「お化け雛妓」
「読切読物増刊」 1949.07. (昭和24年７月) より
◆わたくしは幽靈を見た！◆
しいんとした大廣間――灯がつぎつぎと消されて行き、青白い月の光が、仄かに射しこむ。と、はらりと立ち上ったのは、深水畫伯ゑがく美人畫よりも美しい雛妓です。
「妾は、いま評判の昭和疑獄事件の社長第二夫人、花蝶姐さんの妹分にあたるものでございますの。これから、昭和疑獄の裏にひそむ戰慄的な怨靈出現を語らせて頂きましょう。」
かう口をひらいた雛妓の聲は、怪しく陰にこもってゐて、きいてゐる私の背筋は、ゾクゾクした。すると、いきなり、彼女は、眞正面に私の方を振り向いた。その眼をみて、私はあッと聲を立てさうになった。吊り上った瞳が、ギラギラと燃え、障子から差し出された白魚のやうな指先きから、タラタラと眞ッ赤な血が、したたり始めた……。
「はて、どこかで見た眼だ、顏だ？」
私が思ひ出さうと努めると、彼女の指先きは、廊下の彼方の庭先きへ向けられてゐる。
そこに、古い、いぶせき井戸が見えた。
「ああ、あの井戸だ！ さうだ、思ひ出した、あの顏だ。戸上エウ子の顏だ！」
やっと思ひ出した。忘れやうとしても、忘れられない二十年むかし、愛慾地獄から恨みつゝ死んで行った戸上エウ子の最期の顏が浮び上って來たのです……。
◆肉體に魅いられた娘◆
私は、はッとした。いま、こゝでみるお化け雛妓に怯える理由は何か？ それには、お恥しいことながら、二十年昔の秘密を告白しなければなりません。
今まで誰にも語ったことのない若い日の惱みもだえた秘密です。指折り數えますと、二十四年のむかし、そのころ、築地新開地に新しい女學院ができました。妾はそこの女學生だったのです。フランチェスカの鐘の降るやうに、大きな鐘樓のつゞいた白亞の講堂もありました。校舎の反對側に、大川端に沿って二階建の一棟があり、少し離れて、便所がありました。
この場が、東京によるべのない生徒たちの寄宿寮だったのです。わたしは、四年生になったとき、地方に轉勤する兩親のもとを離れて、寮に寄宿することになりました。
それまでは自分の口から云ふのは、おかしいですが、純情可憐であった私が、こゝへ來て、性格も肉體も一變してしまったのです。若い女性だけの世界と云ふ寄宿舎に閉ぢこめられて、わたしは初めて、女としての惱ましさ、侘びしさ切なさを、ひしひしと感ずるやうになりました。
それは、あたゝかい父母の膝下を離れた爲に起ったホーム・シックの一時的症状ではなく、もっともっと深刻なものでした。あたかも春に土をもたげて伸び上って來る芽生えのやうに、胸のふくらむ思春期の娘にとっては、堪えられない惱ましさに苦しめられたのです。
そんな時に、私は、戸上エウ子と仲よしになったのです。エウ子は、同じ四年生でした。今まで組が違ってゐたので、名前もよく知らなかったのでした。横顏は、古來日本の美人型である瓜實顏です。京都の古い公卿の後裔ださうで、女の私でも、ふるいつきたいほどの美しさ。
さらに着物を脱いだ、肩から腰へかけての線は、玉のやうに滑らかで、もっと私が驚嘆したのは白い胸へ双果のやうにもりあがり、しかもその頂點が、ほのぼのと海棠のつぼみのやうにうす赤くいろどられた美事さは、なんとも譬えようがなく、思はず溜息を洩らしたほどでした。
「どうなさったの？」といぶかし氣に、戸上エウ子は、白い腕越しに、私を眺めました。
「えゝ、石鹸を貸して下さらない？」
これが、私が彼女と口をひらいた最初でした。申し上げるまでもなく、彼女の美しい肉體が、惜し氣もなく曝らされてゐるこの場面は、寮の一隅にある浴場の中の出來事です。
ホノボノと立ちのぼる湯氣の彼方には、數名の學友が、湯槽に裸身を沈めてゐたことは云ふまでもありません。
羽二重餅のやうな柔肌のエウ子に較べてみて、私の肉體は、なんと貧弱だったことでしょう。
ゴツゴツと男の肌のような胸の上部に、黒豆のやうな乳房が二つ並んでゐるだけです。
私は、彼女の肉體に壓到されて、思はずタオルで胸をつゝもうとしたとき、
「まあ、あなたは、逞しい身體つきをしてるわね。まるで高麗屋のやうだわ。」
と、彼女は、石鹸を私の方へ手渡しながら、艶っぽい眼つきで私の上半身を眺めました。
當時荒事で評判たかく、滿都の子女を熱狂させたゐたのは、高麗屋、若き日の松本幸四郎でした。
彼女は、女學生に似合はぬ物凄い歌舞伎役者のファンだったのです。その爲に最後に身を破滅してしまふのですが、そのときは、神ならぬ身の知る由もなく、天下の名優に比較されて、私は嬉しさで、胸をワクワクさせて、
「ねえ、エウ子さん、あなたのお部屋は、何號室なの？」
「あたしの室は、第二號さんなのよ。」と彼女は、なまめかしく笑って、
「でも、あたしの方から、あなたのお部屋へ、お伺ひするわ。」
「それぢゃ、惡いわ。あたしの室は、七號室なンだけど、夜の自習時間が濟んだら、こちらから行くわよ。」
「いゝえ、それはいけません。」と彼女は、他の女生徒にきこえないやうに聲を落して、「あたしの隣室の一號室には、舎監がゐるでせう。うるっさいわ。だから、あたしの方で、九時ごろ、こっそり忍び込んで行くわよ。」
かう云ひ終ると、すらりと彼女は立ち上りました。一糸まとわず、一枝髪ささないその駘蕩たる姿は、それこそ、春霞たなびき、春の宮あたり煙る、あたかも一幅の名畫をみる氣持でした。
◆同性愛の睦言◆
その夜、七號室に戻った私は、異性を待つ愛人よりも胸の鼓動を覺えずにはゐられませんでした。今か、今かと戸上エウ子の忍び寄るのを待ち侘びてをりました。寮の各室は、二名乃至三名が上級生一名監督のもとに同室していましたが、私の室は、上級生の私の他は、二年生の小さな生徒小里チヨたゞ一人でした。この娘は、心臟脚氣のために、二三ヶ月前に歸郷したまゝで、今は、私以外に誰もゐないのです。
私は、この六疊の淡い電燈の下で、自習時間も終って、小説本をひらいて、彼女の來るのを待っているうちに、いらだたしさを通り越して、いつのまにか私の瞼は閉ぢ合はさり、机から、上半身を投げ出して、みだらな恰好で、うたゝねし初めてしまったものと見えます。
私は、暗黒の中に倒れてゐるやうな氣持でありました。すると、胸の上に、柔らかいものが乗りかゝって來たやうな面恥しい氣持になったかと思ふと、その次には、唇もとをあけて、熱いものが流れこんで來るやうな氣持に襲はれました。
「あッ、……あッ……」
私は、烈しく身もだえしましたが、ますます重くのしかゝって來られるやうであり、唇は、さらに熱いものを感じられました。それが少しもいやでなく、むしろふるえるような快感を覺えました。瞼をあけると、私の顏のすぐ前に、戸上エウ子の瞳が、ぱちぱちと瞬いてをりました。彼女は、烈しい息を呑みこんで、
「あら、お目覺めなの？」
と云ふと、からだを起して白い胸元をかきあはせ、ちらちらと亂れた裾を直しまがら、まるで成熟した妖婦のやうな眼眸で微笑みました。
私は、ふしぎな陶醉感からさめて氣がついて、慌てゝ胸もとや裾を掻き合せました。
でも、身體中がかァっと燃えて、べとべとと濡れてゐるやうな快感でした。
「ねえ、もっと、こッっちへ……よう。」
どちらからとはなしに、二人の身體が相寄りました。電燈のスウィッチをひねったくらやみの中に、肉體の温さと鼓動だけが高まる思ひでした。
◆呪はれた愛慾の果て◆
この時から、分別を失ったわたし達の關係は、急に密接なものとなってしまったのです。こんな告白をすることは、私にとって辛いことなのですが、若さの欲望の動くまゝに行動したことが、どんな悲惨な結果をもたらしたか、そして遂に美しい彼女も殺してしまったことを語るために、私は、勇を起して、このざんげ話をつゞけねばなりますまい。
かうして、若い二人は、人並みの交き合ひを越して、異常な關係に入ったのです。極めて美しい彼女は、性格的にも極めて異常であり、熱烈な行動者でした。それからと云ふもの、二人は絶えず、手を握り合って散歩し、肩をすり合はせて、歌を口吟さんだ。
ある夕方、夕飯のあとで、二人は、校庭の裏門沿ひの大川端を手を握りしめたまま、歩いてゐました。ふと、波間にゆらゆらとゆれ流れてゐるほの白いものに氣づいた私が、
「あら、ちょっと、……あれは、くらげぢゃないかしら？」
「どれ、どれ、どこに？」
と、顏を川面につき出して、エウ子は、ゆらゆらゆれるその白いものをみると、びっくりしたやうに、口をつぐんでしまひました。妙に思った私が、
「どうしたの？ くらげぢゃないの。」
「ちがふわよ。あれは、男の人が使ふゴム製品ぢゃないの。」
さも、私を輕蔑したやうに、吐き棄てるやうに云ひました。彼女の顏色は、くもってゐた。そして、いきなり私の手をほごすと、彼女だけ、スタスタと走り去ってしまひました。
私は彼女の後を追ひながら、憑かれたように考へつゞけました。
くらげでなくて、ゴム製品とは？ 一體なんであらうか？……
性の醫學的知識に缺けてゐた當時の一女學生にとっては、エウ子の解答がよく呑みこめませんでした。又、それにしても、くらげに似たゴム製品を眺めて、急に彼女の顏が險しくなり、いきなり、私の手を振りもぎって、驅け出して行った原因は、なんであったのでしょうか？
「わからない、わからない。」
この二つのことが、どうしても、小さな私には判らなかったのです。
その日以來、眼に見えぬひびが入ったことに、間もなく私は氣づきました。
と云ふのは、夜になると、彼女は、まとわりつく私の愛撫をさけるやうにして、時々姿が見えなくなってしまふのです。さうした翌日は、まったく精根つきた人のやうにぐったりとなってゐて、何を話しかけても、うわの空で、生あくびを噛み殺してばかりゐるのです。
「戸上エウ子の身邊に、異常な秘密があるに違いない。」
さう私が推察するやうになったころから、彼女は、露骨に、私の愛撫を嫌惡し初めました。
ある夜更け、隣室の人々の寝しづまったころ、私は、舊交を温めやうとして、久しぶりで近づくと、おびえたやうに彼女はとびさがるのです。
「よしてよ。あたしには、いゝひとがあるのよ。」
私はもう我慢が出來なくなりました。
「ええッ、あなた、いゝ人が出來たって、それは、男のひと？」
「もちろんよ。」
「あなたは、知らないの。女學校には、禁制があるのよ。もし、女生徒の身で、男子と關係すれば、追放されるわよ。退學だわよ。」
彼女の愛の冷たくなっていくのが口惜しくって、私が、かう喚くやうに云ふと、
「平氣よ。女學校が何さ。あたしの戀人は、天下の名優の御曹子よ。」
リンとして、彼女は、名ぜりふで返答したのです。あッと思ったのは私の方でした。歌舞伎熱が昂じて、いつのまにか役者熱をたかめて行った戸上エウ子は、私との愛情を裏切って、歌舞伎役者に、その情熱を捧げ、夜な夜な、寮から脱出して密會してゐたことを、告白してしまったのです。
「お待ち！ エウ子、よくも私を裏切ったな。かうしてくれる！」
戀を失った私はもはや狂人のごとく鬼女のごとく、變ったのです。
體中が、熱湯の沸きかへるやうに、ぐらぐらと燃えあがり、いきなり、彼女の胸ぐらをつかんで、曳き倒してゐました。
赤い裾がはだけて、白いふくらはぎが、はたはたともがきひらきました。その上に私は躍りかゝると、相手の帶をぐいと、しごき取りました。はらはらと胸は、はだけ、ほんのりと牡丹刷毛ではいたような白い山脈が惱ましく揺れひらき、その下へなめらかな白い線があらはれ、春の宮を煙らせて泛び上りました。この恍惚の情景も、血が狂った私には、眼に入りません。
「おのれ、かうしてやるんだ！」
口の中で泡をはきながら、私は、むしりとった帶をふりあげると、白い肉體の上を、胸のふくらみを、うちの窪みを、足のふくらはぎを、……所きらはず、毆りつゞけようとしたとき、
「待って！ 待って！……」
と低い小さな聲で、ふりみだした髪をすくひあげた彼女の手が私を抱きとめて、かう云ふのです。
「かんにんしてね。かんにんして……あたしは、いくらぶたれてもかまひませんけど、このお腹の子供だけは……」
「お腹の子供？」
はっとして、私は、打つ手をおろしました。
「お腹の子供と云ふと……」
私は、きゝ返さずにはゐられませんでした。
「あの人の子よ。でも、あの人は、おれの子供ぢゃないと云ったの。」
エウ子は、急に泣きじゃくりながら、
「あの人は、おれは、ちゃんと子供の生まれないやうに、ゴム製品を使ったと云ひ張るんですの。……それが、きっと破れたんだわ。ああ、あたし、どうしよう。この儘では學校にも居られなくなるし、あなたにも申し譯けないんですもの……」
「あなたの不始末は、あなたの一生の惱みになるかも知れないわ。でも、この儘では子供が可哀想よ。なんとかしなくちゃァ……」
そして、急に靜かに二人は話し合ひました。
戸上エウ子は、輕い肺門淋巴腺炎の症状があったのを幸ひ、醫師の診斷書を貰って、一ヶ年の歸郷休學をとることに相談が一決しました。身二つになるまで、この問題は、二人だけの秘密と云ふことにして、彼女は、鐘樓のみえる校舎から、一時姿を消したのです。
◆硝子窓の生首◆
若き日の不埒な物語を申し上げて相濟みませんが、これが私が、この眼で幽靈をみる原因となったのです。
こうして歸郷した彼女は、殆んど一週間おきに、手紙を私に寄こしました。
うちの可愛らしい牝猫は、あと三月で赤ちゃんを生まうとしてゐますの。しかし、至って健康ですわ。御安心下さいませ。」
かう云った風に、わざと猫にして、その後の經過を、いつも委しく知らせてくれました。
戸上エウ子の退舎と入れ代って、脚氣も大分快くなって、故郷から室に戻って來た二年下級の小里チヨと久振りに顔を合はせたとき、私は、新しくふしぎな感情を抱くやうになりました。
僅か二三月しか會はなかったのに、この小娘は、すっかり女らしく、桃の實のやうに、懐を膨れ上らせてゐるのに氣付きました。處女々々した白い頸や、紅潮した顔をみると、いきなり抱きついて、頬ずりしたいやうな衝動にかられるのです。
戸上エウ子の肉體を失ってから、私は、とても淋しい、みじめな氣持のどん底にゐたのです。とても堪えられなかった、何か他のものにすがっても、この空虚を埋めなくては生きてゐられなかったのです。
そこへ、若い豐麗な小里チヨが現はれたのです。しかし、私は、異常な慾情を感じながらも、小里チヨとは、ある距離を保つやうに努めました。
肉體ではさり氣なくして、心では、しつっこいほど愛撫する！ さう云った態度でした。そして、このことで、頭が一杯のため、戸上エウ子の便りは、氣になりまがらも、申し譯けないことですが、返事を書かなかったのでした。
「寄宿舎には、新しい可愛らしい牝猫が現はれたのではないでせうか？ どうして御返事を下さらないの？ うちの牝猫の子は、もうあと一ト月で生れさうよ。」
それでも、私は無感覺でした。
「どうしても返事を下さらないあなたへ、このお便りは、無駄だとは思ひますが、うちの牝猫は、苦しんだ揚句、生み落したのは、それはまた可愛らしい牝猫の子です。お便りがなければ、エウ子は一ト月以内に、上京します。」
これで、ぷっつりと便りは切れてしまひました。私は、不幸な星のもとに生れ落ちた戸上エウ子の娘に對して、はげしい感慨に襲はれねばならないの筈でした。しかし、どうしたことでせうか。自分を裏切って、若い歌舞伎役者と乳繰りあったエウ子への反撥もあったのでせうか。私は、エウ子を裏切って、小里チヨと甘美な秘密を味はうとする心で狂ほしくなってゐました。
やがて、手紙にあった一ト月は經過しました。
「戸上エウ子さんは、赤ん坊を生んだらしいのよ。」
誰知るまいと思ったニュースが、人々の口の端にのぼり出しました。さらに噂はたかまって、
「エウ子さんは、赤ん坊を抱いて、きのふの晩は、裏門の外の川端を歩いてゐたさうよ。」
ギクッとしたのは私です。エウ子は、すでに來てゐる。しかし、私は、小里チヨと離れられない。私は、エウ子に男の戀人が出來たころ、彼女が私を憎惡したと同じ氣持に自分がなってゐるのに氣づきました。
「エウ子には、惡いけれど、仕方がない。」
さう自分に云ひきかせ、ある夜、布團を二つ並べ、すでに寝入ってゐる小里チヨの横に、私が身體を横にしようとした時です。
夕方から空模様が險惡だったのですが、この消燈時間になると、たちまち、天候は惡化して、パラパラと大粒な雨を交えて、パタパタと硝子戸を叩く嵐となり、折惡しく、ピカリピカリと稲妻さえ射しこんで來るやうになりました。
しかし、勞れたものか、小里チヨは、可愛らしい寝顏をみせて、スヤスヤと眠ってゐます。電燈はすでに消してしまったのですが、はげしい雷鳴のとゞろきと共に、光る稲妻で、彼女の顏は、よく見えます。すると、急に可愛らしさと慾情に堪えられなくなった私は、思はず、兩の腕をを伸ばして、彼女を抱きすくめやうとしたのです。
と、その瞬間、烈しい風が、舞ひこんで、硝子戸の白いカーテンが、さっとまくりあがったかと思ふと、
「あッ！」
と私が大聲を立てさうになったほど、駭いた異様な情景が、現はれたのです。最初は、夢かとも疑ひました。しかし、まぎれもない事實です！ 白いカーテンが、さッと捲れあがった瞬間、硝子戸の彼方から、こちらを睨みつけてゐたのは、ざんばらに髪がほどけ、青ざめた顏に、眼を吊り上げ、その眼光たるや、ギラギラと異常に光り、カッと開いた口は、裂けた柘榴のやうに無氣味な、凄惨な女の生首です！
ギョッ！ とした私は、小里チヨを抱かうとした手をすくめました。蛇のやうに、その眼は、嫉妬で燃え上ってゐました。ピカリピカリと稲妻が走って、一層その姿をせいさんにして見せます。
云ふまでもなく、これは戸上エウ子の狂ひ亂れた變り果てた姿です。大粒な雨脚は、容赦なく、彼女の顏や、ひろげた胸へ流れこんでゐます。
「エウ子さん、赦して！」
聲を出さうにも、のどがふさがれたやうで、物が云えません。私は、夢中で、カーテンをおろしました。すると、もう女の姿は見えません。たゞ、烈しい雨音、とゞろく雷鳴だけです。
どこかで、小さく虫のなくやうな聲で、
「入れて下さい。入れて下さい……」
と云ふやうにも思はれましたが、私は、兩耳を押えて、その場に倒れてしまひました。
◆井戸の怪火◆
まるで嘘のやうに、あくる朝は、からりと晴れた上天氣でした。私は、朝の勉學のため、校舎の方へ行く途中で、又しても、こんなヒソヒソ話を耳にしました。
「昨夜、戸上さんは、裏門をくぐって入ってきたらしいのよ。」
「あんな嵐の中を、よく來られたわね。」
「こっそり昔の同性愛に逢ひに來たらしいわ。それなのに、相手は薄情にも硝子戸をピッタリ締めて入れなかったそうよ。」
「昨夜おそく、大川に身投げがあったんぢゃないかしら？ 今朝はやく、裏門の外に、捨子があったさうよ。可愛いゝ女の子だったから、築地の待合の女將さんが貰って行ったさうよ。」
彼女は、あの荒れ狂ふ暴風雨の中で、狂ひ猛って、カッとして死を選んだことでせうか。それならば、その死體は？ 嘗ての豐麗、珠玉にもまさる肉體は、どこで朽ち果てつゝあることでせうか？
この日から快天氣に惠まれた校内では、間もなく来る運動會に備えて、全校生徒が、草取りに夢中になってゐました。
「枯草をグランドの上に積んどいては邪魔だ。あの古井戸へ投げこんでくれ。」
體操の先生の命令で、水の涸れた古井戸へ、枯草は投げこまれました。
枯草で埋められた古井戸。それは、寮の便所から斜めにみえるところにありました。
――私は、あの嵐の晩から、すっかり默りこくて陰鬱な女になってしまひました。誰とも口を利かなくなりました。人々の異様な眼眸が、堪らなかったのです。
ある陰氣な小雨のしとしとふる夜更け、寮の人々がしんと眠入ったころ急に私は便所へ行きたくて、起き上りました。妙に進まない氣分におそはれながら、私は、廊下を渡りすぎ、便所に入ると、上で五燭光の電燈が、蜘蛛の巣にからみつかれながら、鈍い光を放ってゐます。
私は、一つのドアをあけてしめると、用をたすために、寝衣をまくって、しゃがみました。と、ヒヤリと頸筋をかすめて、何かとび去った。次の瞬間、パッと電燈が消えたのです。あたりは、眞の闇になると思ったのに、ボウッと私の手が白く光ってみえる。
そして、ありありと私のしゃがんでゐる前の壁に、髪を亂した黒い女の影が映ってゐる――ぎょっとした私、しかしまだ幽靈であるとは信じてゐない私は、勇を鼓して、頸をよこに廻すと、いつの間にか、ドアが半開きになってゐて、……便所の遥か彼方で、意外や、おどろ、おどろと狂ひ舞ふやうに怪火が燃え上ってゐる！
ちょろちょろ……と青白く光る。その異様な光りの下に、四角な物影が見える。
「なんだらう？ あれは？」
恐ろしさの中で、私は自問自答しました。
「さうだ、あそこは、枯草を投げこんだ井戸があるところだわ。」
その井戸から、怪火が高く低く燃えあがる。
「それぢゃ、もしかしたら、エウ子は、井戸へ……」
ふと、さう考えかけた瞬間、さっと吹きこんだ生ぬるい一陣の風は、パタリと戸をしめたかと思ふと、いきなり、便壺の中から白い長い手が伸びてペタリと、私のお尻を撫でまはし、さらにペタリと首すぢにからみついたやうに思はれた。
「ぎゃッ！」完全に、私は失心してしまったのです。
「夜明けになって、私は、友達に發見されて、寮の二階へ運びこまれてゐるのに氣づきました。
「あなた、大變にうわごとを云ってましたよ。」看護につき添ってゐてくれたのは、小里チヨでした。
「あなたの頸筋に、小さなやもりが吸ひついてゐましたわよ。」
「えッ、やもり？」
深夜に便所の下から、とび出したのは、白い蒼い手ではなくて、このやもりだったかも知れないと、ホッとして思ひました。小里チヨは、二階の窓ごしに校庭を見てゐましたが、
「ごらんなさい。人夫が何か白いものを引き上げましたわよ。」
この報告は、私をとび上るほど驚かせました。私も窓から乗り出して、古井戸の方を眺めると、あッ、見てはならぬものを、遂に見てしまったと、叫ばずにはゐられませんでした。
曳き上げられた白いもの！ それは、明らかに女の死體です。
私は狂氣のごとく、二階から驅け降り、裸足のままで、古井戸の前にかけつけると、白い肉體は、水につかった下の半身と片手が骨ばかりとなり、上の半身は、白く黒ずんだびらん状態です。人夫がからだを吊り上げようとしたはづみに、鈎に亂れた髪がかゝると、ぬらぬらと抜けてしまひ、現はれた顏は、芝居で見るお岩以上の形相でした。
そして、間違ひもなく、これは戸上エウ子の酢えた肉體でした。
私は學業も棄てました。二度とこの築地へ足を踏み入れまいと心に誓ったのです。
◆化け雛妓◆
若き日の惱みと懺悔――それを噛みしめる餘裕のないほど、滿洲事件、太平洋戰爭と、國内は惡夢がつゞきました。敗戰となって漸く惡夢からさめたときは、インフレとパンパンガールの氾濫の中に、私たちは生きてゐました。こんな激動の現代に、一風變った手紙が、私のところへ舞ひこんできたのです。
「耽奇クラブの發起人より」として、評判の肉體作家田林、花形女優高山、放送人氣者宮口醫博などのクラブ員の名前をつらねたこの手紙と云ふのが變ってゐるのです。
場所は築地料亭『新龍』、日時は來る十五日夜十時より、會費は五十圓だけで、あッと驚く珍趣向の『希望妖演試膽自慢くらべ會』を開催する。各方面の知名人士のみを御招待すべく、案内状を差し上げる故、ぜひとも御來駕の榮を賜はりたい。
と云ふ意味の手紙なのです。
生涯二度と足を踏み入れまいと、かたく誓った築地へ、ふらふらと行ったことが、間違ひのもとであり、私は、愛怨つきぬ母娘二代の幽靈にめぐり會ふことになったのです。
◆鐘のなる亡靈◆
きめられた十五日の夜、築地の料亭『新龍』へ來てみると、このあたりは、すっかり燒けて、二十年昔の面影は全く見當りません。『新龍』と云ふ料亭も、ごく最近に、燒跡へ建てられた戰後の急造家屋ですが、流石場所柄だけあって、數寄屋風に凝ったものでした。發起人や作家や、漫談家、または、世話役のリボンをつけた有名女優の顏もみられましたが、かれこれ四五十名も集った人々の中で、たゞ一人私が妙に氣に惹かれたものがあります。
それは、七、八名の一流名妓の中のよこにゐる肩あげのとれない雛妓です。さっきから、片隅にゐて、うつむいてばかりゐるのです。しかし、その頸すぢから、横向きの姿態のあでやかなことは、まことに、深水畫伯ゐがく美人畫さながらの艶麗さでした。
定刻となって、司會者が現はれたのです。
「いよいよ、これより、終戰後初めての異常な希望妖演自慢會を開かせて頂きます。ついては、電燈を消しますから御承知下さい。さァ、第一番の方は立ち上って下さい。」
つぎつぎと灯はきえてくらくなりました。すると、するすると縁側に面した障子があく音がしたかと思ふと、立ち上った氣配がしました。
誰だらう、ふしぎに開いた障子の前にだけ青白い月の光が射しこみ、ありありと浮び上ったのは、さっきの雛妓の横むきの立姿でした。艶を含んだ彼女は、怨を含んだやうな聲音で、たぐる糸のやうに語り出したのです。
「妾は、昭和疑獄の社長のおもわれもの、花蝶姐さんの妹分でございますが……」それは、きわめて細い虫の音のやうに、「でも、私の生れたのは、あのお庭の古井戸なんですの。」
さう云って、細い白魚のやうな指先きで差し示したものは、――これだけ燒け殘った昔のままの井戸です。だが、月の光の中に照し出されたその井戸を眺めたとたん、私の心臟はとまったかと思ひました。ありありと思ひ出されて來たのは、二十年昔のことです。その古井戸は、女學院の校庭にあったものです。さう思ふと、この家のたってゐるのは、丁度便所のあった位置に相當してゐます。
「あの古井戸が、わたしの古里なのでございます、と、申しますのは、わたしの母は、あの井戸に身を投げて死んだのでした。そして、雜草と土くれに押しつぶされて、怨みは、その土の中にまで浸みこんでゐました。戰災後、このあたりに家が澤山建ち並びましたが、お隣りのはゞかりへは、誰も入る人がないと云ふのです。それは、夜中になると、便所の壁から、女のすすり泣きがきこえ、果ては、眼の前の壁に、バラバラになった指が、燐のやうに光って浮び上る。
と思ふと、便所の片隅に、蒼白い、髪の毛の脱けきれた女が、うづくまってゐて、白い手がながくながく伸びたかと思ふと、はゞかりでしゃがんでいる人のお尻から、頸筋まで撫で廻すと云ふ……どうして、壁の中に怨みのこもった指さきが一緒になすりこまれたに違ひありません。あたしは、これから、本題の昭和疑獄にまつはる怪事件に入らうと思ふのですが、その前に、一言、私の母が、怨みをこめて死んだのが、あの古井戸であることを知って頂きたいと思ふのでございます……」
あたしは、これから、本題の昭和疑獄にまつはる怪事件に入らうと思ふのですが、その前に、一言、私の母が、怨みをこめて死んだのが、あの古井戸であることを知って頂きたいと思ふのでございます。……」
私は、くらやみの中でおそろしい力で締めつけられて行く氣持でした。來てはならぬ處へきた。そして見てはならぬものを見た、と思ったのです。
あの雛妓は、どこかで見たことのある顏だ！ ――さうだ、日本古來の瓜實顏、……あれは、戸上エウ子そっくりだ！ エウ子の生んだ父なし子。
築地の待合の女將に貰はれたと云ふ捨兒は？
