イミテーション時代相「金の生る樹」
「日本ユーモア」 1948.03. (昭和23年３月号) より
燒跡の家
平松元子爵の別邸は幸ひに戰災を免かれたが、燒野原にぽつんと大邸宅が殘った。郊外ではあるし第一不用心だといふので、當節には珍らしい貸家に出してみると、忽ち申込みが殺到した。その中から撰ばれた海外引揚者といふ一家が引越して來たのはつい半月あまり前のことであった。
近所に家のないのを淋しがったり、町に遠いのを不便がったりしたのは、最初のうちのことだった。馴れてくると、隣家が離れてゐるのは却ってうるさくなくて住心地がよかった。
五人の子福者のうち三人が年頃の娘、上と下が男の子といふ親子七人家族では、東京馴れぬ引揚者のパパーがいくら稼いでも、着のみ着のまゝの娘たちに着替へ一枚も買ってやれず、時には食べるものにもこと缺く始末だった。末の男の子を靴磨きにでもしようかと、家中額を集めて協議したあげく、娘達の考へで新興階級相手の倶樂部を開業することになった。
屋敷の廣いのが幸ひ、應接室と食堂を打ちぬいて、ダンスパーティもできるやうにして、麻雀、碁、將棋などの遊び道具も一通り揃へた。そして、特別會員には簡單な手料理にヤミ酒も出し、商談には小間も随意に使用させるという仕組みにしてみると、會員は忽ち定員を越え、晝夜の別なくひっきりなしにやって來ての大繁昌、勿論接待係りに出る三人の娘に、魅力のあったことは云うまでもない。
三人の娘は二十を頭に二つ違ひの十八と十六、いづれも器量よしで、ブロークンながら英語もちょっとしゃべれるし、ダンスの相手も一通りはこなせる。歐米仕込みとまで行かずとも、二世のイミテーション位には漕ぎつけよう。
この囮に惹きつけられて通って來る青年達の間では、いつか互ひに鎬を削る競爭まで始まり、娘達は引張り凧の大もてだった。
花子に梅子に薫といふ親のつけた名をさらりと捨てゝ、わざと西洋風にローズ、リリー、チェリーとよんでゐた。
サラリーマンをやめて、總領息子とパパーは板前とボーイに早代りすれば、色の淺黒い苦勞人のマムミーはそろばんをはじいてお帳場さんになりすました。
會員名簿の筆頭は平松子爵――今は爵位はないが――の舎弟と名乗る中年の紳士であった。彼はたゞ會員といふばかりでなく出資者であり、この倶樂部にとっては大事な相談相手だった。パパーとマムミーは彼を「ひいさん」とか「殿様」とかよび、娘達はお兄ちゃんと甘へてゐた。
三人姉妹
總領息子が築地へ仕入れに行ってゐる間に、パパーは裏口から賣りに來る煙草の吸ひがらを大きな盆の上にほごして廣げ、縁側に持ち出した。マムミーは砂糖水とウヰスキーを調合してそれに香料をまぜ、霧吹きにいれて、ぷうぷう煙草に霧を吹きかけてゐた。
「何、してんの？ マムミー！」
とローズはいま起きたばかりで、寝卷にオーヴァを引っかけて楊枝を使ひながら、眠むさうな眼をして母の横顏を見てゐたが、吹く度に頬ぺたがぷうっとふくらむのを面白がって、
「マムミー、頬ッぺたが丸るくなって、十も若くなるわよ。皺がのびて、オホヽヽヽ。」と大袈裟に笑って、「煙草に霧吹いてどうすんのよ？」
マムミーが相手にならないので、パパーが引き取って、
「默ってろ。細工はりゅうりゅうだ。これがいまに舶來の上ものに化けて、一箱百何十圓でうばひあひになるんだ。だが――、こんなこと誰にもしゃべんなさんなよ。」
ローズの肩越しに覗いてゐたリリーが、
「惡どいね。賣る役はあたい達なんだらう？ たいがいにしといてよ。ばれたら耻しいぢゃないの。」
と苦い顏をする。
「これをみんな賣ったら、あたいに何買ってくれんの？」
とチェリーがマムミーの手からいきなり霧吹きを奪って、ぷうぷうやりながら、キャッキャッと笑ってゐる。
「ふぎけるない。さっさとやれ。これから卷くのが一役なんだ。」
チェリーはがちゃんと霧吹きを放り出して、
「あら、お兄ちゃんが來たわよ。」
「見つかったら困るぜ。」
パパーはいそいで戸棚の中へ盆ごと押しこんで素知らぬ顔で彼を迎へた。ひいさんはちらりと見たやうだったが、見ないふりをして縁側から自分の家のやうに上った。
ローズは洗面所へ逃げ込んだ。マムミーは愛想笑ひをしながら、若い者のやうにすり寄って、手をとらないばかりに茶の間へ案内した。そこには瀬戸物の大火鉢が置いてあって、あかあかと炭がおこってゐた。そのぐるりには赤いふかふかした座蒲團が並べてある。マムミーが火をほじってゐると、娘達はいつか綺麗にお化粧をして次ぎ次ぎと出て來て、彼を取り卷き犬ころのやうにふざけはじめた。
チェリーはふと思ひついたやうに、ポケットから赤革の蟇口を出して、ぱちりと開け、
「お兄ちゃん、あたい、しけてんのよう。」
と鼻聲を出した。彼の顏を見さへすれば何かしらねだらなければ損だと思ってゐるらしかった。
ひいさんは默って、百圓札を五枚ばかり小さく疊んで、蟇口の中へ押し込んでやった。
それを流し眼で見ながら、ローズは自分ののみかけの煙草を彼に渡した。吸ひ口には彼女の口紅がべっとりとついてゐる。ひいさんはそれを口に持って行かうとした時、いきなり耳元に唇を押しつけ、
「これは内緒だけれどお兄ちゃんにだけ話すわ。いまパパーとマムミーとで上等煙草の製造をやってゐるのよ。今夜、サロンで賣り出す煙草買ふのお止しなさいね。インチキだし、汚たないのよ。」
「汚たない？」
「うん。煙草の吸ひがら拾ひから買ふんだもの。誰がすったんだか分りゃしない。だけれど内しょ、内しょ、よくって？」
ローズは彼が入って來た時は早くもそれを見たのを知ってゐたので、先手を打っておいたのだった。そこまでは氣がつかないひいさんは、自分にだけ好意を持って教へてくれたものと思って、いゝ氣持ちになってゐた。
「それからもう一つニュースがあるわ。リリーの指をごらんなさい。」
リリーは自分の名が出たので此方を向いた。彼は眼を閉って、うんうんとうなづいて聞いてゐる。ローズの生温かい呼吸が耳朶から心臟へ傳はって行った。
「あのダイヤ、五萬圓からのものだってよ。みいさんからの贈物、そして、リリーはあの人と近々熱海へ行くんですとさ。」
「いやあな、お姉ちゃん、あたい、知らないわよ。」
リリーはつんとして腰をふりながら、部屋を出ていった。
ダイヤの贈物
翌日ローズは、リリーのより倍も大きいダイヤの指輪をひいさんからもらった。と同時に、前々から問題になってゐることを、彼女は改めてマムミーから傳へられたのだった。
ローズは細く剃りつけた眉をよせ、ダイヤとその問題とをぢッと思ひくらべてゐたが、彼のゐるサロンの方を顎でしゃくって、
「ねえ、マムミー、だって、お兄ちゃん三十九だってんでせう？ 十九も違ふんだもの。」
と唇を尖らせた。
「若い人は金廻りが惡いよ。」
「あたい、もっとばりッとした人がいゝなあ。お兄ちゃん、おとなしいけど、少し頭が惡かあない？」
「さうでもないだらう。」
「だって、殿様なんていはれて、いゝ氣持ちになってんだもの。華族なんかいま時はやりゃしない。だけれど、あの人、お金だけはたんまりありさうだねえ。」
「それゃ間違ひなし、マムミーが睨んだ男だもの、それに家の金主ぢゃないか、お前さん、そんなに撰り好みしてゐるといまにかす掴むよ。たいがいのところで我慢しないとね。何もさ、正式の奥さんになるってわけぢゃなし――。」
「正式の奥さんなんていやなこった、馬鹿馬鹿しくって――、あたい、誰の奥さんにもならないんだ。」と噛んではき出すやうに云って、「だけれど、一體、あの人、何商賣してんだらう？」
「貿易商だってふれ込みだけれど、やっぱりヤミやさ。」
とあっさり片づけて云ふ。
「ヤミやとしても随分手廣くやってんだわね。いつも曖昧なこと云ってるけど、澁谷のお兄さんのところに居候して商賣出來るのか知ら？ 三十九にもなるんだから、ほんとは何處かにちゃんとした家があって、奥さんがあるんぢゃないかなあ。」
「商賣が商賣だから、家は方々にあるのかも知れないよ。この家だって、あの人、自分の家の一つぐらゐに思ってゐるのかも知れないね、荷物も預かってゐるしさ。それに第一自分の家とでも思はなけりゃ、こんなに金をかけて植木屋を入れたり、經師屋をよこしたりしやしないよ。」
「マムミーは何んでも物事をあっさり考へるけれど、あたいはさうはゆかないのよ。五人も子供を生んだマムミーと、これから始めて結婚しようってあたいとは考へ方が違ふんだわ。あたいは底の底まで突きとめなくっちゃ氣がすまない、それにあたい、まだ、あの人の正體もほんとの氣持ちも掴んでゐないんだもの、不安なんだ。」
マムミーは鼻の先で笑って、
「いま時の男で、安心して頼れるやうなのがあるかね？ みんな好い加減なんだよ、だから女の方も好い加減でいゝんだ。自分の心だけを頼ってゐればね。」
「さうか知ら？ そんなものかなあ。だけれどあたい内緒であの人のこと探ってみるわ。」
「調べるならマムミーが身許を洗って上げるよ。」
「さうしてよ。マムミーに任せるから、いゝやうに返事しといてね。でも――、月一萬や二萬で縛られるなあいやだわ。よくって？ その要領で交渉してみてね。」
サロンではひいさんがマムミーを待ちくたびれてゐた。題事のおそいのはいゝ話でないと察して、氣拙い思ひをしないうちにと、氣を利かして歸り仕度をしてゐた。
マムミーが飛んで來て止めたが、
「また明日來る。急用を思ひ出したんでね。」
と笑って起ち上った。
待つ心
翌日も、翌々日もひいさんは來なかった。毎日來てゐた人だけに、彼の姿が見えないのは淋しかった。
ローズは指に輝いてゐるダイヤを見るにつけ、彼の來ないのが氣になった。
「お兄ちゃん、どうしたってんだらうなあ。」
と彼女にも似合はず溜息をついたりした。
「お姉ちゃんたら、あんなに惡口ばかり云ってながら、來ないと心配するのね、やっばり戀しいんだわね。あたい．よんで來てやらうか？」
とチェリーがませた口をきいた。
「お前なんかに頼まないよ。よびたがったらお姉ちゃんが自分で迎へに行くよ。」
と云ひながら、ローズは行かなかった。アドレッスはわかってゐたが、彼の話ではそこは令兄平松子爵邸であるから、若い女に訪ねて來られるのは都合が惡いと云ふやうな口ぶりであったからだった。
「ね、マムミー、一層のことマムミーが行ってくれるといゝがなあ。何かうまい口實をつくって、マムミーが訪問するんなら、誰も疑ひやしないわよ。」
とローズが云ふと、
「マムミーが行くと待合の女將がお勘定の催促に來たと思はれやしないかなあ。ひいさん迷惑すると惡いぜ。」
と總領息子が注意した。
マムミーは指を折って數へながら、
「今日で五日見えないんだね。まだ様子を見に行くには早いよ。病氣って事もあるからね。なまなか顏出しなんかすると、あの人困るかも知れない、家の中どんな事情になってゐるか分らないから、それに平松子爵は澁谷の御前ッて通ってゐるくらいの大家だし、なかなかやかましいらしいからね、ひいさんは平松さんの噂さへ恐がってしたがらないんだから、よっぽど頑固おやぢなんだらう。私達が訪ねたがために、ひいさんが來にくゝでもなるやうだと藪蛇で損しちゃふからね。もう少し様子を見てゐた方がいゝよ。」
マムミーの意見に同意して、もうしばらく待つことにした。しかし、一週間經ち、二週間過ぎても、彼は一向に姿を見せなかった。
「銀座のキャバレーで、ひいさんにそっくりの人を見かけたよ。相變らず派手に札びら切って――。」
と倶樂部の常連の一人が云った。
「ふゝん。河岸を變へたんだな。いゝのが見つかったんだらう。」
とローズを前にして噂をしてゐるのを聞くと、彼女は胸が煮えるやうだった、侮辱されたやうな氣もして腹立たしかった。キャバレーの女なんかに見返へられたかと思ふと、居ても起ってもゐられなかった。彼の首に繩をかけても、もう一度連れ戻さなくっては顏が立たない。
「あたい、行って來よう。」と決心した。相談すれば止められるのに定ってゐる、さもなければマムミーが行くことになる、自分の事は自分でやるに限るのだ、そのために彼が迷惑して來られなくなっても、それは已を得ないことゝあきらめよう。
ローズはいつもの濃い化粧を洗って、彼女にしては珍らしく爪紅までおとして、女事務員のやうな地味なつくりで、家の者へは銀座まで買物に行くと云って出かけた。
辻強盗の犯人
省線を澁谷で降りて平松子爵と訊くと直ぐわかった。大きな冠木門の前に立ったが、ふだんの口前にも似合はず胸がどきどきしてなかなか入れなかった。やっと勇氣を出して、門前拂ひを覺悟で、門から玄關まで敷きつめた多摩川砂利を踏んでベルを押した。ドアがさっと開いて、詰襟服の書生が名刺受の小盆を持って現はれた。女中よりも相手が男だったのでローズは氣易かった。
「子爵の弟さん、おいでになります？」と云って、相手の眼を見た。
「？」取り次ぎの書生はちょっと怪訝な貌をした。こんなに馴れ馴れしい言葉づかひで訪問する客は珍らしかったからだらう。
「おるすなの？」ローズはにっこりとして、首を傾げた。
書生は變な顏をして、
「子爵には御令弟様はおありになりませんですがね。」
と云ってローズをじろじろと見た。
「ぢゃ、お兄さんか知ら？ 子爵ってお若い方なの？」
「今年七十二歳になられます。」
「あら、いやだわ。ぢゃ、やっぱり、弟さんよ。末っ子ぢゃないか知ら？」
書生は眼を丸くして、その無作法な物云ひを咎めでもしてゐるやうに、反り返って、
「子爵には御令兄様も、御令弟様もありません。お姉君がお一方、小笠原家に嫁がれてゐられますが、その他には御兄弟はおありになりません。」
と突っぱねるやうな調子で云った。
「ぢゃ、あんたが知らないんだわよう。平松國雄さんッて云ふ、子爵の弟さんでお金持ちの貿易商なのよ。」
「平松家の御親類に商人はゐません。」
「そんなこと云はないで、子爵に訊いてごらんなさい。玄關で追っ拂ふなんて失禮よ。」
「おいでにならない方を取り次ぐわけには行かんぢゃないですか。」
ローズはぷりっとして、
「わからずや、もういゝわよ。平松さんが來たら云ひつけてやるから、覺えてゐるがいいや。」
書生はむっとしたやうに、ドアをぴしゃんと閉めた。まるで顏を引っぱたかれたやうな氣がした。
ローズは砂利を蹴飛ばして門を出た。
歸って來た彼女の姿を見ると、チェリーが飛んで來て、
「お姉ちゃん、大變なこと――、お兄ちゃんが掴まったんだとさ。」
「え？ 何のことなの？ それゃ――」
ローズは急に胸騒ぎして、慌てゝ茶の間へ入ると、兩親が青い顏をして、ひそひそと話し合ってゐた。彼女を見るなり、
「驚いたねえ、全く――、まあ、お坐り。」
マムミーは彼女の膝をおさへて、
「お前が出かけると入れ違ひに刑事がやって來てね。ひいさんが辻強盗をやって掴まったって云ふんだよ。私は膽をつぶしてしまって口がきけなくなっちゃった。」
「辻強盗って？」
ローズの顏から血の氣がさっと退いた。
「追ひ剥ぎの事よ。お姉ちゃん。」
リリーが大袈裟に身ぶるひした。
「ピストルで脅かしたんですってさ。」
「まあ。あの人が？ あんな氣の弱い、おとなしい人が――。」とローズは心臟の鼓動を鎮めるやうに、兩手で胸を抱いた。
「見えない筈だよ。掴まってから十日の餘になるんださうだから。」
ローズはうつむいて自分の指を見た。
「お兄ちゃんがねえ。あたい、何んだか可哀想な氣がするわ。お金が欲しかったんだらう。あの人の氣持ち、あたいにわかるやうな心持ちがするわ。惡い人ぢゃなかったもの。」
「それゃさうだよ。家のためにもなった人だしね、だが、會員に強盗がゐたなんて云ふと商賣にさはるから、誰にも云ふことはなりませんよ。」と口どめをした。
「ぢゃ、やっぱり子爵の弟ぢゃなかったんだわね、澁谷の邸にゐない筈だわ。」
とローズは獨言のやうに云った。
「弟なもんか、まるでゆかりのない人なんだよ。上野の地下道に住んでゐたんだとさ。」
「あたいにはまだ信じられないわ。人違ひぢゃないか知ら？ 今にもお兄ちゃんが來るやうな氣がしてならない。」
「來るもんかよ。」
ローズは默って、じっと眼を落してゐたが、やがて指にはめてゐたダイヤの指輪をぬいてマムミーの手に渡し、
「あたい、これ返すわ。何とかしてひいさんに届けてよ。あの人、お小遣ひに困ると可哀想だから。」と云って、眼をしばたたいた。
父と母は顏を見合せて苦笑した。
「この指輪なら、ひいさんはいらないんだとさ。先刻刑事さんが來た時、此方は何も彼も打ちまけて話したんだよ。あとで知れると拙いと思ってね。ローズにダイヤの指輪をくれましたが、當人は今外出してゐるんで歸ったらお返しさせますが、どこへお届けしたらいいでせうッて、訊いたらね、刑事さんは指輪の事も知ってゐてね。あゝ、あの指輪ですか、あれは僞物で、ダイヤぢゃありません、硝子だから一文の價値もないものですよ。あの男も要らないと云ってゐましたって。」
「まあ。」ローズは力がぬけたやうな貌をして、「あの人、あたいまで欺したのね。」
彼女はその指輪を庭へぱっと投げた。指輪は敷石に打つかって音を立てゝ飛んだ。
注）句読点は変更したところがあります。
診療夜話「真夜中の往診」
「読物雑誌」 1948.04. (昭和23年４月) より
１
瀬川正三は診察室の椅子に反り返って、大きな欠伸をしたところへ、玄關のベルが鳴った。
「？」耳を傾しげて様子を聞いてゐると、看護婦の今村春江が慌てゝ入って來て、
「先生、來ましたよ。患者さんが。立派な服装をした綺麗な人――」
「しッ！」と正三は手を振って、
「そんな大きな聲をすると聞えるぞ」と笑ひながら睨む。春江は唇に手を當てゝ、一寸首をすくめたが、急に低い聲になって、
「だって、先生。開業なすってから今日で十五日目でせう？ それだのに一人の患者さんも來ないんですもの。先生でなくったってくさっちまいますよ」と云って、兩手に抱へてゐた箱を机の上にのせて、
「藥が届かって、私が受取を書いてゐると、患者さんが入って來たんですよ。何處へ納ひませうか？」と訊いた。薬局へ置く種類のものではなかった、やっと苦心して手に入れた大切な薬だったので、
「書齋の藥品戸棚へ入れて置いてくれ給へ。鍵をかけてね」と云って、彼は姿見の前に立って頭髪を手で撫でながら、
「君、住所氏名と病状を訊くのを忘れちゃ駄目だぜ」
「はい」と春江はうなづいて待合室へ行ったかと思ふと直ぐ引返して來て、
「膽石の發作が起ったんださうで、激痛を訴へてゐるんです。待合室の椅子に俯伏してうなってゐます。お伴のお婆さんがはらはらして、先生に願って注射を一本うって頂きたいッて、云ってますが」
正三はうなづいて椅子にゆったりと腰かけ、机の上の紙片を見た。
「片柳千鶴子二十二歳、大森區山王×丁目一〇〇番地」
彼は眼で合圖すると、春江は心得て、ドアをさっと開き、胸を反らせて、
「片柳千鶴子さあん！」とよんだ。
患者はよろめきながら、老婆に支へられて診察室へ入って來た。なるほど春江が立派な服装と云った筈だ、一目で大家の若夫人か令嬢かと思はれるやうな美しい眼のさめるやうな女だった。
「どうぞ、先生、お願ひします、どうぞ」苦しさうに眉をよせて、診察よりも先に注射をしてくれと願ったが、彼は一應診察した上でなければ、無暗に注射を打つやうな眞似は出來ないと思ったので、寝臺の方を頤でしゃくって、連れて行けと春江に命じた。
彼女は仕方なく寝臺に仰向いて齒を喰ひしばってゐた。正三は聴診器を胸に當てながらじっと彼女の顏を眺めてゐると、春江が彼の足をぎゅっと踏んだ。彼は一寸顏を赤くして注射の用意を命じた。
春江の差出す注射器を受取って、青白いすベすべした細い腕に針をづぶりとさした。そこの皮膚がいく分硬くなってゐるのを見て、正三は首をかしげた。看護婦が注射のあとをさすってゐるうちに、患者は忽ち痛みが治まったと見えて、頬には血のいろがほんのりと戻って、唇も紅をさしたやうに赤くなった。
「ありがたうございました。あゝ、樂になりました」
と、まるで夢から醒めたやうな、晴れ晴れした顏をして、胸を掻き合せながら起き上り、
「おかげ様ですっかり快くなりました。まるで嘘みたいオホヽヽ」と元氣な聲で笑ひながら、先生と看護婦におじぎをした。襟足が美しかった。
「お嬢様が、苦しい、苦しいッてお騒ぎになるもんですから、私はもうたゞ夢中になって、まごまごしてしまひます」と丁寧に小腰を屈めて、ほっとしたやうに老婆は二人へ禮を云った。
「お近くにかゝりつけの方はないのですか？」と、正三は訊いてみた。
「はい。私共はつい先達て東京へ出てまゐりましたばかりで、一向土地馴れませんものですから――」と千鶴子は下を向いて云った。
「では、また、お痛みになりましたら、いつでもお出で下さい」
「ありがたうございます」と二人は聲を揃へて云った。
「お嬢様は夜分よく發作をお起しになるんでほんとに困ってしまひます。どうしてこんな御病氣におなりになりましたんですか、お可哀想で――、そのためにまだかうしてお結婚もなさらないでゐらっしゃるんですが、何とか、すっかり根きりに治して頂けないもんでございませうか、お年頃ではゐらっしゃいますし――」と云ふと、令嬢はやさしく老婆を睨んで、細い體をくねらせ、
「いやあよ。ばあやったら――。見境ひなく始めてお目にかゝった方にでも何んでも自分の愚痴を云ふんだもの――」と恥しさうにぱあと顏を赤くした、まるで花が咲いたやうな美しさに、彼は思はず見惣れてしまった。
「愚痴も出ますですよ。ねえ先生、こんないゝお嬢様ですのに――、全く罪な御病氣でございますねえ」
「膽石の痛みは全く堪らないでせう、お氣の毒ですなあ」とつくづく同情して、
「夜分でも構ひませんよ。お知らせ下されば往って上げます。注射さへ打てば、それこそ忘れたやうになほるんですからね」
「もしその時はお迎へを差上げますから、どうぞいらして下さいまし」
「はあ、お迎へを頂きませんでも、頼みつけの車がありますから、一寸電話でも下さいましたら」
「番號はこれでございます」と春江は氣を利かせて、瀬川醫院の名刺を渡した。
「先生においで頂けると存じますとほんとに心強うございますわ。反って病氣も起らないかも知れません。意地惡病ですから、心細い心細いと思ってゐるときっと痛み出すんですもの」
「そんな事もないでせうがアハヽヽ」と先生は笑って、
「ほんとに御遠慮はいりません。いつでもまゐりますよ」
「恐れ人ります。私は病氣の事を考へると、情なくなってしまひますの」と一寸涙ぐんだやうだったが、直ぐ笑ひにまぎらせて、
「あら、まあ、初めてお目にかゝりましたのに、とんだ泣き言をお耳に入れてしまって、オホヽヽ。では、どうぞ、よろしくお顧ひいたします」
初診料を定額以上に仕拂ひ、看護婦へも心附を與へて歸って行った。
「いゝ患者さんですこと、皮切が女の人で、先生縁起がいゝぢゃありませんか」
「うん」と正三も機嫌がよかった。
２
午後、正三は、従姉の子供の病氣を診に行った。
「どう？ 正三さん、ちったあ患者さん來る？」
彼女は顏を見合す度に定って患者さんが來るかと訊くのだった。その度毎に彼は憂鬱な顏をして頭を振るのだったが、今日はいつになく勢よく答へた。
「來たよ」
「よかったわね。いく人」
「一人だけれど――」
「一人だっていゝわよ」と云ったが、一寸考へて、
「正三さんの家、少し立派過ぎるんぢゃない？ あの邊の患者さんは氣易く入れるやうにしないといけないぢゃないかって、實は心配してゐたのよ。玄關の構へからして、あんまり堂々としてゐるものね」
「なあに、いまに流行るよ。さうすると正三さんのところは堂々としてゐるからいゝんだって事になるさ」
「いゝえ。やっぱりさうぢゃなささうよ。私の知ってる人の話に、大きなお邸で開業したら一人も患者が來なかったって云ふわ、つまりお金を高くとられやしないかと思ふらしいのね」
「だって定りってものがあらあね」
「そこまで考へやしないわよ。ただ漠然と高さうだから止さうって事になるんでせう」
「まあ、長い眼で見てゐて貰ふんだなあ、今更玄關を小さくするわけにもゆかないしさ」
從姉は笑って、
「とにかくよかったわよ。一人でもお客が來ればね、最初の患者は大切にしなさいよ。親切にして、ちったあ比方もつとめなきゃあね」
「それゃさうだ、患者が廣告してくれるんだから、よく氣をつけようよ」
正三は子供の病氣について二三の注意を與へて從姉の家を辞した。
家へ歸ると、
「何處からも電話はかゝらなかった？」と訊いてみた。心の中で今朝の患者から、もしや電話でもありはしなかったかと思ったのだった。
「はあ、何方からも、かゝりませんでした」
彼は輕い失望を感じた、さう矢鱈に發作が起ってはたまらないが。それでも何とか云って來やしないかと思ってゐたので、何となく物足りなかった。
正三は夕飯をすませると茶の間で雜誌を讀んだり、手紙の返事を書いたりしてゐたが、今朝の患者が氣になって、春江が噂でもしに來てくれゝばいゝがとさへ思った。電話をいやに氣にしながら、彼はいつもより早く床に就いた。
うとうとしたかと思ふと、
「先生、お電話です」
といふ聲にはっと眼を覺ました。枕許の時計を見ると十二時を過ぎてゐる。
「何處からだ？」
春江は寝ぼけたやうな顏をして、
「今朝の患者さんとこからです。急にまた發作が起ったんですって」
「またか？」
「どうにもやりきれないから、夜中で恐縮ですが、お迎への車を上げますから、來て頂きたいって云ふんですの。先生、往って上げなきゃ惡るいでせう？」
「それもさうだが、今時分起されるのは堪らんな」
「あぢゃ、斷りませうか？」
「仕方がない。承知しましたって云っておけ」
初めての患者は大切になさいと云った從姉の言葉も耳の底に殘ってゐる、それに彼女への好奇心も多分にあったので、彼は直ぐ起きて出かける仕度をした。
洋服に着換へたり、髪に櫛を當てたりしてゐるうちに、ベルが鳴って車夫が迎へにやって來た。
春江は彼のうしろからオーヴァを着せ、往診鞄の中を一通りしらべて手落ちのないやうにしてから、
「御苦勞様！」と云って車夫へ渡した。
「戸締りをして、君は寝てゐなさい。歸ったらベルを押すから」と云ひ置いて、ひらりと車に乗った。
３
瀬川醫院から山王までは三十分近くかゝる。車夫は年老ってゐるせいか、はあはあ息をきらしながらまるで歩いてゐるやうにのろかった。ゆらりゆらりとゆれてゐるうちに睡氣を催して來た、彼はそれを追ひ拂ふつもりで車夫へ言葉をかけた。話は自然患者の事になった。
「君は患者さんのお邸のお抱へですか？」
「抱へぢゃありませんよ。先刻ばあやさんがやって來て、お嬢さんが急病だから瀬川先生を連れて來てくれって云ふんです。急病ならもっと近いところにもお醫者さんがあるって云ふと、お嬢さんは瀬川先生でなくっちゃいけないんだよって、云ってましたよ」
正三は何だかくすぐったかった。
「あのお嬢さんはどうしてお嫁にゆかないんだね？ なかなか別嬪ぢゃないか」
「わッしはまだ見たことないから知りませんよ」
「お邸はよっぽど廣いのかね？」
「お邸？」
「お嬢さんの家さ」
「お邸ぢゃありませんよ。あれはアパートです。だが、あのアパートは高級で立派な人ばかり入ってゐるんです。随分高くとるでせうね」
「へえ。アパート住居の人かい」彼は一寸意外な氣がした。
「アパートでさあ。もとは外國人専問のホテルだったんですが、終戰後家がないのでアパートに直しちゃったんですよ。なかなか贅澤にうまく出來てゐて、入口はみんな別々になってゐるからね、まあ一軒建てみたいなもんでさあね」
新井宿からだらだら坂を昇りきったところに眞黒く見える大きな一構へがあった、それがアパートらしかった。車夫はその建物の横へ廻はって、小さな一つの入口の前で車を止めた。
その氣配に内からドアが靜かに開いて、今朝の老婆が出迎に出た。車夫は先生の鞄を彼女に渡した。
「狹いところで、どうも――」と先に立って、二室續きの奥の方の部屋に案内した。アパート住居のせいでもあらうが、道具といふものは何にもなかった。六疊と四疊半の二間だが荷物がないとそれでも廣々として見え、何となく寒む寒むとしてゐた。紅入友染の輕さうな蒲團にくるまって、今朝のお嬢さんが、うんうん呻りながら、それでも眼を細く開けて、會釋した。
一度診察して容體はわかってゐるので、正三はいきなり注射した。すると間もなくしほれた花がいきかへったやうにけろりとした。彼女は起き上って挨拶しようとすると、正三は押し止め、
「御病氣の時はそんなに氣をおつかひになってはいけません。お静かにしてゐらして下さい」と云ひながらじっと顏を見た。彼女は發作と云ってゐるけれど、彼は彼女を中毒患者であるとみてゐた。
「急に東京へまゐりましたので、まだ荷物が届きませんので、不自由で、不自由でどうも――」と云ひながら、老婆はドアを開けて出たり入ったりしてゐたが、やがて、何處からか茶道具を持って來た。
