探偵小説「艶書恐怖時代」
「富士」 1938.09. (昭和13年９月号) より
殺人艶書
柱時計が十二時を打った。
物憂さうに欠伸ばかりしてゐた事務員は、急に元氣づいて、ツト起(た)ち上り、歸支度を始めようとした時、慌しく階段を馳け上る音がして、受附の小窓から美しい女が覗き込んだ。
「倉田さん、――倉田勝吉さん、御在宅(おいで)でせうか？」
その聲は、ひどく緊張して、震へてゐた。
南洋に財源を持つといふ富豪倉田勝吉を訪ねて來る女は少なくないが、夜の十二時過ぎに、しかもこんな美人の訪問は珍らしいことだったので、事務員は思はず眼を瞠った。一寸見た時には氣がつかなかったが、彼女のうしろにはスマートな服装をした貴公子のやうな美青年が附添ってゐた。
「倉田さんですか。お在(い)でになります。」
女は急(せ)き込んで、
「お目にかゝりたいんですが、――私の名前？ ――南洋から來た者と仰(おっ)しゃれば分ります――。」
「では――、一寸、お待ち下さい。」
事務員は室内に通ずるベルを押してゐたが、一向答へがないので、
「もう、お眠(やす)みになったのかも知れませんねぇ。」と氣の毒さうに言った。
婦人は當惑したやうに、青年と二言三言話し合ってゐたが、
「お願ひです。どうしても、今夜、お會ひしないと困る事がありますの。――私達は倉田さんの親類の者ですから、――お部屋へ直かに参ってもよろしいでせう？」首を傾(かし)げて、甘えた眼をした。その眼には、どうあっても會はずには置かない、といふ強い決意のいろがありありと見えてゐた。事務員は仕方なく承知した。
「ぢゃ、まあ、行らしてごらんなさい。三階の突當りです、三百五十九號――。」
「ドアを開けて下さらないと困るから、合鍵を貸して下さいな。」
「それは一寸――、しかし、倉田さんはお眠りになる時のほかは鍵をおかけになりません。ノックされて一々開けに行くのは面倒臭いッて――、その代り鍵がかゝってゐたら、誰がノックしてもお開けになりませんから、其時は斷念(あきら)めて、明日の事になさい。」
「だって――、さうはいかないのよ。退引(のっぴき)ならない急用なんですから――。」
「しかし、合鍵をお貸しすることは出來ません。」きっぱり斷わった。
婦人は暫時(しばらく)もぢもぢしてゐたが、
「ぢゃいゝわ。駄目だったら明日の事にして、とにかくお部屋へ行って見ますから――。」
「どうぞ。」
二人は廊下を走り、手を繋がないばかりにして、階段を昇って行った。
事務員は歸ることも出來ず、彼方此方歩きながら、彼女等の戻って來るのを待ってゐたが、十分たってもニ十分たっても姿を見せないので、じりじりして時計を睨み思はず舌打ちした時、二人は階段を、まるで轉がるやうにかけ降りて來た。
「た、たいへんです。」
いきなり、婦人は事務員に縋りついた。彼は驚いて飛び退りざまきっとなった。同時に婦人の右手に握られてゐる短刀を見た時は、二度吃驚した。
婦人は血の氣を失った唇を震はしながら、
「大變です。倉田さんが――。」
美青年がその後を引取って、
「倉田さんが死んぢゃってゐます。」
事務員はサッと顏色を變へ、短刀へ嚴しい眼をそゝいで、彼女をぢろりと見た。それと氣がつくとハッとして、婦人は慌てゝ短刀を鞘に納め、懐中した。
取り敢へず、事務員は二人を伴って、三階へ急行した。
倉田勝吉の部屋はドアが開け放しになってゐて、派手な模様のバッスロープを着た姿が直ぐ眼に入った。彼は机の前の廻轉椅子に腰かけ、がっくりと首を垂れて、讀みかけの手紙が膝の上にあった。
事務員は氣を落ちつけようとつとめながら、
「倉田さん、――どうなさいました？」と云ったが、無論返事はなかった。横顏をそっと覗いてみると思はずゾッとした。一面に赤い斑點が出て、口を歪め、顏はいびつけになり、恐しい形相をしてゐた。これがあのモダンな、立派な容貌の倉田勝吉とは、思へない位だった。
やがて、支配人が馳けつける、急報に接した警視廰からは係長始め一同どやどやと入って來る。
検屍の結果、最初自殺と思はれてゐた彼の死が他殺と分り、それが計畫的に行はれたものとまで判明すると、ホテルの内は忽ち騒然となり、滞在客は戰慄した。
彼の生命を奪ったのは、實にこの讀みかけの艶書であった。紙は上等の奉書に花模様を描いた古風なもので、それにはこんな文字が書かれてあった。
「いとしき、あゝ、愛しき君のお姿を夢にみて、眼を覺ましました。あまりのお懐しさに筆をとります。たったいま、お別れしたばかりですのに、もうこの戀しさ、私といふ女は一體まあどうしてしまったのでせう――。」
手紙は一メートルもあるが、大部分は白紙であった。書かれてある文字も普通の墨やインクではなく、あぶり出しであった。床の上には幾本もの燃えさしたマッチの棒が落ちてゐた。マッチの熱であぶって文字を出して讀み進んで行くうちに絶命したものと思はれる。
巻紙に染み込ませてあったある種の藥品は、適當の温度によって猛烈なる窒息性瓦斯を生じたものであった。顏面及び頸部、兩手など露出した皮膚は赤く腐爛して水泡疹を生じ、粘膜を侵蝕してゐる點等が、毒瓦斯中毒であることを如實に語ってゐた。
艶書は舊式な文句をつらねた他愛のないものだが、殘りの白紙が疑問だった。或はそこに何か重大な秘密がかくされてゐるのではあるまいか。
刑事が早速マスクをかけ、次を炙り出してみた、が、一字も出なかった。すると艶書はただ殺害を目的で書かれたもので、最初からあれだけの文字で充分希望を達し得るものと豫測されてゐたのだらう。
事務員は参考人として召喚された。最初の發見者である美婦人及び美青年、殊に美婦人の方は短刀所持の疑ひがかけられ、二人は其場から連行されることになった。
それを聞くと美青年は急に恐しさうに身震ひして、ハンケチを顏に押し當てゝしくしく泣き出した。婦人は寄り添って肩に手をかけ、頬を觸れるばかりに近づけて、
「落ちついて――、興奮しちゃ駄目よ。心配しないでゐらっしゃい、私がついてゐるぢゃないの。」
美青年は駄々ッ子のやうに首を振ったかと思ふと、急に屹となって四邊(あたり)を見廻はし、
「だって恐いんだもの。さッちゃん、早く、――早く、逃げよう。」妙に眼がすわり、ゾッとするやうな凄い顏をした。
婦人は美青年の手首を力一杯ぐッと握りしめて、
「大丈夫よ、お姉さん！ しっかりして――、安心してゐらっしゃい。」
一人の刑事はつかつかと傍へ寄って、眼を丸るくした。
「何んだ、貴様、男装なんかして、――女だッたのか？」
「えゝ、私のお姉さんですわ。」美婦人は刑事の顏を見上げてにっこりした。
美貌の姉妹
司法主任の前に立った時には、勝氣でてきぱき物を云ふ妹よりも、男装の姉の方が餘程女らしく見えた。彼女は泣きはらした眼を伏せて、肩を落し、五分刈頭が不似合ひのやうなしほらしさだった。病み上りかと思はれる程痛々しく痩せて、面痩れがしてゐるが、眼鼻立ちは妹とそっくりで、二人とも稀れにみる美しい女だった。
「名は何といふ？」
姉がもぢもぢしてゐるので、妹が代って答へた。
「松島あやめ。」
「君は？」
「さつき。」
「年齢(とし)は？」
「姉が二十七、私が二十五でござます。」
「倉田勝吉の親類ださうだな。どういふ縁つづきになるんだ？」
さつきはちらりと司法主任の方を見たが、それなり下を向いてしまって、ぎゅッと下唇を噛んだなりで、答へない。
「叔父さんか？」
やっぱり默ってゐる。姉はきょとんとして、虚のやうな眼で空を見詰め、主任の言葉も一向耳に入らない様子だった。
主任は言葉を柔げ、やさしく云った。
「君達が最初あの部屋へ入った時の模様を、委しく話してくれ給へ。」
やゝ沈默の後、妹ははっきりとした語調で答へた。
「姉さんも、私も、あの時は夢中でした。すっかりはりきってゐたので、もし倉田さんがドアを開けるのを躊躇したら、窓を破っても入ってやらうといふ決心だったんです。二三度ノックしましたが、返事がない。ハンドルを廻はすと難なく開きましたので「御免下さい」と云ひながら、私が先へ入りましたが、お部屋の中は薄暗く、倉田さんが俯向いてゐる後姿が見えたので、てっきり居眠りしてゐるのだと思ひ、忍び足で近づき、顏を覗いてみると吃驚しちゃったんですの。」
「室内に入った時、何か變ったことはなかったかね？」
「？」
「たとへば、物音を聞いたとか、怪しい人影を見たとか――。」
「いゝえ。妙にしいんとしてゐました。ドアを開けた瞬間、プンといやな臭ひがしましたわ。」
「どんな臭ひ？」
「藥のやうな、蒜(にんにく)のやうな――。」
「ふだん、にんにくでも食べてるのぢゃないか？」
妹は姉の方を見た。あやめは急に乗り出すやうになって答へた。
「倉田さんはあゝいふ臭ひが大嫌ひで、葱類は食べませんでしたわ。一緒に食事に行っても、支那料理や洋食だと、葱の入ったものが多いでせう？ 倉田さんは一々丁寧にそれを取りのけて食べてゐましたもの。だからにんにくなんか食べるもんですか。」
「どういう用件で、君達はあんな時間に訪問したんだね？」
姉妹は顏を見合せて、少時默ってゐたが、やがてさつきは溜息を吐きながら、
「その用件も――、倉田さんが亡くなったんで、おしまひになってしまひました。」
「何の爲めに短刀まで持って出かけたんだ？」
さつきは卓上の短刀を横眼でちらりと見て、眼を伏せながら、きっぱりと云った。
「眞劍だったからです。それに先の出ようによっちゃ、短刀の必要があると思ひました。――あんな惡い人、何するか知れませんもの。」
「すると、護身用に持って行ったといふわけだな。」
「いゝえ、違ひます。倉田さんを殺す積りだったんです。憎い人！ 倉田さんは私達の敵(かたき)です。私達の手で殺してやりたかったのに――、一足違ひで死なれてしまって、――ほんとに殘念なことをしました。」
ずばずば云ってのける妹を、姉ははらはらしてゐるかと思ふと、忽ちけろりとして、自分には全然無關係の事のやうな顏をして見てゐる様子が、どうみても正氣の人とは思はれなかった。
その時、急遽(あはたゞ)しく電話のベルが鳴った。室を出たり入ったりしてゐた一人の刑事は、受話器をとって耳に當てゝゐたが、
「何ッ？ 殺人艶書だって？」と、驚いて訊き返し、主任の方へ振り向いて言ふのだった。
「またやられました」
「誰が？」
「玉澤傳三。」
「本田の玉澤腦病院長だな？」
「さうです。玉澤病院では昨夜、患者の一人が逃亡したのを今朝發見し、大騒ぎだったんです。その爲め何時になく院長も早く出勤し、一應報告を聞いてから院長室に入ったが、それぎり出て來ない。回診時間になって婦長が迎へに行くと、院長は手紙を讀みながら死んでゐた、といふのです。文句から、封筒、卷紙まで、すべて倉田の時と同様ださうです。」
「手紙はどうして届いたんだ？ 郵便？ 使の者か？」
「澤山の郵便物に交って届いたのださうです。看護婦の一人は他の郵便物と一緒に、それを院長の机の上に置いたと云ひます。」
じっとその話を聞いてゐたさつきは、思はず姉の手を握りしめて、
「あゝ、嬉しい！」と叫んだ。
主任はその一言に、澤山の意味がふくまれてゐるやうに感じた。
「何がそんなに嬉しいんだ？」
「敵を討たうと思ってゐる人を、私達に代って、やっつけてくれる人があるからですわ。倉田さんといひ、院長といひ、惡人はどんどん滅びてゆく、有難い事だわ。」さつきは眼に涙さへ浮べてゐるのだった。
「艶書を送る人を、君達は知ってゐるんだな？」
「いゝえ。知りません。私も知りたいとは思ふんですけれど、――恩人ですものねぇ。」