「いけない、そうすると、この女は、エウ子の怨靈の乗り移った娘なんだ！」
わたしは、もうぢっとして、つゞく昭和疑獄の怪談をきく氣力はありません。化け雛妓の兩の手から、タラタラと赤い血がしたたり出すやうに思はれてくる。……漸くの思ひで、匍ひ出るやうにして、階段のところへくると、眼の前に、太った女將が立ってゐます。
「あら、もうお歸りですか。あの妓は、お化けおしゃくとあだなされてゐる怪談の天才ですのよ。古井戸の話は、いつも語るのでもう古いわ。それよりか、昭和疑獄の怪談は、新作ものらしいから、きいてゐらっしゃればいいのに？」
私は、それどころではなく、往來へとび出すと、いきなり合掌しました。
「戸上エウ子さん、もし魂あらば、私のざんげをきいて下さい。そして安らかに瞑目して下さい。」
私は、大道のまん中で、かう祈らずにはゐられませんでした。
フランチェスカの鐘の音のごとく、大川端の向ふに建てられた新教會の鐘が、救いのように聞えて参りました。
（おわり）
注）あきらかな誤字誤植は修正しています。
注）句読点は追加削除変更、位置変更をしたところがあります。
靈媒異變「花嫁の怨靈」
「別冊実話講談の泉」 1949.07. (昭和24年７月) より
１
お姉さま！
美和子には夫、あなたにはこの世にたった一人しかない弟の水尾正也が亡くなってから、もう半年近くの月日が過ぎてしまひました。
その間、未亡人になった私はあの淋しい家につゝましく、佛様に仕へる尼のやうに暮らしてまゐりましたが、急に考へが変ったので、今日限りさういふ生活と別れを告げることにいたしました。
理由を申せばいくつもありますが、その一つとして、これからお話いたすことをお聞きになって下さいませ。
正也の息を引き取ったあの日、朝から霙まじりの雨がしとしとと降って、夕方からは風さへ加はり、氷を割る私の指先は紅しょうがのやうに赤くなって、そのまゝ凍ってしまふかと思ふやうな、ひどい寒さでした。
「マサヤ、キトクミワコ」
ウナ電報に驚いて、お姉様が自動車を飛ばして馳けつけて來て下すった時、正也は已にこの世の人ではなかったのです。台所の流しに前のめりに斃れ、から傘の柄のやうに骨ばかりになった細い両脚を延ばし、俯伏せになった髪の毛は、水道の蛇口からぽたぽたともれ出てゐる水が落ちて濡れてゐました。その淺間しい哀れな死にざまを一目御らんになると、
「おゝ、可憫さうに――、正也さんはこんなお台所で最後の呼吸を引きとられるなんて――、それにまあ、まるで、あなたは乾からびてしまった枯木のやうぢゃないの」
と、悲痛な顏で叫ぶやうに云って、抱き起さうとなさると、遅れて馳けつけた叔母様が意地惡るく、お姉様の手を抑へて、利口ぶった口調で、
「いけません。お触りになっては――、とにかくですよ。この重病人が、御病床から、三室も離れたお台所で、亡くなってゐられるといふのは、これは、あなた、ただごとではありません。お医者様がお見えになるまでお手をつけないで下さい。お医者様だけですむかどうか、或はその筋の方をおわづらはせするやうなことになるかも知れませんからね」
と、まるで非業の最後でも遂げられたやうなことを云って、
「別に――、誰を疑ふと云ふわけではありませんが――」
と、ぢろりと白い眼を私の方に向けるのでした。
しかし、折角のその御注意も無駄で、お医者様は一点の疑念もなく、心臓麻痺との診断を下されました。
それで叔母様の疑問も晴れたと見え、一っぱしの智慧者らしく軽率な言葉を発したことを後悔でもされたものか、それからは打って変って、優しくして下さいました。
心臓麻痺には相違ないでせう。しかし、どうして、突然麻痺を起されたか、何故に台所へはひ出されたのか、さかのぼってその原因を調べてみたいといふ慾望に私は燃えてゐました。
どうしても、私の眼にはあれだけの御壽命だったと片附けてしまへないものがありました。何者かによって、少なくとも死期を早めさせられたとしか思へないのですもの。
御承知の通り、正也は事業に失敗したところへ、あの空襲の痛手を受け、まるはだかになり、つゞいて病魔に取りつかれたといふ不幸な方です。
最初は胃潰瘍でしたが、それをこぢらせると癌になると人から聞いたので、それ以來夫は寝ても覚めても、癌になりゃしないか、と、心配し、堪えず脅えて、
「癌になったら、もうおしまひだ。半年の命だからな」
と、泣くやうな顏をするのでした。癌、癌と云って、非情に恐れ戦いてをりました。
が、さういふ間にも、彼の脳裡に絶えず浮ぶのは、自分が亡くなった後の事でした。お姉様の他には親身の者とて一人もなく、遊んで暮らすだけのお金もない私が、どんな悲惨な運命を辿ることか、それを考へると、彼は死ぬにも死ねない氣がするらしいのです。
それなら、何故私が自活出來るやうにして置かなかったか、と仰しゃるかも知れませんが、私はもう何も出來る体ではなかったのです。母親譲りの結核で十年前已に死の宣告をされ、左の肺はないも同然、右の方もむしばまれて行くと云ふやうな身でしたから、無論私の方が先へ死ぬものと思ひ込んでゐました。ところが、どうした運命のいたづらか、後へ残ったやうなわけで――。
それですから、私は自分で働いて食べてゆくことなど思ひもよりません。それを知ってゐるので、正也はひどく氣を揉み、
「俺が死んだら、お前はどうする？」
と、まるで怒ってるやうな顏をしてきくのです。
「どうするって、その時はその時のこと、どうにかなりませう」
軽く受け流すと、彼は大変に不安さうな表情をして口をつぐんでしまひます。
その事については何人よりも、ほんとは私が一番心配してゐるのですが、それを夫から云ひ出されると、急に足許に火がついたやうに苦しくなり、まるで責められてゐるやうに辛いので、
「貴方が死んだら、私も死ぬからいゝわ」
と、しまひには半分自棄くそになってしまふのです。すると、悲しさうに彼は默々として、眼を閉ぢます。
去年の夏の終り頃からめっきりと病勢がつのり、素人眼にももう長いことはないと思はれ、日に増し衰弱して行くのがわかりました。
その頃から、正也は急に死にたくない、死にたくない、と云ひ始めました。うとうとと眠ると、まるで死神と取っ組んででもゐるやうな恐しい呻き声を上げ、冷汗をびっしょりかきました。
「どうかして全快りたいな。お前のためにも俺が先に死んでは申わけない」
と、云って、今まで強情に抵抗してゐた民間療法も始めますし、ひと様がよいと云はれることは何んでもやりました。菱の実を煎じて飲めば癌にならないと聞いて、あの苦い汁を顔中皺だらけにして飲みました。沢蟹をすりつぶして食べれば癌が逃げると云はれて、それをうのみにしたり、めったにないと云ふ葉蘭の実を探し歩かせられたり、あらゆることをいたしました。
お医者様は何んでもよいと思ったことはおやりなさい、と云はれました。その実もうその時は匙を投げてゐられたのでせう。
そんなにしてゐるのに、一寸した食べものを口に入れても胃に堪え難い激痛を覚え、唇の色まで紫色に変じてしまふことが度々ありました。注射は頻繁になりました。
２
さうしたある日のことです。私が配給物を取りに行って帰って來ると、見かけない頤ひげのある客が枕許に坐って、さも親しさうに話込んでゐるではありませんか。
「不動様の御行者さんだ」
と、正也はその人を私に紹介してくれました。成程、五分刈頭に、黒い被布のやうなものを着て、襦袢の白襟が何処か俗離れがしてゐました。
正也は珍しく晴れ晴れしたやうな顏をして、
「いま、おはらひをして頂いたので、大層樂になったぞ」
と、氣持ち快ささうに微笑んでゐました。
「苦しい時の神だのみだよ。信心したまへ、奥さん、全快りますよ。力を落しちゃいけません」
と、行者は励ましてくれるのでした。
聞けば舊友の一人で、彼の病氣を聞いて見舞ひに來て下すったのださうです。
行者はまた翌日も見えて、小一時間余りも話して行かれました。帰ってから聞いたことですが、その友人は貧乏人の子で、小学校時代には皆から除け者にされてゐたさうですが、ふとした事から信心を始め、行者修業をつみ、今では立派にやってゐるのださうで、
「ばかに出來ないものだ、田園調布に屋敷を買って、大金持ちになってゐるんだとさ」
と、正也は感心してをりました。
それから思ひついたのでせうが、夫はしきりに、私に女行者の修業をしてみろ、と、すゝめるのです。
「お前には霊能があるさうだよ。彼奴が云ってゐたぜ」
「いやだわ。女行者なんか――」
「いやの何のと云ってゐる場合ぢゃないぞ。商賣だと思へばいいんだ。樂に金がとれるさうだからね。お前には持って來いだぞ。恰度好い機会だから、彼奴に頼んで一つ試めして貰らったらいいだらう」
生活といふ事もあったのでせうが、それよりも死後にも世界がある、此世の連続があるのだと云ふ話を、彼から聞いたので、正也は急に乗り氣になったらしいのです。
行者の言葉によれば、死は決して怖れるものではないのです。
「むしろ、私達には喜びでさへあるのですよ。何故かならば、死と云ふ一つの山があるとしませうか、それを乗り越せば今度は霊魂の世界に入られるのです。已に肉体を失ってゐるから、あなたの尤も恐れてゐる胃癌もありません。從って胃の激痛もない。肉体の感ずるすべての苦しみは何にもなくなって、そこにはただ永遠の樂しい生命があるばかりなのですよ」
なんと云ふいい話でせう。
正也は大分希望が出たらしく、
「死と云ふ事も、さう大して怖れるには足らないな」
と、申すやうになりました。
研究心の強い正也は、行者の話だけでは満足出來なくなって、霊に関する本を漁り始めました。私は毎日のやうに彼方の古本屋、此方の古本屋と歩かされました。
死後の世界だの、ジュリアの通信なんて本を買ひ集めました。正也は片時も本から眼をはなさず、読み耽ってゐますが、ある時彼は歡喜の声をあげて云ふのです。
「俺が死んでも、お前と話が出來る方法があるんだぜ、孤独のお前には何よりの福音だ、いままで通り、何んでも俺に相談が出來るとすれば、心細いこともあるまい」
さう云ふ本ばかり読んでゐるので、夫の頭が少し変になって來たのではないかと、私は心配しましたが、さからってはいけないと思ひ、
「そんな重宝な事が出來ればいいわねえ」
と、答へると、彼は眞面目になって、
「確かに出來る、と書いてある、つまり自問自答の形式になるんだが、それでもいいだらう？ 俺の意志が傳はれば――」
と、云って霊媒と云ふ者がこの世にあるといふ話をしてくれました。そして、此度は私に霊媒の修業をせよと云ってきかないのです。
「霊媒になれば死んだ人と話が出來る、会ふことも出來るさうだ」
と、云ふのです。私はまことに心細い身の上なのですから、正也がもし先に死んでも何かと相談が出來て、差図を受けてゐれば間違ひはない。姿こそ見えないが一緒にゐるも同然ですから、私は喜びました。しかし、そんな事が果して出來るものでせうか、怪しいものです。
無論、氣安めにあの行者の友人が、彼の余りにも怖れてゐる死を、怖れさせまいとして下さる御好意から云はれたのだらうとは思ひましたが――。
そんな事で一日でも、半日でも、一時間でも、彼が死の恐怖から逃れられゝば私は嬉しかったので、命令通りあの行者について修業を始めました。私には霊能が豊かにあるから、本式に修業をすれば、豪い者になれると油をかけられました。
そこで、此度は日本一と云ふその道の大家心霊学博士に指導を仰ぐことになりました。
修業と云ふのは頗る簡單で、ただ精神を鎮めてトランスに入ることなのです。精神を鎮めて、と、一口に申しますが、初歩のものにはなかなかそれが出來ませんでした。
トランス中には今まで想像もしたことのない種々な不思議なことがありました。ある時は何百年も前の御所のありさまを目のあたりに見たり、見知らぬ人の顏や姿も見ました。それを單なる潜在意識であると片附けてしまふ人もあるかも知れませんが、全然私の記憶にない事をさへ見るのですから、潜在意識だとばかりは申せないだらうと思ひます。
私は次第に興味が出てまゐりますし、正也は樂しみにして、私が一日の修業を終って帰るのを待ちかねてをり、
「今日は何を見た？ どんな人に会った？」
と、訊いては喜び、日一日と私の修業の積んで行くのを満足さうに眺めてゐましたが、何を思ったか、突然、
「今日限り、修業は止めろ」
と申すのです。
自分の方から勧めて置いて、理由も云はずに止めろは余り身勝手と云ふものだ、と、私は少しむっとしましたが、相手が病人ですから反らふことも出來ません。
３
お話が前後しましたが、私共は結婚する時、ある一つの約束をいたしました。
それはお互ひの間に秘密を持たぬことと云ふのです。それで、その後は何事によらず二人は打ち開け合ってゐたのですが、さういふ約束があったにもかゝはらず、正也は私に何か秘してあることがあるらしいのに氣がつきました。
私共が空襲直前まで住んでゐた番町の屋敷の土蔵の中に、一杯レッテルの貼った大トランクがあったのをお姉様も御存じでせう？ あれは正也が洋行中彼地で買ったトランクださうですが、その中に長さ一尺四寸位の、小櫻模様の蒔絵の古ぼけた手文庫が入れてありました。長い間開けないと見えて錠前の金具はすっかり錆びついてゐました。
引越す時、此度の住居は狭いので、不用の荷物は全部賣り拂らひました。その時大トランクも不用だからと道具屋に渡しましたが、その手文庫だけは正也は手放さず、自分が抱へて新居に移ったのです。その頃は余り氣にもなりませんでしたが、夫の病氣以來、私は妙に手文庫が心にかゝるやうになりました。
中に何が入ってゐるのかと訊きますと、
「亡母の文反古だよ」
と、夫は嗤ってゐます。
彼は一通りならぬ母思ひですから、遺物の文反古を大切にしてゐるのに不思議はありませんのです。
がらくた物は随分賣り拂った積もりでしたが、さて、引越して見ると、矢張りまだ荷物の多いのに驚きます。已むなく台所の天井近くに二段も三段も棚をつり、平素使用しない物はそこへ載せて置くことにしました。その手文庫も棚に上げました。
私は何とかして中味を覗いて見たいと思ひ、夫の熟睡してゐる間に、踏台に乗って下して見たことがありました。何時の間に錠前を取り替へたのか、錆びついたものでなく、新らしい頑丈なのがピシリとかゝってゐるのに一寸呆れました。私の知らないうちに、夫は時々この手文庫を開けてゐたといふことが分かりましたので――。
合鍵は何処を探してもありません。
今までと違って、私は修業のために小半日家を開けることがあるので、その間に錠前を替へたのでせうが、よくよく人に見せられないものが入ってゐるとしか思へません。が、人と云っても、この家には女中もゐないのですから、正也を除いては私だけ、すると、私に見せたくないものが納ってあるに違ひない。棚の上はほこりが積ってゐるのに、この手文庫だけは塵もとゞめず、綺麗になってゐます。それは無論、始終掃除してゐるか或は手を触れてゐるかのためでせう。
それからと云ふもの、私は一層中味を知りたくてならなくなりました。一一度打っつけて、
「見せて下さいな」
と、頼んだこともありましたが、彼はひどく不機嫌になり、口もきかなくなったので、それぎりあきらめました。
しかし、夫婦の間に秘密が存在してゐるのは面白くありません。
正也が秘くせば秘くすほど、私は知りたくなります。そして、これは母の文反古ではないとさへ疑ふやうになりました。
秋のはじめになりますと、めっきり衰弱が加はり、正也の病勢はいよいよ惡化するばかり、彼はもう本を読む氣力もなく、
「癌になったのではないかなあ」
と、心痛し日夜それを云ひつゞけて居ります。
食事が通らないので、一日々々と痩せて、人相まですっかり変ってしまひました。
「心臓衰弱がひどいですから、絶対に動いてはなりません」
と、お医者様から度々注意を受けました。寝返りさへも一人では出來ず、肩と腰を持ち添へて、のろのろと動かすのでした。
死後の世界への希望も段々薄くなり、死と云ふ言葉をひどく恐れるやうになりました。それに正也は潮のやうに押し寄せて來る激痛のため、頭がぼうっとして、何も考へることが出來なくなったのです。痛みの薄らいだ時は疲れ果てゝ、うつらうつらとまどろみます。
さういふ容態の正也が、ある朝、急に今日は心霊学博士のところへ行ってくれと申しました。
「どうなすったの？」と訊くと、
「どうも、癌になったらしいんだ。医者は俺が落膽すると思って、眞実のことを云ってくれない、だから、お前が全霊を傾けてトランス状態になり、俺の病氣をたしかめて來てくれ、もう、俺は人の言葉を信じることが出來なくなった。お前のその眼で見て來てくれ、そして、嘘や氣安めを止して、ほんとの事を話してくれ、俺はもう覚悟をしてゐるんだから、どんな事を云はれても驚きやしない。俺も男だ。子供欺ましのお世辞を聞いてゐるのはいやになった、一生のお願ひだから、俺のほんとの病氣を見て來てくれ」
と、眞劍に頼むのでございます。
４
そこで私も意を決しました。実のところ、私も、もしやもしやと思ってゐたのですが、肝心のお医者様がはっきりした事を仰しゃらないので、迷っていたのです。
朝飯をすませると、一人で残る夫のために、不自由のないように、藥だの、注射器だの、茶道具などを枕許の手の届くところに並べて出かけました。
私は博士の道場へ行き、彼の前に手をついて、
「今日は眞劍に、それこそ命がけでやりますから、よろしくお願ひいたします」
と、頼みました。
博士もいつにない私の眞劍な態度に動かされたのでせうか、
「何か、よほど重大なことを調べようとされるんですな？」
「はい、主人から病氣をたしかめてくれと、頼まれましたので――」
「たしかめてどうなさる？」
「それによって、前後策を講じようと思ふのでございます。主人の方はただ病名を知りまして、遺言状をつくらうといふものらしいのですが、私はそんな事よりも――」
と、一寸口ごもりました。嫉妬からでないとしても、この場に及んで、手文庫の中が覗きたいなどとは、あまりにふざけてゐるやうで申せませんでした。
「わかりました。それでは未熟なあなた一人では頼りないから、霊媒さんと一緒にトランスに入ったらいいでせう。幸ひ、大阪から昨日着いたと云って、挨拶に來てゐる有名な豪い人が、應接室にゐますから、その人に頼んで上げませう」
と、云って、ベルを鳴らして、書生をよび、
「山北霊媒に、一寸來て下さるやうに申上げなさい」
書生のあとから、有名な山北夫人、いや、山北霊媒が眼をすゑた凄いやうな顏をして、音もなく歩いて來ました。
「山北さん、ひとつお願ひします。この方と一緒に精神統一をやって、よく調査して上げて下さい。大分心配ごとがあるらしいですから――」
「お願ひいたします」
と、私は頭を下げたが、聞えたのか、聞えないのか、山北霊媒は殆ど口をきゝませんでした。
私は山北霊媒と並んで、博士の前に坐りました。
正也の頼みもさることながら、実はあの手文庫の中身が知りたいといふ氣が多分にあったのです。自分では意識しなかったのですが、いつもの私は修業に行くのを好まず、とかく足が澁るのに、その日に限って喜んで博士の許へ飛んだのも、夫の病氣を確かめるついでに例の手文庫も覗いてやらうといふ氣だったのでした。
私はじっと、しばらく心を鎮め、無我の境に入ってゐると、ふいに、眞暗だった眼界がぼうっと薄明るく、たそがれのやうな色に変じ、そこにぽっかりと白いものが浮びました。
よく見るとそれは細長い布で、ひらひらと風に動いてゐますが、どうやらシーツらしいのです。
正也の病床かとも思ひましたが、部屋の様子が違ひます。
四疊半か、せいぜい六疊位で疊が陽に燒けてあか茶けてゐます。小さな粗末な茶棚の前に、瀬戸物の火鉢があって、お鍋がかゝってゐます。何となく貧しい生活を感じさせるやうな部屋で、右よりの高窓の下に薄べったい敷布團があって、その上にシーツがしいてあるのでしたが、最初にシーツだけが私の眼に入ったものと見えます。
紅入り友禅のメリンスででもありませうか、掛ぶとんが疊んで置いてありました。
博士は咳一つして、
「何か見えますか？」
と、靜かな声で云ひました。
私の聴覚だけはまだ残ってゐましたが、体の方は自分のものであるか、どうかさへわからぬやうな状態にあったのですから、自然、物を云ふのにも、自分の意志で云ふのではなく、何者かに押し出されて、言葉が唇から突き出されるといふ感じで、声も自分のもののやうではありませんでした。
「はい。蒲團が敷いてあります。その上にシーツが見えます。小さな、侘びしい、みすぼらしいお部屋です」
と、私は答へました。
「よく見て下さい。それだけですか？」
博士は問ひつゞけます。私はじっと精神を集中し見えるまゝを云ひました。
「シーツの上に人が寝てゐます」
「男ですか？ 女ですか？」
「若い女、痩せ枯れて骨と皮ばかりです。二十四五でせうか――」
「どんな顏ですか？」
「細面で髪の毛の濃い、色の透き通るやうに白い、いや、青い、大きな黒い眼、眼の下に泣黒子があります。受け口で下唇が少し厚ぼったい感じですが、美しい女です。太輪の銀杏返し、日本髪ですね。遅れ毛が頬に垂れてゐます。婀娜めいた姿で、黄八丈の袷に黒襦子の襟をかけ、眞白い首筋に水色の半襟がからみついてゐて――、あ、あッ、あゝ――」
私は咽喉が乾からびたやうになって、声が出なくなりました。
霊視はますますはっきりとして來て、あざやかに見えて來ます。
その女は、靜かに体を動かし始め、上半身を徐々に起して、骨ばかりの手で、私を差し招き、にこりと笑ひました。何といふ淋しい笑ひでせう。
同時に女が私の方に向って歩いて來るやうな氣配を感じたのです。よく見ると、水を浴びたのか、着物はずぶぬれで、しづくが垂れさうなのです、そして唇から赤い糸をひいてゐる、血です。血は水色の半襟を汚し、胸へかけて、たらたらと――、私は急に怖氣だって夢中で起き上り、逃げ出さうとしました。
「しっかりおしなさい！」
博士は叱りつけるやうな嚴しい口調で、
「何を怖れるのです。あなたの守護霊に、お力添へをお願ひなさい」
と、命令するのです。
私は心の中で一心不乱に守護の神にいのりつゞけました。
と、忽ち、そのシーツの傍にぼうっと、うす紫色の衣の裾をひいた、世にもあでやかな女神の姿が現はれ、彼女を抑へるやうな手つきをしたかと思ふと、見る見る黄八丈の袷も、水色の半襟も、銀杏返しも煙のやうに、あとかたもなく消え失せて、シーツの上には男とも女とも見分けのつかぬ白骨が、ばらばらと横はりました。
「はぁ――」
私は大きな息を吐くと、ぽかりと両眼が自然に開きました。
そこはもとの道場で、博士の前に山北霊媒と私は坐ってゐました。
まるで夢を見たやうな氣がしました。しかし、いま見たばかりの黄八丈の袷の女が、眼の先にちらついて離れません。頭の中にしっかりと燒きついたやうになって、あの美しい顏がまざまざと浮ぶのでした。
山北霊媒はずっとあとになって眼を開きました。博士は私に、
「どうでした？ 御主人の病氣は見えなくって、あなたは思ひがけないものを見られ、驚いてゐるんでせう」
と、平然と云はれました。
この暑さだのに、私は両袖を掻き合せて、惡寒でもするやうに、ぶるぶる震るえながら、
「氣味の惡いものを見ました。私はまだ恐はくって――」
と、小さい声で云ひますと、博士は私の意氣地のないのを笑ひながら、
「山北さん、あなたの見られたものの説明をして上げて下さい。恐らく同じものを見てゐられたんでせうから――」
山北霊媒はうなづいて、
「あなたにはまだ、あの女が訴へてゐた言葉は聞えなかったんでせう？」と云ひました。
「全然、聞えませんでした。たゞ姿だけ――」と私が答へると、山北霊媒は、
「あの女の方は廿四で此世を去られたのですが、生前はある方の愛人だったのです。正式の結婚をするといふ約束だったところが、二十二の秋から肺を患ひ、喀血したりしたので、夫になる方が、結婚の約束を解消されたのださうです。それを悲しんで夫の屋敷の古池に身を投げて水死した。そんな薄情なめにあっても、夫を憎む氣になれず、今だに思ひ切れないで迷ってゐるのだけれど、最近その方の病勢のつのって來たのを幸ひ、自分の方へ引き取らうと思ってゐるのです。と、申されました、が、あなたには思ひ当るやうなことはありませんか？」
と、云ふのです。私はますます氣味が惡くなって、挨拶もそこそこに博士邸を辞したのでした。
あれ程、頼まれた正也の病氣は、遂々分らずじまひ、否見えなかったのでした。すまないやうな氣がいたしましたが仕方がありません。
家へ帰りますと、夫は私の顔色のわるいのを見て、癌だったのだと早合点して、
「あゝ、やっぱり、さうだったのか？」
と、彼の顏は見る見る蒼白になり、絶望のいろが、ありありと見えるので、
「いゝえ」と申しますと、
「わからなかったのか？」
ほッとしたらしく云ふのです。秘してゐては反って惡いと思って、見たまゝを語りますと、正也は癌だと思った時よりも一層青くなり、きょろきょろと周囲を見廻はしてゐましたが、急にふらふらと起ち上りました。
「いけません。お動きになっては駄目です」
と、叫んで止めましたが、私の言葉など耳には入らず、あんなに衰弱しきってゐる彼が、まるで夢遊病者のやうに、よろめき、よろめき、台所の方へ行くではございませんか。
「あなた。どうなすったんです？」
呆氣に取られてゐるうちに、水口の方へ進んで、棚の前の踏台に片足かけようとして、前へのめってしまったのです。
そして、それぎり動けなくなったのです。死んでしまったのでございます。
私は茫然としてをりましたが、その時始めて、正也が台所へ行かうとした意味が分りました。あの手文庫をかくさうとしたものに相違ありません。
それ程までに秘密にしてゐるあの手文庫、お母様の文反古でも何んでもいい、開けて見たい、お姉様や御親類の方々がお出でにならないうちに――、と、棚から下しました。
が、鍵が見当らないのです。
ない筈です。何時の間に出したのか、何処にかくして置いたのか、正也は右の掌の中に鍵をしっかり握りしめてをりました。
多分、肌身離さず持ってゐたのでせう。私はその鍵で、難なく蓋を開けることが出來ました。
中を覗くと、私は背中に水を浴びたやうに、ぞっと寒くなりました。
黄八丈の袷に黒襦子の襟をかけ、水色の半襟をかけた銀杏返しの美しい人形が、ぱっちりと眼を開いて私の方を見てゐるではありませんか。
その顏は――、道場で見たのと寸分違ひありませんでした。眼の下の泣黒子までそっくりで――。きっと、誰かの似顏を人形師につくらせたものだと思ひます。
私は箱の底に書いてある字を、むさぼるように読んで、愕然としました。
「愛しき最愛の妻、玉木阿佐子、肺をやみ、水に投じて死す」
姉上様、あなたは斯ういふ名前の女を御存じありませんか？
初婚のつもりでゐた私は、それ以來、後妻であったやうな氣がしてなりません。そして私の見た女とあの人形は同一人物で、正也の先妻であったのに違ひないと思ひます。
これが私の心境を変化させた、一つの理由であります。
注）明らかな誤字誤植は修正しています。
注）句読点は追加変更したところがあります。
「ふしぎな破獄」
別冊宝石 1949.08. (昭和24年８月) より
