「山茶花娘」
「講談雑誌」 1940.03. (昭和15年３月号) より
―☆黄色い自動車☆―
一週間ばかり前から、アパート十一號室の前に、立派な黄色い自動車が時々横附けになってゐる。が、いつ來て、いつ歸るのか、どんな人が乗るのか、さっぱり分らない。運轉手の姿さへ見た者がないといふので、忽ちアパート中の評判になった。
物好きな學生が窓から中を覗いてみたら、その人を思はせるやうなえならぬ香氣、眞紅のクッション、その上には山茶花の花束が置いてあった。てっきり婦人に違ひない、と、云ったのが、いつか絶世の美女と傳はって、十一號室の主人である美青年梅津政彌は羨望の的となり、嫉妬の眼で見られるやうになった。食堂へ出る度に友達からは冷やかされ、彼に好感を持ってゐたアパートの異性たちからは、白い眼を向けられるやうになった。
ところが、肝腎の當人はまるで知らないのだから、くすぐったかった。が、生來變ったことの好きな彼は、その不思議な噂の中心人物とされてゐるのを別に辨解しようともせず、反ってその冤罪を微笑(ほほえ)ましいものにさへ思ってゐるのだった。
梅津政彌は卒業論文を書き終って、ホッと一息吐(つ)いた。
夕方からぶらりと出かけて、久し振りで、のんびりと好きな映畫を見、銀ぶらをやって、省線から小田急に乗り換へ、豪徳寺まで歸って來た時はもう十二時近かった。
そこからアパートまでは七八町ある。過度の勉強から、ひどい神經衰弱にかゝってゐたので、殆ど毎夜いまごろになると、判で捺したやうに、この道を散歩してゐるが、今夜ほど朗らかに晴れ晴れと、この同じ道を通ったことはなかった。
「今夜は睡眠劑のご厄介にならなくっても、眠れさうだぞ。」輕い氣持ちで、口笛を吹きながら、ぶらぶら歩いてゐると、後方から超スピードで自動車が走って來た。彼は慌てゝ片足を泥溝板にふんばり、體を斜かひにしてやり過した。
擦れ違ふ時、座席に端然と座ってゐた貴婦人がにっこりとして頭を下げた。たぶん、それは他人に迷惑をかけた爲めの挨拶だったのだらうが、彼は恐縮して慇懃に禮を返した。
綺麗な女(ひと)だなあ、と、見送ってゐると、突然、魂消るやうな疳高い女の笑聲を頭上から浴びせられた。ハッとして振り仰ぐと、二階の窓から、眞白い顏が赤いカーテンを割って見下してゐた。カフェ・ドラゴンといふ怪しげな家だ。いつも素通りするので、その腹いせに、彼の狼狽したさまを見て嘲笑したものらしかった。
政彌はいささかむっとし、女の方を睨みつけてすたすたと大跨で歩き始めた。アパートの附近は大きな屋敷ばかりで、ところ、どころに、外燈がポツンとあるだけで、まことに寂しかった。
彼は自室のドアを開けようとした時、何處かでギャアッ！ といふ悲鳴を聞いた。たった一聲だ、あとは地の底のやうにひそッとした。
何だらう？ と思ひながら立ち止り、じいと耳を澄ませたが、それきり何も聞えない。彼は何となく氣味が惡るくなって、急いでドアの鍵をかけようとしたが、うまくかからない。その筈だ、外部から誰かしきりに開けようと引張ってゐる者がある。
「助けて――」
ハッと思ふと、手がゆるんだ。その隙に、無理やり體をねぢ込んで、一人の婦人が彼の足許に轉がり込んだ。
政彌は仰天した。
「どうぞ、助けて――」
低いが、ただならぬ聲であった。
不意を喰って、呆気に取られてゐるうちに、婦人は承諾も待たずに、まるで氣狂ひのやうになって鍵を廻はし、内から錠を下してしまった。
「助けて下さい。いま、恐い男に追っかけられ、やっと、此處まで逃げてまゐりました。」
と、兩掌で顏を覆ひ、苦しげに息を吐いて、
「御一緒にゐた私のお友達は、逃げ遅れました。ああ恐しい、あの悲鳴！ 耳をつんざくやうなあの一聲が、まだ耳の底に聞えるやうでございますわ。」
「では――、いまの、あの悲鳴は――」
「あなた様もお聞き遊ばしましたか？ あれは私のお友達で――、可哀想に――、きっと、あの人に殺されてしまったに違ひございません。」と、ドアの方を怖しげに見やり、魂も身に添はぬといふ風であった。
「きっと此處へやって來ますわ。ああ恐しい。どういたしませう。來たら、もう、私の命はございませんわ。大變です、あなた様、何處かに私をかくして下さらない？ ねえ、かくして下さいましな。――あら、聞えますわ。跫音が――」
「なに？ 跫音？」
聞き耳を立てるまでもなく、間近いところで靴の音がした。
夫人は政彌に縋りついた。そして、泣くやうな小さい聲で哀願するのだった。
「理由はあとで申上げます。どうぞ、お願ひです。助けて――、私の命を助けて下さい！」
六疊一室のことだ、何處へかくしようもない、戸棚か洋服ダンスか、それより他に身を入れるところがない。が、追手が來れば、先づ第一に眼をつけるのはその二ヶ所だ。思案してゐるうちに、ドアをノックする烈しい音。
婦人は彼の足下にひれ伏して、氣を失ってゐるやうにぐったりしてゐる。彼は已むなく彼女を引き起して、洋服ダンスの中へ押し込み、自分の外套をその上から被せ胸の動悸をかくしながら、
「靜かにして下さい。いま、開けます。一體どなたなんですか？ こんな夜中に――」と咎めた。
ドアの前には、痩せた背の高い男が、棒立ちになってゐた。帽子を眼深に被ってゐるので、容貌はよく分らないが、右手をぐいとポケットに突込んでゐるのが、ピストルでも握ってゐるやうに思はれて、不安だった。
「たった、いま、此處へ若い婦人が逃げ込んだな、たしかに見たんだから――、君、どうか、かくさずに出してくれ給へね。」
妙にねばった口のききやうをして、丁寧に頭を下げた。腰が低いのがまた何か下心でもあるやうで、氣持ちが惡るかった。そして、迂散臭さうに、ちらりちらりと室内を偸み見てゐる。片方の眼がいやに光ると思ったら、片眼鏡だった。
政彌は默って、男の前に立ちはだかってゐた。
「君、じらさないで、返してくれ給へ。君は何も知らないから――、だらうが、今の婦人――、あれは君、僕の家内なんだよ。」と、にやりと笑った。
彼はギョッとした。他人の妻をかくまった、しかも、縁もゆかりもないのに――、飛んだことをしてしまった。しかし、もうかうなっては、飽くまで知らぬ存ぜぬで、男を追ひ返してしまふより道がない。
「何んですって？ 冗談ぢゃない、飛んでもない嫌疑をかけられたもんだ。だが、此處は僕の室で、ごらんの通り人間は僕一人だ。猫一疋かくれてはゐませんよ。あなたの御家内だか何だか知らないが、僕が頑張ってゐる以上、そんな怪しい人間がかくれてゐる筈はない。」と、體を少し片寄せて、誰もゐないといふところを見せてやった。
「だが、貴方は一體何者なんですか？ 夜中に他人の部屋を騒がせたりして、いきなり飛び込んで來て、女を返せなんて――、全く正氣の沙汰ぢゃありませんぜ。此處はアパートですからね、同じやうな部屋がずらりと並んでゐます。餘程注意しないと、自分の部屋を間違へることもありますからね。」
男は薄い唇を眞一文字に結んで、忌々しさうに、
「まさか見間違ひぢゃありませんよ。たしかにこの部屋でした。十一號室、ここに最近ある學生と若い婦人が同棲してゐるといふ噂も、實は此方にはちゃんと知れてゐるんですよ。だが、何時かは眼が覺めるだらうと思って大目に見てやってゐたんですが――、君が、どうしても、婦人を渡さないと云ふなら、それでもよろしい、僕の方にもまた考へがある。」
男はやがて、荒々しくドアを閉めて出て行った。靴音が遠ざかるのを待って、彼は洋服ダンスから婦人を出してやった。
―☆美しい闖入者☆―
「ほんとに、すみませんでした。飛んだ御迷惑をおかけしまして――」崩折れるやうに、彼の前に座って、
「お蔭様で、私、命拾ひをいたしました。」
興奮からさめきらない婦人は、カチカチ齒を鳴らしながら、震るえてゐる。
彼の方は、どうやら少し落つきを取り戻してゐたので、その時やっと相手の顏をよく見ることが出來た。ちまちまと調った端麗な美貌は、偶然ではあらうが、かつての彼の亡き愛人宮川梢に生き寫しであった。左眼の下の、小さい泣き黒子までそっくりではないか。
政彌は何となく心を動かされた。
「あんなに怖れてゐらしたから、どんな人かと思ったら、存外優しさうな方ぢゃありませんか。」
婦人は小さい頭を振って、
「あの人は紳士の假面を被ぶった惡漢ですわ。私は尾け狙はれてゐるんで、もう、命が縮みさうですわ。」
「しかし、あの方は、あなたの事を家内だと云はれましたよ。」
「嘘ですわ。」言下にはね返して、
「出鱈目よ。さうでも云はなくっちゃ、貴方が私を出さないと思ったからでせう。私、タンスの中から飛び出してやらうかと思ふ程口惜しかったの。」
「ぢゃ、なぜ、そんなにあなたを追っかけてゐるんでせう？」
「あの人は蛇みたいなの。一度見込まれたら最後、どうにも逃げ負うせないのよ。ねっとりと附き纏ふんですもの。お金はふんだんにあるし、親の地位を利用してやるんだから堪らないわ。實はね、私、あの人に結婚の申込みを受けたの。それをお斷りしたもんだから、妻だの、家内だの、と、云ひ觸らしてゐるんです。そして、私に傷をつけ、どうにもならなくして最後には、自分のものにしようッて計畫なんですのよ。まるで、じわじわと蛇に卷かれてとろかされて行くやうなもんですわ。」
「怪しからんですな。そんな奴、警察の手で何とかならないもんですか、訴へてやったらいいぢゃありませんか。」
「そんな事が出來る位なら、こんなに苦しみませんわよ。何と云っても、お互ひに名譽と云ふものがありますからね、無茶な眞似をして、いやな噂を世間にまき散らしたくないんですのよ。家名を汚しますからねえ。」
婦人はキッとした。容貌には犯し難い氣品があった。
彼女は脅えてゐて、カタリといふ物音にも飛び上った。この分では、とても一人では歸れまい、また歸すのは不安でもあったので、夜が明けてからにしてはどうかとすすめてみたが、家の者が心配してゐるだらうから、とにかく、歸ると云ってきかなかった。
送って行かう、といふ政彌の親切を謝し、
「いづれ、お禮にまゐります。」と、にっこりして、外の闇に消えて去った。彼女がゐなくなると、彼は不思議な淋しさを感じた。その移り香は洋服ダンスにも、部屋の中にも、そこいら中に殘ってゐた。
政彌は夜中、安眠が出來なかった。
うとうとしたかと思ふと、彼女が怪漢に襲はれて殺された夢をみた。またその次ぎには、往來に血みどろの女が轉がってゐて、彼の足にまつはりついて離れない。悲鳴を聞いたのに、何故救ひに來てくれなかったか、この薄情者！ と恨めしさうに云ふ。その顏は亡き愛人であったりして膽を冷やした。
―☆丹前の客☆―
夜が明けるのを待ちかねて、政彌は丹前の上に飛白(かすり)の羽織を着て、外へ出た。
昨夜(ゆうべ)の出來事を考へながら、先づ悲鳴の聞えたあたりに見當をつけて、その方向へ足を向けた。夢にみた血みどろの女が、實際にころがってゐるやうな氣がしてならなかった。往來にも定めしおびただしい血が流れてゐるに違ひない、と、注意して歩いて行ったが、人殺しのあったやうな形跡は何處にもなかった。
政彌は驛へ行って、朝刊を一枚買った。社會欄を隅から隅まで熱心に讀んだが、それらしい事件も見當らなかった。彼は欺かれたやうな、張り合ひぬけのしたやうな氣がした。がっかりした。無論、そんな血生臭い事件のない事を望んではゐるのだが――。
すると、何時來たのか、彼の肩越しに、新聞を盗み讀みしてゐる者のあるのに氣がついた。彼は自分の心を見透かされたやうで、不愉快だったので、意地惡るく新聞を小さく疊んで、懐に押し込んでしまった。
「あの事なら――、新聞を讀むよりも、向ふの自動車に乗った方が、はっきりと分りますぜ。」と云ふ聲を背後に聞いた。
政彌は振り返った。そこには運轉手風の男が、にこにこして立ってゐた。男の指差す方を見ると、何と黄色い自動車が、人待ち顏に横附けになってゐるではないか。
問題の怪自動車だ。彼は男の言葉に釣り込まれて、
「あれは圓タクですか？」と訊いた。
「圓タクぢゃありません。自家用ですよ。ある方が、貴方をお迎へするやうにと仰しゃって、廻されたんです。」と云って、懐中から手紙を出した。
それは名も知らぬ昨夜の婦人からであった。すると、この黄色い自動車は、あのひとの自家用であったのか。
手紙には、夜中騒がせた無禮を詫び、とにかく無事に歸宅したことの喜びを述べてあった。是非、もう一度お目にかゝりたい。もしお差し支へなくば、この車に乗ってお出(い)で頂きたい。この機會を逸しては、恐らく永遠にお目にかかれないかも知れない。それは自分にとって、どんなに淋しく、また、どんなに遺憾なことであるか、この氣持ちは貴方には、到底、御想像もつくまいと思ふ、と、あった。
それはこっちで云ひたい言葉だった。何とかしてもう一度會ひたい。しかし、名も云はず、住所も告げずに去った人に、どうして再び會ふ機會が惠まれようか、恐らく一夜、いや、數時間、一緒にゐたのが最初で、最後となるのであらう、儚ない縁であったと思ってゐたところだったので、相手の事を委しく訊きただす間もなく、ただ會ひたさが一杯で、彼は誘はるるまゝに、車に乗ってしまったのだった。輕卒なやうではあるが、この飛び立つやうな嬉しさは、彼に理性を失はせてしまった。
