「なぞの指もん」
大倉燁子[作]、童心座[出演]、小崎恭太郎[写真]
小学六年生 1949.03. (昭和24年３月号) より
[写真１：文江とおばと一雄]
金持の科学者北野博士は大てい宅に十四歳の養女文江と一しょね住んでいた。ところがある日、文江のところに電報がとどいた。
「オバ、キトクスグ、コイ」
と書いてあった。文江は取るものもとりあえず我孫子のおばの家へかけつけた。だがふしぎ！
「まあしばらくね文江さん、…どうしたの？ 電報なんか打ちやしないことよ」
といっておばはぴんぴんしていた。
文江はその晩はおばの家にとまることにした。
[写真２：博士と襲う男]
ところが文江がるすをしたその晩のこと、北野氏の家には一大事件が起っていた。いつものように夜おそくまで読書していた北野氏の、はいごに怪漢が音もなく近よって短刀をふりあげているではないか！
これは明らかに用心深い文江を電報でおびきだしておいて北野氏をねらった計画的な殺人事件である。
短刀はギラリとひらめいた！「あっ」とさけんできたの氏は前にのめった。怪漢はしつこく迫ってきた。これは物取りではなく殺人を目的としたことは明らかだった。深いいたでをうけながら北野氏はかろうじて隣家までのがれた。
[写真３：刑事とおじ]
よく朝、文江が帰宅してみると、北野氏は病院に運ばれていた。北野氏は、
「あの時はむちゅうだったので犯人の顔はわからない」とやっといえただけだった。
当局の調査の結果、刑事は我孫子のおじさんをたいほした。刑事は文江に、
「現場のところどころに犯人の指もんがはっきり現われ、それが我孫子のおじのものである。しかもあの晩おじは東京に商用で出て来ていること、その他、色色な証拠があがっているからどうも仕方がない」
と気の毒そうにいった。
[写真４：指紋]
北野氏が死んで一番利益を得るものは養女の文江である。遺産が文江のものとなれば彼女の後見人（一人前になるまで、うしろ立てになって世話をする人）であるおじさんが北野氏の財産を自由にできるわけだからである。「私は絶対に犯人ではない」と、おじはがんばった。
おじのたいほを聞いて今年十四歳になるひとりっ子の一雄は、とほうにくれて泣いている。
母をなぐさめて、
「おとうさんのけんぎを晴らすために、ぼくはかならず真犯人を探します」
とちかった。
一雄はその日から、学校がひけると、どこともなく出かけて、夜でなければ帰らなかった。
[写真５：一雄]
ある日一雄は息をはずませて、そうさ主任のところへ飛びこんだ。
「これを見てください」
とさし出したふろしき包みの中からは人間の手首が出て来た。
[写真６：手首]
男の手首、いや実にたくみにできた手首の彫刻だった。
指もんまであざやかにほりつけてあった。主任は顔色をかえて「君はどうして、こんな手首のあることを知っていたのか？」「指もんを残すまいとする犯人が、わざわざはっきりと残したというのは怪しいです。北野さんが殺されて一番とくするのは文江ちゃんですが、ふと北野さんのおいの一郎さんが美術家で、彫刻がうまいのに気がついたのです。
[写真７：刑事と犯人]
それから毎日ぼくは一郎さんのアパートのおばさんにたのんでしらべてもらっているうちに、戸だなの奥の柳ごうりの底からこの手首が発見されたのです」
そういえば、一郎は北野氏のただ一人の親類関係にあるおいであった。だが一郎は早くから不良性をおびていたので北野氏は一郎をさしおいて文江を養女にした。一郎はそれが不満であった。また文江が一人前になる前に北野氏が死ねば、少しは財産が自分の手に入るというはかない考えを持ったのだ。
一郎は刑事から証拠物をつきつけられると、やにわにていこうしたが、ついにとりおさえられ、彼の犯行のすべてを白じょうした。
[写真８：博士とおじとおばと文江と一雄]
一雄の苦心はむくいられ、父はしゃく放され、北野博士も退院してみんなで喜びをともにしたのであった。
注）ほとんど新漢字が使用されていますが似た旧漢字も使用されています(氣、眞、滿など）。新漢字に改めています。
注）改行一字あけを追加しています。
注）ごく一部ですが句読点及び明らかにおかしなところは修正しています。
推理写真小説「なくなった金庫」
大倉燁子[作]、童心座[出演]、小崎恭太郎[写真]
小学六年生 1949.04. (昭和24年４月号) より
[写真１：おばあさんと父と一雄]
試験が終ったので、一雄は父と山のおんせんへ行った。つぎの日、二人は山登りをして、とちゅう「峯の茶屋」でやすんだ。「峯の茶屋」のおばあさんはさみしい山の中でたった一人で住んでいた。たいへんなよくばりで、じまんの金庫に金をためるのがたのしみだった。
[写真２：金庫を盗る手とおばあさん]
ところが、その晩のこと「峯の茶屋」では一大事件が起った。おばあさんのたいせつな金庫がとられたのである。
怪漢の後を追おうとしたが、ますいぐすりをかがされたおばあさんは気が遠くなってしまった。
[写真３：青年と刑事と酒問屋の主人]
まもなく、けいさつに一人のせいねんがひっぱられた。
それは、一雄たちがとまっている旅館の親類で、ふもとの酒問屋の一人むすこであった。
「ぜったいにぼくはぬすみません」
と、がんばったが、おばあさんのそばにシガッレットケースがおいてあって、それが彼の持ち物だったからである。
[写真４：酒問屋の主人と娘と父と一雄]
一雄は十三才であるが、あとなもおよばぬすいり力にとんでいるといううわさをきいて、酒問屋の主人と娘が旅館に一雄たちをたずねてきた。
「たいせつな一人むすこをたすけてください」
「私の兄は、そんなわるいことをする人ではありません」
といって主人と娘は一雄にすがった。
[写真５：一雄]
一雄はあちこちと歩きまわってすいり力をはたらかしてしらべていたが、まもなくにっこりわらって帰ってきた。
一雄はかわいい眼をぐりぐりさせて酒屋の主人や父と一しょにけいさつに行った。
[写真６：犯人の座った跡と足跡]
刑事の前に出た一雄は、
「犯人はふとった左の手のくすり指がかんせつからなくなって、古ぼけたコールテンのズボンをはいた男です。汽車の時間から見て、彼はまだこの土地をはなれません。たぶん、自分の職場でそしらぬ顔をして働いているでしょう。刑事さん、さいきんできたふもとの工場をしらべてください」
[写真７：指の跡と手首]
刑事はおどろいて、
「どうして、そんなことがわかったか？」ときいた。すると一雄は、
「おばあさんの金庫はたいへん重いので、それを持って山からおりるのに、とちゅうで石の上にこしかけてやすみました。ゆうべは雨がふったので、ズボンのコールテンのしまが残っていましたし、地面の足あとがはっきりついていて、そのくぼみからそうぞうして犯人の体重をしりました。ふとった人です。雨戸のところのしもんによって、くすり指がかんせつからとれている。それはたぶん機械でやられたのでしょう。だから職工ですね」といった。
[写真８：父と一雄とおばあさんと酒問屋の主人と娘と刑事と青年]
まもなく、一人の職工があげられた。雨戸のしもんによって、彼が犯人であることがわかった。
一人むすこは、ただちにゆるされ、金庫はぶじにおばあさんの手にもどり、みんな大よろこびをした。
それから「峯の茶屋」のおばあさんはよくをかくことをやめたそうである。めでたし、めでたし。
注）ほとんど新漢字が使用されていますが似た旧漢字も使用されています(驗、氣、殘など）。新漢字に改めています。
注）改行一字あけを追加しています。
注）ごく一部ですが句読点及び明らかにおかしなところは修正しています。
注）写真と番号が対になっていないところがありますが番号を追加しています。
ＮＨＫ犯人は誰だ「ユリ子さんの結婚」
宝石 1952.02. (昭和27年２月号) より
カナエ ねえ、お姉さま、何故、式をのばしてらっしゃるの、カナエ困るんだけど。
ユリ子 あら、どうして。
カナエ だってえ……。
ユリ子 ああ、私が嫁(い)かないと後がつかえてるって言うの、ホホホ……。
（ユリ子ピアノの練習曲つづける。猫の啼き聲がする）
ユリ子 （ピアノを止めて）あら、うちのタロちゃんの聲だわ。
カナエ お姉さまは猫のことっていうとすぐ眼のいろ變えて心配するのね。そんなことじゃとてもタロちゃんを殘して、久雄さんの處へお嫁には行けないわね。
ユリ子 だから、私、何のかのと云って、式をのばしているのよ。
カナエ お姉さま、一體久雄さんとタロちゃんとどっちが好きなの!!
ユリ子 オホ……。いまのところではね。
カナエ まあ――あきれたお姉さま。
（突然けたたましい鶏の聲）
ユリ子 あらッ。
高志 ヤーイ、コンドルをしとめたぞ、さあ、今度は狼だ……ワー命中命中。狼もやっつけたぞ。オーホー（ターザンの奇聲）
カナエ なーんだ、お隣りの高志ちゃんが又ターザンごっこしてるんだわ。
（その時、猫がひらりと窓から入って來てピアノの上に飛び移る。ピアノ、ザラリンと鳴る。ニャンと鳴く。）
ユリ子 おやッ、タロちゃんの尻尾から血が出ているじゃないの？
カナエ えッ、血ですって？ あら、血じゃないわよ。赤い紙が尻尾にくっついているのよ。
ユリ子 あらッ、カナエさん、赤い紙だと思ったら、また吹矢が刺さっているのよ。
カナエ お姉さま、タロちゃんをしっかり抱いていらっしゃいよ、私ぬいてやるから。
ユリ子 早くぬいてやってよ。痛そうだわ。
（――ニャン）
カナエ ぬけたわよ。アカチンでもつけてやりましょう……。おやッ、お姉さま、どうかなさったの？ 顏の色が……。
ユリ子 私、なんだか恐わくなっちゃったわ。背中に三度、首に一度、今日の尻尾で五度よ、これは決してただのいたずらじゃないわ。猫を通して私に復讐しようとしている人があるにちがいないわ。
カナエ そう云えばそうねえ、いたずらにしては少し念が入り過ぎてるわね。この吹矢だって、レコード針に厚い紙を卷いて念入りにつくったものよ。
ユリ子 私ね、何かおそろしいたくらみがあるように思えてならないのよ。目的はタロちゃんでなく、ほんとは私を狙っているんじゃないのかしら？ きっと、いまに恐いめにあいそうな豫感がする。
（門の方で自動車のとまる音がする）
カナエ お父さまがお歸りになったようだわ。この矢をお父さまにお目にかけましょうよ。
ユリ子 ええ。
（ユリ子とカナエパタパタと馳けて行く）
父 ウーム成程ね、一寸いたずらが過ぎる様だな。
母 いたずらとばかり申せませんよ。何しろ、度々のことですからね。家中の騒ぎになるといけないと思って私も今迄口には出しませんでしたが、何か、こう不吉な感じがしましてねえ。
父 猫同士の喧嘩に、飼主が吹矢で應援したんじゃないかな。
ユリ子 まあ――お父さまって呑氣ねえ。まるで他人事みたいに……。
母 だとするとウチのタロちゃんは強いから、敵はたくさんありますよ。
父 たしか、隣りにも猫がいたな。
母 ミイちゃんですか、あれは牝猫ですからタロちゃんと喧嘩はしませんよ。それにお隣りの坊ちゃんはいい子で大のタロちゃんびいき、昨日もね、うちのパパが釣って來たからタロちゃんにやって下さいって、めざるに小ざかなを入れて、臺所に放ってゆきましたよ。
父 そうだッ。あの坊やに頼んで、吹矢を持っている者を探らせたらどうだ？
ユリ子 そんなてぬるいことじゃだめよ、お父さま。
父 一寸その吹矢を見せなさい。
ユリ子 はい、これ、いつもは白い紙なのに、今日は赤なのよ。これにも何か意味があると思うの。あらお父さま、吹矢の紙を破ぶかないで、大切な證據物件なんですから。
父 おや、おやッ、吹矢に卷きつけた紙の裏に何か書いてあるぞ。
ユリ子 何んですの？ お父さま、あら、マンガ、マンガの本を破いて針に卷いたんだわ。
久雄 今晩は。
母 久雄さんいらしたらしいわ。
久雄 今晩は。
父 ヤー、今晩は。
母 いらっしゃい。
カナエ 今晩は。
久雄 また、遅刻しましたよ。
ユリ子 久雄さんは時間が守れない人なんだから、おくれたって不思議はないわ。
久雄 おや、ユリ子さん、大分御機嫌がわるいようですね。
母 いいえね、一寸、心配ごとが出來たもんですから。
カナエ お姉さんにとって大事件なのよ。いま、みんなで前後策を協議中なの。
久雄 へえ、一體どんな大事件が起ったんです？
ユリ子 タロちゃんが吹矢を突立てられたの。
久雄 ハッハッハッ、猫ですか。
ユリ子 笑い事じゃないわよ。今日で五度(たび)もよ。
久雄 （オドケテ）なるほど五度。これは正に重大事件ですね。
ユリ子 ただ事でないと思えるでしょう！
久雄 うーむ、何か、そこには意味がありそうですな。
ユリ子 タロちゃんではなく、ほんとは私を狙っている人があるんじゃないかと思うの。五本の吹矢を見ていると、私ぞっとしますわ。吹矢をつくった人は、どこかで、じいと私の一擧一動を見詰めているやうな氣がして、私、いまに殺されるんじゃないかしら。
久雄 なに？ 殺されるって？ 誰が？
ユリ子 私がよ。
久雄 ハッハッハッ、そんなに神經質にならなくても……たかが吹矢じゃないですか。
父 久雄君、わしも最初はたかが吹矢だと思っていたが、だんだん話を聞いているうちに、わしも不安になって來たんだ。
母 ほんとにそうですわ。何か深いたくらみでもあって……。
父 どうしたらよかろうか。こう、家中の者がおびえていては、いまにみんな神経衰弱になってしまう。どうだろう、ユリ子とタロを一時何處かにあずけて避難させては。
久雄 それはいゝところへ氣がつかれましたな。狙われているのはユリ子さんとタロちゃんだけらしいですからね。
母 あなた、他家へあずける位なら、いそいで結婚式をあげて、久雄さんの家へやった方がいいじゃありませんか。
父 ウンなるほど、これは、名案だ。久雄君、君は異存はあるまいな。
久雄 そりゃ僕の方じゃ始めから一日も早くと云っているんですから。ユリ子さんですよ。來月、來月って延してるのは。
ユリ子 だって結婚しても、落ちつくまでは當分タロちゃんを連れて行かない方がいゝってお母さまがおっしゃるんですもの。タロちゃんと一緒に行っていゝのなら、今日だっていゝわよ。
父 今日という譯にもいかんだろうが、大至急吉日を選んで式を舉げるとしよう。
久雄 （獨り言のように）フフ、果報は寝て待てか!!
