「盲目の尺八吹」
「雑誌童話」 1923.09. (大正12年9月号) より
一
警察の門を出ると、兎にも角にも一方のかたをつけたので、久也はホッと安堵の息をついた。
久也が郊外の家から、見え隠れに母の後を蹤(つ)け始めたのは、まだ午前中であった。日頃からあまり體躯(からだ)の丈夫でない母が、この頃一層弱々しくなった。その理由(わけ)を久也は朧氣ながら推察してゐた。この十數日にわたってどこからか、無名の手紙が頻々と舞ひこんだ。今日もその怪しい手紙を受取った母は、悲しげな様子で、ソハソハと家を出たのである。
久也の兄の政一は、家人の不在中、箪笥の抽出からいくらかの金を盗みだして、家出をして、もう一ヶ月餘になるが、どこへ行ったか杳として、未だに行方が知れなかった。
久也はかねてから、その怪しい手紙は家出をした兄と、何か關係があるのではないかと密かに思ってゐたので、今日は母の後を尾行(つけ)たのであった。案に違はず、母は人目を避けるやうにしてコッソリと新橋で電車をおりて、傍目もふらず大通りを、眞直に虎の門の方へ向っていった。
ふと氣がつくと、母から數間離れてブラリブラリ尾行(つ)いていく若い商人體の男があった。彼は袂からマッチをだして銜へてゐた煙草に火をつけたが、マッチの空箱をポンと路傍へ投げていった。それはとある洋食店の前で、久也がハッと思う間もなく、店の内から現はれた學生風の男が、手早く落ちてゐるマッチを拾って煙草を吸った。彼はマッチをふところへ収めると、ゆったりとした足どりで、もとの洋食店へ姿を隠してしまったのである。
ちょうど金比羅の縁日で、虎の門から葵橋にかけて幕を張った露店がずらりと並んでゐた。濃やかな青葉の中に聳てゐる煉瓦建の宏壯な東京倶樂部に面した遊園地では、界隈の子供達が球なげなどをして、キャッキャと戯れてゐた。金比羅の表門から電車通りへかけて、縁日の商人達が、屋臺を組立てたり、大風呂敷を解いて商品を飾りつけたりして、ゴッタ返してゐた。
遊園地の共同便所に近い入口に土下座した一人の盲目の老人が、その騒ぎを他(よそ)に悠々と尺八を吹鳴らしてゐた。
久也の母はそこまでいくと、ふと足をとめて懐中から取出した紙包を老人の膝元においてある汚れ腐った麥稈(むぎわら)帽子の中へ投入れて、氣味惡さうにその場を立去ってしまった。
久也はあまりの訝しさに、しばらく物陰に佇んでしげしげと盲目の老乞食を瞶(みつ)めてゐた。老人は我關せずといった様子で、相變らず尺八を吹き續けてゐる。
ふだんから外出を好まない母が、わざわざ郊外の家を出て、ことに混雜の激しい縁日へ出てきて、一體何を老人の麥稈帽子の中に投りこんでいったのだらう? ことによると、よく外國の活動寫眞にあるやうに、この老人が怪しい手紙を書いた惡漢の一味のもので、母が投入れていったのは脅迫状によるお金に違ひない、と久也は思った。この老人を捕へて調べさへすれば、自然と兄の居所も知れると考へたので、久也はすぐに、その足で警察へいって係官をつれて來ようと決心した。
盲目の老人に氣を取られてゐる間にいつか母の姿を見失ってしまったが、肝心の老人さへ檢擧(あ)げてしまへば、母のことなどは、それほど重大な問題ではなかった。
彼は直ぐに最寄りの警察へかけつけて、係官の赤井警部に委細を物語ったのである。むろん、彼は、非常な場合であったので、家名にかゝはる云々といふ母の意見を全く裏切って、彼の知ってゐるだけの事をすっかり係官に打明けてしまった。赤井警部は時を移さず二名の刑事をつれて外出した。久也は別に思ふことがあって續いて警察を出た。
それは他でもない。さっき母の後を蹤いて行った男がマッチの空箱を路傍に投げ捨てた時、洋食店から出て來た男がそれを拾って懐へ入れた事實である。彼等は同じ仲間で、今から思へばマッチ箱の中には、必ず何等かの通信がはいってゐたに違ひなかった。
久也はまづ、怪しい學生風の男が入ったその洋食店へいって見る事にした。もし彼の推察通り、母は何事か、兄に關する事件の爲に惡漢から脅迫されて、わざわざ金比羅の縁日へいって、盲目の尺八吹きの帽子の中へ尠からぬ金額? を入れてきたのが事實であるとすれば、母のあとを蹤けた商人體の男の投げたマッチを拾った男は、云ふまでもなく兄の政一に關係を持ってゐる筈である。
幸ひ彼等は自分に氣がつかないらしかった。それに時間もそんなに經ってゐないので、まだその男があの洋食店にゐれば、何かの手掛りから兄の行方が判るかも知れない、と久也は思った。
洋食店は往來から見た割に奥行の深い陰氣な家であった。低い天井には色の褪せた造花の櫻が一杯に飾ってあった。深緑色の絹を張った衝立が飛び飛びにあって、その陰に小さな卓子が据ゑてある。ガランとした部屋には誰もゐなかった。久也は稍(やや)奧まったところにある電話室の陰に席を占ると、白粉をベッタリぬった給仕女が睡さうな顏をして注文を聞きにきた。久也は今まで、このやうな洋食店へひとりではいった經驗がなかったので、献立表(メニュ)を頼りにやうやく二品三品誂へた。
彼は學校の友人の誰彼から、たびたびカフェの給仕女といふものゝ噂を耳にした。そして兄の政一は、よくカフェに入浸ってゐるとか聞いてゐた。この家も所謂カフェといふのであらうが、椅子も卓子も壁紙も安っぽく、それに息苦しい程狹かった。給仕女といへば家の女中よりもっと厭な奴だ。それだのにカフェなんてどうして兄は好きなのだらうと久也は今更のやうに四邊(あたり)を見廻した。そこへ唐辛のやうに赤い顏をした別な給仕女が皿を運んで來た。
食事の最中にに久也はふと、誰もゐないと思つてゐた二つ目の衝立の陰に、二人連の男が額を集めてヒソヒソと話合ってゐるのに氣づいた。久也の心臓は急に鼓動を高めた。先方の二人は何を話合ってゐるのか解らないが様子では尠からず昂奮してゐるらしく見えた。久也はいくらかでも二人に近くなってゐる、三つほど隔った椅子に移った。ぢっと耳を澄ますと壁に傳って途切れ途切れにごく微かに話聲が聞えてくる。
「……は慥かだから間違ひこはないよ……あれから二時間……だからもうとっくに仕事を濟まして歸ってゐる筈だ……」
別の聲がまた聞えた。
「俺達はいつまでも同じことはやってゐないからな。……奴さんいよいよ出掛けることになったよ。連れて行かれるとなれゃ……尠くも二年や三年は遁(に)げようたって遁げられないからな。彌生商會の……抜目……」
それを聞くと久也はハッとしたが、しばらくすると何と思ったか、いきなり手帳の一片を割いて、その上に鉛筆で走書をした。
彼は更に二人の方へ綺子を寄せようとしたとき、どうした機會(はずみ)か並んだ椅子がガタンと横ざまに倒れた。衝立の陰にゐた二人はびっくりして頭を出した。久也が見ると、その一人は紛れもなくさっきマッチを捨った學生風の男である。
二人は久也の顏をしげしげと見入りながら聾を潜めて囁きあってゐたが、久也が勘定を拂ってアタフタと出ていくのを見ると、つゞいて立上った。
二
カフェを飛出した久也は、振返り振返り電車道を眞直にいって、左側の食糧品店へはいった。そこは古くから久也の家の買ひつけであった。
彼はそっと顏馴染の店員のそばへ寄って、無言のまゝ、カフェで書いた紙片を渡して、再び戸外へ出た。二人の男は後になり先になって影のやうに久也に纏り初めた。
久也はその店を出た時から急に歩調を緩めて、電車通を曲り、愛宕町を抜けて、わざと人通りの少ない東京病院の裏手へ出た。
「オイ、君、ちょっと待ちたまへ。」
ひとりが後から聲をかけた。久也は足をとめてぢっと相手の顏を仰いだ。
「やつぱりさうだ。君は堀江政一君の弟さんだらう。僕は學校で君を知ってゐるよ。」
さう云はれて見ると見覺えがある。たしか兄より二級上で、昨年退學を命ぜられた男であった。
「君は兄さんを捜してゐるのだらう。政一君のゐるところを僕等は知ってゐるぜ。」
「どこにゐますか? 母が心配してをりますから、どうかして早く連れかへって安心させてあげたいと思ってゐるのです。」
「政一君は病氣で臥てゐるのだよ。それにある事情の爲に、當分の間警察の目を忍んでゐる身の上だから、君もその積りで目立ぬやうにコッソリ來て貰はなければならない。解ったかい。」
二人は久也の返事も待たず先に立って歩きだした。
その家は芝公園の正則山から裏手へ抜ける神谷町にあった。海老茶色に塗った二階建の洋館で、街路に面した戸口は閉ってゐたが、三人は細い横手の露地を曲って木戸口から家の中へ入っていった。
三人の姿が板塀の内に消えたとき、手織木綿の單衣に角帶を締めた番頭體の男が、ツと露地をはいって來て、怪訝さうに三人の後姿を眺めてゐたが、何やらひとりうなづきながら忙はしくそこを立去った。
二階の雨戸はすっかり鎖してあった。それでも西へ廻った殘暑の太陽が粗末な戸袋の破れ目から赤々とさしこんでゐた。饐(す)ゑたやうな暈氣(うんき)が部屋中に籠もってゐた。
「兄さんはどこにゐるのです。」
久也は道具らしいものは何一つ置いてない座敷の中を見廻しながら云った。
「なに、兄貴だって? そんなものは知らねえよ。」
一人の男は平手でピシャリと久也の顏を叩いた。
「あッ」と叫んで思はずよろめくところを、もう一人が厭といふ程撲りつけた。
「ツベコベ云はずに温順してゐろ。俺達は階下へいくが、ちょっとでも聲を立てたり、騒いだりしやがれゃ、上って來て半殺しの目にあはせるぞ。」
二人は憎々しい捨言葉を殘して、ミシミシと階段を下りていった。
久也は、豫め彼等の遣口は覺悟してゐたものゝ、親にも手をあげられたことのない大切な頭をさんざんに打ちのめされたことは、心外でならなかった。それでも彼は聲も立てずにぢっと耐へてゐた。
二人の男が階下へいってしまふと久也は足音を忍ばせて部屋中を檢べて廻った。押入の中には垢光りがする煎餅蒲團と一緒に、見覺えのある兄の單衣物が無雜作に丸めて突込んであった。
階下には誰かゞ來たやうだ。久也は急に顏を輝かせて、梯子段の降口にはひよって階下の様子をうかゞったが、それは外から戻ってきた仲間の一人らしかった。
それから凡そ十分も經ったころ、烈しく玄關の戸を叩く音が聞えた。續いて裏口の木戸がメリメリと毀れる音と共に、人々の罵り騒ぐ叫聲が起った。格闘が始まったのだ。と思ふ間に界隈が俄にざわめいてきた。久也はいざといふ場合の用心に雨戸の心張棒を携へて梯子段を下りると、三人の男が捕縄をかけられたまゝ片息になってつくばってゐた。その前に二三の刑事と赤井警部が立ってゐる。彼は久也をみると、
「大出來だったよ。」と滿足さうにいった。
刑事の一行は有無を云はせず三人を引擦っていった。
警察署へ引き立てられた三人の中には、其日久也の母の後を蹤けていった背の高い、商人體の男もゐた。その男と神谷町の彼等の巣窟へはいると間もなく、刑事の包圍を受けたのであった。
赤井警部の談(はなし)によると、久也の物語をきいて、警部はすぐに現場へ急行して盲目の老人を捕へたが、盲目は四の橋の木賃宿に滯在してゐる男で、ある見知らぬ男に頼まれ、前金で一圓の報酬を受けて、事情を知らずに帽子に入れられた品物を、その男に渡す契約をしたゞけであった。そして赤井警部が現場へいった時は、もう、久也の母親の投入れたといふ紙包は、その男の手に渡してしまった後であった。
そんなわけで、肝心の男の目星がつかず、失望して警察署に引上げてくると、ちゃうど、そこへ久也の記した紙片をもって、食料品店の店員が、巣窟をつきとめたといふ報知(しらせ)を齎(もた)らした。警部はすぐに部下の刑事といっしょに神谷町へ急行して、惡漢を一網打盡にしたのであった。
久也が紙片に記したのは次のやうな傳言であった。
――私と共にゐるのは惡漢です。彼等に悟られぬやう、私共のはいった家をつきとめてから、所轄S署の赤井警部に急を告げて下さい――
赤井警部の捜(たず)ねるある男といふのは云ふまでもなく神谷町の家で逮捕した商人體の男である。懐中を檢めると、半紙に包んだ十圓紙幣が五十枚あらはれた。彼等一味の惡漢は家出をした政一を種に、氣の弱い久也の母親から、數度に亘って尠からぬ金錢を強請りとってゐたのである。
三人の惡漢は逮捕されたが.後に殘るのは兄の行方であった。久也はカフェで小耳に挾んだ「彌生商會云々」の一什始終を赤井警部に語った結果、それは下谷三筋町に看札をあげて北海道行の人夫を募集してゐる彌生商會である事が判った。
久也は刑事につれられて彌生商會へ行って、更に上野驛近くの見窄らしい旅籠屋に出張して、各地から集められた十數人の應募者と合宿してゐる政一を發見する事が出來た。
急報をうけて驅けつけた母親は、政一の無事の姿を見て涙を流して喜んだ。泣いたのは母親と久也ばかりでなく、やつれ果てゝ、頭髪を茫々とのばした政一の睫毛にも、玉のやうな涙が傳った。
政一は、ふとした機會(はずみ)から、惡友に誘はれて、知らず知らず不良(よか)らぬ道へ踏込んでしまったのである。けれど元來いゝ家庭に育った彼は仲間の執拗な惡事に今更ながら厭氣がさして、足を抜かうと決心したのであるが、仲間は金の蔓を失ふことを惧れて、彼を一室に監禁し、彼を囮として思ふ存分母親から金錢を強請り取ったあげく、政一を北海道行の人夫に叩き賣ったのである。もう一日遅れたなら、彼は遠い北海道の端にある監獄部屋に送られてしまったのであらう。
母親は、彌生商會に、前借の五十圓を返濟して、兄思ひの久也と、優しい心に立返った政一をつれて郊外の家へ歸った。
注)句読点は一部追加変更したところがあります。
讀切探偵「守護神」
「日本少年」 1927.10. (昭和2年10月号) より
一
春とはいへど、日暮近くになると、吹く風が冷々と身に滲みてくる。和夫は先刻から門を出たり、入ったりして、もう二時間も兄の歸宅を待ってゐた。その間に日脚は忙しく傾いて、遠くの活動寫眞常設館のトタン屋根や、廉賣市場の破風窓を赤く染出した。赤地に白で文字を抜いた旗などが寒さうに揺れてゐる。
「兄さんはどうしたのだらう。四時には歸ってくる筈なんだけれどもなァ。まだ夕御飯には時間があるから、停車場までいって見よう。」
和夫は一旦家へ入ってマントを持ってきた。父親は奥座敷で讀書でもしてゐると見えて、家の中はひっそりとしてゐた。臺所では女中が夕飯の仕度をしてゐた。
和夫の家から停車場までは、なぞへに雜木林の間を通って、とびとびに人家の竝んだ新開地を抜けてゆくのが一番近道であった。
停車場の賣店の前に立って、和夫は幾臺も幾臺も電車を待ったが、たうとう根負けがして家路へ引返した。途中でよく見かける頭の長い一寸法師の飴屋が太鼓を叩きながらくるのに行會った。その飴屋は死ぬと病院で解剖されることになってゐるので、身體は生きてゐる中から賣ってあるのだとか聞かされたことがあるので、和夫は何だか氣味が惡いやうな氣がして、げらげら笑ってゐる飴屋の傍を駈抜けた。
町端れへ出ると、杉の木立に圍まれた三階建の洋館がある。大きな御影石の門に「武蔵野病院」と記した木札が掲げてある。明い電燈の點った窓に、白い衣服を着た醫員や、看護婦の姿がちらちらと見えた。
和夫が急ぎ足で雜木林へかゝった時、不意に背後から肩を叩かれたので、吃驚して振かへると、兄の學校友達の川邊であった。
「ヤァ失敬。」
「どこへいったんだい?」
「今、兄さんを迎へにいったんです。随分今日は遅くまで練習があったんですね。」
「兄さんがまだ歸らない? そんな筈はない。愈々この日曜は試合だから、今日あたりから練習が輕くなったんだよ。三時頃に皆引揚げたんだから、もうとっくに歸ってゐる筈だが………僕は新宿まで一緒にきて、親戚へ寄り道をしてきたんだからね。
「それぢゃァ、ゆき違ひになったのかしら………………僕は二時間も待ってゐたんです。」
「あゝ屹度さうだよ。早く家へ歸って見給へ。ぢゃァ兄さんに宜しく!」
「失敬!」
和夫は四角のところで川邊と別れた。家では明るい電燈の下に食卓が出て、夕飯の用意ができてゐた。兩親はまだ箸をとらないで、子供達の揃ふのを待ってゐた。母は和夫を見ると、
「お前達はどこへいってゐたの? 二人とも晩御飯は七時ときまってゐるのですから、その時間には歸らなくてはいけませんよ。」といひながら茶碗にご飯を盛り始めた。
「おや、兄さんはまだ歸らないのですか? 僕今まで停車場で兄さんを待ってゐたのです。」
「鐵夫は今晩お前を連れて、活動寫眞を見にゆくとかいってゐたが、どうしたのだらう。」父の顏にも不安の影が翳(さ)した。
食事の後で和夫はわざと犬のために殘した魚をむしって飯に交ぜて、
「ジョン! ジョン!」と叫びながら裏口へいったが、平常(いつも)鞠のやうに轉げてくる犬が見えない。
「ジョンはどうしたんだらう? 兄さんが連れていったのかしら? 一體兄さんはどこへいったんだらう?」和夫は約束を違へたことのない兄が、その日に限って活動寫眞へ連れてゆくといっておきながら、夕方までに歸らないのを不思議に思った。
時は刻々と過ぎてゆく、誰も口には出さないがお互に鐵夫のことが氣にかゝってゐるので、夕刊を讀んでゐた父親も、折々氣遣はしさうに柱時計を見上げてゐた。電燈の下で針仕事をしてゐる母親も口數が少い。
和夫はひとり法師で勉強する張合もないので、少年雜誌をぼんやり膝の上へ擴げてゐた。
その中にたうとう十一時になった。
「やがて歸ってくるだらうから、お前はもう寝た方がよからう。」と父親に云はれて和夫は澁々床についたが、目が冴えて中々寝付かれなかった。兩親も低聲で何か話合ってゐたが、その中に方々へ電話をかけて、鐵夫の行衛を問合せ始めた。
「眞實(ほんとう)にどうしたのでせう。野球のお友達は皆な三時頃に歸ったと仰有るのです。警察へいった方がよくはないでせうか。」母親はおろおろしてゐる。
「まァ、明日の朝まで待って見よう。」と宥めてゐるのは父親である。
和夫は華々しい野球戰を前に控えて、大切な投手(ピッチャー)の兄に何か間違ひでもあっては大變だと小さな胸を痛めた。
二
不安な一夜が明けた。朝の食卓についた人々は、誰も彼も睡眠不足のために眼が充血して、顏色が勝れなかった。和夫は兄のことが心配で學校へゆく氣にもなれなかったが、只それだけのことで、缺席する譯にもゆかないので、カバンを肩にして家を出た。
麗かな春の日光を浴びて、並木の嫩葉(わかば)や、麥畑が緑に輝いてゐた。けれども美しい青空にも、淡紅色に咲いてゐる丘の上の桃の花にも、何となく涙を誘ふ哀愁があった。和夫は朝夙(はや)く兄と連立って學校へゆく時の勇ましい氣を喪って、悄然と首を垂れて歩いてゆくと、前方からどやどやと何事か喚きながら走ってくる一團の人々に危く突當らうとした。驚いて顏をあげると、いつも四角の交番に立ってゐる巡査を先にして、町の人々や、二三の學生が交ってゐた。その中の一人が和夫に氣がついて、
「あゝ、鐵夫君の弟だ!」と叫んだ。兄の同級生の田中だ。
「君!大變だよ。」といっていきなり和夫の腕を掴んで駈出した。和夫は何が何だか解らないが胸がどきどきして今にも心臓が破裂しさうになった。それでも皆と一緒に息を切らせながら走ってゆくと、町端れの田圃の先の溝のところで、皆は足を停めた。
「和夫君、見給へ、君の兄さんだよ! 大變なことになった!」と田中は眞青な顏をして溝の中を指した。巡査が抱起した兄の變り果てた姿を見て、和夫は眼の前が眞暗になってしまった。青葉倶樂部の「青」といふ文字を縫出した白いユニフォームを着てゐるのは正しく鐵夫である。顏面は無惨に打碎かれてゐる。附近の草叢には内側に鐵夫と署名したグローブ、黒羅紗のマント、學校道具などが散亂してゐた。
晝近くになって檢屍が濟み、鐵夫の死體は自宅へ運ばれた。小宮一家の悲嘆はいふまでもないが、青葉倶樂部の選手達は仲の善い友達を失ったばかりでなく、大切な大將を失ったことを深く悲んだ。
毎年春秋二回の野球試合で、青葉倶樂部と紅倶樂部とは、このN町の血を湧かせるやうな接戰をしてゐるのであった。青葉倶樂部はこれまで二回勝越してゐるので、今度の試合に勝利を得れば、町長からの優勝盃を獲得することができるのである。それ故青葉倶樂部では必勝を期して練習を励んだ。
紅倶樂部にとっては雪辱戰なので、特に猛烈な練習振りを見せてゐたが、名投手小宮鐵夫が青葉倶樂部にゐる限りは決して勝味はないといふことは誰の胸にもあった。しかるにかうして鐵夫が不慮の死を遂げたことは、青葉倶樂部にとって、取返しのつかぬ打撃であった。
和夫は兄があれ程期待してゐた春の試合にも出ないで死んでしまったことを、何より殘念に思った。それにしても兄は何者に殺されたのであらう? といふことが一番強く、和夫の念頭を占めてゐた。和夫は一刻も早く憎むべき犯人を捜出して、兄に代って復讐しようと固く心に誓ってゐた。
朝からしっきりなしに悔みの客が訪づれては佛の前に新な涙を注いだ。夕方になって紅倶樂部の木村といふ青年が、選手を代表してきた。彼は悔みを述べて、
「實際惜しいことです。僕等は好敵手を喪ってしまって、何だかもう、試合をする張合もないやうな氣がします。」としみじみといった。
母親は諦めかねたやうに幾度か白い布に覆はれた顏を覗いて見て、
「これがまァ病氣か何かで充分看護をした上なら諦もつきますが、人一倍丈夫だった子がこんな最期を遂げましたのでございますから、いくら泣いての足りないやうに思ひます。」といって嘆いた。父親は愚痴一つ滾(こぼ)さなかったけれども、和夫には、端然と柩の前に坐ってゐる父の胸中が察しられて悲しかった。
通夜に集った青葉倶樂部の選手達は額を鳩(あつ)めてひそひそと語り合ってゐた。
「まったく、困ってしまった、鐵夫君がこんなことになってしまっては、我々はもう戰ふことはできないぢゃァないか。」
「實に殘念だ! 紅倶樂部に負けたくないなァ。」
「しかし、我々は鐵夫君の一念だけでゝも勝たなくてはならない。最善を盡して戰ふさ。」
「さうだ。屹度鐵夫君の靈魂が我々を守ってくれるだらう。」
「今度の試合は、鐵夫君の追悼試合といふ心持で大に奮戰しよう。」
一同の顏には悲壮な決心が現はれてゐた。和夫は部屋の隅に坐って靜に目を閉ぢてゐた。彼の胸は何故に兄の顏が見分けもつかぬ程、酷たらしく打碎かれてゐたのであらうといふ疑問で一杯であった。
鐵夫の愛犬ジョンは、たうとうその日も姿を見せなかった。主人の死を知ったなら、動物といへどもどんなに悲しく感じることであらう! だが、どうしてジョンはその日を選んで姿を隠したのであらう。日頃から利巧な犬であるから、若し家にゐたなら、必ず探偵犬の役目を勤めるであらうに! それともジョンは誰よりも先に主人の死を知って、悲嘆のあまりどこかで殉死してしまったのではあるまいか? 和夫は兄が不慮の死を遂げたことと、ジョンの失踪したことを結びつけて、いろいろに考へてゐた。
三
翌日の朝早く、警察から澤田刑事がきて、暫時奥の間で父親と話をして歸っていった。父親はなぜか鐵夫の葬式を延期した。和夫は澤田刑事がどのような話をしていったのか、知りたかったが、父がいつにない嚴格な顏をしてゐるので、つい言ひそびれて何も聞出さずにしまった。
すると、晝頃、紅倶樂部の木村が訪ねてきて、意外なことを和夫の耳に入れた。それは鐵夫の親友の川邊が警察へあげられたといふことであった。
「どうしてです? 川邊さんが嫌疑をうけるなんて、あんまり馬鹿々々しいではありませんか、それは何かの間違ひでせう!」和夫は驚愕のあまり呼吸(いき)をはづませながらいった。
「精しいことは僕も知らないが、何でも川邊と君の兄さんとは試合の作戰のことで大議論をして、あの日、代々木の原で、もう既(すん)でのことで撲り合をするところだったのだよ。」
「だって二人は親友ぢゃァありませんか、それは友達同志の間ですもの、たまには喧嘩もするでせうが、僕は川邊さんが兄を殺したとはどうしても信じられない。」
「君が信じなくたって、警察の方で川邊を犯人と睨んでゐるのだから仕方ないさ。」
木村の言葉はあまりに同情がなく、露骨に聞えた。
和夫は青葉倶樂部の有力な選手が二人も缺けたことを考へると、何だか木村がこんな凶(わる)い報知(しらせ)をもって、青葉倶樂部の凋落を嘲りにきたやうに感じて、ひどく不愉快に思った。
「僕は警察にいって事實を糺してきます。屹度何かの間違ひだから、川邊さんといふ人は決してそんな人ではない!」和夫はきっぱりといひ放った。
「どうせ無駄だが、君の氣の濟むやうにするさ。」と憎々しくいって木村は歸っていった。
和夫は兩親にことはらずに、そっと警察へいった。そして川邊が兄を殺した犯人だといふことは決して信じられないから、もう一度取調べて貰ひたいと歎願した。刑事は頤を撫でながら無愛想な態度で和夫の言葉を聞いてゐたが、
「いくら親友の間柄だって、喧嘩をすれば何を爲(し)でかすか判らない。だから川邊が親友だからといって犯人でないといふ理由にはならない。」と冷に答へた。
「でも川邊さんと兄とは、大變仲のいゝ友達だったのですから、感情が昂じて過って殺したとしても、あんなに酷い殺し方はしない筈です。」和夫は熱心にいった。
「だがいくら君がこゝでそんなことをいったって駄目だ、歴とした證據品が舉ってゐるのだから仕方がない。」
「證據? 證據ってどんな證據です?」
「血痕の附着した川邊のバットが、二本松下の麥畑から現(で)てきた。」
「それで川邊さんは自白しましたか?」
「まだ自白はしないが、いづれその時がくるだらう。」
「川邊さんに會はせて下さい。」
「そんなことは斷じてできない。」
和夫はその上取つく島もないので、すごすご警察署を出た。和夫はまだ川邊が犯人であるとは信じられなかった。どうしても他に犯人があって、川邊に無實の罪をきせてゐるに違ひないと思った。けれども今のところ彼は何の反證も掴んでゐないので、どうすることもできなかった。和夫は何とかして眞犯人を見出す手段はないものかと、みちみち考へながら、畑の畦道を歩いてゆくと、小川の許に水を飲んでゐた鼠色によごれた犬が、くんくん鼻をならしながら、和夫の足にからみついてきた。
「おや! ジョンぢゃァないか!」和夫は泥塗(どろまみ)れになった犬を抱きかゝへて頬ずりをした。ジョンは懐しさうに、ちぎれるほど尾を掉って、和夫の顏を嘗めた。
「ジョンや、お前はどこへいってゐた? お前のゐない間に、大變なことが起ったんだよ! 兄さんはなくなっておしまひになったのだよ。お前を可愛がってくれた鐵夫兄さんは、もうゐらっしゃらないんだよ。僕の大切な兄さんは誰かに殺されてしまったんだ! ジョンやお前と私とはこれから兄さんを殺した憎い奴を捜し出さなくってはならないのだよ。」和夫は人前では出せなかった泪を、思ふ存分灑(そそ)いでジョンに話かけた。ジョンは恰も和夫の言葉が解ったやうに、背を低くして兩足の上に頤を乗せて、
「ウォー、ウォー」と悲(かなしみ)を含んだ唸聲をあげた。
「あゝ、さうか、さうか、お前も悲しいだらう。さァ早く家へ歸って、兄さんに最期のお別れをするのだ。」和夫はジョンを促して歩出したが、ジョンは中々和夫についてゆかうとはしなかった。見ると後肢を挫いてゐるし、頸には藁繩の切れが附着(つ)いてゐる。餘程虐待されたと見えて元氣を失ひ、ひょろひょろとしてゐた。
「可哀さうに、お前をこんなに酷い目に會はせたのは誰だい。さァ家へ歸ったらご飯をあげよう、お前は屹度昨日から何にも食べないのだらう。」和夫はジョンを劬(いたわ)りながら、無理に家まで牽いて歸った。
裏口でジョンに喰べものをやってゐると、また木村が訪ねてきた。彼は和夫が警察へいった結果をきゝに來たらしかったが、そんなことは口に出さないで、
「やァ失敬、時に兄さんのお葬式はいつだい? 先刻きくのを忘れて歸ったものだから……」といった。
「まだ、はっきりと決定(きま)らないのです。」
「どうして? 本當は明日の筈だったのに、なぜ延期したのだい。」
「僕は何にも知らないのです。」
「さうかい、ぢゃァ決定ったら、知らせてくれ給へね。僕は紅倶樂部を代表して會葬するのだから……君のところの犬もゐなくなったんだってね……急に淋しくなったね、僕のところに仔犬が三匹ゐるから、一匹もってきてやらうか。」
木村は親切にいった。
「えゝ、有難う、でもジョンは今日歸ってきましたから…………」
「えゝ? ジョンが歸ってきた? さうか……まァよかった。ぢゃァ左様なら。」
木村はなぜか周章(あわ)てゝ歸っていった。
和夫はぼんやりと木村の後姿を見送ってゐると、ジョンが舌なめずりをしながら、裏口から現(で)てきて、頻りにくんくんと地面を嗅ぎ廻り始めた。そして和夫の裾を啣(くわ)へて引張った。
「何だい? お前何か知ってゐるのかい?」和夫はジョンの頭を撫でた。ジョンはそれに應へるやうに前肢を延して、悲しさうに吠えた。
「よし、ぢゃァ行かう!」
四
既(も)う、日はとっぷりと暮れてゐた。夕方から出た風が益々強くなって、黒雲が怪しく空を飛んでゐた。
ジョンはもどかしさうに遠くへ走っていっては、また戻ってきて和夫を急立(せきた)てた。
和夫はジョンの導くまゝに、淋しい田圃道を抜けて、「坂の上」といふ丘の中腹にさしかゝった。その邊から杉木立が繁って、道は益々暗くなるのに、大粒の雨がぱらぱらと墜ちてきた。和夫はちょっと躊躇したが、ジョンが頻りにマントの端を啣へて引張るので、勇氣を鼓して、懐中電燈で足下を照らしながら進んでゆくと、炭燒の小舎に到着した。ジョンは小舎の周圍を嗅ぎ廻ってゐたが、やがて横手の羽目の下を掘り始めた。
和夫は戸口を探りあてると、錠が下りてゐた。戸に耳をあてると、微かに呻き聲が聞える。
「誰です! どうしたんです!」
和夫は力任せに戸を叩いた。應答はなくて、苦しさうな呻き聲が續いてゐる。最早一刻も猶豫してゐる時ではなかった。和夫は必死になって、ジョンと力を協(あわ)せて地面を掘った。彼等の努力の甲斐があって、やうやく這こむだけの穴ができた。眞先に潜りこんだジョンは小舎の中で勢よく吠えた。和夫は懐中電燈の光をたよりに中を覗くと、手足を縛られ、猿轡をはめられた人間が轉ってゐる。それは意外にも死んだ筈の鐵夫ではないか!
