「ゴルゴタへの道」目次 (予告)
「犯罪科学」 1931.01. (昭和6年1月号) より
宝石の序曲…………松本泰
光と闇の幻想………今井達夫
題未定………………川田功 (⇒光は薄る)
題未定………………藤浦洸 (⇒黒鍵の秘密)
題未定………………大木篤夫 (⇒霧の意匠)
題未定………………松平澤太 (⇒太陽と青空を主題にした間奏曲)
題未定………………大島十九郎 (⇒黒耀群像)
題未定………………浅野玄府 (⇒波瑠子と百合江)
題未定………………青山龍三 (⇒密室の呪詛者(目次は桃色の呪詛者))
題未定………………吉田甲子太郎 (⇒運命の旋風)
題未定………………林二九太
題未定………………濱尾四郎
由来藝術小説探偵小説を問はず『長篇連作小説』なるものが試みられたことは屡々であるが、本篇は、特にその新しい試みとして、十二人の筆者各氏に各自獨自の立場から短篇犯罪小説の執筆を乞ひ、毎月二篇宛それを掲載し、更にそれを纏めると一冊の完全なる長篇犯罪小説をなしてゐることを條件として出發するのである。筆者の顔振れも新進大家を網羅した。本篇が果して如何なる方面に發展するか、新しい試みだけに興趣多いものがある。特に御精讀を願ふ次第である。
注)⇒で掲載時の題名を記しています。最後の二名は未掲載のようです。途中で編集者が変わった為かもしれません。
「寶石の序曲」松本泰
「犯罪科学」 1931.01. (昭和6年1月号) より
一
狹い、勾配の急な裏梯子を上り切ったところの細長い板の間は、突當りに厚いカーテンが懸ってゐて、古椅子や、古テーブルなどを積重ね、片側を僅に人が通れるだけ開けてある。そこは階下に通ずる非常口で、滅多に使ふ事はなかった。
梯子段に近い光線取り窓の下に、黒天鵞絨の洋服を着た盲目の少女が、夕陽の中の鉄棒の影のやうに立ってゐる。長い睫毛の下に淋しく閉ぢている眼を、心持ち上へ上げて、彼女はぢっと耳を澄ましてゐた。
カーテンを隔てた廊下向ふの廣間から、グラスの觸れ合ふ音や、女給達の陽氣な聲が聞えてゐた。
「あゝ、いらしったわ!」
少女の口許に微笑が浮んだ――彼女の耳には聞えない音まで、聞こえてゐた。暫時して遠くの廊下に、輕い跫音がした。
緑色のカーテンが揺れて、白い顏が出た。
「あら、みのりさん、あなたはまた來てゐるのね。お父さまに見付かると叱られるわ。さァお部屋へ行ってゐらっしゃいね」
「波瑠子さん、餘り叱らないでね。私、お父様に叱られるのは我慢するけれども、貴女に叱られるのは辛いわ。私ね、貴女がこゝまで來てくださらないでも、影であなたの聲を聞いたり跫音を聞いたりしてゐるだけでも嬉しいのよ。」
「まァ、可愛いゝ人ね。」波瑠子は少女の額に接吻した。
「波瑠子さん、またあの厭な哈爾賓の方が来ていらっしゃるのでしょう? 私、心配よ。どうかしてあの方をお店へ來させないようにする法はないでせうか。」
「あの人が來ているなんて、どうしてみのりさん判って?」
「私には判るわよ。貴女の衣物に、この間と同じ土耳古煙草の移り香がしてゐますもの、そして貴女はあの方が來て以來、急に心配事が出來たのね。あの方は屹度、惡い人でせう。」
「えゝ、私にとっては惡い人ですけれども………………私の方がもっと惡い人かもしれないわ…………あゝ、みのりさん、貴女にお頼みがあるのよ。私の大切な、大切なものを、誰にも知らせずに、そっと預かってゐて下さらない?」
みのりは大きく點首いた。
その時、廣間の方で、誰かゞ波瑠子を捜してゐる聲がした。
「みのりさん、では、後でね。貴女はもうこんなところにゐないで、早く下へいらっしゃい。」
波瑠子はカーテンの外へ出ていった。みのりは耳を傾けて遠ざかってゆく跫音を聞いた後、自分は音も立てずに、暗い梯子の下に消えてしまった。
廣間へ戻った波瑠子は、棕櫚竹の鉢植の蔭になっている卓子の方へいった。其處には頬骨の張った血色の惡い、三十前後の背廣を着た男がゐた。
「まァ立ってゐないで、こゝへお掛け。僕は君に惡意なんぞを持ってゐるんじゃァないよ。惡意どころか、僕は五年振りに君を捜しあてて、まだ神様に見棄られなかった事をしみじみ感謝してゐる位なんだ」 と男は言った。
「この廣い東京で、貴郎に見付かるなんて、眞實に運ですわね。けれども私は貴郎と結婚した譯ではなし………………そりゃ子供の時で、どんな約束をしたか知れませんが、五年も斯うして隠れてゐたのですもの、貴郎もそれだけで解って下すってもよくはない?」波瑠子は冷やかにいった。
「子供の時? それはいけない。親父の大切な寶石を盗んで逃げ、汽船では投身した女になり濟して、横山ハル子は死んだ事に作ったりした手際は、子供の智惠とは云はれないからね。」
「貴郎はあのダイヤモンドを狙ってゐるのね。けれどもあのダイヤモンドだって、曰く附きの代物よ、張さんのものを貴郎のお父さんが……………」
「叱っ! 貴女は何をいってゐるんだ、張は取引を濟した後で、勝手に酒を飲歩いて、追剥に殺されたのぢゃァないか。滅多なことをいって貰っては困る。」男は恐ろしい眼で四邊を見廻した。
廣間にはまだ客はゐなかった。正面の壁から階段の上まで、づらりと竝んだ埃及模様の壁畫の目が一齊にこっちを向いてゐた。
「……………それは私がいひ過ぎたかも知れませんわ。けれども、あれは貴方のお父さんが私から奪取った貞操の代償として、私が所有する權利があるのよ。眞實の事をいへば、あんなダイヤモンド一つ位ぢゃァ償れないものだわ。」
「親父に關する事などは、僕はちっとも知りたくない。僕は唯、貴女の昔の愛を呼醒したいのだ。僕は今だって、まだ眞劍に貴女を思ひ續けてゐるのだ。貴女の返事一つで、僕は即座に執念深い惡魔にもなれる。波瑠さん、僕はこゝへ酒を飲みにきたのでもなく、自らの覺悟を述べに來たのでもなく、貴女の最後の返事をきゝに來たのですよ。」
暫時、沈默が續いた。其間に帳場の時計が忙しく四時を報った。
一番年の若い女給の信子は、遠くから氣遣はしさうに波瑠子を眺めてゐたが、軈て用ありげに二人の傍を通り抜けて、衝立の背後を一廻りして、元のところへ戻った。そして陽氣なジャズをかけ始めた。
波瑠子は遂に決心していった。
「では今晩、お店を仕舞ってから十一時半に蒲田新道の水明館でお會ひしませう。そしてもう一度よく相談をしませう。」
二人は夫れから一層聲を潜めて、何事か話し合った。そして「哈爾賓から來た男」は間もなく、そのナイル・カフェを立ち去った。
二
電燈が點く頃から、ぼつぼつ中折帽子やステッキが階段を上ってきた。騒がしいジャズと、煙草の煙と、屈託のない女給達の笑聲に賑かなカフェの夜が織出されていった。
早番だった波瑠子は五時の交替に、そっと四階へ上って、誰もいない部屋の片隅で手紙を書いてゐた。彼女は豫め文案をしてゐたと見え、ペンを執ると、すらすらと手紙を書終って、それを懐中に藏ひ、鏡臺の前で顏を直してゐるところへ、カフェの經營者の海保が入ってきた。
波瑠子は鏡の中に映った男の異様な眼を見ると、嫌な顏をして立上った。
「旦那、またいらしったの、私ひとりの時にこんなところへいらしったりしちゃァ、皆に痛くもないお腹を探られて、私、困るわよ。」
「人の思惑なんぞはどうだって構はないじゃァないか。」
「そうはゆきませんわ。私だってこんなインチキな稼業をしてゐますけれども、でく人形じゃァありませんからね。見得も、外聞もありますわ。」
「波瑠ちゃん、なにも君のやうに、そう世の中を狹く見ることはないよ。これでも相當な懸賞はついてゐるつもりなんだからね。」
「まァ! 懸賞? 失禮しちゃうわね。懸賞といふのは、二三枚の着物を買って下すって、六ヶ月定期のお内儀さんにしておくといふことでせう。」
「冗談じゃァない、いつ迄そんな馬鹿をしてゐられるものじゃァない。私は本氣でいってゐるんだよ。娘のみのりも不思議に君に馴付いてゐるんだから、あの子もきみのやうな保護者が出來ればどんなに幸福かしれない。」
「それとこれとは別問題よ………………あゝ、私、お店へ出なくてはいけないわ。」波瑠子が先になって廊下へ出ると、男は、
「波瑠ちゃん、そんな強い事をいって男に恥をかゝせるものぢゃァない。もう一度考へ返して見ておくれ。君だっていつ迄女給をしてゐるわけでもなからうから、その方がきみの爲ぢゃァないかね。」と冗談らしく背後から波瑠子の肩を抱へた。
それまでぶりぶりしてゐた波瑠子は、急に何か思ひついたらしく、がらりと態度を變へた。
「でもわたし、いつも皆に立派な口を利いてゐるんですから、つまらない噂なんか立てられたくないのよ。」
「そこは如才なくやるさ。」
「では、何處かへゆくの? 蒲田の水明館?」波瑠子は肩を揺って笑ひながらいった。
「流石に知っているね。」
「だってお店へくるお客さん達が、よく誘ひますもの、耳にたこが出來るほど聞いてゐますわ。」
二人は其晩の十一時半に水明館の横手で落合ふ約束をした。
波瑠子は店へは顏を出さずに、非常口から裏梯子を傳ってみのりを捜しにいったが、少女が部屋に見えなかったので、小楊枝の先で、障子に點字を書き遺して、再び店へ戻った。彼女は朋輩の信子に、
「私、十分計り、お店をあけるから、旦那が聞いたら何とか要領よくやっておいて頂戴ね。それからこゝに書いてある事は明日でいゝのよ。頼まれて頂戴ね。」と最前の手紙を渡して、暗くなった往來へ消えて了った。
夫から一時間程して、波瑠子は丸ビルの明治側の街路樹の蔭に立ってゐた。そこへ外套の襟を立てた洋装の女が足早に歩いてきた。
「待って?」
「えゝ、十分計り、でも割合に早く來られたわね。」
「電話を聞いてすぐ飛んできたのよ。で、波瑠ちゃん、一體どうしたっていふの?」
「私ね、お店を罷めたのよ。尤もこの間中から腹で決めてゐたんだけれども、あの親父が餘りいけ圖々しくって厭になって了って、豫定を繰上げた譯だわ。」
「ぢゃァ、海保は今度は貴女に白羽の矢を立てたのね。尤も貴女は奇麗だからね。」洋装の女はいくらか厭味っぽくいった。
洋装の女はいくらか嫌みっぽく言った。
「何をいってゐるの、馬鹿々々しい! この人はそんな事ぢゃァ、まだ未練があるのね。」
「でもあの人の眞實の性質は、あんなぢゃァなくってよ。皆な花江の指金だわ。」
「その花江だってあんな目に會ってさ、現在は東京にはゐないっていふぢゃァないの。」
「眞實にそんな人かしら、でも、私、半年も斯うして遊んでゐる中に、世の中なんて何をしたって碌な事はないと、つくづく厭になって了ったわ。私、店にゐたときが一番幸福だったのよ。」
「百合ちゃん、あの男と撚りを戻さうなんて、弱氣になっちゃァ駄目よ。一層方針を變へて、一年や二年遊んで暮せるだけ搾り取っておやりなさいよ。」
波瑠子は其時、數間先の自動車の傍に立ってゐる人影を見て、忌々しげに肩をすくめた。そこには又、哈爾賓から來た男の、蛇のやうな眼が光ってゐた。
二人は急に聲を潜めて、何やら話し合ってゐたが、街路樹の葉が疎に影を落してゐるアスファルトの道路を横切って、東京驛地下室の美容院の階段を下りていった。
二人は二時間程して、東京驛の八重洲口の改札を出ると、とある横町の黒坊の看板の掲てゐる酒場の露路へ姿を消した。
高い建物の上に遅い月が懸かっていた。夜はまだ更けてはいないが辺りは不思議に静かで、どこかのダンスホールから床を踏む靴と寂しいサキソホンの音が聞こえてくる。
黒坊の看板を掲げた酒場の薄紫色のガラス扉が折々開いて、洋服を着た男達が出たり、入ったりしてゐた。
十一時を少し廻った頃、その露路から先前の二人が出てきて左右に別れた。
三
數寄屋橋外のナイル・カフェでは、八時に外出した主人の海保が十一時に戻ってきて、風邪を引いたと見え惡塞がするといひウヰスキーを二三杯ひっかけて棟續きの寝室へ退いて了った。十一時に店を仕舞って、通ひの女給たちは連れ立って歸っていった。四階に宿泊っている蔦江、信子、かほるの三人は夕方店を出たきり戻らない波瑠子のことを気遣ひながら床に就いた。
午前二時、家中が寝沈まった時、みのりはそっと寝床から辷り出た。
彼女は窓の前の障子の面を細い指先で撫でた。そこには晝間波瑠子が置いていった次のやうな點字があった。
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【訳(背景色文字)】
私のダイヤモンドが店の例の隠し場に入っていますからそれを誰にも知らせないように取り出してあなたの手元に隠して置いて下さい。
みのりは指先でその通信を消して了った後部屋を出て、階段を上り始めた。彼女は一歩毎に注意深く四邊の音に耳を澄ました。家の中は依然としてひっそりしてゐる。遠くに自動車の警笛が聞えた。
みのりは壁から壁を傳って、表階段の正面にある青銅のヴヰナスの前に近づいた。その時、街燈の射込む薄明りの中に黒い人影があった事には、敏感な彼女も気付かなかった。
四階の部屋に寝てゐた信子は、何處かで人の呼ぶやうな聲を聞いて目を覺した。それは確かに店の方であった。
「鳥渡、鳥渡、起きて頂戴! 階下で何か變な音がしたわ。」彼女は隣りのかほるを揺り起した。
「貴女、醉拂ってゐたから、夢でも見たんじゃァない?」
「いゝえ、確に女の聲がしたわよ。」
「波瑠子さんじゃァないかしら。」
其時、階下の廊下をがたがた走ってゆく靴音が聞えた。
信子は素早く電燈を點け、かほると二人で廊下へ出ようとすると、蒲團を被って慄へていた蔦江は、獨り部屋へ殘されるのが怖しさに、齒を鳴らしながらその後に續いた。