父、母 エッ
カナエ 久雄さん、それ何の意味？ ああ分ったわ、フフフ、カナエの場合もそうよ。ホホホ……
（昭和二十六年十一月十一日放送）
［犯人は誰だ］解答
――犯人はお隣の高志ちゃんでした。ターザンごっこに凝った高志ちゃんが、犬や猫を猛獸にして、自分で作った吹矢をふいていたのがユリ子さんの愛猫太郎ちゃんにも刺っていたのです。この事件からユリ子さんが早く結婚する氣になったのですから、それを一日も早く……と待っていた妹のカナエさんにとっても久雄君同様、「果報は寝てまて」でした。
「白椿」
笑の泉 1951.04. (昭和26年４月号) より
夫婦の間には常に危機がはらんでいる。
美根子は元氣がよくって、おしゃべりで、いつでも朗らかに笑っていた。小柄だが、洋装がよく似合ってくりくりした可愛いゝ眼の美しい若妻だったので、誰にでも好かれていた。彼女がいるとその席が賑やかで明るくなるような種類の女であった。
研一は妻の美根子を何物にもかえがたいほど熱愛していた。彼は彼女の云うことには何一つ反對したことがなかった。妻の云いなり次第になっている夫だった。
甘やかし過ぎたせいか、彼女はだんだん増長して來て、近頃では勤め先の會社のことにまで口を出すようになった。我まゝを云って、子供のように駄々をこねたり、横車を押すのには彼も閉口していた。
こそへこんどは妻の母親を引き取りたいという厄介な問題を持ち出した。この上彼女に味方が出來たら、どんなことになるだろう。二人の女にのさばられてはたまったものではない。彼はおそろしくなった。これだけはどんなことがあっても承知しまい、と、齒をくいしあってきっぱり拒絶した。
「まあ、呆れた、あなたって人は随分慾のないおばかさんねえ」妻は大きな眼を見張って立てつゞけにまくしたてた。
「あなたは何も知らないんでしょうが、私のお母さんはね、あなたのような貧乏なサラリーマンとはちがうんですよ。お金はうんと持っている上に扶助料もついてるんですわ。お母さんが家に來てくれゝば、私達はどんなに助かるかわからないんです。私たちの貧乏を默ってみている人じゃないし、食費だって、二人分より餘計に出してくれるにちがいないから、お臺所だって樂になりますよ。あなたのお好きなビフテキやおさしみを毎晩食卓に並べることだって出來るんです。福の神が舞い込むようなものじゃありませんか」
「僕は貧しくっても、單純な夫婦だけの生活がしたいんだ」
妻の怒りを額に感じながら、研一は俯向いて反對した。
「よくお聞きなさいよ。ほんとは母一人娘一人なんだから、私は養子を迎えるべきだったんです。あなたがやいやい云って結婚を申込んだんでしょう？ 私がお斷りでもしようものなら、それこそ氣狂いになるか、自殺をするかだって、脅かされたから、私は仕方なくお嫁に來て上げたんですよ。お母さんは眼を閉(つ)ぶって何もかも我慢して、大切な娘を手ばなしたのよ。可哀想に――。私というものがいなくなってから、お母さんはすっかり年を老(と)ってしょんぼりしてしまったわ。
心細いのよ。淋しいッて、會うたびに涙をこぼしているの、見ていられないわ。お母さんはもし私と一緒に暮らせるなら、小型自動車の一臺位は研一さんに寄附してもいゝッて云っているのよ。あなただってラッシュアワーに電車の釣り革にぶら下って、死ぬような思いをしなくってもすむじゃありませんか。あなたが運轉を稽古すりゃ、日曜日には樂しいドライヴも出來るってもんだわよ」
それでも彼は賛成しなかった。
「君はお母さんを家へ入れようと思うから、いゝことばかり考えてるが、離れていて、時々顏を合せる位が丁度いゝんだと。一緒に暮らしてみたまえ、きっと不平が出る、その不平の聞き役は僕だからな、他人が入っちゃ第一うるさくってやりきれないぜ、僕は絶對いやだ」
美根子は遂に匙を投げてしまった。悲しそうな顏をして默り込んだが、妻がこんなにしょげたのを見たのは初めてだった。彼は少しかわいそうになったが、ここで負けては、と、勇氣を出して頑張りながら、出勤した。
會社から歸ってみると、妻の姿が見えない。机の上に置き手紙がある。
氣の毒なお母さんを慰めるために、映畫を見に行きます。歸りの時間はわかりません。
彼は不機嫌な顏をして、茶の間を通りぬけようとすると、妻の赤い座蒲團の上に、丸めた紙屑が落ちていた。手紙の書き損じを捨てたものらしい。皺をのばして見ると、
救縁、孤獨な容姿端麗なる婦人、教養ある紳士を求む。年齢不問。（姓名在社）
研一は驚いた。まさしく妻の筆蹟である。
彼の額には脂汗がにじみ出たが、やゝしばらくすると、唇に惡魔的な微笑が浮んだ。
次ぎの日から、彼は密かにあらゆる新聞を買い集め眼を皿にして廣告欄を見た。三日後、かの「求縁」が出ているのを發見した。
彼は早速タイプ返事を書いた。
御希望に添う自信のある紳士、時と場所との御通知を乞う。
かねて、借りる約束をして置いたたばこやの名を書いて投函した。
翌日、たばこやへ返事が來た。それも紛う方なき妻の筆であった。
明日午後四時、地下鐵神田驛ホームでお目にかゝりましょう。めじるしに白椿二三輪お持ち下さい。
庭の白椿はいま眞盛りだった。
「糞ッ」
彼は煮え返るような怒りを微笑にかくして妻を見た。彼女は何喰わぬ顏で平然としていた。圖太い女だ。
次ぎの日の午後、研一は妻にかくれて白椿をどっさり胸に抱いて神田驛のホームへ走った。
電車を八臺も見送った。一杯喰わされたかな、と、思っていると九臺目の電車がホームへ辷べり込み、白椿をかゝえた婦人がしとやかに降りるのを見た。
それは妻のお母さんであった。
注）ごく一部ですが句読点及び明らかにおかしなところは修正しています。
注）著者名のルビは おおくらさんこ（探偵作家） となっています。
「素的だったよ」
笑の泉臨時増刊「艶笑奇談百家選第２集」 1952.04. (昭和27年４月) より
男というものは、アバンチュールがお好きです。
元来船に弱い僕は、欧州航路の第一大洋丸が、上海を出航するまで一度もキャビンを出なかった。
同行の旅馴れた友人から船中の心得なるものを聞かされ、一等船客ともなれば社交界に出たも同じだから、礼儀正しく晩餐には髯を綺麗に剃ってスモーキングを着なければいけない。レディーに対しての不作法は大禁物だぞ、と脅かされた。
食事の度に着換えをするのもおっくうだ。第一そんな苦しい真似をして食事をしたってうまくはない。僕はすっかり無精をきめ込んで、船酔いを口実に三度々々の食事を部屋に運ばせ、誰に見られることもないのをいいことにして、パジャマのまんまで、時にはベットの中から手を延ばして皿の料理をつまんだりしていた。
友人は毎日やって来て、船中の噂をした。
「この船には凄い女王が乗り込んでいるんだ。彼女がダイニング・ルームへ入って来ると、御光がさすように、ぱっとそこらじゅうが明るくなる。一心不乱にぱくついていた連中は一せいに顔を上げてまぶしそうに拜むんだ。
「一人旅なのか？」
「一人でマルセーユへ行くんだとさ。病身なので、船を撰んだというわけだが、ボーイの話ではさる有名な大富豪の令嬢なんだとさ」
「よく調べが届いているんだな」
「船中では彼女の話で持ちきりさ。仕立のいい美事なニュー・ルックを毎日取り換えて、晩飯の時だけ食堂へ出るんだが、いつも胸には真紅のバラを一輪さしている。だから僕の仲間ではクイン・ローズ、或はミス太洋とよんでいる。ところがそのバラが問題なんだ」
友人は舌なめずりして言葉をつゞけ、
「ダイニング・ルームを一わたり見渡して、これぞと思う人に、そのバラを贈る」
「ふん、そのバラにダイヤでもぶら下っているのかい」
「そんないやしい事を云うな。もっといいものがぶら下っているんだよ。そのバラを贈られる光栄にあづかりたいと云うので、みんな彼女の視線を追って、無意識に手がネクタイに行ったり、髪を撫でたりする光景は見ものだぜ」
「君もネクタイを直す一人だろう？」
僕は友人の言葉に釣り出されて、今夜はじめてダイニング・ルームに顔を出すことになった。
隣席にはもう友人がめかし込んで腰かけていた。友人は心が落ちつかないようだった。ボーイがデザートを運びはじめた時、急に僕は腰をつかれたので顔をひょいと上げると、コテイの強い香水をまき散らしながら、素晴らしい美人が自分の席につくのを見た。
僕は思わずフォークを取り落すところだった。美しいと云うよりは神々しい、湖水のやうに澄んだ眼をしていた。なるほど胸に大きなバラを一輪さしていた。
彼女はしとやかにナフキンをひろげながら、何気ないようにしてダイニング・ルームの中を見廻わした。僕のテーブルに彼女の視線が止ったのではっとして僕は体がこわばるような感じがした。が、それは間違いだった。僕ではなく友人であったことがすぐにわかった。というのは、ボーイが銀盆にバラの花をのせて隣席へ持って来たのである。
バラを贈るのには何か意味があるのだろうと友人に訊いてみたが、彼は黙々として答えなかった。
食事が終って、ダイニング・ルームを出るとボーイが廊下に立っていて、紙片を友人に渡した。
「今夜、十時、おまちいたします」と書いてあった。
承知のしるしに、友人はバラの花をボーイに返した。
友人と別れて独り淋しく自室に戻った僕は、それからそれといろいろに妄想を逞うして遂に一睡も出来なかった。
翌朝、睡眠不足の眼を真赤にした僕は、デッキに立って煙草を喫っていると、得意そうな顔をして友人がやって来た。
「おい！ どうだった？」
友人は朗らか調子で、
「素的だったよ」
ああ！ すべてはその一言でつきると思った。羨望は嫉妬にかわり胸の中が、モヤモヤした。
再びディナーの時刻になった。ミス太洋は昨日より一層美しかった。胸のバラが輝いて見えた。彼女は例の如くナフキンをひろげると、ダイニング・ルームをみまわした。僕はそーっと彼女の様子をぬすみ見ると、ばったりと視線が合ってしまった。やがて、ボーイがバラを銀盆にのせて僕のところに持って来た。僕は震えた。
友人は僕の肩をたゝいて、
「お目出度う、おたのしみ！」
にやりと笑った。
僕は十時が待遠しかった。もう一度念いりに髯を剃ったり、髪に櫛を入れたり、そわそわと何度も鏡の前に立った。
十時を打つのを待って、彼女のキャビンをノックした。
内からドアを開けたのは彼女ではなく侍女だった。一人旅だと思ったのに、僕は軽い失望を感じた。
ミス太洋はピンクのナイト・ガウンを着て、ベットに寝そべっていた。ベットの傍に椅子を運んで侍女は隅の方に引き下った。
僕は冷いオレンジエードに咽喉をうるおしていると、ミス太洋がチョコレートの箱を開け、白いすんなりした腕をのばして僕の膝にのせてくれた。彼女は微笑を浮べて、
「よく来て下すったわね。私、ひどい神経衰弱で不眠症に悩まされていますのよ」
「それは、お困りですなあ」
「それで――、お願いがありますの。あなた、私の枕許で子守唄を唄って下さいません？ そして私がねついたら、そっと、音をたてないようにお引取り下さいな」
僕は否応なく子守唄を唄わされた。ミス太洋が軽い寝息を立てはじめると、隅の方にいた侍女がやって来て僕をドアの外へ送り出した。
頗る鄭重に扱われたのではあるが、僕はむしゃくしゃした。何ぁんだ、まるで守りッ子の役をさせられたんじゃないか。
僕は持っていたチーズをかじりながら、夜通しウヰスキーを呷りつづけた。
二日酔で頭の重い僕は、デッキへ出てみた。ほのぼのと白みかゝった空には月が残っていた。夜明けの空気がすがすがしく、頭を冷やしてくれた。そこへやがて友人もデッキへ出て来た。
「やあ、お早よう、昨晩はどうだった？」
僕は憤慨をかくし、わざと嬉しそうな顔をして笑いながら、
「素的だった」
注）ダーニング は ダイニング に改めています。
注）ごく一部ですが語句の統一と、明らかにおかしなところは修正しています。
注）送り仮名は基本的に原文通りで、現代では一般的でないところがあります。
注）著者名のルビは おおくらさんこ（探偵小説家） となっています。
「幻の殿堂」
別冊犯罪読物 1948.09. (昭和23年９月) より
謎の殺人
朝のコーヒーを飲みながら、新聞に眼を通していた秋本明は思わず、
「あッ」
と聲をあげた。夫人はびくっとして、
「どうなすったの？ あなた」
印度林檎をむいていた手を止めて、夫の方を見た。僕の眼はそこにあった記事に吸いつけられていた。
「佃がね、お前、知っているだろ？ 佃英二が、彼奴が往來に倒れていたんだとさ、大怪我をして――」
「まあ、佃さんが？」
實は夫人には内緒だが、佃は仲のいゝ遊び友達で、昨夜も十二時近くまでさんざん飲み歩いて、別れたばかりだったので、思わずひやりとしたのだった。
「棍棒か何かで頭をしたゝか打たれ、人事不省に陥っていたのを、通りかゝった圓タクに拾われたと書いてある。が、佃の奴、近頃金廻りがよくって大景氣だからなあ、狙われたんじゃないか」
「恐いわ、物騒だ物騒だって話を聞いていても、遠いことのように聞き流していたけれど、こうして手近かに被害を受けた方があると、急に怖しくなるわ。あなた、氣をつけてよ」
「僕なんか大丈夫さ。狙われたくたって、尾ける奴もありゃしない」
「だって、この頃のように毎晩お歸りがおそくちゃ心配になりますわ」
「忙しけりゃ仕方がないさ」
「重役におなりになるまでは、會社が退けると、きちんきちんと歸っていらしたのに」
「あの頃は金がなかったから」
「あら、お金があると、だらしがなく、なるものか知ら？ それじゃ重役なんかになって下さらない方がよかったわ」
「その方が家庭圓滿か」
「何んでもいゝわ。夜更けてお歸りになるのだけはやめて頂戴、佃さんがいゝお手本よ」
「可哀想なことを云うなよ。佃は生命には別條はないが、相當重體らしいぞ。早速見舞いに行ってやらなくっちゃあ」
「病院へ入っていらっしゃるの？」
「勿論さ。病院へ擔ぎ込まれ、と、書いてある」
「佃さんのは棍棒でやられたと云うんだから、例の謎の殺人とは別口なんでしょうね？」
「違うさ。「謎の殺人」は疵一つないと云うのが特徴だからな。佃は頭をやられている」
夫人はぶるぶると體を震わし、
