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松本泰 作品小集7

Since: 2024.09.01
Last Update: 2024.09.01
略年譜・作品・著書など(別ページ)
作品小集1 - - - - - - - (別ページ)

      目次

      【探偵文藝掲載の随筆・評論など】

  1. 「指紋考」 (論考) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  2. 「友達の泥棒」 (聞いた話) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  3. 「新進作家の作品数種に就いて」 (投稿掲載作評) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  4. 「郊外より」 (新年の辞) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  5. 「お断り」「編輯室より」「編輯後記」 (編輯関係・身辺雑記) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
      【探偵趣味掲載の随筆・評論など】
     
  6. 「探偵作家の著書と創作」 (問い合わせ回答より) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  7. 「読むだ話、聞いた話」 (読んだ話聞いた話) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  8. 「記憶の過信」 (随筆) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
      【新青年掲載の随筆・評論など】
     
  9. 「(無題)(マイクロフォン)」 (論考) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  10. 「倫敦の浴場」 (紹介) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  11. 「好きな外国作家と好きな作中人物」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
      【その他の探偵雑誌掲載作、広義の探偵小説・作家関係、推薦文】
     
  12. 「懐しい心の伴侶」 (現代大衆小説全集広告) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  13. 「青空の下」 (随筆) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  14. 「運命の札」 (探偵小説紹介※ネタばらし部割愛) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  15. 「現代英国大衆文学」 (探偵小説紹介※作品内容部割愛) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  16. 「繭を破る前」 (牧逸馬の思ひ出) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
      【著訳編書の序文など】
     
  17. 「はしがき(『不可思議の世界』)」 (訳者序) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  18. 「序(『世界怪奇探偵事実物語集』)」 (編者序) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
      【その他の文芸・作家関係】
     
  19. 「書籍と風景と色と?」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  20. 「雨の日に」 (評論) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
      【少年時代】
     
  21. 「記憶に残る少年時代の思ひ出」 (葉書回答) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
      【大学時代】
     
  22. 「「例の会」のこと」 (談話) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  23. 「あの頃」 (随筆) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
      【倫敦】
     
  24. 「思ひ出多き倫敦の空よ」 (談話) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  25. 「八月の某日」 (随筆) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  26. 「晩秋の一日」 (随筆) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  27. 「セルビアの脚本家と其頃の郡虎彦君」 (随筆) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  28. 「ウヰンブルドンのヂョン」 (随筆) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  29. 「二つの市」 (随筆) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
      【北米】
     
  30. 「四十日間の散歩」 (日記より) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  31. 「ホールド・アップ」 (随筆) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
      【その他】
     
  32. 「襟飾と靴下」 (随筆) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  33. 「ラヂオ問答」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  34. 「私でない私」 (随筆) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  35. 「思ひ当った迷信、厄年に逢った厄の話」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  36. 「旅の感覚」 (アンケート) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
      【ディケンズ】
     
  37. 「文豪ヂッケンスの生涯」 (紹介) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
      【文芸小説】
     
  38. 「この頃」 (自然主義小説) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  39. 「冬の日の叙説」 (自然主義小説) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  40. 「聖日」 (私小説) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     
  41. 「巷の塵」 (倫敦戦時小説) 旧かな旧漢字 2024.09.01
     



「指紋考」
「探偵文藝」 1925.08. (大正14年8月号) より

 現今では犯人の鑑識上に指紋が重要な條件の一つに數へられてゐる。夫には三つの理由が存在してゐる。
 一、指紋は永久に變化しない。
 二、指紋は絶對に僞造されない。
 三、同一指紋は他に存在しない。
 指紋方の利用は必しも刑事犯罪人の捜査や鑑別に止まらず、數多い使用人を抱へてゐる諸官衙、大會社、大工場に及び、着々とその効果を認められてゆくにつれ、指紋の應用は日増に範圍を擴めてゆく。斯うなると一方には兎角反對説なるものが出たがるものである。米國のダッシェル・ハミット氏は科學的見解から次のやうな反駁説を唱へてゐる。
 一、指紋は永久に變化しないといふ説は一面から見れば確に成立する。指端に外傷を付けるとか、或は皮膚を摩滅して一時的に指紋を抹消する事は出來るが、局部が生理的に治癒すれば再び持って生れた紋形が現はれてくる。然しながら單にそれだけで永久に變化せずと斷言するのは早計である。或は外科手術によって皮膚を移植し、指紋を改造變化させ得る時代が來ないとも限らない。又指端の神経の一部分を殺して紋形の一部の發育を阻害停止させる事が出來るかも知れぬ。それ故現在の状態は指紋を變化せしめたる、例證及び變化せしめ得る方法未だ發見されずといふのが至當である。
 ハミット氏の所説は一應考慮の餘地はあるが未だ發見されない不確實な事實を肯定する譯にはゆかない。
 二、指紋は絶對に僞造されないといふ事も、僞造指紋は専門家の試驗によって直に看破されるものであるから、僞造の効果はない譯で、從って僞造は出來ないと斷言してゐるが、實際に於て指紋は自在に轉移し得るもので、即ち犯人が罪を他に轉嫁する爲に他人が机上或は扉などに遺していって指紋をそのまゝ金庫とか窓とか都合のいゝ個所へ移す事が出來る。これは化學試驗の結果發見された事實である。尤もこの轉移法は絶對の秘密とされてゐるから、恐らく惡人共に利用される惧はあるまい。然しながら、斯る新事實が存在してゐる以上、指紋は絶對に僞造出來ぬといひ得やうか。
 この反駁に對して私は斯ういふ事を附言しておきたい。科學の力によって指紋が轉移し得るものならば逆に科學の力によって果して犯人が直接遺していった指紋か、或は他から轉移したものであるかを容易に鑑別し得る筈である。
 三、同一指紋は他に存在しないといふが過去現在未來の人類に亘って一人殘らず指紋をとって見た上でなければ、斯ういふ斷定は出來ない。尤も同じ場所に於て、同一指紋の發見は至難であるといふ事はいへるであらう。
 これは特別の例外を指摘したもので哲學的には成立する理論であらうが、毫も指紋法の實際的効果を毀(やぶ)らない。指紋法が適用されて以來曾て同一指紋によって犯人を誤った實例は擧ってゐないのである。

注)明かな誤字は訂正しています。また読点を句点に変更したところもあります。


「友達の泥棒(聞いた話その一)」
「探偵文藝」 1925.11. (大正14年11月号) より

 私の父はその頃赤坂の山王下で醫者を開業してゐました。私は麹町の中學校で二度目の四年級にゐた頃でした。お恥しい話ですが落第をする位ですから無論學校の成績は不良(わる)く、屡々學校を缺席するので操行も不可を貰ってゐました。今から十數年前の事で仲間は随分早熟(ませ)てゐたもので、私も口先では可成り生意氣な事をいってゐましたが、頑固な父親や、嚴格な兄の目が光ってゐるので、口程にはまだ何事も仕出來しませんでした。
 同じ落第生の仲間で羽根澤といふのがありました。私共より二つ三つ年嵩で何處か地方の學校から轉校して來た男です。本郷あたりに下宿してゐて、どうした譯か私とは大分懇意にしたものです。非常に氣前のいゝ男で色々と新らしい書籍や、文房具などを呉れます。餘り私共書生の身としては高價なものであり、且つ餘り度々なので、家族の手前もありますので、辭退(ことわ)る事があります。すると羽根澤は大變機嫌を惡くして當り散らすので、その貰ひものには聊か當惑してゐました。
 終の新學期が始まって間もなく、休暇以來顏を見せなかった羽根澤が、長いゾロリとした和服を着て學校の門の外で誰かと立話をしてゐました。その男は三年級にゐる京橋邊の呉服屋の息子でした。後で話をきくと金を貸せとかいふ事だったさうです。
 羽根澤は段々敬遠されてきました。然し私に對しては不思議と金の事は口にせず、學校へは姿を見せない日でも折々は山王下の私の家へ遊びに來ました。
 或晩私と妹は兄に連れられて歌舞伎座へ活動寫眞を見に行き夜遅く家へ歸りました。兄が家のものに聲をかけて門の戸閉りをしました。床に就いたのは十一時過で、すぐ寝付いて了ったのですが、夜中にフト目を覺すと、中廊下を誰かゞ跫音を忍ばせて歩いてゐるのです。私共の部屋は電氣が消してありますが、廊下には電燈が點いてゐるので、見馴れない、いがぐり坊主の無氣味な影法師が障子に映りました。 私は恐ろしさにガタガタ慄えながらも引被った夜具の袖から覗いてゐますと、軈て障子をあけて鳥打帽子を被った男がヌッと首を出しました。私は電燈を浴びた男の顏を見て思はず聲を立てやうとしたのを危く押えました。男といふのはどうでせう、友達の羽根澤ではありませんか。そこは私共兄弟の勉強部屋で碌なものは置いてないのです。羽根澤は部屋を覗いたゞけで、ミシミシと奥の方へ歩いてゆくのです。彼は右手に短刀やうのものを所持(も)ってゐました。
 次の間には書生がゐて、また廊下を隔てた突あたりに雨親が伏ってゐるのです。私は枕から頭を擡げて、今に何事か騒ぎが起りはせぬかと胸を躍らせながら耳を欹(そばだ)てゝゐました。五分――十分――家中は寝沈ってカタリとも物音がしないのです。二寸程開放しにしていった障子の間から廊下の電燈が射込むでゐました。私はすっかり目が冴えて了ひました。暫時するとまたミシミシと奥の方へいった跫音が戻ってきました。そして臺所口から表へ出てゆくらしい音をきいてから私は大聲をあげて皆を起したのです。父も母も書生も私の聲に驚いて寝卷のまゝ起きてきました。
 兩親の寝室の箪笥や鏡臺の抽出しなどが散々掻廻してありましたが、品物の紛失は無かったやうです。只書生が机の抽出しに入れておいた十幾圓とかを蟇口のまゝ盗まれたさうです。
 門が開放しになつて、供待部室の腰掛の上に食ひ散らした蕎麥のかけが二つ置いてあるのです。蕎麥屋はつい裏通りの大野屋で私共のとりつけの家ですが、共晩かけ蕎麥を喰べたものは家にはありませんでした。無論喰べたのは羽根澤に違ひないのです。翌日になってから知った話ですが、その晩十二時鳥渡過ぎた頃、大野屋では雨戸を閉めやうとしてゐるところへ、書生體の男がきてかけを二つ注文していったといふ事です。 出前持が持ってゆくと、門のところで受取ったといひます。兎に角泥棒に入ったのは友達の羽根澤に違ひありませんが、都合上私はいつも家族の者に對して羽根澤をほめちぎってありましたので、今更泥棒の正體が私の友達であったとは言ひ得ませんでした。羽根澤は何喰はぬ顏をして、その後も二度ほど私の家へ遊びに來ました。泥棒に入った友達の話はこれでお仕舞ですが、羽根澤の遣口は段々本ものになってゆきました。警察では彼に目星をつけて彼の立廻りさうな場所に網を張りました。
 一度彼は洲崎の遊廓を徘徊中、擧動不審の廉で太平署へ擧げられたさうですが、觀世某とか僞名し、觀世なら謡曲(うたい)をやって見ろと司法主任に揶揄(からかわ)れて謡曲をやったところ非常に上手だったので、疑が霽(は)れて放免されたときゝました。尤も羽根澤は中々の美男子で名流の息子らしいところがありました。觀世某の僞名はすぐ曝露(ば)れたやうです。そして蒲田の下宿屋も突止められて了ひました。 その頃彼は本郷を引拂って郊外にゐたものと見えます。然し彼は下宿では捕りませんでした。警官が彼の部屋を捜索して一枚の女の寫眞を得たのです。その寫眞がものをいって、女は洲崎××樓の抱娼妓だといふ事が判明(わか)りました。そこで羽根澤は張込むでゐた刑事に、しょっぴいてゆかれたといふ事です。羽根澤はその後どうなったか一向消息をきゝません。

注)句読点は追加したところがあります。


「新進作家の作品数種に就いて」
「探偵文藝」 1926.12. (昭和元年12月号) より

 佐登利健君の、「色欲三等法裏表」は雄辯な筆致で思ふことをすっかりいってゐる。不良少年少女の經緯をあつかった、ウヰットに富む輕い讀ものである。最後に三等法の裏を細君に語らせるなんて、人た喰った、隅におけないところがある。
 輸越捷三君の「灰色の手袋」は自晝の寂しい牢屋町の光景を私に教へてくれた。作中の「私」が黴臭い夜の街の砂利を敷詰めた道路を、高ひ月に照らされながら歩いてゐる情景を私は大變面白く讀むだ。この作家がもっと事件の核心を掴むでいったら技巧と共に、勝れた讀みごたへのある作品が出來るだらうと思った。作中の登場入物の影が薄い、從って事實の眞實味がぴりっと讀者に迫って來ない。木下、山崎、坪井それから私などゝいふ屈強な男がそれぞれ走馬燈のやうに影を絡ませて、寂しい田舎町の一夜、殺人事件を中心に、のっぴきならぬ動きをとったら、きっと怪奇な物語りが出來たであらうにと私は思った。
 平野優君の「蝎」は殺人をした後の氣持をかいた小品で、ある程度まで用心深く、抜目なく主觀を叙してゐる。私はこの作中に、ごく微に山間の小さな町や、ウヨウヨ集ってゐる渡り者の工夫等や、曖昧茶屋の白粉を塗った偏干な淫賣婦などを思浮べる。私は夫等の生活色をもっとはっきり見たいと思ふ。
 稲田廣之介君の「赤ら顏の男」は犯人が小供で注意力が働かず、橙色の風呂敷に穴をあけたものを物干竿に掛けておいたといふ件を大變面白く思った。然し全體に讀後の感じは頗る物足りない。作若は所謂文章や言葉に捉はれず書かうと思ふ心持を氣で書くやうにしていったらどうかと思ふ。
 本田緒生君の作品に就いては他に改めて愚見を述べさせて頂きたい。
 若き友へ
 今月號は投書家のうちから數篇を撰むだ。このうちに、門司の川崎忠勝君、紳原和君、鈴木宏君、出射黒人君のものが間に合はなかったり、手許になかったりした事は遺憾である。これ等の諸氏は私の最も嘱目してゐる人々のうちに數へる。
 毎日集まってくる投書を見てゆく事は、寸暇のない私にとって至難事であった。然しこれからは、出來るだけ人々の努力を空しくしない爲に自分の勉強時間を捨てゝも、諸君の作品を熟讀する考である。今迄多くの投書を見て一番感じた事は綺麗な原稿、誤字のない原稿をかく人は、矢張り内容もそれに件って優れてゐるといふ事である。ものを書くといふ事は、ある點までは努力である。字引もひかなくてはなりますまゐ。清書もする必要があるでせう。作者は讀返してゆくうちに訂正する個所を見出す筈である。さういふ努力をして始めていゝ作品が出來てくる。

注)探偵文藝12月号の掲載された作品に対するコメントです。


「郊外より」
「探偵文藝」 1927.01. (昭和2年1月号) より

 郊外の、よく霽れた日、明るい雜木林は澱むだやうな穏かな光を浴びて丘の裾に眠ってゐる。
 黒い陸橋や、崖の下をくゞって、郊外電車の軌道が遠くまで眞直に延びてゐる。その鐵路を越へた高臺の小學校の後庭に數本の欅の老樹が細い針のやうな條枝を空に擴げてゐた。さうした靜かな或日は、まだ暮れきらない薄青い空に新月が浮むでゐるのを見出す事がある。若ぴとは戀を憶ひ、輝かしいさまざまの約束を夢みるであらう。新月は希望である。新月を見て最初に願った事を叶へられる。希望をもつといふ事はそれ自身が幸福である。靜かなる日よ郊外に績け! 若びとの希望よ多かれ!

注)内扉への掲載。


「お斷り」「編輯室より」「編輯後記」(松本泰のみ)
「探偵文藝」 1925.05.〜10. (大正14年5月〜10月号) より
「探偵文藝」 1926.07.〜12. (大正15年7月〜12月号) より

「お斷り」1925.05.
 前号に豫告して置きました探偵小説白晝夢は、私が急に齒の手術を受けたりしたものですから、執筆が遅れ本號の間に合ひませんでした。御約束を果さなかった心苦しさは、慶應病院で恐しく手荒な治療を受けた折の苦痛よりも、遥かに大きなものです。 やうやう快方に向ひ病院通ひも各日位で濟むやうになりましたから六月號には必ず面白いものを書いて埋め合せをいたします。松本泰は決して怠って居るわけではありませんから、何卒此度だけは御容赦下さい。  松本泰より。

「編輯室より」1925.06.
 目覺しい新緑の季節がきた。オカメインコのゐる窓の近くに椅子をおいて、快い五月の風に吹かれてゐると、野蜂の羽音がしたり、汽車の通る丘を越テニスのボールの音が聞えてきたりする。窓の外の空は青く新らしく光ってゐる。この生々とした青葉の世界から私はいろいろな事を教へられる。(泰)

「編輯室より」1925.07.
 輝かしい初夏が來た。都會の舗道に色彩を競ふパラソルにも、野山の青葉を動かす微風にも.季節の姿を見た。私は讀者諸君と共にこの悦びを頒けたい。雜誌はやうやく五號が出た計りで青春の前途は希望に燃えてゐる。この若い雜誌に就て各方面から頂く親切な言葉を私は感謝する。私は益々この道に精進すると共に讀者の御聲援を切望する。(泰)

「編輯室より」1925.08.
 毎年の事ながら夏がくると不思議にものが書けるやうになってくる。ギラギラした光線、蒸返すやうな暑氣、それ等に責められると、却って少しづゝ勇氣が出てくる。眞夏の日ざしは私を散歩に誘惑しない。炎熱を冒して訪ねてくる客もないから、郊外の書齋は閑散を極めてゐる。私は終日ペンと原稿紙をもって涼しい一隅を家中に追廻してゆく。ひどく暑い夏よ! 私を助けにきてくれ。
 愛犬ゴンベイは何ものかに盗まれて了った。筆の上なら名探偵をこしらへ上げて難なく彼の行方を突止めるのであるが、實地では思ふやうにならない。ゴンベイは四角な顏をしたブルドッグである。來客などのあった節、よく有名なゴンベイを見せてくれといはれる。その度に小舎の中で惰眠を貪ってゐるゴンベイは座敷へ引上げられる。不調法者の彼は恐縮して顏に似合はず尻込をする様子が可笑しいので却って喝釆を博した。これで犬を失ふ事十數回、今度は意地の惡い駄犬でも飼ふとしやう。(泰)

「編輯室より」1925.09.
 編輯がやうやく濟むだ。矢張り暑い日である。本文の五號活字を創刊號當時のポイントにした。どうも五號ではこの雜誌に相應しくない。頁數は少くなるが原稿はより以上に入るから却って内容が多くなる。そんな事で發行日が三四日後れた。
 未知未見の讀者から手紙を頂くのは嬉しい事の一である。一人一人に御返事の手紙を書く時間がないのを遺憾とする。班猫生、桑村生、本所某生、日出夫生、香港孤島生其他の諸氏に厚く御禮を申上げる。探偵小説の募集も慮へないことはない、其うちに實行するとして、讀者のうちに自信のある作物をお持ちの方はいつでも遠慮なく社宛に送って下さい。編輯會議を通過すれば相當の稿料を差上げて誌上に發表する。(泰)

「編輯室より」1925.10.
 秋といふ文字だけでも涼味を覺えさせる。よく慮へ、よぐ遊むでこの秋を最も有意義に過したいと思ってゐる。
 探偵文藝の愛讀者が社會のあらゆる階級に亘ってゐる事は心強い。直接購讀者の中で農學博士が二人、法學博士が四人ゐる。その他日清日露の戰爭に勇名を攀げてゐる老將軍も花のやうな美しい少女もゐるから黒猫の得意思ふべしである。尤も二三の不良少年はあるが、夫等は大分黒猫に引掻かれてゐるやうだ。
 今月號に「ゆびわ」が間に合はなかった事は慚愧に耐へない。(泰)

「編輯後記」1926.07.
 今年は青葉が大變に奇麗だった。緑の色が冴えて、丸い葉が一つ一つ光ってゐる。東側の窓にも、南に面したガラス戸の外にも、緑が溢れてゐる。堤の下の線路を折々汽車が白煙をあげて通ってゆく。斯うした穏かな郊外に住んでゐて、適々用事をもって、めまぐるしい東京の町へ出てゆくと、何だか異った自分が歩いてゐるやうな氣がする。用事なんていふものに碌な事はない。 町へいって私の會ふ人達は大抵忙しい商賣にたづさはってゐる。その當人は私生活に於ては實際にのんびりした人でも、町の雰圍氣が彼等を忙しくこしらへあげてゐる。何處へいっても損をしたとか、騙られたとか差押えとか、日歩とかいふやうな言葉をきかされる。夫等の人達は皆な生存の爲に氣を張りきってゐる。私はまるで新聞の三面記事の中を掻分けて歩いてゐるやうな氣がする。
 私は用事の爲に町へ出るといふ事を好まない。だから家を出ると一ヶ月分位の用事を一日で片付けてくる。そんな日に東中野驛に下りた時位、ホッとする事はない。東京の町では親みのない顏計りであるが、わが郊外の町へつくと、顏馴染の改札係は、「今、お歸りですか」といふやうな微笑をもって迎へてくれる。角の煙草屋、切花を賣ってゐる店、藥種店、洋品店、大抵の店に知った顏が並んでゐる。陸橋の袂の菓子屋にはテリヤがゐて私が通ると、すぐ飛出してきて、後足で立って私を見上げる。
 私の探偵文藝も町へいって本屋の店頭で見ると、矢張り激しい雜闘を厭ふ郊外居住者のやうに、片隅に小さく押やられてゐる。それでも店の前へ糶出してゐる大雜誌をおいて、隅の方から私の探偵文藝を見つけ出して買っていって呉れる讀者があるのは誠に感謝に耐へない。
 今迄は先約を果す爲にくだらぬ他雜誌へ執筆してゐて、この雜誌に多くかけなかったが、これからは出來るだけ澤山書くつもりである。單に探偵もの計りでなく。
 また頁數を減じて定價を下げた。これはどうしたら損が少くなるか、どうしたら雜誌が多く賣れるかと、いろいろやって見てゐるせいである。
 本號の表紙は、私が英國にゐた頃、一緒にトランプをしたり、散歩をしたりした友達の佐藤武造君が描いてくれた。テームズのエンバンクメントのチェルシー街の一劃で、晝間ならば、大きな、長い、魚のやうな破れ靴を穿いた老乞食が、ぼんやり壁に凭りかゝってゐさうなところである。氏の藝術には既に定評がある。今年は倫敦で再び個人展覧會が開催される。去年銀座の松屋で展覧會をやった時は見にいったが、倫敦は遠いので遺憾である。式造君またテニスをしやうぢゃァないか。
 藤倉君、一郎から五郎まで、それからまりちゃんの六人が自轉車を連ねて學校へ通ふ光景が目に浮ぶ。まりちゃんは相變らず垣根にぶつかったり、苺畑へ飛込んだりして、勇敢に自轄車を走らせてゐるでせう。六人が自轉車を並べて走ってくるのを、赤土の崖の下に待伏せして、そっくり誘拐してきて、一緒に遊んでやりたいと思ふ。(泰)

「編輯室より」1926.08.
 夏が來た。夏は樂しい。いろいろな聯想が遠い昔につながってゐる。そしてそれ等は皆霽れた日であった。三つの時母親につれられて、夏草の繁る田舎道を、小半日驛馬車に揺られながら何處かの温泉へいった事がある。母親は氣分がわるかったらしい。馬車が葭簾を張った立場(たてば)に停る度に、母親はその茶店で休むでゐた。筧から白っポい水が流れてゐて、蟹がその下を走り廻ってゐたのを、私はよく記憶してゐる。左手の青い山は宿につくまで見えてゐた。
 芝公園の閑靜な裏通りに家があって、小學校へ通ってゐた頃は少年世界の愛讀者であった。私が寝轉んで雜誌を讀む裏部屋から、百合畑が見えた。赤い花が咲いてゐた。その頃の友達はどうなったか、ちリちりになって、行先きが判らない。
 中学の二三年にゐた頃、大野と中野といふ二人の友達と葉山の海岸に一夏を暮らした事がある。その二人とは今も仲よくしてゐる。それぞれ異なった職業に就いてゐるが、一月に一度位は必ず會合して、呑氣な少年時代に返る。今晩も支那料理通の大野君から招待が來たので、中野君と二人で横濱へ出かけてゆく。ずべて私の夏の記憶は陽氣で、いつも夏雲と緑と青い海の中にある。
 今月は又南幸夫君、藤田辰夫君が忙しい中から親切に書いて呉れた。友達はつくづく有難いものだと思ふ。有難い友達といへば、野尻君もその一人である。毎月探偵文藝の爲に原稿を書いて呉れたり、その上折々新鮮な野菜だのおはぐろの付かない蠶豆(そらまめ)だのを呉れる。いつか文藝春秋から一人一語を書けと云って來たので、その事を書いたら、菊池寛氏から電車の乗車券を貰った。こんなに他人から貰って計りゐていゝものかと考へた。
 探偵文藝は先月號から内容も體裁もすっかり地味にした。此方が返って好評を博してゐる。
 田原秋夫君、御忠言ありがとう、返事を差上げやうと思ひながら、遂延々になったから、こゝで御禮を述べて置きます。(泰)

「編輯室より」1926.10.
 請君、今年は随分暑い夏でした。御變りありませんか。私は相變らず丈夫で、ものを書いたり、テニスをしたりして暮してゐます。何より嬉しい事は探偵文藝がメキメキ育って賣れてゆく事です。新聞廣告も碌にしないのに賣行部數が増すとは不思議ではありませんか、誠に雜誌界の七不思議の一つです。後の六つは追々にお耳に入れませう。 毎年夏季は雜誌の霜枯れ時と、早合點をして急に發行部數を減じましたところ、追注文がきても送る品がなく、大賣捌の大將共から散々叱られました。この小言に懲りて以後はどんな不景氣がきても探偵文藝の發行部數は減じない事にきめました。
 八月號は頁數が少くて四十錢とは高過ぎる讀者が減じはしないかと心配して、わざわざ御手紙を下すった親切な讀者がありました。實は普通の難誌百二十頁分位の原稿をあれだけに詰込み、その上紙質をよくした爲、大變に薄くなって了った譯です。内容の充實を買って下さい。

 讀者諸君から寄稿して下すった原稿が大分手許に溜りました。そのうち順々に發表します。大變面白いものがありまず。一々御返事を上げられないのを遺憾に思ひます。
 諸君、御身體をお大切に。(松本泰)

 九月號は印刷屋の爭議で、休刊の止むなきに至りました。こちらの損害はさることながら、讀者諸君に大變迷惑をかけました。お詫びの申しやうも御座いません。天災と思って諦らめて頂くよりありません。全く天災です。

「編輯室より」1926.11.
 秋の拾月九日に、友人數名と浦和へ文藝講演會にいった。村松梢風氏の經營發行してゐる月刊雑誌「騒人」社の主催である。文藝道に趣味をもつ程の士には是非購讀をお薦めしたい。浦和の町から近い大宮は少年の折に學校の運動會で一度いった事があるだげで、明るい公園の印象は、その日以來、新らしい記憶となった。
 大宮の町で書店を覗いたが「探偵文藝」も「騒人」も置いてなかった。讀者はどうぞその土地土地の書店に註文して頂きたい。一人でも讀者が殖へてゆくといふ事は、損得問題を別にして嬉しい事です。
 今月號から試に少し編輯ぶりを變へて見ました。私は締切間際に風邪で臥床した爲め、多く執筆出來なかった事を大變遺憾に思ってゐます。(泰)

「編輯室より」1926.12.
 探偵文藝の讀者を中心にして「友達會」を作り隔月一回、或は毎月一回何處かで會食をしながら雜談會を開いたらどうだと、友人や讀者からすゝめてくる。いゝ思ひつきだから十二月中に第一回の會合を催さうと考へてゐる。出席御希望の方は當編輯部に照會して下さい。

 空の霽れた月の寒い晩が續く、厚い外套の懐しい季節となった。今年も最早いくばくもない。ストーブの前の讀書、執筆、友達との雜談、それから明るい街の劇場、白い卓子掛けの誘惑、私逹の前にはいろいろなものが待ってゐる。讀者よ卓子の上の花を散らさずに強い珈琲をのむで新らしい春のくるのを待たうではありませんか。(泰)


注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加したところがあります。
注)段落頭に●や▲や◎が有ったり無かったりしますが全て一文字空けとしています。


「探偵作家の著書と創作」(問い合わせ回答より)
「探偵趣味」 1925.09. (大正14年9月第一輯) より

 大分抜けてゐるけれど、分ったのを列べて見た。著書と創作だけにした。著書の數字は定價。
  〇松本泰
三つの指紋、(絶版)東雲堂、一・五〇
呪の家(絶版)同上

死を繞る影(サンデー毎日二年前)
彼の犯罪(面白倶樂部三年前)
P丘の殺人事件(秘密探偵雑誌)
緑衣の女(同上)
眼鏡の男(同上)
燒跡の死骸(同上)
最後の日(同上)
盲老人の告白(家庭科學第一號)
黄色い霧(主婦の友一年前)
ガラスの橋(探偵文藝一號)
タバコ(同二號)
ゆびわ(同四、五號)
黒猫の目(少女倶楽部數年前)
盲尺八吹き(不詳)
 外に翻案物としては……
濃霧、惡の巷、霧の中の一週間、舞踏會の夜、二つの影等がある。

注)明かな誤字誤植などは修正しています。
注)掲載は、小酒井不木、春日野緑、松本泰、甲賀三郎、西田政治(八重野潮路)、横溝正史、本田緒生(あわぢ生)、水谷準、山下利三郎、江戸川乱歩。末尾には、「外に創作家として有名な牧逸馬氏、其他があるけれど、問合せがおくれて、つひのせ得なかった。御詫びします。」とあるところから、問合せ回答の扱いとしています。


