吾々は夫から一しきり海へ入ったり、食事をしたりして九時五十分發の列車に乗る爲にホテルを出て、自動車が喜多川家の門前に差蒐(さしかか)った時、偶然あの騒ぎに遭遇したのです。それで吾々は再びホテルへ引返し、私の妹とその友人は今朝東京へ歸り、私だけが看護に殘った譯です。
 山邊君は英國で立派な教育を受けられた紳士で、決して腕力をもって是非を決定するやうな野蠻な行爲をする人間ではありません。又、温厚彼の如き男が、敵をもってゐたとも考へられません。恐らく人違ひで不意打を受けたのであらうと思ひます。全く飛んだ災難でした。」

 逗子驛改札係花村は、山邊正信氏の寫眞を見て、次の如く語った。
「何と仰有るのか、名前は知りませんが、この方なら七月初旬から清海ホテルに來てをられて、よく斷髪洋装の可愛らしい妹さんと、この驛から乗降されます。
 昨十六日午後五時五十分頃、改札にはまだ五分程間がありました。私は便所へいった歸りに、誰かゞ切符賣場の邊で、金を落としたらしい音がしたので、ふとそっちを覗くと、腰掛の端にこの方が鼠色の背廣服を着て、人待顏に入口の方を見てゐる姿が目に入りました。
 その中に改札が始まりましたが、この方は切符を買ふ様子もなく、入口と腕時計とを見較べてをりました。すると、二十七八の詰襟服を着た、運轉手風の男がこの方の傍へきて、叮嚀に帽子を脱って挨拶をしながら、名刺みたいなものを渡しました。この方は二言三言何か話をして連立って停車場を出ていったやうでした。
 この日、この方がこの驛から乗車されなかった事は確です。」
 逗子タキシー運轉手槍ヶ崎談――チップ一円を奮發――
「山邊さんは、ちょいちょい乗って頂くのでよく知ってゐます。鷹揚な方で、賃金を値切るやうなことは一度だってありませんでした。中々お顏が廣くって、美人のお友達が澤山あります。私はよくバックミラーなんて外して方々へお伴しました。
 十六日午後六時、丁度上り列車が發車(で)た後でした。珍らしく山邊さんおひとりで、鎌倉の海濱ホテルまでお送りしました。歸りは何時になるか判らないから、待つには及ばないと仰有ったので、直ぐ歸ってきて了ひました。
 おつれが無かったせゐか、いつも程御元氣がなかったやうでした。」

 山邊正信氏は、牧野女史との交際關係を絶對に否定し、病床に於て次の如く語った。
「私は横濱にゐる父の友人を訪ねるつもりでホテルを出たのでしたが、停車場へいってから、約束の日取りを間違へてゐた事に氣がついたのです。友人も來てゐる事ですから、ホテルへ歸らうかとも思ひましたが、友人と鳥渡氣まづい事がありましたので、却って會はないでおく方がよいと思ひ、思案した揚句、鎌倉の海濱ホテルへ食事にいったのです。」
「貴殿は逗子驛で、誰かをお待合せになってゐたのではありませんか。」(余は改札係の證言を参照して斯く質問したのであるが、氏は眉一筋動かさずそれを否定し、更に構内で立話をした運轉手風の男の事に言及すると、多少狼狽の表情を見せたが、次の如く應へた。)
「そんなこともあったやうでしたね……あゝ、あれは人違ひでした。何處かの別莊から客を迎へに來た自動車が、間違へて私にきゝにきたのでした。」
「貴殿は何時頃まで海濱ホテルにをられましたか?」
「ウヰスキーを少し飲み過ぎたので、はっきりした時間は記憶えませんけれども、八時半頃だったと思ひます。私はすぐ逗子へ歸りましたが、月がよかったので、的もなく海岸を歩いてをりました。その中に少し疲勞を覺えたものですから、松原へ入って砂地に寝轉び、波の音を聽きながら、松葉の間に昇ってゐる月を眺めてゐました。その邊は街道を距れてゐて、滅多に人の通らない場所ですから、私は時折り、ひとりになりたい時には出掛けてゆくところなのです。
 丁度私が何本目かの煙草を吸切って、そろそろホテルへ歸らうかと思ってゐると、不意に男の話聲が聞えてきました。
――盗み出してさへしまへば、後は雜作ないです。
――成可く、荒仕事にならん方がいゝぞ。
――あの家では九時は夜中ですし、それに女ばかりですから、仕事は樂ですよ。
 私は惡いところに居合せたと思って、呼吸をこらして隠れてゐました。相手は屈強な男二人でした。彼等は私がそこにゐるとは知らず、直ぐ近くを通ってゆきました。生憎松の枝が邪魔をして、彼等がどんな男で、どんな服装をしてゐたか、はっきり判りませんでしたが、二人とも洋服を着て、一人は眼鏡をかけてゐたやうでした。私の傍を通ったとき何かきらりと光りましたから。
 私は小耳に挾んだ會話から、彼等が二人組の窃盗團で、まだ宵の口だといふのに大膽にも何処かへ忍混まうと計畫してゐる事を察し、そのまゝ看過してゐる譯にはゆかないと思ひ、二人を遣り過してそっと後を尾行けてゆきました。
 私は彼等に氣取られてはならないと思ひ、充分用心をして二十間計り間隔をおいてゐましたから、それから先、二人の間にどんな會話があったか、知る事は出來ませんでした。
 二人は人通りのない裏道を選んで新宿へ出ると、喜多川家の附近で姿を消して了ひました。あの一劃は喜多川家の宏壯な邸宅が占めてゐて、前は榛澤家の曳塀になってゐますから、二三丁の間は殆ど眞暗で、僅に角の荒物屋の電燈が道路の一部を照らしてゐるだけでした。勿論、月は出てゐましたけれども喜多川家の方の側は、樹木が黒い影を落してをりました。
 私はポストの陰に立って、暫時様子を窺ってをりましたが、見渡したところ、喜多川家より他に彼等の忍び込む家はないやうに思はれましたし、それに彼等の會話の中に、「女ばかりの家」云々といふ言葉がありましたから、私は往來を横切って喜多川家の耳門を押しました。すると案の如く、錠が外れてゐて、扉が内側に開きました。
 私は家人に急を知らせる心算で、足を踏み込んだ途端、何か棍棒のやうなもので、頭を打たれて、其場に昏倒したのでした。

 中澤より一時間遅れて、大船探偵の助手赤倉が戻ってきた。彼の其日の収穫は次の通りであった。

 川路力松――二十六歳、自動車運轉手。
 この青年は誘拐事件と最も密接な關係をもつものと推定される。
 彼が逗子へ來て以來の行動を時間によって左に記録する。
 十五日午後三時――清海ホテルに到着、彼は七號室滯在客、山邊正信の招待客の一人である。
 午後九時二十分――晩餐後、職業をもつ彼は東京へ歸る爲にホテルを辭去。
 午後十一時三十分――清海ホテルの庭へ忍び込む。(これは足利氏の妹及びその友人が目撃したる由)
 午後十一時五十分――逗子驛前にて、數名の醉漢と亂闘。
 午前零時十五分――驛前倉本旅館に投宿。
 十六日午前十時――喜多川家訪問。
 午後六時――喜多川家を辭去す。

 山邊は川路力松に就いて、次の如く語った。
「私は、その男とはあの日初めて言葉を交した位で、格別友達といふ譯ではないから、彼に就いては何事も知らない。私の妹は氣まぐれ者だから、多分ダンスホールか何處かで知合になったものであらうと思ふ。
 十五日の晩、九時五十八分の上りで東京へ歸るといって吾々に別れを告げていった彼は、どういふ譯か、十二時近くまで逗子でうろうろしてゐた。
 私は彼に對して別に關心をもってゐなかったから、彼の行動を監視してゐた譯ではなかったが、偶然彼を見るやうな事になったのである。
 私は十一時半頃、海岸を一廻りしてから、珈琲でも飲まうと思って、停車場前へ出ると、「三日月酒場」の前に人たかりがしてゐた。それは五人計りの學生風の男が、土地の若い者を袋叩きにしてゐるのであった。何でも理は若い者にあるとかで、周圍の同情はその男に集ってゐたが、學生連の劍幕が凄じいので、誰も進んで仲裁に入るものはなかった。そこへ不意に飛込んできて、五人を相手に喧嘩を買って出たのが川路であった。私はそんな騒ぎに卷込まれるのは好まないから、その結末を見ないでホテルへ歸って了った。」

 倉本旅館番頭談
「あのお客様には、全く溜飲を下げましたよ。書生共は散々な目に遭って、逃げてゆきましたっけ。あの五人組は件質(たち)が不良くって、方々の酒場を荒し廻ってゐたんで、何處でも鼻つまみだったんですが、何しろ避暑客となると、土地の者には手が出せませんよ。それをあの東京のお客様が、小氣味よく遣付けて呉れたんですからね。よく伺って見ると、まだお宿をとってゐないと仰有るんで、私は何でも彼でも家へといふんで、來て頂いたんです。柔道は何段といふ腕ですな。
 ――旦那、大學はどちらでゐらっしゃいますと伺ひましたら、
 ――巷の獨力大學出身さと笑ってゐらっしゃいました。そして宿帳にも、この通り東京市外新宿淀橋町川路力松、職業運轉手なんて書いてゐらっしゃいました。
 宿賃は半どまりでしたから一円頂きました。
 宿を出られたのは九時前後でした。」

 山邊正信氏令妹靖子嬢は、川路力松に就いて語る事を拒否し、余の面前で扉を閉ぢて了った。
 因に本社に電話をかけ、淀橋の自動車々庫に就いて調査させた結果、川路の宿所は判明したが、彼は十五日以來、今もって歸宅せぬ由。(本社よりこの報告を受たのは本十七日午後五時である。)

 牧野友子女史――三十歳、關西女學院出身。
 彼女は山邊とは面識がないと主張してゐるが、左にその反證を列記する。
一、十六日夜、喜多川家邸内に昏倒してゐた山邊を發見した際、彼女は彼の名を呼んでゐた。これはお千代、お幾等によって證言されてゐる。
二、豐滿な肉體美の持主である彼女は誰の目にも甚だ色っぽく見えた。彼女が異性に對して特別愛想がいゝといふ事は、出入商人の等しくいふところである。魚屋の小僧は十日程前の某夜、九時過ぎに山邊が喜多川家へ入ってゆくのを見たといふ。
三、牧野女史は十六日の夜、頭痛がした爲に十分計り庭前を歩いてゐたといってゐるが、若し彼女が現場に近い庭前を歩いてゐたといふなら、僅その十分間に誘拐者が彼女の注意を惹く事なしに少年を連出し得る筈はない。
 彼女は尠くも三十分は部屋を空けてゐた。彼女が庭へ忍出たのは誰かと媾曳する爲であった事は疑ふ余地はない。彼女は男の爲に耳門の棧を外しておき、久時ダリアの咲いてゐる袖垣の傍らに彳って、男を待ってゐた。その間に無意識にダリアの芽を摘んだ。袖垣の柔かい土の上に踵の高い婦人靴の跡が歴然と印され、ダリアの芽が一本摘取られてゐた。その萎れた芽は四阿家の前に遺棄してあった。彼女はその四阿家で數分を費した。ベンチの隅に脂肪取り紙の丸めたのが落ちてゐた。(資生堂製の同種の脂肪取り紙が彼女の化粧台の上にあった。)
 その他、四阿家には數本の煙草の吸殻が發見された。男は度々そこで彼女に會ったものと推測される。いづれも英國煙草ゴールド・フレークである。(中澤探偵の證言によれば、山邊の枕元に罐入りのゴールド・フレークがあって、彼はその趣のレモン色を懐むでゐると。)
四、X團の脅迫状は大船探偵が察知した如く、犯人が少年を連出すと同時に現場に遺していったものであるが、最初お勝逹は氣がつかないでゐた。しかし戀人をもってゐる牧野女史は現場へ馳込むと同時に封書を發見し、危急の際にもそれを戀文と早合點して隠匿した。後にそれが脅迫状である事を知り、新らしい封筒に入替へて窓に挾んでおいたものである。
 脅迫状の内容は極秘にされてゐたにも拘らず、彼女は不用意にお千代に向って第二の脅迫状云々と洩らした事實は、彼女が脅迫状を開封した事を裏書してゐる、なほ捜査の結果、彼女の机の抽斗に同種の角封筒が發見された。
 牧野女史は私行を秘する爲に、多く虚構の陳述をしてゐるが、川路に關する二三の證言は稍々信を置くに足るものと認められる。
 十六日夕刻六時過ぎに、牧野女史は手紙を書終り庭へ出て、薔薇垣の際を散歩してゐた時、往來を見下すと、喜多川家の塀の端れに銀鼠色の自動車が停ってゐて、川路が車中の婦人と立話をしてゐるのを見掛けた。なほ、その自動車は、以前にも二三度同じ場所に停ってゐたが、丁度その前は榛澤家の裏門になってゐたので、榛澤家の自動車と思ひ、格別注意はしてゐなかったといふ。
 應接間で、一同が今後の方針について詮議してゐるところへ、第二の脅迫状が郵送された。
「舞台は東京になった。」消印を見て西嶋がいった。封を切ると、第一に現れたのは、ワ少年の片假名の多い手紙であった。
――オバアサマ、オネガヒデスカラ、コノ人タチノイフ通りニ、オカネヲ上ゲテ下サイ。ケイサツヘイフト、私ハ刀デコロサレテシマヒマス。大キナピカピカシテヰル刀ヲ見マシタ。私ハ早ク、オウチヘカヘリタイデス。
ワ  
 次の邦文タイプライターの脅迫状には、
――明十八日中に、拾円紙幣にて現金貮万円を用意し、西嶋はそれをもって歸京し、自宅にて次の命令を待て。
X團  
と記してあった。

助手
 上尾久の公設市場の傍にあるミルクホールで、谷井はいつものやうに簡單な朝食をとってゐた。彼は川路の許を去って以來、今迄自分のゐた社會とはまるで縁を切って、何ものにも拘束されない、のびのびした気持になってゐた。
 暑中休暇で、店を手傳ってゐる娘は、手製の洋服の下から、長い脛を現して、赤い鼻緒の下駄を突かけた足をぶらぶらさせながら、扇風機の傍で氷水を飲んでゐた。
「御病氣は、もう癒ったんですか。」
「三日も休んで了った。今日から働きに出るんだ。」
「谷井さんの會社ぢゃァ、暑中休暇はないの?」
「會社なもんか、あんなところ。書中休暇なんかあったら大變だ。日給取りは干上って了ふよ、」
「私の方の學校は九月十日迄、お休みなのよ。お友達は大抵、鎌倉だの、大磯へ海水浴にいってゐるんですけれども、私、今年ゆかなかったわ。お店が不景氣だから。」
「海水浴なんて、愚だよ。鎌倉だの大磯だのって、ちっとも涼しかない。家にゐて本でも讀んでゐる方が余程利口だ。」谷井は大磯の思ひ出を吐棄てるやうにいった。
「さうね、あんなところは、まるで海水着の展覧會みたいだわね。私のお友達ったら、一夏に七枚も海水着を購っていったんですって、馬鹿々々しくなっちゃうわね。」
 谷井は十錢銀貨を二枚、卓子の端へ置いて硝子鉢に金魚の浮いてゐる帳場の前を通りしなに、
「お玉ちゃん、自分ばかり氷水を飲んでゐないで、金魚にも新らしい水を飲ましてやらなくちゃァ駄目だぜ。」
「その金魚、馬鹿だから厭ひよ。貴郎にあげるわ。」
「よし、貰ったぞ、その中に佃煮にしてお前の弁當に入れてやらう。」谷井はそんな輕口をきいて店を出た。
 眞青な空に、火輪のやうな太陽がぐるぐる回轉ってゐる。白っぽい道路も、電車軌道も、黒い屋根も、窓も、賣出しの旗も、廣告塔も、灼付くやうな日光を、ぢっと耐(※不明推測)へながら、一齊に大空を睨み返してゐる。
 風邪をひいて三日ばかり床に就いてゐた谷井は、最初、頭窩(ぼんのくぼ)に熱い日光を浴びた時には氣持よく感じてゐたが、一丁もゆかない中に、胸元や、帽子の中に汗が流れ出てきて、日陰を探すやうな心持になってゐた。
 彼がやうやく駒込神明町の緑タキシーの店につくと、がらんとした車庫の眞中に、腕組みをして突立ってゐた主人が、
「やァ、いらっしゃい。」と他人行儀に挨拶を返した。
 谷井は鳥渡鼻じらむで、
「…………濟みませんでした。すっかり風邪にやられて……」
「お前、商賣替をしたのかと思ってゐた。」
「いゝえ、そんな譯ぢゃァありません。すぐその日に葉書で、欠席届を出しておきましたが……」
「へん、欠席届だって? 學校ぢゃァあるめえし、第一葉書が自動車へ乗れるかい。こっちは商賣なんだから、病人があらうと、無からうと、自動車はどんどん出てゆくんだ。折角だが、他へいってくんな。もう後がはりが出來てゐるんだから、丁度、出勤が十五日だっけな。洗濯代を一円立替へておいたから、差引十円だ。ほれよ。」主人は十円紙幣を一枚突出した。
 斯うして谷井は至極簡單に、緑タキシーを馘首にされて了ったのである。彼は平常からこの男の遣口を知ってゐたので、どうせ何をいったって無駄だと思ひ、受取った金をポケットへ入れてそこを出た。
 彼は五六間いってから、車庫の二階に汚れたシャツと、買ったばかりの浴衣を置放しにしてきた事を思ひ出して、戻りかけたが、又、親父の顏を見るのは厭だと思って、その二品を諦めて了った。

 谷井は無性に腹が立って、やけに歩いてゐた。日陰などはもうどうでもよかった。汗は出放題、それに昨夜窓ガラスに貼付けておいて、家を出しなに剥がしてきた眞白な手巾は、いつの間にか濡雜巾のやうになってゐた。
 アスファルトのだらだら坂を上り切って、上富士前の大通りへ出たとき、黒地に黄色くOKタキシーと書いた大看板が目についた。それは電車通りに面した堂々たる車庫であった。
 一旦その前を通り過ぎた谷井は、電話機の傍の卓子に肘を突いてゐる男を見ると、後戻りをして、濡れた手巾と帽子を一掴みにして店へ入っていった。
 彼は今迄の經驗から學歴を秘して小學校を卒業したゞけだといって、助手の口を尋ねた。
「東京育ちかい?」
「えゝ、地理はよく知ってゐます。」
「ぢゃァOKだ。早速やって貰はう。」そこでは案外すらすらと話が運んだ。
 すると店先で自動車に拂子(はたき)をかけてゐた男が、のそのそ傍へやってきて、無遠慮に谷井を見廻しながら、
「何です、この人を使ふのですか。」と不服らしくいった。
「丁度いゝぢゃァないか、あれの代りに……」
「然し……僕は直ぐ出るんだから、今日はいゝでせう。」
 運轉手はさっさと自動車の方へ歩きかけた。
「今日はいゝって事はなからう、店の規則だから。」
 谷井は急立られて、追込まれるやうに助手台へ乗った。
 運轉手は不機嫌な顏をして谷井には一言も口をきかないで、自動車を飛ばしてゐた。
 一時過ぎになって、池袋驛へ客を送った歸途に、鎌倉橋際の小さな蕎麥屋の前に差蒐(さしかか)った時、運轉手は初めて、
「この邊で蕎麥でも喰はうか。」と言葉をかけた。
 メリヤス屋と魚屋に挾まれた煤けた店の入口に、色の褪めた紺暖簾がかゝってゐて、格子窓に貼った天丼二十五錢の紙片が、風に煽られて剥れかゝってゐた。谷井は鳥渡店先を覗いて、
「蕎麥なら、銀座の更科がいゝな。」と氣乗りのしない返事をした。
「ふん、贅澤野郎だな、君は。ぢゃァ待ってゐて呉れ。」
 運轉手は暖簾を分けていって、谷井が煙草を一本吸ってゐる中に、口の端を拭ひながら戻ってきた。
「君は學校へでもいったのかい?」
 それから余程經過って、自動車が瀧野川の役場前を疾走ってゐる時、運轉手が話しかけた。
「つまらないから中途で止めて了った。」
「全くだな、二十五だの六だのって、いゝ年齢をしやがって、高い月謝を拂って學校へなんかいってゐる奴の氣が知れない。學校を卒業て實社會へ出たからって、一體幾許取れるんだい。第一取るも、取らないも、當節は就職口なんてあるもんぢゃァねえ。」
 谷井はそれには應へずに笑ってゐた。
「家は東京かい?」
「さうだ。」
「親の家にゐれゃ樂だな、親の家を離れてゐると、手拭一本でも身錢を切らなけれゃならないからなァ……俺もしばらく郷里へ歸らない、……札幌の夏はいゝぞ。」
 運轉手の魂は、アカシヤの薫る並木通りへでも飛んでいってゐると見えて、それっきり默り込んで了った。
 四時、五時、六時と時間が流れていった。その間に十人以上の客を拾って、新宿へいったり、高輪へ出たりした。けれども銀座へ出る機會は一度もなかった。
 運轉手は汚い蕎麥屋を見付ける度に、
「どうだい、この邊で蕎麥でも喰はうぢゃァないか。」とわざとらしく頤をしゃくるのであった。牛乳一杯と燒パンで朝食を濟したゞけの谷井は、空腹を耐へて苦笑してゐた。

 その中に八時近くなって、やうやう自動車は尾張町の近くへ出た。運轉手は谷井の顏を見てにやりと笑って、
「そら、お誂ひの更科だ。俺は向側へゆくぜ。」といひながら、車道を横切って毛利の食堂へ入っていった。
 夫から九時頃まで市内を流した揚句、芝口までゆくと、運轉手は突乎(いきなり)、空車の札を下して、八ッ山から京濱國道を悠々と辷っていった。
「何處へゆくんです?」谷井は怪しんで訊ねた。
「お客を迎へにゆくんだ。」
 谷井はもっと何か訊かうとしたが、相手が無愛想な顏をして行手を睨んでゐるので、それっきり默って了った。
 自動車は神奈川の埋立地に新らしく出來た公園の際でぴったりと停った。
「鳥渡下りてくれないか。」
「どうして?」谷井は驚いて相手の顏を見た。
「ニューグランドで待ってゐろってお客に云はれたんだ。まだ時間があるから、あすこへいって冷いものでも飲まう。贅澤家さん、こゝなら文句はないだらう。」
「あゝ、冷い曹達水でも飲まう。」
 谷井は運轉手の後について天井の高い、がらんとした廣間へ入っていった。食事時が過ぎてゐたので、どの食卓も空いてゐた。二人は入口に近い隅の席に着いて飲料を注文した。
 運轉手は部屋の中を見廻して、
「何だ、まるで停車場の待合室みたいだな。」と小聲でいった。彼は女給の運んできた珈琲からストローを抜き出して、コップに口をつけて一息に飲み干して了った。
「少し早く來過ぎた。まだ間があるな。」彼は落着かない様子で、幾度も時計を見たり、さうかと思ふと、ゆったりと椅子の背に凭れて煙草を吸ったりした。
 暫時すると彼は、
「あゝ、彼處が庭園か、どれ鳥渡いって覗いてこよう。」と初めて氣がついたやうに立上って、露台の方へ出ていった。
 谷井のゐるところからは、公園の木立の上の星のある空や、アーク燈に青々と照らし出された芝生の一部が見えてゐた。それ等を背景にして黒い輪郭を見せてゐた運轉手の姿は、二三度揺れたと思ふと、さっと円柱の陰に消えて了った。
 先前からそれとなく相手の様子に注意してゐた谷井は、女給を呼んで勘定を濟すと、急いで正面の玄關から表へ出た。
 丁度彼が石段を下りきって、舗道の先を透して見た時、公園の樹陰に乗りすてゝきた自分達の自動車に誰かゞ乗込むところであった。
 谷井はその方へ向って走っていった。運轉手は客席の扉を閉めて運轉台へ飛乗った。
 自動車が動き出したところへ、谷井がやうやう馳付けた。
「あゝいま迎へにゆくところだった。」運転手はさり氣なくいった。彼はそれっきり口を噤んで、時折りは四十哩以上の速力を出して坦々たる京濱國道を引返していった。
 貨物車や、円タクが幾台も追抜かれた。車體が激しく左右に揺れて、前面から疾走してくる自動車の頭光を見たかと思ふと、凄じい音を立てゝ擦れ違って了ふ。
 車内の電燈は消してあるが、薄暗い坐席の隅に人が乗ってゐる。黒っぽい洋服を着た痩せた男と、少年である。二人は時々何か話してゐるやうだったが、車體の動揺が烈しくって言葉はよく聞取れなかった。その中でたった一句、
――川路の家はぢきですか――といふ少年の聲が谷井の注意を喚んだ。
 川路――懐しい名である。廣い東京に川路は幾十人ゐるか知れないが、その名を聞くと、屋根裏に共同生活をしてゐた頃の、頼母しい川路力松を思ひ出すのであった。
 谷井は思はず背後を振返った。少年は黒眼鏡をかけた色の白い男の膝に抱かれて、うつらうつら居睡りをしてゐた。

 自動車が蒲田のガード下を過ぎた時、頭光の中にひょろひょろと蹌踉こんだ老人が、警笛に驚いて往來の眞中に立竦んだ。
 自動車はそれを避けるつもりで、カーブを切ると、狼狽した老人は何と思ったか、二三歩後へ引返したので、呀っといふ間に車輪に觸れて跳飛ばされた。
 自動車は激しく彈んで急停車した。谷井は往來へ飛下りて老人の傍へ馳寄った。
「確りして下さい!」谷井は老人を抱起して顏を覗込んだ。老人は薄眼を開けて、足を指さして何かいひかけたが、其儘がっくりと首を垂れて了った。
「これゃいけない、病院へ連れてゆかなくては……」と谷井が背後を振返った刹那、自動車は一揺れ揺れて發車して了った。
「おい、待て! 待たぬか!」
 谷井の絶叫は空しく通行人を集めたゞけで、自動車は倏忽(たちまち)視野から消えて了った。谷井は怪我人を棄てゝ追跡する譯にゆかなかったので、忿怒に齒噛をしながら、疾走り去った自動車の後を見送ってゐた。
「どうしたんだ、轢逃げをしやがったのか!」
「太え奴だ!」
 舗道を歩いてゐた男達がばらばら寄ってきた。
「可哀さうに、年寄りぢゃァないか、釣歸りだな。」
「醫者は何處にあります?」谷井は人々を見廻した。
「大川醫院が一番近いだらう。」土地の者らしい男がいった。
 丁度そこへ、通りかゝりの円タクが停って、若い運轉手が首を出した。
「どうしたんだ、やったのか?」
「轢逃げをしやがったんだ。円タクなんて、太え野郎だ!」群衆の一人が罵聲を浴せた。
「円タクが太えっていふ事があるか、そいつが太えんだ。よし引受けた。怪我人は俺が連れていってやる。」運轉手が叫んだ。
「有難う、ぢゃァ頼む。」
 谷井が老人を抱上げようとすると、傍の者達が手をかして自動車へ運び込んだ。
「三つ目の横町の左り角だ。」
「洋服屋の隣りだ。大川醫院と看板が掲てゐる。」
「あゝ、釣竿がある。腹掛けをした男が袋に入った釣竿を拾ってきて、自動車の中へ突込んだ。自動車は親切な人々の言葉を後にして大川醫院へ着いた。運轉手と谷井とで怪我人を運び込まうとしてゐると、白い上っぱり着た若い藥局生が飛出してきて、
「怪我人ですか、困ったな! 先生は東京へいってお不在(るす)なんですよ。それにこゝは小兒科ですから、一層この先の大森病院へお連れになっては如何です。あすこなら設備もちゃんとしてゐますし…………」といふのであった。
 運轉手は舌打ちをして、
「こんな場合に、外科も内科もあるもんかい……だが、大將がゐないんぢゃァ、どうにもならねえ。」といひながら怪我人を元へ戻した。
 大森病院では宿直の醫師も、看護婦も殆ど總出で、敏速に怪我人の手當をしてくれた。
 運轉手は谷井が賃金を拂はうとすると、それを振切っていって了った。
 老人は左の足首を捻挫した他、頭部其他に數ヶ所の擦過傷をうけてゐたが、案外氣は確りしてゐて、手術が終ると、
「どうも濟みません。」などゝ禮をいったりしてゐた。然し精神的打撃の爲に一時記憶を喪失したらしく、どうしても住所姓名を表示する事が出來ないでゐた。
「一睡りすれば、頭腦がはっきりするだらうから心配する事はない。」と醫者がいった。
 枕元に付添ってゐた谷井は、夜釣りに出たまゝ歸らない老人の身を案じてゐる家族の人達の事などを想像して氣が氣でなかった。
 老人は昏々と睡りつゞけてゐる。
 その中に東の空が白んできた。谷井はそっと枕元を離れて、新鮮な空氣を入れる爲に窓を開けた。その微かな音に、老人は眼を開いて、
「さうだった。儂は波田井だ、今入町八番地やうやう思ひ出した。」と呟いた。

治療代
「今入町といひますと、芝の虎の門の傍ですね。僕は之から直ぐお宅へいってきます。」谷井は病人の容體をきくのも忘れて立上った。
「誰方か知らんが、いろいろ御厄介を掛けました。もう儂は大丈夫だから、電車が通るやうになったら家へ歸らして貰ひますわ。」老人は嗄聲でいった。
「お醫者様は、安靜にしてゐるやうにといってをりますから…………足をお傷めになったのです。ひどくお痛みですか?」
「うむ、左様か、動かんわい、足がもげたかな…………」
「いゝえ、足首の關節を挫いたのです、石膏(ギプス)があてゝありますから、それで自由にならないのです。」
「…………その穴子を蒲燒にして貰はうかな…………それ、その魚籠に入ってをるだらう…………」
 老人は掛蒲團を跳除けて枕許を探るやうな手付をした。
 谷井は當惑したやうに部屋を見廻した。扉口に近い壁際に、欝金の袋に入れた釣竿が立て掛けてある。
「魚籠があったのですか、それは氣がつきませんでした。釣竿はもってきましたけれども…………」
 老人は谷井の聲にびっくりして眼を開いて、
「どうもいろいろ御厄介を掛けます…………家のばあさんは、その邊に見えませんかね。」
 老人はまだ意識がはっきりしてゐないらしかった。
「僕が直ぐお迎へにいってきます。」
 老人はそれに應へないで、又、眼を閉じて微に鼾聲をかき始めた。
 谷井は帽子を掴んで、そっと部屋を辷り出ると、看護婦に後を頼んで病院を出た。
 彼は朝霧のかゝった、まだ明けきらない町々を自動車で飛ばしていった。
 佐久間町の電車停留所から北側の裏通りへ入って、一町程いったところの八百屋の前で自動車を下りると、谷井はその横手の狹い露路を入っていった。近所はみんな雨戸を閉してゐるのに、突當りの一軒だけは戸を開け拂ってゐた。
 谷井が格子戸に手をかけると、待構へてゐたやうに老婦人が飛出してきて、
「波田井がどうかしたのですか!」と急込んでいった。
「怪我をして入院されましたが、心配なさる程の事はありません。」
「まァ、さうですが…………」老婦人は張りつめてゐた氣が一時に緩んだやうに、ぺったりと敷居際に坐って了った。
 谷井が手短かに、前夜の出來事と、今朝までの經過を語ってゆく中に、老婦人は段々落着いてきて、
「どうも有難うございます。災難が小さく濟んで何よりでございました。私は又、年寄りの事ですから、卒中でも起したのではないか、海にでも溺れたのではないかと心配して、昨夜はまんぢりとも致しませんでした。それに昨夜は逗子へいった娘も、先方様にお怪我人が出來たとかで、電報を寄越して戻りませんでしたし、私ひとりでどうにもならないで、氣ばかり揉んでをりました。お話の様子では今明日退院といふ譯には参りますまいね。」
「えゝ、尠くも十日間は病院にゐらっしゃらなければいけないやうです。」
「では早速手廻りのものをもって病院へ参りませう。」
 谷井は病院の名と番地を手帳の端に書いて老婦人に渡し、
「僕はこれから車庫の方へ廻って、いづれ責任者を連れて病院へ伺ひます。」と約して暇を告げた。
 谷井は露路の角に立止って、清貧といふ言葉其儘を表はしたやうな、つゝましい、整然とした波田井家を振返った。怪我をした老人といひ、今會ってきた老婦人といひ、こんな場合にも、怨みがましいことは一言も云はなかった。それを思ふと、一層昨夜の無責任な運轉手の行爲に對して忿怒を感ずるのであった。

 上富士町のOKタキシーでは、二三の男が自動車を洗ったり、煙草を吹かしたりしてゐたが、昨日の運轉手は見えなかった。
 妻楊枝を啣へながら店へ出てきた主人は、谷井を見ると、
「君ひとりか、自動車はどうした?」
「おや、昨夜歸らなかったのですか。」
「とぼけた事をいふなよ。自分の乗ってゐた車輛をどうしたっていふんだ。」
「事故を起しておいて、僕を置き放しにして、逃げて了ったんです。」
 谷井は前夜の出來事を詳しく語った。
「それゃ、えらい事をやりやがったな。脚をやられたのか、片輪にはなるまいな。」主人は気遣はしさうにいった。彼の憂慮は怪我の程度による治療代にあったが、谷井はそれを善意に解釋して、
「えゝ、いゝ鹽梅に跛足にはならないらしいです。順調にゆけば二週間位で退院出來るといふ事です。」
「ふん、二週間ぢゃァ大分かゝるな…………君は今入町へ知らせにいったといふが、どんな家だね。」
「家は裏長屋といったやうな類で、余り裕福ではないやうです。然し、怪我をした老人にしろ、その奥さんにしろ、非常に善い人達で、自動車に轢かれたのは自分の過失ばかりのやうなことをいって、僕が病院へ連れていったり、家へ知らせにいったりした事を氣の毒がってゐるんです、それゃ多少先方の過失もあるでせうが、こっちは規定以上の速力を出してゐたんですから…………これから大森病院へ見舞にいって、治療代の事などを相談してきて下さいませんか。」谷井はこゝぞと計り、波田井夫妻が如何に善良で、貧しい人達であるかを熱心に語った。
 ところが、善良で貧しいといふ事實は、相手に意外な反響を與へて了った。谷井の言葉が熱するにつれて、相手の態度は段々變っていった。
「冗談いっちゃァいけない。轢いたか、轢かないか、當人が現てこない分にはどうにもなりゃしない。まァ奴が歸ってきたら、よく訊いて見てその上のことにしよう。」
「そんな悠長なことをいってゐては、先方に濟まないでせう。どうせ貴殿が責任者ぢゃァないですか。」谷井は少しむっとしていった。
「をかしなことを云ひやがる。俺は片聞ぢゃァ判らないといってゐるんだ。物事には順序がある。俺が轢逃げをした譯ぢゃァないから…………その中に奴も顏を見せるだらうよ。」
「あの男は何處に住んでゐるんです?」
「この二階に寝泊りをしてゐたんだが…………つい二三日前に、自分の車輛をもってこゝへ來たんで、實のことをいふと、俺もよく身許を知らないんだ。荷物なんぞは何も持ってゐやがらねえ。」
 谷井は呆れ返って、へらへら舌を動かしてゐる相手の顏を視詰めてゐたが、自分のさし當りの生活を慮へて、良心を一つ踏付けなければならなかった。
「では、それは後でいゝとして、僕は今日はどの自動車に乗るのです?」
「さァ、奴が歸ってこないとすると、君の向け場に困ったな…………頃合を見て、又いつか來て貰ふとするか、兎に角、君の昨日の日當もある事だし、それに怪我人を病院へ擔込んだりして、いろいろ身錢をきったらうから、これだけ取っておくがいゝ。この中から商品切手を買って持ってゆかうと、菓子折を持ってゆかうと、君の勝手だ。」
 主人はポケットの紙幣入から、十円紙幣を二枚抜出して谷井の前へ差出した。
 谷井は余程その金を相手の顏に叩付けてやらうと思ったが、病院に遺してきた老人の事を考へ、その二枚の紙片でも、何かの足しになるかも知れないと、持前の疳癪をぢっと押へ付けて了った。
 車庫を蹴飛ばすやうにして表へ出た彼は、少し歩いてゐる中にそんな金に理窟をつけて受取ってきた自分の氣持をさもしく感じ始めた。こんな風に利害關係の前に感情を撓めてゆく狡い氣持を彼はしみじみ呪はしく思ふのであった。

 谷井はその金をポケットに入れる氣になれないで、尾久の下宿まで掴んだまゝ歸った。
「おや、お歸りなさい。病氣揚句で、昨夜もお歸りがないので心配してをりましたよ。おら、又、お加減が不良いのぢゃァありませんか。大變青い顏をしてゐらっしゃる。」
 鶏舎の傍の物干竿に洗濯物を掛けてゐた内儀さんは、上り框にぼんやり腰を下して、靴も脱がないでゐる谷井を見付けて家へ入ってきた。
「氣分は、もうすっかりいゝんですがね。どうも酷いことになって了った。」
「お店の方の工合でも惡くなったんですか。」
「ねえ、小母さん、いくらスピード時代だって、二十四時間の中に、失業して就職して、又、失業するなんて、餘り酷いぢゃァありませんか。」
「まァ、それゃどうした事なんです?」
 谷井は昨日來の出來事をそっくり打明けて、
「あんなところを馘になったのは、ちっとも惜しくないけれとも、癪に障って、癪に障って…………どうして呉れようかと思ってゐるんです。」
「まァ、随分酷い奴があるものですね。さう一概にいふことも出來ないでせうが、一體あゝいふ會社は、そんな手合が多いんぢゃァないですか…………貴郎なんか、まだ若いし、教育もおありなさるんだから、どうせ勤めるなら、銀行とか、商事會社とかへ、勤めなすったらどうでせうね。まァお茶でも淹れませう。」
 主婦は藥罐を瓦斯にかけておいて茶道具を出した。
「無論。さういふ口があれば結構ですがね。僕みたいに半端な人間では駄目でせう。」
「この間中から、麹町の親戚に頼んでおいたのですが、銀行に口がありさうなんですよ。」
「さうですか、いろいろどうも有難う。」
「昨日、頼まれてゐた仕立物を持ってゆきましたら、履歴書を頂いておけといはれたんですよ。」
「銀行って、何處でしたっけね。」
「第一銀行です。私の從姉の連合(つれあい)が、あすこの用度課長をしてをりますものですから。」
 第一銀行と聞いて、谷井は思はず首を竦めた。そこは彼の父親が最も深い關係を有ってゐる銀行であった。
 谷井はいゝ加減にその話を打切って、郵便貯金の通帳を持って家を出た。お加代からとってきた三百円が、そっくり手つかずにあった。彼はその中から差當り百円だけ引出して大森病院に波田井老人を見舞った。
 老人は十分に熟睡した後で、餘程元氣になってゐた。百合野は看護婦に手傳って病人の氷嚢を換へると、改めて昨日以來の禮を述べた。
「あゝ、儂はお世話になってゐながら。まだお名前も伺はなかった。」老人がいった。
「僕は谷井清といふ者で、昨夜の自動車の助手をしてゐたのです。」
 谷井は看護婦が部屋を出てゆくと、百合野の傍へ坐って、聲を潜めて、
「あれからタキシー會社へ談判にいったんですが、實に怪しからん奴で、昨夜の運転手は責任を惧れて何處かへ逃げたらしいのです。然し僕は飽迄のこの責任を負ふつもりですから……この金は當座の入用にに使って下さい。いづれ病院の勘定は改めて致します。」といって半紙に包んだ百二十円を百合野の前へ置いた。
「まァ、飛んでもない、こちらはあゝいふ年寄の事でございますから、過失は屹度、こちらにあった事と存じます。それに轢いた御當人とか、會社とかからお見舞を下さるとでもいふのなら、又、別ですが、貴郎様からお金を頂くなんて、法に外れてをります。」百合野は周章て、金包を押返した。
 二人がひそひそ聲で押問答をしてゐる最中に、老人は急に思出したやうに、
「昨夜の穴子はみせたかったよ。」と呟いた。

 老人の言葉に、百合野と谷井は顏を見合せて淋しく笑った。
「ねえ、貴郎、谷井さんがお見舞にお金を下さると仰有るのですけれども、さういふものは頂けませんわね。」百合野は老人の顏を覗き込んでいった。
「それゃ、頂いたも同じことぢゃ、お志だけ受けておくがいゝ。」
「それでは僕の立場が無くなります。無論あの不都合な運転手は捜し出して、相當なことをさせる心算ですが、これだけは受けて頂かないと困ります。」
 谷井の言葉が終らない中に、廊下に慌しい跫音がして歴子が飛込んできた。彼女は寝台の上の老人を見ると、傍目もふらず側へ馳寄って、
「小父さん、御免なさいね。麗子ちっとも知らないで、こんなに遅く歸ってきて……どう? お苦しい?」
「あゝ、麗ちゃんかい、心配せんでもいゝよ。大丈夫だ。どうだったね、逗子は面白かったかい?」老人は眼を細めて、嬉しさうに麗子の顔を見た。
「私、逗子なんかへ、ゆかなければようございましたわ。麗子が家にゐたら、小父さんは屹度こんなことにならなかったわね。」
「小父さんは、大きな穴子を釣ってね、今日こそ小母さんや、麗ちゃんを驚かせてやらうと思ってゐたのに、惜しいことをしたよ。轉んだ拍子に魚籠を何處かへ飛ばして了ってね。」
「小父さん、お怪我はどこなんですの?」
「足をやられたといふんだけれども……大したことはないだらう。」老人は足が不自由では、當分麗子の夜の歸りを迎へにゆく事が出來ないと思って、鳥渡顔を曇らせた。
 麗子はそれを察して、
「私、これからもっと確りして、夜なんか一人で歸りますわ。決して間違ひなんかないように氣をつけますわね。」彼女は其時初めて、病人から眼を離して病室を見廻はした。
「あっ! 谷井さんの……」麗子が驚いていひかけると、
「えゝ、僕がその自動車に乗ってゐた助手なのです。」と谷井がいった。
 二人の視線が、互の胸の底にまで滲込んでいった。
「おやまァ、麗ちゃんは谷井さんを御存知なのかい。」百合野は二人の顏を見較べながらいった。
 吸込まれるやうに、麗子の黒い瞳を視詰めてゐた谷井は、何か胸を打たれるものを感じて、急いで眼を外した。
「お隣りにゐらしった大江さんのお嬢さんでしたね。」
「……はい、その時の大江麗子でございます……」麗子は顏を紅く染めて伏眼になった。
「まァ、矢來の、あの谷井さんの坊ちゃんでゐらっしゃいますか。不思議なご縁でございますねえ。」百合野は感嘆の聲をあげた。
「えゝ、さうですけれども、現在は少し思ふところがあって、獨力で働いてをります。」谷井は自分の言葉が、平生程勢ひのないのを感じてゐた。若し父の家にゐる頃であったなら、この人達にもっと物質的によくする事が出來たであらうと思って、矢來の家を飛出して以來、初めて後悔に似たものを味ふのであった。老人はいつの間にか、輕い鼾聲を立てゝゐた。先前の金包は取りもせず、引込ませもしないで、まだ同じ場所に置いてあった。百合野はふとそれに氣付いて、
「お一人でお働きになってゐらっしゃるのでしたら、なほの事このお金はお持ち歸り下さい。ねえ麗ちゃん、谷井さんはお見舞金をもってきて下すったのだけれども、小父さんもこれは頂けないと申してゐるのですよ。」
「あゝ、小母さん、いゝ事があるわ、いつかお香奠に頂いた百円ね、あれを使ひませう。こんな時でなければ使ふ時がありませんわ。」
 麗子は大發見でもしたやうにいった。

巷の人々
 百合野は二人に後を頼んで近所へ買物に出ていった。
 入れ違ひに看護婦が體温を測りにきて、氣遣はしさうに病人を覗き込んでゐる麗子に、
「少しお熱が高いやうですのね。」と小聲でいった。
 谷井と麗子は、看護婦がいって了った後も暫時の間、遣場のない視線を病人の上に注いでゐた。
 老人は早い呼吸使ひをしてゐた。折々咽喉が笛のやうに鳴ってゐた。
「熱が高いやうだと心配ですね。」谷井はやうやう言葉を見付けた。
「平常(ふだん)お丈夫で、お臥みになったことのない方ですから、この先十日もこゝに臥かされてゐるんですと、随分辛がるでせうと思ひます。」
「十日で濟めばいゝんですがね……このお金ですが、波田井さんの奥さんはどうしても受取って呉れさうもありませんから、貴女が預かってゐて呉れませんか。」
「でも、私がお預かりしていゝんでせうか。」
「初めてお目に掛かった波田井さんの奥さんには、さう無理強ひする譯にはゆきませんが、貴女とは小學校以來の知合なんですから、少しは無理は通して頂けるでせう。何卒理窟抜きにしてお金は貴女のところへ藏っておいて下さい。」谷井は嘆願するやうにいった。
「あら、小學校の事などを記憶えてゐらっしゃいますの…………」
 麗子は貧しい自分の事などは眼中においてゐないと思ってゐた谷井から、小學校の事などをいひ出されたので、自分に甘えるやうな氣持で谷井の言葉を嬉しく聞いた。そして谷井からならその金を貰ってもいゝやうな氣がした。
「貴女は運動會で提灯競爭に一等賞を取りましたね。あの時、貴女はお宅の庭で、随分マッチをつける稽古をしてゐましたっけね。家のばあやが危ながって、塀の下から覗いてははらはらしてゐましたよ。」
 谷井は、紅いリボンの鉢卷をした麗子が、膝小僧を現して、夢中になって走ってきて、眼をつぶってゴールへ飛込んできた事などを思ひ出して、明るい微笑を浮べた。
 麗子は樂しい溜息をした。お隣りの坊ちゃんと、小學校時代の思出を語るなんて、まるで夢のやうだと思った。
 その中に、百合野が買物包を抱へて歸ってきた。谷井はそれをきっかけに、明日を約して歸っていった。
 麗子は百合野の方を氣にしながら、窓際に立って谷井の後姿を見送ってゐた。彼女は谷井がお隣りの坊ちゃんでゐた時よりも、前額に汗をして自分の生活を立てゝゐる現在の彼に親みを感じてゐた。けれどもその一方にはあのお洒落な坊ちゃんが、安っぽいやうな縞シャツを着て平氣な顏をしてゐるのを見ると、何となしに胸が迫るのであった。
 麗子はふと、谷井を親身の弟のやうに案じてゐた川路に、彼の消息を傳へたなら、どんなに喜ぶであらうと思った。
「麗ちゃん、今夜は小母さんがこゝの歸りにホールへ寄ってあげるからね。」
「あら、いゝわ小母さん、麗子は今夜からひとりで歸りますわ。それよりもご用があったら、どしどし麗子に吩咐けて頂戴。」
「大丈夫でせうか。若し間違ひでもあったら小母さんは申譯ないんだけれども…………」
「大丈夫ですとも、同じ方へ歸る方が三人もあるんですもの。皆、お子さんがあったり、お母さんや御弟妹を扶養ったりしてゐる慥りした方達なんですの。」麗子は取越苦勞をしてゐる百合野を納得させる爲に、少し誇張したいひ方をした。
 麗子は、其日少し早目に病院を出て、番地を便りに淀橋に川路の宿を訪ねた。
 交番の筋向ふから煙草屋の横町を入って、やうやう小さな車庫の前へ出た。川路のビュヰックが入ってゐる。麗子はほっとした氣持で、狹い、車輛と壁の間を抜けて家の中を覗いた。
 きちんと片付いた四疊半には誰もゐなかったが、案内を乞ふと、箪笥などの置いてある次の間から。誰か立ってくる氣配がした。