「どうして？」
「私は倉田さんを殺したら、今度は院長をやッつける積りでした。」
と涙を頬に傳はらせ、
「私はこの世に肉親といふものは、このお姉さんきりしかないんです。――その大切な、命よりも大切なお姉さんの一生をだいなしにしたのは、あの倉田さんなんです。その上にいまは精神までめちゃめちゃにされてしまひました。こゝにゐるお姉さんは容貌だけは僅に昔の俤を殘してゐますが、魂はもぬけの殻で、以前のお姉さんではありません。時々は正氣に戻りますが――、御覧の通りの狂人にしたのは、あの憎い院長です。お姉さんはあの惡漢達に肉體も精神も打毀され、親から譲られた財産まで奪はれてしまったんです。」
と、さつきは意外な話を語り始めた。
折柄、ラヂオニュースの時間だった。艶書恐怖時代出現！ と、倉田勝吉及び玉澤院長殺害の報告をしてゐるアナウンサーの聲が、何となく皮肉な調子を帶びてゐるやうに、主任の耳に響いた。
消えたあやめ
松島あやめが、南洋歸りの富豪倉田勝吉を知ったのは、恰度今から三年前、觀光團歡迎會が、帝都ホテルに開催された時で、二人の間に婚約が成立したのはそれから間もなくであった。
その夜、妹さつきもさる青年外人を紹介され互ひに熱烈に愛し合ふやうになって、その年の秋には結婚の爲め青年の故國アメリカへ手を携へて行ってしまった。
觀光團歡迎會は、美しい松島姉妹の縁組みをするために催されたやうなものだ、と、失戀した人々は噂した。
ところが、年内には盛大な結婚式を擧げる筈であった姉のあやめから、意外な手紙を受撮ったのは、さつきが渡米後二ヶ月の後であった。
「さッちゃん！
この間のお手紙を拝見して、貴女がたの樂しい幸福な御生活ぶりが眼に見えるやうでした。ほんとにお羨しいこと！ それに引換へ、私の方はまだ結婚する運びになりません。早く式を挙げたい、と、倉田さんは口癖のやうに云ってはゐます。けれどいろいろ事情があって、はっきりと日が定められない様子なのです。
先日こんな事がありました。突然、南洋から店の支配人がやって來て、事業擴張に金が入用だと申すのです。私もその人に紹介されましたが、その爲め急に金策をしなければならなくなり、倉田さんは氣の毒な程心配し、日夜東西に奔走してゐました、が、急な事なので思ふやうに出來ないのです。それさへ出來たら、直ぐ式を擧げて、新婚旅行をかね事業の成績を視に南洋に行かねばならないと申します。
倉田さんと結婚すれば私の財産はどうせ二人の所有、同じ事ならあの人が困ってゐる時渡して上げた方がいゝと思ひ、お父様のお遺産の大部分である株券を渡して上げました。
倉田さんは涙を流して感謝しました。あの人の喜びは私の喜びっですから、別段それについて後悔はしてゐませんが、どういふ理か、それぎり結婚問題は全く口にしなくなったのです。私の方でばかりやいやい云ふのも厭だし、それかと云って、默ってゐれば、あの人はまるで忘れたやうな顏をしてゐるので、私は内心やきもきしてゐます。でも、まだそれだけの事なら我慢もしてゐますが、少し妙な事があったのです。
先々週の事、私は倉田さんに會ふ約束で、ホテルに訪ねて行くと、不在なのです。仕方なく部屋で待ってゐました。
餘り退屈だったので、何の氣なしに机の抽斗を開けてみてゐるうちに、ノートの間にはさんであった手紙を發見しました。それは優しい女文字で、中身には、
「昨紙御掲載の廣告拝見いたしました。共同事業といふのはどういふ種類のものでせうか。委しい事をお話下さい。その上で出費の御相談も致しませう。――親類の者達に異存なくとも、私自身の都合でどうしても結婚は一ヶ年後に願ひ度いのでございます。それをおふくみの上で御面會願ひます。場所と日と時間お知らせ下さいませ」と、まあ、こんなことが書いてあったんですよ。變な手紙だと思ってゐると、その時、誰かドアを輕くノックしてゐるのを聞きました。
開けてみると、素晴らしい立派な洋装の婦人が立ってゐるぢゃありませんか。餘り若くはありませんが厚化粧して、指には大きなダイヤを光らせてゐました。女の人は妙な顏をして、疑るやうに私をじろじろ、冷めたい眼で見下してゐましたが、「お約束の場所でお待ちしてゐましたけれど、お出でがないので歸りました、と、御主人にお傳へ下さい」と云ひ、つんとして出て行きました。
それと入れ違ひに倉田さんが歸りましたので、その話をすると、血相變へて後を追って飛び出しました。
その日から、倉田さんの私に對する態度は一變してしまったのです――。」
姉の手紙を讀んでゐるうちに、さつきはいやな豫感がした。温順(おとな)しいあやめは、倉田の手に操られ、踊らされてゐるとしか思はれなかった。
しかし、次ぎの便りの時にはまた打って變って、倉田との甘い戀を語ってゐるのだった。さつきは一杯喰はされたやうな腹立たしさを感じた。
手紙が來る度に、胸を傷めたり、馬鹿々々しくなったりしてゐるうちに、
「さッちゃん！
遂々私は行くところまで行ってしまひました。あなたは嘸ぞこの姉を不甲斐ない、馬鹿な女だと思ふでせう、しかし、いまの私はたとへ倉田さんから、どんな酷いめに會はされても別れる氣にはなれません。
あの人の事についてはちょいちょい不愉快な噂を耳にします。美貌を餌に女を釣るとか、甚だしいのになると結婚魔だなどと云ふ人もありますが、私はそれ等の惡評は耳を覆うて一切聞かないやうにしてゐます。私達の愛をそんな口さがない者達の惡口で汚されないやうにと思って――。」
さつきはその後幾度も手紙を出したが、一度も返事をくれなかった。出した手紙が戻って來ないところを見ると、姉の手許に届くには違ひない。それだのに葉書一枚よこさないのを、不審に思ったり、大病でもしてゐるのではないかと案じられたりした。
彼女の頭には寝てもさめてもあやめの事が離れなかった。友達に問ひ合せてみたが不得要領で、委しい消息を知る者は一人もなかった。それがまた不安の種となった。
心にかゝりながら、遠く離れてゐるのでどうにも仕様がなく、一年二年と經つうちにさつきの身にまた思ひがけない不幸が起った、それは夫が急性肺炎で急逝したことであった。異郷に一人殘された彼女は俄かに日本が戀しくなり、あやめの身が一層心配になりだしたので、葬式をすますと早速荷物をまとめて引き揚げてしまった。
歸朝第一日から、さつきはあやめを捜し始めたが、行方は皆目わからなかった。
倉田勝吉をホテルに訪ねてみたが、一年程前に南洋へ歸ったとのことであった。
仕方なく、心當りを片端から訊いて歩いた。あやめの親友の一人は、彼女は結婚して南洋にゐるものだと思ってゐたし、他の一人はいくら手紙を出しても返事をくれないと怒ってゐた。
さつきは姉の性質として、他人に不義理をするやうな筈はないと思った。これには何か深い事情があるに相違ない、親友にも打ち開けられない。親身の妹にさへ話せない秘密、多分その爲めに身をかくしてゐるのだらうが、その秘密は一體何だらう。
あの氣の弱い、温順(おとな)しい姉が、それ程の秘密を一人胸に秘めて、悶え苦しんでゐるのかと思ふと可哀想で堪らなくなる。
何とかして捜し出して會ひたいものだ、どんな秘密だって、妹に話せない事はない筈だ。
捜査願ひを出してみたらよからう、と、言ってくれる人もあったが、一生懸命になってかくれてゐる姉を、警官の手で探し出すのも哀れなやうな氣がして、捜査願ひを出す氣になれなかった。
「私ひとりで捜さう、屹度捜し出してみせる。」
と、さつきは意外な話を語り始めた。さつきは自分に言って聞かせるやうに云って、我と我心を慰め励ましては、毎日あてどもなく市中を尋ね歩いた。
狂人創造
さつきはまるで勤人のやうに朝食をすませると出かけ、日暮れに戻った。捜し始めてから十日になるが、姉の居所は勿論消息さへも全然分らなかった。
「尋ね人」と新聞に廣告を出し、謝禮金まで書いてみたが、一向手答へがない。
疲れきった足を引ずりながら、新宿驛附近を歩いてゐる時、ふと、振り返ると、二三間後から帽子の縁に濃い色のヴェールをつけた洋装婦人が來るのを見た。ヴェールの色と鼠色の眼鏡とに見覺えがあったので、オヤ、と思った。何故ならこの女を今日は三度も見たからであった。地下鐵のプラットフォームで後向きを、銀座の三越で横向きを、今はまた俯向いてゐるところを、しかし、三度とも正面から見ないのでよく分らないが、すらりとした美しさうな女だった。
同じ日の中に場所を異にして、同じ人に三度も出遇ふのは一寸不思議だ、ことに妙に思はれるのはどうやら自分を尾けてゐるらしい事だった。試めしに歩みを緩めると先方も靜かな歩調になる。急げば矢張り足を早める。
さつきは薄氣味惡るくなり、突然、身を轉じて雑沓の中へまぎれ込み、裏通りへ抜けて細い道を無茶苦茶に曲り曲って、さて、振り返ってみると、もう女の姿は見えなかった。
歸宅したのは何時になくおくれて、午後九時頃だった。
「あゝ、くたびれた！」
受附で鍵を貰らはうとすると、女事務員は怪訝な顏をして云った。
「あら。今しがたお渡したぢゃありませんか。」
「だって、私、いま、歸って來たばかりよ。」
「變ですね。たしかに差上げましたが――。」
「私にですか？」
「えゝ。――あの時、迚もごたごたしてゐたのでお顏は見ませんでしたが、お聲はたしかに貴女でしたよ。」と云って、机の抽斗を調べ、
「ありません。矢張り私の思ひ違ひぢゃない、貴女にお渡したんですね。」
女事務員は鍵束の中から一つの合鍵をさがして貸してくれた。
部屋に入り、急いでスヰッチを捻ったが、電燈は點かなかった。どうしたのだらうと思ってゐると、突然、暗い中から蚊の鳴くやうな細い聲がした。
「さつきさん、どうぞ、その儘で――、私にお會ひ下さいましな。」
ギョッとして、聲のする方を透したが姿は見えない。が、たしかに女の聲だ。彼女の頭には直ぐヴェールの婦人が浮んだ。
さつきは勇気を出して云った。
「どなたですか？」場合によったらベルを押して人を喚ぼうと手探りでボタンの近くへ手を延ばすと、同時に冷たい、妙にひいやりとして掌が、彼女の手の甲をそッと押へた。
「止して、下さい。私は決して貴女に危害を加へる者ではありません。寧ろ、味方です。さつきさん、貴女の捜してゐる方の消息を知らせに來て上げた私の親切を、裏切るやうな眞似はなさらないでせうねぇ。」
「そんな事はしませんが、一體貴女はどなたなんですか。」
「それが云へないんです。從って顏も姿もお見せすることが出來ません。暗闇の婦人とでもして置きませう。」
「受附で合鍵を受取ったのは貴女ですね？」
二三分間沈默が續いた後、
「――暗闇に眼が馴れると段々見えて來るものですね、失禮ですが――。」
突然、さつきは眼かくしをされた。思はず聲を立てやうとすると、冷めたい手で唇を押へられた。相手はどうやら自分を知ってゐるらしいのに、此方は顏も姿も見ずに暗中で對坐するのは少し無氣味だった。が、姉の消息を知らせてくれるといふのだから、辛棒してゐようと、さつきは彼女のなすまゝに身をまかせた。眼かくしを外すといけないとでも思ったのだろう、兩手まで縛ってしまった。
「さア、早く教へて下さい。貴女はどうして姉の事を御存じです。お友達ですか？」
「そんなことはどうでもいゝ。貴女の知りたいのはお姉さんのゐられる所でせう？」
「無論然うですが、――一體生きてゐるんでせうか？ 私は此頃時々、姉はもう此世にゐないのぢゃないかと思ふやうになりました。」
「お察しいたします。だが――、御安心なさい。お姉さんは――。」