「讀むだ話、聞いた話」
「探偵趣味」 1925.11. (大正14年11月第3輯) より

 格別新しい犯罪方法ではないが、最近私の手許に届いた外國雜誌に巧妙な詐欺のやり口が書いてあった。
 倫敦ボンド街の有名な寶石店へ、人品の賎しからぬ紳士が入っていって、自分は某々貴族の秘書であるが、主人は某婦人に寶石を贈る事になってゐるので、代理に品物を見に來たのだといふ。店主は良き鳥と計り、あるだけの上等品を見せた。紳士はその中の一つを選むでホテルへ届けるやうに命じた。そして思出したようにその店と深い取引關係のあるローマの寶石商からの紹介状を出して見せた。それには此状の持参人は身分のある方故充分信用して差支へなき旨が細々と認めてあった。 斯うした場合紳士の悠揚迫らざる態度は極めて自然である事は言ふ迄もない。そこで店主はすっかり信用して、紳士が歸ると直ぐ後から品物をホテルへ届けた。すると最前の紳士が再び店へ訪れて、非常に主人の氣に入ったので一層耳飾りにしたいから、これと對のダイアモンドを探して呉れといった。寶石商はお届けしたものならば二萬圓でよろしいが、對の品を手に入れるとなると、相當の費用がかゝるから三万圓でなくては引受けられぬといふ。紳士は値段は張っても差支へないといひ置いて歸った。 寶石商は早速同業者、及び古物商質屋等の取引仲間へ、寶石の圖面、説明書それに三萬圓といふ買値をつけて廻状を發した。ところで最前の紳士は寶石商の店を出た足で某質屋へゆき、問題のダイアモンドを僅二千圓で入質し、翌日になってから二千圓に利子を添へて受出しに來た。前夜廻状を見てゐる質屋の主人はその品こそボンド街の寶石商が三萬圓で求めてゐる品と同型である事を知り買受けたいと申し出る。紳士は最初澁ってゐたが遂に相當な値段なら手放してもいゝといって、とうとう二万五千圓といふところで手を叩いた。 質屋の主人はそれでも五千圓丸儲けといふので欽然として二萬五千圓を紳士に渡した。紳士は直に例の寶石商を訪ねて急に今夜の汽船で巴里へ行かねばならなくなったからといって前日受取ったダイアモンドの代金二萬圓を支拂ひ、後口の註文を取消して了った。馬鹿を見たのは質屋の主人である。折角二萬五千圓で買った品を寶石商へ持込むと、何の事はない、その店で二萬圓で賣った品だと判る。
 これと同じやうな題材を捉へてジョンストン・マッカーレーが「壺」と云ふ短篇を書いてゐる。これは私の探偵文藝新年號で紹介する事になってゐる。
 この話を家へよく遊びに來るKといふ大學生に話したらKは笑ひながら、實は古本を賣る時にそれによく似た手段を使ひますよ。
 といって學生間で實際行はれてゐる方法を語った。
 その一は先づAが某氏著の經濟原論を賣らうと思ふと一日二日前に友人Bが古本屋を軒別に訪ねて某氏著の經濟原論はあるかと訊いて歩く、あるといふ店では鳥渡冷かして出てきて了ひ、その品を持ってゐない店を見付けて如何にも困った顏をして見せ、學校で使ふ事になったので手に入れたいから、少し位高くてもいゝ故、探しておいてくれと頼むでくる。その後から本人のAが某氏著の經濟原論を賣りにゆく。
 その二は古本を賣りにゆく時に、友人から値打のある五六冊の書物を借り、その中に自分の拂ふ本を交ぜて持ってゆくのである。そして古本屋の親父に一冊づゝ價をつけさせてゆく、どうせ古本屋のおやぢの事だから、怖ろしく酷い價をつける。學生は最初フンフンと温順しくしてゐるがいよいよ自分の本の番がくると、「もう少し奮發してくれ」といふ、おやぢは前の上等な品に安い値をつけておくので少々こゝではづむでも損はないと胸算用をして、割にいゝ値をつける。 斯うして學生は自分の本の番になると巧に苦情を挾むで惡くない値をつけさせておいて、いよいよ最後になると、自分の本だけ殘して、おやぢが目をつけてゐた他の書物を悉く引込めて了ふ。そして自分の本だけを最初の言値通りに押付けて了ふのである。「尤もこの手段は少々圖々しい險惡な人相の男でないと成功しませんよ。」とKは附加へた。

注)明かな誤字誤植は修正しています。句読点は追加したところがあります。
注)「壷」は中野圭介訳で掲載されたようです。


「記憶の過信」
「探偵趣味」 1926.05. (大正15年5月号) より

 探偵小説の場合では人物の出し入れ、會話の受渡しなどが大切な伏線になるので、作者の方でも用意周到に書くから、出て來る人物はいづれも頭腦明晰で、實に注意深い觀察と、頼もしい記憶を持ってゐて、萬事が旨く解決されてゆく。然し實際の日常生活になると、なかなかさう都合よく進むでくれない。一體吾々は自分の身のまはりの事に對しても可成り迂闊なものである。現在自分が住むでゐる家の戸が幾枚あるか、窓が幾つあるか、二階へ通ずる階段が何段あるかなどゝ訊ねられても、鳥渡即答が出來ない。
 この間も父や弟妹達と暖爐(ストーブ)の前で食後の雜談をしてゐたとき、
「君は一體幾個ボタンを身に着けてゐると思ふ。」と父にきかれて、二十位でせうと、いい加減な答をしたが、實際は殆どその倍數以上のボタンを身體につけてゐたのに呆れた。が尤も私は洋服なので、下着から外套までを數へると大變な數になる。冬になると外套で思ひ出すが、私が倫敦で買ってきた褐色の外套は日本で一冬着て、二度目の冬が來ないうちに紛失して了った。多分虫干の折に盗まれたのであらう。その外套は厚い生地の割に輕く、からだにもよく適ってゐた。甚だ殘念であった。
 夫からのち、電車内で乗合せた人が、それと同じ外套を着てゐるので、若しやと思って、相手から怪しまれる程、ぢっと見入ってゐた事がある。然しそれを着てゐた人は立派な紳士で、他人の袖を通したものを着るやうな人品ではなかった。その後私の眼をみは(※目爭)らせるやうな、問題の外套を着てゐた人を、私は二人まで見掛けたので、さァもう判らなくなって了った。
 永年持馴れた時計などでもその通りで、餘程こくめいな人でなくては番號などを覺えてゐない。假りに覺えてゐたところで、盗まれた場合に番號だけで、自分のものとは斷言出來ない。なぜなら、時計工場の職人が、過って同じ番號を重複して刻まないとも限らないからである。
 時計と云へば英國に面白い事件があった。それは或會社の春季運動會が郊外の野原で催された折、アランと云ふ男が徒歩競爭に出て、第一着の名譽を得て鼻を高くした代りに、チョッキの懐中に入れておいた懐中時計を何者かに盗まれて了った。それには鎖はついて居なかったが、彼にとっては朝夕起居を共にしてゐた思ひ出の多い大切な品であった。彼はチョッキを上衣と一緒に脱いで、大きな樫の木の傍の籠に入れておいたのである。
 時計がなくなったと云ってアランは大騒ぎをして探したが、どうしても見當らない。籠の近くにゐたのは會社の小使でポロクといふ男である。のむだくれで日頃から餘り評判がよくないので、嫌疑がかけられたが、結局大切な時計はどうしても現れて來なかった。アランはすっかり悄氣て獨り先に市へ歸ると、警察へ盗難届を出した。
 時計は十八型銀側で、スタントン會社製、番號は一〇〇一であると届出た。警察では直に通牒を市内の各時計店及び質屋に廻した。ところがその翌日、或時計店へプリオといふ青年が時計を賣りに來た。店の主人は青年のおづおづした態度を怪しみ、警察から廻って來てゐる贓品リストと、青年の持って來た時計とを見較べると、確かに一〇〇一號といふ時計である。
 プリオは其場で逮捕されて警察へ引かれて行った。然るに彼は「此時計は八年前に亡くなった伯父の形見で、決して盗むだ品ではない」と辯明した。それでは誰か此時計は確かにプリオの所有品であるといふ證人を出せと云はれたが、何しろ八ヶ年もトランクの底にしまひ込むであったので、誰も彼の所有品であると立證し得るものがない。たまたま此事件を耳にして、馳付けた相思の婦人さへ、プリオは他人のものに手を觸れるやうな男でないと云ひ張るだけであった。
 警察へ出頭した被害者のアランはプリオの持って來た時計を見て確かに自分の品に違ひないと斷言した。然し探偵はアランが運動會へ行く朝、毎日の習慣で時計を卷いたときいて鳥渡不審を抱いた。何故ならプリオが時計屋へ賣りに行った時計は全然ねぢが卷いてなかった。
 此様な事からもう一度、小使のポロクを召喚して、その時の事情を聴取する事にした。然るにその小使は運動會の歸途少年を毆打した廉で、土地の警察へ留置されてゐた。探偵は何故ポロクが少年を毆打したのかを段々調べてゆくと、少年は運動會を見物に行って、大きな樫の木に近づいた爲に、怒られたのだと申立てた。樫の木の傍へ行った位で少年を毆打するのは怪しい。そこで探偵は直ぐに現場へいって、樫の木を調べると、空洞(うつろ)の中からアランの盗まれた時計が出て來た。
 これはポロクが盗むで隠して置いたのであった。而もその時計の番號はアランの申立てた一〇〇一號でなく一〇六一號であった。プリオ青年の嫌疑が晴れた事は云ふまでもない。
 これ等も人間の記憶を過信した大きな間違ひの一例である。

注)半濁音と濁音の間違いがあるかもしれません。


「(無題)(マイクロフォン)」
「新青年」 1926.04. (大正15年4月号) より

 探偵小説の作家が、所謂文壇からでるといふ事は、喜ばしい現象です。然し探偵小説を書くのに一段調子を落してかゝるといふやうな態度なら、迷惑千萬な事です。寧ろ普通の小説を書く以上の苦心と努力が必要である事を心得てゐて頂きたいものです。
 探偵小説は藝術的作品に、更に知識と理論を加へたものであらねばなりません。これを換言すれば知識と理論の上に文藝的價値を具備したものでなくては、優れた探偵小説とはいへないといふ事になります。
 探償小説の流行は同慶の至りですが、私は俗化を惧れます。よい批評家はよい作品を生むといふ事をいつも考へてをります。お座なりでなく、ほんたうの批評をする人が欲しいものです。

注)「探偵創作文章寸見」という題は総題ではなく、本文の前に掲載された別人の文章のみの題名のようです。


「倫敦の浴場」(世界各國風呂奇談)
「新青年」 1927.01. (昭和2年1月号) より

 英米諸國には日本のやうに、混浴を營業にしてゐる湯屋はない。從って三馬の『浮世風呂』にあるやうに裸體でものをいってゐるやうな賑かな光景は到底彼等の想像し得ざるところである。衛生、非衛生といふ問題はぬきにして、日本の朝風呂には捨て難い趣のあるものだが、この頃は世間が世智辛くなったせゐか、僅の客では引合はないといふ風呂屋の亭主の考へからか、またはお客が田舎者計りで、需要がないのか、市中は知らず郊外の町では、滅多に朝風呂がたってゐない。 尤も私は朝寝をするから起ぬけに錢湯へいっても、正午頃になってゐて、恰度風呂の沸く頃であるから、朝風呂の氣分を幾分なり味ふ事が出來る。
 日本の開放的な明るい氣分に較べて、英國の風呂は秘密的で、世間話や雜談がない。英米では旅館、高等下宿、それから中流以上の家庭には浴室の設備はあるが、一般の爲には公衆浴場(パブリックバス)といふのがある。それは後に記す事にして、私浴場(プライベートバス)は上流の家庭にはいくつもあって、寝室の次に化粧室があり、その隣りに浴室があるものだ。 旅館でも大抵そんな風になってゐる。浴槽は陶器か瀬戸引で、栓を捻ると湯と水が出る。それを適度の加減にして入るのである。裸體を見せるのを殊更に厭ふといふ習慣から、浴室には何となく秘密の臭がある。
 そんな譯で、昔から浴室で犯罪が行はれた例は可成りあるらしい、有名な保險魔スミスは妻君を生命保險に加入させては、浴槽で溺死させ、會社から保險金を詐取して暮してゐた。何人目かの妻君を殺害した時には、犯行を演じてから何氣ない様子で散歩に出掛け、適當な時間を見計って歸ってくると、宿の女中に、
「奥さんは何處にゐる?」などと訊ねたりして、巧に其筋の嫌疑を免れてゐた。彼は氣長に、計畫的に、徐に目的を遂行した。彼は常に會ふ人毎に、妻君は病身であるとか、折々癲癇の發作が起るとかいってゐたので、周圍のものは誰一人彼を疑はなかった。ところが適々契約した保檢會社へ、妻の保險金の支拂を受けにいった時、新らしくその會社へ入った社員が、以前他の會社へ勤めてゐた頃、矢張り同じやうな死因で支拂をした事があって、受取人のスミスに見覺えがあった。 社員が怪しんで段々調査の紐を繰ってゆくと、名前は異ってゐるが、同じ人間で同業の保險會社から屡々多額の保險金支拂ひを受けてゐた事が判明し、遂に彼の罪状が發覺して絞首臺へ送られた。
 浴室を取扱った探偵小説も相當あるには違ひないが、記憶に殘ってゐるのでドロシイ・ソーヤの書いたエゴマニアックは舞臺が倫敦であっただけに私には興味が深かった。
 公衆浴場は市の經營で、私の知ってゐるだけでも倫敦に七つ八つあった。ヴヰクトリア停車場近くにある公衆浴場は階下に水泳場(プール)があって、二階三階が浴室になってゐた。乗合自動車の通る大通りから石段を上って、ホールヘ入ると、中央に停車場の出札口のやうな小窓が並んでゐる。温浴と札の掲った窓口へ六片(ペンス)(二十四錢)の銀貨を出すと、番號を記した紙片と大きなタオルを二枚渡して呉れる。 兩開きになったバネの開き扉で押してコンクリートの階段を上ってゆくと、白木綿のエプロンをかけた男の風呂番が足音をきいて現てきて、浴室へ案内してくれる。廊下が幾側もあって、兩側に番號を記した浴室が並んでゐる。風呂番は浴槽に熱湯と水とをいゝ工合に入れてくれて、浴室の外に掲ってゐる小さな黒板に、入浴した時間を記していって了ふ。 浴室は内側から錠がかゝるやうになってゐる。時間は一人につき三十分といふ規定であるから、順序よく、顏や手足を洗い、時には持っていった剃刀で髭まで剃ってくる。馴れると三十分でも結構浴槽に浸ってのびのびした氣分になれる。
 然しわれわれ日本人は三十分の最初に入れて貰って湯では冷却めて了って、そのまま上る譯にはゆかなくなる。そこで備へつけた呼鈴を鳴らすと、
「何番、何番」といひながら風呂番が廊下を歩いてくる。自分の浴室の番號をいって、熱い湯をさして貰ふ。それで暖って出るのである。冬の寒い頃などは、よく呼鈴を押しては風呂番を煩はせる。いつもチップの二片もやっておくのが、斯ういふ時に役に立つ。
 湯錢は六片で其他に一二片のチップをやるが、それは正面の入口から入った時で、裏通りの入口から入れば二片で濟む。そこにも切符賣場の窓があって、二片でタオルを一枚渡して呉れる。正面から入った浴室が一等とすれば、裏口からのは二等といふ格で、浴槽も瀬戸引で、ところどころ瀬戸が剥れてゐる。小さな安っぽい鏡があるだけで、一等のやうに刷毛(ブラシ)も備へつけてないが、湯には少しも變りはない。 湯錢が安いので、この方は可成り繁昌する。戰時中は兵士などが澤山詰かけてゐた。客がこみ合ってくると、浴室が足りないので二階の廊下に一列に椅子を並べて待ってゐる。風呂番は浴室が空く度に大聲で、
「お次の方、どうぞ」と呶鳴る。客はその號令に從って順次立ってゆく。
 どんなに混んでゐようが、押合ふやうなことはなく、互に世間話をするでもなければ、新聞を讀むでもなく、呑氣に煙草を吸ひながら自分の番のくるのを待ってゐる。
 どんな粗末な服を着てゐても、ズボンの折目はきちんとして、白いカラーをつけてゐる。そして端然と椅子にかけてゐる様子は、どうしても英國でなくては見られない圖である。

注)句読点の追加などをしたところがあります。


「好きな外國作家と好きな作中人物」(アンケート)
「新青年増刊」 1938.02. (昭和13年2月増刊号) より

一、あなたの大好きな外國作家とその作品
二、あなたの大好きな作中人物
 (共に、なるべくならば探偵小説の範圍で)――回答到着順――

一、近頃は過去に亂讀したせゐか、雜誌は別として所謂探偵ものゝ單行本に餘り興味を持たなくなった。
 この頃興味をもって繙いてゐるのは、蘇格蘭人シャリマー老船長の「海を行く」といふ最近の出版に係はる實話を輯めたもので、巻頭の「冬の大西洋難航中の挿話」「汽船爆破事件」等々二十二篇からなってゐる。一篇二篇を讀んでゐる中に、三篇四篇にはどんな事件があるだらうといふ好奇心が、一種の探偵的氣分を喚起させる。
 港には花が咲き、時化の海洋には友情の花が咲く、蒼茫たる海の秘境には昔から數限りない秘密や、怪異な傳説が秘められてゐる。
 夫等は血腥い殺人事件や、こせこせした名探偵達の活躍振りなどよりも、遥に私の心を惹付けるのである。從って頑固で純情な老船長は私の好きな人物になってゐる。

二、チェスタートンの師父ブラウンが好きだとか、マッカレーの「地下鐵サム」が痛快だとか、フヰロ・ヴァンスが理智的で良いとかいふだらうが、一體人間は大人になると、どんな善人でも世ずれがして、何處かしら氣に喰はぬところを持つものである。
 そこへゆくと、マーク・トウエン(※ママ)のトム・ソーヤだの、ハックルベリー・フィンなどといふ腕白小僧共は、いつ登場しても惡くない。

注)「海を行く」シャリマーは調査できていません。海洋実話の元ネタ本だろうか。


「懐しい心の伴侶(現代大衆小説全集広告)」
「東京日日新聞」 1927.03.30 (昭和2年3月30日) 全面広告より

 私は散歩を好愛する。雨の日、霽れた日は、街のどよめきの中、靜かな郊外の並木道、至るところに散歩の唄を見出す。
 私は時折り堅苦しい哲學や文學から逃れて興味中心の讀ものに心の散歩を覓める。さうした意味から私は現代大衆文學全集の出現を悦ぶ。大きな公園が一つ殖えたやうに思はれる。「新撰組」「清水の次郎長」「黒駒の勝藏」等何れも私にとって懐しい心の伴侶である。

注)収録作家の推薦文を掲載。正木不如丘、土師清二、直木三十五、三上於菟吉、伊原青々園、本山荻舟、下山悦夫、前田曙山、澤田撫松、江戸川乱歩、長谷川伸、国枝史郎、矢田挿雲、平山蘆江、高桑茂生、小酒井不木、松本泰、甲賀三郎、白井喬二。


「青空の下」(燈火漫談)
「猟奇」 1929.10. (昭和4年10月号) より

 三田の山にゐた時から運動をした。盛夏の烈日の下にコートを飛歩いて、毎日夕陽の落ちるのを惜しく思った時代があった。
 海濱に於ける夏季休暇の庭球練習、午後からの水泳、晩秋から冬にかけての銃猟、これも青空の下の活動であった。
 三田を卒業して倫致へ遊學する時に、物故された思師プレフェノア先生は――マツモトは英吉利へテニスをしにゆくに違ひないよ――と笑ひながら教員室でいはれたそうだ。
 先生は人嫌ひで、三田の吾々の教室へくる以外、滅多に外出されない。いつも書齋に引籠って葉卷の煙の濛々と立昇る中で讀者(※ママ)をしたり、獨骨牌(ペイシェン(ス))をしてをられた。教室では私はよく足下にラケットを忍ばせておいて、先生がシエクスピア(※ママ)の長い句を黒板にかいてをられる際に窓を飛越えて逃げて了ったものだ。私はいゝ氣になってゐたが、三年間その事に就いて一度もいはれなかった先生は矢張り氣がついてをられたのだ。
 倫敦では青草の上でテニスをした。娘達が仲間であった。段々考へて見ると、ローンテニスは、さうむきになって荒っぽく球を飛ばすものではないらしい。(運動競技の場合は別だが)テニスの合間に樹蔭のベンチで冷いものを飲みながら、ピクニックの相談を相談をしたり、芝居行の約束をしたりするところに伴ふ興趣をもちたい。尤も婦人を相手の場合は多く球拾ひを引受けなくてはならないのが缺點ではある.球拾ひといへば惠の書きかけてゐる探偵小説は雜草の中に飛した球を捜しにいった青年がそのまゝ行方不明になるのが發端ださうだ。
 私は相手が疲れてテニスを止めて了ってもまだ遊び足りないので、夕燒雲が消えるまでネットを飛越し、その上にまた何かの障害物をおいて飛んだりする。
 私は巾飛びにも自信があった。一番飛んだのは避暑地の海濱で、自分の記録線上に新らしい帽子や、大切な時計などを積んだ時で、その折りは更に半米先に足が延びた。巾飛びで思出す事は、退屈な印度洋の航海中に船客のうちの活溌な連中と鬼ごっこをした時、鬼に追はれた私は得意で甲板にあった寝椅子と凭椅子を二つ縦に飛越えて逃げた。ところが驚いた事には後からきたスコットランドの鬼は輕々と三つの椅子を跳越えてきて笑ひながら私の肩を叩いた。後で聞けばその青年はエヂプトへ巡業する曲藝團の一員であった。

注)冒頭一文字空けを追加しています。カタカナ名はそのままとしています。
注)恵の作品は未知の作品か構想だけだったのか不明。


「運命の札」
「ゲーム」 1930.01. (昭和5年1月号) より

 室内ゲームの中で探偵小説に一番縁の深いのは西洋骨牌であらう。あの怪奇(グロテスク)なキングや、クヰン、夫から四人の惡漢、犯罪の裏に潜むダイヤ、凶い知らせを齎らせるといふスペード、恐ろしい運命を語るクラブ、可憐な赤いハート、それだけでも探偵小説に相應(ふさわ)しい感じがする。
 カードの遊び方にはいろいろあるが、最も一般的に好まれるのはブリッヂ、ポーカー、バンク等である。外國ではこれ等のゲームに金錢を賭けて更に興を添へ社交的な娯樂の一つにされてゐる。永い航海のサロンや、大ホテル、又は所謂賭博倶樂部などで行はれるゲームは掛金が多いだけに犯罪を扱ふ探偵小説の材料になる事がある。殊にいかさま骨牌師(カード・シャーパー)などがさうしたゲームに加って、素人の金を卷上げるとか、或はゲームの結果の莫大な損失が誘因となって犯罪を構成するなどゝいふ事もある。
 作者の名を忘れたが「クラブの一」といふ小説では列車殺人事件で探偵が(略)逮捕して了ふ。犯人は(略)手錠をはめられて了ふ。
 又、英國の閨秀作家オルツイ夫人の「隅の老人」の中に出てくる物語で「公園殺人事件」は倶樂部で「バンク」をやって大勝した男が霧の夜の公園で何者にか殺害される。犯人は(略)了ふ。これなども骨牌室を背景にした探偵小説の一つである。
 今日届いた英國の週刊雜誌の短篇の中に「難航海」といふ小説があった。いかさま骨牌師が紳士に化けて一等船客となって大西洋を航海中、金持らしい數人を物色して椋鳥にしようとした。すると(略)筋であった。
 ゲームには各自の個性が表はれるものである。最近米國探偵小説界に乗出したワ゛ンダインの「カナリヤ殺人事件」の中で主人公のバンス探偵が數人の殺人容疑者を相手に何氣なくカードをやりながら、各自のゲームの遣口からそれぞれの性格を讀んでいって眞犯人の見込をつける場面がある。