「川路さんはこちらですか。」麗子がいふと、現できた女は怪訝さうに、麗子の洋服姿を見廻しながら、
「何か川路さんに御用なんですか?」といった。
「えゝ、鳥渡お目にかゝりたと思ひまして……」
「川路さんは不在なんですよ。十五日に出掛けたきり、まだ歸らないんですがね。一體どういふ御用なんです?」
「あら、逗子から、まだお歸りにならないんでせうか。」
「貴女は逗子の方なんですか、どうしたんです。何か凶い事でもあったんですか?」
「いゝえ、私、何にも存じませんけれども、川路さんは十五日か、六日には東京へお歸りになったと思ってゐましたから……」
「實は、もう少し前に刑事みたいな人がきて、川路さんの事を、根ほり葉ほり聞いてゆきましたから、私は何かあったんぢゃァないかと思って心配してゐるんですよ。失禮ですが、貴女は川路さんと、どういふ御關係なんです?」
 女は猜疑深い視線を麗子に注いだ。
「どうなすったんでせう……」麗子は刑事といふ言葉を聞いて、ふと十五日の夜更けに、清海ホテルの庭へ忍び込んだ川路の奇怪な行動を思ひ浮べた。
「川路さんは、私共のところに二年もゐらっしゃるのですが、一晩だって家を空けた事のない方なんですよ。尤も今迄は、女のお友達なんて、余りないやうでしたからね。」女は川路が歸宅しないのは、麗子のせいのやうな口吻であった。
 そんな譯で、麗子は照れて了って、怱々にそこを出た。
 彼女は往來を歩きながら、何氣なく背後を振返ると、煙草屋の角に立ってゐた男が、ぶらぶら歩いてくるのを見た。その男は麗子が川路の車庫に入る前から、同じ場所に誰かを待ってゐるやうな風をしてゐた。麗子は最初は大して氣にもとめてゐなかったが、青バスで東京驛へ行くつもりだったのを、急に模様變へして新宿驛前で下車すると、其男が同じやうに下車りてきたので、自分が尾行されてゐるのではないかといふ疑念を起した。
 麗子は新宿驛の構内を通抜けして、交番の後から雜閙を極めてゐる表通りの狹い舗道の中へ紛込んだ。
 果實屋の前で買物をするふりをして、壁の鏡の中を見ると、又しても先前の、台灣パナマを被った白服の男が映った。
 麗子はいよいよ氣味が惡くなり、三越の前から斜(はす)かひに車道を横切って、布袋屋へ飛込んだ。
 間一髪のところで、麗子と男の間に、昇降機の鐵柵が閉った。麗子はわざと、
「六階まで!」と高聲でいった。彼女は突嗟に二階で、階下へゆく昇降機に乗換へて、地下室まで下りると、階段を馳上って、横手の出口から電車道へ出た。彼女は完全に、怪しい男を撒いて了ひ、タキシーで星ダンスホールへ向った。
 丁度、夜の時間が始まる前で、ホールでは蓄音機がブルースをやってゐた。二日も休んだ麗子はマネージャーの澁い顏を見ると、碌に弁疏(いいわけ)もしないで、慌てゝホールへ出た。まだそこには、晝間からねばってゐる顏見知の學生が澤山ゐた。
 麗子は息をつく暇もなく、それ等の連中と、立つゞけに踊らなければならなかった。
 バンドが始まると、益々客が立混んできて、晝も晩も食事を抜いてゐた麗子はふらふらになってきた。
 彼女は八時過ぎて、バンドの休憩した鳥渡の暇を竊(ぬす)んで、裏梯子からダンサーの溜場へ下りていった。
 其處では派手な服装をした女達が、見得もも外聞もなく、もり蕎麥を掻込んだり、アルミニウムの弁當箱から、梅干の入った飯をむしゃむしゃ食べたり、麥湯に烟せたりしてゐる。隅の方では老母の背負ってきた赤坊を抱下して、腕時計を氣にしながら、乳房を含ませてゐるものもあった。

 華やかなシャンデリアの下で、浮いた顏をして躍ってゐる彼女達も、こゝでは八つも、九つも老けて見えた。
 麗子はそれ等の中にいつも他人を押除けるやうにして、ナンバー・ワンの地位を保つ事に汲々としてゐる意地の惡い櫻子が見えないのに氣付いて、割に親しい仲である香山冬子に、
「あの、怖い女王様はどうなすったの?」と小聲で尋ねた。
「さうさう、小鹿さんは休んでゐらしったから、御存知なかったわね。あの方は、土曜日の晩、階段から墜ちて脚を挫いてお了ひになったのよ。」
「あら、さう、お氣の毒ね。」麗子は口の先で合槌をうった。
「えゝ眞實にお氣の毒なのよ。あの方は旦那様が肺病で、永いこと茅ヶ崎の病院に入院してゐらっしゃるし、お家には三人もお子さんがおありになるんでせう。それをあの方ひとりで背負ってゐらっしゃるんですもの。あの晩は九時間もぶっ續けに働いたんでせう。もう脚の感覺がなくなってゐたんですのよ。こゝぢゃァ時々そんなことで階段から辷り落ちる人があるのよ。」香山冬子は自分の事のやうにしんみりと語るのであった。
 麗子はそれ程の涙ぐましい努力をしてゐた櫻子の境遇を知らずに、彼女に對してこれ迄多少なりとも反感を抱いてゐた事を、今更のやうに愧ぢた。彼女はダンサーになって以來初めて自分の周圍に血の出るやうな眞劍な生活が營まれてゐる事に氣がついて、世の中といふものは生易しいものではないといふ事をしみじみ感じた。
 そんなことを考へながら、途中で購ってきた林檎を囓ってゐる中に、女達は素早く、化粧直しをして階段を馳上っていった。
 麗子はその晩、家へ歸ってから、靖子に宛てゝ手紙を書いた。

――その後、お兄さまの御容態は如何でゐらっしゃいますか。私は山邊正信様としてゞはなく、貴女のお兄様として御案じ申上げてをります。
 逗子で過させて頂いた二日間は、私にとりまして、天國であり、地獄でございました。尤も私が天國と思ってゐたのは錯覺であり、地獄と思ったのは火焔の默示であったかも知れません。いづれにしても私は自分のところへは一番良いことが來るのだと信じてをります。
 お兄様は決してお悪いのではありません。私はお兄様を通して、自分の進むべき道を教へられたことを感謝してをります。
 世の中の事は、神様以外には眞實に判らないものでございます。あれから東京へ歸って見ましたら、波田井の小父様が自動車に轢かれて大怪我をして、大森病院へ入院してをりました。而もその自動車には、谷井清様が乗ってゐらしったのです。そんな譯で、十五年も昔からお隣り同志でありながら、碌に言葉も交したことのなかった私共は、偶然に病室で名乗り合ふ事になったのでございます。
 谷井様のお行方をあんなに氣にしてゐらしった川路様が、このことをおきゝになったら、どんなにお喜びになるでせうと思ひまして、本日午後淀橋へお訪ねいたしましたところ、川路様は十五日以來、宿へお戻りにならないといふ事でございました。それに刑事のやうな人が川路様の事を訊きに來たりしたさうでございますから、何か變事でもあったのではないかと心配してをります。
 私は本日からホールへ出勤致しました。私の第二の父のやうな波田井の小父様が、不慮の災難に遭はれた事は私に大きな刺戟を與へました。私は最早今迄のやうな生温い氣持ではなく、もっと確りした職業意識をもって、奮闘努力し、ナンバー・ワンになる決心でございます。
 私は斯うしてどんな些細な身邊の出來事でもお話し申上げる事の出來る貴女様をお友達にもってゐる事を、心から幸福に感じてをります。亂筆お許し下さいませ。
麗子より 

 一日おいた十九日の午後一時に、靖子が大森病院へ麗子を訪ねてきた。彼女はいつもの快活な調子で、初對面の老人の枕元へいっていろいろ慰安の言葉を述べた後で、
「ねえ、小父様、病氣に負けちゃァ駄目よ。いつ癒るだらうなんて事を氣にしないで、病氣の方が退却するまで頑張ってやるのね。小父様が退屈したら、靖子がきて面白いお話をしてあげるわ。」といった。
 豫てから麗子を通して噂を聞いてゐた老人は、彼女のお世辭を抜きにした率直な言葉を喜んだ。
「災難に遭ったお庇で、世の中には親切なご仁が澤山あるといふことを知りましたわい。」
「それャ小父様の場合だからさ。家のマサなんかは……マサは私の兄なのよ……怪我をして皆に世話を燒かせながら、ちっとも他人の親切なんか感じやしないわ。平常から、鳥渡風邪をひいても、惡魔にでも取憑かれたやうに怒って、傍の者に當り散らすんだからね……小父様は家のマサの事を信用ならんていったんだってね。先見の明ありだわ。」
 靖子の言葉に、老人は寝台の縁を叩いて愉快さうに笑った。
「叱っ! 安靜にしてゐらっしゃい。餘り騒ぐと、靖子が撮み出されて了ひます。いゝ小父様だから、めんめを閉ってお寝みなさいね。」靖子は老人の手を蒲團の中へ藏って、麗子の側へ戻った。
「麗子、顏色が惡いな。手紙ぢゃァあんな立派なことをいってゐるけれども、矢張り酷い打撃を受けたんだね。可哀相に。でもマサなんか忘れて了った方がいゝよ。」靖子は麗子の頤に手をかけて彼女の眼の中を視詰ながら投げるやうにいったが、その荒っぽい言葉に肺腑を衝くものがあった。
 麗子の眼に涙が溢れてきた。靖子はさっと立って窓の外を覗いてゐたが、ぢき戻ってきて、
「麗子、ナンバーワンを狙ふなんて駄目よ。ダンスなんて勞働なんだから、自分の體力と相談しなくってはね……さァ、僕は麗子の力を借りなくちゃァ。」
「えゝ、何でもしますわ。川路さんの事?」
「僕は今朝探偵になったのさ。昨夜麗子の手紙を讀んでからいろいろ考えへて見たんだがね。リキが十五日の晩、醉漢と喧嘩をしたといふ事を聞いたから、今朝「三日月酒場」へいって訊いて見ると、馬鹿にしてゐるぢゃァないか、警察でリキを留置場へ抛込んだんだってさ。」
「まァ、それで警察にゐらっしゃるんですか。」
「喧嘩した晩はそれで濟んだんだけれども、相手の一人が前齒を折ったとかで訴へたもんだから、十六日の夕方、東京へ歸らうとするところを驛前で刑事に捕ったんだって。こんなことは皆な後で判ったんだが、十七日の夕方、倉本旅館の番頭なんかゞ證人に呼出されて、やうやうリキは放免されたんだって。だから既う淀橋へ歸ってゐる筈だと思って電話をかけたら、今日もまだ歸ってこないっていふんだ。麗子、どう思ふ?」
「さうねえ、十五日に東京へ歸る筈の人が、翌日夕方まで逗子にゐらしったのなら、十七日に警察を出てからも、何かの御用で逗子にゐらっしゃるんではないでせうか。」
「ところが、倉本旅館の番頭達は、九時廿分の上りで、新橋までの切符を購って、見送ったといってゐるのよ。だからリキは十七日の晩十一時半頃、新橋驛まで來たことは確からしいんだが、それからどうしたらう? 何處かあの邊にリキの寄りさうな家はない?」
 麗子は暫時考へてゐたが、
「事によると、オリオン酒場へ寄ったかも知れないわ。私のもとゐたお店だから、鳥渡電話をかけて見ませう。」
 オリオン酒場には折よく早番の白薔薇がゐて、
「……あの晩、川路さんは十時四十分頃こゝへいらしったわ。そして思ひ掛けない事で、二晩も無斷で宿を空けて了ったから、今晩は早く歸らなければならないといって、十一時にこゝをお出になりましたのよ。」といふのであった。

尾行
 逗子の二日間は、遠い夢の出來事のやうに、川路の頭腦の隅に殘ってゐた。
 彼は其晩十一時に、銀座裏のオリオン酒場を出た時にはもう明日からの生活を考へてゐた。
 彼は久し振りで塒へ歸るやうな氣持で、空いた電車を選んでゆっくりと淀橋の家へ歸っていった。電車を下りて煙草屋の角を曲るとポストの陰に立ってゐた男が、つかつかと傍へ寄ってきて、
「今晩は、川路さんではありませんか?」といった。
「川路だが、君は?」
 川路は足を停めて、油斷なく相手を視守った。その時、もう一人、雨戸を下した魚屋の軒下に蹲ってゐた男が、むくむく起上ってきて、彼の背後へ廻った。
「鳥渡、お訊ねしたい事があって、お待ちしてをったんですよ。」
 台灣パナマを被った、づんぐりした男がいった。
 川路はすぐ、前夜の喧嘩のつゞきだと思って、
「逗子の一件ですか? あれなら濟んだ筈ですけれども……」
「どう濟みましたね?」
「警察で始末書をとられて、もう鳧がついた筈です……君等はあの五人組の仲間かね?」
 川路は相手の出方によっては、進まぬながら腕立をしなければならないと思った。
 二人の男は、鳥渡顏を見合せてゐたが、
「私等は私立探偵社のものですが、喜多川男爵家の事件に就いて、お訊ねしたいのです。」
「えっ? 事件? どうしたんです。何かあったんですか?」
「兎に角、ご迷惑でせうが、社長の宅までいらしって頂けないでせうか? かふいふ場所でお話しするのは困るやうな内容だものですから……」
「何處です? 社長の家といふのは。」
「こゝから五分ばかりのところです……どうもこんなに遅く甚だ恐縮です……詳しい事は社長から申上げます……」
 二人の男が歩き出したので、川路もつい釣込まれて電車通りへ引返した。男達は、丁度來かゝったタキシイを止めて、
「さァ、何卒。」と左右から促した。
 川路は鳥渡躊躇したが、喜多川家の事件といふ言葉が氣になってゐたし、それに相手をいくらか呑んでゐたので、默って自動車へ乗った。
 自動車は夜更けの裏通りを疾走って、代々木から原宿へ出て、浴場の傍を入った坂下で停った。
「何だ、五分といふのは自動車での事か。」川路はぺてんにかけられたやうな氣がして苦笑した。
 冠木門を入って、玉砂利を敷いた小徑を曲ってゆくと、玄關に電燈が點いた。
 迎へに現た書生が、川路を奥まった座敷へ通し、菓子や、茶を運んできて、默々と引退ったきり、久時誰も現てこなかった。
 廣い部屋の眞中に、紫檀の角卓子があって、その上の扇風機が川路の方に風を送ってゐる。縁側は雨戸が閉って、その外は庭らしく、折々池の鯉の跳ねる音がしてゐる。開放った小窓の外では竹がざわざわ鳴って、青い幹の間に石垣が見えてゐた。
 川路は腕時計を見た。あと十分で十二時である。雨が降ってきた。彼はどうしてこんなところへ來て了ったのだらうと、舌打をした。――然し、逗子のお屋敷で何があったのだらう――
 彼は若様や、牧野女史や、幽靈騒ぎなどを思浮べてゐた。
 二間ばかり先の部屋で、誰かゞごとごといったかと思ふと、廊下を踏んでくる跫音がして、境の襖ががらっと開いた。
「やァ、どうもお待たせしました。」と元氣よくいひながら、五十前後の赫顏の男が入ってきた。

「私が大船です。實は西嶋氏の依頼を受けて喜多川男爵家の嗣子誘拐事件を内密に調査する事になってをるのです。勿論男爵家では、金を出し惜むのではないが、金は出した、子供は返らぬといふ例はないでもないから、その點を憂慮してをられるのです。いひ換へれば金は幾許でも出すから、子供は無事に返して貰ひたいと、斯ういふ譯なのだから、それを念頭において、私の質問に答へて貰ひたい。」
 大船は書物の朗讀でもするやうに一氣にいったが、その間に川路の二日間で汚れたシャツや、一癖も二癖もありげな、苦味走った彼の顏をぢろぢろ見てゐた。
「一體それはどういふ事なんです。實際僕には寝耳に水ですが……」川路は自分の耳を疑ふやうに反問した。
 彼はそこで初めて、ワ少年が十六日の晩、自分が屋敷を出てから、僅々數時間の中に、何者かに誘拐された事を知った。彼は非常に驚愕すると同時に、我が身に嫌疑のかゝってゐる事を尠からず當惑した。
「實に驚きました……こんな事なら僕は一晩お屋敷に泊ればよかった。僕があの日お屋敷へいったのは、ほんの偶然の事で、鎌倉から逗子にお屋敷が移った事さへ知らなかった程です。それに僕が若様を連出さうと思へば、夜中に忍び込むなんて危い藝當をしなくたって、晝間機會はいくらもありました。第一僕はあの夕方、喜多川家の門を出ると間もなく、前夜の喧嘩が祟って警察へ拘引され、つい今晩の七時過ぎまで豚箱に抛り込まれてゐたのです。嘘だと思ったら警察へ照會なすって下さい。」と川路はいった。
 大船探偵が葉山署へ照會して、その回答に滿足する迄には稍四時間もかゝった。その間中、川路は誘拐事件の元凶ではないとしても、尠くも事件に糸をひいてゐるものではないかといふ疑ひから、嚴しい反對訊問を受けた。
 川路は氣が氣ではなかった。大船探偵にしたら眞劍かもしれぬが、川路にすれば愚にもつかぬ質問を受けて貴重な時間を空費するのは堪へられなかった。一刻も早くワ少年を救いひ出したいといふ焦慮の隅から、むかむかした氣持が湧上がってきて、悠々と煙草などを烟らしてゐる大船の横面を撲り倒してやりたいやうに思った。然し今の場合、腕力は禁物である。川路は出來るだけ穏かに相手の質問に應へてゐた。その間に、風が出たり、雨が歇んだりして櫺子(れんじ)窓に蒼白い朝の光が射してきた。
 川路がやうやう解放されて席を立たうとした時、助手の中澤が入ってきて、
「先生、只今逗子から電話がありまして、牧野女史が夜中に失踪したといふ事です。昨日から擧動が怪しいので、注意をしてゐたのださうですが、手廻りのものが紛失って、寝室が空になってゐるのを、朝になって發見したといふ事です。」といった。
「やれやれ、牧野女史の失踪か……これは少し事件が錯綜してきたぞ。こんな場合に姿を晦ますなんて、余程のヒステリー女か、さもなければ誘拐事件の關係者だわい。」大船は頬杖を突いて獨言のやうにいった。
「僕はこれでお暇をします。」川路は打切棒にいった。
「やァ、どうも御苦勞様でした。」大船は川路がまだゐたことに初めて氣がついたやうにいった。
 大船は川路の不在證明がたったにも拘らず、まだ幾許かの疑惑を胎(のこ)してゐると見えて、川路が表へ出ると、昨夜の男の一人が、見え隠れに蹤いてきた。
 川路はこれからの行動に、尾行がつくといふ事は、すべてにやりにくいと思って、巧にその男を撒いて了った。
 それから二時間計りして日本橋白木屋横の食傷新道から、紺暖簾を分けて往來を覗いた川路は、裏通りをぶらぶら歩出した。

 彼は喜多川家を出た時、自動車を築墻垣の下に寄せて、人待顏に往來を見張ってゐた伊佐子の事を思ひ出し、それと誘拐事件とを結び付けて、朧氣に誘拐團の一味の見當をつけてゐた。
 彼はそろそろ人の出盛るデパート傍から、三田行の電車へ乗った。彼の目的地は溜池の徳永病院であった。
 病院は何となく、ざわめいてゐた。門を入ると、三々五々、樹木の下に立話をしてゐる洋服の男達や、庭石に腰を下して煙草を吸ってゐる男などがゐて、迂散臭さうに川路を見送った。
 川路は彼等を只者ではないと見た。男達は綺麗に刈込んだ芝生を下駄穿きで歩き廻ったり、煙草の吸殻を花壇に投げたりしてゐる。
 川路がまだ玄關の石段を上りきらない中に、受付の近藤が飛出してきて、
「川路さん、豪いことになったんですよ。この病院が他人手に渡るんださうです。」彼は日頃敬遠してゐた川路にさへ縋るやうな態度で話しかけた。
「どうしたんだ。病院を賣ったのか?」
「どういふ事になったのか知りませんが、院長は數日許り前から、病院へは顏も出さないんです。何でも株で大失敗をして、この病院も何も、とっくに抵當に入ってゐたんださうです。」
「ぢゃァ奴等は債権者なんだな。」川路は肩越しに前庭へ目をやった。
「えゝ、高利貸や何かですよ。何しろ院長が行方不明なんだから、吾々はどうする事も出來ないんです。皆給料を貰へるか、どうか判らないし、不安で仕方がないんですが、これでも五人や六人の入院患者がゐるんだから、それを抛って逃げる譯にもゆきませんしね………」
「院長は何處にゐるのか見當もつかないのか。運轉手の倉持はどうした?」
「倉持なんてやつは、がっちりしてゐやがるから、自動車ぐるみ、とっくに逐電して了ったんですよ。院長は關西へいったとか、台灣へすっ飛んだとか、噂がありますが、どっちが眞實だか判りゃしません。」
「ほんの鳥渡の間に、そんなことになって了ったんだなァ。」
 川路は徳永が行方を晦ましたことを知って、いよいよ自分の想像が的中したやうに思った。建物に沿うて裏へ廻ると、いつもカーテンの蔭に秘密を包んでゐた部屋々々の窓が、開放しになって、絨毯も窓掛けも剥取られ、すべてが露出しになってゐた。
 川路は人氣のない屋敷の周圍を一巡して病院を出た。彼は徳永、伊佐子、倉持の三人の中の一人さへ見付ければ、後はつながって出てくるだらうと思った。徳永と伊佐子が何處に潜んでゐるかは、全然見當がつかなかった。倉持にしても、徳永と同郷の、札幌生れといふ事だけより判ってゐなかったが、川路は職業柄、彼の立廻りさうなところを二三思ひ當ったので、附近のガソリンスタンド、北海道生れの男が手廣く經營してゐる中古自動車賣買所、車庫等を根氣よく尋ね廻ってゐる中に、一日が空しく過ぎて了った。
 川路は、ふと西嶋の事を思ひ出した。いづれ誘拐者は少年の身代金を要求するにきまってゐる。さうなれば無論誘拐者と、西嶋との間に何等かの交渉が生ずる筈だ。徒に雲を掴むやうに三人の行方を捜し廻ってゐるよりも、逆に西嶋を監視して、誘拐者を手繰り出す方が近道だと思った。
 西嶋の住居は、本郷西片町の高臺にあった。川路は夕暮の慌しい街を抜けて、人通の尠い坂道を上っていった。
 西嶋家は角屋敷になってゐるので、人目に立たずに見張るに好都合であった。川路は丁度、門全體を見透す暗い横町へ入って、電柱の蔭に佇った。

 厚い生垣の奥から、ラヂオが聞えてきた。川路は趣味講座の星の話をきいて、空を仰いだり、下品な擽り澤山のラヂオドラマに顏を顰めたりしてゐる中に、九時になって了った。
 彼はこんなところに漫然と立ってゐて、果して自分の推測通りに、怪しい訪問者が現れるか、どうかを疑ひ出した。
 ――これゃ銀河の中の、白鳥とやらを見付け出すより面倒だぞ――天界の神秘に疎い川路は、天鵞絨のやうな黒い空に燦然と輝いてゐる無數の星を仰いで溜息をした。
 川路が見張りを諦めて歩きかけた時、西嶋家の耳門が開いて、麥稈帽を被った男が白い包を小脇に抱へて現てきた。それは思ひ掛けぬ西嶋自身であった。彼は傍目もふらずに眞直ぐ坂を下りて、電車通りの方へ、すたすた急いでゆくのであった。
 西嶋は餌差町の停留所に佇って、神田方面へゆく電車を待ってゐるらしかった。いつも出入りは自動車ときまってゐる彼が、電車を利用するといふ事だけでも不思議である。しかもこんな時刻に何の用があって、何處へゆくのであらう? 川路は胸を躍らせながら、數間距れた炭屋の暗い軒下に立って、彼の行動を見守ってゐた。
 日比谷行の空いた電車がきた。西嶋はそれには乗らなかった。彼は次の電車も見送って了った。
 ――誰かを待ってゐるのかな?――と川路は思った。すると、西嶋は三臺目の、同じ日比谷行の電車へ乗ったので、川路も續いて電車が動き出してから車掌臺に飛乗った。中は可成り混雜してゐた。
 西嶋は神保町で新宿行へ乗換へ、九段坂下で電車を下りると、だらだら坂を上っていった。肥滿してゐる彼は、折々立止って呼吸を入れたり、帽子を脱いで前額の汗を拭いたりしながら、坂を上りきって、往來を一つ越えた左側の丸屋喫茶店へ入っていった。
 彼を尾行けてゐた川路が、少し間をおいて店の中を覗くと、他に客はゐないで、西嶋一人が電話室の傍の卓子に、冷し紅茶と帽子を置いて、紙包を小脇に抱へたまゝ、腕時計を見てゐた。
 川路はそこを離れて向ひ側の鐵柵の前に立って、赤と紫の輪がくるくる廻轉してゐる喫茶店の入口に目を注いでゐた。
 廿分許りの間に、子供を連れた夫婦者が一組入って、ぢき出ていって了ったきり、出る者も、入る者もなかった。川路はもう一度往來を横切ってガラス戸の外から店を覗いた。西嶋は相變らず冷し紅茶と帽子を前に置いて、紙包を抱へたまゝ、腕時計を睨んでゐる。
 その時、往來を徐行してゆく自動車があった。
 ――おや、怪しいぞ、先刻から三度こゝを通る――川路は通り過ぎる車内を覗いた。そこに乗ってゐたのは鳥波伊佐子であった。
「おい、その自動車待て!」川路が大聲に叫びながら追ひかけると、自動車は急に速力を出して坂を下りていった。それと見て通りかゝったタキシーが、川路の傍へ寄ってきた。
「頼むぜ! あのシボレーを尾行けてくれ!」川路は飛乗りざまにいった。
 神保町の交叉點には數臺の自動車が停ってゐたが、丁度川路の自動車が傍までいった時、信號が變って、溜ってゐた自動車は一齊に流出した。
 二八・〇二七のシボレーは、駿河臺下から左へ切れ、お茶の水から本郷へ出て、赤門前を眞直ぐに上富士前へ出た。
 ――大和村の住宅地へでもゆくのかな――と川路が思ってゐると、シボレーはOKタキシーと黄色いネオンライトの掲てゐる車庫の前で停った。
「何だ、空車だったのか! いつの間に下りたんだらう!」川路は忌々しげに舌打をした。
 シボレーの運轉手が口笛を吹きながら下りてくると、ガソリンスタンドの陰から飛出してきた青年が、突乎(いきなり)、其奴の胸倉をとった。

再會
「何をしやがる! あっ、貴様か!」
「轢逃げをするなんて、卑怯な奴だ!」
「置いてきぼりを喰ふなんて、貴様が間抜けだからよ。」
「何だ!」
「この野郎!」
 二つの黒い影が縺合ったと思ふと、青年のアッパーカットがきまって、運轉手は仰様に一間ばかり後へ飛んでいって、事務室の扉にぶつかった。硝子が凄じい音をたてゝ崩れ落ちた。それでも運轉手はむくむくと起上って、相手にかぶりついていったが、青年はその手を掴んで背負投げを喰はした。運轉手の體躯は毬のやうに往來の眞中へ素飛んでいった。
 その物音を聞いて、車庫の二階から二三人の男が棍棒や、金梃をもって飛出してきた。
「どうしたんだ中嶋!」
「喧嘩か! 何處の野郎だ!」
 男達は青年を取卷いた。
 多勢に無勢と見て、物影で見物してゐた川路が躍り出た。彼は青年の顏を見ると、
「谷井ぢゃァないか!」と驚愕の聲をあげた。
「あゝ、川路君!」
 意外な再會であった。二人はちらと視線を交へると同時に、共同の敵に備へた。二人のぴったりと合った氣合に、男達は出鼻を挫かれた。
 丁度、そこへOKタキシーの主人が飛出してきた。彼は自動車に凭りかゝって、鼻血を拭いてゐる中嶋運轉手と、谷井とその連れを見ると、
「どうしたんだね。この間の事だらう。まァお互に荒っぽいことは止したがいゝ。」と宥めるやうにいった。
「口でいって解らなけれゃ、撲るより他はないでせう。」谷井は事によれば、主人まで撲りかねない劍幕であった。
「當人も現てきたことだから、まァ靜かに話し合はうぢゃァなか。さァ、何卒こっちへ入って下さい。」
 主人は谷井と肩を並べてゐる川路に、鳥渡会釋をしながら、先に立って事務室へ入っていった。
 後れて入ってきた運轉手は、すっかり悄氣かへってゐた。彼は自分の惡かった事を陳謝し、大森病院へ見舞にゆく事も、治療代を負擔する事も、素直に約束した。
 運轉手は眼の下を黒くして、赤く腫上った鼻をしきりに擦ってゐた。
 谷井は自分のいひ分がすらすら通って見ると、腕力をふるった事を後悔し始めた。
 一通りの話がついて了ふと、いくらか寛いだ氣持になって、車庫の主人と川路とは煙草を吸ひながら、運轉手が事故を起した場合の保險の必要などに就いて喋り合ってゐた。
 中嶋運轉手は新聞紙の端に、鉛筆で瀧野川上中里の住所を書いて、谷井に渡しながら、
「これを縁にといふのも變なものですが、何卒よろしく。」といった。彼はその下駄屋の二階に小學校へ通ってゐる妹と一緒に暮してゐて、出來ればその妹を裁縫女學校へでもあげたい希望だといふやうなことまで語った。その妹といふのは、まだやっと小學校の三年生だと聞いて、谷井はそんな速くに淋しい希望を繋いでゐる男を毆ったりした事を考へて、すっかり滅入って了った。
 川路は歸りぎはに中嶋運轉手を傍へ招んで、
「君、先刻、九段坂上で婦人客を乗せてゐたね。僕はあの婦人に用事があって、後を追ってきたんだが、一體何處で下したんだね?」と小聲で訊いた。
「あゝ、あの婦人ですか、あれは神保町の交叉點で、ストップを喰った時に下りて了ったんです。」
「最初から神保町までといふ約束だったのかね?」
「銀座までといふ話だったんですが、彼處で別の自動車へ移って了ったんです。」
「別の自動車へ?」

「えゝ、それがなんです、丁度、彼處で横に停ってゐた自動車に印度人がゐて、何でもそれと知合ひだとかで、その自動車に移って了ったんです。」
「印度人?」
「えゝ、横濱の商人か、何かでせう。立派な自動車を自分で運轉してゐましたよ。」と中嶋がいった。
 川路はそれ以上、伊佐子に就いて聞出す事の出來ないのを知って、谷井と連立ってOKタクシーを出た。
「助手には上等過ぎるな。」川路は相變らず身嗜みのいゝ谷井の服装を見廻しながら微笑した。
「自分では、何でもする氣なんだが、世の中ぢゃァ結局助手の口しか與へて呉れないんだ。」
「でも、身體が丈夫で何よりだったな。それを一番心配してゐたんだ。君が僕の家を出た後で、トンボ劇場の伴野とかいふ人が、二三度見えたっけ。それから紀尾井町のお加代さんとかいふ人も訪ねてきたよ。君の家で案じてゐるらしいんだ。」
「そんな事だらうと思って、僕は君には濟まないと思ったけれども、無斷で飛出したんだ。僕は親父との交渉を持ちたくなかったのでね……」
「實は僕はね、君がまだ伊佐子に未練をもってゐたのではないかと疑ってゐたんだよ。それで十五日の土曜日に、山邊兄妹から逗子のホテルへ招待されたその歸途に、伊佐子を見掛けたものだから、事によると君も逗子に隠れてゐるのではないかと思って、伊佐子の後を尾行けたりしてゐる中に、到頭終列車に乗り後れて了ったんだ。」
「いや、伊佐子の事など、もう何とも思ってゐやしない。抹殺して了ひたい記憶だよ。」
 谷井はさういひ切ったものゝ、世間が伊佐子に抱いてゐる程の惡意を持つ事は出來なかった。彼女には忌はしい噂が澤山あったが、谷井に對しては午後四時の媾曳に唇一つ許さない彼女であった。谷井は彼女が所謂妖婦(バンプ)であるといふ事實を、肯定してゐる今日でも、彼女が何故自分に對してのみ、プラトニックラブを保つ事に、努めてゐたのかを不思議に思ふと共に、自分をそこまで陥入れなかった彼女に感謝するやうな氣持さへ、抱いてゐるのであった。
 二人は高い陸橋を渡って、いつか谷井の下宿の前へ出た。
「僕の宿はこゝさ。この春、關西を放浪して東京へ舞戻った時、轉げ込んだ家だったので、又、元の古巣へ歸ったのさ。さァ上って呉れ給へ。」
 二階には寝床が敷いて蚊帳が吊ってあった。開放った窓から、月光を浴びたトタン屋根や、風呂屋の高い煙突や、空地を越えて空が見えてゐた。
 内儀さんは冷し麥湯とコップを、梯子段の上に置いて下りていった。
「これゃ閑靜でいゝ、うまいところを見付けたもんだ。」川路は窓べりに腰を下して、虫の啼いてゐる空地を見下した。
「親切な家でね。まるで田舎の叔母さんの家にでも、厄介になってゐるやうだよ。」
 谷井は川路と並んで窓べりに腰をかけると、トタン塀を繞らした公設市場や、その傍らのミルクホールや、電車の停留所などを指さして、其後の自分の生活を語った。
「それゃさうと、先刻OKタキシーでは、僕も交渉委員のやうな顏をしてゐたが、一體助手が置いてきぼりを喰ったとは、どういふ譯なんだね。」川路は思ひ出したやうにいった。
 谷井は京濱國道で、波田井老人に怪我をさせた經緯を語り、
「今になって考へて見ると、奴はその朝から僕を撒かうとしてゐたんだ。轢逃げが直接の目的ではなく、僕を撒くのが目的だったらしい。」
「怪しいな。何の爲に君を撒かうっていふんだ。」

「多分、神奈川から乗せてきた客の行先を僕に知られたくなかったのかも知れない。然し子供連れの客だったから、格別怪しいとも思はなかったがな……さうさう、僕はその時、子供が――川路――といったのを聞いて君の事を思ひ出したよ。」
「何? 十六日の晩? 最初からもっと詳しく話して呉れ給へ。」川路は疊に坐り直して谷井を凝視した。彼の腦裡にワ少年の姿が稲妻のやうに閃いた。
 川路は十六日の晩に、谷井がニューグランドの前で怪しい客を乗せた時刻や、中嶋運轉手が倉持と同じ札幌生れだといふこと等から、ワ少年の行方を略掴んだやうに思った。
 久しぶりに會った男同志の話は中々盡きなかった。
「僕も初めて助手台に乗った時には、しみじみ君に會ひたいと思った。廣い世間だが、その中には會ふつもりでゐたけれども、こんな場合に顏を合はせるとは思はなかった。」と谷井はいった。
「いつ迄も助手でもあるまいから、お互にゆっくり考へようぢゃァないか。僕もこれから片付けなければならない仕事があるから、それを濟ませたら、何かやりたいと思ってゐる。」川路は思ひ立ったことを直ぐにでも實行するやうな様子で、氣忙しく腰を浮かした。
 窓の下に寄せた一閑張りの机の上に、丸い目覺時計が乗ってゐる。
「もう四時か、一睡りしよう。」と谷井がいった。
「ぢき夜が明けるだらう。何しろ朝にならなければ何にも出來ない。」川路は、電車が通るやうになったら、眞先に瀧野川上中里へ飛んでいって運轉手の中嶋を捉へなければならないと考へてゐた。
 二人が電燈を消して横になると、谷井は直ぐ鼾をかき始めた。三日間、殆ど一睡もしなかった川路は、妙に神經が昂ってゐて、底知れぬ睡りの谷へ陥ちたかと思ふと、忽ち宙に跳上げられるやうに眼を覺すのであった。それでも二時間許り、淺い睡眠ををとって、谷井が眠ってゐる中に、そっと家を出た。
 中嶋の間借りをしてゐる下駄屋は、もう店を開けてゐた。店の前の空地に黄色い花をつけた雜草が朝日を浴びてゐた。中嶋は溝の縁に立って、小さな妹の靴を磨いてゐた。
「やァ、大層早いですな、これから店へ出掛けようと思ってゐたところです。」中嶋は磨きあげた靴をぶら下げて家の方へ歩きかけた。
「まァ待ち給へ、僕はそれとは別の用できたんだ、君は眞逆誘拐團の一味ぢゃァないだろうね。」川路は相手の顏を探った。
「誘拐? 飛んでもない。全く寝耳に水ですよ、そんなことは。」
「でも、君は十六日の晩、誘拐した少年を神奈川から東京へ運んだぢゃァないか。それだけでも君は立派な共犯者だ。どうだね、店へゆく前に一緒に警察へゆかうかね。」
「そりゃ酷い、僕はそんなことゝは知らないで……頼まれたもんだから……」
「同郷の倉持に頼まれたといふんだね。警察沙汰にするも、しないも、僕の胸一つにあるんだが、君は面倒なことに卷込まれるのが厭だと思ったら、眞實の事を話し給へ。あの晩、子供を何處へ連れていったんだね?」
「品川の驛前をずっと上っていったところです……」
「それから? はっきりいって貰へないなら警察を煩はせるより他はないな。」
「……構はないからいって了ひますよ。二本榎西町二番地學校わきの黒板塀の家です。實際僕は深い事情を知らなかったんです。」
「少年と一緒に君の自動車に乗ったのは徳永だね?」
「さァ、誰だか知りません。」
「その後、倉持に會ったかね?」
「いゝえ、十六日の晩、神奈川で別れたきりです。」
「さうか、僕は君の言葉を信用しよう。若し倉持を見掛けたら、そっと僕に知らせて呉れ給へ。」

 川路は再會を約して、中嶋の肩を叩くと、氣輕に電車道へ引返した。彼はこれまで自分にぶつかってくる一切の出來事を、感情と腕力とで悉く裁いてきた習慣から、ワ少年の居場所が判ったゞけで、もうすっかり安心した氣持になって、まっしぐらに目的地へ向った。
 西町の閑靜な小路を入ると、突當りに色褪せた黒板塀を繞らした一劃があって、破れた塀の隙間から榮々と繁った雜草がはみ出してゐた。
 白っぽく、風雨に曝された門柱に倉持と書いた小さな紙片が貼付けてあった。一かたまりの竹の覆かぶさってゐる下に、歪んだ扉が閉って、その奥の植込みの蔭に二階建の一部が見えてゐる。
 家の前を通り過ぎて路地を入ったところに裏木戸があった。前側は小學校の高いコンクリート塀で、早く登校した兒童達が運動場を駈廻ってゐる。
 不意に木戸が開いて、酒屋の御用聞が出てきた。彼は背後の戸を無雜作に叩付けたまゝ口笛を吹きながら去って了った。川路はそれと入違ひに屋敷へ辷込んだ。
 彼は無花果の蔭の物置小舎に身を潜め久時様子を窺ってゐた。その小舎には古椅子が一脚轉ってゐるだけで何も置いてなかった。何處かで鶏が啼いた。小學生の聲が波のやうに、高く、低く聞えてゐる。屋敷の中は森閑としてゐた。
 ――若様がこんなところにゐるなんて、眞實かしら?――川路はそっと小舎を抜出した。彼が閉切った縁側の外を廻って二階の窓下に立った時、
「小父様、僕はまだお家へ歸ってはいけませんの? 何故誰もお迎へにきて呉れないんでせう。」といふ聲がした。川路ははっとして便所わきの袖垣の後に身を潜めた。それは紛れもないワ少年の聲である。
 それに對して、何か、ごとごと應へる聲がした。
「もう一度、お祖母様にお手紙を書きませうか……あゝ、飛行機があればいゝのになァ……」
「あっ、そっちへいってはいけない!」
 人の氣配がして、白い仕事服の袖がちらと見えた。と、思ふと邪險に窓が閉った。それは徳永であった。二階の話聲はそれっきり歇んで了った。
 川路は直ぐにも飛込んで、ワ少年を救出したいと思ったが、誘拐者が徳永であるといふ事がはっきりしてくると、荒立てる事を躊躇した。徳永を公の裁斷の下に罰する事は、亡き喜多川男爵夫人の暗い過去を洗出すやうな結果を招くかもしれない。川路はそれを惧れてゐた。
 彼の望むところは、この事件の一切を闇に葬って、喜多川家に損害をかけずして、少年を救出す事であった。それには第一に、西嶋の諒解を得る事が必要であった。
 川路の常識は、彼の速る心を押鎮めた。彼は伸びた雜草を踏んで、そっと裏木戸を出た。丁度その時、路地の端れに八百屋が荷車を停めた。川路は傍へいって、
「この屋敷のお出入りかね?」
「倉持さんですか? えゝ、お顧客(とくい)様ですよ。」鉛筆を舐て何か手帖に書いてゐた男がいった。
「大分廣いお屋敷のやうだが、女中さんは何人ゐるね?」川路は探りをいれた。
「女中さん? へっへっへゝゝ、ご冗談でせう。この屋敷は男世帶で、それも居たり、居なかったり不思議な家ですよ。」
「此頃移轉(こ)して來たんだらう?」
「表札が現てから一月程になりますが、家の方が見える様になったのは、つい五六日前からですよ。」
「倉持といふのは、丈のづんぐりした三十恰好の男だらう?」
 八百屋の若衆は執拗な質問を怪み出したと見えて、眼の角でちらと川路を見たきり、無駄話を止めて了った。
 川路は往來へ出ると公衆電話室へ飛込んで、本郷の西嶋家へ電話をかけ、西嶋が既に出勤した後だと聞いて、トンボ劇場へタキシーを飛ばした。

異香
 窓の外に張出した青と白の縞模様の日覆に歩み疲れた夏の日暮が斜にふり注いでゐた。
 傍卓子の扇風機が、朧氣に窓の白いレースを動かしてゐる。その傍で手紙を書いてゐた靖子は急に咳をして、煙の籠った部屋を見廻した。
「マサ! 煙草はいゝ加減にしない? 毒よ、どっちにだって…………」
 寝台に轉ってゐた山邊は、相變らず黄色い煙草の罐を手近に置いて、紫の煙をあげてゐた。
「煙草でも喫んでゐなかった日には所在がなくって遣りきれない。」山邊は前額にかゝってゐる繃帶を氣にして押上げてゐた。
「そんなに所在がなかったら、パパの事でも考へたらいゝわ。あの萎靡(しな)びた手や、白い頭髪でも想ひ出したら、自分の惡業を少しは後悔するやうな殊勝な心持になるかも知れないわ。」
「ふゝん……近代人は後悔してゐる暇なんか、ないんだよ。短い人世に、後なんか振返ってゐた日にゃ、一歩も前へ進めない。」
「もう止して置かう! そんな人と議論するのはね……僕は早くこの手紙を書いて終はなくては……」
 靖子はがしりとペンをインキ壺へ突込んだ。
「驚いたな、まだ手紙を書いてゐるのか。いゝ加減に止して蓄音機でもかけて呉れないかな。」
「我儘よ、そんなことをいって、僕はマサの爲に手紙を書いてゐるんぢゃァないの。」
「ほう、何處へ出す手紙?」
「足利君によ、きまってゐるぢゃァないか。散々看病して貰っておいて……眞實なら自分で禮状を書かなければならないのに。」
「看病か! 足利は私を看病するよりも、靖公に親切を見せたかったんだよ。四日も紳士振りを見せたんだから、本望だったらうよ。」山邊はにやりとして、又、新らしい煙草に火を點けた。
「マサ! さういふ見方をするのは良くないわ、下劣よ、愧かしくない?」
「ぢゃァ靖公は、どういふ見方をしてゐるんだ、足利に少しは好意をもってゐるといふのか? 私は寧ろその方を望むね、足利なら身分も、財産も申分なし、それこそパヽも喜ぶだらうよ。お前は知らないだらうが、日本には昔から、釣合はぬは不縁の基といふ諺があるからな。」
「男爵(バロン)といふのは、ラテン語の大馬鹿といふ言葉から出たっていふ事を知ってゐて? 僕は身分や、財産で、人間を評價したくないな。あゝ、こんな話は止めよう、それよりこの旅館をそろそろ引揚げない? 海も二十日過ぎると、つまらないからなァ、第一逗子なんか、けちがついたぢゃァないか。」
「東京も、横濱も魅力はないな。」山邊は氣のない返事をした。
 靖子は急にペンを措いて寝台の傍へ歩いていった。
「では、逗子には魅力があるの?……マサ、貴兄の怪我は人違ひではなかったんぢゃァない?」
「……私は、川路某のやうに、他人を撲って留置場へ投込まれるやうな眞似はしないから、誰からも怨恨を受ける筈はない。人違ひにきまってゐるさ。」
「マサ、喜多川男爵の家には綺麗な家庭教師がゐたわね。」
「さァ、綺麗な人が余り澤山方々にゐるんで、どれが、どの家の人か判らんね。」
 靖子は度し難しと見て、呆れ返った表情をして元の席へ戻ってペンを取上げた。
 午後四時の旅館は、お茶の時間を前にして、何となくざわめいてゐた。誰かゞ蓄音機をかけてゐると見えて、廣間から「郵便橇」のラッパが響いてきた。
 靖子のペンと、山邊の烟らしてゐる煙草とが、郵便橇の疾ってゐる北歐の雪景色を想起してゐた。