「姉は？」疊みかけるやうに訊いた。
「お亡くなりにはなりません。」
「では何處に居ります。早く教へて下さい。」
「教へて上げようと思へばこそ――、まあ、落付いて――、慌てると失敗しますよ。」
さつきは首肯(うなづ)いた。暗闇の婦人は少時無言だったが、その息づかひの荒いのを見ると、彼女も少なからず興奮してゐるらしかった。
「驚いちゃいけませんよ。あやめさんは生きながら、此世の外に葬られてゐらっしゃるんです。」
「誰かに監禁されてゐるんですか？」
「ある私立腦病院の一室に兇暴性の發狂者として閉ぢ込められてゐらっしゃいます。」
「えッ？ 何？ 氣狂ひですって？」
「しかし、今はもうほんとの狂人同様になっておしまひになりました。それは院長達の奸計、いや、狂人創造によってですが――。」
狂人創造によって姉が狂人になった、そんな馬鹿なことがあってたまるものか。さつきはこの婦人の云ふことが無性に腹立しくなった。
「そんなこと、――私には信じられません。貴女は一體何者ですか？ 私を愚弄(からか)ふ積りでこんなお芝居をなさるんですか？ 手を縛ったり、眼かくしをしたりして――、私は命がけで姉を捜してゐるんです。有閑婦人の惡遊戯(わるふざけ)のお相手をしてはゐられません。さア、どうぞお歸り下さい。そんな馬鹿々々しい話を聞いてゐる暇はありません。さっさとこの部屋を出て行って下さい。愚図々々してゐるとボーイを喚んで、警官の手に渡しますよ。ほんとに――、貴女こそ狂人だ！」
「まあ、そんなに怒らないで下さい。お信じになれないのも無理はありませんが、落付いて――、おしまひまで聞いて下さい。」
「早く仰しゃい。謎のやうな話は御免です。ある私立病院なんて云はないで、何處の何々病院とはっきり云って下さい。私は直ぐ飛んで行って姉を連れ出します。私の手で出來なければ警察の力を借ります。――私の姉が氣狂ひなんかなるもんですか。あんな温順(おとな)しい、靜かな人が――。」
「落ちついて下さい。」
暗闇の婦人は優しくさつきの肩に手を置いた。
「始めから話しませう。それでないとお分りにならないでせうから。――あやめさんは倉田勝吉に誘惑され、全財産を奪はれた上に、結婚すると欺かれ、遂に妊娠されたのです。それと聞いて狼狽した倉田さんは親友、――といふよりは寧ろ共謀(ぐる)と云った方がいゝでせう――本田の玉澤腦病院長と相談した上、健康診斷といふ事で病院に連れ込み、そこで狂人創造の手術をされたのです。麻酔から醒めて、始めてそれを知ったあやめさんは、狂氣のやうに泣き叫び暴れ狂ったので、事情を知らない看護員共はほんとの狂人だと思ひ込んだのです。」
さつきは憤怒に身を慄はせた。
「倉田さんは莫大な金を院長に與へ半永久の入院料を前納しました。無論そのお金はあやめさんから搾り取ったものの一部分でせうが――。」
全身の血が頭へ逆行するやうに感じ、さつきは身を悶えた。
「二三日するとあやめさんはすっかり氣が落付いて、どう見ても普通人になりました。院長はうろたへ、早速狂人創造に取りかゝり、赤い部屋へと移しました。赤い部屋といふのは、天井も壁も赤く塗られ、敷物も眞赤、カーテンも眞赤、電球も赤、何處も彼處も眼に入るものは皆赤いのです。その部屋へ入っただけでも興奮してしまひます。院長の命令を受けた看護員は好いお天氣の日には「また雨ですね」と申します。あやめさんは「あら、いゝ天氣ぢゃありませんか」と笑ひます。雨降りにはそれと反對のことを云ひます。
最初のうちは笑ってゐたあやめさんも、遂ひには自分が間違ってゐるのぢゃないかと我と我眼を疑ひます。そこで自分は狂人だと思はれないやうにと、故意(わざ)と今度は反對を云ふやうになりました。何しろ右を見ても左を見ても、みんな狂人ばかりです。その中で始終間違った事ばかり聞かされる、たまったものぢゃありません。そのうちに錯覺を起して、自分でも何が何だか分らなくなったのです。斯うしてあやめさんは院長及び倉田さんの希望通りの立派な腦病患者に出來上ってしまひました。」
「紳士の假面を被った惡黨！」さつきは齒ぎしりした。
「紳士ではありません。倉田さんは結婚魔です。南洋に財産を持ってゐるなどとは眞赤な嘘、財源は結婚魔に操られてゐる婦人の懐中(ふところ)です。それをまた搾るのが玉澤院長です。」
「有難う、よく教へて下さいました。では――、私はこれから直ぐ行って、一刻も早く地獄にゐる姉を救ひ出して來ます。」
「さア。その事ですがね、なかなか嚴重で、玄關から面會を求めても駄目です。私が一足先へ行ってうまく手引きして上げますから、一時間程したらお出かけなさい。」
暗闇の婦人は例のひいやりした手で、さつきの兩手のいましめを解き、
「では私はこれでお暇します。病院の裏門の塀のところで待ってゐます。私を見たら言葉をかけずに無言でついていらっしゃい、感付かれたら大變、もう再度(にど)と連れ出す機會はつくれません。それに――、今のあやめさんは誰が見ても正氣の人とは思へないし――。」
「ほんとに狂人になっちゃったんですか？」
「すっかり心が落ち付いたらもとのあやめさんに戻られるでせう。しかし、いま、その心配は無用です。黨面の問題は連れ出すことだけです。」と云ひながら、眼かくしを外してくれた。餘り嚴しく縛ってあったので、さつきはぼッとして、少時兩眼を押へてゐた。眼を開いた時にはもう暗闇の婦人の姿はなかった。
スヰッチを捻っても電燈が點かない筈だった。電球は取りはづして机上に載せてあった。
赤づくめの部屋
一時間がまるで一日の長さだった。さつきの胸は憤りに燃えてゐた。
「どうしてやらう、倉田！ 憎い倉田！」
それにしても、あの親切な暗闇の婦人は何者だらう？ 向ふの廻し者ではあるまいか。妹もついでに病院へ叩き込まうといふ計略かも分らない、油斷はならぬ、名も語らず、顏も見せず、聲だけしか聞かせないところに何かたくらみがありさうだ。
萬一の用意に短刀を懐中して出かけた。
圓タクを拾ひ、本田の玉澤病院へと、驀地(まっしぐら)に走らせた。
約束に違はず、裏門の塀には暗闇の婦人が待ってゐた。さつきは彼女の後に從(つ)いて行った。やがて、一つの入口の前で止り、婦人は無言でドアを指差し、あやめの部屋だといふ意味の合圖をした。姉に會へる！ と思ふと急に胸がわくわくして、嬉しいやうな、悲しいやうな、妙に恐いやうな氣さへするのだった。
思ひ切って、ドアに手をかけ颯っと開けた。何といふ無氣味な赤い部屋だらう。血の色をした電燈に照らされたあやめは、見るも哀れに痩せ衰へ、殊に短く刈込まれた男のやうな頭髪が、先づさつきの涙をそゝった。
「お姉さん！」と云ふなり、縋りついて聲を呑んだ。あやめは驚いて、きょとんとしてゐたが、何を思ったか猛然と起ち上り、恐しい強い力で突き退け、逃げ出さうとした。
暗闇の婦人はドアの蔭から、しきりに、早く逃げろといふ身振りをしてゐる。さつきはもう愚図々々してはゐられなかった。有無を云はせず姉を引張って、今來た道へ引返し、どんどん逃げ出した。後を追って來た婦人は何やら大きな風呂敷包みを渡し、
「倉田さんは大東京ホテルの三百五十九號にゐます。」と云ふかと思ふと何處かへ行ってしまった。風呂敷包みの中には洋服が入ってゐた。成程、あやめは赤い袋のやうなものを着せられてゐた。こんな風では外へ出られはしない。いそいで着換へさせてみると、それは男の着る背廣服だった。
あやめはすっかりおとなしくなり、さつきのなすがまゝになってゐた。妹に會ったのが嬉しいのやら、悲しいのやら、さっぱり分らない。たゞ時々正氣に立ち返るのではなかと思はれるのは、じっとさつきの顏を見て涙ぐむことであった。彼女はこれを夢だと思ってゐるのではあるまいか。待たせて置いた圓タクに乗ると、さつきはあやめの肩を抱いてむせび泣いた。
「お姉さん、お姉さん！」
「さっちゃん。」はじめて姉は口をきいた。
「分って？ 分ったの？ お姉さん、あゝ嬉しい！ 私、どんなに會ひたかったか――。」
「さつきちゃん、何処へ行くの？」
「倉田さんのところへ行くのよ。」
倉田といふ言葉でハッと我に返ったやうだったが、その嬉しさうな笑顔を見た時、さつきは云ひやうのない腹立しさを覺えた。
「お姉さん、私達敵を討ちに行くんだわよ。倉田の奴、憎いあんな奴は、ほんとに――、殺してもたりないんだ。」
あやめはべそをかくやうな表情をした、さつきは姉を引っぱたいてやりたかった。
暗闇の婦人
「ホテルへ來て、倉田さんを訪ねてから後の事は、もうご存じでございませう。」
さつきの語り終るのを待って、司法主任が言った。
「君達の話はそれでよく分ったが、艶書を送った人とは全然關係がないんだな。して、その暗闇の婦人といふのは？」と云ひかけてゐるところへ、刑事が入って來て名刺を示し、
「この婦人が至急お目にかゝりたいと云って先刻から待ってゐます。何か重大な秘密をお知らせしたいとのことです。」
司法主任は名刺を取り上げた。それには藥劑師梅村美佐子とあった。
「とにかく、直ぐ會ってみよう。」
青褪めた婦人が刑事に伴はれて入って來た。さつきは何氣なく顏を見合せると思わずハッとした。それは倉田の以前の愛人で、あやめの戀敵であった。言葉こそかはしたことはないが、お互ひによく知ってゐた。それにもう一つ驚いたのは、それが昨日三度も出遭ったヴェールの婦人であったことである。
婦人は危ぶなかしい足どりでよろめきながら主任の前に進み、
「艶書を送りました犯人をお知らせいたします。」
と云ひながら、懐中から一通の書面を出して主任の前に置いた、と、思ふと、俄かに崩折れるやうに前にのめり、苦悶を始めた。
刑事達が彼女を取り卷いて騒いでゐる間に、司法主任は封をきって眼を通した。
「倉田勝吉及び玉澤院長に殺人艶書を送ったのは私でございます。
結婚魔倉田勝吉の毒牙にかゝった被害者の一人である私は、彼を遠くから監視する爲めに、變名變装し、玉澤病院の藥局に今日まで働いて居りました。
倉田勝吉に誘惑されて發狂した婦人、自殺した婦人は何人あるか分りませんが、彼は名譽を重んずる上流婦人を相手にしてゐるので、その犯罪は餘り多く表面に現はれなかったのでございます。
玉澤院長は倉田の手におへなくなった者を料理する役目です。そしてまた新らしい計畫として狂人創造を始めました。第一の犠牲者は松島あやめさんでした。あやめさんは私にとっては憎い女、倉田さんの愛を奪った人でしたが、今の私はもうそんな事はどうでもよかったのです。女全體の味方になって、あゝいふ惡い人は滅ぼしてしまはなければならないと考へました。
氣の弱い、温順しいあやめさんは散々酷いめにあった揚句、最後には狂人として葬り去られようとしてゐます。私は迚もそれを見てゐられませんでした。何とかして救ひ度いと機會を狙ってゐると、妹のさつきさんが姉の行方を捜してゐると聞きました。さつきさんの歸朝に狼狽した倉田さんと院長は彼女籠絡の手段を相談してゐるのを知り、もう一刻も猶豫する場合でないと思ひ、三日間さつきさんの後を尾けましたが話かける機會がありませんでした。
そこで非常手段をとり、思ひ切って室内に忍び入りました。私の一番怖れたのは、顏を見られることでした。私と知ったら、あの方は迚もこの話を信じてはくれまいと思ったからです。
倉田さんを殺した理由は、この人を生かして置いては、この先幾人の婦人が毒牙にかゝるか分らない、多くの女の爲めに、私一人が犠牲になって、彼を此社會から完全に抹殺しなければならないと考へましたからです。