「いやだわねえ。「謎の殺人」も昨日で六人目でしょう？ その犯人もまだ舉らないと云うのに」
謎の殺人と云うのは、東京でも目抜きの場所に死體が轉がっている。被害者は定って新興財閥とか、大金を懐にしていた者とかばかりで、致命傷となるような外傷はどこにもなく、窒息させたものであった。どの場合も所持品は全部盗まれているので、その筋では物取りの兇行と見ているらしいが、いまだに犯人の目ぼしもつかない。嚴重な捜査を尻目に同じ手口の犯行が續けられるので、金のある紳士連は戰慄すべき事件として怖れているのだった。
「佃のも、多分、物取りの兇行、辻強盗の類だろう。佃は腕自慢だし、柔道二段の猛者だから、相當烈しく抵抗もしただろうし、それがまたかえって禍いして、あんな負傷を負うような結果になったのかも知れん、とにかく、行ってみないことには――」
秋本は夫人に手傳わせて洋服に着換え、家を出た。
別れて後の出來事だから、秋本には關係はないとはいゝながら、彼は氣になるので、圓タクを拾って病院へ馳けつけた。
受附で訊くと、
「佃さんは御面會謝絶ですから、折角ですが」と、詰襟の服を着た、胡麻鹽頭の男がにべもなく斷わった。
「どんな容體なんでしょうか？」
「さあ、面會謝絶と云うからには、まず重體でしょうな」
「家族の方は來ていられますか？」
彼は本人に面會できないなら、せめて家人に會って様子を訊きたいと思った。
「どうですか、受附にはそんな事はわかりません」と素氣ない返事だった。
「どこで訊いたらわかるでしょう？」
「看護婦室にでも行ってごらんなさい。昨夜宿直した人がまだいるでしょうから」
と横を向いて煙草の煙をふうと鼻から出した。
看護婦室は何處にあるか教えて貰らいたかったが、これ以上訊いてもろくな返事はしてくれまいと思ったので、覗き込んでいた受附の小窓から首を退くと、そこを白い服を着た若い看護婦が通りかかった。
「もし、もし、看護婦室はどこでしょうかな？」
と、後ろから聲をかけると、色の白い看護婦は振り向いて、えくぼをくぼませ、
「私のあとに從いていらっしゃい」と云った。
巾の廣い階段を昇りながら、
「御面會なさるんですか？ それとも看護婦に御用がおありなんですか？」と訊いた。
渡りに舟と秋本は喜んで、
「昨夜入院した佃英二といふ患者に會いに來たんですが、面會謝絶だってことですから、家の人にでも會って歸りたいと思ってね」
看護婦はうなづいて、
「佃さん、御面會出來ますよ。お熱の大分下ったし、經過が良いから――」
「重體ではないんですか？」
「入院された時は出血がひどかったんでね、でも――、新聞に書き立てゝあるほどのことはないんでしょう」
「あゝ、そうですか、そりゃよかった」
「あなた、御親類の方ですか？」
「友人ですよ」
「私、佃さんに附いている看護婦なんですのよ」
秋本は何となくほっとした。看護婦室に行くまでもない。この人のあとに從いて行けば、自然に彼の部屋に導かれるに違いない。
「それはいゝ方にお會いしました。佃はよっぽどひどくやられたんですか？」
「えゝ、病院へ連れられて來た時は人事不省で、どこの人だかもわからなかったんですよ。何しろ大變な出血で――、直ぐ輸血しました。割に早く發見されたので幸でしたわ。手當が届きましたからね。當分安靜にしていらしたらいゝんでしょう」
「往來に倒れていたんだそうですね」
「通りかゝった圓タクに拾われて、病院へ送られたんですよ。それから、大騒ぎになって――」
と云っているうちに、佃の、部屋の前へ來た。
「ちょっと、待って下さいね」
看護婦は秋本を扉の前に殘して、一人で室内へ入った、と思うと、引き返して來て、
「お入りになってもよろしいですよ。ですがね、ちょっと御注意して置きますが――、あの患者さんがしきりに氣にして、自分の譫言のことを訊きたがりますが、何も知らない、と云って下さいね」と云った。
「譫言って？」と、秋本が訊き返すと、看護婦は急にくすくす笑い出して、
「そうでしたね、あなたは何も御存じないのね」
秋本は氣になるので、もう一度訊いた。
「何んですか、その譫言というのは？」
「何んでもないんですのよ。患者さんが熱が高かった時、變な譫言を云ったのです。それは私一人しか聞いていなかったから、誰も知らないことなんですが、患者さんは何か氣にかかることがあると見えて、僕、何か云わなかったかい？ッて、眼さえ覺ますとしつこく訊くんですよ。そして、お家の方も寄せつけないんです」
「ふうん。どういう理由だろうな」
「電話でお家へお知らせしたので、奥様やお嬢様が飛んでいらしたのですが、「歸れッ」て追いかえしておしまいになりましたの。多分、その譫言を聞かれるのがいやなんでしょう」
「どんな事を云うんですか？」
「お芝居でもやっているようなことなんですの。殿下―だの、姫宮だの、今、僕を殿下とよんだのはそちであるか？ だの、ベッドだの、おホヽヽヽ、もっと可笑しなこと――」と云って、看護婦は顏を赤くして笑った。
「夢でも見ているんでしょう」
「時々ぽっかりと眼を開いて、あたりを、よろよろ見廻し、妃の宮はどこへ行かれましたか、なんて訊くんですのよ、そして、はっと氣がつき、僕、いま何か云いやしないかいなんて、眞面目な顏をして仰しゃるんですの」
「熱のために夢と現との境をさまよっているので、いろいろな幻想があるんじゃありませんか」
と、云いながら、彼は佃のベッドの傍へ歩みよった。
うつらうつらしていた彼は、人の近づいた氣配に氣がついたと見え、ぱっちりと眼を開いて、秋本の顏をしげしげと見入っていたが、
「ほう、君か」
彼はやっと、それが親友の秋本であると分ったらしかった。
秋本は彼の傍へよって、
「とんだめにあったね。でも、まあよかったよ。思ったほどでもなくってね。あとは靜かに養生さえすれば、もとの體になると云うののだから」
と云ふと、佃は不安そうな顏をして、
「誰に訊いた？」
「院長が云ったよ」出鱈目の答えた・
「そうか」とうなづいて、靜かにまた眼を閉じて眠ってしまった。
不思議な家
二週間ほどすると佃から使いで、秋本に會いたいから、會社の歸りにでも立ち寄ってもらいたいと云って來た。
外傷だけであったせいか、どんどん快方に向っていたので、秋本の顏を見ると彼はベッドの上に起き上った。少し痩せただけで、血色もよく、髭も綺麗に剃っていたので、病人らしくなかった。
「どうだね？」
「やっと元氣になった。近々退院とまで漕ぎつけた」
「えらいめに會ったな。犯人は捕まったかね？」
彼は氣のない顏をして、
「さあ、どうだか、一向その話は聞かないが――」と、その問題には觸れたくないような風をしていたが、
「實はね、君」
と、彼は看護婦に秋本の椅子をベッドの近くに持って來させ、彼女には用を命じて席を外させた。そして四邊を憚かるような低い調子で、
「心からだよ、僕の希望としては犯人は舉らない方がいゝんだ。このまゝ、うやむやに葬ってしまいたいと思ってるんだがね」
秋本は眉をひそめて、
「君、あの晩、僕と別れてからどういう行動をとったんだね？」
「その事だよ。君にだけは話そうと思って來てもらったんだが、實はこの問題はこれっきりで、世間からは忘れてもらいたいのさ」
と眞顏に云う。それを見ると、家人が心配しているという彼の頭が氣になった。少しどうかしているのではないか、と、秋本も思わずにはいられなかった。
「そんな馬鹿なこと、世間は忘れても、警察は忘れやしないよ。それでなくっちゃたまらないじゃないか。君は大怪我の仕損ということになる」
佃はやゝ少時沈默していたが、
「實はね、君、君だから話すんだが、僕はあの晩、妙なところへ行ったんだよ。嘗つて想像だにしたことのない」と言葉を斷ってから、一層聲を低くして、
「君、こんな世の中なればこそなんだよ、君！」
と、急に、にやにや笑いながら、
「お互いにパンパンにも飽きた、ダンサーも鼻について來た、何か新らしい、胸のうずくような刺激を求めていた矢先、あの版、實に思いもよらぬ幸運に惠まれて――」と彼は甘い夢のあとを追うような眼をして、
「君に別れたのは何時頃だっけかな、十二時近かったね。カストリでしたゝか酔っていた僕は、あのまゝ家へ歸って古女房の顏を見るのもつまらない、どこへ行ってやろうかなあと、ライターを點けてゆっくり一服喫って考えている眼の前に、自家用車だろう、新型のスマートな車がするすると辷って來て、運轉手が帽子を脱って車から飛び降り、扉を開けて鄭重に一禮した。帽子には金筋が入っていた。お迎えにまいりましたッて云うんだ。僕は人違いだろうと云ったが、先方は承知しないんだ。まゝよ、人違いする奴が間抜けなんだ、あんまり乗り心地がよさそうだったから、云われるままに乗っちまったんだよ」
「随分、無鐵砲じゃないか、眞夜中のそれこそ怪自動車だ、どこへ連れてゆかれるかわかったもんじゃない」
「罪はカストリにあり、だ、僕にしちゃ度胸がよすぎたよ。だが、その時は全く何とも思わなかった。自分の自動車に乗ったような氣持ちだった。車が動き出すとまるで揺籃の中にでも入っているようにいゝ氣持ちになってうつらうつらと眠っているうちに車が停った。見るとお城のように立派な大邸宅の玄關先に横着けなんだ。さすがの僕も狼狽した。玄關にはあかあかと灯がついていて、制服を着た二人の男が左右に別れて出迎えている。運轉手はドアのハンドルを握って慇懃に頭を下げ、僕の降りるのを待っているってわけなんだ」
「何か思い違いをしてるんだね」
「そうでもなさそうなんだ。確かに僕を出迎えてはいるんだがね、今更、人違いだよともその場合云い出しかねて、もじょもじしているうちにまた糞度胸が出て、どうにでもしやがれ、こっちが頼んだんじゃない、勝手に引張り込んだんだ、行くとこまで行ってやろうッて、太々しい料簡になって、僕は悠々と、いや、已むなくそうさせられたんだが、當家の御主人が御歸館あらせられたという態度で、車から降りて玄關へさしかゝったんだ。それからが是非、君に聞いてもらいたい話なんだよ」
と、佃はベッドの上に胡坐をかいて、葉卷を薫らしながら、語りはじめた。
王妃の饗宴
「ダーク・ブルーに金釦をつけた制服の從僕はすこぶる鄭重な態度で僕の外套や鞄を捧げるようにして、厚ぼったい、それこそ靴音もしないようなふかふかした赤い敷物をしいた長い廊下を先に立って歩いて行く。廊下の曲り角に、ニ三人の侍女を從えた一人の婦人が僕を出迎えていた。
「お歸り遊ばせ」と、しとやかに頭を下げた。その顏をひょいと見ると、僕はアッとたまげてしまった。彼女は金色のピカピカ光った模様のある黒地のガウンを着て、眞珠の首飾りをその白い頸に三廻りも卷いてだらりとふくよかな胸の上に垂らしている。ブローチと細い指には燦然たる大粒のダイヤが輝き、實に眼もくらむような美しさだった。女なんかと高をくゝっていた僕も、彼女の前には耻しくって顏が上げられなかった。
それはたゞ美しいと云うばかりではないんだ。むしろ神々しい感じがした。美人なら飽きるほど見ている僕達だから、決して驚きはしないがね、そして、その婦人の顏がだよ、實は僕には見覺えがあったのだ。昔なじみなんだよ。
君も知っての通り、僕は長い間××會社に勤めていた關係上、二十年近くを海外で暮らしてしまった。その間に、夫君の留學について來られたある高貴な方があった。僕は度々宴會の席でその方に會った。
もちろん、末席を汚している程度で、言葉をかわしたわけではない、彼女はいつも主賓で來られるのだから、僕は遠くの方から、その美しいお姿を拝しながら、一緒のテーブルで食事をしたことを光榮に思っているだけに過ぎなかったんだがね、正直のところを打ちまけると、いつか僕はその婦人を想っていたんじゃないか、と、思うんだ。戀なんてものは、ある機會が來ないと、自分でも氣がつかないでいるもんじゃないかね？
歸國されちゃったらおしまいだからね。内地では近くでお顏を見るなんて思いもよらない、身分の相違と云うことを、その時ぐらいしみじみと情けなく、また癪にもさわり、腹立たしく思ったことはなかった。
いくら戀したって到底及びもつかない、しかも夫のある人妻なんだからね、しかし、どうにも忌々しくってね、どうせ成就されないものなら、始めっから好きにならなければいいんだが、こればっかしは、自分の心で自分の思うようにならないものだね。
しかし、いくら何んでも僕は、あの夫人を戀しているんだとは口に出せない。つまり永遠の片想いだね、想うと云うことは、それは自由で、誰が誰を戀しようが勝手だ、秘かに戀している分には文句はないんだ。僕は人知れず悶々の月日を送っていた。少しでも彼女に似ているなんて噂のある女優の出る映畫なんかは、毎日みに行った。最後の最後まで、場末にかゝるまで追って行ったものだ。
月日というものは有難いもの、心の痛みも月日が洗い流してくれて、次第にあきらめられるようになって來た。そこへ結婚問題なんか起ったりして、氣が紛れていたが、終戰と同時に内地へ歸って來ると、この同じ土地に彼女もまた住んでいるのかと思うと、以前とは違った意味で、なつかしかった。夫人の御殿も空襲で燒かれたと聞き、御不自由な生活をしていられるのかと痛ましいような氣がしていたのだった。
大變、前ぶれが長くなったが、すっかり話さないと分らないだろうと思ってしゃべったんだ。
その夫人だったんだよ、僕の前にすらりと立っていられたのは――。
どういう間違いでこういうことになったのか、これは何か大きな一つの誤りから出發しているには違いないが、彼女の方は別に驚いた風も見えなかった。ところが僕の方ときたら、胸がドキドキするやら、すっかりのぼせて耳鳴りがするやらで、足が床につかないんだ。氣をつけても靴が鳴るのをどうすることもできなかった。
二十年近くも人知れず想っていた人に偶然、たとえ間違いにもせよ、傍近く會っているのだから、嬉しい筈なのだが、僕は耻しくって、耻しくってたまらなかった。
夢を見ているんじゃないかと思ったが、夢ではない。
僕は直ちに贅を盡した優雅な部屋に導かれた。隅の方には花瓶にいろいろな花が一杯さしてあって、室内に新鮮な香氣を放っていた。