「先生、私、一昨日ばあやと東京へまゐりましたんですの。身體だけ先に着いてしまって、荷物が來ないうちに病氣が起ってしまひましてねえ」
「それゃお困りですねえ。どちらからお出でになったんですか？」
「少し遠方からですの」と、云って、微笑んだ。
患者が落ちついて來たので、正三は歸らうとすると、
「あら、先生、もう少しいらして下さいな。私、まだ不安なんですの。また苦しくなりはしないかと心配ですのよ」と慌てゝとめた。
「大丈夫です。しかし．あまり御心配ならもう少しお邪魔しませうか――」
「ほんとに我儘ばかり云ってすみません。何んですかお傍にゐると安心してすっかりいゝ氣持ちになってゐるんですけれど――、ひとりになるとまた工合がわるくなりますの。神經なんですわねえ、きっと――」
「おわるかったら、いつでも來て上げますから、何も御心配なさらいでゐらっしゃい。そして、あなたはよく眠らなければいけませんよ」
「それが先生、私、恐いんですのよ。深く眠るといふことが――」
「？」
「私ね、先生、昨年の今頃ですが大病をいたしまして、三ヶ月もずっと床に就いてゐたことがございますの」と患者は人なつこい眼をして云った。正三はこんな無邪氣な可愛らしい女が、どうして中毒患者になってゐるのかと不思議に思ひながら、彼女に惹かれてつい腰を落ちつけてしまった。
「何病をなすったんですか？」
「さあ、何病ですか、先生はとうとう仰しゃって下さいませんでしたの。ただ、熟が高かったんですわ。そして眠れないので、よく睡眠劑を頂きました。すると、まるで死んだやうに熱睡してしまって、一寸位ゆり起されたのでは眼が覺めないんですの。家の者は死んだのではないかと思ったことが幾度あったかわかりません。何しろ、お化けのやうに痩せこけてしまって、眼は落ちくぼみ、顏のいろは菜っぱのやうに眞青だったのですから無理もありませんが」
「胸の方がおわるかったのでせう？」と正三は云ひにくさうに云った。
「いゝえ。先生はひどい神經衰弱だと仰しゃいました。私はその三ヶ月の間ずっと毎晩同じ夢を見つゞけてゐたんですのよ」
「へえ。同じ夢をですか？」
「さうですの。先生、いまだに私はこれが分らないんですが、どなたにお話しても信じて下さらないので、この頃では申上げない事にしてゐますが、先生は眞面目に聞いて下さりさうですからお話いたしますが」と云ひかけて、次の間の方を振り返り、
「ばあや、お茶のお熟いのを持って來て頂戴な。もう御用はないんでせう？」
「はい」
ばあやは起って炊事場の方へ行った。
４
お嬢さんは言葉をつぎ、
「同じ夢といふのはかうなんですの。私は獨りで散歩に出かけますの。夢の中の私は一人ではありません。それにたゞの散歩といふのでなく、行かうとする目的の家があるんですわ。その家といふのは何處だか分らないんですが、綺麗な赤い煉瓦の建物で、陽あたりがよく明るい平家の洋館なんですのよ」
「お嬢さんはさういふ家がお好きなんでせう？」
患者は一寸笑って、
「庭は一面の芝生で、ところどころにクローカスだの、さふらんだのが咲いてゐまして、リラの花も眞盛りで、いゝ香がします。まるで油繪にでもあるやうな美しいお庭なんでしてね。そのお庭を前にしてゐるお座敷がまた素晴らしく綺麗なんですの。陽が一杯さし込んでまぶしい位です。私はそのお座敷は自分のお部屋のやうな氣がしますので、そこに飾ってあるお人形だの、造花だのを持って來て、幼ない頃の私にかへって樂しく遊ぶんですの」
「それはあなたの理想なんでせう？ さういふ家に住みたいと云ふやうな」
患者は手の甲を唇にあてゝ、オホと笑みながらまた語をつぎ、
「私はその家の中にたった一人でゐるんですのよ。お腹が空くとお臺所へ行って、戸棚の中から好きなものを探し出して食べますの。そこにゐる間はまるで天國にゐるやうな氣がしました。また自分が女王ででもあるやうに思へるのです、とても愉快でたまらないので、毎日そこへ行くのを樂しみにしてゐましたの」
「それが御病氣の最中なのですね？」
「さうなんですの、ですが、先生、それは夢なんでございますよ。私はやがて全快いたしました。もう夢はなくなりました。あんな樂しかった夢が――、私は悲しくなり、全快したのが恨めしくなりました。何とかしてもう一度あの家へ行ってみたい、と思ひましてね、はっきりと殘ってゐる記憶を辿って行ってみたら、或はそれに似たやうな家を發見するかも知れない、と思ひましてね」
「さうですな。潜在意識が夢になって現はれるといふこともあり得るのですから」
「そこで、私はともかくも探してみようと決心いたしました。まるで戀人を追ふやうに――、思ひ立ったらやらなくては氣のすまない性質なので！ それから家人には散歩に行くと云って、獨りでその家を探し歩いたものです。女の一念なんて恐しいものですねえ。今の貸家探しよりももっと難しい事ですのに、どうでせう、遂々探しあてゝしまひましたの」
「ほんとに、さういふ家があったのですか？」
「夢と寸分違はない家がみつかった時の嬉しさ、私は狂氣のやうになって、懐しい玄關に立ってベルを鳴らしました。家の中は相變らずしんとしてゐまして、遠くの方でベルの鳴ってゐるのが聞えます。やがて廊下を歩く音がして、ドアを細目に開けて顏を見せたのは白髪の老人で、私は夢の中でその男の顏も一二度見ましたから覺えてゐますが、先方はひどく驚いて、ビクッと肩を震るはせ、妙に眼を据ゑてじいッと見てゐましたが、いきなりぴしゃんとドアを閉めてしまひました、一言も云はずにですのよ」
「氣狂ひぢゃないんですか？」
「變な人だと思ってゐると、またドアを開けて顏を出し、何か口の中でぶつぶつ云ってゐますのです。一寸お家を見せて頂きたいので上りました、と申しますと、そうの老人は穴のあくやうに私の顏を見詰めた揚句、どうぞお入り下さい、きっと貴女ならお氣に召すでせう。お安いし――、と申すのです。オヤ、このお邸お賣りになるのですか、勿體ないぢゃありませんか、お手放しになるとはと云ひますとね、はい主人が賣家にしてしまひました、と素氣なく云ふんですの」
「白髪の老人は主人ではなかったのですね？」
「お留守番なんですって、
――御主人は？ と訊くと、
みんな引越してしまひました。
こんな美しいお邸を賣るとは惜しいぢゃありませんか。と云ふと、白髪の老人は妙な顏をして、
「――お買ひになるので見に來らしたのではないのですか？ それではお話いたしますが、實はこのお邸には化物が出ますんですよ」と云って、變な笑ひ方をしました。
――まあ、お化けなんて、いま時――。
――そのために賣物に出したんです。
――そんなものが出るやうな陰氣なお邸ぢゃないぢゃありませんか。暗いかげなんか何處にもなく、陽氣で、美しいお邸ですのに、して、どんなお化けが出ますんですか？ と私も好奇心で訊いてみたくなりました。
――私にお訊ねなさるまでもない、それは誰よりもお嬢さんが一番よく御存じでせう。その化物は庭を散歩して花をむしったり、座敷へ上り込んで子供のやうに人形を出して遊んだりして、青い顏で痩せ細って、西洋の寝卷のやうな白い着物の裾を引きずって、ふわり、ふわりと宙を歩くやうな格好で歩き廻はって、いつともなしに消えて見えなくなってしまふんです。
私共の主人達は怖がって、お化が姿を見せると、みんな奥座敷に入ってかくれてしまふんですが、近頃はとんと出なくなりました、が、いつまた現はれるか分らないから、一層思ひ切って手離してしまはうと話が定まりまして、お化の事だけは秘密にして賣家にしましたが、かうしてお嬢さんにお目にかゝって見ると、そのお化けは――。と云って、口を閉ぢてしまひました。私は變な氣持ちがしました。夢の中で私がやったことを云ふんですもの、私默ってはゐられませんので、すっかり家の中を見せて貰らって、懐しい思ひ出を樂しんでから、
――そのお化けは老人ですか？ 若い人ですか？ と訊きますと、
――若い綺麗な女の方です。
――御知り合ひの方なんですか？
――飛んでもない。お化けに知り合ひなんかありませんよ。おとぼけなさいますな。御自分に訊いてごらんなさい。
家を買はない人ならもう用はない、と云はないばかりに、冷たい顏をして私を送り出しドアをバタアンと閉めてしまひました。白髪の老人こそ化物ではなかったかと、グッとしたのですが、どうも、あとで考へると、老人は私をその化物と誤解してゐるらしいのがわかり、いやあな氣持ちがいたしました、が、とにかく、夢で見た家には相違ないし、人形と遊んだ記憶もあるのですし、ねえ先生、それはどういふ病氣だったのでせう」
正三は一寸考へて、
「多分夢遊病だったのではありませんかなあ」と云った。
その長い夢物語が終ったのをきっかけに、正三は暇を告げた。
「では、お大切に――」
お嬢さんは蒲團の上に座って、見送りながら、
「先生、またいらして下さいねえ」と甘ったるい聲で云った。
５
獨身者の正三はお嬢さんの類稀れな美しい顏や、甘へた態度を心に浮べながら、いゝ氣持ちになってゐた。いづれは結婚しなければならないのだが、妻にするのはあゝいふ女がいゝなあなどゝ思ひながら家へ歸った。彼はベルを押したが、看護婦はなかなか出て來ない。
「おやすみなさい」と車夫は往診鞄を正三に渡して、さっさと歸って行った。車夫の手前も、誰か出迎へに出ないといふことは體裁が惡るかった。彼は玄關の戸をどんどん叩いた。その音で眼を覺ましたものと見え、春江ははれぼったい眼をして出て來た。
「眠っちゃってたのか？」と呶鳴りつけた。
「あんまりお歸りがおそいので、つい――、寝てゐろと仰しゃったもんですから――」
「不用心だな、これぢゃ泥棒が入ってもわからんだらう。困ったもんだ」
「いゝえ。そんなことはありません。先刻なんかベルを押されない前に、此方から玄關へ出た位なんですから」
「誰か來たのか？」
「先生のお使いひが――」
「何？ 僕の使？」
「さうですわ。先生の乗っていらした車夫が來ました」
「そんな筈はない。車夫は僕が歸る迄患者の玄關で待ってゐたんだ」
「でも、たしかに來ました。先生の御用で――」
「用？」
「今朝屈かった注射液の箱を全部そのまゝ使の者に渡してくれって、紙に書いてありました」
「何んだと！ その紙をみせろ」
「車夫か持って歸りました」
「で、藥を全部、君は渡してやったのか？」
「先生の御命令ですから」
「冗談ぢゃないぞ。誰に斷はって渡したんだ」
「渡せと仰しゃったから渡したんです」と看護婦はぷんとした。
「馬鹿ッ。あれ程大切にしでゐるものを――、やっと手に入れた――、それを一片の紙切で渡すって奴があるか、金額にしたって莫大なものだぞ」
正三の怒りがあまり烈しいので、春江はしばらくぽかんとしてゐたが、
「渡したのは少し輕卒だと思ひますからお詫びします、が、たしかに先生の御手跡ですし、車夫の口添へまであったので――、それに往診に行らっしゃるにしてはあんまり時間がかゝり過ぎますから、これはてっきりお嬢さんといゝ御相談でも出來てお藥が御入用だったのかと思ひまして――。どうしても御立腹が解けないなら、どうぞ、私をお訴へ下さいまし」と開き直った。
無論、訴へられるものではなかった。それも承知の彼女は車夫へ渡す前に二三ダースこっそりと失敬して、自分の部屋へかくして置いた、それを賣ってブラウスでも買はうと樂しんでゐたのだった。
正三は失望と憤激とで聲が震るえてゐた。
「君はあれを手に入れるのに、僕がどれ程苦心したかを知ってゐる筈ぢゃないか」と彼は心の中でべそをかいてゐた。
「先生、誰が一體盗んだんでせう？ 車夫かしら？」
「それゃわからん」
正三はそれをお嬢さんだとすることは厭だった。
「とにかく、君、夜が明けたらアパートへ行って、きいてみてくれ。君が責任上問ひ合せに來た體裁にしてな」
「はい。よろしうございます。先生のお名は出しませんから」
翌朝、春江はアパートの事務所に飛び込んで訊いて見たら、その部屋なら約束濟にはなってゐるけれど、まだ何人も住んではゐないと云ふことだった。念のため、見せて貰らったが、全く空部屋で人のゐた氣配もなく荷物一つなかった。
今度は正三が夢物語の主人公にでもなりさうで、開いた口が塞がらなかった。
（をわり）
注）あきらかな誤字誤植は修正しています。
注）句読点は変更をしたところがあります。
「愛情の炎」
「Ｇメン」 1948.05. (昭和23年５月号) より
１
美和子は葉山謙一と腕を組んでお堀端を歩いていた。じっとりと汗ばんだ首筋を、涼しい夜風が快く撫でゝ過ぎる。ふたりは馬場先門から丸ビルの横を通り、東京駅に出て、そこから省線で梅ガ丘の自宅に歸るつもりであった。
ふたりは肩を並べで、人通りの少ない夜更けのビル街を歩いていたが、美和子はふと立ち止り、眉をしかめて、
「おゝ痛い！ 靴の中に小砂利が入っちゃって――。」と云いながら、路傍に蹲んだ。その間に謙一は彼女にかまわず、さっさと先へ行ってしまった。
數間ばかり行ったかと思うと、忽ち、
「ギャッ！」と悲鳴をあげ、どうと横倒しになった。
美和子が馳け寄った時、彼は兩手で顏を覆い、歩道をのたうち廻わっていた。
咄嗟のことなので、急病を起したのか、怪我をしたのか、何が何だかさっぱり分らなかったが、美和子はその苦しげな呻き声を聞いただけで轉倒してしまい、無我夢中で縋りついた。苦しまぎれに轉々としている彼に引きずられて、二人の体は歩道を辷べり落ちた。
病院に擔ぎ込まれてから始めて分ったのだが、謙一はその美しい兩眼から額へかけて、見るも惨たらしく硫酸を浴びせられていたのだった。
無論、彼にもはっきりした記憶はなかったが、月の光りも届かぬ暗いビルデングの横にさしかゝった時、突如、黒い影のようなものが躍り出た、と、思った瞬間、熱湯をパッと顏に打ちかけられたように感じた。黒い影、それは男か、女か、全然見分けがつかなかったが、その時、何とも云えぬ甘ったるい、馥郁とした香氣が鼻を打った、と云う。
美和子の方は、蝙蝠が羽根を廣げたような恰好の黒いものが、ビルデングの横から飛び出して、サッと謙一に覆い被さるのを見た、と云った。
謙一は素封家の一人息子で、評判の美しい青年だった。あと一年で大學も卒業するし、就職口も内定していたのに、この降って湧いた災難に、彼の前途は忽ち打ちこわされてしまった。
２
不慮の災難に驚いて、謙一の兩親は取るものも取り敢えず、東京へやって來た。
親達の反對を押しきって同棲したものの正式の妻とよばれていない美和子、彼等の上京を聞いて、身の縮むような思いをした。それに謙一には親同士が勝手にきめた本家の娘という許婚もある、いくら彼が頑張ってくれたところで、氏素性も分らぬ女、ワンサー女優をふり出しに、カフェを轉々して來た、しかも、九つも年うえの彼女との結婚を許してくれる筈もないのだった。
病室の隅に小さくなっている美和子を尻目に、ベットに馳せ寄った兩親は、顏中繃帶に卷かれている彼を見て、胸のつぶれる思いがした。
純朴そうな丸い赤ら顏の父と並んで、少しの隙もないきちんと取りすました母の餘りにもよく調った顏や、すうっと通った高い鼻などが、とても近寄り難い冷めたさを感じさせたので、美和子は挨拶をする勇氣もくじけ、ただ體をかたくして、彼等の一擧一動を見守っていた。
「分るかい？ 謙、お母さんですよ。」と云って、母はそッと眼を拭いた。
「うん、お父さんも此處にいるぞ。しっかりしてくれ、俺達がついているからには、どんな事をしても、癒してやる、心配するでないぞ。」父はしょぼしょぼした小さい眼をしばたたきながら、腕を組んで、じっと見ていたが、
「災難だ、全くの大災難だ。だが――、命に別條ないそうだから、安心しているがいい。」
謙一は苦しそうに、首を動かしていたが、
「水――、水をくれないか。」宙に手をあげコップを探ぐるような恰好をした。美和子は我を忘れて、吸いのみを持って行こうとすると、母は彼女の體を押し退け、吸いのみを引ったくって、
「さあ、水ですよ。」と唇にあてがった。
謙一はゴクリと咽喉を鳴らして一口飲んだ。唇からあふれた水は襟を濡らした、母はハンケチを出して拭いてやろうとするとどうしたのか、彼はいきなりその手をハンケチの上からぎゅっと握って、
「お母さん」と呼びかけ、
「これが美和子です。どうぞ會ってやって下さい。」母の手を彼女のと間違えて、空に振ってみせた。
美和子はハッと胸をうたれた。
母は泣くような笑い方をして、
「あら、分っていますよ。美和子さんにはあとで、御挨拶をいたします。」じろりと彼女の方を流し眼で見た。
「そんな水臭いことを云わないで――、お母さん、何とか云ってやって下さい。お父さんも默っていないで――。」
「うん、心配するな。分っとる。」
父は母と入れ代りにベットに近寄って彼の手を握った。その間に母と美和子は氣拙い初對面の挨拶をした。
「貴女も忰と御一緒にいらしたんだそうですが、でもよく――、貴女の方は怪我もなさらなくって結構でしたねえ。」針をふくんだような云い方をした。美和子は胸をチクリと刺されて縮み上った。
謙一は父が話しかける言葉も上の空で、母と彼女との會話に聞き耳を立てているので、父は急いで母を室外へ連れ出し、
「止せ。くだらない事を云うな。あの女に任せて置け。」
「そうですね。それもいいかも知れません。いまに飽き飽きして逃げ出しちまうでしょうから――、病人の看護は面白いもんじゃありませんからね。」
「默っていろ。俺には考えがあるんだ。」
「もしかすると、これが反って幸になるかも知れませんよ。文句なしにあの女と手が切れるかも分らないから――、病院、カフェのようなわけにはゆきませんもの、直きいやになるでしょう。看護に飽きて逃げ出したりするような女を、まさか謙だって、追馳けやしますまいから。」
繃帶の下の顏がどんなになっているかということに彼女は全然氣がつかなかったが、父の方は硫酸を浴びたと聞いた時、直ちに懇意な醫師の家に飛び込んでその結果を聞いたのだった。しかし、それが餘りに悲しいことだったので、自然に分るまで誰にも云うまいと決心して、妻にさえも語らなかった。兩眼は無論助かるまいし、燒けただれた皮膚がどういう風にあの美貌を變えてしまっているかということは、母は少しも知らなかったのだ。
院長の回診の時はいやでも繃帶を脱るので、毎時も父は母を室外に連れ出すのだったが、今日はどうしたのか、まるで忘れてしまったように平然としていたので、母は大勢の醫員達の後から、怪我の様子を恐わ恐わ覗いて見た。惨たらしいその顏を一目見ると、
「あッ！」と小さく叫んで、氣を失ってしまった。
父は故意に見せたのだ、そして母にすべてを斷念めさせようとしたのだった。希望を失った謙一の長い生涯を安心して託せるのは彼女を措いて他にない、と、彼は考えたからだった。この醜い顏を見たら、本家の娘は喜んで破談を承知するだろうし、どんな女を連れて來たって逃げ出してしまうだろう、それだのに、斯うまで親切に優しく世話をするのはよくよく謙一を愛しているからだ。恐らく美和子の眼にはこの外見の醜さは映らないのではあるまいか。
この美しい愛情の前に、やがて、母も兜を脱いでしまった。
事件発生後、二週間近くなるが、犯人はなかなか舉らなかった。その筋では周圍の事情と、健一及び美和子の陳述とによって彼女と同じカフェに勤めていた春江という女を容疑者として、捜査の手を延ばすことになった。
春江は美和子と謙一を爭って、失戀し、今は行方不明になっている、が、彼等の同棲後屡々愛の巣を脅やかした。呪いの手紙をよこしたこともあった。執念深いあの女の事だから、いつかは恐しい仕返しをするだろう、と、彼女は絶えず不安だったというのだ。
謙一はやがてベットに起き上れるようになった。
兩親は考えた。いまとなっては一日も早く美和子を正妻に迎えてやろう、親が許したと聞いたら、彼もどんなに喜ぶか分らない。
こういう話は水入らずに限る。兩親は彼女のいない隙を狙って、その話を持ち出した。
謙一は苦笑して、
「僕は彼女を幸福にしてやりたかったんだ。ただそれだけだった！ それだのに、――それだのにまたしても不幸に陥そうとしている。いけない！ そんな事をしてはいけない。彼女を自分の手から解放してやらなければ――、自由にしてやること、それが即ち美和子を一番幸福にすることなんだ。」
「お前はあの女の事ばかり考えて自分のことをまるで考えないんだね。」母は齒痒そうに云った。
「彼女の幸福は即ち僕の幸福なんですよ。」
３
兩親は謙一を美和子に頼んで、ひと先ず國へ歸った。
毎日午後になるときまって見舞いに來てくれる親友の元山弘がやって來た。
「どうだ、少しは氣分がいゝかね、君の好きなシュークリーム買って來た。」と小さなボール箱を出した。
「そうか、そいつあ有難い、一緒にコーヒーでも飲もうじゃないか。美和子、いれてくれないか。」
美和子は困ったような顏をして、
「コーヒーね、すっかりきらしちゃったの。買いに行こうと思いながら、出られなかったでしょう？ それでつい――。元山さんがいらして下すったから、私、一寸銀座まで行って來ますわ。」
「そうか、じゃあそうしてくれ。ついでに何かうまいものを見つけて來て、元山君に御馳走して上げなさい。」
「え、いゝものみつけて來るわ。元山さん葉山をお願いいたしますよ。親類の方でもお出でになると病人をほったらかして出たなんて叱られてしまうから。」
美和子は買い物よりも久しぶりで外へ出るのが嬉しかった。病院の中にばかりいると氣が滅入ってしまう。彼女は着物にしみ込んでいる藥の香を氣にしながら出かけた。
そのうしろ姿を見送っていた元山は、自分の椅子をベットの傍に運んで行って、低い聲で云うのだった。
「君、やっとわかったよ。春江の消息が――。」
「わかった？」と謙一は乗り出して、
「やっぱり奴の仕業だったのか？」
「まあ聞けよ。彼女は美和子さんに君を奪われしまってから、すっかり悲観しちゃってね。しかし、あの勝氣な女の事だ、ふだんと少しも變らず賑やかに振舞っていたそうだがあれ以來大變な酒呑みになって、チップはみんな飲んでしまう、借金は出來る、衣裳は賣り飛ばす、まあ自暴自棄だったんだね、表に現わさないだけ、心の中は苦しかったんだろう。
金もなくなる、にっちも、さっちもゆかなくなった上に、胸の病氣は一向はかばかしくない、それで店へは國に歸って養生して來る、と云って暇をとり、船に乗って歸る途中投身自殺をしてしまったんだそうだよ。僕はやっと住所を探し當てゝ親許へ照會したら、その返事が今日届いた、これがそうなんだ。」と云って封書を謙一の手に握らせた。
「ふうむ。死んだのか、あの春江が――。」と云ったが、しばらくして、溜息をついて、
「可哀想なことをしたなあ。」と彼は鼻をつまらせた。
「可哀想だ。その上犯人だなんて疑いをかけられちゃ、彼女は死んでも浮ばれないぜ。」
「僕が疑ったわけじゃない。美和子が春江をしじゅう敵のように思っていてね、彼女のやった仕業にちがいないと云い張るもんだから、僕も或は――、と思ったんだが、すまないことをした。」
「僕に云わせると、彼女だなどゝ斷言する方が怪しいのじゃないかと思う。まあ、君には惡いけれど――、他に考えようがないもんだから――。」
「まさか、君、美和子はそんな事はしないよ。理由がないもの。犯罪では利益を得るものを探せというのは君の説だが、その點から考えても、美和子は僕が盲目になって損こそすれ、一つも得はしないからね。」
「しかし、行きずりの人が何の恨みもない君に、そんな馬鹿な眞似をするわけがないじゃないか。」元山は唇に微笑を浮べて、氣の毒そうに謙一の方を見ながら、
「こうなれば一應は誰でも疑ってみるといいと思うな。君、その場にいたのは美和子さんだけなんだろう？」
「僕に硫酸を打っかけた奴と。」
「しかし、その人を君は實際に見たんではないんだろう？ 男か女かの區別さえつかなかったんだと云うし、瞬間の出來事なんだから馥郁たる香というのも君があとから想像したものと僕には思えるんだ。」
「君は美和子を疑っているんだね？」
元山は默っていた。
「彼女は僕の將來に期待をかけていたんだ。その女が自分で將來をめちゃめちゃにするような馬鹿なことをやるだろうか？」
「僕はもっと何か深い理由があるように思えてならないんだよ。君の出世なんて事以外にさ。」
「嫉妬か？」と謙一は嘲笑するような口調で云って、「あんまり馬鹿々々しいよ。」
「嫉妬だか何だかそりゃわからない。ただ一應疑ってみるのも惡るくないと云うのさ。君は彼女と別れようと思っていると云ったじゃないか。」
「それゃ君。」と謙一はその言葉をおさえるような手つきをして、「僕がこんな不具になってからそう考えたので、まだ美和子には話してないよ。打ち開けたの君だけだ。だって、可哀想じゃないか、一生盲目の世話をして老い朽ちるなんて、僕が離れてやれば彼女にはまた彼女の新らしい運が開けても來るというものだからね。」
元山はうなずいて、
「君が彼女を愛している事はよくわかる。しかし、一度よく訊いて見たらどうだろう。そして美和子さんがほんとにこの事件に關係がなければそれにこしたことはないし、また多少何か知っている事があったとしても、君が宥してやるだけの寛大な氣持さえ失わなければいゝんだからね。それに告白すれば罪も消えるんだ、その上何もほじくる必要もないからね。」
謙一は腕を拱いて、深い考えに沈んでしまった。
４
美和子が賈物から戻って來た時には元山は已に歸ったあとだったし、謙一はたった一人しょんぼりとベットの上に坐っていたが、いつものように彼女の歸りを喜ぶでもなく、憂鬱そうに下を向いていた。
眼が見えないので美しい花よりも香氣のあるものをとの心ずくしから、美和子が買い集めた數々の植木鉢が窓にずらりと並んでいた。
「たゞいま。おそくなりました、お淋しかったでしょう。」と元氣よく彼女が傍へよった。
彼は手さぐりで、彼女の顏や體を撫で廻わし、
「君は不具者の妻になったことを、ほんとに後悔していないのか？ どうか、かくさずに眞實のことを話してくれ。」
「私、あなたには何もかくしちゃおりませんわ。」
「じゃ、ほんとに後悔していないんだな？」謙一は彼女の心をたしかめるように、くどく訊くのだった。
「えゝ、後悔どころか、あなたにはすまないと思うけれど――、私はね、時々、この禍いが反って幸いのような氣がするんですのよ。だって――、あなたのお眼に殘っている私は、これから先何年たっても、少しも變らず、年もとらず、醜いお婆さんにもならず、今のまんまでいるかと思うと嬉しくって――。」
元山に話を聞く前ならいざ知らず、今の謙一はそれが彼女の僞わらぬ言葉であると思った。
彼は故意と安堵したように、不慮の災難を逃れたその美しい口許に滿足そうなほゝ笑みを浮べて、
「僕も同じ氣持ちだよ。この心眼に映る君の悌は何時までも若くって、美しいからねえ。この頃、僕は不具になったことを感謝するような氣持ちにさえなっているんだよ。が、また冷靜に考えると、僕がほんとに君を愛しているなら、この幸福に甘えていちゃならない、不具者の妻として、君の一生を詰らなく葬らせてしまってはすまない。しかし、未練のようだが、どうしても君を離してしまう氣になれなかった。
繃帶に卷かれているので、君は僕が眠っているのか、目醒めているのか分らなかったろう？ 僕は殆ど眠らなかった、晝夜をわかたずその事で煩悶し、戰いつゞけて來て、やっと解決とまで辿りついたんだ、つまり、僕の良心が勝ったんだ。それで――、僕は君を自由にしてやろう、君と別れようと決心したんだ。」一氣に云い終ると、苦しそうに大きく息を吐いた。
「えッ？ 別れようって？」美和子は自分の耳を疑うように訊き返した。
「うん。そうだ。」
彼女はやにわに、彼の膝に武者振りついた。「何を仰しゃる！ いやです。私はいやだ。別れるなんて、そんなこと――、あなたは本氣で仰しゃっているんですか？」
「不具者を見捨てたと云われるのがいやなのか？」
「人なんか何と云っても構いません。私はあなたを愛しているんです、だから別れるのはいやなんです。」
彼は嚴然と云い放った。
「これ程愛しているなら、何故、僕をこんなめにあわせた！」
「え？ 私が――、飛んでもないことを仰しゃるッ。」
謙一はまつわりつく彼女の手を拂い退け、
「僕が何も知らないと思って、しらばっくれているのか、馬鹿ッ！」
「あなたはまあ、何を仰しゃるんでしょう。」
「默れ。お前の體臭を僕が知らないと思うのか。馥郁たる香氣と云ったのも、黒い影と云ったのも、みんな君を庇護ってやった言葉に過ぎないんだ。そのうちには反省して、僕だけには告白もし、許しを乞うかと思っていた、さあ、これだけ云ったら、僕が別れようと云う理由もわかったろう。僕はつくづく君が恐しくなった、が、君の犯行だということだけは秘密にしてやる。それが僕の餞別だ、大手を振って、さっさと出て行け！」