惡い人間ではありましたが、私はやっぱりあの人を思ひ切ることは出來ませんでした。どうせ生かして置けないやうな人なら、私の手で殺して一緒に死なう、せめて、皆の魂を、しっかりと胸に抱きしめて、私は此世を去りたかったのでございます。
玉澤院長の如きは社會の爲めに當然一掃されなければならない人ですから、死んで行く私がついでに始末をしたまでのことでございます。」
主任が讀み終ると殆ど同時に、梅村美佐子は息を引取った。 （をはり）
随筆「猫と犬」
「新探偵小説」 1947.07. (昭和22年７月号) より
強盗だ、殺人だ、追剥だ、恐しい世相だ、と毎日のやうに新聞に出てゐるのを讀んでも、それはみんな遠いところの話に思へて一向感じなかった私も、知り合ひの家に何人組の覆面強盗が押し入り何萬圓の現金を奪はれたとか、近所に追剥が出て被害者は肩をきられ血に染って倒れてゐたと見て來た人の話を聞くと、流石に危險が迫ってゐるやうに感じる。
いざといふ時には何の役に立たない女ばかりの家なので戸締りでも嚴重にするより他に思案もなかった。犬でも飼ったらとすゝめてくれる人もあったが、犬では散々手古摺って苦い經驗を持ってゐる。それにこゝの家には猫が三疋ゐる、ユキ、スミ、ユリとよんでそれぞれ美しい利口な猫であった。
ある晩、スミちゃんとユリちゃんがいつになく私の枕許に來てしきりに鳴くので眠入る事が出來ない。何か食べたいのかと御飯をあてがっても見向きもしない。私が起きてさへゐれば滿足らしく自分の體をなめたりしてゐる。電氣を消して床に入りうとうとするとまたまた鳴きはじめる。電氣を點けたり消したり十回もやった揚句、免倒臭くなり一層のこと起きちまへっと着物を着換へた。すると猫はそのまゝ私の蒲團の中へすっともぐり込んで眠ってしまった。
夜が明けたので、寝不足の眼をこすり私は座敷の掃除をしてゐると、庭を掃いてゐた妹が、垣根よりの庭の隅にしたゝか穢いものがしてある。昨夜何か來たのではないでせいか、と云ふ。
私も庭下駄を突っかけて出て見ると、なるほどとうなづかれた。巨人を想はせる大量のものであった。家人に眼を覺まされないやうにと、泥棒がよくやるといふおまじなひだ。それにしても効めがなかったもの、眼を覺まされないやうにどころではなく、私は夜中起きてゐたのだった。泥棒のおまじなひがたうたう猫に負けたわけである。
その事を人に話したら、猫は鼠を捕るばかりでなく、泥棒も教へますよと云った。それにお宅のユリちゃんの尻尾がこれでせう？ と、その人は人差指を曲げて見せた。人差指を曲げるのは手癖の惡いといふことかと思ってゐたらこの場合は鍵を意味し、猫の尻尾の曲ってゐるのは泥棒除けになるさうだ。だからユリちゃんがゐればお宅には泥棒は入りませんと云った。
この頃の暮らしにくい世の中では一家を背負ってゐる人は二ヶ所位の勤め口を持ってかけ持ちでなければ食べてゆけない。そのせち辛いのも人間社會ばかりではなく、猫も鼠を捕るだけの能では足りず泥棒の用心までもやらねばならぬ、つまりかけ持ちだ。すると本職の犬の方はどうなるのだらう？ 敵同志の猫に職場まで喰ひ込まれては大食の犬族の生活難はますます深刻を加へるばかりだ。それは果して犬ばかりであらうか。
かけ持ちどころか一ヶ所のつとめも出來ず、商賣も駄目ヤミやにもなれず、それかと云って死にきれもせぬ私などの運命が恰度この犬の場合によく似てゐる様に思はれる。
「千円札・千万円怪盗事件」
「ロマンス読物」 1950.05. (昭和25年５月号) より
千圓紙幣、初の強奪！
金詰りの春のたそがれ街を、リャンリャンリャン……と號外の鈴が、けたゝましく鳴って行く！
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千圓紙幣で千萬圓の怪盗事件
犯人は、麻醉タバコ所持者
日銀本店へ納める新發行の千圓紙幣を積載したトラックが、神田驛ガード下で停車中、運轉手および護衛者が、話しかけられた男から貰ひ受けた高級タバコを吸った瞬間、眩覺を生じ、二、三分後我に返ったとき、百萬圓札束拾個（合計千萬圓）入りの梱一個が完全に紛失した。犯人は、夕暮のガードの事とて、はっきり容貌は判らないが、麻醉高級タバコが、犯罪の殘されたカギであらう。目下、全國手配中…………
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號外を讀み入ってゐる人々は、無念と恐怖の感情交々といふ表情で、
「おい、うまいことをやったなア！」
「すごいわね。でも千萬圓ぢゃ、随分重いでしょうね。」
「おや、知らないんだね。百萬圓束で、二百七十八匁さ。」
「ぢゃア、千萬圓で二貫と一寸だけね。あたしのハンド・バックに入らないか知ら。」
「慾張るない。ハンド・バックなら、せいぜい二、三十萬圓だが、ボストン・バックなら、輕く入っちゃうよ。」
「ボストン・バックに入れて逃げたら、その人は千萬圓長者だわね。あたし、その人と結婚しようかしら……」
「ちえッ、止せやい。日本の警察網は、もう完全に立ち直ったと云ふぢゃないか。俄か千萬長者の捕るのも時間の問題だよ。」
だが、街の噂にひきかへて、當局の張り巡らした警戒網のどこからも、何んの反應が現はれない。
極度の緊張の中で、麻藥怪盗魔は、嘲笑してゐるのであらうか？
…………
夕闇が、次第に降り始めた。
京濱國道を、快走しつゞける高級自動車があった。アンテナを張った自動車の中では、ラジオが、この緊急ニュースを繰り返し放送してゐる。
「ふん……」
自動車を運轉しながら、スイッチを切って、放送をとめたのは、いま流行のギャバジンのダブルをりゅうと着こなした好紳士、ちょっと千惠藏に似た二枚目。だが、その眼だけは鋭い。この廣い自動車内は、ガランとして、彼のほか、誰もゐない。後の座席(シーツ)には、彼のらしき春外套(スプリング)と旅行鞄(ボストンバック)が置かれてあるだけ。
「あッ、危い！」
夕闇に、ぱっと、白い姿が、快走をつゞける自動車の眼前に現はれたのだ。
ギイッと、車は急停止した。
青年紳士が、ヘッド・ライトで、たしかめて見ると、天から降ったか、地から涌いたか、――すごい美人が、ふらふらと歩いて來る。
薄い鼠色の清楚なニュールックで、すらりとした背から胸へかけて、銀狐(シルバーフォックス)の襟卷をかけてゐる。鰐皮の新型ハンドバッグを、ぶらぶらさせ、眼は、きょとんとしてゐる。
「どうなさいましたか？」
ドアをあけると、紳士は、慇懃に訊いた。
「あなた(※)は、殺されかけてるんです！」
女は、呻くやうにかう云ったが、ぷんと鼻を襲った女の香料は、香り高いものだった。
「この先きの、くらがりで、麻醉強盗に襲はれたんですの。まだ、足がふらふらしますわよ。」
「えっ、麻醉強盗！ ……ぢゃア、ラジオで手配中の麻醉強盗ですか？」
「さア、あれほどの大物ではないでせう。ともかく、あたしのハンド・バッグには、千圓紙幣(さつ)で二十萬圓しか入ってゐないのよ。」
「あッ、さうですか。」
青年紳士は、タヂタヂの態である。話すたびに、女の首飾りの金環のダイヤが、ピカリと光る。非常に上品な美しい女であるが、どこか云はくのありさうな女である。
「失禮ですが、お乗りになりませんか？」
「ええ、さうさせて頂きませうか。旅は道づれ、世は情と云ひますものね。オホホホホ……」
女は、上品に笑って、大膽にも、青年と肩を並べて、乗りこむと、
「あなたは、この車で、どちらへ行く途中ですの？」
「僕ですか？」と青年は、一寸戸迷ったやうだったが、「じつは、熱海まで行かうと思ってるんですよ。」
「あら、それは、お樂しみですわね。……佳い女が、向ふで待ってるんでしょう。」
女は、ずばりと切り込んで來る。それがとても品よくて、男の心をくすぐる。
「と、飛んでもない。僕は、女嫌ひですよ。一人で行くんですよ。」
すでに、自動車は、快走を始めてゐた。青年が、スイッチを入れたので、ラジオがＷＶＴＲの大當りスウィングの音樂を奏し始めた。
「あたしも、一人なのよ。」女は、艶めいた眼付きで、ちらりと横の青年を眺めやった。女の仕科(しぐさ)に、先程から、見惚れてゐた男は慌てゝ、視線を上面に戻すと、
「まさか、貴女のやうな美しい方が、一人とは信じられませんよ。」
「御名答ですわね。……あたしは、つい二時間前まで、良人と一緒にゐたのよ。主人は、朝小路元伯爵の一門のものですの。」
「ああ、あの放蕩華族の同類ですか。」
「あら、失禮ね。でも、あたしは、もう朝小路ぎん子ではなくってよ。今度こそ、二時間前に、完全に夫婦別れをしたんですから。」
車内の接吻
「ぢゃ、さっき、泥棒に奪はれかけた二十萬圓の新札束は、その手切金だったんですか？」
「あら、いよいよ失礼禮だわ。」女は、むっとしたやうね、ハンド・バッグを抱きあげると、「あんな斜陽華族の一門に、こんな大金があるもんですか？ あたしが、お嫁に入ってからは、筍生活をさせられたのよ。愛もなく、金もなく、男っ振りりもよくなくて、どうして、女が堪えられますか？ あたしは、とっときの寶石類を金に換えて、主人の家を飛び出してしまったのよ。さうしたら、惡いときには、惡いことのつゞくもので、友達の邸でも訪ねて厄介にならうかなと考へながら歩いてゐるとき、さっきの麻醉強盗に襲はれたって云ふわけなんですのよ。」
「さうしたら、僕の車に拾はれた、……これも惡いことのつゞきでしょうか。」
青年は、女の方を眺めると、夫人はすらりとした肢を組み變へつゝ、愛をこめた眼で、ちらりと男の顏を見上げて、
「いゝえ、あなたこそ、救ひの神よ。あなたのやうな好男子で、パリッとして容子のよい教養のある方と、あたしが、もし、もっと早く知り合ひになってゐたら、もっと、變った感情で、車に合乗できたでしょうねえ。」
「いや、今からでも遅くはありません。おくさま。いや、銀子さんと仰言(おっしゃ)いましたね。ぼくは、白状しますと、いろんな種類の女を、大抵知ってゐますが、貴女のやうに、上品な、そして、近代的な感覺美にあふれた女性とお話しするのは始めてです。」
男の言葉は、熱烈で切々と迫ったが、女の方は、比較的冷靜のやうで、
「あら、お上手なこと。あたくしも、もう、四、五年若かったら、その言葉だけで、ふらふらとして嬉しくなり、キス位許したかも知れませんけれど、いまは駄目よ。」
「ど、どうしてですか。」
「あたしは、もう子供ぢゃないのよ。これからの生活には、金が費(かゝ)るのよ。あたしは貧乏はコリゴリよ。どうしても今度こそはお金持と結婚したいのよ。」
「そのお金と云ふと、どの位の額ですか？」
青年は、むきになって訊いた。
「オホホホ……」と女は、あでやかに笑って、「あなたのやうな若さでは、とても出來ないことよ。……少くとも、あたしたちの結婚を、エンジョイできるのには、百萬圓では駄目ね。三百萬、……五百萬でも、……さう、やっぱり、千萬圓！ 千萬圓は欲しいわ。あなた、千萬圓出せて！」
「えッ、千萬圓！」
青年は、唸った。そして次の瞬間、青年の顏色は、紅潮して行った。
「銀子さん。千萬圓出せたら、あなたは、僕と結婚してくれますか？」
「ええ、勿論よ。千萬圓出せる男だったら、跛でも、せむしでも、結婚してあげるわ。これは、おそらく、どんな美しい女の人にきいても、かう答えるでしょう。それまでは、いくら、あなたが、千惠藏ばりの好男子でも、キスだけでもお斷りするわよ。」
「ううむ。」
青年は、再び唸った。その時、