注)ネタばらし部分は割愛しています。


「現代英國大衆文學――主として探偵小説に就いて――」
「英語英文学講座 第十回配本」英語英文学刊行会 1934.03.01 (昭和9年3月) より

 人間は生來誰でも多少の好奇心を持ってゐる。文學の中で最もその好奇心を滿足させるものは探偵小説である。
 英國のどんな家庭でも、殊に青年男女のある家では、探偵小説の二冊や三冊、轉ってゐないところはない。乗合自動車や、電車の片隅に置忘れられるものは、大抵探偵小説だといふ、それ程探偵小説は大衆の伴侶となってゐる。
 探偵小説的匂ひをもつ作品は、古く Chaucer (チョーサー)(1340-1400)から Shakespeare (1564-1616)の作の中にも探し出す事が出來る。吾々は英米の雜誌や、新聞記事などの中に”Murder Will Out”(殺人は發覺せむ)といふコーテイションが屡々引用されてゐるのを見るが、これはチョーサーが羅甸(ラテン)文學の始祖シセロの『ド・デビネーション』から取材した”Nun's Tale”の一節
 血は一とき眠れども、永久に死する事なし、
 神は常に、殺人者の上に、復讐の眼を瞠り給へば、
 必ずや、殺人は發覺せむ。
といふ句から出たものである。この物語は一種の探偵小説で、その荒筋を述べると、旅に出た二青年が、日没後にとある町に到着し、甲は友人の家に客となり、乙は酒場に宿をとった。其夜甲青年は惡夢から醒めて、額の冷い汗を拭って再び枕についた。すると血に塗れた乙青年が夢枕に立って――君が助けにきて呉れなかったので、遂に殺されて了った。何卒復讐をして呉れ給へ、僕の死骸は、肥料車に投げ込まれて、明方城外へ棄てられる手筈になってゐる――と告げた。
 夢から醒めた甲青年は、曉を待たずに城門へ馳付け、役人に訴へて、折から來かゝった肥料車を檢べて貰ふと、果して友人乙の惨死體が發見され、酒場の亭主は即座に逮捕死刑となったといふのである。
 シェクスピーアの『ハムレット』や、『ヴェニスの商人』も探偵小説的色彩をもってゐる。前者では佛蘭西式探偵捜査法を取入れ、實地檢證の場面を演出し、ハムレットをして姦夫姦婦の表情によって彼等の罪を看破せしめてゐる。後者では名裁判官の判決ぶりを山につかってゐる。
 近いところではディッケンズなども、物語の中に探偵小説趣味を織込むでゐる。”Oliver Twist”、”Bleak House”、”Great Expectation”、”Barnaby Rudge”、”The Mystery Co.―― Edwin Drood”等はその代表的なものである。殊に最後に擧げた『ドルードの謎』は本格探偵小説であるが、殘念ながら、紐育コリエル出版會社から出たディッケンズ全集の最後の頁は
 ……トープ夫人の行届いた心遣ひで、下宿人の爲に小ざっぱりとした朝食のテーブルが用意されてゐた。ダッチェリーは食卓に就く前に、先づ部屋の隅の戸棚を開けて、扉の面に上から下まで太々と、白墨で線をひき、而る後ゆっくりと食事にかゝった…………(作者急逝の爲未完結)となってゐる。ディッケンズをしてもう少し長生せしめたなら、英文學史上に探偵小説絢爛時代をもっと早く招致したであらう。けれども文藝王國に探偵小説の分野を確立したのは何といっても Arthur Conan Doyle(1859-1931)である。
 ドヰルは千八百五十九年英國エヂンバラに生れた。彼は最初倫敦ピカデリー街に眼科醫の看板をあげたが、一向患者が來ないので、退屈まぎれに探偵小説を書き始めたのだといふ。有名なシャロック・ホルムズ探偵は、彼が學生時代に師事したエヂンバラ大學のベル博士をモデルにしたものだといはれてゐる。 彼の文名を馳せた處女作”A Study in Scarlet”『眞紅の研究』は千八百八十七年に發表したもので、傑作”The Adventure of Sherlock Holmes”『シャロック・ホルムズの冒險』及び”The Memories of Sherlock Holmes”『シャロック・ホルムズの思ひ出』は千九百〇二年から同四年に亘って雜誌ストランドに連載されたものである。 ドヰルはホルムズを單なる探偵人形として操ってゐるのではなく、彼の性癖風采等を篇中に躍如せしめ、讀者にとって親しみ深い實在的人物を描いてゐる。恐らく小説の主人公で、彼程世界的に名の響いてゐる人物は稀有であらう。作家のドヰルを知らなくとも、名探偵シャロック・ホルムズの名を知らない者はない程である。 鳥渡英國の新聞を擴げて見ても、例によって古風な碁盤縞の二重廻しを着たホルムズ探偵が、型の如くに愛好のパイプを啣へ、助手のワットソンを顧みて――おい君、見給へ、この箪笥はこの通り光澤が出てゐるし、それにこの部屋は何となく清潔な、氣持ちのいゝ匂がするぢゃぁないか、確にこの家の主婦は教養のある婦人だね、それに經濟的觀念をもってゐる、それはナック油を使用してゐるといふ點に徴しても明白だ――といってゐる除塵油の廣告畫などが眼につく。
 ドヰル出でゝ四十幾年、十九世紀の末から二十世紀にかけて英國には優れた探偵小説家が綺羅星の如くに輩出した。
 何故探偵小説が近代に至って、斯くも目覺しい發展を遂げたかといふと、それは近代科學が人間生活に素晴らしい勢ひで侵入してきた事が大きな原因である。凡そ探偵小説程時代に敏感なものはない。機械文明に伴ふ激しい生存競爭は巧妙複雑な犯罪を産み、從ってそれに對する探偵術も、曰く指紋法、血液鑑別法等著しく進歩した。Emile Gaboriau(佛蘭西探偵小説の始祖 1835-1873)時代には精々自轉車を飛ばして逃げたり追ったりしてゐたのが、いつか汽車、自動車、電信、電話、飛行機、ラヂオ等を使ふやうになった。
 このやうに探偵小説といふものは、科學知識が多分に盛られたものであるから、人文の發達につれて益々取材の範圍が擴大されてゆく。探偵小説の取材は大きければ大きい程効果的である。殺人、陰謀、詐僞、窃盗等、探偵小説に扱はれる犯罪にはいろいろあるが、何といっても人世の最大事件は、十戒の第一條「爾殺す勿れ」を破る事である。往古から定評ある探偵小説は悉く殺人事件を扱ってゐる。 然し探偵小説は取材だけが生命ではない。文學である以上、それを如何に扱ひ、如何に表現するかに就いて、細心な技巧をもたねばならない。科學的進歩に伴って、新らしい内容を盛った作品が無限に續出しつゝある今日、尚米文豪アラン・ポオや、英國のコナン・ドヰルが斷然光ってゐるのは、彼等が作品の上に藝術的關心もってゐたからであるといふ事實を看過してはならない。
 探偵小説の形式には最初に犯罪を提出しておいて、それを解決してゆく過程を描いてゆくものと、豫め犯罪に關係のありそうな人物を點出しておいて、それから事件に入ってゆくのがある。
 探偵小説の扱方に就いて、或人は人事の關係を、親子、夫婦、兄弟などゝ見做さなくとも、椅子、卓子、置物等と同様、感情を無視して取扱ふべきであって、心理描寫や、叙景などに力を用ゐる必要はない、探偵小説に藝術味を求めるのは邪道だといってゐるが、探偵小説が吾々の日常生活に立脚してゐる以上、そこに様々な人世がある筈である。從って人情と風景のある探偵小説こそ、最も優れたものといはねばなるまい。
 所謂純文學と、探偵文學との分岐點は最後の解決にある。純文學の場合は、問題の提供だけで差支へない。篇中の人物が幸福の絶頂で殺されたまゝ物語が終ってもよいのである。然し探偵小説ではどうしても主人公の死に就いて穿鑿を加へ、自殺か、他殺か、何が死因をなしたか、他殺とすれば犯人は誰か、何故の殺人か、何時、如何にして殺人したかを究めなければならない。
 偖、現代英國探偵小説作家の中で、縦と横に最も廣く讀者層を掴むでゐるのは去年物故したエドガア・ウォーレスを筆頭に、ジョセフ・フレッチャー、ウヰリアム・ル・キュー、フィリップ・オッペンハイム、ギルバァト・チェスタートン、女流ではバロネス・オルツィ、及びアガサ・クリスティ等である。
 夫等作家に就いて、年齢順に紹介する。
 Joseph Smith Fletcher は千八百六十三年、英國ハリファクスに生れ、當年七十歳、英國探偵小説界の重鎮である。”The Middle Temple Murder”を千九百十八年に發表して以來、矢繼早に大作を出し、一冊毎に洛陽の紙價を高からしめた。物語の筋の組立が巧妙で、理智的である。決していゝ加減な空想や、想像で事件を動かさない。飽迄嚴しい現實の鞭をふるって、物語の列車を軌道の上に走らせてゆく。加ふるに名文家で、會話の運びは手に入ったものである。彼の三十餘篇の大作の中から、こゝには
 ”The Charing Cross Mystery”と”The Kang-He Vase”とを擧げる。この二つは探偵小説の形式上に全然異った趣を示した作品である。前者は徹頭徹尾事件其ものを書いてゆき、そこには聊かのけれんもない。ホルムズのやうな名探偵も出現しないし、ルパンのやうな怪盗が神出鬼没して讀者をはらはらさせるやうな藝當もしない。 窓を開けると、直ぐ下の舗道を歩いてゆく、普通の男女や、警官がそのまゝ登場人物となってゐる。篇中には事件に必要以外な事は一行も書いてゐない。風景もなければ、詠嘆もない。婦人が登場しても、服装なり、容貌なり、事件に必要なだけより形容してない。文章は簡素で、無駄な修飾を加へてゐないが、この作家ほど英語を充分に活かしてゐる作家は稀だといはれてゐる。
(※『チャリンクロス怪事件』『カンヒー甕』内容要約部分割愛)
 William Le Queux は千八百六十四年英國倫敦に生れ、最初畫家を志して佛蘭西巴里に遊學したが、貧しい下宿生活中、繪具代を得る爲に小説を書いて佛字新聞に發表した處女作が、文豪ゾラの眼に留って激励の言葉を贈られた。それが動機となり翻然繪筆を捨てゝ文筆生活に入った。彼は非常な旅行家で、且つ健筆である。好んで南歐の都會を舞臺とし、國際的な犯罪物語を書く。文章は明快平易、最初の一頁から讀者を引つけてゆく。數多い作品の中で、こゝには、”Wiles of The Wicked”『奸計』を紹介する。
(※『奸計』内容要約部分割愛、荒筋は松本泰の『濃霧』と同じ)
 Phillps Oppenheim は千八百六十八年英國レスターに生れた。彼の作品は明るく、色彩が濃厚で、恐ろしく舞臺が大きい。大抵英佛獨露米、遠くは支那、日本に至るまでの人物が登場する。彼は所謂本格的探偵小説は書かないが、秘密、犯罪、陰謀、戀愛などを織込むだ物語を得意とする。
 ”The Great Prince Shan”『大シャン王子』は十年前の作品であるが、主人公は支那の王子、時は千九百三十四年といふ書出しで、執筆の時からいへば將に十年後の世界を狙ったものである。
(※『大シャン王子』内容要約部分割愛)
 この他、彼の作品には”The Mystery Road”『迷路』、”The Devil's Paw”『魔手』、”The Falling Star”『墜つる星』等數十冊の著書がある。
 Gilbert Keith Chesterton は千八百七十四年英國に生れた評論家として押しも押されもしない地位を占めてゐた。彼が、その健筆を探偵小説に染めたのは千九百十四年からである。彼の創造した師父ブラウンの名は、探偵小説愛好家の間に異常な親しみをもって迎へられてゐる。
 彼の作品には至るところに美しい風景がある。その中を古びた僧衣を纏ひ、柄に似合はない大きな木綿張りの蝙蝠傘を横抱へにして、とぼとぼ歩いてゐる好々爺の姿、それが有名な師父ブラウンである。彼の作品の中で最も人氣のあるのは
 ”The Wisdom of Father Brown”『師父ブラウンの智慧』
 ”The Innocence of Father Brown”『無邪氣なる師父ブラウン』
 ”The Secret of Father Brown”『師父ブラウンの秘密』
等である。
(※「青王の十字架」内容要約部分割愛)
 Edgar Wallace は千八百七十五年英國倫敦に生れたが、兩親は明かでない。生れて九日目にデッドフォードのフリーマン夫妻の手許に引取られ、養子として育てられた。養父はビリンゲート魚市場の魚類運搬業をやってゐたので、ウォーレスは小學校へゆくやうになってからは、毎朝のように養父と市場へゆき、荒っぽい社會を見てゐた。家が貧しかったので、小學校を卒業すると凡ゆる職業に身を投じた。
 倫敦市の舗道に立って新聞を呼賣りしながら、そこを通る知名の士を見送って、大きな未來を夢みてゐたのは彼が九才の時であった。何をやっても旨くゆかず、遂に生活の爲に軍隊入りをして南阿に赴いた。彼は教練の餘暇に詩を書くことを學んだ。聯隊長の夫人はそれを励まし、學力の足りない彼の爲に辞書を買與へたりした。 適々詩人キップリングがケープタウンを訪づれた時、土地の新聞に「キップリング歡迎」の詩を投稿、掲載されたのが、文壇に踏出す第一歩となった。市長の夜會には一兵卒エドガー・ウォーレスは詩人として招待され、席上でキップリングに引合された。その時キップリングは彼に――君は有名な作家になりたいとは思はないかね――といったがウォーレスは今日の自身の姿を夢にも想はなかったと述懐してゐる。
 南阿戰爭當時、彼はデイリー・メイル紙の特派員として活躍した。その時彼は後年の探偵小説を地でゆき、暗號電報や、赤白ハンケチなどの合圖を用ゐて、講和調印の經過を本社に通信した。その爲にデイリー・メイル紙の報道は他社に先立つ事、二日だったといふ。
 彼の出世作は”The Four Just Men”『正義の四人』である。彼は現代英國文壇随一の人氣作家である。彼の名聲は純文學の重鎮ショーや、ガルスウォーシーを壓倒してゐる。英國のみで一ヶ年に賣上げられる書籍の中、彼の作品がその四分の一を占めてゐたといふ程で、彼の作品位世界を通じて上下縦横に讀まれてゐるものはない。加ふるに非常な健筆で、油が乗ってくると一週間一冊宛位の勢ひで新刊書を續々世に送った。去年五十七才で逝去するまで余の記憶に遺ってゐるだけでも五十冊や六十冊をあげる事が出來る。
 彼の作品には必ず戀愛が織込まれてゐる。篇中の人物は如何なる惡漢と雖、一生に一度位は英國紳士の精神を閃かす、さうしたヒロイズムが一層彼の人氣をよぶ所以である。
 ”The Four Just Men”、”The Clue of the Twisted Candle”、”The Ringer”、”The Traitor's Gate”、”Flat 2”、”Terror Keep”、”The Black Abbot”、”The Double”、”The Volley og Ghosts”、”The Clue of the New Pin”、”The Face in the Night”等は殊に面白い、こゝには
 ”The Face in the Night”『夜の顏』を紹介する。
(※『夜の顏』内容要約部分割愛)
 Baroness Orczy はハンガリーのタルナオルスに生れた。父が男爵なので、それをペンネームにしたのである。最初畫家を志して倫敦で學校へ入ってゐたが、千九百〇五年に”The Emperor's Candlesticks”『皇帝の黄金燭臺』といふ露西亞の虚無黨を題材にした處女作を發表した。つゞいて佛蘭西革命を扱った、”The Scarlet Pinpernel”『紅繁縷(※くさかんむりに婁)』を公にして一躍人氣作家となった。 女史は”The Old Man in the Corner”『隅の老人』といふ本格探偵小説も書いてゐるが、何といっても『紅繁縷』は代表作で最も廣く讀まれてゐる。爾後「スカーレット・ピンパァネル叢書」として二十篇餘の歴史的探偵怪奇小説を發表してゐる。構想は奔放奇抜で、用意周到な伏線と、平易な文章とが相俟って大衆を惹付けてゐる。
 『紅繁縷』といふのはこの一篇の主人公、隠れたる英雄のシンボルである。
(※『紅繁縷』内容要約部分割愛)
 Agatha Christie は當年四十三歳、米國に生れ、英國で教育され、十三年前にクリスティ大佐と結婚したが數年前に離婚した。千九百二十年『スタイルス怪事件』を倫敦タイムスの週刊紙に發表し、一躍第二のコナン・ドヰルと謳はれるに至った。緻密な頭腦の所有者で探偵小説に最も大切な推理力を豐富にもってゐる。 ”The Murder of Roger Ackroyd”『アクロイド殺し』、”The Big Four”『四頭目』、”The Mystery of the Blue Train”『青列車』等一作毎に名聲を高めてゐる。篇中に現はれるポアロ探偵は白耳義生れの好々爺、女性に對して慇懃で、言葉なども佛蘭西式の婉曲ないひ廻しを使ふ。
(※『アクロイド殺し』『青列車』内容要約部分割愛)

注)この作品は国立国会図書館デジタルコレクション個人送信(ログイン必要)で公開されています。全文はそちらを参照願います。
注)松本泰の探偵小説というもの、文芸小説との違い、芸術論争のスタンスが垣間見られるのであえて掲載しておきます。と同時に『濃霧』の原作の根拠として。


「繭を破る前 牧逸馬の思ひ出」
「婦人公論」 1935.08. (昭和10年8月号)より

林不忘の誕生
 濃いもっこく(※木木解)の緑が南に面した庭を昏くしてゐる東中野の家へ、右門捕物帳で鳴らした大衆文壇の寵兒故佐々木味津三君がやってきて、「この部屋は氣に適(い)ったぞ。どうだい、そろそろ谷戸の文化村へでも引込んでこの家を俺に明渡さんかな。」といった。
 谷戸の文化村といふのは、その頃富士山の見えた麥畑八百九十坪の眞中へ、アンダルゼンのお伽噺にでも現てくるやうな、三角の部屋のある小さな家を十五軒も雜然と竝べたのがそれである。
 私が書齋で考へてゐた時には、池あり、花壇ありといふ小公園の中に、瀟洒なバンガローを點在させたつもりであったが、二ヶ月目に初めていって見たら、大工共は搾れるだけの金を卷上げて出來るだけ輕快なバラックを建てゝ、嵐の如く引揚げて了った後であった。宜なる哉、附近の商人達はこれを嗤って文化村と名付けた。
 その一軒につゝましやかなる店子の一人として住んでゐたのが、わが長谷川海太郎、後の牧逸馬、林不忘、谷譲次であった。
 味津三君が蒼白い額に振りかゝる頭髪を、大袈裟に肘を張っては掻上げながら、警句を飛ばして歸った後へ訪ねてきた海太郎君は、初對面の挨拶を濟すと、同じ椅子に凭ってヴァジニアの紫烟に、元氣の良い圓い頬を黄色く燻しながら、二十四歳の青年に似合はぬ世馴れた調子で、嚴格な兩親の手から米國へ歸る宣教師夫妻に託されてその勉学の爲にボストンへ連れてゆかれた彼が、猟奇と自由を覓めてその監督を遁れ、或時は皿洗ひ、或時は馬鈴薯の皮剥、或時は汽船の火夫になったりして七年間思ひのまゝにアメリカ三界を放浪した話などを面白可笑しく語った。
 その日、歸りしなに、お願ひしますといって置いていった彼の處女作「都會の冒險」には既に將來を豫測させるやうな才氣の閃めきがあった。
 當時、道樂氣分と、半分は夢のやうな商賣氣も手傳って、報知ビルの四階に一室を借受け、探偵雜誌を刊行してゐた私は、海太郎君の作品を誌上に發表したり、編輯を助けて貰ったりした。
 米國新聞記者気質とでも云はうか、恐ろしく無邪氣で、その反面に人を喰ったところがあった。編輯員達が探偵雜誌に掲載する外國犯罪實話の原稿をひねくりながら、
「これで、殺された女の寫眞があると、効果百パアセントなんだが‥‥」と嘆聲を洩らせば、それを小耳に挾んだ海太郎君は、即座に鋏を取上げて、外國雜誌の當選美人の寫眞などを切抜いて、不孝なる死を遂げた××嬢にして了ったり、教會か何かの窓に白い矢印をつけて、犯人の潜伏してゐた下宿屋の二階などといふ説明を附したりして、私の度膽を抜いたものである。
 或時、米國から到着した探偵雜誌を讀んでゐた海太郎君は、
「ビール箱を江戸へ持ってきたら、何になるでせうね。肥滿(ふと)った酒場の亭主がビール箱を踏臺にして首を縊って死んだんですが、名探偵はこれほどの體重で、ビール箱に乗ったら、當然板が折れる筈だといふところから、他殺と睨んで犯人をあげるといふ筋なんですがね。」といった。
「ぢゃァ、茶箱はどうだね、葉茶屋の亭主が殺されたといふ事にして。」と誰かがそれに應じた。
 彼は翌朝、「宇治の茶箱」といふ題で好短篇を書いてきて茲に林不忘を誕生させたのであった。

牧逸馬の女難
 こんな風にして毎日顏を合せてゐる中に、私の家庭と海太郎君とは段々接近してきた。北海道から上京して私の宅を訪問された嚴父長谷川淑夫氏は、偶然にも私の妻の父と同じ禁酒運動家で、互に面識のある間柄である事などが判ったりして、吾々の間は一層親密の度を加へたのであった。
 長めの、軟かい頭髪を、オールバックにして、モーニングを着た牧師とでもいひたいやうな風采の嚴父は、私の岳父が熱心なクリスチャンであるやうに、私も眞面目な人物だとでも思はれたのか、放浪七年の海太郎君を謹嚴な雰圍氣の裡に見出したやうに、頗る滿足の體で、呉々も令息の事を托してゆかれたのであった。 ところが私は決して海太郎君の身邊を監督するやうな柄ではなく、時には銀座の裏通りあたりへ連れ出して、共に盃をあげたりした事もあった。その點、海太郎君も心得たもので、私の前では獨身者の青年らしい呑氣さで、可なり際どいところまで、あけすけに自分をさらけ出したりしてゐた。
 ひと頃、淺草邊のレビューガールと、友達になったとかで、よくその女の噂をしてゐたが、
「一度創けば、矢張りたゞの桃割ガールでしたよ。洋装なんかしていやにモダーンがってゐるから、こっちでも西洋流に、恭々しく手の甲に接吻してやったら――あゝ、穢え! といって周章てゝ手の甲を拭くんでせう、落膽(がっかり)して了ひました。彼女はもう落第だ。」などゝ素晴しい報告をして、吾々夫妻を大笑ひさせた。
 それから久時女難物語がないと思ってゐたら、のっそりとやってきた海太郎君、餘程念の入った話でも持ってきたらしく、長身を安樂椅子へ下すと、先づポケットからパイプを取出して徐にマッチを摺った。
 私の妻は何か思ひ當る事があると見えて、ちらと私の方を見て目配せをしたが、私には通じなかった。
「今日は自白をしにきたんですよ。例のジプシイ美人ね‥‥昨夜到頭サヨナラして了ったんです。」海太郎君は意味深長ににやりと笑った。
 ジプシイ美人といふのは、海太郎君のお嫁さんの候補者として一ヶ月計り前に紹介した女流畫家、繪具料を稼ぐ爲に、カフェへ勤めたり、モデルになったりしてゐた女性で、稀にみる美人であった。
 二人は相當な年輩でもあるから、友達交際程度で、偶には一緒にお茶位飲みにゆくだらうとは思ってゐたが、海太郎君の自白なるものによると、二人は大に意氣投合して試驗結婚といふところまで進み、既に一週間前から谷戸の三角小舎に同棲してゐたのだといふ。
 ところが七日目の晩、ジプシイ美人は過って大きな臀部で海太郎君秘藏の花瓶を落して割って了ひ、狼狽の餘り、越後辯丸出しになり、平あやまりに謝罪ったといふ。
 海太郎君にすれば、百の花瓶何ものぞといふ程の執心さであったのに、女王の如く崇めてゐた美女が、田舎辯でくどくどいひながら四這ひになって、花瓶の破片を拾ってゐる姿を見せつけられて、百年の戀も一時に醒めて了ったのださうである。
 海太郎君はジプシイ美人が去って了った後、俄に獨居の味氣無さを痛感したと見えて、ジミイといふ弟を連れてきて一緒に住んでゐた。
 このジミイといふのは畫家志望で、頭髪をお河童にした實に可愛いゝ少年であった。柄は相當大きかったが、子供々々した圓い顏と、惡戯兒らしい大きな手足の持主であった。ギターが得意で、よく私の家へ來ては小曲を幾つも彈いていった。彼は菓子でも、果實でも、卓上に竝んだものは、片端から平らげて、最早御馳走の種切れになって了った頃、大きな樂器を横抱へにして、生垣の外の凍った夜道に、兵隊靴の音を響かせながら、ばんばん走って歸ってゆくのであった。
 私のところではジミイは子供で、食盛りだから、餘程澤山お菓子を買っておかなければならないなどといってゐると、海太郎君が、「ジミイは可笑しな奴ですよ、他家へいったら出されたものは、みんな食べなければ失禮なのかと思って、松本さんの許へゆくと、いくら食べても、食べても、何か出すから困って了ふなんて馬鹿なことをいってゐるんですよ。」といって大笑ひした。
 彼はジミイを大變可愛がってゐて、その噂が出ると、いつも唇を歪めて嬉しさうに笑ふのであった。
 海太郎君は一面如何にも上っ調子の、出鱈目な人物のやうに見えるが、その實、細いところまで神經のとゞく、そして言葉と行動とを同時に押し進めてゆくといふやうな、ねばり強さをもってゐた。
 海太郎君のペンは常に火花を散らしてゐた。編輯室はいふに及ばず、谷戸の家でも、彼の書卓(デスク)からは、まるで間斷なく鳴り響く電信機のやうにペンの音が聞えてゐた。停電の時には書齋の窓に蝋燭の灯がゆらめき、飯を炊く間も、食事をする間も、原稿紙を離さなかった。文字通り寸暇を惜んでゐたのである。 彼の目覺しい努力を思ひ合せれば、それから十年後に彼が一世の流行兒となり、古今未曾有の「一人三人集」なるものを送り出して、世人を驚嘆させた事は決して彼の世渡りが巧妙であったせゐでもなければ、又、運が良かったせゐでもない事が頷首れるであらう。機智と努力で耕した畑から、當然の収穫を得たものといはねばならない。
 偖、彼の処女作「都會の冒險」は私の推薦で時事新報の夕刊に連載され、彼にとって最初の纏った稿料が入った時、いつものざっくばらんな海太郎君に似合はず、ひどく云ひ惡くさうに、
「今夜は‥‥僕に御馳走させて下さいませんか‥‥」といって私を數寄屋橋の鳥屋へ案内した。
 二人の前には、黒ビールや、料理がいろいろ竝んだが、海太郎君は私に鶏肉料理を食べさせるのが目的ではなく、何か、内緒話をしたいらしかった。
 ところが、元來私は他人の話を自分から聞出さうとしない性質(たち)なので、若い海太郎君は頗る切出し惡かったやうであったが、栓じつめると、私には雜誌の出版などといふ商賣がかった仕事は柄に適はないからさっさと止める事、三人の社員は明朝にでも馘首にして了ふ事、松本泰は創作に精進する事といふやうな忠告であった。
 その時、海太郎君は私をまるで別人種のやうに祭りあげ、俗事に干與(たずさわ)らせておくのは畏れ多いといふやうな辭令を用ゐて、私をはらはらさせた。
 これは後日判明した事であったが、當時私の信頼してゐた編輯主任が、私の雜誌を乗取らうといふさもしい策動をしてゐたといふから、私の性格を見通してゐた海太郎君は、うっかり明らさまにそんな事實を耳に入れて、むかっ腹を立てさせては結局私の損になる事を慮って、遠まはしに警告したものと思はれる。

三本の手紙
 大正十四年の七月であった。海太郎君は少し神經衰弱の氣味もあり、旁々靜に勉強もしたいから、何處か東京附近に安直な温泉宿はないかといふ相談をもってきたので、私は少年時代から度々夏を過した大山の麓に近い七澤温泉の玉川館といふのを紹介し、先方へも手紙を書いてやった。
 玉川館の池の畔には大きな百日紅が、晴れた空に條枝を擴げてゐる。別館の前から竹藪と杉並木の續いた爪先上りの小徑を上ってゆくと、鬱蒼たる老杉に取圍まれた臺地に、神寂びた朱塗りの神殿がある。その小徑を反對に下って、煙草畑や、合歡樹の花咲く丘や、青田を抜けたところに清冽な小川があり、水車小舎の傍にはいつも黒斑の牝牛が繋がれてゐた。
 さうした田舎特有の平凡な風物は、却って海太郎君を惹付けるものをもってゐたと見えて、十日間の豫定で東京を出發った彼は、二十日經過っても、一ヶ月過ぎても、歸京する氣配がなかった。それに八月になれば吾々夫妻も、その別館へゆく事になってゐたので、海太郎君は首を伸してお土産を待ってゐるといって寄越した。
 その頃、私の家庭にはもう一人七澤温泉行を待ちあぐねてゐる一員があった。それは私の妻の青山女學院英文専門家時代の同窓生で、吾々が「かっちゃん鳥」と稱んでゐた女性であった。
 彼女は實に陽氣で、書齋にもゐるし、食堂にもゐるし、臺所にもゐるし、廊下にもゐて、到るところに朗らかな笑ひ聲を撒きちらし、まるで五月の小鳥が家中を蒼空と心得てゐるやうに、間斷なしに羽ばたきをして唄ってゐた。
「かっちゃん鳥」は大變お洒落で、頭髪にアイロンをあてゝ貰ったり、私の妻の洋服を着て寫眞を寫して貰ったりして喜んでゐたが、時には寝卷のまゝ、細帶などをして、吾々の買物の後を追ってきて、妻がそんな外聞のわるい恰好をして戸外へ出てはいけないなどゝ苦情をいふと、いきなり妻の手から、買物包を引たくって、
「ほらね、これならいゝでせう。誰が見たって女中だと思ふから。」などと妙な理窟をこねて嬉しがったりした。
「かっちゃん鳥」は私共と一緒に、山の鑛泉宿へ行くのを樂みにしてゐたが、月刊雜誌を出版してゐた私達は、次から次へと仕事に追はれてゐて、豫定の出發がのびのびになってゐた。
「又、今日も駄目なの? 流石の「かっちゃん鳥」も悲鳴をあげ始めた。
 そこで私共は、密に相談して、「かっちゃん鳥」だけ、一足先きに山の宿へやる事となし、彼女の爲に三本の紹介状を書いた。牧逸馬と長谷川海太郎に宛てて一本づゝペンを走らせ、林不忘宛にはわざわざ卷紙に毛筆を揮ったものである。
 茶目氣分たっぷりな私の妻は、眞面目くさって、
「貴女一人でいっても決して心細い事なんかなくってよ。私達の仲の善い人が三人もいってゐるんですもの、ぢきお友達になれるわ。いゝこと‥‥この牧逸馬といふのは米國歸りの小説家で、中々愉快だけれど、少し不良だから氣をおつけなさいね。長谷川海太郎といふのは大變な勉強家で、いゝ青年だから、何でもこの人に相談なさいよ。 それから林不忘といふのは氣むづかしいおぢいさんで、神經痛とかで永いこと湯治にいってゐるんだから、機嫌の良ささうな折を見計って海太郎さんに紹介してお貰ひなさいよ‥‥それからこの田丸屋のかき餅はそのやかましやの不忘ぢいさんの許へお土産よ。この洋菓子は牧逸馬、羊かんは善良な海太郎坊ちゃんにあげるのよ。みんな海太郎さんに渡していゝやうに指圖して貰ひなさいよ。」といった。
 何も知らぬ「かっちゃん鳥」は、三本の手紙と、三個の土産包とを旅行鞄へ填めた。

山の宿のロマンス
 いよいよ出發といふ日、朝食の紅茶を飲んだ後で、私は得意の茶殻占をしてあげようといった。そんな遊びの大好きな「かっちゃん鳥」は、顏を輝して茶碗の底に殘った紅茶を飲干し、云はれる通り三度右に廻して、皿に伏せ、恭々しく私の前へ差出した。
 私は茶碗の中に飛び散ってゐる茶殻を凝視しながら、
「貴女は山の宿で、生涯の友となるやうな人に會ひます‥‥おや、貴女は近い將來に船の長旅をしますよ‥‥おや、おや、鐘が現てゐる‥‥結婚の鐘ぢゃァないかしら‥‥」などといった。
「かっちゃん鳥」は幸先の良い辻占だといって一層はしゃいで、お土産の入った鞄を叩きながら家を出ていった。
 それを見送った私共は、
「あゝ面白い、これでロマンスが一つ出來たわ。」
「うむ、確に良い一對(カップル)になるよ。」と頷首あった。
 偖、山の宿は餘程の魅力をもってゐたと見えて、七澤へ飛んでいった「かっちゃん鳥」も安着の葉書一枚寄越したきり、ふっつりと消息を斷って了った。
 私共はそれを「たよりの無いのは良い音信(ノーニュースイズアグードニュース)」と唄った。
 私共は到頭七澤へはゆかないで了った。その中に夏が過ぎ、高い欅の梢に蜩が啼いて、肌寒さに、しみじみと人懐しさを感ずる秋がきた。
「かっちゃん鳥」は七澤から東中野を素通りにして、兩國驛で葉書を投凾したまゝ、千葉縣の郷里へ歸って了った。
 それから數日して、いつ歸京したのか、海太郎君が飄然と、私の家の玄關に佇った。彼は生活の様式を變へる爲に谷戸の家を引揚げ、本郷の下宿へ移るとかで、その挨拶にきたのであった。生活様式を變へるといへば、成程海太郎君は日頃のメリケン好みの洋服姿とは打って變って、意氣な和服にわざと帽子を被らず、片手に蛇の目傘などを携ってゐた。
 私共は久し振りで見た彼を客間へ請じようとしたが、彼は急ぐからといって堅く辭退して、玄關に突立ったまゝ、
「谷戸の家を出るやうに、これからは單獨で世の中へ乗り出してゆく心算です。どうもいろいろ有難うございました。」といふ口上を述べた。
「あゝ、それは結構だ、身體を大切にして慥りやり給へ。だが、世の中といふところは中々むづかしいからね。うかうか頭を擡げると、ぢきにのされて了ふよ。それに君はアメリカ流に少し大風呂敷(ブラフ)なところがあるから‥‥」私は肉身の弟にいふやうに、ずばずばといった。
 傘の柄で、牀を敲いてゐた海太郎君は、不意に顏をあげて、
「それはどういふ意味なんです? 僕が離れて了へば、先生は僕をやっつけると仰有るんですか。」といふのであった。餘り馬鹿氣た云草なので、私は本氣で相手になる氣にはなれなかったが、
「君なんかを遣付けて何になる、世間を甘く見るなといふ事だ。」と持前の不愛想な調子でいった。それが海太郎君を見た最後であった。
 海太郎君と「かっちゃん鳥」とが、山の宿のロマンスを結婚に延長し、鎌倉の寺院の一室に新居を構へたといふ事は一本の葉書によって知った。私共は結婚祝ひに何を贈らうかと、頭脳をひねったが、結局どうどうめぐりをして、平凡なところに落ち英國燒の砂糖壺を贈った。
「かっちゃん鳥」は例によって葉書に達筆を走らせ――甘い憶ひ出のお砂糖壺、記念として大切に致しませう――と書いて寄越した。
 續いて北海道の長谷川淑夫氏から叮重な禮状と共に、名産の鰊の燻製と、大きなハムが屈いた。
 春風秋雨十一年、海太郎君夫妻はそれっきり年賀状一本寄越さなくなって了った。恐らく海太郎君夫妻は何かの念願から、茶斷ち、鹽斷ちをするやうな氣持で、私共と縁を斷って了ったのかも知れない。それなれば既うそろそろ念願も成就して、陽氣な女房同伴で、再び私共の家庭に賑かな笑聲をまき散らしにくる頃ではないかと思ってゐるところへ、突然に舞込んだ海太郎君の訃音は、どんなに私共の胸を打った事であらう! 人間は死の瞬間に全生涯を見直すといふ。海太郎君はこの世を去るに臨んで、何か一言、私に説明したい事があったのではなからうか!
 その昔、海太郎君の住んでゐた谷戸の文化村には、その後詩人が來たり、畫家の卵子が集ったりして、五圓も手金をうてば、尠くも三年間は無賃で住めるなどゝいふ途方もない評判が立ち、遂に没落の悲運に陥った。理財の才に乏しい村長は空家を片端から取毀し、その跡を花畑となし、芋畑として了った。
 海太郎君が處女作を書いた三角小舎の跡には、クローバーが膝を没する程に繁ってゐる。海太郎君は少年の頃、北海道の野で、肩の上まで伸びてゐるクローバーを掻分けて、遊び廻った思い出を、懐しげに語った事があった。そのピンクの花の周圍を飛び廻ってゐる熊蜂は、初めて私の書齋を訪ねてきた海太郎の胸に、きりゝと結んであった黄色と黒の段々縞のネクタイを思ひ起させた。
 私は六月二十九日の午後、そのクローバーの中に佇って、關西水害の凶報を告げるけたゝましい號外の鈴の音を聞きながら、慌しく逝去した海太郎君の生涯を偲び、無量の感慨に打たれたのであった。