とは云ったものの、謙一はまさか彼女のやったことだとは思っていなかった。定めし美和子は立腹して喰ってかかるだろうと思っていたのに、意外にも彼女はがばと謙一の前にひれ伏して聲をあげて泣き出した。
靜かな室内に、謙一の興奮した荒い息ずかいと、絶え入るような女のむせび泣きがながい間續いていた。
やがて彼女は青褪めた顏を上げて、
「すみません。」と云った。その一言は彼女の罪を白状したも同然であった。
よもやと思っていた事が、事實であったとわかったので、彼は今更ながら愕然とした。謙一は枕の下から手紙を出して、それを彼女に投げつけた。それは元山が置いて去ったものであった。
「さあ、それを讀んで見ろ、可哀想に春江は自殺したんだ。」
「えッ？ 春江さんが死んだんですって？ まあ！」美和子はがくんとうなだれて、
「勘忍して下さい、春江さん！」と見えない人に手を合せて聲をのんだ。
「罪もない春江に嫌疑をかけさせようとするなんて．何處まで恐しい女だかわからない。」
やがて、美和子は泣ぎ濡れた顏を上げ、居住いを正して、
「何も彼も御存じですから申上げることもありませんが、こういう恐しい罪を犯すようになった私の氣持ちを一通り開いて下さい。私はあなたをほんとに心から愛してをりました。愛していればこそ完全に自分のものにしてしまいたかった。ただ、それだけだったんです。私には堪えずいろいろな不安がありました。年うえであるということも氣になりました、あなたの愛が永久に續くものであるかと云うことも心配の種でした。
あなたは何處へ行っても大騒ぎされます、どの女も、どの女もあなたには夢中になっているのを私はよく知っていますもの、一人の男を獨占するということは大變です、學生であるうちはともかくも、來年はあなたも卒業なさる、社會に出ては今までのような生活は出來ません、いつか、どの女かに、きっと奪われる日が來る、と思うと、私は體中の血が煮えくり返えるようでした。氣狂いになりそうでした。一層のこと、あなたを殺して死んでしまった方がいゝとさえ思ったことも幾度でしょう。
苦勞するせいか、この頃めっきり老けて――、今まではしっとりとよくのびた白粉が、肌に浮いて落ちつかなくなったのも恐しゅうございます。私は云いようのない焦燥を感じ、どうしたらこの愛を永遠に續けられるか、どうしたらあなたのお眼に私の年をとるのがわからないように出來るか、そんな事ばかり考えつゞけました。」
謙一は身じろぎもせずに聞き入った。
「魔がさしたとでも云うのでしょうか、あなたのお眼がもし見えなくなったら、あなたのお心に生きている美和子はこの先何年たっても、いまのまゝの姿でいられます。私以外の女をあなたに見せないということもどんなに嬉しいことか、そうしたら、きっと、あなたの愛は永久に私のものになるだろうと思ったんです。淺薄な私はこの考えに有頂天になりました。嬉しくって私はその喜びに酔い頭がぼうっとしてしまいました。
――靴の中には砂利が入ったなどと僞わり、實は先廻わりして、晴いビルディングの横へあなたがおいでになるのを待ち伏せて、用意の硫酸を、お眼にだけかける積りでいたのに、額にまであびせてしまって――。」と美和子は身を震るわせ、
「今更、お許し下さいとは申しませんが、君が恐しくなったなどと仰しゃらないで下さい。あがきにあがいてこんな罪を犯すようになった私の悲しい心も汲んで下すつて――。」
彼の唇が歪んだ。
「あなたを離れては私はもう生きている氣はありません。いつかはこういうことになると、それはもう覺悟していたのですが――。」
懐から何か取り出す氣配を感じて、謙一は何となくはっとした。
「申譯ございません。」
消え入るような美和子の聲を聞くと、彼はいきなり彼女の手を押え、握りしめているものをもぎ収つた。それは小さい瓶だった。
「硫酸だな、馬鹿ッ！ お前死ぬ氣か？」
ハッシと投げつけた。瓶は硝子窓を破ぶって地上に落ちてこわれた。
謙一は彼女の肩を引き寄せ、
「わかった！ 僕の眼、大事な僕の眼を失ってどうする？」
「では――、ゆるして下さるの？」
「あたりまえじゃないか。僕ら前に犯した過ちを白状し罪に服そうとしているお前をどうして僕が訴えたり出來よう。」
彼はいとしさに全身を震わせた。謙一の心中には嘗つて覺えなき愛情の炎が燃え上り、いつか二人の魂は解け合っていたのだった。
（おわり）
注）句読点は変更をしたところがあります。
注）ビルデングとビルディング、送り仮名などの不統一は原文のままとしています。
「消えたダイヤ」
「女豹」 1948.05. (昭和23年５月) より
１
私は帝都ホテルの支配人に、内密の相談があるからと招かれた。
支配人はドアに鍵をかけ、椅子を近づけて云った。
「どうも、不思議なことが出來ましてね」と、八の字を寄せ、頭を掻きながら、
「實は昨夜のことなんですが、いや、今朝と云った方がいゝかも知れません、お客様の首飾が消えてしまったといふのです。ダイヤ入りの――、時價數百萬圓もしようと云ふ代物ださうでしてね」
「紛失したんですか？」
「部屋の中で突然消えたといふんです。持主の方は昨夜御存じでせうが、あの大夜會へ行かれ、十二時頃歸って首飾を外してテーブルの上に置き、そのまゝ一分間も部屋を空けなかったといふのです」と云って、急に聲をひそめ、
「これは極く秘密のお話ですが、このホテルにはある高貴な夫人が數日前から侍女を連れて泊ってゐられます。いろいろの事情があって、まあ早く云へば、夫人は家出されたんですが、差しあたり落ちつく場所がないので、こっそりとこのホテルに來られたといふわけ。お家柄があるものですから、萬事秘密主義なんでやりにくいんですけれど、一つお骨折りを願いたいと思ってお出で頂いたやうな次第なんです」
私は心の中で、あの有名なダイヤマニアの西久我公爵夫人が遂に家出したのだと思った。彼女が公爵と別れるだらうといふ噂も久しいものだった。農園にしか趣味のない公爵と多趣味の夫人とは、とかく意見が合はなかった。夫人は油繪を好んで描いた。青年畫家が彼女の畫室に出入すると云っては悶着が起った。派手好きな彼女は絶えず噂の種を蒔いた。その度に家庭はもめた。さういふ夫人が家出したからと云って、今更びっくりするほどのこともなかったが、世間體ばかりを心配してゐる舊式な公爵家にとっては、實に一大事であることはたしかだった。
「委しく話して頂きたいんですが、夫人は侍女と二人ぎりでゐられるのですか？」
「さうです」
「訪問客は？」
「ありません、が、たった一度噂の主の青年畫家が見えました。その時はサロンで面會され、食堂で夕飯を共にされただけでした」
「それは何日ですか？」
「一昨々日、ダイヤ紛失の前日でした」
「夫人は時々外出されますか？」
「はい。二三度ばかり」
「おひとりで？」
「侍女はいつでもるす番をしてゐます」
「ダイヤの消えたのをいつ發見されたのですか？」
「それはかうなんです。夫人は昨夜、あの國際的の大夜會に出席されるために、銀行の金庫に保管して貰らってゐたダイヤの首飾を出して來られて、それをかけてホールに行かれ、夜の十二時過ぎに歸ったんです。久しぶりで踊ったので大層疲れ、歸ると先づ大切な首飾を外してテーブルの上に置き、長椅子に寄りかゝって紅茶を飲んでゐるうちに睡氣を催し、いゝ氣持ちになって、うつらうつらとしてゐるうちに、夢現ともなく妙なことを見たといふのです」と云って、支配人は●●香の煙草をシガレットケースから一本ぬいて火を點け、私にもすゝめて、
「その首飾が宙に浮き上って、ダンスを舞ったといふのですがね」
「夢でせう。あんまりダンスに夢中になってゐるから」
「ダンスを踊りながら首飾が消えてしまったので、はっと氣がついて、テーブルを見ると、首飾がない、大騒ぎになったといふわけなんです」
「夫人が眼が覺めた時、その部屋の中には夫人の他に侍女だけがゐたんですね？」
「いゝえ、誰もゐなかった、侍女はバッスルームで湯槽につかってゐたさうですが、けたたましい夫人の喚び聲に湯から飛び出し、體もふかずに部屋へ馳け込んでみると、首飾が消えたと云って、夫人が青い顏をして棒立ちになってゐたさうです」
「夫人は、自分ではうつらうつらとしてゐたつもりでもよく眠ってしまってゐたのではありませんか。その間に誰か忍び込んで盗んだのでせう。首飾がダンスをやりながら消えたといふのは夢に違ひありませんよ」
「ところが、夫人はドアに鍵をかけてゐたし、眼が覺めた時も鍵はちゃんとかゝってゐたと云ってゐられます」
「部屋には内から鍵がかゝってゐて、部屋の中にゐたのは夫人だけだとすると、一寸變ですね」
「夫人は一時心靈研究などに夢中になってゐられましてね、その當時随分世間の人を驚かせたある侯爵の女官などゝ一緒に靈媒を信じたりした事もあるので、あれはたしかに、何者かに首飾が引き寄せられて去ったのだと云ってゐられます。あのダイヤを欲しい思ひ詰めてゐる人が、靈の力をかりて物品引寄せ術を行ったに違ひない、滞在客の中に怪しい人がありはしないか、私に調べてくれとしきりに仰しゃるのです。しかし極秘裡にやって貰らはないと困る。
これが世間に知れると、自然自分の家出も知れることにならう、家庭の不和が明るみに出るのは、いくら別れるとは云ひながら面白くない、西久我公爵の體面も考へて上げなければならないからと云はれてるのです。また當ホテルとしても、あのホテルでダイヤの首飾が紛失したと云はれるのも困ります。それでホテルとしては警察の手をわづらはせずに、始末をつけたいと思ふので、幸ひあなたが私立探偵でゐらっしゃるし、被害者が御婦人でもありますから、是非ともお願ひいたしたいのです」
「お部屋を拜見させて下さいませんか？」
「結構です、是非御らん下さい。恰度いまお食事がすんだところですから」
私は支配人の案内で長い廊下を傳はって、夫人の部屋の前に立った。
２
帝都第一のホテルの中で、夫人は一番上等の部屋をとってゐた。バッスルーム附で、居間とベットルーム、女中部屋の三室であった。取りつきが十二三疊も敷けさうな居間で、中央にマホガニーの丸卓子、それを圍んで緞子張りの椅子、壁に寄せて長椅子がある。
窓の前には小さなデスクと椅子が一脚、壁には泰西の名畫ででもあらうか、大きな風景畫が掲げてあって天丼も高く、床にはくすんだ赤色敷物がしきつめてあって靴の音が聞えなかった。スチーム装置になってゐるが、燃料の都合で一時ストーヴでも使ったものか、壁に小さな穴があった、その下の床い白い粉が少しばかり落ちてゐたのを私は見逃さなかった。床に膝をついて捨ひ紙に包んで懐中した。穴は小さくて虻ででもなければ出入りは出來さうもなかった。
南へ向いて二つの窓かあった、窓の外は廣い芝生で、ライラっクが眞盛りだった。
「この窓の鍵は開いてゐなかったんですか？」
「いつでも嚴重に閉めてありますから、特に昨夜だけ戸締りをしなかったと云ふやうな事はない筈です」
と云ってゐるところへ、夫人が淑やかに入って來た。評判だけあって眼のさめるやうな美しさだった。明るい感じで、離婚する女の淋しさなどは何處にも見られなかった。物腰は丁寧だが、言葉使ひははきはきとして、かくしだてなく何んでも答へた。
「私ね、これから獨立して生活しなければならないでせう。ですから、首飾一つだって私にとっちゃ大切なんですのよ。やがて、お金にかへてしまはなければなりませんけれど――」と云って、いかにも惜しさうな顏をした。
「盗まれに、わざわざ銀行からお出しになったやうなものでしたねえ」
「ほんとにさうなんですよ。こんな事になるなら出さなければよかったんですけれど、それと云ふのも慾があったからですのよ。一人でも多く見せて置けば賣る時都合がいゝでせう？ 宣傳にもなって――。私、あゝいふ立派な方々ばかり集まる大夜會だからと思ってかけて行ったんですの」
「よっぽどお立派なものなんでせうねえ」
「あれは、あなた、ある國の女王様が愛用してゐられたものなんですって、それを私、實家の父から結婚の時買って貰らひましたの。その當時からダイヤ通の人達の間には有名なものだったんですのよ」
「女王様はどういふわけで、そんな立派なものを御手ばなしになられましたんでせう？」
「それがねえ、あなた、ほんとか嘘か存じませんが、妙なお話がありましてねえ。女王様が御婚約なされます時その御婚約に首飾が反對を唱へるやうに、宙に浮き上ってひとりでお部屋の外へ落ちたのを、侍從の一人が見て氣を失ったんですって。あんまり氣味が惡いので、お手ばなしになるお氣になったのださうですの。ダイヤでもあの位のものになると魂があるものだらうと噂されてゐます」
と夫人は、その馬鹿らしい傳説を信じきってゐるらしく、眞面目に語るので、私は少し變に思ったが、ふと、彼女が嘗て靈媒などに凝ってゐたことを思ひ出したので、
「ダイヤにも魂があるものですかねえ」と、相槌を打った。
「いかなる物でも、非常に勝れた品には魂がありますわ、ですから私の此度の行爲――、つまり蒙出したことなどに、あのダイヤは反對だったのかも知れないとつくづく考へました。何故と云って、西久我家に私が居りさへすれば、あの首飾は永久この私の首に飾られるもの、ながく使ってゐれば、私があの首飾を愛してゐるやうに、向ふでも私のこの襟元や、この白くて柔らかい肌を愛してくれてゐるのでせう。
私が西久我を去れは、やがてあの首飾も金にかへる日がまゐりませうから、私と別れなければならない、こんどはどんな御婦人の手に渡るか、色の黒いざらざらした皮膚の肥った襟にくびれ込むかも知れません。しかし、ダイヤとしてはいやだと思ふ人でも買はれゝば仕方なくその人の飾りものにならなくてはなりませんでせう？ だからダイヤは私と別れたくない西久我家に歸って下さい、家出には反對ですといふ意味で姿を消したんではないかと思ひますの。さう思ふと、いとしくって、なほ更早く探し出してやらなければならないと思ふんですのよ」
「さういふわけでしたら、私、何とでもしてお探しいたしませう」
と云ってゐるところへ、侍女が紅茶を三つ盆にのせて持って來て、敬々しく各自の前に置いた。見ると十六七のあどけない顏の、何方かと云ふとおっとりとした小娘だった。
「これは美枝子と申しまして戰災孤兒なんですの。昨年から手許に置いてゐるんですが、氣が利いてゐておとなしくって、ほんとにいい娘ですの。こんども私に同情して、一緒に邸をぬけ出してくれました。どこまでも私と行動を共にすると誓ひまして――」と云った。
侍女はにこにこしながら次の間へ引き下った。私の見たところでは同情して行動を共にしたいと申出たと云へば立派だが、西久我公爵家のやうな舊式の家にゐて窮屈に暮らすより、夫人に從って家出した方が面白さうだ、といふ位のところらしく見えた。それに全く美枝子は愉快さうだった。
「いゝお女中さんです」と云ふと、夫人は得意になって、
「束縛するのは可哀想だし、當節の若い娘の事ですからね、私は彼女の氣持ちを汲んで、夕飯後は自由の時間を與へてゐますの。あの娘はその時間を利用してダンスのお稽古に通ってをります。感心なものですねえ、將來はその方面ででも獨り立ちが出來るやうになりたいと申しましてねえ」
「毎晩外出するのですか？」私は一寸眼をみはって訊いた。
「えゝ、さうですの。戰災にあった娘ですからね。のびのびさせてやりませんと氣の毒ですもの。私、さういふことにはほんとに理解があるんですの。昔風の奥様方はあまりそのお召し使ひを束縛しすぎますよ」
「どうも、いろいろありがたうございました」
と夫人へ挨拶をしてから、私は支配人と部屋を出た。
「少しは何かお掴みになりましたか？ あの御婦人をどうお思ひになります？」
「さうね。随分變ってゐらっしゃいますね、あれでは到底西久我公爵のやうなところに納ってはゐられないでせう」
「ダイヤに氣の毒だから早く探してくれッて、何度室内電話をかけて來るかわからないんですよ」と支配人は閉口してゐた。
「あのお部屋には夫人と侍女だけなんですね、ほかの人は絶對に入らないんですか？」
「さうです。來客はサロンを使ふ規則になってゐるんです。お部屋へお客を通すと、それが椰婦人の場合殊更問題が起り易いので、それを防ぐためにも、このホテルでは私室に來訪者を入れぬこととなってゐます」
「規則を破ぶる人はありませんか？」
「役所ぢゃありませんからね、さう嚴しくも申せません。何と云っても相手はお客様なんですから、表向きはさうでいふ事になってゐても、ちょいちょいお部屋に通す人もありますが、まあ、見て見ないふりをしてゐるんです」
「青年畫家といふ人はお部屋へ入らないでせうか？」
「あの夫人は規則はよく守って下さいますよ」
「すると外部からの惡戯ではないと思はなくっちゃなりませんね。ドアや窓には全部鍵がかってゐたと云ふし、女中は湯槽につかってゐた、夫人は居眠りをしてゐた、その間にダイヤが空中に舞ひ上って消え失せたと云ふんでせう？」
「全くさうなんです。外部からは絶對に入れません、それにあの首飾一つだけが盗まれて、他のものは何一つ盗まれてゐないんですからね。貴重品はまだいくらもあったでせうに――」
「とにかく、調べてみますから一兩日待って下さい。どうしても私の手におへないやうでしたら、警察へ訴って頂くことにいたしませうね」と云って、私は支配人のところを去った。
３
侍女の美枝子が通ってゐるといふダンスホールに、假面パーティの催しがあると聞き込んだのは、その日の午後であった。私は夫人と引きはなして彼女ひとりだけに會ってみたいと思ってゐた矢先だったので、私は直ぐに入場券を買ひ、同時にマスクも一つ買って置いた。
私は日の幕れるのを待つ間に、もう一度ホテルに引き返し、周圍をすっかり調べてみた。西久我夫人の部屋は外部の窓からは絶對に入れないことをたしかめた。が、その窓の下、恰度壁にあの小さな穴の開いてゐたあたりかと思ふところに、靴のあとが微かに殘ってゐた。地面がかたいので、はっきりとはわからないが、二三日前の雨降り後についたものであることだけは、たしかであった。靴は女物かと思はれるやうに小さかった。
建物に添って裏へ廻はると、炊事場と隣り合せにボーイの寝泊りする六疊ばかりの部屋が別棟になってゐた。それにつゞいて物置きが二つあった、兩方とも六坪ほどあって入口はボーイの部屋と背中合せになってゐた。戸には鍵がかってゐなかった、中はがらくたがところ狹いまで入ってゐた。ほこりにまみれた椅子、脚のとれた卓子、階段のこわれたもの、それ等の間に十數本の釣竿が繩でくくって放り込んであった。その中の一本は地面に轉がってゐた、私はそれを拾ひ上げて見た。
ホテルには以前大きな池があって、退屈な客のために釣り堀が出來るやうになってゐた、が、今は退屈するまで滞在する呑氣な客もないので、池には魚も放たなくなり、魚はいつともなくへってしまって、釣堀りはもう出來なくなった。釣竿はその當時客に貸したものであった。釣針も殆ど赤く錆びて、長く使はない事を語ってゐた。私は倒れていた一つの釣竿の針をぬいて懐に入れた。
ホテルの通用門から出ようとすると、紺の背廣を着たスマートな青年が入って來た、どうやら先程サロンの入口に立ってゐたボーイらしかった、白い上衣を脱いでゐたので見違へてしまったが、色白のやうに優しい眼に見覺えがあった。
私は振り返って見ると、門柱のかげに身を寄せて、じいっと私を見送ってゐるのに氣がついた。彼の方は私が何人であるか知らないのだらう、ダイヤ紛失事件の直後な事で怪しい女と思って見てゐるのに違ひない、きっと支配人のところへ知らせに飛ふだらうと思ってゐると、果して彼は身をひるがへして支配人のゐる部屋の方へ飛んで行った。
私は二三ヶ所へ寄ってから、ホールへ馳けつけた。マスクといふものは大變に人の心を大膽にさせるものだ。私は隅の方でみんなの踊るのを見てゐた。このホールにはダンサーがあまりゐなかった。同伴歡迎なので、連れのない私はダンスの相手がない、いやでも壁の花で我慢するより仕方がなかった。
「御一緒に願へませんか？」
これも相手のない、中年の婦人が誘ってくれたのを幸ひ、私は起ち上った。
西久我夫人の侍女は間もなくやって來た。夫人の傍にゐる時とはまるで人が違ったやうにうきうきとはしゃいで、相手の青年と樂しさうに踊りはじめた。ダンスもなかなか上手だったが、着てゐる服装の立派なのにも驚かされた。マスクにかくれてゐるので顏はよくわからないとしても、どうみても女中とは思はれない。私は踊りながら近づいて、それとなく彼等の會話に耳を傾けた。連れの青年には三覺えがなかった。
彼女は腕時計を見ては、しきりに入口の方に氣を配ってゐる様子だった。
「誰かと約束があるんぢゃない？ いやにそわそわしてゐるな」と青年は眉をよせた。
「うゝん、約束なんかありゃしないが、小母さんが嚴しいんだよ。おそく歸るとうるさいんだもの」
「小母さんと云ふのは公爵夫人の事らしかった。
「いつまで滞在してんのさ」
「わかんない。小母さん氣まぐれだから、明日にも何處かへ行かうと云ひ出すかも知れないわ」
「ぢゃ、今夜はつきあってくれるんだらう？」
「いやあん。そんな時間ないもの」
「約束のもの、持って來たぜ。君にプレゼントしようと思って」
「ダイヤ？」
私は何がなしにドキンとした。
「うん。お氣に召すかどうか。公爵のお姫様氣むづかしやだからなあ。だけれど、僕にしちゃ、せい一杯のところ大奮發なんだ、見てくれる？」
二人は踊りつゞけながら、部屋の隅へ行って立ち止った。青年はボケットから指輪を出して彼女の指にはめやうとした。小さなダイヤの入った白金だった。彼はさぞ彼女が喜ぶだらうと期待してゐたらしく、得意さうにじっと横顏に見入ってゐた。
彼女はすいとそれをぬいて、彼の手に返し、
「いらないわよ。私、ダイヤほしくなくなっちゃった」
青年は鳩が豆鐵砲食ったやうな顏をした。
「どうしたのさ。あんなに欲しがってゐたのに――」
「こんな小ッちゃなの氣まりが惡るくって、はめちゃゐられないわ。小母さんがダイヤ道樂だから、私この頃すっかり眼が高くなっちゃった。大きな、立派なものでなくっちゃ、いやだわ。そこらにゐるダンサーにでもやんなさいよ。私にはちょいと――指が泣くわ」
と云って、ついと青年の傍を離れた。青年は膚を白くした。顏をゆがめ、頬を引きつらせて、しばらくじっと彼女の後姿を見てゐが、やがて大股でホールを出て行った。
私は美枝子の見かけに似合はないその態度に呆れた。が、彼女の指を見た時なる程と合點がいった、細いすんなりとした指には大粒のダイヤが光ってゐた。
いかにダイヤ道樂の夫人の侍女だからと云って、女中がこんな立派なものを身につけてゐるのはどうしたことなのだらう。晝間ホテルで見たあのあどけない顏を思ふと、今夜の彼女はまるで別人のやうな感があった。
侍女は一人になると直ぐ新らしい相手が出來た。ホールへ通ふ青年連の間では彼女は大變もてゝゐるらしかった。夫人は何も知らないで、戰災孤兒としていつくしんでゐるのだらうが、彼女はなかなかのしたゝか者だった。恐らくこのダイヤの指輪も、どの青年からかの贈り物であらう。
私は心に期してゐる事があるので、彼女の歸りを掴まへて話しかけようと、先へホールを出た。
出るとばったり一人の青年に出遇った。それは先刻ホテルの裏門で遇ったボーイであった。
彼はいそいでゐたのと、私がマスクをかけてゐたのとで、氣がつかなかったらしかった。
私は暗いかげに小一時間もたたずんでゐると、侍女はボーイと連れ立って出て來た。私は二人の後を尾けた。
ボーイは、一寸あたりを見廻はしてから低い聲で云った。
「裏門のところで、先刻の女の人に會った、ドキンとしちゃった。あれ、何んだらう？」
「私立探偵なんだってさ」
「探偵？」
「ふふん。女の探偵なんか、何が出來るもんか」
「氣持ちが惡いなあ。探偵なんかがホテルに入り込むなんて――」
「意氣地なし！ あたいは面白いよ。からかってやらうと思ってんのさ。女の癖に生意氣だもの」
「相變らず、強氣な事を云ふなあ。そのくせ――」
「弱蟲だッてんだらう？」
「俺だってな、すねにきづを持ってなけりゃ強いんだぞ」
「オヤ、あんた、何かきづを持ってんの？ 人並みの事を云ふぢゃないか。してみると、ダイヤ泥棒はあんたか知ら？」
「馬鹿ッ！ 飛んでもないことを云ふ。壁に耳ありだぜ」
「うふふ」
彼女は肩をゆすって可笑しさうに笑った。
４
暗い路にさしかゝった時、私はふいとうしろから聲をかけた。
「西久我さんの美枝子さんちゃありませんか」
と私は馴れなれしく傍へよった。
「あゝ、やっぱりさうでした。何んだかお見かけしたやうな方だと思ひましたが」
彼女は立ち止って、じっと透かすやうに見てゐたが、急に態度を一變して、しとやかに、
「はい。あの先刻お目にかゝりました先生でいらっしゃいますか、失禮いたしました」と丁寧に頭を下げた。
「私も一寸ホテルにこれからまいりますから御一緒させて下さい。こゝら邊は淋しくっていやですね、ボーイさんのお連れがあるからいゝやうなものの」と云ふと、當惑していたらしいボーイは度胸をすゑて一歩前に出た。
「西久我さんからお頼まれして、お迎へにまいりましたんです」といひわけした。
三人は侍女を中に挾んで歩いた。
「先生、ダイヤは出ますでせうか」と突然侍女が口をきった。
「さうですね」
「ホテルの方達もお困りのお様子ですが、私が一番いやなんですの。紛失したなんて云はれると何んですかねえ、困っちゃいますわ。何とかして、先生のお力で盗んだ人を掴まへて頂きませんと、みんな疑はれてゐるやうで氣持ちが惡るくって――」と甘へたやうに私の顏を覗き込んだ。
「紛失したといふといやすが、でも、なあに――、あんなつまらないもの、失くしたって大した事ぢゃありませんよ。夫人が騒ぎ過ぎるんです」
「と、仰しゃいますと、何かあのダイヤは？」
私は大きくうなづいて、
「あれは、あなた、ガラス玉ですよ」
「えッ！」
悲鳴に似たやうな聲が二人の唇から出た。
「これは内密のお話ですから、漏されちゃ困りますよ。あんなものを盗むなんて、よっぽど間抜けな、眼のない泥棒ですよ」
「僞物ででもあるんですの？」
「さうですとも、僞物を盗んで刑務所へ行くなんて大馬鹿者ぢゃありませんか」
「やっばり泥棒が入って盗んだんでせうか、奥様はダイヤが自分から姿を消したんだと仰しゃってゐらっしゃいますが―― 、私はバッスルームにいて何も存じませんでしたが――」
「何處から入ったんでせう？」とボーイも乗り出した。
「私はね、すっかり調べ上げましたので、これから支配人のところへ報告に行き、その足で警察へ訴へ出ようと思っているんですが、あなた方の事だから内緒で話して上げますけれど」
「是非、どうぞ」
「お話下さい。よく早くおわかりになりましたですな」
「先づ第一にあのダイヤの事を話しませうね、西久我さんはあのダイヤがあまりにも有名なので萬一の盗難を恐れ、秘かにあれと寸分違はぬ僞物を造って、夫人のとすりかへて置いたのですよ。それとも知らずに、夫人は大切に銀行に預けて置いたのです。あのダイヤ一つあれば生活に困るまいと思ってね――。
最近いろいろの事情から金にかへる必要があって、それには廣告のために人の集まるところには首飾をつけて出ようと思はれたんです。何分西久我さんのダイヤといへば誰知らぬ者もないのですから、まさかそれが僞物と變ってゐるとは思ひやしません。泥棒までが眞物と信じた位なんですからね」
熱心に耳を傾けてゐる二人を見ながら、私は言葉をつづけた。
「泥棒は二人でした。一人は外部から、一人は内部に、協力してやった仕事なんですよ」
「まあ、二人して？ 恐しいこと？」と彼女はほうっと息を吐いた。
「私は壁の小さな穴を發見してよく調べてみますと、小刀か何かで穴を少し大きくけづったのがわかりました。壁土が床に、ほんの少しばかりでしたが落ちていましたしね。外部の者はあらかじめ穴を目立たぬ程度に大きくして置きました。そこで、かねて用意して置いた釣竿に新らしい釣針を買って來ました。買った店も調べましたが、買ひに來た人物の人相も私の考へている人とぴったり合ひました。
その人はつり糸をあの穴から垂らしたのです。内部の者はその針にダイヤの首飾の鎖を引っかけました。そして靜かに首飾をあの穴からつり出したんですよ。だから、夫人が夢心地で見たといふダイヤが宙に踊りながら消えたといふのもわかるでせう？」
二人は答へなかった。