夫人は黄金製の可愛いゝ煙草箱から、香のいゝ煙草を取って、僕にすゝめ、ライターをつけてさし出した。それから自分も一本とって美味そうに喫いながら、何と言葉を切り出していゝか、まごまごしている僕の心をすっかり見透しているように、靜かにほゝ笑みながら椅子に寄りかゝって、じっと僕をみている時、制服の從僕が入って來て、
「殿下、御食事の御仕度ができましてございます」と云って、下った。
殿下と云った、やっぱりそうだったのか、僕は思わずぶるっと震えた。そして、これはたしかに人違いだ、僕は誰かと間違えられているのだ、と、その時はっきりと分った。
で、間違いなら、少しも早くそのことを彼女に傳えて、殘念だが僕はこゝで引きさがるより仕方がない。夫人は氣がついていても、僕に耻を掻かすまいとして、默っているにちがいない。
そうと分って、食事まで一緒にしてはあまりに圖々しい、誰もいないのを幸い、僕は恐る恐る今までのゆきがゝりを云った。
夫人は可笑しそうに、笑いをこらえながら、
「實は私も先刻から、どうしたらいゝかと存じておりましたところですの。從僕共は今宵歸宅の豫定になっている主人と、あなたを間違えているのです。あまりによく似ていらっしゃるので――、しかし、構いません。誰も氣がつかないのですから、あなたはこのまゝ主人になりすましていらっしゃい。そして、明朝早くお歸りになればよろしいでしょう？ 私がうまく云いつくろっておきますから」
と云うのだ。何という大膽なひとだろう。
僕が彼女の夫になりすます――。そんなことが出來るものだろうか、僕は頭の中がひっくりかえるような氣持ちだった。
夫人は落ちつき拂っていた。
「私があなた様の御主人に？ あとで知れたら、それこそ大變な事になります。首が飛んでしまいましょう。何とかお云いつくろい願って、私はそのまゝ歸らしていたゞきます」
「かえって誤解されます。夜も大分更けておりますし、實は主人は旅行中で、今晩か明晩は歸ることになっていますので、迎えに出した運轉手が近頃雇い入れた者だったので、間違えたものと存じます」
「しかし、大丈夫でございましょうか？」
「えゝ、御心配はありまえんよ。素知らぬ顏で、主人になっていらっしゃいませ、私がうまく申して、なるべく人を遠ざけ、私と二人だけになっておりますから――」
何ということだ。その言葉だけでも有頂天になる價値が充分にあるじゃないか。
二人は食卓についた。全くさし向いの水入らずだった。銀製の食器が次ぎ次ぎと運ばれた。風味のいゝスープ、雛鳩の焼肉、いずれも味覺を嗾られるものばかり。年代のついた葡萄酒に舌鼓を打って、すゝめられるまゝに杯を重ねた。
君は僕の厚顏に呆れたろう？ しかしだね、僕の立場になったら、誰だって僕のように度胸をすえて、獨食わば皿までッて氣になるぜ。
酒の酔が廻るに從って、僕は持ち前の太々しさがだんだん現われ、矢でも鐵砲でも來い、ッていう糞度胸になっていた。
たとえ、この場に夫が現われて來ようと、ビクともする僕じゃないんだ、これが間違いであろうとなかろうと、今夜は僕が彼女の夫なんだから――、と、圖々しくもすっかり腰を落ちつけてしまった。
食事を終って、夫人の居間だろう、雅致に富んだあまり廣くない室に通った。水色の笠の下から電燈が柔らかく照らしていた。夫人は長椅子にしなやかな身體を沈めて、僕の長たらしい歐洲で彼女を初めてみた時からの話を、うっとりと聞いていたが、あまり多く口數はきかなかった。
「私、何も存じませんでした。それ程までに――」と、にっと笑って、ぐっと洋酒を飲み干した。僕はそれを受取ろうと起ち上って、コップに手をかけようとしながら、思い切って彼女の手を握り、
「ずいぶん、呆れた馬鹿者だ、と、お思いになったでしょう？」
「いゝえ、どういたしまして――」
「身分違いの僕のような者が、大それた――、昔ならお手打ちにでもなるところでしょう、しかし、僕はほんとに幸福だと思います。この思いを胸に懐いたまゝ墓場へ行くものだと決心していたのに、今夜という今夜は、僕にとって終生忘れ得ぬ一夜です。この僕の胸の中をお傳え出來たというだけで、僕は滿足して死ぬことが出來ます。たとえ、この場で殺されようと――」
と云っているうちに、僕は泣いてしまったんだ。酒も充分手傳ってはいたんだがね。夫人は優しく僕の手を執って唇に持って行った。そして、そっと白い小さなハンケチで眼を押えた。
夫人も泣いている、泣いてくれているんだ。僕の苦しい想に同情したのか、或は彼女もまた僕を――、そして儚ない今宵一夜ぎりで永久に相見ることのできないのを悲しんでくれたのか、それは分らなかったが、涙を拭いたことだけはたしかだった。
彼女は夫のある身である。だから決して不謹慎な言葉は出さなかったが、僕を憎からず思っていたということだけは云える。
泣き濡れた僕の顔を、夫人は兩手に挟んで、赤ン坊でもあやすように、
「泣くんじゃないのよ。わかってるんだから」
と云ふいながら、僕の額に彼女の額を押しつけた。
額から鼻、僕達の唇が觸れたと思うと、二人は烈しく抱き合っていた。僕はそのまま息を引き取りたいと思った。
もう何も彼も夢中だった。思慮も分別もあったもんじゃない。生命をかけた戀には何の恐れもなかった。身分違いなどという舊式な考えはさらりと蹴飛ばしていた。
小さなカット・グラスに注いだウヰスキーを二人で飲み合った。酔うにつれて僕はますます大膽になった。
「もう、おやすみになっては――」
と夫人は寝室に案内した。桃色の羽根蒲團に覆われた寝臺の兩端は、眞珠を鏤ばめた黒檀製の見事なものだった。彼女はスリッパをベッドの前に揃えて、部屋を出て行こうとしたが、僕は承知しなかった。夫人は素直に、僕の意のまゝになっていた。
桃色の羽根蒲團
どのくらい眠ったものか、小さな物音にふと僕は眼をさました。
四邊は水の中に沈んでいるように靜かだった。夫人はいつの間にか部屋を脱け出したと見えて、姿は見えなかった。
レースの飾りのついた羽根枕に肱をついて、煙草を喫いながら、周圍を見廻わした。どこからか灯がさし込むものと見えて、室内はうっすらと明るかった。僕は見るともなくベッドの裾に眼をやると、不思議なことに、桃色の羽根蒲團の端が、そろりそろりと内側にまくれ上って來るではないか。
僕はハッとして半身を起して凝視した。すると、他の隅も同じような動作をしてまき上って來る。僕の體を包んでしまおうとするかのように――。
その時、僕の頭に浮んだのは、少年の頃好んで讀んだ佛國革命の頃の物語であった。ある貴人を暗殺する目的でつくった殺人ベッド、それをいま眼の前に見るような心地がした。
僕ははね起きた。
すると、桃色の羽根蒲團はまたそろそろともとの形に戻ってゆくのだった。
そこで僕は自分と同じくらいの重量の物をベッドに置いたなら、と氣がついて、本棚からいく冊かの洋書をぬいて外套に包み、殆ど僕と同様の體重のものをつくってベッドに寝かせ、自分は窓の傍の椅子に寄りかゝって様子を見ていた。
果して、ベッドは恰も生きているもののように、四隅が捲き上って來た。僕は力をこめてそれを止めようと試みたが、僕の力ぐらいではびくともしなかった。遂いに隙間もないようにしっかりと中の物を包んでしまった。
僕がもし、何も知らないで眠りこけていたらどうなるだろう？
捲き終ると、作業はそのまゝ停止した。三十分ほどすると、また動き始め、今度は反對にそろりそろりと四隅が解けて、やがてもと通りの形になった。
窒息死！ もし、外套に包んだ本が人間であったならば――。
僕は慄然として總毛立った。
恐らく、この惡計畫を夫人は知らないのだろう、と、その時は思った。彼女の夫を狙う何者かの所爲に違いないが、危なく僕は彼の身替りになるところだったよ。
助かった、有難い！
と思った瞬間、いつの間に忍び寄っていたのか、僕は後頭に恐しい一撃を貰った。眼から火花が散ったように思ったが、僕は無我夢中で窓から地上に飛び降り、そのまま意識を失ってしまった。そこへ偶然、圓タクでも通り合せたものか、とにかく、救われたのだ。氣がついた時、僕はこの病院のベッドに横たわっていたというわけなんだよ」
佃は話し終ると一息ついて、
「彼等の希望通りにならなかったので、こんな怪我をしたんだが、謎の殺人というのも僕にはほゞ見當がついた。が、この事は永久に胸に秘めて他言しまいと、僕は心に誓ったんだ」
「しかし、同じ被害者がまた出ることは困るじゃないか」
「だがね、みんな半分は自分から招いた災難だよ」
「して、君は怪我以外の被害は何もなかったのかい？」
「どうして、どうして、あの日は大きな取り引きがあったんだ、鞄の中の小切手は莫大な金額だった、或はそれを奴等は知っていての仕事だったかも知れないな」
「何故、早く訴えないんだ？」
「肝腎の僕が、翌日になっても頭がぼんやりしているって始末なんだもの。充分、小切手を引き出す餘裕を與えてしまった。僕は氣がついていたが、騒いだら耻の上塗りだし、僕にとっては、あの一夜にそれだけ拂う價値が充分あったんだから――」
「それで、その殿下というのは？」
「似ているのを幸いの僞物だろうさ。だがね、僕は二十年の片想いを、僞物にしろ、解決したかと思やァ嬉しくないこともないよ」
「君が全快したら、その幻の殿堂を二人して探してみようじゃないか、そして殿下の化の皮をひんむいてやろうよ」
「ひんむかないで、やっぱり僕は殿下にして置きたいな。そのために莫大な金もあきらめて訴えないでいるくらいだもの、その氣持ち、君には解るだろう？」
「うむ。わかる。が、家はどの邊だった？ ちっとは覺えがあるだろう？」
「しかし、探しても無駄だよ、幻だもの、もう消えてしまっているだろう。その證據には、あの夜限り、謎の殺人はないだろう？ とにかく、金と生命をかけた刺戟は相當に愉快なもんだぜ」
注）明瞭でない文字が数ヶ所あり、推定で記している文字があります。似た別字の可能性もあります。
注）明らかにおかしなところは修正しています。
注）句読点は一部補っているところがあります。
「そゞろごと」
「あまとりあ」 1952.02. (昭和27年２月) より
親友のＳ子は白内障でＫ病院に入ってゐた。不安と焦燥に日を送ってゐる彼女を慰めるために、Ｋ子は毎日病院通ひをして、殆ど失明に近い彼女のために本を読んでやった。
「白血球が少ないので、当分手術は出来さうもないんだって」
Ｓ子は絶望的な聲で云った。
読書家であったＳ子は、今までに大抵の本は眼を通してゐたので、せっかく探して持って行っても無駄になることが多かった。
「その脚本なら、もう読みました」
と、云はれて、がっかりするのだった。
Ｋ子はふと祖父の書庫を漁ってみようと思ひついた。
そこには古書が沢山あったので、或は何か珍らしいものを発見出来ないとも限らない。
時雨の降る小半日を、Ｋ子は書庫に閉じ籠って、あれこれと見てゐるうちに、可愛らしい薄っぺらな、和綴の一冊が、厚ぼったい本の間に、肩をすぼめるやうにしてはさまってゐるのが眼に入った。
雁皮のやうなうすい紙に、綺麗な肉筆で、『そゞろごと』と書いてあった。女文字である。古い本ですっかり紙には虫ついてがゐて、表紙までぽつぽつと穴だらけだった。ページをくると、ぱらぱらと落葉のやうに、銀杏の葉が散った。
女の書体といふことが、何よりＫ子の心を惹いた。筆者は藤尾とだけしか書いてない。祖父に訊くと、当時お傍につとめてゐた腰元に、さういふ名の女が、あったらしいと云った。
Ｋ子はそれをふところに入れると、病院へ行った。
「Ｓ子さん、今日は少し変ったもの持って来たわ。祖父の書庫から、こんな――」
と云って、Ｓ子の膝にのせた。彼女は指先でさぐりながら、
「しほらしさうな本ね。私『そゞろごと』なんて聞いたことはないわ」
「この本は肉筆だから、たぶん、一冊しかないものだらうと思ふのよ」
「珍本ね。あなたのお祖父さまだから持ってゐらしたのでせう。読んで頂戴な。どなたのお清だったの？」
「いづれ、高貴なお方でせうね。くねくねして、随分読みにくい字よ。それに、昔風の文章だし」
「じれったいから、Ｋ子さん、現代風になほしながら、読み上げて下さらない。眼が見えないと、とても気が短かくなって、じりじりするのよ」
「えゝ、いいわ。つまらなさうなところはぬかして、ひろい読みしませう。
そゞろごと
その夜も、方さまの忍び音に泣かれる聲は痛ましく夜明け近くまでつづきました。御寝所のおしとねをかこって、金屏風が立て廻はしてありまして、そのお屏風の外に瞼も合はさず、夜を徹して御守護申上げてゐる私も知らず知らずもらひ泣きをしたほどでした。
方さまは私をお傍近くお召しになりまして涙に濡れた輝くやうなお顏を上げ、
「藤尾、お前は戀をしたことがあるか？」
とおたづねになりました。
戀といふ言葉に、私はパッと赤くなり、頬をほてらして、眼を伏せ、頭をふりました。
あんなにお睦しかった御夫婦だったのですもの、お上がおかくれになってからの方さまの御悲嘆ははたのみるめもお痛しいほどでしたが、今宵は殊更、物狂ほしいまでのおなげきで、心からお慰め申上げやうと思ふ言葉さへ何やら空々しく聞えて、口に出せませんでした。戀すら知らぬ私を、まだ幼さない女子とでも思召されて安心されたのでせうか、御老女の竹尾さまにさへお打ち開けにならないお心の苦悶をおもらしになるのでした。
眞夜中と申せば宿直(とのい)のものもついうまいの夢路を辿りがちになります。眠られぬ方さまのお話相手をするのは私よりありません。物足りない人形か、壁にでも話されるやうではありませうが、云はずにはゐられなかったのでせう。
「藤尾、お前には私の心はわからないだらうが、私は何とかして、もう一度、お上のお顏を拝したい、いいえ、きっと拝してみせますよ」
あられもないことを仰せられますので、あまりのお悲しみからお気が狂はれたのではないかと、私は思はず、方さまのお顏を見上げました。
方さまの眼は火のやうに燃えて、かたい御決心のいろがうかがはれるので、お亡くなりになったお上にどうしておあひなされるものなのか、不思議だと思って、ただ、承はってゐたのでした。
