現代小説「假面の令嬢」
「にっぽん」 1947.03. (昭和22年３月) より
（『決闘する女』『逆光線の彼方へ』収録）
妖しき令嬢出現
毎朝新聞社會部の少壯記者赤司三吉は、おそろしいほど美人だが、どこか謎の雰圍氣をたゝえた若い令嬢を銀座で見出した。大都会の夕まぐれ、彼が、ポケットに兩手を突込み、派手なマフラを首に卷きつけて足早やに尾張町を渡り過ぎようとしたとき、若い鮎のやうにひらりと體をひねって彼をよけてすれ違った女がそれであった。ジャスミンの香料がぷうんと彼の鼻をうつ。何氣なく振りかへって、彼女をながめて、三吉はハッとした。心臟がドキンと鳴ったやうに感じた。
夕暮とは云へ、街燈の灯にもあでやかな白く泛んだ容姿、それは、パンパン娘などには微塵も見えない理智的な輝くやうな美しさであった。有名な映畫女優や、評判の看板娘にも、これほど氣高く、魅力のある女を見たことがなかった。彼は文字どうり、茫然として見送った。しかも毛皮オーバーの下に覗いてゐる脚の線の美しさ。
三吉が、呆然と後姿を眺めてゐるうちに、それは人込のなかに見失ってしまった。
「ちぇッ、しまった。あの女性の後をつけて行けばよかったのに！」
さう思ひつゝ、ふと氣がつくと彼女の二三間あとから、こそこそと一人の男がついて行くやうだ。この男は、何者か？ そして、前の令嬢との關係は？ 疑問を彼に與へたままで、この二人の姿は全く見えなくなった。
彼は、なんとなく惜しいものを落したやうな氣持であった。數寄屋橋まで戻って來たが、彼はどうしても思ひ切れず、ふたたび出會ふ筈はないとわかりながら、彼女の通った路をたどって、あるき始めた。
燒け崩れた歌舞伎座の前を通りこして、右へ折れると、あたりは、妙に淋しい氣配につつまれる。
初戀の男のやうに、あとを慕って、ふらふらと行く、自分をあざけりながら、彼は犬のやうに鋭く感覺を働かせて歩いて行った。しかし、灰燼の都をこのやうに歩いて行く自分が、なんだか莫迦莫迦しくなって、踵を返さうとすると、向ふからよろめくやうに歩いて來る男を發見した。醉ぱらひかな、と、やり過さうとしてよく見ると、鳥打帽に鼠色の外套を着てゐる、さっきあの令嬢をつけていった男だ。ところが、三吉は、相手の顏を見て驚いた。
まるで死人のやうに眞青で、眼をぐわっと大きく見開いてゐる。びくびくとふるえ、ふらふらと歩いてゐる。妖しい雰圍氣をもった令嬢はどこへ消えてしまったか？ それにしても、あとをつけた男が、あのやうに蒼くなるのには、何か事情があるのではなからうか？ 彼の頭の中は、ふしぎな女のことで一杯になった。
二度目の登場
あの夜以來、三吉は、仕事も手につかず、社の退けるのを待ちかねては三原橋と築地の間を往復した。必ず、あの令嬢をさがし出して、その正體をつきとめてやらう。（※と、考えていた。）
しかし、なかなかと、彼女には、めぐり合はない。そして、奇妙なことは、社内でも、街でも、この妖しい令嬢が大分人々の話題の中心になって來てゐる。寝坊の三吉は、近頃すっかり早起きになった。彼は躍起となって、必ず築地方面から銀座界隈を歩いて、それから社に出ないと氣がすまなかった。朝と晩と、さらに晝休みまで利用してぶらついてみたが、かうなると妙なもので、目指す令嬢の影も形も見出せない。いたづらに、この女の話題だけたかまっていく。
かうして、敗戰國の寒い冬も漸くすぎ、春めいて來た。さすがの彼も根まけして忘れさうになったとき、思ひがけず、その令嬢と出會ったのであった。忘れえぬあの(※草冠に幼)艶な令嬢である。意氣な格子縞のスプリングを着て、紅色のスカーフで髪を包み、ふるひつきたいやうな典雅な美さをたゝえた姿であった。
三吉の胸は、高なった。彼女を妖しと思ふより、たゞその美しさにふるえた。
「おれは、この女に戀してゐるな！」と自ら云ひきかせ、何んとなく氣まり惡くて、アッといふまにすれ違ってしまった。まぶしくって、彼女の顏を仰ぎ見られない氣持だった。令嬢の方では、彼のことを認識してゐないのに、彼だけが夢中になり、頬までほてってくるのは、我ながら、恥しかった。
彼は、不覺にも體をかたくして身動きもできなかった。
あれ程あひたかったのだから、めぐり合へば、何かうつ手のある筈の彼は、ただぼうっとしてゐた。令嬢は、彼には一瞥もくれず、赤革のハンドバッグを抱へてさっさと歩いて行った。
「さうだ、こんどは、おれが、あとをつける番だ！」相手が數間行き過ぎて、ようやく我に返った三吉は、不甲斐なさにジリジリしながら、急に後を追ってみる氣になった。ところが、すでに、又もや彼より先に彼女を尾けてゐる男がある。堂々とした風采の男だ。三吉でさへ思はず、尾けてみたくなる女だから、他の男が尾けるのに不思議はない。
「女をつける男をつける男、それがおれの役目か？」
彼は自嘲に似た氣持をもちながら、ついて行った。
すでに夕ぐれのとばりは落ちて、薄ぐらく月もない。築地の停留所を過ぎるとさらに暗いところもあって間もなくまたしても彼女と、それをつけてゐる男まで見失ってしまった。まるで地の中へ吸ひ込まれでもするやうに、ふっと消えて見えなくなる。三吉は眼をこすりながら立ち止まった。
引返す氣にもなれず、彼がそこで未練らしくも、小一時間も立ってゐた。すると、また、いつかのやうに、くらやみから現はれた男。……足許が亂れてのめりさうになり、恐怖におののいてゐる顏は、さっき、尾けて行った男だ。三吉は度膽をぬかれた。
「なにかある！ しかもあの令嬢に關して？」
この前の男も凄まじい顏をして戻って來たし、今夜の紳士もこの有り様だ。ふたりとも、あの美しい女の後を追って行った人達なのだ。
恐いもの見たさ、――彼にとっては、恐怖も一つの魅力となった。二人の大の男が見るも無惨に打ちのめされたその相手が果してあのかよわい女なのであったとしたら、あの妖艶きはまりなき美女は一體何者なんだ！ 人間の皮をかぶった魔性の者か？
むかし、美人だと思って後をついて行くと、それが振りかへると美人は般若だったといふ話もある。まさか、現代にそんな妖怪が横行してゐるとも思はない。しかし疑惑をもった女だ！ 妖しい女ならばなほ更のこと、好奇心も手傳って彼の心は惹かれてゆくのだった。今度こそ出遇ったらば生命を賭しても正體を見届けずにはおかないとかたく誓った。しかし、その心の底には、彼はただ彼女に會ひたい氣持がつのるばかりだった。
三吉はこれがほんとの戀といふものではないかと思った。「牡丹燈籠」の物語で、お露に魅せられ、ひかれていく萩原新三郎、――あれと自分は同じで、妖しい令嬢にひかれてゆく運命が、この先どんな惨めな結果にならうとも、悔ひないとさへ思った。
嬰兒の腕
腿の節句もすぎるまで、三吉はあれぎり杳として彼女にめぐりあふことが出來なかった。はかない希望をもって、銀座街頭を毎夜のやうに歩きつゞけながら、空しくすぎてしまった。
「ちかごろ、銀座からパンパンガールの姿はへったけれど、むしろ有閑令嬢らしい娘がふえて、男の度膽をぬくことがちょいちょいとあるらしいよ。」
かう云ふ同僚のお茶飲み話が、かはされるごとに、彼の心はいたづらにあせってゐた。
三吉はもはや彼女に巡り合ふ希望が自分にはないといふやうな氣がした。彼は人の出盛る場所と云へば何處でも行った。或はそんなところで偶然遇へるかも知れないといふ希望も、いつも空しく消え、全く雲を掴むやうだった。
ある晩宴會があって、彼は珍しく、いつもの大事な宵の探索散歩を止めてしまった。會が終ってから、なんとなく、イライラ落ちつかず、道をぶらりぶらりと歩きはじめた。風は生暖かく、外套なしの輕るい服装でも、歩くと肌が汗ばむやうな春の夜であった。
雨あがりで靄が深く、空には細い弦月が出てゐた。彼はふと後ろに輕い跫音を聞いて、何心なく振り返ると、
「あッ！」と思はず聲を出してしまった。彼の傍をすりぬけて數歩先へ立った令嬢。ジャスミンの香が風に送られて彼の鼻をうつ。あの香！
「あッ、あの女だッ！」
三吉はもう夢中だった。ワンピースの裾もかろやかに歩いて行く令嬢の後脚の美しさ。彼はぶるっと身震るいをした。
彼は、人生における最大の決心をした。
「さうだ、こんどこそ、斷じて見失はないぞ！」
彼は眼をみはりながら尾けて行った。女は後につける人のあるのを知るや知らずや、さっさと歩みつゞけ、勝鬨橋の手前から左に曲り、忽ちまた折れて右へ往き左の小路へ入って行く。
三吉は何處を歩いてゐるのかまるで夢心地であった。ただ見えない糸に引き摺られるやうに、無我夢中で從いて行くといってよかった。
どの位歩いたか、ふしぎなことに、都會の中心から、餘り離れてゐないのに、都會の雜沓は、ばったり途絶えて、森閑とした一廓へ入って行った。
燒け崩れた家屋のあとは、鬼女が、にッと笑ってゐるやうな無氣味な姿をみせて、その上に細白くかすかに下弦の月が光を投げてゐる。
彼と彼女だけしかない、深海のやうな靜けさなところへ來た。そこで初めて、彼女は立ち止り、しづかに振り返り、そして無言でにッと笑った。その妖しきまでの美しさ、月の光に見る彼女の顏は青白く、鱗のやうに光ってゐた。
「とうとう、――、あなたも來ちゃったのねえ」
はじめて聞く彼女の聲、それは實に齒ぎれのいゝ凛とした美しい聲音だった。
「…………」
三吉は、返事ができなかった。しかし、彼は、勇を鼓して、ハッキリとうなづいてみせた。
「ぢゃァ――、こちらへいらっしゃい！」
彼女が顎をひいて、指先す彼方に、ぽつんと蒼ずんだ古風な門があった。
それを、ぐるりと取り卷いて、杉木立がそびえてゐる。
「あれは、寺の門ぢゃないかしら？」
さう彼が觀察する餘裕もなく、平然として門内に入って行く女のあとを追って、彼はついて行かねばならなかった。
石疊の上を、コツコツと小刻みに歩く靴音だけが、不氣味に反響してくる。ところどころ、石ころや瓦が積みかさねられてゐて、氣の弱いものには、妖怪變化にも見える。
夜も大分更けてゐた。あたりは森として物音一つしない。忽ち行く手にこんもりした森が迫って來た。その森の中に入ると、ぐるりと森にかこまれたまん中に、靜かな沼のやうな平地に出た。夜鳥が淋しい聲で啼いた。
「おや？」
三吉は周圍をよく見るとそれはこの寺院の裏山に當る墓場らしい。あちらこちらに、卒塔婆の燒殘りや、横倒れの石塔がある。無氣味に、亂雜な荒れた墓地のまん中へ近代的な装ひの令嬢に、彼はつれこまれたのである。
「なるほど、今まで尾けて來た男たちが、蒼くなる道理だ！」
下弦の蒼ざめた月の下に立った令嬢の奇怪な行動をみてゐると、彼も、はげしい不安におそはれたが、こゝまで來ては引きさがれない、ぢっと我慢をしてゐるのだ。
すると、令嬢は、至極落ち着いて、墓地の中の小さい一つの古ぼけた石碑の前に身をかがませた。何を始めるのか？ とみてゐるとやをら、彼女は、眞白い兩手で、えいえいと石碑をゆすぶり始めたのだ。
三吉は少々呆れてしまった。石碑は存外容易くたほされた。
すると、女は、そこに座りこむやうにして、こんどは、土まんじゅうを、さッさッと掘りはじめるのだ。まことに奇怪な行動が、蒼白い月光の中に浮んでみえる。暗い穴の中で白い二つの手は、はげしく踊ってゐるやうに見える。
「この女は、氣違ひではなからうか？」
半ばおどろきと怖れの中で、彼が突っ立ってゐるのも氣にかけず、くろく穴のあいた中から、女は、白木の小箱をとりだした。
彼女は、あたかも憑かれたもののやうに、その小箱の土を拂ひ、蓋を取らうと手をかけ、唇をゆがめ、指先をしなはせてゐる、と、メリメリっていふ音とともに蓋が開いた。彼女は、ニンマリと嬉しさうに笑ひ、その中を覗き込んだ。
もはや、三吉は驚きのあまり、聲も出なかった。蓋をとりはらはれた棺の中には嬰兒の死體が、兩手を胸に重ねて靜かに眠ってゐる。淡い月の光で蝋のやうな白い、眼をとぢた顏が泛びあがってゐた。
「これは、一體どうしたことだらう？」
彼の驚きをよそにして、女は、それをみると、眼を輝かせたが、やがて、イキナリ、嬰兒の腕を握り、ぐいと力をくはへて、ポキリとへし折った。三吉はあッと思った。次の瞬間、彼女はがぶりとそれに食ひついてゐた。そして、さもうまさうにぼりぼりと音まできかせて食べ始めた。
弦月は中天にあがって、いよいよ青く、腕を喰べる女の横顔を照らしてゐる。唇から頤へかけて、どろっとした赤黒い血が流れ初める。
三吉の眼に、その時彼女の顏が鬼のやうに見えた。
「なるほど、この姿を見せられては、誰しも逃げだす筈だ！」
彼も怯えつゝ、しかし、なにか負けてゐられない氣持があった。
女は、たべをはると、またもや左の腕をポキリと折っていきなり三吉の方へ差し出したのだ。
「さァ、召し上れ！」
彼は思はず二三歩後退さったが、ナニ、糞ッ、女に負けてなるものか、と勇氣を出して踏み止った。彼女が食べられるものを、男が好べられない道理がない。よし、おれも食べてやらう。
半ば夢中で、半ば恐怖のなかにありながら、彼は、眼を閉ぶって、勇ましくがぶりと貪ひついたのだった。
すると、なまぐさいどころか、一時スウッと齒にしみこむやうな甘さだった。これが果して、嬰兒の腕であらうか？ 甘いそしてうまい。彼は夢みるやうな心地で、夢中でたベてしまった。たべながら、よく味ふと、カリカリする骨は、煎餅のやうであり、ふっくらしてゐる肉は、小麥パンで出來てゐるやうだ。したゝる赤い血をなめると、
「おやっ！ これは、べっとりとして甘いも道理だ、いちごジャムぢゃないか！」
恐怖のどん底にゐた彼は、味覺によって、新しい事實を發見した。なンだ、この赤ん坊は、お菓子で出來てゐるのだ。さう判ると、彼の恐怖は消えた。そこで彼は、落ちつき拂って云った。
「うまかった。ついでにその脚もくはせてくれたまへ！」
彼の凛たるその姿を眺めて彼女は、どきっとしたらしく、思はずその手の中の箱をとり落した。そして、しばらくうつむいてゐたが、今はしほらしく女性の態度にもどって、
「ああ、あなたは素晴らしく勇敢な豪膽な男です。……私は敗戰後の日本の男たちを輕蔑してゐましたの。口では、女はくだらないパンパン娘ばかりだと罵るくせして、自分たちは、ヤミに夢中になってゐて、正しい再建の仕事をおろそかにし、しかも卑怯で、意地がない。
私のあとをつけて來た男は、大抵赤ん坊の死體をみると、ふるえあがって逃げていく男ばかりでしたの。
私はどうかして、男らしい、度胸のすっかり座った男を見つけ出したかったんです。そして、さう云ふ頼り甲斐ある方と結婚したいと思ったンです。
正義と力のある男の世界を見たかったのです。それが、今や、あなたのお出でゞ私は叶へることができましたの。……あなたさへ、お嫌でなかったら、あたしはあなたのものですわ。」
かう語り終ると、彼女は、美しい顏をあからませて、双の腕を差し出した。
「もはや、あなたのものです！」
と云った紅い唇は、愛の接吻を求めてふるえてゐる。
かくて、淡い弦月のもとで、彼は、力のかぎり彼女を抱擁したことであらう。
注）『決闘する女』では新かな新漢字ですが、ほかに（※と、考えていた。）の追加、数ヶ所の文字表現変更、会話最後の句点削除、…と―の違いがあるだけでほぼ同じです。
注）『決闘する女』では章は数字のみになっています。
「女スリ列車魔事件」
「にっぽん」 1947.04. (昭和22年４月号) より
深夜をはしる「魔の急行列車」――誰が名づけたか知らないが、大阪發東京行の最終列車にボクは乗りこんだ。魔の列車へ乗りこんだとて、ボクは、何も名探偵でも、武装警官でもない。ボクが商用で、新圓の札束を集金して、それを懐中の奥ふかくしまひこんで、梅田驛へ駈けつけたとき、今朝まで宿泊してゐたホテルのマネ－ジャーに出會ったのだ。
「この御夫人が、東京へ戻られるんですが、途中が危いので、知った方と御一緒に参りたいとおっしゃるんですが、イカガでせうか。」
ひきあはされたのは、ホテルで顏見知りの妖麗な夫人――ホテルのボオイたちが、それがし伯爵夫人だと噂してゐた女性で、近づけば、香りたかい香料が鼻をうち、豪奢な粋な洋装である。一人旅で夜行列車は恐いからよいお連れを探してくれと頼まれてゐたと云ふから、ツマリ、ボクは、態のいゝ用心棒に撰ばれたといふわけです。この位端麗な美貌の淑女と同席するチャンスは、なかなかあるものぢゃない。ボクが、魔の急行であることも忘れて、言下に「オーケー」と云ったのはモチロンである。
車内に入ってみると超滿員。荷物と人でぎっしり、ぐいぐい押されて、漸く片隅に、小さな座席をこしらへ、夫人のやはらかい膝を僕のそれがすれ合ふと、さも堪えがたいと云ふやうな表情で寄り添はれるので、僕は恐縮した。
「これ、イカガ？」
貴夫人は如才なく、煙草を出して僕にすすめ、まはりの人々にも、すゝめてゐる。
スルト、ふしぎなことに、タバコを喫った人々は、次第に頭をゆすり、ねむりだした。名古屋を出たころにはもう眼を覺ましてゐる人はない位、彼方でも此方でもいびきの聲である。夫人はとみれば、同じやうに、可愛らしい口を少しあけてうつらうつらしてゐる様子。ボクも安心して、コクリコクリし出して……ややしばらくして目をあけると、彼女が消え失せてゐる。
「ハテ？」と、疑惑が腦裡にひらめいたころ、マルデ蝶々のやうに身輕く人と人との間をすりぬけて彼女は歸って來た。トイレットへ行ったのらしい。僕は安心してまた眠った。スルト、急に冷めたい風が顏に當り出した。思はず細眼を開けると、意外や、夫人は、窓を細目にあけて、手品のやうに、紙入を一つ二つ三つと投げ捨てゝゐる。
夫人は、チラリとこちらをみて、僕が細眼でみてゐるとわかるや、タチマチ、ぎらりと光るものを、僕の胸もとにつきつけた。それは短銃だった。僕が驚きの聲をたてるまへに、イキナリ耳許に唇をつけて、
「オイ、みてたナッ、聲をたてると命がないぞ！」と、低いけれど押へつける聲で囁いた。
「えッ！」
「わかったからには、隠し立てしないよ、おれは、この魔の列車のオホカミ・リリーと云ふ女だよ。」
「あゝ、さうか、さうだったのか。」正體がわかれば、ボクはかへって、氣易さを感じた。怪しからん話だが、つい、好奇心と美しい女に對する浮氣の蟲が頭を擡げてきた。一つ口説いてやらうかナ、と無謀な氣を起したものです。「ボクは、刑事ぢゃないよ。しかし、キミが好きなんだよ。」
僕は密かに大切な集金を内懐中深く納ひ込み、ぐっと調子を落し膝の下の彼女の左手を握ってみた。すると、見られた弱味か、女賊の方もガラリと態度をかへ、ダマってにぎりかへす。右手で彼女はウヰスキーを注いでくれる。僕は飲んで愉快になった。膝の下では女の他の可愛いゝ柔かい左手がある。それをしっかり握りしめたまゝ、いつかぐっすり眠入ってしまったらしいんです。
「ヌマヅ……ヌマヅ……」
大きな驛員の聲に、ハッと眼を覺ました。見ると隣席の彼女の姿は、全く消え失せてゐるばかりか、大切な内懐中の札束も消えてゐる。
「チェッ。してやられた！ あの女スリ奴に――」
僕は齒ぎしりした。それにもかゝはらずなほ膝の下に彼女の手を握ってゐるんです。
それは實に巧みに造ったゴム製の手で、紅い革の手袋をはめてゐた。彼女は手首のところからプッツリはづして逃げ去ったのだ。そしてその手は二三枚の紙幣を握ってゐた。
「道中何かと御不自由の事故、少々ながらおすそわけします。手切れのしるしまでに――」
注）明かな誤字誤植は修正しています。句読点は変更したところがあります。
注）ボクと僕など不統一部分はそのままにしています。
「地獄の声」
「宝石」 1947.04. (昭和22年４月号) より
（『決闘する女』『逆光線の彼方へ』収録）
お母様！
結婚した翌日、なつかしい故郷に別れを告げて當地に來てからもう二ヶ月餘りになります。貧乏な、十九の田舎娘が、二十五も年長の人、しかも金持ちの學者の妻になるといふことに一番不安をいだいて下すったのはお母様でしたね。それはもうお媒酌人さんも云はれた通り夫はたしかに變人です。娯樂も嫌らひ社交も嫌らひですから友達もないらしく、來訪者は一人もありません。でも妻には大變親切で、ほんとに優しい人ですから私はしみじみ幸福者だと思ひます。どうぞ御安心なすって下さい。
裏九州といってもつい近くにはいゝ温泉場もありますし、とてもお暖かで住み心地のよいところです、是非一度いらして下さいませ。
六月十日 杉田梢
私の好きなお母様！
寫眞二葉送ります。小さい方は住居で、ポーチに立って眼をしょぼしょぼさせてゐるのは夫で、私が寫したのですがよく撮れてをりませう？ しゃくれた顎を掴んで考へ込む癖がなかったら、小づくりで髪が濃いから年よりずっと若く見えるんですが――。
大きい方は庭園で三千坪餘りもありませう。お大名の下屋敷を買ひ取ったのですって、只今は召使ひもゐませんから手が屈かず、裏なんかは草ぼうぼうとして蛇が澤山ゐるさうですから、私はまだまゐってみません。
住居は階上七室、階下十室、亡父好みの洋館です。客間は二十疊位で赤いペルシャ絨毯を敷きつめ、鼠色の壁には額だの、お皿だの、風景畫の壁掛だのがかけてあります。
食堂の前は中庭です。いまはバラが眞盛りで、窓を開けて置くと香水でもまき散らしたやうにバラの香が入って來ます。
建物は随分舊式で、家具も古ぼけてゐますが、亡父はよほど豪奢な生活を營んでゐたものと見え、食卓も食器類も皆高價なものばかりです。夫は構はない人ですから天井は雨漏りのあとが地圖のやうに廣がってゐるし、何處も彼處も荒れ果てゝ、いまは全くあばらやです。
御近所は空襲で全部燒けてしまひ、この邸だけが燒け殘ったので、配給物の時ででもなければ隣組の方とも顏を合はせることがありません。ほんとに人里離れた感じです。
段々生活が落ちついて來るに從って、時折り何とも云へぬ淡い淋しさを感じます。そんな時には鶏小屋を覗いて話しかけたり、兎に餌をやったりして氣をまざらします。
裏木戸を出ると溪流があって、やまめが澤山ゐるさうで、時には釣糸を垂れてゐる人を見ることもありますわ。何とかしてお友達がほしいと思ひます。話し相手がまるでないといふことは随分辛いことです。さよなら
六月十二日 梢
母君様！
きのふ、始めて街へ買ひ物に行きました。野菜は家の畑でとれますが、蛋白質が不足したので食料品をしこたま買ひ込んで、さて歸らうとすると、見馴れない婦人が追っ馳けて來て、「失禮ですが、此度いらした杉田様の奥様でございますね？ 私は空襲前までお近所にゐた者ですが、先の奥様はあれぎりですか？」と私の顏をじっと見るのです。そして、「おや、これは失禮、何も御存じないんですね、では、默ってゐればよかった、飛んだおしゃべりをして――。」と妙なことを云ふのです。私は先の奥様といふ一言が氣になったので、訊いてみたら、
「お一人は御疎開先でお亡くなりになり、後の方は疎開先へお荷物を取りに行かれたぎりお戻りにならないといふお噂さなので――。」
まるで夫に妻が二人もあったやうな事を云ふぢゃありませんか、そして慰め顏に、
「杉田さんは奥様運の惡いお方ですねえ、あなたはお三人目か知ら？ それともお四人目かしら、お若いのによくあんな淋しいお邸に御辛棒なさいますこと――。」ですって、私は呆れてしまひました。
「それはお人違ひでせう。杉田には私の前に妻なんかございませんよ。」と云ひ捨てゝ早々歸宅し、夫に話しますと、顏いろを變へて憤慨し、
「もう街へ出るな。怪しからん、惡口を云ふにも程がある、僕に妻があったなどゝ云はれては默っちゃゐられない。だが、他人の口に乗って、君までが僕を疑ったら承知せんぞ。」
と大變な權幕なんです。しかし、私以上に夫はそれを氣にしてゐるらしく、後になってからも頻りにその時の事を訊きたがり、どんな顏の女だったかとか、もっと何か話しやしなかったかとか、根掘り葉掘り問ひたゞすんですの。その晩は遂に夫は一睡も出來なかったやうでした、とても神經質です。
六月二十日 杉田梢
母上様！
あのことがあって以來、買物は勿論のこと、玄關の取り次ぎから、配給物を取りに行くのまですべて夫がするので、私は全く他人の顏を見ることがなくなりました。
世間とは没交渉だし、明けても暮れても夫だけとなると、不貞のやうですが他の人の顏が見たくなります。それに街で出會った婦人からあんな話を聞いてから、私は大變疑いっぽくなりました。
それに昨夜變なことがありましてね、ベットに眠ってゐた筈の夫がゐなくなりました。家の中はしんとしてゐて物音一つしません。枕許の時計の針は二時を指してゐます。私はしみだらけの天丼を見詰めてゐましたが、何んだか氣になるので、廊下へ出て、
「あなた、あなた！」と、よんでみましたが、返事がないので、家中探しましたがをりません。無論外へ出た様子はなく、扉はみんな内から鍵がかゝってゐます。
すると突然、遠くの方で、
「ぼしゃあん」といふ音がしました。恰度お風呂の中へ飛び込んだやうな――、私は直ぐお湯殿へ走って行きましたが、お風呂桶は空っぽで水をぬいたまゝになってゐます、勿論そこにもをりません。何んだか氣味が惡るくなったので、寝室へ戻り蒲團を被ぶってゐますと、やがて夫は靜かに歸って來たので、何處にゐたのかと訊きましたら、研究室だと答へ、むっつりして不機嫌な顏をしてゐます。
研究室は二度も三度も行って見たのですが、ゐませんでしたのに、不思議です。
「ぼしゃあん、なんて音、僕は聞かなかった、夢だらう、君はよく寝とぼけるぞ、夢遊病者ぢゃないか。」なんて失禮なことを云ふのです。
