大倉�Y子 作品小集２

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掌篇小説「賣切れた眼」
過失？ 　保險會社の傷害保險係長小日向清と山岡刑事とが、ある事件について話し合ってゐるところへ、卓上電話のベルが急遽あはたゞしく鳴った。
「此方は小川町の大河眼科醫院ですが、――北海道炭坑の現場監督山岸初太郎さんという方が、右眼を怪我して、入院されました。御社の傷害保險に入ってゐられるさうで、お知らせしてくれとのことでございますから――」
「一寸、お待ち下さい」
　小日向は机上の用紙にその姓名及び職業を書きつけ、
「重傷ですか？」と訊いた。
「いゝえ。全治三週間程です」
「失禮ですが、入院料は一日どの位ですか？」
「二圓五十銭です。――三等ですから――」
「では――、早速係の者をお見舞に上げますから、それへ委しいお話を願ひます」
　と電話を斷きり、小日向は、直ちに係の者を大河醫院へ走らせた。醫院から戻った係の者は、直ちに小日向へ報告した。
「山岸初太郎さんは圓タクで上野驛の近くまで行った時、汽車の時間に遅れると云って、急に狼狽あはてだし、停車しないうちに飛降りようとして前へのめり、前額部と右眼を硝子に打ぶつけて怪我をしたんださうです」
「眼を打つけるとは――、危ぶない事こってすな」小日向は刑事を見て苦笑した。
「いくら保險金が欲しくっても、こればかりは故意わざとやる奴はないでせう。誰しも眼は大切ですからね、疑ふ餘地はない、たしかに、これゃ過失ですね」と係の者が言った。小日向は山岡刑事の方へ向いて、
「かういふ事があると、保險をかけて置いてよかった、と、始めて喜ばれるんですよ。――まるで、皆さんは保險やにただ奉納してゐるやうな氣持ちでゐるんですからね」
「小日向さん、かういふ場合、會社ではどうするんですか？　生命には別状ない、が、怪我はしたといふやうな――」
「規則としては兩手兩足を失った場合は全額仕佛ひますが、片眼、片手、片足などでしたら半額ですね、彼の場合はまづ一日二十圓見當で仕佛ふことになるでせう」
「一日二十圓とすると、三週間で四百二十圓ですね、入院費が一日二圓五十銭だから、それが五十二圓五十銭、差引き三百六十七圓五十銭の儲けになります。一寸痛い思ひをして、ザッと三百七十圓、これゃ考へたな。炭坑の現場監督位では、これだけの金を貯めるのは大變ですからな」と刑事は冷めたい笑えみを唇に浮べた。

そこひ 　三週間目に山岸初太郎は大河醫院を出た、右眼に湿布はしてゐたが、もうそれが煩さい位に全快してゐた。
　退院の日、山岡刑事は朝からその附近に張り込んでゐて、彼の出て來るのを待ってゐた。
　山岸は醫院の門を潜ると往來に立止り、じっと考へ込んでゐたが、急に忙せはしさうに歩き出した。刑事は見えがくれに尾けて行くと、彼は龜戸行の電車に乗り、江東のある暗い露地の奧へ入った。四邊あたりには黄昏が迫って、何處かで秋刀魚の焦げる臭ひがした。
「オイ！」彼はまだ灯も點ついてゐない、破れた障子へ向いて聲をかけた。
　返事の代りに力のない咳が聞えて、障子が細目に開き、そこから青い女の顏が覗いた。
「アラ！　お前さん、まだゐたのかい？」詰なじるやうに言って、險しい眼をした。
　彼は上りはなに腰を下して、悄然と俯向いた。
「もう今頃は北海道へ着いて、稼いでゐることゝばかり思ってゐたのに。――女房子供をひぼしにしてまで、お前さんって人は働くのが厭なのかねぇ」
　山岸は痩せた膝に眼を落して、一寸瞼を押おさへ、
「坊やはどうした？」と訊いた。坊やといふ一言を聞くと、彼女は急に涙聲になって、
「方面委員のお世話で、――やっと、病院へ入れましたよ」
「それゃよかった。――どんな按配だい？」
「白内障だから早く手術しないと盲目になるッて――」
　彼は夕闇の中で身震ひした。遺傳だらうか、自分もそこひで、みたところ變りはないが、右眼の視力は全然失はれてゐるのだった。
「さうか、手術さへすれゃ、坊やの眼は救たすかるんだな？」
「さうなんですが、それがなかなか――」
「金さへありゃいゝんだらう？」
「金さへあれば――」
「いくら要るんだ？」
「手術料が十圓だって――」
「フウム」
「迚もそんなまとまったお金出來ないし、坊やには可哀想だけれど、私はもう斷念あきらめてゐるの――」と云って、すゝり泣いた。
　彼は眼を閉ぢて、首肯うなづいた。
「俺は坊やとお前の病氣が案じられて、上野驛まで行きは行ったが、どうしても汽車に乗る氣になれなかった。何だか、かう、後髪をひかれるやうでな。――俺がゐなくなった後で、お前がどんなに苦勞するかと思ふと、俺は足が竦んぢまって――」
　と彼は涙ぐんで、窶れ果てた妻の横顏を見た。頤が尖って、眼の縁が黒ずんでゐる、胸の病ひは三週間前よりズッと進んでゐるらしかった。山岸は込み上げ來る悲しさをぐっと呑み込んで、故意わざと元氣らしく言ふのだった。
「が、かうして引返して來てみると、坊やは病院へ行き、お前も大分快よくなってるらしいから俺ゃ安心したよ。ぢゃ、行って來る。養生して早く皆丈夫になっててくれ、――稼いだ金は直ぐ送るから、餘り心配しないでな、さァ、これゃ二人の費用に置いて行く」彼は懐中してゐた金をポイと投げ出した。
「まあ！」妻は呆氣に取られて、その金を手に取らうともせず見てゐたが、やがて、ハッとしたやうに、夫の顏を見上げ、
「お前さん、このお金は――、どうしたの？　どうして、お前さんがこんなに澤山のお金を――」と探ぐるやうな眼で言った。
「不正な金ぢゃないんだ。貰ふ理由があって、貰った金だ。大意張りで使ってくれ」
「私にゃ分らない。まさか、お前さん、――他人ひとさまのものを――」
「默れ！　馬鹿！」威丈高になり、血相變へて、
「貴様、そんなにまで、俺を蔑視みくびるのか？」
「ご免なさい。餘り思ひがけなかったので――」
　彼はもとの穏かな語調に戻って、
「默ってゐようと思ったが、そんなに俺を疑うたぐるなら話してやる。出發の前に仲間の奴にすゝめられて傷害保險に入ったらう？　恰度てうど上野驛で圓タクを降りやうとすると横町からオートバイがやって來て、衝突したんだ」と山岸はこゝで一寸嘘を云った。彼女は體を慄ふるはせながら聞いてゐた。
「俺は眼を怪我したんだ。そして今日まで入院してゐた。この金は保險會社から貰ったんだよ」
「さうだったの？　まあ有難い！　これだけあれば坊やの眼も助かる、私の病氣も全快なほるわ」金を胸に押し當てゝ、涙ぐんだ。
「俺や、お前達の爲めなら、眼位失なくなっても構はないんんだ。――ぢゃ、出發でかけるぜ」
　これと睨んで外れたことのない山岡刑事も、今度ばかりは自分の眼に疑ひを懐いだいたのだった。

賣りきれた眼 　一年後、小日向清と山岡刑事は再び同じ部屋で、同じ卓子テーブルで向ひ合って話してゐた。
「山岡さん、貴方あなた、記憶してゐますか。北海道の炭坑にゐた山岸初太郎といふ男ね。あれが、私の關係してゐるある會社へ生命保險を申込んで來たんですよ。その金額が少し多おほ過ぎるので、不審を懐いだいて調べてみたんです。すると、どうでせう、去年私の會社で仕佛ったと同じ手で、東京××海上保險會社が仕佛はせられてゐたことが判ったんです」
「すると、あれは過失ぢゃなかったんですね。やっぱり、計畫的だったんですか？」
「さうでせうね。去年の秋、海上保險會社に一萬圓の傷害保險に入り、間もなく汽車中で右眼を怪我して、仙臺の病院に入りました」
「あなたの時も右眼でしたね？」
「さうです。あの時は自動車、今度は汽車です。食堂車へ行かうとした際、車體が烈しく動揺した爲め彼は倒れた、その時眼を打ち、人事不省に陥ったんです。前回に比して、今度は大分重傷を負ひました」
「會社ではどの位金を出したんですか？」
「保險に入って間もないので、四五百圓しか仕佛はなかったさうです。ところがそればかりではないんですよ。今年の春ですが、作業中機械に顏を打ちつけ、遂に左眼をつぶしてしまひました。その時もある會社から大分金を仕佛ったさうです。その山岸初太郎が、こんどは生命保險を申込んで來たんですから、どうも氣味が惡るくって、遂々とうとう斷りましたよ」
　山岡刑事はやはり自分の眼が間違ってゐなかったと思った。早速取調べた所、彼はもう北海道炭坑にはゐなかった。
　江東の裏長屋で相變らず貧しく、病弱な妻子を抱へて暮らしてゐる彼を見出したのは、それから間もなくであった。
　刑事が訪ねた時、恰度彼は外出から歸って來るところであった。五六歳の男の子に手をひかれてゐたが、その兩眼はすっかりつぶれてゐた。俄か盲目めくらの山岸は一寸したものにも躓いて、よろよろと倒れかゝるのであった。
　刑事は自分の名刺を妻に渡した。彼女は別に驚いた様子もなかったが、彼はひどく狼狽うろたへて、
「保險會社の方かと思って――、吃驚しましたが――、刑事さんでしたか？　アハヽヽヽヽ。私の眼はもうすっかり賣りきれました。――こんどは生命いのちですよ。アハハヽヽヽヽッ」