注)明かな誤字誤植は修正しています。


「はしがき」
『不可思議の世界 心靈問題叢書第四卷』フラマリオン 新光社 1921.12.28 (大正10年12月28日) より

 原著者カミイユ・フラマリオン氏(一八四二− )は、心靈學者として現代最高權威の一人であり、天文學者としては、最初の佛蘭西天文學會長である。氏は今も、巴里近郊にある自己の天文臺に於て、天體の觀察と、心靈問題の研究に専念し、時々尊敬す可き著述を世界に送ってゐる。
 本書、原名 L'Inconnue (英名 The unknown)は、フラマリオン氏の代表作として常に第一指を屈せらるゝ名著である。謂ゆる論理遊戯に堕せず飽くまでも觀察事實に立脚する其の純科學者的態度は、豐富なる實例の間に透徹せる理論を點綴して、讀者を自ら首肯せしめるのである。心靈研究の第一書は正に此の書であらねばならぬ。
 因みに、原著に滿載せる實例は、譯書の分量に應じ多少の取捨を餘儀なくされたのであるが、一般佛蘭西人が此の種の不可思議なる現象に對し、力めて先入主なき觀察を試み、誇張なき報告を送る態度のみを以ても、吾人をして深く省みしむる處があると思ふ。
 尚ほ卷末に附したる「未來は知り得」の一章は、フラマリオン氏の近著「死と其の不思議」の結論と見るべきものである。前著と相通じ、氏最近の歸趨をも伺ひ得るものとして、諸君の滿足に値する事を信ずる。
  一九二一年十月
譯者


注)フラマリオン氏は1925年没。


「序」
『世界怪奇探偵事實物語集』松本泰編 改造社・世界大衆文学全集36 1929.09.03 (昭和4年9月) より

 實話、實録、眞實にあった話、斯うした傍註や、冠のついた標題が奇怪な、センセイショナルな活字となって月刊娯樂雜誌の廣告に現はれるやうになったのは、日本では去年あたりからである。
 事實譚は大地に足を即してゐる。それだけ把持力があり、生々した力強いところがある。新聞の三面記事が讀者の多數を引つける所以はそこにある。
 改造社の委嘱をうけてこゝに蒐めた犯罪探偵事實譚は、私がこれまで讀んだ英米の幾百篇から特に面白いと思った三十幾種を譯出して輯録したものである。小説體に書いたものもあるし、證人席や陪審席に立った人々の直話を其儘筆記したものもある。
 米國の犯罪事實譚は主としてチャーレス・ソマビル氏の書いたものである。氏は新聞記者として幾多の生きた事件に關與(あずか)った許りでなく、曾ては警察官として第一線に立ってゐたゞけに、犯罪探偵譚を書く上に特別すぐれた手腕をもってゐる。即ち警察官として素人離れのした事件の扱方と共に、新聞記者としての魅力のある筆致を兼備へてゐる。
 英國の犯罪事實譚を書いてゐるゴーバン探偵は、曾てグラスゴー警察界で敏腕を唄はれた老探偵で、常に犯罪者に對して同情をもって臨んでゐる。従って氏の書くものは多く犯罪哀話といったやうな傾向を帶びてゐる。ソマビル氏及びゴーバン氏の記録を比較して讀むのも一つの興味であらう。斯うした記録にも兩國人の異って國民性の露はれてゐるのは面白い。
 コナン・ドイルの書いてゐるオスカー・スレーター事件は所謂迷宮に入った犯罪の一つで、斯うした未解決の事件を吾々が各自の想像によって、解決の道をあれこれと慮へるのは時として解決された犯罪事件を讀む以上に興味を唆られるものである。
   昭和四年八月   軽井澤グリンホテルに於て 松本泰

注)国立国会図書館デジタルコレクション個人送信(ログイン必要)で公開されていますが、リスト下部のおまけに掲載していたのを移転しています。
注)他と合わせる為に、促音対応をしています。新字になっていた文字を旧字に修正しています。


「書籍と風景と色と?」(アンケート)
「時事新報」 1913.07.05 (大正2年7月5日) より

(一) 貴下の御著作中にて最も御會心のもの
(二) 本年六ヶ月間の御讀書中にて最も面白きか或は最も利益ありと感ぜられしもの
(三) 最も風景優れたりと思われし地

(一) 短篇小説を集めた「天鵞絨」といふがあれども別に自慢のものも候はず
(二) 昇さんのクープリンの「決闘」森さんの Fraup Molnaz の對話「最後の午後」「辻馬車」(三田文学所藏)その他邦枝完二さんの「似顏繪」(ザンボア所藏)
(三) 本土の名所など大方旅行せしが取たてゝ云ふべき程も候はず。近く歐洲内地に往く身なれど旅先の所謂風景などさまでに期待し居らず候。却って幼年の頃蜻蛉釣に行きし芝公園烏山或は日比谷の調練場まで今に懐かしき記憶を殘し候

注)句点は追加したところがあります。推測による文字もあります。


「雨の日に 江原氏の「新約」を讀む」
「時事新報」 1921.06.03,04 (大正10年6月3日、4日) より

 庭の桐の葉を打つ雨の音が私の窓に絶間なく聞えてゐる。昨日も私は雨の音を聴いた。今年は雨期が早くきたのか、窓をあけると明治學院の森から日吉坂電車の通る白金一帶の街々は細雨の煙にかすむでゐる。高輪の私の家には訪問客も稀れで庭の桐も繁りあった紫陽花も雨の音にまかせてゐる。このやうな日は小犬も悄氣かへって薄くらい小舎の奥深くに蹲ってゐる。私も外出の心持を挫かれて久しぶりに落着いて机の前に向ふ事が出來た。
 江原小彌太氏の創作「新約」を讀むだ。出版されたのは上卷だけで上卷はケリオテのユダ、ベツレヘムのダビテ、サマリアのバラバ、洗禮ヨハネとナザレのイエス等の四篇からなってゐる。そのうちケリオテのユダを私は最もよいと思った。廣茫としたユダヤの高原を秋の落陽を浴びながら長い道中に疲勞れきった少年ユダが継父引づられながらテリコの街へ奉公にやられるところから筆を起してある。不良な家庭に育てられたユダは奉公にいっても主人の目を盗むで賣上代をくすねたり、使ひに出されゝば道草をくって學校の講義を立ちぎゝしてきたりした。 そのやうな事件の運びのうちに不良少年の心理状態が巧に描き出されてゐる。私はこゝに不良といふ文字を藉りたがユダの持つ半面の缺陥は萬人の胸中に潜在してゐる共有の生れつけられた人間性である。メシアのキリストは未だ來らず、世は渾沌として人類は惱みもだえつゝそこにさまざまな罪惡がつくり醸されてをった間に、あるものは神の名をかりて惡行を仕遂はせてをったが適々狡猾でない寧ろノロマで一本調子のユダはその度にしくじって辛い目に遭はされてゐた。

 聖書に散見する人名に肉をつけ息を吹込むで生きた人間を造上げたこの作は可成りの効果をもって讀む者に迫ってくる。叙景叙事もいや味がなくて誠によい。折々ねらひどころがはづれて稍冗漫におちいった個所がないでもないが、そこに却って創作を商賣にしない素人らしい親切氣が見えるのである。浮蕩で野趣な時代の世相を讀者は容易に窺知する事が出來る。著者は數年をこの作に打込むとはしがきにいってゐる。眞に地理風俗教義に深い造詣がなくては到底この作は出來得ない。 續く二卷に於てどのやうな驚異をそれが齎すか私は知る事を得ない。從って私は適にこの作品の價値を論斷する事は出來ないが、この頃の私のやうに日本文字で記された長篇の小説類を一氣に讀了する興味と根氣を欠いてゐた私にとってこの作は近來にない珍らしさで一日に讀終らせる程の興味を持ってゐたのは事實である。 都エルサレムの城外「天使の地」の滸で渦越祭の爲に羊を賣りにきたユダが狡猾な商人に瞞された揚句、賣上代を追剥に奪はれる第一篇の終りは最もピクチュアスつ(※ママ)であった。第二篇にダビデが孤影悄然エンゲテの野に佇ってゐる情景や、エッセネス派の人達が朝夙に白衣を翻飜と靡かせて朝の禮拝をしてゐる光景などは目に見えるやうに描出されてゐた。
 日が暮れると閑居の夜は一層靜かになっていった。雨の音はいつか歇んで置時計の音がそれにかはり初めた。

注)句読点は変更したところがあります。江の草書が用いられていますが「え」としています。
注)明かな誤字誤植は修正していますが一ヶ所推測も出来ずそのままとしています。


「記憶に殘る少年時代の思ひ出」(往復葉書・名士回答)
「話」 1935.12. (昭和10年12月号) より

 惡童仲間と一夏を鎌倉に暮した時、泳ぎ飽きた三人は一日、豪快な下駄穿き富士登山を敢行。その足で相模川の滸りに伯父を訪ねた。先祖代々三百年も白壁を繞らしたその屋敷に住む當主は僕等を非常に歡迎してくれたが、僕が健脚を誇り、強力も雇はず、金剛杖も買はず、路傍の竹を切って、下駄穿きのまゝ、登山してきた旨を得意になって吹聴すると、伯父は急に不機嫌な顏をして「下駄穿きでお山を踏荒らしてきて何の自慢になるか!」と大喝した。
 その時はそれ程にも感じなかったが、翌朝顏を洗ひに裏庭へ出て、紺碧の空に聳え立ってゐる富士の靈峰を仰いだ時、お山を踏荒したと罵った伯父の言葉が胸にぴんと來た。それ以來僕は富士山を見る毎に罪人の如くに密に首を垂れるのであった。

注)少年時代なので中学の頃だろうか、時期不明。


「「例の会」のこと」(談話)
三田新聞 1921.10.18 (大正10年10月18日) より

 私が在學してゐた時分には文科の學生は三十人位で今のやうに純文科とか言ふやうな區別ははっきりしてゐなかった。その頃は私、井川、上松、水上、及川、小泉、佐々木等がよく「生洲」で雜談をしたものだ。そのうちに永井、小山内氏等が入り、上田、森氏が顧問の格で三田文學が出來たのだ。最初我々同人のうちで載せられたのは佐々木の「夏から秋へ」と云ふ湯ヶ原のことを書いたもので可なりな出來と評判だった。次には久保田君の「朝顏」が載り續いて水上や私のも載ったのだった。 その頃こんなことがあった。未だ私が普通部の一年だった時、佐々木、阿部、川村、小泉が同級に居た。それが大學に入り豫科となり本科となったがそのまゝ續いて小泉、阿部、佐々木、川村、私等五人が文學を中心として集る様になった。そして會を開いていろんな話をした。會場は皆のうちをまはることにしてあった。よく夜更しをして冬の寒い晩、町の燈火の消え行くのも知らずに歩いたりしたものだった。私達は此の會を「例の會」と呼ぶ様になった。 最初は阿部のうちに小泉が幹事となって集った。鰻飯に大分御馳走が出て、而も會費は五十錢だったとか覺えてゐる。第二回からは銀座の裏にある藤田といふ西洋料理屋に集ることにした。こゝには所謂文學者連は來なかったし別室もあった。そしてこんどの「例の會」からは一人づゝ客を招くことになって、永井氏、小山内氏、等が來た。久保田君もお客に呼んできっと來てくれたものだった。 こんな事をして暮してゐたがそのうち小泉、佐々木、私が間(※?)に外國へ行き、川村は實業に忙しく「例の會」もとうとう立ち消えてしまった。私達四人がロンドンで落合った時に直ぐに話題になったのは「例の會」のことだった。何しろその時分は銀ブラをするのは文科の者だけだった。私はその時代のことを何時か書き現はして見やうとも思ってゐる。 (談)

注)明かな誤字誤植は修正しています。推測による部分もあります。句読点は追加、変更したところがあります。


「あの頃」
「三田文学」 1938.05. (昭和13年5月号) より

 あの頃は太陽がもっと赤く、吹く風も一層身に沁みたやうな氣がする。日當りの良い出窓の前に囀づる鳥の唄も、飛付いてくる小犬の言葉も、はっきり解ってゐたやうだ。そして思ひ出に浮びくる懐しき顏の如何に多き事よ。
 三田の山に並んだ嚴しい校舎を他所に、樫の樹に取卷かれた褐色のペンキ塗りの洋館があった。舊ヴヰカース教授の住宅であったが、塾生の教室が足りないところから、吾々文料生の教室に宛てられてゐた。
 階下は教授達の食堂になってゐて、料理人や給仕達が庖丁を振ったり紅茶の茶碗をがちゃがちゃ鳴らしたりしてゐた。建物が獨立してゐたせいか、小人數の文科生等の存在が眼中に入れられなかったせいか、同じ三田の山を上る他科の學生達は誰一人、ペンキの剥げかゝった門内を覗かうとする者もなかった。
 それに教授達は正午の定刻に食事を濟すと、簡單に引揚げてしまふので、その建物は完全に文科生の獨占するところとなった。
 二階は全部教室になってゐたが、どうした譯か露臺のついた西側の裏部屋が一つ空いてゐたので.仲間の一人がしたり顏に其處を倶樂部室にしてしまひ、冬などは達磨ストーブに赤々と火を焚いて雜談に時を過したものである。
 幸ひその横手の裏梯子が食堂の調理場に續いてゐたので、誰かゞ猿のやうに手摺にぶら下って階下の給仕に、
「おい、長吉! 紅茶を四つ頼むよ!」と命ずる。それが次第に嵩じ、ハムサラダの麥酒のといふ事になった。尤も生徒に飲食物を提供しては相成らぬといふ掟は設けられてゐなかったので、萬來舎なる者は唯々諾々として品物を金錢に替へてゐた。といって萬來舎が決して猶太人だったといふ譯ではない。何故なら二階の亂暴者の一人が、給仕の云草が氣に喰はなかったとかで、榮螺の殻を投付け長吉の石頭で一尺も彈ませた例もあったので、二階の學生さんには逆らはぬがいゝといふ亭主の趣旨だったらしい。
 そこに集まる仲間の中には、一言聞いたゞけで、直ぐ頭腦にぴんときて、相手の氣持全體をのみ込んでしまふやうな、感の良い井川滋君がゐた。耳も良かったから音樂にも趣味が深く、よく麻布箪笥町の自宅の二階でギターを彈いてゐたっけ。嗅覺は殊に鋭敏で、登校の途中、味噌汁の匂ひで、あすこの親父は三河者だらうとか、こゝは越後者だとかいって吾々を驚嘆させたものである。卒業後學校に殘って默々として普通部の教師を勤めてゐたが、吾々仲間で一番健康そうであったのに、一番先に他界してしまったのは洵に遺憾の極みである。
 もう一人是非とも長生きさせて置きたかったのは後年大學で美學を講じてゐた澤木梢君であった。中々の氣むづかし屋で、愚鈍な善人よりも、寧ろ聡明な惡人の方が僕は好きだよ。といふやうな事をいふ人であった。然し非常に友達思ひで私より級も上であったが、少しも先輩振らず一緒に遊んで呉れたり、吾々の作品に對して良い批評を與へて呉れた。
 達磨ストーブの傍で、大きな體躯を揺りながら哄笑してゐた見るから磊落な好漢であった。誰かゞ、彼はいつも臍を露してゐたよといったが、そんな莫迦な事があるものではない。蓋しそれは彼の虚心坦懐な、太っ腹な態度を謂ったものに違ひない。但しこの好漢實は極めて繊細な情緒の持主で、現在は長崎圖書館長正何位増田廉吉殿になっても、まだ昔の仲間を懐しがり、年一二回の上京毎に忙しい中から皆の顏を見るのを樂しみにしてゐる。
 眼鏡の下から、ぎろりと一座を見廻し、仲間が喋ってゐる間は薄笑ひを浮べて唇を噛んでゐながら、後で思ひ切った皮肉や警句を連發して一同をあっと言はせてゐたのは、佐藤春夫君であった。その傍に、黒マントの襟に鼻から下を埋めてゐる眼の素晴しく綺麗な美青年がゐた。それが堀口大學君である。
 露西亞文學通で、當時流行の自然主義的傾向を多分に帶びてゐた植松貞雄君は、大空を流れて白雲のやうな氣紛れな私とは、自然その交友にも非常な逕庭があった。同じ文科の連中とは毎日教室で顏を會せてゐたから、それは別として、植松君を取卷いてゐたのは、國枝史郎、生田蝶介、服部塔歌、石川宰三郎、太宰施門、三木露風といふやうな顏振れで、大方早稲田派の人達であった。
 私はどういふ譯か、白樺派の人々と多く交渉を持ち、特に萱野二十一即ち今は故人となった郡虎彦君、正親町君、吉井勇君などゝは親しくしたものであった。そんなにも毛色の異った植松君と私とは、不思議にも何處か相通ずるところがあったと見えて、倫敦へも一緒にいったし、夫から廿幾年を經過した今日でも尚、學生時代その儘の氣持で親しく往來してゐる。
 植松君はその頃、三田文學の向ふを張って、黒燿といふ堂々たる月刊雜誌を發行してゐた。何しろ學生の經營でありながら、世間並に稿料を出してゐたから大したものである。尤もその稿料といふやつは、大抵芝浦の「いけす」で仲間同志の飲食費に宛てゝしまふのが常であった。時には飲み過ぎて勘定が滯ると、月末には、黒襟をかけたお富といふ女中頭が、日和下駄をからから鳴らしながら三田の山まで上ってきて、吾々を悸っとさせたものであった。
 當時、吾々仲間の畑違ひで異彩を放ってゐたのは、先づ第一に理材科の阿部章藏君即ち水上瀧太郎君で、いつも端然たる風格が、吾々に一目おかせてゐた。といって阿部君は別段、危きに近寄らずといふやうな態度はとらなかった。芝浦が築地に移らうと、新橋にならうと、最後まで吾々と行動を共にした。その癖如何なる場合にも嘗つて紊れた事はなく、常に自分の前に朱線をひいて、どんなに夜が更けても、靜かに和歌などをものして子息の歸宅を待ってをられるといふ母堂の許へ歸ってゆく事を決して忘れなかった。
 それから小山内薫先生の斡旋で、文料聴講生となり、吾々と倶に文學を語り、倶に遊んだのは喜熨斗政泰君即ち自由劇場の新進俳優であった猿之助丈である。紺飛白の衣服を着た男振りの良い、きびきびした青年で、皆に好感を持たれてゐた。或時、東京灣を見晴らす「いけす」の二階で、盃が亂れ飛んでゐる最中、何かの事で私が、
「やい、役者奴!」と遣付けたら、間髪を容れず、
「やい、學校奴!」と跳返ってきた。この勝負は完全に私の負けであった。憶へば懐しいあの頃である。

 「いけす」とは趣を變へて、吾々がよく集ったのは日本橋鐙河岸にあった「鴻ノ巣」といふレストランンである。主人は吾々より五六歳上の駒さんといふ男で、何でも白耳義公使とかに可愛がられ、その歸國に際し、アントワープまで蹤いていったといふ事で、いろいろ珍らしい洋食を食べさせた。牛の尾のシチューやハンバアクステーキのやうにして食べさせたり、マロボーン・トーストといって、バタを付けた燒パンの傍に、四五吋の牛の背骨と杉箸を添へて出した。箸を骨に差込むと、葛のやうなどろどろしたものが出る。それを燒パンに塗って食べるのである。
 駒さんは口先許りだったか知れないが、中々空想家で、庖丁を持つ手が空くと、吾々の陣取ってゐる二階へやってきて、窓下の溝川を眺めながら、
「いまに金を溜めてゴンドラを購ひ、月夜の晩にそれを浮べ、皆さんにギターでも聞かせてあげたいですよ。」などゝヴェニスの夢を語ってゐた。
 階下の店には吉井勇、谷崎潤一郎、其他白樺の同人達が屡々集ったが、有名な正宗白鳥氏が浮かない、氣むづかしい顏をして、ストーヴの火を視詰めてゐるやうな風景もあった。
 霙の降る晩、一同がそのストーブを圍んで藝術談に興じてゐたが、ふと言葉が杜絶えた時、入口の黒い硝子扉の外に、ぱっと白い紙礫が流れた。
 傍にゐた萱野君は私と顏を見交して、誰にも氣付かれないやうに、そっと席を外し、戸外へ出ていった。紙礫の主は私が密に敬慕してゐた高村光太郎氏であった。
 白い、何にもない大理石の卓上に、鉢植の紅い花が、總てのものを壓して、ぐっと乗出してゐるやうな溌溂とした高村氏の靜物畫が鴻の巣の二階に飾ってあったやうに思ふ。

 偖、再び三田の山へ戻って、文科の倶樂部室に赤々と燃え盛るストーブを圍んだ吾々が、勝手な雜談などをしてゐるところへ、飄然と着流しの和服姿を現はしたのは、佛蘭西歸りの吾が永井荷風先生である。濃い眉、切れの長い眼、すらりとした長身、それは悉く吾々の崇敬の的であった。
 どうかするとその爐邊が、其儘佛蘭西文學の教室になり、吾々は椅子を寄せ、煙草を燻し、時には紅茶を飲みながら、巴里のカフェーの風景や、マロニエの葉の墜つる並木道の情緒などに、遠く想ひを駛せたものである。
 その中に煙草が斷れ、いつか室内が薄暗くなって、永井先生の白い額が浮上ってくる。「どれ、そろそろ引揚げるかな」先生が椅子を離れられるのを合圖に、吾々も席を立った。或る者は露臺へ出て、庭境ひに聳えてゐる欅の葉が夕陽に揺れてゐるのに聞き入ったり、眞赤な太陽の沈んでゆく遠くの空に、紫色の秩父連山に見入ったりした。そんな時は誰も眞直ぐ家へ歸る者はなく、又しても教室が銀座のパウリスタに移り、或は日吉町のプランタンになった。
 前者はその頃東京で唯一の珈琲店であった。船室のやうな部屋で、ブラジル珈琲にドーナツ位でニ三時間もねばってゐられる程、氣樂な店であった。紅い縁取りの紺の詰襟に金釦といふ制服姿の少年給仕達が、吾々の爲に煙草を買ひにいったり、電話をかけてくれたりした。
 日吉町のプランタンは洋畫家松山君の經營で、畫壇、文壇の連中がよく集った。永井荷風先生、馬場孤蝶先生、小山内薫先生などの顏が見えたのはいふ迄もない。
 永丼先生は可成りのところまで、吾々と行動を共にされたが、良い潮時を見て何處へやら姿を消されてしまふのが常であった。然し天鵞絨服に黒いボヘミアン襟飾(ネクタイ)をした小山内先生は、いつ迄も吾々の相手になってゐて下すって、シェリーか、ポートに優しい眼を輝しながら、
「おい、俺の事を先生なんて止してくれ! 兄さんとでもいへよ!」などゝいって、吾々肩を輕く叩かれるのであった。そうして飲過ぎた愼みのない手合ひが、一つ場所に落着いてゐられないで梯子酒をやったり、食卓の下を這ったりしだすと、小山内先生は笑ひながら、そっと拾圓紙幣などを吾々の一人に握らせて席を外してしまはれた。何ともいひやうのない懐しい慈味を持った先生であった。
 茶系統の澁い和服に袴を穿いた馬場先生は鼻下に美髭を蓄へ、その颯爽たる容姿は古武士を偲ばさるものがあった。ブランデスの大陸文藝思潮や、アナトール・フランスの作品などに就いて、英語交りに講義されてゐる時も、何處か凛として冒し難いところがあった。それでゐて師といふよりも、小父様と稱びたいやうな親しみを吾々は感じさせられてゐた。
 一夕、「いけす」で井川君が陶然となり過ぎ、廊下を這ひ廻った揚句、後向きになってをられた馬場先生を、友達と間違へ、巫山戯て思ひきり蹴り付けたものである。一同が驚愕した事はいふ迄もないが、それと氣付いた井川君は、先生の前にべったりと兩手を突いた。
 吾々はどうなる事かと、片唾を呑んでゐると、先生は優しく井川君の手をとって、
「まァいゝよ、鳥渡も氣にする事はない、さァ愉快にやった! やった!」といはれた。
 吾々一同は先生の温情に打たれ、蕭然として誰一人、聲を立てる者はなかった。井川君の頬に涙が流れてきたので、感じ易い吾々青年達は共々に泣いた事があったけ。

 その頃の懐しいさまざまな思ひ出の中で、特に忘れ難いのは永井先生を取圍んだ吾々の一團が、三田の山を下りて赤羽橋を渡り、翠深い芝公園の杉並木を抜け、苔蒸したした甃石の上を踏んで御靈廟を覗いたり、黒本尊の朱塗橋の擬寶珠を撫で廻した時の事で、鴉が澤山飛んでゐた事までも、未だにはっきりと記憶に殘ってゐる。
 夫から月に一度位、牛込余丁町の、昔ながらの黒板塀の上に、樫や椎の樹が高く並んでゐる先生のお宅へ招かれて、靜かにお茶を飲みながら文學談を聞かせて頂いた事もあった。その廣い座敷に面した庭には、先生の御尊父が手がけられたといふ見事な盆栽が澤山並んでゐた。
 適々談話が演劇に及んだりすると、先生は吾々を有樂座や、明治座の舞臺裏へ連れていって、小山内先生の「どん底」や、岡本綺堂氏の「修善寺物語」などの舞臺稽古を親しく見學させて下すったものである。
 斯うして永井先生の指導下に、吾々文科生が「三田文學」にそれぞれの作品を發表し始めた頃、同誌上に玉篇を寄せて花を添へられた森鴎外博士や、上田敏博士は教室に於ける先生ではなかったが、三田文科の顧問といふところから、何彼につけて吾々を指導された。
 築地の精養軒で三田文學會を催した時、定刻より遅れて、佩劔を鳴らしながら靴音高く食堂へ入って來られた鴎外先生が、
「失禮! 今晩は澤山の軍人を殺してしまったので、つい遅刻致しました。」といはれた。その時の悲壯なお顏は生々しい印象に殘ってゐる。何でも列車の事故で、軍隊に多數の死傷者が出たのだといふ事であった。因に鴎外博士は當時陸軍々醫總監の重職に就いてをられたのである。その晩は確か窓の外が暗く、時折稲妻が闇を裂いてゐた。
 上田敏博士はその頃も京都にをられたが、京都大学が休暇になると、わざわざ東京まで講演に出てきて下すった。先生の歸洛を吾々が新橋驛まで見送った時、洋装のお嬢さんと腕を組んだ先生が、長い歩廊をリズミカルな歩調で歩いてをられた様子は、異國情緒を帶びた風景として未だに眼底に殘ってゐる。
 獨文料の教壇に立ってをられた小宮豐隆先生は、久保田万太郎君の江戸情調の育て親として吾々の忘れてはならぬ先生の一人である。
 ヨネ・野口先生は餘りに詩人で、吾々は寄りつきは惡かったが、矢張り懐しい先生であった。講義中にふと、窓外の緑に眼をやって、思ひ出したやうに煙草に火を點けられた。恐らく先生の魂はヨセミテ公園の小徑を流れる風になってゐたのであらう。そんな時私は、先生を汚い教室などに閉込めておくのは勿體ないと思ったりした。
 それから一週間に一度だけ三田の山に見えて、二時間ぶっ續けに泰西藝術史を講ぜられた岩村透男爵は、恐ろしく口の惡い紳士であったが、矢張り懐しい先生の一人である。塾監局の前の池の畔のやうな感じのする場所(尤もそこは私が普通部一年生の頃には確に池で、私はその池の蛙を潰した記憶がある)で、ばったり出會った岩村先生と立話をした時、「何に? 永井が佛文學を教へてをると? 奴はいつの間に佛蘭西語を覺えたのだ。」といはれた。
 だが縦(よしん)ば永井先生が、一語の佛蘭西語を教へられなかったとしても、普通の豪い學者が教室で十年かゝっても教へられないものを、吾々は先生から受けたのである。三田に於ける先生の存在は春風の如く、吾々青年の上に文學の呼吸を吹きかけ、その一人々々の天分に從ひ、それぞれ異った芽を萌かせ、花を咲かせたのであった。思へば何といふ惠まれた文料であったらう。

注)カタカナ名など現代と異なる単語がありますがそのままとしています。


「思ひ出多き倫敦の空よ」(談話)
「時事新報」 1915.07.23, 24 (大正4年7月23日、24日) より

▽船は六月五日 倫敦發の諏訪丸で、舵を歐洲航路に取り、漸く此の廿日に神戸へ着きました。上陸して見ると非常な暑さ、昨日までも一昨日までも冬服に如何(いくら)か薄手なので通して來た。倫敦の初夏が、今更のように偲ばれます。元來日本では酷暑とか苦熱とか云って、甚(ひど)く夏を荷厄介にする癖があるやうですが、倫敦では "Merry Summer" とか、或は "Good Summer" と云って、却って夏を賛美する傾きがあります。 私は倫敦へ行ってから、餘り友達も取らず、獨り淋しく郊外生活を續けて居りましたが、物に屈託はなし、閑靜ではあるし、眞面目に勉強をしやうとか、或は
▽本當に生を樂 まうとする人には、實に好い所です。倫敦は第二の故郷と能く人が云ひますが、私は寧ろ第一の故郷とさへ言ひ度い位です。 戰爭の爲めに無論、物價は高くなりました。一番目に見えて高くなったのは、パンです。それからビイルは新に課税されましたから、從って値段が上り、ウヰスキイなども、本場のアイルランド人やスコットランド人が盛んに反對説を唱へては居ますが、遠からず課税されやうとして居ます。 値段の變らぬものは新聞で、戰爭の爲めに反って安くなったものは、獨逸製の手袋や其他です。それでも人間の感情と云ふものは怖ろしいもので、幾何安くても、 "Made in Prusia" 等と云ふ商標が付いて居ると、お客は Pshaw!" なんと言って、いやあな顏付をし、決して手さへ付けやうともしません。從って
▽獨逸製の物は ドンドン捨賣同様の目に遭って居ります。 新聞の號外なども最初の間は、毎日毎日のやう出て居たもので、澤山の可愛らしい鳩の群が窓下に集まる、郊外の私の小さな家でさへ、「ソラ號外だ」と言ふので窓から頸を突出すと、彼方の窓からも此方の窓からも、方々から色々の人の顏が見えたものですが、近頃では餘程戰爭に厭きが來たものと見えて、そんな様子もなく、唯だ新聞社が時折出す晝刊だの、午後三時の第一版乃至午後六時頃の夕刊などを、 サンドウィッチマンのように頸から大きなボールドを懸けた男が、新聞の中の重要な見出しをそれへ書いて、立ちン坊のやうにブラブラして居るのを、街へ出懸ける往復(ゆきかえ)りに能く見掛ける丈です。併し斯うした呑氣相な空氣の中にも、爭はれぬことは、戰爭の悲惨なる結果として
▽失職した連中 が、義勇兵などを志願し、それを唯一の頼りに口過ぎをしやうとしたのが、ガラリと當がはづれ、仕方なしに路傍に立って、私共のやうな見知らぬ外國人の袖に迄取縋り、「五十錢で不可なければ廿錢、廿錢で不可なければ一杯飲む丈でも可い」と云った風の袖乞をして居る。ヨボヨボのお爺さんなども寡くはありません。これを思ひ出すと、美しい倫敦の幻影も、畫餅に歸して終ひさうな氣が來ます。(談)