私はその「ぽしゃあん」といふ音が耳の底にこびりついてゐて眠れませんでした。私も少し紳經衰弱になりかけてゐるのではないでせうか。夫の氣難しいのにも困ります。
でも、表面は至極平和に暮らしてはをります、が、私は何んだか落ちつけなくなってしまひました。こんなだだっぴろい屋敷にたった二人ぎりで住んでゐるのがいやになりました。どうも辛棒が出來さうもありません。誰に會ひたいと云ふのでもないんですが、人が戀しいんです。夫以外の人の顏が見たいんですわ。話がしたいんです。
この頃、ちょいちょい兎小舎に泥棒が入ります。今日行ってみたら、どうでせう、一疋もゐないんですの。早速夫に告げますと、
「盗む奴には盗ましておけ、食糧がないから無理はないさ。戰爭中と違って、今ぢゃ兎はいくらでも買へる、そのうち澤山買ひ込むからいゝよ。」と平氣で笑ってゐるんです。怒るかと思ったら。
どうも夫の心はわかりません。
六月二十七日 梢
おかあさま
今日はいつになく夫が上機嫌で、一緒に庭を散歩したり、ベランダでコーヒーを飲んだりしました。夫はコーヒーを上手にいれるのが自慢で、ウヰスキーをいれて何杯も何杯も飲み、珍らしく頬を赤く染め、私の腕を握って、色が白いの、すべっこいの、よく肥ってゐてうまさうだな、なんて冗談を云ってしげしげ眺めてゐたかと思ふと、急に私を突き退けて兩手で頭を抱へ、アーいけない、いけない、駄目だ！ 俺には――、あゝ俺には出來ない、なんてつぶやきながら今にも泣き出しさうな顏をするんです。
夫の醉ぱらったのを始めて見た私は可笑しくって、可笑しくって、お腹を抱へて笑っちまいました、が、夫は眞面目て大層悲しさうでした。ほんとに妙な人ですわね。
六月二十八日 梢
お母様！
ゆうべもまた夫の姿が見えなくなりました。私はこの前の時のやうに、家中探しましたが、をりません。
窓を開けると月は皓々と照って晝のやうに明るいんです。仄かなバラの花の香に私はうっとりとしてゐますと、裏庭の方から忙しさうにすたすたと歩いて來る夫の姿を見ました。片手には白い細長いタオルのやうなものをぶら下げて――、よく見ると白兎でした。兩耳を掴んでゐるので、兎は四脚をだらりと垂れてゐるから、大變細長く見えたのでせう。
「どうなすったの？」と聲をかけますと、夫は非常に愕いたらしく、びくっと肩を震るはせて立ち停り、窓を見上げましたが、その顏の青さったらありませんでした。
「また盗られかけたんだよ、此奴が――。」と、申して、兎を高く差し上げて私に見せました。
夫の云ふのには異様な物音に眼を覺まして窓を開けると、この白兎が小舎から出て庭を逃げ廻はってゐるので掴まへに出たのだが、その時人の逃げる跫音がした、泥棒に違ひないが姿は見えなかったさうです。
六月三十日 梢
なつかしいお母様！
恰度一時半です、またしても、
「ぼしゃあん」といふ音を聞きました。庭の何處かに古井戸があって物が落ち込むのではないかと想ひます。夜は樫の實一つ屋根に落ちてもびっくりするやうな大きな音をたてるものですからね。
夜が明けてから庭中調べましたが井戸はありませんでした。「ぼしゃあん」といふ音がどうも氣になって仕方がありません、どうかしてその音の出所を突き止めたいと思ひます。私はこの頃判で捺したやうに午前一時となると目が覺めます。夫は殆ど毎夜寝室を脱け出し、四五十分すると戻って來ます。決って眞夜中に姿を消すところを見ると何か秘密があるには違ひありません。妻に秘すことと云へば大概想像がつきます。好きな人とのあひゞきとしか考へられません。
秘密の戀！ 眞夜中だけしか會へないその婦人はまあどんな方でせう？ きっと、きっと、眼のさめるやうな麗しい人に違ひありません。バラの花のやうな香のする女でせう、さう思ふだけでも、胸の中を燒火箸で引っ掻き廻はされるやうですわ。
七月二日 梢
私のお母さま
柱時計が二時を打ちました。今までよく眠ってゐた夫は突然むくむくと起き上りじっと私の寝息をうかゞってゐましたが、やがて、跫音を忍ばせ、素足のまゝで部屋を出て行きました。今夜こそは見届けてやらうと私もつづいて起ち上りました。
夫は跫音をたてないやうに一段々々階段を忍び降り、食堂を通りぬけて臺所の方へ行くぢゃありませんか、私も無論尾いて行くと、臺所の大きな電氣ストーヴの後ろに夫は潜り込み、ごそごそやってゐたかと思ふと兩手で壁をぐいっと押したものです。意外にも壁は三尺四方程うしろへずり退り、そこから地下へ降りる梯子段が見えました。そんなところに扉があったとは今の今まで少しも知りませんでした。それに近頃は電力が弱くて使へないのでストーヴの事なんか念頭にありませんでしたから。
私は一足々々辷べるやうに中段まで降りて來ました時、突然、
「ぼしゃあん。」といふ音、私はハッとして立ち竦んでしまひました。
あの怪しい音は此處だったのか、なる程、眼下に見える地下室の半分は池で、黒っぽい水が漫々とたゝへられ、大きく波を打ってゐる、池のぐるりは嚴重に金網が張ってありました。夫は背を向けてゐますのでよく分かりませんが、隅に置いてある瓶の中へ手を突っ込んで何か探ぐってゐるらしいのです。私は眼を皿のやうにして見てゐると、夫は一尺程の棒のやうなものを掴み出しました。
何んだらう？
私は呼吸が止る程仰天しました、棒のやうに見えたのは人間の腕――、手首のついた――、五本の細い指まで――。
女の片腕！ 私は棒を呑んだやうに全身が硬ばり、逃げ出したくも足が動きません。何處からか月の光が青白くさし込んでゐます。夫はその腕を池の中へ投げ込みました。
見る見る泥水がむくむくともり上り、黒い大きな山のやうなものが現はれた、と、見ると、山は凄しい勢でしぶきを飛ばし、きりきりと廻轉するのでした。
波間に見えたのは、あゝ、思ふのも恐しい女の腕をくはへた鰐でした。鰐は餌物を食ひちぎらうとしては、體をくねらし――、背を返へし――、この地獄の繪を月光は青く照らしてゐます。
私は氣を失ってしまひました。
七月四日 梢
戀しい母上様！
七月四日以後の事を書きます。あれから大分日がたちますが、恐しい光景はいまだに私の頭を離れません。
さて、氣がついた時、私はベットに寝かされてゐて、傍には心配さうに夫がついてをりました。すまないことですが、その顏がまるで鬼のやうに見えました。私はぞっとして蒲團を頭から被ぶり、ガタガタ震えてゐました。
鰐に與へたあの腕はほんとうに人間の腕だったでせうか、或はさういふ風に見えたのではないでせうか、いゝえ、やっばり――、私の眼が間違ってゐたとはどうしても思へません。
亡くなつた奥様もあるし、行方不明の奥様もあった、と、あの街の婦人が云った言葉がしきりに私の頭の中を往来してゐます。
もしかしたら――、あゝ、そんな怖ろしいことは考へますまい、夫にかぎって――。
夫も私も地下室のことは一言も云ひません。それでゐてお互ひの心を探ぐり合ってゐるのです、が、私はいつまでもそんな風にしてゐるのがいやになりました。何も知らなければそれまでのこと、知ったからにはほんとのことを打ち開けて貰らひたい。と云って、何ときり出したものか、ひとの秘密に觸れることなのでどうにも云ひ出しにくいんです。私は夫のすゝめるものには、何一つ手をつけず、飲まず食はず眠りもしないで考へながら遂々二日過ぎ七月六日になりました。夫は術なささうにしょんぼりした顏をしてゐます。
私はベットに坐って考へ込んでゐますと、夫は青い顏をして物思はしげに入って來て、默ってベットの傍に椅子を運び腰をかけましたので、私は下を向いたままで、
「ねえお互ひの間た秘しごとがあっちゃつまらないから――。」やっとこれだけ云ひかけますと、夫はその言葉をおさへるやうに、
「そのことなんだ、僕もそれを君に――。」と、どもるやうな口のききやうをするんです。何だか氣の毒になってしまひました。見ると顏は緊張してゐるし、小鼻の上には油汗がじっとりにじんでゐるんです。思ひなしか一日二日のうちにすっかり頬がこけて頤が益々尖って見えます。彼もまた苦しい日夜を過してゐたことがその憔悴した様子を見ただけで分かります。私は急に夫が可哀想になって來ました。過去にはどんなことがあらうとも、私にはほんとに優しいいい夫です。このひとと離れることがどうして出來ませう。
やゝ少時、夫はうなだれてゐましたが、
「何も彼も告白して、許して貰らはなければもう苦しくって――。どうか、同情をもって僕の話を聞いてくれ、僕は全財産を君に譲って上げようと思って、いま遺言状を書いたところだよ。」
私は返事をしませんでした、夫は慌てゝ、
「君の氣持ちはよく分かる。僕を信頼出來なくなった、恐ろしい人間だからいやになった、ね？ さうだらう？ それは仕方がないとして、たった一つ、これだけはどうしても君に信じて貰らひたいんだ。それは僕がほんとに心の底から君を愛してゐるといふことだ。その君が、僕が恐はくなって逃げ出さうとしてゐる、僕にとって、それはどんなに辛い、悲しいことだか――。
僕はどうしても君を離したくない、離せないんだ、君は僕の生命なんだもの、しかし、やっと――、僕はやっと決心がついたんだよ。愛する人を幸稲にしてやること、つまり、自由にしてやることだ。」
「そんなことよりか、あなたの秘密を打ち明けて下さい。」
「打ち開けるよ。あゝ、すっかり話す、だから少し辛棒して僕の告白を聞いてくれ。」
「えゝ、早く仰しゃって下さい。」
「僕はね、幼少の時から變ってゐたんだね、友達といふ者は一人もなかった。母には早く死別して顏も知らず、兄弟もなく、親類もないので父だけが頼りだった。だから僕は父に連れられて任地を轉々してゐたんだ。友達のない、しかも不思議と人間を好まない僕が、ある日、一尺ばかりの鰐の兒を買って貰らった、勿論おもちゃにさ、痩せて、美しい斑點を背に持った可愛いゝ恰好の――、僕は鰐と一緒に遊び、一緒に暮らしてゐた。
鰐は段々育ち、僕も段々大きくなった。僕は何よりも鰐を愛したが、勿論先方では愛してゐるかどうか分らない。腹が空いた時は食はうとするからな、僕の足の疵はやけどだと云ったが、實は彼奴にくひつかれたんだ。
そんな奴だが、どういふものかあの鰐が好きだ、可愛くてならない、この屋敷の地下室には秘密の池があって、昔、大名が何か飼ってゐたらしいといふ話を聞いて、父にせがんで買ひ取って貰らひ、彼奴の住居にあてることにしたんだ。この物のない時に鰐を飼ってゐる事が世間に知れてもうるさいからね。それで雇人全部を追ひ出してしまひ、不自由な思ひをし、交際を斷って暮らしてゐたんだ。君が街で婦人から聞いたといふ話は決して僞りではない、事實だ、僕は四人も妻を迎へた、君が五人目だよ。
何もそんなに吃驚することはないぢゃないか、女の腕も見たんだし、うすうす感づいてもゐるだらう。僕は四人の妻を犠牲にした。
君も氣がついてゐるだらうが、鰐は夜になると活動する。水の中へ入れば猶更勢ひがよくなるが――。晝間はいたっておとなしく、日向ぼっこが好きだし、よく晝寝をする、だからまことに靜かなんだ。
最初の妻は地下室に何か秘密があると知って、僕に無斷で入ったんだ。その頃はまだ金網が張ってなかった、放ち飼ひだったんでね、明るいところから急に晴い地下室に降りたのでよく見えなかったものか、鰐の傍へ行ったので忽ち足の肉を喰ひちぎられた。彼女は怒って、僕を相手取って訴へると云って泣き叫ぶので、つい――。他の鰐はどうだか知らないがね、家の奴はとても喜ぶのでくれてしまったよ。」
と、事もなけに云ってのけるのです。私は餘りの怖ろしさに聲も出ませんでしたが、
「四人も犠牲になすって、よくそれが世間に知れませんのねえ。」と云ふと、
「だから、僕は身寄りのない、遠方の人とばかり結婚してゐる。殊に空襲以來はみんな自分のことにかまけて他人の事なんか注意する者はゐないので疑ふ者はなかったよ。君の見たあの腕が最後で、もう鰐の好む餌はないんだ。仕方がないから兎許りやってゐたが、併し僕は君を食はせる氣にはなれたかった。」
私は身ぶるいしました。夫は頭を抱へ、髪の毛を掻きむしった、私は彼が發狂したのではないかと思ひ恐はくなりました。こゝまで書いたらすっかり疲れて熱が出て來ました。また明日書きます。
九月十日 梢
お母様！
昨日の續きです。
夫は少し氣が落ちついたと見えて、むしった髪を撫で上げながら、
「君は僕の罪を許してくれるだらうね？ そして秘密を口外しないと約束してくれるだらうね？」と申すのです。おとなしく物靜かに云ふのですが、私の返事次第ではどう態度を變へるか分らないので、
「鰐さへ始末をつけて下されば――。」
夫は悲しげな沈んだ顏をしてゐましたが、
「正直のところ、君も犠牲にする積りで結婚したんだが――、あの頃の僕と今の僕とは君に對する氣持ちが變ってゐる。僕はほんとに君が好きなんだ、君なしでは生きてゐられない、君がどうしてもいやだと云ふなら僕は思ひ切って、決心をしよう。今夜、正十二時を合圖に地下室へ行って、僕が鰐の始末をつけるところを見屈けてくれ。」
と云ふかと思ふと、兩手で面を覆うてすゝり泣きながら、部屋を出て行くのでした。
約束ではありますが、あれ程愛してゐるものの始末をつけるところなどどうして見に行かれませう。それも私が云ひ出さなかったら、夫は妻を犠牲にしても、可愛いゝ鰐を犠牲にする氣はなかったのでせうから。
遂々約束の十二時になってしまひました。
「梢！ 梢！」
遠くの方でよんでゐます。云ふまでもなく地下室にゐる音の聲なのですが、それがまた妙に淋しく響いて、まるで地獄からよんでゐる聲のやうなのです、地獄の聲、私はぶるぶる慄るえてしまひました。
「早く來い！ 梢！」
重い足を引き摺りながら臺所へ行くと、ストーブの後ろの壁がぱっくりと口を開いて、私を迎へてゐるのです。私はよろよろしながら階段を降りました。
夫はひどく興奮して落ちつきません。鰐は水中深く沈んででもゐるのか、水面は鏡のやうに靜かで、月光が一筋長く線をひいてゐますが、それすら少しも動揺しません。夫は手にピストルを持って、池の前に身構まへてゐます。
鰐さへ始末して下すったら――、と、云った私ですのに、今夜だけはどうぞ姿を現はさないでくれゝばよいがと、矛盾した話ですが、心に祈らずにはゐられませんでした。
それが通じたものか、小波一つたてず、鰐はおとなしく水中にもぐってゐるらしいのです。
夫は少し焦れ始めました。水際を彼方此方歩きながら、低く口笛を吹きました。
すると、突然、黒い岩のやうなものがもり上ったやうに見えましたので、私は全身がかたくなってしまひました。夫はいく度か狙いを定めては撃たうとするのですが、撃てません。そのうちにどう氣が變ったのか、俄かにピストルを投げ出し、池中めがけてぱっと身を跳らせました。
「ぼしゃあん。」
水煙がさっと高く上りました、はっと思ふ間もなく、恐ろしい勢ひで、大きな眞黒い岩は――、いゝえ、餌物にありついた鰐はその體をくねらし――。
私は眼がくらみ、氣がてんとうして、もう何も分らなくなってしまひました。
が、その時ちらりと私の眼にうつった夫の顏、それはいまだ見たこともない喜悦と滿足とに輝いてゐたことでした。
思へばながい惡夢でございました。
九月十一日 杉田梢
注）明かな誤字脱字は修正しています。句読点は追加変更したところがあります。
注）各手紙の間に一行空けを追加しています。
注）題名は初出は絵のため「地獄の声」ですが『決闘する女』では「地獄の聲」になっていますが本文は新漢字「声」を使用しています。
注）宛先名の末は初出は「！」がありますが『決闘する女』では有無混在です。その他、言いまわしの違い、句読点の違いがあります。
「夢をのせた車」
「モダン日本」 1947.05. (昭和22年５月) より
（『決闘する女』『逆光線の彼方へ』収録）
１．入社試驗
貴美子はいま迄は他人ごとのように思っていた就職難を、この頃になってひしひしと痛感するようになった。彼女が職を求め始めてから半歳余りにもなるがいまだに思わしい口がなかった。僅かな預金も残り少なくなり、終戰当時から三年越しの賣り食い生活に、家財道具も目ぼしいものはあらかた失くし、箪笥の中もいつかがらがらになってしまった。
毎蒻、起きると第一に見るのは新聞の廣告欄だった。そこに事務員募集でも出ていれば早速出かけてみる。何十通も書きためて置いた履歴書も殆ど使ってしまった。
「一層、ヤミやさんにでもなろうか知ら！」彼女は氣を腐らせていた。
母と二人暮しの無職者で銀行から引き出せる金はたった四百円、この物價高ではどうにも暮らしようがない。
「いまに、シュミーズ着て往來歩くようになっちまうわ。」と笑ったが、その声はまるで泣いているようだったので、母は胸を刺される思いがした。
朝のみじまいをすまし、大いそぎで靴下の破れをつくろってから、
「では、お母さん行ってまいります。どうせ無駄だとは思いますけれど――。」と洋服を着換えた。
「いゝところがあったの？」
「いゝところなんか。」と苦笑して、新聞を丁寧に疊みハンドバックの中に入れた。
「もう、私、仕事の撰り好みなんかしちゃいられないんですわ。どんな事でもいゝから早く勤めたい、斯うして遊んでいるのは辛いんですもの。日一日と物はあがるばかりだし、高い高い高いって話を開くだけでも息が詰まるような氣がする。ほんとにお母さん、私、居ても起ってもいられない氣持ちなのよ。いよいよ誰も使ってくれなければ露天商人にでもなる決心でいるんですから。」
母は彼女のいらいらしている顏を見ると何と云っていゝか返事につまったので、手の届くところにある新聞を引き寄せて見始めたが、急に空模様を案じ出し、
「お傘、持っていらっしゃいよ。南寄りの風後雨とあるからね。」と話をかえた。
「いやよ。このいゝお天氣に雨傘なんか持って歩くの。」
「だって、近頃であたるものは天氣予報だけだなんて云う位だもの、用心に持った方がいいでしょう。」
「この頃の世の中、あてになるようなもの何だってありゃしないわ。」貴美子は不機嫌だった。
それでも家を離れて外へ出るといく分氣が変ってさっぱりした。
「家の中の空氣ったら――、ほんとに堪らない、消極的な話ばかりで、毎日お金、お金、最後には着物を包んで交換所へ馳けつけるのが落ちなんだから。積極性のない生活なんか溝の中へ叩き込んじまえ――、だ。」とだんだん元氣になって、足も軽くなった。家を出る時はいつも勢がよかった、それは多少なりと希望があるためだったが、頼みにして行った先が思わしくないと、帰りにはげっそりとして、疲労と落胆とで、しょんぼりとすぼんだようになるのだった。
今日見た廣告は日本橋の東京××株式会社というところでの募集であった。
行ってみると大して結構な口でもなさそうなのに、應募者は列をなして、ビルヂングの階段から往來へまではみ出していた。十人採用するというのに、この人数では――、と、眼で数えただけでも二三百人はあった。
二時間ばかり殿に彳んでいると、階段口に詰襟服の男が現われて、メガホン代りに大きな口に両手をかざして、
「今日は折角お出で頂きましたが、社長さんの御都合で、面会は取り止めになりました。履歴書御持参の方は受附へ出して置いて下さい。追って採用試險の日取りその他は当方から個人々々に御通知するそうです。御苦労様でした。」と声を張り上げた。
應募者はがっかりして、
「何のこった。散々人を待たして置いて、今ごろになって――。」と勇敢な婦人は眉を上げて憤慨した。
「履歴書だけなら郵便でいゝんじゃないか、時間と足代を損しちゃった。」とみんなぶつぶつ云いながら、それでも履歴書を受附に出して、引き揚げた。
貴美子は一番最後に受附に行った、その時社長室と書いた部屋では賑やかな笑い声がして、給仕の女がお茶やお菓子を運んでいた。
天氣予報が当って、会社を出ると、ぽつりと大粒の雨が顏にあたった。いつか空はすっかり雲に覆われて、生温い風が雨をよぶように吹いていた。いまにもざあッとやって來そうな模様なので、彼女は寄り道もせず、慌てて八重洲口の方へ行った。
２．親切な運轉手
東京驛からあさがや驛に着いた時にはフォームまですっかり雨にたたかれて、太い雨垂れが昇降口に滝のように落ちていた。
貴美子はどしゃぶりの中を走って。パスの停留所へ馳けつけた。そこには七八人の人がづぶ濡れになって立っていた。頭髪を風呂敷ですっぽりと包んだのと、ネッカチーフを被ったのとの二人が、ひょいと此方を向くと、
「あらッ。」という声が、一緒に出た。
それは貴美子と同じクラスにいた頼子と三輪子というタイピストであった。
「今、お帰り？」と貴美子が訊いた。
「えゝ。今日は重役会議があったので、旱く退けたんですが、途中で雨宿りなんかして遊んでいたもんだから――。」と三輪子は頼子を顧みて笑いながら、
「あんた、あんなところでおしる粉なんか食べなけりゃよかったのさ。寄り通しなければ今頃は家へ帰っていたのに。」
「オホヽヽヽヽ。おしる粉やを出たら、映画見ようって云った人誰さ。ねえ貴美子さん、三輪子さんたら、人に罪を被せるけれど、日比谷映画劇場の前で動かなくなっちゃったのよ。」
「いゝわよ。おしる粉食べたら、また他の店へ入ろうって云った人があるのよ。頼子さんはそんな食いしんぼじゃございませんけれどもね、オホヽヽヽヽヽ。」
雨に濡れるのも苦にならないように、二人はキヤャッキャッと笑い興じていた。それを見ているといかにも樂しそうで、貴美子一人が惨めな者に思われて肩身が狭かった、それかと云って一緒に笑うだけの元氣もなく、段々と氣が減入ってしまうのだった。
一としきり騒ぐと、此度はまたバスの來ないのが氣になり出したらしく、雨の往來を透かして見ていたが、
「どうしたんでしょう？ また故障かなあ。」三輸子は靴をばたばたやりながら、待ちどうしがった。
雨はいよいよ烈しく本降りになって來た。貴美子の被ぶっているハンケチから雫がぽたぽたと落ちて頬がぬれた。バスは一向に姿を見せないので、待っていた人は一人へり、二人へりして、いつか三人だけになっていた。
「焦れったいなあ。あゝ、お腹が空いちゃった。」頼子は二人を見て、
「どう？ 一層、みんなで歩いちゃわない？ 思い切って出かけましょうよ。」
「そうね。同じ濡れるなら、少しでも先に進んで濡れた方がいいわね。だけれど、貴美子さんは私達より遠いんだから少し可哀想だけれど。」
「いいわ。皆さん、歩くんなら私も歩くわよ。」
三人は肩を竝べて歩きかけたところへ、すうっと音もなく鼠色に塗った大型の自動事がよって來て、
「乗っておいでよ。」とドアを開けてくれた。
「あら、有難いわ。何んて親切な運轉手さんでしょう。」
「ほんとに乗せてってくれるの？」
「すまないわねえ。」
三人は轉がるように飛び乗ると、運轉手は白い手を延ばしてドアをばたんとしめて、
「あんたたち、何処まで行くの？」と訊いた。
「みんな成宗だけれど、その人だけが少し遠いのよ。でも、乗せてってやって頂戴よ。」
と三輪子は貴美子を指示した。運轉手は振り返った、その顏は女のように肌めごまかで綺麗だった。
「あゝ、助かっちゃった。やっばり自動車はいゝなあ。」
「この車、とても高級ね。」
「でも、こんないゝ運転手さんが、いま時あるとは思わなかった。これ、たしかに円タクぢゃないわね。」とみんなころころと喜んだ。
「皆さん、お勤めの帰り？」と運轉手が話かけた。
「そう。だって遊んでいちゃ食べられないんですもの。」と三輪子が甘えた声を出した。
「お勤め面白い？」
「愉快だわよ。」
「自分で働いてとった金、使い心地がいゝでしょう？」
「さうよ。それにね、いつまでも親からお小遣貰らっているなんて、氣が利かないじゃないの。」と頼子は得意になって、うっかり云った言葉に、貴美子は耳が痛かった。
「稼いで、せっせと買い食いするんだね。おしる粉食べたり、みつ豆食べたり。」
「あら、当っちゃったわ、オホヽヽヽヽ。」
「知ってるのね。運轉手さん見ていたのか知ら、オホヽヽヽヽ。」
三輪子と頼子が面白そうにはしゃいでゐるのに、貴美子一人は默りこくって沈んだ目をしているのを、運轉手は早くも見て取ったのだろう、二人を成宗の停留所で降すと、あとに残った彼女へ、優しく言葉をかけた。
「あんたはおとなしいね。何処なの、お家は？」
「やっばり成宗なんですけれど、向うの角を右に折れて、ずっと行くと畑通になるんですの。そこで下して頂きたいんです。」
運轉手はうなづいた。いまの二人に引きかえて、元氣のない彼女へ、何かしら慰めてやりたいような氣がしたらしく、
「君もお勤め？」と云うことがないので、こんなことを訊いた。
「いゝえ。」と頭を振って、消え入るような溜息を吐いた。
「遊んでるの？」
「いゝえ。」
「変だなあ。」
「就職口を探してるんですの。もう必死になって――、でもねえ、いゝところがなくって困るのよ。」と悲しそうに語尾が震るえていた。
「世話して上げようか。」
貴美子はからかわれたような氣がしたが、
「えゝ、どうぞ。」と云ってしまって、はっとした。見ず知らずの人に就職の世話をして貰うなんて、いかに困ってもあんまり軽卒ぢゃないか、母が聞いたらどんなに嚴しく小言を云うか分らない。
「お嬢さんの家族は？」
「たった二人です。母と私きり。」
運轉手は一寸默っていたが、またぽつりぽつりと云いはじめた。
「お嬢さん、自動車に乗るの好き？」