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「初夏の惡夢」
小塚山莊
　後の山も、前の山も、すっかり新緑につゝまれ、その合間に赤い屋根瓦が點々として、まるで友染模様を見るやうな中に、小塚山莊の風雅な建物があった。
　商事會社社長秋田虎一の自動車が止ると、山莊の主人夫妻を始め、土佐犬とシェパードとの雑種だといふ途方もない大きなベアと、しば犬のマルまでが先を爭って出迎へた。
　ベアは飛びつき、マルは秋田の足許にまつはりついた。彼は迷惑さうに眉をしかめて苦笑しながら、
「なかなかいい犬ですな。」とお世辭をいった。
「こら！　いけませんよ。お客様の御洋服をよごすぢゃありませんか。」主婦のさだ子はベアの巨體を押しやらうとしたが、細そりとした彼女の力にあまって反って轉がされさうになるのだった。
「貴方様はよっぽど犬がお好きだと見えまして、犬がまあこんなに喜んで――、オホヽヽ、さあ、どうぞ、お上り遊ばして下さいませ。」
　秋田は別館に案内され、丹前に着換へてくつろぎ、香ばしい番茶に咽喉をうるほした。
「お風呂をどうぞ――。」
　彼は眼鏡を外し、スリッパを突かけて、風呂場へ降りやうとして足を踏みはづし、よろめいた。
「あら！　お危ない！」さだ子が支へてくれなかったら、タイル張りの床に轉がり落ちるところだった。彼はハッとして我にもなく顏を赤くした。強度の近視眼の上に、左眼はほとんど視力を失ひかけてゐるのだったが、どういふものか、それを人に知られるのをひしがくしにしてゐたのだった。
　温泉に浸ってのんびりとしてゐるでもなく、そゝくさとひと風呂浴びると飛び出し、山下駄を借りて散歩に行くといって出た。
　門前の山路を下って、渓流にかけた長い橋を渡った。自分の下駄の音が、あたりの靜寂を破って、騒々しく響いた。彼はステッキを振りながら、街道をすたすたと降りて行った。
　宮城野まで來ると急にゆっくりとした歩調になり、しきりに腕時計を眺めてゐたが、
「今度のバスは何時に着きますか？」と、バスを待ち合せてゐる郵便配達を掴まへて訊いた。
「もう間もなく來ますよ。宮ノ下を出たさうですから――、五分ばかり遅れましたね。」
　といってゐるところへ、銀色のバスが重さうに地響きをさせて上って來た。秋田は電柱のかげに身をひそめた。
　何々縷と襟に染めぬいた半天着の客ひきの後から降りたのは、三十七八の茶の背廣に同色の帽子を被った背の高い男だった。
　彼は薄墨色の眼鏡越しに四邊をきょろきょろ見廻しながら、人待ち顏に停留所に突立ってゐた。
　バスが仙石の方へ向って發車すると間もなく、秋田は電柱のうしろから出て來た。それとみると男は、
「あ、兄さん！」と呼びかけて歩みよった。
「思ったより早かったな。俺はこの次ぎので來やしないかと思ってゐた。」と秋田はいった。
　背恰好から、容貌から、聲までよく似てゐる、まるで双生兒のやうな兄弟だった。二人は肩を並べて小塚山の方へ足を向けた。
「末雄、後で委しい話はするが、今は何も訊かないで、ただ俺の命ずる通りに行動するんだぜ。え？　いいか？」
「さういふ約束で來たんぢゃないか。その代り兄さん、されを先に貰ひたいな。」
「ウム。」
　虎一は街道から山路へぐんぐん入って行った。末雄は默って從いて行った。街道筋を歩いたらよささうなものだのに、こんな爪先上りの路は歩き難くてやりきれない、と思ったが、何もいはない約束なので、仕方なく歩いてゐた。
　山を上ったり下ったりしてゐるうちに、谷合ひの細道に出た。
　虎一は立ち止って、前後を見廻した。
「こゝなら大丈夫だらう。何處からも見えないから――、さあ、末雄、お前の洋服と俺の丹前と取り替へて着るんだ。」
　末雄は眼をみはって、
「取り換へっこするんだって？　そして、どうするんだね？」
「訊くなってことよ。默って從へ！」
　互ひに着物を取り替へて着たが、他目には別に前と變りはなかった。それほどこの二人はよく似てゐた。
　虎一はおもむろに口をきいた。
「俺の留守中、よく監視してゐてくれたらうな？　彼奴は――、山崎は家へ何度來た？」
「來たのは二三度だが、電話は大抵毎日かゝって來る。昨日は嫂さんと一緒に出かけよ。」
「何處へ？　無論、尾けたらうな？」
「ウム。デパートへ、そして嫂さんが山崎さんにスプリングを見立てゝやったり、ネクタイを買ってやったりした。」
　若葉越しのせゐか、虎一の顔は青く見えた。
「最後に來たのは何日だ？」
「昨日さ。」
「ヨシ。俺は一寸東京へ行って來る。その間お前は俺の替玉になって、山莊に歸ってゐてくれ。餘り口をきくな。默って雑誌でも讀んでゐろ。山莊の人達はまだ俺の顏をよく見てゐないから、見破られる氣づかひない。俺は夜中に引返して來る。別館の入口の錠を開けといてくれ。そして、俺が歸ったら、一言も物をいはずに直ぐ入れ替りに東京へ歸れ！」
「だって、そんな時間にバスがあるかな？」
「宮城野と小塚の間に、俺が圓タクを待たせて置くから、それに乗って行け。そして、品川邊で乗り捨てゝ、別の車を拾って家へ歸るんだぞ。」
「別館は玄關から入るのか？　別口があるのか？」
「兩方から入れる。が、わざと玄關から入れ。堂々とな。すれば女中が先へ驅け出して行くだらうから默って從いて行けば部屋は自然に分かる。まごつくなよ。そして近視眼のふりをしてくれ。さあ、約束のあれを先にやる。」
　鰐皮の紙入れから虎一は札を抜いて、末雄に掴ませた。

額裏の寫眞機
　虎一は山莊へ歸って、ひと寝入りしたと思ふと、忽ち起された。
「東京電話でございます。」
　かれははね起きて時計をみると、もう朝の十時である。
　受話器をとって、寝ぼけ聲を出した。
「何だって？　もっとはっきりいってくれ！　え？　泥棒？　金庫が開いてゐた？　警察から人が來て調べてゐるっていふのか？」
　その聲に、家中の者が聞き耳を立てた。
「ウン、ぢゃ、すぐ行く！」
　ガチャリ！　受話器を置いたところへ、さだ子が入って來て、
「まあ、大變なことでございますねえ。」と氣の毒さうにいｔった。
「いや、なに――、とにかく、一寸歸って來ますから――。」
　彼女は着換へを手傳ひながらいった。
「昨晩は、よくお眠れなかったんではございませんか？　あんなに夜中に犬が吠えまして――、おやかましからうと存じましたが、いくら叱っても吠えますので、私、窓を開けてみましたの、月明りに貴方――、洋服を着た男の姿が見えるぢゃございませんか、私びっくりして――。」
　虎一はギョッとしたやうに、
「やっぱり泥棒だったんですか？」
「いゝえ。何處かの旅館にお泊りのお客様らしうございました。御立派な御風采でしたから――。月がいゝので山を歩いていらっしゃったんでございませう。」
　彼は荷物を預けたまゝ、東京の家へ驅けつけた。
　妻はおどおどしながら、末雄と一緒に彼を玄關へ出迎へた。虎一は難しい顏をして妻に一瞥をくれ、そのまゝ眞直ぐに金庫の前へ行った。書類は勿論、有價證券全部は盗み出されてゐた。
　末雄は小氣味よささうに、兄にさゝやいた。
「兄さん、山崎さんは警察に引張られたよ。」
「どうして？」
「ゆうべ遅くまたやって來たんだとさ。門前をうろついてゐたのを見られたんだ。金庫が開いてゐたのは今朝僕が發見したんだよ、便所へ行く時氣がついたんだ。」
「ぢゃ、山崎に嫌疑がかゝったのか？」
「ウム、だが、一寸變なんだよ。山崎さんの處へ嫂さんから電話で、急用が出來たから直ぐ來てくれといって來たんだって、その時山崎さんは不在だったので、家人からその傳言を聞くと夜中だったが慌てゝ飛んで來たといふんだがね、嫂さんの方ぢゃ何も知らない、電話もかけた覺えがないっていってるんだ。何方がほんとだか分らないが、山崎さんは社員だから金庫の開け方も承知してゐるし、夜中にやって來たのも怪しいってわけなんだとさ。」
　石田刑事は一應取調べを終って、應接室に引きあげてゐた。
「いや、どうも、御苦勞様でございます。」虎一は丁寧に挨拶してから、
「山崎に嫌疑がかゝったさうで、いや、全くどうも驚いてしまひました。彼にそんなことがあっちゃ可哀想です、で、一寸申上げたいんですが――、實はあの金庫内の貴重品には盗難保險がつけてあるので、只今、保險會社の方へも通知いたしましたから、早速驅けつけて來ると思ひますが。それからあの金庫から少し離れたところに大きな額がかゝってをりましたでせう？」
　刑事は點頭(うなづ)いた。虎一は椅子から起ち上って、
「ちょいとお出下すって、もう一度御らん下さいませんか？」と先に立った。
　彼は古い油繪の額を指差して、
「あの額裏に、實はね、秘密の寫眞機が据ゑつけてあるんです。ちゃんと焦點が合はしてあって、何人でも金庫のドアを開けようとすると直にシャッターが切れるやうな仕掛けになってゐるんです。だから、犯人は探すまでもなく、ちゃんと冩ってゐるはずなんですが。」と彼は妻へ横眼をつかひながらいった。彼女はそれを聞いて眞青になった。
　刑事は額裏の寫眞機に手をかけた。現像してみれば犯人は直に判明するのだ。妻はよろめきながら、寫眞機を刑事の手から奪ひとらうとした。虎一は彼女を押し退けていった。
「刑事さん、どうぞ、早く現像してみて下さい。でないと、山崎が可哀想です。そして早く眞犯人を捕へて下さい。貴重品は私共の全財産なんです。僅かな保險金を貰った位ではこの會社はつぶれてしまひます。どうか貴重品が犯人の手にあるうちに、取り返して下さい。」

能樂堂
　石田刑事は本廰へ歸って、直に現像させてみると、果して一人の男の姿が現はれた。金庫のドアに手をかけ、背後を振り返ってゐるスマートな顏、それは既に容疑者として捕へられてゐる山崎清であった。
「矢張り、彼奴だったのかなあ。」とつぶやきながら、刑事はしげしげと寫眞に見入ってゐたが、何を思ったか、急に部下をよんで、
「君、大至急だ、被害者秋田虎一の家庭および會社の經濟状態、彼の素行等を洗ってみてくれ。」と命じた。
　そして、自分は直に箱根の小塚山莊へ自動車を飛ばした。
　刑事といふ名刺を見て、さだ子は驚いて出て來た。
「秋田虎一について、何でもいゝ、氣のついたことをみんな話して貰ひたいだが――。」
　さだ子は當惑さうな面持ちで俯向いて考へてゐたが、
「別にこれといって、變ったこともなかったやうに存じますが――。」と、賢さうな眼をあげていった。
「何かあるだらう？　來た時から、歸るまでずっと部屋の中に閉じ籠ってゐたのか？　よく考へてみてくれ。」
　石田刑事はあゝだったか、かうだったか、と、細かく訊きたゞした。さだ子は問ひ詰められて、ぽつりぽつりと思ひ出したことを話した。
「あのお客様がおいでになった時には、家のベアやマルが、大層喜びましたが、夕方お散歩からお歸りになった時には、どうしたわけか、犬が二疋とも吠えつきました。御洋服と丹前とおめしものが變ったせゐかも知れませんが――。」
　刑事は會心の笑みをもらして追窮した。
「それから。」
　さだ子は困りきったやうに、美しい顏を曇らせながら、
「お風呂場へいらっしゃる時、あすこが少し暗いせゐか、つまづいてもう少しでお轉びになるところでした。」
「近視眼だな。」
「さあ、如何ですか。」
「眼鏡は外さないか？」
「夜分、私がお紅茶を持ってまゐりました時は、お眼鏡を外して夕刊を見ていらっしゃいましたのが、ちょいと妙に思ひました。」
「さうだらうね。それから夜中に犬が吠えた時、君は窓を開けたといふが、その時見た男の姿は誰かに似てゐなかったか？」
「後姿でよく分りませんでしたが、別館のお客様が御散歩してゐらっしゃるのかと思ひましたが、でも、そんなはずはないので、私の見違ひだと存じました。」
「その洋服の男は何方から來て、何方へ行ったね？」
「何方から來たか分りませんが、家の前の坂を上って、能樂堂の方へ行ったやうに思ひました。」
「能樂堂には誰もゐないのか？　ふだんは閉めきってあるのか？」
「使ふ時のほかは鍵をかけて置きます。留守番はをりません。時々掃除したり、風を入れたりする時開けますが――。」
　石田刑事はさだ子が案内しようといふのを斷って、一人で能樂堂へ行って、ながい間調べてゐたが、上機嫌で戻って來るや直ぐ東京へ引返した。
　そこへ部下が報告に來た。
「秋田商事會社は最近ある思惑に失敗して、非常に苦しんでゐます。山崎清は秋田の妻の遠縁の者だが、自分の全財産をあの會社につぎ込んでゐるため、學歴もなく、年もまだ二十七になったばかりだのに、課長の椅子に坐ってゐる。親兄弟もないので秋田の奥さんが何かと世話を焼いて可愛がってゐるのを、虎一は、彼が映畫俳優にでもあるやうな美青年なので、彼女と戀愛關係でもあるやうに誤解してゐるらしいんだ。」
「實際はどうなんだ？」
「そんなことは全然ない。姉さんのやうな、また弟のやうな親しさはある。秋田は金策のため關西方面に行ってゐた。その間弟末雄は留守番、實は奥さんの監視役をいひつかって秋田家に泊り、彼と彼女の行動を注意してゐたさうだ。虎一の素行は別に惡くない、ただ金に苦しみぬいてゐる。」
「彼の經歴は？」
「某大學を卒業すると同時に、學資を出してくれた秋田家の養子になった。つまり養父の椅子にどっかり坐ったまでのことさ。自分の腕で築き上げた財産ではない、それだけに失敗したのが苦しいのかも知れないな。」