(『決闘する女』『逆光線の彼方へ』収録)
１
「このエビフライ、召上って下さいな。私が釣ったんですのよ」
得意さうに、お膳のナフキンをぱっと取り除けて、北澤書記官の新妻多美子は物珍らしさうに云ふのだった。
「裏のお池の中に、五六寸位の車海老が、とても澤山、うようよわいてますのね」
「前の溝には目の下一尺位のプラトウがどっさりゐて、子供にだって、造作なく釣れますよ」
通譯官の藤嶋武夫は淋しさうな微笑を浮べて、ちらりと膳の上を見た。夫人の心づくしの手料理がいろどりよく並んでゐたが、彼は箸をとる氣になれなかった。
「私、ちっとも食慾がないんですから、どうぞ、もう、あんまりお氣をおつかひにならないで下さい」
「だって、何も召上らないとお體が弱りますわよ。お食事係りは私と定りましたから、召上って下さらないと、私、公使に叱られます」
と、云ったが、この狹い、風通しの惡い、汚たない牢屋の中に閉ぢ込められてゐては、食慾のないのが當然だと思はれた。
罪人のゐない時は、この牢屋は物置がはりになってゐて、内地から取り寄せた味噌樽だの、澤庵の樽だのが放り込んであるので、それ等の異様な臭氣が濕氣と交って鼻をうつ。
部屋とは名ばかりで、三疊敷にも足りない土間に、道具と云へば椅子が一つ、小さい食卓と洗面器、隅の方に四角な箱――それは便所であった――としかなかった。
彼は終日この椅子に腰かけて、天丼に近いところにたった一つある小さい窓――それには鐵の格子がはまってゐた――から外を見てゐた。合歡木の葉が茂って、太陽の光線をさへぎってゐるので室内は薄暗かった。
「さぞ、お退屈でせうねえ」思はす多美子は云った。
彼は頭を振って、
「いゝえ。ちっとも。――あの窓からいろいろなものが見えますよ。九官鳥がやって來る時もある、リスが枝から枝を走ってゐることもある、昨日は若葉いろの太い蛇が幹にからんでゐましたよ。ふだん、忙しくって、何にも氣がつかなかった自然の眺めがあるんですからアハヽヽヽヽ」と空虚な聲で笑って、
「夜は星が見えますよ。星の瞬くのをじいと見てゐると、月に手を合せて拜んでゐた故郷の母の姿を思ひ出します。母の病氣をなほしてやりたいばっかりに、金の必要に迫られた私は、一八をやって、大金を得ました。儲けたのはたった一度ぎりですが、それがやみつきとなって一八がやめられず、その癖焦れば焦せるほどどんどん金を失くしてしまひ、つい、官金にまで手をつけるやうな始末になって、遂々こんな罪を犯すことになってしまひました。
恨みの一八！ 若い者が勞せずして大金を得たといふことが、そもそも過失のもとです。私は一八の事を思ふと今では身震るひが出ます。あのために自殺する人がいく人あるか知れないさうですからね。母が聞いたら私も自殺してくれた方がよかったと申すでせう。息子が罪人になるよりは――」彼は悲しげな離で云った。聞いてゐる多美子は胸が痛いやうだった。
藤嶋武夫は文書僞造と公金費消といふ罪に問はれてゐるのだった。それ位のことで牢屋に閉ぢ込めることもあるまいに、と、大分非難の聲が高かったが、何分藤嶋は當地の留學生で、土語に精通してゐる上に、日本を離れてから十年にもなるので、土地の風習には馴れきってゐる。
ところが、あとの館員は公使は勿論北澤書記官も警察官も全部此度新らしく赴任した者ばかりで、土地の事情はまるでわからない、もし彼に逃亡することが出來れば、かくまってくれるところはいくらでもあるだらう、と云ふ懸念が充分あった。そのため少し可哀想だが已を得ないと云ふことになり、その代り待遇をよくしてやらうと、公使は食事を多美子夫人の擔當とし、食事中だけは特別に彼の話相手になってやることを命じたのだった。
「お母さまにはお知らせにならない方がよろしいでせうねえ」
「いつかは耳に入るでせう。その時の母の悲しみを思ふと私は、このまゝ内地へ歸らずに死んでしまひたいと思ひます。生きてゐたところで、どうせ、もう、私の將來は知れたものですからねえ」
「そんなに悲觀なさることはありませんよ。お若いんですもの」
「若い？ だって、奥様、私はもう二十七になるんですよ」
彼は心の中で刑期を自分の年に加へて見て、暗い顏をした。
「親孝行をなさらうと思っての過失ですもの、世間の人はあなたを冷めたい眼で見やしませんでせう」
「世間の人？ では――、奥様は何とお思ひになる？」
「私？ お氣の毒だと御同情してをりますわ。公使の御厚意で、あなたと斯うしてお話が出來て、少しでもお慰め出來ることをうれしく思ってゐますの」
「御迷惑ではございませんか？」
「とんでもない。私はよろこんでをりますの」
彼はそれぎり口を喋んでしまった。多美子は彼が早く箸をとってくれゝばいゝがと密かにねがってゐた。
「いかゞ？ 少し召上ってごらんになりません？ 私の下手なお料理――」
「お上手ですよ。私はいつもおいしく頂いてをります」
「嘘ばっかり！ 明日はもっとおいしいのを持ってまゐりますよ」
「？」
「明晩は御宴會がありますの。御馳走が澤山出來ますわ。公使が築地の料亭から連れていらしたコックが、腕によりをかけてつくるさうですから――」
「どなたがおいでになるんです？」
「この國のプリンスやプリンセスださうですの」
「それは大變、おいそがしいでせう？」
「えゝ、もう、ごったかへしてゐます。明晩の騒ぎが今から思ひやられますわ」
藤嶋は少時考へ込んでゐたが、急に起ち上ると、つかつかと多美子の傍へよって、
「奥様、あなたはほんとに私に同情して下さるんですか？」といきなり彼女の手をぎゅっと握った。
多美子はびっくりして、手を引き込めながら、
「それはもう、ほんとにお氣の毒に思って――」
「ほんとに？」
「えゝ」
長い沈黙がつゞいた。彼の荒い息づかひが牢屋の中を息苦しいものにさせた。
「なら――奥様、私を逃がして下さい」
「そんなこと――」と尻り込みした。
「絶封秘密、誰にも私は申しません。たとへ失敗して、再び牢屋につながれようとも――」
多美子はわなわなと體をふるはせた。
「逃がすって、そんなこと――、どぅいふ風にしたらいゝのかもわからないんですもの」
「何でもありません。明晩のどさくさまぎれに――。鍵を外して下さい。私はすぐサロン姿になって、土人の部落へもぐり込みます。誓って、あなたに御迷惑はかけません。私は一生土人になって暮らします」
「土人で一生暮らすなんてつまらない、お止しなさいませよ」
「奥様は嫌疑のかゝるのを恐れていらっしゃるんですね。私を自由の體にして下されば、鍵は私がねぢ切ったやうにつくって置きます。お願ひです。奥様、助けて下さい。藤嶋を生かして下さい、殺さないで下さい」
多美子は息がつまるやうだった。
「牢破りをして、もし捕ったら――、あなたの罪は大變に重くなりますわよ」
「構ひません。捕ったら捕まった時のこと、私はこのまゝ内地に連れて行かれるよりは――、母の悲しみを見るよりは――、むしろ、この國の土になる方がましなのです」
それはさうだらう、と、多美子は思った。で、仕方なく、
「では―― 、明晩‐――」と云った。
「ありがたうございます」
藤鳴の眼に涙が光った。
多美子は首尾よく逃がしてやったが、運惡るく、また捕ってしまった。
２
「それで、藤嶋さんと私とが懸愛關係にでもなるとお話は面白くなるんですが、殘念ながら、あのひとにはあれっきり顏を合せる機會もなかったんですから――」
憂鬱症で半病人のやうだった多美子の朗らかな顏を見たのは、十何年ぶりかのことであった。彼女は大切さうに膝の上にのせてゐた手箱を北澤の前に差出し、
「まあ、御らんになって下さい。この中には十通の手紙が入ってゐます。それから素晴らしいダイヤと――」
「ダイヤ？ 君は供出しなかったのか？」
「出來なかったんですわ。あなたへ秘密だったから」
「何時買ったんだ？ こんな立派なものを―一」
「藤嶋さんからの贈り物ですの。これが牢破りのお手博ひをしたお禮よ」
既に時効にかゝってゐる今日問題にはならないが、やっぱり彼女は破獄の手傳ひをしたのかと、北澤は苦い顏をした。彼は不愉快さうに文束の中から一通引きぬいた。
（北澤多美子様
あの時、あなたが衷心から私に同情して下さったのだったら、まさか、こんな結果にはならなかったでせう。
私はいまだにあなたの同情に疑惑をもってゐます。あの同情は實に徹底してゐない。
多分、奥様はあの時の私の氣魄にたぢたぢとなって、已を得ず私を逃がして下すったが、やはり破獄補助罪が恐しくなって、私を密告して捕へさせたとしか解釋が出來ないぢゃありませんか。
何故と云って、土人の部落にひそんでゐることを知ってゐるのは、あなた一人しかなかったんですから。
一旦は私の願ひを受入れて逃がし、ぬか喜びをさせて置いて、改めて捕へさせるなんて卑怯です。陰險です。人をおもちゃにするにも程がある。
公金の使ひ込みがいかに多額でも青年の一生を葬るには價しないでせう。また、ほんとに使ふつもりなら他に方法はいくらでもあります。あなたの御主人は、あなたの一言でどんなにでも動くといふ評判があった位でしたし、公使に縋って下すっても、あれっぽちの金、一國を代表する方にとっては何んでもなかった筈です。
おかげで、私はたうとう一生浮び上ることが出來なくなりました。前科者ですもの。右を向いても、左を見ても、世間は冷めたい眼で私を睨んでゐます。私はまたあなたを睨みます。恨みをふくんだ眼で――。
あなたに贈ったダイヤのやうな輝いた眼で――、あなたの心臟を突き刺して、殺してしまひたい、と、じいと、じいと、永久に睨みつゞけてゐます。
私ののろいの眼が、絶えずあなたの身邊にそゝがれてゐることを御記憶下さい。
しかし、あなたとしても、あの時以來、御主人にも打ち開けられない一つの秘密が、私とあなたとの間に生れてゐるのです。破獄補助罪、法に嚴格な御主人はそれを知ったら、必ず私同様な所置をとられたことでせう）
北澤は讀み終ってから、
「名がないぢゃないか？」と云った。
「なくったって、藤嶋さんだってことはわかってるぢゃありませんか。かういふ手紙が毎年四月の十五日の消印で、届くんだからたまりません。それが私を病氣にした原因――」
「ばかな。こんな脅迫状ぐらゐで――」
「あなたへお話することも出來ないだけに、私はひとりで、どんなに苦しんだか知れません。何んとかして藤嶋さんに會ひ、あのひとの誤解をときたいと思って随分探しましたが、居所は皆目わからないんです」
「ほんとにお前はあの時藤嶋を逃してやったのか？」
「えゝ。あんまり可哀想でしたから――、でも、私、密告なんかしませんわ。あのひとは一途に私を疑ってるけれど――」
「逆恨みだ、自分の惡るいことは棚に上げて――。怪しからん」
「私はこの手紙が舞ひ込む頃になると決って病氣になりました。私が夜中に起きて、よくカルヂノンを飲んでいるのを知っていらっしゃるでせう？ 心臟がとても苦しくなるんですの。藤嶋さんの眼に心臟を刺されるやうな氣がして――」と笑って、
「神經といふものは恐ろしいのね。払は全く藤嶋さんにのろはれてゐると思ってゐたんですわ。ところが、十數年過ぎた今ごろになって、何もかもがすっかりわかりましたの」
「ホウ」と云って、北澤はのり出した。
３
「それは一昨日の夕方のことです。大塚仲町から護國寺へ行くだらだら坂の途中で、ふっと顏を上げると、あへぐやうにして坂を登って來る人があるぢゃありませんか。くたびれた洋服に赤革の大きな鞄をだらりと下げて、さもさも疲れ切ったといふ風で――、それが藤嶋さんだったんですの。私、一寸足が竦くんでしまひました。
あちらでも私の顏を見ましたが、直ぐ面を反らしてしまひ、素知らぬふりをして行き過ぎようとするんです。
私は彼に追ひすがって、
（藤嶋さん、まあ、いゝところでお目にかゝりました）と、聲をかけました。
彼は一寸びっくりしたやうでしたが、やがて怪訝な面持ちで、私をじろじろと見て、默って、首を傾しげてゐるんです。
（あなた、藤嶋さんでせう？ たしかにさうですわ。お忘れになりましたか？ 私、北澤多美子でございます）
（違ひます。人違ひではありませんか。私、藤嶋ではないんです）
素氣なく云って、さっさと歩き始めますので、
（いゝえ。人違ひではありません、たしかに、藤嶋さんですわ。あの、外國にいらした――。私を覺えていらっしゃるでせう？ 私、是非お話いたしたいことがありますの、それで随分方々お探しいたしましたんですけれど――）
（どうも、私には更に記憶がありませんですな。何かのお間違ひぢゃありませんか。私は急ぎますから、失禮いたします）
と、一寸帽子に手をかけて、逃げるやうにして行ってしまったんです。
私は彼がわざと知らないと云ひ張ったものと思ひました。折角此方から聲をかけて、話したいことがあるとまで云ったのに、先方がさういふ態度に出るならば、此方だって考へがある、と、私は夕暮の雜沓を幸ひ、見えがくれに後を尾けることにいたしました。
恐らく彼は勤めの歸途か何かで、護國寺で電車を降りたに違ひありません、さすれば彼の住居はこの邊にある筈です。
私は仲町に住んでゐるのですから、實に眼と鼻のところです。
そんなに近くから恨みの眼で見てゐられてはかなひません。
出會ったからには、どうしても住居を突き止め、改めて訪問するなりして、當時の私の氣持ちをよく話し、誤解をときたいものと思ひました。
何と云っても會ふのが先決問題です。
彼は私がよもや尾けてゐるとは思はなかったのでせう。暑い頃でもないのに、しきりにハンケチで額を拭ひながら、細い路地を曲って、奥から三軒目の家の前で立と止りました。やがて、格子戸のガラガラッと開く音を聞いたので、私は踵を返しました。
そして、昨日、またそこへ出かけました、彼から贈られたダイヤを持って――。
ところが、格子戸はかたく閉され、人のゐる氣配もしないんです。二三度聲をかけてゐますと、お隣りの戸が開いて、女の人が顏を出しまして、
（そちらは、今朝早くお引越しになりましたよ）
と云ふのです。
（どちらへ！）
（お國の方だとか云っていらっしゃいました）
（藤嶋さんと云ふ方でせうねえ？）と念を押して訊いてみますと、
（いゝえ。藤嶋さんとは仰しゃいません。田川さんですよ）
（田川さん？）
私が妙な顏をしたのでせう。
（お國の方に奥様やお子さんが殘しておありだとかで――、おひとりで住んでいらしたんですが、御病氣勝ちで――、御養子ださうですね）
成る程と思ひました。自分の姓を使ふのを憚って、養子に行ったものと見えます。それ程までに世間を狹く暮らしてゐたのかと思ふと、氣の毒になりました。
彼の云ふやうに、本氣になって救はうと思へば、或は救へたのかも知れませんね。お金さへあればよかったんですから――、そのお金がなかったから仕方がないけれど。なまじっかの同情は反って惡い結果になるものと私はつくづく思ひました。今更取り返しがつかないことですが、私は藤嶋さんにすまないやうな氣がいたしました。
私は藤嶋さんとの再會をあきらめて歸宅いたしますと、此度は田川といふ人から手紙が來てをりました。讀みますから聞いていらして下さい」
（あなたが北澤夫人でいらっしゃるといふことも知らず、昨夕は大變失禮いたしました。私は歸宅後いろいろ考へてゐるうちに、はッと氣がついたのです。
私は藤嶋武夫の弟でございます。兄からよくお噂は聞いてをりました。
咄嗟の事だったので、全く思ひ出せなかったのです。
私は急に歸國することになりましたので、もう一寸お目にかゝる機會もなささうに思ひますので、一筆書くことにいたしました。
兄武夫は十四年前、肺結核で亡くなりました。臨終の枕許に馳けつけた私に、兄はお許様宛の手紙を十通示し、毎年四月十五日この手紙を一通づゝ投凾せよと命じました。
絶對に開対してはならぬと申しつかりましたので、内容は全く存じませんが、私は兄の遺言のつもりで、十通、恰度十年間手紙を出しました。
なほ兄が息を引き取ります際、かつて御許様から非常な御好意を受けたことを深く感謝してをります、と、お目にかゝる折もあらばお傳へしてくれと申しました。
それですのに、一昨日はあまり突然でしたので、すっかり失念してしまひました、申わけないことゝ、こゝに書き添へて御わび申上げる次第でございます――）
――終――
注）明らかにおかしなところは修正しています。送り仮名の不統一はそのまとしています。
注）会話中の会話、手紙の部分は（）が用いられています。そのままとしています。
注）句読点は追加変更したところがあります。
怪異讀物「呪ひの夕霧姫」
読切読物増刊 1949.08. (昭和24年８月) より
女人禁制――夢かまぼろしか――
お上人さまの剃刀が私の頭へ當てられようとしたその瞬間でした。私の視線は偶然ばったり、廊下の端に立ってゐる女人の眼にぶつかったのです。女人禁制の山深いこのお寺の、しかも本堂に、いま、稚兒から一人前の僧として人生へ新しい出發をしようといふ、神聖な剃髪の式場に、けがれ多い女の姿が見えるとはなどと、不審を抱く暇もないほど、私の心は忽ちその女性に惹きつけられてしまったのです。人間のもつ樂しさを表現する言葉ではとうてい云ひつくすことができません。
街の繪師が書いた多くの女人の繪をみたことがあります。しかし、どんな氣高い美人を描いてあっても、それらの美しさにはどこか下卑たところがあり、また有名な彫刻家や秀れた高僧の彫ったという氣高い觀世音菩薩の像を見たこともありますが、しかし、それらは氣品こそはあるが、どことなく冷たい感じで人間らしい情を覺えないのです。
だが、いま、彳んでゐる女性は氣高くしかも何と人間らしい温かさが全身にあふれてゐることでせう。私は高貴な殿上人の服装はよく知りません。しかしその婦人の衣装はたしかにそれらしく見えました。そして、黒い大きな瞳でじいっと私の方を見詰めてゐるのです。
「あなたのやうな美しい稚兒が、どうして髪を剃すの！ 可哀さうに――、それでは一生の幸福も台なしになってしまふぢゃないの」
憐れみをふくんだ眼差しは、ちょうどさう云ってゐるかのやうにさへ思はれるではありませんか。
「待って下さい。ちょっと待って」
叫ばうとした途端、お上人様の剃刀はぞろりと私の髪のうえにおろされてゐました。
周圍に並んだ和尚さま達のあげる讀經の聲が一段と高く響いて参ります。
はっとしていま一度、女人の立ってゐた廊下のあたりをながめました。ああ、私は夢をみてゐたのでせうか、この白晝、幻燈に襲はれたのでせうか。私は瞳をこらしてあたりをじっと見廻はしながら、眼をしばたきました。しかし、そこには、女人どころか虫一匹の姿さへ見出せませんでした。
靜かな山深いお寺の本堂です。ただ、私の剃髪式にあげてくれる和尚さまの讀經の聲ばかりが蝉時雨のやうに響いてゐるばかりでした。
夜更の訪問
それから八年は事もなく御佛の深い御慈悲をうけながら、徳高い法圓御上人様のもとで、幸福な、しかし、修養の毎日を送ってをりました。御佛の惠みのほか、浮世のことは何ひとつ考へず、たゞ修業にのみ心を打ちこんでゐた私でした。そして二十五歳の年に、選ばれて法圓御上人様のもとを離れ、都にある興福寺の若い住職として、新らしく赴任して行ったのであります。
毎日々々雨が降りつゞいた梅雨時のある夜のことでした。小僧が私に見知らぬ訪問者があることを取り次いで参りました。
「病の床にある主人のため、是非、尊い御法を賜はりますやう、と由緒ありげな老女が参って居りますが……」
「この夜更けにな」私は訊き返しました。
「左様でございます。御惱みも重く見受けられますので、ぜひぜひにもと申されて居ります」
「御惱み重くとあらば、捨てても置けまい、直ぐ参るとお傳へなさい」
私は用意を整へて外へ出ました。一寸先もわからないやうな闇夜でした。細い眼の糸のやうな雨がしとしとと降りつづけて居ります。
「さァ、これへ」
老女が示す灯提の先に照らされて、黒塗りの駕籠がぽっかり闇のなかに浮んでゐるのが見えました。
私が乗ると同時に、駕籠はかつがれたらしく、少しゆれました。そして、雨をついて矢のやうに走り出したのです。そして駕籠の戸をぴしゃりぴしゃりと叩きます。そして、駕籠はまるで宙に浮んでゐるかのやうに、夜の暗黒の中を飛ぶやうに走りつづけるのでした。どこへ行くのだらう。私は行先を訊ねなかったことに氣がつきまして、一寸不安な氣持になりました。思へば、この夜更の訪問と云ひ、老女といひ、この駕籠といひ、すべてが不思議なものばかりでした。かうして、約半時間の長い間、私は雨の中をゆられたのでした。
「開門」
駕籠が留ったかと思ふと、先に立った武士の呼ぶ聲がしました。よほど大きな門をひらくのでしょう。ぎいッと閂のきしる音が響き、駕籠はふたゝび動き出します。そして、玄關と思はれるところに降されたのです。
「お降り召され、姫君様がお待ち兼ねでございます」
駕籠から外へ出て空を仰ぐと、雨はいつの間にか霽れて、折からの朧月に不氣味な暈がかゝってゐます。
駕籠の外には装束を身につけた武士たちが、ぬかづいて私の降りるのを待ってゐるのでした。
「さゝ、こちらへ」
先刻の老女が紙燭をつけ先に立って導いて参ります。何といふ立派な御殿なのでせう。内裏の御殿を除いてはこの都にこのやうな建物があらうとは想像できないほどでした。美しい燈籠が廊下の角々につるされ、金を打つ調度をきらきら輝かします。柱や戸に青く光って見えるのはうるしに塗りこめた螺鈿がきらめくためでせう。どことなく名香の匂ひが鼻孔を撫でて参ります。
數へ切れないほどの部屋を通り過ぎた後、最後に奥まった一室に通されました。部屋の境に御簾がたれてゐて、そのむかふにかすかに灯影が見え、誰かが臥ってゐるらしい氣配が判りました。
「お姫様はあちらにお寝みでございます。こちらで、何卒、御祈祷下さいますやう」
老女は御簾の彼方を眼で示しました。私は御簾越しに一禮した後、その部屋の正面にすゑてある佛の御像の前にひざまづきました。そして、心を濟まし、有難い經文を讀み上げるのでした。
やがて、讀み終りますと、ふたゝび、老女が現れて参りました。
「お蔭様で、姫君様のお氣分もいと快くなられたと仰せられます。で、姫君様はあちらの部屋でお茶など召し上りながら、氣晴しに御佛のお話など承はりたいとのことでございますが」
「さようなれば、お言葉に甘へまして……」
私は老女に導かれるまゝに御簾の向ふに當る居間に参りました。
「姫君様、興福寺の御上人さまでございます」
「御苦勞でございました……お蔭様で病もいと快うなりました。ほんたうに有難うございました」
姫君様は蒲團のなかから上半身をお起しになりました。灯影がゆらゆらとゆれて、横顏を照します。私は思はず、あッと叫ばうとしました。あの方です。忘れもしません、八年前、私が髪を剃さうとしたあの日、廊下からじっと私を見守ってゐたあの美しいお顏、たしかにあの時の女性に違ひありません。私は體中が焔になるやうに、かッかッと熱く感じました。すべての理性が朝日にあった霜のやうに消え去って、たゞ、やき盡すやうな焔だけが全身を馳けめぐって行くやうに思はれました。
煩惱の果
翌朝、私は疲れ果てた體を寝床から起しました。いくら考へてみても、昨夜の出來事が事實であらうとは信じられません。金の金具をつけた黒塗の立派な駕籠、公方様のお館とも思はれる豪奢な御殿、そしてあの美しい姫君様、それは夢の出來事以外の何であらうとも思はれないのでした。だが、夢にしては、何と、そのすべてがはっきりし過ぎてゐることでせう。これも、私の躯のなかに罪深い煩惱が宿ってゐるためでせうか。
廣大慈悲の如來様、哀れな私は畜生道に墜ち果ててしまひました。御佛の御功徳によって何卒、この煩惱の地獄からお救ひ下さいませ」
御佛の前にひざまづいて、二度と誘惑にはかかるまいと心に盟ひ懺悔の涙を流す私でありました。しかし晝を過ぎ黄昏時にもなってくると、いつの間にか心はよそへ飛んで行くのでありました。
「明日の夜も、ぜひまたお越し下さりませ、使ひの駕籠をお迎へに出しますほどに、もし貴僧さまがお出になりませねば、姫は焦れ死んでしまひます。
別れ際に述べた火を吐くやうな言葉が思ひ出されます。何か恐ろしいものでも待つやうに迎への駕籠を心待ちにする私でした。やがて、あたりも暗くなった頃、ふたゝび昨夜と同じ黒塗りの駕籠が玄關へ着くのでした。
「お迎へに参上いたしました。姫君様がお待ち兼ねでございます」
昨日と同じ老女が私を迎へに参ります。もう、二度と行くまい、とあれほど心に盟った私ですが、誘はれると意氣地なくも、その盟ひはくづれて、思ひ出をたづねて駕籠に身を任すのでした。
そして、その翌朝は如来の前にひれふして再び後悔の涙を流してゐる私を見出すのです。
駕籠は毎夜、きまってきました。そして、私は毎夜毎夜秘密の場所へ運ばれて行くのでした。どんな素晴らしいものでも必ずあくときが來るものだ、と、きいたことがあります。しかしこの姫君様に限り當てはまらない言葉でした。なぜなら、姫君は私が求めるどんな女性にでも自由にかはり得るといふ不思議な力を持ってゐました。姫君はたったひとりでありながら、多くの女性の魅力を悉く備へてゐました。從って彼女はいつも私にとっては新鮮で飽くことを知らなかったのであります。姫君は自分が何者であるかに不審を持つなと仰せられて居りました。
そしてまた、「この秘密は誰にも仰せられますな」とも云って居られました。もし秘密がもれたならば、私達は永遠に逢ふことが出來なくなるから、と、彼女は私に秘密を盟はせて居ました。しかし、僧である私が、どうしてこの秘密を人に語り得ませう。今の私には彼女と一緒に過すこの幸福なひとときさへあればよかったのですから。
私は實に幸福者でした。少くとも夜の間だけは――。これ以上の喜びがこの世にあらうとは思はれないほどの幸福感に浸ってゐたのでした、だが、その幸福はいつまでもつゞきませんでした。
血をすゝる姫
姫君に逢ってからひと月ばかり經った頃でした。彼女は急に理由の解らぬ病氣にかゝり、それが時々重くなって病床についてしまひました。そして、一日々々とやせ衰へて行くばかりでした。これが私に與へられた佛罰なのでせうか。罪深い私ではありましたが、自分の生命にかへても姫君のため、佛に祈りました。知ってゐる限りの藥を集めて姫にすゝめもいたしました。しかし、少しの効果もなく病は重くなって行くばかりでした。
ある日私は檀家の一人から贈られた新鮮な桃を姫君の見舞ひに持参し、彼女の枕元で桃をむかうとして、どうしたはづみか、小刀がすべって、手の甲をしたたか切りつけました。膚が破れぽっちりと赤い血のかたまりが盛りあがって参ります。私はあり合はせた懐紙でそれをぬぐはうとしました。
するとどうでせう、いままで生氣なく横たはってゐた姫は、とっさに飛びつくやうにして、このきり傷に口唇をおしあてるのでした。そして、渇した人が水を飲むやうに、さもうまさうに切口からこぼれようとする血をすゝるのです。
「許して下さいね。私はかうしなければ生きてゆけないと云はれたのです。貴僧様の生きた血は一滴々々私のいのちを永びかせて下さいますの。でも、すまないわねえ」
唇を離してほっと息をついた姫はほろほろと涙を流しながら、さう云ふのです。姫君が必要とあるならば、私の血なんかちっとも惜しくはない。私は姫の前に傷口を押し出すやうにして、血をしぼりながら、