「あっ、危いわよ。」女は叫んで、男に身をよせた。
パラパラと、ヘッド・ライトの眼前に現はれたのは、警官の顏であった。
「ストップ！」
停車の命令であった。車は、京濱國道を疾走して、六郷の鐵橋のたもとへ差しかゝってゐたのであった。
車を止めた青年の顏には、急なことで、一寸狼狽の色が見えた。すると、何と思ったのか、女は、いきなり男に身をすり寄せ、
「ねえ。あなた(アイ・ダーリング※)！」と英語で呟いたかと思ふと、男の顏へ、かぶさるやうに、深々とキスをしたのであった。
青年は、ぼオッとしてゐた。
ドアの他(そと)から、覗きこんだ警官は、この情景に胸をつかれて、
「あッ、失禮しました。あちらの方でございますね。」
「イエス」
女は、しゃんとして答えた。
「あッ、奧さまですか。失禮しました。實は、あちらの車が、一臺盗まれまして、若い日本の男一人が乗って逃げたので手配中だったもんですから……さア、どうぞ。」
女は、にこりと警官に笑ひを殘すと、男の肱をつゝいた。
車は、ふたたび快走を始めた。
男は、ほッとした顏色である。
「あら、あなた、どうなさったの。」
女は、ながし眼で、探るやうに男の顏を眺めて、からかふやうに、
「お巡りさんは、餘りお好きでないのと違ひますの？」
「とんでもない。好きですよ。」慌てたやうに青年は、「ぼくが、びっくりしたのは、貴女の接吻です。」
「接吻の御感想は、いかが？」
「とても、よかった、……いや、それどころではありません。」あきらかに、青年は、慌てゝゐる。「貴女は、さっき、千萬圓出せない男とは、結婚はおろか、キスもさせないと仰言ったでせう。僕は、若いし、千萬圓は出せないと貴女は思ってゐる、それなのに、何故キスしたんですの。」
「そのことは、今に判ると思うわ。それより、煙草は、お持ちになって居なくって？」
「ああ、ありますよ。」
運轉しながら、青年は、ポケットから、金色のシガレット・ケースを取り出すと、パンと開けて、
「さア、どうぞ！」
ケースの中には、片面だけギッシリと高級煙草がつまってゐる。
「あら、舶来のね。」
白い手を出しかけて、女は、
「あたし、止めとくは。吸ひ慣れたピースの方がいゝもの。」
女は、ハンドバッグをあけると、キラリと光る白い物を、そっと奥へおし隠し、その隙間に挟ってゐるピースの箱を取りあげて、一本に火をつける、さも旨そうに喫った。
青年は、一寸殘念さうな顏になり、パチンとシガレット・ケースを閉ぢて、ポケットに入れようとすると、
「あら、あなたは、どうしてお吸ひにならないのよ。」
「僕は、今さほど喫ひたくないからですよ。」
「でも、そのケース、素晴らしいわ。一寸拝見！」
女の白い手は伸びて、ケースを取り上げると、
「今お喫ひになりたくなければ、しばらく、あたしが、お預かりしてもいゝでせう。」
「ええ、いゝです。しかし、さっきのキスですが、僕は、あのキスに價しない男だと貴女は、まだ思ってゐるんでしょう。」
「ええ、その證據を見せて下さらなければ……」
「その證據を見せたら、貴女は、僕のものになってくれますか？」
「千萬圓の證據？ ばかばかしいわ。そんなことがあり得る筈がないぢゃア、ありませんの。」
「ぢゃ、默って、あとしばらく、ドライヴさせて下さい。」
車は、猛烈なスピードを出して、疾走し始めた。ラヂオは、急速なジャズに變ってゐる。
その中で、氣品のある銀狐の夫人は、白い手を靜かに、青年紳士の首へ廻し始めた。青年は、されるまゝに運轉をつゞけて行く。
千惠藏を若く好男子にしたやうな紳士は果して何者か？ そして、銀狐の華族夫人とは？
あべこべ大捕物
「あら、二人さん、いらっしゃいませ。」
熱海の山手のホテルへ車が横づけになって、二人は、やゝ昂奮の態で降り立った。男は、素早く、後の座席(シーツ)から、スプリングとボストン・バックを持ち運ぶと、
「さア、お荷物を、どうぞ、こちらへ。」と先に立った女中が、受け取らうとする。
「いや、これは、輕いから僕が持って行くよ。」
女中が、案内したのは、奧まった二間つゞきの洋間の、ピンクのカーテンが降りてゐる。
「この奥に、バスのお室がございます。栓をおひねり下されば、いくらでもお湯が出て参りますから、どうぞ、ごゆっくりと……」
女中は、云ひ殘して立ち去ると、あとは二人だけとなった。女は、鏡臺の上に、ハンド・バックを置いて、パフを取り出して化粧を治してゐる。男は、ボストン・バッグを室の奥へ置くと、急に、元氣溌剌となって來た。
「ねえ、銀子さん、奧の室へ行こうよ。」
青年紳士は、いきなり、鏡臺の前の女を抱かうとすると、
「あら、いけません！」
バタとパフで、男は、顏を叩かれた。
「せいては、事を仕損じるものよ。それより、煙草いかゞ？」
女が、パチンと、青年から預かってゐたシガレット・ケースであった。
「うん、では、一服してから……」
男は、矢庭に一本を取り上げて、深々とうまそうに吸ってから、
「おや、銀子さん、あなたも一服なさっては、如何です。そして、バスに一緒に入りませう。いや、今更恥かしがることはないですよ。貴女は、生れこそ御大家の令嬢だったか知らないけれども、今離婚して來たばかりの非處女でしょう。まんざら、男嫌ひでもありますまい。」
男は、さらに一服すると、ますます言葉の柄が惡くなって來て、
「さア、銀子さん、喫ひなよ。さっき、キスされたとき、乳房のあたり、ふかぶかとしてもよかったぜ(※)。これは、特級酒より踏める上等の女と思ったよ。おい、キモノを脱いで、あの奥のバスへ入らうよ。」
男は、がらりと調子が變って來たが、女は、その態度に、おどろくと思ひのほか、ピリリと眉をふるはせたかと思ふと、
「お默りよ！」
「えッ！ 何んだと！」
「いやさ、默りやがれ！」と、美しい貴婦人の口から、傳法肌の鐵火の口調がとび出した。「やい、やい、金藏(むすめ)破りの千惠公。」
「えッ、おれを、金藏(むすめ)破りの千惠さんと知ってゐるお前は？」
「おどろくない、素頓狂の唐變木め！ 夕方のラヂオをきいて、麻藥タバコを使って、新千圓紙幣のトラック破りをしたと目をつけたのは、金藏(むすめ)破りの千惠公と云ふ色男ぶったやくざと察したのは、このおれさまだ。」
「さう云ふお前は、誰だ？」
「ふん、知らねえのか。銀座から、品川へかけて、貴婦人のお銀と呼ばれるお姐さんはおれのことだよ。」
「あッ、それぢゃ、かねがね噂にきいてゐた色事師フーテンのお銀か？ ちえッ、かうなったら、生かしちゃア、置かねえぞッ！」
青年紳士――實は、金藏(むすめ)破り専門の千惠公は、怒號と共に、ギラリと短刀を引き抜いて、可憐な女に迫らうとしたが、
「おッと、さうは問屋がおろさねえや。これを見ろ。」
美しいニュールックの女――實は、フーテンのお銀の聲に氣がつくと、ハンド・バッグの中から、キラリと抜いた拳銃を、ピタリと男の方へ向けてゐる。
「射つか？」
「いや、射たないよ。可哀さうだが、射つ前に、お前さんは眠くなって、一人でお休みになるだらうよ。アハハハ……」
「えッ、そんな馬鹿なことがあるもんか……」
「馬鹿か、利巧か、……お前は、現に自分で麻醉藥を仕込んだ舶來タバコを吸ってしまったんぢゃないか？」
「あッ、いけねえ。」
急に、男はフラフラとし出した。
「動いちゃいけねえ、千惠公、眠ってしまえ。ボストン・バッグは貰って行くよ。」
フラフラと昏睡状態に入りながら、男は必死であった。
「そのボストン・バッグの金は、全部お銀にやるから、せめて、キスだけでも……」
「ふふん、笑はせないでよ。男嫌ひで、有名なお銀だよ。ましてや手の切れるやうな新發行勿々(そうそう)の千圓札を、盗むとは、縁起でもないよ。こんなものを、盗むやつは、仲間の風上におけねえ奴だよ。だから、あたしゃ、こいつは、そっくり、取り返して大藏省(おかみ)へお届けする決心なのさ。どうやら、お前さんも、年貢の納めどきだ。
あたしがこれから熱海署へ電話しておくから、多分お前さんが、麻醉で夢から醒めた時分には、御用となってゐることだらう。まア、それまでは、せいぜい愉しい夢でも見てゐなさいよ。では、あたしア、あのボストン・バッグをお返しするので、こゝから消えるとしますよ。バイバイ。」 （おわり）
注）題名は新漢字が使用されています。目次は「千円札怪盗事件」となっています。
注）「俥」は「車」に変更しています（「自動車」「車内」は原文のまま）。
注）「初め」を「始め」に変更していているところがあります。
注）その他、明らかな誤植は訂正しているところがあります。※部分はそのままです。
「天使と悪魔」
「妖奇」 1951.01. (昭和26年１月号) より
１
笹木博士が急死したことは、この土地――北之嶋――の住民(ひと)にとって大変な打撃であった。
博士は外科医としての手腕(うで)が勝れてゐたばかりでなく、北之嶋のためとあれば、私財を惜しまず投げ出した。貧農の患者には無報酬で夜夜中でも往診した。薬価の請求書も出さなかったので、貧しい人々から神のやうに敬はれてゐた。
病気を直して貰った者は、命の親だと、心から彼を慕ってゐた。その人を突如として失ったのだから彼等の悲嘆は大きかった。
葬儀には殆ど土地の者全部と云っていゝ程老若男女、赤ン坊までが母親の背中におぶさって参列した。友人総代として弔辞を読んだ人の終りの言葉は、会葬者一動の胸を打っていつまでも彼等の涙をそそった。
「故博士は実に稀にみる高潔な立派な人格者でありました。また彼ほど誠実な人もめったにありますまい。その一言一句は愛情にみちてゐて、彼に接した人はほのぼのとした温情が身内にしみ入り、心が暖くなるやうで、いつまでも忘れられぬ深い印象を与へられるといふのが常でありました。
北之嶋の住民のためには、いつも骨身をおしまずつくして下すった。この汚れた世の中に住む博士はあまりにも美し過ぎる心の持主でした」
ほんとに、博士ほど人望のあった人は珍しかった。柔和な態度、優しい物言ひは、かたくなな田舎者の心を和らげ、直ぐ親しみをもたせた。
北之嶋といふところは、都心から電車で三時間もあれば往復出来る隣接地帯にありながら、どういふものか発展しない。文化から置き去りにされた恰好で、二三十年前も現在も少しも変ってゐなかった。戦争中に疎開して来た人達が僅かばかり居残ってゐるほかは何代も昔から住みついた者ばかりであった。
無医村だったこの土地に、笹木博士が飄然と移って来てから、二十年にもなるだらう。その当時、みんなが岡の家と呼んでゐた青いペンキ塗りの木造洋館が、小高い裏山を背負って、ポツンと一軒建ってゐた。その家で横浜から移ってきたといふ女主人が白昼強盗に殺されてから、あとには住む人もなく、長い間空家のまゝで建ち腐れのやうになってゐたのを、笹木博士が買ひ取って医院を開業したのだった。
土地の者からいやがられてゐた陰気な岡の家も、博士が住むやうになってから、明るく陽気になった。
北之嶋の住民はよく結束してゐて、外の土地から来た者を好まなかった。その人がどういふ人物であるかなどゝ考へもせず、ただ無暗に毛嫌ひした。白い眼で見ては、何かといふと意地悪をして追ひ出さうとするのだったが、博士のやうな人が住んでくれるのはまことに重宝だったから、彼だけは特別に扱って別に詮議立てもせず、博士がどういふ経歴の人か、都会人であるか田舎者であるか、彼等は知らなかった。
ただわかってゐることゝ云へば、みよりのない孤独な人で、独身者だといふだけだった。博士の方も常に謙虚な態度でゐたから、学歴や地位などを自ら吹聴するやうな真似はしなかった。