「兄さん!」和夫は夢中になって穴を潜ってゆくと、不意に後から何者かに足を掴まれて外へ引摺り出された。
人里離れた山中で、しかもこの眞夜中に何者であらう! 天狗か! 化物か? だが今は何者をも恐れる場合でない。和夫は物も言はずに跳起きて相手に躍りかゝっていった。
頭上では梢を鳴らす風が惡魔の哄笑(わらい)のやうな音を立てゝゐる。冷い雨が横ざまに顏を撫でゝゆく。ぬっくと岩のやうに立ってゐる男のために、和夫は一たまりもなく路端に叩きつけられた。それでもむくむくと起上って遮二無二相手にぶつかってゆくと、今度はいきなり胸を突かれて、小舎の羽目板にいやといふほど頭を打つけて、その場によろめき倒れた。
ジョンは狹い小舎の中を右に左に走りながら、狂氣のやうに吠えてゐる。眞黒な大きな影は勝誇ったやうに詰よってきた。
しかしながら人間の一念は恐ろしいものである。和夫は最後の勇氣を振ひ起して、軍鶏のやうに相手の咽喉(のど)を目蒐(めが)けて飛びかゝったが、相手は素早く身をかはして、和夫の小さな體躯(からだ)をぐっと掴んで、背後から羽交絞めにした。流石の和夫も、最早どうすることもできず、空しく手足をばたばたさせるばかりであった。
「えゝ、殘念!」
和夫は喰ひしばった齒の間から、天を呪ふやうな呻き聲をあげた。だが人間は徒に點を呪ふものではない。いつ何時どこに天の助けがないとも限らない。
丁度和夫が絶望のどん底に陥入った時、ばらばらと闇の中に人影が動いたと思ふと、いつの間にか和夫は地上に投出されてゐた。相手は二人の男に組伏せられてしまったのである。強烈な懐中電燈に照らし出されたのは紅倶樂部の木村であった。
「和夫君、でかした!君の兄さんをこゝへ監禁したのはこの男だよ。」
懐中電灯を片手にした澤田刑事は、和夫の肩を叩いていった。
小舎の中に手足を縛られてゐた鐵夫は、警官の一人に助け出されてきた。ジョンは滿足さうに吠えながら、人々の周圍を駈廻ってゐた。
和夫と鐵夫とは相擁して涙を流した。
木村は警官にひかれて警察へ、二人の兄弟は澤田刑事に送られて自宅へ歸った。家では死んだと思った鐵夫が無事で歸ったのを見て、兩親は感極って、久時(しばし)は言葉も出ないほどであった。
そこへ嫌疑の晴れた川邊が顏を輝かして飛込んできた。
「ではこの死骸は?」
と座敷に安置してある白木の柩を見て、人々が不審の眼を瞠ると、澤田刑事は、
「これをご覧なさい。」
といって、その日の夕刊を示した。それには「武蔵野病院の死體紛失」といふ記事があった。
「つまり、紅倶樂部では小宮投手と川邊捕手とが青葉倶樂部にゐては、どうしてもこの試合に勝つ見込がないので、卑怯にも木村がかういふ芝居をうったのです。この死骸は一昨日病院で解剖することになって、死亡室に置いてあったのを、木村の一味のものが盗出したのです。そして一方鐵夫君を襲って、あの炭燒小舎に監禁し、ユニフォーム其の他を死骸にきせ、鐵夫君の死骸と見せかけたのです。ジョンは屹度鐵夫君に跟いていったので、あの邊に縛られゐたのでせう。
それが健氣にも縄を喰切って遁げ歸り、和夫君に急を知らせたのです。川邊君のバットは殺人の嫌疑をきせるために、木村君が盗出して使用したのです。死骸が僞物であることも、川邊君が犯人でないことも、警察では最初から判ってゐたのですが、わざと眞犯人に油斷をさせるために秘密にしておいたのです。それで葬儀を延期するやうに小宮さんにお話したのです。木村を怪しいと睨んだのは、あまりしげしげと小宮家へ訪ねてきたからです。
犯人はやはり自分の仕組んだ芝居が旨く運んでゐるかどうか、氣になるので、度々様子を探りに來たのですね。それで密に木村に尾行をつけておきますと、今夜和夫君の後をつけてゆくから、われわれも蹤いていったのです。そして様子をうかゞってゐると、炭燒小舎の外で和夫君と木村の格闘が始まったので、飛出して捕へたのです。炭燒小舎の中には木村の名刺入が落ちてゐましたし、鐵夫君はあの日、木村に誘はれて山へ散歩にいったら、不意に背後から何者かに襲はれたといふのですから、最早木村も白状するより他はないでせう。」と澤田刑事は説明した。
「誰よりも一番手柄をしたのはジョンですね。」和夫はジョンの首を抱いていった。
「これは中々いゝ探偵犬になりますよ。」
と澤田刑事も同意した。
「これで青葉倶樂部も萬歳だ。和夫や、明日の試合には屹度零點(スコンク)で紅倶樂部を遣付けてやるよ。お前のお蔭で兄さんは助かった。」
鐵夫の眼は感謝に輝いてゐた。
「ジョンや、お前は青葉倶樂部の「守護神(マスコット)」だよ。明日は一緒に應援に行かうよ、ね。」
和夫は愉快さうにジョンの頭を叩いた。
(をはり)
注)明かな誤字脱字は修正しています。
注)「みはる」は目爭ですが瞠で代用しています。
新時代小説「千兩箱の秘密」
「国民新聞」 1933.04.30, 05.07, 14, 21 (昭和8年4月30日〜5月21日) より
(一)祖父の日記
日曜日の朝、正樹は家の人達が食事の後片付けをしたり、新聞を讀んだりしてゐる間に、そっと家を抜け出して、森の郵便箱を見にいった。その郵便箱といふのは森の中に聳えてゐる樫の大木の空洞(うつろ)で正樹と從兄の行夫との秘密の通信機會であった。そこまではどっちの家からいっても丁度一哩ある。
二人の少年は同じ中學校の一年生で、その上親類同士でありながら、兩家の親達が仲違ひをしてゐる爲に、嚴重に交際を禁じられてゐた。けれども二人は兄弟のやうに仲善しだったので、學校の休みの日はお互に森の郵便箱を利用して、手紙の遣り取りをするのであった。
正樹は、土曜日の晩に書いておいた手紙を郵便箱へ入れ、そこに入ってゐた行夫からの手紙を懐中にしていそいそと家へ歸ってくると、茶の間に來客があって、父と何か談話をしてゐる。庭へ廻って自分の部屋へ辷り込んだ正樹は、机の前で行夫の手紙を讀みかけたが、茶の間の話の中に自分の名が度々出てくるので、思はず耳を澄ました。
「……先方では一年も工場で使って見て、見込みがあれば夜學へ通はせてもいゝといふのだから、思切って東京へやったらいゝでせう……」といってゐるのは、朝日町で電機商を營んでゐる父の友人であった。
網元の正樹の家では不漁つゞきの爲に益々家産が傾いて、最近では不義理な借金も出來、正樹を東京の電機工場へ奉公に出すといふ話が起ってゐるのである。
正樹は家の爲なら職工となって働くのも厭はなかったが、五年生の時から傍目もふらずに豫習をして、漸(ようよ)う中學生になったばかりであるのに、一學期も經ない中に退學するのは實に殘念だと思った。
「いろいろ骨を折って頂いて有難う。たった一人の男の子なんだから、大學までやらしてやりたかったのだが、これも運命だから仕方がない……それにつけても癪に障るのは椿山の奴等さ……他家の金を横領してとんとん拍子に成功してゐるんだからな……あれだけの金が現在(いま)あれば、正樹を奉公にやるなんて、そんな苦勞はさせないんだが……」父親は如何にも口惜しさうに齒ぎしりをしてゐる。
同じ川波の姓を名乗ってゐながら、本家である正樹の家が貧乏してゐるのに引かへ、分家の行夫の家は界隈切っての金持で、椿山全體を邸宅にしてゐる所から、土地では椿山の大盡と稱(よ)んでゐる。
その中に父親は、隣室に息子が歸ってゐる事に氣づいたと見えて急に聲を潜めて了ったので、正樹は初めて吾に返って膝の上に擴げてゐた行夫の手紙に眼を注いだ。
君よ、重大事件だ、是非會って話さなければならない。僕は遂に大秘密を解く鍵を掴んだ。君よ、本日午前中に必ず來て呉れ給へ、例の鵯笛を合圖に。行夫
「重大事件とは何だらう?」正樹は首を傾げて、幾度も手紙を讀返した。
父親は客と一緒に外出し、家の中は森閑として了った。正樹は臺所わきの薄暗い部屋で、一心に針仕事をしてゐる母親の背後を通り抜けて、そっと庭へでた。彼は成可く村の人達にも顏を會はせないやうにと思って、裏山傳ひに椿山へ向った。
傾斜した畑地に青々と麥が伸びて、その傍に山鳩の群が遊んでゐた。下の方の廣場では白い手拭を冠った女達が、忙しさうに鰯を干してゐる。正樹が海を見晴す崖の上へ出たとき、不意に、竹藪ががさがさ揺れて印半纏を着た髭蓬々の男が飛出した。
「坊ちゃん! 坊ちゃん!」男は泳ぐやうにして雜草を掻分けながら這上ってきた。
正樹は人里を離れた山中で、見知らぬ男に呼止められて、悸(ぎょ)っとした。
「川波さんの坊ちゃんだね、豪く大きくなりなすったな。」男は馴々しく傍へ寄ってきた。
「君は誰だ?」
「へへへゝゝゝゝゝへへ、こんな落魄(おちぶれ)た野郎には用がねえと仰有るか、えゝ? 乳母(ばあや)は達者でゐますかね? 俺は何も無理にお屋敷へ寄せて貰はうといふんぢゃありませんぜ……濟みませんが、旦那や奥様に内緒で、これを乳母の奴に渡して呉れませんかね。」男は腹掛を探って、皺苦茶になった手紙を取出した。
「僕の家には乳母なんてゐないよ。一體君は何處の家の事をいってゐるんだい。」
首を突出して、しげしげと正樹の顏を覗き込んでゐた男は、
「こいつはいけねえ! 椿山の坊ちゃんと間違へた!」と呟き乍らすたすた海岸通りへ下りていった。
正樹はそこから一氣に椿山の裏門まで驅けていった。榎の樹蔭に身を寄せて、合圖の口笛を吹くと、土藏の鐵格子の間から顏を出した行夫が、唇に人差指をあてゝ手招きをした。
そこは幾棟も並んでゐる土藏の一番端れで、四邊には人影がなか●●●●●●で迎へに出た行夫は●●●●●●がて黴臭い二階へ導●●●●●●●●の壁には天井ま●●●●●●●●●、古書がぎっ●●●●●●●●●。
「●●●●●●●の家とが仲違●●●●●●●●●●判ったよ。●●●●●●●●●●●の村に燒●●●●●●●●●●●家の千兩●●●●●●●●●●●たのださ●●●●●●●●●●●●確に返●●●●●●●●●●●して受●●●●●●●●●●●ひの因だといふのだよ。」行夫は昂奮した調子で語った。
「それは僕も薄々知ってゐる。けれどもお互にそんな古い事を突っつくのは止さうよ。」正樹は穏かにいった。
「まァ待ち給へ、ところで僕は先般(このあいだ)からどうかして眞相を確めたいと思って、お祖父様の日記を片端から讀んでゐたんだが、こゝに斯ういふ事が書いてあるんだよ。」行夫は紙魚の蝕った和綴の書物を正樹の前に擴げた。
「成程。すると僕の家の千兩箱を横領したのは、崖から墜落して惨死したこの宗兵衛伯父さんなんだね。」
「そこだよ。僕は本家と分家の間の使者をした宗兵衛伯父さんは、事によると別に惡意があった譯ではなく、僕の家よりももっと安全な場所へその金を隠したのではないかと思ふ。その隠匿場所さへ探し出せば、君も學校を罷めないで濟むし、お互の家の誤解も解けて僕等は公然と仲善く勉強したり、遊んだりすることが出來るのだからね。」
「さうなってくれると眞實に嬉しいなァ。宗兵衛伯父さんの遭難場所を中心に探檢して見ようか。」
「僕はその心算ですっかり用意しておいたんだよ。」行夫は長持の中から、繩、懐中電燈、ナイフ、小型の鶴嘴などを取り出した。
二人が身仕度をして土藏の外へ出ると、薪を抱へて納屋から出てきた乳母に會ったので、正樹は山で會った怪しい男の事を話した。
「まァ、あの碌でなしの伜の奴が、屹度お金でも強請(せび)りにきたんでせう。」乳母はそんなことをいひながらも、息子の事が案じられると見えて、正樹に根掘り、葉掘り、男の様子を訊ねた。
「乳母(ばあや)、頑固な事を云はないで、家へきたら飯でも喰はしておやりよ。」行夫は乳母の肩を叩いて、慰めるやうにいった。
二人は海岸傳ひに砂丘を越えていった。天氣が良いのに、沖は時化てゐると見えて、漁船は一艘も出てゐず、四邊は妙にひっそりとして、行手ににょきにょきと聳えてゐる黒い奇巌が、まるで海の怪獸のやうに、二人を睨み付けてゐる。(つゞく)
(二)髯男と海猿
二人は嶮しい崖を傳って、稍(やや)坦(たいら)になった岩の上へ出た。眼に見えるものは茶褐色の岩と、碧い海ばかりである。
「随分遠くまで來てしまったな。まるで無人島へきたやうな氣がする。だが、目的の兜岩までは、まだ大分あるぞ。その岬をもう一つ越さなければならないんだからな。」行夫は帽子を脱いで、前額の汗を手巾(ハンケチ)で拭いた。
「なァに、もう一息だ……おやおやあの岩で行止りか。」正樹は行手を遮ってゐる大入道のやうな岩を見上げた。
「仕方がない、君の厭ひな蛇の藪へ入るか。」行夫は五六メートル後戻りをして、崖の中腹に繁ってゐる笹藪へ入りかけたが、何を見付けたか、急に、狹い岩の間を乗越えて駈けていった。
「おゝい! 行夫君、待って呉れ給へ!」取殘された正樹は、足下の荷物を背負って歩き始めた。
「正樹君、早く來て見給へ、無人島に人間の足跡があるんだ。」岩の蔭で行夫が叫んだ。
正樹がいって見ると、そこにはマッチの空箱や卷煙草の吸殻などが落ちてゐた。
「ほんたうだ、こんなところへ人がくるんだね。この道はどこへ出るのだらう?」
二人の足下から、やうやう犬が通る位の細い道がはるか下の方へうねうねと續いてゐる。
「僕は先刻から不思議に思ってゐるんだが、君のお祖父さんは日記に書いてゐるやうに、宗兵衛伯父さんを怪しいと思ってゐたのなら何故その事を皆に云はなかったのだらうね。」
と正樹がいった。
「だって、肝腎の宗兵衛伯父さんは死んで了ったし、それに伯父さんに千兩箱を渡した證據は何にも殘ってゐなかったから、はっきりした事は云へなかったのだらう。」
「それもさうだな。兎に角この道を下りて行って見よう。君のお祖父さんの想像が的中してゐれば、その千兩箱は兜岩の附近に隠匿(かく)してある譯だな。」
「寶島の探檢だ! 小判がざくざく現てきたりしたら愉快だらうね。」
二人は希望に胸を躍らせながら岩角にすがって急勾配の道を下りてゆくと、道の盡きたところは深い入江になってゐて、それ以上進む事は出來なかった。
「困ったな、夏なら泳いでゆくんだけれども……」
「潮の干くのを待ってゐれば、日が暮て了ふし……」
「こゝまで來て、引返すのは癪だな。」行夫は殘念さうに呟いた。
二人は何とかして崖傳ひに對岸の岬へ出る道を發見しようと思って、岩の出鼻へ飛上ったり、腹這ひになって崖下を覗いたりした。
突然、正樹が
「君、あんなところに船が繋いであるよ!」と勇立って叫んだ。
岩蔭に、縁を赤く塗った小船が波に揺れてゐる。
「さァ、繩だ、繩だ。」行夫は用意の繩を宙に振って、さっと岩角へ投げかけた。
二人は繩を頼りに、足場の惡い、岩から岩へ傳っていった。船はすぐ眼の下に見えてゐるが、そこまでゆくのは容易ではなかった。
二人とも汗だくになって、やうやう船の傍まで辿りついた。
「もうしめたものだ。誰の船だか知らないが、一二時間借りるとしよう。」
行夫が舫いである綱を解かうとした時、不意に、
「おい、子供等! 何をするんだ!」といふ濁聲がした。二人が驚いて振返ると、高い崖の上に、凄い顏をした傴僂がにょっきりと立ってゐた。それは界隈で「海猿」と綽名のついてゐる乞食である。丈が低くて、見たところは十二三の子供みたいであるが、正樹達が生れない頃から、海岸の巌窟に棲んでゐるといふ事であるから實際は三十歳以上の大人である。
海猿は赤っちゃけた長い頭髪(かみのけ)を潮風に靡かせながら、二人が三十分もかゝって下りてきた道を、雜作なく一息に飛下りてきた。その身輕さは眞ものゝ猿以上であった。
「俺の船をどうする氣だ!」海猿は赤く爛れた眼で、二人をぢろぢろ見た。
「君の船とは知らなかった。」行夫は正樹と目配せをしてそこを立去らうとした。
「おい、待て! そんな變な挨拶があるか、他人の船に足をかけやがって、濟みません位の事を云ったらどうだ、何故默ってゐるんだ、手前等は唖か、聾者か?」海猿は大きな口を開いて喚いた。
正樹は、きかぬ氣の行夫が、今にも相手に飛蒐ってゆきさうな劍幕を示したので、慌てゝそれを制し、
「どうも失敬しました。さァ行夫君、皆が上で待ってゐるから戻るとしよう。」といった。彼は海猿に弱味を見せまいと思って崖の上に大人が來てゐるやうな顏をした。
「こら、こら待った! 手前等は俺の背中が怖いのか!」海猿は爆彈でも入ってゐさうな膨上った背を叩いて、げらげらと笑った。
二人は氣味が惡くなって、後退りをしながら、岩の角を廻らうとすると、出會頭に、長い頤髯を生した大男と、ばったり顏を合せた。
「坊ちゃん方、探檢には誂へ向の上天氣ですな。兜岩へゆくなら、船へ乗せてあげますよ。」
男は陽に焦けた赭ら顏に薄笑ひを浮べて、馴々しくいった。
行夫と正樹は、悸(ぎょっ)として顏を見合せた。自分達が兜岩へゆかうとしてゐるのを、その男はどうして知ってゐるのであらう?
「さァ、愚圖々々する事はない。兜岩へゆけば坊ちゃん方の捜してゐる金貨が、ざくざくしてゐますぜ。」男は二人を追立てるやうにして船へ乗せようとした。
「然し、今日は家へ斷って來なかったから、明日でも連れていって貰ひませう。」と正樹がいった。
「坊ちゃん、そんな出鱈目をいっても駄目だ。家へ斷ったら、二人で一緒に來られるものか、こんないゝ機會はないから是非出掛けませうぜ。儂は確に千兩箱の在所(ありか)を知ってゐるんだからね。」と男は重ねていった。
二人は千兩箱といふ言葉に心を動かした。男が千兩箱の所在を知ってゐるといふ事は嘘としても、彼は二人の目的を知ってゐるらしい。こんな男に先じられて、むざむざと千兩箱を盗まれては大變だと思った。
そこへ海猿が飛出してきて、大男の前でぺこぺこお辭儀をした。
「坊ちゃん方を兜岩へ御案内するんだから、船の仕度をしろ。」
大男は頤髯をしごきながら命令した。
正樹がちらと行夫の方を見ると、彼は決心を示すやうに頷首いた。その顏は――虎穴に入らずんば虎兒を獲ず――と語ってゐる。
「坊ちゃん方、辷らんやうに氣をおつけなせえよ。」海猿は急に叮嚀になって、手をとらぬばかりにして二人を船へ乗せた。續いて大男もひらりと飛乗った。
船は岸を離れた。海猿は岩と岩の間を抜けて、巧に棹を使ってゐたが、入江を出ると、黄色い帆をあげた。
船は追風を受けて、ぐんぐん波浪を切って沖へ出ていった。兜岩はみるみる眼界から消えて了った。
「何處へ行くんだ! 方向が異ふぢゃァないか!」
「船を返して呉れ!」
行夫と正樹は顏色を變へて呼んだ。
「じたばた騒ぐな! こゝまでくればこっちのものだ。」
大男は海猿に目配せをして、矢庭に行夫の手を掴んだ。同時に海猿が正樹に躍りかゝってきた。 (つゞく)
七つの通路
陸地を遠く離れた海の上四邊に漁船の影一つ見えない。二人は如何に救助(たすけ)を呼んでも甲斐のない事を知り、觀念して男達の爲すがまゝに任せた。
兩手を後手に縛りあげられ、目隠しをされてゐるので、何處をどう走ってゐるのか、見當がつかなかったが、凡そ一時間も經過った頃、船はさらさらと音を立てゝ砂地に乗上げた。
「さあ、上陸だ!」
大男の言葉に、海猿は正樹の腕を掴んで岩の上へ引あげた。續いて行夫も押上げられてきた。
二人とも依然として目隠しをされたまゝ、急な坂道を上ったり、下りたり、或時はざぶざぶ水を越えたりして、散々引廻された揚句やうやう目隠しをとられた。
海猿のぶらさげてゐる龕燈の光が、石疊の一部を照らしてゐるだけで、周圍は眞暗で壁も天井も見えない。
男達は暫時待ってゐろといって龕燈を置いて何處かへいって了った。
「行夫君、この間に逃げよう。」正樹が先に沈默を破った。
「逃げるのはいゝが、この手ぢゃァどうにもならない。」と行夫が答へた。
正樹は行夫の背後へ廻って、手首の麻繩を喰切った。行夫は麻痺れた手首をさする間もなく、正樹の手を自由にしてやった。
二人は龕燈を取上げて、男達の出ていった方向を透して見た。そこは二十畳敷程の岩窟で、突當りの岩壁にやっと人間の潜れる位の穴があった。
「僕等はあんな狹いところを潜った覺えはないから、他に出口があるに違ひない。」行夫は先に立って龕燈を翳しながら、壁に沿うて岩窟を一周する中に、大小合計七つの通路を發見した。
氣早な行夫は、その邊で拾った竹切れで天井を叩きながら、づかづか第一の横穴へ入っていった。
「待給へ、瓦斯でも發生(で)てゐると大變だ。」正樹は小さく丸めた新聞紙に火をつけて、穴の奥へ投込んだ。新聞紙は凸凹の壁の肌を照らしてめらめらと燃えきった。
「さァ大丈夫だ。」
二人は肩を並べて進んでいったが、五六メートルの邊から急に路が狹くなった。
「正樹君、こゝで待ってゐて呉れ給へ。僕が先端を究めてくるからね。」行夫は犬のやうに四つ這ひになって、奥へ奥へと進んでいった。穴は途中から右へ折れてゐた。背後から正樹君が、
「おゝい! 大丈夫かい!」と叫んだ。
「大丈夫だよ!」
二人の間に、幾度も同じ回答が繰返された。その通路は一坪程の土間で行止りになってゐた。彼はその隅で拾った錆ナイフをもって戻ってきた。
「絶望さ。獲物はこれっきりだ。」
行夫の差出したナイフを仔細に檢めてゐた正樹は、
「これは大發見だ。この岩窟には誰かゐたといふ立派な證據だ。この錆工合から見ると、餘り古い事ぢゃァない。後の六つの横穴を探檢するのが樂みだね。」といった。
けれども二番から四番までは殆ど同じやうに出口もなく、これといって變った發見もなかった。二人とも疲勞と空腹にがっかりして殘りの三つを檢める勇氣もなく、足下に龕燈をおいたまゝ、ぐったりと壁に凭りかゝって了った。
「いやになってしまふな……一體奴等は何の爲に僕等をこんなところへ監禁したんだらう。あの時叶はないまでも抵抗すればよかった。海猿の奴位、遣っ付けてしまへたかも知れなかったのに。」行夫は殘念さうにいった。
「僕の考へでは、奴等は君の家から身代金をとる爲に、こんな事をしたんだと思ふ。今頃家では脅迫状を受取って大騒ぎをしてゐるかも知れない。」
「成程、さういふ譯か、癪に障るな。さう聞いては尚更、こんなところに愚圖々々してはゐられない。」行夫は勇氣を奮ひ起して立上った。
「ほら、何處からか、こんな風が入ってくるから、必ず出口がある筈だ。今度は僕が先頭にならう。」正樹は龕燈を取上げた。
第五の通路は幅も廣く、天井も高かった。突當りは又しても行止りであったが、二人はそこで意外な發見をした。
「何だ、倉庫みたいぢゃァないか。」正樹の點す龕燈の光に、木箱や、菰包の山が照らし出された。
「おや、これは僕の家の荷物だ! この箱にはみんな「山波」の記載がついてゐる。そらこの間、港で盗まれた僕の家の酒だ。」と行夫が叫んだ。
「こんな個所(ところ)に隠匿(かく)してあったんだね。おやこっちの箱は呉服物だ。こっちは罐詰屋の荷物だな。牛罐とパイナップルが、うんと入ってゐる。こゝは盗賊の倉庫なんだね。」
「さうだ、確にこの邊を荒してゐる海賊の巣窟だ。先刻の髯男は海賊の首領に違ひない。」
「さァ、一刻も早くこゝを脱出して警察に訴へなくてはならない。」
二人がそこを出て、第六の通路へ入ってゆくと、曲りくねった行手に、微な白い光を見出した。
「〆た! 出口だ!」二人は狂喜してその方へ走っていったが、突當りは壁に遮られて、先刻の光さへもいつの間にか見えなくなって了った。
正樹の提案で燈火を消して、闇の中に歸ってゐると、何處かで風の唸る聲がしてその合間々々に波の音が聞えてゐる。闇に馴れた眼に、うっすりと白い光が天井に射してゐるのが見えてきた。
行夫は正樹の肩車に乗って、足場の惡い壁を這上っていった。崩れ落ちた岩と岩の間に、やうやう猫の這出る程の隙間があって、黒雲の飛んでゐる暮れかゝった空の一部が見えた。崖の上の松は強い風に激しく揺れてゐた。
「こゝからは到底脱出(で)られない。それに戸外は酷い暴風雨だ。」行夫はがっかりして下りてきた。
第七の通路は確にこの岩窟の出入口であったが、殘念なことには厚い樫の大戸がぴったりと閉まって、外部から錠が下りてゐた。
二人は身體(からだ)を扉に打ちつけたり、手ごろな岩の斷片を拾ってきて叩き付けたりしたが、頑丈な扉はびくともしない。
不意に、扉の上部の小さな覗き窓ががらりと開いて、
「小僧等! 何をしてゐやがる! 騒ぐと撲(ぶち)殺すぞ!」と海猿が怒鳴った。
二人は彈かれたやうに飛退いて元の部屋へ戻ってきた。
「矢張り、あすこには見張番が付いてゐるんだね。斯うなると、先刻の穴を掘下げて、彼處から遁げるより途はない。」と正樹がいった。
二人は第五の窖で發見した牛罐とパイナップルで腹ごしらへをして、穴の掘下げ作業に從事した。然し道具といったら、木箱の蓋を剥した板と、錆ナイフだけであるから、岩を碎いてゆくのは容易ではなかった。それでも二人の努力が報いられて曉方までには、どうやら人間が這出られる程の穴が出來た。
二人は互に助けあひながら岩窟を出た。前夜の暴風雨に崖の松は無殘に吹折られ雨に洗はれた岩の面が朝日にぎらぎら光ってゐた。
先に立った行夫は、遠くの岩角にちらと動いた赤シャツを見て、
「あゝ、失敗った! 見付かってしまった!」と叫んだ。海猿は早くも二人を見付けて、岩山を躍り越え跳ね越えて追ひ迫ってきた。 (つゞく)
海賊の正體
海猿は行夫から分捕った鶴嘴を振り翳して追ひ迫ってきた。
二少年はざらざらと崩れ落ちる足下の岩に注意しながら、やうやく岩石に挾まれた小徑へ出た。
「野郎共! 逃げようたって、逃がすものか!」海猿の甲高な喚き聲と、岩の上を馳歩く跫音が頭上に聞えてきた。
二人は行手の途を塞いでゐる大岩の中腹を廻り、いくらか窪みの出來てゐる岩蔭に身を寄せて、呼吸をころしてゐると、直ぐ後ろまで追ひすがってきた海猿が、
「わァ…………」と恐ろしい叫び聲をあげて、岩石諸共、見上げるやうな高い崖の上から轉げ落ちてきた。赤シャツを着た海猿の體は空中にトンボ返りをして、あっといふ間に崖下へ消えて了った。
二人は手に汗を握って顏を見合せた。
「危いところだったね! 先刻僕等が通ってきたところぢゃないか。」と正樹がいった。
「實に天祐だった、これで一難去ったが、偖、どうやってこゝを逃出さう。」
「海猿の乗ってきた船が、どこかに隠匿(かく)してあるに違ひない。兎に角、水際へ下りる事が第一だ。」
二人は初めて氣を落着けて四邊を見廻した。直ぐ頭の上に、巨大な兜の恰好をした燒岩がそびえてゐた。
「何だ!兜岩ぢゃァないか!」と行夫が叫んだ。
「僕は遠くの無人島へ連れてこられたのかと思ってゐた。それぢゃァ僕等が監禁されてゐたのは兜岩の底だったんだな。
「さァ、ゆかう……だが、海猿の奴どうしたらう?」行夫は立上った。
「惡い奴には違ひないが、見殺しにするのは可哀想だね。若しかしたら、まだ呼吸(いき)があるかも知れない。」
「それに奴は、海賊の秘密をいろいろ知ってゐるに違ひない、警察にとって重要な證人になるかも知れない。」
「兎に角、いって見て、助かるものなら介抱してやらうよ。」
二人が元の道を中途まで引返して、崖下を覗くと、遥か下の岩の間に赤いシャツが見えた。そこからは到底下りる事は出來なかったが、二人は大迂回をして現場までいった。
海猿は大石の下敷になって無殘な死を遂げてゐた。海猿と共に轉落してきた巨岩は、現場の岩床の一角を碎いて、そこに一米四方の穴をこしらへてゐた。
「宗兵衛伯父さんが墜落して死んだのも、この邊に違ひない……おや、あんなところにも岩窟があるぞ……事によると我々が閉込められてゐた岩窟の七つの通路の一つに續いてゐるのかも知れない。」
身輕な行夫は、崩れた岩を足場に、岩窟へ入っていったきりいつ迄經過(た)っても出てこない。
「行夫君! どうしたんだい!」と正樹の呼聲は空しく絶壁にぶつかって返ってきた。干潮時で、波の音はすっかり消えて了ってゐた。兜岩の上の眞青に晴れた空に、鳶が一羽翻(と)んでゐるだけで、萬物は呼吸をひそめてゐる。
正樹が心配して岩窟の入口までゆくと、奧の方で微に物音がしてゐる。
「行夫君!」
「正樹君、あったぞ! あったぞ!」行夫は土龍のやうに泥だらけになって這出してきた。
「どうしたんだ、何を見付けたんだ? おや怪我をしてきたね。」正樹は目敏く行夫の手首に血が流れてゐるのを見た。
「怪我なんて何でもない! まァ來て見給へ。」行夫は正樹の腕を掴んで、ぐんぐん穴の奥へ引張っていった。
「それ見給へ!」行夫は得意氣にいった。
「あゝ、小判だね!」
「君の家の千兩箱だ!」
三つ重なった箱の、一つの蓋が開いて、眼を射るやうな山吹色の小判がぎっしり詰まってゐた。
顏を見合せて二人は滿足の溜息をした。
「有難う! 君のお庇だ!」正樹は力強く行夫の手を握った。
「僕等の運がよかったんだ。さっき海猿と一緒に墜落した石が、この岩窟の入口を塞いでゐた岩を突落してくれたんだ。」と行夫がいった。
二人は千兩箱を人目につかないやうに岩の間に隠して、一先づ外へ出た。磯傳ひに兜岩の裾をめぐってゆくと、入江に出やうとする岩蔭に、にょっきり人間の脚が二本出てゐた。二人はぎょっとして立止った。