三人は一かたまりになって、最初の階段を下りたところで、信子が、
「鈴木の小父さん! 早くお店へ來て下さい!」と呼び立てた。
其時、階下でも怪しい物音を聞いたと見えて、方々で戸の開く音がした。寝卷のまゝ階段を跳び上ってきたのは小使の鈴木であった。
廣間にぱっと電燈が點いた。見ると青銅のヴヰナスの像の下に、白い寝卷を着たみのりがべったりと牀に坐ってゐた。
「どうしたんです、お嬢さん!」鈴木は傍へ寄って少女を抱き起した。
「まァ、みのりさん、どうなすったの?」
「怪我でもなすったのじゃァないの?」
階段を駈下りた女達は、劬はるやうにみのりを長椅子に連れていった。
そこへ、ワイシャツの上にガウンを羽織った主人の海保が周章しく駈付けつけた。
「みのりか、一體どうしたんだ? お前は何だってこんなところへ來たの?」
少女は父親の言葉にも、誰の言葉にも答へず、電燈の方へ顏を向けてゐたが、長い睫毛の間に涙が光ってゐた。
「どこか怪我でもなすったのぢゃァないかしら、ええ? 大丈夫?」信子が顏を寄せて気遣はしさうに訊ねると、少女は大きく點首いた。
「わたし、夢現の女の呻聲を聞いて眼を覺ますと、お店を誰か駈けてゆく足音を聞いたんですよ。泥棒が入ったんぢゃァないでせうか。」信子は誰にいふともなくいった。
「私も、啻ならない物音をきいて飛んできたんです。」鈴木は裏の廊下から、階段下の便所の方を見廻りにいった。
帳場の金錢登録器を檢べてゐた海保は、正面の棚を見廻しながら、
「別に何處にも異常のないところを見ると、泥棒でもないらしいな。」と獨言のやうに呟いた。
家中を一巡りして戻ってきた鈴木は、
「旦那、裏口の木戸が開いてをりましたから、非常口を抜けて、あすこから逃げたに違ひありませんよ。」といった。
「さういへば先刻、私が物音を聞いて起上った時、裏木戸の方に靴音がしたやうだった。」と海保がいった。
「マル公はいつもいらない時に、あんなに吠える癖に、何だって今夜は温順しいんでせうね。私、どうしたんだか寝付かれないで、ずっと前から眼を覺してゐましたわ。」と蔦江がいった。
「あいつはこの節すっかり耄碌してゐる。それに事によったら泥棒ではなくって、店の常連の中の痴漢が、一杯機嫌で若い人達の部屋を覗きに來たのかもしれない。」と主人がいった。
「おゝ氣味が惡い。」蔦江は肩を窄めた。
「だけれど、みのりさんはどうしてお店へなんかゐらしったのでせう?」信子は腑に落ちないらしくいった。
人々は顏を見合せた。暫時してみのりは、
「私は夢を見て、寝惚けてこんなところへ來て了ったの、そして、誰かに突飛ばされて氣がつきましたのよ、けれどもそれも夢かも知れませんわ。」と初めて唇を開いた。
「あゝ、さうかもしれない、兎に角風邪をひくといけないから、お前は部屋へ歸ってお寝み、皆も早く寝た方がいゝ…………別段何を盗まれたといふ譯ぢゃァないから、誰にも云はない方がいゝ、警察へ聞えて調べにこられたりすると、店の邪魔になるからね。さァ、最う一度よく戸締りを檢めて寝るとしよう。」と主人はいった。
三人の女達は押合ふやうにして狹い階段を上っていった。
「可哀想にね、みのりさんは波瑠子さんの事を思って見に來たのよ。」
「波瑠子さんは、本氣に最う店へ歸らないつもりなのかしら。」
「屹度歸らないでせうよ。私に荷物を親戚へ送って呉れなんて、置手紙をしてゆきましたもの。」と信子がいった。
四
ナイル・カフェの奇怪な一夜が明けて、翌日の午前十一時に、蒲田署の刑事が主人に會ひにきた。
刑事の話によると、その朝、蒲田水明館の裏手の竹籔に若い女の惨殺死體が發見された。絞殺した上、顏面が滅茶々々に叩潰してあって、人相は判らないが、推定年齢二十四五才、身長五尺二寸、頭髪の濃い、色白の女で、黒と黄の斜縞のお召の着物に、緑色の錦紗の羽織を着てゐる。頭髪は美容院で結ったらしく、大きくウエーブをつけた束髪であった。手提袋その他の持ものはなく、身許は一切不明であったが、袂にナイル・カフェのナプキン紙が入ってゐたのと、服装が女給風であったので、聞合せに來たのであるといふ。
家の者達は驚いて精しく様子を訊くと、前夜無斷で店を出たきり帰らない波瑠子らしかった。殊に服装は當夜の波瑠子の着衣に符合してゐる。
絞殺した上、顏面を叩潰してあるとは、餘程深い怨恨を持ったものゝ所業に違ひない。
信子は前日波瑠子から託された手紙を刑事の前に擴げた。
――信ちゃん、私は都合の惡い事があって、
久時身を隠さねばならなくなったから、明日でも私の荷物を一まとめにして、左記へ送って下さいね。マスターにも、貴女は何にも知らないやうな顏をしてゐて頂戴、運賃としてこゝに五圓入れておきます。
いずれ時がきたら會ひませう。
波瑠子
(届け先、府下目黒町八四一、中山とし方)
手紙の中の「都合の惡いこと」に就いて、何か心當りはないかといふ刑事の質問に、信子は、
「この頃、お店へ度々見える哈爾賓から來た男を大變厭がってゐましたから、そんな事じゃァないでせうか。」といった。
刑事はその男に就いていろいろと聞糺したが、只波瑠子とは以前からの知合らしかったといふ事だけで、名前さえ知る者はなかった。
主人と、信子と、かほるの三人は、刑事に伴はれて、惨殺死體を檢にいった。
それは確かに波瑠子の死骸であると、三人が認定した。
死體はナイル・カフェに引取る事になった。波瑠子の身許保證人が實在の人物でなかった事が判ったからである。
刑事は波瑠子の置手紙によって荷物の届け先を調べ、その邊からも何か犯罪の手掛りを掴まうとした。事實、波瑠子の身許は皆目判ってゐない。唯哈爾賓で育ち、神戸にも、大阪にもゐたことがあるといふだけで、現在名乗ってゐる名前さへ、虚僞か眞實か判らない。
府下目黒町八四一番地、中山としといふのは、白米商であった。主婦は、
「波瑠子さんといふ方は、一年程前に家の二階に下宿してゐた人で、あれでも家に半年はゐらしったでせうかね。温順しい、いゝ方でしたよ。一頃は葉書などを寄越しましたが、この節は何處にゐらっしゃるか、一向存じません。」といふのであった。
五
波瑠子の遺骸は、カフェに續いた海保ギャレージの一室に置かれ、その前の机の上に貧しい花が手向けてあった。
女給達は代り合って燒香した。餘りに急な、而も尋常でない朋輩の死に、女達は嗚咽する者もあった。眼を赤く腫らした信子は、波瑠子と特別親しかったので店へは出ず、何彼と葬儀の用意をしてゐた。
主人の海保は青い顏をして默り込んでゐるし、小使の鈴木は鼻を詰まらせてゐる。だが人々の中で誰よりも一番悲しく見えたのはみのりであった。彼女は目が見えない上に、唖にまでなったやうに一言も口を利かず、影法師のやうに部屋の片隅で坐ってゐた。
心計りの告別式が濟んで、いよいよ納棺する時がきた。するとみのりは不意に立上って、泳ぐやうな手付きをしながら柩の傍へ進み寄った。そして死骸の上へ最後の愛撫をしてゐたが、京帷子に包まれた腕に觸れた時、
「あっ!」と驚愕の叫びをあげた。彼女は顏色を變へて、何やら譯の分らぬ事を口走りながら部屋を出ていって了った。
翌日、みのりは信子に會った時、
「私、どうしても波瑠子さんが亡くなられたとは信じられないのよ。今でもあの方が、何處かで私を待ってゐて下さるやうな氣がするの…………若しあの方が眞實にこの世にいないとすれば、私のやうな黒鳥は生きてゐる黒鳥(※ママ)はないわ。」と感傷的にいった。
みのりは夫れから三日目に家出をしたが、いった先はその日の中に判った。それは横濱に住んでゐる彼女のピアノの先生からの手紙に、みのりは東京へ歸りたくないといってゐるから、差支へなければ當分預ってもよいといってきた。
海保は胴衣の内隠袋に縫込んだ、ダイヤモンドのふくらみを上衣の上から撫でて、
「これでいゝ、月賦の自動車は引あげられさうだし、店は倒れかゝってゐるし、夜逃げには誂へ向きだ。足手纏ひになると思ってゐたみのりは自分から形をつけるし、まったく幸運ってやつは向ふからぶつかってくるものだよ。」と呟いた。
彼は部屋の中を見廻して、あれこれと目星しいものを物色しながら、三年前にいった上海の殷賑かな「新世界」界隈を思浮べてゐた。
海保は煩く附纏ふ情婦の百合江を殺して了った。そしてその死體を完全に處分して了った――尠くも彼はそう思ってゐた――夫から、豫々目をつけてゐた波瑠子の寶石も、易々と手に入れる事が出來た。彼は世の中は案外甘いものだと、心の底で、赤い舌を出した。
注)明かな誤字誤植は修正しています。
注)春陽文庫の再刊版ではかなり漢字をひらいたり、逆に漢字にしているところもあります。会話の後の地の文は改行変更されています。
注)黒坊が全く別の言葉に変更、唖の言い回し変更の他には、現代では不適切と見做される言葉の変更はないようです。
「光と闇の幻想」今井達夫
「犯罪科学」 1931.01. (昭和6年1月号) より
【あらすじ】
みのりは横浜のピアノ教師の八尋の家に来ていた。父海保からの手紙を読んで聞かせる八尋。それを盗み聞きしていた支那人のコック陳がいた。
東京向島の得体の知れない西洋館に海保と花江が住んでいた。阿片を扱っているらしい。花江は横浜の金の紹介で男が来ているという。
男は木川国男と名乗る。木川は阿片の報酬として波瑠子の居所を要求する。海保は知らないという。すると木川は水明館の二階の窓から見ていた記憶とみのりの命との交換にダイヤモンドを要求する。海保が波瑠子からみのりに宛た点字を呼んで、先に宝石を得たという。花江が現われ暗闇の中、拳銃の音が響く。
神宮球場の一塁側内野スタンドで双眼鏡を見ている女がいた。青年館の屋上庭園に二つの影があった。一人が押し、一人が転落していった。為す術もなく立ち竦む女、それは波瑠子だった。
「光は薄る」川田功
「犯罪科学」 1931.02. (昭和6年2月号) より
闇夜に鐵砲といふ諺さへあって、あたらないことにきまって居る。花江などはいまだ打った經驗もないので、晝間狙って撃ったってあたりっこない。暗の中で拳銃がさうさうあたるものではない。
ことに對手は哈爾賓仕込みで、惡漢どもを向に廻し、眞劔に切ったはったの勝負をして來た、場なれた木川のことである。むざむざ撃たれよう筈はない。
どーんと一發。
「いたッ。」といったが、後ろの壁がプスッと云っただけであった。花江はそれを無暗に打ち放したので、焔の光りで手先さへも見破られて居た。
「うぬッ。」
「痛いッ。」
どすん、と、彼女は利腕を取られて床の上へ投げ付けられて居た。そしてその途端に、するすると掌中の拳銃は掌から離れて居た。
「花江さんとか云ったねえ。身體はこの通り組み敷かれたし、頼みに思った拳銃は私の手にあってこの通り、銃口はお前さんの腕にぴったり附いて居る。ジタバタしたってお氣の毒だが何にもならないよ。」木川はまだ若僧だが、相當に凄味のある文句をはくのであった。そしてこんどは言葉を轉じて海保に云った。
「おい大將、ダイヤを持主に返さねえ積りかね。可愛いゝ女と氣の毒な子供を、一遍に無くしてしまひたいとでも云ふのかね。いや、たゞそればかりぢゃなからうぜえ。水明館裏の森だって物を云はうし、さうなりゃお前さんの命だって少々危ないんだぜ。どうせ人の物を只とりなんて、さう甘くは問屋で卸すまいぜ。それがいやなら出したらどうだね。」
口幅ったいことを云ってゐる。それは確かに癪に觸るが、又確かに急所を突いて居るといふものだ。
花江の奴よくなことをしてくれたもんだ。といったって今更どうにもしやうがない。と考へたが、それと同時に、窮すれば通ずるといふやつであらう。彼の頭に閃いたことがある。それは金といふ支那人のことであった。あれに金をやればどんなことでもする。此處のところ一時木川に渡して置いても、結局金の手を經なければ金にはならない。その時取り戻すより外に方法はない。
弱味につけ込んで交換條件をふいにしようといふ魂膽だなッ。さうはいけねえ。お前が皆を殺したって、俺が居なけりゃダイヤは出て來やしないんだぞ。一度出直して阿片を持って來るがいゝ、何時でもダイヤを渡してやらう。」海保暗中に空を嘯て居るらしい。
「子供騙しのやうなことはよしてくれ。交換條件としてなら横濱へ電話をかけてやらあ。早く灯りでもつけたらどうだい。」木川にしてもこのままではどうにもならないのである。
「よッし。おれの前で横濱へ電話を掛けろ。」云ひながらスヰッチをばちと捻って、壊れない電燈に灯を點じた。
パッと、光は急に室内を明るくした。木川は花江の喉を後ろから抱へ、その體を自分の盾にして、海保の方へ拳銃を突き出して居た。海保が點燈すると同時に、拳銃でも取って撃ちかけるかも知れないと思って、かうした用心をして居るのであった。
「今ダイヤを持って來る。待って呉れ。」海保は室外へ出ようとする。
木川はからからと打ち笑った。
「馬鹿なことを云ふもんぢゃない。彈丸の飛び出すダイヤ位持って來ようと云ふ氣なんだらう。その手に乗るやうな木川ぢゃない。おれが行くからその一歩前を歩いて行けばそれでいゝんだ。」
「憶病者だなあ、さあ跟いて來い。」
海保は廊下へ出て、續いて二階を昇って行った。その後から跟いて行く木川は、花江の喉を締め締め引摺って行く。時々銃の臺尻で花江の頭をコツンコツンと叩いて、「蒼蠅え阿魔だなあ。じたばたするねえ。」と叱り付けて居るのであった。