「まだ、おかくれになってからお日が浅いんだもの、お目にかかるのは今のうち、せめてもう一度なりと、誰にも邪魔をされずにしみじみとお目にかかって永のお別れがしたい、それでなくては私は心が安まらない。お前は賢い、よい女子だから誰にも知れぬやうに、こっそりと御墓所へ案内をしておくれ」
私は膽をつぶしてしまひました。この御殿をぬけ出して、誰にも知れずに、どうして御墓所まで行かれるのでせう。そんなことは出来る話ではないのです。と云って、御斷りを申上げてもお聞き入れになる方ではありません。
御自分でかうと思ったことは、理が非でもお通しになる強いお性質なのですから。
「いいかえ。あすの晩――。まごつかぬやうに、よく道をしらべて置くやうに」
「はい」
おうけはしたものの、どうしてよいのか途方に暮れてしまひました。
夜が明けますと、わたくしは御寝所を下りすぐに床の中に入って、樂々と手足を延ばし午後まで眠るのがつねでしたが今日はそのことが胸に支へて眠るどころではありません。
心配が自然に顏へ現はれるものと見えて、お長廊下で行きちがった老女の竹尾さまが、私の顏をのぞき込み、
「藤尾どの。お顏いろが勝れませぬな。どうぞなされたのではありませんか」
やさしく云はれて、私はうなだれたまま、言葉もなく、涙ぐみました。
「方さまが、何んぞ御難題でもお持ちかけになったのではないのでせうか？」
流石は永年方さまに任(※ママ)へて、御気性のほども知りぬいてゐる竹尾さまです。これは何かあったなとすぐ見ぬいてしまひました。
「後ほど、お藥湯を頂いて、持って行きますからお寝間に入っていらっしゃい」
私は丁寧におじぎをして、寝間に入りました。
ほとほとと襖を叩く音がして、竹尾さまが煙のたってゐるお藥湯を持って来て下さいました。
誰にも云ふことはならぬとかたく口止めされてゐましたが、どうにも私一人の胸に畳んで置きかねたので、竹尾さまには内密といふかたい約束をして、ことの次第を打開けました。
竹尾さまもはじめは呆れて、開いた口が塞がらないやうでしたが、
「火のやうな御性質であらせられる方さまだもの、その位のことはありませう。お好きで御自分から望んでお嫁づきになった位だから御無理はありませぬ。この竹尾がよく取りはからって上げますほどに、藤尾どのは安心していらっしゃい」
「どのやうに御はからひ下さるのでせうか。案内せよと仰せられましても、私はお道順も存じませぬが」
「誰にも知れぬやうに、のちほど、ようく私が教へてあげます。そして、私が見えがくれにお伴しませう。人に知れては大変なことになりますから、すべて秘密に、墓所の方も手筈をして置きますから、あなたは何も心配せずに、ただ御案内をすれば、お役目は無事につとまることになりますから」
竹尾さまが萬事呑み込んで下すったので、私は大へん助かりました。
お墓地の前で方さまは烈しくむせび泣きながら、まるでお上が眼の前にでもゐらせられるやうに語られるのでした。
「私はあなたを、肉慾的な対照としてとか、魂のささやかな愛情からなどと言葉でつくせるやうなものではなく、心の全体から充ちあふれた大きな情熱で、深くお愛し申上げてゐたのでございます。愛情のこもったおやさしいあなたのお聲は私をうっとりさせ、お言葉の一つ一つは魂をふるはせ、喜びに心をときめかせるのでした。あなたのおそばに過したあの年月は、ああ、何んといふ樂しい幸福な明け暮れだったのでございませう。
私の心は一刻もあなたを離れたくない、お傍にゐたいといふことだけ、たゞそれだけだったのでございます。あなたのほほ笑みは。私のかたくなな心を柔げ、両手を上げて舞ひ上りたいやうなうれしさ、いいえ、地上を、手まりのやうにころがりたいやうなよろこびを起させたのでした。
私はこの世に求むるもものは、あなただけしかありませんでした。ですから、あなたは私の魂であり、命でございました。あなたさへあれば、私はもう何にも求めるものはありませんでした。
地位とか、名譽とか、尊き人の子孫であるとか、そういふことは何んと馬鹿げた小さなほころでせう。私はそんなものをを一切かなぐり捨ててしまって、私といふ一人の女としてただあなたを愛するその一念で生きてゐたのでございます。
私は肉身の者から美しい土人形のやうに扱はれ、おもちゃのやうにして、自分の好きなやうに勝手に私を人に與へたり、取りかへされたりして来ました。
人も私もそれを不思議とも思はず、政略のためなら、どんないやな夫に嫁がされやうとも、愚痴一つこぼさない。それが貞女といふものださうです。貞女といふ榮冠を得るためには自分を殺して、すべてを忍ばなければならないのです。私はその貞女がきらいになりました。そして、愚かな私は、いもこそやっと人形から人間にかえったのです。生きた女性になったのでございます。
これからほんとうの愛の暮しをしやうと思ふ時、あなたは死んでおしまひなすった。私は体をちぎられ、引き裂かれるやうな思ひでございました。
まさか、私を残してあなたがお先にお死にになるなんて、そんなこと、考へてもゐませんでした。私は雷に打たれたやうな驚きに茫然として、しばらくは何にも解りませんでした。あまり深い悲しみは、涙も誘はぬものと見えます。
それを周囲の者たちは、何んと見たのか、流石は豪い方の姫君だけあって、夫に死別しても、涙一つ見せぬと、ほんとの私の心も知らないで、大層褒めてくれました。
それどころではなく私の心の中は、大聲で泣いて、泣いて、泣きわめいて、その聲があの世のあなたに届くほど泣いて、泣き死したかったのでございます。
お通夜、御埋葬、ああ、何んといふ恐ろしい、忌な言葉でせう。尖った神経は私の気を狂はせるやうでした。ほんとは、私も一緒に葬ってもらいたかったのです。お棺にとりすがったまま、頭から体中に冷めたい土をかけて、生き埋めにしてもらひたかったのでございます。
ああ、あなたはとうとう私を離れておしまひになった。天に地にもかけがへのない、あなたとはもう生きてお目にはかかれないのでございます。
私の心をうっとりさせたあの聲は、もう聞くことができません。
世の中に人間は數かぎりもなく、うようよと多勢ゐます。あなたに似た面影を探したら、或は見出さないとも限りませんが、たとへ、似てゐても、それはあなたではないのです。全く別人で、あなたといふ方は、天を馳け、地の果てまで探し廻はっても、もういらっしゃらない。そんなことがあっていいものでせうか。
ああ、私は気が狂ひさうです。
せめて、もう一度あなたのお姿を拜させて下さいませ。それでなくては、あきらめやうにもあきらめられません」
方さまはそこに用意してあった鋤を手に持たれました。が、重いものを持ったことがないので、持ち上げることさへ出来ず、土をすくふことなどは思ひも及ばないのでした。
「藤尾」
私に鋤の柄をお渡しになりました。かねて竹尾さまの注意があったので、私は恐る恐る御前へ出て、
「お疲れでございませう。しばらく、お休息下さいませ、その間に私が土を取りのぞきませうから」
と云って、少し離れたところの、ほどよい捨石のほこりを払って、お腰をかけさせました。
興奮して泣きつづけてゐられる方さまは、こっそり現はれた竹尾さまと私と二人がかりで、一生懸命に土を取りのぞいてゐるのにはお気がつかれませんでしたので、幸でした。
土はまだ柔らかでしたから、思ったより早くお棺が現はれました。
もり上った土の上に灯を置き、釘をぬいて板がすぐ外せるやうにしてから、方さまをお迎へにゆきました。
私は膝まづいて、肩さまのおそば近くにゐました。
方さまはしばらく合掌されてから、静かに棺の板をとりのぞかれました。腐ったやうなむかむかするやうな、いやな匂ひがぷんと鼻を打ちました。灯を持った方さまのお手はぶるぶると震るえて、あかりがゆらゆらと動いてゐます。
方さまは棺のふちにつかまって、中をのぞき込んでゐられましたが、ぐっと前へ屈まれたと思ふと、両手が死体を抱きおこし、じいとお顏を見られました。灯がゆらめいて、青黒くむくんだ、凄いやうな死顏を照らしました。方さまは少しも怖れないで、きゅっと両手に力をこめて、抱きしめながら、美しい方さまの頬を、ぞっとするやうな死体の頬にすりつけられた時、死体を動かしたためか、口からたらたらとどす黒いものが流れ出したのをみて、私は総身水を浴びたやうにぞっとして、ガタガタふるえたと思ふと、それぎり気を失ってしまったのです。
どの位の間、私は正気に返らなかったか知りませんが、気がついた時は自分の寝間に寝てゐたのでした。
傍には竹尾さまの心配さうな顏がありました。
「気がつけれましたか？」
「はい」
私は半身を起して、あたりを見廻はしながら、
「竹尾さま、お墓で気を失ひましてから、どの位たちましたのでせう？ そして、あれから、どういふことになったのでございませうか？」
方さまから、あれほど誰にも知れないやうにといひつかってゐたのですから、私は急に不安になったのです。気絶した私を、この御殿まで誰が連れて来たのか、方さまはあれからどうなされたのか、気になってたまりませんでした。
竹尾さまのはからひで、そこは何んとかうまくやってくれたのだらうとは思ひますが、その場に竹尾さまが居合せたといふことが、方さまの不興を買ひはしなかったか。考へれば考へるほど恐ろしく、私の気の弱はさから竹尾さまにどんな御迷惑をかけてしまったかわからないと思って、心配でたまりませんでした。
私がもっと強くって、しっかりしてさへゐたら、何事もなくて、方さまは竹尾さまが其場にゐたことも知らずに、すんだのでせうのに――。
「お墓って、何んのことですか？」
意外の返事をされて、私はまたびっくりしました。
「まあ、藤尾どのはまだねごとのつづきを云ってゐられるんですね、オホヽヽ。あなたは先刻から、しきりにうなされては、むにゃむにゃと、ねごとを云ってゐられましたよ」
私はやっきとなって、
「いいえ。もう、はっきりと正気に返ってをります。竹尾さま、あれは夢ではございません。たしかに、私は方さまのお伴をして、御墓所にまゐり」
「しっ」
竹尾さまは嚴しい顏をして、ゐずまひを正し、
「いつまでも、他愛のないことを申すものではありませぬ。藤尾どのは夢を見てゐられたのです。夢です、あれは夢ですぞ」
とゞめを刺すやうな口調で云はれて、私はもう二の句がつげませんでした。
竹尾さまはぐいとまた聲を低めて、
「夢でなかったらば、たとへ方さまの御命令とあっても、お墓をあばくことは罪になります。夢といふものは自由自在になんでも出来るもの、ありがたいものですねえ」
謎のやうなことを云ふのですが、私はもう何にもきくことができませんでした。そのことに一言でもふれると、竹尾さまの顏いろがさっとかわり、突き刺すやうな眼をして、にらみつけるのです。
体がよくなって、また方さまのお傍へゆくやうになりましたが、あの夜のことなどまるで御存じないやうに、おくびにも出されないのです。
やっぱり、私は夢を見てゐたのかも知れません。夢だったのでせう。今、考へると、あんなことがあり得る筈がないのですから。
竹尾さまが、自分では何にも知らないで、夢の中でいろいろなことを行ふ人がある。それは一つの病気だと云はれました。私もその病気にいつかかかってゐたのかも知れないのです。
年月がたつにつれ、悲しみに閉ざされてゐた御殿の中も、追々と陽がさすやうに明るくなりました。
方さまはもうすっかりあきらめておしまひなすったのでせうか、すがすがしいお顏をしてゐらっしゃる日が多くなりました。めそめそとお泣きになるやうなこともなくなり、お人がちがったかと思はれるほど陽気な方におなりになりました。それがどういふお心の変化からなのか、私のやうな者にはわかりませんでした。
それでもあ淋しいからでせうが、近ごろはお相手に若いとのごを召されるといふやうなことをお腰元や奥女中が、ひそひそと云ってゐたのを耳にしました。が、私は方さまに限ってそんなことはないと心で打ち消してゐました。
ところが、ある夜、いつものやうにお屏風のかげにをりますと、お寝所に入られました方さまはどうやらお一人ではないやうに感じましたので、私は驚いて、といふよりは、不思議な好奇心にそそられて、申わけないこととは思ひながら、お屏風に耳をあてて中のお様子をきいてゐたのです。
ところが、やっぱり噂といふものは根も葉もないことばかりではありません。火のないところに煙はたたない道理、方さまは若いとのごをお連れになってゐらしたのです。
大分、酔ってゐらっしゃる方さまは、お口をきくのにも舌がもつれるやうで、それがまたひどく甘ったるく、聞いてゐる者の胸をくすぐるやうでした。
まさか、お屏風のかげに聞き耳を立ててゐる無礼者があるとは御存じない方さまは、
「可愛いいお人形、お前は唖だとよいが――」
と、からかひながら、とのごの頬でも小楊枝の先でお突きになったのではないかと思ひますが、とのごは大袈裟に、
「アイタヽヽッ。私の頬っぺたを魚と間違へて、食べたりしちゃ困りますよ」
「默っておいで。物を云っちゃいけない」
「物が云へなくっちゃ面白くないぢゃありませんか」
「でも、物を云はない方が私には面白いのだよ。美しい人形は口をきかないではないか」
「人形と人間を一緒にされちゃ、敵ひませんよ」
「いいえ。お前は人間じゃない。人形だよ。あの方の面影に似た人形、魂のないお玩具なんだもの。それなればこそ、可愛がって上げるが――」
さらでだに﨟たけた美しい方が、酒気をおびてお戯れになるのですから、どうして男心をそそられずにゐられませう。
「そんなむづかしい理屈をうかがってゐると酒の酔が醒めちまいますよ。さあ、方さまもっとずっとこちらへいらして――。まあ、なんといふお綺麗な――」
「これ、何をするっ」
ぴしゃりと打つ音、私は胸がどきどきしましたが、見ることは出来ません。肌を打つやうな音でしたから、きっと、とのごは方さまから手でもぶたれたのでせう。
「おお、イタヽ。恐いお姫さま。邪險になさればなさるほど、こちらは――」
ずっと、よりそったやうな気配がしました。私は自分のことのやうに、頬がほてり、頭にカッカと血がのぼるやうな気がするのです。
「無礼者っ」
さっと冷水をかけられたやうな方さまの一言でした。
方さまのおやさしいのに、つい狎れ過ぎて何かぶしつけな態度をしたものらしく、方さまはとのごをお寝所から追ひやっておしまひになりました。