▽遉がに世界一 の大都會だけあって、倫敦は前回に申上げた一部の失業者を除くの外、さう現はに戰爭の惨禍を眼の當りに見せ付ける者とてはありません。例のツェッペリン飛行船の來襲があった時など、全都に亘って消燈令が下りましたが、戰爭其物を無自覺に怖れて居らぬ倫敦市民は、案外平穏なものでした。中には物好きな連中があって、態々見物に出懸け、その爲めに反って負傷など迄して歸った者もありましたが、別段悔いた様子もありませんでした。 芝居其他の興行物も平生と變りがなく、少し歸りにまごまごして居ると、タクシーなんか直に無くなって了ひます。而して藝題などには、時折 "Right to Kill" などと云ふ、如何にも際物めいた者がないでもありませんでしたが、這入って見ると丸で戰爭とは無關係の者でした。有樂座の半分程しかない Little Theatre には、恰度、
▽愛蘭劇が掛て 居て、イエツが舞臺監督になり、自作は無論、グレゴリイ、シンヂ、ロビンソン等の作物を毎晩一種宛換へて出して居ましたが、有名な「ハイヤシンス、ハルヴエ」等も其處で見て來ました。此一團は本部をダブリンに置き、年に一度位宛倫敦へ出懸て來るのですが、私の見た時は恰度其シイズンに這入って居たのです。 今倫敦に殘って居る獨逸人と云ふのは、大抵ナショナライズされた獨逸人で、パン屋、料理屋などを營んで居る連中が多いやうです。獨逸人の教師などは、戰爭の當初逸早く自分から歸國した連中も寡くはありませんでしたが、學校の方から罷められた連中も澤山あったやうです。今度の戰爭が幾年掛るかと云ふことは、種々異説のある所で一致して居ませんが、有名なキイチナ元帥の如きは
▽始から三年説 を唱へて居ましたが、今度自由政府が成立したら、又何とか變るかも分りません。かと思ふと私の學校の教師などはアイルランド人な者ですから、極端な平和論者で、毎日教室へ出ると、「今日は幾人戰死者があった、明日も亦幾人位あるだらう」と、始終學生に戰死者のリストを示して居ました。 私の出入して居たボヘミア人の倶樂部などでは、オースタリイの獨立を願ふと同時に、ドイツの横暴を奮慨する新進氣鋭の青年たちが、盛んに戰爭を呪って居ましたが、中に美人の評判の高い、金髪の一女丈夫があって、故國の危急存亡を外に見て居られぬと言ひ乍ら、獨身米國の汽船に乗込み、危險を冒して歸國した者さへありました。何處の國でも人情に變りはないものと見えて、何時か無線電信使用の大仕掛けの獨探が捕まって以來と云ふものは、何處でも彼處でも
▽獨探獨探の噂 が寄ると觸ると夫から夫へ傳へられます。私の宿って居た家では、主人夫婦と云ふのはアイルランド人で、英國に對する愛國心などの少しもない人たちでしたが、其家の娘と云ふのは、稀らしく倫敦化した女で、毎日仕事から歸って來ると、「今日は何處それの家へ怪しげな風體の男が入って行って、何やら器械を取付けに懸った」とか、或は「何處それの家の門前には、眞夜中頃に異様な幌馬車が停った」とかと云ふ、取留もない噂話を、眞しやかに熱心に述立てるのでした。 尤もナショナライズした外國人は、一般に「俺は Swiss だ」と云ふ丈で、別に本當の生れた國を言はぬのが一種の習慣みたいになって居るから兎角かうした疑心暗鬼の噂を生むこと(※合字)が多いのかも知れません。(談)

注)句読点は変更したところがあります。少し文章や漢字のおかしなところがありますがそのままとしています。


「八月の某日」
「時事新報」 1915.08.27, 28 (大正4年8月27日、28日) より

 八月某日、わが日本の首府は灼熱した太陽の直射にある。酷暑が數日つゞいて萬物は總て喘ぎ疲勞(つか)れて了った。電車が惰氣(ものうげ)に走る。
 ハンケチは動き扇子、團扇は至るところに音をたてゝゐる。
 公園の木の葉は白く一様に塵埃に塗れて沈黙の裡にあった。すさまじい白日の光輝はものみなを曝露しあらしつくしてをる。黒い足の子供の群が包ましげに母親の買與へた小帽子を冠って炎天をめげず驅け歩いてをる。活發なる未來の日本國民よ、油蝉も又樹の幹で啼いてゐる。
 余はこの日頃、紅海、印度洋、新嘉坡、香港の暑氣を思ひ出づる度に勞働の苦力(クリー)跣足の支那俥夫をフト思ふ。
 山の手の高臺なる余の家にも暑さは朝日と共に日毎に低い庇を照つけた、四圍の樹々からは蝉が絶間なく歡喜の聲をあげてゐる。余はその下に籐椅子を据ゑて烈しい夏の終日を熱にうかさるゝ如くうつらうつら暮してゐた。夏のさまざまな記憶が睡氣な頭腦を徂來する。余の胸の上には小形の手帳が央開いたまゝのってゐる。
 八月某日、倫敦の市街は強雨を以て夙(はや)くあけた。沛然たる夏の雨は滑らかなアスファルトの道路に細い飛沫を立てゝゐる。空は低く曇って重く漂ふ霧に家々は埋れてゆく。English Church の尖塔の朧氣に見える、窓掛の純白なレースの間から靜穏な戸外の様が見渡される。
 窓下のベランダには昨夜取殘された鉢植の蘭が風雨に曝されてゐた。いつも街角に遊んでゐる黒犬もその日は見えない。雨に濡れた自動車が折々家の前を過ぐる許りである。
 余のテーブルの上に萎れた赤い花が二三輪のってゐる。其傍に娘のハンケチや手提鞄や芝居のプログラムがあった。昨夜の劇場をフト思った。赤い花は紺色のコスチュームに配合がよかった。古い花は凋落(しぼ)むでも新しい花はその胸に匂ふであらう。美しき夏よ、ビクトリヤ街の角店に余は又眞紅の薔薇を見出すであらう。凡てのものは生育をいそしみつゝある。新らしく若きものゝ未來には輝く計りの希望と喜びとがある。古きそれ等の花の殘骸(むくろ)が窓の上部から洩るゝ弱い外光をうけて薄ぐらく卓の上に浮かんで見えた。瓦斯を點そうとしたがやめて階下の食堂へ下りた。時計は朝の十時を過ぎてゐる。
「陰氣ですね、こんな天候では折角約束をしましたけれど、ボートは漕げませんね」快活な娘達が云った。
「そうね」
「私は殘念に思ひますけれど、貴郎はどう」
「そう思ひますとも、然し私は却ってこのやうな日が好きです。よごれてもいゝ帽子や外套をきてボロ靴を穿いて戸外へ出るんです。そうしてビショビショに濡れて了ふのです」
「不思議な人ですね」
「エヽ、不思議な人です」と余は考へた。食事のあと自分達は新聞や雜誌を讀んだり小聲で歌などを唄ってさわいだ。雨と風が募ってヤードの樹木がすさまじくなった。雷鳴がすぐ近くの低い雲間に鳴り轟いてゐる。その度に娘達は聲をあげてさわいだ。

 午後になって薄日が途切れた雲の間に出て雨に濡れた街路が鈍く照らされゐる。雷鳴は全く聲を潜めたけれど大粒の雨は折々烈しく窓ガラスをうった。空は明るく暗く變化した。
 余はいつかわが部屋にあって雨外套を纏うてをった。その雨の晴間に門を出ると娘達は丁度三階にゐて、
「こんな天候に何處へ行くんです」
「やめたら、いゝでせう」
「すぐ家へおはいりなさい」と口々に云った。
「散歩です、一寸散歩です」と余は答へた。
「お茶の時間には間違ずに歸ってくるんですよ、遅れるとヒドイ罰です」
「宜しいとも」往來の角へ出てフリ返ると高い三階の窓に三人の顏が笑ってゐる。余は行馴れたる Battersea 公園へ行かうとしたが氣をかへて Belgravia の街路を右へ曲った。教會堂のわきを過、停車場の上の橋を越えると圖書館がある。寂然とした構内は人も稀であった。新聞室にはいってしばらく時間を過したが、やがて歸途についた。雨は全くあがって緑の街樹が葉裏をかへしてサラサラと動いてゐた。夕燒が遠くの空を染てゐる。
 ベルグレーブ街のわが家には賑かな樂い紅茶の時間が自分を待ってゐるのだ、歩調も急ぐ。
 翌日は麗かな太陽が市街を照して見渡す限り空は蒼く霽渡ってをった。近所の家でカナリヤが頻りに囀ってゐる。
 朝刊新聞の第一頁に前日落雷の箇所と人畜の死傷が記載されてあった。Battersea-park に於て二人の兵卒と貧民の兒童三人が震死した。彼等は樹木の蔭に雨やどりをしてをったのである。
 朝飯後余は只ひとり杖を携へて公園の湖畔へ立った。八月の太陽は愛に滿ちた無窮な光を限りなく地上一面にふり注いでゐる。寔(まこと)に前日の暴風雨を忘却してゐる木陰の白いベンチには老人が憩うてゐる、乳母車を曳いた兒守女が編物をしゐる。遠く湖水の中洲から水禽の群が折々聲をあげた。余は樹陰の小徑を歩いた。
 日本の八月某日、土曜は過ぎたが暑氣は中々に去らうとはしない。腐敗と臭氣と疫病とを聯想し得る苦熱は當分わが首府の上にあらねばならない。
 終日木蔭に仆臥(たお)れて眞夏の光にうなされつゝ折々赤蟻の盛々と樹の幹を這上るのを見た。
 親しき友人、誰彼より晩涼に來り給はずやなど文つかはさるれど、夕ぐれ電車の雜鬧(ざっとう)などを思ひ、ことわりの文返すが常である。(完)(一九一五、八、十六)

注)句読点は追加、変更したところがあります。文末に空白がある場合は段落を変えて冒頭一文字空けを追加しています。会話の鉤括弧の開始は一文字空けですが詰めています。


「晩秋の一日」
三田評論 1918.03. (大正7年3月号) より

 水曜日であった。
 窓から吹入る風は眞に秋だ。ローンは露に濡れて穏かな朝の太陽を待ってゐる。樹の葉は悉く堕盡して古い煉瓦塀に紅い蔦が這上ってゐる。粛條たる庭園に殘ってゐるのは葉の厚く勁い二三の常盤木のみで、かよわい黄色い花をもつ月見草が庭の隅にあった。色の褪せた金魚草があった。
 九時過ぎ余は部屋へあがって机上に散亂した書籍をあれこれと掻まわしてゐると靜かに戸口を叩いて來客を報じた。
「宜しい、今階下へゆく」不意の訪問客はC氏であった。
 誰人も持つかも知れぬ未見の友を余も持ってゐる。C氏はそのひとりである。倫敦を距る五十哩餘の海濱に住む氏と倫敦西南隅ハンプステッドの丘にをる余とは凡ての用件を悉く手紙で濟してゐた。月の更る毎に互に面晤を期してゐながら折惡しく機會を得ずにそのまゝ、いつか三ヶ月を經過したのである。
 これより數ヶ月以前、畏友S氏一家は英國負傷兵を病院に見舞にいった折、端なくも加奈陀日本兵の一負傷兵を見出した。適々夫が倫敦を距る二十哩餘なるエピソムの營舎に起臥せる數人の日本兵負傷者を知る事となった。新聞雜誌其他は折々S氏の家から送出されて彼等の假營舎を賑すのであった。余はS氏を通じて彼等を知り假營舎を訪ねた事もあった。彼等の輕傷者はかはるがはる休暇を得る度にS家を訪ねた。余はその度に彼等のひとりひとりを見た。
 數日前、余は所用を帶びてオックスフォードへ赴き、土曜の夜遅く歸ると不在中にC氏から手紙が來てゐる。――兼てお手紙で承知したエピソムの營舎に於ける勇敢なる日本の加奈陀兵を見に行きたいと思ふ、月躍日午後御都合は如何――とある。「宜しい」と余は即座に思ったが何分日曜日は郵便の配達はなし「宜しい」を傳達するに尠からず困難を感じた。そこで土曜日の最終便に托して手紙をかいた。
――當方の都合はいつでも宜しい、月曜の朝にてもこの手紙がつき、且つ貴下の御都合宜しければ午後三時ビクトリア停車場大時計の下に來られよ、そこに貴下は背高く、口髭をもつ日本人を見らるゝべし、そは余なり――と記した。月曜は朝起きると窓外に風が荒れて冷たい雨が霏々と降ってゐた。手紙も届くまい、突然で都合も惡からう、殊にかゝる日はエピソム遠征に喜ばしからぬ天氣模様であったが兎に角、雨を衝いて大時計の下に立った。無論C氏は見えなかった。

 余は應接間に下りると肥滿長大の一紳士がツト立った。
「始めてお目にかゝります、私がCです」
「私がMです、月躍日には多分私の手紙をご覧にならなかったやうに思はれます」
「折惡しく不在であって、拝見出來ませんでした、雜誌の事では、いろいろ御骨折下すって誠に有難う」
「どう致しまして大して御盡力の出來ないのを遺憾に存じてをります」 
「實はMざん、これから直ぐ例のエピソムへ行かうと思ひますが貴郎の御都合は如何です」
「宜しい、出掛けませう、濟みませんが十分間待って下さい。そのうち自分は仕度をしますから」余は十分間のうちに洋服、靴、シャツを取かへ、大型の手帖を懐袋(ポッケット)に入れて再び階下へをりた。
「どうもお待遠う、それでは直ぐ出ませうか、一寸エピソム行の汽車の時間を見ませう」
「時刻表は後刻にしてお氣毒ですが亞細亞協會まで一緒にいって下さいませんか、汽車は幾度も出るでせう、それに貴郎に紹介したい人がゐますから」
 二人は石段を下りて待ってゐる自動車に乗った。氏は二子を持ちひとりは陸軍少佐としてサロニカに他は砲兵大尉として西部戰線に活動してをるといふ、日本武士、城山における南洲翁、古都奈良の風光などの物語りに打興じてをるうちに車は忽ち亞細亞協會の入口に輊(とま)った。廣い讀書室にはストーブの火が盛に燃えてゐた。卓上には凡そ亞細亞に於て出版さるゝ數十の月刊、週刊雜誌が整然とならんでゐる。日本、朝鮮、シャムなどゝ云ふ文字が直ぐ目につく。 余はそこで質素な襟飾(ネクタイ)をつけ、ダブダブのズボンを穿いた小柄の老人に引合された。ホプキン氏は英米に於て最も著名なる支那學者のひとりである。用事を濟して余とC氏は協會の門を出た。來かゝる自働車をとめて、ビクトリア街のアーミー、ネービー果物部に赴き、日本人負傷兵訪問の見舞品として林檎、梨子、葡萄、クルミなどの二箱を求めた。 クヰン・アンニ・マンションの氏のフラットへゆき、帳場で汽車の時間を調べさせ余等は食堂へはいった。協會や買物に案外時間をとって、この時は既に一時を少し過ぎてゐたのである。食事のあとブラック・カフェーを命じてゐると給仕人が來て汽車の時間を知らせてきた。折惡しく一時間餘を待たねばならぬ。
「私の部室へいって煙草を吸ひませう、そして貴郎に見て頂きたいものがある」氏は日本骨董品(アンテック)の愛好家で斯道に深い造詣をもってゐる。余を心地よい一室に導いて隣室から宋朝時代の燒物や古色掬すべき香爐、精巧な佛像などを出してきて見せた。それよりも余を歡ばしたものは、この小窓から遥かに瞰下する大市街の光景であった。 ウエストミニスターアベー、時計塔、バッキンガム宮城、國會議事堂(ハウス・オブ・パーラメント)、ウエストミニスター橋、テームスの白く輝いた逶(い)い(※施の方の代わりにしんにょう)たる流域、ウォータールー橋、車馬絡繹たる雜閙を一目の下にあつめたこの大壯觀に余は暫時、煙草も、アンチックも、C氏をも忘却したのであった。
 やがて余等はビクトリア停車場より豫定の如く三時幾分の列車に乗り、一時間の後、二人は一小市エピソムの町はずれに立った。少し誇張していへば徒歩よりも遅い馬車(ハンサム)に乗って傾斜せる道路をのぼり、兩側に緑の草原を眺めながら營舎へ向った。雜木林の丘の彼方からラッパの音が聞える。馬車をのりすてゝ營舎の門をはいると丁度紅茶時間(チータイム)で赤ネクタイに淺黄の病院服をつけた負傷兵が假小舎の前に整列して順次に食堂へ這入ってゆく所であった。
「コイ、コイ、こっちへ來てくれ」と誰かゞ叫んだ。余等の下げてゐる二つの箱が疑もなく彼等を誘惑したのである、と見ると頭髪の黒い男が一散に余等の方向に疾走ってきた。
「あゝ、來ました、Cさん」と余はC氏に教へた。顔馴染の久保田君は加奈陀日本人義勇軍負傷者のひとりである。
「久保田君、今日は貴下達負傷兵に大變同情を持ってゐらっしゃるCさんを連れて來ました」余は擧手の禮を施しつゝある唇の厚く顏幅の廣い如何にも忍耐力の強さを示してゐる久保田君をC氏に引合した。
「Mさんと一緒にお見舞に來ました、皆さんはをりますか」
「ハイ、全體で八人をります」
 紅茶の時間をさまたげては惡るい、余とC氏は指示された No.3とある彼等の假小舎に待つ事にして久保田君を食堂にゆかしめた。
 No.3の假小舎は、疎末な小寝床(ベッド)が五十計り長く兩側に竝んでゐる。二個所に据付暖爐があるが孰れも火は大方消えてゐた。余等は間もなく八人の日本兵と様々な談話を試みた。C氏は大きな煙草の箱を八ッ取出した。お土産の果物やクルミが擴げられた。彼等の負傷部は主として手足である。治療後、恐らくは癈疾となるべきものが二三人あった。それにも拘らず彼等は旺盛なる元氣をもって談笑してをった。 殆(あやう)く獨軍の捕虜に陥らむとせし同邦の數人が塹壕の一隅に匿れて僅に危難を免れたる話、加奈陀の一士官が獨探であって味方が或時大損害を受けたる實話、その他、負傷兵のO君はサウザンプトン病院に於て適々英國皇帝ヂョーヂ五世陛下に拝謁の榮を賜り親しく優渥なる聖旨に接したるときの物語りや、その折友人のひとりが横合よりカメラに収めた寫眞などを見た。興味ある賑かな談笑は中々に盡くべくもなかったが余等は歸路の時間を案じ再會を期して一同に別を告げた。樸訥なる久保田君は一同を代表して營舎の出口まで余等を見送ってくれた。
「左様なら、御機嫌よう」
 余とC氏は門外に言ひ合したやうに立止って顏を見合せて、
「大成功」と同音にいった。停車場附近でお茶を飲むだ後、余等は急行列車をとって倫敦ビクトリア驛へ向った。水曜日の一日は既に暮れて弱い光の太陽が西に沈むと晩秋の郊外には默々と寂しく家々の燈火が見え初めた。
 二人がビクトリア驛のプラットフォームに立った時は夜の七時を過ぎてゐた。會社、工場、商店員の退出時と見えて、屈強な男子を除く婦人や男達が潮のやうに入亂れて廣い構内に入かはり立かはりつゝ右往左往に急いでをった。余等はその雜閙を避けて停車場前の廣場に面した暗い敷石の上に立った。
「どうも有難う、Mさん、お蔭で大變いゝ遠征をしました」とO氏が云った。
「私こそ、Cさん、彼等寂しい日本の兵士は貴郎が貴重な時間を割いて見舞にいった事をどれ程感謝してゐるか知れません」
「私は非常に有益な水曜日を送りました」
 二人は近い將來に再會を期し堅い握手をして左右に別れた。 (完)   (一九一七年十一月八日、於倫敦)

注)明かな誤字脱字は訂正しています。カタカナ区切りは読点を中点に変更しています。
注)読点を句点に変更するなど句読点は変更したところがあります。


「セルビアの脚本家と其頃の郡虎彦君(上)」
「時事新報」 1919.10.15 (大正8年10月15日) より

 並木の植ったフヰッツジョン坂を花屋や煙草屋の並んだ下のS停車場前から上ってゆくと、兩側の宏壯な家々が緑樹の奥深くに靜まり返ってゐる。よくルキュールやオッペンハイムの小説に出てくる場面である。
 坂を上りきると、二三の商店があって、郵便局の向ひのマンションに郡君(萱野二十一)が住むでゐた。その路を眞直にゆくとすぐH大公園の入口になって、天氣のいゝ日は少年達が玩具のヨットを浮べてゐる丸い白石池(ほわいとすとーんぽんど)といふのがあった。一眸陶然としてそこから遠くの緑野、丘陵、森などが展望された。
 私はH公園を好む。何となれば私の倫敦生活の最初の一頁を填めた、私の宿の所在地であったから。其頃は只わけもなく、獨り森をさまよったり、冷たい初冬の雨に打たれながら廣茫たる野山を瞰下する丘の上に立ったりした。ジョン・コンステーブルの描いたハムステッドの池のふちに、幾多の年月を經て今は僅に昔日の俤を殘してゐる。折にふれ、丘つゞきのレヂェント公園、プリムローズ丘などにさまよひ出ると、書物で讀むだ八九十年前の情景が私の心を波打たせた。
ハムステッド一帶はまだ荒野のまゝで、繪にあるやうな田舎家が疎らに散在し、盗賊や追剥の巣窟になってゐた。雜草の生茂った邊鄙な場所で殆んど人影などを見なかった。ラッファエル前派の驍所として著名なる畫家、詩人、ダンテ・ロゼチが幼年の頃屡(しばしば)父につれられて來た所であった。その頃丁度鐡道がこの邊に敷かれた計りであったから、機關車が白い蒸汽を吐きながら巨大な獸(けだもの)のやうな恰好をして、線路の上を喘ぎ喘ぎ走ってゆく様を眺めては、子供らしい喜びと驚異に胸を跳らせてゐたといふ、ロゼチの家は公園向ふのシャロット街にあった。
 私は其後、ハムステッドを去って久しくヴィクトリア街に近いテームス河畔の家に住むでゐたが、機會が再び私をハムステッドに住はせた。私と郡君とは度々會ってゐた。郡君の「鐵輪」がクライテリオン座で上場される前だった。女房の着る袿衣(うちかけ)の手配が困難で時間のないといふところから南君といふ器用な日本人が銀紙を三角に切って、白絹に貼って蛇形の模様をこしらへたり、忙しさうに雪洞などをはってゐた晩であった。 夕方何かの用事で郡君を訪ねる爲めに最寄りの停車場から地下鐡道へ乗ると、緑色のコートに顏を填めるやうにした若い綺麗な女が同じ車室の一隅に乗ってゐた。私はH停車場で下り郵便局で用事を濟ませ、煙草屋へ寄ったりして郡君を訪ねると最前の女がミス・エスとストーブの前で、はなしをしてゐた。其晩は皆で取とめのない雜談に興じた。舞踏家の若いギリシャ人ヤンコがおどけた物云ひをして皆を笑はせた。私達はその前からセルビアの脚本作家で當時倫敦に滯在中のヨセフ・コソールの話をしてゐた。

注)明かな誤字誤植は訂正しています。
注)続きは掲載されなかったもよう。


「ウヰンブルドンのヂョン」
「新小説」 1921.07. (大正10年7月号)より

 見知らぬ土地の電車、汽車に乗るのは、大抵の場合、輕い不安を伴ふものである。生れた國の中でさへ、そうであるのに、不思議にも、倫敦の乗ものは、地下鐵道、電車、市街自動車乃至、賃馬車、賃自動車まで、私を馴れきった心易さにして了ふ。
 その頃友達のひとりが倫敦市の郊外ウヰンブルドン市に住むでゐたので、私はよくV停車場から地下鐵道の乗客となった。二分おきに發着する頻繁な運轉車輛の數と、訓練された昇降客の敏捷と秩序に起因するのであるが、滿員の爲にひとの足を踏む亂暴もなく、ひとに踏まれる不愉快もなく、いつも悠乎(ゆっくり)と座席を占める事が出來るのである。
 途中のとある停車場についた時、ひとりの男がポインタア種の老犬を連れて乗って來た。私の傍にゐた果客が、犬の頸に吊してある小箱に銅貨を入れてやると、尻尾を振りながら、ワンと挨拶をする。二つ入れるとワンワンと二聲お禮をした。彼方でも此方でも思ひ思ひに小錢を入れてやると、老犬は些も間違へずに銅貨の數だけ、吠えて見せた。次の停車場に着くまでに某かの金をあつめて下車ていった。これはウヰンブルドンのジョンといって界隈では有名な老犬である。
 かうして得た金錢は、老衰して行どころのない迷れ犬や、飼主のない病犬などを収容してゐる土地の動物愛護會の經營に係る保育所の収入の一部となってゐる。ジョンは老犬に似ず中々の稼人であった。
 私は今日、日本の電車、汽車に犬や猫を連込み得る事を提議するものではないが、車輛がもっと豊富になり、乗車賃を拂ったものは平等に座席を占める事の出來るやうな、當然な時代がきたら、同乗者の迷惑にならない限り、犬を連れて乗っても差支へないといふ事にして貰ひたいのである。

注)現代の日本では盲導犬など以外は一般にケースに入れて手荷物としてしか乗車できないようです。


「二つの市」
「時事新報」 1924.06.24 ,25 (大正13年6月24日、25日) より

 霧の日といへば直に倫敦を聯想する。並木の橡(とち)の葉が落ち始めてそろそろ暖爐の側が懐しくなる季節になると、或朝びっくりするやうな霧の日があるものだ。濃い霧は夜のうちに市街の上に來てゐるのかも知れない。軈て朝となり、晝となり、また暮方となっても黄色い壁のやうな霧は一向去らうともせぬ時がある。 太陽は終日霧の中に赤く懸ってゐるが、短い日は早く夜となって電燈や瓦斯燈の下に幾百萬の人々は笑ひ、又は溜息をする。秋から冬にかけて旅人はいくら口笛を吹いてゐても、愛するものと語り合ってゐても、生れた郷里(くに)と自分の姿を屡々ハッキリと見るものだ。
 併しながら倫敦にもさう霧ばかりかゝってゐる譯ではない。四月に酷い驟雨のくる時はあるが、夫から先は日毎に好天氣が續いて、白い雲が終日丘の上の青空に浮むでゐたり、遠くの家に飼ってゐる鸚鵡の聲が聞えたりするやうな穏かな日がある。
 いつも明るい感じのするウオタルウ橋の下から純白なスカートやパンツを穿いた青年男女を溢れる程に積込むだ遊覧船が出る。要所々々の停車場では海岸行の割引觀光列車が黒山のやうな群衆を攫ひ込むでゆく。列車内は素晴らしい混雜だ。車掌が切符を檢ために廻ると、小兒(こども)を連れた中婆さんのふくらむだスカートの裾から二枚の切符を持った可愛いゝ手がニョッキリと出た。車掌は目を圓くする。婆さんは眞赤になる。車掌に手を引張られて座席の下から飛出したのは十歳と七歳位の惡戯坊主であった。
「誠に濟みません。お金が二人分しか無かったのですが、餘り息子共に責られるものですから――」
 と婆さんは途方に暮た様子で辯疎(いいわけ)をする。乗合せの二三が同情して不足賃金を支拂ひ、この事件は事濟みとなる。さうかと思へば今日を晴れと着飾った美しい娘と連立った青年が車掌に檢札を求められて上衣の兩ポケットや、ヅボンの隠袋(かくし)に手を突込むで見るが、尋ねる切符は容易に出て來ない。乗客の視線が一齊に二人の顏に集まる。娘はソワソワしはじめる。 そのうち青年はやっとの事で切符を探し出して車掌に渡した。車掌は可笑しさを耐へて切符と青年の顏を見較べてゐる。青年は車掌の手許を見ると、サッと頬を紅らめたがさあらぬ、口調でいった。