 其處へ、給仕が扉を敲いて、山邊に手紙を渡していった。
 靖子はちらとそっちを見たゞけで、又、手紙を書きつゞけた。
 山邊は寝台の端に腰を下して、熱心に長い手紙を讀んでゐたが、讀終るとそれをポケットへ押込んで、窓際へ立っていって、大きく伸をしながら、
「成程、靖公のいふ通り、海にも秋風が立ち初めたな。」と呟いた。
 靖子が默ってペンを走らせてゐると、山邊は、
「成程、海にも秋風が立ち初めたな。」と又同じことを繰返した。
「それは何の謎なの?」
「靖公のいふ通り、海を引揚げる時季かなといふ意味さ。」
 靖子はつい先刻まで、逗子に執着をもってゐた兄が、手紙を見てから急に掌をかへすやうに、意見を變へたので、手紙が原因だなと感付いた。いつもならそこで一本突込むところであったが、靖子も川路の事が氣になってゐたので、
「では、東京で家でも借りませうか、高給さへ支拂へば女中はいくらでもあるわ。成可く頑固で、氣が利いて、絶對に危險性のない、屈強な婦人を澤山置かうかな……」
「閑話休題、先づ横濱へ出掛けて見よう。だが、この鉢卷は氣になるな。」山邊は鏡の中を覗きながら、繃帶を除り始めた。
「お洒落坊主、そんな亂暴をしちゃァ駄目よ。繃帶を除っていゝか、どうか、お醫者にきいてからにしなさいよ。第一今日は東京へなんかゆくんぢゃァないことよ。」
「横濱だよ。どうせ靖公は、秋の服や外套をこしらへるんだらう、それなら尚横濱がいゝ。」
「……何事も明日よ……マサ、又、此處へお茶を寄越して貰ふ?」
「午後五時のお茶は情景が大切なんだ。寝室でごそごそ紅茶なんか飲んだって、何の足しにもなりゃしない。私はもう病人ぢゃァないんだよ。」
「偖、僕は今晩、どのドレスを着て食堂へ出ようかな、といふところだわね……リバチーではどうして僕のドレスを送って寄越さないんだらう、電信を打ってやらうかな。」靖子は指を折って日を數へながら、部屋續きの自分の寝室へ入っていった。
 お茶と、晩餐の時間が、ぢきに過ぎて了った。山邊はホテルの自動車で、秋月醫院へ出掛けていって、歸った時にはすっかり繃帶が除れて、後頭部に膏藥を貼ってあるだけであった。
 彼は直ぐにでも轉居をするやうに、遅くまで起きて自分の荷物をまとめてゐた。
 朝から探偵の眞似をしたり、東京へ出掛けたりして、空しく川路の行方を捜し歩いてきた靖子は、何にも識らずに、ぐっすり朝まで眠って了った。
 翌日も空が晴れて、沓(はるか)な水平線の上を、屏風のやうな白い雲が、靜に移動してゐる。うねりの高い土用波が、凄じい地響を立てゝゐた。
 山邊兄妹は別に打合せをしないでも、それぞれ勝手に外出の支度をして、十時前に揃ってホテルを出た。
 横濱海岸通りの、石塊を積上げた空地の間を抜けると、舗装した並木道の鈴懸の木の間に、黄色いコンクリートの洋館が見えた。細い鱗雲の飛んでゐる碧い空に、三角形の紅い旗が揚ってゐた。
「今度新築した新月ホテルさ。鳥渡感じがいゝぢゃァないか。」山邊がいった。
「阿蘭人の經營してゐるホテルといふのは、これなの。僕は横濱へ來てわるくは無かったな。部屋を見た上で、早速きめて終はうぢゃァないか。」
 靖子はすっかり乗氣になって、先に立って正面の石段を上っていった。

 案内された部屋は南側の二階で、窓の下は直ぐ芝生になってゐる。いゝ工合に部屋は二間續いて空いてゐた。
「これゃいゝ、こゝに極めようぢゃァないか。」山邊は寝台や、椅子を叩いてスプリングの工合を檢ながら靖子を顧みた。
 靖子は芝生のところどころに紅い花をつけてゐるカンナや、整然とした棕櫚の並木などを見下してゐた。
「靖公、君はいゝ子だから、一人で逗子へいって、後始末をしてきて呉れない? 君は自分の荷物だけ片付けて、支拂ひをしてくればいゝんだよ。私の荷物はすっかり一纏めにしてあるからね。」
「お金を拂ひにゆくのはいゝけれども、荷物片付は面白くないな。」
「靖公は、靖公の荷物だけ片付ければいゝんだよ。いってやりたいけれども、私はまだ病人だからな。」
「都合のいゝ病人ね。」靖子は咎めるやうにいったが、新月ホテルは自分でも氣に入ったと見えて、元氣よく逗子へ出掛けていった。
 靖子はホテルや、秋月醫院の支拂ひを濟ませ、その間に、乗ってきたタキシーの運轉手に荷造りを手傳はせたりして、一台の自動車で其儘横濱の新月ホテルへ戻ってきた。
「マサは何處へいったの、呼んできて頂戴。」自動車から飛下りた靖子は、出迎へに出た給仕に遠くから聲をかけた。
「山邊様は二時間計り前に、どちらかへお出掛けになり、まだお歸りになりません。」
「困ったマサだな。ぢゃァいゝから、そっちの荷物は其邊へ抛って置いて、僕のだけ二階へ運んでよ。」
 靖子はビクターのポータブルを提げて階段を上っていった。その後から二人の運轉手が曲藝師のやうに、澤山積重ねたボール箱を兩手に支へながら蹤いていった。
「輕い事は輕いが、大變な帽子だ、鳥渡した店が出せさうだぜ。」
「俺の箱には、みんな靴が入ってゐるんだとよ。一體何十足あるんだ。一生涯靴は買はないつもりかな。」一番後になった男は大型の箱を擔いで無駄口を叩いてゐた。
 誰でも直ぐに友達にして了ふ靖子は、二人の運轉手を指揮して自分の荷物を全部、部屋へ運びこませると、充分な心附けをやって歸した。
 靖子は廣い部屋に一人きりになって、ぼつぼつ荷を解き始めた。化粧品は鏡の前に、差あたり必要な衣裳は備付の洋服箪笥へ入れたが、一つの箪笥では衣紋掛に三枚づゝ重ねても入りきらなかった。箪笥は早速買ふとしても、帽子や靴の置場がなかった。彼女は片付けきれないボール箱を寝台の下へ蹴込んで溜息を吐いた。
「僕は少し馬鹿だったな。いつの間に帽子や靴がこんなに溜って了ったんだらう! 洋服だって多過ぎる、麗子なんか、洋服を着る商賣だのに二三枚しか持ってゐやしない。リキだって夏服は一着だといってゐた。それでいゝんだなァ……」靖子はこれ迄、自分が衣裳持だとは一遍だって思はなかったが、斯うして澤山な衣裳や、帽子や、靴を持餘してゐる自身を見出して、馬鹿氣てゐると思った。彼女は第二のトランクを開けた時、そこに雜然と填込んである品物を見て、溜息を新にした。
「参ったね……他人に上げるものは上げ、棄てるものは棄てるとして、もっと簡易生活をしよう。靖子は獨言をいひながら、トランクを掻廻してゐる中に、白檀の扇子を見付け出した。
「ちえっ! こんなものがまだあったのか!」靖子は穢いものにでも觸れるやうに、そっと指先で撮上げて窓の外へ投げ棄てた。それは彼女が鳥波伊佐子の生活に就いて何も識らなかった頃、伊佐子から贈られた品であった。
 晩餐の時にも、山邊は歸ってこなかった。靖子はそんな事に馴れてゐるので、ひとりで食堂へ出た。

 ホテルの大食堂は、宿泊者以外の外來客にも開放されてゐた。中央に散在してゐる食卓は明いシャンデリアの光を浴びて銀器を輝かしてゐたが、隅の方の食卓は衝立や鉢植の常盤樹の蔭に、それぞれ秘密の席を設けてゐた。夫等の「二人限り」の食卓からは、輕い女の笑ひ聲や、グラスのかち合ふ音などが聞えてくる。衝立の下から嬌かしい絹の脛や、フェルト草履の鼻緒に喰込んだ白い足袋などが見えてゐた。
 靖子は一人法師の食事をしながら、前の席に川路でもゐればいゝのにと思ってゐた。彼女は川路の消息が知れない事につて多少の不安を感じてゐたが、不幸な想像は少しも抱いてゐなかった。川路はどんな困難をも征服してゆく男だと信じてゐた。
 給仕が果實を盛った皿を運んできた。靖子は無意識に、緑色の林檎に手を伸したが、考へ事をしながら其まゝ席を離れた。外國人のゐる食卓の間や、廊下を抜けてゆく途中、人々の親しげな微笑が彼女に注がれた。
 靖子は階段を上って自分の部屋へ入った時、化粧台の鏡に、林檎をもった自分の姿を見出して失笑した。彼女は窓際の椅子に腰を下して、林檎の皮を中途で斷れないやうに、苦心して剥き始めた。彼女はその皮を右の肩越しに背後へ投げて、未來の良人を占った。緑の林檎の皮は、紅い絨氈の上にR形を描いた。
「あゝ、現たぞ、Rだ! Kと讀んでもいゝんだ……力松でもよし、川路でもよし……愉快だな。」靖子は明い氣持ちで窓の外を眺めた。高い建物や、街路樹の間に、アスファルトの道路が白いリボンのやうに浮出てゐる。
「僕のことはそれでいゝとして、マサは一體どうなるんだらう? 昨日の手紙は誰から來たんだらう?……」靖子は兄の事を氣にしながら、玄關へ出ていって、久時石段の上に佇ってゐたが、街路樹を渡ってくる爽かな風に誘はれて舗道へ下りていった。
 彼女が街角までいって戻ってきた時、一台の自動車がホテルの前に停った。靖子は兄が歸ったのかと思って小戻りをしたが、下りてきたのは思掛けぬ伊佐子だったので、急いで樹陰へ入った。
 伊佐子は強烈い東洋の異香を撒きちらしながら玄關を入っていった。
「又、伊佐子にぶつかるのか……どっちが執念深いのだか知らないが、まだ、こんなところでうろうろしてゐるんだな。マサを横濱へ引出したのはこれかな?」靖子は女の後姿を見送りながら呟いた。
 山邊は夫から間もなく歸ってきて、疲れたといって直ぐ寝室へ入って了った。
 翌日、靖子は朝から方々へ轉居の通知を書き飛ばした。朝も晝も伊佐子の顏が食堂に見えなかったので、彼女はいくらか輕い氣持になってゐた。山邊は何にも識らない様子で終日靖子と行動を共にしてゐた。
 其日は土曜日で、夕方からチーダンスがあった。山邊は靖子と一回トロットを踊ったゞけで、いつの間にか、もう二三の婦人と知合になって、愉快さうに踊ってゐた。
 靖子がひとりで見物してゐると、不意に、昨夜伊佐子が遺していった強烈な異香が鼻を衝いた。驚いて顏をあげると、アイスクリームを片手に捧げた印度人が笑ってゐる。
「お嬢様、一つ如何です。」大柄な印度人は體躯を屈げて、アイスクリームを靖子の前に置いた。その黒い指に大きなダイヤモンドが無氣味に光ってゐた。
「有難う。」
 きゝ馴れぬ異香は、靖子の頭腦の中で印度人と伊佐子を結びつけてゐた。
「それから、これをお届けにあがりました。」印度人はポケットから大切さうに白檀の扇子を取出した。
「おや?」
「お嬢様が、昨日窓からお落しになったのが運よく、私のターバンの上に墜ちました。」
「あら、この扇子は矢張り貴殿とご縁があったのね。」靖子は伊佐子の事をいったのであったが、印度人は別の意味に解って、
「何卒、これをご縁によろしく。」といった。

破船
 トンボ劇場の事務所の入口でタキシーを下りた川路が、流れる汗を拭ひながら石段を上ってゆくと、通りかゝった給仕の中村が引返してきて、
「先刻電話をおかけになった川路さんですね。何卒とちらへ……鳥渡こゝでお待ち下さい、試寫を觀てゐるかもしれませんから……」といって、廊下端れの扉を押して觀客席の方へ入っていった。
 川路は扉の前で待ってゐた。間もなく給仕が戻ってきて、
「社長室でお待ちになってゐるさうですから、何卒こちらへ。」といった。
 舞台裏を抜けて、弁士席の横手から螺旋形の階段を上りかけた時、川路は飛行機の音を聞いて、思はず天井を見上げた。
「試寫をやってゐるんですよ。鳥渡覗いて見ますか?」と中村がいった。
「それどころぢゃァない。一刻も早く社長に會はなければならないのだ。」
 川路は中村を追立てるやうにして階段を上った。
 大金庫の前の書卓に兩肘を突いて、扉口を見据ゑてゐた西嶋は、川路が入ってゆくと、目顏で傍の椅子を示した。
「若様の身代金は、まだお拂ひにはならないでせうね。」川路は挨拶を抜きにして訊ねた。
「いや、まだ拂はない。」
「それはいゝ鹽梅でした。」
 川路はほっとしたやうに椅子に腰を下した。
「それで?」
「甚だ差出がましいやうですが、若様を無事にお連れするといふ事は勿論として、お屋敷ではどうしても誘拐者を處罰しなければおかないといふお考へなのでせうか?」
「さァ……ワを無事の取戻す事は第一の目的で、その爲には如何なる犠牲をも惜まないが……然しな、誘拐者は立派な犯罪者だから……」
「若し、第一の目的が無條件で達せられたならば、誘拐者の罪を不問に附するといふ事は、出來ない御相談ではありますまいね。殊に、事お屋敷の名譽に係はるといふ場合には……」
「といふと?」
「假りに誘拐者が、御承知の徳永の一味であったとしますと……」
「徳永? 屋敷で問題を起したあの醫者か?」
 西嶋は數年前の記憶を辿って眉を顰めた。
「僕の心配はそこにあるのです。法律で嚴しく罰してやりたいのは山々ですが、あゝいふ賣名的な男は、破れかぶれになると、法廷で何を云出すか判りません。僕のやうな、つまらない男でも、御恩を受けた屋敷の家名に係はるやうな事柄が、新聞に書立てられたりしては堪へられないと思ひます。」
「……君は、ワを救出する成算があるのか?」
「確信があります。若し、誘拐者の罪を不問に附すといふ僕の條件をお容れ下されば、僕は三時間の中に、必ず若様をこゝへお連れします。」川路は熱心にいった。
 西嶋は探るやうに相手の顏を凝視してゐたが、久時して、
「君は、ワが何處にをるのか、知ってをるんだね。何故今迄默ってゐたんだね?」
「僕が知ったのは、たった今なんです。僕は自分に嫌疑のかゝった事を憤慨して、どうしても自分の手で、若様を捜し出さうと努力してゐたのです。それで十八日の晩は、西片町のお宅を見張ってをりました。」
「では、私が餌差町の停留場から、市電に乗ったのも知ってをったんだね?」
「はい、貴殿は三台目の電車にお乗りになりましたね。僕は貴殿が九段上の喫茶店にお入りになるところまで、尾行いていったのです。」
「あゝ、それで解った!」西嶋は何か思ひ當ったらしく膝を叩いた。

「貴殿はあの日、誘拐者から命令をお受になったのですね。」
「あの日の午後、第三回目の脅迫状を受取った。現金二万円を持って、夜の正九時に家を出て、徒歩で餌差町の停留場へゆき、三台目の電車に乗れといふ命令だった。」
「あゝ、矢張りさういふ譯だったのですか。僕は屹度貴殿の前に誘拐者の一味が現はれるだらうと豫想して、あの丸井喫茶店の前で張番をしてゐたのでした。」
「今になって考へて見ると、誘拐者は君を見付けて、私の同伴者と思ひ込んだに違ひない。何でも丸井喫茶店にゐる中に電話で次の命令を發するといふ事だったから、私は十時近くまで待ってゐた。すると、やうやう電話がかゝってきて、――お前は約束を無視して、單獨でこなかったから、今晩は取引が出來ない――といった。そんな譯で、私は紙幣包を抱へたまゝ、空しく家へ引返した。」
「充分注意してゐたつもりでしたが、相手に感付かれたと見えます。僕はあの時、徳永と關係のある婦人が自動車を徐行させて、喫茶店の前を三度も通ったのを見付けて追跡したのでした。そんな事から偶然、いろいろな手がゝりを得て、到頭若様のをられるところを突き止めてきたのです。」
「よろしい、私は君を信用しよう。」
「有難う存じます。何卒、僕に任せて下さい。ではこれで失禮致します。」
 川路が椅子を離れると、西嶋は立ってきて彼の手を堅く握りながら、
「よろしく頼む。だが、脅迫者の遣口から想像すると、相手は相當手鋼いぞ……君一人で大丈夫かな、探偵社の連中を附けようかね。」
「いや、却って一人の方がやり良いです。」
「さうかね。あゝ、それからいろいろ手配をするのに金が入用るだらう。」
 西嶋は川路の應答も待たずん、金庫の扉に手をかけた。
「いや、それには及びません。」
「然し、金が不足だった爲に、悔を胎(のこ)すやうな事になってはならない。金は充分用意してゆくがいい。」
「僕がやる以上は、金は鐚一文いりません。万一金の必要が生じたら、この生命を兩替します。」
「では、護身用にこれでも携帶っていったら。」
 西嶋は書卓の抽斗を探って、小型の拳銃を取出した。
「あゝ、それを拝借してゆきませう。」
 川路は無雜作に拳銃をポケットに突込んでその部屋を出た。彼は劇場前で拾ったタキシーを、西町の學校の塀際に停め、
「こゝで待ってゐて呉れ給へ、遅くも三十分計りのつもりだから。」といひ殘して車を下りた。
 裏木戸は、朝と同じやうに雜作なく開いた。勝手口にも、玄關にも、人の氣配はなかった。家中は空家のやうにひっそりしてゐるので、川路は相手が感付いて逃げたのではないかと、幾分の危惧を抱きながら、黄色くなった障子を開けて家の中へ入っていった。
 玄關に續く六疊、八疊、そこにも人影はなかった。
 その時、廊下の障子の陰に、ちらと人が動いたやうに思ったので、川路は馳寄って不意に障子を開けた。
 便所の戸の前に、頤髭のある、黒眼鏡の男が、旅行鞄を提げて彳ってゐた。夏外套を着て、背を丸めてゐる年寄りじみた相手の様子に瞞されて川路は鳥渡躊躇した。
 男は默って、足早に玄關へ出ようとした。川路はその時になって初めて相手の正體を看破った。
「もし、もし、鳥渡待ちなさい。」
 男はちらと背後を振返って逃げ腰になった。
「何です、その服装は! 外套なんか脱いで、暑苦しい附髭なんか、除ったらいゝでせう。」
 川路は嗤ひながら、男の行手に立塞がった。

 男は忌々しげに舌打をした。
「お前が現てきたんぢゃァ、どうも仕方がない。」
「迂闊には、この家を出てゆかれませんよ。」
「何だ、もう張込んでゐるのか?」
「勿論、手配はしてあります。若様はどうしました?」
 男は無言で二階を指さした。
「若様が無事だといふ事を確めた上でなければ、貴殿を逃しませんよ。」
 川路は男の腕を掴んで、相手がよろめくところを階段の方へ押しやった。
「手荒なことをするな。」男は前額に青筋を立てゝ、顔を顰めた。
「これでも僕としては、至極穏かにやってゐるつもりなんです。」川路は笑った。
 がらんとした二階の床の間の傍に、皺になった白い水兵服を着たワ少年が、クッションを枕に眼を閉ぢてゐた。枕元に繪本や、飛行機の玩具などが散らばってゐる。
「晝寝をしてゐるんだ。私はこの勝負は負けだと觀念して、潔く退却しようとしてゐたところなのだ。」附髭を毟りとった徳永は吐出すようにいった。
「あの女はどうしました?」
「難破船からは、鼠は逃げて了ふものだ。伊佐子はとっくに見切りをつけて、陸へ上って了ったよ。」
「貴殿は二万円をせしめそくなって殘念でせうが、刑務所へゆかないで濟んだのだから、感謝してこゝを去てゆきなさい。」
 その時、少年は寝返りをうって、小さな欠伸をした。
「若様!」
 少年はぽっかりと眼を開いた。
「あゝ、川路! 到頭お迎へにきてくれましたね。」といひながら飛起きた。
「さァ若様、早く参りませう。」
 川路は少年を抱上げた。
 その間に徳永はこそこそと階段を下りていった。
「川路がちょっともこないんだもの、僕は眞實は怖かったのよ。」少年は眼を潤ませた。
「もう大丈夫です。川路がついてゐますから、悪い奴はみんな退治て了ひますよ。」
 川路は少年を連出して了ふと、トンボ劇場へ電話をかけておいて、待たせてあったタキシーで本郷の西嶋家へ向った。
 少年は西嶋家へ着くと、すっかり元氣になって、十六日以來の出來事を斷片的に語った。
――私は川路がお迎ひにきたのかと思ってゐたら、自動車の中に、黒い眼鏡をかけた知らない小父様がゐて、これから川路の家へゆくんだと仰有ったのよ。
――自動車は、ぶんぶん飛んで面白かったけれども、川路のお家が余り遠いから、泣きたくなったのよ。
――眼を覺したら、他人のお家にゐたのよ。知らない小母様が、いゝ子だから、おばァ様にお手紙をお書きなさいって仰有ったの。そしてお髭のある小父様が、大きな刀をもってきて見せたのよ。
――毎日、今に川路がくるって、嘘ばかり吐いてゐるから、泣いたの、さうしたら良い小母様が飛行機をもってきて下すったのよ。
――パンだの、牛乳だの、それからお蕎麥も食べました。
 少年は最後に、川路の傍へきて、
「又、あの怖い小父様が、私を連れにくるといけないから、川路はもうお家へ歸らないで、私の傍にゐてね。」と歎願するやうにいった。
「川路は若様のお傍にゐなくても、悪い奴が若様のところへゆかないように、外で守ってをりますから、御安心なさい。」
 川路は微笑してゐる眼がしらに泪を浮べて、膝の上に置かれた小さな手を握りしめた。少年は川路の太い腕に凭れて、滿足さうに眼を閉ぢた。昂奮の後の疲勞に、いくらか熱もあるやうであった。

 本郷の西嶋家と、逗子の喜多川家との間に、忙しく電話が交された。その間にワ少年の寝床が、靜かな離室に用意された。
「二三日臥かして置けば元氣になるさうだから、當分こちらへ置かうと思ふ。」
 應接間へ戻ってきた西嶋は、ほっとしたやうな様子で、新らしい葉卷に火を點けた。
「そして若様は、普通の學校へお入學になったらどうでせう。家庭教師も考へものですからね。」と川路がいった。
「家庭教師では大失敗をやった。例の牧野女史が突然行方を晦したので、一時は誘拐事件の關係者ではないかと疑ったが…………探偵社の大船などは、その方面に全力を傾倒したものだ。」
「それで、行方は判ったのですか?」
「判ったは判ったが、飛んでもない事になったのだ。私の世話で喜多川家へ入れたのだが、すっかり●消(いな)くなって了ってね、何でも訪職三ヶ月で、横濱の菊屋アパートメントに隠れてゐるとかいふ話だ。」
「さうですかね…………實際見掛けによらないものですね。」
「相手は山邊とかいふ金持の息子で、その男の仕送りを受けて生活をしてをるさうだ。牧野が屋敷を飛出したのは、誘拐事件に責任を感じたといふ事も、理由の一つだらうが、大體その男が原因だったといふ譯さ。」
「山邊といふのは、逗子ホテルに滯在してゐるあの山邊でせう。實に驚きました。」
 川路は山邊の素行に就いて、兎角の噂を聞いてゐないではなかったが、喜多川家にまで毒手をのばしてゐようとは、思ひもかけなかった。然し彼は山邊に對する憤りや、侮蔑を感ずるよりも先に、さうした兄をもってゐる靖子の氣持を考へた。
 ――勝氣な彼女はどんなに屈辱を感じてゐるであらう!
「僕の役目も濟んだやうですから、これでお暇します。」
 久時、沈默が續いた後で、川路は椅子を離れた。
「さうとも、君は立派に役目を果してくれた。これは少いが、お禮のしるしだから納めて呉れ給へ。」
 西嶋は用意してあった奉書包を、川路の前へ置いた。
「それはいけません。僕はお禮を頂く心算でやったのではありません。」川路は二三歩戸口の方へ歩きかけた。
「あァ、待ち給へ。これは君の受ける當然な報酬だ。危く誘拐者に取られやうとした二万円の一割にも當らない金なんだから。些しも遠慮する事はない。」
「何卒、それは止めて下さい。そんなものを頂くと、僕の身が暗くなります。」
「それゃ困る。金は邪魔にはならないものだ。さァ、持っていってくれ給へ。」
「邪魔にならなくても、毒になる事がありますよ。氣分でやった事なんですから、何卒、このところは僕の男を立てさせて下さい。ではいづれ……」川路は逃げ腰になって叮嚀にお辭儀をした。
「はゝはゝゝゝはゝ、どうも今時の若い者の氣持は解らんな。それ、君と同居してゐた谷井の伜も、親の呉れようとする金を貰ひたくないといって、逃げ廻ってゐるし、君は君で、切角進呈しようといふ、千円の金を毛虫のやうに彈返すし、どうも不思議な人達ばかりだ。」
 川路は頭を掻いて苦笑した。
 西嶋家を出た彼は、大手をふって歩けるやうな晴々した氣持になってゐた。
「これで帳消しだ!」彼は廣い坂の上で獨語をいった。
 谷井や、靖子と知り合って以來、徳永の舊惡を材料に、金を強請とってゐた自分を密に呪ってゐた彼は、この誘拐事件で、一文の報酬もとらなかった事によって、その忌はしい過去が、清算されたやうに感じたのであった。

緑の月
 月が變ってから、殆ど毎日のやうに白く厚ぼったい雲が空を閉ぢこめたり、雨が降ったりして、秋らしく晴れ渡った日は數へる程しかなかった。
 一ヶ月余の病院生活から、やうやく解放された波田井老人は、久振りに今入町の自宅へ戻って、トタン塀の隅にひょろひょろとのびてゐる青桐を、寝床の中から懐しげに見入ってゐた。
 珍しく其日は雨にもならず、折々は薄日が部屋を明くした。室内の諸道具を初め、壁といひ、襖といひ、何から何まで赭く古びてゐた。一ヶ所の破れもない障子は、ぼってりと塵埃を吸って、其儘鼠色に染ってゐた。
 その中で、入院中に調へた吸入器、洗面器、護謨の水枕などだけが際立って眞新らしかった。それはまるで古木が折れて生白い心がむき出しになってゐるやうに痛々しかった。
 病人の傍で縫物を擴げてゐた百合野は、ふと針を持った手を膝において顔をあげた時、臥てゐる波田井老人の眼とばったり會った。
「あんなに大金を出して頂いて、眞實に谷井さんには濟ない事を致しましたねえ。」
「銀行さへちゃんとしてをって呉れたら、こんな事にはならなかったのになァ…………最初からこっちで拂ふつもりでゐたゞけに、余計濟まぬ氣がする。」
「どうせ怪我をなさるなら、もう一ヶ月早ければようございましたねえ。さうすれば銀行もまだ破産しませんでしたからね。」
「何をいってゐるんだ…………そんな事をいへば夜釣りになんか出掛けなければよかったといふ事になる。さういひ出したら際限がないよ。終ひには大江君から秘藏の釣竿を貰はなければよかったなんていふ事になる。まァまァお前さんも後家さんにならないで濟んだのだから、愚痴をいひなさるな。」
「眞實にさうでございますね。大難が小難で濟んだのですから、愚痴をいっては申譯ありません。」
「生命があればこれから働く事が出來る。」
「眞実にさうでございます。」
 二人は急に默り込んで了った。百合野は老人が先々松葉杖の力を借りないでも歩けるかしらと思った。老人は密に從前通り自分に仕事があるか、どうかを懸念してゐた。二人の心に鳥渡の間、陽がかげった。
「爾(いわば)、地に寶を藏する勿れといふ言葉があるからな。銀行に預けておいた五百円が消えて了った事は、吾々に心の寶を積めといふ教訓だったかも知れない。谷井さんに病院の支拂ひをして頂いたのは誠に心苦しいが、吾々はそれを金で返すことが出來ないとしても、いつかは精神的に償ふ事が出來るに違ひない。」
「さうでございますとも、私達がかうして丈夫でゐる事が何よりでございます。當節はミシンが流行出して、お裁縫(はり)をする人が貴くなりましたから、私が少し精を出せば、生活(くらし)向の事なんか、少しも心配はいりません。」
「成程、お前さんのお裁縫はそんなに貴くなかったかね。」老人は愉快さうに笑った。
「まァまァ惡い事は成可く麗ちゃんの耳に入れないようにして置きませうよ。あの娘は氣が優しくて、心配性ですからね。」と百合野がいった。
「頭髪の結ひ方が違ったせいか、麗ちゃんは近頃、どうも痩せたやうに見えるが、働きが過ぎるのではなからうかね。」
「私も氣にしてゐるんでございます。ひと頃と違って朝なんか起きるのが眞實に辛さうですよ。」
 二人が麗子の噂をしてゐると、勢ひよく格子戸が開いて、郵便配達夫が玄關に立った。
「もし、もし、お宅に大江麗子さんといふ方はゐらっしゃいますか?」
「はい、をりますよ。」
「書留です。こゝへ印形を捺して下さい。」
 百合野は紙片を受取って二階に聲をかけた。

「麗ちゃん、書留が來ましたから、印形をもって來て下さい。」
「あら、私のところへ? 何でせう?」
 麗子は小さな印形をもって階段を下りてきた。彼女は封筒の裏を返して差出人の名を讀むと、波田井老人の枕元へいって、
「小父様、またいつかの知らない方からお手紙がきましたのよ……いつかお香奠を下すった……」
「津山愛子といふ方かい?」
「えゝ、さうですの……どうしませう?」
「兎に角、開けて讀んでご覧。」
 手紙の間に百円の爲替劵が挾んであった。
「あら、これは小父様のお見舞に下すったのよ――麗子に親切にして下さる小父様の御容態は如何でゐらっしゃいますか――って書いてあるわ……津山愛子さんって誰方でせうね。」
 麗子が下へ置いた手紙を、老人は手に取って眺めてゐたが、
「矢張り同じ筆蹟だね。」と呟いた。
「誰方だか、お判りになって?」
「いや……この前の御香奠の時と同じ筆蹟だといふことだよ。赤坂榎坂町には八番地は無かったっけ……」
「私、津山さんといふ方を、いろいろな風に想像してゐますのよ。丈が高くって、綺麗な方でせうと思って……でも、私がひとり極めで、屹度津山さんだと思ってゐた方が、さうでなくって少し失望しましたわ……」
「麗ちゃんに心當りでもあったのかい?」老人は探るやうに麗子の顏を見た。
「別にそんな譯ではないんですけれども、いつか青山へお墓詣りにいった時、綺麗な方と擦違ったんですの……麗子は何ていふことなしに、その方を津山さんにきめてゐましたの……まるで夢のやうな事ですけれども、あの時お父様のお墓に、立派なお花があげてありましたでせう。だから麗子は津山さんといふ方がお墓詣りにきて下すったのだと思ってゐましたわ。でもその方は津山といふお名前ではなかったのです……私、眞實にお目にかゝりたいわ……」
「人間生活といふものは複雜なものだから、何處に、どんな知己が隠れてゐるか、判らない。表面から名乗りをあげて來られない人もあらうし……」老人はひとりで呑込んでゐるやうに點躓いた。
「こちらでは何にも知らなくても、津山さんの方では麗子の事をよく知ってゐらっしゃるのね。お父様のお亡くなりになった事だの、小父様がお怪我をなすった事だの、誰方へもお知らせしないのに、ちゃんとお見舞のお手紙を下さるんですもの……まるで守護天使のやうに、何處かで麗子を見守ってゐて下さるやうな氣がしますわ。」
「麗子はいつの間にか、津山愛子の手紙を大切さうに胸に抱いて、憧れるやうな眸を、障子の外の空にむけてゐた。
「それゃ、麗ちゃんを知ってゐる程のものは、誰だって麗ちゃんの幸福を祈ってゐるよ。だから精々身體を大切にして、皆に心配をかけないやうにしなくてはね……どうも近頃は顏色が良くないやうだが、氣分でも惡いのではないかい、秋口は病氣に罹り易いから氣をつけてお呉れよ。」
 老人の言葉についで、傍の百合野も、
「眞實にさうですよ。麗ちゃんは我慢強いから、無理を重ねて寝着くやうな事になりはしないかと、小母さんはそれを案じてゐるんですよ。」といふのであった。
「えゝ、有難う、麗子はいつも夏痩せして了ふんですの。段々涼しくなりますから大丈夫ですわ……あら、もう三時ね。」
 麗子はダンスホールへ出勤する支度をする爲に立上った。
「麗ちゃん、お手紙を忘れていってはいけませんよ。お金が入ってゐるんですから、ちゃんとしたところへ藏って置きなさい。」百合野は老人の枕元に置放しになってゐた手紙を取上げた。
「あら、それは小父様のところへきたお見舞よ。お手紙にちゃんと書いてありますわ。」と麗子は嬉しさうにいった。

「そんなことがあるものですか、このお金は麗ちゃんのところへ來たんです。」百合野は手紙をもって麗子の後を追った。
「いけませんわ小母様、麗子は小父様に何を買って差上げていゝか判りませんから、何卒そちらへ藏っておいて、有効に使って下さい。」麗子は手紙を押戻して逃げるやうに二階へ上って了った。
 麗子が家を出た後で、百合野は手紙を推頂いて箪笥の底へ藏った。
「眞實に有難い事ですね。斯うして思ひ掛けない方から助けて頂いて……矢張り母娘ですわね、麗ちゃんの事を思ってゐればこそ、私達にまでこんな心遣ひをするんですわ。」
「こんなにまとまった金を送って寄越す位だから、相當やってをると見えるが、何をしてゐるのかね。」
「東京にゐる事はゐるんでせうが……いつか青山の墓地で會った時は。大層立派な服装をしてゐましたから、お金持の奥さんにでもなってゐるんでせう。母娘は爭はれないもので、何にも識らないはずの麗ちゃんが、いつまでも振返ってゐるんですもの、眞實にはっとしましたよ。」
「愛子さんといふ人も少しお侠(きゃん)だったが、良い娘だったっけ。」
 二昔も前の老人の記憶に、嚴格な父親と、病身の母親のゐる窖のやうな陰氣な家庭を厭って家出をした大江の娘の姿が浮んでゐた。彼女が悲壯な顏をして、タイピストになって獨立したいといふ相談を持ってきた時、波田井は碌に彼女の云分を聞いてもやらずに、頭から反對して親元へ歸へさうとしたことなどが、淋しい悔を乗せて蘇返ってきた。
「大江さんは、少し嚴し過ぎましたわね。」
「あの男は、子供の時から一酷者で通ってゐたんだ。」
「麗ちゃんはお祖父さんを、お父様と思ひ込んでゐるから、それで濟んでゐましたけれども、いづれ本當の事を知らせなくてはならないでせうね。」
「結婚でもするやうになればさういつ迄も秘密は伏せておけない。」
「結婚といへば、山邊さんのことがあんなになったんで、それで近頃麗ちゃんは元氣がないんぢゃァないでせうかね。」
「大打撃だったに違ひない。だが、當人の爲には却って良いことだった。」
「あんなに始終嬉しさうに噂をしてゐましたのにね……それにしてもあの靖子さんといふ方は何て優しいんでせう。昨日も寒さに向ふからといって、洋服だの、帽子だのを鞄に一杯送って下すったんですよ。麗ちゃんはそれを見て涙をこぼしてゐましたっけ。」百合野は襦袢の袖で、そっと眼瞼(めがしら)を拭った。
 くるりと寝返りをうった老人は、少時して、
「もう何時かね? 私は腹が空った、貴いお裁縫に夢中になって、私を餓死(ひぼし)にしては困るよ。」
「おやおや、もう五時過ぎですよ。」
「道理で暗いと思った。」
「そろそろ、お夕飯の支度をしましょう。」百合野は針箱を片付けて、台所へ立っていった。
 二人がつゝましい夕食を濟して、老人が寝床で夕刊を擴げてゐると、靜かに格子戸が開いた。
「百合野や、誰方か見えたやうだよ。」老人は暗い玄關を透かしながらいった。
 流し元で洗ひものをしてゐた百合野は、玄關へ出ていって電燈を點けた。
「まァ、麗ちゃん、どうかしたの?」
「頭が少し重いんですの……用心して早く歸ってきましたわ。」麗子は青褪めた頬に、わざとらしく微笑を浮べた。
「まァ、熱があるんですよ。靴なんか、小母さんが片付けますから、早くお上りなさい。」百合野は火のやうに熱(ほて)ってゐる麗子の手をとって扶けあげた。
「そんなところに、何を愚圖々々してをるんだね。早くこゝへ伴れてきて藥を飲ませなさい。屹度風邪でもひいたのだらうから。」
 老人は床の中から叫んだ。

 麗子は仆れるやうに百合野の敷いた床へ入った。寝てゐる部屋は船のやうに揺れてゐる。うとうと淺い眠りを續けてゐる間に、一時を聞いた。
 麗子はその頃から枕元の四角な箱が氣になり出した。白木の箱は黒い紐で十文字に括ってあった。彼女はどうかして箱の中を檢たいと焦ってゐた。それさへ見れば頭腦に填ってゐる重い鉛の丸が脱出て終ふやうな氣がしてゐた。けれども麗子は手を伸ばす事も、首を擡げる事も出來ないので、一晩中枕元の箱を氣にしながら、夜の明けるのを待ってゐた。
 朝になって、百合野がそっと二階の雨戸を開けにゆくと、待構へてゐた麗子は薄目を開けて、
「小母様、早く、その箱を開けて見て頂戴!」といった。
「どの箱なの?」
「そら、枕元にあるその箱よ。」
「いゝえ、箱なんかありませんよ。」
 麗子はむっくり床の上へ起上って、不思議さうに枕元を見廻した。
「あら……確に四角な箱が置いてあったと思ひましたわ……ぢゃァ夢だったんでせうか。」
 百合野は心配さうに麗子の前額に手をあてゝ、
「熱に浮されてゐたんですよ。今水枕を持ってきてあげますから、靜かに臥ってゐらっしゃいよ。」
 麗子は頷首いて、又、横になった。百合野が階下へいって了ふと、麗子は清々しい朝の空氣を胸一杯吸込んで、終夜惱まされた四角な箱の事を考へて、くすくす笑った。
 醫者は、
「近頃流行ってゐる感冒でせう……お若いから、ぢき癒りますよ。まァ二三日安靜にしてゐる事ですな。」といった。
 午後に、久振りで谷井が波田井老人を見舞にきた。彼は老人の傍へ坐ると、提げてきた包を解いて、菓子折をむきだしにして百合野の方へ差出しながら、
「小母さん、兎屋の最中が美味しいと仰有ったから買ってきましたよ。」といった。
「どうも有難うございます。この最中を一番大騒ぎするのは麗ちゃんですよ。」百合野は笑った。
「生憎、麗ちゃんは風邪をひいて寝込んでをるんでね……でも、最中と聞いたら起きてくるだらうよ。早速お茶でも淹れないかね。」老人はにこにこして床の上に起上った。
「谷井さんがお見えになった事を、鳥渡知らせて來ませうか。」百合野が立ちかけると、谷井は慌てゝそれを遮った。
「小母さん、お止しなさい。熱のある時は、そっと臥かしておく方がいゝでせう。僕は又來ますから。」
「それもさうだね。大分熱があって、今朝は譫言などをいってゐたやうだから。」と老人がいった。
「それはいけませんね。」谷井は氣遣はしげに天井を見上げた。
 彼は麗子の都合次第で音樂會に誘ふつもりで、切符を用意してきたのであったが、そんな譯で間もなく波田井家を辭した。
 露地の外へ出た谷井は、午後の陽の射してゐる二階の障子を振返って、大通りの方へ歩いていった。彼は淋しい氣持を二枚の切符と一緒に、細く折疊んでポケットへ押込んだ。
 三時過ぎに、藥と菓子皿をもって二階へ上っていった百合野は、
「さァ、お藥をお上りなさい。先刻谷井さんが見えてね、これはそのお土産なんですよ。」
「あら、さう? ぐっすり眠ってゐて少しも知りませんでしたわ。」麗子はさり氣ない様子でいった。
 百合野は麗子の枕元に伏せてある書物に眼をやって、
「おや、麗ちゃんは、ぐっすり眠ってゐたなんて嘘をいって……本なんか持出してきて讀んでゐたんですね。」と睨む眞似をした。
 麗子は障子の隙間から谷井の歸ってゆく後姿を見送ってゐた事を看破られたやうに思って頬を赭らめた。
 夕方から、又、熱が高くなった。けれども麗子の夢は幸福であった。彼女は大きな緑の月に向って歩いてゆく、谷井と自分の姿を見續けてゐた。

日陰の家
 長雨の後に、不意に蒼空に昇った太陽は、空と、屋根と、街路を一齊に照し出してゐた。狹い庭の片隅の金魚草まで、三角の日向で秋を怡むでゐるのに、二人の病人が枕を並べてゐる部屋は、まるで太陽に見棄られたやうに暗かった。
 ダンスホールへいって、麗子の病氣を知った靖子は、大きな花束を抱へて、波田井家へ見舞に來た。
「やァ、おいでなさい……二階と階下で臥てゐちゃァ退屈なものだから、この通り枕を並べてをりますよ。さァさァ、そんな窮屈なところへ坐らんで、縁側の椅子の方へゆきなさい。洋服が樂なしになる。」
 床の間に起上って煙草を吸ってゐた波田井老人がいった。
「まるで野戰病院みたやうだわね。小父様は煙草なんか召上ってゐる位だから、餘程およろしいんでせう。麗子はどうして? どこが苦しいの?」
 靖子は、赤い護謨の水枕に頭を埋めてゐる麗子を覗込んだ。
「もうどこも、苦しいところなんか、ないのよ。自分では起きてもいゝと思ふんですけれども、小父様や、小母様が無理に臥てゐろと仰有るので、我慢してゐるのよ……まァ奇麗なお花!」
「駄目よ、起きたりしては!」靖子は笑ひながら麗子の頬を突いた。
 百合野は靖子から受取った花を、古風な花瓶に挿したが、それでも挿しきれないので、押入から捜し出した水牛の角や、竹の筒に活けた。
「この間は有難うございました、お洋服をあんなに澤山送って下すって、麗子が皆着てもいゝのでせうか。」と麗子がいった。
「勿論。僕はね、近頃簡易生活の意義を見出したんだよ。そんなことよりも、お醫者は何だっていふの? たゞの風邪ですって? それならいゝけれども……麗子はこの間中から顏色が良くなかったわね。ダンスホールなんて、夜の仕事は當分罷めたがいゝわ。僕が麗子の爲にいゝ仕事を考へてあげるからね。」靖子はさまざまな計畫で頭腦が一杯になってゐるやうに、活々した調子でいった。
 格子戸の開いた音で、玄關へ出ていった百合野は、
「おや、いらっしゃいまし。先日はどうも有難う存じました。今、丁度山邊さんの靖子さんがお見えになってゐらっしゃるんですよ。さァ、何卒……構ひませんとも……」
 その聲を聞いて、靖子が襖の方を振返った途端に、紺の背廣を着た谷井がのっそり入ってきた。
「ハロー、谷井君! 随分久し振りだったわね。君が麗子と友達だといふ事は聞いてゐたけれども、珍らしいところで會ったものだわね。」
 靖子は懐しさうに手を差延べた。
「四月以來でしたね。」谷井も靖子の手を堅く握った。
 谷井と靖子が、狹いところに立って握手してゐるのを見て、老人は、
「これゃ賑かでいゝ、大入滿員ぢゃ、百合野や、寝床をもっと隅へ寄せようぢゃァないか。靖子さんはまるで太陽だ。活々した顏を見ただけでも、儂等の病氣は癒って了ふ。」といった。
 一同は病人を中心に輕い冗談などをいって興じてゐたが、谷井は狹隘い部屋の空氣を氣にして、折々密かな視線を麗子に注いでゐた。
 其時、又、玄關が開いて近所の人が見舞にきた。谷井と靖子はそれを機會(しお)に席を立った。
「左様なら、病人さん。ぢき、又、來てよ。」
「では、お大切に……」
 露地を出ると、樺色の夕陽が往來一杯に溢れてゐた。
「おゝ明るい! まるで窖から出てきた土龍みたいだわ。」靖子は道路の眞中でくるくると廻って、大仰に眼をしばたゝいた。

「さういっては惡いけれども、波田井さんの家は暗いなァ。あれぢゃァ病人に良くない。」
 眉間に皺を寄せてゐた谷井は、魚のやうに溌溂とした靖子を見て、思はず溜息をした。
「麗子は、だゞの風邪ではないらしいね。波田井の小母さんさんは肋膜ぢゃァないかといってゐたが……眞實は今の中に海岸へ轉地した方がいゝと思ふな。」靖子は急にしんみりした調子になった。
「たゞの風邪としたって、その咳が續いてゐては身體を弱らせる一方だ。」
「海の空氣を吸へば、咳なんて直ぐ癒って了ふ。」
「僕は第一、麗子さんの爲に、ダンサーは罷めさせたいと思ふな。」
「僕が罷めさせて見せるよ。そしてこの冬は暖いところで暮すんだな。伊豆あたりが良いかも知れない……一ヶ月幾許位あったら暮せるだらう。谷井君、見當がつくかい?」
「暮し方にもよるでせうが、二百円もあったらいゝかな。」
「二百円として、十二月、一月、二月、三月と、四ヶ月だね……なァに僕が生活を縮少すればいゝんだ。」
「女のひとに、そんな心配をさせて、男が引込んでゐる法はない。僕が引受けますから、安心してゐらっしゃい。」
「さうかな、僕は麗子の兄貴のつもりでゐるんだけれども、矢張り引込まなければならないかな……靖子もご難つゞきよ、可愛がってゐる麗子は病氣になって了ふし、マサは禍の種ばかり播いてゐるしさ。麗子の方は谷井君がついてゐて呉れるからいゝとして、マサは實の兄貴なんだから、誰にも背負はせる譯にはゆかない。實際腐って了ふよ。」
 二人は久時無言で、新公園に沿うた廣い歩道を歩き續けた。葉のこんだ街路樹の間に、夕陽が金箔のやうに射込んでゐた。
「谷井君、僕はこれからリキに會はうと思ふんだけれども、君はどう?」
「川路君になら、僕も會ひたいな。」
「ぢゃァこれから家へ押かけやうぢゃァないか。」
 氣早な靖子は、舗道に足を停めて、暮れかゝった街を流れてゆくタキシーを物色し始めた。
「その邊から、電話をかけて呼出しませう。」
 谷井は貧弱な屋根裏の塒を不意に襲って、川路を小さく感じさせては可哀相だと思った。
「この邊へ呼出すとすると……ボン・トンはどうかしら? 彼處ならタキシーには及ばない。」靖子は直ぐ其氣になって歩き出した。
 二人は途中で電話をかけ、せゝこましい新町の横町を抜けて、佛蘭西料理の看板を掲げたボン・トンの二階へ上った。
 川路は間もなく、自分の自動車を飛ばしてきた。
「まるで、昔が返ったやうだな、もっと早く氣がついてゐたら、ついでに足利君も招べばよかった。」
 靖子は、顏馴染の給仕連が、甲斐々々しく銀器を並べたりしてゐる食卓の方を見廻しながらいった。
「君、近頃どうしてゐる?……又、淀橋へ戻って共同生活をやらんかね。」川路は谷井の方へ椅子を向けた。
「今鳥渡、計畫してゐる事があるんだが、いづれ君の許へ相談にゆかうと思ってゐるんだ。あれからずっとOKタキシーへ戻って、やうやう運轉手の免状をとったよ。」
 谷井は一ぱし、一本立になったやうな口吻で、聊か得意氣であったが、川路は密に、柄にもないことを止せばいゝのにと思った。
「運轉手の免状もいゝが、僕は君の爲には學校の卒業免状の方が欲しかったな。こんなことをいっては氣に障るかい?」
「相變らず、おっかぶせてくるんだな。」
 谷井は川路の次の言葉を豫想して苦笑した。