この車に乗りさへすれば彼女に會へる。拒めば、もはや相見る機會は永久に來ないのだ。どうともなれ、ただ彼女に會へさへしたらいいぢゃないか。
政彌はクッションに腰を下すと、彼女を偲ばすやうな香氣が鼻を打った。それは洋服ダンスに殘ってゐたのと同じ香だ。外套に鼻を押しつけて、腹の底まで吸ひ込んだのもこれだった。彼は車内の何處かに彼女がひそんででもゐるやうに思はれて、懐しさで胸が一杯になった。
運轉手は問はず語りにこんな事を云った。
「この車は黄色いので、目立って困るんです。昨夜の今朝だから、用心にしくはなしだ。何處から、誰が狙ってゐないもんでもない。危險だから――、あの方は嫉妬深いんですよ。ズドンと一つぶッ放されたら、おしまひですからね。カーテンは下して置きませうよ。」
と云って、窓のカーテンは全部下して、外部から覗はれない用心をした。
「塗りかへたらいいぢゃないですか？」
「それがさ。あの嫉妬やきがさせなかったんですよ。かういふ人目につき易い色にして置けば、何處を走ってゐても、直ぐ分りますからね、ほんとに困り者です。」
「僕はあの婦人について何も知ってゐないんだ。一體、あの人は奥様なんですか？ それともまだ結婚前の方なんですか？」何氣なく訊いてみたが、彼は顏がほてるやうだった。
「奥様ではありません。」
「ぢゃ、片眼鏡の人、あれは何者なんです？」
「お名前は申上げられませんが、御身分のあるお方なんです。」
「婦人の方は？」
「やっぱり、高貴の方でゐらっしゃいます。」
「何といふ名前なんです？」
「それはちょいと申しかねます。直接どうぞお訊きになって下さい。」
「しかし、いま、あの方の家へ行くんでせう？」
「その事ですがねえ。實はあの片眼鏡の方が、昨夜からずっとおいでになるので、お屋敷にあなた様を御招待するのは危險だから、と、御心配なすって、それで、――失禮ではありますが、誰にも知れないやうに、ホテルへ御案内しろ、と、御命じなすったのでございます。」
「へえ、ホテルへ行くんですか？」と政彌はちょいと吃驚して、「あの婦人もホテルへ來られるんですか？」
「え、もう、先刻からお待ちかねです。」
車は、一時間ばかり走った、しかしカーテンが下りてゐるので、何處を通ってゐるのか分らない、が、空氣が澄んだ感じがするのと、海の臭ひがするのとで、海岸に近い所を疾驅してゐるのだといふことだけがわかる。
やがて、車は急カーヴして止った。運轉手はドアを開けた。それは大きなホテルの玄關であった。その時始めて政彌は、自分のみなりに氣がついて恥しくなり、
「君、こんななりぢゃどうにもしようがない、折角だが――、僕は失敬する。」と尻込みした。
粗末なものでも正服ならともかくも、學生の身が丹前姿ではどうにもしようがない、それも、清潔なものならいいが、丹前といふも名ばかりで、古ぼけて薄よごれのしたのでは、構はないのを通り越して禮を失する。どうして車に乗る時氣がつかなかったものか、あの時なら、一寸待って貰らって、着換へる事も出來ただらうに――。
「ホテルですもの、反ってその方がよろしいんですよ。御滯在のお客様らしくって――」
「冗談ぢゃないぜ、僕はいやだよ。」
「ぢゃ、別口へ着けませう。その方なら人目につかないし、第一ボーイにも會はないでお部屋へ入れますから。」
車はバックして、別の入口の方へ廻はった。
―☆片眼鏡☆―
待つ間もなく、絨緞の上を輕く踏む跫音がして、懐かしい昨夜の婦人が入って來た。桃色のドレスには赤い山茶花が一輪、それは恰も彼女が秘めた胸の想ひを語るやうに――。
「お待ちしてゐましたわ。でも、よく來(い)らして下すった。」嬉しさうに云って、彼の手を握った。
政彌はは眩ぶしくって、正面から見ることが出來なかった。
「おいで下さるか、どうかと心配して、先刻から見て居りましたのよ、この窓から――」と指差した。細そりとした爪には、紅がさしてあった。なるほど、窓は半開きになってゐて、海氣をふくんだそよ風が吹いて來る。
「黄色い自動車が見えた時、私、救はれたやうな氣がしましたわ。まあよかった！ お目にかかれると思ったら――、私、嬉しくって、胸が一杯になってしまひましたの。」
彼は胸を躍らせながら、彼女の言葉をうっとりと聞いてゐた。昨夜は此方が助けてやると云ふわけだったので、初對面だったが割合ひに平氣で振舞へたが、一夜のうちに、すっかりへだたりが出來、妙に改まってしまって、政彌はこの立派な部屋に婦人と相對してゐることが、ぎこちなくって堪らなかった。
「あなた、朝のお食事まだでせう？」
朝の食事はおろか、着物だってこの通りだと云ひたかったが、何にも云へずに、ただ顏を眞赤にしてゐた。
それと氣がついてか、婦人はその隔たりを取り除けようとするらしく、つとめて馴れ馴れしく、打ち溶けた様子を示すのだった。
「ねえ、御遠慮しっこなしにいたしませうよ。たった一日しか、いゝえ、數時間しか御一緒にゐられない私共なんですもの。そして、これぎり二度とお目にかゝれないかも知れないのに――、お互ひに、一分間でも無駄に過しちゃ勿體ないわよ。」
婦人は食堂へ行って、一緒に朝飯を食べようとしきりにすゝめた。しかし、政彌は着物が氣になって、どうにも心がすゝまなかった。ホテルの食堂に丹前を着て出ては、それこそ物笑ひだ。相手の婦人だって、どんなに氣まりが惡いか分らない。彼は躊躇してゐると、彼女は氣を利かして、家族だけの小さい食堂の方に、食事の用意をしてくれとボーイに頼んだ。
併し、そこへ行くのにも、やっぱり大食堂を横ぎらなければならないと聞いて、彼はうんざりしてしまった。
婦人は存外平氣で、
「なあに、構ふもんですか、すましてゐらっしゃいよ。」と云っておづおづしている彼の手を執らないばかりに寄り添って、がらんとした大食堂の中を通りぬけ、家族室へ入った。
その時、政彌は何氣なく隅のテーブルにゐる人を見てハッとと顏色を變へた。ホークを握ってジッと見てゐる片眼鏡、昨夜の男が、火のやうな眼をして、彼女の後姿を睨んでゐるではないか。
政彌はゾッとした。もしや婦人がそれに氣がついたら氣を失ってしまふかも知れない。何といふ執念深い男か、恐らくずっと彼女を尾けてゐたに違ひない。危險なことだ。が、彼女はまるで氣がつかないらしいので、彼はほっとした。
婦人はすがすがしい面持ちで、スヰートピーの一輪ざしを置いてある小さい食卓についた。行儀よく、ナフキンを膝にのせて、にっこりとあでやかに笑った。彼は向ひの椅子にかけて、不器用な手つきでナイフやフォークをつかひながら、無駄口一つきかないで、かたくなってゐた。彼女は傍のボーイに氣兼ねしてか、誰に聞かれてもよいやうな世間話をしてゐた。知らぬ人が見たらむっつりした旦那様の機嫌をとってゐるように見え、どうしたって、若い夫婦者としか思はれなかったのであらう。ボーイも旦那様、奥様とよんでゐた。
やがて、朝食をすませると、婦人は一層親しげにすり寄って、
「早く、私達のお部屋へ歸りませうよ。こんなところぢゃ、打ち解けたお話も出來ないぢゃないの。つまらないわよ。」と云った。またしても、あの大食堂を通り抜けなければならないかと思ふと、いやな氣持ちがした。
が、有難いことに、もうあの片眼鏡はゐなかった。隅の卓子はきれいに片附いて、ダリアの花瓶だけが、先刻見たまゝに置いてあった。
彼はほっと安心して、廊下を曲り、別室のドアを開けようとしてふと振り返ると、今通って來たばかりの廊下の壁に家守のやうにへばりついて、此方を見てゐる片眼鏡を見た。
政彌は夢中で、婦人の背中を押して室内に入らせ、急いでドアの鍵をかけた。彼女は彼がふざけてそんな眞似をするとでも思ったのか、
「何なのよ？ いゝぢゃないの？ もう、私達だけの世界よ。邪魔が入らないやうに、斯うして置きませう。」と云って、鍵をぬいて、テーブルの上に置いた。
その途端、ドアに何か觸れたらしい異様な音がした。
「オヤ、いまの音、あれ何んでせう？ 」
彼が止める暇もなく、婦人は鍵穴を覗いたが、
「アレッ！」と叫んで、彼にすがりついた。
政彌は彼女を庇護(かば)ひながら、ドアの方を見ると、鍵穴にぴったりつけてゐる冷めたい眼が、ぱちりと一つまたたいた。彼は寒氣がした。婦人はもうすっかり脅えてしまって、落ちつきを失ってゐた。
何方からきり出すともなく、歸らうといふことになった。ふたりはまた會ふ約束をして別れたのだった。
―☆嗤ふ山茶花☆―
政彌は夢心地でアパー卜へ歸ると、その儘ベットの中へもぐり込んでしまった。前後不覺に眠りこけて、眼がさめた時は、朝日が顏にさして、眼も開けられない程まぶしかった。彼は一昨夜から、昨日へかけての不思議な出來事を頭に浮べながら、ぼんやり天井を見詰めてゐた。
あの婦人は一體何者だらう、そしてあの片眼鏡は夫なのだらうか？ 出來事はともかくもとして、二度も會ってゐながら、名前も知らないといふのでは、あんまり莫迦々々しくって人にも話せない。自分ひとりの秘密として、胸に納(しま)って置くより仕方がないが、何とかして、せめて、名だけでも知りたいものだ。
あんなにかたく再會を約して別れたのだから、屹度また、不思議な方法で誘ひが來るに違ひない。死んだ宮川梢もかうした變った趣味を持つ女だった。婦人が山茶花を愛してゐるのもよく似てゐる。彼は梢の再來であるやうにも思はれて、懐しかった。
政彌はベッドに腹んばひになって手を延ばし、ドアについたポストから、新聞を引張りださうとすると、バタリと白い角封筒が落ちた。
彼は飛び起きて、それを拾ひ、封をきった。
梅津政彌様
いろいろ御心配をかけてすみませんでした。しかし、お蔭様で、私の打った芝居は大成功で、主役をつとめて下すった貴方様へ、深い感謝を捧げる次第でございます。
ホテルの食堂にゐた片眼鏡の男、即ち、私を追ひかけて、あなた様のアパートへ押しかけて行ったあの人は別れた私の夫なのでございます。私は家附きの一人娘で、あの男は養子でした。
最近、私はかねて相思の間柄である某青年と結婚することになりました。それを聞いて、片眼鏡の男は狂氣のやうになり、私に復縁を迫り、果ては脅迫がましい態度にまで出て、どうにも始末におへないので、私共はほとほと困りきってしまったのでございます。
そこで、已に再婚してしまったものと傳へさせ、彼に斷念して貰らはうと存じましたのですが、あの人はそれを信じないのです。そうして、あのやうに血眼になって、私の後を追ひ廻はしてゐるのでございます。
私は貴方様の亡くなられた御愛人、山茶花娘とよばれた程山茶花を好ませられた宮川梢さまの親友でございます。そして、あの方がお亡くなりになりました時、一輪の山茶花と一緒に、彼女の名を私に譲って下さいました女だと申上げましたならば私が何といふ名前であるか、どんな身分の女であるか、貴方様には直ぐお分りのことと存じます。
貴方様の日頃の御趣味、御性質は梢さまから承はって、よく存じて居ります。非常に猟奇的なことを好ませられ、常に變ったことを求めてゐられるといふお話でした。
それで、私はある狂言を思ひつきました。その主役を演じて下さる方は、周圍を見廻はしたところ、貴方様をおいて他にはないので、御迷惑とは知りつゝ、御出馬を仰いだわけでございます。
そこで、私はまづ第一に貴方様の心を惹くために、宮川梢さまの面影を寫して化粧いたし、お部屋へ飛び込んだのでございます。
その前から、黄色い自動車を人知れず、十一號室の前に横附けにして置きましたのも、私が同棲してゐる如く、片眼鏡に思はせたかったからでございます。果して、あのひとは同棲してゐるものと思ひ始めましたところへあの夜、私の後を尾けてアパートへまゐり、現場を見届け、非常に失望いたしました。
あの時の悲鳴は、あの人が凄まじい形相で私を追ひかけてゐる時、通りかゝった女の人に突き當ったのださうでございます。何處の方か存じませんが、お氣の毒に女の人は非常に驚いて、一聲悲鳴をあげて、逃げて行った、と、後で運轉手が申してをりました。
もう、斯うなっては、徹底的に思ひ斷らせるより仕方がないと存じ、あの人の泊ってゐるホテルへ、ふたりで泊ってゐるやうに見せる爲め、特に御平常着のままの貴方様をお連れして、朝のお食事を家族室でしたゝめるところを見せてやりました。
鍵穴から覗いた時、私が貴方様へ縋がりつき、貴方様が私を庇護って下すってゐるところを見てゐたさうで。それでもうあの人は、完全に私を斷念する決心をいたしましたと申します。
これで、何人にも邪魔されることなく、私は安心して再婚することが出來、こんな喜ばしいことはございません。結婚式には是非とも御出席をお願ひいたします。いづれあとから、御招待状はお送り申上げますから。
御存じないこととは申しながら、かりそめの夫におなり下すった貴方様へ、未來の夫を御紹介申上げ、彼共々に、貴方様へ感謝の意を表したいと存じます。
讀み終ったところへ、食堂のおばさんがドアをノックして入って來た。
「御進物ですよ。」