影なき映像
　石田刑事は自分の愛犬シェパードを連れて再び秋田虎一の玄關に立った。應接室には彼と末雄が額を突き合せて話してゐた。
　刑事が來たと聞いて、二人は愛想よく飛び出して來た。
「やあ、いいシェパードですな。刑事さんの犬ですか？」と虎一は犬の傍へ寄ったが、末雄は恐がって玄關から降りなかった。刑事はじろじろと弟の顔を見て、
「弟さんは犬が嫌ひなんですか？」
「えゝ、僕がこんなに犬好きなのに、弟は犬が恐いんださうですよ。幼さい時に一度足を噛まれたことがあるんです。それからすっかり嫌ひになったらしいんですよ。」
「一度さういふことがあると、どうも恐くなるものらしいですな。」といって、末雄を見たが、近視鏡をかけてゐるのとゐないのとだけの違ひで、かうもよく似た兄弟があるものかと思ふと同時に刑事の頭にはある疑問がすっかり解けたのだった。
　彼は犬をつないで、應接室に通った。
「やっぱり山崎だったさうですね、今聞いて驚いてゐたところです、が、まさかあの男が。」
「立派な證據があるんだから仕方がない、ちょいと御らんなさい、山崎清の姿がこんなにはっきりと出てゐます。」と刑事はポケットから寫眞を出して見せた。
「ほんとに困ったことになりました。自分の會社から犯人を出しては第一信用に拘はるし僕としてはまた飼犬に手を噛まれたやうな氣もするし、實にどうしていゝんだか、悶えてゐるんです。」と溜息を吐いた。
　石田刑事は笑って、
「そんなに心配しないでもいゝですよ。」
「何とか穏便に出來ませうか？」
「貴方さへその氣持ちがあるならば――。」
「勿論、僕は山崎を犯人にはしたくないんだ。それに彼は妻の親類でもあるし、會計課長でもあるんですからね。」虎一は心痛に堪へないといふやうに、刑事の顏を見守りながら、
「何とかして解放して頂けますまいか？」
「それは極く容易(たやす)いことですよ。」
「と、仰しゃると？」
「犯人が自白してくれゝばいゝんだ。」
「まだ自白しませんか？　山崎は――。」
「山崎ぢゃない、僕のいってゐるのは眞犯人だ。」
「？」
「分りませんか。この寫眞を巧に作り上げた人、それが即ち眞犯人なんです。」
「御冗談を――、この寫眞をどうして作れます？」
「作ってあるぢゃないですか、さあ、よく眼を開いて御覧なさい。素人の悲しさに、こんないゝ證據を殘して平氣でゐるんだから氣の毒ですよ。これぢゃまるで狐が化けた積りで尻尾を出してゐるやうなもんだ、アハヽ。」
　虎一の顏から血の氣がさっと退いた。
　刑事は力づよくいひ放った。
「金庫にはこの通り立派に影があるが、人物には影が映ってゐない。影なき映像だ。もしこれが同時に撮ったものとしたら、金庫同様に人物にも影がなくっちゃならん、さあ、ここまでいったら、あとは貴方が説明した方がよささうだね。」
　彼は蒼ざめて、顏を上げる元氣もなかった。
「いはなきゃ此方でいってやらう。よく似てゐるのを幸ひに、弟を替玉につかってうまくアリバイをつくり、小塚山莊をまんまと脱け出して、金庫から貴重品を取り出した。金策に窮した結果、盗難保險を得ようとしたんだらう。自分に嫌疑がかゝるのを怖れ、豫じめ金庫を寫して置いて、兩方の寫眞をうまく組み合せたんだ。山崎を被害者にして一石二鳥の名案をやらかさうとしたんだらう？」
　虎一は震へた。額に油汗がじっとりと滲み出た。
「奥さんの聲色を使って電話でおびきよせたり、金のためとはいへ、罪もない山崎を犯人につくり上げるなんて餘りひどいぢゃないか。君の會社の信用にも關するぜ、おまけに遠縁の者だといふんだらう？　可哀想に――。君も先刻彼を犯人にしたくないといってゐたんだから、君さへ白状したら、奴は青天白日さ。盗品は所有者が場所だけを變へて持ってゐるんだからな。」
　石田刑事の前に、彼は頭を下げた。
「すみません。あれは山莊の附近の――。」
「能樂堂の縁の下さ。わざわざ取りに行くまでもない。俺が持って來てやったよ。」といって、どさりと風呂敷包みをテーブルの上に置いた。

（終）

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「ダイヤ競爭」
　虚榮心が強いので評判の登美代夫人は、女ばかりが集まるところには、いつも身分不相應の装ひを凝らして出かけ、高價な寶石を身につけてゐることについては何人にも退(ひ)けをとらなかった。
　夫はもとより地位もある、奥様が少々派手にしたところで別に不思議はないが、あれでは全く豪奢過ぎる、大富豪の奥様だって敵(かな)はないだらう、と、よるとさはるとその噂さ、金の出所(でどころ)に疑問を懐(いだ)くおせっかいもあった。
　その評判を知ってか、知らずにか、登美代夫人の寶石道樂は益々烈しくなった。あふ度毎に、指輪も新らしいのとさしかへてゐる。
　ある日、登美代夫人は誰より仲好くしてゐる私にその秘密を打ち開けたのだった。
「損料を佛って寶石を身につけてゐるんですもの、いくら贅澤したって知れてゐますわよ。」
　と云って、寶石箱を持ち出して來て見せ、
「極く秘密なんですよ。こんなことをしてゐる者は私一人きり、他には誰もないんださうですが、つまり貴金屬商が信用して貸してくれるんです。はじめ一度だけは正札のまゝのを一つ買ふんですが、それが飽きると貸賃をとって他のと取り替へてくれるの。 だから、指輪でも、時計でも、帶止めでも、借賃さへちゃんと佛ってやればどんな高價な品でも、一時は我物として持ってゐられるッてわけ、うまい考へでせう？　兩方で都合がいゝんですもの、その代り借賃は途方もなく高いのよ。それは口止料なんだから仕方がないけど、秘密は絶對に漏らさないといふ約束なんです。」と、得々として説明した。
　登美代夫人にはお洒落敵とでも云ふやうな友達が一人あった。このふたりはいつも内心しのぎをけづって競爭してゐた。しかし女同志のことだから、表面は飽くまでしとやかに、仲好く交際してゐた。
　あるホテルで夜會が催されるといふ前日、このふたりの奥様は同級會(クラスくわい)で顏を合せた。
　登美代夫人は自分と向ひ合せの席にゐるこの夫人の指に燦然と輝いてゐる素晴らしいダイヤを見た、その瞬間、彼女は寒氣を催した。何も知らぬ他の夫人達は、その光にうたれてただ眩しさうに、羨しさうにその指輪に見惚(みと)れてゐた。
　登美代夫人はその指輪に見覺えがあったのだ、つい一ヶ月ばかり前には自分の指に輝いてゐたものだ、高い借賃を佛って返したばかりの品に相違ないと、彼女は私にさゝやいた。
「大層、お見事なダイヤですことねえ。」と、云ひながら、登美代夫人は意地惡い眼で、相手の夫人がどんな表情をするかと見守ってゐた。
　夫人は平然として、こんなものがと云はないばかりの調子で答へた。
「いゝえ、どういたしました、粗末な安物ですわ。貴女(あなた)もこれと同じやうなのをお持ちでしたわね。餘りお立派だったので、いまだに私、眼に殘ってゐて、忘れられませんわよ。」
と云って、眼をあげ、にやりと笑った。
　登美代夫人も負けてゐなかった。
「え、持ってゐますわ、だけれど、もう飽きちゃったから、箪笥の中へ放り込んだぎりですの。」と大きく出た。
「あら、まあ、勿體ない！　私はまた昨日わざわざ買ひましたのよ。明日の夜會のために、是非ひとつヤンキー達をアッと云はせてやらうと思って――ねえ、登美代さん、それでは明日お揃ひにはめて出ようぢゃありませんか。」
　私は登美代夫人が今度はどんな顔をするかと思って見たが、幾分青褪めたやうではあったが、大して狼狽してゐるやうには見えなかった。
　だが、明日の夜會に果して彼女がお揃ひの指輪をはめて出られるだらうか、人ごとながら、私は氣がもめてならなかった。
　ところが案ずることはなかった。登美代夫人は彼女と全く同じ指輪を燦然と光らせてゐたではないか。
「よく、手に入りましたね。」と訊くと、
「もうないか知らと思ってね、ヒヤヒヤしてゐたら、あゝいふのならいくらでもありますって云ったわよ。ありふれた形だからでせう。でも、寶石商が持って來てくれる迄は心配だったわ。あの意地惡るの奥様のために、とんだ散財させられちゃった。」
「こんな立派なものだから損料だって相當とられるんでせう？」
「だから、今夜中に返してしまふのよ。ふりに借りたんだから、きっと馬鹿々々しくとられるんでせう。」
　私は化粧室へ入って行くと、そこには彼女の相手の夫人が夢中になって顏をなほしてゐた。邪魔になるのか、指輪をぬいて、頬紅やパフと一緒に大理石の化粧臺に載せてあった。夫人は私の顔を見ると慌ててその指輪をはめやうとしたが、あやまって床へ落した。偶然にも私の足許へ轉がって來たので、拾って渡さうとして何氣なく見ると、私は思はずハッとなった。
　眞物(ほんもの)のダイヤなら指輪の内側からも見えるはず、鏡をつけて反射してある僞物ならべったりと内側がのべになってゐるもの、と、かねて聞いてゐたが、見たのは今が始めてであった。よもやこの夫人が僞物をはめて得意になってゐようとは思はなかった。恐らく、彼女自身も知らずに、眞物だと思って買ったのではあるまいか。
　氣の毒になって、夫人の方を見ることも出來ず、私は早々に化粧室を出た。登美代夫人はダイヤ道樂をやってゐる人だ、まさかこの人ほどに盲目でもあるまい、しかし、餘りにもよく似てゐるので少々氣になり、
「ちょいと、貴女の指輪、私に見せて下さらない？」
と、云ふと、夫人は默ってするりとぬいて、無雜作に私の手の中にぽんと投げ、「ふゝん。」と笑って言った。
「代用品時代よ。」