「大好きですわ。円タクの沢山あった頃にはお母さんも私も電車になんか乗らなかったわ。箱根位までドライヴしたこともあるわ。」
その頃は父も生きていたし、生活の心配なんか夢にもしたことはなかった。貴美子はふと当時を思い浮べて淋しくなった。
「ぢゃ、朝から晩まで、一日中でも乗ってゐられる？」
「ゐられますとも。」と云ったが、ふと氣がついて、
「でも、私、バスの車掌さんには迚もなれませんわよ。」
「アハヽヽヽヽ。ちがひない。」
「ただね、乗っているんなら好きなんですけれどねえ。」
「ぢゃ、僕と一緒に毎日乗ってくれますか。」この優しい人と一緒に乗ることは決していやではなかったが、何だか恥しくって直ぐには返事が出來なかった。
「お勤めと同じ時間だけ、そして月給上げますよ。」
「まあ、そんなこと――。」貴美子は一寸びっくりした。
「ねえ、いゝでせう？ 好きなことで金がとれるんだから――。」と彼は笑った。
貴美子は眞赤になり、胸がわくわくした。
「やっぱり、これも就職なんですよ。」
こんなうまい勤め口が世間にまたとあるものぢゃない、彼女はかぶりつきたいやうな氣持ちだった。
「ほんとですの？ ほんとに採用して下さるんですか？ 何んだかあんまり結構過ぎて、夢みたいねえ。」
「信用して下さい。眞劍で話してるんですよ。約束してくれますか。そんなら僕の方も打ち開けて話しますがね、さうすりゃきっと安心するに定まっているがなあ。」
「どうぞ、お願ひいたしますわ。」と彼女は丁寧に頭を下げてから、こそこそとハンドバックの中を探していたが、
「ないわ。」小さい声で云ったのを彼は聞き咎めて、
「ない？ 何がないの？」
貴美子は一層赤くなって、
「もう一枚入れて來た筈でしたが、私の思い違いでせう、履歴書がないんですのよ。履歴書がなくっちゃいけないんでせう？」
「そんなもの、」と吐き出すように云って、「アハヽヽヽヽ。履歴書なんか紙屑ですよ。ほんとに採用しようと思う僕なんかに取っちゃ、當人を見て決定すればいゝんです。あんなもの問題ぢゃない。」
貴美子は一番大切だと思い込んでいた履歴書が物を云わない社会があるという事を始めて知って驚いた。當人を見ただけで決定するのだと彼は云うが、自分の何處に採用して貰らえるだけの價値があるのだろう。彼女は少し不安になった。就職々々と狂氣のようになって奔走してはいるものの、まだ実際に人に使われたということはなかった、少しく経験があると云えば、戰爭當時学校から徴用でしばらく工場へ通っていた位なもの、それとてもいゝ加減なもので、今思うと友達と遊んでいたと云ってもよかった。
だから、実社会に踏み出すのは、こんどが始めてだった。
「何んなら、僕から君のお母さんに話して上げてもいゝですよ。」と運轉手は煙草に火を点けて、
「実はお嬢さんのような人、随分探していたんですよ。突然、きり出したから面喰ったでせうが、一つ、ざっくばらんに打ちまけちまいませう。実は僕は警視廳の者で、何んて云ったら早分りがするだらうなあ。あゝ、さうだ、探偵なんですよ。」とずばりと云って、
「アハヽヽヽヽ。びっくりしましたか。」
探偵といへば惡人を捕へる鬼のような凄い男だと思っていたのに、何んとこの探偵は優美な青年で、惡漢を向うに廻わして取っ組んだって到底勝てそうもなかった。
「もう一つ吃驚させることがあります。僕は女ですよ。」
探偵と聞いた時より更に驚いた。貴美子は声を呑んで、ただ、眼を瞠っているばかりだった。
「驚きましたか？ え、お嬢さん。しかし、婦人警察官のある現代に、女刑事、いや、女探偵があったって不思議はないぢゃありませんか。」
彼女はうなづいた。警察官だと云うことと、男でなくって女であったと云ふこととで、貴美子はすっかり安心してしまった。
「そして、私のお勤めはどんなことなんですの？ 私に出來ますか知ら？」
「お嬢さんにですか？」
「あら、もう、お嬢さんなんて仰しゃらないで名をおよび下さいね。私、藤森貴美子と申しますの。」
「あゝ、さうですか、僕は香川保子。」と二人は始めて名乗り合った。
「それでお仕事は？」
「難しいことはないんですよ。僕の傍にいれば自然に呑み込めます。殆ど毎日東京中を自動車で飛び廻はっているんですよ。ある時は捜査に、ある時は防犯に、また警戒の任に當る時もあります。あなたのような人と一緒にいると仕事がやりいゝんですよ。犯人という奴はすばしこくって、実に敏感ですからね、僕が探偵たと分ったら、もう駄目、どうにもなりません、それであなたがいればお客を乗せているように見えるしね。」
「怖いことはないんでせうねえ。」
「怖いことはありませんよ。僕は女だから格闘なんかしませんもの。直接手を下して逮捕するようなこともありませんから心配ないですよ。つまり、敏捷に立ち廻って、係の方に報告するだけなんです。早い話がね。犯人を捕える人間は別にあります。」
「ではどうぞよろしくお願ひいたします。」
「お母さんに御相談なさらないでもいゝですか？」
「構いませんわ。ただ就職口が定まったとだけ云って置きます。母は苦労性で自動車で飛び廻わるのだなどゝ申すと、直ぐ衝突でもしやしないかと心配して反対しますから、それに仕事の内容なんか話したって分かりませんし、默っていますわ。」
「あゝ、さうですか。月給は千圓ということになっていますが、別に手當がつきますよ。」
「まあ。」警察官の待遇はよくないという話は聞いていたのに、馳け出しの自分に千圓の月給を拂って、その上に手当がつくなどとは思はなかった、こんないヽ口がまたとあろうか、貴美子は嬉しくって、一刻も早く帰ってこの月給の話を母に語ったなら、どんなに喜んでくれるだろうと思った。
「それでは――、明日から來て貰いませうか、いや、僕が自動車で迎えに來る。なるべく目立たない方がいゝですからね、先刻のバスの停留所附近で十一時に待っていて下さい。」
「はい。」と頭を下げた、いつか雇うものと、雇はれるものとの態度になっていた。
３．愉快な就職
貴美子は約束通り十一時きっかりに停留所に行った、殆ど同時に黒い小型自動車がやって來て貴美子を拾ってくれた。昨夜見たときよりも彼女はずっと若かった、まだ卅前の背のすらりとした人で、大きなロイド眼鏡が色白の細面によく似合い、スマートな背廣を着ていた。
「男装ばかりしているとだんだん中性のようになってしまうのよ。だからせめて二人だけで任務以外の時は女になりたいから香川さんなんて云わないで、保子さんってよんで頂戴、少しは女らしい氣分にもなりたいぢゃないの。それに斯ういう職業は上役とか上官とかいう主從の差別はないんだから、すべて對等の積りでやって下さい。」と云った。しかし、貴美子は保子を姉と思うより、やはり兄さんと一緒にいるような氣持ちがした。
「今日は特別の情報も入っていないから、盛り場警戒をやるのよ。さあ任務につくから男になる。」と肩を聳かした。
お晝近くなるとヤミ市でおでんを食べたり、トンカツやの暖簾に首を突込んで、はにかみながら一緒に立食いした。特別嚴格でお行儀よく育った貴美子は斯ういう自由な世界もあるものかと、見ることなすことがただ珍らしく驚異の眼を瞠るばかりだった、が、これがまたたまらない魅力の一つでもあった。人間性に還った生活、それはながい間彼女の心の底にひそんでいた強い欲望であったのだ。
「おしる粉食べようか。」
油っこいものの後でのおしる粉はまた格別だった。甘いものに飢えていた彼女は久し振りでたんのうする程たべた。
まるで籠を出て大空に舞ひ上った小鳥のように、嬉々として保子の後ろに從って歩いた。母が大切につかう十圓札や百圓札を彼女はまた紙屑のように惜しげもなくつかった。
「貴美子さん、君は車の中で待っていてくれ、僕はちょいと用達しをして來るから。」と云って彼女は出て行った。貴美子は云はれた通り待っていたが、小一時間程すると息を切らして戻って來た。
「退屈たらう？ これでも読みなさい。」と二三の婦人雜誌を買って來て貴美子にあてがい、ハンドルをさっときるや、急にスピードを出した。
新宿では曲馬團の前、新橋でほ寶くじ、クローバーくじ、何んでも人の集まるところでは必ず停車して彼女は何処かへ行った、その度毎に貴美子は三十分も一時間も待された。その間だけが心細くっていやだった、自動車がひとりで動き出しでもしたらどうしようとつまらぬ心配までした、そんな時は読んでいる雜誌もまるでみにならなかった。
夕方近くまで乗り廻わしたので、好きな自動車ではあるが少し疲勞した、それは車體が小さくて狭かったためもあったのだらう。
「疲れた？」と彼女は労わるような眼を向けた。
「えゝ。少し――。今日の自動車小さくって、黒いのね。」と伸びをしながらお愛想のつもりで云った。
「うん。大きい自動車の方が好きなの？」と彼女は一寸いやな顏をした。貴美子は狼狽して、
「いゝえ、二人きりですもの、小さい方がいゝわ。」
「手当り次第に署にある空車を使うもんだから。」とほお笑んだので彼女はほっとした。
保子は時計を見て、
「もうそろそろ帰ろうか、段々馴れると疲れなくなるからね。」とポケットから百圓札十枚を数えて貴美子に渡し、
「あんたの方、いろいろ都合もあるだろうから、月給、立て替えて上げる。」と云った。彼女は恐縮して、何から何までよく氣がついて、行き届くこの人に心から敬服してしまった。
「ありがとうございます。」膝の辺まで頭を下げた。
「ぢゃ、また明日、同時刻に、同じ場所ですよ。」
彼女を残して樂しい夢をのせた車は立ち去った。保子と別れるのは何とも云えず淋しかったので、立ち止ったまゝ車のかげの見えなくなる迄じっと見送っていた。この小半日は貴美子が生れて始めて味わった自由な愉快な時であった。彼女はぼんやりと何時までも立ちつくしていたが、やがて、再び現実の世界へ戻らなければならなかった。
貴美子は俸給をしっかり握って家へ帰った。母は貧しい夕飯の仕度を終って待っていた。一日働いて帰るのはやっぱり嬉しかった。
「どうだった？」始めて出た勤めを母は心配しているらしかった。
「とても、とても面白かったわ。」と眼を輝かして云った。
「そりゃよかった。務まりそうね？」
「無綸よ。お勤めって愉快よ、私嬉しくって堪らないの。明日が待ち遠うしいわよ、お母さん。」と云って、俸給を食卓の上にのせた。
母はびっくりして、
「まあ、もう、お月給頂いて來たの？ あんまり早いじゃないか。」
「上役の方が立て替えて下すったのよ。いい方で、私迚も好きになっちゃった。」
母は彼女の方をじろりと見て、軽々しく話す言葉をたしなめるように、
「たった一日じゃないか、して、その上役と仰しゃるのはどんな男の方なの？」
「あら、御婦人よお母さん、素的な美人！」
それを聞いて母は安心した。
「よくお氣がつくのね、お若いの？」
「三十位でしょう。とてもお金使いが綺麗で小氣味がいゝわ。私のこと、しけてるんだなあって、ポケットからお金を掴み出して、月給立替えて置くよって。」
「まあ、何んだかあんまり結構過ぎて、お母さんには分らない。」
「分らないでもいゝわ。私、お母さんを樂にして上げさえすれゃいゝんだから。」と浮々して、いつになく低声で歌を唄ったりした。
４．初めて見た実社会
翌日は日曜日だったので、人出を見越して浅草公園附近を警戒することになった。映画館はどこも超満員だったが、保子が入ろうと言った。座席の空いたところは一つもなく立ったまゝだったが、それでも久しく見なかったので、貴美子は夢中になってゐた。
映画館を出る時、どうしたのかはぐれてしまった。出口に立って待っていたが、なかなか出て來ないので、ひとりで先に自動車の中へ乗った。
やがて，彼女はあたふたと戻って來て、
「買物していて遅くなっちゃった。さあ、大急ぎだ。」
風呂敷包みをぽんと貴美子の膝に投げて、超スピードで走り出した。後ろから自轉車が風をきって飛んで來る、乗っている人が何か大声で喚めいているので、後ろの硝子窓から覗いてみると、どうやらこの自動車に用でもあるらしく思われるので、
「何か言ってますよ。後ろで――。」
「この車じゃないでしょ。」
「でも、往來の人がみんな此方を見ていますわ。」と貴美子は氣をもんだ。
「自轉車どころじゃない。前の方をごらんなさい。あのオートバイの速いこと――、あいつを尾けなきゃならないんですよ。見はぐらないように、あんたもしっかり見ていて下さい。」
と益々スピードを出した。それが恰度映画に出て來る捕物の場面のようで、自分達も一役買っているみたいで面白かった。道路がこわれたまゝになっていてでこぼこだらけの道を走ったり、人道に乗り上げたりするので、貴美子はいく度もシートの上で轉がった。
「冒險だわねえ。」
「遂々オートバイ逃しちゃった。胸糞が惡いっちゃありゃしない。」と舌打ちしながら苦い顏をして、窓から首を出してゐたが、
「今日は河岸を変えて、多摩川原方面へつっ走ろう。」と彼女は興奮していた。
「何かあるんですか？」
「あの方面で、近頃闘鶏博奕が盛んに流行っているそうだから。」
「しゃものけあいって言うんでしょう？」
「そう、金を賭けるんだ。農家は景氣がよくって懐が福々だろう？ 金の費いように困って、そんな遊びをやり始めたんだ。貴美子さんは外に待っていて貰らわないと困る。探りを入れるんだから、見物しているってわけにもゆかないからね。」
しゃものけあいというのはどんなことをするのか知らないが、生物を賭けての勝負をするのだから、惨酷なことだろう、と、貴美子は見たくないと思っていたところだったので、
「私、外廻りを警戒していましょう。」と生意氣な口をきいたので、保子はぷっと吹き出し、いままでの不機嫌は何処へか消し飛んでしまった。
勝負は何遍も繰り返されるものと見えて、途中で出て來る人はみんな興奮して赤い顏をしていた。
「太郎兵衛さんとこの奴は凄く強いじゃねえか。」
「殺されたしゃもはどうなるんだろう？」
「みんなで食っちまうのよ。仁太郎さんとこじゃ今夜は御馳走だぞ。」
貴美子はいつになく夕方近くまで待たされた。鶏の目が見えるまでは闘いをつゞけているのだ。保子は嬉しそうににこにこしながら帰って來た。何を見たのか、
「上官のお褻めにありつけるだろう。オートバイを逃がしたうめ合せだ。」と笑っていた。
同じような日が毎日繰り返えされた。一週間たち、十日過ぎるうちに、貴美子はすっかり馴れてしまった。
ある日、例によって自動車の中で待っていると、保子は鰐革の折鞄を抱えて馳け込んで來て、
「ちょいと、預かって、――。」いつになく緊張した青い顏をして、貴美子の派手なネッカチーフを引ったくるように取り、自分の頭を包んで、また出て行った。
彼女はそれぎり戻って來なかった。夜になってもヘッドライト一つ点けることを知らない貴美子は、暗がりの中にぼう然として保子の帰るのを待っているうちに、急に心細くなった。もし、このまゝ置き去りにされたら、どうしよう？
車を置いて帰るより仕方がないが、さて、何処のガレージに預けたものか、さしあたり交番へでも相談に行くより仕方があるまい、などゝ考えている時、
「あッ、これです。この自動車ですよ。」という声がした。そっと覗いてみると一人の男が巡査を連れて來て、懐中電燈を照らしながら自動車番号を調べている。
「番号は違っていますが、車はたしかに家のです。ガレージから持ち出したものに違いありません。」と額に青筋を立てゝ慣然としている。
何んだろう？ 貴美子は片隅に身を寄せて小さくなっていた。人違いか、何かの間違いだろうが、斯ういう時に保子がいてくれないのは一番困る。
男は荒々しくドアを開けた。
「やっ、こんなとこにかくれてやがる。人を喰った野郎だ。」と憎々しげに巡査に告げた。
「何ッ？ 乗ってるって？」巡査は首を突込んだ。
「女がいる。女だぜ、一体、これゃどうしたって言うんだ。」
「何？ 女だって？」男は怒った顔を貴美子の方に振り向けて、
「やい。相棒はどうした？ 何処へずらかりやがった。」と威丈高になって呶鳴った。
貴美子は保子を相棒などゝいう言案でよばれるのは心外であった。彼女はきゅっと唇を結んだまゝ一言も言わなかった。
「人の自動車を盗みやがって、畜生ッ！」歯をギリギリ鳴らして、今にも掴みかゝりそうな權幕だったが、巡査の方へ向いては頭を下げてぺこぺこしながら、
「此奴が身代りになって、逃がしやがったんでしょう。どうぞ嚴しくお調べ下すって、泥を吐かして下さい。」
巡査は大きくうなずくと、貴美子の肩を掴んで、車外へ引き摺り降した。
「何なさるんです。私はこの方の仰しゃるような怪しい者じゃありません。」と言いかけたが、急に何んだか悲しくなって、ハンケチを顏に当てゝすゝり泣いた。
「言うことがあるなら、署へ行ってからにしろ。」
巡査は否應なしに彼女を引立てた。うしろから野次馬がぞろぞろ從いて來た。貴美子は耻しくって首も上げられなかった。
５．夢から現実へ
捜査主任の前に立った貴美子は、香川保子に出会った最初の雨の夜のことから、彼女と行動を共にした顛末をつゝまず語り、
「保子さんは警視廳の探偵さんでもありますし、それは頭のいゝ、勤務には実に忠実な方ですから、私は喜んで助手になり、なお將來も一生懸命に働かせて頂く積りでをります。」と云うと、捜査主任を始め、そこに居竝んだ刑事達はどっと笑い出して、
「そんなに彼奴を信用しているのか、よくもこんなに丸め込んだものだ。不良な奴は一種の魅力を有っているからな。世間知らずのお嬢さんなら、それも無理はないだろう。――彼奴はね、有名な女スリなんだ。箸にも棒にもかゝらない手古摺り者、盛り場を荒しちゃあ自動車で逃げ廻っているんだ。
その自動車もあったとこ勝負で、ガレージでござれ、自家用でござれ、手當り次第にかっぱらっては乗り捨てにしているんだ。だから、自動車の迷子が彼方にも此方にも出來る。紛失した、盗まれたって訴えは毎日だ。そして金が入ると博奕を打ってみんなはたいてしまう、始末にならない女なんだ。」
貴美子は驚いて口もきけなかったが、やがて、悲しそうに、
「私みたいな者、どうしてお雇いになったんでしょう。」
「カムフラジするためさ。いざという時、君を身代りにして逃げようッて言うんだ。」
鰐革の鞄は無論保子が盗んだものであったが、中には書類と株券ばかりで金は入っていなかった、目的のものがなかったので盗みはしたが始末に困り、一時貴美子に預けて置いて、時期を見て何とかする積りらしかった。鞄の持主は懸賞つきで探していた。
貴美子は夢から醒めたような氣がした。と同時に世の中の恐しさに戰慄したのだった。
何にも知らなかったこともわかったし、特に捜査主任の厚意もあって、彼女は帰宅を許されることになった。
「いやな思いもしたろうが、これも一つの經驗になるだろう。そこで、官民共力ということもあるから特にお頼みするのだが、香川保子を捕えるのに手傳って貰いたい。廿日近くも彼女の傍にいたのだから、彼女の事は誰よりもあなたが一番よく知っている筈だ。何処かで見かけたら時を移さず、直に連絡してもらいたい。
たとえ密告したからと言って、迷惑をかけるような事は絶対にしないから、そこは安心して知らせて下さい。保子は必ずあなたを何処かで待ち受けて、今日の様子を訊こうとするに定っているから――。なまなかかくしだてなどすると、あなたも共犯ということになりますぞ。」
と語尾に力をいれて言った。
「はい。」
とうなだれた。
「ではお願いして置きます。」
貴美子は無事に帰ったが、母へは何も言わなかった。
そして翌日も勤めに行くふりをして同じ時刻に家を出た。
捜査主任の言った通り、果して三日目の日バスの停留所で保子に出会った。貴美子は心臓がドキンと鳴った。
はっと思うと体が硬くなって、足がすくんでしまった。
保子はいつもと変わりなくにこやかに笑いながら、なつかしそうにすり倚って、
「あれから、あんた、どうした？」とさゝやくような低い声で訊くのだった。
貴美子は默ってまじまじと彼女の顏を見詰めていた、大好きだったこの優しい人がそんな惡い女なのだろうか。
たとえ惡いとしても、自分に対してだけは親切で、思いやりがあってほんとにいゝ人であったのに、と思うと急に情けなくなって、貴美子は顏を覆い、しくしくと泣き出し、
「違います。あなたはお人違いをしていらっしゃるんでしょう。」
と言いながら、呆氣に取られている保子を後に逃げ出してしまった。しかし、捜査主任へ密告しようなどとは夢にも思わなかった。
それぎり貴美子は彼女を二度と見なかった。
（をはり）
注）「～え」は「～へ」に変更しています。同じ漢字の新旧併用、新旧かな併用がありますが統一していません。
注）句読点は変更したところがあります。
注）一文字空けを追加したところがあります。
注）『決闘する女』では新かな新漢字ですが、十圓札が百円札、百圓札が千円札になっているなどのほかはほぼ同じです。
注）『決闘する女』では章は数字のみになっています。
「盗まれた絲卷」
「トップ」 1947.05. (昭和22年５月号) より
１
洋子が朝のコーヒーを飲んでいると、女中が一通の白い封筒とハトロン紙に入った部厚な書類とを持って來た。ハトロン紙の方には表に朱で原稿在中と書いてあった。
「まあ、珍らしい！ 水尾正江さんからのお手紙だわ。」と洋子は懐しそうに、封書に書かれた文字に見入った。彼女との音信が絶えてからかれこれもう十年近くなる。正江は頭もいゝし、學校の成績も優等で、生徒間の人望も厚かった。そしていろいろの事に興味を持ていて、その一つだが大のパイプ蒐集家であった。それというのも少女の頃から煙草が好きで、家の者にかくれては煙草をのんでいた。
それが傳染したのか洋子もいつか煙草の味を知るようになり、袂に忍ばせては校庭の隅っこなどで二人ひそかに煙草をふかしたりした。煙草からパイプが好きになったのだろうが、珍らしいのが手に入ると自慢に持って來ては見せびらかした。
ある日彼女は洋子の三味線の絲卷を一つ貰らいたいとしきりに懇望した、象牙の絲卷に彫刻をさせたら美しいパイプが出來るだろう、と云って、ひどくほしがったが絲卷が二つになったら三味線が彈けなくなる。
代りのものを持ってこなければ上げられないと斷った、すると四五日たってからだがその絲卷が一つ失くなっているのに氣がついた、あんなに欲しがっていたのだからきっと彼女が持って歸ったのに違いないと洋子はその次ぎ會った時詰問したが、知らないの一點張りでどうしても白状しなかった。その時からお互いの間が氣拙くなり、あれ程仲良くしていた二人が、段々と遠ざかり遂いに往來をしなくなってしまったのだった。
洋子様！
あなたとお交際を絶ってから何年になるでしょう。あなたは曙町のお邸に、私は目白の寄宿舎におりました當時――あの時分の事はいつも私の頭を離れません。何と云ってもあの頃が一番愉快でしたものねえ。あなたはどうだか知りませんが、私はあの後、あゝした樂しい日を二度と味わう事は出來ませんでした。
あなたも私も随分變ったことが好きでしたね、平凡な一生を送るのはつまらないとか何んとか云って、あなたは女のシャロックホウムス氣取り、私は私で日本一の女流探偵になりたいと、探偵小説から得た智識を振り廻わして意見を戰わしたりしたものでした。洋子さんが吉原見學にいったと云えば、私は本牧附近の阿片窟を探ったりして得意になっておりましたっけ。
その猟奇癖が遂に疾みつきになって、私は只今の職業になってしまいました。あなたが今日なほ昔の心を持ちつゞけていられたなら、定めし喜んで聞いて下さるだろうと最近私が取り扱った一つの功名話をお耳に入れようと思ったのです。くわしいことは別便でお送りした原稿をお讀み下さいませ。
水 尾 正 江
２
敗戰後の混亂状態につけ込んで獨り利益をしめようと計畫む大仕掛けの贋造新圓製造團があるという内報があった。戰爭と贋造紙幣と私等は一口に云う位、あの當時から今日までにばらまかれた贋造新圓の數は非常なものだった、當局が鵜の目鷹の目で捜索を行っている間はぴたりとやみ、少し手がゆるむとまたぞろ僞札は姿を現わすので、相當手を燒いていた矢先だったから、今度こそはという意氣込みで乗り出した。
捜査主任の命を受けたのは、廰内きっての敏腕家といわれている私の伯父で、私はその助手として働くことになった。
「これが眞物で、此方が贋造新圓、その見分け方だがね。」と、伯父は私を部屋によんで、細々と説明しているのを上の空で聞きながら、私は素晴らしく上等の擴大鏡一つをポケットに納め、ふらりと外へ出た。
×××町と云えば土地随一の盛り場で、燒跡にずらりと出來たバラック建ての店――大抵食い物やばかりだが――そこを私達は新興小路とよんでいる。上は顏役のお兄さんから下はその日稼ぎの露店商人までが巾をきかせて、喧嘩口論は絶え間なく、時には繩張り爭いから血の雨を降らすこともある。モサや掻っぱらいやあらゆる犯罪の温床であった。
夕方の新興小路は相變らずごった返していた。私は例によって男裝で好きなパイプをくわえながら、ぶらぶらと五六町も歩いたと思うと、ごみごみした狹い横町からふいと現われた素晴らしい美人にすれ違った。背の高いきりゝと引きしまった姿に、コバルトブルーのスーツを着ていた、胴中をぐっと細くしたのがいかにも氣が利いて見えた、ブルーのハンドバックを小脇に抱え、ブルーの靴を穿き、黄色と黒の格子縞のネッカチーフで髪を包んでいた、寸分の隙もないスマートな姿は、女でも惚れ惚れするようだった。