眼の覺めるやうに美しい山茶花の鉢植を、おばさんはドサリとテーブルの上に置いて去った。
半開きの洋服ダンスに女の香(にお)ひがほのかにたゞよひ、山茶花は彼の方へ嗤ひかけてゐた。 （をはり）
注）明かな誤字脱字は修正していますがそのままの所もあります。句読点は変更したところがあります。
注）手紙文は全文一文字分下げで段落頭の一文字あけはありませんが追加しています。
「メナムの水祭」
「日本女性」 1942.06. (昭和17年６月号) より
１
メナム河の水祭の壯嚴な儀式もいよいよ終りに近づき、最後のボート競技、それがすめば國王殿下御自らも河へ出かけられるといふ日であった。
バンコック市の各町内から選手がボートに乗り込んでゐるので、それを應援する群集や觀衆の人々が兩岸に人垣をつくってひしめきあってゐた。
御招待状を賜はった各國高官の紳士淑女はきらびやかに装を凝らして定刻までに觀覧席に馳せ参じた。接待役の海軍大臣は金モールを胸に一杯つけた白の大禮服で、愛嬌をふりまきながら、來賓を案内した。
シャム國政府法律顧問米川千松夫人靜枝は、夫と並んで淑やかに腰かけ、黒眼勝ちの大きな涼しい瞳をじっと水面に落してゐた。うしろの方で、二三分位づつ間をおいては軍樂隊が各國の國歌を奏するので、此度は何國公使が來たといふことも、これで殆ど各國の公使は全部揃ったといふことも、耳で知ってゐた。
やがて、舳先に色さまざまの旗を押し立てた競技ボートが一線に整列する。ボートは金色に塗ってあって、選手達は眞紅の帽子、眞紅の衣裳をつけてゐる。出發の合圖が鳴った。選手達は金色の櫂で水面を叩き割るやうに、決勝點めがけて漕ぎ始めた。
群衆はわっと聲をあげて、手に手に持った紅白の小旗をちぎれるやうに振って應援する、樂隊が勇ましい浮き立つやうな曲で勢つける、耳を聾する騒音の中で靜枝はしづかに物思ひに耽ってゐた、やゝもすると氣が沈んで、あたりの華やかな空氣が重苦しくさへ感じられるのだった。
しかし、いかなる場合でも、感情を露骨に見(あら)はさぬだけのたしなみはもってゐる。だがら、隣席の佛國公使夫人などにどうして彼女の心が見破れよう。公使夫人はボートを眼で追ひながら、はしゃぎきって靜枝の手を痛くなる程に握りしめ、
「藍いろ！ 藍いろ」と、延び上って騒いでゐたが、「あっ、いけない、ぬかれた！」とがっかりして椅子の背にもたれた。藍いろの舳先の旗と、眞紅の衣装と、水面を白とでも見たてて佛國國旗としてそのボートを應援してゐたものと思はれる。
「あなたは無論赤旗がごひいきでせう？ 日の丸は赤だから」と夫人は當ったらうといふやうに、眼を大きく瞠いてわざとらしい表情をして靜枝を振返る。
靜枝は優しく微笑したきり何も云はないで、公使夫人が我を忘れて彼女の手を握ってゐたとき、掌の中に殘した白レースのハンカチを、夫人の膝へそっとのせて返した。
「あらっ、私何處へ落したかと思ってゐましたら、ありがたうございます」流石に少し耻しさうに、夫人は今度は夫の方へ向いて話しはじめた。
靜枝は救はれたやうにほっとして、小さい手を膝の上につゝましく重ねて見物した。見物してはゐるものの今日の彼女はボート競技などに少しの興味ももてなかったのだ。だから何色が勝ったのかさへ知らず、また訊いてみようとも思はなかった。それ程靜枝の心はある事に奪はれてゐたのだった。それは他でもない、かねてから夫が熱望してゐた造船問題である。シャム國が何れかの國へ巡洋艦の註文をしようといふのをふと彼女が聞き込んで話したのから事が發したのであった。
米川は是非とも引き受けなければならないと云った。巡洋艦一隻といへば大した事ではないが、まだ一艘の軍艦も有たぬシャム國が、それを手はじめに軍艦の註文を出してくれたとしたら、決して小さい問題ではない、ひいてはシャム國と日本とが手を握るよすがになるかも知れない。こんな好い機會を逃がしてはと米川はそれに熱中した。その話が段々具體化して遂に神戸の山崎造船所の社長をよび寄せるところまでに運んでゐるのだった。
「大きな問題だ、これ一つ成就したら―― それだけでもこの土地に赴任した價値があるといふものだ」と夫は明け暮れその事に腐心してゐた。それ程重大な事であるならば、何としても夫を扶けなければならない、そればかりでなく、彼の語るが如く、それがまたお國のためになるならば、どんな事をしても、それこそ自分の身を犠牲にしてもやり遂げなければならない。夫はまた云ふのだった、
「斯ういふ事は男より女の方がいゝんだ。それにお前は宮中のお覺えもめでたく、非公式に参内も出來る身だ。こんな惠まれた地位にある者が兩國のために働くのは名譽な事ではないか。船の註文は恨みっこのないやうに入札と定まったさうだ。だから相手國の見積り額をさぐってくれ給へ」
口で云へば何でもない事だが、重い任務である。相手國もさるもの、ただ手を束ねて入札の日を待ってゐるとは思はれない。殊に老獪なあの國の人の事だからどんなところに手が延びてゐないとも限らない。あれを思ひ、これを考へると、晴れの席場にゐる心地もせず、靜枝の心は憂鬱になるばかりだった。
ボート競技がすむと、急にあたりがしんと鎮かになった、彼女ははっと我に返って眼をあげると、いまや國王殿下の召されてゐる御船はメナム河を下らうとしてゐるところであった。
三千人の臣を從へ、國王殿下は古式の服装で端然と坐してゐられる。背後に二人の若者が身丈よりも高い大團扇を持って風を送ってゐる。金色燦然たる龍艇、數十人の舟には眞紅の衣に金の櫂を揃へ、船尾に控へた樂人のかなでる妙なる音につれてしづしづと進んで行かれる。
兩岸の群集はなりを鎮めて敬々しく跪き或は合掌してそれを見送るのだった。
龍艇の影が見えなくなると外交團の一群はほっとしたやうに、急に額の汗を拭いたり、扇ではたはたと胸のあたりに風を入れながら、夢から醒めたやうな表情だった。
海軍大臣は社交家らしい如才ない調子で、
「お茶のお仕度が出來てをります。何のお構ひもありませんが、中庭の方へお出で下さい」と案内した。
紳士達は婦人の腕をとって、一組づつぞろぞろと大臣の後ろに從いてゆく、米川は妻と並んで歩きながら、
「高貴のお方にもしもお目にかゝれたら、いつぞやからお望みになってゐる薄茶のお手前をごらんに入れるとでも申上げて、参内の機會をつくっておく方がいいよ」と低い聲で云った、夫もまたその事を考へてゐたものと見える。
中庭とは云ふものの、見透しもつかぬ廣い庭園で、合歡木に似た大樹が枝を張り日光を遮ぎってゐる下に長方形の食卓が幾筋もずらりと据ゑつけてある。頭上には食卓の長さだけの白い煽風(せんぷう)布がひらひらと煽ってゐて、見るから涼しげであった。
お茶と大臣は云ったが、それは普通の晩餐會などよりは遥かに豪華な献立で、幾種類かの古酒さへ用意されてあった。殊に開けっ放しの庭園で食事をするといふことが、暑い國だけに非常に氣持がよかった。
白いナフキンを腕にかけた給仕が、生の龍眼肉を凍らせた氷菓子の大皿を捧げて來た時、米川はふと背後に人の氣配を感じて振り向いた。そこには××殿下がにこやかに微笑みながら立ってゐられた。靜枝はナフキンを卓上にのせて起ち上った。殿下は席を起つなといふやうに手で制しながら、
「今日はようこそ――何もお構ひ出來ませんが、どうぞごゆるりと――」
「お招きにあづかりまして光榮に存じ上げます。いつ拝見いたしましても水祭は實にお美しくって、私はまだ綺麗なお夢を見つづけてをるやうな氣がいたします」靜枝は上品な笑みを唇に浮べながら、涼しい聲でお禮をのべた。
「さやう。まるで童話の國に遊んだやうな氣が私もいたします。それは穢れのない、清らかな國――」と、今見た龍艇を眼に浮べるやうに米川は眼を細めて云ふのだった。
××殿下は滿足さうにほゝ笑んで、
「この庭續きが有名な寺、ワッサケですよ。よかったら食後に往ってみませうか。ウイハンには随分立派な佛像があります。ワッサケの住職は私の伯父です。だから、私はいつも勝手にウイハンへ入るんですよ」
「有難うございます。是非お件させて頂きます」米川は思ひがけない機會の來た事に胸を躍らせた。
「では、後ほどまた――」
××殿下は外交團長の方へ歩を移された。米川はその細そりとした背の高い後姿をいつまでも見送ってゐた。
食事が終り、外交團長が席を立ったのをきっかけに、賓客一同は歸り仕度を始めた。米川夫妻は大臣にお禮を云って中庭を出ようとしたが、××殿下の姿が見えないので、それとなく眼で探してゐると、ばったり英國公使に出逢った。夫人は靜枝の手を握って、
「明後日をお忘れなく、お待ちいたしてをりますよ。きっといらして下さるでせう？」
「はい、お受けのお返事を差上げた筈ですが」
「えゝ、それは頂きましたけれど、あの時間より早く來て下さいな、非公式の晩餐會なので――賞はね、昨年庭にお山を築らうと思って、裏庭から土をとりましたら、そこに大きな穴が掘れてしまったんです。そしたらいつか雨水が溜ってゐて、まあどうでせう、澤山海老がわいてゐるんですよ。先日、一寸釣ってみたら五寸位の海老がどっさり釣れました。それで思ひついてね、皆様に海老を釣って頂いて、それをその場でお料理して御馳走しようってわけなんですの。海老お好き？」
「はあ、大好物でございます」
「釣竿も澤山用意させてありますから、是非お早くいらして下さい。どなたが一番澤山お釣りになるか、懸賞をつけますから」
「奥様、一等賞をおとりなさい。迚も素晴らしい賞品がついてゐますから」公使はからからと笑った。
陽はいつか落ちて、洗ひあげられたやうな月がぽっかりと中空に浮んでゐた。
「まあ、綺麗なお月様！」靜枝は今更ながらシャムの月の美しさに見惚れた。
「シャムの月は美しい、内地の人に見せて上げたいやうだね」米川も月を仰いで云った。
「そんなに綺麗ですか？」と爽かな聲がした。
二人はびっくりして振り返ると××殿下が月光を浴びて立ってゐられた。
「ワッサケにお連れするつもりでしたが、夜になってはウイハンも見られませんから、またこのつぎにしませう」
「殘念でございますが、ではこのつぎ是非――」
「えゝ、よろしい。その代りかねてのお約束の薄茶といふのを飲ませて下さいよ」
「是非お願ひいたします」靜枝に代って米川が熱心に答へた。
「では、いつ來て下さる？」
「國母陛下の御沙汰をお待ち申上げてをりますのですが――」
「明後日午後二時にお出で下さい。皆お待ちしてをりますから」
××殿下は米川と握手した。靜枝は片膝を折って敬々しくさし出された手を握った。
２
正門には印度人の門衛が頭にターバンを卷きつけ、太い棍棒を握り、嚴めしい顏をして番をしてゐたが、米川夫妻の自動車を見ると直立不動の姿勢で擧手の禮をした。
車は門内をすべって表玄関に横附けされた。出迎へのボーイ達の白服に交って、大崎造船所社長の瀟洒な薄鼠色の背廣が目に立った。彼は近くのオリエンタルホテルに泊ってゐるのだが、晝のうちは殆ど米川の屋敷に來てゐて、寝る時だけしかホテルへは歸らなかった。
「お退屈だったでせう？ お一人おいてきぼりにして、お可哀想でしたわねぇ」靜枝は大崎の方へ輕く頭を下げた。
「いや、しかし、これも役目の一つなんだからね、仕方がないさ」米川はサンハットをボーイに渡し、上衣を脱いでワイシャツの腕を捲くり上げた。
大崎社長は靜枝の端麗な顏がいつになく汗ばんでゐるのを見て、
「ご苦勞様でございました。随分お暑くって、お苦しかったでせう？」白扇を開いてはたはたと風を送った。
夫人は一寸會釋して、
「有難うございます。もう結構で――、そんなに苦しくはございませんのよ。なれてをりますから」風をよけるやうに身を退くので、
「ではどうぞ、それをお使ひ下さい」ぱちりと扇を疊んで靜枝の方へ差し出した。彼女は頭を下げて辭退した。大崎は扇の引込みがつかなくなったやうにもじもじしてゐるのを見て、米川は思はずぷっと吹き出し、
「君、扇なんて使ふのは野暮なんだよ。熱帶地に馴れてゐるものは團扇や扇子なんて使はないのさ」
大崎は始めて合點がいったやうに、
「なる程、さう云へばこの暑いのに、米川さんの應接室には團扇も出てゐないと思ってゐましたが――。私なんか眠ってゐても扇子だけはちゃんと握りしめてゐますよ」
靜枝は大崎のさっぱりと汗を落した涼しさうな顏を見上げて、
「お風呂お召になりまして？」
「えゝ、お先に水を浴びさせて頂きました」
「あら、まあ、お水を？ お風呂をわかすやうに申しつけておきましたのに――。では、私も失禮してお水を浴びてまゐりませう。貴方はおあびになりませんの？」ベランダにゐる米川へ言葉をかけた。
「僕はあとにする。大崎君が腹が空ってるだらう。早く水を浴びて飯にして上げなさい」
「はい」
ボーイに食堂の用意を命じ、靜枝は廊下端れの湯殿へ入った。
熱帶のこの國では、日に何度となく水を浴びるか入浴しないと、體の健康が保てないのだった。
彼女が浴室から歸ってくると、米川と大崎社長は額を突き合せるやうにして話し合ってゐた。夫人は相談の妨げにならないやうにベランダを通りぬけて食堂へ入った。食卓にはすでに三人分の仕度が調ってゐて、主客の來るのを待ってゐた。