「おい、リキ、凡そ似合はないものは、佛蘭西料理とお説教だね、一等車に乗らうと。三等車に乗らうと、どうせ往着くところは同じなんだから、切符の紅白を論ずる勿れだ。」
 靖子が横合から彌次った。
「成程、靖子さんのいひさうな文句だし、又それも一理ありますね……今入町へ見舞にいったんだってね、波田井さんはどう?」川路は話題を變へた。
「相變らず元氣で、一週間もすれば床あげだといふんだけれども、麗子さんの方はあれからちっとも熱が下ってゐない。」谷井がいった。
「それぢゃァ、あの家も大變だな。」
「眞實に、あんな善い人達を、あんな暗い、じめじめしたところへ住はせておくのは間違ってゐるよ。」靖子は男二人を責任者にして了ったやうな口吻であった。
「あゝいふ老人は、長生きをさせて置きたいですね。吾々より前の時代の人達は、みんな武士道的で、吾々のやうにがりがりではないんだな。」川路は誰にいふともなく呟いた。
 話題はそれから横道へ外れて了ったが、谷井はいつ迄も、日陰の家に住んでゐる人達の事を考へてゐた。彼は麗子を轉地させる事に就いて、何等具體的な方針は立ってゐなかったけれども、靖子の前で、うかうかといひ切って了った言葉に對してゞも、何とか金策をしなければ男が立たないと思ってゐた。
 食事を濟して表へ出ると、靖子は銀座へ往かうといひ出したが、谷井は、
「僕はこゝで失禮します。」と浮かない顏をしていった。
「では、又、會はうね。明日の晩でも僕の家へ來ないか。」川路がいった。
「明晩は都合が惡いが、日曜の晩に訪ねるよ。」
 谷井は自動車に乗った二人を遺して、横通りの方へ歩いていった。
 靖子は助手臺へ席を移して川路と並んだ。
「銀座はどうでもいゝよ。いゝ道路をドライブしよう。」
 自動車が櫻並木の坂道を上り始めた。
「谷井君は相變らず憂鬱(ふさぎ)の虫に取憑かれてゐるんだね。」
「原因は今入町にあるらしいですよ。」
「リキも氣がついてゐたの? 僕は良い二人だと思ふよ。」
「……新月ホテルはどうです? 當分住めさうですか?」
「ホテルは申分ないんだけれども、僕は斷然マサと別れて住まうと思ってゐる。何處か東京にいゝところはないかしら? 都合によればアパートでもいゝ。」
「お譲さんがひとりで、アパート住ひをするのはどうかと思ひますね。」
「マサなんか、保護者の用をなさない。あんな不品行な人間と一緒にゐれば、却って僕の人格を疑はれて了ふ。マサは逃げ歩いてゐるけれども、どうしても牧野さんと結婚しなければならないと思ふな。」
「逃げ歩くといふのは卑怯だな。牧野さんも相當な人なんだから、何とでも二人で談合(はなし)をつけたらいゝでせうがね。」
「談合をつけるといふのは結婚する事さ。否も、應もありゃしない。それが二人の名譽を救ふ唯一の道なんだから。」
「貴女の意見を兄さんに話したんですか?」
「マサなんか、てんで僕のいふ事を聞きやしない。次から次へ、女を棄てゝ歩いてゐるのを伊達者のつもりでゐるんだから……一つ足利君に出馬して意見して貰はうと思ふんだ。少しは効果があるかも知れない。リキ、明日でも足利君に會って、話して見て呉れない? 僕からは鳥渡、ものを頼みにくいやうな事情になってゐるから。」
「さういふ事は、貴女から直接頼んだ方がいゝんではないですか。」
「ところが……僕はついこの間、足利君の結婚申込(プロポーズ)を謝絶って了ったばかりなんでね……」
 靖子は薄暗い電燈の下で、微かに頬を染めて、ちらと川路の横顏を見た。
 自動車はいつか、高輪の坂を下って、八つ山の下から、坦々たる京濱國道へ入っていった。

「お喋りをしている間に、こんなところまで來て了った。」靖子は電車停留所の赤い電燈を覗きながらいった。
「一層の事、ホテルまで送りませう。」
 川路は相變らず、頭光に照らし出されてゐる白い道路を凝視してゐる。
 横濱の空は霽れてゐた。人通りの稀な海岸通りを疾走ってゐた時には、岩壁に横着になった汽船の高い檣の先端で、無數の星が揺れてゐた。
「莫迦に早く來て了ったなァ、夜になって急に寒くなったわ。寄って熱い珈琲でも飲んでゆかない?」
 新月ホテルの横で自動車を下りた靖子は、無雜作にケープを頸へ卷付けた。續いて車を下りてきた川路は、街燈の下で腕時計を覗きながら、
「十時近いから、遠慮しませう。」
「リキの作法だね…ぢゃァ足利君の事、頼むね。」
「僕は明朝でも、足利さんをお訪ねするつもりです。」
 二人がホテルの前庭の芝生に沿うた自動車道を歩いてゆくと、靖子は不意に足を停めて、
「リキ、ご覧、あれは伊佐子だよ。」と植込の間に見える玄關を指さした。
 明い石段の上に、派手な裾模様を着た伊佐子が婀娜(あでやか)に笑ってゐる。その傍にタキシードを着た大柄な印度人が佇ってゐた。
「今度の犠牲者はあの印度人ですか。」
「さうなの。つい一週間許り以前に、あの男の指に光ってゐたダイヤモンドが、既う伊佐子の指に移ってゐるわ。」
「何といふ速い女だらう! この間まで醫學博士の自動車を乗り廻してゐたと思ったら、もうこんなところへ來て活動してゐる!」
 川路に神保町の交叉點で、伊佐子が乗換へたといふのはこの印度人の自動車だなと思った。
「……僕がこのホテルが厭になったのは、伊佐子がゐるといふのも理由の一つなのよ。眞實にあの女は氣味が惡い……僕は寧ろ怖いね……」靖子は身震ひをした。
「どうして? 怖いなんて貴女にも似合はない。」
「あの女は、確に僕に敵意をもってゐる。尤も、僕の方でも最初からあの女を毛嫌ひしてゐたけれども……身贔屓をする譯ぢゃァないが、マサだってあの女が現てくる迄は、さう惡ぢゃァなかったわ。麗子の事だって、牧野さんの事だって、あの女が掻廻して了ったのさ。今度だってマサは、牧野さんがゐるから横濱へ轉してきたんだのに、あの女が、又、顏を現してマサを引張り始めたんだよ。」
「では、兄さんはあの女と、ちょいちょい會ってゐるんですか?」
「何だか知らないけれども、矢鱈に電話をかけて寄越したり、自動車で連れ出したりしてゐるわ。その度にマサの奴は、牧野さんとの約束を反故にして了ふんで、牧野さんはヒステリイみたいになってゐるのよ。實に弱って了ふ……新月ホテルは火山地帶よ、早晩大爆發するに違ひない……僕はそれを見るのは厭だなァ。」
 靖子は苦勞を背負ってゐる大人のやうに溜息をした。川路は驚いて靖子を見返した。
「貴女が溜息をするなんて珍しい。けれども溜息が出るのも無理はないですね。」
「……あゝ、送ってまで呉れて有難う。僕はこっちの方から入るよ。ぢゃァ左様なら……」
 靖子は勢ひよく手を差延べた。躊躇(ためらい)ながら手を出した川路は、相手の華奢な手を思ひきって強く握った。靖子は微笑の裡に、顏を顰めて、指輪の喰込んだ指に唇をあてながら、薄暗い小徑を燕のやうに走り去った。
 川路は自動車の方向を變へて東京へ引返した。空は高く、地は暗かった。その中を自動車はひた走りに走っていった。傍目もふらず、頭光に劃された円錐形の道路を凝視めてゐる川路の腦裡に、靖子や、麗子や、夫から谷井の顏などが、映ったり、消えたりしてゐた。

毀れた巣
 そのアパートメントは、電車通りから直ぐ入口になって、右手に受付の昇降機があり、それに對ひ合ってコンクリートの階段が續いてゐる。
 午後三時、建物の外の白っぽいアスファルトの道路に、陽が陰ったり照ったりしてゐる。
 アパートは閑散を極めてゐた。金釦の制服を着た昇降機係が片隅の椅子で、少年講談を讀耽ってゐる。
 そこへ、口笛を吹きながら、カーキ色の半ズボンに、黒ジャケツを着た少年が飛込んで來た。彼は顏をあげた昇降機係の視線にぶつかると、
「やい、居眠り小僧!」と憎々しく頤を突出した。
「何だ、宿無し猿奴! 又、家鴨マダムの許へ、殘り菓子を貰ひにゆくんだらう。」
「何いってやがるんだい。後で涎を流すな。」
 少年は小猿のやうに、ちょろちょろと階段を馳上っていった。
 彼は一氣に四階まで上って了ふと、鼻の孔を大きくして、二三度深く呼吸を吸込んでから、十三號の扉を叩いた。
「次郎なら、お入り。」内部で女の聲がした。
 食卓に花を飾ってゐたのは牧野女史であった。緑色の高濃なドレスを着た彼女は、柄ばかり大きくて、顏が不釣合に小さく見えた。
「今朝は東京から男の客がきて、何か議論してゐました。」少年は食卓の上の、青い葡萄や、皿に盛ったサンドウヰッチに、ちらちら眼を注ぎながらいった。
「夫から三階の女は?」
「印度人と自動車で、三崎へ遠乗りに出掛けました。」
「それだけだね……もういゝから階下へいって、いつもの個所で、私が合圖するまで待っておゐで………さァ、これをやるよ。」
 牧野女史は蟇口から十錢銀貨をを撮出して、乞食にでもやるやうに牀へ投げた。
 少年は素早く、銀貨を抄(すく)ひあげて扉の外へ姿を消した。
 部屋は凭椅子と、長椅子を配置いた居間と、海老茶色のカーテンで仕切りをした寝室の二間である。相變らず風景畫や、裸體畫や、唇を紅く塗った横目の佛蘭西人形などが雜然と飾り立てゝある。東に面した窓の下は、ごみごみした裏通りで、運送屋の看板やら、理髪店の柱などが見えてゐる。埋立地の遠くに、一叢の樹木があって、その先に横濱の海が擴ってゐた。
 凭椅子の傍の小卓子には、紅茶道具が揃へてあった。
 牧野女史は用意の出來た部屋の中を、一わたり見廻してから、壁の鏡を覗込んで、コンパクトの白粉を鼻の先へ叩き込んだ。
「ちぇっ! ミルクを買ひに何處までいったといふんだらう!」
 牧野女史は舌打をして、飾棚の置時計を見た。
「正さんだって、もうとっくに來なければならない時間だのに……一體、東京から來た客って誰だらう?」
 不意に扉が開いて、血色の不良い小娘が、音も立てずに入ってきて、
「奥さん、兵隊印でもよろしいんでせうか。」といった。
 牧野女史は其聲に驚いて飛上った。
「吃驚させるぢゃァないか! 何故默って入ってきたの! 兵隊印とは何の事だい?」
「これでございます。」小娘はメリンスの風呂敷を解いて、恐々コンデンスミルクの小罐を差出した。
「誰が、こんなものを買ってこいといったの! フレッシ・ミルクといふのは牛乳の事ぢゃァないか。こんなものは犬にでもやってお了ひ!」
 牧野女史は前額に青筋を立てゝ、ミルクの罐と、小娘を廊下へ叩き出した。

 彼女は荒々しく台所へ入っていって、食器戸棚からカーネーションクリームの罐を出してきて卓子の上へ置いた。
 その時、廊下に靴音が止って、特徴のある扉の叩き方が聞えた。
 牧野女史はもう一度、鏡の中を覗いてから、ゆっくりと扉を開けた。
 戸口に立った山邊は、部屋の中を見廻し、女の顏色を窺った。
「何をぼんやり立ってゐらっしゃるの! 戸惑ひした鳥みたいに……」女は山邊の肩に手をかけて、引擦り込むやうに部屋の中へ入れた。
 山邊は肩にかゝった女の手を、そっと外して帽子を長椅子の上へ投げた。
「どうかしたの? 事務所の娘が廊下で泣いてゐたよ。また、酷い事をしたんぢゃァないか?」
「酷い事? 貴郎が私にしてゐる酷い事の百分の一もしやしないわ。唯、間違った買物をしてきたから、呉れてやった許りぢゃァないの。」
 牧野女史は部屋の眞中に突立って、喰ってかゝるやうにいった。山邊はその嶮しい眼を避けて、食卓の上を見た。
「大分食慾を唆られますね。一つ御自慢の紅茶を御馳走にならうかな。」とさりげなくいった。
「貴郎は紅茶の味を解って下さるのね。だから張合があるわ。」
 牧野女史は急に機嫌を直して、いそいそと紅茶の土瓶を温めたり、新らしいリプトンの罐を開けたりして、念入りに紅茶を淹れ始めた。
「美味しい紅茶を飲まして貰ふのは結構だが、そんなに働いてゐるのを見ると、世話女房臭くって、何だか氣の毒な氣がするね。」
「結局、女は世話女房になるのが、幸福ぢゃァないかしら……貴郎は嗤ふかも知れないけれども、私にだってお料理は出來てよ。お台所の事なんかは、お飯事の延長みたいなもので、面白いわ。矢張り女の本能ね……」
 牧野女史は紅茶々碗を山邊の前へ置いて、お腹の子供を庇ふやうに、そっと胸に手をおいた。
「それは人柄にもよりけりだね……けれども貴女のやうに才能もあり、輝く未來を持った人を、襁褓(おしめ)臭い世話女房に埋れさてせて了ふのは勿體ないやうな氣がするね。」
 山邊がポケットから金色の卷煙草入を出すと、女は、
「バアヂニアを所持ってゐる? 私はこの頃強然(つよ)い煙草が吸ひたくって仕方がないのよ。それでゐて土耳古煙草のあの匂ひが厭なの、矢張り身體のせゐね。」といひながら、手を延して兩切煙草を一本抜出した。
 二人の燻らす煙草の煙が、卓子の紅いカーネーションの上に、白い靄をかけた。
「それから時々、ウヰスキーか何かゞ、飲みたくなるのよ。でも身體に不良いと思って、ひかへてゐるわ。」
「そんな馬鹿なことはない。ウヰスキーは身體が温まって却って藥になる。飲むさ、身體の要求に應じて、どしどし飲むさ。あるなら此處へ持っておいでよ。紅茶に入れて飲んでも、さっぱりして美味いよ。第一、生れても來ないものゝ爲に、自分の嗜好を犠牲にする必要はない。」
「貴郎は酷く冷淡になったわね。以前は、煙草はいけないの、酒は毒だのと。一々干渉してゐらしったのに……もう私の身體の事なんか、どうなったっていゝと思ってゐらっしゃるのね。」
 牧野女史はいつの間にか、眼に涙を溜めてゐた。
「惡く氣を廻すやうになったね。身體が常態でない時だから、特種な嗜好が起るのも無理はないと思って、こっちは同情してゐるんだのに……」と山邊はいった。

「奇怪な理論だわね。私がウヰスキーを飲んで滅茶々々になる事を獎励なさるの?……ぢゃァ貴郎は、私が轉げ落ちたりするのを、密に期待してゐるんでせう……」
「僕は子供なんて、いふものは大嫌いだ。貴女は子供と僕とどっちを選ぶ?」
 山邊はわざと相手の顏を見ないで、吸差しの煙草を灰皿へ投入れた。
 硝子窓を閉切った靜かな部屋の中に、沈默が續いた。女の激しい呼吸使ひが異様に耳にたった。
「あゝ、解った! 貴郎は私に、母性の權利を棄てろと仰有るのね。」女は聲を慄はせていった。
「靜に、靜に、さう昂奮してはいけない、僕は今日、二人の幸福の爲に、ゆっくり相談しようと思ってきたんだ。」
「正さん、貴郎はいつ結婚して下さるんです。」
「結婚といえば、一生涯を支配する重大な問題ですよ。それを單に子供が出來たから結婚するなんて、余りに常套的だ。結婚は結婚として、先決問題は子供をどうするかといふ事なんだ。いゝかね、兎に角僕は子供には用はないんだ。子供の方からいったって、こんなところへ生れてくるのは、決して幸福ぢゃァない。」
「貴郎は恐ろしい人だ! 私を犯罪者にしようとしてゐる! 私は斷じてそんなことはしない。私は立派に貴郎の子供を生んで見せます。貴郎がいくら責任を回避しようとしても、事實が口を利きますから、その覺悟でゐらっしゃい。」
「それゃ、貴女が僕よりも子供を選ぶといふならどうも仕方がないが……さう頭から惡意をもって出られたのでは、用談にも何もなりゃしない。僕は貴女と敵同志にならうと思ってゐるのではないんだ。さァ、こっちへおいで……僕等が一番仲の善かった頃の事を想ひ出して、お互ひの幸福の爲にゆっくり相談しようぢゃァないか。何といっても貴女がこんな身體だから、自然と氣持の上にも影響して、凡を僻んでとるやうになるんだ。」
 山邊は女を抱へるやうにして背を撫でた。女は男の膝に顏を伏せて啜泣いた。
「私には貴郎の氣持が解らないわ、貴郎は私を愛してゐるのかしら? 憎んでゐるのかしら? ……いゝえ、貴郎が私を憎むなんてそんな事は決してさせない!」
「何をいってゐるんです。憎んでゐるものが、どうしてこんなところまで通ってくるものか。」
 山邊は女の背中の上で、窓の外を眺めながら、生毛の生えた頸すじに唇をつけた。
「貴郎は眞実に、私を愛してゐて下さるわね。」
「だが、戀愛と結婚とは別問題ではないかしら? 貴女も知ってゐる通り、僕は斯ういふ人間だから、貴女の友達としてはいゝかも知れないけれども、良人として果して貴女を幸福にする事が出來るか、どうかは疑問だ。假りに將來、貴女の良人として適當な人物が現はれたとしたら、貴女は屹度、僕に拘束されなかった事を悦ぶに違ひない。いゝですか、誤解しては困りますよ。僕は貴女を自由な立場において、さういふ頼母敷い男が見つかるまで、生活の保證をたてゝあげようといふんだからね。」
「山邊は用心深く、女の顏色を探りながらいった。
「…………」
「結婚生活に縛られるといふ事は、若い吾々がお互ひにどんなに損をするかもしれない。世界は廣いんだ。青い地中海もあるし、巴里の明い並木もあるし……貴女は自由に旅をして見たいと思ひませんか。」
「貴郎はお金の力で一切を解決しようといふのですか! 牧野家の名譽まで買ひつぶして了はうといふのですか……惡魔! 人非人! お爲ごかしなんかいって、體よく縁を切らうっていふんだね! 人が何も識らないと思って……あの女だ! あの女だ!」
 牧野女史は山邊の傍を飛退いて、手近にあった砂糖壺を、男の胸元へ叩きつけた。

 山邊は落着拂って、牀に轉げ落ちた砂糖壺を拾って、卓子の上へ置いた。
 彼が胸にかゝった砂糖を手巾で拂ひ落してゐると、怯えたやうに兩手で頬を抑へてゐた女は、急に傍へ馳寄って、男の手から手巾をとった。
「……ご免なさいね、眞實に私どうかしてゐるわ。かっとすると、つい前後の思慮がなくなって了ふのよ……赦してね。」
 彼女は優しく男の肩に手をかけて、歪んだ襟飾を直したり、手巾をふるって胸のポケットに挿込んだりした。
「赦すも、赦さぬもないさ。永い結婚生活では、こんな事位毎日ありさうだね。」山邊は苦笑しながら、又、椅子に腰を下した。
「ねえ、貴郎、ホテルの三階にゐる鳥波伊佐子といふ女、あれは何に? 私にはそれを訊く權利があるわね。」
「何でもありゃしない。僕の友達の友達だよ。」
「そんな何でもない人と、どうして公園で媾曳をしたり、一緒に東京へいったりしてゐるの?」
「媾曳だなんて、そんな獨斷的なことをいはれてはやりきれないな。あれは印度人の圍者さ。以前知合だったのが、偶然同じホテルに泊り合せたので、仕方なしに交際(つきあ)ってゐるやうなものなんだ。」
「では、昨日も仕方なしにあの人と支那料理を食べにいったんですね。私との約束をすっぽかして……」
「昨日? さうだったかしら……」
「それから一昨日、私が電話をかけた時には、不在をつかって三階のあの人の部屋で、一緒にお茶を飲んでゐたではありませんか。それから……」
「驚いたな、まだあるのかい? 僕が知ってゐる以上に澤山、僕の事を知ってゐるんだね。まるで千里眼みたいだね。」
 山邊は口では茶化してゐたが、落着ない様子で、銜へた煙草に火をつけるのを機會に、椅子を離れて室内を歩き出した。
「眞實の事をいはれて閉口してゐるわね。私自分の子供は、貴郎のやうな嘘吐にさせないやうに、とても氣をつけて育てる心算よ。」
 山邊は、又、子供かといふやうに、顏を顰めてくるりと窓の方を向いて了った。
「赤ちゃんの洋服は純白ときまってゐるけれども、女の子だったら淡い桃色(ピンク)もいゝわね……」
 女は獨言を喋り續けた。
「赤ちゃんが出來れば、乳母も女中もおかなければならないから、二人限のアパート住居といふ譯にもゆかないわね。今のうちから心掛けておいて何處かへ家を探しませう……さうさう、この間アメリカの雜誌に素晴らしい乳母車の寫眞が掲てゐたから、切抜いておいたわ……」
「僕は東京から來た友人をホテルへ抛って來たのだから、今日はこれで歸るよ。」山邊は長椅子の上の帽子を取上げた。
「でも鳥渡その寫眞だけは見ていって頂戴よ。」
「今日は急ぐから、明日見せて貰はう。」
「そんな意地惡をいふものぢゃァないわ。待ってゐらっしゃい、直ぐ捜してきますから……」
 何でもいひ出したら後へ退かない彼女は、獨呑込んでさっさと寝室へ入っていった。
 山邊はその隙に、そっと部屋を抜出して、昇降機も待たずに、勾配の急な階段を馳下りて了った。
 雜誌の切抜きをもって戻って來た牧野女史は、山邊が無斷で歸ったと知ると、齒ぎしりをして牀を蹴った。
「何といふ手前勝手な人だらう。自分のいふこと計り通してゐる!」
 彼女が東側の窓を開けて口笛を鳴らすと、間もなく先刻の少年が戸口に現れた。
「次郎、今、男が歸っていったから、後を尾行けておいで、屹度女に會ひにゆくのに違ひない。」
 女の命令に、少年は直ぐ部屋を飛出していった。彼女は苛々しながら、部屋の中を歩き廻ってゐたが、山邊が卓子の角に乗せた砂糖壺を見ると、忌々しさうに牀へ叩き落して、自分も長椅子へ倒れた。

地獄の道
 午後のお茶の後で、靖子が英國から届いた新刊の小説を讀んでゐるところへ、山邊が部屋續きの扉を推して入ってきた。
「今度新調した服ね、生地で見た時よりいゝな。」
 靖子は明い褐色の胴前を着た兄の姿を吟味した。
「どうだい、活動寫眞を觀にゆかないか?」
「いってもいゝけれども、時間が中途半端ぢゃァないか。尻尾から映畫を見ると興味を削がれるよ。」
「そんなことをいふけれども、靖公は小説を讀みかけてゐて、時々結末を先へ讀んで了ふ事があるぢゃァないか。」
「それもさうだね……ぢゃァいって見ようか。」
 山邊は緑色の中折帽子を長椅子の上へ投出すと、大股に化粧臺の方へいって、鏡を覗きながら緑に紅い線の入った襟飾を直した。
「どうもこのシャツの袷(スタイル)が不愉快だな、着換へようかしら。」
「男の癖に随分愚圖々々いふんだね。僕なんかこれで外套さへ着ればいゝんだよ……それはさうと、マサ昨日どうしたい? 牧野さんの許へいったんだらうね。」
 靖子は洋服箪笥の鏡の中で、頭髪を頭巾帽に押込んでゐた。
「いって酷い目に會っちゃった、狂人を相手にしてゐるやうなものだから怖いね……」
「自業自得、蒔いた種だね。」
「女もあゝいふ風に、むきになって、愼(たしなみ)も何もなくして、黄色い顏を露出しにして、眞實の事をばんばんいふやうになってはお終ひだね。女はお化粧をして、口紅を氣にしながら、気取った嘘を吐いてゐる時が一番いゝんだ。ねえ靖公さうだらう?……だから僕は結婚といふやつが厭なんだよ。」
「マサの氣分は理解出來るけれども、それを一般にあてはめる事は出來ないと思ふな。結婚はもっと神聖なものぢゃァないかしら。男は世界に唯一人の女を探してゐるし、女もその一人の男を求めてゐる。二人が邂逅(めぐり)あった時に結婚が成立する……だが、マサのやうに、求める資格も、求められる資格も喪って了った男は、約束を外れた責任結婚にゆくより他、仕方がないね。」
「靖公の化粧臺は、近頃貧弱になったな。香水の瓶がみんな空ぢゃァないか……」
「香水一本が麗子の一週間の勞働に値すると思ふと、考へさせられるね……」
「麗子?」
 山邊は聯想を失って、鳥渡首を傾げた。
 其時、隣りの山邊の部屋で、電話の呼鈴が鳴った。
「やれやれ、又、菊屋アパートかな。帳場へ不在だと通じておいたのにな……」山邊は不承不精に隣室へ入っていった。
 靖子は嵌めかけた手袋をポケットへ突込んで、讀みさしの書籍を取上げた。最初の十分許りは隣室を氣にしてゐたが、小説の筋が高潮するにつれて、靖子はいつの間にか、物語の中に没頭して了った。
 それから恐らく、三十分も經過ったらうか、四邊が急に暗くなって來たのに氣付いて顏をあげた靖子は、
「マサ! まだなの!」と聲をかけた。
 應答はなかった。
「シャツでも着換へてゐるのかと思へば……何してゐるんだらう。」
 彼女がひとり言をいひながら立上った時、隣室で椅子の軋むやうな音がした。
「マサ!」
 依然として返事がない。康子は耳を澄した。靜まり返った部屋の中に、輕い靴音がする。靖子は境の扉をさっと開けた。
 出口の扉に手をかけてゐた黒い外套を着た女が悸っとして振返った。

「あゝ、牧野さん!」
「…………」女は肩で呼吸をしながら、靖子をぢっと凝視してゐた。
「どうしたの? マサは?」靖子は訝るやうに部屋の中を見廻した。
「私がこの部屋にくる權利がないといふんですか!」
「そんなことないわ。まァ、私の部屋へいらっしゃい。」
 牧野女史はそれには應へないで、部屋を出てゆかうとしたが、何と思ったか、急に引返してきて、靖子を押退けるやうにして、境の戸口から部屋を覗込んだ。
「あゝ、正さんの帽子があるわね!」
 牧野女史は呆氣に取られてゐる靖子の面前に、荒々しく扉を叩付けて部屋を出ていった。
 靖子が窓のカーテンをひいて、廊下を覗いてゐると、牧野女史は階下へはゆかないで、反對に、三階の階段を馳上っていった。
「あゝ……マサの奴、伊佐子の許へいってゐるんだな!」
 靖子は不吉な豫感を感じて牧野女史の後を追っていった。長い廊下を折れて階段を上りかけた時、突然、
「人殺し!」といふ女の悲鳴が起った。
 靖子が胸をどきどきさせながら三階へ馳上ると、伊佐子の部屋の扉が開いて、荒い縞シャツ一枚になった印度人が、喚き叫んでゐる牧野女史を廊下へ突出すところであった。彼女は印度人の逞しい腕の中で、きらきら光ってゐるナイフを振廻しながら、人殺し、人殺しと叫んでゐるのであった。
 廊下の先端を通りかゝった給仕が走ってきて、猛り狂ってゐる女の背に組付いた。
「危い! 危い!」
 靖子は素早く、牀へ落ちたナイフを拾上げた。
「この人、怪しからんです。私の大切な奥さんを殺しにきました。警察! 警察!」
 印度人は女を突放して部屋へ入って了った。靖子は牀に泣崩れてゐる牧野女史の肩に手をかけて、
「氣を鎮めなくては駄目よ。さァ、階下へゆきませう。」と優しくいった。
「抛っておいて下さい……あゝ、口惜しい!」
 女は口では反抗しながらも、素直に起上って、靖子に腕を支へられたまゝ、昇降機室の方へ歩き出した。
「すぐ自動車を呼んで頂戴。」
 階下へ着くと靖子は氣遣はしさうについてきた給仕に囁いた。彼女は心得て電話室の方へ走っていった。
「牧野さん、貴女はたゞの身體ぢゃないんだから、亂暴をしては駄目よ。決して惡いやうにはしないから、私のいふ通りになさいね。」
 靖子は眼の下に黒い暈の出來てゐる窶れきった相手の顏に同情の眼を注いだ。
「止して下さい、貴女の同情なんかでは、私は救はれないんですから……」
 牧野女史は火のやうな眼でぢっと靖子を視詰めてゐたが、急に彼女の腕の中に倒れ込んでさめざめと泣いた。
「さァ、自動車がきましたからゆきませう。貴女の家まで送ってあげるわね。」
 靖子は牧野女史を抱くやうにして、玄關先に横付になった自動車へ扶け乗せた。
 牧野女史は手巾を眼にあてたまゝ、ぐったりとクションに凭りかゝってゐた。靖子は外套を脱いで、そっと彼女の肩にかけた。
 二人は神奈川の菊屋アパートメントに着くまで、一言も口を利かなかった。
 自動車を下りると、牧野女史は、
「有難う、もういゝから歸って下さい。どうせ自分の事は、自分で始末しなければならないんですから……」といった。
 靖子はそれを輕く聞流して、四階の部屋まで送っていって、宥め賺して彼女を寝台へ入れた。そっと前額に手をあてると、しっとりと汗をかいて、全身をがたがた慄はしてゐる。

「少し熱があるやうだわ。」
 靖子は戸口を振返った。そこには事務所の娘が心配さうな顔をして立ってゐた。
「近所に氷屋があって? これで氷と、水枕を買ってきて頂戴。」靖子は小娘に五円紙幣を渡した。
「あゝ、氷なんて止して頂戴! それよりも戸棚にウヰスキーがありますから、水を割って飲まして下さい。」牧野女史は不意に起上った。
「さァ、ウヰスキーなんか、どうかしら、水ぢゃァいけなくって?」
 靖子がコップに水を注いでもってゆくと、彼女はそれをがぶりと飲んで、
「……あゝ、どうしたらいゝだらう……」と呻くやうにいひながら、又、床の上へ倒れた。
 靖子は毛布を肩にきせかけて、部屋を辷り出ると、まだ廊下にうろうろしてゐた小娘に、
「早く買ってきて、氷枕をしてあげて頂戴、ついでに牛乳でも冷しておいてあげるといゝわ。」と命じた。
 靖子がアパートの前から円タクを拾って歸ってゆくと、荷物を滿載した大型の自動車に、例の印度人と伊佐子が並んで、ホテルを出てくるのに行會った。
 靖子は、伊佐子が金持の印度人とホテルを引揚げたのを知って、惡魔拂ひをしたやうに思った。――いゝ鹽梅だ、これでマサも正氣がついて、少しは眞面目に考へるだらう――靖子は重荷の一部を下したやうな氣持で、兄の部屋へ飛込んでいったが、凭椅子に丸まったやうになって、頭を抱へ込んでゐる兄を見出すと、
「どうしたの? 何だってそんな青い顏をしてゐるの? 確りおしよ。」と愼(たしな)めるやうにいった。
 山邊は顏をあげる氣力もないらしく深い溜息をして、一層首をたれて了った。
「あの女はマサなんか置去りにして、印度人と一緒にいって了ったよ。それが悲しいの? ふん。」
 靖子の冷笑に、山邊は力なく首を振った。
「では、どうしたっていふの?」
「靖ちゃん……迚も酷い事なんだ……口にも何もいへやしない……これが復讐なのか……」山邊は血走った眼で靖子を見据ゑながら、喘ぐやうにいった。
 靖子は默って兄の傍へ椅子を寄せた。
「この気持は……迚も耐らない……」
「マサは伊佐子の部屋で、あの印度人に侮辱されたんだらう。」
「そんな生易しい事ぢゃァないんだ……靖ちゃん……僕は畜生になって了ったんだ、そして君は畜生の妹なんだ……何て淺猿(あさま)しいことだ……」山邊は頭髪を掻毟(※代用)って身悶えをした。
 靖子は探るやうに、相手の眼の中を視詰めてゐた。
「靖ちゃん、僕達のパヽは、十八年前に日本へ歸ってきて何をしたと思ふ? どんな種を蒔いていったと思ふ?……パヽは伊佐子に子供を産まして棄てゝいったんだ。」
「まァ!」靖子は唇を噛んで、視線を牀に落した。
「……先刻の電話は伊佐子なんだ。三階の部屋へゆくと、待構へてゐた伊佐子は、聞くに耐へないパヽの過去を洗ひざらひ打ちまけて、僕をまる裸體にして引擦り廻すやうな目に會はせた。伊佐子は僕にいった――私はね、十八年前に貴郎のパヽの慰みものになった時以來、すっぱりと人間を癈業して了ったんだから、畜生にならうと、何にならうと、ちっとも後悔しないわ。私と貴郎との關係を聞いたら、パヽはどんな氣持がするかしら?――って……靖ちゃん、それから、まだ、僕は異母妹とは知らずに麗子を追ひ廻してゐたんだ。」
「えっ? ぢゃァ麗子は伊佐子の娘なの!」と靖子が叫んだ。
 山邊は悲しげに頷首いて、兩手で顔を覆うた。

「そんなお母さんがある事を、麗子は知らないんだらうね……それとも……」久時、間をおいて靖子がいった。
「無論知らない。麗子は生れると直ぐに、祖父母の子として引取られたんだ。伊佐子のやうな女でも、自分の娘には自分を知られたくないといってゐた。」
「その方が麗子の爲だったかも知れないが、生みの親がある事を知らないでゐるなんて、可哀相な娘だね……考へて見れば伊佐子だって可哀相ぢゃァないか、屹度、陰で麗子の事を氣にしてゐたらうに……」
 二人の言葉が途切れると、恐ろしい沈默が●のやうに覆ひかぶさってきた。電燈も、壁も、卓子もみんな上の方へ昇っていって了った。二人だけが際涯(はてし)ない地の底に沈んでゆくやうに思はれた。
「永久に醒めない惡夢だ! 僕はまるで乞食になったやうな氣がする。」
 二人の暗い視線がぶつかり合った。
「……マサ、いくら足掻(※代用)いたって、どうにもならない事なんだから、眼をつぶって一生懸命に忘れるんだね。伊佐子が印度人の自動車で何處かへ飛んでいったやうに、厭なことは素っ飛して了ふんだね。」靖子は泥沼の中で足場を見付けたやうにいった。
 山邊は默って前額を押へてゐた。
「マサ! そんなことよりも牧野さんをどうするつもり? 先刻の事、知ってゐるでせう。僕は家まで送っていって、臥かしてきたのよ。マサは恐ろしいと思はない? マサは現在、パヽが昔伊佐子にしたと同じことを、牧野さんにしようとしてゐるんではないの!」
「靖ちゃん、止してお呉れ! 僕はこの上パヽの事なんか、考へたくないんだ!」
「逃げ隠れしてゐるなんて、實に卑怯よ。いゝ加減男らしく運命に降参したらどう? マサ、僕は世界の女性の名において命令する、直ぐ牧野さんの許へいっておあげ!」
 山邊は靖子の言葉など耳に入らないやうに、無性に部屋の中を歩き廻ってゐたが、急に、出口の扉に手をかけた。
「どうするの?」
 靖子は帽子も被らないで出てゆかうとする兄の背後から呼びかけた。
「ぢっとしちゃァゐられないんだ、いゝ事でも、凶い事でも構はない、何かにぶつからなければゐられない氣持だ! 僕は菊屋アパートへいってくる。」
 山邊はよろめくやうに部屋を出ていった。
 靖子の見送ってゐた兄の後姿は、いつか厚い扉になって、廊下に消えてゆく跫音が奈落の底へ墜ちてゆくやうに思はれた。彼女が兄を牧野女史の許へやったのは、人道的の立場にある女性としての聲であったが、妹として兄に對する氣持は、又、別なものであった。
 四つ違ひの兄妹は、物心がついて以來、どんなに人世觀が異っても、お互に手を伸ばせば直ぐ届くところに成長してきた。
 倫敦にゐた時は、緑の公園を、二人は毎日のやうに、馬の轡を並べて散歩した。途中で行會ふ美しい貴婦人達の微笑が、爽かな朝風と共に彼の端麗な顏に注がれた。そんな時靖子はどんなに誇を感じたことであらう! 何處の夜會へいっても、この東洋の美青年は忽ち貴婦人達の人氣の中心になって、密に靖子を驚嘆させてゐた。その彼が青春二十六歳の華かさをへし折って、裏長屋のやうな菊屋アパートの生活に堕ちてゆくのを慮へると、靖子は淋しくなった。
 晩餐の時間もとうに過ぎて了った。廣いホテルは無氣味な程鎮まり返ってゐた。
 靖子は部屋の中が不意に白く光ったやうに感じて電燈を見上げた。飾斷の時計は一時を指してゐた。
「マサはどうしたらう? 菊屋アパートへ電話をかけて見ようかしら……」
 靖子は卓上電話の傍までいったが、ふと、思ひ返して長椅子へ戻った。

二つの靈魂
 扉を叩く音に眼を醒した靖子は、吃驚して四邊を見廻した。いつか夜が明けて、窓際の棧に朝日が射してゐた。彼女は兄の歸宅を待詫びて、三時を聞いたきり、長椅子の上に假睡(うたたね)をして了ったのであった。
「お客様がお見えになりました。」と給仕がいった。
「お客様って誰だらう?」靖子は飾棚の時計を見た。靄のかゝってゐる眼に、八時を指してゐる針がぼやけて映った。
「東京の足利様と仰有る方です。控間(ロビー)にお待ちになってゐらっしゃいます。」
「直ぐ参りますからって、いって頂戴。」
 靖子はぼんやりした頭腦で――朝っぱらから、足利君が何の用で來たんだらう?――そんな事を考へながら、手早く身化粧をして部屋を出ていった。
 足利は控間の端に佇って、窓から庭園を眺めてゐた。靖子の靴音に振返った彼は、豫期してゐなかったやうな面持で彼女を迎へた。
「やァ、もうお目覺だったのですか……山邊君は?」
「どうしたの? こんなに早く……時間からいへば不思議はないけれども、荻窪からの客では異時を感じるわね。」
「山邊君は?」
「マサ? あゝ、マサはね、昨夜から歸らないのよ。」
「どうしたんです? 何處へいったんです?」足利は急込んで訊ねた。
「牧野さんの許へいったのよ。いゝ鹽梅に足利君の忠告が少し効いたらしいんだ。」
「いや、私の忠告が効いたなんて筈は、斷じてありませんよ。」
「後でゆっくり話すけれども、昨日はいろいろな事件があってね……伊佐子は例の印度人と一緒に、永久に吾々の世界から去って了ったし、牧野さんはヒステリーを起して刄物三昧をするし、マサも餘程考へが變ったらしいんだ。牧野さんは熱を出してゐたから、昨晩は屹度マサが終夜看護したのよ。」
「……それなら結構だけれども……靖子さん朝食は?」
「これからなのよ。」
「有難い! それで助かった。實は起抜けに家を飛出してきたんで、まだ朝飯前なんです。お腹が空っぽで煙草を吸っても目が廻りさうなんですよ。」
 靖子は笑ひながら、足利を食堂へ伴った。彼女は食事中に、前日の出來事を、伊佐子の告白だけを抜かして精しく語った。
「でも、電話をかけて見たらどうでせう?」
 足利はまだすっかり納得しきれない様子で、首を傾げた。
「君、どうしたの? 何だってそんなに氣にするの?」
「靖子さんは嗤ふかも知れないけれども、昨夜非常に凶い夢を見たのです。私の夢はよく的中(あた)るものですから、それで心配してこんなに早くやってきたのです。……すると、山邊君がゐないで、貴女が現てくるんでせう……」
「夢って、どんな夢?」
「何でも、私達は中學生で、何處かへ修學旅行にゆき、山の麓の二軒の旅館へ分宿したのです。すると夜中に向ひ側の旅館に泊った筈の山邊君が、私の部屋へ入ってきたのです。おやと思って起上ると、障子際に佇ってゐた山邊君が、指を咽喉へ突込むやうな事をしてその手を退けた拍子に、口からだらだら血が流れてきたのです……」
「まァ、氣味が惡い。それからどうして? マサが何かいって?」
「私が驚いて傍へ馳寄ると、山邊君は默って首を振ったまゝ、煙のやうに消えて了ったのです。その途端に眼が醒めて、時計を見たら丁度一時でした。」
「一時? 一時ですって? 厭だな! さういへば丁度一時に、急に部屋の中が白く光ったので、僕はびっくりしたっけ……菊屋アパートへ電話をかけて見ようか。」

 靖子は飲みかけの珈琲茶碗を下へおいて、電話をかけにいったが、間もなく啻(ただ)ならぬ様子で引返してきた。
「電話がかゝらないの……いくら呼んでも出てこないのよ。直ぐいって見よう。」
 靖子は部屋へいって、帽子と外套を掴んで階段を馳下りてきた。
 二人がタキシーを飛ばして菊屋アパートへ着くと、膝の上に新聞を擴げてゐた受付の老人が、氣忙しい朝の訪問客を怪訝さうに見送った。
 昇降機の停るのを待兼ねて、靖子は先に立って四階の廊下へ出た。
「こゝよ。」靖子は扉の肩に十三號と記した部屋の前に立って、足利を振返った。
 扉を叩いても應答がなかった。
「構はないから開けたらいゝでせう。」
 足利は把手を引いたが、扉には錠が下りてゐた。二人は代る代る扉を叩いた。
「どうしたんでせう。看病疲れで寝込んで了ったのかしら?……」
「それにしても、こんなに扉を敲いて目を覺さない筈はないわ……變ね。靖子は鍵穴に耳をつけた。
 部屋の中はひっそりとして何の物音も聞えない。
「病人だから、外出する筈はなし……それとも入院でもしたかしら……兎に角階下の事務所で訊いて見よう。」と靖子がいった。
 事務所では十三號の婦人は外出した様子はない、大方まだ就寝中であらうといって取合はなかったが、足利の口添へで老人は不承不承に合鍵をもって四階まで蹤いてきた。
 天鵞絨のカーテンを下した部屋の中は薄暗く、扉をあけると同時に、果物の熟れたやうな甘酢ぱい香が鼻を衝いた。部屋續きの、半開きになった寝室の扉から、黄色い電燈の光が洩れてゐる。
 部屋を横切って寝室を覗いた靖子は、
「誰もゐないわ!」と呟きながら戻りかけたが、長椅子の上に脚を伸してゐる黒い姿を見て、
「おや! こんなところに……足利君、カーテンを引いてよ!」と叫んだ。
 足利がカーテンを引くと、曇り日の鉛色の光が流込んだ。
「呀っ! マサがどうかしてゐる!」
 靖子は兄の肩にかけた手を、さっと退いて立竦んだ。
 山邊は青竹色のクションの中に、首を折り曲げて右手をだらりと牀に垂らしてゐる。日頃の蒼白い顏が、妙に紅味を帶びて、僅に見開いた瞼の奥に黒い瞳が不氣味に光ってゐる。
「矢張りこんな事になったのか………」足利は冷くなった山邊の手を握りながら沈痛な聲でいった。
「マサ! マサ!」靖子は長椅子の傍に跪いて、激しく兄の肩を揺った。
 その時まで、扉口に立って部屋の中を覗いてゐた老人が、つかつか入ってきて、二人を押除けるやうにして山邊の口許に掌をあてながら、
「駄目だ、もう呼吸がない、一體どうしたことだ!」といった。
 靖子は餘りの驚愕に、却って頭腦の心が冴えて了って、悲哀をしみじみと意識する餘地がなかった。彼女は椅子の脚下に轉ってゐる紫色の小さな瓶を無言で指さした。
「毒藥自殺かな? ……女の方はどうしました。臺所にでもゐるんぢゃァないかね。」といふ老人の言葉に、靖子が歩きかけると、足利はそれを制して、
「お待ちなさい。私が見廻ってきますから。」
 臺所にも、便所にも、牧野女史の姿は見えなかった。寝台の上には水枕が投出したまゝになって、壁際に轉ってゐる手提袋(ハンドバッグ)の近くに、蟇口や、コンパクトが散亂してゐた。
 足利は元の部屋へ戻ると、前額を押へてゐる靖子の傍へいって、
「さァ、貴女はホテルへお歸りなさい。後は一切私が引受けますから。」と劬(いたわ)るやうにいった。

「いゝえ、警察の調べが濟むまでこゝにゐます。」
 靖子は足利の考へてゐる以上に確りしてゐた。彼女は短い時間の間にいろいろな事を考へてゐた――他殺? 自殺? 牧野女史の行方、それから警察の取調べに際して、一切をどういふ風に説明するのが一番いゝだらうか?
 彼女は足利が警察へ電話をかけてゐる間に、卓子に兩肘を突いて山邊と牧野女史が飲んだらしい二つの珈琲茶碗を凝視してゐた。岩躑躅の上に青い鳥が翼を擴げてゐる模様のついた茶碗、長椅子の傍に寄せてある小さな丸椅子、牀に落ちてゐる銀の匙、さうした無生物が眞夜中に演ぜられた男女の悲劇を目撃してゐたに違ひない。
 靖子は立上って部屋の中を歩き出した。彼女は牧野女史が、どんな服装でアパートを出たかを確める爲に、寝台の裾の方に置いてある洋服箪笥を覗いた。寒さに向って必要な毛皮の衿のついた外套、黒天鵞絨の午後服、紺のサージのコート、青磁色の訪問着などがそのまゝ殘ってゐる。下の方に帽子が二個と、薄い絹のシミーズが投込んであって、その片隅に小さなボール函と、それを包んだらしい紙片と紐が丸めてあった。
 靖子はその函に何か秘密があるやうな氣がしてそれを撮み出した。小包紙には牧野女史の宛名が記してあったが、差出人の名はなかった。函には白いライス紙が入ってゐるだけで、中は空だった。靖子は蓋を開けた瞬間、「おや!」と輕い叫びをあげて、空函を鼻先へ寄せた。ライス紙から嗅き覺えのある異香が匂ってきた――伊佐子のつけてゐた香水!――靖子の視詰めてゐる空函の中に紫色の劇藥の小瓶が浮び上ってきた。
 靖子は恐ろしさうに手を慄はせながら、それ等のものを元通り、箪笥の奥へ投込んで、警官の到着した次の間へ戻った。
 其處で一通りの訊問があった。靖子は山邊と牧野女史が内縁關係にある事を簡單に語ったゞけで、伊佐子や、印度人に關する件は默殺して了った。
 檢視を濟した醫師は、珈琲茶碗を檢め、牀に落ちてゐる紫色の小瓶を拾ひあげて、
「これです。青酸による毒死ですね。死後八九時間を經過してゐます。」と司法主任に囁いた。
 二つの珈琲茶碗の一つだけに、毒藥の痕跡が遺ってゐた事、及び牧野女史が失踪してゐるといふ事實は他殺説を濃厚にした。
 そんな譯で、死骸は解剖の爲に病院へ送られた。刑事は牧野女史の後を追って八方に飛んだ。
 靖子と足利は一先づ歸宅を許されてホテルへ歸った。
「方々へ通知しなければなりませんね。」と足利がいふと、靖子はそれを遮って、
「牧野さんの事が極るまで、何處へも知らせずにおきませう。だけれども倫敦のパヽのところへだけは電報を打たなければ……病氣で死んだと知らせて置かう……詳しい事は手紙で書くとして……それから……リキには來て貰った方が都合がいゝかも知れないな。」
「電報より電話をかけませう。」
「番號はこゝにあってよ。ボーイに吩咐けて呼び出させて頂戴。内容は云はないで、急用だから直ぐ來てくれってね。」
 靖子は直ぐにペンを取上げて、倫敦への電文を書くと、ボーイを呼んで郵便局へ走らせた。
 生憎、川路は宿にゐなかったので、傳言をきいて新月ホテルへ馳付けたのは、夜の八時過ぎであった。
 足利と川路は、凡が解決する迄は東京へ歸らない心算で、それぞれホテルに部屋をとった。
 山邊の部屋を檢べに來た二人の刑事が引揚げた後で、三人は椅子を寄せて、しんみりと後々の事を相談した。