---

「一瞬間の恐怖」
１
「それで――、買はうッて相手はどんな人なの？」と、女は可愛らしく小首をかしげて訊いた。
「さあ、それゃわからない。女らしいって話だけど――。」
　と男は口をにごした。
「あら、女なの？」びっくりしたやうに、眼を丸るくした。
「仲に入ってゐる奴だって、迂闊に云へないからね。そんな風に、にほはしてゐるんだよ。」
「まあ、さう。豪いわねえ。」
「君だって、女ぢゃないか。」
「それゃさうだけど――。女同志でこんな大きな取り引きをやるのかと思ふと痛快だわね。」
「男を手下に使ってか？」
「そんなわけぢゃないけれどさ。先方の人何んて名なの？」
「名前なんかわかりゃしない。たとへ、分ってゐてもさ、めったに口に出す事っちゃないからね。」
「そりゃさうよ。さうして貰らはなくっちゃ困るわ。お互ひに迷惑するもの。あんた私の名前、絶對にこれよ。」爪紅の眞赤な人差指を唇にあてた。その指には邪魔になりさうな大きなダイヤが光ってゐる。
「あたり前さ。」
「うちの人にだって、これだけは内緒なんだからね。」
「わかってらぁ。」右の手で、太い首をぽんと叩いて、
「これが飛んだって、君の名なんか出すもんか。」
　金齒をちらりと見せて笑った。苦み走った、眼の鋭い、逞ましい體つきの青年だった。
　二十四五、今、美容院から出て來たばかりのパーマをかけた髪が艶々と奇麗だった。
　女の方は青年よりも二つ三つ年長らしく見える。派手な洋装がしっくりと身について、淺黒い、きりりと引きしまった細面の背の高い女だった。
　二人は賑やかな大通りから一寸入った横町の、靜かな小さな喫茶の卓子を挟んで、額を寄せながらこそこそと話し合ってゐた。コーヒーはもうすっかり冷めたくなってしまったが、話に夢中になってゐて、手をつけようともしなかった。
「その女のひと、ほんとにお金を持って來るかしら？」
「疑ってちゃきりがないぜ、奥さん。」青年は女を奥さんとよんだ。
「疑るってわけぢゃないけれどさ。何しろ大金の事だし、急な話だしさ、それだけまとまるかと思って――。」
「即金取り引ってのは定りだからね。手つけだの、半分前渡しだなんて事だったら、話に乗りゃしない。始めっから斷はっちまふよ。」
「あんた、いくらって話したの？」
「百萬圓。」
　女はうなづいて、
「豪いね、女の癖に――。」と云ったが、腹の中では生意氣だと思った。
「奥さん達も豪くなったもんだよ。」
「私にゃそれだけの働きはないよ。今日、直ぐだって云はれたら、百萬圓耳を揃へて見せる腕はないなぁ。だから、その女のひと、豪いって云ふんだ。どんな人だらう？　顏が見たいわ。」
「先方でも、大方そんな噂をしてゐるだらうよ。百萬圓も××××を動かせる女、どんな顏をしてる人だらう、なんて。」
「あら、あんた、私を女だなんて、しゃべったの？」
　男は狼狽して、首を烈しくふり、
「ううん、云ひやしないさ。」
「そんならいいぇど、足がつくと大變だから。」
「大丈夫だよ。」
「秘密の取り引きにはお互ひに顏も見られないやうに、用心に用心して出かける位なんだからね。」
「誰にもわかりっこありゃしないよ。それにさ、直接取り引きする場所には奥さんと先方の二人ぎりだもの、心配する事なんか何もありゃしない。ところで、奥さん、たしかに現物は手許にあるんだね？」
「いやに念を押すぢゃないの。」と女はにやりと笑って、
「確かだともね。出所が知れると大變だからそれだけは云へないけれど、私の手許に來てゐますよ。今夜中にお金にして渡しますからと約束して、借りて來たのさ。だからあんた、しっかり頼むわよ。」
「先方に間違ひはないが。」
　と云ったが、青年は一寸不安さうな顏をして、
「僕は取り引きの時が心配になる。先方は遠巻きに大勢用心棒を連れて行くらしい話だけれど、奥さんも護衛に、誰か腕っぷしの強い奴を二三人、引張って行かないといけないぜ。」
　女は笑って、
「だって、喧嘩に行くんぢゃないもの。」
「金はなほ恐いよ。」
「用心棒なんか連れて行っちゃ、なほ不用心だわよ。」
「どうしてだ？」
「お金の顏を見たら、慾も出るだらう、氣も變るだらう。飛んだ用心棒を連れて行ったことになりゃしない？　一人の方が結局安全だらう。」
「いい度胸だなあ。ぢゃ僕が見えがくれに護衛するとしよう。」
「あんたが從いて行ってくれりゃ千人力だよ。斯ういふ事には場馴れた人が一人ゐりゃ澤山さ。お金受取ったら、運轉手にフールスピード出させて、飛んぢまうから――。」
「だが、用心だけはして行かうね。どんな無鐵砲な奴がゐないとも限らない。先方は品物だからまだいいけれど、此方は現なまを掴むんだから、危ぶないぜ。」
「どんな風に用心するのさ。」
「奥さんも護身用位は身につけて行った方がいいぜ。當人同志は淑女つきあひでも、あとの連中にどんな奴がまぎれ込んでゐるか分らないものな。」
「いやに恐がってるね。」
「恐がるんぢゃない。間違ひのないやうにと思ってるんだ。」
「私は顏を見られないやうに覆面して行くよ。一張羅の紺の背廣で男装する。そしてお金を受取ったら、直ぐ車に飛び込むからあとはあんたと運轉手とで、みんなをまいちゃって頂戴。」
「車に飛び込みさへすりゃもう安心だ。君一人だって心配はないから。僕はその足で先方へ行く。」
「逃げられる困るからね。お禮はいくら貰らうの？」
　男は苦笑してそれには答へず、
「君には明日この時間に、ここで會はう。」
「萬事頼むわよ。」
「引受けた。ぢゃ、今夜十二時かっきりに――Ｒ、公園の池の傍だよ。」
「あんた、迎へに來てよ。あんまり脅かされたら、ちっとばかり臆病風が吹いて來た。」
「冗談ぢゃないぜ。それこそ反って一人の方がいい。まさか、あれだけの取り引きをやるのに單身で來るとは思はないから油斷をしてゐるよ。すうっと自動車で乗りつけて、山門のところで降りなさいよ。僕が先へ行ってゐて迎へに出るから――。」
「ぢゃ、さうしよう。」
　二人は喫茶店を出ると右と左とに別れた。

２
　彼女は一町ばかり離れたところにあるバラック建てながら小奇麗なカフェにはいった。赤いカーテンを窓にかけて、陽をさへぎってゐるので室内は薄暗かった。明るい外からいきなり入ったので彼女はしばらく彳んで、眼の馴れるのを待った。
　隅のボックスに新聞を廣げて讀みながらしきりと入口を氣にしてゐる黒眼鏡の男があった。女はにっこりして、男に近づき、向ひ合ひの椅子に腰を下した。
「あんた、よっぽど待って？」
　男は頤の尖った顏を上げてにんまり笑ひながら、太い腕をきゅっと突き出して、彼女に腕時計を見せ、
「うん。きっかり、一時間とニ十分。」と云った。
「すみません。」
　と一寸しなをつくって、
「あんたが待ってるだらうと思って、氣がせいてならなかったんだけれど、先方との話はしっかりと定めて置かないといけないと思ったもんだから――。」と、いい香の煙草に火を點けて、心ゆくばかり煙を吸ひ込んでから、
「あれ、持って來て下すった？」と片眼を細くして見せた。
　男は女給の運んで來たコーヒーをがぶと呑みながら、
「それがね。」と苦い顏をして、
「どうにも、今日は持ち出せないってんだ。××の眼が光ってるんで――。」と一氣に云ってしまふと、ほっとしたやうに息を吐いて、相手の顏を偸みた。
　女ははたと途方に暮れてしまった。頬から血の氣がさっと退くと、唇をわなわな震るはしたが、何も云はなかった。ただ呆れたやうにまじまじと彼の顔を見返してゐた。
　彼は弱って、頭をがりがり掻きながら、
「で、誠に申しわけないが、もう二三日待って貰らひたい。監視の眼がゆるむまで――。絶對間違ひないからって云ふんだがね。」と顏いろを見ながら、云ひ辛さうに顏をしかめた。
　彼女は默ってゐた。
「ね？　どうだらう？」
　と彼は額の汗を拭った。相手はそれにも答へなかった。
「ほんとにすまないが、もう二三日、何とか云って延ばして貰らひたいんだがね、ね？　頼むよ。」男はからみつくやうな云ひかたをした。
　やや少時沈默をつづけた後、女はまるで突っぱねるやうな調子で、
「困るわ。」と云って、喫ひかけの煙草をぽんと投げ、やけに靴の先で踏みつけながら、
「男の癖に何んだ。あんなに立派に約束して置きながら、今になってよくそんな事が云へたもんだ。」
　男は閉口しきって、卓子の上に兩手をつき、頭を一つぺこりと下げて、
「謝罪るよ。この通りあやまる。だから、もう二三日待ってくれ。」
「あんまりだらしがないぢゃないの。今更二三日待ってくれとは云へないわよ。」
「さう云はれると僕はどうしていいか分らなくなる。」
「先方には今夜十二時きっかりに持って行くってかたい約束をしてあるのよ。たしかに、現物を手渡しするって――。」
「さうだらうとも、だから、僕も先刻から思案してるんだけれど、いい智慧が出ないんだ。何分品物が品物だからな。待てないと云ひや欲しい人はいくらもあるんだから直ぐ話はお流れさ。約束が違ふって平き直って斷じつけるやうな筋でもない。××の眼が光ってゐるって云はれりゃ、此方は手も足も出ないかなしさだ。それでもとは云へなからうぢゃないか。みすみす罠に引っかかるやうなもんだからなぁ。」
　兩手で頭を抱へて椅子の背にもたれかかった。
　女は細く剃りつけた眉をぴりぴり動かしながら、
「だから、あれほど念を押したぢゃないの。大丈夫だよッて、あんた、立派に引き受けて置いてさ。今更、待ってくれはないでせう？　私にしたって、延ばして下さいとは云へませんわね。手許にあるんだな、たしかだねって、念をつかれたから、仕方がない、まさか手許にはまだ來てゐないとも云へないでせう？　たしかに持ってゐますよって、私、嘘吐いちゃったんだもの。何とかしてくれなくちゃ、第一私の顏がつぶれちまうぢゃないの。」
　とまくしたてた。
　彼は尖った頤をさすりながら、天井を見上げ、
「そいつぁ困ったなぁ。」腹の底からしぼり出すやうな溜息を吐いた。
「私の信用にかかはるわよ。あんた、何とかしなさいよ。男ぢゃないの。」
「何とかしたいのは君より僕の方だよ。ああ困った。そして何か、相手はどんな奴なんだい？」
　女は小鼻の上に浮いた油汗をハンケチで押へながら、
「わかんないけれど、女らしいねえ。」
「女か？」
「金持ちの後家さんらしい話ぶりだったわよ。」
「なほ始末が惡いなあ。素人ぢゃないか？　話はわからないんだらうね。」
「どうして、どうして、豪物らしいよ。若くって別嬪で、腹が出來てるんだって、女親分のやうな人ぢゃないか知ら？　用心棒を澤山從へてやって來るんだってさ。」
「あんたは誰を連れて行く？」
「ひとりさ。」
「危ぶない。」
「大丈夫、取り引きは誰も立ち合はないんだから。」
「用心棒が、かくれて見てゐるんだらう？」
「お互に顏は見られたくないんだから、二人きりになってやるんだわ。」
「止し給へ。そりゃ駄目だ。きっとうまく巻き上げられてしまふんだぜ。」
「でも、約束したからには止すわけにはいかないわよ。どうでも、今夜十二時に取り引きしなくっちゃ、私の顏が立たない。」
　男はふうっと大きな息を鼻から出して、腕を拱き、じいと考へ込んでゐたが、やがて、ぽんと膝を打ち、急に生き返ったやうに元気になって、
「ぢゃ、かうしたまへ。」
　と、女の耳に口をよせた。
　最初、女は烈しく首を振って、彼の言葉を頭から拒絶してゐるやうに見えた。が、次第に彼の意見に引き入れられ、澁々ながら賛成したらしく、うなづいて聞き入ってゐた。
「どうだ？」
「うん。さうするより仕方があるまい。一つ度胸でやってみるとしようよ。」
「さうだ。いいかい？　萬事は僕の胸にある。安心して、行き給へ。」