「お花がしほれてゐるわ。捨てて頂戴」食卓上の花瓶を指さしてボーイに云った。彼女は花鋏を持って裏庭へ出た。花をつくらせてみたがどの花も毒々しいいろの紅ばかり咲く、白い花などはどうにも手に入らなかった。だから誰にも顧みられない雜草のカンナのやうなのを靜枝は好んで食卓用に使った。カンナは掃溜を我天地とばかり大輪の花をつけて勢ひよく咲いてゐた。その中から薄いろのものを撰んで鋏をいれた。いつの間に從いて來たのか栗毛のラオ猫がカンナにじゃれついた。
「お花が散るわよ。折角私がきってゐるのに」
「夫人はラオ猫を片手に抱き、片手にカンナの花束を持って食堂へ引き返した。ラオ猫は毛並も美しいが性質が柔和で、内地の猫のやうに荒い言葉で叱ったりするといぢけてしまふ。優しく可愛がって育てると相手の心を感知してよく聞きわけるので、彼女はラオ猫を好んで何匹も飼ってゐた。
カンナを食卓にさしてから、二人をむかへに行った。
「御用意が出來てをりますが――」
「おゝ、さうだ。さあ、大崎君、食事にしよう」思ひ出したやうに籐椅子を起った。
「この頃は毎日、小海老とまなかつをしかなくって――」と云ひわけしながら、靜枝は吸物椀の蓋をとった。足下にラオ猫が一匹、卓上の魚の香にもひかれずおとなしく坐ってゐた。
「ほんとにシャム猫は行儀がいゝですね」大崎社長は感心した。
「やっぱり世界一と云はれる程ですから、毛いろばかりで性質もいゝんでございませうねえ」いとしさうに猫の方を見た。
「一匹頂いて歸りたい」
「でも駄目ですわ、育ちませんもの。皆さん珍らしがってお持ち歸りになりますが夏が過ぎると死んでしまひますから可哀想でさし上げられませんわ。それでもまだラオ猫の方は壯健なんですが、コラット猫はもっともっと弱いんですよ」
「その代りもっと上等だからな」と米川が云った。
「シャムにはラオ猫とコラッ卜猫の二種類しかないんださうですね？」
「さうだ、コラットが薄藤色の毛、ラオが栗毛と定ってゐるのさ。内地のやうに白ぶちだの、三毛猫だのっていふのはゐないんだ」
「コラットはもう數が少なくってめったに手に入りませんのよ。眼がとても素晴らしく美しいんですわ」
「毛いろが皆同じだから、こんなに何匹も飼っていらっしゃると、私にはどの猫がどうなんだか區別がつさませんね。が、とにかく珍らしいですね、栗毛で黒のぼかしなんだから」
「とても美術的ですわ。コラット猫の眼の美しいといふ事に、こんな傳説がございますのよ。昔あるお姫様が可愛がってゐらした猫が死にました。お姫様は泣いて、泣いて、せめて何か遺品でも殘してくれたらと嘆きながら、お庭の隅に埋めておやりになりましたの。それから數年後、庭つくりが、猫の埋まってゐるのも知らずにそこを掘り返しましたら、二つの立派な寶石が燦然と輝いてゐたと云ひます。
それは猫の眼だったんですの。お姫様へのお遺品(かたみ)に自分の持ってゐる一番美しいものをさし上げたんですって、それはお話ですけれど、それ程この國ではコラット猫を大切にいたしますのよ」
食事中は支那人のボーイもゐることだし、大事な話は絶對にしないことになってゐる。殊に造船問題が始まってからは、たとへ言葉の通じない苦力(クリー)と云へども決して油斷は出來なかった。金で動く彼等は密偵の役を喜んで引き受けたからである。
三人は食事もそこそこにヴェランダヘ引返した。
「大崎さん、まだ羽子板は届きませんの？」靜枝は猫のことなどもうすっかり忘れたやうに、眞險な顏をして訊くのだった。
「明日届きます。しかし、奥様の御註文のやうないいのがなかったんです。お氣に入るかどうか分りませんが、何しろ、あれはお正月のものですからな、今頃は何處にもないので、特につくらせました」
「それはどうも――、お手數をおかけしてすみませんでした。何分高貴の方々は御不自由がおあり遊ばさないので、何を差上げていゝか分りませんねえ。押繪はどんなのをお撰び下さいまして？」
「訳者の似顏はいけないと云ふお話でしたから、赤くって綺麗な八重垣姫だの、靜御前だのを特に入念に造らせて澤山送らせました」
「そりゃいい。明後日の間に合ふな」
「いいお土産でございますわ。きっとお喜びになりませう」
「ねえ大崎君、明後日は非公式の参内だからね、高貴の方々とも打ち解けたお話が出來ようといふものだ。またとない好機會だからね、是非××殿下にお願ひして、競爭國の見積り額を内密におもらし頂くやうにと、靜枝に云ひつけてゐるんだがね」
「さう願へたら有難いんですが、奥様に餘り責任をお負せしてはすまないと思ふので――」
「私などにお氣をおつかひになる事はございませんわよ。これが個人のお仕事とでも云ふのなら別ですけれど、米川はそれを機會にシャム國の軍艦全部を一手に引き受けたいといふ大望をもってゐるんですし、それも米川としては自分のためでもなく、造船所のためでもなく、御國のための御奉公なのでございますもの」
「しかし、何せ相手は強敵ですし、随分手を廻はしてゐるらしいし、召使のポーイ達は何處も支那人でせう？ ボーイ仲間は連絡があって、金で秘密の賣買もすれば、金を掴ませれば相當卑怯な眞似もしかねないといふ事ぢゃありませんか」大崎はこの繊弱い婦人に斯る大任を背負はせる事の痛々しさに堪へかねて、思はず弱音を吐いてしまふのだった。
「それはもう覺悟いたしてをりますわ、私は生命をかけても成就したいと思ってをりますのですもの」
「そんなにまで御決心してゐらっしゃるとは――」と云ひかけたが、夫人の優しいなかにも犯し難い氣品とその氣魄とに壓されて、彼は思はず聲をのみ、その美しい顏を仰ぎ見るのだった。
「さうだ、巡洋艦一隻位の注文に終るなら何でもない事だ。これを機會に是非とも大崎造船所でなければ出來ないといふ立派なものを造って貰らはなけりゃ。ね、大崎君、吾々の努力が無駄にならないやうに、しっかり頼むぜ」
「米川さんのお力が永遠に殘るやうにします」
米川は大崎の眼をじっと見ながら、
「僕はもっともっと遠い將來の事まで考へてゐる、それにはこの巡洋艦は一つの試驗のやうなものなんだ。立派に及第してくれたらば、軍艦を一手に引き受けられるのは無論の事、我が國とシャム國とがしっかりと手を握って――」と云ひかけて、ふいと庭へ下りた。芝生には螢が青い光を曳いて飛んでゐた。
３
「薄茶のお手前をお見せするといふのに、洋髪はどうかと思ふな。高貴の方々は純日本式の事を好まれるんだから、すべてその積りでゐなけりゃいけない」
「では日本髪に結ひませうか？」夫人は一寸當惑したらしかった。
「さう。島田に結ひ給へ」
「え？ お島田に？」ぽっと顏を赤くした。米川は默ってうなづいた。
「何ですか、あんまりそれでは――」
「外國人は日本髪と云へば島田と思ひ込んでゐるんだ。ほかの髪なんかに結ふと反って妙に誤解されるかも知れない、島田がいい」
島田に結ふのは氣恥しいとは思ったが、夫の言葉には反けなかったので、日本髪の心得ある婦人を探すことにした。市中を尋ねさせた揚句やっと一人の老婆を發見した。この女は子供の頃に髪をいぢることが好きで、近所の小娘達の髪を結ってやったことがあるといふのだった。
「それももう五十年も前の事でございますから、結へますかどうかわかりませんが」と老婆は云ふのだった。
「どうでもよろしいんですよ。お心得さへおありなら」
「奥様、何にお上げ遊ばすんでございます？」
「お鳥田」
「へっ？」老婆はびっくりした。そしてしげじげと夫人の顏を眺めた。美しいといふ評判は聞いてゐたが、こんなにも氣高い美しさとは思はなかった。老婆は惚れ惚れと見とれながら、何といふ事なしに掌を合せたくなった。長年のうちに自然とこの國の習慣が身にしみ込んでしまって、尊いものに對しては合掌する。老婆は夫人の氣品にうたれて掌を合はさうとしたのであった。
「島田と申せば、髪結さんでも手古摺る髪ですのに、どうして私などに結げられませう」
「いゝのよ。手傳ってさへ下されば、私が何とかまとめますわ。前の方はいいやうにいたしますから後ろの方だけをお頼みいたします」
老婆は恐る恐る後へ廻って、毛に手を觸れてみた。
「まあ、澤山なおぐしでございますこと」
どうやら斯うやら結ひあげて島田らしいものが出來た。夫人は鹿の子絞りの着物が着たかったのだが、米川の注意で紫地に櫻の花を散らした振り袖を着て、糸錦の帶を矢の字にしめた。
「まあ、お美しいお姫様！」老婆は驚嘆した。
つかつかと入って來た米川は思はず立ち止って、
「これはこれは」と笑ひ、
「何處の姫君かと思った」と眼を細くした。
「お茶のお道具はお送り申上げましたか知ら」
「もうお届け申上げた筈だ。從者には事務員二人、自動車に乗って待ってゐる。それから今日は行く先を知られたくないから、故意(わざ)と運轉手をやめ、運轉の心得のある安田事務員に頼んだからその積りで――」
「では行ってまゐります」しとやかに頭を下げた。
大崎社長は自動車の扉に手をかけて、
「奥様！ どうぞよろしくお願ひいたします」心から祈るやうな眼をして見送った。
入札の日も近づいてゐるのに、いまだに競爭國の見積りが判明しない、大崎は日夜煩悶した。燒きつくやうな酷暑にうだりながら、明けても暮れてもその事ばかりに頭をなやましつづけてゐた、めっきりと頬がこけたのが目に立つ。この煮えきらない焦(じ)り焦りした氣持ちは骨身を削るものと思はれる。
ベランダに相對して坐した大崎は米川の顏を見てほゝ笑んだ。
「今日は何とか少しはわかると思ふが――」慰め顏に米川が云った。
「しかし、敵もさるもの、なかなか本音は吐かないでせうから」
「だが、無鐵砲な値をつけるわけはないよ。何も損をして仕事をとる必要はないんだからね。そこが徴妙なところなんだらうが――」
「もう、時間の問題になりました」大崎は痩せた頬を撫でた。
お褒めのお言葉と、身にあまるお土産を賜はって戻って來た靜枝は、自動車から降りると直ぐ夫の書齋へ入って何事か耳打ちした。やがてベランダに待ってゐた大崎がよばれ、ドアには内部から鍵をかけて、三人は日の暮れるのも知らないで話しつづけてゐた。
４
つひに入札の落ちたことを、大崎社長が雀躍(こおどり)してお禮に來たのはその翌日の夜の事であった。
米川は愉快さうに大崎の手を握りしめて、
「相手を倒したばかりではないよ。やがて、シャム國内から彼等の權力を驅逐される日が來るんだ」
米川が云ったやうに、巡艦一隻の註文に終らないで、シャム國戰艦の造船を獨占し得たのは、日本帝国が世界に勝れた造船技術のあることは云ふまでもないが、かよわき一婦人のかくれたる力も大いにあづかって力があったと云へるであらう。
夫人は心から晴れ晴れとしたやうに空を仰いで、
「あら、いいお月様ですこと」
水祭の夜の月だって同じだのに、今宵位シャムの月の美しさを心から稱へて眺めたことはなかった。
注）明かな誤字誤植は修正しています。読点は句点に変更したところがあります。
注）時代、掲載誌を感じさせる内容となっています。
男の顏まけする話 第二話「大蛇と娘」
サンデー毎日 1936.01.01 (昭和11年１月１日号) より
私がＳ國にゐた時の話である。
某會社支店長夫人は東京にゐる物好きな友人から、こんな注文を受けた。
「御榮轉とのお噂を聞いたのでお願ひするのですが、あなたが御歸朝なさる時、是非大蛇をお土産に持って來て下さい。生きてゐれば尚更結構だが、生きたのがなかったら皮だけてもよろしい。成る可く奇麗な模様のあるのがほしいのです。といふのは、僕の友人の若い細君が蛇の丸帶をしめたいといふのです。お正月のお年始廻りや新年會にそれをしめて皆を吃驚させてやりたいといふ他愛もない希望なのです。日本ではなかなか手に入らないが、御地なら大蛇は何處にでも居るでせうから、どうぞお持ち歸り下すって、彼の妻を悦ばせてやって下さい。」
友人の妻君だといふが、その實、彼の愛人の頼みであることは察せられた。妙な趣味を有つ婦人だとかねて聞いてゐたから。
丸帶にするにはどうしても一丈の長さはなくてはならない。日本で考へると熱帶地方には猛獣だの、大蛇だの、鰐だのが、矢鱈にゐるものと思はれるかも知れないが、山奥へでも行ったら知らぬこと、市中には珍らしいものは何もゐない。折角の注文だが、これには一寸困った。夫人は出入りの土人、支那人などに頼んで探して貰ったが、うまいのに打つからない。
手紙のこともそろそろ忘れかけた頃であった。會社の穀藏の中で大蛇を生捕りにしたといふ吉報を聞いた。長さは一丈二三尺、美しい紋柄のある太い奴といふ。これはおあつらへ向きだ。夫人は喜んで、早速それを自分の邸に連れて來てくれるやうにと社員に頼んだ。
大蛇は大きな金網の檻に入れられ、二人の苦力に擔がれて來た。外が見えないやうに金網のぐるりには菰が被ぶせてある。夫人はその菰を退けて中を覗いてみた。穀藏にゐたので艶がよいとの話だったが、成程美事な大蛇だ、これなら友人も滿足するだらう。檻は取り敢へず應接間の眞中に据ゑた。