「飲んで下さい、どうぞ、いくらでも、こんなことであなたの生命が永くなりますなら――」
私の血の効果があったためでせうか、姫の美しい頬には生氣が見え出しました。
「ゆるしてね？ ほんとにいゝ方ねえ」姫はにっこりしました。
「あなたのためならば、私の血は最後の一滴だって惜しみません」
「ほんとに」
姫はひしと縋りつき、二人はいつまでも抱き合ってゐました。そして以前の生活を私達は二人の小兒のやうに無心につゞけてゐたのであります。
その後も姫君はたびたび前と同じやうに不思議な衰弱をつゞけることがありました。しかし、もはや、それは私にとって、何の心配でもありません。私は進んで、姫君に血をすゝらせました。そして姫君はふたたびもとの健康をとりかへすのでした。
だが、姫と反對に此度は私が日一日とやせおとろへて行きました。顏は蒼ざめ、手足は力なく、病人のやうに氣だるい毎日を過すやうになったのです。しかし姫君のためを考へればこのくらゐの犠牲がなんでせう。生命をすてゝも惜しくないと思ふほど、戀の虜になりきってゐる私でありました。
姫の正体
かうして夢のやうな樂しい毎日を送ってゐるとき、突然、私の寺へ法圓上人が訪ねていらしたのです。人跡たえた山奥の寺でたゞ修業にのみ過しておられたお上人様が、この都へ突然お越しにならうなぞとは夢にも思はなかったことで、全く意外でありました。
「わしは毎晩、つゞけて惡い夢をみた。それはお前のことについてぢゃ。お前が何か惡い目に逢ふてゐるらしいのぢゃ、わしはさう思ふと、矢も楯もたまらず、その足で山を出て、こゝへ來たのぢゃよ」
上人様の眼は渡斎の心の奥底まで見通すやうに思はれました。
「いゝえ、師父様、私には何も變りはござりませぬ。いつも同じやうに毎日御佛に仕へて居りますだけでございますが――」
「いゝやさうではあるまい。この寺の山門を入ったとき、わしは、ハッとしたぞ。わしの夢が間違ひでなかったことを覺った。お前にはわかるまいが、この寺には死靈のたゝりがありまするぞ。この寺だけではない、お前の、それ、お前のうしろに死靈がつきまとうて居りますぞ」
上人様は手を伸して私のうしろを指さすのでした。
「隠すなよ。わしは見通してゐるのぢゃ。何か變ったことがあったらう。すべてをわしに懺悔しなされ」
「いゝえ、師父様、なにがござりませう。私はいつも同じやうに、たゞ御佛に仕へてゐるばかりでございます」
この秘密は誰にも云ふな、云へばきっと、すべてが駄目になる、さう云った姫の言葉を思ひ浮べながら、師父に嘘を吐いたのです。
「ほゝう、よくよくたちのよくない死靈にとりつかれたものと見える。お前は鏡を見たか。それ、氣になるぢゃらう、このまゝで居ればあと十日の命もむづかしからう。可哀そうなことぢゃ。すべてをわしに懺悔して見なさい。例へば、それが、女人から、決して云ふなと口どめされたとしてもな」
上人様はよほど私を憐れと思召されたのでせうか、涙さへ浮かべて、云はれるのです。私もたまりかねて、
「師父様、それはまことでござりませうか」
「まことぢゃ、お前の顏には七日を出ずして死ぬ相があらはれてゐる」
「えゝッ？」
法圓上人の法力を疑はず、おそれ尊んで來た私でした。何か、心の中の奥底まで、全部見知られてしまったやうな氣がして、最早、この秘密を守りつゞける勇氣がありませんでした。
お赦し下さいませ。お上人様、私は大きな罪を犯して居ります」
「さうぢゃ、それに違ひあるまい。御佛の慈悲は医大ぢゃ、悔ひ改めればすべては赦して下さる。正直にすべてをこのわしに物語りなさい」
叱られるかと思ひのほかいつもと變らない、やさしい師匠の情に、私は思はず兩眼からはらはらと涙がこぼれて参りました。
「泣くには及ばぬ。さァ、遠慮なく語りなされ、誰にでも過失はあるもの、心配せんでもよろしいぞ」
私はいまは包み隠すことも出來ず、姫君に逢った最初の夜の出來事から、今日に至るまでをこまごまと物語ったのでした。話をきいてゐる、上人様の顏はみるみる固くなって行くのがわかりました。話し終ると、上人様はじっと私の顏を見詰め、
「よく打ち開けてくれた。もし、ひたがくしにしてゐたら、お前の生命はなかったであらう。しかし、もう案ずることはない。わしが助けてやる、お前はその姫君をこの世の者と思ってゐるかも知れぬが、それはこの世の人ではない」
「何と仰有います。あの美しい姫君が」
「さうぢゃ、もう、この世を去って二百年にもならうか。聞くところによると、むかしこの興福寺に若い住持があってな、その住持に夕霧といふ尊い姫君が懸想されたさうぢゃ。しかし、高貴な姫君のこととて思ひも叶はず、たうとう焦れ死されたと聞いてゐる。しかし、恐ろしいのはその女の一念で、その後も折があると、この興福寺の若い僧を誘惑するといふ話ぢゃ。わしは師父からも聞いてゐるのぢゃが何でもわしの師父の兄弟子に當る僧がやはり、姫君の亡靈に惱まされたうたう生命をなくしたといふ話ぢゃ」
「……………」
「まだ、半信半疑のやうぢゃな、いや信じられぬのも無理でなからう。しかし、お前は晝間、その姫に逢はれたことがあるのか」
「いゝえ、いつも夜でございます」
「さうであらう。晝は仔細があって訪ねるな、と申されたであらうな」
「はい、晝は人眼をはゞかる程に、と仰せられまして……」
「さうであらう。これからわしが、姫の正體を見せて任はさう。善は急げぢゃ、これから直ぐ参る」
さう云ふと、旅装をぬぐ暇もなく錫杖をとり上げその足で私を後に從へ、外へ歩み出るのでした。
二ときも歩みつゞけて、たどり着いたところは山深いなかに朽ち果てた見る影もない御殿の殘骸でした。
「お前が毎日訪ねて來た御殿はこれぢゃ、わかるな。これが夕霧姫がかつて住まれた御殿の跡なのぢゃ」
上人様は手に持った錫杖で草をかき分け、かき分け、なかへ進まれます。
庭も泉水も悉く、昔の美しい姿は想像も出來ぬほどまるで暴風雨の跡のやうに掻き亂されてゐました。
御殿のなかは、これはまた、何といふはげしい變り方でせう。屋根は風にまくられ、床はいたみ、名もない灌木が朽ち果てた床板の間から、ところきらはず這ひ出してゐるのでした。
幾つもの部屋を通り過ぎて、最後に奥まった一室へ通ったときです。私は思はずぞっとして立ち留りました。
あゝ、そこにはお話しするのも恐ろしいことがございました。ほの暗い部屋の片隅の几帳の蔭に、薄靄のなかの人影の様にしらじらと浮き上った女人の姿が見えるではありませんか。じっと眼を凝らして見つめると、間違ひもなく、あの美しい姫の姿なのです。
法圓上人様も釘づけになったやうに立ち留りました。その面には云ひ知れぬ複雑な感情があらはれて居りました。影のやうな姫ですのに、どうでせう、口唇のうへにだけはしたゝるやうな鮮やかな生血の色がくっきりと彩られて、まるで、そこだけは生きてゐるかのやうに見えるではありませんか。
「ごらん。これがお前の生血を吸ひとった、おいたはしい姫の姿ぢゃ」
上人様はひざまづいて、熱心に有難い經を讀まれるのでした。
讀み終へると、上人様は珠數をとって、念佛をとなへながら、姫の上へ載せました。
すると、どうでせう。いまゝでそこにあった姫の姿は、火をそゝがれた焔のやうに、忽ち消え去ってしまったではありませんか。
そして、朽ち果てた床のうえに生々しい血の滴りだけが、ちゃうど姫の口唇に當ったところにまるで、繪具で彩られたやうにべっとりと殘ったのです。
「これはお前の生血ぢゃ。この生血によって姫はふたゝび迷ひ出られたのぢゃ」
上人様は、珠數をとって、私の首にかけて下さいました。
その夜、私は夢のなかで姫に逢ひました。姫はいまゝで逢ったどの時よりいち段と美しく見えました。でも、私が走り寄らうとしますと、姫は悲しげに顏をそむけて、私を避けるのです。
「あなたは、約束に反いて、とんでもないことをして下さいました」
姫君の眼からは涙がはらはらと流れ、
「あなたは、私と毎夜あってゐた、あれが本當にあなたにとって幸福だったのではないでせうか。それだのに、あなたは遂に盟ひを破ってしまったから、私たちはもう二度と逢へませんのよ。そして、素晴らしい幸福は來ないでせう」私は涙にぬれて、夢からさめました。姫が夢に云った通りでした。
もはや、それっきり私は夢にもうつつにも姫に逢ふことはできませんでした。そして、姫の言ったとほり私には、あのやうな幸福の日は永久に失はれてしまったのです。――おわり――
注）あきらかな誤字誤植は修正しています。
注）句読点は追加や削除ををしたところがあります。
探偵実話「假面舞踏会の殺人事件」
実話講談の泉 1949.08. (昭和24年８月) より
１
「流石あ、あたいのお仕込みだけあって、隆公、今夜のフラ、素的だったよ。」
「おだてるない、俺、風邪ひいちゃったぜ。この寒さに素裸体になって踊るんだからなあ。」
「風邪ぐらい、ひいたっていゝさ。今夜のショウぢゃお前一等だった、すっかり人氣を浚っちゃッて、キャバレーのダンサー達うっとりと、見惚れていたよ。え？ オイ。」
ダンサーの花井銀子は隆の背中をポンと叩いて、
「ドア・ボーイなんかにしとくなあ、勿体ないや、立派な藝術家だもの。」
「何云ってやがんだい。」と、それでも氣恥しいのか顏を赤くして、
「見っともねえや、あんな眞似でもしなくっちゃ、食っていけないのかと思ふと情けなくなる。」
「さうさね。ドア・ボーイの月給やたまに出る御祝儀位ぢゃ、毎日のお小遣にだって追はれらあね。」
「いつまでもお姉ちゃんに食べさせて貰ってゐるのも氣がきかねえからな。」
「へッ、しゃれたこと云ってらあ。だけれどさ、こんなにシケ込んでゐちゃ仕様がないねえ、世間はまだお正月氣分でゐるだらうに、あゝ、何んかうまいことないかなあ。」
銀子は隆と肩を並べ腕を組んで、カストリにほてった頬を触れるばかりに近づけて云ふのだった。十近くも年長の彼女は、十九になった隆をまるで赤ン坊のやうに扱ってゐた。二人はアパートに同棲を始めてから、もう二度目のお正月を迎へたのだった。
今夜はキャバレーを早退けにして貰らって、いつになく十時頃省線を降りたが、アパートまで帰る途中で、毎晩立ち寄る習慣になってゐる屋台の暖簾を割って、首を突ッ込み、
「小父さん、熱いの、頼むわよ。」
湯呑みでぐっと呷り、燒鳥を頬張った。
二人は立てつゞけに、ぐいぐい飲んで、いゝ氣持ちになってアパートへ帰ると、事務所の電話室で盛んにベルが鳴ってゐた。
「誰も出ねえのかなあ。」
「時間外なんだらう。不親切だよ。事務所の親爺は――。用があって架ける電話だ、取り次いでやればいゝのに――。」
「親が危篤だって、会ひ損ふだらう、これぢゃあなあ。」
「あたいが取り次いでやらう。」
電話室に飛び込んで、いきなり電話機をとりながら、そこに彳んで待ってゐる隆を振り向いて、
「さっさと部屋へお帰りよ。そして、ガスに藥鑵をかけてコーヒーいれるやうにしといてね。」
隆がうなづいて、歩き出すと、銀子は低い調子で、
「モシモシ。」と云った。
あたりがひっそりとしてゐるので、相手の声がキンキン響いて來る。
「松村さんをお願ひします。松村さんですよ。此方は――高輪の邸ですがね。」
「あゝ、松村ざんですか？ ちょいと待って下さい。」と、云ひかけたのをぐッと呑み込んだ。松村は銀子の隣室の婦人であった。事務所からは一番離れてゐる、しかも、二階だ。銀子は彼女をよびに行くのは少し面倒臭かった。で、聞いて置いて、後で傳へてやればいゝだらうと考へたので、
「私ですが――。」と云ってしまった。
「あッ。お嬢様で――。」
と、急に丁寧になった。人をばかにしてやがる。銀子はぐっと癪にさわると糞度胸がすはってしまった。勿論酒の醉も手傳っての事だが、彼女はすっかり松村伯爵令嬢由美子になりすまして應待した。
「で、その仮面パーティは明晩なの？」と彼女の声いろを使った。
「さようで――、奥様の御誕生日でございますから吉例によって仮面パーティをお催しになります。是非とも、お嬢様にお帰り願ひたいと、旦那様からの御傳言でございます。と、申すのは、近頃、奥様がとかくお勝れになりませんので、いつまでも、お嬢様がお家を空けておいで遊ばすのが御心配だと仰しゃいます。奥様のお身になりましても御無理はないでございませう。
御親戚方のお手前もあるので、此際一度ゆっくりお嬢様と御相談なすって、御意見も承はり、御希望もいれて、いかやうにでもいたしますからお帰り願ひたいと云ふやうな、旦那様の方のお考へなのでございます。あまり強情をお張りになるのも御損かと存じますので、執事風情がさしでがましいと御立腹になるかも知れませんが、一つよく御考へ直しを願ひたいのでございます。」
松村由美子といふダンサーが、どうやら曰くありさうに思へてゐたのだが、かういふ電話に対して、銀子は一体何と答へていゝのかわからなかった。で、ただはいはいと受け流してゐた。
「さようなわけで――、では、明日はたしかにお出で頂けますのでございますね？」
「はい。まゐりませう。」
と答へてしまってからはッとした。すっかり忘れてゐたが、由美子は氣管支炎でずっと床に就いたきりでゐる。
明晩のパーティどころか、起きることも出來ないのだ、それだのに行くと云って約束してしまった、しかも、当人には一言も傳へずに――。
これはとんだことをした、と氣がついた時には電話はきれてゐた。勿論、番号なんて知ってゐよう筈もなかったので、銀子は一寸首をすくめ、
「こいつあ、しくじっちゃった、困ったなあ。」
えへらえへら笑ひながら部屋へ帰ると、コーヒーのいゝ香がしてゐた。隆は寝ころんで蜜柑を食べてゐた。
「何が困ったのさ。」
「今の電話ね。お隣の松村さんとこにかゝって來たんだよ。」
「よんでやりゃいゝぢゃないか。」
「面倒臭かったから。あたいが代役つとめちゃった。」
「親切だなあ。」
「電話口に出てゐたのは三太夫か何かしらなかったがね。馬鹿丁寧で、松村由美子さんをお姫様扱ひにしてゐるのが癪にさはったから――。」
「もとはお姫様だったかも知れないが、今はダンサーだからな。」
「それでね、明晩、松村さんの邸で仮面パーティをやるんだとさ。それに出席しろッて云ふから、出席しますって云っちゃった。ところが考へてみると由美子さんは病氣だらう？ どうしようかと思って困ってゐるのさ。」
「そんなことわけありゃしない、飽くまで代役で通すんだよ。どんな邸だか、松村さんは大きな話ばかりしてゐるから、いゝチャンスだ。お姉ちゃん由美子さんになりすまして見ておいでよ。仮面なら誰だかわかりッこありゃしない。」
「何も度胸だ、やっつけよう。立派なお邸でなかったら、由美子さんをあんなに威張らして置かないからいゝ。いづれ法螺に定ってゐるけれど、たしかめて見るだけでも面白いからね。」
「さうさ。考へてもみたよ。それほどの大家のお姫様がよ、遊んで贅沢して威張ってゐられる結構な身分を捨てゝ、ダンサーになるなんて、そんな算盤に合はない話はあるまいぢゃないか。きっと何か因縁つきの女に違ひないから、探ってみるねうちはあるぜ、俺もお姉ちゃんに從いて行かう。」
「駄目、駄目、そんなことしたらばれちゃうよ。それよりか、迎へに來ておくれな。高輪で松村さんッて訊けば直ぐわかるって、由美子さんが自慢してる位だから、番地なんか調べて置く必要もないだらう。」
「由美子さんは一人娘だって話だね。大切なお嬢さんをよく放りぱなしで置くもんだな。」
「そこが曰くありなんだよ。いまの伯爵の娘ぢゃないって話だよ。何んでもあすこは代々養子だってね。由美子さんのお母さんも家附きで、いまの旦那は二度目なんだとさ。初めの旦那に出來たのが由美子さんで、つまり継父なんだよ。だから折り合ひがわるくって家を飛び出したんだって云ってたわ。」
「お父さんに口説かれでもするんぢゃないか？」
「まさか。そんな事もあるまいが、お父さんはお母さんよりずっと若いんだってさ。」
二人は遂に電話のことは由美子に傳へなかった。が、翌朝になると隆は氷を買ひに行ってやったり、牛乳をわかして運んだり、まめまめしく世話をした。
「すみませんねえ。」
由美子は頭が上げられなかった。
銀子は水枕に氷を割って入れ、
「どう？ ちっとは熱が下った？」
眼を閉ぶったまゝ由美子は頭を振って、
「やっぱり同じこと。八度五分あるわ。朝っから、これぢゃ、迚も起きられないわ。」
「起きちゃ駄目よ。病氣の時はお互ひだから、遠慮なく用を云って頂戴よ。今夜は私達、少し帰りがおそいかも知れないから、何んでもしといて上げるわ。おかゆ、食べない？」
「ありがたう。まだ食べたくないわ。」
「ぢゃ、じっとして寝てなさいよ。二三日したらよくなるわ。ダンサーなんて労働ですもの、疲れが出るのよ。」
ふかふかした蒲團の裾の方をぽんぽんとたたいて、隙間風の入らないやうにして、
「ぢゃ、寝ていらっしゃいね。」
と云って起ち上ると、由美子の指輪をぬいて、
「すみませんが、そこの鏡台の抽斗にこれを入れて置いて下さいな。」と渡した。
「まあ、素晴しいダイヤ、よく光るのねえ、何カラットあるんでせう？ あんたは立派なもの持ってるのね。」と銀子はつくづく感心した。
「そんなもの。」由美子は何んでもないやうに笑って、
「私、指輪だの、ダイヤ入りの腕輪だの、それこそ一財産も家へ残して來ちゃったのよ、お金に困ると時々欲しくなるわ。お母さまのベッドの枕許の箪笥の二番目の抽斗に宝石箱を放り込んだまゝにして――、つまんないことをしたと、思ふ時があるのよ。」
「まあ、あんたは氣前がいゝのねえ、あたいが取って來て上げようか？」
「いつかお願ひする時があるかも知れないわ。きっと、まだ、あのまゝ納ってあるでせう。誰も手をつける筈はないから――。」
「宝石箱ッて、どんなもの？」
「私のは特別誂へだから、形は少し違ふのよ。蒔絵に青貝をちりばめたもので、内側に天鵞絨が張ってあるの。沢山入れるので大きくこしらへて貰らったから。」
「随分乱暴な人、そんな大切なものを箪笥の中へなんか入れて置いて、泥棒にとられたらどうするのさ。」
「盗られたって平氣よ。だから、私、鍵もかけずに置いてあるの。」
「まあ、鍵もかけずに――。」
銀子の眼が光った。
２
「あたい、何だか怖くなっちゃった。こんな氣味の惡い、得体の知れない話ってあるか知ら？」
銀子は追はれるやうに、裏門から飛び出して來て、石崖にへばりついてゐる隆の胸に顏を伏せ、はあはあ息をきらしながら云ふのだった。
「どうしたってんだ？ え？ 一体。」
「こゝぢゃ云へない。まあ、歩きながら話さうよ。あゝ氣味がわるかった。」
銀子は黒い仮面をむしりとるやうにはづして、懐中にねぢ込み、ピエロの服装の上に黒いオーヴァを着て、みなりをかくしてしまった。
「大きな構へだな。家の中もさぞ立派だらうね？」
「とても廣くって、あたい、帰るのに迷っちゃった。」
「誰にも怪しまれなかったかい？」
「うん。氣がつかなかったやうだよ。伯爵夫人ッて云ふのは病人だね、寝室は二階の素敵な部屋で、毛の深い絨壇が敷いてあって、歩いても足音がしないんだ。大きなベッドに水色絹の羽根蒲團がふわりとかけてあって、その中に奥様が埋ってゐるのさ。あたいに話がしたいと云って、女中が迎へに來たから行ってみたが、咳が出て物が云へない、そのうちに今度は呼吸が苦しいと云ひ出して、枕許にある藥瓶を指差して飲ませろッて云ふやうな様子をするんだ。
あたいが飲ませようと思って瓶をとりあげたら、ベッドの下から一本の手がにゅッと出てね、あたいの手から藥瓶を引ったくり、中へ何か入れて戻してくれた。あたいはもうびっくりして危ぶなく腰をぬかすところだった。そんなことも知らない奥様はしきりに早く飲ませてくれとせきたてる。あたいはうっかり口をきくとばれるから、仕方なくそのまゝ飲ませてやった。すると直きに落ちついたものと見え、そのまゝ眠ってしまったのさ。
いつまで枕許にゐても話をしないから、そろそろ引きあげようと思ってね、何氣なくあたりを見ると、成る程由美子さんの云った通り、箪笥がある。
あの中には宝石箱が入ってゐるんだな、と、思ふと急に欲しくなった。二番目の抽斗に手をかけると、スーッと開いた。ほんとに鍵がかけてないんだよ。あたいはまんまと宝石箱を盗み出し、ひょいと顏を上げると、今まで氣がつかなかったが、眼の前に大きな姿見があったんだよ、その鏡の中に、カーテンを分けて此方をじいと見てゐる男の顏が映ってゐるぢゃないか、無論仮面を被ぶってゐるんで誰だかわからないが、にやりと笑ったんで、あたいはゾッと総毛立っちゃった。」
「見てやがったんだな。」
「あたいはギョッとして、宝石箱を床の上に落し、そのまゝ逃げ出さうとすると、
（宝石箱を持って行け！）ッて、まるで命令するやうな声が後ろの方で聞えたんだ、鏡の中の男が云ったんだらうが、あたいは怖しくなって、ドアに手をかけると、男はカーテンから跳り出て、否應なしに宝石箱をあたいの腕の中に抱へさせ、煙のやうに姿を消しちゃった。消えるわけはない、カーテンの蔭にかくれたんだらうが、その素早やさには驚いちゃった、あたいは夢中で逃げ出した。」
「宝石箱はどうした？」
「持ってるよ。」
「盗んだんぢゃなくって、その男から貰ったんだな。」
「箪笥から出したのはあたいだもの。それに誰かに貰ったのかッて訊かれても返事が出來ない、やっぱりあたいが泥棒したことになるんだらうが、どうしてあの男が、あたいを捕まへようとしないで、宝石箱までくれて逃がしたんだらう？ それがわからないだけに、あたいは褸くってたまらない、きっと、あの男、矢張り泥棒か何かで、あたいに宝石箱をあづけたのかも知れないね。するといまに取りに來るかもわからない。だが、こんなわけのわからない話は恐しくって、後の祟りがありゃしないか不安になる。心配だなあ。」
「心配なもんか。これだけの宝石を賣りゃ、当分、お姉ちゃんと遊んで暮らせるぢゃないか。」
「お前にフラダンスをやらせないですむ、あたい、ほんとのことを云ふと、隆公のその逞しい立派な肉体を女の前で晒させるの、迚も辛かったんだもの。」
「俺だって、お姉ちゃんが、いろんな男と踊るの、いやだったなあ。金のありさうな男にモーションかけるの見てるのは堪らなかったぜ。そして、その晩は定って帰らないんだもの。」
「つまんない話止さうよ。それよりゃそれを賣って、熱海へでものして当分保養するとしようぢゃないか？ ね？ どうだい？」
「お姉ちゃんにゃ敵はない。俺とはてんで働きッぷりが違ふんだからね。」
ふたりはいそいそとして、暗い道をもつれるやうにして歩いた。
３
銀子と隆がアパートに着いた頃だった。
けたゝましい電話のベルに、宿直の刑事は受話機を耳に当てると、慌たゞしい声で、
「高輪の松村伯爵邸で、伯爵夫人が何者かに殺されてゐるのを、只今発見いたしました。どうぞ、至急御足労を願ひ度うございます。」
捜査主任を先頭に、電話を受けた刑事を加へて警視廳から七人自動車を飛ばして松村邸の鉄門を入った。表玄関の式台には執事を始め数人、緊張にこわばった人々が青い顏を並べて出迎へた。
右手の廣間には仮面を被った來客が二十人あまり、互ひに寄り添ふやうにかたまって、ひそひそと語り合ってゐた。
一同は現場へ歩を移した。案内に立った執事は、
「伯爵夫人は近頃健康を害されまして、お誕生祝ひの仮面パーティにさへも出席せられず、お客様の御接待は伯爵御自身がやってゐられました。」と云った。
「夫人はどこがおわるかったのですか？」
「白内障を病んでゐられます上に、お胸の方も最近大分進行されたお模様で、安靜の必要がございましたので――。委しい事は只今伯爵がおいでになりますから、伯爵自身が御説明遊ばされる事と存じます。」
主治医の島田博士は痛ましさうに夫人の死顏を見守ってゐたが、刑事達の前に進み出て、
「急報に接して馳せつけました時はもう手のほどこしやうもありませんでした。もう少し発見されたのが早かったら――と、殘念にも思ひますが、生憎パーティがあって、夫人の方は手薄になってゐられた様子ですし、藥は青酸だと思ひますが、なほよく調べて頂かなければなりません。」
と云ってゐるところへ、背後のドアが靜かに開いて、意氣なスモーキング姿の伯爵が現はれた。五十の坂を越した伯爵夫人の夫にしては非常に若く見えたのが、人々の眼に異様に感じたのだった。憂ひに沈んだ青白い顏、よく調った眼鼻立ちが冷めたい感じを與へたが、外國の映画俳優にでもありさうな美貌の持ち主だった。
刑事の一人は夫人の枕許にあるいろいろの藥瓶を電燈に透して振ってみたりしてゐた。
「小枝子は――。」と伯爵は言葉をきって、そこにゐる刑事達は相手にしないと云ふやうに、主任の方へ向いて語をつゞけた。小枝子は伯爵夫人の名であった。
「藥を集めることが一つの道樂のやうになってゐて、人からいゝと云はれると、それを求めないでは氣がすまなかったんです。それで、こんなに沢山の藥瓶が並んでゐるわけなんですが、青酸などのやうな毒藥はある筈がないんです。これは外部から、何人かゞ持ち込んだものとしか考へられませんが、それにしてもどうして彼女がそれを飲んだのですか、自殺をするやうな理由は全然ありませんでしたから――、私は実に解釈に苦しんでゐるのです。」
「何者かゞ？ 何かお心あたりがありましたら、率直に云って頂きたいと思ひますが。」
「多少、しかし、それは單なる私の想像で、口に出すべきことではありませんから――。」
「御想像でも結構です。何かの端緒を得るといふ例も少なくありませんから。」
「ですが――、どうもねえ。」
伯爵は云ひ澁ってゐたが、
「貴婦人ともあらう者が、こんな哀れな最後を遂げるとは――、宿命とでも云ふのでせうか、あんまり可哀想で――。」と鼻を詰らせ、そっと覆ひを脱って、夫人の死顏を見てゐたが、堪りかねたやうにはらはらと落涙した。
年こそ夫人は大分上だがふたりは同族間でも評判の睦まじい夫婦であった。それもその筈、先夫を失った夫人が、ある仮面パーティで一緒に踊ったのが縁となり、当時借金に苦しんでゐた貧しい公卿華族の次男坊だった彼を懇望して養子に迎へたのだった。先方からの條件としてその時夫人は多額の負債を拂はせられたと云ふ。仮面パーティはその記念として、毎年彼女の誕生日に行はれることになってゐた。
４
捜査主任は遂に、彼の云ひたがらない口を割ることに成功した。二人ぎりならばと云ふ申出でを承諾した主任は伯爵と差し向ひになった。
「実に、私の口から申し憎いことなんです。が、小枝子には先夫との間に娘が一人あるんです。」
「ほう。お嬢様がおありですか、それは初耳――。」
「戸籍謄本をごらんになればわかりますが、彼女が二十一歳の時産んだのですから、只今もう三十四になります。」
「どちらに御縁づきになっていられます？」
「それが実は小枝子の病氣の原因とでも申しませうか、名を由美子と申しましてね、いまだに独身で居りますんですよ。」
「では、後ほど御紹介して頂きませう。」
「ところが――。」伯爵は困惑の表情で、
「宅にゐないんです。今夜は一寸まゐってをりましたが、早く帰ってしまったらしく、小枝子が亡くなりましたのもまだ知らないやうなわけで――。」
伯爵は辛さうに言葉をつゞけ、