私はほっと救はれたやうな気がしました。奥女中の一人が、ある時、私にこんなことを云ひました。方さまはとのごを一つの玩具でしかないと思っていらして、小兒が散々弄んだ玩具を飽きると抛り出して顧りみないのと同様に、方さまは男を弄んで樂しまれるが飽きると未練気もなく捨てて、また新らしいのをお求めになるのだと。
いつの頃からか覺えませんが、方さまは毎日、夜明けの一刻を経机の前で過されるやうになりました。そこにはお上の御位牌が置いてあるのです。
私ははじめお経をあげてゐられるのかと思ひましたが、お経ではなく、お位牌とお話しをされるのだといふことが、だんだんわかりました。
ある日、方さまは眞面目なお顏をして、私に云はれました。
「ガラシャさまは天主の御教を深くお信じになって、懺悔をされ、安心を得てゐられたさうだが、私もそれにならって、亡きお上に心から懺悔をして、おゆるしを頂いてゐるのだよ」
夜明けのお話は懺悔だったのです。
私はそれから気をつけて聞くやうになりました。
「私は遂ひに幻を追ふて生きる女になりました。お上はそれをお咎めになりますまい。幻は消えてあとかたもなくなるもの。お上を想ふ思ひだけはいつに変らず心の奥を離れませぬ」
またある時は、こんなことを云はれるのでした。
「幻は私を惑はせます。お上の面影が忍べるものと、幻を追ふてゐた私は、遂いにそれが間違ひだったといふことを知りました。幻には魂がありません。心がないのです。たゞ何處やらに形が似てゐるだけといふことは何といふ寂しいことでしょう。そして似てゐるといふことは一つの罪惡のやうにも思はれるのです。私は失望し、腹立たしくさへなるのでございます。幻が消えて残るのは後悔の念と口惜しさだけです。私はついに幻に憎しみを感じるやうになりました。つまり、魂のないものが、あなたの面影をもつといふことがたまらなく憎いのでございます」
そのころからです。方さまの御行状について、とかくの噂を、耳にするやうになったのは――。
鐵砲組随一の美男、源之丞どのが、お上に生寫しなところからお気に召され、云ひよられたのを、振り払って帰られてから御気鬱性になられたとか、ひそやかな噂はやがて御殿中の人々の口端にのぼるやうになりました。
誰がなんと噂しようとも、お傍につとめる私にその眞僞がわからぬ筈はありません。お屏風を隔ててゐるのですから、お顏を見ることはできませんが、お聲だけは聞えるのです。そのお聲が同じでなければ人が違ふといふこともわかります。ちがったとのごがいくたりも来ました。が、世間で云はれるやうな行ひは、方さまにはなかったと、私には思はれます。お上への懺悔が、その眞僞を語ってゐるではありませんか。
「世の中にほんとのことを知るのは、当の人間一人ではございますまいか。他人には何もわかりません。また、うかがひ知ることも出来る筈のものではございません」と、また、
「他人がほんとだと話すことなど信じるさへ馬鹿らしいと思ひます。あなただけは私の心のうちを何もかも見透してゐられると思ひます。私はあなたに耻ぢる行ひはいたしてをりません」
方さまは天地に耻ぢぬやうにきっぱりと云ひきられました。竹尾さまは御老女のことではありますし、御責任もあることでせうからなにかと気をおもみになるのだとは思ひますが、近ごろは額に深い八の字の消えたこともなく、不機嫌な顏をして、みんなをぽんぽん叱り飛ばすので、お腰元たちはびくびくして竹尾さまの姿をみると、こそこそと逃げ出してしまふのです。
機嫌の惡るいのは云はずと知れた方さまのよからぬ噂が原因だったのです。私は今朝承はったばかりの御懺悔を、竹尾さまに話して上げやうと思ひました。そしたら、竹尾さまも噂のやうなことはなかったのかと、いくらかでも安心されるでせうから――。
竹尾さまは困惑しきった顏をして、
「おひとりだけ行ひすましたやうなことを云ってゐられても、世間の口をどう覆うてよいか、もうわからなくなってしまひました。藤尾どのは晝は寝間にゐるから何も知るまいがつい二三日前のこと――」
「大工の政治郎のことでございますか？」
「おや、藤尾どのはどうして、あのことを知ってゐるのですか？」
竹尾さまは眼をみはられました。御殿中でこんなに評判になってゐるのを、私一人が知らぬ筈はないぢゃありませんか。
政治郎といふのは、お腰元の一人が、お上に生寫しの大工が御門前を通るのをみて、御殿改築の儀だなどと出鱈目を云ってよび込み、方さまのお相手をさせてゐた人なのです。
政治郎は夢でしか見たことのないやうな立派な御殿の中に、連れ込まれて、美しいみなりをさせられ、すっかり殿様につくり上げられてしまったのです。最初は狐につままれたやうに思ってゐたのですが、いつか自分はほんとの殿様であったやうな錯覺をおこしてしまひました。
政治郎を一目見られた時、方さまはお上の幻をみたやうに、有頂天になられ、人形をもてあそぶやうに可愛がられたのでした。政治郎の方はそれを何んとはきちがへたのか、方さまがほんとに愛して下さるものと思ひ込み、お酒の上とは云ひながら、みだらな振舞ひをしたとかで、方さまの御腹立ちをかひ、お手討ちにされたと、いふのです。
高貴のお方へ無礼があったら、御手討ちになるためしはいくらでもありますが、政治郎の場合は少しちがってゐたのです。それに彼には職人気質の一徹者助五郎といふ親分がついてゐたので、事が面倒になりはしないかと竹尾さまは、一方ならず憂慮してゐたのでした。
「間違って伝へられてゐることでしたら、いくらでも云ひ開きは出来るではございませんか。竹尾さまも、方さまの潔白をお信じにならないのですか？」
「お信じ申さないわけではないのですが、お戯れの度が過ぎます。お相手を承はる者は、方さまのお態度に、迷はされてしまふのです。そしてついうかうかとはめを外して引きずられてゆく、それはどちらがわるいのでせう。方さまにも、お罪がないとは云はれません。ほんとに方さまは罪をおつくりになり過ぎます」
「御自分では御存じなく、あのお美しさが、罪をおつくりになるのでは、ございませんか？」
「それならば罪とは申せますまい。方さまは男の心をもてあそび、苦悶にあへぐのを見るのがお樂しみなのではないでせうか。散々迷はせた揚句、方さまはそのお相手をお憎しみになりはじめるのですよ。こんなつまらぬ男が、お上の面影をもってゐるのが腹立たしい消えてしまへ。そなたの体にお上の幻を見るのは汚らはしい！ と物狂ほしいやうにお叫びになるのです」
「尊いお上のお面影を、下賤の者に見るのはいやだとおっしゃるのでせう？」
私にはそのお気持ちがわかるやうな気がするのです。
「お相手になったとのごをそのまま帰してしまったら方さまの御行状が忽ち世間へぱっと知れ、噂は噂を生んで、どんなことになるかと空恐ろしく、何んとか噂の種が外へ漏れぬやうに、はからなければなりませんでした。方さまのお行ひが改まらぬかぎり、私のなやみは終りませぬ」
額に手を当てて、竹尾さまはうなだれ、いつまでも、顏をあげませんでした。
「まだ夜も明けぬといふのに、あの騒がしさはなんであらう」
方さまは眉をしかめて云はれました。
竹尾さまが、しづかに御寝所へ入って来ました。
「方さまへ申上げます。大工助五郎、乾兒數十名を引連れて、御門前へ押しよせてまゐりました。
気の強い方さまは、竹尾さまを、かへりみて、
「私が会って、話をしてやらうか」
竹尾さまはびっくりして、とにかく、一時は何んとかおさめますから、私にお任かせ下さいませ、と申して玄関へ出ました。
騒ぎを鎮めて戻って来た竹尾さまの顏には困惑のいろがいよいよ深くきざまれてゐました。
「政治郎を生還させて、助五郎の手に渡さぬ限り、これは重大な問題になるのではないかと存じます」
と云って、それとなく御自裁をすすめるのでした。
いつもは夜明けに懺悔をなさるのに、その日はお寝所へお入りになると、すぐ経机に向はせられました。
「やっぱりほんとのことを知るのは、私の心だけでございました」
と云って、屏風ごしに、
「藤尾、ながい間御苦勞であった。下ってもよいよ」
私はその意味がわかったので、嗚咽しながら御前をしりぞきました。
読み終ったＫ子は、本を閉ぢて、
「方さまばかりぢゃないわね。ほんとのことといふものは、自分一人しか知らないのね」
Ｓ子はほっと太息を吐いて、
「だから、誰にもわかってもらへないといふことが、ほんとは一番淋しいことなんでせうねえ」
注）新旧漢字混在で送り仮名もほぼ原文のままです。同じ漢字は統一したものがあります。
注）句読点は追加したところがあります。
注）明らかにおかしなところは修正しています。
情炎小説「桃色尼僧院」
読切読物増刊「艶笑読物」 1953.12. (昭和28年12月号) より
銀の十字架
昨年の夏、私は所用があって、北海道のＳ市に友人を訪れたが、そのかえり、氣の向くままに、あちこちを見物してまわってたまたま立寄ったＫ市で、私は、宿の女中のお靜さんから、思いがけない話を聞かされた。
このＫ市には、小規模ながら尼僧院があることを前から知ってはいたのだが、この敬げんたるべき尼僧院で、このようないまわしいことが行われていようとは、夢にも思っていなかっただけに、私は眼を見はった。しかし、お靜さんの語った言葉に、うそいつわりがあったとは、私には思えない。
さて、そのお静さんの話というのは――夕食後、私は、退屈しのぎに、係の女中のお靜さんを部屋によんで、四方山の話をしていたのだが、話が、この土地の尼僧院のことにふれると、お靜さんは、急に何か思いなやむようなまなざしをして、ふいと言葉をとぎった。が、少時して、お靜さんは、
「あの尼僧院でございますか……こんなことを言ってはいけないことかも知れませんけれど、でも、あたし……誰かに聞いていただきたいと思っていたんですの、つまらないお話なんですけれど……」
「いいのよ、お話を聞かせて下さいな、そして、もしわたしで出來ることなら……」
私は、お静さんの言葉の様子から、尼僧院と關連した、何か、深い事情があることに気づいたので、こう言いかけたのだが、そして、もし、私で出來ることなら、何でもよろこんでしてあげたいと思ったのだが、
「ありがとうございます。……御好意は、身にしみてうれしく思いますけれど、でも、もう……」
そう答えて、ふっと、また、お静さんは、口をつぐんで、眼を伏せていた。……
あけ放った、窓の向うに、夜のとばりにつつまれた海がひらけ、こころよい風がふきこんでくる。ふと、耳をすますと、尼僧院の時刻を知らす七色の鐘の音だろうか、風のまにまに、遠く近く、流れてくる。お靜さんがはっとしたように、顔をあげた。
「あの鐘の音……そうです、あの鐘の音を毎日聞きながら」
そういうと、お静さんは「でももう、何もかもすんだことですわ。ただ一度だけ、誰かのお耳に入れて置けば、わたしは思い殘すことはないんですの」
そう前置きして、（私はそのときのお静さんのうつろな顏を今でもはっきりとおぼえているが）語り出したのが次のような話であった。……
わたしが、あの尼僧院にいたなんて、先生はお思いにならないかも知れませんけれど、まあ、それを話す前に、わたしの故郷のことを聞いて下さい。わたしの故郷の長崎にあの原子バクダンが落ちたとき、わたしはまだ女学生で、ちょうど集団疎開で、山を二つ越したＵ村にいましたが、長崎がやられた、全滅だという大人たちの騒動にも、それほど直接ぴんとくるものもなかったのです。ところが長崎に歸ってみると、どうでしょう。わたしの家は丸山の眼鏡橋の近くにあったのですが、全然跡かたもないばかりか、學校も桟橋も、浦上の天主堂も、ほんとに見る影もない惨状でした。無論、父や母の消息も判りません。
わたしはしばらくぼんやり潰れた家の跡をみていますと、恰度、以前にわたしの勉強部屋にしていたあたりで、きらりッと光るものがあるのです。
おや、と思わず走ってゆき、その光ったものを砂から拾いあげてみると、もう五年も前に洗禮をうけたとき、神父さまから下げていたゞいた銀の十字架でした。
あゝ、よかった……思わず口のなかで小さく叫ぶと、その銀の十字架を胸に抱きしめてたものです。しかし、それからは、運命にホンロウされる身となってゆきました。
運命のキズナ
わたしは、乞食のようなかっこうで長崎を去って神戸にゆき、ヤミ市の食物屋の女中に住みこんだのは終戰の秋でした。
しかし主人の齋さんはいゝ人で、何かと面倒を見て下さって、半年もするうちには多少のたくわえもできて、こざっぱりした普段着位は整えられるようになりました。そして、また二年余りの月日が經ってしまった、九月末の殘暑の酷しい夕方のことでした。
メリケン波止場の突堤に出て、暮れゆこうとする港の黄昏や、背後の六甲の山々の暮色を眺めながら、ふッと長崎のことなどを想い出していると、
「ねえ、茉莉、こんなこといつまでしててもうだつはあがらないよ、そうだろう？」
一緒にきた美代が、鼻をくすんと鳴らすようにしてだしぬけに云うのでした。
美代は、わたしと同じ年、やはりわたしより半年も前に東京で戰災にあい、やっぱり夢中で逃げてきたのが神戸の三ノ宮というわけで、隣りの支那そば屋の女中で、東京と長崎のちがいこそあれ、似たような境遇から自然と一番仲がよく、初めの頃お互いに肩を抱き合って、お母さんお父さんと泣き合った、まあ氣の合った相棒だったのです。
肌身はなさず持っている銀の十字架、その十字架の裏に小さく刻んであるテレジャ茉莉。テレジャは洗禮名。茉莉というのがわたしの本名です。
「だしぬけにそんなことを云っても、どうって當てもないでしょうが……」
「そりゃ、もちろん、はっきりした當てはないわ、だからっていつまで三國人の女中をしてるつもり？」
「そりゃ、わたしだっていやよ」
「思い切って、トンズラするのさ」
「トンズラって何處へ行くの」
「東京、東京へゆけば何とかなるわ、よく知ってるし、それに親戚だって生き殘っているかも知れないし」
「でも、心細いわねえ……」