 夕方から窓を濡し始めた秋雨が、黄ばむだ鈴蘭樹の葉を叩いてゐる。昏い海から汽笛の音が侘しく響いてきた。
「おや、誰か靖子さんの部屋の扉を叩いてゐるやうですよ。」足利が不意に顏をあげた。
 耳を澄ますと、誰か四邊を憚るやうに、そっと扉を叩いてゐる。
「牧野さんぢゃァないかしら?」
 靖子は聲を潜めていった。
「さうかもしれませんね。」
 川路は素早く廊下へ飛出していったと思ふと、おどおどしてゐる少年の手首を掴んで、部屋へ引擦り込んできた。
「僕は何にも知らないんです、お願ひだからどうか放して下さい!」
 少年は泣聲を出して川路の腕の中で足掻(※代用)いてゐる。
「此奴は僕の顏を見ると、いきなり逃げようとしたんで、何か曰くがあると思って無理に連れてきたんですよ……まァさう暴れるな、どうした、何しにきたんだ。」
 川路は少年の手首を放して、扉の前に立塞がった。
 靖子はカーキ色の半ヅボンを穿いた少年を憶えてゐた。
「あゝ、お前は牧野さんのお使ひをする少年だね。僕に何か用があるの?」
 少年は初めて靖子の存在に気付いて、ほっとしたやうに更めて皆の顏を見廻した。
「どうしたの? こゝにゐる人達は、みんな僕のお友達だから、ちっとも怖がる事はないよ。さァいってご覧、僕にどんな用があるの?」靖子は優しくいった。
「僕は探偵かと思っちゃった……僕は四階の小母さんの事を知ってゐて、默ってゐると牢屋へ入れられるんですか?……僕は余り怖いから、誰にも云はずにおいたんだけれども……」少年は生唾を呑んで、吶り吶りいった。
「眞實の事を知ってゐて、隠してゐれば警察へ連れてゆかれるよ。さァ正直にいってご覧、牧野さんは何處にゐるの?」
 小母さんは夜遅くなってから家を出ていったから、僕は變だと思って後を蹤いてゆくと、本牧の三景園の崖から海へ飛込んだんだよ。僕は怖くなって逃げてきて、夕方まで家に隠れてゐたんだけれども、段々心配になってきたから、小母さんはどうなったかしらと思って、菊屋アパートの前までいったら、お巡りさんが張番をしてゐたから、びっくりして逃げてきたんだよ。」と少年は早口に語るのであった。
 三人は久時、顏を見合せてゐた。
「それゃ大變だ! 早く警察へ知らせなくてはならない。」足利は卓上電話を取上げて警察を呼出した。
 間もなく刑事がきて、少年を案内に牧野女史が投身したといふ現場へ出掛けていった。
「一體、あの少年は何者なんです?」
 足利は刑事に引立てられてゆく、見窄らしい少年の後姿を見送りながらいった。
「あれは菊屋アパートの裏に住んでゐる沖人夫の子供で、牧野さんが雇ってゐたのよ。」と靖子が説明した。
「妙なものを雇ったものですね。何をさせてゐたんです?」と川路がいった。
「スパイみたいな事をさせてゐたのよ。よくホテルの近所をうろうろして、マサや、僕を見張ってゐたわ。だからマサの内緒事はみんな牧野さんのところへ筒抜けだったのさ。」
「牧野さんといふ人も變ってゐるな。」
「……考へると、牧野さんも可哀相よ、スパイを使はなければならない程、相手を信じられなかったんだから……それに……」
 靖子は心一杯に擴ってくる兄に對する思ひをぢっと抑えて次の言葉を呑んで了った。
 川路も、足利も、彼女の氣持を察して、努めて山邊の事には觸れないやうにした。

空を仰ぐ人々
 翌朝、寝てゐる最中に靖子のところへ刑事から電話がかゝってきた。
 磯子河岸に牧野女史らしい洋装婦人の溺死體が漂着したから檢分にきてくれといふのであった。
 靖子は直ぐ出掛けるつもりで二人に通じると、川路は、岩石に粉碎された無惨な牧野女史の姿を想像して、
「牧野女史なら、僕も識ってゐるのですから、鑑別するのは僕一人で充分です。貴女はこゝに殘ってゐらっしゃい。」と無理に靖子を押止めた。
「それがいゝ、私はその間に病院へいって、昨晩相談したやうに病院から火葬場へ送る手配をしませう。納棺する時になったら電話をしますから、貴女はその時いらっしゃればいゝと思ひます。」傍から足利がいった。
 二人は前夜から執拗く降り續いてゐる冷い雨を衝いて出掛けていった。
 靖子は食堂にも出る氣になれないで、ボーイに運ばせた珈琲を傍らへ置いたまゝ、兩方からくる電話を待ってゐた。ひとりきりになると、氷のやうに凝結(かたま)ってゐた感情が少しづゝ溶けて涙になってきた。彼女は性格の異ってゐる兄と、相容れないところが多かったので、互に別々の軌道を歩いてゐるつもりでゐたのに、斯うして兄が不意に逝って見ると、初めて二人は同じ車についてゐた車輪であった事を、しみじみと感ずるのであった。
 伊達に右鍔を落して被ってゐた帽子も、二度と見る事は出來ない。緑色の帽子はまるで彼一人の爲に造られたやうによく似合ってゐた。寝坊な彼、派手な縞のパジャマを着た彼は、靖子が起しにゆくと、いつも黄色い煙草の罐を抱いて、夢みるやうに紫の煙を吹いてゐた。彼はどんな不良い事をした時にも機嫌が良かった。無反省で、我儘で、氣前の良かった彼、靖子には憎みきれない明い兄であった。
――マサ! マサ! 君はもう永久に僕の隣りの部屋にはゐて呉れないんだね……
 靖子が涙に曇った眼で隣室の扉を見上げた時、川路から電話がかゝってきた。
 磯子海岸に打揚げられた溺死死體は、矢張り牧野女史であった。
「他人の死を喜ぶなんて變な話ですが、牧野さんの場合は却って斯ういふ結果になった方がよかったですね。」と電話の先端で川路がいってゐる。靖子も眞實にさうだと思った。
「……これでマサと牧野さんが合意心中をしたといふ事に出來るわね……」
「死骸を引取るまでには相當時間がかゝるやうです。貴女は牧野さんの親戚か何かを、御存知ではないでせうね。」
 靖子は牧野女史の身許に就いては、喜多川男爵家の家庭教師であったといふ以外には何も知らなかった。
「では、僕に鳥渡心當りがありますから、これから病院の方へ廻ってすぐ東京へ行きます。夕方までにはホテルへ歸れると思ひます。」
 川路の電話が切れて了ふと、程なく足利から病院へくるやうにといってきた。
 靖子は隣室へいって、兄に一番よく似合った紺地に細い赤縞の入った背廣服、衿飾、それと對の靴下、手巾、眞新らしい白シャツ、緑色の帽子、愛用の洋杖(ステッキ)などを一纏に旅行鞄に填めてホテルを出た。
 途中、彼女は自動車を花屋の前に停めて、一人では持切れない程、紅いカーネーションと、フリジャとを自動車に積込んだ。
 山邊の死骸は、秋晴れの公園を散歩するやうな服装で、黒天鵞絨ではった柩に納められた。靖子は唖者のやうに默りこくって、紅と白の花を兄の顏の周圍につめた。彼女は柩の傍を離れかけては、幾度も戻っていって、兄の前額に亂れてゐる頭髪を撫でつけたり、白粉紙で顏を拭いてやったりした。
 足利も、醫員も、看護婦も、刑事達も、聲を呑んで誰も正面に靖子を見る者はなかった。
「フリジャの香は強烈(つよ)いね。」靖子は手巾を顏にあてた。

 山邊の柩は、ごく少数の人々に送られて、黄色い落葉の降り敷いてゐる久保山の火葬場へ運ばれた。
 暮近くになって一同が菊屋アパートへ引揚げた時には、山邊は既う一個の白木の箱となってゐた。
 東京へいった川路は、その夜八時過ぎに牧野女史の叔母といふ老婦人を伴ってアパートへきた。彼女は、
「手前はあれの義理合の叔母でございます。この度はいろいろと御厄介をかけまして……」と入口のところで一同にお辭儀をした。
「突然の事で、嘸びっくりなすったでせう……二人の結婚式の通知でお●かせするんだったら、よかったんですのに……」靖子は老婦人を劬(いたわ)るやうにして長椅子にかけさせた。
「つれ合が生きてをりました頃には、あれでも二三度顏を見せましたけれども、この節はとんと音信もございませんでしたので、常々洋行がしたいなどゝ申してをりましたから、そんな事にでもなったかと存じてをりました。尤も叔母とは申しながら、手前は何一つ叔母らしい事もしてやれないやうな、しがない生計をしてをるものでございますけれども ……あの娘は兩親を夙(はや)く亡くしましたせゐか、大層強情ぱりで、よく他人様に御迷惑をかけたりしてをりましたのに、皆様からこんなに御親切にして頂いて、眞實に有難い事でございます。自分は自業自得でいゝと致しましても、貴女様のお兄様まで、こんなことに卷込んで了ひまして、何とも申譯ございません。」老婦人は更めて靖子にお辭儀をした。
「いゝえ、決してそんな事はありませんわ。二人は屹度斯うなるのが一番良いと思ってした事でせうから、私達は何にも云はないで二人の靈魂の爲に祈ってあげませう。」と靖子はいった。
 老婦人が新佛の前で燒香をしてゐる間に、川路は靖子の傍へきて、
「檢視が濟んだので、火葬場へ送ってきました。明朝早く骨あげにゆく事になってゐます。牧野さんの叔母さんはお通夜をするといってゐますから、こゝへ泊って貰ひませうね。ホテルぢゃ却って窮屈でせうから。」
「一緒にお葬式を出すとして、墓地はどういふ事にしたらいゝの?」
「その事は、牧野さんの叔母さんとも徑々(みちみち)相談してきたんですけれども、墓地を急にどうするといふ譯にもゆかないから、牧野さんの叔父さんを葬ってある万乗寺へ持っていったらどうかといふんです。」
「そのお寺は何處にあるの?」
「東京中野區です。貴女さへ承知なら、叔母さんの方でそのお寺へ話して下さるさうです。」
「それがいゝでせう。少しでも縁のあるところが……牧野さんの叔母さんのところがよく判ったな。」
「西嶋へいったり、喜多川家へいったり、相當動きましたよ。あの叔母さんがたった一人の親戚ださうですね……さういっては失禮だけれども、いまいった万乗寺の近くに小さな花屋の店を出してゐるんで、あまり余裕もなささうですから、一切の費用はこっちで引受けて叔母さんに心配させない方がいゝと思ひますね。」川路は聲を落して附け加へた。
「勿論よ。こっちの家の人として葬るのだから……どうもいろいろ有難う、リキには又、明日も働いて貰はなければならないのだから、いまの中にホテルへ歸ってゆっくり休んでよ。僕はこれから少し手紙を書くんだ。」
「貴女こそ、ホテルへ歸って一休みしたらいゝでせう。僕は二日や三日、徹夜したって平氣な男なんだから……貴女はいまは氣が張ってゐるから、そんなにばりばりしてゐられるけれども、後になって反動がきますよ。僕はそれを一番心配してゐるんだ。」
「さう?」靖子はぢっと川路の顏を視詰めた。

「僕は實際機械人形みたいになってゐるんだよ。今になって初めてパヽの事が解ったやうな氣がする。マヽが亡くなった時、パヽは涙もこぼさないでお葬式の騒ぎばかりやってゐたから、僕達は薄情なパヽだと思ってゐた。マサはいつでもそれを憤慨してゐたっけ……パヽは矢張りひとりになった時、泣いてゐたんだね……さうさう僕は手紙を書かなくちゃァ……」
 靖子は急に顏を背向けて、暗い窓の外を凝視した。
 夫から三日目の葬式の日は、不安な程、空が澄渡って、強烈い日光が人々の頭窩(ぼんのくぼ)に照り返ってゐた。
 万乗寺の本堂の横手の控間には、會葬者の顏ぶれが大方揃ってゐた。足利兄妹、谷井、西嶋、牧野女史の叔母、それに喜多川家からはお勝がきてゐた。
 川路と靖子は、裏の墓地を檢分して、鶏の樂(あそ)んでゐる飛石を傳って戻ってきた。庭の一隅に芭蕉が葉を擴げて、その下に眞紅な葉鶏頭が列を作ってゐる。遠くの雜木林の向ふを折々郊外電車が疾走ってゆく。
 讀經が始まる間際になって、麗子と百合野が到着した。百合野に寄り添ふやうにして坐ってゐる麗子の顏は、薄暗い本堂の片隅で一層青褪めて見えた。
 谷井はそっと立っていって、二人に座蒲團を薦めた。
「つい遅くなって了ひまして……今朝お知らせを頂いて、驚いて、参りました……どうなすったんでございます?」百合野は小聲でいった。
「詳しい事は、僕も知らないんですが、何でも心中をされたのださうです。」
 谷井は川路から聞いたまゝを傳へた。
 傍で聞いてゐた麗子は、赤く泣腫らした眼を伏せて、膝のあたりを視詰めながら、世の中を鼻の先であしらってゐたやうな、輕薄な山邊にも、心中をする程の眞辛(しんれつ)なところがあったのかしらと、驚異の裡に感激と尊敬をさへ感じてゐた。
「麗子さん大丈夫えすか? 氣分は不良くはないですか?」谷井は血の氣を喪ってゐる麗子の横顏を覗きながらいった。
「……眞實にお二人はお幸福だったのですわね……後に遺る人の事も、世間の思惑も考へないで、お二人だけの思ひ通りの事をなすったのですから……」と麗子は昂奮に頬を紅潮させた。
 百合野はびっくりして麗子を振り返った。
「けれども麗ちゃん、死ぬ程の覺悟があれば何だって出來ますよ。どういふ事情がおありにあったのか、眞實にお氣毒な事ではありませんか、外國にゐらっしゃるお父様は、どんなにお歎きでございませう。靖子さんだってお可哀さうに……」
 永い讀經が始まった。いつの間にか戸外には風が出て、障子の棧にあたってゐた陽がかげって了った。空の閼伽桶(あかおけ)が吹飛ばされて前庭を轉げてゆく音などが聞えた。
 燒香が濟むと、一同は裏の墓地へ出て、新らしく掘った墓穴の周圍に立った。二つの箱の上に、赭土と花が、ぱらぱらと投込まれた。
 生々しい白木の墓標を後にして、人々が控間へ引揚げてゆく時、靖子は百日紅の樹蔭に足を停めて、後れてくる麗子を待った。
「麗子はよく來てくれたわね。でも無理だったのぢゃァないかしら……そんな服装をして寒くはない?」
 靖子は薄着をしてゐる麗子の背を撫でながらいった。麗子は默って靖子の手を握りしめた。
「僕の事は、決して心配しなくてもいゝよ。五六日したらゆっくり會はうね。いろいろ話があるんだから……」
 靖子はその時も、まだ、麗子に自分達が姉妹である事を打明けたものかどうかと迷ってゐた。

「降って來なければいゝが……」と誰かがいった。
 鳥渡の間に天候が變って、朝の輝いてゐた太陽は、灰色の空に塗りつぶされて了った。折々思ひ出したやうに、冷い風が吹いてきて、黄ばむだ雜木林を鳴らしてゐる。
 靖子が麗子と竝んで控間の方へ戻ってゆくと、川路と立話をしてゐた西嶋が、遠くから靖子に會釋をして歸っていった。
 間もなく、しばらく見えなかった谷井が忙しく門を入ってきた。
「麗子さん、タキシーを呼んで來ましたよ。雨に遭ふといけないから、早くお歸りなさい。」彼は麗子と百合野を等分に見ながらいった。
「どうも恐入りました。くる時には澤山乗換をして参りましたので、大層時間がかゝりましたが、自動車でしたら樂でございます。」と百合野が應へた。
 麗子は默ってゐたけれども、ショールを肩にかける間に、谷井に手提鞄を持って貰ったりしてゐた。
 谷井は麗子達を門の前まで送っていって、タキシーの運轉手に一円紙幣を握らせた。
 石段の上で、それを見てゐた美波子は、谷井が自動車を送り出して戻ってくるのを機會(きっかけ)に、偶然らしく彼の前へ出た。
 二人が顏を會せた時、谷井は鳥渡てれたやうな様子をして、
「久時でしたね、先刻からゆっくりお話しようと思ってゐたところです。」
「短い月日の間に、いろいろな事がありましたのね。其後如何?」
 美波子は兄から谷井の消息は聞いてゐたが、斯うして顏を會せるのは庭球以來殆ど五ヶ月ぶりであった。
「えゝ、相變らず安定のない生活をしてゐます。僕みたいな人間は、一生斯うかも知れませんね。」
「……麗子さんは優しくって、眞實に可愛い人ね……でもお虚弱(よわ)いやうで、貴郎は御心配でせう?」
「舊い友達だものですから……」
「私ね、もうぢき東京にも左様さらをしなければならないのよ。」
「あヽ、さうですってね、今度お父様が御歸朝になると、皆さんで西班牙へおいでになるのださうですね。」
「最初は、東京のお友達に離れてゆくのは厭だったのですけれども、今頃すっかり慮(かんがえ)が變って了ひましたわ。結局私が外國へいって了ふ事は、自分の爲にも、貴郎方の爲にもいゝのだと思ひますわ……」
「さうでせうか……」谷井は當惑したやうに呟いた。
「そんな、サーブをダブった時みたいな顔をなさらなくってもいゝのよ。私達はね、その中大々的にお別れの會をしますけれども、その前に一度麗子さんをお連れして遊びにいらしって頂戴。眞逆荻窪の道を忘れて了ったのぢゃァないでせう。少しは懐しいとお思ひにならない? 貴郎があんなにお好きだった、あの巨きな欅の木を……」
 谷井は、朗かに笑ひかけてゐる美波子の瞳に、様々な感情を讀んだ。余りに間近にゐた爲に感ずる事の出来なかった少女の氣持を、彼は今になって初めて知った。
「有難う、屹度近い中に伺ひます。」谷井は美波子の差出した手を固く握り返した。
 足利兄妹も、お勝も、牧野女史の叔母も、谷井も、同じやうに曇った空を氣遣はしさうに仰ぎながら、それぞれ歸るべきところへ歸っていって了った。
「偖、僕等はどうしようか?」
 靖子は、一番最後まで殘ってゐた川路を顧みた。
「愉快に働くんですな。」川路は笑ひながら應へた。
 曇った空も氣にならなかった。二人はいつだって到る處に太陽を見出してゐるのである。

最後の品
 K病院の控室の片隅で、膝の上に擴げた新聞を、幾度も打返して、讀むともなく、文字の上に眼を曝してゐる青年があった。新聞は遣場のない視線のおきどころになったり、廊下を通る人々に對する衝立の役をもなしてゐた。
 青年はチョッキのポケットから金鍍時計を出して、十一時を指してゐる針を見た眼を入口へ向けた。それは谷井であった。彼はその控室へ來てから、もう二時間近くになる。――大した事でなければいゝな……かゝりつけの醫者のいったやうに、レントゲン療治位の事で濟めばいゝが……。
 谷井は、百合野に連れられて外科の診察室へいった麗子の戻ってくるのを待侘びてゐるのであった。
 彼は麗子が醫師の勧告で、權威ある外科醫の診察を受ける事になった時、自分からK病院を推奨しておきながら、偖、麗子に附添って來て見ると、その邊をちらちらしてゐるペン章に脅かされた。彼は知った顏に會ふのを惧れて、隅の方に小さくなってゐるのでらった。
 ぢき近くの腰掛で、頸部に繃帶をした普通部一二年の少年と、その姉らしい娘とが、野球選手の噂をしてゐる。
「姉さん、大久保が入院してゐるんだよ。昨日の練習で突指したんだってさ。」少年は眼をくりくりさせながら嗄聲でいってゐる。
「心配だわね、今度の決勝戰に大久保が出場なかったら大變だわよ。」
「大丈夫さ。僕等が心配する以上にお醫者さん達が心配してゐるもの。どうしたってそれ迄には癒しちまうよ。」少年は自信をもって答へた。
 谷井は、應援團の幹部連の顏が廊下に見えた理由を知った。彼は惡いところへ來合せたものだと思って、帽子をぐっと眉深に被り直した。けれども久しく會はない級友達を懐しく感じて、不識々々、姉弟の會話に耳傾けてゐた。
 そこへやうやう麗子が戻ってきた。百合野の沈んだ様子に引かへて、病人の麗子は頬を上氣させて元氣のいゝ顏をしてゐた。
「どうでした?」
 控室が滿員だったので、谷井は立って麗子を自分の席へかけさせた。
「矢張り肋骨カリエスでした。X光線で寫眞を撮ったりしたものですから、大變手間取りました。どうしても手術をしなければいけないのださうでございます。」と百合野がいふ傍から、
「心配しなくてもいゝんですって……不良い骨さへ除って了へば、五日間位で癒って了ふんですって。」と麗子がいった。
「それゃ内臟の手術とは異ひますから、割合に雜作ないでせうけれども……」
「でも、先生はもっと早く來れば、手術しなくても濟んだのにと仰有いました。それで一日も早いがいゝといふ事で、これから直ぐ入院させて、明日手術をして頂く事に致しました。」
「さういふ風に早くきまって、却っていゝでしたね。では直ぐ入院の手續をしてきませうか?」
「有難うございます。手續はすっかり濟せて参りましたから……」
「何か他に、僕の爲(す)る用事はありませんか?」
「……さうでございますか……では恐れ入りますが、鳥渡今入町へお寄りになって、波田井に一言仰有って下さいませんか。いづれ私は夕方、手廻りのものを取りに歸りますけれども……」
「承知しました。直ぐいって來ませう。」
 谷井は病院の前から飛乗った電車にごとごと揺られながら、控室へ殘してきた麗子の事を考へてゐた。彼女が病苦や、手術に對する不安を押し隠して、殊更に元氣らしく振舞ってゐた事が、却って谷井の氣持を淋しくさせた。

 谷井が波田井家の格子戸を開けると、
「やァ、谷井君か、入り給へ。」縁側で新聞でも讀んでゐたらしい老人は、元氣のいゝ聲で、脚を引擦りながら現てきた。
「麗子さんは早速入院する事になりましたので、そのお知らせにきたのです。僕はこれから又、病院へいって小母さんと入代りますから……」
「いゝ病室があったかね。まァ上って茶でも飲んでゆきなさい。入院して了ったものなら、さう周章てる事はない。」老人は谷井の應へも待たずに奥へ入って了ったので、
「さァ、どんな病室か知りません。小母さんが手續をなすったので、僕は直ぐこちらへきたのです。」といひながら谷井は老人の後に蹤いて座敷へ上った。
「さうかい。百合野に任しておけば大丈夫だ。」
 老人は谷井から詳しい話を聞いて了ふと、
「どうだね。儂につき合って晝飯をやってゆかぬかね? 脂肪の乗ったうまい秋刀魚があるんだ。」
「僕は朝飯が遅かったから、まだいゝんですけれども。」
「でも、十二時を過ぎてをるから、まァ我慢してつき合ってゆきなさい。どうも一人限りの食事ってやつはうまくないものだ。」
 老人がチャブ臺に白い布を掛けて、膳立を始めたので、谷井は、
「では、御馳走になるとして何か手傳ひませうかね。」といった。
 間もなく、臺所で秋刀魚を燒く煙が濛々と家中に擴がってきた。臺所へ入っていった老人は、勝手口の障子を開けたり、空窓を引いたりしてゐたが、團扇を握ったまま、眼をしょぼしょぼさせて座敷へ戻ってきた。
「豪い脂肪ぢゃ、麗子はこの臭ひが嫌ひでな……百合野がをると、庭へ持出して燒くのだが……」老人は身のまはりを團扇でぱたぱた煽いだ。」
「魚ってものは、どうしても煙が出るものらしいですね。」谷井は笑ひながらいった。
 軈て二人は食卓に着いた。眞黒に焦げた二匹の秋刀魚が膳の上に反り返ってゐた。二人は眞面目な顏をして、口の中がざらざらする程焦げた魚を突ついた。
「儂の身體もすっかり良くなったし、著述の方もぢき校了になるから、この暮あたりには印税が入りさうぢゃよ。出版の方さへ順調にいって呉れゝば、もう心配はいらぬわい……さうなれば麗子にもダンサーなどはきっぱり罷めて貰ふし、この冬は暖かい海岸へでもやって充分保養させる事が出來るし……」
 老人は机の上に積重ねてある兒童歴史叢書の原稿や、参考書などを樂しさうに見渡した。
 谷井は、自分が往かなければ誰もゆく者のない閑寂な熱海の別莊を想ひ浮べてゐた。庭の梅の古木は、一月には既う花をつけてゐる。日當りのいゝ縁側に、いつも出し放しになってゐる籐の寝椅子に、ありたけのクションを置いて、麗子を憩ませてやりたいと思った。
「……家の親父は陰氣でしてね、一緒にゐると氣が滅入って了ひます……」谷井は不用意に出た自分の言葉に驚いて、周章てゝ口を噤んだ。
「えっ? あゝ、お父様の事ですか……いや、儂だって親だったら伜に排斥されるに違ひない。親といふものは、どんな親でも一應は子供に厭はれるものらしい。子供と親の思想は、ある時代どうしてもぴったり合はぬものぢゃよ。」波田井老人は冗談らしくいった。
 二人はそれっきりその話には深入りしなかったが、谷井の心の奥にぼやけてゐた父の顏が、又してもはっきりし出した。
 少時して谷井が暇を告げて玄關へ下りると、送りに出た老人は、格子戸の間に透いて見える青空を覗きながら、
「儂も見舞にいってやりたいが、まだ禁足されてをるのでな……淋しいだらうから、貴殿にもちょいちょい見舞にいって貰ふのぢゃな。」といった。
 谷井は麗子の許へ買って行く花の事などを考へながら露地を出た。

 電車通りへ出ると、花屋の店が直ぐ眼についた。土間には黄菊や、白菊が段のやうに積重ねてあって、温室咲きの薔薇や、カーネーションが三尺の飾窓に溢れてゐた。
 谷井は桃色のカーネーションに、緑のアスパラガスを添へ、散々考へた揚句、眞紅の薔薇を一輪加へた。
 花束を抱へて再びK病院へいった彼は、看護婦の後に蹤いて長い廊下を曲ってゆくと、
「大江麗子さんはこちらでございます。」先に立った看護婦は、中程にある扉を開けて呉れた。
 白い病室に、悄乎(しょんぼり)としてゐる麗子を想像しながら扉口に立った谷井は、澤山並んでゐる寝臺を惘然と見廻した。其處には氷嚢を頭に乗せた重態らしい老婦人や、間斷なしに咳をしてゐる痩細った娘や、泣きむづかってゐる兒童などが枕を並べてゐた。
 谷井はその片隅の寝臺に腰をかけて、百合野と話をしてゐる麗子をやうやう見付け出した。
「どうも御苦勞様でした。さァ何卒お掛けなさい。」百合野は立って自分の椅子を谷井に薦めた。
「小父さんにお晝飯(ひる)の御馳走になったりしたものですから遅くなりました。」
「まァ、厭ですこと、何を差上げたのでございませう。」百合野は當惑したやうに呟いた。
「麗子さんの不在でなくちゃァ食べられないとかいって、家中を非常な魚の煙にしましたよ。」
「まァ、厭な小父様、またあのお魚ね……」麗子はくすくす笑ひ出した。
 谷井は置場のない花束を抱へたまゝ、
「随分、入院患者が多いんですね。」と四邊を見廻した。
「この方が淋しくなくっていゝわ。あら、綺麗なお花! 麗子に持ってきて下すったの? 後で看護婦さんから瓶か何か頂いて挿しますわ。麗子は受取った花束に顏を寄せて、一つ一つの匂ひを嗅いだ。
「では、谷井さんのゐらっしゃる間に、私は鳥渡家へいって参りませう。麗ちゃんの入用なものは、こゝに書いてあるだけですわね。」百合野は鉛筆で細か書をした紙片をもう一度讀返してから帶の間へ入れた。
 廊下まで送って出た谷井は、
「小母さん、鳥渡……あの……他に病室は空いてゐないのでせうか?」と遠慮勝にいった。
「それなんですよ。せめて二等にでもと思ったんでございますけれども……五日や、一週間で退院出來るか、どうか判らないのださうでございますから、費用の事を考へまして、可哀相ですけれども三等に致しましたのでございます。實は僅ばかりですが、お金を預けておいた銀行が破産致しましたので、餘裕がございませんので……」百合野は麗子を三等室に入れた事を、まるで自分の落度のやうに頻りに弁疏(いいわけ)をするのであった。
「さうですか、それゃ飛んだことでしたね。ちっとも知りませんでした……大變いひ惡(にく)い事ですが、どうでせう?……僕のところに全然不用な金があるのですが……それをこゝの費用の一部に廻して頂けないでせうか、これは小母さんと僕だけの事にして……何卒惡くおとりにならないで下さい。靜かな病室の方が安眠も出來て、十日かかるものなら一週間で退院する事になるのぢゃァないでせうか……」
「それは、それに越した事はございませんけれども……貴郎にさういふ御心配をお掛けしては、餘り厚顏(あつかま)し過ぎますから……」
「小母さん、何卒そんな事を仰有らないで下さい。僕は麗子さんを自分の妹のやうに思ってゐるのですから……」
 谷井は顏を赧らめながらいった。

 谷井は到頭百合野を納得させて、丁度空いてゐた靜かな二等室へ麗子を移す事にした。
 病室の世話をしてゐた看護婦がいって了ふと、二人限りになった事を気付いた麗子は、
「廊下の扉を開けておきませうか……」と小聲でいった。
 窓の前に立って、中庭に條枝を擴げてゐる鈴懸樹を眺めてゐた谷井は、鳥渡その意味を呑込めないやうな様子で、麗子を振返ったが、
「あゝ、さうでしたね。」といひながら、廊下に面した扉を開けて來た。
 二人はそれでやうやう、ぎこちない沈黙から解放された。
「靜かね。」麗子は輕い溜息と共にいった。
「手術の後は出來るだけ安靜にしてゐなければいけないんですから、淋しい位靜かな方がいゝんですよ。」
「では、麗子のところへ、もうお見舞にも來て下さらないと仰有るの?」
「いゝえ、そんな意地惡はいひませんよ。僕は貴女が早く良くなるやうに、毎日急かせにきますよ。貴女が早く丈夫になって下さらないと困る事があるんです。」
「どうして?」
「貴女にお話しなければならない事があるからです。」
「何でせう? どんなお話でせう?」
「今はまだ秘密です。」
「あら、そんな事を仰有らないで、今聞かせて下すったっていゝぢゃァありませんか。秘密なら守って差上げますわ。」
「それは困るな……まァ、今日は止しておきませう……」
「そんな意地惡を仰有るなら、私だって秘密があるんですけれども、お話してあげないわ。」麗子は何事か思ひついたらしく、胸を躍らせながらいった。
「何です? 麗子さんの秘密、是非聞きたいな。」
「その秘密は貴郎に關する事なのよ。」
「えっ? 僕に?」谷井は急に慎重な顏をした。
 麗子はそれを見て、くすくす笑ひ出した。
「さうなの、貴郎の首から上に關する事なの、まだお解りにならない?」
「解らないな、何でせう?」
「眞實は貴郎の帽子!」麗子は顏を眞紅にして笑った。
「僕の帽子? 何の事です、それは?」谷井は怪訝さうに首を傾げた。
「貴郎が、雨の降った晩に、オリオン酒場で私の爲に格闘して下すった事があるでせう? あの時、貴郎が忘れていらしったお帽子を家へ持って歸ってクリーニングをして大切に藏(しま)ってありますのよ。私、以前からお話しようと思ってゐたのですけれども、何だか極りが惡いから默ってゐましたの……」
「そんな事がありましたっけね。貴女は僕が貴女の爲に闘ったといって下さるけれども、實は醉拂ってゐて、滅茶々々だったから、誰が誰だか分らなかったのです。」谷井は頭を掻きながらいった。
「さァ、私の秘密を打明けましたから、今度は貴郎の番よ。」
「僕の秘密はもっと重大なんです。帽子の後なんかで笑はれるといけないから、今日は止しておきませう。」
「さう、それぢゃァこの間の小説の續きを話して頂戴。」
「餘りお喋りをしてゐてはいけないんでせう。少し眼をつぶってお寝みなさい。貴女は今晩から絶食なんですよ。」
 麗子は微笑して素直に眼を閉ぢた。
 谷井は永いこと、麗子の靜かな寝顔を視守ってゐた。彼は百合野に不用な金があるといった言葉を實現させる爲には、差當り百円位の金をこしらへねばならないと考へてゐた。
 いつの間にか、白い葢(かさ)の中で電燈が點いた。谷井はポケットから時計を出して見て、
 ――さうだ、これを金に替へよう、他には何にもないんだ――と呟いた。
 彼は最後の品を質入する事にきめた。

明暗
 尾久の公設市場傍のミルクホールは、附近の發展につれていつか二三品の洋食をこしらへるやうになってゐた。
 谷井はそこで簡単な夕食を濟して宿に歸ると、二階の窓縁に腰を下して電燈も點けずに、ぼんやりと下町の灯を眺めてゐた。
 麗子に會ってゐた時の張りきってゐた氣持は、彼の何處を捜してもなかった。晝間の明い氣持は線香花火のやうに消えて了ってゐた。
 彼は自分が無力無能である事を、しにじみと感じてゐた。一個の女性を愛するといふ事は物質的にも、精神的にも完全に彼女を幸福にする事であると彼は考へてゐた。彼は麗子を對象にして、果して自分にそんな力だあるか、どうかを疑った。それは彼の心に様々な疑問を誘ひ出した。最初彼は何ものにも拘束されずに、自由な天地に獨立するといふ事を唯一の目標にしてゐたが、永久に自動車の把手(ハンドル)につかまってゐる自分の姿を想像して愕然とした。 前途には限りない不安が雲のやうに湧上ってきた。彼はその黒雲の隙間に父や、乳母や、お加代それから親戚の者達の顏を見た。冷笑したり、愼(たしな)めたり、憫むだりしてゐる顏。
 何處かで花火があがった。谷井は初めて氣がついて電燈を點けた。
 彼はいつもの癖で、さういつ迄も遠い將來の事などに煩はされてはゐなかった。現在の事が第一だ。彼はポケットに入ってゐた金時計を鎖ごと撮み出して階段を下りていった。
「あゝ、谷井さん、今丁度お茶が入ったので、お招びしようと思ってゐたところですよ。」
 跫音を訊いて、階下から主婦が聲を掛けた。
「有難う。鳥渡小母さんにお願ひがあってね。」
 谷井は火鉢の前に腰を下して、先づバットに火をつけた。
 その時、勢ひよく玄關の戸が開いて、
「小母さん、谷井さんゐて?」
 水兵服の少女が茶の間を覗いた。
「玉ちゃんかい。いつでも谷井さんだね。今日は何を聴きにきたの?」主婦は揶揄(からか)ふやうにいった。
「聴きにきたんぢゃァないわよ。御用に來てあげたのよ……谷井さん、そこにゐて?」
「何だい、玉ちゃん。」谷井は玄關へ顏を出した。
「貴郎は大變な忘れものをしてよ。」
「何だらう? ライスカレーの代は確に拂ってきたつもりだったがな。」
「あら、まだ氣が付かないの? 貴重品よ。」
 ミルクホールの娘は笑ひながら、兩手を背後にやって、何か隠してゐる。
 谷井は洋服の胸を掌で叩いて、
「さうさう、卷煙草入を忘れてきた。」
「ほらね。あんなところへ置放しにしたら、お客様が立こむから直ぐ紛失って了ふわよ。私が氣が付いたから無事だったのよ。何をお禮に下さる?」娘は銀製の卷煙草入を差出した。
「どうしてこんなものを忘れてきたらう。」
「谷井さんは、今日は余程どうかしてゐたわよ。ライスカレーの中の鞘豌豆を、お團子みたいに楊子に刺しておいたり、土瓶の口を向ふむきにしてお茶を注がうとしたり……」娘は肩を揺って笑った。
「玉ちゃんは又、よく谷井さんの事を細々見てゐるのね。」
「厭な小母さん、谷井さん許り見てゐた譯ぢゃァないわよ。お店の監督をしてゐたんだわ。」
「ぢゃァ監督さん、お店はもう暇でせう。上ってお煎餅を食べていらっしゃいよ。」
「有難う、又、晝間來るわ。」
「玉ちゃんのお禮は活動寫眞かな。」と谷井がいふと、娘は、
「それより、學校の慈善市(バザー)の切符買ってよ。私も出品したわ。迚も伊達(シーク)な男のスカーフなんかもあってよ。來月の十日なの。一枚三十錢。」と勢込んでいった。

「いゝとも買ってあげよう、五枚ばかり持っておいでよ。何の慈善市なの?」と谷井がいった。
「缺食兒童の爲なのよ。可哀相でせう。これから寒くなるのに。」
 それをきいて主婦が、
「へえ、玉ちゃんの學校でもそんな事をするの? 家の新聞は今月の初旬から、ずっと寄附金を募集してゐるのよ。私も讀者の端くれだから、氣は心で五拾錢送っておいたけれども、毎日樂みな位、金額が殖えてゆくのよ。今日なんか一人で五千円も寄附した人があったんですよ。ほら、ご覧なさい。」といって火鉢の傍に疊んであった新聞を疊の上へ擴げた。
 娘はそれを覗込んで、
「えゝ、あるわね。金五千円也。お金持なのね。あら、谷井さんと同じ苗字だわ、谷井榮輔殿。」と頓狂に叫んだ。
 谷井はどきりとして、娘の指した欄に眼をやった。そこには確に父親の名があった。
「同じ金持の名に肖るなら、岩崎とか、三井ならいゝけれども、谷井ぢゃァね……」谷井は故意と興のない顏をした。
「谷井榮輔って何をしてゐる人でせうね。」主婦がいった。
「さァ、どういふ人ですかね……屹度他に金の使ひやうがないんで、寄附したんでせう。吾々から見れば五千円は大金ですが、當人にとっては何でもない金なんでせうよ。」
「何でもなくなって豪ござんすよ。お金なんていふものは、慾張って自分の爲に使はうと思へば、いくらあったって足りないものですからね。」
 主婦は毎日の樂しみの一つにしてゐる寄附金の累計が、一躍一萬臺を突破したので、谷井榮輔に非常な敬意を表してゐた。
 谷井はさうした場所に、父の名を見出した事を意外に感ずると共に、自分の知らなかった父の一面に觸れたやうに思った。
「あゝ、お喋りしちゃった、では慈善市の切符は明日の晩持ってくるわね。」
 娘は急に店の事でも思ひ出したらしく、二人に左様ならをいって歸っていった。
 娘の靴音が露地の角に消えて了ふと、谷井は例の時計を主婦の前に出して、
「小母さん……少し變なお願ひですが、これで百円ばかり出來ないでせうかね。」
「えっ?」主婦は眼を丸くして、時計と谷井の顏を見較べた。
「質屋へ持っていったら金になるだらうと思ふのですが、初めての顏で、いきなりいっても貸して呉れるでせうか?」
「それゃ先方は商賣ですから、こちらの身許さへ判ってゐれば貸して呉れるでせうけれども……急に百円なんて大金をどうなさるんです?」
「まァ、先刻の寄附金のやうなものなんですよ。」谷井は氣輕に笑った。
「貴郎のものを、貴郎がお金にして、どうお使ひにならうと、私等が兎や角いふ筋はないんですが、そんな事をなすってよろしいんでせうか……」
「實はね、小母さん、僕の親友が急病で入院したんですよ。」
「あら、あの川路さんと仰有る方ですか?」
「いや、別の友達なんですよ。金の心配は僕が引受けたといって安心させてきたんですから。」
「まァ、さうですか……男のお友達同志といふのは、眞實に頼母敷いものでございますね……鳥渡拝見させて頂きますよ。大變御立派な時計ですこと……」
 主婦は初めて食卓(ちゃぶだい)の上にあった時計を手に取って、長い鎖を撮み上げた。
「それは僕が中學校を卒業した時に、母が祝って呉れたんですよ。まァ僕の唯一の寶みたいなものなんです。」
「失禮ですけれどもお母様は?」
「青山です。」

「青山?」主婦が聞返した。
「えゝ、お墓になってゐますよ。その時計は形見になって了ったんです。」
 谷井が鳥渡顏を曇らせたのを見て、主婦は默って了った。
「でも、母は僕の友人達の眞實によくして呉れた人でした。だから僕がこの時計を友達の爲に役立てたら、母は屹度喜んで呉れるでせう。」谷井は久時していった。
 主婦は王子までゆけば、心易くしてゐる家があるからといって、谷井に後を頼んで出掛けていった。
 谷井は暗くなってから、女一人を遠くまで使ひに出しては惡いと思ひながらも、自分で質屋の暖簾をくゞらないで濟んだことを考へて、ほっとした。彼はひとりになると、投げ出してあった夕刊を拾上げて、もう一度父の名を讀み返したり、ついぞ見た事のない運動記事などに眼を注いだりしてゐた。
 一時間許りして主婦が歸ってきた。
「生憎、旦那が不在だったものですから、明朝といふ事になったのですよ。では、この時計は明朝までそちらへお藏ひになって置いて下さい。」
「眞實に御苦勞さまでした。明日は大丈夫金になるでせうかね。」谷井は時計を受取りながら氣遣はしさうにいった。
「旦那さへゐれば、直ぐ出來るんですよ。それに現在は金が騰ってゐるさうですから、百円は充分間に合ひさうですよ。」
「さうですか……百円以上になって呉れゝば、尚いゝのですが………」
「明朝十時頃に來て呉れといってをりましたから、出來るだけ一杯につけて貰って來ませうね。」
 谷井は禮を述べて二階へ上ると、直ぐ寝床へ入った。枕の下へ入れた時計に、いよいよ明日は別れるのだと思ふと、秒(セコンド)を刻む音がいつになく、はっきりと耳元に響いてくる。――彼は亡くなった母には、自分の身邊の出來事を細大洩さず語る癖があった。現在母が生きてゐたなら、彼は麗子の事を一番澤山語るに違ひないと思った。
 翌朝、王子の質屋へ出掛けていった主婦は、正午近くに百二十円の現金をもって歸ってきた。
 谷井は金を受取ると、時計に感謝し、母に感謝し、主婦に感謝して、K病院へ向った。
 電車は遅々として、もどかしかったが、彼はいつの間にか、タキシー代を節約する事を學んでゐた。それに午前十一時からの手術と聞いてゐたので、その時刻に故意と遅れてゆくやうな氣持も手傳ってゐた。手術には是非立會ふつもりでゐたが、いよいよとなると、彼は何だか痛々しくて、到底見てはゐられないやうに思った。 ――がらんとした天井の高いコンクリートの手術室。手術台に横たはってゐる麗子を取圍んでゐる白衣の人々。露はな胸にざくりと入る小刀(メス)の閃き。白い胸に開く紅い花。骨を切斷する凄じい音――谷井は想像したゞけでも全身の神經に疼痛を感じた。それでも矢張り氣になって、病院前で電車を飛下りた彼が、急いで病室へいって見ると、寝台は空虚(から)で、その傍に波田井老人が青褪めた顏をして立ってゐた。
「手術は濟みましたか?」
 谷井は呼吸を彈ませながらいった。
「もう濟む頃だ。三十分位といふのが、もう四十分になってをるから……儂は中途から逃げてきたのぢゃ。あの骨を切斷る音がな、聞いてはをられぬわい……」
「では、小母さんお一人で立會ってゐらっしゃるのですね。」
 あゝ、百合野ぢゃ、斯うなると、女の方が確りしてをるわ……もう軈て戻ってくるだらうから、無事に濟むように祈るとしよう。」
 谷井は深い溜息をした。二人は椅子に腰を下して眼を閉ぢた。

 久時して廊下の外に數人の跫音が聞えた。谷井が立っていって扉を開けると、三人の看護婦が運搬車を押して靜かに部屋へ入ってきた。百合野は昂奮した顏をしてその傍に附き添ってゐた。
 寝台へ移された麗子は上氣した頬を柔かい羽根枕に埋めてすやすや眠りつゞけてゐる。
 波田井老人と百合野が窓際で何か小聲で話し合ってゐた。谷井は寝台の傍に立って、涙ぐましい氣持で、無心な寝顏を視守りながら口邊に寄ってくる蠅を追ってゐた。廊下からついて來たらしい二匹の蠅は、麻醉劑の匂ひでもすると見えて、追っても追っても、執拗く戻ってくる。
「……眞實に先刻は、はっとしましたよ。途中で麻醉が醒めかゝったものですからね。」と百合野がいった。
「手術が長かったので、こゝで待ってゐる十分間が、一時間にも、二時間にも思はれたよ。」波田井老人は腰を屈めてそっと麗子の顏を覗いた。
「最初は一ヶ所だけ手術をする豫定だったのださうですが、脇の下の方も不良くって、二ヶ所の切開をしたので、中途で最一度麻醉をかけ直したりして、それで時間がかゝったのですよ。」
 百合野は誰にいふとなくいった。谷井は百合野の視線にぶつかると、
「こんなにいつ迄も眼が覺めなくていゝんでせうか?」といひながら、時間を見るつもりで、無意識にポケットへ手をやった。そこには時計の代りに、ハトロン紙に包んだ紙幣が入ってゐた。彼は思ひ出してその包をそっと百合野に渡した。
「小母さん、差當りの費用に何卒……」
「まァ、左様でございますか……麗ちゃんも皆さんに親切にして頂いて、眞實に幸福でございます。」
 百合野は急に更って禮を述べたので、谷井は僅ばかりの金に對して、後めたいやうに感じた。
 その時、麗子の長い睫毛が微に動いた。谷井は椅子の上にあった新聞を卷いて、白い敷布(シーツ)の端に止ってゐる蠅を叩いた。
「ほゝゝほゝゝ。」麗子は不意に眼を開いて笑出した。
 波田井夫妻も、谷井も、ほっとしたやうに麗子の枕元へ集まった。
「氣分はどうぢゃね?」
「いゝ氣持……先刻からばたんばたんいふ音を何かと思って一生懸命に見ようとしても、どうしても眼が開かなかったのよ。やうやう薄眼を開けたら、谷井さんが新聞紙の刀を振廻してゐらっしゃるんでせう……可笑しくって……」
「蠅を追ってゐたんですよ……何處も苦しくはありませんか?」
「いゝえ、ちっとも……手術室へ入った時には怖くって胸がどきどきしましたけれども、麻醉をかけられたら、水のぽたぽた落ちる音や、先生が何か仰有る聲や小刀のかち合ふ音なんかゞ、段々音樂になっていったのよ……まるで管絃樂(オーケストラ)を聴いてゐるやうでしたわ……醒める時には大提琴(コントラバス)が自動車の警笛になったり、高音笛(ピッコロ)が電車の軋みに變ったり、バイオリンが谷井さんの蠅を叩く音に消えて了ったりして、段々に現實に返りましたのよ。」麗子は眼を輝かして熱語(うわごと)のやうにいった。
「麗ちゃんは眞實に幸福な人ですよ。こんな時にもいゝ音楽を聞いたりしてね……そんな風に晴々してゐるから、ぢき退院になるでせうよ。」百合野は安堵したやうに初めて椅子に腰を下した。
「まァ、何より焦らぬ事ぢゃ。病氣の方で退却するまで頑張る事だな。」波田井老人は泥鰌髭を引ぱりながらいった。
「あら、小父様は靖子さんの受賣りをしてゐらっしゃるわ……」麗子がまぜかへした。
「さうさう、靖子さんにお知らせしたものでせうかね?」百合野がいった。
「五六日で退院ですもの、御心配なさるといけないから、お知らせしない方がいゝわ。」
 麗子は何といふことなしに、谷井に微笑を送った。谷井はその微笑の裡に、全世界を自分のものにしたやうな誇と幸福を感じた。