彼が来た時は四十歳であった。童顔で艶々しい若い皮膚をしてゐたが、頭髪は雪を頂いたやうに真白だった。それと皺枯れた声とがほんとの年よりもずっと老けてみせてゐた。そのためにかへって女達は安心して博士に近づけた。
博士は死ぬまで評判がよかった。口の悪い百姓達は、
「先生は片輪ぢゃねえのか」
と、蔭口をきいてゐた。彼は茶屋遊び一つするではなく、女との噂など全然なかった。老僕を一人雇ってゐて、その男が炊事をやり、野菜をつくり、果樹園の手入れをした。静かな生活であった。
博士は暇があると、ベランダに椅子を持って行って、眼の下にひらけてゐる北之嶋の景色をじいと、いつまでも、いつまでも眺め入るのだった。その瞳を追って行くとそこには土塀で囲まれた大きな構への旧家があった。それは土地随一の大地主青山甚左衛門の住居である。白壁の米蔵が五つも六つもずらりと並んでゐて、昔は名主をつとめたといふ田舎には珍しい広い大玄関があって、式台はいつもつやつやと拭き込んであった。
博士は一目で見渡せる青山家の広い庭を自分の屋敷うちの一部のやうに思っては眺めてゐた。春は紅梅からはじまって、緋桃、五色桜、梨花、つぎつぎと花の絶える間のない、美しい庭に見惚れて、夕暮の淋しいひとときを過すのだった。
２
青山も博士の患家の一つであった。
当主は代々甚左衛門を名乗ることになってゐた。それも先代までで打ち切り、先年物故した大学出身の若い主人は旧い習慣をいやがって、遂ひに死ぬまで青山信三で通してしまった。
彼は帝大を出ると直ぐＳ銀行に入って、ロンドン支店詰となり、鰻のぼりに出世して、支店長になるまで殆ど内地には帰ってこなかった。
信三は養子で、夫人は家附きの娘だ。彼女は両親の存命中は三年目に一度位づゝ、親見舞ひに帰ってきて、小半年を北之嶋で暮してゐた。ロンドンで生れたといふ女の子が二人あった。二人とも母親似の器量のいい子であったが、男のやうに乱暴でお転婆だった。木登りはする、自転車で飛び廻る、驢馬に跨って畦道を走ったりするので、百姓達には、青山のお嬢さんは評判が悪かった。
次女の加奈江といふのが十一の時、岡の家の裏の崖に懸鉤子(きいちご)がなってゐるのを発見して、それをとると云って夕方家を一人で飛び出した。間もなく、崖の下を通った人が瀕死の状態になってゐる加奈江をおぶって来た。彼女は懸鉤子をとらうとして、あやまって崖から辷り落ち、下の敷石の角に頭を打ちつけた。彼女は意識を失ったまゝで息をひきとった。
長女の幸江はこんどのシーズンには社交界に出さうと両親がいき込んでゐた十九の年に、ロンドンで亡くなった。
戦争が始まると同時に引揚げた時には老夫婦は已に他界してゐたから、北之嶋には青山夫妻だけになってゐた。
終戦の年、青山信三は脳溢血で死んでしまった。彼女は広い屋敷にたった一人取り残された。夫人は女中を相手にしょんぼりと暮してゐるうちに、ひどい神経衰弱になり、胆石病まで併発して、いつか麻薬中毒にまでなってゐたのだった。
笹木博士は往診する度に、夫人にせがまれては渋々麻薬を注射した。
「いまに、取りかへしのつかないことになりますから、今のうちに断然やめる決心をなすって下さい。苦しいのは一時です。奥様さへ思ひ切って麻薬と絶縁する気になって下されば、私がきっと中毒をなほして上げますから」
親切に云はれて、その時は夫人もその気になって、
「もう止めます。今日だけ――、どうぞ」
さう云ひながら、翌日また往診を頼みに来るのだった。
「どうしても、決心して下さらなければ、私は北之嶋を去りますよ。いまは麻薬は非常にやかましいんです。私だから注射もして上げますけれど、私がゐなくなったら、どうなさる？」
と、脅かしてみた。
夫人はほんのりと頬を赤くして、注射のあとの生き生きとした美しいいろっぽい眼でじっと笹木博士を流しめに見て、
「そんな憎らしいことをおっしゃって、私をいぢめないで下さいませ。麻薬は私の恋人、それを注射して下さる先生は――」
と云って、若々しく、媚びるやうなしなをつくるのだった。
そんな時、笹木博士は、いつも眼をそらせて彼女の顔を見ない様にしてゐた。ロンドン仕込の、社交馴れた夫人は人との応対はうまかった。小柄な彼女は五十の人とは見えないほど若かった。美しいので、日本の人形だと云って、あちらの社交界でもてはやされたと云ふ話を博士は彼女の夫から度々聞いた。青山信三は妻の加奈子が自慢だった。
「ご冗談をおっしゃらないで、麻薬のやうな恐ろしい悪魔の手から逃がれるやうになさらないといけません」
「だって、先生、私のやうな者に、お薬の助けがなかったら、一日だって生きてゐられやしませんのよ。だって、考へても下さいませ。二人の娘には先だたれ、夫には死別(しにわか)れ、この世にたった独りぼっちの生きる張合ひもない私なんですもの。好きな麻薬をやめて長生きするよりも、命を縮めても構ひません。呼吸のあるうちだけ、楽しく過した方がいゝと思ひますのよ」
「ご無理はありませんけれど、ご自分から命を縮めるやうなことをなすってはいけません。私の云ふことを聞いて下さらないと私はもう往診をお断りいたしますよ」
「ひどいわ。ドクター。来て下さらなかったら、此方から押しかけてゆきますよ」
その翌日から、加奈子は毎日笹木医院へ通ふやうになった。
爪先上りのながい道を歩いて、しっとりと汗ばみながら、岡の上に辿りつくのだった。
「運動がつくせいか、先生のお宅へ毎日上るやうになってから夜分よく眠れるやうになりました」
患者のゐない時は、ベランダに出て、笹木博士と加奈子はよく語り合ってゐた。
「ご一緒に頂かうと思って――」
友染縮緬(ゆうぜんちりめん)のふくさ包みから、コーヒーを出したり、手製のパイを出したりした。
「こんな不便な田舎にゐても、私はロンドンで暮してゐたのと同じ生活をつゞけてゐますのよ」
彼女は得意さうに云った。
「田舎で都会の生活をしてはたまりませんな」
「でも私には田舎の生活は出来ませんわよ。両親は田舎者でしたけれど、私は幼い時から――」
云ひかけた時、笹木博士は急に用事でも思ひ出したやうに起(た)ち上って、彼女へ背を向けてヴェランダを出た。その動作に何んだか見覚えがあるやうな気がして、加奈子は喰ひ入るやうに後ろ姿を見詰めてゐた。
「やっぱり心の迷ひであったのだらう。あのひとはもっと細そりとして撫で肩であった――。それだのに、博士はがっちりとした肩巾をしてゐる――」
思はず独り言を云ってしまってから、はっとして唇へハンカチを持って行った。
「何を云ってゐらっしゃるのですか？」
いつか戻ってきた博士は、彼女のうしろに立って、にこやかにほゝ笑んでゐた。
「いゝえ、ちょいと――」
夫人も笑って、
「実は、私、幼い時に別れまして、それぎり音信不通になってゐる親類の息子青山正也と申す者がありますの。音信不通と云っても、実は行方不明になってしまったんですのよ。今だに死んでゐるのか生きてゐるのかもわからないんですの」
「その方に私が似てゐるとでも仰しゃるんですか？」
「いゝえ、ちっとも――、似てはゐらっしゃいません。たゞ、ちょいとした先生の動作に正也さんの面影を私が思ひ出したといふだけですの」
「他人の空似ですな」
博士はカラカラと笑った。
「世の中には不思議なことがあるもんですわね。正也さんはまるでこの世から消えてしまったんですのよ。先生、私の両親(ふたおや)は死ぬまで気にして、探したさうですが、皆目わからなかったさうですの」
「ではもうこの世にゐられないのでせう。あなたもそれを気にしてゐらっしゃるんですか？」
「えゝ、少し気にするわけがありますの」
「あゝ、わかりました。そんなことが奥様の神経衰弱の原因をしてゐるのでせう。過ぎ去ったことは忘れてしまふにかぎりますよ」
「ところが、母が死ぬ前に、孫娘が二人とも死んで、家が絶えるといふのを苦にして神様へおうかがひをして貰ったんださうですのよ。そしたら、その正也さんの祟りで家は断絶するだらうと云はれたんですって。それで母が何とかして探し出しておわびして呉れって私に遺言して去ったんですの」
「おうかがひなんかを信じるなんて、奥様は外国にゐた方のやうでもありませんな」
「私も時々さう思ひますが、やはり考へさせられることもありますのよ。だって、次々と死んでいって、私がたった一人残って、ほんとに、先生、私は時々恐ろしい寂寞に襲はれて、夜中なんかにふっと眼を覚ますと物狂ほしいやうな淋しさに化(つゝ)まれることがありますの。私は時々狂ひ死にするのではないかと思ひます」
「それが御病気なのです」
「先生は私は金持で、あんな大きな家に住んでゐて何一つ不自由なく、ほんとに幸福な女だと思っていらっしゃるでせうが、それは大違ひで、私ほど不幸な人間はありませんのよ。これは内緒のお話ですが、次女の加奈江は殺されたんですの」
「え？ 殺された？」
博士の顏からさっと血の気が退いた。
「過失といふことにしてあるんですが、実はあの時、大きな犬みたいな黒いものが加奈江を突き落したのだ、と、息を引き取る前に私にだけ申しましたの。意識不明のまゝ死んだやうに云ってありますが、あの娘は死ぬまで意識は明瞭で苦しみ続けましたの。可哀想に――、いくら騒いでも生きかへるものではないし、田舎のことで、うるさいから加奈江の不注意といふことにして祖父母と私夫婦だけの胸に秘めて置きました。それを思っても、おうかがひの云ったことが、満更でたらめとも思へませんで、私は始終脅えてゐますの。正也さんが若し生きてゐれば何処からか、じいと恨みの眼で、私を見詰めてゐるだらうと思ひ、いまに私は殺されはしないかと、恐はくって、恐はくって――」
夫人は両袖で胸を抱いて、がたがたと身震ひをした。
「取り越し苦労をしてもつまりませんよ」
「取り越し苦労でせうか？ 私はきっと敵を討たれるやうな気がしますが――」
「敵を討たれるやうなことをなすったんですか？」
「いゝえ、でも世間には誤解といふことがありますからね」
夫人はすらりと椅子を起って、
「先生、私はもう帰ります。もう一本打って下さいましな」
「いけませんな。そんなに注射をしては――」
「お願ひですわ。私、死んでもいゝんです」
「とんでもない」
「もし、先生がゐらっしゃらなくなったら私は麻薬がきれて、狂死してしまひますわよ。オホヽヽヽヽ」
「ハヽヽヽヽ。それぢゃ私が生かして上げてゐるやうなものですね」
「そうですわ。先生、絶対に私が生きてゐるうちはこの土地を離れないで下さいね。いまの私には先生だけが、お頼りなんですから、たった一つの頼りのつなをきらないで下さい」
「アハヽヽヽヽ」
博士は笑ひながら注射器を手にとった。
３
その夜博士は頓死したのだった。
誰よりも一番悲しんだのは加奈子だったらう。彼女は愕きと絶望とで、暫くは起き上ることも出来なかった。
彼は遂々自分の命の綱を切ってしまったのだ。加奈子は彼の死を悲しむより先に、恨めしかった。
長い間、悲嘆の涙を流してゐた彼女は、ふといゝことを思ひついた。それは老僕に頼んで、薬局から麻薬を盗み出して貰ふことだった。
加奈子は札束を懐ろにして、岡の上へ行った。そっと老僕をよび出して頼まうとすると、
「今、お屋敷へ伺はうと思ってゐたところでした」
老僕はいそいで診察室へ入ったかと思ふと、直ぐ引返してきて、
「先生が亡くなられる前に、私をよんで、これを奥様ににお手渡してくれ。誰にもこの事は云ふな、内緒だぞ、とおっしゃいました」