「君、昨日の海賊ぢゃァないかしら。」正樹が聲を潜めていった。
「死んでゐるのかも知れない。」足音を忍ばせて岩蔭をのぞき込んだ行夫は、にやりと笑って正樹を手招きした。
そこには印半纏を着た男が高鼾でぐっすり寝込んでゐた。それは前日、正樹が椿山の裏で會った男である。
「君、乳母の息子だよ」行夫は忍び寄って眠りこけてゐる男の鼻を撮んだ。男はびっくりして飛起きたが、二人を見ると、
「あゝ、ゐた! ゐた! 坊ちゃん方だ!」と叫びながら岩の上へ馳上って、懐中から探り出した呼笛(よびこ)を續けさまに吹鳴らした。
對岸から呼笛が應じた。軈てぱらぱらと崖に傳はって下りてくる人影が見えた。
「おゝい! 坊ちゃん達が見付ったぞ!」乳母の息子は踊るやうな恰好をして夢中になって手を振ってゐる。
捜査隊を乗せた船が對岸を離れた。船の上には青年團や、二少年の父親達が乗ってゐた。日頃から仲の惡かった親達も、昨日以來の心痛にすっかり心を和げられ、今は息子の無事を見た喜悦を共にして、手をとらん計りに喜び合ってゐた。
二少年は泣き笑ひの裡に、昨日以來の冒險と、驚くべき發見を語った。
一行は三手に別れた。青年團の一部は七つの通路をもつ岩窟へ、他の一部は急を告げる爲に警察署へ、行夫と正樹達の一行は、千兩箱を擔いで、一先づ椿山の屋敷へ引揚げた。
呑んだくれで、勘當されてゐた乳母の息子も、その日は殊勲者のやうな顏をして大威張りでお屋敷の閾を跨いだ。彼は前日、黄色い帆を張った小舟が二少年を乗せて沖へ出てゆくのを、山の上からぼんやり眺めてゐたのであった。
其晩椿山の屋敷では本家、分家其他親戚の者達が打揃って、盛大な祝宴を張った。その最中に海賊の一團が逮捕されたといふ知らせがきた。海賊の團長といふのは、何ぞ圖らん隣町で手廣く雜貨商を營んでゐる赤岩といふ男で、店員は全部海賊の手下であった。二少年を誘拐し、身代金要求の脅迫状を送ったのも彼の仕業であった。少年達を海岸から誘拐した髭男は赤岩自身が變装したもので、家宅捜査の結果、押入れの中から長い付髭が發見されたといふ。
「道理で、見たことのあるやうな奴だと思った。」と行夫が笑ひながらいふと、
「さういへば、僕はあの聲に聞き覺えがあったよ。」と正樹がいった。
千兩箱に詰ってゐた小判は、時價十數萬圓のものであった。
正樹は自分の家が急に金持になったことよりも、學校を罷めて奉公に出ないで濟んだことよりも、本家分家の誤解が氷解して、自分と行夫とが公然と仲善くしてゆくことの出來るのを、何よりも嬉しく思った。 (完)
注)●印は損傷によりは不明部分となります。また文字つぶれなどによる推測文字もあります。
注)明かな誤字誤植は修正しています。カギ括弧末の句点は有りに統一しています。
注)其の他、章題の番号の有無など不統一部分はそのままにしています。
注)日曜の少年少女部分に掲載、新しい時代小説ではなく、新時代の小説という事のようですがどこがそうなのかは不明。
新時代怪奇小説「巨木の蔭」
「国民新聞」 1933.09.10, 17, 23 (昭和8年9月10日〜23日) より
ひらく窓
青く澄んだ空に、赤蜻蛉が白い翅をひらめかしてゐる日曜日の朝であった。
績少年を乗せた銀バスは、中野驛前から甍を並べた狹い商店街を抜けて、小川や、森や、蔬菜畑の間を疾走ってゐた。績は石橋を過ぎて、村街道の十字路にさしかゝった時バスを下りた。彼は釣道具をかついで、片手にバケツをさげながら、四辻を右に折れていった。
黄ばんだ穂を垂れた稲田の先に目のさめるやうな百日紅が枝を擴げてゐる。その下に小さな荒物屋があって、蓙(ござ)や、笊などを積んだ縁臺の前で、鶏(にわとり)が二三羽餌を拾ってゐた。
「おや、坊ちゃん、今日はおひとりですか。」店先で雜布をさしてゐた老婆が聲をかけた。
「壽屋のをばさんお早う。父さんはね、日本橋へ用足しにいって、お晝頃こっちへ廻るといふから、僕だけ先へきたんですよ。釣魚をしようと思って……」
「おやまァ、さうですか……つい二三日前に、あの川で大きな鯰を釣っていった仁(ひと)がありますよ。藤原さんでは今月中に御歸朝だとか先日お父様から伺ひましたが、まだいつともはっきりお判りにならないのですか?」
「多分今週中でせう。」
績はその前日、歸朝の途にある伯父夫妻が船中から發した無電を父が受取ったのを知ってゐた。伯父夫妻は一年前に宏壯な邸宅を閉ぢて、南米へ視察に出掛けたのであった。
「お屋敷が閉ってゐると、眞實(ほんと)に淋しくて、何だが不用心でなりませんよ。お歸りになると、又、お賑やかになってよろしうございますね。坊ちゃんのところへは、嘸ぞ澤山お土産があるでせう、よくお留守宅の見廻りをなさいましたからね。」
「さァ、ブラジルのお土産ぢゃァ珈琲位のものでせう。でもまァ、不在中火事にもならなかったし、泥棒にも入られなかったから、僕等の責任も無事に濟んだ譯ですよ。」績少年は大人ぶった口説で、父の言葉を請け賣りした。
彼は老婆の背後で、蛙のやうな恰好をして暑中日記をつけてゐた少女にキャラメルをやり、自分でも頬張りながら畦道を下りていった。
古風な洋館
數日來、毎日のやうに夕立があったので、川の水は一ぱいになっていくらか濁ってゐた。績は、一叢の雜木がひやひやした影を落してゐる川縁に腰を下して釣絲を垂れた。緑色に澱んだ水面に、ぽっかりと浮いた紅い浮標(うき)はいつまでもぢっとして、その周圍をアメンボが辷りあるいてゐる。
彼の陣取った川の對岸は、藤原家の邸宅になってゐて、空を摩してゐる樺の巨木の蔭に伯父の嗜好(このみ)で建てられた古風な洋館の一部が見えてゐる。
績は根氣よく凝視めてゐた浮標から眼をそらして、ふと伯父の家の窓を見上げると、海老茶色の鎧扉がさっと閉った。
「おや! もう父さんがきたのかしら? まだ十分も經過ってゐないのに……それに扉を開けるなら解ってゐるけれど、閉めるといふのは怪しいな…………」彼はどう考へても日本橋までいった父が、そんなに早く來るとは思へなかった。
「誰か掃除にでも入ってゐるのかしら? それなら鍵を保管(あずか)ってゐる壽屋のをばあさんが何とかいふ筈だのに。」
績は急に不安になって、釣道具を置はなしにしたまゝ、川下から丸木橋を渡って、伯父の邸宅に走っていった。
玄關にも、勝手口にも錠が下りてゐる。裏庭へ廻って、それかと思はれる三階の窓を見上げたが、同じやうに二つ並んだ破風の下に海老茶色の窓がついてゐて、果してどの窓が動いたのか、見當がつかなかった。
ナイフの紛失
績が首を傾げながら川縁へ戻ってくると、二本並べておいた竿の一つが水の中へ落ちて、その傍に見馴れぬ大きな靴跡がついてゐる。その上釣道具を入れた函の抽斗が少し開いて、テングスがはみ出してゐた。
「誰か、こゝへきて道具をいぢったな。」手早く抽斗を檢めた績は、大切なジャックナイフが紛失してゐるのを發見した。
「失敬な奴だな!」少年は四邊を見廻したが、目の届く限り、田畑と雜木林が續いてゐて、遠くの空に飛行機が一臺翔んでゐるだけであった。
「どうも變な日だぞ……」績はポケットに手を突込んだり、眼をこすったりして、もう一度先前(さっき)の窓に眼をやった。
「あッ! 確に誰かゐる!」
海老茶色の鎧扉が開いて、窓の奥に白い人影がちらと動いたのである。績は足下の釣道具を蹴飛ばすやうにして、邸宅へ馳付けた。けれどもどの窓もぴったりと閉ってゐて、巨木の蔭の大きな建物はさんさんと降りそゝぐ日光と、蝉の聲の下で、何ごともなかったやうに、靜まりかへってゐる。
「然し、そんな筈はない、確にこの眼で目撃(み)たんだから……」績は家の周圍を一巡りしてゆくうちに夥しい蟻の行列を見出した。
「俵をかついでゐないから、移轉(ひっこし)ぢゃァないぞ!」彼は蟻の行列を辿ってゆくと、丁度、怪しい窓に面した芝生の中に、食ひ散らした梨の核心が落ちてゐて、眞黒に蟻が蝟集(たか)ってゐる。それは棄てゝから未だ何程も時間が經過(た)ってゐないらしい。而も往來や、川向ふから投げても達かない場所である。
何者かゞこの邸宅内に忍び込んでゐるといふことは、最早疑ふ餘地がない。
壽屋の老婆は相變らず背を丸めて雜布をさしてゐた。顏色を變へて店へ飛込んだ績は「藤原の家へ誰か入ってゐるやうですよ。」と聲をはづませていった。
「お屋敷に人が入ってますって? そんなことがあるもんですか、鍵はこの通り藏ってありますもの……」老婆は奥座敷の箪笥を開けて赤い打紐のついた鍵束をもってきた。
「三階の窓が開いたり、閉ったりするんですよ。」
壁の大時計
「まァ、氣味の惡い!」
「それから僕は變だと思って家を見廻りにいってゐる鳥渡の間に、ナイフを盗まれたんです……先刻飛行機が通った頃、誰かがこの邊を通りませんでしたか?」
「さァ……あの時は中野行の十一時のバスが通ったゞけでしたが………」と老婆がいひかけると、傍にゐた少女が、
「お祖母ちゃん、あすこのお家にお化けが現るんだってね。」と聲を潜めていった。
「何をいふんだね、つまらないお喋りをするんぢゃァないよ。」老婆は孫娘をたしなめた。
丁度、その時、バスが停って、績少年の父親が下りてきた。績は驅けていって今朝からの出來事を報告した。けれども父親は、
「はっはっはゝゝゝ、餘り浮標を睨んでゐたので錯覚を起したんだらう。」と一笑に附してしまった。
父子が連れ立って、藤原家の勝手口を開けて家の中へ入ると、一ヶ月計り閉込めてあった暑い空氣が、むっと顏を衝いた。念の爲に階下の戸締りを隈なく檢べたが、何處にも異状はなかった。
薄暗い食堂わきの廊下を抜けて玄關の廣間へ出ると、階段の横手の壁に懸ってゐる大時計が、十二時で停止ってゐた。
「ほらご覧、誰も入った形跡はないぢゃァないか。」といひながら先に立って階段を上りかけた父親は突然、
「おや?」と呟いて立止った。
何處かで、微に扉の軋む音がした。誰もゐない筈の二階の方で……二人は思はず顏を見合せた。 (つゞく)
次の瞬間二人は二階へ駈上った、父親は鍵束をがちゃがちゃ鳴らしながら室の扉を開けた。
そこは十疊を二つ打抜いた客間で、窓には緑色の厚いカーテンが下りてゐる。部屋の片隅のピアノ、凭椅子、長椅子、それらはみんな焦茶色の覆布がかゝってゐる。
七つの窓
父親が廊下に出て、方々の扉を開けてゐる間に、績少年は栗鼠のやうに素早く部屋々々を覗き廻ったが、どの部屋にも異状はなく、椅子も、卓子も、本棚も、化粧臺も、寂然と靜まり返ってゐる。父親は二階の六つの部屋を一巡してから、もう一度客間へ戻り、カーテンを引いて窓から首を出した。
「やっぱり、猫か、鼠が騒いだのだな。先刻お前からあんな話をきいてゐたので、つい釣込まれてしまったよ。はっはゝゝゝは。」と父親は笑った。
「でも、お父さん、猫や、鼠があんな音を立てるとは思はれませんね。」
「いや、一年も家を不在にしておくと、鼠共は食糧に缺乏して扉でも何でも囓って大孔をこしらへるものだよ。」父親は少年の疑問を問題にしなかった。
二人は二階の窓を開け放って階下へいった。父親はとまってゐた大時計の根子(ねじ)を卷いて時間を合せた。秒(セコンド)を刻む音が永らく眠ってゐた家に生氣を與へた。
北側の窓は?
それから三時間ばかり經過(た)ってから父子は家中の戸締りをして藤原家を出た。午後の日盛りを走る銀バスは空いてゐた。先刻から何か考へ込んでゐた績少年は不意に、
「お父さん、二階の北側の窓は幾つあるんです?」といった。
「北側の窓は六つさ。」
「怪しいな……六つ限りの筈だのに、戸外から見ると、窓が七つあるんですよ。」
「そんなことがあるものか、一番奥の寝室に二つ、その次が三つ、その隣室に一つさ、それで六つぢゃァないか。」
「それだのに戸外へ出て數へて見ると、七つあるんですもの。」
「績、お前この節夜遅くまで探偵小説などを讀んでゐるやうだが、夜更しはよくないぞ。それだから六つの窓が七つに見えたり、誰もゐない部屋の扉が開いたり閉ったりするんだな。」
「でも、ジャックナイフを盗まれたことだけは確に事實です。」
「犯人はお前自身ぢゃァないかね。家へ歸ったら本箱の抽斗でも捜してごらんなさい。」父親は揶揄(からか)ふやうにいった。
門を乗越えて
家へ歸って風呂へ入り、夕飯を濟した績少年は、二階の勉強室へ上って、がらりと窓を開けた。空は湖水のやうに澄み渡って、遠くの森の上に盛上ってゐる金色の雲の柱が、天國の門のやうに燦然と輝いてゐる。飛行機か何かに乗って、西へ西へと飛んでゆきたいやうな、すばらしい夕映である。
績は森の彼方に殘してきた伯父の家の事を考へつゞけてゐた。彼はどうしても七つの窓の謎を解きたいと思った。日が暮れるにはまだまだ間がありさうだ。
そっと階段を下りて、奥座敷を覗くと父のところに碁の客が來てゐて、母はその傍で茶をいれてゐた。績はぢきに歸ってくる積りで誰にも斷らずに家を抜け出した。
銀バスの出る坂下までは一走りであったが、バスは却々こなかった。それに華やかな夕燒はほんの一しきりで、稲荷橋の傍で下車した時には、もう日はとっぷりと暮れてゐた。
績は表戸を閉めた壽屋の前を通り過ぎて、こんもりと繁った並木道を抜け、白く塗った藤原家の裏門の前に立った。彼は暫時、黄昏の空に聳ええてゐる大きな洋館を見上げてゐたが、門を乗越えて勝手口に通じる石段を上っていった。
「おや! どうしたんだらう!」
先刻確に締めておいた扉が少し開いてゐる。
慄へてゐるな
績は吸込まれるやうに、暗い家の中に入っていった。確に人の氣配がする、彼は階段の下に立止って耳を澄ました。右手の食堂で、かちかち金属の觸れ合ふ音がしてゐる。それにつゞいて低い男の聲、
「何だ! 貴様慄へてゐるな。」さういふ聲もどうやら慄へてゐる。
「貴様だって、奧へ入るのを恐れてゐるぢゃァないか。」
「何も恐れる理由はない。空家に何がゐるものか……ゐれば幽靈ぐらいのものだ。」
「そんな氣味の惡いことをいって脅すなよ……やァ、すばらしいな。このナイフや、フォークはみんな銀か、この皿もさうだ。」
「これだけ潰したら大した金になるな。」
「何でも客間には、銀の孔雀と、七寶燒の花瓶があるさうだ。」
「待て待てまだこんなにある。」
そんな會話をきいて、績は戸口へにじり寄り、そっと隙間から覗くと、二人の怪漢がちらちら動く懐中電燈の中で、銀器類をせっせと古鞄に詰込んでゐる。
鳥の羽ばたき
績はどうしようかと思った。飛出したところで相手は二人、到底敵ひっこない。壽屋を叩いて近所の人々を呼び集めて貰はうか、しかしその間に彼等を取逃がしてしまっては何にもならない。とつおいつ思案してゐる最中に、内部では、
「おい、冗談するのは止せよ。不意に背中をこづいたりして、びっくりするぢゃァないか。」
「俺はそんなこと知るもんか、貴様こそ、俺の横っ面に何かぶつけたらう。」
二人の男がいひ爭ひをしてゐると、不意に、二階の方で、ぶるぶると、巨大な鳥が羽敲をするやうな異様な音がした。つゞいて何處からともなく、小石がぱらぱらと降ってきた。
「何だ! 何だ!」
「わッ! 幽靈だ!」
男達は恐怖の叫びをあげながら鞄も何も置放しにして、一目散に戸外へ逃げ出した。
呆氣にとられて棒立になってゐた績は、幽靈も氣にはなったが、二人の賊を遁してはならないと思って夢中になって後を追った。彼が戸外へ飛出した時には、二つの黒い影が柵を乗越えてゐた。
「泥棒! 待て!」績は大聲に叫びながら石段を馳下りたが、あっといふ間に足を踏外して、二米も下の藪の中へ墜落し強か前額を地面に打つけて氣を喪ってしまった。
怪しい人影
氣がつくと、績はいつの間にか長椅子の上に臥かされてゐた。づきづき痛む頭に濡手拭が乗せてある。窓から射込む月光によってそこは藤原家の食堂の隣の居間である事が判った。
「待てよ、夢を見てゐるんぢゃァないかな……僕は泥棒を追駈けて……石段から落ちて……いったい誰が助けて呉れたんだらう……」績は眼を擦ったり、腕を抓ったりした揚句、長椅子の上に起上った。
家の中はひっそりとして、聞えてくるのは玄關の大時計の時を刻む音ばかりである。績は急に思ひ出して、よろめきながら食堂へ入ってゆくと何かに躓いて危く倒れかゝった。それは慌てた賊が投げ棄てゝいった懐中電燈であった。
そこには最早鞄はなかった!
「失策った! 僕が氣絶してゐる間に、奴等が引返してきて伯父さんの大切な品を盗んでいってしまったな。」
其時、誰か二階へ上ってゆく音がした。咄嗟に廊下へ飛出すと、白い裾を引いた人影がすっと階段の上に消えてしまった。
日頃から幽靈を否定してゐた績少年も、目前の怪異に、思はず懐中電燈を取落した。 (つゞく)
足音を立てゝ階段を上ってゆく白衣の幽靈を見た績は、石段から墜落した自分を家の中へ運んで介抱したのが誰であるか、略見當がついたやうな氣がした。だが、いったい何者がこの家へ入りこんてゐるのであらう? しかも確に女だ! この場合、幽靈が女であることはかへって不氣味であったが、績は引ずられるやうに階段を上りかけた。その時突然門前にあたってばたばたと入亂れた足音が聞えてきた。
(2)終結篇
格闘の後
「此奴、逃げようったって、逃がすものか。」
「亂暴は止せ、俺は何にもしやしない。」
數人の男達の罵り合ふ聲がしたので、績は何事かと、戸外へ走り出た。闇を透して見ると、表門のところから溝のふちにかけて、黒い影が上になり、下になって縺れてゐる。
「さァ、文句があるなら、家に入って聴かう。」
それは紛れもなく、績の父の聲であった。
「他愛のない野郎です。縛りあげるまでもありません。」といひながら、鳥打帽の男の襟がみを掴んで引擦ってきたのは、書生の村山であった。二人は夜になっても歸宅しない績の身を案じて、こゝまできたのであった。
「あゝ、お父さん、此奴等です! 伯父さんのところの道具を盗んだのです。」績は父の傍へ駈け寄った。
「おゝ、績、やっぱりこゝへ來てゐたのか。」父ははっとしたやうにいった。
「僕はこの男達が盗んでゐるところを見てゐたんです。」
「とにかく、この男達を調べて見よう、績、早くいって電燈(あかり)を點けなさい。」
績は先に入って電燈をつけた。彼は自分の額の傷を見つけて驚いてゐる父に、夕方以來の出來事を語った。
「績、よく見ろ、鞄に銀器を詰めたのは、間違ひなくこの男達だらうな。」父親の隅に小さくなってゐる男達を顧みた。
鞄に詰めた品
一人はコール天のズボンに、鼠色のスエターを着た眼の大きな十七八の青年で、もう一人はよれよれの單衣を着た角刈の青年であった。二人とも觀念してぢっと首を垂れてゐる。
「お前達は、盗み出した品物をどこへやった。」
父親は鋭く詰問した。
「僕等は盗むつもりで入りましたが、何も持って出ませんでした。先刻坊ちゃんが、おっしゃったやうに、幽靈が出たんで、驚いて逃出したんです。けれども戸外(そと)へ出てよく考へて見ると、今どき幽靈などのゐる筈はなし、折角鞄に詰めた品を、みすみす棄てゝゆくのは殘念だと思って、取りに戻ったところを貴殿方に捕ったのです。」とスエターを着た青年がいった。
「鞄を置いていったといふが、どこへおいていったんだね?」
「あの、戸棚の前……なァ、さうだっけな……」青年は部屋中を見廻しながら、相棒の肘を突いた。
「お前達、もう一度よく考へて見ろ、置いたものならある筈だ。この場に臨んで、一時のがれの嘘をいったって何にもならんぞ。」
「決して嘘はいひません。友達が逃げたんで僕も急に怖くなって、鞄を抛り出していってしまったんです。」と青年はいひ張った。
足のある幽霊
そこへ、家中を見廻ってゐた村山が、
「こんなものが、廊下の眞中に抛り出してありました。」といひながら、赤革の古鞄をぶら下げてきた。
「お父さん、確にあの鞄です。」と績が叫んだ。
二人の青年もそれを肯定した。ところが、それは空鞄であった。一同は唖然として眼を瞠った。
念のために食器戸棚を檢めた父は、雜然と積上げてある銀器を見て二度びっくりした。それをのぞき込んだ績は、
「やァ、盗まれた僕のジャックナイフがこんなところにある!」といった。
藤原家の品物は一つも紛失してゐなかった。二人の青年が鞄に詰めたといふ銀器類は、そっくり元へ戻ってゐた。彼等はその朝、川縁で績の釣道具函から持出したジャックナイフを用ひて、食器棚をこぢあけた旨を自白した。
「解った! 泥棒を追拂っておいて、その後で鞄の中味をこゝへ戻したのは、足のある幽靈だ! だが、あれはいったい何者だらう!」績は天井を見上げた。
みしり、みしり、誰かゞ階段を下りてきた。一同は片唾を呑んで廊下を凝視した。
怪物の正體
そこへ現はれたのは、白い割烹着をきた若い娘であった。スエターを着た眼の大きな青年は、さっと顏色を變へて、仲間の背後へ隠れやうとした。
「あゝ、お前はお鶴ぢゃァないか。」父親は驚愕の聲をあげた。それは數年間藤原家に勤めてゐた忠實な小間使であった。
「旦那様、お騒がせして誠に申譯ございません。お恥かしいことですが、そこにをりますのは實は私の弟と、その友達でございます。」と女がいった。
お鶴がそんなところへ出てくるさへ不思議だのに、盗人の一人が彼女の弟と聞いて、皆はあきれて彼を振返った。さういはれて見ると、スエターを着た青年の目鼻立はお鶴にそっくりであった。
「まさか、正直者のお前が盗人の手引をしたとは信じられない。」――父親は探るやうに姉弟の顏を見くらべた。
「弟はこの春まで勤めてゐた大森の鍍金會社がつぶれてから、勤め口がなく、段々お金に困ってきたものですから、惡心を起し、友達を語らって、このお屋敷へ泥棒に入らうとしたのです。私はふとした事からそれをかぎ付け、それとなく意見をしましたが、聞容れる様子がないので、思切って最後の手段をとり、幽靈の眞似をして弟達の惡事を邪魔したのでございました。無斷で他人様のお屋敷に入った事は重々惡いと存じてをります。
私はどんな罰を受けても構ひませんが、年齢の若い弟達はどうぞお許し下さい。」とお鶴は涙ながらにいった。彼女は主家を守ると同時に、弟達を罪から救ふために咄嗟の思ひつきで、勝手を知った屋敷へ忍び込み、永い間締切になってゐた誰も知らない納戸に潜んでゐたのであった。七つ目の謎の窓はそこについてゐたのであった。
角刈の青年
「僕が惡かったのです。姉さんには少しも罪はない。罰するなら僕一人を罰して下さい。僕が主犯者です。」青年は姉の眞情に動かされて、潔く裁斷を受ける決心をした。
「そんなことはない。僕は君の友達だ。君が罪になるなら、僕も罪になる。」角刈の青年がおろおろ聲でいった。
部屋の中はしんとしてしまった。
「ねえ、お父さん、この人達は後悔してゐるんだから、どうか赦してやって下さい。」績が沈默を破った。
父親は大きく頷首いて、彼等を警察へ突出す代りに、暖い食物と、寝床の待ってゐる自宅へ連れていった。
× × × ×
× × × ×
秋日和が續いた。巨木の蔭にある藤原家の窓々には白いカーテンが揺れて、陽気な笑ひ聲が露臺に溢れてゐた。お鶴は甲斐々々しく露臺と臺所の間を往復して、果實や、紅茶を運んでゐた。
伯父夫妻の土産の空氣銃や、寫眞機を抱へた績少年は、窓から首を出して下を覗いてゐた。芝生の上ではお鶴の弟と、その友達が小ざっぱりとした服装で、南米から届いた大荷物を解いてゐた。彼等は新生涯を開拓するために、近々に藤原家で經營してゐる南米の珈琲園へ往く事になって、便船を待ってゐるのであった。 (をはり)
注)明かな誤字誤植は修正しています。カギ括弧末の句点は有りに統一しています。
注)「みはる」は目爭ですが瞠で代用しています。
注)あまりにも唐突な結末、唖然とさせられる怪奇な作品。
新時代小説「銀翼の凱歌」
「国民新聞」 1933.12.17, 24, 1934.01.07, 14, 21 (昭和8年12月17日〜9年1月21日) より
發端篇 赤玉を使ふ男
廣い食堂でたった一人、お晝ご飯を食べてゐた球子は、箸を投出すなり椅子から辷り下りて、暖爐の前の安樂椅子に勢よく腰かけた。小さな體躯(からだ)は鞠のやうに彈んで、二本の脚がぶらんこをしている。
三月の試驗
そこへ入って來た老婢は、
「お嬢様、もうお濟みでございますか。大層お早いんですね。」といひながら食卓を片付け始めた。
「さうさ、ひとり法師(ぼっち)でご飯なんか、ちっとも甘味(おい)しくないわ。眞實(ほんとう)にお姉様ばかり得しちゃふわね。今頃は屹度松屋の食堂で、アイスクリームだの、サンドウヰッチだの、お汁粉だの、みつ豆だの食べてゐるんだわ。球子は爐邊を蹴りながら口を尖らせた。
「お姉様はお行儀がいゝから、そんなにいろいろなものを召上りませんよ。」
「お母様ったらお姉様ばかり連れていって……」
「それは仕方がございませんよ。お姉様のお召物を買ひにいらしったのですもの。」
「あら、又、お姉様の着物? 随分慾張りね、お姉様と球子とは、たった六歳きり違はないのに、眞實に不公平だわ。」
「そんな事を仰有っても、お姉様は女學校を御卒業なすったし、お嬢様はこれから女學校へお入りになるんではございませんか。三月の試驗だってもう直ぐでございますよ。慥(しっか)り遊ばせ。」
プロペラー
「あゝ! 飛行機! 飛行機!」球子は老婢の言葉など上の空で露臺(バルコニー)へ飛出した。
初冬の澄渡った空に、快いプロペラーの音が響いてきた。銀翼を擴げた飛行機は、黄ばんだ庭の芝生に影を落さんばかりの低空飛行をして浪花家の屋敷の上を悠々と翔んでいった。
「萬歳! お父様の工場でこしらへた飛行機よ。ばあや早く來てご覧!」
球子の頓狂な叫び聲に、露臺へ誘ひ出された老婢は、額に手を翳しながら西の空を仰いだ。飛行機は、杳かな丘の上に窓を並べてゐる赤甍の三層樓の眞上を斜に、森の彼方へ消え去った。
「あゝ、もう去っちゃった。ばあやあの赤いお屋根の大きな家は何なの?」
「アパートか、何かでございませうよ。」
「あんなに澤山お窓があって、球子、誰がゐるか、一つ一つ覗いて見たくて耐らないのよ。球子も男だったらいゝなァ、お兄様みたいにアメリカへいって、飛行機の事を勉強して……飛行家になれば何處へだってゆけるわね。」
「さァお嬢様、もうあと三十分したらお二階へいって御勉強ですよ。金谷先生がお待ちになっていらっしゃいますからね。」
ばあやが膳をもっていってしまふと、球子は露臺の欄干にかけてあったゴム紐を持出して、繩飛をしながら芝生へ下りていった。
天鵞絨の服
「お休みになってまで勉強なんて、厭になっちまうなァ、こんな良いお天氣の日に……金谷先生ほんたうに意地惡だわ、自分はご飯の時に食堂へ出なかったり、夜遅くなってから家へ歸ってきたり、勝手なことをしてゐる癖に、球子の事ばかり規則づくめにしてさ………づうくめ、づくめ、金谷のづくめ。」
球子はそんな獨言を唄ひながら、庭から桐畑を抜けて、裏の空地へ出た。そこからは獨逸ひばやヒマラヤ松の蔭になって家が見えないので、球子は誰も叱る人のない自由な天地へ來たやうな氣がして、枯草の上に樂々と脚を伸ばした。
「おや! あんな面白い事をしてゐるわ!」
球子は眼を輝かした。空地の端れの川縁で、金釦のついた紫天鵞絨の服を着た男が、赤玉を指の間に躍らせてゐた。
空へ投上げた赤玉がいつの間にか男の指先で三つになり、五つになった。男はさも愉快さうに同じ事を繰返してゐたが、最後に五つの玉を頬張って呑み込んでしまふと、くるりと球子の方を向いて、舞臺でするやうに恭々しく御辭儀をした。
木戸番の難題
「お嬢さん、魔法の赤玉は面白かったでせう。」
男は先刻呑んだ玉を靴の中から出してみせた。
「あゝ、びっくりした。小父さんは奇術師?」
「えゝ、さうですよ。この先の原っぱにかゝってゐるサーカスに出演てゐるんです。お嬢さんは象だの、熊だの、オットセイなんかの曲藝を觀たことがありますか。」
「まだ一ぺんも觀た事がないわ。」
「それでは切符を差上げませう。いってご覧なさい、面白いですよ。今からですと、丁度始まるところです。」男は無雜作にポケットから切符を掴み出し、呆気にとられてゐる球子に渡して、さっさと去って了った。
四邊には誰もゐない。陽は麗かに照って、遠くにサーカスの樂隊が聞えてゐる。球子は學校の往復に看て通った不思議な繪看板に心を惹かれ、うかうかと往來へ出ていった。
サーカスの前には、黒山のやうに人がたかって、柵の中の馬を覗いたり、檻の猿にかまったりして切符を買った人達はぞろぞろ天幕の中へ入ってゆく。正面の緞帳が半分あがって、紅白の輪を持った大熊が舞臺へ現れたと思ふと、さっと幕が下りて、一しきり賑やかな樂隊と、人々の拍手や、笑ひ聲が聞えてきた。
掌を出して
球子は家の事など忘れてしまひ吸込まれるやうに木戸口を入っていった。すると、先刻の紫天鵞絨の服を着た男が群衆を掻き分けてきて、