「そんなに苦心して盗んだものが、實は三文のねうちもない僞物だったと知ったら、泥棒はさぞ口惜しがることでせう。天罰ですよ、面白いぢゃありませんか。そしてその首飾は何處にかくしてあるかと云ふことも突きとめてありますから、もう逃げようたって逃げられやしません、袋の中の鼠ですよ。それにあんな有名なものは盗んでも賣る事が出來ません。直ぐ足がつきますからね、寶の持ちぐされですよ。いや危險な寶です。あれと引きかへに刑務所のドアが口を開いて待っていようと云ふのですから。何んとしても馬鹿な泥棒もあったものですね」
私は、しゃべるだけしゃべってしまふと、
「オヤ、もう大分夜が更けていますね、ちっとも氣がつかなかった。もう今夜はホテルへ行くのは止めませう。明朝早く行ってもおそくはないから、では、こゝで失禮します。夫人によろしく仰しゃって下さい」
と云って別れた。
翌朝支配人を訪ねると、
「ダイヤの首飾が、もとのテーブルの上に戻っていたさうです。西久我夫人は狂氣のやうになって喜んでいられます。それを發見した侍女を褒めちぎっていますよ」と云った。
「罪人を出さないでようございました。西久我さんのダイヤは直ぐに銀行へ預けるやうにお傳へ下さい。あれは僞物ではないんですから、危險ですよ」と云った。
二人はダイヤの首飾をつり、私は彼等をつって、ダイヤを吐き出させたことを、支配人に語ったのだった。
注）明らかな誤記誤植は修正しています。句読点は変更したところがあります。文節頭で一文字空けを追加したところがあります。
注）推測で補った文字もあります。●は推測もできませんでした。
猟奇犯罪「假装女体」
「犯罪雑誌」 1948.06. (昭和23年６月号) より
「しかし、君――、うまいなあ。どう見たっても女だぜ」
「さう？ そんなにうまく化けてる？」と、妙にぎこちないしなをつくって見せる。
「うむ。まるで女だ」
つくづくと顏を眺められたり、肩を撫でられたりして感心されると、流石のみい公もくすぐったくなって、思はず假面の下で頬の赤らむのを覺えた。
「あんただって、うまいわ。假面をとった顏はどんなだか知らないけどかう見たところはまるで俳優だわ。藍みじんの着物なんか着てさ。姿はいゝし、ぱりッとしてゝ好い年増ぶり。惚れ惚れしちゃうわ」
これは終戰後四年目のクリスマス假装舞踏會の夜のことであった。
みい公は着馴れた洋服を脱いで、一張羅の紅入友染の晴着を着てみたが、どうにもうまく着こなせない。和服は苦手だ。
まるで男が女の着物を借り着したやうだよ。と云はれたのから思ひついて、これも同じ苦勞をしてゐる連れのちい公としめし合せ、二人とも男だといふことにしてしまった。それならぴったり板につく。
相手の中年の男はすっかり本氣にして、これが蔭間と云うものかと、
「男の子ならなほいゝね。問題が起らなくってさあ――」
「あらッ。あんた、わかってんぢゃないの？ オホヽヽッ」
「何が？」と不審そうな顏をするのに、
「とぼけるの止しなさいよ」
云われて藍みじんの男は、心の中で、はゝあとうなづいた。そして改めて彼女の顏を見た。鼻から上を假面でかくしてゐるのでわからないが、眞赤な唇から皓い齒をちらりと見せて、にッと笑ふと頬にゑくぼが出來る。顎がくびれて可愛らしかった。假面を外してちょいと顏が見たいと彼は野心を起した。まだ二十前らしい、感じだった。
假装に加へて假面で顏の半分をかくしてゐるので、ホールの中の男女は大膽だった。二人は息もつかずに踊った。男はある大會社の重役であることをそれとなくほのめかして、金持らしく振舞って見せた。女にかけては相當自信のある男も、彼女の聲の奇麗なのと踊りのうまさに魅せられたようだった。
「よく踊るね、ダンサーやってたの？」
「あたし？」クスッと笑って、「女ぢゃないもの」とわざと首をふる。
「あ――、さうだっけ。僕が上海にゐた時、君によく似た女がゐてね……」
「あらッ、あたしら上海仕込みよ」
「ほう。それゃ不思議な御縁だなあ。ぢゃ君だったか知ら？ 虹口のキャバレーにゐた――」
「また！ あたい女ぢゃないッてば――」
「しかし、よく似てゐるなあ」
「他人のそら似ってこともあるわよ、よっぽどいゝ事があったと見えるのね。あんた、奥さんはあるんでせう？」
「あるさ」ととぼそりと男は云った。
「奥さんが着つけしてくれたの？」
「冗談ぢゃないぜ。こんなところ女房が見たら、離縁問題が起らあ」
「ぢあ、内しょなの？」
「無論さ」
「誰に着物着せて貰らったのさ？」
「つまらない事訊くなよ。會社の歸りに――」
「何處かへ寄って着せて貰らったんでしょ。憎らしい！」女は唇を曲げて腕をつねった。
「あいたッ。ひどい奴だなあ」と着物の上から腕をさすると、
「あざが、出來ても、あたい男だから大丈夫よ」
彼は重役會議の歸途、馴染みの待合の女將から着物を借りて、舞踏會へやって來たのだった。サントリーの醉も手傳って、うかうかと時間のたつのを忘れてゐた、道樂をしつくしたと自分だけでは思ひ込んでゐる彼も、みい公が男だと聞いてから、急に新らしい好奇心が湧いて來た。初もの食ひの好きな彼は、どうにもこのまゝ、家へ引揚げる氣になれなかった。
「どう？ ホールを出て何處かつきあはないか」と誘ひをかけてみた。
「いゝわ。けど――、あたいお連れがあるのよ」
「お連れ？」
「やっぱりあたい見たいな男の子……」
みい公は白い手を高くあげて振った。すると同じやうな格好の、同じ位の年頃のが馳けて來た。
「紹介するわ。ちい公ってんの」とみい公はちい公の手をとって、彼へ引き合せ、握手をさせた。
「ぢゃ、そろそろ出かけるとしようか」
彼を眞中にいれて、三人は肩を並べて歩いた。みい公は組んでゐた彼の腕をぐいと引きよせ、低い聲で、
「ちい公をまいちゃって、何處かへ一緒に行かない？」
ちい公は聞えないやうな顏をしてゐた。
「御馳走して歸しちゃいませうよ」
「うむ。それもいゝな」と男は乗氣になった。
「あんた、何處かいゝとこ知ってるの？」
「この邊、あまり知らないんだがね、君の方が委しいだらう？ とにかく、うまいもの食はしてくれよ」
「躍るとお腹が空くわね。ぢゃいゝとこへ行きませう。ちい公あすこ、まだやってるか知ら？ 先へ行って見ておいでよ」
ちい公は素直に馳け出して行ったかと思ふと、間もなく引き返して來て、
「やってるよ。赤い札が出てるもの……」
ひっそりとした露地の奥の、しもたや風な一軒の家へみい公は彼を案内した。
格子をがらりと開けたが誰も出て來ない、玄關は眞暗だ。みい公は彼の手をぐいと握って、とッつきの階段を昇った。
「あんちゃん！ いゝかい？」
みい公は上りぱなの襖をがらりと開けた。パッと明るい電燈の下で、意氣なあんちゃんが板を前にして、銀しゃりをにぎってゐた。大藥罐に湯がぐらぐらと煮立って、むっとするやうな温かさだった。
壽司屋のあんちゃんは、じろりと三人を見て、
「へい、いらっしゃい。誰かと思ったらみいちゃんかい？ 假面なんか被ってゐるもんだから、すっかりおみそれ申しちゃった」
と急に笑ひ出した。
「早いとこ願ひますよ。 トロをね――」
「そとは寒いでがせう？」と云ってついでくれる熱い酒を、
「こいつあ有難い」とばかり彼はみい公の酌で盛んに飲んだ。外へ出た時には足をとられてゐた。
「オイ、これから何處へ連れてってくれるんだい？ ちい公はどうする……」
「先へ歸しちゃうわ」と云って、ちい公の耳に口をよせ、
「見えかくれについて來るんだよ。わかってるだろ？ いゝかい」
ちい公は萬事呑み込んで歸るふりをした。彼はちい公の姿が見えなくなると、急に寄り添って肩に手を廻はし、
「いやに、淋しいところだな、こんなとこに家があるのかい」
彼は男の子を相手にするのは始めてだったので、年甲斐もなく胸をわくわくさせてゐた。
「假面なんか脱しちゃへよ。どんな顏をしてゐるんだ、見せてみろ」とのぞき込んだ。
「さあ、こゝよ」その酒臭い彼の顏を拂ひ退けて、燒跡にぽつんと殘った土藏の前に立ち止った。そして扉を開けると、
「お入んなさいよ」と背中をどんと突いた。彼はよろよろとよろけながら入ったと思ふと、いきなり胸に拳銃を突きつけられていた。
「騒ぐと。ぶッ放すぞッ」
仕方なく彼は默って、手をあげた。
「ヤイ、ちい公、何を愚圖々々してるんだ。うちポケットのふくらんだ紙入は、そっくり貰らっちまへ、ついでに、その藍みじんの着物もだ。柄が氣に入ったから、かまやしない。脱がしちゃいな」
いつか傍に來てゐたちい公は、目にも止まらぬ早やさで、懐中物から着物まで奪ってしまった。彼は呆氣に取られて、茫然としたまま彼女等のなす通りになってゐた。一人と一人ならこんな小僧ッ子に勝手な眞似はさせないが、何分相手は武器を持ってゐる、此方は素手だ、勝負にならない、おまけに先方は二人と來てゐる。彼はすっかり觀念して眼を閉ぢてゐた。
「明日の朝までこゝに寝てゐなよ。あたい達の仲間が外で張り番してゐるから……」
二人は悠々と出て行った。アパートまで戻って來ると、丁度植えこみの蔭のところで、二階のダンサーが送って來た男と熱い抱擁をしているのが眼にうつった。
「みい公、いゝ度胸だね、あたい、惚れ惚れしちゃった」ちい公は部屋に戻ると、しみじみ云った。
「何、云ってやがんだい。うまく行ったからいゝやうなものの、あたいはこの體をはってかゝったんだよ」
「ほんとかい？」
「さうさ、下手をすりゃ、あの男に今晩は、自分の體を賣らなきゃならない羽目だったもの」と呟いたが、その聲は淋しかった。
「ねえ、ちい公、お互にいくら働いても、働いても食べられないから仕方がないが、こんな事をやるのはあたい、いやになったよ」
「食べられりゃ誰だって、まっとうな人間になるよ」
「まあ仕方がないや、それにあのひとは、ろくに働きもしないで重役だなんて、ヤミ屋のくせに氣取って、たんまり金を持ってたんだから、たまにゃあたいらみたいな、貧乏人にほどこしてもいゝだらう」
と呟きながら寝間着に變へるために、シミーズまでとって、裸になったみい公は、ぶるーっと身体を震わせると、いま奪って來た着物をちい公に投げ出して、
「あのひとも、裸體ぢゃ寒いだらう。これ、返してやんなよ」と耳うちして着物を抱えて馳けて行くちい公の後姿を見送りながら、
「……みい公がいたから、しょう事なしに、あのひと裸にしてしまったけど、わたしが上海でダンサーしてた時、たしかあのひとは、よく來てくれたわ――マスクをしていてさへ、あんなに覺えていてくれたんだもの、あのひと、あたいが女だとわかっても、好きだと云ってくれるかしら」
そこし淋しそうに、ズベ公にも似合ぬ泪のひとしずくを、彼女はそっと細い指先で拭うと、かわいた唇にパンツひとつの素裸のまま、口紅をぬって、また女に戻る仕度をした。
―（了）―
注）句読点は追加したところがあります。
注）―は一文字分ですが二文字分に改めています。
「辨當箱の誘惑」
「性苑」 1948.06. (昭和23年６月) より
１
銀座裏にバラック建てながらしゃれた土筆といふおしること生菓子を食べさせる店があった。藥品を使はないのがこの店の自慢で、特別の客には昔に變らぬこってりとした甘いのを出すといふのが評判になって、店を開ける早々から、閉める時までワンサワンサと詰めかけて、いつも大入り滿員の盛況であった。
レヂの小母さんといふのは土筆の女主人であるが、支那からの引揚者だといふことで、日本人ばなれのした顏の背の高い、支那服でもよく似合ひさうな細長い體つきの婦人であった。黄色と黒の瀧じまお召の着物の上に事務服をきりゝと着て口紅を濃くつけてゐる。こゝの定連は映畫女優からダンサー、土地の顏役連中、ぐっと下ってパンパンガールといふところだった。
「小母さん、スー公來てゐない？」
黄いろいのれんをぱっと分けて顏を出したのは、淺草でいま賣り出しの女優Ｋ館のみどりだった。
「あゝ、今しがた出かけたよ。すぐ、歸るからって云ひ置いてね、みいちゃん、あんた、スーさんに急用でもあるのかい？ 昨日も三度、訊きに來たってぢゃないか？」レヂの小母さんはお客に釣り錢を出しながら、みどりの方は見ないで答へた。
「約束してあるんよ。だのに、行き違ひにばかりなって癪だわ。」
「ことづて、きいといて上げてもいゝよ。」
「だって、いそぐんだもの。あたい、どうしようかなあ。」みどりは綺麗に剃りつけた眉を寄せて、一寸考へてゐたが、急に首だけ後ろに向けて、往來に立ってゐる女と何か低聲で相談してゐたが、
「小母さん、あたい、奥で少しの間侍たしてくれない？」と甘へるやうに首をかしげた。
「あんた、おつれさんがあるの？」
「お友達よ。小母さんに紹介しとくわ。あたいと一緒に出てゐるのよＫ館に――小夜子さんっての。ちょいと、小夜ちゃんおいでよ。」とよばれて、同じやうなつくりの女の子がみどりの傍へやって來た。小夜子はにっと笑ひ、小母さんに挨拶した。
「裏から、上んなさいよ。」
二人の白い顏が、のれんからすっと引込むと、店の中が急に暗くなったやうだった。
彼女達は手をつなぎながら、一軒置いて隣りの水産物問屋の横の小路を入って、ぐるりと廻はり、土筆の裏口へ出た。
木戸を開けるとそこの三尺の土間には駒下駄だの、靴だのがげたげたと亂雜に脱ぎ捨ててあって、こゝも表の店と變りのない大入りを示してゐた。
みどりは小夜子を外に待たせて、自分だけ中に入り、脱いだ靴を臺所の棚にのせてから、取つきの六疊を覗いてみた。赤いふとんをかけた置炬燵の上でお花をひいてゐるもの、麻雀をやってゐる人達、トランプでかけをしてゐるのや、隅の方では早いとこカブをやってゐる者達もあった。みどりは敷居際に立って、みんなの頭を嘗廻はしてゐたが、
「あゝら、スーさん、ゐるぢゃないの？」と、壁を背に勝負を眺めてゐる男に聲かけた。彼はひょっと顏を上げて、
「あゝ、みい公か。僕今來たばかりなんだよ。」
「ちょいと、出なさいよ。」頤で招いて裏口からあたふたと外へ出た。
「小夜ちゃん、そっちの方へかくれてゐてよ。スー公と取り引きがあるんだからさ。」と手をふって、口早やに云った。
スーさんとよばれたのは二十五六で、細面の眼の鋭い、氣の利いた青年だった。彼は水口に脱ぎ捨てある赤い鼻緒の女下駄を靴下の上から突かけて、兩手をズボンのポケットに突込み、歩きにくさうにはきものを引き摺りながら、前屈みになってやって來た。
「スーさん、約束のもの持って來た？」
「腕時計か？」
「うん。」
スー公はズボンの中を探ぐって、無造作に掴み出したのは小粒だがダイヤの光ってゐるプラチナ女持ちの時計だった。
「十六ダイヤが入ってゐる、ロンヂーだ。」
「いくら？」
「筋向ふの時計店であたってみたら、一本位なら引き取ってもいゝって云った。」
「一萬圓？ その上を出たら、それだけ手間賃に貰ってもいゝの、欲しいって人があるの。いそいでゐるんでね。」
「原價だけ貰らへばいゝよ。あとは君が儲けたらいゝんだ。」
「原價、いくらなのさ。」
スー公は答へなかった。そしてふと思ひついたやうに、
「欲しいって云ふの、どんな人なんだい？」
「ダンサーなの、旦那の氣が變らないうちに、ばりばりぼっちまうという寸法なのさ、なるべく高價なものがほしいんだって、あとがきくからね。早いとこ頼むわよ。今からお金はいくらでも出すさうだから。」
「ダイヤのブローチなんかどうだね？」
「いゝでせう。あるの？」
「中古品だが――。」
「ダイヤなんか古いも新らしいもありゃしない光ってさへすりゃいゝんだもの。」
「冗談ぢゃないぜ。少し眼の利く人だときり形が舊いの、疵があるのッて、うるさいことを云ふぜ。」
「なら、特別格安にしとけばいゝぢゃないの、どの位なの？」
「さあ、買ふ人次第――。」
「だって、大たいのねだんってものあるでせう？」
スー公は苦笑して、
「みい公の事だから何んでも負けてやるよ。安くしとかあ。それもまあ一本位のとこかなあ。」
「ぢゃ、明日持って來て見せてね、今日腕時計届ける時話しておくから。」
みどりは新聞紙に包んだ札束をスー公に渡して、
「勘定して頂戴、ジャケツが八百圓、男物懐中時計が二千圓さ。女靴が千圓の靴下と手袋とで九百圓、〆て四千七百圓ありますから。」
「三千圓だけ貰へばいゝ。あとは君の手數料だ。」
みどりは一寸頬を赤くしたが、默って受取った。勿論、彼へ渡す前に上前をはねて、儲けは先に懐へ入れての勘定だったのだが、くれるといふなら何も遠慮するにはあたらない、スー公だって、どうせぼろい儲けをやってゐるに違ひないのだ。
彼女は金を渡し、腕時計を借りて懐ヘ入れた。
「ぢゃ、明日、またこの時間にこゝへ來るわよ。」
「もう歸るのか？」
「取り引きがすめば用はないもの。お店の小母さんとこでおしるこ食べて歸るわ。」
「小母さんの方は僕があとで一緒に勘定するから、知らん顏でいゝぜ。」
「ありがと。」
みどりは馳け出して行ったかと思ふと、急に引き返して、彼の傍へすりよって來た。
「ちょいと、スーさん。今夜ホールへ行かない？ いゝ人紹介して上げるわ。」
「どんな人？」
「小夜子さんッて、私と一緒に大陸から引き揚げて來た女優よ。素晴らしい脚をしてゐるの。」
「行ってもいゝが、少しおそくなるぜ、今夜、大切な取り引きがあるんだから。」
「またお金儲？ おそくってもいゝわ。ぢゃ約束したわよ。きっと來てね。小夜子さんと踊んなさいよ。ダンスとてもうまいの。」
スー公はみどりに別れてみんなのところへ戻って來ると、急に景氣づいて．札束をかけては氣前よくとられてしまった、が、彼は別にそれを氣にもかけないやうに笑ってゐた。
隣家のそばやに注文して置いた親子丼をみんなと一緒に食べて、日が暮れる頃まで遊んでゐたが、灯がつくと急に狼狽てゝ歸って行った。
２
みどりは小夜子と肩を揃へて樂屋口から往來へ出た。月が冴えて、道路は凍てつくやうな寒さだった。
「おゝ、寒いッ。」とみどりは身ぶるひした。
「ホールで、うんと踊るとあったかくなるわよ。」
みどりは默々として何か考へながら歩いてゐたが、急に頭をあげて、
「あたい、一層ダンサーにでもならうか知ら？」
「何故さ。」
「だって、お金がとれるでせう？ その方が――。」
「みいちゃん位になったら、やめるの、もったいないわよ。」
「でもねえ。女優の月給位ぢゃ、とても食べていけないもの。」
「あんた、スーさんに稼がせて貰らってるからいゝぢゃないの。そこへゆくとあたいなんかパトロンがないんだもの、心細いよ。」
「スー公なんか、あたいのパトロンぢゃないよ。稼がせて貰らうッて云ふけど、あれゃお互ひの共同事業みたいなもんなんだよ。仲買ひに儲けられるのが癪だから、あの人の手にいれたものを、あたいが直接買ひてにはいてやるのさ。だから、今夜、あんたを紹介して仲間入りさせて上げようって云ふんぢゃないの。」
「それゃありがたいけれど、スーさんって人一體何商賣してんの？」
「そんな事知るもんか。マーケットに出てゐるッていふけど――、何商賣だっていゝぢゃないの。お金がとれて、ふんだんに使へるなら何んだって構はない。今の世の中、職業なんか據り好みしちゃゐられないわ。あたい達だって、まごまごしてゐりゃ食ひっぱぐれちまうわよ。あゝ、それにしてもこゝで一寸纏ったお金が欲しいなあ。引揚げの時あれっぽっちしか持って歸れなかったんだもの。
昨年は引揚げ早々で何もございませんで通ったけれど、今年となりゃもうさうはいかないわ。上等のオーバーもほしいし、ホールで着るワンピースもなくっちゃ肩身が狹い、毛皮の外套も惡るくないな、あゝ、欲しいものだらけだ。」
「あたいは今のところ、さし當って要るのは純毛のスーツだわ。だって、一着もないんだもの、ズボンのお尻もすれちゃって心細いのよ。肌ざはりが柔らかくなっちゃってね。どうなる事なんだらう、一本位のお金が人らなけりゃこの冬はあたい越せないわ。」
金の話になると二人は眞險だった。みどりは溜息を吐いて、
「四疊半のアパートに二人一緒に住んでゐて、これだけ稼いでも足りないんだから、とても、まともなことぢゃ暮らしていかれないね。」
「それかと云って、惡るいことも出來ないし。」
「今朝も出がけに高圓寺の叔父さんとこへ行って、散々こぼして來ちゃった。叔父さんすっかり同情して、あんまり苦しかったら、そのお友達も連れて家へ來いよと云ったわ。だけど、叔父さんは牧師さんだから、とてもコチコチよ。」
「私達にはねえ。」
「ゐられないけれど、いよいよとなれば我慢しなけりゃならない。」としみじみ云った。
「いよいよとならないやうにさ。だから、一生懸命に働かうよ。」と小夜子は鼻をすゝった。話はだんだんしめっぽくなった。夜道を歩いてゐると頭の仲間で眞暗になるやうな氣がするが、ホールのパッと明るい灯の下に立つと、二人はいままでのじめじめした氣分が一掃されて心が浮き立った。
みどりはスー公を眼で探してゐたが、まだホールには來てゐなかった。
「スー公、とてもおそくやって來ることがあるのよ。それに今日は大切な商賣があるなんて云ってたから、何處かで御馳走になって、ゆっくりやって來るんぢゃないかな。此方はそれに引きかへて腹ぺこだ。」
「スーさん、羨しいねえ。」小夜子はみどりの顏いろをみながら云った。
十一時になって、やと彼は姿を見せた。彼女達は飛びつくやうに傍へよって、
「おそかったぢゃないの。」とみどりは咎めるやうに云った。
「うん、先方の來ようが遅くって、手間取っちゃった。」
「その代り、たんまり入ったんでせう？」
「さうでもないさ。」
「おごんなさいよ。」
「うん。」
みどりは小夜子を紹介して、
「ねえ、小夜ちゃん、あんた、もっと踊りたい？」
「どっちでもいゝわ。」
「ぢゃ、出ようよ。そしてスーさんに御馳走して貰らほう。私たち、とてもお腹が空いてんのよ。」といろ氣のないことを云ふ。スー公は二人の云ひなりになって、僕女たちの行きつけのおでんやにけ入った。
「小母さん、おいしいたねある？」
小母さんは湯氣の中から顏を上げて、
「あゝ、あんたの好きな玉子とかまぼこがあるよ。」
「スーさん、何がいゝの？」
「何んでもいゝや。」彼は疲れきった顔をして、しきりに生欠伸をした。
「ぢゃ、小母さん、うまそうなもの、何んでもいゝから澤山つけてよ。」
おでんを食べながら、それとなくスー公の様子を見ると、晝間見た時とはすっかりみなりが變ってゐた。鼠いろのスーツを着て立派な折鞄を持ってゐた。ところがそのみなりに似合はず汚たない、ぼろぼろの風呂敷包みを大切さうに抱へてゐるのに氣がついた。
「その汚たない包み、何んなの？」とみどりは訊いてみずにはゐられなかった。
「これか？」と風呂敷の上をおさへて、
「辨當箱さ。」
「馬鹿に大きいのね、お辨當箱にしちゃあ。」
「二つ重ねてあるんだよ。だから大きく見えるんだが、普通のアルミだ。」
「へえ。スーさんがお辨當箱持参で歩くとは思はなかった。あんたでも、やっばり御飯をいれるの？」
「飯なんか入れるもんか。」
「何、いれてんの？」
「金さ。」
「お金をお辨當箱に詰めてるんだって？」みどりは小夜子と顏を見合はせて呆れてゐた。
スー公は一寸得意になって、
「二つの辨當箱にぎっしり詰めると恰度五萬圓入るんだよ。」
「まあ、この汚たない風呂敷包みの中に五萬圓入ってんの？」
「うん、手つけを貰らって來たんだがね、折鞄に入れると危ぶないからッて、わざとこんな汚たないものに包んでくれたんだよ。」
「こんな小さなものに五萬圓も入るか知ら？」
「入るさ。入れて來たんだもの。嘘だと思ふなら見せてやらうか。」
「見せてよ。」みどりはその風呂敷包みを引ったくらうとした。スー公はその手を抑へて、
「いけない。見せてやるから放せ。」彼はみどりの手を拂って、風呂敷をといて中味をのぞかせた。
「まさか、僞札ぢゃないわね。」
「馬鹿にするない。」スー公は笑って、またしっかりと包んで、彼女達の手の届かないところに置いた。
３
二人は歸りの道順が同じだからスー公と中央線で中野驛まで一緒に行くことにした。みどりは何とかして、彼の持ってゐる金を捲き上げてやらうと思った、同じ思ひの小夜子もその金に惹かれてゐるのをみどりは早くも感づいて、スー公がおでんやの小母さんに勘定したり、用を達したりしてゐる間に、そっと小夜子の氣をひいてみた。
「あのお金、何とかならないかなあ。」と冗談のやうに云った。
「アパートへ誘ったら？」と小夜子は忽ち乗って來た。
「駄目、駄目、スー公はそんな手に乗るやうな男ぢゃないよ。正當な取り引きでなくっちゃ一文だって出しゃしない。あゝ見えても、とてもかたい人だよ。」
「だって、あんたのパトロンぢゃないか。」
「馬鹿云ってらあ。パトロンだって、ただ稼がせてくれるだけだわ。一緒に稼ぐんならいくらでも出してくれるのさ。いろ戀なんかに乗って來るやうな奴ぢゃないんだよ。」
「ぢゃあ、駄目ぢゃないの。」
「だから、考へてんのよ。何とかして、うまく捲き上げてやらうよ。」
「凄いね。みいちゃんにそんな腕があるとは思はなかった。」
「とにかく、やってみる。あたい、どうしてもお金が要るんだから。なあに、スー公だって、あゝ見えても――、とられたって、訴へるわけもあるまい。」
「そんなに、高をくゝって大丈夫かい？」
「それゃ分らない。一か、八か、八と出れゃ百年目さ。」みどりは柄にもない惡どい云い方をして、聲を立てゝ笑った。
「みいちゃんも話せるやうになったねえ。」と小夜子は呆れて彼女の顏を見てゐた。みどりはますます乗り氣になって、小夜子の耳に口をよせて、何事かさゝやいた。
「ねえ？ どう？ うまいだらう？ あんただって女優ぢゃないの。その位の狂言やりこなせないでどうするのさ。」
小夜子はうん、うん、とうなづいて聞いてゐた。
そこへスー公が勘定をすませて出て來た。
「スーさん、早くしないと終電に間に合はないわよ。」とみどりは急き立てた。
彼女達はスー公を中に挾んで、くっつくやうに歩いた。
やっと終電に間に合った。飛び乗ると同時に發車した。
みどりは妙に考へ込んでゐて、あまり口數をきかなかった。
中野驛で降りると、
「スーさん、途中まで送って上げよう。あたいたち二人連れだから安心だけど、あんたは氣をつけないと危ぶないよ。」
「金さへ持ってゐなけりゃな。どんなに更けた夜道だって平氣だけれど――。金がある時は氣持ちがよくないね。」
「それにこの頃、とても物騒なんだもの、スーさんの家へ行く途中、いやなところがあるね、あの燒跡さ。よくあすこでやられるんだって、だから十二時過ぎの獨り歩きは出來ないってね。」
「あら、もう、あんた、十二時どころか一時ぢゃないの。」と小夜子が云った。
「だから、考へると恐はくなるわ。昨夜もこの邊で追剥ぎが出たってよ。あんた知らない？」
「知らないなあ。」
「省線に乗ってゐる時から二人の男が尾けて來て、前後からはさみ打ちに、あっといふ間に肩をきられたんだって、氣がついた時は往來に倒れてゐて、大切ぼ寫眞機から鞄まで盗られ、オーヴァまでぬがせられてゐたんだってよ。アパートの小母さんが聞いて來て、皆さんに御注意しますよって、云ってたわ。」と云って、みどりは立ち止り、小夜子をかへりみて、
「小夜ちゃん、どう？ もっと送る？」
「おそいから――、だけどスーさん一人で大丈夫か知ら？」
「僕は大丈夫だよ。」と云ったが、いつものやうな元氣がなかった。みどりは直ぐ氣がついて、
「いやに沈んでるのね。一人で歸るの恐いんぢゃない？」
「冗饉ぢゃない。だけど、僕、ほんとは先刻から一寸氣になってゐる事があるんだよ。」と云って、聲をひそめ、
「ちょっと、後ろを見な。中野驛を降りた時から、僕はあの男が氣になってゐるんだ。」
みどりはうしろを振り返って見た、醉っぱらひのやうな足どりの男が、ふらりふらりと歩いてゐた。何んだ、あんなもの、スー公はよっぽど怖氣がさしてゐるんだな、と心では思ったが、彼女はわざと身ぶるひして、
「恐いわ。スーさん、あんた、狙はれてるんぢゃない？ 危ぶないよ。」
スー公は默ってうなづいた。みどりは心配さうにすりよって、
「用心して頂戴。」
「金さへ持ってゐなけりゃ、平氣なんだけれど――。」
「ぢや、斯うしたらどう？」みどりは彼の耳に口をよせて、
「この先に教會があるでせうがあすこの牧師なんてしてる人、あたいの叔父さんよ。そのお辨當箱、お金が入ってゐるなんて云はずに、だまって、明日の朝まで預かって貰ったら？ あたい、紹介して上げる。」
「こんな夜更に行ってもいゝか知ら？」
「いゝとか、惡いとか云ってゐる場合ぢゃないよ、叔父さん、起さう。ね？ その方がいい。そしてあたい達は直ぐアパートへ歸るわ。お金さへなければスーさん一人で歸れるんでせう？」
「うん。ぢゃ、そして貰らはうか、惡るいけれど――、僕、明日の朝貰らひに行かあ。」
「出來ればあの男、まいちゃいたいな。スーさん、早く行かうよ。叔父さん、起きてくれないと困るなあ。」
三人は足を早めて、それからは物も言はずに歩いた。教會と云っても名ばかりで、小さな平家建の住居であった。