金策
 麗子が入院してから十日目であった。病院の外には晴れた日が續いて、野球があったり、音樂會があったり、驛々の待合室や、電車や、乗合自動車(バス)に貼出されてゐる觀光列車のポスター等が、旅趣を唆ったりして、世をあげて人々は秋の日を樂しむでゐる。
 壁際の椅子に凭って、看護婦か、誰かの置忘れていったらしい婦人雜誌を膝の上へ擴げてゐた谷井は、窓外の青い空を、吸込まれるやうに凝視してゐる麗子を見て、
「何を考へてゐるのです?」
「何でもないの……あのね……お隣りの病室にゐた方ね……今朝退院なすったのよ……あの方は麗子より二日後で手術をなすったのに……」
「それゃ、頑固な、石燈籠みたいな人なんでせう、そんなのを羨むことはありませんよ。」谷井は大仰に兩肘を張って見せた。
「ほゝゝほゝゝゝ、そんな方ぢゃァありませんわ。十二位の可愛らしい男の子よ。」
「あゝ、さうですか。男の子っていふものは、犬の子みたいに早く病氣が癒るものですよ。」
「まァ、惡いことを仰有るのね……麗子のはどうしてこんなに永びくのでせう……」
「まだ。たった十日ぢゃァありませんか。一年も二年も入院してゐる人の事を考へてご覧なさい。」
「それもさうですわね……麗子ね……お部屋を變へて頂かうかと思ふのよ。」
「どうして? この病室が氣に入らないの?」
「そんな譯ではないんですけれども……ほら……淋しいでせう……ですから矢張り三等のお部屋の方が大勢で賑かでいゝわ。」麗子は谷井の顏色を窺ひながらいった。
 谷井は麗子が費用の事を氣にしてをるのを察して痛々しく思った。彼は時計を入質してつくった金が、もうとっくに無くなってゐるのを知ってゐた。
 この數日來、第二段の金策に就いて惱みぬいてゐた彼は、一層見榮も意地も捨てゝ、父の前に兜を脱がうかとさへ考へてゐた。純眞な麗子の生命を考へれば、自分のやうな何の價値もない男の、僅ばかりの意地などはどうでもいゝと思った。彼は麗子のいぢらしい言葉を聞いていよいよ決心を固めた。
「心配しないでゐらっしゃい。今に屹度いゝ事がきます。」
「誰に?」
「僕達二人に。」
 谷井は麗子の手をとって、微に顫えてゐる細い指先に接吻をした。麗子はその手をそっと引込めて、薔薇色に染った顏を白い蒲團の衿に埋めて了った。
 谷井は病院を出ると、夕暮の迫った街路を急立られるやうに歩いてゐた。
 矢來の家の表門は、相變らず冷かに閉ってゐた。その横手の路地を入ると、見知らぬ顏の小婢が裏門の前を掃いてゐた。いつの間にか女中が變ってゐた。一旦通り過ぎた谷井は、後戻りをして、
「あの、旦那様はゐらっしゃるかい?」
「えっ?」小婢は吃驚したやうに谷井を見上げた。
「まだ會社からお歸りにならないかい?」
「いゝえ。」
「この頃は、毎晩お歸りになるのかね?」
「はい……でも、今日は大阪へ御出張で會社からずっと東京驛へ……」小婢はそこまでいひかけて、何と思ったか、急に耳門の中へ逃げこんで了った。
「……何ですよ、そんな騒ぎをして……」
 勝手口の方で、聞馴れた老婢の聲がした。
「……あゝ氣味が惡い……變な人が……屹度、家の様子を探りにきたのよ……」
「早く方々の戸締りをして了ひなさいよ。」
 谷井は懐しい老婢の顏を想ひ浮べて、耳門の方へ歩きかけたが、思ひ直してそのまゝ裏通りへ出て了った。

 隣家の柱時計を覗くと、まだやっと六時になった許りであった。谷井は停車場で父に會ってどうしようといふ氣はなかったが、何處へゆくといふ的もなかったので、ふらふらと東京驛行の市營バスへ乗って了った。
 父が西下する時は大抵七時三十分の列車であった。それにはまだ小一時間あった。谷井は、一二等待合室の入口に旅行鞄を足下へ置いて立話をしてゐる二人連の男の陰から、一わたり室内を見廻した後で、入口に近い長椅子に空席を見出してそこへ腰を下した。
 三十分許りの中に、待合室の人々は入替り、立替りして同じ顏は殆どなくなって了った。依然として變らないのは谷井自身と、その隣りで先刻から大型の旅行案内を熱心に繰ってゐる黄色いトレンチコートを着た紳士だけであった。彼は赤革の靴を穿いて、鼠色のソフトを眉深に被ってゐた。
 谷井はもってゐた煙草を吸ひつくして了ったので、賣店へ買ひに出た次手に、簡單な食事を濟ましてきた。其時には最う先刻の紳士はゐないで、小さな信玄袋を膝に乗せた老婦人が孫らしい男の子と並んで腰かけてゐた。
 發車時間が迫って、四邊がざわめいてきた。
 谷井は少し距れたところから、改札口に列をつくってゐる乗客を一人々々物色してゐたが、列にはいふ迄もなく、後から後から續いてくる人波の中にも父の顏はなかった。
 彼は、ふと、若しそこに父を見出したとしても何になるだらうと思った。父には同伴者があるかも知れず、しかも出發間際である。さし迫った金策がどうなるといふのであらう。彼は自分の行爲が馬鹿氣てゐる事に氣付いて苦笑した。それでもまだ、最後の一人が改札口を出きって了ふまで、彼はそこに立盡くしてゐた。
 構外へ出た谷井は、數間先を、黄色いトレンチコートを着た先前の紳士が、急ぎ足に歩いてゆくのを見た。
 夢の中をゆくやうに、惘乎(ぼんやり)してゐた谷井は紳士の小刻みな、せかせかした歩調を見て、急に自分も敏速に活躍しなければならないと考へて、引しまった氣持になった。第一に念頭に浮んだのは、紀尾井町のお加代の家であった。
 四谷見付で青バスを乗り捨て、黒い樹影の迫った坂路を下りかけた谷井は、眞夏の日にお加代から金を引たくるやうにして、その坂路の石塊を蹴り散らしながら上ってきた事を思ひ出して、最初の勢ひこんでゐた氣持が挫けてきた。
 彼はそのまゝ引返して終はうとしたが、家の前に一台の人力車が停ってゐるのを見て、首を傾げながら傍へいった。
 植込の竹藪に、玄關の電燈が赤く照返ってゐる。玄關に人の氣勢(けはい)がして、襟に桂醫院と記した法被を着た車夫が、黒い折鞄をもって門を出てきた。
「三十分もしたら藥を取りにきて下さい。扁桃腺の熱だから、大して心配する事はない。」といふ醫者の聲が聞えた。
 谷井は、お加代がよく咽喉に繃帶を卷いてゐた事を想ひ出して、病人はお加代だなと思った。彼は屏風の蔭に藥壜などを並べて、仰向に眼を閉ぢてゐるお加代の骨々した鼻梁や、蒼白い頬などを想像しながら、黒い門を離れた。
 谷井は再び四谷見付の橋の上へ戻って、次にとるべき方法をあれこれと追ひながら、乗合自動車や電車を幾台もやり過してゐた。
 彼の眼の前には、暗い窪地になってゐる停車場の廣場を越えて、公設市場のネオンライトが、窓の多い建物を闇の中に浮上らせてゐる。色電燈の軒飾りをした明るい四谷の大通りを、人波と自動車の列が間斷なしに流れてゐる。
 谷井は初夏の日盛りに、そこでトンボ劇場の伴野に出會って、一緒に三河屋の食堂へいった事があった。彼は愛想のいゝ伴野や、太っ肚で横柄な中に何處か情味のある西嶋社長の顏などを、記憶の遠くに想ひ浮べてゐた。

「……何處へいったものかな……」谷井は東京にゐる親戚の誰彼を數へあげた。
 大井町に時計工場を經營してゐる古屋といふ家に、亡き母の姉が縁付いてゐる。そこには彼と同年輩の腹直な兄弟がゐて、二人とも揃って帝大へいってゐる。谷井は平素からその從兄弟逹を敬遠して、滅多に訪ねた事はなかった。そこへいって頼めば叔母は二十円や三十円の金なら快く出して呉れるに違ひないが伯父は親戚中でも有名な吝嗇(しまり)家であるから、到底九百円の相談にはなりさうもない。
 もう一軒、牛込の抜弁天に母方の親戚で、休職陸軍中將の三戸男爵といふのがある。そこは金持でもあり、老夫妻とも氣前が良く、殊に谷井を可愛がって呉れてゐたが、今度の家出事件では非常に憤慨してゐるとか聞いてゐるので、うっかり顏を出すと、床の間に飾ってある軍刀を振廻されさうである。結局彼は何處にも金を借りにゆくところはなかった。
 谷井はそこへ來かゝった堀の内行の青バスを見て、急に淀橋の川路を訪ねる氣になった。川路に會へば何かいゝ智慧が出さうに思った。
 淀橋の車庫では、川路がシャツの袖を捲りあげて、陽気な鼻唄を歌ひながら、自動車を洗ってゐた。
「やァ、珍しいな。丁度よかった。今日は日光までドライブしてきたんで、仕事を終ったところだ。さァ、先へあがって一服やってゐて呉れ給へ。直ぐゆくから。」
 川路は例によって元氣のいゝ調子でいった。谷井は勝手を知った二階へ上って、何も彼も元のまゝになってゐる部屋を懐しい氣持で見廻した。隅の卓子には相變らず緑色のシェードのかゝった電氣スタンドが置いてある。唯一つ變ってゐるのは、書架の上の花瓶に眞紅のダリアが挿してあった事である。
 階下では川路が大聲で内儀さんに何かいってゐたが、勢よく階段を上ってきて、
「君、飯は? まだなら其處へ一緒に出掛けようか。」
「僕は濟してきたが……」
「ぢゃァ、蕎麥位ならどうだね?」
「僕なら熱いお茶か何かゞ欲しいないな。」
「では、得意の珈琲を淹れるとしよう……時に麗ちゃんは入院してゐるんださうだね。昨夜遅くオリオン酒場へ寄って、白薔薇から聞いてびっくりしたよ。夜は惡いから明朝でも見舞にゆかうかと思ってゐたところだ。」
 川路は珈琲の支度をしながらいった。
「そんなところから知れたのか、實は一週間位で退院の豫定だったので、何處へも知らせないでゐたら、一日一日と延びて了ったんでね……」
「靖子さんに怨まれるぜ、尤も僕は昨夜の中に手紙を出しておいたが……病氣はどんな工合だね?」
「切開した部分が、どうした譯か一ヶ所、まだ癒着しないんだ。事によると、もう一度手術をやり直さなければならないかも知れない……それに毎日熱が出るんでね、現在のところ、いつ退院になるか、鳥渡見當がつかないんだよ。」
「波田井さんの家も、重ね重ねで大變だね、病院ぢゃァ費用もかゝるだらう。」川路はちらと谷井の顏を見た。
「それなんだよ……僕は金なんかの事で、あの人達を不幸にしておきたくないんだよ……」
「君が、僕を識らない前の、昔の谷井清だったらね……」
「僕は、父が今晩大阪へ出張するといふ事をきいたので、東京驛まで馳付けたんだけれども、到頭會へないで終ったよ。」
「ふむ……さういふ氣になって呉れたか……まァ、この珈琲をやって見て呉れ給へ。それからゆっくり話を聞かう、淹れ方は、土耳其(トルコ)式だ。」
 川路は鍋でぐらぐら煮立てた香の高い珈琲を、象牙色の薄手のカップに注いだ。

「話は別だが、君は西嶋氏を知ってゐたっけね。相變らず盛大にやってゐるのだらうか。」谷井は八方塞りの金策難のどん底で、最後の、たった一本の綱のやうな氣持で、西嶋の事を考へてゐた。
「あゝいふ商賣は不景氣だって大した影響はないだらう。僕も行かなければならない用があるんだが、あゝいふ豪い人を訪問するのは鳥渡億劫でね……」
「今日、矢來の家の前までいったんだが、どうも入り惡いね、不在と聞いて却ってホッとしたやうな氣になったよ……勝手に飛出した家だから、勝手に入ればいゝやうなものゝ、矢張りさうはゆかんものだね……關西へゆけばどうしても四五日はかゝるからな……今の場合、さう待ってはゐられないし……」
「金の事かね?」
「差當り、四五百円許り必要なんだが……」
「それゃ殘念な事をした。二三日前に聞かせて呉れたら、それ位の金は僕の手でどうにでもなったのだが、生憎新らしい車輛を購って了ったのでね……然し何とか心配して見よう。」
「有難う。だが親父に會はうとしてゐるのは、兜を脱ぐ事なんだから、成可くそこで始末をつけたいんだ……それで西嶋氏に會はうと思ってゐるんだ。」
 谷井は曾てトンボ劇場で働いてゐた時に、西嶋を通して毎月八十円の給料を父から支給されてゐた事を思ひ出してゐた。
「成程ね、それぢゃァ西嶋氏を煩はせるのもよからう……どうだ、これを返し旁々、早速訪問したら……」川路は本箱の抽斗から手巾に包んだ拳銃(ピストル)を出してきた。
「凄いものを所持ってゐるんだね……」谷井は手巾を解いて、毒虫のやうに、不氣味に黒く曲ってゐる拳銃を取上げた。
「危い! 彈丸(たま)が填ってゐるぞ……鳥渡した必要があって西嶋氏から借りたのだけれども……こんなものを手許へ置くと、何か事のあった時に面倒だから早く返して了はなければいけないんだ。」
「丁度いゝ、では僕が返しにゆかう。しかし今時分不意に訪問してもいゝかな。」
「一應電話をかけた方がいゝだらう。」
 谷井は階下へいって本郷の西嶋家へ電話をかけたが、主人はまだ歸宅しないといふ事であった。
「さうさう、すっかり忘れてゐた。今日は金曜日だから劇場にゐる筈だ。今何時かしら?」
 二階へ戻った谷井は書架を振返った。
「丁度九時半だ。事務所で會ふ方が手取り早くって却っていゝだらう。」と川路がいった。
 戸外は薄霧がかゝって、夕方から較べるとずっと氣温が騰ってゐた。谷井は鼠色のホームスパンの外套の下で、少し汗ばみながら電車通りへ出て、青バスへ乗った。
 バスは酷く混雜合ったゐて、丈の高い谷井は吊革にぶら下って、首を折り曲げたまゝ、二十五分の道中を前後左右に揺られ通しで、すっかり憂鬱になって了った。
 日比谷公園の附近から、霧はいよいよ深くなって、街路樹も、建物も、街の彩光も、厚ぼったい灰色の幕の中で喘いでゐた。
 築地の終點でバスを下りた谷井は、川路の部屋に煙草を忘れてきた事に気付いて、トンボ劇場の近くの煙草屋へよった。
 劇場の閉場(はね)る前で、一しきり往來はがらんとしてゐた。谷井が煙草屋の娘からバットを受取って、マッチを借りようとしてゐる時、二三間先の酒場から、一團の學生が野球の應援歌を呶鳴りながらよろめき出てきた。
 谷井はその中に級友の誰彼を見出して、娘の差出したマッチも受取らずに、周章てゝ往來を横切って了った。彼は電柱の陰に立って、WK二回戰に惨敗して殺氣立ってゐる連中をやり過してから、再び斜に車道を引返して、トンボ劇場の樂屋口へ通ずる路地へ入っていった。

舞臺裏の殺人
 金曜日、午後九時五十八分、トンボ劇場ではS會社のトーキー「メキシコの狼」の映寫中であった。物語りは終局に近づいてゐた。
――金塊を滿載した帆船が、洋々たる大河を遡ってゆく。甲板には數人の屈強な男がパイプを吻へながら骨牌に興じてゐる。
 突如、河畔の灌木の繁みに銃声が起った。甲板上の壯漢は見る見る死骸となり、或は重傷を負うて仆れた。「メキシコの狼」の襲撃である。彼等は小舟を飛ばして甲板に躍り込み、船上は條忽修羅の巷と化した。船員は撃殺され、金塊は電光石火の早業でボートに移された。彼等は死骸と負傷者を乗せた船に火を放って悠々と引揚げて了ふ。
 軈て夜となった。「メキシコの狼」の一黨は山中の窪地に篝火を焚いて、晝の闘ひに疲れて、ぐっすり寝込んで了ふ。團長のオーキンだけは眠れなかった。全アメリカを敵として闘ひ抜いてゐる彼には永久に平和な睡眠はこない。彼は武装を解いて、一人部下から離れて小高い丘に彳むで、限りなく擴がってゐる星月夜を仰ぎながら、いつ歸るとも知れない故郷の家を想ってゐた。
 突如、背後の叢が動いた、悸として振返ったオーキンの目前に、永年彼を附狙ってゐた米國の捕吏ラブ大尉の灰色の眼が光ってゐた。大尉の右手に拳銃が握られ、その手練の筒先がオーキンの心臟に向ってゐた。
「そこを動くな! 聲を立てるな!」ラブ大尉は底力のある聲で命じた。
 「メキシコの狼」オーキンは冷かにせゝら笑った。
 轟然一發!
 ラブ大尉の放った彈丸は命中した。オーキンは地響と共に叢に仆れた――
 續いて、もう一發銃聲が起った。それはいつにない餘分な一發であった。
 弁士は鳥渡面喰って、
「只今のは、こだまが返ってきたのでありませう…………」と冗談口をいった。
 觀客はどっと笑ったが、弁士の兒玉は怪訝な顏をして銀幕の背後を覗いた。
 それから二三の場面があって幕となったのは十時五分過ぎであった。觀客は海嘯(つなみ)がひいてゆくやうに、一時に退場して了った。
 兒玉は首を傾げながら弁士席を出て、樂屋口へゆきかけたところで、寫眞技師の一人に衝當った。
「やァ、失禮……時に、先刻の銃聲のおまけは何ですね?」
 おまけとは? 技師は不思議さうに兒玉の顏を見た。
「オーキンがラブ大尉に一發喰はされた場面で、もう一發どかんとあったぢゃァないか。」
「さうだったかな……あすこは一發ときまってゐるんだが……怪しいな……」
 二人が連立って控室の扉に手をかけようとした時、弁士席の横手の螺旋階段を伴野が轉がるやうに馳下りてきた。
「大變だ! 大變だ! 社長が殺られてゐる! 誰かすぐ醫者を……」
「何ですって? 社長が?」
「社長室ですか?」兒玉が叫んだ。
 附近に居合せた數人の從業員が馳集まった。
 伴野が事務室から警察へ電話をかけてゐる間に、人々は階段を馳上って社長室へ殺到した。
 半開きになった扉口から、部屋の一部が見えた。暗い部屋を一つ隔(お)いて、奥に電燈が點いてゐる。大金庫の扉が開放しになって、その横手に社長が倒れて、縞ズボンを穿いた脚部だけが書卓の陰に見えてゐる。
「待った! 警察がくるまで誰も入っちゃァいけねえ!」
 兒玉は扉の前に立塞って、一同を制した。
「犯人はどうした! まだその邊にゐるかも知れないぞ!」
「早く方々の出口を閉めて了へ! 窓も閉めるんだぞ!」と誰かゞ叫んだ。
 二三の從業員が要所々々へ飛んだ。

 間もなく、所轄築地署から係官の一行が到着した。
 西嶋は心臟部に彈丸を受けて即死してゐた。庶務課の報告によると、金庫内には千八百円程の現金があった筈であるのに夫等は悉く紛失してゐた。
 兇器と見做されるコルト式六連發の拳銃は一發射っただけで、現場の入口に近い絨毯の上に遺棄してあった。
 最初に死體を發見した伴野は、
「私は今晩は大東新聞社の映畫鑑賞會に出席して、そのまゝ歸宅する心算でしたが、庶務所へ書類を忘れていったので、それを取りに戻り、二階へ上ってゆくと、既に歸宅した筈の社長の部屋に電燈が點いてゐるのです。それに扉が開放しになってゐたから、何氣なく覗くとこの有様だったのです。この拳銃は確に西嶋氏のものです。以前二三回、暴力團が強請に來たりしたものですから、社長は護身用の爲に常に書卓の右側の二番目の抽斗に入れておきました。 威嚇の爲ですから平生は空彈を装填(こめ)てあった筈ですが、どういふ譯で實彈が入ってゐたものでせうか……最近この拳銃を私がいつ見たかと仰有るのですか……さうです、一ヶ月程以前だと思ひます。御承知の通りこの社長室は、樂屋口はいふまでもなく、來ようと思へば觀客席からもくる事が出來るので、ギャングの横行する近頃、物騒だといふ話から、社長はこれがあれば安心だといって、私に見せた事がありました。その時以來、拳銃は書卓(デスク)の抽斗にあったものと思ひます。 犯人の心當りといふやうなものは一向ありません。尤も社長が夜十時近くまでこゝに殘ってゐるのは、毎週金曜日の封切日ときまってをりますから、多少その間の消息を知ってをるものゝ所業ではないかと思はれます。以前強請にきた暴力團は、舊い事でもありますし、何處の何者とも見當がついてをりません。」と述べた。
 弁士の兒玉は、
「犯行のあったのは、的確に十時二分であります。私は映畫の説明中、銀幕(スクリーン)の上の人物が拳銃を射って了った後で、更に一發の銃聲が舞台裏に起ったので、實に奇怪千万だと思ってをりました。今にして思へば、その一發が實に社長の生命を奪ったのでありました。それともう一つ、後になって思ひ合せた事は、「メキシコの狼」の映寫中、即ちオーキンの一乾分「三本指」が酒場で射殺される前後、正確に申しますと、九時四十分頃に、螺旋階段を昇ってゆく怪しき人物を見掛けました。 私は説明中は滅多に他見(よそみ)はしない件質(たち)ですが、何か目がしらに映ったので、ひょいと振向くと、鼠色の外套を着た男の後姿を見たのです。ほんの一瞬時の事でしたから、鼠色の外套以外に何等の材料を提供する事の出來ないのは甚だ遺憾であります。」
 兒玉の陳述による鼠色の外套を着た怪しい人物を見掛けたといふ者がもう一人ゐた。それは普通觀覧席の案内人、小野といふ娘であった。
「閉場の間近になりましたので、私は洗面所へお化粧直しにいった次手に、約束してあったお友達が來てゐるか、どうかと思って、樂屋口の通路を覗きますと、鼠色の外套を着た丈の高い、若い方が四邊をきょろきょろ見廻してをりました。見た事のない人でしたから、何だらうと思ひましたけれども、私はそのまゝ皆さんのゐる方へ戻ってきて了ひました。それは丁度十時でした。」
 小野は色白の、愛嬌のある娘で、この秋になってから採用になった案内人である。彼女は約束をした友達といふのは何者かと、司法主任に追求されて、同じ館の事務所に勤めてゐる給仕の中村と一緒に、銀ぶらをして歸るつもりだった旨を、顏を赧らめながら語った。
 鼠色の外套が有力な犯人の手掛りとなった。然るにそれを覆へす新たな證人が現れた。

 樂屋口に曲木椅子は置いてあるが、滅多にそこにゐた事のない受付の老人は、
「さういへば九時半頃、變な野郎が舞台裏へ入ってゆくのを俺は見たよ。だが、誰が何といったって、鼠色の外套ぢゃァねえ。野郎は確に黄色の外套を着てゐやがった。」と頑強に鼠色の外套を否定した。しかし彼は怠けものゝ呑んだくれで、その時も酒臭い息を吹いてゐたので、余りその證言に重きをおくものはなかった。
 宣傳部の事務員、東はその日は夜勤の當番で、社長室と同じ二階にある事務所にゐた。彼は、
「別にこれといふ程の用事はありませんでしたが、館が閉場(はね)るまで事務所に詰めてゐる規定なので、私は火鉢の傍で雜誌を擴げて、うつらうつらしてをりました。其時、銃聲をきゝましたが、館ではギャングものをやってをりましたから、それだらうと思って格別氣にも留めないでゐましたが、私は睡氣ざましに珈琲でも飲まうと思って、廊下傳ひに一等觀客席の後の賣店へいった次手に、何氣なくカーテンの隙間から舞台を覗くと、丁度「三本指」の死骸が酒場から運び出される場面が映ってゐました。 私は珈琲を飲んだり、煙草を吸ったりしてゐる中に、寫眞が終りに近づいたので、急いで事務室へ戻りました。そして次週の映畫の梗概でも書かうと思って、ペンを執ると間もなく騒ぎが起ったので、驚いて飛出したのです。社長室と事務室とには呼鈴が通じてゐて、社長の方で用があればそれを押す事になってゐたので、吾々の方から社長室を覗きにゆくやうな事はありません。それで伴野さんが發見する迄は、同じ階にゐながら私は社長室の出來事を知らなかった譯です。」といった。
 犯人は社長と面識あるものといふ事に一同の意見が一致した。
 被害者が呼鈴を鳴らさなかった事(若し見知らぬ闖入者の場合であったなら、被害者は呼鈴を押して急を告げた筈である。)
 兇器に用ゐられたと推定される拳銃が、被害者の所有品であった事(強盗なら自分の兇器を用意してきた筈である。)
「しかし、被害者が面識あるものと對談中、口論をして拳銃で相手を嚇し、それを加害者が奪ひ取って相手を射殺したといふ事も考へられるが、それにしては格闘の形跡のないのが不思議だ。」司法主任は首を傾げながら、書卓の上に倒れてゐるインキ壺を凝視した。小さな池をつくってゐる赤インキは、書卓の端を傳って牀へ滴れてゐる。書卓の縁には刷毛で刷いたやうに赤インキが附着いてゐた。
 鼠色の外套を着た若い男に就いて、劇場のゐまわりを調べに出た刑事の一人が、それらしい青年を見掛けたといふ煙草屋の娘の陳述を齎らせた。
 彼女の證言は次の通りであった。
「はっきりは覺えてをりませんが、何でも十時近くだったと思ひます。鼠色の外套を着て、同じ色のソフト帽を被った丈の高い二十四五の學生風の人が、五円紙幣を出して、バットを一箱買ひまして、剰(つり)錢を受取りながら、マッチを貸して呉れといひましたから、棚を探してゐる中に、不意に店を飛出して、向ふ側へ馳けていって了ひました。どうしたのかと思って覗いてゐると、その人は電柱の蔭にかくれてゐて、往來に人通りが絶えてから、車道を横切ってトンボ劇場の樂屋口の方へ入ってゆきました。色の淺黒い、二重瞼の立派なお方でした。」
 鼠色の外套を着た問題の人物が、谷井清であるといふ事は、其晩の中に判明して了った。それは彼が九時二十分頃、本郷西片町の西嶋家へ電話をかけて、姓名を名乗って主人の在否を訊ねた事實が舉ったからである。
 それに案内人の小野、及び煙草屋の娘の陳述による青年の人相と、谷井に面識をもってゐる劇場の從業員等の證言が合致してゐた。

 谷井の前に嚴重な捜査網が張られた。
 伴野の口から谷井が本郷邊のギャレージで働いてゐる云々と聞いて、本郷方面のギャレージを片端から調べ歩いてゐた刑事達は、翌日の午前中にやうやくOKタキシーを突止めた。尾久の宿もそこから手繰り出された。
 刑事の齎す報告は孰れも谷井の犯行を指してゐた。
 A刑事
――本郷上富士前のOKタキシーに谷井が務めるやうになったのは、八月下旬で足掛け三ヶ月になる。彼は勤勉で義理堅く、仲間の受けも良かったが、多少短氣で喧嘩ぽいところがあった。
 事件發生當日、即ち金曜日は午前九時から出番であったにも拘らず、無斷で缺勤した。彼はこの數日來非常に憂鬱で、いつになく元氣がなかった。
 B刑事
――谷井清はこの數ヶ月間、上尾久町三〇〇二番地、片山梅吉方の二階に間借をしてゐて、默って家を明けた事は一度もなかった。然るに問題の金曜日には早朝に宿を出たきり、未だに歸宅しない。當日宿を出た時は紺無地の背廣に鼠色のホームスパンの合外套を着て、鼠色に黒いバンドのついたソフト帽を被ってゐた。最近彼は友人の入院費用にあてるのだといって、鎖付の金側時計を百二十円で入質したが、病人の經過が捗々しくないので、更に金策をしなければならないといってゐた。
 入院中の友人とは何者であるか、また、病院は何處であるかも宿の者達は知らなかった。
 C刑事
――谷井清は著名な實業家第一銀行の重役谷井榮輔の獨息子で、本年五月何かの事情で家出をなし、爾來牛込矢來の自宅には一度も寄り付かない。谷井榮輔氏は商用の爲に金曜日午後九時二十五分東京驛發で大阪へ赴き、矢來の家は奉公人だけであった。
 當日夕刻、女中が裏門の前を掃いてゐた時、通りかゝった青年が主人の動靜を訊いて倉皇と立去ったといふ。青年の服装、容貌等によって、それが谷井清である事が想像されるにも拘らず、同家の老婢は極力それを否定し、若主人は東京には居ないと斷言した。因にこの老婢は清の乳母として雇はれて以來、二十余年谷井家に仕へてゐるものであるから、彼女が門前に現はれた青年を若主人でないと強張してゐる事は却って、彼が谷井清である事を裏書してゐるのではあるまいか。
 D刑事
――谷井清はK大學經濟科三學年に籍をおいてゐるが、保證人から病氣缺席の届が提て目下休學中である。成績は中どころであるが、級切っての伊達者で、凡そ黒門のある坂に上る程の者は、皆彼を知ってゐた。谷井と特に親交のあった野球應援團々長の櫻木は、春以來二三度銀座で谷井を見掛けたが、最近の消息は皆目知らない。彼が家を棄て、學友を離れたのは單なる一婦人の問題であって學友等は非常に遺憾としてゐる。
 目下はリーグ戰で殆ど寸暇のない有様であるが、いづれシーズンが終ったら、居所を突留めて徹底的に彼の性根を叩き直して、もう一度學校へ連れ戻す心算であるといってゐる。

 捜査本部にあてたトンボ劇場二階の社長室では、早朝から司法主任が現場の再踏査を行ってゐた。書卓の周圍を仔細に檢分してゐた彼は、
「おや! これは怪しいぞ!」と叫んで、壁に懸ってゐる額の縁を覗いた。そこには拳銃の彈丸が一發めり込んでゐた。
「さァ、あの拳銃は一發より射ってないのに、二發射った事になってゐるぞ!……すると犯人は別に拳銃を所持してゐたのかな?」
 その疑問は西嶋の死體から剔出した彈丸と、壁にめり込んでゐる彈丸とを檢べた上でなければ解く事が出來ない。

運命の吐息
 金曜日の晩の深い霧が、そのまま朝の日光を吸込んで、翌日は黄金色の靄に包まれたやうな穏やか日となった。
 K病院の麗子の病室では、靖子が睨んだり、笑ったり、怒る眞似をしたりして、百合野を面喰はせてゐた。
 川路は隅の椅子で、笑ひながらそれを眺めてゐた。
「靖子さん、小母様をそんなに苛めないで頂戴。一番の責任者は麗子なの、その次は谷井さんよ。私は病人でせう、だから谷井さんをお苛めなさいよ。」麗子が寝台の中から助太刀をした。
「眞實に酷いわ。こんな時には眞先に電報を打って知らせてくれるのが當り前なのに……リキが手紙をくれなかったら、知らないでゐるところだった。もうこんな事もないだらうけれども、今度變な遠慮をすると、僕、眞實に怒るよ。でも思ったより元氣でよかったね。手術したところはもう痛くはないんだらう……鳥渡手を出してご覧、相變らず細いね。」
 男のやうに腕組みをしてゐる靖子は、痩せた麗子の手首を握りながらいった。
「これでも、皆様のお庇で、余程良くなったのですよ。一時は顏色なんかも不良くて、随分心配しましたっけ……谷井さんには眞實にお世話になりました。」と百合野がいった。
「谷井君がゐて呉れてよかったね。彼は案外仔細(こまか)いところに氣がつくからな。」
「少し氣が付き過ぎる位だ。」川路はちらと麗子の方を見て陽気にいった。
「麗子の場合だから氣がつくのさ。あれで相手によると、まるで氣のつかないお坊ちゃんだからね。」
 靖子の分別臭い言葉に、川路は失笑した。壁の方に向いてお茶を淹れてゐた百合野も、一緒になって笑ひ聲をあげた。
「そんな惡口をいってゐると、谷井君がやってきますよ。」
 川路は、前夜西嶋のところへ、柄にもない金策にいった谷井が、どんな顏をしてやってくるだらうと思って、鳥渡愉快な氣がした。
「あゝ、早く、谷井君がくるといゝな。もう僕がきたんだから、彼一人でさう心配しなくてもいゝんだがな……」
 靖子は、川路から谷井が母の遺品だといって大切にしてゐた金時計を失くして了ってゐる事や、金の心配をして方々奔走してゐる事などを聞いてゐたので、一刻も早く彼を安心させてやりたいと思った。
 廊下の外に跫音がした。
「それ! 谷井君がきた。」川路は勢よく立上った。
「跫音が違ってよ。」麗子は微笑を浮べながら心得たやうにいったが、その彼女も、扉を推して入ってきた洋服姿の波田井老人を見て、目を瞠った。
「まァ! 貴郎! そんな服装をしていらしって……」百合野は老人の背後へ廻って、カラーの上まで覆さってゐる上衣の衿を下した。
 老人は、去年藏ったまゝの皺苦茶の冬服を着て、靴下も片ちんばに穿いてゐた。それに襟飾もつけてゐない。
「構はぬ、構はぬ、非常に急いでをったので、和服では敏活を欠くから、わざわざ洋服を着て出てきたのぢゃ、何? 襟飾か、こゝにある。」
 老人はポケットから絹糸で編んだ褐色の襟飾を撮出した。
「あら、小父様は要領が良いわね。嗤ふ奴にはその襟飾を出して見せるのね。」靖子が手を叩いて笑った。
「さうぢゃ、皆、陽氣に笑ふがいゝ。麗ちゃんのところへ素晴しい幸運が舞込んだのぢゃ。」
 呆れたり、驚いたり、笑ったりした顏が、一齊に老人の上に注がれた。

「儂がひとりで留守居をしてをるとな、津山愛子の代理人だといふ弁護士が來たのぢゃよ。」
 老人は勿體ぶって、一同の顏を見渡した後、
「津山愛子は現金五千円及び、勧業債券五千円、合計一万円を大江麗子に譲渡していったのぢゃ……百合野や、世の中はまだ見捨てたものではないな。」
「まァ、津山さんがねえ。」百合野は溜息を吐いた。
「おゝ素的! 津山愛子さんは金持の、年寄った伯母さんでせう?」靖子は麗子の肩を叩きながらいった。
「私、まるで知らないのよ……でも、津山愛子って私好きな名前よ……何故私にそんなにお金を下すったのでせう?」
 麗子は探るやうに波田井夫妻の顏を見較べた。
「津山愛子は、事情があって、名乗っては現られぬ麗ちゃんの親戚ぢゃ。若くて、綺麗で、立派な方の奥さんになってをる。現在は多分日本にはをられぬ筈だ。筋道の立った金なんだから安心して頂くがいゝ。」
 波田井老人は、第一銀行の預金通帳と、郵便局の債券保管證書とを麗子に渡した。
 一同は大きな波浪を乗切った時のやうな、何とも知れない溜息をした。
 久時沈默が續いた。
「麗子はよかったね。谷井君は喜ぶだらうけれども、少しは落膽(がっかり)するかも知れないよ。」
 靖子は小さなレースの手巾で、麗子の頬に流れてゐる涙を拭いてやった。
「谷井さんは遅うござんすこと、どうなすったんでせうね。」百合野は卓子の上の置時計を覗いた。
「あら、既う三時ね。こんなに皆が揃って、こんなに良いニュースが待ってゐるのに、どうして谷井君はやってこないんだろう。」
「もう來さうなものですね。」川路は扉口の方を眺めながらいった。
 靖子も、川路も、谷井が思ふやうに金策が出來ないで、やきもきしながら、彼方の街角に立止ったり、此方の街路樹の下で空を仰いだりしてゐる姿を想像してゐた。
 麗子はその喜悦を誰よりも谷井と倶に頒ちたいと希ってゐた。人々は皆、谷井一人の顏が揃はない爲に、この喜悦を完全なものにする事が出來ないやうな氣持でゐた。
 次に廊下に停った跫音も、皆の期待を裏切った。
 扉を開けて部屋を覗いた看護婦は、
「こちらに山邊靖子様と仰有る方がおゐでゞございませうか?」
「えゝゝ何か用?」靖子は扉口へいった。
「御面會の方が、屋上庭園でお待ちになってをります。」
「靖子に? 誰だらう?」
「お目に懸れば判るからと仰有ってゐらっしゃいました。」
「どんな方? 男? 女?」
「御婦人でゐらっしゃいます。」
 靖子は背後を振返って、
「リキ、御婦人の御面會だっていふから、僕鳥渡いってくるわ。」
「一緒にいってあげませうか? それとも……」川路は立上った。
「さうね、それともの方がいゝわ。ぢき濟むだらうと思ふから、此處で待ってゐてね。」
 靖子は看護婦の先に立って部屋を出ていった。
 廊下の先端から階段を上って、ラヂオが野球放送をやってゐる控間の傍を抜け、更に階段を上って屋上へ出ると、喫茶店の向ふに、陽の降りそゝいでゐる庭園があった。中央の花壇に滿開の黄菊が盛れ上ってゐる。
「あすこにゐらっしゃる方でございます。」
 看護婦の指さす方へ眼をやった靖子は、
「あら!」と輕い叫びをあげた。
 遠くの腰掛の傍に、丈のすらりとした婦人が、西に廻った柔かい夕陽を浴びて佇ってゐる。

 それは思ひ掛けない伊佐子であった。
「貴女は完全に復讐したわね。それでもまだ足りないの?」
 靖子は伊佐子の前に立止って、正面に相手を見据ゑた。
「私は勝利者のつもりでしたが、勝ったといふ事は悲しいことでした。私は靖子さんの宥想(ゆるし)を乞ひに來たのです……」
 伊佐子は長い睫毛を伏せた。その表情が余りに麗子に似てゐたので、靖子は鳥渡辟易(たじろ)いだ。
「……貴女は麗子の事を心配してゐるんでせう。私は貴女を憎んでも、麗子を憎む事は出來ないのですから、御安心なさい。」
「貴女が麗子を可愛がって、いろいろ面倒を見て下さる事を私はどんなに感謝してゐるか知れません……その事だけでも、私はお兄さんを復讐の道具に使った事を後悔してゐます……私がお父様を怨む氣持はどうにも仕方がない事ですけれども、その心持を貴女方に向けたのは、眞實に淺墓な事でした。」
「今更、そんな事をいふよりも、貴女が二度と私達の前に顏を出さない方がいゝんぢゃァないんですか。その方がお互の爲でせう。」
「私はもう二度とお目にかゝらないでせう。近い中に遠い外國へいって了ふのです。再び日本の土を踏まない覺悟で……それで私は最後のお願ひをしにきましたの……」
「麗子の事?」
「麗子は私が母である事を知ってゐるでせうか?」
「いゝえ、私はまだ何にも話しませんわ……話すやうな時機ではないと思ひましたのよ……」
「何卒お願ひですから私が母である事を永久に知らせないでおいて下さい、私のやうな不良い評判をもってゐる女が母でない方があの娘の爲です。あの娘は祖父母を實の兩親だと信じて成人したのですから、最後までさう思はせておきたいのです。万一何かの事で生みの母が生きてゐる事が判った場合には、母親は津山愛子だと仰有って下さい。」
 伊佐子の濡れた瞳に、沈みかけた夕日が赤く光った。間近に見る彼女の顏は、皮膚が白っぽく光澤(つや)を喪って眼許に黝い影が出來てゐた。
 靖子はこんなに老けた伊佐子を見た事がなかった。そこには一ヶ月程前の華やかさは微塵もなかった。彼女は黄金色に煙ってゐる日光の中で、段々縮んでいってそのまゝ崩れて了ふのではないかと思はれた。
「貴女の氣持、解ったやうな氣がするわ…………こんなに空は晴れてゐるのに、こんなに太陽は輝いてゐるのに、人間同志が暗い氣持で啀みあってゐるなんて、不合理よ。お互に厭な事は忘れて、いゝ事にばかり生きませう。麗子は私が引受けてよ。」靖子は兩手を擴げて明るい空を仰いだ。
「貴女がついてゐて下されば、麗子は屹度幸福になるでせう…………あの娘が入院しているといふ事を、探偵社から通知して寄越しましたので、私は嘆驚して神戸から出てきましたの………でも、病氣は心配する程でないと、先生から伺って安心しました……私は矢張り會はないで歸りませう………」
 二人は並んで階段を下りていった。玄關へ出ると、車寄につけてあった大型の自動車から、印度人が下りてきて、伊佐子の爲に扉を開けた。
 靖子はその自動車を見送って戻りかけた時、川路が夕刊新聞に眼を邊(そら)しながら、急ぎ足で門に入ってくるのを見た。彼は靖子の待ってゐるのも氣が付かないで通り過ぎやうとした。
「何をそんなに夢中になって讀んでゐるの?」康子が聲をかけると、
「あゝ、これをご覧なさい! 大事件です! こゝではいけない、戸外へ出ませう。」川路は聲を潜めて四邊を見廻した。

 人氣のない庭の大公孫樹の下で、新聞を擴げた川路は、
――舞台裏の惨劇(トンボ劇場主射殺さる)――といふ三面一杯の記事を指さしながら、
「こゝに、犯人谷村の行方を嚴探中とありますが、谷村といふのは谷井君の事にちがひありません。」
「眞逆、そんな馬鹿な事はないと思ふけれども……」
 麗子は一氣に記事を讀み通した。
「さういへば、この拳銃は谷井君が昨晩リキから預かって返しにいったのだったわね……」
「…………そして遺憾なことには、金庫の中の現金がそっくり盗まれてゐる…………時間といひ、西嶋氏を訪ねた動機といひ、何も彼も惡い事がそろってゐる…………」
「實に大變な事になったね…………一體どうしたらいゝんだらう。」
「…………直ぐ昂奮する男だからな…………然し僕は當人に會って、直接話をきくまでは何事も信じられないやうな氣がする………當分麗子さんの耳に入れないようにしなくては…………」
「眞實に、どうしてもう一日待ってくれなかったのだらうな…………今日になれば、まるで不必要な金策だったのに…………」
「可哀さうに、何處に隠れてゐるんだらう…………僕は何とかしてやらなければならない。」
「何處にゐるか、見當がついてゐるの?」
「さァ、心當りを片ッ端から捜して見ませう。僕はこのまゝ默って歸りますから、波田井さん逹には貴女からいゝやうにいって置いて下さい。」
「君、慥りやってね。」
 二人は緊張した顔を見交した。川路は靖子から受取った新聞を脇の下へ抱へ込んで、走るやうに門の外へ出ていった。
 街には、もうそろそろ灯が點いてゐた。停留所には野球歸りの群衆が溢れて、電車も、タキシーも客を滿載して疾走ってゐた。川路はペン章をつけた學生逹に交って、狹い舗道を鹽町の方へ向って歩いていった。
 SK二回戦に勝った學生達は朗かなさゞめきが、三々五々に黒い波浪のやうになって、遠くまで續いてゐた。
 川路は街角からタキシーに乗って、最初に尾久町へいった。
 二階の谷井の部屋は、雨戸が閉って眞暗であった。階下しも人影がなく、臺所の方に電燈が一つ點いてゐるだけであった。
 川路は家の前を通り過ぎて、谷井のゆきつけだと聞いてゐる公設市場傍の簡易食堂へ入った。店は可成り立込んでゐたが、川路はそこで永々と食事をして、客の空くのを待った。
 數人連れの商人風の男が賑かに出ていって了ふと、隅の食卓でライスカレーを食べてゐる學生が一人限りになった。
 帳場の傍で、娘の玉が夢中になって新聞に讀耽ってゐる。川路は殘りの食卓を片付けにきた女中に、
「あすこにゐる娘さんを呼んで呉れないか、鳥渡訊きたい事があるから。」といった。
 女中が傍へいって何かいふと、顏をあげた娘は川路の方を見て立ってきた。
「貴郎は刑事?」娘は聲を潜めていった。
「いゝえ、僕は谷井君の友達です。昨夜以來谷井君はこゝへ見えませんか?」
 娘は用心深く川路の顏を探ってゐたが、
「貴郎は眞實に警察の人ではなくって?」
「僕は新聞を見て心配して訪ねてきたのです。僕は谷井君の下宿にも泊りにきた事のある友達なんです。」
「では、貴郎は病院へ入院ってゐらしった方のお友達?…………それならいゝけれども、…………今日午前に下宿の小母さんの許へ用があっていってゐたら、警察の人達がきて谷井さんの事をいろいろ調べていったから、屹度何かあったんだらうと思ってゐたら、新聞に掲てゐるんでせう…………私は谷井さんの事だらうと心配してゐるのよ。」