 そんなのは至極罪はないが、足手纏ひの小兒をもってゐる女親が晴れた日を身輕に遊び廻りたいといふ所から、小兒を適當な往來へ置去りにしてゆく。それを通りかゝりの偉大な警官が恐る恐る拾ひ上げて保育所の保母(※ともに女偏あり)の手へ引渡すのである。女親にとっては思ふ壺である。彼女は一日を思ふまゝに遊び暮して町へ歸ってくると、豫め狙ひをつけておいた所轄警察署へ出頭して、故意に置去りにした迷兒を受け取ってくる。 云ふまでもなくこの場合然るべく一芝居をして見せるのである。無料で小兒を安全な保育所に預って貰ふ譯である。然しそんな女は廣い倫敦にも珍らしいと見え、同じ手段を二三度やってゐるうちに警官に看破されて了ったといふ事である。そうした事件の起るのもその頃である。
 私は東京と倫敦とこの二つの首府より知らない。倫敦に於ても、東京に於ても私は多く郊外に住むできた。從って殷賑(にぎやか)な市街に接する機會は緑に圍まれて穏かな日を過してゐる私の生活にとって、さまで頻繁でない。夫でも冬の中は暖い太陽の光を趁(お)ふて、家中に椅子を持廻ってゐる私はさうした気持から無爲に倦むと、些かの買物や、用事を口實にして電車に乗り、乗合自動車に乗り、そして賑かな市街へ出掛ける。
 二つの首府は段々に接近してきた、市場が同一になってくる。折にふれて淀橋から新宿の電車の終點に出やうとするガードの下をくぐる時など、フト思ひ起すのは魚類や牛肉の市場から程遠からぬ倫敦のルドゲエト街である。自動車が幾臺も續いた後は薄暗い鐵橋(ブリッジ)の下に漂ってゐるガソリンの臭が私の記憶を英國の町へ引づってゆく。
 王子電車の終點と直角をなしてゐる電車道に沿ふた飛鳥山の一角は櫻草丘(プリムムローズヒル)を髣髴とさせる。殊にそれが早春の薄曇りの日であったりすると一層その感じが深い。
 買物はボンド街からオックスフォード街がいゝ。着物でも一口にボンド街仕立といふ位である。東京では何といっても銀座であらう。大きな立派な店へ買物をする積りで入って、何一つ買はずに出てくるのもいゝものだ。尤も兩手に括る程、包みの數々を抱えてこられれば結構である。夫等の包みのうちに葉卷の箱でも交ってゐたら此上もない喜びだ。 買物の對象は日用品でない場合が好ましい。米、味噌、醤油、馬鈴薯、人参、蝋燭、歯磨などより、格別差迫って必要でないもの、例へば通りかゝりの明るい飾窓に並むでゐるネクタイや靴下などを買込むでくるところに面白味がある。
 さて町を歩いてゐるうちに足が疲勞を覺え、咽喉が乾いてくる。その孰れが先へくるか場合にもよるが、後者の欲求を滿す爲には勢ひ前者の要求する空いた椅子と卓子を探さねばならぬ。何處かのカフェへはいって紅茶でものむ事となるのである。リヂェント街の何とかいふ店で食べさせる皮の柔かいパイや、紅茶は銀座でも時によって口にはいる事はある。併し公園の青草の上に並むだ卓子で、嚴肅な顔付をした老給仕の運むでくる紅茶と菓子を樂む氣分は東京で味はへない。
 倫敦の郊外から東京の郊外へ移って私は既う五年になる。僅かばかりの書籍を除く外、その頃使用してゐたものは悉く滅して了った。昨年まで着てゐた大外套は蟲ぼしの時に藏ひ忘れて紛失し最後までたった一枚殘ってゐた麻のハンケチも、倫敦で修業してきたとか稱する新規の洗濯屋へ出したらボロボロにしてきたので窓ガラスを拭いて棄てゝ了った。 (完)

注)明かな誤字誤植は訂正しています。想像で補った文字もあります。句読点は追加変更したところがあります。
注)前半途中切れのようにも思えますが終っているようです。


「四十日間の散歩」
「騒人」 1928.08.,09. (昭和3年8月号、9月号) より

――晩香坡の一日――
 十六晝夜の航海を終へて、私を乗せた巴里丸は二月四日の未明、晩香坡(バンクーバー)の棧橋に着いた。私は氣に入ってゐる瑞西製の横結びのネクタイに小豆色の背廣を着て甲板へ上った。
 數十間先の坂道に自動車が疾走ってゐたり、その先に電車が通ってゐるのが見える。旅館の後壁が灰色の空にずっしりと聳えて、市街の裏通りが續いてゐる。建物の裏庭に帚子のやうに煤けた木が二本並むでゐるのが見える。外國の風景に接したのは十年振りである。晩香坡は英領である。私の記憶は倫敦に遡る。沈むでゐた記憶の底から私の「あの頃」の姿が微に微に動出した。
 晩香坡は落着いた靜かな街だ。私は自動車で有名なスタンレー公園を見物した。周廻六哩を駛し、更に高堂の上流人士の住宅地をはしった。そこは宛然数百の住宅雜誌の日繪のやうに、様々な様式をもった家が美しい並木街の兩側に立ってゐた。道々私は日本へ殘してきた愛犬ロザの一族を澤山見かけた。(エーアデル、テリア種)
 久振りで支那料理を食べた。私は待たせておいた自動車の運轉手に鈴木悦氏の經營してゐる新聞社の所在地を訊くと、運轉手は直ぐ鈴木君へ電話をかけてくれた。私と鈴木君とは電話の兩端で二時半に會ふ約束をした。
 その時間がくるまで、私はひとりで市街を歩き、博物館へ入って繪畫を見たりした。
 約束の時間に民衆社で鈴木悦君に會った。全く二十幾年ぶりであった。然し顏を合せて差出した手を握り合ふと共に、お互の間に二十幾年の歳月は消えて了った。われわれはジャケツを着た中學生の頃に返って、懐しく親しく語った。
 私は伴はれて氏の自宅へいった。森や谷を見渡す丘の一劃に氏の家がある。玄關、石段のところに眠ってゐた灰色のアラスカ犬がむっくりと起きてきて、私の脚にまつはりついた。
 自動車の音をきいて扉をあけてくれたとし子夫人は、昔ながらの若々しい様子で、私を階下の寂しい、そしておっとりとした部屋へ導いた。
 田村とし子女史としての夫人が、突如わが文壇から去って、大きなセンセイションを起したのは、一むかし以前の事である。
 私達はそこでクリームを入れた紅茶をのみ、黄橙(オレンヂ)やお菓子をご馳走になった。特に英吉利燒の紅茶々椀が私を喜ばせた。今斯うして、靜かな家庭の主婦となってゐる夫人を見て、私は北歐の芝居の一場面を見てゐるやうな感じがした。
 七時十五分前に桟橋の汽船へ歸った。船の人達は私を待ってゐた。七時に錨をあげる。汽船は美しい燈火の市街を後にして、沖へ、沖へと出ていった。
 私は甲板に立って夜の光の海を眺めてゐた。長い桟橋の先端(はず)れに、この土地の日本人街に喫茶店を營むでゐる日本婦人が、小さな子供の手をひいて、離れてゆく汽船を見送って手を振ってゐる。
 晩香坡の港の燈火は遠ざかって、高い空に滿月が懸ってゐた。
 わが巴里丸は百幾十哩の行程を沙都(シアトル)に向ってひたひたと浪をきりながら駛ってゆく。甲板を下りて入浴し、それから荷造りを濟して日記を書く。(昭和三年二月四日)

 曇った朝である。いよいよアメリカへ着いた。船着場は何處も殺風景で、薄汚い。その港の市街が立派で有名であればあるだけ、船着場の倉庫はだゝっ廣く、そして古い。沙都がそれである。
 上陸の手續きも、税關も滞りなく濟むだ。漫畫にあるやうな、大きな髭をもった税關吏のひとりは、三つの大箱にぎっしり詰ってゐる私の書物を見てどうするのだときいたから、俺は作家で、これ等の書物は友達にやるのだといった。
「さうか、それはいゝ職業だな。」といって、それからはトランクや、鞄などは碌に檢めもしないで、次の番にかゝった。作家なんていふものは、筆では素晴しく利口さうな事をいっても、實際は氣のきかない、ぽんつくで、密輸入などは出來るものぢゃァないと、このアメリカでも相場を踏むでゐると見える。
 横濱出帆以來、同船の道づれが二人、私の傍に立ってゐる。ひとりは大野さんといふ大阪市役所のお役人で、寫眞で見る西郷さんにそっくりの人である。もうひとりは坂口さんといふ京都の畫家である。
 その二人が税關吏の前で荷物を一つ一つ開けて見せてゐるのを、更に二人の日本人が手傳ってゐた。私は初めてしみじみとアメリカ移民地に住むでゐるその日本人に注意を向けた。いづれも五十近くの年輩で、黒っぽい服を着て、頸すじから耳のまはりを短く苅込み、頭髪の前をばっさりと長く伸してゐる。
 偖、いよいよ税關が濟むと、大荷物は運送屋に託し、手廻りのものだけを自動車に積むで、その中へわれわれ三人が乗込むだ。例の二人の日本人は旅館の經營者と番頭であった。番頭が把手を握り、主人がそのわきへ座ったところで、自動車は勢よく構外へ走り出した。褐いタンク、無數に續いた倉庫の屋根の波、長い木橋、石炭殻を積むだ臺地、自動車は悠忽(たちまち)それ等を突破して、沙都の一端へ出た。もうそこからは繪ハガキでお馴染の市街で一番高いスミスビルディングが見える。われわれは北太平洋旅館といふのに運ばれるのであった。

――沙都にて――
 私のとった部屋は西側の六階で、居間と寝室と浴室とがついて、部屋代は一日参弗五十仙である。奇麗で氣持がよく窓から覗くと下の方に、電車の走るジャクソン街が見える。そこには煙草屋、靴屋、安ものゝ日本絹、雜貨などを賣る店舗があって、飾窓に金魚鉢や緋葵などの並むでゐる店があった。
 晝飯は支那料理店日光樓で濟した。旅館へ歸って佐藤定吉博士の紹介に係る寺澤氏、佐々木指月氏に紹介されてゐる竹内氏等へ番頭から電話をかけさせたが日曜日の事とて、いづれも不在であった。それで私はひとりでのびのびと遊ばうと思って、ホテルから自動車を呼ばせて、沙都の繁華な中心地へドライブさせた。私はそこで車を下り、小雨の降る中を思ふまゝに歩いた。
 稍、雨脚が勁くなったので、活動寫眞館へ入った。七十五仙で一番いゝ席であった。何とかいふ喜劇寫眞で、久振りで聲を出して笑った。寫眞は二時間半で終った。
 日曜日で商店街は閉鎖してゐたが、靴屋、服屋、帽子屋、煙草屋などの店が私の目を牽いた。靴下もネクタイも澤山あったけれども、いゝと思ったネクタイは一本しかなかった。
 雨に濡れた甃石や、石畳みの急な坂を上ったり、下りたりしてゐるうちに私は海の見える高臺の靜かな街の一角へ出た。
 その通りには銀行とか、保險會社とかいった建物が多く、その間々に日の覺めるやうな花屋の店や、豪奢な婦人服店などがあった。
 雨はいつか歇むで、明るくなった空に雲がきれぎれに飛むでゐた。私は家々の飾窓の下の眞鍮の金具にちらちらと映る自分の姿を覗きながら、舗道の上を歩いてゐた。と、清楚な、小ぢんまりした喫茶店があった。通りしなに五つ六つの誰もゐない卓子と、帳場のわきに立ってゐる黒い服に純白のエプロンをつけた若い給仕女を見た。私はそこへ入ってお茶とお菓子を食べた。紅茶や菓子をもってくるのは手とり早かったが、どちらも東京で食べるものより不味かった。
 夕方ホテルに戻った。入浴してから一休みして、又夜の街へ出やうとして帳場で主人と立話をしてゐるところへ足を引ずるやうにして階段を下りきた小柄な中年の日本人があった。それが思掛けぬ山縣氏であった。子飼ひの三つ子で幼稚舎、普通部、大學部を通じて學校の成績はいつも級中、第一位をはづした事のない秀才であった。明治三十九年に理財科を卒業し、三田ですぐ經濟原論の講義をした。私も豫科二年で氏の講義をきいてノートをとったものである。氏は其後、ある事情の爲に學校を罷めてアメリカへ渡り、放浪二十年、現在は桑港で「新世界」といふ邦字新聞の支配人となり下ってゐる。いや、なり上ってゐる。どっちだかわからない。氏は用件を帶びて約三週間程前に當市へ來て、今明日中に歸桑するところであったといふ。
「珍らしい、珍らしい人に會ふものだ。君は僕を憶えてゐてくれたかい。なに僕はあの時分とちっとも變らないといふのかい。然し君はすっかり變って立派な紳士になった。斯うして教へた生徒が皆が豪くなるのに、僕はいつ迄たってもこの通りさ。」氏はその時、傍に立ってこの不思議な邂逅を眺めてゐるホテルの主人の方を顧みて笑ひながらいった。その間も氏は煙草の灰をあたり構はずおとし、唇についた煙草のごみか何かを吐出すやうに、のべつに口を鳴らしてゐる。成程服の背中や肘がすれて光つてゐるし、カラーも二三日は替へないでゐるらしく、ネクタイはよぢれて歪むでゐた。
「君は何だってこんなところへ來たんだね。」
「私がアメリカへ來たのは八年も會はない妹を見舞ふといふ他に、少し用件みたやうなものがあって……」といひかけると、氏はそれを遮って
「鳥渡十分計り待ってくれ給へ、十分でいゝから、直ぐ歸ってくる、そしてゆっくり君の話をきかう。」といった。帳場前の廣間には壁寄りに長椅子や、深い肘掛椅子などが並むでゐて、外國人も日本人もゐた。そして道路に面した扉口がしきりなしに開いて、人々が出たり、入ったりしてゐる。私と談話をしてゐる間も、山縣氏は夫等の人々と眼顏で挨拶をしてゐた、顏が廣いらしい。
 氏は私を殘して暗い戸外へ出ていった。
 私は煙草を吸ひながら廣間を歩いてゐた。待ってゐる時間は事實十分ではなくって、二十分も經過った。私は少し飽きてきて戸外へ出やうとすると、番頭が追かけてきて
「山縣さんから、今電話でして、自動車が迎ひにゆくから待ってゐてくれと仰有いました。」といふのだった。
 直ぐ自動車がきた。オカマ帽子を被った見窄らしい服装をした日本の青年が運轉してゐる。自動車は私を乗せて急な坂を下りたところの活動寫眞館の横手へとまった。僅に一分計りだった。その横手の扉を入って階段を上り、廊下を曲った突當りの部屋へ案内された。扉に「内科外科、加藤醫師」と看板がかゝってゐた。そこに丸卓子を挾むで山縣氏と主人の加藤ドクターがゐた。珍しくウヰスキーの壜が置いてある。二人は赤い顏をしてそれを飲むでゐた。
 オカマ帽子の青年は堀口といふ男であった。これは山縣氏の乾分であるらしい。私達はそこで日本料理の御馳走になる。無味な握りずしを食べさせられた。
 十一時過ぎに私はホテルへ歸った。間もなく山縣氏がきた。問はるゝまゝに私は大衆文學全集の豫約募集をしやうといふ平凡社の依頼をうけた經緯を話した。「無論それに對して平凡社から旅費を貰った譯でも宜傳費を貰った譯でもないから、割に責任はないのだけれども。」といった。
「商賣か、君に商賣なんか出來るものか、君は折角散歩にきたのだから、精々遊び歩いて好きな買物をしたり、小説の材料でも拾って歩くがいゝ。然しそれよりも八年振りで會ふロスアンゼルスの妹さんはどんなに喜ぶだらう。大衆文學全集の事は私がいゝようにしてあげるから安心するがいゝよ。」といふのであった。そして何か他の事を喋ってゐても、すぐまた私の妹の事をいひ出して、久振りに會ってどんなに喜ぶだらうと、その事計りいってゐた。
 夜が遅いから、いづれ明日といふ事にして氏は私の部屋を出ていった。
 目まぐるしい一日だった。生れて初めて、ひとりで靜かな日曜日を送るつもりであったが、思掛けず、いろいろの人に會った。
 私は寝卷を着てベッドに飛込むだ。晩香坡に上った晩も斷片的に倫敦にゐた頃の賑かな街の夢を見たが、今晩もまたさうである。日本人の移民の子供達が、白人や黒人の子供達と一緒になって、坂路の鋪道で遊むでゐる夢を見るであらう。(五日)

 翌日、野尻抱影氏に依頼されたボアコベの「鐵假面」の英譯本を買ひに出掛けた。老眼鏡をかけた背の低い古本屋のおやぢは「鐵假面」はデュマにきまってゐるといって肯じない。次手にサバチニのスカラムッシュと「海鷹」を買はうと思ったら、數ヶ月前に、土地で「海鷹」の映畫が封切されたので、この作家の著書は素晴しい勢で賣切れて了ったと語った。それではメキシコに關する書物はときいたら、これは二三十種あった。高い梯子をもってきてくれて好きなのを探しなさいと愛想のいゝ店員がいった。
 私は喜むでガランとした、黴臭ひ大きな古本屋の天井に近いところまで登って、小一時間をあれこれと拾讀みして、そのうちの三冊を購った。
 氣輕な、如何にもアメリカ人らしい四十二三の店員が、私がメキシコの地圖と風土記を抱えて、探偵小説の古本をひっくり返してゐるのを見て、
「貴殿もシャロック・ホルムス黨ですか。」ときいた。小生は探偵小説の作家であると答へたら、「成程、で、メキシコへいらっしゃるのですな。」店員は初めて解せたといふやうな顏をした。話、話、話、彼はしっきりなしに口を動かして彼のメキシコに於ける三ヶ月間の經驗を話しつゞけるのであった。そして一番しまひに
「いゝですかね君、むかうへいったらいろいろと迚も素敵なところがありますからね。夜族館の外へ出た時に、メキシコ人に會って話をする機會があったら、うっかり新聞記者だの、作家だのと正直なことをいっちゃァ駄目ですぜ。奴等は警戒しますからな。こっちはきく、きく、きく、の一點張りで押してゆく事、うんときいて、少し答へる、この呼吸を忘れちゃァ、いゝ材料は手に入りませんよ。君への忠告。」といって彼は私の肩をポンと叩いて、店の奥へ引込むで了った。
 古本屋の一時間は大變私をいゝ氣持にした。
 日暮前にホテルへ歸ると、古屋商店の幹部である金子伸三氏が訪ねてくれた。氏は生方敏郎氏の親友である。いゝ友達宛には滅多に紹介状を書かない敏郎氏が、特に私の爲に紹介状を書いてくれたことによって、斯く氣輕くお目にかゝる事が出來たのである。
 私の歸宿を山縣氏が待ってゐた。氏と金子氏とは相當懇意な間柄であった。
 沿岸の邦人間で、最も顏も賣れてゐる「新世界」の支配人と、堅實温厚をもって聞えてゐる古屋の金子氏と、この二人が私の例の大衆文學全集に就いて熱心に協議をしてくれる。
 結局、沿岸の各地に支社をもってゐる山縣氏が宣傳販賣等を一手に引受けてくれる事となった。金子氏は私に代って取引に關する契約書の文案まで起草してくれた。
 私はすっかり荷を下したやうな氣になって、自分の仕事であるのに甚だ相濟ない事だけれども、テーブルの上に投げ散らしてある數個の卷煙草の箱に目をやりながら、この他に何があるななどゝ、そんな他愛のない煙草の種類を數へてゐるのだった。
 窓の外は霧と夜とですっかり暗くなってゐた。やがて注文しておいた鰻丼が三つ運ばれてきた。(六日)

注)明かな誤字誤植、文意のとれないところは修正しています。
注)経緯は「小冊子『凪』 遺稿『豊平川』」松本恵子にもあります。
注)続きは掲載されなかったようです。


「ホールド・アップ」
「博浪抄」 1938.10. (昭和3年10月号)より

 私はズボンの後隠袋に貨幣入や煙草を入れて歩く癖がある。羅府の聖林にゐる友人の晩餐會に招ばれた歸途、うっかり日本にゐる氣で、公園の角で自動車を返してしまひ、妹の家まで二三丁の道路を夜風に吹かれながら、好い氣持で歩いてゐた。
 夜更けのせいか.往來には人影が絶えて、街燈の光も疎であった。
 突然、暗い物影から二人連れの大男が現はれ、往來を斜に横切って私の方へ近付いてきた。恰度その時、私は煙草を吸はうと思って後部の隠袋へ手を突込むと、二人の男はさっと左右に別れて、逃げるやうに大股に歩み去った。
 家へ歸ると、玄關に立ってゐた妹夫妻は、「まァ良かった! 餘り遅いから心配してゐました。此邊は黒人が澤山ゐて人氣が不良いから、自動車できても、ホールド・アップされる事がありますから。」といって、夜路を歩いて歸った私の無謀を咎めた。
 その時、私は初めてポケットヘ手をやった事が、自分を救ったのであると知った。拳銃は映畫でも見るやうに、後部の隠袋から抜出すのが定石らしい。
 ホールド・アップといへば、もう一つ思ひ出がある。
 黄石公園は面積日本の四國位、全體の九分迄が森林地帯で、米國中の猛獣の避難所といはれてゐる。山あり、漢谷あり、河あり.湖水ありといふ素晴らしい大自然公園で、世界から集ってくる觀光客は引きもきらない。
 夫等の客がホテルヘ到着すると。公園課の役人が出張してきて、各自の旅程に從ってそれぞれ注意を與へる。畫家と寫眞師と私の一行三人は、「貴殿方が三十分計りドライヴして、川縁りへ出てから左手の山路へ差しかゝった所で、熊にホールド・アップされるだらうと思ひますから、その覺悟でパンを持参して下さい。」といふ奇怪な忠告を受けた。
 如何にギャング流行のアメリカでも、動物までホールド・アップとは少々眉唾ものだ等といひながらも、翌日注意された通り食パンを用意して自動車を飛ばしてゆくと、驚く勿れ、行手に現はれたる大熊五匹「殺さば殺せ!」と計り、道路の眞中に太々しく、ずらりと寝轉んでしまった。
 吾々は顏を見合せて自動車を停めた。すると五匹のギャングは、のそのそ肉迫して來たので、吾々はびくびくしながら、出來るだけ遠くへ手を伸して、食パンを與へた。彼等はそれを兩手で持ち、後足で立ったまゝ喰ってゐたが、同伴者がその光景を寫眞に収めたので、シャッターのかちりといふ音に、ギャング共は拳銃と早合點して、雲を霞と逃去ったのであった。(完)

注)「四十日間の散歩」の途中かと思われます。


「襟飾と靴下」
「新小説」 1924.12. (大正13年12月号)より

 幼時の頃から所謂山の手に育った私は賑かな市中の生活に多く馴染みを持ってゐない。物心がついて小學校に通ふやうになった時は芝山内の閑寂な裏通りに住むでゐた。父の趣味であったか、母親の好みであったのか、或は父が官吏であって町中の生活を必要としなかったせいか、その後私共の住居は芝に赤坂に轉々として移り變ったが、引き越す先はいつも緑の樹木に覆はれたやうな寂しく暗い家であった。 そんな環境にはぐゝまれた以所でもあらう、都會の空地が段々減って生新しい家がビシビシと軒を並べて殖えて行くのを見るのは好ましい氣持でなかった。私はとうとう郊外へ押出されて了ったのである。郊外は暗く、雨の日は泥濘の道路がわるく、日々の買物にさへ不自由であるが、ぢっと根を下して二三度の春秋を過してゐると、土地が狹狹(※?陋狹の誤植か)(せま)いだけに捨難い馴染ができてくるものだ。どっこい豆腐とかいふ土地の草分けの豆腐屋が異様な聲を張上げて家の前を通る午前十一時も今は既う私の邪魔にならない。
 日あたりのいゝ椽先にどこの飼犬か、毎日一回づゝ眞黒な毛並のポインタアの雜種とアイリッシテリアまがひがやってくる。ビスケットかパン屑をやると、愛嬌をふりまいて久時遊んでゆく、夫等の犬共とも心易くなってゐる。去年は多く實を結ばなかった柿の本が、今年は秋晴れの空に珊瑚の大玉を連ねたやうに鈴なりになってゐる。見事な御手柄であった。恁うした穏かな郊外に住むでゐて適々賑やかな市街に出る事は慥かに快い變化(チェンジ)であらねばならぬ。 唯至るところの町で一年中道路普講をやってゐる緩慢なお役所仕事にぶっつかるのと、燕のやうに或は圖々しい鸚鵡のやうに飛廻る無闇に數の多い自轉車を見るのは興を削ぐ事甚大である。然し軒並に商家の續く銀座通りの飾窓は私の心を明るくしてくれる。そこには觀客を待つ瀟洒なカフェの窓に手際よく皿に盛ったコールドハムと附合せの野菜があったり、ローストビーフに焦茶色に燒けたヨークシャパイをあしらったりしてゐる。洋品雜貨店、陶器店、煙草屋の飾窓は特に私の足をひきつける。 永く足をひきつけられてゐると私はうかうかと店へ入って了ふ。襟飾(ネクタイ)や靴下等をつい買って來て了ふのは多くそんな場合である。尤もこの種の買物は商品のもつ魅惑の強弱によって突發的感興を唆るものであることはいふ迄もない。買物の面白さはついフラフラと店へ入って金入の口を開けて了ふ事にある。豫定の買物をする爲にわざわざ家を出てバケツとか炭取などを丹念に買って來るのは氣の減入る仕事だ。
 襟飾と靴下は特に私をひきつける。襟飾は貰ひたくないものゝ一つである。好きなものを撰むで買ふ事だ。倫教にゐた頃、懇意な老婦人からクリスマスの贈物(プレゼント)に黒と南瓜色の襟飾を貰った事がある。老婦人は自分の見立にひどく得意らしかったが、私は無氣味な色の配合(とりあわせ)に恐縮して箪笥の奥へ抛込むだまゝ一度も用ひた事はなかった。 その後老婦人と顔を合せる度に問題のネタタイに就いて訊ねられるので、どうしてもその襟飾を着用して老婦人を訪ねなければならぬ破目となった。そこで私は例の襟飾をポケットに忍ばせてゆき、先方の門前で家を出るときに着けてゐた襟飾を外し、虎斑だんだらの凄じいのを胸にぶら下げて除に案内を乞ふた。老婦人はよく似合ふといって喜むでゐたが私はひどく欝いで了った。
 日本では帽子や洋装にはその年々の流行が大分現はれてきたやうだが、襟飾の流行は皆無といひたい位である。巣鴨に襟飾の製造工場を經營してゐる友人を訪ねた時、相手の自慢をきゝながら製造品を見せて貰ったが、不幸にも賛めたいものに出會はなかった。柄が惡かったり、適にこれはと思ふデザインがあっても何處か垢ぬけがしない。内地製は第一仕立が悪く、芯(※心心心)の入れ工合が違ふせいか型がぢき崩れて了ふ。 英米では襟飾の色合に流行すたりがある計りでなく幅の廣い狹いに流行がある。流行後れの襟飾は假令如何程生地が上等でも安物の見切品の部に入って了ふ。
 私の岳父は若い時から可成りの襟飾道樂で七十に近い今でも銀座へ散歩に出る度によく新柄を見付けてくる。岳父の友人で米國加州にゐるB老人はそれに輪をかけた襟飾好きであるらしく、便毎に最新流行の襟飾を送ってくる。勤直寡言な私の義兄が或時素晴しく派手な縞模様の襟飾を胸先に覗かせてゐたが日頃地味好みの義兄にそれが如何にも不似合に見えた。後で知るとそれはR老人の送ってきたものを父から買はせられたものであった。親孝行は幸いものであると思った。
 米國の文豪で有名なマーク・ツエーンは頗付のそゝっかしやで、或朝若い娘逮の住むでゐる隣家へ入り込み、お喋舌をして歸ってくると襟飾をしてゐないのを奧さんに見付かり婦人の前へ襟飾もせずに出た不作法を散々に嗜められた。するとツエーンは何と思ったか突然二階へ馳上って襟飾をもってきた。そして窓越しに、隣家の連中を呼出して襟飾を振って見せた。襟飾を身につけて見せるのも、別々に見せるのも同じ意味であるといふ彼の洒落(ジョーク)であった。
 アメリカの婦人の間にはよくキルトパアティといふ催がある。これは澤山古襟飾をきりこまざいたものを親しい同志が寄集ってお茶でも飲みながら思ひ思ひに綴合せて羽根蒲團の表をこしらへる會合である。出鱈目に綴合せたクレイジイキルトが出來上ると、女主人がそれ等の婦人連を招待して御馳走する。斯うして廃物を利用して作りあげられたキルトは中々趣があるものだ。
 靴下は大部分靴の中に隠れてゐるから餘り重きをおくに足らぬやうであるが、これも襟飾同様氣にかゝる。假令長靴を穿く時も好きな靴下を着けてゐるといふ氣持はいゝものである。表は木綿でも裏地は絹にするといったやうな東京人の趣味であるかも知れぬ。日本では婦人ものも、男ものも、子供ものも一様に靴下といって了ふが、英語では膝の上まである長いものをストッキングスと稱し、われわれの用ゆる脛までの短いものはソックスと呼むでゐる。 子供の時はソックスを穿き、十五六の半ズボン時代にはストッキングスを穿き、一人前の男になると再びソックスを穿くやうになる。何だか初めは四つ足、中頃は二本足、最後には三本足になるといふスフヰンクスの言葉のやうな氣がする。スフヰンクスの謎は人間の一生をいったもので、赤坊の時は這ひ、長じて二本足で歩き、年老ひて杖に縋るといふ意味である。
 若い婦人のストッキングス位不經濟なものはない。底が破れて了ふと上部がどんなに完全でも役に立ない。殊に短いスカートの流行るこの頃は緯糸に一寸傷がつくが最後、高價な絹製の靴下も忽ち廃物となって了ふ。この廃物でサンドマンスキャップが作られ、新婚の良人は否應なしに被らせられる事がある。サンドマンといふのは何でも日本から米國へ渡っていった睡眠(ねむり)の神様ださうである。靴下の上部を切り取って先端を括り、一寸した刺繍などを施すと立派なナイトキャップになる。
 これも米國の話であるが、犯罪者が収監される前に警察で取調べを受ける際、所持品を一時悉く取上られる事になってゐる。着のみ着のまゝ鐚一文の持合もなく収監される譯である。由來古今東西を通じて監獄の食事はひどいものと相場がきまってゐる。煮出した珈琲と石塊のやうなパン片では到底口に入りやうはないが、そこはよくしたもので、看守の掌に手數料の白銅をのせてやると、附近の差入屋へ好みのものを誂へてくれて、自ら運んできてくれる。 偖問題のその金だが、大抵の囚人は靴下の中に幾許かの現金を忍ばせてゐる。重罪犯人はこの限りでないが、ほんの違警罪位であると警察の取調べは至極無造作で所持品をブックアップする際、靴下までは觸れない習慣になってゐる。初犯者で道般のコツを知らないものは警察へ拉致される途中、却って警官から教へられるといふ事だ。
 靴下でいつも想起すのは倫敦から喜望峯新嘉坡を經由して日本へ歸る船中で知合になった三人兄弟の和蘭人である。彼等はよく航海中の無聊に西洋將棊(チェス)をやってゐた。長兄は口笛が非常に上手であった。月の輝いた穏かな晩など、熱帶の夜の眠られぬまゝに甲板へ出て、爽かな夜風を浴びてゐると、サルンの覺束ない電燈の下で將棊を戰はせながら無意識にくちづさむでゐるらしい彼の美しい口笛に私は恍惚として了ふ。私共の乗ってゐた汽船が永い航海を七分通り終へていよいよ新嘉坡へ着くといふ前日であった。私は朝食を濟して甲板へ出ると、口笛の上手な長兄は凭椅子にどっかりと腰を下して膝の上へ小山ほどの靴下を乗せて、器用に編針を動かしながら、せっせと穴かがりをやってゐた。
 三人兄弟は新嘉坡で下船した。それ以來私は彼等の顏を想出した事さへないが、月下の美しい口笛の節廻しと晴れた日の朝、膝の上に思掛けぬ靴下の山を見出した不思議なその時の光景を未だに忘れ得ない。  (完)