みどりは門をどんどん叩いた。さすがに氣をもんで、
「惡るいな。叔父さんに叱られやしないか。」
「構はないわ。危篤の信者が出來てよく起されるって云ってたから、夜中によびに來る人もあるのよ。」
やがて、玄關に灯がつき、格子のさし錠を外す音がしたと思ふと、牧師さんの柔和な顏があかりを背にしてあらはれた。
「叔父さん！」
「うむ。みいちゃんか。どうした？ こんなにおそく――。」と怪訝な顏をして、連れの人達へ眼を移した。
「どうかなすったんですか？」と訊いた。
「どうもしやしないのよ。今アパートへ歸る途中なんだけれど、道が恐いからこの方に送って頂いてるの。」とさかさまなことを云ふ。
「あ、そりゃどうも――。」牧師さんはスー公に禮を云った。
みどりはせかせかして、
「それでね、叔父さん、突然だけれど、この方のこの包みを今晩だけ預かって下さらない？ 大切なものが入ってゐるのよ。何んだか變な人に尾けられてゐるんで恐いから、叔父さんに預けようってんで、わざわざ廻り道をして來たの。いゝでせう。」
「あゝ、よろしい。大切なものを持って夜歩くのは感心しないから。」と云ったが、一寸考へて、
「もう、大分おそいだらう。何んならみいちゃん、お連れの方も一緒に泊って行かれたらどうだね？」と親切に云ってくれた。
「大丈夫よ。それさへ預って下されば恐い事はないから、直ぐ歸ります。」と云って、先に門を出た。スー公は屈んで辨當箱をもう一度しっかりと包み直してから、
「どうも、すみません。」と丁寧に頭を下げて、
「私は須田宏と云ふ者でございます。どうぞよろしく願ひます。ではでは、明朝頂きにまゐりますから、それまでどうぞ。」と云って、あづけた。
「スー公、いやに改ってゐるぢゃないの。」とみどりは笑って見てゐた。彼が外へ出て來るのを待って、
「ぢゃ、スーさん、明日の約束忘れないでね。」と念を押して別れた。
みどりは小夜子の手を引張って小走りにもと來た處へ引返しながら、
「スー公の弱蟲、追ひ剥ぎの話で、すっかり脅えちゃったんだよ。尾けてた奴、何處かへ行っちゃったぢゃないか、あれゃスー公ぢゃなくって、小夜ちゃん、あんたを狙ってたんだね。あたい、ちゃんと知ってるよ。」
「あらッ。」小夜子は赤くなって、
「あんた、氣がついてたの？ スーさんと一緒だったんで、彼奴あきらめたのよ。みいちゃんたら、スーさんを尾けてるやうに云ったから、うまいなと思ってゐたわ。」
「さうさ。恐がらせなきゃ、叔父さんとこへあの大切なもの預けやしないもの。さあ、早く行かうよ。叔父さん眠っちまうと厄介だからね。」
二人はどんどん馳け出して、教會の門を比度はあたりに氣を配って、コトコトと指先で叩いた。
叔父さんは床に入ってはゐたが、まだ眠ってはゐなかった、すぐ起きて來た。
「叔父さん、すみません。度々起して。」みどりは低い聲で云って、彼の傍へより、
「いまの人が、やっぱり家へ持って歸りたい、お母さんが待ってゐるからって云ふの。我ままねえ。ほんとに勝手な事ばかり云って癪にさわるけれど、叔父さん返してやって下さいな。」
「ぢゃ、その方を連れて來なさい。あの方から預かったんだから、あの方の手に渡さうぢゃないか。」
「それがね、あんまり氣が變るやうで耻しい、云ひにくいから、あたいに頂いて來てくれって頼むのよ。叔父さんに合はす顏がないなんて、あの人、とても氣が小さいのよ。可哀想みたいなのよ。だから、あたいから渡してやるわ。」
「さうか、さういふわけなら――。」と云ひながら、牧師さんは奥へ入って、辨當箱を持って來た。
「では、たしかに渡しますぞ。氣をつけて早く歸りなさい。こんなに夜おそく出歩いてゐてはいけないよ。」
「ぢゃ、おやすみなさい。叔父さん、ありがたう。」
みどりは辨當箱を抱き、小夜子と體をすりつけるやうにして夢中で歸った。
４
みどりは寝そべって煙草をふかしながら、忌々しさうに、唇を歪めて、
「誰が中味をぬいたんだか、訴へてやりたい。」と空っぽの辨當箱を睨んで云った。小夜子は電熱器でお水をわかしてゐたが、
「まさか、牧師さんがそんなことをするわけもあるまい。」と云った。
「あゝ。いやんなっちまった。折角の苦心も水の泡だ。狂言はうまく行ったんだけれど、先手を打った奴があるとは氣がつかなかった。」
「もしかしたら、牧師さんがあたい達を臭いと思って、用心のために中味をぬいたんぢゃない？」
みどりはぽんと手を打った。
「うん、さうだ。さうに違ひない。あの叔父さん、とても用心深いんだからね。あの人の手に渡したいなんて頑張ったもの。あたい達を怪しいと思ったんだらう。よし取りっ返してやるから。」みどりは起き上って、髪をとかしにかゝった。
「それで、みいちゃん、今日スーさんにまた土筆で會ふ約束だらう？ 訊いてごらんよ。」
「何をさ。」
「辨當箱、取りに行ったかどうか。」
「馬鹿、何云ってるんだい。それよりかスー公に會ふの、間が惡るくって、あたい、今日ばかりは足が重いよ。」
「殊勝らしい事を云ふね。すっぽらかしてやりゃいゝぢゃないか。」
「さうは行かないよ。あんな出鱈目な男だけれど、スー公約束だけはかたいんだよ。」としみじみとした聲になって、
「弟二人を學校へやって、お母さんまで背負って、マーケット位のあがりぢゃ食べてゆけないからね、蔭の商賣は何をやってゐるんだか分らないけれど、つきあって、見りゃ惡い人ぢゃなし、引揚者同志は互ひに手をつないで助け合ふぢゃないかって、しょっちう云ってゐるだけによくめんどうを見てくれる、そいつの足がらをすくほうとしたから罰が當ったのかも知れない。」
みどいは顏を洗って鏡の前に座った。後ろの小窓がカラリと開いて、スー公の顏が鏡の中に映った。
「おい、みい公、返せよ。」
「えッ、何？」みどりは寝卷の手を掻き合せて、スー公の顏を見た。
「とぼけるない。辨當箱を――、さっさと返せ。」
「あら、もう叔父さんとこへ行ったの。」
「行くもんか。みい公の手にあるとわかってゐるのに、誰が耻を掻きに行く。」
「だって、スーさん中味は抜かれてゐるよ。」
「馬鹿ッ、あんな一幕書きやがって、僕が君達の後を尾けてゐたのを知らないのか。きっとそんなことだらうと思って、叔父さんに預ける前に風呂敷を包み直すふりをして中味をぬいて置いたんだ。僕が儲けさせてゐるのに、つけ上りやがって、僕のものを盗まうなんて、呆れた奴だ。」
「ぢゃ、叔父さんがやったんでなくってスーさんが中味をぬいて置いたのね。あゝ、よかった、今、叔父さんのところへねぢ込みに行かうと思ってたところだよ。失くなっちゃスーさんに申しわけないからね。」
「何云ってやがるんだい。」
スー公は辨當箱を受取ると、
「みい公、仲間のつきあひは綺麗にしなよ。」と笑ひながら、まるで何事もなかったやうに、行ってしまった。
注）あきらかな誤字誤植は修正しています。一部推測により補ったところがあります。
注）句読点は追加や削除ををしたところがあります。
注）原文は４章が無く５章になっていますが、５を４に改めています。
「幻の殿堂」
「別冊犯罪読物」 1948.09. (昭和23年９月) より
謎の殺人
朝のコーヒーを飲みながら、新聞に眼を通していた秋本明は思わず、
「あッ」
と聲をあげた。夫人はびくっとして、
「どうなすったの？ あなた」
印度林檎をむいていた手を止めて、夫の方を見た。僕の眼はそこにあった記事に吸いつけられていた。
「佃がね、お前、知っているだろう？ 佃英二が、彼奴が往來に倒れていたんだとさ、大怪我をして――」
「まあ、佃さんが？」
實は夫人には内緒だが、佃は仲のいゝ遊び友達で、昨夜も十二時近くまでさんざん飲み歩いて、別れたばかりだったので、思わずひやりとしたのだった。
「棍棒か何かで頭をしたゝか打たれ、人事不省に陥っていたのを、通りかゝった圓タクに拾われたと書いてある。が、佃の奴、近頃金廻りがよくって大景氣だからなあ、狙われたんじゃないか」
「恐いわ、物騒だ物騒だって話を聞いていても、遠いことのように聞き流していたけれど、こうして手近かに被害を受けた方があると、急に怖しくなるわ。あなた、氣をつけてよ」
「僕なんか大丈夫さ。狙われたくたって、尾ける奴もありゃしない」
「だって、この頃のように毎晩お歸りがおそくちゃ心配になりますわ」
「忙しけりゃ仕方がないさ」
「重役におなりになるまでは、會社が退けると、きちんきちんと歸っていらしたのに」
「あの頃は金がなかったから」
「あら、お金があると、だらしがなく、なるものか知ら？ それじゃ重役なんかになって下さらない方がよかったわ」
「その方が家庭圓滿か」
「何んでもいゝわ。夜更けてお歸りになるのだけはやめて頂戴、佃さんがいゝお手本よ」
「可哀想なことを云うなよ。佃は生命には別條ないが、相當重體らしいぞ。早速見舞いに行ってやらなくっちゃあ」
「病院へ入っていらっしゃるの？」
「勿論さ。病院へ擔ぎ込まれた、と、書いてある」
「佃さんのは棍棒でやられたと云うんだから、例の謎の殺人とは別口なんでしょうね？」
「違うさ。「謎の殺人」は疵一つないと云うのが特徴だからな。佃は頭をやられている」
夫人はぶるぶると體を震わし、
「いやだわねえ。「謎の殺人」も昨日で六人目でしょう？ その犯人もまだ舉らないと云うのに」
謎の殺人と云うのは、東京でも目抜きの場所に死體が轉がっている。被害者は定って新興財閥とか、大金を懐にしていた者とかばかりで、致命傷となるような外傷はどこにもなく、窒息させたものであった。どの場合も所持品は全部盗まれているので、その筋では物取りの兇行と見ているらしいが、いまだに犯人の目ぼしもつかない。嚴重な捜査を尻目に同じ手口の犯行が續けられるので、金のある紳士連は戰慄すべき事件として怖れているのだった。
「佃のも、多分、物取りの兇行、辻強盗の類だろう。佃は腕自慢だし、柔道二段の猛者だから、相當烈しく抵抗もしただろうし、それがまたかえって禍いして、あんな負傷を負うような結果になったのかも知れん、とにかく、行ってみないことには――」
秋本は夫人に手傳わせて洋服に着換え、家を出た。
別れて後の出來事だから、秋本には關係はないとはいゝながら、彼は氣になるので、圓タクを拾って病院へ馳けつけた。
受附で訊くと、
「佃さんは御面會謝絶ですから、折角ですが」と、詰襟の服を着た、胡麻鹽頭の男がにべもなく斷わった。
「どんな容體なんでしょうか？」
「さあ、面會謝絶と云うからには、まず重體でしょうな」
「家族の方は來ていられますか？」
彼は本人に面會できないなら、せめて家人に會って様子を訊きたいと思った。
「どうですか、受附にはそんな事はわかりません」と素氣ない返事だった。
「どこで訊いたらわかるでしょう？」
「看護婦室にでも行ってごらんなさい。昨夜宿直した人がまだいるでしょうから」
と横を向いて煙草の煙をふうと鼻から出した。
看護婦室は何處にあるか教えて貰らいたかったが、これ以上訊いてもろくな返事はしてくれまいと思ったので、覗き込んでいた受附の小窓から首を退くと、そこを白い服を着た若い看護婦が通りかゝった。
「もし、もし、看護婦室はどこでしょうかな？」
と、後ろから聲をかけると、色の白い看護婦は振り向いて、えくぼをくぼませ、
「私のあとに從いていらっしゃい」と云った。
巾の廣い階段を昇りながら、
「御面會なさるんですか？ それとも看護婦に御用がおありなんですか？」と訊いた。
渡りに舟と秋本は喜んで、
「昨夜入院した佃英二といふ患者に會いに來たんですが、面會謝絶だってことですから、家の人にでも會って歸りたいと思ってね」
看護婦はうなづいて、
「佃さん、御面會出來ますよ。お熱も大分下ったし、經過が良いから――」
「重體ではないんですか？」
「入院された時は出血がひどかったんでね、でも――、新聞に書き立てゝあるほどのことはないんでしょう」
「あゝ、そうですか、そりゃよかった」
「あなた、御親類の方ですか？」
「友人ですよ」
「私、佃さんに附いている看護婦なんですのよ」
秋本は何となくほっとした。看護婦室に行くまでもない。この人のあとに從いて行けば、自然に彼の部屋に導かれるに違いない。
「それはいゝ方にお會いしました。佃はよっぽどひどくやられたんですか？」
「えゝ、病院へ連れられて來た時は人事不省で、どこの人だかもわからなかったんですよ。何しろ大變な出血で――、直ぐ輸血しました。割に早く發見されたので幸でしたわ。手當が届きましたからね。當分安靜にしていらしたらいゝんでしょう」
「往來に倒れていたんだそうですね」
「通りかゝった圓タクに拾われて、病院へ送られたんですよ。それから、大騒ぎになって――」
と云っているうちに、佃の、部屋の前へ來た。
「ちょっと、待って下さいね」
看護婦は秋本を扉の前に殘して、一人で室内へ入った、と思うと、引き返して來て、
「お入りになってもよろしいですよ。ですがね、ちょっと御注意して置きますが――、あの患者さんがしきりに氣にして、自分の譫言のことを訊きたがりますが、何も知らない、と云って下さいね」と云った。
「譫言って？」と、秋本が訊き返すと、看護婦は急にくすくす笑い出して、
「そうでしたね、あなたは何も御存じないのね」
秋本は氣になるので、もう一度訊いた。
「何んですか、その譫言というのは？」
「何んでもないんですのよ。患者さんが熱が高かった時、變な譫言を云ったのです。それは私一人しか聞いていなかったから、誰も知らないことなんですが、患者さんは何か氣にかゝることがあると見えて、僕、何か云わなかったかい？ ッて、眼さえ覺ますとしつこく訊くんですよ。そして、お家の方も寄せつけないんです」
「ふうん。どういう理由だろうな」
「電話でお家へお知らせしたので、奥様やお嬢様が飛んでいらしたのですが、「歸れッ」て追いかえしておしまいになりましたの。多分、その譫言を聞かれるのがいやなんでしょう」
「どんな事を云うんですか？」
「お芝居でもやっているようなことなんですの。殿下―だの、姫宮だの、今、僕を殿下とよんだのはそちであるか？ だの、ペッドだの、おホヽヽヽ、もっと可笑しなこと――」と云って、看護婦は顏を赤くして笑った。
「夢でも見ているんでしょう」
「時々ぽっかりと眼を開いて、あたりを、よろよろ見廻わし、妃の宮はどこへ行かれましたか、なんて訊くんですのよ、そして、はっと氣がつき、僕、いま何か云いやしないかいなんて、眞面目な顏をして仰しゃるんですの」
「熱のために夢と現との境をさまよっているので、いろいろな幻想があるんじゃありませんか」
と、云いながら、彼は佃のベッドの傍へ歩みよった。
うつらうつらしていた彼は、人の近づいた氣配に氣がついたと見え、ぱっちりと眼を開いて、秋本の顏をしげしげと見入っていたが、
「ほう、君か」
彼はやっと、それが親友の秋本であると分ったらしかった。
秋本は彼の傍へよって、
「とんだめにあったね。でも、まあよかったよ。思ったほどでもなくってね。あとは靜かに養生さえすれば、もとの體になると云うのだから」
と云うと、佃は不安そうな顏をして、
「誰に訊いた？」
「院長が云ったよ」出鱈目に答えた。
「そうか」とうなづいて、靜かにまた眼を閉じて眠ってしまった。
不思議な家
二週間ほどすると佃から使いで、秋本に會いたいから、會社の歸りにでも立ち寄ってもらいたいと云って來た。
外傷だけであったせいか、どんどん快方に向っていたので、秋本の顏を見ると彼はベッドの上に起き上った。少し痩せただけで、血色もよく、髭も綺麗に剃っていたので、病人らしくなかった。
「どうだね？」
「やっと元氣になった。近々退院とまで漕ぎつけた」
「えらいめに會ったな。犯人は掴まったかね？」
彼は氣のない顏をして、
「さあ、どうだか、一向その話は聞かないが――」と、その問題には觸れたくないような風をしていたが、
「實はね、君」
と、彼は看護婦に秋本の椅子をベッドの近くに持って來させ、彼女には用を命じて席を外させた。そして四邊を憚かるような低い調子で、
「心からだよ、僕の希望としては犯人は舉らない方がいゝんだ。このまゝ、うやむやに葬ってしまいたいと思ってるんだがね」
秋本は眉をひそめて、
「君、あの晩、僕と別れてからどういう行動をとったんだね？」
「その事だよ。君にだけは話そうと思って來てもらったんだが、實はこの問題はこれっきりで、世間からは忘れてもらいたいのさ」
と眞顏に云う。それを見ると、家人が心配しているという彼の頭が氣になった。少しどうかしているのではないか、と、秋本も思わずにはいられなかった。
「そんな馬鹿なこと、世間は忘れても、警察は忘れやしないよ。それでなくっちゃたまらないじゃないか。君は大怪我の仕損ということになる」
佃はやゝ少時沈默していたが、
「實はね、君、君だから話すんだが、僕はあの晩、妙なところへ行ったんだよ。嘗つて想像だにしたことのない」と言葉を斷ってから、一層聲を低くして、
「君、こんな世の中なればこそなんだよ、君！」
と、急に、にやにや笑いながら、
「お互いにパンパンにも飽きた、ダンサーも鼻について來た、何か新らしい、胸のうずくような刺激を求めていた矢先、あの晩、實に思いもよらぬ幸運に惠まれて――」と彼は甘い夢のあとを追うような眼をして、
「君に別れたのは何時頃だっけかな、十二時近かったね。カストリでしたゝか醉っていた僕は、あのまゝ家へ歸って古女房の顏を見るのもつまらない、どこへ行ってやろうかなあと、ライターを點けてゆっくり一服喫って考えている眼の前に、自家用車だろう、新型のスマートな車がするすると辷って來て、運轉手が帽子を脱って車から飛び降り、扉を開けて鄭重に一禮した。
帽子には金筋が入っていた。お迎えにまいりましたッて云うんだ。僕は人違いだろうと云ったが、先方は承知しないんだ。まゝよ、人違いする奴が間抜けなんだ、あんまり乗り心地がよさそうだったから、云われるままに乗っちまったんだよ」
「随分、無鐵砲じゃないか、眞夜中のそれこそ怪自動車だ、どこへ連れてゆかれるかわかったもんじゃない」
「罪はカストリにあり、だ、僕にしちゃ度胸がよすぎたよ。だが、その時は全く何とも思わなかった。自分の自動車に乗ったような氣持ちだった。車が動き出すとまるで揺籠の中にでも入っているようにいゝ氣持ちになってうつらうつらと眠っているうちに車が停った。見るとお城のように立派な大邸宅の玄關先に横着けなんだ。さすがの僕も狼狽した。玄關にはあかあかと灯がついていて、制服を着た二人の男が左右に別れて出迎えている。運轉手はドアのハンドルを握って慇懃に頭を下げ、僕の降りるのを待っているってわけなんだ」
「何か思い違いをしてるんだね」
「そうでもなさそうなんだ。確かに僕を出迎えてはいるんだがね、今更、人違いだよともその場合云い出しかねて、もじもじしているうちにまた糞度胸が出て、どうにでもしやがれ、こっちが頼んだんじゃない、勝手に引張り込んだんだ、行くとこまで行ってやろうッて、太々しい料簡になって、僕は悠々と、いや、已むなくそうさせられたんだが、當家の御主人が御歸館あらせられたという態度で、車から降りて玄關へさしかゝったんだ。それからが是非、君に聞いてもらいたい話なんだよ」
と、佃はベッドの上に胡坐をかいて、葉卷を薫らしながら、語りはじめた。
王妃の饗宴
「ダーク・ブルーに金釦をつけた制服の從僕はすこぶる鄭重な態度で僕の外套や鞄を捧げるようにして、厚ぼったい、それこそ靴音もしないようなふかふかした赤い敷物をしいた長い廊下を先に立って歩いて行く。廊下の曲り角に、ニ三人の侍女を從えた一人の婦人が僕を出迎えていた。
「お歸り遊ばせ」と、しとやかに頭を下げた。その顏をひょいと見ると、僕はアッとたまげてしまった。彼女は金色のピカピカ光った模様のある黒地のガウンを着て、眞珠の首飾りをその白い頸に三廻りも卷いてだらりとふくよかな胸の上に垂らしている。ブローチと細い指には燦然たる大粒のダイヤが輝き、實に眼もくらむような美しさだった。女なんかと高をくゝっていた僕も、彼女の前には耻しくって顏が上げられなかった。
それはたゞ美しいと云うばかりではないんだ。むしろ神々しい感じがした。美人なら飽きるほど見ている僕達だから、決して驚きはしないがね、そして、その婦人の顏がだよ、實は僕には見覺えがあったのだ。昔なじみなんだよ。
君も知っての通り、僕は長い間××會社に勤めていた關係上、二十年近くを海外で暮らしてしまった。その間に、夫君の留學について來られたある高貴な方があった。僕は度々宴會の席でその方に會った。
もちろん、末席を汚している程度で、言葉をかわしたわけではない、彼女はいつも主賓で來られるのだから、僕は遠くの方から、その美しいお姿を拜しながら、一緒のテーブルで食事をしたことを光榮に思っているだけに過ぎなかったんだがね、正直のところを打ちまけると、いつか僕はその婦人を想っていたんじゃないか、と、思うんだ。戀なんてものは、ある機會が來ないと、自分でも氣がつかないでいるもんじゃないかね？
何故と云って、僕はその方が、留學を終えて歸朝される夫君と一緒にその地を去られたあと、たまらなく淋しかったんだ。身の置きどころもないほどの寂漠を感じたものだよ。そんな馬鹿な事って、君は笑うかも知れないが、全く地の底へでも落ち込んだような氣がした。
歸國されちゃったらおしまいだからね。内地では近くでお顏を見るなんて思いもよらない、身分の相違と云うことを、その時ぐらいしみじみと情けなく、また癪にもさわり、腹立たしく思ったことはなかった。
いくら戀したって到底及びもつかない、しかも夫のある人妻なんだからね、しかし、どうにも忌々しくってね、どうせ成就されないものなら、始めっから好きにならなければいいんだが、こればっかしは、自分の心で自分の思うようにならないものだね。
しかし、いくら何んでも僕は、あの夫人を戀しているんだとは口に出せない。つまり永遠の片想いだね、想うと云うことは、それは自由で、誰が誰を戀しようが勝手だ、秘かに戀している分には文句はないんだ。僕は人知れず悶々の月日を送っていた。少しでも彼女に似ているなんて噂のある女優の出る映畫なんかは、毎日みに行った。最後の最後まで、場末にかゝるまで追って行ったものだ。
月日というものは有難いもの、心の痛みも月日が洗い流してくれて、次第にあきらめられるようになって來た。そこへ結婚問題なんか起ったりして、氣が紛れていたが、終戰と同時に内地へ歸って來ると、この同じ土地に彼女もまた住んでいるのかと思うと、以前とは違った意味で、なつかしかった。夫人の御殿も空襲で燒かれたと聞き、御不自由な生活をしていられるのかと痛ましいような氣がしていたのだった。
大變、前ぶれが長くなったが、すっかり話さないと分らないだろうと思ってしゃべったんだ。
その夫人だったんだよ、僕の前にすらりと立っていられたのは――。
どういう間違いでこういうことになったのか、これは何か大きな一つの誤りから出發しているには違いないが、彼女の方は別に驚いた風も見えなかった。ところが僕の方ときたら、胸がドキドキするやら、すっかりのぼせて耳鳴りがするやらで、足が床につかないんだ。氣をつけても靴が鳴るのをどうすることもできなかった。
二十年近くも人知れず想っていた人に偶然、たとえ間違いにもせよ、傍近く會っているのだから、嬉しい筈なのだが、僕は耻しくって、耻しくってたまらなかった。
夢を見ているんじゃないかと思ったが、夢ではない。
僕は直ちに贅を盡した優雅な部屋に導かれた。隅の方には花瓶にいろいろな花が一杯さしてあって、室内に新鮮な香氣を放っていた。
夫人は黄金製の可愛いゝ煙草箱から、香のいゝ煙草を取って、僕にすゝめ、ライターをつけてさし出した。それから自分も一本とって美味そうに喫いながら、何と言葉を切り出していゝか、まごまごしている僕の心をすっかり見透しているように、靜かにほゝ笑みながら椅子に寄りかゝって、じっと僕をみている時、制服の從僕が入って來て、
「殿下、御食事の御仕度ができましてございます」と云って、下った。
殿下と云った、やっぱりそうだったのか、僕は思わずぶるっと震えた。そして、これはたしかに人違いだ、僕は誰かと間違えられているのだ、と、その時はっきりと分った。
で、間違いなら、少しも早くそのことを彼女に傳えて、殘念だが僕はこゝで引きさがるより仕方がない。夫人は氣がついていても、僕に耻を掻かすまいとして、默っているにちがいない。
そうと分って、食事まで一緒にしてはあまりに圖々しい、誰もいないのを幸い、僕は恐る恐る今までのゆきがゝりを云った。
夫人は可笑しそうに、笑いをこらえながら、
「實は私も先刻から、どうしたらいゝかと存じておりましたところですの。從僕共は今宵歸宅の豫定になっている主人と、あなたを間違えているのです。あまりによく似ていらっしゃるので――、しかし、構いません。誰も氣がつかないのですから、あなたはこのまゝ主人になりすましていらっしゃい。そして、明朝早くお歸りになればよろしいでしょう？ 私がうまく云いつくろっておきますから」
と云うのだ。何という大膽なひとだろう。
僕が彼女の夫になりすます――。そんなことが出來るものだろうか、僕は頭の中がひっくりかえるような氣持ちだった。
夫人は落ちつき拂っていた。
「私があなた様の御主人に？ あとで知れたら、それこそ大變な事になります。首が飛んでしまいましょう。何とかお云いつくろい願って、私はそのまゝ歸らしていたゞきます」
「かえって誤解されます。夜も大分更けておりますし、實は主人は旅行中で、今晩か明晩は歸ることになっていますので、迎えに出した運轉手が近頃雇い入れた者だったので、間違えたものと存じます」
「しかし、大丈夫でございましょうか？」
「えゝ、御心配はありませんよ。素知らぬ顏で、主人になっていらっしゃいませ、私がうまく申して、なるべく人を遠ざけ、私と二人だけになっておりますから――」
何ということだ。その言葉だけでも有頂天になる價値が充分にあるじゃないか。
二人は食卓についた。全くさし向いの水入らずだった。銀製の食器が次ぎ次ぎと運ばれた。風味のいゝスープ、雛鳩の焼肉、いずれも味覺を嗾られるものばかり。年代のついた葡萄酒に舌皷を打って、すゝめられるまゝに杯を重ねた。
君は僕の厚顏に呆れたろう？ しかしだね、僕の立場になったら、誰だって僕のように度胸をすえて、毒食わば皿までッて氣になるぜ。
酒の醉が廻わるに從って、僕は持ち前の太々しさがだんだん現われ、矢でも鐵砲でも來い、ッていう糞度胸になっていた。
たとえ、この場に夫が現われて來ようと、ビクともする僕じゃないんだ、これが間違いであろうとなかろうと、今夜は僕が彼女の夫なんだから――、と、圖々しくもすっかり腰を落ちつけてしまった。
食事を終って、夫人の居間だろう、雅致に富んだあまり廣くない室に通った。水色の笠の下から電燈が柔らかく照らしていた。夫人は長椅子にしなやかな身體を沈めて、僕の長たらしい歐洲で彼女を初めて見た時からの話を、うっとりと聞いていたが、あまり多く口數はきかなかった。
「私、何も存じませんでした。それ程までに――」と、にっと笑って、ぐっと洋酒を飲み干した。僕はそれを受取ろうと起ち上って、コップに手をかけようとしながら、思い切って彼女の手を握り、
「ずいぶん、呆れた馬鹿者だ、と、お思いになったでしょう？」
「いゝえ、どういたしまして――」
「身分違いの僕のような者が、大それた――、昔ならお手打ちにでもなるところでしょう、しかし、僕はほんとに幸福だと思います。この思いを胸に懐いたまゝ墓場へ行くものだと決心していたのに、今夜という今夜は、僕にとって終生忘れ得ぬ一夜です。この僕の胸の中をお傳え出來たというだけで、僕は滿足して死ぬことが出來ます。たとえ、この場で殺されようと――」
と云っているうちに、僕は泣いてしまったんだ。酒も充分手傳ってはいたんだがね。夫人は優しく僕の手を執って唇に持って行った。そして、そっと白い小さなハンケチで眼を押えた。
夫人も泣いている、泣いてくれているんだ。僕の苦しい想に同情したのか、或は彼女もまた僕を――、そして儚ない今宵一夜ぎりで永久に相見ることのできないのを悲しんでくれたのか、それは分らなかったが、涙を拭いたことだけはたしかだった。
彼女は夫のある身である。だから決して不謹慎な言葉は出さなかったが、僕を憎からず思っていたということだけは云える。
泣き濡れた僕の顔を、夫人は兩手に挟んで、赤ン坊でもあやすように、
「泣くんじゃないのよ。わかってるんだから」
と云いながら、僕の額に彼女の額を押しつけた。
額から鼻、僕達の唇が觸れたと思うと、二人は烈しく抱き合っていた。僕はそのまま息を引き取りたいと思った。