加奈子は何んだらうと首をかしげた。受取った時の手ざわりで、手帳のやうなものだと思った。
加奈子は老僕に金を与へて、
「どなたも手をつけないうちに、薬局から麻薬を探し出して下さい。成るべく沢山願ひます。そして、こっそりと私のうちへ届けて頂きたいのよ」
「承知いたしました」
「お願ひしますわよ。内緒でね」
彼女は誰にも出会はないうちに、急いで家へ帰った。
女中を使ひに出し、居間の障子を閉め切って、老僕から受取ったものを開いてみた。果してそれはノートであった。薬の香のしみたそのノートを手にとって、パラパラとペーヂをめくった時、加奈子は何といふことなく胴震ひがした。
４
加奈子はいそいで読みはじめた。
青山加奈子さま。
私は自分の死期が来たのを知ったので、生きてゐるうちに、私といふ者のほんとの姿をあなたにお見せしようと思って、この遺書を認めました。
先をいそがず、ゆっくりと読んで下さい。
何から申しませうか。先づ私の生ひ立ち、いや、私の生れた時のことから申しませう。私はほんとの両親といふものの顔すら知らない、哀れな捨子なのです。拾って呉れた家は子供が四人もゐたので、私は直ぐに他家へ貰はれてゆき、その家の養子となって育てられました。
その家をかりにＡ家と申しませう。Ａ家には夫婦の間に子供がないのを憂いてをりましたので、子宝をさづかったと大喜びして、私を掌のうちの玉の様に大切にし、可愛がって呉れました。勿論、私は捨子であることも、また貰ひ子であることも知らずＡ家の息子だとばかり思ってをりました。
恰度、私が七才になった時、もう子はないものとあきらめきってゐた養母が妊娠して玉のやうな女児(おんなのこ)を産みました。
さあ、さうなると何と云っても自分の子の方が可愛いゝ、実子の出来ないうちはともかくも、この大身代を他人の、しかも素性のわからない捨子に譲るのはいかにも勿体ないと両親は思ひはじめたのです。
それから俄かに私が邪魔になり出しました。
両親は急に手の裏を返すやうに私に辛く当るやうになったのです。私の方はただもう妹が出来たのが嬉しくってたまらず、背負って守りをしてやったり、一緒に遊んでやったりして可愛がってゐましたので、妹も私によくなついてゐました。私は毬をついたり、お手玉をとったり、女の子のやうなことをして、妹とばかり遊んでゐました。
両親は私が妹と仲の好いのも面白くなかったやうでした。彼女の七つのお祝ひの時など、妹にお振袖を着せ、お姫様のやうに着飾らせて親戚廻はりをしましたが、私にはわざとでっち小僧のやうな紺飛白(かすり)の筒袖を着せてお伴をさせました。両親の愛情は私から妹へすっかり移ってしまひ、私は居候か、下男のやうに追ひ使はれました。食事の時は妹と両親と一緒に食卓につき、私にお給仕をさせるのですが、そのあとで私には土間にむしろを敷いて、そこで食べろと云ふのです。まるで犬猫同様にあつかはれ、私は子供ながらそれがとても悲しかったのです。
妹がはしかを患ひまして、それが私に伝染したのですが、はしかといふものは一つでも年が多いと重いものだといひますが、全く私は重体になりました。その時両親が、
「どうせ捨て子なんだ。一層のこと死んでしまへばいゝのに」
それが耳に入りまして、私は愕然といたしました。
それ程までに私を嫌ってゐたとは知りませんでした。親類の一人が、私をＡ家の相続人にして、妹に新家を出させたらいゝと云ってゐましたのを両親が聞いてきて、
「とんだ厄介者を背負った」
と云ひました。
それ以来、箸のあげ下しに私に当り散らすやうになり、試験だと云っても勉強する時間も与へないでこき使ひ、成績が少しわるかったと云っては叱られ、打たれ、私は生疵の絶える間がありませんでした。その頃から私は時々ひどい胃痛を覚えるやうになりましたが、母は意気地がないと云ってせゝら笑ってゐました。薬を買ふにも小遣ひがないので買へません。近所の小母さんが同情して、せんぶりを煎じてのませてくれたりしてゐました。
ある日、その小母さんが、
「正也さんがそんなに邪魔になるのなら他家(よそ)へくれてしまへばいいのに――」
と云って、私の耳に口をよせ、
「食べるものに気をつけなさいよ」
と申すのです。
私はその意味がわかりませんでしたが、段々と注意してゐるうちに、母がガラスをけづってゐるのを知りました。そして、それを私の食べ物の中に入れてゐるのを見ました。
私は薬の事も、医学のことも何も知りませんでしたが、ガラスの粉が毒になることだけは知ってゐましたので、ゾウッとしました。
私は母がどんな気持でそんなことをするのかと思った時、身の危険を感じ始めたのです。そして私は将来は医学をおさめ、医者になりたいと思ひました。
母は私を亡きものにしようと思ってゐたのでせう。小母さんが食事に注意せよと云はれても、少年の私は三度々々の食事が待ち遠しい程でしたから、注意することなど出来ませんでした。
中学三年の時、私を可愛がって下すった英語の先生が学校をやめて帰国することになりました。それを聞いた私は先生に家庭の事情を打ち開けて縋りました。そして外国へ一緒に連れて行って貰らったのです。先生はキリスト教の伝道師でしたから、私に大変同情して下さいました。
私がＡ家にゐることは、母を罪人にする結果になるから、と申しその言葉に動かされて、私が家出することも咎めませんでした。彼地に行ってから、先生のお世話でスクールボーイになり、働きながら学校へ通ひ、大変苦労をして学位をとるまでになったのです。
それだけの話をお聞きになったら、あなたは感心な青年だと云って、私を立志伝の一人のやうに思はれるかｓも知れませんが、私は決して他人に褒められるやうな立派な人間ではありませんのです。人間、いや天使の姿をした悪魔といふのが私のやうな者の事を云ふのでせう。
私は心の底から親を恨んでゐました。子供の頃から芽ばえてゐたその恨みは年と共に生長し、私といふ者をただ復讐に生きる人間としてしまったのです。
人を恨むといふことは浅間しい醜いことです。その醜い私の魂にも美しい一つの思ひ出がありました。それは妹を愛してゐたといふことで、妹のために、妹のほんとの親である私の養父母に復讐しようと考へるのは悪いことだと思ひ、邪念を抑へ抑へして、ただ妹のために我慢してゐました。
恰度私が大学を卒業してドクターとして就職した時のことでした。私のクラスメートで親友の一人が、母国を訪問することになった。私は彼に是非一度妹に会ってくれと頼みました。私はながい間人知れず彼女を愛してゐたことを友人に打ち明け、妹へ手紙を渡してくれと頼みました。そして返事を貰らって来てくれるやうにと申したのです。但し、私の住所も、私の現職も語らないで貰ひたいと云ひました。それには理由があるのです。
もし彼女が私の乞ひをいれてくれなかった場合、私のいまの身分を知られるのがいやだったからです。もう一つには、妹のために今まで我慢に我慢をして堪え忍んで来た恨みが、彼女の言葉一つで爆発してしまふかも知れませんからでした。
親友が母国訪問をすまして帰って来ました。彼は妹の美しさを褒めたゝえ、実に六月の太陽の様に輝いてゐたと申しました。彼女は私の心をこめた手紙を無造作にさっと眼を通すと、口許に冷笑を浮かべて、黙って突返し、
「私に向って、よくこんなことが云へるわね。あのひと、捨て子なのよ」
いかにも軽蔑しきったやうに申したさうです。
二十歳の彼女には降るやうに縁談があってその中から、ある実業家の次男を撰んで養子に迎へることに、その時はもう定(きま)ってゐたのださうです。婚約時代の楽しい時だったのですから、親もわからない孤児の私などをかへりみなかったのも当然の事でせうが、私は煮え湯を呑まされたほどに口惜しかったのです。
二人の間に、恋愛関係があったわけではなし、自分に対して彼女はどういふ感情を持ってゐたかも知らず、いはば片思ひの、一人承知で彼女は将来自分の妻になるものと定(き)め込んでゐたのですから、実際馬鹿な話だったのです。
その時以来、私は世の中と別れを告げ、ただ彼女をはじめ、Ａ家への復讐といふことだけが、たった一つの願望となりました。私は自分の姓名を変へる必要上、ある家の養子となりましたが、絶対に結婚はすまいと心に誓ってゐました。望みを果した時の私は罪を犯した人間となることを思ひ、養家の娘を罪人の妻とするに忍びませんでしたからです。
夜も昼も、どういふ風にして復讐してやらうかとそのことばかり考へて暮らすやうになりました。
先づ第一に、私が日本へ帰って、彼等の前に姿を現はしても、正也だと思はせては不利だと考へました。そこで私はある整形外科の大家の助手になり、容貌を変へることを研究しました。一重まぶたを二重にしたり、平たい鼻を高くするだけでも相当顔は変りますがそれ位のことでは満足出来ません。総入歯で歯並みを調へ、ある薬の力で色素を変へました。丸顔をながい間かゝって細面につくり上げることにも成功しました。頭髪の色を変へ、最後に声帯をすっかり変へてしまひました。
さて、これでよしとなった時は、私は已に四十歳になってゐました。
いまはしい望みをいだいて帰国した私は実に上陸第一歩から復讐の計画を胸に描いてゐました。
こゝまでお話したら、もうおわかりになったことと思ひますから白状します。私は笹木明ではなく青山正也でございます。
天使と悪魔の心を持った二重人格者といふのは私のやうな者のことでせう。
昼間の私は善良そのものの紳士でありますが、夜ともなれば私の良い魂は肉体をぬけ出してしまひ、そのあとへ悪魔が入り込むのです。私はその悪魔の命ずるまゝに動かされて働きます。善良な私の魂は時としてそれを悲しく思ひ、
「オヽ、魂よ。何処(いずこ)へ行く？」
と心の中で叫びながら、涙にむせぶこともあります。悪魔はいろいろ計画してはその実行を私に迫るのです。先づ第一に少女を崖から突き落して殺しました。
あなたの最後の者の生命(いのち)を奪ったのは黒い犬の皮を被った私でした。そしてあなたを悲嘆のどん底に叩き込んで眺めてゐたのです。それでもまだあきたらぬ私は、胆石病のあなたに麻薬の味を覚えさせ、立派な中毒患者に仕上げてしまひました。
これで永年の念願である私の復讐も達しましたが、天使の心にかへった時の私は人を殺した罪に戦(おのゝ)きつゞけてゐるのです。自首か、死かを撰ぶより私を救ふ道はありません。私は頓死しようと決心しました。誰にもわからぬ方法で、実は自殺するのです。それはまた麻薬なしでは一日も生きてゐられぬあなたをもっと苦しめて上げることにもなるのです。
私といふ者のゐなくなった時のあなたの絶望を思ひながら、私は息を引取るでせう。しかし、養父母に命を奪はれやうとしたり愛する女に捨てられたりした時の私の苦悶から思ったら、あなたの恋人である麻薬を奪ばう位の事では完全に敵を討ったとも云へませんが、これから先あなたが麻薬を手に入れるためにどんな苦しみをするかと思ふと私は愉快でたまらないのです。
加奈子は震るえながら、こゝまで読んだが、あとをつゞける勇気がなかった。彼女はノートをしばらく睨むやうに見詰めてゐたが、やがて、マッチをすって火を点けた。紙はメラメラと燃えた。彼女は持ってゐる最後の紙片を火鉢の中に落して焼いてしまった。
そこへ博士の老僕が昂奮した顔を出した。
低い声でどもりながら、
「ないんです。あの薬は――。奥様、何処にも――」
魔薬の発見出来なかったことを告げた。
加奈子は黙ってうなづくと、彼は逃げるやうに帰って行った。