３
　夜の十二時ともなればＲ公園も流石にひっそりとして、こんもりと生ひ茂った森の方で夜鳥が淋しい聲で鳴いてゐるばかり、しんとして眞夜中のやうな物靜かさだった。
　折柄すうっとすべって來た一臺の自動車はヘッドライトを消して、山門のそばでぴたりと止った。
　ドアが靜かに開いて、中から出て來たのは紺の背廣に鳥打帽を眼深に被ぶり、なよなよとした小造りの青年であった。彼は四邊に氣を配ばりながら、靴音を忍ぶやうにして數間歩んだ。大きな色眼鏡とマスクとで顏は殆どかくれてゐるからよく分らないが、撫で肩から細い首筋が白くくっきりとしてゐて男には惜しいやうなきゃしゃな姿だった。
　その青年の後から、逞ましい一人の男が影のやうに附き添ってゐる。
　青年と逞ましい男とはある一定の距離を保ちながら、池のほとりを中心にくるくると廻はったり、人待ち顏に彳んだりしてゐるのだった。
　やがて、木立の蔭からまた一人現はれた。これはすらりとした婦人だった。濃いヴェールに面を覆うて、俯向き加減に傍のベンチに腰を下して、凝と耳をすませてゐる。
　青年は婦人の前に忍足で近づいて無言で一禮した。
　二人は向ひ合って、お互ひに探り合ふやうに眼の中をじっと見てゐたが、かねて打ち合せてあった合圖の身振りをやると、婦人はそれに答へて手を動かしたので、ふたりはやっと安心したらしく、お互ひに大切さうにしっかりと持ってゐた包み物を、無言でやりとりした。
　その途端、闇の中から一人の男が現はれ、つかつかと二人の間に割り込まうとした。
　それと見るや青年は愕いて、よろめきながら、婦人の耳もとに唇をよせ、
「早く、逃げて――。」
「えッ？」
「大變です。警官だ。早く――、早く――。」
　低く、うめくやうに云ふや、ぱっと青年は暗い植込みの中へ飛び込んだ。婦人も忽ち姿を消してしまった。
　獲物を逃がした警官はうろうろして、咄嗟に何方を追うかと迷ってゐたやうに見えた。
　すると、何處かで自動車の走り出す爆音が聞えた。
　警官はその音のする方へ走った。
　ひとしきり、あたりは妙にざはついたが、やがて、また、ひっそりともとの靜夜になったのだった。

---

　自動車から出て來た背廣の青年は、あたりを憚かるやうな低い聲で、傍に立ってゐる男の方を向いて、
「あづかって下さい。」と云った。
　呼吸がはづんで苦しさうだった。額には玉のやうな汗が流れてゐる。
「中を改めてみなくっちゃ――。」と、男は緊張した聲で云ふと、青年の手から受取った包みを開けやうとした。
「見なくたって大丈夫。たしかですよ。」
　青年は弱々しい聲で云った。張り詰めてゐた氣が急にゆるんだせいか、くたくたになって、
「早く歸りたい。送って頂戴。恐はくって――。」
　と急に女のやうな聲を出した。それはカフェにゐた彼女であった。
「今ごろは、もう、僞物に氣がついてるわ。きっと、怒って、私の後を追かけて來るに違ひない。早く逃げませうう。怖いわ。」と女は兩腕で胸を抱きながら、震えてでもゐるのか、靴がカチカチと鳴ってゐた。
「闇取り引きに怒るも何もあるもんか。欺された奴が馬鹿なのさ。」
「だって、腹が立つでせうよ。みすみす大金を出して買った品が――。」
「しッ！」
　青年は首をすくめた。
　男は嘲笑を唇に浮べて、
「考へてもみろよ。今時、さう易々と××××が手に入ってたまるもんか。」と云ひながら札束の封を切ると、
「やっ。」
　と聲をあげた。
「どうしたのさ？」
「やられた！」
「何を？」
「まんまと――、チェッ。」舌打ちして、はきだすやうに云った。
「こいつぁ。新聞がみぢゃないか。」
「えッ!!」
「百萬圓の古新聞――。」
　失望の聲をあげたのは、警官に扮した黒眼鏡の男だった。
　女はヒステリックな聲で笑った。
「オホホホホ。先方でも、いまごろは――。コンスターチなんかよこしやがって――、って、奮慨してるでせうよ。」
「命がけで、欺しっこをやったやうなもんだ、糞ッ。」
　男は忌々しさうに古新聞の僞札束を地上に叩きつけた。
「だって面白いぢゃないの。眞險だっただけに身が入ってさ。古新聞とコンスターチのやりとりに、用心棒まで狩り出して、一芝居打ったかと思ふと、見物人がゐないのが物足りなかったけれど――。」
「負け惜しみを云ふない。」
「でもさ。冒險をやって、恐怖の一瞬間を買ったと思へばいいわよ。平凡な取り引きをするよりも、こんな恐い思ひをしてやる方が、いくら愉快だか知れやしないわよ。」
　百萬圓は欲しいし、××××は嚴しくって手に入らない苦しまぎれに、これは警官に扮した相棒の黒眼鏡が書いた筋書だが、先方もさるもの、見事にその裏をかいたのだった。

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「競輪に運を賭ける女」
１
　朝から小雨が降ったりやんだりしてゐた。第二節優勝レースの日とあって、観客はあとからあとから繰り込み、××競輪場はまるで芋を洗ふやうな混雑だった。
「的中」筆太に書いた紙をふり廻はしてゐるもの、本命が誰で穴が出るとすれば誰々だといふもの、あっちでも、こっちでも、予想屋が真黒に陽やけした顔中を口にして、しゃがれっ声でわめきたてゝゐる。
　金づまりの世の中とは何処の国のことか、地面には百円札否百円券が舞ひ散ってゐる。中には千円券もある。札はまるで紙屑かおもちゃのやうなものだった。さういう雰囲気に浸ってゐるだけでも、浮世のセチガラさを忘れて私は愉快だった。
「あと、五分で、御投票場の窓口を閉めきります」
　マイクロホンは急き立てるやうにどなってゐる。
　ベルが鳴った。
「たゞいま、発走でございます。
　群衆は競技場へと殺到した。
　私はこの日、白井探偵からある事件の捜査を頼まれて偶然この附近へ来た。勝負ごとなら何んでも手を出してみる私だったが、競輪だけは始めてだったので、車券を買ってみても一向に当らない。今度のレースは休むつもりで、喫茶店のそばの藤棚の下へ行った。
　ベンチの数は相当あったが、空席は一つもなかった。少し離れたところにがらんとした大きな建物があって、「係員の他入るべからず」と書いた立札が立てゝあるが、それにもかゝはらず、コンクリートの階段にはタオルを首にかけた四五人の男が額を寄せて話し込んでゐた。私はその人達の横に腰かけた。うしろの建物の入口にはビールの空箱が高く積み上げてあった。私の隣りには立派な服装をした老紳士が腰かけてゐた。膝に拡げた競輪新聞を一心不乱に睨んでは赤鉛筆でしるしをつけてゐる。ほこり除けの大きな眼鏡をかけ、マスクをかけてゐるので顔立ち
　四五人連れの男がガヤガヤ云ひながら立ち去ったので、階段には彼と私とだけになったが、彼は眼も上げなかった。
　私は次ぎのレースのことを考へながら煙草をふかしてゐた。それまでは何にも気がつかなかったが、空箱のうしろにも人がゐるらしく、ぼそぼそと話してゐる声がした。無論、姿は見えないが、声の主は若い男と女らしかった。
　紳士が新聞に吸ひつけられてゐるやうに見せながら、実はうしろの話声に興味深く聞き入ってゐるのに気がついた。私もきゝ耳を立てた、といふのは女の声がいかにも柔らかで、快く耳朶を打ったからである。
「今日は朝からアレてるからな。きっと大穴が出るぜ」
「だからさ、私、第八レースでうんとかけるわ。今日こそ、どんなことをしても穴を当てて、お金をとらなくちゃ、帰れないわよ」
「勝負は時の運だ。きっと勝つとは限らないからね」
「お金がとれるから競輪に行かせてやるんだ、素手で帰るならもう行くなって、大変な権幕で叱られるんだもの」
「わからないひとだなあ。遊びぢゃないか」
「あのひとは遊びなんかさせてくれないわ。稼がせるのよ、私に――」
「とんでもないこった。あんな豪い人が――」
「世間ぢゃ豪い人だと思ってゐるし、やさしくって人格者だってみんな褒めるさうだけれど、私の眼から見るとあんなひどい人はないのよ。あれは人間の皮を被ぶった悪魔よ」
「旦那様のことをそんなに悪るく云ふなよ」
「だって、ほんとだもの」
「外面女菩薩内心夜叉って奴か」
「それゃ女の事でせう」
「アゝさうか。仏面をした鬼なんだね」
　女は急に胸が迫ったといふやうに涙声になって、
「私は父の借金の抵当にあの人の妻になったのよ。外見上も年の違ふ夫を持ったんで、こんな、情けないことがあるでせうか。私はまだ二十五だのに、あの人はもう来年は七十よ」
「年寄りは若い女房を可愛がるっていふから、君だって、まんざらいやでもあるまい」
「厭味なことを云ふのは止してよ。毎日泣いてゐるのを知ってるくせに――。あのけちんぼうは、私を働かせて父に貸した金を取りかへさうってのかもしれないわ」
「そんなに金がないのか？」
「うゝん、お金はあって、あって、かくし場所に苦労するくらひなの。銀行はきらひだし、株は税金をとられるからいやだってね。だからこっそり高利で貸してゐるのよ。いゝ相手を探すのに大苦労してるわ」
「そんなに金があってもまだ欲しいのかなあ」
「私は一生お金で苦労するやうに生れついてゐるのよ。大金持の奥さんになっても。表面は私の道楽といふことにして、競馬だ、競輪だって、稼ぎに出なけりゃならないんですもの。儲けて帰らないとひどいめにあふのよ。ちょいと、見て頂戴、この腕の痣を――、背中なんか傷だらけよ。きっと、いまに責め殺されちまうんでせう」
　終ひの方は嗚咽するやうだった。
「金なんか、どうにでもならあ」
　男はさうとでも云ふより慰める言葉がなかったらしかった・
「ならないわ。かう申しちゃ失礼だけれど、あんただって、私がお金持ちの奥さんでなかったら、鼻もひっかけなかったでせう？」
「冗談ぢゃないぜ。僕は金がめあてで君とこんなわけになったんぢゃない。誤解してくれちゃこまるぜ」
「どうだか？　男はみんな口がうまいからわからないわよ」
「バカ、僕の欲しいのは君だけさ」
「嘘ばっかり。アゝ、お金がほしい。そして二人だけで暮したい」
　女の声は真剣だった。
「金が欲しけりゃ、せいぜい旦那様の御機嫌をとって、甘へるこったよ。そしてお小遣いを貰らうんだな」
「くれないのよ、あのケチンボ」
「くれなきゃ盗み出すまでさ。まさか女房を訴へるわけにもゆくまい」
「そんなことしたら、私殺されてしまうわ、あのひと、あゝ見えても、とても、恐いのよ」
「ビクビクするなってことよ。君を酷いめにでもあはしたら、僕は黙っちゃゐない。腕っぷしなら、あんな年寄りに負けるもんか」
　ぴしゃりと男は自分の腕を平手で打ったやうだった。
「あのひと、凄いわよ。あんたなんかとても敵ひやしないわ」
「そんならこっちが先にやっつける。あんなオイボレ、のしちゃうなあ何んでもありゃしない」
「ほんとにあのひとが死んでくれるといいのね。あれだけの財産が私のふところに転がり込んで――、あなたと二人きりで暮せたら。あゝ、どんなに嬉しいだらう」
　一寸の間しいんとした。女が男にかぢりついたらしかった。私はかげ芝居でも聞いてゐるやうで面白かった。
「きっとだね」
「うん。やっつけよう。ひと思ひに――」
「一か八か、第八レースに運命をかけるわ。大穴さへ出れば、何もそんな罪なまねをしなくてもいいんだから――」
「たしかな譲歩が入ってるんだ。大丈夫だらう。本命の××が落車と来りゃ、ね、オイ、奮発して特券十枚とやるか」
「いゝでせう」
「だめだったら――、思ひ切って――」
「うまくいくか知ら？」
「いかなかったらズラかるまでよ」
　気がついてみると、老紳士はいつか姿を消してゐた。
　男女の声はそれきり聞えなかった。
　第八レースが始まらうとする時だった。赤いネカチーフを被った二十かせいぜい一二位の素晴らしい女が私のうしろで一人の予想屋と話してゐるのを見た。美しい、あんまり美し過ぎる、と私は思った。妖しいまでの美しさだった。彼女は私の前を通る時、ちらりと眼を上げて微笑した。凄い美人はえて愛嬌に乏しいものだが、この女の笑顔は実に可愛らしかった。
　第八レースに運命をかける、と云った声を思ひ出して、もしやあの女ではないかと思ったが、連れの男もゐなかったし、またあんなあばずれた言をするやうな女とも思はれなかった。私はレースより彼女の方に気をとられてゐた。
　果してゴール寸前で本命の××が落車して、大穴となった。
　場内は一時水を打ったやうにシーンとしたが、次ぎの瞬間には騒然とわきたった。
「八百長だ」
「やりなほせ」
「車券を返せ」
　柵の板をひっぺがして放る者がある。小石が宙を飛んだ。手あたり次第に物を投げつける。
　総立ちになって騒いでゐる群衆の中に、彼女が青褪めた顏をして立ち竦んでゐるのを見た。