花江はダイヤを諦め切れないのである。海保がおめおめこんな青僧に、ダイヤを渡さうとして居るのが殘念でたまらないのである。で、力の限り根限り(※足宛)き廻って、木川の腕から逃げ出さうとする。少しでも腕がゆるんだら呼ばうとする。それで木川が喉を締めたり頭を毆ったりする必要があった。
かうして、今の今、花江と海保とが惡諄い快樂に陶酔した部屋、そんな情景のまだ漂って居る部屋へ、二人は引摺上げられたのである。その息づまるやうな部屋の中で、莫大な金になるダイヤを渡す。これは海保に取ってたまらない藝當に相違なかった。ましてそれに進入をかけた花江は、再びこゝで渾身の勇氣を振って、出來るだけの反抗を試みた。
かうなると女は殺されるとか死ぬとか云ふことの、恐怖を忘れてしまふのである。彼女は只眼の前のダイヤを取られるのが、惜しいといふことが一心である。もともと年の違ふ海保などに關係って居るのも、金といふものを目的として居ればこそである。その金が今無くならうとするのをぢっとして居られるわけはなかった。
やり切れなくなった木川は、再び花江を床の上へ投げつけた。周圍の靜寂を破って、何事が起ったかと思ふやうに「どたあん」と音を立てた。
「キャッ、ウヽーン。」と、花江は絹を裂いたやうな叫びと死んだかと思ふやうな呻りを出した。
「やい。女に手荒いことをするねえ。」海保は驚いてさう云った。
「默ってろ。早く出せばいゝんだ。」拳銃を突き付けて又一歩進んで、木川が云った。
この時の海保の顏は、人間相として滅多に見られないやうな、口惜しい顏であった。恰度その時、手品術のやうに、金庫からダイヤを引出して、手に掴んだからである。そしてそれで、何か重いものでも置くやうに、しかも捨て鉢らしく、どーんと卓上に置いた。
「勝手に持って行くがいゝや。」
「これで本當の持主へ戻ったといふもんだ。何を遠慮などするもんか。」木川は急いで中を開けて見て置いて、ポケットの中へしまひ込んだ。
「おいッ。横濱へ電話を掛けねえのか。」海保が云った。
「横濱だッ。何を云ってるんだえ。そんなことを本氣で聞いて居ったのか。」木川はすましたものである。
「チェッ。」重ね重ね惡い夢を見せられた海保は、呆氣にとられて居るのであった。
「それぢゃ一歩前を歩いて戸外まで出て貰はうぜ。」木川は落着いて居る。
海保はダイヤを取られた上、この夜半に戸外へ送り出さなきゃならなかった。花江も又しても喉を締付けられながら、同じく引摺られて行くのであった。
門の外には幾時來たものか、一臺の自動車が來て居って、彼等の方へ滑って來た。車の中に一人の覆面の男が居て、拳銃を海保の方へ差向けて居た。木川は花江を放し、默って自動車へ乗るのを機會に、車は暗を突いて疾風のやうに走り出した。
「あゝ口惜しい。お前さん男のくせに何て意氣地が無いんだらうねえ。私があんなにひどい目に逢って居るのに、助けようともしないでさッ。だけどまさか本物を渡しちゃいはすまいねえ。」
「何云ってるんだ。あいつの眼を誤間化すことなんか出來るもんか。」
「ぢゃ本物を渡したといふの? まあ何て意氣地なしだらう。えゝゝッ口惜しい。」花江はヒステリーを起して川の方へ駈け出した。
「さう早まることはない。俺だってまだ耄碌してやしないんだ。取返す方法はちゃんと胸の裡に出來て居ようといふもんだ。」海保は落着いて居る。
「本當にお前さん取返すことが出來るのかえ。」もともと本氣で死のうと云ふのではない。海保にさう云はれるとおめおめと返って來た。
先刻海保が、應接室の暗の中で、第二の電燈を點じた刹那、木川の顏がさっと見えた。その時彼は記憶を呼び起したのであった。木川といふのは、時々ナイルカフェーへやって來て、波瑠子を張って居た男の一人だといふことである。
さう氣が付くと彼は考へた。今一度波瑠子に取返させることが出來やう。波瑠子が持ってゐさへすれば、みのりをだまして又何とかなる。みのりでなくても、金とぐるになって計ればきっと取返せる。と思ったのである。しかし波瑠子は死んだことになってゐるので、花江にそのことは話せない。話せば嫉妬を起して一ト騒動持ち上るにきまって居る。
海保にとって、今の所では花江は重要な人物なのである。彼が上海へ行って阿片を密送するとなると、此の阿片窟で留守をして、立派に經營して行かれるのは彼女を措いて外にない。そこで彼は、波瑠子と上海で暮らそうと云ふ氣なのである。
處で波瑠子のことであるが、海保は實際の所、今波瑠子の行先を知らないのである。水明館裏で追蒐けたが、遂に捉へられなくてそれきりなのである。水明館裏の出來事といへば、誰にも既に判って居る通り、同じ夜の同じ時刻に波瑠子が哈爾賓男と海保の兩人に、會合を約したところである。しかもいざそこへ出掛けようとして居る時、恰度百合江が彼女を尋ねて來たのであった。
海保は百合江に飽きて居るが、百合江の方にはまだ十分海保に未練があると見て、此の夜海保との會合を、百合江に譲らうといふことになり、二人は美容院へ立ち寄って、服装から化粧方を全く取換へたわけであった。しかし結果から見て、海保を騙すことは少しも出來なかったのであった。
話は少しく前に逆戻りするのであるが、前號を讀まれた誰しもが、既に想像されて居る通りであるが、順序として少しく水明館裏の模様を少しく書くことにしよう。波瑠子は哈爾賓男と海保との二人に、何故逢ふ場所と時を同じく選んだか、云ふまでもない、初め哈爾賓男に會合を約束したが、實際行く氣は更になかった。
所が主人海保に口説かれた時は、初めて遊戯氣分になったのである。つまり兩虎を相博たして置いて、自分はうまうまと逃れようと考へたのであった。
哈爾賓男は波瑠子と約束したゞけで、それを實現する彼女でないことを知ってゐた。それでナイル・カフェーの前で見え隠れに様子を窺って居たのであった。そこへ百合江がやって來る。美容院へはひる二人は服装を取換へて來る。皆彼は見てしまってゐた。そればかりか有樂町驛から蒲田行の切符を求めた所まで見届けた。そこで彼は自動車を雇って水明館へ先廻りしたのであった。窓から覘いて見ると、先の二人の女が森の方へはひって來る。
「これは惡い邪魔者をつれて來たな」と思ったが、その時突然横合から一人の男が現はれて、波瑠子を捉へようとするのであった。すると波瑠子は逃げ出して、他の女が男に抱き付いたのであった。男はこの邪魔になる女を頻りに突き飛ばして居た。到頭女は力及ばず突き離された。所がそこは地面が傾斜をして居たので、女は方向を轉じて踏み留まらうとしたが、足を滑らして轉んでしまった。そこに一つ木の切株があったのへ、女はしたゝか後頭を打ち付けた。それきり起き上らうとしなかった。が、哈爾賓男はそこまでしか見て居ない。
波瑠子が男に追はれて居るので、それを救ふ爲めに他の道から先廻りしようと、彼もこゝを飛び出して行ったのであった。随分遠くまで追掛けたが哈爾賓男は遂に波瑠子を見出し得なかった。失望しきって歸る途中女が滑った所へ來て見ると、女は完全に死んで居る。しかも何と何と云ふ殘酷な仕打であらう。顏は判らないようにするために刄物で滅茶々々に傷つけてあったのである。彼は關係者になるのを恐れたので、そのまゝ水明館へ歸ってしまった。
翌朝女の死體を見付け出したのは警官であった。警察醫の檢視によって、顏の傷は死後に附いたものだし、これは致命傷ではない。又打撲傷で死んで居る、附近には別に闘爭した形跡もないので、これは過失傷と見做されてしまったのである。今の所顏を切りさいなんだ者は、此の邊に出没する不良少年の仕業であらうと、目星をつけて捜索して居るのであった。それには又、それ相當の理由があった。
さて此の邊で話を進めて行かう。海保は木川にダイヤを渡した翌日、横濱の金に電話した。どうせ木川はあれを賣るに相違ない。さうなれば金の手を經て外人に賣るのにきまって居るからである。所が金は商店を出て外へ雇はれてゐるといふことであった。彼は店に居ても終始用があるわけではない。だからこんなことをして探偵の眞似をするのは珍らしくない。只今度は行先が判らないので、直ぐに横濱へ出掛けて行った。次から次へと捜して見ると結局音樂の教師八尋の料理人として陳といふ名で住込んだのがそれらしいといふことになった。
「さうか、なあんだ。みのりが世話になって居る家ぢゃないか。」海保は悦んで獨語を云ひながら、何喰はぬ顏で八尋へ行って見た。勿論上海から一寸歸って來たといふ振れ込みであった。
しかし金は既に解傭した後であり、みのりは三日目から行邊不明だといふことであった。彼は失望しきって歸って見ると、一ツの速達が來て居った。しかもそれが點字の打抜で記されたものだったので、てっきり娘のみのりから寄越したものだらうと、讀んで行って見るとさうではなかった。それは意外にも波瑠子から來たものであった。
「×月△△日午後三時、出來るだけ變装して神宮外苑の青年會館の音樂會に行き、屋上に居て下さい。木川が來ますから、不意に突き落して下さい。その頃音樂と野球で人は夢中ですから、彼も野球に夢中になって落ちたものとしか思はれません。木川が居てはあなたの御意に副ふことは出來ないのです。」
讀み終った海保はダイヤを木川から取戻すにしても、この方法は最も簡便でいゝと思った。彼は上海へ高飛びする準備も略出來て居る。この手紙を持って居て脅かせば、波瑠子も一緒に上海へ逃げるに相違ない、とかう考へたので、がらにもなく音樂會へ出掛けることにした。
海保がかうした速達を受取ったころ木川の方でも同じ波瑠子から速達を受取って居た。それは金から出したことになって居て、タイプライターで記したものであった。
「ダイヤのいゝ買い主を見付け出した。この不景氣の世の中で、この買ひ手をとりにがしたら又といゝ人は得られない。×月△△日、神宮外苑にある青年會館の音樂會へ行き、三時には屋上に昇って待って居て貰ひたい。この客ははっきり眼が利く人でないから、相當高く賣り付けることが出來る。その代りに口錢は二割五分だけ貰ひたい。」
といふのであった。二人の間はもう此のダイヤの價格は決定して居るので、かう云へばすっかり判るのであった。木川もこれにはすっかり引かゝって、青年會館の屋上へ出かけて行った。それからその屋上にどんな活劇が行はれたか。それは前號に記されて居った通りである。又波瑠子が忍びやかに野球に來て居って、其の活劇を双眼鏡で見て居って、すぐに球場を飛び出して、現場へ駈け付けようとしたことも既に記載された通りである。
こゝまでは波瑠子の計畫も順調に進んだが、いざ哈爾賓男に近付かうとして驚いたのは、球場外を見張して居た巡査達は、素早くこれを見付け出して、四五人そこに集って居た。それ等の警官は集まって來る野次馬を追退けようと努力して居った。その早さには驚きもした。彼女としては失望もした。が更に驚嘆と失望の種になったのは、哈爾賓男は地上に横たはっては居るが、死んで居るどころか氣絶もして居なかった。
只口も利かず體も動かさないだけであって、眼は立派に開いてきょろきょろと其の邊を見廻して居るのであった。これには少なからず躊躇させられたが、彼女は思ひ切って豫定の行動を續けて行った。彼女は野次馬達の集團を押し分けて、一人の警官さへ突きのけて、つかつかと前へ進み出た。
「あらッ。どうもあなたのやうだと思った。一體これはどうしたといふんです。」
さも親しげに云ふのであった。しかも眼から涙さへも流して居た。誰が夫婦であることを疑ひ得るものぞ。
「こらこら、君は此の男と知り合ひでゞもあると云ふのかッ。」
警官は察しなどしないぞと云ふ風に訊いた。
「えゝ、だけど一體これはどうしたと云ふのでせう。二人で一緒に音樂を聞きに出掛けて來たんですが、一寸寄道して一ト足後れた間に、こんなことになって居るんです。誰かと喧嘩でもしたんでせうか。いえいえ、そんなことを調べて居る暇はないんです。一刻も早く病院へ連れて行かなけりゃなりません。‥‥あのうどこか空自動車は居ないでせうか‥‥自動車屋さん自動車屋さん。」波瑠子は狂亂の態である。
「これは君のご亭主かッ。」警官はどこまでも取調べるといふ調子から抜けないのである。
「さうですわ。家の主人ですわ。」波瑠子は威丈高に云った。
「この時、野次馬の中に居て、自動車を彼女が呼ぶのを聞き込んだ自動車運轉手があって、すぐに車を廻して來た。
「へえ。自動車参りました。お乗り下さい。」運轉手は倒れて居る哈爾賓男を抱き上げた。體が海月のやうにぐったりして居たので、一人の警官が助け入れた。波瑠子はすぐに赤十字病院へと命じたのであった。哈爾賓男は車の中でも依然口を利かなかった。たゞ昏々眠りに落ちて行くのであった。波瑠子は運轉手に背を向けて座って居た。
途中で彼女は車を露路口で留めさせた。
「私一寸お友達に知らして來るから、あまり揺れないやうに病院へ行って頂戴。すぐ私も自動車で追付くから。」さう云って、恰度今こゝへ來掛ったタクシーを傭って待たして置いて、露路の中へ急いではいって行くのであった。彼女は再び露路から出て來ると、待たしてあった自動車に乗った。今度は赤十字病院とは命じなかった。彼女は新橋驛へと走らせたのであった。
横濱の隠れ家へ歸って見ると、みのりがぼんやりとして彼女の歸りを待って居た。
「みのりさん。今日の計畫は何もかも、思ふ通りに運んだよ。これで大事なダイヤも取返した。あんたも安心してお呉れ。だけど哈爾賓は可愛想な目にあはされたねえ。明日にも金さんを頼んで見舞ひに行って貰はう。そして此處も早く立ち退かないと、こんどはあの金の奴がきっとうるさく着き纏ふよ、色と慾との兩天秤でこられた日にゃ對手がチャンコロだけにたまったものぢゃない。今だっても變な眼付をして居るんだから。ホッホッホッ‥‥みのりさんにいやなことを聞かしちゃったねえ。」