「何云ってるのさ、そんな弱氣ぢゃだめ、この間東京から歸ったお客さんも、云ってたぢゃないの、東京は素晴しいって、淺草も復興したというし、新宿もいゝよ、銀座、銀座は素敵だわ、きっと、あゝ花の東京よだ……それに第一景氣がいゝってぢゃないの……」
美代は、もう東京のことで頭がいっぱいになってしまっているのです。
美代に云われるまでもなく、いつまで三國人の女中をしていたいわけもなく、無論、ラジオの尋ねびとや、縣や市で長崎の方にも照會はしてくれたのですが、皆目何んの音沙汰もなく、すっかり憂うつになっていた矢先きでもあり、わたしも遂い、美代と一緒に東京にでも行ってしまおうかという氣持になってしまいました。といって、東京に憧れたりなどしたのでは決してありません。たゞ美代とは離れられないという氣持だけだったのです。
それでも風呂敷包み二つの全財産をもって東京行の汽車に乗り、名古屋をすぎ、靜岡をすぎて次第に東京が近づくにつれ、未知の世界にとび込む不安もさりながら、何だか希望に似たほのぼのとしたものが胸のなかに湧いてくるのでした。とその反面胸に抱いた銀の十字架をしっかり押えて、エスさま、エスさまと、必死の祈りも捧げ續けていたのです。
自分の氣持とか心構えはどうあろうとも、しっかりした身元引受人の一人もない戰災孤兒を、いくら東京が廣いからといって、そう簡単に雇ってくれる堅氣の家はありません。
結局は、三ノ宮のときと同様、新驛(しんばし)前のバラック造りの飲みやの女中に、美代と一緒に住込むことになりました。まあ、美代と一緒の店だということ、今度は主人が三國人ではないということだけが取柄といえば取柄ですが、主人というのは岡組とかの幹部とかで、この土地の顏役らしく、若い衆が裏口から、兄貴々々といっては四六時中出入りしていましたが、お内儀さんはほんとに氣持のさっぱりした人で、所謂やくざのお内儀さんに生れついた人のようで、若い衆の人氣は主人よりお内儀さんお方に集っているといった方がいゝ位でした。
慣れないうちは怖いようでしたが、江戸っ子というのでしょう。變な男がとびこんできた時など、鐵火な卷舌でぽんぽんまくし立てる威勢のよさは、まったくはたで聞いていて、すーッと溜飲の下るほどでした。
東京での三年餘りのことを細々と云いだしたら、それこそ大變ですから端折ってしまいましょう。
たゞ、いつまでも一緒にいたいと思った美代が、やはり組の若い衆と一緒になって上京して一年目くらいから他所に世帶を持ってしまったこと、それから一年後には、今度はわたしが主人の一の子分だという隼の鐵、こんな名前はいやですわ、このＫ市生れの青木鐵夫と一緒になり、別なところに店を持たせて貰って、少しは生甲斐みたいなものも感じはじめ、ひそかにこれからの生活の設計といったようなものをわたしなりに夢みる日も續くようになったのでした。
鐵夫と一緒になって一年近く經った頃、わたしにも夫婦というものが朧氣ながら判りかけてきた頃、岡組と三國人との間で、この新橋驛前の土地の問題で大出入りがはじまったのでした。
「ねえさん、氣持をしっかり持つんだよ」
血相をかえて美代がわたしの店にとびこんでくるとわたしの腕をひっぱって、新橋驛の東側のガードの下に驅けだすのです。
ガードの下には岡組の若い衆が五六人殺氣だった面持ちで、何やら口々に喚いています。
わたしは、突嗟に全身で何が起ったかを感じとることが出來ました。
あゝ、何んと惨い姿であろう。生前は隼の鐵だとか他人に云はれ、理不盡も働いたであろうし、亂暴もしたであろう。が、しかし神様も、もうこれで總てを帳消しにしてくださるであろう。廿一發の拳銃の彈丸を身ひとつに浴びて隼の鐵は全身蜂の巣のようになって死んでいったのです。
わたしは、この瞬間ほど、夫を感じたことはありませんでした。
初七日がすむのも待遠しく、わたしは店をたゝむと、夫の遺骨を胸に、夫の生れたという北海道のＫ市に向って、青森ゆきの汽車に乗ってしまいました。
尼僧院の日々
せめて夫の遺骨だけは、父祖の地ふるさとの土に永遠にまつってあげよう。二年ばかりとは云え、妻としてこれ以上のはなむけはないと、信じていました。そして出來ることならＫ市に住みついて、夫の墓に、四季の花を供えてあげよう。わたしは自分に云いきかせるように固く固く心に決めたのでした。
山鼻を汽車が廻ると、もうＫ市です。車窓から見ると、山の中腹にまで家々が建っている様子は、まるで長崎の一部を思わせます。そして、一番上の方に午後の陽差しをうけて、きらきら光っているものが、金色の十字架をつけた教會の尖塔であることがわかったときのわたしは、今更らのように來てよかったと思わずにはいられませんでした。
夫の遺骨をお墓におさめると、わたしの先づ第一の勤めはすんだことになりました。わたしは、もう矢もたてもたまらず、車窓から見えた山の中腹の教會に向いました。
それは、このＫ市の裏の丘にある尼僧院だったのでした。
わたしは、尼僧院に日参いたしました。日が經つにつれ、わたし自身も神の使徒として、この尼僧院で生涯を送りたい、もう俗人としてはわたしの心は餘りにも疲れ果てゝしまっていました。
熱心さが天に通じたのか、主イエスキリストの導きによって、日参をはじめてから九十日目に助修女としての入院が許されたのでした。
主イエスキリストの使徒テレジャ茉莉が、改めてこゝに誕生したわけでした。
助修女というのは、一番下の位で祭壇に昇ることも、聖歌を齊唱することも許されず、廣大な耕地の農耕と酪農に從うことだけにより神に奉仕するよう義務づけられていましたが、わたしは、もうこれで充分に滿足でした。
朝の一時と七時、晝の十二時と夜の七時に行われるお祈りの時間に、わたしたち助修女たちも十分間づゝ手を休めてお祈りをその作業の場でするだけとは申せ、たくましい七〇人の助修女たちの交って、俗界の妄執にとらわれず平穏な一日一日が過せることだけで充分神に深い感謝を捧げねばならないことでした。
最初の十日余りは氣分も張切っていたせいでしょう、別に身體の調子も惡るくはなかったのですが、二十日經ち、一ヶ月近くなる頃には無理に無理を重ねてきた徴候が自分でも感じられるようになってきました。
夜の七時の就寝はありがたいとしても、朝の一時の起床に戸惑う日が多くなってまいりました。
神に仕える尼僧院とは申せ、女だけの世界というものは、矢張り五月蠅い世界でした。新参に對するいやがらせとは云えないまでも、農耕の時間に、ちょっと鋤をもつ手を休ませたといっては、口でこそ罵ったりはいたしませんが、白い眼が痛いほど背中を刺すのを感じられました。
まるで白い眼の襖に周りを圍まれているのではないかという息苦しさです。
こんなとき神への奉仕の心が、またわたし自身の修業が足らないのではないかと云ひきかせ云いきかせてやっと過してきたのですが、破綻は思わぬ方から思いがけなく早くやってきたのでした。
淫獸の聲
もう夕方の五時近く、わたしは當番なので薄暗い搾乳場の跡片付けを手早くすますと、隅のワラの上に腰をおろし、ふーっと、大きな息を吐きました。まだ三十分近く時間もあるという安心感から、ついうとうとしてしまったのでしょう。
どのくらい居睡りをしたのでしょうか。急に胸のあたりが強い壓迫を感じて、はっと眼がさめたのでした。
身體ぜんたいを黒い大きな重いもので押えつけられているではありませんか。
どう判斷してよいのか、突嗟に判斷もつきません。わたしは夢中で兩手に力をこめると、蔽いかぶさっているものを突きのけようとしました。重い――。
が、眼が薄闇に慣れてくると、わたしの驚きは、まったく聲も出ないほどでした。
この尼僧院にたった一人の男である院長のヨハネ司祭が、六尺豐かの全身に、ますます力をこめて、わたしを抱きすくめているではありませんか。
果してこれは現實の出來ごとなのであろうか……、しかし、これは現實だったのです。
「……テレジャ……」
ヨハネ司祭の聲が耳元ではっきりきこえるではありませんか。
こんな、馬鹿なことが起ってたまるものでしょうか。
「ばかッ、鬼ッ、けだもの……」
しまいまで云わせず、ヨハネ司祭の大きな手が、わたしの口を被ってしまいました。
必死の抵抗も、六尺豐かの大男と小さな女との力の差はどうすることも出來ません。
力の差は次第にはっきりして、わたしの抵抗は消えるように弱まってしまい、やがて下袴きもとられてしまう恥しい姿にさらされてしまいました。
無抵抗にひとしくなったわたしに、
「……テレジャ、愛しています」
ヨハネ司祭は、息きをはづませながら獸のように猛然と挑んできたのです。
わたしは、遠い意識のそとで、あゝ辱しめられると心に叫びました。
どれほどのときが經ったのでしょうか。わたしは余りにも激しい心の衝動と肉體の荒々しい傷手(いたで)に、しばし失神の状態におかれていたのでしょう。
金色の十字架のある尖塔の鐘が、七時のお祈りを告げる聲音に、われに返りました。
ふと、ラテン語の祈祷の言葉が、妙に白々しく、この搾乳場までひゞいてきます。
聖歌の齊唱がおわると、今日一日のすべてが終りをつげるのです。
この汚れた身體で、どうして部屋へ歸ることが出來ましょう。それかといってこの嚴重な戸締りや高い塀を破って、屋外に出ることもまったく不可能です。
そんな思案をしているうちに、わたしの心のなかには、ヨハネ司祭に對する不信の憤り、ひいては神に對する憤まんが夏雲のように湧きあがってきたのは當然でした。
ヨハネ司祭こそ、眞先きに神の裁きをうけるべきではないか。
わたしは意を決すると、司祭の部屋に進んでいこうとしたのです。ところがどうでしょう、七十人の助修女たちが廊下いっぱいに立ちはだかって、司祭への部屋に通さないばかりか、あの獨得の白い眼の垣でわたしを射すくめようとしているのです。
「司祭のところへ行かせてもらいます」
「お通しいたしかねます」
長のロザリオの冷たい命令句調(※ママ)です。
「司祭が存じています」
「ヨハネ司祭さまは、テレジャに不快の由です。いま、こゝで助修女全員出席のうえ、査問會を開いたうえ、追放せよとのお言葉です。助修女全員はテレジャを神に對する背信の罪により明朝を期して追放を申し渡します」
これだけのことを云うと、助修女全員は潮のひくように、さっと部屋にひきとってしまいました。
一言の抗辯の余地もあたえず、まるで熟練した舞臺俳優のような鮮やかさに、わたしは憤りよりもむしろ茫然としてしまいました。
翌る朝の一時に重い樫の扉が開らかれて、わたしは尼僧院から追い出されてしまったのでした。
ギギーッと私の背后で扉の締る音をきいたとき、わたしははじめて憤りが爆發しました。
いきなり胸に秘めた十字架をむしりとると、思い切りうしろの樫の扉をめがけて、力いっぱい、ぶちつけました。
テレジャ茉莉なんて犬に喰われてしまえ。
そして、その日行倒れになっていたわたしは、ここのご主人に救けられ、今日までもう二た月お世話になっているのです。
明日は夫、鐵夫の恰度一周忌ですわ。……
× × × ×
お靜さんの長い話はこれで終った。……
翌日夕食をすますと、私は尼僧院にいってみることにした。はるか、眼の下に遠くみえるＫ市の街は、はや夜への装いにとりかゝって、アカシヤの下に、聖母マリヤの立像、金色の十字架の下、七色の鐘が黄昏のしじまを裂くかのごとく、心憎いまで冷やかに鳴りわたりはじめた。
歸りつくと宿はなにか異様に不吉な雰囲氣に包まれていた。お靜さんが投身自殺したというのだった。
やっぱり、そうだったのか。鐵夫の一周忌に一番愛していた鐵夫のそばにいったお靜さん！
わたしは重い心のまゝ、その日、このＫ市を旅立ったのだが、それから半月ほどして、ヨハネ司祭も惡事がばれ、尼僧院を追放されたと聞いてほっとしたのだった。 （おわり）
注）句読点は一部補っているところがあります。
注）句点と三点リーダーの順は一般的ではないと思われますがそのままにしています。
注）明らかな誤植は訂正しているところがありますがそのまま残しているところもあります。
人情探偵譚「椿姫ものがたり」
探偵倶楽部(耽奇ミステリーよみもの) 1959.02. (昭和34年２月号) より
(惹句) 唯一人の女流探偵作家として華やかな脚光をあびた、大倉夫人の名を記憶していられる読者諸君に贈る。
あのひとはは夢をみているんです
自分をほんとうの椿姫だとおもって
浚われた妻
「日名子さん、病床の妻が、昨夜、何者かに浚われました。至急、御相談いたしたいからお出で下さいませんか？」
と云う電話に愕いて、私が高輪の東山邸へ馳けつけたのは夜も十時過ぎであった。東山春光と私とは親しい間柄である。彼の父と私の亡夫とが親友であった関係からこういうことを云って来たのだろう。それに私の職業が私立探偵であったと云う事もある。
「浚った人から何とか云って来ましたか？」
「まだ、何とも云って来ませんよ」
「では何を目的で御病人を連れ出したりしたんでしょう？」
「まさか、あんな病人とは知らずにやったんでしょう。馬鹿な奴だ」
と吐き出すように云って、
「人の口さえうるさくなかったら、返って有難いくらいなんだけれどね。世間って云う小姑があるから――、それだけを僕は怖れているんですよ」
私は彼と友達でなかったら、一言で拒絶してしまうのだったが、こういう人を頼っていた美耶子の事を思うと、彼女が今までにどんな冷たい待遇を受けていたかが想像されて浚われたということが果して彼女にとって不幸なのか、幸福なのか判らなくなった。しかし、もし連れ戻すことが彼女にとって幸福ならば、彼の依頼のためではなく、彼女のために努力してみようと決心した。
「失踪前後の事や。何か手がかりになるお心あたりの事でもあったら話して下さい」
「先ず、経済状態からお話ししなくてはなりますまい。美耶子はあの通り贅沢好きで、今の時代にも昔と変らぬ生活をしないと機嫌が悪い人です。ところが、実はお恥しいがこの邸も持ちきれなくなったような状態なので、彼女の希望するような生活は出来ない。それが第一不平だったんですね。内緒で、昔馴染の男へ訴えたらしいんですよ。不愉快な話じゃありませんか。たしかに二三度手紙の往復をしている」
と唇を噛んだ。
「相手の男は判らないんでしょうね？」