「お嬢さん、さァこちらへ。」といって球子を緑色の幕で仕切られた正面の特等席へ案内した。場内は滿員であったが、その席だけは球子ひとりでゆっくりと見物する事が出來た。動物の曲藝、美しい少女達のダンス、道化の奇術等、球子は次から次へと變ってゆく舞臺に氣を奪(と)られて、時間の經過(た)つのも忘れてゐた。その上、幕間には大好物のアイスクリームや、チョコレート等が届けられたので、球子は女王様にでもなったやうな得意な氣持になってゐた。
そこへ、意地の惡さうな顔をした木戸番の男がやってきて、
「お嬢さん、切符を見せて下さい。」
といった。
「切符は紫の服を着た小父さんに渡したわ。」
「紫の服? そんな男は知りませんよ。兎に角切符がなくては困りますね。」
「切符はないのよ、私、困るわ。」
「こっちだって商賣にしてゐるんですから、無料(ただ)で見られては困りますよ。切符がないなら、料金を拂って下さい。」木戸番の男は傍へにぢり寄って、熊のやうな掌を差出した。
「お金は幾許あげればいゝの?」球子は胸をどきどきさせながらいった。
球子の肩を
「拾圓です。こゝは特等席ですからね。」男は球子の食べ散らしたアイスクリームの容器だの、チョコレートの空箱などをぢろぢろ見廻しながらいった。
「拾圓! 私、お金はもってゐないわ。」球子は泣きさうになった。
「金がないなら、品物でも置いてゆきなさい。腕時計とか、指輪とか……さもなければ警察へゆくまでだ。」
球子は眞青になった。拾圓の金に替へるやうな品は、何一つ身につけてゐない。警察へ突出されゝば、家や、學校に知れて了ふ。そんな事になったら耻しくって、先生にも、お友達にも顏向けがならない。球子は涙に潤んだ眼で、もう一度場内を見廻したが、紫天鵞絨の服を着た男は何處にも見えなかった。
球子は親の許可(ゆるし)も得ないで勝手にこんなところへ遊びに來た事をしみじみと後悔したが、今更及ばなかった。
「さァ、どうして呉れます。」男は荒々しく球子の肩を突いた。 (つゞく)
眞珠の頸飾
サーカスの男はどうしても警察へ突出すといって承知しないのを、球子はいろいろに歎願しその日の五時に、裏の空地で拾圓の金か、或はそれに相當する品物を渡すといふ約束でやうやう許して貰った。
もう五時だ
球子は恐ろしさと、心配に慄へながら家へ飛んで歸った。家の人達はまだ誰も歸ってゐないで臺所の方で女中達の話聲がするきり、二階も階下もひっそりとしてゐた。足音を忍ばせて二階へ上った球子は、自分の箪笥や、机の抽斗を捜したが、腕時計は毀れてゐるし、アメリカの伯母さんから送って貰った指輪は石が外れてゐるし、これはと思ふ品は何一つなかった。
窓ガラスを赤く染めてゐた夕陽が、段々薄れてゆく。もうぢきに五時だ。球子は階下の姉の部屋へ忍び込んだ。
姉の由子は其朝周章(あわ)てゝ支度をしていったと見えて、化粧箪笥の抽斗は錠が下りてゐなかった。寶石函の中に、腕環、頸飾、指環、帶止などがそれぞれ小箱に入って整然と並んでゐる。球子はその中から眞珠の頸飾を引ぱり出した。
姉の所持品
これなら一等安ものだから借りておいたっていゝわ。どうせ十圓お金が溜れば取返してくるんですもの。――球子は自分が夏休みに海水浴へいって、それと同じやうな頸飾を紛失した時、母が廉物で十圓ばかりのものだから、心配しないでいゝといった事を想ひ出し、姉の所持品の中から特にその眞珠を選び出したのであった。
球子が頸飾をハンケチに包んで、暗くなりかけた裏の空地へゆくと、川岸の柳の樹蔭に立ってゐた男が、
「お嬢さん、持ってきましたか。」と聲をかけた。
「えゝ、持ってきたわ。でも、お金が出來たら、これを返して頂戴ね。」
氣味が惡く
「返しますとも、この紙片に番地と名前が書いてありますから金が出來たら私の處へ持っておいでなさい……お嬢さんの家では、時々お父さんが旅行なさいますね。そんな時は誰か男の人が留守番にくるんですか。」
「何故そんなことを聞くの? 私、そんな事知らないわ。」球子は少し氣味が惡くなった。
「男氣がないと不用心でせう、だから人がなければ、私が雇って貰はうと思ってね……お父さんの金庫は、階下の書齋にあるんでせうね……」
男が尚も執拗(しつこ)く家の様子を聞き出さうとした時、大型の自動車が、空地に頭光(ヘッドライト)を投げながら往來を走ってきた。
「あゝ、お父様が歸っていらしったわ!」球子は急に元氣づいた。
家へ逃げて
「いゝですかお嬢さん、今日の事は、誰にも喋ってはなりませんぞ!……」男は頸飾の包を球子の手から引たくるやうにして、闇の中へ消えてしまった。
ほっとして家へ逃げ歸った球子は、廊下で父に出會った。
にこにこしてゐる優しい父の顏を見ると、球子はその胸に取縋って泣き出したいやうな氣持になった。
「お父様、球子は告白しなければならない事があるのよ。」
「はははゝゝゝゝお前の告白は、またおねだりだらう。」
「そんな事ぢゃァないのよ。あのお姉様の眞珠の頸飾ね、若し私があれを借りたとしたら……」
本當の眞珠
「冗談いってはいけないよ。あんな上等な頸飾はまだお前には早い。眞物だからね。」
「眞物の眞珠? 十圓よりもっと高價いの?」
「お馬鹿さんだね。あれは六百圓もするんだよ。」父は呆氣に取られてゐる球子の頬を指先で突いて、笑ひながら居間へ入ってしまった。
「六百圓!」球子はその聲と共に自分の身體が地の底へ沈んでゆくやうな氣がした。
黒光館
その晩、球子は早く床に入ったが、眞珠の頸飾りの事が氣になって、中々寝付かれなかった。最初の計畫では、クリスマスや、お正月に貰ふお小遣ひを溜てからのつもりであったが、六百圓の眞珠と聞いては一刻も早く十圓のお金をもっていって、取返してこなければならないと思った。
「さうだ、明日の朝早く、民雄さんに相談して見ませう。民雄さんなら屹度助けて下さるわ。」
球子は中學二年生の民雄少年の事を想ひ出し、いくらか安心して一眠りしたが夜中にふと眼を覺ますと、誰かゞ、みしりみしりと階段を上ってきた。
「今頃誰でせう? あのサーカスの男が泥棒にきたんぢゃァないかしら。」球子は扉を細目に開けて、そっと廊下を覗いた。
外套の襟を
階段の眞上の天井から白い暈をかぶった電燈が下ってゐる。重さうな大荷物を抱へて階段を一段づゝ上ってきたのは、外套の襟をたてゝ、黒眼鏡をかけた男であった。球子は驚いて首を竦めた。それは家庭教師の金谷先生であった。先生は球子の部屋の前を過ぎて廊下の突當りにある自分の寝室へ入って了った。
「あゝ、怖かった……だけれど先生はどうして眼鏡なんか、かけていらっしゃるんでせう。黒眼鏡なんて泥棒みたいだわ……」
球子はそんな事を考へながら、もう一度床の中へもぐり込んだ。
学校の宿題
翌朝、球子が食堂へ下りていった時には、日曜だといふのに父は早朝から飛行機製作所へ出掛け、金谷先生ももう家にはゐなかった。母と姉の由子は、又しても買物に行くらしい身仕度で、今日は球子も連れてゆくといったが、今日の球子はそれどころではないから、學校の宿題にかこつけて斷ってしまった。
母と姉が出掛けた後で、球子は民雄に電話をかけた。一大事件と聞いて、近くに住む民雄は、愛犬五郎をつれて直ぐやってきた。庭へ馳下りた球子は飛付く五郎を拂ひ退けながら、昨日の出來事を語った。
民雄は眉間に八の字を寄せて考へてゐたが、
「僕の貯金箱を壊せば、十圓位入ってゐるから、それを持って一緒に行ってあげよう。その紙片をよく見せてご覧なさい。稲荷坂上、黒光館三十八號室、桐平吉といふんですね。地圖を見て見當をつけなくちゃァ……」
飛行機製作
「お父様の許に、家の物置まで描いてある精しい地圖があるわ。」球子は民雄を伴って父の書齋へいったが、扉には嚴重に錠が下りてゐた。
「さうだらうと思った。きっと此處にはお父様の大切な書類が置いてあるから、矢鱈な者が入れないやうにしてあるんだよ。飛行機の製作所などを持ってゐると、スパイに狙はれるからね。なァに、地圖なんか無くったって大丈夫だ。では、僕直ぐお金をもってくるから。」
身輕な民雄は露臺から芝生へ飛下りるなり、五郎と競爭で走っていった。
球子は老婢(ばあや)に散歩してくると斷って家を出ると、坂下で、頬を赤くして走ってくる民雄に會った。
「萬歳! 十圓以上あった!」民雄は得意氣にポケットを叩いた。
「おい、五郎、お前は一緒にくるんぢゃァない、家へお歸り!」民雄は勢ひよく走ってきた犬を叱った。五郎は鳥渡立止って耳を動かしてゐたが、素直に家へ歸っていった。
三階建の家
五郎は眞實に感心ね、よくいふことをきくわね。――球子はとぼとぼと坂を上ってゆくセッター種の五郎を見送りながらいった。
二人は交番や、蕎麥屋などで道を訊きながら、散々歩いた揚句、勾配の急な坂を上りきったところに、黒光館アパートメントと表札の掲った三階建の家を見出した。
崖際に聳えてゐるその家は、球子の家から凹地を越えて西の丘に見えてゐた、窓の多い謎の家であった。 (つゞく)
第三卷 民間の探偵
三角眼をした受付の老人から、三十八號は三階と聞いて民雄と球子は狹い階段を上っていった。
薄暗い廊下に立って、三十八號室の扉を叩くと、重い靴音と共に、がちりと鍵を廻す音がして、扉を開けたのは、鷲鼻の頭顱(あたま)のつるつるに禿げた大男であった。
何用だね
男は嶮しい顏をして二人を見下した。
「桐平吉さんといふ人に會ひにきたんです。」民雄は球子から受取った紙片を見ながらいった。
「其男に何か用事があるのかね。」
「拾圓もってきたから昨日預けておいた頸飾を返して貰ふのです。」と球子がいった。
「眞珠の頸飾だと? そんな用事でこゝへ來るのは見當違ひだ。第一桐なんていふ男はこゝにゐない。」
「困ったわ。あの小父さんはちゃんとこゝに番地を書いて下すったのよ。どこかこのお部屋に藏ってあるかも知れないから、捜して下さらない?」球子は涙ぐんで大男を見上げた。その時、扉の傍にゐた民雄が、突然、
「あっ痛い! 釘で引っかけちゃった!」と叫んで手の甲を押へた。指の間からたらたらと血が流れてきた。
舌打をし
「あら痛いでせう!」球子はハンケチを出さうとしてたが、民雄は、
「小父さん、濟みませんが、紙か何か下さい。」といった。
「煩い餓鬼だなァ。」大男は舌打をしながら、隣の部屋から紙を二三枚掴んできた。
「小父さん、どうも有難うございました。僕達また來ますから、若し桐といふ人がきたら、さういって置いて下さいね。さァ、球ちゃん、歸らうよ。」民雄は球子を促して階段を下りた。
二人が玄關を出ようとすると、球子は急に民雄の腕をひいて、
「ちょっとこゝへ隠れませう。」といった。
二人が素早く洗面所へ身を潜めた時、壁に懸った細長い鏡に、階段を上ってゆく金谷先生の姿が寫った。
「球ちゃんとこの先生だね。三階へゆくやうだ。僕達こゝへ來たことが、家へ知れたんぢゃァないかしら。」
黒光館へ
「私、誰にも云はないんですもの、知れる筈ないわ。先生に見付かるといけないから、今のうちに此所を出ませう。」
民雄は戸外へ出ると、球子を電柱の蔭に待たせておいて、もう一度黒光館へ引返し、家の周圍を一廻りして、にやにや笑ひながら戻ってきた。
「球ちゃん、君、あの禿天おやぢに氣が付かなかったかい。僕は彼奴を見たことがあるよ。」
「知らないわ、私、初めて見たわ。」
「あれは君の家の近所を、よくうろついてゐる乞食老爺だよ。假髪(かつら)なんか被ってさ。先刻彼奴が後を向いた時、禿の下から毛がはみ出してゐやがるのさ。それに、こっちでは唯、頸飾といったゞけだのに、彼奴は眞珠の頸飾とはっきりいったらう、だから、彼奴は怪しい。確に桐とかいふ奴の仲間に違ひない。
鍵を失敬
「民雄さん、豪いわね、よくそんなに氣が付くのね。あゝ忘れてゐたわ、手の傷はどう? 釘なんかに引かけて黴菌が入ると大變よ。」
「なァに、眞實は釘なんかぢゃァないんだよ。自分で引掻いて血を出したのさ。その収穫はこの通りさ。彼奴が紙を取りにいってゐる間に、扉に差込んであった鍵を失敬してきたんだ。」民雄はポケットから鍵を出して見せた。
「まァ、民雄さんはまるで探偵みたいね。」球子は感嘆した。
「僕は眞實の探偵をやらうと思ふんだ。先刻様子を見ておいたから、今晩黒光館に忍び込んで、きっと眞珠の頸飾を取返してきてあげるよね。」民雄は自信をもっていった。
二人はそんな事を話し合ひながら、桐といふ男を捜し出す爲に、サーカスへいって見たが、テントは既に取拂はれて、がらんとした廣場に凩がさむざむと吹渡って、古新聞などが飛び散ってゐた。
黒天鵞絨
民雄と別れて家へ歸った球子は母が歸宅したと聞いて、そっと居間の前までゆくと、姉の由子が松屋から届いた黒天鵞絨のドレスを擴げてゐた。
「あゝ、お正月が待遠しいね。このドレスを着て、あの眞珠の頸飾をしたら、屹度素敵よ。」
「黒に眞珠はよく適(うつ)りますね。」
母と姉の會話を聞いて、球子は思はず首を竦めて自分の部屋へ逃げ歸った。
――民雄さんはうまく取返して呉れるかしら――
球子は机に頬杖を突いて、遠くの丘に、窓を並べてゐる黒光館を見詰めながら、三階の暗い廊下や、禿頭の假髪(かつら)を被った恐ろしい男の事や、四邊に氣を配りながら階段を上っていった金谷先生の事などを思ひ浮べてゐた。
其晩、食事の後で球子はいつもの様に、暖爐(ストーブ)の前の椅子に脚をぶらぶらさせながら、膝の上に少女雜誌を擴げてゐた。けれども民雄の事が氣になって何を讀んでゐるのか、一つも頭腦に入らなかった。
金谷先生
金谷先生を相手に將棋をさしてゐた父は、一勝負濟むと、くるりと椅子を廻して、
「球子は毎年お正月のお重詰をこしらへる時には、臺所へ遠征して皆を困らせてゐたが、今年は馬鹿におとなしいんだね。」と笑ひながらいった。
「球子、いろいろ考へてゐる事があるのよ。」
「お年玉の事で煩悶してゐるのかい。父さんから何をおねだりしようっていふんだね?」
「……あのね……金谷先生、稲荷坂って何處なの?」球子は父親の言葉には應へないで、ちらと家庭教師を見ながらいった。
「稲荷坂? さァね、そんな地名は何處にだって澤山あるでせう。」
「では、黒光館といふのは何處でせう?」球子は今にも相手が顏色を變へるかと思ってゐたが、金谷先生は聞えない振りをして、平然と煙草をふかしてゐた。久時して、
「どれ、私は鳥渡出掛けてきます。」家庭教師は急に何事かを思出したやうに、部屋を出ていった。
お父様に
球子は先生の靴音が玄關に消えてしまふと、
「ねえ、お父様、先生は今頃から何處へいらっしゃるんでせう? もう八時だっていふのに……」と咎めるやうにいった。
「八時なんて、お前には遅いけれども、大人にはまだ宵の口だよ。球子やお前このニ三日餘程どうかしてゐるね。その小さな頭腦(あたま)の中に何が入ってゐるんだい?」
「重大な事がぎっしり詰ってゐるの……お父様にお話しようかしら。」
「まァ止して貰はう、お父さんは今晩中にやって了はなければならない事が澤山あるんだから。お前のお話はお正月のお休み中にゆっくり聞くとしよう。」父親は立上った序(つい)でに球子の頭を撫で、書齋の方へいって了った。
球子は先刻から氣にしてゐた時計をもう一度見直した。民雄さんはどうしたんだらうと思ふと球子はぢっとしてゐられなくなって露臺へ出た。
火事だ!
星の降るやうな晩で、黒い風が竹藪を鳴らしてゐた。西の空が赤くなってゐる。球子ははっとして欄干にしがみついた。
丘の上に聳えてゐる黒光館の窓が、赤い火焔を噴いてゐる。
「火事だ! 火事だ!」球子は轉がるやうに父の書齋へ馳込んだ。
「お父様、大變です! 民雄さんが……火事です!」球子は父の胸に取縋って、きれぎれに叫んだ。
消防自動車の警笛が、夜の靜けさを破って響き渡ってきた。黒光館は紅蓮の焔に包まれてゐる。眞珠の頸飾を取返しにいった民雄はどうなったであらう? (つゞく)
第四回 猛火を潜った犬
球子は眞珠の頸飾を持出した經緯から、民雄少年がそれを取戻すために黒光館へ出掛けた顛末を父に打明け、
「もしかすると、民雄さんは惡漢に捕まって、あの火の中に縛られてゐるかも知れないわ。」
と泣じゃくりしながらいった。
「まァ、そんなに心配せんでもよい。事によったら民雄さんは家へ歸ってをるかも知れぬ。さァお父さんと一緒にいって見よう。」
二人は車庫へ走っていったが、運轉手の田村は火事見物にでもいったと見えて姿が見えないので、父親が自動車を引出した。
眞珠の頸飾
民雄の家では、慌たゞしい靴音を聞いて玄關へ出てきた母親が、
「……いゝえ、夕方六時頃出掛けたきり、まだ歸らないのでございますよ。私はお宅へ伺ってゐるのだとばかり思ってをりましたのに……」と不安な面持でいった。
「六時に出掛けたとすると、もう二時間になりますね。まさかと思ひますけれども、これから直ぐ黒光館とかいふ家へいって見ませう。」と球子の父親がいった。
その時、暗い往來を白い犬が、まっしぐらに走ってきた。
「あゝ、五郎が歸って來た! 五郎! 五郎!」球子は狂喜して叫んだ。
五郎はその聲をきいて玄關へ轉げ込んできた。頸環に見覺えのある球子の手巾が括りつけてあった。球子は五郎を抱寄せて顫へる指先で包を解いた。中から眞珠の頸飾がざらざらと現れた。
五郎の尻尾
「まァ嬉しい! 民雄さんが取返して下すったんだわ。五郎や有難う。」球子は五郎の頭を撫でて、幾度も頬擦りをした。
「おや! 五郎の尻尾がこんなに燒焦げになってゐる! 火の中を潜ってきたんだな。」といふ父親の言葉に、一同顏を見合せた。
「民雄さんは大丈夫かしら?」球子は玄關を走り出て往來を透して見た。後を蹤(つ)いていった五郎は、何かいゝたげに球子の顏を仰いでは、低く唸聲をあげた。
五分、十分と經過(た)ったが、民雄は歸ってこなかった。黒い森の上に赤い火の粉がぱらぱら散ってゐる。
不安が俄に募ってきた。民雄が大切な眞珠を五郎に持たせて歸し自分だけ安閑と火事場見物などをしてゐる筈はない。
球子と父親は自動車を黒光館へ走らせた。二人が現場へ到着した時には、もう火は消えてゐたが、狹い坂道に野次馬が溢れてゐた。燒けたのは三階だけで、火元は三十八號室だといふ事であった。受付の老人は、
三十八號室
「宵の口の火事で、いゝあんばいに怪我人は一人もありませんでした。火元の人達はいつの間にか皆逃げてしまって、ひとりもゐないのですよ。十五六の坊ちゃんは、晝間三十八號室を訪ねてきましたが火事のあった時はどうしたか氣がつきませんでした。」といった。
父親と受付の老人が、そんな會話をしてゐる時、球子は群衆の中に交ってゐる乞食を見つけて、思はず父の腕に獅噛(しがみ)ついた。それは三十八號室で見掛けた禿天おやぢである。彼は禿の假髪を脱いで背中を丸くして、まるで別人になってゐるけれども、球子は鼻と、眼の下の黒子に見覺えがあった。男は球子の視線にぶつかると、周章てゝ群衆を掻分けて坂路を下りていった。
それを見送った球子は、もう一度驚愕(おどろき)の眼を瞠った。怪しい男の直ぐ背後(うしろ)に、黒眼鏡をかけた金谷先生が蹤いてゆくではないか!
「やっぱり先生は惡漢の仲間なんだわ。」球子は呟いた。
金庫を開き
眞珠の頸飾は無事に戻ったが、民雄少年はたうとう歸ってこなかった。警察へ届けたり、心當りを捜したりしてゐる中に、夜が更けてしまった。
球子は民雄の身上が心配で、寝るどころではなかったが、家人に宥められて無理矢理に寝床へ入れられてしまった。彼女は猛火の裡で救助を叫ぶ民雄の聲や、鳶口をもって追かけてくる鷲鼻の男に脅かされて、幾度も寝床の上に起上った。
ふと、眼を覺した球子は確に、階下の父の書齋の扉が開く音を聞いた。彼女の腦裡に金庫に藏ってある飛行機に關する重要書類の事が映った。
球子は咄嗟に部屋を辷り出て階段を下りていった。一吋ばかり開いてゐる扉の隙間から覗くと、金谷先生が床に膝を突いて金庫を開けてゐるところであった。
球子は胸をどきどきさせながら父の寝室へ飛んでいって、
「お父様、大變です! 金庫の書類が……」
「なに? 書類?」
「金谷先生は間諜(スパイ)です! お父様の書類を盗んでゐます!」
階下の様子
「えっ? 金谷先生? よし、よし、お前は早く自分の寝床へ入っておいで、お父さんがいって見てくるから。」父親は太い仕込杖を掴んで階段を下りていった。
球子は恐ろしさに震へながら、階下の様子を窺ってゐると、暫時して父親が笑ひながら戻ってきて、
「球子や、お前は夢を見たんだね、書齋の扉には錠がかゝってゐたし、黒鞄はちゃんと金庫に入ってゐたよ。」といった。
球子は不思議で、不思議で耐らなかった。父にさういはれゝば夢のやうな氣もするが、自分の手や白い寝卷の膝を見ると、廊下を這って書齋を覗いた時の塵芥(ほこり)で汚れてゐる。彼女は父が電燈を消して去ってしまふと、蒲團を被って眼を閉ぢたが、どうしても書齋の金庫が氣になってならなかった。散々考へた揚句、球子は机の抽斗から白墨を取出して、もう一度階段を下り、書齋の扉の把手に白い粉を丹念に塗ってきた。
黒鞄を抱へ
翌朝、球子は金谷先生が下へゆくのを見すまして、そっと先生の寝室へいって見た。案の定、褐色の扉に白墨の粉がついてゐる。
「矢張り夢ぢゃァなかったわ。お父様が檢にいらしった時には、何處かに隠れてゐて、私達が睡ってから、又、書齋へ入ったんだわ。」
球子は先生の部屋へ忍び込んだ。
あった! 父の大切な書類を入れた黒鞄は寝臺の下に隠してあった。それにも白い粉で指紋がついてゐた。球子は黒鞄を横抱へにして自分の部屋へ逃げ歸るなり、本箱の奥へそれを隠して胸を撫で下した。
食堂へいったが、いつもより一時間も早いので、まだ誰も起きてゐなかった。球子はその間に民雄の家へ様子を聞きにゆかうと思ひ玄關の石段を下りてゆくと、植込の蔭から男の言ひ爭ふ聲が聞えてきた。
「雇人が庭掃除をするのに、何が惡いのだ。」
「庭掃除をするのに書齋の窓を覗く事はなからう。」
重要書類を
「へん、家庭教師は朝っぱらから庭なんか、うろつく用はねえ筈だ!」
それは金谷先生と、運轉手の田村であった。相手が去(い)ってしまふと、田村は忌々しげに、べっと唾吐いて植込の小路を出てきたが、
「へへゝゝゝへ、お嬢様お早うございます。」と愛想笑ひをした。
「先生は眞實に意地惡だわね。」
「いけ好かない奴ですよ。私が窓の下で日向ぼっこをしてゐたら、つまらない叱言(こごと)をいふんです。彼奴はちっと怪しいですね。」
「田村もさう思って? 私もあの先生を怪しいと思ふわ。スパイぢゃァないかしら?」
「スパイ? 成程ね、お嬢様用心なさらなければいけませんぜ。一體重要書類ってやつは、何處に藏ってあるんです。」田村は急に聲を潜めた。
「金庫の中にあったのを先生が盗んだのよ。それを私が取返してきたの、でも私心配だわ。お父様がお目覺めになるまで、田村預かってくれない?」
「よろしい、お預かりしませう。」
田村は黒鞄を取りに走ってゆく球子の後姿を見送って、赤い舌をぺろりと出した。 (つゞく)
第五回終篇 運轉手の失踪
重要書類の入ってゐる黒鞄を運轉手の田村に預けてしまふと球子は重荷を一つ下したやうな氣持で、民雄の家へ出掛けていった。
民雄の家では、玄關に下駄や、靴が澤山並んで、奧座敷に親戚の人達が集って、不安らしく低聲(こごえ)で話合ってゐた。球子はその中に自分の母親が交ってゐるのを見つけて、いったん入った玄關をそっとすべり出た。
球子は庭木戸のところで、手帳に何か書留めてゐた巡査から民雄の消息が依然として知れないといふことを聞き、失望と不安とに泣出したいやうな氣持になって、重い足を引摺りながら家へ戻った。
運轉手の失踪
「もしもこのまゝ、民雄さんが歸ってこなかったらどうしよう。こんな事になったのも、みんな私のせいだわ。」球子は自分を責め續けてゐた。
門を入ってゆくと、外套を着て帽子を被った父が玄關の石段の上に立ってゐた。
「もう事務所へお出かけになるの?」
父親はいつにない不機嫌な様子で、球子の言葉にうなづいたゞけであった。
鞄のことを心配していらっしゃるんでせう? 私がちゃんと取返しておきましたわ。」
「鞄? お前は……」父が首を傾げて何事かいひかけた時、金谷先生と女中が、周章しく植込の間を走ってきた。
「田村の奴はをりません。荷物も何もそっくり持って去ってしまひました。」と金谷先生がいった。
「眞實に怪しな人ですこと、先刻までその邊にゐましたのに、いつの間に荷物なんか片付けたんでございませう。」と女中がいった。
「あの男は矢張り例の仲間だったのだね。それにしても金谷君に叱言をいはれた位で、簡單に引あげてしまふとは怪しいね。」
逃げたのだな
傍でその會話を聞いてゐた球子は眞青になって、
「あらお父様、田村は惡人だったの? 私、どうしませう。大變な事をしてしまったわ。重要書類の入ってゐる黒鞄を田村に渡してしまったのよ。」と叫んだ。
父親は金谷先生と顏を見合せた。
「鞄といふのはお前が金谷先生の部屋から持出したんだね。」
「えゝ、私、先生が……」
「はははゝゝゝゝはは、お前は先生を間諜(スパイ)だと思ってゐたのだね。成程それで解った。田村の奴は鞄が手に入ったので、逃げたのだな。だが今頃は、中味を見て落膽(がっかり)してゐるだらう。」父親は又、金谷先生と顔を見合せて笑った。
球子は狐につまゝれたやうな面持で、父親と先生の顏を見比べた。
黒光館に出入
「金谷先生は、眞實は探偵なんだよ。惡者がお父さんの書類を狙ってゐるから、大切な黒鞄と同じ鞄をもう一つ備へて、毎晩夜中から曉方までは金庫に贋鞄を入れ、本物は金谷先生が預かっておいて、朝になると、又金庫へ入替へておいて下さるのだ。だから今朝お前が田村に渡したのは贋鞄だったのだよ。」と父親が説明した。
「まァ良かった、もし球子は本當の鞄を田村に渡したんだったら大變だったわね。」球子は深い溜息をした。
「私は先般(このあいだ)から田村が度々黒光館に出入りしてゐるのを知って、あの三階の連中に目をつけてゐたんですから、田村の隠れ家を突止めれば、必ず民雄君の行方が判ると思ひます。」と金谷先生がいった。
黒光館の三階にゐたのは、日本帝國に何か仇をしようと謀んでゐた某國人の一團で、浪花家に運轉手として住込んでゐた田村も、その仲間の一人であった。
松葉の暗號は
民雄少年はそれっきり行方が知れず、そのまゝ年が改まってしまった。すると正月の七草過ぎになって、民雄少年から遅い年賀状が球子の許に届いた。それは門松の上を飛行機が飛んでゐる民雄少年自筆の繪ハガキであったが、民雄と署名してあるだけで、何處から投函したものか、消印もはっきりしてゐなかった。
球子はその松の繪を見てゐるうちに大發見をした。幾つもある枝の松葉が二本だったり、五本だったり、枝毎に松葉の數がちがってゐる。球子は民雄に借りた探偵小説の中の暗號の事を想ひ出し、半日かゝって、松葉の暗號を解いて見た。
一本の松葉は「イ」三本は「ハ」といふ風に、數を「いろは順」に合せてゆくうちに、
ヒノミヤグライシガキニケンメ
といふ文字ができた。火の見櫓、石垣、二軒目、それは民雄が監禁されてゐる場所に違ひない。
何か相談して
球子は雀躍して父の書齋に走っていった。そこには父の他に、金谷先生と警察の人が顏をあつめて何か相談をしてゐた。
球子の説明を聞いて、大人達は感服した。
「成程、よく暗號を解きましたね。然し火の見櫓といふだけでは見當がつかない。大東京には何百といふ火の見櫓があるんだから。」金谷先生は尖った頤を押へて考込んだ。
「なァに、何百あったって、東京中の火の見櫓を片端から虱つぶしにしてゆけば雜作ない。それに石垣といふことがあるから、餘程捜索範圍が狹くなる。」警官は勢込んでいった。
「だけれど、この飛行機は何の爲でせう? 何か意味がありさうね…………」
球子は繪ハガキの飛行機を指さしながら、父の顏を見上げた。すると、父親は急に膝を叩いて、
「判った! 火の見櫓といふのは飛行機製作所の裏手にあるあれに違ひない! さういへば切通しの新道路は石垣で積上げてある。」と叫んだ。
警察へ電話を
部屋は俄に活氣づいた。民雄の家へ知らせるやら、警察へ電話をかけるやら大騒ぎをした揚句、一同は自動車を飛ばして現場へ向った。
球子がその一行に加はった事はいふ迄もない。恰度、飛行機製作所の高いコンクリート塀に沿うて、火の見櫓の傍へ出た時、警官隊を滿載した自動車と一緒になった。
新道路の石垣の上に、木造の家が二軒竝んでゐた。一軒は洗濯屋その隣は運送屋で店先に菰包の大荷物や、荷車などが置いてあった。
「あゝ、あの二階だわ。風呂敷みたいな布で窓をふさいであるでせう。屹度あすこに民雄さんが監禁されてゐるんだわ。」球子は運送屋の二階の西側の窓を指さした。
警官隊は裏口と表口から一齊に家の中へ踏込んだ。屋内では忽ち大格闘が始まった。拳銃の音、ガラスの碎ける音、早口に喚き合ふ異國語などが聞えてきた。
續々と、珠數繋ぎになって引出されてくる男達の中に、例の鷲鼻の男、赤玉を使ふ男、サーカスの木戸番、運轉手の田村等が交ってゐた。
青空に萬歳!