「委しく申さないと御判断もつきますまいが、由美子は母が私と結婚することに大反対だったのです。それを押し切ったものですから、母への不満、そのとばっちりは私へもはねましてね、彼女はひどく私に反感を持ち、事毎に突っかゝるので母も見かねてをりました。一緒に食事につきましても、母とは口をきゝますが、私には物を云ひません。
何事も私へは無相談でやり、てんで無視して事をするのですから、私としても余り愉快ではありません、そのため家庭はすっかり暗いものとなってしまい、小枝子は両方の板ばさみになって、始終苦しみつゞけ、遂に病弱な身になってしまったのです。」
「いまは何処にゐられるんですか？」
「遂に家出してしまって、アパート住居をしてゐるんです。それももう十年になります。最初私達は家にゐるのが厭なら当分別居するのもよからう。そのうちまた氣が変って帰って來るだらう位に軽く考へてゐました。第一独りで飛び出してみたところで、生活が出來ないから、と、舞ひ戻って來るのを心待ちにしてゐたんです。しかし、丸っきり捨てゝも置けないので、最初一二年は生活費を届けてやりましたが、受取りません。
無理に受取らしても、直ぐ書留で返してよこすんです。しまいには手数をかけるだけつまらないから止めよう、と云ふ事になりました。いよいよ困ったら泣きついて來るだらう、その時はいくらでも救ひの手を延ばすことにして。」
「承はればいろいろ事情がわかりますが、知らない人の眼には追ひ出したやうに見えますね。」
「さうなんです。そこなんですよ、小枝子が苦にしてゐたのは――。それで同族間にも知らさないやうに秘密にしてゐたんですが、肝腎の当人は一向平氣でね、しゃべり廻はるんで困るんです。」
「同族の方達のところへは行かれるんですね。」
「自分の方からは出かけないらしいが、出会ふんですよ。お恥しいが、由美子はダンサーになってゐるんです。有名なあのＥホールに属してゐるので、上流の人達と顏を合せる機会が多いらしいのです。」
刑事が入って來て、話の途中を折られた。主任は何事か彼の耳にさゝやき、刑事はそゝくさと出て行った。
伯爵は言葉をつぎ、
「その人達の口から由美子の動靜を知るといった工合で、耻を晒してゐるやうなので、最近に至って、執事をもって再三帰宅をすゝめさせましたが應じません。最後の手段として、帰らなければ廃嫡の手続をとる、そして他から養子を迎へて相続させるがどうだと申送りましたが手答へがありません。小枝子も段々あきらめて來て、いよいよ本当に養子を貰らふ段取りにまで運んだのです。」
「何方から？」
「私の甥です。小枝子が非常に氣に入ってゐるので。私はあまり進みませんでしたが。」
「あなたの御親類だったら、お嬢様はなほ更反感を持たれるでせう。」
「それです。私の怖れたのは――、聞くところによると、養子をしてみろ、ただはおかないから、と、歯ぎしりして憤ったといふ話です。とにかく、私は一度会ってお互ひに了解して置く必要があると小枝子にもすゝめましたので、実は今晩のパーティによんだわけなのです。」
「來られましたか？」
「はい。まゐりました。」
「ほう。よく來られましたね。」
さっきの刑事が再び入って來て、主任に紙片を渡した。
「電話に出た者を調べて見るんだね。」と命じた。
「都合よく、声を知ってゐる者があって、直ぐわかりました。」
「それはよかった。」
何事か、刑事は主任の命を受けて引き下って行った。
「失礼いたしました。」主任は伯爵に軽く頭を下げた。
「それからの事は、ほんとに私として申すに忍びないのですが、默ってゐては捜査上お困りのこともあらうと存じて、思ひ切って申上げますが――。」
「是非、どうぞ。御存じの事は洗ひざらひ仰しゃって下さい。」
「私は、主任さん、あなたを信じて申上げるのです。それをあなたがお取り上げにならうと、お聞き捨てにならうと、御自由に願ひますが、私としてはこの耳で聞き、この眼で見たことだけを包まず申します。」と一寸身づくろひして、
「小枝子は寝室に由美子と小一時間も一緒にゐましたでせうか。あまり長いので、二人の間に何か間違ひでもあってはならぬと急に心配になり、こっそりと次の間のカーテンの蔭にかくれて監視してゐたのです。
由美子は仮面パーティとは云ひながら、女の癖に男のピエロになって來ました。勿論、顏はわかりませんが、彼女はベッドの前に腰かけてゐました、私の方からは後姿しか見えません。
小枝子は、由美子に、お前がどうしても戻らなければ、いよいよ養子を迎へ、この家も全財産もその者に譲ってしまふ。お前は心がらとは云ひながら、裸一貫で放り出されるがどうだ、と申しました。彼女は怒ってゐるのでせう、ガタガタ体を震るはせてゐましたが何も答へません。そのうちに、小枝子はひどく咳込み、発作でも起したのか、苦しがって、藥、藥、とそこにある瓶を指差しました。彼女は一寸躊躇してゐましたが、藥を唇のことろへ持って行って一氣に飲ませたのです。
体のかげになってゐて、よく見えませんでしたが、その時何か藥の中に入れたやうに思ひました、私はハッとして飛び出さうとしたのですが、かくれてゐたことを知られては面白くないのでじいと凝らへてゐました。すると、やがて藥が効いて來たのか、すやすやと眠り始めたやうな氣がしました。
由美子は急に起ち上り、ひどく狼狽して、四辺を見廻はしてゐましたが、やがて、箪笥の抽斗に手をかけて、宝石箱を持ち出して逃げたのです。
宝石箱の中には小枝子の貴重品も入ってゐます。私のダイヤのカフス・ボタンもあります。盗みまでするほどに心の落ちぶれた彼女が何んですか可哀想になり、どうかして救ってやりたいと後を追ひましたが、見失ってしまひました。」
伯爵の声は悲痛であった。
「すると、毒を盛ったのは彼女でせうか？」
「と、私は情けないが、さう思はずにはゐられないのです。つまり養子が來る、この家の全財産が人手に渡るといふことにカッとして、母を恨み、私を憎み、先づ母を殺さうと思ったのではないでせうか、次ぎには私を狙ふといふことになるでせう。どうせ、罪を犯せば二度とこの家へは來られません。行きがけの駄賃に宝石箱を引っさらって行ったものと思ひますがね。」
「さうでせうな。そこまではっきりしてゐれば、もう犯人は彼女と決定したも同然ですな。」
「ほんとに哀しいことです。何とか彼女を救ってやる方法はありますまいか。由美子が捕らへられでもしたら、小枝子はそれこそ死んでも浮ばれません。この話は主任さん、あなただけの胸に秘めて下さい。そして、由美子を助ける道を考へて頂きたいんです。」
５
「それはあなたのお心次第で、何んとでもなりませう。」
主任はあまりに軽く答へたので、伯爵は一寸呆氣に取られてぽかんとした。
「あなたは殺人の現場を見てゐられるし、お話をうかゞってゐると何処から見ても由美子さんが犯人だとしか思はれません。疑ひを入れる余地もないやうに見えます。犯罪の動機もはっきりしてゐるし、あまり完全なので――、私はその完全なのに反って疑ひを持ちたくなりました。」
「？」
「あなたが御迷惑でなかったら、一つ地位を替へて考へてみませうか。先づあなたを犯人として見るのです。腹蔵のないところ、あなたに取っては由美子さんといふ存在は邪魔だったでせうな。」
「冗談ぢゃありませんよ。邪魔どころか、私は小枝子以上に彼女の帰るのを希望してゐたのですよ。」
「御尤です。しかし、これは仮りの話ですから、そんなにむきにならないで下さい。失礼ですが、あなたは御養子だ、そしてこの家の財産はまだ名義書替へになってをらず、夫人の名前になってゐるとかぢゃありませんか。あなたはこの家に対しては何の権利もない、その上由美子さんが養子でも迎へて相継されたら、実にあなたの立場は惨めなものになってしまひます。ところで、もし、あなたが惡い人間だったら、さしづめ眼の上のたん瘤の由美子さんを取り除きたいと考へても無理はないでせう。」
「いや。」
「まあ聞いて下さい。誰かが計画して藥瓶に毒を入れて置く、それを知らずに由美子さんが母へ飲ませる。それでも殺人罪になるかも知れません。宝石箱を掻っ拂ふ、これは窃盗です。殺人も実の母親を手にかけたとなると、同族間の感情もまた違って來るでせう、この二つだけで、完全に由美子さんは伯爵家を継ぐ資格を失ひます。そしてあなたの甥に相継させる、あなたは後見人となって、いくらでもロボットを操られます。」
「何を仰しゃる、それではまるで私が犯人ぢゃありませんか。」苦しげに笑った。そしてその笑ひのまだ消えないうちに、
「ピエロは由美子さんではありませんでしたよ。あれは自分で勝手に代役をつとめた替玉です。」
「そ、そんな馬鹿なこと――。」
「彼女は気管支炎で部屋から一歩も出なかったといふ証明があります。替玉も今捕って、次の部屋にゐます。実はね、ちょうど、あなたの方から電話があった時、その女が罪を悔いて自首してきたんです……その女が委しいお話をしたいと云ってゐるさうですが、お会ひになってみませんか。」伯爵は危ぶなく倒れるところを主任に支へられた。
彼は隙を狙って青酸を仰ぎ、自殺を遂げてしまった。
この話は戰爭前の出來事で、犯人も已に死んだことではあるし、遺族の懇願により、世間には発表せられなかった事件である。
注）明らかな誤字誤植は修正しています。
注）句読点は追加、変更したところがあります。
注）角書きは実話ですが創作と思われます。
「青春の戯れ」
「青春生活」 1949.10. (昭和24年10月) より
１
「チミちゃん、ちょいと、お待ち」
ホールを出ようとする藤島千美子は、うしろから走って來る靴音を聞いた。振り返ってみると、教習所のダンス教師日下部秀夫先生だった。
「あら、日下部先生だったの、私．誰かと思った」
「誰かぢゃない。松山君だと思ったんだろ？」
「さう、先生よく知ってるわね」
「その位のこと、氣がつかないでどうする？ 君が帰るうしろ姿を見て、松山君いそいでホールを出たから、此方も、いそいでチミちゃんに注意しようと思って、君のあとを追かけて來たのさ」
「私、跫音を聞いて、てっきり松山先生だなと思ったから知らん顏して、ずんずん歩いて來ちゃったのよ」
チミ子はあどけない顏をして笑ひながらぺろりと舌を出して、首をすくめた。
「松山君は表玄関の方へ行ったから、チミちゃんは裏門から出してやる。途中で会はないやうに、氣をつけて、早く帰れよ」
「えゝ、大丈夫、私、これで逃げ足は早いのよ。では先生、また明日――」
「うむ、待ってるぜ」
日下部は前屈みになって、千美子の解けかけたバンドをしめてやった。背は高いがまだ十六になったばかりの千美子は脚のふくらみもなく、棒のやうにすうっとしてゐる。胸も板のやうに薄べったいし、胴中も腰も男の子のやうにしまってゐて、まだ女になりきってゐなかったが、こゝ二三年過ぎたら見ものだらうと、男連中は舌なめずりしてゐる。日本人には珍らしいほどすんなりとのびきった四肢、首が長くって、ちんまりとした顏に大き過ぎる眼、素直な高い鼻、一つ一つ取り立てゝ見ても美しかったが、全体から受ける感じは頗る魅惑的であった。
自分が手がけてダンスの手ほどきから教へてやってゐたので、千美子をまるで珠玉のやうに大切にして、つきさうな虫を片っ端から追っぱらうに忙しかった。そのために彼は怪しまれ、千美子と可笑しいなどゝ、あらぬ噂をたてられたり、誤解されたりした。が、日下部はちっともそれを苦にしなかった。評判を立てられると反って喜んでゐた。
その宝物の千美子、それこそ尊い、穢れを知らぬ女神でも扱ふやうに後生大切にしてゐる彼女を、人もあらうに女たらしの評判のある松山が、こっそり眼をつけてゐるとわかって実に氣が氣でなかった。
千美子を裏口から出してやって、素知らぬ顔でホールに戻って來ると、松山が氣ぬけのしたやうなぽかんとした顏をして帰って來て、
「遂々チミ公逃がしちゃった。掴まへ損ったよ。あの子、どう思ふ？」
「どうって？」
「処女かなあ」と首を傾しげた。
日下部はむっとして、睨みつけるやうに見ながら、
「処女かなあは失礼だ。良家の令嬢だって噂だしさ。それにまだ子供ぢゃないか。体つきを見たってわからあ」
「僕はカンで云ふが何だか、あの子、なんとなく男の香がする」
「侮辱するなよ。それがまだ女になってゐない証拠だ」
「さうかなあ。今年一杯もたったら大したものになるだらう、あの顏とあの姿、みんな、なやまされるぜ。さうなっちゃったらもう僕達の手が届かなくなる。早いとこ、友達になるんなら今のうちだ」
日下部がいやな顏をするのが面白かったので、松山はわざとこんな話をした。
「あんな子どもに手を出すのは止せ、罪だぜ君なんかもう女に飽きてもいい頃だ。そろそろ堅氣になれよ。いつまでドン・フワンでもあるまい」
日下部は吐き出すやうに云った。その時恰度松山にも日下部にも客が來た。いづれも女で、この教習所に通って來る弟子だった。
松山も、日下部もてんでに女を抱いて、輕るくステップを踏みながら、ホールの中央へ踊って行った。
２
アパートの持主が変って、日下部が追ひ立てを喰ってから、三月目に、彼はやっと友達から工面して貰らった金で、四疊半一室といふ長屋を買って移った。
「日下部先生の御新居は京濱線の元住吉だってね、あの辺、閑静でさぞいゝでせう」
部屋借りで、これも苦労してゐる坂卷ふみ子といふ女教師は、日下部が家を買ったと聞くと、ひどく羨しがった。
「新居なんていふ代物ぢゃないぜ」
日下部は顏を赤くして弁解した。
「そして御結婚はいつ？ 千美子さんと家庭をつくる準備に家を買ったんだって、専ら評判よ」
ふみ子は妬み深い顏をして云った。
さういへば近頃、千美子の姿をホールに見ないので日下部は急に氣になり出した。自分の住居のことで夢中になってゐて、ホールを休んだりしたから、千美子は他へ行ったのではないかと、心配した。しかし、彼女の住居を知らなかったので、訊ねてみることも出來なかった。
千美子の姿が見えないせいか、松山も彼女に興味を失ったやうに噂をしなくなった。ホールへはあとからあとからと新らしい女が現はれるから松山は千美子が見えなくっても別に氣にはならなかった。それほど彼は女に不自由しなかったし、女出入りでいつも忙しかったのだったが、日下部は千美子のゐないホールは淋しくってならなかった。
彼はたった一人で住むとしても、四疊半だけでは不自由だったので、戸棚を改造してベッド・ルームをつくった。小さい家ながらも瓦斯はひいてあるし、水道もある。中へ入ると長屋といふ感じはなく、一軒の家のやうであった。
「家が出來たら、今度は結婚といふ順序だね、早く女房を貰らへよ。重宝だせ」
と教習所の仲間は、よくすゝめるのだった。その口に乗って、坂卷ふみ子は煙草の吸ひがらを灰皿に押しつぶしながら、
「あたし、家政婦になって上げようか。奥さんの出來るまでのつなぎに――」
と冗談のやうに云ったが、内心眞面目でしきりに持ちかけた。それほど彼女は今の部屋借りが辛かったのでもあった。
「あんなに奇麗だった日下部先生、このごろすっかり世帶じみて、ズボンが皺だらけよ。こんなことぢゃ千美子さんに嫌はれる。可哀想だから、私が行って、少し面倒見て上げようよ」
お洒落の日下部は顏が赤くなった。やっぱり女がゐなくっちゃあ駄目だなあ、とつくづく思った。
ことに疲れきって帰っても、出がけに御飯を焚いて置かなければ、家へ帰ったってそれこそ一粒の飯もないのだ。
さういふ時は仕方がないから、燒鳥やののれんにでも首を突込んでカストリを飲んだり、燒鳥を食べたりするのだったが、その代り一日中の稼ぎはあらかたはたいてしまふのだった。
ベッドに横になると、急に味氣なくなって、女房が欲しいなあ、と、思ふ。女がゐて、家庭があって、はじめて、我家といふ感じがあるのだらう。さういふ時、日下部は定って千美子を思ひ浮べた。今のところ彼女以外に彼の興味を惹く女はゐなかった。毎日女と踊って、女の中に浸ってゐる彼だったが、まだ一度も此方から誘ひをかけた女はゐなかった。
彼は顏へ覆ひ被ぶさって來るやうな低い天井を見上げて、物憂げに煙草の煙をふうッと吹き上げた。
３
独り住居へ坂卷ふみ子が押しかけ女房にやって來たのはそれれら間もないことだった。冗談半分に、來たけりゃ來てもいいよ。と云ったのがほんとになって、ダットサンに荷物と一緒に乗り込んで來た時は、一寸開いた口がふさがらなかった。
「結婚式なんか挙げてくれなくってもいいから、籍だけはちゃんと入れてね」
ふみ子は四疊半に箪笥や赤い覆ひのかゝった鏡台を置いてから、先づ第一に入籍のことを云った。
女は籍が好きだなあ。と日下部はうっすらと笑った。どの女も、どの女も、定って籍のことが第一の問題になった。
男を信じてゐたら、籍なんかどうだっていいぢゃないか」と云ふと、
「信じられる男がゐますか？」とやり返し、「籍は大切ですよ。籍さへちゃんと入ってゐれば、あんたが外で浮氣しても、好きな女が出來ても、私は正式の奥様で威張ってゐられるもの」
それをきくと一時に興がさめた。しかし折角來たのに帰れとも云へず、それに今の場合は興がさめても、女にゐて貰ふことは有難かった。それほど毎日の生活が彼にはたまらなかった。
「僕の親父はね、有名な嚴しやなんだ、僕が女と同棲してゐるってことが知れたら、入籍どころか勘当されちまわあ、裸一貫の僕に從いて來てくれる君ぢゃあるまい？」
「ウフ」
かりそめの夫婦生活が始まった。
日下部はホールから家へ帰るのがいくらかたのしくなった。後は途中の燒鳥やにもあんまり顏を見せなくなった。カストリを飲む金を節約して家へ持って帰るやうになった。家では彼の帰りを待つふみ子が、出來るだけの御馳走をつくって、いつも晩餐は豪華なものだった。
「とってもお金がかゝる。あんたから毎日貰ふお小遣ぢゃ足りやしない。私もホールへ働きに行かうか知ら」
「止せ。共稼ぎは嫌ひだ。それなら僕は独りでゐるよ。女はやっぱり家にゐて家業をやって貰ひたいな」
「だって、食べられなかったら、困るぢゃないの」
「その時は食はずにゐるのさ」
「馬鹿にしてるわ」
彼女は自分の衣類をどんどん金に替へた。道具を持ち出して賣った。その帰りにデパートへ寄って食料品を沢山買ひ込んで來た。彼等の食膳が豊富になればなるほど部屋の中は淋しくなった。
ある晩、いつになく、日下部はしょんぼりと帰って来るた。
「どうかしたの？」
ふみ子は胸がドキンと鳴った。
「教習所が閉鎖になるんだとさ。今月一杯で――」
「あら、今月一杯って云ったって、あと四日、あんまり急ぢゃないの」
「このところ、めっきり客足がへったってわけなんだ。階下のキャバレーにみんな吸ひ込まれてしまって全く閑だったんだよ。マスターが云ってたが、一時閉鎖して、計画を新らたにたて直すんだとさ」
「あんた、どうするの？」
「まだよく考へてゐない」
「呑氣な人ねえ。退職手当は出るかしら」
「そんなもの、出ないだらうよ」
「みんなよくおとなしくしてるわね」
「怒ったって仕様がないもの。明日から就職口を探さう。もうあの教習所には行かないから――」
日下部は翌日から職を求めて歩いた。
紹介状を持って行ったり、友人に口添へして貰らったりしたが一度失業するとなかなか職は得られなかった。
ふみ子は賣り喰ひの種がつきて來た。それでも無理をして食膳は賑やかにしてゐた。一日歩き廻ってぐったりして帰る彼を掴まへて、彼女は定って愚痴をこぼした。自分から望んで乗り込んで來た相手だったが――、
「こんな働きのない人だったとは知らなかったわ。今日もお金、持って帰らないの」
と興さめた顏をして、ズケズケと物を云ふやうになった。
「そんなに金が、ころがってゐてたまるかい。僕は働いてとるより方法を知らないんだ」
「あんたには、ホールで、いろんな女がモーションかけてゐたぢゃないの。新興財閥の女秘書だって云ふ戰爭未亡人、金物商の銅いろした顏の奥さん、あんな人達からしぼってやればいいのに――」
「そんなことをして君は怒らないのか？」
「お金が捲き上げられないやうな、腕なし男の方がよっぽど腹が立つわ」
「僕を！ オイ、僕を何んだと思ってるんだ。男妾ぢゃないぞ」
「男妾になった方がいいわ。私が働いて食べさせて上げるから」
「馬鹿ッ」
日下部は火のついた煙草をふみ子に投げた。彼女は彼を見損なったと思った。美しく見えた日下部の顏も何んだか間抜けに見えた。色白で上品だったのに、毎日歩き廻るせいか、陽やけがしてめっきり色が黒くなり、下品になった。
どこがよくって、こんな男に、――などゝ思ふ日があった。
無収入が一ヶ月続いた。家の中は火の車で口論の絶え間がなかった。彼女はすっかりヒステリーになった。
「別れませうよ」
ふみ子は日下部に愛想がつきた。金のない男は女にとって道端にころがった大石のやうなもので、邪魔になっても益にはならなかった。
「籍を入れなくってよかったな」
日下部にしては珍らしく皮肉を云った。
別れる、別れると云ひながら、女は別れなかった。
４
「私、あんたがどんなことをしても眼を閉ぶって我慢するから、今日こそはお金を持って帰ってよ。明日のお米もないんだから――」
靴を揃へながら、ふみ子ないつの間に調べたのか、新興財閥の女秘書といふ戰爭末亡人の住所を紙片に書いて渡した。日下部はむっとしてつき返した。彼女は彼のポケットへねぢ込んだ。
「電話かけさへすれば向ふでは待ってる。社長が旅行中なんだって。だから、遠出も出来るさうよ」
「どうして、そんなこと知ってるんだ」
「私、きのふ、あんたの代理だと云って、電話で交渉して置いたのよ。ウフ……あのひと、相当だわ。お金もたんまり持ってるらしい。うんと出しさうよ」と云って、日下部の背中をぽんと叩いた。
彼は吸ひかけの煙草を地面にたゝきつけた。靴の先でそれを踏みにじってぷいと出て行った。女秘書の惡くどい厚化粧や、毒々しい口紅のいろを思ひ浮べた。
「人を馬鹿にしてやがる」
と云ひながら、それでもポケットを探って紙片をひろげてみた。電話番号と地図が書いてあった。
日下部は考へたが、いくら金のためとは云へ、愛しもしない女に誘ひをかける程、自分の心は落ぶれてはゐないぞと肩をそびやかして力んだ。しかし、今日はいくらかでも金を持って帰らないことには、明日の米にもさしつかへると、ふみ子は米びつを開けてべそをかいた。彼女にしても眞劍だった。だからこそあの女に電話までかけたのだらう。
何としても、今日は就職口を得るか、金をつくるか、二つに一つだ。就職口さへみつかれば一時の融通はつく、いくらでも金を貸してくれるところはある。無職ぢゃ相手にされないが――。
彼は相変らず彼方此方の教習所を当ってみた。ひどい惡條件のところ以外にはいつも口はなかった。
彼は思ひあまって、女秘書へ電話をかけてみようと決心した。生きるためとは云ひながら、いやだなあ、と幾度も躊躇したあとで――。
日下部は眼を閉ぶって、公衆電話へ飛び込んだ。
一円紙幣を投げ込むと同時に出て來たのは聞き覚えのある彼女の声だった。
「あんた誰よ。え？ 日下部さんだって？ 人を馬鹿にしてるぢゃないの。昨夜って約束だったから、私待ってゐたのよ。だのに――、やって來ないなんて失礼だわ。ひとに一晩待ちぼうけ喰はして置きながら、今頃になって電話かけるなんて、あんた、何、寝坊けてゐるのさ」と、がみがみと卷くしかけた。日下部はすっかり煙に卷かれた形で、何んと返事をしていゝかわからなかった。
「そんな筈はない。昨日って、約束した覚えはないもの」と、どもりどもり云った。
彼女の方は雄弁だった。彼の一言へ、十も二十も浴びせかけた。
「第一さ。代理を出すって法がある？ 人に聞かれて困る大切な話をさ。代理で定めさせるなんて、あんたって人、誠意がないわよ」
「どうもすみません。して今日はどうなの？」
「駄目よ」と投げつけるやうに云った。日下部は唇を尖らしたが、
「さう？」と軽く答へた脇の下から汗がたらたらと流れた。
「今日は駄目、駄目！ 社長が今朝帰って来るた。いまお風呂に入ってるの。これからお食事よ」
「そりゃお樂しみだ」彼はペッと唾を吐いた。
「あんたの方はまたにして頂戴。こんどは自分で電話かけるのよ。人にかけさせたりしたら、またつむじを曲げてやるからいい」
ガチャリと受話機をかける音がした。
彼はフヽンと鼻の先で笑って、公衆電話を出たが、夜風が頬に浸みるやうに寒く感じた。ふられて帰る果報者か。あんな女にかゝりあったら、どんなことになるかわかりゃしない。危ぶない、あゝ危ぶない！
彼は負け惜しみを云ひながら、眉に唾をつけ、ぼそぼそと歩き出した。
５
日下部は已むなく、二三軒、金を貸してくれさうな友達を訪ねてみた。
が、どの人も外で会ってゐる時の話とは違って、家の中は苦しさうだった。
「寒くなっても、外套も出せないって始末なんだ。君なんか、何んと云っても樂さ。独り者だもの、女房があって、赤ン坊があっちゃもうおしまひだよ」
モダンなダンス教師も内幕を覗くとあはれだった。
奥の方では赤ン坊が火のつくやうに泣いてゐる。軒先につるしたむさ苦しいおしめが、ひらひらとなびいてゐた。
それでもその友達は相当の苦労人だと見えて、きんしゃ縮緬のへこ帶を持って來て、
「これでも賣って金にしたまへ。今は誰だって失業したら、なかなか就職はむづかしいぜ。だから僕なんかは随分不愉快ないやな思ひをすることばかりだが、我慢して勤めてゐるんだ。それでも不安だからなあ」としみじみと云った。
風呂敷を借りてへこ帶を包んで外へ出たが、急に貧しくなったやうな氣がして、自分がひどく惨めに思はれた。
働きがないの、意氣地がないの、と、この頃は頭から惡口を浴びせるやうになった彼女に、就職もない、金も出來ないと云って、どの顏下げて帰れよう。
と、云って、差し当り金をつくるあてもなかった。
彼は途方に暮れた、自分の影法師を踏んで歩いてゐると、氣分までがすっかりいぢけてしまって、我ながらあはれにみすぼらしく思はれた。
彼はたまらなくなって、古物商へ飛び込んで、へこ帶を賣り飛ばし、いくらかの金を掴んだ。そして、景氣づけにカストリを飲んだ。
飲むとすっかり朗らかになった。すまないと思って賣ったへこ帶も、買って返してやればいいぢゃないかと、平氣になれた。
「金がなんだ。金がどうしたって云ふんだ」
日下部は腹の中で叫んだ。
しかし、どうにも家の敷居はまたぐ氣になれなかった。ぶらりぶらりとあてどもなく足に任かせて歩いてゐるうちに、いつか行きつけのガード下へ來てゐた。
「お兄さん！ しばらくね」
ぱたぱたと馳けよって來たのは若い女であった。勿論、彼は顏見知りでもなんでもなかった。
「駄目だ、今日は――」
日下部は手を振った。
「あら、何故なの？」
「金がないんだ」と彼はズバリと云った。
「お金なくッたっていゝのよ」
「ほんとか？」
「うむ。だけど、私ぢゃないの」
「誰れだい？」
「私のお友達よ。紹介して上げようか」
「いやだぜ。金がいらない女なんて、氣味が惡いぢゃないか。首が長いんぢゃないか。べろべろなめられちゃたまらないからな」
「ろくろ首ぢゃないけれど、奇麗なお化けよ。お兄さんがあんまりスマートだから、きっと彼女、よろこぶわ」
「早く紹介しろよ。どこにゐるんだ？」
日下部はあたりを見廻したが、この女のほかには人かげもなかった。
あたりが靜かな筈だ。もう十二時を廻はってゐるのだった。二人は近くの、のれんをわけてカストリを飲み合った。