彼女はすれ違いざまちらりと流し眼をくれたが、その眼の美しさ、笑いをふくんででもいるように見えたが、それは愛嬌があるためなのだろう。彼女はさっさと足早やに靴を鳴らしながら行ってしまった。と、こんどは肥った大男が同じ横町から飛び出して來て、あたりをきょろきょろ見廻わし、ぶよぶよとふくらんだ太鼓腹に波を打たせ息をはずませながら、
「何方へ行きやがったんだ、糞ッ！ 忌々しい！」地團駄踏んで、まるい鼻の頭に油汗をぶつぶつにじませ、
「あんちゃん、見かけなかったかい？ ブルーの洋服を着た背の高い姉ちゃんを―。」と私に聲をかけた。
「ブルーの洋服なら、彼方へ行ったぜ。」と遠くの方を指差した。
男は飛び出したような大きな眼玉をぐるぐるさせながら、通りがかりの人を掴まえては、ブルーの女、ブルーの女と訊くのだった。その顏が餘り眞劍なので、
「オイ、お父さん、どうしたんだ？ 別嬪が逃げたとでも云うのかい？」と云うと、男は腎臟病でもやんでいるような青ぶくれた顏をふりむけ、
「定食を食われた上によ、九百五十圓とられたんだ。」としまりのない唇をぶるぶる震るわしている。
「え？ 何だって定食をおごって九百五十圓やったのか？」
「冗談ぢゃねえ。俺あ何も道樂や人助けに商賣やってるんぢゃねんだ。」と力んだ。
「何やってんの？ お父さん。」
「レストランよ。」
「ぢゃ、いまのブルーの別嬪に食い逃げされたってわけ？ だらしがないなあ。」
「だらしがないもあるもねえや、ブルーの女がやって來て、定食を注文してよ、千圓札で釣りをくれって云ったんだ。食堂は超滿員、レヂに座っている俺の頭がぼうとなっているのを見すまして、太えあまだ。可愛い手に千圓札を握って、「小父さん、これでお釣りない？」って甘ったるい聲を出して、千圓札を俺の鼻先へ突きつけやがった。ぷんとお白粉の香がして、紅をつけた指先がすんなりしなって、いゝ女だなあと見惚れていると、「小父さん、ちっと大き過ぎる？」ってぬかしやがった。
千圓で釣りが出されないような店と思われちゃ癪だからね、「そんなケチなんぢゃねえや、束でも釣りをやらあ。」って大きく出た手前、札なんて調べちゃいられないからなあ、直ぐに九百五十圓渡してしまったのさ。女はハンドバックに釣り銭を押し込んで、「ありがとよ。小父さん！」って、にっと笑った、ミルク色の頬ぺたに指先で押した位のゑくぼが出來て――、ちょいと突ついてやろうとすると、女は笑いながらひらりと身を轉ばして、飛ぶように出て行った。あとで見るとこの僞札ぢゃねえか。」
「ちょいと見せな。」と手を出すと、男は札を引きこめて、
「駄目だ、駄目だ。警察へ届けなきゃならないから――。うっかり僞札を渡して奪られてしまったら、それこそもともこもなし、證據がなくなっちゃうぢゃねえか。」
「仲間だと思ってるんだな？」
「疑るわけぢゃねえが、あんな虫も殺さねえ顏をした可愛いゝ女がよ、大の男を相手に商賣しやがる世の中だ、人を見たら泥棒と思えだよ。」
「なるほどなあ、お父さん。」私は洋服の裏につけていたマークを見せて、
「だからよ、ちょいと見せな。」
男は安心して、その贋造新圓を渡してくれた。贋造と云えば、大抵毛筆かなんかで一枚一枚描いたものだが、これは立派な印刷で、まるで眞物だった。表を返し裏を眺めたが、なかなか區別がつかない、實に巧妙に出來ている、勿論、私は區別をちゃんと心得ていたから分ったが、大抵の人にはわかるまい、これでは欺されても仕方がないだろう。だのに、このレストランの主人はどうしてそれを見破ったのか、銀行へ入金の時注意されたとでも云うのならいざ知らず、素人が一寸見た位で發見されるような、そんな不手際なものではなかった。
「だがね、お父さん、どうしてこれが僞札だと氣がついたんだい？」
「釣りを渡して、女が店を出て行くと、『小父さん、そいつあほんとの新圓ぢゃないよ。僞札だぜ。』って教えてくれたお客があったんだよ。」
「その客はどうして知ってたんだろう？」
「やられたんだとさ。そのひとも。」
「變な話だな、それこそ仲間だ。」
「仲間なもんか。嘘だと思うなら訊いてみな。」
「まだいるのか？」
「いるとも、いまスープが出たばかりだよ。」
「ぢゃ、一緒に行こう。」
「だが――、俺は――。」主人はまだ思い切れないのか、人込みの中をきょろきょろしながら、ブルーの女の行方を探しているのだった。
「あきらめなよ。今頃女は家へ歸って、甘い小父さんをうまく欺して九百五十円圓せしめて來たって舌を出しているだろう。それによ、第一この雜踏だ、何方へ逃げたか分りゃしないぢゃないか。」
「だがねえ、千圓近い金をまんまとやられたかと思うとね、あゝ見えてもレストランなんて商賣、そうそう儲かるもんぢゃねえんだから――。今日一日の純益をすっぽりさらわれたかと思うと情けねえからねえ。」
柄になく存外氣が弱いのかべそをかくような顏をして、ぶつぶつ云いながら、私を案内した。狹い店の中は大入りで腰掛の空くのを待っている人が、往來まではみ出していた。
主人の代りにレヂスターに坐っていた痩せた狐のような顏をしたお神さんはきんきんした聲で、
「捕まえたかい？ え、お父さん。」あたり構わず怒鳴った。
主人は情けなさそうに頭を振って、私の方を指差し、おろおろ聲で、
「この方がね、俺の代りに捕えて下さるそうなんだよ。」と出鱈目を云った。私の耳に口を寄せ、
「家内がやかましいんでね、ですから、どうぞ、よろしく。」と泣き顏をした。私は萬事のみ込んで、
「うん、そうだよ、心配しなさんなってことよ。捕まえて、金を取っ返しやァ文句はないんだからな。」とお神さんへ聞えよがしに、わざと大きな聲で答えた。
「ほんとにねえ、お父さんが間抜けなばかりに、とんだご迷惑をおかけして、すみませんですねえ。」と取ってつけたようなお世辭を云って、空席を眼で探してくれたりしたが、主人の方を向いては噛みつきそうな顏をして、
「ほんとにだらしがないっちゃありゃしないよ。女の子と見りゃ直ぐ欺かされるんだから、全く甘く出來ているんだ。」と人前も考えず、がみがみとやっつけた。
主人に注意したという客はもうボックスにはいなかった。
「あの人はね、旦那、うちのお父さんが女の後を追っ馳けて飛び出すと、その後をまた追っかけるようにして、歸って行ったですよ。」とお神さんが云う。定食を運んでいたボーイが、
「スープも半分ばかりしか飲まないで、慌てて出て行きましたよ。きっと復讐されるのが怖しくなって、逃げ出したんでしょうね。」と云うと、お神さんがその後を受けついで、
「いくら大膽な女でも、一人で仕事はできやしませんからね、きっと、この店の中に仲間の奴がいたに違いありませんよ。あのお客さんもうっかり口をすべらしたものの、あとの祟りを恐れたんでしょうよ。」
３
市内第一の大ホテルと云われているオリエンタルが、幸いにも空襲をまぬがれ、隣まで燒けたのに不思議と殘ったということは、おそらく知らない人はないだろう。そこの一番上等の室に三ヶ月あまりも滯在している端麗な若紳士がある。ということを私はふと聞き込んだ。彼は晝間は室内に閉ぢこもっていて、三度の食事も食堂へは出ず、自分の室に運ばせているが、毎日夕方になると定って自動車が迎えに來て何處かへ出かける。
歸って來るのは何時ごろだか、いづれ夜が更けてからだろう、誰も知っている者がない。ナイトクラブの會員か何かで、勝負事でもしているのだろうというのが、ボーイ達の想像であった。弱々しい感じではあるが非常な好男子で、男同志でありながらボーイ達はみんな大騒ぎして、部屋附きの者を羨しがった。裝身具も立派だが、金ばなれが頗るいゝ、が、不思議な事は三ヶ月もいるのに、まだ一度も訪問客のない事だった。
まずボーイ達の間に何者だろうという詮議が起った。田舎の大地主の若主人だ、いや、田舎者にしては氣が利いている、第一土臭くない。密賣者だろう、阿片だ、モルヒネだ、何あにスパイの親玉だそうだよ、と、知ったかぶりに云うものもあり、結局正體は何んだか分らずじまい、チップという麻藥に噂を封じられて、みんな何も云わなくなってしまった。若紳士は自分の評判なんかてんで知らないように、平然として相も變らず豪奢な生活をつゞけているのだった。
ある夕方のこと、隣室に泊っているそゝっかしい貴婦人が、外出から戻って來て扉を間違え、ノックもせず彼の部屋を開けたところ、若紳士は長椅子の上に横坐りして、山と積み上げた札束を數えていた。
飛んだところを開けてしまったと青くなり、ひらあやまりにあやまって、ドアを閉めたが、その時ちらりと見たのは手の切れそうな新圓ばかりだったこと、その傍にはマスクと大きな黒眼鏡があったこと、いつもは禮儀正しく謙虚な態度のひとであるのにも似ず、非常に不遜なものごしで、鍵のかゝっている他人の室を無斷で開けるとは怪しからんではないかと威猛高になってきめつけたことなどが、また新らしくボーイ達の噂の種になった。
新圓は翌朝ボーイの手で彼の取り引き銀行へ入金された、ということも私は早速たしかめた。銀行でさえ受取る金だ、怪しい筈はないのだが、私の第六感はどうしてもそのまゝ聞き流してしまうことができなかった。
荒療治だとは思ったが、その翌夕、私は例の男裝にピストルをポケットに忍ばせ、ホテルの前をうろついていると、果して何處からともなく自動車がやって來て表玄關に横附になたった。ボーイが若紳士の室へ取り次いでいる間に、私は飛び乗って、いきなり運轉手にピストルを突きつけた。まかり間違えば一寸眠らせてもいゝとその用意もしていたが、
「ピストルだけはどうぞ――、勘辨して下さいよ。何でも云いますから――。」
「よし、白状さえすれば命だけぢゃない、逃げる金もくれてやる。」と私はなほも彼の横腹にピストルを突きつけながら云うと、運轉手は合掌して、
「白状しますよ。だから、どうか金を先に頂かさせて下さい。」こんな場合いにも掛けひきをやる、しゃべった後で金が貰らえなかったら逃げることも出來ない、仲間からは裏切り者として私刑にも處せられるのだろう、それが怖しいので、彼は必死だった。
私はたんまり金を與え、
「この自動車は何處へつけるんだ？ くわしいことを話してくれ。」
「××町のホテルの前へつければいゝんです。一切口をきいてはいけません。ホテルの地下室から地下道傳いに歩いて行くと××町五丁目のコーラン・バアの地下室へ出られるんです。そこまで送り込めば私の用はすむんです。」
「コーラン・バアの地下室は何になっているんだね？」
「何と云って、あの方達の事務所でさあ、まあ仕事場と云った方がいゝでしょうな。二タ部屋に別れていてね、奥の方の上はバアの調理場になっているんですよ。」
「手前の一室が彼等の巣窟、いや、贋造新圓製造所か。」と私はあてづっぽを云うと、運轉手はびっくりして、
「旦那、よく知ってますね。」
「知ってるとも、何でも知ってるよ。オリエンタルに納まってる若紳士は製造所長即ち首領。」
「こいつあ驚いた。旦那は何んでもご存じだ。あの方が各地に連絡をとっているんです。大がかりな僞造團なんですからね。」
「取り引き銀行ともむろん連絡があるんだろうね。」
「ありますとも、銀行の行員にも仲間が入り込んでいますからね。」
さればこそ怪しまれもせず、贋造新圓がどんどん通過するわけである。
私は帽子と上衣を運轉手のと取り替えて着込み、彼を逃がしてから、ゆっくりとパイプをくわえ、運轉手になりすまして、ハンドルを掴んで待っていた。
若紳士はボーイに送られて自動車に乗った。よもや運轉手がかわっているとは氣がつかないのだろう。扉をばたんと閉めて一禮するボーイに輕く會釋して、いかにも富豪の若主人らしく、鷹揚に構まえて夕刊をひろげた。
私はほっとしてハンドルをきった。行くところまで行ってばれるならいざ知らず、途中で替玉がばれては切角の苦心も水の泡だ。口をきいてはいけないと云われたのを幸に私は一言も云わず××町のホテルに横附けした。運轉手の話では地下道からバアの地下室の入口のところまで送り込むのだという、それは彼の護衛でありまた萬一の場合の連絡係をつとめるためなのであろう。
地下室の入口からはお互いにマスクをつけ、黒い大きな眼鏡をかける、それは顏を見られないためだそうだ。だから仲間同志でも顏はよく分らないのだと運轉手が云った。それなら何故首領一人だけは素面で正々堂々と大ホテルに陣取っているのか、首領だけは仲間に知られても構わないのかと訊くと、運轉手は首領の顏だってどの顏がほんとの顏だか誰にだって分りゃしない、變裝の名人だから、とぬかした。
私は餘り馬鹿々々しくなって癪にさわったが、命と金を貰ってさっさと逃げて行くような奴、何處までが眞實だか分ったものではない、とにかく行くところまで行ってみることだ。
ところが來てみれば地下室の奥の横手に地下道があったのもほんとであった。私は運轉手から教えられた通り、マスクをつけ黒眼鏡をかけて若紳士のお伴をした。彼もまたマスクと黒眼鏡なので顏は分らないが、歩きつきにも平常のような颯爽とした元氣がなく、外套を脱いだせいか、體がいやに細ッそりとしてしなやかな工合が、何となく女のような感じがした。先に立って歩く様にもなよなよしている、いつの間にすり替ったのだと、私はいく度も眼をこすって見直した、運轉手もすり替わっているんだから。
若紳士は一言も發しないでコツコツと靴音を立てゝ、長い地下道を傳わり、バアの地下室の入口へ辿りついた。
地下室というよりは穴藏だった。そこには印刷機械が備えつけてあって、二三十人ばかりの荒くれ男がシャツの袖をまくり上げ、或は半裸體、中には後ろ鉢卷で大童になってどんどん新圓をつくっていた。どの人もどの人もマスクに黒眼鏡、みんな同じような顏に見える。
首領が一歩中へ入ると一同は手を停めて輕く頭を下げ、人差指で空中に文字を描くような眞似をした。それが仲間であるという合圖らしく思われた。
「ちょいと、皆さん、この人がね、私達の仲間に入りたいんだとさ。だから連れて來てやったよ。」と私の方を指差して云った。
私はぎょっとした。まんまと化けていた積りだったのに、首領はいつの間にか見破っていたのだった。びっくりして開いた口が塞がらなかったが、それよりなお驚いたのはその聲だった、何という優しい聲だろう、姿といい、聲といい、たしかに彼は女に違いない。
仲間の一人は私の前につかつかとやって來て、いきなりマスクと黒眼鏡をひっぱづし、蝋燭の灯を鼻先に突きつけ、
「何んだ、貴様、水尾ぢゃねえか。」
その聲に一同殺氣立った。
「何んだと、水尾正江だって？」
「生意氣な眞似しやがるッ。」
「探りに來やがったんだな。」
「こゝへ來たからにゃあ、二度としゃばは拜めねえ位は承知だろうな。」
「この命知らずめ！」
首領はみんなを制して、
「ご婦人に對してそんな亂暴な口をきいちゃいけない。水尾さん、あなたもこゝへいらしたからにゃあ、無論、覺悟はしておいででしょうね？」と眉を上げ、わざとこれみよがしに卓上にピストルを置いた。はっとした、それは私のものであったから。ポケットに忍ばせていたのを、いつの間にぬきとったものだろう、首領の早業に私は舌を卷いた。
が、これで私も素手になった。これだけの人數を相手に女の私がどうしてこゝを脱け出せよう、いよいよ決心をしなければならないと思った。その氣持ちを早くも感知したのか、首領は急に言葉をやわらげ、優しい顏をして、
「水尾さん、女は女同志って事もありますわ。あなたはご自分のご職業柄、いやだと思っても命令に反くことの出來ない場合もありましょう。しかし、つまらぬことから怪我をしたり、命を捨てちゃ馬鹿々々しいですからね、お互いに若いんですもの、長い一生を樂しく安樂に暮したいぢゃありませんか、ヤミやをしたって儲けは知れたもの、ヤミやより餘程割のいゝこの商賣にあなたも轉向なさる氣はありませんか。
このまゝでは此處を生きて出ることは出來ませんよ。死ぬのと轉向して贅澤三昧な生涯を送るのと何方をおとりになります？ 私はあなたの度胸を買って、あなたのお返事次第で、特別に、今からでもメンバーにして上げますわ。」
私は默っていた。
「おいやなんですか。」
「とにかく仕事場を見せて頂きましょう。その上で――。」
「その上で？」首領の美しい顏にサッと怒りが走った。私の心を動かせないと見てとったからだった。
彼女は一同に向って眼で合圖した、それが何んであるか私は知らなかった。
「水尾さんが切角見學に來たんだからよく見せてやっておくれ、思い殘すことがないように――、それからあとは君達の好きなように料理をするこった。何もそんなにびっくりした顏をしなくってもいゝでしょう水尾さん。」と首領は人を小馬鹿にしたように馬鹿丁寧におじぎを一つして、
「すっかりお禮を云うのを忘れていました。先日はありがたうございました。レストランの小父さんとあなたが長話をしていて下すったおかげで、私は無事にホテルへ歸れたんですよ。」あの時のブルーの女はこの人だったのか、と、あまりにも變裝のうまいのに感心してしまった。
「ところがそのあとがいけませんよ。あんなにホテルに附き纏っていられちゃうるさくってやりきれやしない、こう見えてもホテルぢゃ立派な若紳士になりすましているんだからね。變な奴に尾け廻わされていると、それこそ迂散臭く思われるわよ。オイ、みんな何をぽっかんとしているんだい、早く仕事場を見せてやって、早いとこ片づけっちまいな。」
命令一下、総立ちになって、私の腕をねぢ上げ、がんぢがらめにして引っかつぎ、あっと思ふ間に奥の穴藏に放り込み、ドアをガチャンとしめてしまったのだった。
頭の上はバアの調理場だという、なるほど人の歩く跫音がする、が、コンクリートでかためてあって、窓もなければ出口は無論ない、バアの床に届くには餘りにも天井が高過ぎる。
縛られたまゝ考えていると、近くで水の音がする。
氣がついた時には、何處から流れ込むのか、水で靴底が濕っていた。
水は除々に踵を浸し、膝から、脛をぬらした。水で殺す氣だ。愚圖々々してはいられない。虎穴に入って空しく命を失っては、今までの苦心が無駄になる。何とかして逃げなければと氣ばかり焦せるのだが、體は縛ばられていて動きがとれない、せめて、手だけでも自由になったら――、私は唇を噛んで口惜しがった。暴ばれてみたら、と、思いきり身を悶えたが、反って繩は肉に喰ひ入るばかりだった。
水は遂に腰のあたりまで入って來た。
もう駄目だ！ いくらもがいたところでどうしようもない。私は頭がぼうっとした。同じ死ぬなら一分間でも落ちついて、靜かに死のう。
だが、伯父に一つの報告もせずにこのまゝ死んでしまうことはいかにも殘念だった。
麻というものは幸い水にゆるむものである。胸のあたりまで水がついた時、最後の努力として大いにもがいて見たら、結び目がゆるんで右手で繩が解けた。私は右手を使って難なく繩を解くことが出來た。
自由になった！ しかし、それはぬか喜びであった。水は段々ふえてくるばかり！ 體は自由になっても逃げる道がない。同じ死ぬとしても自由になって死ぬ、それは幸福には違いないが――。私は常にはなさぬパイプをくわえてゆっくりとふかした。お腹の底までしみる程うまかった。最後の一服か、私は甦き返ったように元氣になった。
死んぢゃつまらない、何とかして生きよう、それには第一に心を落ちつけることだ、あたりを靜かに見廻わすと、今までまるで氣がつかなかったが、天井に鉤形の金具がつけてあった。何が幸いになるか分らないもので、今朝に限って私はズボン釣りをやらないで、バンドをしめて出た。早速革のバンドを外して鉤形の金具に引っかけようとした。これは非常な努力であった。實に至難な仕事だった。
水ははねる、幾度失敗したか分らない、やっとの思いでバンドが引っかゝった。
しめた！
私はそれにぶら下り、よぢ登った。調理場の床には小さい隙間があった、それを目がけて、私は夢中で、煙草の煙を吹き上げた。
「おやッ、どうしたんだろう？」
「煙――。」
「誰か火を落したんぢゃないかい？」
「穴藏だよ。」
「煙――、穴藏が火事だぞッ。」
悲鳴に似た叫び聲を頭の上で聞いた。私はそれに力を得て、咽喉まで水につかりながら、まるで狂氣のようになって、ぷうぷう煙を吹き上げた。
「火事だあ。」
「うわあ。」
私は段々氣が遠くなって行ったが、大努力で最後の一ふきを終ろうとするところへ、自動車ポンプの馳けつける音を聞いた。床板は忽ちひっ外される。
私は救い上げられた、同時に隣りの穴藏の犯人全部が逮捕されたのだった。
この殊勲を立てたのは何と云ってもパイプである。贋造新圓製造團逮捕、私の生命を救った大恩あるこのパイプこそは、先年あなたの大切な三味線の絲卷を無斷で失禮してつくったもの、私の秘藏の絲卷パイプであったことを一言して、あなたに深くおわびをし、且つ感謝を捧げる次第です。
注）句読点は追加したところがあります。
探偵讀物「婦人警官の初陣」
「にっぽん」 1947.06. (昭和22年６月) より
（『占領期雑誌資料体系 文学編Ｖ』収録）
管内警戒に當ってゐた婦人警察官伊東友子は白バイに乗って颯爽と署に歸って、控室の扉を開くと、
「主任さんが御用ですよ。」
「えッ、主任さんが？ なんの御用でせう。」
何事だらうと胸を轟かせながら、捜査主任の前に直立した。
「斯んなことは却って婦人の方がいゝと思ふんでね、私服で一つ、なるべく目立たない風をして――」と、前置きをしてから、「丸の内の三角銀行本店が新手の詐僞に引っかゝり、大分大口をやられてね、行員がすっかり神經質になってゐる。月末の混雜時だけ特に警戒を頼みたいと願ひ出てゐるんですよ。
なあに、同じ銀行を續けて狙ひはしまいとは思ふが、しかし、油斷は禁物だ。銀行とも打ち合せてあるから、預金拂ひ戻しにでも來てゐる振りをして、行内に張ってゐて貰らひたいんだ。まあ、初陣の功を逃さないやうにね、しっかりやってくれ給へ。」と、にっこり笑って、主任は萬一の場合の連絡などあらかじめ注意を與へて、
「何事も自分一人で始末しようとすると失敗するよ。怪しいと睨んだら、間違ってもいゝから、直ぐ應援を頼むことだ。」
主任の命を受けて、友子はその日から丸の内の三角銀行本店に詰めてゐた。彼女はスキーズボンにコートのバンドをきりりとしめ、運動靴を穿いて、いざといふ時何處へでも飛べるやうな身拵らへで、見たところは近所の會社の給仕が銀行へお使ひに來たといふ風にした。小さい風呂敷包を大切さうに抱へ、薄暗い隅の腰掛に小さくなって、自分の呼ばれる順番でも待ってゐるやうに見せかけてはゐるが、全神經を針のやうに鋭く緊張させて、全身を眼にしてゐた。
四日、五日は何事もなく過ぎた。はりきってゐただけに少々張り合ひぬけがして、段々氣がゆるんで來た。
が、月曜日、銀行は休みの翌日なので目の廻はるやうな忙しさだった。おまけに月末の廿五日だ。月給日の會社が多いので、金を引き出しに來る少年や女事務員がひっきりなしに出納係へつめかけた。札束をボストンバックに押し込んだり、風呂敷包みにしたりしてゐるのを見てゐると、友子は今にも拐帶犯人でもあらはれそうな氣がして、一層神經をピンとはってゐた。
恰度その時だった。銀行の前に一臺の自動車が止って、中から立派な洋装の婦人がすらりと出てくると、案内係の腕章をつけた詰襟服の老人が、彼女へ愛想笑ひをしてぺこりと頭を下げた。いづれ地位ある人の夫人で、餘程いゝお得意とみえて、行員などの扱ひも丁寧のやうだ。友子が張り込んでからまだこれ程高貴な素晴らしい婦人は一度も來なかった。
貴婦人は淑やかに頭を下げて、みんなの前を通り、隅の方の空いた席に腰を下し、雜誌を膝の上にのせて、俯向いてゐた。
「新井さん。」出納係の聲に、貴婦人はすらりと起ち上ると、窓口で金を受取って、出口の方へ行かうとした丁度その時、入れ違ひにあたふたと入って來たのは紫の事務服を着た背の低い給仕風の女であった。
友子はその貴婦人のあでやかな姿に惹かされ、何方の方へ行くのかと硝子窓から覗いてゐると、待たせてあった自動車の中へひらりと入って、運轉手に何か話しかけながら、自分でドアをぱたんと閉めた。車はあまりスピードを出さず、のろのろとお堀端の方向へ進んで行った。
貴婦人の腰掛けてゐた場所にはこんどは紫の事務服が座った。眼の下に黒子のある色の黒い丸顏の女で、小柄なので給仕かと見えるが、よく見ると年も二十五六、もう一つ二つ位は上かも知れない、女事務員と云った様子だった。
「東京工業會社さぁん。」とよばれて、その女は風呂敷に一杯の札束を受取った。友子は社員の俸給を出しに來たんだな、と、直感した。馴れてゐるとは云ひながらこの大金を無造作に風呂敷に包んで大丈夫なのか知ら？ 友子は氣になって、その後ろ姿を見送った。
丸の内は人通りが多いやうだが、往來が廣いので反って用心はあまりよくなかった。恰度晝休みの時間が過ぎた時だったので、あたりは割に人通りが少なかった。
友子が窓から見てゐると、彼女は紫の事務服の裾をひらひらと風になびかせて、左右を警戒しながら足早やに車道を突っ切り、お堀端の方へと足を向けた、すると向ふから一臺の自動車が走って來て、急にスピードをゆるめたとみるや、紫の事務服の傍へ近づくやうに見えた。自動車！ それはどうやら先刻貴婦人の乗ってゐたものによく似てゐる。さう思ふせいか、美しい白い顏がぼんやりと窓に見える、しかし、あの時からもう三十分餘りもたってゐるのだ。
おかしい!! まだあんなところをうろついてゐるとは、どういふわけなのだらう!!