波瑠子は哈爾賓の體中を捜して見て、自動車の中でダイヤを掏摸抜いて來て居るのである。
波瑠子は今買って來た土産の菓子袋を開いて、みのりと二人で喰べながら、バックの中から今取って來た寶石の筥を取りだした。
「いつ見てもこの子ばかりは可愛いゝものだねえ。」さう云って暫くは飽かずに眺めて居た。やがてそれを下に置いた時、みのりが今度は取り上げて、寶石を指の先で揉んで居た。「こちゃちがうやうだ。これは何だか僞せものらしいのよ。」と確信をして居るらしいみのりの言葉である。
「冗談云っておくれぢゃないよ。第一みのりさんには判る筈がないぢゃないの? 私は何年來可愛がって來たんだもの、一ト目見たって間違ひはしないよ。」とはいったが、他人にけちを付けられると氣になるのである。波瑠子はいつまでもいつまでも寶石を見て居った。心の中では「ちがって居る筈はない。ちがって居ないでくれ。」とこの二つが後から後から立ち上る煙のやうに湧いた。しかしさう思って見れば見るほど段々に可笑しくなって來るのである。
「さうねえ。なんだかさう云はれて見て居ると、少し違ふやうな氣持ちにもなって來るわねえ。」
「少しでも違って居ればまるで違ふぢゃないの、手觸りで私には判るんだもの。」みのりは生意氣な理窟を云ふのであった。
「さうかしらん、手觸りは少しも違はないやうだがねえ。」
「そりゃ眼が開いて居る人には判らないわ。」
波瑠子はもうそんなことなんか耳にはひらない。あちらへ傾けこちらへ動かし、呪ひの眼を放って眺め廻て居る。
「違ふ違ふ、光の力が大分弱い。」いったと思ふとそこへ投げ出して、「口惜しい。あゝ口惜しい。だけどざうすると一體誰が持って居るだらう。海保の所だらうか哈爾賓の所だらうか。ひょっとすると金の手に渡って居るのかもしれない。それとも又、もう賣ってしまったものかも知れない。」波瑠子の眼からはダイヤのやうに光る露が落ちる。やゝしばらくして、「みのりさんはナイルに居た時私のダイヤに觸ったことがあった?」
「あるさ。だからこれを違って居ることが解るんだわ。」
「なる程、ちがひない。で最近には幾時觸ったの。」
「大概毎日觸って居たわ。私隠し場所を知って居たんだもの。」みのりは無邪氣にかう云った。
しかし波瑠子としてはこれ程卒直なみのりの答へでも、素直な言葉だとは受け入れることが出來なかった。
「若しやみのりが掏摸換へたものではなからうか。」と理窟なしに疑ひが起ったのであった。
「いや、自分ですり換へて置いて自分で間違ひを知らす筈はない。」これは容易に氣がついた所であるが又外に考へやうもある。「良心に咎められてあんなことを云ひだしたのではあるまいか。」とこれも一ッの理窟である。「他人に頼まれてみのりがすり換へたのであるまいか。」これも第二の理窟である。いっそ一つ取調べて見ようかと、幾度となく考へて見たのであるが、さうでなかったら妙なものである。
さうであったにしても、飽迄白状しなかったらこれ又同じ結果となる。かう云ふことは、金さんに訊いて見るのが一番早い。ダイヤのある所には必ず金がゐる。ダイヤはなくても、手に入るべき筈になった所には金が居る。海保が持って居た時はよく墨田川の方へ行った。木川のものに移る時は、覆面して彼を援助して居る。うまくだまして訊いて見るに限る。と、かう思って金の所へ電話を掛けたが金は恰度居なかった。
翌朝今一度自働電話を掛けに出ると今東京から歸る所だと云って此方へ來る所であった。彼女はダイヤの行方を訊いて見るまでもなかった。
「あれは到頭貴女の所へ廻って來た。私が賣ってあげるよろしい。」
と、もう彼はこんなことを云ふのであった。
「金さんそんなこと一體どうして判る?」波瑠子は驚いて訊くのであったが、答へは至極簡單であった。
「海保さんに聞いた。」といふのであった。
「あれ違ふ。あれ外の僞物だった。本物どこにあるか金さん知ってるだらう。」波瑠子は詰寄って行って訊くのであった。
「僞ないない、あれ本當のダイヤある。」金は頭を無暗とふった。
「本當ダイヤでも光が薄い。」
「薄いないない、初めから同じこと、大變高くうれる。私ぢきに賣ってあげるよろしい。」さう云ったかと思ふとさっさと歸りかけた。
「金さん少しお待ちよ。あなた本當のこと云はなけりゃ駄目、昨夜は一體どこで泊ったの。人の心も知らないでさ。」波瑠子はぽんと金の肩を叩いた。金は一寸意外に思ったやうであったが、やがて少しく相好を崩して云ふのであった。
「私嘘ない、けえしてない。昨晩海保の所へ行った。警察につれられて行ってまだもどらない。お内儀も行った。私留守して居た。」
「えゝ海保夫婦が警察へ連れて行かれたって‥‥」波瑠子の顏の中には色々なことが渦卷いた。誰が百合江を殺したか、それは大に想像して居った。自分のダイヤを盗んだことも、本物のダイヤから判るといふことがある。今の商賣だって危いものだ。「そりゃ一體どうしてそんなことになったの。お前さん知って居るだらう。」
「海保の商賣よくない。」自分も阿片輸入をやって海保の阿片窟へ持込んで居るくせに、金はしらじらしくこんなことを云った。
「密輸入が見付かったら、金さんだってあぶないよ。はやく上海へ高飛びするんだねえ。海保も早く高飛びすればいゝのに他人のダイヤばかり狙って居るからそんなことになったんだ。」
波瑠子は何故ともなく寂しくなって來た。
「波瑠子ざん。私と上海へ行くよろしい。上海へイヤ高く賣れる。」金は出來るだけご機嫌をとらうとするやうに、薄氣味わるい程甘ったるく笑ひかゝった。
「私も上海なら行きたいねえ。だけど今では頼る人って無いんだもの。金さん。金さんは私を可愛がってくれる?」波瑠子はこぼれるやうな愛嬌笑ひをしながらも一寸意味のある眼線をなげるのであった。
「私波瑠子さん大すきです、大變可愛がる。私と上海へ行くよろし。」
「だけどお内儀さんが怖いからねえ。」波瑠子は殘念さうに云ってますます金をじらすのであった。
「お内儀さん横濱に居る。私あなたと上海に居る。少しも怖くない。」
金の考へにしても海保と同じく上海に居て、阿片の密輸をしたいらしいのである。しかし勿論波瑠子は今の處上海へ行かうなどといふ氣は少しもない。たゞ色仕掛けで金に僞のダイヤを賣らせ、更に本物を捜さうといふ魂膽なのである。
「私今あんまり都合がよないの、あのダイヤでも高く賣れるならいいんだけどねえ。さうすりゃ上海へ行ったって私構はないわ。」波瑠子は益々艶麗さを見せて體を捻り廻した。
これで此の日波瑠子は金と別れたが、さし當って彼女が知りたいことは、本物のダイヤはどうなったかといふことである。今の模様では金が本音を吹いてしまったのかそれとも隠して居るのか判らない。それで今度は河岸を替えて海保と木川を調べるより外に方法はないことである。だが、先づ考へて見なければならないのは、青年會館で起った大活劇はこんな失敗に終らうとは思はなかったので、後の事などは少しも考へずにやった乾坤一擲の芝居であっただけに、海保も木川も果してどう彼女に就て考へて居るのかそれをはっきり知って置く必要がある。
今金から聞いた所によると、金は木川が入院して以來まだ逢って居ない。だから彼女が金の僞手紙を出したことは金の了解を得てしまったので、これは心配する必要はないらしい。それで先づ明日病院へ土産を持って行って様子を探って貰ふ。さうすればこれも先づよろしい。しかし海保の方はどう考へて居るか、警察に居るから訊くことが出來ない。これとても多分何とかなるだらうといふ腹で、其の翌日東京へ出て見た。
久しぶりに銀座を散歩して、どこかで海保の家に電話をかけて‥‥と、計畫を考へて居るうちに段々考へ込んで伏目に歩いて居た。そのとき雷でも落ちかゝったかと思ったのは、彼女の肩を叩くものがあったからである。波瑠子は對手と顏を見合した。
「あらっ。」
「あらぢゃないわよ。何をそんなに考へ込んで歩いて居るのよ。」にこにこしながらさう云った女といふのは、ナイル・カッフェーに一緒に居て、比較的仲のよかったお信なのであった。
「あなた私が生きて居ることをどうして知って居たの!」波瑠子は驚いてかう訊くのであった。
「そりゃその位のことは判るわよ。毎日一緒に居る二人ですもの、この死體はあなたぢゃない位のこと私に判らなくてどうします。」信子は相變らず元氣にかう云ふのであった。がこゝまで話すと急に邊りを見廻して小聲になって更に言葉を續けるのであった。「あの時から百合江さんが居なくなったでせう。それで百合江さんがあなたを殺したと思って居る人もあったやうだし、あの死體が百合江さんであなたが殺したと思って居る人もあるし。あれは百合江さんぢゃないと‥‥」
「そんなことこんな處で立話しないでどこか靜かな喫茶店へでも行きませう。」波瑠子が姉分氣取りで云ふのであった。
「さうねえ。それにみのりさんの事も聞きたいし、まだまだ大事なあなたのダイヤの事について、少しお聞きしたいこともあるんだから。それぢゃさうしませう。」二人はかう云って喫茶店へはひった。
注)句読点は追加変更したところがあります。段落頭に一文字空けを追加したところがあります。
注)明かな誤字誤植は修正していますが、ゆらぎ等はそのままのところがあります。青年館は青年會舘に統一しています。
注)現代で差別用語とされる言葉の一つで登場人物が侮蔑の意図を持って発言しているところがあります。注意願います。
「黒鍵の秘密」藤浦洸
「犯罪科学」 1931.02. (昭和6年2月号) より
【あらすじ】
青年会館で八尋光吉のピアノ独奏会があり、八尋は友人達に持論を語っていた。フロントで入口をみていた波瑠子に紳士が気付きて近づく。
紳士は波瑠子に煙草の火を借りる。波瑠子は鏡に映った眼に見覚えがあったが思い出せなかった。開演。第一部ショパン、第二部ドビッシーやラヴェル。緞帳が上り第三部の最後はショパンの華麗なる大円舞曲だった。客席では紳士が波瑠子に近づきE嬰音の黒鍵に注意するように言う。舞台の袂ではみのりが倒れる。波瑠子はダイヤはみのりと八尋に預けてあるから大丈夫だとタクシーに乗って帰った。
波瑠子はタクシーの運転手の眼を見て話かけて来た紳士だと気付く。また木川を病院へ運んだときの運転手でもあった。
八尋は演奏を終えるとみのりのもとへ行く。正気付いたみのりと横浜の家に帰る途中、八尋はみのりに麻酔薬、ダイヤ、E黒鍵のことを語り聞かせるのだった。
「霧の意匠」大木篤夫
「犯罪科学」 1931.03. (昭和6年3月号) より
【あらすじ】
八尋とみのりが横浜の邸に帰ると部屋には格闘のあとがありダイヤは盗まれていた。みのりは信子の香水の匂いがするという。
波瑠子は横浜にある青塚貝三郎のパラダイス・クラブに連れ去られていた。青塚は運転手に化けて婦女を誘拐し働かせていた。信子がそこにいた。
偽ダイヤを掴まされた青塚は八尋の家へ行き騙して連れ出す。八尋は気付いて車から逃げようとするがかなわなかった。
捕らわれた八尋を信子は逃がそうとする。八尋邸から宝石を盗む現場を見ていた信子は宝石を拾ったがそれは偽物だった。
波瑠子は客の相手をするようになっていた。そこへ木川が客として現れるが波瑠子を認知できないようだった。
附記:発熱で病床にあり口述筆記となった。
(一九三一年一月五日夜、作者)
「太陽と青空を主題にした間奏曲」松平澤太
「犯罪科学」 1931.03. (昭和6年3月号) より
【あらすじ】
株式取引店の¬三(※合成一字)の走使いの栃郎は青塚の係になっていた。追証拠金請求のことで邸へ行くと青年が出て来て横浜にいるという。彼の案内で行くと、そこはパラダイス・クラブだった。待たされている間、隠し扉を見付けて入ると捕らわれの女がいた。青塚は多額の駄賃を栃郎に与えるのだった。
栃郎は三ヶ月前まで横浜で花売りをしていた。彼には母と盲目の妹と行方知れずの姉がいた。得意先に八尋の家があり、盲目のみのりと知り合って写真を見せてもらうなどしていた。青塚の駄賃で土産を買って帰郷した栃郎は、写真を再び見せてもらい、捕らわれていた女が波瑠子だと知る。八尋もそれを聞いた。
忠勝三郎は銀座裏の探偵事務所へ行く途中で掏摸に遭遇する。事務所へ行くと横浜のロシア人グラドゴフ将軍の紹介状を持ったイワノフ氏が来た。哈爾賓で木川に宝石を盗まれ、さらに波瑠子が盗んだらしい。木川は死んだが息子が波瑠子を追って来たという。そのダイヤの売物が出ているらしい。¬三の使いで来ていた栃郎がパラダイス・クラブという言葉を聞いて驚いたのを見て、忠勝は栃郎を問い詰めるのだった。
「黒耀群像」大島十九郎
「犯罪科学」 1931.04. (昭和6年4月号) より
1
自動車は長い土塀に沿て、街角へさしかゝると、曲り角のくら闇の中で赤い光りがまたたく様に三度明滅する。これが相圖で來客は此處で自動車を乗り捨てる。
(清々冷々)と客は囁くと、くら闇に立ってゐる案内人は(好)と呟くと共に踵を返へしてスタスタ歩いて行く。客は默々としてこれに從って行く。森閑とした夜陰を案内人と來客の跫音だけが不氣味に響いてゐる。
(※口當)々、(※口當)々案内人は何か槌みたいな物で扉を敲く。扉がぎいときしみ乍ら開かれる。客が門をくぐる瞬間に側面からパッと皎々たる光りを浴びせられる。門柱に倚りかゝった大男が來客の爪先から頭のてっぺんまでをじろりと睨み廻すと同時にパッと光りが消えて、來客は再びくら闇の中に投り込まれてしまふのである。