行方
「今も宿の前を通ったら、二階が閉まってゐたし、こゝへ來る筈はないと思ったけれども……然し宿へ歸らないとなると、心配が事實になって來さうだな……」と川路は呟いた。
「私は谷井さんを信じてゐてよ。この間も新聞にバラバラ事件が現た時、私と小母さんとは、犯人の建具屋さんに同情したら、谷井さん一人それに反對して、どんな理由があっても殺人は恕(ゆる)せないといってゐらしったのよ。その谷井さんが人殺しをするなんて、絶對にないわ……若しもそんな事をしたとすれば、よくよくの事で、屹度恕せる理由があったと思ってよ……事によったら、お金を奪った人と、人殺しをした人とは別ぢゃァないかしら ……弁士が階段を昇ってゆく犯人を見たといふ時間と、案内人が谷井さんを見たといふ時間と、随分違ふぢゃァないの……それに世間には鼠色の外套を着てゐる人はいくらでもあるわ。それから樂屋口の受付のおぢいさんは、黄色い外套を着た人を見たといってゐるでせう? その通り、皆のいふ事が區々(まちまち)ではありませんか。」娘は悲しげに瞳を輝かした。
 川路は時間の相違に不審を抱かないではなかったが、彼女の大膽な斷定を聞いてゐる中に、暗い前途に一條の光明を見出したやうな氣がした。
 彼は中嶋運轉手に會ったら、何か聞込む事が出來るかも知れないと思って、上富士前のOKタキシーまでいったが、店の中で刑事らしい男が主人と立話をしてゐるのを見掛けて、逃げるやうにその前を通り過ぎて了った。迂闊にそんなところへ顏を出して、警察と自分とに聯絡のつく事を惧れたからである。彼は警察よりも先に谷井を見付けなければならないと思った。
 川路は谷井に會ひさへすればいゝやうな氣がして、彼の通りさうな銀座の西裏通りや、築地河岸などを足に任せて歩いた。その中に彼はふと自分の不在中に谷井が淀橋の宿へ訪ねてきたかも知れないと思って、尾張町の角から青バスへ乗りかけたが、その前に宿へ電話をかける爲に、オリオン酒場へ飛込んだ。
 彼は白薔薇の挨拶にも應へないで、慌てゝ電話室へ入った。電話口へ出た宿の主婦は、
「いゝえ、誰方もお見えになりませんよ……えゝ、電話もかゝって参りません。」と川路の性急な問ひに答へた。
「僕はすぐ歸りますからね……若し誰かきたら待たせておいて下さい。」
 川路が電話を切って、空いてゐたボックスに腰を下すと、白薔薇が傍へ來て、
「随分、お久しぶりね、どうかなすったの? 何か御心配?」
「矢張り顏に書いてあるかね……實は友人を捜してゐるんだよ。」
「……お友達といへば、いつか御一緒にいらしった谷井さんんね。私、あの方を妙なところでお見掛けしましたわ。」
「えっ? いつ?」
「昨夜よ。昨日は私公休日だったので、お客様と武蔵野館へ活動寫眞(シネマ)を觀にいって、その歸りにタイガーで御飯を食べて出てきたら、谷井さんがお隣の關東ホテルへ入っていらっしゃるのをお見掛けしましたのよ。」
「それは何時頃だい?」
「十一時近くだったでせうよ。あんなところへ、お泊りになるなんて、谷井さんらしくないと思ひましたわ。」といって了ってから、白薔薇は川路の氣むづかしい表情に氣がついて、それっきり谷井の噂を止めて了った。
 關東ホテルは設備も、料理も申分ないが、連込みが多いといふ事で、余り評判が良くなかった。
 川路は白薔薇のもってきたウヰスキーを一氣に飲干して急に席を立った。彼はオリオン酒場を出ると、眞直ぐに新宿の關東ホテルへタキシーを飛ばした。

 ホテルの帳場はがらんとして、若い事務員がたった一人、所在なげにバットを吹かしてゐた。
「昨夜、遅くなってからこゝへ泊りにきた客の事を調べにきたのだが……洋服を着た男だ。」
 川路がのってからそんな質問をしたので、事務員は刑事とでも思ったらしく、
「えゝ、記憶えてゐます。あの方なら先刻も皆で噂をしてゐたのです。」
「今、ゐるかね?」
「いゝえ、正午頃急に引揚げて了ひました。」
「さうか……無論行先は判らないだらうし……それで、噂になったって? 何かあったのかね?」
「御承知の通り、こゝにはいろいろ變り種がきますが、その方は昨夜、散々綺麗な御婦人に待ちぼうけを食はせておいて、今朝になって又、その婦人が訪ねてきたと思ったら、忽ち大喧嘩を始め、揚句の極(はて)は女には逃げられ、支配人からは油を搾られ、這々の體で引揚げてゆきましたよ。あれは一體どういふ人なんでせう。」事務員は笑ひながらいった。
「何だって? 婦人だって?……少し變だな……僕のいふのは鼠色の外套を着た丈の高い二十三四の男だぜ。」川路は相手が人違ひをしてゐるのだと思った。
「丈が高い? そりゃ少し違ふやうだな、私のいふのは眼鏡をかけた、口髭のある小柄な紳士です。何だか黄色の長い外套を腕にかけてゐたようでしたよ。
「それはまるで違ふ。僕のいふのは十一時近くにこゝへ來た若い男の事だ。」
「あゝ、さうですか、貴殿が遅くきた客と仰有ったので……こゝでは十一時はまだ宵の口ですからね……貴殿の仰有る方は確にお宿泊になったのでせうね。食堂は十二時まで開いてをりますけれども……」
 事務員は立っていって、台の上へ宿泊人名簿を擴げた。川路は宿泊人の姓名を指先で拾ってゆく中に、見覺えのある谷井の筆跡を發見した。そこには谷一郎と記してあったが、確に谷井に違ひなかった。川路は同じ項の最後の隅に記してある倉持茂といふ姓名に眼をやって、
「おや? 君のいふのはこの男の事かね? 小柄な、四十恰好の優男だらう。」と驚愕の聲をあげた。
「えゝ、その方です。昨夜一時過ぎにおいでになったものですからね……」
「待ってゐた婦人といふのは、大柄な、女優風の女ではなかったかね?」
「えゝ、さうです。中々美人でしたよ。九時に會ふ約束だったとかいふのが、到頭十一時近くまでお待ちになって歸って了ったのです。」
「その婦人が、今朝又、倉持を訪ねてきたといふのだね……それはいゝとして、僕のきゝたいのはこの谷一郎の事だ。」
「その方なら、今お話した御婦人と殆ど入れちがひにおいでになったのです。御婦人はその方を見ると、扉の陰に隠れて、遣り過してから慌てゝこゝを出てゆかれましたから、私は知った顏同志だなと睨みましたよ。その方は加減でも不良いと見えて、眞青な顏をして、碌に口も利かないで、十五號室にお入りになりました。そして今朝はまだ出勤しない中に發足(たた)れたさうです。」
 谷井はホテルを出てから何處へ往ったらう?
 川路は同じ疑問を繰返しながら、淀橋の宿へ歸っていった。彼は谷井の事で一杯になってゐる頭腦の奥の方で、偶然に發見した倉持と名乗ってゐる徳永や、それを訪ねていった伊佐子の事などをいろいろに想像してゐた。
――あの二人は何を計畫してゐるのだらう? どうせ碌なことではあるまい……。
 川路は宿へ着くなり、
「誰も訪ねて來ませんでしたか? 電話もかゝってきませんでしたか?」と同じ事を訊ねてから二階へ上った。

 夜は既う十一時になってゐた。主婦が戸締りをしようとすると、川路は、
「もう少し開けておいて下さい。後で僕が錠を下しますから。」といった。
 彼は二階の雨戸も一枚開けて、電燈を點けたまゝ、一晩中谷井を心待ちにしてゐたが、竟に夜があけて了った。
 朝の新聞には、「舞台裏の惨劇」の新事實として、円タクの運轉手某の證言が掲載されてゐた。
――兇行のあった金曜日の夜、十時十分頃、トンボ劇場の裏通りを流してゐると、鼠色の外套を着て、鼠色の中折帽を被った丈の高い青年が、啻ならぬ様子で走り出てきて、尾久町までといふ事で乗りましたが、淺草橋までゆくと、急に淀橋へやってくれといふので、云はれる通り車を廻しました。 ところが新宿の武蔵野館の傍で、こゝでよろしいといって下車りて了ひました。その客は非常に心配事でもあると見えて、溜息をしたり、兩手で頭を抱へ込んだりしてをりましたので、變だと思ひ、わざと愚圖々々して様子を窺ってゐると、タイガー酒場の隣りの關東ホテルへ入ってゆきました云々。
 新聞を下へ置いた川路は、急に外出の支度を始めた、彼は谷井が刻々と追ひ詰められていって、今日明日にも忌はしい罪名の下に逮捕されるのではないかと思った。一足先に谷井に會はなければならない。
 川路は簡単に朝食を濟ますと、警察と一騎打をするやうな悲壯な氣持で家を出た。第一の行先は荻窪であった。足利に會へば、何か智慧があるかも知れない。
 足利家の門の上に聳えてゐる高い欅の梢が朝日を受けて黄金色に光ってゐた。
 食事中であった足利は、思ひ掛けぬ早朝の訪問客を訝りながら、直ぐ應接間へ出てきた。
「やァ、いらっしゃい。横濱で何かあったのですか?」足利は靖子の事を云った。
「谷井君の事です。御存知ないのですか? 新聞で御覧になったでせう。トンボ劇場の………」
「あゝ! 谷村といふのがさうなんですか!」
「それで僕は、昨日から心配して方々探し歩いてゐるのです。」
 二人は扉口に立ったまゝ、早口に言葉を交はしてゐたが、足利はふと氣がついて、
「まァお掛けなさい。そしてゆっくり相談しませう。」といひながら、呼鈴を押して美波子を呼んだ。
 部屋へ入ってきた美波子は、緊張した空氣を感じて、無言で二人の顏を見較べてゐた。
「お前、新聞でトンボ劇場の事件を讀んだらう? ほら、いつか山邊君の葬式の時に會った西嶋といふ人が射殺された事件を……あれが谷井君らしいのだよ……」
 足利はらしいといふ言葉に殊更力を入れた。
「まァ!」
 美波子は眼を瞠ったまゝ、悄然とと立竦んでゐたが、急に部屋を出ていって、前日からの新聞を抱いてきた。
 川路は新聞に現はれた以外の前後の事情や、詳細い事實、それから尾久の簡易食堂のお玉の言葉などを語った。
 その傍で、新聞を讀返してゐた美波子は、突然、
「映寫中は電燈を消してある筈だのに……弁士が階段を上ってゆく人物を見たといふだけでも不思議だのに、どうして鼠色の外套だなんて、斷言出來たでせう。」といった。
「螺旋階段の途中には、紫色の電燈が點いてゐるのです。」と川路が説明した。
「鳥渡待って呉れ給へ……紫色の電燈だって?」足利は何事か思ひついたらしく昂奮した調子でいった。
「さうです。何處の館でも大抵同じですが、光線が邪魔にならないやうに、紫の電球を點けてゐます。」川路は次の言葉を期待するやうにぢっと相手の顏を視詰めた。

「紫色の電燈……そして受付の爺さんが黄色い外套の男を見たといってゐますね……その時刻と、弁士が階段を上ってゆく男を見たといふ時刻が符合してゐる。これゃ面白いぞ…………君! 弁士の見た男は鼠色の外套ではなくて、黄色い外套を着た男だよ。紫色の光線では、黄色は鼠色に見えるものだ!」足利は勝誇ったやうにいった。
 美波子は、日頃の兄の探偵癖が思はぬところで役立ったのを喜んだ。
「さうすると、矢張り殺した男と、盗んだ男とは別人といふ推定が成立する譯ですね。」川路がいった。
「でも……お金を盗ったのも、西嶋さんを射殺したのも、黄色い外套を着た男の所業で、谷井さんは不幸にも、偶然そこへ行合せたといふ事かも知れないわ。」美波子は勢込んでいった。
「然し、案内人が谷井君を見た時刻と、弁士が銃聲を聞いた時刻とが、略一致してゐる。それに谷井君がこの事件と全然無關係なものなら、こんなに逃げ隠れしてゐる筈はない。」と足利がいった。
 三人はもう一度暗礁に乗上げて了った。
 久時、沈默が續いた後で、美波子が、
「……眞實に、何處へいらしったのでせうね……若しやして、こゝへでもいらっしゃりはしないかしら……」と呟いて庭の方へ眼をやった。――初夏の日に、庭球の一團が賑かに笑ひさゞめきながら通った緑の隧道は、すっかり葉が落ちて、疎な條枝の隙間から、寒々とした淺黄色の空が覗いてゐた。
 彼女は、谷井がよく、ラケットを小脇に抱へて、庭先からのっそり露台へ入ってきた事などを思ひ出して、今にも彼が山茶花の咲きこぼれてゐる小徑に姿を現しさうな氣がした。
「さァ……こゝでいくら評議を重ねてゐても空しく貴重な時を過す許りだ……といって何處を捜すといふ的はなし……」川路はいつになく弱音を吐いた。
「これは君、何といっても矢張り谷井君のお父さんに會って相談する事が第一だ。弁護士なども頼んでおく必要があるでせうし……」
 足利は早速谷井家へ電話をかけた。主人は急報に接して、前夜大阪を發ち、丁度その朝東京へ着いたところであった。
 男二人は美波子を遺して、矢來の家へ自動車を飛ばした。絶望のどん底に沈んでゐた父親は、息子の爲に親身になって心配してゐる二人に會って、稍希望を見出した様子であった。
「清が自暴自棄になって、自殺でもしなければいゝが……」と憂慮したり、次の瞬間には、
「だが、一層自殺でもして呉れた方がいゝかな……生恥を曝すよりは……」などゝ、自殺を希ふやうな口吻を洩らしたりしてゐたが、結局は、
「何としても、可哀さうな清を救ってやらなければ……生きてゐて呉れさへすれば、又、救ふ途があるかも知れない……私はどうもあの子が自殺をしさうな氣がしてならない……何とかして私の心持を傳へる方法はないですかね……あの子の味方がゐる事を知らせてやりたい……」といふのが父親の心であった。
「御察し致します。嘸御心配でせう。あゝいふ純な、一本氣な人ですから……自殺の惧れがないとはいへませんね。どうでせう新聞へ廣告を出して見たら……」と足利がいった。
 川路は東京市内の各新聞に廣告する爲に、次のやうな文案をもって、廣告取次店通信社へ赴いた。
――清ヨ父ノ許ヘ歸レ。父ハ最後マデ汝ノ味方ナリ。矢來ノ父。

鎖された窓
 部屋の扉に内側から錠を下して、寝台に潜り込んだ谷井は、一晩中、四つの白い壁に睨まれつゞけてゐた。
 それでもいつか、うつらうつら淺い睡眠に落ちたと思ふと、不意に突のめされたやうに眼を覺した。前額にしっとりと汗を掻いて、咽喉が灼付くやうに乾いてゐた。
 彼は寝台から起出していって、洗面台の上に置いてあったフラスコの水を貪るやうに飲んでから、寝台の縁に腰を下した。彼はよれよれになったズボンに眼を落しながら、前夜の出來事がみんな夢であって呉れたらと思った。けれども傍の椅子の背にかけた上衣、襟飾、その下に脱ぎすてゝある靴、寝台の裾に投出してある鼠色の外套や、帽子が悉く昨夜といふ日のあった事を語ってゐる。
 いつか、もう朝になってゐた。谷井は立っていって、窓掛の隙間から、そっと外を覗いた。眼の下に別の世界のやうな往來の一部が擴がってゐる。高い建築物と建築物の間に、幾筋かの朝日が射込んで、白い壁や、物干場や、舗道に黄色い長方形の區劃を染抜いてゐる。運送屋の店先に空の貨物自動車(トラック)が停ってゐて、その傍を學生や、勤人達が通ってゆく。
 谷井は追縋ってくる不安と、押しつけられるやうな呼吸苦しさの中に、上衣を着たり、靴を穿いたり、幾度も帽子を被り直したりして、うろうろしてゐたが、その上ぢっとしてゐられなくなって、遮二無二階段を馳下りていった。
 帳場には誰もゐなかったが、谷井は廊下の途中から氣忙しく蟇口を出して、呆氣にとられてゐる電話交換台の女に、五円の部屋代を渡して逃げるやうにホテルを飛出した。
 谷井は電車道を横切ると、何といふ事なしに、目の前に停ってゐた電車に乗って了った。職人、學生、女工、勤人、軍人などが、ずらりと彼の對ひ側に並んでゐた。電車は大きく揺れながら、テニスコートのある空地へ出たり、樹影の多い神社の前を通ったりした。
 彼は電車が疾走ってゐる間だけが安全なやうな氣がしてゐた。停留所を幾つか過ぎてゆく中に、彼はやうやう自分の乗ってゐる電車が萬世橋行で、矢來の家に近い牛込北町の停留所を通る事に氣付いた。彼はまるで、打たれた犬が悲鳴をあげながら、夢中で犬小舎へ逃込むやうに、不識々々矢來の家へ足を向けてゐたのであった。
――北町の角には交番があるから、一つ手前の山伏町で下車りよう――と谷井はきめた。それに北町の停留所前には、古くから店舗を持ってゐる蒲團屋だの、魚屋だのがあって、彼は顏を知られてゐた。
 若松町邊で、二三人の客の乗降りがあったのを機會(しお)に、車掌台の近くへ出た谷井は、電車が山伏町の小學校前で速力を緩めると、
「こゝで下車ります。」といったが、赤煉瓦の塀と、煙草屋との横町に、ぴかりと光った巡査の佩劍を見て反射的に首を引込めた。
 車掌は谷井の背後でぶつぶつ口小言をいひながら紐を引いた。
 谷井は大きな風呂敷包を膝の上へ乗せた男の隣りに、狹い空席を見付けて、その陰に隠れるやうに腰を下した。
 彼は乗客の視線が一齊に自分の上に注がれたのを感じて、久時顏を伏せてゐたが、密に四邊を窺ふと、人々は殊更に無關心な様子を装って、新聞を讀んだり、窓外を眺めたりしてゐるやうに見えた。
 電車は飯田橋の交叉點を越えて河岸に沿うて疾走ってゐた。谷井は自分が段々にトンボ劇場の近くに運ばれつゝある事に氣付いて、急に恐ろしくなって、水道橋でその電車を乗りすてゝ了った。
 橋を越えた三崎町の裏通りには、コンクリート建の學校や、紅い看板を突出した喫茶店や、硝子戸にエネルギー療院と大書した建物などが並んでゐた。谷井は學生達のぞろぞろ歩いてゆく後に蹤いてゆく中に、九段下へ出た。

 彼はそこから再び電車に乗った。惘乎(ぼんやり)してゐる間に、その電車はもう一度彼を新宿へ運んで了った。彼には何處へ往かうとか、どうしようとかいふ方針はまるっきりついてゐなかった。たゞ泥沼の中をのた打ち廻ってゐる泥鰌のやうに、何かの陰に潜り込んで了ひたい衝動に追立てられてゐた。さうした彼の氣持には、新宿のざわざわした雜閙が一番ぴったりしてゐた。
 インバネス、外套、法被、ショール、ねんねこ半纏などの背に、鼻先を壓へられて、狹い舗道の人波の中を揺られてゐた彼の目前に、帝都座の繪看板が現れた。「平日午前十時開館」と記してあって、切符賣場に數人の客が並んでゐた。
 彼は突嗟に、そこへ入って晝間の時間を費さうと考へた。彼にとっては映畫は問題でなかった。彼は映寫中の暗い時間だけ、救はれたやうな氣になって、半ば眠りながら、同じ映畫を二周りも觀て、日が暮れてから館を出た。
 新宿通りは益々人が出流って、晝間より明るくなってゐた。谷井は稍々人通りの尠い横町へ入って、小さな化粧品店でバットを買った。彼が數間いったところに立止って、煙草に火を點けてゐると、
「もし、もし、」と誰かゞ聲を掛けた。谷井は悸っとして後も見ずにすたすた歩き出して、舗道に揉合ってゐる人込の中へ紛れ込んだが、
「もし、もし、」といふ同じ聲がすぐ間近く聞えたので、周章てゝ前の人々を掻分けるやうにして逃出した。
 街角のところで、新聞賣子が鈴を鳴らしてゐる。谷井は「トンボ劇場の惨劇」と大書した赤文字にぐっと胸を突かれて、彈き飛ばされたやうに、暗い横通りへ曲っていった。
「もし、もし、旦那!」がたがた跫音が迫ってくる。
 振返ると、黒っぽいスエーターを着た、帽子も被らない男が、右手を高く差上げて、
「もし、もし、旦那! これですよ!」と叫んでゐる。彼は呼吸を切らせながら傍へ馳寄ってきて、
「旦那、これを落しなすったでせう。私は煙草屋の前から追っかけて來たんですが、旦那は脚が長いから中々追付けなかった。」
 男が差出したのは蟇口であった。谷井はズボンの腰のポケットに手をやって、
「あゝ、さうでしたか、こゝへ入れたつもりだったが……どうも有難う。」
「旦那が煙草屋の店を出なすった時、何か足下へ落ちたやうだったから、傍へいって見たらこれだったんですよ。中味を檢べて下さいよ。」
 蟇口を受取った谷井は、白っちゃけたコール天のズボンに、跣足たびを穿いた見窄らしい勞働者風の男を、更めて見直した。
「わざわざ眞實に有難う。お禮をあげなくては……」谷井は蟇口を開けて、二枚しかない五円紙幣の一枚を差出した。
 男はそれを見て後退りをしながら、
「飛でもない、そんな大金を頂く理由があるもんですか。」といった。
「そんな遠慮はしない方がいゝ。君が正直に届けてくれたのだもの、これ位の事は當然さ。」
「拾ったものを自分の懐中へ入れて了ったら、盗人でさァ……私は随分いろいろな事をしてきましたが、盗人の眞似だけはした事がありませんよ。」
「さう堅い事を云はれちゃァ困るな……」谷井は紙幣の遣場に窮した。
「では……折角ですから蕎麥の一杯も御馳走になりますかな……實は二日計り仕事にあぶれて、今朝から金ちゃぶなんでさァ。」男は苦笑した。
 さう云はれると、谷井は昨夜から飲まず食はずでゐた事を思出して、急に空腹を覺えた。
「そりゃ丁度良かった。僕も何か食べようと思ってゐたところだから、一緒にやりませう。」と谷井がいった。

 二人が立話をしてゐる筋向ふに、茶めしおでんと書いた提灯が掲てゐた。
 谷井は恐縮してゐる男を促してそこへ入っていった。男はつけて貰った一本の酒に、前額を赤く染めて、頻りに身上話めいたことを繰返した。彼は小田原の者で、小さいながらも町で時計屋の店を出してゐたが、委託販賣で店へ置いてあった品や、顧客から修繕を依頼されてゐた金時計を、一人息子が拐帶して家を飛出して了ったのが、苦勞の始りだったといってゐる。
「……なァに、こっちは裸體になって、弁償するものは弁償して、他人様には一文だって御迷惑はかけませんでしたよ……惡い野郎と一口にいって了へばそれっきりですが、あれで割合に氣の優しい奴でしたから、今頃は後悔してゐやがるでせう。親も斯うして寒そうな面をしてゐやがるが、野郎も何處かで寒そうな面をしてゐやがるんだらうと思ふと、可哀相になりますよ。」
 男は笑ったやうな、泣いたやうな顏をして赤鍋から立騰る湯気を視詰めた。彼の眼尻には烏の趾のやうな皺が刻まれて、鬢の髪が半分白くなってゐた。
 谷井は急に立上って、五円紙幣を無理に男の掌に握らせて店を飛出した。敷石も、街路樹も、耳を掠めてゆく風も、空の星も、聲を揃へて、
「親はどうした! 親はどうした!」と責めたてゝゐる。
 谷井は街から街へ、彷徨歩いた揚句、いつか青山の墓地に入ってゐた。「東九號」と記した白い木標のところを左へ折れてゆくと、葉の凋落した栴檀樹が條枝を擴げてゐた。
 路傍に投げすてゝある花束に躓いたり、枯枝を踏んだりして大理石の墓碑の前によろめき込んだ谷井の靴音は、その下に眠ってゐる母を呼起した。
――母さん! 母さん! 僕はどうしたらいゝんでせう……僕はこのまゝ、母さんの傍へゆきませうか……。
 彼は冷い石に頬を押付けて、幾度も同じことを繰返した。彼の頬には熱い涙が止度なく流れてゐた。
 けれども彼は、さう簡單に人生を諦めて了ふ事は出來なかった。彼には希望が澤山あった。青い地中海も見たい。霧の深い倫敦の街も歩きたい。知らない瑞西の山にも登りたい。親しい數々の友達にも會ひたい。それ等の様々な執着の中で、何よりも彼を惹付けたのは麗子であった。
――麗子はどうしたらう! 自分がこんなになったのを知ったら、どんなに嘆くであらう!
 彼は一層天變地異でも起って、世の中の秩序が失くなって呉れたらと希った。
――どうしても、もう一度麗子に會はなければならない。死ぬのも、生きるのもそれからの事だ。
 谷井は愁しい母の微笑を頸筋に感じながら墓地を出た。青山の電車通りを横切って、神宮の外苑へ入ってゆくと、翌日のSK野球決勝戰の切符を買ふ爲に、宵の口から詰めかけてゐた連中が、アーケードを追はれて樹蔭の芝生に夜明けを待ってゐた。
 谷井が巡査の姿に脅されて、うろうろしてゐると、毛布の上にかたまり合ってゐた連中の一人が、
「こゝへお入りなさい。成可く大勢で、くっつき合ってゐる方が暖かでいゝですよ。」といった。
 谷井はその中へ入れて貰って、外套の下で溜息を吐いた。
「何としても、明日はこっちのものだ。優勝に關係がないだけに、捨身になってゐるから、氣が樂でさァ……」
「それだけ一方は堅くなってゐますからね……」
「第一、應援ぢゃァ、堂々とこっちが勝ってゐますよ。」
 その連中はみんなS大學贔屓であった。谷井は隣りの男の頒けてくれたキャラメルをしゃぶりながら、默ってそんな會話を聞いてゐた。

 翌朝、彼はその一團と共に一塁側の内野へ入った。
 穏やか日で、藤色の空にサロメチールの廣告輕氣球が浮んでゐた。沈園の端れの黄色い銀杏並木を越えて、緑につゝまれたK病院の一劃が見えてゐる。その先に淀橋のガスタンクが、遥に杜と人家を見下してゐる。
 ――あの時、何故あんなに周章たのだらう!
 相手が拳銃をあげたからといって、何もこっちから拳銃をうつ必要はなかったのに…………相手は確に仆れた…………怪我をさせた位で濟んでくれたらと希ってゐたが、新聞賣場のビラに、「惨劇」と書いてあったところをみると、僕は矢張り人殺しをして了ったのだ…………何といふ輕卒な、意氣地のない男なんだらう――
 谷井はしみじみ自分自身に愛想を盡して、一層白痴にでも、狂人にでもなって了へと思った。
 いつの間にか球場は一杯になって、外野の芝生まで黒々と觀客に埋められて了った。
 三塁側のスタンドに割れるやうな拍手が起った。谷井が續いて顏をあげると、應援團が一齊に起立して、翩翻と三色旗が翻ってゐる。遠い異國の港で日章旗を見たときのやうに谷井の眼が熱くなってきた。
 輕快なユニフォーム姿の選手達が、白鳥のやうにばらばらと球場に現はれた。そこには同級生のAもゐる。普通部時代から一緒だったBは、スタンドの前で輕い肩馴しをしてゐる。
 内野外野相呼應して、潮のやうに「陸の王者」が合唱された。その前で双手を振って指揮してゐるのは確に櫻木である。
 一回、二回と試合は回を追うて白熱していった。兩軍とも呼吸づまるやうな接戰裡に七回まで零で進んだが、俄然八回の表でS軍は貴重な一點を獲得し、歡呼と拍手の嵐が一塁側のスタンドを動揺めかした。その中で谷井一人だけは、石のやうになって唇を噛んでゐた。彼はいつか、トンボ劇場も、麗子も、川路も忘れてK軍の一投一打に魂を奪はれて了ってゐた。
 K軍の最後の攻撃となった。剪頭ヒットに出た八番打者は敢然二盗に成功したが、續く打者は三振と、捕手邪球に敢なく仆れた。
 最後に全K軍の大期待を背負ってボックスに立ったのはAであった。
 谷井は高鳴る心臟を抑へて眼を閉ぢた。
「昆っ!」
 突如、三塁側に怒涛のやうな感聲が湧上った。
「本塁打! 本塁打!」
 運命のサイレンが暮れかゝった空に、嚴に響渡った。
 掲示板のK2といふ文字が谷井の眼の中に大きくぼやけていった。
 熱狂したK軍のスタンドに、帽子が舞ひ、外套が飛び、紫の三角旗が渦を卷いた。
 一塁のスタンドに唯一人取殘された谷井は、止度なく流れてくる涙を、冷い夕風に曝してゐた。
 西の空は上の方まで眞赤に燒けてゐる。黄昏の迫ってゐる三塁のスタンドには、まだ黒い波浪が揺れて、「丘の上に雲があるよ……」が心ゆくまで唱はれてゐる。
 谷井は嘗って夫等の連中と腕を組合って高らかにエールをあげた折の、大空に溶込んでゆくやうな明朗な心境に歸った。
 ――何といふ正々堂々たるナインであらう!
 谷井は彼等の意氣に感激した。勝つとか、負けるとかは問題でない。最善(ベスト)を盡して戰った潔い態度である。
 谷井は風の音にも脅かされて、逃げ歩いてゐる卑怯な自分から翻然と覺醒めた。
 途は一つよりない。それは自首する事である。
 谷井は遥に三色旗に對って帽子を振った。そして昂然と頭をあげて、スタンドを一段づゝ下りていった。

對面
 築地署の一室で、谷井は大きな卓子を隔てゝ署長と對坐してゐた。その傍に司法主任、背後には刑事が二人控へてゐた。
 緑色の笠のかゝった卓上電燈が、血の氣の失せた谷井の顏を正面に照らして、横手の白壁に、人々の坊主頭を大きく映してゐる。
「……僕はどうしても金が欲しかったのです。實に下等な事ですが、場合によったら盗んでもいゝと思ってゐた程、金の必要を感じてゐたのです。それで僕は西嶋氏に會ってどんな條件にでも應じて、是非共金を手に入れようと思ひました。樂屋口には丁度誰もをりませんでしたので、勝手を知った廊下から、宣傳部事務所の階段を上って社長室へゆきました。
 扉の前で様子を窺ふと、幸ひ社長一人と見えて、話聲も聞えず、奥の部屋に電燈が點いて、書物の頁でも繰るやうな音がしてゐました。僕が思切って扉をあけると、金庫の前に後向きになって蹲んでゐた男が、不意に立上って、僕に拳銃を向けたと思ふと、凄じい銃聲が起りました。僕は反射的にポケットの拳銃を掴出して、いきなり射返しました。 そして無我夢中でそこを飛出し、觀覧席の便所傍から廊下へ出て、表口から逃去ったのです……拳銃は確か、現場へ投棄てゝきたらうと思ひますが、はっきりした事は記憶してをりません……」谷井は低いながらもはっきりした語調でいった。
「鳥渡、考へ直して見て下さい。西嶋氏と貴殿とは昵懇の間柄なのに、貴殿に對って拳銃をあげるとは受取れない話ですね。それは貴殿の思ひ違ひではありませんか?」と署長は穏かに質問した。
「それゃ無論ですとも、西嶋氏が僕に拳銃を向けるなんて、あり得ない事です。」
「……すると、金庫の前にゐた男は西嶋氏ではなかったといふのですね。では誰だったのです?」
 署長は司法主任と目交せをした。
「誰だか知りません。何處かで見たやうな顏でしたが思ひ出せません。尠くも僕がこの夏、劇場に勤めてゐた頃にはゐなかった人物です。」
「どんな男でした? 人相は?」
「突嗟の事で、殆ど記憶にありませんが、四十前後の色の白い、眼鏡をかけた男でした。」
「その男は鼠色の外套を着てゐませんでしたか?」
「確か、黄色い外套を着てゐたと思ひますが……その男が僕の彈丸を受けて、卓子の蔭に倒れた瞬間、黒い金庫の前を黄色い布が掠めていったやうな印象を受けました……実際あの男は僕にとっては何の縁(ゆかり)もない男で、殺す理由などは微塵もなかったのですが、つい狼狽してこんな結果を招いて了った事は實に申譯ないと思ってをります。」
「貴殿は、まだ新聞を讀んでゐないと見えますね。」
「えゝ、氣になってをりましたが、何だか恐ろしくって、どうしても新聞を買ふ氣になれませんでした。昨夜新宿で新聞賣場のビラに、トンボ劇場の惨劇と書出してあるのを見て、初めて相手を殺して了ったのだといふ事をはっきりと知ったのでした。」
「貴殿は社長室で、その男以外に誰も見ませんでしたか?」
「さァ、そんな事を確める余裕はありませんでした。」
「それから金はどうしました?」
「二十円近く所持ってゐましたけれども、金曜日の晩、關東ホテルへ泊って五円支拂ひましたし、それから土曜日には帝都座へ入ったり、遺失(おと)した蟇口を拾って呉れた老人に五円やったり、その他乗物代を費ひましたから、もう二三円しか殘ってゐないだらうと思ひます。」
 谷井は腰のポケットから蟇口を出して、卓子の端に置いた。
 署長は傍の司法主任に、
「金庫の金の事は、全然知らぬらしいね。」と囁いた。そして西嶋の拳銃がどうして谷井の手にあったかを訊ねた後に、一先づ彼を留置場へ送った。

 谷井は拳銃に就いては、川路を引合に出す事を惧れ、自分が夏休み中、山へでもいって射的の練習をする心算で西嶋から借りたものであって、そのまゝ忘れてゐたのを當夜返却する爲に持参したのであると申立てた。
 谷井の入れられた二坪程の留置場には、荒い銘仙絣の角袖の衣物を着て、頸に紅い絹手巾を卷いた色の生白い少年がゐるだけであった。彼は隅の方に慎ましく坐ってゐたが、谷井を見ると、妙に媚態を作って、
「いらっしゃいまし。」と挨拶をした。
 谷井は反對側の入口に近い羽目に凭りかゝって眼を閉ぢてゐた。そこへ刑事が熱い紅茶と、サンドウヰッチを持ってきて呉れた。
 少年は袂の先で頻りと爪を磨きながら、谷井の口許を羨しさうに視守ってゐた。谷井はそれに氣付いて、
「やらないかね?」といって食べ殘した皿を前へ押しやった。
 少年はにやりとして、半分以上殘ってゐたサンドウヰッチを忽ち平げて了った。
「あたい、ヤの目お七っていふのよ。以前は頭髪を長くしてゐたんだけれども、この前こゝへ來た時、切られて了ったのよ……あたい、女の子の服装の方が似合ふんだけど……」少年は遠慮しいしい谷井の傍へ寄ってきた。
 谷井は數日前の新聞で、月島界隈を毎月六の日に限って放火して歩く、お七氣取りの女装の變態少年の記事を讀んだ事を思ひ出した。
 何處かで、時計が十一時を打ってゐる。
 谷井は警察へ來てよかったと思った。金曜日以來初めて、往くべきところへ往ついたやうな安らかな氣持になる事が出來た。彼は不氣味な少年を睨み返してゐる中に、いつか重い瞼を閉ぢて了った。
 突然、廊下に跫音がした。先前の刑事が入ってきて、
「面會人ですよ。」と小聲でいった。
 半ば夢心地で、刑事の背後に蹤いていった谷井は、司法主任と對坐してゐる父親を見て、はっとして扉口に立竦んだ。父の傍に川路が随添ってゐる。
 扉口を振返った父親は、椅子を離れて、
「あゝ、清!」と叫んだ。
 父子の視線が警察官の頭上を越えてぴったりと會った。その一秒間に、春から秋にかけて父子の間に蟠ってゐた一切の縺が清算されて了った。そこには相呼ぶ肉身の魂があるのみであった。
「お父さん……濟みませんでした……」
「よく自首して呉れた……何か、私にして欲しいと思ふ事はないかね?」
「何にもありません。唯、僕がお父さんに對して申譯ないと思ってゐるこの心持だけを知って頂きたいと思ひます。」
「……お前は、金が欲しかったのださうだね……川路君から、よく聞いたが……」
「えゝ、今でも欲しいと思ってをります。」谷井の蒼褪めてゐた頬がさっと紅くなった。
「よく解ってゐる。私が川路君と相談してよいやうにするから、心配せぬがいゝ。」
「有難うございます。」首垂れた谷井の眼から涙が落ちた。
「川路君には大變お世話になった。お前からも禮をいひなさい。」
 谷井は默って川路の方を見た。
「谷井君、病院では非常に元氣だよ……はっきりどうっていふ事はいへないが、まァ氣を大きくもってゐ給へ。足利氏も君の事をいろいろ心配してゐて呉れる……」川路は何か意味を籠めた眼で、励すやうにぢっと谷井を見返した。
 二人が數分間の面會を濟して築地署を出たのは眞夜中過ぎであった。待たせてあった自動車に乗ると、
「どうも、いろいろお世話になりました。」と谷井の父親がいった。

「谷井君が、思ったより元氣なので、何より安心しました。足利氏もいろいろ骨を折ってゐますから、この先はそれ程御心配なさる事はないやうに思ひます。」と川路が慰めるやうにいった。
「無論、檢事が起訴して、裁判が決定すれば成るやうにしかならないのだから、この上、どうにも心配しようはない譯ですが……」
「いや、そんな事はありません。先刻の司法主任の話の様子でも、お氣付きでせうが、警察でも谷井君を眞犯人と認めてゐないやうです。」
「然し、……倅は西嶋氏を殺したのではなくて、眼鏡をかけた男を射殺したといってをるさうですが、伜以外にその事實を裏書する證據が舉らない分には、警察側で夫等の陳述を虚構と見做してもどうにも仕方のない事です。それに拳銃についても、倅が事實西嶋氏から借用してゐたものであるか、とうか、當人の陳述以外には何等の證據がないのですからね……金庫から盗まれた金の事だって、當人が現在所持してをらないといって、盗まなかったといふ證據にはならない……何處へでも隠匿する暇は充分にあった……」
「……自首までして出た谷井君が、虚構の申立てをするなんて事は斷じてないと思ひます……ですから、谷井君の目撃(み)たといふ眼鏡の男を探し出す事が何よりの急務です……あゝ、もうお宅へ着きました。ではいづれ明日お目にかゝります。」
 川路は、矢來の谷井家の前で父親を下すと、夜更けの街々を一氣に飛ばして淀橋のギャレージへ歸った。
 針仕事を片付けて寝支度をしてゐた主婦は、川路の爲に番茶をくみながら、彼が手を洗って入ってくるのを待って、
「随分、冷えますね。まァ熱いお茶でもあがってお寝みなさい……あゝ、忘れてゐました。足利さんと仰有る方が、二度も訪ねていらっしゃいましたよ。」
「いつ頃?」
「二度目にいらしった時は、十一時過ぎてゐましたっけ。」
 川路は腕時計を見て鳥渡思案してゐたが、荻窪の電話を呼出した。
 足利にとっては、十二時半や、一時はまだ宵の口であった。彼も出先から戻った許りらしく、すぐ電話口へ出た。
「……君もいま歸ったところですか……いろいろニュースがあるので、一刻も早く報告したいと思って御訪ねしたのですよ……えっ! 谷井君が自首しましたって?……これから此處へ來て呉れますって? 私の方ではちっとも差支へありません。ではお待ちしてをります。」と足利はいふのであった。
 川路は呆れ返ってゐる主婦に、
「戸締りをして了って下さいよ。どうせ歸ってくるのは朝だから………」といひ殘して再び自動車を引出した。
 足利は書齋のストーブに石炭をついで待ってゐた。
「こんなに遅く、御苦勞でしたね。さァ何卒火の傍へ寄って下さい。」
 足利はグラスに葡萄酒を注いで川路に薦めた。
「丁度十時頃に、谷井君のお父さんから電話がかゝって來たので、すぐ飛んでゆくと、谷井君が自首したといふ事で、築地署までいって會ってきました。司法主任の談話によると、谷井君は、西嶋氏が死んだ事は全然知らないで、自分では別な男を射殺したつもりでゐるらしいのです。」
「矢張り、僕の想像した通りですね。あれから僕は大活動をしましたよ。現場へいって事務員や、刑事などに會って、いろいろ聞出したり、關東ホテルへいって調べたり、麹町の富士見ホテルへいったりして、相當収穫を得て來ましたよ。」
「關東ホテルは解ってゐますが、富士見ホテルといふのはどういふ譯です?」
「ところが、關東ホテルだって、谷井君の事ではないですよ。」足利は得意氣にいった。

 川路は急に眼を輝かして、足利の方に手を差延べながら、
「金曜日の晩、一時過ぎにホテルへ戻った黄色い外套を着た男でせう! その男と犯罪とをどういふ風に結びつけました?」と叫んだ。
「黄色い外套が先づ第一ですが、その晩男の不在中に鳥波伊佐子が關東ホテルへ訪ねていった事と、それから西嶋氏は嘗つて伊佐子のパトロンであったといふ有名な事實があるでせう、この三つを結びつけて見たのです。」
「それから?」
「伊佐子が倉持とかいふ男へ遺していった電話番號から、富士見ホテルを突き止めたのですが、殘念ながら一足違ひで、伊佐子は例の印度人と一緒に、自動車で何處かへ出掛けて了った後でした。」
「その關東ホテルへ泊った倉持といふのが、徳永だといふ事を御存知ですか?」
「あゝ、それではごく最近まで伊佐子のパトロンになってゐた醫者ですな。」
 二人は顏を見合せて、それぞれ徳永の行方を腦裡に映し出さうとした。
 川路は何事か思ひついたらしく、玄關わきの電話室へ入っていったが、久時すると戻ってきて、
「本ものゝ倉持のところへ電話をかけてきました。倉持といふのは以前、徳永に雇はれてゐた運轉手で、今は高輪で獨立して商賣をやってゐる男です。それで今の話では徳永が夕方顏色を變へてやってきて、倉持の自動車を持出して、まるで狂人のやうになって、京濱國道を飛ばしていったきり、未だに消息が知れないといって心配してゐるところでした。」
「高飛びだな! この際徳永を逃して了っては困るな。尤も自動車といふ大荷物を背負ってゐるだけに、足どりはつき易い譯だが……何としても夜が明けなければ、手も足も出ないのだから、今の中に少しでも眠っておくとしようではありませんか。」
「さァ、では僕はお暇しませう。」川路が立ちかけた時、入口の扉が開いて、美波子がそっと顏を現した。
「誰方かと思ったら、川路さんでしたのね。何か變ったことでも?」
「そんなところにゐないで、寒いからこっちへお入り、失禮してそのまゝでいゝよ。」
 足利は寝卷の上に部屋着を引かけてゐる美波子に、谷井が自首して出たことなどを話した。
「でも、兄さんの仰有るもう一人の男といふのが早く捕りさへすればいゝんですわね……もうぢき夜が明けるわ……」
 美波子は針のやうに尖ってゐる枯枝の間に白みかゝってゐる空を窓掛の隙間から覗きながら、寒さうに肩を縮めた。
 森と、丘と、無數の屋根を越えた彼方の暗い留置場に、同じ暁の冷い光が忍込んでゆくのを美波子は感じてゐた。
「川路君、今から歸るなんて、そんなことを云はないで、泊ってゐらっしゃい。すぐ寝室の支度をさせるから。」と足利がいった。
「泊るも何も、ほんの一二時間の事ですから、何ならこの長椅子で、一寝みさせて頂きませうか。」
「台所の方でもそろそろ起きる頃だから、熱い珈琲でも淹れさせませうかね。」
「では、私がこしらへてきますわ。」
 美波子は甲斐々々しく、ストーブに石炭をくべたりして部屋を出ていった。
 三人がストーブの前で、珈琲を飲んでゐると、廊下の先端でけたゝましく電話の鈴が鳴った。
「今頃、何だらう?」と呟きながら、電話室へ入っていった足利は、酷く昂奮した様子で川路を呼んだ。
「箱根の宮の下から電話だ、伊佐子からだ。……えっ? 惨死?……徳永の自動車が崖から墜落しましたって?……宮の下ホテルですね……」
 電話機を耳にしてゐる足利の手が懼(ふる)へてゐた。

黎明
 電話を切った足利は。
「詳しい事は會ってからでなくては判らないけれども、伊佐子はトンボ劇場の殺人事件に對する重要な鍵を握ってゐるらしいのです。これから直ぐ箱根へ出掛けませう。」
「吾々だけいったのでは充分でばい。築地署の人に一緒に往って貰はなくては……」
 川路が築地署へ電話をかけると、彼の豫期通り、司法主任は當直で署に詰めてゐた。
 築地署へいった二人は、伊佐子の電話の内容を語ると共に、自動車で墜落惨死した徳永が、トンボ劇場事件の有力な容疑者の一人ではあるまいかといふ推測を強張した。その時は西嶋の死體から剔出された彈丸と、現場に遺棄してあった拳銃の彈丸との相異、其他から、谷井に對する嫌疑がやゝ稀薄になってゐた際だったので、司法主任は共に箱根へ急行する事にした。
 川路は警察署を出る前に、高輪の倉持へ電話をかけて、先方で落合ふ約束をした。
 横濱、國府津を過ぎ、一行を乗せた自動車が、小田原の早川口から坦々たる自動車道路にかゝった時、朝霧が一面に行手の山の裾を包んで、杳(はるか)な蒼空に百合の根のやうな凾根の山々が聳えてゐた。
 溪谷に沿って迂曲(うね)ってゐる山腹の道を登ってゆく中に、大平平を過ぎて宮の下に近い急カーブのところに、數人の男が群ってゐた。
 そこが自動車の墜落した現場であった。
 路傍に彳ってゐた巡査は、司法主任が傍へいって何事かいふと、急に恭しく擧手の禮をして崖の下を指さした。
 十數間程下の崖の中腹に、銀鼠色のパッカードがボンネットをへし曲げて、腹を見せて杉の木立に支へられてゐた。
「何しろ、あゝいふ有様なのですから、操縦者は殆ど即死でした。死體を引揚げるだけでも容易ではありませんでした。」
「事故のあったのは幾時頃だったね?」
「昨夜の九時前後でした。目撃者が報告に來たのは十分過ぎ位で、それから吾々が出張して死體を引揚げるまでには二時間以上かゝりました。」
「死體は?」
「分署へ収容してあります。」
「無論、過失だらうね……それとも?」
「本官は過失と認めます、目撃者は強羅小田原間の運送トラックの運轉手で、貨物を積んで小田原へ向ふ途中、丁度このカーブに差しかゝった時、下から非常な勢ひで登ってきた自動車が、彼のトラックを避けやうとした拍子に、過って墜落したのだといふ事です。」と巡査は語った。
 死體を収容してある分署は、登山電車宮の下停留所の降口にあった。
 川路は板の間の隅に置いてある死體の上の莚をまくって、血の塗れた顏を凝視した。金縁眼鏡は激突の際に飛散って了ったと見えて、跡形もなかったが、細い鼻梁に眼鏡の痕が遺ってゐる。白い前額に「へ」の字形の生々しい裂傷があって、そこから流出た血が、左の頬をべっとりと赤黒く染めてゐる。
「確に徳永です。」と川路がいった。
 司法主任と、分署の警部補とは、何か小聲で話合ひながら、死體の傍を離れて奥まった卓子の方へ歩いていった。
「これが所持品の全部です。」と警部補がいった。
 そこには小さく丸めた黄色の外套、褐色の中折帽子、拳銃、黒革の折鞄、旅行案内等が並んでゐた。
 司法主任は夫等を一つ一つ手に取って檢めた。黄色い外套の前バンドに平行して刷毛で刷いたやうな赤い汚點が附着いてゐる。
「赤インキですね。西嶋氏の書卓の上にこぼれてゐた……」と足利が呟いた。
 黒革の折鞄には、万年筆、手帳、書類等の他に、二千五百余円の現金が入ってゐた。
「これだけ材料が揃ってゐれば、谷井君は直ぐ放免になりますね。」足利が勢込んでいふと、司法主任は卓上の拳銃を取上げながら、
「この拳銃の彈丸が、西嶋氏の死體から剔出した彈丸と合ひさへすればですね……」と無愛想にいった。