じっと見てゐるうちに、友子はハッとした。心臟が早鐘を打ちはじめた。
紫の事務服は小走りにお堀端を歩いてゐる。瞳を凝らすと自動車は彼女と殆どすれすれに徐行をつゞけて行く。
友子の第六感はその自動車を怪しいと睨んだ。何かある、きっと何かあるんだ！
彼女は緊張した。頭の中が急に忙しくなった。連絡しなければならぬ。「何事も一人でやると失敗するぞ」と云はれた主任の聲がとっさに頭に浮かんで來た。
彼女は電話室に馳け込んだ。
自轉車に飛び乗ると、眞驀地に――、自動車と事務服との方向へ――、宙を飛んだ。
運轉手と事務服が何か爭ってゐる。忽ち車が停り、大きな男が何氣ない風で降りて來ると見るや、突嗟に事務服の背後に縋り必死に抵抗する彼女を後ろから抱いて、車内へ入れようとした。彼女は、身悶えしながら突き退けて逃げようとした。その途端、どうしたはづみか、事務服は前へのめった。
「あッ、轉んだ！」友子は思はず叫んだ。と、同時に運轉手はハンドルをにぎり、自動車は超スピードで走り出した。
友子は氣狂ひのやうになって自動車を追った。眼の先がくらくらとした、あの自動車を――、あの自動車を逃がしては事件の解決の鍵がなくなる。
怪自動車は彼女との距離をどんどん引っぱなして行く、駄目だ！ あゝ殘念だ！ 友子は齒を喰ひしばり夢中になって追った。と、その血走った瞳にＭ・Ｐのジープが風を切ってやって來るのが見えた。
彼女は夢中で手を擧げ、片語ながら事の顛末を告げて協力を求めた。
「オーライ」と快活に答へたＭ・Ｐは、友子をジープの中に助け入れ、そのまま全速力で自動車のあとを追跡してくれた、忽ち追ひついた怪自動車にストップを命じＭ・Ｐともども調べたところ、車の中にはなんと紫の事務服がたった一人、ちょこなんと座ってゐるではないか。
「貴婦人は何處へ行った？」
事務服は怪訝な顏をして、
「あの方は社長の奥様です。」と云った。
「月給の入った風呂敷包みは？」
「奥様にお渡しいたしました。途中が物騒だからと仰しゃって、御自分でお持ちになりました。」
と平氣な顏をしてゐた。
友子は呆氣に取られてゐたが、自分一人の早呑み込みから、こんな騒ぎをやったのを耻ぢた。あっさりと事情を話し、Ｍ・Ｐにお禮を云って別れた。
それにしても自動車から落ちた女は一體どうしたのだらう？ たしかに事務服の女のやうに見えたのだったが――、友子はお堀端へ引き返し、見覺えのある地點へ行ったが、女は無論のこと、まるで何事もなかったやうにあたりは靜かであった。
彼女は狐につまゝれたやうな氣がした。連絡の電話までかけたのは氣まりが惡いが、一應の報告もして置かなければならないと、進まない足を署へ引き揚げると、
「やあ、御苦勞様、お手柄々々。」と捜査主任に肩を叩かれた。友子は耳のつけ根まで眞赤になり、耻しくって顏が上げられなかった。
「君から應援頼むの電話を受けて、馳けつけた時、君が自轉車で疾風のやうに自動車を追ひまくってゐるところだったさうだよ。そして、往來に轉んだ女を難なく捕まへたといふわけさ。」
「だって、あの方、社長さんの奥様だっていふぢゃありませんか。」
「冗談ぢゃない、女装の惡漢だ。事務服の女とすり變って逃げるところだったんだよ。金もそっくり會社へ戻してやった。」
「まあ、あの貴婦人、男だったんですか？」
「さうさ。何んなら君、一寸會って來たまへ、地下室だよ。」
「おゝ、いや。澤山ですわ。すると、あの運轉手も共犯なんですか？」
「勿論。紫の事務服の女も捕まった。
三人共謀の月給泥棒だったんだ。」
注）句読点は追加変更したところがあります。
「家庭茶寮」
「日本ユーモア」 1947.06. (昭和22年６月号) より
１
河原には陽炎がたち、鶺鴒が鳴き、空に雲雀の聲が聞かれる――春はすでに音(※ママ)づれてゐるのだが、多美子の閉された胸の中は一向に春らしくもなかった。時勢は變っても、公卿華族といふ名門に生れたのが邪魔をして、その日の生活にも困るやうになった今日でも、なほ思ひ切った職業にもつけずにゐるのだった。
たった一人の兄が特攻隊に入って戰死したのは、多美子が女學校を卒業した年である。それから母と二人きりの侘しい賣り食ひ生活が始まった。
外から見るといかにも氣樂さうに見えるのだらう、お公卿様の未亡人だの、河原のお姫様だのと羨ましがられてゐるが、その實、家の中は火の車である。多美子がこればかりはどんな事があっても手離すまいと、かたく心にきめてゐた小櫻模様の訪問着も、つひに委託販賣所の手に渡す日が來てしまった。そして得た金が忽ち一斗のお米とお醤油とに變ると、あとに殘ったのは半月餘りを支へ得る副食物の代金しかなかった。
「お母様、こんな消極的な生活をつゞけてゐたら、それこそ没落一路を辿るだけですわよ。今のうちに――、あゝ、今のうちに何とかしなくっちゃ――ねえ、さうでせう？ お母様！」
硝子戸越しに一杯陽のさしてゐる暖かい縁側に石臼を持ち出して、母は一生懸命に大豆をひいてきなこをつくってゐる。
「またそのお話？ まあお待ちなさい。きなこが出來たら、多美子さんの好きなもろこし團子をつくって、おやつを食べながら、ゆっくり御相談しませうね。」
多美子はいらいらしながら、
「お母様は呑氣ねえ。お團子なんか私、いただきたくない。それどころぢゃないんですもの。」
今年二十一の彼女の眼には、身の皮をはいで暮してゐるのに、きなこをつくってお團子を食べようといふ氣持ちは解らなかった。あんまり呑氣過ぎて馬鹿々々しく見える。
「まあ、さう仰しゃらずに、すぐ出來るからお待ちなさいよ。」
多美子は膝の上にのせてゐた雜誌をぽんと放り出して、
「お母様はお氣樂だし、親類の方々はたゞうるさいだけで、ほんとの相談には乗って下さらないし、やれ華族の姫君ともあらうものがとか、やれ家柄の手前だの、身分だのって、口やかましい事ばかり仰しゃるだけ、あゝ、どうしたらいゝんだか分らない。この物價高では親類と喧嘩してお勤めに出たところで、月給だけでは食べられない。賣る物もなくなってしまったし、一體どうしたらいゝんだらう。どうしたら生きてゆけるんでせう？ お母様と私とたった二人が生きてゆくのに――。」
母は多美子のさうした言葉を聞くのが辛かった。きなこをつくりたいのではないが、お茶でも飲みながら話したなら、彼女のいらだった神經がいく分でも柔らげられはしないかと、わざと呑氣らしくかまへてゐたのだったが、かへってそれが多美子をぢりぢりさせてしまふのだった。
「お母様、もう止して頂戴！ ごろごろいふ臼の音を聞いてゐるのもいやだわ。それよりほんとに眞劍に御相談しませうよ。御相談がすんでからお茶をいたゞくわ。ねえ、お母様！」
彼女は母の細い腕を握って、挽臼の手を止めさせた。
「ねえ、私の訪問着のお金を食べてしまったら、その次は何を賣るの？ お箪笥の中は空っぽよ。まさか應接室の椅子や卓子にまで手をつけるわけにはゆかないでせう。家主さんからはあんなに催促されるし、今月納めなかったら立ち退かなくっちゃならない、行く先はなし、貸家はなし、ほんとに愚圖々々しちゃゐられないわ、食べられない上に宿なしになるのよ。」
母は櫛で前髪を掻き上げながら、
「だから、この間考へた、あれを始めたらいいぢゃないの。」
「家庭茶寮？」
「さう。」
「親類の方から文句出ないでせうか？」
「默ってればいゝでせう。」
「さうね。あれなら今日からだって始められるわね。お店を持つではなし、こゝの家でやるんだから簡單だわ。」
「コーヒー、お紅茶、それに自製のお菓子。ズルチンなんか使はないで、おねだんは高くってもほんものを使へばいゝでせう。」
「ほんとに始めませうね。」
「少しは準備もあるから、明日からね。」
多美子はいくらか心が明るくなった。
家庭茶寮、――それは彼女のつけた名であった。店を持つだけの金はないし、また店を持っては家柄よばはりする親類の手前がうるさい。そこで宣傳もせず、人にも知れないやうに、目立たずに客をよばうといふところに苦心があった。
２
次の日、多美子は澤山花を買って來て、應接室を飾った。
なけなしの財布をはたいて、闇砂糖を少し手に入れた。ブラジルコーヒーと紅茶、母の手製のワッブルには、思ひ切ってあんづのジャムの罐をあけた。
すっかり用意が調ふと、多美子はさっぱりとした洋装に着換へ、ラッシュアワーを見計って都心に近い驛へ客を拾ひに出た。
門を出る時、我家を振り返ってつくづく眺めてみた。垣根がところどころ破れてゐるのはみすぼらしいが、見つきは決して惡くない、相當な人の別莊ぐらゐには見える。それに、河原に夕陽が沈みかける頃の風情はまた捨てがたいものがある。
近所に家はないし、瀟洒なこの住居は全く家庭茶寮といふのに相應しく出來てゐる。この家ならどんな人を連れて來ても恥しくない、と思ふと急に氣が強くなって、何かの雜誌で讀んだ誘ひの言葉を、頭の中でくり返してゐた。
夕方の驛は雜沓してゐた。その中でこれぞと思ふ人に言葉をかけようといふのだが、どうにも近づく勇氣がないので、いゝお客らしい人をどんどんやり過してしまった。
まるで誰かを迎へにでも來てゐるやうに、ぼんやりと立ってゐるうちに、追々人足もへって來た。
多美子は焦った。しかし、上品で美しい、眞面目な顏をしてゐる彼女を、誰だって喫茶店の客引きだと思ふ者はなかったらう。
彼女が來てから十何臺目かの電車が發車して後、精算所で手間取っておくれて出て來た一人の紳士が、土地不案内ででもあるのか、そこに立ってゐる多美子を見ると、帽子を脱って、
「多摩河原へ行きたいのですが、京王線の乗り場はどこでせう？」と丁嚀に訊いた。
多美子はこゝだとばかり緊張して、
「あら河原なら家の近くですわ。私も歸るところですから、何んなら御一緒にまゐりませう。」
「それは有難い、是非お伴させて下さい。實は始(※ママ)めて訪問する家なので、こんなに日が暮れてしまっては分るまいと思って、心配してゐたところです。ほんとに幸でした。」と云って喜んだ。
小一時間も電車にもまれて多摩河原で降りると、彼女は自分の家へ寄ってお茶を飲まないかと恐る恐る誘ってみた。
紳士はびっくりしたやうに立ち止って、じっと多美子を見てゐたが、やがてにっこりして、
「是非、一つお茶をおよばれしませうか。」と云って、急になれなれしい口のきゝやうをした。
多美子は應接室に案内した。
「あとでお高いとお思ひになるといけまんから、ちょっと、この書附をごらん下さいませ。」
と云って、定價表を見せた。
客は目を瞠った風であったが、
「いや、結構です。かういふ靜かなお邸でお茶をいたゞけるところがあるとは、全く知りませんでした。では――、コーヒーとお菓子、僕は甘いものが好きですからお菓子は二人分いたゞきますよ。」
彼女は話相手の役を引き受け、母がコーヒーと菓子を運んで來た。
「いくら高くっても構ひませんが、ほんものを使ってゐないと失望しますね。」と云って、砂糖だけでつくった菓子をうまいうまいと褒めて食べた上に、家へのお土産にと云ってあるだけの菓子を包ませた。
客は訪問先があるやうな話だったが、なかなか椅子を立たなかった。多美子は初對面ではあるし、忽ち話の種がつきて母へ助太刀を頼んだりした。
「この邊へいらしたら、またどうぞお立寄り下さいませ。」
「是非ちょいちょい伺ひたいものですね。」
「今日開店したばかりなんですが、お客様は一日にお一人ときめてありますのよ。」
客は深くうなづいて、
「それが何よりですよ。」
「あんまり澤山いらして下さると、おもてなしがお粗末になって失禮いたしますから――、それに近所に家がなくっても、世間の口もうるさいので――。」と母がしとやかに微笑んだ。
「ご尤もですとも。それにお見受けしたところどうしたって箱入りのお嬢様ですもの。パンパンガール並に扱はれちゃたまりませんよ。アハヽヽヽヽ。」
「パンパンガールと申しますと？」
母が訊くと、多美子は眞赤になって、
「いやよ、お母様。そんなことお訊きになっちゃ。私、そんな者と一緒に思はれるんなら。」――と情けなささうな顏をして横を向いた。
「これは、飛んだ失禮を申しました。」と客は甘ずっぱい顏をして、自分の早合點を耻ぢたのか早々に歸り仕度をした。
３
茶寮を開業してから一日も休む日はなかった。この工合ならどうやらふたりの生活は保證されさうなので、多美子は勇み立って夕方になると驛へ出かけた。しかし、客は一度きりで決して二度來なかった。何故だらう？ どこかサービスの惡いところがあるのではないか？ 彼女はいろいろ考へてみたが分らなかった。
「お母様のお製りになったお菓子、褒めない人はないのね。だのに――、どうして皆さん一度ぎりで來て下さらないんでせう。これではいつになっても私、お客拾ひに行かなけりゃなりませんわねえ。」
その翌日、彼女は初老に近い紳士を連れて來た。血色の惡い弱々しい人だったが、服装の立派なのと、物腰の丁嚀なのが彼女達を喜ばせた。大抵の人は名前を云はないのに、この紳士は北村十次郎といふ名刺を出して株屋だと名乗った。もとは日本橋で相當な家に住んでゐたのだが、十一月二十九日の爆撃で家から家財道具をすっかり燒いてしまった。家族は信州に疎開してゐるが、そこが氣に入って居ついてしまひ、轉入する氣にならないので困る。東京には自分一人きりで淋しいから、これを御縁に時々まゐりますと云った。
ふたりは彼の人柄にすっかり安心して、
「こちらこそお願ひいたします。毎日でもどうぞ。」と母は頭を下げた。
「僕はあなた方の世間ずれしてゐないのが、何よりも嬉しいんです。それはもう、當節の事だから、金さへ出せばいくらでも、うまい菓子を食はせるところはありますよ。しかし、かうして家族的な優しい待遇をうけて、いたゞくお菓子の味はまた格別です。ごたごたした喫茶店の中で、せき立てられるやうにして食べるのとは違って、何とも云へない愉快さですよ。」
北村はさういって褒めた。お世辭半分としても、やさしい取り扱ひがそんなにも、人の心を感じさせるものかと、それ以來ふたりは商賣氣はなれて氣をつけるやうになった。
その日を始めとして、北村は毎夕やって來た。彼はまた非常に親切でよく氣がついた。多美子のジャケツがくたびれてゐるといへば、ちょっと手の出せないやうな高級品を買って來てくれるし、編物がしたいと云へば素晴らしいアンゴラの糸を持って來てくれる。
時にはお荼漬けでいゝから夕飯を食べさせて下さいとねだって、百圓札を置いていったりする。ふたりは飛んだ福の神様が舞ひ込んだと大いに歡迎した。
彼が來てくれるので、多美子はもう客拾ひに出なくてもよくなり、生活も次第に樂になった。
「働きさへすれば、生活の苦労なんてないものねえ。今まではただどうしようどうしようと心配ばかりしてゐて、オホヽヽヽヽッ、早く働くことに着手すればよかったんだわ。」と、靜かな家の中に時々、彼女の朗らか笑ひ聲がもれるやうになった。
多美子は家計簿をつけながら、氣になってゐるので家賃の事が胸につかへた。その晩、北村に家主といふものの冷酷な話をすると、彼はひどく同情し、
「明日でも、僕が拂って來て上げませう。そして一つうんと理屈を云ってやらう。御婦人ばかりだと思って馬鹿にするんですよ。この家のない時、出て行けとは何事です。弱い者いぢめにも程がある。家主といふのはどこなんです？」
「中河原の農家なんですの。この二三年のうちに大金持ちになったんで、鼻息が荒いんでございますよ。」と母は忌々しさうに云った。
「怪しからんですな、闇賣りで儲けたんでせう。僕が談判して上げますよ。」
北村は早速家主に會って、話をつけてくれた。滞りの金を立替へて支拂ったが、先方は女の人は催促もしにくいし、泣きごとを云はれるのでほとほと閉口する、滞納を拂ってくれても將來また同じやうな事が持ち上ると困るから、この際御婦人はお斷りしたいと云ふので已むなく、
「僕が借主になる形式にしてね、やっと、圓滿に話を纏めて來ました。」と彼はあっさりと云った。
「ほんとにまあ、何から何までお世話様になりまして。」と母は疊に手をついた。
「でもまあよかった！ 他の方ではなし、北村さんから拜借するなら安心だから、ねえお母様、これでやっと安眠が出來ますわねえ。ほんとに有り難うございました。」
多美子は興奮して顏をほてらせてゐた。
暖かになると疊の汚れが目立つから疊替へをしよう――と北村が云ひだした。破れたのを氣にしてゐた母は、喜んで有頂天になった。それにしてもいま新らしく替へるのは大變だと云ったが、彼は手輕に引き受け、翌日は疊屋を廻はしてくれた。垣根が破れてゐて見苦しいと云って植木屋をよんでつくろはせた。曲った門柱も眞直に立て直し、外見だけは綺麗になった。
が、家財道具はあらかた賣りつくしたので、家の中はがらんとして貧しさうだと思ったのだらう、彼は家具屋から、食器棚だの、食卓だの、姿見鏡まで買って届けさせた。道具に興味を持ってゐると見えて、彼は樂しさうにあちこちとそれ等を置きつけた。
「どうぞ、御遠慮なくお使ひ下さい。」と冗談のやうに頭を下げて笑った。
「家の中まですっかりと立派になりましたこと、何となく豐かさうぢゃありませんか。」と母と多美子には夢見る心地だった。
それから間もないある日、
「家内が少し加減が惡いさうですから、ちょっと見舞ひに行って來ます。二三日御無沙汰しますよ。」北村が急にいった。
母はお土産にお菓子をつくり、多美子は子供達へと折紙だの千代紙だのを買って來た。
彼の來ない二三日は大變長かったが、もう多美子は驛へ客拾ひに出なくてもよかった。北村のおかげで多少の餘裕も出來たので、もう明日の日を心配しなくてもすむやうになってゐた。
「まるで神様が私達を可愛想だと思召して、おさづけ下すった方のやうだわねえ、北村さんは――。」と多美子はよろこんだ。
「あんな人ってあるもんぢゃないからね、私は初め夢か知らと幾度思ったか知れないよ。」
世間知らずの母と娘は、彼の歸りを待ち侘びながら、噂さばかりしてゐた。
丁度四日目の夕方――。門のあたりに自動車の停る音がしたので、
「北村さんぢゃないか知ら？」と多美子は首を傾けて、「お歸りになったのかも知れないわ。」と慌てゝ玄關へ飛んで行った。
母は急にあれこれと心を配りながら、靜かに多美子の後について出ると、門前には大きな自動車が横づけになってゐて、一杯荷物を積んだ車の中から我勝ちに二三人の子供が飛び降りた。つゞいて北村が小さい女兒の手をひいて出て來て、呆氣に取られてゐる母と多美子へにこにこしながら、
「あの――、妻と子供達です。」と紹介した。
「いゝ家だなあ」と十四五の男の子が云ふ。
「よくまあ、こんないゝ家が手に入りましたことねえ。」と彼の妻は母と多美子へ挨拶するより先に、あたりを見廻はしてから、
「るす中主人がいろいろお世話になりまして、私は北村の家内でございます。」と云って、ぢろりと多美子へいやな眼を向けた。
ふたりは驚いて、ただ顏を見合はせたぎり一言も言葉が出なかった。
多美子は唇を白くして、
「これは一體どうしたことなの？ ねえ、お母様。」と母の袂をひいた。
「御病氣見舞ひでなく、北村さんは御家族をお迎へに行かれたんだね。」と母は小さい聲で云った。
北村は一室々々妻を案内して歩いた後、
「御らんの多人數ですから、御窮屈でせうが、奥の六疊をお貸しいたしますから、――。當分はまああすこにゐらして下すってもようございますよ。子供が澤山ゐておやかましいでせうが、アハヽヽヽ。」と云った。
母と多美子は始めて彼の親切の眞相を知ったのだった。家を借りてゐたと思ってゐたらいつの間にか間借りになってゐたのだ。
「共同生活も仕方がないけれど、お臺所だけは別々でないとね、一緒は私、いやですよ。」
と彼の妻が夫へ訴へてゐる聞えよがしの疳高い聲がした。
喜びが大きかっただけに、ふたりはがっかりして、
「やっぱり故なく人の親切に甘へるものぢゃなかったのねえ、お母様、私達は今日から部屋借りの身分になったんだわ。」
「借主が北村さんの名になってゐるんだから、今更どうも仕方がないけれど――。」と母は口惜しさうに、
「部屋がりでは、家庭茶寮も出來ないし――。」
母と多美子はもう一度夢から醒めたやうな氣がしたのだった。
注）明かな誤字誤植は修正しています。読点は句点に変更したところがあります。
「隣の未亡人」
「妖奇」 1947.09. (昭和22年９月) より
（『魔性の女』収録）
１
この家のない時に、夫婦二人暮しに九室もあるなんて――、と蔭口を云はれてゐた隣りの家も、今年に入ってから引揚げ家族やら、疎開先から轉入して來た親類やらが、あとからあとからと割り込んで來て、遂々五世帶といふ大人數になってしまった。
隣組がなくなり組長といふ名も消えたが、新らたに配給係長といふ名稱が生れ、實際には組長と同じ役割りを受け持ってゐる私は絶えず隣家へ出入りする用事があった。急にふえた大家族の臺所はいつもごった返し、食事時には七輸がずらりと外へはみ出して水口の出入りをふさいでゐた。中にも山岸さんといふ人は一世帶で五人だった。その五人を背負って立ってゐるのは今年二十四になったばかりの幸子さんといふうら若い未亡人で、二十歳の時結婚して翌年夫を特攻隊に送ったといふ。
夫の兩親と弟二人とを養はなければならない重荷を負った彼女は、疎開先の信州から歸ると直ぐ職を求めてけなげに働きはじめた。映畫一つ見にゆくではなし、内氣な彼女は隣組の若い人達ともあまり口もきかず、默々として毎日通勤してゐた。おとなしいので兩親に氣にも入ってゐたし、弟達にも姉さん姉さんと慕はれ、近所でも評判がよかった。
「あんな可愛らしい人、あゝしてただ働かせて年をとらせてしまふのは可哀想だわね。樂しみはなし、希望はなし、ただ家族を食べさせるために體をすりへらしてゆく、私達だったらヤケになってしまふでせうに――。」
「いゝお嫁さんを貰ったものだ、あの人のおかげで親子四人が生きてゆけるんだもの。」
「よくやって行くのね。月給いくら位とるのか知ら？」