一日二日は大蛇もまことにおとなしかった。水も飲まず、食事もとらず、とぐろを卷いて、まるで眠ってゐるやうに靜かだった。處が、三日目の眞夜中に夫人はフト無氣味な物音に目を覺ました。重い肉塊を床に打ちつけてでもゐるやうな、どたり、どたり、といふ音、それは大蛇のゐる應接室から聞えて來るのだとわかった。
夫人は懐中電燈て照しながら．恐は恐は硝子窓から室内を覗いた。大蛇は爛々たる眼を輝かせ、檻を破らうと思ってゐるのだらう、くねらせた體をどたり、どたり、と金網に打っつけてゐるのだ。
朝になるとすっかりおとなしくなって寝込んでしまふのだ。夜中暴れてゐるので疲れるのだらう。最初の間は家人の寝靜った眞夜中に初めるのでまだよかったが、段々と神經質になって、宵のうちから騒ぎ出した。かうして暴れ狂ってゐては體もたまらないだらうが．檻の金網も追々弱るだらう。すると何時かは目的を達して檻を破り脱け出して來るに違ひない、と思ふと恐しくって、夫人はオチオチ眠れなかった。大蛇も興奮して眠らないばかりでなく、何も食べない。
「蛙でもやったら、どうだらう？」といふので、社員の一人は蛙を澤山掴まへて袋に入れて持って來た。試めしに二つ三つ投り込んでやった。少時して覗いてみると、蛙は大蛇の背中でピョンピョンはねてゐた。
一週間ばかり過ぎた頃、その大蛇を捕へた社員がやって來て「大分痩せましたね。」
と云った。
「蛇も痩せたか知れませんが、此方も痩せますよ。毎晩まるで眠れないんですから――。」
と夫人はこぼした。
「何か食ひ物をやらなくっちゃ可哀想ですよ。鷄でもやったらどうですか？」
夫人は鷄を抱いて應接室に入り、金網の前に立った。鷄のパタパタやる羽ばたきにフト眼を向けた大蛇は、突然ぬっと鎌首を擡げて、パッと火のやうな口を開けた。彼女はアッと尻餅を衝き、鶏を放り出してしまった。
大蛇は鷄を狙ったのではない、赤い口を一杯に開けて夫人を一呑みにする積りらしかった。怖ぢけづいた彼女は折角手に入れたが、もう此儘一緒に棲むのはいやだ、一刻も早く何處かへやってしまひたいと云ひ張った。もう友人の注文なんかはどうでもよかった。
メナム河に流してしまったらよからうといふ説が出て、その日の夕方、屈強な社員十数名邸に集った。河岸まで檻を運ぶのはよいが、扉を開けた途端に飛び付いて來たらどうする？ といふので．扉を開ける役を買って出る者がない。其處へコックがやって來て、
「大蛇を此まゝ河に流してしまふのはいかにも勿體ない。親類の娘に蛇の好きな奴があるから、是非それに與(や)って下さい。」と歎願する。
「その娘さんは幾歳だね。」と若い一人の男が冗談らしく訊いた。
コックはニヤニヤ笑ってゐて答へない。
「蛇が好きだって？ 大蛇をどうするんだね。」
コックは平氣な顏をして云った。
「蛇と戯(じゃ)れて、後で喰ッちまうんですよ。」
男達は好奇心に惹かされて、その娘に大蛇を與るから、直ぐ連れて來いと云った。
「ほんとに與って下さいよ。嘘を吐くと怒られますからね。」
間もなくコックが娘を連れて來たが、耻しがって家へ入らないと云ふ。
「蛇を食ふ娘でも、耻しいッてことを知ってるのかなあ。」
と誰か大聲で笑った。
男達はぐるりと檻を圍んで立ってゐた。軈てコックの後から、おづおづと從いて來たのを見ると、男達は思はず眼を瞠った。十七八位だらうか、裸體裸足だが奇麗な顏をしたそれこそ虫も殺さないやうな優しい娘であった。美しい頬をポッと赤くして伏眼になり、コックの背後にすくんでゐる。土人にしては珍しい別嬪だ、と夫人は思はず見惚れてしまった。
「この娘さんが、蛇を喰べるの？」と眼を丸くして訊いた。
「大好物なんです。」
「ぢゃ、上げるから早く持って行って頂戴。――だが、どうして連れて行く？」
小娘は氣まり惡るさうに、男達の立ってゐる前を通って、檻の傍に行き、一と目大蛇を見ると、うっとりと、まるて魅せられたもののやうに、金網の方へ吸ひ寄せられたかと見る間に大蛇の首を小脇に抱へてずるずると引き出し、目にも止まらぬ早さで、ぐるぐるとと肌に卷きつけた。大蛇は醉ったやうにぐったりとなって、娘のなすがまゝになり、腰やふっくらとした胸にからみつく。彼女は呆氣に取られた男達の方を向いてにッと笑みを見せ、頬を大蛇に押しつけ、ベゼーしなかがら、重たさうによろめきよろめき、歸って行った。
注）句読点は変更したところがあります。
注）競作「男の顏まけする話」の第二話。他者は、メモしてませんでした。（第三話は「蝶さん會風景」水島あやめ）
実話小説「小町強盗」
「読物と講談」 1950.05. (昭和25年５月号) より
１
紙芝居の脚本を書くために、Ｔ刑務所内を見學したときのことでした。
女看守人の内村種子さんは幸ひ私の舊友だったので、期待してゐた以上に女囚たちのことをいろいろと聞くことが出來ました。
「むかしといまとでは待遇も違ひますからね、みんな、わりに朗らかですよ」と云って、内村さんは作業室を見せてくれました。そこにゐる囚人達は大なり小なり罪を犯してゐる、そしてその償ひを果すために働いてゐるのですが、まるでそんな暗いかげを背負った人のやうではなく、明るい顏をしてゐるのに私は先ず意外な感じがしました。
殊に隅っこにゐた一人の女囚などはいかにもまめまめしく、愉快さうなのがその動作にはっきり見えるのです。見學に來た私など見向きもせず、背中を向けてゐるので顏はよくわかりませんが、小造りでまだすっかり大人になりきってゐない體つきが何となく可憐に見えましたので、部屋から廊下へ出ると、低(こ)聲で内村さんに訊きました。
「あの少女は何歳位なんですか？ あれでも罪を犯した人なんですかねえ？」
内村さんは一寸眉を曇らせながらうなづいて、
「十五です。去年入った。強盗犯なんですよ。――」
「え？ 強盗ですって？」
私は思はず眼をみはりました。
「顏をごらんになりましたか？」
「いゝえ」
「とても可愛いゝんですよ。だから美人強盗だの、小町強盗だのッって、一時新聞にを賑はしたぢゃありませんか」
私はびっくりして、無言のまゝ茫然と内村さんの顏を眺めてゐました。何故と云って、その小町強盗なら私はよく知ってゐるのです。
「小里初枝といふ少女ですか？ あの足の惡るい？」
「あら、よく御存じですね。小里初枝です。足は空襲の時怪我をして、手遅れから遂々あんな片輪になってしまったのださうですが、足さへ惡るくなかったら、ほんとに美しい娘ですねえ」
と内村さんも私が知ってゐるのを意外に思ったらしうございました。
「初ちゃんの家は私のところから二町と離れてゐない燒跡のバラックなんです。肺の惡いお母さんと五人の子供を殘してお父さんはシベリアへ行ったまゝ歸って來ないとかで、大變な貧乏暮らしで、總領の兄さんが靴磨きをして細々と一家を支へてゐるといふので、みんな同情してゐましたので、少しでも生活の足しにしてやりたいと云ひ合せて、走り使だの、配給物取りだのをさせて、初ちゃんにお小遣をやってゐました。
私の家も無人なので、軍曹だったものですから、いろんな用を頼んでゐたのです。頭は良い少女ですが、學校へもろくに行かれないのを悲しがりまして、何か教へてくれとしきりに申すので、夜は私も閑だったのでお習字や算數などを教へてやってゐました。可哀想なので時には私の着古しのジャケツなどを與へたりして、何かと眼をかけてゐたのですが――」
「それでは町田さん、小里初枝はあなたの教へ子ぢゃありませんか？」
内村さんは唇に微笑を浮べました。
私は何んだか頬がほてるやうな氣がしました。
「初ちゃんがあんな大それたことをする娘とも知らずに留守番を頼んだりして、あとで皆に笑はれましたの。強盗に留守を頼むなんてって、でも、私のところでは何も被害はなかったんですの。近所を荒してゐた泥棒が掴まった、それが小里の初ちゃんだと聞いた時、私は心臟の鼓動が一時に停るかと思ったほどびっくりしてしまひました。あの時の驚愕(おどろき)はいまでも忘れられません」
私は眼を閉じて、じいっとその時のことを頭に浮べた。
小里初枝がふだん出入りしてゐる質屋で、小金も貸してゐるといふ上守松兵衛の家に、出刄庖丁を持って押し入り、案内知った佛壇の中から金を掴んで逃げやうとしたところを、主人松兵衛に見つかって居直ったとか、または足が惡いので逃げ損って掴まったとか、云ふのですが、どちらがほんとだか私ははっきりしたことは知りません。とにかく質屋の主人に掴まって警察へ突き出されたことだけはたしかです。
それを聞いて、近所ではみんな驚いたのですが、日頃あまり評判のよくない質屋だったので、反って小里初枝の方に同情が集って、
「貧乏すれば仕方がないぢゃないか」
「可哀想に――、あんな片輪な女の子だもの、見逃してやればいいのに――」
などゝひそひそとかげで云ふ人などもありました。
小里初枝が捕ってからもう一年になります。人の噂も七十五日、もう誰もその話をする者もなくなった今頃になって、私があの少女を見たといふのも何かの縁かも知れません。
「あとで、あの少女に面會させて頂けませんか知ら？」
と、私はおづおづと云ひました。
「お取りはからひいたしませう。町田さん、あなたは小里初枝の家族の現状を御存じですか？」
「えゝ。よく知ってゐます。あの一家は初枝が御近所に迷惑をかけて申わけないと云って恐縮しきってゐましてね、肩身狹く暮らしてゐます。たまに誰かゞ初枝の妹などに用事を頼むと、喜んでいそいそとやって來るので、何んだか涙ぐましいやうな氣がすると申しますよ。兄さんなんかは恥しさうに小さくなって道で出會ってもこそこそと逃げるやうにしてゐますが、以前にも増して一生懸命に靴磨きに精を出して、朝から終電まで働きつゞけてゐるさうですが、お母さんは病気ですし、なかなか暮らしは苦しいらしいですわ」
「その兄さんといふのが時々面會に來ますよ。十七ださうですが、總領で一家を支へてゐるだけに、なかなかしっかりしてゐるやうですね」
「初ちゃんがあんな惡いことをしなかったら、貧乏こそしてゐますが、あの一家はみんな、人に好かれてゐたんですよ」
「好かれると云へば、あの初技も所内ではみんなに可愛がられてゐますよ。それに規則はよく守るし、骨身を惜しまずかげひなたなく働くので成績は大變にいゝんです。模範囚なんですから、やがて恩典にも浴することだらうと思ってゐますの」
「きっと一時の魔がさしたとでも云ふのでせう、あんな恐ろしいことをするやうな少女とは誰だって思ひませんでしたからね」
「人の心はわかりませんよ。こゝにゐる女囚達だって、生れながらの惡人なんていふ者は一人だってありゃしませんもの。みんな境遇がさせるわざで、どんな善人だって、ひどい境遇におかれたら、人の物を盗む氣にもなるでせう。さう思って、私などはかういふ人達に接してゐるので、決してその人が惡いとは思ってゐませんのよ。社會や境遇が罪をつくるのだとしみじみ感じることが多いんですから――」
「内村さんはキリスト教信者だから、その罪を憎んでもその人を憎まないんですわね」
「さうばかりも出來ませんが、少なくとも小里初枝の場合はそれがあてはまるやうに思はれますのよ」
「では、是非、あの子に會はせて下さい」
「えゝ。そして家の話をしてやって下さい。お母さんや弟妹達のことばかりを心配してゐますから――」
「よく話して、安心させてやりませう。小町強盗の評判がひどかった頃は、弟妹達は學校へも出られなかったやうですが、今ではみんな小學校へ行ってゐますし、貧しいながらも落ちついて細々暮らしながらみんなで初ちゃんの出所の日を待ってゐるといふ噂も聞いてゐますから」
「改心して、眞面目に勤めてゐますから、何かの機會には減刑の御沙汰もあるだらうと私もそれを樂しんでゐるんですよ」
２
私は寒む寒むとした應接室で持参の辧當を開いて食べてゐると、ドアが音もなく開いて、内村さんに連れられた小里初枝が入って來ました。私を見ると、はっとしたやうに兩手で顏を覆って、立ち竦んでしまったのです。
内村さんは氣を利かせ、彼女を殘して出て行ったので、部屋には初枝と私と二人だけになりました。
「まあ、此方へいらっしゃい」
私は傍へよって、彼女の手をとり、椅子の一つに腰かけさせました。
「町田先生、面目ございません」
と、消えも入りたい様子をして、ぺこりと一つおじぎをしてから、
「こんなところで、先生にお目にかゝるなんて、お恥しくて、私はもう」
と云ったかと思ふと、しくしくと泣き出しました。
「先っき。私、あなたの働いてゐるところを見てゐたのよ。知らなかったの？」
「知りません。まさか、先生がこんなところにいらしてるとは思ひませんでしたから――」
初枝は袖口で涙を拭いて、
「私、何んだか夢のやうな氣がします。どうかして、先生に一度お目にかゝりたいとしじう思ってゐたんですもの」
「私だって、初ちゃん、どうしてゐるかなあと時々思ってゐたんだけれど、何處にゐるか全く知らなかったのよ。今日は偶然、こゝへ見學に來てね、内村さんからあんたの話を聞いたもんだから、急に會ひたくなって、お願ひしたんですよ」