 三人は夫から直ぐ宮の下ホテルへいって、伊佐子に名刺を通じた。
 給仕は人々を二階の一室に導いた。それはデルマチャン夫妻の借りてゐる三間續きの部屋の一つで、戸外から入ってきたものには暑過ぎる程、スチームが強くしてあった。
「中々、贅沢な部屋だな。」司法主任は部屋の中を見廻して、長椅子の背を押したり、花模様のついた厚い絨氈を踏んだりした揚句、ガラス窓を開けて、出入口でも見究めるやうに上を覗いたりした。
 川路と足利は、扉口に近い壁際に立って、默ってそれを眺めてゐた。
 間もなく、輕い靴音と共に、境の扉が開いて、金茶色の天鵞絨のドレスに、黒狐の毛皮を肩にかけた伊佐子が入ってきた。
「いらっしゃいまし、私、熱を出して伏ってをりましたものですから、大變お待たせして失禮致しました。さァ、何卒お掛け遊ばせ。」
 伊佐子は足利に話しかけながら、傍の二人に會釋をして椅子を薦めた。
「電話を有難うございました。御病氣のところへ、こんなに押かけて御迷惑でせうが、何卒一通りの事をお話し下さい。」と足利がいった。
「どうも、飛んだ事になって了ひました……私、この事で卷添へになると大變困るのですけれども……それで、餘程默ってゐようと……あの、こちらは川路さんと?……」伊佐子は急に言葉を切って、司法主任の方へ視線をやった。
「私は築地署のものです。彼は名刺を差出した。
 伊佐子は名刺を見て、當惑したやうに足利を顧みた。
「まだ御存知ないでせうが、谷井君は昨晩、築地署へ自首して出たのです。」足利が説明した。
「まァ! 谷井さんが! あの方は、自分の手で西嶋を殺したと思ってゐらっしゃるのでせうか……」
「谷井君は、現場にゐた西嶋氏以外の誰かを射殺したつもりでゐるのです。その誰かゞ、誰であるか、はっきりしない間は、谷井君の嫌疑が霽れない譯です。」足利は興奮した伊佐子の顏を視守りながらいった。
「そこにゐた男が誰であるかを、私にいへと仰有るのね。それは徳永です。私はあの男には、もうすっかり愛想をつかしてをりましたのに、先方では金さへあれば元通りになるおのと思込んで、私がデルマチャンと結婚した後までも執拗く附纏ってをりました。それで事件のあったあの金曜日には、私はあの男に會って、自分が眞劍にデルマチャンと結婚したのだといふ事を納得させるつもりで、關東ホテルへいったのでしたが、その晩は會へずに、翌日になって會ったのでした。 徳永は私に紙幣束を見せて、一緒に滿洲國へ逃げてくれと迫りました。私がそれを拒むと、あの男は拳銃を出して――私はお前の爲に人殺しまでしてきた。これで西嶋をやって了ったのだ。こゝにはまだ五發彈丸が殘ってゐるが、それをどう處分するかは、お前の出やう一つだ――などと嚇し文句を並べました。私は隙を見てそこを遁れ、富士見ホテルに滯在してゐる良人の許へ逃げ歸りました。私共は身邊に危險を感じて、他にいろいろ用事がありましたが、凡をすてゝ東京を逃出しました。 私共は横濱で買物をしてゐる時に、徳永の自動車をちらと見掛けましたが、その次に氣がついたのは小田原でした。見覺えのある銀鼠色のパッカードが私共の後を追跡してくるのです。すると宮の下の近くへきた時、前方から疾走ってくるトラックに出會ひました。私共の自動車は巧にそれを避けて疾走りつゞけましたが、次の鼻を迂った時に振返ると、二十間許り後れてきた徳永の自動車は、カーブを切り損くなって、崖下へ滑り落ちていったのです…… 私はもっと早く徳永の事を警察へ訴へなければならなかったのですけれども、良人が外國人で、よく事情を諒解(のみこめ)ないものですから、逃げ歩く事に追はれて、つい訴へ出る機會を失ってゐたのです。この點は眞實に申譯ありません。」伊佐子は深い溜息と共に毛皮の中へ顏を埋めた。

 彼女の陳述は充分に司法主任を滿足させた。
 一同は彼女の良人が、朝の散歩から歸ってこない中に、そこを引揚げた。
 分署の前に、人待ち顏に立ってゐた男が、川路を見ると、遠くから挨拶をして傍へやってきた。それはその朝電話をかけておいた倉持であった。
「眞實に豪い事になりました。大將は大分ウヰスキーをやってゐたらしいですよ。こんなことになると知ってゐたら、無理にでも私が運轉してくるのだった。」
「死體を引取る手續きは濟んだのかね?」と川路がいった。
「えゝ、それで自動車を待ってゐるんです……景氣の良い時には、随分世話になったんだから、いつか恩返しをしようと思ってゐたが、こんなことで大將の世話をしようとは思うはなかった。」倉持は眼を涙(うる)ませてゐた。
 待ってゐた自動車が中々こなかったので、川路の自動車で死骸を運ぶ事にして、司法主任と足利は一足先に東京へ歸った。
 後に殘った二人は、血に塗れた死骸の顏をアルコールで拭いたり、前額の傷に繃帶をしたりして自動車に積込んだ。
 川路は把手を握って、默々と自動車を飛ばしながら、漠然と徳永の一生を考へてゐた。秀才で、美貌で、三十そこそこで醫が博士の學位を●った彼。綱町の喜多川男爵家へ出入りをして、音樂會、芝居、乗馬、ゴルフ等にいつも美しい男爵夫人のお相手役をつとめてゐた華かな彼。裏面にはどんなからくりがあったか知れないが、兎に角腕一本で溜池に堂々たる病院を建てた彼。四十年の短い生涯に普通人の倍の仕事をしたと、常に豪語してゐた彼。考へて見れば彼の半生は金と女で盡きてゐた。川路はそれに對して、善いとも、惡いとも批判はしなかったが、淋しい一生だったと思った。
 彼はそんな事を考へながら、折々、背後を振返ると、倉持は自動車の振動で、死骸の顏からづり落ちてくる白布を、氣にしてかけ直してゐた。
 川路は高輪の倉持の家へ死骸を下して、一旦淀橋の宿へ歸るなり、築地署へ電話をかけると、谷井は司法主任の計ひで、その日の中に歸宅を許される事になってゐた。
 川路はその旨を谷井家へ通じておいて、直に築地署へ向った。
 石段の上で顏を見合せた二人は、
「やァ!」といって手を握り合った。そして何といふ事なしに横町を曲って、築地河岸へ出た。
 桃色の夕靄が川の面を立籠めて、遠くの橋の上を自動車や、行人が影繪のやうに動いてゐる。
「どうだね、腹は空ってゐないかね?」思ひ出したやうに川路が訊ねた。
「いや。」
「それとも、理髪店へでも寄ってゆくかね?」
「なァに……」谷井は笑ひながら、前額に亂れかゝってゐる頭髪を、首ごと振ひあげた。
 日の落ちる前の街には、ほんの一時、物忘れをしたやうな靜けさがあった。板塀の横から現てきた豆腐屋が、不意にラッパを吹鳴らした。
「何だか、子供の時みたやうな氣がするね。」川路は少年の頃、綱町の屋敷に近い、仙台原で遊びほうけてゐて、鴉の聲に追立てられながら家へ歸ってゆくと、茶の間に夕餉の膳が並んでゐた事などを想ひ出してゐた。
「君は、僕の家へ一緒に來て呉れるね。」と谷井がいった。
「さう、君の家へいって御馳走になる約束だったっけ。」
「そりゃいゝ……君、煙草を一本呉れないか。」
 谷井はいくらかほっとしたやうな顏をしてバットに火を點けた。二人は赤く染った夕空に煙草の煙を吹きながら、街角に立って円タクを待った。

 矢來の谷井家では、湯殿と臺所の間を往ったり來たりしてゐた老婢が、自動車の音をきいて眞先に玄關へ飛出した。女中達は畳に手をついて谷井を迎へたが、閾際に坐ってゐた老婢はいつ迄も顏をあげなかった。谷井は手拭で鼻を拭いてゐる老婢をちらと見て、
「老婢は丈夫で良いね。」といひながら、その傍を通って廊下續きの父の居間へいった。
 彼は廣い座敷にぽつねんと端坐してゐる父の前に頭を下げて、
「いろいろ、惡い事を澤山して了って申譯ありません。」といった。
「いや、お前がそんな風になったに就いては私にも責任がある。然し何といっても二人限りの家族なんだから、これからはお互ひに諒解するように努めたいものだ……川路君は來てをるだらうね。食事は一緒にするから、用意が出來るまで二階へいってゐたらよからう。」と父親がいった。彼はお辭儀をして部屋を出てゆく息子の顏に、十年も、十五年も以前の小學生が、學校で優等賞を貰って報告にきた時と同じやうな●●した表情を見出した。
 久しぶりで入った懐しい二階の書齋は、昨日の部屋のやうであった。縁側に立って庭を見下してゐた川路は、
「東京の眞中にも、こんな靜かなところがあったんだね……成程……考へて見ると君はよくあんな屋根裏の部屋で辛抱したものだね。」といひながら、電氣ストーブの前の安樂椅子に腰を下した。
「君の家に厄介になってゐた二ヶ月は忘れられない思出だね。」
「僕はぼんやりしてゐたが、階下の内儀さんは君を大切にして、こんなものは谷井さんは召上るまいなどゝいって、まるで僕とは人種が違ふやうに扱ってゐたっけな。」
「僕は我儘だったからな。」谷井は苦笑した。
 間もなく、女中が食事を知らせに來た。谷井は髭を剃ったり、服を着換へたりして、すっかり新らしい気持になって食卓に就いた。
 食事中、父親は主に川路と談話をしてゐた。谷井は父親がある尊敬と、親みとをもって川路に接してゐるのを見て、密に●謝してゐた。
「清、遅くならぬ中に病院へいってきたらどうだね。」父親が食事の後でいった。
 谷井は驚いて父の顏を見た。
「皆さんが心配してをるだらう。」
「では、さうしませう。」谷井が席を立ちかけると、
「それからお前は、家を出て以來、いろいろ不義理な借金をしたらうから、その後始末をつけなければいけない。今夜も私は先へ寝むから、明日の朝でもすっかり書出して銀行へ取りにくるがいゝ。川路君にも随分厄介をかけたらう。」父親は川路の方を見ながらいった。
 二人が病院へ着いて階段を上ってゆくと、麗子の病室から賑かな笑ひ聲が聞えてきた。
 そこには百合野の他に、足利と靖子がきてゐた。靖子は笑ひながら、薔薇や、カーネーションを天井へ投上げてゐた。
「お目出度う、谷井君! 今、麗子の氣持を表現してゐるところなのよ。靖子は最後の花を谷井の胸へぶつけた。
「まァ、まァ、眞實にようございmした。無論私共は何かの間違ひだらうと思ってをりましたが……麗ちゃんの耳へ入れまいと思って随分心配致しましたよ。先刻初めて足利さんから詳細しい話をして頂いて、麗ちゃんは青くなったり、赤くなったりしたんですよ……眞實に嘸お辛かったでせうね……」百合野は涙聲でくどくどといった。
「僕が氣がきかなかったものだから、皆さんに心配をかけて了ひました。」
 谷井は眞直ぐ寝台の傍へいった。麗子の眼に涙が溢れてきた。彼女はそれを笑ひに紛らして、傍の卓子を指さした。其處には途方もなく大きな菓子折が、卓子の縁からはみ出してゐた。
「麗子が喰辛棒だっていふ事が、露見して了ったわ。貴郎のお父様がこんなに澤山カステラを下すったのよ。」
 麗子の言葉に一同はもう一度陽氣に笑った。

青空タキシー
 赤坂アパートメントの、小ぢんまりした一室で、ペンを走らせてゐる靖子の左手の藥指に蒲鉾形の指輪が光ってゐた。
――…………結婚式の順序はそんな工合で滯りなく濟みました。ごく内輪ばかりの氣持の良い集りでした。
 足利の小父様や、小母様の御親切は筆や言葉では盡くせない位でございました。その點パヽからもよくお禮を申上げて下さい。
 私の事に就いて、パヽから万事を任されてゐらしった足利の小父様は、最初私達の結婚に躊躇されました。その理由は川路が學歴も、社会的地位もなく、財産も持ってゐないといふ事でした。けれどもそんなものは人間の價値を定める第一要素ではないといふ私の頑強な主張と、川路の人物に滿點を附してくれた足利富義君の口添へとが、竟に足利御夫婦を動かした次第でした。
 私達は氣の適った友達同志でした。私達の結婚はその友情を延長させたものです。
 私に幾許かの財産のある事は、この結婚を多少面倒にしました。自尊心の強い男は大抵の場合、金を所持ってゐる女との結婚を頭から輕蔑して了ふものですが、わが川路はそんなありふれた感情を超越して、眞直ぐに私を認めて呉れました。
 私達はこれから共同戰線を張って、生きた人生にぶつかってゆかうとしてをります。
 私がパヽから三年間の生活費として頂いてきたお金の大半は、まだそのまゝ殘ってをります。私は川路に會ってから、簡易生活の氣易さを學びました。私共は近いうちにある事業を始めるつもりで、只今着々と計畫を進めてをります。
 私達はまるで鳩の巣のやうな、たった二間しかない小さなアパートメントに住んでをりますが、その中に自分達の力で、理想的な住宅を、富士山の見える郊外の丘に建てる心算でをります。
 倫敦は相變らす毎日深い霧に閉ぢこめられて。晝間から電燈を點けてゐる事でせう。料理番の田中さん夫妻、秘書のジョンソン氏等、みんな忠實に働いてゐて呉れる事と思ひます。でも、パヽだっていつかは日本へ歸りたくなる時がくるでせうが、川路のこしらへた私達の住宅の設計圖の中には、一番日當の良いところに、パヽのお部屋がとってある事を、何卒御記憶下さい。
 パヽは夕方、お店から歸って、あの廣い居間で、暖爐の火を視詰めながら、マサの事を思ふ事が多いでせうが、川路のやうな立派な息子と、麗子のやうな優しい綺麗な娘とを同時に得たことによって、パヽのその愁しい心が少しでも慰められるやうに祈ってをります……

 靖子は廊下に靴音を聞いて、ふと、ペンを擱いた。けれども跫音はそのまゝ階段を上っていって了ったので、彼女は立っていって往來に面した窓を開けた。
 窓の前の大きな柳の條枝は、いつの間にか青々と芽ぐむで、軟かい風に揺れてゐた。靖子は麗かな春を、みんな吸込んで了ふやうに胸一杯に呼吸をした。
 谷井の祝ってくれた鳩時計は、たった今、三聲啼いていった許りであった。川路が歸るのは四時である。お茶の支度をするにしても、まだ三十分程間があったので、もう一度ペンを取上げた時、先前の靴音が戻ってきて、輕く入口の扉を叩いた。
「誰彼?」
 靖子が扉を開けると、紙包を幾つも抱へた谷井が、汗ばむだ額から帽子をずらして立ってゐた。
「三階だと聞いてゐたものだから、梯子段を運動してきちゃった。」
「君は僕等の巣を見にきて呉れた最初の訪問者だよ。」
 谷井は長椅子の上へ置いた荷物の中から、二個の紙包を選出して靖子に渡した。
「これは川邊君、こっちは靖ちゃんへのお土産ですよ。後は熱海行だ。」

「熱海の人達はどう?」
「僕は一昨日、鳥渡いって來ました。皆元氣で、丁度僕の行った時は、麗ちゃんは波田井さんのお伴で、磯釣りにいって歸ってきたところでした。顏なんか陽に焦けて、見違へる程丈夫になってゐましたよ。」
「矢張り、海岸はいゝのね、波田井さん達も眞實によかったわ。」
「小父さんは、脚がお不良いものですから、温泉は大變お氣に入ったやうでした。眞實にいゝ人達ですね、あゝいふ人達が見てゐてくれるから麗ちゃんは幸福ですよ……あんなケチな別莊だけれども、役に立ってよかったと思ってゐます。」
「眞實にいゝところへ君のパヽは別莊をもってゐたね。そしてパヽは麗子を氣に入ってゐるらしいから、万歳だよ。」
「尤も、麗ちゃんを嫌ひだなんていふ人間は、世界中何處を捜したってありはしない。」
「大變な勢ひね……まァ許してあげるわ。それで麗子はいゝ子だから、僕の手紙を讀んで、眞實の春がくるまで、海岸にゐるといったでせう。今日みたいな日は特別だけれども、まだ東京は寒いからね。」
「何だか、早く東京へ歸らなくてはならないなどゝいってゐましたが、どういふ譯でせうね。」
 谷井は熱海の停車場で、上り列車を待ってゐた時、麗子が何氣なく洩らした言葉を聞返すと、麗子は困ったやうな顏をしながら、到頭汽車が動出すまで、冗談と笑ひに紛らして了った事などを思ひ出してゐた。
「まだ、出てくるには少し早いけれども、實は麗子は青空タキシー株式會社の株主で、從業員の一人なのよ。」
「えっ、いつそんな會社が出來たのです。」谷井は呆氣にとられて、まぢまぢと靖子を視守った。
 その時、川路が勢よく、扉を開けて入ってきた。
「やァ、よく來てくれたね、何に、谷井君のお土産? 僕には煙草、靖ちゃんには香水? 例の舶來の罐入煙草だね、僕等には贅澤で自分では金を出して買へない代物だ。どうも有難う。」
 川路は靖子から渡された紙包を解いて、二つの緑色の罐を卓子の上へ竝べた。
「谷井君は、私達の青空タキシーの話をきいて、眼を丸くしてゐるところなのよ。」
 靖子は面白さうに笑ひながら、お茶の仕度にかゝった。
「靖ちゃん、場所は虎の門にきまったよ。地代や、權利金の話もすっかりまとまって、今公正證書を交してきたところさ。彼處なら自動車は樂に五十台入る。」
 川路は、赤い縁をとった白い紅茶々碗の、りんりん音を立てゝゐる食卓の向ふ側で、口笛を吹きながら、圓い大きな洋菓子にナイフを入れてゐる靖子と顏を見合せた。
「もう、そんなに計畫が進んでゐるのですか、それはちっとも知らなかった。青空タキシーとは靖ちゃんのつけさうな名前ですね。屹度社長は貴女でせう。」谷井は口許に微笑を浮かべながらいった。
「青空タキシーは、乗る客も、運轉手も、青空の下にゐるやうな愉快なものにしようといふ趣旨なの、車輛はシボレーを使ふが、全部空色に塗って、ラヂオを据付け、いつも新鮮な花を飾っておくのよ。その花の係りを麗子に振りあてようと思ってゐるのよ。安全第一が標語(モットー)で、絶對に事故を起さないといふのが看板なのよ。從って運轉手は三十才以上の禁酒家で、妻子あるものといふ條件だわ。その代り待遇は僕等の理想によってやるのだから素晴しいことよ。御覧なさい。株主の顏觸れはこの通り……」
 靖子は卓上の印刷物を谷井に示した。
 連なる株主の中には、大江麗子、足利富義、喜多川ワ、谷井榮輔などの名があった。

「おや、父も株主ですね…………僕も幾株か持たして貰ひたいな。」
 谷井は川路夫妻の抱負を聞いてゐる中に、段々新事業に引込まれていった。
「殘念ながらもう滿株よ。」
「では、僕も從業員の一人として働きたいな。」
「それも殘念ながら駄目よ。運轉手の條件には叶ってゐないし、事務員なら僕のところぢゃァ、大學出でなければ採用しないのだから……ねえ、リキ、さういふ規定でしたわね。」靖子は笑ひながら川路と頷首あった。
「強いてこの會社へ入りたいといふなら、まァもう一年辛抱して學校をやってくるんだな。切角授業料も納めてあるんだし、櫻木君だってあんなに心配して、幾度もこゝへ來た程なんだから……」川路は輕く父親の意志を傳へた。
「大學出でなくてはいけないなんて、そんな規定はたった今二人の目交せでこしらへたんでせう。」
「ところが、この一條を書加へたのは麗子なのよ。」
「仕方がないなァ……同級生がみんな卒業て了ふので、學校は興味がないんだけれども、麗ちゃんの爲に、もう一年勉強するか……」と谷井は苦笑した。
「どう? この紅茶おいしいでせう。お代りは如何。」靖子は自分の傍にある紅いレッテルを貼った丸い大きな罐を抱へるやうにしていった。
「それが御自慢のブルックボンドですね。」
「リプトンより、こくがあるでせう。倫敦では始終これを使ってゐたのよ。ホテル住居では贅沢澤はいへないけれども、自分の家ではせめてお茶位はね。」と靖子がいふと、川路は、
「これが問題の紅茶さ。何しろ青山から巣鴨邊まで、散々円タクを乗り廻して捜してきたんだそうだからね。まるでガソリンを飲んでゐるやうなものさ。」と彌次を飛ばした。
「そんな事を素破抜くと、もうお砂糖を入れてあげないからァ……それゃそうと足利君のところでは、いよいよ來月の初旬に家中で西班牙へゆくんですって……」靖子はお喋りに夢中になって、川路の二杯目の紅茶に角砂糖を四つも入れてゐた。
「足利君がゐなくなると、あの懐しいテニスコートとも、當分お別れだね。」と谷井がいった。
「それで、あの荻窪の家ね、知らない人に貸すのも厭だし、さうかといって三年間も閉切りにしておく譯にもゆかないから、僕等に只で住んで呉れないかといふ話だったのよ。でも僕達には仕事があるでせう。だから結局、波田井さん達に住んでもらふ事になったのよ。」
「それゃいゝですね。波田井さんの小父さんは園藝をやりたがってゐたんだし、……然し、家が廣過ぎて困りはしないかな。」
「なァに、南の方だけ使って、他は時々風を入れゝばいゝんだから。」と川路がいった。
 お茶が濟むと、谷井は長椅子の上の買物包を拾上げてそこを出た。
 赤坂見付へ出ると、夕陽の洪水の中で、濠の土手に紫色の松の影が踊ってゐた。谷井は初めて春の足跡を見るやうな氣持ちで、四邊を見廻した。彼は電車に乗るのも、円タクを拾ふのも忘れて濠に沿うた坂道を上っていったが、抱へてゐる荷物を思出して、急いで家路に就いた。
 彼は家へ歸るなり一階へ上って、直ぐ熱海へ送る小荷物をこしらへ始めた。麗子への露西亞チョコレートと香水、波田井夫妻には佃煮と羊かん等を木箱へ詰めて了ふと、口笛を吹きながら表書をした。
 出來上った小荷物を抱へて階下へ下りていった谷井は、勝手口に老婢の話聲を聞いて、
「誰か、郵便局へ小包を出しにいって呉れないか。」といひながら臺所を覗くと、丁度、お加代が挨拶をして歸ってゆくところであった。
 老婢は谷井を見ると、惡い事でもしてゐたやうに、周章てゝ勝手口の扉を閉めて、
「郵便局なら、私がいって参りませう。」といった。

「今のは紀尾井町の小母さんぢゃァないかね。直ぐいって呼んできてお呉れ、僕は會っていろいろ話したい事もあるし、お禮も云はなければならない。」
「お加代様をお呼びするのでございますか?」老婢は意外な面持で、谷井の顏色を窺った。
「さういってゐるぢゃァないか。早くいってきてお呉れ。第一台所からなんか、こそこそ歸へすといふ法はない。玄關からちゃんと座敷へお通してお呉れ。」
 老婢は谷井の言葉を聞いて、あたふたと戸外へ走り出た。
 程なく、小砂利をざくざく踏む音がして、老婢は何やら高聲に喋りながら、お加代を伴れて戻ってきた。
 谷井は敷居の外に遠慮してゐるお加代を、無理に座敷へ請じた。
「お伺ひするつもりではなかったのでございますが、郷里から苺がきましたものですから、お勝手口までお届けに参ったのでございます。」
「それはどうも有難う……實は僕の方から出掛けていって、夏以來のお禮をいったり、謝罪ったりしなければならなかったのですが、つい、ゆきそびれてゐたのです……お呼び返ししたりして眞實にわるいと思ってゐますが、丁度いゝ機會だと思って……」
「お禮だの、何だのと、勿體ない、どう致しまして……私の方こそ、不重寶を致しまして、お詫びに上るべきでございますのに……」お加代は恐縮して矢鱈にお辭儀をしてゐた。
「僕は偏見をもってゐたものですから、大變失禮な態度ばかりとってゐて、申譯ありませんでした。僕のせいか、これ迄滅多にこゝへお見えにならないやうでしたが、これからは何卒ちょいちょい來て下さい。そして裏口からなど入らないで、大威張りで玄關からいらしって下さい。僕の方からも押かけていっていつかのやうに切角の御馳走を逃げ歸ったりしないで、うんと御馳走になりますよ。」
 谷井はそんなことをいって、出來るだけ相手を氣易くさせるやうに努めた。そして彼女の歸る時には自分から附近の自動車々庫へ電話をかけて、紀尾井町まで自動車で送らせたりした。
 彼がお加代を見送って戻ってくると、茶の間に待構へてゐた老婢は、
「お加代様はどんなにお喜びなすったでせう。眞實にいゝ事をなさいました。」
「なァに、當然の事を、少し遅過ぎてしたのだよ。いゝ人だったんだな。」谷井はお加代の中途半端な境遇に同情する事が出來るやうな氣がした。そして一層正式に谷井家へ入って貰った方がいゝのではないかと思った。
「老婢、僕はこれから出掛けてくるよ。學校が始まると、忙しくなるから、今の中に以前厄介になった尾久の下宿の小母さんを訪問してこようと思ふんだ。何か買ってあげたいんだが、何がいゝだらうね。」
「さようでございますね。反物か何かになすったら如何でございませう。」
「反物って、それが困るんだ。どんなのがいゝんだらう。小母さんの年齢は五十位かな、いや三十位かな……えゝと老婢は幾歳だい?」
「いやでございますよ坊ちゃま……それより上野の松坂屋へでも一緒にいらしって銘仙か何かで、好きなものを選ばせておあげになったらよろしうございませう。」と老婢は笑ひながらいった。
 谷井は家を出て、裏通りを神樂坂の上まで歩いていった。賑かな坂路の兩側に露店が並んで、明い飾窓の前を人々が折重って動いてゐた。その上に、夜空が闊々(ひろびろ)と霽れあがって、春の星が潤むでゐた。
 自動車へ乗った彼は、銘仙の反物の事だの、簡易食堂のお玉が欲しがってゐた緑色の万年筆の事などを考へてゐたが、次の瞬間には熱海にゐる麗子の顏が彼を微笑させてゐた。

船出
 七號の岩壁に横着けになってゐる諏訪丸のサロンの一隅に、足利兄妹と、川路夫妻とがかたまり合って、朗らかな高調子で談笑してゐた。
 美波子は白粉氣のない、血色の良い顏をして、紺のコスチュームを着た肩に、白狐を伊達にかけてゐた。その傍に立ってゐる足利は見送りの誰彼に、遠くから目顏で挨拶をしながら話しつゞけてゐた。
 西班牙公使として赴任してゆく足利の父親は、朝野の見送人に取圍まれて、賑かに三鞭酒(シャンペン)を抜いてゐた。夫人は夫等の人々と歡待したり、その間に次男の勇介を循(たしな)めたりするのに忙しかった。その勇介は二三の學友を連れてきて、船中をわがもの顏に飛廻ってゐた。彼等は各自カメラを携ってゐて、盛に勇介の様々なポーズを撮ってゐる。勇介は船橋(ブリッヂ)に立ってゐる船長の傍へ昇っていったり、浮標を首にかけたりした。
 遠くから弟の活躍ぶりを眺めてゐた美波子は、
「これから一ヶ月許り、あの勇介猿の監督かと思ふと、うんざりしてよ。あの通り圖々しく、何處へでも潜込んで了ふんでせう。恥しくなるわ。」と顏を顰めた。
「あれでも二年經過って歸ってくる時には、背廣か何かを着込んで一ぱし紳士になってゐるでせうね。」川路がいった。
「一年でも、随分吾々の上に變化があったんだから、三年となると、相當いろいろなことがあるだらうね。君達が素晴しい青い鳥を見付けてくるように祈ってゐるよ……麗子はどうしたんだらう、出帆の時間は知ってゐる筈なのに……」靖子は腕時計に眼をやって四邊を見廻した。
「小母さんと二人で、まごまごしてゐるのかも知れない。」川路がいった。
「先刻、谷井君が探しにいったのですよ。」
「でも、鳥渡いって見てきませう。」川路は氣輕に人々の間を縫って甲板へ出ていった。
「麗子さんにまで來て頂いたりしては濟まないやうですね。病人は義理立なんかしなくてもいゝんですのにね。」足利は川路の後姿を見送りながらいった。
「いゝえ、病氣はすっかりいゝのよ、あの子は温順しいからお醫者に云はれた通り、四月一杯を嚴守してゐる譯なの。それでも今日はどんな暴風雨(あらし)でも、貴郎達を見送りにくるつもりなんですって、ほら、出てくれば谷井君にも會へるからね……」靖子は屈託のない調子でいったものゝ、ふと、美波子の心持を感じて口を噤んだ。
「物事は万時、良いやうになるものね……私も日本を離れるのは、今が丁度いゝ時だわ……私、あの人達が結婚して幸福になるやうに祈ってゐるわ。靖子さん、貴女慥り見てあげてね……」
「OK、僕は美波子に敬意を表するよ。」靖子は美波子の眸の中を見守りながら、幾度も頷首いた。
「今度、私達が歸朝する時は、横濱から青空タキシーの車輛をつらねて、東京へ繰込むつもりなんですから、それまで會社をつぶしては困りますよ。」
 足利は、鳥渡しんみりしてゐる女達の間に冗談を投げた。
「その點も、OK! 五十臺の車輛を百臺にしておきますよ。」
 其時、周章しく銅鑼が鳴り響いてきた。サロンの人達は一しきりざわめいて、彼方此方に万歳の聲が起った。
「ぢゃァ愉快にね……」靖子は美波子の手を堅く握った。
 そこへ川路が戻ってきて、
「ゐない! ゐない! 事によったら乗船券が手に入らなかったのかも知れません……では御機嫌よう!」
「有難う、何卒、皆さんによろしく。」
 足利は川路の方に手を差延べた。

「靖ちゃん、公使御夫妻に御挨拶をしなくては……」
 川路は靖子の腕をとって、人波を掻分けながら、足利夫妻に近づいて、
「良き航海(ボン・ボヤージ)を祈る。」の言葉を餞った。
 銅鑼の音に急立てられるやうに、二人が汽船を下りたところへ、谷井が百合野と麗子を伴れてきた。
「タキシーが間違へて五號の岩壁へ送り込んで了ったのださうだ。」谷井が呼吸を切りながら説明した。
「可哀相に、それでは麗子はあすこから歩いてきたのね。僕からよくいっておいたから、もう汽船へ乗るには及ばないわ。それ、上層の甲板へ現てきた。」靖子は人波に醉って上氣してゐる麗子の肘を突いて上甲板を指さした。
「あゝ、白い毛皮をしてゐらっしゃるのが美波子様ね。手を振ってゐらっしゃるわ。私達がお判りになったのでせうか。」麗子は紅い手提袋を持った手を高く差上げた。
「いゝところへ、いらっしゃるのでございませうけれども、何だか悲しいものでございますわ。」百合野はぢき近くで手巾を眼にあてゝゐた老婦人を見て、自分も鼻をつまらせてゐた。
「足利君の場合は別ですよ、小母さん。荻窪の家がそのまゝ汽船へ乗ったんですもの。ほらご覧なさい、勇介君が自分の家の屋根の氣になって、短艇へ攀上って船員に引下されてゐますよ。」と川路が笑ひながらいった。
 百合野は急に思ひ出したやうに、抱へてゐた風呂敷包を解いて、
「ねえ、麗ちゃん、これをどうしたものでせう……一足の事で惜しい事をしましたね。」
「あゝ、さうでしたね、でもまだ橋があげてないから、往かれる事は往かれますわね。」と麗子がいった。
「どうしたの? お餞別?」谷井は小さな箱を受取りながらいった。
「今、來がけに元町通りへ寄って、美波子様にどうかと思って、日本の刺繍をした手巾を買って参りましたの……」
「谷井君、僕が届けてくる。」
 川路が棧橋の口に立ってゐる事務員のところへ馳けていって届物を頼んでゐる間に、靖子は手眞似と高聲で、美波子にそれを傳へた。
 第二の銅鑼が鳴った。
 五色のテープが空中に舞った。送るもの、送られるものゝ呼聲、汽船と陸との間に、倏忽(たちまち)無數の彩虹が懸けられた。
「おや! リキ、鳥渡ご覧!」靖子は川路の腕を引いて聲を潜めた。
「足利君から三本目の柱の蔭にゐるのは伊佐子ぢゃァない?」
「どれ? 何處に?」
 川路は足利から左に三本目の柱を數へて、そこにづらりと並んでゐる澤山の顏を探してゆく中に、見覺えのある丈の高い印度人を見出した。その傍に茶色のヴェールを被った洋装の婦人が欄干に凭れて、ぢっと此方を凝視(みつめ)てゐる。
「確にさうだ。古倫母(コロンボ)へでも行くのでせう……麗ちゃんを見てゐるんですね。」
「可哀相に麗子の方では何にも識らないでゐるんだからね……リキ、あすこへテープを投げておやりよ。」
 靖子は赤いテープを川路に渡した。川路は麗子の横から最前列へ出ていって、印度人を目がけて勢ひよくテープを投げた。
 テープは見事に欄干を越えて印度人の足下へ落ちた。彼はそれを拾上げると、川路に向って掌を開いて見せながら伊佐子に渡した。
 靖子は川路から受取ったテープの端を、そっと攫手してゐる麗子の手に握らせた。彼女はその赤いテープが自分と母親とを繋ぐものである事を知らないで、足利兄妹との間に交されてゐる緑や紫のテープと一緒に堅く握りしめてゐた。
 汽船は徐々に岩壁を離れた。「訣別」の奏樂の裡に、五色のテープは一つ一つ切れてゆく。麗子の掌の中にあった赤いテープも竟に切れて了った。然し母娘の絆はこれで永遠に斷れて了ふものであらう? 潮風に送られてくる訣別の曲は、又會ふ日を誓ってゐるのではないか。
「さァ、吾々も氣を揃へて愉快な港を目ざして船出しようぢゃないか。」靖子は谷井と麗子の肩を一つづゝ叩いて、川路と腕を組みながら先に立って歩出した。

光をみるもの
 石疊を敷詰めた構内を出ると、鐵門の際に川路の自動車が待ってゐた。
「まだ、熱海へ歸るには時間があるから、久しぶりで支那料理でも食べませうよ。ねえいゝでせう。」靖子は一同を見廻した。
 それには誰も異議を唱へるものはなく、川路は中嶋運轉手の傍に乗り、婦人連と谷井とは背後の席に就いた。
 海岸通りの石油會社跡から横町を入ると、廣い空地に大きな天幕(テント)が張ってあって、國際曲馬團と染抜いた赤や緑の旗が、勁い東風にばたばた揺れてゐた。
 その狹隘い通りには、乗りすてた自轉車や、リヤカーが、道路の半ばまではみ出してゐて、その間を荷馬車が縫って歩いたり、兒童(こども)等が飛廻ったりしてゐた。
 天幕の前には、陽氣な樂隊に浮された御用聞の小僧や、女子供達が群って、裸馬を飛ばしてゐる金髪美人や、獅子と格闘してゐる赤服の男や、桃色のスカートを穿いて梯子昇りをしてゐる犬等の繪看板を眺めてゐた。
 自動車が徐行しながらその前を通りかゝった時、窓の外を覗いてゐた麗子が、
「まァ、可哀相に!」と叫んで兩手で顏を覆うた。
 犬の悲鳴が起った。
 天幕の背後の草原で、嚴しい赤髭の大男が、足下の杭に繋いだ白犬に、びしびし鞭をくれてゐる。
「随分亂暴な奴ね!」靖子は拳骨で窓ガラスを叩きながら呶鳴った。
 自動車が通り過ぎた後までも犬の悲鳴が續いてゐた。
「眞實に可哀相ね。まだ赤ちゃんみたいな犬だったわ。」靖子はいつまでも背後を氣にしてゐた。
 自動車が街角を曲りかけた時、それまで唇を噛んで默りこくってゐた谷井が、急に中嶋運轉手の肩を叩いて、
「君、僕をこゝで下して呉れ給へ。」といった。
「どうしたんだい?」川路が背後を振返った。
「鳥渡……南京街の銀陵だったね、直ぐゆくから君達一足先へいって呉れない?」
 谷井は車を飛下りて、すたすた後戻りをした。
 少時停ってゐた自動車は、谷井がもう一度振返って手を振ったのを合圖に走り去った。
 谷井が先前の草原へ馳付けた時、男はまだ犬を折檻してゐた。白いテリアはまるで兎のやうに草叢に丸まって咽泣くやうな聲を出してゐた。
 谷井はその周圍に立って呆乎見物してゐる男達を突除けていって、鞭を振りあげてゐる毛むくぢゃらの腕を掴んだ。
「止せ!」
「何だと?」
「犬をそんな目に遭はせる法はない。」
「余計なお世話だ。乃公(おれ)はこの太夫を教育してゐるんだ。」
「教育ぢゃァない虐待だ。その鞭を捨てろ!」
「けったいな日本人(ヤポンスキー)だな……これは乃公の犬だぞ……大枚百兩出して買った犬だ。」
「何でもいゝ、鞭を捨てろ!」
「これゃ面白い、貴様は乃公と勝負をする氣か?」
 赤髭の大男は犬の事など、そっち退けにして鼻先に皺を寄せながら、谷井に詰寄ってきた。
「やるとも!」
「よし、貴様は百兩賭けるか! 乃公は犬を賭けるぞ!」
 男は鞭を捨てゝ身構へた。退くに退かれぬ破目となった谷井は、象のやうな一撃を躱して巧に相手の頤を突上げた。
 その騒ぎを聞き付けて、天幕の中から支那人や印度人が應援に飛出してきた。さうなると野次馬も默ってはゐず、谷井に加勢して彼方此方(あちこち)に格闘が始まった。
 巨大な露西亞人は可成り手強かったが、フットウォークの鮮かな谷井は、徐々に攻勢をとっていった。軈て最後のアッパーカットが見事にきまって、男は地響を立てて草原に倒れた。

「逃げろ! 逃げろ!」誰かゞ叫んだ。
 二三人の男が無理に谷井を人垣の外へ押出した。
「勝負はきまった! 早く逃げろ!」
 谷井は何の事やら譯が解らずに、へとへとになって、群衆にもまれながら、次第に天幕から距れて了った。
 彼は急に麗子達の事が氣になって、本町通りへ出るなりタキシーに飛乗って南京街へ向った。
 彼が銀陵の階段を馳上ってゆくと、一齊に振返った人々の視線が、蒼白な前額に亂れてゐる頭髪、歪んだ襟飾、泥に塗れたズボン等に注がれた。
「どうしたの谷井君、その様子は!」と靖子が眞先にいった。
「何だ、喧嘩でもやってきたのか?」川路は立ってきて、谷井の背中の泥を拂った。
「やれ、やれ、疲勞(くたび)れた。先刻の犬の爲に奮闘してきちゃった。昔盗まれた僕の愛犬マックスにそっくりだったのでね……つい口を出したのが因で大格闘さ。」谷井は食卓を距れた壁際の椅子に倒れるやうに腰を落して熱いタオルで汗みどろになった顏や手を拭いた。
 彼が食卓に就いて喧嘩の顛末を話してゐると、急に階下で人の騒ぐ聲がして、階段をばたばた馳上ってくる跫音がした。川路と谷井はそれとばかり顏を見合せて立上った。
 そこへ、ボーイに追はれて飛込んできたのは例の白犬であった。彼は谷井を見付ると、毬のやうに走ってきて谷井の膝に前肢をかけ、短い尾を振って鼻をくんくん鳴らした。
「驚いたな! お前はいつの間に蹤いてきたんだ。」谷井は黒い星のついてゐる頭を撫でながらいった。
「まァ、感心なものね! 助けられたのを知ってゐて自動車の後を追ってきたのよ。」靖子は犬の爲に料理を小皿に取り分けてやった。
「眞實に可愛いゝものね、これは谷井さんのマックスと違ひまして?」麗子は膝を叩いて食卓の下を覗いた。
「えゝ、マックスは黒靴を四つ穿いてゐましたけれども、こいつは三つきり穿いてゐないんですよ。」谷井は犬を抱上げた。白犬の足は三本だけ先が黒かった。
 一同は黒靴を穿いた犬で、一しきり賑かに笑った。
 食事を濟して銀陵を出ると、谷井は白犬を後向きにして、
「お前は禮をいひに來たんだな、さァ用が濟んだら、さっさと主人の許へ歸るんだぞ!」といひきかせながら輕く背中を叩いた。
 一同を乗せた自動車と、とぼとぼ歸ってゆく白犬との間に、自轉車や、荷車や、通行人が入って了った。けれども横濱驛で熱海行の切符を購ってゐると、又しても先前の白犬が人々の間を驅抜けてきて谷井の脚に絡みついた。
「困ったね……僕はお前を盗んでゆく譯にはゆかないよ。さァいゝ子だから歸れ!」
 谷井はもう一度、犬を後向きにして、背中を一つ撲(どや)した。然し一同が麗子達をプラットフォームまで見送ってから、京濱國道を疾走ってゐる最中に、補助椅子の下に潜込んでゐる白犬を三度發見した。
「参ったね……仕方がない、僕は百円出して此奴を購ふときめるよ。」谷井は長歎息をして根氣のいゝ犬を抱上げた。
 川路は谷井が自身で曲馬團の天幕へ談判にゆくといふのを引止めて、
「君がいっては、又、撲り合ひが落ちだらう、僕がいって交渉してくる。」といった。
 川路は谷井と靖子を神奈川公園のニューグランドに下して、自動車を飛ばしていったが、一時間許りで戻ってきた。
「あの露助は中々愉快な奴さ。流石團長だけある。僕がいったら膏藥だらけの顏をして現てきて――乃公は立派に勝負に負けたんだから、金を貰ふ道理はない――といふんだ。だが考へて見れば犬は商賣道具なんだから、只といふのも可哀相だと思って五十円で買取ってきたよ。」
 川路はポケットを探って受取證と共に、伯林の展覧會でピエロが貰ったといふ青リボンのついたメダルを出した。

 日曜日の朝であった。谷井が縁先に蓄音機を持出して、獨逸の舞踊曲をかけてゐると、後肢で立ったピエロがダンスの眞似をして皆を笑はせてゐた。
「面白い犬だ、清、お前丸善のレインコートとやらを買損くなっても惜しくないだらう……お前今日は荻窪へゆくのではないかね。熱海から昨日引揚げた筈だが……」庭へ出て鉢植の薔薇をいぢってゐた父親は、何か想出したやうに居間へ入っていった。
 谷井がその後に蹤いてゆくと、父親は金庫から革張りの小箱を出して、
「これはお前も知ってゐる通り、母さんの遺品だが、今日麗子に持っていってあげたらいゝだらう。お前ももう一年確り勉強して來年の春は學校を卒業して呉れなくては困る。婚約すれば、お前は單に私の伜だといふ計りではないのだから……」といった。
 谷井は一年前の、事毎に父親に楯をついてゐた自分を省みた。父と子の間の貴い限られた幾月の、ある部分を無爲にして終った事を考へて、取返しのつかない損失をしたと思った。そして父親はこの不孝な自分に對して、能ふ限りのことを、まるで當然の事のやうにして呉れてゐる。
 谷井は感激に手を顫はせて、ダイヤモンドの指輪を受取ると、早速荻窪へ向った。
 若葉をつけた欅の巨木は、瑠璃色の空に條枝を擴げて谷井を麾(さしまね)いてゐた。彼はその時ほど希望をもって、その道路を歩いた事はなかった。
 懐しい黒門の柱に、波田井寓と記したつゝましい、表札が掲げてあった。庭へ廻ってテニスコートの傍らから露台へ入ってゆくと、跫音を聞いて温室の蔭から現れた麗子は一輪の紅薔薇であった。
「何て廣いお屋敷でせう! 七面鳥もゐるのね。鵞鳥も、鷄も、それから鳩も……」麗子は子供のやうに谷井の肩に兩手をかけてそんな報告をした。
 麗子には何も彼も嬉しかった。健康になって久振りで東京に歸ってきた事も、廣々とした明るい家に住む事も、晴れた日に谷井を迎へた事も。彼女は谷井がその家を知り過ぎる程知ってゐる事も忘れて、新發見した島でも案内するやうに、家の隅々まで谷井を伴れて歩いた。
 食堂の壁には川路夫妻の仲人をした足利の父親の寫眞が、相變らず滿面に微笑を湛へて、若い二人を見下してゐた。
「さァ、眼をつぶってゐらっしゃい。」
 谷井は素直に眼を閉ぢてゐる麗子の左手の藥指に婚約の指輪を嵌めて、樂しく微笑してゐる唇に接吻した。
 裏庭では波田井夫妻が庭男を相手に、麗かな陽光を浴びて畑いぢりでもしてゐるらしく、折々賑かな笑ひ聲が聞えてくる。
 その日の夕方、谷井は誰にでも親切な言葉をかけたいやうな幸福な氣持で新宿驛を出た。線路や、倉庫や、森や、甍を越えて、茜色に染った遠くの空に、秩父の連山が見えてゐる。その上に新月が懸ってゐた。
 谷井は果實店の前で、トンボ劇場の給仕中村に出合った。彼は懐しそうに雜閙の中に足を停めて話しかけた中村を、近くの喫茶店へ伴った。
 中村は褐色ぽい背廣を着て、一年前から較べると、ずっと大人びて見えた。彼は劇場の小冊子で募集した小品文に當選したのが機會で事務員に採用され、現在では四十円の月給取りになってゐる事、その月給が五十円になり、徴兵の義務が濟んだら、同じ職場に働いてゐる小野小夜子嬢と結婚する事を父親から許された事などを語って、
「あと、五年の辛抱です。五年なんてぢき經過って了ひますよ。」と顏を輝かせながらいった。
 夫から十分後に、谷井は角筈の停留場に立って牛込方面へゆく電車を待ってゐた。
 新宿通りは相變らず眩い彩光が渦を卷いてゐた。人々はそれぞれの喜悦と悲哀とを背負って、その光の海を右往左往に泳ぎ廻ってゐる。谷井は夫等の人々の中に、自分ほど幸福な者があるだらうかと思った。
 彼は矢來の家に首を延して待ってゐるピエロ、それを明日見にくるといった麗子の事などを考へながら電車に乗った。 (完)



注)前後から推測した文字が多数あります。ルビが単純な読みと異なるものも多く、間違いが多々あるかもしれません。●印は語彙力不足もあって該当する字を推測することもできませんでした。
注)明かな誤字誤植は修正していますがゆらぎ等はそのままです。人名では西島は西嶋、中島は中嶋に統一しています。その他、台臺、所處、弁辯、円圓、万萬、才歳、陰蔭、絨氈絨毯などの混在や、同じ物を別表記しているところはそのままにしています。
注)躯などshift JISにないものは新字対応しています。瞠など代用しているところもあります。新字、代用がない場合は平仮名対応しているところもあります。
注)ルビ(半角())は、当て字、現代の通常の読みと異なる場合、難読と思われる場合に現代かな使いで入れていますが、繰り返し使用時には省略しています。同じ漢字でも原文のルビが異なる場合がありますが、ほとんど無視してルビは入れていません。貴郎、貴殿、貴嬢などをあなた、出る、現る、卒業るなどをでる、などもルビは省略しています。
注)歌詞の引用は省略しています。
注)かなりしんどかった……。



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夢現半球