もう何も彼も夢中だった。思慮も分別もあったもんじゃない。生命をかけた戀には何の恐れもなかった。身分違いなどという舊式な考えはさらりと蹴飛ばしていた。
小さなカット・グラスに注いだウヰスキーを二人で飲み合った。醉うにつれて僕はますます大膽になった。
「もう、おやすみになっては――」
と夫人は寝室に案内した。桃色の羽根蒲團に覆われた寝臺の兩端は、眞珠を鏤ばめた黒檀製の見事なものだった。彼女はスリッパをベッドの前に揃えて、部屋を出て行こうとしたが、僕は承知しなかった。夫人は素直に、僕の意のまゝになっていた。
桃色の羽根蒲團
どのくらい眠ったものか、小さな物音にふと僕は眼をさました。
四邊は水の中に沈んでいるように靜かだった。夫人はいつの間にか部屋を脱け出したと見えて、姿は見えなかった。
レースの飾りのついた羽根枕に肱をついて、煙草を喫いながら、周圍を見廻わした。どこからか灯がさし込むものと見えて、室内はうっすらと明るかった。僕は見るともなくベッドの裾に眼をやると、不思議なことに、桃色の羽根蒲團の端が、そろりそろりと内側にまくれ上って來るではないか。
僕はハッとして半身を起して凝視した。すると、他の隅も同じような動作をしてまき上って來る。僕の體を包んでしまおうとするかのように――。
その時、僕の頭に浮んだのは、少年の頃好んで讀んだ佛國革命の頃の物語であった。ある貴人を暗殺する目的でつくった殺人ベッド、それをいま眼の前に見るような心地がした。
僕ははね起きた。
すると、桃色の羽根蒲團はまたそろそろともとの形に戻ってゆくのだった。
そこで僕は自分と同じくらいの重量の物をベッドに置いたなら、と氣がついて、本棚からいく冊かの洋書をぬいて外套に包み、殆ど僕と同様の體重のものをつくってベッドに寝かせ、自分は窓の傍の椅子に寄りかゝって様子を見ていた。
果して、ベッドは恰も生きているもののように、四隅が捲き上って來た。僕は力をこめてそれを止めようと試みたが、僕の力ぐらいではびくともしなかった。遂いに隙間もないようにしっかりと中の物を包んでしまった。
僕がもし、何も知らないで眠りこけていたらどうなるだろう？
捲き終ると、作業はそのまゝ停止した。三十分ほどすると、また動き始め、今度は反對にそろりそろりと四隅が解けて、やがてもと通りの形になった。
窒息死！ もし、外套に包んだ本が人間であったならば――。
僕は慄然として總毛立った。
恐らく、この惡計畫を夫人は知らないのだろう、と、その時は思った。彼女の夫を狙う何者かの所爲に違いないが、危なく僕は彼の身替りになるところだったよ。
助かった、有難い！
と思った瞬間、いつの間に忍び寄っていたのか、僕は後頭に恐しい一撃を貰った。眼から火花が散ったように思ったが、僕は無我夢中で窓から地上に飛び降り、そのまま意識を失ってしまった。そこへ偶然、圓タクでも通り合せたものか、とにかく、救われたのだ。氣がついた時、僕はこの病院のベッドに横たわっていたというわけなんだよ」
佃は話し終ると一息ついて、
「彼等の希望通りにならなかったので、こんな怪我をしたんだが、謎の殺人というのも僕にはほゞ見當がついた。が、この事は永久に胸に秘めて他言しまいと、僕は心に誓ったんだ」
「しかし、同じ被害者がまた出ることは困るじゃないか」
「だがね、みんな半分は自分から招いた災難だよ」
「して、君は怪我以外の被害は何もなかったのかい？」
「どうして、どうして、あの日は大きな取り引きがあったんだ、鞄の中の小切手は莫大な金額だった、或はそれを奴等は知っていての仕事だったかも知れないな」
「何故、早く訴えないんだ？」
「肝腎の僕が、翌日になっても頭がぼんやりしているって始末なんだもの。充分、小切手を引き出す餘裕を與えてしまった。僕は氣がついていたが、騒いだら耻の上塗りだし、僕にとっては、あの一夜にそれだけ拂う價値が充分あったんだから――」
「それで、その殿下というのは？」
「似ているのを幸いの僞物だろうさ。だがね、僕は二十年の片想いを、僞物にしろ、解決したかと思やァ嬉しくないこともないよ」
「君が全快したら、その幻の殿堂を二人して探してみようじゃないか、そして殿下の化の皮をひんむいてやろうよ」
「ひんむかないで、やっぱり僕は殿下にして置きたいな。そのために莫大な金もあきらめて訴えないでいるくらいだもの、その氣持、君には解るだろう？」
「うむ。わかる。が、家はどの邊だった？ ちっとは覺えがあるだろう？」
「しかし、探しても無駄だよ、幻だもの、もう消えてしまっているだろう。その證據には、あの夜限り、謎の殺人はないだろう？ とにかく、金と生命をかけた刺戟は相當に愉快なもんだぜ」
注）明らかにおかしなところは修正しています。
注）明瞭でない文字が数ヶ所あり、推定で記している文字があります。似た別字の可能性もあります。
注）句読点は一部補っているところがあります。
「みゝずの恋」
「読物雑誌別冊」 1948.09. (昭和23年９月号) より
１
三校子はお腹を空かして今日も一日中會社の用事であっち、こっちと飛び歩いてゐた。いまはお金さへあれば何んでも買へる世の中だ、ひもじい思ひをしなくってもすむのに、そのお金がない。いつでもお辨當代りに二十圓のふかし芋でお晝は我慢しなければならない。月給日に近い二十日過ぎになると全くしけてしまって、氣持ちまでいぢけるやうだった。
會社の退ける時間が待ち遠しい、早く家へ――と云ってもそれは四疊半のアパートだったが――歸りたかった。そして何より先に御飯が食べたい、が、今日はおかずが何もない、そこで歸りがけにコロッケを二つ買って鞄の中に忍ばせたところへ、後ろからぽんと背中を叩かれた、振り返って見ると同僚の君子だった。
「お茶、つきあはない？」と君子は紅い唇をほころばして云った。
「景氣がいゝね。」
「うゝん、ちっともよかあない。だけれど今日お使ひに行った先でお小遣貰ったの。だからおごるわよ。」
二人は行きつけの安い喫茶店へ入った。サッカリンのきいてゐるおしるこを飲みながら、
「もうちょと、月給あげて貰らはなくっちゃ、とてもやりきれない。折角三枝子さんにしろ私にしろ眞面目に働かうと思って、サロン・ミカをやめたけれど、かう生活に追はれると、またもとの古巣に舞ひ戻りたくなる。」
「あんたはシベリアの御主人が歸りさうだから眞面目にしてゐなくっちゃあッてんでミカをやめたんだし、私は謙ちゃんのためにやめたんだけれど、かう苦しくっちゃあねえ、ミカが戀しくなるわ。今月ったら、靴の修繕と洋服の仕立直しを拂ったら、あとにいくらも殘らなかった、眞面目なおつとめはお金にならないねえ。」
「シベリアの主人、いつ歸るんだかなあ。」と君子は心細さうな顏をして、
「あんたはいゝわ。三枝子さん、謙ちゃんがついてるから、會社でも評判よ、羨しいってさ。あのひと、田舎の大地主で大層なお金持ちで音樂家なんだってね、うまい人を掴まへたものね。ほら、いつかの大雪の夜ミカへ二人連れで來た人でせう？ 醉ぱらってさ、私、覺えてるわ、長髪か何んかにして、鼠色の眼鏡かけて、兄弟みたいによく似てゐたわね、スマートなんだった、一度きりしか來なかったのに、あんたとはいつの間にか交渉が出來てゐたのね、三枝子さんは凄腕だって、皆びっくりしてたわ。」
「交渉って、謙ちゃんから手紙をよこしたのが始まりで、二度目に會ったのはあの大雪の夜から半年も過ぎてからだわ。私のアパートを訪ねて來たの。迚も可笑しかった事には、私、あのひとの顏忘れちゃってゐたのよ。何分あの晩は立て込んでゐたでせう？ サロン・ミカの夢のやうな淡い電燈の下で見たきりだから、はっきり覺えてゐなかったのね、鼠色の眼鏡と髪の毛の長かった事だけしか――。」
「謙ちゃん、お金持ちだからお小遣貰らへばいゝぢゃないの。あんないゝパトロンがあるのに安月給貰らってよく働くって會社の人達感心してるわ。おつとめなんか止しなさいよ。謙ちゃんをしぼれやいゝぢゃないの。」
「どういたしまして、金持ちはお金にきたないのよ。謙ちゃんあゝ見えて、とても勘定高いの、結婚しても家が嚴格だから、當分の中は内緒にして置きたい、そしてね、あんた、家に内緒だからお金は出せない、自分で働いて食べてゐてくれ、なんて、眞面目臭って云ふんですもの、呆れるぢゃないの、あの雪の夜のはでなお金の使ひっぷりに、つい――、こんな事になっちゃったんだけれど、私、時々考へるとつまらなくなって、一層のこと、別れようかと思ふことがあるのよ。」
と三枝子はしみじみと云った。
「金持なんて、そんなけちなものか知ら、でも、三枝子さんにはよっぽどまいってゐるらしいよ。これは内緒の話だけれど、二度ばかり、あんたの不在に會社へ訪ねて來たわよ。心配なのね、どんな事をしてゐるかと思って――、そして、課長さんに内々であんたの事を根掘り、葉掘り訊いたんだってさ。」
「どんな事を？」
「他に好きな男でもありゃしないかと思ってるんぢゃない？」
「まあ、いやだ、そんな事したの？ いんけんだわねえ。私、ちっとも知らなかった。」
「でも、もとがもとだから氣がもめるんぢゃない？ 私も一度歸って行くのを見たけれど、黒いマントなんか着て、痩せた神經質らしい人ね、氣難しさうで、私達には迚も交際きれないわ。だけどあんたには優しいんでせう？」
「やさしいけれど我儘よ。金持なのが鼻にかゝって、人をみくびるのが厭だけれど、惡い人ぢゃないわ。」
「お金がありゃいゝぢゃないの。」
「あったって、出してくれなさゃ同じ事でせう？」
「それもさうだわね。お金と云へば月給日近くなると、會社の人達みんなポケットが空っぽになるものだから、いろいろ金儲話が出るのね、今日なんて、お晝休みにわあわッて騒ぎなんでせう、何の話かと思ったら、外交の平山さんがエロ寫眞募集に應募したんだってさ。」
「まあ。あのひとが？ ほんと？」
「たんまり金を貰へる、あんないゝ商賣があるとは思はなかった、早速會社を止めて、専門家にならうか、なんて、ヨタ飛ばしてゐるんで、皆大よろこびだったわ。僕もやらう、僕もやらうッ人が續出して。」
「平山さんのやうな眞面目な人がそんな事を云ひ出したの？」
「さうよ。そして私達にね、君達は稼がうと思へば今日からでも出來る、男はさうはゆかないよ。女は金をとるが、男の方は金をとられるんだからな。女萬能の世界だ、羨しいなあ、なんて――。」
「女だって、なかなかお金はとられやしないわねえ。私なんか、この先どうし暮らしていいか分らないのよ。御兩親揃ってゐるあんたなんかはいゝけれど。」
「あるだけ始末が惡い、會社が退けてからの商賣出來ないもの。貧しくっても私の娘には――、なんて阿母が力んでゐるんだから、やりきれない。」
「正直なものと、眞面目なものとは貧乏するばかりよ。それはいゝ事には違ひないけれど、食べてゆかれなかったら――、あんた、仕方がない事だとは思はない？」
「そりゃ仕方がないさ。人間だもの、生きてゆかなけりゃならないからね。」
「ね？ 泥棒するよりいゝわね。」
「あら、何云ってるんのよ、三枝子さん、いやに眞劍な顏してさ。」
「私？ 眞劍な顏してる？ オホヽヽヽヽ。」三枝子は急に笑ひ出した。
２
家へ歸ってドアを開けると、大きな男靴が脱ぎ捨てゝあるのを見た。
「お歸んなさい。」
起ち上る氣配がして、がらりと障子が開き、髪の毛を長く延ばした、青黒い顏の青年が首を出した。
「あら、誰かと思ったら、謙ちゃんなの？」
「誰かと思った？ 他に來る人があるのか？」
「また！」三枝子は眉をしかめて、
「直ぐにそれだから、いやんなっちまう。私のるすに、どうして入れた？」
「事務所の小母さんに合鍵借りて開けたのさ。」
三枝子は一寸厭な顏をした。合鍵まで借りて開ける權利もないくせに――、彼女は鞄を放り出し、崩折れるやうにぐったりと唐紙に背をもたせかけて、考へた。夕飯の時間だといふのに、何といふ心なしの男だらう、かうして待ってゐられてはこのまゝ歸すわけにもゆかない、御飯は今朝焚いたのがあるとしても、またおかずの心配だ。一日中働いて、やっと自分の體になって、これからゆっくりとラヂオでも聞きながら御飯を食べよう、と、かういふ疲れた日は、戀愛よりも休息の方がほしかったのに――。
神經質の謙吉は三枝子の顏いろを直ぐ見て取った。
「僕、直ぐ歸るよ。今日ね、邸の竹山を掘ったんだ、竹の子があんまり美味さうだったから、三枝子さんに食べさせたいと思って持って來た。」
彼は自分の家の事を大家らしく邸々とよんでゐた、三枝子にはそれが厭だった。何となくきざに聞えるからだった。
謙吉は大きな風呂敷を開けた、中には荒縄でくゝられた三本の竹の子があった。
「君、竹の子好きだったね？」
「えゝ、大好き。」
と云ったが、この大きな竹の子の皮をむいて、長時間ゆでなければならないと思ふとうんざりした。うまいものでも、手數のかゝるものは食べたくない、といふのがこの頃の彼女の氣持ちだった。折角遠方から重い思ひをして持って來てくれた好意に對して、彼が期待してゐるほどの感謝を表はす事が出來なかったので、
「どうも、ありがたうございます。」とだけ云って炊事場の隅に押しやった。
謙吉は面白くない顏をした。三枝子は彼の氣持ちが分ってゐたが、竹の子を見て、ほくほく喜びながら、早速手料理に取りかゝるには餘りに疲れてもゐたのだった。
「早く食べないとエゴくなるぜ。竹の子は掘りたてがうまいんだからなあ。」
「大丈夫よ。一日位――、明日お米のとぎ汁でゆでるから――」
「よかったらまた持って來てやるよ。八百屋にはまだ出てゐないんだらう？」と自慢さうに云った。竹の子ばかりではない、邸内で出來るものは何んでも自慢だった。市中の賣物とは肥料が違ふから味がいゝのだと云った。そしてよくいろいろな野菜類を持って來てくれた。ある時、三枝子の友達から新鮮な野菜を分けて貰らひたいと頼まれて、謙吉に賣ってくれと云ったことがある。勿論邸で出來るただみたいなものだから安くしてくれるものと思ったら、どうしてどうして市中の闇價と同じだった。
「税金が高いから、迚も安くは分けてやれないんだ。」と云った。その時の事をふと思ひ出したので、
「この竹の子も高いんでせうねえ。」と云ふと、
「金を出して買ふんぢゃ、まだ食べきれないよ。」と云って、彼は急に話を變へ、
「ね、君、この間の話、考へて置いたらうね？」と、云ひにくさうにもじもじした。
「結婚の事でせう？」と三枝子はあっさりと答へた。
「うん、さうさ。」
「いゝぢゃないの。私、このまゝでいゝわ。」
「不安だよ。結婚しなきゃ、いつ君の氣が變るか分らないもの、心配でゐられない。」
「だって、結婚しても別居してゐるんでせう？ なら同じ事ぢゃないの。私は私の働いたお金で暮らすといふ事なんですもの。あんたには迚も都合がいゝけれど、私の方は餘り有難くないのよ。何んのために結婚するんだか分らない。あんたはお金を出さないで戀人をかこって置かうっていふんだからねえ。」
「さう一口に云ってしまってはいけない。將來は必ず僕の邸に迎へると云ってゐるぢゃないか、ただ當分の間、兩親が嚴しいから別居してゐようって云ふんだ、金は出せないが、邸で出來るものは持って來てやるよ。」
「お味噌だの、お澤庵だの、でせう？」
「うん、野菜物には不自由させないぜ。」
「空襲の頃と違って、今ぢゃお金さへ出せば何んでも買へる、何んにもなかったあの時分から思ったら、お野菜の有難味も薄くなったわ。何も遠方から重い思いをして持って來てくれなくってもねえ。それに――。」と口ごもった。
「それに？」
三枝子は默ってゐた。
「それに何んだって云ふんだ？」
彼女は苦い顏をして彼を見たが、思ひ切って云った。
「私、戀人からの贈物がお味噌だの、澤庵だの、お野菜だのなんて、何んだかお臺所臭くって、こほろぎか、みゝずの戀愛みたいで、いやんなっちゃった。」
「何？ みゝずの戀愛だって？」と彼は憤然として、
「誰が、みゝずなんだ？」
「わかってるぢゃないの。あんまり現實的で、私、何んだか淋しい氣持ちがするのよ。だから――。」
彼はこの尊い進物が、そんな風に思はれてゐたのは實に遺憾だった。謙吉はむうッとして、口を尖らせた。
三枝子は今まで心の中へ納って置いた不平を一言云ったら、自分の言葉に興奮してしまって、あとからあとからと平氣で不平が云へるやうになった。
「私、もう何にもいらないわ。だから謙ちゃん、お野菜なんか澤山よ。」
「何云ふんだ。僕が持って來てやるから、こんな高價な走り物を惣菜に食ってゐられるんぢゃないか。誰のおかげで贅澤が出來ると思ってるんだ。」
「あんたのお蔭だって云ふんでせう？ もういゝわよ。私、大地主のお金持の奥さんにして貰らはなくっても、私はこのまゝで結構、自由にして置いて貰らひませうよ。結婚なんかいやな事った。」
「馬鹿ッ、何が氣に食はないで、そんな自棄っぱちを云ひ出したんだ？」と彼は額に青筋を出してどなりつけた。
「だって、謙ちゃんは會社へ私の事を訊きに行ったんだってね。だから、あんたの事みんなに知れちゃって、私、恥しくって、明日から會社に出られないぢゃないの。」
「僕みたいな者と結婚するって事が知れると恥しいって云ふのか？ 君の戀愛の相手が僕ぢゃ不足だって云ふんだな。失敬なッ、僕を何んだと思ふんだ。」
三枝子が恥しいと云った言葉に、彼はひどく憤慨した。
「臺所の戀愛だの、こほろぎだの、みゝずの戀だのって、默ってゐりゃいゝ氣になって、いひたい事を云やがって、僕を侮辱して――、いや、農家を侮辱してるんだ。」と唇を震はした。都會に育った三枝子と、農家に育った彼とは一つの野菜物に對しても、根本から考へ方が違ってゐるのだった。
三枝子も默ってはゐなかった。
「あんたはお野菜や澤庵をくれたのをひどく恩に被せてるのね。そんなものはもういらないよ。それよりか私から離れて貰らひたいわ。あんたに附き纏はれてゐちゃ手も足も出やしない。」
「僕から離れて、どうしようってんだ？」
「どうしようと此方の勝手さ、私は生きて行かなけりゃならない、もっともっと働かなけりゃ食べてゆけないんだからね。」と起ち上って、手荒く食卓に茶碗や小皿を並べ、小さな黒塗りのお櫃をのせて、
「私、お腹が空てるの。あんた、御飯上らない？ 何もないけれど、私コロッケ買って來たのよ？」
「喧嘩してゐても仕方がない、仲直りに御飯をよばれようか。」
貧しい食卓の前に、彼は平氣な顏をして箸をとった。三枝子はその遠慮のないのが何かしら田舎者の圖々しさのやうな氣がして、腹の底から癪にさはった。
３
小っぴどくやっつけても、彼は彼女から離れなかった。三日にあけず相變らず野菜物をひっ下げてやって來た。
「あんた、あんなに怒って歸ったから、もう來ないかと思ったのに――。」と三枝子は苦笑することが度々あった。
「君のいふ事なんか、ちっとも腹が立たないよ。僕にだけ云ふ我儘だと思ふと餘計嬉しくなる。」と彼は答へた。
三枝子の生活は益々苦しくなった。野菜を持って來てくれても、その度毎に食ひつぶされるのは痛かった。
「僕の邸には大きな果樹園がある。白桃がよく出來るぜ。」と例によって自慢話をはじめた。彼の話を聞いてゐると、その邸はまるで樂園のやうであった。
「一度、私、行ってみたいわ。」
「うん、この次ぎの休みに來たまへ、僕、迎へに來てやらあ。」
約束通り次ぎの休日に彼は迎へに來た。内緒の事だから家人には會はないとしても、誰の眼に觸れないものでもない、謙吉の妻として笑はれないやうにと、三枝子は出來るだけ美しく着かざって出かけた。新宿から、一時間餘りも電車にゆられ、河原の道を三十分も歩かされてから、
「もう直ぐだ。ほら、見えるだろ。」
こんもりとした大樹に包まれてゐる宏壯な邸を指差して謙吉が云った。三枝子は立ち止って、
「まあ、素晴らしい、立派なお屋敷ねえ。」と、息をはづませながら眺めた。
彼は得意さうに鼻をうごめかしてゐたが、あたりに氣を配って、門前を素通りしてどんどん歩きながら、
「早く來いよ。愚図々々してゐると、親爺に見つかるぞ。咳拂ひが聞える。」とひどく狼狽した。
「そんなにびくびくしないだって、私さへ見つからなけりゃいゝんでせう？」
「うるさいからな。下男が畑へ出かける頃だから、彼奴、とても口さがなくって――。」と獨語のやうにつぶやきながら、三枝子が邸の周圍を眺めてゐるのを急き立てるのだった。
「どうして、そんなに恐いの？」と彼女は不思議がった。
「家の親爺、とても恐いぞ。」と首をすくめた。
「それほど恐がってゐるんぢゃあ、迚も私と結婚するなんて話は持ち出せない筈ね。ほんとの親でも、そんなにも嚴しい人があるものか知ら？」
邸から離れると彼は段々落ちついて、いつもの口調で話が出來るやうになった。見ると小鼻にぶつぶつと汗をにじませ、長い髪を手で掻き上げてゐた。
「君、邸も見せたんだから、もう僕を信用してくれるだらう。」
「信用するわ、だけど、あんなに恐がるのを見たら、私、何んだかあんたが可哀想になっちゃった。あんた、繼子ぢゃないの？」
「ほんとの子さ。」
「でも、あの落ちつかない様子ったら――、私どうしたって、ほんとの子だとは思はれなかったわ。」
彼は一寸閉口したやうに、頭を掻いた。
「それを云はれると氣まりが惡いんだ。親爺が頑固で理解がないし、阿母は親爺にまるっきり頭が上らないと來てゐるんだから、妹弟も可哀想なもんだよ。」
「妹さん、おいくつ？」
「十八さ。」
「弟さんは？」
「二十だよ。」
「でも、いゝ人ぢゃないの。あれだけのお邸の相續人なんだから幸だわ。お父さんが嚴しくっても我慢する方が得よ。いまに、そっくりあの家があんたの物になるんだもの。」
「だからさ、いつまでも君に苦勞はさせないよ。しばらく辛棒してくれって頼んでるんじゃないか。」
「よくわかったわ。」
「家まで見て、たしかめなくっちゃ安心が出來ないなんて、君も随分現實的ぢゃないか。僕の事は笑へないぜ。」
「私のやうに自分の力で暮らしてゆく女は、自分の眼で見て、すっかりたしかめて、安心がゆかなけりゃ、うかうか結婚なんて出來ないわよ。欺されたらたまらないもの。」
「どうか、納得がゆくまで調べて下さい、だ。」
「もう調べる必要はない、邸まで見て來たんだから。」
三枝子はすっかり安心してしまった。そして間もなく結婚した。
４
三枝子は結婚して一層生活が苦しくなった。彼は兩親の承諾がないので同棲する事は出來なかったが、いままでよりはずっと頻繁にやって來た。その度に貧しいながら夕飯を一緒に食べるのでそのために費用もずっとかさんだ。それを氣がつかない彼ではないのだらうが、相變らず金は出さなかった。會社から貰らう俸給は半月も持たない。彼女は全く途方に暮れてしまった。
「そんな馬鹿な話ってないわよ。謙ちゃんは立派な家の若旦那で、自分だけはいゝ生活をしてゐるんでせう？ それなのに、あんた一人を苦勞させるなんて法はないわよ。」と君子は齒がゆかった。
「だってね、あの人だって苦しい立ち場にゐるのよ。いまに私も樂が出來る日が來るけれど――。」
君子はつくづく三枝子を見て、
「あんた、疲れたわねえ。そんなに生活が苦しいなら、思ひ切って、あんた自身でその兩親と云ふのに打つかって訴へてみたらどう？ いくらわからずやだって、お嫁さんが食べるものも食べないでゐるのに、知らん顏はしてゐられないでせう。謙ちゃん氣が小さいから云へないんでせうが、きっと兩親は何も知らないんだわ。行ってさ、打ち開けて頼んでごらんよ。あんた、餘りおとなし過ぎる、いまの女のひと、それぢゃ生きてゆかれないわよ。」
「私も考へてる。いくら謙ちゃんが優しくっても、親切でも、ひぼしにされたんぢゃ敵はない、私にはもうこれ以上働けないわ。會社の方だって、時には夜業までさせて貰らってるんだもの。」と、三枝子は溜息を吐いて、涙ぐんだ。
謙吉が來た時、
「會社をやめて、バアか喫茶店に入らうと思ふの。迚も暮せないから。」と相談を持ちかけた。彼は暗い顏をして、石のやうに默りこくったまゝ返事をしないで歸った。
その日から、どうしたものか彼はふっつりと姿を見せなくなった。
三枝子は氣になりながら四五日過してしまった。
「行ってごらんよ。」と君子は自分の事のやうに氣をもんだ。
「そんな事したら、謙ちゃん、どんなに怒るか分らないわ。」
「だって、病氣かも知れないぢゃないの。恰度いゝチャンスよ。兩親に會って、この窮状を訴へるんだわね。」とけしかけた。
「あのひとが困ると氣の毒だから。」と尻込みした。
「此方の方が困ってるんぢゃないの、あんた人がよすぎるよ。」
押し出されるやうにして、三枝子は彼の邸へ行った。
門内へ一歩入った時から胸がどきどきして身がすくむやうだった。恐る恐る多摩川砂利の敷きつめてある上を踏んで、大名屋敷のやうな式臺のある大玄關へさしかゝったが、何んとしてもベルを押す勇氣がなかった、そこで裏へ廻はり内玄關の格子を開けて案内を乞ふた。
長い廊下を馳け出して來る跫音がして、十八九の眼のさめるやうな美しい令嬢が出て來た。これが小姑になる人かと、三枝子は一目見ただけで退け身になった。
令嬢は無言で彼女の前に立った。三枝子は丁寧に頭を下げてから、
「謙ちゃんはゐらっしゃいませうか。」とかたくなって訊いた。
「えゝ、ゐます。家には二人謙ちゃんがゐるのよ。それでよく間違へるんだけれど――、何方の謙ちゃんなの？」氣輕な調子で云って、ちょいと首をかしげた。
「謙吉さんですわ。」
「あら、さう、あなたは？」
「太森から來たと云って下されば分りまず。あの――、別に御病氣ではないんですか？」三枝子はそれが一番氣にかゝる事だったので、取り次ぐ前に訊いてみた。
「とても元氣ですわ。」と云って、奥へ引込んだ令嬢はそこで、大きな聲で、
「謙吉、謙吉。」とよんだ。この邸では兄の名を呼び捨てにするのかと思った。
「何處へ行ったんだらうねえ。お客様だのに――。」と云った。
令嬢は下駄を突かけて外から内玄關へ廻はって來た。
「畑にゐるんですって、私御案内しますから、いらして下さいな。」
と先に立ってずんずん歩いた。裏の畑と云っても、大分離れてゐるので四五分も歩かなければならなかった。
「兄がゐると自轉車で行ってくれるんですけれど、生憎と不在で――。」と令嬢はなかなか如才なかった。
「あら、お兄様、おるすなんですの？」と三枝子は立ち止って訊いた。
「えゝ、音樂會へ行きました。ピアノ氣狂ひなのよ。下手くそのくせにオホヽヽヽ。」
彼女は何と答へていゝか分らなかった。自分はその音樂家の兄に用があって來たのだったのに、令嬢は何か思ひ違ひをしてゐるらしかった。先刻、家には二人謙ちゃんがゐると云った時から、何か間違ってしまったらしい。
「二人謙ちゃんと仰しゃいましたが、お兄様は謙吉さんと仰しゃるんでせう？」
「いゝえ。兄は謙一と申しますの、謙吉は子養の作男です。」と云った。子養の作男といふことが何の事だか、三枝子にはわからなかった。
令嬢は振り返って、
「あすこにゐますわ。」と云ふと、兩手で輪をつくってメガホン代りに口に當てゝ、
「謙吉、大森からお客様――。」と聲を張りあげた。
せっせとごぼうを掘り切ってゐた謙吉は、上半身を土の中からねぢ向けて此方を見た。が、三枝子の姿を見ると、鍬を放り出し、あッと叫んで蹲ってしまった。
「何、びっくりしてるの？ さっさと出ておいで――。」と令嬢は笑った。
「あの方が――。」三枝子は驚いて、皺枯れた聲を出した。
「あれ？ 作男ですのよ。兄の眞似してあんなに毛を長くしてゐたりして、ほんとに可笑しいのよ。あれで未來の音樂家氣取りなの、兄に教へて貰ってゐるんですよ、ピアノを――、まあいゝ兄のおもちゃですわオホヽヽヽ。」
令嬢は三枝子を殘して立ち去った。
「謙ちゃん、あんた、私を欺したのね。」と云って、ごくりと唾を呑み込んだ。欺されてゐたかと思ふと口惜しくって足が地につかなかった、體ががたがたと小刻みに震るえた。
「私、やっと何もかも分った。あんたはこゝの家の相續人でも何んでもなかった、あの雪の夜ミカへ來たもう一人の方がこゝの息子さんで、私が顏をよく見覺えてゐなかったのをいゝ事にして、息子さんに化けてゐたのね、そしてまんまと私を誘惑したんだ、が、早く分ってよかった、この家へ訪ねて來たのは決して無駄ではなかった、すっかりばれちゃって、謙ちゃん、どう？ いくら圖々しいあんたでも、二度とアパートへは來られまい。
子養の作男ぢゃ野菜を盗むが積の山、生活費を出すだけの働きがある筈はなかった、見損ったよ、謙ちゃん。」息もつかずに云ひ放ったが、そんな事位では腹の虫が治まらない、もっと何か臓腑を刳るやうな惡口を浴びせて、引き揚げたいと思ったが、うまい言葉がなかったので三枝子は青い顏に嘲笑を浮べて、
「まあ、いゝや、さうやって土の中にうごめいてゐるところは全くみゝずよ。人間に欺されたと思へば腹も立つが、相手がみゝずぢゃあねえ、怒っても張り合ひがないやオホヽヽヽ、では、さようなら。」