「ありがたうございます。内村先生にはいろいろいゝお話をうかゞつて、私、この頃お祈りすることを覺えました。毎晩、寝る前に家をお守り下さいってことと、町田先生に會はせて下さいってこととを、お願ひしてゐたんですの。神様はきっと、いつか私の願ひをかなへて下さるだらう、と、思ってゐましたが、まさか、こんなに早く御利益があるとは思ってゐませんでした」
「私のこと、そんなに會ひたいと思ってゐたの？」
私は妙な氣持がしたのです。お世辭の云へなかったこの娘が、お世辭に云ふわけはありませんが、肉身でもない私をそんなになつかしがり、毎晩おいのりまでして會ひたがってゐた、と、いふことは、もし嘘でなかったらあんまり不思議です。
「ほんとに、一度でいいからお會ひしてお話したいと思ってゐたんです」
「どうして？」
彼女があんまり眞險に云ふので、どうしてか、と訊かざるを得なかったのです。
「どうしてって、先生、私には自分の心を打ち開けてお話出來る人は、町田先生のほかには誰もないんですもの」
「そんなに私を信用してゐてくれたの？」
「私は先生だけを頼ってゐたんですわ。だから、毎晩、お宅へ上って、算數だの、お習字なんか教へて頂いてゐた時のことを考へると、たまらなくなるんですの。あんな笑しいことはもう私にはないのだと思ふと悲しくなってしまふんです。お稽古のあとで、寒い晩にはくづ湯を飲ませて下すったり、そばがきをつくって食べさせて下すったりして、勉強おしよって、仰しゃるお言葉を背中に聞いて馳け出して歸る時、先生のお言葉で背中がぽかぽかするやうに暖かったのを忘れませんわ。
その先生にも、夢でしかお目にかゝれないと思ふと、私はこのごろ眠るのが樂しみになりました。そして、また、よく私は先生の夢を見るんですのよ」
「あら、どんな夢を？」
そんなに慕ってゐてくれたのに、私の方では一度だって初枝の夢を見たこともなければ殆ど忘れてゐたのです。それを思ふと何だか申わけないやうな氣持ちがしてなりませんでした。
「夢でみる先生はいつもにこにこしてゐらして、一度だって、私のした惡いことを叱ったことなんかありませんでしたわ。だから、先生みたいな方は、人の心を見透せるんだ、と思って時には恐ろしいやうな氣がしたこともありました。ほんとに先生は人の心の奥底の秘密がおわかりになるんですか？」
「何んですって？ 人の心の奥底の秘密、そんなものわかるもんですか」
と私は笑ひました。
「ではどうして先生は私をお叱りにならないんでせう？」
「夢の話でせう？ 初ちゃんの云ってることは――」
「夢ですけれど、まるでほんとみたいな夢で、眼が覺めてからも、しばらくぼんやりして私考へ込んじまうんですの。夢とほんとの境がつかないみたいで――。そしていつでも先生はやさしくって私を可愛がって下さる、お稽古に行った頃も、囚人になったいまの私も同じやうに、して下さるんですの。私は、だから、先生は何もかも知ってゐらして――きっと、知ってゐらっしゃるんでせう？ だから、私先生に會ひたかったんですの。お會ひして先生にだけ、ほんとのお話をしたかったんですわ」
「ほんとの話って、何んなの？」
「誰にも云へない話、私の秘密なんですのよ」
「オホヽヽヽ初ちゃんにもそんな秘密があるの？」
「先生、聞いて下さいます？ 私は神様の前に誓って、嘘僞りは云ひません、私は神様の前に出たつもりで、先生を神様だと思って、お話をしますから、嘘だらうなんて云はないで、聞いて下さいね」
「何んだか知らないけれど、ほんとの話なら聞いて上げますよ。僞はりでなければ、それがどんな惡るいことでも私は喜んで耳を傾けますよ」
初枝は嬉しさうに、頬を赤くしました。クリームも塗らず、お化粧もしてゐないのに、彼女の肌は白絹のやうになめらかで艶々してゐます。黒いまつげに現はれた眼は湖水のやうに澄んでゐて、少しのにごりもありません。小造りな初枝は十五と云ってもまだどこやら發育しきれないあどけない顏をしてゐるのです。この少女が強盗に押し入ったのかと、思ふと全く不思議です。足さへ不自由でなかったら、彼女はほんとに美しい少女だったのです。
初枝は卓上の端に眼を落して、じいと考へ込んでゐましたが、やがて沈んだ聲で話しはじめたのでした。
３
シベリアから一度ハガキが來たきりで父の消息は全然わかりません。家は最後の空襲の日に燒けて、私は大怪我をしてこんな片輪になってしまひました。東京者の私一家は疎開したくても行くところがありませんでしたから、全く命だけが助ったといふだけの、丸裸體になってしまひました。
母は長い患ひで家の事も出來ませんのに、足手纏いの幼ない弟妹を四人も抱へて、その當時十二才の兄さんが一人で働かなければならなかったのです。親類も燒け出されたばかりで、自分達が困ってゐるのですから、助けたいにも助ける力はなかったので、一日に一度位しか何にも食べることが出來ませんでした。
大きい私達は我慢をしても、きゝわけのない六つや四つの妹達がひもじがるのを見てゐられないので、母は何も口に入れない日があったりしたのが、體にさはりまして、肺の方はどんどん進みます。何日高い熱が出て起きられないやうな日がつゞきました。
兄さんは晝間工場に勤めて、夕方から靴磨きに出てゐましたが、工場の給料が少なくて、とても一家を支へてゆくことが出來ませんので、お勤めの方はやめて、朝から晩まで靴磨きをやることにいたしました。
私は足が惡るいので、何處でも使って下さいません。あんまり家が苦しいので見てゐられなくなり、女給さんにでもなったらと思って口を探して歩きましたが、足が惡るいと云ふので何處へ行っても斷はられてしまひました。その時位、私は戰爭を咀呪(のろ)ひたくなったことはありませんでした。
戰爭さへなかったら、父も會社に勤めてゐるし、母の病氣だって充分養生させることも出來たでせうし、兄さんも私も學校へ行けるのに、と私は泣きました。戰爭は私達一家の幸福を木っ葉微塵に打ち碎いてしまったのです。
いくら泣いても、怒っても仕方がありません。斯うした運命だとあきらめて、働くより道がなかったので、兄さんは靴磨き、私が御近所のお使ひ歩き、弟が納豆賣り、下の二人は病氣の母についてゐて、家を守るといふことにしたのですが、いくら働いても働いても食べられないのです。
同じ年頃の少女はみんな學校へゆくのに私は學校へも行けません。鞄を下げたり、ランドセルを背負って登校する同年位の子どもを見ると、羨しくって、羨しくって、いつまでも往來に立って、そのうしろ姿を眺めてゐて自轉車に突き飛ばされたこともありました。
去年のお正月頃から母の病氣がぐっと重くなったので、お醫者さんにも診て頂かなければなりませんしお藥も必要になって來たので、家の中は火の車どころではなく、飲まず食はずで働いても足らなくなりました。
お拂ひが出來ないので、お醫者さんは迎へに行ってもなかなか來て下さいません。そこへ運の惡いことには末の弟が風邪から肺炎になりました。ペニシリンを打てばよくなると云はれましたが、そのペニシリンは現金でなければ打って頂けない、私達は全く途方にくれてしまひました。
「見殺しには出來ないし、金が欲しいなあ」
兄さんは血の出るやうな聲で云ひました。
その晩のことです。一枚の蒲團をみんなで引っ張りあって掛けて寝てゐた私は、ふと、夜中に眼をさましました。
すると、兄さんがむっくりと起き上って、じいっと私達の寝息をうかゞってゐるのです。その眼が恐いやう眞劍だったので、私は聲をかけることも出來ずに、眠ったふりをしてゐました。
やがて、起き出した兄さんは流しのところでごそごそと何かやってゐましたが、靴磨きの道具を包んであった黒い風呂敷を持って、それに何か包んだやうでしたが、入口を靜かに開けて出て行きました。
夜中だのに、何處へ行ったのかと思ふと氣になって寝つかれません。二時間も經った頃入口がゴトリと音がしたかと思ふと、いつの間にか兄さんが歸って來てゐました。
翌日、弟はペニシリンを打つことが出來ました。兄さんは青い顏をして、むっつりとして一日中不機嫌で、よりつけませんでした。ペニシリンは一本では駄目だったので、また打たなければならなくなりました。
兄さんはつゞけて、翌晩も出て行きました。何處へ行くのだらう。
と、好奇心も多少手傳ったのですが、歸って來るとその翌日はいくらかお金廻はりがいいので、博奕かも知れない、と思って、私にもやれることだったら――、と思ひましたので、そっと後を尾けてゆきました。
夜風が肌を刺すやうで、細い三日月さまが柳の梢に引っかゝるやうに出てゐました。眞夜中ですから、人っ子一人通らない、しいんと地の底のやうな靜かさでした。
兄さんは後ろも振り返らないで夢中になって、飛ぶやうに歩いてゆくのです。小半町も行ったかと思ふと黒い板塀の横の防火用水桶の蔭にしゃがみました。
そこは私もしじう行くのでよく知ってゐる上守松兵衛さんの裏口だったのです。質物を安くとるので評判が惡るく、その上小金は高い利子で貸すといふので、人非人のやうに云はれてゐる家なのです。
最初は博奕かと思ったのですが、松兵衛小父さんはそんなことは大嫌ひですから、兄さんはきっとお金でも借りに行くのだらうと思ひました。が、またよく考へると貧乏人の私達に質ぐさも持って行かないで、お金を貸してくれるやうな小父さんではありません。世間では随分鬼のやうに云はれてゐる人ですが、私はそれほど酷い人だとは思ってゐなかったのです。けれども、お金にかけてはあの嚴しいのを知ってゐる兄さんが、まさか泣きつきに行くとも思はれません。
私は走り使ひを頼まれたりするので、よく行って知ってゐますが、
「質ぐさを安くあづかるのは、流させないためだよ、つまり當人のためを思ってやるからだ。鬼の眼にも涙はあるんだぞ」
などゝ冗談を云ったりしたのを聞いたこともあります。
質屋の松兵衛さんは、あれでなかなか侠氣がある、などと云ふ人もたまにはある位でした。その質屋へ兄さんは一體何しに行かうといふのでせう？
しばらくすると兄さんは用水桶から姿を現はしました。見ると、黒い風呂敷をすっぽりと頭から被って、顏を包んでゐるのです。が、あたりをぢろりと見廻はした時のその眼の恐さに私はぞっとしました。片手を懐に突っ込み、何か握ってゐる風なのです。そして、あたりに氣を配ばりながら、忍び足で、裏木戸に片足をかけたかと思ふと、ひらりと乗り越えました。その身の輕るいこと、まるで輕業師のやうです。中へ入ると直ぐかけ金を外して、木戸を半開きにして置いて姿を消しました。
私はその半開きの木戸を押して、中へ入りました。
何もかも、私にはもうすっかりわかったのです。兄さんは質屋へ泥棒に入ったのです。
私は足がぶるぶる震るえて、どうにも震るえがとまりません。泥棒といふものは恐いものだと思ってゐました。その恐い泥棒に兄さんがなったのです。私は兄さんがそこにゐたら、後から抱きついてとめただらうと思ひます。
齒の根が合はない、かちかち齒を鳴らしてゐましたが、逃げ出さうとは思ひませんでした。頭の中がじいんとしびれてしまって、自分の體が、自分の思ふやうにならないんです。夢の中で恐いものを見て、逃げようにも動かれない。恰度、あの時のやうでした。
しいんと靜まり返ってゐた家の中に、ぱっと電燈がついて、急に騒々しくなりました。
「泥棒！」
とけたゝましい叫び聲。私は兩耳をおさへて開いてゐる水口から覗き込まうとした時、ぱっと鐵砲のやうに飛び込んで來た黒いかたまりが私にぶつかりました。
兄さんでした。追はれて逃げる兄さんでした。
私は木戸まで追って、
「兄さん、兄さん」
と云ひました。
兄さんはまるで夢中です。私の聲など耳に入らない。狼狽(あわて)ふためいて逃げる拍子に用水桶につまづいて倒れ、懐ろから黒い風呂敷を落したまゝ、走りつゞけました。私が拾ひ上げると、風呂敷の中には出刄庖丁と盗んだ金が入ってゐました。
私は早速その風呂敷で覆面し、様子をうかゞってゐると、
「彼方だ」
「此方へ逃げた」
家の中は大騒ぎです。
「太い野郎だ」
と呶鳴ってゐるのは聞き覺えのある松兵衛小父さんの聲です。
小父さんは泥棒の顏を見たに違ひありません。もしさうだったら、逃げても兄さんは逃げ負せる筈はないのです。
兄さんが捕まったら、私の家はどうなるでせう。明日からみんな餓死するよりほかありません。兄さん一人に縋って生きてゐるお母さんや弟妹達の顏が眼の前にちらつきます。
私は咄嗟に覺悟をきめました。兄さんの身代りにならう。不具者の私が、一人でもへれば家は反って樂になるかも知れない。
水口にへばりついてゐた私は、のこのこと上らうとするところへ、
「この野郎、こんなところにかくれてゐやがった――」
頭の上で雷のやうな聲を聞き、腕をねぢ上げられ、私はよろよろとよろけて尻餅をついてしまひました。
その拍子に黒い風呂敷がとけて、明るい電燈の下に私は顏を晒してしまったのです。
「なんだ、初公、貴様が強盗に入りやがったのか？ 太い阿女め」
小父さんは肩で息をしながら、ぜいぜい咽喉を鳴らしてゐました。が、心の中で、はてな、と思ってゐるらしいのが表情に見えました。
私は嘆願するやうな眼で、じいっと見ながら、默って、手を合せたのです。それで何もかも呑み込んでしまったのでせう。