その騒ぎの最中に、二階へ馳上っていった金谷先生は、暗い一室に監禁されてゐた民雄少年を無事に救ひ出してきた。
球子と民雄少年は手を取合って喜んだ。民雄はいくらか痩せてゐたが、非常な元氣で、
「球ちゃんはほんたうに豪い、よく暗號を解いてくれた。あの連中は浪花飛行機製作所を爆發させる陰謀を企てゝゐたんだ。けれどももみんな捕ってしまったから、最う大丈夫だ。僕はあの晩、火事の最中に、逃げやうと思へば逃げられたんだけれども、あの連中が怪しいと思ったから、わざと捕って様子を探ってゐたんだよ。」と語った。
民雄少年の勇氣と、球子の機智は、某國人の恐ろしい陰謀を未然に防ぐ事が出來た。それは單に浪花家の危難を救ったばかりでなく非常時日本航空界に對する大貢獻であった。
その日も亦、新らしく誕生した浪花製作所の飛行機が、春光に銀翼を輝かせながら、處女飛行をしてゐる。
家路に急ぐ自動車の上から、民雄と球子は手を振って青空に萬歳を送った。 (をはり)
注)明かな誤字誤植は修正しています。カギ括弧末の句点は有りに統一しています。
注)各回の初めの章は枠囲いでやや大きな活字になっています。
奮闘出世「少年船長」
「少年倶楽部」 1934.04. (昭和9年4月号) より
チビ公
三本マストの英國貨物船トラファルガル號は、鮪の背のやうな紺碧の印度洋を、東へ、東へと走ってゐた。
乗組の中、數人の英國人以外は、皆船から船へ渡り歩いてゐるごろつきのやうな連中で、米國生まれの露西亞人、和蘭人、黒人等、素性の知れない人間ばかりであった。
「やい、チビ公、この帆はどうして張るんだ。」
鷲鼻のでっぷり肥った男が、さきからもてあましてゐた帆繩を投出して、いまいましげに頭を掻いた。
「よしきた!」チビ公とよばれた少年は、小猿のやうにすばしこく、帆桁に足をかけて、造作なく横帆を張ってしまった。すると、船尾にゐた舵手が、
「チピ公、そっちの用がすんだら、ちっと俺の代りをしろよ。」とどなった。
「小父さん、いますぐ行ってやるよ。」少年は水夫共があぐらをかいて、煙草をふかしたり、かるたを並べたりしてゐる間を抜けて、船尾の方へ走って行った。
舵輪を執ってゐる赤髭の露西亞人の肩に、黒猫が一匹行儀よく坐ってゐた。
「小父さんの代りをするから、後でその猫をちょっとでいゝから抱かせて下さいね。」と少年がいふと、赤髭の大男は、
「この猫はな、手前のやうな、チビ公はきらひだとよ。」と憎まれ口を叩きつけて行ってしまった。
少年は露西亞人の肩に乗ってこっちを向いてゐる黒猫に、そっと、おいで、おいでをしながら、やっと手のとゞくやうな舵輪につかまった。
少年にはウイリヤムといふれっきとした名前があるが、體が小さいのと、年齢(とし)がゆかないので、チビ公、チビ公と皆から馬鹿にされてゐた。殊に赤髭の露西亞人は、なぜか少年を目の仇にして、顏さへ見れば惡口を浴びせた。
けれどもチビ公は、どんな口惜しいことがあっても、齒を食ひしばって、熱心に働いたので、三年ばかり船長についてゐる中に、船のことはすっかりのみこんでしまひ、現在では押しも押されもしない立派な船乗になってゐた。
その時、甲板へ上ってきた一等運轉士は、怠けてゐる水夫共を見つけて、
「野郎共、さっさと甲板を洗ってしまへ! それがすんだら、ペンキの塗替だぞ! どいつもこいつも横着者ばかりだ!」と罵りながら、甲板にごろごろしてゐる連中を、片端から鞭で撲り廻った。
水夫共はぶつぶついひながらも、澁々働き出した。一等運轉士は舵輪をとってゐるウイリヤム少年の傍へきて、
「オルソンの奴は、又、自分の仕事をお前にやらせてゐるな。けしからん奴だ! だが、お前は感心だぞ、この船の中で、鞭をくれないでも働くのはお前一人だ。……お前のこの間の試驗は見事に及第だぞ。」といった。
「ほんたうですか、嬉しいなァ。」少年は頬を輝かせた。
「船長がいってゐたぞ、今度この船が港へ入ったら、お前を三等運轉士にするんだと。僅か十七歳で運轉士の免状をとるなんて凄えもんだ。まァしっかりやれよ。」
「有難う、皆が親切に教へてくれたお蔭です。」
少年ば鬼のやうな水夫共に、情容赦なくこき使はれたことを、今は却って感謝してゐるのであった。
悲しき弔旗
船が爪哇の港へ入った時、ウイリヤム少年は多年の望がかなって、三等運轉士に任命された。彼が金筋入の帽子を被って甲板へ出て行くと、例の意地惡な露西亞人が、
「よう、チビ運轉士、おもちゃの船でも買ってやらうか!」と彌次った。人々はどっと笑聾をあげてはやし立てた。少年は眞赤になったが、
「諸君、この港には惡い熱病がはやってゐるから、上陸してはならないさうだ。」と船長の命令を傳へた。
「散々ぱら、長い航海をしたあげく、熱病位のことで船に籠城させられてたまるものかい。さァ、皆出かけようぜ。」
「さうとも、こんな子供のいふことなんか、あてになるもんか。」
數人の水夫等は、ウイリヤム少年の言葉など耳にもかけず、さっさとボートを下して町へ行ってしまった。
その晩から船内に數名の熱病患者が出た。いつも元氣のよい船長も、二三日すると、熱病に取りつかれたらしく、何となくたいぎらしく見えた。一等運轉士は心配して、
「大分顏色が惡いやうですが、少し休養なすったら如何です。」と注意した。けれども利かぬ氣の船長は、
「なァに、これしきのことに休んでなるものか。」といって、その日は終日、灼きつくやうな炎天の下で、荷揚の監督をしてゐた。その爲に翌朝は枕もあがらぬ重態に陥った。
一等運轉士は船長に代って荷揚の監督にあたり、二等運轉士とウイリヤム少年とは船長その他の看病に努めた。
船長の容態が益々惡くなったので、二等運轉士は港の町へ醫者を探しに行った。ところが彼がやうやう醫者を連れてきた時には、トラファルガル號の檣頭に悲しい弔旗が翻ってゐた。船長は醫者の到着する一時間前に、ウイリヤム少年に看護されながら、最後の呼吸を引取ったのである。
死んで行く人々
船長を失ったトラファルガル號は、一等運轉士の指揮の下に一路濠洲へ向った。
熱帶地の航海は樂ではなかった。風のないだ蒸暑い日が幾日も續いた。明けても暮れても、空と水ばかり、退屈しきった水夫達は、益々氣が荒くなって、ちょっとしたことにも口論をしたり、撲り合ったりして、ろくに働かなかった。氣短な一等運轉士は癇癪を起して、
「野郎共、働け! 働け!」とどなって、誰彼の見さかひなく鞭でびしびし撲り歩いた。
水夫等は一等運轉士を非常に憎み、
「癪に障る野郎だ! 今に見てゐやがれ、ぶっ殺してやるから。」などと陰口をきいてゐた。
一等運轉士の姿がふいに見えなくなったのは、ある月のない晩であった。ウイリヤム少年が、
「一等運轉士はどうした、お前達は知ってゐるだらう。」と尋ねると、彼等は顏を見合はせて、
「俺達は知るもんか、あんまり他人をひっぱたいたから、恐しい夢にでもうなされて、自分で海へ飛込んだらう。」としらばくれてゐた。
その頃、二等運轉士も熱病に倒れてゐた。彼はウイリヤム少年を枕元へ呼んで、
「この船を操縦することの出來るのは、君ひとりきりになってしまった。僕は君の技術を信頼するが、何せ水夫共はあの通り無智で、亂暴だから、君の苦勞は一通りではないと思ふ。一等運轉士を海へ突落したのも、彼等の仕業に違ひない。君、十分氣をつけてやってくれ給へ、萬事君に頼む。」と苦しい呼吸(いき)の下からいった。
「ご安心下さい。僕はどんな困難とでも闘って、必ずこの船を濠洲の港へもって行きます。」
少年は眉間に強い決心を示して答へた。
二等運轉士は、その晩死んでしまった。船長も、一、二等運轉士もない今は、十七歳のウイリヤムが全責任をもって、三本マストの貨物船と、全乗組員の生命をあづかることになった。それは年齢も若く、經驗も淺い彼にとって、負ひきれない程の重荷であった。
水夫達は相變らずウイリヤムを馬鹿ににして、命令を發しても中々仕事をしない。彼等は横着な驢馬のやうに、隙さへあれば怠けることばかり考へてゐた。その中で、たった一人少年の味方になってゐたのは、炊事係の黒人だけであった。彼はいつも、
「お前さん、悲觀することはない。野郎共がどんなにいふことをきかなくたって、この船だけはお前さんの命令をきくからね。何事も辛抱だ、今にお前さんは偉い船長になりなさる。わしはこの黒い顏にかけて保證する。」といって少年を力づけるのであった。
大時計
ある風の強い晩、ウイリヤム少年が甲板を巡回してゐると、例の露西亞人が黒猫を抱いて、帆の蔭に寝轉んでゐるのを見つけた。
「おい、オルソン、大切な見張番をおろそかにしては困るではないか。こんな風の晩は殊に注意して貰はなければならない。」
「十時の交替時間は、とうに過ぎましたぜ。」男は空嘯いて起上らうともしない。
「そんな筈はない。まだ九時牛だ。」少年は黒雲の間から覗いた月明に、腕時計を透しながらいった。
「子供の時計なんか、あてになるもんか。こっちは大時計に從って動いてゐるんだ。」赤髭はせゝら笑った。
ウイリヤムが念の爲に階下の大時計を見に行くと、不思議にもオルソンのいふ通り、確かに十時を過ぎてゐる。
そこを通り合はせた黒人はその話をきくと、
「さういへば、さっきあの野郎が時計をいぢってゐましたっけ。野郎怠けようと思って、時計を進めやがったに違ひない。」
「飛んでもないことをする。時間が狂へば、船の方向が判らなくなってしまふのに。」
黒人は日頃から弱い者いぢめをする露西亞人を快(こころよ)からず思ってゐたので、非常に憤慨して、
「畜生! 太え赤髭野郎だ! わしが行って、とっちめてやる!」といふや否や、少年の手を振りきって、甲板へ駈上って行った。
けれども、氣ばかり強くても、痩せぽちの黒人は、仁王のやうな露西亞人の敵ではなかった。黒人は全身を彈丸のやうにして飛込んで行くが、赤髭は片手で猫をもてあそびながら、右手で何度も相手をこづき倒した。その騒の中へ少年が飛込んで、無理遣に二人を引分けた。
「畜生! 畜生! 今に見ろ!」前額に馬鈴薯のやうな瘤を出かし、鼻血を流してゐる黒人は地團太を踏んで口惜しがった。
マストの上の猫
翌日は、からりと空が晴れてゐたが、風はいよいよ吹募ってゐた。トラファルガル號は怒涛の爲に、天空に衝上げられ、奈落の底へ突落されるやうにして難航を續けてゐた。
水夫共は、あちこちにかたまり合って、
「ぐづぐずしてゐると、この船は沈没してしまふぜ。早くどこか、近所の港へ着けて貰はうぢゃねえか。」
「俺はこんな船に乗ってゐるのは眞平だ。」
「第一、あんな餓鬼を船長にして、濠洲なんかへ行けたもんぢゃァねえ。俺は命が惜しいからな。」などと口々に不平を並べてゐた。
黒人は船長室へ飛んで行って、
「お前さん、しっかりしなさいよ。奴等は何か謀叛を起さうとしてゐますぜ。大體奴等は今迄一等運轉士や二等運轉士に、散々ひっぱたかれてきたんで、その癖がついてゐるから、生やさしいことでは動きませんぜ。お前さん一度奴等をこっぴどい目に會はせてやりなさるがいゝ。」といった。
「いや、僕は腕力は使ひたくない。もう一度よくいってきかせようと思ふから、皆を呼集めてくれ。」とウイリヤムが答へた。
どやどや甲板へ集った水夫達は殺氣立ってゐた。場合によってはチビ船長を海の中へ投込みかねない劍幕であった。
蜂の巣を突いたやうに、がやがや罵り喚いてゐた水夫等の中の一人が、突然、
「おや、あれを見ろ! マストのてっぺんにあんなものがぶら下ってゐるぞ!」と叫んだ。
「オルソンの猫ぢゃァねえか。」
「さうだ! 俺の大切な猫を誰があんなことをしやがったんだ! 可哀さうに! 可哀さうに!」
赤髭の露西亞人は氣狂のやうになって本檣の下へ駈寄った。
高いマストの上に、だらりと黒猫がぶら下って、弱々しい聲で泣續けてゐる。それは喧嘩に負けた黒人が、はらいせに。露西亞人の眠ってゐる間に甲板へ出てきて猫を捉へ、胴體に繩をくゝりつけて投上げたのであった。
露西亞人は必死になって、マストへ登りかけたが、體が重い上に、船の動揺が烈しいので三米も行かない中に振り落されてしまった。
「危い!」
「この風ぢゃァ、誰が行ったって駄目だ、海の中へ吹飛ばされてしまふ。」
水夫達は騒ぐばかりで誰一人猫を助けようとする者はなかった。
その時、甲板へ現れてきてその有様を見たウイリヤム少年は、おろおろしてゐる露西亞人を突退けるやうにして、遮二無二にマストを登って行った。水夫達は思はず固唾をのんで、段々小さくなって行く小船長の姿を見守った。
烈風は秋の木の葉をもぎ取らうとするやうに、幾度も少年の小さな體を揺った。その度に少年はマストにしがみついて、風をやり過しては、一歩づつ登って行く。
黒猫は遂にウイリヤム少年の手に抱かれた。
手に汗を握ってゐた水夫達は一齊に歡呼の聲をあげた。
するするとマストを辷り下りてきた少年から愛猫を受取った赤髭の露西亞人の眼には、涙が光ってゐた。今迄散々いぢめてきた少年から、かゝる報(むくい)を受けようとは! 露西亞人はいきなり少年の足下に跪いた。
ウイリヤム少年は、猫を救ったことなどは、全く忘れてしまったやうな態度で、すっくりと船倉(ハッチ)の上に立った。
「諸君! わがトラファルガル號は、船主の荷物と、全員の生命をあづかって無事に目的地へ着かなければならない。僕は、その重い責任を負うてこゝに立ってゐるのに、諸君はなぜ僕の命令をきいてくれないのだ。諸君よ、吾々が命をまかせてゐるこの船は、吾々の體も同然ではないか。諸君はなぜ自分の體をもっと可愛がってくれないのだ。
見給へ、故郷の港を出る時には、あんなに綺麗だったトラファルガル號は、まるで乞食のやうに汚れてしまったではないか。もし諸君が無事に港へ着きたいのなら、どうか僕の命令を守って働いてくれ給へ。然し、僕が子供であるから命令をきくのがいやだといふなら、誰でもいい。諸君の中で自信のある者は、遠慮なくこゝへ出てくれ給へ。僕は喜んで船長の地位を譲る。」と朗々たる聲を張上げていった。
少年の力強い言葉に、一同は鳴をしづめた。勿論誰一人、船を操縦出來る者はなかった。
「俺達は間違ってゐた!」これまで事毎に水夫等をそゝのかしてゐた露西亞人が眞先に叫んだ。「小さくてもやはり船長は船長だ! 俺達は服從しなくてはならない。」
「度胸のいゝ野郎だ! 俺は兜を脱いだぞ!」
水夫達は惡夢から覺めたやうに、急に態度を變へて、ウイリヤム少年にむかって心から擧手の禮をした。そしてそれぞれの持場についた。
想ひ起すネルソンの訓令
永い間、汚れ放題になってゐた甲板は、すっかり洗ひ浄められ、剥げたペンキは塗替へられて、死の影の漂ってゐた船は、見違へる程明るくなった。
かくしてトラファルガル琥は、和やかな氣を白帆にはらんで、つゝがなく緑の港へ入ったのであった。
七週間にわたる難航、その間には暴風雨もあり、暗礁の危險も横たはってゐた。十七歳の少年船長は.相次いで病魔に斃れて行く船員等の死に會ひ、しみじみと人生の悲哀を味はひながら、亂暴な水夫達を相手に恐しい航海を續け、遂に與へられた使命を完うしたのであった。
ウイリヤム少年の豪膽沈着な行爲は、航海史に特に大きく記さるべきものである。英國海事協會は彼に銀牌を贈って表彰し、船主は金三千圓を贈ってその勞を感謝した。
盛大な表彰式の席で、降るやうな讃辭の裡に立った少年はつゝましく、
「僕はたゞ、一海員として、義務を果したに過ぎません。」と述べた。
その言葉は、昔、トラファルガルの海戰の時、ネルソン提督が全員に發した有名な訓令――大英國は、この日、諸士が各自の義務を果さんことを期待す――といふ言葉を想ひ起させるのであった。
ウイリヤム少年は、二十歳の時、船長の資格を得、それから十八年間、海上生活をした後、現在では英國海事協會の立派な役員の一人となってゐる。 (をはり)
注)実話なのか、実話をもとにした創作なのか、全くの創作なのかは不明。
「殺人光線の謎」
「少年倶楽部」 1934.11. (昭和9年11月号) より
祖父の家
奉天で汽車を乗換へ、小一時間ばかりして、やうやう舊站へ着いた。その驛で汽車を下りたのは滋少年一人だけであった。
驛夫が貨車から大きな柳行李を一個、プラットフォームへ投出すと、汽車はすぐ動き出して、雜草の繁った土手に黒煙を吹きつけながら、見る見る野の果へ消え去ってしまった。
滋少年が夏休みを過すために、これからゆかうとする祖父の農園は、停車場から更に十二粁も奥に入った邊鄙な村にあった。
「おやおや、どうして迎がきてゐないんだらう。困ったなァ‥‥。十二粁位、歩くのは平氣だが、これだけの荷物を擔ぐのは閉口だ。」滋少年は足許の行李や、バスケットを見下しながら頭を掻いた。
驛前の廣場はがらんとして、柵の横手に百日紅が睡さうに咲いてゐた。
「しばらく待ってみて誰も來なかったら、荷物を驛長さんに預かってもらっておいて、歩いてゆかうかな。」滋少年は一人言をいひながら、行手の道に眼をやった。すくすくと伸びた高粱の海、その果にむくむくと白雲が動いてゐる。
やがてそのうねった道を、一臺の馬車が黄色い砂煙をあげて走ってきた。滋は遠くから馭者臺の男を見つけて手を振った。
それはふるくから祖父の農園に働いてゐる利助爺であった。彼は鍔の廣い經木帽子を片手につかんでにこにこしながら馬車を飛下りた。
「坊ちゃん、よくいらっしゃいました、お迎が遅れてすみませんでしたね、この野郎が水溜へ落ちたんで、つい手間取ってしまったんですよ。」利助爺はいたはるやうに馬の頸をたゝいた。
「たった今、汽車から下りたばかりさ、ちっとも待ちはしないよ、お祖父様はお丈夫かい。」
「へえ、相變らずお達者でね、御自分で迎へにくるなんておっしゃってをられましたが、客が見えたので、急にわしが参ったですよ。」
二人が荷物を積み終って、馭者臺にならんで腰を下すと、栗毛の馬は心得顏に走り出した。見上げるような高桑(カオリャン)畑、赤土の切通し、露天掘りの炭坑の跡。かうした懐かしい景色が、次々と少年を迎へる。
「いつ來て見ても、こっちはちっとも變らないね。」滋少年は伸々とした氣持ちであたりを見廻した。
「どうしてどうして、變らないどころか、農園はこの春以來、事件つゞきですよ。」
「事件とは大げさだね、お祖父様の農園の事件なら、豚が犬に食ひつかれたとか、鶏が卵を産まなくなった位のことだらう。」
「そんな呑気なことではありませんよ。何しろ他人の農園の近所へ來て、殺人光線の研究とやらをやり出したんだから、物騒でたまりませんよ。」
「えっ。殺人光線? 誰がそんなことを始めたんだ?」
「くはしいことは知りませんが、なんでも學者が政府の命令で、あんな邊鄙なところへ隠れて秘密に研究をしてゐるんださうですよ。」
「殺人光線を日本で發明してしまったら素敵だなァ、さうすれば敵の飛行機なんか、何臺來たって驚かない。」滋少年は目を輝かせて叫んだ。
「なんだか知らねえけれども、あの研究所が出來てから、樹が枯れたり、家畜類が死んだりして氣味が惡くて仕方がありなせんよ。うかうかしてゐるとわしらの生命も危え。」利助爺は心配さうに溜息をついた。
けれども滋少年は爺の言葉などを聞いてゐなかった。彼の頭は偉大な發明に熱中してゐる化學者のことで一杯になってゐた。
馬車が石橋を渡ると、だらだら坂を上りきったところに、防風林に圍まれた屋敷が現れた。
馬車は勢よく門内畿へ駈け込んだ。玄關へ迎へ出た祖父は、
「よく來た! よく來た! 家ではみんな變りないか、お父さんの病院の方はどうだ、うまく進行してをるかね。」といった。
「お父さんからも。お母さんからもよろしく申しました。病院は半分以上出來上って、來月の初には新築祝をするさうです。」
滋少年は利助爺が馬車から下してくれた荷物を擔いで、勝手を知った二階へ運び始めた。
「待った! 待った! その部屋は閉切りだ、今年は西側の部屋をお前のにするよ。」祖父が階段の下から聲をかけた。
滋は毎年自分にあてがはれてゐた明い東向の部屋を、なぜ今年に限って閉切にしたのであらうと、不思議に思ひながら、夕陽の射込む反對側の部屋へ荷物を入れた。
一風呂浴びて茶の間へゆくと、もう食事の用意が出來てゐた。祖父一人きりの住であるけれども、以前からゐる婆が滋少年の好物を知ってゐて、膳の上にはとろゝ汁、玉子燒、豚の付燒、茄子の味噌漬等が並んでゐた。その側にもぎたての水蜜桃が盛ってあった。
「今年は桃が大當りだぞ、その色のよいこと、見てくれ!」祖父は大自慢である。
「素敵に大きいですね。」
滋は桃の一つを取って、眼の前に差し上げたが、あまりに色が鮮かなので、ふと、氣がつくと、自分の手と、桃の影が大きく壁に映ってゐる。
「おや? この部屋へ夕陽が射すなんて、變だなァ……反射かしら?」
「今度、隣屋敷へ移ってきた男が、屋根の上へガラス張の展望臺みないなものを作ったので、そこへ夕陽が當って反射してくるのぢゃよ。」
『あの森の家がふさがったんですか、どんな人が入ったんです?」滋は、その家に自分の遊び相手になる少年でもゐてくれゝばいゝと思った。
「なんだか、わけのわからぬ男さ。一度こゝへ訪ねてきたことがあるが……お前、あんな家へ近よらぬがいゝぞ。」
「お祖父さま、なぜです?」
「なぜといふことはないが……」
祖父はどういふわけか、森の家の話を避けてしまった。
疑問の死骸
食後の散歩にぶらりと家を出た滋少年は、裏の果樹園へ入ったり、鶏小屋を覗いたりしてゐる中に、近よるなといはれた森の家のことが氣になって、足は自然と、森の家へ通ずる小道へ向った。
森の家といふのは、滋少年の祖父の屋敷から眞東に當る森のはづれに建ってゐる古ぼけた洋館であった。永い間空家になってゐて、茶色のペンキは剥落ち、庭内には雜草がぼうぼうと繁ってゐた、蔦の絡んだ門柱には、「小宮理化學研究所」と記した眞新しい木札が貼りつけてある。
「あゝ、さうか! こゝで學者が研究してゐるんだな……殺人光線って、どんな風にしてやるんだらう? 屋根の上のガラス張の部屋が研究室なんだな。入って見たいなア……」滋少年が二階を見上げると、緑色のカーテンがちらと動いた。誰か窓から覗いてゐたらしい。
森の家は夕闇の中で、不氣味なほど、靜まり返ってゐる。見渡す限り、畑と田圃ばかり、どっちを向いても人家はない。祖父の家から一番近いのはこの森の家で、その他はみんな一粁以上はなれてゐる。
滋少年は追い立てられるやうな氣持ちで踵を返した。ポプラの並木を抜けて祖父屋敷の裏門にさしかゝった時、滋は生垣の間に白いものを發見した。近づいて見ると、それは鶏の死骸であった。別に傷はなく、又、その邊に羽毛も落ちてゐないから、犬や猫に襲はれたものとも思はれない。
納屋から出てきた作男が、鶏の死骸をいぢってゐる滋少年を見て、傍へやってきた。
「又、そんなところに死んでゐましたかい。」
「病氣かしら?」
「病氣ぢゃァねえですよ。ついさっきまでぴんぴんしてをりましたもの。」
鶏冠や、翼の間を檢べてゐた作男は身慄をして、恐しさうにあたりを見廻した。
「それぢやァ、どうして死んだんだい。」
「この頃はいろいろをかしなことがございますよ。さァ坊ちゃま、日が暮れたら外に遊んでゐなさるなよ。」
滋少年は、さては殺人光線にやられたのかなと思ひ、科學の不思議をまのあたりに見たやうな氣持ちで、もう一度鶏の死骸を見直した。作男は豆畑の隅に穴を掘って、さっさとその死骸を埋けてしまった。
滋少年が家へ入ると、祖父は興奮した様子で、鼈甲縁の眼鏡をかけた毬栗頭の男と話してゐた。
「たとへ、賣るにしても、そんな法外な値段があるものか。」祖父は顏を眞赤にして怒鳴ってゐた。
「へっ、へっ、へっ……とにかく、手前は今晩町へ歸って、明日もう一度伺ひますから、その間によくお考へなすっておいて下さい。」男は黒鞄を抱へて、そゝくさと歸っていった。
「賣りたくないものを、賣れ、賣れって、うるさい奴ぢや!」租父はいまいましげに舌打をした。
「お組父様、あの人は何を賣れといふのです?」
「法外な安値でこゝの土地を賣れといふのだよ。あれは不二土地會社の社員でね、この間から度々くるのぢゃ。折角これまで丹精した土地を、さう易々と賣ってたまるものか! わしは自分の手で開墾したこの土地の、草一本、石ころ一つだって可愛いのぢゃ……だが、ことによると、わしはこゝを賣って、もっと奥へ引込まねばならんかもしれんぞ……」
祖父は急に聲を落して深い吐息を洩らした。
「なぜです? お祖父様!」
「この土地では、生物は育たぬらしい……この間も兎と豚がころりと死んでしまったし……」
「そういへば、今も生垣のところで鶏が死んでゐましたよ。」
「森の家へ、あんな男が來てからだ!」
祖父の言葉が終らない中に、ぶーん、ぶーんといふ飛行機のやうな音が響いてきた。
突然、紫色の光線が白壁の上を走った。
「そら、又、始った! 森の家の化學者が何かやってゐるらしい。世間の噂では、殺人光線の研究をしてをるといふが、噂ばかりでなく、實際にさうらしい。あの怪しい光線が來た晩には、きっと、何かしら死んでゐる。どうも危險でならないが、はっきりした證據がない分には、文句もいへないんでな。だから家畜類は早く小舎へ追込んで、日が暮れたら誰も外へ出ないことにしてをる。そんなわけで、二階の東側の部屋も閉切にしたのぢゃよ。どうもこんなことがあると、土地の値段は下る一方だ。」祖父は素早く雨戸を閉めてしまった。
滋少年は早寝の祖父にならって寝床へ入ったが、祖父の惱の種になってゐる殺人光線のことで頭が一杯で、どうしても寝つかれなかった。殺人光線の研究は偉大な仕事に違ひないが、その實驗を行ふのに他人の邸まで光線をよこして、みだりに家畜を害するとは怪しからん話だと思ったりした。
時計を見るとまだ十時だったので、枕元の懐中電燈を持つと、そっと家を抜出した。
兩側から黒い幕を垂らしたやうな並木道の上に、星がきらきら光って薄明るい夜であった。
不意に、藪の中でぱたぱた鳥のはゞたきがした。同時に眼を射るやうな紫色の光線が、研究所の屋根のあたりからさっと、道路の一部を照らした。
「殺人光線」滋少年は思はずハッと地上に身を伏せた。幸ひ光線は間もなく消えて、あたりは又星明りの薄闇にかへったので、ホッとして起上ると、今光線の照らした道のあたりを、毬栗頭の男が歩いてゐる。彼は捜しものでもしてゐるやうに、二、三度こゞんで何かしてゐたが、そのまゝ小宮理化學研究所の門を入っていった。
「おや! あれはたしかに.夕方お租父様のところへきてゐた不二土地會社の男だ。町へ歸るといってゐながら、今頃こんなところで、何をしてゐるんだらう?」と滋少年は呟いた。
切れた綱
木立の蔭に佇んで男の後姿を見送ってゐた滋少年は、今の男がうろうろしてゐたあたりへ歩いてゆくと不意に、ぐにゃりとしたものを踏みつけて思はず飛上った。懐中電燈で照らすと、それは黒猫の死骸であった。それから更に、一、二米はなれたところに、もう一匹斑猫の死骸が轉がってゐた。
「アッやられてゐる!」まのあたり殺人光線の威力を見せられて、滋少年はゾッとして、しばらくその死骸を覗きこんでゐた。するとブーンブーンといふ微かな微かな音が、すぐ傍の樹の根元のあたりから響いて來るのに氣がついた。よく見ると樹の根元には大きな蜂の巣があって、その周には一杯に蜂が黄色い羽を震はせながらうごめいてゐるのだ。