「電車賃もないのにお兄さんはどうして帰るつもり？ 円タク、拾って上げようか」
「そんな金なんかないよ。円タクに乗るだけの金がありゃもっと飲むぜ。テクるにゃ遠すぎるし、困ったな。君の家、どこ？ 僕、今夜だけとめて貰らひたいな。迷惑かい？ 彼氏に叱られる？」
彼は醉が廻るにつれて能弁になった。
「私は駄目よ。お約束があるの」
「こんな時間からかい？」
「さう」
「約束なんか、けとばしちまいな、僕と一緒に行かう」
「行かうたって、お金、持ってないんでせう？」
「あゝ、さうだっけ。アハ……」
「呑氣な人ねえ」
「たゞで泊めてくれるところないかな」
「虫がいゝわよ、お兄さんは――」
「ぢゃ仕方がない。夜通し歩いてゐるとしようか――」
「それも可哀想だわ。待っていらっしゃい。私、いい人紹介するから」
「いやに、もったいつけるな。どんな女だ、早く連れて來いよ」
「彼女、こんやはあぶれてんのさ。今ッ頃から、ふりのお客はいやなんだって云ってるの、だのに――、オホ……だのに一人で家へ帰って寝るのもいやなんだとさ。駄々をこねてるんだよ。丁度いゝから、お兄さん彼女、送ってやって頂だい。お母さんと二人ぎり。そのお母さん物わかりがよくって二階で早くから眠っちまうの。階下が六疊二間ある。そこを御自由にお使ひ下さいッてわけよ」
「ふん。そんなうまい家があるのかい？」
「私もあとから、後氏と行くから、先へ行っていらっしゃい」
「何んだ。君の家かい？」
「半分、貸してやってるのよ。まあ何んでもいいから、お出かけなさい。すぐ近くだから歩いて行かれるわよ」
女は暗の中に消えて行ったと思ふと、一人の娘を引張って來た。
「さあ、引き渡しますよ。途中でなくなさないやうに大切に連れておかへんなさい」
彼女はさっさと行ってしまった。日下部はうしろ向きに立ってゐる女の肩へ手をかけて、
「さあ、行かう」
腕を組んで数歩行ったと思ふと、
「アッ！」
小さな叫び声を出して、女は彼の腕から逃れようと身を悶えるのだった。
「どうしたんだ？ え？ どうしたって云ふんだ」日下部はまごついた。
女は彼の手をすりぬけて走った。外燈の火影で見たその横顏、彼ははッとして立ち竦んでしまった。
千美子であった。
――（終）――
注）明かな誤字誤植は修正しています。
注）句読点は追加削除、移動したところがあります。 nasi
「恋の貴婦人」
「読物雑誌」 1949.10. (昭和24年10月) より
恋人の賣物
春は竹山の筍を、秋は栗山の栗を賣るだけでも、一人息子の山岸冬雄を東京に出して、何不自由なく大學に通はせてやるだけの學資には充分であった。
それが今ではどうだ、土地は取り上げられ、何の税、彼の税と取り立てられて、舊家だの、地主だのと幅をきかしてゐた彼の家もすっかり貧乏してしまって、冬雄は新學期に入ったといふのに、驛に立って學生ようかんを賣るのに聲をからしてゐるのだった。
「どうだい？ ちっとあ、はけるか？」
ぽんと肩を叩いたのは、これも學生アルバイトで南京豆の仕入れから戻って來た同級生の二見武だった。
冬雄はたった二本殘ってゐるピースを一本二見に渡し、自分も一本啣へて、ライターに火を點じた。
「ようかんは駄目だね、アイスキャンデーの氣候だからね」
「俺の方も南京豆はもうやめる、こゝでまた原價がぐっと高くなったから、三十圓の小袋に五十粒もありゃしない。
何か目新しいところを狙はなくっちゃ。アルバイトも、君、なかなか頭がいるぜ」
冬雄は煙草の煙を追ふやうな眼をして、
「さうさ。目先のきく奴にゃ敵はんよ。だが、もう僕もつくづくこんなこといやになっちゃったよ」
「あゝ、金が欲しいな。たんまりやるっていふ奴があったら、僕は何でもするな」
「強盗の手傳ひでもやるかわからんなあ。だが、まだそこまでは落ちたくないね」
「あんな割の惡い商賣はないよ、新聞には名が出るし、社會からは葬られるし、そんなことより、もっと何かうまいことないものかなあ」
と云って、冬雄の顏を今更のやうにしげしげ見入って、
「君のやうな美男子にゃ、ようかん賣りは勿體ないなあ、もう少し愉快な仕事がありさうなもんぢゃないか」
「愉快な仕事？ そんな事がこの世にあってたまるものか。自分の仕事となりゃみんな苦情の種さ」
「ところがよ。この間、こんな話を聞いたぜ」
二見は急に聲を低くして、
「戀人の賣物ってのがあるんだとさ」
「？」
「つまり、新興マダムの遊び相手だよ。折角のその美貌を生かさなくっちゃ、それこそ寶の持ちぐされぢゃないか」
「馬鹿にするなッ」
冬雄は眉をしかめた。
「僕ならやるよ。ところがこの柄ぢゃ第一女にもてやしないぜ。それに君のやうに、ダンスは出來ないし、社交は拙いし、酒は飲めず、と來てゐるんだから女を掴へるチャンスがありゃしない。僕は落第生だが、君がやる氣になったら、きっと、成功するぜ。成功して、俺にうんと謝禮をよこせ、ヒント料にさ」
省線が着いた。押し合ふやうにして、改札口を出て來た一かたまりのあとに、ぽつんと、一人の婦人が、コツコツと靴音を立てゝやって來たが、驛を出て數間行ったかと思ふと、後戻りして、學生ようかんの前に立った。
「あの、このおようかん、ほんものか知ら？」
細い指でようかんを一寸ついて見て、にっこりした。白粉氣のない、きりゝと引きしまった顏の、いかにも新鮮な感じのする美しい令嬢だった。冬雄はぴくっとしたやうに、眼を瞠って彼女を見ながら、
「ほんものとは？ 何の事ですか？」
とどもるやうに云った。二見は冬雄の背中を突つきながら、横から口を出して、
「ほんもの、ほんもの、藥品なんか、これんぽっちだって入ってやしません。嘘だと思ふなら、ためしになめてごらんなさい。凄くあまいですぜ」
と能辨にまくしたてた。
「疑ってるわけぢゃないのよ。だって、あんまりお安いんですもの。ぢゃあ十本頂くわ」
金を拂ふ時、彼女は二見に知れないやうにこっそりと冬雄の手に小さな紙片を握らせて、彼の顏へ視線を投げながら、意味ありげな微笑を送った。冬雄は顏をぱっと赤くして、夢中で金と一緒にそれをポケットの中へ押し込んだ。
冬雄が彼女の柔らかな指先の感觸に醉ったやうになってゐるうちに、婦人はさっさと行ってしまった。彼は暗の中に消えてゆく後姿をじっと見送ってゐると、
「素晴らしい女だったな。いまの、あれ、何者だらう？」
と何も氣のつかない二見は首をかしげながら、冬雄の顏を見た。冬雄は彼の眼をさけるやうにして、
「何處かのお嬢さんだらう」
と氣にもとめない風を装うた。
「この驛から乗る人かな、僕は一度も見かけたことがない。が、學生ようかんを買って歸るんぢゃ、大した家の娘ぢゃないね。この近所には有名な菓子店が何軒もあるんだから、口のおごってる奴なら、こんなもの見むきもしない筈だ」
と二見はしきりに婦人を氣にした。
「ぢゃ、貧乏人の娘かも知れないね」
と冬彦は上の空で答へた。そんなことよりも、ポケットの中の紙片が氣になってならない。早く二見と別れて、それが何であるか見たくてたまらなかった。
「貧乏人の娘だとして、あの器量とあの立派なみなり、釣り合はんな、一寸謎だね」
謎の紙片
冬雄がアパートへ歸ったのは彼れ是れ十二時近かった。彼が自分の部屋のドアを開けようとした時、魂消るやうな女の悲鳴を聞いた、たった一聲、あとはひそっとした。この邊は物騒で、ついこの間も若い女が追はぎに抵抗して殺された。その噂を聞いたばかりだったので、氣味が惡るくなって、いそいでドアに鍵をかけてしまった。
電氣をつけると、眞先に、彼は先刻渡された紙片をポケットから出して見た。
鉛筆の走り書きのきれいな手跡で、
「愛人の賣物があります。買って下さいませんか。と申しても、私は夜の女ではありません。私は日常生活を芝居の一幕のやうに考へてゐます。結局、人生といふものはお芝居のやうなものですからね。御一緒に浮世の舞臺に立って、一役演じてみるお心はありませんか。幸に御賛成でしたら、幕は今夜から開きますから――」
と、こんな事が書いてあった。冬雄はくり返して讀んでみた。二見が戀人商賣と云った言葉を思ひ出した。すると、あの婦人は新興マダムなのだらうか。冬雄の猟奇熱は急に燃え上って來た。
新興マダムの火遊び、――それは全く彼にとって未知の世界であったので、覗いてみたいといふ興味で彼の頭は一杯だった。
冬雄は机の抽出の中に紙片をしまひ、戸棚から布團を引ずり下して寝る支度をしてゐると、ドアの外をバタバタと人の馳ける音がした。
今頃――、何んだらう？ と耳をすましてゐると、誰かしきりにドアを開けようとしてハンドルを廻はしてゐる。
「助けて――、どうぞ、お願ひです」
低いが、必死になって救ひを求めてゐる女の聲であった。
こんなやにっこいドアのことだ、少し亂棒に引っ張ったら鍵なんかこわれてしまふだらう。冬雄は仕方なしにドアを細目に開けると、それを待ちきれないやうに一人の女が轉がり込んだ。
「どうぞ、助けて――」
まるで氣狂ひのやうになって、自分で錠を下してしまってから、ほッとしたやうに、はじめて、顔を上げた。
「あッ、あなたでしたか」
冬雄は仰天した。それは驛で會った彼女であった。
「これはまあ、一體、どうしたんです。だが――、まあ、お上り下さい」
僕は矢鱈に胸がわくわくして、どうしていゝのかわからなかった。
「突然、飛び込んだりして、御わびはあとでゆっくり――、どうぞ、助けて下さい。實はいま、恐しい男に追っかけられ、危ぶなく捕まるところを、やっとこゝまで逃げてまゐったんです」
と、兩手で顏を覆ひ、苦しさうに息を吐きながら、
「私と御一緒だったお嬢さんは逃げ遅れて、あゝ、恐しい！ あの悲鳴、あなた、お聞きになりませんでした？ たった一聲でしたが、私の耳にはまだ聞えるやうな氣がいたします」
「あゝ、いましがた聞いた、あの悲鳴は――あなたのお連れの方だったのですか？」
「えゝ、お可哀想に――、どうなすったか知ら？ きっと、あの男に殺されたに違ひありませんわ。私だけ逃げてしまって、申しわけないけれど、私はまるで夢中でしたの。まさか、こゝがあなたのアパートとも存じませず、ただ助けて頂きたいばかりに、――飛んだ失禮をいたしました」
と女は兩手で胸を抱きながら、心を落ちつけるやうに、やゝ少時眼を閉ぢた。
「きっと、あの男、此處へやって來るでせう。あゝ恐しい。どういたしませう。來たら――、見つけられたら最後私の命はありません。大變ですわ。あなた、何處かに私をかくして下さらない？ お願ひですわ」
「その尾けて來た男といふのは、御知り合ひの人なんですか？」
彼女は焦り焦りして、
「理由はあとで申上げます。どうぞ、あの男に見つかったら、あなた私を妻だと仰しゃって下さいませ」
妻？ 冬雄は何と答へていいか分らなかったが、いやな氣持はしなかった。すると間近いところで靴の音がした。
彼女は震るえ上り、冬雄の胸に縋りついた。
「逃がして下さい。かくして下さい。お願ひです、あゝ恐い！」
靴音はハタと止った、同時に、ドアをコツコツとノックした。彼女は色を失った。
かくしてくれと云はれても、かくすところはない。たった六疊一室のアパートのことだ。どうしたものだらう、と、途方に暮れた。
此方が返事をしないので、外ではドアを烈しく叩く。
「今晩は――、今晩は、一寸こゝを開けて下さい」
底力のある太い聲だ。
冬雄は半分氣を失ひかけてぐったりしてゐる彼女を引き起して、洋服ダンスの中へ隠し込み、自分の洋服をその上からかぶせ、胸の動悸をかくしながら、せいぜい落ちついて、
「靜かにして下さい。ドアはいま開けますがね、一體、どなたですか？ こんな時間に――、もう夜中の二時ですよ」
と咎めるやうな聲で、ハンドルを廻した。
ドアの前には背の高い中年の男が、兩脚をふんばって、棒立ちになってゐた。帽子を眼深に被ってゐるので、顏はよく分らないが、右手をぐっとポケットに突込んでゐるのが氣になった。何か持ってゐるに違ひない。ピストル？ 彼は思はず二三歩後退った。
「たった、いま、こゝへ若い婦人が逃げ込みましたな。たしかに見届けたんだから間違ひはない筈だ。どうか渡して頂きたい」
洋服ダンスの中で耳をすましてゐるだらう彼女の事を思ふと、彼は知らず知らず虚勢をはるのだった。
「何んですって？ 若い婦人？ 知りませんな。僕は今、歸ったばかりで、これから寝ようと思ってゐるところなんですが」
「そんな事を云って、かくさないで下さいよ。僕は何もかも承知してゐるんだから、とにかく今夜は僕に渡して下さい。話はあとでつけるとして、――」
「何を云ってゐるんです。僕が婦人をかくしてゐるやうに、誤解しないで下さい。御らんの通り、六疊一間きりなんですからね。かくすにもかくしようがありませんや」
「君、じらすのは止し給へ、僕はこれで我慢してゐるんだよ。だが――、かう見えても、余り氣が長い方ぢゃないんだからね、そのつもりでゐてくれ給へ」
「そんなに疑ふなら、上って、よく調べられたらいいでせう。しかし、家宅捜索をして、もし婦人がゐなかった時は、僕は承知しませんから、それだけはふくんで置いて貰らひますよ。お見かけした處、あなたも相當な地位のある方らしい、さういふ立派な身分の人が、深夜、他人の家に押し込んで來るといふ事からして、穏當ではない、恥しい事ですからね、よく落ちついて考へた上で、戸棚を開けるなり、疊を上げて床下を覗くなり、納得の行くやうにやったらいいでせう」
と突っぱねた。男は冬雄の常葉など耳にも入れず、迂散臭さうに、ぢろりと室内を偸み見てゐたが、
「余り非常識に思はれるのも不愉快だから云って置くがね、あの婦人は僕の妻、つまり伯爵夫人なんですよ」
男は薄い唇を一文字に結んで忌々しさうに、
「最近この部屋に妙な學生と高貴な婦人が同棲してゐるといふ。僕はてっきり彼女に違ひないと思ひ、それで今夜は密に後を尾けてゐると、果して噂に疑はず、この部屋に入ったのを見た。しかしゐないと云はれるなら、それでもよろしい。私の方にはまたそれだけの考へがあるから、とにかく、學生の身で怪しからん話だ、早く反省して、正しい道を歩まれたらどうだね。いや、そんな事は余計なお世話だろう、まあそれでもよろしい」
男は荒々しくドアを閉めて出た。靴音の遠ざかるのを待って、冬雄は洋服ダンスを開け、
「歸りましたよ。さぞ窮屈だったでせう。さあ、早くお出でなさい」
惡夢の夜
「おかげさまで私命拾ひしました」
婦人はカチカチと齒を鳴らし、震るえながら、タンスから出て來た。
「そんなに恐がるやうな男でもないぢゃありませんか」
「いゝえ、あれは紳士の假面を被ぶった恐しい人ですわ。私は尾け狙はれてゐるんで、いつかは命を奪ばわれやしないかと思ってゐるんですの」
「しかしあの人はあなたの事を妻だと云ってゐましたよ」
「えゝ聞いてゐました。私はタンスの中から飛び出さうかと思った程口惜しかったの。あの人に一度見込まれたらもう駄目、まるで蛇みたいなんですからね」
「何だってまたあなたはそんなに恐れてゐるんですか。まるで弱點を握られてでもゐるやうですな」
「ほんとの事をお話すると、あの人から結婚の申込みを受けた事があるんですの。それをお斷はりしたので、妻だの、家内だのとみんなに云ひ觸らして私に傷をつけ、私の結婚の妨げをして結局何處にもお嫁に行かれないやうにして自分のものにしようっていふんですの」
「怪しからんな。そんな奴警察にでも云って何とかならないんですか？」
「親の名譽を思ったり、地位を考へたりするもんですから、めったな事は出來ないんですの。そこがまた先方のつけめでもあるんですがね」
婦人は急に身づくろひして、丁寧に頭を下げて改まった口調で、
「では、また改めて御禮に伺ひますわ」
とにっこりして、戸外の闇の中に消えて行った。
彼女がゐなくなると、冬雄は急に淋しくなった。タンスを開けると、彼女の移り香がそこはかとなく漂って、何處かにまだゐるやうな氣がした。
冬雄は興奮して眠れなかった。
うとうとしたかと思ふと、血みどろの若い女が路傍に倒れてゐる夢を見た。その路ばたは彼が毎日驛へ通ふ時とほる所だった。彼は汗びっしょりになって眼をさました。きっとこの近くに血なま臭い事件があったのだなと思った。たった一聲だが、あれはたしかに女の斷末魔のものに違ひなかった。
冬雄は夜が明けるのを待ちかねて、寝卷のまゝで外へ出た。
悲鳴の聞えたあたりに見當をつけて歩いて行ったが、何處にもそれらしい跡はなかった。
昨夜の今朝だから、たとへ社會欄を賑はす殺人事件があったとしてもまだ新聞には出てゐないだらうが、それでも氣になるので、驛へ行って朝刊を一枚買った。隅から隅まで熱心に眼を通してみたが、それに似通ったものすらなかった。彼は何となくがっかりした。まるで何かの事件を待ってでもゐたやうに――すると、いつの間に來たのか、忍びよるやうにして、彼の肩越しに新聞を盗み讀みしてゐる人のあるのに氣がついた。
冬雄が、ひょいと顏を上げると、それをまるで待ちかまへてゐたやうに、
「あの悲鳴の一件なら、新聞よりも、私の自動車に乗ってごらんなさい。あなたの猟奇的興味を充分滿足させるだけの事件がつぎつぎと起りますよ」
と意味ありさうに云ふ。それは運轉手風の若い男だったが、金筋の入った帽子を被ぶってゐるので圓タクの運轉手よりは上品に見えた。彼の指差す方を見ると、空色の美しい一臺の自動車があった。
「どうです。乗ってごらんになりませんか」
冬雄は默って運轉手の顏を見てゐた。すると男はポケットから手紙を出して、
「實はある方から、貴方をお迎へするやうにと、云ひつかって來たんです」
手紙は名も知らぬ彼女からであった。
「昨夜はとんだお騒がせをして申しわけありません。おかげさまで無事歸宅いたしましたのは、ひとへにあなた様の御好意と深い感謝を捧げるわけでございます。つきましてはもう一度お目にかゝり、親しく御禮申し上げたいと存じてこの車をお迎へに差し出します。御不安なく、お越し下さいませ。さゝやかな朝飯を御一緒に頂きたいと存じます。今日を過ぎましては恐らく永遠にお目にかゝる機會は得られまいかと存じます。枉げて御承諾下さいますやうに」
と、あった。
ホテルの貴婦人
冬雄は一寸躊躇したが、永遠に會へないといふ言葉が、ひどく胸をうったのと、この車に乗りさへすれば彼女に會へるといふ喜びとで、彼は理性を失ってしまった。
彼はやはらかいクッションに腰をかけると、社内の何處かに彼女がゐるかと思ふ程、かの洋服ダンスに残ってゐた香が鼻を打った。冬雄はなつかしさで胸が一杯になった。何處から來たともわからぬ自動車に乗って、一體彼は何處へ連れて行かれるのだらう、思へば一抹の不安がないでもなかったが、まゝよ、どうともなれ、といふ太々しい考へが彼の胸に頭を擡げて來て、くそ度胸がすわってしまった。
しかし、少し落ちついてから、ふと氣がついた事だが、行く先は知らないが、この立派な自動車から見ても、場末のアパートや裏長屋へ横附けされるとは思はれない、それにしては自分のみなりがあまりにも氣がひける、洗ひざらしのこの浴衣がけでは、彼女も肩身がせまからう。
「運轉手さん、一寸僕は着換へをして來るから待ってゝくれないか」
と云って、ドアに手をかけようとする時、車はハンドルを切って急にスピードを出した。
「そのまゝの方がよろしいんですよ。ふだん着のまゝの貴方をお連れしろと申しつかったんですから」
と云ひながら、片手を延ばしてカーテンを下し、問はず語りに云ふのだった。
「この車は目立って困るんです。何しろ、昨夜の今日ですからね、用心にしくはなしですよ。何處から狙ってゐないもんでもない。危險ですから、――あの方は嫉妬深くってねズドンと一つぶっ放されたら最後ですからね」
「目立つんなら塗りかへたらいいのに」
「それがさ。あの嫉妬やきがさせないんですよ。かういふ人目につきやすい色をして置けば、何處を走ってゐても、直ぐ分りますからね。ほんとに困り者ですよ」
「僕はね、あの婦人について何も知らないんだが、あのひとは伯爵夫人だとか云ってゐたが、誰の奥さんだね？」
「奥さんぢゃないですよ」
「一體僕は何處へ行くんだね？ あの婦人の家だらう？」
「あの昨夜の男の方がずっと家に來てゐられるので、あなたを御招待しては危險なんです。そこで失禮ですが、誰にも知れないやうに、あるホテルへ御案内するんです」
「ホテル？」冬雄は呆れて、
「あの婦人がホテルへ來られるのかね？」
「えゝ、もう、待っていられますよ」
車は彼れこれ四、五十分も走った。しかし、カーテンが下りてゐるので、何處を通ってゐるのか分らない、が、空氣が澄んで、海のにほひがするので、海岸に近いといふ事だけはわかった。
やがて、車はカーヴして止った。運轉手は敬々しく帽子を脱ってドアを開けた。それは大きなホテルの玄關だった。
冬雄は降りるのに躊躇した。この玄關から入るにしてはあまりにもみすぼらしい客だった。浴衣が一層氣になり出した。
「君、こんななりぢゃどうにもしようがない、折角だが、僕は失敬するよ」
と尻込みした。
「ホテルですもの。反ってその方がいいんですよ。御滯在のお客さんらしくって」
「冗談ぢゃないぜ。僕はいやだ」
「ぢゃ別口につけませう。その方なら人目につかないでいい、第一、ボーイにだって會はないで、直接お部屋へ入れますから」
車はバックして別の入口へ廻はった。
鍵穴から覗く眼
待つほどもなく、絨緞を踏む輕い跫足がして、懐しい昨夜の婦人が、
「お待ちしてゐましたのよ。よくいらして下さいましたわねえ」
と打って變ったしとやかさで、彼を迎へてくれた。
純白のドレスに空色のガウンをゆるやかに着た姿は寧ろ神々しいやうであった。燦然たるダイヤと紅玉をちりばめた腕輪は、ふっくりとした白絹のやうな胸に輝き、ナイトキャップの下からルビーのイヤアリングがぐみの實のやうに可愛らしくゆれてゐる。頬紅だけをさっとはいたまぶしいやうな美しさ、冬雄は思はず見惚れてしまった。
昨夕驛で見たモダンな蓮ッ葉な彼女、眞夜中に追はれて逃げ込んで來た時のあのしほらしい彼女、そして今まのあたりに見るこの氣高さに冬雄は戸惑ひしてしまった。これが同一人かと冬雄はまるで狐につまゝれてゐるやうな氣がしてどれがほんとの彼女の正體であるかと思ひ惑ふのだった。
姿かたちばかりでなく、彼女は何處から見ても立派な貴婦人であった。冬雄は彼女のあまりの美しさに、氣おくれがして正面から見ることが出來なかった。
「おいで下さるか、いかゞと、私、先刻からこゝのウインドウを開けてみて居りましたの」
指差した。細い尖った爪には紅がさしてあった。窓は半開きになってゐて、海氣をふくんだ風が入って來た。
「今日お目にかゝれなかったら、永久にお目にかゝれないと思って、どんなに心配いたしましたでせう。お車が見えた時、私は嬉しくって涙が出ましたわ」
冬雄はいい音樂でも聞いてゐるやうに、うっとりとして、彼女の言葉を聞いてゐた。
「あなた、朝の御食事、まだでいらっしゃいませう？」
あさの食事どころか、着物だって、この通りの寝卷姿で、と云ひたかったが、何も云へず、ただ顏を赤くしてゐた。それと氣がついてか、夫人はその隔りを取り除こうとするやうに、つとめて親しげに打ち解けた調子になって、
「ねえ、たった一日しか、いゝえ、數時間しか御一緒にゐられない私共なんですもの。御遠慮はよしませうね。たゞ、私は昨夜の御禮を心から申上げ、また御無禮を御わびしたいと思って、無理にもお招きしたんですから、ほんとにお互ひに遠慮なんかしてゐちゃあ、時間が勿體ないのよ」
婦人は食堂へ行って、一緒に朝飯を食べようとしきりにすゝめた。しかし冬雄はさすがにそれは斷はった。こんな寝卷姿で晴がましい食卓につくことは恥しかった。
それと察して、彼女はボーイに家族だけの小さい食堂へ用意をするやうに命じた。しかし、そこへ行くのにも、大食堂を横ぎらなくてはならない。彼はうんざりした。しかし相手の婦人は存外平氣で、
「殿方ですもの。お召物なんか何んだって、構ふもんですか。すましていらっしゃいませ」
おづおづしてゐる冬雄の腕をとって大食堂を通りぬけ、家族室へ入った。
その時、冬雄は隅のテーブルから、ホークを握り、火のやうな眼をしてじいと見てゐる人の顏を見てぞっとした。それは昨夜の男であった。
冬雄は食事ものどへ通らなかった。
しかし、婦人は一向意にも介さないやうな顏をして、なほも親しげに彼に話しかけたり食事を終って私室に戻る時、これみよがしに冬雄と腕を組んで昨夜の男のテーブルを横ぎったりした。その大膽さに冬雄は氣を呑まれてしまった。
彼女は私室に入ると、鍵をかけた。
ふたりはスプリングのいい長椅子に肩を並べて腰かけた。彼女は喫ひかけの煙草を彼にあたへながら、どういふわけか、ドアの鍵をぬきとって、テーブルの上に置いた。
その時、ドアに誰か觸れたやうな音がした。
冬雄が止める暇もなく、彼女は鍵穴を覗いてゐたが、
「あれっ！」と叫んで、冬雄にすがりついた。冬雄は彼女を庇護ひながら、振り向いて見ると、鍵穴にぴったりつけてゐた眼がぱちりと一つまたゝいた。彼は水を浴びたやうに總毛立った。それはたしかに昨夜の男の眼であった。彼女もすっかり脅えてしまった。何方からきり出すともなく歸らうといふことになって、二人は固く再會を約して別れたのだった。
女の正体
冬雄は夢にゆめみる心地でアパートへ送りかへされるとすぐ敷きっぱなしの寝床の中へもぐり込んでしまった。
そして前後不覺に眠って、眼がさめた時は朝日が顏にさしてゐた。冬雄はぼんやりと天井をみつめながら、一昨夜から昨日へかけての不思議な出來事を考へてゐた。
一體何者だらう？ 彼女は遂々名前を教へなかった。しかし男は伯爵夫人だと云った。貴婦人の遊び？ それにしては余りに念が入り過ぎてゐる。とにかく相手の名前さへ知らないでは話にならない。人が聞いたら何んて馬鹿だらうと云ふだらう。好奇心もこゝまで來てはお笑ひぐさだ。
あんなにかたく約束したのだから、今夜あたりまた迎ひの自動車が來ないものでもない、此度會ったら必ず彼女の正體を突きとめずにはおかない。
冬雄は腹んばいになったまゝ手を延ばしてポストから新聞を出さうとすると、パタリと白い角封筒が落ちた。
はっと飛び起きて、それを拾った。なつかしい香がした。彼は夢中で封をきった。
「冬雄様！
いろいろありがたうございました。
芝居は大成功、拍手喝采のうちに幕を閉ぢました。相手役をつとめて下すった貴方様へ、主演の私から深い感謝を捧げる次第でございます。
夜中あなたのアパートに現れ、またホテルの食堂にゐたり、鍵穴を覗いたりした男、あれは別れた私の夫でございます。私は家附きの一人娘で、あの男は養子だったのです。最近、私は相思の間柄である某青年と結婚することになりました。それを聞いて、あの男は狂氣のやうになり、私に復縁を迫り、果ては脅迫がましい態度にまで出ますので彼が私に失望してあきらめるまでは危險で結婚することも出來ず、ほとほと困りきってしまひました。
そこで已に私は再婚してしまったものと傳へさせ、彼に斷念させようと存じましたのですが、彼はそれをなかなか信じません。
ところが、驛に學生ようかんを賣ってゐられる方が、私の戀人にそっくりだといふ話を友人から聞き、一昨日、私は一人でわざわざ驛へまゐり、あなた様によそながらお目にかゝりました。全く同一人かと思はれるやうによく似てゐらっしゃる。