「判っています。実に怪しからん奴で、僕はまだ会った事はないのだが、美耶子を自分が引取って世話をしたいなんて、無礼な生意気な手紙をよこしたんです」
彼は抽斗から二三通の手紙を出した。
「美耶子さんの御近況を聞くにつけ、僕はお気の毒で黙ってみているに忍びないんです。是非、僕の手にお返し下さい。どのみち全快の希望がないものならばせめて最後の幾月なりを心ゆくまで楽しく送らせて上げたいのです――。
日名子さん、実に呆れた男ではありませんか。非常識にもほどがある。気狂いですよ」
と憤慨した。
「それに対して何とお答えになりまして？」
「捨てて置きましたよ。無論」
「最後に来たのはいつですか？」
「数日前です。僕は放って置きました。すると、昨夜、美耶子がいなくなったんです」
「美耶子さんはどのお部屋にねていられたのですか？ 重体と云われるからには看護婦もついていたんでしょうね？」」
「看護婦もあれの我侭に呆れて、三日といる者はないんです。あまり度々かわるので、近所の手前みっともないのでやめました」
「どなたかお世話していらしたんですの？」
「さあ、別段、誰と定めてはいませんでした。手のあいている者が気をつけことにしていたんですが、庭の離れの茶席を病室にあてて置きました。昨夜は来客があって、夜が更けたのに大雨でしょう？ 美耶子はもう眠っているだろうから、明朝早く行ったらよかろうと云うことで、誰も行かなかったんです。美耶子は昨夜はじめて茶席にひとりでいたことになるのです」
「美耶子さんの失踪は今朝発見されたのですね。お客様でごたごたしていらしったとすると、宵の口やら、失踪された時間ははっきりしないわけでしょう？」
「そう、しかし、あの体で自分で失踪するわけはないから、手紙の男の連れ出しに来たことだけは確実です。警察の手にかければ直ちに解決されましょうが、それでは世間に知れる怖れがある、新聞にでも出ると困りますからね。何とかうまく彼の手から奪い返して下さい。アドレスはここに書いてあります」
彼は封筒をよこした。私は差出人の名を見て一寸びっくりした。それはいま売り出しの流行歌手、しかも評判のいい青年であった。
狂った椿姫
翌日私は青年を訪問した。
彼は少しも悪びれず、私を応接室に通して、
「今日あたりは東山さんからお迎えに見えるだろうと思っていました」と云った。
青年はすばらしい美男子であったが、年よりずっと老けて見えた。しかし、東山春光が想像しているような凄い男でも悪漢でもなかった。むしろ温和な弱々しい感じであった。
私は思い切って最初からざっくばらんに口をきった。
「お察しの通りですよ。奥さんを頂きに上りました」
と云って、名刺を出した。彼はそれをちらりと見て、
「僕は始めから名乗りを上げて交渉していたんですが、東山さんが取り合って下さらないからこんな事になっちゃったんです。浚ったというと穏やかではありませんし、場合によっては僕は犯罪者になるかも知れませんが、いまは一刻を争う時なので、やむを得ず荒療治をやったんですが、別段強請がましい事を云った覚えもなし、探偵の方までお頼みになるほどの必要はないのじゃないかと思いますがね」
そこで私は自分と東山との関係を説明し、彼が私へ特に依頼した理由は世間へ知らさない事というのが第一で、万時穏かに事を運ぶためであることを説明し、従って、このまま素直に夫人を返すならば、東山は好んで表沙汰にするような考えは毛頭持っていないから、その点は安心されたがよかろうと云うと、
「東山さんの御好意は感謝いたしますが、御返しすることだけは、もうしばらく待って頂き度いんです。結局はお返しすることにはなりますが」
「それが困るんです。つまり東山さんの方は世間の口にのぼる事を極度に怖れているんです。今の内なら誰にも知らさず、また誰にも疵がつかずにすむ。が、これが長びくと自然世間へもれる。親類もうるさい。そうなると穏かにとばかりは云っていられないから、徹底的にやらなければならない。警察の手で取り返すような事になれば、そこに自然罪人も出ようというもの、事を荒立てるのを好まない東山さんとしてはそれは死ぬよりも辛いから、そこをよく理解して頂きたいと申されるんですよ」
彼は云いようのない悲痛な面持をして、じっと腕を組んで考え込んでいる。
「いかがでしょうかね」
私は彼の答えをうながした。
青年は石のようにだまりこくっている。
「お返しになった方が、あなたのためですよ」
すると彼は居ずまいを直し、きっとなって、
「あなたからごらんになったら、さぞ勝手な奴とお思いになるでしょうし、また人の夫人を浚うなんて非常識な大馬鹿者と思われるでしょうが、これには一つの物語があるのです。どうぞお聞きになって下さい。いや、その前に、美耶子さんが無事であることをお目にかけて、御安心を願わなければなりませんでしたね」
「是非お目にかからせて下さい」
「ではどうぞ僕と一緒にいらして下さい、お会いになって失望なさるといけないから、あらかじめ申し上げて置きますが、彼女はもう自分自身を失っています。時には魂の戻ることもあるのですが――、彼女は自分を東山夫人とも、美耶子とも思っていないんです」
「と、仰しゃると？」
「あの人は夢を見ているんです。自分をほんとうの椿姫だと思い込んで――」
「椿姫ですって？」
私は呆れて彼の顔を見た。
青年は痛ましそうな表情をして、
「夢の世界にいることが、彼女にとっては最上の幸福なのですよ。「和製椿姫」などとうたわれた頃から、和製なんかと云われるのはいやだ、私はほんとの椿姫になりたいと云っていました。それが病気になって、気が狂うと同時に、小説の中の人になってしまったらしいんですね。あれはあの人のながい間のあこがれだったんでしょう。その理想を実現しているいま、美耶子さんにとって、これ以上のいい生活はないんです。実に無上の幸福に浸っている。そこなんです。僕がもうしばらくお連れ戻しになることをお待ち下さいと申し上げたのは――、また冷たい現実の世界に引き戻すのは可哀想です。どこまでも夢をみさせて、夢のまんまでこの世を終らせて上げたい」
と云って、青年は眼を拭い、
「いまの東山さんはもう美耶子さんにあきれてしまっているんです。ただ世間体をつくろう事にばかり狂奔しているだけです。彼女の心なんかを思いやっているんではないんですからね。そんな冷めたい人の手に返すなんて――」
私は青年の後ろに従いて、奧の部屋へ入った。入口には厚い天鵞絨のカーテンが下りていて、その隙間から見える部屋の中は実に眼の覚めるように美しかった。生花に囲まれたベッドの前には、純白のレースの帳が半分ばかりしぼってあって、彼女のやつれた顔に直接光線があたらないように工夫してあった。小さい部屋ではあるが、それは善美をつくしたもので、美耶子はレースの覆いのかかった羽根枕に満足そうな横顔をつけていた。
青年の足音に、ぽっかり眼を開けた彼女は彼の方へ向いて両手をひろげた。彼は走りよって膝まづき、その細い手をとって唇を押しあてた。
彼女は羽根蒲団を押しやって半身を起しかけた。が、また崩れるように横になった。彼女の着物は美事に刺繍のある水色のガウンであった。胸には一輪の椿の花をさしていた。ベッドの裾の方に控えていた小女が走りよって、怖る怖る蒲団をかけた。彼は小女の事を美耶子附きの侍女であると云った。その侍女も古風な洋服を着て、とりすましていた。
「この部屋の中ではニ六時中椿姫の劇が演じられています。僕も一役かっているんですが――」
真面目くさって云った。
浮世離れたこの一室は美耶子のあこがれの世界なのであろうか。彼女ばかりでなく、青年まで、いや侍女までが何となく精神病者ででもあるような気がする。そこの空気全体が狂っているような感じで、私までいつかだんだんと引き込まれそうな気がしたので、いそいで部屋を飛び出してしまった。
冬の夜の少年
応接室に戻ってほっとしていると、後を追って来た青年は、私と差向いの椅子に腰かけて、静かに語り出した。
「話は二十年前に遡らなければなりません。みよりというもののない美耶子は生きるために夜の女になったのです。それよりほかに道がなかった。毎夜往来に出て客を拾うのですが、ある雪の降る寒い晩、生憎と一人の客も掴らない。恰度、その頃彼女は誰の子とも判らない嬰児を生んだばかりで、勿論、嬰児はそのまま産院に預けてしまったが、彼女はその夜一文の収入もないのと、無暗と乳の張るのとに苦しまなければならなかったのです。
夜は段々に更けて来る。雪はますます降りしきる。もう商売も駄目だと見きりをつけて帰ろうとする時、ふと行手の往来に人影を認めました。背の低い、一寸法師と思われるような男がマントを着てとぼとぼと歩いて行くのです。こうなれば一寸法師であろうと、なんであろうと、男でありさえすりゃいい。
彼女は追いすがって、後から声をかけました。
「ちょいと、雪の降るのに何処へ行くのよ。家へ来ない？ 温い紅茶を上げる、ウイスキーあるわよ。遊んでいらっしゃい。ねえ？」
と云って、肩へ手をかけ、顔を覗き込んで思わず後退りました。
それは何んと十才ぐらいの少年でした。
寒さと飢えとで震えているその少年を彼女は自分のアパートに連れて帰りました。そこまではよかったのですが、さて、彼に与えるものは何もなかったのです。紅茶も、ウイスキーも口から出まかせの言葉だったので、お湯を沸かして飲むだけだったのです。
二人は熱いお湯を呑み合いました。そして寒いので蒲団にもぐって抱き合ってすごしたその時、ふと思いついて、
「私、苦しくてたまらないの。あんた、私のお乳呑んでくれない？」
といって、胸をはだけました。三日も呑まず食わずで彷徨っていた彼は夢中で乳房を吸いました。彼女は楽々として眠りにつき、少年も久しぶりで満腹したので、いい気持になってぐっすり眠りました。
彼はその夜から彼女のところに厄介になりました。陽が暮れると、彼女は稼ぎに出る、帰るときはきっと金を握っていました。その金で二人は食物を買って暮したのです。
恰度十日目の晩でした。「何んだか今日はお金がたんまり儲かりそうな気がする。お土産を沢山買って来るから待っておいでよ」と云って、それぎり彼女は帰って来ませんでした。その翌晩も、次ぎの晩も――。少年はまた飢えはじめたのです。
後で判ったことですが、折り悪しく闇の女の狩り込みに引っかかって、病院へ送られてしまったのでした。
それは少年が十才の時のことだったのです。
病院から彼女の友達が金を届けに来てくれた時には、彼はもうアパートにはいませんでした。それぎり彼と彼女は別れ別れになってしまいました。
数年後、「和製椿姫」の名で有名になっている彼女を彼はかいまみました。一度は歌舞伎座の入口で、それはプリンセスのような素晴らしさでした。もう一度は菅原好美の歌劇「椿姫」を観に行った時、彼は彼女を見ましたが、いつも金持らしい数人の紳士に取り巻かれていて、遠くの方から眺めるだけで、言葉をかけることは勿論、近づく事も出来ません。しかし、彼は何とかして会いたい、会ってアパートでの好意を謝したいものと思っていましたが、どうにも機会がありませんでした。彼女の隆盛はながかったが、やがて東山春光第二の夫人として家庭の人に納まったという噂を耳にして、彼は失望しました。椿姫であるうちならばともかく、家庭の奥深く入ってしまわれては、めぐりあう機会は絶対にありますまい。そして彼が一生涯忘れようとしても忘れられないアパートの十日間の恩をついに返すことも出来ずに終るかと思うと残念とも口惜しいとも云えない気持ちでした。
一年は夢の間に過ぎ、翌年、それこそほんとに思いがけず、ある舞踊発表会の廊下ですれ違いました。この偶然のそれこそ天が与えた好機を逃がしてはと、勇気をふるって彼女の前に出ました。二人は手を取り合って喜んだのですが、その時、彼女は悲しそうに今の生活の大変不幸であることを打ち開けて、何とかして救ってくれと泣いて頼みました。
その頃から病は彼女の肉体を侵し始めていたらしいのですが、病床に倒れるまで、東山は一度も医者にかけなかったと云います。
病室を茶席に移してからの彼女の生活は世にも悲惨なものでした。体のいいそれは座敷牢でしたから――。幾度彼女は逃亡を企てたかわかりません。その内、次第に体の自由を失い、病気は本格的に肉体を蝕みはじめたので、どうにもなりませんでした。
思いあまった彼女からの訴えの手紙を貰ったのは、その頃の事だったのです。
彼は意を決してついに彼女を奪いました。その結果がどういう事になるかなどと考えてはいられなかった。余命いくばくもないと聞いたので――、せめて僅かの間でも、彼女を心から喜ばせ、満足させて死なせたい、ただそれだけだったのです」
と云い終って、彼は太息を吐き、
「どうぞ、彼女を喜びのうちに息を引き取らせて下さるまいか？」と面を反向けた。
私はそれでも連れて帰るとは云えなかった。全責任を負うから、彼女が小康を得るまで待ってくれと東山に頼んだ。美耶子はいま動かせない程の重体であるからと云って、無理やりに納得させてしまった。東山は親類中へ彼女を入院させたと云いふらした。
私は青年の言葉を信じて、彼からの便りを待っていた。半月ばかり過ぎたある小雨の降る日、私は彼から迎いの車をもらった。私はいそいで馳けつけた。
「お約束通り、お返し申し上げましょう。ありがとうございました」
彼は私を玄関に迎えると、いきなり口をきった。そして彼女の部屋に案内した。
私は彼の後にしたがって、見覚えのあるあの美しい部屋へ一歩入ると、私はベッドに横たわって、白い布を顔にかけた彼女を見た。
「今朝、八時、看護の甲斐もなく、とうとう息を引き取りました」
彼は静かに云うと、頭を下げた。
私は白い布を脱いで、その顔を見た。安らかに、まるで眠っているかと思われるような美しい顔に。微笑が浮んでいるのを見て、何だか胸が一杯になってしまった。
彼女は最後まで満足し、彼に感謝しつつ、愉悦の内に息を引き取ったのであろう。彼女にとって、これほど幸福な期間は今までになかったに違いない。彼女の胸にはいつものように椿の花が一輪さしてあった。
私は病院から連れ戻したかたちにして、遺体を東山家に運んだのだった。
注）句読点は一部補っているところがあります。