何といふ奇怪な接客であらふ。
然し、來客達は、誰一人として駭ろいたり訝しがったりする人とても無く、皆、默々として街角で自動車を降り、槌で扉を敲く音を聴き、まぶしい光りを浴び、そして門内の樹立の茂みを縫ひながら闇の中に吸はれて行くのであった。
愁幽莊といふ名さへも何と無く奇異な感じがする。場所となると幾度行った人でも殆ど見當が着き兼ねるのである。
泗馬路の競馬場の前迄指定された時間に行ってゐると、一臺の自動車が迎へに來る。これに乗ると直ぐカーテンが下されて、ものの小一時間ほど走り去る。止まるところが例の土塀の角である。四百遍も行きつけた人でさへ、朧氣に、どうやらフランス租界から上海大學の方へ向った南郊らしい。位の見當しか附かなかった。
來客といふのも大抵は顏ぶれの定った五六人の人々に限られてゐて、このメムバーの誰かが太鼓判を押して身許を證明する人々が時たま同伴される場合もある。
で、この來客の身許なるものは、上海を中心として、遠くはパリーあたり迄手を擴げてゐるところの言はゞ國際的な故買の親方に限られてゐた。
愁幽莊の主人公龍伯の素性は殆ど解らなかったが、親方達にとっては素性などはどうでもいいことで、半歳ほど前から、龍伯と取引を開始して以來、毎月一回は龍伯の手を通じてこの故買商達に、常に素晴らしい掘出し物を提供して呉れてゐる大事な金儲けの蔓なのである。
何時も、一箇何萬兩といふ高價な代物の取引ではあるが、その賍品が、いつもその何倍にもなって他へ渡って行く程價値のある物ばかりが出るのであるから、親方達は何を措いても愁幽莊の入札は缺かすことが無いのである。
――
主人の龍伯を取卷いて五人の故買商達は殆ど額を突き合はせる許りに圓くなって順々に寶石入りの小箱を廻し合ってゐる。
軈て、龍伯は、小箱からつまみ出したダイアモンドを皆の前に差出す様にして構えた小型臺秤の上に載せた。一同はゴックリと生唾を呑んで凝乎と指針を見据えてゐた。
指針は左下の方からツッと走ってぴったり止まった。
「ほう、三十二カラット四分の三」
五人の故買商は一齊にふうと重い吐息を漏らした。龍伯は、眼に微笑を浮べ乍ら、一人一人の顏色を讀む様に見廻した。そして靜かに臺秤からつまみ取ったダイアモンドを再び小箱に入れて机の眞中に置いた。
故買商達は、今更ながら慌ててこの素晴らしい代物を手に取り上げて、舌先で嘗めてみたり、電燈に翳してみたり、或は、ハッと呼吸をふっかけてみたり、いろいろとひねくり廻すのであった。
「では一つ願ひますかな。一時間以内に御入れ下さい」
龍伯は揉手をしながら立上った。そして机の端にある朱塗りの手文庫みたいな箱を眞中に置き直した。
五人の人々はそれぞれ、或は窓際に、或は扉のところに、思ひ思ひに部屋の隅とか壁際とかに散って、鉛筆と名刺とを持って入れ札に書くべき數字を案出するのであった。
2
カルトンキャフェの午後一時、歡樂の華が爛漫と咲き盛ってゐるのだ。
絶え間無く奏し續けるレオン・メイヨー・ジャヅバンドの浮々した奏樂と、各國人が混然と入り亂れて旋廻する青、紅、白、黒、紫色とりどりの踊りの渦卷と、景氣を湧き立たせる様なシャンパンを抜く音と、ホールの隅々から濛々と立昇ってゐる紫煙の中からこもった様に朗らかに反響する歡聲と、そして、これ等の情景が渾然として成す一つRUBY>雰圍氣を間を置かせず様々な色に染め變えて行くスポットライトの眼たたき――。
「お名前は?」
「エドワード黄」
「外國へ行っていらしたの」
「左様です。子供の時からアメリカへ行ってゐて、つい先月歸ったばかりです」
一分の隙も無い様なきりりとしたタキシードでいかにも貴公子然とした支那人の青年紳士と、未だ來て間も無いらしく、どっか素人臭い日本人のダンサーとが踊りながらこんな平凡な會話を取り交はしてゐる。
素人臭いと言ひ條、この日本娘は、このホールにゐる古くからの上海ずれのした同國人のダンサーに比べても、恥しく無いほどの均整のとれたスタイルであり、然もその容貌に於てはずば抜けて優れてゐる爲に、遂一週間許り前にこのホールに姿を現はしたのが、ほんの僅か許りの日にちの中に、
同國の娘達は元よりのこと、ポーテュギーヌ、ロシア娘、イタリー女、ヤンキーフラッパー等を含むホールの娘達の中でも一流の稼ぎ手に伍してぐんぐん賣れ出したのである。
早目に來た客は殆ど爭ふ様にして次々の約束を定めてはこの日本娘と躍るの光榮を奪ひ合ってゐるのであった。
此宵は、人々の羨望の眼に見守られ乍ら、ホールが開かれてから、これで凡そ十回目位も續けて、このスターを占領してゐるのが漂然として今夜始めてこのホールに現はれた白面の貴公子エドワード黄氏である。
ポール・ホワイトマン作るところの名だたる曲「ラプソディー・イン・ブルウ」が割れ返へる様な拍手と共に終った。
忽然として現はれたスター百合子と、エドワード黄が一先づ別れて夫々の席へ戻った頃、ボーイに導かれてホールの扉の前に矗と立った一人の瀟洒とした青年紳士こそは、パラダイスクラブ以來姿を晦ましてゐた「哈爾賓男」木川國男である。
左眼にぴったりと當てた純白の偏眼帶と、心持面痩せた容貌の變化にちょっとそれと見紛ふはどでもあるが、それにもまして、パラダイスクラブに漂々としてうつつの様に現はれた彼と、これとは何といふ變り方であらうか。
ぎろりと底光りのする眼光、激しい意思を現はしてゐる様な鋭い口許と引緊った眉根、「哈爾賓男」は、以前の相を以て再び此處に登場したのである。
つと扉が開かれて、彼の颯爽たる風姿がホールの中に現はれた。
「村の洒落男」
ジャヅバンドの舞臺からメガフホンで次の曲目が朗々と報ぜられた。
人々はテープルの上に葉卷の紫煙と、シャンパンに泡立つ盃を殘して、そそくさとしてダンサーの席に詰め寄って行く。
「ジャーマンビール」
木川は鷹揚に給仕に命じ乍ら胸のポケットから一本の葉卷をつまみ出して口に啣え、片眼を輝かしてゆったりとホールを見廻し始めたのである。
その態度こそはいかにも悠然としてゐるものの、その爛々と輝いてゐる雙眼は、何れを探し求めて止まぬ焦燥を物語ってゐるでは無いか。
一齊に湧き立つステップの響きと、陽氣のてっぺんに突き上げて呉れるジャヅ――。
「哈爾賓男」の眼がぴたりと一點に附けられた儘すうと移動して行き始めたのだ。
焦點――そこには、相手のアメリカ紳士と莞やかに話し乍ら踊ってゐる百合子がゐるのだ。
哈爾賓男の口の端に微笑が浮べられた。そして、彼は、チョッキのポケットからはみ出してゐるテイケットに一寸指をやってみた。
3
南京路の夜更けの大通りを埠頭の方にまっしぐらに走って行く一臺のタクシーの中で「哈爾賓男」の木川國男は、カルトンキャフーの踊り子百合子に順々と物語ってゐる。
「僕が正氣附いた時には、あの鏡の間の四方から、僕自身を嘲る様なみじめな僕の四つの姿がおぼろ氣に寫し出されてゐる外、貴方も、それから突然浸入して來て僕を昏倒させた快漢も既に消え去ってゐたのです。
實のところ、それ迄全く頭腦の調子の狂ってゐた僕が、その時になって始めて、丸で霧に蔽はれてゐた景色が序々に仄々と見え始める様に、僕を一撃の下に昏倒さした男が、僕の輩下として使ってゐたのに、僕の命を青年會舘の屋上から吹き消さうとしたところの支那人の陳であったことや、それから僕の相手をして呉れてゐた女が、波瑠子さんであったことも解って來たのです。
これは、後で醫者から聞いたことですが、何か偶然な衝撃の間に腦に異常を來たした患者は、再び又何か大きな衝撃を受けると恢復する場合があるとのことです。例へば、子供の頃ぶらんこから墜落して失語症になった人が、二十何年も經って飛行機に乗ってゐて宙返りをされた瞬間から再び口が利ける様に成った等といふ實例もあるさうです。僕の場合も恰もそれに類してゐるので、陳を追跡して來た人々に對して陳が立て續けに浴びせ撃ったピストルの響、こんな衝撃が僕にとって誠に奇妙な倖を齎した譯です。
おのれに返ってから慌てゝ探査してみると、陳は八尋の家で海保と死に物狂ひになって闘ひ取ったダイアモンドだけでは物足り無さに、パラダイスクラブに忍び込んで貴方を引浚って上海へ飛ぶつもりでやって來たところが、意外にも僕がゐた爲に奴さんはうろたえて、あの仕儀だったのです。
然し、事は奴さんの思惑通りに運んで、どうやら貴方を無理往生に玄界灘を越さしちまったらしいので、僕としては、ダイアモンドは二の次としても、男の意地として陳に一泡吹かさずにはゐられないと、又一つには、敵であらうと味方であらうと貴方をむざむざと支那人風情の弄み物にして指を啣えて引込んでゐられなくなって取る物も取りあえず後を追って來たのです。
蛇の道は蛇で、陳の足取りは、以前から連絡を附けてゐた阿片の方の穴をほじくって譯無く解ったし、貴方も、ダイアに釣られ乍らも機會を覘って陳の保護を受けてどうやら無事に暮らしてゐるらしい事も解ったので、萬更手遅れでも無いと知ったのです。ところが、ところがです。斯うして永々と喋ってゐる間でも實は氣が氣で無いのは、今夜、恐らく今頃から明日の暁方迄の中に、ひょっとするとあのダイアが陳の手から外へ渡るらしい。といふことを嗅ぎ附けたのです。
お互ひの複雜な感情は感情として、貴方の物になるか、或は又僕の物になるかは第二の問題として、お互ひの爲にあのダイアの存在區域を限局しなければならないのです。斷じて支那人の手に渡してはならない共同の義務があると思ひます。あのダイアを廻って魔手を伸してゐる人間は未だ多ぜいゐる筈ですが、少くとも、貴方の場合も、あのダイアに對しての執着は他の奴等と異って、單なる物質慾だけでは無く、おのづから別箇の理由がある筈です。これが、恐らくは例へ一時間にもせよお互ひが協力し得る一つの要素であると僕は信じて止まないのです」
車は大通りから一度左折して矢の様に走り續けてゐる。
百合子といふ思ひ出の名を名乗った波瑠子は、默々として木川の言葉に耳を傾け乍ら、時々はっきりと同意を示す様に點頭いてみせてゐる。たゞ怕ろしさと、その父親にまつはる不快な追憶と、そして、ダイアモンドを狙ふ執拗さから來る不快と、これ以外の木川といふ人物がこの世の中に存在してゐないと信じてゐた波瑠子は、泌々と今その誤りを正さなければならない様に感じられ、然も、嘗ては、自分の書いた筋書に依ってこの男の生命を極どいところ迄追ひ詰めた罪さへも悔ひられて來るのであった。
實のところ、自分としても、現在では陳の監視の眼を迯れて日本へ歸れないことも無いが、意地づくでもダイアを引浚はずにむざむざと歸り度くはなかったのだ。
幸ひにも、ダイヤを餌に釣ってゐるつもりの陳を逆に釣って思はせぶりをして陳の氣持を掻き廻し乍らダイアのありかを探らうとして今日迄來たのに、流石に色と慾とを鮮かに切り離して使ひ分ける支那人一流の技には氣附かずにゐて、はからずも木川との會見でダイアが明日の暁方までに捌かれてしまふことを知って、今更ながら狼狽したのであった。
「よく解りました。先々のことはとも角として、今夜はお互ひによき味方として力を併せませう。陳の部屋の鍵の隠し場所も知ってゐます。己惚れて、用があったらこれこれに合鍵が隠してあるから何時でも會ひに來い。と言ったのがもっけの幸ひです。部屋を掻き廻したら何かの手掛りがあるかもしれません。その上で、陳の行ってゐる場所が解ったら乗り込みませう」
波瑠子は昂然として斯う言ひ切った。
「哈爾賓男」も決然として、
「のるかそるかの大芝居を打ってやりませう。所は、國際的都市の上海のまったゞ中です。舞臺としては申分ありません」
と言って朗らかに笑った。
「止れ」」波瑠子は運轉手にに聲を掛けると、自動車は雲南路の映畫館中央大戯院の前にぴたりと止まった。
波瑠子の案内で、木川は、運轉手の「ありがたうございます」といふ聲を後にして細い露路の暗に消えて行った。
4
襟筋を渡り走って行った鼠の蹠の不氣味な感觸に陳はどうやら意識を恢復したらしく一寸首を縮めて力無く眼蓋をそおっと開いて見た。芬と鼻先を突いて來る濕っぽい匂ひと何處を見廻しても咫尺も辨ぜぬ顏の底に落込んでゐる状態を、凝乎と考察してみた。
はっきりと醒め切らぬ魔醉劑の爲に頭の底が時々づきんづきんと痛んでゐると、時を置いてこみ上げて來る胃液の辛さ等が二重の苦痛になって陳を責め苛んでゐる。
龍伯の部屋で盛に酒を酌み交はして、醉ひ痴れてその儘床に寝てしまったらしいところ迄は記憶に在って、後は、斯うして得體の知れない場所に轉がり込んでゐて眼を醒ます迄の經過は全く想像も附かなかったのだ。
然し、陳は、大方だらしなく醉拂って、龍伯の家の物置きにでも入り込んで寝てしまったんだらう位にあっさりと考へを決めて、物倦ささうに手足を伸ばした。
がたん、とひどい音がして足に障った物體が床板に倒れると同時に、大方物蔭にでもひそんでゐたであらう鼠の群が、一齊にすさまじい音を立てて迯げ惑ふのであった。
陳はぎょっとした。どうも變だと氣がついた。慌てて體の周圍を手探りに調べてみた。床はザラザラと干き切った泥にまみれてゐる。壁際には人間の形のした妙な二三尺位の同型の物がずらりと並べられてある。最前、足に觸って倒れた物もこれかもしれない。ほこりとかびにまみれた妙な物體を更に探った陳は、それは木彫の佛像であることに氣が附いた。
(龍華の古塔だ。奴の家の近くでこんな物の在るのは龍華の塔だけだ。畜生!!)