「何んでもよっぽどとるらしいのよ。何處へ動めてゐるんだか知らないけれど、英語がとても達者なんだってさ、弟さんが自慢してたわ。だから、きっと、普通のお勤め口より収入もずっと多いんでせう。で、なけりゃ五人の口は過せませんわね。」
よるとさはると彼女の噂だった。が、誰一人幸子さんのことを惡るく云ふものはなかった。若い未亡人といふのからして同情される上に、夫に代って一家を支へてゆくといふのだから感心しない人はなかった。
私も幸子さんの同情者の一人であった。未亡人とよぶにはあまりにも痛々しい。まだ何處かに子供氣のぬけきらない、色白のぱらりとした眼鼻立ちで、愛くるしい顏をしてゐた。
今の若さで、美しい着物も欲しからうのに、いつも同じ紺の洋服だった。長い靴下は高價でとても手が届かないと云って、ズボンを穿いてゐた。背が五尺三寸もあるのだからズボンもよく似合ふのだが、何分スフ入りなのでところどころ破れてゐる、それをつくろってあるのが目に立って侘しいかった。
「幸子さんはほんとにかまはないのねえ。」
「お洒落をしたら、どんなにでも美しくなるだらうのに。」
「食べるに追はれて自分の身の廻はりまでは手が届かないんでせう。」
みなりが粗末であるといふ事がまた婦人達の同情をひいた。
「お父さんが少し働けばいゝのにね。」
「神經痛で起きられないんですとさ。だからお母さんも働きに出ることが出來ないんださうよ。」
「何んて始末が惡いんでせう。弟達はまだ小學校なんですってね。」
「弟達が小學校でも出れば、幸子さんも一と息つけるでせうよ。」
人の噂をよそに當の幸子さんは朝起きると家中の食事の仕度をして、三つのお辨當をつくり、二つを弟達に、一つを自分が持って、八時といふとまるで判で捺したやうに家を出た。いつも同じ服装の彼女の姿は遠くからでも直ぐわかった。
私は電車でよく一緒になった。彼女はつつましく微笑して頭を下げるきり、此方から訊くことには答へるが、彼女の方から話かけるといふことはなかった。
混んだ電車の中で釣り革にぶら下り、揺られながら話すのだから、収りとめたことは何も話せなかった。私はいつも彼女に深い同情を持ってゐるので、會ひさへすれば何か知ら言葉をかけた。
「毎日――、随分お疲れになるでせうねえ。」と云ふと、幸子さんはほほ笑んで、
「いゝえ、馴れてゐますから、そんなでも――。」
とかすかな聲で答へる。
「男の方だって、今は大變だのに、よくまああなたはやってゐらっしゃるって、皆さん感心してお褒めしない方はありませんのよ。」
彼女はただにっこり笑っただけだった。
「何處へお勤めになってゐらっしゃるんですの？」
「何處と申上げる程立派なところではありませんの。どうせ、私のやうな者、何も出來ませんのですから。」と頬を赤くしたので、そんなことを訊いては惡るかったのかと思ったので、
「でも、大變語學がよくお出來になるさうで、今は英語が達者なら、いゝところがいくらでもありませうから、お幸ですわ。」
「子供の時に、英語ばかり使ってゐるやうな家で育ちましたので、規則立ったことは出來ませんけれど、ただ、ほんの少々會話を――。」と謙遜して、それ以上は何を訊いてもただ笑ってゐるばかりで相手にならなかった。
その後も私は度々彼女と一緒になったが、彼女については何一つ知ることが出來なかった。若い人に似合はず口數が少なくって、自分の家族の事は勿論、彼女自身の事はまるで語らなかった。
よほど利口な女なのだらうと思ったが、なつこさがまるでないので、あまり可愛いゝ人ではなかった。何處か冷めたいところがあって、いつも他人の批評を恐れてゐるやうな、恐は恐は人に對してゐるやうな、つまりフランクでなかったのだ。惡く云へば何かしら奥底があって、胸に一物あるやうでどうにも親しめなかった。
２
私は、自分の仕事の都合でどうしても事務所を持つ必要があった、が、なかなか思はしいところが見つからないので散々探した揚句、一時腰かけのつもりでアパートの一室を借りる事にした。
私立探偵事務所の看板をかけたので、一日に一度はそこへ行かなければならなかった。引越したてではあるし、アパートに住んでゐる人達の顏もまだ覺えなかったが、出入口などで出會ふ女の人達はみんな美しかった。
ある日、私は仕事の都合で夕方近くなってアパートへ行った。
すると、事務所の前には大勢人が集まってゐて、何事かあったやうにごった返してゐた。告知板には大きく、
「お部屋へお歸りの前に事務所へお立ちより下さい。」と書いてあった。
何んだらう？ 私の頭の中には忽ち職業意識が働いた。
開け放しになってゐるドアに首を突込んで事務所の中を覗くと、蒲團が敷いてあって、北向きに寝てゐる人の頭が見えた。それは男であった。
「あの人、どうかなすったんですか？」とそこに立って見てゐる婦人に訊くと、
「死んでゐるんですって。」と口早やに答へて、さっさと出て行ってしまった。
アパートの小母さんは枕許に小さな机を置いて、その上に水とお線香を上げてゐた。
「どうして亡くなったの？」
小母さんは手を合せて一寸拜んでから私の方へ來て、
「やっと今しがた警察の方達が引き揚げたところなんですが、腦溢血なんですって。」
「どなたなんですの？」
「それが分らないんで、困ってゐるんですよ。」と小母さんは入口に並んでゐる澤山な顏へ、
「御自分のお知り合ひでなかったら、お部屋へお歸りなさい。こんなにがやがやと騒いでゐられると、私はのぼせ上っちまうから――。」と頭をガリガリ掻きながら、
「ほんとに厄介なことが出來ちまって」と死人の方を指さして、
「多分、お部屋を間違へたんだらうと思ふんですが、八號室の水上清子さんのベッドで、この方が死んでゐたって騒ぎなんですの。」
「へえ。」私は顏にかけてあるハンケチを脱ってみた。鼻の丸るい、肥った五十あまりの額のぬけ上った男だった。
「知らない人が自分のベッドで死んでゐたら、その水上さんといふ方、さぞ、びっくりなすったでせうね。」
「えゝ、もう、大した騒ぎ方でねえ。恰度、水上さんは夕方歸って來て、お約束の人が待ってゐるものだとばかり、早合點して、電燈もつけずに、いきなり、この死人の寝てゐるベッドの中へもぐり込んだんですって――、若い方って仕様のないものですねえ。恐ろしい悲鳴に愕いて私が馳けつけたんですの。水上さんはベッドから轉がり落ちて、氣を失ってゐましたよ。」
「それゃ、そうでせう。」と私はうなづいて、なほも死人の方を見てゐると、うしろで誰かクスリと笑った聲がした。振り返って見るとカフェーの女給をしてゐる花子さんといふ綺麗な女だった。さもさも可笑しさうに唇を曲げて笑ひを殺しながら、
「小母さん、もっと委しく話してよ。その人、水上さんとこへ來たお客さんぢゃないの？」といたづらさうな眼をした。
「きっとさうよ。突然、腦溢血を起して死んぢゃったんで水上さん、かゝりあひになると困ると思って、知らない人だなんて、誤魔化してるのよ。心臟ねえ。」と湯上りらしい顏を、花子さんの肩越しに覗かせて云った。
小母さんは一人々々の顏を見ながら、
「まさかねえ、私がこんなに困ってゐるんだから、知ってるんならかくしやしませんよ。とにかく身許が分らないのはどうしようもないんだから、知ってる人は遠慮なく云って下さいよ。變死ぢゃないんだから迷惑はかかりませんからね。」と云って、小母さんはそこに集ってゐる人違に、ハンケチを脱って、もう一度顏をよく見せた。
「知らないわね、こんな人。」
「見たこともないわ。誰のところへ來る人か知ら？」
「知らなかったら、それでいゝですからね、皆さん、お部屋へどうぞ引きとって下さい。そこで、さうして、がやがや云ってゐられると小母さんはもう頭が變になっちまうから。」と小母さんは聲を枯らしてどなった。
私はあとに居殘って、もう一度事の顛末を委しく訊いてみた。
「一體このアパートは女給さん達が多いんでね、とかくの噂が絶えないのに、また、こんな出來事があるとほんとに困っちまうんですよ。」と小母さんは眉をしかめて、
「八號室の水上さんはね、これはほんとに内緒のお話なんですが。」と聲をひそめて、
「あんまりお金廻りのよくない人の二號さんらしいんですよ。それですから夜はその旦那さんのところへ歸るらしいんでこのアパートには絶對に泊りません。朝早く來て掃除したり、食事したりしてゐるんですが、極く内氣な人でアパートの人との交際はないものですから、誰一人あの人の事は知らないんですが、よく氣がついて、つけ届けもいゝので私はまあ大切なお客さんにしてあるんですがね。その水上さんが今日は午後から買物に出かけて――たぶん、お約束のお客さんをもてなす御馳走か何んかを探しに行ったんでせう。
夕方戻って來たんです。歸ってみると自分のベッドに人が寝てゐる。お約束の人だと思ひ、聲をかけたが返事がない、これはてっきり水上さんの歸りのおそいのに奮慨して狸をやってゐるんだと思ったんださうです。が、何を云っても知らん顏してゐるし、ちっとも動かない、そこで變だなと電燈を點けてみると膽をつぶしてしまったといふわけなんです。氣の弱い人なら水上さんでなくっても氣絶してしまひますよ。知らない人、しかも死んだ人と一緒に――。」
「お約束のお客さんだなんて、小母さん、水上さんはこのアパートで何してゐらっしゃるんです？」
小母さんは鼻に皺をよせて笑ひながら、
「それゃ、あなた、云はずと知れた事ってすよ。旦那からの仕送りが足りないから、内緒で稼いでゐるんです。そしてまたその方がずっとみいりが多いんでせうからね。今のお時世では一人の旦那ぢゃ食べて行けませんよ。男の方だって重荷でせうしね。」
それがまるで當然であるかのやうな口ぶりには、私は呆れてしまった。
そこへあたふたと馳け込んで來たのは二十ばかりのおカッパにした女だった。
「小母さん、見せてよ。死んだッて人。」
「あら、江藤さんかい。心あたりでもあるんですか？」
「私は知らない人だけれど、先刻アパートの前で私に口をきいた人ぢゃないかと思ふからさ。」
江藤は自分でハンケチをとって、じっと見てゐたが、
「やっぱりさうだわ。あの人に違ひないわ。ねえ小母さんこの人、九號室の竹澤さんはどの部屋に引越しましたって訊いたから、南部館から此度西部館の方へ越しましたよッて数へてやったのよ。部屋にゐますか知らなんて云ってたわ。」
「あゝ竹澤さんとこへ來た人なの？ それゃありがたう。」と小母さんは肩の荷をおろしたやうにほっとした。
「私がね外から歸って來るとこの人、アパートの前にうろうろしてゐたのよ。大きな茶色の風呂敷包を背負って、氣分が惡いとか何とか云って、顏から汗をたらたら流して、まるでお酒にでも醉ぱらってゐるやうに、ふらり、ふらりとよろけるやうに歩いてゐたわ。私が廊下の端まで案内して上げると、荷物をドアの前に放り出すやうに下して、入って行ったわ。きっと苦しくって、背負ってゐられなかったのね、死ぬ位ですもの。」
「その時はもう眼がくらんでゐて、九號室のドアと八號室のドアを間違へて、水上さんの方へ入っちまったんだね。だけれどその荷物といふのはどうしたらう。」と小母さんは小首をかしげてゐると、
「ドアの前に置いてあった茶色の荷物なら私知ってるわ。」といふ聲がした。同じやうな年ごろの斷髪の女であった。小母さんは彼女の方を向いて、
「あんた、その荷物見た？」
「靴みがきの坊やが背負って行くところを見たから、坊や何處へ持って行くの？ 竹澤さんのぢゃない？ ッて訊いたら、竹澤さんから頼れて届けに行くのさッて云ったわ。」
「ぢゃ、靴みがきの坊やが掻ぱらって行ったんだ。竹澤さん憤るだらうね。」
掻ばらひはしゞうあるので、小母さんはまたかといふやうな顏をした。
３
私は小母さんの部屋に上り込んで、みんなの話を聞いてゐた。ものの小一時間ほどすると、當の竹澤さんがお勤めから歸って來た。自分の部屋へ行く前に、アパートの人達から今日の出來事を聞いたものと見え、青くなって飛んで來た。
いきなりハンケチをはねのけ、わあっと聲をあげて泣き出した。
「伯父さん！ 伯父さんはまあ、どうしたってんのよ。」と死人の體をゆすぶって、わあわあ泣いた。
「あなたの伯父様でしたか？」と私は訊いた。
「えゝ、さうなの、たった一人の伯父さんなんですわ。」
「それぢゃまあ、飛んだことだった。」と小母さんは気の毒さうに云った。
「大島から來たんです。バタを澤山持って。私、そのバタで儲けちゃうつもりだったのよ、小母さん。」と涙の一杯たまってゐる眼で泣き笑ひをしながら、
「ねえ、小母さん、伯父さんは大きな荷物を背負って來なかった。」
「その荷物なんだがね。」と小母さんは當惑して云ひ澁った。
「持って來たんでせう？ 約束したんだから。ほんとにいゝ伯父さんなんだからね。私が困るだらうッて、バタを賣らしてくれてるのよ。安く、ほんとのもとねで持って來てくれてゐたのよ。だって、伯父さんのとこには牧場があるんですもの。」
その親切な伯父ざんは死んでしまひ、持って來てくれたバタは掻拂はれたと聞いたら、彼女はどんなにがっかりするだらう。私は氣の毒で何も云へなかった。
「小母さん、伯父さんを私のお部屋へ連れて行きたいんだけれど。手を貸して下さらない？」
竹澤さんは興奮してゐて、少しも落ちつかなかった。
「手は貸して上げるけれど、なかなか重くって運べませんよ。水上さんのお部屋から此處まで運ぶのに五人がかりだったんですもの。」
「水上さんを氣絶させちゃったんだってね。私、あの人に謝罪って來なくっちゃあ。」と慌てゝ起ちかけるのを小母さんは手で制して、
「水上さんはそこに寝てゐなさるのよ。唐紙を開けてごらんなさい。恐くって、自分のお部屋へ入れないんだって。」
竹澤さんはがらりと襖を開けた。と同時にふらふらと起ち上った水上さん、派手なけばけばしい洋服に髪をふり亂してはゐるが、その顔をひと目見た時、私ははッと息をのんだ。それは隣りの未亡人山岸幸子さんではないか。
彼女の方でもちらりと私の顔を見て胸を衝かれたらしくよろめいて蒲團の上に崩折れ、顏を伏せてしまった。
私は何も彼もすっかりわかったやうな氣がしたが、彼女を慰める言葉を知らなかった。
翌日、配給物を届けに行くと、幸子さんは平氣な顏で臺所に出て來た。思ひなしか顔いろが青く、沈んでゐるやうだったが、私の方からは何も云はないのに、
「すつかり風(※ママ)をひいちゃって、昨日からお勤めを休んでゐますの。」
「それはいけませんねえ。氣候が惡いから御大切になさいませ。」
「えゝ、ありがたうございます。でも、今日は斯うして起きてゐられますからいゝんですが、昨日は遂々一日中寝たきりでしたわ。」と訊きもしないのに、昨日、あなたの見た人は私ぢゃありませんよ、と云はないばかりの口ぶりであった。
（完）
注）句読点は追加変更したところがあります。
「赤ん坊の闇」
「Ｇメン」 1947.10. (昭和22年10月号) より
駐在所のお巡査さんが來て、
「このごろ、ちょいちょい赤ン坊泥棒がある。直きに歸って來るが赤ン坊のある家では氣をつけてくれないと困るよ。」と注意した。
安子は生れてからやっと百日目になった赤ン坊の君子を抱いていたが、
「赤ちゃんなんか盗んでどうするんでしょう？」
と眼を丸るくした。
「いくら食糧が足りないったって、食べるわけじゃないさ。だから、一日か、長くって二日目には歸って來るそうだがね。」
「あら歸って來るんですか？ そんならまだいいわねえ。きっと、物好きな人のいたずらでしょう。それとも赤ちゃんを見ると可愛くって欲しくなるのか知ら？」
「多分、そんな事だろうと、まあ思っているんだが、盗まれた親はみんな氣狂いのように騒ぎ立てるが、さて、歸って來ると安心してしまうのか、けろりとしているのであんまり大事件にされないでいるが、そのうちに一人でも歸らない赤ン坊が出ると、大騒動だね。とにかく用心して下さい。日暮れ時が一番やられるそうだ。晩の仕度で忙しいので、ついうっかりと座敷へ寝かして置いたのが、いつの間にか清えて失くなったとか、玄關でお客と長話しているうちに見えなくなったとか、まるで、昔の神かくしだね。」
「いやですわねえ。赤ちゃん一人につききっているわけにもゆかないし、妙な事が流行だしたもんですのね。」
安子は氣味が惡いと口では云いながら、まだ身辺に迫って來ているようにも感じなかったので、よもやと、たかをくゝっていた。
それから四五日過ぎた日の午後、朝からむし暑いと思っていたら、急に雲が出て、ぽつりと大粒の雨が庇のトタンに當ったかと思うと、忽ちどしゃぶりになった。
恰度君子の晝寝の時間だったのに彼女は茶の間で添乳をしながらうとうとしていたが、雨の音にびっくりして起き上り干しぱなしにしてある襁褓が濡れては大變といきなり臺所口から飛び出して物干竿を下して取り込みにかゝった。
三竿も干した洗濯物を抱えて家へ入り、濡れた顏を拭いて、ひょいと茶の間を見ると、赤い蒲團はあるが、赤ン坊の姿がない。
安子はハッと胸をつかれて、全身の血が頭に上った。夢中で赤い蒲團を放り出し、部屋の中をくるくる廻った。
「君子や、君子？」とよんでみた。じっとしていられないので、隣家の小母さんに聲をかけた。
「小母さん、君子がいなくなったんですのよ。」
小母さんは障子をがらりと開け針仕事の手を止めて、
「えッ？ 赤ちゃんがいないッて？」
「きっと、盗られたんですわ。だって、何處にもいないんですもの。」安子は泣きながら、雨の中に立っていた。小母さんも水口から下駄を突かけて出て來たが、一緒に家の中を探してくれた、が、何處にもいなかった。
「まさか、浚われたんじゃありますまいね。」小母さんは安子の顏を見ながら云った。彼女はお巡査さんの注意が今吏のように胸にひしひしと思い當った。干物を取り込む僅かな聞だから、と油斷したのが惡かった。
夫が歸るのを待って、駐在所へ訴えた。お巡査さんはそれ見た事かと云わないばかりに、
「だから、注意して置いたのに困ったことだ。」と苦りきっていた。
「どうしたらいゝか、探しようもないんですもの。」とおろおろ聲で云った。
「今までの例だと一日か二日のうちには歸って來るから、それを待ってみて、その上で――。」
「歸らなかったら探してやると仰しゃるの？ そんな呑氣な事してはいられません。あら、どうしよう。もしかの事があったら――。お巡査さん、私、じっとしていられないんです。」
「まあ、落付いて、心當りを訊いてみなさい。此方も手配はするが――。」と云うことだった。
安子は乳がはって痛かったが、飲ませる赤ン坊のいないのが悲しかった。乳を茶碗の中にしぼり込みながら、ぽたぽたと涙を流した。
「お前の不注意だ！」と夫は頭から叱りつけた。
翌朝お巡査さんが訪ねて來てくれた。
「赤ン坊はまだ歸らんか？」
「歸りません。」と答えるより先に涙が出た。
「歸った赤ン坊の襁褓が違っていたと云う訴えがある。白地の浴衣をあてゝ置いたのに、ぼろぼろのつぎのあたった紺飛白をして歸ったと云うんだ。赤ン坊のある人が盗むらしいね。歸って來たらよく調べて知らせて下さい。」
日が暮れると安子は君子の事が一層案じられて、家の中にいられなかったので、裏の畑へ出てぼんやり空を眺めていた。まだ降り足りないのか、月は笠を被ぶっている。その時縁側の方でコトリという音がした。
猫か知ら？ 透かしてみると若い洋装の女が風呂敷包のようなものを抱えて、縁側から上り込もうとしているところだった。
安子は思わず、
「泥棒！」と叫ぼうとしたのをぐっと呑み込んで、何をするか見ていた。
女は前後左右に氣を配りながらひらりと身輕に座敷へ上り、包みを兩手に抱えて、そっと部屋の隅に置いて逃げ出そうとした。
君子を盗まれてから氣が立っている安子は、夢中で女の後から組みついた。
不意を食らった女は安子を突き飛ばし身を轉そうとしたが、彼女は相手の足に武者振りついて放れない。二人は暗い中で取組み合いをしていたが、そのうちに、女はぴたりと抵抗をやめ、
「ごめんなさい。」とあやまった。
安子は息をきりながら睨んでいた。
「すみません。堪忍して――。見逃して下さい。駐在所へ突き出しちゃ、いやよ。お願いだから。」とひたあやまりに詫びるのだった。
すると何處かでふいに赤ン坊が泣いた。おやッと思うと同時に、安子は次の間に飛んだ。風呂敷包と見たのは赤ン坊だった。
「あら君子！ 君ちゃん。よく歸ってくれた。君子や、君予や。」氣狂いのようになって名をよびながら、抱き上げて頬ずりしたり、ぎゅっと抱きしめたりした。使女の頭の中には女もなければ何もない、ただ君子が戻った喜びだけだった。この大きな喜びに彼女の心はすっかり寛大になっていた。
女はじっと安子を見ていたが、
「私、泥棒しに來たのじゃないのよ。あんたの赤ちゃんを返しに來たのさ。」
安子はびっくりして、
「あらッ、あんたが盗んだの？ どうして他人の赤ン坊なんか盗むんです？」
「私は自分の赤ン坊を亡くしたのよ。」と云って急にめそめそ泣き出した。
「私は戰災者で、無一物の貧乏人なのに、重病のお母さんを抱えていて、働きに出る事も出來ないんです。その上毎日の食べ物を心配しなければならない哀れな身の上なんですの。」
「そんな中で、手のかゝる赤ちゃんを盗むなんて――、私、その氣持ち解りませんわ。」と云いながら安子は、はりきっている乳房を君子にふくませた。
「何も物好きに赤ン坊欲しがるんじゃないわよ。妊産婦への配給のいゝのはあんただって知ってるでしょう。私は赤ン坊を亡くしたことを秘し、前の證明を使って、ミルク、砂糖の配給を受けているの。でも、近所がうるさいでしょう？ だから時々他家の赤ちゃんをお借りして來て泣き聲を聞かせたり、汚れたおむつを洗ったり、干して置いたりしてカムフラージしているんですよ。」
「まあ、呆れた。配給物欲しさにそんな罪を犯して――、あんた惡いと思わない？ 盗まれた者の心配や悲しみを考えて下さい。」