「すみません、強盗は私です」
小父さんは大きくうなづきました。
「女のくせに、大それた眞似をしやがる」
と口では云ってゐましたが、小父さんの眼に涙が光ってゐるのを私は見ました。
電話をかけたと見えて、どやどやと二人の警官が飛んで來ました。
盗んだ金と出刄庖丁を持ってゐたのですから、それ以上の證據はありません。私は強盗としてその場から引き立てられたのです。
「ほんとはお兄さんだったの？」
初枝は唇に指をあて、
「後生です。秘密にして下さい。先生にだけ白状するんですから。私にはそんな度胸はありませんもの。でも先生、兄さんはすっかり後悔して、二度とそんな不心得な眞似はしないといく度も泣いて誓ひましたのよ。兄の罪の償ひを私がするのかと思ふと、日々の働きがとても嬉しいんですの」
と云って、眼をしばたゝきながら、
「兄さんだって決して惡い人間ではないのですが、あんまり困るものですから、皆を少しでも樂にさせたい、病氣もなほしてやりたいといふ心から、つい、とんだ不量見を起したんですから、可哀想なんですの」
私はこの少女の純情に胸が一杯になって慰めてやる言葉もありませんでしたが、初枝は決して慰めて貰らはうとは思ってゐなかったのです。寧ろそれだけの罪を背負って、その償ひをするといふことの喜びに浸ってゐるらしく見えました。
「先生、この話、どうぞ誰にも仰しゃらないで下さい。裁判もすみ、私の刑期も定った今日、こんなお話をしても、先生はほんとには思ひにならないでございませう。が、私の心の奥の秘密といふのはこのことなのです。私の好きな先生にだけ、誰れにも云へないことをお打ち明けして、あ、やっぱり初枝は強盗するやうな惡るい娘ではなかった、といふことを知って頂きたかったのです。どうぞこの話だけは内緒にして下さいね、先生、それでないと折角の私の氣持ちが、何の役にもたゝなくなりますから」
「えゝ。絶對に云ひません。いままで勤めて來たあなたの働きが無になりますからね」
「今になってこんなことを云っては、お役人様に嘘を吐いたことになって申わけありませんから――」
「でも、よくまあ、私に打ち開けて下さったわね。それで私の心も晴れ晴れとしましたよ。可愛いゝ初ちゃんは私の思ってゐたとほり、あんな恐ろしい罪を犯したのではなかったと思ふと、迚も嬉しい」
私は心から喜んだのでした。
面會があまり長くなるからと云って、内村さんが迎へに來ました。
私は少女の手を握って、
「しっかりおやりなさい。お家の方は私も及ばずながら氣をつけてゐますから」
「有難うございます」
思ひなしか、彼女の顏は晴れ晴れとして、輝くやうに見えました。 （終り）
注）明らかな誤字誤植は訂正しています。使用漢字や送り仮名のゆらぎなどはそのままです。
浮世實話「未亡人の辿る道」
オール読切 1950.08. (昭和25年８月号) より
生活の不安
町子は夫の長患ひで、財産を殆んどつかひ果し、彼が死んだ時には僅かばかりの預金が銀行に残ってゐるだけだった。彼女は全くこの世に取り残され独りぼッちといふ感じだった。これから先の生涯をどうして生きて行かうかと、初七日から考へ始めた。
先だつものは金だ。持ってゐるだけの家財道具を金にかえてみたところで、数年しか食べられない。
「金はしっかりと握ってゐて離さないことだ、そして、早く収入の道を考へなさい。」と、苦労人の伯父は云った。町子は夜も晝も収入の道を考へ通した。
「人に物を教へたらいゝでせう。それなら資本要らずで、お金が入る。」と友人はすゝめてくれた。
人に物を教へるにはそれだけの資格がいる。
語学はいゝ金になるが、檢定試驗を受けなければならない。遊び半分で習ったのでは試驗を受けるのにこれからまた一勉強だ。
ながい間町子は暇つぶしにいろいろなことを習った。表情人形も上手につくったし、フランス刺繍も出來る。生花もうまいし、お茶もかなりなところまでいけるが、すべて奥様藝程度を出てゐない。
その中でも三味線には金もかけたし、長年習って自信があるので、お師匠さんに相談してみると、
「むづかしいものは御存じだが、やさしいもの、所謂、師匠に必要なものは何一つ御存じない奥様稽古でしたから急の間には合ひますまい。」と云ふ。
「お稽古して頂きながら、教へてはいけないものでせうか？」
「免状がないと、もぐりだと突込まれますよ。」と云って、さもさも当惑したやうに、
「何しろ、奥様がたと云ふものは褒められるのがお好きですから、嚴しいお稽古をつけてはゐません。師匠には向かないんです。人に教へるのなら、もう一度、始めっから習ひかへさないとねえ。」
町子は絶望した。いざといふ時役に立たないものを、時間と金をかけて、十年も、二十年もやってゐたとは何といふ不経済なことだらう。彼女は忌々しくって、歯ぎしりするやうに口惜しかった。
新商賣
そこへ、親切な人が現はれて、
「ある特種な本のいゝ権利を賣らうといふ人があります。あなたには打ってつけのお仕事と思ひ、お知らせに來ました。その人は御主人様をよく知ってゐられて、お困りなら特別お安くお譲りしてもいいと云ひます。その権利を持ってゐれば、本屋との取引きは定ってゐて、つまり、お客がついてゐるのですから、一生喰ひはぐれはありません。」
町子は飛びついた。本の事など何も知らない、無経驗の彼女はただ一生喰ひはぐれがないと云ふ言葉に眩惑され前後の考へもなく、預金をすっかり引き出して、権利を買った。
それはある宗教の本で、本部でつくったものをわけて貰ッて、小賣店に廻わす、その間に一割の利益を得られるのだ。つまり本屋の中つぎみたいなもので、権利を持ってゐる人だけが本部から卸して貰らへるが、本部から直接小賣店へは廻さないと云ふだけが取り得で、期待したほどのものでないことがだんだんわかって來た。
しかし、やりかけたことで仕方なく、その仕事を町子の名でやると通知を出すと、全國の小賣店から注文がどんどん來た。ところが本部から卸して貰ふのは現金仕拂ひ、小賣店はかけである。町子はその金に窮した。もう賣る物もない、仕方がないから知り合ひといふ知り合ひをたどって、事情を打ち開け、お金を借り集めた。
默って貸してくれる人は殆どなかった。擔保がなければ、とか、中には六十日期限の手形で貸さうと云って、手形を書かされた。手形と云ふものがどんな性質のものか、よくも知らないで云はれるまゝに平氣で書き、ただ金を集めるのに夢中だった。
貸してくれる金額も、次第に小額になった。大きいところは皆借りつくしてしまったのだ。
「もう、千円入用です。」と云はれたが、頼むところがなかった。
百計つきて、長年親しくしてゐる三味線のお師匠さんに泣きついた。
「へえ、本屋さんをお始めになったんですか、素人の方は度胸がいゝんですね。」と、お師匠さんは不安な顔をしたが、
「私の手許には千円はおろか百円もありませんが、お弟子に銀行やさんがあるから訊いて上げませう。もし、擔保が要ると云はれたら、奥様はダイヤを沢山お持ちですから、指輪でも、帶止でも結構ですから、お出し下さいね。」
町子は答へに詰った。ダイヤは金に替へてしまった。たった一つ残してあるのは夫が外國で買って來た土産の記念品だ。それなら一カラットもあるのだから、千円どころか沢山金が借りられるだらうが、手放すのが辛い。事情を話すと、
「旦那様のお遺品(かたみ)ではねえ。よろしうございます。当ってみて擔保がいると云ったら、私の定期預金が來月初めに書き替へですから、それをお渡しませう。その他に私にはお金がありませんから。その代り書替への日まで待って下さい、あと二週間ですから。」
間の人に十数日待って貰らひたい、と、その話をすると、
「駄目でせう。斷われないからの逃げ口上ですよ。待ったって無駄ですね。」
町子は失望した。食事も咽喉に通らなくなった。その後お師匠さんからは何の便りもなく、問ひ合せてやらうと云った銀行やさんの話もそれぎりだった。人心の頼みにならないのをつくづく身に染みた。
人のまごゝろ
定期預金の書替へ日だと云った日は朝からどしゃぶりの大雨だった。町子はしょんぼりと晝食の箸を取らうとしてゐる時、門が開いて、お師匠さんは濡れ鼠のやうになって馳け込んだ。着物の裾から雨のしづくがたれて、下駄は泥だらけだった。
「足が汚れてゐますから、お玄関で失礼します。お約束のお金を持って來ました。」
町子は熱いものが、咽喉に込み上げて來て、物が云へなかった。彼女は眼頭に染み出る涙を拭きながら、借用証書をしたゝめ、それに半年後の返済期日を書き入れた。
それから後の町子の苦しみは話のほかだった。瞬く間に手形の期日が來る。彼方の利息、此方の書き替へ、収入よりも利子に追はれて氣が狂ひさうだった。
彼女は息を吐く暇もなかった。権利を買ったことを悔んだ。苦悶の日夜に眼をくぼませてゐるうちに、お師匠さんの期日はいつか過ぎてしまった。
死物狂ひで奔走したが金は出來ない、権利を手放してその金の中をお師匠ざんに返さうと思ったが、権利を買う人がない。最後に夫の親友のある博士に縋ったが、
「自分には金がない、友人にでも訊いて上げよう、しかし、擔保が要りますよ。」
町子は夫の遺品のダイヤを擔保に出したが、何んと千円の半分も借りられなかった。あとの半額を博士が出してくれた。
お師匠さんからは一言の催促も來ない。怒ってゐるのか、約束を違へた町子に愛想をつかしてゐるかだらう。どんなに怒られても、頭から罵倒されても仕方がない、観念して、氷を踏むやうな思ひで出かけた。
彼女はお師匠さんの前に頭を垂れ、恐る恐る紙に包んだ金を差出すと、急に悲しくなった。
「何んなの？ これは――」お師匠さんはいつもと同じやうに、にこにこしながら顎をしゃくった。
「拝借をしたお金です。」
お師匠さんは吹き出して、
「あゝら、私すっかり忘れてゐた。」
「え？ 忘れて？」
「だってさ、奥様にお渡して置いたら、銀行よりもたしかですもの。安心してゐるから、覚えてなんかゐなかったのよ。」
と、まるで念頭になかったやうに朗らかに笑ってゐた。町子はこんなにも信用されてゐたのかと思ふと嬉しくって、感激に胸が震るえた。そしてこの時ほど、街の一師匠であるこの婦人が偉大に見えたこともなかった。
注）明らかにおかしなところは修正しています。句読点は変更しているところがあります。
「再会」（珠玉コント集）
探偵倶楽部 1954.01. (昭和29年１月号) より
花枝は新橋駅で十五年前別れたきりの恋人林雄一を待っていた。彼に会える嬉しさで、彼女の心はほのぼのと温まっていた。友達に頼んでおいたアパートがやっと借りられたので、真先にそれを雄一に知らせた。そして彼女は飛び立つ思いで上京して来たのだッた。
むせかえるような刺戟のつよい都会の雰囲気の中で、花枝はそーッと鏡を出してみた。濃くお化粧し、盛装してはいたが、土臭さと年齢はかくせなかった。
二人が知ったのは花枝が二十才、雄一が二十三才の春であった。二年間交際して後、婚約したのだッたが、彼女の兩親が不賛成であった。二人は煩悶している時、銀行員の花枝の父が地方へ転任になった。それから転々と支店を廻わっているうちに、雄一は出征し、空襲がはじまり、終戦後は住宅難で都会へ引越せないうちに、早くも十五年の歳月が流れてしまった。
十五年間、彼女の心からひとときも雄一の俤が消えたことはなかった。彼とは勿論、絶えず文通だけはしていた。
もし彼が十五年前と同じ愛情を持っていてくれたら――、彼女はすぐに彼の胸の中へ飛び込んで行くつもりだッた。
駅の時計は六時、約束より四十分すぎていた。
「その荷物、重そうですね、持って上げましょうか？」
いつの間に来たのか、彼女のうしろに中年の紳士が立っていて、気の毒そうな声をかけた。
「ありがとうこざいます。が、とても、重いんですから――」
うつむいて辞退した。
「どちらへお出でになりますんですか？」
「高円寺二丁目まで――。久しぶりで上京いたしましたものですから、東京はすっかり変ってしまって、道もわからなくなってしまいましたの」
「中央線ですよ。高円寺は――。何番です？」
「三五〇番地でございますの」
その時、はじめて顔を上げ、男の顔を見て、花枝は胸がどきんと鳴った。ああ、待ちこがれていた雄一ではないか？
学生帽を被ぶっていた頃の面影がどこかに残っている。しかし、彼の方では花枝を全然記憶していないらしかった。
十五年間、思いつめていた愛情を一度に打ちこわされた淋しさが、彼女の胸を凍りつくように冷めたくしていた。失望でふらふらッとめまいがした。
「お顔いろがわるいですな。都会は刺戟がつよくて神経が疲れるんですよ。お茶でも飲みましょうか？」
小ぎれいな喫茶店へ案内した。テーブルをはさんで、コーヒーを飲みながら、男は地図を書いてくれたが、彼女が花枝であることはまるで気がつかないようだ。気が退けてどうにも名乗る勇気がなかった。
「田舎はどちらです？」
男はにっこりした。その皓(しろ)い歯なみまで昔のままだった。