陳の頭腦にちらっと閃めいた考へに、彼は自分乍らぞっとしてしまった。
龍伯の家へ取引に行ってから行衛不明に成った人間のあることを兼てから耳にしてゐた陳は、今更ながら自分の迂濶さが悔まれてならなかった。何かの都合で一時此處へ投り込んで置いたものの、やがては袋詰かなんかで黄埔江の泥の底へでも埋め込む手段かもしれないのだ。(安くふんでも十萬兩からの代物だ。人間一匹の生命なんか何でも無い筈だ。野郎一杯喰はしたな)と陳は、急に腹の底から憤りの念がこみ上げて來た。
幸ひにも早く醒めたが身の運だ。あいつがその氣なら、どうなるかみろと陳は急に起き上らうとして腕に力を入れて床板をぐっと押すと同時に思はず「あっ」と叫んで再びだらしなく床の上に堂と倒れてしまった。
腰が何かに打碎かれてでもしまった様に何の役にも立たず上半身を支える力を失ってゐるのだ。
陳はゐざる様にして體を動かして暫くもがいてゐたが、漸く坐ることが出來た。
その儘の形で暫らく凝乎としてゐた陳は、やがて、拳を握って腰の周りを左右から何度も何度もとんとん敲いたり摩擦したりしてみた。
壁に體を摺り附ける様にして安定を保ちながら半朽ちかけてゐる狹い梯子段をよろけながら傳って塔を降り始めたのはそれから間も無くのことであった。
5
五人の中の二人だけは未だ思案が定らないと見えて、椅子を壁際のところへ持って行ってどっかりと構えながら矢鱈と煙草をふかしては頭髪の中に指を突込んではバリバリ掻いてゐた。
札を入れてしまった三人の男は、眞中のテーブルに集って、主人の龍伯と氣易さうに世間話に耽ってゐた。
給仕が引きりなしに、蒸したタオルやお茶、つまみ物等を運んで來ては順々に勸め廻ってゐた。
賣物のダイアモンドは、恰も、これ等の人々を睥睨してゐるかの如く、開かれた小箱の中から燦然たる紫銀の光輝を放ってゐるのであった。
流石に、主人の龍伯も、話の途切れ途切れには氣になると見えて一々ダイアモンドに眼を配ってゐた。
思ひがけ無くも飛び込んで來た大枚な仕事の懐勘定をしてみてはニヤリニヤリしてゐる龍伯も、他處目には、いかにも律義らしい好々爺であった。
札を入れてしまった三人の中の一人は、いかにも、もどかしさうに殘りの二人の方へ顏を向けては、じれ加減に野次ったりしてみるのであった。
その度毎に、龍伯は、一層莞やかに、
「まあ、まあ、左様仰しゃらずにな、未だ未だ時間がたっぷりありますことじゃて」
とこれをなだめてゐた。
「儂としても先づ今迄に無い大口ですし、ここでお互ひにたんまり儲けずばなりますまいて、はっははは、まあなるべくぴんと彈いて上値で落として貰ひませう喃」
龍伯は、更に殘ってゐる二人の男に聞こえよがしにこんな話をするのであった。
殘った二人は、急に決心を定めたらしく、氣を合はせた様に二人ながら一齊に名刺の上に鉛筆を走らせ始めた。
この氣配に、主人の龍伯始め、先の三人も思はず片唾を呑んで二人に目を注いだ。
一人は書き終るとつと立ってテーブルの上の入札箱へ歩み寄って來た。
も一人の方は、書き始めたものの、どうやら決心が鈍るらしく、いそがしさうに幾度もそれを消しては書き直してゐるらしかった。
然し、深夜の愁幽莊に催されたこの奇怪な交易も、後何分かの後には濟まされさうとしてゐるのだ。
話聲が、ぴったりと止まると、後は物音一つしない靜けさで、風の無い中庭の樹々も夜の闇に居すくまってゐるのだ。
最後の入札者の指先に、期せずして指の神經がぴったりと集注されてゐなかったならば、恐らく、この中の悉くの人が一齊に氣取ったであらう物音が、低くはあったがテーブルに最も近くの裏側のドアで起った。
だが、人々は思ひ思ひに、今言った如く、胸算用に心をわくわくさせ乍ら、殘された一人の男が一しんに書き記してゐる數字の額を探り當てるべく耳を濟まし、眼を見据えてゐたのである。
扉にはすうっと一寸許りの隙間が作られた。
最後の一人は立上った。
轟然たる短銃の響きが續け様に三つ四つ起った。最初の一發はテーブルの眞上に照り輝いてゐる電燈を撃ち消して了った。後は續けて、テーブルの兩側一二尺の空間に向って放たれたのである。
打ちひしゃげられた様な龍伯の唸き、故買商達の恐怖の叫喚、電燈が碎けると間髪を入れず部屋の中に人間が飛び込んで來た氣配がした。
「畜生、陳啓文め!!」
龍伯はいかにも無念さうに斯う叫ぶと共に堂と倒れた。
この恐怖すべき混亂の瞬間にもテーブルの上には闇を貫いて一個のダイアモンドは燦として輝いてゐるのだ。
が、それもほんの束の間、この一個の寶石に對して、生命がけの何本もの手が一齊に殺到した。
短銃は再び、ぴうん、と唸って鋭い光芒を吐き散らした。新たに何處か射抜かれて唸く者、椅子を掴んだ儘のけぞる者もあるらしかった。
ダイアモンドは颯とその光輝を消し秘めてしまった。
兩方の扉から手に手に懐中電燈を翳した數人の龍伯の下僕や用心棒が部屋に踊り込んだ時には、額から腦を打ち貫かれた龍伯の屍體と、窓際に縮まってゐる故買商が二人と、可なりな重傷に唸き乍らテーブルの側に倒れもがいてゐる三人の故買商以外に人の影とても無かった。
煙の如く侵入して、部屋中に鮮血のしぶきを散らして、再び煙の如く立去った怪人であった。
そして、ダイアモンドは小箱ぐるみ、これも亦、煙の如く消え失せてゐるのだ。
6
一時あまり前から降り出したぬか雨に、街々はじっとりと沽れそぼちてゐる。
夜の無い街とは言へ、さすがにあと一二時間も經てば夜も白々明けにならうといふ時分のこととて、街燈さへもうすぼんやりと、いかにもだるさうな光りを、人通りのとだえた舗道の上に放散してゐる。
殆ど滑り込む様に音も無くすうっと走って來て、ホテル・アスターの玄關の前にぴたりと止まった一臺の自動車の中から、いかにも身輕に降りた人がゐる。
エドワード黄とカルトンの踊り場で名乗ってゐた新歸朝の支那紳士である。
眞黒のオーバーの襟を立てた間から眞白な襟卷がチラっと覗かれるといふ誠に粹な様子に似合はず、オーバーの裾の方からズボンと靴にかけて、恐ろしく泥まみれになってゐるではないか。
つばを眞深く降ろしたベロアの帽子も、踊り場から直接にホテルへ歸って來た人にしては沽れやう筈の無い雨にぐっしょりとなってゐる。
こんな氣持の惡い様子に似げ無く、エドワード黄は、氣輕さうに口笛で流行歌を吹き鳴らしながらホテルの石段を足早にトントン上って行った。
宿直の給仕に何か冗談を言ひ乍ら部屋の鍵を受取って自分の部屋に辿り込んだ黄君は、先づびしょぬれの帽子を敲き附ける様に帽子かけに引掛けて、
(うう、氣持が惡い。然し、まあこれでどうやら次の船で歸れるといふもんだ。玉はもう一遍日本へお歸りだ)
とはっきりとした日本語で獨り言を呟いたものである。
メリケンチャイナである等のエドワード黄は流暢な日本語で獨り言を言ふとは。
彼の上海に於ける役目はどうやらこれ以上複雜に進展しさうも無いし、用人の爲に持ってゐるであらうところの彼のコルトの拳銃の彈丸がただの一發も筒先から飛び出す機會も無く空しく縮こまってゐると、ここらで彼の素性を素破抜いてもいいだらう。讀者よ、彼のチョッキの内隠しの名刺入の眞中ほどにもぐり込んでゐる一枚の名刺を引こ抜いてごらんなさい。斯う書いてあるのだから、待ち給へ――
MR. EDWARD WONG
TENG SING CHINA |
あっ、不可い、これは上海用のだ。もう一枚、今度こそどうです。
忠 勝 三 郎
私立探偵事務所
東京市京橋區銀座西五丁目十六番地
電話 銀座 四四一五番五九八三番 |
カルトンの踊り場から雲南路まで、雲南路から遠く龍華の村洛まで、忠勝三郎は、木川國男と波瑠子を尾行してその動靜の一伍一什を傍觀してゐたのだ。
「若し若し郵船の支店ですか。明日の長崎丸一等船室が開いてゐますか、こちらは一人です。いや三人ですなまあ、もう申込んで無いとしたら恐らくもう一二時間中には後二人申込むでせう。僕は一人ですがね、名前は忠勝三郎後は、來た時の書類で調べて下さい。直ぐ解りますから、それから序におせっかいですが、後の二人の名前を御知らせしませうかね、いや然し恐らく變名するでせうから止しませう。
男女一組であることは確かです。何、今他の電話で申込みが來てゐますって、なるべく船室を近くに願ひ度いですな」
暁方の霧雨もすっかり上ったと見えて、正午頃の日ざしが明々と部屋の中へいっぱいに入り込んでゐる。
忠勝三郎は寝衣の儘で寝臺から伸び上って卓上電話を使ってゐたが、話が濟むと受話器をがちゃりと音させると共に、再び寝臺の上に轉がって大きなあくびをしながら四肢を一杯に伸すのであった。
注)句読点は変更追加したところがあります。
注)明かな誤字誤植は修正していますが故意の可能性のありそうなのはそのままです。ダイヤとダイアなど他者との整合はとっていません。
「波瑠子と百合江」浅野玄府
「犯罪科学」 1931.05. (昭和6年5月号) より
【あらすじ】
横山栃郎は尋常科を卒業し花屋へ奉公した後に独立、みのりと知り合った。その後株式取引店の少年店員となり青塚三郎のパラダイス・クラブで女が監禁されているのを見た。その女はみのりのもつ写真の女で波瑠子だった。そしてまた栃郎の行方不明の姉だった。私立探偵忠勝三郎の事務所で波瑠子の名を聞いて驚いた栃郎は、忠勝に問い詰められ事の次第を話す。波瑠子の名を口に出して歩いていると男に呼び止められる。
家具商店の青年外交員花島謹吾は妹とく子が行方不明なっているのを知った。ハル子からの電話で出かけたという。とく子はナイル・カフェーで百合子と名乗っていた。波瑠子の殺害事件ととく子の行方不明、海保を怪しく思った謹吾は幽霊で脅す。海保を尾行していくと、彼は八尋の家へ行った。なおも尾行するが気付かれ、見失いがちに追っていると紳士とぶつかってしまう。紳士は気絶からさめると、盗まれたと叫んだ。
「密室の呪詛者」青山龍三
「犯罪科学」 1931.06. (昭和6年6月号) より
【あらすじ】
謹吾は気付いた男を尾行する。バスに乗った男をタクシーで追い、下車したところをなおも追う。
男は古びた洋館からもれてくる男と女の会話を聞いていた。出掛けようとする男女のうちも男を玄関で撃ち殺し、女を奥へ連れていった。謹吾もまた家に中に入った。
謹吾は明かりの点いている部屋に入ると、足音がして隠れると白壁が開いて男が出て来た。男は死体を抱いて再び入っていった。
謹吾は階段を降り、暗闇の中で光が漏れている鍵穴から室内の様子をうかがった。尾行してきた男は死体から宝石を取出し足蹴にした。殺されたのは木川で、男は支那人だった。
男は木川の父に殺された張文令の息子だといって、裸にして縛った波瑠子を掻き口説いている。
波瑠子は張を拒む。張は波瑠子を笞打つ。謹吾は冷気に襲われるのを覚えた。
「運命の旋風」吉田甲子太郎
「犯罪科学」 1931.07. (昭和6年7月号) より
謹吾は、腦髄がぎゅっと凝集して一本の針になり、危く知覺を失ひさうになるのを感じた。指先一つも思ふやうには動かうとしない。今倒れるぞ! さう心の中で呟くと同時に、彼は最後の意力を振ひ起して、斷ち切れようとする神經をぐっと支へた。
「扉をあけなければ! どんなことをしても部屋へ入るんだ。」
謹吾の身體がその考へではち切れさうになった時、彼の頭に閃くものがあった。
「鍵!」
右手の指が、チョッキの左ポケットへ躍り込んだ。十五に餘る鍵の束が、ガチャリと彼の左の掌の上に落ちた。音! 音をさせてはいけない。指で鍵全體を緊りと握りしめた。右の人差指が、鍵穴をさぐる。ざらにある平凡な錠に過ぎない。それを家具商の本能がすぐ告げた。鍵を失くした得意先へ呼ばれる時の準備に、いつも身につけて居る鍵束、それが今夜こそ、危急な場合の役に立つのだ。