「でも、あんた、そうでもしなくちゃ、この物價高に私逮は生きてゆけないわよ。お乳のありあまる人だって、母乳が出ないと嘘を吐いて――、お醫者さんを抱き込んでさ、ミルクの横流しをやっているじゃないの。お砂綺なんか、あんた今月は七百匁も配給されたでしょう？ 賣れば二千圓からになるわよ。
その他ミルクや何やかや賣ればどんなに助かるかわからないわ。だもの赤ン坊が欲しくもなるじゃないの。その代り一寸お借りするだけでいゝんですから、すぐ返してるわ。ひもじい思いもさせません。ミルクがあるし、私のお乳だって少しは出ますよ。」
と、女はそれ位の事、女同志だものゆうずうしあってもいゝだろう、と云うような顏をして云うのだった。
注）句読点は変更したところがあります。
注）段落頭の一文字空けは追加したところがあります。
「姿なき生活者」
「サンデー毎日」 1947.10. (昭和22年10月) より
（「探偵倶楽部」1952.06. 再録）
（『決闘する女』『逆光線の彼方へ』収録）
ある交換所
空襲前までは相当手廣くやっていた質屋の錢屋吉五郎は戰災で無一物になり、やっと工面して貧弱な物品変換所を開業したのは新円切替後であった。
僅か一年余りの間に、飾窓の商品も委託の衣類もめきめきふえて、今日の銭屋は見違えるように充実した立派な店になった。
「御用の方は午前九時より午後四時(※改稿八時)まで。」と書いた紙を貼ってあった。そこは質屋と同様に変換所へ入るのを見られたくない人のために、店の横から入れる台所を一寸改造して出入口をつくったものであった。
薩摩上布の着物に角帶をしめた呉服屋の番頭上りとでも云いそうな格好の吉五郎は、女のようなしなをしながらお世辞を云って婦人客を送り出してから、一服やっていると、靜かに格子戸の開く音がした。柱時計を見ると恰度六時(※改稿八時)であった。
「もう店はしまいましたから、明日のことに願えませんかなあ。」と座ったままで云った。
「払だよ。銭屋さん。」どすんと重い荷物を下におろす音がした。
「おや、どなたかと思ったら、杉原幸吉さんですか。さあ、どうぞ、お上りなすって――。」
吉五郎はあたふたと起って出迎え、扇風機の前に座布団を持って行ってスイッチを捻った。
小柄で痩せたこの男によくもこんな大荷物が背負えたものだと思われるような紺木綿の大風呂敷に包んだ荷物を自分より先に座敷へ押し上げてから、杉原はまるで我が家へでも帰って來たような氣樂さで、扇風機の前にどっかりと座り、開襟シャツの胸を廣げて風を入れた。三十五、六位の髪の濃い、色白の顏に泣ぼくろが目に立った。
吉五郎が竹細工の舟にしぼり手拭をのせて差出すのを見て、
「奥さんは？ るす？」と低い声で訊いた。
目を伏せて物を云うのが若い人のようでなく、何となく弱々しい感じがした。
「あんまり暑いもんだから、ちょいと一風呂浴びに――、すぐ帰りますよ。」と吉五郎は風呂敷包の方へ眼をやって、
「掘出しものが入りましたか？」
「毛織物、純毛ばっかり。」と勿体ぶって、直ぐには包をとかず、隅の方からちらりと中を覗かせて、
「上ものばっかりだろう？」と云った。
「なあるほど、これは大したものだ。洋服地ですね。」吉五郎は咽喉から手が出る程欲しいのを、
「純毛ものはいゝけど、ねだんが張るんで手が出せないなあ。食糧に追ッ駈けられてこのところぐっと購買力が落ちてるからね。」と澁い顏をして相手の出先をくじいた。
彼は吉五郎の腹の中はすっかり見抜いているので、
「なあに、お氣に召さなけりゃ無理にとは云わないさ。」
吉五郎は狼狽てゝ、
「いえ、なに、頂きますよ。えゝ、頂きますとも、全部頂戴しましょう。純毛を探している人もあるんですから。」とずるそうな眼をして杉原の顏いろを読みながら、眼尻に皺を寄せてにやりと笑い、人差指を曲げて動かして見せ、
「いつもの――、あの口でしょう？ 泥棒市――。」
彼は一寸厭な顏をして眼を反らし、
「とにかく、格安で、買物だからね。」と云いながら軒の風鈴に眼をやって、ピースをゆっくりとふかした。
「それゃ有難い。なあに、出どころなんかどうだって、あらでさえありゃ文句はありゃせんや。」
「そして，めっぽう安くさえあれば、だろう？」
「その通り――、秘密の口だって、泥棒市のものだって、アハハハッ。何しろ杉原さんは市のメンバーだから、いい品が安く入るんですよ。どうして、どうして、いま時、純毛なんか欲しいたって入らねえんだからね。」吉五郎の云うことは、その時の都合のいいように変ってゆくのだった。
杉原は苦い表情で、
「泥棒市だの、やれメンバーだのッて、あんまり云わないで貰いたいな。人に聞えたら――。」
「なあに、あんた、自分が、」と、また人差指を折り曲げて見せ、
「やるわけじゃなしさ。ツケなんだもの、知れさえしなけりゃ、ねえ、あんた。」
彼から仕入れる品物は一切店頭には出さず特別物として裏口から他へ流してしまうのだったが、銭屋にとってそれが莫大の利益になっていた。いわば物品交換所は表面の商売、裏へ回れば杉原のような人が幾人も出入りしていた。そこでは衣類以外の品物も盛んに取引が行われているのだった。
吉五郎はほくほくして杉原の持って來た荷物を戸棚の奥に仕舞い込み、起ちついでに台所からウィスキーの瓶とコップを二つ持って來た。
「一枝の奴、馬鹿に遅いな。また映画でも覗いているんじゃないか。とにかく杉原さん、暑氣拂いに一ついかがです？ 家内が帰ったら何か見つくろわせますから。」とコップにウィスキーを注いですすめた。
儲けばなし
洗面器と買物籠とを持って妻の一枝が帰って來た時は二人とも醉が回って好い機嫌だった。
「おや、いらッしゃい。杉原のお兄さん。」と手拭に包んだ石鹸箱を棚に上げて、鏡台の前でゆっくりとお化粧をなおしてから、改めて、また、
「いらッしゃい。」を繰り返してから吉五郎の傍にべたりと座った。口紅を眞赤につけ、細く眉をつくり髪を掻き上げて涼しそうな襟元にブローチの細い鎖がからんでいる。交換所の細君というよりは、ダンサーか女優とでもいった方が似合いそうな女だった。クリームの香のする手でウィスキーの瓶をとり上げ、お酌をしてから一寸席を外したと思うと、チーズだの、アスパラガスにトマトを添えたりしたものだのを盆にのせて持って來た。
「いまはお金さえ出せば何でも買えるからいいけれど、あれは一昨年だったか知ら？ 昨年の春だったか知ら？ 杉原のお兄さんの家へ行ってコーヒーとお砂糖頂いたの、忘れられないわ。ほんとにおいしかったわね。鑵に穴を開けて、ぽとり、ぽとりと濃いクリームをコーヒーの中に入れて頂いたっけ。」と、一枝はその時の事を眼に浮べているように、吉五部と杉原の顏を等分に見て云った。彼女は男をよぶときはお兄さんと小父さんとにきめていた。
「あの頃は貧乏のどん底だったからなあ。たとえ品物はあっても買う金がなかった。それから思うと物價は何十倍高くなっても、俺達には今の方が有難いなあ。」と吉五郎は腕を捲くって云った。
「それゃあの頃と違って、今は金があるからさ。」
「でも私、あの時の嬉しさ忘れられないわ。貧弱なお弁当を開こうとすると、お兄さんが、食事なら食堂へ行こうって、應接室の次のお部屋で御一緒に食べたわね。ハムだの、ソーセージだのをきって、コーヒーにお砂糖をふんだんにぶち込んでお腹かぶくぶくになる程御馳走になっちゃったわね。あんな荒っぽい大まかな生活も面白いなあ、と、つくづく思ったわよ。
そして帰りには上等のサッカリン一ポンドと角砂糖の箱半ダースも頂いてさ、おまけに食べ残りの大きなハムの一塊やソーセージまでお土産にって包んで下すって――、あの時のサッカリンではどれだけ助かったか知れないのよ。お小遣がなくなると、あれをちびりちびりと賣りに行って――。」
「止せ、そんなしみったれた話。ねえ杉原さん、女はくだらないことばかりしゃべりやがるんでね。」
「だって、ほんとの話だもの、私つくづくお兄さんの生生活が羨しくってお金がほしいなあと思ったわ。お金が欲しいってば約束したダイヤまだ手に入らないの？ 毎日催促されるんでね、私返事に弱っちゃってんのよ。」と鼻を鳴した。
「ああ、ダイヤか。」杉原は忘れていたらしかった。
「お兄さん、今頃思い出したりしちゃいやよ。欲しいと云う人はね、網元を旦那にしている女なのよ。旦那の氣が変らないうちに、じゃんじゃん買わせっちまうという腹なの。金廻りがいいから、今のうちならどんな高價なものだって買ってくれるんですって。だからさ、お兄さん早いとこお頼みするわよ。何と云ってもこれからはダイヤの時代ね、衣類なんかじゃぼろい儲けはないわ。」
「そりゃそうだ。」
「お兄さん、私一ぺん泥棒市に連れてってよ。そして、私、うんと掘出しものしてみたいの。」と甘えたしなをつくって、紅いハンケチで杉原の膝をたたいた。
泥棒市に矢鱈の人が行かれるもんか。ねえ杉原さん、そうでしょう？ 誰でも行けるもんなら此方だって行きたいや、だが、残念ながらあすこばかりはあんたの縄張りだ。一枝などに荒されてたまるもんか、ね、そうでしょう？ 杉原さん。」
「いいわよ。私はダイヤでこれからお金を儲けるから、お兄さんきっと明日中に届けてよ。持って來てくれなかったら此方から押しかけて行く、その積りでいて頂戴。」
「そんなに急にいるのかい？」
「そうなの。その網元とても浮氣なんだって、三号でも出來たらもうおしまいでしょう？ 今のうちにしぼれるだけしぼっちゃいたいって腹なのよ。お兄さん、設けは四分六よ、これは私の内職なんだから、主人とは別勘定、しっかりやってよ。」
「そういうことなら、一つ素購らしいのを探して來てやろうよ。」
「頼むわよ。明日持って來てね。」
「うん、いいよ。」
あてのないのに約束したのだから、翌日は無論彼は姿を見せなかった。
約束のダイヤ
一枝は毎日杉原の來るのを待っていた。注文先からは再三催促が來た。五日たち一週間過ぎてもどうしたわけか何の便りもなかった。彼女は先方への弁解の言葉に窮した。愚図々々していると儲け口をふいにする恐れもあったので、やきもきしているところへ、もう三日待って届けてくれないなら他へ頼むからこの話は一應取消そうと云って來た。
その三日も今日一日となってしまった。
「どうしたってんでしょうねえ、約束違えしたことのない人だのに――。」じりじりしながら吉五郎の顏を見て、
「ねえ、あなた、私思い切って行って來ようか知ら？」
「何処へ？」
「お兄ざんの家へさ。」
「あの人、客が自宅へ來るのはいやだって云ってたじゃないか。」
「なあに、口じゃあんな事云ってゝも、行けば喜ぶわよ。」
「そうかなあ。」
「ほら、いつか訪ねて行って、いろんなもの貰って來たじゃないの。」
吉五郎はうなずいて、一寸考えていたが、
「じゃあ、行ってみるか。」決しかねるような生返事をした。
「散々氣をもまされて、取消されちゃたまらないもの。これから行くわ、また何か貰って來よう。お砂糖でも――。」と云って、ぺろりと舌を出して首をすくめた。
「欲張りだなあ。」
「欲と二人連れでなくっちゃ、あんな遠いところ行かれるもんか。目黒のずっと奥なんだもの。駅から相当歩くのよ。」
一枝はおしゃべりをしながら鏡台に向って、せっせとお化粧をした。頬紅をさすと生々として三つも四つも若く見えた。どうしたって三十過ぎた女とは見えなかった。鏡の中を覗いているうちに彼女の心はだんだん浮き浮きして來た。あのおとなしい人の好いお兄さんに甘えて何かねだってやろう、などと飛んでもない事まで考えた。手早く着換えをすませ、もう一度鏡を覗いてから、
「では行って來ますよ。」と吉五郎へ云った。
白麻のスーツに白靴という軽い装で、彼女は颯爽と目黒駅で降りた。
吉五郎が書いてくれた番地と目分の記憶とを辿って一時間余りも歩き回った場句、やっと見覚えのある杉の生垣の前に出た。表札を見ると杉原幸吉とあった。
火が近くまで來たと見え隣家まで燒けていて、終戰後三年目になるというのに、燒跡はそのままでいまだに手もつけてない。この杉の生垣の家だけがよくも残ったものと思われる程、近くに家らしいものはなかった。
主家は四室か五室ばかりの小さい家で離家があった。庭が廣く、門から玄関までは飛石傳いになっていて、両側に箱根笹が植えてあり、飛石と飛石との間に松葉牡丹が敷いたように咲いている。この廣い邸内に杉原はたった一人で住んでいるのだそうだ。
玄関に立ってベルを押そうとしたが、奥の方で話声がするので、躊躇して耳を傾けた。お客があるらしい、と彼女は心に思いながら眉を顰めた。秘密の取引をやっているので、退け身になるのだった。一枝はこっそりと門外へ出て生垣を傳わって裏口の万へ回ろうとするところに生垣の破れ目があった。
覗いてみるとそこから開け放しの應接室はまる見えで、卓子を挾んで二人の男が対座していた。一人は主人の杉原で、小造りの痩せた後姿しか見えないが、向い合った男は浴衣がけの胸をはだけて團扇を使いながらどっぷりと椅子に身を沈めている、赤ら顏の大きな男で額がぬけ上っていた。
杉原が家にいてくれたのは何よりも有難かった。一枝は元氣づいて引返し、玄関のベルを勢いよく押した。
遠くの方でベルの鳴るのが聞え、話声はぴたりと止んだ。暫時すると廊下をどすんどすんと踏み鳴らして玄関の鍵を外す音がした。
がらりと格子戸を開けて顏を出したのは杉原ではなく赤ら顏の大男だった。
「杉原さん、おいででしょうか？」一枝はおずおずと訊いた。
「杉原？ 杉原幸吉は私ですが。」と彼は玄関に立ちはだかって、彼女を見下すようにじっと見た。彼女は呆氣に取られて自分の耳を疑うように彼を見上げていたが、急にはっとして、
「あっ、これは失礼、私はお家を間違えましたんですわ、何んてそそっかしい事でしょう。」
と笑いにまぎらせて逃げるように外へ出た。男は怪訝な表情で彼女の後姿を見送っていたが、やがて靜かに格子戸を閉める音がした。
一枝は全身に汗を掻いた。あまり意外だったので何も考える暇もなく、咄嗟にああ云って逃げてしまったのだが、落ちついてみるとあの男の方がよっぽどどうかしている。取次ぎもしないで自分が杉原だなどと名乗っている。それをきき返すことも出來ずに逃げるなんて、何という意氣地のない話だろう。それというのも彼女の後ろ暗い取引関係などがあるからには違いないが、それにしても当の杉原はたしかに應接室にいた筈だ。この眼で見たのだから間違うわけはないのだが、と彼女は先刻の生垣へ引き返してもう一度覗いてみた。
彼だとばかり思っていた男は此度は横向きの顏を見せていたが、それは杉原とは似てもつかぬ白髪の男だった。しかし老人ではなく年輩は杉原と同じ位で体つきは彼とソックリだった。一枝は何となく胸騒ぎがした。ほんとに家を間違えたのかも知れない、と思ってなおよく見ると應接室の壁にかけてある男の肖像画も、椅子も卓子もみんな見覚えがあった。置きつけた場所にも変りはなかった。あの時彼女が腰かけた椅子に今日は大男が腰かけているだけだった。たしかに杉原の家に違いないのだが――、彼女は狐につまゝれたような氣がした。
應接室から漏れる話声は手にとるように聞えて來る。人通りのないのを幸いに一枝は垣根に寄りかゝってきゝ耳を立てゝいた。
白晝の惡夢
大男は大きな声で、椅子から乗り出すようにして云った。
「つまり、僕は顏も姿も知らない、無論見たこともないと思っていた一人の男と、まる一ヶ年余りも同棲していたってわけなんだよ。
「いくら家のない時だって、そんな馬鹿な事が出來るものだろうか。」
「出來る。現に出來たんだ。僕は朝必ず八時に家を出る、会社から戻るのが夕方の六時、僕は規則正しい生活が好きだから、時間など判で押したように定っていた。その男は一人住居の僕の習慣をすっかり呑み込んでいて、朝の九時から夕方の五時迄を自分が主人となってこの家に――、と云っても主家ではない、庭の茶室、つまり離家の方にだがね、離家は六畳と四畳半の二間で、ちょいと行くにも一々下駄を穿かなければならないんだ。
それがまた億劫なものだからつい無精して掃除もしないし、近頃なんかは雨戸も閉めたっきり殆ど使わなかったので、そこに人が住んでいたとしてもわからないんだ。僕が氣がつかなかったのも無理はないと思う。奴はなかなか度胸がよくってただ寝泊りしているというばかりでなく、勿諭時には客も招いたらしい。電熱器を使って食事をしていたことも明かだった、と云うのは電氣やが料金を取りに來たのを見ると前月と倍も多くなっている。はてな？ と思ってそれからは毎朝出かける時にメートルを調べて置いたんだ。
帰ってみると数字が多く出ている。それで誰か電熱器を使うということがわかった。それに時々物の置場が違っていることがあるんだ。最初は僕の想い違いだろうと氣にもかけなかったが氣持はよくなかった。しかし、何一つ紛失していないので僕の神経かなとも思っていた。ある日、僕が少し早目に帰宅すると、今まで誰か椅子に腰かけてでもいたかと思われる程の温味を感じた。その時も妙な気持がした。」
「姿なき人と同棲なんて、ちと眉つばだね。こうやっていてもこの家の中に姿は見えないが誰かといると思うと氣持が惡いな。」
「いや、もういないよ。追拂っちゃった。四五日前のこと、僕は晝食に食べたさしみに中毒して、始めて会社を早退けして帰ったんだ。するとどうだろう？ 家の中に大勢人が集って騒いでいる。何事だろうと覗いてみるとそれはいろいろな服装をした男が十数人立ちはだかって、夢中で物品のせり賣りをやっているんだ。何処から運んで來たのか山のような品物だった。
僕は憤慨するより先に呆れてしまったが、何分相手は屈強な若者ばかり、なまなか声でもたてたら飛んだことになりそうなので、僕は踵を返して派出所へ訴えようと門を出た途端、そこに蹲っていた人と眼を見合せた。それは毎朝駅のホームで出会うので顏だけを知っている男だった。どうしてあの男がこんなところにいるのだろう？ 一寸不審に思たが、とにかくそのまま交番へ飛んだんだ。交番がまた遠いときている。
警官と一緒に引返したのはかれこれ四、五十分もたってからだったろう、が、まるで僕は嘘を吐いたようだった。人なんか一人もいやしないし、家の中はいつもとちっとも変りはないんだ。血相変えて訴え出たのが恥しくなった。僕は自分の粗忽を詫びると警官は白晝夢ですかと笑った。余りの馬鹿々々しさが癪にさわったので、君に話す前に懇意なある刑事に話すとそれは泥棒市じゃないんですかって云った。
つまり僕の家は臨時市場に使用されたわけ、集っていた人は安くねぎり倒そうてんで夢中になっていたんだろうって事だった。多分その中には僕と同棲していた男も交っていたんだろうからもう戻って來ることはあるまいと、その刑事は自信を持って断言したよ。なるほど、もう立ち退いたらしいね。」
「どうしてわかる？」
「感じでわかるさ。僕は御承知の通り一人暮しで女中も使わず、料理は不得手だしさ、せめて好さなコーヒーだけでも充分飲まなくっちゃ生きている甲斐もないってわけで、金があると砂糖だけは買って置いた。その砂糖を盗まれたのが始まりで、それからその男は僕の家を住居にしたらしいんだ。何しろ大切にしていた角砂糖の箱を半ダースもやられたんだもの、大の男がべそを掻くような始末さ。大笑いよ。」
一枝はどきんと胸が鳴った。
相手の白髪の男はにやにや笑っている。
「そればかりじゃないよ。食堂でコーヒーを飲んだと見えていい香が残っていた。おまけに買い置きのハムやソーセージまで食べられちゃった揚句、やっと手に入れた高級のサッカリン一ポンドも持って行かれたのには驚いた。」
「一人の仕事かな？」
「女がいたらしい。砂糖を盗まれた日なんかは女の靴だと思われるあとが歴然と残っていた。」
聞いている彼女は頭の天辺から爪先まで電氣が傳わったように、じいんとして顏に血の氣がなくなった。
「砂糖だの、サッカリンだの、大分食糧もあるな、と、睨んで同棲する氣になったんだろう。近所に家はないし、隣組もなくなり、孤立の形だから入り込むには大した苦労もなかったろう。それに君は随分呑氣だからね、面倒臭い事は放って置くという性質だから先方にしては持ってこいだね。その駅で出会うという男が臭いな、多分、君の出勤を見定めてから家へ入り込むんだろう。用意周到な奴らしいな。なあに、直き捕まるさ。仲間を一人しょっぴいちまえばな。」
「同棲していただけなら大した被害もないから構わないんだが、先刻も話したあのダイヤね、あれだけは何とかして収り返したいんだ。信託の金庫へでも預けて置けばよかったんだが、つい面倒臭いもんだから箪笥の中へ入れて置いたのを盗まれちまって。自分のものならいいが、人の預り物だけに弱っちまった、何とかならんかなあ。買戻すんなら金はいくらでも出すが――。」
一枝は頭がぐらぐらとして倒れそうになった。よろめきながら垣根に掴まったが、かなり力が入ったものと見え、杉の木がゆらゆらと左右に揺れた。はっとして手を放した時、應接室の窓から此方をじいっと見ている男の眼と打つかった。その時まで少しも氣がつかなかったが、應接室の一方の壁に姿見鏡が据えつけてあって、それに彼女の一挙一動は悉く映っていたのをはじめて知ったのだった。彼女は眞青になった。應接室の二人の男は立ち聞きしているのを最初から知っていたのだろう。
しまった！ 彼女は前後の思慮を失って、ぱっと生垣を離れると、氣狂いのように走り出した。走って、走って、無茶苦茶にただ走りつづけていたが、ふと我に返ると誰も追って來る者もないのに氣がついた。
ほっとして歩みをゆるめた。顏から汗がぽたぽたたれた。額を拭っていると急に眩暈がして、ふらふらと前へのめりそうになった。
「危ないですよ。奥さん。」
誰かそっと後ろから支えてくれた。それは應接室にいた白髪の男、否刑事であった。
「あッ！」一枝は仰天した。
「違います。私は何にも――。」と彼女は彼の手を拂い退け、面を覆いながら、無我夢中で逃げ出そうとした。
「いけません、奥さん。」彼の手はしっかりと彼女の肩を掴んだ。
「なあに、何でもないんですよ。ただ、一寸來て頂きさえすればいゝんですよ。直ぐ帰して上げますから――。」