私は至急にあなた様の御性格や御趣味を調べさせましたところ大變に猟奇的なことを好ませられるといふことがわかりました。そこで私は一芝居打つ氣になり、筋書をつくりました。
あれはすべて私のつくった狂言でした。幸ひあなた様があまりにも戀人によく似てゐられるので、私の先夫は全くあなた様を私の戀人と思ひ込み、アパートに私が同棲してゐると思ってあの晩も私のあとを尾けてゐたのです。さうと氣がついて、私はわざとあなた様のアパートに逃げ込み、彼を失望させてやりました。
あの時のあの悲鳴は、あの人が凄まじい形相で私を追ひかけてゐる時、通りかゝった女の人に突き當ったのでございます。
もう斯うなっては徹底的に思ひ斷らせるより仕方がないと存じ、あの人の泊ってゐるホテルへ、わざとふたりで泊ってゐるやうに見せるため、特に御平常着のまゝの貴方様をお連れして、朝の食事を家族室でしたためるところを見せてやりました。
鍵穴から覗いた時、恰度私が貴方様へ縋がりつき、貴方様が私を庇護って下すってゐる仲の好いところを見てゐたさうです。それであの人も完全に私を斷念する決心をいたしたと申します。
これで、何人にも邪魔されることなく、私は安心して再婚することが出來、こんな嬉しいことはございません。結婚式には是非とも御出席を願ひ、かりそめの夫におなり下すった貴方様へ、未来の夫を御紹介申上げたいと存じます。
注）明らかな誤字誤植は訂正しています。章題と本文の新旧漢字の混在はそのままです。
注）句読点は追加変更したところがあります。カギ括弧の閉じを追加したところがあります。
注）手紙部分は一文字下げで段落頭の一文字空けはありませんが、下げ量の変更、一文字空けの追加をしています。
注）本編は「山茶花娘」の改稿作品といえそうです。
悲劇の追憶「浴室の美人殺し」
「実話講談の泉」 1949.11. (昭和24年11月号) より
１
一井夏江の結婚式に御出席下すった方は、あの時の姉の輝くやうな美しさを、いつまでもお忘れにならないでせう。私も、あの日位、自分の姉を麗はしい人だと思ったことはありませんでした。
もとより美人で評判だった夏江が、一生に一度の晴れの日だったのですから当然のことでせうが、まるで天女が天降ったやうだ、と、嘆声をもらしてゐらした方もありました。
「この次ぎは秋江様のお番ですわね、お姉様より一寸もお背が高いから、お召物も栄えて、さぞ、お美事なことでせう」
と、美容院の松永朝子先生が云ひますと、助手の小森きよ子さんが、惚れ惚れしたやうに私の顏を眺めながら、相槌を打つのです。
「秋江様は夏江様より、もっともっとお美しくおなりでせう。松永先生も、私も、今から御結婚式のお衣装つけを樂しみにいたしてをりますんですよ」
私は耻しくって、顏を眞赤にしてゐました。
小森きよ子さんは先生よりもお化粧が上手だといふ評判なので、若い人達は誰も彼も、あの人に顏をつくって貰ひたがってゐました。姉も大変な小森さんびいきで、
「披露会はＮ河原の新居の方でいたしますが、是非、その時はあなたにいらして頂きたいのよ。都内とちがって郊外でお氣の毒ですが、お車を差上げますから」と熱心に頼みました。すると小森さんは一寸びっくりした表情をして、
「まあ、お嬢様はＮ河原へお住ひになるのでございますか？ 私は親類がＴ不動にあるので、月の半分をそちらで暮してをります。Ｔ不動からＮ河原までは眼と鼻の間ですから、御結婚後は毎日でもお伺ひいたしますよ。御新婚後の当座はどなたでも、お家は空けにくいものでございますからねえ」
姉は大変によろこんでをりました。
結婚式を挙げてから三日目に、Ｎ河原の新居――それは新夫婦のために建てた家――で、豪華な遊園会を開きました。
つまり、それが結婚披露会なので、東京は勿論、遠くは東北、関西方面から、実業界の大立者やら貴顕紳士淑女などが馳せ参じたのは、どなたもよく御存じでございませう。
一井と申せば日本でも指折りの富豪です。先年物故した父は実業界での巨人で、全國に支店もあり、多勢の社員をかゝへ、随分華々しい生涯を送った人でしたから、そこの総領娘が家督を相続いたし、殿川伯爵家から次男の氏正といふ青年を養子として迎へた披露の宴なのですから、素晴らしいのも不思議ではありません。
が、そのお目出度い吉日に、あの恐ろしい事件が突発しようとは、よもやどなたも御想像なさらなかったでございませう。
宴会が終り、來賓が散ってからのことでしたが、疲れ切った花嫁は小森さんに高嶋田のかつらをぬがせて貰ひ、檜の香ゆかしい風呂場に降りました時です。何処から出て來たのか、一疋の小さなまむしが夏江の素肌の首筋に噛みついたのです。
悲鳴を聞いて、一同風呂場に馳けつけた時には、まむしはもうゐませんで、一糸まとはぬ姉が倒れてをりました。彼女の襟もとは見るもむごたらしく紫色にはれ上り、医者々々と騒いでゐるうちに、猛毒は全身にまはって、もう手の下しようもなかったのでした。
喜びは悲しみに変り、披露会の夜がお通夜といふ情けないことになり、氏正様は茫然自失してをりますし、私達は何が何んだかわからなくなったほど、みんな取り乱してしまひました。
「Ｎ河原には、むかしからまむしが棲んでゐるといふ噂は聞いてをりましたが、まさかと思ってゐました。しかし、まあ、宴会が終ってからでようございましたねえ」と媒酌人の櫻小路公爵夫人は慰め顏に云はれましたが、宴会の最中であらう、と、終ってからであらう、と、この悲しみには少しの変りはありませんでした。
悲嘆のうちに、初七日、三七日も過ぎ、四十九日の忌日を迎へようとする頃から、ぽつぽつ後の問題が人々の口にのぼるやうになりました。
それが具体化して來て、私の耳に入りますやうになったのは、半年近く過ぎた頃でした。
２
姉の媒酌人櫻小路公爵夫人が、ある日、親類代表で私を訪れました。さては、と、私は胸がドキンと鳴りました。
公爵夫人は先づ私が夏江に瓜二つだが、姉にも勝る美しさだと褒めて御機嫌をとって置いてから、徐ろに云ひ出したのです。
「実は御親類中の御意見なり、御希望なのでございますが、氏正様をいつまであのまゝでお置きするわけにもまゐらず、お血筋のことも考えへますと、どうしても此際あのお方をあなた様の御養子にお迎へになって頂き、お若い御両所のお力で、一井家がいよいよ繁栄になるやうにして頂きたいと存じますのですが、いかゞでございませうか、御腹臓のないところをおもらし頂きたいので――」
と、短刀直入に、氏正様の後妻になれといふ話なのです。
僅か三日の同棲ですが、一度は姉の夫であった氏正様の妻に、私はどうしてもなる氣になれなかったので、默ってをりました。
それなら、何処が氣に入らないかと云ふと、氣に入らないどころか、大好きだったのです。
氏正様は容貌風采は申すに及ばず、学校の成績もよく、しっかりしてゐるが、心は優しい人なのです。姉とはお見合の時から相思の間柄になって、はたの見る眼も羨しいほど睦まじうございました。姉の妹であるからでせう、私も大変可愛がって頂きました。
女ばかりのなかに兄が出來たので私達はどんなに喜んだことでせう。婚約時代は半年も続き、今思ふと、その時が姉としては幸福の絶頂だったのでございませう。結婚して三日目にはもうこの世の人ではなかったのですから――。
不思議なことに、あんなに好きだった氏正様を、夏江が亡くなると同時に、彼に対する私の愛情はすっかり冷めきってしまひ、ただ義兄であるといふ感情のみが残ってゐました。
それですから、櫻小路夫人からの申出でには、全く途方に暮れてしまったのです。
「氏正様は何と仰しゃるの？ あんなに姉を愛していらしたのですから、まさか、その妹を再婚の相手にお撰びにはならないのでせう？」
と、私は逃げをうちました。
「それがあなた、最初は一生独身でゐるの、再婚するならまるで知らぬ人がいゝ。秋江さんはあまりにも夏江によく似てゐるので妙な氣がすると仰しゃってゐらっしゃいましたが、それが近頃では御親類方の御意見もお聞きになり、またこの一井家の將來もお考へになるやうになって、是非あなたと御結婚遊ばしたいと仰しゃられるのでございますよ」
「まあ。さうですの？」
「また一時はかういふお話も出ました。秋江様を御分家なすって、そちら様にお出來になった御子様を氏正様がお頂きになり、お世継ぎになされば御血統も絶えまいからと、ところがそれは面白くないと申す者が出てまゐりましてね。氏正様もお若いし、一時の御感情で独身を主張なすっても、永い間にはお召使ひの女性をお傍近くにお置きになるかも知れない、お子様でもお出來になったら、御家庭は段々複雑になるばかりだからと反対され、
結局、秋江様に白羽の矢がたったわけでございますから、どうぞ、一井家のため、氏正様のため、また御自身のためをお考への上、是非とも氏正様との御結婚を御承知下さいますやうに。また、私共が御媒酌の労をとらせて頂きたいと存じて、実は折り入ってお願ひに伺ったわけでございます」
その日を皮切りに、櫻小路夫人は、二三日目には必ず訪ねて來て口説きたてるのでした。彼女の熱心さとしつこさに根負けがして、私は遂々説得されてしまったのです。
さあ、私が承知した、となると、氣が変らないうちに、早くお式を挙げなければならないといふわけで、やいやいうるさく迫って來るのにほとほと弱ってしまひました。
その頃私は亡き姉をしのぶ氣持ちから、Ｎ河原の家にをりました。近くの寺に先祖代々の墓地があって、そこに姉も埋葬されてゐますので、私は毎朝、花園の花を手折って墓参に行くのを樂しみにしてをりました。結婚が定ってからの私はとかく氣も沈み勝ちで、毎日の生活がほんとに憂鬱だったのです。
３
墓所に行くのには河原を通ります。春はかげらふがたち、鶺鴒が長い尾を水に浸してゐるし、鮎鷹が石の上に眠ってゐたり、のどかな風景が見られるのですが、夏の末から秋にかけて、この静かな河が荒い泥海と化することがあります。山奥の雪解けで、一時に大水が押し寄せて來るのださうですが、その季節にはよくまむしが出て、里の子などが思はぬ被害を受けるのです。
姉がまむしに殺されてから、何とかして断絶させ、再び誰も被害を受けぬやうにしなくてはならぬと思ひ、蛇取りに退治を頼みました。
日当を支拂ひ、獲物は都内の蛇屋に賣って、彼等の収入にしたらよからう、と云ふのですが、かういふ仕事をする人は氣儘者が多く、自分の氣が向かなければ何日でも捕りに行かうとはしないのです。結婚後をずっとＮ河原で暮すとしたら、それこそ一疋のまむしもゐないやうにしなくては、第一不安でゐられたものではありません。
何かの話の折、美容院で私は小森さんにまむしの棲むＮ河原は嫌らひだと申したことがありました。
話した私はすっかり忘れてゐたのですが、ある日のこと、墓参の帰りに河原の景色に見惚れてをりますと、黒装束に身を固めた婦人が、にこにこ笑ひながら近づいて來ました。
よく見ると、それが小森さんではありませんか。紺の脚絆に紺のゴム足袋、紺の手ッこ、紺一色です。これがあの奇麗な美容師の小森さんだとは誰の眼にだってわかりますまい。いつもはおつくりをしてゐるので若い人だと思ってゐましたが、お白粉氣のない、素顔の彼女は思ったより老けてゐて、私の母とでも云ひたいやうな年配なのに、先づ私は愕きました。
「どうなすったの？ まあ、小森さんは――、そんな御服装で――」
小森さんは背中に背負ってゐた籠を地上に下し、手拭で顏を拭きながら云ひました。
「今日は、一疋も獲れません」
「あなた、何をとっていらっしゃるんですか？ 鮎なら、もう禁漁期に入ったでせう？」
「オホ……、そんなお品のいゝものぢゃありませんよ、秋江様」
「マルタや、はやは季節違ひ、何んでせう？」
と私は首をかしげて、小森さんを見ました。
「まむしですよ」
「えッ？ まむし？」
「商賣替へをして、美容師から蛇捕りに早替りいたしましたの」
「あら、そんなこと、御冗談でせう？」
「オホヽヽヽ。それは冗談ですが、私はこれで面白い腕を持ってゐるんでございますよ。少女の頃から蛇が恐くない、まむしを捕っては藥屋に賣って、お小遣ひにしてゐたんですのよ。あら、秋江様、いやですよ。そんなに吃驚なすっちゃ――」
「でも、美容師の小森さんが蛇捕りの名人だなんて、信じられませんもの」
「あんまりかけはなれた商賣だからでせう？ 美容師になってからは、人が嫌らひますからね、ふっつりとやめましたので、誰も知りませんが、此度は少し考へることがあって、思ひ切って――」と私をつくづく眺め、
「秋江様が御結婚なすって，Ｎ河原へお住ひになるとうかがゞったものですから、またこの前のやうな不祥事があっては大変と、急に美容院から休暇をとり、毎日、かうして河原をさまよってゐるんですが、殆どまむしは捕りつくしたと申してもいゝ位でございますから、どうぞ御安心なすってＮ河原にながながゐらして下さいましね」
といふ意外な話なのです。私のために、まむしを捕る、何といふ親切な方でせう？
それを恩に被せるでもなく、今日出会ふまでは、何一つそのことについては語らなかった小森さんなのです。これがほんとの隠徳と云ふのではありますまいか。
私は感謝で胸が一杯になり、何と答へていいかわかりませんでした。僅かな事をしてくれても直ぐ威張って見せたり、お礼を欲しがるのに、この人はまかり間違へば命をとられる危險な仕事をやってゐながら、恩がらせもせず、何といふ有難い人だらうと、涙がこぼれるやうでした。
「この薄情な世の中に、あなたのやうな温い、優しいお心の方が、お一人でも在らっしゃるかと思ふと、生きてゆくのに力が出ます。心が明るくなるやうですわ」
憂鬱な私の心の中に、一道の光明を見たやうな氣がしたのです。
小森さんは何と思ったか、靜かに私の手をとって、急にはらはらと涙を流し、
「何を仰しゃいます。とんでもない、これしきのこと、当り前です。それと云ふのも、秋江様がおいとしいから、いゝえ、あなたのお身を思へばこそなのでございます。あゝお可愛いゝ秋江様！」と云ふかと思ふと、わっと泣き出してしまひました。
４
ながい間俯伏して泣いてゐた小森さんは、涙の顏をあげますと、
「こゝはＮ河原で、見渡したところ人影一つなく、何をおしゃべりしようと聞かれる恐れもありませんから、誰にも打ち開けない私の秘密、それをお話いたしませう」と、古新聞を敷き、その上に砂利があたって痛くないやうにと、大風呂敷を厚ぼったく畳んで、即席の座蒲團をこしらへて私を座らせてくれました。
小森さんは私の前にぺたりと腰を落してをりました。
「私は両親の顏も知りません。肉親の温みも知らずに育ちました。十六の年に、お行儀見習ひと云ふ名である大家の殿様附き小間使に上りました。
十七、十八を夢の間に暮らし、十九の夏、私は人の親になったのでした。云ふまでもなく、父の名を口にすることも出來ないやうな、身分違ひの相手、つまりその殿様だったのです。
私は八月に女兒を生みました。三月おくれた十一月に奥様が初産でお姫様を御安産なさいましたさうですから、私の子の方が三ヶ月ばかりお姉様ですね。利口な奥様は嫉妬がましいことは一言も仰しゃらず、手切金としてお手許の中から莫大のお金をお出しになり、それを頂戴した私は肥立ちも待たず、お七夜にお暇となりました。
お邸を去りましても行くところのない私は遠い縁つゞきの家を頼って、一時身を寄せましたが、その頃その家が左り前で、火の車、そこへ飛び込んだのだからたまりません。忽ち私の金に眼をつけ、うまい言葉にのせて、みんな捲き上げてしまひました。
無一物になって、初めて欺かれたことに氣がつきましたが、取り返しがつきません。
それから、私の蛇捕りがまた始まったのです。女の癖に長虫の殺生なんて女の仕事としては田舎者で、何の藝もない女の仕事として、割がよかったのです。都合のよいことに私は蛇が恐くなかったので、人が厭がるまむしを平氣で捕まへてゐました。
ですが、蛇捕り女といはれるのが段々いやになりましてね、何とか身につく仕事を覚えたいと決心し、やっと一人前の美容師となったのですが、それまでの苦労はほんとにお話になりませんでした。
自分の生活が苦しいので。心では絶えず考へつゞけてゐるのですが、どうにも女兒の消息を知ることが出來ないので、何もかも運命だとあきらめようとつとめてゐましたが奇麗なお嬢様を見るとまた堪らなくなり、お年をうかゞったりして、私の子もこの位になってゐるのだらう、と、思はず涙ぐむやうなこともありました。何しろお七夜に別れたぎりなので、どんな名がついたのかさへも知らなかったのです。
幸福であればいゝが、もし不幸ででもあったなら、さぞこの母を恨むだらう、母に捨てられたと誤解するかも知れない、さう思ふと胸が痛くなるやうでした。
小さいうちはさまで氣にもなりませんでしたが、年頃になってゐるな、と思ふ頃から始終子どもの事が頭から離れなくなりました。
一度、会ってみたい顏が見たい、と、そのお屋敷の附近をさまよったこともありましたが、請願巡査に怪しまれ、取り調べられたりしたので怖氣づいて、附近をたづねることは思ひきりました。
たった一人ぼっちの私は、子どもはなし年寄りになってから困らないやうにしなくてはならないと、松永朝子先生の助手になって働き、せっせと貯金を始めました。
すると、そこへ時々お見えになるお嬢様がお二人、何方がお姉様か、お妹様か分らぬほど、同じやうに見えるのです。美容院にゐるのですから、奇麗な方には見馴れてゐて、相当眼の肥えてゐる私ですが、このお二人のお嬢様のやうにお美しい方は今までに見たことがありません。
お色は透き通るやうに白く、黒子一つなく、しみのかげさへ見えない。まるでゆで玉子の皮をむいたやうな艶々したお肌、細面の首筋の長い、眼鼻立ちのぱらりとした、絵のやうな方なので、お家柄といひ、松永美容院のいゝ看板でしたから、先生はじめ、皆ほいほいと大切にしてゐました。そのうちに、お二人がお風邪で外出出來ないからと、そのお屋敷に招ばれ、私が松永先生のお伴をしたわけなのです。が、その時位、私はびっくりしたことはありませんでした。それがまあ何んと、私の娘時代に御奉公に上ってゐた御大家だったのです。
私は電氣にでも触れたやうに全身がしびれ、お玄関で身がすくんでしまひました。
それとも知らぬ先生は私をうながして、奧のお化粧の間に入りました。
もとより、そのお化粧の間も私はよく知ってをりましたのです。
あゝ、私の二十年の記憶は、一瞬間によみがへったのでした。
そっとあたりの様子をうかゞひましたが、どうやら殿様はもうおかくれになったものらしく、奥様はどうなすったのか、お姿は見えませんでした。お家の中を、このお二人のお嬢様がとりしきってでもいらっしゃるのか、大層な御見識で、美容院へおいでになる時のやうな氣軽な御様子は少しも見えません。
お附き女中が二人、次の間に控へてゐるので、私達は冗談口一つきくことが出來ないのです。さすがに松永先生もすっかり興奮して、珍らしく頬に血をのぼらせてゐました。
この二人のお嬢様のうちのお姉様の方が、私の生んだ子に違ひないと思ひましたが、そんなことはおくびにも出すことも出來ず、またもし云ひ出しでもしたら、氣狂だとつまみ出されてしまふでせう。それ程このお嬢様のお身分は立派で、私なんかとは大変かけはなれてゐるのでしたから、已むを得ないこととしても、ほんとに情けないと思ひました。
生みの親が顏を突き合せてゐるのに、親しい口一つきけず、こんな悲しいことがあるでせうか。
知らぬこととは云ひながら、お嬢様はまた美容師を半分召使ひのやうに扱ひ命令的な物云ひをされたりするのです。
それにも一言も逆らはず、松長先生はただ、はい、はい、と云ひなりになって、お化粧からお着附けまで、ふだんはお結婚式の時以外、自分で手を下さない先生が、お襦袢の襟のぬひつけまでやってゐるのです。
大家といふ雰囲氣に、先生はすっかり酔ってゐたらしうございました。
５
美容院へ帰ってからも、私はぼんやりとしてゐました。
あのお姉様の方が、私の生んだ娘ではあるまいか、と思ふともうたまらなくなり、何とかして確かめたい、もっと委しくお屋敷の内情を知りたいと思ひ始めたのです。それからの私は來るお客様を掴まへては、片っぱしから、あのお嬢様の噂をして、何かを訊き出さうとしたのです。
やっとこれだけのことを知りました。
あの二人のお嬢様は最近お両親を亡くされたこと、夏江様が御相続人で、あの巨万の財産を受け継がれ、妹の秋江様は他家へ嫁がれるのだが御縁はまだ定ってゐないこと等でした。
松永先生もあのお嬢様方には大変興味を持ってゐましたので、私には都合がよかったのです。
「夏江様は御縁談が定り、近々御結婚をなさるさうですよ」
と、一人の夫人が云ひました。
「お嫁にいらっしゃるんですか？」と先生は直ぐに訊きました。
「いゝえ、御養子ですよ」
「どちらから？」
先生ばかりではなく、私もきゝ耳を立てました。
「殿川伯爵の御次男様、大層よくお出來の方ださうですわ」
「お立派なところからおいでになるのでございますねえ」先生は息をのみました。
「あゝいふ御大家だし、お嬢様はあのお美しさでせう？ どんなお立派なお相手だって、釣り合ひますよ。何しろ、世の中の幸福といふ幸福を全部一人じめといふやうな方々ですからねえ」
私は体中がカァと熱くなるやうでした。私の娘が、殿川伯爵の次男と結婚して、あの巨万の富を継ぐのかと思ふと、嬉しくって、まるで夢のやうです。
嬉しさを通り越して、氣が轉倒するかと思ったのです。そこへまたもう一つ、びっくりするやうな話を聞いたのです。
あとから來た一人の夫人、それはお嬢様の家のことをよく知ってゐるといふ噂でした。
「あのお二人は、双生兒だって世間では云ッてゐますが、実は三ヶ月違ひの姉妹なんですよ」
私がはっとしてゐる暇もなく、後をつゞけ、
「お姉様の方が御妾腹だったのです、昔風のお考へから、後で生れた御本妻の子のお妹様の方を、お姉様として、お籍を入れたんですとさ」とさもさも知ったかぶりに云ったのです。
私はもう耳ががんがんして來まして、思はず夫人の傍へよって、よく訊きただしました。
「すると、奥様、何んですか？ ほんとはお姉様がお妹様で、お妹様がお姉様になってゐるんですか？ 取りかへっこしたんですか？」
「さうよ。その通りなの」
「ぢゃ、御本腹のお妹様が、お姉様の夏江様で、あのお家を御相続なさるんですね」
「そんなお話ですよ。それでなくッちゃ、生みのお母様だってつまらないぢゃありませんか。御自分の娘を外へ出して、妾腹の娘に後を継らせるなんて、そんな馬鹿々々しい話はないでせう？」
「なるほどねえ。三月位なら、籍の方だって何んとでもなりませう。それに御当人は赤ン坊ぢゃ文句の云ひようもありませんからねえ」
先生も乗り出して來て、
「お妾の子のくせに、あの大家のお嬢様としてお嫁入りするなんて、結構なものぢゃありませんか。文句どころの騒ぎぢゃありませんわ、苦情を云ったら罰が当りますよ」
私は唇を噛みました。
あゝ、可哀想に、妾腹の子に生れたばかりに、総領でも後継者になれず、罰当りだなどと云はれて、と、胸の中が煮えくりかへるやうに口惜しくなりました。
が、口に出すことではありませんし、云ったって物笑ひになるのが関の山、誰一人私の言葉を信じる者はありますまい。何しろ証據といふものが一つもないのですからね。
それからよくよく注意してみると、秋江様のお顏の何処かに、私の若い頃の面影があるやうに思はれ、お化粧しながらもなつかしくてたまりませんでした。
そのうちに夏江様の御結婚の日が來ました。
松永先生に連れられて私はまゐりましたが、これが自分の生んだ娘の方であったら、どんなに嬉しからう、と、残念で、残念でたまりませんでした。
たしかにお姉様とお妹様とか取りかはってゐるのでせう、お妹様の方は私に似て背も高いし、何処やらませたところもあって、三ヶ月も、半年も年長らしく見えるのです。
御結婚式は無事に滯りなくすみ、披露会の日がいよいよまゐったのです。
あゝ、忘れもしません。あの日の夏江様のお美しかったこと、この方を殺してしまふのかと思ふと、心臓が冷めたくなるやうでした。
しかし、我が子のため、娘の出世のためを思へば心を鬼にして、邪魔者を親が取り除かないで、誰が、取り除いてくれるでせう。
親なればこそです。
親なればこそ、この危險を、いゝえ、命をかけるのです。
私は隠して持ってゐたまむしをお風呂場へ放ちました。ただ放ったのではありません。怒らせて、夏江様の首筋めがけて投げました。あゝ、私は惡魔でせうか、娘を思ふ親の心が、ある時は惡魔と化するのかも知れません。
秋江様、おゆるし下さい。夏江様を殺したのは、私だったのでございます」
小森さんは砂利の上に両手をつき、罪に服する者のやうな恰好で頭をすりつけ、泣き伏してしまひました。
６
眞青になって小森さんの告白を聞いてゐた私は、思はず震るへ上ったのです。
子を思ふ親心、といふものが、こんなにも深刻なものであると云ふことを、私は今まで知りませんでした。
小森さんは私を自分の娘だと信じ切って、多分この告白をされたものでせう。
ところが、それは大変な間違ひだったのです。いかに古風な家庭で、昔風に考へると云っても、総領と次女とを取り替へるやうな眞似はいたしません。
さういふ話はよく聞きます。妾腹の子に後を継がせたくないために、二ッも年下の本妻の子を兄にしたといふ例はないとは云ひませんが、一井家はそんなことはゆるしませんのです。
妾の子であらうと、本妻の子であらうと総領は総領、次女は次女です。
私は正妻の娘ではありますが、次女だったのです。それが長女が亡くなった今日、血統が絶えるからと云ふので、養子を迎へることになりましたが、私は他家へ嫁ぐものと思ひ込んでゐたのでした。
これほどまでに苦労し、自分の命をかけてまで倒した娘それは小森さんの実の娘だったのです。そのかけがへのない大切な娘を彼女は自分の手にかけて殺してしまったのです。
私が默々として、うなだれてゐるのを見て、小森さんはその顏を覗き込み、
「こんなに可愛く思ふんだから、どうぞこの大罪を犯した私をさげすまないで下さい。せめて、あなた一人にだけは私のやったことを心から喜んで頂きたいんですよ」と云ふのです。私は堪らなくなって、
「お母様！」
と、初めて彼女を母とよびました。それは我知らず口から飛び出してしまった言葉だったのです。多分、私の心はその親心に触れたのでせう。
しかし、私は決して彼女を母と思ってよんだのではありません。それなのに小森さんは狂気して叫びました。
「お母様だって？ え？ お母様と云ってくれたの？ あゝ、嬉しい！ 秋江、私の秋江」と云って、縋りついたのです。
「ちがひますよ。お母様！」
私はそうッと小森さんの体をのけて、
「あなたは私の母ではない、夏江お姉様のほんとのお母様ですわよ」
「え？ 何んですって？ 何を仰しゃる」
「お母様、いゝえ、夏江お姉様のお母様！ どうぞお心を鎮めて聞いて下さい」と、小森さんの両手を私はしっかりと握り、
「私にもお母様とよばして下さい。夏江と秋江は決して取り替へッこにされたのではありません。誰がそんな間違ったお話をお耳に入れたのか知りませんが、もっと深くお調べになって、事実を知ってゐらしたら、よもやこんな悲劇は生れなかったでございませう。誤った噂といふものは大変な罪をつくります。これはあなたがお惡いのではありません。誤りを知ってか、知らずにか、面白半分に傳へた無責任な人の罪です。