「私を憎むほどに愛して下すった正也さん、あなたのためにこの遺書は永久に私の胸に秘めて置きます。そして最後まであなたは立派な人格者であったと世間の人に思はせて上げませう」
加奈子は灰になった紙片(かみきれ)を、火箸の先でこなごなに砕いてしまった。
（終）
注）ごく一部ですが旧漢字は新漢字に、句読点及び明らかにおかしなところは修正しています。
推理小説「二つの紅茶茶わん」
「主婦と生活」付録「涼風娯楽読本」 1954.08. (昭和29年８月号付録) より
１
北村正子は夫の急死を親類よりもさきに九州にいる親友の智子にしらせた。この不幸を同じ心で悲しんでくれるのは彼女よりほかにないと思ったからである。
智子が来てくれたとき、正子は彼女の肩に顔を埋めて、泣けるだけ泣いた。
「たった五年、短い結婚生活だったわ。そしてわたしはもう二十九になっちゃった。でもでも、あんなに熱烈な愛情に結ばれていたことを思うと、貧乏で苦労ばかりしてしていたけれど満足しなければならないと思うのよ。」
「あたりまえだわ。わたしのことを考えてごらんなさい。炭鉱王の夫人だの、富豪の妻だのと言われて、外見はしあわせそうに見えても、夫は二十も年上だし、おまけに坑夫あがりで教養はないし、いくらお金があったって、あなたのような幸福は一日だって味わえなかったのよ。」
「智子さんが美人だから、そういうことになったんですよ。」
「わたしがバカだったからよ。親が事業に失敗して破産したのを救うためだからしかたがない、と当時は思ってたけれど、何も金を出させるためにわたしがギセイになる必要はなかったわ。親を救う道は、まだほかにいくらもあったと思うの。」
「北村はなぜさっさと離婚してしまわないんだ。青年画家の柳井さんという恋人があるのにって、自分のことのように歯がゆがっていたのよ。」
「だれよりもいちばんわたしを理解してくだすっていたのは北村さんだった。」
「その北村も死んじゃった。けれど、智子さん。」
正子は智子の耳に口をよせて、
「こんなこというと妙に聞えるかも知れないけれど、わたし、悲しみの中に、一種の安心感とでもいうような感じもしているのよ。もう北村はだれにもとられないと思うと――。」
「ずいぶん独占欲の強い人ね。」
「あなたはまだほんとに人を愛したことがないからわからないのよ。あなたが離婚して柳井さんと結婚したら、初めてわたしのいうことがわかるわ。」
「柳井の問題についてご相談もしたいと思っていたんだけれど、北村さんがおなくなりになったんで、わたし、はりあいがなくなっちゃった。」
「あら、おかしなことをいうのね。それじゃまるで、北村のために結婚でもするようじゃありませんか。」
「誤解しちゃいや。あなた、とても気をまわすようになったわね。」
「北村の余計なおせっかいが、あなたの家庭を破壊させるように聞えるからよ。」
「皮肉だわ。正子さん。いやに気むずかしくなっちゃったのね。そんなことより、北村さんが殺されたのではないかと新聞に出ていた、あれはいったいどうしたの？」
「まちがいだったのよ。北村が心臓の悪いのは結婚前からでしょう？ わたし、あの日、千葉の親類におめでたいことがあって、お祝に行って帰ってみると、出勤したはずの北村のクツが、わたしのそろえたまんま置いてあるじゃないの。ヘンだと思って応接間をのぞくと、ヒジ掛イスの中に落ち込むように倒れていたんですよ。」
２
智子はゆっくりうなずいて、あとを促すような目をした。
「肩に手をかけて顏をのぞくと、わたし、飛び上がっちゃった。びっくりしたんですもの。額も手もすごい冷たさなの。目は開いているけれど、ガラス玉みたい、ただ開いてるだけ、わたしは、からだじゅうの血が頭へ上って足が前へ出なくなったわ。両手で泳ぐようなかっこうでお隣に飛び込んだら、アイロンをかけていた奥さんが驚いて、ワイシャツを焦がしてしまったって、これはあとで聞いた話よ。」
智子は低い声できいた。
「テーブルの上に、紅茶茶わんが二つ置いてあったって、新聞に出ていたわね。」
「それが問題だったのよ。来客があって対談中に死んだらしい、あるいは毒殺かも知れない、厳重に調べたけれど毒物は発見されないし、解剖の結果心臓マヒと確定したから、殺されたんでなかっただけはよかったと思ってるの。」
「警察ではもう疑惑はいだいていないの？」
「もちろんよ。妙に思ってるのは、わたしだけ。だれが訪問したかってことなのよ。心にやましいことがなければ、なんとかいって来てもよさそうなおのだと思うの。」
「茶わんに指紋はついていなかったんでしょうか？」
「お客は紅茶に手をつけていないの、角砂糖もそのままだったしね。」
「……。」
「北村は自分で紅茶なんかいれる男じゃないのよ。よっぽどたいせつなお客か、さもなければ愛人――、そんな心あたりはないしさ。」
「あなたにかくれて愛人をつくるようなかたじゃないもの。」
「それはわたしも信じてるの。夫婦間に秘密があるくらいなら、あっさり別れてしまう、お互に嫉妬しながら同せいしているくらい愚劣なことはないって、ふだんからいっていたし。わたしたちの間には、絶対に秘密はなかったのよ。」
「訪問客が帰ってから、何時間後かにマヒを起されたとしたら、その訪問客は北村さんのなくなられたとは関係ないと思ってるかも知れないわね。」
「ところが、時間的に見て、北村はわたしが外出後まもなく死んだのよ。だから客は北村の息を引き取るせつなにはかたわらにいたことになるの、だから容疑のかかるのを恐れて逃げたんじゃないか、これはわたしの推定なのよ。」
３
仏間から戻って来た智子は、改まった調子で、きょう来たのは、むろん悔みを述べるためであったが、それ以外にどうしても話さなければならない用事があったのだと言った。
「どんなご用？」
「北村さんにお預けしてある白封筒――、赤いリボンで結んであるものなんですが、それを返していただいて来てくれって、柳井から頼まれましたの。」
そういわれて正子は、はじめて智子の姿を見た。旅装であるべきはずだのに、智子はカバンも持たず、グリンのワンピースにエメラルドの首飾りをしていた。
「智子さんはもう柳井さんに会っていらしたの？ 東京駅から直接わたしの家にいらしてくだすったのではなかったんですか？」
正子はちょっとがっかりした。いつもは好んで素顔をしているのに、きょうの彼女は薄化粧をして、すばらしい美しさだった。悲しみに急にふけ込んだように感じている正子にとって、どこやらに浮き浮きした影さえ見える智子を見るのがいとわしくなった。なんだかわからないが、正子はだまされたようで不愉快だった。
正子は意地悪そうな目をして智子をじろじろ見ながら、
「わたしの電報見て、すぐいらしてくだすったんだとばかり、わたしは思っていたのよ。いったい、いつ東京にへいらしたの？」
たたみかけるようにして正子がきいたが、智子はそれには返事をしなかった。
正子の態度が急に変ったのみ、なんで感情を害しているのかも、智子にはわからなかった。日ごろから神経の細い正子が、夫の死という打撃を受けて、ヒステリーを起しているのだろうと思った。
「わたし、また出直してまいります。どうぞ北村さんにお預けしてある白い封筒を。」と言いかけると、正子はおっかぶせるような調子で、
「だって、わたし、そんな話、北村からきいていませんもの。柳井さんの思い違いじゃありませんか？」
「そんなことはありません。十文字に赤いリボンが結んであって、封印がしてあるそうです。」
智子が、いっしょうけんめいになって言うと、正子はカン高い声で笑いだした。
「オホ……。まあ、たいそうお大切なお預かり物ね。さがしてみましょうよ。おいそぎ？」
「夕方、いただきに来ます。」
「あなたなんかには、理解できないでしょうが、わたしは、北村を死んだと思いたくない。旅行に行っていると思っていたいんです。だから書斎は、そのまま手を触れていません。大事なものなら書斎にあるはずです。ご安心なさい。調べてみますから。」
４
重要書類のはいっているカバンの底から、智子のいったとおりの、赤いリボンでくくった厚ぼったい白封筒が出て来た。上書きには「智子へ」と、それはたしかに北村の癖のある書体で書かれてあった。
「智子へ。」
それはほんとに柳井が北村に預けたものだろうか。そうはいっても事実は北村が智子へ渡そうとしたものであるかも知れない。もしそうだとしたら、北村の急死におどろいて、智子が何くわぬ顔をして、柳井の名を使って取り返そうとしている意味もよくわかる。
疑ってみれば疑わしい点はいくらでも出てくる。智子の結婚問題にも力こぶをいれ過ぎていた。正子が席をはずして戻って来たとき北村と智子が急にピタリと話をやめて、さぐるように目で正子を見たりしたことも幾度あったかわからない。彼の智子に対する同情もたしかに程度を越していた。
ふたりの間には何かあったに違いない。
秘密のないのを誇りにしていた北村と正子の間に、思いもよらぬこんな秘密があろうとは夢にも思わなかった。しかし男のずるさを責めるより前に、正子はネコかぶりの智子の顔をひんむいてやりたいと思った。
「たしかに、何かある。あったに違いない。」
しかし、封を切って中身を見るのは恐ろしかった。事実を知ることが、いやだったのだ。正子は、いまわしい白封筒をつかむと、汚らわしいものででもあるように、庭にたたきつけ、火をつけて焼いてしまった。
夕方、智子がやって来たとき、
「いくらさがしても、ありませんでしたよ。」
胸をどきつかせながらウソをついた。
「それならしかたがありませんが、あれは柳井とわたしが取り交わした記念の文束なんですの。柳井の奥さんがそれを種にわたしを脅迫する危険があったので、北村さんにお預けしたんだどうですが、早くお話ししようと思っていて、つい、言いそびれていましたが、わたしは、やっと離婚の手続きをすませましたの。だから、いまとなっては脅迫される心配もなくなりましたが――。」
「お預かりしたのはいつごろのことなんですの？」
正子は自分が知らなかったということに、まだこだわっていた。
「おなくなりになった朝だそうですの。」
「あの日に宅へおいでになったのは柳井さんだったんですか？」
「ご出勤前でないとお目にかかれないと思って、九時ごろまいったそうです。柳井に連絡がとれず、柳井はわたしの離婚問題がこんなに急にかたづくと思わなかったんだそうですの。柳井の奥さんが血まなこになってさがしている文束から、また問題がこんがらかってゆくのを恐れて、北村さんに預けに上がったんです。北村さんは、たいせつにしまっておこうとおっしゃって、封筒の上にペンで智子へとお書きになり、書斎へしまいにいらした帰りに、お紅茶をいれて来てくだすったんだそうですが、いそいでいたので柳井はお紅茶をいただかなかったと申します。」
「柳井さんだったんですか。ああ、そうだったんですか。」
正子は気がぬけたように、がくんと首を垂れた・
「お紅茶茶わんが問題になっていること、それも柳井は、知らなかったそうです。きょう伺ったらよく正子さんにおわびをしてくれと申しました。」
「お紅茶茶わんのナゾは解けましたが、封筒のほうは――。」
「急ぎませんから、ゆっくりさがしておいてだけくださいね。他人さまにはつまらぬものでも、わたしたちに取ってはたいせつな記念なんですから。」
生返事をして、智子を帰したが、いくらさがしたってあるはずのない封筒のことが、大きな鉛玉のように胸につかえて、正子の良心をさいなみはじめるのだった。