彼の指は忙しく、一つ一つの鍵を暗の中でさぐった。幾度も試すことは出きない。敵に覺られた時は、自分の身體が部屋の中にある時でなければならない。これか? 違ふ。これは? それもいけない。これ? よし! これだ! 謹吾はその鍵一つを注意深く鍵の環からはづした。
殺氣を帶びた謹吾の眼が、獲物を覘ふやうに、鍵穴からのぞいた。
波瑠子は、(※足宛)く力も盡きたか、今にも椅子からづり落ちさうに、身體を二つに折って、ぢっと動かない。張は、ほの暗い電燈に照らされて不氣味なまでに蒼白い裸形の女の頸のあたりに、瞬きもせずに見入って居る。その足もとに長々と横たはるさっきの男の死骸――一切が、力のはりきった靜寂、凄じい沈默だ。
溜息とも呻きともつかぬ物音が、謹吾の咽を押し破って微かに洩れた。彼は身構えた。右手に鍵、左手には九寸五分の匕首をぎっちり掴んで居た。
ガチャリ! 見込にたがはず扉は颯と開いた。
パン! 間髪を容れず張のピストルが轟然と火を吹いた。ヒューッと頭上を掠める彈丸の音を、謹吾ははっきり耳にした。若し彼が豫め注意ぶかく身を跼めて居なかったなら、この一撃に斃されたに違ひなかった。
波瑠子が、ピストルの音に思はず悲鳴をあげた時には、既に逞しい謹吾の腕が、張の右肘をがっちり押へて居た。が、狂った惡魔は、肘を押へられたまゝ、譯の分らぬことを喚きながら、天井へ向けて更らに一發ぶっ放した。
「けだものめ!」
謹吾は匕首を口に咬へて、左手でピストルを捩ぎとらうとした。然し、張はその隙を覘って、謹吾の脾腹へ空いて居る右手で烈しく突きをくれて來た。さける拍子に思はず肘を押へた手が離れて、二人の身體はさっと一間位離れた。
すぐには銃口が謹吾の胸板を覘った。
絶對絶命! 謹吾の眼前は一時に暗くなった。
パン、パン! 二發の銃聲が鳴るのと、謹吾がばたり俯伏せに倒れるのと同時だった。だが、謹吾の兩手はぐいと伸びて、張の兩脚を一度に前方へ引いた。二つの彈丸は又しても空しく壁へめり込んだに過ぎなかったのだった。
「ウワッ!」
どさりとのけぞり倒れた張の上へ、跳ねあがった謹吾の顏は、血の氣を失って紙のやうに白い。恐怖のために前後の思慮を失った彼の右手には匕首があった。
「鬼め!」
それと一緒に、匕首は張の乳下をぐざと抉った。
女は、縛られたまゝ立上って、ふらふらと二人から最も遠い壁際まで遁げると、そこに背を凭せて、呆然とその場の様子を眺めて居た。彼女の眼球は今にも眼窩から飛び出すかと思はれた。
苦しさの餘りばたばたやって居た張の足がやがて動かなくなった。
謹吾は力なく立ち上がって、血の滴る匕首をカラリと落した。目の下に自分の殺した人間が伸びて居る。
「飛んでもないことをした。」
はじめて、自分が何をしたかに氣づいた彼は、臆々と部屋の中を見まはした。と、闘爭に氣を奪はれて忘れて居た女の眼が、そこにぢっと自分を見て居るのを發見した。
「おゝ、俺はこの人を助けるために支那人を殺したのだった。」
謹吾は思はず二三歩女の方へ進み寄った。
波瑠子は、その時、はじめて自分の裸形に氣づいて消え入りたげに顏をそむけた。
2
「おい何處へ行かうといふんだ、着物なんか着かへて。」
「何處へ行かうといゝぢゃないの。」
「いや、よくはない。晝日中、東京の街の中をのこのこ歩かれて堪るものか。」
「相變らず意氣地がないのね。かうまで姿を變へてりゃ誰があたしと氣がつくもんですか。」
「おい、海保みたいに甘い人間ばかり居やしないぞ。それに妹を替玉に使ったのは夜だったってことを忘れるなよ。」
「またその話なの。あれは妾ばかりが悪かったんぢゃないってあれ程話してあるぢゃないの。――あんたも承知して許して呉れた癖に。」
「だから何も今更恨みや嫌味を聞かせようっていふんぢゃないさ。たゞ、好んで危い眞似をしなくてもよからうっていふんだ。」
「煩いわね。何も浮気をしに出て行かうっていやしまいしさ。」
「煩さい? よくもそんな口が聞けたな。貴様は、この俺が居なければ、あの獸みたいなチャンコロに殺されて居たところぢゃないか。」
「よさう、よさうね、謹さん。どうしてお互ひにかう氣が荒くなるんだらうね。」
「お前の出かたが出かただからさ。惡いことはいはないから、晝間そとへ出るのは止して呉れ。」
「――」
「何だって今日はさう無暗に出かけたがるんだな。」
帶を締め終った女は、男のわきにぺたりと坐った。
「わけを言はなかったのは惡いけど、妾どうしても逃げる前に栃郎に一度會って行きたいのよ。百合ちゃんをあんな目に會はして置きながら、あんたに向ってこんなこと言へた義理ではないけれど――」
見上げる波瑠子の眼が、謹吾の視線と暗く會った。
運命に結びつけられた不思議な一對の男女の隠れ家、支那街の凄惨な一夜に、木川と張とが一室に斃れてから、もう三ヶ月の餘も過ぎて、この東京西郊世田ヶ谷のさゝやかな借家の庭にも、かぐはしい若葉が明るい初夏の日ざしを跳ねかへして居た。
青年花島謹吾の容貌を見よ。彼の歪められた運命が、今までの伸びやかな若者の俤を殘りなく追ひやって了って居た。こけた頬、くぼんだ眼窩の底には鋭い眸が不氣味な光を湛えて居る。
だが、豐滿な波瑠子の肉體には、何處にも衰への影は見出せない。次第々々に放縦な生活にならされ、徐々に人生の暗い面に接せしめられて來た彼女は、大きな精神上の衝撃を受けることなしに、いつしかさういふ強い刺戟に對する神經を麻痺されて了って來たのだ。けれども、はじめて吾等が彼女をカフェー・ナイルのサロンに發見した時から見ると、まるで違った女になって居ることは爭はれない。今の波瑠子は凄い女だ、完全にヴァンプだ。そのヴァンプにも、まだ弟に會ひたいなどといふしほらしい心持が殘って居るのであった。
「栃郎に會ひたい? 弟に――」
呟くやうにいふ謹吾の眼に、嘲りの影がちらりと動いた。
だが波瑠子は、その嘲りの影に向って挑みかゝらうとはしなかった。
「えゝ、一度だけでもいゝから――。どうせ近いうちには、會はうったって會へない身になるんですもの――」
沈んだ聲が、妙に謹吾の心持を押へた。
「俺はお前のお蔭で一生妹の百合江には會へないのだぜ。」――咽まで出かけたその言葉を彼はぐっと呑み込んだ。波瑠子の眼に、長らく見たことのない、柔かさ、人間の美しさが輝いて居たからである。
「それ程會いたいなら行ってくるが好い。たゞ、俺たちはうかうか外を歩ける身ではないといふことを忘れるんぢゃないぞ。」
「大丈夫。あれに氣をつけてね。」
「心配ない。だが、一度一緒に見て置かうかな。」
謹吾は、戸棚をあけて大ぶりのトランクを取り出した。蓋をあけて、その縁の裏側の心持革のふくれた部分を押すと、蓋の表に取りつけた大きな錠前が、そっくり彈ね上った。その下の凹みに、燦然と輝く物、眞黒なビロードにしっとりつゝまれて浮き上るばかりに光る寶石!
今までとは、似もつかない貪欲な二人の眼かぢっとそれを見つめた。
十秒、二十秒、一分ほどで、謹吾は、ニッケル金具の錠を凹みの上にばたりと落した。
二人は頷き合った。
「ぢゃ行って來るわ。」
「うん、早く歸っておいで。さうだ、序に郵船へ寄って切符を買って來てくれ。立つのは明々後日だからな。」
「えゝ、紳戸からね。」
「いや、門司からだ。船の中は短い方がいゝ。」
「分ったわ。」
「いや、ちょっと待って。栃郎には、決して何も話すんではないぞ。俺のことは勿論、お前が姉だといふことも明かすのではないぞ。相手が眞っ正直な子供だから、飛んでもない厄介なことになるに極って居るからな。」
「そんなへまなことをするものですか。それはさうと、いゝわね、今の物のことは。」
「安心して行っておいで――」
3
近海郵船臺灣航路の朝日丸が、玄界灘を眞すぐ南へ向って駛って居た。門司を出てからの第一日が漸く暮れようとして居る。灼熱した夕陽のおもてを掠めて、時々飛魚がとぶ。單調な機關の音がやすまず船體に微動を與へて居る。風はない。大きな濤がゆったりとうねって行くだけで、極めて穏かな航海である。
食堂ボーイが、一等船室の間の廊下を銅鑼を叩いてまはった。デッキ・ゴルフに興じて居た連中も、喫烟室で麻雀に夢中だった人たちも、それぞれ自分の部屋へ手を洗ひに歸った。派手な繪羽織をつけて船室から出て來る婦人客もある。これから樂しい船の晩餐が始まらうとするのだ。實際船に乗って居る間は、食事の時間が一番樂しい位のものであった。
だが、その樂しい食堂へ、乗船以來一度も顏を出さぬ船客があった。サロンの前のタラップを上り切った壁にかゝった船客の名札を見ると、十五號室岸野幸夫様、岸野令夫人様と並んだ一組がそれだった。
此夫婦のために、その部屋づきのボーイは一々食事を搬ばなければならなかった。
食器をさげて、食後の珈琲をおいてボーイが出たあと、十五號室の岸野夫妻は小卓を前にして話して居る。
「あんまり部屋から出ないで居ると却って變に思はれやしない?」
「うん、それもさうだ。然し、あれをおいてそとへ出るわけには行かないぢゃないか。」
「いっそ、あんたが身につけて居る方がよかない?」
「だが――」
男は、俄に妻の言葉にも賛成しかねるといふ様子であった。
既に讀者諸君は想像して居るであらうが、男は謹吾、女は波瑠子、問題のダイヤを携へて、臺灣へ逃亡しようといふ途中だったのだ。
謹吾は、哈爾賓男の木川が、ダイヤを持って居たばかりに、張のために惨らしく殺されたのを、まざまざと目撃して居るので、何かそれを自分の身にいつもつけて居るといふことには氣がすゝまなかった。
「だがも何もないぢゃないの。二人揃ってトランクの番をして居るなんて氣が利かない骨頂だわよ。」
「此船には、別に胡散臭い人間は乗ってやすまいな。」
まだ、謹吾には惡黨らしい膽玉が出來て居ない。それを波瑠子は笑った。
「意氣地なしね。ぢゃ妾が持って居ませうか。」
「お前、あの栃郎に會ひに行った日には、眞實に誰にも跡を尾けられたりしなかったんだらうな。」
「それは大丈夫。電話で、横山の家のものだからといって、近所のレストランへ栃郎を呼び出して、お晝を食べさせてから、封筒へ入れて行ったお金をやって來ただけですもの。――えゝ、なくなった栃郎の父に世話になったものだといふ振れ込みでね。」
「その話は幾度も聞いたが、俺はどうも不安でならない。」
「まあ、頼もしくないのね。あんたがそんなだと、女の妾はよけい心細くなるぢゃないの。」
波瑠子はありったけの魅力をこめて謹吾の顏をながめた。そして、力なく卓の上に置かれた男の手を執らうとした。だが、その時扉にノックの音が聞こえた。
さっきのボーイが靜かに入って來て、うやうやしく訊いた。
「もうお濟みでございませうか。」
謹吾の岸野は輕く頷いて見せた。
盆の上にカップをのせたボーイは、歸りぎはに言った。
「のち程お部屋のお掃除をして、ベッドのお仕度を致したいと存じますが。」
「いつでもどうぞ――」
今度は波瑠子が如何にも奥様らしく答へた。
4
三十分の後、またボーイが姿を現した。
「おそれ入りますが――」
ちょっと部屋を出て居て貰ひたいといふ意味を言外に汲んで、謹吾は氣輕にすぐ部屋を出て波瑠子を待った。化粧でもして居たのか、暫く手間どって女が出て來ると引きちがへて、ボーイが入って行った。
もう波の色もほの暗かった。金星がたゞ一つ、暮れきらぬ空に、きらきら光って居る。二人は無言で右舷から左舷へ一まはりして、サロンへ入り、丁度蓄音器をかけて居る人があったので、十五分ほどもそれを聞いて船室へ歸って行った。
部屋にはもう誰も居なかった。謹吾が先へ入って、波瑠子の入って來るのを待って鍵をまはした。その時だった、彼はピシリと右手を打たれて、思はず鍵を離した。と、キラリと銃口! 振りかへって見ると、波瑠子も白い服の男に羽掻締にされて居る。見ると、それは自分たちの部屋づきのボーイではないか。
思はず叫ばうとした途端に、耳もとで壓し殺したやうな聲。
「聲を立てると命はないぞ!」