２
　十日ばかり過ぎた日の午後、白井探偵の助手である私は彼の事務所へ行くと、すれちがひに一人の老紳士が帰って行った。
「いまの、あの老人を見たかい？」
　白井は私の顔を見ると直ぐ訊いた。
「見ました。なかなかしゃれた老人ですね。鼠色のウールの服に対のオーヴアなんか着てゐましたね、何処かで見たやうな顔だが――」
　私は額に手を当てて考へたが、
「思ひ出せないなあ」
「新聞で顔みしりなんだらう。有名なんだからなあ。坂上才次郎さんだよ。あの人は政界の黒幕で、一時は大変な勢力があったものだった」
「アゝ、あれが坂上さんですか。名だけは知ってゐますよ。あの人のいゝ時代には僕はまだ中学生でしたからね」
「戦争中も相当かげで働いてゐた。それにあの人、政治家にも似合はず、金儲けがうまいから、相当の資産がある筈だのに、坂上氏の云ふところによると、彼はダイヤと名画を集めるのが道楽で、ダイヤマニアだった。金は悉く名画とダイヤに替へてしまったが、そのダイヤを全部供出したのですっかり貧乏しちゃった。今は隠退して好きな画を毎日眺めてゐると云ってゐた」
「何か頼みに来たんですか？」
「うん。女房が大金を持って失踪したって云ふんだ」
「あの人の奥さんなら、もういゝお婆さんでせうが、それが失踪するなんて一寸変ですね」
「オバアさんどころか、終戦の翌年結婚したんださうだよ。奥さんはその時二十だったといふから、今年二十五だな」
「孫みたいですね」
「写真を見せてくれたが、それがまた無類の美人なんだ。坂上氏は地位と金と美人の妻と、この世の幸福を一人じめにしてゐたやうなものだったのに、ダイヤの供出で財産を失ひ、最愛の妻は失踪する、散々だ。僕は久し振りで会ったが見違へるほど年を老ったね。戦争当時の颯爽たる面影は何処にも見られない、惨めな皺が額にも頬にも、いたるところに深く刻まれて、苦悩のあとを如実に残してゐる」
「捜査願ひを出したんですか？」
「それが、ソレ、昔の地位があるもんだから、世間に知れるのが恥しいんだよ。だから、こっそり僕のところに頼みに来たってわけさ。秘密に探し出して貰らひたい。どうしても発見されなかったら、已を得ないから捜査願ひを出さう、と、いふんだ」
「奥さんに恋人でも出来たんでせうか」
「若い女だもの、老人と毎日顔を突き合せてゐるのにも飽きるだらうよ。坂上氏は僕を信用して、何も彼も打ち明けたと云ったが、僕にしてみるとまだまだ知りたいことが沢山あるんだ。とにかく、彼の語るところによると、お恥しいがこの年になって始めて恋を知った、その相手がいまの奥さんで、懇望して貰った恋女房だといふのだ。彼女と結婚するには殆ど全財産を投げ出して、破産しかけてゐた彼女の実家を救ってやったんださうだ」
　白井探偵はメモを見ながら言葉をつゞけ、
「ところがその若い奥さんは生れつき勝負ごとが好きで、競馬、競輪、何んでもやる。毎晩、麻雀で夜更しをする。人数が足りないので彼女の遠縁の息子が狩り出されて相手をさせられてゐた。坂上氏はさういふ青年があるのを知らなかった。年は二十五で、モダンな美しい男だった。彼は殆ど毎日のやうにやって来た。老人より若い者同志の方が話が合ふのは無理ない事と大目に見てゐるうちに、度々目にあまるやうなことがあった。女中もしきりに注意するので気をつけてゐるとますます怪しいので、その不心得を詰問した、すると奥さんは平身低頭して謝罪り、もう二度と青年には会はない、家にも来て貰らうまい、自分は彼に誘惑されてゐたんだ、と云って、声をあげて泣くので、反って坂上氏の方が諦めるやうなわけだと云って、彼は苦笑してゐた。 その翌日は親戚に結婚披露があって、二人とも招待を受けてゐたが、奥さんは朝から気分が悪いと云って寝てゐたので、自分一人出席して、十時過ぎに帰宅してみると、寝てゐる筈の妻の姿が見えない、女中は前日に国の母が急病だから二三日暇をくれと云って、帰ったので、何時頃妻が出かけたのかも知ることが出来なかった。今に帰るだらう、今に帰るだらう、と思ひながら、うつらうつらと夜を明かしてしまった、それぎり奥さんは帰らないと云ふのだ。今日で二週間になる。心あたりのところは全部問ひ合せたが何処の家にも行った様子はない」
「一人で失踪したんでせうか。その青年と一緒ぢゃないんですかね」
「残念なことに、青年のアドレスは奥さんだけが知ってゐて、坂上氏は知らなかったといふんだ。嫉妬をやいてゐるやうに思はれるのがいやだったので、訊いてみもしなかった、まさか、こんなことになるとは思はなかったから、と云ふんだ」
「奥さんが失踪してからは青年は来ないんでせうか？」
「奥さんが坂上氏の前で彼へ絶交状を書き、其場で女中に投函させたから、来る筈はないと云ってゐる」
「それぢゃ一人だか、一緒だかわかりませんね」
「坂上氏は奥さんの実家が臭いと思ってゐる、出させるだけの金を出させてしまったから、もう坂上氏には用はない、と、奥さんの味方をしてその青年と二人を何処かにかくしてゐるのではないかと疑ってゐた」
「奥さんの実家は何処なんですか？」
「二子多摩川の方で笹の家といふ小さな旅館をしてゐるんださうだ」
「旅館ならすぐわかります。泊り込むことも出来るから探ぐるのに便利ですね」
「またこんなことも坂上氏は云ってゐた。奥さんは多摩川で育った女で、あの川のことはよく心得てゐる。彼女はふだんから、もし坂上氏に捨てられたら、私は玉川に身を投げて死ぬ。水面は穏かに見えても、川底近くに渦を巻いてゐるところがあって、そこへ入ったら最後死体も現はれない、多摩川に落ちると屍体が浮かないとよく人が話するのはその場所のことで、私はよく知ってゐる、と云ってゐたから、或は投身自殺をしたのではないかとも思ふ、と、いふことだった」
　白井探偵は名刺に何か書きながら、
「君はこれから、坂上氏の家へ行ってみてくれ、紹介の名刺をやるから、出来るだけ多く彼から話をきゝ、もれなく調べ上げて貰ひたいんだ。近所の聞き込みも必要だと思ふね」
　私は紹介の名刺を貰らって坂上才次郎の家を訪問することになった。