注)不明漢字があります。また推測によるものもあります。


「ラヂオ問答」ラヂオについての諸家の感想(アンケート)
「郊外」 1925.10. (大正14年10月号) より

 拝復 ラヂオに就てお答へ致します。
 船員であって今は自動車販賣業をやってゐる友達が格別欲しいとも云はないのに得意でこしらへてくれました。この友達は既に四十何個かをこしらへて知人共に無理にやってゐるさうです。初の二三度は一寸面白いと思ひましたが、今はもうすっかり飽きてゐます。それに義弟が巣鴨でそれ専問(※ママ)の工場などを經營してゐるので、うんざりです。第一科學の一般化とか、普選とかいふやうに一般的になるやうなことは、きらひです。さようなら。

注)放送開始直後のこともあって否定的意見が多いようです。


「私でない私」
「朝日」 1929.07. (昭和4年7月号) より

 メキシコ市外に石鹸工場を經營してゐる某といふ日本人があります。全然未知の人ですが、先方では舊友だとかいって、年に二回位は手紙を寄越します。その手紙が如何にも親しげなので、小生は人違ひをしてをられるのではないかと、その旨をいひ送ると、先方では伯林で會ったとか、アムステルダムの港で危急な場合を救って頂たとかいって、最近某書肆で出版した小生の著書のうちにある寫眞まで添へて送ってよこしました。 ところが小生は伯林へはいった事もなく、ましてや外國の港町で他人の難儀を救ったなどゝといふ記憶はないのです。然し先方では小生の抗辯を一向取合はないのみか、メキシコインディアンの製作した毛布を送るが、きっと貴殿の趣味に適ふと思ふ云々などゝいってきました。
 昨年、小生はアメリカの旅から歸る途中、適々同船したメキシコの副領事S氏から、右石鹸工場の經營者某が自動車の衝突で惨死したといふ話をきゝました。これで小生のこの謎は永久に解けない事になって了ひました。

注)「妖談」というテーマでの随筆の一編。


「思ひ當った迷信、厄年に逢った厄の話」(アンケート)
「話」 1933.10. (昭和8年10月号) より

一、思ひ當った迷信
二、厄年に逢った厄の話

一、林檎の皮を終りまで切らずにむいて、左の肩越しに背後へ投げると、(女は右の肩越し)未來の配偶者の頭文字が現はれるといふ迷信がイギリスにある。
 倫敦にゐた頃、あるお茶の會で、そこに集った青年男女が林檎の皮を投げて興じてゐた。自分も皆にせめられて林檎の皮を投げると、意外にもKといふ文字が現はれたので、がっかりした。實は自分が結婚しようと思ってゐたのはNといふ娘であった。第一いくら考へてもKといふ婦人には心當りがない。ところが、それから一年後に結婚したのは永い交際のあったNではなく、會って一ヶ月計りのKであった。それが現在の愚妻なのである。
二、厄年には敬愛してゐた父を喪った。

注)日本語での検索によると占いはハロウィンの時らしい。男女の違いを記述したのは見当たらない。


「旅の感覚」(アンケート)
「旅」 1935.05. (昭和10年5月号) より

一、お困りになったこと。
二、美味かった驛辧。

一、數年前の冬、房總線勝浦驛から更に奥へ入った海岸の宿へいった時、夜遅く巡査がやってきて、国籍を明かにしろと責められたには閉口した。私は柄が大きいところへ、厚い大外套を着て片手に黒猫を抱き、外國ホテルのレッテルを澤山貼ったトランクを置いて、薄暗い構内に自動車を待ってゐる姿を見て、御大典の折とて怪しい外國人の潜入と感違ひしたらしい。私はどてらを着たり、足袋を穿いて見せたりして、やうやく正銘の日本人である事を納得させた。
二、度々懲りてゐるので汽車辧は不味いものときめてゐたが、房總線の大網驛で止む得ず買ったうなぎ辧當は案外うまかった。

注)一文字脱字がありますが推測して記しています。


「文豪ヂッケンスの生涯」
「婦人公論」 1936.12. (大正15年12月号)より

 鉛色に沈澱(よど)んだテームズ河に臨んで、古ぼけた麥酒會社の建物があった。水の中へ半ばのめり込んでゐるやうな、濕々(じめじめ)したその倉庫で、早朝から休みなしに壜の商標(レッテル)貼りをしてゐた少年が、空腹と過勞の爲に卒倒した。色が生白くて、眼の特別大きなその少年を、日頃から目の仇にして何彼につけて虐めてゐた年嵩のファギンは、それを見て急に罪滅ぼしでもする氣になったのか、いつになく親切に介抱して、少年を自宅まで送ってやらうといった。
「いゝんだよ、僕ひとりで歸れるよ。」少年は頻りに辭退するが、ファギンは執拗(ねづよ)く蹤いてくる。
「お前の家はどれだ!」ファギンは相手が閑靜な住宅地の一角で足を停めて、もぢもぢしてゐるのを見ると、聊か意外といふ面持で、立竝んだ石造の家を見廻した。
 泣出しさうになってゐる少年は、悲壯な顏をして、
「左様なら! 有難う!」と叫ぶなり、とある家の石段を馳上っていった。
「なァんだ! 相當な家に住んでゐやがるんだな。」ファギンは詰らなさうに、口笛を吹きながら横町を曲って了った。
 少年は、ほっとしたやうに胸を撫下して、一目散に反對の方向に在るマーシャルシイ監獄を目ざして飛んでいった。
 その少年が十二歳のヂッケンスであった。彼の父親は善良な税關吏であったが、性來の社交好きが祟り、身分不相應な借金をして債權者に訴へられた爲、當時の英國の法律に依って監獄生活をしてゐたのであった。ヂッケンスはその事實を意地惡のファギンに知られるのが、何より辛らかった。
 このファギンなる惡童に對するヂッケンスの怨恨(うらみ)は餘程深刻であったと見え、後年二十六歳にして一世の名作「漂泊の孤兒」(織部捨吉(オリバーツヰスト))を書いた時、純眞な少年等を毒する掏摸の親分の名をファギン(銀親分)として、大に溜飲を下げたものである。
 彼が呱々の聲をあげたのは、一八一二年二月七日金曜日の晩であった。さういへば彼の半自叙傳といはれてゐる「男の一生」(デビッド・コッパアフヰルド)の主人公も金曜日の眞夜中に生れてゐる。乳母の談話によると、彼は綺麗な温順しい少年で、喧嘩などは大嫌ひであったが、一度肉屋の息子と大格闘を演じ、二三日床に就いたといふ。これも「男の一生」に出てくる。
 間もなく親は親戚から借金を拂って貰ひ、再び娑婆の人間となったので、ヂッケンスは姉のファニイと共に、隣屋敷に私塾を開いてゐるガイルス氏の許で勉強する事になった。ヂッケンスが生涯を通じて學校生活をしたのはその二年間だけであった。彼が有名になってから某新聞の訪問記者が父親に對って、
「あんな御立派な息子さんをお持ちで、定めしお鼻が高い事でせう。お宅では一體何處の學校で、何といふ先生につけて息子さんを教育なすったのです。」と質問した。すると父親は愉快さうに哄笑して、
「はははゝゝゝは、倅を教育したのは伜自身ですよ。」と答へた。然しこの無頓着らしい、浪費癖のある厄介な父親も、決して少年ヂッケンスの教育を疎にしてゐた譯ではなかった。三階の物置の隅に子供の圖書室と稱する棚を作り、そこに少年の魂の糧となるやうな良い讀ものを備へて置いたり、暇をこしらへては彼を遠足に伴れていって、囚人船を觀せたり、名所舊蹟を探ったり、觀兵式を見物させたりして只管少年の見聞を弘める事に努めた。
 元來觀察力の勝れた少年は、長ずるに及んで、夫等の見聞を自家藥籠中のものとして巧に作品中に織込んでゐる。「謎の恩惠者」(グレート・エクスペクテーションス)にはその囚人船や、その地方の澤地の景色、村の鍛冶屋などが繪畫のやうに鮮かに描寫されてゐる。
 彼が十五歳の時、父親の再度の破産に、學校を退いて法律事務所に雇はれた。事務員といふものゝ、給仕に毛の生へた位のもので、初給僅に五圓、それが一家の生活費の足しまへになってゆくのであるから、その苦勞は並大抵ではなかった。
「僕は役者になりたいなァ、僕だって熱心にやれば、天下の名優になれるんだがなァ。」芝居好の彼は屡々さうした歎息を洩らしてゐた。
 適々、當時の劇壇の大御所マシウスの名技を觀るに及び、雄心勃々として已み難く、多年の宿望を披瀝した一書をマシウスに宛てゝ郵送した。するとこの無名の一少年の名文に動かされたマシウスは、寸暇なき貴重な時間を割いて、俳優としての性能試驗を行ひたいからといって面會日と時間を指定して寄越した。ヂッケンスは天にも昇る心地でこの秘密を姉に打開けた。其頃學校を卒業して音樂の出教授をしてゐた姉のファニイは、
「お前程の天分があれば、屹度成功してよ。あの歌を唄って、あの舞踊をして、去年の降誕祭(クリスマス)に喝采を博したあの芝居の科白といふ事にしたらいゝわ。姉さんが伴奏をつけてあげるからね。」といって弟を激励した。二人は夫から殆んど寝食を忘れて猛練習をした。
 ところで歴史家はクレオパトラの鼻が一分低かったら、世界の地圖は大分變ってゐたらうといふが、ヂッケンスの場合、世にお多福風邪なるものが存在しなかったら、英文學史は一つの華かな色彩を喪ひ、又今日中央公論社から、ヂッケンス物語全集は出版されなかったに違ひない。といふのは愈々晴れの日がきて見ると、ヂッケンスはお多福風邪に罹って、顏は腫れ上るし、聲は嗄れるし、到底マシウスの面前などに出られた態では無かったので、涙を呑んでその機會を逸して了ったのである。
 彼が無味乾燥な法律事務所から、新聞社へ轉じ、モーニング・クロニクルの下っ端記者になったのは十八歳の時であった。その頃は一家の生活が幾許か樂になってゐたので、父親は性來の道樂を發揮して旺んにお客を招いて、陽氣な晩餐會をやったり、餘興に家庭芝居をやったりしたので、ヂッケンスはよくその主役を演じた。そんな事から父の友人ビードネルといふ銀行家の令嬢マリアと親しく交際するやうになった。 皓齒明眸の乙女と、血の多い青年との夢のやうな戀は、周圍の注意を惹くやうになったので、ビードネル家では令嬢を佛蘭西の學校へ送って了った。それでヂッケンスの初戀は儚なく消去ったのであった。「男の一生」の中の大太郎の初戀の人深雪(ドーラ)はこのマリアをモデルにしたもので、そこへ出てくるジップといふ犬も、ビードネル家に飼はれてゐた實在の犬であった。
 初戀に破れたヂッケンスはその頃から、そろそろ文才が認められ、原稿が賣れ出したので、忙しさにしみじみと悲しんでゐる暇はなかった。それに彼の勤めてゐる新聞社で夕刊に彼の小品を連載したところそれが非常に讀者に受けたので、週給五拾圓の他に、賞與として毎週二十圓づゝ奮發して呉れるやうになったし、編輯長ホガース家の人々は心から歡迎して呉れるので、二十三歳のヂッケンスは物質的にも精神的にも惠まれた。
 或日、ホガース家の四人の娘達が、庭園に面した明るい居間で、編物や刺繍などをしながら雜談をしてゐるとこるへ、不意に水兵服姿の青年が窓からひらりと飛込んできて、口笛面白くセイラー・ダンスを一くさり踊り、一同が呆氣にとられてゐる間に、再び窓から風のやうに飛び去った。それから間もなく、同じ青年が背廣服に早替りして、表玄關から堂々と訪問し、白々しく挨拶をして一同を大笑ひさせた。その陽氣な青年が廿四歳のヂッケンスであった。
 彼が密に思ひを寄せてゐたのは、四人姉妹の中の三女メイリーであったが、彼女はまだ十四五の少女だったので、彼はメイリーを女神として思ひ出の厨子の中に祠って了ひ、長女カザリンと結婚したのであった。メイリーは美人薄命の譬に洩れず、病を得て蕾の中に散って了った。ヂッケンスが妻の母に宛てた手紙の一節に、
 ――メイリーの死に對する私の悲哀は、日と共に募る計りです。私は彼女の遺品(かたみ)の指輪を片時も離さず、小指に嵌めてをります――
 と書いてゐる。その悲歎のどん底から生れたのが、彼の傑作と謂はれてゐる「少女瑠璃子」(オールド・キュリオシチイ・ショップ)で、その物語に現てくる薄倖の美少女瑠璃子(ネリイ)といふのが、そのメイリーをモデルにしたものである。
 この物語は英國はいふ迄もなく、米國の讀書界に嵐のやうな感動を捲起し、夫人と相携へて渡米した三拾歳のヂッケンスは、王侯の如き歡迎を受けた。紐育市では、その國賓を迎へる爲に、日頃商賣仇として睨合ってゐた六大新聞が手を繋いだ程であった。然し夫妻は餘りに露骨で、仰々しい米國氣質に尠からず惱まされ、這々の體で歸國した。この旅行が、後日「千鶴井家の人々」(マルチン・チャヅルヰット)を生んだのであった。
 恰度彼の半自叙傳「男の一生」が出版された頃、詩人レイ・ハントが借金不拂の廉で投獄されたので、それを救ふ爲に文壇畫壇の有志を語らって素人芝居の一座を組織して、倫敦を振出しに各都市を巡業したところ、ヂッケンスが舞臺に立つといふのが評判になり、到る處滿員の盛況で、忽ち四千圓の純益をあげたので、ハントの他にもう一人借金で苦しんでゐた劇作家プールまで救ひ出した。
 その翌年アポン河の畔にある沙翁の生家が賣物に出たので、それを永久に保存する爲に、その委員の一人に選まれたヂッケンスは、その家を購入する資金を得る手段として、又もや同志を糾合して、リットン卿の脚本を上演した。それが非常な人氣をよんで、竟に、ビクトリア女王のお耳に達したと見え、一夜宮廷に招いて觀劇したいとの御内命が下った。
 然し作家としての矜持をもってゐるヂッケンスは、自分は役者ではないから、宮廷へ出掛けていって、芝居を演ずる譯にはゆかないが、自分等の趣旨に御賛同あって、寄附金を遊ばされる意味で、劇場へお成り下さるのなれば、光榮は感激して熱演するであらうと答へた。それで一八五一年五月十六日の夜、ビクトリア女王、皇婿アルバート殿下がお揃ひで、劇場へ御微行になった。その時の収益は二萬五千圓、ヂッケンス三拾九歳の時であった。
 偖、ヂッケンスは結婚二十年四十四歳で、九人の子供の父親となってゐた。その頃になって、突然、初戀の女性マリアから手紙がきた。彼女は結婚してウヰンター夫人となり、夫妻の間に娘が一人あって至極圓滿に暮してゐた。
 ところで二十幾年ぶりで、胸を躍らせながら會って見ると、夢現に描いてゐた美少女マリアは、丸々と肥滿った良い世話女房になってゐたので、尠からず幻滅の悲哀を感じたヂッケンスは、「貧富の華」(リツル・ドリット)の中で、栗並淺夫(アーサー・クレナム)が昔の戀人に再會した光景を叙する時、
 ――白百合の如く清楚可憐なりし花子(フロラ)は、牡丹の花のやうに俗っぽくなってゐた。昔の花子は甘えっ子であったが、今の花子は甘えっ子の眞似をするのだから耐らない。
 と云はせてゐる。
 然しウヰンター夫人マリアは非常に氣立の良い優しい女性で、ヂッケンス夫人とも親しい仲となり、後年ヂッケンス夫妻が、互ひに相容れぬ性格の相異から別居生活をするやうになった時も、その經緯が第一に知らされたのはこのウヰンター夫人であった。因にヂッケンスが妻の申出を容れて別居生活をしたのは、四十六歳の時であった。
 北溟館物語(ブリーク・ハウス)、貧富の華(リツル・ドリット)と相次いで名作を世に送ったヂッケンスの門前に、或日書籍を山と積んだ荷馬車が横付けになった。それは佛蘭革命史の權威者カーライルから届けられたものであった。ヂッケンスは佛蘭革命を背景にした、「二都物語」(ア・テイル・オブ・ツウ・シチイス)を書くに就いて、参考書を借用したいと申出たのであったが、ほんの二三冊のつもりで眞逆荷馬車に一臺送りつけられやうとは夢にも思はなかったので、流石物怖しないヂッケンスも、眼を白黒させたといふ。
 而も變り者の老文豪カーライルは、それ程澤山の参考書を貸し與へておきながら、小説は讀まぬといって、到頭「二都物語」を一度も繙かなかったといふ。
「謎の恩惠者」(グレート・エクスペクテーションス)を書いたのは、最早圓熟しきった四十九歳の時で、その頃から盛んに自作朗讀會をやって、愈々名聲を高めた。彼が最も得意として朗讀したのは、「漂泊の孤兒」の「闇に散る花」の一章であった。俳優を志した位であるから彼の朗讀は實に手に入ったもので、齊木の殺し場などは餘りに眞に迫って、聴衆の中で卒倒する婦人が續出した程であったといふ。
 この朗讀會の評判が、海を越えて米國に傳はり、再度の渡米を促されたが、彼は往年「米國見聞記」や、「千鶴井家の人々」の中で、散々米國人をこき下した覺えがあるので、聊か出澁ってゐた。然し再三の招待に、先づ秘書を瀬踏に渡米させたところ、持参させた短篇小説が即座に一萬圓で賣れ、米國で朗讀行脚をしたなら、尠くも十五萬圓の収益ある見込といふ報告が入ったので、彼は友人達が健康の爲に中止するやうにと忠告するのを振切って渡米した。
 米國のヂッケンス・ファン達は、二十五年前に惡口を云はれた恨などは忘れて、素晴しい歡迎ぶりを示し、お庇で同じ汽船で米國を訪問した侯爵閣下は、ヂッケンスの人氣に壓到され、到頭一行もその消息を新聞に報道して貰へなかったといふ。朗讀會が至るところで大成功であった事は云ふ迄もない。秘書の手で英國へ送られた金貨は二十萬圓に達してゐた。
 凱旋將軍のやうに意氣揚々として一年目に英國へ歸ったヂッケンスは痛く健康を害してゐた。然し彼は九人の子供と別居してゐる妻、それから多くの兄弟達に少しでも餘計に財産を遺さうといふので、相變らず朗讀會を續け、夜は遅くまで原稿を書いてゐた。
 米國の旅を終へて間もなく、ビクトリア女王に召され、親しく米國の見聞に就いて御下問を受け、全集獻納を仰付り、光榮に感泣したのは彼の五十七歳の時であった。
 翌年の四月一日から、探偵小説「エドヰン・ドルード事件」(その映畫化されたものは、「幻の合唱」と題して上映された事がある)を書き始めた。
 青葉の烟る六月の八日、ロチェスターに在るカズヒルの書齊に終日籠ってゐたヂッケンスは、
 ――彼は先づ部屋の隅にある戸棚を明け、白墨を取出して、扉の裏面に上から下まで、太々と白線を引いた。然る後、ゆっくりと食事を始めた。――
 と、「ドルード事件」の續きをそこまで書いた時、六時の夕食の知らせがきた。
 食事の世話をしてゐた別れた妻の妹ジョウジナは、義兄の顏色の勝れないのを見て心配してゐると、二言三言談話をしてゐる中に、急によろめきかゝったので、急いで抱止めた。
「‥‥地面の上‥‥」それがヂッケンスの唇から洩れた最後の言葉であった。
 その儘昏睡状態に陥った。彼は、翌六月九日に靜に息を引取った。倫敦から馳付けた人達は遺言に依り葬儀は一切の虚禮を排し、家族と少數の友人だけで、古木の繁る土地の寺院に葬る筈であったが、その墓地は既に使用を禁じられてゐたので、遺骸は全英國民の熱望に從ひ國家の至寶のみが永眠るウエストミンスター寺院に葬られた。然し故人の遺志を尊重して、午前九時一般市民の知らぬ間に、十人の家族と三人の友人によって、慎ましく埋葬式が執行されたのであった。だが其日の中に墓は市民達の手向の花束で埋められた。
 カーライル翁は彼の死を悼み、
 ――善良にして心優しく、天分豐にして洵(まこと)に親しむべき、高潔なるヂッケンス、彼の全身一吋一吋正直をもって固められてゐた――
 と書いた。ヂッケンスの生涯を語るに、これに勝る碑文はないであらう。享年五十八歳であった。

注)明かな誤字誤植は修正しています。十拾廿などの混在はそのままです。作品名の「 」の有無もそのままです。
注)なお、本号と同時に連載中の『男の一生』(1936.02.〜12.)は編輯都合で中絶、『ヂッケンス物語全集』(1936.10.〜)の一冊として翌年刊行される。


「この頃」
「黒燿」 1913.03. (大正12年3月号) より

 阪は風の冷たい、然しながら穏かな冬の日の午後、山の手電車の停留所に立ってゐた。
 例の厚く長い外套に身を纏うて寒さの中を怖れず、よき煙草をかみながらその敷石の上を闊歩してゐた。
 ――凋落した栗林の並木、クッキリと霽れた青空、鶏の啼く竹藪の小徑――それ等が彼の意識過程の的であった。
 郊外の大崎で電車を下り近頃小石を敷きつめた道路を歩いた。踏切の柵は閉され、荷馬車、牛乳車がつかへてゐる。工場の黒き烟、遠くの崖の風見車が行手に見えてゐる。
 この邊はしばしば阪が好んで小説とも散文とも小品ともいふべき作品の背景に出てくる風物であった。「玩具」、「けいちゃん會議」、「ウヰンタア」、「ある郊外の家」もさうである。泥濘の坂路を上って柊林の繁った廢頽した神社の境内へ出て學校の裏を抜けてフト藪路へ出た。
 麗々と十時の日ざしが照り展開(ひらけ)たる田畑の沓か遠くに相模野の山々が連なってゐる。樹の間に線の明るい洋館が見えてゐる。そこに住む西洋人の子が長い棒切を持って遊んでゐた。
 阪は日あたりのいゝ、其處計は濘るまぬ竹藪の蔭へ佇んでポケットへ手を入れてガサガサかきまはした。煙草やハンケチや手袋やパイプや金入や手紙の束や玩具の馬が一杯つまってゐる。いつも阪は菓子を持ってゐるんだけれども、あわてゝその朝は家へ忘れてきたのであった。阪の癖で表へ出るときは、きっと小さな菓子を澤山隠しへ入れてくるのが常であった。
 阪は手をあげて笑ひながら「おいでおいで」をした。それからカサカサする手紙の束の中から一通を投出して讀んだ。――其頃はまだ其女から逃げず毎日毎日二人して遊び暮してをったのである。談笑のうちの零細な言葉をわざと様々に解釋して怨んだり喜んだり他愛のない手紙であった。讀み終るとまた新たな一通をとり出した。それは小さな洋封筒で赤い原稿紙に五行許り早書きでかいてあった。
 ――手紙も下さらず、お見えにもならぬが頭痛はまだしますか、私しは毎日心細く寂しく思うてゐます。この間の芝居はどうでした、あの時貴郎は私の顏を三度しか見て下さらなかったのね――
 こんなことが記してあった。
 阪は總ての手紙をまた一纏にして内隠へ押込んだ。阪は兩手に拳をこしらへ眼へあてがって方々を見渡した。樹々のふるへてゐる木の葉や青空や自分の靴の踵で踏みにじった足元の土塊(つちくれ)をみた。竹藪や遠くの山々や遠くを飛んでゐる鴉の姿を見た。西洋人の子を捜したがもう姿はなかった。阪は目鏡を止して口笛を吹きながら歩き出した。
 友達ケイ、エフ氏の家へはまだ栗の並木を越えて三丁も歩かねばならぬ。藪の道を迂回してフトその前に太一の牛舎を訪ねた。
「オイ、しばらく顏を見せないね」
 阪は牛小舎の横手で仕事をしてゐる太一の背中をドシンと叩いた。
「旦那さま、又散歩かね、この寒いのに」
 太一は口をあいたまんまな顏をして振りむいた。
「旦那牛乳をのむかね、搾りたてがあるですよ」
「呑氣な顏をしてゐるなァ、お前は随分勞働をしてゐるね、けふ俺と一緒に夕飯を食ふんだよ、だから四時までに家へ來るんだ、いゝかい」
「旦那、私は貴郎に御忠告したいですよ」
「何だい、云って見な、又イスカリオテのユダの話か」
「Gold―(或女の名)さんが二三日前來ましてね」
「わかった、わかったよ、そんな心配はしないでも私は善人なんだから、二つの金鎚はもてない、一つの心で愛情も率直に一つしきゃないんだから私は善人なんだから、これだけは知っておいで」
 太一は呆れて口をあいてゐたが顏を皴だらけにして笑った。
「いゝかい、ぢゃァね、四時迄に家へくるんだよ、お前の晩餐は六時でなくっちゃァ喰べさせないよ」
 阪は大きな手で太一の背を叩いてそこを去った。水の流れが木の繁みの下で微に音をたてゝゐた。阪は太一のあいたまんまな顏を思ひ出して笑った。

 ケイ、エフ氏は物置小舎の日當りで愛犬に飯を喰はしてゐた。二連拳銃が立てかけてあった。其處らにゴムまはりだの山しぎの羽根などが散ばってゐた。ケイ、エフ氏は泥にまみれたズボンにコゲ茶の外套をかぶってゐる。
「こゝが暖かいぜ、アヽ先日は失禮、どうしたんだい、顏色がよくないね」
「面白い變った事がないもんだから、つまらない」
「仕方がないね、美しくって利口で健康な戀人でも捜したらどうだい」
「さういふ戀人はあるんだよ」
「それならいゝぢゃないか、一緒になったらいゝだらう」
「無論さうだけれどもそれの爲めには父にも家庭にも背かなくっちゃァね、衝突の種さ」
「銃猟でもやったらどうかね、私なんぞはこの通り毎日愉快にくらしてゐるよ、胸が大くなって泣言は考へなくなるよ」
 二人は黄色くそまった此國のさまざまな惡口をいって少し笑った。
 阪は自宅へ歸り間違なく訪問した太一を風呂へ入れゴシゴシ皮膚が赤くなるほど召使に洗はせた。それから自分の新らしい洋服と外套を着せ流行の帽子を冠らせて、一緒に電車へ乗った。
 新橋の倶樂部の食堂へつれていって、腹ふくるゝまで食事をさせた。
「又二三日したらやってくるんだよ、けふはもうお歸り」
 阪は太一に云ひきかせた。やがて太一は歸っていった。阪はブラブラその邊を歩き、兩手に持ちきれない程の買物をした。まだ時間が早いから市中の玉突場へ仕方なしに這入って見た。赤い玉、白い玉が入り亂れて青いクションを轉ってゐるのを漫然と眺めてゐた。
 ストオブの火が微かに赤く燃えてゐる、荒い足づりをして洋服の人達が歩きまはってゐる。
 無意識な哄笑と苦笑と貧弱な謙遜や禮儀がその疎雜な靴づりの音に入交ってゐた。
 折々ドアをあけて曲った靴、然しながら光った靴を穿いた人達が疑深い顏をして入交り入交り這入ってくる。
 阪は幾度も時計を出して見て、只管針の進むのを待ってをった。 (完)
二年二月十五日


注)句読点は追加、変更したところがあります。


「冬の日の叙説」
「雄弁」 1913.03. (大正12年3月号) より

 愛宕町の通稱林の屋敷に住んでをった。愛宕山の夕暮に沈みゆく太陽を眺め、日のくれを急いで歸った欽吾は頭腦のハチの開いた、口元の可愛い小供であった。仲間に喧嘩をされて歸るとき、母親に劬はられるとき、黄昏の物悲しさ、露路口のカメ犬を思ふのであった。
 欽吾は長男であった。麹町の中學校を卒業(でる)と伯父の口入で内幸町の某會社へ雇れる事になった。筒袖の紺飛白はいつか袂になった。遊仲間の相當な家の子弟はそれぞれ専門の學校へ進んでいったのである。友達には「F」「N」「M」そんな人達がゐた。Fは私立大學の文科へ這入り金ボタンの制服をつけてよく欽吾の家に遊びにきた。Nは商船學校の生徒、МとHとは何處かの入學試験を受けるために神田區の英學校へ通學(かよ)ってゐた。他にも友達は多く築地の寸鐵堂には森邊、谷田澤などゝ其頃可成學生間に名をうった、すごいのがをった。
 寸鐵堂は川沿の新らしい四軒長屋の角で漢詩に巧な森邊を中心にした數人の自炊生活の借家であったのである。
 處々で琵琶會が催され、すさまじい喧嘩が度々演ぜられた。欽吾は色の白い混血兒のやうな兒で可成り一同から好遇され、寸鐵堂へもしげしげ遊びにゆき思ひのまゝに遊びふけってゐるうちに、いつか山本とか渥美とか誰とか同年輩の少年と仲善しになって、つれ立って毎日のやうに遊んだ。けれども學校を出て勤めにでるやうになってから皆との交際も疎になり、より合って牛肉鍋を突つき合ふ事も、多くの連中と琵琶會へゆく事もいやになり、遠のいて見ると怖いやうな氣にもなった。 自然皆からも逃かくれて住むやうになった。Fもそうであった、LもHもNもそうであった。この數人の一團は築地へはピッタリ足をぬいて了ったのである。可愛い少年のうちには後に役者になったのもゐた。
 其頃一同と撮った寫眞を見ると紺飛白を着た欽吾は隅のところに薄命な相をして悄然と佇ってゐる。他の友達は色も黒く體躯も立派で年齢もみんな上であった。
 欽吾は毎朝、辨當をもって會社へ通勤(かよ)った。父親も同じく辨當をもって宮内省へ出勤した。二人は前後して褪せた耳門をあけて出ていった。會社の先輩は欽吾を大變よくして呉れた。中にも課長の「W」さんとはいつも同じ方向に歸るので折々は無理に日比谷公園の松本樓へつれてゆかれて御馳走をされた。
「君は何處か身體でも惡るいのかね、どうも元氣がないね、人間は元氣がなくっちゃ駄目だ」Wさんはビールに顏をつやつやと染めて短かい口髪を撫りまわす癖があった。そのWさんは後に社用で凾館へ出張して間もなく病歿した。欽吾は元氣なWさんを忘れずに記憶してゐた。その後、その話をきいて欽吾は淋しく、自分によくして呉れた、なき母の事を想うて木立の多い公園の徑を歩いて歸った。
 欽吾は社にゐても仲間のものとは多く口を交へず、晝飯の休憩時間は自宅から持ってきた雜誌類を讀耽ってをった。會社が退けて家に歸ると以前のやうに友達は多くきたが誰も彼も落着いて遅く迄話込んでゐるものもなく、新らしい學校の噂や教師の話などをして皆ソワソワと歸って言った。友達には又友達が出來、試驗や復習やで自然と日曜の集合にも二人缺け三人缺ける事が多くなった。然し血色のいゝF君だけはしげしげ遊びにきた。