「私は花枝です」と口の先まで出かかったのをゴクンと唾と一緒に呑み込んでしまった。その時、彼女の心には一つの寂しいあきらめに似た考えが浮んでいた。田舎者になった姿を見せて雄一に失望させるより、気がつかないのを幸い、二十才の愛し合った当時の美しい姿を彼の頭に永久に灼きつけておこう、それがせめてものなぐさめではないか。
「ありがとうございました。地図を書いて頂けばよくわかりますわ」
花枝は喰い入るように、もう一度男の顔を見た。もう二度と会うことはないだろう。胸が一杯になった。涙が落ちそうになったのであわてて別れを告げ、そつと瞼を抑えた。
重いカバンを下げて、しょんばりと駅の階段を上って行く花枝の後姿を、いつまでも男は見送っていたが、ぶるぶるッと身をふるわして、
「危ぶない、危ぷないッ、花枝に気づかれなくって、あ、あ、助かった！ うっかりと声をかけてしまってから、彼女の顔を見た時はぎょッとした。年を老ったもんだなあ、すっかり田舎者になっちゃって――、可哀相に――、だが、あんなオールド・ミスなんて相手に出来るもんか、さあ、早く家へ帰ろう」
雄一はひとりごとを云うと、夕闇の中へ消えて行ってしまった。
「嵐山の一夜」
笑の泉 1954.01. (昭和29年１月号) より
これはある有名な作家の二号だったという婦人の話である。
彼女は初対面の時、いきなり、
「私は人殺しをした女なんですよ」と云って私の度胆をぬき、初めて会う女同志の妙なかたくるしさを吹ッ飛ばし、相手の好奇心を自分に振り向けてから、徐ろにしゃべり出すという調子だから、彼女の語るところが果してほんとか、嘘かわからないが、その作家は彼女をモデルにしていくつかの小説を書いていた。その作品を読むと彼女の云うこともまんざら嘘でもないらしいのだ。
「私が芸者稼業にあきて、もっと手っ取り早く金のとれる商売に転向した時のことなんですがね。道楽の多い私は、いつでも金に詰ってピイピイしていたんです。何んとかしてたんまり儲けたいもの、とそればかり考えていました。それにはいい旦那をみつけることです。だから私はよく文楽座へ出かけてお客漁りをしましたよ。
その日も例によって座席を見廻わし、懐ろの温かそうな人を物色していると、いた、いた、私がかねがね狙いをつけている人が偶然、二三人のお伴を従えて来ているんです。
しめたっと思ったが、何んとしても近づけない、と云うのは、その人があまりにも有名なお上人様だったからです。それだけに私は興味があったわけなんですがねえ。
何しろ、男前がよくって、お上品で、金ばなれがいいと来ているんですから、掴まえたら大したもの、金の生る木をつかんだも同然、こんないい旦那はまたとありません。
この機会を逃したら、と、私はあるッたけの知慧をしぼっているんですから、舞台で人形が何をやっているんだか、てんで眼に入りやしないんです。
食事の時間を狙っていたんですが、家扶だの執事だのがぞろぞろ従いて来て近よれません。
私はじりじりしながら、お上人様の恰好のいい青々としたメロンのような後頭を眺めていました。あの頭を食べたらさぞおいしかろうなんて、怪しからんことを考えながら、じいッと見ていると、ふいとお上人様は座席を起ったんです。
従いて行こうとするお伴を眼で止めて、一人ですうっと廊下へ姿を消しました。
天の与えた絶好の機会とばかり、私は夢中で後を追いました。
お上人様は洗面所から出て来られましたが、御不自由なのでしょうか、少しばかり足をひいていられるのに眼をつけた私は、慌てたふりをして突き当り、衣の裾を踏んだからたまりません。お上人様はよろよろとした拍子に、裾の方をめりめりとほころばせました。
「アレ、御免遊ばしませ、とんだそそうをいたしました」
私は消えも入りたいように恐れ入って、お上人様の足下にひれ伏し、いつも用意している針に糸を通して、早速ほころびをつくろって上げたのです。
ただつくろっていたのではありません、その間に私は出来る限りの媚態をして、猫のように体をすりつけたり、あらゆる秘術をつくしました。
素知らぬ顔をしていられても、いくら生仏さまだって、それを感じない筈ばありません。
「これはまあ、たしなみのよい女子ではある。何をお礼に上げたらよいか」
ひとかたならぬお褒めを頂いたので、私はすかさず、耳に口をよせ、
「そのお礼と思召して、私と一度お会い下さいませ」
「そなたは何をしておられるお方かな？」
「私？ 私は淫売女ですの」
ズバリと云いました。
お上人様はぽッと顔を赤くして、さも耻しそうに、
「今夜九時、嵐山の××亭で待て」
云い捨てて、急に私を振り払うようにして行かれました。
私は九時きっかりに嵐山へ行きました。
私の足音を聞いて、玄関には女将と女中が三ツ指をついて出迎えました。女将が先に立って縁側から庭下駄をはいて、離れ家へ案内しました。
ところが九時半になっても、お上人様は現われないんです。一杯喰ったかな、そんな筈はない、あの時、たしかに手応えがあったから。
私はジリジリして待っていました。負けず嫌らいの私は、腹の中でこんなことを考えていました。欺したらただおくものか、淫売女だッて、芸者だッて、とどのつまりは同じ穴の狐じゃないか。
十時を打つと間もなく、忍びやかにお上人様は来て下さいました。
そして十二時近く、慌ただしく帰り支度をされながら、
「生れて初めて、私はそなたのような素晴らしい女子を見ました。今まで、ほんとの女というものを私は知らなかった」
と、深い溜息を吐き、
「だが、残念ながら、再開はかないません、どうか、私のことは忘れて下さい」
と云って、莫大の金を下さいました。
名残惜しそうに立ち去られるその後姿を私はいつまでも見送っていました。これから大阪へ帰るのも、と、その晩はそこに泊って、翌朝家へ帰りますと、長火鉢の猫板の上に走り書きの手紙がのせてありました。
「偽せものをほんとのお上人様と思い込んで手管のかぎりをつくし、私を悦ばせて下すった御好意を感謝します。それもお上人様なればこそで、これがいま世間を騒がせている××強盗だと知ったら、ペッペッと唾を吐くことでしょう。アバヨ」
注）伝聞形式での創作のような気もします。婦人は「かくれ遊び」と同一人物か。
「かくれ遊び」
笑の泉「艶笑奇談百家選第６集」 1954.06. (昭和29年６月号) より
芸者光龍こと西野百子は、（有名な作家Ｔ氏の二号だつた女）それからも毎日やって来ては、過去の経歴談をしてくれた。
「私、ウソはつきません」散々しゃべったあとで、こう云ふのが彼女の癖だった。ウソをつかないと断わる人ほど、ウソをつくものだと思っている。
「私は羽二重のおふとんに素ッ裸体でくるまつて寝るのが好きなんですよ。あの羽二重の感触！ なんとも云えない魅惑的なもんじゃありませんか。
その朝も、今帰つたばかりのＴさんの肌の匂いのこもっている羽二重の蒲団の中で、私は人魚のように体をくねらせていい気持ちになっていると、突然、ドアを激しく叩いて飛び込んで来た女があるんです。それは隣りに引越して来たばかりの新婚早々の若奥さんだったんですよ。
その頃、私は赤坂見附の近くに新らしく出来た高級アパートの、風呂附三部屋という豪華な部屋を借りていたんです。室賃が目の飛び出るほど高いんですから安月給取りなんかには住めません。
隣室の若夫婦は、奥さんのお里からの仕送りで贅沢三昧に暮らしているんです。私が新橋に出ていた頃、奥さんのお父さんのお座敷には度々よばれていたので、よく知っていました。
そんな関係で、私はすぐその奥さんと、仲好しになってしまいました。私はＴさんの来ない日は退屈しているし、新婚の奥さんというものは、旦那様の御出勤中は自分の体を持てあましているものですからね。二人は丁度いい話し相手だったんです。
「どうなすったの？ そんな蒼い顔して、奥さん、旦那様と喧嘩でもなすったの？」
奥さんはドアに鍵をかけて、私の枕許にぺたりと坐ったと思うと、しくしく泣き出してしまったんです。
「大変なことしちまったんですのよ」
私は腹ばいで、煙草をふかしながら、
「おっしゃってごらんなさいな。あなたと私との仲だもの、人に知れてわるいことなら、私、金輪際口を割りっこありませんよ。黙って泣いていたんじゃわからない、じれったいわ」
私の調子が少し強かったのでしょう。奥さんは泣きじゃくりながら、
「私、ほんとに大変なことしてしまったんですよ。取りッ返しのつかない、あ、あ、どうしたらいいんでしょう、主人にも申しわけないし」
「まさか、旦那様を殺しちまったんじゃないでしょうね？」
飛拍子もないこの質問にはさすがに驚いたと見えて、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、
「それより、もっと悪いことかも知れないの」
「人殺しより悪いことなら泥棒でもしたんですか。早く話して下さいよ」
私は面倒くさくなって、蒲団を跳ねのけ、枕もとに置いてあるお召の丹前を着て、奥さんの手をぐいと握って、
「奥さん、あなた誰かに口説かれたのね？」
「あら、どうしてわかるの？」
「人殺しでもない、泥棒でもない、御主人に申わけのないことと云えば、それくらいのことに定っているじゃありませんか。相手は誰？」
「それがわからないのよ」
「ぷッ」私は思わず吹き出しました。奥さんは私に笑われたので、憤慨したのでしょう、急にしゃべりはじめました。
「百子さん、あんた知つているでしょう？ 私の北側の窓と向い合いに二階建の家の窓のあるのを――。あすこにモダンな女が住んでいて、夕方になると綺麗にお化粧して窓から往来を眺めているのよ。ぞれが何をしているのかということがわかったのは、一昨夜のことなの。私女の顔をよく見ようと思ってね、こちらの窓の灯を消し、オペラグラスで見ていたの、すると見附の方から一人の金持らしい老紳士が通りかかってね、その窓の下まで来ると、その女はハンケチを落したんですよ、うまく紳士の足許にひらひらと。
紳士が上を見上げると、女はにいッと、それこそとろけそうな愛くるしい笑顔をして、そそうで落したハンケチを拾ってくれと云うように、首をかしげたんですよ。二人とも言葉は出さないが、しぐさで意味は通じたらしく、紳士はハンケチを拾ってその家の玄関の方へ行つたの。女は窓をぴしゃりと閉めて灯を消したわ。三十分ほどすると紳士は出て来ましたが、いつの間にか窓にはまた灯がついていて、あの女が顔を出して手を振ってるのよ。
紳士は振り返り振り返り、何処へか行ってしまったの。私は面白い遊戯だなあと思って昨夜、ちょいと真似をしてみたのよ」
「いたずら者だねえ、奥さんも」私はぽんと彼女の背中を打ちました。
「だッて、百子さん、私の大好きな映画俳優そっくりの綺麗な青年だったのよ。私の窓の方を見上げてにっこり笑ったその眼の美しさッたら、私、生れて初めて見たのよ、あんな可愛いい顔。私、どうともなれッて気がしてハンケチを投げたのよ」
「あんた、惚れたのね、その男アパートへ入って来たんでしょう？」
「見かけによらない、図々しい男だったの。いきなり私の首に抱きついて――、時計を見ると六時、主人の帰る時間でしょう？ 私、どうしたらいいかとハラハラしちゃッて、でも、その男しっかりと私を抱いていて離してくれないのよ。いいだろう？ いいだろう？ 僕今日は生憎持ち合せがないんだが――だッて」
「ウフヽヽ」
「君の方からよび込んだくせに、帰ってくれッて？ 何云ってるんだいッてね、ソファーの方へずるずる引きずって行くじゃないの。六時が鳴ったのよ。私気が狂いそうになったの、どうにもしようがないでしょう？ 帰らすには、――私、とうとう」
「浮気しちゃったッてわけね」
「そしたら、あっさりとその男帰り支度をして、明日またこの時間に来ようねッて、私の首に接吻したわ」
「それで奥さんは旦那様に悪いと心配しているのね。世の中には過失ッてことがありますよ。それから云って構わないウソ、云っていけないウソ、云わなければならないウソ、奥さんの場合はつかなければならないウソよ。ウソつきにおなんなさい。そんなことなかったとね」
「明日来たらどうしましょう？」
「私が代役をつとめるわ、その時間にあなたと入れ代りになっていましょう」
「お願い、助けてね」
手を合わせて頼むんです。
翌日、その男のノックするのを聞いた時、このあばずれの私が変に胸をドキドキさせましたよ、初めての経験なんですものね。私はドアを開けて入らせるとすぐ鍵をかけてしまいました、人違いと知って逃げると困るから。奥さんが一目惚れするのも当り前だと思いました。全くいい男でしたよ。沢山の男を知っている私でしたが、ほんとに惚れ惚れしてしまいました。私は生娘のようにぽっと顔を赤くしてオホホ‥。その日から私の恋人になってしまったんです。
半年余り主人にかくれて会いつづけていましたが、ふいに姿を見せなくなったので、どうしたのかと思っていると、ある日の新聞に、金持の叔母さんを殺して金を盗んだという、××出の青年の写真が出ていました。それがその男にそっくりだったのには驚きましたよ。え？ その男ですか？ それっきり私は会いません」
注）「嵐山の一夜」の続編だろうか。