３
　私が坂上才次郎に会って白井探偵の家へ帰って来たのは夜も大分更けてゐた。彼の性質として調査したことは洗ひざらひ語らないと不機嫌であった。此方では大して必要でないと考へて、云ひ残したことが、あとになって白井には重大なことであったりした例が度々あるので、細大漏らさず語ることにしてゐた。
「坂上さんの家は大井線の等々力と上野毛との中間です。旧式の洋館で蔦が一面にからんでゐるので陰気な感じのする建物でした。庭は五百坪位もあるでせうが、手入れが届かないので薮のやうに種々雑多な木が茂ってゐて、門の標札は雨に打たれて字も認めないし、右手の朱雀門なんかはこの間の暴風雨で倒されたまゝになってゐました。私はあの有名な人がこんな侘しい住居にゐるのかと一寸驚きましたので、念のため訊いてみるつもりでベルを押すと、御当人が現はれたってわけでした」
「びっくりしたらう？」
「はっとしたやうでしたが、すぐにまた迂散臭いさうな顔をして、たゞじろじろ見てゐましたが、先生の紹介の名刺を見せると、『あなたは助手の方ですか、なるほどね、大先生が来られる前に一応代診が容態を診察されるのといふわけですか』と一寸皮肉を云ひましたよ。そして玄関の右手にある応接室に通してくれました。丸卓子を囲んで鼠色のビロードで張った大きな椅子が数脚ありまして、壁際の書棚には洋書がぎっしり詰ってゐました。部屋に入るとすぐぱっと眼についたのはマントルピースの上に掲げてある油絵の肖像画でした」
「女かい？」
「さうです。奥さんを描いたものださうですが、僕は一目見ると思はずアッと叫けびさうになったんですよ。と云ふのは、僕はこの女の人を一度見たことがあるんです」
「他人のそら似ぢゃないか？」
「いゝえ。たしかにあの人です」
「何処で見たんだ？」
　白井は乗り出して訊いた。
「競輪場で見たんです。あの肖像画よりは少し頬が痩れてゐましたがね、顔の輪郭から眼つき、微笑をふくんだ口許、そっくりです。今でも僕はあの時見た顔は忘れません。素晴らしい美人だったのです。あれが坂上さんの奥さんだったのか、と僕は茫然として肖像画に眺め入ってゐると、シガレット・ケースを持ってはいって来た坂上さんは一寸変な表情をして、僕の顔を穴のあくやうに見るのです。その時ふと頭に浮んだのは坂上さんの顔を僕はあの時やっぱり競輪場で見たやうに思ふんです」
「ふうん。そいつぁ一寸面白い」
　白井は腕を組んだ。
「よく考へると、たしかに坂上さんに違ひないんです。僕の隣りのコンクリートの階段に腰かけてゐたんですよ」
「そのことを坂上氏に云ったか？」
「えゝ。云ひました。が、『競輪場なんかには行ったことがない、あんな賭博場へ吾々のやうなものが出入すえう筈がない』とぶっきら棒に云って苦い顔をしたので、『あなたの奥さんを競輪場で見ました』とは云ひ出せなかったんです」
「構はずに云へばよかったのに――」
「きっと怒りますぜ。坂上さんにしてみれば奥さんは貴夫人なんでせうから――。僕があんまり肖像画を見てゐるもんですから、坂上さんは『これが失踪した私の家内です』と、画に紹介してくれましたよ。『大変立派な方ですね』と云ふと、彼は一寸得意さうな表情をして、『女なんてものはあんまり大切にしちゃ駄目ですね、あなたもこれから結婚されるのでせうが、僕がいい手本ですよ。随分甘やかして、云ひなり放題にしてゐたんです。金づかひが荒くって、金を慾しがるので、私はなけなしの家財を金に替へて与へたこともありました。もともと彼女の実家がつぶれるといふのを私が救ってやった、その恩に感じて、彼女が妻になることになったんですが、女なんてものは一時の感情だけのもので、時がたつと恩も何も忘れてしまひ、可愛がられればつけ上って我まゝになるばかりですからね、相手の青年も彼女が喜ぶので私は自分の息子のやうに大切にしてやりました。が、これも恩を仇に返し、私の顔に泥を塗って平気でゐるんですから呆れたものです』と云ってね、坂上さんは泣くやうな顔をして、失踪当日の結婚披露の招待状なんかを持ち出して来てみせてくれましたよ」
「招待者の名は覚えてゐるだらうね？」
「書きとめて置きました。奥さんの遠縁の方ださうで、実業家だと云ひました」
　私はノートの端に書いて置いたのをちぎって白井に渡した。
「それからどんな話をしたね？」
「ダイヤを供出して損をしたとしきりに云ってゐましたよ。冗談でせうが、あの女房には莫大の金をかけた、あれを失ったらダイヤどころの損害ぢゃないなんて云ってゐました。そして、白井さんに是非探し出して頂きたいと願ってくれ。お礼はいくらでも出すからって、それからまたこんなことも云ってましたよ。『今の日本では人殺しをしても犯人は捕まらない、地下にもぐれば全力挙げて捜査しても捕まらないんだから。探し出す事は難しいだらう。それに一人の女の失踪位ぢゃ大した事件にも取り扱ってくれまいが、私一個人の問題としては実に重大事件なんだから、ほんとにお願ひします。彼女は私の生命ですよ』なんて、泣かないばかりの表情でしたよ。それから私は話をかへてあなたは名画蒐集家として有名ですが、蒐集された泰西の名画といふのを一つ拝見したい、といふと、彼は直ぐに立って案内してくれましたが、立派なコレクションを持ってゐるんですね。よっぽど大切に保存してゐると見えて、信託会社の保護金庫室のやうに厳重でしたよ。蠅が卵をつけるといけないからと云って、部屋のぐるりに金網が張ってありました。火災を恐れて鉄筋だと云ってゐました。湿気を防ぐためだとか云ってゐましたが、空気の流通が悪るく一寸息がつまるやうな感じでしたが、ぐるりの壁には人物、静物、風景などの油絵が金色の見事な額縁に納められて掲げてありました。坂上さんが欧州へ行った時は恰度第一次戦争の終った直後だったので、インフレで金に困った貴族などが秘蔵してゐた名画を売りに出したので、安く手に入れることが出来たのだと云ひました。部屋に入った途端、えも云れぬ強い香水のにほひが鼻を打ったので、まるで、たったいま栓をぬいてまきちらしたやうな強烈なにほひに思はず私は鼻をびくつかせ息を吸ひ込んだのを見て、坂上さんは笑ひながら、『家内が癇癪持ちで、折角買ってやった香水を床にたゝきつけてこわしてしまったんですよ。外国製のいい香水だから、いつまでも香がぬけないんです』と云ひました。あの美しい奥さんがそんな乱暴な真似をするのかとびっくりしましたよ」
「競輪場で見たといふ女はたしかに奥さんだったらうか、調べる手がゝりがなささうだね」
「ありますよ。あれが奥さんなら、あの人はたった一人で来てゐましたが、予想屋と親しそうに口をきいてゐましたからね」
「予想屋の名はわからないだらう？」
「モンちゃんと云ふんですよ。地元のモンちゃんだって云ってゐた人がありますから、あの土地の人間でせうし、頬に疵のある三十がらみの男で僕ははっきり覚えてゐますよ」
「それぢゃ君はこれから、その予想屋を探し出して、当日の話を聞いて来てくれ、それから、彼女の実家を洗ふんだな」
　と云ったが、私の報告を書き留めてゐた彼はそれにもう一度眼を通してから、訊いた。
「坂上氏について、近所の聞き込みは？」
「坂上さんは大変吝嗇家で、商人を出入りさせなかったさうですよ。終戦当時とちがって今は八百屋でも、魚屋でも競争ですから、お得意さんのところへは届けてくれるのに、女中が一々走り使ひをしてゐたさうです。あすこの家は陰気で暗い感じがするので近所の人もあんまり寄りつかなかった、御主人は気むづかしやだったが、若い奥さんは腰が低くって人づきあひがよいとほめてゐました。それから一寸妙なことを云ってゐました。坂上さんはあの若い奥さんを貰らふ前に、半年近くも同棲してゐた女があったんです。近所ではそれをやっぱり奥さんとよんでゐた。戦争未亡人だが大金持で、その人が家政をきりもりしてゐた当時は坂上さんも大分派手に暮らしてゐたやうです。闇屋がしじう裏口から出入りして、配給物などは殆どとらなかった、といふのはその頃は女中がゐなくって、配給物をとるとすると奥さんが出かけなければならない、近所の人とも自然顔を合せることにんなる、それがいやさに配給物を棄権したらしいのです。だから誰もその未亡人の顔を知った者はゐないんですが、闇屋のオバさんの話にはいつもダイヤを指に光らせて女優のやうな派手な風をしてゐたさうです。若い奥さんと坂上さんが結婚することが定るといつか姿を消してしまって、その代りに田舎者の女中が雇はれたといふのです」
「その女の行方はわからないのか？」
「わからないらしいんです。誰も見たものがあにと云ひますからね。大変坂上さんと仲が好ささうだったさうですのに、よく問題も起さずおとなしく別れたものだと云ってゐました。若い奥さんはそんな女がゐたことは全然知らなかったやうだったのですが、その女の人は自分の香を持ちたいとか云って、外国製の香水をいろいろと交ぜ合せ、独特の香水を自分でつくって用ゐてゐたさうです。その香水を坂上さんは若い奥さんに秘してしまって置いたのを発見され、大喧嘩があったといふ話です。それは最近の話らしいですから、私が名画のある部屋で強い香水を嗅いだのは、奥さんが怒って、沢山、瓶を叩きこわしたといふのはその時の話ぢゃないかと、あとになって気がついたんです」

４
　白井探偵の命令によって、私はその翌日坂上夫人の実家を訪問し、その足で予想屋を探した。
　白井は私の報告を待ってゐたようだったが、ただ待ってゐたのではなく、その間に彼自身も活躍し相当の収穫を得てゐたらしいのは私にも想像が出来た。
「奥さんの実家といふのは多摩川べりで、あぢろの垣根をめぐらし、小さいながらも垢ぬけのしたしゃれた旅館でした。御主人は俳句に凝ってゐて店の方は一切妻君が任せという風で、女名前になってゐました。御主人は宗匠頭巾なんかを被って、一日中ぶらぶら、茶をたてたり、花をいけたり風流に日を暮らしてゐると云った風の六十近い年輩でした。奥さんは女主人で、何も彼も女の手一つでやってゐるだけあってなかなかのしっかり者らしく、一目で料亭の女主人といふことがわかるやうな、身の取り廻はしで、五十あまりの気の利いた利口さうな眼をしたひとでした。夫婦とも顔だちがよくって綺麗ですが、御主人ほどの品は奥さんにはありません。昔は仇っぽい人ではなかったかと思はれます。かうした両親の間に生れて、いいところだけを貰ったとしたら、坂上夫人の類稀れな美貌も決して偶然ではないとうなづけます」
「彼女の失踪したことを話したかね？」
「最初女主人が応待に出て来ましたが、私がそのことを話すとびっくりして、奥へ飛び込んで行ったと思ふと、御主人を連れて来ましてね、
『あのこの顔はもう三ヶ月も見ないんですよ。どうしてゐるか、この頃に訪ねてみようと思ってゐたんですが――』
　と女主人は不安さうに云ふと、御主人が
『坂上さんは優しい人だから、娘は年こそ違ふが幸福に暮らしてゐるものとばかり思ってゐたが、家出をするやうなら、あんまり幸だったとも思はれない。もともとあれはこの家の犠牲になったやうなわけですから、もし不幸だったとしたら申しわけない気がします。しかし、何故、家出をしたんでせう？』
　女主人は古風な煙草盆を下げて来まして御主人の膝の前に置き、煙管に刻みをつめて差出しながら、
『坂上さんが親切で、よくしてくれるから、お母さん、私は幸福よって、来るたんびに云ってゐましてね、ついぞ一度も不平らしいことを云ったことはありませんでしたから、私には全くどういふわけで家を飛び出したんだか見当がつきません。親に心配かけまいとして愚痴をこぼさなかったのかも知れませんが、両親にも打ち開けられないやうな秘密があったとも思はれませんし、一体、失踪したといふのはいつのことなんですか？』
　私が競輪場で彼女を見かけた日が失踪の当日なので、今日で十四日目になるから、
『二週間位前のことですね』と云ひました。
『家出をするにはよくよくのことがあったんでせう。ひとりで胸を痛めてゐないで、私達に相談してくれたら、またいい方法もあったでせうに――、女が嫁いだ家を出るまでにはどれ程苦しんだか知れません。ほんとに可哀想でねえ』
　女主人は袖口で眼頭をおさへました。
『失踪の当日は恰度遠縁に当られる方の結婚披露会の招待を受けてゐられたさうで――』
　私の言葉に、ふたりは思はず顔を見合はせ女主人の方は一寸頬を赤らめたやうでした。
『親類も沢山ありますが、宅がこんなに落ぶれてしまったもんですから、只今は何処とも親類づきあひをしてをりませんので、遠縁の誰が結婚したかよく存じませんでしてねえ』
『お恥しいことです』
　主人はぶっつりと云って下を向いてしまひました。こんな風で家もあまり広くはないし、彼女をかくしてゐる様子もありません。しらばっくれて、私を追ひ返してしまふとするほど人がわるくもなささうなので、私はもうこれ以上長居する必要もないと思って引き揚げました」
　白井は眼を細くして煙草の煙を眼で追ってゐたが、
「両親は関係なささうだね。ところで、その予想屋の方はどうだった？」
「これは地元を洗ったらすぐわかりました。モンちゃんも折よく家にゐたんです」
「そりゃよかった」
「ところが、女の名前も何も知らないって云ふんですよ。あの日に会ったのが三度目だったが、前日自分の予想で中穴が当ったのであの女から御祝儀を貰らった、それでよく覚えてゐると云って、『あの日の第八レースは大穴が出た、ところが八百長だ、何んだって大騒ぎになって、お客さんが暴れる、石を投げたり、柵をこわしたり大変だったんですが、あの女のひとはすばしっこくって早いとこ払戻しの何万円かを受取って、帰らうと出口のところまで来るとヨタ者たちに囲まれたって話でした。私が見に行った時は、女の人は真青になって倒れさうになりひどく怯えてぶるぶる振るえてゐました。一ったん懐中に入れた金を吐き出したとか、どうしても渡さないとか騒いでゐましたが、私もはっきりしたことは知りません。そのうちに女の連れの男が円タクを拾って来てサッと逃げやうとするのを、運転台にまた一人の男が飛び乗ったのを見たって人もありましたが、どうしましたかねえ、それぎり、競輪場にはあの二人は姿を見せませんよ』といふのです」
「金を渡したのに追っ馳けるといふのも変だなあ」
「ごったかへしてゐたので、予想屋のモンちゃんだって、はっきりしたことは知らないでせう。金のことばかりでなく、一寸した言葉から青年とヨタ者とが喧嘩をはじめたのかも知れません」
「とにかく、その日の結婚披露会に、奥さんは病気だと云って出席を拒み、ひそかに競輪へ行ったのはたしかだが、坂上氏も出席しなかった」
「二人とも行かなかったんですか？」
「さうだ。奥さんの方はわかってゐるが、坂上氏は何故出席したと僕達に嘘を云ってゐるのか、それが疑問なんだ、が、そんなことはどうでもいい」
　白井探偵はいらいらしながらデスクの抽斗を開けて、
「どうだ？　たったいま、こんな電報が来た。強羅ホテルから――」
　と云って、得意さうに私の顔を見た。
「カンキンシタ、クビ、ジツケンタノム。へえ。あの人達が――、見つかったんですか？」
　私はいつもながら白井の手腕には敬服した。
「僕等が行ったんぢゃ顔を知らないから駄目だ、こいつぁ一つ坂上氏をわづらわさなくっちゃなるまい。まだ終列車には間に合ふだらう。僕から電話をかけて置くから、君すまないが、坂上氏を連れて、強羅へ行ってくれ」
　白井が卓上の文字盤を廻はしてゐるうちに、私は出発の用意をした。
「大喜びの筈の坂上氏が――アハ……、恥しいんだらう。渋ぶってゐたぜ。向ふへ行ったらすぐ報告してくれ。今夜は迚も帰れないから一泊するんだな。夜中でも構はない、電話をかけてくれ。待ってるぞ」
　いつになく白井は少し興奮してゐたやうだった。
　終列車に間に合はないと大変だと、私は円タクで飛ばした。