 ある日曜日二人は白金から目黒の郊外を散歩して歸途に御殿山の草堤へ腰を下して休んでをった。陽は青く照り、見渡す田畑は黄色く穏かにしづまってゐた。晴れたる秋の日で遠くの雜木林に明るく夕陽が流込んでゐる。目をかいすとすぐ下に、蜿った汽(※サンズイに氣)車のレールが長くつゞいて工場のわきの踏切に白い旗が動いてゐた。貨物列車が折々黒煙をあげて通過っていった。フトわきを見ると二十四五の風態の惡るい書生體の男が最前から頻りに二人の方を睨めてゐた。
「妙な奴だね、いやにこっちを見てゐるぜ」F君は忌々しさうにペッと唾を吐いた。欽吾はヒヤヒヤしながらF君の袖をひいて立去らうとすると其男はツカツカそばへきて、
「貴様は何處の奴だ、生意氣な事をしやがる」
「俺が何をしたい」F君も立上った。
「マァ、よし給へ、何でもない事ぢゃないか、ねぇ君、惡かったら許し給へ」欽吾は頻りに二人の間を調停した、F君は繊細(きゃしゃ)でかよわく、その男は水兵のやうに獰猛に見えた。F君を慰撫(なだめ)慰撫引立てるやうにして御殿山を下りた。F君は欽吾の謝罪を憤慨して道々も默ってゐた。欽吾は強て平然とした態度で、
「あんな奴と喧嘩する事の馬鹿馬鹿しさ」を幾度も繰返してやうやくF君を納得させて、別れて家に歸ると何となしにホッとしたが寂しい心が湧いた。もうそとへ出まい。決して遊びには出ますまいとかたく想ふた。
 欽吾はそれから總ての友達を自分から隠れるやうにして役所のかへりなど友達を見かけるとツイ露路にかくれたりした。L君W君М君が訪ねてきても動悸のする胸を押えて襖のすきまからそっと様子を覘きながら二三度呼ばれても默ってゐる事があった。友達がスゴスゴ歸ってゆく後姿を見送りながらも泣たいやうな淋しい氣持になるのであった、 心の底では眞實に友達に逢いたく、手を握合ってほんとの心を語りたいのであったが、明日は明日は皆に逢ってこの話をしやうと思ふ情緒が朝の太陽のあかるみに照されて氣はづかしく不思議な神經の反撥があったのである。其頃日曜の度毎に妹達をつれて小石川の植物園や大崎の妙草園をさまよい歩いた。

 F君はそのうちの唯ひとりの友達であった。F君は騎馬に巧みでそれに血色もよく意志も強く然しながら優しい心を持ってゐた。欽吾と二人夕暮の町々を歩き暗い仙臺屋敷の横手に上る滿月を眺め、或は新錢座や材木屋の多い竹竿の立かけてある人通りの少い汐留のあたりを散歩した。

 林の屋敷の入口、薪屋の向ひ角に新らしい平屋建で大友といふ表札のかゝった繪師の家があった。そこにわれわれの冬子がゐた。F君と欽吾とつれ立って散歩にゆくとき歸るとき、冬子は二人の恥しい的であった。二人より年上の冬子は折々門に立って笑った目で二人を見送ってゐた。
 F君と欽吾は旅行の話や小説の話をして寂しい路をよって歩いたが冬子の話は避けて久しくふれなかった。夕暮欽吾の家の門は、たそがれて狹い小路がかすむでゐた。表の井戸や黒塀の柳かげに手桶をさげた近所の女達が見えた。欽吾は早く夕飯を濟えて門口に立ってF君を待ってゐた。フト薪屋の角に白地の浴衣を着たF君が表れて、その角で冬子としばらく話をして、さりげない血色のいゝ顏をして欽吾の家を訪づれた。

 ある日曜日の午後、欽吾は父の用事で麻布本村町へいった歸途、酷烈な日光に曝されて薪屋の角へくると冬子がひとり門の中にゐて欽吾に聲をかけた。
「この暑いのに何處へいったの」
「家のつかひにいったんです」
「そう、ご用がないなら直ぐあとで被入(いらっしゃ)いな」
「アヽ」欽吾は家へ歸へるとすぐ引返して冬子の家へいった。他に誰もゐず、家の中は森としてゐた。
「けふは、私し不在番(るすばん)なのよ、ですからゆっくり遊んでいらっしゃいな」
 欽吾は夫には應へず、水をやった庭先を眺めたり、縁側の金魚鉢を弄ってゐた。冬子の顏はともすれば大きく欽吾の目の前を覆ふて笑った。そうして金魚鉢をいぢった濡れた手を拭いてくれたり、
「欽ちゃんは随分毛深いのね」こんな事をいって耳の下に長くのびた生毛をひっぱったりした。
「可愛いのね」
「貴女がそんな事をいふと私は何ていっていゝの」
「私も可愛いっていふの」冬子は笑ひながら云った。
「ぢゃァ、私は尚可愛い」
「マァ大變な事を云ふのね」
 その晩は二人で縁日を歩いた。翌日から折々打合をしては二人は皆にかくれて出あるいた。

 F君とも欽吾は度々逢ってゐた。F君も欽吾に隠れてよく冬子の家へ遊びにいった。
 時には三人づれで芝公園や芝浦の方を散歩に出掛けた事もある。
 或夜F君と冬子と山内の街燈の下を歩いてゐた時、
「貴女はね、私をいつ迄も好きでゐて呉れる?」
「どうして、私がいつ迄も貴郎が好きではいけないの?」と冬子は笑ひながら訊返した。
「だって、貴女は欽ちゃんも好きぢゃないの?」
「マァ、貴郎は私が貴郎と欽ちゃんとを、どっちを好きだと思ってゐるの、云ってごらんなさい」
「だって、私がいくら貴女を好きでも貴女が私を好きでなくっちゃ、私はつまらないなァ」
「坊ちゃんの僻に貴郎はうまい事を仰有るわね、貴郎には私がどう見えて? これでも、これでも」冬子はF君の手をかたく握った。F君は以後玩具の馬や人形や繪ハガキを澤山かって冬子に逢ふ度に持っていった。

 森の中を歩みつゝ欽吾は冬子に訊いた、
「私ね、貴女が大好きだけれど、貴女は私がきらひね」
「そんな事をどうしていふの、何故そんな事をいふのよ」
「貴女は私ひとりを愛してくれないの? 何も見ないで」
「私には貴郎の心はよくわかってゐてよ、貴郎は悲しいの?」
「悲しいけれど若し貴女が私を愛してくれなければ私はもう引込んで仕舞ます、私は平氣で落着いてゐられないんです」
「私、あなたが可愛いけれどFさんだってきらひぢゃないの、私とFさんが口をきいても貴郎は悲しいの?」
「決闘して私が死んで了へば一番早いのです」
「欽ちゃんそんな事を考へるのはお止なさい、そんなに私の心を疑ふものぢゃなくってよ、ね、わかって、わかって?」
 穏かな夕陽が森の中へ射込んで黄色く木立が輝いてゐる。野中の森を其儘靜かに殘しておいて、夕ぐれが迫ってきた。

 まだ暑さが強く、風のない曇った晩などはムシムシして睡られなかった。窓前の芭蕉の揺れる音をきいてゐると父親や祖母は二階の物乾場へ出て涼んでゐた。團扇をパタパタやる音や低い話聲などが手にとるやうに聞えた。庭には大きな無花果の樹があった。欽吾は一日のさまざまな出來事を想うて細い字で丁寧に日記をつけてゐた。

 F君と欽吾は相變らず郊外や月の夜の町々をさまよひ歩いた。
「冬子さんは繪の御弟子なんだってね」
「アヽ、そうだって私はこの間きいたよ」
「君、此頃冬子さんに逢ふ?」
「イヽエ、君は」
「僕も」
「僕は小説を書いたよ」
「そうかい、見せたまへな、僕もね日記をつけてゐるよ」
「ぢゃァ、僕は明日もってくるから君の日記も見せないか」
「アヽ、日記は」困るけれどもねぇ、いゝや、すっかり話して了はう」欽吾は答へた。

 薪屋の向ひ角の大友の家には冬子の外、若い女の人達が澤山におって賑かな笑聲が表に溢れた。F君と欽吾は相變らずその家の前を通過った。女の弟子達の姦しく媚かしく、噂をするのを後にきゝながら。

 多摩川の郊外や、吾妻橋から汽船に乗って三角の川沿をF君と欽吾はよく歩いた。自然の美しさに二人は言葉もなく、夕陽の赤々と葦の間に沈んでゆくのを眺め、入道雲の白く浮ぶ青空を飽かずみつめてをった。歸途の堤下の雜木林に、チ、チ、と鳴く小鳥の聲をきゝながら、いつも物悲しく家に歸った。
 その冬、F君の片瀬の別莊に二人は一週間ほどゐた事があった。F君は其頃から銃猟を好んでゐた。片瀬の天井にあかりとりのある六疊の室に一緒に臥たとき、F君は某氏の冬期銃猟談を愛讀してゐた。
 ――雁は二貫目に餘りしが黎明の寒さをもいとはず、ザブザブと枯葉の間に入りき。――其他小鴨三羽、鴨と名のつくだけ有難かりし――F君はその個所を愛誦してをった。二人とも十七才の少年であった。

 F君は銃猟の名手で好個の紳士であった。伊太利の射的學校へ入學する爲めに横濱の埠頭で欽吾と別れたのはそれより數年の後であった。
 欽吾が目黒の木棯の女を戀して一生に一度の戀をして女と共に長崎の、あの赫く竹藪のしげった親戚の家へはしらうとして女の輕い心から終に果たさなかったのは又その後の事であった。
 過度の神經衰弱に陥って會社の高い石段から墜落して欽吾が足を挫ったのはその次の年であった。欽吾やその一家が只管脚部の廢疾ならん事を怖れて意識と精力を注集してゐるうちに美しい頬の色は褪せ、よもぎの如き髭が欽吾の皮膚を散々に荒した。醜い男となった。そうして遂に跛者となって了ったのである。

 林の屋敷の家もいつか、濘路の郊外へ移って了った。ある年の夏、欽吾は炎暑のギラギラした往來を歩いてゐると薪屋の向ひ角の大友の家で障子をあけ放して數人の若い女が晴やかに語ってをった。
「行路病者ね」
「あの顏色をごらんなさい」
「あなたは可哀そうに思って?」
「自業自得だわ、自分でこしらへた重荷よ」
「あの泣いてゐるやうな顏は自分の罪を知ったんでせうか」
 欽吾は默ってホクホク砂ほこりをあげながら急な坂道を喘ぎ喘ぎ上っていった。
「行路病者ね、重荷を背負った行路病者ね」
「でも少し可哀そうな行路病者ね」
 女達は聲をあげて笑った。

 郊外の狹く新らしい借家に、欽吾は縁側の日あたりに廢疾の足を投出して煙草を吸ってゐる。其煙草から紫の烟がさまざまに立のぼって大空の紺碧の包に消えて了ふ。冬の日光が折々障子を照らしたり曇らしたりしてゐた。 (完)
――二年二月――


注)句読点は追加、変更したところがあります。


「聖日」
三田評論 1915.09. (大正4年9月号) より

 Europe から東洋の諸國を經て汽船は無事日本の神戸へ着いた。M氏は迎へに來てくれた友達と陋狹い港街へ上って、それから大阪驛へついた、そこにも中學校時代からの友達が待受けてくれた。
 その酷暑の夜、M氏は遮二無二に上りの急行列車へ乗った。翌日土用入の午後、東京驛へ着いて身輕にプラットフォームへ下りると思がけず數十人の親しい人々の顏を見た。M氏は喜びと悲しみの心持をもって深く一同の好意を謝し、妹達と打つれて砂利の上を歩き、電車に乗って高臺の赤坂の家へ歸りついた。悲しみとは懐しき知人知己を英京倫敦に殘し遙々と身は東京驛にあって親戚友人の間にかこまれてゐるといふ事實である、それは確實に爾く倫敦と隔絶したる事を認知せしむるに充分であったからである。
 赤坂の家には老たる父が待ってゐた。數日が無爲に過ぎた。漲りわたる炎天の下に蝉のむれのみが我意をふるってゐた。M氏は太陽の光を恐れて蟄居してをったが夕暮など下町の郵便局へ葉書など出しにゆく折々しばしば耐がたき胸に倫敦を思ふた。
 記臆に新たなベルグレーブ街は角に遊歩道(エクリエーション・グラウンド)があった。瀟洒たるホテルがあった、グーインの家があった、男爵夫人の住むフラットがあった、高く聳えたウエストミニスター・カセドラルがあった――貴女の市街は何故そんなに立派な Religious な人々をもってゐるのでせう、Smart でない和服を身につけて、今頃恁ふした日本街を歩いてゐるとは貴女達は少しも想像し得ないでせう ――M氏は淋しげに微笑した、賑かな下町の露店には大小の石油ランプが無數にともってゐる、M氏は暗い石塊みちの坂を昇降する事にならされた。まだ信仰の薄い彼には折々勃然と不平が催されたが彼はその度に過れる自己をわらひ、僅に和ぎの心を保ち得た。
 ある日白金三光町に友人を訪ねての歸途、煉瓦塀について突あたりの新らしく外國人によって建られた〇〇女子學院の裏門にフト立止った。門をはいると折から地下室の入口を掃除してゐた若い尼僧が輕く會釋した。
「私はね、數日前にイギリスから歸ってきたのですが、Catholic の事でお訊ねしたいので参ったのです、貴女に伺ってもよろしいのですか、それとも何誰か適當な方がゐらっしゃいますか」とM氏はたづねた。
「貴郎はカソリック教ですか、そうしてイギリスからお歸りですか」
「そうです」
「そこを玄關の方へいらっしゃると Mother がおいでですからよく御訊ねをなさい」
「有難う」M氏は教示へらるゝまゝ芝生を越えてホールへはいった。
 Mother は親しげにM氏を應接室に導いた、M氏のいったのは大略かうである。
「私は英國から婦ってきて、まだ二週間を過ぎません。私は倫敦にをっていつも日曜日十二時の Mass に行くことをならされてゐました。私は今心の寂蓼を感じてをるのです。無論私はカソリックに就て勉強を要します、そうして私は云ふまでもなく力ソリックたる事を幸福としてをります、それから私は Irish が好きです」M氏は口をきはめて愛蘭土人をほめちぎった。
 Mother は絶えず口邊に好意の微笑をもって頷いてゐた。
「大變よくわかりました、貴郎は倫敦の何處に住んでゐらっしゃいました、何處のカセドラルです、さうして誰が初めに貴郎をカセドラルへ連れてゆきました」M氏は精密くそれ等に應へた。
「貴郎の心は紳様に對してひらいてゐらっしゃる、必ず善良な信徒になり得るでせう、勉張をなさい、私は出來るだけ貴郎を Help します、それから麹町紀尾井町とかいふ處にゐらっしゃる長老 Father に明日おひき合せをしませう」
「Father は Irush ですか」M 氏は迅速にきいた。
 Mother は笑ひながら「No」と答へた。
 やがて Mother はM氏を Chapel に伴ふたあと圖書室へ案内して、
「一寸待ってゐらっしゃい、今貴郎の好きな Irish の Mother をつれてきてあげますから」といった。
 間もなく、M氏は Mother Heydon を見た、Mother はいろいろM氏の話を取次いだあと、
「さうして Father は Irish でなくてはいけないのですって」と云ひそへて笑った、Mother Heydon も笑った、M氏も笑った。
「アメリカの Father で大變いゝ方です、然しそんな事はどうでもいゝでせう、ねえわれわれは皆なカソリックなのですから」Mother Heydon は宥めるやうにM氏を論した、愛に滿ちた老尼の擧動(ものごし)はM氏の心を忽ちひきつけた。
 間もなく老尼とM氏は庭園へ出て樹蔭のベンチへ憩ふた。柔かな青草の上を渡って涼しい風がサラサラと吹いてくる。
「貴郎を最初カセドラルへつれていった方は何といふ名でしたかね」
「O'Connor 夫人とその娘達です」
「もっともアイリッシェ名前です、さうして又大變いい名前です」と Mother Heydon はいった、二人は永い間アイルランドの様々な話をした、M氏は快いその Irish broke をきいてゐるとさながら倫敦に於て娘達の母に逢ってゐるやうな氣がして、その瞬間自らの日本にをる事を忘却してをった。
 可成り長時間のあとM氏は丁寧に Mother 達に別を告げて門を出た。
 M氏はその日から更に幸福の曙光を認めた、炎暑が日毎につゞく。
 翌日の日曜は Father Mcneil にひき合された。Chapel に跪座いて深く默祷するとき祭壇の姫百合の香はめぐるが如く身神に迫って高い窓から流れ入る涼風に身も心も爽にせらるゝのである。
「イエス彼に曰けるは爾もし信ずる事を得ば、信ずるものに於て爲すあたはざる事なし、その子の父たゞちに聲をあげて涙を流して曰けるは主よ我信ず我が信なきを助けたまへ」(馬可傳九章二十三節)
 M氏は常にその言葉を思ふた。照りつゞく眞夏の日ざしをもおそれず、毎日曜日の Mass を決して忘れなかった。(一九一五、八、一八。)

注)句読点は追加、変更したところがあります。


「巷の塵」
「三田文学」 1920.07. (昭和5年7月号) より

 そこから橋一つ越えると、そろそろ郊外にならうとするハンマースミス街の銀行に、チアリーは通ってゐた。勤めてゐるといってもその前年やっと市の小學校を卒業た計りで、銀行ではペーヂボーイのやうな事をやってゐた。十六のわりに柄も大きく風釆も勝れてゐて、日曜がくると山高帽子を少しあみだに冠って、寄席覺えの流行唄などを口先で歌ひながら公園などを歩いてゐると、一ぱし一人前の大人であった。
 チアリーの家は倫敦ブヰクトリア停車場とテームス川の中間になってゐて、愛蘭生れの母親が釆配をとって安下宿を營むでゐた。客では某測候所へ出てゐる佛蘭西の青年が二人を、時計屋に勤めてゐる頭髪を散切にした、背の低い獨逸人の若者、同じく中年輩のピアニスト、それから陸軍大佐の未亡人で足腰のたゝぬ老婦人が三階の表に住むでゐた。その外に東洋人では友部といふ日本の青年が日毎夜毎に食卓を圍む連中のひとりになってゐた。これ丈けの大人數に廿五を年長とした三人の娘と季子(すえこ)のチアリーがゴチャゴチャに住むでゐた。
「オイ、チアリー。面倒だらうが、ビールを買ってきてくれないか。」
「ついでに角の菓子屋へよってチョコレットを一斤買ってきてくれ、帝國印ってやつをね。」
「そのついでに手紙を投凾(いれ)てくるんだ。頼むぜ。」などゝ皆が重寶がってつかった。
「いやになって了ふなあ、君達の下男ぢゃあないんだよ。」と頬をふくらせながらも、大して億劫がらずに皆の用事を足した。
 早起の日本人が目を覺して裏窓をあけると、まだ人影の稀れな市街をとうして新鮮な空氣が室内に流入る。寝床から煙草のけむりをふいて暫時まぢまぢしてゐると、階下の食堂で通ひ女中が頻りに朝餉の仕度をする物音や、時計屋へ勤めてる隣室の獨逸人が牀の上をコツコツ歩くのが聞え初める。時には測候所のシャールが雨だれのやうなヴヰオリンを鳴らす事もあった。
 太陽の輝き出す初夏の晴れた日には、宵ぱりで、朝、中々起きない娘どもも、狹い室でひどい騒ぎをやりながら三人が衣物を着たり、髪をゆったりした。食事の鐘が鳴ると皆は階下へをりた。ピアニストは不規則で夜は遅く、めったに朝食の卓に顔を出した事はなかったから、日本人と測候所の二人、時計屋、それに娘達とチアリーがテーブルにつくのであるが、チアリーはいつも遅れてカラーもつけずに皆に謝罪ってゐた。食事が濟むと一同はそゝくさとつとめに出ていって、十八になる季娘のドーラと日本人の友部だけが何もせすに茫乎のこってゐると、チアリーがお世辭を使ひながらよく友部のところへやってきて、
「今夜歸ってきたら、きっと返却すから。」といって僅な電車賃を借りていったが、いつも返したためしはない。
「これで、チアリーに何程貸したの。あんなのに無闇に出してやったって駄目ですよ。貴郎はおひとよしだから、ほんとに仕方がない。」とドーラがいひいひした。友部は娘からおひとよしと呼ばれ、夫から他の人の齷齪(あくせく)働く時間を毎日勝手放題に費してゐる呑氣者と思はれるのも大して惡く咸じなかった。
 その頃は日曜の度に誘合って下宿人同志が一團となって郊外散歩に出掛けるのが流行った。無愛想な獨逸人も友部と並んで賑かに談笑しながら明るい野路を歩いた。何といっても佛蘭西人のシャールやルグナンシェが一番要領のいゝ金のつかひ方をして社交的であった。獨逸の男は批評家で何彼につけて自分の國と比較するのが癖だった。そこへゆくと友部は一向不得要領で、どちらの友達とも正直らしく交際(つき)合ってゐた。
 若いドーラは旅先にある下宿の青年達をひきつけてゐた。そのうちでもフランスの青年と友部が最も烈しく心を奪はれてゐた。三階のシャールの部室に暫時でもドーラが饒舌ってゐると友部は機嫌を惡くして、
「製圖引が何だっていふんだ。あんなのは日本へゆけば、ふんだんに轉ってゐるんだ。」と婦人の前では殆んど口にすべからざる事をいひながら、人を陥穽(※こざとへんに井)(おとしいれ)るやうな口をきく、卑しい自分の心持を耐らなく慚づるのであったが、ドーラは至つて平氣で、却って製圖工の仕事などは面倒でいやなものだとか、給料も尠いだらうしそれに良夫(ハズバンド)としては若い男は嫌いだといふやうな事をいった。最後の言葉については、たとへ友部が若い男の部にはいってゐても大して氣にならなかったが、シャールの定った職業や俸給に少しでも興味をもってゐるらしい言葉をきくのが友部をイライラさせた。
「日本人といふものは見かけによらぬ狡猾なものですよ。」と或時シャールがいったといふ事をきいたとき、友部は勃然として階段を驅上らうとした。ドーラは周章てゝ友部をさゝへながら、
「いけません、いけません。そんな事をすれば私が告口をした事になるぢゃァありませんか。若しどうしてもするなら私はもう一生貴郎と口をきゝませんから。」と眞顏になっていった。全く絶交も爲兼まじき劍幕であったから友部も多少ひるむだ。それに冷靜に慮へて見れば、シャールが云ったといふ事も三ヶ月前の舊い事であるし、かたがたその批評も滿更思ひあたらぬでもなかったし、そのてれかくしに忿然として見せたりした行爲に厭氣がさした。
「ぢゃァ止すさ。私が默ってゐれば貴女はいゝだらうけれど、然し私は一體どうするのです。」と友部は出來るだけ不機嫌にいった。ドーラはその日,一日中、友部の機嫌をとって、丁度その日は家中不在であったから、薄暗い地下室の臺所へ出て一緒に紅茶をのむ爲めに藥罐に水を入れて瓦斯にかけたり、パンを切ったりするのを友部も手傳はされた。締切った奥の臺所はムッとする程呼吸苦しかった。最初、ストーブのわきに立ってゐたドーラが笑ひながら古新聞を丸めて友部の背中にぶつけた。
「オャ、家のなかに霰がふってきた。」と友部は大きな古新聞を投返した。ドーラがそれを又投げやうとする瞬間に友部はいきなり、そばへ寄って背中から腕をまわして、しっかり抱きすくめて了った。倫敦には珍らしい、恐ろしく蒸暑い午後だった。ヤードの外に紅薔薇が咲いてゐた。

 チアリーも伸びる盛りだった。會社から歸ってきて、夜食のテーブルにつく前に、一つしかない服をぬいで、せっせと刷毛(ブラシ)をかけてズボンに鏝(アイアン)をあてたりした。疲勞れて勤め先から歸ってくる下宿人や娘達の間に交ってテーブルにつくと、明るい瓦斯の光が豐かな、血色のいゝ頬や、堅くキチンと結んだ襟飾を氣持よく照した。
「大變いゝわ、チアリー。」と姉達が賞めた。
 食事が濟むと、チアリーはきまって外へ遊びに出て遅く歸ってくる。夜更しの友部も時にはチアリーの歸宅を知らない位であった。
 市街にはそろそろ白っぽい衣服が見え初めた。街樹の鬱葱と茂る倫敦の好時節を眼前に控へて、ドーラや姉達は夏の衣服をこしらへるのに忙しく、寄るとさわると衣装や帽子の話で夢中になってゐた。
 友部は相手もなく、二階の部室に引籠って、日増に青く澄むでゆく空を眺めながら、一層水の都のヴェニスやローマへ旅行しやうかと思った。そこには彼の兄が公使館付武官として永く駐剳してをった。
 英國が獨逸に宣戰を布告したのは、その七月の上旬であった。下宿のフランス人はその數日前に故國へ歸った。默々とした時計屋の若者も故國の難に召集されていった。フランス人を送らなかった友部も、その日は附近のV停車場までいって握手をして別れた。
 戰爭の話は至るところで話柄にのぼった。伊太利旅行の計畫も無期延期となった友部は、所在なさにしげしげ街へでゝいって、眞砂亭といふ日本料理屋へ入浸るやうになった。そこの亭主は永らくアントワープにゐたとかで、肥滿った英吉利生れの妻君が、よく食卓の上の鉢などをなほしながら迷惑そうに日本人客の話相手になってゐた。
「アントワープの砲臺ときちぁ、全く完備したものですからね。獨逸人は酷い目に會ひますよ、見てゐてごらんなさい。」と頸に引つれのある亭主がいった。戰爭などはどっちでもよかったけれど、友部は何となく、フランスやベルジュアムが氣に入らなく、聯合軍を向ふにまわして奮闘してゐる獨逸を餘程贔負(※ママ)(ひいき)にしてゐた。
 市民の士氣を鼓舞する軍樂隊が勇しい行進曲を奏して、日に幾組となく四辻をとうってゆく。そのあとから無數の老幼男女が歩調をとって、あるものは口笛を吹きながら、何處までも何處までもついていった。友部も、うかうかと折々は遠くの兵營まで蹤いていった。酒場へはいると至るところの壁や扉に義勇兵募集の廣告が貼りつけてあった。毎日の新聞は悉く戰況で持きって、フランダースに於ける戰線を示した馬鈴薯状の弧線が丸くなったり、延びたりしてゐた。
 徴兵令の全國に適用されたのは、それから間もなくであった。チアリーも軍服を着るやうになって佛國戰場へ向った。
 その年も押つまった暮に、一週間の休暇を貰って、チアリーがヒョックリ歸ってきた。
「どうだい、戰爭は。銀行なんかにゐるよりは面白いだらう。後方勤務なら別に危險はないからね。」と友部がいふと、チアリーは肩をすぽめて不楡快な顏をしながら、
「すべてが不潔だし、食物は惡疎いし、とてもお話にはなりゃしない。」といった。
「そうだらうね。」娘達は彼等のオフヰスや人傳などできいてゐた事實を兵隊の當人から裏書されて、一もなく同情して了った。
 その數日、チアリーは大もてで、寝放題、喰放題、遊放題だった。一週間の終りに内輸同志で送別會をして、母親はいくら、娘達はいくらと餞別をやった。友部もポケットに持合した銀貨を出して娘達の分に入れた。その晩は酒好きの内儀さんも赤い顏をして平常より餘計にビールを飲むだ。
 ところが翌日になっても、その翌日になってもチアリーは一向出立しない。よく訊いて見ると休暇がもう一週間のびたのだといふ。戰地から歸って十日目の晩方、一同が食事をしてゐるところへ、チアリーは見知らぬ二人の兵士につれられてはいってきた。規定の一週間内に歸隊しなかったといふかどで拘引されるのであった。
「まあ、そうなのですか。當人が二週間の休暇だといふものですから、少しも知らないでその氣になってゐました。」と母親がオドオドしながらいった。そしてビールを二つのコップに注いですゝめた。チアリーがニヤニヤ皆に愛想笑ひをして、
「そこへ腰をかけて、しばらく待ってくれ給へ。」と心易げに二人にいひながら、臺所へいって永い間かゝって顏を洗ったり、髭をすったりして再び出てくる間、背の高い伍長と背の低い伍長は謹嚴に直立不動の姿勢をとったまゝ、娘達にとりまかれてモヂモヂしながら、
「なあに、大した事はありません。」
「隊へ戻りさへすればいゝのですから。」
「ご心配には及びません。」などゝかはるかはるに云ってゐた。母親も娘達も友部も各自巾着をあけて、いくらか宛の小遣錢をチアリーに持たせてやった。

 戰爭は中々止ない。眞砂亭のおやぢのいった事は、まるで僞だった。
 倫敦では、そろそろ物資の缺乏を告げてきて、寒い冬に石炭供給が減少されたり、食糧が制限されるやうになった。人々は出來るだけ質素に簡易に生活しなければならなくなった。うかうかしてはゐられなくなった。友部にとっても、ドーラにとっても、輕いラブメーキングの機會と心持がいつの間にか喪失されて了ってゐた。 (完)

注)句読点は追加、変更したところがあります。



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夢現半球