「おや變だぞ!」滋少年の頭の中には、突然殺人光線に對する疑問が渦を卷いた。「蜂の巣は猫の死骸から半米とはなれてゐないのだから、確かに殺人光線を浴びた筈だ。それだのに猫がやられて、蜂が平氣でゐるとは不思議だぞ。さういへば先刻のあの土地會社の男の様子といひ、……」
滋少年はしばらく首を傾げてゐたが、何か思ひ當ったらしく大きく頷くと、二つの死骸をぶら下げて家へ引返し、納屋へ入って、もう一度丹念に檢べた。彼は猫の口のあたりに、鼻を寄せて、
「ははァ、やはり麻酔劑だな!」と呟いた。それは父の手術室で折々使はれるクロロホルムの臭であった。
翌朝、夜の明けるのを待ちかねて、家を飛出した滋少年は、屋敷内をあちこち歩き廻ってゐる中に、茱萸(ぐみ)の木蔭にある古井戸の前に出た。その邊は塵芥(ごみ)棄場になってゐて、永い間使ったことのない車井戸の綱が切れ、釣瓶の一つが轉げ落ちて、その上に蔦かづらが匐ってゐた。
滋少年は井戸蓋の上に乗ってゐた釣瓶を手にとって、切れた綱の端を見つめてゐたが、いきなり蓋をのけて井戸の中を覗きこんだ。黒く澱んだ水面に、ぶくぶく泡が立昇ってゐる。彼は釣瓶を下して腐ったやうな水を汲上げた。
「わかった! 原因はこれだI うまいものを見つけたぞ!」
滋少年は大發見をしたらしく、こをどりしながら、黒い水の入った釣瓶を納屋へ持ちこんで、猫の死骸と共に炭俵の後に隠した。
彼が汚れた手を洗って茶の間へ入ってゆくと、沈んだ様子で考へこんでゐた祖父が、
「滋や、飛んだことになったよ。昨夜お父さんの病院が燒けたとさ。」と傍の電報を指さした。
「えっ? 折角出來かゝった病院が燒けたんですか!」
滋少年はあわてて電報を開いた。
「昨夜の八時だったさうだ。今朝起きぬけに停車場へいって、長距離電話をかけて様子を訊いたところが、お父さんの手落ちで、火災保險が掛けてなかったといふことだから、大變な損害ぢゃ。」
「夜中に電報がきたんですね。僕ちっとも知らなかった……折角の病院が燒けてしまったら大變だな……お母さんはどうなすったらう……僕、すぐ大連へ歸ってみませうか……」
「お前が歸ったところで、何の役にも立ちはせん。それにお父さんは今日相談に來るさうだし、病院を再築する金なら、わしにも考へがあるから、そんなに心配せんでもいゝよ。」
二人はいつになく默り込んで食事をすますと、すぐに膳を離れた。祖父は忙しさうに書類を調べたり、どこかへ使を走らせたりした。
滋少年は病院の燒けたことや、父の落膽した顏付などを考へると、すっかり氣が滅入ってしまって、自分の力ではどうにもならないことを知りながら、じっとしてゐられなくなって外へ出た。彼は知らず知らず、森の家へ引付けられていった。
半開きになったくゞり戸を押して邸内へ忍び込むと、裏の方でけたゝましく犬が吠え立てたが、家人にたしなめられて默ってしまった。やがて、玄關に人の氣配がして、がたりと扉が開いた。
滋少年はあわてて門脇の八手の蔭に身を潜めた。玄關に現れたのは前夜見かけた土地會社の男と、その家の主人らしい、頭のつるつるに禿げた赭ら顏の男であった。
「小宮さん、安心おしなさい。今日こそあの頑固爺を説き落して、誓約書に判をおさせてしまひますからね。」と毬栗頭がいった。
「あれくらゐ脅しておいたら、爺さんも怖くなって屋敷を手放すだらう。」と赭ら顏の男が答へた。
八手の蔭で二人の會話を聞いてゐた滋少年は、ハタと胸を叩いた。やはり自分が思った通り、殺人光線の研究をしてゐるといふ化學者と土地會社の男とは、ぐるになってゐるのだ。彼等は殺人光線などといふ出鱈目な手品を使ひ、動物の死骸を投げ棄てておいて、祖父を脅し、屋敷を安く賣らせようと謀んでゐる詐欺師である。しかも彼等がなぜ祖父の土地に眼をつけてゐるかといふ理由も、滋少年は感づいてゐた。
彼は一刻も早く、その事實を祖父に知らせたいと思ったが、毬栗頭が門を出た後、小宮が玄關前で薔薇の虫などを除ってゐので、八手の蔭から出ることが出來なかった。
「禿頭! 早く引込め!」と彼は念じた。ぐづぐづしてゐる中に、祖父が契約書に判をおしてしまへばそれこそ大變だ。といってうっかり顏を出したら、小宮は惡だくみのあらはれるのを恐れて何をするか知れない。
危機一髪
やきもきしてゐた滋少年は、小宮が口笛を吹きながら裏庭の方へいった隙に、すばやく門を飛出して、一氣に家まで走り歸った。
玄關に、土地會社の男の靴が揃へてある! 靴を脱ぐ間ももどかしく、奧座敷へ駈込むと、祖父は今、土地會社の男が差出した書類に、判をおすばかりのところであった。
「お祖父さま、お待ちなさい!」
滋少年は實印を持った祖父の手を抑へた。大人達は呆氣に取られて少年の顏を見守った。
「お祖父様、殺人光線なんて眞赤な嘘です。小宮とこの男とが一緒になって、お祖父様をだまさうとしてゐるのです。」
「坊ちゃん、失敬な! 何を證據にそんなことをいふ!」土地會社の男は威丈高に叫んだ。
「證據はいくらでもある。僕は昨夜,君が麻酔劑で殺した猫の死骸を棄てて歩いてゐるのを見てゐたぞ!」
「冗談ぢゃァない、この屋敷ばかりが地所ぢゃァあるまいし、そんな手數をかけなくたって、この邊の百姓で土地を賣りたがってゐるものは澤山ある。こちらで病院を建てる費用が急に入用だといふから、用建ててあげようといふのに、餘計な口を出す小僧だ!」
「そんなことでごまかされるものか。僕は君達が贋殺人光線などを使って、特別この屋敷を狙ってゐるわけを探偵したんだ。君達はこの土地を安く手に入れて、石油會社へ賣って大儲をするつもりだらう!」
「なにッ、近所に石油が出たからって、さうどこにでも石油の脈があってたまるものか。」男はぎょっととしながらも、憎々しくいひ返した。
「尻尾の出ない中に、さっさと歸り給へ。僕は君達の惡だくらみをすっかり知ってゐる。たった今も、君と小宮とで頑固爺に判をおさせるといってゐたのを聞いてゐたぞ!」
「えっ?」
「それから、君達が古井戸の水を汲んで、石油が出るのを發見したことまで知ってゐるぞ! 證據を出せといふなら、いくらも見せてやる。誰か、納屋の炭俵の後から、釣瓶と猫の死骸を持ってきてくれ!」滋は大聲で叫んだ。
赤くなったり、青くなったりしてゐた男は、滋少年に圖星をさゝれ、ゐたゝまれなくなって、屋敷を飛出したが、早くも様子を知った作男達が、鋤や鍬を擔いで玄關に押しよせてゐるのを見ると、横飛に窓を躍り越えて、はだしのまゝ逃出した。
利助爺は逃げてゆく男の後に靴を投げつけて、
「けがらはしい! こんなものは、とつとと持って帰れ!」と叫んだ。
男は靴を兩手にぶら下げて、雲を霞と消失せた。
「わっはっはゝゝゝゝ。」
作男達は、手を叩いて笑った。
一同は猫の死骸と、ぎらぎらした青黒い水の入った釣瓶を圍んで、今更のやうに滋少年の名探偵ぶりを賞めたゝへた。
「さうだ、確かに石油だ! 石油が出るとなると、大したものだ。この土地の値は何十倍になるかしれない。滋や、お前よくそんなことを發見したね。」
「お祖父様、僕も今朝まで石油が出るとは氣がつかなかったのです。殺人光線が贋ものとわかったので、何かこの土地に目的があるんだらうと思って、家の周(まわり)をうろつき廻ってゐる中に、偶然見つけたのです。いつも使ったことのない車井戸の綱が、最近切れたらしいので、これは誰かが井戸の水を汲んだなと考へついたのが始りです。小宮が始めてお祖父様を訪ねてきた時、通されたのはあの茶の間だったでせう。小宮はきっと、夕陽の反射から殺人光線を思ひついたのすよ。」
「さういはれると思ひ當るが、あの時、小宮の奴しきりに殺人光線の話をしてをったっけ。なんとしても滋は大手柄だった。詐欺にかゝらずにすんだばかりでなく、お前のお蔭で財産が何層倍にもなった。これぢゃァ立派な病院が二つも三つも建つ。お父さんの心配顏が、忽ち恵比寿顏に變るだらうよ。さァ、皆の衆、今日は仕事を休んでお祝だ!」
老主人の言葉に作男達はもう一度歡聲をあげた。
× × ×
翌日午後の汽車で着いた滋の父の驚きと、喜びはいふまでもなかった。間もなく専門家の調によって、屋敷内に豐富な石油の鑛脈のあることが確かになったので、祖父はその權利の一部を賣っただけで、十分に病院を再築するだけの金を調へることが出來た。
不二土地會社の社員と稱してゐた男と、理化學研究所の看板を掲げてゐた小宮とは、滋少年に化の皮を引剥かれて、その日の中に行方をくらましてしまった。 (をはり)
注)さすが大手の少年誌であろうか、誤字誤植や特別な読みはほぼなし。
注)なぜ殺人光線なのかは謎。規模拡大ならわからないでもないが藪蛇のような。
「名犬富士丸」
「日本少年」 1935.01. (昭和10年1月号) より
(不明)
(冒頭部分頁欠のため不明)
「實は富士丸の事が心配なんです。又.黒鷲にいぢめられてゐやしないかと思って……」
「父に堅く誓ったんださうだから、眞逆そんな事あるまいよ。第一黒鷲にとって、富士丸は大切な助手なんだからね。」トム少年は慰め顏にいふのであった。
けれども或晩、茂夫は小舎の扉をがりがり引掻く音に驚かされた。くんくんいふのは確に富士丸である。急いで扉を開けると、山奥で羊番をしてゐる筈の富士丸が飛込んできて、尾を股の間に挟んで、こそこそと寝臺の下へもぐり込んだ。
「富士丸! どうした! 今頃何だって歸ってきた! さァ、こっちへ出ておいで!」茂夫は牀に膝を突いて呼んだが、犬は竦んでゐて出てこない。無理矢理に首輪を掴んで引擦り出して見ると、背や、肩に鞭で打たれたらしい生々しい傷がついてゐる。
「畜生! 黒鷲の奴、またやりやがったな!」茂夫は齒ぎしりをして口惜しがった。
翌朝、その次第を訴へると、スミス氏は非常に憤慨し、
「羊番をする犬に鞭をあてるなんて、實に怪しからん。そんな男には最早大切な羊は委しておけない。」といった。
スミス氏は早速別の羊飼を雇ひ、富士丸を連れて山の天幕へ自動車を飛ばした。そして黒鷲にそれまでの給料を支拂った後散々撲りつけて、その場で解雇してしまった。
「へん、犬の贔屓ばかりしやがって、覺えてゐろ!」黒鷲は腫上った頬を抑へながら、憎々しい捨科白を殘して山を下りていった。
低い唸聲を立てゝゐた富士丸は、黒鷲の姿が岩陰に消えるとスミス氏の袖を銜へてぐんぐん山の頂へ引ぱっていった。そこから東側はネバダ州である。富士丸は東の平原を見下してはスミス氏の顏を見上げて、何かいひたげに尾を振った。けれども人間には犬が何を語らうとしてゐるのか、解らなかった。
「さうか、お前は此處で黒鷲に撲られたといふのだな。もう誰も撲る奴はないから、安心して働いてくれよ。」スミス氏はそんな風に想像して富士丸の頭を撫でた。
茂夫の願ひ
秋まで申分のない天氣が續いた。朝夕の風が冷くなると、そろそろ羊の群が山を下り始めた。
或日、スミス家の事務所へ、他の牧場主から電話で、山から歸った羊を數へたかといふ問合せがあった。
「今年はどうした譯か、方々の牧場の羊が不足してゐる。二十頭から百頭位足りないのだ。眞逆今年に限って、かう澤山迷子になる筈はない。どうも怪しい。」といふ話だったので、スミス氏はトム少年と茂夫を伴って、早速山麓へ出掛けてゆき、所有の羊を數へて見ると、驚いた事には二百八十頭の不足であった。
その歸途牧羊組合の事務所へ寄ったところが、
「組合全體で喪った羊の數は、お宅のを加へると千頭以上になります。」といふ事務員の話であった。
「誰に盗まれたんだ。」
「何とかして羊泥棒を捜し出す法はないものでせうか。」
「それゃ困難だな。假令(たとえ)盗まれた羊が判ったにしても、どれもこれも同じ顏をしてゐるから、法廷へ持出しても自分の羊だと確證する譯にはゆくまい。」
「さし當り、私立探偵でも雇って、犯人が羊を盗む現場を押へるんですな。」と事務員がいった。
そんな譯で、牧羊組合では二千弗の懸賞付で犯人を捜す事にした。然し普通の盗難事件とは異って、盗難品はありふれた家畜であるし、肉はどの羊も同じ味で區別がつかないから、羊盗人を捜し出すのは容易ならぬ事であった。
その中に冬が去って、再び春がめぐってきた。或日、茂夫は突然、主人に暇をもらひたいと申出た。
「どうして急にそんな事をいひ出したんだね。今年はお前に助手をつけて羊を全部任せるつもりだったのに、一體どういふ譯だね。何か待遇上氣に入らない事でもあるのかね。」スミス氏はゆらゆらと立のぼる煙草の煙の中で、眉を顰めながらいった。
「いゝえ、決してそんな譯ではありません。實はお宅で盗まれた羊を捜しにゆきたいのです。」
「お前がさういふからには、目算があるんだらうから、暇をやってもよいがね……」
「僕は屹度捜し出すつもりです。就きましては、古自動車を一臺、石油コンロ、小型天幕(テント)を貸して頂きたいんです。夫れから………」
「はゝゝはゝゝ、次手に馬と豚と牛を貸して呉れといふんだらう……まァ、そんな冗談は抜きにして必要品は何でも持ってゆくがいゝ。」その會話を聞いてゐたトム少年は傍から、
「君、大切なものを忘れてゐる! 僕を借りてゆかなければ駄目だらう? 僕は地理に明るいし、自動車の運轉が得意だし、第一の必要品だぜ。」といった。
スミス氏は愉快さうに笑って、二少年の冒險旅行を許した。
嗅出した百三十頭
二少年は古フォードに天幕生活の必要品を積込んで出發した。運轉臺にはトム少年と茂夫が竝び、その間に愛犬富士丸が首を伸して行手を睨んでゐる。
目ざす場所は山麓の大草原、そこには各地から集ってきた羊飼の天幕が、若草の海の中に、白帆のやうに散在してゐる。
二少年は黒鷲の消息を知る爲に、根氣よく諸所の天幕をめぐり歩いた。草原へ着いてからもう三日過ぎた。
「折角かうして出掛けてきたのに、若し黒鷲に會へなかったら殘念だな。僕は確にあの男が羊を盗んだと睨んでゐるんだが……」茂夫はいくらか不安らしくいった。
「黒鷲は羊飼だもの、屹度この草原へやってくるに極ってゐる。必ずめぐり會ふよ。問題は富士丸が吾々の計畫通にやってくれるか、どうかといふ事だ。僕はそれを心配してゐるんだよ。」とトムがいった。
「その點は大丈夫だ。僕は富士丸を信頼してゐる。」
二少年がそんな會話を交へながら自動車を走らせてゆくと、遥かな丘から羊の大群が白雲のやうに、むくむくと下りてくるのを見付けた。
「あっ! 黒鷲だ!」トムが叫んだ。
「叱っ! こゝでは何にも云はぬ方がいゝ。」
「大丈夫だよ!」トムは何喰はぬ様子で自動車をすゝめた。それは果して黒鷲の率ゐてゐる羊群であった。富士丸は黒鷲を見ると、凄じい劍幕で、牙を露出(むきだ)して唸りつゞけたが、茂夫はその首を確りと押へて、そこを通り過ぎた。
富士丸は羊の群と、茂夫の顏を見較べては何事か訴へるやうに、くんくん鼻を鳩らした。それだけで充分である。茂夫は愛犬の眼の中を讀み取った。
「さァ、次の村へいって警察の應援を頼むんだ。」
「それから家へ電話をかけて、父に報告しよう。」
二少年は勇み立って自動車を飛ばした。
警察では豫々(かねがね)牧羊組合から依頼を受けてゐたし、それに黒鷲はその筋の注意人物だったので、二名の警官がオートバイで出動した。
一行は間もなく、黒鷲の率ゐてゐる羊群に追付いた。
「おい待て! この中に盗まれた羊が混ってゐる筈だから、一應取調べるぞ。」と警官がいふと、黒鷲は眞赤になって、
「失敬なことをいふ! 羊を檢閲するなんて話は聞いた事がねえ。」と喰ってかゝった。
「警察の命令だ! 貴様に疾しい事がなければ、そんなに文句をいふ事はあるまい。」
さういはれて黒鷲は、澁々檢閲を受ける事を承諾した。
「へへん、俺の羊はこの通り一匹殘らず燒印が押してあるんだ。この中に盗まれた羊があるといふなら、さっさと選り出したらよからう。生意氣な小僧共だ! 若しゐなかったらどうしてくれるか、覺えてゐろ!」黒鷲は憎々しく二少年を睨付けた。
「燒印なんか、あてになるものか、變へようと思へばどうにでも出來る。だが羊には一匹づゝ、一生涯變へる事の出來ない臭ひがあるぞ! 人間には判らないが犬にはその臭ひが判るんだ!」茂夫は負けない氣になって應酬した。
「さうとも、犬は口が利けないと思って馬鹿にすると、大間違ひだぞ!」トムも呶鳴った。主人の命令を待ちあぐんで、立ったり、坐ったりしてゐた富士丸は、茂夫が指先を鳴らすのを合圖に、羊群の中へ飛込んでいった。
その光景を見守ってゐた警官は、
「少年達はあゝいふが、これだけの大群の中から果して盗まれた羊を捜し出すだらうか。」
「吾々から見ると、どれもこれも同じ顏をしてゐて見分がつかない。これは中々困難な仕事だ。」などと話し合ってゐる中に、富士丸は先づ一頭を追出した。そして二時間計りの間に三千頭の中から百三十頭を少年達の自動車の傍へ集めて、
「もうこれでお終ひでございます。」といふやうに坐り込んでしまった。
警官は直に黒鷲を拘引したが、彼は飽迄羊を盗んだ覺えはないと言張るので、どうしても裁判沙汰にしなければならなかった。それにしても、犬が百三十頭の羊を避び出したといふだけの證據で、裁判官を納得させる事が出來るか、どうかは疑問であった。又、犬の嗅覺がどの程度まで法廷で認められるかといふ事も問題であった。然し検事は富士丸を主要な證人にする旨を明言した。
珍裁判
いよいよ、裁判の日が來た。犬が證人席に現はれるといふ事が大評判になって、裁判所は牧羊組合の人々や、附近の町々から集った傍聴人で滿員となった。
富士丸にとっても不思議極まる日だったに違ひない。二少年の間に坐らせられた富士丸は、驚いた様子でざわめき返ってゐる法廷を見廻してゐた。
笑ひながら富士丸の頭を撫でてゐた檢事はやをら立上って、
「裁判長閣下、私はこの爭ひの根本になってゐる少年所有の犬が果して證人……ではない證犬としての資格があるか、どうかを先づ第一に檢べて頂きたいと思ひます。いくら賢くても犬は犬であって、口の利けない事は誰でも知ってをりますが、先祖代々羊の番犬として訓練を受けてきた犬は、先天的に羊を良く識ってゐるものです。私は今、裁判長閣下の前でこの富士丸の能力を實驗して見たいと存じます。」と述べて富士丸を呼んだ。
犬は尾を振るだけで動かなかったが、茂夫が指を鳴らすと、ひらりと證人臺に飛乗り、赤い舌を出して窮屈さうに四邊(あたり)を見廻した。
傍聴席から、どっと笑聲が起った。黒鷲の辯護人は、
「畜生を證人に立てるなんて、そんな馬鹿氣た話は聞いた事はない。」と異議を申立てた。
けれども犬好きらしい裁判長は、にこにこ笑ひながら、
「中々、正直さうな犬ぢゃ。犬を證人臺に立たせてはならないといふ規則はない。」といった。
裁判長は茂夫を通譯者として、型の如く訊問にかゝった。
「富士丸、お前は黒鷲を知ってゐるか。」犬は自分の名を呼ばれて、裁判長の方を向いて尾を振った。茂夫が傍から、
「お前、あの男を知ってゐるだらう。」といって被告席を指さすと、富士丸は黒鷲の姿を見て、背中の毛を逆立て、低い唸聲をあげた。黒鷲は今にも飛びかゝってきさうな富士丸の劍幕に顏色を變へた。
七束の羊毛
茂夫少年は抱へてゐた大小二個の包を檢事に渡した。檢事は裁判長の前でその包を解いた。中から出たのは三百の羊毛の束であった。
「私は皆さんを滿足させる爲に、この犬の鑑識力を試驗してお目にかけます。この山のやうな羊毛の束は、各牧羊業者から集めたもので、全體で三百種あります。又、こちらの小さな包には、原告即ちスミス所有の羊の毛が七束あります。陪審員諸君にこの七束に外部から見えないやうに目標をつけて頂きます。」
陪審員達は別室に退いて、七個の束に一つ一つ目標(めじるし)の絲を入れ、それを他の三百の束に掻き混ぜてきた。檢事はそれを牀一面に撒きちらして、
「諸君、この中から先刻の七束を捜し出す事が出來ますか。」といった。勿論、誰一人見分けがつくといひ得る者はなかった。
一旦、退場を命ぜられてるた茂夫は、富士丸を伴れて再び法廷に現はれた。富士丸も重要な役目を感じたと見えて、頭をあげ、尾を立てゝ入ってきたが、牀の羊毛を見ると、
「これは一體何事です?」といふやうに茂夫の膝に前肢をかけた。
檢事の命を受けた茂夫は、牀を指さして、
「いゝかね、この中から俺達の羊の毛を捜し出すんだよ。」といひきかせた。
富士丸は茂夫の合圖と共に、鼻をくんくんさせながら羊毛を嗅ぎ始めた。そしてその中から忽ち七束を捜し出した。
「さァ、もっとあるかも知れないから捜してこい!」檢事はもう一度富士丸を押しやった。
人々の興味は絶頂に達した。犬は間違へて目標のない束をもってくるかも知れない。さうすれば富士丸は證人の資格を喪ってしまふ。
けれども犬の嗅覺には誤りがなかった。散々嗅ぎ廻った揚句、富士丸は茂夫の許へ戻ってきて蹲ってしまった。檢事は、
「諸君、ご覧の通りこの犬は、三百種の中から原告の羊の毛七束を捜し出しました。私は更に確實な實驗を屋外で行って見たいと思ひます。」といった。
富士丸の勝利
裁判長初め陪審員、新聞記者、一般傍聴人等がぞろぞろと郊外の牧場へ向った。そこには數千の羊が長閑に草を喰(は)んでゐた。その柵の外に五頭だけが別にしてあった。檢事は、
「諸君の見らるゝ通り、これ等の羊は全部同種類で、外見は少しも異ってをりません。こちらの五頭はスミス氏の羊でありますが、これに目標をつけた上で、彼方の羊群の中へ追込み、證人である犬に鑑別させて見ます。」といった。
五頭の羊には、陪審官がそれぞれ目標をつけ、それを羊の群へ放ち、更に羊飼が全部を移動させて了ふと、人間にはどれがどれだか全く見分けがつかなくなってしまった。
茂夫も流石に緊張して、胸をどきどきさせながら、ぢっと愛犬の首を抱へてゐた。トム少年も落着かない様子、羊の大群を覗きにいったり、又、戻ってきて、富士丸の頭を撫でたりしてゐた。檢事の命令が下ると、茂夫は、
「さァ、富士丸! 確りやってくれ! あの中から家の羊を捜してくるんだぞ!」と囁いた。
富士丸は眞一文字に羊の大群目がけて躍り込んだと思ふと、勇ましく吠え立てながら縱横に馳けめぐって、三十分計りのうちに、首尾よく五頭の羊を狩出してしまった。
「萬歳、萬歳!」
「豪いぞ! よくやったぞ!」
茂夫とトムは狂喜して柵の方へ走っていった。見物人の中からも、わっといふ歡聲があがった。
強情な黒鷲も遂に降参した。彼は山脈の向ふ側のネバタ州に牧場を持ってゐる男と共謀して、方々から盗んだ羊を屠殺して肉にして賣ってゐたので、永い間犯罪が發覺しなかったのである。ところが黒鷲はスミス氏の羊二百八十頭を盗んだうち、一部を殺さずに殘しておいたのが運の盡で、殘りの百三十頭を富士丸の鋭敏な鼻によって嗅出されてしまったのである。
茂夫とトムの喜悦はいふ迄もないが、スミス氏は非常に感激して、口を極めて茂夫の功勞を讃へた。茂夫は謙遜して、
「いゝえ、これは決して僕一人の手柄ではありません。トム君と富士丸のお庇で犯人を捕へる事が出來たのです。僕はどうかして日頃の御恩の萬分の一でもお返ししたいと思ってやった計りです。」といふのであった。
牧羊組合からは懸賞金二千弗が茂夫に贈られた。茂夫は父と相談の上、その半分を投じて富士丸の銅像を作り、牧羊組合事務所の玄關脇に建てゝ、名犬の功績を永久に記念した。
注)冒頭部はページが切り取られていた為に未確認です。
注)句読点は追加したところがあります。
注)実話か記事からものなのか、少年と犬の名前を変えた翻案なのかどうかは不明。
探偵小説「六角箱の謎」
「日本少年」 1935.04. (昭和10年4月号) より
(一)不思議な發見
伯父の快速船白鴎丸は植物學者の伯父と、僕等兄弟に老僕清水、それに愛犬五郎を總乗組員として、房總半島の沿岸を風のまにまに航海してゐた。
外房へ出て二日目にやうやく瀧口村に着き、屏風岩の陰に錨を下した。そこは人家もない荒漠とした海岸であったが、山一つ越えた谷に伯父の親友植原博士が温室を經營してゐるので、そこを訪問する豫定であったが、二日計り時化が續いたので、吾々は船の中にじっとしてゐた。讀書にも飽きた僕は、
「おい、敏夫、將棊(しょうぎ)でもしようぢゃないか。」
「うむ……」弟は頷首いたゞけで、夢中になってハーモニカを吹き續けてゐる。その前に五郎が耳を立てゝ、歌でも唄ってゐるつもりか、奇妙な遠吠をあげてゐる。
僕は少し癪に障ったので、ぷんぷんしながら、雨の横ざまに吹付けてゐる甲板へ出た。有難い事には東の雲が切れてゐるので、ぢきに天氣になるだらうと思って、僕は短艇(ボート)を下し始めた。
すると、船室の窓から伯父が顏を出して、
「おい、泰夫! 何處へゆくんだ。波浪(なみ)が高いから危いぞ!」と呶鳴った。
「脚が腐って了ひさうだから、少し陸(おか)を歩いてくるんです。波浪が高くたって、いざとなれば泳ぐから大丈夫ですよ。」
「それもさうだな……」伯父は直ぐ顏を引込めて了った。一體伯父は本蟲の親玉で、朝から晩まで古ぼけた書物に囓り付いてゐて、何か叱言をいひかけても、半分から先は、うやむやになって了ふ。恐らく其時も最初は短艇を下すのを制(と)めるつもりであったらしいが、例によって片手に大切な書物でも持ってゐたと見え、そのまゝ椅子に腰を下して了ったものと思はれる。
僕は素早く短艇に乗移り、波浪を切って陸に向った。
人里離れた海岸はまるで無人島のやうな感じがする。僕はロビンソン・クルーソー氣取りで、濡れた砂濱を東風に吹飛ばされて歩いた。そこから岩角を一つめぐると、南に展けた砂丘の下へ出た。濱邊には海藻類と共に様々な浮流物が山のやうに打あげられてゐた。
僕は豫々(かねがね)、斯うした浮流物の中に、折々素晴しい寶があると聞いてゐたので、何か獲物はないかと、根氣よく棒切れで海藻を引くり返して歩いた。丸太、バケツ、空罐、鍋、毀れた洗面器、壜類、夫等の中から僕は眞鍮の蝋燭立と、煙草の灰皿にでもなりさうな大きな鮑貝などを拾った。
僕が夫等の獲物で雨外套(レインコート)のポケットを膨まして引返しかけると、いつの間に來たのか、五郎の奴が遠くの砂丘を馳廻ってゐるのが見えた。奴も退屈して白鴎丸から泳いできたと見える。
「五郎! 五郎! 五郎!」僕が呼ぶと、五郎は鞠のやうに飛んできたが、すぐ波打際に走っていって、その邊を嗅ぎ散らしながら、わんわん吠え出した。
「何か、あるのか! 貴様の事だから、猫の死骸でも見付けたのだらう。」僕は笑ひながら見てゐたが、五郎が餘り眞劍なので、側へいって見ると、海藻に覆はれた砂の中に、何か箱のやうなものゝ角が見えた。
「おやおや何だらう。」僕は五郎と一緒になって砂を掘った。現てきたのは不思議な恰好をした箱である。高さ六十糎、横幅一米程で、六角面をもち、その一面が底で、一面が蓋になってゐる。岩丈な樫の木造りで、蓋には鋼鐵の蝶番がつき、大きな錠がかゝってゐた。
これは實に素晴しい發見であった。重くて鳥渡持上らないので、兩手にうんと力を入れて轉すと、中でことことと音がした。
「確に空箱ぢゃァないぞ、事によると、海賊の金庫かも知れない……」僕は汗塗(まみ)れになって砂丘の中程まで轉がしていった。
僕は錠前をこぢ開ける道具を取りにゆく間も、誰かに盗まれては大變だと思ひ、一先づ箱を砂の中に埋め、その上に海藻をかぶせて、短艇をあげておいた西海岸へ引返した。
雨もいつか霽(あが)って、ところどころに青空が顏を出してゐる。僕は立止って暴風雨(あらし)の後の壯快な海の景色に見惚(みと)れてゐたが、何氣なく振返ると、數米距(はな)れた岩陰から、ぢっと僕の方を窺ってゐる男があった。彼は僕の顏を見るとさっと身を翻へして椿の森の中へ逃込んで了った。