何でもない事のように至極穏かな調子で云うのだったが、彼女にとってそれは恰も鉄槌で腦天をぐわんと一つ打たれたようなものだった。
一枝はくずおれてしまった。
（終）
注）明らかな誤字誤植は修正しています。句読点は追加変更したところがあります。
注）「探偵倶楽部」『決闘する女』では描写や会話や漢字表現などで変更や追加が所々あります。
注）『決闘する女』では章は数字のみになっています。
妖奇小説「油絵の眼」
「にっぽん」 1947.12. (昭和22年12月) より
（『決闘する女』『逆光線の彼方へ』収録）
不思議な女
ブローカー事務所を出た牧は、取り引をすませたばかりの金もたんまり懐ろにあるし、このまゝ家庭に歸るのは勿體ない宵の口であった。そのくせ妻への土産のチョコレートの箱は小脇に抱へてゐたが――。
何處へ行ってやらう？ オーヴァの襟を立て、右手をポケットに突込んで考へた。冷めたい雨がほてった頬に降りかゝる。馴染の女が次ぎから次ぎと闇の中に浮き出しては消えてゆく、どの顏ももう彼の心を惹くものはなかった。
うん、さうだ。ふと昨日貰ったキャバレー開店の通知を思ひ出した。そこのマダムとは古いなじみではあるし、随分世話をやかせたこともある、行くだけの義理はあるのだった。幸ひこゝからは眼と鼻だ。行く先が定まると彼は急に元氣になって大股で歩きはじめた。
牧はダンスを見ながら、マダム相手に酒を飲んでゐた。
遠くから眺めてゐるとダンサーはみな美しかったが、近寄るとどの女も疲れ切った顏をしてゐて、一緒に踊りたいと思ふやうなのは一人もゐなかった。皮膚が荒れてゐたり、貧弱な胸が板のやうに薄べったかったりした。
彼は失望した。そろそろ引き揚げるかな、と、生欠伸を噛んでゐると、
「まあ！ よくいらしたわねえ。」
ふいと後ろから肩を叩かれた、振り向く顏とすれすれに可愛いゝ笑顏があった。彼は全然見覺えがなかったが、女はさもなつかしさうにすり寄って、
「ほんとに、お久しぶりだわねえ、よく覺えてゝ下すったのね、ありがたう！」無遠慮に牧の持ってゐるグラスに紅い唇をつけた。引きしまった好い肉附きのピチピチした女だった。感情をそのまゝあらはす大きな眼、しっとりと濡れてゐるやうないろっぽい體、小柄だがいかにも挑發的で不思議な魅力を持つこの女を、彼はひと目ですっかり氣に入ってしまった。
牧は急に上機嫌になって、とろんとした眼をすゑ、ふらふらと起ち上ると彼女の腰を抱いて踊り始めた。
「あなたと踊るの、久しぶりね。」
「人違ひだらう。僕は君を知らないもの。」
「御冗談でせう、あなたのやうなパリッとした人、一度見たら忘れられやしないわよ。」
「いつ君にあったっけな。」
「ほら、もうずっと昔、ダンサーが閉め出し喰ふ前よ、よく來らしたぢゃないの、フロリダに――私、あすこのナンバーワンだったのよ。」
「さうだったかなあ、フロリダなんかに僕行ったか知ら。」
「忘れるなんて、随分薄情ねえ。」
「あんまり君が美しくなったから、おみそれ申しちゃったんだよ。」
「相變らずうまい口をきくのね、憎らしい！」と云ひながら、彼女はよろめいて、すんなりとした體を弓なりにそらせて彼にもたれかゝった。汗ばんだ肌から、發散する異様な體臭――、それは一種特別のものだった。うっとりするやうな、それでゐて心を掻きむしりたくなるやうな、何かいらいらさせるものがあった。技巧的なにほひ――この女のもつ不思議な臭ひにむせながらひかれた。牧は彼女の柔らかい首に唇を押しつけながら心ゆくばかりにほひを嗅いだ。
二人はホールの中を踊りながら口から出まかせのことをしゃべり合った。牧はすっかりいゝ氣持ちになって、冗談まじりにちょいと誘ひをかけてみた。
と、存外彼女の方は眞劍な顏をして、自分のゐるアパートへ案内しようと云った。けれどそれは極秘なのだ、住所だけは誰にも知らさないことになってゐる。それでないと押しかけて來て困るから――、教へるのはあなただけだ。絶對に他言しないと約束してくれと、勿體つけた。
それほどまでに信用されたかと思ふと彼は嬉しくなって、秘密をかたくまもる約束をした。ふたりはレコードを背中に聞きながら、輕い足どりで浮き浮きと外へ出た。
アパートとは名ばかりのそれは想像以上に、粗末な燒殘りの洋館であった。
薄暗い、ギシギシ鳴る階段を踏みしめながら、彼女のスカートを追って昇った。廊下にはコンロだの、バケツだのが置いてあってまるで物置きだ。各自の部屋で煮炊きでもするのだらう、家全體に臺所の臭氣がこもってゐる。餘りの穢くるしさに牧は一寸躊躇してゐる間に、女はさっさと先に立って三ッ目の扉を開けて入った。
間もなく、首だけ出して、
「早くいらっしゃいよ。」と指し招いた。その聲に引き摺られるやうに部屋へ入った。
眞紅の羽根蒲團がぱっと眼にしみた。中は六疊一室で隅々まで一目に見える、荷物もなければ装飾品もない、三角の隅棚には葡萄酒とウヰスキーが並んでゐて、コップが二つ載ってあるきりだ。隅の壁際には電燈からコードを引張って五百ワットの電熱器があって、アルミの藥罐がかけてある。
額もなければ壁掛けもない、たった一つ目立って見えるのは一枚の油繪である。それは三尺の戸棚のドアに貼りつけた可愛らしい少女の半身像で、勿論何の價値もないものだが、その眼がまるで生きてゐるやうによく描けてゐる。八方睨みだ。何方から見ても自分の方を見てほゝ笑んでゐる。その大きなぐるりっとした眼はまた愛嬌があって素晴らしく奇麗だ。繪だとわかってゐながら思はず見惚れて、
「可愛いゝねえ。何んていゝ眼だらう。額にしてかけて置けばいゝのに――。」と云ふと、女は顏を赤くして、
「私の似顏だって、お友達が描いたのよ。額縁が高くって買へないから、ぼろかくしにしちゃった。」
「ぼろかくしって？」
「そこの戸棚の鏡板が剥げちょろけて穢いの。だからあの繪を貼りつけてかくしてゐろのよ。うまい考へでせう？」
彼女はイヴニングドレスを脱いで素早く赤いナイトガウンを身にまとひ、ついでに靴下を脱いで素足になった。部屋の中をあちこち歩く度に、張りきった白い長い足が紅いガウンの裾を蹴ってちらちらと見える。二人は手つないでベットに腰かけた。
「寒いでせう？」女はしきりに酒を注いだ。その態度は古い馴染みのやうに馴れ馴れしかった。
「丹前召さない？」
意氣な丹前を肩へふわりとかけながら、牧の風呂敷包みに手をかけて、
「お荷物、あづかったげるわ、此方へおよこしなさいよ」
「いゝんだよ」と押へると、
「あら、いやに大切さうに抱へてるのね」と笑って引ったくり、鼻をつけながら、
「まあ、いゝ香、チョコレー卜ね？」
「うん、この頃嚴しくってね――やっと手に入れたんだ」
見つかったので仕方なく半分彼女に與へ、殘りを風呂敷に包んであづけた。
ネクタイピン
彼は女の云ふまゝになって、ネタタイを解き、ダイヤのピンをそれにさした。彼女は眼を圓るくして、
「あら、すごいわ。立派なダイヤねえ、――供出なさらなかったの？」
「みんな供出して損しちゃったから、新らしく買ったのさ。」
「二カラットはあるわね、随分とられたでせう？ 五六萬圓――お金持ってるより今はダイヤなんか持ってる方がいゝんだってね。」
ダイヤに見惚れてほしがってゐるのに氣がつかないではなかったが、指輪にしたまへと氣前を見せて放り出す氣にはまだなれなかったので、
「さうか知ら。」とあっさり受け流してしまった。
女は彼の脱ぎ捨てた洋服を丁寧に始末した。衣紋架に袖を通したり、ズボンの塵まで拂って、一つ一つ戸棚に仕舞ひ込んでから、鍵をぐるりと廻はした。
牧は醉ひが醒めかゝると家の事が氣になった。チョコレートを待ってゐる妻の顏が眼に浮んで來る、それに氣がついてか、女はやたらに酒をすゝめた。
「ウヰスキーにしませうか？」
「メチールぢゃないか。」
「失禮しちゃうわね。」
彼女も飲み、彼も盛んに飲んだ。醉ひの圓はつてゐるうちは朗らかだった。甘ったるい、ねっとりとした彼女の聲は耳にくすぐったかった。
「君の名は何んていふの？」
「ミミ――。」
「西洋人のやうな名だね。」
牧の腕の中にミミーの小さい頭があった、彼女は前髪を眉の邊まで切って下げてゐたので子供ぽく見えた。
「本名は深雪、花園みゆきっていふのよ。」
「立派な名だなあ。」
「それゃさうよ。父は公卿華族ですもの。」
「へえ。華族かい？」
「花園伯爵よ。おっと、これは内しょ。私の秘密、私、實は伯爵令嬢なのよ。」
「それがダンサーになるなんて――。」
「敗戰國の女性のみじめさなんだわ。ダンサーなんて全く重勞働よ。」とだるさうに體をくねらせた拍子に、紅いガウンが肩からずれて落ちた。彼はそれを拾ってかけてやりながら、
「このアパート、靜かでいゝね。」と云った。
「えゝ、部屋代をあげないから助かるわ。」
「君、華族のお姫様がいつごろから、こんなことをしてゐるの？」
その時、何處かで低い溜息のやうな聲がした。牧は驚いて腰を浮かし、
「今の――、あれ、何んだ？」
「お隣りよ。」と平氣な顏をしてゐる。
「何んだか氣になるな、あの繪が笑ったやうだよ。」
「オホヽヽ。そんな筈はない。繪だもの。」
「アハヽヽヽヽそれゃさうだ。」
「臆病な人！ びくびくしないで、もっと度胸つけなさいよ。」
彼は懶いので横になった。そしてまた話しつゞけた。かういふ種類の女の經歴を誰でもが知りたがるやうに、牧もまた根掘り葉掘り訊いてゐた。勿論、大抵の女は好い加減な返事をする。しかし、その嘘の中にも率直な感じのものがあるだらう。彼はそれを見出したいといふ好奇心にかられてゐた。
「かくさずに話せよ。」
「忘れちゃったわ。」
「そんな事はない。」
「ほんとよ。あなた、忘れなけりゃ生きちゃいかれないぢゃないの。」と、手を延ばしてウヰスキーをぐいと飲み、そのコップを牧の唇に持って行って、
「ねえ、さうでせう？」と聲をふるはせ、
「思ひ出させないでよ。」と云った。見るとその大きな眼は涙ぐんでゐる。彼は急にこの女が可哀想になって、
「さうだらうなあ。」としんみりと云った。さう云はれてみれば何處やら氣品もあるし、他の今迄の女達とは全く様子が違ってゐた。ここまでになるのには相當苦勞をして來たのだらう。
「あんまり無理をして働いちゃいけないよ。」彼は感傷的になって抱きしめた、彼女は素直にうなずいて、
「これでもねえ、一度は男爵夫人になって社交界でもてはやされた時代もあったのよ。餘りダンスに凝って、家を外にしたものだから、變な誤解を受けて、遂々お拂ひばこ、男爵夫人を棒に振っちゃった。」
「惜しいことをしたなあ。」
「そのおかげであなたのやうないゝ方に會へたんですもの。ちっとも惜しくないわ。」
「さうでもあるまい。」
「早く足を洗って――一日でもいゝからあなたの奥様になりたいなあ。」
「うまいこと云ってらあ。」
「茶化しちゃいやよ。僞はらぬ私の告白ぢゃないの。」ミミーの柔らかい髪の毛が牧の顏の下で波打った。異様な體臭と生温かい感觸が彼の頭のてっぺんまでずうんと傳はった。彼の首に捲きついた彼女の白い腕に引き寄せられながら、低い聲で何か云はうとした時、何處やらで、重い、彈力のあるものの床へ落ちたやうな音がした。牧はハッと我に返って、
「あれ、何んだ？ 今の――。」
朦朧とした彼の眼に、油繪の女兒が笑ひをふくんでじっと此方を見てゐるやうに思はれた、おやと思って見直した時、その眼が何んとウインクしたではないか。
「いやだぜ。オイ。」
ぱっとはね起きた。二人ぎりだと思ってゐたこの部屋に何かゐる。そんな氣配を感じたので彼は總身に水をかけられたやうに、ぞっとした。
「歸らう！」
急に恐はくなって、洋服を眼で探した。
「どうしたのよ。何が氣に障はったの？」
ミミーは戸棚に近づかうとしてゐる牧の腕に縋りついた。
「洋服なら、私が出して上げる。待って頂戴！ お待ちなさいってば――。」
狼狽して、疳高い聲をあげなから、ハンドルにかけた彼の手を拂ひ退けた、しかし、既に遅く彼は左手を延ばしてサッとドアを開けた。
彼女の着る職場の衣装の展覧會みたいに、戸棚の中はごたごたと婦人服が吊してあった。むっとするやうな肌の匂ひが、鼻を打った。ミミーはなほも、しがみついて來たがそれにも構はず、彼は夢中になって、吊してある自分の洋服をむしるやうに取ってベットの上に投げた。
ミミーは呆氣に取られ、茫然としてゐたが、もう止めようとはしなかった。最後に殘ったのはオーヴァであるが、それがどうしたわけか、なかなか外れない。力をこめて、ぐいと前へ引くと、スルリと抜けた。
「あっ！」
牧は飛び退いた。一人の男が平蜘蛛のやうに床にへばりついてゐる。それがオーヴァの裾をしっかり握ってゐたのだ。
思はず、彼が立ち竦んだのを見て、男は赤い齒ぐきを出して、いやらしい身ぶりをしながらにたにたと笑った。
耻と恐怖に、牧の頭は混亂の極に達した。
ミミーの正體
「まあ、大變なはねですこと――。」
洋服にブラシをかけるシュッシュッといふ音を聞いて、彼は眼をさました。まるで毒汁でも注射されたやうに、いやな記憶が頭の中で渦を卷いてゐた。
彼は苦い顏をして寝返りを打った。足が惰るく、背骨が痛かった。何處をどう歩いて歸ったのか夢中だった。ただ、眞暗い道を雨に打たれながら、ひた走りに走ったことだけしか覺えてゐない。
彼の目覺めた氣配をきゝつけて、妻が枕許に座った。
「やっとお目ざめですか。まるで死んだやうに眠ってゐらっしゃいましたよ。」
牧はなるたけ妻の顏を見ないやうにして、腹んばいになり、しきりに煙草をふかした。
「でもまあ、よく私へのお約束をお忘れにならなかったものねえ。」
「何んだっけね？」
「チョコレート。」
しまった！ チョコレートはあのアパートに置いて來てしまった。
妻はついと起って次の間から風呂敷包みを持って來た、それは見覺えのあるものであった。
「先刻ね、あなたからお頼まれましたって人が來てこのチョコレートを届けてくれましたのよ。でも、よく買って下すったわねえ、これがあればお誕生日にいらして下さるお客様達へ御馳走が出來ますわ。ほんとにありがたうございました。」と妻はよろこんだ。
彼は返事が出來なかった。どうして住所がわかったのだらう？ ミミーには名前もアドレスも話さなかったのに――。
十二時には事務所で待ち合はす人がある。彼はいそいで洋服に着換へた。ポケットに手を突込むとはっとした。紙入れがなかった。その中には名刺が入ってゐた筈だ。住所はそれで知ったのであらう。
しかし、よくチョコレートを届けてくれたものだ。盗んでしまっても文句の持って行きどころもないのに――。
「あらッ、あなた、大變よ、ネクタイピンがありませんわ。」
頓狂な妻の聲に胸を打たれた。金を盗まれたのはともかくも、あのダイヤだけは取り返して來ようと、彼は家を飛び出した。
おぼろげに記憶を辿ってアパートを探しあてたが、晝間見ると一層汚たなかった。
きいてみると「あの御夫婦は今朝早く國へ歸ってしまひましたよ。」と奥の方で云った。
「えっ？ すみませんが、あの部屋をちょいと見せてくれませんか、借りたい人があるんですが。」
未練のやうだが、あの部屋の何處かにピンが落ちてゐはしないかと思ったので、咄嗟に口から出まかせの嘘を云ってしまった。
「もう約束済みですよ。だけれど鍵はかゝってゐませんから、見るだけなら見てもようござんすよ。」
引越したばかりで、掃除もしてなかった。
彼の眼をひいた女兒の繪も剥ぎとられ、眼の邊にあたるところには二つの節穴が開いてゐた。少女の眼が宛ら生きてゐるやうに見えたのは、この穴から男が覗いてゐたものであった。
ダイヤは紛失したものではなく、夫婦共謀で、計畫的に盗んだものとすれば、すべての解決がつく、しかし、彼はどうしても彼女を憎む氣になれなかった。
注）句読点は追加抹消したところがあります。
注）一文字空けは追加したところがあります。
注）『決闘する女』では新かな新漢字ですが、数ヶ所の言葉違い以外は同じです。
注）『決闘する女』では章は数字のみになっています。
「好人物」
「真珠」 1947.04. (昭和22年４月) より
一ヶ月三百圓の生活費ではどうにもならない、餓死するよりは何か商賣でもして儲けようと、その道の人に相談するとも、話をしてゐるうちにいつかお客さんの方に廻はされてゐてとんだ高いものを背負込んだりする。全く商才がないものと近頃ではあきらめて、一番手近かで樂に金の入る賣り食ひをせっせとやってゐた。
つい近所に百姓上りで小賣りの店を持ってゐるのんきな小父さんがゐる。見るからに好人物らしく、寧ろ愚直に近い感じだが、私達素人百姓の先生でもあるし、下肥の始末までしてくれるといふまことに重寶な人である。
その小父さんがよく遊びに來ては、かう物價が高くっては、とても俺達にゃ生きてけないよとこぼす。何かうまい儲け口はないものか、愚圖々々してゐるとひぼしになると歎く。此方も閉口してゐる矢先だけに小父さんの苦しさもよくわかるのですっかり同情して、いろいろ考へた掲旬、親類に大きな栗山を持ってゐる人があるのを思出し、その栗を安く廻はして貰って小父さんの店で賣ってはどうかと云ふと、小父さんは大喜びで是非共願ひたいと云ふ。
それからは毎日やって來て、栗はどうなったかと催促する。親類は交渉すると永年の事で取り引き先も定ってゐるが他ならぬ親類のことだから先方を斷はってあなたの方へ送りませうと話が纏った。小父さんは涙を流して感謝した、これで助かった、死なずにすみますよ、と眼を拭いてゐた。こんなに小父さんが喜んだ顏を見たことがなかったので、私達まで嬉しくなり、何かしらくどくをしたやうな氣がしたのだった。
いよいよ栗が來るといふ日の朝、小父さんは急に改まった顔をして斷はりに來た。
栗は結構だが、ねだんの良い上にさつまいもの出盛りとかち合った。今年はさつまいもの大當り、この大敵を向ふに廻はしては迚もさばききれない、素人のお人の好い方にちょいと冗談を云ったばかりに飛んだ御迷惑をかけてすみませんでしたよと笑って歸った。
此方はてんてこ舞ひ、直ぐに親類に飛んで行って謝罪るやら斷るやら散々だった。その事があってから親類との間も氣拙くなり、人の世話をやいて馬鹿をみた。
半年ばかり過ぎた昨今になって、やっと耳に入ったのだが、その當時小父さんが近所へ行って、××さんは俺に栗を賣らせて儲けにかゝらうとした、と惡口まじりにふれ廻はったさうだ。實際はかうだったと説明する勇氣もなく、人の心はわからないものだとつくづく呆れてしまった。
商才のない私がつまらぬ義侠心を出したばかりにとんだ恥を掻き、金錢以上の損をしてしまった。
注）段落頭の一文字空けは追加したところがあります。
随筆「猫と犬」
「新探偵小説」 1947.07. (昭和22年７月号) より
強盗だ、殺人だ、追剥だ、恐しい世相だ、と毎日のやうに新聞に出てゐるのを讀んでも、それはみんな遠いところの話に思へて一向感じなかった私も、知り合ひの家に何人組の覆面強盗が押し入り何萬圓の現金を奪はれたとか、近所に追剥が出て被害者は肩をきられ血に染って倒れてゐたと見て來た人の話を聞くと、流石に危險が迫ってゐるやうに感じる。
いざといふ時には何の役に立たない女ばかりの家なので戸締りでも嚴重にするより他に思案もなかった。犬でも飼ったらとすゝめてくれる人もあったが、犬では散々手古摺って苦い經驗を持ってゐる。それにこゝの家には猫が三疋ゐる、ユキ、スミ、ユリとよんでそれぞれ美しい利口な猫であった。
ある晩、スミちゃんとユリちゃんがいつになく私の枕許に來てしきりに鳴くので眠入る事が出來ない。何か食べたいのかと御飯をあてがっても見向きもしない。私が起きてさへゐれば滿足らしく自分の體をなめたりしてゐる。電氣を消して床に入りうとうとするとまたまた鳴きはじめる。電氣を點けたり消したり十回もやった揚句、免倒臭くなり一層のこと起きちまへっと着物を着換へた。すると猫はそのまゝ私の蒲團の中へすっともぐり込んで眠ってしまった。
夜が明けたので、寝不足の眼をこすり私は座敷の掃除をしてゐると、庭を掃いてゐた妹が、垣根よりの庭の隅にしたゝか穢いものがしてある。昨夜何か來たのではないでせいか、と云ふ。
私も庭下駄を突っかけて出て見ると、なるほどとうなづかれた。巨人を想はせる大量のものであった。家人に眼を覺まされないやうにと、泥棒がよくやるといふおまじなひだ。それにしても効めがなかったもの、眼を覺まされないやうにどころではなく、私は夜中起きてゐたのだった。泥棒のおまじなひがたうたう猫に負けたわけである。
その事を人に話したら、猫は鼠を捕るばかりでなく、泥棒も教へますよと云った。それにお宅のユリちゃんの尻尾がこれでせう？ と、その人は人差指を曲げて見せた。人差指を曲げるのは手癖の惡いといふことかと思ってゐたらこの場合は鍵を意味し、猫の尻尾の曲ってゐるのは泥棒除けになるさうだ。だからユリちゃんがゐればお宅には泥棒は入りませんと云った。
この頃の暮らしにくい世の中では一家を背負ってゐる人は二ヶ所位の勤め口を持ってかけ持ちでなければ食べてゆけない。そのせち辛いのも人間社會ばかりではなく、猫も鼠を捕るだけの能では足りず泥棒の用心までもやらねばならぬ、つまりかけ持ちだ。すると本職の犬の方はどうなるのだらう？ 敵同志の猫に職場まで喰ひ込まれては大食の犬族の生活難はますます深刻を加へるばかりだ。それは果して犬ばかりであらうか。
かけ持ちどころか一ヶ所のつとめも出來ず、商賣も駄目ヤミやにもなれず、それかと云って死にきれもせぬ私などの運命が恰度この犬の場合によく似てゐる様に思はれる。
注）句読点は変更したところがあります。
「Ｘ この文字から、あなたは何を連想なさいますか？」(ハガキ回答)
「Ｇメン」 1947.10. (昭和22年10月) より
クリスマス
いまでは何もかも夢になってしまいましたが、クリスマスの樂しかったことは忘れられないので、この文字を見ると直に當時の事を思い出すからです。