彼の前にもボーイの服装をして、黒い眼鬘をした男が立って居た。
「花島謹吾! 俺は君に何の怨みもない。たゞ、寶石と女とを返して貰へばいゝのだ。」
「あっ! 青塚――」
「おい!」
覆面の男が鋭く、波瑠子を押へた男を振りかへった。同時に波瑠子の鼻は何か白い布のやうな物で被はれた。
謹吾には、何が何だか分らなかった。自分がいきなり惡夢の中へでも曳きづり込まれたやうな氣がするだけであった。
「愚圖々々せずにダイヤを出し給へ! その外に君に用事はないのだ。」
「ダイヤ? 何のことだか僕には分らない。」
謹吾は本能的に撥ねかへした。
「おい、俺は若僧だと思ふから柔しくして居るんだぞ。女も石も貴様には少し過ぎもんだ。今まででいゝ夢を見たと思って早く諦めるのが上分別だ。チャンコロを殺したことを訴へようってわけぢゃねえ。俺は氣が短えんだ。怒らせちゃ貴様の損だぞ!」
なる程、此男の言葉通りだ。謹吾では少し相撲が違ふやうだ。彼は既に小刻みに顫えて居る。彼は自分の敗北を知った。
「そ、そこのトランクの中です。」
「おい、開けて見ろ。」
青塚貝三郎――眼鬘の男は、栃郎を訪問した波瑠子を尾行して、以來眼を放さず、執拗くも此處までつけて來て居た青塚三郎だった――は、既に波瑠子に麻醉藥を嗅がせ終って、そこの寝臺の上に彼女を長々と横たへ、手をあけて第二の命令を待って居た手下にさう仰ひつけた。
「そら、鍵だ。」
青塚は、謹吾のチョッキのポケットから一束の鍵を取り出して、無雜作に投げ出した。
手下の男が二つ三つの鍵を試みるとやがてトランクは開いた。
「何處だ?」
青塚は依然としてピストルを突きつけたまゝ、謹吾へ聞いた。
「錠の下です。」
「錠の下?」
「僕でなければ開きません。」
「開けろ。」
謹吾は、蓋の裏側の膨みを押した。錠の金具がぽっかり開いた。
「うまく匿したな。」
言ひながら、青塚も、不思議な場處にしつらへた凹みを、謹吾と一絡に窺き込んだ。
「ない!」
謹吾の顏色が颯と變った。
「貴様、嘘をつくのぢゃあるまいな。」
青塚は、屹と謹吾の顏を睨み据えたが、恐怖に喘ぐその若者の眼が、自分自身も驚き呆れて居るのだといふことを十分に語って居た。青塚の鋭い眼はすぐに、正體なくベッドの上に倒れて居る波瑠子の身體に注がれた。
「阿魔を檢べろ!」
手下は、まるで魚でもいぢくりまはすやうな殘酷さで、波瑠子の帯まで解いて念入りに檢べた。
「女はたしかに持って居ません。」
青塚の險しい眉に暗い翳がさした。
「チョッ! あいつにしてやられたかな。」
彼は、ピストルをぶらさげたまゝ、暫く考へに耽る様子だった。傍に立って居る謹吾などはもう問題にして居ない。やがて、彼は何か一人頷いて手下の男にいった。
「歸らう。明日っから、貴様はまた今まで通りの船客ボーイだぞ。此若僧たちの御用をへいへい言って足してればいゝんだ。それから、そっちの若いの、貴様は今夜この俺に會ったことを忘れるんだ。そして基隆へ着くまでは、波瑠子と夫婦氣取りで居るがいゝ。二三時間すれば女は眼をさますよ。尤も船が着き次第、女だけは貰って行くからな。明日から廊下で俺に會っても知った顔一つするんぢゃないぞ。」
物もいへず棒立ちになって居る花島謹吾を尻目にかけて、二人のボーイは靜かに部屋を出て行った。
手下の男は何喰はぬ顏でボーイ船室へ歸って行った。青塚貝三郎は十八號室といふ客室へ入ると、うちから錠を下ろして、焦茶の澁いセルと着かへた。白いボーイの服は早速トランクの底へ――。
手下を、無理な工夫までしてボーイとして乗組ませ、自分でも時間と費用をかけて、此處まで尾けて來た青塚の計畫は、どうやら失敗に終ったらしい。
掃除にかこつけて二人を追ひ出し、二つのベッドの下へ、別れ別れに匿れて、謹吾と波瑠子の歸りを擁したまではよかったが、目ざすダイヤが、彼等の身にもついて居ず、匿し場處にも無いといふのでは、全く意味のない骨折をして了ったことになる。
緩りした着流し姿になって、何事もなかったやうに、自分の部屋のベッドに腰を下ろした青塚は、咬へたキリアジに靜かに火を點けて、自分に言ひ聞かすやうに呟いた。
「よし、あいつの仕事だな。まだ船がつくまでには二日あるぞ!」
5
「火事だッ!」
「火事だッ!」
船室の扉をバタンバタン開ける音、デッキをドンドン走る音、タラップを駈けのぼる音、音、音、音!
「何處だ何處だ?」
船尾の方に起った喚き聲を目ざして、船員も、船客も、一齊に走せ集った。
たとへ三四日にせよ、海上で生活するものゝ不安は、陸上のものには想像もつかない。
謹吾は、まだ麻醉から覺めぬ波瑠子をぢっと見守って居たが、此騒ぎにぢっとして居られなかった。ちょっとの間は躊躇したが、堪らなくなって、扉を開け放して飛び出した。
入れ違ひに、するりと忍び込んだ黒い人影があった。人影はあたりには目も呉れず、波瑠子が氣を失って倒れて居るベッドの下の大トランクへ這ひ寄って、それを掴むと一緒に立ち上った。が、トランクは重い。彼は思はずよろめいた。そして彼の身體が其處にかけてあった鼠色の背廣に烈しくぶつかった時、彼の左の二の腕にこつんとぶつかる小さな物體があった。
「おや!」と思った彼は、トランクを再び床に置いて、忙しく掛って居る背廣の此處と覺しいポケットを探って見た。指尖に冷たい感覺――電燈にかざした彼の手のさきに燦として冷光を放つ裸の寶石!
夕方、謹吾と一緒に船室を出る時、若しトランクをさらはれたらといふ不安から、波瑠子のした細工だ。無雜作に匿す――そのトリックは、青塚に對してはうまうまと成功したのであったが、今また忍び込んだ人影人影のために無雜作に、全く偶然に破られて了ったのだ。
船尾の方の人聲は次第に鎮まって來た。人の散って行くらしい氣配だ。
物の一分間も、總てを忘れてダイヤに見入って居た怪人物は、素早くそれを鎖でつくった小さな蟇口の中へ収めた。彼はその蟇口を、頸から鎖で吊って居た。
もうトランクには眼もくれず、彼はするりと、その十五號の船室をぬけ出した。波瑠子の突伏して居るのには最初から氣がつかなかったらしい。
「人騒がせな。」
「煙一つ立って居ませんでしたな。」
「騒いだ奴を見つけて處罰する必要がありますよ。」
勿論、それらの言葉が絡れ合つて、がやがやした人聲だけになって近づいて來るのだ。
寶石を懐にした男は、舷側から乗り出さんばかりにして、折からの月に明るい海上を、頻りに眺め渡して居る。果しもなく曳いた朝日丸の澪のつきるあたりに、ぼっつりと小さな黒點、そこに舷燈が瞬くらしいのを、彼はやっと發見した。彼は何かを口にした。濤の上を疾風のやうにすっ飛んで行く異様な警笛が、三度鳴らされた。
吹き終った警笛を海へ投げると、彼は急いで兵兒帶をといた。着て居るのはセル一枚、下には此男、何と、ぴたりと水着をつけて居るのだった。
「待て!」
突然、後から肩をつかまれたのと、彼が着物を脱ぎ捨てたのと同時だった。
ちらと振り返ったゞけで、掴まれた手に着物を殘して、水着の男は、舷側から手擦りを越えて、無謀にも、四望陸影なき夜の玄界へ身を躍らせた。頸に卷いた銀の鎖が月に閃めく一瞬の間の出來事であった。
「うぬ! 海保!」
手に殘った着物を握りしめて覗き込んだのは青塚貝三郎だった。
6
火事騒ぎに驚かされた人々が、ぢきに青塚の周圍に集って來た。
「身投げですか。」
「えゝ、もう少しで抱きとめるところだったのですが。」
「身投げだぞッ――」
「早く船長にいへ。」
「船をとめないか。」
「何處に居ます。」
「沈んだんですか。」
「もう、づっと艫の方ですよ。」
忽ち、朝日丸は上を下への大騒動になって了った。
汽笛が幾度か鳴らされて、一萬噸の巨船はやっと停った。
元氣な、敏速な海員の活動が始まって、短艇が一隻、矢を射るやうに、航路を逆に、投身者を救ふべく走った。
海保がダイヤを持って飛び込んだ場所からは、既に一浬も離れて了って居た。それに、どうする了簡か海保は、抜手をきって、朝日丸の航路とは逆にどんどん泳いで居るのだった。まさか門司まで玄界の波を泳ぎ切る氣でもあるまいに――。
月はあるが、夜の海である。投身者の救助を命ぜられた艇長は、容易に救ふべき人間の所在を發見することは出來なかった。彼はへさきに立って、熱心に、出來るだけ廣い範圍を物色した。
「居た! とり舵! まるで方向が違ふ。」
艇はぐっと進路を變へた。その進路の前を夢中になって泳ぐ海保! まだ大分距離はある。
その時、疳高い汽笛が一聲高く鳴った。泳ぐ人も、艇長も眼をあげた。二三百噸の小蒸汽が、非常な快速力で驀進して來る。
艇長は首を傾げた。この航路に長い經驗のある彼が且て見たこともない船だ。それにそんな小型の船で此處まで出て來るといふのはむしろ無謀といはなければならない。
海保は、小蒸汽の姿を目近に見ると、急に元氣づいたらしく、一層勢こんで泳ぎ出した。
だが、短艇の速力と泳ぐ速力とでは問題にならない。遂に短艇は彼から六七間の距離まで迫った。
「おい! こっちだ。早くボートへよれ!」
艇長が怒鳴った。
その聲を耳にもかけず、海保は小蒸汽を目ざして泳いで行く。この上短艇を進めれば、投身者の身體にぶつけるよりない。
「漕ぎ方やめ!」
そして艇長は、腕組をして、泳ぎさる不思議な人間を眺めて、考へ込んだ。
「あいつは遁げる了簡ですぜ。」
一人の船員が艇長にさう話しかけた。
艇長は默ってうなづいてなほ考へ續けた。彼は自分の任務として此まゝ歸船したものかどうかを思案して居るのだった。
もう泳ぐ人間は、むしろ小蒸汽の方へ近くなったかも知れない。小蒸汽も機關を緩めて停船の準備をして居る。
故意か、或は實際救の短艇に氣がつかなかったのか、あの男は、結局あの小蒸汽に救ひ上げられるだらう――さう考へた艇長は、兎に角歸船して、事實通り船長に報告しようと決心した。
「歸るんだ。漕ぎ方はじめ――」
艇長の號令が終らぬうちに、ざぶんと飛沫をあげて短艇から飛び込んだ奴がある。
「誰だ!」
だが、返事はない。競泳でもするやうに、その男は素肌を月光に躍らして波を切って行く。
脱ぎすてゝ行ったのは、たしかに朝日丸の水夫の制服だ。艇長はこの男を見捨てゝ歸るわけには行かなくなった。
疲れた海保の進み方と、今飛び込んだ元氣一杯の男の速力とでは問題にならぬ。二人の距離は見る見る縮った。
7
「海保待て!」
後から泳ぎついた男の手が、海保の肩にかゝった。
ふり返った海保の顏には、まるで血の色がなかった。
「うぬ! 青塚だな。」
「知れたことよ。貴様に抜駈されて堪るものか!」
あとは無言で、水の中の格闘が始った。互ひに相手を波の中へ押し込まうとする。死力を盡すあさましい二人を、月が冷く見下ろして居た。
8
朝日丸の艫の舷側に倚って、救ひに出た短艇の行手を見守る人々の間に、茫然として花島謹吾も佇んで居た。
「花島君!」
輕く肩を叩かれて振りかへると、見知らぬ顏が其處に微笑して居た。
「君、ダイヤはもう君の手にないよ。諦めるんだね。」
謹吾は、踏んで居る床が大きく揺れたやうに感じた。
「いや、君は元來惡い人ではない。善良な動機から惡い結果が偶々生れたに過ぎないのだ。臺灣へ行ったら、もう内地へは歸らぬ方がいい。そして出來たら、あの氣の毒な波瑠子といふ人も救ってやるのだね。君にはまだまだそれだけの純情が殘って居るさ。」
さう話し終った紳士は、無言で彼に一葉の名刺を渡して、さっさと傍を離れて行った。
何ともいへず、泣き出したいやうな氣持になって、船室へ歸った謹吾が、手にした名刺を見ると、
忠 勝 三 郎
私立探偵事務所
京橋區銀座西五丁目十六番地
電話銀座四四一五番五九八三番 |
と書かれて居た。
麻醉がさめかけたのだらう、波瑠子が苦しげに呻きはじめた。
注)明かな誤字誤植は修正していますが故意の可能性のあるものはそのままとしています。
注)結局中絶のようです。