（了）
注）明らかな誤字誤植は修正しています。
注）句読点は一部補っているところがあります。
「ラク町最悪の女」
「大衆小説」 1948.10. (昭和23年10月) より
一
救世軍士官の津守新吉は夜の女更生に全力を打ち込んでゐたが、折角収容しても、女は次ぎから次ぎと逃げ出して行く。中には行きがけの駄賃に経営者婦人土官山科冴子のオーヴァをかっぱらったりした者もあった。
津守はこの空しい努力をこの上続けてゆくことに疲れた。
冴子は失望してゐる津守を励ますやうに、
「あきらめるのはまだ早いわ。しっかりしてよ。あんたがいやになったら、私、とてもやってゆけなくなるから」
出がらしの色ばかりになった不味い茶を津守の湯呑についでやり、彼女も一口のんで、
「昨日、お説教のあとで、牧師さん、大変褒めて下すったでせう？ 立派な事業だって―一、これ以上のよい仕事はないと私も思ったから乗り出したんだし、津守さんの熱心に共鳴してくれたから始めたんだもの」
津守は青白い額に乱れかくる髪の毛を指先で掻き上げながら、苦笑して、
「やはり野に置けれんげ草、温室の花になるのは苦しいんだなあ」と嘆息した。
「あんた、あんまり潔癖過ぎるんぢゃないの、自分の理理通りにやらうたって、迚も駄目よ。相手があゝいふ人達だもの、謹嚴は禁物ぢゃないかな？ 清水に魚すまず、棲みにくいところにしてはいけない。段々浄化するとしても、最初のうちはやっぱりいくらか柔らか味があった方が、みんなの心が落ちつくんぢゃないか知ら？」
冴子は机上の手紙を津守に見せ、
「今日もまたお寄附を送って頂いたのよ」
津守は感謝を棒げるやうな敬虔な眼をしてその手紙に眼を通し、軽く頭を下げて彼女へ返した。
「御同情して下さるかういふ方々に対しても、いまくぢけては申訳がない。もっともっと努力しなくちゃあねえ」と、机の抽斗に手紙を納ひ、彼女は少時默然と首を垂れてゐたが、
「それにしても、あんなに立派に更生を誓ひ、寮則もよく守って、來た時のやうな荒っぽさもなくなり、すっかり落ちついてゐた近藤ひろみさんだ、どうして昨夜逹げ出したものか、私まんまと一杯喰はされたやうな氣がして癪にさはるわ。御夕飯の時だって、いつもとちっとも変らないで、朗らかにみんなと笑っていかにも樂しさうに見えたので、ひろみさんも寮の生活にすっかり馴れた、この調子ならもう大丈夫、と、安心してゐたら、ゐなくなっちゃたんでせう？ 何か氣に入らない事でもあったのか知ら？」
「思ひ当るやうな事は何もないな。氣が変ったんだらう。落ちついて來たやうには見えたが、近頃元氣がなくなった、それは氣がついてゐた。生活が変ったからだらうと思ってゐたが――、あの人、如才ないから、表面だけは満足さうに見せかけてゐたんぢゃないかな。あゝ云ふ人達の感情は單純さうに見えて、割合複雜だからね」
「昨日の午後、本部からの紹介を持つて、寄附に来た奇麗なお嬢さんがあったのよ。収容者に興味を持ってゐて、自分は編物が上手だから希望者があれば教へに來てもいゝ、無論無報酬でよ。それでひろみさんがジャケツを編んでみたいって云ってゐたらひろみさんに紹介してやった。お嬢さんは数養もあるし、良家の人だしね、何処から見てもあの人達よりは優越の地位にあるでせう？ そのせいか、ひろみさん、ひどく毛嫌ひして、お茶を持っておいでと云っても持って來ない。
白い眼をして、皮肉な微笑を唇に浮べ、冷めたい顏をして意地惡さうに遠くの方から見てゐるのよ。ひろみさんは無邪氣な、迚も可愛いゝ人だと思ってゐたのに、こんな小憎らしい半面があるのかなあと思ったのよ。あんな事が不愉快でそれを根に持ってゐたのかも知れないわ。」
「同年位の女、殊にそれが自分より勝ってゐる地位にある人に対しては極度に反感を持つらしいんだ。何を糞ッ、あんな奴なんかに負けるもんか、といふ感情が直ぐ頭をもたげ光った表情になる。多分、そのお嬢さんを見てまあ何と云ったらいゝかな。寄附金でも集めて來てくれたりすると、僕等の方でも粗末には出來ないから、ついお世辞の一つも云ふことになる。すると、何んだってあんなにちやほやしやがるんだ、と直ぐ面白くなくなるんだ、つまりひがんでゐるのさ、人に同情されたり、可哀想がられたりすると直ぐ腹を立てるしね。」
冴子はうなづいて、
「それは私も知ってゐる。昨夜寝てから私ね、つくづく考へたんだけれど、私達――いゝえ、私はもっとぐんぐん彼女達に接近して、あの人達の生活に飛び込んで行かなけりゃ――、彼女達の心の中に一度は溶け込んでしまはなければ、ほんとの意味での救済は出來ないんぢゃないかと思ったの。私達の心と、彼女等の心とがぴったり合はなくっちゃ駄目ね。
夜の女だなんて云ふのからしてよくない。私達はこれから街のお嬢さんと云ひませうよ。ほんとに――、これでは余り隔りがあり過ぎる。だからまだまだ私達には彼女のほんとの心が掴めないんだわ。つまり、両方が理解出來ないでゐるのよ。そこに大きな欠陥があるんだと思ふの。」
「それゃ解ってゐる。しかし――。」
「しかし、が、いけないのよ。理窟はぬきにして、津守さん、あんた、思ひ切って体で打つかって行きなさいよ。」
津守はちらりと牙子の顔を見上げた。熱情家の彼女は時とすると迚も突飛な事を云ひ出すことがあった。
「ね、わかった？ 神様に任へる神父様ぢゃないもの。生きた人間を済度するのには此方も人間でなくっちゃいけない。禁慾主義のあなたなんかにはほんとの人間の生活は理解出來ないんだわ。津守さんの方から云はせたら堕落かも知れないが、穢れた中から眞の美しさは見出されるものではないか知ら？ 清らかな美しいものと思ってゐる私達の生活は、実は虚栄と僞善の醜い生活であるかも知れないわよ。」
冴子は自分の言葉に段々熱して來て、默々としてゐる津守の手をいきなり握りしめ、
「ひろみさんを失ったことは何としても遺憾だわ。何とかしてもう一度連れ戻せないものかね？ あゝいふ人が更生してくれると他の者達にもよい感化を與へると思ふんだがなあ。ね、あんた、何とかうまい考へはない？」
「ない事もないな。逃げた先はわかってゐるんだから――。」
「えゝ連れ戻したって、また逃げるだらう。どこが氣に入らないのか腹臟なく打ち開けて貰ふ必要がある。それで私考へてる事があるのよ。私達、もう一度やり直してみない？ お互に――、津守さん、あんたは彼女達の肉体を、私は彼女達の精神を掴むやうに努力する、私は今までの嚴しい生活をかなぐり捨てやうと思ふ。」
紅潮した頬を触れんばかりにして彼女は云った。何処かで小さな物音がしたので、夢中でしゃべってゐた冴子はハッとして身を退いた時、ドアを靜かに開けて、寮に収容されたばかりの松子といふ丸ぼちゃのおカッパが一束の郵便物を手にして入って來たが、二人の方をいやらしい眼でちらりと見て、故意と、見て見ない捩りをするといふやうな、妙に取りすました顔をして出て行った、かと思ふと、廊下の方でクスクスと忍び笑ひが聞えた。
二
新らしい女を収容するよりも、一度逃げた者をもう一度連れ戻した方がいゝと云ふのが津守の考へであった。
冴子は逃げた者は追はないで、なるべく人づれのしない、身を落したばかりの女を拾ひ上げた方がよからうといふ意見だった。
冴子は彼女違のたむろする喫茶店や街頭を物色した。津守はひろみを先づ探し出さうとした。
ひろみは魚だ。海へ放たれたやうなピチピチした元氣を取り戻して、スバル座の前からガード下の方へ煙草をふかしながら歩いてゐた。
「ひろみさん！」
津守は暗がりから突然声をかけた。
ぎょっとしたやうに立ち止って、やみを透して見てゐたひろみは爆発するやうに笑ひ出した。
「遂にみつかっちゃった！ だが、先生、あたしを掴まへようたって、もう掴まへられやしないわよ。」
パッと煙草を投げて、踵を返さうとする。それを追って、津守は縦女の腕を掴んだ。
「何しやがるんだい。」
凄い権幕で、彼を突ッ放さうとした。
「捕へるんぢゃない。ひろみさん、話があるんだ。」
ひろみは息をはづませながら、流し眼でぢろりと見て、
「商賣の邪魔しよってんだね？ そんならそれだけの駄賃を出せ。」
「うん、金は出すよ。」
「高いぜ。先生、そんなお金ないだらう？」
「馬麗にするなよ。金ならいくらでも出すさ。」
「大きく出たね。」
あのつゝましい寮生活をしてゐる津守だ、此方で要求するだけの金を持ち合せてゐる筈はない。
「前金だよ。」と念を押した。
「うん。」
津守は軽くうなづいた。相手が存外平氣であるので、ひろみは首を傾しげながら、ねぶみでもするやうに彼の体中をじろじろ見廻はした、彼女のカンで、金は持ってゐると見て取ったので、急に態度を一変しておとなしくなった。
「先生、あたいを何処へ連れて行かうてんの？」
「それは比方で頼むことなんだよ。何処でもいく、君の行くところへ連れて行ってくれ。」
「松ちゃんに恨まれさうだな。」
「松子に？」
「うん。松ちゃん、とても先生が好きなんだもの。だから、あのひと、逃げ出さないのよ。いまもゐるでせう？」
「ゐる。」
津守は冴子の言葉を思ひ出した。人の心を惹きつけるには、やっぱりそこに何かなければ駄目なのだ。
「先生も、松ちゃん好きなんでせう？」
「僕は、好きでも嫌ひでもないさ。」
「嘘吐き！ 好きなら好きでいゝぢゃないの。いやにかくしてき、見栄があるんだね。夜の女なんかを好きになっちゃ耻だと思ってるんだらう。」
「ひがみ根性は止せ。立派に更生したらすべての過去は消されてしまふんだって、あんなに云ってきかせてるぢゃないか。まだわからないのかなあ。」
「わかってる。」
「ほんとかい？ なら、もう一度帰らないか？」
「眞ッ平、あたいこりごりしちゃった。」と手を振って、
「あの時、あたい妙に悲観してセンチになってゐたものだから、先生の話が無暗に有難くなって、ついうかうかと更生する氣になってね、世間並みの道を歩かうとしたの、だが、もう更生させてくれなくったって、あたいはこのまゝで結構なんだ。立派な人間なんかにゃなりたくない。」と吐き出すやうに云った。
「ぢゃ、やっぱりわかってゐないんだなあ。」
「わかってる、先生の仕事もよくわかってる、わかったから、いやんなっちゃった、だから逃げ出したのさ。」
「どこがいやだ？」
と、津守はやさしく聞いた。いままでの彼なら、さういふ彼女の言葉一つでも聞き捨てにならない、と、平き直って説得したものだったが。
「だって、何もかも嘘ばっかりなんだもの、可笑しくなっちまうよ。」
「嘘だって？」
「さうよ。先生達、自分では氣がつかないんだらうが、あたしの眼から見るとまるで何もかもが出駄目の嘘ぢゃないか？ 神様に縋って、正しく行ひすましてゐる積りなんだらうが、よく胸に手を置いて考へてみるがいゝ、ほんとの心はあんなかた苦しい生活したいと思ってやしないんだらう？ それが第一嘘ぢゃないの？ 自分で自分を欺かして、誤魔化しながら生きてゐるんだ。そんな事を毎日見てゐたら、あたいはあの寮にゐるのはむしづが走るほどいやんなちゃった。」
「ひどく嫌はれたもんだな。君は曲解してゐるんだよ。」
「さうかも知れない。先生達は豪い人だと云ふから、もっと深い奥底があるのかも知れないけれど、あたい達そんな面倒臭い生活よりも、眞正直な、明けッ放しの方が好きだ、嘘のない生活がしたくなったから飛び出して來た。好きなものなら好き、嫌らひなものなら嫌ひ、ね？ それていゝのよ。
好きだけれど体面があるから嫌らひな顏をしてゐよう、とか、信者だからかういふ事をしてはいけない、あゝいふ事をしては罪になる、なんて、自分で自分を金縛りにして喜んでる、窮窟な見栄と嘘ででッち上げた先生達の生活を見てゐたら、あたいは心底いやんなっちゃった。あゝいふ風にしなくっちゃ立派な人と云はれないんだと思ったら、あたい、死ぬまで更生はしまいと決心したの。更生なんて糞を喰らへ、だ、あたいは今日一日だけ愉快に暮らせばいゝ、死んだあの世が地獄だらうと、天國だらうと此方の知ったことぢゃないんだ。
今日だけしか信じられないあたい達に、先の世の事まではあんまり遠過ぎる。それを眞面目臭って説教する先生を見ると吹き出したくなる。馬鹿々々しくってさ。松ちゃんの膝を突っついちゃあ、先生の眼つき素的だなあ、とか、唇が紅くって濡れてるやうに光って、誰とキッスして來たんだらう？ なんて、先生の話なんか耳に入りゃしない。顏ばかり見てゐたのよ。全く、先生は好い男だからなあ。寮にしまっとくのは勿体ないや。」
津守は苦笑するより他なかった。一度逃げたものを戻らせようとした自分の不明を染みじみ悟った、こりごりしてゐると云ってゐる彼女だ、自発的に収容所へ來るならともかくも、説得して連れ帰ったところで、とても落ちついてゐる女ではあるまい。彼はひろみを断念しなければならなかった。
冴子の意見に従って、新らしく夜の女の群に投じたものによびかけるより仕方がないと思った。
「ようくわかったよ。ひろみさん、僕はあきらめる。君に帰ってくれとは云はない、が、もし帰りたくなったら、いつでもおいでよ。両腕をひろげて、喜んで君を迎へる僕達のゐることだけは忘れないでゐてくれ、ね？」
と云って、約束以上の金を彼女に渡して津守は別れた。
三
冴子は津守以上に失望してゐた。
「どの女の子が新らしいのか、ふるいのかてんでわからないんだもの、がっかりしちゃった。」と云って、ぐったりと疲れた体を椅子に投げかけた。
「松子は里心が出てゐる。」と云って、知らせに來た女があった。
「今夜あたり逃げさうだ。」とも云った。
冴子は氣になったので、彼女の部屋の前を用事にかこつけてはいく度も通った。
「夜になると、あたい、淋しくって、涙が出る。とてもじっとしてなんかゐられなくなるのよ。」と云ふ松子の泣いてゐるやうな声がした。大きな溜息が聞える。障子には三つの影法師がしょんぼりと映ってゐた。古参の杉枝と松枝と靜子だった。
「食べ物がひどいんだもの、のどを通りゃしない、あ、トンカツが食べたい。」
「中華料理も惡るくないな。」
「あたいはおしることみつ豆。」
「あゝ、うまいものが貪べたい。」
「食べたつもりで、今夜も寝るか。」と、声自慢の杉枝が勝手な節をつけて唄ふと、三つの影法師が淋しく笑った。
「眞画目な生活なんて、およそ陰氣でつまらなくって、生きた人間のやる事ぢゃないね。」
「あゝ、帰りたいなあ。起きたい時に起き、寝たい時に寝て、好きなものたらふく食べて、綺麗な着物着て、おつくりして、遊んで暮らしてたんまりお金をとって、可愛がられてゐられるものを、物好きだなあッて、きっと、みんなあたい達のこと笑ってるよ。」
「魔がさしたんだね。」
「うゝん。おだてられてこんなところに來ちゃったのさ。あたい達だって、感心な女だとか豪い女だとか云って褒めて貰らひたいもの。」
「來てみりゃ地獄か。」と杉技の唄ふ声がする。
冴子はそんな会話を聞いてゐると、頭が痛くなった。こめかめを指先でもみながら自分の部屋へ戻って來た。
「津守さぁん。」とよんだ。
津守は浮かぬ顏をして入って來た。
「ひろみさん。みつかった？」
「会って來た。」
「どう？ 帰りさう？」
「徒労だった。斷念した方がいゝな。」
「明日の晩、私、会ふ約束をした女があるのよ。何百人とかの女の面倒を見てゐる豪い姐さんなんだって、津守さん、私の代りに行ってくれない？ そして、その姐さんから新入りの若い娘を紹介して貰らって頂戴。私は絶対に絶望もしない。飽くまで戰って、彼女達の心に巣喰ってゐる惡の華をつみとり、立派な婦人に育て上げるわ。それが私へ下された神の命令だと私は信じてゐるの。」と云って、冴子はそっと眼を拭いた。
「その姐さんに頼んだら、教へてくれるんですか？」と、津守は氣落ちがしたやうな声で訊いた。
「どうだかね、たゞ、会ってくれるって事だけしか分ってゐないのよ。場所は銀座アパートの八号よ。上海おキンといふ人なの。彼女の前身は誰も知らないんださうだけれど、巧みにかつらでかくしてゐるが、頭に二ヶ所も大きな疵の痕があるのでもわかるが、大変な苦労人で、頭のいゝ、凄い女ださうよ。その人をうまく利用すればきっとこの事業は成功するだらうッて、紹介してくれた大林さんが云ってゐたわ。」
と云って、紹介状を津守に渡し、
「大林さんと云ふ人は上海で大きな事業をやってゐた親分肌の人で、おキン姐さんが北満あたりから流れて來た時、大林さんの世話になった事があるんだって、だから大林さんからの頼みなら大抵は承知するだらうと云ってゐたの。」
「おキン姐さんッて云ふんですね？」
「さう。義侠心のある、物分りのいゝ女だって、大林さん大層褒めてたわ。年は三十二三で、きりッとしたいゝ顏をしてるんだって。」
津守は約束の刻限に彼女を訪問した。おキン姐さんは待ってゐたが、彼に会ふのは紹介人に対して已を得ないからといふやうなわけだったので、津守に対しては最初からあまり好意を持ってゐなかった。
色の浅黒い、眼の大きい小柄の豹のやうにすばしこさうな女だ。輩下は一人もゐなかった、彼女は六疊半の部屋を持ってゐたが、丁度品も高價なものばかり、身につけてゐる服装も立派で、指には大きなダイヤを光らせてゐた。何処から見てもいゝ姐さんだった。
「私、救世軍なんてもの、名前からして嫌らひなのさ。」と煙草をふかしながら、頭からきめつけた。白粉やけした皮膚に小皺が少し見えてゐた。
津守はさういふ言葉には馴れてゐたので大して不愉快にも感じなかった。
「第一生意氣ぢゃないか。世の中を救はうなんて、おこがましいッたらありゃしない。だから払はいくらお金があっても、慈善鍋なんかにゃ一銭だって投げたことありゃしないんだよ。あんた達、若い身空で、どんな氣持ちであんな仕事やってんの？ 私は耶蘇教の坊主と、救世軍が一番きらいなんだよ。歯が浮くやうな氣がする。あんた達より、私達の方がよっぽど救世主だよ。
人間を救ってやってゐるもの、人間の集まってゐるところが世の中なんだから、つまり世の中を救ってやってゐることになる、私達に救はれなかったら、うようよしてゐる男達は一体どうなると思ってんのさ。」
「なるほどねえ、さう考へると――。」と津守は自分の考へがどうやら間違ってゐるやうにも思へるのだった。
「よく考へてみたらいゝ。云はゞあんたと私達とは同業者みたいなもんだらう？ 救世軍と救世主――。」
彼は額に手を当てた、何んだか分らなくなって來た。
「世間の眼からなるとそれが大変に違ふやうに見えるのは、あんた逮の方が割がいゝんだ。同じ慈善事業でも看板が立派だからみんなが胡麻化されてしまふのさ。私達の方は夜の女だなんて惡口を云はれて商賣やってゐるだけ損なんだ。だけれど構はない、私はあんた達に退けをとりゃしないから。」
「すると姐さんは人間を救ってやってゐるんだから、それでいゝと思ってゐるんですか？」
「いゝさ。」
「ほかの女の人達もみんな満足してゐるんでせうか？」
「喜んでゐるよ。こんな世の中だからね、食べられなくってやってゐる者もあるが、中には好きでやってゐる者もある。考へてもごらんよ。女が食べるのに困ったら、これ以上のいゝ働きがありますか、だ。女郎や藝者とは違ふんだから、嫌やなら勝手によせる、抱へ主なんて鬼はゐないんだしね。」
「しかし、中にはよしたいと思ふ女もゐるでせう？」
「たまにはね。だけれどみんなまた舞ひ戻って來る。樂し樂園なんだもの。人間は生きてゆくといふことに樂しさが嬉しさがなければ、その日その日が暮らしてゆけないぢゃない？ 眞面目な仕事ではこれだけの金はとれないからね。よっぽど物好きな女でなけれゃ、この道へ入ったら、素人に返らうとは思ふまいよ。
大林さんから聞けば、あんたは女の子を更生させて、眞面目な職業に就かせたり、お嫁入りの世話をしてやらうッてんださうだが、余計なお世話だね、第一結婚しても、女房を食べさせるだけの金をとる男がいく人ゐるだらう？ ひぼしにされちゃ女の子だってたまらないからね。」
「生活をきりつめて、眞面目に働きさへすれば食べてゆけると思ふな。」
「一度うまいものを食った人は、その味が忘れられないだらう？」
「定めてしまへばみもふたもないけれど、人間はさうまで物質的なものだらうか？ 肉体に糧が必要であると同様に精神の糧も求めなければならない、心の貧しさは、物品のない貧しさよりも一層悲しいとは思はない？」
姐さんは默ってゐた。しばらくすると投げつけるやうな調子で、
「私は良心なんか何處かへ置き去りにして來ちゃった。」
「姐さんみたいな人が、そんな自棄のやうな事を云ふのは可笑しいなあ。」
「可笑しかあない。考へると淋しくなるから考へないのさ。人間は誰だって最初のうちは良心に責められたりする。かういふ商賣は惡い女のやる事だと、幼ない時から教へ込まれてゐるからね。惡いことだと私も思ってゐた頃もあるよ。だけれど、よく考へてみれば決して惡いことではない。世間が間違って惡いと思ひ込んでゐるだけで、ほんとのところは女だって、男だって惡いことゝは思ってやしないんだらう。惡いとわかってゐたって、食べられりゃ泥棒する奴もゐるんだからね。
女が自分のものを賣って食ふのにどこが惡いんだ、物を持ってゐる人は賣り食ひが出來る、それがなけば体を賣るのは当りまへぢゃないか。生きてゆかれなけりゃ仕方がないもの。男は体を賣りたくっても賣れないものだからゆけるのさ。羨しいものだから女の惡口を云ふ。夜の女だの、惡い女だのって、そんな名をつけてりゅういんを下げてゐるんだよ。さういふ名をつけたのはきっと男に違ひない、自分だって、女がなくっちゃゐられもしないくせに罵倒してみる、それが男の虚栄心なんだ。」
「姐さんほどの方でも、やっぱり男を咀呪ったり、世間をのろったりするのかなあ。」
「咀呪やしない、あたりまえの話をしてゐるだけさ。私の事をみんなは惡い女だと云ふ、だが、その惡い女の私にもこんな理窟があるといふ事を、あんたに知らせてゐるだけなんだよ。まあ、私の事なんか何んだっていゝ、あんたは私に何をさせようッて云ふの？」
「あんまりきめつけられたんで、云へなくなっちゃった。また姐さんに叱られるかも知れない、冷かされるかも知れないが、僕だって姐さんの云はれるやうにこの商賣を頭から惡いとは思ってゐないんだ、好きでなった人は別として、已を得ない人が大部分だらう？ しかし、その人達いつまで若くってゐるわけもないし、自分の健康といふ事も考へなくっちゃならない、いつか一度は足を洗ふ日が來る、それなら一日も早くかたぎになって、結婚して一家を持つといふ事が望ましいと思ふんだ。
ながくこの樂園に遊んでゐた人は更正がむづかしい。当人も苦しいから更生しようと志してもまた舞ひ戻る結果になる、だから出來れば昨日今日この道に入って來たといふやうな女の子を教へて貰ひたいんだ、姐さんは知ってる筈、僕達にはいくら手を廻はしても絶対に手がかりを得られないんだから。」
「それゃ私にはちゃんと分ってるさ。だが教へるわけにはゆかないね。」
「どうして？」
「不幸になるもの」
「不幸に？ 何故？」
「食べられなくなる。お金がとれないもの。」
「それは僕が引き受ける。絶対に困るやうにはしない。働く道も開いて上げる。」
「どうせ、大した事は出來ないさ。」
「贅沢をしなければ、食べられないことはない、絶対に――。」
「結婚する相手も探してくれるんだね？ 責任を負って――。」
「勿論、將來も引受ける。姐さんの望んでゐるやうな贅沢三昧の碁しは出來ないとしても、精神的には愉快な樂しい家庭をつくるやうに努力する。それがやっぱり女としての幸福な道ではないかと僕は信じるんだ。姐さん、若い娘さんが荒んで男づれのした、手のつけられないあばづれになってゆくのを、姐さんは見てゐられなかった、と、ある日大林さんにしみじみ語られたといふ事を聞いた。それで、僕は姐さんに縋ってみようと思ひ立ったんだ。」
「ふん。あんた、一人の女を更生させるといくら儲かるの？」
「あゝ、飛んでもない。姐さん、僕は一銭も儲かりゃしない。娘さん達に更正して貰らふために、僕は金も体も投げ出してゐるんだぜ。」
「へえ。まあ、見ず知らずの他人の娘連のために？」
おキンさんは驚異の眼で、津守の顔をつくづくと眺めながら、
「得にもならないのに、あんたはそんなにつくしてやるなんて――。私は自分の事と金の事しか考へたことがなかった。それだのに、他人の事をそんなにも心配する人がこの世にあるものか知ら？ 不思讚だなあ、私には分らない。だが、それがほんとの親切と云ふものなんだらうねえ。」とまぶしそうに眼をぱちぱちさせた。彼女は何かしら熱いものが胸に込み上げて來るやうに感じたのだった。
「ほんとに不思議な事だ。あんたのやうな優しい心の人が、この世の中にゐる――。」といふおキン姐さんの言葉に、津守は何だか悲しくなった。豪奢な生活をしてゐるこの姐さんの魂の貧しさ、金のない津守が、今日位豊かな心を感じたことはなかった。
津守は靜に起ち上って、
「姐さん、またお目にかゝりませう。どうぞ考へて置いて下さい。」
おキン姐さんは一寸うなづいたきり、力なく帰って行く津守の後姿を見送っていつまでも見送ってゐた。
寮では冴子が彼の帰るのを待ちかねてゐた。
「どう？ やってくれさう？」
「駄目だ、おキン姐さんは若い女の更生を幸福だとは思ってゐないやうだから――。」
「さう？」
牙子はがっかりした。この会見は返って二人の心を絶望のどん底に叩き込んだのだった。
翌朝、津守はぽっかり眼をさますと、牙子が枕許に座ってゐた。
「津守さあん。」
彼女のはづんだ声が、彼の耳を打った。
「ちょいと。起きなさいよ。おキン姐さんから手紙が來てゐるのよ。」冴子は眼を輝かせてゐた。
津守は封を切って、読み上げた。
「昨日は失礼。いつもの私だったら、またかと鼻であしらって、せゝら笑って聞き流してしまふのに、きのふばかりはつくづくと考へさせられました。何の利益もない、一文の得もない上に、自分の金まで投げ出して、見ず知らずの女の事を心配してやる、といふ、あなたの眞心に私は心を動かされました。
世の中にはこんな親切な人もあるものかと、びっくりしたのです。それで少しでもあなたのお手傳ひがして上げたくなったので、早速ながらお知らせします。昨夜あれから一人の戰災孤兒が私の許に來ました。年は十六歳です、まだ世間を知りません。お会ひになってみて下さい。
ラク町最惡の女より」
津守と冴子は思はず感謝の眼を見合せたのであった。
（終）
注）明らかにおかしなところ、誤字誤植は修正しています。
注）句読点は追加、変更したところがあります。
「とんだ義侠心」
「日本ユーモア」 1948.10. (昭和23年10月号) より
世馴れぬ美人
古着屋の娘のおキンちゃんは、旭湯の硝子戸をがらりと開けると、
「こんちは――、小母さん」と番臺にゐるお神さんに愛想よく聲をかけた。
「オヤ、おキンちゃん、今日はまた大層なおめかしだね。立派なオーヴァー、高いだらう？ どこかへお出かけ？」
「うゝん、いま歸って來たところよ」
これ見よがしに素晴らしい純毛のオーヴァーを脱衣籠に入れ、得意さうに四邊の人達の顏を見て、タオルに洗面器を持ち添へ、ガランの前にぺたりと坐った。
いい石鹸の香がする。
おキンちゃんは小さい鼻をぴくぴく動かして香の出どころを探した。彼女のいま坐った隣りに洗面器が放り出してあって、その中に使ひかけの眞白い上等の石鹸が水に濡れて光ってゐた。
「こんないゝものを使ってる人、どんな女だらう？」
石鹸ばかりではない、素的なクリームも置いてあった。いづれもこの邊ではちょっと見られない高級品である。
おキンちゃんは、羨しさうに横眼で見てゐたが、やがてタオルに湯をすくって、ぶるんとひとつ顏を洗ったところへ、その女性が湯槽から上って來た。おキンちゃんとすれすれに跼むと、ぷんといゝ香がする。
十八九だらうか、綺麗な品のいゝお嬢さんだった。白粉を落した肌は艶々して眞珠のやうな湯玉が背中を辷ってゐる。背の高い肉附きのいゝ女だ。裸體でゐると、見知った人でも、ちょっと見損ふことがある、旭湯へ來るのだから、いづれ近所の人だらう、と、顏に見覺えはなかったが、あとから來た禮儀に輕く頭を下げると、
「ずゐぶん、こむんですのね、いつでもこんななんですの？」と氣さくに話しかけた。
いつもこんなかと訊くところを見ると、この旭湯には來たことがないらしい。もっとも錢湯に來るこの邊の人達に、これだけ高價な化粧品を使ひきる者は先づあるまい。
「えゝ、さうですのよ。よっぽど運がいゝ時は別ですけどね」
おキンちゃんは何となくこのお嬢さんに近づいてみたい氣がしたので、渡りに舟と喜んで返事をした。
「私、そとのお風呂に馴れないもんですから、びっくりしちゃったのよ」とにっこりする。
「あら、珍らしい。今時の人にしちゃあ――。では、あんた、錢湯に入らないの？ どうりで見かけない方だと思ったわ」