(二)伯父の失踪
寶の箱の件があるせゐか、僕はその男に監視されてゐたやうな氣がして氣味が惡くなり、短艇の方へ走った。
すると、突然聞覺えのある口笛が起った。いつの間にきたのか、弟の敏夫が岩の上に蹲んで釣魚(つり)をしてゐる。
「兄さん、何處へいってゐたの? 僕はこゝへ來てから一時間以上待ってゐた。こゝは黒鯛が釣れるぜ。」俊夫は得意氣に銀色の魚の入った魚籠を傾げてみせた。
「おい、驚くな、僕はそれ以上の獲物があるんだぞ!」
「兄さん、何なの? 教へて呉れたっていゝのに……」
僕は少し、弟を焦らしておいて、勿體ぶって六角箱の秘密を打明けた。敏夫は眼を輝かして、
「ぢゃァ、直ぐ道具を取ってこよう、何が入ってゐるんだらう、小判か何かゞ、ぎっしり詰ってゐるんぢゃァないかな。」といひながら先に立って短艇を漕ぎ始めた。
白鴎丸の上に立ってゐた清水は、僕たちが近づくと、
「おやおや、旦那様は御一緒ではなかったのですか。」と不思議さうにいった。
僕等は清水の言葉に不吉な豫感を覺えて、周章(あわ)てゝ伯父の部屋へいって見た。机の上には伯父の大切な書物が出し放しになって、その傍に刻煙草を詰めかけたパイプが投出してあった。煙草の罐も蓋がしてなかった。日頃几帳面な伯父が、そんな風に部屋を取散らしたまゝ外出する筈はない。又、外出するとしても一隻よりない短艇を僕が濱へもっていって了ったのに……眞逆敏夫のやうに泳いでゆく事もないだらう。
「どうしたんだらう。何處を捜してもゐらっしゃらない。便所の中まで檢(み)たけれども……」敏夫は不安な面持で飛込んできた。
「爺や、お前、いつものやうに十一時に伯父さんの許へ牛乳をもってきた時、そうしてゐらっした?」
清水は面目なささうに頭を掻きながら、
「……實は、その……持って参った時はもう十二時だったので……つい、居睡りをしてをりましたので……」といふのであった。
「ぢゃァその時は、もうゐらっしゃらなかったのだね……お前が居睡りをしたってそれは仕方がないさ、この二三日時化で夜も碌々寝なかったんだからな。」
「眞實にうっかりしてゐて申譯ございません。眞逆旦那様が海へ墜ちなさる筈はなし……」
「僕は伯父さんが、船の中で消失せたなんて、非科學的な事は信じないさ。事によると、僕等の知らない間に植原博士が舟で迎へに見えて、一緒にお出掛けになったのかも知れない。」
「あゝ、そんな事かも知れません。植原さんの温室までは二時間もあればいってこられますから、儂はこれから一走りして参りませう。」と清水はほっとしたやうにいった。
僕等は再び短艇を漕いで上陸した。爺やはぢき戻ってくるからといって、すたすた森の中へ立去った。
「ねえ兄さん、待ってゐる間に、その六角箱といふやつを開けて見ませう。」
弟は伯父の事よりも、寶の箱の方が氣になってゐたと見えて、手廻しよく、釘抜きや、螺旋廻しをポケットに忍ばせてゐた。
僕らは岩山を繞って南の砂丘へ出たが、僕は少し不安を感じてきた。といふのは其邊に人間の足跡があって、僕の積重ねておいた海藻が四邊に飛散ってゐたからである。
僕の豫感は的中した。果して砂の中には大きな孔が口を開けて、大切な六角箱は影も形もなくなってゐる。僕は茫然として孔の前に立竦んだ。
「兄さん、盗んだ奴はまだ遠くへは行かない。箱を引擦った跡が遺ってゐる!」と弟が慰め顏にいった。
「さうだ、この跡を辿っていって見よう。」
僕等は注意深く、砂の上の跡をつけてゆく中に、浪打際で箱の跡は綺麗に無くなってゐる。
「殘念だな! こゝから船に乗せていって了ったんだな!」弟は口惜しがって砂を蹴った。
「いや違ふ。奴は舟に積んだと見せかけて、こゝから山の方へ擔いでいったんだ。」
「どうしてゞす?」
「お前も自慢する程探偵眼がないんだな。砂丘の方へ戻ってゆく足跡が、こんなに深いのは重い箱を措いだ證據ぢゃァないか。」
「成程、こいつは一本参った。」
僕等が犯人の足跡を辿って砂丘を越え、椿の森へ差しかかった時、急に傍の藪ががさがさと鳴ったので、僕らは悸(ぎょ)っとして顏を見合せた。
(三)血染のハンケチ
だが、そこへ飛出したのは曲者ではなくて、今朝以來存在を忘れてゐた惡戯(いたずら)ものゝ五郎であった。彼は僕等の前を馳(か)け抜けて、數メートル先の砂地を飛跳ねながら、口に啣(くわ)へた白いものを頻りに振廻してゐる。
「五郎! 五郎! 何をもってゐるんだ! ここへ持ってきて見せろ!」僕が跼(しゃが)むと、五郎は心得て啣へてゐた手巾(ハンケチ)を僕の足下へもってきた。
「おや! 血が附着(つ)いてゐる! 伯父さんのハンケチぢゃァないか!」僕は泥と血に塗(まみ)れた手巾を檢(あらた)めた。それは草色の縁(へり)を取った見覺えのあるもので、その一隅に赤糸で洗濯屋の印がついてゐた。
「さうだ! 確に伯父さんの手巾だ! 五郎が船から啣へてくる筈はないから、伯父さんは屹度この邊にゐらっしゃるに違ひない。それにしても血が附着いているとはどうした譯だらう。」
弟は心配さうに四邊(あたり)を見廻した。
僕等は夢中になって附近を捜し廻り、弟は手を喇叭にして伯父を呼んで歩いた。けれども應へる●●●●●●●●●●●る風の音と、磯を洗ふ涛(なみ)の音ばかり●●●●●●(※12文字以下不明)
崖の上へ登って四方を見渡してゐ●●●●●●●●●●●●同時に叫んだ。
波浪の上に揺れてゐる誰もゐない●●●●●●●●●●●●を發見したのである。
「彼奴(あいつ)は何だらう!」
「手拭で頬被りなんかして……確●●●●●●(※13文字以下不明)
「無論、爺やではなし……」
二人は一散に砂山を馳下(かけお)りて短艇(ボート)●●●●●●(※12文字以下不明)
怪しい人影を見てから、船へ戻●●●●●●●●●●●●●かも知れないが、僕らが甲板へ上っ●●●●●●●●●●●●はゐなかった。然し、何者かゞ白鴎丸●●●●●●●●●●●る。別に被害はないやうであるが、廊下●●●●●●●●●●が遺ってゐて、伯父の船室の窓際の椅子が一つ(※7文字以下不明)
「兄さん! 彼奴だ!」弟は僕の腕を掴んで窓●●●●●た。見ると、雀岩の蔭を泳いでゆく男の頭が、浪間に浮きつ、沈みつしてゐる。
そんな騒ぎをしてゐる中に、清水が植原博士の温室へ出掛けてから既に三時間も過ぎて了った。
僕等は岩陰に消えた男も氣になったが、不意にゐなくなった伯父といひ、血染の手巾といひ、豫定の時間を過ぎても歸ってこない清水といひ、總てが不安になってきて、ぢっとしてはゐられなくなった。
「愚図々々してゐると、日が暮れて了ふから、もう一度、伯父さんを捜しにゆかう。」
僕は伯父の船室から護身用の仕込杖を持出し、弟は魚を刺す銛を提げて、陸へ出掛けていった。僕らは今度は方向を變へて、峯傳ひに山の奥へ入っていった。麥畑や、雜木林を抜けてゆく中に、又しても、前面の藪の中から五郎が飛出してきた。
「何だ! 今度は伯父さんの革帶を啣へてきた!」
「いよいよ、伯父さんは危險に瀕してゐるに違ひない!」敏夫は聲を彈ませていった。
五郎は革帶を取上げられると、何事か訴へるやうに僕等の顏を見上げては走ってゆく。その邊は駱駝の背のやうな細い凸凹道で。右手は深い松林、左手は雜木や、藪がらしの密生してゐる急斜面になって、遥か下の方に谷川が流れてゐる。
五郎は僕等をそこへ連れてゆかうとするらしく、笹藪の中を掻分けて、上ったり、下ったりしてけたゝましく吠立てるが、僕達人間には到底下りてゆけないので、その道を眞直ぐに大迂回(おおまわり)をして、崖の中腹へ出た。
「伯父さん! 伯父さん!」敏夫の呼聲に、何處かで應ずるやうな聲がした。それに勢ひを得て、僕らは木の枝を潜り、藤蔓に縋ってやうやく谷川の臺地へ下りた。
「あっ! 彼處(あすこ)に伯父さんがゐらっしゃる!」
身輕な敏夫は岩を躍り越えて走り出した。伯父は大きな赤松の根元に凭(よ)りかゝって、兩脚を投出してゐるのであった。
(四)二人の怪漢
「よく來て呉れた。もう誰か捜しにきて呉れるだらうと思ってゐたよ。この五郎奴は物を啣へてゆくより他、能はないと思ってゐたら、到頭その一つ覺えが役に立ったな。」
伯父はいくらか青い顏をしてゐたが、相變らず元氣の良い聲を出した。
「一體伯父さんはどうなすったんです。僕等は随分心配して、朝から捜し廻ってゐたんです。」
「それは惡かった。植原博士の許から、モーターボートで迎へがきたのだから、周章てゝ飛出して了った。」伯父は擦傷だらけの手足をさすりながらいった。
「随分怪我をなすったんですね。崖から墜ちたんですか。」
「あゝ、近道をして早く歸らうと思ったらな、岩が崩れて辷り落ちて了ったのだ……だがそんな事はどうでもいゝ。素晴しい發見をしたんだ。これを見て呉れ。これは儂が十年も捜してゐた苔だ、蠅取苔の一種だよ。」伯父は日が暮れかゝってゐる事も、足首を挫いてゐる事もお構ひなしで、胴亂の中から僕らが見ても一向面白くもないやうな直物の塊りを取出して、掌の上で恰しげに眺めてゐる。
伯父の話によると、その朝、上原博士からこの谷間に伯父が永年捜し求めてゐた珍らしい苔がある事を知らせてきたので、取るものも取敢へず、博士の研究室へ出掛けたのであったが、博士が植物の標本を見せるといって部屋を出ていったきり、いつ迄待っても戻ってこないので、しびれを切らした伯父は、無斷で博士の研究室を抜出し、こゝまで苔を採取にきて、遭難したのであった。
「それぢゃァ、博士は心配してゐらっしゃるでせうね。實は伯父さんが行衛不明といふので、爺やを博士の許へ見にやったのですが.三時間以上も歸ってこないんですから、屹度一緒に伯父さんを捜してゐるに違ひありません。」
「それゃ惡かったな……だが、植原博士も惡いよ。何だか知らないけれども、盗まれた! 盗まれた! って狂人みたいに戸外へ飛んでいったっきり、戻ってこないんだもの……それでこの苔は、肉食といっては語弊であるが、その……蟲類を喰ふんでな……」
「伯父さん、苔の話どころぢゃァありません……學者って呑氣なんだな……こんな所で日が暮れたら歸れませんよ。さァ、僕の肩につかまって歩けますか。」
「あゝ、肩さへ貸して貰へば歩けるとも、唯この苔が氣になってな。これを敏夫に大切に持っていって貰へばいゝ。」
口では強いことをいっても、伯父は歩けるどころではなく、僕等二人で擔ぐやうにしてやうやう、正當(まとも)な道路へ出た時には、既(も)う日が没して眞暗になってゐた。
先になったり、後になったりしてゐた五郎は、森の端れのところで急に立止り.首をさげて低い唸り聲をあげた。
僕らが思はず足を停めると、ざわざわと路傍の笹藪を分けて、ぬっと二人の男が現はれた。彼等は重さうな荷物に棒をかけて、前後から擔(にな)ってゐる。薄明りに透して見た僕は、弟に、
「あれだ! 六角箱だ!」と囁いた。
「怪しからん! 取返して了へ!」利かぬ氣の敏夫は、僕の制止する暇もなく矢庭に男等の行手に立塞って、
「やい! 泥棒! その箱を下せ!」と大喝した。
「わっ、ははゝゝゝゝは、敏坊ちゃん、追剥ぎにならっしゃったかい。」と大笑ひしたのは意外にも爺やの清水であった。而も、もう一人は植原博士であるとは……僕等は腹を抱へて笑った。
「遠來の珍客を置去りにして、泥棒の追跡に出るとは、何とも申譯のない話たが、盗まれたといふのはこの箱ですよ。この中には私の生命から二番目の植物の標本が入ってをるのです。この間から怪しい男が家の周圍(まわり)をうろうろしてゐると思ってゐたら、これを狙ってゐたんですな。小判でも詰ってゐるかと思ったんでせう。いゝ鹽梅に途中で清水君に會ったものだから、應援を得て、やっと取返してきました。犯人は海岸の岩窟に棲んでゐる、この界隈で有名な乞食なんですから、握り飯を呉れて勘辧してやりましたよ。」と植原博士は上機嫌で説明した。
さういえば僕の顏を見て、椿の森へ逃げ込んだのも、船へ忍込んだのもその乞食男に違ひない。何としても六角箱の謎が解けて、苦笑したのは僕等であった。その晩は植原博士を交えて、僕等一同は白鴎丸の食堂で愉快な晩餐をとった。敏夫は六角箱をこじあけるつもりで、ポケットに忍ばせてゐた釘抜と、螺旋廻しをそっと元の場所へ戻し、僕らは晝間中有頂天になってゐた海賊の寶庫に關しては口を噤んでゐた。
注)●印部分は破れの為不明です。
注)明かな誤字誤植などは修正しています。表記ゆらぎはそのままとしていますが、「叔父」は「伯父」に統一しています。
注)少年の苦笑が何/誰に対してなのか、受取り方によっては面白くも感じられる。
参考 探偵物語「寶の甕」
「コドモのテキスト」 1930.12. (昭和6年1月放送号) より
【一月十四日AK放送】甲賀三郎
【一月十五日AK放送】大下宇陀兒
【一月十六日AK放送】松本泰
ある海濱の町で寶の甕が盗まれました。譲治少年とその友達の春子は、天晴名探偵になりすまし、警察でも分らなかった惡漢の隠れ家を突止めて乗り込んでゆきます。
だが、智惠があっても大人には叶ひません。二人は惡漢の爲に無人島に押しこめられ、そこで種々な冒險をします。盗まれた甕はどうなったでせう? たまたま頭の上に現はれた飛行機も二人の呼聲を外にして雲の彼方へ消去って了ひました。
注)中央に結末と思われる絵と説明文、周囲に12コマのストーリーの絵を配している。
注)台本として執筆されたのかどうか不明。内容は「浜辺の秘密」と同一のようなので、分担ではなく執筆は松本泰で、甲賀三郎と大下宇陀児は出演者という可能性もある。
長篇探偵小説「海濱の秘密」(第二回?のみ)
「日本少年」 1935.08.?〜10.? (昭和10年8月号?〜10月号?) 9月号より
(前号までのあらすじ)
譲治が、たゞ一人留守をした翌朝起きて、庭をみると、腰掛の上に一個の黒鞄が置いてあった。そこへ、譲治の叔父だといふ熊造といふ人が訪ねてきた。熊造はあまりよくない人間で、度々譲治の家へ迷惑をかけてゐた。黒鞄は熊造叔父のものだった。その夜、譲治の姉は東京から歸ってきた。眞夜中ごろ濱邊で印度人が殺された騒ぎがあった。叔父は濱から歸ってきた譲治と姉の話をきいて眞青になったが、翌朝起きてみると、叔父は何時の間にか譲治の家から姿をけしてゐた。そして隣の春子の家では、昨夜盗人が入ったと大騒ぎをしてゐた。
ウヰスキーの空壜
窓から飾棚の前まで泥棒の跡がついてゐる。卷尺で靴型の寸法を測ってゐた探偵は、
「餘程、大男だと見える‥‥底に丸鋲をうった靴を穿いてゐたな‥‥」と呟いた。譲治は前日熊造叔父の靴を磨いた時、底に眞鍮の鋲がぴかりとしてゐた事を思ひ出して胸が激しく鳴出した。
彼は家へ歸ってからも、熊造叔父の事が氣になってゐた。靴跡、不意に消失せた叔父、そんな事を考へ合せると、春子の家の盗難事件と叔父とは、何か關係があるやうに思はれた。然し、猥(みだ)りにそんな事を口外してよいものか、どうかと譲治は判斷に迷ひながら、叔父の寝た部屋で發見した朝日グラフの頁を何氣なく繰ってゆくうちに、意外な發見をした。
「おや! 春ちゃんのお父さんの寫眞が出てゐる!」譲治は思はず聲をあげた。
それはたった今見てきたばかりの、春子の家の應接間の寫眞で、例の立派な品々を竝べた飾棚の中央に、印度から持ってきたといふ寶の甕が一段と大きく寫してあった。その餘白には高價な甕の由來が細々と記してある。
「あゝ、これだ! 叔父さんはこの寫眞を見て、春ちゃんの家へ泥棒に入ったに違ひない! だが、困ったな……叔父さんは僕の親類なんだから……でも、泥棒は泥棒だ、親類だって何だって容赦出來ない……」譲治は皺苦茶になった朝日グラフを掴んで茶の間へ飛込んでいった。
針仕事をしてゐた姉は、一什始終を聞くと、眉を顰めて、考込んでゐたが、
「それだけの事で、叔父さんが泥棒だときめる譯にはゆかないけれども……兎に角、知ってゐるだけの事は、何でも佐藤巡査の耳に入れておく方がいゝでせう。」といった。
譲治は早速駐在所へいって、叔父について怪しい節々を語った。
「成程ね、或は君の叔父さんが甕を盗んだ犯人かも知れない。それにあの甕が印度から渡來したものとすれば、昨夜崖下で殺された印度人も、この盗難事件と絲を引いてゐるのかも知れない……それはさうと、君はこれに見覺えはないかね。」佐藤巡査は机の抽斗から外國金貨を取出した。
譲治は確に見覺えがあった。
「えゝ、僕知ってゐます。これは熊造叔父が時計の鎖にぶら下げてゐました。印度の古い金貨だといって昨夜(ゆうべ)見せてくれました。一體これは何處にあったのです?」
譲治が急込んで訊ねると、佐藤巡査は、
「これは海岸の洞窟の中に落ちてゐたんだよ、もっと君に見せたいものがあるから、一緒に來給へ。」といった。
駐在所を出た二人は、急勾配の坂道を下りて、平常は餘り人の往かない、入江の傍の洞窟へ入っていった。
そこは十坪程の砂濱になってゐて、湿っぽい潮風が吹込んでゐた。先に立った佐藤巡査は砂地に遺ってゐる靴跡を指さして、
「この靴型は、春子さんの家の應接間にあった泥棒の跡と同じ大きさなんだ。泥棒はこゝで焚火をして仲間が船で迎へにくるのを待ってゐて、その船で何處かへ逃げたらしい。」といった。
成程、大きな靴跡が波打際まで一直線に續いてゐる。洞窟の隅には燃えさしの流木が一かたまりに積上げて、白い灰が四散してゐた。その傍に外國ノ」レッテルのついた酒の空壜が轉ってゐた。それを拾上げた譲治は、
「こゝにゐたのは、確に熊造叔父だ! 叔父が印度人の殺された事を聞いて氣絶しさうになった時、鞄の中から出して飲ませてあげたのは、この壜の酒でした。」と叫んだ。
寶の甕を盗んだ熊造叔父は、何處へ隠れたのであらう。熊造叔父を船で迎へにきたのは何者であらう。
證據のパイプ
その翌日もからりと晴れた青空の一角に、白い夏雲が浮んでゐた。譲治と春子は肩を竝べて、恐ろしい殺人事件や、奇怪な盗難事件の事を話し合ひながら、波打際の小砂利を踏んで、町端(はずれ)の方へ歩いていった。
その邊は人家も疎らで、砂除けの茱萸(ぐみ)の柵や、竹藪などの間に、茅葺屋根の漁師の家がちらほら見えるだけであった。
二人は砂濱に引揚げてある小舟の縁(へり)に腰を下して、少時休息した。見ると、崖の上の漁師の家の裏に干してある洗濯物が、潮風に煽られて、旗のやうにひらひらと翻ってゐた。
譲治はその干物を指さして、
「春ちゃん、あれをご覧なさい!」と不意に大聲をあげた。そこには紫と赤の棒縞の根卷が懸ってゐた。
「あの寝卷? 随分變梃な柄ね、私、あんな毒々しい配合(いろどり)大嫌ひよ。」と春子が應へた。
けれども、譲治がその寝卷に目をつけたのは、そんな配色(いろあい)や、縞柄の事ではなかった。
「春ちゃん、あれは僕の叔父さん寝卷なんだよ。叔父さんは屹度この邊に隠れてゐるに違ひない。」
「それぢゃァ、彼處へいって檢べて見ませうよ。」春子は眼を輝かした。
二人は頷首(うなずき)あって崖の小徑を上っていった。
その時、裏口から漁師の内儀(かみ)さんが現(で)てきて、乾いた洗濯物を取込み始めた。春子は譲治の肘を突いて、
「いゝこと、巧く訊かなくちゃァ駄目よ。」と囁いた。譲治は心得顏に目配せをして、
「……小母さん、良い天氣で洗濯にはもってこいですね。」と話しかけた。
「さうですよ。今日のやうに風があると、朝洗ったものが正午前に乾いてしまふから大助りですよ。」
譲治は隙(すか)さず、例の縞の寝卷を指さして、
「小母さん、これは誰の寝卷です。随分派手な色ですね。」といった。
人の善ささうな内儀さんは、竿から外した洗濯物を肩にかけながら、
「これは東京の旦那の寝卷です。赤星屋に泊ってゐらっしゃるんですが、私は暇なもので。洗濯などをしてあげてゐるんですよ。」といふのであった。
譲治と春子は顏を見合せた。赤星屋といふのは、海水浴場の傍にある喫茶店で、毎年七月になると、屋上に赤い星のついた三角旗を掲げて、冷し紅茶、アイスクリーム、サイダーなどを賣出す店である。
二人は雜草を掻分けて、崖沿ひに往來へ出て、町端れにぽっつりと建ってゐる赤星屋へ入っていった。
店には誰もゐなかったが、譲治は食卓の上に投出してあるマドロスパイプを見て、會心の笑みを浮べた。
「はゝん、叔父さんのパイプがこんなところにある。今しがたまで、こゝで煙草を吸ってゐたらしいぞ。」譲治はまだ温いパイプの雁首を撫で廻した。
「譲治さん凄いのね、まるで眞實の探偵みたやうだわ。」と春子が感嘆した。
譲治は天晴れ名探偵になった氣で、
「ご免なさい! 誰か、店の者はゐないのですか!」と大聲でいった。
少時(しばらく)して、鼻下に八の字髭を生した色の赭黒い男が玉簾の間から顏を突出した。それが主人の赤星であった。
譲治は大人ぶった口調で、
「サイダーを二人前下さい。」といった。
赤星は落窪んだ眼をぎらりと光らして、二人の顏を見較べた後、サイダーの壜と、コップを二つ、盆に乗せて持ってきた。
譲治はそれを受取りながら、さり氣なく、
「木内熊造といふ人が、こゝに泊ってゐるでせう。」といった。
赤星は長い髭をひねりながら、
「そんな人はゐませんよ。」と無愛相にいった。
譲治は先刻のパイプを見せて、
「これは確に叔父さんのパイプだ。これが何よりの證據、それに僕は叔父さんの寝卷が干してあるのも見届けてきたんだ。もう隠しても駄目だらう、叔父さんを此處へ呼んで下さい。」ときめつけた。
赤星は鼻の先に皺を寄せて、
「あゝ、東京から釣魚(つり)にきた旦那の事ですかい。私は別に名前もきいてゐなかったから、不意に木内熊造なんていはれて、誰の事だか判らなかったんだ。あの旦那なら直ぐ呼んできてやるから、待ってゐなせえ。」といひ殘して奥へ引込んでしまった。
窓の顏
「あんなことをいって、叔父さんを逃がしてしまふのぢゃァなくって。」春子が不平らしく玉簾の奥を透しながらいった。
「パイプを見せたら、急に態度を變へたから僕等が叔父さんを疑ってゐる事を感付いたかも知れないぞ。」
二人でこそこそそんな事をいってゐると、赤星が戻ってきて、
「何卒、奥座敷へお通り下さい。」と揉手をしながらいった。
二人は案外雜作なく熊造叔父を探し出す事が出來たのを喜びながら、赤星の後について薄暗い土間を抜け、狹い廊下を幾曲りもして奥まった部屋の前へ出た。
「旦那は直ぐ來ますから、少時こゝでお待ちなすって下さい。」
赤星は二人が部屋へ入ると、不意に、重い板戸をぴしゃりと閉めた。譲治は失策(しま)ったと思って周章(あわて)て扉に手をかけたが、時既に遅く、外からがちりと錠がかゝってしまった。厚い樫の扉はいくら叩いても、蹴っても、びくともしない。
「どうしませう……私達は監禁されてしまったのね。」春子は心配さうに四邊(あたり)を見廻した。
「困ったことになった!」譲治は自分の不注意からこんな破目に陥入った事を後悔したが、今更どうにもならなかった。
何處か、出口はないかと、部屋の中を見廻したが、六疊計りのその部屋は三方が壁て、一方の高いところに小さな窓があるきりで、まるで穴倉のやうである。窓の外は切り立った岩壁で、その上の方に空の一部が見えるきり、免れ道もなければ、又、外部から救助を受ける見込もない。二人は途方に暮れて顏を見合せた。
「春ちゃん、ご免ね、僕の思慮が足りなかった計りに君をこんな目に遭はせて……先刻すぐ、佐藤巡査を呼んでくればこんな事にならなかったのにね……堪忍してくれ給へね、僕は屹度生命を賭しても、春ちゃんを助けるから……」と譲治が頻りに謝罪(あやま)るので、春子も氣の毒になり、悲しさを耐へて、わざと元氣よく、
「そんな事、心配しなくても大丈夫よ。いつ迄もこんなところに監禁されてゐる筈はないわ、第一私達がお晝ご飯にも、晩ご飯にも歸らなければ、家の人達が大騒ぎして捜し始めるに極ってゐるよ。だから、氣を大きく持って、救助のくるのを待ってゐませうよ。」といふのであった。
「屹度、叔父さんは自分の隠れ家を見付けられたんで、何處かへ逃げるつもりなんだ。それで少時の間、僕等をこゝへ監禁しておくのかも知れない。」譲治はいくらか樂天的になった。
「さうよ、叔父さんが逃げてしまへば、赤星の奴が又、體裁のいい事をいって、私達をこゝから出してくれるのよ。」
二人は出來るだけ凡てをいゝ方にばかり考へてゐた。譲治は春子の氣を紛らすつもりで、知ってゐるだけのお伽噺を片端からしてきかせた。春子も負けない氣になって、考へ物を提出したり、謎々をだしたりしてゐたが、その中に種切れになってしまった。
惡漢達は二人を干乾にする意思はないと見えて、晝頃に海苔卷と麥湯をいれた土瓶を扉口から押込んでいった。二人とも朝家を出たきり、何も食べないで大分空腹を感じてゐたので、忽ち海苔卷ずしを平げてしまった。
それから先の長い時間は、まるで牛の歩みのやうに遅々として、二人を心配と退屈で苛々させた。
やがて、日もとっぷりと暮れて、外は眞暗になり、煤けた天井からぶら下ってゐる五燭の電燈が灯った。
「どうしたんだらう、どうして誰も捜しにきてくれないんだらう!」譲治は思はず溜息を洩らした。
「眞實にどうしたんでせうね、こゝへ來てから、もう八時間は經ってゐるのに……」
春子は日頃惡戯(いたずら)娘だけに、かういふ場合は我慢強くて、少しも泣言は口にしなかったが、兩親の顏や、賑かな食堂の様子などを思ひ浮べて、ともすると眼瞼(めがしら)が熱くなるのであった。
「僕等が赤星屋へ入った時には、生憎表通りには人影が無かったから、誰も僕等がこんなところに虜になってゐるとは氣がつかないだらうし、實に弱ったな……」
譲治は自分だけならまだしも、春子まで卷込んでしまって、實に申譯ない事だと思ひ、泣くにも泣けない氣持だった。
突然、窓ががたりと鳴った。彈かれたやうに振り返った春子は、恐怖の叫聲をあげて、兩手で顏を覆うた。
譲治は素早く立上って、春子を背後に庇ひながら、屹と窓を睨んだ。
赤黒い顏! ぎらりと光る眼! 硝子に押付けた鼻が偏平になって、まるで鬼の面のやうに見えた。だが、次の瞬間、その恐ろしい顏は窓から消えてしまった。
あれは、春ちゃんの家の下男だ! あの印度人だ! 屹度、僕等が監禁されてゐる事を家へ知らせに飛んでいったんだ。もうあと三十分辛抱すれば、佐藤巡査が助けにきてくれる!」と譲治は狂喜して叫んだ。
「まァよかった! サルナーだったの! 私、餘りびっくりして氣がつかなかったわ。」春子はほっとしたやうにいった。
暗夜の舟
それから二十分ばかりして、廊下に跫音がしたので、二人は胸をどきどきさせながら、扉口を凝視した。錠ががちりと外れ、扉が細目に開いた。
だが、そこから顏を現(だ)したのは、待設けてゐた佐藤巡査ではなく、熊造叔父だったので譲治は憤然として飛びかゝってゆかうとした。
春子は譲治の肩を抑へて、
「亂暴しちゃァ駄目よ、大人にかゝっては叶はないから。」と必死に制止(とめ)るのであった。
熊造叔父は戸を背に、すっくり立塞がって、
「お前等は他人(ひと)の事に鼻を突込んで、大人の仕事を邪魔するなんて、飛んでもねえ奴等だ。俺が何をしてゐるか、判りもしねえで、探偵の眞似をするなんて、巫山戯(ふざけ)た野郎だ!」と忌々しげにいった。
譲治も負けてはゐない。
「叔父さん、僕は忠告しに來たんです。春ちゃん許(とこ)の大切な甕を持出したのは叔父さんでせう。いろいろ證據があがってゐるんです。僕は假令(たとえ)叔父さんでも、惡事をすれば容赦しませんよ。僕等にその甕を渡して早く家へ歸らして下さい。その方が叔父さんの身の爲ですよ。」