この河原にはいま誰もをりません。そして、このお話を聞いたのは天下に私一人、その私が忘れたらば、この話を知る者はなくなります。お母様はすべてを夢だったと思って下さい。夢でせう？ 夢に違ひありません。何もかもが夢だったとしませうよ。そして、お母様は早くお眼を覚まして下さいませ」
小森さんは虚ろのやうな眼を開いて、じいと耳を傾けてゐましたが、初めて自分の過失を知ったのでせう。愕きとも、失望とも、何とも云へない悲痛な声で泣き出しました。
私は慰める言葉がありませんでした。
「夏江は私の唯一の生命でした。生きる力だったのです。その生きる力を自分の手で断ちきってしまった――。あゝ、私は他人様の娘を殺さうとして、自分の娘を殺してしまった。これが天罰でなくて何でせう」
「過失ですよ。これからは私がほんたうの娘になりますから、お母様は氣を落さないで下さい。このお話は云はなかったこと、聞かなかったこととして、お互ひの胸の中に葬ってしまひませうよ」
「葬ったつもりでも、私の心までは葬れないでせう。私の良心は私を永遠に責めさいなむことでせう」
小森さんは苦しげに云って、ふらふらと歩き出しました。
７
蛇捕りの小森さんが、まむしに噛みつかれて、Ｎ河原で死んでゐるのを発見したのは、翌日のことでありました。
「あの女は、あんまり長虫を殺生したので、遂々まむしに敵を討れた」
附近の者達はそんな噂をしてゐました。
引取人のない彼女の亡骸を私は姉の墓の傍に葬りました。
Ｎ河原での彼女の物語は、私の胸の奥深く秘めて、誰にも知られませんでした。まむしに噛みつかれて命を奪られたといふだけで、小森さんの秘密は永久に保たれてゐたのでございます。
注）旧漢字と新漢字が混在となって掲載されています。
注）句読点は一部補っているところがあります。
注）その他、明らかな誤植は訂正しているところがあります。
怪奇探偵「生きてる死美人」
「読物の楽園」 1949.11. (昭和24年11月号) より
再會
私はその時、危く喫いかけのシガレットを、指からすべり落すところだった。
「似てるな。そっくりだ」
うなるように言うと、すッと起ち上った腰を、再び椅子の中に沈めて、もう一度ソッと彼女の横顏を偸み見た。
隣席のＡも手にしたグラス越しに、じいっと見ていたが、
「うむ。全く――、彼女じゃないかな？」
と首を傾げ、わざとだろうが、大袈裟に身震いした。
「よせ！ おどかすないッ」
私は彼の胴中をぐいと突いた。
「まさか、あの女が――、生きかえるわけはないし、他人のそら似さ。それに第一ここは上海じゃないよ。東京の眞中なんだからな」
「だが――、まてよ。あいつ、まるっきり此方へ横顏しか見せやがらないからわからないが、何とかして、正面から見てやりたいな」
「正面には相手の紳土が坐っている。隅のボックスではあるし、あの紳士がどかない限り、眞向きの顏は拜めまいな」
あの女とだけでは何の事だかわからないが、それにはこういう話があるのだ。
丁度、その頃、私とＡは上海の同じ社に勤めていた。新聞記者というだけで強もてのするのをいいことにして、遊び盛りの二人は随分盛り場を荒し廻ったものだった。
ある晩、土地随一の大ホテルに舞踏會があって、その會の終ったのがかれこれ午前二時、踊りつかれたＡと私も、そろそろ歸り支度をしていると、
「サロンの隅に――」
「――夜會服を着た」
「素晴らしい美人の死體が――」
などという、途切れ途切れの聲が耳に入った。
ハッと思うより早く、二人の足はサロンへ飛んでいた。人垣をわけて覗くと、一人の貴婦人が倒れている。そのふくよかな胸には見事なすみれの花束をさしていた。その花はまだ生々としてあたりに香氣を放っているのに、持主の方はしぼんで、もうこの世を去っているというはかなさだった。蝋人形のような死顏には何の苦悶のいろもなく、微笑さえ浮べているのだったが、その顏を一目見ると、私達は思わず愕然とした。
何故というに、私達はこの美婦人を知っていた。それもつい昨夜のこと、あるナイトクラブで知り合ったばかりなのである。一緒に踊ったり、バアで酒を飲み合ったりして、かなり親しくなった。が、醉っぱらっていた私達は、遂に住所も姓名も訊かなかった。ただ、
「來週、また、このクラブで會いましょう」
と別れ際に手を握って約束しただけだった。その女が、翌日の晩には、もう冷たくなっているのだから、二人が驚いたのも當然だろう。
もう一つびっくりしたことは、その屍體はついに何處の誰だか分らずじまいで、無論引取人もなく、自殺か、他殺か、自然死かもわからないまゝで、一夜のうちにかき消すように失くなったということだった。
ホテル中探したが、どこにも死體は發見されなかった。
「ありゃ有名な女スリで、仲間が引っさらってずらかったのさ」
と見て來たように言うものもあった。
Ａはどこから聞いて來たのか、
「なあにあの女は、某大官の愛人だったんだ。それで極秘裡に葬られたんだそうだよ」と言った。
どれが眞實だかわからないが、わかっているのはその美婦人の屍體は、地上から、消え失せたという事だけだった。
その時のあの女が、今頃、この東京の眞中にひょっこり姿を現わすという筈はないのだが、私は何だか氣になった。
「もしか、あの女だったとしたらさ。まんざら見ず知らずの間柄じゃなし、挨拶ぐらいはするだろうよ」
とＡは言った。
「たつた一夜のつきあいだ。覺えちゃいまい」
「此方が覺えているくらいだもの。先だって忘れるもんか」
「忘れられないような好男子でもないからなあ」
「アハヽヽヽ」
二人の笑い聲が意外に大きかったので、あたりの人が此方を振り向いた。彼女もくるりと向いたので、Ａと私は思いがけなく女の眞正面を見た。
「あッ」
ほとんど同時に、三つの唇から小さな叫び聲が出た。
女は何の躊躇もなくすらりと起って、ボックスの間を縫いながら、近よって來た。
「まあ、しばらく――」
すんなりしたしなやかな手を延ばして、二人に握手した。
「やっぱり、あの屍體は生き返ったんだな」
と私はＡの耳にさゝやいた。
「まさか、と、思っていたんだが――」
「オホヽヽヽ私、幽靈じゃないわよ」
Ａと私は彼女を間に狭んで、無事再會を祝し、盃をあげた。
「お話はいろいろあるけれど、それはまた次ぎの機會にゆずることにして――、あなた達は私が死んじゃったものと思っていたんでしょう？」
「無諭。當時の新聞にもそう出ていましたからね」
「假死だったのよ。だから、ある名醫の方が蘇生させて下すったの。それで、この通りぴんぴんしているってわけなの」
「いつ、東京へ來たんですの？」
「私？ 引揚者なのよ。東京へ來てから、とても苦勞しつゞけましたわ」
「でも、相變らずじゃありませんか」
「どういたしまして――、すっかり變り果てゝしまいました。落ちぶれて、今じゃその日暮しよ」
「そうかなあ。僕達の眼には相變らず豪奢に見えるけれど」
その時、外で妙な口笛が聞えた。
するとそれが何かの合圖ででもあるように、女は慌てゝグラスから唇を離して起ち上った。
「ちょいと失禮するわよ。すぐ、歸って來るから待ってゝね」
女は可愛いいしなをつくって出て行った。と同時に、彼女と一緒のボックスにいた紳士の姿もいつか消えていた。
車窓の片腕
間もなく女は一人で戻って來て、私にすり寄り、
「何だか、氣味が悪いのよ。變な男がドアのかげに立ってるんですもの。怖いわ、あなた！ すまないけれど一緒に來て下さらない？」
と甘ったるい聲でさゝやく。
私ひとりで彼女について行っては、Ａに氣の毒だと思って、
「君も一緒に來いよ」と言うと、女は手で制して、
「二人じゃあんまり大袈裟でいけないわ。それにみんなが起っちゃっちゃ、ボックスをとられてしまうからＡさんはそこに頑張って、頂戴よ」
なる程、ドアのかげに人相のよくない男が身をひそめていた。
「いやね。この頃は物騒だから、氣をつけないと危ないですわ」
私は女の言うまゝに、そこに横附けになっていた自動車に入った。
車が走り出すと、彼女は非常に眞險な顏つきになって、一言も口をきかなかった。
何處へゆくのか知らないが、わざわざ明るい路を避けてでもいるように、暗い横町を曲り曲っているうちに、反對の方向から一臺の自動車がやって來た。
すれちがいざま、まるで兩方で示し合せたようにスピードをゆるめ、ライトをふっと消すと同時に女はツと起って窓を開け、胸にさしていたすみれの花束を向うの自動車の中に投げ込んだ。
すると、白い象牙のような手がすんなりと延びて、女の手に何か握らせた。
無論、姿は見えないのだが、腕の格好から見て、男でない事だけはたしかだ。が、年齢も、服装もわからない。
しかし、それは實に一瞬間の事で、交換がすむと、兩方の車は互いの方向に別れ別れに走り出すのだった。
妙な事をするとは思ったが、私はもともと變った事を好む性質なので、ちょっとおつな眞似をやるくらいに輕く考えていた。
女は默っていた。
無言の二人を乗せた車は、もとのカフェーへ戻るのかと思ったら、その前を通り越して、別の小さなバアの前に止った。
私は獣っていられなくなって、
「さっきの――、あれ、あんた、一體何したんです。面白い眞似するじゃありませんか？」と訊いてみた。
女ほちらりと顏を上げて私を見た、が、唇に指を當てゝ、
「Ａさんにはこれよ」と言った。
「あんたはどうする積りなんですか？ Ａを殘して置いて――」
私はＡの待ちくたびれている顏が眼に浮んだ。
「いいのよ。もう少したったら、Ａさんを迎えに車をやるわ。今はね、ちょっと都合があるから、Ａさんにあのカフェーにいてもらわなくっちゃならないのよ」
「ふん、變な話だなあ。あんたのすることは、全く僕等にはわからない」
「今にわかるわよ」
「何だかほんろうされているような氣がする。僕を何かに利用して、いや、用心棒に使って――、いずれ人に話せない秘密なんだろうけれど、使うからには少しくらいは話してもいいと思うな。自動車に乗っていたひと、ありゃ何者です？」
「ごらんになったの？」
「見ましたよ。眞白い腕だけ――」
「それだけなの？」
「それだけです。一本の腕」
「あの方は――、腕が一本しかないのよ」
「え？」
「あの美しいお姫様は腕一本なのよ」
「片腕？」
「そう。ほんとは手首をきられたんですが手おくれのためにとうとう片腕なくすような結果になったんです」
黒眼鏡の男
「どこまで信じていいか、あなたの話はわからないですな」
「そんなに疑るなら話して上げましょうか。もう四五年前になりますが、青山墓地を掃除していた墓守が、ある石碑の上に女の手首が供えてあるのを發見した。それを始めに二三ヶ月過ぎてから、また雜司ヶ谷墓地に、それから多摩墓地に、と、同じような事件が次ぎ次ぎに起ったことは、その筋の人のほか、世間には知れていないことなんですから、勿論あなたのお耳にも入らなかったでございましょうねえ」
「知りませんな。そんな話ついぞ聞いたこともない。つくりごとじゃないですか？」
「そう思うでしょう？ ところが事實なんですよ。犯人があまり巧妙にやるので、捕えるまではふせてあるんですから」
「すると、あの自動車の中のお姫様とかってのも、その犠牲者の一人ってわけですか？」
「そうですよ。可哀想ですわ。當人には何の罪もないのに――、十七の春を迎えたばかりの、ある寒い日にねえ」
「打ったぎられたって言うんですか」
「お母様のお墓参りに行った歸りにやられたんですよ。きられた手首が、どれもどれも綺麗な若い女の皮膚をしているので、痴情關係のように思われているらしいですが、實際はそんな甘ったるい話ではなく、ある秘密結社の仕業なんですよ。法網をくゞって私財をつくり、また地位を得て、榮燿榮華をつくしている憎むべき人を、天に代って懲罰するんですよ」
と、まるで人の胸を突き刺すような冷たい聲で言った。
「しかし、變ですな。惡いことをしているのはいずれ男でしょう？ それだのに斬られるのは女だというのは、どういうわけでしょう？」
「オホヽヽヽ。當人が罰せられるより、自分の大切な可愛いい娘をやられた方が、一層苦しいじゃありませんか」
「それはそうかも知れませんが、懲罰としても少し酷すぎるな。片輪にするより一層殺してやった方がいいでしょう」
「殺すのはその時だけの苦痛、片輸は生涯苦しみを背負わなければなりませんよ。國賊だったら、そのくらいの罰を受けるのは當然でしょう。いゝえ、あなた、むしろ輕るすぎますよ」
と平然と言ってのける女の顏を、私は呆れて見上げた。ばったりと合った彼女の美しい眼は、冷たく澄んで、刄のような光を帶びていた。その鋭い瞳にじいと見据えられて、私はちょっと居竦んだ形だった。
いつ車を迎えにやったのか知らないが、Ａがドアを押して入って來た。女はにこにこしながらボーイにワインを命じた。
「今夜はね、私少し用事があるのよ。あとですっかり話しますから、それまではＡさんもだまって私の言うなりになって頂戴な。もうじきにすっかり用をすませます。そして一つみんなでどっかへ行って、豪華版をやろうじゃないの？ 上海以來のお馴染みなんですもの。自動車のお伴や、カフェのるす番じゃ納まらないわねえ」
と言っているところへ、黒い眼鏡をかけた男がぬっと入って來て、遠くの方に陣取って此方を見ている。それは先刻氣味の悪い男だといったと同じ人間だった。私は何という事なしに女の顏を見ると、彼女は不愉快そうな表情で眼を反らしていた。
「いやな奴がいるな」
と私がＡにさゝやくと、彼もうなずいて、
「彼女と君があのカフェーを出て行くと、どこにいたのか、あの男が現われてね、マダムに何か言っていたが、そゝくさとドアの外へ消えてしまったが、またぞろ、こゝに現われたところを見ると、彼女の懐ろを狙ってでもいるんじゃないかな」
「注意してやれよ。彼女に」
私は女の耳に口をよせて、
「變な奴がまた來ていますぜ。尾けられてるのかも知れないから、何とかしてうまくまいちゃいましょうよ」
と言うと、女もうなずいて、
「知ってんのよ。私困ったと思ってるところなの。一人ずつ外へ出ましょう。向うは一人、比方は三人、ばらばらに出る三人を一人で尾けるのは難かしいでしょうから」
その時また外で、小さな口笛が聞えた。女は眞先に席をたって出て行った。黒眼鏡は女のうしろ姿を見送っていたが、別に尾けて行く様子もないので、Ａに目くばせして、私は先に外へ出た。彼女の立っている向い側の往來に、自動車が停っていて、洋装の婦人がふたり乗っていた。 一人はシートに腰かけ、一人は中腰でドアを閉めているところだった。
自動車は動き出した。二人の女は大切そうにすみれの花束を胸にかゝえていた。
彼女は手を振って自動車に別れを告げると私の傍へ駈けて來て、
「さあ、もう一度私と一緒に自動車に乗って頂戴な」
私がステップに足をかけるのを待ちかねて、彼女はバタンとドアを開め、
「今夜は忙しくってたまらない。やっぱりあなたは、あのバーへ戻っていていたゞくわ。そしてＡさんと二人で、あの黒眼鏡を監視していて頂数よ」
と言って、ドアを開け、突き出すように私の背中をついた。私はバーへ戻ったが、Ａがひとりでチビチビとグラスをなめているだけで、例の黒眼鏡の姿は見えない。
「彼奴は何處へ行った？」
「知らんぜ。今までそこにいたっけがな」
「彼女が迎えに來る迄、君と二人で黒眼鏡を監視して、外へ出してくれるなッて、頼まれたんだよ」
すみれの花束
私は外へ出ると、またしても小さな口笛をきいた。
黒眼鏡はどこにもいなかった。此方の思い過しだったかも知れない。が、考えてみると今夜はよっぽど變な晩だ。
死んだと思っていた女に出會ったという事だけでも不思議だのに、その女はまた口笛につられては自動車で廻り歩く、一體、これは何の眞似だろう。
彼女の胸にも、あのサロンで倒れていた時と同じようなすみれの花束が香っているが、彼女の相手になる女も、みんなすみれの花束を持っている。何かこの花に縁があるに違いない。
私は急に彼女の正體をつき止めて見たくなつた。もともと猟奇的な事を好むところから、新聞社の探訪になったり、内地へ歸っても夜の街を同じ物好きなＡと歩いているのだが、近ごろさっぱり面白いことに出くわさないと歎いていたところだったので彼女の正體を突き止めてみるのも面白い。
口笛の方向に見當をつけていると、珍しく流しの圓タクがやって來た。
私はそれに飛び乗るなり、
「向うからやって來る自動車があるだろう？ あの車が、此方のとすれ違う時、もし先方がライトを消したら、此方も消してね、せいぜい近寄ってくれ給え」
運轉手はサツの旦那だとでも早合點したのか、僕の言いなりになった。
自動車が近づくと、だんだんスピードをゆるめ、ライトを消したので、こちらもそれを合圖のように、眞暗にした。
私は緊張して、車のすれ違うのを待ち構えていた。よもやこの車の中に私が乗っていようとは、佛様だって御存じあるまい。ましてや彼女が知ろう筈はないのだからと私は胸がゾクゾクするほど愉快になって窓をサッと開けた。
ところが、彼女は驚くどころかよろこんで、むしろほっと安心したように、
「ありがとう、お顧いするわよ」
と言いながら、すみれの花束を兩手に持って、ぽんぽん私の窓へ放り込んだ。
何の事だか、さっぱり分らない、あっけに取られ、きょとんとしている私の膝は花で埋もれた。
「あんた、わりとわかりがいい人ね。今日からあんたもメンバーの一人にしてあげるわ。うまく花束、秘して置いて頂戴、――明日、受取りに行く――」
「何處へ？」
「あんたの家へ――」
「知ってるの？ 僕の家――」
「もうちゃんと調べてあるわよ」と、言うと、超スピードで暗の中へ消え去った。
私はぼんやりと女の消え去った方を眺めていたが、やがて、放り込まれた花束を拾い集めて、取り敢えず、
「君、いま僕が乗ったところへ引き返してくれ給え。バーの前だよ」
バーへ行けば彼女が戻っているかも知れないし、Ａも待っているだらう。
圓タクが、一町餘り走ったと思う時、突然耳をつんざくような呼子が鳴った。
同時に、暗の中から躍り出して車の前に立ち塞がり、手を擧げてストップを命じた男、それはかの黒眼鏡であった。
續いてバラバラと人影が車をとり卷いた。私は忽ち車から引きずり降された。
「何するんだ！ 亂暴な、君達は一體――」
私は怒って怒鳴りつけたが、誰も相手にする者はなかった。
「證據物件を――」
兩腕に抱えていた花束は無殘に奪い取られ、逞しい男達の間に挾まれて、私は否應なしに引き立てられたのであった。
私は××の取り調べを受けた時、黒眼鏡の男が警察の人であることを始めて知ったくらいの間技けさだったから、無論すみれの花束の中に麻藥が匿して入れてあったことも、美しいあの女が、實はメンバーを作って、麻業の密賣をやっていたということも、全然知らなかった。
「君もメンバーなのか？」と言われて、始めて、女がメンバーにしてやろうと言った意味がわかったくらいであった。
「自動車の窓から、取り引きが行われていたんだよ。あの女は身に危險の迫ったのを感づいて、花束を君の車中に放り込んで、證據物件をまんまとかくして、姿を晦ましたのさ」
私は夢からさめたようにぽかんとした。
「君は取り引きの現場を見たんだろう？」
「はい。見ました。白い腕、そのお姫様は可哀想に――」
と言いかけると、××はからからと笑い出し、
「君もあのまことしやかな物語に涙を流した一人かい？ お墓に手首が供えてあったとかいう――、ありゃ君、小説だよ。西洋の――、あの女はあの話を持ち出しては甘そうな男の好奇心をそゝり、自分の道具につかっていたのさ」
「メンバーをつくっていたんですか？」
「そうだ。つまり、メンバーだけに取り引きしてやっていたんだね。そのためながく秘密が保たれていたわけなんだ」
「ながくって、あの女は上海から引き揚げて來たばかりでしょう？」
「引き揚げ者には違いないよ。だが、君はそれをどうして知ってるんだ」
私は上海のホテルで、あの女とそっくりの女が、胸にすみれの花束を抱いて死んでいたのを見た、と言うと、
「うむ。あれか、あれは有名な話だよ。屍體は大官夫人で、あの女は夫人の侍女だったんだ。大官夫人は麻藥の用い過ぎで、命を落したんで生きかえりゃしないよ。ところがあの大官夫人はあるメンバーに入っていて、麻藥を手に入れていたのにヒントを得て、金に困るところから、あの女は自分で今度はメンバーをつくり、好奇心をそゝるためには巧みにあの夫人に化けたりしてね。なかなかの才物だよ。だが――、とにかく、君の好奇心のおかげで、いよいよ大物を捕えることができるんだから、僕達は大いに感謝しなければならないね」
注）他者会話の連続で改行したところがあります。
「嘘で助かった話」
「探偵作家クラブ会報」 1949.08. (昭和24年８月) より
嘘をついてはならぬ、と、嚴しく教へこまれた私だが、このごろになって、正直であるといふことは、あながちいゝ結果ばかりをもたらすものではないと、しみじみ感じるのだった。
嘘にも、ついていゝ嘘、いけない嘘、つかなければならぬ嘘、の三とほりあると聞いてゐる。
私はこのお正月、感冒にかゝった。それがなかなかなほらない、あんまり長びくので、ある病院の内科の先生に診て頂くことになった。聴診器だけではわかりませんから、よく調べて上げませうと、レントゲンとエレクトロ・カルジオグラフとかいふものでみて下すった。
レントゲンやエレクトロにはそれぞれ専門家の若い博士がゐて、診察した結果を先生にに報告する、そこで先生はうまく患者に容態を云って聞かすといふ段取りになってゐるものらしかったが、その若い博士は眞正直にレントゲンとエレクトロで診たまゝを、そっくり私に話してしまった。
それによると、私の心臓は実に心細いほど衰弱しきってゐて、今更何とも取返す方法もない。先づ毎日空でも眺めてぼんやりと暮すやうにでもしたら、二三年は生きられるかも知れないが、今までと同じ生活を続けるなら、二三年はおろか、半歳もおぼつかないといふやうなことだった。
うまくいっても二年目か三年目には心臓喘息の発作が起る、それを手はじめに頻繁に発作がやってくる。結局それで命を奪はれることになるのだ。
心臓喘息の苦しいことはかねてから聞いてゐる。同じ死ぬとしても心臓喘息だの、狭心症だのはたまらないと思ってゐたのに、何といふ運の悪いことだらう。
私は今まで心臓のことなんか考へたこともなかった。從って自分の心臓がどんなになってゐるのか、ちっとも知らなかった。元来、小心で、気の弱い私が、強い心臓の持主であるとは思はなかったが、これほど弱ってゐるとは気がつかなかった。その話を聞いてからは、ひどく胸苦しくなることがあった。急ざ足に歩くのも、話をしながら歩くのも辛い。私はひどく不安に襲はれるやうになった。
レントゲンにしろ、エレクトロにしろ、絶対間違ひはないとは云へまいから、もう一度他の先生に診てもらったらよからう、と、すゝめられ、その翌々日、別の病院へ出かけて、心臓病の方では大家だといふ先生に診て頂いた。
その時、白紙で診て頂けばよかったのに、そこでも嘘のつけない私は、別の病院での話をすっかりしゃべってしまった。
しゃべってから、しまった、と思った。お医者様にはお医着様同志の義理といふものがあるに違ひない、と、気がついたからだった。それにこの二人の先生はかなり親しいお友達だった。
そこでもエレクトロとレントゲンで珍て下すった。結果は同じこと、但しこの先生の方は私の性格を多少知ってゐられる。ひどい神経質で神経から病気になることも知ってゐられたので、同じ話でも、やんわりと云はれた。
絶望しないために、病気がこれ以上進まないやうに注意すれば、何も壽命が定まってゐるわけでもないのだから、と、慰さめて下すった。
さうは云っても、いつ何時麻痺を起さないものでもないし、そこはどうも受合へない。とにかく油断は禁物である。しかし、早くわかったのが幸ひで、運がよかったんですよと云ふ。
それ以来、私はほんとの病人になってしまった。第一気分が悪くって起きてゐられない。硝子ばりの箱の中に閉じこめられたやうに、突然息苦しくなって動くことも出来なくなる。新聞を読んでも目まいがする。胸が悪くなる。こんなに苦しい日かつづくなら、早く死んだ方がいゝと思ふやうにさへなった。どうにもやりきれなくって、毎日沢山注射を打ってもらふ。生きてゐたいとは思はないが、正直のところ私は死ぬのが恐いのだ。生から死へ、生きた人間が一個の物体と変る瞬間がどうにも怖しくって、何とか、一寸のばしに生きのびたいと思ふのだった。
気候が暖かになるにつれて、大分樂になった。するこ直ぐ頭に浮ぶのはこれから先のことである。理想的に云へば、転地でもしてお医者様に沢山注射を打って頂いて、あとはぼんやりと遊んでるのだが、なるほどさうしてゐれば、病気の方はこのまゝの状態をつづけてゆけるかも如れないが、此度はもっと恐ろしい餓死が襲ってくる。お医者様へ通ふお金にも困るだらう。注射も出来なくなる。藥も飲めなくなる。四方八方から攻めたてられては、半年持つのもむづかしい。
仕事をすることは絶対にいけないとは云はないが、きちんと時間を定めて、やりはじめたら毎日続けなくてはいけない。今日は勉強したが、明日は休む、じゃ駄目だとある。
ところが、なまけものの私にはそんな規則正しい眞似は到底出来ない、出来なければ病気はどんどん進むばかりだと云はれる。
そこに至って、もう私は二進も三進もゆかなくなった。お金のある人なら知らぬこと、その日暮しの私には、注射だ、藥だ、と、その費用だけでも生やさしいものではないのだ。
仕事をすれば死期を早める。遊んでゐれば餓死が来る。何方みち死は目前に迫ったといふかたちだった。
友達が来て、病気と取っ組んでばかりゐたって仕様がない、負けちまひなさい、体を放り出して―― 。と云った。私は考へた。なるほど捨て身になるより方法があるまい。勝手にしやがれ、どうにでもなれ、と、いふ気になった。
病気の方は進んでゐるのかも知れないが、さう決心がついたら気分だけはよくなった。が、うまくして二三年、今夜にもわからないと云はれた言葉は、捨て身になった今でも、頭の底にしみ通ってゐて離れない。
そこで、此度は自分を欺してやらう、自分に嘘を吐いてやらう、と、考へて、ある日、お医者様に、いよいよ臨終となった時、自分は知らないでゐろうちに息を引とるといふ方法はないものでせうか、注射か、何かで、――とずるい相談をしてみた。
ある、と云ふ。ではその時是非その注射を打って下さい。私は死への瞬間を知らずに死にたいから、と、お頼みした。
よろしい、と先生は引受けて下すった。先生が私へ気休めに嘘を吐いてゐられるのを知って、私は感謝した。そして、私は嘘と知りつゝ、それをほんとにして、ほっと安心した。
それ以来、死ぬことが大して恐ろしくなくなり、いざといふ時は、注射をして――、といふ安心もあるせいか、病気があんまり気にならなくなった。忘れられてゐると病気の方も張り合ひがないと見えて、苦しい日が大分遠のいた。
私は嘘で助かったやうな気がしてならない。
注）略字を正字にしたところがあります。