「家でお風呂がたつもんだから、――ところが、生憎新らしく來た女中が空釜を焚いて、こわしちゃったのよ。それでお釜が直るまで外のお湯へ行かなくっちゃならないんでね、私、悲觀しちゃってるの」
「馴れない人はびっくりするでせうよ。私なんか空いてると寒くっていやだけれど。それでも坐る場所もないことがあるでせう？ あんな時はつくづく家にお風呂があるといゝなあって、思っちまうんですのよ」
「湯槽の中で、よその人の肌がべたりとくっついたりするのも氣持ちが惡いぢゃないの。腫物なんか一杯できた人なんかだと――」と云って、女は身ぶるひした。
「うつるかと思っちゃいますわね」
「私、そんな人が入ってゐると湯槽はつからないで、お湯をざあざあ浴びて出てしまふの」
「湯ざめがするでせう？」
「でも家が近いから平氣よ」
「あら、お宅、この邊ですの？」
「えゝ、お宅は？」
「あの驛前の衣料交換所、青山ってのがあるでせう？」
「私知ってますわ。よく前を通るの、その度に私立ち止って眺めるのよ。ウインドの中につるしてある着物、いつもいゝものばかりね」
「出所がたしかなんですの。みんな上物ばかりで――、だから反ってはけ口は惡いんです。お宅はどちら？」
「私？ 藤村です」
「あら、まあ、石塀のお屋敷、――あの藤村さんのお嬢様でしたの？」
おキンちゃんは改めてお嬢さんの顏を眺めた。
この近所で藤村さんと云へば金持ちで、そして別嬪のお嬢さんがゐるといふので評判だった。おキンちゃんは見たい見たいと思ひながら、まだ一度もお嬢さんを見なかった。
お嬢さんは獨り娘で大切にされてゐるので、女學校を卒業してからはめったに外へ出るといふことがなかった。それが空釜を女中が焚いたばかりに、錢湯へ入らなければならないといふのは全く氣の毒なことだ、と、おキンちゃんはすっかり同情してしまった。年も同じ位だが、錢湯馴れた彼女の眼から見たら、まるでお話にならない世間見ずの赤ン坊だった。おキンちゃんはすっかりお姉さんのやうな氣持ちになって、手を延ばしてガランの湯も汲んでやった。いゝと云ふのに背中も流してやった。
「綺麗な肌ねえ。まるで油をぬったやうにすべこくって、眞白で――」とお世辭を云ひながら、氣前よく湯をつかって、首筋まで洗ってやった。
普通なら、今度は私がと、手拭に石鹸をぬっておキンちゃんの後ろへ廻はるところだが、そこは馴れないお嬢さんのことだから恐縮はしてゐたが、彼女の背中を流さうとは云はなかった。
「おかげさまでいゝ氣持ちになりましたわ。女中はほんのお役目だけに流してくれるのであとに石鹸が殘ったりして氣持ちが惡いのよ」
「お宅にはお女中さんいく人ゐますの？」おキンちゃんは女中の數で家の暮しむきがわかると、母が口癖のやうに云ってゐるのを思ひ出して訊いてみた。
「たった二人。今はね。もとは五人ゐましたの。だから私とても忙しいわ」
「いま時、女中を二人もお使ひになるなんて、結構ですわねえ。でも、あれだけお邸がお廣くっちゃ、お掃除だけでも大變でせう？」
「だから、私も狩り出されるのよ。やりきれないわ」
「ちっと宅の店にもいらして下さい。いろんな變った衣裳が、――手を通さない物も澤山ありますから。お嬢様のやうな方が、時々店にお寄り下さると、宣傳になりますから」と生意氣な口をきいた。
「まあ、いやですこと」お嬢さんは赤くなった。
「ほんとですの、だから、どうぞ」
「その代りあなたも宅へ遊びにいらして下さいね」
おキンちゃんは飛びつくやうな調子で、
「是非、私、ほんとに伺ひますよ」
お嬢さんはのぼせるからと云って、湯を肩へかけただけで出てしまった。
おキンちゃんは湯槽の中から、その後ろ姿を見てゐた。何と云ふいゝ格好の脚だ、さぞ洋装がよく似合ふだらうなあ、あゝいふ人は和服もまたいゝものだ。店にある鹿子しぼりに紅葉を散らした訪問着を着せて見たい、きっと素晴らしいに違ひない。上物過ぎて賣口がなくて困ってゐるから、何とかしてあのお嬢さんをおだてゝ買はしてやらう、などと娘ながら商賣氣を出して、彼女が硝子戸の向へ行くのをぼんやりと眺めてゐた。
義侠心
おキンちゃんが湯から上って脱衣所へ行くと、そこにゐた女達の顏がひどく緊張してゐるのに氣がついた。みんなの眼を追ってゆくと、脱衣籠を前にして、先刻のお嬢さんがシュミーズ一つで泣いてゐる。
番臺の小母さんは見て見ない振りをしてゐるのだらう、故意と他所ばかり見てゐた。
おキンちゃんは馴染になったばかりだが、泣いてゐるのに誰も構まってやならいのを見ると、江戸ッ子の彼女は默って見てはゐられなかった。タオルを腰に卷いたまゝつかつかと傍へより、わざとみんなに聞えよがしに、
「どうなすったんですの？ お嬢さん！」と言葉をかけた。
お嬢さんはちらりと顏を上げたが、直ぐ耻しさうに眼を伏せ、救ひを求めるやうに、
「私、困っちゃったわ。どうしたらいゝんでせう」と涙聲で云ふのだった。
「何？ 困ってるの？」
彼女は脱衣籠を指差して、
「盗られちゃったのよ。私、着るものがない、あゝ、どうしたらいゝでせう」
なるほど、籠の中には何も入ってゐない。
「パンツとシュミーズ一枚が殘ってゐただけなの。あとは全部なくなっちゃたのよ」
お嬢さんはレースのついた美しい錦紗のシュミーズを着てゐた。こんな立派な下着を身につけてゐるくらゐだから、洋服は定めし立派なものだったらう、それだからこそ狙はれたんだ。
「お湯に來るのに、そんな立派な風するから惡いんだわ」いっぱし世帶じみたことを云ったが、見榮坊のおキンちゃんだって、いつでも立派ななりをしてゐた。
「シュミーズ一枚で道は歩けないし、困っちゃったわ。それに湯ざめがして、ぞくぞくするの」とお嬢さんは悲しげに肩をすぼめた。それを聞くと、おキンちゃんは江戸ッ子の義侠心を出して、
「風(※ママ)ひくといけない。これを着てゐらっしゃい」と自慢のオーヴァをお嬢さんに着せて、
「私が一飛び行って、何か持って來て上げませう」といそいで衣類を身につけはじめた。
「さうして下さる？」
「えゝ、いゝわ」
「私助かるわ。女中のイトやに云って下さればわかるわ。茶色のワンピースと、紺のオーヴァ貰って來て下さいな。それからナイロンのストッキングもね。私、足が冷えると直ぐ熱が出るのよ」と云って、恰好のいい綺麗な素足を撫でた。
「私が歸って來るまで、私のストッキング貸して上げるわ。今日おろしたんだから、汚たなかあないわよ」
「あなただって冷えるでせう？」
「私は大丈夫、湯氣に上って、ぽかぽかしてゐるから」
おキンちゃんはワンピース一枚になって、外へ馳け出した。湯上りの頬に風がつめたかった。
冷やかな夫人
大きな石門を入ると、小砂利をけとばすやうにして玄關のベルを押した。
取り次ぎに出て來るのがおそいのでおキンちゃんは焦り焦りしながら、掃除のよく行き届いてゐる邸内を見廻はしてゐた。立派なお屋敷だ、これだけの家の獨り娘なんだから大したものだ。
「あゝ羨しいなあ」と思はず胸から込み上げるやうな獨語をもらしたところへ、扉が靜かに開いて、五十ばかりの上品な夫人が顏を出して、迂散臭さうに、おキンちゃんをじろじろ見た。
おキンちゃんは、はずんだ聲で、
「あんた、奥さんでせう？」
「はい」
「お使ひを頼まれて來たんですのよ。お宅のお嬢さんから――」
「はあ！」
「お女中さんのイトやさんといふ人に、茶色のワンピースと紺色のオーヴァ貰らって來てくれってさ」
「何のお話でございますか。女中は只今をりませんが」
「おるすですか？ 奥さんならなほよくおわかりでせうから、早く出して下さい」
「と、仰しゃると、その衣類のことなんですか？」
「さうですわよ」
「何のことだかわかりませんが、衣類なんかを知らない方にお渡しするわけにはまゐりませんね」ときっぱり斷った。
「愚圖々々してると、あんたのお嬢さん、風ひいちゃいますよ」
「もうひいてをりますよ」
「なほわるくなるぢゃありませんか、早くして下さい」
夫人は蔑すむやうな薄笑ひを唇に浮べて、
「あなたは宅の娘のお友達なんですか？」
「お友達ってわけぢゃありませんよ。今日初めて口をきいたんですからね。初めて會った人だって、困ってゐるのを見たら助けて上げるのがほんとうぢゃありませんか」
「娘が何か困って、あなたへお縋りでもいたしたんですか？」
「面倒臭いわね」おキンちゃんはぷんぷんして地だんだ踏んで、
「随分、わかんないことを云ふお母さんだね。お嬢さんが旭湯で着物を全部盗まれたのよ、まる裸體でぶるぶる震るへてゐるッて騒ぎなんですよ。家へ行って、着る物をとって來て下さいって私頼まれたの。だってさうでせう、藤村さんのお嬢さんが素裸體で往來を歩いたら、それこそ物笑ひですからね」
「それは、あなた、お人違ひです。宅の娘は感冒で寝てをりますよ」
「？」
「熱が高くって、肺炎になりさうなので心配してをりますんです」
「そんな事があるもんですか。奥さんは私を泥棒だと思って、用心してゐるんでせう？ そんならそれでもいゝわよ。私、お嬢さんにさう云ひますから。あとから女中さんに持たせてよこして下さい。あの大横町の旭湯ですから――」
おキンちゃんはふくれて旭湯へ引返した。
板の間かせぎ
「小母さん、藤村のお嬢さん何處へ行った？」
おキンちゃんは脱衣所を眼で探しながら、番臺のお神さんに云った。
「あゝ、先刻の女かい？ 迎へが來て歸ったよ」
「變だなぁ。私より早い筈はないんだが、小母さん、私、飛んで來たんだけれど、その迎への人ってのはいつ頃來たの？」
「あんたが外へ出ると入れ違ひにさ」
「あたいのオーヴァどうした？」
「あの人が着て出たやうだね。あれ、あんたの友達かい？」
おキンちゃんはまんまとしてやられたことに初めて氣がついた。藤村さんのお嬢さんでも何んでもない、板の間なんだ。
おキンちゃんは忌々しくなって、藤村邸へ行った話をお神さんに云ってゐると、鏡の前でお化粧してゐた若い女が、
「その手でやられた人がいくらもあるのよ」
と口を出した。
「憎らしいってありゃしない。あんな綺麗な顏してゐてさ」と吐き出すやうにおキンちゃんは云った。
「二人組でやるんだよ。一人が着物を脱いで籠に入れるのを浚って歸って行くの。その女がまた迎へに來るって筋書なんだって、つまり、うまく着物が借りられなかった時、まさか裸體で出られないから、迎への女がそれとなく様子を探りながら着換へを抱へて來るってわけなのよ。とてもいゝ稼ぎになるんだってね。あんたのオーヴァだって、一萬圓からのものでせう？」
「一萬圓ぢゃ買へないわよ」
「だけれど、あんた同情して貸してやったんだから、盗まれたとも云へないわね」
「だから餘計に癪なのよ。おまけにストッキングまで――」
おキンちゃんはやけに濡手拭を叩きつけた。
注）あきらかな誤字誤植は修正しています。
注）句読点は追加や削除をしたところがあります。
怪奇小説「寶石夫人」
「大衆雑誌」 1948.12. (昭和23年12月号) より
１
素晴らしく美しいスピッツ、あゝ、この犬に口がきけたら――事件は忽ち解決するだらう、謎の鍵は物云はぬ彼女の愛犬が握ってゐるのだ。ペットの血痕、大使未亡人と稱する女性の失踪――。これはＳ探偵氏が箱根仙石原に來た翌日に起った出來事であった。
友人の招待で、Ｓ氏が仙石原の俵石閣にやって來た日は彼の案内で、素敵な別嬪を見せてやらう、と、折柄避暑客目當てに興行してゐる昇天齋天花一座、田舎廻はりの奇術師天花の水藝を見物した。
友人の言葉に違はず、彼女の美しさには魅惑的なものがあった。Ｓ氏が感服すると彼は得意になって、
「仙石にはもう一人、非常な美婦人がゐるぜ。こゝから數町昇った山の中に仙石莊と云ふ大きな旅館兼アパートがあるんだ。そこに滯在してゐる外交官の未亡人だといふ。一名寶石夫人とよばれてゐる貴婦人がある。その名に相應しい程高價な寶石を身につけてゐてまぶしいやうだ。戰爭が始まって間もなく、夫の任地から引揚げの途中、御主人は船中で自殺した、これは秘密ださうだが――、それでいつも黒の喪服を着てゐる。
眞珠いろの肌にそれがまたよく似合って、外國から連れて來たと云ふ時價何十萬圓とかの名犬ブランシュといふ名のスピッツをつれて散歩してゐるところは、どう見ても東洋人とは見えない、脚の線の美しさには惚れ惚れする、天花が艶めかしいダリアの花なら、彼女は香氣ある白百合と云ひたいな。とにかく、この土地には二人の名花がゐるんだ、わざわざゆって來ただけの價値はあるぜ」
「うふふ、仙石の名物か」
「名物なら、もう一つ、強盗がある」
「強盗？」
「うむ。最近頻々としてやられるんだ。新興階級がこの夏はうんと入り込んで豪勢ぶりを見せてやがるからね、強盗が現はれるのも無理はないさ。小氣味のいゝやうに金持連中がやられてゐる」
「捕まらんのかね？」
「敏捷こくって、神出鬼没で、駐在所のお巡さんの手にはおへないらしいね。一寸法師のやうな小男でね、被害者はみんな同じことを云ってるから、多分ほんとだらう、眞黒な漆を塗ったやうな顏をしてるさうだよ。眼の淵だけ白く隈取ってゐる、眞紅な厚い唇、ぱらりと前髪が額に垂れて人間の顏ぢゃない、怪物だ、一目見ただけでゾッと寒くなる。
その強盗に襲はれた家では必ず熱が出る人が一人や二人はある。僕は猿ぢゃないかと思ふんだよ。何故って、被害者は誰も彼が物を云ったのを聞かないと云ふんだ」
「唖だらう？」
「さうでもなささうなんだ。耳が迚もいゝんだからね。だが、始末のいゝことには刄物は持ってゐるが振り廻さない。だから怪我人は一人もないんだ。先方で希望する物を與へさへすれば、さっさと歸って行く、顏は恐いが兇暴ではないらしい」
Ｓ氏はそんな怪物よりも、貴婦人の方に興味があった。
「それで、君、何かい？ その犬を連れた夫人と云ふのは天花のやうに易々と誰にでも見られるといふわけにはゆかんのだらう？」
「見られるさ。朝の八時といふと定って、愛犬と散歩に出る。早起きしろよ。明日の朝、見せてやるから」
そんな噂をした翌朝だった。宿の女中が、「仙石さんでは大變な騒ぎなんですよ。寶石奥さんがゐなくなったんですって」と云った。
委しく訊くと、二三日前から彼女はサロンにも食堂にも姿を見せない、部屋の中ではしきりに犬が吠えてゐる。病氣ぢゃないかとノックしたが答へない、そこで管理人が合鍵で開けると、ぱっとブランシュが飛び出した、が、主人の姿が見えない、犬は空腹を訴へるのか、管理人の足許にまつわりついて離れないのを押し退けて一歩室内に入ると生臭い香がした。ペットに血痕が點々と散ってゐる、床の上にも血を拭ったらしいあとがある。
室内を整然として、窓にはきちんと錠を下し、少しも取り散らしてはゐないが、人が住んでゐたやうな感じがしない、少なくとも、この二三日は空室だったらうと思はせるものがあった。
寶石夫人の失踪――、彼女は何處へ行ったのだらう？
夫人は犬を熱愛してゐて、片時も傍を離したことがない。それだのに、犬だけが部屋に閉じ込められて、彼女がゐないといふのはただごとではない。
この室内で犯罪が行はれ、死體は何處かに運び去られたものではないかとＳ氏は想像した、しかし、犬が主人の身體に危害を加へられるのを默って見てゐるだらうか。
管理人は取り敢へず駐在所へ訴へた。
２
寶石夫人を取り卷く連中であれほど賑やかだった山莊のサロンも、夫人がゐなくなってからは火の消えたやうに靜かになった。
彼女は愛犬と一緒にゐたいばかりに、アパートの一室を借りてゐたが、食事はいつも旅館の方の食堂でとってゐた。それほど可愛がってゐた犬を、手放す決心をしたと云って同宿の人に、
「長年、殆ど半生を外國で暮らしたので、私は日本の生活が不自由でたまらない。氣候も體に適しません。やっぱり私は外國の土になります。それについて犬は手足纏ひになるから、思ひ切って別れることにしました。最初は希望する方へ差上げる積りでしたが、かういう名犬は矢張り賣った方がいゝと思ひます。お金を出して買った人は犬を粗末にしません。犬のためにも買って頂いた方が幸でせうと思ひ、賣犬の廣告を二三の新聞に出しました」と語ったといふ。
そのためであらう、彼女の失踪したと思はれる前日、
「新聞の廣告を見て來た犬屋ですが」と云って、事務所に彼女の部屋を訊きに來た者があった。管理人は小窓から一寸見ただけだが眼帶をした色白の小男で、黒いかすりのシャツを着てゐた。
犬好きの主人がまた新らしく買入れるのかと思ひながら管理人は彼女の部屋番號を教へ、丁寧に室内電話までかけて取り次いでやった。その時電話口で話した夫人の聲が、彼の聞いた最後のものとなったらしい。
夕方、旅館の滯在客の一人が、小人のやうな背の低い男と一緒に、スピッツを連れた夫人が山莊の裏山を登って行くのを見かけたと云った。
それから三日目の朝、犬が烈しげになく聲に山番の老人が行ってみると、その古井戸の中に何か浮いてゐる、それから大騒ぎになって、引き揚げてみると寶石夫人の惨死體であった。
水を呑んでゐないので死後投げ込まれたもの兇行は彼女の部屋で行はれ、死體を古井戸へ運んだもの、また、ブランシュは後になってから、部屋に閉ぢ込められたもの、と推定された。
洋服ダンスの寶石函も、夫人が當時身につけてゐた高價な寶石類も、全部盗まれてゐた。勿論、物盗りの仕業であることに疑はなかった。
犬屋に嫌疑がかゝったが、彼は何處から來て、何處へ去ったのか、風のやうで、足どりは皆目わからなかった。
主人を失ったブランシュは寂しさうにしょんぼりとしてゐた、すっかり人懐こくなって、Ｓ氏が可愛がるので、俵石閣へもやって來るやうになった。女中の話には奇術師の天花が大の犬好きでブランシュに同情し、引取り方を山莊に交渉してゐると云った。
Ｓ氏はノートにこんないたづら書きをした。
一寸法師の強盗――背の高い男
醜惡な顏――美しい容貌
物云はぬ強盗――聲に特長ある者
小男の犬屋――犬が嫌らひでは犬屋になれぬ。
犬好きな、背の高い、美しい人、聲に特長ある者。
一寸法師の強盗と、小男の犬屋、彼はそこに一脈通ずるものがあるやうに思はれてならなかった。
３
Ｓ氏は土地の刑事と一緒に密行中、背の低い男が、體より大きい荷物を背負ってゐるのに出會った、刑事が誰何すると、男はいきなりぱっと身を轉じて、山道を馳け降り、渓流を飛び越えて、藤づるにぶら下ったかと思ふと、忽ち箱根笹の中に身を沈めた。笹の葉のさわさわと鳴る音が次第に遠退いてゆく。
その音を便りに、二人は後を追ってゐたが、一度か二度ばかり一寸姿を現はしたが遂に見失ってしまった。
「たしかに、この邊までは見えてゐたんだが――」と、刑事は口惜しがった。
山を越すと村だった。そこには天花一座の小屋掛があった、灯の見えない小屋はいかにも侘びしく、華やかな舞臺の裏を見るやうだった。
幟が夜風にはたはたとゆれてゐた。
「僕の眼には、どうもこの小屋の附近で姿を見失ったやうな氣がするがなあ」Ｓ氏はしきりに周圍を注意深く見廻はしながら呟いた。
「しかし、小屋はこの通り眞暗で、もう、みんな寝靜ってゐるやうだし、近所にかくれるところもありません。何んなら一寸叩いて、起してみませうか、注意してやった方が親切ですからな」
二人は表看板の出てゐる入口の戸を叩いた。
しばらくすると、パッと小屋に灯が點いて、
「どなたです？」と嗄れた老人のやうな聲が、つい近くでした。
「警察の者だ、一寸開けてくれ」
「はあい」
此度は遠くの方で、若い女の聲で答へ、がたびしと戸を開ける音がして、立ち現はれたのはすらりとした座頭天花のあでやかな姿であった。その美しい顏に似合はず、かさかさした、よく云へばさびのあるとでも云ふのだらうが、およそ顏と釣り合はぬいやな聲で、
「まあ、どうも、これは、これは――」と云った。恐らくこれが地聲なのだらうか、舞臺の彼女は低いが奇麗な聲であったが。
天花は緋縮緬の長襦袢をしどけなく引きずって、はだけた白い胸もあらはれ、寝亂れ髪を掻き上げながら、なよなよと崩折れるやうにしゃがんで、どんな御用でせう？ と云はないばかりの表情で、首をかしげた、いろっぽい眼つきだった。
「夜中起してすまんが、怪しい者がこの附近に立ち廻はってゐるんだ、が、別に何も變りはないかね？」天花は大袈裟にぶるッと身震るいして、
「恐いわ。私、すっかり眠っちゃってゐて、何も氣がつかなかったんですの。氣味が惡いのねえ、どうしたらいゝでせう、私達、今夜は女ばかりなんですのよ」と甘ったれたやうなしなをつくる。
「戸締りを嚴重にして、用心せんといかんな。間違ひがあると君達の損害ばかりぢゃない、此方も困るんでな」
「戸締りったって、こんな小屋掛けなんですもの、入らうと思へば何處からだって入れますわよ」とおろおろしてゐる。
Ｓ氏は氣の毒になって、
「大切なものを君、一時預かってやったらどうだらう？」と刑事に云った。
「あら、旦那、御冗談を――、大切なものなんて、何もありゃしませんわよ。不入りつゞきで、すっからかんになっちゃって、もう――」
「初めは、客どめの景氣だったがなあ」
「さうなんですのよ。やっぱりこの頃の人みんな飽きっぽいのね。それに私が土地の顏役さん方の御機嫌を取らないし、お座敷を稼がないものだから人氣が出ないんでせう。でも、私、そんな事いやなんですのよ。藝だけ賣って行きたい念願なんですから、體まではねえ、オホヽヽ、旦那、つづきませんわよ」
と媚びるやうに見上げた、灯を背にした彼女は妖しいまでに美しかった。
刑事はうんうんとうなってゐたが、
「人殺しも大分祟ったらうな、夜なんか、みんな恐がって出歩るかなくなったからね、入りにもさはるだらう？」
「てんで、がらあきなんですのよ。舞臺へ出る張合ひもない位なの、早くこの土地を引き揚げて、氣を替へてやりたいと思ふんですが、約束の日限もありましてねえ、ほんとにいやんなっちゃいますわ。このところ、好きな御酒にもお目にかゝれずオホヽヽ、旦那、私、お酒でこんなに咽喉をこわしちゃったのよ、お婆ちゃんのやうな聲でしょ」
お酒といふ言葉が合圖ででもあるのか、寝間着姿の女の子が、二つのコップを盆にのせて持って來た。それは冷酒だった。
「私、すっかり自暴糞になっちゃて、はねると直ぐ寝てしまふんですよ。一日中體を使ふせいか横になるともう正體ないの。朝までぐっすり、強盗に浚はれても分らないでしょ」
「盗られる物がなけりゃ心配もあるまいが、まあ用心だけはして置くことだよ」
「はい。ありがたうございます。御苦勞様でございます」
二人は鍵をかける音を後に聞きながら、小屋を立ち去った。
４
Ｓ氏は刑事との意見の相違から、單獨で樂屋附近に張り込むことになった。あの晩は無事であっても、狙ったところには必ずまた來るものと云ふのがＳ氏の考へであった。刑事は盗るもののないところに、危險を冒して押し入る道理がないといふのだった。
それに刑事は強盗よりも先づ、山莊殺人の容疑者犬屋の捜査を續けたいと云った。そこにも意見の違ひがあった。Ｓ氏は強盗を逮捕することによって、事件の解決とまではゆかなくとも、糸口は掴めるものと思った。
果して三日目の深夜、樂屋裏の垣根を乗り越える黒い人影を見た。背負った荷物は自分の體より大きかった。Ｓ氏は跳りかゝって捕へようと身構へたが、急に思い返して小屋の横手にかくれ、ひそかに彼の擧動を監視した。夜のしゞまを破って彼の荒い息づかひが聞える。荷物を背から下すと、四邊を覗って、はめ板をそっと外し、荷物をその中へ放り込んだ、どすんと重さうな音がする。
仕事を終って、ほっと一息吐いたのを見たＳ氏はパッと飛んで首筋を押へた、不意を喰った彼は思はず兩手を前に出して泳いだ。その手を背中にねぢ上げると、彼は苦しさうにもがき、必死になって逃れやうと焦せりながら、ひょいと首をねぢってＳ氏の方を見た、二人は思はず顏を見合せたのだった、その途端、
「あッ、やっぱり――、さうだったか」Ｓ氏の唇から歎息するやうな聲が出た。
それを聞くと、彼は急におとなしくなって「すみません、恐入りました」と面を伏せた。その聲にも聞き覺えがあった。しかし、Ｓ氏はなほ油斷をしなかった。隙を狙って逃げるかも知れない。が、Ｓ氏はその時已に犯人の何者であるかを見破ってゐたので、逃げ負せるものでないことを知ってゐた。
「旦那、おとなしくお繩は頂戴いたしますが、お願ひです一寸の間、待って下さい」
「逃げようたって、もう――」
「飛んでもない。もう斯うなれば逃げもかくれもしません、そんな卑怯な人間ぢゃないんです。が、お願ひです。十分間だけ自由にして下さい。こんな姿で――、こんな黒ン坊のやうな顏で――、捕まるのはいやなんです。顏をおとして、着換へをする間だけ――、逃るとお思ひになるなら、私と一緒に來て下さい」
Ｓ氏は彼の手をしっかり握ってゐた。
「手を握られてゐちゃ、顏も洗へません。御心配なら足に繩をつけませう」と自分の足を縛って、繩の先をＳ氏に渡した。
ふたりは暗い小屋の中へ入った。
「旦那、すみません、靜かに歩いて下さい。小屋の者が眼を覺ますと困りますから――、女の子達は何も知らないんです、何にも――」
長い繩を引きずって顏を洗ひ、着換へをすまして出て來たのは、眼のさめるやうな美しい天花であった。
「ありがたうございます。同じ捕まるなら、せめて天花の姿でといふのが私の願ひでした。怪物の強盗ではいかに惡人の私でも餘り情けない、ねえ、旦那、さうでせう？ ついでに私の話も一とほり聞いて下さい」
「一體君はほんとに女なのかね？」
「男です。悲しい一寸法師、巧妙につくった義足でかくしてはゐますが――」と天花は苦笑した。彼はもうすっかり覺悟したものと見えて、少しもわるびれなかった。
「やっぱりさうだったんだね。女には見られない美しさがあると思ってゐたんだが――」
「もう何もかくしません。山莊の殺人は私です。犬屋に化けて――」と白状した。
「しかし、旦那、あの女は大使未亡人とは眞赤な嘘、實は私の腹違ひの姉なんです。幼ない時二人とも両親に死別し曲馬團に拾はれて育てられたのです。一寸法師が役に立って私は重寶がられました。姉は十歳の時誘拐され海外に連れて行かれ、そこで育ちました、と云ふと大層結構のやうですが、姉のやってゐた事は決してまともな事ではなかったのです。キャバレーの踊子を振り出しに、海賊の女房にもなったし、馬賊の女頭目もやった。海陸二股かけた強者です。最後に麻藥の密賣で大金儲けをして戰爭中に引揚げて來た莫蓮者なんです。
ですが、たった一人の姉、この世に肉身のない私はやっぱり姉が好きでした。どんなに探したか分りません。探してゐる時は見つからなかったのに、偶然、仙臺(仙石？)でめぐり合ってこんな悲しい別れ方をするやうになった、これも運命だと思ひます。姉は見榮があるので私が山莊へ訪ねることを禁じてゐましたが、毎朝のやうに散歩とふれ込んで、裏山の附近で會ってゐました。
ブランシュも私によくなついてゐたのです。此度の興行がうまくゆかなくて、私が死ぬやうな苦しみをしてゐるのを知ってゐながら絶對に救ってくれないのです。金には強い女でした。
私は一座の者を養はなければならない、どうにも方法がなく、惡いと知りながら、金持ちを襲っては、どうやら皆を食べさせてゐました。こんな事はどうかして止めたいと幾度思ったか分りませんが、背に腹はかへられず、引きずられてゐました。もう一度姉に縋ってみよう、そしてこの窮地を打開しよう、と、あの日、一寸法師のほんとの自分の姿で犬屋といふことにして姉を訪問したのです。金の事になると姉は態度を一變し冷めたくはね返すやうに斷はりました。
私はなほもくどくど頼むと、姉は手をあげて私を佛ひ退けるやうな格好をしながら、いつになってもめが出ないんだね。やっぱり不具者は一人前になれないものと見える、と云ひました。不具者と云ったその一言、しかも肉身の姉の口から出たその言葉に、私は心の底を突き刺されたやうに感じました。夢中で姉に飛びつき、不具者だって、不具者だってと云ひながら武者振りついて、氣狂ひのやうに短刀を振り廻はしてゐるうちに心臓を、突いてしまったのです。
あとは御想像のとほり、寶石を盗んで死體を古井戸へ投げ込みました。ブランシュは始めから終りまで見てゐたのです。だから私はあの犬が恐かった。せめて、引取って養ってやらうと思ったのです。
私の亡い後、どうぞブランシュを旦那、飼ってやって下さい。私同様に、あれも天涯孤獨頼りない身なんです。それから一緒に働いてくれた一座の者もどうぞよろしくお願ひいたします。面倒を見てやる筈の私がこんな不始末をして、何と誰罪っていゝかわかりません、何も知らない女の子達が私の罪を聞いたら、さぞ、びっくりすることでせう――」と云って、彼はむせび泣くのだった。
注）会話の連続部分は改行を追加しています。
注）句読点は追加したところがあります。一文字空けを追加したところがあります。