５
　強羅ホテルから私は白井へ電話をかけた。彼は待ちかねてゐたやうだった。
「どうだった？」
「どうだも、かうだもありません。坂上さんは大変な立腹で、手がつけられないんです」
「それはまたどうしたってわけだ？」
「あの電報は偽電だったんですよ。誰かのいたづらにちがひありません。強羅ホテルのボーイ達を調べても、電報を打った者はゐないって云ふんです」
「監禁してあるといふ二人は？」
「監禁されてゐる者なんかゐません。あれは誰かゞ先生をかついだんですよ。あの電報見た時、あんまりあざやか過ぎると実は僕は思ったんです。先生が蛸のやうに沢山の手足を持ってゐるってことは知ってゐましたが――僕もその手足の一人には違ひないんですけれど――」
　私は一寸不平を云った。
「いや、どうも御苦労様、坂上氏の方はよろしく頼むよ。明日の朝帰りたまえ」
「坂上さんは家を空けて来たのを心配してゐるんですよ。自動車があれば夜中でも帰りたいって云ってるんです。大切なものが沢山ある、泥棒が入っても、火事になっても困るなんて、とても不機嫌で困ってゐます」
「そんなに心配ならうちの学生でも留守番にやって置く、と僕が云ってゐたと伝へてくれ。ではたのむ」
　翌日坂上がぷりぷりしながら私を従へて帰宅してみると、白井探偵がにこにこして、玄関へ出迎へたのにまたびっくりした。
「あいにく、学生は試験で来られないって云ふのでね、責任があるから私が留守番役をつとめましたよ」
　坂上は無理に笑顔をつくってゐたが、額には青筋がもり上ってゐた。
「馬鹿馬鹿しい、偽電につられて、強羅まで行って来ました。あなたの部下のやったことでせうが、いたづらにも程がありますよ」
　坂上はぷんぷんしてゐた。
「誰がやったことだかわかりませんが、世の中にはわからないことや不思議なことが沢山ありますよ。彼はまんじりともしないで夜を明かし、考へつゞけてゐたんですが、どうしてもあなたの智慧にはかなはない、一体あなたは奥さんの屍体を何処にかくしてゐるんですか？」
　坂上はカッと眼を見開いて、白井探偵を睨んだ。彼の一言で何もかも覚ってしまったのだった。自分をこの家から遠去けるための偽電であったことも、留守番にかこつけて白井探偵がこの家に入り込み、何かを探り得たことも察してしまった。
　彼は無言で棒のやうに突立ってゐた。万事休す、と覚悟をした坂上は、突然、飛鳥のやうに次の間に馳け込んだ。白井は間髪を入れず彼を追ひ、坂上に飛びかゝって、かたく握りしめてゐた掌の中から小さな瓶を取り上げた。青酸加里だった。
「卑怯な真似をしちゃいけません」
　坂上は失神したやうにくなくなと膝をついてしまった。
　俯伏せになった彼の肩は波を打ち、無念さうな悲痛な嗚咽が喰ひしばった歯の間から漏れた。

６
　坂上はどうしても自白しなかった、家宅捜査が行はれた。
　夫人と青年の屍体は、庭の古井戸から発見された。無論死後投げ込まれたものであった。
　彼は飽くまで、
「あれほど愛した妻を、殺す筈はないぢゃありませんか、情死です」
　と云ひ切って、犯行を否定した。
「何故青酸加里で自殺しようとしたのですか」
　突込むと、彼は石のやうに黙り込んでしまふのだった。
　彼を犯人としてもその殺人方法がわからなかった。
　白井は再度家宅捜査を行って何か確証を握ったらしく、帰宅した彼は久しぶりで朗らかな顔をして私に語るのだった。
「こんどの事件には君に大分感謝しなければならないよ。第一に競輪に行ったこと――」
　私は頭を掻いて、
「先生に叱られると思ったんですが、あんまり競輪が盛になったんで、ちょいと覗いてみようと思って入ったんです」
「坂上氏らしい男と夫人に注意してゐて予想屋の顔まで覚えてゐたことが非常に事件の解決に役立ったよ。無論、君は夫人の美しさに惹きつけられて、彼女から眼を離さなかったといふわけだらうが――」
　私はますます閉口した。が、白井はそんなことに構はず、どんどん話を運んだ。
「それからもう一つ、これは重大なことだが、君はコレクション室に入った時、強い香水の香がした、と云ったね。僕は急に坂上氏の家の中を見たくなったんだよ。
　それで彼を外出させようとした。ゆっくりと調べるだけの時間が欲しかった。それには一晩泊りで出てくれるのが一番都合がいい。部下の一人に強羅から電報を打たせ、わざわざ時間をおくらせて終列車としたんだ。
　あの時、僕はもう夫人は殺されてゐると思ったんだ。どういふ方法で殺し、何処にかくしてあるかゞわからなかった。ほんとに夫人が失踪してゐた、発見されたとしたら、坂上氏は非常に喜ぶ筈だ。それだのに行くのを免倒臭がって、不性無精に出かけた、行く必要のないことは彼自身よく承知してゐる、しかし、行きたくないとも云ふことが出来なかった」
「だから、坂上さんがあんなに怒ったんですね」
「君と坂上氏が出かけたあとに、僕はすぐ乗り込んだ。が、何処にも死体のかくし場所がないんだ。君が近所で聞き込みをしてくれた時、いまの夫人と結婚する前にも女関係があって、行方不明になってゐる。それが大金持の未亡人だと云ったね、彼に近づく者が二人も行方不明になるのは可怪しい、その未亡人も或は彼の手にかゝったのではないかと僕は疑った。
　すると、ますます夫人も殺されてゐるに違ひないと思ふやうになった。そこで僕は足の踏み場もないやうに木の茂ってゐる庭をあちこち考へながら歩いてゐると草むらの中に古井戸があって、危ぶなく落ち込むところだった。
　草に覆はれてゐるので井戸があるのがよく見えなかったが、懐中電燈でで照らしてみると、自然に生えた雑草へ、新らしく草をのせて、故意に井戸をかくしてゐるやうに思はれたんだよ。果して彼等の屍体は井戸に投げ込まれてゐた」
「坂上さん、あなたは死体を何処にかくしました。なんて、まるで何も知らないやうに、どうしてあんなことを云はれたのですか？」
「彼の口から白状させやうと思ったからだ、しかし、それは失敗だった、彼は白状する位なら自殺しようと思ったからね」
「井戸から出た死体は夫人と青年とだったんですか？」
「もう一つ、白骨が出た。特種の入歯をしてゐたので君の聞いて来た未亡人であることも実は今日わかったんだよ」
「坂上さんは三人も殺したんですか？」
　私は驚いた。あんなおとなしさうな弱々しい老人に、若い人を殺す力が何処にあったのだらう。
「手っ取り早く話してしまはう。坂上氏は非常に嫉妬深い人で、それに無類の慾張だった。未亡人は坂上氏の名画に目をつけ、彼は彼女の金に目をつけて大分金を引き出した。
　未亡人は坂上夫人になるつもりでゐたところ、彼が若い美人を妻に迎へるといふ噂を聞き込んで、詰問したところ、事実だと白状したので喧嘩になった。
　別れるからお金を返せ、返せないなら名側をよこせ。さもなければ彼の不徳を世間に打ちまけるとおどかし、コレクション室にがん張って動かないので、彼は殺す決心をした」
「兇器は何んです？」
「それは段々に話すよ。未亡人の話はそれだけにして置いて、夫人のことに移らう。坂上氏は奥さんと青年とのことを感づいてからと云ふものは、殆ど嫉妬に安眠も出来ず、随分手荒なこともしたらしい。
　女中の話では真夜中に離室の方で女の泣き叫ぶ声をいくたびも聞いたといふ。女中がそっと覗いてみたら、半裸の奥さんが俯伏してゐる傍に鬼のやうな顔をした坂上氏が乗馬用の鞭をふり上げてゐるのを見て、ぞっと寒気がした。奥さんは何とかして金をつくって、青年と馳け落ちするつもりだった。
　それ以外に自分の生きる道はないと思った。金をつくるにはいゝ方法もないので、競輪をやって、大穴を当てやうと考へたらしかった。坂上氏は夫人が度々外出するのが怪しいと尾行した。結婚披露に出席するどころではなかった。君がコンクリートの階段で見たといふ老紳士は坂上氏だったんだよ」
「ビール箱のうしろの話声は奥さんと青年とだったんですか？」
「さうだ。坂上氏は二人の話を聞いてゐた。彼等の家出する相談も聞いた。もう許せない。救ってやった恩も忘れ、怪しからん女だ、そのまゝにして置くことは出来ない。
　幸ひ妻は彼が披露会に出席して帰りがおそくなると思ひ込んでゐる。女中は田舎に帰ってゐる。この好機会を逃しては――、彼の心は鬼になってゐたのだ。二階の書斎には瓦斯ストーヴがひいてある。瓦斯管は階段の羽目にかくれてゐて見えないが、階段の下に栓があった。その瓦斯管を彼は人知れず、書斎の真下になってゐるコレクション室の壁を突きぬいて、さし込んで置いた。栓をひねれば瓦斯が部屋に充満するやうな仕掛けをつくって置いたんだ。そんなことも知らぬ二人は競輪場の騒動で気も転動して帰って来た。坂上氏が披露会から戻って来てもコレクション室にはすぐ入らないからわかるまいと思ひ、そこへ青年を誘ひ込んでほっと一安心し、後々の相談をしてゐた。
　何故コレクション室を撰んだかと云ふのに、青年は出入を禁じられてゐる。表面だけでも絶交の形になってゐるので、この部屋以外に安全なところはないと夫人は考へたんだ。あとのことは云はずと判断がつくだらう？」
「坂上さんはひそかに会談の下の瓦斯の栓を捻じったんですね？」
「さうだ。そして二人の死体を引きずって古井戸の中へ投げ込んだってわけさ。瓦斯管をコレクション室にさし込んだのは最近にやったものではないと云ふことがわかった。
　これは好意的に考へた話だがね、坂上氏は信託会社の保護室にあづけるのさへ危険だと思ったほど、あの名画に執着を持ってゐた。その名画を盗まれやしないかと、しじうビクビクしてゐた。もし泥棒が入って、名画を盗まうとでもしたら、といふ用心から瓦斯の口を階下へ向けてつけて置いたのではないかと思ふ。ふだんは不必要であるし、危険だから、取りつけ口を見えないやうにかくしてゐた。
　そして、ある日、未亡人と口論の結果、未亡人がどうしても名画を貰らって行くと云って、きかないので、彼はカッとして、かねて盗難用に用意して置いた栓をひねった。
　彼女は窒息した。死体をかくす場所がなかったので古井戸へ投げ込みはしたが取り出すことも出来ず、そのまゝになってしまったといふのではないかと思ふ」
「未亡人が最初の犠牲者ですね」
「それぎり発見されず、人にも疑はれなかったので、彼はまた同じ手を用いて、二人を殺したんだ」
「あの強い香水の香は？」
「君が来たので、神経質の坂上氏は何気なく装ってはゐたが、内心では非常に心配してゐたんだね、おまけにコレクション室を見たいなんて、痛いところを突かれたのに胆を冷やして、万一瓦斯の香でも残ってゐたら、そこから足がつく、と思って、香水を打ちまいたんだよ。なあに、二週間余も過ぎてゐるし、用意周到の彼のことだから部屋は開けっぱなしてあったらうし、さういつまでも瓦斯のにほひが残ってゐる筈もないんだが、反ってそんなことをしただけ、藪蛇だった。奥さんが疳癪を起して香水の瓶を叩きつけただなんて、弁解するもんだから、ハテナと思はせるぢゃないか。
　どんな上等の香水だって、まきちらしてから十数日たってゐるのに、瓶の口を開けたばかりのやうに新らしい香が鼻をつくやうに香ったといふのも変ぢゃないか。この部屋に何かある、怪しいなと誰だってすぐ感じるよ」
「奥さんがあの時八百長騒ぎも起らず大穴を当てゝ、青年と失踪してゐたら、坂上さんもこんな罪を犯さなかったでせうし、二人だって殺されもしないで、楽しい生活が来たでせうに――」

（おわり）