熊造叔父は意地の惡い薄笑ひを浮べながら、
「餘計なお節介だ……今、お前等を家へ歸して耐るものか。氣の毒だが、俺の商賣が濟むまでは、お前等は捕虜にしておく。あの甕は某人(あるひと)に頼まれて持出したんだから、その人が受取にくるまで、俺はこゝで待ってゐるんだ。といっても俺が盗み出したなぞ、早合點しては困る。俺は品物を預かってゐるだけなんだ。」といった。
「叔父さんは、僕等がこゝに監禁されてゐるのを誰も知らないと思ったら、大間違ひです。さァ早く甕を渡して、僕等をこゝから出して下さい。さもないと、叔父さんの手に手錠がかゝりますよ。」
「小癪な小僧だ! そんな嚇し文句に誰が乗るもんか、お前等がこんなところにゐようとは佛様でもご存知あるめい。」
「佛様はご存知なくたって、印度人が知ってゐますよ。先刻あの窓から僕等を見ていったから、今頃は警察でその事を話してゐるでせう。」といふ譲治の言葉に、熊造叔父は、顏色を變へて、
「何だと? 印度人が窓から覗いたと? そりゃ、眞實か?」と急込んで訊ねた。
「眞實ですとも! ねぇ春ちゃん。」
「えゝ、眞實よ、もうぢきお父様と巡査がこゝへ來るでせうよ。」春子も勢込んでいった。
「さァ大變だ! あの印度人は恐ろしい奴だぞ! 濱邊で俺達の仲間の印度人を殺したのはあの男なんだ。彼奴こそ甕を覗(うかが)ってゐる張本人なんだ。お前達が甕をもってこゝを出て見ろ、忽ちあの印度人に刺殺されて了ふから……奴は甕を手に入れる爲に、下男に化けて遥々印度からやってきたんだ。俺は奴がどんな素性の男かよく知ってゐる。」熊造叔父は早口に喋り立てた。
譲治はこの叔父の言葉を、どの點まで信じてよいか判らなかった。腹黒い叔父の事だから、口から出任せをいって、二人を胡魔化してゐるのかも知れないと思った。
そこへ赤星がやってきて、熊造叔父と何かひそひそと相談を始めたが、叔父を殘してそゝくさと立去った。
「俺はお前等を酷い目に遭はせる氣は毛頭ねえんだから、安心してゐるがいゝ。だが、都合があって今直ぐお前等を家へ歸す譯にはゆかねえ。まァ時がくるまで觀念してゐるがいゝぞ。」といひ棄て、熊造叔父も部屋を出ていった。
二人は落膽(がっかり)して口をきく氣力もなく、呆然と扉口を見詰めてゐた。
間もなく赤星がきて扉を開け、二人を手招きした。譲治はどうなる事かと心配しながら春子の手を取って、赤星の後に從った。暗い坂道をぐるぐると迂回してゆく中に、次第に岩窟の中の隧道(トンネル)へ出た。やがて行手がほんのりと明るくなって、岩を洗ふ波の音が聞えてきた。
二人が海に面した岩の上に出ると、赤星は、
「これへ乗るんだ!」と命じた。龕燈の光りに照し出された渚に一隻の小舟が揺れてゐる。
「それは困ります。僕は構はないが、春ちゃんまでそんな目に遭はせる事は出來ない。どうか、僕一人だけ、何處へでも連れていってくれ給へ。」と譲治は嘆願するやうにいった。
「煩い小僧だ!」赤星は邪險に譲治の手を後手に縛りあげ、猿轡を穿め、突飛ばすやうにして船へ乗せた。春子も同じ運命であった。船にはもう一人、誰か乗ってゐたが、暗くて誰だか見究めがつかなかった。一體、赤星はこの二人を何處へ連れてゆかうといふのであらう。
(予告)
熊造叔父といふ男は果して恐るべき犯人だらうか。そして譲治と春子を舟に乗せてどこへ連れ出すのだらう。十月號をお待ち下さい。
注)明かな誤字誤植などは修正しています。
注)JOAKの「宝の甕」と同内容と思われます。甲賀三郎と大下宇宇陀児との合作ではくラジオは出演者という可能性が高そうです。元原稿の形式通りなのか、シナリオをノベライズしたのかは不明。
特別讀切探偵小説「鍵?」
「日本少年」 1936.01. (昭和11年1月号) より
難破
氷山に叩付けられた白鯨丸は、舳を粉碎され、錨を失ひ、今はたゞ怒涛の翻弄するに委せて、沈没を待つ計りであった。
日頃沈着な老船長の顏も、包み切れぬ憂慮に蒼褪めてゐた。彼は眞鍮の鍵を友夫少年に手渡しながら何か叫んだが、その言葉が烈風に吹消されて了ったので、兩手を喇叭にして命令を繰返した。
「その鍵で牢舎(ろうや)の扉を開けて、野郎共を出してやるんだぞ!」
「はい、畏まりました!」と應へた時、ざんぶりと甲板を洗った大浪が、友夫の足を攫ひ、小さな體躯(からだ)は傾斜した甲板を非常な勢ひで辷っていったが、短艇(ボート)庫(くら)の傍に蹲ってゐた水夫等の長靴が支へになって、危く踏止まる事が出來た。
彼はでんぐり返しを打った拍子に、水夫の股倉から、ぎざぎざになった氷山の輪郭と、蒼空を噛んでゐる狂濤を見た。
「早く、野郎共を出してやれ! 愚圖々々してゐると間に合はんぞ!」船長がもう一度呶鳴った。
友夫少年は眞鍮の鍵を握りしめて、身を切るやうな寒風と闘ひながら、倒(こ)けつ、轉(まろ)びつしてやうやう食糧庫へ辿りついた。そこは白鯨丸の臨時の牢舎に宛てられてゐたのである。假令(たとえ)人殺しの大罪人と雖も、鼠のやうに檻に入れたまゝ、溺死させる事は許されない。
友夫は凍った指先に息を認を吹きかけて、岩丈な樫の大扉に鍵を差込んで、かちりと廻した。
死物狂ひになって扉を叩いてゐた殺人犯の容疑者四人は、扉が開くと同時に、一塊になって少年の足下へ轉げ出てきた。
日頃から托された品を大切に保管する事を教へられてゐた友夫は、そんな咄嗟の場合にも、鍵孔から抜取った鍵をポケットへ藏ふ事を忘れなかった。彼は四人の囚人に對ひ、黄色い聲を張上げて、船長の命令を傳へた。
「全員、中央甲板に集合し、機に應じて短艇を下し、……」
その言葉が終らぬ中に、友夫は再びでんぐり返しをうって、股倉から沖天に突刺ってゐる船尾を見たと思ふと、次の瞬間、耳を聾する計りの大音響と共に、白鯨丸は海底へ逆落しとなった。
四人の容疑者
小舎の中には焚火の烟と、煙草の臭氣と、ランプの油の臭氣とが渦を卷いてゐたが、友夫はもうすっかり馴れて、平氣で棚の上の寝床に長々と脚を伸して、大人達の濁聲を聞いてゐた。
「あと一ヶ月もしたら、温(ぬく)といお天道様が顏を現(だ)すべえ。」といったのは河童の甚公であった。
「何を吐(こ)いてゐやがるんだい! やっと二月が終った計りぢゃァねえか、冬はこれからだ! 北の果へきたら半歳は夜さ、お天道様なんぞァ當分拜めるもんか!」と噛付くやうに應へたのは熊の三造であった。
二人が相變らず懶(ものう)い季節の事をくどくど云爭ってゐる間に、肥滿漢(ふとっちょ)の鱶吉は横を向いて獨骨牌をしてゐた。背高(のっぽ)の兵太は鰻のやうに體躯(からだ)をくねらせて、爐の中の火計り掻立てゝゐる。
友夫は小舎の中央にぶら下ってゐる煤けたランプの黄色い光に照らし出されてゐる男達を密に觀察してゐた。白鯨丸が難破して船長以下乗組員等が海底に呑まれて了った日以來、友夫は奇蹟的に生殘ったこれ等の連中と共に、この北洋の孤島に永い冬籠りをしてゐるのであった。
この小舎は白鯨丸の殘骸から剥してきた船板や、檣(ほばしら)を用ひて組立たもので、出入口には臨時の牢舎に宛てゝあった食糧庫の岩丈な樫の扉が其儘嵌込んであった。そこにゐる四人の荒くれ男は、遭難當時、友夫少年が船長の命を受けて、食糧庫から出してやった連中である。」
小舎の一隅には破船の食糧庫から運び出してきた魚類の鹽漬や、大豆の袋などが積上げてあって、その傍に斧が一挺立てかけてある。それは薪割斧であるが、金槌の用も爲し、鍬の代りにもなって、皆に重寶がられてゐた。だが、友夫はその斧を見る毎に、謂知れぬ恐怖を感ずるのであった。白鯨丸には種々道具があったのに、特にその斧だけが斯うして無事に小舎へ運び込まれ、四人の男達と運命を共にしてゐるといふ事は、何か不思議な因縁といふやうな事を考へさせられるのであった。
「畜生、もう一息で上りだといふに、札が一枚足りねえ!」鱶吉は忌々しげに骨牌(かるた)を床へ叩付けた。甚公は中腰になって散亂した札を拾集め、
「おい友公、足りねえのはダイヤの兵隊だ。捜して呉れねえか。」といった。
「若しあれば矢張りあの鞄の中でせう。」友夫は寝床から下りて鱶吉が腰掛けにしてゐた鞄の中を掻廻したが、骨牌は見付からなかった。然し彼の視線は鞄の隅にあった黒手帳に吸寄せられた。上から覗込んでゐた鱶吉は、その表紙の金文字を見て、
「何だ! 野郎は日記をつけてゐたのか!」と叫んだ。
「日記なんか何だ! 奴が犯人の名でも書いておいたといふのか! ひゝひひひゝゝと。」三造がせゝら笑った。
「そんな馬鹿な事があるものか、野郎は斧で頭を打割られて、即死したんだから、日記なんか書ける道理はねえ。」と甚公が分別臭い顏をした。
「それも後日の證據になるかも知れん、まァ俺が預っておかう。」と三造がいったので、友夫は素直に手帳を差出した。
「それゃ、勝手過ぎるぞ、お前が見るなら、俺達も讀む權利がある!」甚公は喧嘩腰になって三造の手から日記を奪取った。
斧の恐怖
男達は肩を寄せあって、白鯨丸で何者かに惨殺された一等運轉士の遺していった黒手帳の頁を繰り始めた。
頁を繰る甚公の指先が微に慄へてきた。彼が退屈な頁を二三枚飛ばした時、
「おや!」と一同は思はず首を伸した。
――新らしい乗組員の中に、馬場に酷似した男がゐる。根室の新港町で酒場をやってゐた頃は顎髯を生してゐたが……然し、確證を掴む迄は船長に報告しない心算(つもり)である。若しあの男が馬場だとすれば、根室警察署では埠頭(はとば)人足を殺した犯人として嚴探中の男である――
「有難ぇ! これで俺の嫌疑が霽れた! 俺は新港町の土などは一度も踏んだ事はねぇ。」と鱶吉が肥滿した體躯を揺っていった。
「ひひゝゝひひゝゝ、俺もさ。」羆の三造が逆立ってゐる頭髪を掻き毟りながらいった。
「俺は根室にゐた事はあるが、馬場なんて名乗った事は一度もねえ、何處へいったって、川上甚太郎で通ってゐらァ……」と甚公が溜息をした。
「さうか、北海道根室の新港町で酒場を經營してゐた事のある男が、舊惡の露(ば)れるのを惧れて一等運轉士を殺したといふ譯か……俺は酒場なんか、やった覺えはねえからいゝが、……」背高の兵太は膝を抱へるやうにして呟いた。
男達は各自に自分の潔白を主張しあってゐたが、短氣な甚公は、
「あゝ煩え! 誰が犯人だっていゝぢゃァねえか、どうせ救助船がやってきて、俺達を根室の港へ連れてゆけゃ、お上ぢゃ何奴が犯人か、四の五のと云はせねえで、指をおさしにならァね、いづれこの四人の中の一人が殺人罪に問はれて死刑になるのさ!」と吐棄てるやうにいった。
羆の三造は大きな頭を友夫の方へ向け、
「なァ小僧、お前が犯人でねえ事は一番確かだから、この日記帳はお前に預けて置かう。」といって黒手帳を渡した。
友夫は一體誰が犯人なのだらうと思って、密に男達の顏を見廻した。
三造の毛むくぢゃらな手足を見ると、運轉士に圖星をさゝれた時、突如、背後の硝子戸を叩破って、手斧を掴上げ、運轉士の腦天を一撃にやったかも知れないといふ氣がした。
背高の兵太の骸骨のやうな顏、彼は心の重荷に堪へ兼ねてゐるかのやうに、絶えずをどをどしてゐる。
それとも肥滿漢の鱶吉かしら? いつも血走った眼をして、惡黨らしく上目使ひに人の顏を窺ふ癖がある。或は又、河童の甚公か? だが、友夫は彼が眞犯人とは思へないやうな氣がした。彼は強情張りで、癇癪持だが、明放しで、秘密などを持ってゐられないやうな男である。さういへば三造だってさう惡謀のある男とは思はれない。友夫は人々の顏から顏へと移していった視線を再度に斧に向けて、身慄ひをした……その斧を兇器に用ひた男は、もう一度それを使ふに違ひない。
眞犯人は誰?
眞夜中に、友夫は不意に目を覺した。爐の火は燃え落ち、ランプの油も殘り尠になって、小舎の中は寒々としてゐた。
隅の方の吊床には甚公が蝦のやうに背を丸くして寝てゐる。友夫の寝臺の下から大きな鼾聲が聞えてゐるから、三造も熟睡中に違ひない。兵太と鱶吉の姿は見えないが、扉口に閂がかかってゐるから、二人とも反對側の棚にそれぞれ潜り込んで眠ってゐるのであらう。
だが、何か小舎の中に異状がある。友夫は半身を起して四邊を見廻した。
斧がない! いつもの場所に置いてない!
甚公が吊床の中で寝返りを打ちながら、
「小僧、今何時だ?」と訊ねた。
この仲間中で時計を持ってゐるのは、友夫少年だけであった。彼が五時だと答へたのでその聲に目を覺した鱶吉が起きてきて、消えかゝってゐるランプに油を注いだ。彼は第一に斧の紛失に氣付き、
「誰が持ってゆきやがった!」と犬の吠えるやうな聲をあげた。
甚公も兵太も、眼を擦りながら寝床から這出してきた。人々が口々に罵り喚いてゐるところへ、三造が百日鬘のやうな頭髪をぼりぼり掻きながら現てきて、
「騒ぐな! 騒ぐな! 斧は俺が仕末したんだ。あんな刄物を置いては危險だから、氷を割って海の底へ沈めてきたんだ。おい兵太、お前の剃刀も處分したぜ。これでもう刄物はねえから、皆安心して眠られるといふものさ。」といった。
「嘘吐け! 貴様が何處へか隠匿(かく)しておくんだらう!」と鱶吉が呶鳴った。
「寝床の中へでも隠しておきやがるのかな!」甚公と兵太は三造の寝床へ飛上り、毛布の間や、枕の下を捜したが、斧も剃刀も現てこなかった。
「誰がお前に斧の始末をしろといった!」と甚公が喚いた。
「俺が自分に吩咐けたのさ。あの斧で寝首を打(ぶ)った切られちゃァ堪らねえから、海の神様にお預け申したんだ!」と三造が空嘯いた。
不氣味な沈默が續いた。友夫はどうなる事かと、胸をどきどきさせながら、寝床の中で聞耳を立てゝゐたが、男達はぶつぶつ云ひながら、それぞれ寝床へ潜り込んで了った。
友夫は朝まで眼を覺してゐるつもりであったが、いつの間にか、一睡して氣が付いた時には、既う八時近くになってゐたので、爐の火を焚付けて湯を沸し始めた。
そこへ三造が起きてきて、
「おい、小僧、鱶吉から眼を離すなよ。」と囁いた。
鱶吉は兵太の下の棚で、口を開いて眠ってゐる。上の棚では兵太が落窪んだ眼を洞穴のやうに開いて爐端にゐる二人を見据ゑてゐる。友夫は死人の眼を見るやうな氣がして、ぞっとした。その時、兵太は唇を動かして、
「三造に油斷するな。」と合圖を送った。
間もなく兵太も、鱶吉も、爐端へやってきて、朝飯の支度を始めた。
「おい小僧! 寝坊野郎を起してこい!」と三造が云ったので、友夫は吊床に近づいて、甚公に聲をかけたが、應答がない。
揺起さうとして傍へ寄った友夫は、
「呀っ!」と叫んで尻餅をついた。
甚公は、緑色の紐で首を絞められて冷くなってゐた。彼は熟睡中、聲を立てる暇もなく、何者かに絞殺されたのである。犯人は誰であらう? 殘る三人の中の一人に極ってゐる。
第二の死
甚公の死體を雪の中へ葬って以來、男達は交々仲間の隙を窺っては友夫少年の耳に敵の名を囁いた。
三造は鱶吉に氣を付けろといふ。鱶吉は兵太が怪しいといふ。兵太は三造が兇状持の馬場に違ひないと斷言する。一體三人の中のどれが本物の馬場であらう?
馬場は何かの方法で、こゝにゐる者達を一人殘らず殺して了ひ、春になって救助船がきた時、他の者は悉く白鯨丸と共に海底の藻屑となったといふであらう。それで彼は一切の罪業を完全に葬って了ふ事が出來るのである。
一同は死の恐怖と、睡眠不足の爲に、眼は血走り、頬は憔け、現世の者とは思はれないやうな凄じい形相になった。誰も彼も氣が荒くなって事毎に啀(いが)み合ひ、まるで狂犬の寄り集りのやうであった。
今度殺されるのは誰だらう? 何奴が犯人であらう? 人々は互ひに疑り合ってゐて、誰も眠らうとする者はない。
そんな状態が一週間も續く中に、兵太は到頭發狂して了った。彼は寝床へ潜って泣いたり、喚いたりしてゐた。全然飲み喰ひをしなくなった。
友夫は幾度も粥を煮て持っていってやったが、其度に兵太が絞殺されるやうな悲鳴をあげるので、鍋を投出して逃げ歸るのであった。
その中に兵太は矢鱈に何でも噛付き始めたので、男達は彼を縛りあげて了った。彼が死んだのは夫から二日目であった。その死骸を甚公の傍に埋めた時、鱶吉は、
「事によると、兵太が馬場だったかも知れねえぞ。兇状持は時々良心の呵責とやらで、氣が狂ふといふ話だからな……だが、さうかといって證據はねえんだから、安心は出來ねえ。いゝか、小僣、三造から眼を離すでねえぞ!」と友夫に耳打ちした。
三造は三造で、
「小僧、俺達は交替で不寝番をしようぜ、二人で眠って了ったら、鱶吉の野郎に遣殺(やっつけ)られて了ふから危えぞ。」と聲を潜めて云ふのであった。
友夫は誰を信じて良いか判らなかった。死んだ甚公か、兵太が馬場であって呉れたら、どんなに枕を高くして寝る事が出來るだらうと思ったが、どうしてもさうは信じられなかった。矢張り鱶吉か、三造が犯人に違ひないと思った。然し子供の悲しさに、いくら頑張ってゐようと思っても、時折り抗し難い睡魔に襲はれて、深い睡眠に陥って了ふのであった。
尤も鱶吉と三造は、殆ど一睡もしないで、互ひに警戒しあったから、友夫が前後不覺で眠って了ふといふ事もさして危險ではなかった。
骨牌の謎
或朝、鱶吉は齦(はぐき)が痛むといって食事に下りてこなかった。三造は彼の容態を見て、
「やれ、やれ、野郎は到頭壊血病になりやがったぞ。」と呟いた。
鱶吉の齦は二三日中に恐ろしい程腫上ってきて、高熱の為に食物は咽喉(のど)を通らず、眼は深く落窪んで、不氣味にぎらぎら光ってきた。
友夫は自分も壊血病などゝいふ氣味の惡い病に罹るのではないかと思って、日に幾度も齦を指先で押しては身慄ひをするのであった。三造は爐端に首を垂れてゐる友夫を覗込んで、
「野郎が甚公を締め殺さない中に病氣になりやがりゃ、よかったになァ……だが、野郎も永い事はあるめえ。それで先々、俺達は安泰といふ事になるのさ。もう鳥渡の辛抱だ。なァ小僧。」と云った。けれどもその言葉は尠しも友夫の慰安にはならない。三造が恐ろしい犯人でないとは誰が斷言出來やう!
鱶吉は刻々と衰弱していって、二三日間、譫言を云續けた揚句、到頭死んで了った。三造は、
「おい、預けておいたあの日記帳を出しな。在りの儘を書いて置かうぢゃァねえか。これでまァ馬場も死んで了ったといふ譯だ。」と云った。友夫が、ポケットから黒手帳を出して手渡すと、三造は鉛筆を舐めながら、その日の頁に、
――鱶吉事馬場某は水夫川上甚太郎を殺害し、自身は壊血病に罹って相果て候。水夫兵太は發狂の末悶死致し、白鯨丸の生存者は水夫三造及び給仕友夫少年の二人と相成候。
と怪しげな書體で書込んだ後、その手帳を自分のポケットへ納めて了った。
友夫は三造のさうした行為を怪しいと睨んだ。氣のせゐか、三造は友夫の顏を偸見て、狡猾らしい薄笑ひを浮べたやうであった。然し三造が凶惡な殺人犯人馬場であるなら、何故友夫少年を生かしておくのであらう? その解答(こたえ)は簡單だ。解氷期となり、救助船が到着するまで、少年を生かせておいて雜用をさせる方が何彼につけて便利である。
それにどんな惡漢でも北洋の孤嶋で、全然一人法師となり、話相手を喪ふのは恐ろしい事に違ひない。それにどうせ子供の事だから、いゝ加減に瞞着しておいて、いよいよの場合に片付けて了へばいゝと云ふ肚もあらう。友夫はそんな事を考へると、三造が眼を覺してゐる間は、決して眠る事は出來なかった。
或晩、ランプの芯が燃え切って了ったので、豫備を捜す爲に一等運轉士の鞄を掻廻してゐた友夫は、隅の方に押込んであった護謨長靴を引張り出した拍子に、靴の中からぱらりと墜ちてきた骨牌の札を見て、「おや!」と眼を瞠った。彼の拾上げたダイヤの兵隊の顏には、インキで黒々と百日鬘のやうな頭髪と、顎髯とが落書してあった。
それは決して三造の似顏ではなかったが、頭髪や、顎髯の恰好が現在の三造と、何處か似通ってゐるところがあった。三造は白鯨丸に乗ってゐた時には髯は生してゐなかったが、兵太の剃刀が紛失して以來、髭を剃らないでゐたので、恰度その骨牌の兵隊のやうに顏の半面が髭に埋ってゐる。白鯨丸で何者かに惨殺された一等運轉士は、獨骨牌をしながらお尋者馬場の人相を思ひ浮べ、手近にあったペンでダイヤの兵隊に、そんな落書をしたのかも知れない。
友夫はダイヤの兵隊と、寝床の中の三造の顏とを見較べて、胸をどきどきさせながら、その骨牌をポケットへ押込んだ。その時、冷りと指先に觸れた例の眞鍮の鍵が、少年の胸に不思議な感激を與へた。船長に托された鍵が、自分のポケットに無事に入ってゐるといふ事は、何となく力強い氣がしたのである。
輪索(わな)
幾週間か過ぎて、折々氷の割れる音が、死のやうな靜寂(しじま)を破って聞えてくるやうになった。永い、永い、半歳に亙る北洋の夜が明けて、そろそろ春が近付いてきたのである。まだ太陽は現ないが、半日位づゝ薄明るい晝が訪づれるやうになった。
三造は晝がくると、氷の丘に樹てた檣によぢ登って沖を見張り、救助船のくるのを待ち續けてゐるのであった。友夫は相變らず用心深く、三造が熟睡するのを待っては、爐の中で燒いておいた熱い煉瓦を掘出して、自分の寝床へ潜り込んだ。
或晩、いつものやうに灰を掻起して煉瓦を取出しにかゝった友夫は、薪の燃えさしの下に黒い革表紙が半燒になってゐるのを發見した。それは一目して例の日記帳である事が判明した。後日の證據となる大切な一等運轉士の手記は白い灰と化して了ひ、纔(わずか)に表紙の一部が殘ってゐる計りであった。
いふ迄もなく三造が證據の湮滅を計ったのである。若し三造が潔白であるなら、そんな事をする筈はない。日記帳を燒却したといふ事實は三造の有罪を裏書するものである。その一事は友夫の恐怖を新たにした。
友夫は燒殘りの革表紙をポケットヘ忍ばせて、そっと三造の方を振返った。三造は眼を閉ぢてゐたが、軒は掻いてゐなかった。瞼が微かに動いたやうに見えたのは氣のせゐかしら?
友夫は燒煉瓦をもって寝床へ入り、足を温めてゐる中に、ついとろとろと眠って了ったが、何かの氣配を感じて、はっとして眼を開(あ)いた。
いつの間にか、三造が起きてランプを點けたのであった。向ひ側の羽目板に巨人のやうな、大きな頭が映ってゐる。黒い影法師は音も立てずに、死んだ甚公の吊床へ近づいていって、緑色の紐を切取り始めた。軈て大きな二つの手が、その紐を輪索(わな)につくった。その輪索は甚公の首を締めたものと同じ恰好である。友夫は目前に迫る死の恐怖に、思はず叫聲をあげて、俄破っと寝床の上に跳起きた。
吊床の傍に彳(た)ってゐた三造は、はつとしたやうに輪索を持った手を背後へ隠して、
「小僧、どうした、夢にでも魘(うな)されたか?」と何氣ない様子でいった。
「あゝ、怖(おっか)なかった! 鱶吉さんの夢を見た。」
友夫は咄嗟にそんな嘘をいった。三造は探るやうに眼を細めて、少年の顏を窺ってゐたが、髭に覆はれた厚い唇に不氣味な薄笑ひを浮べて、
「さァ、そろそろ朝飯の支度をしろよ。」と云った。
友夫は彼が扉口の閂を抜いた時、それで自分を撲り殺すのかと思って、がたがた慄へ出した。だが、三造はそのまゝ戸外へ出ていったので、友とはほっと胸を撫で下し、棚の上段へ登って空氣孔から表を覗いた。
三造は檣にのぼって頻りに沖を眺めてゐたが突然、大聲に何か叫んだと思ふと、するすると檣から辷り下りて、SOSの信號旗を振りながら狂人のやうになって、丘の上を往ったり、來たり馳歩いてゐる。
友夫は反對側の棚へよぢ上って海の方を覗いた。沖合沓かに一隻の帆船が走ってくる。
友夫は餘りの興奮に氣が轉倒し、脚がふらふらして棚から辷り下りるなり、べったりと牀に膝を突いて了った。彼は直ぐ海岸へ走り出ようとしたが、三造に見付かっては危險だと感じ、そのまゝ樫の大扉に凭りかゝって、如何にして彼の魔手を免れるべきかを考慮へた。救助船の出現がいよいよ三造の殺意を促す事は火を睹るよりも明かである。友夫は深い決心をもって閂を扉に掛け、三造を小舎から閉出しにして了った。
危機一髪
いくら腕力のある三造でも、空手ではこの岩丈な扉を打破る事は出來ない。救助船が近づく迄の籠城である。友夫は戸締りをしておいて再び棚に登り、戸外の様子を窺った。
ところが、兇器を持ってゐない筈の三造が、手斧を提げて丘を下りてくるではないか! 彼は海底へ沈めたと稱して斧を何處かへ隠匿しておいたのだ!
小舎の前まで來た三造は、扉を押して見て、
「おい、小僧、扉を開けろ!」と呶鳴った。
友夫は應へなかった。三造は斧を振上げて、樫の扉に一撃を加へた。厚み十吋もある樫の扉は、そんな事位ではびくともしない。だが、三造は夜叉のやうになって、三度、四度と斧を振りかぶって、凄じい勢ひで打下すのである。
友夫は扉の前に膝を突いて、鍵孔から三造の様子を窺ってゐた。三造は生命懸けである。彼の打下す斧の音は、同じ力強さで間斷なく續いてゐる。一撃毎に斧の刄が扉の面に、深く喰込んでくるらしい。樫の扉がいつ迄友夫少年を護ってゐて呉れるかは、時間の問題である。太鼓を打つやうに規則的に響いてくる斧の音は、刻々と三造の道を切開いてゐるのである。
友夫は及ばぬ事とは知りながらも、滿身の力を籠めて閂を押してゐた。その中に斧の音は段々耳の近くへ喰込んできて、軈て斧の刄が樫の板を破って、一吋程、ぴかりと光った。
激しく浪打つ胸を抑へて逃道を捜すやうに小舎の中を見廻した友夫は、袋の中の鼠同然の吾身に今更ながら慄然とした。
だが、窮すれば通ずとか、切羽つまった友夫少年の腦裡に天來の名案が浮んだ。力任せに斧を揮ってゐる三造の前に、無抵抗の抵抗を試みる事を考へ付いたのである。
不意に扉が開いたなら、三造は力餘って小舎の中へ倒れ込むに違ひない。友夫は素早く閂を外した。最早把手を捩りさへすれば造作なく小舎へ入れるのであったが、そんな事とは露知らぬ三造は、又しても斧を振りかぶった。
ポケットの眞鍮の鍵を握りしめて、鍵孔から機を窺ってゐた友夫は、相手が斧を打下すと同時に、さっと扉を開いた。
果して三造の巨躯(からだ)は、岩のやうに小舎へのめり込んで、顏を牀へ叩付けた。その拍子に握ってゐた斧は友夫の足下へ飛んできた。友夫は間髪を入れず、その斧を掴んで戸外へ飛出し、三造が起上らない中に樫の大扉を閉めて、眞鍮の鍵を廻して、がちりと錠を下して了った。
友夫は斧を投出して一散に浪打際まで走っていったが、矢張り背後が氣になるので、再び小舎の前へ馳戻った。三造は恐ろしい喚聲をあげて、烈しく扉を蹴ってゐる。だが、如何に騒いでも空手では小舎を破る事は出來なかった。
友夫はもう一度海岸へ向った。今度は三造の怒號が聞えないところまで走ってゆくと、すぐ間近に捕鯨船がきてゐて、短艇を下してゐるところであった。それと見て友夫少年は俄に氣が弛み、砂濱にがくりと倒れて、其儘失神して了った。
暫時して、がやがやいふ人聲に眼を開いた友夫は、自分の周圍を取圍んでゐる數人の男達を見出した。その中の金筋入りの服を着た男が友夫の傍に膝を突いて、
「君の名は何といふのだ?」と訊ねた。
「森友夫といふのです。難破した白鯨丸の給仕です。」
「他の船員は何處にゐる?」
「殺人犯人が一人、向ふの小舎に監禁してあります。船長から預った鍵はこれであります。」友夫少年は給仕としての矜持(ほこり)を以って眞鍮の鍵を差出した。(をはり)
注)明かな誤字誤植などは修正しています。(口耳)を囁、(心心心)を芯へと代用しているところがあります。
注)鍵の受け部分などいろいろあると思いますが不問で。